1756年から1763年にわたって 仏国・英国・プロシア・オーストリアが参戦した セブンイヤーズウォーのスレッド
ワシントンは英国側で戦ったらしいな
3 :
世界@名無史さん :02/10/23 17:15
会津藩派遣の白虎隊も活躍したとか。
5 :
世界@名無史さん :02/10/23 17:44
>>4 マジですか!
やっぱインディアン風に
「白い虎」とか呼ばれていたんですかね。
6 :
世界@名無史さん :02/10/23 18:34
7 :
世界@名無史さん :02/10/23 18:59
フリードリッヒ大王が、(ほぼ)全欧州を敵に回して戦ったんでしたっけ?
8 :
世界@名無史さん :02/10/23 20:12
英国が、最初の細菌兵器を使ったんだっけ?
7年戦争のキーマンはロシア帝国なのにねえ
七年戦争&フレンチ・インディアン戦争&プラッシーである意味最初の 世界大戦。
12 :
名無しさん@1周年 :02/10/23 22:00
三婦人同盟 ・マリア・テレジア ・ポンパドゥール ・エリザベータ
13 :
世界@名無史さん :02/10/23 22:28
「バリー・リンドン」1975(米)監督S.キューブリック の背景となっていた戦争ですよね。
14 :
世界@名無史さん :02/10/23 22:29
フランスのほうが、 アングロサクソンよりは先住民族に対してひどくなかったので (フランス領ルイジアナではナチェス民族を皆殺しにしたが)、 先住民族にフランス側につくものが居た
>>2 オハイオ側流域を南下してきたフランス軍
兵士三十人に攻撃を加え指揮官以下十人を殺し、残りを捕虜にした
これがフレンチインディアン戦争の戦端を開いたといわれている
ウ"ァージニア総督が送った第一陣らしいが規模は知らない
十人戦死だから先生攻撃加えて降伏させたんだろうか
小隊長ぐらいかな
age
17 :
世界@名無史さん :02/10/25 09:01
>>6 失礼しました。
オーストリア・フランス&ロシア対プロシア&イギリスの構図ですね。
オーストリアから見ると第三次シレジア戦争なわけですが
戦場が海を越えて広がったあたりプレ世界大戦と言ってもいいかも。
18 :
第3次シュレジエン戦争(7年戦争) :02/10/25 13:41
ハプスブルグ家は神聖ローマ帝国軍としての性格上、西南ドイツ出身者の 傭兵が主体。それがフランス、ロシア、プロイセンの過度期にある徴兵主体の常備軍あいてに弱かった。 第一次、第2次のシュレジエン継承戦争における敗戦の経験をふまえ、マリア・テレジアは ハウクヴィッツ伯の内政改革、ダウン伯の軍制改革、リヒテンシュタイン伯の砲兵隊改革を 断行し、外交的にもプロイセン包囲網を形成。 いよいよシュレジエン奪回にのりだす フリードリヒ大王(2世)の果敢な機動戦で7年戦争は幕をあけるんだよね。
19 :
ヒトラーの末期の希望 :02/10/25 13:49
ま、フレンチ・インディアン戦争方面のスレらしいので詳細は控えるけど ともかく孤立無援に近いフリドリヒ大王は個別の戦闘で勝利を幾ら重ねても 戦略的には敗戦間違いなしだった。 ただしハプスブルグ家が自軍の損害を恐れて殲滅戦をおこなわなかったことが 時間稼ぎとなり、ロシアの親プロイセン国王就任(ピョートル3世)により プロイセン包囲網が崩れたいう感じかなあ・・・?
20 :
世界@名無史さん :02/10/25 15:32
具体的な戦争の推移をキボン。
>>19 ピョートル3世はその後怒りに狂う貴族達によって
幽閉され、変わりに后妃だったエカチェリーナが
女帝に担ぎ上げられたっけ
22 :
世界@名無史さん :02/10/26 04:06
でもってエカテリーナ2世の息子パーヴェル1世は、親ナポレオンでやはり貴族の国粋クーデターで 殺されちゃうんだよね
七年戦争とフレンチ インディアン戦争って同じ戦争のことです。ただ二つ別な呼び方があるだけですよ。
24 :
世界@名無史さん :02/10/26 05:13
>23 ええっ、そう簡単ではないでしょう。 七年戦争は基本的にプロイセンとオーストリアの戦争、 フレンチ・インディアン戦争はイギリスとフランスの戦争で、 イギリスとオーストリアが敵対(?)したのはフランスが後者に ついたからという、それだけの理由ですよ。 そもそもフレンチ・インディアン戦争の方が先にアメリカで始まって、 七年戦争はそれと関係なくプロイセンが起こしたものです。 同じ戦争というより、2つの戦争が合体したんですよ。
25 :
世界@名無史さん :02/10/26 05:20
フレンチ・インディアン戦争では海からセントローレンス川を 遡って遠征したイギリス軍がケベック市を占領したんだが、 ニューイングランドから陸路カナダへと遠征する作戦は 「ウイリアム王戦争」から以降全部途中で息が切れている。 なんでそんなに大変なの?
26 :
世界@名無史さん :02/10/26 05:34
>3 ワシントンはヴァージニア民兵隊の中佐か大佐。
28 :
世界@名無史さん :02/10/26 08:11
>>13 その映画見た。
戦闘シーンで攻撃してる敵に向かって隊列を組んで行進していくのを見て
カルチャーショックを受けた。
誰か撃たれて倒れても後ろの者が平然と替わりに入って隊列は崩さない。
そりゃ相手は怖いだろうけど。
マジでこんなあほらしい戦闘昔はやってたの?
29 :
世界@名無史さん :02/10/26 09:20
>>28 密集隊形での突撃ってそんなもんだよ。
逃げ出したら、後にいる下士官に殺される。
30 :
世界@名無史さん :02/10/26 10:07
しかしまあ白人もピケットチャージとかやってるし。
31 :
世界@名無史さん :02/10/26 10:43
>>30 >ピケットチャージ
フレンチ・インディアン戦争にジョージ・ピケット将軍が従軍してたのか?
ジョージ・エドワード・ピケット(1824−1875)
ウェストポイント士官学校史に残る猛烈落ちこぼれ生(最低の成績で卒業)
学業は最悪だったが軍人としては猛将で、米墨戦争で無敵の部隊として知ら
れた。1861年故郷ヴァージニアが連邦を脱退すると連邦軍を退職し、
ヴァージニア軍に入隊。以来終戦まで戦う。彼の名を米国史に永遠と残した
のが1863年7月3日のゲティスバーグ会戦3日目である。司令官リー大
将の指示により総勢1万5千の将兵を中央突破させようとしたが、敵司令部
直前に部隊は完全壊滅した。これを俗に『ピケットチャージ(ピケット将軍
の突撃)』と呼ぶ。終戦後、軍籍を剥奪され、保険会社の勧誘員として晩年
を過ごした。
32 :
世界@名無史さん :02/10/26 10:52
>>14 英国は欧州大陸の戦いはプロシアに任せて北米植民地で大量に兵力を動員した。
数的劣勢に置かれた仏国はインディアンに対して援助。
見返りとして各部族はこぞって仏側で参戦。
「パトリオット」も衝撃的だったな。ストーリーはアレだけど。
>>13 あの映画では弾が当たりすぎのような気がする。
34 :
世界@名無史さん :02/10/26 15:07
ピケットはえーとアラモ(あれ戦後だっけ?)だか対テキサス戦争だかの従軍・・・?
35 :
世界@名無史さん :02/10/26 18:18
>>34 アラモは1837年頃です。米墨戦争は1848年のカリフォルニア侵略戦争
>>28 >マジでこんなあほらしい戦闘昔はやってたの?
第一次大戦でも同じようなことやってたみたいだよ。(スレ違いだけど)
37 :
世界@名無史さん :02/10/27 01:48
George Edward Pickett ウェストポイントを1846年クラス順位59位で卒業。 同級生はトマス・ジャクソン、マクラーレン。 米墨戦争のVera Cruz包囲戦とやら活躍。 リトルビッグホーンの生存者同様、アラモの生き残りなわけないか(笑)
38 :
?P?????X?L?[ :02/10/27 06:20
>ウェストポイントを1846年クラス順位59位で卒業。 それって良いの? 悪いの? 中くらい?
39 :
?P?????X?L?[ :02/10/27 06:26
あ、最低なのか。 ちゃんと読まなくてスマソ
40 :
世界@名無史さん :02/10/27 13:26
あれよ。フレデリック大王、斜行戦術で有名だけど、開戦当初は 陣形取りきる前にオーストリアやロシアの対抗部隊の反撃をうけぼろ負け。 前衛部隊による敵主力の牽制や欺瞞(斜行陣形とりきるまでの時間稼ぎ) の重要性を膨大な犠牲を払いつつ学び、1756年5月?のザクセン侵攻から 半年目の11月12月、ロスバッハ、ロイテンにおいてようやく戦術的勝利をおさめた・・・・ だっけ?
41 :
世界@名無史さん :02/10/27 14:01
それにしてもこの時代の戦闘は凄いね。 何が凄いって・・・ 「歩兵に先行して砲兵隊が突出。敵前線を砲撃して歩兵横隊の前進を援護」 だね。 当時の大砲の射程を考えればあたりまえだけど、ダニガン先生が 「砲兵は傷つくことなく遠距離から敵を傷つける安全地帯の部隊」 と認定したことを考えれば、隔世の感だよなあ
42 :
世界@名無史さん :02/10/28 03:36
なんかさ、このスレ読んでてジェフリー・パーカーと「ヨーロッパの火器」 買いたくなってきたな。買うか・・・
43 :
世界@名無史さん :02/10/28 04:46
ウルフってカッコいいよね。 ケベック攻略の人。 「栄光の道もただ墳墓に至るのみ」
44 :
世界@名無史さん :02/10/28 15:50
■歴史■巽 孝之 先生の大失態!■捏造■
http://ex.2ch.net/test/read.cgi/news/1035786096/l50 「リンカーンの世紀」という書籍で、歴史的な前後関係を無視しておいて、
現代批評的視点から再検討しているだけだそうです。
1)リンカーンが暗殺されたのが南北戦争後としている。
2)ゲティスバーグ演説が、当時はあまり評価されておらず、後年に印刷され
てから評価されるようになったことも無視して、リンカーンがメディア操
作の達人であるかのごとく書いてる。
3)「電報技術は南北戦争を拡大したといっても過言ではない」といってい
ますが、これも軍事兵器の進歩による戦術の変化をしっかりととらえていない
一面的な見解です。
論破するために皆様の応援頼みます!
45 :
世界@名無史さん :02/10/29 02:59
巽て慶応の先生だっけ? 師匠の揚げ足など取らず学生は勉強だけしろ。軍事板の南北戦争スレに書きこむなら ちっとは知識仕入れて書きこめ。アホ
斜行戦術にばっかこだわったせいで プロイセンはフランス帝国に負けたの?
47 :
世界@名無史さん :02/10/29 07:23
フランスはまだブルボン王朝でオーストリアとの連合軍ですね。 斜行戦術にこだわって負けた・・・いうと語弊がありますが、 大王が斜行戦術に固執して、いくつかの戦闘で時の利を得ず負けたのは史実です。 もっともプロイセンは戦争の重大局面においては たいてい勝ってます。 Frederick The Great あるいは7years warで英語圏なら資料検索できます
48 :
世界@名無史さん :02/10/30 13:31
プロシアはベルリンまで占領されたんだよな。しかも二回。
49 :
世界@名無史さん :02/10/30 14:11
学研のさ。赤背表紙の戦史M文庫シリーズて、あくまで入門者むけで 正直、2ch軍事板世界史板にかきこんでいる連中と大差ないアマチュアライターが 洋書やいわゆる海外の種本から丸写ししてるのがわかるわけ。 早い話『戦略戦術兵器辞典Bヨーロッパ近代編』だと、デビッド・チャンドラーの ナポレオン辞書とかジェフリー・パーカーの「長篠合戦の世界史」とか 「ヨーロッパの火器」とか図版も含めて、丸写しが多いわけ。 (いや、変な主観いれるより丸写しのほうがいいのよ) でもこのスレでもみんな読んでる筈の友清理士『アメリカ独立戦争上下巻』(学研M文庫) だけは、さすが南北戦争地図のあの本訳しただけあって、研究書にふさわしい 名著だね。 個人的にフレンチインディアン戦争について、掘元美「帆船時代のアメリカ」(朝日ソノラマ文庫) と同じくらいの情熱と詳細を文章に感じます
50 :
世界@名無史さん :02/10/31 00:58
七年戦争の結果 各国の領土は どう変わったの?
51 :
世界@名無史さん :02/10/31 08:23
いつものごとく英国の一人勝ちです。
>>47 漏れが言いたいのは、ナポレオン戦争の時までチマチマ斜行戦術の
訓練ばっかやってて
アウステルリッツで負けたのかってこと
53 :
世界@名無史さん :02/10/31 09:46
イエナ・アウエルシュテットね。
54 :
世界@名無史さん :02/10/31 14:12
イエナ・アウエルシュタットて、ドイツは軍制改革の途中で 陣形変換とかに重要な指揮系統が混乱してたんじゃなかったっけ? たしかに小隊、中隊、大隊、連隊規模では従来どおり、いちおう実戦に即した 訓練がおこなわれてたけど、師団や旅団の編成が未成熟で、 1砲撃 2前進散兵による敵横隊指揮官の狙撃、偵察、かく乱 3騎兵突撃による、敵横隊のかく乱、および防御方陣への変換の強制 4歩兵横隊(騎兵が突撃している間に前進する)が、敵が隊形を乱している間に 接敵。斉射による攻撃 5騎兵による追撃 みたいな、師団・旅団司令部が有効に行動してこその、騎歩砲3兵科有機一体の 攻撃ができるんじゃなかったっけ?
55 :
世界@名無史さん :02/10/31 14:45
だからさ、時々刻々と変わる戦場で、師団・旅団編成もせず 高地から大王と幕僚団が望遠鏡で眺めて、2万人もの横隊が オーストリア軍の側面にまわれると期待できるのは、やはり敵も 鈍重で、指揮が遅いことを期待するからだと思う。 コリンの戦闘で高地からの瞰射にいすくめられ、成すすべまもなく 遠方の友軍横隊が壊滅していくのみても斜行戦術の合理性に期待し ロイテン・ロスバッハで大勝できたのも、そういうことでしょう? (若干、自信なし)
56 :
世界@名無史さん :02/10/31 16:55
関係ない話だが 「フレンチ&インディアン」 って何だか美味しそうな名前だな。
57 :
世界@名無史さん :02/11/01 14:23
フリードリヒ大王の軍隊て、もしかして軍団の下は連隊なの? そんな恐ろしいことってあるかな・・・
58 :
世界@名無史さん :02/11/03 14:47
ほんまですか?
フレンチ&インディアン戦争のクライマックスとなった、
ケベックシティのアブラハム平原に行きました。
両軍の布陣した跡を示す大砲が置かれていますが、当時は射程距離が短かったせいか、
互いに会話ができるのではないかというほど近くに布陣しています。
ウォルフはなぜか最前線に立って指揮しました。
彼は重度のリウマチに悩まされており、
名誉の戦死を自ら望んだのではないかとも言われています。
ニューフランス軍は、ウォルフが重傷と聞いて医師を送りますが、
ウォルフは「不要だ。全ては終わった」と言って息を引き取りました。
>>43 ウォルフ将軍は戦死したため英雄視されましたが、多くの歴史家は
イギリスのウォルフ将軍とニューフランスのモンカルム将軍をともに無能と断じています。
60 :
世界@名無史さん :02/11/04 00:35
>>25 ニューイングランドから陸路でカナダへいくのが難しかったのは、
個人的な意見ですが、補給の問題と侵攻ルートの選択肢が限られてること、
にあるのではないでしょうか。
ルートはたぶんハドソン川沿いでシャーンプレン湖経由で北上していくか、
ナイヤガラ瀑布の向こう側の五大湖方面を迂回するか、
メーンかヴァーモントの森林地帯をつっきることになるわけですが、
ある程度の規模の部隊を進めるとすると、やはりハドソン川沿いになります。
そして、侵攻距離がのびると、中継の補給ポイントが増えてきますが、
左右のルート(主力には不向きでも牽制部隊や小部隊には充分なルート)から、
補給線を脅かされることになるため、守備隊を増やしていかざるを得ません。
そのうち、前線の戦力が先細りになり、補給自体も進出限界線に近くなり、
本拠地近くの相手部隊に大打撃をくらって、侵攻が失敗というパターンが多かったような。
このルートは後の独立戦争でも、英米両方がシーソーゲームをして、
バーゴイン軍が結局、補給をきられて降伏する羽目になっていたと思います。
なるほど。
>59 >多くの歴史家はイギリスのウォルフ将軍とニューフランスのモンカルム将軍をともに無能と断じています 確かにウォルフはかなり神話化されてるけど、無能とまでは・・・ 戦史研究家のリデル・ハートは名将の数に入れてるし。
「地球の歩き方」には、モンカルムがアブラハム平原に出て野戦を挑んだのが敗因であり、 篭城策を取るべきだったと書かれていますが、これは正しくありません。 ケベック要塞は、セントローレンス川が本流とサン・シャルル川に分かれる 三角地帯に位置しています。 川に面した部分は険しい崖になっていて、 今日フニキュレールというケーブルカーが運転しており、難攻不落のように見えます。 しかしアブラハム「平原」に面した城の西部、今日城壁のある部分は平地であり、 またこの城壁の高さでは敵の大砲を防ぐことができません。 “Quebec 1759”の著者は、ケベックは地政学的に欠陥があり、 この地にニューフランスの首都を置くこと自体が誤りだとしています。 モンカルムの部隊は要塞の東、ボーポールの浅瀬から敵が上陸すると予想し、 合戦当日の朝までそこを守備していました。 しかしイギリス軍は、その日の早朝にすでに要塞の西、 アブラハム平原に移動していたのです。 夜陰に紛れて川を上るイギリス軍が要塞の前を横切るとき、 ニューフランス軍が側面から砲撃を加えていれば イギリス軍はひとたまりもなかっただろうと思うのですが、 ニューフランス軍がなぜあっさり上陸を許したのか、 私はカナダ滞在中に究明できませんでした。
モンカルムの部隊が急を聞いて要塞に戻って来たとき、 イギリス軍はすでに急所である城の西部、アブラハム平原で隊列を整えており、 この地に上陸を許した時点ですでに勝敗は決していたと言えるでしょう。 篭城しても無駄と見たモンカルムは城外に出て決戦を挑みますが、 平原での戦いなら単純に装備において勝っている者の勝ちとなります。 このときニューフランス軍のブーゲンビユの部隊が、 アブラハム平原のさらに西、カプ・ルージュにおり、 イギリス軍の背後から挟撃すれば望みはあったのですが、 彼はなぜか動きませんでした。 なお彼はこのとき、陣中に従兄弟の妻を連れ込んでいたことが判明しています。 ニューフランス軍の将校たちは、みな貴族だったので、 フランス革命で悲惨な最期を遂げた者が多いのですが、 ブーゲンビユだけは革命→ナポレオン帝政の時代の激動を生き延び、 最後は伯爵・貴族院議員となり天寿を全うしました。 なおパプア・ニューギニアのブーゲンビル島や、 花のブーゲンビリアは彼の探検に因んでいます。 大砲を打ち合ってニューフランス軍は総崩れとなり、 フレンチ&インディアン戦争のクライマックスであるアブラハム平原の戦いは わずか30分でケリがつきました。 ウォルフもモンカルムもともに重傷を負い、後日死亡しました。
私は1990年から93年までカナダに滞在し、
現地の日本語誌で「カナダ人物列伝」を執筆していました。
(
http://bluejays.infoseek.livedoor.com/ をご覧下さい)
ウォルフとモンカルムも取り上げるつもりで調査したのですが、
結局掲載しませんでした。
私はアブラハム平原の戦いにおける両者を、
川中島の合戦における信玄・謙信のような名将と期待していたのです。
しかし調べていくうちに、両者は凡将であり、
合戦は30分以内で終わったことがわかりました。
また謎が多く、到底掲載できる状態ではありません。
1.なぜあっさりアブラハム平原への上陸を許したのか
2.ブーゲンビユはなぜ救援に駆けつけなかったのか
知っている方がいましたら教えて下さい。
>>62 >>戦史研究家のリデル・ハートは名将の数に入れてるし
私が調べた限りでは、凡将だということです。
リデル・ハートはイギリス人でしょうか?
単に戦果をあげた将軍を持ち上げる「イギリスマンセー」研究家でないといいのですが。
いずれにせよ詳細キボンヌ。
>59〜>65 いやあ、勉強になります
>>65 >1.なぜあっさりアブラハム平原への上陸を許したのか
>夜陰に紛れて川を上るイギリス軍が要塞の前を横切るとき、
>ニューフランス軍が側面から砲撃を加えていれば
>イギリス軍はひとたまりもなかっただろうと思うのですが、
実はイギリス軍の上陸は上流から川を下ることによって行われました。
セントローレンス川上流からの仏側の補給を遮断するため、
8月中から徐々にケベックより上流部に英艦隊支隊(Holmes麾下)が増強されていきました。
(もちろんその際、船舶はケベック市の真ん前を通過するわけですから、砲撃の危険はあり、
そのため、小数が順風・満潮等の好条件を選んで徐々に上流へ集められました。)
セントローレンス川南岸は英軍が抑えていたため、
Wolfeは陸路、南岸を上流部へ移動→乗船し夜陰に乗じて川を下ったのです。
あと、アブラハム平原への上陸が戦略的奇襲となった理由は他に3つ。
1.上陸と前後してSaunders旗下の英艦隊がBeauportに陽動の砲撃を行った。
2.上陸地点のFoulon入り江からAbraham平原までは急峻な崖になっており、
まさかそのようなところから攻めてくるとは仏側は予想していなかった。
3.Holmes艦隊の牽制としてBougainvilleが対岸(Cape Rouge)で警戒していたが、
上陸前の数日に渡って、Holmes艦隊が無為にCape Rougeからケベックまでの往復を繰り返したので、
Boulainvilleも油断していた。
>>65 >2.ブーゲンビユはなぜ救援に駆けつけなかったのか
Boulgainvilleが英軍上陸の知らせをうけたのは9月13日の午前9時。
英軍を挟撃すべく、それから3時間かけて5マイルの道を戻ったわけですが、
英軍左翼後方に現れたところを、Townshend准将が指揮する、英軍予備兵力に撃退されました。
ちなみに、このTownshendの弟は、後の悪名高い「タウンゼンド諸法」の発案者です。
(以上、J.F.C.Fullerの"A Military History of the Western World")
>>65 Wolfeの評価について。
リデル・ハートはやはり、彼の「間接的アプローチ」の18世紀における具現として、
ケベック・キャンペーンを高く評価しているようですね。
("Great Captains Unveiled"(邦訳「世界史の名将たち」)が詳しかったと思いますが、今ちょっと手元にない。)
まあ、曲がりなりにも要塞一つ落とすという戦果をあげているわけですから、
Wolfeや7年戦争にはこれまで余り関心の無かった者としては、
逆に「Wolfe=凡将」説の根拠にはかなり興味をそそられます。
あと余計かもしれませんが、ガイシュツの
友清理士「アメリカ独立戦争」にはケベック攻略戦が詳述されています。
>>49 氏の言われるように、これは良い本だと思います。(註・文献表が無いのが非常に惜しまれる。)
ところで七年戦争のとき若き日のネルソン提督も従軍している
62さん、ご意見ありがとうございました。
62さんは北米史専攻の学生(あるいは研究者)でしょうか?
「世界史の名将たち」と「アメリカ独立戦争」、そのうち読んでみます。
ほかに日本で手に入りそうな書籍がありましたら教えて下さい。
10年来の疑問が解け、ひょっとすると記事にできるかも知れません。
http://groups.msn.com/36qai19i10lrchkf4a6e6hrqq2/page4.msnw に
アブラハム平原の戦いに関連した写真と地図を掲げておきます。
10年前、新聞に掲載するつもりで撮影し、お蔵入りになったものです。
図1で、ウォルフ将軍の陣がケベック要塞の東、モンモランシー川にあるので、
てっきりセントローレンス川下流から遡上したものと思っていました。
確かに、夜陰に紛れているとはいえ、要塞の前を横切る作戦は危険すぎますね。
私は原稿を書くにあたり、本を3冊ほど読み、うち1冊だけ購入して日本に持ち帰りました。 それはLaurier LaPierre著“1759 ─The Battle for Canada”です。 これはテレビで放映され話題になった番組を出版したもので、 アブラハム平原の戦いに至るドラマを、6月26日から9月18日まで、 日付と時刻を推定でつけて詳細に述べています。 この中で著者は、こう論述しています。 「ウォルフはアブラハム平原において何の失敗も犯さず、 モンカルムは多くの失敗を犯したと、 そしてイギリス軍のより大きな口径の大砲がフランス軍を破ったと 歴史的に信じられ、多くの歴史家はそれを疑わなかった。 だが私はこれに同意しない。 ウォルフがフーロンからの上陸を企図し 軍勢をアブラハム平原に集結させたのは、 彼の無能さを証明している。もし彼が正気ならば。 モンカルムを破ったのは、彼自身の悲観主義、被害妄想、 そして断固とした行動の取れない無能さである。 両者とも十分に有能とは言えない。」 この作戦は、ボーポールのモンカルム部隊とカプ・ルージュのブーゲンビユ部隊に挟撃される危険をはらんでいます。 「正気ならば」というのは、自殺する意志があった可能性を示唆しているのだと思います。
LaPierreの著書によれば、 イギリス軍は合戦当日の9月13日4時ころ上陸を開始し、 ブーゲンビユは5時15分ころ、銃声を聞いて目を覚ましています。 しかし彼は何の行動も起こしませんでした。 彼がボードレーユ総督から出撃の伝令を受け取ったのは8時ころで、 アブラハム平原での合戦は10時〜10時半ころ、 彼が戦場に到着したのは11時ころで、 ニューフランス軍はすでに退却した後でした。 「関ヶ原がまさか一日で終わるとは」とはよく聞く言葉ですが、 仏領アメリカの運命を決したこの戦いはわずか30分で終わり、 ブーゲンビユの30分の遅参は、後代の世界の歴史に重大な影響を与えたのでした。 LaPierreは番組の中でブーゲンビユを登場させています。 彼は、「敗戦の責任は君にある! そのとき君は何をしていたんだ? 愛人とベッドにいたのか!?」 と激しい口調で迫りますが、ブーゲンビユはLaPierreにフランス語で話しかけます。 名前でわかるとおり、LaPierreもまた征服された者の子孫なのでした。 フランス人がイギリス人に征服された、だから今のカナダがあるのだと言うのです。 モンカルム司令官は戦死し、ボードレーユ総督は敗戦の責任を問われ投獄されました。 他の将校たちも革命で悲惨な末路を辿る中、 敗戦の一番の責任者であるブーゲンビユだけが 敗戦前より出世したとは、何という歴史の皮肉でしょうか。
74 :
世界@名無史さん :02/11/06 03:21
>70 >ところで七年戦争のとき若き日のネルソン提督も従軍している 嘘つけ ネルソンは1759年生まれ。 七年戦争が終った時点で4歳。
75 :
世界@名無史さん :02/11/06 14:13
>>74 嘘とはなんだ?嘘とは?お前、失礼だぞ。謝れよ。
4歳の子供だって従軍することもあるだろ。
ネルソンのころと現代とでは時代が違うんだよ。
下手な煽りはやめなはれ・・・・。 少年鼓主だって4歳じゃ無理だて
>>72 レスサンクス。
なるほど「無能説」の趣旨はわかりました。
確かに「大胆な用兵」と「無謀な作戦」は紙一重ですね。
Wolfeも物笑いのタネになる可能性が十分あったかもしれないですね。
(なんでも、冬が来てセントローレンス川が凍結する前に何とかせにゃならん、というような焦りもあったようです。)
78 :
世界@名無史さん :02/11/07 01:29
>75 >ところで七年戦争のとき若き日のネルソン提督も従軍している たぶんアメリカ独立戦争と勘違いしたんだろ。 少年水兵でも10歳前後。 ネルソンが海軍に入ったのは12歳の時(1770年)。
Hurtig Publishersの人名事典“The Book of Canadians”より 【James Wolfe】の項目: His success in this (Quebec) venture was largely due to luck, to the strategy planned by his brigadiers, and to Montcalm’s mistakes. Two of the brigadiers so disliked Wolfe that they refused to be included in the romanticized memorial portrait of his death. Like Montcalm, Wolfe was not clever with people. But, like Montcalm, he did have great bravery. ※なおウォルフの副官はモンクトン、タウンシェンド、マレーの3名で、いずれもウォルフより年長。 【Louis Joseph de Montcalm-Gozon de Saint-Veran】の項目: A plaque on this site of the battle says that Montcalm was “gallant, good, and great” and that he was “defeated through no fault of his own.” He was certainly gallant, extremely brave. But like Wolfe, he was a rather second-rate commander who has been glamorized through folklore into a superhero ─ a very different character from the man he really was.
川中島の合戦では、信玄が軍を二手に分け、一方を謙信の本陣に向かわせ、追い落として挟撃する作戦に出たのに対し、 謙信が逆に二手に分かれた敵の各個撃破を目論見ました。 局部的に少数に陥った信玄軍は、分かれた部隊が本隊に合流するまで凌ぎきり、 今度は逆に謙信軍を挟撃する形となり謙信軍は敗走しました。 ピンチはチャンスであり、チャンスはピンチでもあるのです。 (注※きつつき戦法は創作という説あり) ウォルフの作戦は、ケベック要塞の急所に上陸して要塞を無力化し、 敵軍を要塞から誘い出して平原で叩くというものですが、 ブーゲンビユの部隊に挟撃される危険をはらんでいます。 カプ・ルージュからアブラハム平原までは3時間の道のり。 わずか3時間、ブーゲンビユが到着するまで凌げばニューフランス軍が優勢になりますが、 モンカルムの本隊はわずか30分で総崩れ、 そのうえブーゲンビユ隊は遅参し、到着したのはモンカルムの本隊が退却した後で、 これでは自分から各個撃破されに行ったようなものです。 やはりニューフランス軍は武田軍とは比較にならないようです。 リデル・ハート著「世界史の名将たち」、調べましたが絶版になっており入手できません。
モンカルムは、司令官のディエスコがフォート・ウイリアム=ヘンリーの戦いで捕虜となったため、 ニューフランス陸軍司令官に昇格する。 当時フランスはヨーロッパの戦場を重視し10万の兵を送ったため、 ニューフランス軍はわずか1万5千である。 1756年、オスウェゴに夜襲をかけ50人を殺し、捕虜1700人と膨大な食糧を獲得する。 1757年、フォート・ウイリアム=ヘンリーを包囲して放棄させる。 1758年、ティコンデロガでイギリス軍を撃退。 このようにモンカルムは司令官就任後積極的に戦い戦果を挙げるが、ボードレーユ総督とは不仲だった。 モンカルムはフランスの裕福な貴族だが、ボードレーユはカナダ生まれ。 総督は行政のトップだが「カナダ陸海軍」の指揮権を持ち、しかも「ニューフランス陸軍」司令官のモンカルムより上位である。 ボードレーユは海軍に所属したことがあるが、実戦経験はなかった。 ヨーロッパでは騎兵が決戦する時代は終わり、大砲の時代に入っていたが、カナダ軍はインディアンが主体であった。 (※ここでいう「カナダ軍」とは現地採用のこと、「ニューフランス軍」はフランスからの駐在) 1757年にピットが英国首相に就任すると北米を重視するようになり、モンカルムは以後勝てなくなる。 1758年7月ルイスバーグ陥落。 8月キングストン陥落。 11月ピッツバーグより撤退。 1759年7月フォートナイアガラを譲渡。 1757年のフォート・ウイリアム=ヘンリーは、イギリス軍が安全に撤退するのを条件に譲渡するというものだったが、 インディアンが協定を無視し、イギリス兵を虐殺してその肉を食べるという衝撃的な事件が起こり、 このときボードレーユはモンカルムの更迭を本国に訴えている。
モンカルム隊とブーゲンビユ隊がちぐはぐなのは、証拠はありませんが ボードレーユとモンカルムの不仲が原因しているように思えてなりません。 ブーゲンビユは誰の命令に従えばいいのかわからない状態です。 (1) 実戦経験のないボードレーユが作戦に口出しをする (2) 行政と軍事が分離しておらず、司令官の命令も総督の命令もともに有効で、しかも両者は不仲である (3) ニューフランス軍とカナダ軍が分かれており、そのうえインディアン軍まである 今日でもカナダ日系社会に見られる「駐在と現地採用の不和」が、このときすでにあったということでしょうか。
83 :
世界@名無史さん :02/11/17 02:35
おお。こりゃ詳しい人がいるなあ。合いの手しか入れられないが 楽しく読んでます。どうぞ、続けてください
金床と鉄槌と言うロンメル御得意の作戦はよく使われる手なんやね。
85 :
世界@名無史さん :02/11/17 09:56
>>80 第四次川中島合戦ってほとんど虚構なんだけど・・・
86 :
世界@名無史さん :02/11/29 18:37
「金床と鉄槌」って何ですか?
>>86 いわゆる啄木鳥戦法。
敵を自軍が待ち構えてるとこまで追いたててって挟み撃ち。
88 :
世界@名無史さん :02/11/30 03:48
うーん。FIW(French Indeian War)はちょっと興味の対象外で7YW(Seven Years War)ばかり、最近おいかけてたけど、 どうぞ高橋さん、つづけてくださいよ
89 :
世界@名無史さん :02/12/11 08:16
age
90 :
世界@名無史さん :02/12/24 20:50
メリークリスマス
age
(^^)
93 :
世界@名無史さん :03/01/13 20:02
7年戦争あげ
恐ろしくくだらない話題だけど…。 「ななねんせんそう」って読んでる? 「しちねんせんそう」って読んでる?
95 :
世界@名無史さん :03/01/16 21:33
「しち」と読む。 くだらないついでに、 フレンチ・インディアン戦争は何故 「○○王戦争」と呼ばないのだろうか?
96 :
世界@名無史さん :03/01/17 12:00
フレンチインディアンウォーはあくまでも米国側からの名前であって 仏国側からすると別の名前があるのではないかな。 セブンイヤーズウォーも英国での名前なのかな。
97 :
世界@名無史さん :03/01/17 12:22
アメリカ側がThe French and Indian Warで 英国側はThe Seven Years' Warと呼んでいるそうな。
「フレンチ&インディアン戦争」は、 (イギリスが)フランス人とインディアンを敵に戦ったという意味であり、 イギリス側から見た表現です。 言うまでもなく、フランス人はイギリス人に征服されたわけですが、 カナダがイギリス系とフランス系によって築かれたという建て前によるならば、 このように完全にイギリス側に立ち、 フランス人とインディアンを敵視するような表現は問題だと思います。
99 :
世界@名無史さん :03/01/17 18:56
フランス人はなんと呼んでいるのだろうか
101 :
水爆の父です :03/01/18 01:58
BOXARTみると、フェニアス・クーパーだかのモヒカン族の最後だよな
102 :
世界@名無史さん :03/01/29 19:17
age
103 :
世界@名無史さん :03/02/01 14:32
フレンチ・インディアン戦争の (主にインディアンに関する)基礎知識 主要戦域は、 @ペンシルバニア西部 Aシャンプレーン湖に沿った カナダとニューヨークの境界付近 五大湖から北部ニューヨーク一帯にかけての インディアン部族がフランスに味方し、 ニューヨーク辺境での緒戦に勝利。 1756年にオンタリオ湖畔のオスウェゴ砦を、 1757年にウィリアム・ヘンリー砦を、 それぞれ攻め落しましたが、 1759年にどちらもイギリス軍に奪い返されています。 なおアメリカ初の国民文学とされる、 ジェームズ・フェニモア・クーパーの 『モヒカン族の最後』は Aの戦域を舞台とし、 フランス軍によるウィリアム・ヘンリー砦陥落を 背景としています。 (つづく)
104 :
世界@名無史さん :03/02/01 14:33
(承前) イギリス軍は、兵隊さんの数ではフランス軍に劣りましたが、 制海権を握り、 フランスの商船が上陸できないようにしました。 その結果、フランス軍は弾や弾薬や糧食を十分に 確保できなかったわけですね。 腹が減ってはいくさは出来ぬ。 ところで、フレンチ・インディアン戦争、すなわち フランス人・インディアン連合軍との戦い と呼ばれていますが、 実際には、インディアンの中にはイギリスに味方する 人たちも少なくありませんでした。 (『モヒカン族の最後』の主人公、アンカスも イギリスの味方でした) しかし、フランスに味方した部族が多かったことは事実です。 それは、よく言われるように、 フランス人に比べて、イギリス人の方が、インディアンを嫌い バカにしていた(逆に言うと、フランス人の方がインディアンに対して 友好的だった)という、感情的な理由もあったかもしれませんが、 それよりも、インディアンが、英仏の戦いを、 毛皮交易を主とするフランスと、農地を欲しがるイギリス人入植者 との争いと考えた、という経済的な要因の方が強かったようです。 毛皮交易と、定住しての農業という、両者の関心の違いから イギリス人の方が、インディアンの土地を強奪することに関しては ずっと積極的だったのです。 (つづく)
105 :
世界@名無史さん :03/02/01 14:34
(承前) フランスに味方したインディアンは、 アルゴンキアンと総称される人たち 及びヒューロン族でした。 アルゴンキアンは、アルゴンキン語族系の言葉を話す オジブワ族、オタワ族、アベナキ族、アルゴンキン族 などの緒部族です。夏には小規模な菜園も作りましたが、 主に狩猟・漁労・採集によって生計を立てていました。 一方、ヒューロン族の言葉は、イロコイ語族に属します。 村を作って定住し、トウモロコシをはじめとする作物を育てたり、 他部族との交易などによって暮していました。 フランスの毛皮交易商にとって、 居場所の定まらないアルゴンキアンと異なり、 定住して暮すヒューロン族は、 交易相手として都合がよかったのです。 ちなみに、『モヒカン族の最後』の敵役、マグワ(ずるぎつね)は、 ヒューロン族という設定です。 (つづく)
106 :
世界@名無史さん :03/02/01 14:35
(承前) フランスに味方したアルゴンキアンとヒューロン。 一方、イギリスに味方したのはイロコイ族でした。 イロコイ族は、ニューヨーク内陸部、オンタリオ湖の南に 隣り合って住む、5つの部族(後に6部族)の総称です。 かつてこの5部族は互いに争っていましたが、 ハイアワサという名で知られる(本当の名前は発音が異なる) 指導者によって部族連合体としてまとめられました。 ちなみに各部族の独立を尊重しつつ、連邦としてまとまるという イロコイ族の政治形態は、 合衆国の政体の手本になったといわれています。 イロコイはヒューロンが大嫌いでした。 言葉は同じイロコイ語族系で、生活の仕方も共通するところのある 両部族ですが、 政治的には犬猿の仲。 互いに憎み合うこと、英仏が憎みあう以上のものがありました。 また、イロコイは周辺のアルゴンキアンともいがみ合っていました。 イロコイは、フランス人も大嫌いでした。 17世紀初頭、フランス植民地の親玉、シャンプレーンンが、 ヒューロンやアルゴンキアンに味方して、 彼らに火器を供給し、イロコイの村を襲って以来 イロコイにとってフランス人は不倶戴天の敵となりました。 (つづく)
107 :
世界@名無史さん :03/02/01 14:36
(承前) ヒューロンもアルゴンキアンもフランス人も 大嫌いだったイロコイは、 英仏の戦争が始まると、大嫌いな緒部族が フランスに味方したのに対し、 イギリスに味方しました。 このことが戦争の趨勢を決したといわれます。 定住して暮すイロコイは、人口も多く、武器も整い、 多数の戦士が参戦することができました。 もしも何かの事情でイロコイがフランスに味方していたら、 フランス語がアメリカの公用語になっていたかもしれませんね。 なお、『モヒカン族の最後』の主人公アンカスの部族、 モヒカン族はアルゴンキアンですが、 小説ではモヒカン族は同じアルゴンキアンのデラウエア族から 分かれたことになっています。 デラウエア族はかつてイロコイに敗れ、その属国となりました。 モヒカン族のアンカスが英国に味方する設定になっていたのは その辺の事情からかもしれません。
108 :
世界@名無史さん :03/02/01 14:38
インディアンという呼称について
「インディアンは蔑称であり、
ネイティブ・アメリカンという呼称こそが正しい」
との誤った認識がしばしば見られますが、
実際には、ことアメリカ合衆国の先住民に関しては
Native American と呼ばれるよりもAmerican Indianと
呼ばれる方を好む傾向があります。
Native Americanなんて、キモくてワケのわかんない呼び方は
ヤメテよね
ってわけです。
詳しくは
「インディアン対合衆国の戦い」掲示板
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/whis/1034330297/ No101〜No111をご覧ください。
“Chronicle of Canada”によれば、イロコイ族平和協定の締結に奔走したのは “Dekanahwideh and his aide Hiawatha”です。 15世紀中頃、カユガ・モホーク・セネカ・オネイダ・オノンダガの5部族の間に 終わりのない戦乱が続いていましたが、二人の努力により平和協定が締結され、 酋長会議による都市国家連合が成立しました。 伝説ではDekanahwidehは処女から生まれましたが、 母は彼を身篭るとき夢の中で、神の御使いに 「あなたの子はオノンダカに平和の木を植えるだろう」 と告げられたと言われています。 彼は平和協定に懐疑的な諸部族を説得するため、 一度目は崖からモホーク川に飛び込んで生還し、 二度目は太陽を消して暗闇を作るという奇跡を演出しました。 5部族は平和協定締結を記念して、オノンダカ湖(シラキュース湖)畔に松の木を植えました。
111 :
世界@名無史さん :03/02/02 16:45
>109 イロコイ連盟の起源は、本題と直接関係ないので、 深入りは避けたいところですが・・・、 ハイアワサ(Hiawatha)の本当の名前は、ハーヤーウェントゥハー (Hah-yah-went'-ha, 「川を造る者」の意)とも、 アイオントゥワサ(Aiontwatha,「梳る者」の意)とも、 あるいは、ハエンワサ(Hayenwatha)やアインワサ(Ainwatha)だったとも いわれています。いずれもヨーロッパ人には発音しずらいので、 「ハイアワサ」という名前で呼ばれるようになりました。 彼はオノンダガ族のチーフでしたが、平和主義を唱えて、 部族を牛耳るタドダホ(この名にもいろんな異説あり)と対立し、 モホーク族の所に避難してきたのでした。 一方、デガナウィダは元々ワイドット族(=ヒューロン族)でしたが、 彼も平和主義を唱えて部族に受け入れられず、 モホーク族の所に流れてきたのでした。 こうして、モホークの国で出会った二人の平和主義者は、 「五族共和」の理想を目指して邁進したのでありました。 現実に二人のどちらが中心的指導者だったかは諸説ありますが、 文化人類学者のOliver La Fargeは「連盟設立の実務は 主にハイアワサが担ったのであろう」と述べています。 なお、オノンダガに連盟の本部が置かれたのは、同部族が5部族の真ん中に 位置していたことのほか、同部族を支配する守旧派の親玉で、ハイアワサと 鋭く対立していたタドダホを懐柔するためであったと思われます。 ところで・・・・
112 :
世界@名無史さん :03/02/02 16:48
ところで、 96さんおよび99さんと同じ疑問ですが、 「フレンチ・インディアン戦争」は、フランス人やフランス系カナダ人 からは何と呼ばれているのでしょうか? 誰かご存知の方はいませんか?
113 :
世界@名無史さん :03/02/17 18:41
age
114 :
世界@名無史さん :03/02/21 14:52
確かにケベック市民が「ふれんちといんであん」なんて言わないよなあ。 「しちねんせんそう」もなんか違うし。
115 :
世界@名無史さん :03/02/23 20:03
ラスト・オブ・モヒカンage
116 :
世界@名無史さん :03/03/04 12:39
age
高橋さんて、もしかして佐藤亜紀たんのHPに出入りしてなかった?
違いますよ。佐藤亜紀って誰ですか?
119 :
世界@名無史さん :03/03/13 07:06
フリーダム・ネイティブアメリカン戦争について語れ!
121 :
ルイ−ズ・C :03/03/13 09:43
フランス人の方がAmerindiansと仲が良かったんだよ。 理由は17世紀のアメリカ大陸植民地の時代まで溯る。 フランス人が初めてアメリカ大陸にやってきたのは1541年だけど 実際植民地を作ったのは1608年Samuel de Champlainが St.Lawrence RiverのふもとQuebecに作ったのが最初。何で半世紀も新大陸進出が待たれたのかと 言うとそれはフランスが内乱に明け暮れてたから。 1594年のthe Edict of Nantesでユグノーとの血みどろ戦争が解決するまで 待たなければならなかった。んで内乱が終わってchamplainの一行がNew Franceを 作ってもフランス政府のサポートは微々たるモノだった。王家の手厚いサポートが あったスペインとは違いフランスはこの新しい土地で生きて行く為にはAmerindiansに 依存するしか方法はなかった。それでもってChamplain一行が頼ったのが Montagnais Indians(Angloquian部族)。フランスはMontagnaisと共存して行く為 彼らの習慣を習った。もちろん言葉も覚えたしintermarriageも行った。 一方、Montagnaisもカトリックに改宗したり、フランスの習慣を覚えたりで フランス人とindianの間に深い繋がりが出来て行く。 一方Montagnaisも宿敵の部族(Iroquois)との戦いを有利に進める為に ヨーロッパの進んだ武器等を盛んに取り入れた。そーこーしてるうちにChamplain一行は この部族と新しいトレードのネットワークを築いた。それがfur Trade(ビーバーの 毛皮で貿易)。Champlainはフランス政府のサポートをあてにしてちゃいかんちゅう事で 新大陸で生きる為にQuebecから東の方へ進んで行く。そしてHuronsとも交流を持つように なる。 長くなりそうです。French AND Indian Warにたどりつくまで時間がかかるけど いいでつか?
122 :
ルイーズ・C :03/03/13 09:55
上に詳しくFrench and Indian Warの事を書いて下さってる方が いるので書く必要ないか。 植民地独立までのアメ史勉強して真っ先に思ったな感想は 宗教改宗は白人の得意技 プロテスタントは情け容赦ない 結局は白人のエゴ って事かな・・書くと長くなるんで。ワシントンも可愛い顔して けっこうえげつない事やってるし。
123 :
世界@名無史さん :03/03/13 10:54
>>122 >宗教改宗は白人の得意技
プロテスタントは情け容赦ない
結局は白人のエゴ
てゆうか、中世にはヨーロッパで、白人の異教徒に対しても同じこと
やってる。
ザクセン人、リトアニア人など、キリスト教化が遅れた人々のことだけど。
124 :
世界@名無史さん :03/03/13 23:21
KING PHILIP'S WARなんてのがあるね。北米植民地 1675年から翌76年にかけて14ヶ月にわたりインディアン連合と入植者との生存を かけた戦い なんでも1637年に英国大尉(ま、全員英人入植者だが)のジョン・メイソンなる御仁が ピークオド族の村を男たちの留守中に襲撃。女子供皆殺ししたのが争いの単緒。 大尉は、まったくの宗教的信念から、非キリスト教徒を虐殺したらしいが、いずれにせよ 1670年代には、北米入植者5万人、平均在留20年をこえると人口圧力でインディアンとの 抗争は不可避だったとか。
125 :
世界@名無史さん :03/03/13 23:22
ちなみにKING PHILIPいうのはインディアン連合中心のWampanoag族の リーダーMetacometに、ピューリタンたちがつけた綽名. キング・フィリップことメタコメットは新大陸にもちこまれた旧世界の コレラに新生児がばたばた死に人口が減少してく現実に耐えきれず、ニ ューイングランドのプリマス入植地に1675年6月襲撃開始。 プリマス入植地は近隣のプロヴィデンス入植地と約1000名の民兵(ミリシア) を結成して対抗する一方、10月にはコネチカットからの応援も得て、冬季に 本格的な反攻を開始。 圧倒的な火力でインディアン村を焼き払い、彼等の越冬補給線を断つ。
126 :
世界@名無史さん :03/03/13 23:22
翌76年になると、マテコメ側で連合してたモホーク族の離脱もあり分裂。 マテコメ自身、仲間の内報にあい8月には山んなか追い詰められ、心臓えぐられ 死亡。妻子は西インドに奴隷として売られたとか。 ちなみに捕捉・殺害にあたったのは植民者に協力したキリスト教改宗現地部族だけど それをコントロールしたのはベンジャミン・チャーチ大尉に率いられた Rangersとよばれる斥候兵の集団。 語源は入植者の野営地の安全を確保Rangedするため周辺を偵察する集団 Rangersいうこと。 18世紀フレンチ・インディアン戦争のRobert Rogersに先駆けること80年も前の 現代のレンジャー部隊のご先祖です
127 :
世界@名無史さん :03/03/13 23:24
>121 この戦争の後、プロテスタントに改宗しない部族はやっぱケベック方面に 合流して、のちのFrench and indian warの因縁をつくっていくわけですな
128 :
世界@名無史さん :03/03/13 23:34
7年戦争いうと、例のシレジア領属問題をめぐる欧州の紛争と 新大陸の戦争のほかに、インドでも1760年にBattle of Wandiwashとか カリブ海ではスペイン領キューバやドミニカ群島に英海軍が上陸強襲を かけてこれを占領してるね。 ナポレオンに先駆ける、かなり世界規模の広域戦争だったみたいだね
>>122 私は知っていることは全部書き尽くしたので、
ルイーズ・Cさん、どうぞ遠慮なく続けて下さい。
130 :
世界@名無史さん :03/03/14 19:01
>>128 おそらく当時の人達の感覚だと世界大戦のイメージだったと思うよ。
131 :
世界@名無史さん :03/03/15 15:44
フレンチ・インディアン戦争をフランス人からは何と呼ぶか、というのは 意外に難しい疑問であるようですね。心あたりの知り合い数人に聞いてみましたが、 誰も答えられませんでした。 さて、ふつうフレンチ・インディアン戦争といえば、1763年のパリ条約で終結したように考えられています。 しかし、必ずしもそうとは言えません。パリ条約で負けを認めたのはフレンチだけ。その同盟者であるインディアンの皆さんは、 まだイギリスに降参してなかったからです。 デトロイトの近く、後のヨーロッパ系の人たちによる線引きではカナダに属する土地に住んでいたオタワ人のポンティアックさん(1763年当時推定40歳)は、 そういうわけで、フランス人が戦争を降りた後も、オタワ人、ポタワトミ人、ワイアンドット(ヒューロン)人などのインディアン戦士を集め、 先頭に立ってイギリス軍と戦いつづけました。 彼は、レニレナペ(デラウェア)人、アニシナベ(オジブワ、チペワ)人、ショーニー人などにも声をかけ、対英インディアン統一戦線を組織したのでした。 しかし、次第に矢玉も尽き、1766年にポンティアックさんはじめ40人のインディアン連合軍指導者たちはイギリスに降参してしまいました。 この戦いは一般に「ポンティアックの乱」と呼ばれています。
132 :
世界@名無史さん :03/03/28 12:52
age
このスレで何度も上がっている『アメリカ独立戦争 上・下』おもろいね。 スラスラ読めたよ。ケベックの戦いは読んでてエキサイトした。 パリ条約への経緯なんかもよく分かった。ジョージ2世が死なずに、大ピットが 権力を握り続けていたらアメリカのその後もだいぶ変わったろうね・・・
七年戦争の戦域って 欧州、北米、カリブ海、インド、フィリピン、北アフリカ(セネガル) 他にある?
135 :
世界@名無史さん :03/03/29 01:15
>『アメリカ独立戦争 上・下』 これなかなか売ってない。 注文するか……。
136 :
世界@名無史さん :03/03/29 04:35
つかこの手の本屋は発売から一月したらもう店頭には置いてないと思ったほうがいい。 後から知った場合は本屋を10軒探して回るより一軒目で注文したほうがいい。
137 :
世界@名無史さん :03/04/13 19:23
age
(^^)
139 :
世界@名無史さん :03/04/19 17:22
age
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
age
142 :
世界@名無史さん :03/05/05 15:10
143 :
世界@名無史さん :03/05/06 17:21
軍事板より失礼します。 対インディアン戦争の各国(イギリス・フランス・アメリカは独立以後)戦史(通史)の書籍をご存知の方いませんか? 後、それぞれの装備・編制・戦力などがわかる書籍があれば教えていただきたく思います。
144 :
世界@名無史さん :03/05/10 22:21
>143 “North American Indian Wars”(Richard H. Dillon著, Arms and Armour Press, London刊,1983年)があります。 写真や挿画が多く、読みやすい本です。絶版ですが、amazon.comで古本入手可。価$10.00〜$20.00. なお、amazon.comには、Richard L. Dillon という人が書いた同名の本(1993刊)も記載されていました。 書籍ではありませんが、ケビン・コスナーが制作・ホストを務める “500 Nations”というビデオシリーズ(8本組)も、通史を知るには好適。 英米の対インディアン戦争史に偏りがちな上掲書よりも視野が広く、 スペインやフランスの対インディアン戦争に関してもよく触れられています。 あと、通史ではありませんが、Osprey社のMen-at-Arms Series には 平原インディアン(No.163)、森林インディアン(No.228)、南西部インディアン(No.288)等があり、 Campaign Seriesには”Little Big Horn 1876”(No.39)があります。 最後の本では、1876年の北方平原戦役における米軍とスー・シャイアン部族連合軍の 装備・編制・戦力がわかります。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
148 :
世界@名無史さん :03/06/02 22:46
age
149 :
世界@名無史さん :03/06/02 22:54
150 :
世界@名無史さん :03/06/15 11:41
age
151 :
世界@名無史さん :03/07/08 18:50
age
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。 貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。 黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。 (黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。 また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。 「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。) 彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
154 :
世界@名無史さん :03/07/22 12:54
age
>>131 >>142 もちょっと触れているが、このポンティアックの乱の後、
イギリス軍が天然痘患者の使用品がインディアン部族の手に
渡るよう細工していた。細菌兵器のはしりだね。
イギリス軍の経費として、買い付け費用が計上されているそうな。
156 :
世界@名無史さん :03/07/23 23:43
131です 155さん、補足ありがとうございます。 なお、インディアンへの細菌作戦は、「ポンティアックの乱」(1763− 66)の前に既に発案されていたようです。1752年、ジェフリー・ アムハースト将軍が部下に宛てた手紙の中に、天然痘の利用を勧める くだりがあるとのこと。 また、「ポンティアックの乱」の最中にも、ピット砦(現ピッツバーグ) を攻撃中のレニレナペ(デラウェア)族に対し、砦の病院の天然痘病棟 から集めた毛布が「プレゼント」されたそうです。 まあ、いずれにしても、この作戦、そう何度も使えたとは思えません。 インディアンは、こんな手に何度もひっかかるようなおバカさんとは 思えないからです。 「イギリス人から毛布を貰うと、トンデモない目に遭うぜ」 なんて噂は、口コミによって燎原の火のように広がるでしょうし。 インディアンが激減した一番の原因が、天然痘やコレラなど外来の 伝染病であることは確かですが、それはヨーロッパ系の人たちが 意識的に伝したというよりも、多くは交易等平和裏の接触の際に 伝され、インディアン同士の接触により広まったものと考えられます。 ぬるぽ
>153 殺すぞきさま。
当時のヨーロッパ人は最凶の毒細菌ばらまき集団だったんだね
>>158 手元にある本によると、
「ヨーロッパ人が持ち込んだものはドブネズミ、ゴキブリ、黒バエ、
天然痘、水疱瘡、ヨーロッパ原産の草の種、馬」。
大きな伝染病だけとりあげても、
1616-1619 メイン州海岸沿いのアルゴンキン族、ペストで90%が死亡
1630-1650 五大湖近辺のヒューロン、イロコイ、モホークを含む部族、天然痘の流行により50%ほど死亡
1759 チェロキー族とカトウバ族、天然痘の流行により半減
だしね。
ここで注目すべきは1759年の流行で、人痘接種による予防はアメリカでもこの頃すでに
行われていた(後の牛痘よりはハイリスクだが……)。予防する術を伝える気があれば、
被害を縮小することは可能だったわけだ。
ちなみにニューイングランドにおけるインディアン人口は
1600年頃:105,000
1750年:数百
だそうです。
160 :
世界@名無史さん :03/08/31 22:28
age
161 :
世界@名無史さん :03/10/18 20:02
ウェストが「ウルフ将軍の死」を描いている。 絵画史上、同時代の出来事を歴史画に持ってきた「現代の歴史画」。 「キリスト哀悼」の典型的な図式。ウルフの死が一個人の死を超えた ものに高揚されている。
162 :
世界@名無史さん :
03/11/04 22:19 s