ドイツ連邦に加わっていたルクセンブルクが
ドイツ帝国には加わらなかったのはどうしてですか?
551 :
世界@名無史さん:04/05/03 19:22
>550
ウイ−ン会議後にドイツ連邦に加盟するルクセンブルク大公国が成立しますが
国家元首たるルクセンブルク大公はオランダ国王が兼任することになり
オランダの属国ないしは保護国のような位置付けになってしまいます。
このオランダとの関係がドイツ帝國への併合を防いだと思われます。
でも、同じようにデンマーク国王を元首にしていた
シュレスヴィヒとホルシュタインは、プロイセンとの戦争で
完全に併合されてしまっていますが。
ついでに書いておくと、ルクセンブルクがオランダ国王の統治下にあった
期間より、シュレスヴィヒ=ホルシュタインがデンマーク国王の統治下に
あった期間の方がはるかに長いですし、ドイツ連邦下のルクセンブルク大公国
では、プロイセン軍がルクセンブルク市内に駐留していました。
オランダとの関係より、フランスに隣接しているというのが要因では?
555 :
からむなや>552:04/05/03 22:55
さすがに仏蘭の両方と戦争する気はなかったんだろうよ>普仏戦争時
但し、ルクセンブル併合への動きは別線でちゃんと進行してたらしい。
最終的にはWWIの独逸敗北で併合への動きは完全に消滅するんだけどね。
大戦中はドイツに進駐されちゃうしドイツが戦争に勝利してれば併合されてたとオモ。
ルクセンブルグからみた場合、WWIはルクセンブルグ併合を目的とした戦争にあたるんだろうね。
>>550 時系列を整理すると、
1.普墺戦争
2.ルクセンブルク問題→ロンドン会議
3.普仏戦争
4.ドイツ帝国成立
という順序。
普墺戦争の長期化で漁夫の利を狙ったものの、
短期終結であてが外れ、何か損をした気分になったナポレオン3世が、
「じゃあこっちをよこせや!」とごねたのがルクセンブルク問題。
で、この仏の野望を英・普が阻止したのがロンドン会議。
(普は、この時点では南独諸邦を懐柔するために、余計な領土的野心は見せていない。)
このロンドン会議でルクセンブルクの中立化が決まっていたので、
普仏戦争後の欧州勢力均衡の安定を望むビスマルクは、ルクセンブルクにはタッチしなかった。
(彼が最も配慮したのは、ロンドン会議の保証人である英の動向。)
ビスマルク一代はこんな感じ。
ヴィルヘルム2世以降はよく知らん。
おそらく
>>555氏の言うとおりなのだろう。
ベルギーにだって侵攻しちゃうぐらいだし。>>WWI
あと、一般に低地諸国(ベネルクス)の中立化が問題になるとき、その最大の守護者は英国。
あとは独仏のどっちか併合を主張してない方が英の味方になる。
557 :
世界@名無史さん:04/05/04 00:14
>>550 ドイツ連邦成立時(1815年)におけるルクセンブルク大公国の領域は、現在のルクセンブルクよりかなり広いです。
1830年にベルギーが独立した際、ルクセンブルクは、西半分(ほぼフランス語地域)をベルギーに割譲しています。
なお、1815年から1890年まで、ルクセンブルクはオランダと同君連合でした。
つまり、ベルギーは、オラニエ家の支配地域だったオランダとルクセンブルクの双方から、領土をかすめ取る形で独立したと言えます。
558 :
世界@名無史さん:04/05/04 00:18
ちなみに、1714年から1837年までイギリスと同君連合だったハノーヴァーも、もしドイツ帝国成立時までイギリスとの同君連合が解消されていなかったら、かなり微妙な状況になっていた可能性がある。
ただ、幸運(?)にもハノーヴァーは、女子の継承を認めていなかったので、イギリスでヴィクトリア女王が即位した結果、同君連合が解消された。
559 :
世界@名無史さん:04/05/04 00:28
1815年のドイツ連邦の実態
オーストリア・・・域外領土あり(クロアチア=スラヴォニア、ダルマチア、ヴォイヴォディナ、ハンガリー、トランシルヴァニア、ルテニア、スロヴァキア、東西ガリツィアなど)
プロイセン・・・域外領土あり(東西プロイセン、ポズナニなど)
ルクセンブルク・・・オランダと同君連合
ハノーヴァー・・・イギリスと同君連合
ホルシュタイン=シュレスヴィヒ・・・デンマークと同君連合
リヒテンシュタイン・・・事実上オーストリアに臣従
非常に興味深い。こういう知識は、日本の外交官諸氏は当然持ってるよね?
>>556 補足すると普墺戦争のきっかけの1つは、
デンマークがシュレスヴィヒ=ホルシュタイン公国を失った
シュレスヴィヒ戦争(第一次、第二次)の戦後処理を巡る
2つの戦勝国、プロイセンとオーストリアの対立だった。
おお、全ての話がリンクしている!
562 :
waza_fire:04/05/04 02:22
久しぶりに見たらなんかイイ感じに進行してるね。ルクセンブルクか…
563 :
世界@名無史さん:04/05/04 07:29
ルクセンブルグも
>>558と同様の理由で1890年にオランダとの同君連合が解消され
現在の大公家であるナッサウ=ヴァイルブルグ家(ルクセンブルグ家)が大公位を継承しますね。
564 :
世界@名無史さん:04/05/04 07:47
大昔(〜15世紀)のルクセンブルグ公はチェコ王やドイツ王や神聖ローマ皇帝就任するなど中々有力な諸侯であり
ルクセンブルグ自体の広さも今よりも四倍程の面積であったそうな。
それがフランス、ドイツ(プロイセン)、ベルギーなどに領土を取られて今の国土となったそうな。
WWIの時はルクセンブルグ政府と大公家はドイツの軍事占領をさしたる抵抗もなく
受け入れてドイツに協力した格好になったので戦後は苦しい立場に立たされた。
大公女は妹に位を譲り退位しますた。
WWIIの時にもルクセンブルグが軍事占領されてしまいますた。
今回は前回の反省から政府と大公家は国外に亡命し連合国側で亡命政府の旗を樹てます。
占領期間中にナチスドイツによりドイツへ併合を大前提とした国勢調査が実施されますが
ルクセンブルク全国民が団結し国政調査を拒否し国政調査を中止に追い込み
いわゆる建国神話の一つを構成します。
WWII中は亡命ルクセンブルグ人により亡命ベルギー軍内の亡命ルクセンブルグ中隊として
一応連合軍の一翼を担います。
567 :
世界@名無史さん:04/05/04 20:25
>>564 神聖ローマ帝国のルクセンブルク朝だね。
金印勅書を出したカール4世が有名かな。
あの時期のルクセンブルク家は、家名の由来となったルクセンブルク公の他に、神聖ローマ皇帝(ドイツ王)やベーメン王(当時のベーメンは神聖ローマ帝国の一部)を兼任していたね。
結局、これらの称号は、婚姻関係によって1438年にハプスブルク家のオーストリア大公アルプレヒト5世(神聖ローマ皇帝としては2世)に継承されて、以後ハプスブルク家の世襲となった。
WWII中の亡命ルクセンブルグ政府の重要な仕事は「忘却との戦い」。
連合国の一員としてのルクセンブルグをアピールしつづける事であった。
各国首脳の声明や談話でも亡命政権もオランダ、ベルギーなどについては言及されるが
ルクセンブルグの亡命政府についてはスルーが多かったとか(w。
>>567 ルクセンブルク公領自体は、ブルゴーニュ公の支配の後、同家との婚姻を通じて
アルプレヒト2世の2代後のマクシミリアン1世に、ネーデルラント諸邦
(現在のオランダとベルギー)とともに継承されたわけで、してみるとそれまでは
ルクセンブルク公といっても名目のみだったということかな?
その後は、カール5世からその直系のスペイン・ハプスブルク家へ、同家断絶後は
スペイン継承戦争の結果、オーストリア・ハプスブルク家へ継承されて
ナポレオン戦争に至る、ということでよろしいですか?
>569
厳密にいうとフランス・ブルボン家による占領期間(1684-1714)が存在しますね。
>ルクセンブルク公といっても名目のみだったということかな?
というか当時はそれが普通、一人の君主が様々な称号を保持していた。
たとえば時代は下るけどビクトリア女王がインド帝国の皇帝を兼任したとかいう例もある。
但し当時の歴代ルクセンブルグ公が現地を実効支配していたかどうかは微妙。
場合によっては現地勢力にお任せでアガリだけ貰ってたというケースもあったとオモ。
神聖ローマ皇帝の権力が帝国内にどの程度行き渡っていたかという話と重なるね。
今のルクセンブルクは「ルクセンブルク語」をつくるのに精を出している。
ドイツ語扱いされるとドイツの一部扱いされるので必死。
572 :
世界@名無史さん:04/05/05 22:09
ルクセンブルク、、、規模で言ったら国主大名くらいか。
ルクセンブルクと長州藩が戦争したらどっちが勝つかな?
573 :
世界@名無史さん:04/05/05 22:22
>>571 フランス語の語彙が、ドイツ語に混じった言葉ですよね。
でも、何故そこまで必死なのかな?
何か実益があるのですか?
575 :
waza_fire:04/05/05 23:04
>>571 モルドバ語やブリャート語も、ソ連が標準から方言程度の差しかないものを「言語」にしてしまったんだよな
>>573 国家としてのアイデンティティに関わるからでしょうな。
「同じドイツ民族としてドイツに併合〜」などという話を打ち消すために
民族としての独自性を強調する必要があるのでしょうな。
又、居住者の三割が外国人という現在の状況下では
ともすれば薄れがちなルクセンブルグの独自性というものを
重要視する必要があるのでしょうな。
ちなみルクセンブルグの独自性が強調されだしたのは19世紀末頃からだとか
恐らくオランダとの同君連合が解消され独自の君主を持つようになった事が
多少は関係しているのでしょうな。
次あたり「ボスニア語」制定と予想してみるテストw
>572
ルクセンブルグの常備兵力は800名とか。
国土の広さは横須賀市並、城主大名では?
580 :
世界@名無史さん:04/05/05 23:17
582 :
世界@名無史さん:04/05/05 23:31
薩摩語制定マダー?(AA略
たしか、大正天皇の天長節は、一ヶ月遅らせて祝ってた。
夏の暑い盛りにするのはよくないとかで。
>>583 18世紀末だとまだハプスブルク家の領土だった時代で、神聖ローマ皇帝
ヨーゼフ2世、レオポルト2世、フランツ2世(19世紀になってから
オーストリア皇帝フランツ1世と称す)が君主ということになりますね。
586 :
世界@名無史さん:04/05/06 03:09
ハプスブルク家(オーストリア系)の南ネーデルラント&ルクセンブルク領有は、ブルボン家のスペイン王位継承を認める代わりの見返りだった。
587 :
世界@名無史さん:04/05/06 08:36
>>583-584 なんとも、ノンビリしてていいじゃないか。
形式より実益重視というか。。。
588 :
世界@名無史さん:04/05/06 17:52
俺ん家。
>>586 ヨーゼフ2世は隣邦バイエルン選帝侯領を併合しようと、選帝侯に
ハプスブルク領ネーデルラント(ルクセンブルク含む)への
国替えを迫ったが、結局実現しなかった。
飛び領だったから平気で?取引材料にできたのだろう。
実現していたらヨーロッパの地図は今とは少し違っていたはずだ。
590 :
世界@名無史さん:04/05/09 00:01
ルクセンブルグ大公位はオランダ王国ではなくて
オランダ国王が個人として所有するものとされていました。
従ってオランダ国王が大公位を第三者に譲渡するのも自由だったそうです。
事実ナポレオン三世への譲渡が画策されたこともあったそうです。
592 :
世界@名無史さん:04/05/10 04:03
ベルギー領コンゴ(現コンゴ民主共和国、旧ザイール)がベルギー国王個人の所有地だったのと似ているかな。
593 :
世界@名無史さん:04/05/10 04:03
>>591 ベルギー独立ってイギリスが関係してたの?
>>593 してた。
1830年の仏七月革命を機としたベルギーでの反オランダ闘争勃発&独立宣言に際して、
英国のやった(言った)ことは2つ。
1.「もう別れなさい。」
2.「再婚は許しません。特にフランスとは。」
出来立てのルイ・フィリップ七月王政は対英強調を優先し、
(一部共和派はごねたけど。「同文同種」のベルギー併合を主張して。)
英仏の主導でロンドン会議が開かれ、
正統主義に固執する東方三君主国(露普墺)を説得して、
ベルギー独立&中立化という運びになった。
(だからベルギー独立はウィーン体制解体の重要な一局面であるとも言える。)
(あとこの場合の「中立」は、「永久にフランスとはくっつくなよ!---わかりました」
の婉曲表現だったわけやね。もともとは。)
595 :
世界@名無史さん:04/05/10 05:36
このスレ、はっきり言ってベネルクス3国スレの様相を呈しているな。
話は変わりますが、リヒテンシュタインがオーストリアに併合されなかったのは
なぜなんでしょう?
597 :
世界@名無史さん:04/05/11 00:05
>594
そしてベルギー革命の動きと呼応する形でルクセンブルグでも
新生ベルギーへの統合(オランダ国王からの自立)が主張されだす。
その結果ルクセンブルグのほぼ全土(プロイセン軍が駐屯する首都部を除く)が
新生ベルギーの実効支配する所となってしまう。
関係各国の思惑が複雑に錯綜するなか紆余曲折の結果
1839年のロンドン条約で妥協が成立する。
その内容はルクセンブルグの領土を仏語地域と独語地域にニ分し
仏語地域をベルギーに編入し、独語地域を従来のオランダ国王所有の
ルクセンブルグ大公国とするものです。この時の国境が今にいたっています。