230 :
世界@名無史さん:
入浴の習慣は16〜18世紀あたりのヨーロッパより、
中世ヨーロッパの方が盛んであったと聞いておりますが。
何かの本で読んだ覚えがあるのですが、中世の人は枕元に
チーズやパンを置いておいて、適当に腹が空いたら食べて、
そのまま寝るという話は本当なのでしょうか?
裸or肌着かつ歯磨きと入浴無し、そして食べ物のかずがボ
ロボロと…。
ごめんなさい。HNが残ったままでした…。
漏れはこのスレの1ではありません。
233 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/10/18 21:46
>>230 中世ヨーロッパには風呂屋も公衆トイレもあったという記録があります。
室内で入浴している絵も残ってます。(持ち運びのできる桶です)
風呂屋は梅毒の流行で廃れたらしいとのことなので、いかがわしい店も
あったんじゃ?
>>230 黒死病の影響で、公衆浴場はすたれたとか。
それ以前に、キリスト教的立場からの圧力もあったのでは?
幕末期や鎖国の時に、日本の公衆浴場を見た人達は倫理観
の欠如を感じたようですし。
前スレの最初の方の影響か、中世は不潔だったという説が根強く残っているようだが
少なくとも中世後期(及びそれ以後、十六世紀のある時点まで)はヨーロッパ人も
比較的風呂好きだったのである。ヨーロッパ人の入浴習慣の変遷をおおざっぱに言うと、
(0)古典古代(極めて清潔で風呂好き。ギリシャ人もそうだがローマ人はもっと風呂好き)
(1)中世初期〜十一世紀まで(良くわからないのだが恐らく不潔、入浴の習慣あまりなし?)
(2)十二世紀〜十六世紀のある時点まで(かなり風呂好き、公衆浴場も内風呂もあり)
(3)十六世紀のある時点〜十九世紀半ば(かなり、あるいは極めて不潔、入浴習慣衰退)
(4)十九世紀後半以後(衛生学的見地からの清潔尊重の時代がくる。入浴習慣復活)
ということになる。またその変遷の原因も、
(0)から(1)への変化は都市インフラの崩壊とキリスト教的禁欲の浸透。
(1)から(2)への変化はローマ文化を継承したイスラム入浴文化との十字軍等での接触の結果。
(2)から(3)への変化は梅毒や黒死病の影響と木材高騰や公衆浴場の風俗産業化に対する弾圧。
(3)から(4)への変化は病原菌の発見により、「清潔」の概念が衛生尊重へと変化したこと。
によって、もたらされた言われているし、それも大筋では正しいのだと思う。
例えば(2)の時期において、ヨーロッパ人が比較的清潔で風呂好きでもあった証拠として、
ウラディミール・クリチェクは「世界温泉文化史」(国文社)において十二・十三世紀の
多くの文書記録に公衆浴場に関する記載があることを挙げる(p107)。彼によるとこのころの
多くの都市で市民たちは毎土曜日と祝日には公衆浴場に行く習慣があったらしい。
「デカメロン」でも、物語の語り手の女性達が土曜日ごとに髪を洗う習慣をもっていた
ことが記述されているし、夏だったこともあって、彼らが裾をからげ、冷たい水に足を入れて
はしゃぎまくる、といった場面も描かれている。彼らは決して水嫌いではないのである。
さらにデカメロンの説話部分では、人々が公衆浴場ではなく内風呂を利用している場面
までもが描かれているのだ。例えば二日目第二話でよからぬ旅の道連れに身ぐるみ剥がれて
雪空の下で震えていた商人を内風呂に入れて介抱してくれたのは、その夜、旦那が来るはず
だったので風呂を立てて入ろうとしていたのに急用ですっぽかされた気のいいお妾さんだし、
二日目第四話で「貧しい女」が溺れて冷え切った男を「温かい風呂に入れて摩擦してやり、
それから熱い湯で身体を洗って」やったのも、状況からしてどうも内風呂っぽいのである。
これは物語だけれど、物語というのは大きな嘘はつけるが、生活上のデティールに関する
小さな嘘をつくことは出来ないものである。恐らく当時の現実もそうだったのだろう。
さて問題は(3)の期間である。実はこの時代の正確な実情と言う奴が一番厄介なのである。
たしかに十六世紀の前半から当局により徐々に公衆浴場が閉鎖されていくことは事実だし、
モンテーニュなども彼のエセーで「(古代人は)われわれが水で手を洗うのと同じぐらいに、
しょっちゅう入浴した」(第一巻四十九章)として彼の時代と比較しているのだが、他方で
彼は結石を直すための湯治が好きで「だいたい私は入浴は健康によいものだと思っているし、
毎日身体を洗うという、昔はほとんどの国で守られ、現在でもいくつかの国で守られている
習慣が失われたためにわれわれの健康に少なからぬ損害をこうむったと考えている。また、
あんなに皮膚を垢でかさかさにして毛穴をふさいでおくことが大して体に毒でないなどとも
考えることができない」(第二巻三十七章)という意見の持ち主でもあった。
というか彼の書いていることから、この時代(十六世紀末)においては入浴習慣もまだ
全ヨーロッパ的に廃れていたわけではなかったことが明かである。なるほど公衆浴場なら
徐々に廃止されていったろうが、温泉地における湯治という名の入浴習慣はその後も持続
したし(ただ、瀉血、吸血ヒルの使用、そして血だらけの大浴槽における共同入浴といった
非衛生の極みとも言うべきこの習慣は健康人よりも病人を創り出すことが多かったろうが)
それ以外にも部分浴をも含めた家庭内での入浴は必ずしも全廃されたわけではなかった。
これは微妙な例だが、かつてバートランド・ラッセルが彼の大著「西洋哲学史」において
ライプニッツが吝嗇な人間だったことの証拠として、彼が結婚を控えた娘に対して贈り物
ではなく、有名な格言を書いたカードを贈った、というエピソードを挙げ、その中に、
「夫を確保したからといて、洗うことを止めないように」というものがあったことを
述べている(ラッセルは優れたライプニッツ研究家でもあった)。実はこの場合の
「洗う」には、洗濯の意味だけではなく性行為後の「洗浄」というもう一つの意味があり、
従ってこの「格言」はかなりきわどい内容のものなのだが、そのような局部洗浄の習慣が
存在する文化圏において、はたして「洗う」のが性行為後だけに限られていたのだろうか、
という疑問が湧くのは自然なことだろう。後にビデという独創的な機器を産む生活習慣が
既にここに現れている、と考えるのは、さほどうがちすぎでは無いと思うのだが。
即ち(3)での入浴習慣は地域、階級のみならず個人の嗜好によるものが大きかったのだ。
例えば十八世紀においてもルイ十五世紀のような、ヴェルサイユに近代最初の水洗トイレ
を設置しただけではなく、延べ236もの浴室を作った(自分専用のものだけでも七つ!)
風呂道楽とも言うべき人物もいたのだ。これは盥に湯を汲むのではなく、湯と水のパイプ
が別々にあり、カランから浴槽に注ぐ本格的なものであり、彼の時代には、王も貴族も
夜会や外国使節との謁見の前には必ず入浴して出席するのがマナーだったそうである。