1 :
世界@名無史さん:
戦国時代の日本の軍事力は、当時の世界の大国の軍事力
と比べると、どれほどの物だったのだろうか?
世界史に詳しい皆さん、いろいろ意見を聞かせてください。
2 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/18 23:42
肥前名護屋城に集結した軍勢が約33万人。欧州と比べるとかなり多い。
大砲はほとんど使用されなかったが、鉄砲は多く質も良かった。船体に
は竜骨無し。
騎兵は存在せず、敵陣に突っ込む際には普通馬から下りて戦った。
3 :
トラメメ ◆Tula/H2VxM :03/01/18 23:50
その頃のスペイン方陣とかは強力でしたけど、日本の戦術とかは
どうだったんですかね?
武装ごとの具体的な割合とか
兵の損耗率とかデータがほしいところですね
それやったら軍事板になっちゃうが
5 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/18 23:57
上杉謙信の車懸の陣というのは実在しなかったそうです。そりゃあん
なに自在に動かせる訳は無いわな。
鶴翼の陣、魚鱗の陣、雁行の陣、長蛇の陣、蜂矢の陣、方円の陣。
と色々名前は知られておりますが実際にどこまで機能したのやら。
それと敵を倒すのは白兵戦よりも矢や鉄砲に頼ったようです。或いは
組み打ちに持ち込んで倒した相手の首を刈った。
必ずしも決戦で相手を撃破する必要がなかった、とか
中国征伐以降の秀吉を除けば補給の概念が希薄だ、とか。
7 :
世界@名無史さん:03/01/18 23:58
当時の世界の大国と言うと
オスマントルコだろ〜、明だろ〜、ムガル帝国だろ〜、スペインだろ〜
こんなもんか?
少なくとも軍事的には世界有数の水準ではあると思う。
大帝国でもないのに30万以上の軍を動員できるのってけっこうなもんじゃん?
8 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/19 00:01
戦国期には詳しくないのですが、武士は元々騎乗弓兵。弓馬の道と言
われた通り馬に乗って矢を放つもので槍どころか刀を振り回していた
という話もほとんど出て来ません。(皆さんご存知か)
9 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/19 00:06
>>4さん
兵の損耗率に関しては、文禄・慶長の役など、一部は残っています。
というか、朝鮮出兵時の一年目の損耗率は凄いですよ。
大名によっては50パーセントを越えている例もあります。
ここらへんは、戦前に参謀本部が出版した日本戦史が詳しいです。
10 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/19 00:06
最近復刊された岩波文庫の「雑兵物語」は面白いです。語り手は勿論
雑兵ばかりですが。
11 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/19 00:07
>9
関ヶ原とはえらい違いですね。まあ逃げ場もありませんでしたし。
12 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/19 00:15
>>山野さん
雑兵物語は面白いですね。
生き延びる為の知恵がいっぱい。
喉が乾いた時には、梅を見てつばを出せみたいなくだりがあって、
梅干が非常に貴重品だったんだなぁ…。というのが印象的です。
損耗率が高かった大きな理由は、病に倒れる兵が多かった事が大きいですね。
文禄慶長の役においては、医者の随行もすくなかったですし、慣れない土地という
条件もありました。それに、冬の寒さが日本よりもずっと厳しかった為、
それも兵の犠牲を増やした大きな原因の一つです。
13 :
世界@名無史さん:03/01/19 00:19
面白い
もっともっと話を聞かせて下さいいい
軍事板みたいになってもいいので
しかし日本は大砲をどうしてもっとたくさん作らなかったのかね
15 :
世界@名無史さん:03/01/19 06:39
当時の日本の軍事力について外国人が書いた本は、
どれくらいあったのだろうか?
16 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/19 09:21
>12
蔚山城に篭城した際には寒さと餓えに苦しめられましたからね。いつ
襲われるか分からない上にあれでは戦意も落ちたでしょう。
当初は「本国に居た頃よりも兵糧に不自由せずに済む」という状態で
あったそうですが。
>14
移動が難しかったからでは。それに登場も遅かった。利用された例と
いえば毛利・大友の門司合戦、木津川沖の海戦、関ヶ原の合戦、大坂
の陣くらいでしょうか。
>15
当時ではありませんが、江戸期にオランダ商館の人間が書いた本(非
オランダ人が書いたものも含む)ではその兵力と各自が所有している
刀がひどく恐れられています。江戸後期までそれが続いた。
17 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/19 15:23
「日本戦史 朝鮮の役」のコピーが出て来たので、ちょっと抜粋します
文禄2年3月20日、京城で数えた時のもので、文禄の役の一年目の損耗率が
わかります。
実員 定員 減耗率
小西行長 6626 18700 64.56%
加藤清正 5492 10000 45.08%
鍋島直茂 7644 12000 36.30%
黒田長政 5269 5000
大友吉統 2052 6000 65.80%
毛利吉成 1425 2000 28.75%
小西隊の損害の多さが目立ちますね。
ま、最前線で戦い続けたわけだから、これは当然の事ですね。
損耗が多かった原因を、この本の中では
「出征軍第一回の越年は衛生施設の完備せざると、鮮地における経験なかりし
とにより、水夫等の寒気の爲にたおるるもの多かりしか如し」
と、分析しています
18 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/19 15:45
篭城の話が出たので、ついでに当時の篭城用の食料をあげておきます
小早川隆景の加徳島城、鍋島直茂の金海城の守備兵、
各5000人の10ヶ月分の食料
米 7500石 塩 530俵
豆 525石 菜種 2石
干鰯 105俵 味噌 50桶
荒布 100俵 炭 1050俵
島津義弘の巨済島城の守備兵2000人、10ヶ月分の食料
米 3000石 塩 220俵
豆 210石 菜種 1石5斗
干鰯 43俵 味噌 25桶
荒布 50俵 炭 430俵
糒(ほしいい)100石
19 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/19 16:07
>>14さん
弾の重さが100匁以上(3.75キロ)のものを大筒と呼び、
文禄慶長の役でもわずかに用いられ、主に城に備え付けられたようです。
何故大砲が用いられなかったかといえば、当時の大砲は命中率も低く、
また移動が大変なので、野戦でも使いにくく、かけたコストに見合う効果が
得られなかった為ではないでしょうか?
あと大砲は、鉄と鉛を大量に使用しますしね。
たしか作るのに、大砲自体の重さの2倍以上の鉄が必要じゃなかったかな?
あと、当時は鉄のかなりの部分を輸入に頼っていました。
>喉が乾いた時には、梅を見てつばを出せみたいなくだりがあって、
>梅干が非常に貴重品だったんだなぁ…。というのが印象的です。
落語に出てくる笑い話だと思ってました・・・。
おかずナシでメシを食べる法、といいまして、梅干しを眺めると口に湧いてくる酸っぱい唾をおかずにするって・・・。
21 :
世界@名無史さん:03/01/19 16:26
>>8 >武士は元々騎乗弓兵。弓馬の道と言われた通り馬に乗って矢を放つもので
>槍どころか刀を振り回していたという話もほとんど出て来ません。
↑理解できます。
例えば中世イギリス最強の傭兵隊長ホークウッドも、何故強かったのかと言うと、
馬は移動用で敵の不利な位置まで移動し、降りて敵を攻撃。
負けそうになったらすかさず馬に乗り退却ができたからです。
馬の突進力を使ったランスのぶつかり合い以外は何処の国でもそうだと思います。
騎馬民族も馬上の射撃に優位な短弓兵を使ってますし、西洋の竜騎兵の銃も短筒ですし、
WWTでもカービンと言う馬上用の銃ができましたし。
およそ横山マンガの三国志のような攻撃方法は、確実に不利だと思います。
馬上で槍を振るのは日本においてもありえないでしょう。(中世は馬が今より小柄だったし)
22 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/19 16:28
最後に、城に蓄えられた武器の量を書いときます。
加徳島城・金海城
人員 5000人
鉄砲 200挺(大筒1挺、50匁筒10挺、30匁筒10挺、20匁筒10挺
13匁筒4挺、6匁筒10挺、2匁半筒150挺)
煙硝 450斤 薬 800斤
弾丸 4500発 鉛 450斤
硫黄 45斤 弓 300張
矢 6000本 刀 450腰
具足 17両 兜 10刎
槍 200本
なんか、日本史板みたいな事書いちゃってスイマセン。
ここから先は、世界史的な方向に話を持っていくよう努力していきますので…。
>>かきつばたさん
ああ、その噺なら知ってます。
醤油が増える方法とか、鰻の匂いで飯を食べる話の奴ですね。
金ならやらぁ。ただし、音だけな。ってオチの奴。
関係無い話なので、さげ。
24 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/19 22:01
>21
馬を走らせながら試しに矢を振るった人は落馬しかけたそうです。そういえ
ば伊達の騎乗鉄砲隊というのがありましたね。
山犬さん、ご苦労様でした。
25 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/19 22:36
24の人(研究者)が振るったものは矢ではなく槍でした。当たり前ですが。
26 :
世界@名無史さん:03/01/20 09:51
age
27 :
世界@名無史さん:03/01/20 23:30
たしか朝鮮出兵の時、明軍は日本の日本刀に脅威に感じた
らしいね。
当時の欧州諸国の軍の火力化は一割くらいだったらしいが
織田の家臣団は常備軍約二十万を保有しの三割を火力化していたらしい
農繁期にも戦える常備軍で勢力を拡大したのは有名な話
中部地方は兵糧の面で有利だからそゆことができる、織田に特別先見力があった
わけじゃないらしい、
それを現実に実行した行動力 実行力は すばらしい
先見性があり 理解力判断力が あって成し遂げられた大発明だと思う
理屈は知っていても 凡人はできないものだ
禁酒 禁煙 質素倹約 毎日の予習復習
できれば 健康で 金持ちの 天才学者になれるのだが
出来る人間が 偉人と成れるのだろう
>30-31
日本史板にカエレ!
スペインのテルシオの火器保有率は約25パーセントですが何か?
34 :
世界@名無史さん:03/01/21 01:40
>>33 じぁあ互角か?
織田家臣団の場合、長篠の合戦みたいに壕掘ったり。
陣地構築して戦う戦術を採る
まあ俗に言う後の先ってやつ?
グスタフ=アドルファスに先駆けて三兵戦術とってたって話らしいが
35 :
世界@名無史さん:03/01/21 01:47
当時日本で一番鉄砲保有してたのは島津家で
次いで大友家、龍造寺家、九州の大名連中の方が織田家よりも
火力では勝ってた
織田家は本州では一番鉄砲を保有してた
>34
陣地構築ってローマ帝国の頃やってなかったかな?
37 :
世界@名無史さん:03/01/21 02:04
38 :
世界@名無史さん:03/01/21 02:19
>>37 とんだ勘違い。
例えばクレイシーの戦いでは、エドワード黒太子の長弓部隊が大活躍しましたよ。
時代飛ぶけど大航海時代すぎたあたりと既にもはや鎧は着てないでしょ。
日本の戦国期で考えると、西洋は既に鎧兜じゃなくて胸甲とヘルメットだけですね。
39 :
世界@名無史さん:03/01/21 02:26
そういや前、軍事板で西洋ではほとんど狙いをつけないでマスケット銃を撃っていたが。
日本ではちゃんと狙いをつけて撃っていたんだっていう話がワーテルロースレかなんかで出ていたがどうよ?
かのジェフリー・パーカー先生が、
知られていない名将として織田信長を上げていた気が。
41 :
世界@名無史さん:03/01/21 06:22
>>39 長篠の合戦の時には織田は鉄砲の最も殺傷力を生かせる
百メートル以内まで引き付けて一斉発射したらしい
百メートル以内まで引き付けて撃つのって敵兵の顔が見えるくらいの
距離でだいぶ訓練積まないとと難しいらしい
陣地構築も壕だけでなく木の柵で垣を覆って容易に越えられない
工夫をしていた
42 :
世界@名無史さん:03/01/21 06:34
>>38 戦国末の日本の場合武将の鎧は防弾性が考慮されて斜面装甲になってる
足軽は徹底的な軽装化がされて小田原の後北条氏の足軽の鎧は
竹の張り型に和紙を何枚も重ねたものだった
>>36 つうか共和国のときにカエサルがガリア遠征でやってる
44 :
世界@名無史さん:03/01/21 07:58
1世紀にも及ぶ内戦中にもかかわらず都市経済が発展してたとか。
45 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/21 08:19
>28
常備軍といっても他の大名家でも行われていたことで、そう大袈裟なもので
もありませんでしたが。農兵は已然として動員されており、朝鮮出兵の時に
は農村が荒れていた。
>42
家康などは何度も鎧を撃たせて安全性を確認してから着ていたそうです。
>44
まあ各大名が「富国強兵」を図らないと兵も何も集まりませんから。
46 :
世界@名無史さん:03/01/21 08:39
ゲームEuropa Universalis IIの公式フォーラムで
日本のCivil War Eraについて知りたい奴がいて、
日本史・東洋史ヲタから色々レクチャーがなされていた。
そんでClan Oda とかClan Uesugiとかの単語が使われているので、
まるでスコットランド史かなんかのように見えてなんかワラタ
応仁の乱もOnin Warだし。
47 :
世界@名無史さん:03/01/21 08:46
やっぱ織田は経済力だろ堺とか押さえてたし
普通の大名連中より長期戦には強いんじゃない?
48 :
世界@名無史さん:03/01/21 08:50
当時の日本の銀採掘量は世界一だった
まあ、そんな話があったな
49 :
世界@名無史さん:03/01/21 10:16
一時期石見銀山だけで、世界の三分の一に匹敵したそうだよ。
多少誇張が入っているだろうけど、日本でだけで、世界の算出領の多くを占めていたのは間違いなさそう。
後今でも日本は金山銀山がまだ残っているそうだよ、
けど採算が取れないから、見つけても掘らないそうだ。
>>19 鉄を輸入にたよってたっけ?
山陰の鉄は中国へ輸出されていたそうだけど、
それ以上に輸入していたのかな?
50 :
世界@名無史さん:03/01/21 10:20
>>46 内乱をCivil Warと約す時点で間違ってる気がw
>>49 山陰の質がいい砂鉄を刀剣という製品にして輸出してたってことでは。
刀剣などでなく日用品などの鉄素材は輸入してたかも知らんけど。
総入れ歯、侍は東南アジアで傭兵としてもてはやされたよな
アンボイナ事件の時オランダ商館にイギリスのスパイとして
捕えられたのも日本の侍だった
53 :
世界@名無史さん:03/01/21 10:46
総入れ歯ってなんだよ。
54 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/21 10:49
>>50さん
civil war は「内戦」や「内乱」という意味で間違ってませんが…。
Civil Warと頭文字を大文字で書く場合は、普通南北戦争を意味しますが。
もしそういう意味で「間違っている」と仰っていたのなら、スイマセン。
>>51さん
戦国時代には、その旺盛な鉄需要を満たす為、南蛮鉄が大量に輸入されて
いました。これらの南蛮鉄の多くはインド産であったと言われています。
多い時期では、鉄の輸入額は、全輸入額の10%を越えていたと思います。
これらの支払はほとんどが銀で行われ、銀の全輸出額に占める割合は80%
以上でした。
ちなみに、日本に最初に伝わった火縄銃も、インド産のものであったのではないか
と言う説があります。
大阪夏の陣の際には、家康は鉛、硝石などの軍需物資を海外に発注していますし、
当時の日本の生産技術では、軍需物資を全て国内でまかなう事は不可能でした。
55 :
世界@名無史さん:03/01/21 11:04
>>12 >>20 世説新語の中で魏の曹操が使った手だという逸話が。
多分元ネタはそれ。
>>55さん
「あそこに梅の林があるぞ」という奴ですね。
世説新語にのっていた話でしたか。三国志で、同じ方法を曹操が使った
というのは知っていました。正史ではなかろうとは思ってましたが。
この手の話は中国に由来するものが多いですね。
だいぶ話がずれますが、「宇治拾遺物語」などの説話集や「醒酔笑」、
「きのうは今日の物語」等の笑い話などには、中国の文献がもとネタ
になっているものが多くあります。関係ない話なので、さげ
>>10 >>12 雑兵物語は信憑性が薄いらしいという話を聞いたことがあります。
後の時代にそれに書かれている事を色んな人が実証しようとしましたが、
多く(特に炊事関係)はどれも実用性に乏しく、信ずるに足らないとか。
ひょっとして江戸期に入って書かれたものなんじゃない?
>>54 倭銀とメキシコ銀は有名だね。
明・清では一条鞭法とか地丁銀なんて銀の支払いや納税の法がグッ〜〜っと増える。
スペインではメキシコ銀で重金主義の動きが出てくるし、出回りすぎると欧全体で価格革命がおきちゃうし。
これを考えると、日本は銀を小出しにして輸出すべきだったのかなぁ。。
>53
総入れ歯は総入れ歯だよ
ルソンとかに居た日本人町の子孫とかって今も生きてるのか?
60 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/21 15:08
>57
ひょっとしても何も、振袖火事の後に書かれたものですよ。しかし口語研究
の面では重要ですし、内容も嘘ばかりとは考えられません。実験者が上手く
出来なかったのかもしれませんし。
61 :
世界@名無史さん:03/01/21 17:12
戦国時代のなかで 大名たちが経済発展に取り組んだ為に
日本は経済力がつよくなっていた 世界的な金持ちかもしれない
米の生産も伸びたが 米作の普及が経済発展の基だろう
小麦中心の欧州では 王様が定住できなかったために発展できなかった
一定面積で生活できる人数が 小麦は少なかったのだ
織田軍団のもとは 米の穀倉地帯のおかげだろう これが常備軍をつくったのだ
世界史板的にボケてみます(怒らないでね。
>織田軍団のもとは 米の穀倉地帯のおかげだろう これが常備軍をつくったのだ
米国の穀倉地帯が、当時の織田軍団とどんなふうにつながってたんですか?
>>62 質問の意味が分かりませんが。・・・
米国に当時常備軍が発生していなかった、というなら、
当時の米国にはそんな穀倉地帯はなかったし、
「米国」というのをシャレで言うのだったら、
当時の米国とは日本のことだったのです(w
>>62 確か今川義元の三河、駿河、遠江の三国あわせた石高より、
濃尾平野に存在する尾張一国の方が石高高かったはずです。
しかも尾張は熱田神宮が存在する門前町だから、人は集まるし
定期的に銭の収入が得られる土地柄。
流石にそれはない。尾張一国で50万石強、
それもこの当時信長は完全支配とは言いがたいのでもっと少なめ。
三河駿河遠江の三国では100万石前後。
義元はあの当時織田の2倍は固い勢力を持っていた。
>>64さん
さすがにそれはないでつ。太閤検地の際の石高を上げときます
駿河 15万石 尾張 57万石
遠江 25万5000石
三河 29万石
合計 69万5000石
桶狭間の頃は、織田家の影響力は確か尾張の半分くらいでしたかね。
あと、この頃の織田氏は、基本的に石高ではなく貫高制で、税は銀で
納めさせ、その銀の多寡で領地をはかっていました。
>>66 三国合わせてそんなに違わないから、尾張の「大きさ」についての64の認識は
まあまあ、ってところじゃないですか?
>>62 >>63 米と小麦の生産量収穫量の違いの意味です
一人の人間が作る米で 10人が生活できたら 9人がほかの仕事をできる
5人家族なら 他人が5人遊ばせられる
小麦の場合は米よりも少なくて 6人しか生活できなければ 他人は1人しか養えない
生活の豊かさが生まれた 米の生産は商業を起こし発展させたのです
69 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/21 22:53
商業面で栄え、経済的に不自由しなかったのは確かなようです。信秀の朝廷
への献金は有名ですが、連歌師宗長や山科言継が来た時には京風の屋敷に招
いて大盤振る舞いをしています。後者は信秀が呼んだらしい。
70 :
世界@名無史さん:03/01/22 00:45
鉄砲が伝来してから1年後には内製し、その後も銃身、引き金部等
改良していったらしい。10年後には国内で100万丁の鉄砲が普及。
織田信長が考案した3000人の鉄砲隊を3組ずつ交代で連射する戦法は第一次
世界大戦まで通用する戦法であった。
同じ頃フランスの戦争では鉄砲隊は80人程。
当時日本は製造技術、戦法とも世界一の鉄砲大国だったらしい。
日本侵略を企んでいたスペインであるが、在日宣教師が本国国王に
「日本強すぎ。侵略不可能」なる手紙を送り国王もしぶしぶ承諾。
スペインはターゲットを中国に変え、逆に日本の軍事力を利用しようと
する。その足ががりとして中国に近い九州の大名を洗脳し、手なずけよう
としたが、スペインの企みを察知した豊臣秀吉は宣教師を国外追放する。
教科書には書いてねーぞ(w
71 :
世界@名無史さん:03/01/22 00:53
> 日本侵略を企んでいたスペインであるが、在日宣教師が本国国王に
> 「日本強すぎ。侵略不可能」なる手紙を送り国王もしぶしぶ承諾。
イエズス会宣教師の手紙を真に受けてはいかんよ。
彼らは自分たちの功績をことさらに大きく見せたいがために、
布教対象が強大な国であるように本国に印象づけようとして
話を誇張するケースが多い。
確かに当時の日本は、世界でも有数の鉄砲生産国だったけどね。
72 :
世界@名無史さん:03/01/22 00:54
> 織田信長が考案した3000人の鉄砲隊を3組ずつ交代で連射する戦法は第一次
> 世界大戦まで通用する戦法であった。
あと、この三段戦法の話も今ではウソだとされている。織田信長が
鉄砲隊を集中運用したのは確かだが。
73 :
世界@名無史さん:03/01/22 00:57
>71
同意だけど
>「日本強すぎ。侵略不可能」
これも事実ではあると思う。
日本はこの頃からすでに潜在的に大国だったし、まだあの時代のヨーロッパでは
遠すぎる上にそこそこ強い日本を侵略するのは無理だろう。
>同じ頃フランスの戦争では鉄砲隊は80人程。
すまんがその無茶な数字の根拠って何?
それにスペインは東アジアに侵略に来たんじゃなくて交易に来たんだが?
75 :
世界@名無史さん:03/01/22 00:57
あの頃欧州はオスマン一国に適わなかった、へタレですから。
日本の石高は約2000万石、
単純計算した場合動員兵力は約50万。
これに勝てそうな国は欧州にはちょっといないな。
それ以外の大国でオスマン、明、ムガールくらいか。
明の人口は当時の日本の約四倍、単純に考えて四倍の国力があったと見るべきかな。
オスマンとムガールは人口や収穫量を知らんから分からん。
交互射撃はヨーロッパでも試されてたが、
交互射撃も一斉射撃も時間当たりの投弾量が変わらないから
意味無いという意見が大勢を占めてたんだが
特に、狙いも付けずに水平に構えて射撃するヨーロッパのやり方と違って
日本の場合は狙って撃つから指揮官の号令で横隊ごと斉射するのは射撃効率が落ちる
しかし大航海時代とその後の植民地合戦と言うドラマチックな歴史の時代に
日本が今一つ参加し損ねたってのは、なんとなくさびしい感があるよねぇ。
思想的にではなく、お話を見るものの心理としてだかね。
>>77 参加してたらムガル帝国みたいになってたでしょう
79 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:15
仮にフィリピン、マカオの様に南蛮の手に落ちて植民地化されたと
してもその後の南蛮のヘタレぶりからすると蘭、英、米などの
新興勢力の植民地にされたたかな。
もしそうだったとしたら今頃俺たちって白人?
80 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:16
>79
メスチソ、ムラート、サンボと同じ扱いを…
>>71さん
鉄砲の三段撃ちの話は、元々小瀬甫庵の書いた「信長記」という書物
が元ネタになっていますが、これが全くもって信用の出来ない資料で、
当然三段撃ちの記述も、作り話であろうと考えられます。
というか、この本自体、甫庵が儒教的な価値観で好き勝手に書いたものです。
>>75さん
16世紀のオスマントルコの人口は、フェルナン・ブローデルの「地中海」
の中では、約2500万人と見積もられていたと記憶しています。
ちなみに、当時のスペインの人口は約800万。フランスは約1600万ほど。
当時の日本の人口に関しては1000万〜1800万まで、様々な説があります。
以前は1800万人ぐらいと見積もられていましたが、最近はそれよりも
少なめに見積もられる事が多く、1200万程度という意見が多いように
思います。
私は、1200万人だとすると、その後の17世紀の人口の増加率が、少し
不自然なくらい高い率となるので、1400万人ほどが妥当なのではないか
と思っています。(あまり根拠はないんですが…)
82 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/22 01:24
>>79さん
この時期に植民地化されたのは、低緯度の熱帯、あるいは亜熱帯に
属する地域がほとんどで、温帯に属する地域で植民地化された地域は
ほとんどありませんでした。
まぁ、当時の力関係から考えても、植民地化される事はまずなかった
でしょう。
日本の指導者の子弟はヨーロッパに留学するようになり、
アヘン戦争ではヨーロッパ列強の尖兵を務め、
第1次大戦では植民地部隊として本国部隊の露払いに機関銃陣地へ突撃し、
第2次大戦では熱砂の北アフリカで戦い、
戦後は朝鮮半島で戦い、
やがて共産主義に毒されて独立運動をおっ始めて
食い詰めた白人傭兵がやってきて、テロと札束と羊羹が飛び交うだろうて
84 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:28
オスマン帝国って意外と人口少ないのね。
5000万は固いと思ってたのに。
日本の米の収穫は、室町時代?の平均で播種量の35倍。江戸時代初期で40+倍
欧州の小麦収穫は、ローマ崩壊後は中世全般にわたって播種量の8倍。
これは農業技術の差によるもののみではなく、欧州はそれほどに土地が痩せていた。
ともかく生産力差がこれでは、欧州が統一されて日本に攻め込もうとしたとしてもムダでしょうね。
鉄砲総製造量が百万を超えたというのは誇張ですが、戦国時代末期には六十万丁あったと推測されています。
ちなみに17世紀当時のイングランドの鉄砲は総計で六千丁。スペインはもう少し多い。
少なくとも、世界の他の地域の鉄砲を全てかき集めても、日本の鉄砲に量では敵わないのは確か。
さらに言うと、日本は鉄砲の質で欧州を100年は凌駕していました。戦国時代の鉄砲の有効殺傷射程は120m。
30年戦争や北方戦争に使われた欧州の鉄砲の有効殺傷射程は何と50m!
さらにさらに、日本では鎧を貫通するための銃の大口径化が早くも進んでいました。
86 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:33
>>85 農業技術や土地の違いではなく、米と小麦の差だと思われ。
87 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:33
織田信長、豊臣秀吉が戦やるときは陣地構築して敵を引き付け
自軍の被害を最小限に抑える戦い方だったと
信長公記って書物に書いてあるらしい
真田幸村もこう言う戦い方が得意だった
戦国時代版パックスフロント?
88 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:33
>>81 1200万は速水説かな?
けどこの人江戸時代でもかなり低め見積もっていたし、下限の数字だと思うけどな。
それにそれだど石高に対して人口が少なすぎるかと。
一石で1人の人間を1年食わせられるんだから、もっと多いほうが自然じゃないかな。
当時は子供も多かったそうだしね。
私は1200万と1800万でなかとって1500万くらいと思っております。
89 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:34
スペインから新世界って以外に近いんだよね。
日本の地図で見ると左端と右端だけど。
そう考えるとよくフィリピンまで来たなって思う。
やっぱ中国、日本もねらってたんじゃないかと思うんだけどどうだろ?
鎧の強度はヨーロッパのほうが上だな
信長の南蛮鎧はスペインの槍兵の胸甲だし
それに、当時のヨーロッパのマスケット銃は支杖を用いて射撃していた
それだけ重く反動も大きかった
種子島より威力で劣るとはとても思えないが
91 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:36
な、なんで日本ってそんな昔から優等生になり得たの?
92 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/22 01:38
>>88 速水先生は確か1400万〜1500万人説を採っていたと思います。
私も、そんなもんだと思います。1200万と言うのは、さすがに
当時の徴兵数から考えても少ないと思いますし。
93 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:39
>91
応仁の乱以前から200年近くずーッと内戦してるからな。
庶民の生活はズタボロなんだが。
94 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:39
しかし皆さん詳しいですね。
ていうかこのスレおもしれぇ。
1200万人に鉄砲60万挺ということは老若男女ひっくるめて日本人20人に1挺か
いくら何でも多すぎやしないか?
そんだけ作っても需要がないだろ
96 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:40
>>93 しかし戦国時代に都市・都市文化が発達したというのがこれまた不思議。
普通なら中国の戦乱期みたいに人口が激減しそうなもんだが。
97 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:42
98 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:42
戦国時代は甘っちょろい馴れ合いだったのでつかね?
古代ギリシャの小競り合いみたいな。
99 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:43
>>93 室町時代は、文化の庶民化が行われた時代ですし、
(現在の古典芸能は、室町に期限を持つもの多し。)
一揆や自治都市、大商人の出現とか庶民にとっては、
むしろいい時代かも。
100 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:43
戦国時代つっても365日毎日殺し合ってたわけじゃないからねえ
101 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:44
足軽っつっても農繁期には百姓やってるもんねえ
102 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:45
日本の国友銃ってたしか刀の技術を生かして鋼でできてたんだよな
だからヨーロッパの鎔式で造った銃身より強度が高かったから
威力も大きかったというけど
103 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:46
一向一揆が庶民にとっていい時代なのか?
104 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/22 01:46
中国では街ごと皆殺しにしたりしますからねぇ…。
日本ではそういたジェノサイドは、信長の一向一揆に対して等の
例を除けば、ほとんど行われませんでしたし。
105 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:46
>>92 >速水説
そうだったっけ?
それとも俺の知識が古いのかな。
以前あやふやだけど1212万人とかいう数字を見たと思うんだけど?
>>95 兵士1人につき1丁ってことでしょ。
当時の動員兵力ともだいたい一致するし。
106 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:49
中国は何にしてもスケールがでかいからね。
虐殺のスケールもでかいし人口増加のスケールもでかい。
107 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:49
一揆が成功して、”百姓の国”になった所もあるようですし。
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109 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:50
堺は商人達の自治都市でフロイスはヴェネチアより素晴らしいと言ってる
まあ最終的には信長の圧力に屈して秀吉が天下とったのちに
解体されるんだけど
110 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:50
>>105 戦国時代の兵士は鉄砲足軽だけだったんですか?
つまり当時の軍隊の火器保有率は100パーセントってことですか?
それに5パーセントの動員率が気狂いじみてるとは思わないのか?
111 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:50
中国での争乱の時代は、異常なほど減るからなあ。
乱世は正確な資料がとれないのが最大の原因だけど、人口の何割かは確実に減っている。
人口が増加している、日本が特別なのかそれとも中国が異常なのか。
112 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:51
戦国時代〜江戸時代が日本の全盛期と思えてきたような・・・
113 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:55
まあ、中国とは、城(都市)の形状からして違うからね。
114 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:55
まあ百姓がかつてないくらい力をもった時期ではあると思う。
豊臣時代に入ってしまうと刀狩で武器を奪われ、徳川時代は重税で生かさず殺さずだもんな。
115 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:55
鉄砲の保有数が60万挺で火器保有率が3割とすると動員数は180万人。
当時の日本の総人口が1200万〜1400万。
動員率は10パーセントを軽く超えちゃってますな・・・・。
116 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:56
おっと動員数は200万でしたね。
117 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/22 01:58
>>105さん
速水説は確か1400数十万人説だったと思います。
ひょっとして、今と昔で変わったのかな?
あと、鉄砲1人1挺は、いくらなんでもありません。
これは、各大名の動員の状況を追えばわかっていただけると思います。
朝鮮出兵時の資料ならありますので、暇が出来たら書き込みます。
西洋でパイク部隊を無くし、全員に鉄砲を配備したのは、ルイ14世の
時代に入ってからです。
ですから、60万挺と言う数字も結構眉唾物だとおもっています。
え〜と、今泥酔してるからこんなこと聞くんですけど、今ここにカキコしてる
皆さんってひょっとして三戦板の住人さんが多いのかな?
118 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:58
>>110 当時の動員兵力は一万石につき250人
(ただ諸説あり、最近はもっと多いという説が有力)
そんなにおかしな数字だとは思わないけどな。
つーかもっと多くても不思議じゃないよ。
三国志の蜀なんて、人口が正確ではないのもあるだろうけど、
常備軍が1割もあったんだよ。
>火器
末期は半分は超えてたそうだ。
朝鮮出兵では、かなりの装備率。
そして全て戦場に持っていくわけじゃないんだし、そんなもんでしょ。
119 :
世界@名無史さん:03/01/22 01:59
RPGでもあるまいに、
一人一挺という制限は、在ったのだろうか。
この前チャットでポルトガル人と会話したけど、
日本に鉄砲を伝えたことを教えてあげたら「アイムソーリー」とか言ってた。
121 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:01
一人で5挺も10挺も担ぐ鉄砲足軽か?
それはギャグですか?
122 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:03
常備軍が1割というのは壮年男子の過半が軍役に取られて全く生産活動に従事できないことを意味する。
北朝鮮よりも酷いぞ、それは。
123 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:04
>121
1挺の鉄砲では、5人と撃てません!
124 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:04
なんでそんなに極端にはしるんだろ。
けど雑賀などは数丁もってて玉だけ入れて、連射したって聞いた憶えがあり。
けどソース不明なんで信じないで下さい。
125 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/22 02:05
>>118さん
当時の一万石あたりの最大動員可能兵力は600人でした。
もちろん、これは限界値。長い事維持できませんが。
朝鮮出兵にあたっては、九州の大名に対しては一万石あたり600人という
軍役を科しました。中国四国は一万石あたり500人。
当時の石高1800万石に当てはめると、72万ということになりますかね。
126 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:05
上杉の砲術隊の模擬演習でも予備(弾薬も含めて)を纏めて持っていく
輜重隊がくっ付いて来ていました。
結構故障することも多かったでしょうしね。
みんな一向宗になって一向一揆で聖戦開始、メッカまで突撃!
ニハーヴァントやタリス湖畔など、
イスラムが勝利した戦い以上に互角に争うぜ!
128 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:09
>>122 蜀は国力10倍以上(資料上の人口では23倍)の国と戦争してましたから。
そんな無茶な体制になったのかと。
日本の場合は常備軍は少なく、半農半武が多かったですから、もっと多くても大丈夫だと思われ。
129 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:10
日本全国の農繁期にはお百姓をするパートタイムの鉄砲足軽が
雑賀の鉄砲衆並だとするほうが極端だ。
130 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:11
軍役に関しては、閑農期には、ある種の公共事業かも。
上杉、武田の川中島の睨み合いも繁農期になると
休戦になった説もあり。
(上杉側が、雪が降り退路を断たれるのを避けた説もあり。)
こ、これで造船技術と外に出るきっかけさえあれば……。
うむ。恐るべき軍事大国ですな(汗)
>>77 「・・・このようにしてClan OtomoをMiyakoへ誘い出した商人ドレイクは、
すぐにClan MouriとClan Imagawaに命じてYodo港でClan Otomoを待ち伏せさせた。
Mikadoに拝謁するためYodo港で武装を解いていたClan Otomoは襲撃を受けて全滅し、
彼らと行をともにしていたイエズス会士達もコンスタンチノ司教を除いて皆虐殺の憂き目にあった。
このYodo血浴事件を受けてイスパニアは急遽ノヴィスパニアから艦隊をマニラに派遣、
ヌエベパイセス島への派兵をマニラ総督アルバ公に準備させた。
一方、商人ドレイクはこの軍事的成功を認められ、東インド会社の・・・」
とかそういう話がしたいのか?
>>77は。
いや、俺も好きだけどさ、お話はw
133 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:13
>>128 >日本の場合は常備軍は少なく、半農半武が多かったですから、もっと多くても大丈夫だと思われ。
全然大丈夫じゃないぞ、それは。
134 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:15
>>125 そうだね。
毛利家は200万石そこそこの時に、宇喜多と会わせて10万も動員してたから、
500人はいけるみたいだね。
ま、毛利家は借金もしてたし、鉱山や貿易でウハウハの大名だけどね。
135 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:16
30年戦争当時のスウェーデンは国民の2パーセントを動員したが、
国家財政は破綻寸前まで行き、結局、外国人傭兵に頼った。
スウェーデン軍は外征軍だったため、この数字がそのまま日本に適用できるわけではないが、
それでも10パーセントを超える動員が大丈夫というのは狂ってます。
136 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:17
>>133 なにも常備軍を増やせと言っているわけでは、、、、
日本の動員兵力も、常備軍じゃないし。。。。
137 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/22 02:20
>>125 の計算、間違ってました。1800万の6%だと、108万人ですね。
でも、さっきも書きましたが、これはあくまで一時的に徴兵できる
その限界値です。
138 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:21
>>135 日本と欧州の(米と麦)生産性の違いでは?
日本の戦国時代では、もっと動員した記録ありますし。
139 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:23
つーか、2〜3世帯に1人の徴兵ってのは文字通りの根こそぎ動員だな。
普通なら一揆か逃散すると思うが。
当時の庶民はよほど我慢強かったのだな。
140 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:24
失うもののない細民は、混乱を望むのではないか。
一旗あげようとしてね。
募集をしたら希望者が多すぎて困っちゃうかも。
141 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:27
>>139 北条家の場合は有事には、全ての15歳から65?歳まで軍役がありました。
まあ実際はそこまで厳しくなかったそうですがね。
/ ) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
./ / | 米なんて作ってられるか!
/ / \ / ̄ ̄ ̄
/ /  ̄|/ ̄ ̄ ̄ ̄| 一旗あげるぜ!
./ /_Λ , -つ \
/ / ´Д`) ./__ノ  ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄
/ \ / / ⊂_ヽ、
.| へ/ / .\\ Λ_Λ
| レ' /、二つ \ ( ´Д`)
| /. . > ⌒ヽ
/ / / へ \
/ / / / \\
/ / レ ノ ヽ_つ
/ ノ / /
_/ / / /|
ノ / ( ( 、
⊂ -' | |、 \
. | / \ ⌒l
| | ) /
ノ ) し'
(_/
143 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:28
15歳から65歳まで全員兵隊にとった訳じゃない
それは15歳から65歳までの男子が軍役に就く義務があることを意味しているに過ぎない
144 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/22 02:29
>>139 当時の家族は今のような核家族ではなく、大家族制でした。
核家族が増えるのは江戸時代に入ってから。
だから、家族のうちの若い男が一人二人死んでも、すぐに働き手を
全て失って、飢え死にするなんていう事にはなりませんでした。
で、結局鉄砲の保有数が60万挺ってのは妥当な数字なのか?
それともこの数字を正当化したいがために動員率が1割を超える超軍事国家だとしたいのか?
146 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:36
>>143 だからそう言っているじゃないの。
いくらなんでも1度に全部兵隊にはできない。
ただ139事例よりは厳しかったそうな。
またこの事例の北条氏は民衆を直接支配に近い形で支配していたから出来たのであって、
他の大名では事実上無理。
147 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:38
>>145 戦国時代の日本が軍事国家ではないと?
つーか有事に5%はそんなにおかしな数字ではないぞ。
148 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:40
149 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:40
>>146 上杉軍その他によって何度も小田原城篭城を余儀なくされた
北条氏が、他の大名よりも民衆を直接支配していたのですか?
応仁の乱の頃と豊臣滅亡の頃の日本の違いが
あの時代のパワーを表している気もする。
151 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:42
>>148 ん?
日本は5%だろ。
そして1割を超える国家が存在したと言っただけだ。
それがなんで、日本が1割を超えていたになっているんだ?
152 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:44
153 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:45
中国の春秋戦国時代=日本の戦国時代
両国が一番活力に溢れ、輝いてた時代
154 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:47
一向一揆なんかは、すぐに何万人も動員できたみたいだしね。
155 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:47
>>149 豪族の勢力がそんなに強くなかったと言うか、
豪族の力を弱め、大名の力を強めていたんだよ。
そして戦国時代なのに、ある種の官僚的というか1歩進んだ体制を築きあげていたみたい。
というより、篭城を余儀なくされた事と、なんの関連が?
156 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:48
三戦厨いいかげんウザイ。さっさと巣に帰れ。
157 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:50
一揆衆の数なんて誰かがちゃんと数えてたわけじゃなし
159 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:55
>>155 しっかりした支配体制=城下まで攻め込まれて篭城とはなりにくい。
@領国をしっかり支配している場合城下まで攻め込まれにくい。
A城下まで攻め込まれた場合、殆ど抵抗力がない。(なくなっている。)
逆に、征服者のごとく旧来の支配の上に軍事力で乗っかっている
だけの場合を考えた方が理解しやすいような。
160 :
世界@名無史さん:03/01/22 02:59
上杉軍がきたとき城の周りを除いて殆どが、上杉軍側に
寝返ってしまったしね。
161 :
世界@名無史さん:03/01/22 03:06
>>159 民衆の直接支配とは関係ないように思われるが、
(正しくは豪族を通じた間接支配ではなくで、大名の直接支配)
それに何故これが、しっかりした支配体制(防衛力強化)になるのか意味不明。
それに上杉は駄痛作戦みたいなもんで、面を支配したわけじゃない、
武田は相模の城すらろくに落としてない。
後、小田原に迫ったのは里美か、けどこれは海から奇襲して城下を焼き討ちしただけだし。
支配が揺らいだわけじゃないと思うんだけど。
162 :
世界@名無史さん:03/01/22 03:10
>>160 それは初耳。
武蔵や相模の城は殆ど落としていなかったと記憶してる。
武蔵相模以外の関東の豪族の殆どが、上杉についたのは知っているが。
163 :
世界@名無史さん:03/01/22 03:11
>>161 板違いのような気もしますが。
ところで、里美が海上か奇襲などということがあったのでしょうか。
私は、千葉原人(千葉県南部の猿も住んでいる土地の生まれ)
なので何時頃のことか詳細を知りたいのですが。
164 :
世界@名無史さん:03/01/22 03:21
>>163 氏康の時代だったと思う。具体的な年は、本漁らないと無理。
小集団で火をつけて帰っただけだから、そんな大事ではない。
海上からの奇襲であってたと思うんだけど、
確認するまで、まってくださいな。
もう眠いし、頭も動いてないので、間違っているかもしれないから。
165 :
世界@名無史さん:03/01/22 03:25
>>163 千葉原人なんて千葉県の一部の人しかしらねーぞ。
確かに南は、ひどいけどな、
でも千葉駅の西口と東口もかなり対照的だぞ。
沿岸まで時々攻めては来ていたみたいだけれど、
小田原の城下付近まで来たと言うのは聞き覚えが……。
本当だとしたら里見さんもなかなか積極的だったのですな。
167 :
世界@名無史さん:03/01/22 03:28
相模湾を大船団で突っ切る里見氏萌え〜。
168 :
世界@名無史さん:03/01/22 03:33
里見氏は千葉県人の誇りだ。
もともと千葉は、関東の中心だったのだ。
大和朝廷の時代より設置されている国の数がダントツに多いのだ。
170 :
世界@名無史さん:03/01/22 05:44
当時の日本の城って、外国の城とかと比べてどうだったんですか?
役割とか、防御力とか。
171 :
世界@名無史さん:03/01/22 06:21
172 :
世界@名無史さん:03/01/22 07:42
>>170 ヨーロッパのイタリア式築城に比べると、姫路城などを代表とする近世型築城は
1 小銃による立体的な制圧射撃を重視
2 重心にキルゾーンを設定(大手門前など)
3 建物が高いので、大砲による攻城戦はあまり想定していないと思われる
役割はいろいろ
173 :
世界@名無史さん:03/01/22 08:11
「おい宣教師ども。侵略するのに手ごろな国は極東にあるのか?」
「国なら、日本、朝鮮、明などがありますが……」
「おおそうだったな。おまえ達が今目をつけている日本をまず落とせないか?」
「……ちょっと無理そうです」
「なぜだ?ちっぽけな島国ぐらい、フィリッピンを占領するのと同じようなもんだろ?」
「日本人はフィリッピンの原住民とは違います。彼らは数が多く、そして銃で武装しているのです」
「ふうむ、数が問題なのはともかく、銃を持ってるぐらいならどうということはないだろう。インディオスだって教えれば使いこなせるだろう」
「……日本人は自ら銃を生産しているのです……それも何千何百という数を」
「!!自前の銃なのか?!インド産や東アジア産の粗悪品ではなく?!」
「しかも!彼らは統制が取れており、また長い戦乱により鍛え上げられているのです。さまざまな観点から見て侵略は無理な話です」
「……わかった。日本は諦めよう。では他の国はどうだ?」
「明、朝鮮についてはポルトガル人の報告からある程度のことは分かっています。しかしげせないことがあります」
「それはなんだ?」
「日本です。彼らが強兵であることはお分かりいただけましたが、その彼らですらこの二国に攻め入ろうとしないのです」
「……それって、おい」
「仮に攻め入ったとしても簡単に撃破されるから……かと」
「てことは……その二国は日本よりも強いというのか…・・・」
この板の方なら知っているとは思いますが、
日本以外の国には、都市全体を城壁で囲んだところが多いので、
役割や防御力を比較すること自体難しいかと。
175 :
世界@名無史さん:03/01/22 10:12
>>168 >>169 板違いですが、何故千葉だけあんなに沢山の国が設定されているのか、
不思議に感じます。
大和朝廷と海上交通という観点から説明されることも多いのですが。
遺跡とかあんまり聞かないのですが、人口も多かったのでしょうか。
>>174 堺や石山本願寺(浄土真宗)支配下の村や町は
堀で周り囲んで塀つけたりして防御して
けっこう要塞化してたらしいよ
軍役帳の鉄砲装備率はだいたい一割程度なので、日本の人口が1,500万人だとして、
5%が武士だとすると75万人で、75,000挺。石高からの50万人では50,000挺。
>>22だって200挺しかない。
島津義弘は朝鮮に15,000人出したが、鉄砲は500挺。
確かに軍役以上を動員することもあったのと同様に、
軍役以外にも民間にも鉄砲はあったし、10万はあったと言う人もいるけど、
60万丁などというのは三戦板でも見たことないよ。
鉄砲総製造量という言葉がポイントで、60万の根拠は延べ生産高じゃないかな?
鉄砲保有数としては無理が大きいと思う。
178 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :03/01/22 11:00
>>174 日本の戦国時代は、どうせ略奪も殺戮もやらないから、城下町や農村に城壁を
築いたりはしませんが、ヨーロッパでも城砦は原則として独立して建っているから、
比較できないこともないと思いますが。
179 :
世界@名無史さん:03/01/22 11:10
なにかの本で当時、日本は刀、中国は槍、朝鮮は弓が強かった
とか書いてあったような気が・・・。
日本の刀は分かる気がするけど、中国、朝鮮はよくわからん。
中国の槍とか朝鮮の弓って、そんなに優れていたんだろうか?
朝鮮の弓先端にキムチの汁がついていたらしいよ!
それで打たれた非には一生臭いがとれずに社会的死を迎えたらしい
181 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :03/01/22 11:47
>>177 軍役が軽くなった慶安2年(1649年)の最低基準ですが、参考までに
1万石の大名の場合
家来(もちろん男だけで)合計235人、馬上10騎、弓10張、鉄砲20挺、槍30本、旗3本。
騎士10人、数弓10人(手替3人)、鉄砲20人(手替5人)、
旗指9人(宰領1人)、侍16人、立弓2人、手筒2人(手替1人)、
長刀2人、甲冑侍4人、馬印3人(宰領1人)、小馬印2人、
挟箱持4人、簑箱2人、茶弁当1人、坊主1人、雨具持2人、
草履取1人、口付6人、沓箱3人、(手替1人)、押足軽6人、
箭箱2人、玉箱2人、十騎口付10人、若党10人、槍持10人、
具足持10人(手替5人)、小者6人、長持2棹8人(宰領2人)
小荷駄10疋10人
10万石ならこの10倍で、50万石なら50倍というわけではなかったようですが。
5万石は、家来1005人、馬上70騎なので。
戦国時代はもっと多かったようです。1万石あたり家来250〜300人位になります。
秀吉が朝鮮でなく 沖縄から台湾フィリピンと南方へ 進出していけば 大英帝国のような
大帝国もできたかと 幻を見てみる
オーストラリアならば 征服できたろうが ちょっと遠いかなー
「世界史における日本の戦国時代」は、米英式に言うと
CIVIL WAR
にすぎず、イタリアルネサンス時代の内乱状態に似ているが、
「日本史における戦国時代」を世界史的視点で見ると、
近世ヨーロッパの軍事革命時代に相当するだろう。
184 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/22 15:11
>179
弓が強かったというより、刀はほとんど使わなかったというぐらい。主要武
器は弓矢と刀槍。火器は震天雷などがあったものの、火薬がほとんど無く、
四道で2万7千斤だけ。精兵は北辺に数千人。朝鮮出兵の時に集められて戦
ったのは5〜6万人。(以上朝鮮)
明もほとんど同じ状況でしたが、仏郎機砲や仏郎機銃がありました。但し性
能は日本製のものよりも劣っていました。兵力は80万人、朝鮮に派遣出来
たのは10万人。
185 :
世界@名無史さん:03/01/22 15:18
>>184 なぜ秀吉軍は 朝鮮を征服できなかったのですか
武器も兵力も日本が有利だったようですが
どうすれば 征服できたと思いますか?
結局力攻めは、難しいて事じゃないかな。
やはり思想を持って侵略するのが一番効率がよいと
187 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/22 15:30
>185
1、防寒を考えていなかった(吹雪の中草鞋履きで凍傷になった)。
2、被征服地の人間を日本人にしようとして反発をかった(民情を考えてい
なかった)。国内統一の延長線上に考えていた。
3、補給線を考えていなかった(ズタズタにされ、餓えに苦しんだ)。
4、体格・大砲などの面で不利だった。
5、海戦面での改革を行わなかった。
6、情報不足の中で相手を甘くみていた。
食料も士気も無い状態で占領なんか出来ません。装備が勝っていれば良い訳
でも無かった。どうやっても無理だったでしょう。
当時の日本の船は援用に耐えられるつくりじゃなかったのよん
だから、近くの朝鮮辺りまでしか兵力の輸送が出来なかったのよん
189 :
世界@名無史さん:03/01/22 16:16
>>187 >>2、被征服地の人間を日本人にしようとして反発をかった(民情を考えてい
なかった)。国内統一の延長線上に考えていた。
う〜む・・・この時もやっていたのか
190 :
世界@名無史さん:03/01/22 16:18
確かに(w
かの国を日本に同化させるのはどうやっても無理だろうに
191 :
世界@名無史さん:03/01/22 16:28
秀吉軍が朝鮮の街(城と市街地が一体の)を落とした時、中の人間は兵士だろうとパンピーだろうとわけ隔てなく殺したのですが……。
ちなみに、指揮した武将がキリシタン大名だろうとそうでない大名だろうと同じようなものだったそうです。
192 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :03/01/22 16:31
大体、諸大名は朝鮮征伐なんてやる気無いです。
軍目付けの黒田如水と浅野長政はあほらしくて碁ばかりうっているというので
召還されて蟄居させられてるし、元薬屋で朝鮮や明の事情を知っている小西行長は
なんとか和睦して引き上げることばかり考えてるし。
軍の矢面に立てば、武士の意地で奮戦しますがね。
193 :
世界@名無史さん:03/01/22 17:25
小西行長は、当初は主戦論だったような気が。
194 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :03/01/22 17:29
ボケ老人に逆らってもしかたがないと思ってたんじゃないですか?
あやしげな和睦書が残ってますよ。
195 :
世界@名無史さん:03/01/22 17:33
もし朝鮮出兵がなかったら、明はその後も長い間命脈を保てた。
こうなると満州人の出る間がなくなり、(年月から言って必然的に王朝交代が起こるとして)次代の中国王朝も漢民族のものになるかもしれない。
そうすればチベットや東トルキスタンといった諸国は中華に組み込まれず、あっさりとロシアやイギリスに併合されてたかもしれない。
196 :
世界@名無史さん:03/01/22 17:51
>>189 >3、補給線を考えていなかった(ズタズタにされ、餓えに苦しんだ)。
>5、海戦面での改革を行わなかった。
>6、情報不足の中で相手を甘くみていた。
うーむ、この時もやっていたのですねw
197 :
世界@名無史さん:03/01/22 19:04
>>196 何しろ外征自体が史上二度目。慣れてないにも程がある。
198 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/22 19:06
>189
通訳は要らん、我が国のイロハを教えよ。by豊臣秀吉
>191
最初のころは町や村に人が帰って来るようにしていましたが、後期の話ですか。
>196
学習能力が・・・もっとも秀吉は作戦のアテが外れて言い訳をしていた三成に
対し「ならば敵に言うが良い、『こう動くと思うておったのだからこう動け』
とな。」と説教をしていたそうですからまだ考えてはいたようですが。
やはり指揮をとらずにぼけていったせいか。
つーかさ、補給を軽視してたんじゃなく兵站上手の豊臣家でさえあれが精一杯だったんだよ。
補給線てのは設定するだけでも死ぬほどコストがかかるんだよ。
渡海侵攻ってのはムズいんだって。
200 :
世界@名無史さん:03/01/22 19:41
しかしまあ装備では,優れていた日本兵が天竺まで侵略できなかったのは,
残念の極だと言ってみるテスト。
201 :
世界@名無史さん:03/01/22 20:01
伊達家はずいぶん海外進出に熱心だったのか
スペインから軍艦購入してる
また徳川家康もオランダ人ヤン=ヨーステンや
イギリス人ウィリアム=アダムスを外交顧問に迎えて海外貿易に熱心だった
でも海外貿易は幕府が独占しちまったからなあ
202 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :03/01/22 20:11
伊達家には変な噂がありますよ。カトリックを利用して幕府の乗っ取りを
企んでいたのではないかという。
伊達政宗の娘婿だった、家康の六男の忠輝は改易されて生涯あちこちに預けられて
生涯を終わっています。別に悪いことはしていないはずなんですが。
カトリックをどう使えば幕府を乗っ取れるんだか。
伊達が怖がられてたのは戦国武闘派最後の大物だったからだろ。
あと、松平忠輝は殺人癖があったから疎んじられてたんよ。
権現の子じゃなかったらとっくに腹切らされてたって。
204 :
世界@名無史さん:03/01/22 20:27
ああ、その伊達正宗なんだけど
購入した軍艦で1613年にスペインに支倉常長率いる施設団を派遣してる
もう江戸幕府できたあとにね
しかも帰ってきたときには幽閉されると言う悲惨な末路をたどった
支倉施設団は海路メキシコに向かってパナマ地峡を渡って
船に乗り換えヨーロッパ入りしたらしい
そのときメキシコで支倉施設団は日本のワラジの作り方を広めて
彼の地ではサンダルのことをワラッチと言うらしい
スペイン語には無いメキシコ独自の言葉
>>204 スペインには「ハポン」姓という、支倉遣欧使節団の子孫の方々がいるそうですね。
>>187 体格って、そんなに差があったの?
戦況まで決定するほどの要素とは思わないが。
207 :
世界@名無史さん:03/01/22 21:15
つーか、明や朝鮮の大砲って海戦以外で何かやったか?
208 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/22 21:21
>202
死んだのが1683年で享年は92歳。長い幽閉生活でしたね。
>204
その際支倉一行はスペイン王女とも会っていますが、彼女が「三銃士」に出
て来る「王妃」になったそうです。
>206
戦況云々を言うと少し大袈裟ですが。組み打ちに持ち込んだ際に二人がかり
で無いと自称「豪の者」でも歯が立たなかったという話がありました。
209 :
世界@名無史さん:03/01/22 21:22
体格で決まるなら、ガリア人にローマ人は勝てない
210 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/22 21:27
>207
「倭奴の鳥銃に対し、我らには大砲がある。」と明の将軍が豪語した話は有
名です。更に日本側は震天雷を恐れた。
211 :
世界@名無史さん:03/01/22 21:34
支倉一行はローマ法王にも会ってます。
一方スペイン娘にハァハァ言って離隊し、スペインに居座った人
達の末裔がハポンさんですね。
コリア・デル・ソルという町にハポンさん1000人くらいいます。
1996年にはミス・スペインを出してます。
212 :
世界@名無史さん:03/01/22 21:36
>>210 将軍が豪語したことと実際に戦場で効果を発揮することとは違う。
震天雷が恐れられていたことと戦術的に効果があったこととは違う。
震天雷のせいで日本軍が総崩れになったような事例があったかな?
技術的に未熟な後装砲と信頼性の低い信管のせいで
実戦ではほとんど使われなかったはずだが。
213 :
世界@名無史さん:03/01/22 21:36
コリア・デル・リオですね。失礼。
214 :
世界@名無史さん:03/01/22 21:36
体格の差って個人差だろ。
215 :
世界@名無史さん:03/01/22 21:39
>>205 その人達テレビ見た。
見た目は普通の西洋人だった。あたりまえか。
217 :
世界@名無史さん:03/01/22 21:43
>>210 その話には後日談があって、
「日本の鳥銃は精度と射程と威力で明のものよりはるかに勝る」と言って
日本の火縄銃の複製が進言されているんだが。
218 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/22 21:50
>212
えらくむきになっておいでですね。私はどちらに味方するわけでもあ
りませんが・・・。とりあえず城外から撃った弾が城壁を越えて日本
軍の陣地で炸裂したことからかなりの心理的効果があったと考えられ
ます。事実慶尚道で使用された時には1日で福島正則が城を捨てて撤
退していました。防御の際には日本側の射撃台を破壊した。
碧蹄館の戦いの直後の漢城攻防戦の時にも活躍しました。日本軍3万
に対し、朝鮮軍は1万だった。
219 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/22 21:54
こう書くと日本側が不利であったようですが、勿論そうではありません
でした。碧蹄館の戦いは有名ですが、その後冷静になった明軍は「敵衆
我寡」のうえ日本の使用する鳥銃は強力で思っていたよりも強かった事
、日本側が何もかも焼き払っていったので食料不足と寒さに苦しんでい
る事を認識。和議を望むようになっています。
>217
ということで。別にその話を知らなかったわけでは。
220 :
世界@名無史さん:03/01/22 21:55
それ食料がなくて篭城できなかったからじゃなかったっけ?
>>218 それは震天雷のせいで撤退した訳じゃなかった筈だが?
実際のところ、明軍が大砲等の火力装備を充実させるのは慶長役の後になるんだが。
文禄慶長では主に満州方面に配備され、朝鮮ではほんの少数が使用されるにとどまっている。
223 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:02
>>209 なら何で日本の浪人は海外で傭兵として重宝されたんだ?
山田長政に代表される日本の傭兵連中は
オランダ、スペイン、イギリスと引っ張りだこだったよな
224 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/22 22:04
>221
確かに震天雷だけが原因では無かったでしょう。上記の話は1592年
9月8日〜9日のことですが、ちょうど義兵と水軍に手を焼き始めた時
期で同じころ小早川他も一部地域から撤退しています。
ただ未知のものに対する精神的効果は馬鹿にならなかったのでは無いかと。
225 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:07
>225
推測といえばそうですが、何かしら影響を与えるものにはなりえたで
しょう。
227 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:14
>碧蹄館の戦いの直後の漢城攻防戦の時にも活躍しました。日本軍3万
>に対し、朝鮮軍は1万だった。
「カンジョウ攻防戦?」
そんな戦いはなかったはずだが。
日本側で言う川下の戦い、あちらでいう「幸州山城」の戦いではないか。
あれは、日本側が山城を攻めたもので、攻めあぐんだのは地形の関係。
最近読んだ池波正太郎の「剣の天地」にどっかの戦にはその時世界に存在する
銃の1/3(1/4かな?)が集まったと書いてあったな。
中世ヨーロッパでは大砲が心理的な威力を発揮したのは
農民反乱のような訓練未熟なアマチュアの徴集兵に対する時に限られていた。
ローゼベーゲでヘントの反乱軍の砲列がフランス軍の隊列を破壊できなかったように、
初期の短射程で発射速度は低い大砲の砲撃だけでプロの兵士を心理的に破壊することは
まず考えにくい。
>227
失礼、今読み直したら間違いでした。日本軍が攻めあぐねて漢城に撤退した
のでごっちゃになっていたようです。
大砲の真理的効果は最初だけだろうな。
勿論効果がないとは思わないが、費用対効果を考えると、
小銃を何十本も作った方が殺傷力があってよい。
232 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:20
>>212 コルテスの事例もそうだけど、噂が士気に及ぼす影響というのはあると思われ
233 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:21
つーか、日本軍の最大の敗因は豊臣秀吉が死んだことだろ。
太閤がやっと死んでくれたから、日本軍は「こんなところで死にたくね」って
撤退していったんじゃないの?
234 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:23
>234
予言の話とか、馬と一体化しているものとして見られたという事じゃ
ありませんか。もっとも朝鮮で恐れられたのはお互いさまであったよ
うですが。島津を中心に妖怪みたいなイメージが定着したそう。
236 :
水 ◆rDhngbng2E :03/01/22 22:26
>>232 コルテスの場合は噂は大したことなかったぞ。
あれはモクテスマ・ショコヨツィンが攻撃禁止令を出しただけだ。
>>231 確かにそうだな。アステカ人も大砲は怖がらなかったしな。
>>233 おれもそう思う。
237 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:28
大砲が野戦で威力を発揮した例はあまり無く
不期遭遇戦ではほとんど無いと思う。(中世以前)
ヨーロッパでは前車の開発以前は、攻城戦の現場で鋳造したほどであり
秀吉の慶長文禄役ごろに、野戦で威力を発揮したとは思えない。
238 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:28
朝鮮側が戦後に書いた記録を信用しすぎるのもどうか。
シンテンライなどの効果もその確証が得たかっただけで誇大に
伝えられている気もする。効果が全くなかったとは言わないが。
なぜなら、慶長の役に至って日本の築いた主要な城が大砲で
陥落したという事実が皆無だからだ。
蔚山(2度)、泗川、順天。
もし、大砲でアウトレンジできたなら明鮮側はあれらのような
無様な敗走はしていないはずだが。
239 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:28
「海を渡ってきた白い肌の人たちは神々が我らを滅ぼす為に使わした使徒だ」という伝説を利用しました。
240 :
水 ◆rDhngbng2E :03/01/22 22:30
大砲が対人で効力を発揮するのは相手が密集陣形を敷いてるときくらいだろ。
現代戦はそれで散開戦術を取るようになったしな。
241 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:30
242 :
水 ◆rDhngbng2E :03/01/22 22:31
>>239 ってかあれ信じてたのモクテスマくらいじゃないのか?
アステカ人はスペイン人殺したくてしょうがなかったんだぞ。
243 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:32
少なくとも「震天雷はスゲえ」って噂で日本軍が撤退した事例はないのだが(苦笑
ここアステカスレじゃなかったな。すまん。
245 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:32
古い日本の城の石垣(桃山期)のものを間近で見ると
変哲のないものにしてもなかなか雄大で、
当時の実体弾で破壊するには気の遠くなる
弾薬が必要と思われる。
城内に打ち込んで人員の殺傷心理効果は得られるかもしれないが、
命中率を考えると、決定力になるとは想像できないのだが・・・
246 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:32
247 :
水 ◆rDhngbng2E :03/01/22 22:33
ああ、そうなのか。
でもスペイン方陣が失墜したのは大砲のせいだったよな。
248 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:35
つーか、攻城戦における大砲の主な任務は場内に撃ち込んで敵兵を怯えさせることじゃなくて
城壁を破壊して突破口を開くことだが。
日本の城塞の石垣は攻城砲に対してはイタリア式要塞よりも強靱なのだが。
蔚山(一発変換出来た)攻めは一回目の明軍の損害が1400人、負傷
者3000人。2回目はこれよりも護りが固く、誘いをかけても相手に
されなかったので空しく引き上げざるを得なかった。
確かに城攻めに活用されたとは言いがたいようですね。利用されたとい
う話自体がほとんど出て来ませんが、火薬が間に合わなかったのかそれ
とも結局防御戦以外ではあまり重要視されなかったのか。(後者か?)
250 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:37
>>247 テルシオが衰退したのは重騎兵が消滅したから。
おかげで槍兵の比率が高いテルシオの戦術的価値が低下し、
銃兵の比率が増加する。
251 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:38
>>247 オランダ式の教練により、小銃発射速度が向上したことと
歩兵陣形の軽量化、グスタフ君の3兵戦術でテルシオが旧式化したため
>>249 だーかーらー、数が少ない上に信頼性の低い後装砲だったからだってw
>252
やはり強調されていたほどの威力は無かったということで。
254 :
水 ◆rDhngbng2E :03/01/22 22:40
>>247 そんな理由だったのか。かなり覚え間違えしてた。
思い出したが、銃兵をローラーシフトさせながら前進させる戦術
が大砲にやられ始めたとかだったか。
255 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:40
昔は三兵戦術はナポレオンくんの専売特許だったが
最近ではグスタフくんのおかげってことになってるのか。
しかしグスタフくんの戦術は歩兵第一主義だよ。
256 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:42
>>249 明側の損害1400の出典を教えて欲しいのですが。
>256
ちょっと多過ぎる気もしますが、「再造藩邦誌」巻二にあるそうです。
直接引いたのは(早い話が孫引き)「織豊政権と東アジア」(六興出
版)。
258 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:48
259 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:51
ところで、なんで半島南部に日本式城郭が
そのまま残ってるんだろう?
何で破壊しなかったのかが分からん。
>>259 破壊する必要が無い
そのまま対日防衛に流用出来る。
261 :
水 ◆rDhngbng2E :03/01/22 22:57
>>259 日本が引いた鉄道を破壊しなかったのと同じだな。
利用価値があるから破壊できないんだ。
破壊するのもただじゃないしな。
262 :
世界@名無史さん:03/01/22 22:59
>>257 朝鮮側の書いたものは自軍の損害を少な目に報告していますね。
戦果は過大に。
どこもそうかもしれませんが。
日本側の伝えるものとの差が大きすぎます。
>262
それだけに1500人やられたとかいうのが気になりました。
第2次世界大戦の日本軍とアメリカ軍の航空戦だが
どちらも戦果を4倍以上に見積もってたらしい。
どこでもいっしょ。
265 :
世界@名無史さん:03/01/22 23:14
>>260ー261
レスサンクス。
日本式城郭って大砲に弱い感じがするが。
構造物も高いしな。
ヌルハチの後継者に備えて北辺に移すのは・・・ムリか。
日本式城郭は大砲に強いんだよ
267 :
世界@名無史さん:03/01/22 23:39
>>266 日本式でも、西と東では石垣の使用で違うし
戦国前期、後期でもかなり違う
日本式城郭のどのような部分が、どのように強いのかレスキボン
ヴォーバンが憤死するな
…とっくに死んでいるか
271 :
世界@名無史さん:03/01/23 00:07
>>268 なんかデムパなこと言ってるが五稜郭の増築は1857年幕末だ
設計したのは蘭学者の武田斐三郎
オランダの城塞をモデルにつくられた
あ、漏れもデムパだ
○造築
×増築
>>271 おおそうか。デムパスマソ。
>>266が日本の城郭が大砲に強いとかいうから、五稜郭のことかと思った。
しかし、五稜郭はもう幕末の時点では旧式化していて
函館政府軍は五稜郭には立てこもらなかった
まあなんせルネサンス期の城塞をモデルにしたんだからな
上部構造物は大砲で破壊可能だが、石垣や土塁は当時の大砲では
破壊困難。従って、防御力を完全に失う事はない。
以下に参考例を上げとく。
大阪冬の陣では惣郭の櫓は殆ど破壊されている。勿論、下部土塁は
健在
幕末戊辰戦争の際、会津若松城天守閣は砲撃のより損傷したが、破壊
されてはいない。
276 :
「ど」の字:03/01/23 00:17
日本式城塞は、大砲の曲射が主流になる以前のものですからね。
江戸城と江戸は、家康なりに大砲への防衛を考えています。街道は渦を巻いていますし。
江戸は、人の結界なんです……。
行政の中核があるから人が集まり、こんどはその人自体が都市防衛力と防衛価値となる……。
日本式アプローチによって成った都市工学の粋です。
277 :
水 ◆rDhngbng2E :03/01/23 00:21
>>274 そうだったのか。無知+デムパスマソ。
278 :
世界@名無史さん:03/01/23 00:22
>>271 レス違いだが武田斐三郎は大阪の適塾で緒方洪庵に師事して学び
ペリーの通訳をやった人物だね
ついでに、幕末戊辰戦争の際、新政府軍は会津若松城追手門の門扉を、
砲撃で破壊しようとしたが、日本式の馬出し構造は門扉が死角に成る様に
なっていて破壊できなかった。
280 :
世界@名無史さん:03/01/23 01:07
ところで、
>>187 >体格・大砲などの面で不利だった。
大砲はともかく「体格」ってのはかなりデムパが入ってません?
そんな学者がいたとしたら???と思うしかありませんが、誰が言ったのか・・・
そもそも、そんなに体格に差があったのか?
現代の若者の体格を日本と中国で比較すると
日本の若者のほうが背が高いんだが。
282 :
日本史板住人A:03/01/23 02:52
>>283 別にいいんじゃねーの?
世界史板のやつの話を聞きたかったんだろ?
わざわざ日本史板から出張とはごくろーなこった。
287 :
世界@名無史さん:03/01/23 11:29
スレ自体が煽りっぽいですね。
288 :
世界@名無史さん:03/01/23 11:52
>>281 中国は今でも北と南で大違い。
差が20cm以上ある。
日本だと新潟と沖縄で8cmかそこらじゃないかな。
289 :
世界@名無史さん:03/01/23 12:27
ヽ \
./ \ \ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧/  ̄ < 石山本願寺だゴルラァ!!
( ´Д`) i i i \______
/ ヽ _ i i i--、
./| | | |  ̄ ̄ ̄ |:::::|.
/ \ヽ/| | ノ__ノ..
/ \\| |
/ /⌒\ し(メ .i i i . .
/ / > ) \ ノノノ
/ / / / .\_ ザックザック
し' (_つ /:::::/::... /ヽ
; "ノ・ ./∴: / )i iヽ-、_へ ,ヘ
'',, : :―― / / i i i iヽ . ̄ ゙― ノ /
n_ _/; i .ノ / /ノ-' ̄ ゙ ― 、__ノ
_ノ 二二二、_( _Д_ ;)-ヽ_ノ-'>仏敵信長
290 :
世界@名無史さん:03/01/23 13:24
一向宗(浄土真宗)の思想ってキリスト教の教えに近い気がする
人は皆あ生まれながらにして悪人であり
阿弥陀仏の本願の慈悲によってのみ救われる(云々
石山戦争に勝利してたらかなりおもしろい事になってたかも
ついでに現在の西本願寺は日本共産党と強いパイプがあります
291 :
世界@名無史さん:03/01/23 13:31
ヽ \
./ \ \ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧/  ̄ < スペイン帝国主義からマニラ解放だゴルラァ!!
( ´Д`) i i i \______
/ ヽ _ i i i--、
./| | | |  ̄ ̄ ̄ |:::::|.
/ \ヽ/| | ノ__ノ..
/ \\| |
/ /⌒\ し(メ .i i i . .
/ / > ) \ ノノノ
/ / / / .\_ ザックザック
し' (_つ /:::::/::... /ヽ
; "ノ・ ./∴: / )i iヽ-、_へ ,ヘ
'',, : :―― / / i i i iヽ . ̄ ゙― ノ /
n_ _/; i .ノ / /ノ-' ̄ ゙ ― 、__ノ
_ノ 二二二、_( _Д_ ;)-ヽ_ノ-'>マニラ総督
292 :
世界@名無史さん:03/01/23 14:00
293 :
世界@名無史さん:03/01/23 15:02
>>288 それは極端な抜き出しサンプルで、
平均するとそんなに違わないでしょ(w
北が大きいのは認めるにしても。
294 :
世界@名無史さん:03/01/23 15:26
海外旅行板とか見ると、北・上海・南と下るにつれ
どんどん低くなるとかいう話が多いね。
>>288 ちなみに私は沖縄小僧だが今から10年位前で平均168ちょっとだったぞ。
新潟の人間は、平均176もあるのか?
ちなみに世界で一番平均身長が高い国は、オランダ180、スエーデン178
とかだと思うが、それ並みの大きさになるぞ。
ちなみに私は、公称165だ。悪いか。
297 :
世界@名無史さん:03/01/23 17:46
鉄砲はインドのゴアで作っていたそうだけど どのくらいの数ですか
ゴアの人口は 何人ぐらいでしたか
>>295を見ると
現代日本人の平均身長は現代中国人の平均身長よりやや高い。
中国北方地域よりやや低い。この位の差なら戦闘に影響はなさそうだが。
身長というのは時代によって変化しているので、日本人の時代別データ
縄文時代 156p
弥生時代初期 156p
弥生時代末期 160.5p
古墳時代 160.5p
14世紀 157p
16世紀 157p
18世紀 155.5p
1901年 157cm(一説では155cm)
と、まあ、現代より小さかった訳だが、ヨーロッパにおいても当時は、
現代より遥に小さかった。
オランダ 1865年男子165.0(19歳) → 1975年180.1(18歳)
1965年177.4(18歳)
スウェーデン 1840年165.0(21歳) → 1974年178.4(17歳)
1961年177.0(18歳)
デンマーク 1852/56年165.4(22歳) → 1966年177.5(19歳)
ノルウェー 1855年168.6(22歳) → 1960年179.3(18歳)
てな訳で、おそらく世界的に現代人は大型化してるといえそうだな。
中国人、朝鮮人も当時は現代より小さかったと考えられる。
したがって、『体格の面で不利だった』というのは無かったと見て良いだろう。
ソース
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/5215/sintyou.htm
299 :
世界@名無史さん:03/01/23 20:47
フランシスコ・ザビエルは、戦国当時の日本人の身長について、
「日本人はイタリア人と背の高さは同じくらいである」
と述べている。(ザビエルの書簡)
当時の日本人は今より低かったがイタリア人(西洋人)も低かった、ということでしょう。
ただ、南蛮屏風図を見るとポルトガル人らは大きく描かれているから、
高かったのは間違いないだろうが、相対的にはだいたい今と変わらないのではないか。
日本人と中国人の比較も似たようなものだろう。
300 :
世界@名無史さん:03/01/23 20:50
人間が小さかった昔は、もっと街や国、世界を広く感じたんだろうな。
301 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :03/01/23 21:21
私は身長155センチ足らずですが(同年代では標準寸法です)別に世界を
広く感じたりはしませんが。
もっとも、身長1メートルくらいの時は世界も庭も広かった。
302 :
世界@名無史さん:03/01/23 21:31
北方の中国人が背が高いのは遊牧民の血が濃厚に影響してるんじゃ?
特にツングース系諸民族は手足長いやつ多いらしいし。
304 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :03/01/23 21:39
>>302 身長の10センチや20センチの差では世界観変わらないってことです。
戦力としては筋肉量がものをいうし。
305 :
世界@名無史さん:03/01/23 22:48
>>34 それってコルドバ戦術だろ。コルドバ伯ゴンサロがチェリニョーラの戦いで使ったやつ。
信長は宣教師からこの知識を得た可能性が大いにある。
>>59 アキノ元大統領は実は日本人の子孫かもという話が。
アキノという姓はスペイン系でも現地系でもないらしい。
306 :
世界@名無史さん:03/01/23 22:58
307 :
これがネオ歴史だ!:03/01/23 23:10
信長、秀吉の時代には経済が爆発的に成長し、
それと同時に人口も爆発的に増えたと言われている。
これの要因の一つには労働市場への移民者の急速な増加があったと思われる。
そうだとして秀吉の時代になって天下統一事業が終了したとなると、
今度は労働者がだぶつきだしたはず。それでも朝鮮より日本の方が遙かに
経済的に豊だったのだから、低賃金の移民者が止まらない状況になったとしたら。
秀吉の天下統一事業に貢献した労働者達が職にあぶれだし反秀吉感情を持つに
到るはず。よって、彼は先手を打って朝鮮出兵という朝鮮を日本化して
日本と同様に経済的に発展させ、新たな移民者をとめる事業を進めた。
ところがこの政策は、朝鮮の強い抵抗にあって中途半端に終わり。
逆に移民者を増加させてしまった。
こういう状況になってくると、今度は逆に国内での戦争欲求、
つまり短期ベースでの公共事業の拡大要求が急速に生まれるはず。
そういう中で、徳川家が躍進し、再び関ヶ原に到るまでの国内争乱状態になった。
家康は秀吉の失敗を犯さないように、江戸という遠隔地に新たな都市を造る
新規土木事業とそれに伴う国替えなどによる他大名の資金による地方の活性化事業と
幕府防衛事業及び土木事業を合理的に行い江戸400年の基礎を固めた。
それが終了したあとに、最終的には鎖国政策で朝鮮からの移民の流入を止め。
経済問題の混乱に早めに終止符を打ち、戦争欲求が高まりにくいようにした。
鎖国政策はキリシタンの問題もあっただろうが、移民を止めたという側面が大きい。
島原の乱はキリシタン弾圧に名を借りた最後のガス抜き事業ともいえる。。
もし信長が死ななければ、秀吉のような解決方法は取っていない。 。
よって、鎖国には到らず。。インドでイギリス海軍と戦闘に到ったと思われる(笑)
記憶が曖昧でスマソが、明末だか、清初だったか?の記録で、
中国に来航したオランダ人を見て我国(中国)人の2倍の身長
があると記してあった。
勿論、2倍というのは誇張だが、当時の中国人がオランダ人より
かなり小さかったと云えるだろう。
それに対して日本の士大夫は威風堂々としていた。
チャンコロや賎人などとは比べるも無い。
燦然と輝く日本の歴史に死角は無い!
日本を悪くいう奴は在日の仕業か工作員!
>>305 どうでしょうか?
チェリニョーラ戦の9年後にラヴェンナ戦があり、
しかも当時はまだスイス槍兵戦術が猛威を振るってました。
チェリニョーラ戦の時点ではまだ野戦築城の優位性が
完全には立証されてなかったと思いますが。
311 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/01/23 23:44
身長は、気候的な事もあるでしょうが、栄養的な面も大きく影響します。
以前新聞記事で読んだのですが、乳児期の栄養摂取量で身長がある程度
左右されるそうです。
平均身長の変化は、徴兵検査記録があるので詳しくわかりますね。
明治期には156pほどで、これが昭和初期になると160cm位まで伸びます。
ですが、明治期でも当時の大学生に限れば、170pあったという統計資料を
見た事があります。
イギリスなどでは身長で階級がわかるなどといいますが、日本も昔はそう
だったんでしょうかね。
あと、体がデカイからといって世界が狭く感じたりはしませんが、
とりあえず部屋は狭く感じます。
私は190pありますけど、色んなところに頭をぶつけるし…。
同士だ、俺の場合も家古くて天井自体低いから、寝ぼけてると彼方此方に頭をぶつける。
313 :
世界@名無史さん:03/01/24 01:18
多分「体格」うんぬんを言いたがるのは韓国の人ではないでしょか(w
あの人たちが日本人に対して優越意識を抱く実証性のある事実は、
「自分たちのほうが背が高い」
という一点のみ(w
文禄慶長の役に関して朝鮮人が「自分らのほうが体力があるから相撲を取ったら
日本人に勝つ。しかし集団になると負ける」と記録しています(カンヨウロク)
これなど、幼き今上天皇が戦後、
「日本人は個人能力では優れていたが、集団力で米国に負けた」
と語られたのと同じで、劣性にあるものが言いたがる方便としか聞こえないのですが、
いかがでしょう。
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>自分らのほうが体力があるから相撲を取ったら日本人に勝つ
主観バリバリだねw思い込みというか。
日本を実質上防いだのは明軍だモンな。古代からこのパターンでは?
単独では日本に勝てないから大陸勢力に頼るみたいに。
倭人勢力は南鮮を支配していたのに唐との連合軍に半島を追い出されたし。
近代に至ってその宗主国の清まで破ると、もはや日本を止める勢力はなく簡単に朝鮮を領有してしまう。
この時も明の勢力が無かったら朝鮮征服ぐらいは楽だったろうね。
ただ秀吉の戦略目標の明征服まではできたかな?何しろ明がまだピンピンしてる頃だし。
さすがに天竺は遠過ぎると思うがw
317 :
世界@名無史さん:03/01/24 12:11
このスレを読んでいると、
西南戦争で、熊本城が失火(工作員の仕業?)により全焼?したのに、
焼失後やってきた西郷軍を防ぎきったのが何故かが分かるような気がします。
堀と石垣だけでも結構強固なんですね。
318 :
世界@名無史さん:03/01/24 16:29
>>310 そういう戦い方はずいぶん昔に楠正成が
足利尊氏と千早で戦った時やってたりする
319 :
世界@名無史さん:03/01/24 16:34
伝統的に日本には戦の時陣地を構築する文化があった
それに薬研堀みたいな技術は昔からあったし
そういう戦い方って信長みたいな陣地構築戦法のことでし
べつにヨーロッパから輸入したと言うより中国からだと思うけど
321 :
世界@名無史さん:03/01/24 16:39
>>317 天主は望楼と倉庫の役割。防御は土塁、堀、石垣、防柵(築地)などの
構造物が本来の役割だから、天主焼失は関係ない。
小田原城など天主は小さくないも同然だが、戦国最強の防塞と言われている。
322 :
世界@名無史さん:03/01/24 17:02
>>321 関係ないけど、大阪冬の陣じゃ家康が南蛮から輸入した
カルバリン砲で大阪城天守閣に2、3発着弾させたら
淀がびびって停戦交渉を申し出たがありゃ完全な愚策だった
あのまま戦ってれば徳川方は食料尽きてかなり不利な状況に
追い込まれただろうに
結果外堀、内堀埋められて豊臣家アボーン
つうかなんであんた天守閣に居たんだと突っ込んでみるテスト
323 :
世界@名無史さん:03/01/24 18:38
>>318 あれ,千早の時の相手は足利尊氏だったっけ?
324 :
世界@名無史さん:03/01/24 18:46
>>323 一応尊氏が総大将でしたが、
尊氏軍はほとんどたかみの見物だったといわれていますね。
by『太平記』
>>324 すみません。私の間違いでした。
尊氏って京につくなり後醍醐天皇側に寝返った印象が強かったので。
それ以前にも京と鎌倉を行ったり来たりしてるんですね。
つーか、私に言われても困るんですが
日本の城郭については、既出の話題ですので、簡単に整理しておきます。
戦国末期から発達した近世の築城は、掘と石垣を特徴とし、西欧の築城
技術の影響を受けています。
15世紀からの大砲の発達により、当時の西欧の築城技術は高い城壁を
もつものから、比較的低く、砲撃に対する防御力を持つ土塁を石で覆った
分厚い城壁を持つものに変化していましたので、日本近世の築城におい
ても、この影響を受けています。
つまり、我々が今日見るような日本の近世の城郭は最初から砲撃への耐
性を持ったものでした。
また、城の主たる防御構造は掘と石垣であり、外見上目に付く天守閣や
櫓は単なる望楼や倉庫として機能する付随的なものにすぎません。
築城を行う場合も掘や石垣の土木工事は軍事行動の一環として武士自ら
が参加したのに対して、建築工事は大工のみが行ったくらいです。
石垣はヨーロッパの築城技術とは無関係でしょう。
石垣で被覆したのは単なる品質管理の一環ですよ。
330 :
世界@名無史さん:03/01/24 23:36
>>328 皇居に行けばわかるが、大砲に対応した築城じゃないぞ
櫓は高いし、堀は直角で鉄製砲弾に脆そう
石垣は、土に比べ鉄製砲弾で守備兵に危害を与える
高さを稼ぎ小銃で狙撃するには良いがね
天守や櫓は射撃の目標となり、焼き玉に脆い
でも砲弾で破壊された日本の城塞はないんだよね。
332 :
世界@名無史さん:03/01/25 00:14
333 :
世界@名無史さん:03/01/25 00:34
大坂城>大坂の陣
小倉城>第二次長州戦争
会津若松城>戊辰戦争
熊本城>西南戦争
位かな。
日本式城郭が大砲によって攻撃されたのは。
ヨーロッパは万年戦国時代だったので、日本のようにたかが100年くらいの短期間の
戦争状態は何とも思われてないのでは?
335 :
世界@名無史さん:03/01/25 00:39
>>333 ヨーロッパ式に、ジグザクに塹壕を掘り進み前進し
ぎりぎりまで砲兵陣地を前進させ、集中砲撃で攻撃路を開けた例は無いでしょ
336 :
世界@名無史さん:03/01/25 00:44
19世紀に狂王ルードビッヒが造らせたノイシュバインシュタイン城
ってなんかデザインが日本の城を思わせるのですが気のせいでしょうか?
とくに石垣の造りが
あと日本一城造りの旨い大名は熊本の加藤清正って言うのが定説です
朝鮮遠征では槍で虎退治したとか言ういつわがあります
島原の原城も砲撃では破壊されんかったね。
つーか、石垣相手に砲撃で突入路を開くことが困難だったことが、
大砲が火縄銃ほど普及せず、ヨーロッパ式の攻撃築城が行われなかった
理由だと思うんだが
339 :
世界@名無史さん:03/01/25 00:52
>>335 それを言ってしまうと、欧州でもそんなにないのでは>大砲対城郭
そもそも、ルイ14世が死去する頃には、
城郭自体無用の長物化していくのだが。
340 :
世界@名無史さん:03/01/25 00:54
>337
オランダ艦隊の援護射撃もあったのにね
最後は俵糧攻めでTHE END
>>339 いや、近世以降の欧州の攻城戦で攻城砲が使われなかったことはほとんどない
342 :
世界@名無史さん:03/01/25 01:05
やっぱ攻城戦はトンネル工作だろ、大阪冬の陣で結局大阪方が停戦を
求めた決定的な要因も家康が甲府金山の鉱夫衆雇って城内に進入する
地下道掘らせたからだし
トンネル工作はオスマン=トルコ砲兵隊の得意業だったな
ロードス島の攻防戦でもその威力は実証済み
日本の山あり谷ありの地形では大砲なんてお荷物なのでは
少なくとも制海権取ってないと辛い
この間のNHKで高橋克彦が出てた番組
水掘りにもみ殻撒いて、空掘りと誤認させる戦術を紹介してたな
何でも平安末期以来の戦術だとさ
水堀には坑道作戦は通用しませんが何か?
>343
日本では大型投石機も使用されてませんね。
日本の地形はあまり関係ないのでは?
346 :
世界@名無史さん:03/01/25 01:19
>>344 確かに水圧で鉱道が潰れちまうか
しかし、なんかねーの決定的な攻略法、やっぱ俵糧攻めか
347 :
世界@名無史さん:03/01/25 01:43
パリ=コミューン鎮圧するときパリの外壁に
向けてしこたま砲撃したような気がするが
>>344 >>346 大阪冬の陣では実際に坑道作戦をやったんだが。
その時、どこから坑道を掘ったか俺は知らんが、
参考に上げると、惣郭南面は空掘だぞ。
所で、西洋の稜保式要塞って砲撃で崩壊するのか?
日本は変わる世界史も変わる
今こそネオ歴史の揺籃期だ!
>>348 だから?
水堀の下に坑道なんて掘れないのだが。
あげる
354 :
世界@名無史さん:03/01/25 11:24
355 :
世界@名無史さん:03/01/25 11:28
356 :
世界@名無史さん:03/01/25 11:38
>>354 水堀には坑道作戦が通用しないって話してるのに
「大阪城には空堀がありました」なんて言われてもねえ(苦笑
日本の戦国時代が世界史で特筆されないのはナンセンス。
お前らいい加減に発想を転換し再構築しろ。
ちなみに戦国ヲタではないので。
>>354 誰も大阪城の話なんてしてないんですが?
359 :
世界@名無史さん:03/01/25 11:43
空堀でも坑道戦の障害に十分なるぞ
大阪城の空堀の話がしたいの?
>空堀でも坑道戦の障害に十分なるぞ
そうなの? ロードス島も空掘つくりまくっておけばよかったのかな?
つーか、坑道作戦は城内に突入部隊を直接送り込むためじゃなくて
城壁の基礎を破壊して崩すのが目的なのだな
水堀の下に坑道を掘ろうとしても水圧以前に
排水作業の問題で掘ることすら出来ないのだな
確かに空堀があればそれだけ坑道を深く掘らなきゃいけないが
障害度では水堀のほうが比較にならんほど大きいのだが
坑道を城壁のしたまで掘り進め、坑道内の支柱を焼き払えば城壁崩壊
対抗策は、振動を水の入った壷などで察知し(子供が良い)
こちらからも坑道を掘る。
空堀が有効なのは、攻撃側がそれ以上の深さに掘る必要があるため。
最良の対抗策は水堀にしておくこと
堅固な地盤に城塞を築いておくこと
城壁周辺の高地を撤去しておくこと
大阪城付近で大規模坑道戦をやろうとしたら
あそこは川の合流地点だから、水が出てきて大騒ぎになるんじゃないかな?
掘ってる最中に水脈にぶち当たればその坑道は放棄するしかない
ちょっと雨が降れば作戦自体が頓挫する
土工作業は水との戦いだから坑道は確実性の高い作戦とは言えないのだな
空堀の障害度などそれほど大きくない
369 :
世界@名無史さん:03/01/25 13:13
大阪城のことを言えば、坑道を深く掘ると(空堀の影響で)、すぐに地下水が湧いて出るだろう。
地下水が湧くということは坑道堀が難作業ないし不可能になるということ。
今はシールド機械があるから簡単だが、それがないと現在の技術をもってしても至難。
ヨーロッパや大陸は地質が岩盤だから簡単に坑道が掘れる。
しかし日本ことに都市の栄えた地域では地盤は軟弱ですぐに水が出る。
坑道作戦も外国のようにはうまくいかないと思う。
370 :
世界@名無史さん:03/01/25 13:16
実は、大阪城のあたりが大阪で最も地盤のいい場所なんだ。
だから昔から城があった(石山本願寺)
坑道堀も他の土地に比べると良い条件であったかもしれない。
が、いずれにせよ大陸と比べると日本の地盤は軟弱。
371 :
世界@名無史さん:03/01/25 13:18
>370
しかし、坑道を掘るには大阪城内の外からの作業になるだろうから、
そこはやはりひどい地盤であろうから、坑道は失敗するのじゃないか。
5キロも10キロも離れた場所から掘る訳じゃない
373 :
世界@名無史さん:03/01/25 13:31
>372
具体的にはどのあたりから掘る事になるのですか?
374 :
世界@名無史さん:03/01/25 13:44
城の投射兵器の射程に入らないギリギリまで接近して掘ることになるでしょうねえ。
375 :
世界@名無史さん:03/01/25 13:49
日本が、自国で使う火薬や硝石を自分でまかなえるようになったのはいつごろですか?
376 :
世界@名無史さん:03/01/25 13:59
>>375 この問題よくわからないんだよね。
1.ほとんど輸入に頼った、(よって、海外貿易港を持たない東国は鉄砲を持っても無意味)(家康を関東に追いやったのはこの海外貿易による火薬輸入から少しでも遠ざけるため)という説と
2.ある程度は日本で生産した、という説がある。
変な言い方だが、「江戸時代になり」「戦乱がなくなり」「鎖国したので」
このころ自給できるようになったというのが正しいのかな。
377 :
世界@名無史さん:03/01/25 14:52
>374
手元に高校生の歴史地図があるのだが、これを見ると南側の
空堀といわれているのは道頓堀川あたりになる。
このあたりまでくると流石に地質も悪くなろうと思うのだが、
大阪城の小高い丘は南側から連続していたような気がするので、
もしかしたらこの辺は地質が良いのかもしれない。
堀から数百メートル離れたところから掘らなければならないが、
うまくいくかもしれない。
専門家にボーリングで判断してもらうしかあるまい。
378 :
世界@名無史さん:03/01/25 14:57
古来より糞尿を合理的に利用していた大和民族のことですから、
かなり早い段階からまずまず硝石を自給できるようになっていたのでは。
ソースのない思い込みなのだが。
火山国なので硫黄は、楽勝でしょう。
>>377 >手元に高校生の歴史地図があるのだが、これを見ると南側の
>空堀といわれているのは道頓堀川あたりになる。
全然、違う。
381 :
世界@名無史さん:03/01/25 19:44
>>333 >日本式城郭が大砲によって攻撃されたのは に”長岡城”を加えてください。
我が匈奴、長岡は、会津よりも長期間官軍に抵抗したのだが、
なんか妙にマイナーだな。
ちなみに長岡城は完全に破壊されたと思う。
382 :
世界@名無史さん:03/01/26 10:21
age
383 :
世界@名無史さん:03/01/26 13:02
>>380 今の道頓堀川は当時の城づくりと共に作られたものじゃなかったか?
外堀南側の位置がだいたい道頓堀川に沿ってあるという意味だよ。
四角四面に文章を読むのじゃなく、文意を読み取れ。
つーか、空堀になってたのは内堀の一部だろ
徳川方は内堀まで坑道を掘り進めてたのか?
>>384 確かに大坂城のいわゆる外堀(二の丸の外周)、内堀(本丸の外周)には水掘と空掘の両方が使用されていました。
ただし、大坂冬の陣で戦闘に使われたのはその外側、惣構えの堀です。これは、南だけです。北と東は河川で、西は海と内陸にいりこんだ運河で守られており、これが事実上の惣構えになります。
南だけは開放されていたので、空掘を掘ったのです。(なお、秀吉が死に臨んで、外堀と惣構えの間に三の丸を建設したという話がありますが、はっきり確認されていません)
この空掘だけだと、やや防御しにくいと思ったのでしょう。この空掘りの外に隣接して「真田丸」が建設されています。
坑道戦術はどうも、この真田丸か、惣構えの空掘りに対して掘り進められたようですが、実際には使用されておらず、宣伝が主たる任務だったのではないでしょうか?
386 :
世界@名無史さん:03/01/26 15:26
387 :
世界@名無史さん:03/01/26 15:47
戦争ばっかりしていれば優等生になる。
西洋は戦争ばっかりしていた。
ステイツシステムってやつ。
388 :
世界@名無史さん:03/01/26 15:54
軍隊は全てが戦闘員だったわけではく、補給員がいた。
桶狭間のときの今川家は8割が非戦闘員。
4万人動員だから戦闘員は8千人。
信長は勝つべくして勝った。
朝鮮侵略のときはどのぐらいの割合だったのだろう?
389 :
世界@名無史さん:03/01/26 16:06
鉄砲をはじめてみた種子島ハツトキは島一番の鍛冶職人にコピーを命じた。
童芯は簡単に作れたんだが、ネジの部分がいまいち良く分からなかった。
鉄砲は打つとすすが内部に貯まり、そのうち爆発する。
そのためにネジの部分からすすを定期的に抜く必要があった。
ネジには雄ねじと雌ネジがあるが、雌ネジを刻み込む時に
今の研究では、鉄より固いはがねで刻み込む。
ここんところが良く分からなかったのでは?という。
そいで、娘を泣く泣くスペイン人にとつがせて作り方を聞いたというのは
有名な話で、娘は一年後にフィピンからスペイン人の鍛冶職人
を連れてきた。
390 :
世界@名無史さん:03/01/26 16:11
種子島時たかは当時15歳で、鉄砲を見て、即決して
一丁1000両で2丁の鉄砲を購入した。
普通ならお宝船なんだから船員を殺して財宝を奪うかするか
なんだが、ここらへんがこの島首の素晴らしさだ。
2丁のうち一丁は根来に渡って、根来は一大鉄砲生産地となった。
391 :
世界@名無史さん:03/01/26 16:13
しっかし、鉄砲を1年でコピーするといい、娘を外人にやってまで
島首の命に答える姿勢といい、日本は昔から職人の国なんだなと実感。
392 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/26 16:16
先年屋久島をとられた事もあって焦っていたようです。
>>389-392 「難破した中国船に乗っていたポルトガル人が鉄砲を伝えた」と言うのは定説ですが、
「倭寇(後期倭寇)の首領の王直が、ポルトガル人を連れて、意図的に種子島に売りにきた」という説もありますよね。
>>391さん
娘をポルトガル人に嫁がせたという話は、作り話です。
NHKの「その時歴史が動いた」でも、その逸話が紹介されましたが、
ポルトガル人が再び来航したなんて記録は残っていません。
その時〜でこの逸話が紹介されたとき、キチンとそういうフォローが入るかと
思っていたら、コメンテーターからなんのフォローも無く、がっくり来ました。
教育テレビの小学生向け歴史番組で、鉄砲の伝来を扱った時もこの話が
紹介されましたが、その際には、「この話は作り話である」というコメント
がつきましたので。
つまり内容的には、小学生向け番組>>>>その時歴史が動いた なんです。
…と言ってみるテスト。
あと、鍛冶屋の名前はたしか「矢板金兵衛」だったと思います。
396 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/26 16:44
>393
ついでに言っておくとそれ以前に琉球から鋳銅製の銃が伝来していた
という話がありましたね。「もののけ姫」に出て来たやつの元ネタか。
>>388さん
文禄慶長の役の際には、非戦闘員が3分の2くらいの大名が多かったかな、
と記憶しています。
物資を輸送する船も各大名が準備していたので、その加子を含めると、
もっと割合が増えるかも知れません。
いずれにせよ、戦闘員と非戦闘員の割合に関しては、小田原の役の時の
ものなど、かなり数が残っていたと思います。
398 :
世界@名無史さん:03/01/26 16:49
>>396 鎌倉期に南宋の火槍が伝来したものの、取り扱いが面倒で定着しなかったと言う話は聞いた事ありますが。
399 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/26 16:51
>398
「碧山日録」あたりならまだしも、そんなに古い例は初耳です。何処に書いて
あったのかお分かりでしょうか。
400 :
世界@名無史さん:03/01/26 16:54
>>399 何かの本でちょろっと読んだだけなので書名とかは覚えてないです。
私も読んで「流石にそれは胡散臭いだろ」と思ったのを覚えてます。
>>397 ありどとう。戦闘員の数は思っているより少ないわけだね。
侵略戦ってのは手間がかかるもんだな。
402 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/26 16:57
>400
小説のネタにはなりそうですが、怪しいものですか。定着していたらそれは
それで面白(?)かったかもしれませんね。
403 :
世界@名無史さん:03/01/26 17:03
>>402 そうですね、定着していたら後の合戦の様相もガラリと変わっていたかも知れませんね。
小説としては豊田有恒先生辺りが書きそうなネタですが(笑)
404 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/26 17:06
>403
「スペースオペラ大戦争」といい、そういうB級ネタが大好きな方ですからね。
405 :
世界@名無史さん:03/01/26 17:10
>>404 「退魔戦記」とか「モンゴルの残光」は好きでした。
応仁の乱の際に大陸から朝廷に献上された火薬兵器を細川勢が徴発して戦闘に投入し
京を焦土と化すのに一役買っているがその中には鳥銃もあった
407 :
世界@名無史さん:03/01/27 08:24
age
408 :
bloom:03/01/27 08:28
409 :
世界@名無史さん:03/01/27 08:31
>>406 京が焦土になったってのは知識として知っているんだけど
それって本当なの?(誇張でなく)
実際はどれくらいの兵力が京に展開して
京の何割くらいの家屋が焼失したとか、京に住む人口がどれだけ減ったとか
そういうデータあれば教えて頂けませんか?
>>409それ、地図上では漏れも覚えてたけど言い表しにくいなー。
上京の市街地は全焼がほとんどで、下京はぱらぱらと焼け残ってたような。
411 :
世界@名無史さん:03/01/27 12:01
>>409 何の本だったか、市街地面積の3分の2とか
412 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/27 15:20
>409
東山一帯を中心にほとんどの寺社が焼けてしまいましたね。一条兼良の屋敷
(というか蔵書)が焼けたのは惜しかった。疎開しようとした公卿や高僧の中に
は山賊や湖賊に「文選」などを奪われた人も居ましたが・・・どうせ読めや
しなかったでしょうに。
413 :
世界@名無史さん:03/02/01 14:42
京都の人にとって戦後とは応仁の乱の後のことを指すという
有名な話もありますしね。
414 :
世界@名無史さん:03/02/01 17:11
415 :
世界@名無史さん:03/02/01 18:24
「こないだの戦争」といえば
東京、広島、長崎、沖縄→太平洋戦争
東京の下町、会津、長岡→戊辰戦争
京都─────────→応仁の乱
岩手県南、宮城県北──→頼朝の奥州征伐
416 :
世界@名無史さん:03/02/01 19:53
風の谷→火の7日間戦争
417 :
世界@名無史さん:03/02/01 20:02
418 :
世界@名無史さん:03/02/01 20:07
北海道東部ではどうなんだ
北海道だったら太平洋戦争だろ
シャクシャインの乱かも・・・
421 :
世界@名無史さん:03/02/01 22:54
いや、樺太の何とか人と戦争したらしいから
それじゃないか?
うーん、函館なら戊辰戦争、稚内とか根室なら太平洋戦争かな。
それ以外の北海道には「415でいうような意味での」戦争は存在しないと思ふ。
423 :
世界@名無史さん:03/02/03 00:06
age
424 :
世界@名無史さん:03/02/03 14:43
マジレスしちゃうと戦争と言えばどこでも普通に太平洋戦争のことだよ
425 :
世界@名無史さん:03/02/03 21:00
>>424 チリとボリビア・ペルー連合の戦争?(w
426 :
世界@名無史さん:03/02/03 22:13
日本史板の落ちこぼれが電波振りまいてたようで。
428 :
世界@名無史さん:03/02/04 17:49
太平洋戦争とかネーミングした奴は誰なんだ?
大東亜戦争と言えとまでは言わんが別に何か考えるべきだった
429 :
世界@名無史さん:03/02/04 17:59
>>428 GHQじゃないの?
the Pacific War の翻訳。
430 :
世界@名無史さん:03/02/04 22:22
ちまたではこないだの戦争 → 一年戦争 らしいぞ。
431 :
世界@名無史さん:03/02/08 21:39
関が原での井伊隊だと、最前線にいた連中は7割近くが非戦闘員だったそうな。
井伊隊全部だとどうなってたのか。
>>431さん
関が原はあまり資料を読んでないのでわかりませんが、おそらく
徳川勢全体で7割ほどだと思います。
上のほうでも書きましたが、小田原の役や文禄・慶長の役の資料を見ると、
大体どの大名も三分の二ほどの非戦闘員を抱えています。
大河ドラマなどでは、こういった兵站の部分が描かれることは少ない
ですから、歴史にあまり詳しくない人に、非戦闘員が7割占めていた
という話をすると、大概の人は驚きますね。
433 :
世界@名無史さん:03/02/13 14:54
>>432 それは、関が原では誰々が1万数千の兵を率いていた、とか言われてるうちの7割って事ですか?
実際はどの大名も、戦闘員が数千人いれば良かった方、ということになるのか。
非戦闘員の役割について教えてくれ。
兵站のみが任務なの?
435 :
世界@名無史さん:03/02/13 18:09
>>434 >>181にあるように、非戦闘員の中には兵站を担う小荷駄のほかにも、
騎乗の武士の得物や荷物を持つ中間や小者もいる。
彼等は原則的に戦闘には加わらない。
ちなみに、
>>181では触れられていないが、
いわゆる「慶安の軍役令」は軍学者によって幕府に提出された調査資料的な
ものであって、正式の幕府法令ではないというのが近年の定説。
436 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/02/13 20:16
>>433さん
その通りです。戦闘員は全体の3割から4割ということになります。
ただし時代が下るにしたがって、各大名は戦闘力を増大させるために
足軽を増やし、非戦闘員の割合を落として行ったようです。
天正19年 立花・高橋両隊軍役表では
戦闘員1400人に対して、非戦闘員1600人
文禄元年 五島隊編制表では
戦闘員187人に対して、非戦闘員318人となっています。
もう少し下った慶長2年の立花隊の編制表では
戦闘員1365人に対し、非戦闘員1242人となっています。
ただし遠隔地に赴く際には、当然のことながらこの数よりも多くの
輸送隊が必要であったと思われます。
437 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/02/13 20:28
>>434さん
基本的には435氏の説明の通りです。
多くの場合、非戦闘員の半数以上は小荷駄隊によって占められており、
これだけで、総員の約3分の1以上を占めていた計算になります。
小荷駄の他には、陣地の構築、築城、坑道堀などを行う「黒鍬」と
呼ばれる工兵部隊などがありました。
また騎馬武者一人に対しても、鎧持ち、鑓持ち、馬丁等の多くの
小者を必要としていました。
また、馬の口糧は人間の約十倍必要であるとクラウゼヴィッツも
述べていますが、馬一頭を養うのには、一日大豆と麦を合計一斗も
必要としていました。(これは、草が手に入らない場合ですが)
438 :
世直し一揆(コピペ推奨):03/02/13 20:29
<血液型A型の一般的な特徴>(見せかけの優しさ・もっともらしさ(偽善)に騙され
るな!!)
●とにかく気が小さい(神経質、臆病、二言目には「世間」、了見が狭い)
●他人に異常に干渉し、しかも好戦的・ファイト満々(キモイ、自己中心)
●自尊心が異常に強く、自分が馬鹿にされると怒るくせに平気で他人を馬鹿にしようと
する(ただし、相手を表面的・形式的にしか判断できず(早合点・誤解の名人)、実際に
はたいてい、内面的・実質的に負けている)
●本音は、ものすごく幼稚で倫理意識が異常に低い(人にばれさえしなければOK!)
●「常識、常識」と口うるさいが、実はA型の常識はピントがズレまくっている(日本
の常識は世界の非常識)
●権力、強者(警察、暴走族…etc)に弱く、弱者には威張り散らす(強い者にはへつらい、弱い者に対してはいじめる)
●あら探しだけは名人級でウザイ(例え10の長所があってもほめることをせず、たった1つの短所を見つけてはけなす)
●基本的に悲観主義でマイナス思考に支配されているため性格がうっとうしい(根暗)
●単独では何もできない(群れでしか行動できないヘタレ)
●少数派の異質、異文化を排斥する(差別主義者、狭量)
●集団によるいじめのパイオニア&天才(陰湿&陰険)
●悪口、陰口が大好き(A型が3人寄れば他人の悪口、裏表が激しい)
●他人からどう見られているか、人の目を異常に気にする(「〜みたい」とよく言う、
世間体命)
●自分の感情をうまく表現できず、コミュニケーション能力に乏しい(同じことを何度
も言ってキモイ)
●表面上協調・意気投合しているようでも、腹は各自バラバラで融通が利かず、頑固(本当は個性・アク強い)
●人を信じられず、疑い深い(自分自身裏表が激しいため、他人に対してもそう思う)
●自ら好んでストイックな生活をしストレスを溜めておきながら、他人に猛烈に嫉妬
する(不合理な馬鹿)
●執念深く、粘着でしつこい(「一生恨みます」タイプ)
●自分に甘く他人に厳しい(自分のことは棚に上げてまず他人を責める。しかも冷酷)
●男は、女々しいあるいは女の腐ったみたいな考えのやつが多い(例:「俺のほうが男
前やのに、なんでや!(あの野郎の足を引っ張ってやる!!)」)
>>436 勉強になりますた。dクス。
しかし、私のような素人が数字だけ見て想像していたのより、
結構規模が小さかったということですかねぇ…なるほど。
なるほど、よくわかりました。ありがとう。
ついでにもう一つ質問を。
同時代における他地域の軍隊においても戦闘員と非戦闘員の割合も
同じようなものだったのでしょうか?
441 :
山犬 ◆R200hJA.tQ :03/02/14 19:56
>>440さん
他地域の軍隊に関しては知識がありませんが、やはり非戦闘員の数は多かった
のではないでしょうか。参考に、チムールスレのこの文章を引用させてもらいます。
「チムールは…武器、兵糧をはこぶために騎兵一人について、それぞれ10人ずつの輸卒を
つけさせた。穀物数千荷は軍用車ではこばれたが、これは道すがら種子をまいて帰路の兵糧
に供するためであった。なお、さらに7年間をささえるに足る乾草飼料を用意し、そのほか各人
が乳牛二頭、乳羊10頭ずつをたずさえて、途中の食糧の欠乏にそなえることにした。」
(中央公論社、『世界の歴史9』)
機関車が発明される以前は、大量の物資を陸上で輸送するというのは、大変な人手が
かかることだったのです。
あと、確か日露戦争では、兵站を担当していたのは全体の三分の一ほどだった
と聞いたのですが、軍事板住人の方とか、どなたか詳しい方はいらっしゃいませんかね。
442 :
世界@名無史さん:03/02/14 21:01
>>441 それって少なくないか?
まともな作戦を行うには全体の二分の一が兵站に従事する必要があったように思うが。
443 :
世界@名無史さん:03/02/24 19:21
( ^▽^)<ほいっほいっほいっほいっほいっほいっほいっほいっほいっほいっ
444 :
世界@名無史さん:03/03/08 00:54
(゚Д゚)yー~~
(^^)
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
450 :
世界@名無史さん:03/06/22 05:39
もみage
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
453 :
世界@名無史さん:03/09/21 10:54
age
さて、日露の頃は鉄道輸送が出来たから
兵站支援における輜卒の割合が減っていてもおかしくないかも