1992年9月、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)に参加した 日本の自衛隊がPKO部隊としてカンボジアに派遣されてから10年。 歌手のアグネス・チャンさんは日本ユニセフ協会の親善大使として8月下旬、 カンボジア北西部を訪問、人身売買の被害を受けた子供たちや“エイズ孤児” の実情を視察した。 内戦が終わったカンボジアでは貧富の差が拡大。その影響は子供たちにも 及び、盗み、物ごい、人身売買、売春が急増した。背後には子供をタイに売る 仲介業者の暗躍があるという。タイと国境を接するポイペトの街には豪華な カジノが7軒。戦禍を逃れ国境地域に定住した避難民は、カジノの建設で再び 移住を迫られた。悲惨なのはエイズ禍の子供たち。人身売買されたポイペトの ウェットちゃん(13)は両親がエイズで死亡、本人もエイズウイルス(HIV) に感染した孤児。タイで花売りをさせられていたが、売れない時は電線で殴られ たという。 カンボジア保健省などのまとめによると15歳から49歳の国民の約3%が HIVに感染している。 バタンバンで会った、HIVに感染した15歳の少女は「母親がばくちに 狂い、売られてしまった」。アグネスさんは彼女の目を見詰め、手を握り締め た。自分の娘、サリーちゃん(12)を1000バーツ(約三千円)でタイに 売った母親をポイペトに訪ねた。掘っ立て小屋に住む母親は「出産直後、夫に 逃げられ生活に困っていた時にブローカーがやって来た。サリーがタイへ行った のは2回。もう売ったりしません」と涙ぐむ。アグネスさんは「子供を犠牲に するのは大人の欲望が原因」と、人身売買根絶の決意を新たにする。
「晋書扶南伝」には、「東インドより、神から霊力のある弓矢を授かった人間 が、貿易船に乗ってやってきた。その人間がこの地域を治めていた女王と結婚 して扶南という国を作った。」とかかれている。 これはインドからやってきた渡来人と現地人とが一緒になって、国を まとめあげたということを伝えるもののようだ。
3 :
世界@名無史さん :02/08/31 17:52
4 :
世界@名無史さん :02/09/06 20:49
カンボジアといえばポル・ポトを思い出しちゃう。東南アジアの人って、 普段は穏やかだけど、キレると狂ったように狂暴になるのかな。
5 :
世界@名無史さん :02/09/06 20:50
不憫な民族というイメージが染み付いてる
6 :
世界@名無史さん :02/09/06 21:30
>>4 サヨのインテリは政権とると大抵の場合、自国民の虐殺を始めます。
7 :
世界@名無史さん :02/09/06 23:03
内戦前のプノンペンって、マターリとした良い町だったとか。
8 :
世界@名無史さん :02/09/06 23:08
西原理恵子の亭主、鴨某は、カンポジア人を徹底したDQNであると断定しておりますな。 なんでも、ポルポト派くずれのヴァカ強盗に至近距離からRPG7でホールドアップされた 体験が尾をひいているようですが。
9 :
世界@名無史さん :02/09/06 23:31
シアヌーク殿下は、映画制作が趣味だったというはなしをきいたことがある。 自分がつくった映画を、プノンペン駐在の各国外交官に見せていたとか。
ほうほう、それは良いご趣味で。
11 :
世界@名無史さん :02/09/07 00:17
シアヌーク殿下には14人の子供がいたけど、その半数がクメール・ルージュが カンボジアを支配していた時期に殺されたそうで。
12 :
世界@名無史さん :02/09/07 00:20
シアヌークが生きていられたのは北京が強くそれを望んだため。
しかも金日成とはマブダチでいまでもボディガードは北朝鮮から派遣してもらってる
>>8 幾ら、鴨ちゃん(報道カメラマン・鴨志田穣)の
文体・人物が嫌いでも、ちゃんと文章も読んでやれよ ( ;TДT)
て言うか、サイバラ(漫画家・西原理恵子)の作品での発言を
そのまま引くなって まぁ、100%嘘でもないが多少割り引け(;´∀`)
以下
「できるかなリターンズ」西原理恵子 2000 扶桑社 p68
GO!GO!鴨ちゃん カンボジア選挙紀行…C より
(98年総選挙後、有権者に投票行動を聞いて、通訳の発言)
「全員同じ意見でした。実は全員あなたの言う通りラナリットやサム・
リャンシーのほうが好きなのです。だけど市民は昨年(引用注・97年)の
7月のフン・セン民兵によるクーデターを忘れられないのです。ここに
いる人たちはフン・センが恐ろしくて人民党に投票したといってます。
それに……これは内緒にしてくれますか、私も人民党に入れたのですが、
実は党員から味の素一袋をもらいまして……」
.何もそんな安い物で心を売らなくたっていいのに。やっぱりクメール人
って、かわいい人たちだよなぁ。
15 :
世界@名無史さん :02/09/07 00:48
タイのアユタヤ朝〜バンコク朝の度重なるクメール遠征以降、カンボジアといくと 悲惨なイメージしかないけど、それまでは、インドシナで"諸王の王"を名乗ることが 出来た、一流民族だったんだよね。 なのに今は・・・
16 :
世界@名無史さん :02/09/07 00:53
クメールを目の敵にして、執拗に遠征を繰り返したタイ王朝に、ちょっと異常なもの を感じてしまう。 インドシナ半島に南下してからしばらくクメール人の支配下にあったことが、それほ ど屈辱であり、かつ宗主国への憧れと対抗意識を燃やさせたのか? タイのお粗末な建築を見ていると、クメールが弱体化したことがもったいなく思える
シアヌーク国王の後はラナリット殿下?それともモニク王妃の子供? お家騒動になりそうと思われます
18 :
世界@名無史さん :02/09/07 18:24
ttp://www4.airnet.ne.jp/otto/sitenlog/news000402.html カンボジア憲法(1993制定)では国王の死去後7日以内に首相・国会議長・
仏教指導者(このへんがカンボジア風)らで構成する王室評議会が「アンドアン」
「ノロドム」「シソワット」の3王家の三十歳以上の男子から次代の国王を指名すると
定めている。このうち有力視されているのはやはりシアヌーク国王の王子達で、
なかでも最有力候補と言われているのが国王の第一妃が産んだラナリット殿下
(56)だ。この人、現在下院議長を務めているが、新生カンボジアの誕生過程で
あれこれと活躍(暗躍?)し政界の動向に影響を与えてきた。1998年にフン=セン首相の
勢力と連立を組んだ際、フン=セン首相が「あなたを次期国王にする」と密約したという
噂もある。しかしこういう王子が国王になることは国王が政治権力を握る結果を
生みかねないとフン=セン首相自身が警戒しているとの話もある。
ラナリット殿下の対抗馬といわれているのが第六妃で事実上の正妻といわれる
モニク妃の子シハモニ殿下(47)だ。こちらは現在ユネスコ大使。ラナリットさんに
比べて政治的に中立のため、この人の方がドロドロしないで済むと即位を期待する人も
多いようだ。他にも以前フン=セン首相の暗殺を企てたとして国外追放された
シアヌーク国王の異母弟シリブット殿下(49)というの人もいる。
尻太殿下
20 :
世界@名無史さん :02/09/08 08:09
スワイパー村、、、いいぞ。
21 :
世界@名無史さん :02/09/20 19:42
22 :
世界@名無史さん :02/09/20 19:49
アンコールワットはすごいね。やっぱりビジュアルのインパクトは 大きい。あれがなけれただのドキュソ民族にしか(以下略
しっかし、一時はベトナムの傀儡としかみられていなかったフン=センだけど、 いまや一流の政治家だな。もっとも、その一流さが保身に働いているけど…。
24 :
世界@名無史さん :02/10/08 08:56
age
25 :
世界@名無史さん :02/10/08 12:11
>>22 アンコールワットや、インドネシアのボロブドゥールを見て思うんですけど、
東南アジアには、宗教建築を石造にする伝統のようなものがあったんですか?
東アジアでは木造が主流だけど。
>>26 カンボジアの古代史書ってないのかなぁ?
隣のベトナムなでは大越国史、大越全史なんていう史書があるけど。
ベトナムは中国文化圏、カンボジアはインド文化圏。
ひとつ国境を越えただけでこれだけ違うとは摩訶不思議。
まぁ、どちらも仏教という点では通じているけどね。
27 :
世界@名無史さん :02/10/23 08:08
age
>>25 東南アジアは木造建築は腐りやすくて、永遠性を求める権力者には好まれなかった、
と推測を述べてみる。
タイ建築は、レンガ&木が主流。
床と壁と柱(の一部)がレンガ。柱(の一部)と屋根が木造。
29 :
世界@名無史さん :02/10/25 08:33
今じゃ窃盗バイク大国だもんな。ベトもカボチャも。
30 :
世界@名無史さん :02/11/06 10:52
カンボジアもレンガよく使ってないか? いくつかの遺跡の中にもレンガ作りのものがある。
31 :
世界@名無史さん :02/11/16 19:33
32 :
世界@名無史さん :02/12/01 09:00
age
33 :
世界@名無史さん :02/12/03 15:18
クメール帝国再興キボンヌ
34 :
世界@名無史さん :02/12/03 15:29
ポルポト時代よりは植民地のほうがマシ
35 :
世界@名無史さん :02/12/05 07:33
36 :
世界@名無史さん :02/12/18 09:04
age
37 :
世界@名無史さん :02/12/19 03:36
キリングフィールドみたけどわけわからん。 だれか解説汁。
扶南とか真臘とかクメール人の国なのに なんで漢字なの? 中国名であってクメール語では違う名前なの?
40 :
世界@名無史さん :03/01/07 09:39
>>25 フナム期ですと、アンコール・ボレイから木造による祠堂跡が発掘されて
いますし、家屋や王宮は木造だったことが分かってます。
焼成レンガが主体のプレ・アンコール期には、木造を模倣したと思われる
ディテールが多数残っており、また設計手法も木造のそれとほぼ同一だった
と考えられています。
アンコール期なら屋根は木造軸組で瓦葺きが多かったと思います。
棟木や桁を受ける為の加工の跡が有りますし、瓦も遺跡周辺から結構出土しています。
確かE.F.E.O.のデュマルセがプレ・ルプ(かな?)の木造軸組を復元していました。
因みに、ピメアナカスの隣の王宮跡は木造であったことが分かっています。
アンコール期はコー・ケル以降は砂岩が多いのですが、これは森林伐採により
焼成レンガの作成が難しくなったのと、砂岩は加工しやすい割に耐火性能が
高いのが原因だと思います。
しかし、地方によってはアンコール末期でもレンガ主体の所があったりします。
41 :
世界@名無史さん :03/01/08 14:10
サイゴンもカンボジアだったけどベトナムに奪われた。 どうして、弱体化したのか?
(^^)
43 :
世界@名無史さん :03/01/20 19:56
シアヌークの次は誰が国王になるんですか? ラナリット?
北京で療養中のカンボジアのシアヌーク国王(79)が、退位表明に向けた動きを見せ、自らの死後の 君主制維持に向け、最後の勝負に出たのではないかと憶測を呼んでいる。 高級紙プノンペン・ポストは27日、国王が今月中旬、退位の決意を表明する文書を用意したと報じた。 この文書は、王位継承評議会が次期国王を選出するよう求める内容だという。国王に近い筋は同日 までに本紙に対し、「国王がこの文書を100枚コピーし、いつでも関係者に発送できるよう準備を完了 した」と述べた。 国王は、憲法で定められた、王位継承手続きに関する法律制定が国会で進まないことにいらだちを 募らせており、「存命中に最愛の息子シハモニ殿下への継承を確実にするため、揺さぶりをかけた」 (消息筋)との見方が強い。
すまん。↑9月27日の読売ね。ソースはすでに消えました。
46 :
世界@名無史さん :03/01/20 21:25
47 :
世界@名無史さん :03/01/21 17:12
>>38 (ざっとでも)カンボジア史を知らないと良くわからないかも
でも知ってから映画を見るとスリル度大幅アップ。いつ誰が殺されてもおかしくないあの時代を
プランも、プラン役のニョールも、生き抜いたのは奇跡と思ってしまう。
48 :
世界@名無史さん :03/01/22 14:20
ポル=ポト時代のカンボジア 1969年、アメリカ軍が、北ベトナムの拠点、補給ルートになっていたカンボジアに侵攻 1970年、クーデターで親米のロン=ノル政権誕生。政権を追われたシアヌークはクメール=ルージュと手を組み反米闘争開始。 1975年、プノンペン陥落。ポル=ポト指導のクメール=ルージュがカンボジアを支配。 プノンペンを初めとする都市から農村への強制移住開始
ポル=ポトは極端な共産主義政策をとって行く ●共同農場や用水工事などの強制労働。都市からの強制移住者は「新住民」と呼ばれ、特に苛酷に扱われる。「お前達を生かしていても何の特にもならない。お前達を殺しても何の損にもならない」 ●貨幣、宗教、学校、病院等の廃止。 ●家族の解体。子供には徹底した思想教育が行われる。 ●知識人の粛清。読み書きができるだけでも粛清の対象となる。外国への留学生も、本国に戻され処刑。少数民族も対象。無謀な食料増産政策により多数の餓死者が出ると、多くの人達が反革命分子のレッテルを貼られ無差別に虐殺。 ポル=ポト支配下で、カンボジア人口800万のうち100~200万が死亡したと言われる
反ベトナム政策による国境紛争が激化。 ベトナムは、ヘン=サムリンやフン=セン等ポル=ポト政権から離脱した軍幹部を率いて1978年カンボジア侵攻、 二週間でプノンペンを制圧し、ベトナムを後ろ盾としたヘン=サムリン政権を樹立。 タイ国境に逃れたポル=ポト派は、中国、タイの後ろ盾の元ゲリラ闘争を開始。
映像の世紀で紹介されていた、ポルポトが子供達にかかげていたスローガン 我々は独自の世界を建設している。新しい理想郷を建設するのである。 従って、伝統的な形をとる学校も病院もいらない。貨幣もいらない。 たとえ親であっても、社会の毒とおもえば微笑んで殺せ。 今住んでいるのは、新しい故郷なのである。 我々はこれより過去を切り捨てる。 泣いてはいけない。泣くのは今の生活を嫌がっているからだ。 笑ってはいけない。笑うのは昔の生活を懐かしんているからだ。
>>44 誰か何回目の退位表明か、カウント取ってないかなぁ。
もちろん、即位前の引退表明もあわせてねw
53 :
世界@名無史さん :03/01/30 21:19
タイの人気女優が「アンコールワットはタイノマのもんじゃゴルァ」と発言した」と伝えられたことから、 カンボジアでタイ大使館やタイ資本が暴動に遭った。 1アンコールワットはタイのものなの? 2タイとカンボジアとは対立があるの? 3タイ資本は近隣諸国に進出してるの?
54 :
世界@名無史さん :03/01/30 21:27
55 :
世界@名無史さん :03/01/30 21:28
56 :
世界@名無史さん :03/02/01 02:05
今のカンボジア王室ってアンコール朝の王家から血統的に連続してるんだっけ?
57 :
世界@名無史さん :03/02/01 06:43
>>56 大まかに、500キロ以内ならば10世代以内、1000キロ以内ならば50世代、
5000キロ以内ならば100世代以内に、共通の御先祖が1人くらいは必ず
いる。
加えて、日本はそうでもないが、大陸の国の王族は、自国の臣民よりも
近隣の王族との間で政略的に通婚が盛んなものなので、意外に遠方にも
血縁関係があったりする。
なんだかんだ言って、オーストリアのハプスブルク家、インドのムガル
皇帝、トルコのオスマンのスルタン、今のヨルダン国王、辿ってゆくと、
ジンギスカンの血を引いていたりする。
58 :
世界@名無史さん :03/02/01 11:18
>>57 そういうこと聞いてるんじゃないんだけどね・・
まあ、わざわざのレスありがと。
59 :
世界@名無史さん :03/02/16 09:31
age
60 :
世界@名無史さん :03/02/16 16:14
現カンボジア王室がアンコール朝の王統につながるかどうか以前に アンコール朝歴代の王の系譜関係自体よく分かってないんだな。
タイとカンボジアの間にはそれほど対立はないだろう。むしろ、ベトナム。 もっとも肥沃な大地メコンデルタを奪われたから、ベトナムに対する恨みがある。 反越感情は強い。政情不安になる総選挙時には、カンボジア国内の越境が襲撃される。
カンボジアは、米国ドルだけでなくバーツも流通するバーツ通貨圏。 当然、タイ企業もたくさん進出している。共産化した周辺諸国に比べれば経済大国。 ベトナム、カンボジアは自転車通勤が多いがタイ人は自動車。インドシナでは一人がちだよ。 タイ第二の富豪であるタクシン首相は自分の企業のプノンペン支店を襲撃され大激怒。
63 :
世界@名無史さん :03/03/04 20:44
アンコールトム アンクルトム
(^^)
65 :
世界@名無史さん :03/03/14 15:48
チョーウケル
>>61 フランスがベトナム人を使ってカンボジア人を支配していたから
というのは聞いたことあったけど。
いろいろ複雑な理由があるんですね。
67 :
世界@名無史さん :03/03/26 00:21
age
68 :
世界@名無史さん :03/03/26 05:16
タイ人はカンボジア人を馬鹿にしているが それとかつてクメールの勢力下だったこととは関係ないだろうな。 単に貧しい、遅れてる、みたいな感じで馬鹿にしてるっぽい。 ビルマに対してはどうなんだろうな。 テレビの時代劇でもビルマとの戦いが多い。
69 :
世界@名無史さん :03/04/06 22:40
age
>68 国民感情までは知らないけれど、 あの二国間には実際に戦争が多かったよ。
(^^)
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
73 :
世界@名無史さん :03/04/30 03:11
旅行先で聞いた話だと、タイ人はラオスやビルマに対しても優越感を持ってるみたいだね。 ま、タイはインドシナ随一の経済大国だもんな。 一昔前の日本人が抱いていた中国や朝鮮に対するイメージみたいなものか。
74 :
世界@名無史さん :03/05/09 01:40
結局かのスワナン嬢発言事件はどう収束したのやら?
75 :
世界@名無史さん :03/05/21 22:35
age
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
78 :
世界@名無史さん :03/05/30 13:40
チョムスキーは、カンボジアにおける、ポル・ポト派の虐殺について、実際は
どのように書いていたのか。翻訳家の山形浩生氏が、問題の著書
「Noam Chomsky + Edward S. Herman After the Cataclysm
: Postwar Indochina & The Reconstruction of Imperialist Ideology
(The Political Economy of Human Rights: Volume II)
(Boston Community School/Southend Press, Boston, 1979)」
の第六章「カンボジア」を翻訳して自分のサイト↓で公開しています。
http://cruel.org/books/cataclysm/ 山形氏の評価は、「すさまじい本だった。チョムスキー否定派の言う通り。
ポルポト擁護、大虐殺否定のオンパレード。よくこんなものを出しておいて、
恥ずかしさで首をくくらずにいられる、と思うほどのしろもの。」だそうです。
訳注に2ちゃんねる語が出てきて藁た。
79 :
Dead Kenedys :03/05/30 13:44
Holiday in Canbojia
80 :
世界@名無史さん :03/06/02 15:34
>>81 嗚呼細かいところが訂正済み。
レス感謝です。
83 :
世界@名無史さん :03/06/16 11:24
age
84 :
ウンコールワット :03/06/17 12:56
人 (_) 人 (__) 人 (__) ( ) (_) 人 (__)━━━━(__) 人 (___) ( )≡≡≡( ) (__) o ( ) ┏━━━━━━━━━┓ ( ) o ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ┃ ┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┻
85 :
世界@名無史さん :03/06/28 02:33
age
人 (_) アンコー! 人 (__) 人 (__) ( ・∀・) (_) 人 (__)━━━━(__) 人 (___) ( )≡≡≡( ) (__) o ( ) ┏━━━━━━━━━┓ ( ) o ┏━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┓ ┃ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ‖ ┃ ┻━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━┻
87 :
世界@名無史さん :03/07/09 08:18
age
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。 貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。 黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。 (黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。 また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。 「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。) 彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
91 :
世界@名無史さん :03/07/23 07:33
age
92 :
世界@名無史さん :03/07/30 22:18
オンカーあげ
カンボジアの旅の話ですいません。
皆さん詳しいので恐いのですが、西尾幹二(この間の「朝まで生テレビ」に出たよ)と言う保守言論人の関連サイトで、カンボジアについて書いております。
初めて行ったのがUNTAC撤退直後の1993年です。
当時は、バイヨン近くにも地雷看板がありました。
今までカンボジアには十数回行きましたが、全部短期なので、皆さんには知識で劣ります。が、大好きです。
今回、このサイトの149番から、危険だった頃のベンメリア寺院、そして、お約束のトゥオルスレンについて、物語形式で書いております。
どうか、温かい目で、読んで下さい。
そして、二十代以内の方は、短くても良いから感想及びあなたの旅話をお願いします。
次は、十月に二週間ほど行ってこようと思います。
ラオスのワット・プーに行こうかな、と。
http://f4.aaacafe.ne.jp/~aramar/asuka/wakate.cgi 過疎板なんで寂しくて・・・。
94 :
世界@名無史さん :03/08/17 00:58
>>93 頑張ったね。なかなかおもろかったよ。 現在と歴史が入り乱れていて、楽しかった。
カンボジアとかっていかれた国家ってイメージしか無い。 アジアってまともな国家が無いね。
96 :
世界@名無史さん :03/09/12 20:23
97 :
世界@名無史さん :03/09/17 09:43
周辺諸国と違って、カンボジア国内って クメール民族以外の少数民族の存在をあまり聞かないですな。 一応いないわけではないのですが・・・ タイやミャンマーだと少数民族と主要民族との抗争が常なだけに 不思議だ・・・
98 :
世界@名無史さん :03/09/17 12:21
>>8 >>14 DQNで思い出したけど、ポル・ポトから解放された、失恋した男たちは、その頃
あちこちに棄てられていた硫酸のタンクの中身全部を、待伏せして、木の上から、
自分をふった女にぶっかけて殺したそうだ
>>73 でも、シンガポールやマレーシアに劣等感持ってるという
99 :
世界@名無史さん :03/09/17 12:24
>>95 >>96 なんとなく気持ちはわかるが
じゃあ、欧米やオーストラリア、NZのどこをまともと思うんだ?
100 :
世界@名無史さん :03/09/17 18:04
百ゲット
101 :
世界@名無史さん :03/09/17 22:01
ともあれ向うの農村の人は、米と地栄えの植物でも食って生き長らえる ゼニはそう要らんよ
102 :
世界@名無史さん :03/09/19 21:34
ごちゃごちゃ言わんと素人向けの入門書教えてくれや
103 :
世界@名無史さん :03/10/04 19:29
カンボジアの農村部の人は無事かな 今でも日本からロリは来るのか?
104 :
世界@名無史さん :03/10/05 20:18
インドと一緒でバンコクの空港のベンチで平気で野宿のカンボジア人 出稼ぎか
105 :
世界@名無史さん :03/10/06 20:51
アンコールワットのレリーフの地獄図は、昔本当に行われた拷問や刑罰を再現したものらしい 前もってポルポト犠牲記念館を観ておいたらいい
106 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:13
なんか盛り上がっていないのでたたき台として話題を提供しましょう。 カンボジア史の概要ですが、間違いやおかしな点がいろいとあると思うので 気が付いたらつっこみを入れて下さい。 最初に国名についてちょっとひとことふれておきます。 (クメール語[カンボジア語]のローマ字表記はあくまで近似的なもので、 カナ表記に比べれば多少ましという程度のものです) 「クメール」と「カンボジア」 両者に語感の違いはあるが、意味の相違はほどんど認められない。 「クメール」(クメール語で Khmae、フランス語・英語等 Khmer)はクメール人の自称。 クメール語の文脈では日常的な用語。 「カンボジア」(クメール語 Kampucea、フランス語 Cambodge、英語等 Cambodia)は「カンプの子孫」 の意味で建国神話に基づく。「クメール」に比べ正式な改まった語感を持つ。 『真臘風土記』(13世紀末にカンボジアを訪問した中国人・周達観の見聞録)に 「その国は自称して甘孛智[カンボツチ]という」とある。西洋人も国名としては「カンボジア」を用いた。
107 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:14
<<カンボジアの歴史1>> 1.扶南 扶南は古代東南アジアで最古・最大の国家である。現在のカンボジア南部にインド文化の影響を受けて 成立し、海上交易で栄えた。 1世紀頃 :扶南建国。当時は海に囲まれた島であったアンコール・ボレイ(カンボジア・タケオ州)が 勢力の中心地。 68年頃 :インドのバラモン混填[コンデン]が扶南を征服して王となったのがこの頃とも言われる。 2世紀 :扶南を中継点とした中国、インド、ローマの交易が盛んになる。 シャム湾に面した外港オケオ(ベトナム・アンザン省)が繁栄(〜6世紀頃) 3世紀前半:扶南の范師曼[ハンシマン]大王、タイ南部からスマトラの一部までを征服。 インドシナ半島南部一帯からマレー半島北部に及ぶ地域が扶南の版図であった(〜6世紀頃) 4世紀前半:東南アジア一帯でインド化が進む。 5世紀頃 :南インドのパッラヴァ王国が海軍を動かし本格的な東南アジアの植民地経営に乗り出す。 5世紀初頭:インド南部のバラモン、カウンディニャ(橋陳如)が扶南を征服し、ジャヤヴァルマン王 として即位。都はヴァイトボレア(アンコール・ボレイ)。 別働隊は北部を攻略。ソンペアボレア(クラチエ州サンボール)に拠点を築く。 シヴァ神信仰が広まり、リンガが多数建てられる。 490年 :大乗仏教が伝来。 503年 :扶南の王に中国が「扶南王」の称号を与える。 6世紀後半:メコン川上流から南下してきた真臘が次第に扶南を侵略。 当時の王都ヴヤーダプラ(プレイ・ヴェーン州バ・プノム山、バナム村近辺)が陥落。 ナラバラナガラ(アンコール・ボレイ)へ遷都。 扶南はその後マレー半島にあった一属国に移り7世紀ころまで存続したともいわれる。 620年代:真臘により最終的に吸収・併合される。
108 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:15
<<カンボジアの歴史2>> 「扶南」という名称 扶南の王は「山の王」を名乗ったと言われる。山の王とは古代インド世界で東南アジアに広がる属国の 王の中の最高位に与えられる称号である。この「山の王」の古代クメール語は「クルン・プナム」で、 山を意味する「プナム」の音訳が「扶南」であるとされる。その転用であるか否か不明だが、 根拠地アンコール・ボレイのあった島を中国で扶南と呼んだという説もある。 英語名 Funan は北京語発音による「扶南」の音写。 建国神話 この地は竜の娘である女王の柳葉[リュウヨウ]が支配していた。南方の国に鬼神に仕える混填[コンデン]がいて、 夢に従い神弓を得て商船で海に出る。柳葉は混填の船を奪おうとするが、混填の射た弓が柳葉の船を 貫くと恐れをなして降伏した。女王でさえ裸で刺青をしていたので混填は貫頭衣を着ることを教える。 混填は国を治め、柳葉を妻として、生まれた子供を7つの町の王にした。 (このパターンの神話は東南アジア各地に多く残る。混填が教えたとされる貫頭衣は『後漢書』などでは 東南アジア固有の文化とされているので、インド文明が伝わる前にマレー半島あたりから文化伝来があり、 その結果国家が生まれたとする説も有力になってきている)
109 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:17
<<カンボジアの歴史3>> 外港オケオの発見は1942年と新しい。出土品にアマラーバティ様式の青銅仏、ヴィシュヌ神像、漢の 方格規矩四神像、2世紀頃のローマの金貨などがある。都のアンコール・ボレイとは運河で結ばれていた。 東南アジアの東西交通は初期の段階ではマレー半島北部を横断する陸路が主流であった。シャム湾に面した オケオは重要な中継地点となる。しかし6世紀ころから陸上を経由せず船だけで移動できるマラッカ海峡 経由の水路に主流が移る。これがオケオの重要性を失わせ、さらには扶南を衰退させる原因にもなったと 思われる。扶南滅亡後はオケオも放棄された。 サンスクリットの碑文があることから扶南の公用語はサンスクリットだったと考えられる。 宗教はヒンズー教のシヴァ神・ヴィシュヌ神信仰、大乗仏教。 扶南の住民はクメール人であるとされるが疑問もある。 根拠のひとつである「扶南」とクメール語との関係にしても、扶南がインド系支配者と土着の被支配者 からなる二重国家であったとすると、支配者の王が被支配者の言語で山の王の称号を名乗るのは不自然 だし、支配者が住民と民族的に融合していたとしても、都市名や碑文でのサンスクリット使用と クメール語による称号との間にはそぐわなさが残る。 後続国家との比較でも、真臘とアンコール王朝は類似が多いのに対し、扶南と真臘では断絶が大きく、 扶南はむしろ北隣に少し遅れて興った交易国家チャンパとの共通点が多いように見受けられる。 チャンパはマレー人の国である。
110 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:21
<<カンボジアの歴史4>> 2.真臘 真臘はカンボジア北部に居住していたクメール人勢力である。当初は扶南の属国であったが次第に勢力を 増強し、メコン川下流方面に進出して扶南を併合する。 時期不祥 :ラオス南部チャンパサック地方のチャム人の土地を奪って最初の王都を建設。 6世紀中葉:扶南への侵略を開始。 611年 :イーシャナヴァルマン王、最古のクメール語碑文を作る。 イーシャナプラ(カンボジア・コンポントム州のサンボールプレイクック遺跡群)に遷都。 620年代:扶南を併合。カンプチア(カンボジア)の国名はここから始まる。 707年 :王の後継者問題から水真臘(南)と陸真臘(北)に分裂。 8世紀中葉:水真臘がスマトラのシュリーヴィジャヤに従属か? 787年 :ジャワのシャイレーンドラ、水・陸真臘を占領。水真臘の王を殺害、王子らを捕虜として ジャワへ連行。真臘はシャイレーンドラに服属。 真臘の語義は不祥。英語名 Chenla は北京語発音による「真臘」の音写。 中国ではアンコール王朝に対しても真臘の名称を用いる。 扶南で行なわれていた大乗仏教は衰退し、もともと真臘で行なわれていたシヴァ神信仰が隆盛となる。
111 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:22
<<カンボジアの歴史5>> 真臘の衰退には東南アジア島嶼部に興った新興勢力が関係している。スマトラ島南部パレンバン地方には 7世紀中葉シュリーヴィジャヤが勃興。7世紀末までに東西交通の要衝であるマラッカ海峡の両岸を押え、 8世紀後半にはマレー半島北部まで勢力を拡げる。海上貿易により発展し、民族の言語ムラユ語(マレー語) はスマトラ島、マレー半島、ジャワ島の貿易共通語となる。大乗仏教を保護。8世紀中葉のシャイレーンドラ の勃興により劣勢となるが、シャイレーンドラが衰退した9世紀後半以降ふたたび勢力を盛り返す。 一方、ジャワ島中部には8世紀中頃に強大な統一勢力としてシャイレーンドラが突如出現。 「シャイレーンドラ」とはサンスクリットで「山の王」の意味である。周辺各国へ侵攻を開始し、8世紀末頃 までに中国統治下のトンキン(ベトナム北部)、チャンパ(ベトナム中部)、水・陸真臘、マレー半島を征服。 現在のマダガスカル島民(インドネシア系)の先祖が東アフリカに辿り着いたのもこの頃だと言われる。 中部ジャワに大乗仏教の大伽藍ボロブドール寺院を建設(780〜792年。824〜833年に増改築)。 しかし勢力が衰えるのも急で9世紀前半に衰退、世紀後半に滅亡する。
112 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:24
<<カンボジアの歴史6>> 3.アンコール王朝 800年頃クメールの王子がジャワから帰還する。インドラプラ(コンポンチャムの東)を拠点として 王国統一の事業に乗り出し、トンレサップ一帯を統一。802年、ジャヤヴァルマン2世としてアンコール 平原を見下ろすプノン・クレーンで即位。約530年間のアンコール王朝はここから始まる。 802〜 850年:ジャヤヴァルマン2世。 王都マヘンドラパルヴァタ(プノン・クレーン、アンコールの北東40km) 850〜 877年:ジャヤヴァルマン3世。 877〜 889年:インドラヴァルマン1世。 王都ハリハラーラヤ(ロリュオス)。プリア・コー、バコン(ロリュオス)建設。 889〜 910年:ヤショヴァルマン1世。 王都ヤショダラプラ(プノンバケンを中心とした一帯、旧アンコール・トム) ロレイ(ロリュオス)建設。 (この王の後しばらくしていくつかの地方勢力に分裂した模様) 910〜 928年:ハルシャヴァルマン1世。 928〜 942年:ジャヤヴァルマン4世。コー・ケー(アンコールの北東90km)へ遷都 942〜 944年:ハルシャヴァルマン2世。
113 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:27
<カンボジアの歴史7>> 10世紀半ばからアンコール王朝は隆盛期を迎える。潅漑施設として東バライや西バライの大貯水池が 掘削される。アンコール王朝の経済基盤は水利潅漑による稲作農業であった。対外的にも領土を拡張し、 インドシナ半島一帯からマレー半島北部に至るかっての扶南の最大版図を回復する。 しかし何よりもアンコール王朝の栄光と結びつけて考えられるのはアンコール・ワットやバイヨンなどの 壮麗な宗教建築であろう。アンコール・ワットは、王がヴィシュヌ神の化身であるという思想に基づき、 王の生前にはヴィシュヌ神すなわち王を崇拝するヒンズー教寺院として、王の死後は墳墓寺院となることを 意図して建設されたと考えられている。のちに中央祠堂のヴィシュヌ像は上座仏教アユタヤ様式の仏像に 置き換えられ、仏教寺院として現在に至っている。バイヨンは大乗思想に基づく仏教寺院。バイヨン様式と 呼ばれる他に例を見ない四面に観世音菩薩の顔面を配した51基の四面塔を持つ。
114 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:29
<カンボジアの歴史8>> 944〜 968年:ラージェンドラヴァルマン1世。アンコールへ遷都。東バライ、プリ・ルップ、 ピミアナカス建設。国内を再統一。チャンパに遠征、属国として朝貢させる。 968〜1001年:ジャヤヴァルマン5世。タケオ、バンテアイ・スレイ建設。 1001〜1002年:ウダヤーディトヤヴァルマン1世。 1002〜1049年:スールヤヴァルマン1世。仏教を篤信、謚号は涅槃王。 チャオプラヤー流域ロップリーまで領土を拡大。 圧力を強めてきたベトナムに対抗するためチャンパと同盟。 1049〜1065年:ウダヤーディトィヤヴァルマン2世。バプーオン、西バライ建設。 1065〜1090年:ハルシャヴァルマン3世。 1090〜1108年:ジャヤヴァルマン6世。 1108〜1112年:ダラニンドラヴァルマン1世。 1112〜1152年:スールヤヴァルマン2世。アンコール・ワット、バンテアイ・サムレ建設。 チャオプラヤー流域を併合。 チャンパを征服、クメール人王を派遣して統治させる(45〜59年) 1152〜1152年:ハルシャヴァルマン4世。 1152〜1177年:ダラニンドラヴァルマン2世。 1177年:チャンパ軍、アンコール都城を占領して王を殺害。アンコール王朝を支配する。 1181〜1220年:ジャヤヴァルマン7世。チャンパに連行されていた王子が帰国、チャンパを 掃討して即位。アンコール・トム、タ・ネイ、プリア・カン、プリア・パリライ、 タ・プロム、バンテアイ・クデイ建設。帝国内に王道、宿場、施療院を建設。 1190年:チャンパを逆襲して支配(〜1220) ベトナム南部、ラオス南部、チャオプラヤ流域、マレー半島北部に至る最大版図 を実現。 1190年:このころ上座仏教がスリランカから伝来(13世紀後半伝来説も)
115 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:30
<<カンボジアの歴史9>> ジャヤバルマン7世の死後、王国は急速に衰退へ向かう。重税・賦役への不満からの農民の反乱、 仏教徒とヒンズー教徒間の紛争、王族・将軍間の殺戮が続いて起こる。王朝支配が緩んだことから シャム人が反抗するようになり、これが帝国の衰退に更に拍車をかける。 衰退期に入りながらも大帝国の威厳を保つ13世紀末にアンコール都城を訪れた周達観の『真臘風土記』は この時代ばかりでなくクメール社会を知る上でも興味深い記録。 1220〜1243年:インドラヴァルマン2世。 1238年:シャム人がスコータイからクメール人を排除、スコータイ王朝を興す(〜1378年) 1243〜1295年:ジャヤヴァルマン8世。 1295〜1307年:スリ・インドラヴァルマン王。 1296年:周達観、元朝の使節としてアンコールに滞在(〜97年)。『真臘風土記』を著わす。 1307〜1307年:スリ・インドラジャヤヴァルマン王。 14世紀 :上座仏教を国教とする。 1350年:タイにアユタヤ朝成立(〜1767年) 1353年:アユタヤ軍がアンコール都城を占領、カンボジアを統治下に置く(〜57年)。 財宝と捕虜1万人を連行。 1394年:アユタヤ軍が再度アンコール都城を攻略。 1431年:アユタヤ軍の来攻でアンコール都城陥落か?
116 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:35
<<カンボジアの歴史10>> 4.ポスト・アンコール時代 アンコール都城を放棄してプノンペン方面に拠点を移してからフランス植民地支配が始まるまでの 約430年間を一般にポスト・アンコール時代と呼ぶ。 アンコール末期の14世紀半ばにはアンコール朝とは別の政権がメコン川沿いのバサン(プノンペン上流 45kmの左岸)に成立していた。バサンのポニャート王がアンコール都城に侵攻してきたアユタヤ軍を 撃破してカンボジア全土の覇権を掌握する。しかしシャムの圧力に耐えられず、アンコール都城は放棄。 バサンの王統は現在のカンボジア王室に連なるものである。ポスト・アンコール時代はこの王統を中心に 展開する。王朝の内部では初期から内紛が絶えず、また王朝には常にシャム・アユタヤ朝の影響力が 及んでいた。
117 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:36
<<カンボジアの歴史11>> 1431年 :ポニャーヤート王、バサンを王都とする。 しかし洪水に弱い土地だったので後にプノンペンへ遷都。 :プノンペンのスレイリチエ王(ポニャーヤート王次男)とバサンのスレイソリヨテイ (ポニャーヤート王長男)が抗争。 1471年 :ベトナム、チャンパのダナン一帯を占領。チャム人の多くがカンボジアへ逃れて定着。 1474年 :シャムの干渉でトワマリエチエ王(ポニャーヤート王の3男)即位。王はシャムの 宗主権を認める。 1509年 :スレイソコンバート王(トワマリエチエ王の長男)とバサンの住民スダチコーンが戦闘。 王は敗れて殺害される。スダチコーンがバサンで即位。南方のトボーンクモム近くに建都。 1513年 :アンチャン(スレイソコンバート王の弟)が亡命先のシャムから帰国。 ボーサット(トンレサップ湖西岸)を拠点にスダチコーンと戦う。 1525年 :アンチャン1世(チャンリエチエ王)、スダチコーンに勝利しボーサットで即位。 1529年 :アンチャン1世、ロンヴァエク(トンレサップ右岸、プノンペン上流35km)へ遷都。 1546年 :アンチャン1世、アンコール・ワットを修理。 1557年 :アンチャン1世、2万の大軍でシャムを攻略。 16世紀後半:ポルトガルがプノンペンを拠点にカンボジア交易を独占。 16世紀末 :東南アジア各地に日本人町成立。
118 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:37
<カンボジアの歴史12>> 西洋では大航海時代に入る。東南アジア島嶼部ではポルトガル勢とマレー勢が対立していた。 その対立がカンボジアの宮廷にも持ち込まれる。 1594年:アユタヤの攻撃で王都ロンヴァエク陥落。ソター王はラオスに亡命。王弟スレイソリヨポワは アユタヤに連行される。 1595年:プレアリエムチューンプレイ、シャム軍を駆逐、 スレイサントー(メコン左岸、プノンペン上流30km)で即位。 スレイサントーの宮廷には中国人、特にマレー人の移住が進み、コンポンチャム (チャム[=マレー]の港)が形成される。 1596年:ポルトガル・スペイン勢力、プレアリエムチューンプレイ王を殺害。 ビルマから先王ソターの次男チャウポニャートンを連れ帰りスレイサントーで王位につける。 1599年:マレー人がクーデター挙行しポルトガル・スペイン勢力を駆逐。 チャウポニャートン王も殺害される。 1603年:アユタヤに連行されていたスレイソリヨポワ王子が王族の要望で帰国し各地を平定。 1613年:スレイソリヨポワ王、ロヴィエアエム(プノンペン対岸)で即位。シャムの宗主権を認める。 1614年:チェイチェッター王(スレイソリヨポワ王の長男)即位。 1620年:ウドン(トンレサップ右岸、プノンペン上流25km)に遷都。 以後約250年間ウドンが王都となる。 1623年:フエ朝にサイゴン近隣での活動を認許。 1632年:森本右近太夫一房、アンコール・ワット参詣。 1641年:チャウポニャーチン(チェイチェッター王の子)、ウテイリエチエ(チェイチェッター王の弟) を殺害。勢力基盤をマレー勢力に求めチャム人と結婚してイスラムに改宗、チャム人を重用。
119 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:38
<<カンボジアの歴史13>> この後、カンボジアの宮廷はシャムの援助を受けたウドンの正王派とベトナムの援助を受けたサイゴンの 副王派に分裂。カンボジア王室は次第にシャムとベトナムの傀儡と化し、シャム派とベトナム派の王が 交互に即位する慣行が成立。カンボジアの領土は東西から両国に蚕食され、19世紀になるとシャムと ベトナムはカンボジアの領土をめぐりカンボジア領内で直接戦闘を交えるに至る。 1692年:約5千人のチャム人集団、カンボジアへ亡命。 1731年:サタ2世、カンボジア南部をフエ朝に割譲。 1792年:約1万人のカンボジア人、運河掘削のためバンコクに連行される。 1795年:宰相ベン、バッタンバン、シアムリアップ両州をシャム領に帰属させる。 1806年:アンチャン2世、タイより帰国して即位。ベトナムの宗主権を認める。 1814年:シャムがストゥン・トレン州など北部3州を併合。 1834年:アンメイ女王即位。政務はベトナム人高官が執行。 1841年:フエ朝廷がカンボジアを併合。アンメイ女王はサイゴンへ連行される。 1847年:アンドゥオン王、シャムとベトナムの合意により亡命先のシャムから帰国して即位。 1859年:ノロドム王(アンドゥオン王長子)即位。 1859年:フランス・スペイン連合軍、サイゴンを占領。 1860年:アンリ・ムオー、アンコール遺跡を調査。
120 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:39
<<カンボジアの歴史14>> シャム(タイ)とベトナムの動向 中国南部のタイ系民族は数世紀にわたり南方や西方に移動を続け12世紀にはインドシナ半島中央部に到達。 アンコール朝の弱体化に乗じて1238年、スコータイ(バンコクの北400km)で独立、スコータイ 王朝を興す。第3代ラームカムヘン王(在位1275〜1317年)の治世に躍進。勢力範囲を チャオプラヤ中・下流域、メコン沿岸、ビルマ東南部、マレー半島南部に拡張、またタイ文字の制定、 上座仏教の導入など民族文化の形成に貢献。 王国内部のアユタヤ(バンコクの北60km)では一貴族の勢力が王朝をしのぐ勢いに伸長。1350年、 アユタヤ朝を建てる。アユタヤ朝は中央集権的な貿易国家。交易で繁栄するが、西のビルマと対立し相互に 相手国を侵略。王朝は1767年、ビルマ軍のアユタヤ占領で滅亡。 ビルマ軍からアユタヤを奪還したのがアユタヤ朝の将軍・タークシン。バンコクの対岸トンブリを都として トンブリ朝を興すが、のちに奇矯な行動により民心が離れ、1781年に王位を廃されたのち処刑されて 王朝は一代で終る。 外征中のチャクリ将軍が帰還し、翌1782年にバンコク王朝を開く。王朝は英邁な王に恵まれ、またシャム を英仏両勢力の緩衝地帯とする国際情勢にも助けられてシャムは東南アジア諸国で唯一西洋列強の植民地化を まぬかれる。シャムが国名をタイに変更したのは1939年。ミャンマーのタイ系民族は現在もシャン族と 呼ばれる。(ビルマ語では語末の -m/-n/ng の区別が失われた) タイはインド系文化の受容、上座仏教信仰などカンボジアとの共通点が多く、また現在のタイ人は実質的には クメール人との混血であるといわれる。 1238〜1378年:スコータイ王朝 1350〜1767年:アユタヤ王朝 1761〜1781年:トンブリ王朝 1782〜 :バンコク王朝(別名チャクリ王朝、ラタナコーシン王朝。現在のタイ王朝)
121 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:42
<<カンボジアの歴史15>> 一方、ベトナム方面ではキン族(ベトナム人)が現在のベトナム北部、紅河デルタに住んでいた。 前203年、趙陀が南越国を建国して中国南部からベトナム東北部一帯を支配。しかし、前111年には 漢の武帝が南越国を合併する。以後、ベトナムは千年以上にわたって中国の支配下に置かれることになる。 939年、中国からの侵入軍を撃破してようやくベトナムは独立を実現。北には中国という巨大勢力が あったのでベトナムの対外拡張は南進という形を取る。 ベトナム中部にはマレー系のチャム人が住んでいた。漢代に日南郡となるが、192年に独立して チャンパ(林邑)を建国。875年、新王朝インドラプラ朝(占城)に交代。中国方面とマレー方面 との中継貿易で繁栄。 1104年、ベトナムがチャンパの領土であったドン・ホア地方を占領。1307年、フエ地方を チャンパから割譲。1471年にはダナン一帯を占領。ここからベトナムの南進が本格化。17世紀半ば にはチャンパを消滅させ、カンボジア領土であったメコンデルタ地方に至る。1698年、サイゴンを 取得。1759年にはヴィンロン、チャウドックを取得して現在のカンボジアとの国境線にまで到達する。 ベトナム語とクメール語はともにオーストロアジア語族に分類される。しかし中国文明の影響を受けた ベトナムと、インド文明を受容したカンボジアでは文化的な差異が大きい。
122 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:46
<カンボジアの歴史16>> 5.フランス統治時代 アンドゥオン王がシャムとベトナムの合意により即位した時点では、現実の危機としてカンボジアがメコン 川を境に二分されシャムとベトナムに領土を奪われて国家が消滅する恐れがあった。フランスのインドシナ 進出はこの状況を一変させる。国家の存続と領土の回復という観点からはフランスの植民地化はカンボジア に対し有利に働いたと言える。 1863年:フランス・カンボジア保護条約調印。 1866年:プノンペンへ遷都。 1867年:シャム、フランスのカンボジア保護権を認め、カンボジアへの宗主権を放棄。 1884年:フランス・カンボジア協約調印。フランスの支配強化。 1887年:仏領インドシナ連邦成立。 1893年:フランス・シャム協約。ストゥン・トレン、ラタナキリ両州の一部を仏領に帰属させる。 1904年:フランス・シャム協約。ストゥントレン、ムループレイ、トンレロパウ3州が仏領となる。 シソワット王(ノロドム王弟)即位。 1907年:フランス・シャム協約。バッタンバン、シアムリアップ両州が仏領となる。 ほぼ現在の領土に回復。 1927年:モニヴォン王(シソワット第1王子)即位 1941年:シハヌーク王(父方でノロドム王の曽孫、母方でシソワット王の曽孫)即位
123 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:47
<カンボジアの歴史17>> フランスのカンボジア植民統治の特徴 ・近代化や住民の福利には不熱心。 ・ベトナム人下級官吏(警官、徴税、刑吏、看守等)を使った間接統治の性格が強い。 ・王室内部には無干渉。王室内ではカンボジアの伝統が保持される。 フランスのインドシナ統治形態 ・コーチシナ(ベトナム南部):直轄領 ・アンナン (ベトナム中部):保護領 ・トンキン (ベトナム北部):保護領 ・ラオス :保護国 ・カンボジア :保護国
124 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:48
<<カンボジアの歴史18>> 6.第二次大戦以降 (1)独立に至る経緯 1945年:3月、日本軍がカンボジアに進駐、フランス軍を武装解除。シハヌークは独立を宣言。 1945年:8月、日本、連合国に降伏。フランス軍はカンボジア戻り独立宣言は無効化。 1949年:フランス連合内におけるカンボジア独立を認める協定に調印。ただし実効支配権は譲渡されず。 1952年:シハヌーク、完全独立を公約して政権を掌握。 1953年:フランスとの間で、司法権、警察権、軍事権譲渡の議定書に調印。完全独立を達成。 即位時のシハヌークはサイゴンで学ぶ18歳の高校生であった。王位継承順位を変更したこの即位は フランスの指名によるもので、王を組しやすしと見たフランスの思惑があった。しかしシハヌークは 派手なパフォーマンスで意外な政治力を発揮する。53年3月、渡仏したフランスでの独立交渉が難航 すると交渉を首相に任せ、自身はカナダ、アメリカ各地、日本を回り、国際世論に訴えるキャンペーンに 打って出る。帰国後はシアムリアプに赴き、完全独立を達成するまでは首都に戻らないと宣言。 これが功を奏してフランスの譲歩を引出し、同年10月独立を達成するのである。そのあと、 国王は使命を果たしたかと問う国民投票を実施、99.8%の支持を得て人気は絶大であった。
125 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:56
<<カンボジアの歴史19>> (2)シハヌーク時代 1955年:シハヌーク、王位を父スラマリット殿下に譲渡。自らはサンクム(社会主義人民共同体) 総裁に就任。サンクムは全議席を独占。 1956年:東南アジア条約機構(アメリカ主導の反共の集団安全保証体制)への加盟を拒否。 中立路線を誇示。 1965年:5月、アメリカと外交関係断絶(〜69年4月)。 1966年:中国で毛沢東が文化大革命を開始する。 シハヌークは国内では共産主義を弾圧する。カンボジア共産勢力の通称「クメール・ルージュ」 (赤いクメール)はシハヌークの命名である。クメール・ルージュは地下に潜った。対外的には 中立路線を標榜する。中立路線は南ベトナム・タイ・アメリカとの関係を悪化させ、西側からの 経済援助を困難にさせた。 この時期は第二次大戦後の東西両陣営が対立する冷戦時代であるが、冷戦の最前線である隣国ベトナム では熱い戦いが戦われた。戦争の激化に伴い戦火はカンボジアにも飛び火する。南ベトナム解放民族戦線 (南ベトナム内の北ベトナム支援組織)への補給ルート(通称ホーチミンルート)がカンボジア領内を 通っていたため、アメリカ・南ベトナム軍によるカンボジア領内での「誤爆」が頻発するようになった のである。 これに怒ったシハヌークは65年にアメリカと外交関係を断絶するが、69年には共産勢力の増長を おそれて復交し、西側からの援助導入政策へ転換する。一貫しない政策は左右両陣営から不満を買い、 シハヌークは求心力を失っていく。
126 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:57
<<カンボジアの歴史20>> (3)ロン・ノル政権(クメール共和国) 1970年:3月14日、シハヌーク出国中にロン・ノル首相がクーデターを敢行。王制を廃し共和制とする。 1970年:3月23日、シハヌークが北京でカンプチア民族統一戦線を結成。 国民にロン・ノル政権への抵抗を呼びかける。 1970年:4〜5月、アメリカ・南ベトナム軍がカンボジア領内へ侵攻。 1975年:4月初頭、ロン・ノルアメリカに亡命。 ロン・ノルのクーデターにアメリカが関与したか否かは不明である。しかしアメリカがこれを歓迎した ことは確実で、さっそくロン・ノル政権を承認し、カンボジア領内侵攻作戦を開始する。ロン・ノルは これを容認した。一方、昨日の敵同士であったシハヌークとクメール・ルージュは反ロン・ノルで結託、 カンボジアは内戦に突入する。つまり、「アメリカ+南ベトナム 対 北ベトナム」と、 「ロン・ノル 対 シハヌーク+クメール・ルージュ」のふたつの戦いがカンボジア領内で戦われるという 構図になったのである。 アメリカ・南ベトナム軍によるカンボジア領内への侵攻は北ベトナム軍をカンボジア領内に深く進入 させる結果となった。空爆も、爆撃と爆撃された北ベトナム軍の離散という連鎖を生み、カンボジア 国内での戦火は拡大する。ロン・ノル軍が戦う相手はシハヌークの看板を掲げたクメール・ルージュ だけではなくなった。戦力の乏しいクメール・ルージュではなく、実質的にはこれを助けている歴戦の 北ベトナム軍と戦うことになったのである。ロン・ノル軍は敗走し、首都に追い込まれ、そして明け渡す。
127 :
世界@名無史さん :03/10/10 19:58
<<カンボジアの歴史21>> (4)クメール・ルージュ支配(民主カンボジア) 1975年:4月17日、プノンペン陥落。ロン・ノル政権崩壊。 1975年:4月30日、サイゴン陥落。ベトナム戦争終結。 1977年:クメール・ルージュ、国境地帯でベトナム軍と衝突。12月、ベトナムと断交。 1975年4月17日にプノンペンが陥落、2週間後の4月30日にはサイゴンが陥落。 社会の不安定要因となっていた内戦とベトナム戦争という大事件が短期間にふたつながら終息し、 カンボジアには平和と安定が戻るはずであった。だがそうはならなかった。 このあとカンボジアでは想像を絶する前代未聞の事態が展開されるのである。 1970年に60万だったプノンペンの人口はクメール・ルージュが入場した時点では戦火を避けて 流入した人々で250万にふくれあがっていた。その首都の住民に下された命令は24時間以内に市外へ 退去することだった。理由は空襲があるからと説明された。しかし空襲の心配がなくなったはずの頃に なっても帰還は許可されなかった。 クメール・ルージュが実施した政策は次のようなものであった。 ・都市、交通、通信、通貨の廃止 ・教育、仏教、伝統芸能の廃止 ・財産私有、家族生活、自由恋愛の禁止、強制結婚の実施 ・農業労働、共同生活の強制
128 :
世界@名無史さん :03/10/10 20:01
<<カンボジアの歴史22>> つまり農業だけに価値を認め、それ以外の文明社会の産物は全て否定するという政策である。文明以前の 家族制度のようなものさえ否定された。このような政策は常識を越えるだけでなく想像を越えるものであり、 政策と呼べるか疑問ではあるが、その成果について唯一の目標となったはずの農業について見ると、 農業生産性は落ちて飢餓を招来する結果となった。無計画でやみくもな潅漑掘削を行なったため多くの場合は 自然の水系が破壊され農業自体に被害を与えたのである。 クメール・ルージュは自己の権力への脅威には極度の猜疑心を発揮した。旧政権の関係者が容赦なく抹殺 されたばかりでなく、将来の脅威になりうるというだけの理由で大多数の知識人が反革命の名の下に虐殺 された。しかもその方法は甘言を用いての騙し討ちであった。また密告が奨励され、告発された者は些細な 規則違反を理由に簡単に処刑された。権力内部での粛正も熾烈で、国外へ逃亡したクメール・ルージュ幹部 も多い。東部方面の地方幹部でベトナムへ逃れた者の中にはのちにヘン・サムリン政権の中枢となるヘン・ サムリンやフン・センが含まれている。 クメール・ルージュ統治の特徴は原始共産制と恐怖政治であると言うことができる。しかしそれでは表現が 穏当に過ぎて、人間の家畜化と自民族の虐殺というような言葉が思い浮かぶ。おそらくその中間あたりが 実状に近いのであろう。クメール・ルージュ支配は3年9ヶ月であり、それほどの長期間ではない。 しかしこの間の人的・物的な損失は甚大であった。虐殺、飢餓、過労による犠牲者の数は150万人から 200万人と推定されている。しかも有能な人材ほど集中して抹殺されたのであり、社会経済基盤は壊滅 していたから、クメール・ルージュ支配のあとの国家再建には多大な困難をともなうことになった。
129 :
世界@名無史さん :03/10/10 20:02
<<カンボジアの歴史23>> (5)ベトナムによる占領(カンボジア人民共和国、ヘン・サムリン政権[プノンペン政権]) 1978年:12月25日、ベトナム軍がカンボジアに侵攻開始。 1979年:1月6日、ベトナム軍、プノンペンを制圧。クメール・ルージュをタイ国境付近へ掃討。 ヘン・サムリン政権樹立。 1982年:反ベトナムのポル・ポト派(クメール・ルージュ)、シハヌーク派、ソン・サン派が 三派連合抵抗政権を結成。 1987年:12月、フランスでシハヌーク・フンセン会談(和平会談の開始) 1989年:9月、ベトナム軍、カンボジアから撤退。 ベトナム軍はカンボジアに侵攻してからわずか2週間でプノンペンを制圧した。侵攻の理由については 国家の安全が脅かされたからだと表明している。クメール・ルージュはしばしば国境を越えてベトナムに 侵入していたのである。圧政からの人民の解放などの人道的理由については語っていないし、領土的野心 というようなことはもちろん口にしない。ベトナムの真意がどこにあったかは不明だが、結果として カンボジアをクメール・ルージュの暴政から救ったという功績はあった。 しかしこれでまたカンボジアは占領と内戦状態に陥ったのである。 今度は「占領ベトナム軍+ヘン・サムリン政権 対 ポル・ポト派+シハヌーク派+ソン・サン派」という 構図である。連合三派のうち軍事力をもつのは実質的にはポル・ポト派だけであり、そのポル・ポト派を ベトナム軍は短期間にタイ国境にまで追い詰めたのだから軍事力の差は明らかなようだが、事態は両軍が カンボジア西部で小競り合いを繰り返す膠着状態に陥った。その背景には、自国の目前に迫ったベトナムを 警戒するタイと、やはりベトナムの強大化を牽制する中国がポル・ポト派支援に回ったという事情があった。 一方、和平への気運も高まってくる。87年のフランスでのシハヌーク・フンセン会談を皮切りに、当事者 同士の協議を経て、89年7月にはカンボジアを含む19ヶ国が参加したパリ会議を開催。同年9月には ベトナム軍がカンボジアから撤退。和平交渉障害の要因のひとつが除かれる。その後も各地で会議が重ね られ、91年に和平への合意が成立する。
130 :
世界@名無史さん :03/10/10 20:03
<<カンボジアの歴史24>> (6)国連暫定統治 1991年:10月、カンボジア和平のための国際協定(パリ協定)締結。 新憲法成立までの国連暫定統治開始。 社会主義計画経済から市場経済システムへの移行を本格化。 1993年:5月、総選挙実施。得票率はフンシンペック党45%、旧政権党の人民党39%。 1993年:9月、新憲法制定。フンシンペック党ラナリット第1首相、人民党フン・セン第2首相の 連立内閣成立。国連暫定統治終了。 和平への合意の内容は、カンボジアに新憲法が成立するまでを暫定期間とし、暫定期間は国連暫定統治機関 の監視下で既存の行政機関が行政を執行するというものである。実際の活動にはふたつの要点があった。 第1は各派の武装解除であり、第2は憲法を制定する議員を選出するための総選挙の実施である。 武装解除はポル・ポト派の抵抗で実現しなかった。また、総選挙もポル・ポト派がボイコットしたので完全 なものではなかった。しかし、ともかく選挙は90%以上の投票率で実施され、新憲法が制定され、国家と しての骨格が出来上がり、国連暫定統治は成果を得て終了する。
131 :
世界@名無史さん :03/10/10 20:04
<<カンボジアの歴史25>> (7)カンボジア自治(カンボジア王国) 1994年:ポル・ポト派を非合法化。 1995年:人口統計で人口976万人。 1997年:7月、フン・セン第2首相がクーデターを挙行してラナリット第1首相を追放。権力を掌握。 1998年:4月、ポル・ポト死亡。 1998年:7月、第2回総選挙。第1党の人民党と第2党のフンシンペック党とが再び連立政権を樹立。 1999年:4月、ASEAN正式加盟。 新生カンボジア発足時点での不安定要因としてポル・ポト派の存在と、不安定な二人首相制があった。 ポル・ポト派は幹部・兵士の投降・離脱などで弱体化、98年にポル・ポトが死亡、政府軍が拠点制圧、 99年には壊滅状態に至る。 もう一方の二人首相制のに方は事件が起こった。1997年、ラナリット第1首相はポル・ポト軍を政府軍に 編入する帰順交渉を進め7月6日に調印式が行なわれる予定であった。その前日の7月5日、掌握軍事力に 優るフン・セン第2首相がこれを違法合意として武力で阻止、ラナリット第1首相を追放して実権を掌握する のである。 このフン・センの権力掌握には正当性に欠けるものがあった。しかし翌1998年の総選挙ではフン・セン 率いる人民党が勝利し、フン・センは正式な手続きを踏んで単独首相に就任する。
132 :
世界@名無史さん :03/10/10 23:10
>>105-131 ∧__∧
( ・∀・) おちかれ〜 ♪
( O┬O
≡◎-ヽJ┴◎ キコキコ
133 :
世界@名無史さん :03/10/13 15:38
>>106-131 30分でわかるカンボジアの歴史。いいね。
カンボジアの歴史は時代ごとに細切れで書かれることが多いから、
こうしてまとめてくれるとストーリーが頭に入る。
アンコール朝の期間は630年じゃない?
134 :
世界@名無史さん :03/10/13 16:24
シアヌークは何を失敗したのかしらぁん。 ベトナム戦争時に、アメリカにすり寄っていたらよかったのか?
>>133 そう言ってもらえると嬉しいです。
アンコール王朝の存続期間は630年でしたね。
差が500以上の引き算はできないのかい>おれ
>>134 どうなんでしょうねえ。
ベトナムは1946〜54年の第1次インドシナ戦争(対仏戦争)を戦って、ようやくフランスから
北半分だけの独立を手に入れます。このどさくさに紛れて戦争もせず交渉だけで独立を手に入れた
カンボジアは非常にうまく立ち回りましたが、独立できたのはベトナムのおかげだったとも言えます。
ベトナムはその後さらにアメリカと戦って(64〜73年、ベトナム戦争)、75年に南北を統一
するわけですが、このときカンボジアがアメリカにべったりすり寄ったりしたら、今度はベトナムに
征服される危険があったのではないでしょうか。
136 :
世界@名無史さん :03/10/13 21:57
ベトナムはソ連の後押しがあったとはいえ強いなー。 国土は狭いはずなのに。
137 :
世界@名無史さん :03/10/13 22:06
>>135 134です。すんません、適当な感想にレスいただいて。
時代的に、ベトナムに肩入れすれば(即座に)親米のクーデター、アメリカに肩入れすればそのうち親越の侵攻/クーデタ、という状況でしょうねぇ。
地政学的に、安定が難しいところだったのでしょうか。
タイは安定していた(ように思える)のですが、王家の伝統の違いなんでしょうか
138 :
世界@名無史さん :03/10/13 23:40
>>137 ラーマ4世(モンクット王、在位1851〜68年)は西洋人から学問を学び、英語に熟達して
西洋の事情に通じていたと言われます。子女の教育にイギリス女性の家庭教師を雇って「王様と私」
のモデルになったのがこの王です。そういう環境で育ったのがタイの近代化に尽力して独立を保った
ラーマ5世(チュラロンコーン王、在位1868〜1910年)ですから、タイ王室には
西洋列強諸国に対する理解の伝統があったようですね。
第二次大戦後は軍部独裁政権が続き民主化などの問題はあっても、植民地からの独立という問題を
抱えていた他の東南アジア諸国に比べれば格段に安定していたと言えるでしょうね。
ベトナム戦争の時には親米政策をとってアメリカに基地を提供、援助を受けて経済発展します。
バンコク・パッポンの風俗産業もベトナム戦争のおかげで大発展しました(笑)
139 :
世界@名無史さん :03/10/14 14:33
意外と浅いんだ
140 :
世界@名無史さん :03/10/14 15:18
↑ 何が?
141 :
世界@名無史さん :03/10/14 16:36
タイの風俗の歴史
142 :
世界@名無史さん :03/10/14 16:54
風俗そのものは昔からあったけど、パッポン、パタヤが発展したのは ベトナム戦争から。
シハヌークは気まぐれなお坊ちゃんだから。
よく王政復古ができたなあ。 東南アジアの優等生タイとマレーが共に君主制だから、それを参考にしたのかな。
国民統合の象徴が必要だったんでしょう。
146 :
世界@名無史さん :03/10/15 09:35
単に和平のための妥協の産物かと 王子がフンセンに国外追放された以上、王政も名のみ いずれ共和制に戻るでしょう
147 :
世界@名無史さん :03/10/15 10:28
漏れは結構長持ちすると思う。現在の王室には600年近い歴史があるし、 それに、王制を廃したあとの最近の共和制や社会主義の時代がひどすぎたからね。
そういえばシアヌークの後継者って誰? ラナリットじゃないよね
149 :
世界@名無史さん :03/10/15 11:16
>>149 ありがとうございます。見逃してました…
シアモニ殿下は政治に関心がないのでフンセンも安心して 立憲君主に擁立できるんでしょ。
152 :
世界@名無史さん :03/10/17 22:14
カンボジアの地名とか人名の表記って一定していないよね。 シアヌークだったりシハヌークだったり。 ポル・ポトの本名がサロト・サルだったりサロト・ソーだったり。
153 :
世界@名無史さん :03/10/17 23:03
王政続いて欲しいです。 そして、日本皇室との婚姻も(だれとだれが)
154 :
世界@名無史さん :03/10/18 02:59
それじゃ紀宮を引き取ってもらおう
155 :
世界@名無史さん :03/10/18 10:24
アホな追い剥ぎと物乞いの国
156 :
世界@名無史さん :03/10/18 19:33
>>152 クメール語の文字は表音文字ですが、文字と発音の対応が不規則な場合があります。
その際フランス人は発音より原語の綴りに忠実にローマ字転写する傾向が強かったようです。
これはこれで筋は通っているのですが、そのローマ字綴りをローマ字読みしてカタカナで表記すると、
音節文字のカナが元の綴りを表わすことなど出来ないしそういう習慣もないので、
単に原語の発音から外れた奇妙な表記になってしまうということになります。
英語の the を「トヒー」、name を「ナメ」と書くようなもので、
日本におけるカンボジアの固有名詞の表記にはこの手のものが結構ありそうです。
ポル・ポトの本名「サロト・サル」もそういう例のひとつで、
原音に近いのは「サロト・ソー」のほうでしょう。
(現代クメール語では語末の r を発音しません)
「シアヌーク」の場合は、やはりフランス語が絡んでいるようですが事情はちょっと違っていて、
h の文字は書かれても発音されないというフランス語の発音規則から来たものじゃないかと思います。
クメール語を知らずフランス語なら知っている人が、「シハヌーク」はフランス語に無知なダサい表記で、
「シアヌーク」のほうがカッコイイと思うようなことがあったかどうかまでは知りませんが。
157 :
世界@名無史さん :03/10/26 14:16
age
158 :
世界@名無史さん :03/10/26 20:02
フンセンがのさばった後どうなるか
160 :
世界@名無史さん :03/11/29 10:23
クメール人の王国 日本人の鴨志田譲がバカの国と呼ぶ国 アンコールワットのある国 竹連幇のボスが豪邸に住む国
ラスメイカンプチア新聞読みました。 国内情勢の安定にシアヌーク国王はいまだ重要な地位を占めてるのね。
162 :
世界@名無史さん :04/01/12 14:00
ヤバイ。ポルポトヤバイ。まじでヤバイよ、マジヤバイ。 クメールルージュヤバイ。 まず異常。もう科学的なんてもんじゃない。超基地外。 恐怖政治とかっても 「ヒトラーとかスターリンくらい?」 とか、もう、そういうレベルじゃない。 何しろ眼鏡かけてるだけで死刑。スゲェ!なんか慈悲の心がないの。 科学的とか共産主義とかを超越してる。アホ杉だし超非人間的。 しかも都市を消滅させたらしい。ヤバイよ、国家じゃないよ。 だって普通は自民族とか殺戮しないじゃん。だって一応政府に歯向かう力ないし住人の支持失ったら困るじゃん。 寺院とかの破壊も困るっしょ。 統治期間が伸びて、1976年は600万人だったのに、20年後はカンボジア民族消滅とか泣くっしょ。 だから他民族を迫害しても従順な自国民は殺害しない。ヒトラーでも一般ドイツ人は殺さなかった。 けどポルポトはヤバイ。そんなの気にしない。虐殺しまくり。 山林にこもって米に支援受けたあとは共産主義否定するくらいエセ共産主義。ヤバすぎ。 基地外っていったけど、もしかしたらスターリンよりはマシかもしんない。でもマシって事にすると 「じゃあ、5か年計画の成功ってナニよ?」 って事になるし、まだ多少功のあるだけスターリンのがマシ。ヤバイ。学校教育廃止したり教師殺害するなんて凄すぎる。 あと超酷い。(ヒトラー+スターリン+金正日+ミロシェビッチetc)×∞。解をだすとそのまま∞。ヤバイ。酷すぎ。 食料盗んだら穴に埋められ首チョンパで首根に種植えて肥料にされる。怖い。 それに国家に何も残らない。超無意味。それに幹部が超エロい。少女を拉致って強姦当たり前。 強姦て。自分が人民の立場になってみろよ、共産党幹部。 なんつってもポルポトは政策のアンバランスが凄い。通貨の廃止とか移動禁止とか平気だし。 とにかくお前ら、ポルポトのヤバさをもっと知るべきだと思います。 そんなヤバイポルポトを賞賛していた朝日新聞とか超大嫌い。もっと考えろ。超後悔しろ。
163 :
世界@名無史さん :04/01/13 23:05
>162 たしかにクメール・ルージュ統治には常識では考えられない要素が多いよね。 なぜこんなことが起きたのかとカンボジアの歴史や社会構造について少しは調べてみて 一応理屈では理解したつもりになった後でも、当時の具体的な事実に接すると やはりまた不思議な気持ちが湧き起こってくる。 75年のポル・ポト軍によるプノンペン制圧直後から支配の実態が少しは外部世界に漏れては いたんだが、そんな話は反共のデマだと決めつけてハナから受けつけない人が多かったし、 ポル・ポト政権がつぶれた後の80年頃になっても、日本では虐殺は事実かと議論されている ありさまだった。
164 :
世界@名無史さん :04/01/13 23:20
>>162 は2ちゃんの有名な文章の改変コピペですが、あまりに無意味な殺しを
連発したせいで世界でも半信半疑の人がおおかったっぽいね。
なんせ完全な鎖国政策で情報が外部に漏れないようにしてたんだから。
165 :
世界@名無史さん :04/01/13 23:58
鎖国と言ったってそう簡単に情報を遮断できるものではないよ。 クメール・ルージュのプノンペン入城時には国人がいて、フラソワ・ポションは76年に 「カンボジア・ゼロ年」を書いて、自分の目で見た当時のプノンペンの状況を紹介しているし、 その後もタイやベトナムに逃れた難民の数は少なくなかった。 話が異常すぎて信じがたかったという側面はやはりあったと思うよ。
というカルト教団が、南米に集団移住して自殺した事件がありましたが、 これと同様なことを国家ぐるみでやったと考えれば解るかも…。
167 :
世界@名無史さん :04/01/14 00:39
わしはオウム真理教の国家版と見る。
168 :
世界@名無史さん :04/01/14 00:48
文化大革命の模倣じゃないのか?
169 :
世界@名無史さん :04/01/14 01:28
そして今や、あと残るは・・・
アジア的優しさ持つ カンボジア解放勢力のプノンペン制圧は、 武力解放のわりには、流血の跡がほとんど見られなかった。 入城する解放軍兵士とロンノル政府軍兵士は手を取り合って抱擁。 政府権力の委譲も平穏のうちに行われたようだ。 しかも、解放勢力の指導者がプノンペンの裏切り者たちに対し、 「身の安全のために、早く逃げろ」と繰り返し忠告した。 「君たちが残っていると、われわれは逮捕、ひいては処刑も考慮しなければならない。 それよりも目の前から消えたくれた方がいい」という意味であり的を遇する上で、 きわめてアジア的な優しさにあふれているようにみえる。 〈中略〉カンボジア人の融通自在の行動様式から見て、 革命の後につきものの陰険な粛清は起こらないのではあるまいか。」
死屍を鞭打つ行為は楽しい?
172 :
世界@名無史さん :04/01/14 15:56
共産党板からのコピペ ポルポト内閣の行った政策 1都市住民を農村へと強制移住。下等国民として農民以上の重労働を与え、殺害。 2恋愛結婚の禁止。結婚相手は党幹部の推薦により決定。 3自動車・鉄道など交通手段の禁止(国民が外国に逃げ出し、カンボジアの内情が漏れないため) 4テレビ・ラジオなど情報手段の禁止(国民が海外から情報を得ないため) 5家族概念の廃止(子供は2歳になったら親元を離れ、ポルポト少年隊として教育される) 6教育機関の廃止(小学校も含めた普通教育も) 7インテリ層(教師・学生など)の粛清(外国語が喋れると、内情が漏らされる可能性があるため) 8ブルジョワ階級粛清(共産主義のため) 9犯罪・党への反発は重軽問わず死刑(スプーンをなくしただけでも死刑) 10国民を労働能力・意欲に応じランク付け。食料配分に差異を設ける(最低ランクはほとんど餓死) 11通貨の廃止(農産物の物々交換。一応成果を収めたと評されていたが・・・) 12留学生を嘘を言って国内に集め全員粛清。 13シアヌーク大統領を事実上の軟禁状態に。 そのほかよりどりみどりの極悪な行為を繰り返す。 これらの行為を知らず当初、朝日新聞は「ポルポトはアジア風の慈愛に満ち溢れている」と絶賛 アメリカ・中国・タイなどは反越の立場からポルポト政権をこの後も支援。
173 :
世界@名無史さん :04/01/14 17:46
毛沢東主義関係は皆こんなもんじゃね? センデロルミノソがペルー政権を握ったら同じようなことになったと思われ。 ポル・ポト派の虐殺は全国民に対する割合では異常だが、数では文革の方が上。 漏れは金正日を称賛してやまないシアヌークは嫌い。カンボジア王家はサウジ、(今の)ネパール、スワジランドの王家と並ぶDQN王家だと思ってます。
174 :
世界@名無史さん :04/01/14 17:54
確かネパールじゃマオイストどもが政権を握るかもしれないのだろ? キリングフィールド再来か。
>>174 現ネパール王は20世紀も末になって王宮内で王族ぶち殺しクーデター
なんていう時代錯誤もいいところな行為をやってのけた超DQNだからな…
当然、国民からの信頼はゼロ。これじゃマオイストが力を得るのも
当然かと思われ。
176 :
世界@名無史さん :04/01/18 16:14
映画キリングフィールドでプランを演じたハイン・ニョルは、せっかく アメリカまで逃げ延びたのに、強盗に殺されてしまって本当に運が悪い。
ポルポト派の刺客じゃなかったんだ。
178 :
世界@名無史さん :04/01/18 19:07
>>174 ネパールではマオイストが1996年から王制の廃止などを求めて反政府武装闘争を開始。
アメリカは王制の側にてこ入れすると言ってるけど。
179 :
世界@名無史さん :04/01/19 19:34
ポルポト派の虐殺なんていまだに信じてる奴いるの? 言われるような大虐殺は一切なかったことが、近年の研究によって 証明されている。
181 :
世界@名無史さん :04/01/20 08:38
>>179 もれはプノンペンの大虐殺の記念館(正式名称忘れた、頭蓋骨のカンボジア地図があるとこ)
に逝ったけど、確かにプロパガンダ目的の施設であることは感じた。
ポルポト派による殺戮のシーンは全て絵画で、決定的な証拠と思しき写真は皆無
あとは、監禁されていた跡やおびただしい死体や人骨の写真だった。
展示されてる資料で「虐殺があった」と結論を出すのは少々抵抗はある。
あと、ポル・ポトもなんか突然死んだって印象だったしね。なんかしゃべられるとまずい
ことがありそう。
フン・センやヘン・サムリンも、もとはといえばポルポト派だったもんな。
当然虐殺にも関わってたと考えるのが普通だな。>フン・セン
184 :
世界@名無史さん :04/01/20 13:11
ちょっと考えりゃわかるだろw 100万人も殺せるわけがないww
またキチガイが湧いて出てきた…
ルワンダ虐殺スレッドでも同じ事やってるよ、この人。 能がないというか。それとも脳がないのかもね。 アンコール・トムの修復は大分進んでるようだ。 今も荒れてる印象があったけど、十年前の写真と比べると かなり状態が良くなっている。
187 :
世界@名無史さん :04/01/20 22:44
地雷撤去は完了したみたいだね。 まあ、観光とリゾート、自給用農業の国になりそうだな。
188 :
世界@名無史さん :04/01/21 02:35
>>181 S21尋問センター、現ツールスレン博物館だね。
そこの所長ドゥイは、予想外にベトナム軍が早く進攻してきたため、
虐殺の証拠隠滅が間に合わず、決定的な証拠のほとんどを残してしまったらしい。
ポルポト派幹部、ヌオン・チアは後にドゥイにこういったという。
「党の文書は、すべて焼き払われた。おまえのを除いてな。お前は馬鹿だ」
「なぜ同胞を殺したのか」井上恭介 藤下超 NHK出版
│ポルポト派の虐殺なんて │いまだに信じてる奴いるの? └──v─────────── ∧_∧ (@∀@-) ._φ 朝⊂) /旦/三/ /| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| .| | |/
190 :
世界@名無史さん :04/01/21 21:44
インドシナの歴史って一体
191 :
世界@名無史さん :04/01/22 16:11
ポル・ポトの虐殺は、文革と比べるより、 唐山大震災の後の無為無策による大被害と比べたほうがいいんじゃないかな。 ナチ板やスターリン板とかにもいっぱい出たと思うけど、 強制収容所に入れただけで、別に死刑しなくても、人はどんどん死ぬよ。 強制移住なんてほとんど野外移動虐殺劇場。 バターン死の行進やアルメニア人虐殺、チェロキーインディアン涙の踏み分け道、 みんな同じ。銃を構えて1000km歩かせれば、食事と休養をちょっとけちっただけで 簡単に死なすことができます。 これがポルポトによる虐殺の正体だ。銃や鍬で殺すまでもない。 ツールスレンなどサディストのお遊びに過ぎない。あんなので100万人も死なない。 それから、ツールスレンのプロパガンダ云々は無いと思う。 フンセンは市場経済化を肯定する共産主義者だが、ツールスレンのあちこちに張られた 「カンボジア共産党栄光万歳」の文字はそのまま残されている。 共産主義者による犯罪行為だと告発しているようなものだ。 これをこのまま残しているのは、プロパガンダではないとうことだろう。
お前ら、南京大虐殺(30万人)は信じないくせに、ポルポトの大虐殺(200〜300万人)は 信じるんですか?
193 :
世界@名無史さん :04/01/23 02:07
>市場経済化を肯定する共産主義者 そんなのありなの? 語義が矛盾していないかい。
194 :
世界@名無史さん :04/01/23 07:40
>>191 >フンセンは市場経済化を肯定する共産主義者だが、ツールスレンのあちこちに張られた
過去はともかく、市場経済と自由選挙を受け入れた段階で彼を共産主義者とするのは
無理がある。
>「カンボジア共産党栄光万歳」の文字はそのまま残されている。
漏れが行ったのは3年半前だがそんな話聞いたこと無いな。反ポル・ポト、反共産主義
ってのはあったクメール人の骨の髄まで染み込んでいるように感じたが。
「それとバターン死の行進」と他を一緒にしているとこで藻前のレスはネタ扱いされるぞ
バターン〜は虐殺でも無策行為でもない。
とネタにマジレス
195 :
世界@名無史さん :04/01/23 07:50
バターン死の行進と称せられる事象は、マラリアにかかった捕虜が多少死んだという のが真相だね。捕虜に対する日本軍の対応は、世界でも稀なほど丁寧なもので、 彼らには十分な食料・水が与えられていたことが確認されている。 大東亜戦争中の日本軍ほど、紳士的だった軍隊はないんだよ。
196 :
世界@名無史さん :04/01/23 09:17
まあ、戦勝国のプロパガンダには捏造も多かったからな。
スレ違いの上に自作自演ウヨが痛い。 山下大将の死刑は納得いかないけどなあ〜〜
泣いてはいけない。 泣いているのは過去の放蕩生活を懐かしんでいるからだ。 笑ってはいけない。 笑っているのは経歴詐称を反省していないからだ。 第10章 民主党の悲劇果てしなく ニュー速+の古賀氏の学歴詐称スレで書き込んだものですが、 ぜんぜん受けませんでした(w
民主カンボジア発足前後の記事読んだよ。
ロンノル政権が倒れたのが昭和50年4月17日。
>>170 の記事が朝日に掲載されたのは4月20日。
同年シアヌーク殿下が元首に推戴。
翌年3月の総選挙で赤色クメール躍進でシアヌーク辞任。キューサンファン元首就任。
4月王国政府内閣総辞職を受け、ポルポト新内閣発足。
意外だったのは当初、サロンサリ共産党総書記がポルポト首相と別人と考えられていたこと。
最初、新首相にはトル・トットという無名の別人がなったと報道されていた。
ポルポト=サロンサリと認識されたのはそれより後っぽい。
あと日本も含め100カ国以上の国がポルポト政権と外交関係を樹立していたのも意外だった。
日本政府は承認に慎重ながら、4月中には承認したんだが、社会・共産・民社・公明は足並みを揃えて
政府の承認の遅れを激しく非難してた。
200 :
世界@名無史さん :04/01/24 16:53
>サロンサリ共産党総書記 サロンサリって何だい? 朝日にそう書いてあったの? サロト・ソー(サロト・サル)とイエン・サリの合成かい?
サロンサルだ。
202 :
世界@名無史さん :04/01/24 17:20
>>156 にも書いてあるけど、カンボジアの人名、地名の表記はむちゃくちゃだな。
私は独自の自分を構築している。素晴らしい理想像を捏造するのである。 したがって記述的な形をとる記録も証明もいらない。信用もいらない。 たとえ有権者であっても、議員のイスのためなら微笑んで騙せ。 今残っているのは恥ずかしい現実なのである。 私はこれより過去を探しあてる。 泣いてはいけない。泣くのは今の恥辱を嫌がっているからだ。 笑ってはいけない。笑うのは昔の妄想を懐かしんでいるからだ。 〜ポル・ポト政権の指令文書より〜
204 :
世界@名無史さん :04/01/25 08:26
↑捏造です。
205 :
世界@名無史さん :04/01/25 13:16
今も多数の国民は農村生活者だよね?
自分たちがストイックであったのならともかく、幹部はようじょを拉致しておまんこ しまくり、というのは本当ですか? 国民に禁欲を求めて、自分たちも禁欲であった、という政権はあったのだけど・・・
207 :
世界@名無史さん :
04/02/27 13:22 ありうるな