モンゴル帝国について語りましょう。
横山光輝の「モンゴル帝国」読んだ人いる?
2 :
世界@名無史さん:02/09/14 20:10
222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222222
3 :
世界@名無史さん:02/09/14 20:11
ミミミミミミミミ3
4 :
世界@名無史さん:02/09/14 21:15
モンゴル帝国ほどいつ滅んだか曖昧な歴史上の国家も珍しいよな。
5 :
世界@名無史さん:02/09/14 21:18
>4
@宗主国たる元朝が北方に逃れたとき
A北元のクビライ家が断絶したとき
B「元朝」の主権が清朝に譲られたとき
Cクリミア汗国の滅亡
・・・いつにしようか?
6 :
世界@名無史さん:02/09/14 21:20
>5
元朝の主権は清朝に、
ジュチウルスの主権はロシア帝国に引き継がれてるから
20世紀初めまでモンゴル帝国は存続してたとも考えられるな。
7 :
世界@名無史さん:02/09/14 21:23
清朝やロシア帝国がモンゴル帝国の一形態と考えるのは
無理があるのでは?清やロシアの皇族は父系ではチンギス=カンの
血を引いていない。(母系では引いてるけど北方アジアでは母系の血は
神聖視されない)
8 :
世界@名無史さん:02/09/14 21:26
>6
清朝の主権は中華民国に、
ロシア帝国の主権はソビエト連邦→ロシア共和国に
引き継がれてるので現在でもモンゴル帝国は存続してます。(藁
9 :
世界@名無史さん:02/09/14 21:30
中央アジアにあったチンギスカンの血を引く小国家はモンゴル帝国って言えるの?
10 :
世界@名無史さん:02/09/14 21:39
ヒヴァ汗国やボハラ汗国が20世紀まで存続してるけど
そんなのがモンゴル帝国の汗国と認められるかどうかかな。
11 :
世界@名無史さん:02/09/14 21:40
講談社現代新書
杉山正明著「モンゴル帝国の興亡」(上・下)
を読もう。
12 :
世界@名無史さん:02/09/14 21:45
>10
ヒヴァやボハラの君主の血は割合早くチンギス家の血は絶えてて
マンギト家なんかの血筋に移行している。
13 :
世界@名無史さん:02/09/15 01:02
チンギス家の君主が君臨した最後の独立国はクリミアになるの?
ブハラのジャーン朝の消滅はいつだっけ?
14 :
世界@名無史さん:02/09/15 01:04
ジャーン朝がマンギト朝にとってかわられるのは実質的には1756年
その理屈で行くとティムール帝国もモンゴル帝国の一部になるなぁ。
子孫だったと自称してるし、かなり純度が高い。
>>14 じゃあ、クリミア・ハン国滅亡(1783年)より先か…。
>>15 チンギス・ハンの子孫じゃあないけどね。
ティムール朝の真正の子孫、ムガル朝をモンゴル帝国に入れれば
19世紀まで続いてたことにはなるか。
17 :
世界@名無史さん:02/09/23 13:04
金朝の始祖説話について、詳しい方いませんか?
研究情報などキボーン。
18 :
世界@名無史さん:02/09/25 00:53
19 :
世界@名無史さん:02/09/25 21:18
そうそう!
フワーリズムって“アフラ・マズダ”が語源だそうだよ。
20 :
世界@名無史さん:02/09/26 22:31
クリミア・ハンのハーンはキプチャクハンだから後継としてはかなり近くて長生きだね。
ロシアがキプチャクハンの後継というのはクリミアの併合からきている。
21 :
世界@名無史さん:02/09/26 22:49
>>20 ロシア語でビザンツ皇帝とキプチャクのハンを意味していたツァーリの称号を
モスクワ大公が公に名乗るようになったのは
カザン・ハン国の征服から。
イスラム狂に改宗するような者は
もはやモンゴル人ではない!
彼奴らはただのトルコ人である!!
23 :
世界@名無史さん:02/09/27 00:00
岡田英弘の「将に将たる戦略〜」って
朝日文庫にはいったヤツと一緒?
24 :
世界@名無史さん:02/09/27 11:55
中世と呼ばれてる時代はモンゴル以前と以降で分けた方がいいよな。
ハン国からティムールと北元になって、オスマンやムガールや清朝まで
中世以降の世界史はモンゴル基準に時代区分できるくらいだ。
ここは岡田厨と杉山厨とどっちが多いの?
26 :
世界@名無史さん:02/10/12 10:47
最近は金をジュシェン、西夏をタングートというのが流行りなの?
27 :
弁髪ベンベン:02/10/12 13:54
トルコ系の諸部族は昔から結髪といいますか辮髪の習俗があったそうです。
7世紀、玄奘三蔵がインドに行く途中パミール越えの道中の援助にを求め、
西突厥の統葉護可汗に会見しています。
その時可汗は長さ十丈、3メートル程の弁髪を背後に垂らしていたそうです。
モンゴル高原を中心に突厥時代からの石人像が遺跡として、北アジア各地に点在していますが、
これらの石像にはかなり長いお下げを幾つも下げた男性像があったりします。
28 :
世界@名無史さん:02/10/12 13:56
いや、
金の支配集団がジュシェン系で、
西夏の支配集団がタングート系という意味ではないかと。
29 :
弁髪ベンベン:02/10/12 13:58
一方、西アジアでは11世紀オグズ系テュルク族のセルジューク朝が、イスラム世界の覇権を握りますが、
この時代の写本や陶器の絵画資料に、両方のうなじから腿のあたりまで髪を垂らした人物像が
多く見られます。これが当時のテュルク系の弁髪だったようです。
ちなみに昨年の大河ドラマ「北条時宗」モンゴル皇帝クビライが、首筋からお下げを結って
根本で縛った髪型をしていました。これはイランのモンゴル時代からティムール朝にかけての
歴史書などの絵画資料で、モンゴル族など王朝の支配層の風俗を参考にしたものです。
見た目、真っ黒ででっかい団子が両肩に二つ乗っかっている感じで、日本のみずらを彷彿とさせます(笑
ただほぼ同時代のイスラム側の資料では皆帽子を被っているので、実際には中がどうなっているかは分かりません。
また、契丹では頭頂部を剃ってこめかみから髪を垂らした貴人の画像が残されています。
30 :
弁髪ベンベン:02/10/12 14:14
しかし、大河ドラマ「北条時宗」に出ていた、モンゴル皇帝クビライの髪型ですが、あれは史実と違います。
お馬さんを彷彿とさせるかのように前髪をパラリと垂らしていた点や、首筋からお下げを結って・・・
・・・等々は、よしとしたいのですが、頭は「開剃」といって、日本の月代(さかやき)のように
大きく剃りあげていたはずです。
たしかに現存の肖像画等は、帽子を被っているものが多いのでイメージとして掴みづらいのですが、
契丹の、頭頂部を剃ってこめかみから髪を垂らした・・・というそれが近いと思います。
ただし、大きく剃りあげて島型に残した部分の僅かな前髪だけ額にパラリで、
それ以外に剃らずに残った、側頭部〜後頭部髪はすべて、何本かの辮髪お下げにして垂らすという、
まったくもって、清朝の辮髪以上に超爆笑ものの髪型だったようです。
当然、役とはいえ、いくら何でもまさかそんな髪型が現代社会の我々にできるわけがありません。
ですから、大河ドラマ「北条時宗」のモンゴル皇帝クビライの、あの髪型は、あの場かぎりの
「苦肉の作(笑)」だったのでしょう。
むしろ、大河ドラマ「北条時宗」のあの髪型は、案外はるか昔の「匈奴」のものに近いのかもしれません。
といっても、根拠のない憶測による想像でしかないのですが・・・。
31 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/10/12 14:34
>>30 大河ドラマの衣装にいちゃもんつけても何をいまさらと言う気がしますが。
なにしろ、江戸城の大奥で夏に紗の単の打ち掛けきてるんだもの。
打ち掛けは夏は着ないとどの記録読んでも書いてあるのにね。
>>31 モンゴルの弁髪について詳しく記録したのは、
ローマから派遣されたプラノ・カルピニのジョン修道士や
ルブルックのギョーム修道士と言った西欧の人達だったりしますが、
そこら辺は許容しても良いのかもしれません。あまりよく分かんない書き方してたり、
皇帝クビライの弟、イル汗フレグの肖像も完璧にスキンヘッドだったりしますから(笑
ただ問題はクビライが誕生日の時だかに金製の大きな王冠を付けてた事でしょうか。
あれは当時の画像資料的に依ってますが、あそこまで大きくしなくても良かった気がします。
あと廷臣達の服装がショボかったり、ペルシア語が全然出てこなかったのは
大いに不満です!
ちなみにクビライもフレグも、ペルシア語、アラビア語が出来ます。
33 :
世界@名無史さん:02/10/20 20:48
>ちなみにクビライもフレグも、ペルシア語、アラビア語が出来ます。
クビライは漢文はできたの?
34 :
世界@名無史さん:02/10/22 13:10
>>33 クビライやフレグが、ペルシア語やアラビア語が出来たと書いたのは、
『ターリヒ・グジーダ』というペルシア語の史書に、彼らの兄、
皇帝モンケ以下、兄弟、従兄弟、同年代のモンゴルの王族諸子が、
イフティハールッディーンという人物から初等教育を受けていたという記述に
基づいたものです。
そこで彼らはペルシア語やアラビア語などの基礎を学んだようです。
この記述からではクビライが漢文(あるいは中国語:ヒターイー)を読み書き
できたかは解りません。
『集史』「クビライ汗紀」を調べればなにかあるかも知れません。
もっとも、モンゴルの王族は支配地域の言語はいくつかマスターしてるのが
普通だったようなので、クビライが漢文の読み書きぐらい出来た可能性は
十分あるとは思います。
35 :
世界@名無史さん:02/10/22 13:14
「クビライ罕紀」の間違いでした。
36 :
蒙古弁髪の話に笑ったYO:02/10/22 20:17
>>34 たしかに多彩なフビライのことだから「漢文ぐらいできた可能性はある」との主張も理解はできます。
が、私にはイマイチそうは思えません。モンゴル人は漢文などできないというよりもほとんど無視していたのではないのでしょうか?
つまりは大ハーンにとって漢文などできようができまいが、どうでもいい言語というのが実際の在り様だったようにも思えます。
儒学者は徹底的に貶められ、漢詩漢文など大出世のためにはそれほど役には立つこともなかった時代のはずでしたから。
実際、マルコポーロが現実に使っていたのはウイグル語のような言語がほとんどで、マルコもフビライも中国語がどれほどできたかは
ちょっと怪しいものがあります。「フビライに限らずマルコポーロも漢文・中国語ができなかった」可能性のほうが、むしろ高いのでは?
37 :
世界@名無史さん:02/10/23 20:15
○ハンバリク △大都
○ダヤンハン △大元皇帝
38 :
世界@名無史さん:02/10/29 23:43
39 :
世界@名無史さん:02/10/30 00:03
在日がいろいろ人種工作やってるけど、真相はかなり違う。
大雑把に、
頭示数が、韓国人は短頭〜過短頭、日本人は中頭〜短頭。
鼻示数が、韓国人は中鼻、日本人は広鼻〜中鼻。
二重の出現率が、韓国人は約2割、日本人が約5割。
一般的に韓国人の顔は、ツリ目が多く、鼻は低く目立たず、彫りが浅い。
頭は絶壁傾向が強く、その分頬骨が高い。体毛が薄いのに比例して
眉毛や髭などが薄い。全体的に見て平坦な印象。形態もさる事ながら、
中国人ほどではないが遺伝子の方もかなり違う事から考えれば、
日本人と韓国人は人種的には近いが異人種であると言う事ができる。
http://www3.mahoroba.ne.jp/~npa/narayaku/image/dna_map.jpg
40 :
世界@名無史さん:02/10/30 02:24
カラキタイ(西遼)って遊牧国家?中華帝国型?
キタイって中国って意味だけどだとしたら歴史上いちばん西の中国だな。
41 :
世界@名無史さん:02/10/30 07:41
遊牧国家だよ。王宮は季節移動してた。
42 :
世界@名無史さん:02/10/30 11:55
キタイはロシア人が契丹(遼・西遼)のことを呼んでた名前です。
43 :
世界@名無史さん:02/10/30 13:13
サンカの先祖が契丹って説はマジ?
44 :
世界@名無史さん:02/10/30 13:55
>>42 契丹というか華北というか北中国をヒターイー/キタイkhitaayiと呼んだのは
イラン以東のイスラーム教徒たちです。
専門外で詳細は存じませんが、後代にロシア人がキタイと呼んだのはその影響でしょう。
キタンとキタイの言語学上の問題は森本孝夫先生が取り上げてましたな。
45 :
世界@名無史さん:02/10/31 00:02
>>43 サンカってなんすか?
カラキタイは難しそうだよね。
使えそうな史料ってペルシア語だっけ。
46 :
世界@名無史さん:02/10/31 00:13
ペルシア語史料にもロクに記載はないと思われ。
しかも有名さに比して以外に短命な王朝(三代80年)だったりする。
47 :
世界@名無史さん:02/10/31 01:21
48 :
世界@名無史さん:02/10/31 01:41
遼とあわせたら300年続いてるな
それにしてもカラキタイの建国の経緯ってムガル帝国のそれとなんか似てますね。
遼滅亡→皇族の一人ヤリツ大石が逃亡→西進して西域のカラハン朝を滅ぼし跡地に建国
ティムール帝国滅亡→皇族の一人バーブルが逃亡→東進してインドのスール朝を滅ぼし跡地に建国
49 :
世界@名無史さん:02/10/31 10:36
東西トルキスタンひとつながりでしかも仏教国ってのは珍しくないか?
50 :
世界@名無史さん:02/10/31 11:28
先行するカラハン朝と後続するチャガタイ・ハン国も東西ひとつながりですよ。
51 :
世界@名無史さん:02/10/31 21:25
52 :
世界@名無史さん:02/11/01 08:12
カラキタイというのはイスラム教徒が勝手にそう呼んだだけ、
本人たちの自称の正式名称は漢字で「大遼国」。(西遼は通称)
イスラム教徒はなぜか西遼もモンゴルにあった頃の遼も一般の契丹人のことも
全般的にカラキタイと呼んで区別してないので、
なにも西遼だけをカラキタイといったわけではない
53 :
世界@名無史さん:02/11/01 09:50
モンゴルにあった方の(西遼でない方の)国は
一時的に「大遼国」だった時期もあるけど
どっちかっていうと「大契丹国」の時期の方が長かったね
(西遼は西に遷ってから漢風文化に寛容になったのかな?)
55 :
世界@名無史さん:02/11/01 15:47
カラキタイって、黒い中国って意味になるよね。板・スレ違いだけど・・・。
56 :
世界@名無史さん:02/11/01 16:02
>>44 ご指摘どうも。よく間違えます、ゴメンナサイ
57 :
世界@名無史さん:02/11/01 16:19
「カラキタイ」という言葉は、カラハン朝下などのテュルク系のイスラム教徒たちが
記録した語彙です。ただ彼らの使っていた契丹文字の解読がまだまだ途上ですので、
彼らが自分たちの政体を母語で何と呼んでいたかは、厳密には不明のようです。
キタイと遼朝の問題ですが、この種のことは良くあることです。
例えば、元来アナトリアの西部を指した“アシア”が東方に順次拡大して現在のアジアに」なりましたし、
ウイグル語文献で北魏をさした“タブガチュ”がそのまま華北一帯から中国全体をさしたりするようにもなったりします。
>>52 モンゴル時代前後でも以降でも、
“カラ・ヒターイー”は王朝名であって、地名としての“ヒターイー”とは
区別されていたはずですが?
58 :
世界@名無史さん:02/11/04 23:23
1)国号(王朝名)2)一般の契丹人 3)地名(北中国)
で三つあるってことではないの?
59 :
世界@名無史さん:02/11/05 13:44
近世のイスラム圏や中国圏の大帝国て国号と民族名と地名がごっちゃになってて
混乱するケースが多々有るね。
このへんも西欧中心の世界史教育?の弊害かもしれん。
60 :
PURE-GOLD:02/11/05 14:12
61 :
世界@名無史さん:02/11/19 07:53
age
62 :
世界@名無史さん:02/11/29 13:52
カラ期待age
63 :
世界@名無史さん:02/11/29 13:55
もともとローマ帝国などの西方では、中国北部のことをセリカ、中国南部
のことをシナエ、と呼んでいたが後世ではシナエが中国全体の呼称となった。
64 :
世界@名無史さん:02/12/07 13:33
>>37 すごい遅レスだけど・・・
『集史』には
「ハンバリク」x'n-b'lyG:ハーン・バーリーグも
「大都」d'ydw:ダーイドゥーも
両方、併記されてる。
「ハーン・バーリーグ」は多分テュルク語。
もしかするとウイグル語あたりが起源の「王都」と言う意味の普通名詞である可能性有り。
つまり「王都」=帝都=首都と考えることができる。
この「王都」の名前が「大都」ということらしい。
「カーアーン・バーリーグ」:“(モンゴル)皇帝の都”とはしてないところが重要かも。
65 :
世界@名無史さん:02/12/07 13:41
>63
「セリカ」って何が語源なんやろ
66 :
世界@名無史さん:02/12/07 14:29
>>65 ギリシャ語Ση'ρ(Ser)から。意味は
>>66の言う通りギリシャ人が
絹を得ていたと言われる古代インドの民族。英語ではSeres。ストラ
ボンに出て来るらしい。
68 :
世界@名無史さん:02/12/07 16:59
|
+〜〜
|
| ホラズムが最強!/
|_@
_∧ .(__)
(_・ |/(゚Д゚ )\
|\Ю ⊂)_√ヽ
(  ̄ ~∪ )^)ノ
||` || ( | ( |
'~ ~ '~ '~
69 :
世界@名無史さん:02/12/21 08:33
age
70 :
世界@名無史さん:02/12/21 13:14
セリカ=月氏
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
Λ_Λ | 君さぁ こんなスレッド立てるから |
( ´∀`)< 厨房って言われちゃうんだよ |
( ΛΛ つ >―――――――――――――――――――‐<
( ゚Д゚) < おまえのことを必要としてる奴なんて |
/つつ | いないんだからさっさと回線切って首吊れ |
\____________________/
(-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ…
(∩∩) (∩∩) (∩∩)
(-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ…
(∩∩) (∩∩) (∩∩)
(-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ… (-_-) ハヤクシンデネ…
(∩∩) (∩∩) (∩∩)
金朝支配下の河北では宋以来の中国人は絶滅しますた
(^^)
74 :
世界@名無史さん:03/01/22 10:07
age
>>36 本題じゃないんだけど、
フビライタンの漢人ブレーンって儒者じゃないの?
元って実務能力のある奴を雇う方式だと思ってたけど。
詩しかできんようなやつは確かにイランし。
貶められたっていうのは言い過ぎに思えますが。
76 :
世界@名無史さん:03/01/29 03:14
儒者の定義によるんじゃないですか?
儒者であろうがなかろうが中国で知識人であるためには
漢文に熟達してないとそもそも知識階層になれない。
で、その漢文を習うためのテキストは儒教の経典なわけで・・・
かりに儒教の経典に精通してる者を儒者というなら、そりゃ全員儒者なわけで・・・
>>75 漢人のブレーンがいたというのはどうかな?耶立大石のように漢文化に理解のある
非漢人なら、ブレーンとしてはいただろうが、それとても漢文化が優位に立つような政策が
大ハーンによって採られたことは、あの時代においては断じてない。唯一挙げるとすれば、
中国人が、せいぜい稲作農耕民族としてのみ、なんとかその命脈を保てたことぐらいだ。
もしそれすらも無視されていたとしたら、あの大陸全体がまるまる、羊が群れる大草原に
されてしまっていただろうことは想像に難くない。はっきり言おう。
76氏のいうとおり、いわゆる中国の伝統的な知識人とは漢字漢文に熟達した儒学者、
ということに尽きる。そのような文化が顧みられなかった、モンゴル・タタールの支配下
においては現実には、ウイグル語やペルシャ語がリンガフランカとして幅広く通用して
いたのであり、西方的な文化が圧倒的な優位を占めていたのである。
いわゆる伝統的な中華文明が貶められていたというのは、決して言い過ぎではなく
現実の出来事だったのだ。実際に中国人自身が伝統的な姓を捨て、モンゴル風や、
ウイグル風の苗字を名乗ったり、自ら進んで胡服を着用し、頭も蒙古風の開剃辮髪に
したりという者さえ出現していたという記録さえあるというぐらいだ。
結局は、明代になって旧態に復帰したのだが・・・。
>耶立大石
耶律楚材?
フビライのブレーンの劉秉忠、許衡、姚枢あたりは漢人でんがな。
それに1315年からは科挙も実施されている。
ここまで書いて気付いた。フビライ以降の元朝期はスレ違いなのね。失礼。
>>77 78指摘のとおり、耶律楚材ですね。何か混同していませんか?
>>78 スレ違いとまでは断言しませんが、少なくともフビライの時代まではあくまでもモンゴル人たらんとする
気風・姿勢が圧倒的でした。名前を挙げたブレーンもあくまでも漢人支配のために必要なクッションであって
漢文化尊重という意図からではなく、むしろかれら優遇されたという漢人自体がまた同時に、イスラムに改宗していたり、
ウイグル語やペルシャ語を多少なりとも操れるなど、支配者側の文化に一定の理解があったからという要素も考慮されて
しかるべきでしょう。 そうであることでやっと漢人も色目人らと同等にランクされるようになれたのです。
とはいえ、フビライ死後の中国化となると、また話しは別です。だから冗談ではなく、フビライ以降の元朝期は
そのような意味ではそれ以前と区別して見てみるというのも、ある意味当たっているのではありませんか?
80 :
世界@名無史さん:03/03/03 21:58
キプチャク・ハン国を再統一したトクタミシュって馬鹿なの?
ティムール帝国とは関係も良かったのに自滅に走る行為でティムール軍を
招き入れて大敗してんじゃん。
やっぱ馬鹿じゃん。
ティムールの後ろ立てを利用してヨーロッパを攻めれば良かったのに。
(^^)
82 :
世界@名無史さん:03/03/18 08:32
age
83 :
世界@名無史さん:03/03/29 09:16
age
84 :
世界@名無史さん:03/04/10 08:54
age
85 :
世界@名無史さん:03/04/10 11:02
|
+〜〜
|
| ホラズムが最強!/
|_@
_∧ .(__)
(_・ |/(゚Д゚ )\
|\Ю ⊂)_√ヽ
(  ̄ ~∪ )^)ノ
||` || ( | ( |
'~ ~ '~ '~
(^^)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
88 :
ぐぐってもダメポですた:03/04/25 01:28
ホラズム・フワーリズムについて詳しい本ってないですかね?
ちょっと、探してるもんで。
できれば、それに関係するHPなんかがあれば最高なんですが。
89 :
世界@名無史さん:03/04/25 01:30
90 :
世界@名無史さん:03/04/25 22:09
>>88 それはホラズム全般に関して?
それともホラズム・シャー朝(1077−1231)に関して?
>>90 ホラズム・シャー朝、いわゆるフワーリズムについてのものです。
ムハンマド2世、ジャラール・ウッディンあたりについて詳しく書いていれば
なお助かります。
92 :
世界@名無史さん:03/05/08 19:57
>>91 遅レスだが日本語では余り知らないな。
山川の西アジア史の2巻の方に書いてあるの位じゃかと。
英語だったらジュワイニーの「世界征服者の歴史」の
英訳の第2部にホラズム・シャー朝史がある。
もっとも大学の図書館とかじゃないと置いてないだろうが。
後はペルシア語やらロシア語しか知らないな。
バルトリドでも漁ればなんかあるのかもしれないけど。
93 :
世界@名無史さん:03/05/08 20:15
モンゴルの血が入った大韓こそが
正当な後継者!
94 :
世界@名無史さん:03/05/08 20:18
清朝と争い滅ぼされたオイラート・モンゴル系の国は
何気にカスカス諸国にあるが・・・・。
カムクィク共和国ガソウ。
ロシア連邦内の仏教国だったりする。
タタールスタントハ別ニアル。
95 :
世界@名無史さん:03/05/08 20:20
バルトリド
デグーグル引いて
一番上ヲクリックシタラ、
国会図書館にツナガッテ
アクセス方法不正デスト
言われた。
96 :
世界@名無史さん:03/05/08 21:33
>>92 おいおい英語ならまずはEncycropedia Of Islamにあたるべきじゃないのかよ
97 :
世界@名無史さん:03/05/08 21:48
>>95 国会図書館のOPACの検索結果じゃん、それ。
どんな本だったか知りたいのなら
キャッシュで見るか、OPACで「バルトリド」を検索すればよろし。
>>96 だな。
99 :
世界@名無史さん:03/05/08 23:37
チンギス家の直系の子孫は何処にもいないのか?
ロシアに併合されたハーン家は皆殺しというわけでもあるまい。
100 :
世界@名無史さん:03/05/08 23:50
>>99 内外モンゴルを探せばつい数十年前までの清朝モンゴル貴族の子孫がいるっしょ。
ロシアだとカザン・アストラハン・シビル等の出自のロシア貴族は多いから
その中にチンギス家の系譜を引く家も少なくなかろう。
カザフやクリミアではチンギス家の血を引くハンの子孫たちは
ロシアに服属後もカザフ・クリミアのエリート階層だった。
クリミアからはトルコに移住した者も多い。
これだけ繁栄した一族がいくら社会主義革命を経たとしても
全く絶えたとはちょっと考えられない。
101 :
世界@名無史さん:03/05/09 08:08
>>99 直系って嫡流(本家)って意味でいってるのか?
それとも男系でつながってるって意味?
後者なら内蒙古にも外モンゴルにもたくさんいたと思ったが・・・
ちなみに清朝はチムールと同じで男系ではつながってない。
>>101 というか清代のモンゴルの旗の長ジャサクは、
ほとんど全員がダヤン・ハーンの子孫。
つまりフビライ系統。
全国に散らばった子孫が残っていないわけがないと思う。
本家のチャハルは断絶したんだっけ?
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
105 :
世界@名無史さん:03/06/01 02:33
びっくりするほどモンゴル帝国!びっくりするほどモンゴル帝国!
106 :
世界@名無史さん:03/06/01 08:46
>>104 山崎渉を応援しろとおっしゃるが、
このメルキト族の血を引く者に、なぜ我々が応援しなくてはならぬのか?
107 :
スイライテー:03/06/01 10:42
チャハルなんかより、もっと嫡系にちかいのが、チベットにいるよ。
西蔵の「蔵北地区」の東部に分布する「ホル三十九族」の族長。
文宗トクテムルの弟が始祖だって。
いまの当主も、地区人民政府で、なんの実権もない名誉職に就いて、
健在。
109 :
世界@名無史さん:03/06/01 12:49
>>108 ダヤン=ハーンがフビライ裔という主張なみには「信頼」できるね。
111 :
世界@名無史さん:03/06/02 19:35
びっくりするほどモンゴル帝国!
びっくりするほどモンゴル帝国!
,rrr、
⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y| |.l ト⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y/つ))) _ _ _
⊂ ヽ | __ ☆ __ _/ 巛 / /-LLl
ミミ彡彡彡彡 ,`ー \ | |l / \ __つ /_/ |_|
/ 彡/|| , \.|||/ 、 \ ☆ ロ /l
/ ∠ヾ ''∠ヽ / __从, ー、_从__ \ / ||| /__|
| ( 。、 / / / | 、 | ヽ |l _ _ _
| \____/(/ ) `| | | |ノゝ☆ t| | |l \ / /-LLl
| ヽ__ノ / `// `U ' // | //`U' // l /_/ |_|
\____/ / W W∴ | ∵∴ | ロ /l
/ ☆ ____人___ノ /__|
/ /
112 :
世界@名無史さん:03/06/02 21:09
びっくりするほどジャガ・ガンボ!
びっくりするほどジャガ・ガンボ!
,rrr、
⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y| |.l ト⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y/つ))) _ _ _
⊂ ヽ | __ ☆ __ _/ 巛 / /-LLl
ミミ彡彡彡彡 ,`ー \ | |l / \ __つ /_/ |_|
/ 彡/|| , \.|||/ 、 \ ☆ ロ /l
/ ∠ヾ ''∠ヽ / __从, ー、_从__ \ / ||| /__|
| ( 。、 / / / | 、 | ヽ |l _ _ _
| \____/(/ ) `| | | |ノゝ☆ t| | |l \ / /-LLl
| ヽ__ノ / `// `U ' // | //`U' // l /_/ |_|
\____/ / W W∴ | ∵∴ | ロ /l
/ ☆ ____人___ノ /__|
/ /
113 :
世界@名無史さん:03/06/02 23:18
びっくりするほどビルゲベキ!
びっくりするほどビルゲベキ!
,rrr、
⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y| |.l ト⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y/つ))) _ _ _
⊂ ヽ | __ ☆ __ _/ 巛 / /-LLl
ミミ彡彡彡彡 ,`ー \ | |l / \ __つ /_/ |_|
/ 彡/|| , \.|||/ 、 \ ☆ ロ /l
/ ∠ヾ ''∠ヽ / __从, ー、_从__ \ / ||| /__|
| ( 。、 / / / | 、 | ヽ |l _ _ _
| \____/(/ ) `| | | |ノゝ☆ t| | |l \ / /-LLl
| ヽ__ノ / `// `U ' // | //`U' // l /_/ |_|
\____/ / W W∴ | ∵∴ | ロ /l
/ ☆ ____人___ノ /__|
/ /
114 :
世界@名無史さん:03/06/02 23:19
びっくりするほどゴリスベチ!
びっくりするほどゴリスベチ!
,rrr、
⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y| |.l ト⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y/つ))) _ _ _
⊂ ヽ | __ ☆ __ _/ 巛 / /-LLl
ミミ彡彡彡彡 ,`ー \ | |l / \ __つ /_/ |_|
/ 彡/|| , \.|||/ 、 \ ☆ ロ /l
/ ∠ヾ ''∠ヽ / __从, ー、_从__ \ / ||| /__|
| ( 。、 / / / | 、 | ヽ |l _ _ _
| \____/(/ ) `| | | |ノゝ☆ t| | |l \ / /-LLl
| ヽ__ノ / `// `U ' // | //`U' // l /_/ |_|
\____/ / W W∴ | ∵∴ | ロ /l
/ ☆ ____人___ノ /__|
/ /
115 :
世界@名無史さん:03/06/03 17:18
びっくりするほど耶律阿海!
びっくりするほど耶律楚材!
,rrr、
⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y| |.l ト⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y/つ))) _ _ _
⊂ ヽ | __ ☆ __ _/ 巛 / /-LLl
ミミ彡彡彡彡 ,`ー \ | |l / \ __つ /_/ |_|
/ 彡/|| , \.|||/ 、 \ ☆ ロ /l
/ ∠ヾ ''∠ヽ / __从, ー、_从__ \ / ||| /__|
| ( 。、 / / / | 、 | ヽ |l _ _ _
| \____/(/ ) `| | | |ノゝ☆ t| | |l \ / /-LLl
| ヽ__ノ / `// `U ' // | //`U' // l /_/ |_|
\____/ / W W∴ | ∵∴ | ロ /l
/ ☆ ____人___ノ /__|
/ /
+〜〜
|
|
>>111-115を殺っちまおう!/
|_@
_∧ .(__)
(_・ |/(゚Д゚ )\
|\Ю ⊂)_√ヽ
(  ̄ ~∪ )^)ノ
||` || ( | ( |
'~ ~ '~ '~
117 :
世界@名無史さん:03/06/04 16:36
びっくりするほどワールシュタット!
びっくりするほどワールシュタット!
,rrr、
⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y| |.l ト⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y/つ))) _ _ _
⊂ ヽ | __ ☆ __ _/ 巛 / /-LLl
ミミ彡彡彡彡 ,`ー \ | |l / \ __つ /_/ |_|
/ 彡/|| , \.|||/ 、 \ ☆ ロ /l
/ ∠ヾ ''∠ヽ / __从, ー、_从__ \ / ||| /__|
| ( 。、 / / / | 、 | ヽ |l _ _ _
| \____/(/ ) `| | | |ノゝ☆ t| | |l \ / /-LLl
| ヽ__ノ / `// `U ' // | //`U' // l /_/ |_|
\____/ / W W∴ | ∵∴ | ロ /l
/ ☆ ____人___ノ /__|
/ /
118 :
世界@名無史さん:03/06/05 15:16
びっくりするほど源義経は北海道からモンゴルに渡ってチンギスハンになった!
びっくりするほど源義経は北海道からモンゴルに渡ってチンギスハンになった!
,rrr、
⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y| |.l ト⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y/つ))) _ _ _
⊂ ヽ | __ ☆ __ _/ 巛 / /-LLl
ミミ彡彡彡彡 ,`ー \ | |l / \ __つ /_/ |_|
/ 彡/|| , \.|||/ 、 \ ☆ ロ /l
/ ∠ヾ ''∠ヽ / __从, ー、_从__ \ / ||| /__|
| ( 。、 / / / | 、 | ヽ |l _ _ _
| \____/(/ ) `| | | |ノゝ☆ t| | |l \ / /-LLl
| ヽ__ノ / `// `U ' // | //`U' // l /_/ |_|
\____/ / W W∴ | ∵∴ | ロ /l
/ ☆ ____人___ノ /__|
/ /
119 :
世界@名無史さん:03/06/05 21:51
びっくりするほどジャラルウッディーン!
びっくりするほどジャラルウッディーン!
,rrr、
⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y| |.l ト⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y/つ))) _ _ _
⊂ ヽ | __ ☆ __ _/ 巛 / /-LLl
ミミ彡彡彡彡 ,`ー \ | |l / \ __つ /_/ |_|
/ 彡/|| , \.|||/ 、 \ ☆ ロ /l
/ ∠ヾ ''∠ヽ / __从, ー、_从__ \ / ||| /__|
| ( 。、 / / / | 、 | ヽ |l _ _ _
| \____/(/ ) `| | | |ノゝ☆ t| | |l \ / /-LLl
| ヽ__ノ / `// `U ' // | //`U' // l /_/ |_|
\____/ / W W∴ | ∵∴ | ロ /l
/ ☆ ____人___ノ /__|
/ /
120 :
世界@名無史さん:03/06/06 17:49
びっくりするほどもう飽きた!
びっくりするほどもう飽きた!
,rrr、
⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y| |.l ト⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y/つ))) _ _ _
⊂ ヽ | __ ☆ __ _/ 巛 / /-LLl
ミミ彡彡彡彡 ,`ー \ | |l / \ __つ /_/ |_|
/ 彡/|| , \.|||/ 、 \ ☆ ロ /l
/ ∠ヾ ''∠ヽ / __从, ー、_从__ \ / ||| /__|
| ( 。、 / / / | 、 | ヽ |l _ _ _
| \____/(/ ) `| | | |ノゝ☆ t| | |l \ / /-LLl
| ヽ__ノ / `// `U ' // | //`U' // l /_/ |_|
\____/ / W W∴ | ∵∴ | ロ /l
/ ☆ ____人___ノ /__|
/ /
121 :
世界@名無史さん:03/06/06 19:43
フワーリズムのジャラール・ッディーン・マングビルディーの
「マングビルド」って、やっぱテュルク語かねぇ。
マングビルディーって語の綴りは知らないんだけど、
チュルク語だとしたら Mangu-bir-di(永遠なる者[が]-授け-た)じゃないかなあ。
マムルーク朝の年代記作家にイブン・タグリービルディーという人がいますが、
チュルク系マムルークであった彼の父の名 Taghribirdi は
チュルク語で「神(テングリ)が授けた」という意味。
ユートピアはもう来ないのだろうか。
124 :
世界@名無史さん:03/06/07 21:38
>>122 おお!わざわざレスをありがとう御座います!
こんなに早く反応が来ると思ってませんでした(汗
やはりテュルク語でしたか〜
それにしても命名法が中央アジアの伝統に則った感じがあるのが興味深いですね。
例)ミフルダート Mihr-daat(ミフル[神が]-与えた[者])
125 :
世界@名無史さん:03/06/09 01:56
+〜〜
|
| 弟と仲良くね
|_@
_∧ .(__)
(_・ |/(゚Д゚ )\
|\Ю ⊂)_√ヽ
(  ̄ ~∪ )^)ノ
||` || ( | ( |
'~ ~ '~ '~
びっくりするほどダライスン・ゴデン・ハーン!
びっくりするほどダライスン・ゴデン・ハーン!
,rrr、
⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y| |.l ト⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y⌒Y/つ))) _ _ _
⊂ ヽ | __ ☆ __ _/ 巛 / /-LLl
ミミ彡彡彡彡 ,`ー \ | |l / \ __つ /_/ |_|
/ 彡/|| , \.|||/ 、 \ ☆ ロ /l
/ ∠ヾ ''∠ヽ / __从, ー、_从__ \ / ||| /__|
| ( 。、 / / / | 、 | ヽ |l _ _ _
| \____/(/ ) `| | | |ノゝ☆ t| | |l \ / /-LLl
| ヽ__ノ / `// `U ' // | //`U' // l /_/ |_|
\____/ / W W∴ | ∵∴ | ロ /l
/ ☆ ____人___ノ /__|
/ /
+〜〜
|
| こんなぼくでも汗(ハーン)になれるかな
|_@
_∧ .(__)
(_・ |/(゚Д゚ )\
|\Ю ⊂)_√ヽ
(  ̄ ~∪ )^)ノ
||` || ( | ( |
'~ ~ '~ '~
128 :
世界@名無史さん:03/06/30 22:52
すいません、楚材伝の訳本(楚材の著したものの訳ではなく、楚材伝)
がでてるのですが、どこの検索で出してもでません。
本の題名などしっていたら教えてください。
129 :
世界@名無史さん:03/06/30 23:46
>>128 質問の意味がよくわかりません。
「漢籍の耶律楚材の伝記の日本語訳が出ているはずだが
書誌情報がわからない」のですか?
日本人の書いた楚材の伝記であれば心当たりがありますが。
130 :
学生さんは名前がない:03/07/01 23:17
えっと、楚材の著したもの(西遊録)とかではなくて、元史楚材伝の訳、だったのですが、
題名がやっとわかったので、大丈夫です。
ありがとうございました!!
おや、自力で解決しましたか。
でもそんな本出てたんだ…知りませんでした。
132 :
世界@名無史さん:03/07/02 09:01
アリクブガがクビライに勝つ方法はあったのだろうか?
結論からいえばいくらでもあったといえよう
134 :
世界@名無史さん:03/07/03 15:44
耶律楚材伝は、小林高四郎が翻訳していますよ。
小林訳『元史』明徳出版社に入っていた筈。
ちなみにこの訳書、ムカリ伝も訳されているし
『元史』の史料価値についてきちんと書いてあるのでまじでお勧め。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
136 :
世界@名無史さん:03/07/17 08:34
ホセン万奴の東夏国って、詳しい記録が残ってないんでしょうか?
元史にも金史にも少ししか出てこないんですが・・・。
一応高麗を服属させたぐらいだから、それなりの勢力だったと思うんですが・・・。
137 :
胴締め剛術家 ◆/7yqagaCtg :03/07/18 23:40
>>80 当時のヨーロッパなど、イスラム文化を受け入れたモンゴル、トルコ系からみれば
偏狭の片田舎みたいなもんでしょう。
あまり征服する旨みもなく、森林地帯は攻めにくい。
チンギス=ハーンの後裔を名乗らんとした彼にはイスラームを征服し、
各ウルスを統一する事の方が優先事項だったのでは?
138 :
世界@名無史さん:03/09/07 12:54
139 :
世界@名無史さん:03/09/09 01:49
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030907-00000119-mai-soci <石棺>金王朝初代皇帝の陵墓で発見 中国・北京
6日の新華社電によると、北京市南西郊外の九竜山にある金王朝の陵墓で、初代皇帝の完顔阿骨打(ワンヤンアクダ)(1068〜1123年)のものとみられる石棺と装飾物が見つかった。
石棺は深さ約5メートルの大きな穴の中に四つ見つかり、大理石のような白い石の表面に竜や鳳凰の絵が彫られていた。装飾が施された皇帝専用のこうした石棺の発見は中国で初めて。
石棺の中には赤い漆塗りの木棺があり、頭と足の骨のほか、金製の針金でつくった冠や鳳凰をかたどった玉製の飾りも見つかった。800年以上の年月がたっているにもかかわらず、冠は完全な形で残り、きらめくほどの金色だったという。
北京市文物研究所の宋大川所長は発掘成果について「金朝の女真族の政治、経済、文化を研究する上で大きな意義がある」と話している。
九竜山一帯の広大な金陵は1980年代に発見された。今回見つかった石窟の穴は地元の農民が貯水池として使っていたが、1トン以上もある石が200個以上も中に置かれていたため、研究者が不思議に思い2001年から石を取り除いて発掘を進めていた。
金陵は明の十三陵より200年ほど古く、北京の近くでは最も古く規模も最大の陵墓として知られている。(北京・共同)(毎日新聞)
140 :
世界@名無史さん:03/09/09 01:51
142 :
世界@名無史さん:03/09/16 22:05
完顔アゲダ
143 :
ty270410:03/09/17 00:10
>>102 つい数年前,内モンゴルのオルドスの王家の血を引く人物の
文化革命時代のことを書いた本があった.
ダヤン汗の子孫がこの地方の有力者として残っていたのである.
戦前,満州の東部内蒙古には,チンギス・ハーンの兄の
ジュチハサールの子孫が各地の王侯貴族として残っていた.
満州国になってから,旗に公署をおき,中央から管理が
派遣されて行政の任にあたったが,王侯貴族はモンゴル人の
象徴として存続していた.
多分,その人々の子孫は現存すると思う.
戦時中日本に同調した特王もダヤン汗の子孫.
144 :
世界@名無史さん:03/10/04 20:43
いるもんだねえ・・・50へぇ
ジュチカサルの子孫はジンギスカンの子孫じゃないだろうがよ。特王は「徳王」のまちがいね
146 :
世界@名無史さん:03/10/13 19:04
金国の話題でつが、
ヌルハチが「後金」と号して旗揚げしたくらいだから
愛親覚羅家の起源は金の遺臣や貴族、なんてことはないすかね?
それだけじゃ無理。
148 :
世界@名無史さん:03/11/03 17:17
清以前の女真族の家系ってのはいまいちよく分からないな〜
149 :
世界@名無史さん:03/11/03 18:48
age
150 :
ty270410:03/11/07 22:31
>>21 モスクワ大公がツアーリを称するのは,
イワン4世が,キプチャク汗の子孫の
シメオン・ベクブラドビッチ(サイン・ベク・ブラード)
から称号を譲渡されてからではないでしょうか?
152 :
世界@名無史さん:04/01/06 03:18
ブクリ=ヨンションの子孫、ドゥドゥ=メンテムの子チュンシャン、チュンシャンの子ドゥドゥ=フマン、ドゥドゥ=フマンの子ギオチャンガ、ギオチャンガの子タクシ、タクシの子ヌルハチ。
153 :
世界@名無史さん:04/01/07 00:25
ヌルハチは金室のそのまた始祖函普(実在かどうかは不明)の弟
保活里の子孫を名乗ったそうだが。
まあ只の権威付けの為で実際の血縁関係はないんじゃないの?
後金国もありなスレなのか?
155 :
世界@名無史さん:04/02/22 17:12
保守age
156 :
世界@名無史さん:04/02/22 17:21
チャガタイって強かったの?
157 :
世界@名無史さん:04/02/22 20:37
強さだけならジュチのほうが強いだろ。
158 :
世界@名無史さん:04/02/23 22:46
戦争最強で若くして過労死したジュチ、規律を重んじるチャガタイ、父の膝下で帝王教育を授けられたトルイ、
兄弟の仲で一番のボンクラなのに、おおらかで、なんとなくみんなに人気があって
大汗に推されたオゴタイが実は最強・・・書くまでもないことかな。
西夏って爵位制度はあったのでしょうか?
160 :
世界@名無史さん:04/02/24 23:03
バトゥが最強!これマジ。完顔陳和尚もなかなかだけどね。
161 :
世界@名無史さん:04/02/25 00:22
だれか、金の世宗のこと、詳しくない?
おせーて!
162 :
世界@名無史さん:04/03/06 17:40
だよな やっぱり、青き狼と白き女鹿>
163 :
世界@名無史さん:04/03/07 14:21
バトゥを罵倒する露助
164 :
世界@名無史さん:04/04/14 23:15
西夏もやはり中原を狙う領土拡張の野心はあったのでしょうか?
165 :
世界@名無史さん:04/04/15 01:21
俺の子供がほしいと言って、
産んでくれた嫁が愛しくて、
乳首から何もしないのに母乳を漏らす嫁が愛しくて、
勃起を押さえることが出来なくなった。
そのまま嫁を押し倒して
乳を搾りながらガンガン突いた。
対面座位で突き上げながら母乳を啜った。
バックでシーツに母乳を搾り、
飛び散らせながら、えぐりこんだ。
嫁の母乳が自分の体を作る栄養になると思うと、
倒錯的な欲情がこみ上げてくる。
三回の射精では収まらなかった。
今は疲れて寝てる嫁に
明日は朝食を作ってやるか。
俺は変態だな。
166 :
世界@名無史さん:04/04/15 01:22
誤爆スマソ
167 :
世界@名無史さん:04/04/15 18:36
165は乳酒の好きなテムジン
相手はボルテかクランか?
カラ・キタイ/西遼もこのスレでいいのかな?
170 :
世界@名無史さん:04/05/03 23:47
火薬が出てくるまではモンゴルの戦い方は最強
ゴビ砂漠で訓練した兵にかなうものなし
>>170 火薬が出てからの方が余計強いよ。モンゴル軍は震天雷のような火薬兵器を
モヒの戦いなどで積極的に投入している。
>>169 過去レスに西遼のことがあったから構わないかと。
173 :
世界@名無史さん:04/05/11 02:29
火器は金を征服したときに取り入れたのかな。いやもっとそれ以前から?
>>174 へい、どうもお待たせしますた。いやだなぁ本物ですよ。別に騙ってませんって!
176 :
世界@名無史さん:04/06/07 23:43
はじめまして
テングリについて教えてください
177 :
世界@名無史さん:04/06/29 11:19
天
西夏国の人物伝で詳細なものってないでしょうか。ドーソン『モンゴル帝国史』
くらいしかないのでしょうか。
金史とか宋史とか眺めてみても、西夏の様子って良く分かりません。
カイ名令公って何者なんですかね。
179 :
世界@名無史さん:04/07/24 14:41
【英国】チンギス・ハンのご子孫はお食事無料です
http://news13.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1089203704/ 英ロンドンにあるモンゴル料理店「シシ」が3日、来店客に無料でDNA鑑定を施し、
モンゴル帝国の始祖、チンギス・ハン(位1206ー27年)の子孫と判明した客には
食事を無料提供する試みを開始した。
父親から息子に受け継がれるY染色体を検査するため、鑑定を受けられるのは男性に限られる。
鑑定は9日まで実施し、結果は2カ月後に出る予定。
チンギス・ハンは12世紀から13世紀にかけて、アジアを征服し、現在の東ヨーロッパにまで
及ぶ帝国を形成。その際、各地に、多数の子を残したとされる。
AP通信によると、料理店と共同してDNA鑑定を実施するオクスフォード・アンセスターズ社は、
中央アジアなどで計「1700万人」の男性が、チンギス・ハンの遺伝子を受け継いでいる
可能性を指摘している。
「シシ」によると、今回の企画は、モンゴルで再び姓を名乗ることができるようになったことを
たたえるのが目的。
モンゴルでは、過去70年間、国民の団結などを理由に、姓を名乗ることが禁止されていた。
しかし1990年代に政府がこの政策を撤回し、国民に名字の登録を呼び掛けている。
先月末までに国民の半分以上が、チンギス・ハンの家系が名乗っていた名字を登録したという。
2004.07.07 Web posted at: 20:42 JST - CNN/AP
http://www.cnn.co.jp/fringe/CNN200407070029.html
180 :
世界@名無史さん:04/08/31 19:16
>>178 西夏自身が著した史書などはありましたっけ?
カラホト文書
182 :
世界@名無史さん:04/10/08 22:35:21
西遼も独自の元号を使っていたのでしょうか?
イスラム化しちゃったのかな。
西遼の元号(『遼史』本紀第三十参照)
徳宗(耶律大石)−延慶、康国
感天皇后(塔不煙)−咸清
仁宗(耶律夷列)−紹興
承天太后(普速完)−崇福
直魯古−天禧
でよろしいか。
>184様
詳しいご教示ありがとうございました。
ほしゅ
187 :
世界@名無史さん:04/12/20 11:40:04
保守
我が国を西夏と呼ぶでない。
我が国の名は「夏」。
世界の中心でアイを叫んだけものの国だ。
「敦煌」では渡部恒彦が「西夏」と言っていたぞ
190 :
世界@名無史さん:05/01/17 22:15:20 0
>189
そりゃ、中国の映画で日本の首相に「我が小日本国は…」と
言わせるようなもんだ
192 :
世界@名無史さん:05/01/17 22:51:36 0
西田氏の西夏文字の本にはピョンベーレーとあったな。
193 :
世界@名無史さん:05/01/18 00:25:44 0
>>188 「大夏」のはずだよ。まあ、これが、大夏=バクトリアあたりと
混同するから歴史的には「西夏」なんだけど。
可汗って本来どういう意味の言葉だったんだっけ?
なんか水に関係あるらしいんだけど。
余談だが、単于は「天の子の大いなるもの」という意味らしい。
>>194 カカンは大人・首長の意味じゃなかったかな。
単于は「大天子」。「當犂孤塗単于」の略。
當犂=天、孤塗=子、當犂孤塗=天子。単于=大
最初の頃は(漢)皇帝≦(匈奴)単于だったけど
最後は王≧単于になったのはなんともかんとも。
197 :
世界@名無史さん:05/01/25 10:18:10 0
モンゴリアンちょ〜っぷ
198 :
世界@名無史さん:05/02/10 19:38:11 0
高麗は金に朝貢したことはあったの?
200 :
世界@名無史さん:05/02/11 13:01:46 0
ホラズムって、確かトルコ系康里(カンクリ)人のアヌーシュ・テギンが、
セルジューク朝から太守に任命されて以来から世襲制となったはず。
それで孫のアーチズの代になって、遼の耶律大石に臣属して独立した国でしょ。
まあ、曾孫があのモハメッド国王だが。
201 :
世界@名無史さん:05/03/06 18:53:52 0
202 :
世界@名無史さん:05/03/06 20:47:02 0
>>1
なんで遼を含めない? 普通、遼・金・元とひとくくりにするだろうのに。
>>202 中華中心で考えたらそうかもしれんが、
ここはモンゴル中心にその周縁を考えていこうというスタンスじゃないか?
たぶん。知らんけど。
204 :
世界@名無史さん:05/03/08 23:39:54 0
皆様、初めまして。歌手の元ち○せさんの苗字はモンゴル、フビライと関係
ありますでしょうか?それともどちらかというと中国系(元寇の元?)?この地方(奄美)では変わった苗字が多いとはおもいますが、およそ
400年前、薩摩から一部の人が苗字を与えられそのときは縁起の良い寿、恵など
が多かったというなかで元という字はどのような意味合いがありますでしょうか?
どなたか推測でもお考えをお聞かせください。
お願いいたします。
>>204 あるわけないだろ。
大体元寇を縁起のいいものと考える人間が日本にいたと思う?
206 :
世界@名無史さん:05/03/09 23:34:48 0
205さんありがとうございます。たしかにそうご指摘いただくと納得できます。
では、寿、恵などを使う意図はなんとなくわかりますが、
当時、元という漢字にどのような意味があったのでしょか?
ご存知でしたらお願いいたします。
207 :
あやめ ◆C0.O2CxIMg :05/03/09 23:56:07 0
「元」は最初とか根源とかいうニュアンスのある字ですから、寿や恵などと
同様にめでたい文字と言うことで採用されたに過ぎません。特別に隠された
意味合いが篭められているということはないでしょう。
208 :
世界@名無史さん:05/03/10 00:03:29 0
>>206 以前テレビ番組で(「おしゃれカンケイ」だったかなあ?)本人が
苗字の由来を尋ねられて説明してたのを憶えているんですが・・・肝心の由来をきれいに忘れてしまいました。
すんません・・・_| ̄|○‖|
何らかのいわれはあったと思います。
中国だと元という姓を名乗るのは、北魏王室の子孫と言いたい場合なんだよね。
210 :
世界@名無史さん:05/03/10 22:37:58 0
金の官僚兼詩人の元好問がそうだったな。
211 :
世界@名無史さん:2005/03/30(水) 19:45:57 0
/;;;;;;;;;;;;;\
/;;:::::::::::::::::::::::\
∈=━/,,;;:::::::::::::::::::::::::.;ヽ━=∋
L::;;,__ ..:::ゝ
//;;;;::::::.. ̄ ̄ ̄ ̄..::::;;;ヽ
/ ;;;;;;;;:::::::::::;;;;;;;;;;;;;::::::::;;;;; ヽ
/j/三三三三三三三三三三ヾ、
l::||:::: |l
/ ̄\ ヽ-=・=-′ヽ-=・=-′ || <徐達!不遜極まる北虜を殲滅せい!
r┤ ト::::: \___/ || <明史編纂も急がねば。
/ \_/ ヽ:::. \/ ,ノ
| _( ̄ l―---oo-――'"ヽ__
| _)_ノヽ\ ハ // / ヽ
ヽ____)ノ  ̄ ̄ ̄ / ヽ、
iii■∧
(,,゚∀゚)<歴史に名を残すのはお前ではない!
213 :
世界@名無史さん:2005/04/15(金) 01:17:13 0
金の文化人ってあまり聞きませんな。
女真族が漢文化を冷遇していたとか?
214 :
世界@名無史さん:2005/04/15(金) 21:20:58 0
金の文化人には元好門という詩人がいるでしょう。
他には知りませんね。
215 :
世界@名無史さん:2005/04/15(金) 21:24:48 0
伝を見ていけば結構いるでしょう。田村実造の中国制服王朝の研究を参照すれば
たくさん出ているでしょう。
金帝国下での漢文化は渤海人貴族が担った部分が大きい。
ハゲ?
218 :
世界@名無史さん:2005/05/02(月) 20:31:49 0
>>213 女真が漢文化を冷遇してたってのは一方ではそういうこともあったとは思い
ますが、実質てきには尊重し結局からめとられたということでしょう。
結局は中国内部に南遷しつつ消滅した感じの国ですから。
契丹と比べ女真はむしろ漢文化に染まって民族性を失っていったという
方が正しいですね。契丹が最後まで都も北方から動かさず郊祀の祭典を行わず
即ち儒を受け入れなかったのに対し、女真は特に海陵王の時から原住地から
華北に遷都したり漢化が著しかった。皇帝でも十歳まで女真語を知らなかっ
た人が出てくる。
>>215 中国制服王朝〜萌えそうだ。
>>217 211の陛下が貴官を「凌遅三千刀、滅九族!」に処するようおっしゃっています。
甘んじてお受けなさい。
220 :
世界@名無史さん:2005/06/02(木) 02:25:27 0
>>218 清は先祖たる前者の轍を踏んじゃったのね・・・
>>218 ホンタイジの息子だっけ? 女真の伝統から母と再婚した叔父と不仲だったという。
222 :
世界@名無史さん:2005/06/06(月) 16:50:23 0
ホンタイジの息子=フリン=順治帝
ホンタイジの兄弟=ドルゴン=摂政王の事ですな。
井上何がしが著した「摂政王ドルゴン」(小説)に
母の再婚は漢族の風習にそまりつつあった幼い順治帝の
心をひどく傷つけ、ドルゴンへの憎しみを育て、ドルゴンが死ぬと
一族郎党を失脚させて辺境においやったような記述があるけど
この辺の描写って想像で書いたのかな。
巻末にいろいろと参考資料のっているけど。
※図書館で借りたので手元にはありません。
223 :
世界@名無史さん:2005/06/06(月) 16:55:19 0
金朝は支配下の漢民族に清朝と同じく辮髪強制していたというのは
本当ですか?
元好問や哀宗皇帝も辮髪してたのかな。
だったら萎え。
224 :
世界@名無史さん:2005/06/06(月) 16:57:16 0
っていうか、何処の資料の記述なんかかいてクレ
大学の講師や教授の講義中の発言なら名前を晒してくれ
225 :
世界@名無史さん:2005/06/06(月) 17:03:07 0
226 :
世界@名無史さん:2005/06/19(日) 21:03:08 0
>>223 金の髪型は辮髪だったんでしたっけ?
カッパ剃りは西夏だったっけ。
.
228 :
世界@名無史さん:2005/07/12(火) 02:19:30 0
上海協力機構はモンゴル帝国を継承していますね。
229 :
世界@名無史さん:2005/07/15(金) 21:27:23 0
元帝国の正式名称は、大元大蒙古国だっけ。
長いこと疑問に思ってるんだが、モンゴル語しか分からないはずのフビライは、
どうやって漢語の「元」なんて国号をつけたんだろうか。
漢人の家臣に意味と発音を聞いて、気に入ってつけたんだろうか。
漢字の読み書きができないモンゴル人が、漢語の「元」を自国の国号として、
当時の漢語の発音で、モンゴル語の中で使用していたと考えると、なんか妙な
感じがする。
その辺が釈然としない。
231 :
世界@名無史さん:2005/07/16(土) 04:18:33 0
>>230 単なる揚げ足取りみたいな書き込みすんな。
232 :
元九郎判官:2005/07/16(土) 08:21:06 O
むしゃくしゃして‘元’にした
‘源’と読みがおなじならなんでもよかった
いまは通貨単位として生き残っている☆
233 :
世界@名無史さん:2005/07/16(土) 09:56:22 0
>>229 「元」は『易経』に出てくる「大いなるかな乾元」とか
天の徳を意味する「元亨利貞」に由来すると思われ。
フビライが漢語・漢文を解したかどうかは知らないが、
神秘の書『易経』については、モンゴル人の間でも知られていただろう。
234 :
世界@名無史さん:2005/07/16(土) 20:10:13 0
あと蒙古人や色目人が漢語を使えなかったってのは偏見だよ。
イスラム教徒の科挙合格者までいるくらいだ。
そいつは合格した喜びを漢詩で書き残している。
236 :
世界@名無史さん:2005/07/17(日) 09:45:42 0
詳しくは陳舜臣著書の『中国の歴史D』にあるから、
それを読むといい。
フビライの兄のモンケ・ハーンはユークリッド幾何学の問題を解くのが趣味だったらしい。
>>229 元朝後期ころのペルシア語史料なんかによれば、クビライ、モンケ、
バトゥはじめ孫の世代はムスリムの教師から初等教育を一通り受けた
おかげでウイグル語は勿論ペルシア語も普通に出来たらしい。
あとアラビア語も少しなら読めたそうな。
モンゴル人で漢語というかヒタイ語が出来た人物というと
ペルシア語史料からだとガザン・ハンとかプーラード・チンサンとか
わずかにしか出てこないけど、元朝も中期頃から『飲膳正要』の忽思慧
とかが出てくるので、当然というか東方ではわりと漢籍を嗜む連中は
多かったらしい。
ただ、モンゴルが金朝とか地理的に近かったからという理由でモンゴル人が
ダイレクトに漢学に精通するようになったとする考えは誤りで、
元々ウイグル王国で仏教振興の一環としてウイグル語による漢学の研究蓄積が
相当されていて、モンゴル帝国がウイグル王国との結びつきを深めていく段階で
モンゴルの人士もこのウイグルの漢学を経由して暫時漢学そのものも吸収していったらしい。
確証はないが、クビライも初めは漢籍そのものを読むよりペルシア語やウイグル語文献を
読む方が楽だったろうけど80歳まで生きたわけだからウイグル文字の読み下し文付きで
だったら漢籍も読めたのではと思えるのだが、さて。
モンケはユークリッド幾何学の解法を読みこなすのが趣味だったそうだからアラビア語文を
読むのも堪能だったんだろうなあ・・・
239 :
世界@名無史さん:2005/07/26(火) 21:35:51 0
>>229 元より前の中国王朝の名称は全て地名からきていた。漢にせよ、宋にせよ
全て地名である。
元という国号によってはじめて抽象的な概念が国号となった。
易の大いなるかな乾元からとったというが、元以後は明・清というふうに抽象的な
語句が王朝名として採用された。
以上のようなことが何かの本に出ていたと思う。中公の世界の歴史の元の巻だった
かな?
240 :
世界@名無史さん:2005/07/27(水) 20:37:54 0
易は、儒学を中興させた宋学の中心哲学である。易の理・気の二元論によって
儒学は哲学的に刷新された。よって宋を倒した元でも当然易が重要視されたこ
とは予想できる。
王莽の新も地名から来てんの?
>>241 王莽建国の国号の新は新野から取ってる。
新野侯→安漢公(宰衡)→仮皇帝(摂皇帝)→大新皇帝
後漢末期に劉備が荊州に居住して諸葛亮を配下に加えたのが新野県。
243 :
世界@名無史さん:2005/08/25(木) 18:09:16 0
あの新野か。
245 :
世界@名無史さん:2005/09/01(木) 21:36:31 0
明日の早朝4時のNHKラジオで、杉様が「今、ユーラシアの時代に」と
題して1時間ぐらい何やら語るらしい。
おきられなかったわい! くそっ!!
247 :
世界@名無史さん:2005/09/07(水) 02:13:23 0
蒙古覇極道〜〜〜!!
248 :
世界@名無史さん:2005/10/02(日) 12:48:47 0
249 :
世界@名無史さん:2005/10/04(火) 19:39:56 0
司馬遼太郎は昔「戈壁の匈奴」という小説で、西夏最後の皇帝である李睍を
「李睍公主」という萌えキャラにしていた・・・
251 :
世界@名無史さん:2005/10/18(火) 01:58:14 0
ジンギスカンが中央アジア諸国で破壊と虐殺を
繰り返したのはイスラムへの憎悪?
252 :
世界@名無史さん:2005/10/18(火) 02:43:34 0
モンゴルの破壊はイスラムに限らない。
大征服に破壊はつきもの。
アレクサンダーもティムールもナチスも大規模な破壊を繰り返した。
>>251 バルジュナ衆にイスラム商人もいますが何か?
254 :
世界@名無史さん:2005/10/18(火) 18:31:59 0
チンギス・ハーンがブハラを征服した後で、モスクに市民を集めて
説教段から「お前達の罪のために天がわしを遣わしたのである」
と説教したそうだ。
その際に通訳がテングリをアッラーと言い換えたのでなんとなく
話が通じてしまったらしい。
あっらまぁ。
と叫んで一同テングリ返る。
テンゲリって絶対神じゃあないと思うけど。
あやめさんもギャグを言うのですな。
杉山正明『中国の歴史08 疾駆する草原の征服者』(講談社)
誰か読んだ〜?
261 :
世界@名無史さん:2005/10/26(水) 23:07:07 0
>>260 読みますた。
杉サマの書く概説書らしく、いつも通り面白かったよ。
「遼・西夏・金・元」というよりは「唐末・五代・遼・その他」といった内容です。
先の「海と帝国」のような社会・経済史偏重ではなく、
軍事につっこんだ政治史ものです。
李存勗がヤケにカッコ良く書かれてます。後唐ファン(いるのか?)にオススメ。
杉サマにしては珍しくモンゴル分が少ないです。
気になったのはジョチウルスについて紙面を割く余裕はないといいつつ、
「近々べつの機会に記す」とのこと。また概説書書くんですかい!
ジョチ・ウルスは赤坂先生に任せておけばいいよ。
赤坂先生も系図オタク(とはいえ研究の基礎として
きちんと整理しておくのはとても重要)から
そのうち脱却してくれるはずだし。
>>261 「耶律楚材とその時代」も最終章あたりで「別の機会に完全版を書く」とか書いてたね・・・
分割統治後、元の君主以外に皇帝(大汗もしくは可汗)を名乗った(僭称した)汗ってどのくらいいるの?
265 :
世界@名無史さん:2005/10/29(土) 22:38:53 0
中国の歴史08、遼と金にあんだけ紙面裂くなら2巻に分けて
後半をモンゴル帝国にした方が良かったな。
266 :
世界@名無史さん:2005/10/30(日) 09:00:21 0
265は間違い。遼は色々推測して書いてあるけど、金の記述は少ないです。
268 :
世界@名無史さん:2005/11/08(火) 22:02:19 0
最古級の世界地図
龍谷大 あすから一般公開
最古級の世界地図で、邪馬台国畿内説の根拠ともされた
「混一疆理(こんいつきょうり)歴代国都之図」が九日から、京都市下京区の
龍谷大学大宮学舎展観室で始まる秋季特別展で展示される。
同図は縦百五十センチ、横百六十三センチの絹地に朝鮮や中国を中心に、東は日本列島から
西は中東、ヨーロッパ、アフリカまで描かれている。
モンゴル帝国(元)によって作られた地図を基に十五世紀に朝鮮(李朝)で製作されたと
みられ、豊臣秀吉の「文禄の役」や大谷探検隊で持ち帰られたと考えられている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051108-00000027-san-soci
久しぶりに杉センセの『モンゴル帝国の興亡(下)』:現代新書、を読んだ、というか買った。新版の殺風景な表紙のやつね(ちなみに旧版は実家に置いてある)。
新版には、表紙や表紙をめくったとこにある端書きがない。旧版の頃はあれを読んだだけで燃えたというか、内容をえらく期待させてくれたもんだ。老いたクビライの出兵の話だったと思う。
新版にはそれがない。淋しい。この本に限らず、講談社現代新書シリーズはみんなだな。
購入意欲がそそらないんだが、なんで講談社はあんなことしちまったんだ?
【もし、日本がなかったら】というスレを見かけたのでふと思ったが、
日本列島がなかったら元寇をする分国内統治に費やせたのだろうか。
>>270 そういや、杉山先生は、南宋征服でもてあました旧南宋の軍員を入植(という名の棄民)させるために第二次日本遠征を起こしたみたいなご説だったな。
江南軍は日本に捨ててくるつもりで、海のもくずになったから、ある意味成功(-_-;)。
その説でいくと、日本遠征がなくても、江南軍を捨ててくる別の場所を用意しないとな。オイ;
結局、国内統治に振り向ける余力は変わらねえという結論に。
いや、あくまで杉山説を信じればのお話。
272 :
世界@名無史さん:2005/11/22(火) 10:07:26 0
なんだかな〜
まあ中国人全部追っ払って(どこへ?)
牧草植えることを検討した連中だからね。
>>270 日本が無かったら、ビルマを始めとする東南アジア攻略に全力を注いだハズ。
文永の役より前からしばしばベトナムと交戦してたから。
275 :
世界@名無史さん:2005/12/10(土) 13:07:07 0
目の前の台湾はスルーでしたっけ?
出兵したことあったかな。
沖縄本島には一度来寇したことありましたね。
>>274 ベトナムでは惨敗だねえ。見事なまでに。
兵力増やしても余り状況は変らないのではないかな?
ジャワでもグダグダですから。
まあ、東の海、南の熱帯雨林、中東の砂漠、西の森。
所詮騎馬軍団が役に立たないところではたいしたことは出来なかったということでしょう。
278 :
世界@名無史さん:2005/12/10(土) 16:17:02 0
ウィキペディアにも「チンギスはレイプ魔。あのイギリスのオックスフォード大学が
調べた結果、蒙古の遺伝子が・・・」ってトンデモ説がまかり通ってる。
なんでこんなに悪役にされるんだろ?アレクサンドロスとは偉い違いだね。
まあ謀略と卑劣な手段に長けたイギリスの流言だとは思うが、なんとかならんものかな。
>>277 失敗したのは船を使っての渡航を必要とする戦だけ。
ジャングル地帯でビルマの象兵部隊にすら勝っている。
むろん、中東の砂漠、西の森では圧勝しているし。
>>279 アイン・ジャールートの戦いではマムルーク朝に惨敗しているぞ。
あとベトナムは陸路からの侵攻もやっている。
>>280 本隊が引き上げた後の話じゃあないか。
そりゃあ支隊の戦闘まで考えれば他にも幾つも敗戦はあるだろう。
> ウィキペディアにも「チンギスはレイプ魔
wikiでそんな流言飛語がまかり通ってるの?!
チンギス・ハーンスレでそこら辺ドーソンあたりが『集史』の記述を適当に
訳してるのが元ネタっぽくて原資料ではそういう内容じゃ全然無いぞと
散々説明してたのに・・・
マムルーク朝の場合、シリア方面だけ集中して兵員を投入しれば済む話だけど、
イルハン朝の場合、モンケ没後の混乱でチャガタイ・ウルスとジョチ・ウルスとの
関係が悪くなってシリアのことだけに構ってる余裕なんか全然なくなっちゃうのが
マムルーク朝の事情と決定的に違うんだよね。
だからマムルーク朝はシリア方面の遠征はスルタン自身が親征に赴く場合が殆ど
だけど、イルハン朝の場合、ジュチ家の軍勢がいつカフカスを越えて攻め込んで
くるか分らないからフレグ家の当主たちは冬営地にしろ夏営地にしろアゼルバイジャン
方面から離れる事が出来ず、ホラーサーン方面にも常に境域守備部隊を常駐させ
なければならなかった。
このためフレグ家の当主がシリアの再征服のため親征に赴いてきたのはアバカ・ハンが
チャガタイ家のバラクをヘラート郊外で撃ち破って返す刀でその混乱に乗じてシリア遠征
を仕掛けてきたバイバルスを討伐するために何とか人員を割く事のできた3万程度が
やっと。それ以外にイルハン朝の君主が直接自らシリア征服のため親征してきたという
話はほとんど聞かれない。
とくにアバカが赴いてきたときは、丁度バイバルスが陣没したときで、マムルーク朝軍は
撤退した後だった。わざわざなけなしの親衛軍を率いてシリアに来たのに、肝心のバイバルス
はとうにいなくなっていて、アバカはこの事態に憤慨して、「ブンドクダール(バイバルス)
はコソ泥みたいに主人の居ぬ間に守備軍を壊滅させて領土をかすめ取るような姑息な戦は
出来ても君主対君主のような正々堂々とした合戦が出来ぬ盗人野郎だ!」と怒りを爆発
させていたりする。
その後もイルハン朝は折を見てシリア遠征を幾度か行っているが、派遣人員がせいぜい
2、3万騎程度しか出せなかったようで、大体はかばかしい戦禍をあげる事が出来なかったり
場合によっては人員を消耗するだけ終わったり、緒戦で敗退して遠征計画が大失敗をした
なんて例が多い。
284 :
世界@名無史さん:2005/12/22(木) 19:19:55 0
age
285 :
世界@名無史さん:2005/12/22(木) 21:26:00 0
アイヌ人も北海道で蒙古を撃退したんですね。
>>285 たぶん実際に戦ったのは漢人や女真族の部隊だと思われ
287 :
世界@名無史さん:2005/12/22(木) 22:42:03 0
>>285 北海道じゃなくて、多分モンゴルがやってきたのは樺太。樺太も南半分は
アイヌだが。アイヌだけでなくて周辺のオホーツク民族も合わせて戦っていないのかな?
余談だが、樺太アイヌ(エンチュウ)は北海道アイヌとは多少文化的に変異
している。言葉も通じにくいし。
288 :
世界@名無史さん:2005/12/22(木) 22:48:30 0
>>275 当時の台湾は正に蛮族の世界で悪い話しかないからわざわざ征服にはでかけないでしょうね。
中国から化外の地とか呼ばれて、首を狩る半裸の野蛮人と、恐ろしい熱病が猖獗を極める
人外の地というイメージでした。
>>288 でも似たような状況だったと思われるジャワには遠征してるけど
>>289 ジャワはちゃんとした王国があったでしょうが。ボロブドゥール遺跡を残した
シャイレンドーラ朝とかモンゴル侵攻前後から栄えだしたマジャパヒト王国とか、
ベトナム方面に侵攻したり、ヒンドゥーや仏教の寺院を建設したり盛んにやってましたよ。
台湾はまともな国家自体がなかった。日本統治時代にも首狩り話があったくらい。
漢族の台湾移民なんかは10人の内7人は逃げ帰り、2人は死し、1人だけ残ると語られた
ほどです。
291 :
世界@名無史さん:2005/12/23(金) 00:36:37 0
>>287 幕末でもアイヌとニヴヒ(旧名ギリヤーク)は交易する仲ですが、ちょっとした
緊張関係にもありました。この時代はニヴヒと樺太アイヌが抗争していた時代で、
当時元に朝貢していたニブヒ側が元に救援を求めたのが発端です(元の資料では)。
元は1万くらいの軍勢で4〜5回樺太アイヌと戦っています。多分、樺太アイヌとだけ戦っています。
樺太には元の要塞跡と見られる遺構まで存在します。
樺太アイヌ側も攻められているだけではなく、報復に何とアムール河近郊まで渡海して、沿海州を
攻撃しています。最終的には樺太アイヌも元への朝貢を受け入れて事は収束しますが、
はっきりいって”北の元寇”はいわゆる鎌倉幕府への元寇よりももっと派手な戦争です。
292 :
世界@名無史さん:2005/12/23(金) 08:36:25 0
北海道を元軍が占領していたら奥州攻略の基点になってたかも
293 :
首ライ:2005/12/23(金) 14:15:53 0
樺太から南進→北海道→奥州上陸→鎌倉占領
294 :
世界@名無史さん:2005/12/23(金) 18:09:22 0
樺太・北海道を南進すれば日本に至る、なんて知識は当時はないだろうよ。そもそも樺太を占領する意図があったのかどうかね。あんな寒くて貧しい所を欲しがるとは思えん。
アイヌって北海道・樺太はもとより、カムチャッカ半島南部、沿海州あたりまで行動してたらしいね。間宮海峡は頻繁に横断していたらしい。
たしかに。
シベリア全体が一応モンゴルの勢力圏にあったはずなのに
ロシア人のように北極海に達したり、ベーリング海やアラスカまで進出
するようなことはなかった。
あのへんだって全くの無人地帯というわけではなかったはずだし、
やっぱりあんまりにもあんまりなところには興味が湧かなかったんだろうなあ。
ちなみに中国人が津軽海峡や宗谷海峡ののことをちゃんと認識したのは
どうもやっと元代のことのようで、元代の「宋史」より前の史書では
本州の西端は漠然としたことしか書いてない様子。
宋史の記事も日本人やアイヌ人からの伝聞形だし。
なんにせよ3つも海峡を渡って北から鎌倉を攻めるのは兵站的にかなり厳しそう。
沿海州や樺太や北海道で、高麗や宋でみたいに大量の船を調達するのは難しそうだし、
海峡を渡る度に兵力が減少して、だいぶ心細くなったところを
関東から大挙北上して来た軍勢に平泉あたりで迎え撃たれちまうんじゃなかろうか。
296 :
世界@名無史さん:2005/12/23(金) 23:46:21 0
金って仏教国だったんだしょうか?
栄西も道元も宋には留学してんだけど金に渡った坊さんていませんよね。
>>296 杉山正明の本でそういう例があるとか書いてたような。
298 :
世界@名無史さん:2005/12/24(土) 08:19:48 0
金へ渡って何を勉強したの?
299 :
世界@名無史さん:2005/12/24(土) 11:52:49 0
南宋とは違う宗派があったとか。
300 :
世界@名無史さん:2005/12/24(土) 13:21:24 0
北方民族って仏教徒が多いんでしょ。
301 :
世界@名無史さん:2005/12/27(火) 00:20:00 0
モンゴルこそ戦争機械だよな。
征服するのに理由はいらぬ、ただそれがそこにあるから、といった感じだ。
樺太、ジャワ、インド、エジプト、ヨーロッパにまで戦争を仕掛けるはた迷惑な存在と
いうのはもう二度と現れまい。
実際、世界史に対して甚大な影響も与えたし。イスラムではカリフによる統治が終焉。
タイ人は南下を余儀なくされ(モンゴルがいなけりゃ、タイという国はあったのだろうか?)
ジャワやビルマは王国が交代、ロシアはタタールのくびきで、中国はいわずがもな、日本は
鎌倉幕府がとうとうお亡くなりになった。
どうせなら、ヨーロッパも丸ごと征服してくれれば良かった。
華北の仏教大寺というと、河南の嵩岳、少林寺とか
山西の浄土教の祖庭、玄中寺とかが有名だね。
龍門石窟とか麦積山石窟とか石窟寺院の有名所も華北が有名だね。
金代の華北仏教文化というとあまり良く知らないけど、道仏儒三道に
通ずっていう文化は遼代や金代のものだとは聞くけれど・・・
303 :
世界@名無史さん:2006/01/07(土) 02:21:45 0
ジャワはちゃんとした王国があったでしょうが
304 :
世界@名無史さん:2006/01/07(土) 08:38:48 0
305 :
世界@名無史さん:2006/01/27(金) 02:47:10 0
元軍の末裔ですか
ぢつはキラー・カーンのファン
入江の蒙古覇極道
女が権力を握ったから滅んだようなものなの?
310 :
世界@名無史さん:2006/02/14(火) 21:47:52 0
ブルガンのことか?
311 :
世界@名無史さん:2006/02/22(水) 07:52:58 0
とっさにK子の手を引いて、女湯の方に入る。貸切の札をさげる。
何故女湯だったかって、男湯の方は電気がついてたから。本当にそれだけの理由。
やましい事を考えるより、K子と話したかった。
つかんだ手には汗がじっとりとついていた。どれだけ、K子が緊張してたのか。
頭一つくらい違うKを、きゅっと抱きしめる。
正直に、僕がKをそんなふうに意識した事は無かったと言う。
そんなふうに思ってくれてて、嬉しい、とも。
K子は涙ぐんでた。「やっと、やっと言えた」って。
初めて見る泣き顔は、とってもきれいだって思った。
しばらくして、K子は落ち着いたようで、僕の心臓がバクバクいってるとか、汗くさーいとか、いつものテンションが戻ってた。だけど、いつもとはほんのちょっと違う気がする。
僕の胸に顔をうずめたまま、K子は言った。
「いっしょに、はいろ?」
(全てを読むにはモンゴルモンゴルと書き込んでください)
312 :
世界@名無史さん:2006/02/23(木) 06:23:47 0
もんごるもんごる
313 :
世界@名無史さん:2006/02/23(木) 15:02:17 O
もんごるもんごる
314 :
世界@名無史さん:2006/02/23(木) 22:51:54 0
もんごるもんごる
315 :
世界@名無史さん:2006/02/23(木) 23:43:56 0
蒙古蒙古
316 :
世界@名無史さん:2006/02/23(木) 23:44:47 0
ウンコウンコ
いんぐりもんぐり
ぷにぷに
40万部のベストセラー『嫌韓流』の第2弾
『嫌韓流2』発売中
意外とおもしれーぞ
320 :
世界@名無史さん:2006/03/19(日) 00:56:47 0
321 :
世界@名無史さん:2006/03/21(火) 06:57:28 0
キュプチャク汗の首府ってどこだったんだっけ?
322 :
世界@名無史さん:2006/03/21(火) 09:11:44 0
サライだろ。
323 :
世界@名無史さん:2006/03/22(水) 22:29:02 0
金は沿海州をどの程度支配していたんでしょうか。
唐の都護府のような政庁を置いてたんでしょうか。あるいは朝貢程度?
324 :
世界@名無史さん:2006/03/23(木) 03:17:27 0
>>323 ロシア沿海地方歴史教科書によれば今のウラジオストクとかウスリースクとかナホトカ辺り
を中心に城郭都市が幾つもあったそうな。また町の外だと牧畜などが中心とのこと。
城塞址としては以下の名前が上がっていた。
クラスノヤーロフ(恤品もしくは蘇品)、ユジノ・ウスリースク、ザパドノ・ウスリースク、
アナニエフカ、ニコラエフカ、シャイガ、ラゾ
行政区画としては恤品路と耶懶路があり、その下に府、州、県があったとのこと。
325 :
世界@名無史さん:2006/03/24(金) 22:19:30 0
初歩の初歩の質問、最近堺屋太一氏が日経新聞で小説執筆中。
それで「漠北」ってのが、目に付きます(まだ、「漠南」はでてないです)
@「漠北」とは、<「漠」より北の方>のこと?、<「漠」の中の北の部分>?
どっちですか。 たぶん、「砂漠」より北という意味だと思うナァ。
Aこの「漠」とは、どこを指す(時代によって異なるならごめんネ、でも、詳しくタノム)。
漠北にオルドスを含めるとすると、「漠」とは、黄土高原のことになるような気がするけど。匈奴が活躍したオルドスは違うかも。
それとも、ゴビ砂漠だとすると、内蒙古も漠北には入りにくくなるような気がするけど。
B最後に、漠北は、いったい全体、どこからどこまでを指すのか。
ダイコウアンレイの東も指すのか。内蒙古も指すのか。いや、ゴビの南は指さないのか。アルタイの麓まで含むのか、バイカル湖畔は入るのか。
漠北ねぇ。とりあえず長城より北じゃない?長城周辺てわりと乾燥して荒れた感じだし。
オルドスが入るかどうかはその時点で長城がどこにあるかによって決まる、とか。
大興安嶺の東となると…鴨緑江まで長城があったり、大興安嶺の東まで遊牧帝国領域だったり
てなこともよくあったなー。そういうときは漠北なんじゃろか。
ゴビ砂漠の南北でそ。
ものすごくアバウトでいいなら「モンゴル国は漠北、
内蒙古は漠南」でそんなに大間違いでもないと思ふ。
328 :
勉強生:2006/04/05(水) 19:45:34 0
327は自信ありげ。
だと、「漠」ってのは、ゴビ砂漠だったの。
漠南とは、漢民族と北方民族のけいそう地で、漠北が北方民族たちの係争地か。
でオーケー?。
ついでに聞くんですが、オルドスって、これは何語?
329 :
世界@名無史さん:2006/04/05(水) 19:51:45 0
漢字に書き換えると「鄂尓多斯」
原語はウイグル語じゃないの?
330 :
世界@名無史さん:2006/04/09(日) 12:47:39 0
チンギスって子孫が1700万人にもいるなら一代目の子供は何人いたと思います?
大元朝の安西王家だか誰かのオルドがあったから「オルドス」だったと思う。
あるいはアルタン・ハーンの頃だったか・・・
チャガタイ語とかテュルク語でそのままんま「(だれそれの)オルドの(地域)」
って意味だったと思う。
>>330 チンギス・ハンの妃は別格扱いの最重要の正妃が5人いて、
筆頭正妃ボルテ・フジンとの間に例の4男と5女を設け、
次席正妃のウハズ・メルキト部族出身のクラン・ハトゥンからはコルゲンが、
第3正妃でタタル部族出身のイェスゲンからはジャウルが、
他に、ナイマン出身の側室(ゲルベス・ハトゥン?)からジョルチダイが出て、
他の側室からの子供が男児と女児の数人いたらしい。
その他の妻妾が400人ほどいたと言われているが、全部が全部「お手付き」に
なれたかどうか分らないし、次席正妃のクランや第4正妃の金国公主、ナイマンの
ゲルベスなどはモンゴル高原を統一する多分40代も半ばくらいに娶ったのが
ほとんどで、筆頭クラスの正妃ですらボルテを除けば一人二人程しか記録に残る
ような子息がいない。
憶測になるが、
子孫を残せるだけに成長した子供は少なかったかも知れない。記録を全部見たわけじゃ無いけど
案外成長できたor実際にできた子供は男女あわせても30人くらいしかいなかったのかも。
彼の子供の係累の方が数が多そう。
>>331 宮脇淳子『最後の遊牧帝国 ジューンガル部の興亡』p.129
筆頭のオルドス・トゥメンは、チンギス・ハーンの四大オルドの後身
(オルドの複数形がオルドス)で、その領主はジノン(晋王)といい、
チンギス・ハーンの霊に奉仕した。チンギス・ハーンのオルドは
十三、十四世紀には漠北のケルレン河のほとりに遊牧していたが、
十五世紀には南下して、黄河の屈曲部に移ったので、この地方を
オルドスと呼ぶようになった。
334 :
世界@名無史さん:2006/04/25(火) 21:48:56 0
保守
「大元」が宇宙すなわち天の意であるとしても、祖先カブル・カンが名乗った
「祖元皇帝」の称号に影響されたということは無いのかな?
いや、それが単に最初の皇帝という事だろうなとは思ってるけど、なんとなく…。
336 :
世界@名無史さん:2006/05/09(火) 10:55:53 0
渤海滅亡後の満州にも短命ながら大元国があったんだよね。
まあ無名すぎて混同のおそれはないけど。
ここまでのまとめ。
杉山v.s.岡田
仁義なき戦い。
モンゴルの歴史がまた1頁。
>>332 正妻と9人も子供作ったんだから、そりゃ、妾妻との間にもごろごろ子供居ただろ、
徳川幕府なんかみてみ、正妻と二人以上子供作ったの、二代秀忠だけだ。
大抵、一人男児を生んだら、その子の養育に専念するぞ。
339 :
世界@名無史さん:2006/05/18(木) 02:20:23 0
亀レスですが案外子供は少ないのかな?知識不足ですがボルテ夫人はモンゴル人なのでしょうか?
当初はモンゴル族だけをモンゴル人といっていたから、
他部族の出身である彼女は違うようにも取れるが、
版図拡大同時にモンゴル族も他部族を吸収拡大していったわけだから、
モンゴル人でいいんでないの?
はて
チンギス・ハンの第一皇后であるボルテ・フジンや母のホエルン・エケは、
コンギラト部族のオルクヌウト氏族の出身で、『集史』に載るコンギラト部族の
起源神話によれば、彼らは「黄金の壷」から生まれた3人の始祖の末裔だという。
この3人からコンギラト、イキレス、オルクヌウト、カラヌウト、コンクリウトの
各氏族が派生したが、モンゴル族の始祖ボドンチャル・ムンカクの母アラン・コアは
コンクリウトから派生したコルラス氏族の出身だったと伝えている。
また、『集史』ではテュルク・モンゴル諸部族を言語と集団ごとに4つに分類しているが、
そのうちの「エルゲネ・クンから出現した始祖に由来するモンゴル語を話す諸部族」を
ニルン諸氏族とドルルキン諸氏族に大別している。ニルンにはタイチウト氏族やベスト、
バルラスなどが含まれるモンゴル族の支配階層に属す集団で、系譜的にいえばチンギス・
ハンが属すキヤト氏族もこの中に入る。一方ドルルキン諸氏族にはウリヤンギト、イキレス
部族などとともに、上位にコンギラト部族が名を列ねている。
さらにボルテの父デイ・セチェンはモンゴル語の人名であるし、ホエルンも同じくモンゴル語
だろうと考えられている。
ということで、少々長くなったけど「ホエルンはモンゴル族」と言っても何ら問題ない。
言語と部族は実はあまり関係はない
> 言語と部族は実はあまり関係はない
それは時と場合による。
『元朝秘史』や特に『集史』では言語によって固有のモンゴル系とその他のテュルク系を峻別している。
当時は「セチェン」なんて単語、『集史』で「モンゴル語を話さないテュルクの諸部族」に分類されている
ケレイトやナイマンといった他のテュルク系の諸部族では使っていない。
コンギラト部族については「エルゲネ・クン以来の固有のモンゴル族の一派」というタタルやケレイト、
ナイマン、オイラトとは違う、起源的に同族であり、言語的にも同じグループである、と述べている。
何かしら矛盾する証拠なりがあれば、「非モンゴル」という疑いを抱くが、コンギラト部族については
特に積極的にこれを否定する根拠は今の所見つかっていない。
345 :
世界@名無史さん:2006/07/04(火) 20:25:06 0
保守
346 :
世界@名無史さん:2006/07/05(水) 09:31:52 0
>>328 史記に匈奴の北走について「是より漠南に王庭無し」という記述がある。
オルドスからゴビ砂漠を越えてモンゴル高原まで匈奴が退いていったときの記述。
347 :
世界@名無史さん:2006/07/08(土) 21:50:19 0
モンゴル帝国勃興は、歴史の必然。
金・西夏・ホラズムをそれぞれ建国した
「プレスター・ジョン」が、世界制覇を目指して
一気通貫させて開通させたのが、モンゴル。
セルジューク・モンゴル・オスマン・明・ムガール。。。
そしてヨーロッパ制覇へ。。。すべてプレスター・ジョンの仕業!
348 :
世界@名無史さん:2006/07/08(土) 21:53:33 0
ユーラシア大帝、プレスター・ジョン万歳!!
349 :
世界@名無史さん:2006/07/09(日) 01:15:48 0
プレスター・ジョンはナイマン王の間違いだったと
ルブルクもいってるよ
愛知のキチガイ脳糞古川は神だと思っている。
半年ほど前の正月休みに両親と愛知のキチガイ脳糞古川の実家(もんじゃ焼き屋)に 食べに行った時の話。
両親と3人で鉄板を囲んで食事をしているといきなり脳糞古川が玄関から入ってきた。
もんじゃ焼き屋に似合わない勝負服ないでたちで。
脳糞古川が「私いつもの〜」と言って二階へ上がろうとすると、
店内にいた高校生集団が「脳糞古川さん!」「脳糞古川さんかわいいー!」などと騒ぎ出し、
脳糞古川が戻ってきてくれて即席サイン会になった。
店内に13、4人ほど居合わせた客全員に店内にあった色紙を使い サインをしてくれた。
高校生達が脳糞古川の母校愛知のキチガイ高校トラウマ部だとわかった脳糞古川は いい笑顔で会話を交わしていた。
そして脳糞古川は「またね〜」と二階に上がっていき、店内は静かになった。
私と両親は脳糞古川の気さくさとかわいさに興奮しつつ食事を終え、会計を済ませようとレジに向かうと、
店員さんが階段の上を指差しながら 「今日のお客さんの分は出してくれましたから。また来てくださいね」と。
あれには本当にびっくりした。
351 :
世界@名無史さん:2006/07/21(金) 20:35:25 0
騎馬軍団再現、戦闘シーンも…建国800年のモンゴル
【ウランバートル=加藤隆則】建国を迎えたモンゴルで、初代皇帝チンギス・ハーンの騎馬軍団が再現され、海外の観光客を含む約3000人を前に10日、13世紀の軍服姿で戦闘シーンを披露した。
建国記念行事の目玉イベントで、同国のエンフバヤル大統領、エンフボルド首相のほか、行事に協力している日本からも森喜朗前首相らが参加した。
会場は首都ウランバートル南郊約45キロの草原。モンゴル国軍兵士による計500騎の騎馬軍が約45分間、弓矢やヤリ、剣による戦闘を演じた。同イベントは8月まで計30回開催の予定。
800周年事業実行委員会の責任者ガラムオチルさん(70)は「世界最大の帝国を築いたモンゴル民族の偉大な力を改めて見直し、その力を特に今の若者たちに授けたい」と熱弁を振るった。
見学に来ていた中学生バトオルンホー君(16)は「隊列がきれいで格好よかった。騎馬隊のことは本の中でしか知らなかったので、本物を見ることができ感激した」と話していた。
(2006年7月10日19時47分 読売新聞)
ttp://bbs.enjoykorea.jp/tbbs/read.php?board_id=phistory&nid=66986
名古屋祭りの英傑行列みたいなもんかね。
このスレまだあったのか…
ユートピアのAAで荒らしたのが懐かしい。
354 :
世界@名無史さん:2006/08/16(水) 23:00:57 0
age
355 :
世界@名無史さん:2006/08/28(月) 14:24:00 0
西夏って調べても分からんことだらけだな
何せ1227年のチンギスによる征服の際に国史も消息不明になったから
宋や遼・金側の史料から推測するしかないからな
自前で複雑な漢字もどき作るからだ!
あれ解読されてなかったっけ?
そんな訳の分からん国を舞台に小説を書いた井上靖もすげぇな。ある意味
記録が少ないから自由にイメージできたつーのもあるんじゃね
363 :
世界@名無史さん:2006/09/15(金) 22:21:34 0
祝四周年!
長寿スレに仲間入りですな。
364 :
世界@名無史さん:2006/09/26(火) 23:57:29 0
ホラズムは今で言えばどこら辺の地域?
アム川下流域のウズベキスタンとトルクメニスタンにまたがる地域。
アラル海南部からカスピ海東岸にかけての地域と思えばほぼ間違い無いかと。
367 :
世界@名無史さん:2006/10/07(土) 21:53:07 0
世界ふしぎ発見で西夏特集か
渋いなw
368 :
世界@名無史さん:2006/10/11(水) 00:28:38 0
369 :
世界@名無史さん:2006/10/21(土) 21:31:00 0
216 :渡る世間は名無しばかり :2006/10/21(土) 21:26:17.07 ID:VPCcBTKd
西夏の起源及び建国の経緯
西夏は1038年から1227年に、中国西部に存在した封建政権である。
西夏の歴史の根源は、唐代初期までたどることができる。この頃、羌族の中の党項族が勢力を強めた。その中の拓跋赤辞が唐に
降り、李姓を賜った。その一族が慶州に到り、平西公に封じられた。この時よりこの地に定住した。唐代末期、党項族の拓跋思恭は
黄巣の乱の鎮圧に功があり、再び李姓を賜った。それから拓跋思恭及び李姓を称した子孫は夏国公としてこの地の藩鎮勢力となる。
217 :渡る世間は名無しばかり :2006/10/21(土) 21:26:36.53 ID:VPCcBTKd
宋代初期、趙匡胤は藩鎮の兵権を制限し、李氏の不満を呼んだ。彼らは宋の命令に服し始めたが、しかし両者の間の対立は絶え
ることなく、むしろ激化していった。1032年、李徳明の子李元昊は夏国公の位を継ぐと、盛んに宋から離脱する準備を始めた。彼はま
ず李姓を捨てて、嵬名氏を称した。二年目には乳の諱を避けるために宋の明道の年号を顕道に改めた。西夏は自身の年号を使い始
めたのだ。それから数年のうちに彼は宮殿を建て、文武の諸官を立て、法制、兵制を定め、独自の文字(西夏文字)を創造した。1038
年10月11日には皇帝を称し、国号を大夏とした。
370 :
世界@名無史さん:2006/10/21(土) 21:32:02 0
219 :渡る世間は名無しばかり :2006/10/21(土) 21:27:13.10 ID:VPCcBTKd
西夏的経済
西夏は西涼地区にあって、遊牧民族で、経済は発達しなかった。西夏経済の源は、宋を侵略して得た土地
によってなされた。西夏は太祖(李継遷)の時期に宋の霊州(現在の寧夏霊武)と興州(現在の寧夏銀川)等の
地、また西で占領した涼州(現在の甘粛武威)と瓜州(現在の甘粛安西)等の地。これらの地区は五穀豊穣で
常に野菜や果物、食糧が栽培された。党項人はこの広大な耕地で耕作して、先進的な農業生産技術を習得
し、西夏経済の発展を促進した。しかも西夏は長期に渡って漢人と雑居し、農業技術もとても高い水準を達成
した。史書曰く「耕稼之事、略与漢同」。
222 :渡る世間は名無しばかり :2006/10/21(土) 21:27:35.07 ID:VPCcBTKd
西夏には本来磁器がなかったが、掠奪した宋人によって磁器を得た。宋と西夏の慶暦の和議の後、西夏と
漢人の人々との交流によって同時に磁器生産技術を習得する。西夏の穀宗の時期、西夏は磁器を焼く窯を作
り始め、磁器の自己生産を始め、磁器産業を発展させた。西夏の磁器産業の中心は、“塞上江南”こと銀川平
原にあった。その磁器は中原地区の長所を吸収して、同時に民族の特徴である淳厚朴実等を取り入れ、一つ
の西夏独自の風格を備えた磁器が形作られた。西夏の磁器は遠く海外まで売られた。
西夏は崇宗、仁宗の磁器、西夏経済は大々的に発展し、農業、商業、手工業は発展していって、四方の物
品は興慶に集まり、西夏経済の最盛期を生じさせた。
371 :
世界@名無史さん:2006/10/22(日) 09:34:13 0
372 :
世界@名無史さん:2006/10/24(火) 02:42:12 0
373 :
世界@名無史さん:2006/10/29(日) 20:06:09 0
a
374 :
世界@名無史さん:2006/10/31(火) 01:48:12 0
375 :
世界@名無史さん:2006/10/31(火) 02:03:56 0
現代の制度はすべてモンゴル帝国がつくった
『パックス・モンゴリカ―チンギス・ハンがつくった新世界』
「現在の欧米が主導する世界で普遍とされている制度――民主主義、資本主義、
宗教と政治の分離、印刷、紙幣、軍隊、連邦制など――は、すべてモンゴル帝国に
起源があるという。これらについては、評者もおおむね同意見である。
【評者 岡田英弘 東京外国語大学名誉教授】」
http://www.4mo4.com/biz/030/
376 :
世界@名無史さん:2006/10/31(火) 02:24:20 0
民主主義は世界各国に独自のものがあるのだから、モンゴルの場合を民主主義の代表とすると
アメリカみたいな「俺様のやり方が民主主義だ」っていうような傲慢な主張と一緒になってしまうよ。
起源は確かにそうかも知れない。
だが、それが事実だったとしても、モンゴルの支配下にあった地域は、その
全てが近代化に失敗した、或いは立ち遅れた地域になったという歴史的な事
実は踏まえておかなければならないだろう。
(近代化に成功した地域=モンゴルの被支配化地域、と言っているわけでは
無いけれど。)
そしてそれと同時に、この地域は近代民主主義といったものともまた無縁な
地域であるとも言える。
まあ、民主主義が絶対的な善であると言い切ったりもしないがw
>だが、それが事実だったとしても、モンゴルの支配下にあった地域は、その
>全てが近代化に失敗した、或いは立ち遅れた地域になったという歴史的な事
>実は踏まえておかなければならないだろう。
宇宙飛行を人類最初に行い、水爆実験もアメリカに先んじたソビエト連邦について。
「ドイツの科学はァァァァ世界一ィィィィィ!!!!」
と言いたいのか?
それとも
「日本も核兵器を保有すべきです。
核兵器が無い国は近代国家じゃありませんから。」
と言いたいのか?
どちらにせよ、どちらもスレ違い。
380 :
ドラエモン:2006/11/01(水) 09:30:37 0
フビライ ハンの家系を知ってる方いますか??教えてください。
チンギスの子孫の家系だったと思います!
保守
>375
つまんなかった
384 :
世界@名無史さん:2006/11/18(土) 19:34:30 O
テレ朝見てる?
>>384 つまらんからNHKで国際宇宙ステーション見てる
386 :
世界@名無史さん:2006/11/18(土) 21:13:39 0
俳優リポーターがチンギス・ハンの墓は探さないほうがいいと言った所で
ドン引きした
387 :
世界@名無史さん:2006/11/25(土) 20:18:55 0
堺屋太一氏の小説読んでるのです。
さて、旧ソ連のブリヤートの人は、メルキト族と関係あるんでしょうか。
モンゴル帝国崩壊後、
独立したんでしょうか。
388 :
ダヤン奸、エセン奸:2006/11/25(土) 20:38:12 0
明を苦しめたタタール部、オイラート部は、ジンギスカンに滅ぼされた筈ではなかったかと思うが。
旧ソ連のタタール自治共和国っていうのは、ジンギスカンに滅ぼされたタタールが復活したのか。
>旧ソ連のタタール自治共和国っていうのは、ジンギスカンに滅ぼされたタタールが復活したのか
アホかいな
タタールスタンではブルガールに改名しようという連中もいるらしいな。
391 :
世界@名無史さん:2006/11/26(日) 05:52:30 0
おれの大好きなモンゴルのすれがあったのか
遅ればせながら 仲間にいれてくれ
392 :
世界@名無史さん:2006/11/26(日) 14:37:28 O
>>388 >明を苦しめたタタール部
チンギスが滅ぼしたタタル部はモンゴル帝国成立以前のモンゴル高原に割拠していた部族。
明代のタタル部とは明が漠北に追い出した元を韃靼と蔑みの意味でよんでいたもの。
女真を韃靼って呼ぶこともあったっけ
ダッターン!ボヨヨン♪ボヨヨン♪
い、いやなんでもない!忘れてくれ!
>>393 「忠義空しく伝わる国姓爺 終に見る韃靼の中華を奪うを」
(うろ覚えだが、たしか蜀山人)
てな感じで、江戸時代の日本ではそうも呼んでいたはず。
金の扱いが小さい、なぜだ
間宮海峡も韃靼海峡と呼ばれていたな。
漠然と「北のほう全般」というった漠然とした意味合いだったのかな。
何処かの中国語のWEBサイトで
柔然を「柔然帝国」「第一蒙古帝国」と書いてある画像があったな。
399 :
世界@名無史さん:2007/01/06(土) 15:50:52 0
日経の小説で一番よくわからないのは言葉です。
突っ込みたくなります。
@イスラム系のハッサンは何人でしょうか。とにかく、西方訛のモンゴル語を、堺屋氏は関西弁で表していますんでしょう。
佐藤賢一氏もオック語を関西弁にしていますし。
Aで、コルコスンはウイグル人のようですが。ウイグル語なまりのモンゴル語のはず
ですが、訛がほとんどないです。ウイグル語はモンゴル語と相当近いんですか。
どなたか、どう思いますか?
400 :
世界@名無史さん:2007/01/06(土) 15:57:26 0
神聖ローマ皇帝のカール5世は数カ国語を操ったわけですが、
漠北でも、支配層は成人するにつれ、数カ国語は話したんでしょうか。
ケレイト部族のトーリルと、モンゴル部族のイエスゲイが、アンダになるには、言葉が普通に通じる必要があります。
テムジンも、ジャムカと子供時代にアンダになりますが、子供の間に通訳が付いていた筈はないですね。
成人のジャムカだけなら、彼が語学の天才で、ナイマン部族などとも意思の疎通をしてたといえるかもしれませんが。
トルコ系、モンゴル系とも実は同じ言語なのかと思いたくなります。
>>399-400 『集史』などの情報によれば、当時のジャライルやタタルといったモンゴル部族の近隣の
非モンゴル部族系の諸部族はもともとテュルク語しか解して無いはずだったが、契丹国の伸長や
モンゴル部族の進出などの影響でイエスゲイやテムジンの時代にはモンゴル語を理解できるよう
になっていたようだ。ケレイト王国とモンゴルはトオリル・ハンの祖父マルクズ・ハンの時代から
同盟を結んでタタルやナイマン王国と戦争しているが、言語的な違いで問題が起ったような記録は
残っていないので、双方意思の疎通には問題が無かったようだ。
契丹語もモンゴル語も、ウイグル語などの周辺のテュルク諸語と基本的な語彙を共有し、文法的にも
かなり似通ってるいうのもあるのだろうが、西ウイグル王国あたりから発掘した文書なんかを見ると、
たぶん遼朝あたりに相互理解できる「基盤」のようなものが出来てたんじゃないかと、半世紀程前に
故愛宕松男博士あたりが推測していたような。
ジャムカは『元朝秘史』と『集史』では微妙に出自の情報が違っていたりするが、一応モンゴル部族の
一派の出だったことは共通しているので、特に言語的な問題は無かっただろう。
> イスラム系のハッサンは何人でしょうか
『元朝秘史』によると、テムジンがバルジュナ盟約の時に南方のオングート部族の王アラクシ・テギト・
クリの使者として派遣されてきた人物が出て来て、名前を「アサン・サルタグタイ」と呼んでいる。
「サルタグタイ」というのはモンゴル語で「サルタゴオル(出身)の」という意味で、つまり
当時のホラズム・シャー朝が支配していたマーワラーアンナフル方面の出身の人物らしい。
「アサン」は「ハサン」の訛りとみられる。
『世界征服者史』によると、チンギス・カンのホラズム遠征の時、スィル川中流のスィグナーク市の
降服勧告のためにモンゴル軍から派遣され、これに失敗して惨殺された「ハサン・ハーッジー」なる
人物が伝えられているが、両者は同一人物ではないかとも言われている。
さすがに断片的な情報しか残っていないのでイラン系かテュルク系かは不明だけれど。
402 :
世界@名無史さん:2007/01/09(火) 19:40:59 0
401さん、
>契丹国の伸長や モンゴル部族の進出などの影響で
>イエスゲイやテムジンの時代にはモンゴル語を理解できるようになっていたようだ。
・・・モンゴル語と契丹語はとってもとっても近いのでしょうか。
>契丹語もモンゴル語も、ウイグル語などの周辺のテュルク諸語と
>基本的な語彙を共有し、文法的にもかなり似通ってるいうのもあるのだろうが
・・トルコ系言語とモンゴル系言語ってまあまあ近いのでしょうか。
トルコ系言語(ウイグル語も)、モンゴル系言語、契丹系言語、女真系言語とあったんでしょうか。
そして近かったんでしょうか。女真語は違うかも。
そういう前提があったので、相互理解という段階へ進みやすかったのかなと。
亡き愛宕先生の論文でも触れられていたと思ったけど、
西田龍雄先生の著作のどこかに契丹文字の音価の同定している箇所で、契丹文字碑文などで
あらわれる格助詞として使われている文字の音価が、どうやらウイグル語などのテュルク語や
女真語などよりも、モンゴル語の系統のものだったと指摘されていて、契丹文字の解読は
まだまだ中途ではあるけれど、恐らく契丹語はモンゴル諸語の一派だろうと述べておられた
ような記憶が。
誰かハンガリーあたりの言語学者が、テュルク語とモンゴル語と女真語などの関係は
バルカン半島周辺の事例と同じく「言語連合」という概念で説明していたような・・
404 :
世界@名無史さん:2007/01/10(水) 23:31:53 0
年末年始中国旅行に行ったのですが、金代の建築物が結構残っている
(明清に改修されているが)ことがわかって驚きました。
宋金遼代の建築物写真集とかサイトとかないのでしょうか。
蒙古襲来関係から来たんですが、フビライが死んでから
元はガタガタッと崩れたという簡単な理解でいいんですか?
>>405 それはちと早すぎるのでは。フビライは1294に死んだけどその後まもなくハイドゥの乱
が終わって諸ハン国と和睦し連合したからある意味モンゴル帝国最盛期と言える状況
で最大領域もこの頃のことですし。
その後は後継争いがあったり収まったりを繰り返しましたが1322-1333は7人の皇帝が
即位する混乱状態。んでその後も政局は混乱。
1348から反乱が続発、1368にはモンゴル高原へ引き上げることになりました。
1388にはフビライ王統が一旦断絶、1487のダヤン・ハンによるモンゴル統一まで混乱
が続きました。
407 :
世界@名無史さん:2007/01/18(木) 12:59:18 0
409 :
世界@名無史さん:2007/01/20(土) 12:58:49 0
反町ハーン陛下キターーーーーー!
浅野ハーンはどうなったんだ?
411 :
世界@名無史さん:2007/01/20(土) 15:27:32 0
GTOは大陸へ渡っていたのか
412 :
世界@名無史さん:2007/01/24(水) 00:50:55 0
菊川怜はボルテ役なんだね。
日本語なのか
414 :
世界@名無史さん:2007/01/27(土) 11:42:29 0
邦画だぞい?
415 :
世界@名無史さん:2007/01/28(日) 21:13:55 0
モンゴルのヨーロッパ遠征に関して、ヨーロッパ側から書かれた著作なんか
ありますか?
特に民衆視点の本を探しています。
417 :
世界@名無史さん:2007/01/31(水) 18:52:28 0
歴史の本になぜモンゴルが強いかは
実の所よく分かりませんと書かれてて
なんか笑った
>>417 武器と馬乗術が達者な朝青龍が千とか万の単位で馬に乗って弓を射ちながら
おらおらおらーと自分のほうに向かってくるイメージをしてみるといいかも
419 :
世界@名無史さん:2007/02/22(木) 23:10:35 O
大規模な製鉄所があったんだっけ?
420 :
名無し募集中。。。:2007/02/23(金) 16:50:22 O
421 :
世界@名無史さん:2007/02/23(金) 16:55:29 0
>>417 一つには機動的な集団戦法が元寇時に日本側を苦しめたとあるね
>>421 元寇時に日本側は苦しんでなんかいないぞ。
たった一日でモンゴル軍を撃破しとる。
423 :
よろずこ:2007/02/25(日) 23:03:04 0
>419
鉄でなくても飛んできた矢が当たれば、落馬するぞ。
朝青龍が100もいれば。
424 :
よろずこ:2007/02/25(日) 23:07:56 0
>422
同意
>421
機動的な集団戦法はどこで展開できたのか?
海上でできたならば、九州の日本海側は蒙古により制圧されているであろうし、
陸上でも、今の福岡県は制圧されてるであろう。
鎌倉武士は、九州に集った鎌倉武士は自らの武勇をもっと誇ってもよい。
神風の所為にするのは、自らの武勇を誇らないものだと思うのだが。
もそっと勉強してきます。
>>425 しかしチンギス・ハン系の支配も14世紀後半になると中央アジア・モンゴリア・キプチャク平原
以外ではパタパタ崩壊しとるからのう。
日本を占領して、んで再独立したとして…列島と半島の仲は今以上に拗れてるかもしれん。
大陸そのものに対する感情もどうなってることやら。
蒙古進軍の限界は騎馬軍団進軍の限界
海 島に上陸しても制海権を取れないと面的な制圧は不可能。
日本で惨敗したのは有名だがジャワでも現地の権力闘争に巻き込まれ
ワケワカメ。
密林 ジャングルのゲリラには騎馬軍団もお手上げ。人も馬も病気に。
越南では後年のジープの米兵同様ブービー・トラップの餌食。
インドでは象騎兵軍団のお出ましに流石の蒙古馬もびびりまくり。
砂漠 炎熱の砂漠にさしもの蒙古馬もダウン。アカバ地峡は越えられず
エジプトには入れず。
森 森の民ドイツ人も森でゲリラ戦。
でもナポレオンやヒトラーを撃退したロシアの冬将軍には圧勝。
>>427 いや、インドは北部しか侵入してないから
そんなジャングルの生い茂る場所でもない
ビルマでは象部隊を撃退してるし
北インドはすでにタラーインの戦いでラージプート連合軍の戦象部隊を重装騎兵部隊でもって
完膚なきまでに壊滅させたゴール朝の支配に下っていた。チンギス・ハンがインダス河畔の戦いで
ホラズム・シャー朝のジャラールッディーンを敗走させた1220年代に北インドを支配していたのは
ゴール朝の遺臣、奴隷王朝のシャムスッディーン・イルトゥトミシュ。
ジャラールッディーン追撃の為にバラとドルベイの両将率いるモンゴル軍がインダス川を渡ったが、
酷暑を嫌ってムルターンやラーホール、ペシャーワルあたりを劫略しただけで追跡を諦め、程なく
ガズナへ撤退したそうだ。
オゴデイの時代にカシュミール地方とインド境域に鎮守軍(タマ)が2万戸(騎)ほど置かれ
しばしば北インドへ掠奪遠征を繰り返したが、北インドのムスリム政権(多くはテュルク系)が
モンゴルとの戦いで象部隊を投入していたとはあまり聞かない。
(数十年前まで自分達もモンゴルと全く同じ事をしていたわけだから皮肉な話しだが)
千年来の「遊牧生活」に別れ―新疆ウイグル自治区
3月18日9時40分配信 Record China
新疆ウイグル自治区の遊牧民が今後5年以内に、千年来続けてきた「遊牧生活」に
別れを告げ、定住生活を始める。
新疆ウイグル自治区の遊牧民の多くが今後5年以内に、千年来続けてきた「遊牧生
活」に別れを告げ、定住生活を始める。
これは新疆ウイグル自治区人民政府が推進している遊牧民の移転プロジェクトで、
第11次5か年計画の期間中に定住化プロジェクトを完了させる計画だ。具体的には
、2007年から毎年10〜15万人の遊牧民を農業や牧畜関連の第二次、第三次産業に転
業させるという。
2007年3月17日、新疆畜牧庁は記者の取材に対し、今後一定期間内に、退化してい
る草原の保護、飼料基地の建設と安定的な飼料供給、遊牧民の移動と定住による収
入増の実現、などの任務に重点が置かれるだろうと答えた。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070318-00000008-rcdc-cn
反町がモンゴル復興
ロケでお金が落ちたからね・・
クソ映画でも経済効果は大
モンゴルの単価にしたら下手な経済援助よりあるかもしれない
横山光輝は三国志以降のキャラはなんかうすい
436 :
問います。すみません。:2007/04/04(水) 19:45:34 0
@たとえば、テムジンですけど、
モンゴル「部」族のボルジギン「氏」族のキャト「氏族」族と
いうことですか。それぞれ、どういう段階レベルでしょうか。
Aモンゴル部族とケレイト部族、メルキト部族などの総称はないでしょうか。
Bジャラダン族っていうのは、モンゴル部族の一派ですが、
母方系統ということでしょうか。ジャムカの父、その父と、、、、父方のつながっているようですが。
神話の世界で母方で、その後はやはり父方で考えるということですか。
437 :
世界@名無史さん:2007/04/05(木) 22:03:35 0
イトルゲン;
カサルの家来を自分の家臣としたいと思って謀殺された!
ここで聞きたくなってきたんです。
部族の中の隷属民、臣従民ってのは、負けた方?つまり、血筋関係ない。
つまり、部族とか氏族とかの外、別の部族氏族?なの。
北方の勢力圏が何処までかは分かりにくいからのう。中国の史書にも堅昆とか
毛皮を産出する北の国はあるが何処まで広がってたかは分かりづらいから
北の国を勢力下に治めたとして何処まで広がったことになるのやら。
とりあえず英語wikiを機械翻訳しても渤海や黒水靺鞨の北側でオホーツクに
達したとする見解の出所はよくわからんかった。
ちなみにウイグルの西の端がアラル海に達したとする説も見た覚えがある。
あと遊牧ウイグル帝国は744年-840年なので668年に滅んだ高句麗より後の国。
高句麗は通常は海側で沿海州南端部、内陸で吉林省あたりまでと考えられています。
テュルク系の発祥地は何処なんだろ
441 :
世界@名無史さん:2007/04/08(日) 16:56:47 0
自分で調べてみたらなんとモンゴル高原の西かよ!?
こりゃモンゴル諸語とテュルク諸語が同じアルタイ語族なんて言われる訳だ。
草原で隣り合って暮らしてたとは
442 :
世界@名無史さん:2007/04/08(日) 17:11:35 0
金の皇室完顔氏はモンゴルによって完全に抹殺されたとみていいの?
日本文化チャンネル桜は、平成十九年三月三十一日をもってスカイパーフェクTV!Ch.767における
24時間放送を休止し、同Ch.241「ハッピー241」の夜の時間帯で放送を続けることになりました。
※「ハッピー241」での放送時間(4月1日?)は、以下のとおりです。スカイパーフェクTV!
の受信環境があれば、どなたでも無料でご覧になれます。
【月?金】18:30?21:30/23:00?24:00
【土・日】21:00?24:00
http://www.ch-sakura.jp/index.html
>>442 金史を読む限りでは皇室・宗族は崔立のクーデターで降伏した開封在住と
哀宗に従軍した連中はほぼ全滅している。
445 :
世界@名無史さん:2007/04/12(木) 19:31:13 0
>>沖縄に追放されたモンゴル皇帝の末裔、その後の事だれか知りませんか!!
13世紀頃にユーラシア大陸を席巻した史上最大の帝国・モンゴル帝国のうち、クビライが建てた
大元ウルス(ウルスはモンゴル語で国)は1368年、明の朱元璋によって滅ぼされます。その時、
明は元朝皇帝の次男と妃・娘を生け捕りにしましたが、彼らが沖縄に追放された事実はあまり知ら
れていません。
元朝皇帝の次男の名前は「地保奴(ティポヌ)」。元朝17代天元帝(ウスハル・ハーン)の次男です。
捕らえられた地保奴らは当時の首都であった南京に送られます。明皇帝の太祖は元がかつて良い政治
も行ったことを考えて、その子孫である地保奴を殺すことは止めました。しかし国内においておくのも
どんなものだろうかということで、多くの資財を与えて琉球に送った、と明朝の記録『明実録』にあります。
『明実録』の記事は単なる伝承などではなく、当時の出来事を正確に記録したものですから、元朝皇帝
次男の琉球への追放はほぼまちがいない事実と考えられます。
藍玉が元の后妃をレイプしたんで地保奴が流刑になったのかと思ってた
今でも現代モンゴルでは「フビライ」と発音されてるのに
何で最近になって「クビライ」と言い換えてるんだろうか…。
>>447 元代のモンゴル語ではkh音がカ行に近い発音をされていて
のちにだんだんハ行に近い音になっていったということらしいです。
当時は「クビライ」と発音されてたわけか。
ややこしいな。
イル=ハンと呼ばれたのがフレグだけだとしたら
イルハン朝という呼称はどうかと思うな。
>>451 王朝の始祖だから問題ないのでは?
そういや英語の本でもフレギッドって言い方は見たことないな。
>>448 当時の琉球は2つあって、大琉球が今の沖縄で小琉球が今の台湾との事。
カイシャンが戦ったタミールとカラコラムの戦いについてだれか詳しく教えてくれない?
それと床兀儿の読み方も教えてくれないかな?
455 :
世界@名無史さん:2007/05/01(火) 22:09:49 0
モンゴルの歴史を読んでるとホラムズ王国の戦いにおいてのホラムズの王族
ジャラール・ウッディンの活躍が面白い、外国で映画化されてませんかね
>>454 多分、『元史』に出て来る「床兀兒」のことでは?
「牀兀兒」とか「創兀兒」とか書かれる人物。Chog'ur と読むらしいから、
それだったらチョンウルとかチョングルとかになるか。
自分は良くは知らないが、杉山先生の論文によると『集史』「クビライ・カアン紀」にも
「大アミールのひとり cwnqwr wang 」として出て来るほど有名なキプチャク親衛軍団司令
らしいけど。カイシャン関連だとやっぱり杉山先生の論文が一番詳しいかも。
杉山正明 1987 「西暦1314年前後大元ウルス西境をめぐる小札記」 『西南アジア研究』 27
(『モンゴル帝国と大元ウルス』「第8章 西暦1314年前後大元ウルス西境」pp.334-370.に収録)
杉山正明 1995 「大元ウルスの三大王国−−カイシャンの奪権とその前後−−(上)」
『京都大学文学部研究紀要』 34
454じゃないけど図書館で読んでみようかと思う。ありがとう。
>>449 それってモンゴル人から見ると、外国人の研究者が藤原秀衡をフジワラノフィデフィラって読むようなもんだな。
的確な喩えに感動
>>449,458
オゴデイやモンケ、クビライが生きていたモンゴル帝国時代のウイグル文字モンゴル語だと、
「クビライ」の「ク」にq音が近代・現代モンゴル語ではχ音に変化しても、文字上の綴りは
「クビライ」も「フビライ」も書き分けが出来ない。それじゃあ困るってので現代モンゴル文字だと
(満州文字もそうだけど)点とか字形をちょっと変えてqとχを書き分けるようにしているみたいだけど。
ただ、当時のモンゴル帝国が使っていた文書資料、例えばパスパ文字モンゴル語やペルシア語や
アラビア語で使われるアラビア文字とかだと、「クビライ(Qubilai)」も「フビライ(Χubilai)」も
書き分けることが出来るけど、実際にこれらの資料では「クビライ(Qubilai)」の方が使われている。
> 藤原秀衡をフジワラノフィデフィラって読むようなもん
非常に適格な例えだけど、
「クビライ」の問題を「藤原秀衡」で例えるなら、平安時代頃の日本語の正書法では
「プジワラノピデピラ」も「フジワラノフィデフィラ」も「フジワラノヒデヒラ」も書き分けが出来る
けど、資料の上ではちゃんと「フジワラノフィデフィラ」にしているからそのように呼びましょうか、
っていう感じだろうか。
近代モンゴル語は中世モンゴル語に比べて文字や用語の読み方や意味が乖離している場合がやはり
結構あるので、モンゴル帝国時代を研究している人たちは、なるべく中世モンゴル語や実際に書かれて
いる読み方に近いカナ表記をするようにしているみたいだけど。
チンギスの「カン」と「ハーン」の問題もあるけど、むしろユリウス・カエサルをわざわざ
現代イタリア語の発音に近い「ジュリオ・チェーザレ」で読もうかという感覚に近いかも。
461 :
世界@名無史さん:2007/06/18(月) 18:03:31 0
????
臣従部族、隷属部族というのはどういう風に発生するのでしょう。
堺屋氏の小説読んでいるのですが。
イエスゲイが急死した後のテムジンの部族も、
一時的には、タルグタイの臣従部族になったのでしょうか。
463 :
世界@名無史さん:2007/07/15(日) 19:57:48 0
>>447 NHKは近年一貫して「クビライ」だね。
和泉マフラーの大河の時もやはりクビライで統一されていたよ。
>>422 十分苦しんでいるだろ
文永の役では御家人側は博多を放棄して大宰府に早々に引くありさまだ
これは兵力不足もあっただろうが
弘安の役では防備を固めていたから
効果的に防備できた
日本は別に特別な国でもなければ世界最強の国でもないんだぞ
そもそも日本遠征の時の元軍の主力は
高麗・南宋の軍なんだが
最初に船内に夜襲して首を何個も持ち帰る。次の日には昼間に斬りこみ。
たぶん狭い船内での接近戦ではモンゴルの騎馬と弓の戦術なんて通用せず、
日本刀の剣術が有利で、夜襲でなくてもOKと判断したんだろう。
ついでに高麗の農民が土地をあげるとか言われて鍬もって参戦なんてのは武士
の敵ではなかった。
この話は防塁で上陸阻止した2度目か
468 :
世界@名無史さん:2007/09/09(日) 13:06:41 0
「モンゴル帝国が生んだ世界図」で、大元ウルスとモンゴルの使い分けが不明確で不親切だと思った。
元寇のことを「大元ウルスの来襲」でなく「モンゴルの襲来」と書く理由もよく分からなかったし。
そもそも、日経新聞から出す本に、「大元ウルス」という言葉の説明すらないのは乱暴かと。
一般向けの本を出すなら、自分が生きている井戸の中の世界と世の中のギャップを埋める作業がほしい。
以上チラシの裏
>>464 それ八幡愚堂訓という八幡信仰布教のために書かれた宗教書に書かれていること。
武士は苦戦したけど、神社から神様が出てきて元軍を撃退したという荒唐無稽な
内容の文献だよ。
実際に戦闘に参加した武士が作成した蒙古襲来絵詞だと、元軍は日本軍の集団戦法
に歯が立たず、逃げ回るのみ。
事実、元軍は一日で敗退しているわけだし、文永の役で武士が苦しんでいたとは
思えない。
>>469 あれだって恩賞目当ての武士が自分の功績を過大に書かせてるだろ>蒙古襲来絵詞
>>470 蒙古襲来絵詞が恩賞目当てに書かれたというのは嘘。
作者の竹崎季長が恩賞を獲得したのが1275年で、蒙古襲来絵詞の作成は1293年頃だからね。
そもそも、当時の恩賞は絵巻云々でどうにかなるものでもないし。
古今東西、合戦の最重要史料は実際に戦闘に参加した兵士が残した史料だろ。
> 元軍は日本軍の集団戦法に歯が立たず、逃げ回るのみ。
いや、別にそんな書き方はしてなかったはずだぞ。>『蒙古襲来絵詞』の文永の役
『蒙古襲来絵詞』の内容だと菊池武房の軍勢に赤坂の陣を攻め落とされた蒙古軍は二手に別れて撤退し、
麁原(すそはら)に退いてそこに陣を敷いた一隊と遭遇した竹崎季長らはこれを攻撃して武功をたてる
ことにした。覚悟の上とは言え多勢に挑むわけで、当然と言うか季長以下郎党3騎は矢傷をうけて重傷、
馬を射られて落馬するわで散々な目に逢うが、肥前の国の御家人白石六郎通泰の一党が後陣から加勢して
きたおかげで助かった、述懐している。
麁原(すそはら)に駆け上がった蒙古軍のその後については何も述べていないが、深手を負いつつも
幸い存命したので、お互いこの都度の武功の証人になることにしたそうだ。この時の証人のひとり
筑後の国の御家人光友又三郎も首の骨を射通される大怪我だったそうだから、
「元軍は日本軍の集団戦法に歯が立たず」とか「文永の役で武士が苦しんでいたとは思えない」
とは、それこそ到底思えない。
『蒙古襲来絵詞』は文永・弘安の役の時に恩顧のあったのに、その後の政争で敗死した人たちを追悼しよう
という目的で竹崎季長が後年作らせたんじゃないか、という説が有力だそうだが、実際に戦闘に参加した
人間が作らせたしかも絵画資料なので同時代資料としては破格だが、季長らが「蒙古軍は赤坂の陣を攻め
落とされた」らしく書くが、別に赤坂での戦いに参加したわけではなさそうなので、本当に蒙古軍が
「敗走した」のかは判断できないだろう。戦闘に参加して記録するのは確かに重要だが、その記録者が
敵味方の戦況全体を知悉していたかというと、必ずしもそうではないだろう。
>>472 実際に赤坂から麁原まで退く蒙古兵を追走しているのに、「敗走した」のかは判断できない
なんてことは常識的にありえないだろ。
元軍は菊池武房率いる100余騎にも、白石通泰率いる100余騎にも、あっさりと蹴散らされた。
まさに、「元軍は日本軍の集団戦法に歯が立たず」じゃん。
戦法とか以前に玄海灘が防衛線でダメだろ。
シベリアとかウクライナあたりの大河なんて冬に凍結したところを騎馬軍団が
がドバドバ押し寄せて来るが、当時の船で玄界灘で同じレベルのことをできない。
台風来なくてもモンゴル軍はジリ貧になったことだろう。
逆に地続きだったら蹴散らされた。
そういえばフランスのシラク大統領は博多の防塁を見たがったそうだ。
ヨーロッパを蹂躙したモンゴル軍を日本はどう防いだか知りたかったんだろう。
475 :
世界@名無史さん:2007/09/15(土) 10:33:54 0
中共に住んで居た「モンゴル王」が死去したとか聞きました。
この人物に至る迄の蒙古王家の系図を教えて下さい!
チンギス・カンから34代に亘る歴代の名前と先代との続柄だけでも。
なにとぞ宜しくお願いいたします。
>>474 同じレベルのことをできないどころか、モンゴル軍は地続きの多くの国よりも
遥かに大きい兵力を日本侵攻に注ぎ込んでる。
元寇は船による輸送が大軍の侵攻を容易にする実例だよ。
>>476 違和感のある結論で何か間違ってる気持ちになるのだが具体的に反論できない。
考え中。
>>476 日本の場合、文永の役は華北や中央アジア、イランでの威力偵察とそれほど規模は
変わらないが(条件にもよるが地方レベルへの場合は大体騎兵だけの部隊で1〜2万騎)、
弘安の役は金朝やホラズムシャー朝遠征などと同レベルの10万以上の兵力を動員している。
豊臣秀吉の九州征伐の時、20万を動員して九州北部から攻め込んだというから、弘安の役で
動員された東路軍・江南軍を併せた推計14万強という数字は九州などを征服する規模としては
妥当な数だったはずだ。(ただし、モンゴルの遠征軍で、弘安の役は歩兵軍が殆どだが、他の
遠征は騎兵部隊だけで10万以上だった違いは注意)
文永・弘安の役のいわゆる元冦、蒙古襲来時の上陸作戦、陸上での通常の作戦と比較した場合、
後者は必要に応じて主力となる騎兵部隊を10〜10万単位で任意で運用でき、歩兵部隊も
機動性では騎兵部隊に遙かに劣るものの、進入経路や兵站さえ確保できれば問題はない。
軍が侵攻した経路がそのまま兵站線になるし、大軍が存在し移動するだけでも大きな力になる。
この経路の確保し続けるだけでも戦線を維持することに繋がる。
ところが、前者の場合、兵站どころか進入経路を確保するだけで運搬用の船舶を新たに建造する
必要があり、海上の兵站線は気象の状況によって目まぐるしく変わり、通常でも維持するのは極めて
困難。陸上であればひとつの部隊が進軍中に一瞬にして全滅するなど、よほどの狭隘地や大河川を
通過するなど状況は極々限られるが、海上ではいかなる場所でも常にその危険が伴う。
(天候の問題や船舶そのもの問題もある)
実際に弘安の役の時は、博多沖に停泊していた軍船は暴風雨によって座礁・転覆し、大混乱どころか
壊滅状態に陥り、これを好機と見た鎌倉武士団に攻め込まれ完全に崩壊している。(文永の役について
は色々疑問が持たれてはいるが)
>>478の続き。
前近代では、船舶は天候の状況に常に左右され、勿論船舶は陸上よりも大量輸送が出来たが、
陸上以上に危険が伴っていたことは、例えば遠くインド、東南アジア、東アジアへも進出して
海上交易に携わったこの時代のエジプトやイエメン、ファールスの大商人達なども認識していた。
現代風に言えば当時の海上交易はまさに「ハイ・リスク、ハイ・リターン」だった訳だが、
> 元寇は船による輸送が大軍の侵攻を容易
という結論は、これらのことから考えて同意できない。むしろモンゴルの場合、同規模の陸上での
大遠征の方が戦果を確実にあげている。特に弘安の役などは鎌倉武士の攻撃が無くとも遠征軍は
とうに壊滅していたことを考えればなおさら。
(『ベニスの商人』などは正しく海上交易の「ハイ・リスク、ハイ・リターン」さの話しだったと思うが)
>>478-479 10万近い大軍を前近代の貧弱な陸上輸送では補給線によって支えることなんかできないよ。
ましてやモンゴル軍みたいに侵攻距離が広大な場合はね。
短期間なら予め携帯してきた食料などで賄うことができるだろうけど、そこから先は
略奪による現地調達で補うしかない。
だから、総兵力が10万を越えると言われているモンゴル軍の作戦って、現地では幾つもの
細かな部隊に分散して行なわれているでしょ。
一定の広さの土地が養える軍の兵数には限りがあるから、一箇所に兵力を集中させると、
たちまち周辺の食料を食い尽くしてしまって困ったことになるからね。
この時代、大軍を補給線で支えることができたのは、大河や海に面した作戦で、船を利用
できる場合のみ。
それに弘安の役の元艦隊は船の輸送力を活かし、数ヵ月分の兵站を搭載していた。
数ヶ月間、兵站の心配無しで戦えるなんて、陸路の侵攻では不可能だよね。
弘安の役で元軍が10万を越える大軍を集中投入できたのは、まさに船の大輸送力の恩恵なの。
モンゴル帝国の軍制について理解していないせいで錯誤している点がいくつかあるが、
それはそうと弘安の役の時、江南軍の到着が遅れて、東路軍の乗った軍船団は糧秣が
底を突いて飢餓が蔓延していたとかいう話だったんじゃあなかったか?
>「大軍を補給線で支えることができ」ていない
まったく正反対の話ならある。
弘安の役の時、江南軍の到着が遅れて、日本軍に連戦連敗の東路軍は撤退したかったんだけど、
乗っていた軍船団に糧秣が1ヶ月分残っていたから踏み止まったという話。
484 :
世界@名無史さん:2007/10/14(日) 03:38:48 0
>>480 モンゴルとか遊牧民の有利さは草原さえあれば羊を食わせ、人が羊を食うで
補給なんていらなかった、と理解したたが。
だから近代戦で補給のままならなくなった日本軍がインパール作戦で
「ジンギスカン作戦」などと無茶な引用をした。
>>484 いや、実際のモンゴル帝国軍の遠征には「アウルク」「アグルク」と呼ばれる兵站部隊が
大小いくつも本営軍や前線部隊などにも後続していて、チンギス・カンの中央アジア遠征や
フレグの西アジア遠征にも常に投入されている。
アウルクについては『集史』が一番詳しく記録しているみたいだけど、例えばフレグの
遠征では、バグダード征服の時でも、モンゴル高原本土に遠征軍全体の中核的なアウルクが一つ、
バグダードにやや近いザグロス山脈のハマダーン近郊でフレグ本営とのサブ中継基地的なアウルク
が一つ、バグダードの本営間近に置かれたアウルクがもう一つと、いくつものアウルクが
同時展開し遠征軍に必要に応じて軍馬や家畜、糧秣等を配給して続けていたようだ。
前衛・前線部隊にも専属のアウルクが随伴していたようで、アイン・ジャールートの戦いに破れた
キトブカの部隊にもキトブカの家族を中核とするアウルクの部隊がシリアに駐留していたようだ。
モンゴル本土やハマダーンの部隊のように、兵站基地として一定地域に留まり前線や本営への
物資の生産や配給を担当するアウルクと、戦闘部隊の移動に随伴して常にこまめな配給を担当する
アウルクがあったらしい。
>>485の続き。
これらの本陣の兵站を任されたアウルクは、モンゴル王族や遠征軍の司令の妻たちが軍馬・家畜・
糧秣の管理維持や配給を担当していたらしいが、これには戦闘部隊があまり随伴しておらず、多くは
すでに征服が完了し周辺に味方部隊が多く展開している安全な後方部分へ配されていたようだ。
(チンギスが即位する前のテュルク・モンゴル勢力が抗争していた時代のモンゴル高原では、
敵軍の偵察部隊に味方のアウルクが発見・掠奪されて窮地に陥ったなんて話もよくあったみたい)
「ジンギスカン作戦」みたいな現地調達は、実際のモンゴル軍では殆どされたことがなくて、
これら征服地域での掠奪は「戦利品の獲得」のためにやられていたもので、遠征軍自体の兵站は
これらアウルクと呼ばれる専門の部隊が様々に展開して要所で配給を担っていた。
「ジンギスカン作戦」云々は、まだモンゴル帝国軍の軍制・活動についてちゃんとした文献研究に
基づいた認識が浸透していない時期だったので「モンゴルの掠奪」=「現地調達」みたいな誤解が
あったんだと思う。ちなみ漢語では「アウルク」のことを「奥魯」などと書かれている。
『元朝秘史』中の「アウルク(a'uruq)」と漢文資料中の「奥魯」を同定させたのは例のフランスの
東洋学者ポール・ペリオだそうで、「奥魯」については岩村忍とか村上正二みたいな先学達が色々
書いているみたいだけど。
ここら辺のモンゴル軍のアウルクの活動については↓みたいな論文がある。
蓮見節 1985 「モンゴル軍の移動とa'uruqについて(上)」 『モンゴル研究』 16
蓮見節 1986 「モンゴル軍の移動とa'uruqについて(下)」 『モンゴル研究』 17
487 :
トミー:2007/10/15(月) 00:20:48 0
はじめまして、トミーです。
もうシニアですが、元気でアジアをふら付いています。
先月中央アジアに行ってきたんですが、カザフ語とかキルギス語がわからないんで少し教えて教えて欲しいですが。どなたかご存知の方おられませんか
。チュルク系民族の太陽信仰を調べているんです。
キルギス語かな、カザフ語かな、トルコ語かもしれない。
ウマイエネ=ウマイ(太陽)エネ(母)の意味らしい。も一つキルギスの博物館で、カンギュイ族(kanguy)と言う民族が中国かロシアか黒竜江に居るらしいですが知っている方は少しでも教えてくださいう。
489 :
世界@名無史さん:2007/10/29(月) 21:00:41 0
>>32 遅レスだけんどフレグが実際若禿げだった可能性はないのん?
>>485-486 モンゴル軍はどれだけの補給物資を必要としたか?
アウルクはどのくらいの規模で、どれだけの量の物資を輸送する能力があったのか?
こういう事をきちんと計算した上で「現地調達は、実際のモンゴル軍では殆どされたことがない」
って主張してるの?
アウルクに似た組織を持った軍は歴史上沢山あったけど、そういう軍もやっぱり現地調達なしでは
運営不可能だったよ。