1 :
世界@名無史さん:
民国期の軍閥について、思いのままに語りましょう。
ちなみに私は、
雲南省を18年に渡って支配した彜族(イ族)の軍閥、
竜雲について色々調べてます。
2 :
世界@名無史さん:01/10/27 00:26
軍閥戦争ってややこしい。
1920年〜24年ごろの情勢。
安徽派・段祺瑞は日本のバックアップを受けて
直隷派・呉佩孚は英米の支持を受けてた、と。
んで直隷派は奉天派・張作霖と連携し、安徽派を打倒。
しかし、奉天派も日本の支援を受けており、
今度は安徽派と連携し、広東軍政府(孫文)と協力し、
直隷派と対決し、敗北。
直隷派が北京政権を掌握するも民衆の支持を得られず、
再び安徽派・奉天派と対決し敗れる。
ほら、もうすでにその勢力争いがわけわからん。
3 :
世界@名無史さん:01/10/27 00:32
張勲萌え
皇恩浩蕩なり。 大清を中興し、以て臣節を尽くさん!
4 :
世界@名無史さん:01/10/27 00:41
蔡鍔もえ〜
5 :
世界@名無史さん:01/10/27 00:41
>>2 なんか応仁の乱後の、
足利将軍家・細川管領家・三好一門の混戦をホーフツとさせますね。
何度読んでもよくわからんというか。
「結局、信長(蒋介石or毛沢東)に飲み込まれるんだから、ま・いいか」ということになってしまう。
そういうことで、このスレには期待です。
>>2 確かにややこしいですよね。私も未だにわけわからん(w
私の場合は、個別の軍閥の支配の有様に興味を持っています。
何故、ある軍閥はその地域を支配できたのか、存在意義は有ったのか、
支配に正統性はあったのか・・・などを考えるようにしてます。
そうすると、「軍閥=悪」という固定観念からは、多少は抜けられる
と思いますが。
関係ないことばかり、失礼。
>>5 >そういうことで、このスレには期待です。
そう言って頂けると嬉しいです。ありがとうございます。
この分野に興味を持っている人間としては、本当に色んな人にこのスレを
見て頂きたいし、そして書き込んで頂きたいです。
8 :
西国のアズマ帰依者:01/10/27 00:52
今の中華民国史研究は「軍閥」概念の再検討って進んでいないの?
最後の大軍閥、蒋介石の国民党政府という考え方や、
また当時の中国が日本を「昭和軍閥の台頭」(大公報他)と形容して
いたように、とうに実態を失っているような気がするんだけれど。
軍閥という場合、中国共産党による「軍閥割拠の終焉」という
テーゼが背後にあるようで、いまいち好きになれないんだが。
また中華民国の連続的把握を志す上で、今的意味があるのかな?
ご意見望む
9 :
世界@名無史さん:01/10/27 00:54
「支配の正統性」という点でいうと、軍閥割拠の分裂国家状態とはいえ、
それぞれの権力は「中華民国」という主権国家に属しているという建前によって
担保されていたという説がありますがどうでしょう?
10 :
西国のアズマ帰依者:01/10/27 01:06
それは非常に説得力があるのではないかな?
張勲の企ての敗北、袁世凱帝政の挫折…。
これらは民国という概念の持つ大きさと、
民国という器の中での争いという側面を持っていることが窺える。
また分裂状態とはいえ、関税会議を北京で開催して、
全国から代表があつまっているし、五四運動も全国レベルの運動。
これまた中華民国という枠組を前提としないかぎり考えられない。
建前だけじゃなく実質もあった気がする
11 :
世界@名無史さん:01/10/27 01:23
時代の転換期に軍閥が台頭するのは中国の伝統。
三国時代も中華民国時代もそんなに違わないと思うんだけど。
>>8 実際、日本ではそれほど再検討されてないと思いますが。
当時の中国では、私兵的な軍隊を養いながら、同郷出身者や士官学校
同窓生の人脈を使って利権集団を形成し、一定の地域を支配する軍人たち
が、非難の意を込めて「軍閥」と呼ばれたようです。
中国共産党の言う「軍閥」観は、極端に言えば民族主義(ナショナリズ
ム)を重視するもので、当時の帝国主義諸国との結びつきが強かった蒋介石
の勢力は、最大の「軍閥」だったと言えます。
外国の「軍閥」研究者の中には、「軍閥(warload)」のネガティブ
イメージを嫌い、“local faction(地方派閥、とでも訳すべき?)”
などの語を使う人もいます。
私には「軍閥」の定義をする能力も資格も無いのですが、私自身は
「一定の軍事力に主に依存して一定地域を支配する集団、ないしはその
指導者」を暫定的に「軍閥」とみなしています。その場合、「軍閥」という
用語が問題になるし、もっと適切な用語を当てたいのですが、今は思いつか
ないので、一般に知られた用語として今は使い続けます。
>>9 ほとんどの軍閥は、自分たちが「中華民国」から独立した「国家」を打ち立てる
意思は無かったですね。各軍閥は自分たちこそが「中華民国」の理念の守護者
存在であると主張し(程度の差はあり、また張勳のような例外もいますが)、
他の勢力はそれを妨害するものとして、これを攻撃してました。
私から見れば、
>>10さん同様、その説は比較的支持できると思います。
「中華民国」の看板は決して半端なものでは無かったはずです。
以上、拙いレスで申し訳ありませんでした。
すみません、
>>12の訂正です。
1:
>>8さんへのレス・8行目 × warload→○ warlord
2:
>>9さんへのレス・3行目 「存在」を消してください。
英語力の無さを露呈してしまいました。ハァ・・・。
14 :
世界@名無史さん:01/10/27 01:54
>>11 歴史シミュレーションゲーム「中華民国演義」
・・・なんてのがあったらええのう(w
15 :
世界@名無史さん:01/10/27 02:04
いいね。
プレイヤーは北洋軍閥・地方軍閥・国民党からいずれかを選択できる。
共産党はアイテム扱い(藁
16 :
西国のアズマ帰依者:01/10/27 02:09
>1
なるほど、そうでしたか。やはりこれからという所なんでしょうか…
>14.15
一応民国経済史研究専門なので突っ込むけど、
それ全然無理だよ。
国民党・共産党でどうプレーするの?
広東だって陳政権(軍閥)なんだよ?
北伐が一つの奇跡であることを理解して欲しいんだが。
17 :
世界@名無史さん:01/10/27 02:13
しばしば東方異民族「大日本帝国」や北方異民族「露帝→ソ連」が侵攻してくる(w
・・・ちと脱線してスマソ(^^;
18 :
世界@名無史さん:01/10/27 02:22
質問!
国民党一全大会のころの国民党の勢力(一般的な意味でご理解ください)は
他の軍閥にとって脅威となってたんですか?
19 :
世界@名無史さん :01/10/27 02:39
>>1 1さんに質問があります。私は中国の少数民族史に興味を持っている者ですが、
竜雲とはどのような人物なのでしょうか。明清代に設置された土司の系譜をひく人物なのでしょうか。
教えてくださいませ。
>>18 国民党一全大会というと、1924年1月ですね。孫中山(孫文)の個人的
カリスマが軍閥から怖れられていたとしても、国民党そのものは弱体な勢
力と見なされていたと思います。
国民党が強力な勢力として台頭する分水嶺は、私個人では同年6月の
黄埔軍官学校開校だと考えています。これによって、国民党はやっと自前の
強力な軍隊を持つことが出来たのです。
それまでは、孫中山は、南方軍閥を利用して北洋政府(北方派)を倒す
思考にとらわれてました。しかし、彼らはほとんど孫中山の言いなりにならず、
孫は何度もの失敗の果てに、ようやく自前の軍隊の必要性を悟ったのです。
半端な知識に基づく回答でスミマセン。
>>20 竜雲自身は土司の家柄というわけでは無いようです。ただ、彼はイ族
のエリート階級であり、その部族は唐代に「烏蛮」、元代に「羅羅」と
いう名で記録に残っています。
さてその竜雲は、1913〜27年まで雲南を支配していた軍閥唐継堯の部
下で、唐と自分の同僚を倒して1928年に雲南省の支配者となりました。
政治的には蒋介石を支持し、国民政府の支配を受け入れましたが、
竜雲の雲南支配は極めて自立性の高いもので、蒋の指令はほとんど及ば
なかったのです。抗日戦争の際の竜雲は、中国共産党や各民主党派と独
自で連携する動きまで見せたほどでした。
その半独立的状態は、1945年10月、抗日戦後のドサクサを利用した
蒋介石が、竜雲を武力で雲南の支配者から引き摺り下ろすまで続いて
います。
本当はまだ語り尽くせないことがあるのですが、
今はここまででご勘弁ください。
竜雲だけを語るスレではありませんので。
↑すみません、
>>19の間違いでした。
自分に答えてどうする・・・?
23 :
世界@名無史さん:01/10/27 03:42
∩,,∩ ∩ 我々は中国の危急存亡を救わねばならない!!
ミ,,゚パ彡ノ 立てよ、国民革命軍!
/ |
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
| 黄埔軍官学校 |
| マンセー!|
| |
\ジーク ソンブン!ジーク ソンダン!/\ジーク ソンブン!ジーク ソンブン!/\ジークソンブン!
(⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) /
(⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) /
⌒) / (⌒) / (⌒) / (⌒) / 「(⌒) / 「 (⌒) / (⌒) / (⌒) /
) / (⌒) / (⌒) / (⌒) / 「 (⌒) / 「 (⌒) / (⌒) / (⌒) /
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24 :
世界@名無史さん:01/10/27 04:03
軍閥は産業振興やインフラ整備などをどのように行っていたのでしょうか。
張作霖が満鉄に対抗した鉄道を敷設したり、盛世才がソビエトと組んで新疆開発を行ったという話は聞いたことがあるのですが、雲南、四川、貴州等の南方の軍閥はそのようなことをやっていたのでしょうか?
25 :
世界@名無史さん:01/10/27 04:42
雲南というと蒋介石ルートを思いだすなぁ。ってことは、蒋介石の命運に関わる
ところが、かなり独自の行動をしていたわけかぁ。日本による切り崩しはおそら
くあっただろうけど、効果がなかったのかな?
26 :
世界@名無史さん:01/10/27 08:11
>>14 それ企画したことがあります。友人達(某コンピューターシミュレーション製作
会社の元社員)と、アニア向けシミュレーションゲームを作ろう(現在も話し込
んでます)と幾つか題材を上げた時、中国軍閥のゲームは下手な信長や三国志よ
り面白いのでは?となりました。プレイヤーは米英仏蘭ソ日でどう中国及び周辺
地域を安定化させるか?です。勝利条件は2年間睨み合いが続いた段階(所謂千日手状態)
での重要拠点の制圧数で決まるというゲーム。ところが、問題がある事が判明…
政治的問題に発展しかねないという事であと10年は発売不能と判断されました。
27 :
世界@名無史さん:01/10/27 08:59
汪兆銘の重慶脱出のときに便宜図ったね。竜雲。昆明からハノイに送り出した。
汪さんは味方になってくれって言ったんだけど、断わったんだって。
>>24 竜雲、あるいはその上司だった唐継堯は、フランス資本との結びつき
が強かったです。当時のフランス領インドシナだったベトナムと、テン越鉄道
(テンはサンズイ+眞。昆明〜ハノイ〜ハイフォン)でつながってましたから。
ただ竜雲は、自分の部下に有能な経済官僚を多く登用し、フランス資本や
国民政府中央の財閥に対抗して、独自の産業・金融政策を展開しました。
ちなみに、竜雲部下の経済官僚の中でも特に出色な人物は、繆嘉銘(繆雲台)
という人です。この人は、元々鉱山技術者だったのですが、それのみならず、
他の産業や金融全般にも詳しく、優れた能力を発揮して竜雲の経済政策を助けました。
まあ、これ以上の詳しい話は今後のネタということで・・・。
私も軍閥に興味をもっています。
現在の中国の地方でいろいろ仕事をしてる人と
はなしていたら、中国の地方は現在でも独立国のような
ものらしい。現在の人民解放軍も地方で独立してるような
もので、人事なども中央の支配は及ばないらしい。
地方自治でしょうか・
30 :
西国のアズマ帰依者:01/10/27 14:32
四川軍閥は、何派にも分かれていて、苛列な雑税を貸す事で有名だった。
何十年分の税金の前払い制度とか。一応1934年に国民党によって統一化されるけど、
長征が四川をとおったのは、分裂状態にあったため。
(今井先生の研究で前払い制度については、別の意味があったことが明らかになったけど)
軍事費調達のため、四川の銀を上海に持ち出し銅貨の悪鋳を繰り返し、
四川は無茶苦茶な雑幣流通状態だった。
まず無理なんじゃないかな?産業振興は
31 :
世界@名無史さん:01/10/27 17:47
>>30 1935年に蒋介石・宋美齢が昆明を視察した時、リップサービスがあるにしても、
「雲南の一致団結ぶりは、四川と比べ物にならない」と言ってましたしね。
>>24にも絡めて言うと、四川、貴州の軍閥は内部抗争が激しすぎて、少なくとも
省単位ではほとんど産業振興などの近代化政策が出来なかったですね(貴州は周西
成の統治期という例外がありますが)。国民政府中央の勢力が浸透したことによっ
て、ようやくそれが可能になったと言えます。
ただ、雲南だけは、竜雲が安定した政権を確立したため、土着軍閥による近代化
政策の推進が可能になりました。しかも、それが概ね成功したため、竜雲は雲南支
配の正統性を確保できたし、中央につけいる口実を与えなかったとも言えます。
>>29 「地方自治」と表現するのは無理がありますね。
制度上で、団体自治と住民自治が認められていないと。
あと、
>>31は私の書き込みです。
1.日本の戦国武将は何故か地方の管理者で満足しないで
を統一したがる。中国の軍閥も同じ習性があるので
しょうか・
2.その習性がないとして(地方の支配者で満足)、新しい
上海や広州の産業資本は全国統一を希望して国民党を
支持した。だから国民党は北伐すると考えてみました。
34 :
世界@名無史さん:01/10/27 23:46
所詮共産党も軍閥なんだよな。
大陸取った後も内部の軍閥同士で熾烈な闘争を続けた・・・
いまもか。
35 :
世界@名無史さん:01/10/28 00:13
>>33 並みの軍閥だったら「地方の支配者」で満足。
孫文・袁世凱・蒋介石・毛沢東といった“英雄”は「天下統一」しなきゃ満足しない。
ある意味「地方分権」vs「中央集権」と言えなくもない?
36 :
世界@名無史さん:01/10/28 00:15
「大一統」ってヤツですか。
詳しいレス有り難うございます。何か竜雲という人物に興味が涌いてきました。
>フランス資本や国民政府中央の財閥に対抗して、独自の産業・金融政策を展開しました。
これは買弁資本や外国資本に対抗して民族資本を育成した、と理解してよろしいのでしょうか?中国での評価はどうなのでしょう?
38 :
世界@名無史さん:01/10/28 00:42
地方軍閥が自分の支配の正当性を得るため唱えた「連省自治論」ってヤツもある。
>>37 基本的にはそう理解して良いと思います。
繆嘉銘の有能ぶりは、雲南省が独自にフランスから関税自主権を奪回したことや、
国民政府の法幣を雲南省で全く通用させなかったことからも明らかです。
また、彼の功績として更に特筆すべきことは、アヘン依存の雲南省財政を改革した
ことです。繆嘉銘は、雲南省産の錫を国際的に通用する品質とし、財政の要の一つと
しました。
この時期の雲南省の産業政策については、まだ全国的な関心は低いようです。
でも雲南省の学識者のほとんどは、繆嘉銘の活動にかなり高い評価を与えています。
40 :
世界@名無史さん:01/10/28 00:46
あまり詳しく答えると1の研究ネタがなくなりそうでちょっと心配になる。
41 :
世界@名無史さん:01/10/28 00:56
張作霖&張学良もえー!
42 :
世界@名無史さん:01/10/28 01:03
地方の郷紳で、軍閥政治を体系的に論じたり考察した人物はいなかったのかな?
43 :
世界@名無史さん:01/10/28 01:04
楊増新もえ
>>41 張学良氏、亡くなりましたよね。
今後、西安事変の真相なども徐々に明らかになっていくでしょうが・・・。
もちろん、奉天派に関する書き込みも期待しています。
>>40 ご心配をかけて申し訳ありません。
今後も竜雲ネタの質問は受け付けますが、もう少し簡略化した回答
にするよう心がけます。
ここが竜雲スレじゃないこと、自分が忘れてる感じで・・・失礼
しました。
45 :
世界@名無史さん:01/10/28 01:11
たしかに中華民国史は燃えるものがある。
登場人物多いし、戦乱の時代だし。まさに大河ドラマ。
46 :
世界@名無史さん:01/10/28 01:18
47 :
世界@名無史さん:01/10/28 01:21
西安事変の後、東北軍はどうなったの?
48 :
世界@名無史さん:01/10/28 01:22
解散。
49 :
世界@名無史さん:01/10/28 01:32
>>44 僕は1さんの竜雲ネタ、興味深く読ませてもらっています。
これからもご研究に差し支えない範囲でカキコしてくだされば嬉しいです。
50 :
世界@名無史さん:01/10/28 01:48
宋家の三姉妹もえ〜 ……あ、軍閥じゃなかったYO
51 :
世界@名無史さん :01/10/28 01:49
軍閥の地方支配の実態の研究ってどの程度進んでいるのですか?
中国での研究がかなり進んでいるような。
私はチベット族土司の活動について調べていますが現地の研究をフォローするのが大変です。
>>47 >>48の方の言う通りです。蒋介石は東北軍を分散させて全国に配置し、
しかも各軍が抗日戦の前線で疲弊しても、まったく人員を補充せず、自然
消滅させました。
>>49 ありがとうございます。
これからも拙いカキコだと思いますが、宜しくお願いします。
>>51 日本では奉天派の研究が特に盛んですね。
大陸では、他に北洋軍閥や李宗仁、閻錫山、馮玉祥などの著作が多く、
竜雲や韓復、盛世才などの軍閥も各地方の学識者が良く調べています。
他の外国では、面白いところでは西北の馬氏(回族)の研究もあります。
チベット土司ですか。確かに現地の文献の収集も大変そうですね?
(チベットで軍閥絡みだと、
劉文輝(四川軍閥)による西康省建設問題がありますが。)
いずれにしても、難しいテーマに挑むのは素晴らしいことですよ。
頑張ってください!
清末の廣東提督で民國になってからは袁世凱や段祺瑞の子分となり、廣東
都督や廣東巡閲使などに任じられ、海南島に蟠居していた龍濟光と、袁の
雲南査辧使であった龍覲光の兄弟は蒙自の出身で彝族の土司の一族だそう
です。龍雲の異父兄で蒋介石に雲南省主席に任ぜられて中共に寝返った
盧漢も昭通の彝族です。
四川・雲南・貴州の龍氏は漢のソウカ(爿偏に羊・可)郡の大姓の後裔だそうで、
そこまで遡れるかどうか疑わしいですが、元代ぐらいからは確実に辿れる
そうです。明の教化三部長官司の龍上登・石屏土官の龍在田や清の水典土司
龍幺妹などが知られています。
こうした少数民族の有力者と軍閥の関係は確かに考察に値するテーマかも
しれませんね。
>>53 詳しい説明ありがとうございます。
竜雲は、雲南省昭通出身で、小涼山彝族の一支系ということは
知っていたのですが、そこまで詳しくは知りませんでした。
あと、盧漢は竜雲の“族弟”に当たるようです。
盧漢の祖父の姉妹(どちらかは分かりませんが)と竜雲の母方の祖母が、
同一人物らしいのです。
いずれにしても、竜雲と盧漢は昭通の彝族名家同士のつながりがあります。
盧漢については、僕は論文でテーマにしたことがあります。
この人は、雲南の近代化政策に理解がある軍人でした。
すでに取り上げた繆嘉銘も彼無くしては表舞台に出れなかったし、
雲南軍の改革についても、盧漢は優れた指導力を発揮しています。
国共内戦時、国民党側の雲南軍は、
「蒋介石は関係ない。ただ盧主席(盧漢)のためになら死ねる」
と言っていた程です。
55 :
世界@名無史さん:01/10/29 08:06
おはようございます。
あやめさんがおっしゃった少数民族の有力者と軍閥の関係にからめた質問ですが、軍閥は少数民族地区の開発をどのように行っていたのでしょうか。
清朝の改土帰流政策には、農地開墾や鉱山の採掘等の少数民族地区の開発がからんでくる場合が多いのですが、そういう政策を軍閥が受け継いでいるのかどうか気になりまして。
>>55 開発の実態については、僕はまだまだ研究不足です。ただ、少数民族の社会や制
度に過剰な介入を行い、一方的収奪とも言える開発を行うのは、軍閥にとって危険
だったと言えます。
雲南では、竜雲・盧漢は土司制度と国民政府の制度とを並存させ、少数民族には
融和的な政策をとっています。新疆の盛世才も当初は、ウイグル族の社会制度を尊
重していましたが、末期になって彼らへの統制を強めようとした結果、叛乱を引き
起こし、政権崩壊の一因となっています。
個別にもう少し調べないと分かりませんが、おそらく、一般的な傾向としては、
軍閥は少数民族との融和政策をとらざるを得なかったのではないか、と考えてい
ます。融和政策を捨てた軍閥は、政権の不安定をもたらしたわけです。
答えになっているかどうか、わかりませんが・・・。失礼しました。
57 :
世界@名無史さん:01/10/29 20:59
>>56 なるほど、わかりました。何だか突飛な質問をしたみたいで・・・・こちらこそ失礼しました。
うーん、やっぱり竜雲スレになってるような・・・。
たとえば、新疆の軍閥(盛世才、楊増新など)について詳しく研究されている方はおられませんか?
今この時期だからというわけではありませんが、
民国の対イスラム政策はかなり研究しがいがあると思うのですが・・・。
60 :
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋:01/10/30 22:52
会党(とくに黒幇)と軍閥との関係は一般にはどーだったの
でしょうか?軍閥も阿片業者であり賭博場経営者だった
場合が多かったそうですが。
61 :
世界@名無史さん:01/10/30 23:22
>>59 神戸大学の王柯氏が多少書かれていたと思います。
ちょっと物置を探ってみよう。
62 :
世界@名無史さん:01/10/30 23:47
王柯「二重の中国 1930年代中国人の辺彊意識の構造」思想95年7月号
というのがありました。
当時の新疆について
「楊増新から金樹仁へ、金樹仁から盛世才へと続く新疆の政権交代について
中央政府からの積極的干渉はほとんど行われず」新疆は政治的独立状態にあった。
このような状態になった理由は
・民国になって清朝時代の新疆への補助金がとだえ、独自の財政再編をおこなったこと
・対ソ貿易によっその生産システムに組み込まれていたこと
・新疆と内地を結ぶ交通ルートの未整備
・ウイグル人の中国に対する国家意識の希薄さ
などがあげられる。
中華民国は新疆を戦略的価値から、また伝統的天下観から
辺境の危機を感じ、新疆を中国に統合するため、強権を発動するようになった。
という感じの論文で、軍閥そのものの研究ではないですね。
>>60 僕が
>>39でも書き込みましたように、雲南軍閥は鴉片依存体質でしたし、
西南部や西北部の軍閥(広西、四川、貴州、西康、青海、寧夏など)も概ね
そうであったと言って良いでしょう。竜雲や盧漢も、鴉片を常習的に吸引し
ていたそうです。
軍閥は表向きは鴉片の栽培を禁じていたのですが、裏で民衆に栽培を強制
したり、他の地方へ輸送・販売したりしていました。そして、軍閥がそれら
の仕事をを代行してくれる闇社会の組織と手を結ぶであろうことは、容易に
想像できることです。
>>61-62 詳しい情報をありがとうございます。
王柯氏については、僕は今『東トルキスタン共和国研究』(東京大学出版会)を
読んでいるところです。この本では盛世才の政策についても、1章を設けて詳しく
論じています。
いずれにしても、新疆という異質な地域を、民国は容易には統治し得なかったと
いうことなのでしょうね・・・。
初心者です。
奉天系軍閥についてのおすすめの入門書があったら教えて
ください。湯玉麟について知りたいのです。
65 :
世界@名無史さん:01/10/31 15:41
中国共産党の元勲の一人である朱徳は自分のことを
軍閥の一人として認識していたようだ。彼の伝記を読むとそんな記述が出てくる。
ちょっと面白いなと思った。
66 :
世界@名無史さん:01/10/31 15:59
>>64 奉天派関係で日本語文献は張氏親子くらいしかないかも。
ローカルな政治家の文献は中国の該当地方にいかねば
手に入らない場合が多々あります。
湯玉麟は日本では関東軍の熱河討伐で知られています。
入門書は差当り思いつきませんが、一通りの経歴だけ書いときます。
湯玉麟は字は閣臣といい光緒十九年に熱河の朝陽縣で生れました。元来は匪賊出身と
いうことですが後に張作霖の部下になり、奉天巡防営隊官・陸軍第二十七師営長・同
團長・同旅長と出世して行き、両次の奉直戦に参加しています。民國十一年に奉軍の
第十一混成旅の旅長に任じられ、それより第七混成旅旅長兼奉天東邊鎮守使・東北陸
軍第十一師師長を歴任し、民國十五年には東北陸軍第十二軍軍長・熱河都統となり、
張學良の「易幟」後は熱河省主席に任ぜられています。関東軍は満洲事変の勃発直後
彼に対する工作を開始し協力の約束を取り付けていましたが、民國二十二年には熱河
省長の地位を餌に張學良や國民政府からの離反を呼びかけますが、彼はこれを拒絶し
関東軍は熱河へ進撃します。彼は直系の第三十六師の約1万3千人と雑軍約8千人を
擁しており、親分の張學良からも殊死奮戦を命じられていたにも拘わらず、たいした
抵抗も示さず家族と天津租界に逃亡し民國三十九年に亡くなっています。
>>64 湯玉麟を専門に書いた書籍は、日本ではおそらく無いですね。
日本における奉天派の基本書としては、以下の2冊が挙げられます。
・水野明『東北軍閥政権の研究』(国書刊行会、1994年)
・西村成雄『張学良』(岩波書店、1996年)
>>65 朱徳は雲南陸軍講武堂の卒業生で、蔡鍔の側近として雲南の辛亥革命や護国戦争に参加。
その後、雲南軍閥唐継堯の部下になりましたが、後に唐に対するクーデターに与して敗北、
雲南から逃走しました。
僕は以前訪れたことがあるのですが、昆明には朱徳の旧居が残っています。
ちなみに、この時期の朱徳は重度のアヘン中毒だったそうです。
69 :
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋:01/10/31 20:17
>63
ありがとうございます。
湯玉麟についてのレスありがとうございました。
瀋陽(奉天)に立派な建物の遼寧省博物館がありますが
湯玉麟の官邸あとだそうです。張学良の部下時代のもの
でしょうか。
満州事変から満州国建国のあいだに軍閥が建国会議という
のをやってるのですが、これが日本の御用機関なのか、反日
組織なのか解りません。
だそうです。
71 :
世界@名無史さん:01/11/01 12:07
東北抗日義勇軍についてまとまった論文なり学術書はあるのでしょうか?
72 :
世界@名無史さん:01/11/01 16:38
満州事変に関する書籍で多少触れられる程度かと。
西村成雄『中国近代東北地域史研究』法律文化社、1984年
第四章とか。
後であやめさんから説明があるでしょうが(笑)、
抗日義勇軍が東北軍系であれ、緑林であれ、その働きは限定的なものでしょう。
>>71 僕は東北抗日義勇軍についてそれほど詳しくないのですが、
・岩崎富久男「中国東北における抗日救亡運動」
(明治大学人文科学研究所紀要、46巻、2000年3月)
が、最新の論文のようです。
この他だと、金日成を主題にしているので適切ではないと思いますが、
・和田春樹『金日成と満州抗日戦争』(平凡社)
もあります。
あと、文献とは言えないのですが、澤地久枝氏の『もうひとつの満州』(文春文庫)
の中では、東北抗日義勇軍の有力指導者である楊靖宇が描かれているそうです。
以上、役に立たないレスですみません。
74 :
世界@名無史さん:01/11/02 00:09
>東北抗日義勇軍の有力指導者である楊靖宇
東北人民革命軍(のちに東北抗日聯軍)では?
義勇軍というのは旧東北軍・緑林グループのことじゃないですか。
>>74 すみません。東北の抗日組織については無知だったもので。
東北抗日聯軍は東北抗日義勇軍の発展形態と思い込んでました。
となると、和田春樹氏の書籍も、東北抗日聯軍を書いたもののようですね・・・。
失礼しました。
76 :
世界@名無史さん:01/11/02 01:06
発展形態というより、反日統一戦線によって中共指導下に再編されたという感じです。
満州事変後の東北軍・緑林系の抗日活動は
財政的・軍事的・社会的な基盤を欠いており、1933年には役割を終えたと言われます。
以降、共産党が各義勇軍と連絡をとりつつ、独自の武装組織を成立させます。
1月書簡とよばれる中共中央の指示が伝達される33年半ば以降、
これらの武装勢力を共産党指導下に結集させ、満州事変から2年後
東北人民革命軍大一軍独立師が成立します。
>>72-75 レスありがとうございます。あまり研究書は多くないようですね。
限定された役割しか果たしていないのなら仕方ないか・・・・
>>76 詳しい説明、ありがとうございます。自分の無知ぶりが本当に恥ずか
しいです・・・。
ただ、東北軍系・緑林系の抗日義勇軍の役割が全く限定的だったとは、言
い切れないかもしれません(生意気なこと言ってすみませんが)。あれから
僕自身でもう少し調べてみましたが、東北軍系の抗日活動としては、黒龍江
軍閥馬占山の活動が中々面白そうです。
馬占山は、満州事変勃発後から抗日活動を開始し、1932年に一時満州国に
降伏して黒龍江省長や軍政部長を歴任しましたが、1934年に再び国民政府側
への復帰(反正)を通電して、抗日の軍事行動を再開しました。馬占山の勢
力は弱く、日本軍相手に敗退を重ねましたが、それでも頑強に抗日戦を戦い
抜き、国共双方から賞賛を受けています。そして、国共合作を成立させた際
の馬占山の政治的活動も、大きなものがあったようです。
79 :
世界@名無史さん:01/11/02 02:01
そうですね。
東北軍系の抵抗は正規戦という形をとったため、
軍需補給のメドがたたず、優勢な日本軍の前に敗北していきますが、
以降は小部隊がゲリラ的抵抗を続けていきます。
ここに後に民族統一戦線が発展する社会基盤が見出せると思います。
僕のいう「限定的」はあくまで(準)公式レベルの軍事的抵抗において、とご理解ください。
馬占山は1933年5月にヴェネチアで張学良に会見し、
張学良は彼の行動をたたえたそうです。
80 :
世界@名無史さん :01/11/02 02:06
東北抗日義勇軍は馬賊の小日向白朗しか思い浮かばないのですが・・・
番町書房で出版された彼の伝記には、義勇軍のバックには道教教団が存在したことが書かれていました。
軍閥とは関係ないですが、当時の道教系の秘密結社と民間の武装勢力の関係も面白そうですね
質問した本人がなにを質問してるのかよく解っていないのですが、
満州国をつくる時に日本は満州人が作ったようにみせたかった。
そのために、満州人の会議として、き洽、張景恵、馬占山、臧式毅
の4人で建国会議、次いで湯玉麟、斉王、凌陞の3人を追加して
東北行政委員会を作った。いろいろ議論させて結局は本庄司令官
の意見で執政政治となったらしい。自治をさせるふりをしたのか?
不満に思った軍閥は反抗するのか?
この資料は展転社の”満州事変と支那事変”という皇国史観的な
本が資料です。当時の雰囲気が感じられますが、知識不足の問題
が多いです。
>>80 軍閥と秘密結社(会党など)との関係は、確かに興味深いですけど、
資料の収集は難しいですね。挑戦に値するとは思いますが。
>>81 建国会議にしろ、東北行政委員会にしろ、もとより「自治」の体裁を取り繕う
必要があるから開催あるいは組織したのでしょう。
しかし、建国会議に参加した4人の軍閥に限っても、彼らの政治的立場や思惑
は大きく違っていました。馬占山は既述のように抗日意識が強く、満州国への参
加も追い詰められて止むを得ずといったところだったようです。一方、熙洽は清
朝復辟を目論み、積極的に日本軍の画策に乗ったようです。
83 :
世界@名無史さん:01/11/03 23:24
軍閥は支配地域の郷紳層をどのように取り込もうとしたのでしょうか?
>>83 基本的には、清朝以前と同様、以下の動向が見られたと言ってよいでしょう。
@郷紳層出身の人材を軍閥の政権あるいは軍隊の高官として迎え入れる。
A郷紳層による農村支配を追認し、その既得権益を保証する。
B支配地域で実業を起こし、それに郷紳層を何らかの形で参与させ、利益を得させる。
もちろん、各軍閥によってその内実には大きな差があるわけですが、ここでは略します。
あと、ある軍閥が頻繁に他の軍閥と戦争を行い、
支配地域の経済や社会を疲弊・崩壊させてしまった場合は、
郷紳層が強力な内部の抵抗勢力としてその軍閥を牽制する事例も多々見られます。
>>84 レス有り難うございます。
>>郷紳層が強力な内部の抵抗勢力としてその軍閥を牽制する事例も多々見られます。
それでは郷紳層の武力であった団練は民国にはどのような状態になっていたのでしょう?
辛亥革命後に、各地で革命政府が成立しましたが、ほとんどの政府では、
新軍(近代軍隊設立のための武備学堂出身の軍隊)と
旧軍(清朝伝統の部隊や郷紳層の私兵。団練など)との主導権争いが見られました。
貴州では旧軍出身の劉顕世が新軍勢力を倒して支配権を握る、といったケースも
見られましたが、時が経つにつれ、新軍勢力が優勢になるか、あるいは旧軍が自己変革を
迫られていきました。
しかしながら、郷紳たちが独自に私兵を有するといった状況には、それほどの変化が民国
時代には見られなかったようです。郷紳たちの私兵は時に山賊などと同一視されながらも、
軍閥は郷紳に軍隊の肩書を与えることによって、その私兵集団ごと自軍内に取り込むケース
は多く見られます。
あと、僕の言う郷紳層の牽制とは、むしろ政治的、経済的活動を指します。
軍閥への資金供与を拒んだり、あるいは軍閥を打倒できる他の勢力との接触などを指します。
時には、より自分たちの利益を保証してくれるであろう人間を軍閥内部から見出し、
クーデターを促すといったこともやりました。
長々とレス、申し訳ありません。
87 :
世界@名無史さん:01/11/04 02:31
すみません、郷紳って何ですか?
>>87 郷紳とは、地主の中でも官僚を輩出できるほどの富裕な大地主層を指します。
郷紳は自らの一族から中央官僚を輩出させて政界に影響力を及ぼす一方、
官僚に成れなかった者や退役官僚は故郷に戻って、地主として農村支配を行った
わけです。
一般には、中央から派遣されてきた官僚も、現地の郷紳層からそっぽを向かれて
は、ろくに行政が出来ませんでした。
そして、郷紳の中には、自らの財産で独自に私兵集団を組織する者もいましたし、
近代に入ると農業以外の分野で実業家となる者も出てきたわけです。
>>88 有り難うございます。前に勉強したことを思い出してきました。
それで、民国期においても清朝の科挙の資格や官僚としてのキャリアは影響力を持っていたのですね。
魯迅の『阿Q正伝』にもそうした郷紳がでてきますね。
軍閥も数ある中で、蒋介石の最大のライバルとしてその存在感が圧倒的だったのは、
広西(桂系)軍閥李宗仁です。
何度も蒋介石との権力抗争に敗れながらも、国共内戦期に蒋を追い落として代理総統
に就任しています。
日本では余り研究している人がいないようですが・・・どなたか興味を持っている人
はおられませんか?
余談ですが、現代の中国でも軍管区が軍閥化しちゃってるとか。
経済的に豊な広東軍区なんかは中央政府の言うことを聞かないそうです。
やっぱりあれだけ広い国を治めるのは大変なんですね。
>>91 中国は昔から、建前「中央集権」、実質「地方分権」と言われてます。
この状況は、現在でも軍区に限らず一級行政区についても起こっています。
中央から任命された党委員会書記や省長ですら、
結局は地方の利益を優先した政治行動をとらざるを得なくなっているのです。
93 :
世界@名無史さん :01/11/06 13:18
今の日本で軍閥研究の第一人者といえるお方はどなたでしょうか?
>>93 申し訳ないのですが、
日本においては、民国史研究者でも軍閥そのものを専門として研究している著名な学者は、
極めて少ないと思います。
僕自身、現在の学者でとっさに名前を挙げろ、と言われても返事に窮しますし。
30年近く前に書かれた波多野善大氏の『中国近代軍閥の研究』(河出書房新社、1973年)が、
依然として軍閥研究の基本書となっているのが現状です。
特に専門として軍閥を研究されているわけでは無いのですが、四川軍閥では今井駿氏、山西軍閥
閻錫山では内田知行氏、あと雲南軍閥竜雲では菊池一隆氏などが、論文を書いている程度です。
もし、以上に補足・訂正を加えることが出来る方がいれば、お願いします。
95 :
世界@名無史さん:01/11/07 23:58
この間、龍雲とも関係の深い聞一多氏のお孫さんにあたる方の講演を聴きました。
彼自身は社会科学院の研究者で、知識人について研究してるそうです。
96 :
世界@名無史さん:01/11/08 00:19
北伐後も地域権力を有していた軍閥が新中国建国のころには
あっさり一掃されたのは何故だろうか?
>>95 そうですか、聞一多のお孫さんが・・・(歴史的人物なので、氏は外します。すみません)。
貴重な情報、ありがとうございます。
知らない方のために少し説明します。
昆明は抗日戦争期に、戦火を避けて逃れてきた知識人や学生たちの根拠地となりました。
北京大学、清華大学、南開大学は互いに連合し、昆明で西南学院大学を設立しています。
この知識人や学生たちに対し、雲南軍閥竜雲はその文芸活動のみならず、
抗日や反蒋介石の政治的活動にも保護を与えました。
蒋介石との関係悪化が、その主たる原因と言われています。
いずれにしても、当時の昆明は「民主の塞(とりで)」と呼ばれたのです。
聞一多は、民国時代の詩人で、国民党にも共産党にも与しなかった民主党派
の活動家でもあります。
1938年に昆明へ来て、西南連合大学中文系の主任となり、教育活動の傍ら、
抗日、反蒋介石の活動に専心しました。実際にどれほど竜雲と親密であった
かは分かりませんが、いずれにしても竜の保護を受けたのは事実です。
しかし1946年7月、
反蒋介石の運動の最中に、聞一多は国民党の特務機関によって暗殺されました。
この事件は、雲南省政府主席盧漢(竜雲の後継者)の失脚を狙う、
国民政府中央の画策であったと思われます。
>>96 それは私も気になっています。
中華人民共和国時代の軍閥の解体過程は、日本に限らず、
まだ研究がそれほど進んでいない状況と言って良いでしょう。
国共内戦で人民解放軍に殲滅された軍閥はともかく、
共産党に降伏したり、寝返ったりした軍閥は特に問題です。
ただ、国共内戦が終わった後、共産党側に寝返った旧軍閥指導者は、
ほぼ全員が北京に呼び集められています。
彼らが拘束されたとまでは言えないでしょうが、彼らの現地に対する影響力を
制限する意図があったのは、ほぼ間違い無いと思います。
あと、たとえば雲南省の場合、旧軍閥の軍隊はそのままの形で人民解放軍に
編入され、漸進的に再編、吸収されていきました。
軍閥の有力幹部の中には、共産党の急進的政策の中、「反革命」などの罪状
により粛清されたり、失脚したりした者もいます。
ただ、文革後には、それらの人たちもおおむね名誉を回復し、
中には省級の人民政治協商会議などに加わって、政治に参与した人もいました。
99 :
世界@名無史さん:01/11/08 01:41
確か溥傑も人民政治協商会議のメンバーでしたよね。
人民政治協商会議は旧勢力の主要人物をプールする機関という役割もあるのでしょうか?
その役割もあったことは否めません。
事実、中華人民共和国建国直後は、
人民政治協商会議(以下、人民政協)に軍閥指導者の多くが加わっています。
ただ、人民政治協商会議は、
少なくとも建国直後は「人民民主主義統一戦線の組織」(共同綱領)でした。
主に、民主党派を政権に参加させるための組織だったと言えるでしょう。
その後、54年憲法の成立や反右派闘争で変質していきますが。
失礼しました。
>>98の上から5行目、
×「西南学院大学」→○「西南聯合大学」です。
情けないミスでした。西南学院大学の関係者の方、お詫びします。
102 :
世界@名無史さん :01/11/08 03:41
中国で竜雲の伝記は出版されていないのですか?
>>102 代表的な伝記としては、2冊挙げられます。
まず大陸では、謝本書『竜雲伝』(四川民族出版社、1988年)があります。
伝記である以前に、研究書と言うべきでしょう。
謝本書氏は、雲南大学歴史系教授(現在は中国社会科学院で高位についたと聞いています)で、
この他にも蔡鍔、唐継堯、盧漢といった雲南の軍閥指導者たちの研究書を出版しています。
台湾・香港で出版された伝記としては、江南『龍雲傳』(台北天元出版社、1987年)があります。
江南氏は米国籍華人ジャーナリストで、『蒋経国傳』の作者としての方が有名です。
こちらは読み物としての色彩が強いですが、綿密な資料調査によって記述されたものです。
なお江南氏は、1984年に台湾の情報局関係者に暗殺されています。
上述した謝本書氏は、江南氏と交流があり、その死を大いに悼んでいました。
余計なことまで書いて申し訳ありませんでした。
104 :
世界@名無史さん:01/11/09 01:26
軍閥研究は中国での研究がかなり進んでいるようですね。日本人が参入する余地はあるのでしょうか?
105 :
世界@名無史さん:01/11/09 20:54
>>104 参入する余地なら、いくらでもあります(これだけは断言します)。
大陸あるいは台湾・香港でも、
各軍閥のプラス面(たとえば地方単位での近代化政策)などの研究は、
まだ始まったばかりと言っていいくらいです。
たとえば大陸では、研究は1980年から散見されはじめ、
冷戦の終焉でやっと活発化してきた感じです。
僕がこんなことを偉そうに言うのも何ですが、
研究者本人の興味によって、
いくらでも軍閥研究の対象や領域は広がっていきますよ。
冀察政務委員会の宋哲元はどの系列の軍閥ですか?
>>106 宋哲元は馮玉祥系の軍閥です。
1926年に馮玉祥が国民革命への参与を宣言した際には、
馮配下の「五虎将」の1人として名声がありました。
自分で書き込んだレスが3割以上を占めているという、恥ずかしい状況ですが、
とにかくレスが100を超えました。
これまで書き込んでくださった皆さんに心から感謝しています。
さてこのスレは、最近僕が質問に答えるという形式になっていますが、
本来は自由に議論する場なので、軍閥の話題であれば、
どんなことでも書き込んでください。
小噺やウンチクでも、もちろんOKです。
僕の言動や書き込みの内容に対する批判も、
建設的なものであれば大歓迎です。
(最近、コテハンさんたちの書き込みが見られないけど、嫌われたのかな・・・?)
↑一番下の行、「僕がコテハンさんたちに嫌われた」という意味です。
誤解を招きかねない書き方でしたので、失礼。
110 :
世界@名無史さん:01/11/10 03:13
広西の李白はどういう末路をたどったのでしょうか。
>>110 108でああ書きながら、いきなり質問に答えるのも何ですが・・・(w
内戦後の李宗仁は、蒋介石が待つ台北へは行かず、
アメリカへ亡命しました。
1954年、中華民国副総統の地位から罷免されています。
その後、1965年に共産党の呼びかけに応じ、李宗仁は大陸に戻りました。
文革期間中は周恩来の保護を受け、1969年に北京で病没しています。
白崇禧は、広西で自軍を人民解放軍に殲滅され、台北へ逃れました。
李宗仁の副総統罷免に賛成し、
後に李が大陸へ戻った際には、強烈な非難を表明しました。
台北では総統府戦略顧問委員会副主任などの地位に就きましたが、
李との関係を疑われて実質的には幽閉状態だった、との説もあります。
1966年に病没しました。
112 :
世界@名無史さん:01/11/10 04:49
110です。ありがとうございます。やや悲惨ですね。
1.馮玉祥と馮国璋は親子でしょうか?
2.軍閥と関係有るような、無いような質問ですが、
北伐が終わった後に、北京が北平に直隷省が河北省に
変わったようですが、誰が、どこが、いつ、やったのかあまり
はっきり書いてありません。
私の想像では
a.当時南京の首都としての地位もはっきりしていないので
南京政府が北京の京という字をきらって変更したから。
b.反蒋介戦争の後、北平拡大会議で北平に別の国民党を
つくったから。
>>113 1.違います。馮玉祥の父親は馮有茂といい、淮軍の下級仕官だそうです。
2.北京が北平と改められたのは、やはり蒋介石率いる南京政府が北洋政府に
勝利したことを意味付けるためでしょう。
ちなみに、その後の北京は、以下のような変遷をたどります。
・1928年6月−北平特別市とする。
・1930年6月−河北省管轄の一市となる。
・1930年11月−行政院院轄市となる。
北平拡大会議が行われたのは1930年7月で、反蒋介石派の敗北は、
同年11月初めですから、この事件の影響が反映されたのは、むしろ
院轄市への移行の方ではないでしょうか?
115 :
西国のアズマ帰依者:01/11/12 01:15
南京首都宣言は1927年4月18日布告だよ>113
>>115 西国のアズマ帰依者さん、補足どうもです。
最近、書き込みされてないので、
厭きられたのかのかなって心配してたんですよ(涙
よろしかったら、今後も色々書き込んでいってください。
117 :
西国のアズマ帰依者:01/11/13 02:35
単に旅行に行っていただけです。ご心配かけてすみません
118 :
世界@名無史さん:01/11/13 03:00
>95
新しくはないですが、塚本元「補論「中国近代軍閥」研究をめぐって」
『中国における国家建設の試み-湖南1919-1921-』、東京大学出版会、1994年、所収
で軍閥に関する研究史整理がなされています。
119 :
世界@名無史さん:01/11/14 19:54
じゃあ、小ネタを。
西村成雄『張学良』178ページの写真。
張学良の育ちのよさを示すあるものが写っています。
それは何でしょう?
前から思っていたんだけど、中国人って
はしの持ち方がどこかヘンでないか?
121 :
世界@名無史さん:01/11/14 23:08
答えは約1時間後に。
122 :
世界@名無史さん:01/11/15 00:11
あ、レスがない、、、
じゃあ、また今度。
123 :
西国のアズマ帰依者:01/11/15 00:45
そういえば、民国春秋叢書で『李宗仁与桂系』(江蘇古籍出版社 1997年)
が出てたよ
124 :
世界@名無史さん:01/11/15 00:57
向こうの文献は東方書店とかで入手するんですか?
なんだ誰もレスしてない(泣
>>125 遅れてすみません。
やっと写真を見てきた(手もとに『張学良』無かったもので)のですが・・・。
答えは、訓練服のボタン?(こういうの、詳しくないんです・・・)
>>123 情報ありがとうございます。
それが一番新しい広西軍閥関連の書籍なのでしょうか?
僕はまだ読んだことが無くて・・・。
ちなみに僕が所有しているもので、一番新しいのは、
莫済杰・陳福霖『新桂系史』(広西人民出版社、1995年)です。
>>124 日本では、やはり内山書店と東方書店がメインですね。
ただ、旅行とかで中国へ行く機会があったら、
ここぞとばかりに、買い込みます。
以前僕が留学してた時期は、ほとんど毎日が、
新華書店などでの本探しでした。
おお!正解です。
答えはカフスボタン。
「じゃあ、育ちの悪い軍人は絶対カフスボタンしないのか?」と
言われれば困ってしまいますが。
128 :
世界@名無史さん:01/11/15 21:59
中国での本集めってまさに一期一会だね。
しかも地方史になるとその地方に行かないと買えないことが多い。
んで、店頭にない本の取り寄せ頼んでも届いたためしがないぞ。
>>127 わーい、当たったー!!・・・失礼(w
ところで、その当時の軍人(あるいは他の上層階級)にとって、
ボタンをつけた服というのが珍しかったのでしょうか?
別の本に載っていた楊森(四川軍閥)の軍服姿の写真も見てみたのですが、
袖口にカフスボタンは無かったですね。
>>128 そうですね。
僕の場合、雲南省関連の書籍も、
雲南省へ旅行に行ったときに貴重な物を手に入れました。
地方小出版社が出す地方史文献は、
北京の図書大厦ですらも、滅多に売ってませんね。
131 :
世界@名無史さん:01/11/15 23:30
やはり紳士のファッションって感じなのかな<カフスボタン
まあ、楊虎城はつけてないでしょう。
132 :
世界@名無史さん:01/11/15 23:30
来週のNHK「その時、歴史は動いた」で満州事変と石原莞爾をやるそうです。
張作霖・張学良に関するエピソードもあるといいなぁ。
>>131 張学良以外でカフスボタン似合いそうな軍人って、誰でしょうね?
雲南軍閥の唐継堯は結構似合いそうですが・・・
って、写真見たことある人どれだけいるんやろ?失礼・・・。
>>132 山室信一『キメラ−満州国の肖像』(中公新書)だと、
石原莞爾の理想(?)に燃える姿と、その惨めな結末がよく描かれていますね。
ただ、「歴史は動いた」だと、相手方(奉天派)の動きは
余り出てこなさそうですね・・・。
話は全く変わりますが、
ソ連撤退後のアフガニスタンも、軍閥割拠の情勢が続いています。
アヘンが絡んでくるところとか、自分勝手に交通料や税金を取り立てるところなど、
驚くほど民国期の軍閥時代と酷似しているように思えるのですが。
>>118 軍閥の研究状況の補足、ありがとうございました。
失念していて、お礼を言うのが遅くなり、申し訳ありませんでした。
135 :
世界@名無史さん:01/11/17 02:22
県レベルの文史資料、見たいけど手に入らないyo!
136 :
世界@名無史さん:01/11/17 02:36
関係無いけど石原莞爾って今ちょっとしたブーム?
>>135 それは、本当に現地に行かないと無いでしょうね。
日本で取り寄せるのは不可能に近いです。
さもなければ、中国へ行って、国家図書館など大きな図書館で探すしかないでしょう。
僕も、たとえば大理の文史資料選輯は大理でやっと見つけましたよ。
県志なら、日本でも国会図書館や東洋文庫など大きな図書館にありますけど。
>>136 最近の漫画でも良く出てきますからね。
石原莞爾は軍人と同時に、思想家(ないしは哲学者)と言えるかも知れません。
その考えを肯定するにしろ否定するにしろ(僕は後者ですが)、
大きな人物でしょう。
そしてその理想主義ゆえに、現実の事態は彼に「ある限度以上の活躍」
を許さなかった、と僕は考えていますが。
・・・長々と失礼。
138 :
世界@名無史さん :01/11/18 04:09
>>133 >驚くほど民国期の軍閥時代と酷似しているように思えるのですが。
効率の良い収入を得ようとするのは、常に軍事費の支出を考えなくてはいけない、辺境地帯の軍事勢力の宿命かも知れませんね。
139 :
世界@名無史さん:01/11/18 22:20
土地を基盤にしている軍閥にとって財政基盤の確保は重要なんだろうけど、
アフガンはそれほど産業が発達してないだろうから(よく知らないけど)
通行料や特別税に依拠するしかないんじゃないかな?
奉天派の財政基盤は当時、世界的商品だった大豆でしたが。
>>140 アフガニスタンは天然ガスが主要産業でしたが、
相次ぐ内戦のために、正常な生産ができなくなったようです。
各軍閥を周辺国(さらにはアメリカなど大国)が支援するのも、
単に安全保障の問題のみならず、天然ガスも目当てと言えます。
以前すでに書き込みましたが、
雲南では各種金属(錫、銅など)とアヘンが重要な産物でした。
しかも、どちらかと言うとアヘンが圧倒的優位だったのですが、
竜雲が政権を掌握した1930年代以降は、
錫の生産と貿易による収益が増加し、
全体の割合でアヘンを凌ぐようになりました。
141 :
西国のアズマ帰依者:01/11/18 23:08
官銀号の発券基盤だったからね大豆取引>139
超近代的な満鉄大豆取引システムでも
中国商人にはかなわず、満州の輸入貿易は中国商人
のいる営口に掌握されていたが
142 :
世界@名無史さん:01/11/18 23:27
中国の軍閥はそういう財政基盤があったからこそ軍閥たりえたわけで、
アフガニスタンの軍閥が通行料なんかにたよるのは
課税地なんかが把握できていないからではないでしょうか。
民国期の軍閥割拠は「中央」に対して「地方」が強かったためで、
アフガニスタンは「地方」以上に「中央」が弱体であるためでは?
当てずっぽうですが。
>>141 そうだったのですか?
満鉄でも、
現地商人のネットワークは簡単に崩せなかったということですか・・・。
僕も興味がありますので、
もし、このことに関する書籍や論文がありましたら、
教えていただけないでしょうか?
>>142 仮にも中華民国時代は、
北洋政府や国民政府が正統性の意味で、
時代をある程度リードしてましたからね。
僕もアフガニスタンについては、
興味を持ち始めたばかりなので多くを知りませんが、
旧ソ連撤退後の中央政権では、各種勢力の内紛が激しすぎて、
ろくに求心力を発揮できなかったそうです。
144 :
西国のアズマ帰依者:01/11/19 22:52
安富歩や石田興平、西村成雄だったかの
経済史関連の著書に書いてあった気がする…(す、すまん。覚えてない)
>>144 どうも、ありがとうございました。
あとは自力で探してみます。
146 :
世界@名無史さん:01/11/20 02:05
>>141 >>超近代的な満鉄大豆取引システム
具体的にどんなシステムでしょうか?
あぼーん
満州国もですが、
軍閥の経済政策や金融政策、財政に焦点を絞った研究も面白そうです。
経済学や財政学の知識に疎いのが辛いですが、
僕は今のところ、これらに関する雲南軍閥の動向について
改めて調べなおしているところです。
たとえば、貨幣の流通などは、
雲南が地元で発行している地方貨幣や、
フランス領インドシナが発行していた紙幣などが強力で、
中央の法幣は1937年までろくに通用しなかったといいます
(以前、このスレでも少し触れましたが)。
149 :
西国のアズマ帰依者:01/11/20 20:42
聞いて驚くな。
満鉄沿線で大豆を買うと、その日のうちに大連で船積が可能になるのだ。
そして信用状と船荷証券添付した荷付為替手形で銀行に割り引いてもらえる、
つまり信用状により貸付をうけ、船荷証券獲得をその日のうちに行えれば、
実質「ゼロ円」で大豆が買えるのだ。
しかし、輸送には2週間とか1ヶ月かかることも珍しくはないのです。
そこで問題です。
なんでその日のうちに、大豆商人は船積み可能なんでしょうか?
150 :
世界@名無史さん:01/11/20 21:32
あらかじめ大連に大豆が集積してあって、地元の商人が満鉄沿線の出張所で買うと電報で連絡が行く。
151 :
西国のアズマ帰依者:01/11/20 23:27
惜しい!60点!
大豆が大連に集積してあるのは正しいが、
その取引法を可能にするには、もうひとつ条件が必要なのだ。
ただで、大豆が買えてしまう取引技術。
信用状で為替手形を割り引いてもらい、船荷証券をくっつける取引を
可能にする中核的取引技術こそ、満鉄が誇れるもの。
しかし、そんな技術がありながら、満州輸入経済は営口に掌握されていた…
さて、それは…
省長というのは中華民国が任命した地方行政管理官で
しょうか?そうだとして、省長が軍閥自身であったり
なかったりで、いずれにしろ地方からの税収が国に
あまり入ってこないので、関税くらいしか収入が
なかったという理解でいいですか?
>>152 省長というのは、厳密に言えば北洋政府における各省の最高行政長官です。
ちなみに国民政府においては、省政府主席がこの地位にあたります。
1916年7月に、それまでの巡按使から改称されたものです。
この省長の地位につくのは、必ずしも軍閥自身とは限りません。
そのケースもありましたが、むしろその省における郷紳層の実力者、
あるいは軍閥内の高位の文官が就任するケースが多かったようです。
また、「聯省自治運動」の時期には、各省で省長の権限に大きな差がありました。
中央に税収が届かなくなるのは、民国建国当時からの課題です。
袁世凱は様々な施策によって各省都督(=軍閥)の権限を削減し、
中央税収の増加に務めました。
それは二次革命における、袁世凱の勝利で一時は成功したかに見えましたが、
第一次世界大戦の勃発及び袁の皇帝僭称により、破綻。
袁世凱死後の北洋政府は、南方をはじめとしてほとんどの省からの税収が
途絶えています。
>>144 安富歩『「満州国」の金融』(創文社、1997年)のようですね。
これからじっくり読もうと思っています。
教えていただき、ありがとうございました。
満州国では建国会議のメンバーは東北各省の省長に
なっていますが、彼等の場合は、それ以前は軍閥、
省長のいずれだったのでしょう?
155 :
世界@名無史さん:01/11/23 00:48
アズマさん、ヒント教えて。
156 :
世界@名無史さん:01/11/23 03:01
>>154 その4人については、
少なくとも建国直前は省長に就いていないはずです。
建国前に国民政府の組織の下で省長となっていたのは、
その他の東北軍の領袖たちでしょう。
省長についていろいろありがとうございました。
sage
すみません、156のところは省長じゃなくて、省政府主席です。
国民政府の組織ですから。
159 :
西国のアズマ帰依者:01/11/23 23:10
>>155 ヒントは取引所取引などの前提となる技術でもあります。(つまんないんだけど結構重要)
160 :
世界@名無史さん:01/11/24 03:43
先物
161 :
世界@名無史さん:01/11/25 01:29
アズマさんのクイズの最中ですが、
僕からも1問。
雲南省では、民国時代まで主に省の西部や東北部である貨幣が流通していました。
その貨幣は、金属では無い物質から製造されたもので、
政府の公認ではありませんでしたが、事実上、補助貨幣の役割を担っていました。
さて、それは何で出来た貨幣でしょうか?
清朝ころまで雲南では寶貝=子安貝が使われてたという話は聞いたことあるけど、
「製造されたもので」というのも変だし、民國時代も流通してたものか?
何しろ雲南てとこは特別で「民國通寶」なんていうのも鋳造してたらしいです。
>>162 あやめさん、残念。
確かに、雲南では古代から貝も通貨の一種として使われていました。
明の万歴年間以後はさすがに衰えましたが、
それでも清の順治四年(1647年)まで銀との兌換率が記録されていたほどです。
「民国通宝」は、省東北部の東川市附近で民国元年(1912年)に鋳造され、
「当十」「小銭」の2種類があったそうです。
さて、クイズの答えはもう少し待ってください。
問題文では金属ではないと書きましたが、もしかしたら語弊があるかも知れません。
(これもヒントです)
164 :
世界@名無史さん:01/11/25 16:45
陶器ですか
食塩ですか?
それなら政府が信用を与えなくても流通するだろうし(軍閥発行の悪貨よりずっと
マシかも)、塩化ナトリウムを金属でないと言うと確かに語弊がある・・・。
問題は保存性だけど(雲南あたりじゃすぐ湿気りそう)、東北なら大丈夫?
166 :
世界@名無史さん:01/11/25 19:49
ずばり!金玉でしょう!
>165の方、お見事!
その通り、食塩です
(でももしかしたら、僕が金属でないと言ったせいで、あやめさんは答えられなかったかも
・・・そうでしたら、スミマセン)。
南詔国の時代から各地で鋳造され始め、
元朝の頃には棒状あるいは円盤状に形を整えた塩貨(?)となっていたそうです。
また、明代の資料によると、省内の各産地ごとに、塩貨の質の優劣がつけられています。
民国時代に至っても、主に少数民族地域の定期市で、少額の取引に用いられていました。
雲南省の歴史学者方国瑜氏によると、雲南西南部の瀾滄江流域では、
1936年に銀1元=塩貨16枚で兌換されていたそうです。
以上、拙いクイズでしたが、失礼しました。
塩の貨幣というのはどこかで聞いた覚えがあったのですが、それほど長く、
近代まで用いられていたとは知りませんでした。勉強になります。
西国のアズマ帰依者氏のクイズの方は、答えが思いつきませんねぇ・・・。
大豆といえば、輸入した大豆の代金代わりに、日本陸軍でお払い箱になった
爆撃機(イタリア製)を満州国軍に譲り渡したなんてこともあったようで。
169 :
世界@名無史さん:01/11/26 23:35
>169
うーん、難しいですね(w
竜雲は、個人的にはそれほど学問的素養や専門的知識を持ってなかったし、
また、後先考えず、かなり感情的に行動する人でした。
それでも、政権作りのために様々な人材が必要であることを充分に承知していて、
軍人のみならず、行政官僚や経済官僚も多士済々になったんですよね。
また、国民政府中央に対する政治的距離も、
蒋介石全面支持の一方で、したたかに立ち回ってます。
それに。政権を安定させた1930年以後の竜雲は、
当時の雲南の民衆から「老主席」と呼ばれ、かなり慕われてました。
僕の独断では、
統率:85(混乱した雲南を統一した手腕を評価)
武力:83(やはり雲南統一の業績を評価。若い頃は拳法の使い手)
知力:58(感情的に行動するマイナス面を考慮)
政治:81(個人的な行政手腕は低いが、人材の起用では目を見張る)
魅力:90(雲南の民衆や部下、そして民主党派から極めて厚い信望を得た)
でしょうか?
171 :
世界@名無史さん:01/11/28 15:21
>若い頃は拳法の使い手
いいキャラだなあ
172 :
世界@名無史さん:01/11/29 19:01
>171
フランスからやってきた腕自慢の格闘家を、竜雲は見事に打ち倒し、
それで雲南軍閥の唐継堯に気に入られて出世していった、という逸話があります。
また辛亥革命以前は、
無頼で義賊まがいのことをやっていたという話がある一方、
商売の最中に大切な商品を川に流して雲南から逃げ出した(wという話まであります。
実際のところ、竜雲の青年時代は不詳な点が多いため、こんなに逸話が出てくるのです。
173 :
世界@名無史さん :01/11/30 02:25
>それほど学問的素養や専門的知識を持ってなかった。
>後先考えず、かなり感情的に行動する。
>行政官僚や経済官僚も多士済々。
>国民党にはしたたかに立ち回る。
竜雲って漢の高祖みたいなキャラだ。
174 :
世界@名無史さん:01/12/01 00:37
スレ違いだったらゴメンゴ
民国期の東トルキスタンに興味があります。
特に甘粛の漢回、師長馬仲英。
彼の32年の東トルキスタン遠征による大乱にね。
省軍による回族屠殺、回族による漢族屠殺。
漢人官吏や商人、高利貸しの皆殺し等など・・大虐殺のオンパレード!
悪趣味ですけどね。
しっかし、今も昔も東トルキスタンは相変わらずだねえ〜
>174
東トルキスタンは、
やはり中華民国(国民政府)も支配には相当神経を使ったようです。
新疆省(現ウイグル自治区)は、結局1944年まで現地軍閥を通した支配しか出来なかったですしね。
その現地軍閥(楊増新・金樹仁・盛世才)にしても、
外部にはソ連と国民政府中央、内部には東トルキスタン独立派を相手に、
難しい政権運営を強いられていました。
あと馬氏についてですが、
新疆・甘粛以外でも、青海省の馬歩芳、寧夏省(現回族自治区)の馬鴻逵などが、
軍閥支配を確立していましたね。
楊増新は暗殺、金樹仁はソ連に逃亡。
馬仲英は盛世才により壊滅。盛世才はソ連のくびき。
民国同様、東トルキスタンも動乱状態でしたね・・
「東トルキスタン共和国」運動は、
国民党によっては、結局鎮圧できませんでしたね。
共産党にしても、もし「あの事件」が無かったら、
新疆をあんなに簡単に自分の支配下に組み込めたかどうか、疑問ですよね・・・。
178 :
世界@名無史さん:01/12/01 11:31
「三区革命」?
>178
そうです。
アフメド・ジャンら「三区革命」派指導者グループの謎の「消滅」ですね。
毛沢東と今後新疆の統治をどうするかを協議するために北京へ向かう途中、
飛行機が墜落して「三区革命」派は全員死亡した、というのが、公式発表。
しかし依然として、「三区革命」派は実は北京で拘束され、幽閉死したという説も根強いです。
もっとも、「三区革命」派が果たして独立国家を建てようとしていたのか、
それとも民族自治区という形式で妥協しようとしていたのか、
さらには連邦制など別の統治形式を提案しようとしていたのか・・・。
彼らの意図は、現在では知る術がありません。
事実として残ったことは、
「三区革命」派の「消滅」により、
共産党はさしたる血を流さず(散発的な抵抗はあったにしても)、
新疆を自治区として組み込むことができた、ということです。
今、胡春恵『民初的地方主義与聯省自治』(中国社会科学出版社)を読んでいます。
このスレの最初の方で、「聯省自治」は地方軍閥の支配の正当化と書かれた方がいましたが、
それは妥当では無いです(そのような一面があったにしても)。
むしろ、混乱する中国を再び束ねるための、1つの構想(あるいは思想)のようなものと言えるでしょう。
各省が独自の憲法を作って連邦国家を作るという考えは、その当時では相当の求心力を持っていました。
参加した層も、軍人のみならず、郷紳や資本家、知識人など幅広いものでした。
ただ、現実は厳しいものでした。
湖南省が恐らくは省の自治に最も成功した省でしたが、最後は軍閥唐生智によって消滅させられます。
四川省では、「川人治川(四川人による四川統治)」を唱えていたはずの四川軍閥自身の手によって、
「聯省自治」運動が破壊されるという、無残な結末が待っていました。
181 :
世界@名無史さん:01/12/04 15:41
北洋軍閥政府がヴェルサイユ会議やワシントン会議に出席していたときの
広東政府や地方軍閥の気持ちがしりたい。
182 :
世界@名無史さん:01/12/05 03:11
>181
ヴェルサイユ講和会議には、北京・広東両政府が合同代表団を結成して乗り込んでいます。
ウィルソンの14か条宣言に対する期待などもあり、
日本から山東半島を取り戻すために一致団結する気風が双方に生まれていたのでしょう。
もちろん、中国国内の世論や熱気も後押しだったはずです。
その後の、ワシントン会議については僕は詳しく知りませんが、
安直戦争など内紛を頻発する北洋政府に対して、
おそらく広東政府側は正統性を認めていなかったでしょうし、
広東政府側も内部の抗争があってそれどころでは無かったのではないでしょうか?
(いい加減な推測ですみません・・・)
183 :
世界@名無史さん:01/12/05 20:04
ワシントン会議での北洋政府の失態が広東政府上昇の鍵
内紛云々(安徽、直隷、奉天各派の争い)があったにしても、
北洋政府はやはり「腐っても鯛」というべきか、
「中央政府」としての外見だけは辛うじて有していたと言うべきでしょうね。
それにしても、
北洋政府ではなく、広東政府(南方派)の系列に属していた蒋介石が、
最終的に北伐を成功させて南北統一を果たしたことは、
やはり相当な政治的、軍事的偉業ではないでしょうか?
普通ならば、北洋政府内から有力な軍事指導者が出て、統一を果たすところですし。
こんにちわ
御無沙汰しておりました。
戦国・三国志版の
■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■ の1です。
>170
での竜雲のパラメーターありがとうございます。
さっそく貼りつけさせていただきます(^^)。
>185
あの文章、誤字脱字、句読点ミスゴロゴロでハズカシイんですが(w
ま、いっか。
これくらい真面目な内容のスレが180超えるなんて珍しいのでは?
「シナは無政府状態だった」みたいな荒れる内容だったら
すぐ500くらい行くけどね。
>187
褒めて頂いたのは嬉しいんですが、
ほとんどが僕のカキコですからね・・・。
見る人によっては、どう思うか判りませんよ。
・・・ノリが悪くてすみません。
軍閥という言葉からは夜盗の群れから地方の皇帝までイメージされ
なかなか、想像がつかない。その中でパール、バックの「大地」の
軍閥は私の軍閥のイメージに強く影響した。彼女は自身当時の中国
生活を経験してますがあの小説の軍閥はどうですか?
>189-191
恥ずかしい話なんですが、僕はパール・バックの「大地」は読んだこと無いんですよ。
スメドレーやソールズベリは随分昔に読んだんですが・・・スミマセン。
さて安徽省については、僕は専門的に調べたことが無いのですが、
特に北洋政府時代においては、仰るとおり時代の激動の中心とも言える省でした。
まず、民国成立後に都督に任命された柏文蔚が、袁世凱に罷免された際に反旗を翻して独立を宣言し、
二次革命に参加しました。
柏文蔚が敗退した後は、袁世凱配下の倪嗣沖(げいしちゅう)が安徽を統治しましたが、
1916年にその後任となった張勳が、今度は清朝復辟の軍事行動に出ています。
(ちなみに張勳も敗退すると、再び倪嗣沖が安徽の支配者に復帰しました。)
その後も、この地では、北洋政府派と南方政府派との角逐が繰り広げられています。
答えとしては不足かもしれませんが、僕の知っていることは以上です。
失礼しました。
清朝崩壊後のシナは軍閥が割拠して、中央政府がないんだから、
無政府状態ではないの?
兵隊だって、すぐに金を盗むような代物だ。
今の感覚で考えると大間違いだよ。
>193
まず、北伐が完了するまでは、
北洋政府と南方政府(広東政府)が互いに中央政府の資格を争っていた、というべきでしょう。
もちろん、南北双方に内部対立があったのは言うまでもありませんし、軍閥同士の抗争も激しかったです。
続いて、北伐完了後については、蒋介石が最後まで中央政権の領袖としての地位を守り通しました。
度重なる内紛に悩まされながらではありましたが。
民国期の中国が、軍閥同士の抗争に溢れていたから「無政府状態」だった、
と規定する見方も分からないではありません。
しかし、張勳のような例外を除いて、ほとんどの軍閥は自分たちこそが「中華民国」の正統を奉じている、
と主張せざるを得なかったのであり、それを否定しては自らの政権・軍隊を保てなかったのです。
彼ら軍閥の選択肢は、自ら「中華民国」の領袖を目指すか、
あるいは領袖とみなした人物に追随する(忠誠心の程度は別として)かしか無かった、
というべきでしょう。
そのため、「中央政府が無い」という見方は、残念ながら僕には採れません。
様々な勢力が「中華民国」(=中央政府)の領袖の地位をめぐって争い、
結果として袁世凱や蒋介石などが一定期間その地位を確保した、と見るべきでは無いでしょうか?
長々と、すみませんでした。
195 :
西国のアズマ帰依者:01/12/19 01:00
>193
あのう、中央政府がないということはありません。
北京政府も南京政府も、立派な中央政府なのです。
問題は「地方なき」中央政府ということであり、これは蒋介石は
ある程度まで克服しましたが、結局今現在でも中国政府が抱えている
問題として存在します。
これは地方と中央をどうわかつことができるのか?ということであって、
はじめから地方と中央の関係が明瞭な日本の感覚で捉えると間違えます。
地方と中央が分離していないということは、中央の税収は地方依存であり、
中央は独自の税徴収システムをもっていないことがあげられます。
北京政府時代、軍閥混戦といわれましたが、それは地方政府が税金を
中央に納めなくなった地方の独自性の発揮なのですが、
地方が税を徴収できるのは中央の正統性があってのことなのです。
そしてその正統性の由来は「中華民国」であった。
関税会議で北京政府はどうどう代表団を送り込んでます。
この関係は非常に分かりにくいけれど、無政府状態ではありません。
そして今も中国において再現されている問題です。
そのように片付けることは事の真実を見失う行為といって間違いありません。
196 :
世界@名無史さん:01/12/19 01:07
軍隊の規律などはどういう感じだったんでしょうか?
中国では「軍人は最低の人間がなるもの」という言い回しがあったとか。
装備も各地でばらばらだったと思うし。
ナショナリズムで統一された国民党軍の方が優勢に北伐を進めたのでは?
197 :
世界@名無史さん:01/12/19 01:12
いまの中国って「地方自治」って概念ないですよね。
「民族自治区域自治」は例外でしょうが、
それでも中央の統制がつよいってよく指摘されている。
共産党の中で北京閥とか上海閥なんてことがよくいわれるけど、
それは地盤への利益誘導であって、地方の自立性が強いこととは別ではないでしょうか?
>196
ほとんどの軍閥については、軍隊の規律が概ね悪かったと言うべきでしょう。
盗賊のような集団もあった他、給料の支給が滞っただけで、すぐに離散状態となることもありました。
また、軍閥同士の戦闘があっても、双方の軍隊の戦死者はほとんど無く、
どれだけ相手方から寝返らせたかによって勝負が決まることが多かったそうです。
>197
現在の中国で認められている「自治」は、
僕たち日本人の感覚で言う「地方自治」と同じではありません。
中国の「自治」とは、@「郷鎮自治」A「民族自治」B「高度な自治(香港・台湾)」で、
いずれも「団体自治」とは無縁です。
北京閥と上海閥については、確かに地方の自立性云々の問題とは異なります。
ただ、これは必ずしも地盤への利益誘導という問題でもないようです。
江沢民(上海閥)と陳希同(北京閥)の領袖個人同士の派閥争い、と見る方が妥当と思われます。
199 :
世界@名無史さん:01/12/19 01:58
軍閥とは関係ないんですが質問が3点あります。
1、中国の自治が「団体自治」ではないとすると「住民自治」と考えていいでしょうか?
村民自治のような小規模なもの、あるいは香港などでは住民の政治参加が許されているようですが、
省レベルになるとはそうとは言えないような。これは民族自治区域についても同様で、
だったら何ゆえ「自治」を冠するのかわかりません。
中国における「自治」って何を指しているんでしょうか?
2、領袖同士の派閥争いだとすると、その派閥が何ゆえ地方を元に形成されるのかがわかりません。
中国人は地方意識が強いともいいますが、上海人であるというだけで江沢民を支持したりするのでしょうか?
3、地方「自治」がなく、派閥争いも個人的側面がつよいとしたら、
西国さんが示唆されたような中央と地方の関係は何を原因としているんでしょうか?
>199
1.「住民自治」の部分については、郷鎮レベルの他、県級でも実験的に進められている
段階と言えます。ですから、中国の「自治」において「住民自治」の要素が全く無い、とまでは
言えません。しかし、省級については仰るとおりその要素は皆無に近いです。
「民族自治」の「自治」の場合、むしろ分離権・自決権の否定というある種ネガティブな意味合いが
含まれると言うべきかもしれません。
2.たとえば上海閥とは、江沢民が上海に赴任している最中に築かれた個人的人脈を基にして形成された、
中央における政治的集団と言うべきです。
そのため、民国軍閥とは質が違いますし、また、上海人であるから江沢民を支持するということも、
比較的その色合いは薄い、と言えるでしょう。
3.アズマさんが指摘された中央と地方の関係とは、上海閥・北京閥の争いとは別に、
各地方が各々の利害の考慮(地方主義とも言えるかもしれません)に基づいて動く状況を
指します。
以前、僕が書き込みをした通り、中央から派遣された高官であっても、結局は地方の利害を
考慮して行動せざるを得ないわけです。その際たるところは、広東省など東部沿海地域と言えるでしょう。
回答としては雑ですが、とりあえずはこんなところです。
201 :
世界@名無史さん:01/12/24 03:39
あげ
これから、時々ですが、軍閥(あるいは軍閥内の軍人・政治家)について、
5,6行程度の略歴を書き込んでいこうと思っています。
皆さんも紹介したい人物があったら、ぜひ、それくらいの長さで書き込んでいってください。
まず今回は・・・。
唐継堯(1883〜1927)
雲南省会澤出身。清末に日本へ留学し、陸軍士官学校第六期生として卒業。帰国後は雲南陸軍講武堂の教官となったが、
雲南重九起義(辛亥革命)の首謀者の1人として蔡鍔を支える。
民国成立後は貴州を攻略し、1913年に蔡の後任として、雲南都督に任じられる。二次革命では袁世凱に与したが、
袁が皇帝を僭称すると、蔡鍔らと結んで護国戦争を発動する。これにより、以後の唐は、南方派の最有力指導者と目された。
その後唐は、北方政府と対抗しながら四川・貴州に勢力を拡大したが、地元軍閥の反撃や部下の兵変を受けて衰退していく。
さらに、孫中山や蒋介石にも非協力的な態度を取り続けたため、1927年に部下の竜雲らのクーデターを受けて失脚し、間もなく病没した。
↑改行も変ですし、5、6行になってませんでしたね・・・。
失礼しました。今後は改めます。
似たような名前の(唐生智)
1937年の南京攻防戦の守備隊長。彼がしっかりした
人物だったら、日本軍の悪評も避けられたかもしれない。
湖南軍閥の出身で、早くから国民革命軍に身を投じ、
第8軍をひきいて北伐戦で活躍した。蒋介石の直系では
ないが、弟分として重きをなし、軍事参議院長、訓練総監
を歴任した長老級将領の一人だった由。
年令、その後の運命は解らない。
>204
南京後の唐生智は、自ら軍の地位から退いて隠棲します。
その後、国共内戦の終盤に国民政府を見限り、
当時の湖南省政府主席程潜(旧湖南軍閥)とともに、湖南起義を主導し、
共産党側に帰順しました。
新中国では、全国政治協商会議や湖南省人民政府などで要職に就き、1970年に病没。
(何故か日本では、南京陥落後に蒋介石に見せしめで処刑されたとの風説が信じられてました)
唐生智が南京攻防戦で戦意に乏しかったのは、
蒋介石が戦力温存のために、直系以外の軍閥部隊を楯に使ったことを承知していたのも
一因と言われてます。
差出口、失礼しました。
206 :
世界@名無史さん:01/12/28 14:24
傳作義(1895−1974)…1919年保定陸軍軍官学校卒業、閻錫山の山西軍に入隊。
反蒋戦争に参加したが、敗北。31年には国民政府により第7軍長に任命され
35年には国民党中央執行委員、36年には百霊廟で関東軍と交戦。
抗日戦争中は八路軍と良好な関係であった。
国共内戦では華北剿匪総司令となったが、共産党の和平条件を受諾。
北京へ無血入城させる。
たしか内モンゴルに関する論文があったはずだが、今見つからないので
また今度。
唐生智も同じ軍学校ですね。
黄埔軍校は1924年なので、保定陸軍軍官学校は北洋新軍の
学校でしょうか?
(唐生智改)
1889年湖南省の生まれ。南京事件の時は,48才くらい。
保定陸軍軍官学校卒業。辛亥革命後の湖南省では譚延ガイ、
程潜,趙恒タが覇権を争ったが、唐生智は趙恒タに組し
湖南省南部に地盤を築いた。そして省長に就任して趙恒タを
追放し省都の長沙に覇権を確立する。北伐時、国民政府、
呉佩孚と両面交渉し、国民政府につく。
第一次国共合作ごろ、蒋介石と勢力を争うほどだったらしい。
211 :
世界@名無史さん:01/12/30 20:17
>>209 これ便利ですね。
お気に入りにいれとこ。
>陳とう明
陳炯明(ちんけいめい)ですね。
>陳けい明 ありがとうございます。
ついでにもうひとつ。彼の軍隊の名前が奥と号の合わさったような字が
読めないのですが?
出るかな?
粤(えつ)=広東のことです。
明けましておめでとうございます。
このスレも無事年を越せて、立てた人間としては一安心です。
さて、今回の人物は既出で申し訳ないのですが・・・。
繆嘉銘(1894−1988;雲南軍閥・政治家)
雲南省昆明出身。字は雲台。雲南軍閥を支えた有能な経済官僚。
若年時代にアメリカへ留学し、ミネソタ大学で鉱山技師の資格を獲得。帰国後は竜雲の部下して起用された。
まずは、雲南省産の錫精製の技術改良を手がけ、この錫を国際市場で通用する水準に引き上げる。
これ以後、錫はアヘンに代わる雲南の主力輸出品となった。
その後も、雲南省経済委員会主任や富テン(水+眞)新銀行主任として、省の財政に辣腕を振う。
一方で民主党派や共産党とも親しく、雲南地方主義者であった。竜雲が蒋介石に拘束された際は、抗議の意思を示している。
国共内戦期は竜雲の後継者である盧漢を支え、内戦後は国共双方の誘いを固辞し、アメリカへ移住している。
「改革・開放」が始まった1979年に、大陸へ戻り、全国政治協商会議で要職を務めた。
>210−212
陳炯明は、最近までは孫中山を裏切ったために、国共双方からほとんど国賊扱いの評価でした。
ただ、最近はその政治思想や行動について再評価の動きがでてきています(大陸での話ですが、台湾はどうでしょう?)。
彼が作った「中国致公党」は、現在でも民主党派の1つとして存在しています。
215 :
世界@名無史さん:02/01/03 16:04
厨房質問も申し訳ない。
軍閥って、全部でいくつあるんですか?
>215
回答としては、無数としか言えませんね・・・。
僕は、分かりやすいように敢えて省で区分することもやっていますが、
複数の省にまたがって活動した軍閥もありますし、
軍閥の定義も色々あります。
軍閥の中に小軍閥が存在するとも言えますし(奉天系軍閥などは好例)、
人によっては蒋介石や毛沢東(あるいは国民党軍や共産党軍)だって軍閥と言えます。
答えになってないかも知れませんが、とりあえずはこんなところで。
218 :
■中国の歴史人物をゲームに登場させよう!■ の1:02/01/04 19:23
1さん、ありがとうございます(^ ^)。
この時期の人物は、あれ?登場してないかしら・・・(^^;)
曽国藩は近代というより近世の人だし・・・
ヒエー、袁世凱も孫文も誰も登録して無いヨー(;;)
個人的にはちょっと時代が下がるんだけど、
汪兆銘という人に興味を持ってます。
あ、軍閥スレなのに、この人、軍閥のバックを軽視してたのが
失敗の原因とか聞いたことあるんですけど・・・
ああああすれ違いか・・・(T△T)
219 :
世界@名無史さん:02/01/04 20:03
李済深は最後どうなったんでしたっけ。
>>216 うーん、なるほど。そうですか・・・・
では各省ごとの代表的な軍閥だけでも一覧はないでしょうか?
>215
少し冷たい回答で、すみませんでした。
お詫びとなるか分かりませんが、以下に
北洋政府期と国民政府期のそれぞれについて、
大雑把に代表的な軍閥を整理しておきます。
訂正・追加してくださる方がいたら、幸いです。
<北洋政府期>
a.北洋政府側
@安徽軍閥(段祺瑞)
A直隷軍閥(馮国璋→呉佩孚、曹コン(金+昆))
⇒<独立>国民軍(馮玉祥)
B奉天軍閥(張作霖)
b.南方政府側
@広東軍閥(陳炯明)
A広西軍閥(陸栄廷)
B雲南軍閥(唐継堯)
C貴州軍閥(劉顕世→袁祖銘)
c.中立・その他
@山西軍閥(閻錫山)
A四川軍閥(熊克武・劉存厚・劉湘・劉文輝.etc)
B湖南軍閥(趙恒タ・程潜.etc)
B西北軍閥(馬福祥)
C新疆軍閥(楊増新)
※なお、軍閥の名称については、できるだけ地域名でつけました。
僕の独断でつけた名称もあり、歴史研究で実際に使われてるものとは異なるものもあるのは、
ご了承ください。
<国民政府期(抗日戦まで)>
@広西軍閥(李宗仁・白崇禧)
A山西軍閥(閻錫山)
B河南軍閥(馮玉祥)
⇒<独立>山東軍閥(韓復)
C東北軍閥(張学良)
D広東軍閥(陳済棠)
E雲南軍閥(竜雲)
F湖南軍閥(唐生智・何鍵)
G貴州軍閥(周西成→王家烈)
H四川軍閥(劉湘・劉文輝・ケ錫侯・楊森.etc)
I西北軍閥(馬歩芳・馬鴻逵・馬鴻賓.etc)
J新疆軍閥(金樹仁→盛世才)
とりあえずはこんなところでしょうか。
各軍閥の内部構造については、できるだけ省略しました。
>218
こちらこそ、ありがとうございます。
汪精衛(兆銘)は、やはりあくまで政治舞台にこだわりすぎたのが彼の敗北の一因でしょうね。
最後に侵略者の日本を頼らざるを得なかったのは、悲惨としか言いようがない・・・。
>219
李済深は、国共内戦期に「中国国民党革命委員会(民革)」を組織し、
反蒋介石の旗幟を明確にしました。
その後は大陸に留まり、政治協商会議副主席を務め、1959年に病没(享年74歳)。
「民革」は、現在でも民主党派の1つとして存在しています。
>206
傳作義は元々閻錫山配下でしたが、
1931年以降綏遠省政府主席などに任じられ、抗日戦に従事している内に、
徐々に独自の行動をとり始めました。
抗日戦終結時には、綏遠・察哈爾方面はほとんど彼の勢力範囲となった、と言って良いでしょう。
北京開城後は、自分の部下であった綏遠省政府主席董其武に連絡し、共産党側につかせています。
新中国では、政治協商会議で要職を務めたほか、水利電力部長などにも就任しました。
元軍閥指導者にしては珍しく、新中国でも内政の実務でポストを得た人です。
>222−223の表に少し追加します。
<北洋政府期>
c.中立・その他:D福建軍閥(薩鎮冰)
<国民政府期>
四川軍閥⇒<分離>西康軍閥(劉文輝)
227 :
世界@名無史さん:02/01/06 09:18
軍閥と列強の関係ってどんな感じなんでしょうか?
通史なんかの記述では「軍閥闘争は列強の代理戦争」なんて書かれてますが、
軍閥側からの視点ではどういうふうにとらえられると思いますか?
>227
軍閥にとっては、支配地域の経済建設を進める上でも、自軍の強化の上でも、
外資はやはり欠かせなかったでしょう。
各軍閥で差はあるにしても、
概ね「背に腹は変えられない」という気持ちで列強と接したはずです。
もっとも、軍閥の指導者自身にしても民族主義的なプライドは持っていましたから、
どんなに列強と結びついていても、その「代理人」や「走狗」と見なされるのは嫌悪しています。
また、政権や軍隊内部、社会の各階層から起こるナショナリズムの動きにも配慮しなければならなかったので、
列強に依存しすぎるのも、軍閥にとっては危険だったと言えます。
左宗棠(さそうとう)
1.湖南省出身の湘南軍の勇将。曽国藩の部下だが独自に分派を形成。
太平天国から抗州(広州でないか??)を奪還。
福建で清国洋式船第一号を建造。
新彊省イリに遠征し回族の反乱を押さえ、ロシア軍の浸入を阻止。
2.別記
1812−1885
湖南省湘陰の人。挙人。湖南で太平軍と戦って名をあげ軍人として
成長した。性格は強く知恵があり、軍事的な才能と知識が豊かで
あったから、進士のタイトルが無いのに浙江巡撫、ビン(門と虫)浙
総督、陝西総督などを歴任し、その間、福州船政局を創設したり、
陝西、東トルキスタンの回民反乱を鎮圧したり、多方面で活躍した。
新彊は彼の遠征によって新設されたものである。李鴻章がロシアなど
外国に接近し融和政策をとったのに対して、彼は中国の領土を守り
抜くことを主張した。
予備知識が無かったが、知れば知るほどたいした人だ。
中国へのロシアの侵略はもっと注目する必要がありそうだ。
ほんと、このスレって偉大ですよね。
このスレ読んでから軍閥に興味が出たんで
知人(歴史学博士 中国史専攻)に
軍閥の話をしたら、
「その話は尽きないよー」っていわれたんですが、
ドシロートとしてどんな質問すりゃいいんでしょう?
厨房質問ですんません。
231 :
世界@名無史さん:02/01/08 16:34
軍閥ってどうやったらなれるの?
232 :
世界@名無史さん:02/01/08 19:31
>229
左宗棠は、最近では国防の英雄として評価が高く、大陸でも専門に研究している書が出ていますね。
太平天国との絡みで、大陸では中々手放しに評価しにくいところもあるようですが、
やはり中国で軍の近代化を担った人物であることは、確かです。
>230
このスレで軍閥に興味を持っていただけたなんて、本当に嬉しいです。
さて、ご質問の方ですが、まず御自身の興味のある分野から質問していけばよろしいのでは?
「○○ってどんな人?」でもいいし、「○○軍閥って強いのか?」とか、
どんな些細な質問でも良いはずです。
その知人の方も、軍閥について話すのが好きなはずですから。
>231
多分、>230の方へのレスですよね(それも質問としては○です)?
一応、僕も回答を少し示しますと、
主要なパターンとしては、@団練あるいは新軍の指揮官A馬賊や匪賊の首領B軍閥内で兵卒から昇進、
でしょう。
あとは、支配地域の政治機構や軍隊を、自分の息のかかった人間で固めてしまえば、軍閥(政権)の完成です。
大雑把過ぎる説明ですが・・・。
↑スミマセン、名無しになってしまいました。失礼・・・。
234 :
世界@名無史さん:02/01/09 02:27
本多勝一『殺す側の論理』(朝日文庫)209〜210ページから。
<私は毛沢東のいわゆる「盲従分子」では全くないけれど、学生時代から彼の著作を
読んだり行動を伝聞して感心するのは、あのイデオロギーとしてのマルクス・レーニン
を、完全に「中国の論理」の中へ組み込んで生かしている点です。彼の真の強さは、
ここにあると思っています。>
『朝日キーワード別冊・国際(新版)』186ページから。
<文革は、一般に62年9月の中国共産党第8期10中全会における毛沢東の「絶対に階級と
階級闘争を忘れてはならない」との指示から出発したとされる。>
<文革には共産党内部の権力闘争と、その大衆運動という二重の性格があり、悲劇は
拡大した。文革中の奪権闘争や武闘では、約2000万人の死者が出たともされている。>
本多勝一『ルポルタージュの方法』(朝日文庫)221ページから。
<毛沢東には最近中国でも批判が出ているようですが、あれだけの巨大な仕事をした
人には、何といっても学ぶべきところが多いし、『実践論』は古典になるでしょう。>
『岩波現代中国事典』「文化大革命」の項(1106〜1108ページ)から。
<66年、毛沢東の主導により発動された文革は理論面、情勢判断などについて大きな
問題があり、理想の社会主義国家建設の目的も実現せぬまま、76年毛沢東の死をもって
終結した。>
<10年にわたった文革は、中国の政治、経済、社会、文化のすべてにわたって重大な
打撃を与えた。>
<おそらくその正確な数を捕捉することは不可能であろうが、一般には死者1000万人、
被害者1億人といわれている。>
本多勝一『中国の旅』(朝日文庫)の「あとがき」から。
<学生時代からその著書を愛読した毛沢東主席も、どちらかといえば不遇な晩年のうち
に亡くなりました>
本多勝一『殺す側の論理』(朝日文庫)283ページから。
<「殺す側の......」といっても、視点はもちろん「殺される側」にありますから、>
本多勝一『殺される側の論理』(朝日文庫)291ページから。
<美しい理想を原則とし、かつ実行する政権>
ナヤン・チャンダ『ブラザー・エネミー』(めこん)46ページから。
<六月二一日、ポル・ポトは、そのイデオロギー面での教師である毛沢東から、英雄
としての歓迎を受けた.「われわれが中国の大衆を全部動員しても成しえなかったこと
を、君たちは一息にやりとげた」と、毛沢東は顔を輝かせて聞き入る彼の弟子に言った。>
今回は竜雲について、もう一度簡略を書いておきます。
竜雲(1887?−1962;雲南軍閥・指導者)
雲南省昭通出身。彜族。
1911年に四川省の民軍で反清蜂起に参加した後、四川へ遠征してきた雲南軍と共に昆明へ戻り、雲南陸軍講武堂で学習。
唐継堯の下で軍歴を重ね、1921年に顧品珍が唐に反旗を翻した際、唐を助けて顧を倒した。
その功績により、唐継堯配下の四鎮守使の筆頭格となったが、1927年2月、他の鎮守使と共に唐をクーデターで倒す。
1928年1月、蒋介石から雲南省政府主席に任命され、以後、他の鎮守使からの攻撃や、貴州軍閥周西成、四川軍閥劉文輝の侵攻に遭うも、
これを全て退け、1930年に雲南を統一。以後、1945年10月まで竜雲の雲南支配が続く。
当初は蒋介石一辺倒の政治姿勢だったが、抗日戦争時から民主党派・共産党にも接近し、また、汪精衛とも脈を通じた時期もあった。
抗日戦中に蒋介石が雲南の利権を侵食したため、抗日戦末期には深刻な対立状態となった。1944年には、竜雲は民主党派の1つ「民盟」に秘密加入している。
1945年10月、蒋介石配下の軍から襲撃を受け、雲南の支配者の地位を失う。その後、軍事参議院院長という閑職をあてがわれたが、事実上重慶で軟禁状態となる。
1948年末に、「フライング・タイガー」で有名なシェンノートの援護を受け、香港へ脱出。1949年1月に李済深と共に「民革」の代表者として、反蒋介石の政治姿勢を表明した。
1950年1月に北京入りし、中央人民政府委員や国防委員会副主席などの要職を務める。
しかし、後にソ連批判や民族自治批判を行ったため、反右派闘争で失脚。1962年、失意の内に病没した。
その後、1980年に竜雲の名誉は回復されている。
少し長くなってしまい、申し訳ありません。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
なんで荒らすんだよ、せっかくの優良スレを?
初めまして。軍事板から来ました。私は元々旧軍に興味を持っていたのですが、現在
は何故か中華民国の軍閥軍、特に装備や服装などに興味を持っています。
1さんは色々詳しいようですのでお聞きしたいのですが、北洋政府系の軍将官らが着
用している礼服の詳細(襟や袖部分の刺繍模様、生地の色)は解りませんでしょうか?
当方色々当時の物を収集しておりまして、軍閥軍の物では将官用のサーベル(刃は切ら
れています)、勲章等をいくつか所持しています。
>240
こちらこそ、初めまして。書き込みありがとうございます。
さて御質問の件ですが、実は僕は政治史などが専門で、軍事関係(特に軍装など)はかなり疎いのです。
もう少し参考資料が無いか調べてみるつもりですが、ご期待通りの回答はできないかと思います。
申し訳ありません・・・。
ただ、このスレをご覧になってる方々の中には、民国の軍事に詳しい方もおられますので、
他の方からのレスは期待できると思います。
当時の軍装などについて、詳しいカキコをしていただければ嬉しいのですが。
ぜひ色々と教えていただきたいので、今後ともよろしく御願いします。
>1様
わざわざありがとうございます。軍閥軍の発行した勲章類は結構国内で出てきます。
だいたい大正時代に授与された日本軍人や政府高官の物、というのが多いです。
ちなみに、昭和17〜20年位でまだ北洋政府発行の文虎勲章という勲章を佩用して
いる軍人もいます。
国民党軍の物もよく出ますが、こちらは日中戦争の最中に戦場で拾った戦利品や、
お土産として買って来た(!)物などが多いようです。
中には内務省から防空用として国民に配布された国民党軍防毒面、という物もあり
ました。
(捻軍、ねんぐん)
捻党、捻匪とも。清末、太平天国とほぼ同時期に、河南、安徽、
山東を中心に農民反乱を起こした集団。捻は仲間や集団の意。
当初、塩の密売や盗賊行為を働く集団だったが、黄河の決壊、
淮水の氾濫,飢餓などにより活動が活発化し、農民を巻き込んで
反乱を起こし、太平天国軍と呼応して戦ったが1860年代末
には壊滅した。
(郷勇きょうゆう)
清代、地方有力者が編成した民間の武装組織。地域の犯罪防止や
盗賊に対する備えから、外敵の侵入や反乱に対し官軍戦力の不足を
補うものまであった。特に太平天国の乱に対し曾国藩らは計画的に
郷里で郷勇の編成と訓練にあたり、郷土防衛にあてるとともに、
積極的に前線に投入して戦果をあげた。これは湘勇とよばれた。
(湘は湖南省の別名)。また李鴻章の淮勇(淮は淮河流域)も著名
であり、のちに近代的な装備を備えた淮軍(陸軍)となった。
>242
「世界の軍服」(婦人画報社、1971年)などを見てみたのですが、
北洋政府軍人の礼服は載ってませんでした。
中国語文献の方をもう少しあたってみます。
>243、244
捻軍は太平天国と共に崩壊しましたが、民間の秘密結社などはその後も会党などの形で
残り、清朝打倒の一翼を担いました。郷勇は、淮軍から袁世凱が現われたことを考えれば、
軍閥の源流と言える存在ですよね。
軍閥リスト(>222-223)の訂正版と、国民政府期のリストを掲示します。
<北洋政府期>
a.北洋政府側
@安徽軍閥(段祺瑞)
A直隷軍閥(馮国璋→呉佩孚、曹コン(金+昆))
⇒<独立>国民軍(馮玉祥)
B奉天軍閥(張作霖)
b.南方政府側
@広東軍閥(陳炯明)
A広西軍閥(陸栄廷)
B雲南軍閥(唐継堯)
C貴州軍閥(劉顕世→袁祖銘)
c.中立・その他
@山西軍閥(閻錫山)
A四川軍閥(熊克武・劉存厚・劉湘・劉文輝.etc)
B湖南軍閥(趙恒タ・程潜.etc)
C西北軍閥(馬福祥)
D新疆軍閥(楊増新)
E福建軍閥(薩鎮冰)
<国民政府期(抗日戦まで)>
@広西軍閥(李宗仁・白崇禧)
A山西軍閥(閻錫山)
B河南軍閥(馮玉祥→宋哲元)
⇒<独立>山東軍閥(韓復)
C東北軍閥(張学良)
D広東軍閥(陳済棠)
E雲南軍閥(竜雲)
F湖南軍閥(唐生智→何鍵)
G貴州軍閥(周西成→王家烈)
H四川軍閥(劉湘・劉文輝・ケ錫侯・楊森.etc)
⇒<分離>西康軍閥(劉文輝)
I西北軍閥(馬歩芳・馬鴻逵・馬鴻賓・馬仲英・楊虎城.etc)
J新疆軍閥(金樹仁→盛世才)
※>246の一行目、×国民政府期→○国共内戦期です。失礼。
<国共内戦期>
@広西軍閥(李宗仁・白崇禧)
A山西軍閥(閻錫山)
B西北軍閥(馬歩芳・馬鴻逵・馬鴻賓)
C四川軍閥(楊森・ケ錫侯・潘文華・王纉緒)
D西康軍閥(劉文輝)
E湖南軍閥(程潜)
F雲南軍閥(盧漢)
G綏遠軍閥(傳作義)
※訂正・追加・異論ありましたら、よろしく御願いします。
あぼーん
あぼーん
ま、レトリックの好きな学生さんは政治思想板に山ほどいるが、
一般常識で削除するものはさっさと削除ですな
>242
すみません。色々調べてみたのですが、
残念ながら僕の方では分かりませんでした。お役に立てず、申し訳ありません。
勲章類が日本の軍人に授与されたというのは、
それは北洋政府などが直に与えたものなのでしょうか?
多くの日本人の軍事顧問が、民国時代に大陸で活動していたことは知っているのですが。
あと、軍閥の軍隊は中央政府に比べると弱い、というイメージがありますが、
軍閥が自己改革をやったところでは精強な軍隊を擁していたケースもあります。
李宗仁が権力を握ってからの広西軍閥などは好例でしょう。
>1
わざわざ調べていただき、ありがとうございました。お手を煩わせたようで申し訳
ありません。
北洋政府から日本の軍人に授与されたのは、おもに文虎勲章と言われる勲章です。
文官も主に嘉禾勲章を授与されています。
日本と北洋政府は友好関係が深かったので、軍事顧問以外にも駐在武官や、視察
など色々な業務で訪れた軍人や文官に対し比較的簡単に授与していたようです。
ちなみに中華民国の軍や政府の首領は勲章を貰うより、勲章を発行し他人に授与
する事でおのれの権勢を誇るのが好きでしたので、北洋政府以外にも国民党系政
府、各地方政権、軍閥発行の物もいれると恐ろしい種類(600種程と言われま
す)の勲章が発行されています。正確な種類は中国の方でも解らないそうです。
ています。
>253
書き込み、ありがとうございました。
民国時代の紙幣・貨幣のコレクターが、
最近は日本でも少しずつ増えてきているそうですが
(ちなみに、僕も興味をもっています)、
勲章を集めるのも、なかなか面白そうですよね。
国民政府中央だけでなく、地方軍閥まで独自に出している辺り、
紙幣・貨幣と同様なのは興味深いところです。
勲章にしろ、紙幣・貨幣にしろ、その発行は権力の象徴の1つと
言えるのかも知れませんね。
もう少し、雲南軍閥の人物紹介を続けます。
盧漢(1896-1974;雲南軍閥・指導者)
雲南省昭通出身。彜族。竜雲の族弟。
若年時代から竜雲と行動を共にし、1914年に雲南陸軍講武堂を卒業し、唐継堯の下で軍歴を重ねる。
1927年に唐継堯失脚後、竜雲は同僚で政敵だった胡若愚の攻撃を受けて一時捕縛される。
この時、盧漢は竜雲軍の残部をまとめ上げてを胡若愚を破り、竜を奪回した。
その後も盧漢は軍政両面で竜雲を補佐し、雲南軍閥No.2の地位を固める。
雲南近代化への熱意が強く、改革意欲の旺盛な省内若手軍人・経済官僚の支持を集めていた。
1937年に、自らの手で育て上げた国民政府第60軍を率い、台児庄戦役で日本軍を苦しめている。
その後、1945年には第一方面軍総司令となり、ベトナムでの日本軍降伏受諾事務を担当した。
同年に竜雲が失脚すると、後任の雲南省政府主席に任じられたが、
蒋介石の統制には容易に服さなかった。1949年、国民政府を見限って共産党側へ内応する。
その後は北京に移り、全国政治協商会議や国防委員会などの要職を歴任し、1974年に病没した。
(哥老会かろうかい)
哥弟会、弟兄会とも。清末中華民国初期の秘密結社(会党)。
民国以後天地会と合流して洪門会あるいは紅ばんともよばれた。
活動の主な基盤は農村地域であり、流民、下層民を吸収して勢力
を拡大した。「滅満興漢」を掲げ、また地主や官僚に対して暴動
を組織し、排外運動(仇教運動)にも加わった。孫文ら革命派の
武装蜂起で重要な役割を演じ、辛亥革命後、幹部は軍政面の重職
に就いたが、民衆の基盤を失い、孤立分散化した。
(丁汝昌、ていじょしょう)
清末の海軍軍人。安徽省の人。淮勇に参加して捻軍と戦った。
1877年以降李鴻章のもとで、北洋水師の創設に参画、82年
壬午(じんご)政変に際し朝鮮へ出動、大院君を天津に連行した。
88年以後海軍提督として北洋艦隊を指揮、日清戦争中、黄海海戦
で敗北し、95年2月威海衛陥落時に服毒自殺した。
>256、257
哥老会は会党の代表的存在ですよね。孫中山も革命の際にはこれらの政治勢力を
利用したのですが、革命後は反動化するものまで現われてしまいました。
丁汝昌は軍人としての責任感は強かったようですが、惜しむらくは近代的戦術への
理解が乏しかったところですね。
ちなみに海軍出身の民国軍閥としては、薩鎮冰(福建軍閥)いう人物がいます。
皆さん、sage進行への御協力ありがとうございます。
もう少し様子を見てから、このスレはageようと思っています。
(正装の軍閥写真について)
池田誠他著。図説中国近現代史。法律文化社
この本は絵が多くて参考になりました。
軍閥将軍の写真がいろいろ載っていました。
歴史の人物も写真で顔を知っていると親しみが
違いますね。
>>259情報ありがとうございます。早速本屋に注文してきます。絶版にはなっていないです
よね?
>>2541さん、最近の民国コインや紙幣は偽物が多いので注意が必要です。勲章でさえ偽物
が出回っていますので。知り合いの業者がコインを仕入れたら1/3は偽物だったと
がっかりされていました。
>260
民国のコインや紙幣は偽物が多いことは聞いていたのですが、
業者の人が仕入れてもそのような状況なのですか・・・。
紙幣にも、オールドコピーのようなものがありますし。
そう言えば、民国銀幣で人気がある貴州省政府のコイン(車図柄)は、
貴州軍閥の周西成が作ったものですね。
本物は日本円で7万円前後(或いはもっと?)ぐらいするのですが、
模造品がかなり出回ってますよね(模造品は僕も持ってますが)
・・・って、スレ違い?
>261で書いたので、今回の人物は周西成にします。
周西成(1893−1929;貴州軍閥・指導者)
貴州桐梓出身。貴州新軍の募兵に応じて兵卒となり、1913年に貴州講武学堂に入学。
1914年、国民党に入党し、以後貴州軍内で順調に昇進した。
この間、桐梓系と呼ばれる貴州軍閥内の一グループを形成し、そのリーダーとなっている。
1926年、袁祖銘に取って代わる形で貴州省長(後、政府主席)の地位を得、貴州の支配者となった。
統治期間は極めて短かったが、周西成の内政は堅実で、省の財政や社会情勢は比較的安定した。
1927年、唐継堯死後の雲南の混乱に介入しようと図ったが、雲南軍閥竜雲の反撃を受けて敗退。
その後、李宗仁に与して蒋介石に反旗を翻したが、蒋の命を受けた竜雲に貴州へ侵攻されて敗死した。
高官となってからも、常に戦線の最前線に立ち続けた猛将だったという。
{北洋軍閥の成立を軍事訓練を中心に考える}
(新軍)
清末の洋式陸軍。新建陸軍の略。1894年清朝は軍の近代化に
着手、翌年天津に定武軍を設け、日清戦争後新建陸軍と改称し、
その後新軍は各地で編成されるようになった。新政が始まると
1903年に練兵処を設置し、05年陸軍軍制を制定し、全国に
36鎮(師団)の配置を計画した。北洋新軍は袁世凱の権力基盤
となり、のちに北洋軍閥を形成したが、地方の新軍の将兵には
革命派が増加し、辛亥革命では清朝に対する各省の光復(独立)に
重要な役割を果たした。 続く。
(以下の雑記にはアイマイな点がある)
1.1885年李鴻章は天津でドイツ人教官を招聘して洋式陸軍教育
を行った。10年間あったらしい。武備学堂。
2.1895年袁世凱が小站で軍近代化の人材を集めた時、段祺瑞、
馮国璋、段芝貴、陸建章、張懐之、曹こん、李純などがいた。
彼等は全員武備学堂の出身者か?
3.除世昌と唐招儀は2の連中の管理者だったのか。
4.北洋軍は小站時代(1895−99)
直隷総督時代(1901−07)の間に5千人から6万人になった。
5.李鴻章が淮軍に洋式訓練をしたというのはこれとは別か?
6.これらの学校は兵隊の訓練より士官の養成所なのだろう。
7.1906年ごろ保定軍官学堂というものが出来たらしい。これと
上記の学校の関係が不明。
その頃、蒋介石は日本の士官学校に留学したかったが保定の
推薦が必要で1年位いったらしい。
直隷総督は夏は天津に冬は保定にいたらしい。
(全体の印象として北洋軍閥は利権集団というより学閥の感じが
する。しかしながら、地域、親戚関係などが中心になりやすい
中国の集団としては、プロの職業集団の印象をうけた。
これがうまく成長すればインドネシアのスカルノやエジプトの
ナセル、韓国の軍事政権のような集団になった可能性を考えた。)
>263-264
北洋軍閥は、1903年、清朝中央に新設された練兵処の第一次官に袁世凱が任命されてから、
急速に形成されていったものです。
袁世凱は、練兵処の実権を握ることによって新軍の組織を主導し、
京旗常備軍一鎮、北洋常備軍五鎮にまでしました。
この六鎮については、袁世凱自身の手によって育成された軍人たちが、
師団長クラス(統制官あるいは鎮統)に任命されています。
北洋軍閥はこのように、全国レベルで形成された軍閥だったため、
地域・親戚関係の優先度合いが薄まる傾向だったのは事実でしょう。
それが、学閥(武備学堂)の印象を与える要因だと僕は考えています。
余談ですが、最近では、袁世凱の軍事近代化に対する思想や施策などについては、
大陸においても評価する動きが出てきています
(劉子明『中国近代軍事思想史』江西人民出版社、1997年など)。
266 :
世界@名無史さん:02/01/22 22:51
今の7軍区も軍閥なの?
>266
「現在の軍区は軍閥状況だ」と主張する人も見かけますが、これには疑問があります。
現在のところ、軍区上級幹部の人事については国家中央によって把握されています。
また、地方の政治経済上の区分(一級行政区)と軍区の区分にはズレがあり、
少なくとも今の時点では両者が結合するのは困難です。
以上のような状況では、「軍区=軍閥」とは言えません。
その一方で、最近では、広東省や広州軍区などの経済的に富強な地方の動向に、
中央政府が神経質になっているのも、また事実です。
黎元洪(1866〜1928) (れいげんこう)
字は宋卿。湖北省黄陂の人。1883年、天津の北洋水師学堂に入学した。
1888年に卒業し、海軍に入った。日清戦争に従軍。のち張之洞のもと
砲兵の練兵にあたった。新軍の編成に参与し、また日本に留学した。
1911年、湖北新軍の旅団長であったとき、辛亥革命に遭遇。
推されて湖北軍政府を掌握した。翌年、南京臨時政府が成立すると
臨時副総統となる。進歩党を組織し、袁世凱を擁して国民党と対立した。
湖北において第二革命を弾圧し、革命派の人士や兵員万余人を殺害したといわれる。
袁の死後の1916年、北京政府の大総統となったが、国務総理・段祺瑞と対立し、
翌年には府院の争を起こして段祺瑞を解任した。しかし、張勲の復辟事件が
起こったため辞職した。1921年に再度大総統となったが、1923年曹錕に追われて
下野した。1928年天津で病没した。
辛亥革命の時孫文の周囲にいた軍事勢力について
教えてください。
>269
辛亥革命発生時点では、孫中山(孫文)はアメリカ亡命中だったので、
彼が頼れる武力は皆無に等しかったと言えます。
辛亥革命を主導したのは各省の新建陸軍(新軍)で、
孫中山の影響下にあった軍はほとんどありませんでした
(もちろん、黄興ら革命派が率いる部隊もありましたが)。
更に、現実に清朝を滅亡に追いやるためには、袁世凱と北洋軍閥の力無くしては不可能でした。
このような状況だったため、武力の無い孫中山が、
後に大総統の地位を袁世凱に譲らなければならなかったのは、当然だったと言えます。
ちなみにその後も、孫中山の革命の戦術は、軍閥の煽動・利用にとどまっています。
彼が固有の武力を持つのは、以前僕が書き込みましたように、黄埔軍官学校設立以後です。
ageついでに、人物紹介をします。再び雲南軍閥です。
張沖(1890-1980;雲南軍閥・軍人)
雲南省濾西出身。彜族。若年時代は省内で匪賊として活動していたが、1924年に唐継堯に
降伏してその配下となる。以後、雲南軍で順調に出世し、竜雲の配下として、1930年には師長
(師団長に相当)まで出世する。同年に盧漢と連合で竜雲へ謀反して失敗したが、ほとんど罪を
問われず旅長への格下げに留められた。その後、雲南塩運使に任命され、塩業の発展に大きく
貢献した。
その後、1937年に盧漢配下の師長として抗日戦の前線に立ち、台児庄で勇戦奮闘する。各地を
転戦したが、抗日戦争終結後に延安へ向かい、共産党に加入。東北地方で雲南軍を共産党側に内応
させる工作に従事した。
中華人民共和国建国後は、全人代代表や全国政協副主席などの要職を務め、また、雲南省では
水利事業や民族政策に取り組んでいる。
272 :
世界@名無史さん:02/01/26 00:43
今の中国にも跳梁跋扈してるもんね・・<軍閥
こいつら独立した方が分かり易いんだが。。w
>272
現在の中央政府が、軍が独自の動きをすることに警戒しているのは事実ですね。
ただ、軍閥化しているかどうかとなると、>267で書いた通り、疑問符が付きます。
中央から派遣されてきた軍区の高官が、軍区の利益に沿って動かざるを得なくなる、
という事情があるにしても、それは民国(あるいはそれ以前の)軍閥とは異質な状況ですし。
また、軍区が中央政府から独立する可能性となると、軍閥化よりも更に可能性は低いですね。
(偉そうな言い方でスミマセン・・・)
274 :
世界@名無史さん:02/01/26 01:10
>>273 んー、過去の歴史の中で、中央が地方長官の任免権を握って、
中央集権国家になったこともあるけど、結局はミイラ取りがミイラになってない?
清のころだって、それを目指してたはずなのに、中央の統制が少しでも弱くなると・・
300年かかっても出来ないんだから・・持病って見ても良いと思ふ。
まぁ、「軍閥」って言うには無理があるけど、中央と地方の経済力の差が
もっと健著になったら、軍閥化しないとはいえないと考えています。
275 :
@名無しさん:02/01/26 01:12
お手数ですが、1さんの人物紹介読み方を書いていただけると
参考になります。
>274
確かに、中国の歴史から見ればそうですね。
「表面は中央集権、実質は地方分権」という評もありますし。
中華人民共和国にしたって、建国されてからまだ50数年と考えれば、
今後も地方の統制が上手く行くという保証はありませんね。
>275
「読み方」というのは、
難しい漢字で書かれた人物や地名の日本語での読み方、のことですよね?
(勘違いでしたら、スミマセン)
とりあえず、271のところについてのみ、少し振り仮名をあてます。
張沖(ちょうちゅう)、濾西(ろせい)、唐継堯(とうけいぎょう)、
盧漢(ろかん)、塩運使(えんうんし)、台児庄(だいじしょう)
もし、以前の僕の人物紹介で、読み方が分からないところがありましたら、
いつでも指摘してください。
今後の人物紹介では、読みにくい漢字には振り仮名を当てていきます。
読み方ありがとうございます。ピンインのことでは
ありません。目的は、私の(は?)ワープロ漢字変換能力が低いもの
ですから、単語用例登録にかなの読み方と漢字は他の方の
コピーで、覚えさせているものですから。馮玉祥などがすぐ
でるようにしました。他の方も文字入力がすごいので驚いて
います。
(曹錕)そうこん(1862−1938)
清末民国初期の軍閥。天津生まれ。清末に袁世凱の新軍に入り、
馮国璋死後直隷派の筆頭になる。1923年10月賄賂選挙で
大総統に当選し憲法を制定するが国民の信頼を失う。翌年奉直
戦争にやぶれ、馮玉祥によって幽閉された。(角川)
(別記)
清末、袁世凱の知遇を得て新軍将校となる。1917年張勲軍を
破って直隷省長兼督軍。19年から直隷派として権勢をもつ。
23年賄選という批判のなか大総統に就任、24年辞任。
引退後は天津イギリス租界に住む。天津に多くの土地、企業を
もち、当時の私有財産統計において北洋要人中第一位。天津
大沽には「曹家より高い建物は建てない」という不文律が
あった。(東方書店)
後半の人生は二つの記載で印象が違いますが?
選挙に腐敗はつきものだから、本当にその悪評で止めたの
だろうか?
そうこんの文字がIMEパッドでだすと?で、268の
レスからコピーしたら出来てその仕組みは解りません。
1919年の五四運動の対象となった政府の指導者は
だれですか?というのは
1918年8月新国会、徐世昌大総統。
1918年10月段祺瑞は国務総理を辞任した。
だから段祺瑞ではないのですね?
281 :
西国のアズマ帰依者:02/01/28 21:50
大陸では「孫中山」というテレビドラマやってるらしいね。
最近「蒋介石」をつくる、という話らしい。
>280
当時の大総統は徐世昌、そして国務総理は銭能訓です。
銭能訓については僕は詳しく知らないんですが・・・(スミマセン)。
軍人ではなく文官だったらしいですが、後でもう少し調べてきますね。
>281
3年前に僕は留学で中国にいたのですが、
その時、盧漢(雲南軍閥)を主人公にしたテレビドラマを見たことがあります。
その中でも蒋介石が登場していたのですが、
結構カッコイイ凄みのある悪役(wでした。
あと、10年近く前の話らしいのですが、
大陸では『蒋介石と竜雲』という連続テレビドラマもやってたらしいです。
283 :
西国のアズマ帰依者:02/01/30 00:50
孫中山に出てくる蒋介石はなかなかカッコイイらしい。
南京の総統府でちょっと前に、蒋介石のドラマをとるための
ロケをやってたらしい。
魯迅や毛沢東にかわり孫中山を重視してるみたいですなあ
284 :
世界@名無史さん:02/01/30 06:33
孫中山をメインにすると、日本(というか日本人)をそれなりに好意的に
描いてくれるかなぁという妄想が。
>280
銭能訓は徐世昌腹心で、1918年10月に国務総理代行に就任し、同年12月に正式に総理となりました。
徐世昌の意を受けて、南北和平を推進し、ベルサイユ会議では南北合同代表団の結成に成功しています。
しかし、五・四運動の混乱の責任をとり、1919年6月に辞任。
・・・短期間で失脚した目立たない人物でしたが、優れた政治的手腕の持ち主だったようです。
>283、284
孫中山が主役なら、宮崎滔天や頭山満も出てきて欲しいものですね。
それにしても、僕から見ると、孫中山は経歴や思想はきわめていい加減な男に思えるんですよね・・・。
まあ、人間的には憎めませんけど(w
南京は一度だけ僕は行ったことありますが、民国に興味をもってる人間には厭きが来ない都市です。
総統府の他、中山陵、蒋公邸など・・・。もう一度行きたいなぁ・・・。
286 :
そんなかやま:02/01/30 21:54
>>285 いわゆるタイレンっちゅーやつだったんでしょうね。>孫中山
銭能訓についてありがとうございます。
段祺瑞は大変な時下がっていてうまいこと
しましたね。
南京は私も去年行きましたが、京都のような古都でいいですね。
上記の他にも、太平天国記念館、明考陵、雨花台、中華門、
見所が多いですね。ただ日本人が団体では行きにくいかも
しれませんね。
孫伝芳(1885〜1935)そんでんぽう
山東省歴城の人。北洋武備学堂を卒業し、日本に留学して、
1908年に陸軍士官学校を卒業した。辛亥革命後は、湖北督軍・王占元の
麾下にあった。1920年、直隷派の呉佩孚の下につき、長江上游警備総司令
・福建軍務督理などをつとめた。1924年、閩浙連軍総司令・閩浙巡閲使・
浙江軍務督理に上った。翌年、五省連軍総司令となり、南京に鎮し、
直隷系軍閥として長江流域に勢力をふるった。1926年、江西で蒋介石の
北伐軍に敗れ、天津に逃亡して、張作霖に投じた。安国軍副総司令・
五省連軍総司令に任ぜられた。1927年、李宗仁らと竜潭戦役を戦い、
軍主力を失った。残軍は閻錫山に吸収され、自らは張学良の顧問となった。
1935年に暗殺された。
南京まで北の勢力に支配されていたのには驚いた。
289 :
西国のアズマ帰依者:02/01/31 21:44
孫中山が反帝反封建の英雄に描かれてて萎えた、らしい>284、1さん
なんでもすぐイギリス人が出てきて戦い、封建的な人間をたしなめるらしい。
まあ、随分といい加減な人間ですわな、中山先生は。
絶対I齢にはアイソつかされて捨てられたに違いない。孔祥熙の方がそりゃあいいっす(笑)
南京なら大屠殺祈念館がやっぱり面白い。
日本語訳の部分と、慰安所の垂れ幕の写真にワラタ。
何て書いてあったんですか?
>288
孫伝芳は、直隷軍閥の有力な将帥として知られ、1925年には対立する安徽軍閥・奉天軍閥を
撃破して、浙江・福建・江蘇・安徽・江西の“五省聯軍総司令”を自称するまでに至りました。
一時期は天下を狙うに充分なポジションにいた人物だったのですが、北伐軍の前に敗れ去っています。
>289
変な孫中山ですね、それは(w。“封建的”な部分が無ければ孫中山じゃない気が・・・?
南京の大屠殺祈念館には僕も行ったことがあります。
日本語訳で何が書かれていたかは思い出せませんが、確かに吹きだしそうになった文章があったことは覚えています。
僕は南京大虐殺を否定する気はありませんが、
もう少し実証的な展示を心がけて欲しいな、という気持ちはありましたね。
大陸の陳烱明研究サイトを発見しましたので紹介します。
英文でも閲覧出来ますので、一度ご覧下さい。
ttp://www.chen-jiongming.com/
(軍閥と軍閥の戦いの実像は?)
パール、バックや李鴻章の小説からの知識では、軍閥の
兵隊は普段は、食事にありつけるのと、お小遣くらいの
収入で、戦いがあると、特別手当と、戦に勝つとその城市で
略奪、暴行のやり放題があり、それを禁止したら戦が成立
しないとあった。そういうことは当然あるという前提というか、
先入観があったことが南京の話の増幅に関係あった気がする。
敗者の首脳に残酷な処刑がる物語もよくある。
無かったということを言ってるのでなく、そういう話の伝統が
あるということ。
294 :
西国のアズマ帰依者:02/02/02 01:58
慰安所の垂れ幕って「大和撫子のサーヴィス」「身・心・棒〜(以下不明)」
なんて書いてあってさ〜。
棒って何だよ、おい!慰安婦が撫子なのかよ〜と笑ってしまったのです。>290さん
>1さん
まったくです。孫中山が封建的じゃないはずがない(W
国民党とて所詮会党の域を出ないのですから(コミンテルンが来なければどうなってたのやら)
ファルジュネル著「辛亥革命見聞記」を古本屋でやっと
見つけた。まだ読み始めだがとてつもなく面白い。
フランス人が中国で革命が起こったと聞きベトナムから
列車で雲南に入っていく。なんと国境で日本人が淫売宿を
やっていて、彼はスパイで客から情報をとっている。
雲南(雪がふっている?)で1さんおなじみの蔡鍔に
会ってディナーをごちそうになる。まだそこまで。
>293、295
辛亥革命後から北伐までの軍閥については、そのような軍隊が多かったと言えるでしょうね。
以前僕も書きましたように、傭兵の寄せ集めの部隊だったから紀律や士気が乏しく、
戦闘での死者がほとんど無かったと言います。
ただ、国民党軍の他、広西軍閥や雲南軍閥などは、後に自己改革を行って精強な軍隊を作っています。
それから、寡聞にして、「辛亥革命見聞記」は知りませんでした。
すごく面白そうな本ですね?いいなぁ・・・。
僕も古本屋や図書館を探し回ろうと思っています(w
298 :
1改め「靡莫」:02/02/05 07:25
突然ですが、今後は自分の言動に責任をより持たせるため、
この板では、固定HN「靡莫(びばく)」を名乗ることにしました。
古代雲南にあった部落(あるいは国)から採りました。
自分でも少し戸惑いがありますが、皆さんよろしく御願いします。
>297
御教えいただき、ありがとうございます。
平凡社東洋文庫なら、図書館に行けば見つかる可能性も高いですね。
でも、やっぱり自分で買うのが一番かな?頑張って探してみます。
「今後は自分の言動に責任をより持たせるため」って
そんなに力まなくてもいいような気もしますが。
長く続くスレになると良いですね。
>299
ありがとうございます。まあ、力んでるつもりは無いんですが(w
もし、僕のHNが面倒だと思ったら、これまで通り「1」と呼んで下さって結構です。
それにしても、このスレを立ててから3ヶ月立ったんですね。
何気に300レスまで行ってるし・・・。
とにかく、書き込んでくださった皆さんには本当に感謝!です。
あぼーん
302 :
世界@名無史さん:02/02/07 01:40
荒さんといてくれ
あぼーん
※今後しばらくはsage進行に切り替えますので、皆さん御了承願います。
軍閥の人物紹介をします。今回は、色々と日本とも因縁深いこの人です。
宋哲元(1885−1940)
山東省楽陵出身。馮玉祥配下として昇進し、1925年に熱河総統となる。
馮玉祥配下の「五虎将」の1人としても知られた。1926年に国民党に加入し、翌年に
陝西省政府主席となる。
1929年、馮玉祥に随って蒋介石との戦うが、敗れて蒋配下となる。1930年、第29軍
軍長となり、柳条湖事件(満州事変)の際には、抗日を全国に呼びかける。
1933年に第三集団軍総指揮に任じられた際には、長城で日本軍と衝突している。
1935年、冀察政務委員会委員長に任じられ、対日折衝を務めた。
1937年に盧溝橋事変が起きると、やはり日本軍相手に抗戦しているが、その後は第一集団軍に
任命されながらも前線の任からは外され、1938年に引退。1940年に四川で病没。享年56歳。
>305
確かに、「聯省自治」が単に軍閥の統治正当化に用いられたのみ、という結論は、
余りにも一面的すぎますね。
前のレスの方で僕も触れてますが(>180など)、軍人だけでなく社会各層が参加した
国民的な運動の1つとも言えるのではないか、と僕は考えています。
「省憲法」まで制定することに成功した湖南省の「聯省自治」運動が、その際たる例でしょう。
(北洋軍閥の軍事教練について、again)
カキコミをしますと、自分の弱点がよく認識できますので
しつこいですがご容赦。
1885年李鴻章は天津に北洋武備学堂。
10年間に280名卒業とある(少ない???)
その後
専門的軍事学校として
北洋武備学堂、北洋水師学堂、湖北武備学堂、保定促成武備学堂
部隊に所属しながら教育する
山海関随営武備学堂、開平随営武備学堂,威海随営武備学堂
保定の学校が発展して1923年保定軍官学校となり6523人
の卒業。
各省都に3年制の陸軍小学堂。
四つの二年制の陸軍中学堂、(直隷省清河、西安,武昌、南京)
その上は2年制の保定軍官学堂。
袁世凱が大総統だったが、段祺瑞が陸軍部総長として国家予算の
三分の一をにぎっていた。
このタネ本は「中国の軍閥」鄭健宰著
国書刊行会発行 tel 03-5970-7421
fax 03-5970-7427
著者は台湾と一橋大学留学の韓国人、この題名のくせに
北洋軍閥しか書いてない。中国出版の軍閥の文献が沢山
でているが私にはブタに小判。195pで5000円は?
孫文、蒋介石がわざわざ黄埔軍官学校を作ったのは、
やはり保定にはなにか問題があったのだろう。
>307
保定軍官学校について、書き込みありがとうございます。
僕も『中国の軍閥』は読んだことがありますが、北洋軍閥しか無かったのは確かに残念に思えます。
黄埔軍官学校を作ったのは、やはり北洋系学校の卒業生で軍隊を組織するわけにはいかなかったからでしょう。
また北洋政府が、どんなに腐敗しても北伐までそれなりの勢力を誇れた理由は、
やはり北洋系の軍事学校に匹敵する軍事学校が他に少なすぎたことも、一因です。
(例外の1つは、雲南陸軍講武学校。ここは極めて水準が高く、北洋系に勝るとも劣らなかったそうです。
・・・雲南ビイキで言ってるんではありませんからね!?あしからず)
あと、会社のものとはいえ、電話番号やFAX番号を書き込むのは少し問題があると思いますので、
次回からは控えていただければ幸いです。よろしく御願いします。
電話はHPで調べられますね。気を付けます。
307のぶたには真珠ですね。小判は私に。
>305
「聯省自治」運動で各省がどのような動きをとったかについて、ここで簡単に
まとめます。
@湖南省
湖南省の郷紳や知識人の提唱によって運動が開始。その後、軍閥譚延ガイ
(門+山+豆)、趙恒トウ(心+昜)の後援を得て、1920年7月に「自治」を通電。
1922年1月に省憲法を施行。最も成功した「聯省自治」運動の例であり、
南北対立の最中で約6年持続した。しかし1926年7月、軍閥唐生智によって
「自治」はついに崩壊した。
A四川省
四川の各軍閥によって提唱されて運動は開始。その後、自治運動を推進する
様々な団体が成立し、載季陶らによって「四川省憲法草案」が策定されたが、
軍事情勢の悪化で実行できず、提唱者であった四川軍閥からも見捨てられて
失敗に終わった。
B浙江省
浙江省の郷紳や軍人たちの提唱によって開始。安徽系軍閥の浙江督軍盧永祥に
「豪電」(聯省自治の推進を宣言)を通電せしめる成果をあげている。
1921年9月に浙江省憲法を施行。1926年12月、直隷系軍閥孫伝芳によって
「自治」は崩壊した。
C広東省
広東省の郷紳が提唱し、軍閥陳烱明が中心となって推進。1921年12月、
「広東省憲法草案」が省議会で可決される。陳烱明は、単に自己の軍閥的
統治を正当化しようとしていたわけでなく、連邦共和制への理想も一定程度
有していた。
しかし、陳は孫中山との路線対立を引き起こして孫と決裂。1925年3月、
陳烱明が孫中山派の軍隊に敗れ、「自治」も崩壊した。
D雲南省
雲南軍閥唐継堯が推進。1920年12月に省憲法制定の通電を行っているが、
上に挙げた4省とは異なり、唐継堯の統治正当化の行動でしかなかった。
1921年2月に唐は部下の顧品珍の兵変で一時追放される。顧品珍も「聯省
自治」を目指したが、翌年に唐に倒される。その後の唐は「聯省自治」から
遠ざかった。
その他では、福建・江蘇・江西・湖北・安徽・貴州・広西などで
「聯省自治」運動が起きていますが、ここでは詳細を略します。
312 :
世界@名無史さん:02/02/09 20:07
ログが流れちゃう前にあげとこ。
ちょっと軍閥からズレますが「北伐」や「革命外交」ってどういう評価されてるんでしょうか?
租界の武力回収や南京事件なんかでは欧米の反発の方が強かったのに、
(国民政府もイギリスを目標にしていた)結局、悪化するのは対日関係。
313 :
西国のアズマ帰依者:02/02/09 21:18
主語が不明で質問の意味がよく分からないんだけれど…今の中国で
「北伐」「革命外交」ってことか?
王正廷の革命外交は前任者と並んで有名だけれど、その反面
宋子文財政部長らを中心とする漸進外交(どういやあ良いのかね)も行なわ
れていたわけで、1930年の関税自主権の回復などは、後者の成果
ともいえるものです(発動は日本のごり押しで33年から)。
漸進外交の妨げにもなった以上、悪化するのは当然でしょう。
質問の仕方が悪くてすいません。
「革命外交」の実態がよくわからなかったもんで。
じゃあ租界の回収のあとは欧米に対しても善後策がとられたんでしょうか?
田中上奏文なんかが出まわったってことは、
その頃には欧米よりも日本が脅威であると受け取られてたってことですよね?
>315
まず「革命外交」についてですが、1926年5月に広州国民政府外交部長代理に就任した
陳友仁が、就任時に初めて提唱しています。
その内実は、簡単に言えば、過去の条約や既成事実に縛られず、必要とあらばナショナリズム
の声を背景にして、帝国主義諸国の不平等条約を撤廃し、租界を回収しようという考え方です。
ただし、そうは言っても外交の舞台ですから、陳友仁にしても、あるいはその後任者の王正廷
にしても、あからさまに武力に頼ることはしてません。
租界の返還は、やはり欧米側が中国国民政府の実力を承認したが故のことでしょう。
現在の中国では、依然として「革命外交」が最大の評価を受けていますが、
最近では大陸でも、宋子文の外交(「修約外交」と表現されることもあります)について詳細に研究し、
これを再評価しようとする動きが出ています。(福建人民出版社の『宋子文研究系列』1998年など)
ちなみに、“媚外外交”とまで侮蔑されている北洋政府の外交については、大陸ではまだそれほど
検討し直す動きは出てないようです。
また、田中上奏文については、満州事変後に外交部長顧維鈞が国際連盟で取り上げて日本を非難
するまでは、国民政府もほとんど省みてなかったようです。
もっとも、1928年5月の済南事変(第2次山東出兵)は、余りにも露骨な北伐への牽制
だったため、その頃には日本が最大の脅威と受け止められたのは当然です。
↑失礼、>314でした。
陳友仁の後任者のところは、王正廷の前に伍朝枢を加えてください。
ちなみに陳友仁は「激烈型(前期型)革命外交」、
伍朝枢・王正廷は「温和型(後期型)革命外交」と表現されることがあります。
また、横山宏章『中華民国』(中公新書、1997年)の150〜161ページに、
民国外交について簡潔にまとめられてあります。
同書は民国史の一般向入門書ですので、興味がある方はぜひ一読してください。
コリン.ロス著「日中戦争見聞記」新人物往来社
1939年オーストリア人が日本、朝鮮、満州、モンゴル、
北京、上海、香港、昆明、重慶を見聞。荒木貞夫、南次郎、
なんと徳王に面談。雲南のビルマルートまで検証している。
「中国雲南モソ族の母系社会」遠藤織枝著 勉誠出版
これはまだ読んでないが、先日雲南に旅行したことのある
おばあさんにお会いして楽しい所だった由。私も一度
行ってみたいが、国境よりは麻薬密輸グループがいて
恐いという話を聞いたことがありますが?
>318
本の紹介、ありがとうございます。
雲南に興味ある人間にはたまらない本ばかりです。
現在の雲南は、国境近くが危険というのは確かですね。
西双版納(シーサンパンナ)や河口は比較的安全ですが。
麻薬密輸グループの存在はよく報道されている通りです。
ちなみに国共内戦終結後、雲南駐屯の国民党軍残存部隊がミャンマー国境付近に逃げ込み、
反共ゲリラ活動を行っています。
落合信彦氏のルポに、その反共ゲリラの末裔たちの話が載ってた記憶があるのですが。
今回は雲南軍閥の金融制度について、少し書き込みます。
雲南では、中央政府の銀行の他に、軍閥の支配下にあった銀行が存在しています。
種類は多数あるのですが、ここでは雲南省のメインバンクについてのみ触れます。
1912年、雲南辛亥革命に成功した蔡鍔によって、雲南富テン(水+眞)銀行が設立
されました。
雲南省の地方紙幣発行権を持ち、当初は堅実な運営で信用も高かった
のですが、唐継堯が軍閥の指導者となると、無謀な軍事拡張主義で財政破綻します。
1932年、竜雲の支配下で、雲南富テン銀行を改組した雲南富テン新銀行が成立します。
1933年に行長に就任した繆嘉銘が優れた経営手腕を発揮して、銀行の信用を回復しました。
その後、1935年から国民政府中央が「法幣」改革を行い、全国の通貨統一を図りましたが、
雲南については雲南富テン新銀行発行の地方紙幣が強く、法幣は容易に流通しなかったのです。
一般に、地方軍閥の発行する紙幣・貨幣は信用が低く、社会からは憎悪の的になることもしばしばでしたが、
雲南軍閥(特に竜雲政権)は、そんなステレオタイプの理解が当てはまらない例の1つです。
定期ageついでに、訂正します。
>311
C広東省
孫中山派部隊の攻撃で広東省の自治が崩壊した時期を、1922年12月に訂正してください。
1925年3月は、陳烱明が東征軍の攻撃を受け、最終的に大陸の根拠地を喪失した時期でした。
失礼しました。
袁世凱1916年死亡
張作霖1919年東三省の実権をにぎる。
1907年東三省に省制をとり、総督巡撫をおく。
北洋軍閥奉天派というのがいまひとつしっくりしません。
袁世凱死亡以前の東北軍部はどんなだったのでしょう?
日清戦争では小站の部隊の他に奉天の部隊が戦ったようですが
これも李鴻章の兵だったのでしょうか?
>322
日清戦争については、手元に資料が無いのでこの場ではお答えできないですが、
清末〜民初の東北(特に奉天)の軍部の状況は次のようになっています。
東北では、1907年に東三省が設置されるまで、軍人である盛京将軍(盛京=奉天)が
軍政・民政の双方を主管していました(これは清朝の制度の中では例外的措置です)。
東三省が設置されると、盛京将軍は東三省総督と改称されますが、地位の役割は
盛京将軍とほぼ同様です。
総督は徐世昌、錫良、趙爾巽(ちょうじそん)の順で就任しています。
最後の総督趙爾巽は革命派の鎮圧に奔走しましたが、清朝滅亡後もそのまま、
袁世凱から奉天都督に任命されています(吉林、黒龍江は別の人物がそれぞれ都督が就任)。
ただし、趙は袁世凱の腹心と言うべき人物ではなく、続いて奉天都督に就任してきた
張錫鑾(ちょうしゃくらん)、段芝貴によって袁の勢力が浸透します。
その後、袁世凱が帝政復活運動に失敗してその権威が失墜すると、袁子飼いの段芝貴を
追放して張作霖が奉天の実権を掌握しました。
張作霖は1901年に清朝に帰服して以来、蒙古馬賊の討伐で勇名を馳せ、また革命派を鎮圧した
ことによって奉天での権力基盤を着実に固めたため、段芝貴を追放することができたのです。
奉天派と北洋軍閥についてレスありがとうございます。
まだ基礎知識不足のためか充分理解できた感じがしませんが、
今後の課題にとっておきます。
張勲(1854〜1923)
江西省奉新の人。袁世凱に従い、1908年に甘肅提督。1911年、江南提督。
民国になっても清朝に忠誠を誓い、辨子軍と称された。1913年には第二革命を
鎮圧して江蘇督軍。1916年には安徽督軍となった。
1917年、対ドイツ参戦問題で黎元洪と段祺瑞の対立が激化したとき、
北京で宣統帝の復辟を宣言したが、段祺瑞に敗れて、オランダ公使館に逃げ込んだ。
翌年、特赦を受けた。
張勲については325のような人物と思っていたら先日の
「辛亥革命見聞記」によるともっととんでもない人物らしい。
時代に逆行した殺し屋として新撰組の芹沢鴨タイプなのか、
函館にこもった榎本武揚タイプなんだろうか?
1911年の辛亥革命の時南京で学生運動に対し、学校を破壊
弁髪を切った者は虐殺、死骸が街路をおおった。革命軍に負け、
北で略奪しながら暮らす。1912年1万の部下と山東省の車両
の中で強奪しながら生活。袁世凱がクーデターを起こすと何故か
黄興が張勲に相談に行っている。南京の護憲反乱に対し、張勲は
2年前の復讐に大虐殺を行った。日本人も犠牲になったらしいが
張勲は褒章され、叙勲されたらしい。
どうもただの反動馬鹿でなく要領のいい人間かもしれない。
しぶとく生き残るつかみにくい人物らしい。興味深い。
(定期age)
>324
僕のほうも整理して書ききれてなかったので、分かりにくい文章になってしまいました。
申し訳ありません。
>325-326
段祺瑞と黎元洪の対立を巧みに利用して、一時的とは言え復辟を成し遂げたのは、
張勳にとっては成功と言えるかもしれません。
とはいえ、張勳が復辟の際にやったことは、清朝以前の官僚機構を復活させただけで、
ロクなことはやってませんね。
ちなみに、この政変には康有為も参加していましたけど、
はっきり言って康の凄まじい耄碌ぶりを証明しただけでしたし・・・。
そろそろsage進行は解除します。
張勳について、少し横にそれた話をしますと、
当時の民間では、張勳の肖像の入った「復辟紀念」銀貨が発行されています。
張勳の一派がばら撒いたのか、あるいは民間にも復辟を支持する勢力がいて、
それらが発行したのか、背景については分かりませんが。
模造品(fantasy)の銀貨ですが、「復辟紀念」銀貨は現在でもそれなりの価値があるそうです。
329 :
西国のアズマ帰依者:02/02/22 01:37
そういえば街中で銀貨売りを見かけたなあ
値切って5元前後で買いまくったけど本物なんだろうか
>329
よろしければどんな銀貨か教えてくれませんか?
僕も留学時代に、売り子から「袁大頭(袁世凱肖像の一元銀貨)」とか、
車がデザインされた貴州省政府銀貨(どちらも偽物ですが)を買ったことがあります。
331 :
西国のアズマ帰依者:02/02/22 18:51
それが袁世凱銀元、孫中山銀元、ピアストル銀貨(インドシナ銀行)、
メキシコ銀貨(1882年だらけなのは贋作?)、上海両(香港上海銀行)、
庫平両、関平銀、光緒元宝、宣統元宝、日本一円銀ともうバラバラ
いちいち真贋を知る気にもなれず、5元前後で買い叩いた(20〜40元のを)
のでそのままにしてるんですよねえ。
いちおう金融を専攻にしてるんだから知っていなくてはいけないのでしょうが。
>331
西国さん、レスありがとうございます。
実際に鑑定しないと分からないでしょうけど、「10元以下まで買い叩けるなら
よほどラッキーでないと偽物だよ」と、僕はある友人から言われたことがあります。
(その友人がどこまで鑑定眼を持ってるかは怪しいですが・・・。ガッカリさせて申し訳ありません)
ただ、「袁大頭」や孫中山銀元などの場合、物によっては本物も安価で道端で買えるそうです。
もっとも、その場合は本物でも大して値はつかないものが多いですが(泣)
軍閥を肖像にした「紀念銀貨」は結構多く、
袁世凱の他には、張作霖・段祺瑞・黎元洪・徐世昌・曹コン(金+昆)・馮玉祥・
程徳全・唐継堯・陸栄廷・倪嗣沖・チョ(衣+者)玉補などがあります(張勳・蕭曜南は民間の私鋳品)。
でも、これらはたいていは相当値が張りますので、僕の場合はカタログを見て我慢するのみです(w
>331
西国さんに質問ですが、
各軍閥政府の金融政策については、西国さん個人としてどのような評価を抱いていますか?
一般的には、市場や流通を混乱させただけという評価が定着しているようですが。
334 :
中華@名無史さん:02/02/25 02:00
靡莫さんこんばんわ
一応この板では良く五代十国スレに出入りしている者です。
つい最近(一週間程)、ケーブルテレビ内の番組(多分衛星系)で、
”蒋介石”のドキュメンタリー番組をやって居たので見てしまいました。
内容がこの板で行なわれて居る人物・事件等が多く登場してとても楽しかったです。
漏れも余りこの時代は詳しく有りませんが、以前告知に登場の折からROMはさせて
貰ってました。
と言う事で、今回はチョッと関連した事を見聞きしたので御挨拶がれた登場させて
頂きました。
これからも、ネタ有りましたら登場させて頂きます。
335 :
世界@名無史さん:02/02/25 07:09
ここ良スレだー。勉強させてもらってます。
>334
初めまして。書き込み、そしてROMしていただき、ありがとうございます。
残念ながら僕はCATVを見れる環境に無いので、その番組を見ることができなかった
のですが(泣)
今後ともこちらに書き込んでいただければ、嬉しいです。
五代十国時代については、あちらに書き込んだとおり、
やはり群雄割拠の時代ということで僕は興味を持っています。
雲南にも大理国が存在してましたし(五代十国には数えられてませんが)。
>335
ありがとうございます。
もし機会がありましたら、質問でも何でも書き込んでいただければ幸いです。
今後僕は、このスレでは人物紹介だけでなく、
民国の各軍閥がどのような動きをしていったかについて、
書き込もうかと考えています。
(安徽派と直隷派)
出身地の違いで分かれた派閥と考えてしまえば簡単ですが
1.親日グループと親欧米グループ
2.ww1への対応の違い
など政策に違いがあるようです。そこに何か意味が
あるでしょうか?
安徽派のほうが、李鴻章、袁世凱と人脈的には本流
ですが、北京、天津などの都会なれしたグループは
欧米などとの付き合いもうまかったかもしれない。
338 :
西国のアズマ帰依者:02/02/26 00:45
>各軍閥政府の金融政策については、西国さん個人としてどのような評価を抱いていますか?
>一般的には、市場や流通を混乱させただけという評価が定着しているようですが。
そうですね靡莫さん。
通説はどうしても否定したいのが性なのですが、なかなか。
戦乱時期、貨幣高権を掌握を通じ戦費調達を行い、結果として貨幣価値の不安定化を招きよせ、
市場と流通を混乱させた事実はどうしても拭えないのですが、結局のところそれが、省銀行などによる
<紙幣増発>でしか行なえず、ただちに減価の憂き目にあい、流通側から拒絶されていることは
注目すべきことだと思います。
軍閥政府時代、軍閥銀行と市場金融を架橋する回路は、一部、たとえば東北などを除き、基本的に
なかったのではないでしょうか?各地における銀貨と虚銀両を機軸とする地方の銭荘の力が圧倒的
で、蓄蔵手段は別立ての安心できる債権(たとえば上海中国銀行券や上海為替)でもっておればよいわけで、
言われるほど流通に混乱はなかったと思われます。この辺は宣伝と見るほうがよいと思われます。
むしろ軍閥政府と国民政府の質的断絶は、この回路を架橋することにあるとみるべきではないか?
政府系銀行の強大化は、まさしく日中戦争時の国民の貨幣資産の総動員による戦争遂行という結末に現れ、
それは共産党により、一層強化される形で財政と金融がむすびついて現今にいたっていると考えています。
339 :
世界@名無史さん:02/02/26 01:22
メキシコドルは本物でしょう。
あれは銀地金の価値で流通するものですから、
贋物を造ってもしようがない。
>337
段祺瑞が親日派となったのは、日本から「西原借款」を受け取ったことが大きいですね。
それを受けて、日本との対立を回避し、自派閥(安徽派=軍隊、安福倶楽部=議会会派、
交通系=政財界双方における利権集団)の強化に務めています。
これは、袁世凱の「善後借款」と同様の行動です。
直隷系が欧米に接近したのは、むしろ安徽系への対抗的意図が強く、反日的意図は薄かったでしょう。
直隷系にしても、やはり後ろ盾となった欧米からの外資や借款を期待していた点では、安徽系と差は無いはずです。
>338
西国さん、丁寧なレスありがとうございました。
確かに軍閥側が発行する貨幣や紙幣は、受け入れられるというケースが
本当に少なかったですよね。以前、>320に書いた雲南富テン新銀行
のような成功例を、僕は他に知らないのですが・・・。
流通の現場については、混乱はそれほど酷くなかった、という説には同意です。
僕は竜雲時代の雲南省の例しか知りませんが、様々な貨幣(銀貨、銀両、銅貨、
仏領インドシナ銀貨、塩貨、軍閥発行紙幣、米ドル...etc)が飛び交っていたにも関わらず、
市場や流通の秩序は比較的安定していました。
竜雲は、省内で急激な幣制改革も行っていますが、市場はそれを受け止める力を充分に持っていたのです。
(もっとも、市場と軍閥系銀行との連関性が元々低かった、とも言えるかも知れませんが)
国民政府が行った「廃両改元」や「法幣」への統一、国民政府系銀行の強化は、
西国さんも触れてるような反作用をもたらしたわけですね・・・。
国民政府の正統性の確保、財政基盤の強化の上では止むを得ない改革だったとは、
思いますが・・・。
>339
中国で手に入るメキシコドルは本物なのですか?
清代に激しい流出入を繰り返した硬貨だけに、
素人考えではそうかも、と思ったりしますけど・・・。
あー、買っておけば良かった!
(こんなレスでスミマセン・・・)
結局、中華民国というのは完全に統一していなかったわけ?
安徽派、直隷派の私の考えの方向はどうもすじが悪そう。
日本が思ってた以上に影響を与えていたようですね。
袁世凱の「善後借款」ですが、議会の反対をおしてやった
「善後」という言葉の意味は?なんでしょう。固有名詞じゃ
ないんですよね。
>343
詳しくは
>>193-195をご覧下さい。
「中華民国」という枠を否定する勢力はほとんど無かったのですが、
袁世凱が皇帝即位を目論んでから北伐の完了までは、
南北の政府が正統性(中央政府の地位)を争っていました。
>344
安徽派、直隷派というのは、北洋軍閥の系列のため、
地域的意味合いはそれほど強くない軍閥です(奉天派は地域性が強いですが)。
北洋軍閥にとって、日本というのはやはりキーとなる列強です。
いずれ、詳しく書き込みたいと思っていますが。
あと、「善後」の意味は、やはり「後始末をつける」「善後策をはかる」という
意味だと思いますが・・・。違ってたらすみません。
>345
何か、日本の戦国時代みたいですね。
戦国大名も確か軍閥と同じような考えを持っていたような感じですから。
>346
「軍閥混戦」という政治・軍事情勢は、戦国時代そっくりだと思います。
織田信長や豊臣秀吉のように、天下統一を目指した勢力もあれば、
あるいは地方に割拠するだけで満足する勢力もありましたし。
しかし、民国期には日本の戦国時代とは異なる重要な要素も入っています。
その際たるものは、近代的ナショナリズムと列強の存在です。
中華民国において統一が求められたのは、近代国家の建設を目指す意欲、
そして列強による主権侵害への反発を、最大の契機としています。
とはいえ、現実の国内・国際情勢では完全に列強を排斥することもできず、
時には彼らに依存し、時には排斥的態度をとるなど、
大小軍閥(更に言えば民国中央政府)の対応は常に転変を余儀なくされました。
348 :
世界@名無史さん:02/02/28 01:49
ナショナリズムの要素を見逃すことはできないね。
当時の日本はこのポイントを外していた。
「支那は砂のようにバラバラ」と思い込んでいた。
昭和10年頃だったか、国民政府が強行した紙幣整理、
法幣への統一が成功したことの重要性を理解していなかった。
>348
(sageでの回答になりますが、スミマセン)
確かにその通りですね。
軍閥混戦について、特に日本の軍部や対外強硬派がそのような解釈をしていたのが、
不幸だったと思います。
蒋介石の北伐成功後も、その後の幣制改革を経ても、基本的にその認識に変化は無かったようです。
また東北(満州)においても、関東軍を中心として日本は軍閥張作霖を利用しようと
しましたが、張がナショナリズムに目覚めた中国人であることを見逃す傾向が強かったです。
張作霖は、汲々として日本の手先になるような単純な人物のわけが無い、という指摘が、
当時においてすら相当なされていたにも関わらずです。
(軍閥の系譜)
1.北洋軍閥 A.安徽派
B.直隷派
C.国民軍派
2.奉天派
3.山西派
4.西南派 A.広東派
B.広西派
C.雲南派
(河出書房中国の近代より)
数字、ABCは私がつけました。
この分類の気に入った点は、奉天派を北洋軍閥に入れてない点です。
段祺瑞や馮国璋と違って、張作霖は自分が袁世凱の部下だったとは
思っていないんじゃないでしょうか?
>350
確かに、北洋軍閥から奉天派を外す考えも一理はあると思います。
以前のレスにありました通り、袁世凱の腹心である段芝貴が東北三省の統括者に
成った時、張作霖は段の配下となったわけです。
しかし、その後袁世凱が皇帝僭称に失敗すると、この機を捉えた張作霖は、段芝貴を追放してしまいます。
その点を見れば、張作霖が袁世凱の部下だと言う意識は、比較的薄かったと言うべきでしょう。
その後、張作霖は他の北洋軍閥勢力との主導権を争っていくわけですが、
袁世凱の軍隊内で昇格してきた安徽派・直隷派・国民軍と異なり、
張と奉天派は、奉天(さらには東北三省)の地盤で成長・拡大してきた
地方軍閥としての特性が強い軍閥だったわけです。
僕自身は、北洋政府の指導者の地位を争ったということで、
やはり張作霖は北洋軍閥の系譜に入れたい、と考えています。
(もちろん、他の北洋軍閥との特性の違いを念頭に入れつつです)
(中国の鉄道建設と列強の進出、その1)
最近鉄道に関心を持っています。段祺瑞のパトロンの交通銀行の
交通とは鉄道の建設関係という意味でしょうし、辛亥革命も鉄道が
原因でおきましたし、当時の重要テーマの一つと考えました。
日本の横浜ー新橋開設が1872年
中国の最初は上海から揚子江河口の呉淞までイギリスが施設1876年
眠いので続く。
(鉄道の2)
19世紀のイギリスは投機的鉄道建設で白熱、アメリカ、インド
から中国に及んでくる。呉淞鉄道を1865年に企画反対で中止
ジャーディン、マセソン商会が黄浦江の浚渫もあり1898年に
完成したが風水の龍脈を切断するという苦情で1年で廃止になった由。
1908年には上海南京鉄道がイギリス資本の上海電車公司により
完成。100年も前から欧米は今日のヘッジファンドの練習のような
経験をつんでいる。このような資本進出はやっている本人達は、
当然の経済行為と思っていたのだろうか?
>352-353
中国近現代史では、鉄道は確かに重要な存在ですね。
雲南省でも、テン(水+眞)越鉄道がフランス資本の手で開かれてますし、
東北三省では、もちろん日本の「満鉄」もあるわけです。
鉄道の建設・運営は、列強にとっては当然の経済行為と考えていましたし、
その一方で、中国の近代化を促した側面があったのも確かです。
(もちろん真っ先に潤ったのは、列強の財布ですが)
鉄道は、政治情勢にも深く影響しました。
満鉄については言うに及びませんが、
他にも四川省では、鉄道の改修権を列強に売却しようとしたことが、
省民全体レベルでの反発につながり、大規模な反清運動へとつながりました。
これは、武昌起義・辛亥革命の前奏となっています。
355 :
世界@名無史さん:02/03/07 05:26
Another "Eastern Question"
(鉄道の3、満州ー東北)−−(シベリア鉄道と東清鉄道)
1875年モスクワから着工、1891年ウラジオストックより
着工(大津事件)、1898年バイカル湖に西イルーツクまで、
東ではウラジオからハバロスク1897年開通。残りが難工事で
停滞。そこで、日清戦争の賠償で悩む清朝の弱みにつけこんで(??)
満州北部のハルビンを通る迂回路東清鉄道をつくり1903年
一応全通したが、バイカル湖は砕氷機能のフェリーだった。
日露戦争中に突貫工事でバイカル湖迂回路を作り1904年
完成。続く。
(鉄道3の続き)
日露戦争で東清鉄道が使えなく??(使いづらく??)
なったので、ロシア領内のルートの完成を急いだが、
難工事だったらしい。1916年に完成。
戦前日本からヨーロッパへ行くには、プサン、ソウル、
ハルビン、満州里、からチタでウラジオからの
シベリア鉄道に合流したらしい。続く
(鉄道4)
その他北京ー奉天間のイギリス資本の京奉鉄道
北京−漢口間のベルギー資本の京漢鉄道
1)どうも借款といっても、戦争をしかけられて
(義和団事件、清仏戦争、アヘン戦争、
日清戦争)その賠償金がグルグル回っている感じ。
2)鉄道債権は日本ドイツベルギーオランダが多く
フランスイギリスが少ないのが変だ。返却が優先的に
なってたのだろうか?
>356-359
鉄道について色々書き込んでいただき、ありがとうございました。
軍閥史の流れの中で鉄道を考えると、
やはり、張作霖・学良父子と日本との利権争いが一番目立つでしょうか?
張作霖が列車乗車中の所を関東軍に爆殺されたのも、
後世から見れば、何か象徴的なように思えますね。
今回は、民国軍閥を考えるうえで、ぜひ読んで頂きたい入門書を紹介します。
(1)時代背景を知る上での書
○尾形勇・岸本美緒編『中国史』(山川出版社、1998年)
通史としての中国を理解する上で、ぜひ読んで下さい。民国軍閥にとって重要
なのは、第六章・第七章です。
○小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』(岩波新書、1986年)
○横山宏章『中華民国』(中公新書、1997年)
いずれも民国史についての入門書です。まずこの2冊で、民国史の流れを把握
してみてください。
(2)民国軍閥についての専門書
○ジェローム・チェン著、北村稔ほか訳『軍紳政権』(岩波書店、1991年)
民国軍閥について詳しく知りたい方には必読です。僕自身は、ジェローム・チェンの
民国軍閥観については批判的な態度を持っていますが、それでも軍閥の構造を知る上で
は読まなければならないでしょう。残念ながら、現在は版元品切れのようですが。
○波多野善大『中国近代軍閥の研究』(河出書房新社、1973年)
30年近く前に書かれた本ですが、依然として日本での軍閥研究の基本書としての
地位を維持しています。中国軍閥史について丁寧にまとめている他、個別の軍閥
についての論文も収録されています。
応用編については、次の機会に書き込みます。
362 :
@名無しさん:02/03/19 23:06
(鉄道、追加)
1928年6月 張作霖爆破
12月 易幟
1930年 反蒋戦争
張学良、蒋介石支持
1928年頃から満鉄の経営は急速に悪化していたらしい。
東北交通委員会は満鉄の東西に平行線を含む鉄道網をドイツ、
アメリカ、イギリス資本で部分的には完成、更に拡大を計画。
日本はこれに反対する大義名分はなかったようですね。
この東北交通委員会というのは、いつ頃から始まったので
しょうか?張作霖が始めたのでしょうか?
この問題は満州事変、日中戦争、日米戦争の引き金のような
気もします。
(鉄道、続き)
1909年に錫良はアメリカ、イギリスの援助で満鉄西側に
錦州ーチチハルーアイグン鉄道計画、日本ロシアの反対で
中止。1924年に東三省交通委員会組織。20年代後半に
吉林省、黒龍江省の大豆地帯に交通網整備。
時代が軍閥から離れるので、深追いしないが、張作霖時代
すでに、清朝時代にも満鉄包囲網は計画されている。その
すべてが、反日目的でなく経済的理由も大きかったであろう。
しかしながら、日本が満州にいる存在根拠が満鉄なのだから
日本には脅威だっただろう。
364 :
@名無しさん:02/03/22 21:57
鈴江言一著「中国革命の階級的対立 T、U」
東洋文庫272 平凡社
これは驚くべき本だった。昭和5年(1930年)中国に
いた日本人が当時の中国を分析している。実のところ、私は
フランス人とオーストリア人の中国紀行文を読んで今日でも
通用する分析力に驚いて、日本の軍部などの分析、見通しの
いいかげんさにうんざりし、日本人の分析力に悲観していた。
著者は左翼なので、その史観にとらわれ必ずしも賛成でない
意見も多々あるがデータを沢山使った分析は面白い。
365 :
西国のアズマ帰依者:02/03/23 01:34
靡莫さん
新民主主義革命時期の革命(政治?)勢力を語るスレッドを番外編でつくりません?
五四運動〜中国革命成立までの国共両党、中間派、上海浙江財閥、青幇を語る
モノマニアックなスレッドを
気分が向いたらお返事ください
>362-363
東北交通委員会は、張作霖が設立した東三省交通委員会を張学良が改組したものです。
これによって、東北軍閥による自弁鉄道の建設が更に活性化されました。
もちろん、満鉄への対抗意識もある(満鉄に対して並行線を建設しています)と同時に、
軍閥独自の財力を高める狙いもあったでしょう。
>364
鈴江言一は、橘樸・尾崎秀美とともに、戦前の「中国学」を担った人物です。
彼らの中国に対する視線は透徹したものであると同時に、当時の政治情勢の影響も
あって、極めて複雑な色合いも持ち合わせています。
>365
西国さん、お久しぶりです。
革命勢力のスレッドですか?それは面白そうですね!
国民党や共産党の中にも各種政治・軍事勢力が存在していましたし、
「第三勢力」と呼ばれることもある民主党派などについても、
色々触れてみたいですね。
というわけで、僕は賛成です。
新スレの名前と作成は西国さんにお願いしてもよろしいですか?
368 :
西国のアズマ帰依者:02/03/23 21:12
>367
靡莫さん、こんなに早くレスをくださりありがとうございます。
実は…なにも考えもせず今日スレッドをたててしまって
「立てすぎです」表示がでて立てられない状態です。
しくじってしまいました。
もし宜しければ、靡莫さんが立てていただけないでしょうか?
あと3日か4日かもすれば、ぼくでも立てられますが、今のところ
無理な状態で。
>368
こちらこそ、すばやいレスありがとうございます。
新スレ作成の件、了解しました。
「★民国期中国の革命勢力★」
という題名でどうでしょう?
371 :
名無的発言者:02/03/28 00:07
慶応大学出版から女性の助教授の先生が3月に「蒋介石と南京国民政府」
という本をだしましたね。この先生の過去の出版に書いてあった「近代
中国人名辞典」というのがみてみたい。
>靡莫様
どうもお久しぶりです。ちょっと靡莫様にお聞きしたいのですが、袁世凱時代海軍
総長は劉冠雄でしたが、その後段祺瑞政府の時代になりますと程壁光になっており
ます。この2人がいつ頃交代したかご存知ありませんか?ちょっとその辺の人事に
興味を持ちまして・・・・
また、雲南の蔡鍔の写真で、大礼服着用ではっきり写っている物がありますが、ど
なたかこの画像で大きな物をお持ちの方おられませんか?お持ちでしたらどこかに
UPしていただけないでしょうか?
>373
こちらこそ、お久しぶりです。
さて、海軍総長についてですが、『民国職官年表』(中華書局、1995年)に
よると、劉冠雄から程璧光へ交代したのは、1916年6月30日となっています。
ちなみに程璧光は、1917年6月5日に孫中山らの護法軍政府に合流して、
海軍部長となりました。
北洋政府では、程の後任に薩鎮冰が短期間就き、
次いで劉冠雄が1917年7月15日に再び総長となりました(〜1919年12月3日)。
蔡鍔の画像については、お待ちください。
中国のサイトなども含めて、少し探してみます。
勲章好きさんもお持ちの法律文化社の図説中国近現代史の
p93の蔡鍔の写真はその小さなものでしょうけれど、
「辛亥革命見聞記」のp28の蔡鍔の軍服姿も礼服でない
ですが興味深いですね。若いですね。写真の状態は悪い。
>靡莫様
ありがとうございます。実は、中華民国軍の礼服復元を企んでおりまして・・・。
最近購入した”民国社会風情図録・服飾巻”(江荵(?)古籍出版、2000年)
に民国時代の礼服写真が色々載っており、後は襟や袖の刺繍が解れば、という状態
まで来ています。
陸軍は難しそうですが、海軍は刺繍部分がないので国内で出来そうです。
ちなみにこの本、洪憲帝として即位した時の袁世凱や徐世昌の礼服写真、海軍礼服
の薩鎮冰、他にも外交官礼服、留学生や官僚の中山服など色々載っており見ていて
飽きません。
(広東政府 その1)
個人的な理由があって広州についてしばらく勉強する予定です。
いつものように、勉強してからカキコしないで、カキコ
してから、恥をかいて勉強するつもりです。辛亥革命のとき
孫文は政権を一時袁世凱にあずけたけれど、彼が死ねばまた
本来の自分達が政府の本流と考えただろう。
1917年8月段祺瑞ww1参戦
9月10日第1広東軍政府
大元帥孫文、陸栄廷,唐継尭この2人の肩書きは
元帥か?副元帥か?
旧国民党系の岑春けん(進歩的な大先輩の官僚?軍人?)
軍政府とは、議会の上に軍部があって支配するという意味か?
形の上では大元帥孫文の独裁だが、孫文に実働部隊がないので
形式と実力がつりあわなかったのだろう。
広西派軍閥に岑春けん、陸栄廷、李宗仁,白崇禧と人材が多い。
第1軍政府がうまくいかなかったのは、唐継尭が非協力的だった
から?孫文の政策が非現実的だったから?岑春けんが権力的だった
から?
1917年8.14 段祺瑞ww1宣戦布告
9.1広州国会非常会議、孫文大元帥に
10月北京と広州軍事衝突開始(湖南湖北で護法戦争)
孫文、広州で中国革命党結成
1918年5.20中華民国軍改組、孫文大元帥辞任
5月孫文は広州から上海へ
11.11ww1終結
1919年1.18−6.18 パリ講和会議
2.20南北和平会談
5.4 五四運動
10.10孫文、革命党を中国国民党へ変更(秘密組織を公開)
1920年 7月安直戦争 呉佩孚(直隷派)+張作霖(奉天派) VS
段祺瑞(安徽派安国軍)
安徽派敗れる
11.29 孫文、広州の軍政府に復帰
(広東改組軍政府と上海軍政府 その2)
南方4省の軍閥西南護法連合。7人の総裁合議制。
広西派が指導権。政学系が結合。
4省とは、広東、広西、雲南もう一つは?
政学系とは?
改組の目的として、孫文は護法戦争を続けたかったが広西派は
北と妥協したかったからでよいのか?
上海軍政府というほどのものがあったか解らないが、孫文と反広西派
西南軍閥(誰か?)の連合らしい。
南北会議の南の代表は唐紹儀らしい。会議は孫文は無視されたのか?
岑春けんは遠くからコントロールしていたのだろうか?
381 :
世界@名無史さん:02/04/03 09:46
霞山会(かざんかい)とはなんだろう?ただの企業らしくない。
公的機関の外郭団体の感じがする。日中友好協会でも
関係しているんだろうか?
最近、年度末・年度始めで仕事が忙しく、書き込みも止まってました。
スミマセン・・・。とりあえず、軍閥スレを優先に書き込んでますが、
親日政権スレや革命勢力スレは後回しで全然書き込めてないし・・・(泣
>>377 礼服復元ですか!?それは凄いですね!
そんな作業が日本でも行えるとは思いませんでした。
月並みな言葉しか掛けられなくて申し訳ありませんが、頑張ってください!
あと蔡鍔の写真ですが、謝本書『討袁名人・蔡鍔』(蘭州大学出版社)に、
礼服の写真が載ってました。中国語の本ですが、内山か東方のどちらかの書店に、
今も置いてあった覚えがあります。比較的手に入りやすいと思いますが・・・。
>>378-380 質問の答えは、順次以下のように為ります。
※
>>378 @唐継堯と陸榮廷の1917年当時の肩書きは「元帥」です。元帥は大元帥を補佐し、
大元帥が職務を執り行えない場合は、これに代行することができます。
A軍政府(ここでは護法軍政府)とは、孫文のイデオロギーの中の「軍政→訓政→憲政」
という三段階の発展構想(「三序」)が意図されていたものと見る方が妥当と思われます。
もちろんこの護法軍政府は、「軍政」段階の政府として組織されたものです。
B唐継堯の非協力的態度は、やはり孫中山への対抗意識と唐の個人的野心にあります。
また政権構想でも、中央集権型の孫と聯省自治型の唐との間で対立がありました。
元々が南方軍閥の寄り合い所帯だった護法軍政府では、
孫中山の構想は他の領袖から冷淡の目を向けられています。
387 :
西国のアズマ帰依者:02/04/07 01:48
>>383 戦前の日本の大陸における教育機関(諜報もやってたけど)
東亜同文会の後継団体だよ。戦後は愛知大学に。
別個に活動じゃなかったか?
※
>>380 @西南軍閥の残る1省は貴州です。劉顕世の支配下にありましたが、実際は
唐継堯の支持を受けて統治していました。
A政学系とは、国民党(中華革命党との合流前)の右派の一部(欧事研究会グループ)
によって結成された政治勢力です。
護法軍政府では、岑春ケンや西南軍閥に与し、また、北洋政府の段祺瑞とも連絡をとり、
孫中山に対抗する勢力となっていました。
B軍政府の改組の目的は、仰るとおりで、北洋政府との和議推進と孫中山の権限を
削減することにありました。元帥制が7総裁制へと改められ、しかも主席総裁には
岑春ケンが就任しています。孫中山は失望して上海へ去りました。
C1920年6月、上海にいた孫中山と唐継堯、伍廷芳、唐紹儀らが、岑春ケンと陸榮廷の
連合の打倒を唱え、岑を失脚に追い込んでいます。しかしこれをもって、
「上海軍政府」と表現できるかは、僕は疑問です。
D南北会議は孫中山を除外し、岑春ケン主導の下で行われました。しかし
北洋政府が軍事行動を停止しなかったため、和議は失敗に終わりました。
和議に失敗してからの唐紹儀は、孫中山へ接近しています。
>389のところ、×381→
>>387です。
失礼しました。
>西国さん
お久しぶりです。
新スレ立てましたが、あんなもので宜しかったでしょうか?
僕は時間が無くて中々書き込めないでいます。申し訳ありません。
こちらこそ旅行で来週一杯書き込めません
もし宜しければ向こうのスレッドもよろしくお願いします
(陸栄廷)
少数民族の壮族(チワン族)出身。清朝打倒の秘密結社に入り
いったんは中国同盟会に参加したが、孫中山の鎮南関起義には
弾圧側に回った。辛亥革命では広西の独立を宣言、広西都督と
なった。その後袁世凱打倒の護国運動に参加した。北洋軍閥
支配の北京政府に対抗する西南軍閥の雄となり、孫中山を大元帥
とする護法政府の元帥となった。また改組護法政府の7総裁の
一人となった。
(第二広東軍政府)
1920.12.01−1921.6.15
陳烱明(1875〜1933)
広東省海豊県人、1875年生まれ
革命党員として、
1910年 黄興らと広州の総督を襲撃して失敗亡命。
辛亥革命では胡漢民と恵州に挙兵して広州を攻略、
胡の下で広東副都督になった。
1912年 都督に
第二革命失敗後、北洋系の龍済光に逐われて再び亡命。
第3革命で雲南、広西の討袁軍に協力し、龍済光を
逐ったが、かれは援ビン粤軍総司令として
福建省に進駐、背後の広州は陸栄廷ら広西派
の勢力下におかれた。
1920年ようやく「粤人治粤」のスローガンで広西派
を逐った。
続く
1920年 11.29 孫文、広州の軍政府に復帰
1921年 4.7 孫文を大総統に
5.5軍政府は廃止、護法政府に 続く
(広東護法政府)1921.5.5-1922.6.15
1920.7.27呉佩孚は「国民大会」を召集し、憲法を制定して
「国民自決」の実現を呼びかける「感電」を発した。
公団型民主運動
1920.11湖南省省自治宣言
湖南、湖北の省自治戦争
1921.11ワシントン会議(誰を中国代表にするか?)
1922.4.19第一次奉直戦争直隷の勝ち
5月中旬黎元洪の大総統復位「旧国会」の再開
正式憲法の制定
{広東護法政府の合法性がゆらぐ}
1922.2 孫文は桂林の大本営で北伐宣言
4月陳炯明北伐反対により恵州に左遷される。
6月北伐軍、広西に進む。
陳炯明広州にクーデター、孫文は上海に
>靡莫様
お久しぶりです。仕事が忙しくてなかなか書きこめませんでした。
礼服の件、色々とありがとうございました。結局、長期スパンで陸軍の礼服を
復活させる事になりそうです。あの派手な刺繍もなんとかなりそうです。
(第3広東軍政府)1923.2.21−1925.6.30
広西軍、雲南軍,湖南軍、河南軍の進出、陳炯明撤退
1923.3.1 孫文広州に復帰し大元帥に
1924.6.16 黄埔軍管学校開設
1925.2.3 広東省東部の陳炯明攻撃(第一次東征)
3.12 孫文逝去
6.11 (サンズイに真)軍、桂軍を粛清
7.1 中華民国国民政府が成立(広州)
10.1 第二次東征 汕頭
一段落
(雑記)
1、孫文は国家建設を軍制時期、訓政時期,憲政時期と
しているが、軍政府とはその一段階か?
2、国共合作関係は省いた
3、一番興味深い点は、陳炯明のクーデターのころの中国
で、呉佩孚の工作がうまくいっていて、孫文はかなり
ピンチだったんだろうか?孫文なしで中国がうまくいく
ならそれでもいいという雰囲気があったのでは?反乱が
なかったら、北伐も失敗してただろう。
4, 陳炯明は辛亥革命以前からいろいろ行動を起こしている。
たんなる利権志向の軍閥ではなさそう。
5. 第3軍政府で広西、雲南軍の立場は?反乱があったの
だろうか?北伐に反対したのだろうか?
6. 陸栄邸や竜雲は少数民族出身らしい。少数民族という
言葉は中国人の中で少ないという意味だが、出身地でも
少数派なのだろうか?
399 :
世界@名無史さん:02/04/18 14:57
良スレ上げ
400 :
正義の枢軸:02/04/18 22:15
由来支那は革命の国である。試みに見よ興亡実に四千年その古き歴史はあげてこれ「革命の歴史」と
言うも過言ではない。しかしながら一方視点を変えてそもそも「革命の真意義」かかる点より観る時
におよそ支那四千年の歴史ほど、真の革命家に乏しき歴史がどこにある。
経書にいわく「湯武革命順乎天而応乎人」とあり、これを要するに
「天子は命を天に受く、国の乱るるや仁政なし茲に於いてか天は天下の黎元をいつくしみ、之を済ひ
導かんが為に茲に革めて聖者を派し之を授くるに政権を以てしかくて天下の黎元を治めしむ」これが
すなわち革命である。果たしてしからばここに革命を行う者はいやしくも、自ら立って茲に天下の黎
元を治め以て天意に応うる者でなければならぬ。
・・・かく支那の已往を顧みる時、ここに支那四億の黎元を救う真の革命家は遂に支那においては見当
たらない、そは過去四千年の経験済みだ。ここにおいて此所に東海の天子国たる我が帝国を立たしめ
てこの難局に当たらせんと、実は今回の事変を我等の前投げかけたのだ。・・・
「箭暁」第二巻第一号 昭和13年1月15日発行より
中川晴之「支那に尭舜の世を再現せしめよ」
>>396 すみません、メチャクチャ遅レスになってしまって・・・。
礼服の復活作業、上手く行くといいですね?
>>398 広東軍政府については、代表的なものとして深町英夫氏の研究があり、
その論考によると、広東軍政府はその形態の観点から3期に分かれています。
まず第一期は、孫中山指導の軍政府が存在していた時期で、
この時期は西南諸軍閥と対立し、広東省の諸勢力からも遊離していました。
第二期は、西南諸軍閥が軍政府の指導権を握った時期で、孫中山は上海へと逃れることとなります。
そして第三期は、広東省の諸勢力を代表していた陳炯明が台頭した時期です。
この時期に、聯省自治を唱える陳と、中央集権を唱える孫との間で対立が発生したわけです。
ただ、陳炯明は決して守旧的な軍閥ではないと、僕は考えています。
孫中山との政権構想・統一構想の対立が、彼を「革命の敵」へと押しやってしまったのではないでしょうか?
>>400 中国において、近代国家の建設が容易でなかったことは事実です。
孫中山も、蒋介石も、毛沢東も苦しみ続けました。
しかし、それを担えるのが「東海の天子国」(=日本)であるという主張には、
首肯できませんね。
このスレも、400レスまで到達しました。
書き込んでくださった皆さんに、御礼を申し上げます。
これからもよろしくお願いします。
403 :
松井石根大将辞世:02/05/04 12:58
天地も人もうらみず一すぢに
無為を念じて安らけく逝く
衆生皆姑息
生気払神州
無畏観音力
普明照亞洲
四百四州をこぞる十万四騎の敵 国難ここに見る弘安四年夏のころ…
\______ ______________________________/
|/
∧_∧
(○) (∀・ )
ヽ|〃 (∩∩ )
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
>96
内線時の南京や上海それに、朝鮮戦争でやつた人海戦術て・・・
意図的な消耗戦じゃないかと思うんですが如何に?
>405
申し訳ないのですが、
>>96の方のレスとの関係が僕には今イチ分からないのですが(スミマセン・・・)
それはさておくとして、
南京・南京攻防戦は、国共内戦の中でもハイライトと言える戦闘だったでしょう。
激戦にはなりましたが、最終的には人海戦術などを駆使し、
そしてすでに政略上・戦略上で圧倒的優位を築いていた共産党が、この2都市を攻め落としました。
特に上海は、「易守難攻」の都市で、仰るとおり意図的な消耗戦をもってしか攻め落とせなかったのかもしれません
(僕は軍事学に詳しくないのですが・・・)。
人海戦術はその後の朝鮮戦争でも使われていますが、
恐らくは内戦時で有効だった戦術をそのまま使用しようとしたものでしょう。
確かに人海戦術はアメリカ軍を恐れさせ、これと互角に戦うことを可能にはしましたが、
結局は人力の凄まじい消耗を招き、
その後の中国国内の運営に大きな支障をもたらす要因ともなりました。
1925年からの広東中華国民政府を調べようとして
ますが、ここからはソ連や共産党の知識がないので、
理解がしにくいようです。
(カラハン)
ソ連の外交官。アルメニア人の代弁人の子として生まれ、
少年時代から革命運動に参加。ロシア革命以降は外交官
となり、中国に対するカラハン宣言を出すなどして活躍
した。スターリンの大粛清にあい獄死した。
(カラハン宣言)
1919年と20年の2回、ソヴィエトロシアの外務人民
委員代理カラハン名義で出された宣言。帝政ロシア時代に
締結された中国との不平等条約の撤廃、平等な原則に立つ
国交樹立を呼びかけ、第二次宣言を基礎に24年、国交が
樹立された。”トロッキーが外務人民委員つまり外相だった
のだろうか?”
1919年 コミンテルン結成
1920年 第二回大会
レーニン「民族及び植民地テーゼ」報告
1924年 1.20国民党一全大会 国共合作
レーニン死亡、一国共産主義
レーニンの死後各国の共産党がソ連の
対外的道具と化す
1927年4月 武漢に対し南京国民政府
7月 ロシア顧問約140人帰国
1929年 トロッキー国外追放
中国工作をしていたロシア人達がトロッキー系の
グループだったのか、そういうことは無関係なのか
は解らない。
(陳独秀 1879〜1942)
安徽省懐寧の人。科挙を嫌って新学に打ちこみ、日・仏に留学した。
故郷の安徽省で辛亥革命に参加。1915年上海で『青年雑誌』を創刊して主宰し、
翌年『新青年』と改題した。新文化運動の旗手となった。1917年から北京大学教授、
同文科部長。胡適らと文学革命を提唱して、白話運動を主唱。
五・四運動を指導した。1921年中国共産党の結成に参加。党中央委総書記となる。
国共合作には批判的だったが、コミンテルンの指示でこれを推進。党勢は拡大した。
1927年には、反共クーデターの責任を追及され、右翼日和見主義者と批判された。
以後、スターリンを批判して、トロツキズムに傾斜した。
1929年に共産党を除名された。1932年国民政府に逮捕され、のち釈放されたが
孤独のうちに病没した。
>靡莫様
お久しぶりです。礼服復元作業はとりあえず刺繍部分の見積もりをさせております。
ただ、個人レベルでの作業ですので完成はいつになる事やら・・・・。
ちなみに、張作霖が全体に麦の模様が入った白い礼服で息子2人と写った写真があり
ますが、あれを製作するといくらかかるか業者に聞いてみたら100万円とかいわれ
ました(笑)。まあ、今回製作予定の物はもっと安いのですが・・・・。
410 :
407,408:02/05/10 20:04
中国工作をしていたロシア人がトロッキーグループと
いうのはどうも論理的でなく撤回します。
陳独秀 の反共クーデターとはなんでしょう?
411 :
西国のアズマ帰依者:02/05/10 21:10
えっとですね、蒋介石の反共クーデターを易々と許した責任を取らされたのです
時のコミンテルン指導部が蒋介石打倒をためらい明確な指示をださなかった
責任があるのに、陳独秀はその責任を取らされ止めさせられたんですね。
ちなみに1927年8月1日、南昌蜂起がたたえられ、人民解放軍の前身「紅軍」
の建設の日として讃えられますが、これは陳独秀批判と表裏一体でしょう。
共産党の言説を中身から解読していくと非常に面白く病みつきになります(w
>>411 勉強になります。ありがとうございました。
(譚平山 たんへいざん 1886−1956)
中国の政治家、広東省出身。共産党に加入、第1次国共合作
では国民党常務委員、農民部長を歴任。国境分裂後、第3勢力
の道を歩み、戦後三民主義同志連合会を結成、1949年
政治協商会議に参加した。
譚ろみ著「中国共産党 葬られた過去」文春新書
オモシロイ
413 :
@名無しさん:02/05/11 23:30
5月11日の朝日新聞朝刊によると中国で中山艦が
引き揚げられて修理して漢口に展示されたようですね。
1938年に漢口で日本軍が撃沈したとは知りませんでした。
415 :
405です。:02/05/12 00:17
>406さん
共産党からみれば地域権力を有していた軍閥の関係者や
軍隊そのものが不必要なんですよね。
だから軍閥の兵力の消耗も人海戦術の目的やなかつたんじゃないか
てことなんです。
軍事力さえ奪えばあとは簡単ですよね。
人民裁判に労働改良所・・・・・・・。
そこまで面倒なことしなくても暗殺、公開殺人なんでもありですよ!。
>>409 こちらこそ、お久しぶりです。
礼服復元作業に頑張っておられるようで何よりです。
でも礼服の刺繍って、きわめて緻密なものですよね?
人件費がいくらかかるか分からない芸術品、と言って良いものでしょうし。
>>410、
>>411 陳独秀は悲運の共産党リーダーですよね。
もともと第一次国共合作そのもの(共産党員の国民党入党など)に反発してましたし。
結局、現場を知らない上層部(=コミンテルン)に振り回されて詰め腹を切らされてしまいましたが。
今後は、共産党については「★中国の革命勢力★」で論じた方が良いかも知れませんね。
もっとも共産党でも、民国初期の賀竜や朱徳などは、軍閥スレで論じることができるでしょうけど。
417 :
毛沢東語録より:02/05/12 00:52
中国革命が全国的成功をおさめ、さらに土地問題が解決された後にも、中国にはなお二つの
基本的問題が存在する。その一は国内的なもの、すなわち、労働者階級とブルジョア階級と
の矛盾である。その二は国際的なもの、すなわち中国と帝国主義国家との矛盾である。
*中国共産党体制は、まだ持続できるのか?それとも・・・「春秋に義戦なし」の再来か?
>>415 そういうことでしたか。
>>406では意を察することができず、申し訳ありませんでした。
もちろん、敵対的軍閥を攻め滅ぼす際には、物量に物を言わせて(人海戦術を使って)いますが、
少なくとも建国以前は、共産党は軍閥を滅ぼすよりは、むしろ寛大に取り込む方向で動いています
(いずれ、軍閥の権力を解体する狙いがあるにしても)。
七期二中全会(1949年3月)の毛沢東報告などからも、それは明らかです。
中華人民共和国は、共産党がリーダーシップをとる各派閥の連合政権としてスタートを切っており、
それは中央と地方政権(軍閥政権)の関係についても、ある程度は当てはまることでした。
ただし、僕が
>>98でも書いたように、軍閥の解消は建国後少しずつ進めていき、
毛沢東の政治姿勢の変化に伴い、それは急進的に進められたようです。
答えになってなかったら、すみません。
419 :
世界@名無史さん:02/05/12 01:19
>>417 個人的には、中国共産党が今後も政権を維持できるかどうかは、
「正統性」を確保できるか否かにかかっている、と考えています。
すなわち、中国の近代化を推進し、国際社会での地位を維持する主体と成り得るか。
“崩壊”を阻むカギは、詰まる所その点になるでしょう。
>靡莫様
北洋系政府において、元帥の階級になった軍人はおるのでしょうか?
張作霖が最終的に”大元帥”になったのは知っているのですが・・・・
>>420 元帥及び大元帥の階級は、張作霖の「陸海軍大元帥(安国軍大元帥)」を除くと、
全て南方政府の階級だったようです。
「陸海軍大元帥」自体、北伐で追い詰められた北洋政府が張作霖を擁立するために
緊急に作った階級のため、その他の北洋政府首脳では「大元帥」も「元帥」も
名乗った人物はいないようです。
422 :
世界@名無史さん:02/05/13 18:56
age
423 :
世界@名無史さん:02/05/13 19:35
あげ
(広東国民政府の内、黄埔軍校はこのスレで)
第1次、2次の東征はこの学校にとって初陣でもあり、
その存在理由を証明した意義のあるものだったが、払った
犠牲も大きかったようだ。学校の東の離れた所に東征の
戦死者をまつった墓(はか)と祈念堂がある。以下雑談。
5月の連休に行ってみたが思ったより遠い。
「地球の歩き方」のバスも解りにくい。1)バスで遠回りして
蟹山へいく、2)珠江を渡って左折、新洲よりフェリー
3)広州側の黄埔区の魚珠よりフェリーと3通りあるらしい。
私は2)でいったが地元の人は3)でいくらしい。
タクシーだと80元、バスなら5元。
1930年に南京に移転したらしい。
蛇足、海珠区に徐世昌記念館というのがあるらしい。
>>424 この東征で討伐対象とされたのは、広東軍閥陳炯明です。
陳炯明はすでに1922年末に孫中山に敗れ、東江に撤退していたのですが、
それでも東征で最終的に敗北する1925年11月まで、この根拠地を維持し続けました
(期間にして、3年近くになります)。
陳炯明は、広東省の郷紳層や資本家層の支持を集めていた他、後に中国致公党の総理
(最高指導者)になったことからも明らかなように、海外華僑からも支援を受けていました。
精鋭の国民党軍をもってしても容易に撃破できる相手では無かった、と言えるでしょう。
黄埔軍校への観光ルートについても、書き込んで頂いてありがとうございます。
僕は広東省には行ったことが無いので、羨ましいです(w
426 :
世界@名無史さん:02/05/20 21:27
北洋政府から国民政府への転換時の諸外国の反応を教えてください。
427 :
西国のアズマ帰依者:02/05/20 21:57
最悪>426
国民革命の高揚で漢口租界は占拠されるは、上海にも国民革命軍が来るは
で大騒動。革命外交で高らかに解放を宣言する国民政府に、諸外国はスクラム
組んで圧力を加えつつも漸進的な容認に転換といったところ。
蒋介石はこの流れに乗って関税自主権の回復を認めさせることに成功している
428 :
世界@名無史さん:02/05/20 22:02
でも、意外とスムーズに国民政府を承認したような。
日本だけがずーっと承認しなかったんですよね?
429 :
西国のアズマ帰依者:02/05/20 22:26
そうです。
宋子文の活躍もあって革命外交から転換して上手くアメリカと関税自主権
の回復をとりつけ、日本は逆に済南事変の憤激をかってるうえに、日本だけ
膨大な対軍閥無担保債券(西原借款)を持ってるから返せ返さないになって
どうしても関税自主権の回復に応じない。
世界的流れの見えぬ日本は標的になってしまいましたな。
430 :
世界@名無史さん:02/05/20 23:19
ちょっとスレ違いかもしれないけど、
「中国外交は狡猾(あるいは知略に長けてる)」みたいなカキコを2ちゃんでよく見る気がする。
こういう中国外交観って戦後になってできたものなのかな?
三国志か何かのイメージで一種のオリエンタリズムなんだろうけど、
戦前の日本政府の対応から見て、当時の日本人が中国を知略の国と見ていたようには思えない。
>426-429
西国さん、ありがとうございました。
>426さん、民国の外交状況については、
>>312-317も参照してください。
(少しこの内容に追加・補足を加えると、激烈型革命外交を推進した陳友仁は、
既成事実=漢口・九江租界回収をイギリスに容認させてます)。
>430
「中国外交は狡猾である」というイメージがあるとしたら、
それが形成されていったのは、基本的には戦後に積み重ねてきた日中間の交渉に依る
ところが大きいと思います。もっとも、戦前の日本における対中交渉のイメージも、
少しはそこに含まれているかも知れません。
戦前の日本(特に昭和に入ってから)は、中国への評価が客観性を失い、日本中心主義
へと陥っていた傾向は否めません。
いわゆる「支那通」と呼ばれた軍人たちですら、次第に中国侮蔑の感情へ傾いていき
ました。学界でも、尾崎秀実のような一部の人を除くと、概ね日本中心主義に陥っています。
その結果、蒋介石(国民政府)の推進する対内・対外政策の内実を見逃すことになっていきました。
432 :
世界@名無史さん:02/05/21 01:44
陸海軍大元帥って、いつ見ても「無敵軍人」って感じで笑えるな。
北洋政府の外交政策の研究はそれほどすすんでいないのですね。
列強が国民政府を承認していったということは
北洋政府と手を切ったということでしょうが、
このあたりを調べるとおもしろそうですね。
>>432 確かに(w。でも北洋政府側にしてみれば、それだけ最後の切り札として張作霖に
期待していたということでしょうけどね。
もっとも張作霖本人は、中国統一の必要性をすでに悟っていて、北伐を敢行する
蒋介石と戦うよりは、いずれはこれと和する意思があったようです。
>>433 僕自身はそれほど外交分野の研究に詳しくないのですが、確かに北洋政府時期の
対外関係に関する研究は極めて少ないようです(野澤豊編『日本の中華民国史研究』などを
見ても)。
南北間のパワー・バランスの変化も、おそらくは諸外国の国民政府の承認に影響を及ぼした
でしょう。北洋政府への態度の変化も含め、興味深いテーマに成り得ると思います。
>靡莫様
お久しぶりです。ちょっと多忙でしたのでなかなか来れませんでしたが・・・・。
元帥の件、ありがとうございました。実際、北洋政府で元帥というのはあまり聞いた
事がなかったので、実在したのかどうか知りたかったのです。
なお、礼服計画は資料不足や業者の都合もあって最初の話が頓挫、一時中止で別業者
になりそうです。ひょっとしたら軍用礼服ではなく、画像で紋様がはっきりと確認で
きている文官の大礼服の復元に切り替えるかもしれません。
どなたか図案入りの中華民国軍の官報など所持されておりませんか?
先日、親戚の家の引越しを手伝っていたら面白い壁飾りが出てきました。
B4くらいの大きさの赤い布製の壁飾りで、黒字で”贈””忠信””富〜(一文字
判読不能)官民”と書かれています。なんでもその家の方が戦前満州におり(詳細
不明)、その時地元の方から贈られた物だそうです。富〜は地名だとか。
>>435 勲章好きさん、お久しぶりです。書き込みが遅れて申し訳ありません。
礼服計画は厳しい状況に直面されているのでしょうか?
緻密な資料が無いと上手くいかない仕事のようですね・・・。
残念ながら、僕はその種の官報を所持していませんが、図書館などから情報集めしようと考えています。
もし、どなたか勲章好きさんにご協力できる方がいたら、よろしくお願いします。
「富〜」という地名は何でしょうね?県級でしたら探し当てられるかも知れないので、
こちらも少し調べて見ます。
>靡莫様
色々ありがとうございます。”富〜”ですが、読み方はその家の方の話では”ふうき”
と読むそうです。縣名らしいとの事ですが、その辺ははっきり解らないそうです。
礼服はあの派手な刺繍が難しいのですよ。金モール刺繍自体はたいした事ではないそう
ですが、いかんせんあの派手な模様、それに刺繍部分の地色がよく解りません。
満州国の官報集は中国本土で販売されていますが、いかんせんPCなみの値段なので趣味
では買えません。
438 :
@名無しさん:02/05/31 22:08
「大元帥であった孫文の地位は7人の総裁によう合議制の
もとではほとんど無視され、孫文は広東を去って上海へ行った。
1920年6月3日、孫文は広東の軍政府の無効を宣言し、
雲南において軍政府を別に組織することをきめた。広東に
あった国会議員も孫文とともに上海に集まっていたが、かれらも
国会と軍政府の雲南移転をきめた」 竹内実
雲南が中国の首都になる可能性があったのだろうか?
>>438 少なくとも、広東軍政府が改組された時点では、
雲南(この場合は昆明でしょうが)を根拠地にするというのも、
孫中山の選択肢の一つにあったとは思います。
それ以前に、蔡鍔が雲南を根拠地として反袁世凱の挙兵を行っていたことも、
恐らくは考えにあったでしょう。
しかし当時の雲南は、雲南軍閥唐継堯の支配下にあり、
仮に昆明に軍政府等を移しても、唐から横槍を入れられるのは確実でした。
戦略的に考えても、雲南から北方へ進撃するのはやはり困難です。
そして実際にも、孫中山は昆明を首都とする選択肢を選ぶことは有りませんでした。
結論としては、昆明が南方政府の首都になった可能性はゼロでは無いにしても、
限りなく低かったと言わざるを得ません。
440 :
世界@名無史さん:02/06/03 13:58
馮玉祥人気ない……
1925年3月に孫文逝去
7月に広州国民政府成立
25年の上半期広州に雲南軍閥楊希閔がいましたが、広州軍閥が
何故いるのか疑問に思っていましたが、今読んだ本では、
「雲南軍は彼等をおいだしたライバルから故郷の雲南を奪還する
ため兵力を集めていたのだから、その機会が到来したら、彼等は
立ち去ってしまうはずだった。革命の理想や他の地域における作戦
とかについて、彼等は結局、なんの関心も持たなかった」
とあります。北伐したくなかったというのはわかるのですが、
そのころ雲南で何か勢力争いがあったのでしょうか?
>>437 官報についてはまだ調査中ですが、
県名は今のところ一番可能性が高いものとして、「富錦県」(現在の黒龍江省富錦市)が考えられます。
民国時代は合江省(省都は佳木斯)に属し、満州国時代もおそらくは合江省管轄だったと思います
(もっとも、頻繁に行政区画の変更は行われてますが)。
>>438 うーん・・・確かに「クリスチャン・ジェネラル」は余り人気が無いですよね。
当時の様々な国内の指導者、そして日本やソ連を含む諸外国からも、
「変節漢」として見られていたことが影響しているかも知れません。
馮玉祥がキリスト教信仰に傾いたのは、自らの膨大な野心や欲望を抑えるため、
と言っている研究者までいます(もちろん、そのまま受け入れられる見方とは思えませんが)。
ただ、馮玉祥は民国時代の軍閥抗争の中で常にキーパーソンであり、
また、抗日の統一戦線を樹立する上でも貢献があったのは否定できないでしょう。
ついでに言えば、馮玉祥配下の「五虎将」や「十三太保」も結構面白い存在です。
>>441 その通りです。鋭いですね?
当時の雲南軍閥内では、雲南省にそのまま留まって勢力を確保した唐継堯と、
孫中山の下へ駆けつけて国民革命に参加した楊希閔との間で、権力争いがありました。
唐継堯は孤立主義というか、孫中山の革命には積極的に参加しようとせず、
楊希閔のように雲南の外で孫に協力した有力者たちは、徹底的に排除しようとしました。
もっとも楊希閔自身も、結局は個人的(軍閥的)野心に執着したため、
最後は孫中山によって討伐、追放されてしまいます。
>靡莫様
官報の件、地名の件と色々ありがとうございます。例の壁飾りは従兄弟の部屋に
飾られているようです。
馮玉祥は馮玉祥著、牧田英二訳の「我が義弟蒋介石」長崎出版発行(2年前古本
屋で偶然入手しました)を読むと、自分をかなり美化し、蒋介石をかなりこきお
ろしていたのが印象に残っています。
広東軍政府のときの孫文の肩書きは大元帥ですか?総統ですか?
>>445 正直なところ、僕も馮玉祥は好きじゃないです。
上手く自分を宣伝する能力があったため、現在の大陸での高い評価があると思ってますし。
個人的には、同じ北洋政府系の中では、張作霖や呉佩孚の方がまだ好感が持てますね。
>>446 広東軍政府における孫中山の肩書きは、以下のように変遷します。
1917年9月〜1918年5月:大元帥
1918年7月〜1920年5月:総裁
(実際には、一時的に下野して上海に移っています)
1921年5月〜1922年7月:(非常)大総統
448 :
世界@名無史さん:02/06/13 13:26
上の方でちょっと出てきた家近亮子『蒋介石と南京国民政府』読んだ人いますか?
僕は、相当脇が甘い論文だな、と思ったんですが。
蒋介石を再評価したいって気持ちが先行しすぎて、実証が伴っていないというか。
インフラ整備から国際的地位上昇まで「安内攘外」政策だけで説明するのは無理があるでしょう。
449 :
世界@名無史さん:02/06/13 21:27
北村『国共合作の研究』に次ぐボロクソ書評が出そうな予感。
>>448-449 最近になってようやくその本を一部のみ読んだのですが、僕もそう思います。
読んだ部分で特に引っかかったのは、
共産党掃討時期の蒋介石が「党政軍の理想的分業体制」を築いた、と主張している点です。
その立証についても、あくまで表面的に現れる制度や形態のみで分析していて、
インフォーマルな部分への切り込みが甘すぎないか、と見ています。
閻錫山に興味がありますね
彼の本拠地山西省の省都大原が1949年に陥落したとき
数百人の官僚が殉死したそうです
>>451 でも、肝心の閻錫山本人は太原陥落直前に、部下を見捨てて飛行機で逃亡してるんですよね。
台湾へ逃げる途中も、財産を積みすぎて飛行機が一時飛ばなかったという逸話もありますし、
台湾では「世界大同」云々の宗教めいた哲学にふけっています。
・・・小一時間問い詰めてやりたいですね(w
とはいえ、閻錫山の山西省統治は、中断時期を含めても1912年から49年までずっと続きました。
中央の政治勢力や日本軍などと、したたかに渡り合った「不倒翁」です。
内田知行氏が閻錫山の研究論文を書いていますので、興味があったら参照されてはいかがでしょうか?
あと国民党4大家族のひとり陳立夫も
興味深い人物ですね。彼はつい最近まで生存していたのですが
自分的には張学良よりもっと歴史家は注目してインタヴュー
をすれば良かったのにと思いますね
西安事件に関して真相を知っていたのは最近の存命者では
張学良本人、宋美麗、陳立夫だけだったでしょう
追加 陳立夫は2001年2/10に死んでいます
>>453 陳立夫、そしてその兄の陳果夫も、国民党や国民政府を語る上で欠かせない人物ですね。
「CC」のリーダーで、日本では特務機関のボスというイメージが強いようですが、
実際には内政面での活躍も多く、抗日戦時の経済政策や農業政策に大きく貢献しています。
第二次国共合作では陳兄弟は合作推進派だったこともあってか、
大陸での評価も好意的なものが意外と多いです。
>>455 特務機関の実権が軍統の戴笠に移ったから
活動の中心を内政に移したんですかね?
>>456 CCは内政面での活躍もありますが、やはり特務機関としての活動も活発でした。
南京国民政府時代を通し、軍統とは激しい競争と権力争いを演じています。
両者は共に蒋介石配下の諜報機関・謀略工作機関でしたが、
CCは党務・経済・教育といった分野を特に対象としていたため、
その方面での情報収集力は軍統を圧倒しました。
内政の実務面を担う人材がCCから多く現れたのも、そのためです。
それに対して軍統は、一般的な破壊・諜報工作に専念していた感じです。
一般にCCは国民党エリートとしての意識が強く、
復興社など民間組織出身者が多い軍統を見下していたところがあったようです。
しかし蒋介石は、陳兄弟の権力伸張を恐れ、軍統を重用することでCCを牽制しています。
>>457 上ではCCと書いてしまいましたが、
ここでは中統(中国国民党中央執行委員会調査統計局)と書いた方が良かったですね。
失礼しました。
ちなみに軍統の正式名称は、国民政府軍事委員会調査統計局です。
中華民国期の軍閥に入ろう!
ととんでもない誤読をしてしまいました。逝ってきます。。。
460 :
世界@名無史さん:02/06/30 19:40
ところで軍閥に入るためにはどうすればいいんでしょうか?
461 :
「中華民国期」だって???:02/06/30 22:29
450(/^-^
ヽ(^。^)ノアリャ
(・_・)......ン?
「ちゅうかみんこく」
?(°_。)?(。_°)?
「なんちゅうか、ほんちゅうか?」
・・・笑止千万ナリ〜〜。
今回から軍閥の紹介をしようと思います。
以前もそんなこと言っておきながら、放ったらかしにしてた気もしますが・・・。
<雲南軍閥>
辛亥革命時、蔡鍔が雲南に軍政府を樹立したのがその始まり。その後、唐継堯が指導者となり、
二次革命では袁世凱を擁護したが、袁が皇帝を名乗ると、蔡鍔を迎え入れて袁の討伐に動いた。
その後、唐継堯は孫中山と連合するが、一方で「大雲南主義」を唱えて領土の拡大を目指し、
孫にも積極的な協力はしなかった。
1927年、北伐が成功しつつあった国民党に協力しなかったため、危機感を抱いた部下の竜雲ら
によって唐継堯は打倒される。その後は竜雲が雲南の支配者となり、蒋介石に服属したが、
竜による雲南の半独立的な支配はその後も続く。抗日戦争の際には、共産党とも連携した。
1945年、蒋介石は武力で竜雲を罷免し、竜の部下だった盧漢を後任とした。しかし盧漢も
容易に蒋に服さず、ついに1949年末に盧は共産党側へ付いた。
>>460 う〜ん・・・マジレスすると、将兵として軍隊に加わるのが一般的だったしょうか?
あとは軍功を挙げて昇進していくしかないでしょうね。
もっとも、軍閥は地縁・血縁が出世の上で重要な要素となる組織ですので、
裸一貫から成り上がるのは難しいでしょう。
少なくとも省級の軍事学校を卒業していないと、出世は厳しいものでした。
>>靡莫様
お久しぶりですね。先日、「南方政府公報(全3輯)」出版社: 河北人民という民国
時代の南方系政府の公報集らしい本がWEB上で販売されているのを見つけました。
ただ値段がえらく高いので、購入には二の足を踏んでいますが。
この本について何かご存知ないでしょうか?たとえば軍関係の公報が載っているか
どうかとか・・・・・。
>>463 勲章好きさん、こちらこそお久しぶりです。
以前の官報の件ですが、なかなか御期待に応えられず申し訳ありません・・・。
ところで「南方政府公報」ですが、一般に民国時代の「政府公報」だと、
軍関係の制度や法規については記載が無く、内容は行政法規や統計、人事などがメインのはずです。
もちろん「南方政府公報」自体を僕は読んだ事が無いので、
絶対に軍の情報が載ってない、と断言することはできませんが・・・。
答えとしては充分でなかったら、すみません。
軍閥の紹介です。
<山西軍閥>
閻錫山を指導者とし、辛亥革命から国共内戦終結までその支配は38年間続いた。
地勢的に北洋軍閥の脅威を真正面から受けたため、北洋軍閥へは宥和的な姿勢をとる。
袁世凱死後は段祺瑞らの安徽系軍閥に接近し、張作霖や馮玉祥と抗争。
その後、蒋介石の北伐に応じ、その成功に貢献した。
しかし蒋介石が軍閥の勢力削減を図ったため、閻錫山は1930年の中原大戦で
馮玉祥・李宗仁と連合し、蒋に挑むが敗退。一時引退を余儀なくされる。
1932年に山西省の支配者として復帰。抗日戦では最前線に立たされることとなり、
当初は共産党と連合して日本軍と戦う。しかし後に共産党を敵対勢力として絞り、日本軍との衝突を回避した。
抗日戦争が終わると、日本軍やその傀儡政権の軍を吸収し、共産党掃討と統治の再強化とを
図ったが、1949年4月に人民解放軍によって太原は陥落し、閻錫山は逃走した。
(張宗昌、ちょうそうしょう、1881−1932)
馬賊の出身。
第二革命の頃、馮国璋に接近。
1916年、袁世凱に買収され、陳其美を暗殺。
以後馮国璋の部下として江蘇省へ
19年、馮国璋の死後、張作霖の下へ。
第1次、第2次奉直戦争を戦う。
25年、徐州、山東省を統治。
青島の日本資本ストライキ弾圧
25年、孫伝芳、馮玉祥の国民軍と奉天軍の戦い
27年、孫伝芳の援軍として南京、上海へ進出
北伐軍と戦う。
3月上海労働者の第3次武装蜂起により、
上海からから撤退し山東省に戻る。
4.12蒋介石クーデター後一時孫伝芳反撃。
28年、第2次北伐、山東出兵、済南事変
北伐軍に敗退。
29年、日本人倉谷等と山東省奪回を計り失敗。
32年、鄭継成に仇討ちされる。
この人物を選んだ直接の目的は上海暴動に関してだが、それ以外
でも波乱万丈の人生で興味深い。
馮国璋は江蘇省都督になり部下を江西、湖北の都督にして、
「長江三督」を独占したが、呉佩孚も同じような勢力範囲か?
済南事変の時、張宗昌の部隊は日本人とトラブルはないのか?
なんとなく、北海道の例の代議士を想わせる人物だ。
仇討ちは叔父さんのだそうですが、誰か有名人のでしょうか?
(孫伝芳、再度、長江下流の支配に注目して)
1885−1935
日本の陸軍士官学校を卒業、王占元、呉佩孚の部下として
直隷派として、栄達。
23年、福建に派遣される。安徽派、国民党系、陳炯明派との
抗争から勢力をのばす。
24年、第2次奉直戦争で浙江省を獲得。
25年、長江下流域に勢力を拡大しつつあった奉天派との
戦争に勝利、(浙江、福建、江蘇,安徽、江西)5省の
総司令になる。
26年、北伐軍に敗北、奉天派と安国軍をつくる。
27年、北伐軍、上海、南京を支配。
、国共分裂でやや反攻。
28年、壊滅的敗北
引退
35年、女性に暗殺された。
>>466-467 張宗昌、孫伝芳は、共に直隷軍閥の有力な指導者です。
以前も取り上げたと思いますが、特に孫伝芳は一時期は次期の中国全体の指導者と目されています。
上海など沿海部の要地を抑えたのですが、内紛などもあって、北伐軍の進攻の前に屈しています。
もう1つ、この2人の共通点はその最期でしょうか?いずれも仇敵によって殺害された点です。
このことは、当時の軍閥指導者は軍隊を失えば「ただの人」になってしまうことを示しています。
軍閥混戦の際、中央政府や聯省自治の勢力から「軍縮」の要望は高まっていたのですが、
軍を失うことの恐ろしさを知っている軍閥指導者たちは、簡単にそれに応えようとしなかったのです。
>>466 僕の記憶が間違っていないなら、
張宗昌を仇討ちした鄭継成は、国民軍の高官鄭金声の甥だと思います。
鄭金声は馮玉祥配下の「五虎将」の1人です。
1927年夏、河南省で直隷軍閥と戦っていた鄭は、
部下の裏切りによって敵方の張宗昌へ引き渡され、処刑されました。
>>468−469
いつも色々教えていただき感謝しております。
仇討ちにかんしては、些細なことなので、ご存知ないかも
と思っておりましたが、いつもながらの靡莫さんの知識に
驚嘆しております。ついでに、というのが私の悪い癖ですが・・・
雲南に関するニ三の疑問
1.上海のイギリス租界の境界ではインド兵が警備をし
フランス租界では雲南兵が警備をしていたそうです。
雲南がフランスの勢力圏だったことはわかるのですが、
天津条約にでも何か具体的な権益譲渡があったので
しょうか?
2.辛亥革命は成都への鉄道の国有化問題がきっかけと理解
していたんですが、宮脇俊三著「中国火車旅行」角川文庫
によると 成都へ鉄道が通じたのは1960年代だそうです。
そうすると、更に奥地の昆明は中国側からはいつ頃鉄道が
通じたのでしょう?
>>470 1.
まず、フランスと中国との権益関係については、
1884年の『天津条約』がスタートラインとなります。
しかし、天津条約ではあくまで時期を見て通商関係を確立していく、
という程度の内容だったため、その後何度も条約や附帯約款などが結ばれていき、
1895年までには雲南における中仏貿易の枠組みが固まっています。
これらの結果フランスは、雲南経由の貿易について
自国に有利な関税や交通費の設定が可能になりました
(雲南からの対仏輸出品としては、錫や茶などがあります)。
中国(そして雲南軍閥)にとって不利なこの状況が改善されるのは、1930年代に入ってからです。
鉄道については少し資料を調べなければならないので、申し訳ありませんが次回ということで。
>靡莫様
「南方政府公報」に関する情報ありがとうございました。礼服復元計画では、次の
点がネックになっています。
1)張作霖が左右に息子を従えて、全面に派手な刺繍の入った礼服を着用して写し
た写真(有名な物なので、ご存知かと思います)がありますが、あの服の生地
及び刺繍は何色なのでしょう。当方は両方とも同色で白か、白に近いクリーム
色かと思っています。
また袖刺繍の地色は赤か、金か。ちなみに礼帽とズボンは黒、もしくは黒に近
い紺のようです。
2)外交官用礼服の場合、腰の飾りポケットがあったのか、なかったのか。
すみません、当時の公報だけではなく本の描写等で何か情報ありましたら教えてい
ただけないでしょうか?
雲南の鉄道は保留にしておいて、上海暴動に戻って。
(白崇禧 はくすうき 1893−1966)
広西省生まれ、回族。
1917年、 保定軍官学校卒業
16年以来、 陸栄廷を中心とする広西派が広東を支配。
20年、21年、陳炯明を中心に広西派を広東排除。
24年、25年、陸栄廷等の旧広西派を、国民党と連携した新広西派
(李宋仁を中心に白崇禧、黄紹пjが広西省を支配。
26年、 北伐開始、白崇禧、東路総指揮
27年、 上海の反共クーデターの責任者。
28年ー30年 広西派後退
36年 両広事変に参加
37年以後 抗日戦に参加。
49年 台湾へ。、
474 :
世界@名無史さん:02/07/09 23:40
山西軍閥の閻錫山の軍隊は1945〜49の間(終戦から解放まで)
日本人の城野宏(1913〜1987)という人物が指導していました
国民政府顧問、山西野戦軍司令という肩書きをもち
国民党、共産党ともちがう第三の道を山西省にて模索しようとしてたらしいです
太原陥落後、共産党に投獄され1964年、
日本人戦犯として一番最後に釈放されました
帰国後は経済研究所を設立し、多くの経営者を指導しました
>>472 レスが遅れて申し訳ありません。
今のところ、白雲荘主水『張作霖』(昭和出版社、1928年)や
園田一亀『怪傑張作霖』(中華堂、1922年)などを調べたのですが、
礼服についての詳細な描写は見つかっていません。
もう少し別の文献を当たってみます。
>>473 「小諸葛」白崇禧ですね。
少数民族回族の出身で、李宗仁と共に広西軍閥の指導者として勇名を馳せた人物です。
広西軍閥(桂系軍閥)は、蒋介石に対抗した軍閥としては、おそらく最大・最強です。
中原大戦や両広事変などに敗れたにもかかわらず勢力は維持され、
抗日戦争も戦い抜いて、内戦時には李宗仁が一時は総統(代理)になりました。
>>474 寡聞にして、城野宏については僕は知りませんでした。
情報ありがとうございます。
>>465で書いたように、
抗日戦争後に山西省に残留した日本軍の一部は、閻錫山軍へ再編されて指揮に服しました。
共産党に対抗する必要上とは言え、閻錫山からはかなり優遇を受け、
太原陥落まで人民解放軍と戦い続けています。
閻錫山政権における彼らの役割や活動などは、面白そうなテーマかも知れませんね。
ちなみに山西省では、張作霖爆殺事件を起こした河本大作も実業家として活動していました。
後に城野同様に太原収容所に収監され、そこで病没しています。
>靡莫様
いつもすみません。もし張作霖以外の軍人でも礼服の色や刺繍等の描写がわかりまし
たらよろしくお願いします。
スレ違いで申し訳ありませんが最近、大同年間の満州国軍軍楽隊の礼服の一部詳細が
判明しました。礼帽のみ国内で復元可能である事が判明しましたので現在作業中です。
でも、形は完全にケピ帽、上半分が藍色下半分が赤なのでホテルのドアマンみたいで
すが(笑
>>477 了解しました。どこまでお役に立てるか分かりませんが。
ちなみに前掲書の内、『怪傑張作霖』には、
大元帥礼服を着て、左手でサーベルを突いて座っている張作霖の写真が載っていました。
ただ、これも白黒で色は判然としないのが残念です。
満洲国の礼帽の復元ですか。作業のほう、上手く行くと良いですね?
差し支えの無い範囲で、作業過程とか書き込んでいただけると嬉しいです。
479 :
世界@名無史さん:02/07/10 20:45
>>14-16 超亀レスだけど、あるよ。アメリカ製で。
Wargamer (WWWって会社が出してたゲーム付き雑誌)の#37で
「China Incident」がついていた。後で箱入りで再販されたはず。
1937〜1941までの、中国における日本軍と中国各軍閥の抗争がテーマのマルチ(多人数ゲーム)。
480 :
世界@名無史さん:02/07/10 20:47
>>26 アメリカで発売して、日本に輸入すればいいんでは?
>>479 本当に軍閥のゲームがあったんですか!?
1937〜1941年ということは・・・
軍閥としては李宗仁、閻錫山、龍雲、何鍵あたりが登場してそうですね。
すごいですね。恐るべし、美国(w
でも、現在では入手はやっぱり困難なのでしょうか?
482 :
世界@名無史さん:02/07/10 20:56
16年前のことですし、雑誌自体が消滅してますからね・・・
ただ、この雑誌を定期購読していた人間は日本でも多かったので、
古株のゲームサークルならプレイ可能だと思います。
>>482 そうですか・・・。
そのような状況だと、入手などは厳しいですね。
でも貴重な情報を書き込んでいただいて、嬉しいです。
ありがとうございました。
>>478 それは、上記の前面麦模様の刺繍が入った礼服の写真ですか?あの写真、左右に子供
が写っており、向かって右側が張学良と何かの本に書かれていましたが年代的には合
わないような気がするのですが、どうなんでしょう?
ちなみにもしその写真でしたら、以前お話した私の所持する張作霖の遺品が写真に写
っています。以前九州の新聞に載っていた”張作霖の帽子”よりは確実です(w
>>484 情けないことに今気づきましたが、
1922年当時に張作霖が大元帥に就任しているはず無いですね・・・。
この当時の張作霖は奉天省督軍兼省長だったのですから
(東三省保安司令にはこの年に就任していますが)。
というわけで、別物の写真だったようです。
失礼しました。
蒋チルドレン
陳誠
湯恩伯
胡宗南
>>485 そうすると、あの派手な礼服ってなんでしょう?東三省保安司令に就任した時の物
なんでしょうか?
それと、孫文が軍の元帥用(?)礼服に身を包んだ写真も残っていますね。いつも
中山服やその系列の服を着ている孫文にしては珍しいと思います。あれも袖刺繍の
地色が解れば・・・・。ちなみに、最近入手した警察用礼服の資料では袖と襟の刺
繍地が赤なので、軍も赤ではないかと思っています。
ちなみに礼服の色は満州国軍の礼服と同じ藍色、もしくは明るいスカイ・ブルー
(当時の画像を見ると非常に明るいため)という説もあります。
>>487 勲章好きさん、スミマセン。それは単純に僕の勘違い+怠慢です。
大元帥礼服=派手な勲章ベタベタ・・・などと、救いようも無い思い違いをしてたんですよ。
だから、そのような張作霖を見て短絡的にイコール元帥礼服・・・。
逝ってよし、ですね。うう・・・。
さて、元帥礼服についてですが、少し情報が入りました。
『読売新聞』(東京版)の昭和2年(1927年)6月19日朝刊の2面に、
張作霖の大元帥就任式に関する記事が載っていて、そこにこう書かれているのです。
「・・・張氏は鳥の羽のついた帽子青地に金色燦然たる大元帥の正装で・・・」
つまり礼服の地の色は青、刺繍の色は金色の可能性が高いです。
細かく突き詰めるとまだ問題(青は青でもどんな青か?袖口も金色なのか?)がありますが。
ちなみに、『朝日新聞』や『毎日新聞』(当時は『東京日日』でしょうか?)も
大元帥就任式の記事を載せていますが、元帥服についての描写は残念ながらありませんでした。
とりあえず、以上報告しておきます。追加情報があったら随時書き込みますので。
>>486 確かに彼ら3人は「蒋介石チルドレン」という表現があってますね。
全員蒋と同じ浙江省出身で、国民党軍の中でも「三巨頭」などと呼ばれていたそうです。
また、陳誠はそれほど軍閥的行動は取らなかったようですが、
湯恩伯は山東・江蘇・河南・安徽4省の軍司令官になった時に「中原王」、
そして胡宗南は陝西・甘粛・寧夏・青海4省方面の軍司令官になった時に「西北王」と呼ばれました。
つまりこれらの地域で、2人は独自の権力を振るっていたことを示しています。
国民党の中央軍も軍閥現象の発生に悩まされていたわけです。
>>474 前のレスに追加ですが、
城野宏は『山西独立戦記』(雪華社、1967年)という著書で、山西残留時の回想を書き残しています。
この時の城野は「李誠」という中国名を使って閻錫山の政権に参加しました。
城野の回想によると、山西残留の日本軍は、
米ソ二大勢力に対抗する「第三の勢力」「日本独立軍」「アジア解放軍」の設立などを
目指していた、としています。
一方で城野は、当時の中国の国内情勢や国共内戦の帰趨についてかなり冷静に分析していて、
また、閻錫山政権や当時の山西省の状況についても詳細に記述しています。
単なる読み物としても、かなり面白いものだと思います。
>>488 色々調べていただいて、恐縮です。まあ、張作霖の礼服になるか、通常の将官礼服
になるか解りませんが復元は必ずしてみせます。ちなみに、礼帽はすでに詳細判明
いたしております。
しかし張作霖の礼服写真、必ずどこかがずっこけていますね(笑。
まあ、これは張作霖だけに限らないのですが、勲章の大綬(礼服にたすきがけして
いる勲章のリボン)に皺が寄っていたり、胸の勲章や腰ベルトが斜めだったり、飾
緒(右肩から胸元へかけている飾り紐)がずっこけていたりとか。
段祺瑞の夏用(?)礼服など、サイズがあってないのか肩章が前にずり落ちていた
りしていますし。
あの辺は、やはり有力将官の特権なんでしょうか(笑。
492 :
世界@名無史さん:02/07/11 19:58
スレの話題変わっているのでスレ汚しならないといいのですが・・・
「China Incident」、アメリカのネットオークションなどで
20〜30ドルで出物がいくつもありました。
用件のみで退散します。
>>491 うーん、北洋政府の軍官たちも着慣れて無いってことじゃないでしょうか?
ところで『怪傑張作霖』の写真も、結構派手だったんですが、
あの当時の地位を考えると身分不相応すぎる気が・・・(w
>>492 479さんですか?
軍閥のゲームの情報、ありがとうございます。割と安価なんですね?
可能なら何とか購入してみたい、と考えています。
それから、このスレでは民国期の軍閥の話題なら、どんな書き込みでもOKです。
「用件のみで退散」などと仰らず、これからも、色々書き込んでいただければ幸いです。
よろしくお願いします。
>>493 まあ、私はあのどこか着慣れていないところが好きなんですけどね(笑
多分同じ礼服(服の前面麦模様刺繍ですよね?)だと思いますが、礼帽の帽章を見る
と民国最初期、武漢起義などで使われた”九星”で、軍閥混戦時の”五色星”ではな
いのですよ。
でも、一緒に写っている子供が本当に張学良ならば、学良が今でいうと小学校低学年
位の頃の撮影ですね。
>>494 いえ、その写真(『怪傑張作霖』の写真)では、服の前面に刺繍が無いんですよ。
袖口や襟には派手な刺繍があるんですが。
帽子の星は「五色星」です。勲章は、右胸に1つ、飾り紐を挟んで左側に2つ付いています。
そして、傍らには誰もいなくて、張作霖単独の写真です。
それで元帥服と勘違いしてしまったところもあるんですが・・・まあ、僕の情けないミスです。
それから『怪傑張作霖』の出版は1922年4月で、東三省保安司令就任は7月ですから、
まだこの当時は奉天督軍兼民政長ですね。
>>495 あ、それは通常(?)の将官用の大礼服ですね、失礼しました。
以前”宗家の三姉妹”を見た時、第二時奉直戦争直後孫文が北京へ行った時の場
面で孫文を迎える軍閥高官(おそらく張作霖)の役者が着用していた大礼服、良
く出来ているなぁと感心したものです。DVDやビデオが出ていませんので確認
出来ないのが残念ですが・・・・・。
497 :
世界@名無史さん:02/07/11 23:01
教えてください。
結局蒋介石ってどういう人物だったの?
ただのドキュソ?元殺し屋の典型的後進国独裁者?
ファシスト?それとも偉大な指導者?
あのB級っぽさに惹かれるんだけど‥
498 :
西国のアズマ帰依者:02/07/12 03:55
蒋介石を「結局」なんかで教えられませんよ
とりあえず、あなたのいう色々な解釈が可能な、
毀誉褒貶の激しい人物、としか「結局」でいえはしません。
>>497 西国さんの言うとおりですね。
中国共産党やその支持者が言うような、単純な「人民の敵」「革命の敵」ではないし、
あるいは国民党やその支持者が言うような単純な「偉大な指導者」ではない、
といったところでしょう。
いつのまにか、レス500目前ですね・・・。
今や!あたしが500番ゲットやー!
.,''"'' -- ,,__
{ __ つ
i .r' " /
(;;ソ 、 ,イ .| |/i /::..::..
ヾ'.v..'―- ,,_ _,,, ----- ,,,_ /::.i __,,,,,} |::..::../::..::..::..
,,ィ'"::::::::::::::::::::::::`..、 , -' ` .、/V::..::..レ'"/:::::j i::..::..::..::..::..::..
、;;) ;;::) /::;:ィ/i::::::::::::::::::::::'.、....................... ヽ;;;;::..::..::;;;;;;;;;;;;;;;{__ i----::./
\ ,イ '' レ':{⌒ .!:ト::::::ヽ:::::::::::'.、:::;;;;;;;;;;;;:::::: `、二,,___________从ヽ }:::::::/::::::::::::
ヽ\,|\ ,,/::| ,,/{/,':::iO ''!弋!Vヾ::::::::::::ヽ "'''''''`::、:::: ', / __ノ::..ヽ-'-/:::::
__ヽ::..::..::..i::..::..7-------!::ノ 〇 i:::::::iヽ:::::::::::ヽ, '., }ィ--''::"::..::..::..::.. ̄/:::::::::::::::
>`::\|,,|:!,ッ__i__i|____/|_!::{ r ,_ .i::::::::jノ::::::::::::::::ヽ、 .} .ノ ,'::,,--イ;;::..::..::..::/:::::::::::::::::::::::
Z::..::..ヽ::::::7 /V::`-'::.|/{`...'、 'l,, |::::;;;i ヽ;、:::N`---` ノ/'"//ノ;;;ニ=--::.;;::-::'':::::::::::::::__,,::::::::::::
ー----;;|ヽ /::..::..::..ノi::..:/ ̄ ̄~-'"^` /_ -ヽ/(ノ''"i/::::::::::::`/;;;;;;;∠===二;;;;;-----'' - ,,-- ,,;;;;
冫::..::|、//:/::..::../"~(_,, - ''"::::/::..:(:::::::::::::::::::::::::::::、::::ヾ ヽ  ̄
ヾ、;;<;;;;;;;;;;;;;L;;/;;;;;;;;:::::::::::::::::::::(::..::..::..::..`,;;;;;;;;;、;;;Λヾ ̄ ̄ ずざ〜〜〜〜〜っ!
501 :
考える名無しさん:02/07/12 08:05
>>497 見るものの立場が変われば評価も変わる。
孫文亡き後、革命軍を指導した意味において「偉大な指導者」
共産主義者からみれば、「人民の敵」「革命の敵」
まあ、逆に評論により評者の思想が察せられる
家近亮子著「蒋介石と南京国民政府」の中で著者が
蒋介石はモスクワに行って、軍隊の組織化に関しては、
感心してその手法を取り入れたが、一方、産業育成に
関しては、国有化は問題が多いと共産主義の弱点を
認識していたという指摘はもっともと思われた。
503 :
世界@名無史さん:02/07/13 00:07
蒋介石ってそれほどの人物なの?
まあ、英雄って事は間違い無い(いろんな意味で‥)
蒋介石に関しては、西国氏の言われる通りですね。簡単に判断できる物ではないと
思います。ただ、私の考えでは彼は本当に軍人で、政治の世界でも軍人としての姿
勢で臨んでしまったため評価が別れるようになってしまったのだと思います。まあ
その辺は性格的な問題もあるのかもしれませんが。
考えてみたら、北洋政府の国務総理、段祺瑞と共通している点もあるような気がし
ます。
>>504 蒋介石や段祺瑞に限らず、民国時代の軍閥指導者はほとんど全員が、
軍隊流の思想や組織論を行政などの方面へそのまま持ち込んでしまう傾向が強かったですよね。
もっともこのことは、孫中山にも言える事ですし、
そして言うまでも無く、毛沢東ら共産党の指導者についても例外ではありません。
特に、下位の者は上官の命令に絶対服従という不文律は、
確かに大事業や果断を要する施策の実行では積極的な作用を見せますが、
指導者が一度方向を誤ったとき、その修正が難しくなるわけですよね。
ところで、勲章や礼服の描写についてですが、
前回のレスでも提示したように、当時の新聞記事は軍閥指導者についてかなり詳細な描写を
乗せているケースが多いです。経歴や戦況の分析も逐次乗っていて参考になります。
上海にも店のある神田の本屋に、雲南大学出版の
「雲南辛亥革命」という本がありましたけど、
中国語の読めるかたがうらやましい。
内山書店ですか?
>>506 著者は謝本書氏ですか?
多分最近になって出版された本ですよね?
>>507 対dui
>>508 読解力がないのでよく解りません。
裏表紙に朱徳の書いた文章が書かれていたように思います。
>>505 今日は仕事が休みでしたので、手持ち資料を総動員して礼服の刺繍紋様を調べてい
ました。まあ、調べるといっても1個のルーペだけですが(笑)。
その結果、高級将官の刺繍模様は牡丹らしい事が解りました。決め手は袁世凱の鮮
明な写真です。ただ、年代によって色々細かい紋様に変遷があるようです。
ちなみに張作霖の礼服ですが、前面全体麦紋様、袖は松枝紋様、帽章は高粱のよう
です。ちなみに外交官(文官?)は全て麦模様です。
ちなみに一番の参考資料は”民国社会風情図録・服飾巻”という本です。
511 :
@名無しさん:02/07/15 19:15
※別のスレを上げてしまったので、すみませんがsageでレスします。
>>510 しかし、ルーペ1本で刺繍の模様まで見極めてしまうなんて、勲章好きさんも凄いですね?
僕みたいな面倒くさがりには、とても礼服復元作業なんて勤まらないです。
それにしても僕は、どこまで勲章好きさんのお役に立てるのか(今までもほとんど役に立ってないし)・・・。
でも色々な資料に当たるつもりですので、期待しないで待っててください(w
>>511 スレの紹介ありがとうございます。かなり激論が繰り広げられていますね。
僕は民族学や言語学の知識が無いので、参加できそうもありませんが(w
時間を見てじっくり読もうと思います。
軍閥がらみで行きますと、
雲南軍閥の龍雲・盧漢はすでに何度も書き込みましたとおり彝族です。
それでは彼らが彝族の独立国家建設等を目論んだかと言うと、それについては否と言わざるを得ません。
雲南はあくまで中華民国の一部であるという立場でしたし、それ以前に独立論争自体がそもそも発生してません。
青海軍閥の馬一族についての日本語文献てありますかね
あと台北市長の馬英九はなんとなくその一族のような気がするのですが・・・
>>514 残念ながら西北の馬氏一族については、日本での研究が無い模様です。
今のところは中国語資料を頼らざるを得ないと思います。
中国以外では、Merrill.R.Hunsbergerというアメリカの学者が著作を出しているようですが、
中国語訳(『馬歩芳在青海』青海人民出版社、1994年)以外では、僕も原文を見たことがありません。
なお馬英九台湾市長ですが、本籍は湖南省衡山県のため、
西北馬氏との関係は恐らく無いものと思われます。
>>515,516
レスありがとうございます
馬英九は西北の馬一族とは関係なさそうですね。ただ一族の中心人物の経歴が
馬鴻逵 台湾→アメリカ(馬の飼育業者になる。1970年L・Aで死去)
馬歩芳 台湾→大使になる 1975年サウジで死去
馬歩青 1977年台北で死去
なので、もしかしたらと思ったのですが・・・
でも三国志の西涼の馬一族とは血がつながっているかも
解放軍に投降した国民党幹部、軍閥指導者が
一人も処刑されなかったのは
共産党の「大蒋介石は生かすが、小蒋介石は処刑する」
というあるていど名の知れた人物は助命する
方針があったかららしいです
>>517 馬氏一族の要人は、ほとんどが共産党に敗れた後、台湾へ渡っています(例外は馬鴻賓)。
馬氏の軍隊はかなり精強で、彭徳懐率いる人民解放軍第一野戦軍も苦戦したそうです。
ちなみに、馬歩芳や馬鴻逵が結局共産党側に降らなかったのは、
共産党の宗教面における寛容性に疑念を持っていたことも要因となっています。
>>518 「大蒋介石は生かすが、小蒋介石は処刑する」のソースって、どこでしたっけ?
いずれにしても共産党が軍閥指導者を助命したのは、政治的、戦術的判断なのは間違いありません。
軍閥指導者を処刑したりすると、その支配地域に残存している勢力の叛乱を招いたり、
あるいはその後の統治において民衆からの協力を得られなくなる可能性が出てくるからです。
たとえば雲南省の竜雲・盧漢は、雲南の統治者として軍官民問わず信望を集めていましたし、
山西省でも閻錫山は「閻爺々」と呼ばれるほどの名声と人望を有していました。
閻錫山は国共内戦末期に恐怖政治を行ったため、最後はそれを台無しにしてしまいましたが。
閻錫山は面白い人物ですよね
日本の陸軍士官学校卒で29歳にして山西省の指導者になり37年間統治する・・・
多分先祖代々山西の名門出身なのでしょうが
ちなみに1949年の太原攻略戦では後の共産党総書記胡燿邦が参加していました
また総司令の徐向前元帥は天安門事件のとき軍隊出動に反対しました
521 :
西国のアズマ帰依者:02/07/19 20:32
中国で『張学良』という連続電視劇を買いました
張学良と郭松齢の物語だそうです。
ワクワク
>>520 閻錫山の家は特に名門出身だったわけでは無く、地主兼金融業者の家だそうです。
そこから軍事学校に入り、「山西王」まで這い上がったのは、
閻錫山個人の優れた才覚に依るものと思います。
徐向前は山西省出身で、閻錫山配下の宿将である趙承綬とは同郷同学の友人でした。
この2人は、国共内戦で敵味方に分かれて山西で激戦を繰り広げ、最後は趙が敗れて降伏しています。
しかし徐の口利きで趙は礼遇を受け、人民共和国でも官職に就きました。
>>521 西国さん、書き込みありがとうございます。
『張学良』は日本で手に入れることが出来ますか?
中国で手に入れたとおっしゃってるので、
まだ日本には入っていない可能性が高いと思いますが・・・。
さて、多分このスレでも初登場の郭松齢ですが、
奉天軍閥の中では張学良と共に“開明派(新派)”の軍人と目されていたものの、
民国期当時の日本のチャイナ・ウォッチャーからの評価は極めて低いものでした。
例外は「支那通」の軍人である佐々木到一で、
おそらく当時としては唯一と言っていいほど、郭を買っていたようです。
(戸部良一『日本陸軍と中国』p.117など)
ちなみに、後の冀東防共自治政府政務長官である殷汝耕は、
郭松齢の幕僚を務めた経験も有しています。
(葉挺 ようてい、1896−1946)
1918年、保定軍官学校卒業
19年、国民党入党、孫文の警護
24年、モスクワ留学、25年、中国共産党入党
25年、国民革命軍第四軍独立連隊長
26年、5月、北伐先遣隊として進軍開始
7月1日「北伐宣言」
湖南戦場、湖北戦場
河北省で呉佩孚軍と交戦、部隊は「鉄軍」といわれた。
漢口、武昌、九江、南昌を占領
12月、国民政府武漢に移転。
27年、4.12クーデター
8月、南昌蜂起
12月広州コンミューン、失敗の責任を追及される。
37年、新四軍に参加。抗日戦争
46年、飛行機事故で死亡。
上海の労働者暴動
第1回、1926.10.24
第2回、1927.2.22
第3回、 3.21
1.北伐の進攻と上海の暴動の関係は複雑なものがある。
上海には湖北戦線より、江西や福建戦線のほうが
関心が深かったか?孫伝芳にとって。
2.漢口や九江の租界問題が列強としては注目していて
列強の介入を避けるには、4.12処理は不可避だった。
3.共産党側の考え方は勿論大事ですが、まず初期北伐の知識を
つけようと考えています。
525 :
西国のアズマ帰依者:02/07/20 02:14
>>523 たぶん、もう少したたないと無理だと思います。
張学良は孫中山が放映されているとき、作成決定の新聞報道が
出ていて、それでいつか出るだろうなあと思っていましたもので。
多分最近市場に出回ったのでしょう
>>524 葉挺は1924年に初めて中国共産党に加入しましたが、
その後は年表に書かれている通り、
1927年に広州コミューン失敗の責任を取らされて党から除名されています。
復党が認められたのは、事故死直前になってからです。
ちなみに、「皖南事変」で国民党軍から殲滅された新四軍を率いていたのはこの葉挺で、
葉は1946年まで国民党によって収監されてしまいました。
あと、2番の漢口・九江の租界問題と「四・一二クーデター」との関係ですが、
租界問題の外交指揮をとったのは陳友仁で、3月の時点でイギリスとの交渉は妥結しています。
「四・一二」の外交に対する影響は、この時点では間接的なものだったのではないでしょうか?
46年の飛行機事故では他に博古,ケ發といった
共産党幹部も死亡しました
この事故の直後、国民党の秘密警察司令官の戴笠
も同じく飛行機事故で死んでいるため
両事故は国民党・共産党のテロだともいわれています
張静江について何か情報ないでしょうか?
>>525 西国さん、ありがとうございました。
日本で販売されるまでもう少し待ってみます。
それにしても、1999年に雲南解放50周年で放映された連続テレビドラマ
(題名は『解放雲南』だったはず)をもう一度観てみたいです。
VCD化されてるかどうかも分かりませんが・・・(涙
531 :
世界@名無史さん:02/07/20 15:29
張学良は西村さんの著書がありますね
張静江のレスありがとうございました。
(国民革命軍の軍長)
第1軍、何応欽、(貴州出身、貴州軍の実力者、東征軍長、汕頭を支配)
第2軍、譚延がい、(浙江省杭州出身、湖南都督として湘軍を率いた)
第3軍、朱培徳、(雲南省出身、広東政府下の雲南軍司令、東征に参加)
第4軍、李済深、(広西省出身、東征に参加)
陳銘枢(広東省出身、上海事変の19路軍長)
張発奎(広東省出身、複雑)
葉挺(広東省出身)
第5軍、李福林、(広東省出身)
第6軍、程潜、(湖南省出身、譚延ガイを湖南から追う)
第7軍、李宋仁、(広西省出身、桂軍)
第8軍、唐生智、(湖南省出身)
ならべてみると、北伐軍の構成が感じられます。
それにしても国民党幹部は
どうしてあんな残忍なのに長命なのだろうか?
>>531 西村茂雄『張学良』(岩波書店)ですね。
張学良に関しての本はさすがに他にも多いです。目に付いたものを挙げますと、
・傳虹霖『張学良』(連合出版)
・古野直也『張家三代の興亡』(芙蓉書房)
・水野明『東北軍閥政権の研究』(国書刊行会)
・松本一男『張学良−忘れられた貴公子』(中公文庫)
・岸田五郎『張学良はなぜ西安事件に走ったか』(中公新書)
・NHK取材班・臼井勝美『張学良−昭和史最後の証言』(角川書店)
この他にも色々あると思います。
それにしても、張学良以外の軍閥指導者を専門に扱った本というのは、
日本では余り見かけません。悲しい話ですが・・・。
>>532 これは1925年8月〜1926年7月の最初期の国民革命軍の構成ですね。
この時期はもちろん第一次国共合作が行われていたので、
第一軍の党代表には周恩来が就任しています。
国民革命軍はもちろん黄埔軍官学校卒業生たちを主力にしていますが、
この時期においてすらも、革命派出身の大小軍閥が参加しています。
そのため国民革命軍を「軍閥の連合体」と表現することも可能かもしれません。
ちなみに意外と知られていませんが、
何応欽は元々は貴州軍閥の一員で、軍閥内の闘争に敗れた後、
広州へ流れてきて黄埔軍官学校の総教官に就任しています。
>>533 う〜ん、具体的に誰やどんな事例を指して、
「残忍」と表現されているのか分かりませんが・・・。
まあ、国民党幹部の行状でよく非難されるのは、
蒋介石は政敵を三十人以上消した(松本重治『上海時代』)とか、
あるいは白崇禧や李済深などによる反共クーデターの際の共産党員虐殺などですよね。
もちろん、蒋介石たちにしても近代的統一国家を作ろうとしてやったこと、
という主張があるでしょうが、やはり陰は付きまとうものです。
あと、台湾へ逃れていった国民党幹部はほとんど御飾りの肩書き(総統府国策顧問など)のみで、
楽隠居していたようです。長命だったのもその辺りが原因でしょう。
実は、楽隠居ではなく軟禁状態に近かった人もいた可能性もありますが(張学良や孫立人以外でも)。
>>536で言っている国民党幹部は、ここでは軍閥指導者たちを主に指しています。
念のため。
538 :
西国のアズマ帰依者:02/07/23 01:14
張学良のVCDをみたけど…
字幕がなかったよう…
柘植久慶の「傭兵見聞録」
と言う本に何応欽と著者の会話
の一章があります
ちなみに日本語で会話をしてます
>>538 それは残念でしたね・・・。普通は字幕があるものですけど。
でも、会話が普通話(ですよね?)なのは救いでは?
内容的にはどうでしたか?
>>539 すみません、『傭兵見聞録』のどの章に何応欽が登場しましたか?
見落としだと思いますが、僕は見つけることができなくて・・・。
徳間書店刊行のものですよね?
手元にこの本がないので場所まではわかりませんが
真中辺でしたよ(あいまいだ・・・)
内容はビルマでの日本軍との戦闘、南京事件、張学良のことなどでした
542 :
西国のアズマ帰依者:02/07/23 23:56
>>540 確かに救いなのですが、もともと広東制作なんすよ
吹き替えなんてするくらいなら、ついでに字幕を…
>>541 ありがとうございました。
もう一度、読み直してみます。
でも、ビルマでの日本軍との戦闘の話題ですか・・・。
このとき日本軍に当たったのは遠征軍司令部ですが、
ここでは、国民政府中央軍内部の有力者である何応欽と陳誠とが権力闘争を繰り広げています。
何応欽の話もその辺りに触れているのでしょうか?
>>542 確かにそうですね。
いくら普通話を学んでいても、日本人にとっては分かりにくい表現だってありますし、
字幕は欲しいところですよね・・・。
まあそれ以前に、広東人のことも考えてあげて欲しいです(w
ブリュッヘルによる北伐作戦計画
当面の敵を呉佩孚に限定し、孫伝芳は一時的に非敵対関係をつくる。
全軍を三路に分け
西路軍(唐生智を総指揮)
長沙から武昌へ
第四軍(広西)
第五軍(広東)
第六軍(湖南)
東路軍(何応欽が指揮)
福建省へ
第一軍の一部(東征経験)
中央軍(蒋介石が指揮)
西路軍の右翼を守り、広東防衛、孫伝芳と
交戦になれば、江西省南昌へ
第二軍(浙江省)
第三軍(雲南、東征経験)
第一軍の一部
1.指揮官がその土地の経験を配慮してある。
2.実戦はこの計画通りにいってなさそう。
3.図説 中国近現代史 p109の図が解りやすい。
4.法政大学「中国国民革命」p186からが詳しい。
5.進軍図に問題ありの可能性
6.7月の北伐宣言前に戦闘は開始されている。
7.主戦場は西路だが、
イ、蒋介石はその任務をとれなかった。
ロ、部下の戦力消耗は避けたかった。
ハ、蒋介石は経済的には最大の上海を狙った。
>>541 どうやら『傭兵見聞録』は、先行の徳間書店版とその後に出版された集英社文庫版とで、
内容の差し替えがあったようですね。
第18章が、「アルプス山中の墓守」(徳間)→「日本人二百万を救った将軍」(集英社)
に変わっていました(理由については、特に書いてありませんでしたが・・・)。
いずれにしても、同書で何応欽は、
>>539さんが言うような内容について色々語っています。
インタビューそのものは興味深く読むことが出来ました。
ところで何応欽は、台湾へ渡ってからはずっと不遇をかこっています。
西安事件で蒋介石救出よりも張学良打倒優先を唱えたこと、
内戦末期に蒋介石の政敵李宗仁と連携したことなどにより、蒋介石の忌避をかったためです。
(以上のことは、以前「蒋介石と毛沢東」スレにも書き込んだことがあります)
539さん、情報を教えていただき、ありがとうございました。
>>546 よく北伐は、国民革命軍が北洋軍閥軍をあっという間に駆逐したかのように
思われることが多いのですが、実際は相当な苦戦があったんですよね。
江西〜上海にかけての孫伝芳軍との戦いはかなりの激戦となり、
上海ストによって苦しみながらも勝利を収めています。
当時の国民革命軍は、北洋軍閥を3人の指導者(呉佩孚、孫伝芳、張作霖)で構成されていると見なし、
それぞれを分断して各個撃破しようと目論んでいます。
特に張作霖については、むしろこれと和して戦いを避けることを最優先に考えていました。
あぼーん
『傭兵見聞録』読まれましたか?
あまり秘話的なことは書いてなかったと記憶していますが
ところで3〜4年前に出版された本なんですが
たしか「中国怪物記者の記録」とかいう書名でご存知ですか?
(google検索でも見つからない・・・泣)
著者は1919生まれのジャーナリストで陸**(名前忘れました)という人物で
政治批判を行い国民党時代に投獄され、釈放後雲南で共産党に逮捕、
再度投獄されるという経歴を中立の立場で回想した本です
>>549 そうですね。何応欽のインタビューはそれほど秘話という感じじゃなく、
日本軍との戦闘など当時の懐かしい思い出を語っている、という感じでしょうか。
よっぽどこの人、張学良と共産党が嫌いだったんだな、とも思いましたが(w
それから御尋ねの本は、陸鏗『中国妖怪記者の自伝』(筑摩書房、1999年)でしょうか?
まだ僕自身は読んだことが無いのですが、面白そうなので時期を見て読んでみたいと思います。
実は今、松本重治『上海時代』にハマっているもので・・・(w。
姫田光義著「中国革命に生きる コミンテルン軍事顧問団の運命」
中公新書 1987年 何故かすぐ絶版になったらしい
こういう本があるらしい。どなたか読んだ方おりますか?
>>551 姫田先生のその新書はまだ読んだことが無いですね。
図書館には置いてあるでしょうし、古本屋でも比較的手に入れやすいと思います。
あと、第一次国共合作期のコミンテルンの活動については、
波多野善大『国共合作』(中公新書、1973年)や
升味準之輔『比較政治V 東アジアと日本』(東京大学出版会、1993年)も詳しいです。
もっともこちらも、図書館or古本屋のお世話になる必要があると思いますが。
以前、
>>361でも書き込みましたが、
ここでもう一度、このスレを読む上でぜひ読んでいただきたい書籍を整理します。
今回は、入門的及び基本的な書籍に絞って紹介します。
1.波多野善大『国共合作』(中公新書、1973年)
タイトルどおり、第一次及び第二次の国共合作を最大のテーマとしていますが、
当時の民国期の各種勢力の動向、組織、思想について詳述しています。もちろん
地方軍閥についても詳しく、入門書としては最適です。
残念ながら現在は絶版で、古本屋か図書館で探したほうが良いでしょう。
2.松本重治『上海時代』(中公新書など、1974年)
すでにこのスレでも何人かの方も触れていますが、かつて「聯合通信」(社団法人新聞聯合社)
の上海支局長だった人物の回想録です。日中間の外交交渉や国民党要人たちの思想、
動向を知ることができる上、当時の地方軍閥たちにも言及し、冷静な分析を加えています。
ちなみに松本は、西安事変のスクープ報道で一躍有名になった人物です。
中央公論社から様々な形態で出版されましたが、残念ながら現在は絶版或いは品切れ。
復刻して欲しいものです。
あとは既出ですので
>>361をご覧ください。
3.尾形勇・岸本美緒編『中国史』(山川出版社、1998年)
4.小島晋治・丸山松幸『中国近現代史』(岩波新書、1986年)
5.横山宏章『中華民国』(中公新書、1997年)
6.ジェローム・チェン著、北村稔ほか訳『軍紳政権』(岩波書店、1991年)
<広西軍閥(新桂系)>
広西省を地盤にした軍閥で、有力指導者は李宗仁・白崇禧・黄紹пB
李宗仁らは国民党に加わり、陸榮廷・沈鴻英などの旧桂系を撃破して広西省の支配権を獲得した。
国民政府における蒋介石の指導に対して何度も挑戦し、そして何度か蒋を下野に追い込んでいる。
中原戦争や両広事変では敗北しながらも、その勢力は温存され、次第に拡大されていき、
国共内戦後には李宗仁が副総統に就任(後に総統代理にも就任)するまでになった。
新桂系は広西省で独自の内政、軍事政策を実行し、その成果によって「自治」を維持し、勢力を拡大した。
1949年11月、李宗仁は海外へ亡命し、
白崇禧は広西で自軍を人民解放軍に殲滅され、新桂系は崩壊した。
555 :
世界@名無史さん:02/08/04 02:29
松本は理想主義者でもあり現実主義者でもあり、バランスがいいね。
西安事件は松本がニューズ源を独占したので、夜は一人舞台だったが、
夜が明けてニューズが世界中に流れてからも同盟電の独占が続いた。
大北電信公司が送信禁止になってもいいように、虹口に秘密の無線室を
持っていたのは各社とも同じだが、松本は非常事態の際は中国側に
電源を切られると予測して、共同租界の横浜正金銀行ビル内の小部屋に
小型発信機を据え付けていた。租界には中国側も手が出せないからね。
ちょっとトピずれ。
556 :
世界@名無史さん:02/08/04 02:36
1960年頃の
台湾国民政府の
総統府国策顧問のメンバーのリストが載ってるWEB
てありますか?
>>555 松本重治は日中衝突の正にその只中にいたのですが、
それにも関わらず状況に対して冷静な分析をし、そして日本側の対応の不味さを良く見抜いていました。
電源の話については、『上海時代』の最初の方に出てきましたね。
その日本租界の電源すらも、第二次上海事変の時にダメになってしまったのですが、
正金ビル内の発受信機のみが無事で、
それを使って松本は、上海の日本人居留民についての情報を東京に発信できたそうです。
>>556 少し探してみたのですが、今のところそのようなwebは見当たらないようです(スミマセン)。
一応、総統府の資政、国策顧問、戦略顧問になった主な軍閥指導者を整理しておきます。
1.総統府資政
閻錫山(山西軍閥)
陳済棠(広東軍閥)
趙恒トウ(湖南軍閥)
徐永昌(山西軍閥)
2.総統府国策顧問
谷正倫(貴州軍閥。後に国民政府憲兵司令)
何鍵(湖南軍閥)
趙恒トウ(湖南軍閥)※資政にも就任。
盛世才(新疆軍閥)
3.総統府戦略顧問
何応欽(貴州軍閥。後に黄埔軍官学校教育長)
白崇禧(広西軍閥)
楊森(四川軍閥)
陳済棠(広東軍閥)※資政にもなっている。
559 :
世界@名無史さん:02/08/04 19:17
>>558 レスありがとうございます
ところで総統府国策顧問に谷正倫という人物
がいるようですが、大陸時代に社会部長だった
谷正綱の一族ですか?
あと方治という人物の情報てありますか?
>>559 谷正倫は谷正綱の兄に当たる人物です。
谷正倫、谷正綱、谷正鼎(正綱の弟。国民党中央組織部部長などを歴任)は、
いずれも国民党及び国民政府で高官になったことから、「谷氏三兄弟」と呼ばれています。
なお、谷正倫は国民政府の初代憲兵司令に就任し、
憲兵部隊の設立、組織整備、教育などに尽力したことから、
国民政府や国民党では「現代憲兵の父」とも称されました。
方治(1897〜?)は安徽省出身の人物で、国民党の党務工作に長年携わった人物です。
国民党中央宣伝部の副部長を務めた他、
各省級政府の国民党党部や教育庁のトップを務めていることから、
党宣伝工作の専門家というべき人物だったようです。
台湾へ移ってからは、総統府国策顧問や国民大会代表を務め、
また、大陸救済総会や中琉経済文化協会などで職に就いています。
しかし、残念ながら近況については不明です。
562 :
世界@名無史さん:02/08/04 20:58
>>557 「日本租界」は通称であって行政区画上は中国側に施政権のある上海市だから
事が起これば電源を切られるのは自明。
正金銀行は共同租界。こちらは租界工部局の管轄で、蒋介石といえどもここに
手を出したら英米が黙ってはいない。
>>562 あ・・・すみませんでした。
>>557のレスは、僕のとんでもないミスですね。
日本租界と共同租界の電源は別々になってたことを利用して、
松本は非常の際に備え、共同租界の電源で動く発受信機を正金ビルに設けたのでしたね。
だから、正金ビルの発受信機は無事だったわけで・・・失礼しました。
ちなみに、何で
>>557みたいなレスをしてしまったかというと、
共同租界と日本租界を混乱してた上に、共同租界の電源が切られたものと勘違いしてしまったんですよね。
どういう読解力をしてるんだか・・・はっきり言って自分が情けないです。
565 :
世界@名無史さん:02/08/06 23:27
>>560,561
レスありがとうございます
ちなみに谷正綱は日本と関係が深かったらしく、死去時(92年)に
新聞に死亡記事が載りました
方治は東京帝大卒で台湾を訪問した安岡正篤に
自分の一族は全員共産党に殺されたと言ってます
台湾で反共団体の要職に就いたのはその影響みたいですね
軍閥の紹介を再開します。
<河南軍閥(国民軍)>
馮玉祥率いる軍閥で、元は直隷軍閥の一支系であった。有力な将領としては鹿鍾麟・
宋哲元ら「五虎将」、韓復・孫良誠・石友三・孫連仲ら「十三太保」がおり、その
他、楊虎城や張自忠も馮配下であった。
第二次直奉戦争の際、馮玉祥は奉天軍閥張作霖に通じて北京兵変を起こし、大総統
曹コン(金+昆)を捕らえて直隷軍閥を敗北に追い込む。さらに張配下の郭松齢と連合し、
奉天軍閥打倒を図ったが、直隷軍閥と和解した張作霖の反撃で敗退する。
その後、馮玉祥はソ連顧問団の軍事訓練を受け入れて軍を再編した。1926年には
国民党に加入し、五原誓師を挙行して国民革命軍に加わり、1928年の北伐でも一翼を担った。
北伐完了後は、蒋介石の中央集権政策に反抗し、李宗仁や閻錫山らと連合して中原
大戦などで蒋に挑む。しかし、部下の韓復や石友三などに離反され、最後は敗北した。
中原大戦後は、旧主力部隊を宋哲元に委ねている。
>>565 台湾へ行った後の谷正綱の経歴を見てみますと、
国民大会主席代表団員、総統府国策顧問、国民党中央執行委員などの他、
世界反共聯盟栄誉主席、世界中国総会理事長、中国大陸災胞救済総会理事長など
の役職を務めています。また、韓国の東国大学から名誉哲学博士の称号も得ました。
谷正綱は日本に限らず、アジアを中心に対外的な活動が豊富だったようですね。
方治は共産党に一族を殺されていたのですか。
それはいつ頃の話でしょうね?国共内戦期でしょうか?
ちなみに方は、安徽省桐城県の郷紳の一族だったそうです。
{湖南の戦い}
(趙恒タ、 ちょうこうてき、1880−1971)
湖南省湘譚県出身、日本の陸軍士官学校卒業
1909、中国同盟会に加入
16、護国運動、湖南軍譚延がいの部下になる
20、段祺瑞が湖南省長にした張継尭を放逐(湖南戦争)
譚延がい、趙恒タ、程潜が三立から、趙恒タに実権
連省自治宣言、選挙、湖南省憲法
23、孫文軍政府の北伐(譚延がい指揮)趙を長沙から放逐(湖南の護憲戦争)
呉佩孚の北洋軍と背後の広西軍の攻撃で広東に撤退
湖南は呉佩孚の勢力下に
26、唐生智に省長をゆずる
49、台湾へ
湖南は南北の接点で、勢力争いの中心だ。注目しよう。
1.湖南の連省自治には毛沢東は直接は関係していないのか?
2・連省自治は招聘りんなどの呼びかけに各地が呼応したのでしょうか?
3・趙恒タは選挙をしたり、憲法をつくったりなかなか進んでいます。
自分たちに自信があったから、孫文なんか評価してなかったので
しょう??
誤字訂正
招聘りん→章炳麟
>靡莫様
お久しぶりです。例の礼服復元計画ですが、ようやく刺繍等の図面が完成し業者に
渡しました。このまま順調に行けば冬頃には完成予定です。やれやれ・・・。
572 :
世界@名無史さん:02/08/15 12:39
あげ
夏休みで書き込みを控えてましたが、再開します。
>>569 趙恒タは湖南軍閥の有力指導者です。
陳炯明、唐継堯らと共に、聯省自治運動の指導者としても知られています。
1.毛沢東は、趙恒タ・譚延ガイらの湖南省憲法制定運動に対しては反発していて、
毛の「湖南共和国」構想は、趙らへのアンチテーゼのつもりでした。
しかし、毛沢東は自らの構想を「人民のため」とし、趙らの運動は「軍閥のため」と
非難しながらも、「湖南共和国」構想は聯省自治的な要素が濃厚に含まれています。
毛にしても、趙らの運動の影響を大きく受けていたのは間違いありません。
2.そうですね。やはり当時の学識者たちによる理論付与が大きかったと思います。
章炳麟も湖南省自治の理論付けを行った人物ですが、
当時の地方有力者たちに初期から大きな影響を与えていたのは、
やはり『盧梭学案』などで連邦制の採用を唱えた梁啓超だと思います。
3.少なくとも孫中山(孫文)への対抗意識が強かったのは間違いありません。
以前書き込んだとおり、孫中山は中央集権型の政権を志向していたため、
聯省自治的構想を抱いていた趙恒タや陳炯明、唐継堯などは、孫に権力闘争を挑んでいます。
趙らの省憲法制定運動については、最近は様々な研究で光が当てられつつある段階です。
(詳しくは、横山宏章『中華民国史』三一書房などを参照してください)
>>571 お久しぶりです。
あれからも当時の新聞などを当たっていたのですが、残念ながらお役に立つ情報は今のところ見つかっていません。
お役に立てず、申し訳ありません(まだ資料の検索は続けていきます)。
図面完成ということで、おめでとうございます。勲章好きさんの方で良い情報が見つかったのでしょうか?
冬頃完成ですか・・・きっと素晴らしい礼服が出来上がるんでしょうね。
それから、今さらで何ですが・・・。
「様」とつけて頂くのは光栄ですが、何か気恥ずかしいし、そんな大した人間じゃないので・・・。
今後は「さん」や、他の呼び方にして頂ければ幸いです。
もっと早く申し上げるべきでしたし、僕の方は勝手に「さん」付けしていたので、
その無礼はお詫びします。
>>574 名前の呼び方の件了解しました(笑
実はネットを通じて北京在住の中国人民国勲章コレクターと知り合いまして、勲章
の情報交換をしていたのですが、礼服を復元したいけど資料が無いという話をしま
したらすごく鮮明な画像を送ってくれたのです。
これで各部の刺繍が解明したのです。
>>575 勲章好きさん、呼び方の件では本当にすみませんでした。
なるほど、中国のコレクターの方から協力があったのですか。
画像があるということは、そのコレクターの方は、
大元帥礼服の現物(あるいはレプリカ)を持っておられたのですか?
もし差し支えなかったら、礼服の色彩がどんな感じだったか教えていただけたら幸いです。
いずれにしても、完成が待ち遠しいことでしょうね。
>>576 いえ、いただいた画像は現在の物ではありません。スキャナーで取り込んだ当時の
将官の鮮明な肖像写真をいただいたのです。襟、袖、礼帽、ベルトまで刺繍が入っ
ており、派手だなぁと感心しています。
礼服の色彩ですが、当時の写真や靡莫さんからの情報を総合したところ、襟は赤地
に金刺繍、袖は服本体と同色同生地に金刺繍のようです。服本体は明るい青色とし
ています。
ちなみに写真の人物ですが、顔からすると雲南の唐継尭のようです。
(程潜、 ていせん、1881−1968)
湖南省生まれ、岳麗書院に入る。
1908、日本の陸軍士官学校卒業、中国同盟会員になる
11、辛亥革命に参加
15、蔡鍔の護国軍に参加
16、孫文の護法戦争、程潜は湖南軍(湘軍)司令官、
南部に圧迫される。
19、北洋軍に通諜として解任される
20、譚延がいを辞任させるが、趙恒タに追放される。
以後中華民国軍に参加、陸軍総長
26、北伐、第6軍軍長、南京攻防戦に活躍、
武漢国民政府委員
28、共産党とのつながりで逮捕,軟禁
32、復職、抗日戦
49、人民解放軍側に蜂起
中華人民共和国政府委員。
1。大物ではないのだろうが?色々な事に関係し興味ぶかい。
革新系が好みのようだ。
2。25年頃の広東軍には、湘軍がいるが彼らは譚延がいや
程潜について行った湖南兵だろうか?
3。北伐中央軍、南昌→九江→南京ルート
第3軍(朱培徳、雲南)、第6軍(程潜)
程潜は南昌攻撃にあせって、6軍に大被害
第7軍(李宗仁)が湖北より応援、
程潜の第6軍は南京攻撃で南京事件を引き起こす
程潜の親左翼傾向との関係は微妙なものがある。
>>577 唐継堯の写真だったんですか?
僕が知ってる唐の写真は、軍務院撫軍長時代(1916年頃)の2種類だけです。
1つは無帽で略式(?)軍服姿のもの、
もう1つは軍帽をかぶり、大綬・勲章・襟・袖・ベルト、そしてサーベルがかなり派手な礼服姿のものです。
もしかしたら、勲章好きさんの写真は後者のものでしょうか?
>>578 程潜も湖南軍閥の有力指導者で、その活動期間はほぼ民国時代全てをカバーしますね。
親共左派の立場に分類される軍人と見て良いですが、
湖南省自治に対しては、唐生智らと共にこれを崩壊させる役割を果たしています。
南京事件(ここでは1927年3月、北伐軍兵士による居留外国人への暴行事件を指します)では、
当時は武漢政府に与していた程潜が、蒋介石と帝国主義諸国との関係を悪化させようとして
行った工作の可能性もある、という指摘もあります(波多野善大『国共合作』)。
なお程潜は詩の才能にも優れ、章士サなど一流の文化人から賞賛されたほどです。
>>579 いや、唐継堯かどうかは確証がありません。ひょっとしたら別の方の可能性もあり
ます。比較した私の写真がピンぼけなもので。どこかにいい貼り付け掲示板でもあ
れば公開するのですが・・・・・。ちなみに当方の画像は大綬はしておりませんが
勲章多数、派手な刺繍の襟・袖・ベルト、やはり派手なサーベルです。
ちなみに参考用に他にも礼服画像をいただきましたが、1つは鉄路局(確証なし、た
だし刺繍からして交通局関係らしい)の物みたいです。ちなみにこの方は嘉禾勲章を
1つ、他にはなんとフランスのレジオン・ド・ヌール勲章、文化勲章を付けています。
誰なんでしょう?
蔡鍔は実は雲南の人でなく、湖南の人ですね。
湖南の人が雲南で実力者になったのは、中央政府に任命
されて行ったのでしょうか?
>>581 大綬をしていないとなると、少なくとも僕の知ってる唐継堯の写真では無いですね。
ちなみに、唐継堯の後者の写真は、楊維眞『唐継堯与西南政局』(台湾学生書局、1994年)
の表紙に掲載されていたものです。
それから、謝本書主編『西南十軍閥』(上海人民出版社、1993年)には、
唐継堯の前者の写真の他、陸榮廷・劉湘・劉顕世・陳炯明・趙恒タ・何鍵・陳済棠・楊森・
竜済光・袁祖銘の写真が載っています。
この内、陸榮廷・趙恒タ・袁祖銘は、大綬や勲章を身に纏ったかなり派手な礼服姿です。
もっと早く御教えするべきでしたね。僕は張作霖のことばかり考えてたもので・・・申し訳ありません。
ただこの2冊の本については、日本国内で入手が難しいかも知れません。
それから北洋政府で鉄道主管の部局となると、交通部に属する路政司ですね。
写真の人物として考えられる人は何人かいますが、
交通部総長だとしたら有名どころでは唐紹儀・曹汝霖、
そして海軍軍人として知られる劉冠雄も交通部総長に就任した経歴を持っています。
路政司長では、残念ながら有名どころの人物がいないですね。
よろしかったら、歴代の交通部総長、路政司長のリストをここに貼り付けましょうか?
失礼、584は583の続きの間違いでした。
>>582 蔡鍔は、1911年に新軍第39鎮37協協統(鎮は現在の軍団、協は現在の師団に相当)
として雲南に赴任してきました。
それ以前の蔡鍔は、江西・湖南・広西の各省で新軍軍人の育成の責任者となっています。
蔡鍔もそうですが、清末に日本へ留学した軍人たちは、
帰国後に新軍編成において要職を担うケースが多かったのです。
>靡莫さん
実は礼服の件ですが、中国の友人がさらにカラー画像を送ってきてくれました。どう
もどこかの博物館に展示されている物のようですが、なんと説明には蔡鍔が着用した
ものであると書かれていました。いや、ちゃんと残っている物なんですね。
また、最近中華民国軍の軍旗を入手しました。青地に白の縫い付け文字で”中國童呉
(干?)軍第二五三團”、裏には業者印らしく”南京府東街張洪旗ゴウ(号+虎)製”
と白印が押されています。元は南京の民国軍倉庫で支給前の物を入手したらしいです。
587 :
世界@名無史さん:02/08/30 15:28
588 :
@名無しさん:02/08/30 22:27
ワシントン会議
1.四カ国条約(1921.12)
太平洋の平和に関する条約
2.九カ国条約(1922.2)
中国問題に関する条約
3.海軍軍縮条約(1922.2)
主力艦保有量の制限
九カ国条約
(米、英、日、仏、伊、ベルギー、ポルトガル、蘭、中国)
1.中国の主権・独立と領土保全を尊重し
2.各国の商工業の中国に対する機会均等と中国の門戸開放を定めた。
米、英、仏などの西欧列強と日本、中国(北京、北洋政府)による会議
列強の思惑ー日本の在華権益は対戦中にいっそう拡張
−米は中国に権益を持つ各国の利害を調整し日本封じ込めを企図
中国の主張と会議の推移
二十一か条要求の廃棄→会議参加国の無視→日中の協議にゆだねられる
上記結論
広東政府は会議と北京政府の対応を批判
関税自主権の回復
英・米は28年
日本は30年に承認
ただし関税収入は対外債務償還の担保として押さえられたままで
債務の中には西原借款も含まれていた。
>587
>だいたい9ヶ国条約が友好だからこそ
細かいことを言ってすいません。このままだと九カ国が仲良しになるので
友好→有効 ですね。
590 :
世界@名無史さん:02/08/31 10:48
591 :
世界@名無史さん:02/08/31 18:46
高市氏は「無知」じゃなくて、「下品」だね。
9カ国条約が廃棄されていないのを知っていながら、
それを匂わせるようなことを書く。
>臨城事件が起きて、被害に遭った各国からは9国条約の取り消しを求める声が上がり、
>北京外交団では各国による共同警備案が討議されました。
1920年の安直戦争から1922年の第一次奉直戦争のあいだ、即ち直隷派と奉天派が
共同で北京を治めていた時代には大総統職は空席だったんでしょうか?
当時の肩書き上の最高権力者は誰だったんでしょうか?
594 :
世界@名無史さん:02/08/31 20:16
>>594 サンクス
でも徐世昌って安徽派だったよねえ
乱入して、すいません。私のおさらいの為、カキコさせてください。
(徐 世昌、じょせいしょう、1855−1939)
河南省の生まれ、家計が苦しく、塾の教師をしている時、袁世凱と
義兄弟になり、その援助で科挙に合格。挙人、進士となる。
1886、翰林院に入る。
98、戊戌の変法の時、袁世凱に西太号后へ密告をすすめる。
袁世凱と出世、軍機大臣に
1911、辛亥革命、清朝から、袁世凱を内閣総理大臣、臨時大総統に画策、
16、袁世凱の洪憲皇帝位取り消しを無難にすますのに失敗。
黎元洪大総統と段祺瑞総理の「府院の争い」の調停。
袁世凱の死後、安徽派、直隷派、奉天派の三つ巴、
どれにも属さず、文人官僚として調停者になる。
18、安福国会、安徽派が馮国璋大総統から徐世昌大総統を選出したが、
段祺端の武力統一に反対し南北停戦を宣言。新米姿勢をとる。
パリ和平会議、南北代表を派遣
ワシントン会議では不平等条約改正努力
22、第一次奉直戦争で直隷派が勝って、4年間の大総統を罷免され、引
新米姿勢→親米姿勢
しばらくぶりの書き込みで、申し訳ありません。
実は個人的に取り組まなければならないことが出てきたので、
このスレも含め世界史板で書き込みが中々出来なくなると思います。
すみませんが御了承願います。
>>586 蔡鍔の礼服ですか。多分、雲南省の博物館にあるのでしょうけど、
僕はそのようなものが現存していたことについては、初耳です。
中華民国の軍旗は民国初期のものなんでしょうか?凄いものを手に入れたのですね?
これからしばらくは、僕のほうのレスも滞ることになると思いますが・・・
急な話ですみません。
>>595 徐世昌は安福国会によって擁立された大総統という意味では、安徽派かも知れません。
しかし
>>596さんも書き込んでいるように、北洋軍閥内の調停役、そして南北和平に尽力し、
実際には中立的立場に位置する政治家でした。
>>596-597 いつも、色々書き込んでくださって有難うございます。
しばらく僕の方は書き込みが激減すると思います。申し訳ありません。
600 :
600オメデトウ!:02/09/09 20:51
おにぎりワッショイ!!おにぎりワッショイ!!
\\ おにぎりワッショイ!!おにぎりワッショイ!! //
+ + \\ おにぎりワッショイ!!おにぎりワッショイ!!/+
. + /ガム\ /■\ /梅\ /■\ /鮭\ /チョコ\ +
( ´∀`∩(´∀`∩)( ´∀`)( ´∀`∩(´∀`∩)( ´∀`)
+ (( (つ ノ(つ 丿(つ つ (つ ノ(つ 丿(つ つ )) +
. + /■\ /■\ /■\ /梅\ /■\ /■\ +
( ´∀`∩(´∀`∩)( ´∀`)( ´∀`∩(´∀`∩)( ´∀`)
+ (( (つ ノ(つ 丿(つ つ (つ ノ(つ 丿(つ つ )) +
. + /■\ /■\ /塩\ /■\ /■\ /マヨ\ +
( ´∀`∩(´∀`∩)( ´∀`)( ´∀`∩(´∀`∩)( ´∀`)
+ (( (つ ノ(つ 丿(つ つ (つ ノ(つ 丿(つ つ )) +
. + /■\ /鮭\ /■\ /■\ /塩\ /■\ +
( ´∀`∩(´∀`∩)( ´∀`)( ´∀`∩(´∀`∩)( ´∀`)
+ (( (つ ノ(つ 丿(つ つ (つ ノ(つ 丿(つ つ )) +
. + /■\ /塩\ /■\ /ツナ\ /マヨ\ /■\ +
( ´∀`∩(´∀`∩)( ´∀`)( ´∀`∩(´∀`∩)( ´∀`)
+ (( (つ ノ(つ 丿(つ つ (つ ノ(つ 丿(つ つ )) +
ヽ ( ノ ( ヽノ ) ) ) ヽ ( ノ ( ヽノ ) ) )
(_)し' し(_) (_)_) (_)し' し(_) (_)_)
さらに具が増えました
「負けてはならじ!もっと!もっと!!もっと!!!」
靡莫さんの休養状態は、困惑する問題ですが、国民政府期は重要な時期ですので
もう少し続けて、基礎知識を増やしたいと思っております。余暇にでもカキコ
いただけるとありがたく思います。
(唐 生智、 とうせいち、 1889−1970)
湖南省東安県の生まれ、祖父は広西提督、父は広西省境に近い東安市で
錫の会社をしていた。
1914年、保定軍官学校卒業
20年、当時湖南は譚延がい、程潜、趙恒タ三派の権力闘争
唐生智は趙恒タ系
23年、趙恒タが譚延がいを破る
部下であった唐生智は湖南南部を担当、強大な勢力をつくる。
26年3月、趙恒タを追放、湖南省を掌握
広東政府の働きかけ、国共合作、北伐支持を表明
4月、呉佩孚軍の反撃、湖南省北部を奪われる。
苦境にたった唐生智は援助を要請。
国民政府は部隊を派遣、葉挺独立団など
実質的な北伐開始
7月、北伐宣言、唐生智は北伐軍総指揮
湖南、武漢攻略を指揮
27年1月、武漢政府成立
唐生智は左派の軍事的な支柱となる
7月、分共会議
11月、蒋介石と対立、日本へ亡命
29年、 反蒋戦争に参加、敗れ亡命
31年、広州政府に参加
37年、日中戦争、南京防衛司令官敗退
以後半引退
49年、国共内戦で程潜の蜂起に呼応
新政府で湖南省の指導者に
1.湖南省は北部は農業地帯で税収も多く、趙恒タの領域
南部は山間部で、鉛、亜鉛,錫などの非鉄金属が豊富で唐生智の領域で
財源に恵まれた。
20年代初めに、湖南の鉱山で李立三、劉少奇、毛沢東が活動したが
唐生智との関係は不明
2.北伐軍の編成にさいし、唐生智は湖南のライバルであった譚延がいや
程潜が湖南方面の担当にならないよう画策し成功した。
3.唐生智は自身僧侶で、部下の多くも仏教徒だった。
4.唐生智と蒋介石の長年の拮抗関係と、彼が南京防衛の担当になった関連は
興味深いが、解からない。
5.現在もまだ、先日の洪水が引いてないようだ。
6.湖南省、安徽省、河南省は現在中国の3大出稼ぎ労働者の出身地だそうだ。
郷勇の出と同じ。貧しいくせに、都会の情報は入りやすい土地か?
7.反蒋戦争は別記
8.その人生観が理解しにくい人間だ。
国民政府期→中華民国期
国民政府というと台湾政府という意味ですね。
>>588に追加
>関税自主権の回復
>英・米は28年
>日本は30年に承認
>ただし関税収入は対外債務償還の担保として押さえられたままで
>債務の中には西原借款も含まれていた。
1928年、中央銀行の設立
31年、関税自主権の回復と国内関税の廃止
35年、法定紙幣による通貨統一
605 :
世界@名無史さん:02/09/19 21:30
正確には34年関税自主権回復
606 :
@名無しさん:02/09/19 23:09
北村稔著「第一次国共合作の研究」p220にありましたもので。
もう少し、勉強します。
尚、この本のメインテーマと思っております蒋介石はボルシェヴィキの
手法を使ったとかいう問題は自分でよく結論が出なく考慮中です。
保守age
608 :
ネオ麦茶R:02/10/10 21:08
誰か中華民国期の全軍閥を書いて下さい。
保守age
>>608 俺もきぼんぬ
相関関係図とかも書いてほすい
611 :
@名無しさん:02/10/15 16:36
>誰か中華民国期の全軍閥を書いて下さい。
あまりに沢山いて書ききれません。
法律文化社「図説、中国近代現代史」p103の表でも立ち読み
してください。
連休で武漢観光に行ってきました。
揚子江がこの辺になると、上海や南京の向こうが見えない感じから
泳ぎの得意な人なら泳いで渡れそうな感じです。赤壁の戦いや
長征などで、このあたりなら渡河しやすいのでしょう。
辛亥革命の教科書によく出てくる建物や農民講習所や毛沢東の
家があります。租界のあった港湾地帯などあかぬけしたとこも
あります。日本では手に入る町の情報が非常に少なく、帰って
から買ってきた本をみて、武漢政府についての「二七革命記念館」を
見落としたのに気づきました。残念。
武漢は湖北省、南に湖南省があり長沙がありバスで7時間52元です。
恐ろしくきたないバスですが、これを南から北に乗ると北伐の
最激戦地の経験ができます。法政大学出版局「中国国民革命」
栃木利夫著に戦いの経過が出てますがこれを持ってバス旅行
すれば面白そうです。広州から武漢までいければすごい。
途中を、デジカメでとれば卒論になりそうです。どなたか
挑戦して報告してください。
飛行機でおとなりに農業史がご専門の元大学教授という方がいらして
いろいろ教えていただいた。農地改革は農民のレベルがある程度ないと
せっかくやっても、もとに戻ってしまうそうだ。もう少し教えて
いただきたかったが時間が不足で残念。何か、鶏と卵か、コロンブスの
卵のようで、解かったような、解からないような印象でした。
「二七革命記念館」の二七は1923年鄭州の2・7惨案のことでした。
呉佩孚による、北京ー武漢鉄道のゼネスト弾圧でした。
615 :
@名無しさん:02/10/20 20:27
ハインリッヒ・シュネター著「満州国見聞記」
リットン調査団同行記
講談社学術部文庫1567
2002年10月10日初版
616 :
@名無しさん:02/10/20 20:31
笠井孝之著「毛沢東と林彪」
日中出版
2002年1月31日初版
617 :
世界@名無史さん:02/11/01 23:03
よかったら西北の回族軍閥に関する研究を教えてください。
618 :
世界@名無史さん:02/11/01 23:46
『蒼天の拳』の悪役に西北軍の将軍?が出てきてるな。
舞台は満州国建国後の30年代だったと思うが。
619 :
@名無史さん :02/11/02 01:58
>>617 靡莫さんが、お休みなので情報がないのですが、このスレの
43,59,61,62,63はおよみですか?
盛世才、楊増新の情報はお持ちですか?
>>617 オーエン・ラティモア著「アジアの焦点」
弘文堂1951年
曾問五著「中国経営西域史」
上海商務印書館、上海、1936年
621 :
まったり親父。:02/11/02 11:37
はじめまして。
最近、友人が教えてくれるまで、此処のこと知りませんでした。
所謂安福国会の事を調べてる者ですが・・・。
これからも度々窺わせてもらおうかと思ってます。
今日は取り敢えず挨拶程度。
>>621 ようこそ。
このスレは、議論というより雑記帳感覚でつかってください。
書き込むと自分の知識の弱点がよくわかって、それだけで
勉強になります。
623 :
世界@名無史さん:02/11/03 14:57
あげ
624 :
世界@名無史さん:02/11/04 16:38
625 :
@名無しさん :02/11/04 17:12
週刊新潮の今週号のグラビアに出ている、第2革命による
日本人居留民被害に激昂する日本人が外務省に派兵をもとめて
押しかけている写真。ああいうのは当時の雰囲気がよく解かって
いい。
626 :
世界@名無史さん:02/11/04 17:45
中国の軍閥の首領の中には、日本の芸者を第○夫人にしてた奴もいる。
627 :
世界@名無史さん:02/11/05 20:50
あげる
628 :
西国のアズマ帰依者:02/11/08 19:51
>>626 つーか関東州日本人人口の1/5が、芸妓(早い話が売春婦)。
波多野善大『中国近代軍閥の研究』(河出書房)
630 :
@名無史さん :02/11/19 23:36
宍戸寛著「中国紅軍史」河出書房新社
最近は読書がやや左傾化しています。
専門の方にもお聞きしたい問題ですが、中国共産軍の文献は
私のみた範囲では非常にありません。そんな状況の中で、
宍戸さんは共同通信の記者出身の方のようですが、孤軍奮闘されて
分厚いこの本を書き上げたようです。特に共産圏の軍事情報は
軍事機密の関係もあってへたをすれば、つかまる恐れもあると
思われますが情報収集の馬力は驚くばかりです。なかなか読みこなすのも
大変ですが、ゆっくり読ませていただくつもりです。
631 :
世界@名無史さん:02/11/20 00:01
袁世凱が皇帝になった時の王朝ってなんていう名前?
632 :
世界@名無史さん:02/11/20 00:03
そのまんま「中華帝国」。元号は「洪憲」。
633 :
世界@名無史さん:02/11/20 04:48
袁世凱の長子で、中華帝国の皇太子だった袁克定って人は、
父親の死後、没落して一時はホ−ムレスまで身をおとしたが、
中華人民共和国成立後は、中国政府から年金を支給され、父を
筆頭とする軍閥を批判する本を書く仕事をしていたそうです。
次男は袁克文は家出して青幇に入った。
柳田国男が家庭教師したのは長男か?
張作霖の息子の一人、張学思は中国共産党に入党し、
中華人民共和国成立後は、中国海軍の参謀総長になり
ました。だが、賀竜と親しかったことで、林彪の憎しみ
を買い、文化大革命で惨死しました。晩年の張学良が、
中国政府の再三にわたる帰国要請を無視し続けた原因
の一つに、実弟張学思が文革で惨死したことへの恨み
があったといわれています。
637 :
世界@名無史さん:02/11/22 14:38
魯迅
638 :
軍籍離脱諜報員:02/11/22 16:51
お初に書きこまさせていただきます。
中公文庫『曠野の花』(石光真清著)に、馬賊(この表現には問題があるがここでは
無視)の頭目と結婚した日本人芸妓、いわゆる「馬賊芸者」の身の上話が収録
されています。「わたくしも、次第に馬に乗り、剣を帯びるようになり」とか
ものすごく淡々と語るのがかえって凄みがあります。日本人の芸妓は初等教育を
受けていて、漢字と計算ができるので、第○夫人にして事務や会計を任せるという
パターンが多かったみたいですね。
同じ著者の回想録『城下の人』『望郷の歌』『誰のために』もまとめて読むと、
明治維新の熊本戦争、台湾出兵、大津事件、日清日露戦争から最後にはシベリア
出兵まで堪能できます。
こんなまじめなページが2ちゃんねるにあったとは...
軍閥時代に興味のある方が多いようですが、それ以前、清朝時代に絡めて
考えている方とかいらっしゃいますか?というか私がそうなんですが。
>>639 おっしゃる通りと私もおもいます。
太平天国の乱やアヘン戦争のころから考えていかないと
蒋介石や毛沢東はわかってこないと思います。
お好きなところからカキコしてください。
641 :
まったり親父。:02/11/24 13:29
うーむ。確かに軍閥について考えるには李鴻章等に遡るのが一般的ではあるのでしょう。
時期的な変遷を整理していくことなく軍閥を一括りに定義付けするのは問題があるように思います。
個人的な問題意識としては、地方軍事長官や中央の軍人に対する軍閥評価について、個人の経歴やカリスマ性のみならず、地方の実力者たる郷紳や人的関係などによる背景をもっと重視すべきなのではないかと思うのですが。
軍閥を、個人を頂点とした軍事集団としてのみ捉えるのではなく、むしろ地方勢力としての社会集団として考える必要もあるのではないでしょうか。
如何せん、僕自身まだ考え中なので中途半端でスミマセン。
中央政府と地方勢力の力関係等について何か分かることがあったら教えてもらえませんでしょうか。
>>641
私のお返事で大変僭越ですが、
1.>時期的な変遷を整理することなく・・・・
そう思います。私自身は北洋政府と広州政府の流れを中心に考える
ように努めましたが、二つの流れを連結させるのに苦労しました。
2.>個人の経歴やカリスマ性のみならず・・・
個人の経歴を手始めに時代の理解に入る。この手法はこのスレを
始められた靡莫 さんに教わった手法ですが、歴史も結局、個人史の
集合と考えれば、それはそうで、たとえば、明治維新をかんがえるのに、
あの時代の登場人物の経歴をみんな知っていると、次のステップに
行きやすく、小学生の勉強の「人物日本の歴史」みたいですが、私としては
よい方法でした。総論やアナール派的手法は第二ステップとしています。
3.>中央政府と地方勢力の関係
この問題は中国史の中心テーマと思っています。中国が巨大なために
地方に分離独立の力が働くと同時に、輝かしい「中華」のパーツでいたい
という意識のせめぎあいがあるようにも感じます。
横山宏章先生が最近中公新書でそのことを述べられていたようにも
思います。
643 :
ネタガキタ−−−−−−!!!!!!!!!!!:02/11/24 21:00
>636
父親を日本軍に殺され、弟を中共に殺されたのに自分はハワイで大往生。
張学良の人生って???
644 :
世界@名無史さん:02/11/27 15:11
台湾で監禁生活中の張学良の奔放な性生活を描いたエロ小説なんてのも
あるらしいです。ちなみに、監禁生活中、蒋介石の目を欺く為に、あざと女遊びに
うつつを抜かしたと張学良自身がいってたそうです。
645 :
世界@名無史さん:02/11/27 15:21
清朝北洋軍のボスの一人張之洞の長男である張燕卿は、
満州国建国に参加して政府閣僚になったために、日本の敗戦に
よる満州国崩壊後、中国政府に戦犯として逮捕されました。
しかし、戦犯収容所の看守を買収し、脱獄して日本に国外逃亡
したという話を読んだことがあります。
張燕卿の日本逃亡後の足取りを詳しくご存知の方は、ぜひ書き込みを
よろしくお願いします。
646 :
世界@名無史さん:02/11/29 09:02
スレの内容とは大きく趣旨がずれると思いますが、独立後
のラテンアメリカ諸国においては、私兵を従えた地方勢力
のボスである「カウディーリョ」が権力争いを繰り広げて
いたと聞きます。自分の知るところではアルゼンチンの
ロサス、パラグアイのフランシア、メキシコのサンタアナなど。
これらラテンアメリカのカウディーリョと、このスレのテーマとなって
いる中国の軍閥との具体的な相違点についてどなたか教えていただ
けませんでしょうか。
647 :
まったり親父。:02/11/30 15:43
>642
お返事ありがとうございます。
僕自身は、個人史を中心に特殊化と普遍化を繰り返すことに抵抗を感じてしまうんですよね。
その結果が個人を持ち上げたり批判したりの極端な評価に繋がっているように思えるものですから。
むしろ、個人はアクターとし、ある事象の全体像を捉える際の一部であると考えています。
まあ、方法論はテーマに対するアクセスの仕方の問題でしかないのでしょうが。
どうしても自分のやり方に固執してしまうのは、良くもあり悪くもあり。何かアドバイスあったら是非お願いします。
「分離独立」の問題についてですが、これは非常に興味深いんですよね。
民国初期の独立宣告をした諸省は何れも復帰してるし、地方政府の組織もけっして新国家の形成を目的としたものではないんですよね。
こういった点から考えると、政府に地方が従属しているのではなく、地方の集合体の聯絡機関として政府が機能しているのではないかと思うのですが。
そもそも、中華民国政府の成立段階がそのようであるのだし。
648 :
@名無しさん :02/12/01 00:57
>>642 中公新書→集英社新書
>>647 最近このスレを人名辞典と年表にしてしまってるようで本人も
気にはしているんですが、基礎知識の不足のせいなので見逃してください。
>>646 南米の軍閥については全く知識がないのでお答えできませんが、
アフガンの軍閥のニュースをみたりするとあれは似てるなと感じますが・・
>>645 張之洞(1837−1909)
張燕卿(1898−没年不詳)
長男でなく孫のようです。
1948年懲役10年の刑。金を使って脱獄。台湾に逃げ、
のち日本に渡り東京有楽町で貿易商を営む。
岡田春生編「新民会外史」五稜郭出版社、1987年
649 :
世界@名無史さん:02/12/02 16:17
張燕卿だけでなく、中華民国期の官僚、軍閥、買弁商人の子息で、
第二次世界大戦後、売国奴といわれて迫害されることを恐れて日本に
亡命した人がけっこういるそうです。ほとんどの人が帰化して日本人
になられたそうですが。
650 :
世界@名無史さん:02/12/03 21:03
最近の国民党期政治史研究は手詰まり感があるような。
家近にしても北村にしても、意味不明の研究だし
651 :
世界@名無史さん:02/12/03 21:16
>家近にしても北村にしても
この二人は酷い!
652 :
世界@名無史さん:02/12/04 13:18
湖南省湘西地方に勢力を誇った軍閥陳渠珍の詳しい伝記を
ご存知の方は、ぜひとも書き込みを御願いします。
特に、中華人民共和国成立後の彼の人生が知りたいです。
653 :
世界@名無史さん:02/12/04 13:54
以下の軍閥について詳しい伝記をご存知の方は
ご教示ください。
安徽省阜陽の軍閥 倪道熙
河北省の軍閥 柴雲昇 張治公 王振、張得勝 李万如 姜明玉
「北洋軍閥統治時期史話」全8冊(三連書店、北京、1959年)
湖南省志編纂委員会編「湖南近100年大事記述」第2次修正本
(湖南人民出版社、長沙、1079年)
上田正一監訳「近代中国の軍閥列伝」(学陽書房、1990年)
民国期のシュミゲー作って欲しいな〜!
その名も「国共演義」!
民国演義でもいいけど、ありきたりだしなー。
年代は1880〜1960年代ぐらいまでね。
もちろん最後のシナリヲは台湾と大陸で国共が対峙している感じで♪
海を挟んで両軍を戦わせないとネ!
本省人の不満という問題とかもちゃんと再現してね!
関係無いレスすまそんです。
遼瀋戦役は面白そうだなー
>>655 北平に国民軍釘付けにする共産軍は燃える
勝てる要素が見つからないが(w
657 :
@名無史さん:02/12/15 22:42
658 :
@名無史さん:02/12/16 18:42
(馬 本斎、ば ほんさい、1902−1944)
1902年、河北省の生まれ、回族
18年、内モンゴルで放牧
21年、張作霖軍に入隊、東北講武堂に入学
24年、第2次奉直戦争に参加
32年、共産主義への関心が見つかり、離軍
37年、盧溝橋事件、国民党が子牙河の堤防をきり洪水
馬本斎は回族義勇隊を組織
38年、中共冀中委員会は回族対策重視のため回族の劉文生を
冀中回民抗日建国総会主任に任命、馬本斎の八路軍参加
が決まった。
中共入党
40年、回民支隊は2000人に増強戦果をあげた。
44年、回民支隊は延安防衛の任務についたが自身は肺炎で死亡。
1.五族とは漢、満、蒙、回。蔵
2.青海、寧夏、北部甘粛は当時「四馬」という回教の将軍一族に支配
されていた。馬鴻逵、馬鴻賓、馬歩芳、馬歩青の四大馬として
中国全土に有名だった。馬本斎は関係ない。
3.共産党が当時回族に約束したのは次の通り。
一切の付加税の廃止
回教徒自治政府樹立の援助
徴兵制度の禁止
旧債の取り消し
回教文化の擁護
あらゆる派の宗教の自由の保証
抗日回教軍の創設と武器の援助
中国、外蒙古、新疆およびソ連の回教徒の連合援助
4.1846年、回教徒の反乱、左宗棠による鎮圧
5.1928年、回教徒の反乱、馮玉祥との関係不明
6.共産党と回教徒、ウイグル族の問題は現在にても重要。
659 :
世界@名無史さん:02/12/23 13:48
盛世才失脚後、新彊省の実権を握った軍閥陶峙岳は、中華人民
共和国建国に参加した功績で、人民解放軍の上将に任じられた他、
全国政治協商会議副主席や全人代副委員長を長年務めるなど、
新彊ウイグル自治区の漢民族の元老として活躍しました。
そして、八十歳を過ぎてから、中国共産党に入党し、九十年代
前半に百歳近い高齢で死去した時は、中国共産党の党葬で埋葬され
ました。
660 :
世界@名無史さん:02/12/24 12:17
元スイ遠軍閥のトウ其武も、1980年に中国共産党に入党しています。
あと、中国共産党には入党はしていませんが、元寧夏の回族軍閥の
馬鴻賓は、中華人民共和国建国に参加して、甘粛省副主席に任じられて
います。
661 :
世界@名無史さん:02/12/24 12:29
662 :
世界@名無史さん:02/12/25 14:11
山東軍閥張宗昌の養子となり中国国籍を取得し、日本軍の別働部隊を
率いて満州国建国、上海事変等で暗躍した日本の大陸浪人伊達順之助の
生涯を詳しく書いた本があれば、書名をお教えください。
伊藤順之助についての本は解かりません。張宗昌と共同でうごいていた
人物に関しては;
1. 馬賊戦記 : 小日向白朗と満洲 / 朽木寒三‖著 / 番町書房 , 1966
2. 小日向白朗と満洲 / 朽木寒三‖著 . 新装改訂 / 番町書房 , 1977 ( 馬賊戦記 ; 上 )
3. 小日向白朗と中国 / 朽木寒三‖著 . 新装改訂 / 番町書房 , 1977 ( 馬賊戦記 ; 下 )
都立中央図書館3館には、ある。3は多摩だけ。
664 :
世界@名無史さん:02/12/25 16:43
先日、大阪・難波の中国政府観光局でもらった寧波の観光
パンフレットを読んでいたら、そこでは蒋介石のことを蒋介石先生と
先生の敬称付けで表記してありました。蒋介石のことを、蒋匪
という蔑称で呼んでいた一昔前の中国に比べると、時代を進歩
を感じます。
665 :
かきつばた:02/12/25 17:47
>>664 台湾に「統一」を呼び掛けようというとき、台湾内の「統一派」 が奉ずる「蒋先生」を
罵倒するようなことは、得策でない、ということでしょうね。
666 :
世界@名無史さん:02/12/25 17:53
668 :
世界@名無史さん:02/12/26 13:21
北洋軍閥や安福クラブ系政客、洪憲帝制推進派人士で、
中華人民共和国建国に参加して、新政府の高官になった人は
いますか?
669 :
世界@名無史さん:02/12/26 14:35
伊達順之助以外にも、北洋軍閥支配時代の中国で
日本から中国に国籍を変更した日本人がいれば、教えて
ください。
670 :
世界@名無史さん:02/12/29 15:35
軍閥フ良佐の、湖南省の省長の地位を追われて以後の
経歴を教えて下さい。
(傅 良佐、ふ りょうさ、生年不詳ー1926年)
湖南省の生まれ
日本の陸軍士官学校卒業
北洋軍に入り、徐世昌、袁世凱の部下
中華民国成立後、安徽派段祺端の「四大金剛」の一人、四天王と同じか?
1917年、8月傅は譚延がいの後を受けて湖南督軍に任ぜられた。
彼の湖南督軍への就任は全国の武力統一を目指す
段祺端の南方制圧のための布石であった。
しかし段に反対する勢力が独立を宣言し、湖南戦争が
勃発し、同年11月湘桂連合軍に地位を追われる。
安徽派軍閥の敗退により、彼も失脚し天津に閑居し
26年、当地で病死した。
672 :
世界@名無史さん:03/01/01 16:07
蒋介石の北伐に敗北し、福建省を追われた
福建軍閥周蔭人は、福建を追われた後、どう
なりましたか?
674 :
世界@名無史さん:03/01/06 12:27
北洋軍閥で、北伐軍に敗北後、日本に亡命した人は
いますか?
675 :
@名無史さん:03/01/09 22:44
>>674 聞いたことはありません。なかったという確認は難しい
ですね。問題は敗れた軍閥というのはどういう状態か
ということでしょう。私の想像ですが、軍閥稼業という
ものは、お互い権力争いでしょうから、理想社会を
目指した場合などより、ドライな関係で、降参してくれれば
それでよい。怨念もなにも無いあいだがらの気がします。
だから、隠しておいた財産をもって、租界にでも逃げ込めば
すんだのではと思いました。もっとも孫伝芳などは、仇うち
にあってますが、これは軍閥戦争のせいではないでしょう。
この考えには特別根拠もありません。
676 :
世界名無史さん:03/01/09 23:15
>>662 伊達順之助って上海事変で暗躍してるの?
川島芳子とごっちゃになっているんじゃないの。
伊達順之助の小説は「夕日と拳銃」のほかにも
伝記小説「闘神」胡桃沢耕司
都築七郎「秘録伊達順之助」があります。
まるっきりフィクションの小説では
樋口明雄「弾頭」とその続編「狼叫」に出てきます。
「狼叫」には川島芳子も登場します。
主人公は女馬賊で伊達や川島は敵役として出てくるのですが。
また胡桃沢耕司は川島芳子を主人公にした「夕日よ止れ」という
小説も書いていました。
(^^)
678 :
@名無史さん:03/01/13 21:54
679 :
世界@名無史さん:03/01/13 21:56
「夕陽と拳銃」には若き日の金日成も出ていなかった?
681 :
世界@名無史さん:03/01/15 16:54
675
山東軍閥張宗昌が、北伐軍に敗北後、一時期日本に
亡命していました。
682 :
世界@名無史さん:03/01/20 12:59
張宗昌は川島芳子の弟愛新覚羅憲開を自分の妾と関係した男と勘違いして
ピストルで撃ち殺してしまい、肅親王家から恨まれたそうだ。
「男装の麗人川島芳子伝」に別府でと書いてあったから
日本に亡命してたときにやっちゃったんだろう。
683 :
世界@名無史さん:03/01/21 13:33
張宗昌は、故郷の山東省に帰った時に、山東軍閥韓復渠の手下に
暗殺されました。
684 :
@名無史さん:03/01/29 21:45
お久しぶりです。
長らく書き込んでいませんでしたが、順調にレスが伸びていたので
スレを立てた人間として嬉しいです。
答えを後回しにしていた話題などについて、
少しずつですが書き込んでいこうと思います。
>>684 ご無沙汰しています。数ヶ月間も休んでしまって本当に申し訳ありません。
様々な話題を書き込んでいただき、ありがとうございます。
>>617 西北馬氏の研究は以前(
>>514)も書き込みましたが、
日本での研究はほとんど存在しません。
中国側の書籍で一例を挙げると、
『諸馬軍閥集団与西北穆斯林社会』(寧夏人民出版社)などが挙げられます。
日本の数少ない例(といっても西北軍閥が主テーマではありませんが)として、
西村茂雄編『現代中国の構造変動3 ナショナリズム』(東京大学出版会)の
第3章、松本ますみ「中国イスラーム新文化運動とナショナル・アイデンティティ」が
西北軍閥の動きに触れています。
超遅レスでスミマセン・・・。
687 :
@名無史さん:03/02/02 21:07
祝、靡莫さん復帰age
最近、このスレをごらんになり始めた方は、大エースが大リーグから
復帰されましたので、質問などお書きください。
>>687 そんな大げさな・・・(汗
復帰と言っても、そんなに速いペースでは書き込めないと思いますが、
よろしくお願いします。
>>652 陳渠珍(1882〜1952)は、保定陸軍軍官学校出身で、湖南軍閥の1人です。
湖南省西部の鳳凰県周辺を根拠地にして、
当時の湖南軍閥の中心的指導者だった
唐生智や何鍵に対しても独立した勢力を形成しています。
その結果、陳渠珍は「湘西自治政府(湘は湖南省の略称)」を打ち建て、
「湘西王」と称されました。
陳渠珍は勤勉な性格で、政務には極めて熱心だったそうです。
支配地域で重税を課したとして非難される一方で、
実業や教育の振興にも努めました。
690 :
世界@名無史さん:03/02/04 17:49
すいません「革命勢力」のほうにも書いたのですが、
「大公報」他、各新聞の所蔵図書館ってwebcatでは正しく出てこないようです。
どうすれば調べられますか?
教官に訊くのが手っ取り早いかもしれませんが、、、
>>690 アジア経済研究所の
『中国文雑誌・新聞総合目録』は御覧になりましたか?
大学図書館なら置いてあるはずです。
わーい靡莫さんが
帰ってきた!
復帰おめでとうございます。
Feng2 Yu4Xiang2
馮玉祥について少し。
直接の目的は西北軍の理解ですが、それにこだわらないで、
つかみどころの無い人ですが、少しずつやります。
まずはお墓からスタート。
>
http://yongdai.peko.li/nikki/taian02.htm 1929年国民党第三回中央執行委員会委員に当選。
次年3月閻錫山、桂系(李宗仁)と反蒋介石連盟を結成。
10月中原で敗れた後、西北軍は瓦解した。
1932年山東泰山に居を移す。
次年5月吉鴻昌、方振武と察哈爾民衆抗日同盟軍を組織し、総司令になる。
8月に辞職し、再度泰山で隠居する。
山東省に泰安市があり、その北に泰山があるらしい。
地球の歩き方にも、馮玉祥の墓や馮玉祥小学校がでている。
軍閥でも彼は新中国で認められてるようだ。
彼の黒海での船火事には、陰謀の噂でもあるのだろうか?
布施勝治著「支那国民革命と馮玉祥」1929年、昭和4年
布施さんは新聞記者出身らしい。孫引きによると、
馮玉祥を、現実主義者の側面と権勢に恋々とし、精神が動揺し、
それを克服しようとキリスト教徒になった変節漢と手厳しい。
いさぎよい、ある意味で単純な日本人からみると複雑な中国人は
理解しにくいだろう。
丸山松幸著「馮玉祥のことなど」中国研究月報513号(1990,11)
馮玉祥は文革で攻撃されたが、名誉回復後、10冊位本がでているそうだ。
中国でか?
行動が複雑で、共産主義に対する考えも、判断しにくい由。
ジェームス、E、シェリダン著「中国軍閥ー馮玉祥の一生事業」
英文、参照不能、クリスチャンであることは、欧米人には
興味を引くだろう。
(李 徳全、りとくぜん、Li3 De2quan2, 1896-1972)
直隷省生まれ、馮玉祥夫人
牧師の娘、3才で洗礼、協和女子大卒業
1924年、馮玉祥と結婚、
26年、馮玉祥の下野で張家口へ住み、
この年、外蒙、ソ連へ同行、
33年、民衆抗日同盟軍組織のためにチャハルへ移住、
41年、重慶へ移住
46年、アメリカへ
48年、船の火災で馮玉祥を失う。
新中国誕生後、中国紅字会会長
中国の婦人の地位向上と福祉衛生の充実のため
その生涯をささげた。
>
http://coe.aa.tufs.ac.jp/syoshi/essay/shanxi.htm ↑張家口、山西省の旅行記、閻錫山の家も訪問
山西省も実はなかなか豊かそうだ。
(楊虎城、ようこじょう、Yang2 Hu3cheng2、1893−1949)
陝西省の貧農の生まれ
1908年、農民団体を組織、陝西起義に参加
15年、反袁世凱闘争勝利
17年、陝西靖国軍に参加
21年、呉佩孚の勢力に対抗
22年、国民党に入党
馮玉祥の国民軍が組織されると参加
25年、軍学校に黄埔卒の中共党員を吸収
27年、中共入党希望許可されず
28年、日本へ、大岡山、東中野に住む
29年、蒋介石対馮玉祥戦争、中原大戦 蒋対閻錫山、馮玉祥で
どちらも蒋介石につく。
30年、17路軍(西北軍)を率いて西安へ、陝西省主席
33年、蒋介石に主席を解任される。
紅軍と内通していた。
36年、西安事件以下略
>>692 ありがとうございます。レスが遅れてすみません。
拙い書き込みですが、少しでも読んで頂ければ幸いです。
>>695 馮玉祥についてありがとうございます。
馮玉祥の研究としてはこの他に、
波多野善大『中国近代軍閥の研究』(河出書房新社、1973年)収録の
「国民革命期における馮玉祥とソ連の関係」も参考になります。
布施勝治の馮玉祥評とは対照的に、
波多野は馮を「読書人的農民的開明軍閥」として高く評価しています。
ちなみに布施勝治は『大阪毎日』の記者で、
レーニンやトロッキーにインタビューしたことで知られています。
また、シェリダンの著作は、Chinese Warlord; The Career of Feng Yu-hsiang
(Stanford University Press., 1966)です。
シェリダンは、アメリカでの軍閥研究の先駆けを為した人物の1人ですね。
>靡莫殿
お久しぶりですね、お元気でしたか?
布施勝治ですが、馮玉祥の著書”我が義弟蒋介石”という本にも少し出てきます。
それによると本人(布施)が馮玉祥を訪ねて曰く、私の本は人から2万元貰って
書いたもので、馮玉祥がソ連と売国条約を結んだと書いたがあれは間違っていた。
今度はもっと良い本を書くつもりだと言ったそうです。
>>700 勲章好きさん、こちらこそお久しぶりです。
突然休んでしまい、申し訳ありませんでした。
軍服制作の方はいかがですか?
布施勝治についてありがとうございます。
著作発表後、布施は馮玉祥に直接会っていたんですね?
今度、『我が義弟蒋介石』を読んでみます。
ところで、布施の“売国条約”という表現はともかく、
馮玉祥がソ連との密約で軍事的援助を受けていたのは、
紛れも無い事実ですね。
当時の雑誌『外交時報』(504号)には、
ボロディン、馮玉祥、片山潜の3者が1925年に北京で結んだとされる
秘密協定の文面が載っています。
ただし波多野善大によれば、
それが事実という確証は取れなかったそうですが。
スミマセン、
>>701のところ、×軍服→○礼服ですね。
失礼しました。申し訳ありません。
>>697 そう言えば、楊虎城についてはまだ詳しく取り上げて無かったですね。
楊虎城は張学良の影に隠れがちですが、陝西省の貧しい家庭に生まれ、
会党の一員から軍閥指導者にまで這い上がった異能の人物です。
学良とは対照的な境遇を生きた人物と言えます。
楊虎城は若い頃から共産党の政治姿勢に共感を寄せていて、
1922年頃から本格的に共産党と交流を始めています。
書き込まれたとおり、1927年に楊は共産党への入党申請を行っていますが、
当時の指導者瞿秋白の路線に従った党河南省委員会に拒否されました。
※参考:郭緒印『国民党派系闘争史』上海人民出版社、p467〜468
シェリダンの本の解説文がありました。
>
http://orpheus.ucsd.edu/chinesehistory/pgp/sheridan.htm 馮玉祥の私的な書き物、日記、部下のインタビューから本を作った。
彼の結論は馮の行動の動機は清朝の地域軍としてつちかった軍事技術
と機会によって獲得した権力の保全だった。そこがナショナリズムが
根底にある蒋介石と本質的にちがう所としている。
彼の軍隊は賭博、喫煙、飲酒、を禁止し、彼の個人の道徳心に適合させ
たが、シェリダンは馮の行動に世俗的な儒教の徳のある支配者という
役割も演じていたという。しかし、彼も他の軍閥のように、軍事力の
維持が第一目標だったから、甘粛省支配の時はひどい飢饉の下での
過酷な課税を続けた。5.30上海の英国の弾圧後、反帝国主義を
かかげ、共産主義に近づいたのも、武器や技術援助のためだし、
キリスト教もそのためにすてた。赤い活動家が入ってくると彼らも
パージしたという。
アメリカの初期の軍閥研究書でしょうか?
>>704 80年代までのアメリカでの研究状況については、
塚本元「アメリカにおける『軍閥』研究をめぐって」
(『近きにありて』第13号、1988年)、
同じく塚本「『中国近代軍閥』研究の現状と課題」
(『中国−社会と文化』第4号、1989年)を参照してみてください。
前者ではアメリカでの軍閥研究に関する文献一覧が掲載されていますし、
後者では日本及び中国での研究状況についても整理されています。
シェリダン(Sheridan)は、
後に『軍紳政権』を著したチェン(Chen、陳志譲)や
閻錫山の山西支配について研究したギリン(Gillin)と共に、
1960年代を代表する軍閥研究者です。
>>704 あと、いつも色々情報源を示してくださるのはありがたいのですが、
この掲示板からの直リンクは避けてください。
また、個人運営のサイトの紹介については、
好意的な紹介であるとしても慎重にして頂けないでしょうか?
申し訳ありませんが、以上の点について御配慮して頂ければ幸いです。
(干 右任、うゆうじん、Yu2 You4ren4、1879−1964)
陝西省の生まれ
上海で後の復旦大学や中国公学を起こす。
1906年、日本で中国同盟会に入る。
相次いで新聞を発行。
11年、南京臨時政府に参加。
16年、袁世凱の悶死後、陝西省で南方の孫文に呼応し挙兵。
18年、干右任は陝西靖国軍総司令に就任
22年、同軍は護法の目的を達成できず、陝西を追われ上海へ
上海大学を創立校長になる。
23年、国民党創設に参加。
25年、馮玉祥がモスクワへ亡命すると、李大サの命令で
モスクワで馮玉祥に帰国をうながす。
帰国した馮玉祥は国民党に入党
干右任は国民軍駐陝総司令に任命される。
31年、国民政府で監察制度の整備に貢献。
36年、西安事件で特使として派遣される。
37年、日中戦争では第2次国共合作に尽力
49年、台湾へ。
書道の大家、詩人としても第一級。
1、誰からも一目置かれた存在だったと想像される。
中国公学は現在の何だろう。
2、モスクワの話は馮の「我が義弟蒋介石」では全く触れない。
微妙な話があったのだろう。
3、陝西での活動は資料不足でよく理解できない。
(軍閥の官職、肩書きと管轄領域、縄張りの関係について)
1918-30, dominated Shanxi area.
馮玉祥の父は左宗棠の部下として新疆遠征経験があった。
1915年、陸建章は袁世凱の左路軍の長として陝西に移駐。
馮玉祥は部下として従う。
袁世凱の帝制に反対
21年、直隷系の陝西督軍の閻相文の部下として、安徽派の
前督軍の陳樹藩を駆逐し、上司の閻の死後陝西督軍に
22年、河南督軍に
呉佩孚の圧力で河南督軍から検閲使に左遷
24年、部下の張之江がウイグル都統に
25年、西北辺防督弁を任命され張家口へ
部下の李鳴鐘が綏遠都統に
馮玉祥が甘粛督弁
北京、ウイグル、綏遠、甘粛が支配地域に
28年、河南省政府主席に
靖国軍;1917年干右任が安徽派の陳樹藩を駆逐するために
陝西で組織した軍隊。河南督軍を破る。
中央政府からもらった肩書きの他に、となりの河南を破って、
おすみつきのある地位を武力でうばった感じ。すぐ呉佩孚に
左遷されるが・・
馮玉祥は河南軍閥と言われているが、権力の中心は河南なのか?
陝西なのか?
>>707 于右任は、教育者であると同時にジャーナリストとしても知られ、
清末には革命派の論調を唱えていました。
後に政治家や軍人の役職にも就いており、文芸活動にも秀でたため、
その活動は極めて多方面に渡りますね。
ただ、于右任は監察院院長を1931年以降ずっと勤め続けたため、
「于=監察院院長」というイメージが、一般には強いようです。
国民政府(国民党)内の政治的立場は中間派でしたが、
国共合作に尽力するなど、共産党にも一定の理解を示していました。
そのためか、于右任は台湾へ渡ったにも関わらず、
共産党が于を非難することはほとんど無かったようです。
>>708 以前、僕が馮玉祥を「河南軍閥」と表現したのは、
河南督軍に就任したこと、中原大戦などで河南を中心に戦ったこと、
そして回族馬氏の軍閥と区別すること、などを念頭に置いていたためです。
ただ実際には、馮玉祥の活動範囲は
中国西北部(陝西、河南の他、甘粛、察哈爾、綏遠など)
のほとんどに及びますし、
そのために馮の軍隊は「西北軍」と呼ばれることもありました。
馮玉祥を「河南軍閥」と表現したことは間違いとは言えないとしても、
あまりに一面的な表現では無かったか、と今では反省しています。
>>707の上海中国公学ですが、僕のほうで少し調べてみたのですが、
現在どうなっているかは分かりませんでした。すみません・・・。
711 :
世界@名無史さん:03/02/16 20:20
ageage
ウイグル→チヤハル
(武漢、南京の政府並立と北伐の継続)
この問題を調べてますが恐ろしく複雑。ゆっくり行きます。
>>713 第一次北伐(1926年7月〜)と第二次北伐(1928年4月〜)とでは、
それぞれ性格が大きく異なりますよね。
書き込み、期待しています。
話は変わりますが、
>>688-689で触れた陳渠珍については、
福本勝清『中国革命を駆け抜けたアウトローたち』(中公新書)が
数ページを割いて記述しています。
ちなみに小説家で有名な沈従文は、
青年時代に陳の下で書記を務めたことがあります。
(サブノート1)
1926年 8月 馮玉祥、ソ連より借款
9.17 馮玉祥、ソ連から帰国、五原誓師。
国民軍総司令に就任。国民党に加入。
1927年 1.1 武漢政府成立
4.12 上海クーデター
4.18 南京国民政府成立
4.19〜30 武漢政府の北伐、、開封占領
6.10 馮玉祥、鄭州で汪精衛、唐生智と会談、反共化
6.19 閻錫山、馮玉祥、国民党へ服従誓う。
馮玉祥「河南地方、紅槍、黄槍等会改編民団暫行条令」
5.10〜7.24 南京政府の北伐、徐州の敗退。
8.13 蒋介石下野
8.19 武漢、南京政府合流
1928年 4.8 国民革命軍北伐再開
5.3 済南事件
6.5 北京占領北伐完了を宣言
1.蒋介石と馮玉祥が義兄弟の誓書を交わしたのが、17年2月18日付けだから
1928年なのか?
2、武漢政府軍と、南京政府軍の軍事的対立は次回に。武漢からみて南京は東征。
3、武漢政府の北伐は順調に行われたように見えるが、中断されたのは、2)の事情
の他に。武漢の状態の不安定さもあったのだが、自分達だけで北京を陥落させる
自信がなかったのだろうか?
4、武漢側と馮玉祥の会談で、河南省の支配権を馮玉祥に認知し、馮玉祥からは
武漢政府が過激な革命方向に走らないように希望したらしい。
5、そのころ馮玉祥は徐州 で蒋介石とも会合し、協力を約束したという。
その日時が不明??
6、これは悪くとれば、二股をかけた保険にも見えるし、善くとれば、統一、協力
した国作りを願ったともとれる。
7、馮玉祥の「我が義弟蒋介石」は日中戦争期の本なので中国語の「我的生活」の
日本語訳が欲しいものだ。、
>>715 この時期における武漢政府と蒋介石との対立については、
波多野善大『国共合作』(中公新書)が、詳しく触れています。
武漢政府が頼みにしていた軍事力は、
湖南軍閥の唐生智と広東軍閥の張發奎が率いる部隊です。
しかし武漢政府の支配領域では、
共産党指導による農民運動・労働運動が高潮し、
特に唐生智ら湖南軍閥との対立が発生していました。
馮玉祥は最終的に蒋介石との連携を選択したのですが、
共産党を制御し切れない武漢政府を信用出来なかったことが、
おそらくは主要な原因と思われます。
>靡莫殿
どうも返事が遅くなってしまい申し訳ありません。礼服復元ですが、業者の手違い
等ありまして(なんせ海外の業者なので・・・・国内は既に製作不可)まだ見積も
り待ち状態です。なんとか無事完成させたいものですが・・・・。
『我が義弟蒋介石』、あの本は最初読んだ時は途中でうんざりしたものです。なん
かあまりにも一方的なもので・・・・。今は当時の雰囲気を知れる本として読めま
すが。
(李 景林、りけいりん、Li3 Jing3lin2)
河北省の生まれ。漢軍旗人の出身
保定軍官学校出身
1918年、奉天派の許蘭州の麾下で陝西に入り許を継いで
司令になるが破れ張作霖の部下に。
22年、第1次奉直戦争に参加
24年、第2次奉直戦争
直隷督弁兼省長。外部に国民1軍(馮玉祥)
国民2軍と対立。
25年、日本と密接な関係。
郭松齢が国民軍と同盟して東北国民軍と称し反張作霖の軍事行動を
起こすと、李も加担し北方国民軍と称して奉天派から独立した。
しかし李は郭も援助せず国民軍と衝突。
12月李軍は敗れ軍隊も追われ下野。
27年、北伐の蒋介石軍に参加しようとして張作霖に追われる。
(長安丸事件)
「1925年、10月馮玉祥は郭松齢、李景林と同盟を結び、
張作霖に下野をせまる。しかし地盤の問題で李と対立し、
また国民軍内部に内訌が生じたため26年1月下野し
モスクワへ赴いた。」
このへんの事情はわかり難い。
(張 発奎、ちょうはっけい、Zhang1 Fa1kui2,1896−1980)
広東省の生まれ
1920年、粤軍に入り、李済深の部下として陳炯明討伐に参加。
25年、粤軍第1師は国民革命軍第4軍になり、その第12師に。
26年、北伐開始。第10師(師長)と共に先鋒。
27年、第4軍長に。「鉄軍」の称号。
武漢国民政府成立
唐生智、張発奎は「東征討蒋」を主張したが「北伐続行」になる。
欧米は租界攻撃などから、南京側を支持していた。
武漢北伐軍
右翼;張発奎指揮、第4軍、第11軍、独立15師、
中路;劉興指揮、第30軍、第36軍、第8軍の一部、
左翼;河南保衛軍などの雑部隊
7月、国共分裂
8月1日;第11軍第24師師団長葉挺、
第20軍軍長賀龍は南昌で蜂起。
張発奎は半分以下になった第4軍を率いて追跡。
広州にもどり改組派の軍事バックに。
28年、反蒋戦争はじまる。
広西派の蜂起、張発奎は討伐軍に
30年、閻錫山、馮玉祥と中原大戦
31年、反蒋の広州政府に参加。
37年、日中戦争、上海、江西、広西、戦区で活躍。
49年、香港へ移住。
第4軍というと左派と考えるが、この人は左派でもないが、反蒋介石
らしい。この人も解かりにくい。
>>717 お忙しい中、レスしていただきありがとうございました。
礼服制作は大変な状況にあるのですね。
無事完成することをお祈りします。
『我が義弟蒋介石』は戦後にアメリカで口述されたものですし、
民主党派に与して政界復帰を図る馮玉祥としては、
反蒋介石の姿勢を鮮明にしようとする意図もあったと思われます。
ただ、蒋介石の「悪行」をいくつも並べ立てて攻撃している所は、
この人の執念や恨みの深さを示すものとも言えるんでしょうね。
>>718 李景林は馮玉祥に追われた後、
山東省に地盤を持っていた張宗昌と直魯聯軍を結成して、
馮玉祥に反撃、これを下野に追い込みました。
郭松齢による反張作霖の行動に、
東三省併呑を目論む馮玉祥の野心が大きく作用していたのは
言うまでもありません。
しかしこの画策により、かえって張作霖と呉佩孚を
反馮玉祥の連合へと走らせ、
馮は北洋政府陣営内で孤立してしまったのです。
(参考;波多野善大『中国近代軍閥の研究』)
>>719 張發奎は広東客家の出で、最初は陳炯明配下に属しました。
陳炯明が孫中山に反すると、張は雲南・広西軍と連携し、
陳を打倒して国民党側へ復帰しています。
波多野善大の研究によると、
張發奎の第4軍は二つの集団を柱に形成されていたとしています。
1つのグループは、客家のつながりで構成された「譜代集団」で、
もう1つのグループは、葉剣英、葉挺、賀竜など
共産党及び国民党左派のグループです。
南昌暴動などで後者のグループは離脱しますが、
客家集団としての団結力を維持していた張發奎の軍隊は精強で、
蒋介石を長期間に渡って苦しめました。
ちなみに第一次上海事変で日本軍と戦い、福建事変で蒋介石に挑戦した
第19路軍の蔡廷鍇(金→皆;カイ)は、張發奎率いる第4軍出身の軍人です。
なお、後に福建事変に参加した陳銘枢や、
蔡と共に第19路軍を率いた蒋光鼐(乃↓鼎;ダイ)は、
張發奎が第4軍軍長に昇進する直前に蒋介石の下へ奔っています。
この他の第4軍出身の有力軍人としては、
繆培南、黄h翔、呉奇偉、李漢魂などが挙げられます。
また郭沫若は、張發奎が第2方面軍総指揮に昇進した際に、
政治部主任を務めました。
陳 銘枢、ちんめいすう、Chen2 Ming2shu1)
広東省の生まれ
、中国同盟会入会
、武昌蜂起に参加
、保定軍官学校に学ぶ
1920年、陳炯明の部下
25年、国民革命軍第4軍(軍長は李済深)の第10師の師長
26年、北伐に張発奎の第12師と共に活躍
第10師は第11軍に昇格
27年、蒋介石と武漢政府の対立で蒋介石に付く
第11軍は第19路軍に改組
31年、江西省で紅軍ゲリラと戦う
反蒋介石の広州政府には入らない。
32年、上海事変、第19路軍は頑強な抵抗で有名になる。
19路軍は福建省に移動される。
神州国光社で社会主義者を援助
33年、李済深の人民政府に参加
戦後は江西省の代表などをつとめる。
1、張発奎と経歴が似ているが、最終的には共産中国に行く。
2、どこからか、次第に左翼になっていく。
3、武漢政府で唐生智とおりあいが悪いのか?
武漢の北伐には参加してないようだ。
4、この人の行動を理解するには第3党の知識が必要そう。
蒋介石、李済深、反蒋介石広州グループ、共産党と
いろいろからんで複雑な動き。
5、波多野先生の軍閥の本が図書館のでなく自分のが欲しいが
高い。他の本を何冊も買うより、無駄がないとは、
>>724 陳銘枢が1927年に蒋介石の側に与したのは、
(1) 武漢政府の聯共路線に反対だった。
(2) それ故に、聯共路線を堅持する唐生智・張發奎との対立が激化した。
ことが原因となっています。
陳銘枢は第三党指導者のケ演達と親交が深く、
また、1930年にすでに神州国光社を買収していたことから見ても、
もともと国民党左派に同調する傾向が強かったのでは、と思えます。
一方で、国内統一を進める蒋介石への支持も堅持していたのですが、
柳条湖事変以後は、対日政策をめぐって、
次第に蒋との対立が激化していったようです。
あと、「革命勢力」スレでも紹介しましたが、
第三党に関わった広東軍閥指導者については、
周偉嘉『中国革命と第三党』(慶應義塾大学出版会)が詳しいです。
>5、波多野先生の軍閥の本が図書館のでなく自分のが欲しいが
>高い。
確かにそうですよね。
今のところ『中国近代軍閥の研究』は、
どんなに安くても2万円前後はするようですし。
復刻版が出てくれれば嬉しいんですけど・・・。
『我が義弟蒋介石』に
蒋介石が作った強制収容所の話が出てきますけど
国民党の大陸時代の強制収容所についての資料ってありますか?
(李済深、りさいしん、Li3 Ji4shen1,1885-1959)
江西省の生まれ
1913年、保定軍官学校,陸大卒業
25年、国民革命軍第4軍軍長
26年、北伐開始、広東の留守主任になる。
この時期に広東の実権をにぎる。
27年、蒋介石の4.12上海クーデターに対応し
広州でも反共清党、
広州コミューンも鎮圧。
29年、蒋介石から広西派攻撃命じられ拒否、軟禁される。
32年、剿匪副司令
33年、福建革命政府を樹立、瓦解。
36年、反蒋抗日の両広事変に参加。
45年、抗日戦終了時、反共内戦に反対
49年、新中国成立後、副主席。
(蔡廷鍇、さいていかい、Cai4 Ting2kai3,1892-1968)
広東省の生まれ
1922年、粤軍で陳銘枢の部下
国民党入党
26年、北伐に第4軍第10師第28連隊長
第11軍第24師長として活躍。
27年、南昌蜂起には、中途で共産党と別れ広州へ。
29年、粤桂戦争に参加。
30年、中原大戦、蒋介石につく。
32年、上海事変、第19路軍総指揮「抗日将軍」と
名声。蒋介石は徹底抗戦をきらい、19路軍は
福建に移動させられる。
33年、「剿共戦」に従事
第19路軍と中共で「反日反蒋の協定」
福建人民革命政府(2ヶ月で崩壊)
第19路軍も解体。
香港で反蒋反日運動
新中国で政府委員。
1、この人の世代になると軍閥的な動きが少なく軍人らしくなる。
2、第19路軍はいつ出来たのだろう。
3、囲剿も攻撃側がどうもまじめにやってないようでうまく
いきそうもなさう。
>>727 重慶の中美合作所など集中営(強制収容所)については、
今のところ、当時の人々の回想などが主な資料だと思います。
日本では所蔵している図書館は限られているようですが、
薩空了『両年、在国民党集中営』(中国文史出版社、1985年)という
書籍が存在します。
この他では各級の文史資料選輯などに、集中営についての
回想が掲載されています。
また、元軍統の沈酔による回想録『軍統内幕』(文史資料出版社、1984年)、
そして戴笠について記述した江紹貞『戴笠和軍統』(河南人民出版社、
1994年)なども参考になると思います。
日本での書籍は僕が見る限り、ほとんど存在しないようですが、
前田哲男『戦略爆撃の思想』下巻に、中美合作所についての
記述が数ページに渡って掲載されています。
>>729 >2、第19路軍はいつ出来たのだろう。
中原大戦で軍功を上げた第60師(師長蔡廷鍇)、第61師(師長蒋光鼐)
を基に、1930年7月に第19路軍が結成されています。
このとき、蒋光鼐が第19路軍総指揮、蔡廷鍇が第19路軍軍長に就任しました。
>3、囲剿も攻撃側がどうもまじめにやってないようでうまく
いきそうもなさう。
この頃の第19路軍は、すでに共産党との協力交渉を進めていました。
周偉嘉氏の前掲書によれば、
第三党が共産党と第19路軍との仲介役を務めていたようです。
情報ありがとうございます
ところで革命後、中共につかまった
軍統メンバーって下っ端はみんな処刑されたけど
大幹部は結構助命されているんですよね
沈酔なんて真っ先に処刑されてもおかしくないんですけどね
(陳 済棠、ちんさいとう、Chen2 Ji3tang2、1890−1954)
広東省の生まれ
1913年、広東陸軍速成学校卒業
26年、北伐時には李済深の下で広州守備、
27年、ソ連視察、蒋介石に反共を進言。
28年、第4軍長に、胡漢民、古応芬と知り合う。
29年、李済深が反江西に反対し監禁される。
陳済棠は蒋介石につき広州の実権をにぎる。
31年、胡漢民が監禁されると広東、江西の反蒋勢力と結ぶ。
蒋介石に近い陳銘枢を広東から駆逐。
陳済棠の軍事力を背景に広州国民政府ができる。
広東、南京両政府妥協。
36年、胡漢民死亡の時期をのがさず、蒋介石は辞任を要求。
李宗仁等と両広事変をおこすが敗退、香港へ。
54年、台北で死亡。
胡 漢民、Hu2 Han4min2、1879−1936)
広東省の生まれ
1904年、法政大学入学。
05年、中国同盟会に。機関誌「民報」編集
11年、武昌蜂起、広東都督に
12年、孫文臨時大総統の秘書長に
17年、広東護法政府に参加
25年、廖仲ト暗殺の嫌疑でソ連へ
28年、南京、武漢合体後の国民政府立法院長。
30年、独裁化する蒋介石の「訓政時期約法」に反対。
31年、3,1、蒋介石との対立で監禁される。
5,5、「訓政約法」通過
5,25、広東国民政府が出現。
9,18、満州事変
以後、胡漢民は香港、広州で「抗日、倒蒋、反共」運動を
起こすが、広州を陳済棠に握られ、実権がなかった。
1、南京政府において、蒋介石と反勢力の関係は更に検討したい。
2、胡漢民が廖仲トの容疑をかけられていて、ソ連に行くのは
不思議だ。
3、4軍の人脈の中でも色々な動きをしていて興味深い。
>>732 共産党が下級の軍統ほど厳刑に処した理由はいくつか考えられますが、
(1) 下級の軍統ほど、白色テロや運動鎮圧に現場で従事していたため、
弾圧された人々やその家族の恨みを直接受ける存在であった。
そのため、下級の軍統を処断して新政権への支持を集めようとした。
(2) 名の知れた上級の軍統に寛大な処置をとることで、国際社会に好印象を
与え、また台湾の国民党政府にプレッシャーをかけようとした。
ことなどが主要な原因と思われます。
蒋介石による日本軍の戦犯裁判と同様の傾向と言えるかも知れません。
人によっては「刑不上大夫」の伝統を指摘する人もいるようですが、
それよりも冷酷な政治判断に基づいた行為だっただろう、と僕は思います。
ちなみに沈酔は、
逮捕直前には国防部雲南遊撃司令部司令(陸軍中将)の任にありました。
>>733-734 胡漢民と陳済棠による反蒋介石活動ついては、
戦前に波多野乾一が『現代支那の政治と人物』(改造社、1937年)で
詳しく触れています。
陳済棠は両広事変で敗退するまで、広東に強力な地盤を築き上げ、
蒋介石から恐れられていました。
なお、広東軍閥の有力な指導者たちが、
抗日戦争以降どのような政治的立場をとったかを整理すると、
李済琛・陳銘枢・蔡廷鍇・蒋光鼐・黄h翔→親共反蒋(国民党革命委員会)
陳済棠→反共親蒋
張發奎→反共反蒋(孫中山の子である孫科や李宗仁を支持)
といった感じになります。
北京政府(北洋政府)の外交・政治などに関する論文集として、
中央大学人文科学研究所編『民国前期中国と東アジアの変動』
(中央大学出版部、1999年)を紹介します。
また、この本の序論では、
民国期の時期区分や「軍閥」、「北京政府」の呼称問題についても
言及しています。
蒋介石は
「戴笠さえ死ななかったら負けなかった」
と晩年語ったそうです
どうやら戴笠の事故死後の軍統は
まともに機能していなかったみたいですね
(孫 科、Sun1 Ke1、1891−1973)
広東省生まれ、孫文の長男、母は盧慕貞
1916年、カリホルニア大学卒業
17年、帰国
21年、広州市長
22年、国民党創立に参加、太子派集団を形成、
胡漢民等の元老派集団と対抗。
27年、武漢政府に陳友仁等と参加、
蒋介石辞任後の南京政府で活躍、
復帰後辞任アメリカなどで外交に従事
帰国後、鉄道、航空整備に活躍、
「長期抗日」を主張、
31年、広州政府に参加
南京政府改組後、行政院院長を宋子文の反対で辞任
立法院院長で憲法起草に
36年、中ソ不可侵条約締結
46年、日本敗戦後重慶政治協商会議に参加
48年、立法院院長
49年、行政院院長、広州に移す。
出国、フランス、アメリカを経て台湾へ
1、広州に於ける太子派と元老派の対立とは勢力争いの他に
留学帰りグループの急進的な改革などが対立点として
あったのだろうか?
2、国民政府の首都は家近亮子氏によれば
28,4,18〜南京
37、10,30〜重慶
46、5,5〜南京
49,4,21〜広州
49、8,1〜重慶
49,12,7〜台北
3、日本から見ると、孫科達は親米派にみえて嫌っていたろう。
4、「長期抗日」とはなんだろう?
5、孫科は行政能力はありそうだ。
6、武漢南京合併直後の蒋介石が引いてる時期はうまくいってた
のでないか? うまくいかないので復帰してもらったのか?
>>738 >どうやら戴笠の事故死後の軍統は
>まともに機能していなかったみたいですね
僕は、戴笠死後も軍統の機能は低下していないと見ています。
1946年、戴笠死後の軍統実力者であった鄭介民、唐縦、毛人鳳に対し、
蒋介石は軍統の改組(国防部保密局への移行)を命じています。
その後上記3人の実力者の間で権力争いが起こり、
最終的に毛人鳳が実権を掌握する事態が起こりました。
しかし保密局は、この間も工作活動を大規模に継続し、
警察権力についてもある程度手中にしたため、
組織そのものは比較的安定していたのではないか、と見ています。
その後、保密局が台湾に移ってからは、
毛人鳳は蒋経国から粛清寸前にまで追い詰められ、
1956年に毛が病没すると、保密局は蒋経国の統制下に入りました。
>>739−740
>1、広州に於ける太子派と元老派の対立とは勢力争いの他に
>留学帰りグループの急進的な改革などが対立点として
>あったのだろうか?
太子派と元老派との対立は、やはり聯共か反共かが主要な争点です。
しかし、胡漢民と孫科の対立については、
あるいは孫中山の後継をかけた争いという側面もあったと思われます。
>4、「長期抗日」とはなんだろう?
孫科は柳条湖事変後に、「長期抗日」「聯蘇制日(ソ連と同盟し、
日本を制する)」の政治・外交路線を掲げました。
「安内攘外」や英米との同盟重視という、
蒋介石の路線に対抗しようとしたのだと言えるでしょう。
>6、武漢南京合併直後の蒋介石が引いてる時期はうまくいってた
>のでないか? うまくいかないので復帰してもらったのか?
蒋介石復権のきっかけは、汪精衛の失策です。
汪精衛に与していた張發奎が、広州の支配権を狙ってクーデターを起こし、
しかもこれによって共産党の蜂起をも招いてしまったため、
責任を問われた汪は一時海外へ逃走しなければならなくなりました。
その後の事態収拾を引き受ける形で、蒋介石は復権を果たしたわけです。
(※参考;波多野善大『国共合作』132〜143頁)
(国民軍)
第1軍;馮玉祥
第2軍;胡景翼の後、岳維峻
第3軍;孫岳
第4軍;徐永昌
第5軍;方振武
(孫岳、そんがく、Sun1 Yue4,1878−1928)
河北省の生まれ、科挙に合格秀才。
1909年、保定軍官学校卒業、
12年、陸軍中将
22年、第1次奉直戦争、奉天軍を撃破。
24年、第2次奉直戦争、この時馮玉祥、胡景翼と「首都革命」を発動、
和平停戦を通電、馮と国民軍を創設。
湖南省長に
25年、豫陝甘剿匪総司令
国民軍と奉天軍の戦闘、直隷省にいた李景林が山東省に敗退。
26年、奉天軍と李の率いる直魯連軍に破れ、天津を失い北京に後退。
27年、国民政府軍事委員。
(胡景翼、こけいよく、Hu2 Jin3gyi4,1892−1925)
陝西省の生まれ
1910年、干右任の紹介で同盟会入会
11年、武昌蜂起に呼応した陝西省独立運動に参加。
12年、日本の成城学校に留学、軍事を学ぶ。
14年、陳樹藩の部下で白朗の乱鎮圧に参加。
16年、袁世凱の帝制に反対、陳樹藩が都督の陸建章を追い出し都督になる
17年、護法戦争、陳樹藩は北京につく。胡景翼は靖国軍を組織するが、
陳樹藩に敗れる。靖国軍を干右任に譲る。
21年、直隷系呉佩孚の部下閻相文が陝西督軍、陳樹藩は敗れる。
閻相文は馮玉祥に自殺に追い込まれる。
24年、10月、胡景翼は馮玉祥、孫岳と「北京政変」を起こし、国民軍に参加。
11月、西北国民軍は奉天軍に北京を追われる。
この時、胡景翼は馮玉祥に張作霖の南京を提案するが、
馮玉祥は決断しなかった。
この後、胡景翼は段祺瑞に付くらしい。
1、靖国軍は「せいこくぐん」と読むらしい。日本語。
2、劉志丹前の陝西がいくらか解明できて来た。
3、直隷、安徽、奉天三派のからみはこれから。
(黄 郛、こうふ、Huang2 Fu2,1880−1936)
浙江省の生まれ
1906年、日本留学、振武学校で蒋介石と同学
中国同盟会に入会
11年、辛亥革命、蒋介石と上海で陳其美の部下として
上海軍に参加
13年、15年、反袁世凱革命
19年、徐世昌のブレーンとして南北和平工作
21年、ワシントン会議顧問
23年、張紹曽内閣外交委員長
24年、馮玉祥の北京政変に協力、国務総理代理、
溥儀の特権を廃止紫禁城から追い出す、
西北国民軍と共に奉天軍に北京より退去、
27年、北伐、蒋介石の密命で上海の国民党長老と工作、
日本との外交折衝、
徐州の蒋介石、馮玉祥の清党反共声明の仲介役、
28年、南京政府外交部長、
済南事件の対応を批判され辞任
33年、塘沽停戦協定を締結。
軍学校出身であるのに、優秀な官僚、政治家で裏方として
活発に活動している。中国人には珍しい経歴だ。
(^^)
749 :
世界@名無史さん:03/03/13 18:36
良スレ
>>745-746 孫岳、胡景翼は、北京政変で重要な役割を果たした軍人です。
共通点としては、同盟会所属で、日本留学の経験を持っている点でしょうか。
孫岳は国民党員との交流が深く、
胡景翼はかつて靖国軍に参加した経歴もあったため、
南方政府に対して同情的な姿勢を有していました。
そのために呉佩孚に対して不満を抱いていたこの2人は、
張作霖との反呉佩孚連合へ馮玉祥を積極的に勧誘したのです。
(参考;波多野善大『中国近代軍閥の研究』407頁)
>>747 黄郛は一般に「新政学系」と見なされる政治家で、
1933年には、北平政務整理委員会(行政院駐平政務整理委員会)
の委員長に就任しました。
軍人出身ながら政治家としての活躍が注目される人物としては、
この他に張群などが挙げられると思います。
張群と共に、国民政府きっての知日家として知られ、
日本との重要な外交交渉を担いましたが、
塘沽停戦協定を結んだことなどから、
大陸での黄郛に対する評価は厳しいものとなっています。
ただし、松本重治『上海時代』などによれば、
黄郛も決して日本との妥協を繰り返していたわけではなく、
むしろ満洲国関連の懸案を巡って、
日本側と激しく対立していたことが窺えます。
張作霖の南京→軟禁
やはり、波多野本は大事だ。明日買いに行きます。
藍衣社と軍統の関係を教えてください
>>752 以前、『中国近代軍閥の研究』は2万円前後と書きましたが、
中には1万円台で販売している古書店もあるようです。
ただ、いずれにしても現在買うには高い書籍ですので、
購入の際は充分な検討をした方がよろしいですよ
(・・・って、間に合うかな?)。
>>753 藍衣社(正式名称は三民主義力行社)は、
反共擁蒋や民族復興など国家主義を主張する国民党軍人の結社です。
1932年3月に成立し、社長には蒋介石が就任しましたが、
国民政府や国民党に属する組織ではありません。
藍衣社は国家主義の宣伝を行う一方、
共産党や日本に対して諜報・破壊工作を行いました。
1938年に藍衣社は解散し、構成員は三民主義青年団や軍統などへ移ります。
(『岩波現代中国辞典』の「藍衣社」の項目も参照してみてください)
一方の軍統(局)は、正式名称を国民政府軍事委員会調査統計局と言い、
こちらはれっきとした国民政府の機関です。
藍衣社の外郭団体である中華復興社の特務処と、
軍事委員会調査統計局第二処(両者とも処長は戴笠)とが、
1938年に合併して軍統が成立しました。
局長は賀耀祖、副局長は戴笠が就きましたが、実権は戴笠が握っています。
つまり軍統は、藍衣社の特務部門を再編・強化した組織、
ということが出来ると思います。
ちなみに藍衣社の宣伝部門は、
三民主義青年団へ引き継がれた形となりました。
>>755,56
ありがとうございます
あとCC団と藍衣社、中統と軍統って任務内容は異なってたんですか?
中統は調査、軍統は特務工作という印象があるんですが・・・
758 :
世界@名無史さん:03/03/15 07:30
age
サーバー移転があったようですね。
スレを保存してくださった方々、ありがとうございました。
>>757 CC(中統)も藍衣社(軍統)も、特務機関であることは共通です。
CC系列の機関にしても、諜報活動を大規模に行い、
特に共産党や学生運動の鎮圧に従事しています。
ただし公然と武力(暴力)を振るうケースは、
軍統と比べるとそれほど多くなかったようです。
またCC(中統)は、党務・経済・教育分野に特に長じていました。
そのため、大学などの教育機関での諜報では強さを発揮しています。
詳しくは、
>>455-458も参照してください。
気分転換に久々にクイズを出してみます。
>>736で登場した波多野乾一は、
時事通信社や産経新聞などに勤めた経歴を持つ
ジャーナリストにして中国研究者です。
しかし、彼には更に別の顔があり、
ある娯楽の分野でも第一級の人物とみなされていました。
それでは、その「ある娯楽」とは一体何でしょうか?
>760
検索で調べてしまったので、ずるですが「京劇」でいいですね。
では、こちらも一つ。やさし過ぎますか?
「偉大なる道」を書いたアグネス・スメドレーはアメリカの
貧農の生まれですが、非白人の血が流れています。
なんでしょう?
>>761 京劇も正解です。でも実は、答えはもう1つあるんですよ。
もう1つの分野では、波多野は別名を名乗っています。
更にヒントを言うと、「2ちゃんねる」にも、
その娯楽について専門の板があります。
スメドレーには、
ネイティブ・アメリカンの血が流れていますよね?
>762
尾崎秀実がスメドレーの訳書の序文でそう言ってますね(>ネイティヴ・アメリカン)
>>763 確か尾崎が序文を載せてるのは、『女一人大地をゆく』でしたよね?
この他、スメドレーの生涯については、
石垣綾子「アグネス・スメドレーの思い出」(『偉大なる道』文庫版に収録)
などが詳しいです。
このスレの主題と絡めると、スメドレーは『偉大なる道』で、
特に雲南や四川の軍閥について詳しく描いています。
実際朱徳も、かつては雲南軍閥の一員でした。
閻錫山の山西省の実家は記念館になってるらしい
>762
検索で中国麻雀研究の第一人者とあり、ルールも出てました。
親も子供も点数同じとか、山の終わりまでつもるとか、面白そうな
ことが書いてありましたが、はまると時間がいくらあっても足りなく
なるので、読むのを止めました。
(寧漢戦争、その1、寧は南京、漢は漢口)
1927年
4月12日、蒋介石の上海クーデター
6月10日、北上した唐生智軍は鄭州で馮玉祥と会談。
16日、北方軍閥の大同団結(張宗昌、孫伝芳、張学良)
張作霖は大元帥に。
19日、蒋介石、馮玉祥、徐州会談。
蒋介石、馮玉祥、閻錫山の「北伐連盟」
23日、汪兆銘「国共分離」宣言
唐生智、東征開始、「駆共倒蒋」
7月7日、日本軍第33旅団山東半島から済南に進出
10日、蒋介石は張宗昌に停戦提案、拒否される。
張宗昌軍南下徐州に向かう。
蒋介石は、李宗仁、王普を西進させる。
22日 東征軍(葉挺)九江に
8月1日、 葉挺等南昌蜂起(8・1蜂起)
4日、漢口軍朱培徳南昌蜂起軍を駆逐
8日、蒋介石軍は張宗昌軍に敗退。
12日、李宗仁、白崇禧は蒋介石に辞職を勧告。
13日、蒋介石辞職宣言。
呉敬恒、胡漢民、蔡元培、李石曽も辞職
(寧漢戦争、その2)
1927年
8月19日、武漢政府、合流の方向に
22日、九江で合流条件交渉。
9月16日、寧漢合作宣言。
10月20日、南京政府は唐生智討伐令、寧漢戦争再開。
南京軍、合肥→武昌→長沙と進軍。
1928年
1月、敗れた唐生智は日本に脱出。
蒋介石、復職。
蒋介石も唐生智も葉挺も北伐に参加している時は元気だが、
同国人同士の争いになると不調だ。
読売新聞の連載小説の「青山一髪」は孫文と辛亥革命の
話ですが、あらゆる本より情報が多いですね。毎日あれを
読むので遅刻しそう。
>>765 閻錫山の旧邸宅は、
現在は「河辺民俗博物館」として公開されているようですね。
閻錫山が山西の統治者だった頃の威容がそのまま残されてるらしいので、
機会があればぜひ見に行きたいものです。
>>766-767 その通り、麻雀が正解です。お見事でした。
ちなみにこの分野での波多野は、「榛原茂樹」という名前を使っており
(本業でも『上海事件外交史』などは「榛原茂樹」名を使用)、
代表的な著作に『麻雀精通』があります。
最終的に敗れたとはいえ、寧漢戦争の頃までの唐生智が、
彼にとって絶頂期だったと言えるでしょうね。
汪精衛ら国民党左派からその武力を頼みとされ、そして唐本人も、
国民政府最高指導者としての地位を蒋介石と争う立場にはあったのですから。
ちなみに唐生智率いる第八軍系の軍は、唐本人や軍幹部の大部分が仏教徒で、
その軍は宗教的階層制で構成されていたとされています。
軍の規律や教練も良く行き届いていて、
やはり精鋭軍を率いたことで知られる広西軍閥の李宗仁も、
第八軍の気風を羨んだそうです。
(参考;栃木利夫・坂野良吉『中国国民革命』法政大学出版局、203頁)
本屋で見つけた法律文化社「図説、中国近現代史」が、いつのまにか
改定されて第2版になっていた。丁度1年前の3月改定らしい。
第1版は大変お世話になった。内容は若干の変化と最近の中国が
加筆されている。現代中国の歴史教科書の感じがあるのはなぜか?
南京大虐殺の人数が20万以上が日本の学界の主流になってるそうだ。
古い本がどこかに入ってしまったので自分は買いました。
日中戦争の戦区もでてました。
>>771 『図説中国近現代史』は、
概説書あるいは入門書としてはお勧めだと思います。
ただ改訂後の第2版でも、
軍閥(更に言えば北伐完了以前の時代そのもの)について、
依然としてステレオタイプな消極的評価のままであることが残念に思えます。
中国共産党が1949年の政権取得前夜に
国民党の要人を戦犯指名したと思いますが、
その指名された全メンバーの名前が書いてある書籍、
またはWEBってありますか?
国務総理
唐紹儀12年
→靳雲鵬19年11月から20年5月→安直戦争
→第2次靳雲鵬内閣張作霖の支持20年8月より
→第3次靳雲鵬内閣21年12月まで
→張紹曽23→孫宝g24→顔恵慶24
→馮玉祥首都革命→顔恵慶26年4月から→杜錫珪
→顧維鈞26年10月から27年6月
→第2次顧維鈞内閣
→27年6月張作霖が中華民国軍政府つくる。
潘復は第32期内閣総理に
28年6月辞職。1年の任期は最長だそうだ
12年から28年までの国務総理は最長が1年だとすると、
15名から20名くらいになるのだろうか?
(顧維鈞、こいきん、Gu4 Wei2jun1、1888−1985)
江蘇省の生まれ
1905年、コロンビア大学入学
12年、国際法、外交博士号
義父である唐紹儀の薦めで北京政府に
19年、パリ講和会議代表、調印を拒否
21年、ワシントン会議代表、
24年、ソ連との国交樹立
26年、国務総理
28年、北伐、北京へ。逮捕命令、出国。
32年、満州問題でリットン調査団に対応。
34年、国際裁判所判事。
45年、国連憲章起草に参加。
駐米大使、国連代表
57年、ハーグ司法裁判所判事。
これぞエリートという人物だ。それも毛並みではなく、
実力で勝ち取っている。日本の運命を決めた国連脱退も、
彼の能力に対抗出来なかったのかもしれない。
松岡洋祐でなくても、日本に対抗馬がいたか疑問。
>775
松岡洋祐→洋右
( 唐紹儀、とうしょうぎ、Tang2 Shao4yi2、1862−1938)
広東省の生まれ
1874年、コロンビア大学に入学
84年、朝鮮で袁世凱の秘書
99年、李鴻章の幕僚、
1904年、チベットへの英国侵入で交渉。
12年、同盟会に入会。
中華民国初代総理、人事で袁世凱と対立、辞職。
16年、黎元洪大総統に外交総長に任命されたが国務総理段祺瑞の
反対で就任出来なかった。
17年、護法軍政府の財政部長。
19年、南北会談の南方総代表。
31年、反蒋派の広州政府の常務委員。
32年、西南政務委員会常務委員。
36年、陳済棠の反蒋運動に反対
38年、日本占領下の上海に留まったため、特務に暗殺された。
1、北洋の官僚に広州閥があるらしい。
2、国務総理=国務卿とも言うらしい。総理といっても上級官僚
という感じ。
3、西南政務委員会の西南の意味は南は広東、西は広西か?
国務総理
1)唐紹儀(12年3月から6月)
→2)陸徴祥(12年6月から)
→3)趙秉鈞(13年)
→4)徐世昌(15年1月から15年10月)
→5)段祺瑞一次(16年4月から)「府院の争い」
国務院総理
→6)李経羲 (17年6月から7月)張勲帝政
→7)王士珍 (17年11月から18年3月)馮国璋大総統
徐世昌大総統
→靳雲鵬(19年11月から20年5月)→安直戦争
→第2次靳雲鵬内閣張作霖の支持20年8月より
→第3次靳雲鵬内閣(21年12月まで)
→張紹曽23→孫宝g24→顔恵慶24
→馮玉祥首都革命→顔恵慶26年4月から→杜錫珪
→顧維鈞(26年10月から27年6月)
→第2次顧維鈞内閣
→27年6月張作霖が中華民国軍政府つくる。
潘復は第32期内閣総理に
28年6月辞職。1年の任期は最長だそうだ
>>773 web上では、今のところ見当たらないようです。
中共中央の戦犯リストは、1948年12月25日に公布されており、
当時の『新華日報』に載っています。
ちなみに、戦犯指名された43名とその序列は以下の通りです。
蒋介石★、李宗仁※、陳誠★、白崇禧、何応欽★、顧祝同★、陳果夫★、
陳立夫★、孔祥熙、宋子文★、張群、翁文灝※、孫科、呉鉄城、王雲五、
戴傳賢★、呉鼎昌、熊式輝、張諮カ、朱家驊★、王世杰★、顧維鈞、宋美齢、
呉国禎★、劉峠、程潜※、薛岳、衛立煌※、余漢謀、胡宗南、傅作義※、
閻錫山、周至柔★、王叔銘★、桂永清★、湯恩伯★、孫立人、馬鴻逵、
馬歩芳、陶希聖、曾g、張君励
★−1949年1月28日の中共声明により、「最も主要な戦犯」とされた者
※−後に共産党政権に加わった者。
袁世凱 (臨時大総統) 12,3−16,6
(大総統)
(皇帝)
黎元洪 (大総統) 16,7−17,7 段祺瑞(国務総理)
16,6−17,5
馮国璋 (大総統) 17,8−18,10 段祺瑞(国務総理)
17,3−17,11
段祺瑞(国務総理)
18,3−18,10
徐世昌 (大総統) 18,10−22,6 直ユ戦争20,7
黎元洪 (大総統) 22,6−23,6 奉直戦争22,4
曹錕 (大総統) 23,10−24,11 第2次奉直戦争24,4
北京政変
段祺瑞 (臨時執政) 14,11−26,4 摂政内閣 26,4
張作霖 (大元帥) 27,6−28,6 安国軍政府27,6
横山宏章「中華民国」
この表が総ての出発点だがなかなか他にはでていない。
この政府も北伐前期の武漢、南京政府も全部自分たちを中華民国と
呼んでいたのだろうか?
>>779 ありがとうございます。軍閥、党人、軍人など出身はさまざまですね
ところでこの「最も主要な戦犯」の基準ってなんでしょうね?
孔祥熙、胡宗南、閻錫山が指名されてないのもふしぎですね
>>775 顧維鈞は、民国時代を通して外交の第一線に立ち続けた人物ですね。
北京政府(北洋政府)でも国民政府でも、外交の重鎮として重宝されました。
大陸では陳友仁の「革命外交」が特別に高く評価されていましたが、
近年になって顧維鈞、宋子文などの外交姿勢やその活動が注目され、
大陸、台湾問わず多くの研究が発表されています。
>>777 唐紹儀も、清末から民国にかけて活躍した政治家です。
日本の和平工作に応じかけたが故に暗殺されたその最期のために、
大陸でも台湾でもそれほど高く評価されない人物です。
しかし、民国という時代を切り開いたという意味で、
唐紹儀の活躍は決して過小評価することはできません。
たとえば、袁世凱側全権として参加した革命派との交渉でも、
革命派への妥協を渋る袁に反発し、全権を辞任して抗議しています。
あと「西南」の意味は、ここでは西南5省(広東・広西・雲南・貴州・福建)
を指すはずです。
>>780 北京政府(北洋政府)も、もちろん中華民國政府で、
以前も書き込みましたが、南方政府との間でその正統性を争ったわけです。
>>781 おそらく1949年1月の声明は、
「最も主要な戦犯」でない「戦犯」ならば、共産党政権側が迎え入れる余地を
示したものだと思います。
ただ「最も主要な戦犯」の基準となると、
ほとんどは中央軍の最高幹部や党のイデオローグ、CC系であるものの、
かつて重慶交渉にも参加したことのある宋子文、王世杰が指名され、
逆に孔祥熙、胡宗南が指名を免れた理由は、申し訳ないのですが、
僕には分かりません。
可能性として、李宗仁が進めていた和平交渉に対する態度も考えられますが、
孫科のように当時は強硬意見に転じていた人物もいるわけですし・・・。
(靳雲鵬、きんうんほう、Jin4 Yun2peng2,1877−1951)
山東省生まれ
1898年、子站の武備学堂で段祺瑞の指導をうける。
1909年、雲南軍学校の総参議。
同時に就任した雲南総督は後の総理李経羲
11年、辛亥革命、鎮圧を試みるも敗退、
駕篭かきに変装してからくも脱出。
15年、袁世凱の皇帝即位請願に連名
16年、同時に帝政取り消しにも連名。
山東、済南で企業投資、蓄財。
17年、WW1参戦問題で、段祺瑞の下で督軍団で黎元洪に圧力。
張勲の復辟討伐に参加。
段祺瑞の下で、日本と武器、資金援助、軍事協定。
世論の軍事協定反対、南北停戦の動きを見て、
段祺瑞から、徐世昌に接近。
18年、銭能訓内閣に入閣。徐世昌派
19年、段祺瑞、徐樹錚(段の部下)が山東問題、五四運動の
混乱の責任で銭能訓を聾心湛内閣(安徽派)に代えるも
残留
徐世昌と組んで靳雲鵬内閣を作る。
曹錕と義兄弟、張作霖の娘と結婚。
20年、安直戦争、安徽派敗退。
安福倶楽部の解散、日中軍事協定の廃止、参戦軍の
解散、参戦借款の停止、など安徽派解体に動く。
21年、徐世昌、奉天派、旧交通系と軋轢で辞任。
1、雲南軍学校では、蔡鍔の部下なのでしょうか?
2、WW1名目の参戦軍が中国国内で活動していたのでしょうか?
3、15年に袁世凱が臨時約法を廃止し新約法を制定とありますが、
袁世凱死後、元に戻ったでいいでしょうか?
子站→小站
786 :
世界@名無史さん:03/04/03 22:42
白崇禧の息子の白先勇は作家として活躍しています。
中国映画「最後の貴族」(1989)は彼の原作です。
>>784 1.
靳雲鵬が就いたのは、正しくは雲貴総督署の総参議です。
直接には蔡鍔の上官というわけではありませんが、省内の格付けでは、
明らかに靳雲鵬の方が蔡鍔よりも上です。
当時の省内にあった新軍第19鎮の統制(司令官)は鍾麟同という人物で、
この人が蔡鍔(当時、第19鎮第37協協統)の上官に当たる人物でした。
3.
袁世凱死後、北京政府側は『新約法』を正統としていましたが、
南方派は『臨時約法』を正統とみなしていました。
1917年の張勳復辟失敗後、段祺瑞は国会と「臨時約法」の復活を拒み、
そのため孫中山は、広州で国会の非常会議を開催し、護法軍政府を組織して
段に対抗したのです。
また「約法」以外でも、国会では新憲法の制定を巡って、
「憲法商榷会」(国民党系、南方派)と「憲法研究会」(進歩党系、安徽派)
との間で論争・対立が発生しました。
>>786 情報、ありがとうございます。
白先勇氏の作品は『最後の貴族』を含め、一部は邦訳されているようですね。
今度、読んでみたいと思います。
>>787の3が、紛らわしい書き方だったので整理し直します。
1916年6月:袁世凱死去。黎元洪が大総統を後継。
このとき、段祺瑞ら安徽系は『新約法』復活を主張したが、
唐紹儀・梁啓超らと南方政府は『臨時約法』復活を主張。
結局、黎元洪が『臨時約法』復活を宣言。
1916年8月:国会復活、召集される。
1916年9月:張継・王正廷らが「憲法商榷会」を組織。
梁啓超・湯化龍らの「憲法研究会」との憲法制定論争が始まる。
1917年5月:対独宣戦問題で、段祺瑞と国会が対立。
また、黎元洪と段祺瑞の間で権力闘争が勃発(「府院之争」)、
段祺瑞が国務総理を罷免される。
1917年6月:張勳と連合した黎元洪が国会解散、約法停止。
1917年7月:張勳復辟、しかし失敗に終わる。黎元洪、大総統を辞任。
段祺瑞が国務総理に再任。
1917年8月:馮国璋が臨時大総統に就任。段祺瑞の指導により対ドイツ参戦。
南方派が国会非常会議を開催し、護法軍政府を組織。
(参考:姫田光義他『中国20世紀史』、家近亮子『中国近現代史年表』など)
以上の通りです。申し訳ありませんでした。
(徐樹錚、じょじゅそう、Xu2 Shu4zheng1,1880-1925)
江蘇省の生まれ
1905年、段祺瑞の推薦で日本の陸軍士官学校に留学
12年、団の政治的宣伝雑誌「平報」を創刊。
15年、団が帝政に反対して辞任すると徐も解任。
16年、袁世凱の死後団が総理に、徐は秘書に。
17年、黎元洪と団の対立。
徐はじょ徐州に行き、張勲を動かす。
18年、団、国務総理に再任。
徐は王揖唐らと「安福倶楽部」を組織。
日本に行き、東三省の権益を協議。
19年、5・4運動の鎮圧を主張。
西北辺防軍総司令、外蒙古の自治を取り消す。
20年、安直戦争、団辞職、徐は上海に隠れる。
21年、著書「建国詮真」で政治理念を表す。
22年、孫文、張作霖、段祺瑞の軍事同盟が成立。
25年、第2次奉直戦争後、団は臨時執政に、
徐は欧米視察。
馮玉祥は広州政府と連合、徐は反対。
上海で馮玉祥に逮捕、銃殺される。
(王揖唐、おうゆうとう、Wang2 Yi1tang2、1877−1946)
安徽省の生まれ
1904年、日本の振武学校へ
法政大学へ
07年、東三省総督徐世昌の部下に。
11年、袁世凱の部下に。臨時大総統就任に貢献。
12年、袁世凱の御用政党の共和党に。
13年、共和、民主、統一の3党合併、進歩党に。
14年、袁世凱が国会を解散後の約法国会で活躍。
16年、帝政運動を展開
帝政取消後の段祺瑞内閣に参加。
安徽派に加わる。
北京臨時参議院の議長
18年、安福倶楽部の総裁に。
臨時参議院閉会、安福国会の衆議院議長。
19年、南北和平会議の北方総代表、会議は消滅。
20年、5・4運動で安徽派は批判される。
21年、安直戦争で敗れ、安福倶楽部解散される。
24年、段祺瑞臨時執政に。
25年、善後会議議員。
28年、北伐北京に。指名手配、日本に逃亡。
35年、日本の傀儡政治家として、冀察政務委員会委員
(委員長宋哲元)
40年、汪精衛の南京政府に参加。
46年、終戦後、漢奸として銃殺。
まだこの辺りは知らないことばかりですので、当分楽しめそうです。
>>789 徐樹錚の外蒙古での活動に触れると、徐は1919年10月に西北籌邊使兼総司令に
任じられ、同年12月に外蒙古活仏冊封専使に任命されました。
その時に徐樹錚は、外蒙古の総理と活仏を逮捕して中国へ送ると脅し、
外蒙古の自治を取り消させ、全権を掌握しました。
さらに12月の冊封儀式では、活仏に対して
民国大総統肖像に対して三度拝跪するよう命じています。
(参考;『民国前期中国と東アジアの変動』中央大学出版部所収、
斎藤論文「中国近代と大中国主義」)
徐樹錚の外蒙古での行動は侵略者としてのそれであった
(当時の外蒙古が依然として独立していなかったにしても)、
と評されても仕方ないと思えます。
>>790 王揖唐は安福倶楽部の総裁ですが、
民国国会の場でも、かつての国民党系や進歩党系の議員たちのようには、
安福倶楽部自体も含めて独自の政治理念や活動がなかなか見えてきません。
安福倶楽部は段祺瑞支持の議員を送り込むための選挙請負集団、
という赴きが強いためかも知れません。
>>779の戦犯リストのところ、36番目の杜聿明が抜けていましたので、
訂正したものを書き込みます。
773さん及び皆さん、申し訳ありませんでした。
蒋介石★、李宗仁※、陳誠★、白崇禧、何応欽★、顧祝同★、陳果夫★、
陳立夫★、孔祥熙、宋子文★、張群、翁文灝※、孫科、呉鉄城、王雲五、
戴傳賢★、呉鼎昌、熊式輝、張諮カ、朱家驊★、王世杰★、顧維鈞、宋美齢、
呉国禎★、劉峠、程潜※、薛岳、衛立煌※、余漢謀、胡宗南、傅作義※、
閻錫山、周至柔★、王叔銘★、桂永清★、杜聿明※、湯恩伯★、孫立人、
馬鴻逵、馬歩芳、陶希聖、曾g、張君励
★−1949年1月28日の中共声明により、「最も主要な戦犯」とされた者
※−後に共産党政権に加わった者。
上記の戦犯で存命してる人物ってわかりますか?
多分100歳近いでしょうが・・・
とりあえず薛岳、周至柔、王叔銘あたりは生きてそうですが
>>794 現在のところ、宋美齢だけが唯一存命の人物です。
最近数年で亡くなった人物を挙げると、
2001年2月に陳立夫(享年102歳、以下数え年)、
1998年12月に王叔銘(享年95歳)、1998年5月に薛岳(享年103歳)
といったところです(周至柔は1986年没)。
逆に最も早く亡くなったのは戴傳賢(戴季陶)で、1949年2月です。
ホントに国民党幹部は長命な人物が多いですね。
中には大陸で残虐行為を働いた人物もいるのに・・・
戴季陶は自殺ですよね。他にイデオローグとしては陳布雷も
大陸失陥時に自殺しています。
逆に陶希聖や蒋介石伝を執筆した董顕光などは長命でした。
陶希聖って「社会史論戦」の人?
>>796 陳布雷と陶季聖は『中国の命運』の執筆者とされていますね。
戴季陶は、かつて社会主義に傾倒したこともあり、
故郷の四川省で聯省自治運動に取り組んだこともあります。
陶季聖、董顕光は、台湾へ渡った後も党務や外交などの実務に携わりました。
>>797 その通りです。陶季聖は、社会史や政治思想史の学者であり、
「中国社会史論戦」では「新生命派」とされた人物ですね。
ちなみに戦犯リストが公表された当時(1948年12月)には、
国民党中央宣伝部副部長を務めていました。
また、かつては改組派のイデオローグで、
汪精衛を助けて、高宗武と共に日本との和平工作に従事した人物です。
(最終的には日本側に不満を持ち、高宗武と共に和平工作を離脱)。
中目威博著「蔡元培」里文出版 平成10年
著者は北京の図書館長をされていた経歴がうなずける精密な
資料の収集で、大変参考になった。特に五四運動の北洋政府の
弾圧と、それに対する抵抗運動は興味深い。
それ以上に、学長として文科系、理科系の基礎的学問を尊重し
工学、医学、法学らは他校にまかせようという考えは、古典的
とも言えるが、面白い。
蒋介石、共産主義に対する考えも独特だ。
この本は以前から持っていて、ツンドク状態だったが、北洋
政府に関心のある今の時期に読んだのがよかった。
すみません、
>>798のところ×陶季聖→○陶希聖でした。
単語登録を間違えてたから、上の文章は全部間違ってるし・・・逝ってきます。
バグダッド陥落の映像をみると
人民解放軍による上海陥落を想像します
あのときも略奪、脱出、政治犯の処刑などで
大混乱だったそうですが
つまり、必ずしも解放軍が市民に歓迎されていたわけではないとw
梁士詒、りょうしい、Liang2 Shi4yi2,1869−1933)
広東省の生まれ
1894年、進士に合格。
1905年、鉄路大臣の唐紹儀の秘書長。
後の交通系の契機になる。
07年、鉄路総局長(5路;幹線5鉄道)
交通銀行を設立、副総裁。
葉恭綽、龍建章など広東派閥を形成。
12年、袁世凱臨時大総統の秘書長。
交通銀行に国庫の代理権、紙幣発行権。
公民党を結成、買収で袁世凱を大総統に。
14年、参政院参政に
大総統選挙法の改正。
15年、「五路大弾劾事件」汚職事件に関与
16年、袁世凱死去後香港に逃れる。
18年、馮国璋代理総統により復帰。
交通銀行理事長。
(この間、親日派の曹汝霖が新交通系を形成
梁士詒等は旧交通系をよばれる)
安福国会で、旧交通は安福系に次ぐ勢力。
19年、周自斉、葉恭綽等と旧交通系、盛り返す。
21年、日本の希望もあり、?雲鵬→梁士詒内閣。
22年、親日と批判され辞職。
梁士詒内閣の出現は直隷派と奉天派の対立を深め、
第1次奉直戦争、奉天派敗れ、徐世昌から逮捕令。
25年、第2次奉直戦争後、段祺瑞内閣委員。
27年、張作霖が安国軍総司令、役職。
28年、張作霖死亡で引退。
21年、靳雲鵬が文字が出なかった。
14年の参政院というのは、参議院の書きミスではないらしい。
中国にも貴族がいて貴族院のようなものなのか?
2院制の区別も解りにくい。税制自体の知識もない。
直接税は江戸時代の日本のように田の収穫に課税せてたのだろうか?
塩などは間接税らしい?
旧交通系は、広東派閥の官僚で、それと安徽派、直隷派、奉天派の
軍人の派閥が入り組んでいるらしい。
いるらしい。
(曹汝霖、そうじょりん、Cao2 Ru2lin2、1877−1966)
江蘇省の生まれ
1900年、日本の中央大学に留学
卒業後、司法研修
06年、外交部勤務
12年、弁護士第1号に。
13年、袁世凱の推挙で参議院議員に
外交部次長。駐日公使陸宗興に協力。
対華21カ条要求交渉で受諾
16年、段祺瑞内閣の交通総長、外交総長、、
交通銀行総経理、財政総長、
「新交通系」の筆頭となった。
段祺瑞の軍費、政治資金を調達する
「団援政策」をとる。
西原借款のため山東処理に同意。
19年、54運動で「売国奴」として糾弾される。
徐世昌に罷免され以後実業界に。
交通銀行総理など華北財界に実力者になる。
40年、汪精衛政権の顧問
49年、解放後戦犯。
台湾、香港、日本、アメリカで暮らした。
葉恭綽、ようきょうしゃく、Ye4 Gong1chuo4、1881−1968)
北京生まれだが、原籍は広東省
1906年、清朝政府で唐紹儀、梁士詒の部下。
12年、鉄路総局長
13年より趙秉鈞、段祺瑞、熊希齢、孫宝g、徐世昌の
各内閣で梁士詒の部下として交通部部長代理を
務め、政財界に大きな勢力を持つ。
15年、安徽派に「五路大弾劾事件」で停職になる。
16年、馮国璋の秘書。
17年、段祺瑞内閣の交通部次長
18年、当時交通部総長として勢力を伸ばした、
曹汝霖と衝突し、辞任。
20年、靳雲鵬、顔恵慶、梁士詒内閣の交通総長。
上海交通大学校長。
22年、梁士詒内閣成立が原因で第1次奉直戦争。
奉天派が敗北。免職、逮捕令が出される。
23年、反直隷派として梁士詒と広東軍政府へ
孫文に張作霖との同盟交渉に派遣される。
24年、第2次奉直戦争、
段祺瑞内閣交通総長。辞任。
31年、南京政府鉄道部長。
辞任後、文化美術活動に。
49年以後も新中国で文化美術活動。
(章宗祥、しょうそうしょう、Zhang1 Zong1xiang2、1879−1962)
浙江省の生まれ
1899年、日本留学、一高、東大法科
帰国後、清朝政府で法律の仕事。
1910年、汪兆銘の暗殺事件の審理。彼の努力で死刑から無期に。
12年、最高裁院長
14年、孫宝g、徐世昌、段祺瑞内閣の司法総長。
17年,18年、駐日公使として、「西原借款」交渉、決定。
山東半島駐屯要求交渉。
19年、54運動で曹汝霖宅にいた章宗祥はデモ隊に殴られる。
「売国3閣僚」として罷免される。
汪精衛政権の委員を歴任。
漢奸として逮捕されたが釈放される。
臨時約法というものが、袁世凱の勢力を抑えようと、国会の力を
強く作り過ぎたために、使いものにならなくて、袁世凱は国会解散
、帝政の方向に行かざるを得なかったのだろうか?
まあ選挙結果は袁世凱に不利だったのだから、彼は引くべきだった
のだろうが。
(周自斉、しゅうじせい、Zhou1 Zi4qi2、1871−1923)
山東省生まれ。子供の時広東に転居。
広東で梁士詒の知遇を受ける。
1896年、渡米公使館書記。コロンビア大学へ。
外交官。
義和団事件の賠償金で中国人留学予備校を作る。
これが後の清華大学。
1909年、帰国外務部勤務。
13年、中国銀行総裁
以後交通界(運輸通信)の旧交通系3巨頭の
一人。熊希齢,孫宝g,徐世昌内閣で交通、財政総長。
15年、16年、袁世凱の帝政運動、その死で失脚。
18年、馮国璋大総統が特赦。復帰。
安福国会で徐世昌が大総統。
徐世昌を中心に、段祺瑞安徽派の武力統一に
反対し、新旧交通系、研究系で研究会。
20年、靳雲鵬内閣でアメリカから借款を試み失敗。
22年、周自斉臨時内閣。
徐世昌が張作霖と旧交通系をの関係を利用。
徐世昌の失脚で辞職。
以後引退。
>>799 蔡元培は民国時代を代表する教育家にして学者ですよね。
国民政府では監察院長などの役職を務めたこともあります。
一般にこの人は、国民党左派あるいは民主党派とされることが多いのですが、
「四・一二クーデター」の際には、
蒋介石を支持して反共の姿勢を明確にしたこともありました。
>>801 このとき、蒋介石は湯恩伯に上海守備を命令していましたが、
すでに三大戦役などで内戦の帰趨が明確になっていたので
国民党軍の士気は奮わず、上海に対する統制もままならなかったようです。
当時の国民党側の軍人たちの回想などによると、
すでに1948年の末ごろには、首都南京でも、
要人から市民まで誰もが動揺し混乱していたそうです。
>>803-809 交通系についてありがとうございます。
確か革命勢力スレでも書き込んだと思うんですが、
「交通系」とは、鉄路(鉄道)総局や交通銀行などを拠点にした
中央政府の経済官僚グループを指します。
一般に、清末から袁世凱の時代まで活動した梁士詒が「旧交通系」のリーダー
とされ、梁が袁世凱の帝制を擁護したため失脚した後、段祺瑞らに接近して
台頭してきた曹汝霖が「新交通系」のリーダーとされます。
>>804 1.民国初期の議会制度ですが、まず『臨時約法』下では衆議院と参議院の
二院制となりました。衆議員は民選で、参議員は地方議会から選出されます。
その後、袁世凱は『新約法』でこの二院制を立法院による一院制に改め、
立法院の前段階(準備段階)として参政院が設置されました。
この参政院の構成員(=参政)は選挙によって選出されるのではなく、
一定の資格を持つ人間について、総統が直接任命するものとなっていました。
(参考;徐矛『中華民国政治制度史』上海人民出版社など)
2.北京政府(後の国民政府も)は、塩税や関税といった間接税を
主な収入源としていました。
清末にすでに関税は外国管理下にありましたが、北京政府は善後借款成立に
より、塩税も5ヵ国銀行団に管理させています。ただし袁世凱政権期には、
これによって大幅な収入増がありました。
ところが袁世凱死後になると、このような外国人管理の間接税も
地方の軍閥などに滞留される事態が発生し、中央財政は危機に瀕しました。
(参考;チェン『軍紳政権』岩波書店など)
湯恩伯はガンに罹り、日本で療養中に慶応病院で1954年に死去
>812
税金の問題はここでは参政権との関係で考えているわけ
ですが、税収としては間接税がおおきかったのでしょうが、
間接税では、参政権と結びつきにくいので何か個人の
税貢献性の基準があるような気もしますが。
安福倶楽部、交通系は一休みして、次は満州以外の(関内の)
張作霖を調べてみます。
(^^)
(張謇、ちょうけん、Zhang1 Jian3、1853−1926)
江蘇省の生まれ
淮軍の慶軍提督の呉長慶の部下として文書の仕事をしながら
古文を学んだ。
1881年、袁世凱も呉の部下になり張謇が文章を指導した。
82年、壬午の変の時、慶軍の京城進駐時、大院君の保護などに
活躍した。
洋務派に対抗する保守派の「清流」に属した。
94年、進士に合格。
95年、張之洞の依頼で上海に綿紡績会社「大生紗厰」を起こす。
98年、変法に参加、京師大学堂弁法を定めた。
康有為の性急さに合わず離脱。
1900年、義和団事件の時、「東南互保」を結成、南方波及を防ぐ。
康有為の「変法の詔勅」発布に対抗し「変法平議」を上奏。
南通師範、後の復旦大学を創設。
03年、日本を視察。実業と教育を重視。日本の憲法を参考に推薦。
国会請願運動を起こす。
11年、「最後の忠告」の後、袁世凱に会う。
武昌起義、黄興、章丙麟、孫文と打ち合わせ、
擁袁共和・南北議和の為奔走。
12年、臨時政府の実業部総長として軍政費を調達。
清帝退位を見て辞任。
塩制改革、淮河浚渫、綿産紡績拡充を力説したが、最終的
には、事業が衰退した。
1、奉天派は資料収集中。その間に立憲派を。
2、張謇は中国には珍しく、堅実で思考が現実的だ。
まるで客家のようだが、客家は清朝の官界に入れないと思うが。
3、淮軍に出身地によってグループがあるのだろうか?慶軍とは?
>>814 当時の衆議員選挙権を得るには、21歳以上の男子であることのほかに、
以下の条件のうちのどれかを満たす必要がありました。
(1)年間納税額2元以上
(2)500元以上の不動産を所有する
(3)小学以上の学歴を有すること
以上のような制限があったものの、当時の人口のうち約10.5%が選挙に
参加できたそうですから、これは中国史上画期的なことであったと言えます。
その後、袁世凱は議院制度を改めてしまいます。
しかし第一次大戦勃発までは、袁の積極的な財政・税政政策は、
国内の商工業階層を中心に、幅広い支持を受けていたのです。
(参考;姫田他編『中国20世紀史』、徐矛『中華民国政治制度史』など)
>>816 張謇については、藤岡喜久男『中華民国第一共和制と張謇』(汲古書院)
が専門書として発刊されていますし、『民国前期中国と東アジアの変動』
(中央大学出版部)にも、関連論文が掲載されています。
張謇は、立憲派として革命派と対立したことなどにより、
特に本国では、“保守的”、“反動的”人物として評価が低かったのですが、
最近は、その地方主義を根にした開明的な経済政策や思想が
再評価されています。
張謇は、袁世凱政権の下でも梁啓超らの進歩党と結び、
農商総長として中央集権型・対外開放型の経済政策を推進しています。
しかし、袁世凱が皇帝即位を目論むと、梁啓超と共にこれに反発し、
政界から完全に退くこととなりました。
あと、慶軍というのは出身地ではなく、呉長慶の名前が
そのままつけられたものです。
この他では、劉銘伝、周盛波なども銘軍、盛軍などとして
軍に自らの名前を冠しています。
(参考;波多野善大『中国近代軍閥の研究』)
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
(熊希齢、ゆうきれい、Xiong2 Xi1ling2、1869−1937)
湖南省の生まれ
1894年、進士に合格
97年、長沙の時務学堂総理に任命される。
梁啓超を招聘。
98年、「南学会」成立、譚嗣同、唐才常らと維新運動。
1904年、日本の教育と実業視察。有益な建白。
アメリカ、ヨーロッパを歴訪。財政関係を考察。
帰国後、東三省で行財政を歴任。
06年、日本で梁啓超に会い、立憲政治を協議。
11年、辛亥革命、黄興、宋教仁の影響で共和派になる。
12年、統一党に。章丙麟、宋教仁、張謇、程徳全と理事に。
唐紹儀、陸徴祥内閣に入閣。借款交渉するも売国の非難。
13年、共和、民主、統一の三党合併。旧立憲派を中心に
「進歩党」をつくる。
梁啓超、張謇が入閣した「名流内閣」を作るが辞職。
16年、帝政運動の袁世凱に退位をうながす。
18年、蔡元培と和平期成会を結成。
25年、段祺瑞執政内閣の憲法起草に参加。
以後は慈善事業に打ち込む。
1、湖南で湖南新政運動というものがあったらしい。
江戸末期の各藩の改革運動のようなものか?
2、蔡鍔は時務学堂で梁啓超に影響を受け、戊戍の政変で解散になり
武昌の両湖書院に転校。
3、湖南の歴史も面白そう。
「親日政府」スレが落ちているのでよろしければ教えていただきたいのですが。。。
日本軍の傀儡とされる「華北政務委員会」が発足したのは何年ですか?
冀東防共自治政府や冀察政務委員会との関係はどうなっているのですか?
昭和8年5月 塘沽停戦協定
昭和10年 殷汝耕の「冀東防共自治委員会」 北支那方面軍
宋哲元の「冀察政務委員会」
昭和11年 西安事件
昭和12年7月 盧溝橋事件
12月 王克敏行政院長の「中華民国臨時政府」北京
昭和13年1月 「近衛声明」
3月 梁鴻志の「中華民国維新政府」南京 中支那派遣軍
9月 臨時、維新政府合体「中華民国政府連合委員会」
昭和14年8月 汪兆銘は上海で「国民党六全大会」
昭和15年3月 「国民政府の南京遷都」3者合併。
維新政府は南京政府に吸収される。
臨時政府は出先機関として「華北政務委員会」となる。
展転社 昭和の戦争記念館第一巻「満州事変と支那事変」
殷汝耕が完全な親日はわかるのですが、この当時の宋哲元の考えがよく
解りません。馮玉祥の部下として、宋哲元を書こうとしたのですが、この
部分が書けず保留になってしまいました。どちらにつこうか、ためらい、
動揺があったのではと想像しましたが・・
>823 ご回答ありがとうございました
宋哲元については手元の
藤原彰『日中全面戦争』(昭和の歴史D)小学館、1988(文庫版)
の66〜68頁に言及があります。参考までに
>宋哲元としては、思いがけず手に入れた華北の支配者と実力者としての地位を、日本軍と衝突することによって失いたくはなかった。
>しかし、いっぽうでは、国民政府によって任命されているその地位からいっても、中央の指令にそむき、無制限に日本の要求をのむこともできなかった。
>しかもこの時期、中国の世論は抗日救国の方向に大きな展開を見せており、これに反する対日譲歩も、彼の地位を危うくするものであった。
>さらに、彼の部下の第二九軍将兵が京津地区に進駐し、学生知識人や労働者に接触したことで、宋の思惑を超えて抗日感情を高めつつあった。
>宋自身は、対日妥協と対日抵抗の板ばさみとなりつつあったのである。
その結果、支那駐屯軍による徳石鉄道敷設権と竜烟炭鉱の開発利権の要求に直面した宋は進退に窮して37年5月に故郷の山東省楽陵に引きこもった(その留守中に盧溝橋事件が起こった)…ということみたいです。既出御免
同書によれば、馮玉璋の失脚後、傍系軍として冷遇されチャハル省に駐屯していた
宋哲元が冀察政務委員会に就任し、一躍華北の実力者としてのし上がったのは
傍系の地方軍閥を日本軍の矢面に立て、直系の中央軍を温存しようとする
蒋介石の意図によるものであった、とあります
うーん。こうしてみると宋哲元って何かヘタレっぽいな〜w
三国志の劉璋(劉備に益州を明け渡した人)を思い出しますw
>>821 熊希齢も、梁啓超・張謇同様、立憲派・進歩党系の政治家の1人ですね。
和平期成会の設立者として南北和平を推進した他、
湖南省を中心に起こった聯省自治運動でも、熊は主導的役割を果たしました。
なお湖南省は、清末に省政改革が最も盛んだった省の1つです。
民国初期に活躍した軍人・政治家は、ここから多く輩出されました。
>>822-826 華北政務委員会については、823さんの書かれたとおりです。
王克敏らの中華民国臨時政府が汪精衛(兆銘)の国民政府に吸収された結果、
成立した政府機関ですね。
ちなみに汪精衛ら国民政府系の人員は、
王克敏ら臨時政府系や梁鴻志ら維新政府系の人員を「漢奸」と見なし、
互いに折り合いが悪かったようです。
華北政務委員会の成立も、あるいは以上のような対立も背景にあったと
思われます。
(※828のレスについては、劉傑『漢奸裁判』の138頁を参照)
それから宋哲元についてですが、日本での詳しい研究書としては、
安井三吉『盧溝橋事件』(研文出版、1993年)があります。
ただし、宋哲元が冀察政務委員会委員長に就任した状況については、
安井氏の見方は藤原氏とは異なっています。
まず、蒋介石としては領土保全を第一に考えていたため、
政治的にも軍事的にも実力のある人物に平津地区を委ねたかった。
しかし、日本軍との折り合いのために国民政府中央の人物を置けず、
止むを得ず地方軍閥系の宋哲元を選んだ。
宋は「抗日英雄」としての声望があるため、容易に日本側に妥協する人物では
なく、また、自らの政治的統制が及びやすい人物である、
と蒋介石は判断していた。
以上が安井氏の説ですが、藤原氏のように、蒋介石は地方軍閥を疲弊させ、
中央軍温存を図ったのだ、という単純な見方はしていません。
僕自身も、今のところは安井氏の見方が妥当と考えています。
また同書では、宋哲元に対するそれまでの学界での評価についても
整理されていますので、参考にしてみてはいかがでしょうか?
>828-829 ありがとうございました
仕事の必要があって今『徳王自伝』とシュネー『「満州国」見聞記』を読んでいますが
面白いですね。『漢奸裁判』も面白そうなので読んでみます
>>824 宋哲元が楽陵へ引きこもったことについてですが、
これは単に政治的現実から逃避したものではなく、
むしろ作戦ないしは演技だったというのが、現在の有力説となっています。
宋は蒋介石から了解を得て楽陵へ移ったのであり、
また、平津地区の軍政要員との連絡も十二分に行っていた模様です。
※参考;陳世松『宋哲元伝』吉林文史出版社、1992年
秦郁彦『盧溝橋事件の研究』東京大学出版会、1996年
832 :
世界@名無史さん:03/04/29 21:26
良スレ惜しむべし
ドムチョクドンロプあげ
834 :
世界@名無史さん:03/05/07 01:14
調査統計局あげ
1919年、曹錕と段祺瑞の対立
20年、張作霖軍天津に
↓ 安直戦争
安徽派敗北
↓
曹錕、張作霖連合は大総統徐世昌、靳雲鵬総理に圧力
曹錕、呉佩孚と張作霖の対立
21年、旧交通系と奉天派の連携
↓
梁士詒内閣
22年、第一次奉直戦争
奉軍は張景部の反乱で敗北
↓
張作霖の東三省自治「閉関自主」
張作霖+安福派+孫文の連携(反直三角同盟)
24年、慮永祥(安徽派で三角同盟が支持)と孫伝芳(呉佩孚系)
「江浙戦争」→孫伝芳の勝利
第二次奉直戦争
↓
馮玉祥のクーデター
↓
段祺瑞の復権、孫文北上
25年、孫文死亡
836 :
世界@名無史さん:03/05/10 19:48
今日「中国近代軍閥の研究」買ったよ。
(韓 復、かんふくきょ、Han2 Fu4ju3、1890−1938)
直隷省の生まれ
1910年、清軍の馮玉祥の部下になる。
「十三太保」の一人。(石友三、孫良城、孫達仲も)
馮の革命思想「武学研究会」の会員。
12年、馮は袁世凱の新軍に参加。
22年、第一次奉直戦争後、北京に入る。
24年、第二次奉直戦争、「首都革命」
国民軍第1軍と改称。
26年、奉直両軍と「南口大戦」
馮が一人ソ連に逃げて、不信感。
28年、第2次北伐、馮玉祥の第2集団軍に。
29年、反蒋戦争、韓復は馮玉祥から蒋介石の下に。
30年、山東省主席に。
32年、北平政務委員会常任委員。
韓復は半独立の「土皇帝」に。
36年、西安事件で張学良を支持。
日本軍の山東出兵に韓復が無血退却により更に対立。
37年冬、{劉湘、宋哲元と謀って蒋介石を捕らえようとしたのが、
発覚、処刑される。}
1、馮玉祥のソ連行きは複雑な事情がありそうだ。
2、37年の事件は、宋哲元もからみ何があったのだろう。
南京→武漢、首都移転と関係あるのか?
芥川龍之介著「上海遊記、江南遊記」講談社文芸文庫 2001年
1921年、大正10年、29才の龍之介は、上海、江南、長江、廬山、
武漢、洞庭湖、長沙、北京、朝鮮を3月から7月末のかけて旅行。途中
上海で肋膜炎で3週入院。帰国後大阪毎日新聞に紀行文を連載。
芥川の本は高校生の時に読んだきりで、当時特に面白いとも思わなかった
が、この本は特別面白い。普通の著者にくらべて、超一流の作家という
ものはどれくらいすごいかと実感した。見聞したものを、とらえる感覚、
その基礎となる教養、ユーモアのセンスなど、文学よりも素顔があらわれ
る。体調が悪いなかの旅行で、中国にたいする辛らつな表現もあるが、
強い好奇心で克服している。南京城内が当時は田畑であったり、科挙の
巨大な試験場など今は失われたものもある。
章丙麟、鄭孝胥、林黛玉、李人傑、辜鴻銘、などに会っている。私は
章丙麟しか知らないが、みんな有名人なのであろう。
35才で自殺している。
839 :
世界@名無史さん:03/05/12 10:19
>>838 > 章丙麟、鄭孝胥、林黛玉、李人傑、辜鴻銘、などに会っている。私は
> 章丙麟しか知らないが、みんな有名人なのであろう。
> 35才で自殺している。
鄭孝胥知りませんか?
840 :
動画直リン:03/05/12 10:20
>839
鄭孝胥は後の満州国総理でした。他も少し調べてみます。
林黛玉;「紅楼夢」の主演女優。柳腰の中国美人の典型、代表者。
映画なのか?絵草紙なのか?
李人傑;共産党員、詳細不明。
辜鴻銘;エジンバラ大学を出て、後に北京大学総長。
「中国の精神」を英語で書いた。
一般的な知名度なら鄭孝胥がぶっちぎてると思うけどね、その5人の中なら。
しばらく書き込みを離れてました。申し訳ありません。
>>837 韓復は、1930〜37年まで山東省を支配していた軍閥指導者です。
その間、郷村建設運動(梁漱溟などが参加)のような独自の政策も
行っています。
山東統治中に日本側との間にも交渉を持っていたようですが、
結局南北から日本軍に挟撃されそうになったため、戦わずして撤退
しています。
その韓復が処刑されたのは、戦わずして山東から撤退したことが
蒋介石の不興を買い、見せしめ的な意味合いがあると思われます。
なお、宋哲元や劉湘と画策した陰謀についてですが、現在のところは
打倒蒋介石を目論んでいたかどうかまでは断定されていません。
ただ、この3人が頻繁に連絡を取り合っていたのは確実で、
かつて自分に何度も反旗を翻した韓復に蒋介石が信を
置けなかったのは、当然と思われます。
参考;呂偉俊『韓復伝』山東人民出版社
>>838 戦前の日本文化人による上海の印象については、
劉建輝『魔都上海』(講談社選書メチエ)が参考になると思います。
>>843 僕自身は、日本でも章炳麟の知名度はかなり高いと思ってますけど。
同盟会の初期のリーダーですし、日本での活動も目覚しいものが
ありましたから。
もう一つ。
芥川の旅行中に京劇見物で芥川に京劇の解説をしている波多野と
いうのが出てくるんですが、あれは軍閥の波多野先生で時代は
合うんでしょうか?友達らしいですが・・
芥川龍之介(1893−1927)
波多野善大(1908− )
芥川が旅行した1922年には、14才だから違いますね。
(潘復、はんぷく、Pan1 Fu4、1883−1936)
山東省の生まれ
1905年、挙人になるが、科挙の廃止で進級はできない。
15年、財政部参事になる。
16年、全国水利局副総裁。
19年、靳雲鵬内閣で財政部次長。
潘復の家は張学良、李景林、張宗昌、など政治家のクラブに
なる。
26年、顔恵慶、顧維鈞内閣で財政部官僚、交通部などで活躍。
27年、張作霖が中華民国軍政府を組織その内閣総理に。
28年、「関税自主委員会」主席に就任。
張作霖の爆破される列車に同乗負傷する。
張学良の最高顧問。
36年、肺炎で死亡。
関税問題で苦労したようだ。
849 :
世界@名無史さん:03/05/14 20:37
>825
「馮玉璋の失脚」の経緯について、教えてください。
>825>849
「馮玉璋の失脚」の経緯について、
まず、文字の問題。馮玉祥と馮国璋がいますが、この場合馮玉祥について
と思います。
「馮玉祥の失脚」というと二つの意味があって、一つは首都革命で国民軍を
つくり全盛期を迎え、段祺瑞勢力にまけてチヤハルに退却、ソ連に逃亡した
ことと、北伐完成後、蒋介石の軍閥軍縮政策に反抗し、反蒋戦争をおこし
それに敗れた第二の意味がありますが、この場合の「馮玉祥の失脚」は
第一の場合と思います。第二次奉直戦争で呉佩孚が優勢だったのが、馮の
首都のクーデターで、北京を占領したものの、段祺瑞や奉天軍には対抗
できず、北に退却したことを指すと思います。
ただ、26年、奉直両軍と「南口大戦」とあるのですが、これがよく
解りません。
851 :
世界@名無史さん:03/05/15 18:14
>850
解説、ありがとうございます。
「西安事件」の時点では、もともと馮玉祥の地盤だったセン西省は楊虎城と、満州から
流れてきた張学良の支配下になっていますよね。
ということは、それまでのどこかの時点で馮の権力が崩壊し、
その地盤の一部が楊によって継承されたという理解でいいのでしょうか?
>851については
>697
>703
>718
>721
を参照してみてください。
>>846 波多野乾一という人だと思います
「支那劇五百番」とか「支那劇と其名優」などの著書のある京劇通です
「現代支那」とか「支那の政党」などの著述もあります
当時は辻聴花とか村田烏江とか井上紅梅といった京劇通もおりました
戦前は梅蘭芳や韓世昌などの名優も日本公演に来ていて人気を博していました
京劇フィーバーとも言うべき現象があったのです
但し当時の日本では「京劇」は「キョウゲキ」ではなく「ケイゲキ」と呼ばれてました
ついでに全く無関係ながら「水郷」は「スイゴウ」ではなく「スイキョウ」でした
いずれも戦前の読み方のほうが適切であったように考えます
>>842 芥川が会った林黛玉は蘇州出身の名妓です
「紅楼夢」の主人公の名を借りて源氏名にしたものでしょう
「波多野乾一」でググル検索してみたら結構ヒットしました
支那政局関係の本を沢山出してるようです
>855
波多野乾一についてありがとうございました。
私がうっかりしていて、この人については、このスレの
736,760,762で靡莫さんに教えていただいてたのを
忘れていました。
それにしても林黛玉は色っぽい。
靡莫
856の下部の靡莫の文字は消し忘れでサインではありません。
失礼しました。
(石 友三、せきゆうさん、Shi2 You3san1、1891−1940)
吉林省の生まれ
1908年、長春で呉佩孚の兵士になる。
12年、北京で馮玉祥の馬夫になる。
14年、馮玉祥について陝西に
26年、抜擢され第6師師長に。
馮玉祥は訪ソ、
国民軍は奉天、山西軍に挟撃され崩壊、韓復と
山西軍に吸収される。
馮玉祥の帰国後陝西に進撃。
27年、河南、山東で北伐参加。
29年、馮玉祥の反蒋に韓復と離反。
30年、中原大戦後、馮玉祥軍を離脱、張学良の東北軍に。
31年、土肥原機関の策略と共謀、反張反蒋の反乱を起こすが
鎮圧される。
33年、宋哲元により冀北保安司令に。
40年、華北傀儡政権に取り入るが、部下に反乱され
生き埋めにされる。
馮玉祥軍は、ホームグランドというか、地盤というか、
根拠地がアイマイで利権のある所に流れついて行く感じが
ある。
>851
馮玉祥は、1930年の中原大戦(反蒋介石戦争)で敗北し、
この年の11月14日に閻錫山と共に下野を表明しました
(もちろん、これが>850さんの言う第2の失脚です)。
その後も、馮玉祥はかつての自分の部下たちと連絡をとり、
また、抗日戦の時も戦区司令長官に任命されていますが、
蒋介石の政略によって封じられ、馮は復権を果たすことが
できずに終わりました。
馮玉祥失脚後の陝西省については、その通りです。
楊虎城が馮玉祥軍崩壊後に陝西省政府主席として赴任し、
省の統治を行っています。その後、満洲事変で壊滅的
被害を受けた張学良が、東北軍を率いて陝西省へ入って
きたわけです。
>853-855
あやめさん、お久しぶりです。書き込み、ありがとうございます。
京劇通と言えば、この他では村上知行も有名ですよね。
『支那及び支那人』などに京劇に関する評論や随筆が載って
いますし。
でも、その当時に日本で京劇熱がそんなに高まっていたのは
知りませんでした。
軍閥の中ですと、京劇ファンとして有名なのはやはり張学良
でしょうか。
>858
石友三については、韓復以上に大陸では評判が悪いですね。
韓とは異なり、実際に華北政務委員会側に付こうとしていますし。
もちろん石友三にしてみれば、自らの権力を維持し、生き残る上
での止むを得ない選択だったということになるんでしょうけど・・・。
馮玉祥の配下たちは、中原大戦敗北後は西北の旧地盤から
切り離されました。また、蒋介石の巧みな人事操作によって、互いの
連携も乱され、さらにはかつての上官である馮玉祥にも不信を
抱くことになります。
宋哲元、韓復、石友三、そして張自忠などは、それぞれ最期
こそ異なりますが、いずれも蒋介石との間で苦しい暗闘を続けてきた
と言えるのではないでしょうか。
国民党の高級軍人でまともなのは張自忠と張治中だけ
(張景恵、ちょうけいけい、Zhang1 Jing3hui4、1871−1961)
遼寧省の生まれ
馬賊の出身。奉天軍旧派。張作霖閥で出世。
1922年、第1次奉直戦争で敗戦原因の作戦ミスで失脚、後に和解。
27年、顧維鈞、潘復内閣に入閣。
28年、張作霖爆破事件で自身も負傷。
32年、満州事変後に黒竜江省政府省長。
35年、鄭孝胥に代わり満州国国務総理。
50年、戦犯。
61年、収容所で死亡。
(湯玉麟、とうぎょくりん、Tang1 Yu4lin2、1871−1937)
遼寧省の生まれ。
匪賊として遼西で活躍、張作霖閥に加わる。
1916年、張作霖奉天督軍兼省長
処遇に不満、張作霖反対派の馮麟閣に加担。
張勲の復辟に参加。張作霖と和解。
25年、郭松齢事件で功績。
26年、熱河都統になる。
27年、北伐軍と戦い、熱河支配を確保した。
33年、日本軍の熱河進攻に戦わずして天津に逃げる。
国民政府より逮捕令。
馮玉祥の抗日同盟軍に加わる。
部下を宋哲元の29軍に加え、引退。
(張 作相、ちょうさくそう、Zhang1 Zuo4xiang1、1881−1949)
遼寧省の生まれ。
1901年、張作霖の部下となり、以後忠実なパートナー。
22年、第1次奉直戦争。張作霖軍は敗北。
軍事力の建て直しに東三省陸軍整理処をつくる。
24年、第2次奉直戦争に参加。
25年、郭松齢の乱には張作霖に付く。
26年、張作霖を安国軍総司令に推挙
27年、大元帥に推挙、奉晋戦争に参加(山西省)
北伐軍に対抗。
28年、張作霖爆破後、張作相担ぎ出しあるも固辞。
張学良、万福麟らと易幟を宣言。
31年、満州事変後、張学良と北平に行く。
満州国への誘いには応ぜず。
48年、蒋介石からの台湾への誘いはことわる。
1、これらの人たちは匪賊、馬賊、緑林のどの言葉が最適だろう。
同じようなものか?
2.張作霖、張景恵、張作相は「保険隊」隊長。
湯玉麟は「土匪」とある。
「保険隊」とは一種の用心棒契約であろう。
>859
なるほど、疑問が解けました。ありがとうございました。
(趙 爾巽、ちょうじそん、Zhao4 Er3xun4、1844−1927)
原籍、奉天
1874年、進士に。
1902年、山西巡撫
03年、湖南巡撫
05年、盛京将軍となり、東北地区の新軍訓練、産業開発。
日本、ロシアへの対抗策を講じた。
08年、錫良の後任として東三省総督に任ぜられ「欽差大臣」の
肩書きを加えた。この間東北の軍事、教育の振興。
また外国借款による実業振興策をとった。
これの担保としての鉄道国有化政策により、辛亥革命の
誘因ともなり、自分の後任に四川総督になった弟の
の死を招いた。
11年、辛亥革命では奉天国民保安会をつくり急進派の波及を
防いだが、引退。
25年、段祺瑞臨時執政期に善後会議議長、参政院議長、
安国軍政治最高顧問などを歴任。
1、「盛京将軍」清朝期において、東北は満州族発祥の特別の地の中心の
奉天の別名「盛京」の将軍。
吉林将軍、黒竜江将軍もいた。
2、関外統治機関として「理藩院」。1861年以後外交は「総理衙門」に。
3、1907年、東三省総督と各省巡撫に。
4、東三省と四川は直接の関係はないが、人事で縁が深い。
「欽差大臣」
1、清代における臨時の官職。特別権限。
2、その後外国に出仕する公使にもこの名称。
この場合は関外を外国扱いで2)の扱いか?
(錫 良、しゃくりょう、Xi1 Liang2、1852−1917)
蒙古人?
1874年、進士及第。
94年、太刀会の平定。
1900年、山西巡撫、外国軍隊の山西省進出を防ぎ西太后を
山西省に迎えた。
01年、熱河都統、荒地の開墾、巡防営の整備、
行政区の改変などの改革。
03年、四川の鉄道建設の利権喪失は反清朝運動に転じる
ことを恐れ、自弁を主張。
04年、四川総督、チベットの反乱鎮圧。
07年、雲南貴州総督、雲南陸軍講武学堂を作る。
09年、欽差大臣、東三省総督
ロシア、日本の鉄道支配に対抗し、アメリカ資本で
錦州愛琿鉄道の交渉をした。
錫良は清末の地方において綱紀粛正、財政改革、殖産事業を
行ったが、支えきれなかった。
自分の作った雲南軍により、清朝が滅びさった。
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
(朱 慶瀾、しゅけいらん、Zhu1 Qing4lan2、1874−1941)
山東省の生まれ
日本の陸軍士官学校卒業
卒業後、奉天で巡警総局
四川省に転出。
辛亥革命当時、成都の新軍17鎮総統。
鉄道国有化に保路同志会が蜂起。
1911年、清朝は端方を派遣、弾圧。
蜀北(川北)軍政府
川南軍政府
川東軍政府などが独立を宣言。
ついで、四川総督、趙爾豊が四川省自治を宣布。
ついで、蒲殿俊を都督、朱慶瀾を副都督とする
四川軍政府(大漢四川独立政府)が成立。
ついで、朱慶瀾が成都兵変によりにより放逐される。
12年、黒龍江省でしだいに全権を掌握
16年、段祺瑞により広東省長に。卓威将軍。、
陳炯明と対立下野。
22年、張作霖に迎えられ、ハルビン行政長官。
28年、引退、
以後、東北義勇軍、19路軍などを応援。
(郭松齢、かくしょうれい、Guo1 Song1ling2、1883−1925)
瀋陽、東陵区の生まれ
1906年、奉天陸軍速成学堂に入学。
09年、朱慶瀾と共に成都へ。
11年、朱慶瀾のもとで武昌起義に呼応し、四川軍政府を擁立。
内紛で四川を追われ奉天に帰る。
奉天革命勢力は趙爾豊、張作霖、湯玉麟に弾圧される。
16年、中国陸軍大学卒業。
18年、朱慶瀾と共に、広州に派遣される。
孫文の軍政府を経験。
19年、奉天陸軍講武堂の教官になる。
張学良と面識。
その後、部下であると共に、指導者になる。
20年、安直戦争、調停の名目で入関、天津で安徽軍を破り、
張作霖の新任を得る。
22年、第1次奉直戦争。張作霖は敗れる。
揚宇霆等の士官派は、張作霖の入関支持。
郭松齢等の土派の「保境安民」「改良内政」は阻止される。
24年、九月第二次奉直戦争。
馮玉祥のクーデターで勝利。
奉天軍は江南に進出。
郭松齢は「保境安民」を主張するも入れられず。
10月張学良の委託で天津に7万の兵。
11月張作霖の攻撃命令を拒否。
張学良に「東北政局の改造」を訴える。
天津国民飯店で「反奉の挙兵」を決定。
馮玉祥との合作。
濼州で自軍を東北国民軍を改称。
「反奉通電」を発す。東北国民軍の連勝。
12月日本は満鉄所有地への侵入を拒否。
郭松齢は逮捕され処刑される
1、旧派 「緑林,土匪グループ」
張景恵、湯玉麟、張作相
新派 「洋派、ヤンパイ」(日本陸軍士官学校卒グループ)
士官派ともいう。
揚宇霆、姜登選、
「土派、トウーパイ」(中国陸大卒グループ)
郭松齢、魏益三
2、郭松齢の反乱を奉直戦争の貢献の褒賞に不満とか、世代間の利権
争いとか書いてあるのもあるが(水野明氏)賛成しにくい。
四川での辛亥革命や広州での軍政府を現場で体験した影響がないか?
その意味で朱慶瀾という人物はもっと研究の余地がある。
3、しかしながら、馮玉祥との共同した反乱は馮の背後にロシアがいた
のだから、もし成功していたら、満州へのロシア進出の可能性があり、
その後の極東情勢に大きく影響しただろう。
馮玉祥も郭松齢もロシアのいいなりになるつもりも無かったろうが
ただ利用されるほどロシアという国は甘くない。
4、当時の奉天軍が戦争できるほど、経済的に余裕がなかったことも
この反乱の理由の一つだろう。
5、張学良に与えた思想的影響もさらに検討すべきだろう。
>867-869
趙爾巽、錫良は、共に清末に地方の近代化を推進した政治家ですね。
錫良については、すでに30年前にR.V.D.Forgesという研究者によって、
アメリカで専著が刊行されているようです。
いずれにしても、清末の政治家たちは「近代化」問題との絡みで、
最近になって再評価が急速に進められています。
>868
「欽差大臣」ですが、ここでは字義通り天皇の勅命で派遣される大臣を指し、
2番目の意味は含まれないはずです。
欽差大臣としては、香港またはマカオに駐在する列国の公使と日常的に対等の
資格で交渉にあたり、中国側の外交の窓口となった「広東欽差大臣」も
重要な役職でした。
(参考;坂野正高『近代中国政治外交史』東京大学出版会)
>873
第一次直奉戦争で奉天派が敗北してから、張学良が中心になって奉天軍の
近代化を推進しましたが、このとき学良を支えたのは、郭松齢らの新派です。
これによって力量が強化された奉天派は、第二次直奉戦争で直隷派を
破ることに成功しました(最近の大陸の近代軍事思想史でも、張学良の奉天軍改革が注目されています)。
しかし新派の有力者たる郭松齢は、奉天軍の改革などによって
既得権益を傷つけられた旧派の各軍人たちとの対立を深めていきました。
また、国民党や馮玉祥への共感を抱いていた郭の眼には、張作霖が
旧態依然の軍閥指導者のように見え、不満を抱いたのでは、とも思われます。
ただし、郭にも個人的な野心があり、馮玉祥もそれを利用した面が
あったことは、否定できないでしょう。
いずれにしても郭松齢の反乱は、奉天軍閥内外の様々な要素が絡み合い、
起こるべくして起こる事件であった、と言えるのでは無いでしょうか。
ちなみにこの時のソ連は、武力介入の準備をしていたものの、
結局は日本との衝突を恐れ、静観するに留まっています。
クリスティー著「奉天三十年、上下」矢内原忠雄訳、
岩波新書、1938年第1刷、1998年第10刷
この本は再発行してすぐ無くなってしまったのだろうか?
著者はスコットランドの長老派の伝道医師で1883年から
1922年奉天に40年間暮らし、その30年目ごろ、この本を
書いた。日清戦争、義和団事件、日露戦争、民国革命を経験して
いる。当時の様子がありありと描かれている。驚いたことに、
途中で、イザベラ・バードが訪問してくる。日清戦争のころ
礼儀正しかった日本兵が日露のあたりから、だんだん横暴に
なっていったようだ。残念ながら、上巻しか入手できていない。
実はクリスティーより、訳者をよく知らなかったので注目した。
新戸部稲造の弟子で植民地論が専門だそうだ。中国民族資本の
発展を期待し、日本の過干渉に警告したらしい。これに尾崎秀実
などは、外国との癒着などを理由に反論したらしい。
ゾルゲ関係は他のスレにまかせながら、今後検討したい。
877 :
世界@名無史さん:03/05/28 03:03
>876
矢内原忠雄は東京帝大経済学部の植民政策講座主任教授で
前任者・新渡戸稲造の弟子です。
筆禍事件で東大を辞職させられる直前の1937年2月『中央公論』に
「支那問題の所在」を発表し、いわゆる「中国統一化論争」の口火を切りました。
浙江財閥を中心とする中国の民族資本の発展を高く評価し、
国民政府による中国の統一を予見した彼の論文は
満鉄調査部の大上末広(橘樸の愛弟子といわれた人)によって批判されました。
大上の議論は中国社会の停滞性を強調し、その結果国民政府による統一の可能性を
否定したものであったようです(それゆえ日本の侵略政策を正当化するものであったと
今日では評価する人が多いようです)。
大上に対しては、同じく満鉄調査部の中西功(筆名;大村達夫)がさらに批判を加え、
労農勢力(明確には述べていませんがもちろん共産党です)による統一の可能性を
示唆しました(彼の背後に尾崎秀実がいたと言われます)。
矢内原が一連の論争に関わったのは最初だけで、その後はもっぱら
大上・中西ら「満鉄マルクス主義者」の間で論争が展開されました。
大上と中西はその後ゾルゲ事件に端を発する「満鉄事件」で検挙され
大上は獄中死しましたが中西は戦後まで生き残り日本共産党の中央委員として
活躍しました。矢内原は戦後東大に復帰し「植民政策」講座が衣替えした
「国際経済」講座の主任となり、さらに東大総長に就任しました。
中国統一化論争については浅田喬二『日本知識人の植民地認識』が詳しいです。
矢内原がクリスティーを翻訳したのは植民政策学者としての満州問題への関心も
さることながら、無教会派キリスト者としての思想的背景も関わっていると思います。
一番読みやすい著作としては岩波現代文庫『帝国主義下の台湾』があります。
(抄録ですが)
878 :
世界@名無史さん:03/05/28 04:39
>>877 結果としての共産主義の評価を考えると
中西功は人類の汚点だね。
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
l__l_
ピュ.ー ( ^八^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 張作霖
>876-877
「中国統一化論争」は、当時の著名な中国関連の学者たちが、
次々と参加していった質の高い論争ですよね。
代表的な論客は、矢内原、中西(大村)、大上、そして尾崎
ということになるでしょうか。
ただ、矢内原は論争のきっかけを作ったものの、
その後の本格的な論争には、ほとんど参加していません。
大上の主張は中国社会の停滞を強調する立場を
取っていますが、これについては、後にフランクが唱えた
「従属理論」に近い性質を持っていると指摘する人もいます。
大上は戦前に死去したため、残念ながら彼の主張の真意
を完全に知ることは出来ませんが、直ちに彼の理論を
侵略の正当化と見なすのも、ためらわれます。
しかしながら大上の主張は、中国社会の自立的発展を軽視
(さらに言えば無視)している点で、中西や尾崎には
及ばないように思えます。
ただ、中国社会の停滞を前提とする見方は、欧米における
中国研究者にも広く見られたことです
(詳しくは、コーエン『知の帝国主義』などを参照)。
882 :
世界@名無史さん:03/05/29 00:11
>>881 夢の世界を思い描くか否か、それが君の理想とあってるか
どうかってのは研究の是非と直結するものなの?
むしろ現状認識がまともか否かって方が大切じゃん。
政治運動じゃないならば(笑)
これから各々を、のんびり検討いたしますから
ゆっくりいきましょう。
1、尾崎秀実は、オザキホツミと読むらしいですね。
これも知らなかった。
2、矢内原忠雄「帝国主義下の台湾」を流し読みする。
研究方法として、経済を中心に台湾をフィールドワーク
のように調べ上げて、植民地支配の問題をあぶりだしていく
ように思われた。この方法で他に朝鮮、満州もやられたので
あろう。ただし、残念ながら、中国統一化論争からは、はずれて
いるようです。やはり議論の出発点である「支那問題の所在」を
読む必要がありそうです。初稿の中央公論以外に岩波の
「矢内原忠雄全集、全29巻」のどこかに入っていそうですが
どなたか何巻かご存知ないでしょうか?図書館が閉架式ですので・・
尾崎、大上、大村などは、見つかりそうです。
>882
一応、僕は大上の「現状認識」を問題にしてるんですが・・・。
大上の立場は、中国社会の外国資本への従属性を強調し、
その自主的発展に否定的な見方を示すものです。
そのため大上は、浅田喬二氏が指摘しているように、
中国国内資本による内発的発展を軽視し、
そして、外国資本との関係について一面的な見方に陥っていると、
僕には思えるのです。
念を押しておきますが、僕は大上に比べて中西や尾崎のアプローチを
支持したとしても、それを彼らの思想の全肯定につなげるつもりは、
全くありません。もちろん、大上を全否定する気もありません。
ところで882さんは、「統一化論争」における大上(あるいは中西、尾崎)の
主張について、どのようなお考えをお持ちですか?
「支那問題の所在」はマイクロフィルムで読めました。
堂々たる内容で今日でも古さを感じません。
西安事件について、最後に残された軍閥の張学良を西北部で蒋介石が
干からびさせようとして、同様に西北に追い詰められた共産軍と
手を結んだというのは、その通りと思います。日本が手を出さなければ
少なくとも延安は一度陥落したのではと思います。共産党がなくなるわけ
でもないでしょうが。
中央公論の同月号、37年2月は支那特集で、共産党の分析、軍閥の総論、
蒋介石の秘密組織など、多彩です。
>887
林黛について、ありがとうございます。
竜雲の五男・竜縄勳は、アメリカ留学の経験を持ち、
中華人民共和国が建国されてからは、香港で生活しました。
後の林黛の自殺について、竜縄勳が相当に悩んでいた
という話をどこかで読んだ覚えがあるのですが・・・。
ちなみに竜雲の子供たちは、ほとんどが大陸に留まらず、
台湾や香港に移って父親とは離れています。
また三男の竜縄曾は、国民党に最後まで与し、
内戦末期の人民解放軍との戦闘で戦死しました。
>889
林黛の父親は程思遠だったんですか?
程思遠の著書は何度も読んだことがあるんですけど、林黛が娘だったことは、
恥ずかしながら初めて知りました。
情報、ありがとうございます。
程思遠は、桂系(広西)軍閥について貴重な回想録を何冊も残していますね。
三民主義青年団の要職を務めたため、蒋経国系列の人物ともされるようです。
1965年の李宗仁帰国の際には立役者となりました。
それにしても、程思遠はまだ95歳で健在なんですね。
リンク先の情報によると、全人代常務委員会副委員長を
今年3月まで務めてますし。
↑失礼、×全人代、○全人大でした。
>>890 正直言って林黛のページの受け売りです。
あと、程思遠は白崇禧の秘書となる前に李宗仁の秘書を務めたことがありました。
見落としてましたね。
藤村道生著「日清戦争」 岩波新書880 1973年
難しくて、まだ途中です。日本史、中国史、朝鮮史の知識が
必要。ロシアやイギリスも関係。特に日本史の知識が不足。
1、袁世凱は朝鮮総理交渉通商事宜、すなわち朝鮮における
清国代表とかいてあるが、誰か、上司だったと読んだ気が
したが記憶違いか?
2、1885年、北洋艦隊は定遠、鎮遠、済遠を加えた。
「遠」は外国を意味する。旅順に軍港、威海衛に水師
学堂をつくる。
長いこと連載していた、陳舜臣の「青山一髪」が近くおわる。
清末から革命運動のくりかえす失敗の後、辛亥革命まで
細かい情報が多い。はじめのほう読めなかったの、出版されたら
買おう。
前述の日清戦争の本を読むと台湾の割譲当時かなり激しい抵抗が
あったようだ。そこに劉永福や黒旗軍が出てきた。
少しそちらの予備知識を収集したい。
1840年、第1次アヘン戦争
42年、南京条約
44年、黄埔条約、清朝と仏国
51年、太平天国軍蜂起
55年、清朝、仏軍とともに上海の小刀会鎮圧、劉麗川戦死
雲南回教徒の蜂起
貴州苗族蜂起
60年、英仏連合軍北京を占領、円明園を焼き払う。
73年、劉永福の黒旗軍、仏軍と交戦を繰り返す。
74年、日本台湾出兵
日本、清朝と和約「北京専条」
83年、ベトナムにおいて黒旗軍の反仏闘争激化
清朝、ベトナムの宋主権を主張し、仏軍の撤退要求。
84年、清仏戦争開始
85年、天津条約(宋主権を放棄)
95年、下関条約
>http://www2.ttcn.ne.jp/~taktplus/42hanoireportkokyou.html
雲南ベトナム国境の紅河
(会党)
明代 →清初 →民国期
「打行」 「天地会」 天地会、哥老会から「紅幇」
「打手」 「反清復明」 運河や長江の水夫から「青幇」
少林寺伝説
西魯伝説
華南、華中
広東「三合会」
広西「三点会」
福建「小刀会」
四川から「哥老会」
(劉 永福、りゅうえいふく、Liu2 Yong3fu2、1837ー1917)
江西省の生まれ
1857年、太平天国の乱に呼応した天地会に参加。
65年、清軍に追われ、黒旗軍を率いて、ヴェトナム北部に入る。
73年、フランスと交戦、ガルニエ戦死。
74年、第2次サイゴン条約
83年、フランスと交戦、リヴィエール戦死。
順化フエ条約
85年、清仏戦争、劉永福大勝するも、李鴻章等の主和派により
天津条約。ヴェトナムから撤退。
94年、日清戦争、台湾守備。
95年、下関条約、終戦後南部で反日闘争、帰国。
1、劉永福や黒旗軍はどうしてこんなに強いのであろうか?
フランス軍が殖民地軍で弱いせいもあるが、中国正規軍はもっと弱い。
日本軍も台湾で苦しめられた。
2、ヴェトナムに入った会党は、黒旗軍、白旗軍、黄旗軍がいたが、黒旗軍
が勝ち抜いた。
3、清仏戦争
主戦派、左宗棠、張之洞、彭玉麟
和平派、李鴻章、奕訢いしん、西太后
4、清国海軍、李鴻章の北洋海軍、曾国荃の南洋海軍、福建海軍
三島宗良著「白蓮教、黒旗軍の反乱」
1860年代の山東省の研究。
捻軍鎮圧の費用のための課税の減免運動。
白蓮教
行商人、武術教師、用心棒などが多かった。
塩の私販。
5大旗(黄、紅、白、緑、黒)
太刀会、一心会などの戦闘組織があった。
「掃清立明」
国旗軍
馬隊、1〜2千、歩隊、3〜4千からなり多くは拳棒の
使い手で戦闘力があった。
指導者の宋景詩が偽装投降し勢力を温存した。
四大規律があったという。
山東黒旗軍は収束されていくが、後の義和団に継承されていく。
「講座中国近現代史、第1巻」
1、劉永福等との関係はこの論文では解らない。
2、四大規律など人民解放軍の原型のようで面白い。
しばらく書き込めず、申し訳ありませんでした。
>>898 劉永福は、広東省欽州(ただし、現在では広西チワン族自治区)の客家の家に
生まれています。劉永福は雲南付近の中越国境に割拠し、貿易路からの税収で
黒旗軍を維持していました。
当初のベトナムとの関係は「不即不離」(坂野正高)だったようですが、
1873年からはベトナム王のためにフランスと戦うようになります。
清仏戦争(中仏戦争)を含めた清末の中仏関係については、
坂野正高『近代中国政治外交史』が詳しいです。
劉永福以外にも、馮子材などが戦争で活躍しました。
『近代中国政治外交史』さがしてみます。
nemotoさんというかたのHPをみていたら、ワンスアポンアタイムインチャイナ1
という香港映画で、劉永福の出陣シーンが出てくるそうです。ビデオ借りてみよう。
(鄭 観応、ていかんのう、Zheng4 Guan1ying4、1842-1922)
広東省香山県(中山市)の生まれ
1858年、経済的事情で勉学を諦め上海にでる。
59年、イギリス系上海宝順洋行に就職、夜学で英華書館に通い
英語や実業を貪欲に学ぶ。
60年代、独立して事業を起こし、投資、経営に活躍。
78年頃より、造紙公司、上海機器織布局、船舶、製鉄、
粤漢鉄道などに投資した。
李鴻章や盛宣懐と結ぶつきが強かった。
94年「盛世危言」を書いて、商工業の振興を主張し軍事を重視
する洋務論よりも変法論に近かった。
98年、小田切万寿之助らと変法、近代化で連携した。
2008年、清朝に憲政を上書する。
辛亥革命に希望を持ったが、袁世凱の帝政などに失望し
引退した。
1、フランスとの戦争の迫った頃、外国の知識をかわれて、タイ、
シンガポールなどとの連携交渉に派遣されたが、反応が無かった。
2、清朝の体制内改革の知識不足、調べたい。
903 :
世界@名無史さん:03/07/03 00:39
age
また、しばらく書き込みが途絶えてしまい、申し訳ありません。
鄭観応は実業家としても著名な人物ですね。
康有為・梁啓超らの変法派、そして張謇らの「実業救国」思想の
先駆者として位置づけられる感じでしょうか?
洋務派の思想家としては、この他に馮桂芬、馬建忠などが有名です。
もっとも洋務派の範囲については、『清末民国初政治評論集』(平凡社)の
解説で触れられているように、かなり広いものとなってしまうことが
多いですが(魏源、曽国藩などが含まれるケースもあります)。
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
906 :
世界@名無史さん:03/07/27 07:04
age
907 :
@名無史さん :03/07/31 23:20
PCが修理工場からやっと戻ったけれど、再インストールされていて、
沢山覚えさせた人名変換が消失していた。涙・・
イザベラ・バード著「中国奥地旅行、1、2」東洋文庫
1、やっと読み終えた達成感と、こんな面白いものが終わってしまう
喪失感が混在。原題は「揚子江流域とその奥地」
2、1895,6年に63才、慎重140cmの女性が通訳一人つれて小船で河をのぼる。
3、武漢の上流の三峡部、激流を動力の無い船を、岸からの人力で引っ張りあげる
作業は想像を絶する、時には人命をかけたものすごいものだった。
4、義和団事件の直前の奥地だから、ののしられ、集団で打たれ失神するような
石をぶつけられる苦難の旅だ。
5、開港と、外国物資の進出の影響。地方関税としての「釐金」が欧米圧力で廃止され
て、四川省などの地方の税収減少問題等、研究が鋭い。
6、持参のパスポートには、地方役人に対し、英国領事なみに扱えという清朝の注意が
あり、VIP扱いではある。
7、四川省からチベットの一部でにいくと中国側の抑止圧力が強まり中断する。
8、本国ではグラッドストンやディズレリが注目している。彼女自身は異国の興味で
旅行しているのであるが、それをサポートしている国家はこの旅行を地政学的
調査ともとらえているようだ。中国側が英国人をチベットへ入れたくないのも
解らないではない。
9、南京条約で揚子江流域は英国権益領域となっていて、大運河まで入れると、北京
あたりまで含まれるらしい。
10、いずれにしろこんな面白いものを読まないのはもったいないが、楽しみは
とって置くという考え方もある。
∧_∧ ∧_∧
ピュ.ー ( ・3・) ( ^^ ) <これからも僕たちを応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄ ̄∪ ̄ ̄〕
= ◎――――――◎ 山崎渉&ぼるじょあ
909 :
@名無史さん:03/08/03 23:53
「近代中国人物研究」慶応通信 1989年
(梁啓超における湖南)
−とくに蔡鍔との関係をめぐってー 佐藤一郎著
蔡鍔は梁啓超の弟子であるが、はるかに師の思想水準を越えた
行動家である由。時政学堂で唐才常は助教。生徒は約四十人。
蔡鍔、李炳?、林圭、范源濂は弟子。
岳麓書院は旧勢力である桐城派の牙城。
時政学堂以後は黄興の明徳学堂。
革命スレの321の1921年の芥川の中国旅行で話題になっている
長沙で唐継堯と譚延闓の軍が戦って、湘江が唐継堯の軍の死骸で
いっぱいになったというのはどの戦いだろう?
911 :
世界@名無史さん:03/08/22 23:53
age
912 :
世界@名無史さん:03/08/22 23:58
孫文の広東政府に協力した陳火同明について教えてください
彼は分権主義者だったんですよね。それでクーデターを起こした
>912
靡莫さんはlong vacationなので私で失礼します。
私も御説のように思います。
孫文は広州を北伐、中国統一のただの拠点と考え利用しようと
したのに対し、地元出身の陳烔明は、中国を近代文明国家にしよう
という考えをあったが、あくまで広州中心に局地的な安定を重視して
いてそれを支持する勢力もあったようです。
出身地という意味では、孫文の生家のほうが陳烔明より広州に近いですね。
(劉坤一、りゅうこんいつ、Liu2 Kun1yi1,1830−1902)
湖南省の生まれ。
湘軍の将領として、太平天国や天地会軍の反乱鎮圧で頭角をあらわす。
広西省で天地会系の壮族の「大成国」を滅ぼす。
1974年、両江総督、通商大臣
75年、両広総督
国防に関しては、李鴻章を中心とする「海防論」と左宗棠の「塞防論」が論争。
左宗棠寄りの見解だった。
洋務運動では、軍事の近代化に関心があっても、電信、鉄道の敷設には積極的
でなかった。
イリ地方問題でのロシアとうの国辱的なリヴェディア条約を調印して帰った
崇厚を張之洞らの「清流派」の攻撃に組せず、李鴻章らの外交配慮を支持し
崇厚の厳罰に反対した。
1981年、彭玉麟に弾劾され辞職。
90年、再び両江総督。
94年、日清戦争、敗退した淮軍を中心にした李鴻章の清国軍にかわって
欽差大臣になって抗戦を主張したが講和になる。
2000年、義和団事件で中央政府は列国に宣戦を布告したが、張之洞、劉坤一
などは、南方諸省は秩序維持に努め列国と了解を取り結んだ。
事後に西太后に評価された。
洋務派から変法派への流れにおいて、洋務派を変革の不徹底な時代おくれと、
決めつけずに、堅実な運動として評価しようとする坂野グループの見解は
興味深い。
(李鴻藻、りこうそう、Li3 Hong2zao3、1820−1897)
直隷省の生まれ。 「清流」北方派の筆頭
1852年、進士に合格
60年、皇太子時代からも皇帝即位後も同治帝の教育係。
65年、軍機処勤務
68年、捻軍が畿内に侵入、李鴻章淮軍、左宗棠湘軍の指揮不統一
をみて李鴻藻は恭親王奕訢を大将軍として建議した。
79年、イリ条約が国辱的として崇厚を弾劾。
83年、ヴェトナム領有でフランスと抗戦を主張。
84年、盛cの弾劾問題で恭親王一派の失脚。李鴻藻も降格。
黄河の治水担当に。
94年、日清戦争、抗戦を主張。下関条約に反対。
95年、礼部尚書、吏部尚書、閲巻大臣。
(翁同龢、おうどうわ、Weng1 Tong2he2、1830−1904)龢=和
江蘇省の生まれ。「清流派」南方派の筆頭。帝党。
1856年、進士に。
65年、後の光緒帝の教育係。
79年、イリ地方に関する「リヴァディア条約」交渉。
80年、条約、廃棄。
82年、軍機大臣に。
84年、清仏戦争、和戦両様の立場。
恭親王グループ失脚。
94年、日清緊張で開戦を主張。
李鴻章の敗戦を追及。恭親王グループの復権。
李鴻藻と共に軍機大臣に。
98年、康有為らの変法派の抜擢に尽力。
戊戌の維新後は、康有為などの変法派と、西太后との
共同歩調をとる、穏健な改革を構想する清流・帝党とが対立。
4日後には翁同龢は罷免される。
戊戌の政変後にも処分をうける。
お久しぶりです。最近は忙しくて書き込みが滞って申し訳ありませんでした。
>912
陳炯明が孫中山に対してクーデターを起こした原因は、おっしゃるとおり、
孫の中央集権主義と陳の地方分権主義の対立に基づくものでした。
陳炯明にしてみれば、孫中山の北伐のために、
広東省の資源を消耗することを恐れたわけです。
>915-917
翁同龢は変法派の登用にも努めていますが、
3人とも洋務派に分類される人物と言えるでしょうか。
確かに、洋務派と変法派とを比較して、直ちに洋務派を反動勢力と見なすのは、
慎重にすべきだと思われます。
それは、立憲派と革命派との比較についても、同様のことが言えるでしょう。
919 :
世界@名無史さん:03/09/29 07:26
age
ageage
921 :
世界@名無史さん:03/10/14 23:38
あがってなかった・・・。
(陳廉伯、ちんれんはく、Chen2 Lian2bo2、1884−1944)
広東省仏山市の生まれ。
父は広東省最初の洋式製糸工場の創設者。
香港上海銀行の買弁
1916年、広州総商会会長
24年、5月「馬路統業案」(広州市政府が事業に課税)反対闘争。
8月 商団の輸入しようとした武器を押収
陳廉伯に逮捕状。香港に逃げる。
商団はゼネスト。この時は妥協成立。
10月 再度ゼネスト。
商団に対し、胡漢民、雲南軍の范石生は妥協派。
廖仲ト、蒋介石は強硬派。
商団と武装労働者の衝突から、武力弾圧になり鎮圧される。
その後も慈善活動、経済活動を行う。
42年、香港が日本支配に。
日本に協力する。
44年、アモイに脱出する船が米軍に攻撃され死亡。
商団事件はあいまいな点も多い。
とくに陳炯明との関係は検討の余地がある。
(商団事件24年10月前後の情勢)
1924年1月20日、国民党1全大会、広州。
6月 黄埔軍官学校開校。
7月15日、沙面で労働者ストライキ。
9月4日、 第2次奉直戦争。
9月18日、国民党「北伐宣言」
10月23日、馮玉祥、北京でクーデター。
1925年、2月1日、第1次東征(陳烔明征伐)
3月12日、孫文、北京で病死。
1、商団はブルジョワ組織だからアカは嫌いだろう。
2、客軍(広州に流入した雲南、広西、湖南の軍閥)
雲南軍の范石生と太子派広州市長の孫科は調停に努める。
胡漢民らの元老派は調停に反対。
3、李福林(民団督弁?)も調停。
4、商団が孫文下野と陳烔明復帰を要求。
5、最終的には全体が反商団になった。
横山宏章著「孫中山の革命と政治指導」研文出版 1987年
1、ケ沢如、孫科は華僑を中心に資金調達。
2、広州の軍勢、東は陳烔明、西は林倦?邸、中部が孫中山軍の
許崇智、黄大偉、李福林など
3、李福林の経歴あいまい。商団事件のとき代理市長で仲介を
したらしい。
(ケ沢如、とうたくじょ、Deng4 Ze2ru2、1869−1934)
広東省の生まれ。
18才でシンガポールに出稼ぎに行き、マレイで錫鉱山、ゴム園で
富を蓄える。
1906年、孫文がクアラルンプールに遊説。
中国同盟会に参加。各地の蜂起に資金援助。
12年、広東の塩運使、広西の錫開発援助。
22年、国民党広東支部長。
23年、国共合作に対し「共産党告発」文を提出。
24年、張継、謝持と「共産党弾劾」を上申。
反共派、容共派の対立。
胡漢民系の胡毅生、林直勉とグループ。
25年、廖仲ト暗殺。胡、林は逃亡。
ケ沢如は廖仲トの後の財政部長になる。
西山会議には加わらなかった。
27年、蒋介石の上海反共クーデターを支持。
南京政府では胡漢民、汪兆銘、蒋介石の対立。
ケ沢如は胡派に属す。
31年、広州非常会議に参加。汪兆銘、孫科と常務委員。
反蒋介石運動を推進。
汪、蒋合作に反対。広東系の国民党大会は分裂。
西南政務委員会委員になる。
波多野善大著「商団事件の背景、1924年における広州の現実」
愛知学院大学文学部紀要、第4号、1974年、年刊。
アメリカ人の24年の紀行文によると、当時の広州は雲南、広西の客軍に、
広東のぐんばつ、孫科の市政府、胡漢民の省政府、それぞれから課税され
商人は疲弊し、当時の中国の最悪地帯であり、商人達は孫文が一日でも速く
広東から出て行くのを願っていたという驚くべき内容。
孫文の大本営は当時河南島にあったという。河南島を調べたが不明。おそらく
広州市の珠江の南、現在の中山大学のあたりでないかと思う。ここにセメント
工場があったらしい。孫文の勢力はセメント工場の範囲と皮肉をいわれた
らしい。李福林の説明がでていた。
李福林はもと河南島の土匪。ランプに新聞紙をまいてピストルにみせかけ
賭博場あらしをしていた話が有名。その軍隊は福軍といわれた。地元の軍隊は
客軍から広東住民を護ることを期待されていた。
商団(軍)事件は、陳炯明の叛乱同様に、
孫中山の北伐政策がどれほど広東に過大な負担をかけていたかを示す事件であり、
また、広東における自治を求める動きの一環であったと言えます。
もしこの時、黄埔軍官学校で錬成された軍が無かったら、
国民党は存亡の危機に陥っていたはずです。
お書きになったとおり、李福林は緑林(土匪)出身ですが、
同時に広東出身の軍人として現地の人々からの信望も厚い存在でした。
実際に、広西軍および雲南軍の駆逐や、孫中山に叛乱した後の陳炯明の討伐に活躍し、
国民革命軍第5軍軍長にまで昇進しています。
しかしその李福林も、広州で反蒋介石クーデターを行った張發奎らに与したとして、
1928年に蒋介石によって軍職から罷免され、政治生命を事実上断たれてしまいました。
(呉鉄城、ごてつじょう、Wu2 Tie3cheng2、1888−1953)
孫文と同郷の広東省香山県人。江西省の九江の生まれ。
1906年、メソジスト派の九江同文書院を卒業。
10年、林森の勧めで同盟会員に。
11年、武昌蜂起、九江に林森と軍政府。
13年、第2革命後、反袁世凱運動。日本、アメリカへ。
17年、孫文は広州に非常国会。呉鉄城は孫文のもとに。
23年、呉鉄城は広州市公安局長。警衛軍を組織。
26年、中山艦事件で一時逮捕される。
32年、上海市長。整備に功績。
38年、日中戦争で国民党海外情報宣伝部門。
46年、重慶の政治協商会議に参加。
48年、孫科が行政院長のもとで、副院長、外交部長。
49年、台湾へ。
いわゆる太子派の幹部。広州市の交雑する税収回収組織の中で、軍閥に
対抗する、警察の軍事力を組織、孫文、孫科のための集金に貢献した。
呉鉄城を軍人との表現もありますがどの程度適切なのか不明です。
日比野士郎著「呉淞クリーク、野戦病院」中公文庫、
1937年、盧溝橋事件に続いて起こった第2次上海事変。
市内で起こった海軍陸戦隊と中国軍の衝突に陸軍は揚子江岸の
呉淞Aとその上流の川沙鎮Bに上陸。西方の市内に向かったが、激しい
攻撃をクリークに阻まれくぎ付け、膠着状態になる。著者の部隊Bは
東京の召集兵が中心の101師団である。約9000人の犠牲を出し
上海が陥落する。激しい戦いをクールな表現で、戦友が次々にたおれていく
悲しみをあらわしている。昭和14年にこんな表現の本が出版されたのに
驚く。この多くの犠牲者を出した憤りが、南京で発散される。歴史の本では
解らない、実戦の雰囲気を実感させるのは文学の力だろう。
第1次上海事変(1・28上海抗戦)
第2次上海事変(8・13上海抗戦)
第1次上海事変
蔡廷鍇の第一九路軍
張治中の第五軍(正しいか?)
1937年国民政府軍事委員会 5戦区に
第1戦区(河北方面)河北は文字間違いか?
第2戦区(山西チャハル方面)
第3戦区(上海及び揚子江下流方面)
この中の第3戦区 司令長官 馮玉祥
第8集団軍(中央軍) 長発奎
第9集団軍(中央軍) 張治中
第10集団軍(中央軍)劉建緒
第15集団軍(中央軍)陳誠
首都警衛軍(中央軍) 谷正倫
第2次上海事変
上海を北からみて、揚子江側の左翼軍、ドイツ装備の張治中の部隊、
応援の陳誠の部隊が初期に抗戦した。杭州湾からの上陸軍には右翼軍
として長発奎の部隊が応戦した。
張治中の主力の87,88師の内の88師は四行倉庫にこもり抗戦し
「八百壮士」として全国に有名になった。
中央軍の他に四川省湖南省広東省広西省の地方軍など全国から70余
>930
うしろが切れました。
全国から70余師、全国の部隊の三分の一が動員されたと言う。
本当でしょうかね?日本もからっぽに近くなったらしいですね。
天下分け目の戦いではあったんですね。
天下分け目の戦いは国内戦争の場合ですね。
井上勝生編、幕末維新論集「開国」吉川弘文館
玉賓著、「中華」の国から「夷狄」の国へ、
近代中日両国の初めての遣外使節団の西洋見聞。
日本人は密航してでも、見に行きたくてしょうがなかった。
中国人は船の難破なのでいやいや行った。両方とも近代化
に驚いて文明の導入を考えたが、体制変革の必要を考えた日本人と、
まったく考えなかった中国人。演繹的思考の日本人と、帰納法的
思考の中国人。日本人は表面的変革はすばやい。けれども本質は
かえっていつも同じかもしれない。
マカートニー著「中国訪問使節日記」東洋文庫277
フランス革命の頃、イギリスから乾隆帝の中国に通商交渉に行く。
表面的に厚いもてなしをうけるが、実質的には朝貢体制の存続を確認
され失敗に終わる。紀行文は当時のようすが感じられ面白い。
皇帝との面会の後、北京から大運河を通って広東にいく様子が私には
興味深い。林則徐の広東赴任の様子が陳舜臣の「アヘン戦争」にも
でてくるが引船の説明がある。マッカートニーは揚子江から運河で杭州
経由で南昌を通って広東にいったのに対し、林則徐は南京あたりから
長沙を通って広東に抜ける。いずれにしろ、利根川を上行し峠を歩いて
越して、信濃川にでて新潟に下るようなもので、日本では考えにくい。
山地がなだらかなのであろう。
宮崎市定全集22、岩波書店
「幕末のきれいな攘夷ときたない攘夷」
水戸派のきれいな攘夷。
薩摩は沖縄経由で清国と、長州は朝鮮と密貿易でもうけ、小藩の
くせに豊かだったそうだ。その利益を失うのがいやで攘夷を主張
したという。こちらがきたない攘夷。
密貿易をしてたのは知っていたが攘夷と結びつくとは知らなかった。
広東商人も独占貿易の利益を失うのを恐れ開国に反対した
きれいな攘夷といっても、たいした内容は無いように思うのだが・・
雑誌「世界の動き」毎日新聞社
4(13)(1949年、7月)旬刊
この雑誌はすごく面白い。歴史でなくリアルタイムの世界の出来事が
書かれている。中国ではほぼ中共の勝利が見えているが、蒋介石は
国内で反共産活動をするのか、台湾に行くかわかっていない。
いろいろな記事がある。世界で共産主義が攻勢をかけている時期の
ようで記者もその傾向はみえるが、かえって現在よりは公平な視点は
失っていない。
1、竜雲将軍物語ー反共から容共へ転進ー(注、転身でない)
蒋介石に軟禁されていた南京を脱出、広東経由、香港に現れた。
当時の雲南は蒋介石系の竜雲の異母弟芦漢が主席で竜雲の復帰を
断る。雲南では中共系反政府軍が活動。竜雲の今後を予想している。
蒋介石と仲が悪いから中共にすりよりそうの予想。汪兆銘を逃がした
のも反蒋介石の行動だそうだ。
2、中国はソ連の衛星国になるか?
記者がエドガースノーにインタビュウしている。スノーは中共は
独自路線を進むと予想している。記者はソ連の力に屈服する予想
なので不満そう。
3、湖南省の湘潭の訪問。毛沢東の生家を探すが見つけられない。
毛沢東の評判をきくと、あいつは毛匪だといわれびっくりしている。
4、上海が共産軍に占領される。資本主義の象徴ともいうべき都市が
繁栄を保てるか?疑問を持たれている。
5、広東はまだ占領されていないようでもある。
6、共産主義はカリスマは作らないと信じている記者がソ連に行って
スターリンの写真があふれ驚いている
レファレンスに
野口鉄郎編「中国政治における中央政治と地方政治」
菊池一隆著「雲南省の戦時経済建設ー軍閥龍雲と蒋介石」と
あるのですが、タイトルやお二人の名前で探してもこのような本は出てきません。
雑誌の特集でしょうか?
938 :
世界@名無史さん:03/12/07 11:36
age
939 :
世界@名無史さん:03/12/07 19:06
こんなスレがあったのか、こういうマイナースレ好き
熟読させていただきます
940 :
[☆]|`▲´b) 偉大な人民の父:03/12/07 19:25
★君たち!自国の領土保全なんて小さいこと言っていてはイカンな!我が
勢力下に入れば「★ソ連邦」全部が君たちのものになるんだよ!
そうすれば、君も社会主義の祖国を防衛する革命戦士として、邪悪なブル
ジョア帝国主義反動と戦う権利が与えられるのだ。健闘を祈る。
>>937 レスが遅くなって申し訳ありません。
その資料は雑誌ではなく、研究報告書ですね。
一般の公共図書館よりも、大学や研究機関の図書館の方が所蔵している所が多いと思います。
942 :
世界@名無史さん:03/12/26 01:41
age
国会図書館のHPによると、科研費の報告書は全部関西に移した
そうで、大学や研究所でないとやはり無理のようです。
944 :
世界@名無史さん:03/12/31 15:02
age
945 :
世界@名無史さん:04/01/13 20:47
張群って熊さんみたいな顔ですな。
レオナルド張群
947 :
世界@名無史さん:04/02/05 22:51
age
あげときます
保守
すみません、何ヶ月も書き込みしてませんで・・・・・・。
>>949 石島先生の新刊は僕も楽しみです。
民国時代の雲南を主題とした書籍は、日本では多分初めてだと思います。
ところで、このスレももうすぐ1000に達しますし、
最後に関連文献を、もう一度整理して書き込もうと考えています。
時間がとれるかどうか心配ですが・・・。
952 :
世界@名無史さん:04/03/10 03:57
>952
19路軍は蒋介石の意向に沿わない行動が多かったので、資金面で
冷遇されていたので、上海に援助を要求したことはあったでしょうが
それと軍事行動は別じゃないですかね。ご指摘のHPのかたもそうは
断定されてないようですが・・
19路軍はもともと、満州事変の馬占山に共闘したかったくらいですから
部隊全体が衝突を希望していた状態にあったんじゃないですか?
盧溝橋でも上海でも、どちらが先に発砲したかは問題にならないほど
日中双方が交戦気分にあふれた状態だったように思っていますが・・
初歩的なこと聞いて申し訳ないのですが、なぜ「路軍」と言うのでしょうか?
コミックバンチの
「蒼天の拳」読むべし
先週は蒋介石、何応欽、陳立夫、張群がでてきた
>954
北伐で広州から攻め上る時に中央軍、西路軍、東路軍と3集団。
それぞれに3〜5軍の編成。軍の下に師団が数個。
各軍が種々のルート路を通って進軍したため。
汪兆銘政権について語ってクレヨン
南京政権の統治の実態、軍備はどのようなものだったのでしょう?
スレ終盤に来てなんですが・・・大まかなトピック区切りの軍閥割拠状況を教えてください。
中国は一つ・・・じゃないですよね?
>958
法律文化社「図説中国近現代史」第6章に
年代別、各省別の軍閥の表が出てますね。この本はどこの
本屋にもありますね。
小谷豪治朗(ひでじろう)著「蒋経国伝」プレジデント社、1990年
江南の同名の本がある。あちらに比べ面白くない。内容は細かいのだが
どうしてだろう。批判が無いためか?あちらはトゲがありすぎて殺され
てしまったが。江南の本に蒋経国が生まれた時期は蒋介石が日本にいた
ころで、出生に疑問をもつものがいるとスキャンダラスなにおわせが
あるが、こちらの本には写真が沢山あり、蒋経国が年取ってデブになった
写真では蒋介石のイメージは無いが、蒋経国が若い時期に蒋介石とならんだ
写真をみると、眼元などがそっくりで疑問が消える。蒋介石は何度か
途中で帰国しているそうだ。
962 :
@名無史さん :04/03/24 15:55
(台湾の5権分立体制) 23日日本経済新聞より
司法考試監察院人事の同意 (司法院)最高司法機関
弾劾罷免案など ←(立法院)国会
→立法院の解散国情の報告
総統(総統府) →行政院長の指名権 (行政院)内閣
(監察院)予算執行の監督など
(考試院)公務員の登用試験など
独裁でやってきた間は問題無かったが選挙制度になってみたら意外に総統に権限がなく
憲法改正の必要があるそうだ。
議会制度未経験の孫文の思いつきにしばられて動きがとれなくなっている。
963 :
世界@名無史さん:04/03/24 22:16
1929年の奉ソ戦争について語れ
(中東路事件、奉ソ戦争←この言葉は知らなかった)
1928年6月4日 、張作霖爆死
6月15日 、北京占領、北伐完了
12月29日、張学良、易帜(現在はこんな字)
29年 2月11日、張学良は楊宇霆等を殺害
7月10日、張学良軍はソ連管理下の東支鉄道接収を目的に満州里付近で襲撃。
ソ連兵の動員爆撃で撃退される。
12月12日、「ハバルスク議定書」現状回復。
東支鉄道はその後日本がソ連から買い取る。
日中戦争初期、数百人の外国人顧問。
大部分はドイツ軍。フォン・ゼークト、ヴェッツェル、クリーベル。
1933年、ゼークトはフォン・ファルケンハウゼンと交代。
(リンドバーク大佐)
1927年、大西洋横断飛行
31年、太平洋横断飛行、来日
32年、長男誘拐、
WW2に反戦的な言動ととられルーズベルトに嫌われる。
太平洋戦争にパイロットとして参加。
中国軍にリンドバーグがかかわっていたらしいが、資料不足。
>>965 ちなみにフォン・ゼークト将軍は藤子不二雄Aの作品『毛沢東伝』のなかにも
ちょこっと登場してる。漏れはそれで彼のことを知りましたw
968 :
@名無史さん:04/04/09 15:31
リンドバーグ著「孤高の荒鷲、太平洋戦争従軍記」学研M文庫、上下、2002年絶版
この本、入手不能。中国のことが出ているか、読まれた方教えてください。
日本軍の捕虜の扱いが実はよかったというのが出てるのは解っているんですが。
>汪兆銘政権
親日政権スレがこのスレの姉妹編としてあるんですが、現在落ちてますね。
2ちゃんヴューアーなどで読めるらしいんですが、良くわかりません。
>>968 米軍の日本人捕虜の扱いが悪いという記述はダワーの「人種戦争」
に引用されてるね。
970 :
世界@名無史さん:04/04/23 00:05
age
971 :
世界@名無史さん:04/04/23 23:44
これは旅行案内です。関心のある方は03−5295−1702(山田)
(ソ満国境関東軍要塞地帯を行く)
7月28日出発
29日長春満州国関連施設見学
30日ハルピンから虎林市へ途中列車カノン砲見学虎頭へ
ウスリー河遊覧
31日虎頭要塞探索、虎東山地下陣地跡
探索後旧関東軍軍都東安へ司令部跡、空港旧跡
8月1日 東寧要塞見学、地下陣地
2日 牡丹江へ
3日 北京観光
4日 帰国
別冊歴史読本;戦記シリーズ54「関東軍全戦史」、新人物往来社、2001年
第4部、関東軍の崩壊
昭和20年8月9日、ソ連侵攻と最後の奮戦、p168
東部国境北部に虎頭要塞があった、地下40mに射程2万mの41センチ
榴弾砲があった。シベリア鉄道砲撃用。東寧要塞。
今日の昼ころ叔父のとこに届いた亜東書店の図書案内を見たら、中国文史出版社から
「掲秘中国軍閥叢書」というシリーズが出てました。
「我所知道的誰某」という形式のタイトルで「我所知道的張作霖」を初めとして
袁世凱・馬歩芳・馬鴻逵・徐世昌・曹錕・孫傳芳・呉佩孚・張宗昌・王士珍・段祺瑞・馮國璋・
湯恩伯・溥作義・陳儀・陳誠・盧漢・龍雲・韓復と多士済々です。
お値段はどれも1176円均一。叔父にこれ注文出す?と尋ねたら「面白そうだが守備
範囲外だから見送る」そうです。
溥作義→傅作義 と訂正
あやめタン(;´Д`)ハァハァ
結婚して下さい。
「我所知道的張作霖」って暴露本ですか?
「我所知道的誰某」って著者が見聞きした伝聞書なんですか?
どれも興味をひくラインナップですねぇ。
977 :
世界@名無史さん:04/04/28 19:17
段祺瑞といえば、吉田茂が戦後、中国で知り合った人で一番立派なのは誰か
と聞かれて、段祺瑞と答えたらしいけど、どこが立派だったんだろう?
「私が知ってる吉田茂」みたいな直接に有名人と接点のあった人の追憶談だと
思われます。暴露物ではなくそれなりに歴史資料としての価値のある本でしょう。
吉田茂と段祺瑞ってどこで接点があったんだろう?
奉天総領事時代?
980 :
世界@名無史さん:04/04/29 23:55
西原借款を私物化しなかったからだそうだ
981 :
世界@名無史さん:
次スレは立てないの?