>951
朝鮮兵は問題でなかった。
まともにぶつかりえたのは明の軍隊だった。
>950
ヘキテイカンは雨の日に戦闘をして鉄砲の使用は不自由のはずだったが、
白刃の威力で明軍を圧倒。
以後、明軍は戦意を喪失。
954 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/19 01:13
殺伐とした環境で育ったやつと平和ボケしたやつのどっちが強いかなんて考えるまでも無い。
日本人とアフガン人、強いのはどっち?
955 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/19 17:26
>953
違うよー。雨の後の泥濘で騎兵が立ち往生して大砲の運用にも苦労
したのが明軍。日本は鉄砲を終始有効に使ってる。
数は日本が2倍くらい多くて、さらに途中から後詰の宇喜多勢なども参加している。
動きのとれない明の遼東兵を一方的に銃撃と白兵戦で倒したんだな。
この戦いは日本刀がなければ勝利できないほど、日本刀の切れ味が
有効に作用した典型的な例。
取っ組み合いでは遼東兵が圧倒的に上だということを、
宇喜多家で一番巨体・怪力だという士が手記に残している。
956 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 00:22
島津製作所
957 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 00:38
まあ、当時の日本人(平均身長百五十後半)と
中国・朝鮮の兵とは体格が違いすぎんたんだよ。
958 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 00:40
>>957 やっぱり栄養状態が悪かったのかな?
競馬でも日本育ちの馬は成長が遅く骨が脆いらしい
原因は土壌にミネラル成分が少ないらしい・・・
959 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 00:45
>>958 一応、日本史板での結論は
武将はもう少し背が高いのだが、
民衆レベルで背が低かったのではないかという推測。
民衆の特に幼少の頃の栄養不足と
米が万能の食品といった誤解があったんだよね。
離乳した子供にお粥ばかり与えたり(それでもマシな方の部類)
960 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 00:49
それと、生物板の「日本の生物は何故、全体的に小さいのか」
というスレも参考になるかも・・・
961 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 00:58
強さの質が違うからな。
鉄甲でも切り裂く世界一の野太刀と、それを考慮した甲冑というハード。
隠れるのがうまく、素早い動作と身のこなしが身体的長所。
満州兵なんぞは、ハードは劣悪だが
「氷点下の雷雨の中で裸で睡眠がとれて、小麦粉を水に溶いた食料で
数週間生きていられる」とい野人のような生態が記録されてる。
遼東の兵は彼らと戦うための強兵なのだが、それでも
「凶漢な蒙古兵を避け、比較的組みし易い満州兵を追撃
するのが日課だった。」だって。
大名は上杉景勝・伊達正宗・秀吉・家康とみな150前後と低いな。
ただ侍大将クラスは、後藤又兵衛は最後に家人が巨体のため運ぶのに苦労した
ほどだし、関が原の島津の初太刀役を受け持った2人も家中で有名な巨漢だった。
963 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 02:19
興味深い話ですな
964 :
うそつきばかり:01/11/20 04:05
>958
体格にこだわる馬鹿。
言ってやるが、当時、中国朝鮮も日本人と同様、体格は小さかったのだよ。
それは世界的な傾向で、気候に関係するのではないかとも言われてきた。
朝鮮人が「相撲を取れば日本人に勝つ」といったのが唯一の「体格」差を
あらわす文献で、それ以外に体格差をうんぬんする文献はなし。
あれば出してご覧。
>964
まあ、相撲に勝つ、というのもそれくらいしか言うべきものが
なかったふうで、日本人に戦闘で敗れたことへの晦渋として
書かれている。
体格差なんて今と同じくらい名ものだよせいぜい。
967 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 07:02
>>964 おいおい、いくら2chでも「うそつきばかり」という
ハンドルはあまりにも失礼だぞ(−−#
ムカッときたわ!!
968 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 08:04
明治政府って、西南戦争までは事実上島津幕府だったよな。
969 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 08:33
>>968 そんなバカな!!
愚かな島津久光は最初はてっきり、薩摩が天下を取ったと勘違いして
薩摩藩というか島津家中心の政権を幻想してたんだ。
ところが廃藩置県の時、初めて幻想だと気づいて、
おのれ大久保めと激怒したそうなんだ。
大久保利通はじめ薩摩の人物の多くが明治政府に入ったのは
事実だがそれは薩摩藩がどうこうとは全く逆の考えなの!!
あなたの言ってる事は大久保たちの民主的政府構想を誹謗するものでしかないよ!!
970 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 08:42
>>969 維新の件については島津というより薩摩藩士をほめるべきだな。
島津なりあきら公はともかくとして、それ以降の島津はむしろ、大久保・西郷の邪魔をした感じだな。
971 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 09:59
維新のその時期、鹿児島藩の事実上の指導者は西郷と大久保だったワケだし。
鎌倉期や戦国期なら下克上が起こってるだろう。
天皇を推戴することになったのも武家政権が幕府を作る時の常道だし。
しかしながら、一般の藩士の意識と、「近代政府」を意識する大久保達との間に
意識の隔絶があったから西南戦争に突入したんじゃないの?
別に、「島津」の名前がどうこうって話ではない。
ただ、明治政府の発生当初の本質はそれまでの武家政権となんら変わるところは
無かったと思う。
972 :
そろそろ終わりか:01/11/20 10:13
なんというか、少しでも「島津」「戦国武士」「旧日本軍」
に不利な逸話が出ると、ヒスを起こす奴がいるな。
ここに篭って世界史・軍事といった板にはこないでくれよ。
973 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 10:17
>>971 納得かな?
まあ、もう少しケチをつけるなら、
明治政府は当初から薩摩だけではなく、長州その他も加わってたという点だな。
「島津」「戦国武士」「旧日本軍」をけなすことに懸命な奴もチラホラ(w
975 :
美濃武士の末裔:01/11/20 14:51
貶してるんじゃなくて、真相を教えてくれてるんでショ。
間違った事は言ってないと思うヨ。
976 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 15:20
でも所詮は主たる徳川を裏切った豚に過ぎない
977 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 15:40
しかし、長州や水戸すら加わってた新政府が
「薩摩幕府」だなんて考え方は
やはり薩摩や島津が一時的であるにせよ天下を取ったということを言いたいように感じるけど・・・・
なんというか日本の軍事力全体に関して力が抜けてくる話が多いな。
夢は夢のままでいたほうがいいということか。
979 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 18:53
あげ
980 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 18:54
>>975 真相じゃなくてリアクションなのだよ。
島津の泗川戦の実相は4万におよぶ明の攻囲軍を8000の守備兵で
撃退したという事実は疑いようもない。
明史にはキッチリと島津の名が残されている。
また明史にも日本を追い出すのは軍事力では無理で
秀吉の死によるしかなかったとも明記されている。
これらの事実はさほど日本人に知られていないのだが、
一部のマニアが面白半分に2chなどではやす。
それに対して苛立つある種の人達がいて、
そのリアクションの表現としてこのスレは成立している情景だな。
1の命題も煽りに近いしな。
知らなかった。
プロジェクトXやってるよん
984 :
ゼドウド・ジン:01/11/20 21:49
ファミコンの三国志といえば、光栄が有名だけど
ナムコ版はどうなのだろう
島津さんってあの人だよね?
そうだよね
たしか
確かに強いよね。
彼たちは。
すんごくつよい、
とってもつよいよ。
俺、博物館で剥製みたとき腰抜かしちゃったし
島津冴子って知ってる?
989 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 21:52
島津家が最強とは言うが、国力の点では
それ以上はもちろんあるわけで
カンボジアでも島津冴子は有名なんだってさ。
びっくりしちゃttな
びっくりしちゃったな
しーーーーーーーーーまーーーーーずーーーーーさーーーーーーーえーーーこー
俺、オフィスじゃ冴子先生つかってるよ。
993 :
無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 21:53
島津の戦いは寡兵で大軍を破るケースが多い
木崎が原の戦いは200人で2000人を撃破
沖田畷の戦いは6000人(島津軍3000人)で30000人を撃破
泗州の戦いは7000人で200000人を撃破
島津家ってホモの集団なんでしょ?
じゃあ単純計算で一億人に勝てるね♪
996 :
ゼドウド・ジン:01/11/20 21:54
戦国の最強というのは歴史が証明しているのではと
カンボジア人って歯が白いなあ
入れ歯か?
島津家はこの救出戦で多くの死傷者を出し奮戦した。
にもかかわらず、帰国のための出発港である釜山港に、
矢がつきささりハリネズミのようなよれよれの軍船で義弘が入港したときには、
なんとつれなくも加藤清正らは城を焼き払い、さっさと自分たちだけ引き上げた後だった。
しかも潮に流されたり、海に投げ出され、
泳ぎ着いたりして南海島にとりのこされた兵約500を引き上げるため義弘は、
「いかにしても彼らを救出してから帰ろう」と、救出活動を展開する。
この500人の中にはかの樺山久高らがいた。
使者は明や朝鮮の日本軍狩りの船が往来する中をかいくぐり、
伊勢貞昌が安否を確かめに行き帰りの打ち合わせなどしたが、
彼らは敵にやられたのだろうか、迎えの船はいっこうに来ない。
彼らはたまたま島に来た対馬の漁船2隻で興善島まで往復する。
その中で勝手に釜山港までそのまま向かった不届きものがおり、
結局ただ1艘の漁船を何往復もさせるというとんでもない難儀をしている。
空腹と不安と疲労で島津の軍兵は困難の極にあり、
この状態を聞きつけた小西行長は、自分たちのために戦ってくれた島津軍にしのびないと興善島に船を出し
、釜山まで送り届けている。
義弘は、この時、救出に向かうというのは、よほどの決意だったろう。
これは歴史上希に見る義挙というべきもので、秀吉なく、評価してくれるもののない戦いの中で、自己犠牲の精神を発揮して順天城の日本軍を救出し、
撤退のしんがりをつとめたのは義弘の武士道精神のなせるわざだった。負け戦、そしてしんがり戦こそ義弘の真骨頂だった。
このとき、義弘の申し出に賛同し救出に向かった立花宗茂についても触れて置きたい。
碧蹄館の戦いで明軍30万人に3千人で斬り入り、敵軍をまっぷたつにしたのは有名。
その他に肥後の一揆鎮圧で一日に13度の戦闘を行い、敵の砦を抜くこと7カ所という離れ業もやっているほどの天才戦略家だった。
関ヶ原の戦いではやはり西軍にあり、敵城を開城させたが、関ヶ原にはなぜか召集されなかった。
それは島左近らが、宗茂のような外様に戦功をあまり上げられると困ると思ったからだと私は思う。
結局一浪人にまでなりながら、諸大名よりあまたのスカウトを受けるなどその実力、人気は当時並ぶ者がなく、
結局柳川11万石の大名に返り咲いているほどの武将だが、面白いことに彼の父高橋紹運は島津家の九州攻略戦において、
義弘との戦闘で戦死しているのだ。秀吉からその忠義、その豪勇鎮西1と言われたほどの男はできがちがう。
父を討った義弘に一も二もなく賛同し、自らも死地に赴いたあたりはさすがというべきであろう。
彼もまた、心すずやかなる戦国の男であった。
勝敗はアッラーのみぞ知る
ケビンベーコンのチンポ
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