174 :
世界@名無史さん:03/11/01 08:40
>>173 カステラ(カスティーリャ)は、「城塞」という意味の国名。
お菓子のカステラは日本人が勝手に付けた名前。
175 :
世界@名無史さん:03/11/01 08:42
ポルトガル語が語源
スペイン語ではない
176 :
世界@名無史さん:03/11/01 20:29
ラ・マンチャはカステラ(カスティーリャ)の一部
今の行政区分だと
カスティーリャは
castilla y leonとcastilla la mancha.
です。因みに、簡単と言われる(言われるだけだけど)スペイン語でも
「リャ」がちゃんと発音できる日本人は少ない。
178 :
世界@名無史さん:03/11/01 21:21
>>174 カスティーリャて、国名からして「軍事国家」というイメージだな。
アラゴン・カタルーニャに比べて王権が強かったらしいけど。
179 :
世界@名無史さん:03/11/04 03:46
ナスル朝などのイスラム教徒名門の子孫はいないの?
180 :
世界@名無史さん:03/11/04 07:29
>>179 マグリブ諸国にはアンダルスから亡命したムスリム貴族の末裔が多いんじゃないの?
181 :
世界@名無史さん:03/11/05 17:24
>>171 スペイン国王がブルボン王朝に変わったとき、ハプスブルクの王には庶子がいたそうだけど
182 :
世界@名無史さん:03/11/22 16:55
マールさんと171さんのやり取りのうち庶子の件ですが、
マールさんは、庶子といっても、
初夜件による庶子と愛妾の庶子と区別していますよね。
171さんは、庶子と嫡子の違いに注目していますけど、
マールさんは、嫡子と愛妾の庶子、初夜権の庶子をとりあえず3つに分けていますが、
愛妾の庶子は、嫡子に准ずる者で、初夜権の庶子とは相当別物という感覚で書いていますよ。
初夜権の庶子って、どうなんでしょうか。
フィガロの結婚で、結局スザンナが初夜権を行使され、伯爵の子が生まれたら、
その子は、それなりに貴族の息子の待遇を期待できるんでしょうか、
また、嫡子に事故があり、スザンナの息子が伯爵になる事態もそんなに異常ではないのでしょうか。
そのとき、スザンナはそれなりの待遇が期待できますよね。
フィガロもスザンナは王の城に住む使用人ですけど、農村に住んでいる農奴の場合、どうでしょう。
生まれるまで十月十日、城に居るわけですか。
農村にボロヤに住んで、そこで生むんだとおもいますが、すぐ引き取るのですか。
引き取らずにいて、しかし、その子も貴族の息子の資格があるんだとしたら、
イベリア半島は、天一坊だらけで大岡越前大忙し状態ですよね。
183 :
世界@名無史さん:03/11/22 23:22
爵位は息子のすべてが継げるわけじゃないらしい。家督を継ぐものだけみたい。
正式な子供なら、下級の爵位ぐらいもらえるみたいだけど基準が良く分からん。
あと、下級貴族は一代限りの爵位みたいだよ。
184 :
世界@名無史さん:03/12/05 21:59
スペイン人の「オノラ」(名誉)は、具体的にどんな感覚ですか?
186 :
世界@名無史さん:03/12/14 01:31
スペインって、国旗によれば、たしか4つの王国の結合を示していたと思う(実際は、もっとありそうで、どの4つか、と思うんですが)。
よって、複数の国の連合ということなんではないでしょうか。
もっとも、この連合といっても、それが自治権とはストレートにはつながらないと思いますが(ナバルは、それとカタランは、それなりに自治権あるようですが)。
よって、スペイン王位とは通称であって、抽象的意味での王冠は複数なのかとも(つまり同君連合)思えてきますね。
ちなみにイギリスは、イングランドとスコットランドと、、、の同君連合でしたが、
1707年「連合王国」になって、それぞれの王(イングランド、スコットランド)とかはないみたいですね。
イベリア半島に詳しい人の登場を待ちましょう。
>>187 確かナバラは最終的にはアラゴン王ファラン(フェルナンド)2世に征服されてアラゴンと
同君連合になったものの、孫のカルロスの王位即位の際にナバラ独立を恐れ、カスティリャに
併合したようです(カスティリャ議会が戦争歳費をファランに与え、その見返りとして
カスティリャにナバラを与えたようです)。
こういう経緯から考えると、ナバラ王位はカルロス1世からハプスブルク、ブルボン王家を渡って
現スペイン国王ジュアン(フアン)=カルロス1世がナバラ王、と思われます。
ただ、1285年にフランス王フィリップ4世がナバラ王となってから、フランス王が革命まで
ナバラ王を名乗り続けたので、アンドラ公国のフォア伯の方の宗主権がフランス大統領に
渡ったようにフランス大統領がナバラ王、という考え方もできますが。
>>188 国旗によれば5つの国の連合(カスティリャ、レオン、アラゴン、ナバラ、グラナダ)の
結合だそうです(小学館「西和中辞典」より)。
詳しく挙げたらたぶんきりがないでしょう(バレンシアとかも普通に入ってそう)。
191 :
世界@名無史さん:04/01/06 17:16
アーヘンの和約(オーストリア継承戦争の講和条約、 1748) における
スペイン国王フェルナンド6世の全権委任状の冒頭部分
フェルナンド、神の恩寵によりカスティリャ、レオン、アラゴン、両シチリア、
エルサレム、ナバラ、グラナダ、トレド、バレンシア、ガリシア、マヨルカ、
セビリア、サルデーニャ、コルドバ、コルシカ、ムルシア、ハエン、アルガル
ヴェ、アルヘシラス、ジブラルタル、カナリア諸島、東西インド、及び大洋の
島々と陸地の国王、オーストリア大公、ブルグント、ブラバント、ミラノ公爵、
ハプスブルク、フランドル、ティロル、バルセロナ伯、ビスカヤ及びモリナ卿
等々。天なる神より私の王冠に合された広大な属領の統治を信託されて以来・・・
この中でイベリア半島の領土は
カスティリャ、レオン、アラゴン、ナバラ、グラナダ、トレド、バレンシア、
ガリシア、マヨルカ、セビリア、コルドバ、ムルシア、ハエン、アルガルヴェ、
アルヘシラス、ジブラルタル、バルセロナ、ビスカヤ、モリナ。
ビスカヤとモリナってどこだかわからんな。湾とか海のことか?
で、
>>113ではジョゼフ・ボナパルト以降はただの「スペイン王」になったみた
いな書き方だが、ソースキボン。
>>191 ビスカヤ(Viscaya)
現在では、スペイン北部のバスク自治州を構成する県の一つ
ビスカヤ湾=ビスケー湾
>>191 「スペイン国王」の称号の問題は『スペインの歴史』(昭和堂、1998年)の一節「「スペイン王国」の構造」が詳しいです。
>>131にあるように1808年は「スペイン国王」の称号が公式に使われるようになった最初の年で
これは上記の文献にも記されている(そこでは具体的な史料は挙げられていない)
それ以前にはやはり領土に含まれていった各地域が列挙されていて
フェリペ2世の遺言状では
「神のご加護による、カスティーリャ、レオン、アラゴン、両シチリア、ポルトガル、ナバーラ
グラナダ、トレード、バレンシア、ガリシア、マジョルカ、セビーリャ、サルデーニャ、
コルドバ、ムルシア、ハエン、アルガルベ、ヒブラルタール(ジブラルタル)、
カナリア諸島、西インドおよび東インド、大西洋の諸島と大陸…の国王、
ブラバントとミラノの公爵、フランドル、…バルセローナの伯爵、ビスカーヤとモリーナの領主、等々」
となっている
(アルガルベはポルトガルの南海岸、モリーナはカタルーニャのピレネー沿いにある)
で、カトリック両王の時代以降も1808年に至るまで「スペイン国王」の称号は公式には使われず
>>191のフェルナンド6世や上のフェリペ2世のように「○○と××と…の国王、…の公爵」という
表現が使われた。
ここで気をつける必要があるのが
「1492年はカトリック両王のもとで国土・宗教共に統一された近代スペインが成立した」というよく見られる見解。
この見解はフランコ時代の地域主義否定・伝統的カトリック教会重視のなかで作られた産物で、最近では
カトリック両王によって共同の統治が始まったが、イベリア半島の各地域(後にポルトガルが独立)は
それぞれの法体系・行政組織・議会・税制を維持しており、直接に統一的近代国家のスペインが成立したとは
言い難い。そしてこの時期の「スペイン」は
王(カスティーリャの王でありアラゴンの王であり以下上述したいろんな地域の領主であるところの)を
媒介として、カトリックを統合の原理とした各地域の緩やかな統合体であった、とする見方が現在では多い
(その統合を維持する手段がカトリックのキリスト教共同体の確立(=具体的には異端審問や強制改宗)だった)
近代国家としてのスペイン政治的統合は
基本的にはカスティーリャの法や行政制度を他の地域に移植する方法で行われたが、
これは18世紀の間を通じて大問題だった
…というのがだいたいの論旨です(長くてスマソ)
「スペイン国王」の称号が19世紀初頭の旧体制の崩壊まで公式に用いられることがなかったことと
カトリック両王以降の同君連合的な統合の在り方とは密接に関連しているようです。
そして「フランス国王」の称号が使われていた(もちろん国家の構造も大きく異なる)
フランスから来たホセ(フランス名でジョセフ)・ボナパルトが「スペイン王」を名乗ったのは、
フランスの統一的な「国王」の称号をイベリアの地に持ち込んだと考えられるのではないでしょうか。
>
>>113ではジョゼフ・ボナパルト以降はただの「スペイン王」になったみたいな書き方
ただの「スペイン王」になったというよりこれ以降「スペイン王」の称号が段階的に定着していき
各地域を政治的に統一する過程の中で各地域の称号に取って代わられたと見るべきでしょう
>>192 >>193 おお、凄い詳しく書いてくれてありがとう。
各地の行政・法制的統合は長い時間をかけて進められたんだな。
隣のフランスみたいな(行政制度的には)均一な国の方が特殊だったんだろうね。
197 :
世界@名無史さん:04/01/23 12:46
>>90 >この時期のタイファ期の都市国家って、西欧の都市参事会のように有力
>家系の寡占共和政なのでしょうかね?。中世北イタリアのように、最有力
>家系が王朝を築いた?。それとも、アイヤール、アフダースのような暴力
>集団が指導してたのだろうか?
だれかこれに回答プリーズ。ちなみに、アイヤール、アフダースてのは、
都市の街区や職能集団を地盤として男気(ムルッワ)を徳目とし、弱者救済
や富裕層への強請行為などを行ったやくざ者のこと。時代が下ると自治
組織をもって街区の利益を代表し、街区の防衛や祭礼・年中行事をとり
しきったほか、イランやイラク南部では警察機能や行政権も担ったことも
あるそうだ。
ملوك الطوايًف
عيار
احداث
199 :
世界@名無史さん:04/01/23 15:30
ハエン、アルガルヴェ、
ってどこですか?
Jaén
Algarve
>>199 ハエンはアンダルシアの北東部。コルドバの東、グラナダの北。
アルガルベ(ポルトガル語ヴェ)はポルトガルの最南部。(
>>193参照)
>>197 ネットでは、なかなかアンダルスの内情に関する情報は得ることが
できない。
シャームやミスルやマーワラーアンナフルに関してならそこそこある
んだが・・・
>>144にある本や、入手困難だがW.M.ワット『イスラーム・スペイン史』
岩波書店1976 2000円 を探すしかないかも。ちなみにローマックス
『レコンキスタ』は持ってるが、イスラム側の都市の自治についての記述
はほとんどないね。
洋書ならいくらでもあると思うがな。
203 :
世界@名無史さん:04/01/23 22:40
ムスリム貴族が改宗して
スペイン貴族として残らなかったの?
204 :
世界@名無史さん:04/01/25 19:04
>>203 改宗者は後々まで「本当に改宗したのか?まだムスリムのままじゃ
ないのか?」と疑われ続け、あげくに1609年をはじめとして何度となく
追放されているから、貴族として残ったのは本当に少数と思われ。
ロシアにおける改宗タタールのようには手厚くされなかったことは確か。
206 :
世界@名無史さん:04/01/27 14:42
一時はイスラム教徒、アラビア語話者が
イベリア半島の多数派になっていたというのは本当ですか?
アブド・アッラフマーン1世って誰か小説にせんかな。
小説の題材としては最高だと思うんだが。
それにしても、この人の日本語表記はバラバラやね。
208 :
世界@名無史さん:04/02/13 13:50
>>206 それデュフルクが書いてるの読んだのか?
俺は眉唾だと思うな。言語に関しては、大多数は俗ラテン語話者だと。
「支配層の多数派」がムスリムでアラビア語話者というのならまだわかる
がな。
もっとも貴族層でも、アラブ人やベルベル人起源でない人々は、ずいぶん
あとまで俗ラテン語を話していたという話がある。
209 :
世界@名無史さん:04/02/15 14:48
征服されたキリスト教徒は都市部でだけ残り、
農村民は人頭税ジズヤのうえさらに地租ハラージュもとられるので
イスラム教の改宗したのではないの?
イスラム教国家で基督教ユダヤ教が残っているところは主に都市では?
>>128 サッカー選手にもいますよね。(多分バスク人)
アスレティック・ビルバオ所属のスペイン代表FWホセバ・エチェベリアがいますね(バスク人)
あと前のほうに出てたハポンという姓の選手もバジャドリというクラブにいます
ヘスス・ハポンだったかな
212 :
世界@名無史さん:04/03/23 00:25
質問なのですがスペインとポルトガルは隣国同士で覇権争いをしながら、全面戦争に発展しなかったのはなぜですか?
>>212 1384年にカスティーリャのファン1世がポルトガル王位継承を主張して侵攻し、
翌年にアルジェバロッタで撃退されている。dで1640年にはジョアン4世がスペイン
から分離独立しブラガンサ朝を開いて44にスペイン軍をモンティホで破る。
これらを”全面戦争”言わんなら中世〜近代の西欧の国同士での全面戦争など
一つもないぞ。
214 :
世界@名無史さん:04/03/23 01:29
>>213 一応戦争してるのですね。わかりました、どうも。
215 :
カウニッツ:04/03/24 04:47
良スレの予感!本当に勉強になりますね。
216 :
世界@名無史さん:04/03/27 20:59
¡¡¡ Arriba !!!
217 :
世界@名無史さん:04/04/08 06:19
フランスのブルボン家とナバラは関係ないの?
アンリ4世はフランス王になる前はナバラ王エンリケ3世だったんだから
関係大有りだが。
219 :
世界@名無史さん:04/04/16 15:41
>>218 実質的にはないよ。
持ってたのは有名無実になっていた単なる王位にすぎん。
領土を保有しているわけではない。
220 :
世界@名無史さん:04/04/17 04:01
バスクとの血縁関係は?
221 :
世界@名無史さん:04/04/17 21:53
フランス領ナバラとスペイン側のナバラとの境界は、
いつ、どのように決まったのですか?
1659年11月7日ピレネー条約が締結されスペインとフランスの国境が画定した。
1635年フランスの三十年戦争参戦以降、戦争状態にあった両国は、
ウエストファリア条約で講和が実現せずに、その後、1658年6月の
「砂丘の戦い」の敗北を受けて結ばれた。
このとき、ピレネー山脈の稜線(自然国境)に基づいて国境線が引かれた。
223 :
世界@名無史さん:
ふんふん、なるほど