1 :
世界@名無史さん :
02/02/12 06:08 お前らぁ!! アッバース朝について教えて頂けたら幸いです。
まあ、よいではないか。
開けゴマ。
>>3 サッファーフってアブー・アル・アッバースのカリフ名だよね?
7 :
世界@名無史さん :02/02/12 22:52
ハリーファとアミールやスルタンの関係って、まんま天皇と将軍だね
8 :
世界@名無史さん :02/02/13 00:50
今日発売のコミックバンチにアッバース朝革命の漫画が載ってた。 主人公はウマイヤ朝の王子アブドル・ラフマーンって言ってたから 後ウマイヤ朝のアブド・アッラフマーン1世だろう。 でもタイトルが「アラビアンナイト」…おいおい。
9 :
世界@名無史さん :02/02/13 01:06
>>8 それは連載ものなの?
バンチはたしか新潮社だっけ。
長編なら買ってみようかな。
ウマイヤ朝のカリフは正妻のアラブ人が産んだのから 選ばれてるのに対してアッバース朝は奴隷の子からカリフが 選ばれてるのはなぜですかね?俺も含めて。
13 :
世界@名無史さん :02/02/13 15:49
>>12 思い付きだけど、アッバース朝期に
奴隷の子でも正式に認知すれば嫡出子と変わらないっていう
コンセンサンスができたんでは?
14 :
第4代アル・ハーディー :02/02/13 21:22
お母さんは性奴隷だったのか・・・・・
>>4 >>8 劇場版のドラえもんにもハールーン=アル=ラシード出てくるね。
16 :
やっぱ奴隷は :02/02/13 21:47
やるためにいるんだね♪
けっこう有名なんでは、アッバース朝。 ちーいと探検で訪れてみたい
>>13 なんでそうなったのか、理由がわからんよね。
胃が痛い。
19 :
世界@名無史さん :02/02/14 09:58
イスラム圏の奴隷は出世して最高官まで登る。 日本人の奴隷の概念とはかなり違うみたいね。
20 :
世界@名無史さん :02/02/14 10:41
西欧圏の奴隷も同じでしょう。 日本人の奴隷の概念とはかなり違う。 中世農奴を農民と言い換える歴史家が多いけど実際のところ農奴でしょう。
21 :
世界@名無史さん :02/02/14 11:03
アターベク、て言うんだっけ? 後継ぎが子供だった場合、有能な奴隷に摂政役みたいなことやらせるんだよな。 場合によっては母親と結婚させて、権威付け&後ろ盾もさせる・・・だったような。
22 :
世界@名無史さん :02/02/14 12:03
そんなのもう奴隷じゃないよな。 なにか良い言葉無いものか。
23 :
世界@名無史さん :02/02/14 12:06
奴隷に優しいと天国へ逝けまふ どーせ逝くなら奴隷解放〜
24 :
世界@名無史さん :02/02/14 12:31
十字軍侵攻時のスルタンたちは、ほとんどアターベクとなって 権威付けをしている。ファーティマ朝の宰相だって、奴隷 上がりが大多数なんじゃない?
25 :
世界@名無史さん :02/02/15 10:25
>>22 「マムルーク」って呼べばいいんでないの?
マムルークは奴隷といっても解放奴隷。
軍人としての養育が終わった時点で解放手続きが取られたらしい。
>>19 ザンジュが解放されて出世するケースもあったんですかね?
28 :
世界@名無史さん :02/02/15 19:08
>>10 つまらなかったか。この人の書いたナポレオンのマンガは結構面白かったぞ。
>>28 読み切りは面白いとは思えなかった。
知人に聞いたところではこの人、以前に同タイトルで別の雑誌に連載してて
そっちはわりと面白かったそうなんですが。
30 :
世界@名無史さん :02/02/16 01:21
日本人が奴隷と聞いて連想するものは亜米利加の黒人奴隷だからなあ
31 :
世界@名無史さん :02/02/16 08:06
32 :
世界@名無史さん :02/02/16 08:47
ああ、あのナポレオンのマンガを描いてた人かっ! あれの続きを描かせてくれる太っ腹な出版社はないものかな。
33 :
世界@名無史さん :02/02/24 14:57
ない。
34 :
世界@名無史さん :02/03/04 17:16
age
35 :
世界@名無史さん :02/03/04 17:29
日本人が奴隷と聞いて連想するのは、性奴隷の肉便器だけだからなあ。 あっ、ティンコ勃ってきた。トイレ逝かせて下さい。
んなわけない。
37 :
世界@名無史さん :02/03/04 22:35
晒し
38 :
世界@名無史さん :02/03/20 16:11
もっとまともなことを語ろうよ。
39 :
世界@名無史さん :02/04/23 20:14
晒し
40 :
世界@名無史さん :02/05/13 22:23
kami
41 :
世界@名無史さん :02/06/02 18:22
ハールーン・アッラシード陛下は夜な夜な辻斬りに出かけたと聞く。 陛下を脱走させるなど、 城内の警備はどうなっていたんだ!
42 :
世界@名無史さん :02/06/21 22:57
age
43 :
世界@名無史さん :02/06/22 00:15
性奴隷でもきちんと認められるそうですね。なんと進歩的なのでしょうか。 ですから日本も、性奴隷を日本軍が強制連行した事実を認めるべきだと思います。 それが世界市民へのだ一歩です。
44 :
世界@名無史さん :02/06/26 20:14
>>27 ザンジュに解放の望みはほぼありませんでした。 故にザンジュの反乱が発生したのです。
45 :
世界@名無史さん :02/06/30 03:03
>>43 現在的な意味での措置では無いと思われ。
46 :
世界@名無史さん :02/07/04 20:14
アッバース
47 :
世界@名無史さん :02/07/24 02:44
実権を失って以後のアッバース朝カリフのことを書いた本てないかな?
48 :
世界@名無史さん :02/07/24 06:01
>>47 興味あるねえ。
俺もそういう本があれば読みたい。
たぶん、ジャーミーでの集団礼拝を指導したり儀式の時に出てくる以外は
宮殿の奥でひっそりと暮らしてたんだろうな。
徳川時代の天皇と似たようなものだろう。
49 :
世界@名無史さん :02/07/24 06:28
マムルーク朝の系図(と言ってよいのか…)を見てると ブルジー・マムルーク朝のスルタンとしてごく短い期間(1年以内)、 例の亡命アッバース朝カリフがスルタンを兼ねたと書いてあるが、 いったいどういう経緯があったんだろ。
50 :
世界@名無史さん :02/07/27 18:21
スルタン=カリフ制ってのもナゾだよね。
51 :
世界@名無史さん :02/07/28 01:25
52 :
世界@名無史さん :02/07/28 04:33
ただの、なのかなあ。 皇帝教皇主義なのはわかるが近代とオスマン帝国とイスラムってテーマにからんで いろいろありそうな気がする。
53 :
世界@名無史さん :02/07/28 04:59
将軍天皇主義のパクリ。
俺も国歌元首と権力者が分離している状態に萌えで 江戸時代の天皇関連の読み漁った記憶が・・・ だからアッバースやビスマルク時代の皇帝と宰相の関係とかも興味ありあり
55 :
世界@名無史さん :02/07/28 14:40
中国だったらビスマルクが皇帝になっちゃうんだよね。 でも中世(:宗教が社会の中心にある時代)はみんな分離してるんじゃない?
56 :
世界@名無史さん :02/07/28 16:15
アッバース朝は、 なんかもともと、 カリフが御輿色強かったように 感じる。 最初のころはヘゲモニーを持った カリフも出てたように、 なってるけど。 アッバース家を担いだのは、 血統上の正当性を持たせたかったんでしょ。 なんか当のアッバースのおっさんも、 しょぼい人間だったらしいし。
57 :
世界@名無史さん :02/07/30 04:53
預言者の叔父のアッバース? そのアッバース自体は大した人物ではないけど、 アッバース朝を興すアッバース家の連中(アッバースから4代後)、 イブラーヒーム、アブー・アルアッバース、アブー・ジャアファル、 の手腕はなかなかではないですか?
58 :
世界@名無史さん :02/08/28 00:53
>>56 血統上の正当性を持たせるんなら
アッバース家の連中より適当なのがいくらでもいるし
やはり当人たちが有能であったのではないかと
59 :
世界@名無史さん :02/08/28 01:25
全体的計画に同意し(特にシーア派の扱い)、 血統もそこそこ、という条件を 満たす候補は、それほど、 多くなかったのでは?
60 :
世界史@名無史さん :02/08/28 01:47
オスマン朝に脅されてカリフの位をあげちゃった
61 :
世界@名無史さん :02/08/28 03:01
アッバース朝自体は9世紀から落ち目。 オスマーン朝にカリフ位を譲った事実はないとされてるのでは?
62 :
世界史@名無史さん :02/08/28 03:07
勝手にカリフを自称?
63 :
世界@名無史さん :02/08/29 01:25
↑ (オスマン朝は・・・)16世紀のエジプト征服の際に、当時のアッバース家ハリーファからその職位を譲り受けたという伝説を流布するようになった。 「イスラーム辞典」
64 :
世界@名無史さん :02/09/12 08:56
age
65 :
世界@名無史さん :02/09/12 19:26
セルジュークが落ち目になって、カリフが実権を回復した時のこと教えてくれ。
66 :
世界@名無史さん :02/10/03 08:42
age
67 :
世界@名無史さん :02/10/18 00:49
age
68 :
世界@名無史さん :02/11/01 02:18
age
69 :
世界@名無史さん :02/11/14 09:11
age
70 :
世界@名無史さん :02/11/29 09:31
age
71 :
世界@名無史さん :02/12/01 12:08
>>65 セルジューク朝が分裂したのでカリフのナーシルはその勢力を排除しようとして
セルジュークの属国から台頭したホラズム・シャー朝のテキシュに援助を要請。
遊牧部族の勢力を引き入れて強大な軍事力を得ていたテキシュはレイの近郊で
たいした兵力もなかったイラク・セルジューク朝のトゥグリル3世に圧勝して殺害する。
ナーシルはこれでアッバース朝の権力を回復できると思ったところ
テキシュはセルジューク朝の後釜に座ってカリフを意のままにしようとしていた。
テキシュが死んで息子のアラー・アッディーン・ムハンマドがホラズム・シャーになると
完全に両者は衝突しムハンマドはバグダードに向けて出兵する事態になる。
ゴール朝を滅ぼして東方の最強勢力となったムハンマドの力を持ってすれば
バグダードがホラズム・シャーの支配下に入るのは間近と思われた。
ところがチンギス・ハンの遠征によってホラズムはあっけなく崩壊。
ナーシルがモンゴルを唆してホラズム・シャーへの遠征を行わせたという話もあるがこれはどうだろうな。
72 :
世界@名無史さん :02/12/02 02:19
アッバース朝は有名だが、アッバード朝は無名。
73 :
世界@名無史さん :02/12/02 04:24
>72 スペインの? 名前が似てるだけじゃないですか。
74 :
世界@名無史さん :02/12/13 08:24
age
75 :
世界@名無史さん :02/12/27 07:02
age
76 :
世界@名無史さん :02/12/27 11:54
なんか空揚げが続いてさみしいな。 月並みだけど、アッバース朝初期の イラン系勢力の話でもする? これはワズィールの影響力の話にもなるかな? それから中央集権がどの程度まで実現されたのか、とか。 某先生によると、 イラン東部からは結局一度もバグダードへの 献納がなかった、とか。 まあ、教科書的には、イラク近辺に限られていた、 ちゅうことなんだろうけど。
(^^)
78 :
世界@名無史さん :03/01/13 15:07
>>76 アッバース朝の初期は地図で見るかぎり物凄い大帝国だけど
そのうちアッバース朝の実効支配が及んでたのはどのくらいなのか知りたいね。
ホラーサーンからマグレブまでのあの広大な領域を
全て実効支配してたとはとても信じられない。
アッバース朝成立後100年くらいして各地に世襲アミールが台頭してことが特記されるってことは 当然それ以前は全域の総督の任命権をバグダードが握ってたんでは、 と思ってたよ。実態はどうなんだろう。
81 :
世界@名無史さん :03/01/25 13:45
82 :
世界@名無史さん :03/01/25 19:13
>>50 「スルタン=カリフ制」という用語自体、疑問視されてますね。
83 :
世界@名無史さん :03/01/27 13:43
84 :
世界@名無史さん :03/01/27 14:44
その本よんだけど、 ちょっと引いたよ。作りすぎだった。
85 :
世界@名無史さん :03/01/27 22:58
歴史小説とはいつだってそういうものでしょ。 むしろその作り込みが醍醐味というもの。
86 :
世界@名無史さん :03/01/27 23:15
だから、 その作り込みが幼稚だって話だろ。
87 :
世界@名無史さん :03/01/27 23:31
こりゃ失敬。
>>83 (自分)のリンク先より引用
「イスラーム中世の思想家にして天才的天文学者、そして酒の詩人として著名な
ルシア人オマル・ハイヤーム。彼の青春は暗殺者教団の創設者ハサン・サッバーフと
の出会いと決別、冒険や恋に彩られていた。そのなかで『ルバイヤート』(四行詩集)
が書き綴られて行く。その手稿本はモンゴル軍のペルシア侵攻の際に喪失したと
信じられていたが、何と、800年後のパリに浮上。その追跡のために青春を賭けた
仏系米人(本書の語り手)がパリからイスタンブール、さらに立憲革命で動乱の
ペルシアへ。そして、その保持者だった王女と相思相愛の仲となり、
結婚してアメリカに戻ろうと、乗ったのが豪華船タイタニックだった…。」
たしかに作り込みすぎ。でもそれが面白かったんだけどなあ。
フランスに亡命中のアフガーニーの新聞「固き団結」の出版を後援した
「ブランキ主義者にしてブーランジェ主義者」のフランス人ジャーナリスト
とかがでてきて大いに愉快だったんですが。板違い?
89 :
世界@名無史さん :03/01/31 15:42
アラブ人はよくアッバース朝の繁栄を自慢するけど、ファーティマ・メルニーシー の『イスラームと民主主義―近代性への怖れ』(ラトクリフ川政祥子翻訳 平凡社 選書)によると、アッバース朝時代のイスラームは理性を重視する「ムウタジラ派 的イスラーム」で、イスラーム法の解釈の門を閉ざして以降の硬直化したイスラーム とは異なる、と主張してました。確かに近現代ではムスリムに向かって「お前は ムウタジラ派だ」というのは非難の言葉ですが(ムハンマド・アブドゥフもよく 言われた)、アッバース朝時代のイスラームが「ムウタジラ派的」だったという 著者の主張の裏付けとなる資料(史料とは言わない。アラビア語ほとんど読めない から)は、あるんでしょうか?
90 :
世界@名無史さん :03/01/31 19:03
>>89 故・嶋田襄平先生は事典のムータジラ派の項にこのように書いていらっしゃいましたけども。
8世紀中ごろから10世紀中ごろまで栄えたイスラム神学の
先駆的一派。(中略)アッバース朝カリフ、マームーンが827
年に「創造されたコーラン説」を公認するに及び、ムータジラ
派はアッバース朝宮廷で支配的勢力となった。(以下略)
(『新イスラム事典』p.481)
91 :
世界@名無史さん :03/01/31 20:52
マームーンは更に異端審問をおこなってムータジラ派の論理をウラマーに強制しました。 しかしマームーン以後はムータジラ派は排斥されたかと思われます。 ムータジラ派に関しては、たしか近年(戦後といった程度の意味)に史料がみつかったため、 最近の概説書には記述されているのではないでしょうか。 井筒俊彦の『イスラーム思想史』(中公文庫)などに詳しく書かれていた筈。
92 :
世界@名無史さん :03/01/31 21:30
ムウタズィラ派の優位が否定されたのは第10代カリフのアル・ムタワッキルのとき。
>>91 嗚呼、『イスラーム思想史』第一部五「ムアタズィラ派の合理主義」ですね。
読み直してみます。
しかしなぜ、この「合理主義」が、ガザーリー以降の「正統主義」に飲み込まれて
しまったのでしょうか?
家産制君主国家の存在の正統性の確認に利用されたのでしょうか?
メルニーシーが望むように、ムウタジラ派の遺産を、現在のムスリム達が
生かす道(シャリーア)はあるのでしょうか?(よけいなお世話?)
94 :
世界@名無史さん :03/02/01 01:39
メルニーシーの講釈など簡単に信じない方がいい。
95 :
世界@名無史さん :03/02/01 21:37
>>93 >しかしなぜ、この「合理主義」が、ガザーリー以降の「正統主義」に飲み込まれて
>しまったのでしょうか?
「創造されたコーラン」説が端的に示すように、合理主義的な思弁哲学はアッラーの
唯一性・絶対性に抵触しかねないから、という事になるのでしょうかねぇ。
96 :
世界@名無史さん :03/02/02 11:34
もし、フラグが来なかったら、そのあとどうなっていたのか? やはり、天皇のような存在となって民族主義高揚時は現人神のような 存在となっていたのか?
97 :
世界@名無史さん :03/02/02 14:32
違う誰かが同じ事をやるだけかと。 カリフが形骸化した時点で、アッバース家カリフの存在意義は政治的には死んでいたわけで。
98 :
世界@名無史さん :03/02/02 15:02
>>97 それだとフラグの後もマムルーク朝にカリフが迎えられたのも
セリム一世の禅譲伝説もスルタン=マフムードの衣の話も説明できなくないか?
誰かがセリム一世と同じ事をやるだけというならわかるが。
99 :
世界@名無史さん :03/02/02 17:12
サダムフセインはカリフ!
100 :
世界@名無史さん :03/02/03 03:58
>>98 マムルーク朝の場合は対モンゴル用の戦意高揚を目的としたもの。
エジプトの確保が確定的になった途端に闇に葬られたのでは?
101 :
世界@名無史さん :03/02/03 04:09
>>96 オスマン帝国のスルタン=カリフがそれにあたるんじゃない?結局共和制選んだけど。
でも民族主義って、イスラム帝国そのものが
他民族を宗教で統合して共存していこうって考えで出来たのでは?
102 :
スレイマン :03/02/03 04:35
オスマン帝国期に宗教で統合、共存されたとは考えにくいです。 確かに、各民族の共通点つなぎ合わせるような、緩やかな専制政治ではあると思うし、 この政治形態から学ぶ部分は多々あるとおもいます。
103 :
世界@名無史さん :03/02/03 06:41
>>91 聞いた話によれば、ムゥタズィラ派の合理主義を突き詰めると、
合理性だけではコーランに記載されてる
「神の絶対自由性」を否定することになってしまうそうな。
ガザーリーの転向もそこら辺に原因してるとかどうとか。
ガザーリー以降は「神の合理性」と「神の自由性」を両立させる論が
正統神学で唱えられてるそうですが・・・・・
104 :
世界@名無史さん :03/02/04 12:51
http://www.nikkei.co.jp/sp1/nt54/20030117AS2M1701M17012003.html 日本経済新聞社NIKKEI NET2003年1月17日付けより引用。
「【バグダッド=松尾博文】「現代のモンゴル軍(米国)はイラクの門前で自殺行為を
犯すことになるだろう」――フセイン・イラク大統領は17日、湾岸戦争から12年を
記念したテレビ演説で一段と強い口調で米政府を挑発した。
米国を、中世にイスラム世界を攻撃したモンゴル帝国に例えた。」
さすがバグダードの主は言う事が違う。「現代のモンゴル軍」だぜ、日本風に
いえば「神風が吹く」ってやつ・・・、アレ?反対じゃないか!モンゴルに
滅ぼされたんだろ?アッバース朝は。いいのか?この表現。
105 :
世界@名無史さん :03/02/05 02:23
ムウタズィラ派は、いかにも「知識人の宗教」って感じがする。合理性一辺倒 だからね。アッラーの人格性がどっかにすっ飛んでいる。 イスラームが大衆化する過程で、一般民衆にとって「そうであってほしい」アッラー 像に吸収されてしまったのではないかな。
107 :
世界@名無史さん :03/02/05 02:49
ハミルトン・ギブによれば、イスラーム正統派にとってムゥタズィラ派教義は、イス
ラームに対するギリシア思弁哲学の挑戦として受け止められたのではないかとされて
いますね。(『イスラーム文明史』みすず書房)
>>105 アッラーを非人格的な教理上の機関とし、ムスリムの求める人格的な支配者の役割を
カリフが担おうという意図が、ムゥタズィラ派公認にあったのではないでしょうか。
つまり、アッラーを世俗世界から遠ざける事により、地上におけるカリフの権威を
相対的に増大させようというもの。
更には旧来の正統派学者たちに対し、思弁哲学というイスラームの外側の方法論を
用いてカリフ側が彼らを掣肘し、政治的なフリーハンドを獲得しようとした動きだ
と考えられる。
そしてムウタズィラ派の排斥は、そうしたカリフ権増大の動きに対するイスラーム
正統派学者たちの勝利だといえる。
すなわち一連のムゥタズィラ派の事件は、イスラームの大衆化云々というよりも、
カリフ(=世俗的権威)と学者(=宗教的権威)との相克によるものではないだろうか。
>>107 大変に興味深いレス感謝です。それでは、なぜ、「大衆化」という要因では
なくして、カリフの御用学者に対する「正統派」学者の勝利が可能だったので
しょうか?カリフの権威の没落にともなうイスラーム神学の自立は、
被征服民族に対するイスラーム布教の成功にともなって可能になったのでは?
『イスラム世界の人びと』(東洋経済)第1巻「総論」の三木亘氏の論文、
「世界史の中のイスラーム世界」によると、アッバース朝期においては
ムスリムは少数派だったそうです。その後「大衆化」して、イスラーム
神学もそれにともなって変質したのではないでしょうか?
(アッバース時代を理想化しすぎ?)
ハミルトン・ギブ『イスラーム文明史』読んでみます。
>>108 私もレスをいただけて嬉しく思っております。
ムゥタズィラ派の思弁的論法に対して、正統派は預言者や教友たちの伝承を収拾する事で対応しました。
(前掲書中の論文「イスラームの歴史的一考察」,
>>107 の発言も同論文から)
これは換言するなら、アッラーの非人格化に伴う間隙を埋めるのに、カリフではなく預言者を持ち出した
ともいえます。
この当時、一般のムスリムや他教徒の世論が政治にどれほど影響したのかは不明ですが、軍人や官僚、在
野の学者や血統による貴人など、政治に影響力を有する一定の有力者集団が存在したであろう事は充分に
推測されます。
そしてムゥタズィラ派の件は、まさしくそうしたサークルにおける問題であり、カリフ権の増大に関して
直接の利害が生じる集団の中での論争であったがゆえに、問題の結末はカリフ権を掣肘する方向へと
向かっていったのではないでしょうか。
その結果として宗教権威は世俗権威から切り離され、預言者の伝承の権威が確立し、それらを操る正統派
学者によるイスラーム神学は政治の束縛から自由になります。
こうしてイスラームの教義は自律化し、ここに至ってイスラームの大衆化が始まるのではないかと思います。
以上から、まずイスラーム共同体内部での変質があり、その後に大衆化がおこったと考える次第です。
それと、アッバース朝支配領域でムスリム人口が増えた最大の理由は、アラブ・ムスリム−改宗者間における
税制上の差別がなくなったから、ではないのでしょうか。
110 :
世界@名無史さん :03/02/05 13:33
>>109 >これは換言するなら、アッラーの非人格化に伴う間隙を埋めるのに、カリフではなく預言者を持ち出した
な〜るほど!預言者にまでさかのぼるシルシラ(伝承の「鎖」=預言者の言行を
伝えてきた人々のリスト)をともなうスンナが編まれたのもこの頃ですしね。
>まずイスラーム共同体内部での変質があり、その後に大衆化がおこった
大変に明解なお答えありがとうございました。その辺の「真理」と「組織」をめぐる
相克には面白いものがありそうです。
111 :
世界@名無史さん :03/02/06 03:18
>>104 サダム・フセインの発言面白いね。
アッバーズ朝になぞらえてるってことか。
十字軍だとカイロにヒーローの座がいっちゃうしなあ。
他の時代だとペルシア領だし、あとはバビロニアまで遡るしか無い訳か。
基本的にイラクはペルシアと歴史的に一体で
ほとんど歴史的に国家として実体が無いという側面が浮き彫りになってしまった発言だ。
112 :
世界@名無史さん :03/02/06 04:35
>>111 それにしても、かつて勝った軍隊に米軍をなぞらえるとは。
これで士気が揚がるんでしょうか?
イラク人は「ダム・カシール(血が重い)」と評されているそうで、
面目躍如って感じです。
ちなみに「ダム・ハフィーフ(血が軽い)」と評されているのは
エジプト人。これはもっぱらカイロの都会人士についてでしょう。
113 :
世界@名無史さん :03/02/06 04:45
よほど日頃からアッバーズ朝になぞらえてるってことでしょう。 イラク=アッバーズ・カリフ=アラブ世界の盟主 みたいな図式がなければ モンゴルなんて不利な例えはださないはず。 それとも影の首相の森喜朗みたいに単に頭が悪いのか。
114 :
世界@名無史さん :03/02/06 17:18
サダム・フセインのネオ歴史でモンゴルは負けた解釈になってるのかもしれん。
115 :
世界@名無史さん :03/02/07 02:48
>>114 その後もアッバース朝が続いていて自分がカリフのつもりだったりして。
まあバアス党は宗教政党じゃないからそれはないない。と、一応フォロー。
アッバース朝が実験を失ってからは ペルシア人やトルコ人の時代が続いたんだから アラブ民族主義のバース党にとっての 過去の栄光の時代となるとアッバース朝を持ち出すのが当然だ。
115も指摘している通りバァス党は元来宗教色を排除した政党なので フセイン政権はもともとイラクの国家統一のシンボルとしてバビロニアを称揚し フセインはネブカドネザルに自らをなぞらえている(いた)とか。 もっともフセインと同じタクリート出身のサラディンも称揚してるけども。
118 :
世界@名無史さん :03/02/07 22:27
>117 サラディンはクルド人なのにクルド人殺しまくりだなw
119 :
世界@名無史さん :03/02/08 02:27
恣意的に歴史観をいじり回すとにっちにもさっちにも行かなくなるという いい見本だなハア。
120 :
世界@名無史さん :03/02/08 03:05
イラクの国家としての実体のなさがわかるね。
121 :
世界@名無史さん :03/02/09 00:00
ネブカトネザルの最後は王位を追われて野人に。 フセインも・・・
122 :
世界@名無史さん :03/02/17 14:31
>121 フセインはスイス銀行にたんまり金を持ってるよ
123 :
世界@名無史さん :03/03/01 14:45
>121 サダム・フセインは「最後まで祖国に残って戦う」そうだ
(^^)
125 :
世界@名無史さん :03/03/15 19:50
age
126 :
世界@名無史さん :03/03/21 15:23
とうとうホントに始まりますた。 メソポタミアどうなる?またもや異民族の支配下に落ちてしまうのか?
127 :
世界@名無史さん :03/03/21 23:01
>>117 イラク情勢板ではフセインが「イスラム原理主義狂信者」と書かれてますが
どっちが本当?
128 :
アマノウヅメ ◆4cna7XPsQo :03/03/21 23:11
>>127 狂信者どころか原理主義者でもないし、ひょっとしたらイスラム教徒じゃない
のかも・・・要するに拠って立つ所があれば何でもいいんじゃないですか?
バース党にとってはむしろイスラムは邪魔なはず。 都合のいいときだけは「聖戦」とか言ってイスラムの力をあてにするが。
130 :
世界@名無史さん :03/03/21 23:23
>>127-128 もともと、バース党というのはアラブ民族主義に立脚した社会主義政党だった
と思いますよ。
ですから、イデオロギー的にはイスラム原理主義者どころか、本来は極めて世
俗的な立場なんで、イスラム教については、アラブ民族主義を通じて関連する
だけだと思います。
イランとの対立も、ひとつにはシーア派のイスラム原理主義への対抗とともに
非アラブへの対抗という古典的なものだったと思います。
独裁者だから悪といった欧米的なステレオタイプな悪玉観をひとまず置けば、
アラブ民族主義者として欧米に対抗しようとする立場が見えてきますがね。
まぁ、軍事的に勝ち目はないでしょうが。
それなのにイラク情勢板じゃイスラム原理主義者みたいに思われてる。 どうも時事系の板はレベルが低すぎて見るだけでも痛々しい。 時事系板は最低限の予備知識もないやつらがあれこれ論評するからな。
132 :
世界@名無史さん :03/03/24 01:14
「バアス党」のバアス(ba'ath)とはアラビア語で「再生、復活」を意味します。 同じ語根動詞から派生した単語インビアース(inbi'aath)は「覚醒、ルネッサンスの意。 (『現代アラビア語小辞典』第三書館45ページを参照せよ) オスマン・トルコ帝国や西洋の植民地支配からの民族的独立を鼓吹するために、 アラブ民族主義の「再生、復活」を、ヨーロッパの「覚醒、ルネッサンス」に託して 表現した党名です。もともとは純然たる民族主義政党で、イスラームとは 無関係。ましてや「原理主義」(キリスト教の「ファンダメンタリズム」の訳語) とは無縁です。 大衆の支持を集めるために、フセインが「敬虔なイスラーム教徒」を装って いるだけです。
133 :
世界@名無史さん :03/03/24 01:53
今のバグダードにアッバス朝時代の建築などはどのくらい残ってますか?
世界でもっとも権威のあるアラビア語の辞書「Hans Wehr A Dictionary of Modern Written Arabic」(第三版(古い(恥)))(ISBN0-87950-001-8) 65ページには「h(hの下に点)izb ba't( tの下に点、発音は英語のthに近い)」 (=バアス党)という言葉をこう解説しています。 「Renaissance Party,a political party with strong socialist tendencies」
>>134 の名前を「30」から「世界@名無史さん 」に訂正。トホホ。
日本語訳しますと「バアス党:ルネッサンス党。強く社会主義者的な
傾向の政治政党」となります。
136 :
世界@名無史さん :03/03/27 12:18
フラグにより ----------------------------- 終了 ---------------------------------
2003=1258 ブッシュ=フラグ フセイン=アル・ムスタアシム(アッバース朝最後のカリフ) ビン・ラーディン=フールシャー?(暗殺教団最後の長) アル・カイーダ=イスマイリの暗殺教団 フランクス Franks =十字軍(フランク人) ???=バイバルス??? 一気に板レベルダウソでスマソ
138 :
世界@名無史さん :03/03/28 00:17
136 名前:世界@名無史さん 投稿日:03/03/27 12:18 フラグにより ----------------------------- 終了 ---------------------------------
139 :
世界@名無史さん :03/03/31 03:54
バイバルスによって ーーーーーーーーーーーーあげーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
140 :
世界@名無史さん :03/04/14 02:14
バアス党の創設者の一人は、アラブ人とギリシア人との混血のキリスト教徒 じゃなかったけ?調べてみます。
(^^)
143 :
世界@名無史さん :03/04/17 11:28
http://www3.aa.tufs.ac.jp/~masato/who 's.htm#アフラク
>アフラク `Aflaq, Mishil (シリア 1910〜89)
>政治家.ダマスクス生まれのギリシア正教徒.ソルボンヌ大卒業後教師となったが,
> 1942年ビタールとともにアラブ・バアス党を創設.同党書記長として「統一・自由・社会主義」を
>目指すパン=アラブ主義運動を指導した.'54年に文相.'58年のエジプトとの統合(〜'61年)に尽力.
>'63年に成立したバアス党政権では主導権を握ったが, '66年,軍人派政権の成立により国外追放.
>後イラク・バアス党を頼り,'70年イラク・バアス党パン=アラブ指導部書記長.
>シリア,イラク両国バアス党反目の象徴的存在となった.
たしか、こいつがギリシア人とアラブ人の混血だったはず。
∧_∧ ( ^^ )< ぬるぽ(^^)
145 :
世界@名無史さん :03/04/21 14:10
「ミシェル・アフラク」の「ミシェル」ってアラブ人の名前じゃないわな。 クリスチャンだからか?
146 :
世界@名無史さん :03/05/04 01:58
読売新聞より転載します。
http://www.yomiuri.co.jp/features/middle_east/200301/me20030104_31.htm 「バース党とは?
Q イラクの支配政党「バース党」とはどういう組織ですか?
A 正式名称はアラブ復興社会党。シリアの支配政党も同じ名称です。
「バース」はアラビア語で「復興」を意味します。第1次世界大戦後、
英仏の支配下に置かれた中東をアラブの手に取り戻そうと、シリア人の
ミシェル・アフラクらがアラブ統一と社会主義を掲げ、
1947年にダマスカスで発足させました。
理論上は「民族指導部」が指導する統一アラブ国家のもと、
中東各地に「地域指導部」を持つ単一政党でしたが、
イラクとシリアでは「地域指導部」が政権と一体化、
民族指導部も有名無実化し、党は事実上、両国に分裂しました。」
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
∧_∧ ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。 =〔~∪ ̄ ̄〕 = ◎――◎ 山崎渉
149 :
世界@名無史さん :03/06/05 05:39
対山崎渉対策age
150 :
世界@名無史さん :03/07/15 01:46
アッバース
151 :
世界@名無史さん :03/07/15 01:47
阪神の軍神 ランディ・バース
152 :
世界@名無史さん :03/07/15 02:01
じょっとしてサダムの「バース党」って 「アッバース」が語源とか?
__∧_∧_ |( ^^ )| <寝るぽ(^^) |\⌒⌒⌒\ \ |⌒⌒⌒~| 山崎渉 ~ ̄ ̄ ̄ ̄
ハッキリ言ってアメリカなどの多民族国家では黒人の方がアジア人よりもずっと立場は上だよ。 貧弱で弱弱しく、アグレッシブさに欠け、醜いアジア人は黒人のストレス解消のいい的。 黒人は有名スポーツ選手、ミュージシャンを多数輩出してるし、アジア人はかなり彼らに見下されている。 (黒人は白人には頭があがらないため日系料理天などの日本人店員相手に威張り散らしてストレス解消する。 また、日本女はすぐヤラせてくれる肉便器としてとおっている。 「○ドルでどうだ?(俺を買え)」と逆売春を持ちかける黒人男性も多い。) 彼らの見ていないところでこそこそ陰口しか叩けない日本人は滑稽。
156 :
世界@名無史さん :03/07/26 04:16
>>155 の意図がわからないので、とりあえずage
157 :
世界@名無史さん :03/10/11 01:28
イラクの今後のためにage
158 :
世界@名無史さん :03/10/15 00:10
>>152 >じょっとしてサダムの「バース党」って「アッバース」が語源とか?
違います。「アッバース」はイスラム教の預言者ムハンマド(西欧語でいう
「マホメット」)の親族であることを示す固有名詞。
「バース党」の「バース」(バアスと表記したいなあ。とくに「ア」の発音を
強調したい)とは、「復興、ルネッサンス」を意味する普通名詞です。
159 :
世界@名無史さん :03/10/15 00:20
>>158 152のカキコなんて単なるネタでしょ?
160 :
世界@名無史さん :03/10/15 00:28
>>159 ネタにマジレスもまた、このスレをageるいいチャンスですがな
161 :
世界@名無史さん :03/10/15 20:52
age
162 :
世界@名無史さん :03/11/23 04:48
産経新聞平成15年(2003年)11月22日「正論」欄。 三浦朱門「日本は同盟国に被占領体験を教えよ」より引用。 「シリアで発生したバース党は、部族をこえて国民国家を形成しようとする 面があった。だから党の幹部にキリスト教徒もいた。」
163 :
世界@名無史さん :03/11/23 10:39
バアス党の創設者の一人のミシェル・アフラクも ギリシア正教のキリスト教徒だったな。
164 :
世界@名無史さん :03/11/23 11:12
みうら シモン死ね
165 :
世界@名無史さん :03/11/23 11:20
これからは分裂の時代
166 :
世界@名無史さん :03/11/24 15:12
サンセイ
167 :
世界@名無史さん :03/11/24 18:05
モンゴル軍はバグダットで80万人大虐殺したんだよね
168 :
世界@名無史さん :03/11/24 18:33
バグダッドの栄光の時代はこのとき終わった。 後は、ペルシャのタブリーズやイスファハーンに負けっぱなし。
169 :
世界@名無史さん :03/11/24 21:58
『ジャーミゥ・ッタワーリーフ』によると フレグ・ハンがバグダードを征服したとき、フレグ・ハンは カリフ・ムスタアスィムの邸宅に秘匿されてあった金で満たされた水槽を没収した その実体は最高純度の金貨でその量は100ミスカール(約4.5t)であった。
170 :
世界@名無史さん :03/11/24 22:13
>>169 訂正。1ミスカールは4.5g前後なので100ミスカール=約450g
なお、フレグはムスタアスィム自身に2千着の衣服、1万ディーナール、財宝・宝石のの類も接収している。
171 :
世界@名無史さん :03/11/27 11:14
イラクはモンゴルに謝罪と賠償要求しないニダか?
172 :
世界@名無史さん :03/11/27 12:39
「後アッバーズ朝」ってきいたことがありますか?
173 :
世界@名無史さん :03/11/28 15:04
モンゴルは戦勝国なので、逆にイラクに謝罪と賠償要求をしそうな罠(w
174 :
世界@名無史さん :03/11/28 15:07
175 :
世界@名無史さん :03/11/28 20:23
モンゴルを嫌いなやつ朝青龍のはキムチ野郎発言を根に持つ 在日。 在日と入魂なのはソ連崩壊後アイデンティティを喪失し、 従軍慰安婦や南京虐殺やサヨクフェミに走る元小夜たちが 湾岸戦争の頃から親夷スラムに走り夷スラム厨となったのだ。 モンゴルをけなし、謝罪と賠償を要求する半島思考は 夷スラム厨と在日特有の思考形態。 夷スラム厨必死だなw
176 :
世界@名無史さん :03/11/29 00:19
177 :
ty270410 :03/11/29 00:26
>>172 後アッパス朝は,アッパス朝が滅びた後,最後のカリフの一族が
カイロに逃れて再興したカリフ家です.
歴代のカリフはエジプトのスルタンの保護を受けていたと読んだ
ことがあります.
オスマン朝のスルタンがエジプトを統合した時にカリフ権を
スルタンに譲り,終焉しました.
それ以後,オスマン朝のスルタン・カリフ制が成立しました.
記憶に頼って書いています.どなたか補訂してください.
178 :
世界@名無史さん :03/11/29 00:47
>>177 「後アッバース朝」なる表現を見かけたことはないんですが。
バイバルスがカイロに擁立したアッバース家のカリフは厳しい監視の下に置かれて
ほとんどマムルーク支配の正統性をアピールするための道具のような存在で、
政治的実権を握ることはなく、バグダードのアッバース朝とはまったく違う
お飾りのような状態だったので。「カイロのアッバース朝カリフ」などの
呼び方はすることがあると思いますが。
「後ウマイヤ朝」という表現も日本でしか言わない言い方で、
史料では「コルドバ(クルトゥバ)のウマイヤ朝」、
「アンダルスのウマイヤ朝」という名で呼ばれていたとか。
>オスマン朝のスルタンがエジプトを統合した時にカリフ権を
>スルタンに譲り,終焉しました.
>それ以後,オスマン朝のスルタン・カリフ制が成立しました.
このあたりのオスマン朝のスルタン・カリフ制の成立の経緯についても、
16世紀当時の記録にはオスマン朝のスルタンがカリフを名乗ったという
記述がないためこの説は疑問視されているようですが。
179 :
世界@名無史さん :03/11/29 14:09
イスラムの王朝っていっぱいあって複雑にみえるけど あれは「政権」「地方政権」であって 王朝はウマイヤ朝とアッバス朝くらいしかないんだよな。
180 :
世界@名無史さん :03/11/29 14:11
181 :
世界@名無史さん :03/11/29 14:25
アッバース家のカリフはカイロ城の最上階に閉じ込められてて 年に1回儀式のために下に降りてくるだけだったと聞いたような
182 :
世界@名無史さん :03/11/29 16:11
現在のカリフってどうなったの? ハーシム家ってどうなんだろ。
>>182 意味がわからん。トルコのあれは消滅しただろ。
タリバンのおまるのことか?
184 :
世界@名無史さん :03/12/01 03:34
ヨルダン、イラク独立時にイギリスに担ぎ出されたハーシム家は カリフを名乗って顰蹙を買いかけた時期があったのでは。
185 :
世界@名無史さん :03/12/02 05:13
>>184 それはヒジャーズ王国のフサインのことだろ。
186 :
世界@名無史さん :03/12/02 06:02
アッバース朝の都が短期間置かれていたサーマッラーで大規模戦闘か。
187 :
世界@名無史さん :04/01/07 16:46
イスラム世界の国王(マリク)ってのは「名乗った者勝ち」なのかねえ?
188 :
世界@名無史さん :04/02/05 23:26
クライシュの鷹の話題はあんまりないなぁ。
189 :
世界@名無史さん :04/02/06 22:49
>>188 前にぱっとしない出来のマンガがあった。
الدولة العباسية
191 :
世界@名無史さん :04/02/07 02:58
>>190 「アッダウラ・アッバーシヤ」=アッバース朝、ですな。
「アッダウラ」の定冠詞抜きの名詞が「ダウラ」。「国」の意味です。
原義は「回転」です。栄えたと思ったらぐるっと上下回転して、新しい王朝が生まれる。
アラブ世界では、国というものは興っては滅びるのが常識。
イブン・ハルドゥーンの『歴史序説』によると、あらゆる王朝は、三代目には
滅びるそうで。
192 :
世界@名無史さん :04/02/07 10:27
こないだ買った本にはアッバース朝がアリーの系統(細部忘れた)で、 シーア派でだったとか、嘘八百書いてあった。 オットマントルコがスンニーを回復したとか。 ひどい本が売られているものだ。
>>189 同じ作者のナポレオンものはおもしろいんだけどねえ…
194 :
世界@名無史さん :04/02/24 13:53
195 :
世界@名無史さん :04/03/21 11:04
>>192 そこまで来ると別の意味で笑えませんか?
「こいつ、こんなところで自己矛盾している」とか…。
そこまで行っていたら立派な「トンデモ本」ですな。
196 :
世界@名無史さん :04/03/21 11:13
アッバース朝はモンゴルに滅ぼされたんだよね? バグダッドは80万人大虐殺の悲劇! モンゴルに謝罪と賠償を要求するニダ!
197 :
世界@名無史さん :04/03/21 17:30
>>196 『集史』を見る限り「大規模な殺戮と略奪が」行われたという記述はみられるが、
水攻めで1万2千人、投降したもの3千人以外の実数はあまり詳しく書かれていない。
状況的に再三の降服勧告にも応じなかったための報復とみられるが、80万という数字は確認できない。
この「バグダードの犠牲が80万人」という数字は時折見掛けるが、
アラブ側のものかティムール朝時代の資料が情報の典拠となっているのだろうか?
当時のバグダートの人口って幾らぐらいだったんだろうね?
199 :
世界@名無史さん :04/03/29 11:18
100万人だったのは唐代だったっけな。
200 :
世界@名無史さん :04/03/29 17:04
フラグ様が200ゲット
201 :
世界@名無史さん :04/05/04 18:51
イスラム史の中心的王朝だったのに滅びちゃったんだねえ。 西洋史で言えば、ローマ教皇がモンゴル人によって滅ぼされてしまったようなものか。
202 :
世界@名無史さん :04/05/04 19:36
アッバース朝カリフはバグダードにトルコ兵がうじゃうじゃしていながら、 十字軍撃退戦争にに一兵も送らなかったのでアラーの天罰と思われ
203 :
世界@名無史さん :04/05/05 17:04
レジスタンスするイラクの人たちは、緑旗のほかに黒旗も持っていた 緑がイスラムの旗? 黒旗はアッパース朝の旗?
204 :
世界@名無史さん :04/05/09 20:40
アッバース家(氏族、部族、家と訳してもかまわないはず。バヌー・アッバース)の名祖・アッバースは、 ムハンマドとの系図関係は? ハーシム家は?
205 :
世界@名無史さん :04/05/27 05:08
hm
206 :
世界@名無史さん :04/06/19 22:11
207 :
世界@名無史さん :04/06/21 04:58
الدولة العباسية ١٢٥٨ـ٧٤٩
209 :
世界@名無史さん :04/06/22 01:27
211 :
世界@名無史さん :04/08/26 02:20
イスラム史における中心的王朝が滅んだ後、 再興する勢力はどこにもないのであろうか?
212 :
世界@名無史さん :04/10/02 22:19:49
アラブ人たちに嬲り殺しにされたフランス娘の話。 中東の旧北イエメンで国家元首とその弟の暗殺事件があった。背景は不明だが、それに二人のフランス人ファッションモデルが巻き込まれた。 二人は元首兄弟がパリに行った際、シャンゼリゼのクラブでひっかけ、ファッションショー出演の名目で実際はデートの相手として国に呼びよせられたものだった。 その日の早朝、4人は兄弟の実家を訪ねるべく愛車で首都サヌアの郊外へ出かけた。 そこに何者かに煽動された群集たちが銃や棍棒を持ち大勢待ち伏せをしていた。 車を取り囲んだ群集は暴徒と化し、4人を車内から引きずり出した。元首兄弟は銃を抜いたため、その場であっさり射殺されてしまったが、哀れなのは2人のパリジェンヌだった。
213 :
世界@名無史さん :04/10/02 22:20:35
当時26歳のベロニク、22歳のフランカの二人は、大勢の群衆に車から引きずり出され凄惨なリンチにかけられたのだ。化粧をして脚を出し、香水をつけていたのがイスラム教徒のアラブ人たちを刺激し怒りに火をつけてしまった。 狂った群衆は泣き叫ぶ二人の娘にロープにかけて、生きたまま引きずり回し、その脚を寄ってたかって踏みつけ、銃の台尻や棍棒で滅多打ちにしたという。 挙句の果て、群衆は石打の刑(姦通した女に大勢が石を投げつけてじわじわと殺すイスラムの刑罰)にかけ二人の娘を嬲り殺しにしてしまった。
214 :
世界@名無史さん :04/10/02 22:21:33
さらに暴徒はその遺体をグチャグチャに引き裂いてしまったというから凄い・・・。 その時、二人の娘はどんなに想像を絶するような苦痛と恐怖を味わったことか・・・。 最近、イラクで4人のアメリカ人が殺され遺体を引きずり回され、損壊させられた事件があったが、彼女たちの場合は生きながらその凄まじい恐怖と苦痛の時間を味わったわけだ。 二人ともまだ20代、こんな惨い殺され方をするなんて思いもよらなかったはず。 回収された遺体は損傷が激しく遺体と呼べぬほど無惨な肉塊と化していた。 その一部を紹介すると、引き裂かれた背肉、激しく損傷し折られた骨が至るところから露出している切断された脚、斧状のもので縦に割られて下顎部分の欠損した頭部の一部、内臓が引き出された腹部の肉片、泥にまみれ踏み潰されパテ状になった内臓・・・。 当時当時ルモンド紙には暴徒に破壊されたフォルクスワーゲンのすさまじい写真が載っていた。
215 :
世界@名無史さん :04/10/02 22:22:49
実話です。1977年10月の朝日新聞にもっと簡単に掲載されていた。 情報源の仏ル・モンド紙、英デイリーミラー紙など文献をたどってここまで分かった。 昔のものなのでさすがに動画はない。私刑にかけられて殺されたパリ娘の名前は、ベロニク・トロワ(26)、フランカ・スクリバンヌ(22)、 暗殺されたのは当時の国家元首はハムディ議長。凄まじく破壊されドアを引きちぎられた車、遺体?(肉塊)の入った棺に取りすがって 号泣する遺族の写真が生々しかった。美女が大勢のアラブ人にロープで地面を引きずり回され、嬲り殺しにされるなんて、想像するだけで。
216 :
世界@名無史さん :04/11/05 22:03:54
219 :
世界@名無史さん :04/12/28 20:24:03
(ウマイヤスレにも書き込んだものと同じです) ササン朝時代まであったクテシフォン、バビロン、スーサなどの有名都市は、いつすたれてしまったのでしょうか? ウマイヤ朝時代以降名前があがらなくなってしまっている気がします。 最近タバリーの歴史書の南イラク征服のあたりを読んだのですが、どれも無血入場に近く、破壊されたという 記載はありません。いづれも数万人は居住していたと考えられるのですが、その後どうなったのでしょうか。 ウマイヤ朝時代、またはアッバース朝時代に破壊されてしまったのでしょうか。
>>219 自己レス。クテシフォンは征服後も利用されつづけたが、バグダード建設の降り、資材提供の場と化したとのこと。
それにしても、イスラム期になってからはクーファなどはよく話に出てくるけど、クテシフォンがないのは何故なのだろうか。
反面ササン朝時代にはクーファはほとんど出てこないし。。。
221 :
世界@名無史さん :04/12/30 18:53:24
イスラム帝国で医学が盛んだったのは、その根源は、ササン朝時代の医学の町、グンデシャープールに、根源の一つがある んじゃないのかなぁ?と最近思うのですが、いかがでしょうか。そのグンデシャープールの、もとはといえばギリシャ人医者が 移住(強制移住も含まれていたと思われる)でつれて来られたことに起因していそうだが。
222 :
世界@名無史さん :05/01/13 19:58:09
>>219 タバリーの歴史書のカリフマンスールのところに、バグダード建設の様子、クテシフォンからの石材運搬、 バルマク家とのその件をめぐるやり取りが詳しく書かれていますよ。 英訳タバリーの第29巻だったと思います。 >>221 伊東俊太郎先生の著書に詳しく書かれています。 「比較文明」 「12世紀ルネサンス」 あたりを読んでみてください。
223 :
世界@名無史さん :05/01/13 20:05:19
222 それと「近代科学の源流」 がより専門的かも知れません。
224 :
219 :05/01/13 23:54:37
>>222 レスありがとうございます。
29巻では、クテシフォンの街の様子がわかる記述は、少しでもあるのでしょうか?もしありそうなのであれば、
購入してみようかと思うのですが。。
あと、グンデシャープールについては「ギリシャ思想とアラビア思想-初期アッバース朝の翻訳運動」という本に記載があり、
グンデシャープールにはガレノスの書が持ち込まれており、その医術がギリシャ源流だったことと、グンデシャープールに医学で有名な
3名家があり、これらがアッバース朝に招聘された、という記載がありました。ということは、
グンデシャープール経由で、ローマ・ギリシャ医学が、アラブの医学の繁栄に直結しているということがわかりました。
イスラーム期の話をするなら、いい加減「クテシフォン」はやめて「マダーイン(المدائن)」と言えよ。
226 :
世界@名無史さん :05/01/14 23:16:51
>>225 マダーインとは、バフラシィール(ヴェーウ・アルダシール)(もとのセレウキア)を
あわせた呼称だと思います。広い意味では、ルーミーヤ、ダスダゲルトもあわせた「メトロポリス」みたいな
意味だと思います。ここでは、「クテシフォン」だけの話をしたいので、そのように書いているのです。
また、タバリーにも、クテシフォンとマダーイン、バフラシールは、きちんとわけて表記されています。
というわけで、すいませんが、クテシフォンについて話題とさせてください。
227 :
世界@名無史さん :05/01/14 23:35:36
初心者でも読めるイスラム史の標準的な概説書って何ですかね
>>227 やっぱり講談社新書の3巻本かも。もしくはビジュアル版世界の歴史のも入門書としては良好かと。
>新書イスラームの世界史シリーズ
>>226 あ、なるほどそれで「両都(マダーイン」なのか。
>クテシフォン・セレウケイア
>>227 講談社新書の「都市の文明イスラーム」じゃないですか。あとは
講談社世界の歴史や、新潮社世界の歴史のイスラームの部分。
ただし、これらの本はだいたい12世紀以降は駆け足になってしまい、
いつのまにか、オスマントルコと、インド・イスラーム国の話が中心になってしまう。
ということで、上の本から一歩すすめるとすると(上の本で扱いが少ない時代・地域をあつかった本を探すとすると)
私の知ってる範囲だと
1.セルジュークトルコ 世界の教科書トルコの第2巻。
普通あまり掲載されていない、マリク-シャー死後のセルジューク帝国の詳細と、ルーム・セルジューク朝の歴史に詳しい。
しかもルーム・セルジューク朝崩壊後、オスマン台頭までの混沌とした時代もわかる。
2.マムルーク朝佐藤次高氏の「マムルーク」
3.イル汗国 ・・・・ここだけ知らない
4.チムール ・・・ チムールに詳しい本は色々あるが、チムール死後に詳しい本は知りません。。
5.白羊・黒羊、サファヴィー朝 「三日月の世紀」に詳しいです。
6.オスマン勃興期 鈴木重 「オスマン帝国」
7・オスマン崩壊期 山内昌之
8.ムガール帝国 これは世界の歴史シリーズでいいのでは。
これで大体まんべんなくイスラム史をカバーできるように思います。
>>226 マダーインって両都って意味だったんですか! おお。わかって嬉しい!
>>230 マグリブ、アンダルス、アラビア、アフリカ、スワヒリの歴史は
「マダーイン」は「マディーナ」の双数形ではなく複数形だから、「両都」の意味ではおかしいだろ。
235 :
世界@名無史さん :05/01/15 23:28:58
>>232 確かに、これらに詳しい本ってみたことありませんね。ひょっとしたら、「地球の歩き方」の
歴史のページが一番詳しかったりして。昔、「地球・・・」の中国西域版に、
高昌国(450頃-640)の歴史がやたら詳しく載っていたので、のけぞったことがある。
今でも日本で、素人が手軽に手に入る高昌国についての記述は、「地球・・・」だと思う。
アンダルスの歴史は漏れも知りたいと思っているけど、図書館でちょっと調べた限りでは、河出書房の前島信次「イスラム世界」の
記述が比較的詳しいと思う。
236 :
世界@名無史さん :05/01/16 12:08:40
>>224 タバリーの29巻にはクテシフォンの記述そのものはあまり(というか)ほとんど出ていません。 これがバグダードのこととなると、2回のバグダード包囲戦時の状況等を通して、当時の都市生活の情報が得られるのに比べると 残念です。 もしササン朝そのものの歴史に興味があるのであれば、同じタバリーの英訳本の第5巻がササン朝時代を扱っています。 アッバース朝期の詳細な記述に比べると簡略ですが、それでも日本の概説書に比べれば詳細です。 注釈とあわせて読めば日本の概説書には載っていないことまで含めて知ることが出来ると思います。
237 :
世界@名無史さん :05/01/16 12:21:13
236の続きです。 >>227、230 イルカン国の時代史では、ドーソンのモンゴル帝国史がよいと思います。 東洋文庫にはいっています。 モンゴル侵入期のイラン、中央アジアの歴史については、 ジュワイニーの「世界征服者の歴史」が一番面白いです。 ドーソンにしても、前嶋信次氏にしても、ジュワイニーの記述をそのまま採用している部分があります。 ただ、英訳しか出ていません。 集史も中国語訳は全訳(ロシア語訳からの重訳)がありますが、英訳は部分訳のみです。 いずれにしても、ドーソンが一番手ごろかもしれません。
238 :
世界@名無史さん :05/01/19 20:30:22 0
>>236 ありがとうございます。タバリーの5巻は持っていますが、やはり言及はないですね。
(といってもまだ全部読んでないのですが)
239 :
世界@名無史さん :05/01/23 02:15:25 0
>>236 さん
何度も申し訳ないのですが、29巻にクテシフォンの記述って、どのくらいありますか?
いや、29巻でなくても、それ以前の簡でもいいのですが。
5巻では
-ある将軍が城壁を補強した →この記述から城壁があったことがわかる
13巻 クテシフォン陥落
-白宮殿のイーワーンに彫像が並べてあった →この記述から、白宮殿が、現クテシフォン遺跡の宮殿らしいとわかる
また、宮殿がストッコかなにかで白く塗装されていたことがわかる。
-突入した兵士は、「ストリート」に殺到した →この記述から、「街路」がある町だったことがわかる。
-対岸のヴェーウ・アルダシールとは舟橋でつながっていたことがわかる
また、同時代のアルメニア人歴史家セベオスの、ヘラクレイオスによるクテシフォン陥落では
-町を取り巻く王族の住居があった → まるで、町の周囲を、王族の宮殿、館が取り巻いていたように見える
くらいしかわからないのですが、もし、これ以上の情報が掲載してあるのかどうか、ご存知であれば教えて
いただけますでしょうか。もしあれば、29巻その他、記載がありそうな巻、購入してしまうかもしれません。
という程度しかわからないのが
240 :
世界@名無史さん :05/01/23 11:44:52 0
>>239さんへ 236です。 ご質問に答えるため本棚の奥から29巻を引っ張り出してきました。 クテシフォンに関する記述は、29巻の4ページから5ページにかけて、 バルマク家のハーリドとカリフとの会話として出てきていました。 ただ、クテシフォンそのものの詳細については、先にも申し上げましたように ほとんど出ていません。 周知のように石造りであったことが、推測できるくらいです。 ちなみに、タバリーのこの部分は、 『Baghdad during the abbasid Caliphate』 という本にも引用されています。 この本では、他にも1箇所、クテシフォンについての言及がなされています。 253ページになりますが、後代のカリフが、バグダード東岸に宮殿を建設する際、 やはり白亜宮から石材を調達した旨の記述です。 ちなみにそのときのカリフは、Ali Mukutafiです。 イスラム時代のクテシフォンについての記述でとりあえず覚えているのは そのくらいでしょうか。 いずれにせよ、タバリー29巻からクテシフォンの詳細の一端を知ることは 難しい様です。むしろイラン系官僚の心情の一端を垣間見ることが出来ます。 Baghdadについてはある程度の情報がまとまっているのに、クテシフォンについては、 なかなかまとまった情報が得られないのは、ササン朝時代に興味がある方には 歯がゆいでしょうね。
>>228 セルジューク朝については世界の教科書より
山川世界各国史の『西アジア史II』を読んでほしいな。
この本は黒羊朝、白羊朝、サファヴィー朝も
『三日月の世紀』ほどではないがちゃんと書いてあるし。
ティムール没後のティムール朝は同じシリーズの
『中央ユーラシア史』が概説にしては紙数を割いていたような気がする。
同じシリーズの『西アジア史I』は
アラブのマイナー王朝やマグリブ、アンダルスを一通り触れている。
サハラ以南のアフリカはちょっといい本が思いつかないけど、
とりあえず講談社現代新書の『新書アフリカ史』を読めばよいでしょう。
デリー・スルタン朝からムガル朝への流れは中公世界の歴史の
『ムガル帝国から英領インドへ』が
山川世界各国史の『南アジア史』より詳しかったように思う。
オスマン朝の後期からトルコ共和国にかけては
みすず書房の『トルコ近現代史』という本が一番詳しい。
でもわりと長い本なので駆け足でも良いなら
山内昌之でもいいし、さっきあげた西アジアIIでもよい。
しかし、やはりとっかかりは講談社現代新書の新書イスラームの歴史でいいでしょう。
あと、西アジア全域をカバーした概説で私の知る限り一番新しいものでということ
同朋社のアジアの歴史と文化シリーズの『西アジア史』という本もあげときます。
242 :
世界@名無史さん :05/01/23 22:55:38 0
236さん、ありがとうございます。 ところで、2点ほど確認させてください。クテシフォンの宮殿遺跡は、よく「白城」のことだとの記載が、 あります。しかし、写真と、遺跡の本の解説などを読んでいる限りでは、焼きレンガで作られています。 つまり、石材ではないと思うのです。すると「白亜宮」とは、いまにある宮殿遺跡とは 別のものだったのでしょうか? 2点目は、13巻以降29巻の間の巻で、クティフォンの様子のわかる記載の有無について、なにか 情報をお持ちでしょうか。アブー・ムスリムがマンスールに呼び出されて殺されたのがクテシフォンであり、 すると、陥落からバグダード築城までの150年ほどは、クテシフォンは存在していたわけで、 どこかに記述が登場していてもおかしくないと思うのです。 これは、タバリーだけではなく、「アラビアンナイト」にも言えると思うのですが、もし、アラビアンナイトに クテシフォンらしき町が登場していたら。。これも、もし知っていたら教えてください。 (何度もすいません。、、)
狭義でのイスラム帝国=(実権があるころの)アッバース朝だったのね。
244 :
世界@名無史さん :05/01/24 21:33:58 0
>>239さんへ 236です。 クテシフォンの宮殿遺跡が、焼きレンガで造られていることは、 問題ないとおもいます。 以下は、あくまでも私の推測なのですが、 建物の壁の中は焼きレンガで造り、外側だけを石材で覆った、 ということではないでしょうか。 外側の石材が、カリフ達によって持ち去られたため、 現在は焼きレンガが露出しているのでは。 ちなみに、ローマのコロッセオもその方式で作られています。 外側は石材で化粧されていますが、実際に遺跡に足を踏み入れると 内側がレンガで出来ていることは一目瞭然です。 また、シチリア南部のギリシャ遺跡も、遠目には大理石ですが、 そばで見ると焼きレンガでつくられており、 表面を石材で覆うなどしてあります。 ちなみにバグダードの円城は、日干し煉瓦でつくり、外側の主要部分を 焼きレンガで化粧してあったようです。 いずれにせよ、建設コストを考え、石材の使用は目に付くところ、 強度を必要とするところに限ったのではないでしょうか。
245 :
世界@名無史さん :05/01/24 22:15:41 0
236の続きです。 クテシフォンについては、27巻、28巻にも言及されています。 また、36巻、37巻にも言及されています。 ただし、巻によって、クテシフォンと記されている箇所、 マダーインと記されている箇所があり、 実際に言及されているのが、クテシフォンそのものなのか、 それともクテシフォンを含むマダーイン地区一帯なのかは 不明です。 いずれにせよ、ザンジュの乱当時にも当該地区に人が住み、 都市機能が存在はしたようですね。 これ以上正確に当時のクテシフォンのことを知るには、 アラビア語原典に直接当たるしかないかも知れません。 英訳で、かりにCtesiphonとなっていても、原典では Madainとなっているかもしれません。 クテシフォンについては、 先に紹介した『Baghdad---』の著者、G.L.Strangeが 『Lands of Eastern Caliphate』の中で言及しているようです。 但しこの本の入手は難しいと思います。 数年前に私自身、Amazonで注文したのですが、 いまだにペンディング状態です。 あとは、Yakutの『Mujam al-Buldan』でしょうか。
246 :
世界@名無史さん :05/01/24 22:32:26 0
236の続きです。 アラビアンナイトでは、クテシフォンについての記述は見たことがありません。 私が所持しているのは、前嶋信次訳と、バートン版の日本語訳のみですが。 もしかしたら見落としがあるかも知れません。 どなたか知っている方がいましたら情報をお願いします。 それと、もしアラビア語原典に当たる場合には、穂高書店経由で現地に注文できると思います。
239さん、すばらしい情報ありがとうございます。なるほど、本当に 幻の都なのですね。。。。 一つ思ったのですが、アルメニア人歴史家セベオスの、ヘラクレイオスによるクテシフォン陥落では -町を取り巻く王族の住居があった という記述をみていて、ひょっとしてバグダードのように、王城と市街は分かれていて、この記述はそのことを 示しているのではないか、とも思ったりしています。また、同じアルメニア人歴史家のブガンティの書に、ネストリウス派教会が、クテシフォンに あった、という記載がありました。 最近思うのですが、古代都市には、漢長安城みたいに、巨大宮殿がいくつかできて、その狭間に市街ができ、最終的に全体が城壁で囲まれるパターンと、 唐長安城や、ローマ都市みたいに、計画的に区画を持つ都市、および宮殿が一つと、その近くに、宮殿とは別個に市街都市ができるパターンが あるように思えます。 私にとっての問題は、クテシフォンが、一体どのタイプなのだろうか?という点にあります。 パルティア・ササン朝遺構の残る都市例では、ハトラが唐長安城タイプ、バグダッドや、ニサやメルブが3つめのタイプのように思えます。 そうして、なんとなくクテシフォンは、漢長安城やバグダッドのようなタイプに思えなくもないのです。。。 なぜかというと、ローマの遠征でも、クテシフォンはあっさり陥落しているのに、ハトラは何度も持ちこたえたりしているからです。 都市国家タイプではないような感じがするのです。。。
248 :
世界@名無史さん :05/01/25 20:34:58 0
マダーインは「諸都」って感じですか。 「両都」(双数形)ならマディーナターニでOK?
249 :
世界@名無史さん :05/01/26 23:44:39 0
239さんへ 236です。 あまりいい加減に答えても申し訳ないので、クテショフォンのついて 言及されているタバリーの各巻をもう一度見てみました。 英訳だけ見ているので不正確ではありますが、Madainという表記が、 いったい(その文脈のなかで)何をさすのか、クテショフォンなのか、 セレウケイアも含めた一帯の意味で使っているのか、しっかり読まないとよく分からない という気がします。訳文の注釈も巻によってさまざまで、 先に245でも書きましたように、Madainのことを、Ctesiphonそのもののことだと 記してある巻、Ctesiphon、Aspanbur,Rummiyyahを含む一帯だと記してある巻等々、 さまざまです。この注釈自体、原文の文脈から判断しての注釈なのか否かも分かりません。 したがって、たとえばある巻で、ある人物が、Madainに滞在した旨の 記述があっても、それがクテシフォン市内に滞在したことなのか(もしそうであれば クテシフォンはまだ都市として機能していたことになる)、 都市(の遺跡、廃墟)の郊外に滞在したのかも、突き詰めるとよく分かりません。 ただ、242で、おっしゃている疑問については、タバリーの英訳29巻が答えています。 そこでは、ハーリドに下問するマンスールの言葉が引用されています。 What do you think about demolishing the city of the Iwan of Chsroes at al-Madain and taking the rubble from it--- このページの注釈では、ホスローのイーワーンというのは、 ササン朝の王宮の巨大アーチのことだと述べられています。 (私が持っているCowanの辞書には、Iwanの訳にarchという語そのものは ないのですが、古語専門の辞書にはあるのでしょうか。) いずれにせよ、マンスールが取り壊そうとしていたのは、現在も写真でよく見る 巨大なアーチのある遺跡と同一の建物だと考えてよろしいのではないでしょうか。
250 :
世界@名無史さん :05/01/26 23:46:58 0
236 ただ、クテシフォンのことのみを知るのであれば、 あわててタバリーを買う必要はないような気がします。 (改めてみてみてもあまりクテシフォンそのものに関する情報は 書かれていません。) むしろ、先にも書いた、YakutのMujam Al-Buldanあたりをしらべてみては いかがでしょうか。 昔読んだ本を引っ張り出して即席で書いているので、 意を尽くせない部分もありますが、ご容赦ください。236
251 :
世界@名無史さん :05/01/28 00:07:40 0
236さん ありがとうございます。英文法には自身がないのですが、 What do you think about demolishing the city of the Iwan of Chsroes の記載が気になります。iwanは、このパルティア時代〜現代イスラム建築にいたる、 建築用語として一般化していると思いますので、the cityの部分なのですが、 普通によむと、「ホスローのアーチのある (その)市」ということで、複数ある市のうちの 一つを特定するための言い回し、のように思えます。この複数というのは、タバリーにある、マダインは複数の都市から構成 されていた、という文言の方を採用しているわけですが。 少し都合よく考えますと、クテシフォンは一般の都市のような街で、「ホスローのアーチ」がもっとも目立った特長だったかも、となり、 都合悪く考えますと、単なる「ホスローのアーチの」は単なる文学的修飾語、ということに なりそうですね。Yakutはこれからアマゾンで探して見ます。 ただ、英語しか読めないもので、仏語訳とかだとお手上げです。マスウディは、アマゾンで探した限りでは フランス語版しかありませんでした。。。 でも とにかく 情報ありがとうございました。 ところで、実は知りたいことはクテシフォンのことだけではなくて、ササン朝時代の村落の実態や 都市の状況なども知りたいと思っているのです。。。。 この時代の幾つかの都市の平面プラン(ビシャプール、ケルカ、グンデシャープール)などは遺構が残っているので 大体わかるのですが、詳細な状況が今ひとつわかりません。村落となると、遺構すら残っていないらしく、お手上げです。 職業分化などがどの程度行われていたのか、など、本当に、ササン朝時代は情報がありませんね。。。
252 :
世界@名無史さん :05/01/29 14:21:59 0
パレスチナ議長のアッバス氏のスレかと思った。
253 :
世界@名無史さん :05/01/29 19:15:17 0
>>252さんへ 236です。 この場合の、cityは、Round city(baghdadの円城)のcity, Forbidden city(紫禁城)のcityと同じ用法ではないかと思います。 いずれにしても、cityが何なのかは、原典に当たる必要があります。 tabariのアラビア語原典については、現在手に入れるべく手を打ちました。 いつ手元に来るか分かりませんが、私も調べてみます。
254 :
世界@名無史さん :05/01/30 02:26:59 0
253さん いくつもヒントをありがとうございます。推定に推定を重ねた可能性 だけの話ですが、なんとなくクテシフォンはバグダードと似たような設計だった可能性が一番 強いように思えます。マンスールが、white palace ではなく、the city of iwan... と形容していることからも、 白亜宮そのものではなく、その周囲を円形に取り巻く王宮建築物を含んだ一体をcityと形容したのかもしれませんね。 バグダードの設計プランは、パルティアなどの円城が由来ではなく、占星術が根底にある、との話を読んだことが あります。ササン朝はまさに占星術の王朝でしたから、クテシフォンとバグダードの設計プランが似通っている可能性というのは あるのか、ないのか、このあたりにも興味が出てきました。。。。。 タバリーの原典、いつか情報が得られたら、お教えくださると非常に助かります。 このスレももう2年経ちますので、あと何年か続くことでしょう。気長に待ちます。
255 :
世界@名無史さん :05/02/03 22:55:30 O
ハールーン・アッラシードはドラえもんにも出ている。
256 :
世界@名無史さん :05/02/03 23:02:58 O
100屁
実のところハールーン・アッラシードをはじめて知ったのはそのドリャいもんだったり。
258 :
世界@名無史さん :05/02/04 00:37:42 0
それってたしかシンドバットの最後の冒険を ドラえもんらがタイムマシンを使ってシンドバッドを助ける話で 出てきた王様のことかいな?
260 :
世界@名無史さん :05/03/05 01:34:14 0
age
261 :
世界@名無史さん :2005/03/26(土) 02:48:28 0
アルタバリーの歴史書の第2巻に、「The Ancient Kingdoms」という巻があるのですが、 どなたか、どの王国が扱われているのか、ご存知の方おられますでしょうか? ググっても内容までは出てこないのです。
>>261 質問スレで聞いたほうがいいんじゃないの?
263 :
世界@名無史さん :2005/04/24(日) 23:13:24 0
age
あっバース党
265 :
世界@名無史さん :2005/05/22(日) 21:34:47 0
ブワイ朝やセルジューク朝のもとでも一応存在するアッバース朝
アッバース朝カリフ=ムハンマドの「後継者」=神の代理人だよな。 シナ天子(殷周のそれ含む)に近い概念かもね。 まあイスラムは「天の子供」の存在なんて認めてないけど。
267 :
世界@名無史さん :2005/06/02(木) 12:58:18 0
ウマイヤ朝からアッバース朝初期にかけてのウラマーたちは、 「神の使徒のカリフ」という称号は認めても、「神のカリフ」という称号の 使用には常に反対してきた。 ウラマーが「神のカリフ」称号の同意へと傾くのは、ハールーン・アッラシード の政治顧問をつとめたアブー・ユースフが承認してから。
どうでもいいが 東ローマ皇帝も「神の代理人」だったよな?
269 :
世界@名無史さん :2005/06/03(金) 03:03:58 0
>>268 そうでつ。
ついでにいうと、聖職叙任権闘争が起こる前の神聖ローマ皇帝も。
270 :
世界@名無史さん :2005/06/25(土) 12:18:08 0
751年のタラス河畔の戦いの後、ただちにサマルカンドに製紙工場が建ち、 793年にはバグダード、900年頃にはエジプトのフスタートに製紙工場が できるなど、製紙技法はかなりの速さでアッバース朝全域に伝播していった。
USO
>>267 P.Croneの例の著作では完全な異説が提示されてますな。
273 :
。 :2005/07/17(日) 18:23:22 O
アブーアルアッバース
サウジの王様は「信徒の長(王?)」を名乗らないんだろうか? 一応ワッハーブ派の長でもあるのに。
275 :
世界@名無史さん :2005/07/18(月) 02:09:14 0
>>274 信徒たちの長(アミール・ル・ムウミニーン)は、すべてのイスラム教徒の長の
意味なので、サウジの国王といえど名乗ることはできない。
サウジの王様のタイトルは「二つの聖地の管理人」です。
サイイドでもクライシュ族でもないしねえ。 それに現在の政体は、サウド家とワハーブ派の同盟で出来たもので、 お互い相手のこと気を許してない、という緊張感ある関係。
へえ、そうなんだ。 …じゃあモロッコの王様やタリバンのエロい人は何だったんだろうか。
モロッコ王は一応サイイド。 よって国内でのアミール・ル・ムウミニーンの称号はそれなりの権威がある。 モロッコは平和であるが、アラブ人、ベルベル人、イスラーム運動等懸念もあるので、 超越した権威が必要なのだろう。 しかしモロッコ外ではただのモロッコのスルタン。 タリバンは知らん。 たぶんオマル師の僭称、誰か認めてるの?
アンプルール・ドゥ・マロック(モロッコ皇帝)という名前のバラがあるけど これは「信徒の長」のことなのか? いずれにしても「皇帝」であるということをアッバース家に認めてもらったとかいうのは全く無いんだろうなあ。
現在のモロッコの王家であるアラウィー朝が、シジルマーサを支配下におさめて 政治権力として浮上をし始める、マウラーヤ・シャリーフから「アミールル・ムゥミニーン」を 名乗るようになる、次のラシードの治世は、17世紀前半から後半に渡る時期で、 オスマン朝がマムルーク朝を滅ぼし、カイロに擁立されていた傀儡のアッバース朝 カリフをイスタンブルに連行してから百年以上後の話。 そのマムルーク朝が擁立したアッバース朝カリフもマムルーク朝の他は 北インドのデリー・スルターン朝ぐらいしか正統なカリフとしては承認していない。 カリフを称したマグリブの王朝としては、モンゴル軍によってアッバース朝の カリフ・ムスタアスィムが殺害され、アッバース朝が滅亡した(1258年)直後、 バイバルスがアッバース家の人物をカイロに迎えてカリフとして擁立する(1261年) よりも前の1259年にテュニスのハフス朝の第2代スルターン、アブー・アブドゥッラーが カリフと称し、ムスタンスィルと号した例の方が時期的にははるかに早い。
281 :
世界@名無史さん :2005/07/19(火) 22:08:12 0
ムラービト朝やムワッヒド朝の支配者達もカリフを名乗っていたらしいけど
ムラービト朝朝もなの? ムラービト朝はアッバース家の権威を受け容れて、西方のスンニ派分裂に(一時的に)終止符を打ったと思ってた。 詳細教えてくれると嬉しい。 ムワッヒド朝は既存のスンニ派批判の宗教運動みたいなもんだからなあ。 自分たち独自のカリフってコトなのかな?
283 :
世界@名無史さん :2005/07/21(木) 21:33:54 0
>>282 いや、文庫クセジュの「レコンキスタの歴史」に
カリフと表記されていたのを読んだだけなんで、
正直あまり自信は……
そこで詳しい人プリーズ。翻訳の問題だという可能性に50ディルハム賭けてみよう
284 :
世界@名無史さん :2005/07/21(木) 21:35:22 0
あとチュニジアのハフス朝の君主も、アッバース朝滅亡後にカリフを称していたらしいですね。 こっちの典拠は選書メチエの「モンゴルVS西欧VSイスラム」。 ちょっと弱いかな?
hjr
286 :
世界@名無史さん :2005/08/14(日) 17:31:45 0
hosyuage
287 :
世界@名無史さん :2005/08/17(水) 21:56:52 0
ハールーン・アッラシードって実は大したことないんだね。 最近までてっきり素晴らしい名君なんだとおもてたよ。
288 :
世界@名無史さん :2005/08/17(水) 22:01:02 0
クレオパトラやコンスタンティヌス大帝と同じだな。
絵に描いたような名君なんて 趙匡胤ぐらいしか思い付かない。 劉秀とかは結構えげつないこともやってるし。
バルマク家粛清はわけがわからなさすぎ。
>>290 有力官僚一族を排除したってだけのことではないかとおもうが、
そのへんに理解不能を感じるのかね?
>>291 さん
ジャアファルを自分の命令で殺しておいて、
「ジャアファルを殺したものの顔など見たくない」
と執行者を処刑するあたりのことじゃないでしょうか?
294 :
世界@名無史さん :2005/09/15(木) 00:33:20 0
age
295 :
世界@名無史さん :2005/09/15(木) 06:54:55 0
アッバース朝になって急速に男色が盛行した とよく言われるけど、それ以前のアラブ系諸民族の間では 男性同士の性愛は、どの程度盛んだったのですか?
>>295 Islamic Homosexualitiesという本がそういうネタについて詳しいらしいけど。
297 :
世界@名無史さん :2005/10/12(水) 17:36:12 0
.
299 :
世界@名無史さん :2005/11/13(日) 02:07:49 0
↓が話題を転換してスレ繁盛を期待age
300 :
世界@名無史さん :2005/11/13(日) 08:44:54 0
アッバース朝のカリフ、アル・アミーンの頃からバグダードから流行り出して、 たちまちムスリム文化圏全体に広く伝わり流行した「男装の麗人」 "ghulamiyyat","gulamiyyat"ないし "ghulamiyat"は、 本によって、「グラーミーヤート」とか「グラーミヤート」と母音の長短が 異なっていますが、いずれが正しいのでしょうか? 識者の御示教を願い上げます。
ḡulāmīya غلامية (youth、youthfulnessの意味) 最後に -t が付くのはター・マルブータのためだろうが、 アッバース朝の頃で「グラームの〜」といったら「マムルーク」 と同じ「テュルク系親衛部隊」の類いじゃなかったか? いずれにしろ原義が知りたくば自分でともかく辞書と文法書を買いなされ。
302 :
世界@名無史さん :2005/11/14(月) 23:42:39 0
>>300 の訊いているのは
>>301 が挙げている単語の複数形ですね。
律儀に必ず長音記号を付けるなら「グラーミーヤート」が正しいと言うべきでしょう。
>>301 にある四角形の記号は「gの上に横線」のことで、「youth、youthfulness」を
意味する単語として「Arabic-English Dictionary The Hans Wehr Dictionary of
Modern Written Arabic」(ISBN 0-87950-001-8)682ページに載っています。
303 :
302 :2005/11/15(火) 22:37:24 0
よく考えてみたら、「グラームの(者)」を意味するグラーミーの
女性形グラーミーヤの複数形でグラーミーヤートになるのかも。
私の手持ちの辞書には「グラーム」という項目が存在しないのですが、
検索してみるとグラームとはもともとは「小姓」を意味していたようで、
後に
>>301 の指摘していらっしゃるような意味になったようですから、
その格好をした女性たちのことをグラーミーヤと言ったのかもしれません。
http://www.lit.kobe-u.ac.jp/asian-history/teacher1.html こちらのサイトによると「清水 和裕(SHIMIZU, Kazuhiro)助教授」の論文に
>「グラームの諸相…アッバース朝におけるイエと軍事力」
> 『西南アジア研究』52号、2000年。
>「マムルークとグラーム」
> 『岩波講座世界歴史10 イスラーム世界の発展』岩波書店、1999年。
というのがあります。
304 :
世界@名無史さん :2005/11/16(水) 12:37:06 0
色々と有り難う御座居まする。
305 :
世界@名無史さん :2005/11/27(日) 14:42:42 0
750年から1258年までの間に、国民に兵役の義務が無かった時期はあるのですか。
>>305 マジレスすると、その「国民」とやらの定義が問題になる。
それから、基本的に徴兵制ではなく募兵制に近い。
アッバース朝スレで話題的に適切かは分らないが、 ムハンマド以降のアラブ征服時代の主要戦力は馬。 勿論初期にはラクダ部隊も投入されたが、ウフドの戦いで ハリード・ブン・ワリード率いる騎馬集団がムハンマド軍を 側面と後背から攻撃してこれを潰走させて以来、騎馬集団に 対する重要性が格段に上昇した。 のちの塹壕の戦いでムハンマド率いるメディナ軍が勝利したのは ラクダ部隊や騎馬集団を率いたメッカ軍を、塹壕から射撃して 撃退させたことが大きい。メッカ軍は敗退したものの、両者とも 騎馬部隊の重要性は強く認識していた。 正統カリフ時代のアラブ征服を実現させた背景は、おもに在来の アラブの騎馬部隊もさることながら、南メソポタミアにいた、 ガッサーン朝系などの旧サーサーン朝側の騎馬部隊が多く帰順して きたことで、大規模かつ組織的な騎馬部隊の運用が可能になったから。 これはアッバース朝時代の中央アジア遠征でも変わっていない。
308 :
世界@名無史さん :2005/11/29(火) 14:57:43 0
>>307 戦術上の騎馬部隊の重要性は、前近代においては古今東西を問わないよね。
タバリーなんかの記述を見てると、左右両翼・中央部隊の他にあえて「騎馬隊」が編成されていたように解釈できますな。
だとすると、「騎馬隊」と明記された部隊以外は歩兵だった可能性が高くなる。
戦闘シーンの記述でも、まずは左右両翼が進撃し、その後機を見て騎馬隊突入ってケースが多いようにおもわれます。
309 :
世界@名無史さん :2005/11/29(火) 20:41:16 0
アッバース朝の末裔はどうなったのでしょうか? オスマン朝のスルタンにカリフの位を譲ってからを教えて下さい。
310 :
世界@名無史さん :2005/11/29(火) 20:43:36 0
暗殺されてお終い
311 :
世界@名無史さん :2005/12/04(日) 22:05:22 0
>>311 自分の知る限りでは詳細不明。
史料では単に「騎馬兵」という単語で記されている。
騎射兵もいたようだけど、おそらく少数じゃないかなぁ。
大部分は普通に馬に乗って剣なり槍なりを振るっていたと思う。
突撃とかよくしてるし。
ササン朝の時代には弓矢はおもに歩兵が担当して 騎兵は鎧を着て近接兵器で戦ってたらしい。 後にトルコ人が奴隷兵としてもてはやされたのは 騎射の技術があったからだろうか。
カーディシーヤの戦いを伝えるバラーズリーの『諸国征服記』や タバリーなどを見る限り、サーサーン朝側もアラブ軍の騎兵も 使用している武器は剣や槍くらいしか出てこず、有名な300頭の 戦象を倒す時も槍は出てくるけど弓矢はあまり出てこないもよう。 いちおう弓矢で攻撃する場面もあるのだが、馬上からなのか徒歩での ことなのか今ひとつわからない。ちなみにこの戦いでアブー・ミフジャン ・アッサカフィーという人物がサーサーン朝軍の戦列に突撃して、 白象を剣で倒したとかいう記述があったりする。 実はゴール朝のシハーブッディーンがタラーインの戦いでインド側の 戦象部隊や騎馬部隊を倒す時も、総勢4万の重装騎兵に槍や剣で撃破 したとのこと。 ジャーヒリーヤ時代からアラブの諸部族では弓矢の技量を競っていた ようで、預言者ムハンマドも弓矢を良くしたそうな。ただ、記録から 推測する戦闘部分の推移を考えると、やはり彼らにとって弓矢は 馬上からではなく徒歩のときにやっていたような感じがする。 アッシリア時代のレリーフだとアラブ人がラクダの上から弓矢を射かけ ているものがあるけど、実際アラブ征服時代には騎射は行っていたか どうかちとわからない。
315 :
世界@名無史さん :2005/12/11(日) 18:09:37 0
アラブ人はいても中央アジア系遊牧民のほとんどいない北アフリカでは 馬をフルギャロップで走らせながら弓矢を使うような戦士はいないしなあ。 もっぱら盾と槍で戦ってるような。 アンダルシアでは騎馬弩兵がいたらしい。
316 :
世界@名無史さん :2005/12/11(日) 18:20:11 0
>>309 嘘か本当かしらんが東京でトルコ料理やってる人が
末裔と聞いたことがある。
317 :
世界@名無史さん :2005/12/11(日) 18:48:45 0
アッバース朝歴代カリフのなかで最も男色好きだったのは誰?
319 :
世界@名無史さん :2005/12/12(月) 12:26:56 0
カリフと天皇 どちらもクズ
320 :
世界@名無史さん :2005/12/12(月) 12:38:52 0
最後のカリフは蒙古のフラグに無抵抗で降伏したのに何で殺されたの? 食事を乞うカリフにフラグは無慈悲にも 皿にカリフの金銀財宝を盛って「食え」と言って 「お前がこれらの財宝を軍備に充てていたら 私はバグダッドに入城出来なかっただろう」と言ったらしいが。
321 :
世界@名無史さん :2005/12/12(月) 12:42:51 0
アッバース朝歴代カリフのなかで最も男色好きだったのは誰?
323 :
世界@名無史さん :2005/12/13(火) 22:09:45 0
モンケが殺せって命令を出していたから。 ナーシル・アッディーンが「カリフを殺しても世界は滅亡しない」と素っ破抜いたから。
あとでバトゥの弟のベルケが、モンケからの正式な許可も無しにフレグが勝手に カリフ・ムスタアスィムの処刑を執行した、って言ってこれを咎めてアゼルバイ ジャンから侵攻した。多分モンケ急死で西征軍が勝手に中東を私物化しない様に 釘を刺してきたためらしいけど、これは言い掛かりのたぐいだよね。 『集史』じゃなかなか碌な使者をよこさないカリフにモンケが立腹して、降伏したら そのままカラコルムに連行して、降伏勧告に応じなかったら討滅するか捕らえて 処刑するよう指示してるけど。 ニザール派の教主ルクヌッディーン・フルシャーも投降後にカラコルムに連行される 途中で殺害されてるけど、これも途中で気が変わったのかはじめから意図してか モンケの指示だったらしい。
325 :
世界@名無史さん :2005/12/27(火) 17:23:34 0
イスラム帝国で西暦八世紀に初めて国家的な支配を確立させました。
326 :
世界@名無史さん :2005/12/27(火) 21:06:33 0
>>309 アッバース朝の末裔はサッダーム・フセインだよ。
だから、サッダームは現代のカリフ(ハリーファ)。
サッダームは預言者ムハンマドの子孫でもある。
前世は、歴代のバビロニア皇帝。
って、フセイン政権下の学校の教科書では教えられてたそうです。
327 :
世界@名無史さん :2005/12/27(火) 22:10:03 0
>>326 >前世は、歴代のバビロニア皇帝。
だいたいイスラムに前世とか輪廻とかの思想ってないだろう…
少なくとも本流のスンニー派とかシーア派の思想には。
でもそうツッコむのは自分と家族の命と引き換えだったんだろうな。>フセイン政権下
ムハンマドの子孫だったらイラクでもイランでもシリアでもそこら中に 山のように居るわけ、それだけでは何らフセインの人の支配正統性を保証しない わけだけど・・ まあ、これは現政権の拍付け程度で、言ったもの勝ちか(w 新バビロニア帝国の王が前世ねえ・・・ 相当前にそんな話を聞いたな。 一応イスラム神学では分派学書のたぐいでインドの輪廻転生思想を紹介する件で 「タナースフ」という用語が使われてるけど、あまり一般的とは言えなかったはず。 ドゥルーズ派あたりで輪廻思想が云々されていたような・・・ スンナ派教学というよりはシーア派でもかなり異端っぽい用語な気がする。 もっとも「フセイン」という名前自体があまりスンナ派っぽい気がしないけど 「フサイン」という人名はスンナ派シーア派を問わずに付けられる名前なのかね? ちなみのイランのハータミー前大統領はムハンマド家のフサイン裔の子孫の一人。 ヨルダンのアブドゥッラー国王はハサン裔の子孫の一族の一人。
中近東や中央アジアでは戦乱のどさくさにまぎれて政権をたてる 戦国武将みたいなサイイドがたまにいるらしいけど まあこの際関係ないな。
330 :
世界@名無史さん :2006/01/03(火) 00:14:21 0
age
331 :
世界@名無史さん :2006/01/03(火) 07:08:41 0
アッバース朝歴代カリフのなかで最も男色好きだったのは誰? 誰ひとり答えられぬというのか?
333 :
世界@名無史さん :2006/01/05(木) 22:17:56 0
>>320 バグダードの城壁の外でカリフの使者がフレグと和平交渉してる時に
城内から放たれた矢がフレグの隣にいた兵士に命中して
それでフレグがキレたとか何かで読んだ。
兵士じゃなくて、ヒンドゥー・ビチクチっていうフレグの秘書官をやっていた 西征軍の幕僚でも有力なアミール。目を射られたらしい。 交渉やってる時にそんなことされたら、そりゃあ怒るわとも思えるけど。
それって完全に自業自得やん…
336 :
世界@名無史さん :2006/01/06(金) 13:38:52 0
アッバース朝歴代カリフのなかで最も男色好きだったのは誰? 誰ひとり答えられぬというのか? 332の慮外者は死に腐れーい!!
>ヒンドゥー・ビチクチ 印度人?
>ヒンドゥー・ビチクチ いや、ベスト部だったかスルドス部だったか忘れたけど 西征軍に従軍していた有力部族の首長格の人物だったと思う。 手許に資料がないので詳しい出自はちと思い出せないが・・ この頃からモンゴル王侯はペルシア語やらテュルク語の語彙を 含んだ人名が多くなって来てる。
>>338 の補足。
ヒンドゥー・ビティクチは、
スルドス部族の支族であるイルドルキン部族の出身で、フレグ西征軍において
ホラーサーン方面のカラウナス万戸隊長を勤めていたらしい。
『集史』「イルドルキン部族誌」によるとこれに加え、ホラーサーンのバードギース地方
(ヘラート周辺)を任されいた。同じく『集史』「テグデル・アフマド紀」では1280年代の
テグデル・アフマド・ハンとアルグンが王位を争っていた時も、ホラーサーンのカラウナス軍団
の首長としてアルグンの幕僚となっており、アルグンにテグデル・ハンが年長者であるため
彼との紛争は可能な限り避けるよう諌めている。
このときヒンドゥーはもしテグデル・ハン側からの干渉でアルグンの身に危害が及ぶようで
あればそれを身を呈して死守すると請願しており、当時ホラーサーンはじめ東方境域を統括
していたアルグンに直属していたと見られている。すでにバグダード陥落から24年は経過して
おりヒンドゥー自身が自らをして「老骨(ピーリー)」と述べているようにかなりの高齢
だったようだ。
341 :
世界@名無史さん :2006/01/21(土) 10:16:25 0
「ニューヨーカー」の記事ですが
ttp://www.newyorker.com/fact/content/articles/050425fa_fact4 >To be safe, Hulagu had the caliph wrapped in a carpet and then trodden to death by horses.
>He also killed all the caliph’s family, except for his youngest son and a daughter.
>The daughter was shipped off to Mongolia to be a slave in the harem of Mongke Khan.
バグダード陥落後にムスターシムの一族を処刑したってのはともかく
王女のひとりがモンゴルに送られて奴隷にされたってのは初耳。
本当の話なんだろうか?
カリフ・ムスタアスィムの親族近臣はカリフと一緒にあらかた処刑されたそうだけど、 『集史』「フレグ・ハン紀」によると、まだ幼少だった彼の息子ムバーラクシャーは、 このとき処刑を免除されフレグの筆頭正后オルジェイ・ハトゥンに与えられたそうだ。 その後ハトゥンは彼をマラーガのナスィールッディーン・トゥースィーのもとに送って、 ムバーラクシャーはそこで成長してモンゴル人の娘を娶り、2子をなしたという。 でも娘の話は出てこないから、ほかのペルシア語かアラビア語の文献にそのような 記述があるのかも。支配地域や征服地域の王侯やその子弟をモンゴル本土の宮廷に送る例は、 ニザール派教主ルクヌッディーン・フルシャーやアルメニア王国のヘトゥム1世、 同じくルーム・セルジューク朝のルクヌッディーン・クルチ=アルスラーンなど このフレグの西征だけでもいくつもあるので、充分ありうることだと思う。 ただ、この遠征で王侯の子女もモンゴル本土まで送るという話はあまり聞かないのでそこが 引っ掛かるのだが・・・ サイトの書き手が典拠を書いてくれてたら良かったのだけど。
343 :
世界@名無史さん :2006/02/02(木) 22:51:31 0
>>342 バイバルスによって一時カリフに即位させられるも、
後に少数の護衛をつけてモンゴル軍へ特攻させられた
ムスターシムの叔父とどっちが幸せだったろうか・・・
あげ
age
347 :
世界@名無史さん :2006/03/01(水) 23:25:24 0
348 :
世界@名無史さん :2006/03/16(木) 16:59:15 0
古代バグダッドが繁栄してた時期には、地方都市とかもそれなりに 繁栄してたんですか?
マッカ、マディーナ、エルサレム、ダマスカス、クーファ、バスラ、フスタート、アンダルスのトレドの北のなんとか、 思いつくだけでもいろいろあるよ。
350 :
世界@名無史さん :2006/03/16(木) 22:28:14 0
>349 ありがとうございます
あ、忘れてた、イスカンダリーヤ
アッバース朝はすげえ
アッ バース党はすげえ
354 :
世界@名無史さん :2006/03/26(日) 04:05:56 0
そんな党はねーよ
あっ バース党はすげえ
356 :
世界@名無史さん :2006/03/26(日) 15:27:24 0
それを言うならバアス党
357 :
世界@名無史さん :2006/03/30(木) 22:56:21 0
「バアス党」の「ア」は'ainと表記される文字で、発音の仕方は 「『咽頭摩擦音』で、喉を強く緊張させて発音する」(『アラビア語入門』 (泰流社)4ページ)と指示され、よく「ニワトリを絞め殺すときの『ア』」と 描写されています。これに対して「アッバース」の「ー」の部分は普通の 長音です。
358 :
世界@名無史さん :2006/04/04(火) 22:02:52 0
なんだ、無関係だったのね・・・ どっちもバグダッドが本拠地で共通していたし、 サダムタンは「アッバース朝の栄華を今こそ云々」と演説してた記憶があったんで、 党名もイラク絶頂期の王朝名にあやかったものかとばかり・・・
359 :
世界@名無史さん :2006/04/06(木) 23:08:33 0
360 :
世界@名無史さん :2006/05/05(金) 18:54:01 0
362 :
世界@名無史さん :2006/06/01(木) 18:13:02 0
363 :
世界@名無史さん :2006/07/01(土) 13:20:44 0
ウマイヤ朝は白衣・白旗、 アッバース朝は黒衣・黒旗、と対照的だが、 何か由来でもあるんだろうか?
364 :
世界@名無史さん :2006/08/22(火) 16:04:56 0
age
365 :
世界@名無史さん :2006/08/27(日) 00:30:35 0
>>363 シーア派の指導者が白黒の衣をまとっているが(ハタミ師とかね)、
起源の上ではあれらは無関係?
歴代のシーア派イマームを暗殺や毒殺してきた ウマイヤ朝やアッバース朝に関係あるわけがない!
黒衣はムハンマドに連なる血筋の人だろ シーア派の場合
368 :
世界@名無史さん :2006/10/06(金) 20:25:24 0
age
369 :
世界@名無史さん :2006/10/20(金) 01:40:23 0
そういやカーバ神殿の黒石も黒い布で覆われているね。
370 :
世界@名無史さん :2006/10/29(日) 18:16:50 0
フセイン政権崩壊の翌日、私は妻とともに散歩に出かけた。 もう春だというのに木はなぎ倒されている。 人々の表情は抑圧からの解放と新たな占領への不安に満ち、額から流れるバグダッド市民の汗が太陽光を反射していた。 「サダムが好き勝手する時代は終わったのだな」 昨日までバース党員だったモハメドさんが、ほっとしたように私たち夫婦に言った。 「ええ、これからはアメリカが占領する時代なんですよ」 普段は滅多に話に加わらない妻のサリーが、モハメドさんの肩に手を置いて不安に満ちた声で言った。 「星条旗を御覧なさい。あの星こそ帝国主義の象徴じゃないですか」 通りがかりの髭の長い中年男がそう言って顔をしかめた。 農夫は長年使ってきた鍬をうっちゃり、黒光りする銃を略奪した。 「農民はもうやめだ。これからはイラク中に反米の銃声を響かせよう」 十字軍に抵抗するイスラム戦士の表情で男は言った。 青空のなかを米軍ヘリが横切っていった。
>>369 カアバ神殿を覆っている黒布は「キスワ」といって、預言者ムハンマドの生きた
時代よりも以前からかけられていたようだ。イスマーイール(イシュマエル)が
最初に覆いをつけたとかいう伝説があるとか。
ムハンマドがメッカを征服した直後くらいにこのキスワが燃えちゃう事件があって、
この時イエメン製の布で覆わせ、以来イエメンの織工たちによってキスワが作られて
きたそうだ。当初は時代によって白だったり赤だったり緑だったりととまちまちだった
みたいだったようだけど、アッバース朝第34代カリフ、ナースィル・リ=ディーニッラー
が黒いキスワを覆わせて以来、キスワは黒で定着するようになったそうな。
だからカアバの黒布はアッバ−ス朝起源。(といっても末期に近いけど)
マムル−ク朝に入って今度はエジプトがキスワの製造を専門の村を作ってするようになり、
20世紀前半まで続いていたが、サウジアラビアのアブドゥル=アズィース・ブン・サウード
国王が1927年にメッカにキスワ工場を建設して、地元で自前に作るようになり現在に至る。
かつては毎年、イエメンやエジプトなどキスワを取り替えるためにキスワの輸送団が組まれて
メッカを訪れ、それがメッカの風物詩だったそうだけど、今はどうなってるんだろう?
ティムール朝のシャー・ルフがメッカにキスワを贈りたいといってきたのを マムルーク朝が何度も断ったんで戦争になったんだよなw
あっ、バース党スレ?
374 :
世界@名無史さん :2006/11/18(土) 04:09:50 0
375 :
世界@名無史さん :2006/12/09(土) 17:59:22 0
>>371 エデンから落ちてきた隕石というのはイスラム以前からの伝承でしょうか?
はて
377 :
世界@名無史さん :2007/01/15(月) 14:15:42 0
イスラーム以前に「エデン」はないんでないの? 白いヒヤシンスだったのが人間の罪で黒くなった、ていう伝承があったんではなかった?
378 :
世界@名無史さん :2007/02/26(月) 02:05:45 0
>>375 コーランには「ムハンマド以前からあった石」と書かれていたような。
モンゴル侵攻のころのアッバース朝については『集史』が詳しいですが、 12世紀から13世紀中頃の状況を記述した邦語の文献はないものでしょうか?
380 :
世界@名無史さん :2007/03/21(水) 02:18:44 0
祝五周年! 密かな長寿スレッドよ、永遠なれ。
>>379 日本語で読めるものとしては、東洋文庫から出てる
イブン・アッティクタカーの『アルファフリー』の2巻目
最後の60ページくらい?
>>381 貴重な情報ありがとうございます。図書館に行って借りてみます。
アッバース朝の末期に関するアラビア語史料というと、 イブン・アル=ジャウズィーの『正しき秩序』、 イブン・アル=アスィールの『完史』に スィブト・イブン・アル=ジャウズィーの『時代の鏡』辺りかな。
日本語訳はないのですか
386 :
世界@名無史さん :2007/04/16(月) 21:05:10 0
今のところ
>>383 の挙げた史料で邦語訳・出版されたのは無いな。
387 :
世界@名無史さん :2007/04/20(金) 07:58:59 0
アッバース朝は最高だった
388 :
世界@名無史さん :2007/04/20(金) 12:50:29 0
アッバース朝時代で一番の少年愛者は誰でしょうか? 詩人のアブー・ヌワースを除いてだけど。
389 :
世界@名無史さん :2007/04/30(月) 14:59:54 0
アッバース朝とウマイヤ朝について調べることになったんだけど なにかいい参考書籍ありませんか?
『アラブの歴史』(上)(下) フィリップ・K・ヒッティ 著 岩永博 訳 講談社学術文庫
>>390 有難うございます。
さっそく図書館で探して見ます。
392 :
世界@名無史さん :2007/05/10(木) 20:46:09 0
>>390 それ欲しくて本屋に注文したら絶版だと言われてショックだったよ。
どうして良書ほど絶版になるんだろうね?
やべっ、このままではDAT落ちしちまう。 しかたねえ、マムルークの力でも借りるか・・・。
お腹空いたよ〜 金銀財宝はいいから食べ物ちょうだい・・・ こんな事ならモンゴルに抵抗せず無血開城すればよかった・・・
>>394 ほ〜れ、この革袋の中にお入り!Ψ(^∀^)Ψ
ドカッ!バキッ!
ぎゃあああ!!
こうしてアッバース朝は数百年の歴史に幕を下ろした。
時に1258年、12月10日のことであった・・・。
396 :
世界@名無史さん :2007/07/15(日) 20:36:46 0
そしてイスラム世界は峠を越えた。 千年続く下り坂へゆっくりと・・・
397 :
世界@名無史さん :2007/07/15(日) 23:33:20 0
>>396 最近は「下り坂」ではなく、「成熟」だ、というらしい。
オスマン帝国を扱った中公「世界の歴史」の巻が『成熟のイスラーム世界』と題されています。
ま、トルコ史専門家からすれば「イスラム史はアラブ人だけのものじゃないぞ」と言いたいでしょう。
アッバース朝の滅亡をもって、アラブ人は世界史の主役から一旦降りた、とは言えますな。
398 :
世界@名無史さん :2007/07/17(火) 01:25:21 O
イスラム帝国とよばれる理由をどなたか教えてください。アッバース朝の要点をまとめるらしいんですが、教科書読んでもわからないんです。
399 :
世界@名無史さん :2007/07/17(火) 01:35:28 0
>>398 なるほど。意外な盲点かも。
「イスラム教徒の君主が、イスラム法(シャリーア)に基づいて、
多民族を統治していたから。」
でとりあえず充分ではないかと。
細かく言うと、アッバース朝以前のウマイヤ朝が「アラブ王朝」と評価されて
いまして(その理由は、アラブ人とそれ以外の民族とに税法上の差別を設けていたから)、
アッバース朝が「イスラム帝国」とよばれるのは、上記の差別を撤廃し、統治の正統性を
アラブ民族による異民族支配から、イスラムによる多民族共存に置いたからではないでしょうか?
(『教科書的説明』過ぎる!という異論は今回に限り却下いたします)
400 :
世界@名無史さん :2007/07/17(火) 01:49:20 O
>>399 398です。ありがとうございます、助かりました。
401 :
399 :2007/07/17(火) 02:41:28 0
>>400 お役にたてて光栄です。
高校生があんまり夜更ししちゃダメだぞ!
402 :
世界@名無史さん :2007/07/19(木) 18:44:52 0
>>397 セルジューク・トルコの頃で既にイスラーム史の主役は
トルコ系に移行したと言えなくもないですな。
対十字軍戦・対モンゴル戦も実際に戦ったのは彼等ですし。
余談だが旧イラクのフセイン政権がやたらとアッバース朝の後継者を
自認していたのを思い出した。
>>402 どちらもバクダートが首都だからねえ。
シリアのアサドはウマイヤ朝の後継者とか言ってるのかな?イスラム的に評判の悪い王朝だから言わないか?
このスレも下り坂ですか?
現代のバグダードがあの有様だからね。 当分、アッバース朝関連で新しい話題は見込めそうも無い。 東洋文庫辺りがイブン=アル=アシールの『完史』を邦訳出版すれば 多少は住人も増えるだろうけど。
アッバース朝以降のアラビア半島に空白地帯があるのはなぜですか
ベドゥインが遊牧してたのでは
アッバース朝の翻訳運動について興味があるのですが、 『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』 (ディミトリ グタス著、山本 啓二訳)以外に皆様オススメの本は何かありますか?
409 :
世界@名無史さん :2007/09/05(水) 01:39:32 0
『ギリシア思想とアラビア文化―初期アッバース朝の翻訳運動』 の巻末参考文献をごらんになっては いかがでしょうか。お勧め以前に、邦文文献はなさそうな感じです。
ゴート王国はベドゥインだったのか!
411 :
世界@名無史さん :2007/10/19(金) 20:51:48 0
あげ
アッバース朝の翻訳運動だったら前嶋先生の著作が新書版が出たり、 平凡社の東洋文庫に入ってて入手しやすいんじゃないでしょうか。
413 :
世界@名無史さん :2007/12/09(日) 01:25:17 0
>>408 嶋田襄平著『イスラム教史』(世界宗教史叢書5)山川出版社
に、それに関する面白い記述があったと記憶しています。
書き込みは数日後になる予定。
414 :
世界@名無史さん :2007/12/13(木) 17:10:33 0
>>406 1. 大征服に伴うアラブ部族民の大規模な半島外移住
2. ウマイヤ朝期からアッバース朝期にかけての、アラブ部族民の軍事的・政治的機能の低下
3. 2と同時に非アラブ人勢力の台頭
4. 基本的にアラブ部族民しかいないアラビア半島は徐々に政治的な表舞台からフェードアウト
5. 聖地を擁するヒジャーズ地方、港のあるウマーン地方やハドラマウト地方を除き、歴史に残らなくなっていった
こんなかんじかねぇ。
415 :
世界@名無史さん :2007/12/13(木) 20:06:23 0
>>413 の続き。嶋田襄平著『イスラム教史』(世界宗教史叢書5)山川出版社176−177ページから引用。
「アッバース朝第七代カリフ - マームーンはみずから合理的な思想の持主であったが、
八二七年に勅令を発して「創造されたコーラン」の学説を天下に公布し、八三三年には、
この学説に従わないカーディーを公職から追放し、かつこの学説に従わないものを弾圧するための
審問機関ミフナを設けた。ミフナは、第十代カリフのムタワッキルが「創造されたコーラン」の
学説を取り消し、正統派の信仰への復帰を宣言した八四八年まで続けられたが、
やや誇張した表現を許されるならば、八二七年から八四八年に至る二十一年間は、
その後のイスラムの性格を決定した二十一年間であったといっても過言ではない。
もしこのときムータズィラ派が勝利を収めていたならば、イスラムは全面的に
ヘレニズム的価値を受容・継承し、ヨーロッパに先がけて人文主義と宗教改革の
道を歩んだであろうと想像することも、あながち荒唐無稽の空想とばかりは
いえないのではなかろうか。」(引用中断)
ところが、この文章の直後にこうあるんです。(以下、引用再開)
「「無からの創造」を説く啓示と、「存在しないものからは何ものも生じない」と
確信する哲学とのあいだには、まったく妥協の余地がない。」(引用終了)
どっちなんだ!
翻訳運動とは直接関係なかったか、スマソ。
「「翻訳の時代」または「翻訳の世紀」」という表現は169ページにでてきます。
417 :
世界@名無史さん :2007/12/15(土) 17:19:30 0
>>415 >どっちなんだ!
ムータズィラ派神学が、『「存在しないものからは何ものも生じない」と
確信する哲学』重視する『ヘレニズム的価値』を体現する神学であり、
やがて駆逐された。
他方、ムータズィラ派を駆逐した正統派神学は、『「無からの創造」を説く啓示』を
重視する神学であり、その後のイスラーム神学の在り方を規定した。
この両者の間には『まったく妥協の余地がない』、ということでは。
正直どっちの学説を取っていようが、異民族の侵入が繰り返され長い間政権がほとんど安定しなかったイスラム地域じゃ ヨーロッパ的な意味での人文主義や宗教改革は起こらなかったとおもうぞ。
419 :
世界@名無史さん :2007/12/24(月) 10:16:22 0
西欧社会に比べて、高い流動性はイスラーム社会の特徴とされているからねぇ。 生じるとしたら、それこそイスラーム社会特有の人文主義・宗教改革になったんだろうね。
420 :
世界@名無史さん :2007/12/26(水) 21:03:47 0
>>405 Ibn al-AthirのKamilは・・・長すぎるだろ。
Yaqubiあたりが狙い目じゃないかな。
でも平凡社は金無いみたいだから無理だろ。
421 :
世界@名無史さん :2008/02/03(日) 22:18:53 0
ペルシア文明は滅んでしまったと考えていい?
422 :
世界@名無史さん :2008/03/24(月) 20:52:18 0
>>421 何をもってしてペルシア文明を定義するかが問題だわな。
ペルシア文明からはゾロアスター教と言うか、アフラ・マズダ系の信仰を外す事は出来ないだろ。
426 :
世界@名無史さん :2008/05/07(水) 20:46:34 0
弟なのかw
427 :
世界@名無史さん :2008/07/08(火) 01:11:34 0
兄スレage
428 :
世界@名無史さん :2008/08/03(日) 02:08:09 0
アッバース朝は、ペルシャ人が優位というけれども、 公用語はやはりアラブ語であった。 コーランもペルシャ語コーランはでなかったし。 ササン朝やアルケサス朝の公用語と文字はなんだったんだろ。 アラブ語に駆逐されたね。
>>428 アッバース朝はその勃興からそもそもイラン高原や中央アジアのアラブ戦士集団や
イラン系庇護民(+のちにテュルク系軍人)の軍事力を背景にウマイヤ朝を打倒した政権で
首都バグダードのあるメソポタミアはサーサーン朝の「首都圏」でもある。
統治の手段として被支配層で直接の権力基盤であるイラン系文化を摂取しても、飽くまで
支配する側のアイデンティティとして「イスラーム=アラブ」の優位性は堅持しつつ
イスラーム政権としてのアッバース朝の支配正統性を確保するのが政策の基本だから
アラビア語が他の言語にとって変わるだけの要素はまず無い。もともとアッバース家は
ムハンマドの親戚だし、基本的にマンスール以降ずっとメシポタミアに住んでいたし。
サーサーン朝は中期ペルシア語(パフラヴィー語)、アルサケス朝はパルティア語が
支配層の言語として使われていたけど、メソポタミアではアラム語も併用されていた。
パルティアの頃のメソポタミアはアラム語に加えギリシア語も併用される場合は多く、
むしろパルティア語の資料はアラム語やギリシア語よりもかなり少ない傾向にある。
パルティア時代からシリアからメソポタミアに掛けてはアラブ人の進出が目立ち、
行政言語がアラビア語に置き換わりはしたけど、そもそもアラビア語自体、
文字から語彙からアラム語の影響が濃いので、そんなに苦でも無かったと思う。
一応言っておくけど、「ペルシア語のコーラン」は、翻訳された時点で(教義的には)
『コーラン』とは呼べない代物だが、サーマーン朝の頃にタバリーの『大タフスィール』
(コーランの注釈書)のペルシア語訳が編纂されて、コーランの本文のペルシア語による
訳文は各節、各単語レベルで全体的な理解が出来る環境は早くから整っていた。
430 :
428 :2008/08/04(月) 01:13:07 0
>>429 早速のご教示感謝です。
どちらかというと、アラム語がアラブ語に変わったのだという感じで受け止めました。
今のイラクのバクダードは、
かつてササン朝の中心地域だったんということですが、
パルチア時代に、ペルシャ人パルチア人の中へ、アラブ人がだんだん進出していったんですね。
アラブの人口増加でしょうか。
結局、20世紀(21世紀)の今はアラブ人が大半の地域ですが。
ペルシャ人はだんだんと故地?であるイラン高原へ退いていった。
ウマイヤ朝で迫害されたんでしょうか。
イラクと言う命名は低地アラブから来たときいたので、
すくなくとも、イラク建国時は、アラブばかりの土地(クルドは別として)のように
考えております(違うかもしれませんが)。
431 :
世界@名無史さん :2008/08/16(土) 22:04:40 0
アッバース朝の首都の変遷教えてください バグダード→サーマッラー→バグダード でよいですか?
432 :
世界@名無史さん :2008/08/17(日) 00:55:00 O
アッバース朝のカリフって14世紀以降やカイロ移転後は鎌倉時代以降の天皇に似てる 一応いるけどいないのと同じ。でも宗教的な権威はある。
433 :
世界@名無史さん :2008/08/17(日) 19:34:03 0
434 :
世界@名無史さん :2008/08/17(日) 19:39:52 0
アリー死んだときから分裂してるしな あちこちでカリフ名乗るし
435 :
世界@名無史さん :2008/08/17(日) 21:14:50 0
天 皇=日本国の宗教的権威つきの君主 カリフ=イスラム世界の宗教的権威つきの君主 ↓ 天 皇=皇族公家中心の統治から武家の支配と下克上による乱立。一応形だけ残る カリフ=全国にカリフ自称者、スルタンが独自政権乱立。でも一応カリフは存在。
436 :
世界@名無史さん :2008/08/21(木) 17:26:27 O
天皇≠カリフ
カリフは目を潰されたり殺されたりしたけど 天皇は最悪でも隠岐島遠島で済むからな。
自称天皇の平将門は晒し首になってますけど?
自称天皇であって本物じゃないなら当然そうだろ だから何?
その本物って誰が決めたの?負けたから偽物になってるだけじゃん で?カリフのほうは?
441 :
世界@名無史さん :2008/08/21(木) 20:22:05 0
カリフと天皇を一緒に並べる馬鹿たち発見。 まずカリフは基本はカリフ自称者乱立、スルタンやアミールに舐められまくり。 最終的にマンコるに滅ぼされてエジプトでカス扱い。撮子にも滅ぼされてあぼーん。 天皇は常に幕府の上位に位置し将軍家や戦国大名の諸国民の尊敬を集めていた。 ちなみに倭の五王、推古、桓武、後白河。近代に至っては孝明、明治、大正、昭和と 歴代天皇はどれも英帝ばかり。 カリフやあるいはさらにローマ皇帝、ローマ法王、イギリス王、歴代中国皇帝などよりも 天皇はすぐれていた。そのくらい勉強してから世界史板で形ってもらいたいものですwww
442 :
世界@名無史さん :2008/08/21(木) 22:23:05 O
444 :
世界@名無史さん :2008/08/23(土) 22:41:17 0
>>441 は馬鹿で確定でしょうw
しかしイメージ的にはカリフと天皇は似た感じでしょうね。
445 :
世界@名無史さん :2008/08/26(火) 01:16:46 0
イヴン・ウル・アルカラミイ ググっても一件も引っかからん
>>445 はじめて見る名前だがどこから引用した人名?
まず「イヴン」という時点でかなり妙だが・・
448 :
445 :2008/08/30(土) 22:42:17 0
遅くなってスマソ。 釣りじゃねええええ! 典拠は『モンゴル vs.西欧 vs.イスラム 13世紀の世界大戦』 です。 フラグ軍にボコボコにされた時の アッバース朝のシーア派宰相の名前みたいなんだけど P106に ・・・あ、「イヴン・ウル・アルカラミイ(彼の名)」って書いてるわ。 バクダッド陥落後、数ヶ月で死んだみたいなんで ナーシル=アッディーン=アッ=トゥーシー とはまた別人みたいなんだけど、名前がどこにも書いてねえ。 イスラム史は初心者なんでスマソ・・・ 天皇に関しては 壬申の乱や南北朝などの分裂の危機が何度もあったし 足利義満や織田信長による存在の滅殺といった危機もあったし 元寇やGHQなど外敵による権威の失墜も何とか凌げてこれて やっぱりこれは島国のメリットなんだなあと 自国の特異性に感心する次第です。 まあ、今でも 層化やコミュニストどもや華夷秩序絶対主義の連中らによって 脅かされてる現状ではあるけれど。
「ウル・アルカラミイ」って「アブドゥル・アルハズレッド」並みに無理があるような
450 :
445 :2008/08/30(土) 23:09:49 0
ああああああああああああああああ
スマン
×イヴン・ウル・アルカラミイ(彼の名)
○イブン・ウル・アルカラミイ(彼の名)
でした
ついでなんで
>>311 −
>>315 読んで思ったけど
カルラエの戦いでクラッススを倒した通称「パルティアンショット」戦法は
衰退しちゃったのかなあ?
いかにも実戦に役立ちそうなんだが。
あと、この本の著者には失礼だが
「終わりの見えない二極(キリストVSイスラム)の地獄戦にあって
、残る一極、中国など東アジアの仏教圏が
、止め役を買って出られないものだろうか?」P.230
とか書いてあって、マジ破り捨てようかとオモタ。
中国は儒教だろアホボケカス!
仏教国チベットや、イスラム国東トルキスタンで
悲惨なホロコーストを今でも展開してるの知らんのかこのアホは!
史ねじゃなくマジ死ねレベルだわ、伊藤敏樹さん!
アッバース朝の最盛期のハールーン・アッラシードの頭ってでかくね?
>>445 ,>448,>450
まあ、取り敢えず落ち着きなされw
> ×イヴン・ウル・アルカラミイ(彼の名)
> ○イブン・ウル・アルカラミイ(彼の名)
> 典拠は『モンゴル vs.西欧 vs.イスラム 13世紀の世界大戦』です。
ああ、なるほど。それじゃあそんな妙ちくりんな綴りになるのは無理は無いわぁ(汗
この先生のこの本、数年前に『史学雑誌』の回顧と展望とか『東洋史研究』とかで
「全体的に考察はレベルが低いわ基本的な知識で誤認が多いわで話にならん!」的な一文で
紹介されていたくらいで、確かに歴史家ジュワイニーの兄でフレグのもとでイルハン朝全土の
財務総監(サーヒブ・ディーワーン)になったシャムスッディーン・ジュワイニーのことを
「シャムディーン」とかロクでもない表記するんで、正直これは初心者は「絶対に使っちゃ駄目!」
レベルだから、さすがに
>>445 の人に罪は無いことは予め言っておきたい。
(アイユーブ朝の「アユーブ」とか、もう駄目!(怒
それで、今手許にあんまり資料が無いんで大した事は言えないんだが、恐らく
「ムアイヤドゥッディーン・イブン・アルカミー」という人物だと思う。
アッバース朝とフレグ西征軍との交渉にずっと携わっていた人物で、アッバース朝の最後のワズィール(宰相)。
平凡社の東洋文庫シリーズのドーソン著『モンゴル帝国史』の四巻目がフレグの遠征部分になるはずだから、
それを見ればバグダード陥落前後の彼の行動が追えると思う。(ドーソンは『集史』とか関連資料をそのまま
引用して書いている部分が多いので、彼の「感想」とか本文の誤記や読み違い以外は大凡原資料の記述が分かる)
他にも同じ東洋文庫シリーズのイブン・アル=ティクタカーのカリフ列伝『アル=ファフリー』にも最後の
アッバース朝カリフ・ムスタアスィムの項目の宰相伝の部分でイブン・アルカミーの名前が出ていたと思うから、
各々確認して貰いたい。
>ナーシル=アッディーン=アッ=トゥーシー
illilorz ・・・「ナーシル」でなくて「ナスィール」! 『岩波 イスラーム辞典』が出てから丸二年後の
出版なのに、校正とか何とかはしなかったのかと、毎度頭が痛くなるなあ・・・
453 :
445 :2008/09/13(土) 23:25:25 0
>>452 さん
詳しい説明ありがとうございます。
中東史はメジャーじゃないんで調べようと思っても
資料も豊富とはいえない、ってのもあるけど
概念や生活習慣が欧米化された今の日本とは
かなり異なるのか、なんか、「空気が嫁ない」んですよねえ。
欧米みたいに
歴史ものの映画なんかがもっといっぱいあったら
それ視て「何となく」わかった気になれるんだけど
あんまり、つーか全然見かけない・・・
(シンドバットとかじゃなあ・・・)
454 :
世界@名無史さん :2008/09/15(月) 12:01:46 0
アッバース朝の映画とかおもしろいんじゃない? イラクの自尊心復活に繋がるかも。アッバース主役ならシーア派のファーティマ朝とか敵に なっちゃうから今シーア派のイランとかは反発するかも。
イラク南部はそもそもシーア派勃興の地で、カルバラーやナジャフなど シーア派の中心的な聖地がてんこ盛りな地域。バグダード以南は歴史的にも シーア派の根拠地で、そもそもアッバース朝がイラクを根拠地としたのも、 アリー家をはじめとするイラク南部のシーア派諸勢力の協力があったことも大きい。 アリーから数えて六代目のイマーム・ジャアファル・サーディクや息子のムーサー・ カーズィムをはじめ、アッバース朝時代のシーア派のイマームたちはアッバース朝 カリフに毒殺されたり殺されなくても弾圧や監禁されたりしている。だから下手に アッバース朝を称揚する内容の映画を作ると別にイランでなくてもイラク国内の シーア派の住民たちから猛反発を喰らう恐れもあって、非常に難しいと思う。
456 :
世界@名無史さん :2008/09/21(日) 16:15:26 0
>>445 >>448 >やっぱりこれは島国のメリットなんだなあと
>自国の特異性に感心する次第です。
イスラム繋がりでモルジブだけどそう言ってしまうと
イギリス統治下も内政の自由が認められていたモルジブの
スルタン制の崩壊もあるわけだしそれだけでは片付けられない。
>>448 しのげてないぞ
分裂も断絶も何度もしてるだろ
>>457 しのいでるじゃん
君のしのげてないイメージが良くわからん
さすがに南北朝は分裂以外の何物でもないと思うが しかも明治期になってからも帝位が北朝にありながら 南朝が正統認定されたりする始末
460 :
世界@名無史さん :2008/12/09(火) 11:33:20 0
シーア派的には、アッバース朝は異端。
>>459 義満の時に一応合一したから、矛盾ではない。
> 義満の時に一応合一したから、矛盾ではない。 明治帝も昭和帝もそんな詭弁には納得してなかったけどね
よりによって史学板でそんなレスが
>>462 明治帝も昭和帝も南朝に正当性があると考えてた?
466 :
世界@名無史さん :2008/12/11(木) 20:07:16 0
>>465 山縣有朋が重度の南朝オタだったので、
明治天皇はリップサービスをやっただけ。
すれ違いって言わないとダメなのかね?こういうのは。
だったらスレ通りのネタをふれよ
>>460 前近代での認識の話だが、預言者の一門(具体的にはアリー家)から正統なる
イスラーム世界の統治権を奪ったまさに「簒奪者」なうえ、アッバース革命の時
アリー家の復建を助けるという約束を反故にした「嘘吐き」であり、歴代のイマーム
たちを迫害し、殺害して来た「人殺し」でもある訳で、12イマーム派とか
イスマーイール派などのシーア派門徒にしてみると、アッバース朝という存在は
「異端」とかいうものよりも、「簒奪者」「嘘吐き」「人殺し」みたいなもうちょっと
具体的で直截的な感じのニュアンスの非難が含まれているように思う。
アッバース朝やセルジューク朝などの強力な政権の支配力がかなり緩くなった12、
13世紀のイラン・中央アジアでは、ここら辺の文句や政情不安の鬱憤を晴らすような
非難合戦が諸都市で噴出してイラン東部のホラーサーンなどはスンナ派の住民同士や
シーア派住民などとの間に武力衝突にまで発展するような激しい対立が吹き荒れていた。
「異端」や「邪教徒」といったニュアンスの非難は、むしろとかく暗殺などで誰彼なく
恐怖を蔓延させていたニザール派に向けられていた。これらはアッバース朝の末期
くらいの話だが。
今のイランではアッバース朝の評価はどうなんだろ? ペルシアの伝統を色濃く受け継いだ王朝なわけだし。
>>470 どうなんだろうね
モンゴルは凄い嫌ってるらしいが
472 :
世界@名無史さん :2009/01/05(月) 01:03:29 O
800年の世界、 イスラムにハルーンアッラシード フランクにカール大帝 ビザンツに女帝イレイネ 日本に桓武天皇
473 :
世界@名無史さん :2009/03/03(火) 03:39:44 0
イブン・ハルドゥーンの 『歴史序説』(岩波文庫)が そのテの予言詩に結構多くのページを 割いていて意外に思いました。 近代的社会学の祖がね〜、って感じ。
しかしアッバース朝はオスマン朝に比べて人気ねぇなぁ…
フラグ到来かと思うほどの過疎っぷり
478 :
世界@名無史さん :2009/08/27(木) 00:55:26 0
>>437 なんか、円形の紙をいくつか回したり、
テコの位置に据えられた紙を動かしたりして
入力と出力の部分の詩句を組み合わせて
判断するんだよね。
その効力を著者が否定しきれていないのが
印象的でした。
プトレマイオスの占星術は全否定するのにねえ…
アッバース朝カリフについての参考文献で、『アルファフリー』以外に何かある?
480 :
世界@名無史さん :2009/11/19(木) 08:41:18 0
ムウタズィラ派age
ほんのちょっと字を並べ替えるだけで大変な事になる。 アッーバス朝
482 :
世界@名無史さん :2010/01/02(土) 17:40:05 0
アッバース朝に対抗してファーティマやウマイヤはカリフを名乗るようになったんだろ? 真似してるんじゃねーよ、こっちが本家だ!
>>474 リンク先で出ていた数字を単純合計して並び替えてみた。
33,750 インド
26,550 中国
4,600 ビザンツ(トルコ+ギリシャ)
4,225 アッバース朝(イラク+イラン)
4,111 神聖ローマ(ドイツ+オーストリア+イタリア+オランダ)
3,188 日本
2,763 フランス
2,500 ファーティマ朝(エジプト)
2,055 後ウマイヤ朝(スペイン+ポルトガル)
1,800 メキシコ
イラク、イラン、エジプトの合計だとビザンツを上回るけど
エジプトを失うと立場が逆転するってところが興味深いね。
アッバース朝の文献て少ないですか。有名な門閥貴族を探しているのですが、 オススメありますか。
485 :
世界@名無史さん :2010/04/29(木) 20:42:13 0
age
486 :
世界@名無史さん :2010/07/01(木) 11:39:49 0
西カリフ国が滅んだあとは、リベリア半島のイスラム勢はグダグダだったんだな。
487 :
世界@名無史さん :2010/07/09(金) 23:52:31 0
結局アッバースってどうだったの? ウマイヤを倒してイスラムの教えに忠実な政治をしようとしたの? それとも、「男舞が挙兵するなら漏れも漏れも」・・・ってやってたら首謀者が死んじゃって、何故か自分が代表になった感じ? それとも誰かに担ぎ上げられたの?
>>487 そんな事がはっきり解ったら歴史上の大発見だアホが。