1 :
世界@名無史さん:
古代の秘教から始まり、魔術師シモン、プロティノス、ベーコン、
エックハルト、パラケルスス、スウェーデンボルグ、エリファス・レヴィ、
ブラヴァツキー夫人、グルジェフ、シュタイナーなど、
神秘主義・魔術・錬金術の歴史についてかたりましょう。
2 :
世界@名無史さん:02/07/10 20:36
ニュートンもかなり妖しいことしてたって聞いたことがある。
あのころが境目なのかな、科学と魔術の。
3 :
世界@名無史さん:02/07/10 20:45
20世紀初頭にも神秘学の台頭があって、神秘学が学会を席巻する可能
性すらあったんだよね。残念ながら?夢も希望もなく、神秘学は嘘か失敗
かのいずれかであるというのが、今は正統だけどね。 でもユリゲラーの例もあるから、またまたぶり返す可能性も否定できな
い…。
ところで…
国家的に神秘学にはまった国…ドイツと日本はもろくも戦争に負けた
んだよねぇ。
4 :
世界@名無史さん:02/07/10 20:52
>>2 >ニュートンもかなり妖しいことしてた
別にそんなに怪しいことはしてないと思いますよ。
聖書の世界創世からの創世紀元に天文学を応用し、
ギリシア神話のアルゴ冒険隊はいつ頃だったとか、
そういう年代検証をせっせとしただけです。
当時の知識人としては当然ですね。
ニュートンが熱心に取り組んだ年代学は別に
神秘主義でも神秘学でもありません。
5 :
世界@名無史さん:02/07/10 20:55
>>3 >20世紀初頭にも神秘学の台頭があって、神秘学が学会を席巻する可能性すらあったんだよね。
何を指しているのか曖昧すぎて、さっぱりわかりません。
神智主義、復古信仰、ニューエイジのどのトレンドが、
「何の」学会を席捲する可能性があったという話ですか?
あまり大雑把かつ曖昧に「神秘主義」を概括しないように。
6 :
世界@名無史さん:02/07/10 20:59
>>1 >ブラヴァツキー夫人、グルジェフ、シュタイナーなど、
ブラヴァッキーはワールドワイドに活躍したけれど、
元祖ギボ・アイコみたいなチャネリング屋さんですね。
古代からの神智学の研究者であるルネ・ゲノンは
「ブラヴァッキー婦人の神智学会は神智学とはまったく無関係」って主旨のことを書いています。
シュタイナーが、アメリカ系の神智学会を離れて人智学科を創立したのも、おそらくその辺の問題でしょうね。
錬金術は観念先行だったけど、とりあえず色々な実験をしてそのデータが色々と役に立ったというのは確かっぽいです。
本来的に科学と宗教は「世界の読み解き方」という点において変わりはなく、ただ宗教はその中心に形而上のものを置き、科学は常に検証をし続けていた……と。
8 :
世界@名無史さん:02/07/10 21:08
>>7 >錬金術は観念先行だったけど、とりあえず色々な実験をしてそのデータが色々と役に立ったというのは確かっぽい
いや、そこはそう簡単には言えません。
西欧の錬金術には古代新プラトニズムや古代グノーシスの宇宙観が前提にされてたんです。
具体的には、球体が同心円状になった階層宇宙のイメージが前提にされていた。
細かく言えば、その他にも四大元素とか、いろいろな観念が前提になっていた。
実験データに併せて宇宙観・世界観を変更していく、って自然科学は錬金術とは断絶していますし、ずっと後代の事です。
>20世紀初頭にも神秘学の台頭があって(
>>3)
まずこの認識が間違ってないか検討する必要はある。
ニューエイジの台頭は20世紀中盤からのこと、
20世紀初頭の諸々の怪しげな運動は、
18世紀以来のロマン主義的な復古信仰や、(復古ドルイド教や、復古魔女信仰や魔術結社)
19世紀的な疑似科学主義(心霊主義やアメリカ系神智学会)の最後の一幕、
と考えた方が歴史的な把握や整理はた易い。
そういう意味では、長生きしたグルジェフはたまたまミッシング・リンクみたいな位置づけになったし、
シュタイナーは先祖帰りみたいなもんだ、と言える。
>>8 >実験データに併せて宇宙観・世界観を変更していく、
>って自然科学は錬金術とは断絶していますし、ずっと後代の事です。
ふむふむ。
ご指摘ありがとうございます。
しかしまあ、錬金術でも色々と情報の劣化と拡大とか起こして新たな観念が生まれて、そのために新規のトンチキな実験とかされていたみたいですから。
その時に残ったデータは、自然科学に役立ったものもあったのではないかと思われ。
確かアラビアではリンから肥料を生み出したのは錬金術師だったけど、それだって実験しまくったあげくの副産物みたいなものだったような……。
ニューエイジは、我々の身近な漫画・アニメでいうと、
「AKIRA」、「ガンダム」、「僕の地球を守って」
あたりかなあ。心と心が直につながるってヤツね。
言葉に頼らない心と心のつながりを、いろいろ問題点は
ありはするが、最後の希望に置くというスタイルを取っている点が特徴。
「風の谷のナウシカ」も、一種それに近いものがあるかな。
こっちは自然との直通になるわけなんだけど。(ディープエコロとでもいうの?)
90年代の「寄生獣」や「ベルセルク」が、そういったものを
真っ向から否定しているのは興味深い。(特に寄生獣)
アニメでは、最近はやった「エヴァンゲリオン」が同じものを求めつつも、
それへの懐疑みたいなものを提示していた風に感じたな。(一、二話見た程度だが)
天文学と占星術、化学と錬金術は紙一重。ケプラーやコペルニクスも占星術
を修めており、ケプラーの母は魔女狩りで死んでいる。(関係無いか)
13 :
世界@名無史さん:02/07/10 21:50
>>12=山野野衾さん
いえいえ、そこは多いに関係していたんですよ。
古代では、天文学・占星術と医学・薬学も関係していました。
これはギリシアでもエジプトでもです。
コレコレの薬効のある薬草は、天文配置がコレコレの時期に採取しなくてはならない、なんて考えられていました。
で、西欧錬金術のルーツである中世イスラムの錬金術は、後の化学につながる部分だけが強調される傾向があるのですが、
実はペルシア占星術と関った占星学的薬学とも関っていました。
例えば、この天文・占星学と薬学の結び付けを理論づけていたのが、
>>8で触れた
>球体が同心円状になった階層宇宙のイメージ
だったんです、何段階かの階層を経て、マクロコスモス(大秩序)の星辰の運動は
地上や人体のミクロコスモス(小秩序)の運動に影響を及ぼす、と観念されていたわけです。
>>11 ナウシカは漫画版ではエコロジーとかそんなのではなくなっていたです。
あの後に「もののけ姫」が来るのが信じられないくらいでした。
関係ないからやはりsage
古代グノーシス:魔術師シモン、
古代新プラトン主義:プロティノス、
西欧錬金術:ベーコン、パラケルスス、
キリスト教神秘主義:エックハルト、
近代心霊主義:スウェーデンボルグ、
隠秘主義者・魔術師:エリファス・レヴィ
19世紀的疑似科学:ブラヴァツキー夫人、
ヨーロッパ神智主義復古者:グルジェフ、シュタイナー
これだけのトレンドを未整理に並列してる
>>1は、かなり問題あり。
>>1は「神秘学」なんて一貫した1つの体系があるかのように錯覚してるところが勘違い。
西欧の神秘主義だけで、キリスト教神秘主義、正教神秘主義、異端派の神秘主義、ユダヤ教神秘主義、イスラム神秘主義(の伝播)、少なくともこれだけのトレンドが複雑に交叉した歴史がある。
おまけに、
神秘主義は正統信仰と、隠秘学はトマス・アクィナスなどの正当教学との拮抗関係をその時代時代に結んだ歴史がある。
さらに、
神秘主義(ミスティシズム)と陰秘学(オカルティズム)は本来相性のよくないものを、時々の知識人が無理して統合しようとした試みが散発した。
だから、
>>1が示唆しているような一貫した体系としての「神秘学」などというものの歴史はない。
「古代の秘教」なんて1括りにしてるところも、質の悪い概説書の読みすぎではないのか?。
想像するに、G社のシリーズとかか(?)。
>13
遅レス失礼。そういえばパラケルススも述べていましたね。似たような発想は世界
中にあったようですが。
ところでこのスレ、道教思想なども入るのでしょうか。
>>17=山野野衾さん
そうですね。
スレ主さんはどう考えてるかわかりませんけど、
私はイスラムやインドの話も、きちんとした話ならば聞きたいので。
中国の神仙思想のお話も希望したいですね。
ただ、時代錯誤の入ったオカルト妄説や俗説の類は、普通のスレより細かくチェックされることも希望します。
どうしてもそうした話題が混入し易いですから。
ネタを書く人はネタと断わってほしいですね。
後、神秘主義(神秘体験に関る教説/修法)、神秘主義思想(神秘主義を賞揚する思想)/隠秘主義(神秘主義思想の世界観・宇宙観に基づく技術論)、この辺の区別も、整理できるとよいと思うのですが。
この辺は、課題でしょうかね(?)。
>>16>一貫した体系としての「神秘学」などというものの歴史はない
と言うのは、やはり言えると思います。
>イスラムやインドの話も、きちんとした話ならば聞きたい(
>>18)
西欧隠秘学(オカルティズム)の内、錬金術のトレンド。
大まかには、一番ベースには、古代エジプトと古代ギリシアが相互影響した層があって、
その上に、古代グノーシスが絡んだ後、
中世イスラムとユダヤ教神秘主義思想が絡む、ってとこですけど。
西欧錬金術の中心課題「卑金属からの金の変成」のコンセプト
最近の説に、このコンセプトは、古代ギリシア、古代グノーシスのいずれにもない、
中世イスラムと中世インドとの関わりから生まれた、って説があるそうで。
私とか判断つかないので、きちんとしたお話はお聞きしたいです。
他方に古代エジプトには「卑金属からの金の変成」のコンセプトあった、と言う説もあり。
こちらはどうもあったらしいように私には思えるのですが。
大々的に整理したのは中世イスラムだとも思うので、
もし本当にインドとの相互影響があったと言えるなら、その辺のお話は聞きたいです。
20 :
世界@名無史さん:02/07/15 00:58
アキレスと亀の話っていつ、誰がその矛盾を指摘することができたのですか?
>>20 間違ってるかもしれませんが、論理的に矛盾を論証できるようになったのは、
微分の考え方が確立されてからではないでしょうか(?)。
22 :
世界@名無史さん:02/07/16 23:21
>>17=山野野衾さん
>そういえばパラケルススも述べていましたね。似たような発想は世界中にあったようですが。
そうですね。
>>13で挙げた、ミクロコスモスとマクロコスモスの照応の話題ですね。
ただ、私は東洋の魔術的世界観、思想をよく知らないもんで。
例えば、三国志で、孔明が星を見たり呪術的儀式をしたりしますよね、
あぁいったイメージをバク然と抱いてるくらい程度なんです。
なので、勘違いかもしれないのですが、
西欧の魔術思想がおもしろいな、と思うのは、マクロコスモスとミクロコスモスが不可思議に照応してるって言うだけでなくて
(もちろんそうした不可思議説もあったんですけど)
なんかわけわかんない理屈を建てて理で説明しようとする歴史がおもしろいなぁ、と思います。
階層宇宙を段階的に影響力が伝わってくる、とか。
物質世界には生命精気(Spirits)が偏在してて、それが影響力を媒介するとか。
現代人としてはわけわかんないんだけど、ともかく理屈を組み立ててくる(w)。
科学史を専門にやってる人はまた別の意見があると思うんですが。
個人的には、こうした理屈を追求した歴史の末に理神論なんかが出てくるんじゃないかなぁ、と言う気がして、
その辺がおもしろいように思ってます。
>18
ネタというか、本気にするか否かは読んだ人次第なので良いのでは無いかと。
>22
中国で所謂「科学的思考」が発達した理由は既知のものと未知のものを区別
せず理屈を立てない、例えば陰陽の理で説明するような独自の世界観による
ものではないか、という意見があります。
24 :
世界@名無史さん:02/07/18 00:35
>>20 >>21 解析(微分)ほど難しい数学は必要ありません。数列で証明できます。
25 :
世界@名無史さん :02/07/18 00:41
>>24 数列も解析学に含まれます。
少なくともこの問題の数列はコーシー列であり
その数列が意識されるようになったときは
解析学が始まっていると解釈できます。
26 :
世界@名無史さん:02/07/18 01:28
∀ε ∃ N s.t. n,m >N -> |An-Am| < ε
27 :
世界@名無史さん:02/07/18 01:29
えーと。
このスレの文脈において
解析⇔微分
でいいのか?
30 :
世界@名無史さん:02/07/18 01:40
IP解析の結果、25と27が同一人物、26と28も同一人物と出ました。
31 :
世界@名無史さん:02/07/18 01:54
>>29 科学史において微分と解析が同一であるのかという疑問は正しいと思う。
その点において25の指摘は問題をはらんでいると言えるかもしれない。
解析と微分という言葉について、本スレにおける定義を厳密にする必要が
あるかもしれない。しかし、その意味においては24の使う解析、微分、数列
は、はるかに曖昧であるといえよう。そのため25のような定義を提示しない
まま、断定的な反論を招くことはある程度仕方のないことではないだろうか。
それと、ついでに言えば29のいうこのスレの文脈とは何か?
挑発のつもりはないのだが、まったく理解できない。
なぜ、神秘学スレのこのような議論が?
>>31 訂正します。
このスレの文脈において => 20,21,24,25の流れにおいて
24における「解析」と25における「解析学」が質的に違うものであるような気がして
質問しただけです、申し訳ない。
あと、神秘学といわゆる「数学」の発展過程はそれほど無関係ではないのでは、と。。
関係はあると思う。
だけど、それを強調しすぎると、「ニュートンの正体は錬金術師だった」
みたいな不毛な話になるのでは。。。
岡潔のエッセーを読むと、彼が、宗教的思い込み(日本的神秘主義?)に
凝り固まった人だったことがわかる。
しかし、そのことから彼の数学を説明するのは不可能だろう。
>>33 うーむ、たたかれるのを承知で言って見よう。
「近代的な合理主義思想、経験的・実証的な思考が芽生えたのは
まさにこのような魔術師・神秘主義者・錬金術師のサークル内である。」
だめかしらん?
#そういえば前にkrt氏にやんわりと否定されたっけかな
近代科学の萌芽とその準備段階としての長期間に渡る錬金術および象徴主義、
神秘主義の系譜との関連という主題は、個人的には面白いと思うのだが、
少なくとも私が今まで目にしてきたいくつかの著述は神秘主義サイドの
絶対的な智の大いなる認識という、控えめに見ても論理的破綻は免れない
いかんともしがたい芳香をはなっていた。
34は、その系譜に加わりたいとの主張なのだろうか?
>>35 ”絶対的な智の大いなる認識”では”近代的な合理主義思想、経験的・実証的な思考”
にはたどり着かないのでは?それを関連付けている文書があるのならば教えていただきたい。
思うに、神秘学サークルから、近代科学への連続性というのは納得しがたいもの
がある。34の意味するところは名目的な神秘学サークルにおいて、錬金術師の
実証的な研究のみを重視する、すなわち実質的に科学的な思考法のみに重点を
おいた人々が存在したということであるのだろうか。
それとも、神秘学と近代的科学の連続性は存在するという意味なのであろうか?
37 :
世界@名無史さん:02/07/19 13:23
イブン・ハルドゥーンが『歴史序説』の第6章で錬金術やら占星術を取り扱っている。
暇な人は目を通してみるのも一興かと
38 :
世界@名無史さん:02/07/19 21:01
>>33 私も西欧錬金術は近代科学とは断絶している、と思うんですが。
るさんの意見で困るのは、
>「近代的な合理主義思想、経験的・実証的な思考が芽生えたのは
>まさにこのような魔術師・神秘主義者・錬金術師のサークル内である。」
「これら」が特定されてない点だと思います。
ベーコンは、経験論哲学の遠祖と言ってもよいだろうし、同時に錬金術というか隠秘主義者ではあった。
ニュートンは、三位一体論は否定しているし、多分フリー・メーソンだったかもしれない。
が、創世紀元は否定していない。
だた、ニュートンが最後の錬金術師というのは、あれは多分にレトリックではないのか?
錬金術師の概念がそれとなく拡大解釈されている気もします。
ニュートンは最初の理神論者と言った方が実像に近いかもしれない。
多分、近代西欧科学、というのは、
・経験論⇒実証主義
・理神論⇒奇跡の否定、あるいは啓示への極小化(物理現象としての奇跡の否定)、同時に「星辰界」からの神智学的観念論の排除。
・創世紀元の無効化
少なくとも、これらが出揃わないと言えないのではないか??
読んでます、で、考えています。
まず言っておきたいのは
>>33は必ずしも持論ではありません。
(性格として持論を持つことはあまりない。)
たんなる可能性のひとつとしてあげました。
>>35 「絶対的な智の大いなる認識」という概念が「世界を動かす法則(者)」という意味ならば、(擬人化されているだけで)現代科学でいう「絶対的真理」に容易に転換されうるのではないか?
>>36 神秘主義から現代科学への連続、というより
芽生える、土壌、きっかけ、「準備段階」。
ということならどうでしょう?
>>38 すみません、実はよく把握していない。
(イメージ的には確かにベーコンありました。)
あと、近代西欧科学と言えども、神秘主義的な部分は多分に残されている、と思うのですがどうでしょう?
質問しておいて言うのもなんですが、この話題はしばらく
脇においておいて
神秘学の成立・系譜・思想に話題を戻す、というのはどうでしょう?
>>40 そうですねぇ。
私としては、この話題はすごく気になる点が幾つかあって、、、
神秘主義(ミスティシズム)の語源は、一説にギリシア語のミスティール(覆う)と言われます。
「目を覆い、耳を覆い、神秘に至る(合一を経験する)」などと言われます。
一方、隠秘主義(オカルティズム)の語源は、「隠された」だそうで
「隠された知識を明らかにする」だそうです。
後者の信憑性は、私は判断保留ですけど、
前者は幾つかある語源解釈説の内でも、比較的有望なものだと思います。
で、上のように考えると神秘主義と隠秘主義は、世界と人間の同型な関係を前提しても
人間の方の働きかけ方が、まったく逆とも言えるようなものになるんですよね。
この辺に、神秘主義と隠秘主義の面倒な関係があるように思えます。
(隠秘主義の内に錬金術も含めるってことで)
例えば、スウェデンボルグの心霊主義なんかは、現代風に言えば変成意識状態で幻視した幻覚体験を元に世界の隠された秘密を語ろうとした物、と言えるわけで。
これは一種の神秘主義思想と言って言えない事はない。
神秘的合一体験をいかにして得るか、という神秘主義自体とは異なる。
神秘体験は、“神”の方から−−つまり、人知を越えた領域から一方的に到来するものなわけで、
スェデンボルグはたまたま体験しちゃった、神秘体験みたいなものを無理して一般化して語ろうとした人、とも言えます。
で、「科学者も錬金術師も世界の成り立ちや法則性に神秘を感じて探求した」みたいな言って言えない事はないんでしょうけど
これを「神秘主義」なり「神秘学」の定義にしてしまうと、結局はなんでも神秘主義と言えてしまうことになるはずなので。
こんな定義(?)を受け入れては、エックハルトやペギン派など、キリスト教神秘主義から理神論の間のどこで何を整理するのか手のつけようがなくなる。
歴史検討もできなくなると思われます。
一番きになるのは、この辺ですね、神秘学って何なのよ(w)という。
とりあえず、世間で言われる“神秘学”は、宗教学的に言われる「神秘主義」とは似て非なるものですね。
>>41 まず、素人ですので用語の使い方にはご容赦ということでお願いします。
”神秘主義と隠秘主義の面倒な関係”という意味をもう少し詳しく解説を希望します。
神秘主義=「目を覆い、耳を覆い、神秘に至る(合一を経験する)」には、まず、合一
を経験する価値のある何か=真理?がアプリオリに存在し、それを目、耳などの五感によって
知覚することは不可能であるという考え方である、と解釈します。
一方、隠秘主義=「隠された知識を明らかにする」だとしても、まず、合一を経験する
価値のある何かを否定していないし、(肯定もしていないが)、次に知識を明らかにする
ための方法論を提示していないことからも、それを知覚するために五感が必要であるか、
否かについても同様に中立であるかのように読めます。
このことから、私にはこれらが逆であるという帰結を導き出すことができませんでした。
それから、”世界と人間の同型な関係”とはマクロコスモス、ミクロコスモスの同一性
のことなのかと推測していますが、それが前提であっても”人間の方の働きかけ方”が
まったく逆であるということは、合一を経験する価値のある何かは、双方ともその
存在を肯定しているにもかかわらず、方法論は逆であるという解釈であっているのでしょうか?
そうだとしても、方法論の違いについてよくわかりません。
それから、スウェデンボルグ以下についてもわからないことが多いのですが、
ながくなりますのでとりあえず、ここまでにします。
教えて君ですいません。
>>42 宗教学で言われる、「神秘主義」をまず高い抽象度で定義してみます。
日常的な個人の人格や社会関係を、仮初めのもの、仮構のものとみなし、
人間存在の本来の在り方は、日常的な理解を超えた“大いなる物”の部分である、
と実感する体験、これを「神秘体験」と呼びます。
“大いなる物”の部分に、絶対神が入ればセム系一神教神秘主義になりますし
あるいは、ブラフマーが入ればヒンドゥー神秘主義に、
覚者の悟る真理が入れば仏教的神秘主義、と言えます。
「神秘体験」においては、仏教哲学風に言いますと、「分別智」が無効化される、
「分別知」が虚構の一種である、と体験される、と言われます。
同時に、「分別智」に根拠づけられた世界認識、自己認識も、無効化される、と考えます。
「目を覆い、耳を覆い」は、この「分別智」が無効化されるの比喩と思ってください。
これは現代の認知科学風に言えば変成意識の一種と言えるはずなのですが、
宗教的な問題は変成意識を経た後、どういう認識を告げられるか、にあります。
キリスト教神秘主義者やイスラム教神秘主義者のほとんどが、神秘体験を詩や象徴、比喩を使ってしか述べられない、のは
宗教的神秘体験の内容が、分別智では説明不能なものだから、と考えてみていただきたいと思います。
神秘主義は、とりあえず仏教教派でしたら禅宗のようなものをイメージしていただくとよいのですが。
禅宗で言われる不立文字も、分別智を前提にした、日常言語で説明不能な認識を表現する言説戦術と捉えられます。
宗教学的に定義される「神秘主義」とは、まず、修養を通じ「神秘体験」を経ても完全な錯乱に陥らない状態を作る事、と考えられます。
で、“神秘主義と隠秘主義の面倒な関係”についてですが
これを説明する前に、神秘主義者(神秘主義実践者)と神秘主義思想家の関係について整理した方がよいと思われます。
すでに述べたように、宗教的な神秘主義者は、神秘体験を経て得た宗教的な認識について、
詩や象徴など、日常論理とは異なる言説戦術で表現しようとします。
これに対して、神秘主義思想家は、神秘体験で得られた認識を神話的な論理を用いて説明しようとします。
傾向として、宗教的神秘主義者が神秘体験を経た後に人間存在がどのように変質するか、を語ろうとする(悟り、や比喩的表現としての永遠の生命)のに対し、
神秘主義思想家は、神秘体験による異なった認識によって、別様に変容した世界の有り様について多く語る傾向もあります(黙示録の記者など、
私の意見として、スウェデンボルグもこの一種とみなしているわけです)
誤解を恐れずに大変乱暴な類比をしますと、仏教における密教の宇宙観は、神秘主義思想の一類型と言えます。
これは、密教の修養者に神秘主義実践者がいない、と言う事を意味しません。
宗教思想の表現戦術の違い、と考えてみてください。
で、西欧隠秘主義ですが、これは神秘主義思想、−−具体的には、近世新プラトニズムの世界観を前提に
隠された智恵に基づいた世界の操作技術を探求する、といった要約も可能と思われます。
(ここで、近世新プラトニズムと呼んでいるのは、おそらくは、古代新プラトニズム、古代グノーシス思想、古代ヘルメス思想がイスラムか東ローマで混交した後に西欧伝わった思想を想定しています)
神秘主義においては、人間が世界を操作することに価値が見出されません。
少し乱暴に言えば、神秘体験時の、没我の状態を人間存在の真なる在り方とみなすのが神秘主義だからです。
ここが、「神秘主義と隠秘主義の面倒な関係」と述べた部分です。
わかりづらい説明かもしれませんが、一通り説明してみました。
44 :
世界@名無史さん:02/07/20 10:53
>>41 「神秘主義実践者」の神秘体験とはどのようなものをイメージすればいいのでしょういか。
たとえば、宗教儀式においてトランス状態におちいるような感じでしょうか?
それとも、仏教の座禅のようなイメージ?
キリスト教のいう「奇跡」も神秘体験にはいるのでしょうか?
基本的に「教えて君」に徹することをお許しください。
あと、突飛な質問とかも。
このへんについての外観的な入門書とか教えていただけるとうれしいのですが。
>>44 >「神秘主義実践者」の神秘体験とはどのようなものをイメージすればいいのでしょういか。
まず、「宗教儀式においてトランス状態におちいる」「仏教の座禅」これらはどちらも宗教的神秘体験の同類、と考えてください。
認知科学的に言うと、身体は覚醒している状態なのに、脳波が特殊な状態になり、夢を見ているときに似た様子になるそうです。
幻覚剤を服用しても、同じ様な状態になることはあるそうですし、普通の人間が極度の睡眠不足状態でも似たような状態になる事はある。
宗教的に「瞑想」と呼ばれるような状態と考えてください。
心理学では、この類の症状を総じて「変成意識」の状態と呼ぶそうです。
変成意識状態でも「瞑想」と「トランス」では脳波の状態にパターンの違いがあるのかもしれませんが、私はそこまで詳しく知りません。
「瞑想」だろうと「トランス」だろうと、宗教的「神秘体験」も、白日夢の強度なもの、幻覚症状の一種と言って構いません。
宗教的な儀式のある種のもの(例えばイスラム神秘主義の旋回舞踊や時宗の踊念仏)も、禅宗の座禅、キリスト教神秘主義の断食なども、こうした変成意識状態が起こり易い状態を身体にもたらすメソッド、と捉えられます。
が、幻覚剤を服用したり断食をした、あらゆる人間が宗教的に価値のある言説を語れるわけではありません。
宗教的な神秘主義とは、「変成意識状態」における幻覚体験の高度な解釈、あるいは伝統に基づいた解釈、とみなせると思われます。
>キリスト教のいう「奇跡」も神秘体験にはいるのでしょうか?
ここは慎重になった方がいい箇所と思います。
キリスト教のいう「啓示を受ける」これは「神秘体験」の一種とみなせると思います。
「啓示を受けた」と信じた当人は、これを「奇跡」と考えそのように語るかもしれません。
聖書の内にも、そのようにとれる記述は見られます。
が、別種の神話的な奇跡譚としか思えないものも見られます。
宗教学的に神秘主義を考える場合、疑わしいものについては判断保留をしておいた方がよいでしょう。
>>45 >このへんについての外観的な入門書
次のようなあたりがよいかと思います。
中には古くて、新刊書店で入手しづらいような本もあるかもしれません。
興味がおありなら図書館で探してみてください。
●概説書
山折哲雄『神秘体験』講談社現代新書940,1989.
ISBN4-06-148940-2 C0214
アンリ・セルーヤ『神秘主義[改訳]』文庫クセジュ252,1974.
ISBN4-560-05252-2 C1210
●個別分野:概説書だと大まかですので、より詳細に考える場合
R.A.ニコルソン『イスラムの神秘主義』平凡社ライブラリに41,1996.
ISBN4-582-76143-7 C0314
●理論編:いろいろな説がある内の一説ですが、私にお勧めできるのは、次の宗教哲学対談集です。
八木誠一、秋月龍a『親鸞とパウロ』青土社,1989.
ISBN―――(不明)
八木誠一、秋月龍a『禅とイエス・キリスト』青土社,1989.
ISBN4-7917-5052-7 C1014
48 :
世界@名無史さん:02/07/21 15:13
age
>>43 ”神秘体験”定義について"人間存在の本来の在り方は、日常的な理解を超えた
“大いなる物”の部分である、と実感する体験"とされています。これは、確かに私の
述べたところの”合一を経験する価値のある何か=真理?がアプリオリに存在し、
それを目、耳などの五感によって知覚することは不可能であるという考え方である”
と表面上の類似点を持っているにもかかわらず、本質的で重要な大いに異なる意味を
持っています。それは、”合一を経験する”の経験する主体が、すでに
”合一を経験する価値のある何か”の一部分であるという前提の違いです。
これは、私が考えていた、神秘学における先験的な存在が”五感では知覚し得ぬ”
”合一を経験する価値のある何か”にとどまらず、先験的な存在が”大いなるもの”
=”(私のつたない言葉で言うところの)合一を経験する価値のある何か”とそれを
どのような方法でかは分からないが”知覚する”主体がすでにそれに”含まれる”と
いう”関係”そのものであるという点につきると思われます。
これは、”合一を経験する”という文が事物にとどまらず、”関係”を意味していることを
読み取れなかった私の落ち度ではあるでしょう。
>“大いなる物”の部分に、絶対神が入ればセム系一神教神秘主義になりますし
>あるいは、ブラフマーが入ればヒンドゥー神秘主義に、
>覚者の悟る真理が入れば仏教的神秘主義、と言えます。
”神秘体験”の方言=表現方法の多様性が存在するという解釈で良いのでしょうか。
それとも、”大いなる物の部分”が異なれば、それは単なるレトリックではなく、
本質的に異なる神秘体験が提供されると解釈できるものなのでしょうか。
続き
>「神秘体験」においては、仏教哲学風に言いますと、「分別智」が無効化される、
>「分別知」が虚構の一種である、と体験される、と言われます。
>同時に、「分別智」に根拠づけられた世界認識、自己認識も、無効化される、と考えます。
>「目を覆い、耳を覆い」は、この「分別智」が無効化されるの比喩と思ってください。
ここで、無定義な”分別智”が導入されています。これはこのスレに参加する人には知っていて
当然の言葉なのかもしれませんが、薄学な私には初めて知る言葉です。私の言うところの
”五感”と同じであるといって差し支えはあるのでしょうか。この”五感”と言う意味は”目を覆い、
耳を覆い”で表れてくる言葉と同一の次元で語った、論理、および近代科学における実証主義的
な世界認識の異名であると捉えてくださって結構です。これが同一だとして話を続けさせてください。
そうすると、”神秘体験”と”五感では知覚不可能”との決定的な違いは、知覚が不可能であるだけ
ではなく、”五感”に象徴される論理、観念、近代科学における実証主義的な世界認識を否定する、
というきつい条件の下でしか到達しえないものと”五感”の外部で生じる知覚作用という両者の
共存を可能とする緩い条件との違いのように思われます。
>これは現代の認知科学風に言えば変成意識の一種と言えるはずなのですが、
>宗教的な問題は変成意識を経た後、どういう認識を告げられるか、にあります。
”分別智が無効化される=変性意識の一種”との定義付け。
”宗教的な問題”として”変性意識を経た後、どういう認識を告げられるか”
すみません。私には分かりませんでした。
”変性意識”については、46で、「宗教儀式においてトランス状態におちいる」「仏教の座禅」を用
いられて”この類の症状を総じて「変成意識」の状態と呼ぶそうです”とおっしゃられていますが、
私には直感的には理解することができません。”宗教儀式においてトランス状態におちいる”など
は、ブードゥーなどに代表される激しいビートにより陥る恍惚感と同類のトランス状態が頭に浮かんでしまうのですが、これは失笑ものでしょうか。それと”仏教の座禅”が肉体的にまたは精神的に共通
する作用をもたらすというのでしたら、正直なところ驚きであると同時に自分の無知を激しく実感
するところです。そこでちょっと調べてみました。
禅について分かったことは、覚醒しながらも深い睡眠中に現れる脳波であるアルファ波が強く観察
されるということです。さらにある説によれば、禅の高僧のより深い瞑想はアルファ波よりも低周波
であるシータ波に到達し、それはトランス状態の脳波と一致するそうです。これがどのくらい信憑性
のあることなのか私には、まったく分かりませんが、これが本当であるとすると”変性意識”は深い
瞑想状態=シータ波=入眠期の脳波=浅い眠り=夢見でつながることになります。
要は寝ぼけているだけじゃないかという突っ込みを受けそうですが、これだけでは否定するにしても
肯定するにしても材料不足です。これも、私の中では不明なまま持ち越されます。
続き>キリスト教神秘主義者やイスラム教神秘主義者のほとんどが、神秘体験を詩や象徴、比喩を使ってしか
>述べられない、のは
>宗教的神秘体験の内容が、分別智では説明不能なものだから、と考えてみていただきたいと思います。
>神秘主義は、とりあえず仏教教派でしたら禅宗のようなものをイメージしていただくとよいのですが。
>禅宗で言われる不立文字も、分別智を前提にした、日常言語で説明不能な認識を表現する言説戦術と
>捉えられます。
と、ここまで読むと”説明不能な認識を表現する言説戦術”は最初に私が間違って認識していたと考
えた”五感の外にある知覚の肯定”という”五感を否定しなければ得ることのできない、五感の外に
ある知覚”という2つの違いという問題を再び呼び起こす気がするのですが、いかがなのでしょう。
宗教的な神秘主義者=神秘体験の主体の変容を語る。
神秘主義的思想家=神秘体験の客体の変容を語る、あるいは神秘体験によって変容した主体の認識に
よって変化する世界の有り様を語る。ということなのですが、”世界の有り様”−神秘体験における
”大いなる物”、”実感する経験者”とは異なる別個の存在なのでしょうか?それとも”世界”=
マクロコスモス=”大いなる物”であるのでしょうか?
西欧隠秘主義=隠された智恵に基づいた世界の操作技術を探求する。
>神秘主義においては、人間が世界を操作することに価値が見出されません。
>少し乱暴に言えば、神秘体験時の、没我の状態を人間存在の真なる在り方とみなすのが神秘主義
>だからです。
”合一を経験する価値のある何かは、双方ともその存在を肯定しているにもかかわらず、方法論は逆
であるという解釈であっているのでしょうか?”というのは42で投げかけた私の疑問です。それに対
して神秘体験において定義されており”大いなる物”と同一であるか、または定義されていない、
”世界”または”世界の有り様”を”語る”だけであるのか”操作する”のであるかの違いが、「神
秘主義と隠秘主義の面倒な関係」であるというのが、その質問の答えだと思ってよろしいのでしょう
か。
ここまでいくつかの仮定を置いてしまっているのでまったく的外れな質問となってしまうかもしれま
せんが、”神秘主義”においては”大いなる物”または”それとの関係”を触れることはできず、
ただ知覚し、せいぜい語ることしかできないのに対して、”隠秘主義”における”大いなる物”また
は”それとの関係”はそれを知覚した上でそれを操作することができるということでよろしいので
しょうか。
その場合、前提となる”大いなる物”の存在が、それぞれにおいて別個のものであるという可能性を
孕んでしまうように思えるのですが、それでもよろしいのでしょうか
52 :
=46-47:02/07/27 03:55
>>49 >”神秘体験”の方言=表現方法の多様性が存在するという解釈で良いのでしょうか。
>それとも、”大いなる物の部分”が異なれば、それは単なるレトリックではなく、本質的に異なる神秘体験が提供されると解釈できるものなのでしょうか。
ここは、宗教的神秘主義を学問的に探求する場合には、
仮定として、前者の立場をとるべき、としてください。
宗教学や宗教哲学的には、そうであるべきですし、
歴史学的に神秘主義について扱おうとする際も同じ様であるべきだろう、と、思われます。
個々人が、信仰の問題を考える場合は当然後者が問題になることもあります。
難しいところですが、
後者の立場を採ると、偏狭な宗教者同士の教義論争に類似の自体になりかねません。
難しいところ、と言いますのは、
神秘主義者や神秘主義思想家の言説にも、程度の高い・低い、つまり宗教思想的の意義の軽重、という事は思想史的に問えるはずだ、
という事が一方にあります。
こちらの問題点には、限界は予想されても、一応は、宗教思想史の手法で取り組めばよいかと思います。
より根本的な整理・把握には、
例えば
>>47の「●理論編」で挙げたような、宗教哲学的な論考が必要かと思いますが。
こうした哲学的論考を歴史考察に関らせるか否か、はたまた参考程度に治めるべきか否か、については、いろいろな異見・立場があると思います。
>>50 >無定義な”分別智”が導入されています。これはこのスレに参加する人には知っていて
当然の言葉なのかもしれませんが、薄学な私には初めて知る言葉です。私の言うところの
”五感”と同じであるといって差し支えはあるのでしょうか。
「分別智」については、とりあえず次のように考えてください。
(厳密な仏教哲学的な定義とは多少ズレるかもしれませんが、
>>46の文脈では次のように捉えてみてください)
分別智:五感を通した知覚に基づいた分析的知識。
及び、上記の分析的知識を伴った自己認識、ならびに経験的社会関係の認識。
ですから、「分別智」が>私の言うところの”五感”と同じであるといって差し支えはあるのでしょうか、――については、次のようにお応えできます。
分別智は、まず、文字どおりの「五感」の体験に基づく経験知を含みます。
次に“五感”に「実証主義的な世界認識」を含めても、構いません。
近代西欧型の「実証主義的な世界認識」で組み立てられた世界像、これも大まかには「分別智の結果」に含む事にします。
問題は、「論理」についてで、これは留保が必要です。
論点を先に述べると、歴史的な過去社会の異文化を、どのように評価するか?
という問題が、神秘主義の関連ではかなり極限的に問われます。
>この”五感”と言う意味は”目を覆い、耳を覆い”で表れてくる言葉と同一の次元で語った、論理、および近代科学における実証主義的な世界認識の異名であると捉えてくださって結構です。
西欧近代型の知識体系では、伝統的には「論理」とは基本的には、矛盾率、同一率、背反率を基本に組み立てられた古典的な論理学の公理系を意味していました。
近代西欧でも、例外的に「弁証法」と「無意識(フロイド的な意味での)」が考えられましたが、これは、矛盾率を踏まえた西欧伝統思想の限界的試み、と言えます。
(ここでは、20世紀思想の哲学思想の諸問題、例えばゲーデルの自己言及的な理論系の問題ですとか、複雑系ですとか、そういうややこしい問題は置いておきます)
で、例えば仏教系の思想(この中には神秘主義思想も含まれます)には、矛盾率や背反率を無視したような“論理”も含まれます。
また、“無意識”について言及したような考察も仏教哲学にはあると聞きます。
そもそも、「神秘的合一」という観念自体、同一率や背反率に反するものです。
宗教思想的や異文化理解の問題としては、
近代西欧型の世界像を踏まえて生活しているはずの私達が、異なる前提を持っているはずの神秘主義、及び神秘主義思想の価値をどのような方法で評価できるか?
にあると思われます。
信じる/信じないは、信仰の問題ですから学問的には選択できません。
歴史学的に神秘主義、及びその関連事象を探求しようとする場合も、関ってくる問題でしょう。
>>50 >”変性意識”については、46で、「宗教儀式においてトランス状態におちいる」「仏教の座禅」を用いられて”この類の症状を総じて「変成意識」の状態と呼ぶそうです”とおっしゃられていますが、私には直感的には理解することができません。”
この困惑はわかります。
>宗教儀式においてトランス状態におちいる”など
は、ブードゥーなどに代表される激しいビートにより陥る恍惚感と同類のトランス状態が頭に浮かんでしまうのですが、これは失笑ものでしょうか。
いいえ、極、常識的な反応だと思います。
にも関らず、ここは、「トランス」も「禅定」も「変成意識状態」というカテゴリには同格に含まれる、という前提を理解していただきたいと思います。
踊念仏型の変成意識体験については、「アクティブ・メディテーション」という便利な概念がありますので、これを踏まえてみてはどうでしょうか?
極論を言えば、例えば「ランナーズ・ハイ」などが「アクティヴ・メディテーション」に近似の心身状況、と言っても、
少し乱暴でしょうがあたらずと言えども遠からず、と思います。
「ランナーズ・ハイ」は一般に、幻覚症状を伴うわけではないと思いますので、これを「変成意識状態」に含めるのは無理があると思いますが。
「変成意識状態」を心身にもたらす手法は、「禅定」や「瞑想」タイプ、幻覚剤などの摂取のタイプのみでなく、激しい運動による体力の消耗のタイプもある、と考えられる、という事です。
>>50 >”説明不能な認識を表現する言説戦術”は最初に私が間違って認識していたと考えた”五感の外にある知覚の肯定”という”五感を否定しなければ得ることのできない、五感の外にある知覚”という2つの違いという問題を再び呼び起こす気がするのですが、いかがなのでしょう。
えーとですね。ここは微妙ですが重要なポイントです。
「五感の外にある知覚」という表現は、仮に比喩的表現であるとしても、超能力や、奇跡、お告げのような連想を呼ぶので、
学問的な検討の場合は、注意して意識的に避けていった方がよいと思うのです。
また判りづらい説明になりかもしれませんが、――
神秘主義実践者が「変成意識状態」を経て述べる宗教的言説は、
「五感が、日常的な秩序を狂わせているときに認知された知覚・世界像」と仮定してみるのがよいかと思います。
>>50 >”世界の有り様”−神秘体験における”大いなる物”、”実感する経験者”とは異なる別個の存在なのでしょうか?それとも”世界”=マクロコスモス=”大いなる物”であるのでしょうか?
ここのところが一番難しいところ、と言うのは私もわかります。
私も、先日の書込み以来考えていたのですが、
とりあえず、次のように強いて類型化した説明ではどうでしょうか?
類型化に伴って生じる問題については後で。
神秘主義実践者の宗教的言説では、
「いかにして神秘体験に至るか」という実践理論と、「神秘体験を経た宗教的境地」についての言説が主に語られるとします。
神秘主義思想家の言説では、
「いかにして神秘体験に至るか」という実践を補助するための補助理論として、
「神秘体験を経た世界認識」を強いて一般化・図式化した説明理論が重きを置かれるとします。
平たく言えば、本来幻覚体験の解釈にすぎない(はずと思われる)マクロコスモスの秩序、――例えば神話的な宇宙構造や異界(天国や地獄など)の構造についてが信仰のための方便(?)として語られてしまう。
隠避主義者の言説では、
「神秘主義思想家」による説明理論を観念的前提として、世界の操作理論が探求されます。
少し強引な類型化ですので、問題は当然あります。
歴史上の個別の「神秘主義実践者」と「神秘主義思想家」をきっちり区別するのは困難な事が多いでしょう。
聖書のイエスも「実践のための補助理論」として比喩を用いています。
しかし、彼は、「神の国が、どのような光景であるか」と言った黙示録記者の好んだような話題については、比喩以上の事を語りませんでした。
遠まわしに「説明不能だ」と示唆しているふしも見受けられます。
同じ様に――と考えられるはずなのですが、
釈迦牟尼も「実践理論」については多くを語っても、後代の仏教家のように、宇宙の構造や地獄の光景などについては多くを語らなかったはず、と聞いています。
(仏教テキストの文献学的な批評検討については、私はその方法論については知らないので、結論部分の伝聞の型としました)
また、同じ様な類型化の問題として、
「神秘主義思想家」と「隠秘主義者」の間にも、個別事例では区別が困難な場合も少なからずあるだろう、とも思います。
>”神秘主義”においては”大いなる物”または”それとの関係”を触れることはできず、
ただ知覚し、せいぜい語ることしかできないのに対して、
>”隠秘主義”における”大いなる物”または”それとの関係”はそれを知覚した上でそれを操作することができるということでよろしいのでしょうか。
これについては、前段はそのように考えていただいてよいと思います。
理論的に説明するならば、「神秘体験」が持続している最中は、自意識が錯乱して解体した状態で没我の経験をしているはずなので、
変成意識状態を分析的に把握する事もできないはずなのです。
スウェデンボルグなどは(私は日本語訳の抄訳を読んだ程度ですが)、
どうも、神秘体験を、事後的に反芻して分析しながら語っているようなニュアンスを強く感じます。
聖フランチェスコですとか、一休和尚ですとか、神秘主義者らしい実践者の語り口とは違うように思われます。
後段の>”隠秘主義”における”大いなる物”または”それとの関係”はそれを知覚した上でそれを操作することができる
については、いくつかの異見も並立する部分だと思いますが、
私としては、次のように考えた方がよいと思っています。
「神秘主義」において、実態としては「強度な幻覚体験」の高度な解釈を日常語で述べるために選択された比喩・象徴の類を、
「隠秘主義」では、体系化された観念体系として前提し、操作の手法を探求してしまう。
「象徴間の関係性の実体視」とでも言えるような傾向は隠秘主義に顕著だと思います。
上の「隠秘主義」の説明については、例えば、ユング派心理学の立場からの「隠秘主義」理解から反論・異論が出されると思います。
また、カバラ主義などの理解には困難も生じると思います。
が、神秘主義〜隠秘主義の思想史的理解の方法論としては、
うえに挙げたような類型化を踏まえていった方がよいと考えられます。
>>49-50 総括的に、
>>50の最後のご質問にお返事を試みておこうと思います。
>”神秘主義”においては”大いなる物”または”それとの関係”を触れることはできず、
ただ知覚し、せいぜい語ることしかできないのに対して、
>”隠秘主義”における”大いなる物”または”それとの関係”はそれを知覚した上でそれを操作することができるということでよろしいのでしょうか。
>その場合、前提となる”大いなる物”の存在が、それぞれにおいて別個のものであるという可能性を孕んでしまうように思えるのですが、それでもよろしいのでしょうか
隠秘主義者も“大いなる物”または“それとの関係”は、直接、知覚できるものではない、と考えていたと思われます。
現代的な実験科学の考え方とは異なるはずですが、
彼らも、「マクロコスモスの秩序」を間接的に観察するものとして、
錬金術の疑似科学的な実験をしていたのでしょう。
(
>>56で言及しましたがユング派はここのところに独自の見解を持っているようです、
が今は置いておきます)
中国の錬丹術など、非西欧の隠秘主義に関しては、私は断定できないのですが、
とりあえず歴史的なアプローチとして、上記のような西欧錬金術理解をモデルとして適応しみて、
理解がうまくいかない場合はモデル変更も検討する、というのがよいかと思います。
>その場合、前提となる”大いなる物”の存在が、それぞれにおいて別個のものであるという可能性を孕んでしまうように思えるのですが、それでもよろしいのでしょうか
これは、隠秘主義者がそれぞれの思想背景に基づいて前提とする観念体系は、
本来実体関係ではない(強度の幻覚体験の解釈にすぎない)と仮定した方がよいと思います。
ですから「前提となる”大いなる物”の存在が、それぞれにおいて別個のものであるという可能性」この問いは、
「別個かどうか」という議論自体が、観念的な議論だ、と割り切ってしまった方がよいと思います。
乱暴に言えば、思想背景となる伝統が違う、と捉えるところからはじめるのがよいかと思います。
>>50 >禅について分かったことは、覚醒しながらも深い睡眠中に現れる脳波であるアルファ波が強く観察されるということです。
>さらにある説によれば、禅の高僧のより深い瞑想はアルファ波よりも低周波であるシータ波に到達し、それはトランス状態の脳波と一致するそうです。
>これがどのくらい信憑性のあることなのか私には、まったく分かりませんが、これが本当であるとすると”変性意識”は深い瞑想状態=シータ波=入眠期の脳波=浅い眠り=夢見でつながることになります。
>要は寝ぼけているだけじゃないかという突っ込みを受けそうですが、これだけでは否定するにしても肯定するにしても材料不足です。これも、私の中では不明なまま持ち越されます。
これは私(=52-57)は興味深いお話だと思いました。
が、この方面は本来、心理学(実験心理学)の分野なので、あまり深入りするのもためらわれます。
神秘主義〜陰秘主義の歴史理解では、参考にしていけばよいのではないでしょうか。
それにしても、いきなりトランス状態に飛躍するような脳波パターンと、禅定の深まりに伴う脳波パターンが近似に「なっていく」と言うのは興味深いお話と思います。
禅定と言うのは、本格的にやる場合、すごくカッチリしたカリキュラムがあるそうです。
これは、キリスト教修道会の断食も同じだそうで、伝統的に定められた修法のカリキュラムがあって、
監督者の元で段階的に修養していくそうです。
この辺に、神秘主義においても、伝統的な宗教の強味があるとは言えるでしょう。
後、「寝ぼけているだけ」と言って言えない事はないでしょうし、
「幻覚剤服用」と同じと言えば言えると思います。
ただ、
>>46で書いたように
>幻覚剤を服用したり断食をした、あらゆる人間が宗教的に価値のある言説を語れるわけではありません。
もちろん、寝ぼけた人間がみんな宗教的に価値のある言説を語れるわけでもありません。
59 :
世界@名無史さん:02/07/28 21:47
ブラヴァツキー夫人について知りたいんですが
ブラヴァッキー夫人というのはけったいなおばはんで、
はっきり言うと、私は高い評価を下せる人物とは思えません。
私の評価は一言で言えば、マネージャーに恵まれた元霊媒師で、やり手のチャネリング屋さんと言うところです。
以下の私の記述は、適宜あなたの方で割り引くなりなんなりして読んでください。
ロシア系ドイツ貴族の娘。1848年、親子ほど年の離れた軍人と結婚した後、数週間ほどで出奔。
サーカスに加わる、辻占い師をやる、などして19世紀当時多かった降霊師の真似事などをしていたようです。
ブラヴァッキーは後年この辺の事情を時として語ったようですが、「聞くたびに話の内容が異なる」と評されるような有り様で、放浪遍歴時代の事は詳細は不明。
自伝もあるのですが、その内容は自伝自体の内での矛盾や、彼女自身の他の発言との矛盾などが多く、全体として信憑性が低いと言われます。
米国に流れついたのが1870年代はじめ。
1874年、ニューヨークで降霊術者用の専門紙記者で自身も交霊会の主催などをしていたオルコットと出会う。2人は組んで交霊術師としての活動をはじめる。
HPBというブラヴァッキーのニックネームを言い出したのはオルコットだという。
詐欺師などと非難された事もあったが、信奉者も集めミラクル・クラブと称するサークルを作る。
1875年『ベールを脱いだイシス』を公表。
ブラヴァッキー本人によれば、この本の原稿は、彼女が交霊しているチベットのグランド・マスターから送られたもの、と称される。
内容は、エジプト神秘主義の解説の体をとりながら、フリーメースン、東洋神秘主義などの内容を雑多に詰め込んだゴッタ煮的な物と評される。
ダーゥインの進化論に反対する人類史を含んでいる点が特色。
ニューヨークで初版千部を短時間で売り切った、と言われる。
学者や批評家には猛烈な批判を受けた。内にはサンスクリット研究者からの批判もあった。
一方で、この本はダーゥイン進化論に疑問を抱く一般人の関心を招き、ブラヴァッキーの講演会活動が盛んになる。
1875年、ブラヴァッキーの講演会活動がきっかけとなり神智学協会(米国神智学会)が作られる。
はじめこの協会には名前が定まらず、薔薇十字団に関連する名称などが検討された、という。結局、会員の1人が辞書をめくってみつけた「神智学」の名が選ばれたという。
※協会名選定の経緯伝承からも伺えるように、ブラヴァッキーの団体の主張は、古代からの神智学の伝統とあまり関係ない。
※この点は、後年議論の種になるのだが、この件を重視する論者はあえて「米国・神智学会」などと正式名称と異なる呼び方を使う。
1875年アメリカで結成された神智学協会は、しかし長続きしなかった。
協会が発展したのは、1878年12月、ブラヴァッキーとオルコットがインドに居を移して後である。
2人がインドに渡る前には、神智学協会結成時の他のメンバーはすべて離散していたという。
渡印の直前、初期からのメンバーで欧州から米国に渡って来ていた不遇貴族ド・パーム男爵が病死。彼の遺体を本人の遺言に従って火葬にする儀式が行われた。
当時ニューヨークには、1873年火葬協会があり、オルコットはその創設時からのメンバーだった。が、火葬協会が実際に火葬を執り行う事はなかった。
市当局との折衝過程で火葬協会は手をひき、結局オルコットが儀式を執り行うことになった。
が、儀式の当日オルコットが創案した典礼の言葉が、列席していたメソジスト派牧師から非難され、会場は騒然となった。
ニューヨークでは一般紙がこの儀式の模様を報じ「茶番劇」と断じた。
この件に見られるように、米国神智学協会は、仏教・ヒンドゥー教など東洋宗教の教義を欧米社会に紹介しようとする動きと、
心霊現象を“科学的”に証明しようとする、――と少なくとも主張する動きとが混交しており混乱していた。
「あらゆる宗教は本質的には同質の真実を述べている」と主張する反面、
あきらかに、反キリスト教、反ユダヤ教的であり、キリスト教に対しては偏見を持ち、
イスラム教を無視していたのが米国神智学会だった、と言われる。
ともあれ、1878年12月、ブラヴァッキーとオルコットは、以前から文通を交わしてい伝手を頼りにインドへと渡った。
ブラヴァッキーが米国市民権を取得したのは渡印の5ヵ月前の事だった、というので、いかに切迫していたかが想像される。
渡印前、ブラヴァッキーは私物を競売に処し、債権者への負債を一部返済している。
が、もちろんブラヴァッキーとオルコットの弁によれば、渡印は彼らを霊的に指導しているヒマラヤのグランド・マスターからの助言に従ったもの、とされた。
ブラヴァッキーとオルコットが、英国経由でボンベイに着いたのは1879年2月頃。
1879年4月、雑誌『神智主義者』の刊行開始。
雑誌の売上げを元手に、神智学協会は、セイロン(現スリランカ)を含むインド各地の聖地や聖者の元を訪れる旅行を開始。
ヨガやヒンドゥー神秘主義、仏教、パールシーのゾロアスター教についての知見を広めたと言われる。
徐々にインドのイギリス人社会に知己を増やしていったブラヴァッキーらは、
1882年マドラス近辺に土地を買い、世界神智学協会(米国神智学会世界本部)を創設。
1880年代を通じて協会は各国に支部を持つことになる。
1885年までに米国系世界神智学協会は121の支部を設立させた。
これらの支部は当初、フリーメースン式にロッジと呼ばれた。
121のロッジの内、106はインド、ビルマ、セイロンにあった。
これらに加わるイギリス人もいたが、圧倒的多数は現地人だった。
西欧人がはじめた、地域宗教の研究に民族的自負心を鼓舞された人々が参加した、という。
この件は少し後に、イギリス政庁と神智学協会との関係悪化の一因となる。
また、当初各ロッジには世界総本部からの直接司令が送られていたが、
会員の増加にともない各ロッジに評議会が組織され、国ごとに世界本部から独立する傾向が認められた。
1886年には、アメリカでセクションと呼ばれる独立組織が作られた。
セクションは、1888年にイギリスで作られ、以下次のように各国で結成された。
1891年インド、1895年オーストラリア、1895年スウェーデン、1896年ニュージーランド、1897年オランダ、1899年フランス。
以降、評議会を持った独立組織が国ごとに作られる形態が、主流になっていく。
このように、米国神智学会の発展は、組織内部の分裂と並行した事象だった。
世界総本部内でも分裂はみられ、組織の拡大と共に、実務的な権限をオルコットが独占、
ブラヴァッキーは、権限を持たない名誉顧問的な立場に祭上げられたと言われる。
オルコットとブラヴァッキーは共にセイロンで、パンシルと呼ばれるセイロン仏教の得度資格を得た。
1881年オルコットは彼の最大功績とも言われる『仏教の教理問答』(英文)を公刊。
さらに「仏教徒とキリスト教徒は平等に扱われるべきだ」との意見に賛同したオルコットは、
自ら仏教系の学校設立をロンドン政庁と交渉する、などシンハラ族仏教教団のアドヴァイザー的立場にたった。
スリランカにはオルコットの名をとった通りがあり、1967年にはオルコットの肖像を描いた記念切手も発行されている。
一方、ブラヴァッキーは神智学協会に関ったインドのイギリス人の間でも毀誉褒貶があった。
例えばインドで新聞記者をしていたアルフレッド・シネットは、ブラヴァッキーの死後、神智学協会の副会長になる人物だが、
彼が勤務していた新聞に度々ブラヴァッキーについての記事を掲載した事を理由に、新聞者を解雇されることになった。
1885年以降、後のインド国民会議を秘密裏に準備する事になった機関に加わった英国東インド会社員A.O.ヒューム(後にインド提督秘書官に)は、
ブラヴァッキーの事を「詐欺師だと断定できるならいいのだが」と述べながら親交を深めていった。(後にヒュームはブラヴァッキーと決裂する)。
63 :
世界@名無史さん:02/08/07 03:12
あげ
64 :
世界@名無史さん:02/08/12 18:26
>>59 ブラヴァツキー夫人はオカルト人種論も主張しています。
レムリア大陸が沈没した後、アトランティスの「亜人種」から現在の人種の
祖先が出来上がった。
第一亜人種ルモーハル人からクロマニヨン人が、第四亜人種トゥラニア人から
アステカ人が、第六亜人種アカディア人からバスク人が派生し、現人類の
大部分(中国人、マレー人、チベット人、ハンガリー人、フィン人、エスキモーなど)
は第七亜人種に属していると。
そして第五亜人種セム人(現在のセム人とは異なる)からアーリア人が派生したが、
これが第五の根源人種で、つまりアーリア人が進化の頂点に位置する。
さらに第五根源人種は第五亜人種まで進化しており、これがすなわち現在の
ヨーロッパ人のことであると。
ナチスの例でもわかるように、オカルトと人種論は意外に相性がいいようです。
65 :
世界@名無史さん:02/08/12 20:00
>ナチスの例でもわかるように、オカルトと人種論は意外に相性がいいようです。
ブラヴァッキーの人種理論は、人類の霊的進化とか、天界(宇宙?)から来た知性体が人類を進化させたというようなもので、
現代人の考える科学的進化論とは別物です。
例えば、第五根源人種である「アーリア人」にはユダヤ人も含まれる、とか、わけのわからない主張をしていますし、
第一根源人種であるポラリア人(古代ギリシア人が記した極北人)は卵のような姿で手も脚もない、とか
そうい類の主張です。
オカルト的人種論なってそんなもんよ、ってことで。
66 :
世界@名無史さん:02/09/09 04:35
age
67 :
世界@名無史さん:02/09/27 11:40
age
68 :
世界@名無史さん:02/10/02 20:14
ちょっと煮詰まって来たようなのでアンケートをしたいのですが・・・
魔術と科学の境界上にあるor二つがたもとを分けたような
時代・場面、そしてそれを象徴する人物。事件などについて書き込んでやってください。
例えばニュートンやケプラーの話題がでると「動機は魔術的だった」と言われますが
方法論は数学による記述であり・・・などの定義論になりがちですが
一先ず棚上げして列挙してみるというのはどうかなと思ったもので。
69 :
世界@名無史さん:02/10/02 23:45
魔術が科学であったのはいつ頃までなんでしょうかねぇ。
日本では千里眼の実験をしてた福来博士なんかは
オカルトとしてではなく科学として千里眼を研究してたと聞きましたけど。
その当時はX線の発見などが相次いでて人体からもX線に相当するものが
出てるのではないかと言うのが実験の動機だったとか。
博士本人は実験には懐疑的だったのに実験に失敗した途端
マスコミが博士を叩き出してインチキのレッテルを貼られてしまったとか。
この事例なんかはこの時代には既に科学が魔術と決別してたと言う事になるんかな?
70 :
世界@名無史さん:02/10/04 03:05
新参者です。タイトルに惹かれて迷い込んでしまいました。
>>41あたりから始まる「神秘主義(神秘体験)」と「隠秘主義(隠秘学)」に関する
一応の定義付け等の論議を自分なりに理解したつもりで(自信はないですが)、
>>68のアンケートとは少し外れてしまうかもしれませんが、レスさせていただきます。
西欧神秘学(広範な意味で)の多くは、ギリシア・エジプトの古代密儀(グノーシス派・
エレウシス派・オルフェウスの密儀・ディオニュソス密儀・ヘルメス学 等)を起源と
しているが、いわゆる「オカルト・ムーヴメント」全般を見渡してみると、必ずそこには
「神秘体験」を現実に体験したと主張する個人が存在する。
しかし、神秘体験者自身が、自らの体験を主観的に分析する場合は、「科学」とは
なり得ない。ノストラダムスやスウェーデンボルグ(この二人を同じレヴェルにおいて
しまうのは少々乱暴ではあるが…)の場合は、その神秘体験に超時代的な客観的分析を
加えていないので、そのヴィジョンはそれぞれの社会的立場やレヴェルによって、
オリジナリティーに溢れたものとなる(ヨハネの黙示録もこのタイプに属するだろう)。
71 :
世界@名無史さん:02/10/04 03:06
>>68のいう「魔術と科学の境界」に関しては、詳しくないので何とも答えかねるし、
「神秘体験」そのものに関する詳細は、
>>49-58で語りつくされた感があるので、
ここでは、神秘体験を伴わない「神秘学」、神秘主義が「科学」の様相を呈する場合に
ついて考えてみたいと思う。
西欧における古代密儀の教理を、「秘密結社」内で行われるいわゆる「魔術」として
使用するのではなく、「思想」として分析、検討することを試みた最初の人物は、
ピコ・デ・ラ・ミランドラであったと思われる。フィレンツェのプラトン・アカデミー
の自由な気風の中で、若きピコは、多様な知的関心と旺盛な学問的欲求に従って
スコラ哲学やプラトン神学を学んだ後、ヘルメス・トリスメギストスやゾロアスター、
そして<隠された秘儀>「カバラ」の教説のイタリアへの導入を図るのである。
ピコは、ヘブライ語、カルディア語、アラビア語を学習し、カバラが「キリスト教の
信仰の基礎」となるべきものであると主張した。
「キリスト教とユダヤの神秘主義を結びつける試みはピコにおいて始まったのであり、
それは、<キリスト教的カバラ>として、その後のヨーロッパ世界に広まっていく。」
伊藤博明『神々の再生 −ルネサンスの神秘思想』東京書籍 1996年
ブラヴァッキー夫人と「神智学」、グルジェフ、ウスペンスキーなどにおける「近代
神秘学(隠秘学)」思想の根底には、カバラ等の古代密儀の教理をラテン語で紹介した
ピコの一連の書物の影響が色濃く残っている。その意味で、ピコ・デ・ラ・ミランドラ
は、魔術として使用されていた古代密儀の教理を、初めて「神秘学」として体系付けた
人物であるといえるだろう。
名前欄に番号を入れるのを忘れてしまいました。
73 :
世界@名無史さん:02/10/04 06:30
>>69 >魔術が科学であったのはいつ頃までなんでしょうかねぇ。
私は、西欧に関しては、17世紀までは、魔術と科学の区別は曖昧だったと思います。
18世紀にゆったりした移行期間を経て、魔術と科学の分離が確立された、と思います。
主要な画期の目安としては次を考えています。
a)西欧歴史学で聖書のファンダメンタルな読解の基づく創世紀元が否認された。
(ニュートンはこの件に関っている)
b)理神論の確立
理神論=聖書の神は世界を創造したが創造以降は世界は機械的に自律して続く。
(「神の御業のなんとすばらしいことよ」といった思想)
c)啓蒙思想の内での、啓示宗教の否定トレンドが実績を上げる。
a〜cには因果関係があります。
が、歴史の実態では、関連する他のトレンドと絡み合って、論争などがあった。
a→cの推移は、ゆったりしたもので、細かく見れば紆余曲折もあった。
cトレンドが挙げた実績が社会的に認知された段階で、科学と魔術は分離した、と考えます。
追記:個人的には、この段階以降の、メスメリズムや心霊科学などは疑似科学と呼ぶべきだと考えています。
(さらに言えば社会ダーゥイニズムなども疑似科学と呼ぶべきと思いますが、これは話が脱線しかねないので捨て置いてください)
74 :
世界@名無史さん:02/10/06 21:08
75 :
世界@名無史さん:02/10/06 21:14
>>69 何かを探求する際に用いた方法と用いた思想を
分離するようになってからじゃないですかね。
76 :
世界@名無史さん:02/10/09 01:36
デカルトなどの機械論的自然観は?
哲学サイドでは既に16世紀あたりから科学革命が起こっていたと思うのだけど。
77 :
世界@名無史さん:02/10/09 02:27
教会がブルーノを火刑にしたのは機械論的自然観の普及を恐れたからと
聞いておりますが、博識な皆さんの話を聞きたいです。
>>76 私の意見に限って言えば、思想がはじまっても
社会的認知が定着しなければ、科学と魔術の区別も確立しない
的見方です。
で、機械論的自然観も創世紀元の否定や理神論などを経て、科学として社会認知された
だろうと思います。
79 :
世界@名無史さん:02/10/19 20:59
うーん、なるほど・・・
区別の後、いわゆる近代西洋魔術はどのように発展したと思いますか?
GD系などの魔術で世界への探求というベクトルはかなり薄まっていると思うのですが
80 :
カメレオンI世 ◆qBS27nfd8c :02/10/20 17:36
神秘学を語るにあたって、古代の七不思議の内で最高のものであり、「秘儀参入」の儀式の舞台と
みなされていたエジプトの大ピラミッドに関して、これまで詳しく語られていないのは、不思議な
こととさえ思える。ここで、象徴哲学大系I『古代の密儀』マンリー・P・ホール著(人文書院)を
参考に、ピラミッドの謎について検討を加えてみたいと思う。
そもそも、「ピラミッドの秘儀」において、参入者が出会うべき神の名は何というのだろう。
<「密儀」の技術は「啓蒙の賢者」たる「秘密の家の主」によって開棟された。守護霊を知る力が
新しい参入者へ啓示され、肉体を神的媒体から解き放つ方法が説明され、偉大なる業を完璧にする
ために「神名」 −まさにその知識によって人間と神とが意識的に一者とされる「最高神」の秘密の、
口外のできない名前− が啓示された。「御名」を授けられるとともに、新参入者自身がピラミッド
となり、その魂の部屋部屋で他の無数の人間たちも霊的な光明を授かることができることと
なったのである。>『古代の密儀』P197
<イシスの顔と姿は、人間と真理のあいだに立ち塞がる無知と感傷主義の象徴である緋色の布の帳で
おおわれている。イシスは自分の帳を上げて、自分が真の賢い探求者であることを明らかにする。
探求者は自己を離れ、謙虚に、熱心に、世界にあって自分を取り巻く神秘を理解しようとする。
彼女が自らを明かす者は、自分が見た神秘について沈黙を守るように警告される。賢者たちの警告は
「それを知った者は沈黙しなければならない」である。野卑で世俗的な者、不信心で無関心な者に、
彼女は自分の顔を見せることはない。彼らは見えない世界の秘密の過程を理解できないからである。>
81 :
カメレオンI世 ◆qBS27nfd8c :02/10/20 17:37
<『黄金の驢馬』第11巻でアプレイウスは、この女神の力を次のように述べている。「見よ、…私は
汝の祈りに心を動かされ汝とともにある。私は『自然』、事物の親、すべての元素の女王、時代の
最初の子孫、最高の『神性』、死者の霊の王、第1の天人、神と女神の両性を合わせ持つものである。
私は、首をたてに振るだけで天の輝く頂き、海のさわやかな風、地獄の悲しむべき沈黙を支配し、
また私の唯一なる神性を、地球はこぞって多くの形のもとにさまざまな儀式と名前によって崇拝する。
かくして古代フリュギア人は神々の母ペシナンティカ、アッティカ人はケプロプスのミネルヴァ、
海に浮かぶキュプロス人はパポスのウェヌス、矢を持つクレタ人はディアナ・デュクテュンナ、
三つの舌をを持つシチリア人は地獄のペルセフォネ、エレウシスの人々は古代の女神ケレスと私を呼ぶ。
またユノ、ペロナ、ヘカティ、ヲムヌシアと呼ぶ人もある。『太陽』が昇るときその神なる最初の光に
照らされる人々すなわちエチオピア人、アリ人、エジプト人は古代の学問に熟達し、完全にふさわしい
儀式で私を祭り、私の真の名で私を呼ぶ、すなわち『女王イシス』と。」>P204
上記のいくつかの記述から、秘儀参入者が、ピラミッドで出会う「神」の名は「イシス」であることが
推測される。イシスは太陽として象徴化されるオシリスの妻である。オシリスはエジプトの「王」と
なり、臣民に繁栄をもたらし、他の国民をも帰依させるが、彼の兄弟テュフォン(「悪しき者」)の
姦計によって殺害され、冥界の王となる。
82 :
カメレオンI世 ◆qBS27nfd8c :02/10/20 17:38
秘儀参入者の受ける儀式とは何か。それは、ピラミッドの「王の間」で、オシリスの神話に基づいた
「死」の儀式を体験した後、その亡骸を集めた妻イシスの待つ「女王の間」で甦生の儀式を受ける
ことである。しかし、『古代の密儀』P185に付された詳細な大ピラミッドの図を見ると、奇妙なことに
気がつくのである。秘儀参入者が通ったとされる通路、「王の間」からそれより下部に位置する
「女王の間」へ抜ける通路は、実際には存在しないのである。
また、現在、「女王の間」といわれている箇所は、ピラミッドの中心点に位置する「王の間」より
かなり入り口に近い位置にある。「女王の間」の壁には徐々に一点に収束していく石でできた独特の
壁龕があり、それが今は不明の入り口とみなされているようである。
この「入り口」とみなされる通路の奥、「王の間」の真下に、真実の「女王の間」はあるのでは
ないだろうか。さらに『古代の密儀』から引用してみよう。
<もし「王の間」と「女王の間」へ通じる通路がキリスト教時代より数千年前に封鎖されたのなら、
後に「ピラミッドの密儀」参入を認められた者たちは、今は不明の地下の回廊でその伝授を受けたに
相違あるまい。そのような回廊がないとしたら、たったひとつの表入口は枠石で完全に密閉されていた
ことからして、出入りの手段はありえないものとなったであろう。>P187
これらの記述を読むと、ある大胆な推論に行き着く。「王の間」と「女王の間」を結ぶ回廊が封鎖
された後、数千年の長きにわたって、誰一人として「秘儀参入」を果たした者はいないのではないか。
自ら「秘儀参入者」を名乗る神秘家は、サン・ジェルマン伯爵をはじめ数多くいる。しかし、それらの
神秘家が、ある種の「胡散臭さ」を漂わせるてしまうのは何故だろうか。フリーメーソンの入会儀礼は、
ピラミッドの秘儀を真似た、死と再生の儀式である。しかし、ピラミッドの「秘儀の間」が、物理的に
閉鎖されている以上、すべての秘儀は、ピラミッドで行うべき儀式の「象徴」、または「擬似儀礼」に
すぎなかったのではないか。何故なら、「ピラミッドの秘儀」において、イシスと対面することが
できる者は、イシス自身であるはずだからである。「イシス」は未だ世に現れたことはない。
83 :
ジョバンニPM:02/10/22 20:05
朝、テレビの占いを見てから出勤する、という人が(特に女性に)多い。
実際、朝、6時〜8時の番組では、各局それぞれが趣向を凝らした「今日の占い」を
放送している。様々な占いがあるが、最も人気があるのは、「西洋占星術」であると
思われる。しかし、占星術には、何らかの科学的根拠があるのだろうか。
伊藤博明著『神々の再生 ―ルネサンスの神秘思想』(東京書籍)を参考に、
占星術の歴史をたどってみよう。
<古代の占星術を集大成したのは、紀元前2世紀に活躍したプトレマイオスであった。
『アルマゲスト(偉大な書)』という天文学書で有名な彼はまた、『テトラビブロス(四書)』
という占星術大全を残している。その第一の書では占星術の一般的原理、第二の書では
天変占星術、第三および第四の書では宿命占星術が説かれている。ローマ時代に
宿命占星術は盛んとなり、多くの占星術師が活躍するが、やがてキリスト教が帝国の
国教となると衰え始める。古代の占星術はオリュンポスの神々への信仰が基盤と
なっており、当然ながら一神教であるキリスト教と衝突せざるをえない。また、
星辰の運動によって人間の運命が予め定められているという決定論は、人間の自由意志を
制限するばかりか、キリスト教における<奇蹟>を否定するものであった。425年に
東ローマ帝国のテシオドス2世と西ローマ帝国のウァレンティニアヌス3世は、
占星術師を異端者と断じて放逐している。>P257-258
84 :
ジョバンニPM:02/10/22 20:06
キリスト教の西欧支配によって、「占星術」は「古代密儀」と同じく、異端の名のもとに
葬り去られようとしていた。中には、アウグスティヌスのように占星術に興味を示す者も
現れたが、同日同時刻に出生した一家の女主人とその女中の子が、全く異なった境遇を
たどるのを見て、ホロスコープによる予言が的中するのは、術によるのではなく、
偶然によるものであると考えるにいたった。さらに、アウグスティヌスは、エサウと
ヤコブの双子の例を引き、占星術は偶然の産物以外の何ものでもないと結論している。
さらに、『神々の再生』から引用してみよう。
<こうして占星術は歴史の影の部分に追いやられたわけであるが、12世紀に諸学問が
イスラム圏からラテン世界へと移入される際に復活する。プトレマイオスの『テトラビブロス』
は、『アルマゲスト』に先立って、1136年にラテン語訳されている。しかし、この書物に
増して重要であったのは、9世紀に活躍したアラビアの占星術師アブー・マアシャル
(ラテン語名アルブマサル)の著作の翻訳である。主著『占星術入門大著作』は1130年に
ラテン語訳され、同時代および後代に多大な影響を及ぼした。そこには、占星術の
歴史的基礎と哲学的原理、黄道12宮と7惑星の性質と相互の影響関係などが詳しく
記されている>P259
13世紀後半になると、カトリック教会は占星術に対し、改めて猛然と攻撃を開始する。
『禁令集』には、アラビアの哲学的伝統の排除という姿勢が強く見受けられる。
実際、キリストのホロスコープを作成したチェッコ・ダスコリは1327年に異端として
処刑されている。
トマス・アクィナス等、スコラ哲学者や、ペトラルカ、サルターティによって、
占星術は取り上げられるが、その多くは否定的な批判を加えられているようである。
85 :
ジョバンニPM:02/10/22 20:07
しかし、ルネサンス期に入ると、占星術への関心は増大する。占星術の古典的著作は
広く流布し、詩人や文学者の関心を惹くことになる。とりわけ君主たちは占星術師を
重用し、典礼や結婚式の日取り、外交政策や軍事上の戦略まで相談していたという。
ルネサンスの思想家の中で、最も占星術に関心をよせていたのは、マルシリオ・フィチーノ
であろう。以下も同じ『神々の再生』からの引用である。
<フィチーノが星辰の影響を信じていたことは事実であって、その意味では占星術の
紛れもなき後継者であった。しかしフィチーノは同時に、ホロスコープによって、
換言すれば、誕生の際の星位によって、その後のすべての運命が決定することを
認めることはできなかった。彼によれば、いかなる星のもとに生まれたかを認識する
ことは重要である。というのは、人間がいかなる性格を先天的に賦与されているかを
知ることは重要だからである。だが、このことによって人間の意志や行動が限定
されるわけではない。人間は星辰からの悪しき影響を抑制することができるし、逆に
星辰に働きかけることもできる。フィチーノは、この点において従来の決定論的
占星術を乗り越えようとする>P276-277
86 :
ジョバンニPM:02/10/22 20:08
ルネサンス期のイタリアにおいて、最も詳細な占星術批判を行なったのは、ピコ・
デッラ・ミランドラである。再び同書から引用しよう。
<こうしてピコは、星辰にいわば物理的な力の影響しか認めず、地上における諸事物の
作用をそれらの固有の性質から説明する。この点からみれば、ピコの占星術批判は
<科学的>なものと受け取られることもできよう。しかし、ピコによるこの批判の眼目は
別のところにあった。つまり、ピコが占星術を攻撃したのは、彼が『人間の尊厳に
ついての演説』において表明した人間の尊厳を占星術が損なうからである。
占星術は星辰の運動によって個人の運命を占い、星辰の特別な影響を個人の中に認める。
その意味で個人は星辰の支配のもとに拘束され、その力によって強制されている。
他方、ピコが『演説』において語った人間とは、自己の本性と宇宙における地位を
自由意志によって選び取る存在であった。そして、この点に他の被造物を凌駕する
人間の偉大さ、人間に固有の尊厳が存するとされていた。『予言占星術駁論』においても
この見地は維持されている。ピコによれば「地上においては人間よりも偉大なものはなく、
人間においては精神と魂よりも偉大なものはない」(第3巻27章)。もし人間が、
精神と魂の徳によって上方へと赴くならば、天をも凌駕することになる。そして、
今度は物体へと向かい天を仰ぎ見るならば、自分の姿を「蝿よりも小さいもの」として
見ることになるだろう。>P278-279
約500年もの昔に、フィチーノによって科学的検討が加えられ、ピコによって
決定的批判が加えられた占星術が、科学が驚異的進歩を遂げた現代の日本において、
いまだにある種の権威を振るっているのは何故だろう。人は詳しいホロスコープなり
四柱推命なりのデータを欲しがり、そのためには高額な代償も厭わない。
確かに、自らの性格を認識するという意味で、占いは重要である。しかし、それは
植物でいうなら、種はいつ蒔けばよいか、太陽を好む性格のものか、日陰に置くべき
ものか、水はどれほどの量を、いつやればよいか等のマニュアルデータとして
必要なのであり、占星術によって「運命」などを知ることはできないのである。
今、自分の目の前に一冊の書物がある。この本を入手してから10年が経つ。
その間、自分はこの本の内容について、誰にも語ろうとしたことはなかった。
人間の存在を探求する上で、最も重要な書物だと考えたからである。
しかしこの本の読解は容易ではない。何故かというと、62ページの本文に対し、
280ページほどの訳注、解説、文献、索引がついているからだ。
もともとは、演説されたものの草稿であるため、本文はいたって簡単な言葉で
記されている。自分はこの本文を読み終えて、何故、その訳注が200ページ余も
必要なのかわからなかった。おそらく、引用されている言葉の出典があまりにも
多岐に渡っているので、引用部分を明示するための訳注であると思うが、それが
簡明なこの演説の内容を、ひどく難解なものとしてしまっているように思う。
そこで、自分は、あえて、この本文を、自分の言葉(現代日本の標準的な知識を
持つ人には誰でも理解できるような言葉)で、「翻訳」してみたいと思う。
(62ページの本文を20個位のレスにまとめようと思っているが、何日か、かかる
かもしれない)何人の方がこれを読んで下さるかわからないが、これを読み、
理解することのできる方は、パウロのいう「完成された人々」であると信じている。
《「至高なる神性の秘儀」を民衆に公にすることは、聖なるものを犬に投げ与えたり
豚の集まっている中に真珠をばらまいたりすること以外の何ものでもない。パウロは
「完成された人々」の間でだけ自分は知恵を語る、と言っている。これらのことを
俗衆に内密にしておくことは、人間の思慮深さではなく神の掟に属することである》
一冊の書物とは、Giovanni Pico della Mirandola『人間の尊厳について』
大出哲・阿部包・伊藤博明訳(アウロラ叢書:国文社)である。
以下の記述における「私」は、演説者、Picoであると思っていただきたい。
【1】 私は、アラビア人の記録の中で、サラセン人アブダラが、このいわば
「世界という舞台」の中で何が最も驚嘆すべきものであるかと、尋ねられたとき、
人間ほど驚嘆すべきものはないと、答えているのを読んだ。メルクリウスもまた、
《アスピクレスよ、偉大なる奇跡、それは人間である》と言っている。しかし、
これらの意味を考えたとき、私は、これまで多くの人によって提示された、以下の
ような主張には満足できなかった。すなわち、(1)人間はもろももろの被造物の
中にあって、上位のもの(神、天使、星辰)と交わることのできる唯一の者である。
(2)人間は感覚の鋭敏さ、理性の探求力、叡智の光によって自然を解釈するもの
である。(3)人間は「止まっている永劫」と「流れる時」の間に立つものである。
(4)ダビデの証言にあるように、人間は天使より少し劣っているものである。
「最高の驚嘆」という表現を人間に与えるにあたって、上述のどの主張にも私が
満足できなかったのは、これらの理由であるならば、あの天使たちと、天の
至福なる聖歌隊(星辰)の方が、はるかに驚嘆すべき存在となってしまうからだ。
私はついに、なぜ人間が最も幸福な、したがって、あらゆる驚嘆に値する動物で
あるのか、そして、人間が「万物の系列」の中で獲得した地位、獣のみならず、
星辰にも、超世界的な精神(天使)にも羨ましがられる地位の存在であるのか、
ついに理解したような気がする。最も優れた創造者である神は、人間を「他の
いかなる被造物とも異なる像をした作品」として、世界の中央に置き、次のように
話しかけたのだ。
【2】《アダムよ、我々はおまえに定まった席も、固有な相貌も、特有な贈り物も
与えなかったが、それは、いかなる席、いかなる相貌、いかなる贈り物を、おまえ
自身が望んだとしても、おまえの望み通りに、おまえの考えに従って、それを
手に入れ、所有するためである。他のものどもの限定された本性は、我々が予め
定めたもろもろの法の範囲内に制限されている。おまえはいかなる束縛によっても
制限されず、我々がおまえの手に委ねた「自由意志」に従っておまえの本性を
決定すべきである。私はおまえを世界の中心に置いたが、それは、世界の中に
存在するいかなるものも、おまえが中心からうまく見回しうるためだ。我々は
おまえを天上的なものとしても、地上的なものとしても、死すべきものとしても
不死なるものとしても造らなかったが、それはおまえ自身のいわば「自由意志を
備えた名誉ある造形者・形成者」として、選び取る形をおまえ自身が造り出すため
である。おまえは下位ののものどもである獣へと退化することもできるだろうし、
また上位のものである神的なものへと、おまえの決心によって生まれ変わることも
できるだろう。》
【3】人間が、もし、植物的なものを育むなら、その人は植物になるだろう。
もし、感覚的なものを育むならば、獣のようになるだろう。もし、理性的なものを
育むなら、天界の生き物(星辰)になるだろう。もし、知性的なものを育むなら、
天使、ないしは「神の子」になるだろう。そしてもし彼が、もろもろの被造物の
いかなる身分にも満足せずに、自らの「一性(unitas)」の中心へと自ら引きこもる
ならば、彼の「霊(spiritus)」は神と一つになり、万物を越えたところにおられる
父の「孤独な闇」に置かれて、万物の上に立つものとなるだろう。
誰が、人間の中にいるこのカメレオンに驚嘆しないだろうか。あるいは、いったい
誰がこれ以外のものに驚嘆するというのだろうか。アテナイ人アスクレピオスは、
変身し、自分自身を変容させるこの本性を証拠として、「人間は秘儀の内にある
プロテウスによって象徴される」と言ったが、それは全く正当なことと思われる。
また、カルデア人の次の言葉はこのことから出てくるのである。「エノーシュ・
フー・ショーネー・ウェカムマー・デバーオース・バアル・ハイ」。すなわち、
《人間は、さまざまで、多様で、しかも定まらない本性を持つ動物である》
【4】この種の討論全体を、是認しない人々がいる。確かにこのような討論は、
学知を得るためよりは、むしろ才能を誇示し、学識をひけらかすためにある、
と言う人がいる。しかし、是認する人の中にも、こと私に関しては、決して
認めようとしない人もいる。それは、私が、たった24歳の若造であるためだ。
この年齢にして、崇高なキリスト教神学の奥義に関する、哲学のきわめて深遠な
論点に関する、知られざる学問の諸領域に関する討論を、この誉れ高いローマ
において、いとも学識ある方々の集会の席で、しかも、教皇庁において、大胆
にも企てたということに反感を覚えるからだ。また、私が討論することを認めて
いても、私が提出した900の設問について討論することは、決して認めようとは
しない人もいる。彼らは、この企てが、私の力量を超えているばかりでなく、
余計でのぼせ上がった行為だと咎めたてるのだ。
私がこの務めに相応しくないとする人に対して、弁明の手段は難しいものとなる。
何故なら、もし私が、《私は相応しい》と言えば、「節度をわきまえず、自己を
過信する人」というレッテルを貼られ、逆に、《私は相応しくない》と言えば、
「軽率で無思慮な人」というレッテルを貼られるだろう。
【5】また、私が提出した設問の数の夥しいことに憤慨している人もいる。
その重荷を背負うのは私一人なのに、彼らは、この重荷が自分の両肩にかかった
かのように立腹しているのだ。そもそも、この冒険(900の設問に関しての討論)
は、私が屈服するか、やり遂げるか、どちらかしかありえない。もし、私がこの
冒険をやり遂げるなら、設問が10であっても、900であっても違いはないのだ。
彼らが、設問の数の多さを嫌う理由は、以下のごとくである。すなわち哲学者の
諸学派の中のあるもの、例えば、今、最もよく読まれているトマスやスコトゥス
に心酔している人々は、900のうちの幾つかの設問に関しては、自らの教説を
主張することができる。しかし、私は、哲学のあらゆる師匠を介して自己を
形造り、あらゆる「書物の頁」を検索し、あらゆる学派を認識しようと決心した。
もし、私が、一つの教義の擁護者となり、他の教義をないがしろにするなら、
私は、その一つの教義に拘束されることとなる。また、すべての学派を親しく
認識しなければ、すべての学派の中から、固有なものを正しく選択することは
できない。おのおのの学派には、他の学派と共通しない、何らかの注目すべき
点があるからだ。そのため、私はすべての学派について述べねばならなかったし、
それぞれの教義について、多数の命題を提出せざるを得なかったのだ。
【6】さらに、我々がラテン人、すなわち、アルベルトゥス、トマス、スコトゥス、
エギディウス、フランシスコ、およびヘンリクスの哲学だけを論じ、ギリシア人
やアラビア人の哲学者をなおざりにするなら、その議論に何の価値があるだろう。
もし、プラトン主義者たちのアカデメイアが招き入れられなかったならば、
「自然」について論じることに、どんな価値があっただろうか。アウグスティヌス
の証言によれば、「神的なもの」についてのプラトン主義者の教説は、すべての
哲学の中で常に最も聖なるものとみなされていた。
また、もし、ある学派の者が、より真なる条項を主張する者を攻撃し、才能ある者
の正しい考えを、奸計によって失敗させようとするなら、その者は、真理をより
堅固なものとするだけで、虚弱にすることはない。真理とは、扇に煽られて揺れ動く
炎のように、風を受けて燃え立つことはあっても、決して消えることのない光なのだ。
あらゆる学派、あらゆる教義について、検討してみた結果、私は今、ひとつの結論に
到達した。「人間の尊厳」についてのこの命題は、これまで語られたことのない
事柄であり、私の知る限りでは、多くの世紀の後に、今、初めて私によって…
(この言葉のために嫉妬心を起こさないでほしい)、公に提示されるものなのだ。
【7】私は「魔術の諸定理」の中で、魔術(magia)には二通りあることを示した。
一方は、すべて悪霊ども(demones)の業と権威に基づいており、呪われるべき
奇怪なものであるが、他方は、正しく探求される限り、自然哲学の絶対的完成を
促すものである。ギリシア人たちは、これら両方に言及するとき、前者を決して
「魔術」というに値しないと考え、それを「ゴエーテイア(妖術)」と名付け、
後者を、固有で特有な名称によって「マゲイア(魔術)」、いわばゾロアスター教
の祭司「マギ(Magi)」の、完全で最高の知恵、と呼んでいる。
これら二つの術の間には、大きな、決定的ともいえる相違点と非類似点がある。
前者(妖術)は、キリスト教のみならず、すべての国家、すべての法が断罪して
いるのに対し、後者(魔術)は、すべての知者や神的な事象に熱心なすべての
国家が、是認し、慈しんでいる。前者はもろもろの「術」の中で、最も欺瞞的で
あり、虚偽で無益な術であるといえるが、後者は、より深遠で聖なる、信頼すべき
哲学である。前者を知り、行使するものは、常にそれを隠そうとする。何故なら、
それは不名誉と恥辱をもたらすからだ。後者を学ぶものには、最高の輝かしい
名誉と栄光が約束されている。
【8】しかしながら、正しく、聖なる哲学へ導くはずの「マゲイア(魔術)」が、
しばしば「ゴエーテイア(妖術)」と混同されるのは何故か。この二つの術の間
には、何かの共通点があるのではないだろうか。確かに、世界の奥深く、自然の
懐深く、神の神秘の蔵に隠れている「諸々の奇跡の力」には、「諸々の悪しき
力」も含まれる。呪力によって呼び出される、目に見えぬそれらの「力」は、
悪しき術を使う者を隷属し、「悪しき力」の下に屈服させようとするが、正しい
術を使う人間は「悪しき力」の君主となり、「諸々の奇跡の力」の主人となる。
この正しい魔術の権威者についてプラトンに尋ねるなら、彼は『アルキビアデス』
の中で、次のように答えるだろう。すなわち、「ゾロアスターの魔術は《神的な
ものの学問》以外の何ものでもない」と。
プロティノスもまた、ゾロアスターの魔術に言及しているが、「マグス(Magus)」
は自然に仕えるものであって、自然を作る者ではない、と言っている。
【9】では、極めて深い神秘に満ちた、「最も秘儀的なものどもの深遠な観照」と
「全世界の認識」を獲得できるという「魔術」とはいかなるものなのか。…この術は、
ギリシア人がより的確に「シュパテイア(共感)」と言っている「宇宙の共感」を、
その内部深く分け入って探求し、「諸々の自然の相互認識」を洞察して所有し、
各々の事物に備わっている生来の固有の呪力(illecebrae)、すなわち、「マグス
たちのユンクス」と呼ばれている呪力を用いて、「諸々の奇跡の力」を公衆の前に
示す術である。そして農夫が葡萄蔓と楡を結婚させる(蔓を楡に絡ませる)ように、
大地と天を、すなわち「下位のもの」と「上位のもの」の力を結婚させる術である。
始めに述べたように、人間は、この地上のあらゆる存在へと、変化することのできる
自由を持っている。その尊厳と自由は、この「聖なる魔術」を正しく学び、行使する
ことによって、初めて実現するものである。
もし人間が、植物的なものと共感すれば、その人は植物になるし、動物的なものと
共感すれば獣にもなるだろう。もし、星辰と共感すればより理性的なものとなるし、
天使、や「神の子」の知性と共感することも可能である。さらに、神と共感し、
万物を越えた「孤独の闇」に入り、神との合一を果たして万物の上に立つことさえ
できるのだ。
99 :
世界@名無史さん:02/11/16 01:22
沙流べーじ
100 :
世界@名無史さん:02/11/16 07:53
100ゲット
101 :
世界@名無史さん:02/11/16 21:49
おまえら日本人のくせに日本神秘学の歴史は知らんのか?
102 :
山野野衾 ◆W7NDQJtGoM :02/11/16 21:50
>101
どういう分野をお望みですか?
103 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/11/16 22:41
>>101 天武天皇あたりから行きますか。
お母さんの斎明天皇は雨乞いのご祈祷の名手で、僧侶が束になってかかっても
到底敵わなかったと言いますが。
104 :
山野野衾 ◆W7NDQJtGoM :02/11/16 22:46
>103
その辺りが妥当でしょうね。安倍晴明だけが陰陽師という訳では無かっ
た。(板違いですが、リクエストがあったので。)
>>103 やっぱり神道なんでしょうか。
そういえば、道教寺院も建てたとかききましたが、その後どうなったんでしょう。
106 :
世界@名無史さん:02/11/16 23:35
>>101 日本神秘学の歴史は日本史板でやれば?
せめて東洋神秘学にしてよ。
107 :
世界@名無史さん:02/11/17 00:16
>>103 天武天皇は、中国の「陰陽五行思想」などの神秘思想を取り入れ、いわば宗教改革を
したという話を聞いたことがありますが、本当ですか?
>107
彼女じゃありませんが。「天文・遁甲を能くしたまふ」(日本書紀)。
彼が吉野山に入ったのは「抱朴子」に仙道修行の為山に入るべきだと
書かれていた癸未の日でした。
(この調子で東洋呪術で行きますか)
109 :
世界@名無史さん:02/11/17 00:29
神秘学は科学か、という問いは歴史学は科学か、という問いより盛り上がらな
さそう。占星術ってアホなこじ付けらしいじゃないか。
神秘学が科学でないことは明らかであるならば
神秘学は科学か、という問いは盛り上がらないことは
そのとおりでしょう。
でも、歴史的な解釈を行うのであれば、神秘学=科学
といった透過性ではなく、その変遷を見ることに価値があるのでは?
占星術がアホなこじつけと一蹴してしまう前に
たとえば、バビロニアの占星術の中に科学的な観測に基づく
事実の認識の手法があったことを素直に認めるべきではないのだろうか。
でもこのスレも冬枯れなのかな。
>>110 >バビロニアの占星術の中に科学的な観測に基づく
>事実の認識の手法があったことを素直に認めるべきではないのだろうか。
えーと、このスレが科学史や科学思想の歴史のスレならそれもよいかと思います。
が、神秘学の歴史の主題ではそのアプローチは違うように思います。
>神秘学=科学といった透過性ではなく、その変遷を見ることに価値があるのでは?
については反対ではないのですが。
古代に科学的な手法に基づく事実認識があっても、古代の知識体系の内ではそれは現代人が科学的に考えるような解釈とは別様に解釈され機能したはずと考えますので。
なんて言うかな、神秘学から科学が生まれた的な史観で、予定調和論的な調子を持つ整理に落ち着く可能性があって、それはつまらないと思うんですね。(個人的意見ですが)
112 :
世界@名無史さん:02/12/04 19:27
>神秘学から科学が生まれた的な史観
まぁ、その辺も含めて>68みたいな神秘との境界みたいな論点も出ているわけで。
始めから神秘→科学のルートで答を導出しようというのでなくて、
神秘学や魔術の目的そのものが何だったのか整理してみるというのは?
113 :
世界@名無史さん:02/12/04 20:05
>神秘学や魔術の目的そのものが何だったのか整理してみるというのは?
なるほど。
このスレのリソースをみても神秘学の目的というのは整理し難いように思います。
が、魔術の目的の方は検討できるかもしれません。
神秘学の方はどうも総称的に用いられているようですが。
魔術の方は、とりあえず、作業仮説として、古代エジプト・ヘルメスの目的、イスラム錬金術の目的、西欧錬金術の目的などを仮整理し、
その上でさらに詳細検討していくことはできるかもしれません。
予想として「魔術」のサブ・カテゴリを想定しても、それぞれのトレンド間で系譜関係が錯綜していると思われるので、
仮の作業段取りを、上記のように見積もると言うことでどうでしょうか(?)。
うまくすれば、「魔術」トレンド(サブ・カテゴリ)間の系譜関係を仮整理できるかもしれません。
(伝承者達の言う「伝説的系譜関係」を疑問視しながらの整理と言う含みです)
アウトラインを提案しただけではなんなので、仮に古代エジプト・ヘルメスの目的を仮整理してみます。
参照は、荒井献・柴田有、訳『ヘルメス文書』朝日出版社、とします。
荒井によればヘルメス文書とは、
a「紀元前3〜紀元後3世紀頃のエジプトで生まれた文書」であり、
b「エジプトのトート神がギリシア的解釈でヘルメス神と同一視された神格が入門者に知恵を語るという問答形式で記され」
c「内容は、哲学、宗教、占星術、博物学、錬金術、魔術、歴史、薬学、他様々な分野に渡る」とされます。
仮定として、エジプト・ヘルメスの目的を、「エジプトの伝統的知識を、ヘレニズム文化の文化混交状況を踏まえた形式で、なおかつ独自な物として伝えようとしたもの」と考えてみることは許されると思います。
無論、ヘルメス文書の形式で記されたから、エジプトの伝統的知識だと断定することは許されませんが。
仮定として「エジプトの伝統的知識を体系的に伝えようとしたことが目的」と仮定したうえで、他文化からの混入を検討してみるということならば、作業仮説として許されるだろうと思います。
>神秘学や魔術の目的そのものが何だったのか整理してみるというのは?
面白い問題なのかもしれないけど反応が薄いことを考えると
やはり、それは主観的な仮説の羅列を挙げるに過ぎないというおそれが
みなをためらわせているのではないだろうか。
私には神秘学が、目的が最初にあって成立したとは思えない。
この、不可解で不条理な世界をどうにかして認識したいという
人間の情熱が最初に到達し得たものではないだろうか。
個人的には、その絶対的認識を是とする知識体系から
近代的な、合理的事実の認識体系が生じたのか、あるいはそこに断絶があると
してもその断絶を克服し得た人間がいかなる動機でそこへ到達したのか
という点に興味がある。これは、確かに神秘学を中心としたテーマとは成り得ない
かも知れないが、110のいうようにバビロニアの占星術にも事実を科学的に
認識する手段を得ていたという事実?は、一子相伝の絶対的認識と事物の相対的
認識というアンビバレンツが、神秘学の設立当初から存在していたとの可能性を
示しているような気がする。
それから、このスレに出没する非常に博識で聡明でアカデミックな立場から
このスレの範囲を限定されようとしている方に一言だけ良いたい。
非常に勉強になることも多いので感謝していますが、神秘学やこのスレの目的を
規定するような発言をなさるときは、少なくともなぜここでそのような発言を
するべきでないのかを説明する責任があります。
ここはアカデミックな場ではないし、他の領域への拡張もそれをとめる権利は
誰にも無いのでは?
116 :
世界@名無史さん:03/01/03 20:55
皆さんあけましておめでとう。
>私には神秘学が、目的が最初にあって成立したとは思えない。
>この、不可解で不条理な世界をどうにかして認識したいという
>人間の情熱が最初に到達し得たものではないだろうか。
うーん……神秘学の世界の解読という部分にのみ注目する視点のような……
114さんの記述にもあるけど、即物的というか、必要から産まれた技術から
派生したものも神秘学の領域に含まれるといえなくもないと思うし……
>他の領域への拡張
微妙な問題ですね。文献からの引用も含め、厳密に論旨と仮説をコントロールすることで
このスレの流れが出来た気もしますし。
逆にちょっとした話題がぽつぽつ出てくればもそこから別の流れを生むことが出来るかもしれない。
個人的には東洋、日本の流れは興味がありますね。
価値観や宗教観の違う場所で神秘学の対象範囲にどういう現象が入ってくるのか。
117 :
bloom:03/01/03 20:56
決別
(^^)
120 :
世界@名無史さん:03/01/22 15:58
東洋っていうか、中国には神秘学的思想は無いような。
中国の学問全体に言われることだけど、分析より収集列挙が中心だと感じる。
日本も大概そう、かな……?
東洋の神秘学って民俗学の領域なのかもしれない。
123 :
世界@名無史さん:03/02/13 20:51
あげ
(^^)
125 :
世界@名無史さん:03/03/14 14:15
>>15なんかで
>>1が
古代グノーシス、古代新プラトン主義、西欧錬金術、キリスト教神秘主義、
近代心霊主義、隠秘主義者、19世紀的疑似科学、ヨーロッパ神智主義復古者
を混同しているような話でしたがやはり未整理のままかと
つーか1はどこにいったのですか?
ところで神秘学ってどう定義すればいいのでしょうか?
神秘思想のキモは、
「真理は過去において既に確立されていて、
今は失われたので、過去の文献をあさる事で、
失われた知識を取り戻すことが出来る」
という後ろ向きな方法論/観念にある。と思う。
科学は、実験の積み重ねによる未知の真理の探究。
この意味で、所謂錬金術は科学とはいえない。
たとえその実験の成果から偶然的に化学に関する経験的知識を得られたとしても。
と、漏れは卒論に書いた。
127 :
世界@名無史さん:03/03/16 22:17
>>126 うーんと、
>「真理は過去において既に確立されていて、
>今は失われたので、過去の文献をあさる事で、
>失われた知識を取り戻すことが出来る」
これは西欧神秘思想の必要条件ではあるんですけど、十分条件ではないですよね。
一部で「アルカディア思想」(またはアルカディア幻想)と呼ばれるような、
過去に黄金時代があったという発想・確信は
神秘思想以外にもあるし、西欧以外にもある。
例えば古代ギリシアでは神話的表現で、黄金時代、青銅時代、鉄の時代、泥の時代ということが言われた。
中国でも、古に聖人の理想時代があったという理想化はされたわけです。
古代ギリシアの事例の方は、神秘思想とのボーダーと強弁できるかもしれないけれど、神秘思想そのものとは言いがたいと思います。
古代中国の事例の方は、明瞭に神秘思想ではありません。
卒論に書かれたことは、近代西欧の科学思想を主題にした対比においては正しいと思います。
「錬金術は〔実験〕科学とはいえない」というのも賛成です。
が、神秘思想自体を主題にした場合は、ちょっと結論にはならないと思います。
>>125 >ところで神秘学ってどう定義すればいいのでしょうか?
ぶっちゃけた話、現状では「神秘学」なんてのは、一部の無責任な出版社が広めたキャッチフレーズにすぎなくって(苦笑)。
隠秘学=オカルティズムというのはあったし、神秘主義=ミスティシズムというのもあった。
かつ、オカルティズム≠ミスティシズムである。
と言うか、より正確に言えば両者の間にはいくつかの媒介項がはさまり、決して一体に連続した事象ではなかった。
じゃあ、神秘主義の方に「学」にあたる物はないのか?と言えば、
とりあえず教会神学や密教教学がこれにあたる。
しかし、普通はこれらは「神秘学」というフレームではとらえられていない。
西欧に関して言えば、正統教会神学が、排斥しつつ部分的に包摂していった、非正統神秘主義の神学が神秘学のフレームで捉えるに相応しいかもしれない。
こういう観点にたってはじめて「神秘学」の歴史的に有効な定義フレームが構築できるのではないか。
例えば、エックハルトの著作なんか、神秘学と呼ぶ方が相応しい、かもしれない。
後、このスレの流れで出された「神秘学」の定義(候補)に次のような物がありましたね。
要約ですが。
本来、体験智でしかあり得ない、神秘体験に基づく知識を分析的に記述することで知識体系化しようとした学の営み、及びその結果。
129 :
世界@名無史さん:03/04/14 14:53
あげ
(^^)
今「柘榴の園」読んでるんだ。せめて漏れが読み終わるまで沈まんでくれ。
・・それは冗談として、昔の人間の思考を理解するには、いわゆる「神秘学」に対する
理解が欠かせないと思ふ。
もちょっと「神秘学」の定義をイイカゲンにしてもらえませないでしょうか?
歴史的な「神秘学」を語るために。
>131 :例の170 ◆vBOFA0jTOgさん
いわゆる「神秘学」としていつ頃(時代区分)の
何から何まで含めたい意向でしょうか?
個人名でもトレンド名でもあげて見てください。
イイカゲンな定義、というか、広義の神秘学という概念を仮定できるかもしれません(できないかもしれません)
地域は西欧でしょうか?
>昔の人間の思考を理解するには、いわゆる「神秘学」に対する理解が欠かせないと思ふ。
そうですねぇ……、そう言えば私も真剣に考えたことなかったですけど
ホイジンガが『中世の秋』で書いてるような象徴主義と神秘主義は関係あるのかもしれません。
>132
うん、それくらいの設定は必要ですな。
私は出来れば、メソポタミアの占星術〜ナチスのオカルティズム まで含めたい意向です。
神秘思想に国家や社会を動かすほどの力があったなら、いつでも、どこでもお題にしたいですね。
羅列するなら
各国の占星術、儒学(易経)、風水、プラトン主義、カバラ、グノーシス主義、ヘルメス学、数秘術、神智学、近代心霊主義、似非科学
・・・これが限界。
漏れの考える「神秘学」は、あえて定義するなら
”立証”を(知らず知らずのうちに?)否定する学問、あるいは”客観のない理論を積み重ねた学問”
でしょうか。
つまり”学問の皮をかぶった宗教”かと。
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
>>133>”立証”を(知らず知らずのうちに?)否定する学問、あるいは”客観のない理論を積み重ねた学問”
うーん。
では質問をしてみます。
>>131>昔の人間の思考を理解するには、いわゆる「神秘学」に対する理解が欠かせない
「神秘学」を「広義の『神秘思想』」とする限りにおいて、この視点は私は賛成です。
※私の観点を押し付けるつもりはありません。が、こちらの論点を明確化するために書いておけば、
※とりあえずは「広義の『神秘思想』」とは、「本来、体験智でしかあり得ない、神秘体験に基づく知識を分析的に記述することで知識体系化しようとした学の営み」と仮定しておきます。
で、たとえば、古代メソポタミアの占星術という物は、
a)暦法を通じての農耕管理(農時暦)
b)呪術的な予言(占い)
が同じ観測記録の積み重ねと思弁から導かれていたわけです。
これを、「”客観のない理論を積み重ねた学問”」と断じることが
「昔の人間の思考を理解する」ために妥当な前提でしょうか?
私にはそうは思えませんが。
この辺どうお考えでしょう?
136 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/04/21 00:00
>132さん
なるほど、メソポタミアの占星術には暦法も取り扱ってましたね。これは失敗。
しかし、あえて私はその定義を採りたいと思います。
>a)暦法を通じての農耕管理(農時暦)
>b)呪術的な予言(占い)
a)とb)の要素を強引に分離して、a)の要素を合理的な「学問」、b)の要素を非合理的な
「神秘学」と、断じてしまうのは現代人の無理解、野蛮さ丸出しです。この両者はこれが
「生きていた」時代においては不可分だったのですから。しかし、左の強引な分離こそ、
「学問」と「神秘学」を峻別し、ひいては古代人の思考を読みとるための鍵があると思います。
まず、上のように分けることに、大半の現代人は賛成するはずです。そしてそもそも
>>128 などで言われていたように、「神秘学」という概念は現代人が勝手に作り上げたイメージです。
そして、我々現代人には、”合理””非合理”を峻別する事を是とする思考がこびりついています。
そしてその両者を分ける方法は”科学的”かどうかこそが正しいと大半の人間が考えているはずです。
これらのことを踏まえれば、我々が古代人の考えを「神秘学」から読みとるには、あえて「神秘学」
というものを「非合理的な学問」と断じ、その上で、「何故、古代人は”非合理”的な神秘学と”合理”的
な学問を峻別しなかったのか、何故両者が渾然一体になっていたのか」と思考するべきよいかと・・・。
まとめるなら、我々現代人と古代の人間の思考のギャップをしっかりと認め、そしてその上で、
そのギャップの生まれた原因をあらためて探るべき、と考えます。
>>136 なるほど。言われる考え方は理解できたと思います。
>我々現代人と古代の人間の思考のギャップをしっかりと認め、そしてその上で、
>そのギャップの生まれた原因をあらためて探るべき
方法的に「『神秘学』というものを『非合理的な学問』と断じ」てみるという理解でよろしいでしょうか?
私の方では、“神秘学”と呼ばれる類は、もともと非合理なものではあるとは思いますので。
占星術にしろ、神秘思想にしろ、なぜそれが社会的プレステッジを維持していられたか、その社会的事実性のメカニズムを考えてみる、というアプローチに関心があるのですが。
これは、アプローチの方法論的相違、ということで構わないでしょうか?
ただ、申し訳ないのですが、私の方では、古代人の思想を現代人が「”非合理”的な神秘学と”合理”的な学問」に峻別するアプローチに、まだ疑問があります。
別事例に関して質問を重ねさせてください。
古代小アジア〜ギリシア系の密議宗教。
これは、言葉の厳密な意味での「神秘体験」と関係するはずです。
シャ−マニスティックなトランス状態での託宣を中核に据えた儀礼体系を持っていたと思われますので。
で、私が思うには、例えば「古代メソポタミア系の疑似天文学的な占星術」と「古代小アジア系の託宣予言」、この2者を“神秘学”というイメージで単一カテゴリにくくることが妥当とは思えないのです。
なぜかと言えば、まず、
a)密議宗教の方は明白に神秘体験と関係していると思われる、メソポタミア占星術の方が神秘体験と関係しているかどうかは疑わしい。
b)これは予想ですが、双方の言説戦略も異なるだろうと思います。
c)b)の予想の妥当性と関わりますが、社会的なプレステッジを成り立たせていたメカニズムも違う可能性も無視できないと思います。
現代人が峻別することに対する疑問については回答をいただき、考え方は理解できたと思いますが、
現代人が異質なもの−−少なくとも異質かもしれないと疑わしい事象を一括して論じることの危険性については、いかがお考えでしょうか?
138 :
例の170 ◆vBOFA0jTOg :03/04/22 22:59
>132さん
>方法的に「『神秘学』というものを『非合理的な学問』と断じ」てみるという理解でよろしいでしょうか?
いえ、私はその方法はあくまで「いわゆる『神秘学』」を定義するために、便宜上使おうと
考えましていまた。正直「神秘学とは何か」という根元的な問いには(まだ)興味はないと
いうか、そこまで行くのはまだ早すぎると思いまして。
>現代人が異質なもの−−少なくとも異質かもしれないと疑わしい事象を一括して論じることの危険性
確かに危険ではありますが、それでも、まずひとくくりにして論じるべきだと思います。
あえて一緒くたにして論じることで、相互の違いを浮き彫らせて、その上でそれぞれが
異質であることをしっかり認識して、それからそれぞれを全く別のものとして論じるべきかと。
まずは何事もとりあえずやってみないと始まらないという考えでして。
一見さんも欲しいですし(w
>>例の170 ◆vBOFA0jTOgさん
質問への返答どうもありがとうございました。
>>136のお話は、私なりに理解できたつもりです。
>>138のお話は、残念ですが私はよく理解できませんでした。
>何事もとりあえずやってみないと始まらないという考え
――というのはわかるつもりです。
お話をはじめてみてください。
突っ込みを入れることもあるかと思いますが、そのときはよしなに。
あ、そうだ。
>>133>メソポタミアの占星術〜ナチスのオカルティズム まで含めたい
これを一括するのは、歴史的な話題としてはさすがに無茶でしょう。
古代、中世、近世、近代とわけてもまだ大まかな気もしますが。
“(広義の)神秘学”を社会が受け入れるにしろ排斥するにしろ、時代により地域により社会の側のスタンダードが異なります。
>132さん
>お話をはじめてみてください。
正直、まだ足を突っ込んだばかりなのであまり話せるような知識はまだ無いんで、
きっと教えてクンになってしまうでしょうが(m _ _ m)、それで許されるなら
タロット占いについて
14世紀頃イタリアに入ったジプシー達が、当時ゲーム用に流行していたカードを
自分たちの占いに取り入れたのが始まりとされているようですが、このタロット占い、
ヘルメス魔術やカバラの理論に沿って占われているみたいです。そうすると、いったい
どうしてジプシー達はこの知識を手に入れられたのでしょうか。
>東洋の神秘学って民俗学の領域なのかもしれない。
逆に西洋における民俗学っていうのはどの辺りなのですか?
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
age
146 :
世界@名無史さん:03/07/04 10:14
>>141 フレイザーとかかな?
保全を兼ねてage
147 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/07/04 12:21
>>146 柳田國男もフレイザーに面会していますね。因みに彼は南方熊楠と同年
(1941年)に爆死している(いい年でしたが)。あちらの歴史学者
の本を読んでみると(カルロ・ギンズブルクやジャン・クロード・シュ
ミット)けっこうこちらの歴史民俗学と似たようなことをやっているよ
うですが。日欧の文化の共通性には驚かされます。
日本人であちらの民俗を研究してらっしゃるのは栗原成郎・植田重雄先
生あたりが有名でしょうか。私も大学で魔女裁判や夜這いに関する話を
聞いたことがあります。
149 :
世界@名無史さん:03/07/08 13:29
西洋の民俗学が日本より体系化されているように感じるのは、
ひとえに歴史の差なんだろうか。
日本の民俗学って、どうも柳田以後に定義されたって印象があるから。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。
貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。
黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。
(黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。
また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。
「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。)
彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
152 :
世界@名無史さん:03/07/28 10:41
最悪のコンボで保守されてるなぁ……
神秘学と民俗学の示す領域の話とか、もっと聞きたいのでage
153 :
ナポレオン@職場:03/07/28 10:51
>>149 あちらの民俗学というか社会史的分野も、
アナル学派以来のことだからまだ成立して100年たってないですよ。
>>147 私は日本には民俗学の伝統があったことが
アナル学派の日本への浸透が遅れた理由の一つ、
なんてことを聞いたことがありますが。
そのへんどうなんでしょ。スレ違いかな?
というかね、柳田というのは、
一見きわめて日本オリジナル風でありながら、
テーマから、方法論から、もうあっちの方法パクリまくりなの。
似てるのは、柳田民俗学が向こうに、であって逆ではない。
保全あげ
156 :
世界@名無史さん:03/09/01 11:46
>>154 柳田自身がそう言ってるの?
それとも民俗学を勉強した人の中では一般的な見解なのかな。
べつに煽りじゃなくて、俺は比較できるほど勉強してないから、教えてくれると嬉しい
アナール学派や社会史と柳田民俗学は直接の関係なさそうだけどね。
アナール学派が尊重した◎◎をパクったとかいう話ならあるだろうけど。
だって、柳田民俗学は、社会史的な人口構成復元なんて手法使ってなかったでしょ。
少なくとも柳田の頃は。
158 :
世界@名無史さん:03/09/02 14:05
つーか、そもそもナポのいう、
>あちらの民俗学というか社会史的分野も、
>アナル学派以来のことだからまだ成立して100年たってないですよ。
って、ホンマかいな。どーも嘘くさい。
それこそフレイザーとかさ、フランス以外というか英独中心で
十九世紀から民俗学なるものがあったわけっしょ?
もし柳田が影響を受けているとしたら、むしろこっちからなハズ。
ナポのいうことは、フランスローカルの話ジャネーノ?
159 :
世界@名無史さん:03/09/02 18:11
柳田邦夫か
あんま良く知らないんですが
蝸牛論とかの方法は明らかにぱくりですよね
つーか、日本でもやってみたという感じ?
160 :
世界@名無史さん:03/09/03 22:49
>>158 うん。
多分、こーゆーことだろ。
柳田民俗学云々は少々板違いボーダー臭いので、
追及アプローチは選んだ方がいいが。
英、独の一国民俗学と、アナール学派や社会史には、断絶があるだろう、
一括すべきではないだろう、という話。
こっちは世界史板の話題だよな。
民間習俗という対象領域にダブリがあっても、
基礎に人口構成復元を据えた社会史は決定的に異質だし。
民族性なる超歴史的な作業仮説を想定する(19世紀頃は想定していた?)学問と習俗の歴史的遷移を復元するとこも社会史と民俗学は別ジャンルだよ。
もちろん隣接分野だし、どっちが偉いとかって話でもない、とは断っとくよ。
まぁ確かにボーダーっぽい議論だけど、
人がいない民俗板に移って話すのも難しいと思うし、
民俗サイドの話も絡めてここでやったらいいんじゃないかな。
162 :
世界@名無史さん:03/10/08 19:47
いつのまにか民俗学亜話になってるが
まあいいや。あげとく。
163 :
世界@名無史さん:03/10/08 21:56
狂信の深淵な力とは、理論的確信が神秘体験によって限りなく高まるところにある
ルサンチマンによる復讐衝動を神秘学の体得と実践によって歴史に血痕を残す者こそ偉大である
164 :
世界@名無史さん:03/10/08 22:34
知識人どもには信念というものは全くない
あるのは閉鎖的な自慰及びいじましい(学会で認められたい等々)名誉欲だけだ
165 :
世界@名無史さん:03/10/12 02:02
神秘学の歴史学習とは、オナニーのネタではない 学者どもはただの薄汚いオナニストだ
自慰行為に埋没するふぬけた学者どもは死ね
今を生きる私達の実践の原動力となりうる衝動を生じさせるために神秘学を学ぶのだ。
神秘学を学び実践することによってルサンチマンが昇華されてやがて巨大な破壊を生じさせる
ブルジョア知識人どもは、専門知識に閉じこもるいじけた弱いペットであることを自覚しろ
166 :
世界@名無史さん:03/10/25 21:34
第一次世界大戦を起こしたのは、間違いなくフリーメーソン
167 :
世界@名無史さん:03/10/25 21:43
合理主義精神と知識だけで神秘学の歴史を理解しようとするとこのスレに巣食うバカのような見解となる
そもそもシュタイナーごときも理解できないようなアホに神秘学を語る資格などない
やや賞味期限の切れた話題っぽいし、おまけに私は民俗学にも柳田にも疎い人間なんで、
こういう事を書き込むのは気が引けるのだが、柳田による知られざる西洋流民俗学受容
(悪く言えばパクリか?)の話については、少々変則的な形でだが、読んだことがある。
それは英文学者由良君美が「みみずく偏書記」という本の中の「洋物派・柳田国男ーー
偉い人だが、しかし...」というエッセイで柳田学の舞台裏を描いたものだが、ここで
彼は、自分は決して柳田のDebunking(正体の暴露)をやる意図はない、としながらも、
「日本では大変に独創の人として評判がよいが、どうだろう。この人、案外に発想源は
洋物にあって」などと柳田を、由良の贔屓でとかく不当に洋物派呼ばわりされながちな、
南方熊楠と比較しながら、前者(柳田)に対してかなり辛辣な批判をしているのである。
それによると、「不幸なる芸術・笑の本願」は引用例をすべて日本の物に変えただけで、
「ほとんど全部、オスカー・ワイルドの「嘘言の衰頽」の敷き写しなのであ」ったり、
「成城大学の柳田文庫にあるフレイザーの「金枝篇」全巻の余白への書き込みを判読した
人であれば(もとより、これなど泰山の一礫)柳田の発想源は、きわめて明瞭なはずだ」
ったりするらしい。(もちろんこの金枝篇は例の邦訳文庫五冊になる一冊本抄本ではなく
大判全十三巻の原本の方だが、この全編の余白に忠実な要約が書き込まれているという)
私なぞはこんな話を読むと、柳田の勉強量の凄さと(学問的次元での)消化器の強さに
批判より尊敬の念を抱いてしまうのだが、由良に言わせれば「不幸なる芸術・笑の本願」
などは、無理に和文脈にあわせようとしたため、ワイルドの論の深さと広さとを卑俗な
までに矮小化してしまっている、といった容易に看過できない問題もあるらしい。
それと、その辺の流行作家じゃあるまいし、ネタ元を美味く和風に加工することで隠し、
オリジナリティを誇るというのは学者の風上に置けない行為だ、という憤りに加えて、
そもそもあまりに書誌学というものを知らない凡庸な柳田信者に対する深い軽蔑の念が、
書狂としても名高かった由良にはあったのだろうとも思う。
前にも述べたように私は由良の柳田批判の正当性がどの程度の物であるか知らないし、
上の方で154氏が柳田を批判しているのがどういう筋によるのかも知らない。おまけに
私は日本と欧州の文化は深いところで否定しがたい類似性があると思っている方だから
日本のことをやるのにも「洋学」を取り入れるのが悪いわけがないとも思っている。
だがもし「唐心」を否定し「大和心」を無条件に肯定するような人間達が、自分たちの
文化英雄として柳田を持ち上げるなら、これはもう滑稽極まりない姿ではないだろうか。
そういう点からなら柳田のDebunkingは、一度は為されるべき事ではないかとも思う。
170 :
世界@名無史さん:03/11/24 21:41
そろそろ神秘学の話に戻しておめがいage。
173 :
世界@名無史さん:04/02/21 23:58
保守age
174 :
世界@名無史さん:04/04/01 12:06
ヨーロッパの文脈内でも古代から中世にかけての神秘思想と、
近代啓蒙主義に対する反動としてのそれはいろんな点で違いますよね。
それじゃ決定的な相違点はどこでしょう?
あと、他の地域における神秘思想にもやはり古代版と近代版があるのかしら。
175 :
世界@名無史さん:04/04/30 10:23
age
【板名】ハン板
【板のURL】
【タイトル】(_ _)mハン板■反省・自省スレm(_ _)m
【名前】
【メール欄(省略可)】
【本文】↓
普段は「鮮人氏ね」とか言ってるけども…、
・「これはひょっとしたら朝鮮人を馬鹿にすることで優越感に浸ってるだけでは?」と考えてしまうあなた
・朝鮮人が馬鹿な訴訟を起こしたら、以前は火のように2chで騒いだが、最近は「は、またかよ」とやけに冷静な目で見る自分がいるというあなた
・友達間で戦争問題の話になると胸が躍るあなた、そして熱く朝鮮半島の戦後補償の非妥当性を饒舌に語るが、後で考えると単なる自己陶酔に浸っただけか?と考えてしまうあなた
・俺は可能な限り客観者の立場にいる。…気がすると思うおなた
そんな人いませんか?
178 :
世界@名無史さん:04/07/10 06:34
カバラーの成立についてはG・ショーレムが金字塔的論文をものしてるが、
『ゾーハルの書』がイブン・ルシュドも活躍したアンダルスで成立したことからわかるように、
中世のユダヤ教神秘主義には(そもそもキリスト教神秘主義もそうなのだが)
アッバース朝時代の一大ギリシア語翻訳運動の結果現れた一連の哲学的潮流、特にガッザーリーの学問的スーフィズムやスフラワルディーの東方照明学の影響が色濃いらしい。
たぶんこれらの多分に宗教や地域的・時代的なものをまたぐ東方からの思想的影響が今後の内外の研究の課題になっていくみたい。
179 :
世界@名無史さん:04/08/13 19:47
保守
180 :
世界@名無史さん:04/10/10 17:28:25
クリシュナムルティが保守age
ナグ・ハマディ文書をゴミと一緒に焚いてしまった
発見者のオッカチャンに乾杯w
182 :
世界@名無史さん:04/12/29 03:27:27
去年もそうだったけど今年も不毛だったね
ちょっと残念
来年に期待してage
183 :
世界@名無史さん:04/12/29 23:57:53
いろいろ研究したがグノーシスが真理に近いと思う。
闇の中の闇が俺らの生きている世界だ。
やっぱり沈んでいくのか
185 :
世界@名無史さん:04/12/30 17:32:58
原初、海底の深い闇の中で生命は誕生したのだよ。
sage
187 :
世界@名無史さん:
あけおめ保守。