1 :
世界@名無史さん :
01/09/20 23:29 武器の草分け的存在、銃について語りましょう。 なるべくなら第一次大戦までで。 大砲も可。
2 :
世界@名無史さん :01/09/20 23:48
織田信長
3 :
世界@名無史さん :01/09/21 01:11
15,6世紀にヨーロッパに銃が広まっていったのはなぜ?性能低い、高い、重い、などなど様々な面で弓に劣っているのにどうしてあんなに普及してったんだろう…。
水銀を弾薬にいれる銃のこと知ってる人いない?これの名前とかおしえてくださいな。
5 :
世界@名無史さん :01/09/21 01:29
>4 あまり自信ないけどダムダム弾の一種じゃないかな。 ダムダム弾は猛獣用に使用されていてらしい。 フォーサイスの小説ジャッカルの日でジャッカルが ド・ゴール暗殺用に水銀を入れた弾薬を使ったと記憶 しているけど。
南北戦争で使われた銃を、薩長の同盟に持ち込んだ坂本竜馬。
モンテーニュが火縄銃を、不確実な武器だから長くは流行らないといっている。 軍人の素質がなくてもモンテーニュの値打ちは下がらないが、すぐに 取り入れた斎藤道三や織田信長の先見の明はすごいと思う。
8 :
世界@名無史さん :01/09/21 09:04
>>3 弓道やれば直ぐ判ります。幾ら重かろうと素人による命中率は
鉄砲100:弓0
弓は3年位訓練しないと命中しません。また、射程も話しになら
ない程違います。和弓などのロングボウ系は有効射程30mよ…
鉄砲は素人でも100mで、音で馬の足並みは乱れになります。
「クレシー村の戦い」では、週に一度は訓練していたイギリスヨーマンの連続遠距離射撃(6〜10秒に一発)でフランス重騎兵の突撃を撃退し、潰走に追い込んでいます。 ●長篠の戦いでは馬防柵を三重に敷き、三段撃ちによって武田の騎突を防ぎました。 上の二つの戦いには、徹底した遠距離射撃と、障害物、連続発射という共通点がみられます。現代の銃撃戦(奇襲は含まず)でも、必ずこの三要素を満たした側の軍隊が勝利するでしょう。
10 :
世界@名無史さん :01/09/21 21:46
日本の火縄銃は伝来した時点で既に相当完成された物で、弓矢より圧倒的に優れた形で 戦場に現れたのですが、3さんの言う15、6世紀の欧州の銃の命中率は決して良く はありませんでした。 すぐ暴発する、風雨に弱い、全然まっすぐ飛ばない、の三重苦の武器で、 肝心の威力も同じ頃のプレートアーマーの装甲を貫通させるには少々不足気味でした。 そんな不便な武器が戦場で見捨てられず、弓矢に取って代わるまでに発達し得たのは、 戦場の主役が騎士から傭兵へと移行したため、特殊な訓練を受けていない一般市民でも すぐに戦場で扱うことが出来る武器が渇望されていたからではないかと思います。
11 :
世界@名無史さん :01/09/21 22:05
>9 現代に応用するのはアレかとも思うけども 第1次世界大戦でそういった平面での大激突はもはや否定されたでしょう。 プロイセン王国軍の後装式小銃萌え
12 :
世界@名無史さん :01/09/21 22:07
13 :
フニャフニャディ :01/09/21 22:32
>和弓などのロングボウ系は有効射程30m それって直射射程ですよね? 弓など投射兵器の実力は斜め上に向けての大量公算射撃にありますので、 射程はもう少し長いと思いますよ。 この方法なら別に狙いを定めなくてよいので、射手はひたすら速射に集中できますし。
狙いをつけないで射った場合、ロングボウなら6秒に一発はうてるようです。
15 :
世界@名無史さん :01/09/21 23:19
銃は中国で生れた・・・のは知ってるけど、その後、どうなったから教えて!!
オスマン朝のイェニチェリは専業軍人で相当に訓練されてたはずだが その彼らは鉄砲が主力武器だったことが半ば常識化されてるよね。 15〜16世紀の段階でトルコだけ技術が進んでいたんだろうか…? オスマン朝製の銃(ルーミー銃)が高性能で有名になって 中央アジアから果ては明でももてはやされたという話は聞いたことがあるんだけど。
中国で生れて、どういう風にヨーロッパまで経由したのか知りたいたい。 そして、16氏と同じ疑問あり。
18 :
世界@名無史さん :01/09/22 00:44
中近東の銃、砲はかなり耐久性に劣っていたとか。冶金技術が低かったのか?しかし、 ダマスカス鋼が有名なのに???
19 :
世界@名無史さん :01/09/22 23:36
イェニチェリage
20 :
世界@名無史さん :01/09/23 00:12
南宋を吹っ飛ばしたモンゴル帝国自慢の回回砲
21 :
世界@名無史さん :01/09/23 00:15
マンジャニーク砲だな。 モンゴルマンセー
22 :
世界@名無史さん :01/09/23 00:39
>>16 トルコが傑出してたのはなく、傭兵を主力にしていた欧州の諸侯軍
と皇帝直属の奴隷であったイエニチェリの自軍の損耗に対する考え方
の違いも大きい。傭兵は自軍の損耗が少なくなるようにしか戦わず、
雇い主の君主がそれを無視したらたちまち反乱を起こされた。一方、
イェニチェリは、兵力が続く限り損耗率など気にせずに兵力を投入
できた。この差は大きい。
23 :
世界@名無史さん :01/09/23 00:40
>>13 それは射程…有効射程というのは攻撃効果があることです。
弓なりに長距離飛んできた矢は盾があれば効果がほとんどありません。
16世紀の火縄銃の有効射程は100mで松10cm撃ち抜けます。
それもどんな雑兵でも可能です。(火縄銃を見た持っている方々や学者
を含め勘違いされている事がありまして、火縄銃にはちゃんと照尺があ
りますから正確な射撃が可能です)弓は素人が引くと上だろうと下だろ
うと20m飛びません…何故かと言いますと弦を放す時緩めてしまって
飛ばないのです。
24 :
世界@名無史さん :01/09/23 00:45
>>8 弓道の弓ってわざと的に当たりにくく作ってるんじゃなかったっけ。
それとも俗説?
>>22 いや、そうじゃなくて…
15〜16世紀ヨーロッパは銃の精度が低かったはずなのに
しばしば「イェニチェリの優秀な火器」という言われ方がされるのは
なんでかなぁ、という疑問だったんだけど。
火器だけの軍団じゃなかったことは知ってますし、
そもそもその当時のオスマン常備軍団中の数で言ったら
イェニチェリより六連隊衆騎兵のほうがはるかに多いです。
26 :
世界@名無史さん :01/09/23 00:51
>>24 俗説甚だしいです。矢は真っ直ぐ飛ばないのです。右に飛ぶ癖が
あります。そこで、西洋弓は左に掛けて左に飛ばし、和弓は弓を
回して左に飛ばします。更に和弓は長距離を飛ばさせるため上へ
飛ぶ構造になっていてそれを抑えるために左に捻ります。
的の大きさは人間の胴体の太さです。あれに当たらないと人間の
身体には当たりません。
>>25 速射性に重点を置いたヨーロッパの銃がむしろ特殊だと思うが・・・・
28 :
世界@名無史さん :01/09/23 02:04
>>25 それは、歴史家は必ずしも軍事評論家ではないからそういう中途半端な
書き方をしたって言うことでしょ。幕末の長岡藩は、ガトリング銃まで
装備していて、損耗率では官軍と互角以上だったけど、結局は動因能力
が官軍より劣っていたから結局は負けたのと同じ。「イェニチェリの
優秀な火器」ではなく、「イエニチェリの優秀な火器の使いこなし」と
読むべきこと。だから、銃隊が何人かやられただけで退却行動に移る
傭兵と自軍に損害が出ても先に撃たせたに敵側の装填の隙に射撃を継続
するイェニチェリでは、どちらが火器を有効に運用できたかはあきらか
なこと。要するに傭兵は金で雇われても命までは雇い主には売ってない
が、命ごとスルタンに委ねたイェニチェリとでは、弓矢と刀剣の戦い
よりも死傷者の多い火器を使った戦いでは撃ち合いになった時に戦場に
踏みとどまれる限界に大きな差があったということ。はっきり言って、
ライフル銃が出てくるまでは、火縄銃も火打石銃も性能差は少なく、
むしろ、使用する側の頑張り様で差が発生した。
29 :
世界@名無史さん :01/09/23 02:15
>>28 軍事評論家氏に質問
では、イタリア戦争や三〇年戦争なんかの野戦で
2割3割当たり前の損耗率を記録する火力戦やってて
何故に傭兵たちは反乱を起こさなかったのでしょうか?
30 :
世界@名無史さん :01/09/23 02:22
イングランドのロングボウ兵は100メートルの距離から完全武装のフランス騎士を 射殺できたと言うから、確かに銃と互角に近い威力ではある。 だがそこまで射手が熟練するのに一体何年かかった事やら。
上のは>>23でした
別に軍事評論家ではないが、質問には答えよう。 傭兵と奴隷身分の親衛隊とではどちらが高い損耗率に耐えられるかと いう相対論を言っているので、傭兵部隊が何パーセントの損耗率にな ったら逃亡やら、反乱を起こすということは初めから言ってない。 それから、イタリア戦争や30年戦争の時は有力な傭兵隊長には、爵位 やそれなりの報酬を払ったから、ハイリスクだがハイリターンが望めた から傭兵も報酬に見合う戦闘をしたということ。だから、ハプスブルク 家のフッガー家への借金は雪達磨式に膨れ上がったし、イタリアの都市 国家でも経済力の弱いところは、没落していった。
>>28 うーん。アジアでルーミー銃が高性能で知られていたのは何故?
という問いの答えにはなってないけど…。
では素直にアジアでは比較的の問題で優れていたんだ、と理解しておきます。
イェニチェリのスルタンへの忠誠の問題ですが、
オスマン常備軍も給料の未払いがあれば反乱を起こすこともありました。
常備軍といっても一種の傭兵である、と指摘しておきますよ。
ちなみに、オスマン朝のカプ・クル("奴隷"軍人)は
本当に法的に奴隷だったのかは疑問があります
少なくともアラブ世界の奴隷軍人(マムルーク)は法的には解放奴隷で、
奴隷時代の所有者との個人的紐帯が忠誠の拠り所でした。
無論、近世ヨーロッパの傭兵に比べれば
はるかに忠誠心に厚く統制の取れた軍団だったのでしょうが。
ところで、ついでに28さんに限らず詳しい方に質問しますが
15〜16世紀の段階で撃ち合いの戦闘ってありえたんですか?
パイク歩兵の密集陣にマスケット兵を添えたような感じの
テルシオ陣形が猛威を振るった時代だと記憶しているのですが、
ということは、銃は歩兵突撃前の牽制にしかなっていないのでは?
>>33 >銃は歩兵突撃前の牽制にしかなっていないのでは?
この疑問には、概ね同意。ナポレオンの時代あるいはもっと時代が
下ってクリミア戦争の時でも、砲兵陣地への騎兵突撃が有効であった
ことからわかるように、連発銃が普及するまでは、戦闘初期の段階
での牽制という色彩は強かった。但し、コサックの銃騎兵は、一発打
つと後ろから装填済みの銃をリレーしてもらって連続して射撃すると
いうことはゴーゴリの「隊長ブーリバ」にも戦闘場面が描かれている。
この時代に三段撃ちは俗説としても、複数で協力し合って、出来るだけ
早い射撃速度を維持できる戦法を使った日本の戦国時代の鉄砲隊は、
銃をよく使いこなしていたと思う。
ルーミー銃が高性能というのは、当時の銃としての信頼性が高かった
ことと理解している。機構的には、欧州は火縄銃(マッチロック)から
火打石銃(ホイールロック、フリントロック)への過渡期であった欧州
の銃の方が凝っていたが、信頼性が今一歩であったということ。要は、
先進性より信頼性に重点をおいていたから結果として、必要なときに
弾がでるという銃器としての基本性能が高かったと言えると思う。
>>34 納得できました。
ありがとうございます。
>>30 さん
イギリスヨーマンは、矢じりの特に重い矢を使っていたようです。※慣性の力はすごいですな。
横道にそれるが ようやく「イスラーム世界の2000年」読了 この本ではイェニチェリ軍団の弱体化は、イエニチェリ将校の世襲制が始まった頃から だと指摘してるがマジ?
>>32 解答有り難う御座います
勝っても2割3割の死傷は当たり前の戦闘でも報酬さえ貰えば大丈夫ってことは
当時の傭兵は士気が高かったのでしょうね
普通、それだけの損耗率ならば組織的な戦闘力は殆ど発揮しえないものですが
私の知る限り、三〇年戦争で活躍した万図フェルト伯マクシミリアンやブラウンシュヴァイク公クリスティアン、
ティリー、ヴァレンシュタインなどの傭兵隊長は最初から爵位を持っていたと記憶していますが、
傭兵家業で平民から爵位を得た傭兵には誰がいたのか教えて頂けたならば幸いです
>>33 初期のテルシオの編制は銃対槍が1対3ですが、実際の部隊の編成では銃の比率が高く、
編制が1対1になる前に既に1対1に近い比率に移行してました
牽制任務だけにしてはちとやり過ぎだと思います
基本的にテルシオは防御隊列でテルシオで歩兵突撃などやらかしたら統制がとれずに
隊列としての戦闘力が発揮できず、突撃は敵の統制が崩れた時に限られると考えていますが
どうでしょうか?
>>35 複数の隊列で連続射撃して高い射撃速度を維持できても
時間当たりの投射弾量は変わらないので
複雑に兵士や隊列を入れ替えないといけないぶん、
かえって不利だと思えるのですがどうでしょうか?
当時の銃は精度が低くて有効射程も短かったから、
できるだけ大量に斉射して弾幕張るやり方も悪くはないと思うのですが
ヨーロッパの銃は速射性能に重点を置いており、オスマン・トルコや
日本の銃は精度に重点を置いていたことの違いだと考えてますがどうでしょうか?
ヨーロッパはフリードリヒの時代に至っても「狙え」という号令がなく、
銃のマニュアルも装填動作が主でしたが、
日本の戦国時代のマニュアルは照準の要領や撃発の要領が主だったので
そう考えたのですが
素人で教えてくんですいませんです
>>38 のは
「万図フェルト伯」でなく「マンフェルト伯」でした
失礼しました
40 :
世界@名無史さん :01/09/23 10:00
>>30 和弓で30キロ弓を引くには5年以上のキャリアが必要と言われて
ます。現在これを引ける方はいません。
41 :
ただの名無し :01/09/23 14:17
日本の幕末、第二次長州征伐で、なんと幕府軍が長州藩に負けてしまいました。 つまり、政府軍が反政府軍に負けてしまったということで幕府崩壊の決定的要因になりました。 このとき幕府軍が装備していたのが先込め式のゲベール銃。 対する長州藩は後装式のスナイドル銃。 いちいち銃を立てて先端から弾を込めていては圧倒的に不利ですね。 連射は遅いし、敵からは絶好の標的になってしまいます。
>>37 17世紀の半ばからイェニチェリはデヴシルメ(キリスト教徒、欧州系イスラム教徒
の師弟からの徴兵)から、イェニチェリ軍団員の師弟に世襲される様になった段階
で変質した。それまでは、イェニチェリは退役するまで結婚は認められなかったが、
17世紀ころからこの原則が崩れてからは、単なる軍事貴族化、トルコ化が進み、
子孫に残せる地位と財産を惜しむようになったところから変質した。だから、第2回
ウィーン包囲以降は、往年の強さは発揮できなかった。
>>38 テルシオは、歩兵同士だけでなく騎兵の突撃にも対抗する意味があったからでは。
パイク兵にしても、弾薬装填中に騎兵に突っ込まれて蹂躙されない為の備えという
意味合いが強かったし。ただ、当時の欧州の一般の銃兵は、精密射撃を行わなかっ
たから、19世紀まで騎兵突撃が意味を持っていたよね。
それと、
>複数の隊列で連続射撃して高い射撃速度を維持できても
>時間当たりの投射弾量は変わらないので
>複雑に兵士や隊列を入れ替えないといけないぶん、
>かえって不利だと思えるのですがどうでしょうか?
欧州は平原が多いので大量斉射の効果もあったでしょう。オスマン・トルコの
場合、イェニチェリは一発ぶっ放した後は、抜刀突撃や銃剣突撃に躊躇なく移行
したのも大きいと思う。銃兵兼抜刀突撃歩兵だということが、発射速度の遅い
銃器の弱点を補っていた。日本なんかは、平原での会戦ではなかったから、発射
速度を速める運用が有効だったと思う。特に長い横列を取れない場合なんかは、
騎兵に対しても有効だった(長篠の合戦ではない、むしろ、慶長の役のウルサン
の戦い)。
43 :
世界@名無史さん :01/09/23 16:43
>>41 それは普仏戦争でも言えます。
フランス軍は前装式ミニエー銃で、プロイセン軍は後装式ゲベール銃でした
>>42 解答有り難う御座います
テルシオについては、騎兵対策も含めて防御隊列と言ったのですが
私は基本的にテルシオで突撃などするものではないと考えています
テルシオの想定していた戦闘は、基本的に銃兵の射撃戦闘と、
槍の近接戦闘(騎兵対策含む)だと思います
それ故に編成では銃兵の比率が大きかったのではないでしょうか?
私は、テルシオの銃兵の任務は歩兵突撃のための牽制任務ではなかったと思うのですが
むしろ、編成で銃を増強しているのは射撃戦が主になっていたからだと思いますがいかかでしょうか?
19世紀まで騎兵突撃が意味を持っていたのならば、何故17世紀に銃剣が登場して
槍が消滅したのでしょうか?
着剣した銃の間合いは2メートル強で、槍(パイク)の代用にはなり得ないのではないと思うのですが
また、マウリッツやグスタフ・アドルフの戦闘隊列はテルシオの方型隊形に比べて横長になっていますが、
これでは火力は向上しても逆に騎兵突撃に対しては脆弱になってしまうのではないでしょうか?
それとも、騎兵突撃は意味を持っていたが、騎兵突撃の脅威は減少傾向にあったと考えてよろしいでしょうか?
また、16世紀以降騎兵の軽装化が進んでおり、これは突撃任務にはむしろ不利だと思うのですが
私は、中世の槍騎兵の突撃と近世以降のサーベル騎兵の突撃は同列に論ずるべきではないと考えています
イエニチェリは1回斉射した後に白兵突撃を実施したと仰いますが、
それでは敵が1回の斉射でパニックを起こさなければ
突撃破砕射撃を受けたら粉砕されてしまうのではないでしょうか?
敵にも歩兵はいるでしょうし、野戦陣地を準備している場合もあるでしょうし、
イェニチェリも同様の備えをしているでしょうから、自ら地形の利益を放棄する
白兵突撃に躊躇なく移行したとは思えないのですが
私は、イェニチェリの突撃は射撃戦を延々と続けて敵の組織的戦闘力を奪ってから
行われたのではないかと考えていますがいかかでしょうか?
射撃速度の低さは、精度の高さと兵士の数を増やすこと等で補っていたのではないでしょうか
それとも、1回の斉射で混乱するほど訓練未熟な敵ばかりだったのでしょうか?
欧州は平原が多く、日本では平原での会戦がなかったと仰いますが、
当時の銃の有効射程は100メートル程度ですから、
地形による影響はほとんどなかったのではないでしょうか?
それとも、日本の戦国時代の合戦は100メートル程度の射界も
得られないような場所ばかりで行われていたのでしょうか?
私は、命中精度の高かった日本の銃は、精度の低いヨーロッパの銃ほど
弾幕射撃に拘る必要がなかったからだと思います
勿論、射撃速度を速める工夫はされていたでしょうが、
むしろそのような努力はヨーロッパのほうがより重視していたのではないかと思います
私は、ヨーロッパの銃は弾幕兵器の性格が強く、日本の銃は狙撃兵器の性格が強いと
思うのですがどうでしょうか?
もっとも、ヨーロッパと日本という地域的に遠く離れた場所の兵器を比較すること自体
間違っているかもしれませんが
度々教えてくんですいません
45 :
世界@名無史さん :01/09/23 17:16
>>44 ヨーロッパの戦場規模はかなり大きいです。一つの会戦の準備段階から
戦闘地域までの範囲は日本では県一つ丸々使っています。両軍遭遇時点
でほぼ勝敗の帰趨は決定されています。
欧米の戦術ドクトリンでは攻勢開始ラインへの到達が可能か否かが重要
です。軽くて使い勝手の良い武器が好まれます。
近代戦ではありますが、ヨーロッパの会戦の規模を日本の地形に載せた
例がありますので書きます。(モデルWW2クルスク会戦)
攻撃目標・東京
ドイツ北方軍は新潟より出撃
ドイツ南方軍は箱根より出撃
ソ連第四機甲軍は銚子より救援軍を派遣
>>45 作戦レベルの話ではなく、射撃戦術の話をしていた積もりだったのですが・・・・
文章表現力が拙いので申し訳ありません
当時の銃の性能からすれば、平原の多いヨーロッパも
錯雑地形の多い日本でも使用する環境に差はないのではないかと
言いたかったのですが
30年戦争の頃の野戦軍は会戦をこなしながら延々と戦略機動を繰り返していますが、
関ヶ原の合戦も膨大な時間と空間を消費し複雑な運動戦を展開した上での
会戦だと思っていたのですが違うのでしょうか?
あと、軽くて使い勝手の良い兵器は、行軍を繰り返す野戦軍でなくても
好まれるのではないでしょうか?
愚問を繰り返すようですいません
凄ェ、教えて君のほうが理路整然としてやがる・・・・
>>44 前のレスで言及したように、クリミア戦争の時だって、トルコ軍の砲兵
陣地に英国の軽騎兵がサーベル突撃をかけた時でも、途中で射撃でやら
れたのは5%程度だった。動く標的は、やはり狙いにくかったことと、
斉射による弾幕も敵がその中に飛び込まなくては意味がなかった。それ
から初期の銃でも、口径は寧ろ近代の銃よりも大きく、一発あたりに
使用する火薬の量も多かったから、球状の弾丸を使用したことで、弾道
が安定しない問題はあったが、着弾のエネルギーはかなり大きく、全身
装甲のプレートアーマーでも撃ち抜けた。前述のゴーゴリーの「隊長ブー
リバ」にも、「コサックは、鎧を着ないが剣の腕と素早い身のこなしで、
それを補う。鎧を着た敵はサーベルで切れないが銃で倒す。」とブーリ
バが息子に言い聞かせる場面がある。余談だが、ユル・ブリンナー主演
で映画化された「隊長ブーリバ」でもこのセリフはちゃんと出てきた。
ともかく、銃に対して重装甲しても効果がないならば、装甲を軽量化
して素早く動けるようにして、弾にあたらない方向に動いていった。
そうすると、重装騎兵同士で有効であった長槍からサーベルと拳銃が
騎兵の装備となるにつれ、パイク兵の長槍よりも銃にも槍にも使える
銃剣に置き換わっていったものと思う。近世の軽騎兵のサーベル突撃
は、打撃よりも、固定陣地のかく乱とか砲兵陣地の無力化だと思う。
野砲も性能が上がると近距離の敵に砲撃できなくなるので、そこを
ついた突撃が効果をあげていた。
イェニチェリはほぼ全員が銃兵でありながら、白兵戦用の武器を携行
していたというのが特徴と考えている。数千の部隊が一斉射撃をして
も微妙にタイミングがズレて打ち終わるには数十秒以上はかかったし、
交代射撃ではないが、列後方の兵は前方が撃ち終わってからでないと
撃てなかったから数十秒から数分射撃が続いてから、突撃に移った
模様である。歩兵の抜刀突撃といっても、欧州の傭兵主体の部隊の程
には密集してなかったのと相対的に高い損耗率に耐えられる奴隷兵士
ということもあって、白兵戦に持ち込めたはず。西南の役でも、薩摩
士族の抜刀突撃には、火器において優る政府軍も苦戦した。要するに
自分の死を恐れない兵士は、自分が死なないように戦う相手にとって
は怖い存在であったということ。
ちょっと調べたところ、16世紀前半の戦役を描いたオスマン絵画の中に
イェニチェリ軍団が馬防柵を用い二段撃ちを行っている姿が描かれているようです。
突撃は騎兵任せで、原則として射撃に徹していたということかな。
この時代のオスマン常備軍は騎兵のほうが数が多く、
地方軍もほとんどが騎兵であったようですし、
アナトリアやクリミアの遊牧民も騎兵として動員していますから、
騎兵のほうがはるかに数が多かったと思われます。
>>37 デヴシルメ(強制徴収制度)がなくなったころから
イェニチェリ軍団は精鋭ではなくなったことは事実でしょう。
しかし、イェニチェリの世襲化の原因は
本質的にはイェニチェリ軍団の堕落のせいという理由よりも、
戦術の変化により常備軍・歩兵・火器の重要性が高まって
いままでのデヴシルメによって徴用された少数精鋭では
用をまかなえなくなったことが大きいと考えられます。
つまり、オスマン朝ではヨーロッパ諸国での
傭兵→志願兵常備軍→国民軍のような抜本的な軍事改革が行えなず、
旧来からの火器を装備した常備歩兵であるイェニチェリを
「薄めて増やす」方向に進んだわけです。
そのツケは実に19世紀まで響き続けるのですが…。
>>38 テルシオが防御を主に置く陣形だったということは、
マスケット兵も敵が整然とした陣形のまま接近してくるのを牽制するのが
任務だったいうことでしょうか?
>>48 重騎兵の鎧は当時の銃に対してかなりの防御性能を期待できたと聞いたことがあります
当時の鎧は実際に試し撃ちをし、弾丸が命中しても貫通しないことを示して
その品質を保証していたそうです
しかも、高級指揮官用の鎧に限らず、一般の騎兵用の鎧もそうだったそうです
この話を信じるならば、騎兵は銃に対抗できないから軽装化したとは思えません
それとも、この話はネタなんでしょうか?
固定陣地への攻撃とはどのようなものでしょうか?
側背への迂回と襲撃、包囲のことでしょうか?
当時の隊列が数キロに及んだのは、側面を衝かれないようにすることも
理由の一つだと聞いていたのですが
また、側面や背後に迂回されないように陣地を編成していたり、
他の部隊と相互支援していたと思うのですが
また、野砲の性能が上がると近くの敵を撃てなくなったのは何故でしょうか?
ナポレオン戦争の時でも、野砲の射撃は直接射撃が基本だったと思ったのですが
私は、軽装化したサーベル騎兵の任務は混乱した敵への戦果拡張と追撃が主であると考えています
勿論、統制がとれ準備した敵への突撃も行われていたでしょうが、
それはむしろ例外的なものと思うのですが
当時のオスマン・トルコの戦術は防御戦術が基本で、
陣地編成を見ると、障害物の背後の野戦陣地が構築され、
まず属領歩兵が配置され、イェニチェリはその背後に展開していたそうです
そして、基本的に機動打撃は重騎兵が担っていたそうです
イェニチェリは属領歩兵を超越して陣前出撃したのでしょうか?
それならば、陣地を準備する意味があまりないように思えるのですが
それとも、この話もネタなのでしょうか?
>>49 牽制することが任務ならば、編成が編制を大きく逸脱して銃兵の比率を増加させたのは
何故なのでしょうか?
部隊の指揮官は、戦闘が射撃戦に移行している、または射撃戦を重視すべきだと考えて
銃兵の比率を増加させたのではないでしょうか?
私にはテルシオがあの方形の隊列を保って突撃することに合理的な理由を見い出せません
突撃するならば、突撃の衝撃力を最大限発揮するために横列で突撃するはずだと思います
そうでなければ、テルシオの後列の兵士は戦闘に参加できないのではないでしょうか
思いつくままに書いてしまいました
よろしければご教授下さい
>>50 各論と総論のぶつけ合いの様に思われる。もちろん、貴殿の見解を
否定しているのではなく、貴殿の総論でカバーできない点にコメント
しているつもりだが。
騎兵の装甲に関しては、確かに銃弾に対する防御力を強めた甲冑が
あったことは否定しない。徳川家康だって、鉄砲で試射して弾丸が
貫通しない具足を選んで使っていたのだから、当然同時代の欧州
でも同じことをしていたのは自然なことである。しかし、いくら
騎兵が重装甲しても、馬が撃たれたら、重装騎兵はそれこそ人間の
缶詰しかなかったわけである。もちろん、パイク兵の長槍で乗馬を
やられたり落馬させられても同じことだが、離れたところからやら
れる分始末が悪かった。それよりは、馬の負担を軽くして機動性を
高めた方が効果があった。馬の方が的としては人間より大きいのだ
から、銃弾に対して十分な防御力ある馬鎧を着用させない限り、
騎兵の装甲を厚くしても意味がなく、十分な防御力を持った馬鎧
など着せたら、機動力を大きく損なうことになる。そういうのろのろ
したでかい的などは、火薬の量を増やした長銃身のマスケット銃(銃架
のついたでかい奴、この時代のマテリアルライフルみたいな物)の格好
の標的になったことだろう。
固定陣地の攻撃というのは、負け戦であるが、ワーテルローの戦いでの
ネイ元帥は1万騎の大突撃を敢行している。これは、起死回生をかけて
ウェリントン公指揮の13万の英国軍の方陣に突撃している。結局、失敗
ではあったが、英国軍にも大きな被害を与えている。これほど大規模な
ものは例はなかったが、小規模なものはそれなりに行われていた。
>野砲の性能が上がると近くの敵を撃てなくなったのは何故でしょうか?
それは、より遠方への砲撃用に性能をあげていったから。だから、逆に
至近距離への砲撃はやりにくくなった。当時の野砲は砲架に仰角で据えら
れているが、これで遠方への射程が延びたら、砲口を水平よりも下向きに
しなければならないが、砲架はマイナスの角度での砲撃をするような構造
になっていなかったから。近接砲撃には臼砲があるが、命中率は悪く、
比較的早い速度で移動する目標への砲撃には効果は薄かった。
因みに、現代の野砲の最短砲撃距離は、物によっては数キロからとなって
いる。近距離は迫撃砲を使うからね。
52 :
29でないけど :01/09/23 21:12
完全装備の騎兵を乗せて、更に馬鎧を着用し、なおかつ戦場でかなりのスピードで 突撃できる重騎兵用の大型馬は存在してた。 現在の重輓馬みたいな奴。確かに値段は高かったけど。 それと、野砲が仰角かけて射撃するようになるのは1900年頃から。 だから、それまでの野砲が近距離射撃に不向きというのはあてはまらんと思うぞ。 むしろ近距離射撃がメインだろう。
どうもお騒がせしました・・・・
>>50 >突撃するならば、突撃の衝撃力を最大限発揮するために横列で突撃するはずだと思います
パイク兵による方陣の原型はファランクスにあるようです。
方陣の突進力の有効性はギリシア以来認められていたのではないでしょうか。
(密集陣形を組むことによって未熟練兵士の恐怖心を和らげる効果があった、と言うことのようですが)
>そうでなければ、テルシオの後列の兵士は戦闘に参加できないのではないでしょうか
おっしゃる通り、その点(と、突進時にマスケット兵が足手まといになる点)が
テルシオの弱点であった、とものの本にはありますが。
どうも17世紀以降あっという間に廃れてしまったようですし、
後列が無駄になるのはテルシオ陣形そのものの欠陥ではないでしょうか。
それから
>イェニチェリは属領歩兵を超越して陣前出撃したのでしょうか?
これは敵陣が崩れたときだったのではないかと思われます。
手元のいくつかの本による限り、陣地内からの射撃が主任務で、
重騎兵の側面から突撃で敵陣が崩れてから、
イェニチェリが火器を冷兵器に持ち替えて密集突撃していたようです。
55 :
29でないけど :01/09/24 00:27
>54 テルシオは密集陣組んだまま突撃するのか? それで隊列保てるのか? しかも、5〜6メートルの槍構えたまま。 そんな芸当出来るのはスイスの槍兵だけだと思ったが。 あれはテルシオじゃないよな? テルシオが編制されたのは1536年、 銃兵の比率を増やすように編制が改編された(編成じゃないよ)のは1636年、 欠陥の多い陣形が1世紀も続くだろうか? ファランクスは楯と片手槍だから、テルシオとは本質的に違うものではないのかな? あとイエニチェリにも言えるけど、敵が崩れればそりゃテルシオであっても 陣地に籠もってようが突撃するんでないのかな? 論点は、敵の組織的な戦闘力を破壊するために突撃をするか否かではないのかな? 取り敢えず確認したいんだが、 16氏はテルシオは射撃で牽制して歩兵突撃でケリをつけるのがメイン、 29氏はテルシオは射撃をだらだらと続けるのがメイン、でいいのかな?
>>52 だから言ってるじゃないか、欧州にも銃架付きの大型マスケットが
あったし、日本にも士筒という大口径で火薬量の多い銃があったって。
そんなので撃たれたら、相当分厚い鎧でもひとたまりもなかった。
だから、動きを軽快にして照準をつくにくくする方が得策だったから、
騎兵(に限らず歩兵も)の装甲は軽装化していったのだよ。
それから、いわゆる砲弾型の弾頭を使うようになる以前は球状の砲丸を
砲口から転がすように装填していたから、据付時の砲身はやや仰角だぞ。
ミュンヘンのドイツ博物館で30年戦争当時の野砲も色々見たが、陣地に
据えたつけた時は砲身はやや仰角。一番下に向けても水平。砲撃という
のは一騎の騎兵や一人の歩兵に水平砲撃で当てても効果は薄いぞ。隊列の
直前くらいに着弾させた方が被害は大きいぞ。それあから、遠距離用に
照準調節した銃砲類では近くの的には当てにくいぞ。うそだと思ったら、
グァムにでもいって、軍用ライフル(M1カービンが扱いやすいぞ)で、
拳銃用の近くの的を狙ってみな。思うようにはあたらんぞ。
そろそろ私の未熟な知識では太刀打ちできなくなってきましたが…。
>>55 >ファランクスは楯と片手槍だから、テルシオとは本質的に違うものではないのかな?
もちろんそうでしょうね。
しかし方陣の衝撃力を生かすという点では
ファランクスもスイス傭兵団もテルシオも同じだと
理解していたんですが…。
>16氏はテルシオは射撃で牽制して歩兵突撃でケリをつけるのがメイン
「牽制」は誤りかもしれませんが、
決め手(「論点」の部分)はパイク兵の方陣の突撃だったのだと解釈しています。
実態として密集したままの突撃が可能だったのか、
という点は私の知識ではさっぱりわかりませんので
「思い込み」による間違いかもしれません。
どなたかご教示(か、例証)して頂ければ幸いです。
58 :
29でないけど :01/09/24 01:16
>56 銃架付きマスケットが板金鎧抜けるのは50〜60メートルって聞いたことあるけど、 騎兵ならそこから5〜6秒以内で歩兵の隊列に突入できるな。 それに、それ以上ならまず当たらないんでないかな。 つまり、騎兵が突撃してくるのに対して銃兵は1回しか射撃できないわけだ。 こりゃ騎兵のほうが有利でないかな? 勿論、槍兵や障害が騎兵の突進を阻止するだろうけど。 ってことは、騎兵に対抗する主力兵科は槍兵でないかな? んで、重騎兵が消滅したから槍兵も数が減り、 サーベル騎兵になったから銃剣でも大丈夫ってことになったのではないかな? それとも、やっぱり銃兵のせいで重騎兵は消滅したのかな? ちなみに、貴方は銃架付きのマスケットで騎兵の板金鎧を何メートルから 抜けると考えてるのだろうか? 知っていたなら教えていただきたい。 俺の知識が大間違いかもしれないから。 それと、1784年まで榴弾が開発されるまで、野砲の砲撃は実体弾で敵の隊列の中をごろごろ 転げ回って殺傷するのが当たり前だったんでないかな? それに、初期の榴弾は信頼性低くて余り使い物にならなかったって聞いているが。 別に野砲で個人を狙撃する訳ではないだろ? 今の野砲の曲射弾道の砲撃と、近世の野砲の射撃は違うんでないだろうか? >57 歩兵の密集陣が陣地から出て負けたって事例は多いけど、 歩兵が突撃して戦闘に決着をつけたっていう事例を教えてくれないだろうか? スイス槍兵を除けば俺の知る限りはバノックバーンくらいなんだが・・・・
59 :
29でないけど :01/09/24 01:31
追加 それとも、グアムに鉄砲撃ってこないと議論にならないのかな? 7.62ミリなら150メートル位までは問題ない筈だけどね ま、今の銃と昔の銃は違うんだろうけどね 俺、グアムでM1カービンは撃ったことないんだわ 貧乏人なもんで 国内でなら腐る程撃ってたけどね 結構当たったよ なんせ射撃は特級だったもん ま、昔の話だけどね
>58 ええと、たしかに騎兵が突き崩したあとに 歩兵が突っ込むというパターンが常識的だったと思います。 ということは、いままでの議論は思い込み、思い違いだったようです。 お騒がせしました。 それにしても、テルシオの利点って結局なんだったのでしょう? 突進力でなければ、方陣の防御力? それとも(槍兵で守られたマスケット兵による)射撃力?
…教えてくんになってしまった。 逝ってきます。
62 :
29でないけど :01/09/24 01:42
>60 結局、テルシオの編制上の目的は歩兵の防御力の強化、 で、現場の部隊では射撃戦のために銃兵の比率を上げた 編成にしたってことでないだろうかな? つまり、利点は防御力と火力にあったんじゃないだろうか。 俺もちと感情的になってきてしまった。 取り敢えず回線切って首吊るわ。 他人の議論を引き継ぐもんじゃないな。 申し訳なかった。
>>58 >銃架付きマスケットが板金鎧抜けるのは50〜60メートルって聞いたことあるけど、
それは、人間大の的に照準を有効にあわせられる距離。100メートルでも
まぐれであたれば撃ち抜くことは出来た。勿論、手持ちの小銃ではなく、
口径と火薬量の多い銃架付きの奴ね。それと、別に人間にあたる必要は
なく馬を含めた大きさの的であればいいわけであるから、実際の標的は
人間よりも大きいことも考慮に入れる必要あり。近接戦での槍の攻撃は、
腕でしのげても、高速で飛んでくる銃弾はよけられないからね。無論、
銃でやられるのはそう多くはなかったから、パイク兵の槍は必要だったが、
陣地にたどり着くまでに何人か倒されてしまうのはやはり脅威だっただろう。
逆にいうと鎧が絶対的な防御の役に立たなければ機動力を高める為に、軽装化
に向かうものと思うが。
>1784年まで榴弾が開発されるまで、野砲の砲撃は実体弾で敵の隊列の中をごろごろ
そのごろごろの効果を大きくする為に、直前に着弾させて隊列の中をゴロゴロ
させるわけ。隊列の真ただ中に打ち込んでも着弾点の前に居る者には被害を与え
られない。だから、あまり近くなると敵の頭上をすり抜けてしまう状態だと接近
した敵には効果がないことになる。適度に直前に落とすことで最大の砲撃効果が
上がる距離があると言うこと。そして野砲の性能の向上につ入れてその距離が長
くなっていったってこと。誤解のない様に補足すると、遠射が効くのは、それ
だけ会敵距離をとれることになるから、砲兵にとってはメリットはあったが、
逆にある程度接近を許してしまうと、近距離への攻撃がやりにくい分、援護する
歩兵が居ないと騎兵の突入を許すということになった。だから、クリミア戦争の
時の英国の軽騎兵はトルコの砲兵陣地に突撃をしたわけでしょ。
鎧捨てて機動力あげて槍襖突っ込んだら凄いことになるな・・・・ 砲兵が至近距離で散弾で突撃破砕射撃やって馬や人を薙ぎ倒してたって描写はネタだったんだ・・・・
65 :
29でないけど :01/09/24 11:11
んではこれまでのお互いの主張を整理すると 28氏は トルコの銃がヨーロッパのより優秀なのは、トルコの銃兵(イエニチェリ)の士気と運用が高かったからで 銃の性能ではない イエニチェリは1斉射の後、躊躇なく抜刀突撃をした ヨーロッパの傭兵は士気が低かったので高い報酬でつるしかなく、爵位を貰った傭兵もいた(誰?) ヨーロッパの銃は牽制程度、命中率も低いが、騎兵には脅威だった 砲兵は近距離の直接射撃は出来ない んで、こっちの方は、 トルコの銃は、ヨーロッパの銃に比べて速射性能より精度に重点を置いていた イエニチェリは基本的に射撃戦に終始した ヨーロッパの戦闘の損耗率を見ると、傭兵の士気が低かったとは思えない 騎兵を喰い止める主役は槍だ 砲兵は近距離の直接射撃も出来る これでOKかな? それでは、世界史板の忌憚のない意見を求む
66 :
世界@名無史さん :01/09/24 12:03
なんでもいいけど、もうすこし簡潔なレスにならんもんか? 読む気もなくす。 それとも、28と29の二人だけのスレなのか?
68 :
世界@名無史さん :01/09/24 13:24
>>58 槍兵が姿を消し銃剣歩兵が主流になったのは
銃の軽量化が進んで銃剣が槍代わりに使えるようになったからだと
聞いた事があるんだが
69 :
世界@名無史さん :01/09/24 14:17
>67 あたしゃ世界史板がほこる「密集戦術は有効か?」「騎兵をかたるスレ」 同様の貴重な資料として、DLし、けっこう気に入っています。 ま、世界史板の伝統芸でしょう
70 :
世界@名無史さん :01/10/08 16:59
うん、良スレだと思うよ。 ところで、銃声の効果には誰も触れないのかな? 現代とは比べ物にならないほど騒音とは縁遠かったんだから、雷にも匹敵する轟音は 兵の士気を打ち砕く効果があったと思うんだけど。
72 :
世界@名無史さん :01/10/09 01:36
HATESONGあげ
73 :
世界@名無史さん :01/10/09 19:58
とりあえず皆さん集まって一戦まじえてみたらいかがですか? 実践が一番ですよ。
74 :
世界@名無史さん :01/10/09 23:51
>>73 もちろん場所の提供、法的手続き、周辺住民との折衝などは貴方がしてくださるのですよね?
75 :
世界@名無史さん :01/10/10 00:06
満洲、女真族に感動した。 彼らは弓矢で、火器で武装した明軍を蹴散らした。
76 :
世界@名無史さん :01/10/10 00:25
>74 大人気ないね。どーせ冗談なんだから軽く流せばいいのに。
もちろん74も軽い冗談に思え・・・。 ていうか、さ
78 :
世界@名無史さん :01/10/10 16:20
日本に銃が伝わったのは本当はいつ? 義満のころに倭寇によって齎されていたという話しはあるのだけど。
♪ワルサ〜P38〜 その手のな〜かに〜… …失礼
>>78 応仁の乱で細川勢が少数ながら使用したという説もある
81 :
世界@名無史さん :01/10/11 00:05
>>80 それは、明の銅銃の類ではないかな。もののけ姫の「石火矢衆」が持っていたような
やつね。
>>81 そういや『もののけ姫』って、時代設定的にはそのくらい
(応仁の乱前後)だったよね?
もうちょっと前だったっけか? 南北朝あたりか?
83 :
AIR SHIP :01/10/12 21:28
滑空砲の玉の種類には、グレープ・ショットやチエーン・ショット等の歩兵集団用の 物が用意されてあった筈だが? また、ボールを詰めた後に散弾を袋のまま2重装填し て発射した筈。 グスタフ・アドルフの6ポンド砲も散弾射撃によって、戦列を崩すこ とが第一の役目であったと記憶しています。
84 :
世界@名無史さん :01/10/12 23:58
もののけの石火矢は無理ありすぎ。榴弾だったし(w
85 :
世界@名無史さん :01/10/13 05:58
コサックスっていうゲームだとロシアのマスケット銃兵は片手に支えとなる杖を持っていて戦闘になるとそれに銃を掛けて撃ってるんですけど実際にそうだったんですか?
86 :
世界@名無史さん :01/10/20 01:41
欧州における火縄銃の登場はいつなのだろう。 チェコのフス戦争のさなかという説があるのだが 本当なのだろうか。 銃の威力で騎士の軍団に対抗したという点ではフ ス派の連中がごく初期の例のように思うが。
87 :
世界@名無史さん :01/10/23 00:44
所謂、銃床の発明はフス派だと書いてある本(題名失念)を見たこと がある。
88 :
世界@名無史さん :01/10/23 01:31
>85 それっていつの何の戦いの時ですか?支え棒は大体17c前半まで使ってたはずです。
種子島銃の原型のマラッカ銃には支え棒は無かったのでしょうね。
>>89 海賊が船上で使ってた銃だからまず無かったでしょう。
91 :
世界@名無史さん :01/11/02 19:06
アフガニスタンは昔も銃がすごい。
92 :
世界@名無史さん :01/11/03 14:17
良スレage
93 :
世界@名無史さん :01/11/18 19:14
銃が中国起源て確定なの?age
94 :
世界@名無史さん :01/11/23 02:30
>>70 銃声にならされていない
馬に対してなら効果あったらしいよ。
95 :
世界@名無史さん :01/12/09 00:54
ヨーロッパの各国は硝石をどのようにして調達していたのでしょうか? スペインはチリに硝石鉱山を持っていましたが、その他の国はどのようにしていたのでしょうか?
マルコポーロの文献の中にアイスのつくり方が書いてある。 「水と硝石をいれ…」 つまり硝石の存在は知られていたとみていいと思う。
97 :
世界@名無史さん :01/12/09 01:14
よく汲み取り便所の軒下とかにあるよ。<硝石
98 :
世界@名無史さん :01/12/09 14:09
この時代の話に詳しそうな方が2ch軍板コテハンでひとりいます。 しかし「彼」を本当に呼んで良いのか疑問。 硝石調達は「土硝法」があるけど欧州で採用されていたのかな?
99 :
世界@名無史さん :01/12/09 14:24
武田騎馬研究家さん?
100 :
世界@名無史さん :01/12/09 14:27
昔の銃の有効射程は?
101 :
世界@名無史さん :01/12/15 02:28
銃も火薬も中国人の発明なのに、なんで中国では本格的に 火器中心の軍隊が出来なかったのだろう?
一万人とか二万人とかの銃をそろえると、 コストがかかりすぎるのではないのかな?
103 :
世界@名無史さん :01/12/16 23:05
新技術の実験場にふさわしい戦争に恵まれなかったせいでは>中国
104 :
世界@名無史さん :01/12/17 00:07
>>95 鶏舎や鳩舎由来のの硝石のほうが先。チリ硝石はそのあと。
105 :
世界@名無史さん :01/12/17 10:59
鳥銃という火縄銃は明軍の主力装備で装備率は50%以上、 中国は戦乱が続けば動員兵力が多いから火力(大砲も含)による殲滅戦 が発達したと思うけどね?
>>95 ヨーロッパ諸国がどうやって硝石(硝酸カリウム)を調達していたか、という問題だが、
近世までの最大の輸入元はインドである。もともと歴史的に天然硝石の大産地として
知られるのは中国で、アラビアでは硝石のことを「中国の雪、中国の塩」と呼んでいた
程なのだが、この中国産硝石はヨーロッパにはあまり入ってこなかったらしい。
そのほかにも、イタリア低地、イベリア半島などで多少の産出が見られたようだが、
近世ではインドのベンガル産のものが圧倒的だったようである。なおチリの硝石は
ソーダ硝石が主成分で硝酸カリウムは少なく、前者には潮解性があるため、十八世紀末
時点の技術では火薬用としては使えず、もっぱら硝酸などの製造に用いられたらしい。
ただインドからの輸入は当初極めて不安定であり、十四世紀から十八世紀にかけて欧州で
使用された硝石のかなりの部分は伝統的な人工合成技術によって得られたものだった。
それは有機物を腐敗させ、それによって得られた亜硝酸が酸化して出来た硝酸を石灰土中の
炭酸カルシウムと化合させて土類硝石(硝酸カルシウム)を造り、それに植物アルカリ中の
炭酸カリウムを加えることで硝石(硝酸カリウム)を作る、という方法で、有機物から
この反応を利用して硝石を作るのは日本を含む世界各地で行われた一般的なやり方である。
ただ、伝統的なヨーロッパにおける硝石製造法の特色は、人畜の屎尿から生じた土類硝石
ばかりではなく、この地の気候風土ゆえか風化した壁の表面などによく生じる「壁塩」と
呼ばれる、土類硝石を利用した点にあった。だがその利用には壁の外皮を剥がす必要がある。
それゆえ領主は戦争で硝石が必要になると個人の家の壁を破壊し外皮を徴発する行為に及び、
やがてこの、領内に存在する、あるいは生じた全ての硝石を採取・利用する権利は「硝石権」
と呼ばれる悪名高い領主権として十五世紀初めから十六世紀にかけて確立していくのである。
だがこの個人の家を破壊しかねない権利はあまりに領民を苦しめたため、やがて領主と領民
との間で妥協が計られたが、その条件は領民が「壁塩」採取専用の壁を作り、しかもそれを
「壁塩」が生じるまで維持する義務を持つ、という過酷なものだったという。この権利が
ドイツ各地で正式に廃止されていったのはなんと十八世紀も末の事だそうである。
参考:ヨハン・ベックマン「西洋事物起源」岩波文庫第四巻
107 :
世界@名無史さん :01/12/17 18:22
白熱論議に水を差して恐縮だが、インドセポイの乱の発端になった「エンフィールド銃」だったかな? についてこのスレの諸兄にご教示いただきたい。
108 :
世界@名無史さん :01/12/17 19:25
>>107 世界動乱の神様だな…開発年は1853年、フランスのミニエーが開発
した弾丸装填発射システムを改良し、且つ発火装置にキャップを設けた
ため行軍中の埃による不具合が軽減された。
配備間も無くクリミア戦争が勃発し、その威力を世界に示した。次に
セポイの反乱で活躍、続いて米国で南北戦争が起こると生産力のない
南部同盟が大量に購入して使用する。戦後余った銃が日本に持ち込ま
れ幕末動乱の主力銃に…この頃、エンフィールドは後装填型のスナイ
ドル銃に改良され、ドイツ統一戦争及び戊辰戦争で活躍します。最後
の有終の美は西南戦争…世界中を駆け回り戦争の種をばら撒いた名銃
です。
110 :
由美かおる :01/12/18 07:21
弓の欠点は狙いが付けにくくて熟練が必要ということらしいが、 ボウガン(弩弓)型にすれば、その点はかなり改善できるはず。 シンプルな和弓と工業的な鉄砲との間に、 ボウガンの段階があっても良さそうなもんだと思うが、 どうしてボウガンが日本では使われなかったんだろう? NHKでやってた聖徳太子のドラマでは弩弓が使われていたが、 あれは史実に基づいているんだろうか? 史実だとしたら、どうしてその後は使われなくなったんだろう?
111 :
世界@名無史さん :01/12/18 08:15
たしか、日本では弩は平安時代くらいまで使ってたはずだよ。 弩師だか弩士だかという名前で弩兵が史料に出てくる。
112 :
世界@名無史さん :01/12/18 08:53
確かにヨーロッパでも弩がほとんど使われなかった時期がある なんでだろう? 発射速度で弓に劣るし、巻き上げ機構なんかの構造が複雑で コストがかかったからかな?
113 :
世界@名無史さん :01/12/18 09:02
百年戦争でイングランド軍が長弓を使用して、フランス軍のボウガンを圧倒してから ではないのか?(クレシーの戦い・1346) 長弓はボウガンより発射速度・射程距離でまさっている。
114 :
世界@名無史さん :01/12/18 09:09
>>112 ローマ教皇がキリスト教徒に向けてクロスボウ使用する事を禁じたからです
115 :
世界@名無史さん :01/12/18 09:57
>>114 弩の禁令は1139年
弩がヨーロッパで再び普及しだすのは10世紀頃で、
第1次十字軍頃には投射兵器の主流となった
自分が知りたかったのは、(恐らく)3〜4世紀頃から10世紀頃の期間、
投射兵器の主流が弩ではなくて弓だった理由
自分の書き方が曖昧でした、申し訳ない
>>113 発射速度は兎も角、射程は弩のほうに分があった筈だが
116 :
世界@名無史さん :01/12/18 15:55
>>115 クロスボウに限った事ではないが
ローマ崩壊後の混乱で複雑な構造の武器を製造する技術が失われたせいだと思われ
117 :
世界@名無史さん :01/12/18 16:09
当時野人だったゲルマンにあれだけの高度な技術があったとは思えない
118 :
世界@名無史さん :01/12/29 17:45
>>115 あくまで推測です
中世農業革命 十字軍
↓ ↓
1、余剰生産が出る→市が都市に発展→要塞防衛に適したクロスボウが復活
↑
2、封建制が安定→騎士階級が確立される→鎧が上等になり重装甲化→初心者でも扱いやすく、装甲を貫通する能力の高いクロスボウが復活
↓ ↑
3、自由農民が減る→自由農民じゃないから真面目に戦う訓練をしない――|
|
4、十字軍発生→身分の自由を求める農奴が参加――――――――――――|
ちょっと妄想の度が過ぎますかね・・
3はイギリスの自由農民であるヨーマンと比べると面白いと思います。
ずれちゃったなぁ・・
中世農業革命 十字軍 ↓ ↓ 1、余剰生産が出る→市が都市に発展→要塞防衛に適したクロスボウが復活 ↑ 2、封建制が→騎士階級が確立される→鎧が上等になり→初心者でも扱いやすく、装甲を貫通する能力の高いクロスボウが復活 安定 重装甲化 ↑ ↓ | 3、自由農民が減る→自由農民じゃないから真面目に戦う訓練をしない―| | 4、十字軍発生→身分の自由を求める農奴が参加―――――――――|
中世農業革命 十字軍 ↓ ↓ 1、余剰生産が出る→市が都市に発展→要塞防衛に適したクロスボウが復活 ↑ 2、封建制が→騎士階級が確立される→鎧が上等になり→初心者でも扱いやすく、装甲を貫通する能力の高い 安定 重装甲化 クロスボウが復活 ↓ ↑ 3、自由農民が減る→自由農民じゃないから真面目に戦う訓練をしない―| | 4、十字軍発生→身分の自由を求める農奴が参加―――――――――|
122 :
世界@名無史さん :01/12/29 18:29
>>120 スペースとして、全角の空白を使えばいいんじゃない?
123 :
世界@名無史さん :02/01/09 08:14
みんな、頑張ってるのでage
125 :
世界@名無史さん :02/01/10 17:26
126 :
世界@名無史さん :02/01/11 09:37
ギリシア火age
127 :
世界@名無史さん :02/01/11 15:00
128 :
世界@名無史さん :02/01/11 15:25
よく言われてはいるが、 本当に 蒙古のてつはうと 欧州の鉄砲は関係無いのだろうか?何かあると思うが。
平凡社「火器の誕生とヨーロッパの戦争」バート・S・ホール著、市場泰男訳 では、重騎兵(鎧着込んでランスで突撃する騎兵)が戦場から消えたのは ピストル騎兵に駆逐されたから、となっている。 至近距離から致命的な部位にピストルの射撃を受け、鈍重な重騎兵は手も足も出ないとか。
130 :
リトル愚礼@ロズウェル逝きます! :02/01/11 22:28
>>129 さん
確か当時の教本は
「照準が合わなかったら馬を撃て!」と教えていました。
確かに、馬のほうが当たりやすい。
ちなみに、前にボウガンの話がありましたが…
日本は源義家が、欧州の役で
ボウガンはおろか、バリスタまで投入してました。
>>130 つまらん突っ込みだが、義家はヨーロッパに行っていたのか?
132 :
リトル愚礼@ロズウェル逝きます! :02/01/13 00:21
義家云々は、>111さんへのレスです。 誤爆であることには変わりありませんがね(苦笑)。
133 :
世界@名無史さん :02/01/14 01:40
ハンガリーの大砲製造業者ウルバンって何者? なんかコンスタンティノープル攻防戦1453/4/6で、やたら聞く名前
134 :
世界@名無史さん :02/01/14 09:23
>>128 てつはうは、今で言う手留弾のようなものだったそうです。火をつけて投げると爆発すると言う奴。
火薬兵器という点では関連もありますね。中国では宋代には、ロケット弾の様なものや大砲などが使われていたはずです。
火薬ってものを武器として使ってるって知ったのはこれが 初めてだったかもしれず、その意味では影響なしってことは ないんじゃないかな。
136 :
世界@名無史さん :02/01/26 13:55
ターンオフ拳銃あげ。 映画ミッションのスペイン軍(南米派遣軍)がつかってた
137 :
世界@名無史さん :02/02/16 12:52
イタリアで見た1700年台の銃のライフリングは16本。 1850年頃のコルト拳銃のライフリングが7本。 一次大戦の頃になると4本。 もちろん例外も多そうだけど、この頃までには冷間鍛造もないから 加工方は似たり寄ったり。 なんでライフリングの本数は減ったのか?
138 :
世界@名無史さん :02/02/16 13:09
>>137 弾丸の初速が上がったから、構造上耐えられなくなったのでは?
139 :
世界@名無史さん :02/02/16 16:42
>>78 日本に鉄砲が伝わる80年ほど昔に、琉球では「火矢(ヒヤー)」と呼ばれる
火砲が使われていたらしい。弾丸も発見されていて、1466年に室町幕府に
使者を送った際に、総門外で火砲を放って京都の人々を驚かせたという記録もある
そうな。
140 :
世界@名無史さん :02/02/18 17:20
ライフリング自体の寸法はあんまり変化がなくて、 口径がどんどん小さくなってるからかな?と考えて見ました。
141 :
世界@名無史さん :02/02/18 23:04
ウルバンはコンスタンチノープル攻略に大きな働きを示した巨砲の 製作者。元々はハンガリー王に売り込みに行ったが相手にされず、 オスマン・トルコへやってきた。 どんな人物なのか詳細はわかりません。
142 :
世界@名無史さん :02/02/19 00:26
>>137 そもそもさ、小銃で16本もライフルがあって、当時の技術で作ったとして、ガス漏れ
がなかったのかな? かなりエネルギーロスのように思うけど。
143 :
世界@名無史さん :02/02/19 08:34
>>142 そりゃ初速は相当落ちたにちがいありません。
ライフリングがきちんとランドとグルーブになってなくて、
なんとなく三角の溝だった頃だとなおさらです。
しかし、獣皮あるいは麻布のパッチをあてて装填してるので
発射ガスが筒抜けになるほどは漏れなかったと思われます。
144 :
世界@名無史さん :02/02/19 23:17
まあ、近代のように銅か何かの柔らかい金属でライフリングを噛み混んだ訳じゃないからね。 いわゆる「おくり」って奴だと思うけど、実際のところそんなに回転させられたんだろうか? そもそも、丸い玉を飛んでいく軸線の周りに回転させて、安定するものなんだろうか? 今の「砲弾型」の玉なら、回転させれば安定するだろうけれど。
145 :
世界@名無史さん :02/02/22 19:28
「スムーズ・ボア・カノン」は「かっくうほう」ですか?「かっこうほう」ですか?
146 :
世界@名無史さん :02/02/22 20:40
>>9 >長篠の戦いでは馬防柵を三重に敷き、三段撃ちによって武田の騎突を防ぎました。
ここまで誰も突っ込んでないみたいだから書くけど、三段撃ちって、当時の文献では
確認できないんじゃなかったっけ?
後世の創作っていうのが定説だと思ってたけど。
147 :
世界@名無史さん :02/02/22 21:56
>>146 仮に1000人ぐらいの兵隊がずらっと並んで三交代で撃つとしたら、幅300〜500メートル
にはなるだろう。一斉射撃の命令が行き渡るはずがない。
って言うのが反対理由だよね。
板違いだとは思うんですが。 それもある。最大の理由は、一次史料に出てこないって事なんだけど。 「信長記」は一次資料とは呼べないと思うしね。 それに、長篠の地形で騎馬軍団が突進してきたとしたら、斉射するよりも、 各個狙撃したほうが効率的でしょ。斉射するにしても、何も入れ替わり立ち代り 撃つ必要はない。 兵士を前後に配置するんじゃなく、柵を使って上下に配置すれば効率がいいと 思うんだが・・・・・(下の図を見てくれ)。 板違いの上にトンデモぎみでスマソ。 まあ、兵士の配列はともかくとして、三段打ちは無理&無意味だと思うな。 ●→●→●→ ・・・ こう打つんじゃなくて ●→ □●→ □□●→ ・・・ こう撃つってことね
149 :
世界@名無史さん :02/02/22 22:39
分業は駄目なの?中国の文献だと、弩(ボウガン)を撃つとき 弓を引く係(力がある奴)と矢を備え付ける係と撃つ係(目がよ くて撃つ技能が高い奴)に分業したという記録があるんだけど、 鉄砲もそうやって撃つのが良い気がするんだけどね。
150 :
世界@名無史さん :02/02/22 22:51
>>149 そういった筋力や技能を必要としないのが銃の良さ、っていうのが
このスレの最初のほうで出ていたと思う。
151 :
世界@名無史さん :02/02/23 01:28
日本の銃といえば、鉄砲伝来当時日本に無かったボルトの製法を知るために娘を ポルトガル人に差し出した人がいたと思ったんだけど。 名前なんていったっけ?
152 :
世界@名無史さん :02/02/23 18:45
>>151 そのとき2本の鉄砲が伝えられ、ネジの秘密がどうたらというヤツじゃないの?
単なる伝説でしょ? あの年に種子島に最初の鉄砲が入ったというお話自体が
どうやら眉唾のようだし。
あ、眉唾ってのは種子島に鉄砲が入った事ではなくて、「最初の」ってこと。
どっちにしても、問いかけの人の名前は忘れた。ゴメン。(w
153 :
世界@名無史さん :02/02/26 18:12
あげ
154 :
世界@名無史さん :02/03/04 11:01
>>151 ボルトっていうか駐螺だったと思います。
雄ねじは丸棒に糸を螺旋に巻き付けて案内にし、
鑢で溝を切って複製できてめでたしめでたし。
困ったのが雌ねじで製法が判らず苦心惨憺。
結局刃の欠けた包丁で大根をえぐってできた跡に
ヒントを得て雌ねじの複製に成功、というのを読みました。
娘と交換で、というのも雑誌に載っていましたね。
国友外記でしたっけ?
アヤフヤでごめん。
ずっと後世になってからの火縄銃でも尾栓のねじが
ガタガタのを見て驚きました。
スキマに糸を巻き込んだりして発射ガスを止めたのかな?
それともマトモな火縄銃は精度も良くて漏れないのかな?
いずれにしても別にねじ切りに苦労なんてしなくても、
他にいくらでも閉鎖する方法はあったわけで、
今となっては不思議なエピソードですね。
155 :
世界@名無史さん :02/03/04 12:08
>>143 >>144 そもそも、山径と谷径の差がものすごくあったし、今のライフリングとは別物と考えた方がいいと思う。(コルトのパターソンあたりでもその程度)
効果の検証はかなり前から行われていたが(1700年代から)、なにしろ、時計や光電管なんてないからね。大変だったみたい。
球弾を回転させる事の意義は、ジャイロ効果はあるけど、犠牲になるみたい。野球のボールを考えると分かりやすい。長距離狙撃は、やはりミニエー弾誕生を待たないと期待薄でしょう。
長篠の戦いで本当に三段撃ちをやったかどうかは眉唾だけれど、 中国の文献では弩で数段に分かれて連続で射撃をした記録が有る。
157 :
世界@名無史さん :02/03/09 00:28
>>156 だから、三段撃ちの真偽についてはともかく、信長が史上初めて三段撃ちを考案した、
という説は疑問が出るわけだよね。
それに近いことは昔からやっていたんだから。
ちなみに三段かどうかはともかく、数段に分けて射撃する方法は雑賀衆が10年も前に
やっていたのだとか。
雑賀衆といえば、川原正敏さん、歴史的にハテナは付くけど面白いからがんばれ。
>>157 >川原正敏
刻、面白いか?
飛田とかと戦ってたころは良かったが。
159 :
世界@名無史さん :02/03/09 11:48
>>156 信長の三段撃ち自体、中国の弩の三段撃ちの記録を見て後世に、創作された
という説もある。実際は、ああいう組織だった三段撃ちではなく、装填役と
射撃役の分業とか並んだ者が交互に射撃するとかもっと柔軟な分業で、
射撃したということではないかな。
160 :
世界@名無史さん :02/03/09 12:55
>>158 あれ? 新刊出てるよ。いま、信長編。雑賀孫一がいいキャラで出てるよ。
ちなみに、義経編で泣いてしまった。
161 :
世界@名無史さん :02/03/09 12:57
多段撃ち、斉射というのは鉄砲じゃなきゃ思いつかない戦術と言うわけではないからなぁ。 個人で行っていた銃撃を部隊としてまとめて行うようになった程度の事なのでしょうか?
初期のテルシオかな?当時猛威を振るっていた、スイスのパイク兵の突撃を壕と マスケットの斉射で撃退した事は知ってるけれど……。それまでは、数倍の敵が 騎兵突撃と銃撃を加えてもしばしば討ち破っていたけれど、それ以来長槍兵は 廃れていったそうな。最も斉射の効果より、壕や柵による野戦築城の方が効果が 有ったと言う考え方も出来る。 中国の弩の斉射まで入れると余りにも古くて良く判らないが、考え方は一緒でしょう。
163 :
世界@名無史さん :02/03/11 04:03
信長の長篠における三段構えの戦法についてですが、以前NHKの番組で特集を組んでいたような気がします。 記憶が全然うろ覚えなんで、与太話と無視してくれて構わないんですが、確かその番組によると、 信長は長篠の複雑な地形を生かして、柵を設けたりして、武田の騎馬部隊が一斉に突撃してこれないように地形を人為的に操作した。 騎馬部隊が一斉に突撃して来れないという事は、各個に突撃してくる事しか出来なくなる。 つまり武田の騎馬部隊は、人為的な操作により各個に分断されてしまった。 そこを信長の鉄砲隊が、武田の騎馬部隊を各個撃破していった。 鉄砲隊の配置ですが、ちょうど地形によって騎馬部隊が各個に分断されるポイントに重点的に配置していたと思います。 どうでしょう?確かこんな感じの話だったと思います。
164 :
世界@名無史さん :02/03/11 13:15
先先月号の「歴史群像」(いや、そうバカにしたものではない。それなりに著者は切磋琢磨していると思う) に「長篠合戦」特集組んでたね。 終日にわたる戦闘時間や、両軍の死者数(これ、ソースがいまいち)から逆算して 武田騎馬武者と随伴歩兵による小隊ごとの突撃が、時間差を持っておこなわれた乱戦だった いう記述あったけど・・・。 結局、勝頼が撤退したのは、家康だかの別働隊に後方連絡線を脅かされたためとか?
165 :
世界@名無史さん :02/03/11 18:41
>>163 漏れは「日本では騎馬だけの部隊編成をしていないから『武田騎馬隊』はありえない」
ってな話をNHKの番組で見た記憶があるけど…。
166 :
世界@名無史さん :02/03/13 23:29
騎馬軍団って、フィクションでしょ? 武田の騎馬武者は、配下の兵(もちろん徒歩)を従えて戦場に出て、機を見て 馬から下りて後方で待機する係に馬を預け、部下をひきいて小走りに突進した んじゃなかった? そもそも、馬に乗れるのは馬を養うことが出来る財産を持った武士に限られて いたし、そんな武士たちがいわゆる騎兵として雑兵のごとく騎馬集団を形成し たはずもない。だいたい馬が小さすぎて集団で突進したら落後する馬が出てく るし。 残念だけどフィクション。
167 :
世界@名無史さん :02/03/23 22:16
age!
そう言えば伊達の鉄砲騎馬隊って存在したのか?南部などに比べれば、比較的鉄砲を 多く所有してはいたらしいが、東北が名馬の産地とは言えドラグーンは可能なのかな。
169 :
世界@名無史さん :02/04/14 19:50
ま、馬が多くても日本馬ではねぇ。体高120センチの馬で突撃はできんだろう。 東北には硝石がとれないし輸入ルートが少なかったから鉄砲隊が出来なかったと思われ。
170 :
世界@名無史さん :02/04/14 20:34
>>169 江戸初頭には東北で硝石は作られていましたよ…(硝石は作れるんです)
171 :
世界@名無史さん :02/04/14 20:52
>>170 確か、ニワトリの糞かなんかから作るんだっけ?
172 :
世界@名無史さん :02/04/14 21:04
人尿は?
173 :
世界@名無史さん :02/04/14 21:10
長篠の合戦での三段鉄砲はなかった
>145 遅レスだけど「かっくうほう」だね。時々「かっこうほう」て発音する人もいるけど。 正しくは前者のようである、と。
175 :
世界@名無史さん :02/04/15 15:22
奥村正二著、「火縄銃から黒船まで」岩波新書(再版未定かな?)より。 1837年(天保8年)江川太郎左衛門が幕府に提出した、「伊豆防備意見書」の記述に、 「フランス人が考案した硝石培養場を作れば、二、三年のうちに採取できる。これには、 石灰と魚の腸血が必要」とあり、 硝石培養場とは、魚のはらわたや動物のふんなどの腐ったのを土と石灰にまぶして作った田のこと。 この田では動物性蛋白中の窒素、または尿中のアンモニアが、硝化バクテリアの作用で、 亜硝酸HNO2 になり、これが容易に酸化されて硝酸HNO3 になる。 続いて硝酸が土中のカルシウム分と結合して硝酸カルシウムCa(NO3)2 になり、これへ灰汁中の 炭酸カリK2CO3 が作用して硝石ができる。 2NH3 + 3O2 = 2H2O + 2HNO2 2HNO2 + O2 = 2HNO3 2HNO3 +CaO = Ca(NO3)2 + H2O Ca(NO3) + K2CO3 = 2KNO3 + CaCO3 これ以前にも、1811年(文化8年)加賀藩の赤松源則が書いた「陽精顕秘訣」に、 硝石を作り出す方法がある事を記述している。(時間は8年ほど掛かった) 加賀硝石の上納は、1603年(慶長8年)から始まっている。 バートSホール著、「火器の誕生とヨーロッパの戦争」平凡社 (バッチリ買えます) にも、硝石生産の記述があるが、もっとも古い文献の決定打と言うのは、はっきりしない。 1550〜1580年くらいに刊行された複数の文献に記述はあるが、生産方法の具体的な記述は無いとの事。 しかし、生産していたのは間違いないらしい。 輸入元としては、インドが主な天然物の産地であった。 こんなところですか。
そうそう、硝石って作れたんだよね。 でも輸入も多かったという話はある。ってことは、買った方が効率的なのか? いずれにしても、「騎馬軍団」がフィクションなんだから騎馬銃兵もなかったんだろうな。
学問的には、貿易統計と硝石の消費統計が無いから(藁 推測の域に入ってしまうため、学者は断定しないでしょう。 ただし、ナポレオニックのような騎馬銃兵は絶対いない。 火縄銃の構造上、揺れる馬の背で撃つくらいなら、石でも投げた方が良い。 フリントロックと異なり、火蓋を切らねばならない火縄銃は不発が増えるから。
ああ成る程、火縄ではそもそも無理ですね。そして必要性も余り無かったか……
179 :
世界@名無史さん :02/04/26 22:02
国定忠治がリボルバーを所有していたという話がありますが。 当時の日本で無く世界でもリボルバーは珍しいのに、 どうやってペリー来航前にリボルバーを所有できたのでしょうか?
180 :
世界@名無史さん :02/04/26 23:30
>>177 フリントロックより火縄銃の方が不発は少なかったんじゃないの?
なにしろ、直接火をつけるんだから。
誰かの著述にあったように記憶していますが、誰だったっけ。思い出せないのが悔しい。
181 :
世界@名無史さん :02/04/26 23:47
>>180 揺れる馬上で火縄を扱うくらいなら不倫とロックの方がましだ。
182 :
世界@名無史さん :02/04/26 23:51
>>181 不発の多寡についての話さ。
騎兵銃としては、不倫のほうがいいに決まっている。
フリントロックとマッチロック(火縄)の不発の比較は、(歩兵が使用する状況での) 実用テストと実験室、国、時代によって差が出ると思います。 { 1 点火 } DIXIE Gun Worksのカタログを見る限り、現在でも良質の火打ち石が産出する場所は、 イギリス、ドイツ、アメリカ等の限られた場所である事。 逆に言えば、良質の火縄が現在も生産されているのは、わが国のみです。 { 2 火薬 } 火皿の上の点火薬の質。細かさが均一であり、かつ良質であるか。 { 3 湿度 } これが大問題。ヨーロッパ・アメリカは低湿の寒冷気候である土地が多く、 裸の火薬を扱うのには、日本と比べるととても有利。 また、これは確信は無いが、低湿度が幸いしたのか、 二次大戦当時のライフル実包もドイツの物は、現在でも発火率が良いと聞く。 (雷管用の火薬も関係してくるので、そんなに単純では無いとしても) { 4 運用状況 } 軍隊で使用している状況は、「劣悪環境下のシロウトによる使用」を想定すべきで、 猟師のような「注意深いプロ」とは比較になり得ないでしょう。 フリントには、「切り出しナイフ」刃の様な角度を付けておく事が、重要で、 この善し悪しが、フリズンfrizzenに当たる時に、発火する火花の量の差になって表れる。 私は、個人的には、不発に関して、両者に大差は無いと考えています。 「戦争」で使用するのに限定すれば、先込め銃は、統計学者の好みで、恣意的に 結果が左右できるくらいの差異があるくらいだと思います。 過失による不発が起こる状況を数えたら、きりがないと思いますし。
184 :
ちょっと待ったぁ! :02/04/27 18:35
>>183 >DIXIE Gun Worksのカタログを見る限り、現在でも良質の火打ち石が産出する場所は、
>イギリス、ドイツ、アメリカ等の限られた場所である事。
>逆に言えば、良質の火縄が現在も生産されているのは、わが国のみです。
この、「逆に言えば」という文章、逆の事を言っていないように思うんだが?
いや、別に文句を言っているのではない。
それと、不発の割合については一応陸上自衛隊の資料によると、火縄銃の方が勝る
となっているとか。ただし又聞きなので確認する必要あるな。
また、命中率に関しては火縄銃の方が着火時の衝撃の違いで、間違いなく火縄銃の
方が上だそうだ。
>>180 の読んだという資料を知りたいな。
>184 書き方が舌足らずでした。言いたいのは、どこでどのようなテストをするかで、 結果が大きく左右されるという事。 日本産の火打ち石でフリントを作ったり、有り合わせの布を寄り合わせた様な火縄では、 テストにならない。(極論です。つっこまないでね) 歴史的視点でのテストを試みるにあたって、考慮すべき点が様々あると、言いたかったのです。 >着火時の衝撃の違いで おっしゃる通り。 ただし、兵器としての使用目的は、主に「面制圧」であるので、影響は少ないと思われます。 それ以上に、発射時の自由度では、フリントロックが若干有利。 湿度に関して、湿度が8%なんて天気が続く国と(今頃のスペインとか) 日本やテキサス東岸等の高湿の夏では、かなり差が出るでしょう。 また、小雨で実用テストをしたら、勝負にならないでしょうね。
186 :
世界@名無史さん :02/04/28 17:44
>>184 陸自でそんな研究もしているのですか?
趣味の世界ですね。いいなあ。 (w
>186 世界のかつて軍事大国だった国の軍隊は、 自衛隊の研究者がうらやむ環境で、様々な研究をしています。 軍事博物館が、複数存在する国は、珍しくもありません。 イギリスの博物館巡りをしたいです。はぁ。
あげさせてね。
189 :
世界@名無史さん :02/05/14 17:08
>189 別スレで、やってた事の関連の疑問だと思う。 (4月の始め頃?)日本史板だったかな。 文献が無いので、私には判らん。ただ、リボルバー自体は、そう珍しくはない。 忠治を捕らえる方の、連発銃がなんなのかが論議になったのだが、 有力な候補は上がったが、完全にこれはというものが無かった。
191 :
世界@名無史さん :02/05/15 15:03
俺が好きなのは「日本のシートン」とでも評すべきあの人だな。 彼の動物文学にはムツゴロウとはまた違う味があって、小学校の頃はまったよ。
192 :
世界@名無史さん :02/05/15 15:13
剥く歯と獣?
193 :
世界@名無史さん :02/05/15 16:21
近代以前の連発銃ってどういう風に利用されてたの?一部の軍隊で利用されてたとか?それとも金持ちが個人的に使ってたの?
>近代以前の連発銃 薬莢を使用する以前の銃で、連発が出来たのは、リボルバー式の物に限られる。 拳銃ならば、例を挙げるまでもないが、小銃(ライフル銃)の類となると、 リボルバーをカービン仕立てにしたものしか無い。 あとは、現行の散弾銃に見られる様に、銃身を複数化したもの。 リボルバーカービンは、欠点の多い兵器で、安全性を含め、軍隊向きではない。 拳銃用の部品を流用できるから、安く作れるはずだが、駆逐されて姿を消した。 現在も、レプリカで(アメリカ等では)手に入れる事は出来るが、 PL法を楯に訴えられたらどうするのか、他人事ながら心配というか、疑問に思う。 安全上の問題とは、リボルバーのシリンダーから漏れる火薬燃焼のガスで、 火傷をしやすい事。拳銃の場合と構え方が違うため起こりやすい。
195 :
かちゅ〜しゃで書き込めた♪ :02/05/15 20:09
>>154 ネジの原理を使わないで、効果的に銃身の底を閉塞する方法というのは、存在しないという説
明を読んだ記憶があるね。
ただし、金属薬莢によるパッキングも存在しないという条件下での話だけど。
たとえば、ポルトアクションの小銃は、薬莢の底の部分とボルトで閉塞しているし、中折れ型の
元込め銃もほぼ同様の考え方で閉塞している。
大砲だって、薬莢型の速射砲だと縦型のスライドで閉塞したりしているけど、砲弾と薬包を使用
するタイプだと閉塞部分はネジ式だよ。
これ以上はわからんので、詳しいヒト、ぜひ解説をお願いします。
>195 先込め銃の時代の尾栓の閉鎖法は、ネジ以外うまくいきません。(今もなお) ネジ以外の方法で、閉鎖しても、火薬の燃焼時に圧が後ろに逃げて、射手の顔に・・・。 それに、ネジで尾栓の閉鎖をすると、不発の時も、抜弾しやすいですし、 (筒先から長い棒の先にコルク抜きの様ならせんの付いた物で抜く方法もあるし、 今は、炭酸ガスを使った抜弾器もありますが) 銃身の作り方からして、最初から尾栓が閉じている物は作れないし、溶接は、↑の様な事に。
ライフリングについて。 ライフルによる飛翔弾丸の安定の研究は、1740年頃から活発になり、 火薬の燃焼で生じるガス圧の有効利用は、1820年頃までに理論がほぼ完成した。 ライフル銃の発明は、研究に先立つこと250年以上前、 1480年のオーストリア(Gaspard Kollner) と、 1520年のバイエルン (Augustus Kotter)の2説があり、また、 1635年のイングランド(Arnold Rotsipen) で特許申請がされている。 軍事利用の最も古い記録で、信頼できるものとしては、 1611年にデンマーク陸軍(King Christian)がライフル銃兵の部隊を 編成したという記録が残っている。〔この部隊がどの程度の規模の物であるか、 私は、確認できなかった。おそらく、プロイセンのフリードリッヒ大王の『巨人兵部隊』 のように近衛兵的な性格の部隊で、 実戦投入する事を前提にしていなかったのではないかと推測する〕 しかし、実戦において各国の軍隊が無視できないほどの戦果を残すまでは、 さらに時間がかかったようだ。
狙撃って概念ができるまでは、あくまで集団戦術用だったんだろうけど 対銃撃用の装備はどうだったんだろう? (防弾チョッキ開発以前のスレだし。。) 秀吉の時代の表面磨いた胴丸とか、けっこう効果あったらしいけど。
>198 鉄砲は、対象物を実際に撃ってみないと判らないところがあるので、 断定は避けますが、以下の値が、その答えとして参考にはなると思います。 (単位は、計算の都合上ヤード・ポンド法を採用しています。あしからず) 1) .75口径のマスケット銃→ 実寸.73径、586grain の弾丸を、900ft/s で発射。 2) .58口径のライフル銃→ 実寸.57径、278grain の弾丸を、1000ft/s で発射。 以上を平均値と仮定する。 1)の銃口活力は、1054ft/lbs ( 1429J ) 打倒力(Knock-out power factor)が、55P 2)の銃口活力が、617ft/lbs ( 837J ) 打倒力、22.6P これらの値が、計算式から求められる。 これらが、どのくらいの値かというと、 銃口活力 1054ft/lbsは、「44mag」の平均値を上回る値で、 617ft/lbsは、10mm AUTO < 357mag の中間ほどの値で、決して、弱い威力ではない。 また、打倒力の、55Pという値は、尋常なものではない。 実用最大クラスの拳銃、デザートイーグルの.50AE(銃身 6.4in.)の打倒力が、31.3Pであり、 44magで打倒力 22.6Pを上回るためには、14inch 銃身のデザートイーグルの使用が 必要となる。(6in.銃身のリボルバーより15%程度初速が速くなり、打倒力 23.3P余り) また、現代の軍用ライフル銃弾と比較すると、(両者ともNATO弾) 5.56mm X 45 が、銃口活力 1300ft/lbs ( 1763J ) 打倒力、 6.3P 7.62mm X 51 が、銃口活力 2600ft/lbs ( 3525J ) 打倒力、19.5P という値が出てくる。 打倒力がエネルギーの割に、低くなっているが、 これは、打倒力が「弾丸を貫通させずにエネルギーを消費する力の強さ」を表す ものであるから、計算ミス等ではない。 ては、.75口径のマスケット銃で、最新のアラミド繊維使用の防弾衣を撃ち抜けるのか。 答えは、絶対無理。 ただし、人間が来ていると仮定すると、55Pの打倒力がものをいう。 肋骨は確実に折れるでしょうし、内臓も無事では済まないでしょう。 >対銃撃用の装備 が、工夫されなかった理由は、この辺にあるのかと思います。 日本の種子島は、2)の値と同じくらいだと考えてください。
>>193 に関連して。
狙撃に関して。(連発銃の先駆けの後装式ライフル銃)
アメリカに於ける戦闘中に、Murphyという無名のライフル兵によって、
Simon Fraser将軍が300ydsの距離からの狙撃で射殺されてしまった事は
(1776年?)大変な衝撃をイギリス軍に与えた。
〔何故なら、当時の陸軍の戦闘教義では、個別の目標を狙うというよりも
鉄砲を戦術的な面制圧兵器として『大砲の小型版』という位置づけで採用し、
部隊編成をしていた。マスケット銃による『狙撃』で、人型標的に当てられる
平均的限界距離を100ydsと考えて、狙撃兵の活用が重要視する事はなかった〕
〔この大事件がきっかけとなったのか〕1776年に、
実験的なライフル銃兵部隊(100人編成の部隊。全員が戦闘要員か?)が、
後装式ライフル銃の設計者でもあるPatrick Ferguson大尉が隊長となり、
イギリス本国からアメリカ大陸に送られた。
(イギリスは猟官制度があったので、いわゆる職業軍人だったのか否かは、私は判らない)
余りにも時代を先取りした(当時の工作精度では機能が不十分な、冒険的設計の)
ファーガソン・ライフルが災いしたのか、各地を転戦するも、注目すべき戦果は残せず、
1780年に部隊はサウスカロライナで全滅してしまった。
ライフルもイギリス軍に制式採用されていたが、部隊の全滅と共に、
1780年に制式銃から外されている。
(この全滅と言う表現は、戦術的意味での全滅では無く、文字通りの全滅)
>>199 THANKS
昔TVで衝撃吸収素材(開発者がゼリーからヒント得たって言ってた)
特集やってたの思い出した。防弾チョッキの下につけるの想定して…
って、そういうことだったんですね
衝撃吸収ゲルの、防弾衣への応用は、製品としては未だ存在してない様子です。 (一応ネットの法執行官関係ショップを見て確認してみました) たぶん、「重くなるから」と言う理由が、一番の要因かと。 スニーカーの中敷き等では、お馴染みなんですけど、こちらでは不人気。 更に用心するためのアイテムとしては、トラウマ・プレートがあります。 コミックス(B6版)の大きさの、チタン、セラミック等の板を、 胸の中心に入れるためのポケットが、ほぼ確実に防弾衣には付いています。 これが付いていないものは二流です。購入なさる時の参考まで。(藁 また、ケブラー等の、アラミド繊維は、全く伸び縮みしません。 したがって、着心地は「非常に悪い」です。 通気性も無く、夏などは最悪です。それ専用の補助下着で通気を確保したりと、 アメリカのお巡りさんは難儀している様子です。 これ以上は、板違い・スレ違いになりそうなので、このあたりで。
>200 の補足。 1776年に特許を与えられたファーガソン・ライフルは2つの工房で生産されたが、 少数におわった。 設計は、1704年にフランス人のIsaac de la Chaumette が発明した 後装式マスケット銃の焼き直し(改良はされている)と言われている。 (Chaumette の後装式銃は、その後の歴史を知る者の目で見れば明らかな、工作精度の 不良などがあり、注目は集めたものの普及はしなかった) ファーガソン・ライフルは採用に先立つ試験では、好成績を納めた。 (1分間に4〜5発を発射、200yds先を狙って4発/1分、1分で6発を撃つ事も可) しかし、戦場では不具合が続出した。 その結果と言えるのか、オリジナルのファーガソン・ライフルは、その運命を語るが如く、 ただの1挺の現存も確認されていない。 ファーガソン・ライフルの構造は、[水道の蛇口を想像してほしい。 とってを下にした形で、水の通り道が銃口で、とってはトリガー・ガード(用心金)] 用心金を回転させると、銃の上部から銃身内にアクセス出来る円柱状の空間が生じ、 そこに、火薬と弾丸をセットする。再び、蛇口を閉める様に、尾栓を閉鎖する。 火皿に火薬を入れて、火打ち石をくわえた烏口ハンマーを起こして発射する。 猟銃としてはある程度の〔おそらくは、貴族等、好事家のおもちゃとして〕 成功を見たらしく、同時代製のクローンがいくつも残っている。 私が想像するに、ペアガンとして二梃揃えて、執事や森番が主人の脇に控えて装填するような、 状況ならば、何の問題もないと思える。だが、軍用としては複雑すぎたのではないだろうか。
それって電車のターンテーブル見たいな構造って事?
>204 ファーガソン・ライフルの構造 尾栓の閉鎖は、ただの大きなネジが上下して、閉鎖していると考えてください。 ネジのピッチはかなり大きめです。 それでも、装填可能位置まで下げるのには、10回転くらいは必要だった様子ですね。
その後のライフル銃の軍事使用(イギリスの場合) イギリス陸軍が、有名なライフル連隊(第95連隊)を発足させたのは1802年のことだが、 それ以前の1798年から、イギリス陸軍ではJager rifle ( 猟師の〜)と総称される ドイツ・ベネルクス各国で生産された猟銃を5千挺ほど輸入して、テストしていたが、 余りにも劣悪な製品だった(5千挺すべてがドイツからの輸入。具体的に どのような不具合があったのかは私は判らない。もしかすると「政治的な不具合」 だったのかも知れないが、詳細は不明。)ため、 本国軍の採用とはせずに、主に植民地へ赴任する軍にあてた。 (第5軍団60連隊が選ばれた。ドイツ、スイス人中心の外人部隊。5/60Reg.〔意趣返しか?〕) その後、1800年に Ezekiel Bakerが生産開始した ベーカーライフル(Rifled Musket) が第95連隊の装備となり、 その後は上級射手(Sharpshooters) の装備として歩兵部隊のなかに浸透していった。
207 :
世界@名無史さん :02/06/13 23:58
ところで火縄銃というのはどこで発明されたのですか。
火縄銃の誕生。もしくはその起源。 フランシスコ・ベーコンが、1242年に著した本で、 火薬について詳細な記述をしていますが、 それ以前から兵器として使用されていたのは確実らしいです。 1320年頃には、戦記の中の記述として、火器が登場しています。 素晴らしい質問ですが、これに答えられるだけの知識は私にはありません。 日本語と英語が精々で、他の重要な言語の著作を読めないので。 また、イギリス軍で火器の歴史的な研究が始まったのが、1880年であると、 Ian V Hogg の著作にありました。 火器研究は文献が乏しいと、バート S ホールの「火器の誕生とヨーロッパの戦争」 にも記述されていますが、(この本は、お勧めです)これを裏返せば、 まだまだ研究の余地が残っているという事ではないでしょうか。 確実に、火縄銃の誕生が、何時どこでだと断言出来るまでには、 これからの、さらなる研究が必要なのではないかと思われます。
209 :
世界@名無史さん :02/06/14 21:19
モンゴル帝国が東欧を攻めたとき、初期の火器を使用したらしいです。おそらくタッチホール式のハンドカノンのようなものだと思います。肩射ち式の火器は15世紀半ばにはあったそうです。火縄銃がどこで発明されたかはわかりません。
210 :
世界@名無史さん :02/06/14 23:05
>>207 13世紀よりも前だとしたら調査不能です。確認されている最も古い鉄砲らしき
物は13世紀に廃城になったタンネンベルク城で発見されたタッチホール式です。
但し現物が1945年のソ連軍侵攻時に行方不明になり、年代測定その他が行え
ない状態です。
211 :
世界@名無史さん :02/06/15 09:50
蒙古が使用した火器は銃砲のたぐいではなく 火槍や鉄炮のたぐいじゃないのか? 蒙古の征服の時代にはまだ銃砲は発明されてないはず。 火槍というのは槍のような長い筒に火薬を詰めてあって、 先端から火を噴きながら突撃する武器。 突撃型の火炎放射器とでも思えばいい 鉄炮というのは火薬玉の爆弾を投石器で投げるもの 火薬の爆発力で弾丸を発射する銃砲タイプの火器が発明されたのは 蒙古の征服時よりもっと後の時代だったはず。
212 :
世界@名無史さん :02/06/15 22:47
初期のタンネンベルグ銃からいわゆる火縄銃に発展したのはいつごろ でしょうか? 発展としては銃床が先で機関部が後ということだと思うのですが。
213 :
世界@名無史さん :02/06/15 23:29
>>212 手元の文献によるとテンネンベルク銃が1399年より前の銃(年代測定されずに
紛失)だそうです。火縄銃は15世紀中頃との話しです。
証拠としては弱いが、 1411年に描かれたマッチロックの(serpentineが描写されている)絵が、存在している。 未だ銃床が無くて、銃身とストックが一直線状になっている。 オーストリア国立図書館所蔵との事。 1468年のマケドニア軍が、ほぼ同様の仕様の鉄砲を使用している絵も、存在する。 また、現物となると、UK王立工廠に、ポーランドの川の中から引き上げられたもので、 14世紀の作とされる物の所蔵品がある。 これも、上記の絵と同様の古い形の物。
215 :
世界@名無史さん :02/06/16 00:58
ビザンツ帝国は火器を使用したのですか?
216 :
世界@名無史さん :02/06/16 05:59
217 :
プラトーン :02/06/16 06:17
ビザンツのはレンズの発火装置
218 :
世界@名無史さん :02/06/16 07:20
昨日(6.15)京都嵐山美術館のなれの(・_・?)ハテ? 南紀白浜「ゼロパーク」の惨憺たる現状を見てきました。 日本人の軍事アレルギーには病的なものを感じる。 小泉君、中谷君何とかしてくれーーー!!!!!!!
219 :
世界@名無史さん :02/06/16 22:41
>214 そのあたりが紹介された書籍はございませんか? フス戦争に興味があるのですが、この人たちと火砲の 発展に興味があるもので。
>219 残念ながら私の興味の中心は、ナポレオニック以降なので、 フス戦争の頃を詳しく著述したものは紹介できそうにありません。 チェコ語やドイツ語の本は私は読むべくもありませんし、前記の情報は、 全般的な銃の歴史の本から得たものです。最近読んで面白かったのは、 POWDER AND BALL SMALL ARMS 著 Martin Pegler The Crowood Press(UK) ですね。 あとは、雑誌で、「The GUN REPORT (USA)」(URL等は検索掛けると出てきます) などはいかがでしょうか。20世紀以前の鉄砲・火砲が中心の月刊誌です。 (サイトが建設中のため、メールを送る必要があるので面倒ですが) 長篠合戦の世界史 著ジェフリー・パーカー 同文舘 などは多少の参考になると思いますが。(この本は参考文献が豊富です) まだお持ちでなかったらどうぞ。
221 :
世界@名無史さん :02/06/22 01:45
>220 感謝いたします。 トランシルバニア方面を旅行した際、銃床はあるが機関部のない銃 がいくつもシギショアラの博物館に置かれていたので、機関部の発 明の方があとかと思っていました。 あと、フス派の出した脅迫状に火縄銃らしきものが描かれています。 本に出ている絵が小さいので機関部が存在するのかどうかわからない ですが・・・。 このへんの体系だった資料がほしいところですね。
223 :
中華@名無史さん :02/06/23 11:34
記録上での世界最初の”銃”と言うのは何年頃の何処の国なんですか? ↑の方読んでも、中国と言う話は出て居ますが確定では無いみたいですし・・・
224 :
世界@名無史さん :02/06/23 12:39
銃の定義で違ってくるんじゃないの?黒色火薬を発明したのは中国なん だろうけど…
鉄砲を定義。↓こんなのはどうでしょう。 質量のある物質(固体)を、意図的に任意の方向に、火薬の燃焼エネルギーを用いて発射できるもの。 とでも言うべきですか? 古い形態の銃という事では、>212-213 で言及されている「タンネンベルグ銃」ですが、 これと同時代のほぼ同形態の銃の現物が、発掘されて存在しているらしいです。 「洪武五年(1372年)在銘 手銃」というのがそれです。 また、同形態とは言え、双方に関連があるのかは否定的な様子です。材質は青銅製です。 出典は、(>220には、入手困難な書籍のため、書きませんでしたが) 「火縄銃」著・所 荘吉 出・雄山閣 に記述があります。
アホな質問なんですが、銃でも大砲でも丸い玉を込めて低い場所にいる目標に 向って構えた時、玉が転がり落ちないんでしょうか? 教えて下さい。
これには二通りの答えがあります。 鉄砲の場合は、必ずパッチ(主に布製のきれ)を弾丸にかぶせるようにして 装填するので転がり落ちる事はありません。 もしも、転がり落ちたとしたら、それは射手が下手くそだということです。 大砲の場合、仰角が0度以下の射撃は、通常ほとんど行わないと言う事情があります。(0距離射撃とか、0-0射撃と呼ばれています) これも、しっかりと火薬と密着させるために、かなりきつく押し込んでいるので、大丈夫だと思います。 心配なら、何か押さえになるようなものを(布とか)一緒に装填すれば大丈夫。 砲弾はそんなものを気にすることなく飛んでいきます。 たしかに、砲丸はより分けて使っていましたし、石の砲丸も、かなり後になるまで 使用されていたので、転がり落ちる可能性は否定できないですが。 でも、そんな失態を演じたら、当時の軍隊では身の置き場がなくなります。
>227 御教示ありがとうございます。
229 :
中華@名無史さん :02/06/24 02:40
>Bベス ◆LbIz8Oa2さん 丁寧なレス有難う御座いました。
>225 の補足と言うか、お願い。 「洪武五年在銘 手銃」は、現在→「藩陽博物館」に所蔵されている模様。 発掘したのは、黒田博士(Dr.)という日本人のようですが、 発掘時期がいつなのか、実は明確な記述が、上記同書には無く、 同じ著者の「図解古銃事典」(入手困難)には、 昭和12年に、かつての「元」の都城の地である、熱河省で発掘されたとの記述がありますが、 記述に曖昧なところがあって、何か消化不良ぎみです。 どなたか、詳しい事をご存じの方、ご教授下さい。
231 :
世界@名無史さん :02/06/27 04:23
age
232 :
世界@名無史さん :02/06/27 17:08
>>226 先込め式銃は棒で火薬と弾を突き固めるから下に転がり落ちない。
だがこの前テレビ番組で出てきた古式銃では 鉛弾がマズルからぽろっとこぼれ落ちてきてしまった罠 古式銃って弾と銃身径をあんまりタイトにしないんでつか? 速射性のことがあるから当然か
235 :
世界@名無史さん :02/06/28 20:45
AGE
236 :
世界@名無史さん :02/06/28 22:46
硬くて太いビッグ・マグナム
ナポレオン戦争時代を通して、燧発式マスケット銃が主役を務めていたのだが、 先込め銃から元込め銃へと発展する下地は、この時代に始まっていた。 1805年、スコットランド人のアマチュア科学者、Alexander John Forsythが、 雷管の原型を(Scent bottle percussion) 発明している。 これは、香水瓶型の装置をフリントロック銃に組み込んだもので、 火打ち石発火の不確実性の解消と推進火薬に着火するまでの時間の短縮をはかる、 二重のメリットがあった。 (ガス・シールを加えれば三重。射手の顔を襲う火薬の燃え残りの解消で、四重か) 軍用銃としてのテストも受けたが、構造が複雑な事が災いして良い評価は得られなかった。 しかし、猟銃としては、大変な成功をみたようだ。 鉄砲を撃っても顔が、すすけないのは、大変なメリットだったのだろうか?
238 :
世界@名無史さん :02/06/29 01:44
パーカッションロックに使われてる点火薬ってたしか 江戸時代に存在した強く握れば発射するっていう短銃にも利用されてなかったっけ? 確か19世紀より前だったような気がしたんだけど
239 :
世界@名無史さん :02/06/29 11:22
>>237 >メリット
顔がすすける → 硝煙が吹き付ける → 燃え残りのガスが出る
→ 燃えている火薬の粉が吹き出ている → 顔にかかる
→ 顔にやけど跡が残る → 奥様鬱になる
ってとこじゃないの?
>239 最後の、「→ 奥様鬱になる」を、→多数の愛人からクレーム、 または、→奥様、それを理由に旦那との閨を断り、若いツバメとXXXざんまい。 とすると、より時代があらわされる気がします。(藁 >238 「芥砲」と言われる銃だと思います。 図解古銃事典によると、大正・昭和期の偽作との見方が有力だと言う事です。 明治五年の「壬申刻印(銃器の登録の打刻)」が、 なされている銃が、芥砲には存在していない事が、理由のひとつだとしています。
241 :
世界@名無史さん :02/07/02 22:51
日本の戦国時代に鋳造砲は作られなかったんでしょうかね? 寺の梵鐘を鋳造で作っているので技術的には可能と思われますが。
>>241 作っていたはずです。
山の民雑賀衆が傭兵として知られていたはず。
彼らの里では銃を作り、それを担いでどこの大名にも金で雇われた・・・・とものの本で読んだことがある。
243 :
世界@名無史さん :02/07/03 00:00
鋳造砲は鋳込みでできても、銃は錬鉄か鍛造でなければ無理では?
戦国時代に鍛造砲を作ったという話はよく聞きますが、鋳造砲を作ったという話は聞かないんですが。
>241 石火矢・大筒などの「大砲」と分類した方が良いものは鋳造です。 特殊な例外を除いて、そう言い切っても大丈夫だと思います。 材質として、青銅・鉄・真鍮などがありました。 >243 鉄砲は、基本的に鍛造です。日本刀を鍛えるのに比べれば簡単だとも。 工程としては、後に銃腔(bore)となる空間に見合う「鍛えた鉄の棒」の周りに、 鉄の板を重ねて鍛えていきます。 最初に、口径の円周 X 銃身長の長方形の物を、棒に沿うように叩いてチューブを作る。 次に、それにリボンを巻くような感じに、幅の狭い鉄の板を巻き付けながら鍛えてゆく。 更に、巻き付ける方向を(最初右巻きならば左巻き)変えて鍛える。 こんな感じです。
現在の雷管(Percussion cap)の原型は、 1814年にイングランド人の Joshua Shawによって発明されたとされる。 ショウは、1817年にアメリカへ移民し、特許は1822年に取得している。 この、雷管を使う発火方式については、 彼の特許取得前後には、早くも広く知られるものとなっており、 1825年ごろから、本格的な普及がはじまったといわれる。 軍用としては、軍人の保守性もあったのか、採用までは時間が掛かっている。 1838年、P38 (Pattern 1838の略称) パーカッション銃がイギリスの近衛連隊に採用された。 しかし、その翌年から、それまでの制式フリントロック銃を改造した型のP39に切り換えられる。 理由はP38の生産コスト高による。 これはまた、旧式化した大量のフリントロック銃の再利用法に先鞭を付けたと言える。 この後、軍用銃もパーカッションの時代に入っていく。
>246 訂正。 >これはまた、旧式化した大量のフリントロック銃の再利用法に ↓ 大量の「軍用」フリントロック銃の・・・ 民生用として、個人の責任においての改造は、とっくに行われていたはずなので。
軍板、初心者歓迎 スレを立てる前に此処で質問を33よりのコピー。
989 :名無し三等兵 :02/07/07 14:48
>>916 (
>>924-925 )
誰も答えていないし、次スレにも引き継がれていないので、ここで回答しときますね。
おそらく
>>925 氏の言うように、マッチロックとフリントロックの違いについて、聞きたかったのでしょう。
火縄銃=マスケットとしている文献を、自分も見たことがあります。
マスケット銃の進化の過程としては、主に発火方式によって分類し、
1、マッチ・ロック(火縄銃)
2、ホイール・ロック
3、スナップハーン・ロック
4、フリント・ロック
5、パーカッション(雷管銃)
となります。2〜4はすべて火打石式で、発火メカニズムが進化(簡略化)しています。
つまりフリント・ロックは火打石式の最終形態となります。
火縄から火打石への移行により、何より「火種の確保」が不用になりました。これは大変な進化です。
また、火種の火や煙により敵に発見される恐れも無くなりました。
発射速度も向上しましたし、逆に暴発や不発は激減しました。
ヨーロッパでは火縄銃の時代の間は、銃は広まりつつはあったものの、
上記の問題のため、必ずしも主力装備とは言えませんでした。
それが火打石式になったことにより、爆発的な広まりを見せることとなったわけです。
ただ火縄銃に関しましても、最末期のものには雨中でも発射可能なものや、
数十秒のインターバルで発射可能なものもあったとの記録もありますが、真偽の程は定かではありません。
って、もう誰も見てないか。サミスィ。
249 :
世界@名無史さん :02/07/09 23:02
見てますよ、Bべスさん! とても勉強になってますし、感謝してます。
いえ、248は、全文コピーさせてもらったので、最後の部分も989氏のコメントです。
新スレ移行後の千ゲット中でしたので。
>>230 の「洪武五年在銘 手銃」に関して、どなたかご存じないですか?
雷管方式の鉄砲が普及していく時代を背景に、一人の超大物が登場する。 サミュエル・コルト Samuel Colt である。(コネチカット州ハートフォード 1814生〜1862没) 彼は、1835年に先ず「イギリス」と「フランス」で、 雷管式リボルバー(revolver : 輪胴式。回転式弾倉の拳銃)の特許を取得し、 翌36年にアメリカでも取得した。 リボルバーの特徴である蓮根似のシリンダー自体は、フリントロック時代から先例が存在した。 彼のアイディアの画期的なところは、 『撃鉄を引き起こすのと同時にシリンダーが自動的に回転させられる』という事だった。 (特許取得に先立って、1832年頃から、アメリカの鉄砲鍛冶と共同で試作を繰り返していた) 実際にパターソン Patersonモデルが売り出されたのは1837年になるが、商売的には大失敗に終わる。 口径違いの物や、ポケットモデル、カービン銃も生産したが、その生産数は、 コレクターを歓喜させる程少なく、一種で千丁を上回るものは無い。 そのため、1842年に彼の最初の会社 The Patent Armsは倒産する。
252 :
世界@名無史さん :02/07/12 12:36
>>248 正確にはフリントロックとパーカッションの間にピルロックがあります。
但し、直ぐに(1年そこそこ)銅キャップの雷管が発明され、速攻で消えた。
253 :
世界@名無史さん :02/07/12 12:40
>>251 その後、コルトはニューヨークに出て一人の男と出会うんだな…
その名はサミュエル・モールス(モールス電信機の発明者)と言う…
サミュエル・コルトを救ったのは、 1846年、パターソンの改良型を求める、テキサス共和国のTexas Rangerからの注文だった。 商業的には失敗したパターソン・モデルだが、Texas Rangerの評価は高かった。 そして、大量の新型拳銃、1000丁の注文がなされた。 この際に、コルトは、実際の使用者である、テキサスの英雄・ウォーカー大尉と パターソンの改良について、直接会って話し合いを持っている。 後に、Walkerモデルと呼ばれる拳銃が完成したのは1847年。皮肉な事に、 ウォーカー大尉は、この新型の拳銃を受領したのち、わずか数日後に戦死してしまう。 この年、コルトは生まれ故郷のConnecticut Hartfordに工場を設立し、 新たに「Colt Patent Arms」として再出発した。 1848年、ウォーカーモデルを改良した Dragoonモデルの生産が始まった。 細部の設計変更と、銃身を9in.から 7 in.に短縮して、 2070g(4lbs.9oz) から1676g(4lbs.2oz) へと軽量化をはかったものだ。 このドラグーンモデルから、コルトの拳銃は、 職人の『工芸品』から脱皮して、部品に互換性のある『工業製品』になった。 (もちろん、現代のような完全な互換性ではないが) >253 ↑上記の工場では、若き日の、プラット&ホイットニーの創始者の二人が働いていました。
255 :
世界@名無史さん :02/07/15 10:57
同じ頃、フランスで画期的な発明が起きた。1846年フランス陸軍のミニエー大尉 が椎の実弾の底に木栓を取り付けマスケット銃に弾を装填するというアイデアを考え 出した。この方法によりライフリングによって装填しづらかったり、品質のばらつき で安定しなかった椎の実弾が、確実にライフリングに食い込み且つ装填し易くなった のである。
>255の関連。 弾丸の直径の話。 銃口の直径の測り方には、2種類の計測形式がある。 ボア・ダイアメーター = 山径 Bore Diameter グルーヴ・ダイアメーター = 谷径 Groove Diameter G.D.> B.D. 基本的に、薬莢を使用する(メタリックカートリッジ)方式が確立された後は、 発射される弾丸の直径で銃身のグルーヴは作られている。 これは、推進薬の急速燃焼(爆発とは区別するための表現)によってつくり出される 高圧ガスを有効利用するための当然の帰結と言える。 内燃機関におけるシリンダーとピストン(ピストン・リング)の関係に置き換えると理解しやすい。 弾丸自体をガスシールに利用する、この工夫は、 1852年にフランスの( Claude Etienne Minie )ミニエー大尉が発明した『ミニエー弾』 が最初にガス圧の有効利用を可能にしたことが、先鞭を付けたと考えられる。 それ以前は、球形の弾丸を包んだフェルトや革などのパッチが、ガスシールの役目を負わされていた。 先込め銃は、銃口から弾丸を装填するため、 弾丸は、銃身を装填時と発射時の二度、通過する事になるのだが、 前者と後者では二律背反となる要求が、軍隊では長年に渡って生じていた。 1) 敵よりも多く発砲したいので、出来るだけ短時間でスムーズな装填を可能とするためにも、 パッチと弾丸の直径は可能なかぎり山径と同等にしたい。 2) 狙った場所に的中させたいので、ライフリングに食いつきの良い、 谷径と同じくらいの弾丸が望ましい。
↑続き。↓ 1) と 2) の両方を同時に満足させるためには、 まず、装填する時は山径ほどで、 発射時には谷径くらいへと弾丸の直径を変化させる事が求められるのだが、 ミニエーが発明した方法は、発射火薬の圧力を利用して、弾丸を「変形」させ、 ライフリングに弾丸を密着させる事で、これらを両立させる事に成功した。 円柱の上に円錐を乗せた「シイの実」形の弾丸を作り、 その底面に円錐状の窪みを付けた。 基本的にはこれだけで、速度と精度が向上し、射程も伸び、 非熟練兵でも発砲サイクルが短くできる弾丸が誕生した。 誕生当初のオリジナルのミニエー弾は、 底面の円錐状の窪みに鉄の小さなカップが挿入されている物だった。 しかし、ミニエー大尉が、なんと、意図的に『特許を取得せず』に発明を公開したため、 各地で、窪みに陶器や木片等で蓋をするなどの工夫が各々なされ、様々なミニエー弾が作られていった。 しかし、これらの工夫は命中精度を良い方向に導かない事が後年判明する。 何も加えずに只の窪みにしておく方が、 命中精度を向上させる事に於いては一番良い結果が得られるというのは実に皮肉な結果である。
258 :
世界@名無史さん :02/07/16 00:52
プラット&ホイットニーとはかのエンジンメーカですか? 銃器の製造とエンジンの製作はボーリングを行うという点で共通項が あるのでしょうか・・・。 バイクメーカーのBSAなどももとは銃器専業でしたし・・。
>258 そうです。ジェットエンジン等を作ってる会社です。
260 :
世界@名無史さん :02/07/16 01:15
このスレおもろい。
261 :
世界@名無史さん :02/07/16 07:21
feuer!
>254 の続き↓。再びコルト。 サミュエル・コルトの新会社は、民生用の需要にも恵まれて発展していったが、 それ以上に重要だったのは、1849年に迫った特許の失効を、 専門の弁護士の力を借りて1857年まで、大幅に延長することに成功した事だろう。 『これまでの利益が充分ではなかった』という、無理のある主張が認められたのだ。 1850年には、M1849 Pocket(.31口径 765g) M1851 NAVY(.36口径 1067g) が売り出される。 (数字は『型番』なので発売の年と一致していないが、当時は珍しくなかった。 その上NAVYモデルは海軍との関係もない。シリンダーに海戦の模様が線画で施されているだけ) ゴールド・ラッシュに助けられて売上をのばし、 有力者との結びつきや政治力を重視することによって、会社は大きくなり、 1857年に新工場(現在の場所)を完成させ、日産 250丁の生産体制が整った。 (250馬力の蒸気機関を動力源にして、400 余りの工作機械を稼動させた) M1849 Pocketは32.5万丁、M1851 NAVYは21.5万丁が、1850〜1873年の間に生産された。
263 :
世界@名無史さん :02/07/17 00:54
1855年、ローリン・ホワイトという男がコルトを訪ねてきた。 彼は自ら編み出し特許を取得した後装填型金属薬莢弾奏をコルトの 製品に使ってもらおうと思ったのだ…だが、サミュエル・コルトは けんもほろろに追い返してしまった。失意のホワイトは自慢の特許を S&W社に売却してしまう。S&W社はこのシステムと1857年に パブリック・ドメイン化したリボルバーシステムを使用した新型拳 銃を発売した。1858年にはレミントンが新型のパーカッション リボルバーを発売する。
264 :
世界@名無史さん :02/07/17 00:56
スマソ…弾倉ね…鬱だ
>262 の続き↓。もう少しコルト関連。 この頃が、コルトの第一次絶頂期と言えると思う。 コルト社は、大英帝国に進出し、ロンドン工場を1853〜57年の間稼動させていた。 M1849を 1.1万丁、M1851 を 4.2万丁(23500丁の政府納入も含む)の生産していたが、 アメリカの新工場の建設と時を合わせるように、廃止された。 背景として、新たな発明が存在する。 1851年、ロンドンで開催された、第一回万国博覧会。 イギリス人のRobert Adamsが、ソリッドフレームのダブルアクション拳銃を発表した。 (この場合の、ダブルアクションと言うのは、引き金を引くだけで、シリンダーが自動的に回転し、 撃鉄が起き上がり、雷管を叩いて弾丸を発射する機構を指す。対して、コルト側の機構は シングルアクションと呼ばれる。引き金は、引き起し済の撃鉄を開放する役目しか持たない。) 始めは、コルトのリボルバーをサイドアームズに採用していたイギリス軍だったが、 クリミアやインドでの使用実績等を考慮して、 1855年にアダムス(Adams&Deane社)のリボルバーへと採用を切り換えた。 当時の世界最大の軍隊での採用を逃した事が、コルトがイギリスから撤退した真相のようだ。 制式兵器から外れれば、民間市場に中古の軍放出品として出回るであろうし、 旧植民地のコルトよりも、大英帝国本土のアダムスの製品が売れるであろう事は、想像に難くない。 アダムスの画期的な製品が、すぐに市場の主導権を握る事が出来なかったのは、 トリガーアクションがスムースでは無く、かなりの力と慣れを必要とした事が大きい。 1855年にBeaumont少尉が考案した、新型ダブルアクションの特許を、製品に取り入れて トリガーアクションを改良し、Beaumont&Adamsとして知られる拳銃を生産してから、花開いた。 ↑検索すれば、アメリカあたりのオークションサイト等で銃の画像は見られます。
>263 コルトとホワイトに交渉があったのは知らなかった。 1855年あたりだと、コルトは頭に血が昇ってる最中だったかも。↓263の関連。 順風満帆でコルトが事業を拡大している時、コルトの特許が切れるのを待っている人物達がいた。 Horace SmithとDaniel B Wesson である。 本格的なメタリックカートリッジである Rimfireカートリッジを実用品に仕上げて、 S&W Tipe1 リボルバーと共に売り出したのが、1857年。満を持しての発売だった。 以前、ウエッソンの兄が、コルトと特許をめぐる裁判で敗訴した事もあり、 彼らは周到な準備をしていた。自分たちの拳銃が抵触する可能性のある特許が無いか確認し、 そこで、Rollin Whiteのリボルバーのシリンダーに関する特許を発見した。 彼らはそれを買い取って、発売にそなえた。 1869年に彼ら自身が取得した「鋳鉄によるリボルバー製造」の特許が切れるまで、 彼らが発明した分野の市場を、半ば独占する事になった。 1850年代のヨーロッパでは、Pin Fire方式(蟹目打ち銃)が発明され普及したが、 信頼性と安全性に問題があり、本格的なメタリックカートリッジ時代に入ると姿を消した。
267 :
世界@名無史さん :02/07/18 02:04
1853年、英国で一つの銃が生まれる。エンフィールド型マスケット銃… 日本で言うエンピール銃である。ミニエーの欠点を完全に修正し、ニップル 装着口に埃避けキャップを用意した前装銃最後の傑作である。この銃は採用 と同時にクリミア戦争に使用され、ロシア軍を撃破する。英国では続いて植 民地軍に続々と配備した。これが一つの事件を生む。.577ブリチェット弾の ハトロンに牛脂が使用された。これを知ったメーラットに駐留するインド人 傭兵は激怒し、1856年暴動を起した。俗に言うセポイの叛乱である。
>263さん。V Hogg著Story of the Gunを読み返したら、コルトが拒絶したとの記述がありました。 私は、知らなかったのではなく、うっかり者らしさを発揮していた訳です。 また、ホワイトは、当初はロイヤリティの入る契約をS&Wと結んでいたのですが、 後に、法廷でS&Wにやられてしまった。踏んだり蹴ったりと言う結果に終わったようですね。 訂正。266の、>彼らが発明した分野の市場を、半ば独占(誤) →完全に独占した。(正)
>267 の関連。 私は、Civil War前後と日本の幕末期に使われた銃は、表面的にしか知らないので、 この時代に雨後の筍の如く現れた、ブリーチローダー及びコンバージョン・モデルは、お手上げです。 そんな私は、「エンフィールド」と聞くと、二次大戦でも使用されたリー・エンフィールドを 思い浮かべてしまいます。 この銃の名前は、リー小銃の、エンフィールド・ライフリング型という意味で、 同時期に少数ですが、リー・メトフォード(意味は上記同様)が存在しています。 と、いう事は、「Pattern 1852」がエンフィールドと呼ばれるのも、ライフリングに由来するのかと 疑問を持ったのです。 そこで、V Hogg大先生のEncyclopedia of Firearms 等をひもといてみると、意外な事実が。 Royal Small Arms Factry が、Enfield Lock, Middlesex に竣工したのは、1856年だということ。 紛争が頻発して、小規模生産の寄せ集めでは追いつかなくなった事が、工廠設立の動機だとか。 もともと研究所のようなものは、当地にあったようで、P1852がエンフィールドと呼ばれるのは、 そこからの由来らしい。 また、どうやら、ニックネームっぽいです。 肝心のライフリングは、エンフィールドタイプでは無く、八角形をしたライフリングだとの事でした。
270 :
世界@名無史さん :02/07/20 00:26
続きへ行きましょう…コルト1860とサミュエル・コルト逝去…
あぼーん
Civil War前後の拳銃の事情。 このあと、メタリックカート(金属薬莢式)とパーカッションが混在する過渡期がやって来る。 たとえば、アメリカ陸軍は1860年にM60 ARMY(.44口径・パーカッション) を採用し、 コルトは総計で20.5万挺も生産することになる。 1861年に Civil Warが始まると、 小銃・拳銃ともにメタリックカートリッジへの流れは一層あきらかになっていった。 雨の中でも確実に発砲できる弾丸。 長い間シリンダーに入れっぱなしにしておいても、湿気で不発になる事のない弾丸。 うまく撃つためには火薬の装填にコツが必要だった先込め銃とちがって、装填にコツのいらない弾丸。 すでに勝負はついていた。 戦争が終わる1865年までに、S&W社は、.22 .32 .38 .41 .44 の複数の口径で リムファイアカートを生産販売していた。 また、他社のライセンス生産も認めて、弾丸の普及に努めた。 この時に、今日に見られるような口径の数字の混乱がはじまる。上記の数字は、 必ずしも実寸の口径とは一致しない。 .22 のように小数点を振っているのは、百分の何インチかを表すため。 .32 は、32/100inchを意味するのだが・・・
>↑272の続き↓ カート(金属薬莢)の普及には、既に何十万挺も世に出ている コルトのパーカッション・リボルバーが、一役買っていた。 シリンダーを改造することによって(個人の手には余るが)銃を買い換えずとも、 金属薬莢式の弾丸を使用する事が、可能になるのだ。 .31 口径のM1849 Pocketには .32リムファイア、 .36 口径のM1851 NAVYには .38リムFが、それぞれ適合する。 (以下は、私の推測だが、) なぜ、実寸よりも少し大きな数字を『型番』として弾丸の名前にしたか、真相はわからない。 『巨人コルト』に対抗するためには、イメージ戦略として、大きい数字を使うことを、 それも、あまりにも実態から掛け離れた数字を用いて 「虚勢を張っている」と思われない範囲内として、 実寸 .36口径のものに .38リムファイアの名を与えるなどしたのではないだろうか。
↑推測の続き↓ また、金属薬莢方式の、便利さと新しさが、 旧式化したパーカッション銃よりも強力な弾丸であるという「予断」をもたらすのを、 S&Wは期待していたのではないか。 当時から、発射した弾丸のエネルギーの計算は出来たはずだが、 肝心の弾丸の速度を正確に計る機械は存在しない。 つまり、たくさんのデータが蓄積されてみなければ、経験則的な判断は下せないのだから、 メーカー側の人間か、さもなくば軍隊の試験官のように何千発も撃てる人物以外は、 弾丸の性能の差異を、簡単に知る術がない。 実際のところ、.22 口径より大きいリムファイア弾が、現在は存在しないので (センターファイアーに駆逐された)エネルギー等の数字の比較も困難だが、 パーカッションよりも強力だった可能性はあると思う。 『広告機構』がこの時代にあって、誇大広告を取り締まっていれば、 直径が 100分の38inchはおろか 100分の36inchにも足りない直径の弾丸が、 「.38 Special」などと名乗る事が許される事は無かっただろう。 この、誇大呼称の型番をつけた弾丸が幅を利かせているために、 実際に 100分の38inchの直径を持った弾丸は、一度も市場に出たことがない。
275 :
世界@名無史さん :02/07/25 21:01
南北戦争のお陰で会社を大きくしたサミュエル・コルトはその利益で新型ライフル 1000挺を北軍に寄付した。北軍はその銃を使った『コネチカット・コルト・リ ボルディングライフル連隊』を編成する事を決定し、連隊長をサミュエル・コルト にする形で準備した。だが1862年1月10日、夢叶わずコルトは他界する。
その後、たしかにメタリックカートリッジの時代はやってきたが、 リムファイアのものではなかった。リムファイアは、薬莢の直径が大きくなると、 推進用火薬の理想的な燃焼が困難になっていく構造上の欠陥がある。 また、もしも薬莢の底を下にして、固い床にでも落下させた場合は、 大口径になるにつれて、弾丸自体も重くなるので、重さに比例して暴発の危険が増大する。 これらは、センターファイアの弾丸にはみられない欠点であり、 小口径の.22 口径以外のリムファイアが生き残れなかった理由である。 もっとも、これは歴史を知っている今の人間だから言えることであるが。 1866年に、近衛砲兵出身で王立研究所にも所属していた Edward M Boxer 大佐が、 .577口径の Snider Rifle 用の半金属薬莢実包を、 (現在の散弾薬莢と同じ構成。ただし、鉛の弾丸はボール紙の筒の上から顔を覗かせている) 自身が発明した『ボクサー型雷管』を使用したセンターファイアカートリッジとして完成させた。 (同年八月にイギリス陸軍に制式採用) ほぼ同じ時期に、アメリカでは陸軍を退役した Hiram S Berdan 大佐が、 『ベルダン型雷管』を開発していた。 1868年、大佐が開発したベルダン M-1元込めライフルは弾薬と共に、ロシア陸軍に採用された。 その後、イギリス生まれのボクサー型がアメリカで普及し、 ベルダン型はヨーロッパ(旧日本軍も採用)で普及した。 二次大戦後は、NATO諸国(自衛隊も)ではボクサー型が主流となっている。
>275 その後、コルト社の工場は、放火による火災に遭い、 再建に数年掛かる損害を受けた。 西部を制した銃、が誕生するのは、もう少し先の話。 詳しい方よろしく。
狙撃による戦死という史実で、よく知られているのは、 1805年10月21日のトラファルガー海戦のネルソン司令官の死だが、 これは、意外な程の近距離からの狙撃である。 私の推測する数値としては、15m〜25mの範囲。狙撃手は後檣楼(Mizzen Top)から撃った。 ネルソン提督座乗のヴィクトリー号(104 門艦)が、 フランス艦ルドゥタブル号(74門艦、綴り不明)の左舷に取りつき、 更に英艦テメレイル号(98門艦、綴り不明)が、「ル」号の左舷に取りついた状態の時に、 提督は狙撃された。3隻は船首が同方向で並んでいた模様。
279 :
世界@名無史さん :02/08/20 14:42
>>278 狙撃手の名前はマルソーという事だけ判っている
280 :
世界@名無史さん :02/09/08 07:47
ロケットボールという弾丸についての解説をお願い出来ませんでしょうか?
281 :
Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/09/14 01:19
ジャイロジェット(Gyrojet)のことかな? だとすると、ちょっと世界史って感じでは無いのですが。ご容赦。 007シリーズの、日本を舞台にした「007は二度死ぬ 」にも出ていた銃に使う弾丸だと思う。 もちろん、映画用の小道具ではなく、60年代に米国の加州で開発され、市販されていた。 口径は9mm 12mm 13mm 20mm の4種類あり、銃身以外の銃本体は、アルミ合金で出来ていた。 通常の弾丸は、発射される弾頭部と、薬莢部の二つの部分があるが、これはワンピース。 弾丸の底部に開けられた孔から(2〜4ヶ所)に、推進ジェットを噴出して飛翔する。 およそ、 口径 X 30mm(直径 X 長さ)の大きさで、実用に足る威力もあった。 (初速は、357マグナムとほぼ同じ、1250ft/secもあり、重さも180grainもあるため) また、発射音は、「ほとんど無い」といったレベルにあるらしい。 しかし、弾丸の値段が高すぎる事(1発で通常の拳銃弾50発分の値段)や、 思ったところに当たらない事(藁)から普及はしなかった。 発売当時も今も、一部のマニア向けの高価なおもちゃである事に変わりはない。 ・・・だけど、↑これは、普通はロケットボールとは言わないから、別物?
282 :
世界@名無史さん :02/09/14 03:58
>>280 ボルカニックライフル、ピストルに使われた弾丸を
ロケットボールと言うようですね。
281さん解説のジャイロジェットのご先祖様です。
283 :
世界@名無史さん :02/09/14 04:33
ご説明有り難う御座いました。
HUNT ROCKET BALL も、VOLCANICも、私は存在すら知らなかったです。 という事で、調べてみました。 頼りになる、V Hogg大先生のEncyclopedia of Firearmsを、 莫迦の一つ覚えよろしく繙いてみました。 それによると、HUNTの方は、Lewis Jennings の項目でありました。 銃の方は、Jennings rifle の名称で呼ばれるモノが一般的には有名なようです。 HUNTのデザインを基にして構造の単純化を図ったらしく、ある程度の商業化に成功した様子で、 1849年に発売されています。(パーカッション式です。) VOLCANICは、Tyler Henryの手によるもので、彼はJenningsの工房の一員でした。 その後、S&Wに移り、1854年にパテントを取っています。 さらにそのあと、独立して商売を始めるも、鉄砲が売れず、1858年に破産。 双方共に、大きく評価されているのは、弾丸ではなく、レバーアクション式の装弾方式で、 西部を制したライフル銃、ウインチェスターの「元ネタ」となった所のようです。 弾丸の方は、ロケットというよりは、ケースレスアモ(無薬莢弾)というべき構造のようです。 火薬(装薬)は、継続した推進ではなく、 通常の弾丸と全く同じ方式の、瞬間的な爆発燃焼による推進力を得るために使われています。 (ちなみに、Gyrojetは燃焼ガスを銃口から14m余りまで、噴進しながら飛翔します) 画像は、>283氏が紹介されている所にあります。 Jenningsの設計意図は、パーカッション式に於いて装薬の手間を省くために、 弾丸(椎の実型)の底部にあらかじめ火薬を詰めておく、という点にありました。 VOLCANICの方は、それよりも一歩進んで、雷管も底部に納めた構造としたようです。
287 :
Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/09/16 15:25
私も、知ったばかりなので、解説する任にないんですが、 パーカッションキャップは、弾丸の中に装薬された火薬に点火するという、 普通の役目を果たしているだけで、 火道が長いのも、フリントロックやパーカッションの発想から逃れられていないように思える。 ですが、驚きますね、 ハンマーを手動で激発位置に引き起こすと、その力を利用して、 パーカッションキャップを自動的に装填する構造になっているようです。 これだけ複雑な構造のものを製造できたのに、 完成する以前に、時代後れになっているなんて。技術革新の真っ最中の時代の悲劇ですか。 また、Jennings rifleは、V Hoggの本では20連発のチューブマガジンと言う事でした。 ご紹介のHPでは24発となっていましたが。どちらが正しいのかは、判りません。
288 :
世界@名無史さん :02/09/17 17:14
銃について素人なんですが、 質問いいですか? 世界最古の銃っていつ何処の国が造ったのか教えてもらえませんか? いきなりでスイマセン。
289 :
世界@名無史さん :02/09/17 17:23
>>288 中世に、中国とヨーロッパでほぼ同時に発明されたというのは聞いたことがある。
銃と言っても、当時はロケット花火みたいな感じだったんだと。
290 :
世界@名無史さん :02/09/17 17:35
>>289 中世ですね。φ(。。)メモメモ わかりました。どうもありがとうございました。
291 :
世界@名無史さん :02/09/17 18:01
中世って、またアバウトな(笑 1259年に中国の記録突火槍て竹筒火器が出てくるけど これを銃といっていいものかは微妙かも。 元のころになると金属製のものが出現してるらしいが、これも 銃なのか砲なのか…。 同じ頃木製のマドファてのがアラビアでもあるがこれも微妙? ハンドキャノンを銃とするか砲の小型砲とするかは難しいけど いかにも銃と呼べそうなものとしては15世紀初頭のヨーロッパの アークゥイバスArquebusからと私は思います。
292 :
世界@名無史さん :02/09/17 20:40
>>288 最古の銃で確認されたのは1399年より以前に作られた(城が1399年に
壊れて以来放置され、その城から発見された)タンネンベルク銃です。それ以
前は現物確認されておりません。前レスを見てください。
293 :
世界@名無史さん :02/09/28 22:59
X
294 :
世界@名無史さん :02/10/02 01:55
295 :
Bベス ◆LbIz8Oa2 :02/10/03 00:41
「史上もっとも重武装だった強盗」と言うのを、どなたかご存じないでしょうか。 かなり昔、ギネスブックか何かで読んだと記憶しているのですが。 30丁超の拳銃(多分、パーカッションの時代)を身につけた小男が、銀行へ強盗に。 ただし、銃が重すぎて、身動き取れずに御用。という様な、冗談じみた話。 最近、気になってるんですが、ネタ元の本が判らないんです。 一丁が1.5kgとしても、45kg。余りにも馬鹿馬鹿しいので覚えてたんですけど。
296 :
世界@名無史さん :02/10/08 08:35
>238 近年、兵書の再検討や天保10年久米通賢製作の箱書きが残る「極密銃」が実際に発見されたことなどにより、「芥砲」が江戸期にも確かに存在していたことが明らかになっておるようです。 それからちょっと質問であります。日本の場合17世紀初頭には、大鉄砲の一種にえらく神経質な照尺を用いて長距離射撃が行われていたことが知られていますが、 同時期、若しくは先行する時代の西洋においての大型マスケット銃等は、どのような標準器が用いられていたのでしょうか?当然のことながら一般的に砲や施条銃に比べて、滑腔銃の標準器は未発達なものであったとは聞きますが
>296 天保10年、1839年ですか。時代的な可能性は否定できないですね。 現代でも、実用性ゼロのマニア向け銃が生産されていますから、 当時の技術者(職人)の余技として作られたのかもしれませんね。 私は素人なので、その論文を読んでいませんが、とりあえず否定的な見方の方も書いておくと、 「芥砲」が、パーカッション式の雷管、もしくは香水壜式発火装置を備えた物だとすると、 発射準備を完了した状態は、非常に不安定で危険な状態であると思えます。 たとえるなら、「常に撃鉄を起こした状態」でしょうか。(安全装置はありません) 少なくとも持ち歩くのは、ほぼ不可能だと思います。 また、形状からすると、ストライカー式の撃発装置のようですが、この方式の元祖は、 ドライゼで、発明されたのが1841年、プロイセン軍の制式兵器になったのが、1848年です。 「芥砲」の一部を削って(微量)金属分析に掛ければ一発で判ると思いますが、 (たたら製鉄と、高炉では、同じ鋼でも、全く別物ですから)化学分析はなされたのでしょうか? 芥砲偽作の年代だと疑いの濃い大正・昭和初期は、たたら製鉄が最大の危機を迎えた時代で、 仮に、「お大尽のマニア向けの偽作」を作るとしたら、高価な玉鋼を使用するとは思えない。 安価な、近代製鉄の鋼を使用していると思えます。
298 :
世界@名無史さん :02/10/18 01:53
平凡社技術史クラシックスの 「大砲と帆船」カルロ・チポラと 「火器の誕生とヨーロッパの戦争」バート・ホール読んだ人いる? 特に後者は「銃や大砲がヨーロッパに現れてから騎士が線上から駆逐されるまでなぜ数百年かかったのか」 という問題について論じていて面白いよ。 面白かったところ: ◎中世の軍隊は敵を射撃で攪乱するという弓兵(あるいは石弓兵)と突撃で敵を蹴散らす騎士を組み合わせた戦術が既にあり、銃はその戦術に組み入れられたに過ぎない。 ◎20世紀の射撃試験によると16−18世紀の銃で一般的な甲冑は撃ち抜けなかった。すなわち高級な鎧を使える貴族や騎士身分のほうが線上では有利だっただろう。 ◎銃が普及した理由は弓兵(ヨーマンのお家芸)や石弓兵(イタリア傭兵のお家芸)のように、その土地に根付いた技芸ではなく、誰でも扱える簡単な道具だったから。(性能では劣る) ◎銃の性能の向上は黒色火薬の粒化による。しかしこれはよりよく爆発するためではなく、保存を良くするための改良であった(性能向上は副産物)。 ◎銃は防衛用兵器だった。クレシーの戦いでの弓兵のように、銃兵の前には塹壕や防御工作物を設置しなくては、騎士に簡単に蹴散らされた。 ◎銃兵は当初槍兵を守るために導入された。しかしパヴィアの戦い(1525年)スペイン軍は逆に騎士の突進をくい止める障害物として槍兵を運用。銃兵が主、槍兵が縦の体制が生まれた。 ◎槍と銃の組み合わせで騎士の活躍が封じられると騎士が廃れ始めた(フランス軍はずっと騎士を主兵としていたが、さすがに廃止しはじめた) ◎それに加えて、騎乗で使えるピストルが16世紀に発明されて、騎士は決定的に廃れた。ピストル騎兵は騎士と同じ機動力を持つ上に、敵の馬を撃って致命傷を与える戦術を好んだから。
「標準の哲学」という本を読んだ。 共通規格の誕生と銃の歴史には深いつながりがあるのね。 感動したなり。