世界史の華『ビスマルク外交』

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1総督
ビスマルク伝買おうか悩んでます
2世界@名無史さん:02/12/19 23:06
どういうところが「華」なんだろうか。
偶然に助けられてたしかいいようがない。
本人はそんなに面白い人物じゃないよ。
3世界@名無史さん:02/12/20 01:26
人生やろうか、やるまいか、悩んだものは、まずやってみる。
4総督:02/12/20 12:30
>>3
せっかくのアドバイスだけどペリスケ買うから諦めますた
5世界@名無史さん:02/12/20 14:48
俺は逆に迷う程度のモノは買わない。
あとでやっぱり止めとけば・・・となると鬱だからな。
6総督:02/12/21 11:18
>>2
彼の対フランス包囲網は芸術
日本はおろか世界中探してもなかなか見つからない有能な外交官&政治家
7世界@名無史さん:02/12/21 11:34
ビスマルク伝高いもんなあ。カブール伝も買うかどうか随分悩んだよ。
8総督:02/12/21 12:32
>>7
http://www.manah.net/book/findresults.jsp
高すぎる。発見した時は萌えたけど読破する自信も無いし諦めた・・・
9世界@名無史さん:02/12/21 14:17
ビスより、モルトケ外伝って無い?
昔ナベショーの「ドイツ参謀本部」読んで「カッコイイ!!」と
思わず叫んでしまった記憶あり!!
10総督:02/12/21 21:56
>>ナベショー
「ナ」は余分
11総督:02/12/21 22:07
プロイセンって萌える奴多いよね

フリードリヒ大王、グライゼナウ、シャルンホルスト、クラウゼヴィッツ
ビスマルク、大モルトケ
12世界@名無史さん:02/12/21 22:18
みんな軍人やんけ
13世界@名無史さん:02/12/21 22:22
>>12
文化人なんてチンケな野郎ばかりだよ。
14世界@名無史さん:02/12/21 22:27
>総督
>文化人なんてチンケな野郎ばかりだよ。

プロイセンの?
15世界@名無史さん:02/12/21 22:36
こいつがいなければ大学受験の1次大戦前のヨーロッパの問題は難しくなかっただろう
そして世界史に感動することもなかっただろう
16総督:02/12/21 22:54
>>14さん

>>13書いたの俺じゃないけど、グリム兄弟とかはぼちぼちじゃないの?
でもやっぱりベルリンよりウィーンだ罠
17総督:02/12/21 23:05
『プロイセンの歴史』を読んでるとどうもビスマルクはドイツ帝国の成立に
よってプロイセンがドイツに吸収されてしまう事を懸念していたらしい。
まあ、ビスマルク以上に皇帝陛下のほうが兄ちゃんと一緒で慎重だったらしいが
18世界@名無史さん:02/12/21 23:09
ビスマルクって自分の地位を脅かしそうな有能な奴を高い役職に就けさせなかったと聞いた。
19from d:02/12/21 23:09
>>17
ヴィルヘルムはドイツ皇帝に泣く泣く就いたそうな。
20総督:02/12/21 23:11
>>18
ビスマルク信奉者のウィルヘルム2世が己を解任するなんて思いもしなかったろね
本人は当然自分の時代が続くと思った
21総督:02/12/21 23:13
>>19
おれはフリードリヒ・ウィルヘルム4世の宰相がビスマルクだったら
ドイツ帝国は平和裏に成立していたと推測する
22総督:02/12/21 23:15
恥ずかしながら、そもそもビスマルクが1862年に宰相に任命された具体的な理由を知らない
議会対策が理由だったことくらいは知っているが
23総督:02/12/23 01:29
age
24世界@名無史さん:02/12/23 03:35
ビスマルク体制萌え。
独vs仏でイギリスがドイツ側についたら一次大戦どうなったか考えると面白いね。
25世界@名無史さん:02/12/23 09:14
プロイセンとドイツって違うものなの?
26世界@名無史さん:02/12/23 10:03
ドイツ帝国は、プロイセン王国、バイエルン王国など、多くの国家の7連合。
プロイセン王国の国王と宰相が、そのままドイツ皇帝、帝国宰相となり、実質的には、同じと考えてもいい。
27世界@名無史さん:02/12/23 10:20
確かに見事だがビスマルク個人の才能が無ければ維持できない外交体系
彼が失脚したあとドイツは奈落の底へ
あんまり高く評価できないかもしんない
28世界@名無史さん:02/12/23 10:52
>>27
諸悪の根源は、アルザス・ロレーヌを奪ったことか。
ビスマルクは、フランスから奪うことには反対だったが、
世論がそれを許さなかった。
普墺戦争に続いて、勝利したにもかかわらず領土を奪わないとは、何事か。
それにアルザス・ロレーヌは、元来ドイツの土地だ。
29世界@名無史さん:02/12/23 10:52
そういう意味でフリードリヒ大王と似てますな。
しかし何でドイツにはそういうタイプが多いんだ?
30世界@名無史さん:02/12/23 11:02
>>22
ビスマルクは国王と利益が直結するユンカーで貴族様です

1851-59ドイツ連邦議会(フランクフルトに機関をおくドイツ諸邦の政府代表の集まり)
にプロイセン代表として出席。議長国オーストリアあいてにごりごり、孤立も恐れずプロイセンの
権益拡大をはかっているウルトラ保守・愛国主義者です。
その後、パリ駐在公使。

おりしもプロイセンは1848年以来の自由民権騒動のさなかで、
国王・内閣は下院自由派弾圧のために軍事クーデターも辞さない緊張した
世相でした。
これをおさえるため陸相ローンが親友ビスマルクの起用を1862/9/18決意。
9/22、47歳でプロイセン首相に就任です。

現実主義者いうより、当時は、石原都知事なみの扇動政治家と左右からみられてましたが、
その後、鉄血演説、プロイセン憲法の不備をめぐって下院の承認なしに軍制改革に予算を
支出し、プロイセン憲法紛争をひきおこしました
31総督:02/12/23 15:30
>>30
なるほど、皇帝と議会のパイプ役を期待されたわけですな
32世界@名無史さん:02/12/23 17:06
>>30
かっこええの〜
やっぱ政治家ってのはこうじゃなくちゃな
33卒論:02/12/23 23:28
こんなスレもあるので、よかったら雑談にでもきてね。

第一次世界大戦の起源を詳しく教えて!
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1027259599/l50
34総督:02/12/24 01:09
かのウィルヘルム2世もかつて期待の星だった時期もあった
ロシア皇帝アレクサンドル3世に大変気入られ再保障条約の
更新を打診されたこともあったとさ
35世界@名無史さん:02/12/24 02:17
>>28
ビスマルクには「勝ちすぎてはかえっていけない」
というバランス感覚があったのだと思います。
日清戦争のときの伊藤博文や陸奥宗光の判断を思い出させますね。
あのとき、内村鑑三のような文化人も、
「まだ講和するのは早い。北京にまで攻め込ませろ」
という意味のことを言っていたくらいですから。
36世界@名無史さん:02/12/24 04:41
>>28
でも、WW1 前にはもう多くのフランス人はアルザス・ロレーヌの奪還を考えていな
かったらしい。

>>34
その辺のウィルヘルム2世の WW1 前の外交ネタは >>33 のスレでやるほうがいいかと。
37総督:02/12/28 11:46
ビスマルクは1887年に所謂地中海協定を結ぶんだけど
英国とは直接締結せず、オーストリアを介して同盟関係に入った
これは何を意味しているんだろう?
38質問者57:02/12/31 23:38
「全ドイツの期待するものはプロイセンの自由ではなく力である。プロイセンは過去に
 幾度か好機を逸してきたが、今こそこの好機に集結せねばならぬ。時代の偉大な
 課題は演説と多数決によってではなく、鉄と血によってのみ解決されるのである」

とビスマルクが言うのですが、具体的にどんな好機を逃してきたのですか。
ドイツの外の国に戦争をしかけることと、ドイツ諸邦が統一することがなぜに
結びつくのですか。教えてください。
39質問者57:02/12/31 23:42
私は外交史はよくわかりません。憲法学の本で、予算紛議の説明でこの言葉を
拾ってきました。ドイツ内外交がなぜドイツ内戦争でなく対外戦争で変わるのか、そのへんを
そのへんが疑問なのです。
40Peak:02/12/31 23:52
>>38
私が誘導した本人です。ようこそ。
私が延々と書くよりもできれば問答方式で行きたいと思うので、
質問したり詩ますんで、レスよろしくです。そこで

>>なんというか、ドイツ内外交のイメージがつかめないんです。統一したけれゃ
>>好きにすればいいし、したくないならどうして対外戦争で統一を受諾するのか。

プロイセンは統一したかった。
プロイセン(とビスマルク)は統一こそが自分たちプロイセンの国益にかなうと
判断したわけです。そこで2つ問題が出る。

1. なぜ統一がプロイセンの国益にかなったか。
2. どのような形の「統一国家」が最もプロイセンの国益にかなうのか。

ですね。そこで質問なのですが、当時(1814年以降19世紀中盤頃)のドイツと
それを取り巻く環境については高校で習うぐらいは御存じでしょうか?
すいませんがレスよろしくです。
41質問者57 :03/01/01 21:07
>40 感謝です。即レスくださったのにすみません。高校で習う程度なら大丈夫です。
でもそれは、欧州地図と三月革命以上のものではないです。

三月革命は、こんな感じですよね。
 フランスの革命を聞いてドイツで自由主義者が喜び、王は呆然自失。
 各地で選ばれた議員がフランクフルトに集まって憲法を審議。
 議論の途中で王が正気を取り戻し、弾圧の意思を固める。
 プロイセン王は議会に推戴された王位を蹴り、革命おわる。
42総督:03/01/01 22:39
プロイセンのコテコテの保守主義者はドイツ統一に懐疑的だった
ナショナリズムがウィルヘルム1世やビスマルクを飲み込んだ
43Peak:03/01/01 23:24
>>41
レスありがとう。基本的な流れは御存じと考えて説明します。

1. なぜ統一がプロイセンの国益にかなったか。
いろいろな要因がありますが、ここでは Political Economy から説明します。
つまり、「市場の形成と拡大発展」のためにはどうしてもプロイセンを中心とした
統一が必要であったと言う事です。産業革命後のヨーロッパの覇者はイギリスです。
その力は「国富」と言う形で蓄積されていました。なによりも先に経済力と言うわけです。
一方ドイツはと言うと国家がバラバラの「領邦」に分裂して、領邦間の交易にさえ
関税がかかるありさまです。プロイセンは「上からの改革」つまり民間の資本ではなく
国家が手を下して急激に産業革命を遂行しますが、もの作っても肝心の「市場」が
ないんです。国内市場もままならないで苦しんでいる一方で、英仏はその「国富」を
フル活用して、植民地を拡大している。乗り遅れればこの両国にドイツの市場すら
席巻されるかもですね。ある領邦にとってはイギリスもプロイセンも「外国」であり、
製品輸入に同等の関税がかかるとなれば、良質かつやすいイギリス製品が勝利
するのは火を見るよりも明らかでしょう。それはプロイセン自身に起こるかもしれない。
これをなんとかするためにプロイセンが主体になって、「ドイツ関同盟」という
関税相互免除の領邦連合を作りますが、それでも全ての領邦が参加したわけ
ではありませんでした。フランクフルト国民会議はこの「市場統一」を政治的統一と
一緒に話し合いでやっつけようとしましたが、ぶっつぶれましたね。そこには
「オーストリア」と言う壁があったわけです。
これがビスマルクの言う『プロイセンは過去に幾度か好機を逸してきたが』の一つ
であるわけです。(長くなるので分割します)
44Peak:03/01/01 23:25
>>41 つづき

2. どのような形の「統一国家」が最もプロイセンの国益にかなうのか。
オーストリアとの話し合いによる統一はフランクフルト国民会議で挫折します。
オーストリアは神聖ローマ帝国とともに長い間ドイツの実質的な盟主として
数世紀にわたって君臨してきたのですから、プロイセンなどのは「成り上がり」です。
プロイセン国王を戴く形での統一に賛成のはずはない。話し合いはダメです。
プロイセンとしては、プロイセン中心の国家統一以外は選択肢にない。
これが予算はなんで必要なんだとごねる議会に対してのかの演説となるのです。
直接やるか?相手は衰えたりと言えども強国です。がっぷりでやればせっかくの
市場となるドイツ国内が戦場となって荒廃する。できれば短期で決着を付けたい。
ここまではハラは決まっていた。あとはどのような「Opportunity」が巡ってくるかに
かかっている。そのときに備えて準備だけはしておくのだ、それがこの鉄血演説で
あるわけです。この演説ゆえにビスマルクが「軍国主義者」であると考えるのはほぼ
あたっていません。彼は戦争を最大限かつ最短期間利用したと考えるべきです。

とここまで鉄血演説までの背景をざっと述べました。これで疑問が氷解ならいいですし、
何か質問があればして下さい。私のみならず他の方の解答もあるでしょうと思います。
45総督:03/01/01 23:44
プロイセンは伝統的に軍事中心国家である。
ビスマルクの宰相任期前半は、いわばその伝統を踏襲したにすぎない。
彼の偉大なところは後半20年のリアリスティックな外交である。
ビスマルクがいなかったら普通あの状態でオーストリアと仲良くやっていけないよ・・・
46質問者57:03/01/04 01:30
プロイセンにとっての利害はわかりました。
でも、他邦はどうなんでしょう。風になびく草でいいんですか。

プロイセンが統一をすすめる
 ↓
反対する邦を武力で脅す
 ↓
反対邦をオーストリア(フランス)が後押しする
 ↓
戦争

という流れならわかるのです。でも、実際におこったのは、頭上で関係
なく起こった戦争の勝者にくっついての統一ですよね。そういう
行動自体も、そういう行動を予測できていたことも、釈然としません。
もともとプロイセンに従いたかったのをオーストリアやフランスに止め
られていたのですか。
47質問スレの85:03/01/04 07:41
うーんPeak氏の博識に感服しますた
48Peak:03/01/04 08:44
>>46
簡潔に書くのがなかなか難しいですが、二つのタイプに別れます。
1.「長いものに巻かれろ型」の領邦
歴史地図をお持ちとの事ですので、フランクフルト国民会議当時のドイツの地図が
あれば見て下さい。プロイセンは既にかなりの大国でしょう。地理政治学から言っても
北部の領邦は(経過は省きます)親プロイセンです。実は1833年の関税同盟は
それ自体が既に半分「プロイセンによる北部ドイツ統一」の意味合いを持つのです。
経済圏が統合されているわけですね。
2.「プロイセンは嫌いだが、オーストリアもイヤだ型」領邦
南部ドイツの領邦にこれがあてはまります。その旗頭が「バイエルン王国」です。
彼等バイエルン人は今でもプロイセンが大っ嫌いです。バイエルンを中心とした領邦は、
歴史的に国境を接するオーストリアの強い干渉をもうけてきたために、オーストリアとも
なんとか一線を画そうとするんです。バイエルンは大国です。これにへそを曲げられる
わけにはいかないのです。
49Peak:03/01/04 08:45
>>46
ドイツの統一にビスマルクが使ったのが、デンマーク、オーストリア、そしてフランス
と言う諸外国(外敵と言うべきでしょう)との戦争であったのは、こうした領邦を丸め込む
ためであると言えます。内戦状態になれば武力で統一しても、国内にわだかまりが
残ります。(明治維新後の藩閥政治はその例ですね)
これら外国と戦う形で統一を成し遂げれば、国内の不協和音に勢力をそがれず、
統一の翌日から「富国」に励めるのです。「強兵」は一時棚上げしてなんとしても
イギリスに追い付かなければならない。

ドイツ統一は1870年です。忘れがちですが明治維新の方が早いんです(1868)。
明治5年には「文明開化」なんてものが既にはじまっている。ドイツの焦りがわか
るでしょう。統一後のビスマルクの平和思考もです。
50Peak:03/01/04 08:53
軍国主義とか、ユンカーとか、伝統的なプロイセン史の用語を使わずに
説明できたなあ。少し満足です。
51世界@名無史さん:03/01/04 11:35
>>48-49
横からいいかな?
「何故、バイエルンがプロイセン主導による統一を
受け入れたか」ってのがよく分からないんだわ。その説明だと。

仮にプロイセンがオーストリアやフランスに勝ったとしても、
それだけで即バイエルンをひっくるめた統一が可能とは限らない。
何故ならバイエルン側は、それらの戦争を「プロイセンが勝手にやっている
ことであって、自分たちとは関係ない」と傍観者を決め込むことも出来るから。
実際、オーストリアに勝って作ったのは「北ドイツ連邦」だ。
(バイエルンとは同盟を結んだらしいけど・・・)

バイエルン側が受け入れた事情ってのはどうなんだろう?
52世界@名無史さん:03/01/04 20:38
>>51
王様がお城つくりのお金をプロイセンから借りたためです。
53世界@名無史さん:03/01/04 21:28
ヴィルヘルム一世が劉邦だとすると、
ビスマルクが張良
モルトケが韓信
ローンが蕭何ってところかな
54世界@名無史さん:03/01/04 22:37
今日、ビスマルクとモルトケの伝記買ってきた。
読み終わるまで生きてるかなこのスレ・・・
55総督:03/01/04 22:37
54=俺です
56世界@名無史さん:03/01/05 09:31
>>52

それを周りや一般国民は何とも思わなかったのかな?
57ヴィルヘルム一世:03/01/05 12:21
>>53
貴様!このわしをだれじゃと思うておる!
いやしくも、ホーエンツオレルン家のまごうなき当主であるぞ!
農民風情の劉邦と一緒にするな!!
58世界@名無史さん:03/01/05 12:23
>>56
王様に逆らうなんぞ、ドイツ人にはできましぇ〜ん。
それで、王様には死んでもらいました。
59:03/01/05 12:56
でも、、実際ウィルヘルム2世に追放されてるし、そんなすごくないっしょ!
華と言えば、ウィルソンの新しい自由だ〜NEW FREEDOM!!
すべて、独断なので(笑
60世界@名無史さん:03/01/05 13:33
>>59
結局は、ビスマルク外交は、奇策の部類に入るわけで、あんな外交政策がいつまで保てるわけではない。
61世界@名無史さん:03/01/05 15:28
当時の英の政治家が、「ドイツはビスマルクのような政治家が出てかわいそうだな。
あれほどの偉業をしたら後の者は維持しづらいだろう」と言ってたのをAJPテイラーの
本に書いてあった。
62世界@名無史さん:03/01/06 00:20
バイエルンの話はこのスレが面白いよ。
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1022142243/l50
63総督:03/01/06 02:22
>>43を読んでるとEUの形成過程と瓜二つだね
ドイツがEUの緩やかな連邦制を主張しているのも自国の歴史を踏襲したいわけね
64世界@名無史さん:03/01/06 15:13
>>51
俺はPeakサンではないけど、
ビスマルクがバイエルン国王に城の建築費を一部負担したことで、まるめこんだようなこときいたことあるよ。
6564:03/01/06 15:14
スマソ、がいしゅつだった。
逝ってきます。
66Peak:03/01/06 22:19
>>51 >>52 >>56 >>58 
普墺戦争のときはバイエルンはオーストリア側について戦っています。
ですからバイエルン側がプロイセンを積極的な意味で認めたとは言えないですね。ただ戦後のオーストリア(つまり敗者)の扱いと同様、バイエルンの処遇に
ついてもあとで恨みをなるべく残さないようにしたと言うところは
やはりビスマルクの手腕でしょう。そこで >>51 >>63 の指摘のような事も
あるですね。統一後もバイエルンだけはいわば特例扱いにすると言う約束を
したと思う(いまいちうろ覚え、スマソ)。
バイエルン内政史は不勉強でほとんど知らないので、当時の末端の民衆が
どう考えたかは私は知らないですが。あの「ルートビヒII世」ですからね。
周りがなんといおうと気にしなかったとは思います(w
4年後の普仏戦争のときはバイエルンはオーストリアとともにプロイセンと
同盟を結んでフランスと戦っています。これがナポレオン戦争以来初めての
「ドイツ全領邦が味方となって外敵と戦う」出来事となります。
67世界@名無史さん:03/01/06 23:19
>>66
電信とか郵便も独自の制度が了承されたみたい。
当然、軍隊も持てた。
でも、結局は、プロイセン王=ドイツ皇帝の臣下になりがったわけであるが。
68世界@名無史さん:03/01/06 23:43
クレマンソーの議会演説「ドイツの統一について」
http://www3.kiwi-us.com/~ingle/topix-2/clemenceus%20speech.html

>1870年に宣戦布告がなされたとき(普仏戦争)のことを覚えている。
道でジャーナリストに会った。何かを言おうとしているジャーナリストは常にいるものだ。
そしてこう言うのだ。「バイエルン人は加わらないよ。」と。
私が理由を聞くと答えたものだ。「バイエルン人はケルト人だ。
彼らの頭はプロイセン人と同じように出来ていない。彼らはプロイセン人を憎んでいる。」
二日後何が起きたか、ご承知の通りだ。
69世界@名無史さん:03/01/06 23:51
>>67
外交権をも有していたのでは>バイエルン

森鴎外の旧かな使いの小説に
もし日本公使館が置かれた暁には
今日のことをにかんがみて
あなたが初代公使に〜
なんて王妃が言う
フレーズがあったような。
70世界@名無史さん:03/01/07 00:11
>>68
WW1後、バイエルンをドイツから分離させる案があったそうな。
71世界@名無史さん:03/01/07 01:17
それは有名だね。
しかもバイエルン内部にもその勢力は大きかった。
しかし、彼らの失敗はバイエルン王を退位させたこと。
独立するのに一番手っ取り早いのは、元々別の国であったことを
主張し、立憲王制国家をつくることであったのに…
しかも当時、ルプレヒト王太子はバイエルン国民からの信望も厚い。
彼を中心に独立を図れば、王党派や退役軍人の多くも賛成しただろう。
しかし、社会主義者による独立をバイエルン国民は認めなかった。
今でもドイツ保守派の最大の地盤はバイエルンである。
72世界@名無史さん:03/01/07 01:33
第二次世界大戦後、チャーチルがバイエルンをドイツから切り離して、
オーストリアとくっつける考えを抱いていた、というのは本当ですか?
73世界@名無史さん:03/01/07 02:24
>71
ナチの生地で最も活発な地域だったから分離されてたら台頭も防げたかもね。
(もっともオーストリア進駐のようにバーデン州やザクセン州らをどんどん
併合してって、今度はバイエルンによるドイツ統一が起きてたりしてw)ネタによりsage
74世界@名無史さん:03/01/07 10:37
>>66

ちとスレ違いぎみだが。
当時のバイエルン議会ってのは、どうなんだろう。
国王を抑えることもできない程度の権力しか、持ってなかったのかな。
プロイセンで憲法論争から国王が追い詰められて首相交代が起きている
(つまりビスマルク登場のことだけど)のを考えると、
議会が飲まなければ、バイエルンも様相が違っていたと思う。
75総督:03/01/07 15:09
思わぬ「バイエルン談義」で盛り上がってきたね
ここまで専門的になると日本語の文献も尽きてきて(名古屋在住だと特に)2CHが
唯一の情報源になってくるので詳しい方の降臨キボン
76総督:03/01/07 15:13
こう考えてみるとビスマルクは「リベンジ」に異常なほどの警戒心を抱いていたようだ
戦後のビスマルク外交も対フランス包囲網の構築が最終目的だったわけで。
77山崎渉:03/01/11 13:01
(^^)
78世界@名無史さん:03/01/11 21:56
age
79世界@名無史さん:03/01/12 15:33
>>76
まあ、それで、WW2以後は、ボンパリ枢軸ができたので。。。
80Peak:03/01/14 19:46
過去スレで見つけてバカうけした。歳がばれるな(w

48 名前: 鉄道板から 投稿日: 01/12/03 00:15
ビスマルクの鉄血政策
カ ラ オ ケ 記 憶 法
次は、芦澤廣明氏作曲「ギザギザハートの子守歌」にあわせて歌っ
ておぼえましょう。
            『鉄血ハートの子守歌』
「ちっちゃなころからユンカーで エルベ以東に住んでたよ
統一ドイツを目指しては 阻む国皆傷つけた
ああ議会の反対押し切って こんなに軍備広げたよ
ララバイララバイおやすみよ 鉄血宰相ビスマルク

ヴィルヘルムと二人して 64年にデンマーク
シュレスヴィッヒを口実に 力まかせに攻めこんだ
二年後の普墺戦争も サドヴァで戦い勝利する
プラハの和約でおやすみよ 鉄血宰相ビスマルク

マイン以北の22の 国をまとめた北ドイツ
スペイン王位をきっかけに 普仏戦争始めたよ
ナポレオン3世挑発し セダンの戦い捕虜にして
アルザス・ロレーヌ奪い取る
鉄血宰相ビスマルク

ヴィルヘルムが死んだのさ とってもいい奴だったのに
次の2世と対立し 帝国あばよと去ったのさ
ああわかってくれとは言わないが 鎮圧法が悪いのか
ララバイララバイおやすみよ 鉄血宰相ビスマルク。」
81世界@名無史さん:03/01/22 20:50
ビスマルクの前の宰相は誰ですか?
82世界@名無史さん:03/01/22 21:03
>>81
ドイツ帝国宰相としてはビスマルクが初代。
プロイセン王国宰相の前任者はハルデンベルクかな?(自信ない)
83総督:03/01/27 02:25
今、モルトケの伝記読んでる。
重要じゃ無さそうで重要なローン軍事大臣が気になってます。。。
84総督:03/01/28 00:07
普仏戦争の時、ビスマルクは何故モルトケの意見を容れてパリ包囲を行ったんだろう?
85世界@名無史さん:03/01/28 18:29
関係ないが
普仏戦争でフォン・マントイフェル将軍が活躍しているね
彼と血縁関係があるかどうかわからんが
フリードリヒ2世の時の七年戦争や第2次大戦でも
同姓の将軍が活躍している
86総督:03/01/28 18:40
マントイフェルといったら軍事内局のボス
モルトケを参謀総長に指名した張本人。
87総督:03/01/28 18:42
軍事内局と言ったら高級副官の巣窟。そもそも高級副官はフリードリッヒ大王
が側近として重宝した将軍たち(とその一族)
88世界@名無史さん:03/01/28 21:03
>>84
結局、ナポ政権は、スダンで崩壊していたから、代わりに降伏交渉の相手役となるパリの政権に威嚇を加えるためかな?
89世界@名無史さん:03/01/29 02:19
モルトケの意見を受け入れたというよりは、
強引に受け入れさせられた、というのが実情では?
90世界@名無史さん:03/01/29 10:31
ビスマルクの外交を扱った本でおススメの本ありますか?
91総督:03/01/29 16:09
>>89
でも、普墺戦争の時は強硬に反対してウィーン包囲を止めさせた。
普仏戦争のときはそこまで反対しなかったみたい
92世界@名無史さん:03/02/02 02:04
戦争は勝ちすぎてはいけないという発想はいつの世にも民衆には理解されないよね。
ポーツマスの時の小村を思い出した。
93総督:03/02/03 20:11
ビスマルクの経済外交について語りましょう。
帝国創立後は議会最大派の「国民自由党」=「リベラリスト」への配慮、商工業振興
の観点から、自由貿易体制を敷きますが、1870年代の大恐慌で保護貿易姿勢に転ずる。
これは「国民自由党」の買収による成果とも考えられる。カトリック勢や社会主義者
に押され気味のビスマルクがリベラリストを抱き込んだ結果だと思います。
94世界@名無史さん:03/02/03 20:33
ルートヴィヒ2世とバイエルン政府の関係はかなり悪かったと伝えられています。
1866年の時は、閣僚は参戦に反対だったのですが、国王は閣僚を解任して(
一部では処刑したとの話しもある)プロイセンと戦争をしております。

>>71
確かに保守大国ですが、他の州とは別政党です。また、バイエルンは連邦には属
してますが、議会は連邦加盟承認はしてませんので…理由ですが、連邦政府は王
制を認めないなど、各地域の自主性を認めないからだそうです。
95YMIM:03/02/03 20:43
>>94
と言うことは連邦の憲法次第ではバイエルンに「王政復帰」もあり得るわけ?
96総督:03/02/03 20:47
>>94
要するに、バイエルンの趨勢は国王の一存で決まったと?
97世界@名無史さん:03/02/03 21:26
>>95
憲法改正の前に脱退されちゃうでしょう…
バイエルン独立党は弱小勢力ですが1/3に達した日には…

>>96
国王の一存というより、国民の希望でしょう。即位以来退位の時まで
国王は人気がありましたから…
1870年以降もバイエルン陸軍は独立してましたし、銀行、鉄道、
その他社会基盤は全て帝国とは別運営でした。
日本ではWW1の同盟をドイツ・オーストリア同盟と言いますが、
海外では中央ヨーロッパ同盟と言います。これは北ドイツ連邦・バイ
エルン・ヴュルテンベルク・バーデン・エステライヒ・ウンガルン・
ブルガリアによる同盟軍だったと考えられているからです。
98世界@名無史さん:03/02/04 18:17
>>97
すまんウンガルンってどこ?
99世界@名無史さん:03/02/04 21:15
多分ハンガリーのことかと。
100YMIM:03/02/04 21:22
Sage de 100 get!
101世界@名無史さん:03/02/11 03:20
ウンガルンがドイツ語表記ならば、なぜブルガーリエンまで徹底しない?
102世界@名無史さん:03/02/12 18:17
>総督殿
フォン・マントイフェル将軍は普仏戦争開戦時、第1軍団長で
普仏戦争随一の名将ですよ
彼は騎兵出身でその戦術はたとえ少兵力でも戦機を逃さず
陣頭指揮で縦深突破、迂回し敵の背後に出て殲滅する
少し調べてきたので書いときます
103世界@名無史さん:03/02/12 18:35
>>90
ビスマルクの外交のみを扱った本ってちょっと思い浮かばない。
日本の研究者なら岡部健彦氏が一貫してそういう仕事してるけど、
いかんせんモノグラフなので。
やはりビスマルクの伝記を参照するのがよろしいかと。アイクも良いし、
やや高いがガルのものも。
104世界@名無史さん:03/02/12 18:38
   彼我の軍状況
 プロイセン・南独連合軍
14軍管区、3師管区(1軍管区、1個軍団編成)
14個軍団及び近衛1個軍団(1軍団、2個歩兵師団、砲兵6個中隊)
他、3個独立歩兵師団(第17、ヴュルテンベルグ、バーデン)
  4個後備師団(第1〜第3、近衛)
  8個騎兵師団
総計、歩兵37個師団、騎兵8個師団、火砲1584門
   野戦軍 47万、予備・後備軍 33万
   海軍 1万、艦艇25隻(装甲艦5隻含む)

歩兵は縦隊戦術を採り、火力を集中し中隊縦隊を主に銃剣突撃を敢行
騎兵は剣と拳銃で武装し胸と背に装甲した胸甲騎兵と
槍と拳銃で武装した槍騎兵の重騎兵
剣と騎銃で武装した軽騎兵がある
砲は全てライフル砲である
105世界@名無史さん:03/02/12 18:56
フランス軍
8個軍団、3個独立騎兵師団、1個予備砲兵師団
 第1、第3、第6軍団(4個歩兵師団、1個騎兵師団〈3個旅団編成〉、砲兵8個中隊)
 第2、第4、第5、第7軍団(3個歩兵師団、1個騎兵師団〈2個旅団編成〉、砲兵6個中隊)
 近衛軍団(2個近衛歩兵師団、1個近衛騎兵師団〈3個旅団編成〉、砲兵4個中隊)
総計、野戦軍 30万、予備軍 20万、後備軍 30万
   海軍 133隻(装甲艦49隻含む)
   海軍歩兵 1万
 現役兵が少ないのは選抜徴兵制のためである
 後、帝政崩壊後10万の新兵を徴集、パリ防衛には女性部隊10個大隊も編成された
仏軍の戦術は旧態依然で2列縦隊でシャスポー銃の火力に依存した感が伺える
普軍の死傷者が意外に多いのはこの銃によるものである
106総督:03/02/12 19:00
>>102
軍事内局のマントイフェルとは別人だったかな?
でも親族だろうね
107世界@名無史さん:03/02/12 19:11
 マントイフェル将軍の戦記 1 コロンベ・ヌイリーの戦い
 1871年8月14日マントイフェル将軍揮下第1軍団左翼でデル・ゴルツ将軍揮下第26旅団が
カスタニ将軍揮下第2師団と遭遇戦、苦戦を強いられる
 マントイフェルは直にザウケン将軍揮下第22旅団を急派し
自らは陣頭指揮によりグレニー将軍揮下第2師団を率い、仏第4師団(エーマル将軍)を破り
ノアイスビル高地を占領、高地西端に軍団砲兵を誘致、第4旅団に敵左翼を迂回攻撃させ
メイ村を占領し仏軍を撃退した
108世界@名無史さん:03/02/12 19:25
 マントイフェル将軍の戦記 2 セルビニの戦い
 1871年8月31日マントイフェル将軍揮下第1軍団3万6000はフェリー〜セルビニに布陣
バゼーヌ将軍揮下のフランス軍(第2〜第4、第6、近衛軍団)12個師団13万7000と対峙
ルボーフ将軍率いる仏第3軍団がセルビニを攻撃するも白兵戦により撃退
 9月1日には反撃に転じ、たった2個旅団でモントイ、プティマレーを奪取
これにより仏軍は退却
 死傷者は普軍 3400、仏軍 3000
普軍の死傷者は主にシャスポー銃によるものである
109総督:03/02/12 19:30
おお!詳しい方降臨
プロイセンはスタッフの陰に隠れてラインの影が薄い。
そんな有能な司令官がいたとは
モルトケの指令を無視して第1軍を勝手に動かした人がいたよね。誰だっけ?
110世界@名無史さん:03/02/12 19:39
 マントイフェル将軍の戦記 3 アミアンの戦い
 戦功により第1軍司令官を拝命(モルトケが推挙)
 1871年11月27日フランス軍ファール将軍は2万5000の正規軍、8000の護国軍、1万7000の
新軍にてアミアンを守備
 第1軍は3万でアミアンを攻撃、死傷者1300を出すものの1月28日アミアン陥落
フランス軍は捕虜400を含む2800の死傷者を出した(捕獲砲 30)
 マントイフェルは戦機を逃さず、アミアンに1個歩兵旅団、2個騎兵連隊、3個砲兵中隊のみ残置し
陣頭指揮により主力を率い西方へ縦深突破、12月5日ノルマンディのルーアンを占領
ついでデープ〜エヴルー地区を掃討
111世界@名無史さん:03/02/12 19:50
 マントイフェル将軍の戦記 4 フランス共和国軍のパリ進軍阻止
 1971年12月23日フランス共和国軍フェーデルブ将軍は4万3000(砲 82門)でパリ奪回のため進軍
マントイフェル将軍は手元に2個師団半 2万3000(砲 180門)しかなかったが
陣頭指揮により仏軍をアミアン東方アルリー河コンティ〜ダウルスにて迎撃
 死傷者900受けるものの仏軍に死傷者1000、捕虜1000の損害を与え撃退
112総督:03/02/12 20:06
>>111
どんな書籍をお読みになったのですか?
ご教示くださいませ。
113世界@名無史さん:03/02/12 20:07
 マントイフェル将軍の戦記 5 仏東部軍の撃滅
 マントイフェル将軍は戦功により更に新編ドイツ南方軍司令官を拝命
 揮下には第2、第7、第14軍団
 特に第14軍団長のヴェルダー将軍もマントイフェル将軍と並ぶ智将である
 1872年1月12日ベルフォールを攻略
ラングル要塞とディジョン要塞の間の敵兵力の手薄な所を偵察し発見し
直ちに突破、オーザンヌ要塞・ブザンソン要塞を無視し敵背後へ進出、退路を遮断
1月21〜22日ドール、ダンピエールに到達
わずか3週間にて東部軍を降伏させた 捕虜 8万
 ちなみにディジョン要塞の仏軍ポゲーゼン将軍揮下4万にはイタリア統一に貢献した
ガリバルディ将軍がいた


114世界@名無史さん:03/02/12 20:22
>111の1971年は1871年の間違えです スマソ

>総督殿
内局勤務の人と同一かどうかまだ確認できませんがおそらく同一人物かと
開戦当初の第1軍司令官はシュタインメッツ将軍です

ソースは旧日本軍将校の伊藤政之助氏著の「世界の戦史」(原書房)全10巻です
戦前の作品(昭和11年発行)なので米・露・仏(ナポレオン時代後)・伊に対しては
手厳しい批評をしていますが、他にゴート戦争や19世紀の南米の「太平洋戦争」という
マイナー戦争にも詳しいですよ
ただ1巻が9000円と高価で手に入りにくいので図書館で探されたほうが・・・

私のは抜粋で人名も戦後の呼び方に若干直してあり、記憶間違えもあるかも知れません
115総督:03/02/12 20:53
>>114
大変THANKS!!
今度近所の図書館を漁ってみます。
それにしても1巻が9000円とは・・・トホホ
こういうものを文庫化して欲しいものです
116世界@名無史さん:03/02/12 21:20
第二次大戦で機甲軍を指揮したハッソー(Hasso von Manteuffel)は代々軍人家系で、
確かにFranco-Prussian Warで第一軍団を指揮したエドヴィン・フライヘール
(Karl Rochus Edwin Freiherr von Manteuffel[1809〜1885])男爵がいますね。
http://www.waffenhq.de/biographien/biographien/manteufel.html
(ドイツ語だけど英訳して何とかわかった)
117102:03/02/13 19:06
>総督殿
重大なミスを書き込んでいたのでお知らせします
 x1871年   ○1870年
 x1872年   ○1871年
実は私も図書館で閲覧してメモってきたので
私のミスで著作のミスではありませぬ
お詫びと言ってはなんですが…  
118世界@名無史さん:03/02/13 19:20
1971年、ドゴールが氏んで戦争に負けました。
119102:03/02/13 19:24
 マントイフェル将軍の戦記外伝 普墺戦争編 西部ドイツ蹂躙.1
 1864年対デンマーク戦に勝利しプロイセンはシュレスヴィヒを
オーストリアはホルシュタインを得た
 1865年8月プロイセンはシュレスヴィヒ軍司令官にマントイフェルを
オーストリアはホルシュタイン軍司令官にガブレンツを任命
 軍司令官といっても歩兵2個旅団、騎兵1個旅団の師団クラス1万2000しかなかったが

 普墺開戦し、1866年6月8日マントイフェル将軍は揮下部隊を集成師団として
アイデル河を渡河し、当日にキールを占領
 6月12日にはハンブルグヘ到達、ガブレンツ軍は戦わず瓦解、ガブレンツは逃亡した

 6月14日ドイツ連邦議会はオーストリア主導でプロイセン討伐を決議した
120102:03/02/13 19:51
 マントイフェル将軍の戦記外伝 普墺戦争編 西部ドイツの蹂躙.2
 1866年6月15日プロイセンは西方軍団を編成
   総司令官 ファルケンシュタイン大将
   参謀長  クラーシュシロー大佐
    揮下部隊
   マントイフェル集成師団 1万4000
    主にシュレスヴィヒ出身兵で編成、オルテンブルク等から補強
   第13歩兵師団      1万4000
    ヴェストファリア州出身兵で編成
   ベーエル集成師団    2万
    プロイセン友好諸邦国より抽出し編成
   総計 4万8000

  オーストリア側
   ハノーバー軍 司令官 ハノーバー公 2万
   第7軍団   司令官 バイエルン王カール 5万
    3個歩兵師団、1個歩兵旅団、1個騎兵師団、1個砲兵集団
    ヴュルツブルグに集結
   第8軍団   司令官 ヘッセン公アレクサンダー 5万3000
    オーストリア友好諸邦国で編成
     ヴュテンベルグ 1万4000
     バーデン    1万2000
     ヘッセン    1万
     ナッサウ      5000
     オーストリア  1万3000
    しかしながらハノーバー公には戦意がなく、バーデンにいたっては当初
   出兵を拒否、オーストリアに国土を占領すると脅され渋々出兵した 
121102:03/02/13 20:12
 マントイフェル将軍の戦記外伝 普墺戦争編 西部ドイツの蹂躙.3
1866年6月18日マントイフェル、ベーエル両師団はハノーバーヘ到達
マントイフェルは次いで西方ヘ進撃、エルベ河のシュテードを奇襲し奪取
6月22日エムス河口のエムデン要塞を占領しハノーバー軍は瓦解した

 7月17日ファルケンシュタイン大将はベーメン占領地区総督に転出
後任にマントイフェル将軍が昇格
 7月21日マントイフェルはフランクフルトに6000の兵を残置し主力6万を率い進軍開始
  右縦隊前衛ゲッペン師団にダルムシュタット攻略を
  左縦隊フリース旅団にミッテンベルク攻略を命じた
  右縦隊にはベーエル師団が追走
 敵第7、第8軍団を西南翼より迂回攻撃、第7軍団をヘルムシュタットで第8軍団をゲルスクハイムで破り7月28日ヴュルツブルグを占領し作戦は完了した
122総督:03/02/15 01:39
へぇ〜
マントイフェルは主力の対オーストリア部隊じゃなくて対仏牽制目的(だったはず・・・)
の西方部隊の司令官だったんだ。勉強になります。
123総督:03/02/15 01:43
本題のビスマルク外交の話題がいまいち盛り上がりに欠けるので、IF話をしましょう。
史実では1890年に宰相の職を辞したビスマルクですが、もしWW1まで宰相の職に
留まっていたら(この際、年齢の事は忘れて下さいませ)その後の欧州それから極東はど
うなっていたんだろうか?
124総督:03/02/15 02:00
じゃあ、まず俺からネタを振ります
@1891年の露仏同盟は何としても阻止し、再保障条約の更新を行う。
A1901年の揚子江協定は成立しないから、日英同盟も幻だった可能性大
 仮に日英が接近しても英露衝突の火種になりそうな日英同盟はビスマルク
 が阻止する可能性大。
Bそうなると、1904年の英仏協商も1907年の英露協商も幻となる。
 要するに英国は「栄誉ある孤立」を継続し、ロシアはドイツ側にと三国協
 商も存在し無くなる。

結果、1914年時点で独、露、墺、伊は同盟関係にあり、英国は孤立外交
またはドイツ側への接近を図る。要するに、サラエボ事件が起きてもロシア
は動かず、最悪でもオーストリアとセルビアの局地戦争に留まったと考えら
れる。
125世界@名無史さん:03/02/15 14:56
まあ、ビスマルク路線を継続していたらというifでもあるわけだから、
少なくとも最初のは間違いなかろう。

で、揚子江協定ってのは何? 寡聞にして知らないんだが・・・

取りあえずヒトラーの運命は変わってただろうな。
126総督:03/02/16 16:12
>>125
WW1が起きないのだから、その後のドイツの惨めな現実も無いわけでヒトラーの
出る幕は無い罠。また、航空機や火器類、戦車の進歩も無く、20世紀後半になっ
ても先進国に騎兵が存在してる状態
127世界@名無史さん:03/02/17 18:18
>>126
それは、戦争による技術進歩をあまりにも評価しすぎ。
128総督:03/02/17 19:26
>>127
いや。でも、WW1が無かったら1940年時点で先進国に騎兵部隊がいる可能性が大きいと思うよ
おれミリタリー苦手だからはっきりはわかんないけど
129世界@名無史さん:03/02/18 18:08
>>124
1.に関してですが、他ならぬビスマルクその人が、1887年ロシア証券担保貸付禁止で
ミソつけてしまい、当時世界一の借金国ロシアはそれ以降ベルリン市場を離れて
パリ金融市場に依存するようになりますので、露仏の接近は
いかなビスマルクの手腕といえども容易には避けがたい状況であったかと思われます。

130総督:03/02/18 22:31
>>129
初耳です。詳しくお願いします。
131世界@名無史さん:03/02/18 22:58
>>129
1.ロシアから安い小麦が入ってきて、ユンカーが打撃を受けた
2.ドイツ自身も植民地だ、軍艦だ、と金が入用だった。
132129:03/02/18 23:45
>>130
まず証券担保貸付(ロンバード)禁止ですが、
これは中央銀行たるライヒスバンクがロシア証券を担保にお金を貸すのを拒否するってことです。
これは何を意味するかというと、要するにドイツ国内でロシア証券を持っていても、
究極的にドイツ通貨に換金できる保証が存在しないわけですから、勢いドイツ国内では
ロシア証券は市場の信任を失います。そうなればだれもロシア国債など買いませんから、
どうしても借金せざるを得ないロシアが折れて通商政策で折れる筈、というのがビスマルクの読み。
しかるに、たまたまロシアが豊作で貿易収支好調という偶然的要因もありますが、
何より、分割地小農の零細貯蓄を基盤に世界一の低金利を誇っていたパリ金融市場という逃げ道があって
ドイツ国内のロシア証券はあっさりとパリに乗り換えられてしまったのですね。
かくて晩年のビスマルクは大きな賭けに失敗し、露仏の接近はビスマルク辞任の時点では
すでに不可避になっていた、と言っていいと思います。

なお、ビスマルクをしてかかる政策に踏み切らせしめた要因は >>131 さんの指摘するとおりです。
すなわちロシアから輸入される安価な穀物の脅威にさらされたユンカー(ビスマルクの支持基盤)の圧力。
かてて加えて、ベルリン金融市場はパリと対照的な高金利、ということはすなわち慢性的な資本不足でして、
要するに国内の資本需要が民間・政府両部門でとにかく逼迫してるのに、
呑気にロシアなんぞに長期投資してる場合か、という世論の後押しが加わったわけです。
133総督:03/02/19 02:12
>>131-132
詳しい説明ありがとうございます。
当方、これでもビスマルクやプロイセンの書籍は読んできたつもりだったんですが
そんな重要な史実を見逃すとは・・・
134総督:03/02/19 02:24
1891年、ロシアが再保障条約の更新を渋りフランスへの接近を図った時、
ビスマルクが例の証券担保貸付(ロンバード)禁止措置停止やもっと直
接的な対露借款などを行ってでも再保障条約更新に拘ったか否か?
ここが結構重要なターニングポイントになると思います。
135世界@名無史さん:03/02/19 21:46
>>131
経済的接近から軍事的同盟って、そう一気に行くかな。
近年の日本と中国を見れば分かる通り、経済的に接近しても
軍事関係に結びつかない場合はやっぱりあると思うが。

それと、資本不足云々ってことは産業資本の要求かな?
金融資本は高金利でむしろ儲けられるはずなので、
その辺どうなんだろう?

あと、ロシアの証券ってそんなに国際市場に出てたっけ?
ドイツーロシア関係を考えると象徴的な意味で大きかったんだろうが、
実際の経済数値は大したことなかった可能性もある。
136世界@名無史さん:03/02/20 00:42
>>135
最初は経済的で、必ずしも軍事同盟まで意図していなかった。
それは、革命フランスと専制ロシア。
それぞれの国内に当然同盟反対が多かった。
しかし、フランスはヨーロッパで孤立し同盟国を欲していたし、ロシアはとにかく軍隊の近代化、シベリア鉄道建設など金が欲しかった。
当初は、必ずしも、攻撃的な同盟ではなかった。
そして両国には共通の敵がいた。この同盟の最初の敵は、イギリス。。。
まさか、というわけ。
ロシアの軍楽隊が、仏大統領を迎えた
137世界@名無史さん:03/02/20 00:44
>>136
つづき
とき、ラ・マルセーユを演奏した。
138129:03/02/20 17:06
>>135
一般論として、軍事同盟を伴わない経済的接近はもちろん至る所で見られます。
しかし、ロンバード禁止はロシア国家の存立そのものを脅かすような重大な挑発行為、
いわば金融的戦線布告を意味しましたから、ことこの時期の露仏関係に関しては、
経済的接近から軍事同盟の展開はむしろ自然な経緯であったかと思われます。
というのも、1870年半ばからこのロンバード禁止に至るまでの時期の
ロシア国家財政収入に占める国債の割合は実に約37%。
このうちドイツが引き受けたロシア国債の割合は3/5とも4/5とも言われています。
象徴的どころの話ではなく、ロシア国家財政はドイツ資本なしではどうにもならない、
という状態で、だからこそビスマルクは金融的手段によるロシア恫喝に勝算あり、と
踏んだわけです。
 なおドイツの対外資本輸出におけるロシアの割合も全体の1/4、ロシアはドイツにとって
最大の投資国でした。この巨額の証券が紙屑になるのを覚悟のロンバード禁止ですから、
まあ双方痛手の大博打ですね。それから、銀行がロンバード禁止を喜ぶはずはもちろん
ありません。なにしろ手持ちのロシア証券がどんどん減価して銀行は大損ですから。
農業不況で経営逼迫の農業利害、及び大不況から立ち直り投資活発化していた工業利害、
ロンバード禁止はこれらの勢力によって後押しされていました。ロシア債券が
ベルリン市場に食い込んでいるせいでやたら金利が高くなってるじゃないか、ってわけで。
139世界@名無史さん :03/03/09 13:34
>>当初は、必ずしも、攻撃的な同盟ではなかった。

最後まで防御同盟であった。
ロシアはフランス本国以外(植民地)で独仏が対立しても助けることは
無いと名言していたし、フランスは独墺以外(トルコ・日本・バルカン)
でロシアが問題を起こしても助けないことを明言していた。
140世界@名無史さん:03/03/13 18:46
あれ?記憶違いかな
私の読んだことある歴史書では三国協商は三国同盟より攻撃的協約であるとか書いてあったような気が・・・
141山崎渉:03/04/17 10:10
(^^)
142山崎渉:03/04/20 04:43
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
143山崎渉:03/05/21 22:55
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
144山崎渉:03/05/21 23:40
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
145山崎渉:03/05/28 15:29
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
146世界@名無史さん:03/06/11 19:58
age

147YUIS:03/06/11 19:58
「2chからきました」ってコメントに書いたら値引きしちゃうよ(^_^)v
↓↓↓
 http://www.dvd-yuis.com/
148世界@名無史さん:03/07/14 00:55
う〜ん、こんな良スレをSAGEる理由はない
149世界@名無史さん:03/07/14 01:25
おお。懐かしいスレ
すっかり山崎に侵食されてしまったな
150世界@名無史さん:03/07/14 22:36
伊藤博文はビスマルクの信奉者だったらしいね。
151世界@名無史さん:03/07/14 23:45
自称東洋のビスマルク
ビスマルクって女好きだったの?
152_:03/07/14 23:45
153世界@名無史さん:03/07/15 00:10
>151
どこまで進んだかはともかく、
社交界の夫人方と結構お付き合いはあったらしい。
実際、名前が知られてるのとそうでないのと含めて、
結婚前に二人の女性に恋をしたらしいし。

まあ、一方で愛妻家でもあったわけだが。
154山崎 渉:03/07/15 12:28

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
155世界@名無史さん:03/07/17 01:02
保守age。
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
157世界@名無史さん:03/08/13 12:00
後継者は大事ですね。
158山崎 渉:03/08/15 18:38
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
159世界@名無史さん:03/08/21 07:31
叱られるかもしれんが何やら
「善のカリオストロ」っぽい印象がある
おドイツにとっての善だけど
160世界@名無史さん:03/10/14 15:51
ビスマルクがあのまま解任されずにいたら歴史は変わってた
161世界@名無史さん:03/10/14 22:04
ゴーロ・マンの近代ドイツ史読んでたら相当評価が辛かった
まあ後継者はもっとボロクソに言われてるけど
162世界@名無史さん:03/10/14 22:07
>>160
うん
163世界@名無史さん:03/10/14 22:10
でも寿命が来てカイゼル親政になったら結局あまり変わらないのでは
164世界@名無史さん:03/10/14 23:13
ガルの『ビスマルク−白色革命家』買いたいのだがいかんせん高いよな・・・
165世界@名無史さん:03/10/16 15:58
対仏大同盟燃え
166世界@名無史さん:03/10/16 17:29
建国の功労者が用心深いのに後の世代が慢心したのは
日本と同じ
外交と戦争は甘くない
167世界@名無史さん:03/10/16 20:13
ビスマルクは敵前逃亡の罪たい卑怯者
アメリカさんを敵に回したら勝てないことを一番よくしっていた
そこで老人虐待の被害者を装った 役者やのう
あとの結果はだれがなっても同じ
168世界@名無史さん:03/10/16 20:23
皆もこれから老人似なるんだから ビスマルクの様なアリバイ工作者になるための
良書を読んどいた方がいいぞ でもビスマルクおたくが書いた本からは
得るものはないと思うぞ
169世界@名無史さん:03/10/16 20:28
OZというアメリカの刑務所ドラマは面白いぞ
ビスマルク対ビスマルクとしか思えん話が多いのだ
あッネタばらしちゃった
170世界@名無史さん:03/11/16 21:30
誰か今このスレを見てるかたはいますか?
171世界@名無しさん:03/11/16 21:33
刑務所の中でオカマにされた元弁護士が主人公の映画?
172世界@名無史さん:03/11/16 21:39
実はビスマルクが宰相に就任する前後のヨーロッパの世界情勢に
ついて教えていただきたいのですが
ご存知の方いらっしゃいますでしょうか?
173世界@名無史さん:03/11/30 23:08
>>129
大学の時の西洋史の教授がロシア専門で、
ロンバード禁止条約についての論文か何かを書いてたのを
思い出した。
探して読んでみよう。
174世界@名無史さん:03/12/01 03:34
>>173 これなんかドンピシャですが。

伊藤昌太「ビスマルクのロンバード禁止と独露通商対立」、『福大史学』第12号、1971年5月

175世界@名無史さん:03/12/01 21:34
>>174
おお、まさにその人!
学生時代はお世話になりました。
176世界@名無史さん:03/12/01 23:16
僕はビスマルクの国内政策に興味があるんですが
進歩党、社会民主党、カトリック中央党への対応と
その背景を知りたいのですが詳しい方教えてもらいたいです。
177世界@名無史さん:03/12/02 03:11
>>175
つーか、129以下の記述は伊藤先生の論文に全面依拠です(笑)。
178世界@名無史さん:03/12/06 21:35
舞姫にもビスマルクの名が出てくるのには驚いた。
鴎外はビスマルクを尊敬していたんだろうか?
179世界@名無史さん:03/12/07 02:56
「森鷗外」
180世界@名無史さん:03/12/18 23:19
手詰まりになる前に首になったんで、
異常に高評価って見方をする奴が事ビスマルクにかんしては
いないのが不思議
181世界@名無史さん:03/12/19 07:05
首切ったのがDQN皇帝だったからねぇ
182世界@名無史さん:03/12/19 20:36
ウィルヘルム2世って言われてるほど酷くないってのが
最近つーかちょっとまえから言われ始めてるな。
183 :03/12/19 23:18
ヴィルヘルム2世がホモだったという話は最近どこかで聞いたなあ。
184世界@名無史さん:03/12/21 22:10
>>183

俺が「ウ」って言ってるのにワザワザ、「ヴ」っていうなや
糞やろう
185世界@名無史さん:03/12/21 22:16
ヸルヘルムと言はふぞ。
186 :03/12/21 23:40
>>184
そういうことあんまり気にするな
禿げるぞ
187世界@名無史さん:03/12/23 15:33
丸出禿照 =丸出ダメ夫の父 =十朱久雄 =十朱幸世の父
188世界@名無史さん:04/01/17 22:55
age
189世界@名無史さん:04/02/12 22:56
ビスマルクについて語ることはこの程度かい?
190世界@名無史さん:04/02/13 23:11
>>189
不平不満を言うよりも 進んで灯りを付けましょう
191ビスマルクの知恵に触れたい:04/04/04 21:10
ビスマルクスレの皆さんにお願いがあります。
世界各国の外交官は自分の体験した出来事や
ノウハウをメモワールや日記にして残していると
もとタイ大使の岡崎市の著作で呼んだ事があります。
それで、その時代の雰囲気や外交の勉強の為に
そうした類の日記を集めようと思っているのですが、
ビスマルクが書いたと言われる著作の国家と権力が
どうしても見当たらないのです。
ドイツ語が読めれば一番なのですが、非力にして日本語しか
読む事が出来ない私にはどうしようもありません。
この著作はどうやったら入手できるのか教えていただけないでしょうか。
またよろしかったらどのような内容であったかご教授
願えないでしょうか。
是非、お力をお借りしたいのです。
192世界@名無史さん:04/04/04 23:21
日本語はないんじゃないの?
英語探してみたら?
193 ◆6hgEmzypp2 :04/04/05 02:09

英語でも難しいね。新刊書にはない。図書館を探すしかないでしょうな。
英語でネットにのってるのはこのぐらいか?
http://www.fordham.edu/halsall/mod/germanunification.html
http://history.hanover.edu/texts/bis.htm
http://www.fordham.edu/halsall/mod/1880bismarck.html

194世界@名無史さん:04/05/08 04:47
ビスマルクの新全集が発刊中で、またビスマルクブームが来そうな予感がするので、
この際一念発起してドイツ語勉強されてみては?慣れればウムラウトがいとおしく思えてきますよ
>>192、193,194
皆さん、私の質問にご親切にレスして下さって
ありがとうございます。
どうやらなかなか難しいようですね。
日本語訳があれば絶対売れると思うんですけどね。
これから自分なりに頑張ってみようかと思います。
外国語が出来るように成るには道は険しいですが(笑。
皆さん、本当にご丁寧にレスの返答感謝いたします。
196世界史好き:04/06/18 23:53
>>51
この城って、ノイシュヴァンシュタイン城ですね。
シンデレラ城のモデルです。
197世界史好き:04/06/19 00:23
>>46
Peakさんの知識に感動しつつ、プラスアルファ。
もう1つの重要な要素として、「ドイツ連邦内の宗教対立」があります。
【1】プロイセンを含む多くの領邦
16世紀前半のルターの宗教改革により「反神聖ローマ皇帝派」の領邦に
ルター派(新教)が広まった。
【2】オーストリア
15世紀以来、ハプスブルク家から神聖ローマ皇帝が出されるようになり、
ローマ教皇との結びつきができたことからカトリックの領邦の代表格。
【3】バイエルンを含む西南ドイツの領邦
古くから西に隣接するフランスとの交流が盛んであったため、
カトリック国フランスの影響を受け、カトリックの領邦が多かった。
ルターらの宗教改革直後の、イエズス会によるカトリック再布教によるところも大きい。

1848年の三月革命直後に開かれたフランクフルト国民「議会」(一応、ドイツ連邦の正式な議会)
において、統一問題が議論された際、
新教国プロイセンを中心に「オーストリアを排除」する小ドイツ主義と
旧教国オーストリアを中心に全ドイツを統一する大ドイツ主義が対立しました。
ビスマルクは、民族問題を抱えるオーストリアのみを排除したいと画策したようです。
そのため、普墺戦争直後の新連邦には小ドイツ主義に反発していた西南ドイツ諸邦
を無理矢理編入しようとはしなかったわけです=北ドイツ連邦。
(長くてすいません。)
198世界史好き:04/06/19 00:25
197の続きです…。
バイエルンは西南ドイツ諸邦の「リーダー格」であったため、
これを説得できれば「平和的に」ドイツ統一を完成に導くことになります。
そのチャンスの動きが「バイエルン王国の築城資金援助」でした。
実際、この裏取引のおかげで、1871年のドイツ帝国成立宣言の際、
バイエルン国王が「プロイセン国王をドイツ帝国皇帝に推戴する」と発声しています。
しかしこれは、バイエルン国民の心情を無視した行動でもあった訳なので、
ドイツ帝国成立直後に、その国内において、西南ドイツのカトリック勢力がつくった
中央党と新教国プロイセンとの間に宗教対立を原因とする「文化闘争」が
起きるようになったのも当然の動きでした。
199世界@名無史さん:04/07/23 21:34
良スレだなぁ
200世界@名無史さん:04/07/24 00:06
200
201世界@名無史さん:04/07/24 10:26
このスレで英独の建艦競争について語るのはOK?
202世界@名無史さん:04/08/18 00:13
ヴェルヘルム二世はヒトラーの台頭とWW2をどんな思いでみてたんだろうね。
回顧録とかないんかな
203世界@名無史さん:04/08/24 01:02
>>202
年金もらえなくなるから悪口はいえません。
204Ryuju ◆RlujhF6VrA :04/08/24 20:24
今、キッシンジャーの「外交」を読んでて、
ビスマルクのところまでを読み終わったんだが、さすがに評価が高いな。
他の部分も含め、「遅らせる」ことに結構評価を与えているのが印象的だ。
205世界@名無史さん:04/09/17 19:29:27
グリムらが、先行するナポレオン民法典の謳う「普遍性」なるものに対抗して、
「ゲルマン的な」ドイツ民法典の編纂の必要を感じ、
その作業の一環として古ゲルマン神話やゲルマン民話の収集を行った事実は
もっと知られてもいいことですよね。

日本でもそのような作業は不可能だったのか、とふと思います。
どうも、「普遍性」なるものに胡散臭さを感じてしまう性分なので…
もちろん、法学を学ぶ以上、そんなフィクションに
付き合わなきゃいけないのは百も承知なのですが。

206世界@名無史さん:04/09/18 02:56:44
>>205
多分、柳田民俗学とかがそんなノリだったんじゃないの?
207世界@名無史さん:04/10/27 18:51:38
ビスマルクはともかくモルトケはなにが凄いのかわからん。
208世界@名無史さん:04/11/04 21:36:41
『独乙平原』っていう
1200頁もあるビスマルクの伝記小説読了。

中々面白かった。
209Ryuju ◆RlujhF6VrA :04/11/05 10:09:46
>>207
モルトケは「七週間戦争」のインパクトでしょう。
オーストリアを完膚無きまでに叩きのめした。
ナポレオン三世はこれが長期化すると踏んでいたが、
あっさり当てが外れた。
当時の常識から考えても、いくらビスマルクだけ優秀でも、
軍事力が伴わなければ上手く行かなかったと思う。
210世界@名無史さん:04/11/05 10:49:36
>>207
「軍事」とか「戦史」の人にとっては、ものすごい人です。
現代の軍事思想に大きな影響を与えていますしね。
例えば、訓令戦術(委任戦術)など。

米陸軍ではモルトケ研究は結構盛んらしく、士官学校では
普墺戦史などは必須科目らしいですよ。(←ソースは忘れました、スマソ)
211世界@名無史さん:04/11/19 17:31:28
究極の敵の敵は味方作戦
212世界@名無史さん:04/11/27 18:50:24
モルトケは天性の軍人じゃないと思う
だから逆に凄いのかもしれないが
213世界@名無史さん:05/01/02 08:49:29
良スレ保守
214世界@名無史さん:05/01/02 08:51:31
軍事外交は何のためか?

  という点で参考になる。
215世界@名無史さん:05/01/02 23:06:02
モルトケは経営学の中の組織関係の議論でわりと頻出。
ライン横断型のスタッフ制度を本格的に取り入れて理論化した人ということで。

ビスマルクは個人的に大好きだ。
子供の頃は善悪よく分からず不快な存在だったが今では芯から偉業の人と思う。
ただ、退陣についてはあれが潮だったのではないかと。
彼が退陣した頃というのは大きな目でみて、
本来流動的な外交というものが大きく動こうとする矢先だった。
むしろ流動的な筈の外交をたった一人で長い間せき止め続けたことに、
彼の前人未踏の業績が隠されている。
まああの辺が限度だったろうということさ。
216世界@名無史さん:05/01/08 15:29:22
保守
217世界@名無史さん:05/01/14 07:30:24
ビスマルク以上の政治家はいるか?!
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/whis/1069478998/
218世界@名無史さん:05/02/03 02:40:09 0
ビスマルクとヴィルヘルムU世の不和はよく話題に登り、
加えてヴィルヘルムUがビスマルクをいたく嫌い、辞任だか解任だかに追い込んだという話もよく聞きます。
そこの所へ最近、ビスマルクの方がアタマっから若僧である皇帝をずいぶん嫌っていた、という話を聞きました。
一体どちらが本当なのでしょう?というより、先に相手を毛嫌いしたのはどちらだったのかな、と。
219世界@名無史さん:05/02/03 13:17:14 0
力のヒエラレルキーを考えてみると良い。
U世は皇帝。 ビスマルクは臣下。

臣下が皇帝を誹るのは考えにくい
まず皇帝が嫌い、不和に繋がったという結論がある。
220世界@名無史さん:05/02/04 00:18:32 0
宰相が皇帝を、「嫌っていた」というよりは「舐めていた」という感じかな。
まあ、この二人の人間関係については、漏れはどっちもどっちだと思います。

ウィルヘルム2世は身体的なコンプレックスのせいか病的な自尊心の持ち主だったようですし、
目の上のたんこぶを嫌っていたことは想像に難くありません。

一方、ビスマルクは「オレ様がいちばん」な考えの持ち主ですから、
王室は尊敬する(というポーズは取る)ものの、王族の人間はバカにしきっていました。
(一応、馬のあったヴィルヘルム1世を泣かすこと数知れず。
夭折したフリードリヒ3世は、太子時代にはビスマルクに疎外されまくってしました。)
よって、ヴィルヘルム2世に対しても若僧扱いして師匠風を吹かせたわけです。
(ビスマルクは政治的宣伝の達人でもありますから、ザクセンヴァルトに隠遁した後には、
自分を皇帝のわがままに対する被害者として描き出すことに努め、それに成功します。)

結局、この二人の関係は、諸葛孔明と劉禅のようにはいかなかった、と。
221世界@名無史さん:05/02/23 22:21:58 0
七週間戦争の勝利後、軍人たちは当然のようにウィーン入城しようとしたが
ビスマルクが反対して大喧嘩になった。次はフランスだし
オーストリアに憎まれたくなかったから。
「なんでみんなわかってくれないんだ!」ってビスマルクは泣いたらしい。
軍人気取りの王も反対したが王子だけが
味方になって説得してくれて渋々みんなビスマルクに従った。
んで、フ仏戦争。セダンでナポ三世を捕らえる大戦果を上げたが、
これまたビスマルクだけが困った。和平交渉できないじゃんw
軍人たちは有無を言わさず意気揚揚とパリに進撃。それでパリ・コミューンw
いらぬ血が流されていらぬ憎しみをかってしまった。
モルトケもビスマルクの事を政治屋だって嫌ってたらしい。
戦争は外交の一手段だという良い例だよね
222世界@名無史さん:05/02/27 23:35:26 0
「戦争は会議室で起きてるんじゃない、現場で起きてんだ!」と叫んだ軍人がいたとかいないとか…
223世界@名無史さん