>>199 よく読まなくても
>>196が「暗黒時代」の例として出されたわけじゃないのは
わかるはず。
カキコのタイミングの問題でそう誤解するのはある意味しょうがないかもしれませんが…
って本人がいらっしゃった上によく読んでいなかったのは私の方でしたね…
(「暗黒時代とよばれても仕方がないでしょう。」ってあった)
大変失礼しました
>>199
>200
当時の年代記はいろいろあるけど…
トゥールのグレゴリウス?だったかの、とか。
>196-197
フランスなんて中世どころかオスマン大改造まで(いや、もう少し後か?)
ろくに水道完備してなかったよ。
205 :
世界@名無史さん:02/10/07 04:08
鹿島しげるさんの「自由・平等・清潔」を読むと、
ヨーロッパ特にフランスはつい最近と言ってイイ程まで
一般に衛生観念は乏しかったみたい。
19世紀にならんとする頃ある男爵婦人が「入浴などと言う野蛮な
事は体に良くない」と書いたそうだし。
特に世紀を洗ったりするのはそういう職業に付いてる女だけだったらしい。
それでてフランスなんてオーラル系の行為が好きだったんでしょう?
オエ!!
いや。。。
男爵婦人の指南書は、なんと19世紀末のものだったようで。
また、別の女性はこうも書き残した。
「何はともあれ、一年に四回以上髪を洗ってはいけません。
一年に四回、これで十分です!」
中世から外れたのでさげ
>200
>しかし、もっと古いのって言うと文献あるかな?
>無いから暗黒時代だったりして。
そう。そうです。私もそう書きたかった。というかそう書いたつもり。
トゥールのグレゴリウスなんて例外っすよ。そして数少ない史料のほとんど
すべては彼のような聖職者によるものばかり。結局中世初期研究が、
遅々として進まないのは、まさにこの時代の史料が圧倒的に少ないから。
その史料の信憑性さえ議論されるし。(傍証史料がないから)
名大の某S.S.先生は、昔西洋史学会の部会発表者を、完膚無きまでに
やっつけたけど、決めぜりふは、「使われている史料の信憑性」だった。
どうせいっちゅうーんじゃい。
だから今の学会のはやりは、洋の東西を問わず(って中世西洋史研究における)、
中世末期から近世初期なんどす。
208 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/10/07 16:53
>>199さん
で、私はまた、食事がどーだの、トイレがどーだのって話書きますよ。
これが趣味なモノでして。よそじゃ発散できないんです。
どうぞ。お書き下さいませ。
なにしろスレタイトル、「暮らし」ですからな。
って私が許可することでもないか・・・。
>207
>トゥールのグレゴリウスなんて例外っすよ。そして数少ない史料のほとんど
>すべては彼のような聖職者によるものばかり。結局中世初期研究が、
>遅々として進まないのは、まさにこの時代の史料が圧倒的に少ないから。
だって当時文字書けたのって聖職者くらいだし…。
ほかには考古学っぽいのに頼るしか思いつかない…。
>だって当時文字書けたのって聖職者くらいだし…。
自己レスを引くけど、初期中世においては
>古典ローマ文化を継承し、また当時の宮廷文化を支えていたのが教会
>関係者だったわけ。(199)
と書いた通り、もし当時の史料を使って研究するとするならほとんどの場合、
書き手が聖職者であったことは基本的に大前提です。
私は、史料が少なくそれが聖職者の手による物だから、「中世初期のことは
わかりません」と書いたのではなく、「研究がしにくい」と書いたのです。つまり、情報はあるけど(だからまるでわからないわけではない)、
その情報がどの程度正確か、その史料自体信憑性があるかどうか、
といった史料批判をするのが、それを裏付ける違う立場の人達による史料が
不足しているため、大変難しいわけです。
214 :
世界@名無史さん:02/10/12 21:24
ほしゅ
215 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/10/13 13:05
13〜4世紀のロンドンっ子というのは実に乱暴だったようです。
若い職人や徒弟、まだ奉公にも出ていない子供や騎士見習の少年まで含めて
ムアフィールドという競技場でレスリングや拳闘や弓術の稽古をしたとか。
特に弓は大人の参加者が多かったそうです。
死傷者が出るのはしょっちゅうで、当たり前すぎてほとんど記録にも
残っていないとのことです。
しかし、死人が出ると死因裁判があるので公文書が残っています。
弩の稽古を見物していたウィリアムなる人物に的を外れた矢があたってしまい
落命。矢を射たジョン・バートンは偶発事故でお構いなし。
その他、馬に乗って槍で的を突く競技で馬に踏み殺された少女も
ホッケーをしていて当たり所が悪くて死んだ10歳の少年も、みんな偶発事故。
216 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/10/13 13:14
ロンドン(シティ)とウェストミンスターの若者達は特に仲が悪かったそうです。
1222年のレスリングの試合では、ロンドン側が勝ち、1週間後に再試合が
決められました。ところが、ウェストミンスター聖堂の執事が余計な事をして
味方を武装させたので、ロンドン側は殴られっぱなしで死傷者多数。
怒ったロンドンっ子達は徒等を組んでウェストミンスターに押しかけ
執事の家をぶち壊し、聖堂院長がシティまで苦情を言いにくると馬を捕まえ、
召使を殴り倒し、石を投げて院長様を追い返したとか。
さすがにこのときはただでは済まず、首謀者三人は絞首刑、後何人かは、
手や足の切断刑に処されたとか。
217 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/10/14 17:20
ロンドンでは争い事があると、すぐに武器に飛びつくため、1281年には夜は剣と盾を持って
出歩いてはならないという法律ができましたが何かというと武器(と言っても商売道具)
で戦う習性は中々抜けず、1327年の昇天祭にはシティの馬具師・指物師・塗装工の間で
大喧嘩になり、チープサイドで「男らしく戦い」他の地区や他の商売の人々も参加して
多数の死傷者を出して、やっと収まったとか。
イギリスのフーリガン騒ぎの死傷事故の高さは、この時代からの伝統かも。
イギリスって庶民はこんなに粗野だったんですねえ
219 :
世界@名無史さん:02/10/14 22:55
イギリスにかぎらねぇよ。そして庶民だけでなく、中世の学生の粗暴なことは、
つとに有名だった(はず、確か)。
ところで、細かいことで申し訳ないが、ウェストミンスター聖堂はいいとして、
聖堂院長は、ちょっと気になる。というかなんのことだかいまいちわかりにくい。
おそらく聖堂参事会(canon)の主席司祭(Decan)か、プロープスト(Propst)と思われる。
また、執事もおそらく役職付きの聖堂参事会員のことでしょう。
なぜかしらねど、未だcanonという役職は英国国教会でも残っているので、
もしかしたら普通の辞書にも載っているかも。
まぁ、これはアマノウヅメさんのせいというより、訳した人のせい。
220 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/10/15 13:33
>>219 訳した人のせいです。責任転嫁して悪いけど。
ウェストミンスター聖堂についてはろくに調べてなかったので、間違いがあったら
ごめんなさい。
アマノウヅメさん、
お気を悪くなさったら申し訳ない。
研究対象の一つが聖堂参事会なもので、つい。(大陸だけど)
細かいことは気にせず、じゃんじゃんレスして下さい。
イギリスのフーリガンて何げに金持ちが多いらしい、何せ追っかけには金がかかる。
サッカーのフーリガンでは、矢張り伝統が長いイギリスが最強と言われて居る。しかし
連中も暴徒の極北とも言うべきドイツのフーリガンには一目置いているそうな、インタ
ビュー記事に依れば、彼らはネオナチだけに強いが「紳士」とは呼べないって!。
223 :
世界@名無史さん:02/10/17 22:21
先生、質問です!
中世の人々の衣服類についてかなり疑問。洗濯はどーしてたかとか何着てたかとか
詳しく教えてくれると助かるっす。既出ならスマヌ。
他にも服の生地とか値段とか。清潔さの度合いとか。
麻と毛(ウール)が主体、麻は万年雪から見つかったアイスマンの死体からも
発見されておりかなり古くから使われていた。ウールもローマのトーガ等に
広く使われており、牧畜の始まりと同程度の起源が有るだろう。
>>180 クロちゃんのRPG見聞録はどうでしょう?
ブックオフで結構見かけるので導入としてはいいのでは。
>224
なるほど。で、その麻って繊維の目とかはどんな感じだったのでしょーか。
やっぱ作りが荒かったのかな?
当然初期の麻織物は荒い作りだったでしょうね、ただ歴史が古いだけにきちんとした
衣類も相当昔から作られています。例えば有名な十二単も麻織物でした、辺境の島国
でもそんな昔から出来たのですから、他はおして知るべしでしょう。
詳しくは此方をご覧下さい、此方の説明に依れば麻は紀元前7000年から使用されて
いたそうですから、人類とは実に9000年の付き合いに成ります。
「日本麻紡績協会」
http://www.asabo.com/
NHK教育 10/25 後10・00〜10・45
ドキュメント地球時間「イギリス・16世紀 グルメ王の食卓」
16世紀、イギリス・チューダー朝。2代目の王として君臨した
ヘンリー8世は絶対的な権力を誇示し、贅の限りを尽くした
食生活を謳歌したことで知られる。
番組では、王の食卓にのぼった豪華な食事の数々を細部に
わたって再現する。また、当時の食材の流通経路や食文化など
食にまつわる興味深いエピソードの数々を紹介する。
229 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/10/18 21:08
ウールの服は洗濯が難しいので、ほとんど洗えず、庶民は着たきり雀で、服を脱いで
床に置くとそのまま立ってたと言う話をどこかで呼んだことがあります。
230 :
世界@名無史さん:02/10/18 21:24
入浴の習慣は16〜18世紀あたりのヨーロッパより、
中世ヨーロッパの方が盛んであったと聞いておりますが。
何かの本で読んだ覚えがあるのですが、中世の人は枕元に
チーズやパンを置いておいて、適当に腹が空いたら食べて、
そのまま寝るという話は本当なのでしょうか?
裸or肌着かつ歯磨きと入浴無し、そして食べ物のかずがボ
ロボロと…。
ごめんなさい。HNが残ったままでした…。
漏れはこのスレの1ではありません。
233 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/10/18 21:46
>>230 中世ヨーロッパには風呂屋も公衆トイレもあったという記録があります。
室内で入浴している絵も残ってます。(持ち運びのできる桶です)
風呂屋は梅毒の流行で廃れたらしいとのことなので、いかがわしい店も
あったんじゃ?
>>230 黒死病の影響で、公衆浴場はすたれたとか。
それ以前に、キリスト教的立場からの圧力もあったのでは?
幕末期や鎖国の時に、日本の公衆浴場を見た人達は倫理観
の欠如を感じたようですし。
前スレの最初の方の影響か、中世は不潔だったという説が根強く残っているようだが
少なくとも中世後期(及びそれ以後、十六世紀のある時点まで)はヨーロッパ人も
比較的風呂好きだったのである。ヨーロッパ人の入浴習慣の変遷をおおざっぱに言うと、
(0)古典古代(極めて清潔で風呂好き。ギリシャ人もそうだがローマ人はもっと風呂好き)
(1)中世初期〜十一世紀まで(良くわからないのだが恐らく不潔、入浴の習慣あまりなし?)
(2)十二世紀〜十六世紀のある時点まで(かなり風呂好き、公衆浴場も内風呂もあり)
(3)十六世紀のある時点〜十九世紀半ば(かなり、あるいは極めて不潔、入浴習慣衰退)
(4)十九世紀後半以後(衛生学的見地からの清潔尊重の時代がくる。入浴習慣復活)
ということになる。またその変遷の原因も、
(0)から(1)への変化は都市インフラの崩壊とキリスト教的禁欲の浸透。
(1)から(2)への変化はローマ文化を継承したイスラム入浴文化との十字軍等での接触の結果。
(2)から(3)への変化は梅毒や黒死病の影響と木材高騰や公衆浴場の風俗産業化に対する弾圧。
(3)から(4)への変化は病原菌の発見により、「清潔」の概念が衛生尊重へと変化したこと。
によって、もたらされた言われているし、それも大筋では正しいのだと思う。
例えば(2)の時期において、ヨーロッパ人が比較的清潔で風呂好きでもあった証拠として、
ウラディミール・クリチェクは「世界温泉文化史」(国文社)において十二・十三世紀の
多くの文書記録に公衆浴場に関する記載があることを挙げる(p107)。彼によるとこのころの
多くの都市で市民たちは毎土曜日と祝日には公衆浴場に行く習慣があったらしい。
「デカメロン」でも、物語の語り手の女性達が土曜日ごとに髪を洗う習慣をもっていた
ことが記述されているし、夏だったこともあって、彼らが裾をからげ、冷たい水に足を入れて
はしゃぎまくる、といった場面も描かれている。彼らは決して水嫌いではないのである。
さらにデカメロンの説話部分では、人々が公衆浴場ではなく内風呂を利用している場面
までもが描かれているのだ。例えば二日目第二話でよからぬ旅の道連れに身ぐるみ剥がれて
雪空の下で震えていた商人を内風呂に入れて介抱してくれたのは、その夜、旦那が来るはず
だったので風呂を立てて入ろうとしていたのに急用ですっぽかされた気のいいお妾さんだし、
二日目第四話で「貧しい女」が溺れて冷え切った男を「温かい風呂に入れて摩擦してやり、
それから熱い湯で身体を洗って」やったのも、状況からしてどうも内風呂っぽいのである。
これは物語だけれど、物語というのは大きな嘘はつけるが、生活上のデティールに関する
小さな嘘をつくことは出来ないものである。恐らく当時の現実もそうだったのだろう。
さて問題は(3)の期間である。実はこの時代の正確な実情と言う奴が一番厄介なのである。
たしかに十六世紀の前半から当局により徐々に公衆浴場が閉鎖されていくことは事実だし、
モンテーニュなども彼のエセーで「(古代人は)われわれが水で手を洗うのと同じぐらいに、
しょっちゅう入浴した」(第一巻四十九章)として彼の時代と比較しているのだが、他方で
彼は結石を直すための湯治が好きで「だいたい私は入浴は健康によいものだと思っているし、
毎日身体を洗うという、昔はほとんどの国で守られ、現在でもいくつかの国で守られている
習慣が失われたためにわれわれの健康に少なからぬ損害をこうむったと考えている。また、
あんなに皮膚を垢でかさかさにして毛穴をふさいでおくことが大して体に毒でないなどとも
考えることができない」(第二巻三十七章)という意見の持ち主でもあった。
というか彼の書いていることから、この時代(十六世紀末)においては入浴習慣もまだ
全ヨーロッパ的に廃れていたわけではなかったことが明かである。なるほど公衆浴場なら
徐々に廃止されていったろうが、温泉地における湯治という名の入浴習慣はその後も持続
したし(ただ、瀉血、吸血ヒルの使用、そして血だらけの大浴槽における共同入浴といった
非衛生の極みとも言うべきこの習慣は健康人よりも病人を創り出すことが多かったろうが)
それ以外にも部分浴をも含めた家庭内での入浴は必ずしも全廃されたわけではなかった。
これは微妙な例だが、かつてバートランド・ラッセルが彼の大著「西洋哲学史」において
ライプニッツが吝嗇な人間だったことの証拠として、彼が結婚を控えた娘に対して贈り物
ではなく、有名な格言を書いたカードを贈った、というエピソードを挙げ、その中に、
「夫を確保したからといて、洗うことを止めないように」というものがあったことを
述べている(ラッセルは優れたライプニッツ研究家でもあった)。実はこの場合の
「洗う」には、洗濯の意味だけではなく性行為後の「洗浄」というもう一つの意味があり、
従ってこの「格言」はかなりきわどい内容のものなのだが、そのような局部洗浄の習慣が
存在する文化圏において、はたして「洗う」のが性行為後だけに限られていたのだろうか、
という疑問が湧くのは自然なことだろう。後にビデという独創的な機器を産む生活習慣が
既にここに現れている、と考えるのは、さほどうがちすぎでは無いと思うのだが。
即ち(3)での入浴習慣は地域、階級のみならず個人の嗜好によるものが大きかったのだ。
例えば十八世紀においてもルイ十五世紀のような、ヴェルサイユに近代最初の水洗トイレ
を設置しただけではなく、延べ236もの浴室を作った(自分専用のものだけでも七つ!)
風呂道楽とも言うべき人物もいたのだ。これは盥に湯を汲むのではなく、湯と水のパイプ
が別々にあり、カランから浴槽に注ぐ本格的なものであり、彼の時代には、王も貴族も
夜会や外国使節との謁見の前には必ず入浴して出席するのがマナーだったそうである。
239 :
世界@名無史さん:02/10/20 21:26
ケビン・コスナー主演の「ロビン・フット」は比較的、時代考証を真面目にやった映画らしい。
(時代は十二世紀末のイングランドですな。)
それを見ると、当時の農民は藁ぶきのテントのような家に住んでいたようにみえる。
(調べてみると当時はそんなものだったらしい。)
実を言うと、これとほぼ同じ構造の住居は昔の日本にもあった。
そう、「縦穴式住居」である。
十三世紀頃までは、こういった住居が(イングランドでは)一般的だったようだ。
(寒冷地ではけっこう合理的な建築物、と日本の考古学専攻の学生に小一時間…。)
一方、大陸では一般的なイメージの家屋が普及していたようであるが、作りそのものはかなり粗末なものだったようだ。
(窓ガラスの普及は、・・・近世以降の事でしょうな。)
パン焼窯と水車小屋は、領主が「使用料」を取る為に独占していた事も少なくないので、一般家庭にはカマドがあったくらいであろう。
尚、「縦穴式」の場合はイロリ型のようだ。
(ケルト系&/orゲルマン系がイロリ型で、ラテン系がカマド型になるのだろうか?)
240 :
世界@名無史さん:02/10/20 22:26
欧州各地を日本やその近辺に持ってきて、緯度の比較をしてみよう。
南仏マルセイユと札幌は、ほぼ同緯度。
フランス、ドイツは、北海道北部から樺太とほぼ同緯度。
大ブリテン島は、カムチャッカ半島とほぼ同緯度。
中部以南のイタリア辺りはともかく、他の地域は(海流の関係で温暖だとは言え)農業で生計を立てようとするには絶望的な緯度である。
麦の種1につき収穫が2〜3というのは、当時の未熟な農業技術だけが理由では無く、緯度の問題も多分にあると思われる。
中世盛期といわれる十三世紀は比較的温暖な気候であった為、収穫量は二倍近くになっている。
(最近の日本では1993年の冷害による不作があるが、この年の収穫量は江戸時代の大飢饉と呼ばれた年のものと比較してもそう大きな違いは無い、といわれる。
ちなみに、この1993年でも米の種1につき10程度らしい。
これと比較すると、やはり当時の欧州の収穫量は絶望的な数値といわざるをえない。)
農業技術の未熟さもあったであろう。
『種まく人』等で有名なミレーの絵画は、十九世紀半ばのフランスの農村風景を描いたものと言われる。
あのような種の蒔き方で植物がまともに育つかどうかは、現代では小学校の理科の問題である。
これ以前は、推して知るべし、であろうか。
241 :
世界@名無史さん:02/10/20 23:15
>>240の続き
農業に活路を見いだせない以上、他が重点的になってくる。
酪農や漁業がそれに当たる。
(北海のニシン漁は現代でも盛んである。
また、テームズ川のウナギは、当時のロンドンの人々にとっては「食い飽きたもの」の代名詞のような扱いにもなっていた。)
緯度的に針葉樹林帯が主である以上、自然のものを採集するということは難しい。
(実のなる木は少ないから。)
それでも、フランスのビスケー湾付近の地域ではクリやドングリが主食になっていた時期もある、という資料もあるので地域によっては可能だった場合も考えられる。
搾乳は牛よりも羊や山羊が主体であった。
現代のホルスタイン種では、一頭につき一日に30リットル強の牛乳が生産可能であるが、当時のそれは現代のものの六分の一程度だったというから、仔牛の分だけで余剰はほとんど無いであろうと思われる。
(山羊の乳と乳製品だと「アルプスの少女ハイジ」の世界ですか?
まあ、アレは十九世紀末から二十世紀初頭の時代設定ですが。)
余談ではあるが、羊は自らの尿を飲む。
塩分の確保が難しい地域でも生存可能な動物であるが故の習性なのであろうが、肉や乳がアンモニア臭くなるのは…。
242 :
世界@名無史さん:02/10/20 23:17
>>240 あのー、大陸性気候の日本と海洋性のヨーロッパを緯度を基準として
気候と農業を比較するのはちょっと無理があるかと..
北海道は気候区分では冷帯に属し、ヨーロッパでは北欧に近い。
北緯 都市名 年平均気温 最寒月の平均気温 最暖月の平均気温
43 釧路 5.7度 −6.1度(1月) 17.8度(8月)
59 ストックホルム 6.5度 −3.0度(2月) 17.1度(7月)
43 札幌 8.2度 −4.6度(1月) 21.7度(8月)
55 コペンハーゲン 8.7度 0.6度(1月) 17.2度(8月)
43 マルセイユ 14.5度 6.4度(1月) 23.7度(8月)
34 大島 14.8度 6.0度(2月) 24.5度(8月)
1997年版理科年表(国立天文台編より)
>>242 おおっ、ツッコミ感謝(笑)
気温も関係あるが、日照の問題もあるのでこのようなものを持ち出した次第。
(一応、「海流の関係で云々」と言い訳は書いたつもりだが。)
日本でも北海道と東京では「陽の強さ」が違いますな?
野の草の伸び方は、それらの要因も無関係では無い。
「稲作」の北限が北海道やフランス南部というのは、単に気温だけの問題では無いと思うが、さて?
244 :
世界@名無史さん:02/10/23 02:06
>>90 木造の教会建築は、10/13夜のTBS「世界遺産」でも放映されてた。ロシアの。
ほほう。これが噂のNHK板ヨーロッパの古城スレ軍団の面々ですか
>>240 11世紀の農業革命を無視してませんか?
小麦の収穫量の少なさは最初期のメソポタミアからそんなものだったはず。
247 :
世界@名無史さん:02/10/23 04:47
中世ヨーロッパで栽培可能だった植物を教えてくれるとすごい助かる。穀物だけで
なく果物とかも。
リンゴってあったよね?
248 :
世界@名無史さん:02/10/23 07:59
>>247 ヨーロッパっても広いんだから地域を指定してくださいよー
249 :
世界@名無史さん:02/10/23 10:52
3
250 :
世界@名無史さん:02/10/23 11:03
>248
えーと、西側諸国? それくらいで頼んます。
麦以外に何食ってたとか。
251 :
世界@名無史さん:02/10/23 12:16
農業革命後、13世紀で3〜4倍・・・ 麦って効率悪いねぇ。
山間や海岸近くなんかで、ほんの2、3坪くらいしかないところに
田んぼが作られていたりするけど、米を作れる地域じゃできるだけ
米を作ろうとするわけだ。
252 :
世界@名無史さん:02/10/23 14:21
生長の傍系右翼団体の末端構成員は
毎月新聞代やら書籍代・その他練成会合宿費用
その他でいくら教団に貢いでることか
喪家その他と同様、書籍・機関紙代だけで
月5、6万になるとも聞くが
生長系の右翼団体には青少年が多いって話だけど、
そんなフリーターみたいな生活してる人たちが
そんだけ貢いでたら生活苦しくないわけがない
団体の親方は連れて来た構成員が教団に払う
会費・書籍代からいくらバックがあるのかしらんが
街宣ならぬ一日中パソコンに張り付いて
本の宣伝をしたりコピペを貼ってる末端には
果たしてどんな明日があるのやら
>>247 とりあえず大航海時代まではジャガイモ、トマト、トウモロコシはなかったよね。
254 :
世界@名無史さん:02/10/23 20:15
そうそう。確かジャガイモは新大陸で、トマトは……南米だっけ?
そう言えばこないだ中世ヨーロッパものの小説読んでて、作中にイモが出てきて笑った。
時代考証は大事だねー。
カボチャは……なかったか。大根はあったっけか?
>>246 ツッコミ感謝(笑)
十一世紀のそれは、実質的に「連作障害の排除」というもので、収穫量の増加は微々たるものである。
(それでもかなり重要。)
収穫量の増加は、十五世紀頃のもので八倍程度。
十八世紀以降は十倍を越えるようになる。
意外と知られていない事実だが、十九世紀半ばに日本や中国から農業技術、器械類が輸入された後、収穫量がかなり増大した。
(東洋の方が農業先進国だった、ってこれはスレ違い。スマソ)
尚、中世の「穀倉地帯」はポーランドで彼の国の主要輸出産物だったが、収穫量は他の地域と変わりはない。
しかし、二圃制だった為に十六世紀以降収穫量は激減。
(連作障害によるものらしい。)
古代を例に取れば、ローマ帝国の属州となっていた地域でも、地中海沿岸の中東やエジプト等は小麦等を納めていた模様。
確とした資料は乏しい(スマソ)が、それらは二十倍から三十倍程度の収穫量はあったのではないかと推測されている。
(中世欧州の場合、教会の十分の一税の関係で僧侶らが収穫量の記録を残した模様。)
>>246 主なものは、だいたい以下の通りかと。
尚、十七世紀以前のアルプス以北の地域では、夏と冬の二つの季節だけ。
(四季ならぬ二季が一般的だった模様。)
冬蒔きの麦 小麦 ライ麦 大麦
夏蒔きの麦 燕麦 大麦
他の農作物 豆類(空豆、エンドウ豆、レンズ豆)
亜麻 麻 油脂植物類(なずな、ケシ等)
野菜類 蕪 ラディッシュ セロリ 人参 キャベツ
玉ねぎ 各種薬味用植物 (東部で)キュウリ
(後期以降)レタス ホウレン草
(資料によっては、カボチャも有り)
果樹 ブドウ リンゴ 梨 プラム 胡桃 栗
(資料によっては、サクランボも有り)
イチゴが大粒のものになるのは近代以降で、
それ以前は、小粒の野イチゴ
ブドウはワインの醸造に不可欠だが、北欧では栽培不可能だった為、ワインは輸入に頼っていた。
何故、輸入してまでワインを必要とするのか?というと、教会のミサ(儀式)で必要だから。
257 :
世界@名無史さん:02/10/23 23:12
>>256のつづき(というか、書き忘れ 藁)
欧州のような寒冷地では『養蜂』も盛んで、事実上唯一の『甘味料』の採集方法だった。
(砂糖は温暖な地方の栽培植物『さとうきび』から作られるものなので、高価な輸入品であり、庶民が口にする事はほとんど無かったであろう。
値段は、砂糖>>>>>>>>>>>ハチミツ。)
蜂蜜からは、蜜酒、蜜蝋(高価なロウソク)も作られた。
(蜜酒は飲んでみた事あるが、…。
まあ、ウマイ酒なら現代でも有名な輸出品になっていただろう、という事で察してくれ。)
ちなみに、安いロウソクは動物の油脂から作られた『油脂ロウソク』。
でも、庶民にはこれでも高価なもの。
確かメソポタミアの古代王朝では筋蒔き農法のお陰で、中世ヨーロッパより
収穫が多かったんじゃ無いか?5倍くらい違っていたそうだが。
259 :
世界@名無史さん:02/10/24 00:44
>>258 だいたい播種量の50〜100倍の収穫があったそうだ。
良くて5倍程の収穫量だった中世ヨーロッパの10〜20倍の生産量になる。
ヘロドトスは例の如く300倍という数字をあげているけどね。
260 :
山野野衾 ◆W7NDQJtGoM :02/10/24 00:49
>259
今でも50〜100倍なんて出せない。何か技術か環境面で恵まれた
点があったのでしょうか。
261 :
世界@名無史さん:02/10/24 00:52
>>259 でも塩害でどんどん収穫量が下がっていったんだよね。
特に塩害に弱い小麦から大麦やナツメヤシ中心に変わっていった。
262 :
世界@名無史さん:02/10/24 01:04
ナツメ食べてみたい
263 :
世界@名無史さん:02/10/24 01:06
現在の収穫量が少ないのは知らないけど、
前24世紀のラガシュの記録では76.1倍となっている。
漏斗状の特殊な条播器を使って幅を広くとった溝に一定幅で条播したとか。
264 :
世界@名無史さん:02/10/24 05:20
>256・257
ものすげえ感謝。超助かる。ウルトラやっぴー! と叫びたい(訳わからん)。
なんにせよ、非常にありがたい。
しっかしろくなもん食べてなかったのだな……中世の人間は。
トウモロコシって新大陸からだっけ?
>264
yes. とうもろこし・じゃがいも・トマト。
266 :
世界@名無史さん:02/10/24 17:16
>>257 油脂ロウソクのなかでは羊脂製がいちばん上等だったらしい。
次が牛脂製。一番数の多い豚脂製は燃やすと嫌な匂いを放つために
嫌われていたそうだ。
ちなみに今と違い、芯は燃えても黒コゲになって残るので
芯切りバサミは必須。
>>256 >>257の補足、追加
上はフランスとかドイツのもの。
南欧だと、オリーブが加わる。
オリーブオイルは、古代から地中海名産品?だったし。
果樹類だと柑橘系が加わる。
オレンジ、レモン、ライムとか。
逆にリンゴとかは少なくなるはず。
イチヂクあたりもあってよさそうだが…。
梨は無論ヨウナシ。
リンゴは果実を食う場合も多いが、リンゴ酒(シードル)の材料としても使う。
「薬味用」と書くよりは「ハーブ類」と書いた方がわかりやすかったか。
肉の臭い消しとか、色々な用途に使われていたはず。
栽培していた種類はいちいち書いてられない位多い。
ハーブ関係の本でも読んでくれ。
>>259 漏れの資料はヘロドトスの記述を十分の一にしただけかも。
意外とこれはこれで正解のような気もする。(藁)
>>261 古代からの潅漑の技術が失われてから塩害が出てきた模様。
モンゴル軍が破壊したとかいうが、単に悪い事は全部モンゴルの所為にしているような。
壊れても修理すれば良いような気がするが、修理再構築の技術も失ってしまったんだろうかね。
資料の図面だと地下何層にもなった潅漑施設だったが。
>>264 礼には及ばぬ。
こんなもん何に使うのかそっちの方に興味アリ。(藁)
日本人にとって一番解りづらいのが、当時の「徴税請負人制度」かな。類似した制度が身近に無い/無かったから、理解しづらい事この上無い。
大抵は、イタリアの商人達がこの「請負人」として活動していたようだが、本来は「商人組合」とか大手の「会社」の「社員」として、商取引の為に派遣されていただけだった。
その彼らが「徴税請負人」となったのは、やはり各地の封建領主との取引を通じて、その御用商人となってからだろうか。
領主ジャイアン「というわけで、今度野球のチームを作ることにした。
場所とか道具とか用意しろよ。」
商人スネ夫「はい。球場とかユニフォームとかですね。
で、代金はどうしましょう?」
ジャイアン「そうだな、のび太の小遣いとお年玉を5年分でどうだ?」
スネ夫「わかりましたー。」
スネ夫「というわけで、お前達の小遣いとお年玉5年分はボクのものになった。」
農民のび太(複数)「ええっ!?」
スネ夫「文句言うな。ジャイアン様の許可証もあるんだからな。
わかったら、さっさと並んで出すもの出せ。」
渋々とならんでスネ夫に金を払うのび太(たち)。
のび太「ううっ(TT) これじゃ何も買えないよー」
スネ夫「そうか、お前もかわいそうだな。」
優しいスネ夫の声に、一瞬、のび太の目が輝く。
スネ夫「お金、貸してあげるよ。利子は月一割ね。」
スネ夫に小遣いを巻き上げられた上に借金までさせられたのび太(たち)に僧侶出来杉が声をかける。
出来杉「大変だったね。ところで今日は教会の十分の一税の支払日なんだけど…。」
つづく、かも。
269 :
世界@名無史さん:02/10/25 00:27
続けろ。ってーか続けてください面白いから。
270 :
世界@名無史さん:02/10/25 11:05
おもろい。age
271 :
世界@名無史さん:02/10/25 11:06
続きまだー?
>>268 のつづき???
領主ジャイアン「今度はアメフトのチームを作って、NFLでローズボールを目指すことにした。」
商人スネ夫「あのー、確かローズボールは大学リーグの方で…」
ジャイアン「なにぃ!おまえ、オレ様の言うことにケチつけんのか!?」
と、言うよりも先に殴り倒されたスネ夫。
スネ夫「あー、いえいえそんなことないです(TT)」
ジャイアン「ふん、わかればいい。」
スネ夫「で、代金の方は?」
ジャイアン「ん?この前ので足りるだろ。」
実は、前からかなり多めに取っていたスネ夫だが、
スネ夫「というわけで、今回から負担金が増える。いいな!」
農民のび太(たち)「ええっ!そんなぁ」
スネ夫「のび太のくせに文句言うな! さっさと並んで出すもの出せ!」
渋々と並んで金を支払うのび太(たち)。
スネ夫「なにぃ、これしかないだと!?」
バシバシとのび太を棒で打ちつけるスネ夫。
のび太「ああっ、ごめんなさいごめんなさい(TT)」
スネ夫「ふん、仕方無いな。
今回はこの前の利子だけにしてやるから、このボクに感謝しろ。
そのかわり、今度の支払いは倍になるんだからな!」
のび太「ううっ、ありがとう、スネ夫くん。」
スネ夫にまた小遣いを巻き上げられた上に、更なる借金を背負わされて、ケガまでさせられたのび太(たち)の前に…。
僧侶出来杉「やあ、のび太くん。今日は教会の十分の一税の支払日なんだけど。」
のび太(たち)「ええっ、この前払ったはずじゃ?」
出来杉「やだなぁ、この前のは『お小遣いの十分の一税』だよ。
今日は『おやつの十分の一税』の日なんだ。
中身も色々さ。『どら焼の十分の一税』とか『ドーナツの十分の一税』『ケーキの十分の一税』…」
つづく、でいいのか?
ガイシュツカナ?
ベギナージュについて、修道院とは違うとの事ですが、
解釈の相違はあるだろうけど、未婚の女性ばかりを集め完全自給自足生活を目指し
たベギン会。
云ってみればこれは現代のヤマギシズムみたいなモノですかね?
と、書いたには書いたが中世欧州サパーリ。
これを機会に覚えようかな。と。
十字軍で借り出された旦那の後家さん達が集まる街ベギナージュ
275 :
世界@名無史さん:02/10/26 18:31
ベギーヌ(beguine)13世紀頃オランダに発する乞食僧団べガールの尼僧
を意味するが、本来は部屋に籠もって祈りに耽る熱心な宗徒であった。いつ
のころからか托鉢の代わりに男の袖を引いたりするようになった。
*及川茂訳『夜のガスパール』訳注より引用
所詮は一発ネタではあったが、当時の人間関係は大体把握できたのではないかと思う。
というか、問題は人間関係ではなく「徴税請負人制度」だよな。
ただ、配役の関係でああなったが、現実は僧侶もジャイアンやスネ夫だった場合が多々あった、という事は明記しておかなくてはならないだろう。
何故なら、当時最大の金融業者(&高利貸し)とは、ユダヤ人でも無く、イタリア人でも無く、ローマカトリック教会だったりするからだ。
高利貸しを非難しながら自ら高利貸しを行う。
なんと素晴らしいダブルスタンダード。
権力者とはかくあるべきである、という見本市のような世界がそこに存在していた。(笑)
(自分以外の「同業者」が非難対象になるのだね。>教会)
当時の通過単位
(ローマ帝国の貨幣単位の名残ですな。)
1デナリウス(最小貨幣、銀貨 ペニー ペニヒ 単位d)
重さ約4g程度、銀含有率は各地によって異なるが1g程度。
1ソリドゥス=12デナリウス(通常この単位の貨幣は無い)
(スー シリング シュテーバー 単位s)
1リブラ=20ソリドゥス=240デナリウス(この貨幣も無い)
(リーブル ポンド マルク グルテン 単位£)
主要通貨
リューベック貨=マルク バルト海沿岸、中欧、東欧
ライン貨=ソブリン ライン河沿岸
パリ貨=リーブル フランス イングランド
ジェノヴァ=ジェノビーノ金貨
フィレンツェ=フィオリーノ金貨
ヴェネツィア=ダカット金貨
(貨幣レートは時代々々により大きく異なる。)
イタリア各都市の金貨はソリドゥスに相当。
他は最小貨幣のデナリウスに相当。
要するに、「小銭」しか存在しない世界。
(十万円を全部十円玉にしてみるとかなり重いぞ。(笑))
一般市民や農民が使用する際は、貨幣を割って使うことも多かった。
(半分に割ったり、1/4に割ったり。)
278 :
世界@名無史さん:02/10/27 20:41
勉強になります。
279 :
世界@名無史さん:02/10/28 20:48
ルーブルは?
280 :
世界@名無史さん:02/10/29 17:10
age
>>279 1)ルーブルって言やぁ、パリの美術館だよね。
と、ボケで返してみる。
2)ロシアに関しては手元に資料が無いので、申し訳無いが憶測でしか語れない。
正教会なので東ローマ帝国の通貨を使用していた可能性もあるし、バルト海貿易の延長でリューベック貨が流通していた可能性もあるし、イスラムのものだったのかも知れない。
近代まで農奴制が続いていたのだから、庶民が通貨を使用すること自体がまれな事だったのは確かなようだが。
ただし、13世紀にはモンゴルの支配下になり、属国化したのでモンゴルの通貨も使用されていたはず。
ルーブルがリブラのロシア語風発音?だというのは今更ですな。
と、マジレスで返してみる。
某ゲームが忙しくなってきたので(笑)、「市場ネタ」誰か書いてくれ〜。
「守護聖人ネタ」とか「お祭りネタ」とか「巡礼ネタ」とか「遍歴職人ネタ」もあるが…。
282 :
世界@名無史さん:02/10/30 03:43
いたりや金融道さんおもしろいっ!最高。
そして勉強になりますた。多謝。
中世初期の農奴の家ってどんなものだったのでしょうか。
縄文人のような竪穴式とか聞いた事はあるのですが。
284 :
世界@名無史さん:02/11/01 22:12
>>283 ドイツや北欧、イングランド等々では、古代から十二世紀か十三世紀頃までは、仰るように「縦穴式住居」だったようですね。
(「ケルト系」や「ゲルマン系の一部」。)
囲炉裏系の資料図(日本のにそっくり)と、縦穴式+暖炉&煙突の資料図とあるのですが、初期と後期に分けて考えて良いのか、ちょっと解りかねますね。
ラテン系は、藁葺き屋根の昔の日本の農家の様な造りの家だったようですね。
馬小屋とか牛小屋兼用で、家畜と一緒に居んでいたようです。
285 :
世界@名無史さん:02/11/03 21:22
>>284 囲炉裏型といっても、日本と違い履物を脱いで床に上がらないのでイメージしにくいですね。
ただ単に縄文時代の縦穴式を思い浮かべれば良いよ、インディアンのティピィも
そうだけれど、あの形は意外に合理的なんだそうな。
287 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/11/04 17:54
日本でも、奈良時代までは残ってますから。意外に住みやすいらしいんですね。
山上憶良の「貧窮問答歌」のより貧乏な方の家は、竪穴式住居のようです。
当時は、貴族も履物を脱がなかったから(中国式)違和感はないと思います。
>287
平地式住居の普及する平安中期までは残っていたそうですよ。ただ時代
が下る中で「竪穴式住居」の様式も全国的に似通っていたようです。
289 :
天之御名無主:02/11/07 01:44
>>284 縦穴式住居の家屋部分は、何材料が使われていたのですか。
萱やヨシの類の枯草ですか?
>>289 「縦穴式」の壁の部分は石垣の様に、石を環状に積み重ねていた形跡があります。
(地域の積雪量、根雪の高さによって、壁の高さも若干変化していたようですね。)
屋根の部分は、基本的には枯草系です。
ただ、屋根材に利用していた植物の詳細までは解りません。
(不勉強につき。)
尚、降水量が少ない為なのか、住居の周りに環溝は無かったよう.です。
N「うわぁぁぁん、ドラえもーん!
またジャイアンに殴られたよー(TT)」
D「うわっ、ひどいケガだね、のび太くん。」
N「うううっ、仕返ししたいよー。」
D「それよりもまず、ケガの手当をしなくちゃ。」
N「(TT)そうだね。」
D「ちょっと待っててね。
えーと、クスリ、クスリ…っと、あった!」
ジャジャーン!(ファンファーレ)
D「マスタード!」
N「ちょ ちょっとまってよ!
それってカラシじゃないのー?」
D「そうだよ。(あっさり)
古代ローマから中世ヨーロッパで使われていた、代表的な傷グ スリなんだ。」
N「えっ、そうなの?」
D「カラシって言っても、日本のほど辛くないから大丈夫。」
N「でも、そこに『和風ねりからし』って書いてあるよ?」
D「ダメじゃないか、のび太くん!
君は中世の農民なんだから、文字なんて読めないよ。」
N「あ、そっか。ごめんごめん。」
D「じゃあ、塗るね。」
N「うん。」
Don`t try this at home.(決して真似しないように。)
誰かまともな解説してくれ、頼む。
292 :
世界@名無史さん:02/11/09 03:29
からしって塗り薬だったの?((;゚Д゚)ガクガクブルブル
からしはよく採れたのかな?
293 :
天之御名無主:02/11/10 13:55
>>284,
>>290 >住居の周りに環溝は無かった...
ドイツや北欧、イングランド等で、降水量が少ないとは思えないが。
生活排水の処理も必要だったろうし。
>>293 正直な話、その辺は同じ思いなので、敢えてそう書いたんですけどね。(笑)
この辺が謎なので、誰かつっこみ入れて解説してくれるものと期待していますが。
ロシアにあるフン族の縦穴式住居(長方形型+暖炉+低煙突)跡の資料にもそれらしきものも無いし。
(屋根材は牧草利用らしい。)
単に向こうの学者が環溝を無視して、図面書いたってオチなら嫌ですね。(笑)
295 :
くすり屋@中世欧州:02/11/11 23:51
>>292 カラシはアブラナ科の越年草で、アジア原産のものと南欧原産の白カラシ、イングランド原産の黒カラシがありやす。
一般に「マスタード」いうのは、南欧の白カラシのようで、湿布、塗り薬としても利用されていたようで。
日本のカラシも湿布、塗り薬として利用されていたって某植物事典にあるんでやすが…。
ちなみに、トウガラシはナス科で南米原産ね。
<ペスト予防?>
中世欧州と言えば、ペストでアポーン。
十九世紀以降のノミの研究でわかった事らしいが、ノミを媒介とするペスト(腺ペスト?)の場合について。
この種類のノミは「馬の臭いを嫌う」事が判明。
そのため、常に馬と接している職業の人々は馬の臭いが染み着いていた為、ノミが移ってこず、ペストに患りづらかったとか。
(100%という訳では無いが。)
という訳で、ペスト予防に一家に一頭の馬を。(無茶)
貴方の部屋にも馬一頭。
296 :
世界@名無史さん:02/11/17 08:58
>>295 えっと、アメリカの本から引いて見る。
Why People use Mustard:
Fluid retension
Intestinal gas
Muscle aches and pain
........
アメリカのハーブ信者が作った本だから、中世以来の民間療法の
影響もあるものと思われ。
297 :
世界@名無史さん:02/11/17 09:21
辛子は湿布薬とか打ち身に塗る薬だから、
上記のドラえもんみたいに生傷には塗ったりしないと思う。
298 :
アマノウヅメ ◆3O/knRokaQ :02/11/17 17:34
知り合いの元庄屋サンの家伝の筋肉痛の薬を父が習っています。
焼酎に樟脳と唐辛子を漬け込むんですが、凄い効果です。サロンパスよりずっと効きます。
中世でもこの程度の薬は作れたはずですから、打ち身、捻挫、筋肉痛系の薬はけっこう
発達してたんじゃないでしょうか。
299 :
世界@名無史さん:02/11/17 19:59
ルネサンスって、もう近世だよね?
中世は働くのは罪だったら椎名