十 強い!強すぎるぞ!島津一門

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1無名武将@お腹せっぷく
戦国島津氏は常識外れに強すぎると思います
木崎が原の戦いでは200人弱の義弘軍が2000人の伊東軍を破るという
とんでもない無謀な戦いに勝っています
兵が強いのか将の采配が見事なのか?
しかも4兄弟の全てが有能、島津家こそ戦国最強!
2野望100:2001/07/08(日) 13:19
http://www.wasurena.sakura.ne.jp/~tana00/arisa0.JPG

野望100は程c食人@お腹いっぱいの口に強引に手を突っ込むと両方に引っ張った。醜悪な程c食人@お腹いっぱいの顔が更に醜くゆがむ。
「うげええっ!!」

ひき潰されたケモノのような声を出し、程c食人@お腹いっぱいがうめいた。
頬をとめどなく涙が流れた。しかし、その涙も次々にぶちまけられる大便に覆い尽くされていく。

べちょおおぉっ!!

「うぶうううっ!?もがっ!ほげえええっ!!」

だが、野望100はそのまま程c食人@お腹いっぱいの顔を大きく肛門を開いた霜台の肉尻の間に押さえつけた。たちまち程c食人@お腹いっぱいの口の中に排泄器官から直送された生ぬるい泥便が大量に流し込まれる。

「おげええっ!げえぅうぇぇえっ!おもおっ!んごっ!んぐうっ!うぐっ!うぷぷっ!んぐううっ!んぐっ、んぐっ、んごおおぉっ、んぐぐううっ!!」
舌の上を走り抜け、喉の奥に直接ぶつかり、食道へ流れ落ちてくる腐食した下痢便。それは不味いなどというものを超越した不可解な味。少なくとも程c食人@お腹いっぱいの味覚はそれを判別することが出来なかった。

「おおおううっ!程c食人@お腹いっぱいがっ!おれの、おれのウンチ汁を飲んでらああぁっ!おおうっ!し、幸せだあっ!ウンコ飲めえっ!もっと、ゴクゴク飲めっ!!お腹いっぱいおれのウンコで、柔らかいウンコでたっぷり埋め尽くしてやるからよっ!噛めえっ!啜えぇっ!唾液で、胃液で、腸液でおれのウンコを溶かせぇっ!おおおうっ!いまっ!今程c食人@お腹いっぱいのお腹の中でいれのウンコが消化されてらあっ!程c食人@お腹いっぱいのウンコはおれのウンコで出来てるんだぁっ!!程c食人@お腹いっぱいのお口便器最高うぅっ!最高の生便器だぜえぇぇえっ!!」

プツン

程c食人@お腹いっぱいの中でキリキリと引き絞られていた一本の線が小さな音を立てて切れた。

(のんでる・・・あああぁぁ・・・なんだっけ、これ・・・ウンコ・・ウンコ・・ウンコって・・何だっけ・・・便器・・・おれ・・・そんな・・名前だっけ・・・ウンコか・・・これ・・・飲めばいいんだっけ・・・食べればいいのか?ウンコ?ウンコ?なあんだ・・おれ、ウンコ食べてるんだ・・・)

ぐびっ!ごぼぼぉぉぉっ!ぐぶうっ!ごぶっ、ごぶっぐびっ!ごくんっ、ごくっ!ごくっ!ぐちゅ、ぬりゅううっ!ぢゅるぢゅるぢゅるううぅっ!!

大量に流れ出す大便は余すことなく程c食人@お腹いっぱいの口腔を犯しぬく。排泄物に犯されているのは口だけではない。鼻の奥まで流れ込んだ泥便は、鼻水と交じり合いながら程c食人@お腹いっぱいの鼻腔から絶え間なく流れ出し、頬を伝って首筋に伝い落ちていく。

「程c食人@お腹いっぱい。解かるか?そろそろ霜台が糞をひりだしながらイクぜ。程c食人@お腹いっぱいを自分の便器にしたことでかなり頭がヤラレちまってるみたいだからなぁ。ククク・・・ほおら、腹の中が汁便でいっぱいになるまで飲めよ。残したらその糞まみれの恰好のまま長安の街中に放り込んでやるからな。」
3野望100:2001/07/08(日) 13:19
http://www.wasurena.sakura.ne.jp/~tana00/arisa0.JPG

野望100は程c食人@お腹いっぱいの口に強引に手を突っ込むと両方に引っ張った。醜悪な程c食人@お腹いっぱいの顔が更に醜くゆがむ。
「うげええっ!!」

ひき潰されたケモノのような声を出し、程c食人@お腹いっぱいがうめいた。
頬をとめどなく涙が流れた。しかし、その涙も次々にぶちまけられる大便に覆い尽くされていく。

べちょおおぉっ!!

「うぶうううっ!?もがっ!ほげえええっ!!」

だが、野望100はそのまま程c食人@お腹いっぱいの顔を大きく肛門を開いた霜台の肉尻の間に押さえつけた。たちまち程c食人@お腹いっぱいの口の中に排泄器官から直送された生ぬるい泥便が大量に流し込まれる。

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プツン

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ぐびっ!ごぼぼぉぉぉっ!ぐぶうっ!ごぶっ、ごぶっぐびっ!ごくんっ、ごくっ!ごくっ!ぐちゅ、ぬりゅううっ!ぢゅるぢゅるぢゅるううぅっ!!

大量に流れ出す大便は余すことなく程c食人@お腹いっぱいの口腔を犯しぬく。排泄物に犯されているのは口だけではない。鼻の奥まで流れ込んだ泥便は、鼻水と交じり合いながら程c食人@お腹いっぱいの鼻腔から絶え間なく流れ出し、頬を伝って首筋に伝い落ちていく。

「程c食人@お腹いっぱい。解かるか?そろそろ霜台が糞をひりだしながらイクぜ。程c食人@お腹いっぱいを自分の便器にしたことでかなり頭がヤラレちまってるみたいだからなぁ。ククク・・・ほおら、腹の中が汁便でいっぱいになるまで飲めよ。残したらその糞まみれの恰好のまま長安の街中に放り込んでやるからな。」

「うううううっ!ウンコでイクうっ!程c食人@お腹いっぱいの唇がウンチまみれの肛門をヌリュヌリュ舐めてらあっ、吸ってらああぁっ!おれのウンチジュースを程c食人@お腹いっぱいが、程c食人@お腹いっぱいが赤ちゃんみたいにチュウチュウ吸ってらああぁぁっ!程c食人@お腹いっぱいの変態っ!ヘンタイいいいィッ!うんこ出るぜぇっ!おれのウンコ、程c食人@お腹いっぱいの口便器に、ウンコ袋にぃぃっ!!程c食人@お腹いっぱいの変態便器いぃっ!!おはああああっ!ダメだあっ!生グソ便器にウンコこーもん、ビラビラのこーもんのお肉舐められていっちまうぅっ!いっちまうううっっ!!あひゃああははああああああっ!!」

びちゅぶうううっ!!ぶびっ!!ぷふうううーーーっ、ぶひっ!ぼぶっ、にゅるにゅるにゅるにゅる・・・・

「ぐ・・・・えぇぇ・・・・おごっ・・んぶっ・・ん・・んごっ・・・んごっ・・・おふっ・・・・」

グチョ・・ブチュ・・・ヂュル・ズビッ・ゴクン・・ゴクン・・・グチュゥ・・ニチャ・・ニチュウゥ・・・

程c食人@お腹いっぱいの耳には野望100の低い声も絶頂を迎えた霜台の嬌声も届いてはいなかった。聞こえるのはただ自分の口と鼻の中を暴れまわり、果てしなく喉の奥に流し込まれる大便の音だけだった。
4野望100:2001/07/08(日) 13:20
http://www.wasurena.sakura.ne.jp/~tana00/arisa0.JPG

野望100は程c食人@お腹いっぱいの口に強引に手を突っ込むと両方に引っ張った。醜悪な程c食人@お腹いっぱいの顔が更に醜くゆがむ。
「うげええっ!!」

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べちょおおぉっ!!

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ぐびっ!ごぼぼぉぉぉっ!ぐぶうっ!ごぶっ、ごぶっぐびっ!ごくんっ、ごくっ!ごくっ!ぐちゅ、ぬりゅううっ!ぢゅるぢゅるぢゅるううぅっ!!

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「うううううっ!ウンコでイクうっ!程c食人@お腹いっぱいの唇がウンチまみれの肛門をヌリュヌリュ舐めてらあっ、吸ってらああぁっ!おれのウンチジュースを程c食人@お腹いっぱいが、程c食人@お腹いっぱいが赤ちゃんみたいにチュウチュウ吸ってらああぁぁっ!程c食人@お腹いっぱいの変態っ!ヘンタイいいいィッ!うんこ出るぜぇっ!おれのウンコ、程c食人@お腹いっぱいの口便器に、ウンコ袋にぃぃっ!!程c食人@お腹いっぱいの変態便器いぃっ!!おはああああっ!ダメだあっ!生グソ便器にウンコこーもん、ビラビラのこーもんのお肉舐められていっちまうぅっ!いっちまうううっっ!!あひゃああははああああああっ!!」

びちゅぶうううっ!!ぶびっ!!ぷふうううーーーっ、ぶひっ!ぼぶっ、にゅるにゅるにゅるにゅる・・・・

「ぐ・・・・えぇぇ・・・・おごっ・・んぶっ・・ん・・んごっ・・・んごっ・・・おふっ・・・・」

グチョ・・ブチュ・・・ヂュル・ズビッ・ゴクン・・ゴクン・・・グチュゥ・・ニチャ・・ニチュウゥ・・・

程c食人@お腹いっぱいの耳には野望100の低い声も絶頂を迎えた霜台の嬌声も届いてはいなかった。聞こえるのはただ自分の口と鼻の中を暴れまわり、果てしなく喉の奥に流し込まれる大便の音だけだった。
5無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 13:26
島津義久

「古来、武士は義をもって第一とする。当家を慕って一命を預けてきたものをなんで見殺しに出来ようか。」
有馬晴信を助けるために軍を派遣するかどうかの軍議の席で義久のこの一言が無ければ
名高い「沖田畷の戦い」は無かった(軍議で派遣に反対意見が多かったそうだ)
「信長の野望」のパラメータでは政治、智謀が高く、統率や武力が比較的低いために
軟弱な感じをうけるが、このような男気を感じさせる武将だった
6無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 13:31
君たち一族は、新レスでは非常に鍵を握るのだー
7英雄九州覇君ー
7無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 13:34
>>6
新レスでは無く、新スレの間違いだと思うがいかが?
8無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 13:37
ゴメンなチャイ!
9無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 13:38
島津は島津の戦いをする。
10無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 13:43
9.そういうところが、す・て・き
11野望100:2001/07/08(日) 14:53
お前らウンコ嫌いなのか!?
俺と程c食人はいっつもウンコSEXしてるぞ!
12無名武将@お腹せっぷく :2001/07/08(日) 17:02
次男義弘は朝鮮の役で明の大軍を破った。日本の呂布か。
13銃歩兵が多いそうだ。士官も銃装備:2001/07/08(日) 17:04
 火力が大きいので不用意に追撃した連中はひどい目にあいます。
14無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 17:20
島津の戦いは寡兵で大軍を破るケースが多い
木崎が原の戦いは200人で2000人を撃破
沖田畷の戦いは6000人(島津軍3000人)で30000人を撃破
泗州の戦いは7000人で200000人を撃破

だけど逆に大軍で寡兵を攻めて苦戦した岩剣城の戦いなんてケースもある
15どうでもいいけど:2001/07/08(日) 17:22
相手がその合戦において有能ではなかった。
十倍の兵力があって負けるは無能者とは思いませんか?

島津一族有能!!
16無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 17:27
島津は関が原でも1500人しか兵がなかった
人口の少ない僻地に領地を持ってしまった悲劇だな
1714:2001/07/08(日) 17:35
>だけど逆に大軍で寡兵を攻めて苦戦した岩剣城の戦いなんてケースもある

ゴメソ。岩屋城の戦いの間違いだった。名将高橋紹運が800人で守る岩屋城を
5万人の島津軍がてこずってしまった戦いね。
別に岩剣城の戦いも激戦みたいだったようだけど
18小早川とか秀吉本軍はかからない:2001/07/08(日) 17:47
 パターンは調子にのって不用意に近づいてくる連中に銃撃。大打撃を
与える。当時は追撃戦で戦果を拾うのが常道だからやけにひっかかるという
仕組み。耳川や沖田畷、四国勢に明国・・・そして松平&井伊ってくらった
メンバーがしゃれにならない。
19島津の得意戦法:2001/07/08(日) 19:42
        
         伏兵
伏兵
    伏兵

         ←敗走する囮      ←調子に乗って追走する敵

    伏兵
      伏兵
        伏兵
          
20無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 21:10
>>18
その計にかかった敵は正確では無いかと思われます。
>四国勢
長宗我部や十河の四国勢は「謀略である。」と看破したのに対し、
秀吉が派遣した軍監の仙石のアフォが追撃を強硬に主張した。
結果は長宗我部、十河の有力武将が戦死。仙石は敗走。

>松平、井伊
その戦いで大将二人とも負傷するが、猛烈な追撃に1500人の島津兵は壊滅。
副将の豊久は戦死。
大打撃を食らったのは島津。

秀長軍は島津兵に10倍以上の兵数で当たったのだからある種勝って当然。
無能とは思わないけど。

他の事は同意。
21無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 21:40
>>20
松平、井伊の場合はその計とは少し違うよ
関が原の場合は島津義弘を無事逃がすためのステガマリの戦法
つまり退却時の戦法

囮を使った伏兵鉄砲隊の戦法は「野伏せ釣の戦法」という島津家得意の
攻撃の戦法
22無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 21:46
泗州の戦いは野伏せ釣りを大規模に応用した戦いであって
明軍は島津の罠に完全に嵌められて壊滅的大打撃を受けた
23無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 21:55
あれは真田丸と同じパターンでしょ。
しかも敵砲兵の遊爆という、おまけつき。
24無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 22:10
>>23
いや泗川新城に明軍をおびき寄せるために泗川古城を囮にしたのだ
敵砲兵の遊爆というのは聞いたことが無いが泗川古城の食料庫を爆破したのは
島津軍、なぜなら島津軍としては明軍に泗川古城を占領して一休みしてもらいたくなかった
泗川古城を落とした勢いに乗って泗川新城に迫ってもらう必要があったため
25無名武将@お腹せっぷく:2001/07/08(日) 22:53
あ、野伏せ釣り戦法じゃなくて釣り野伏せ戦法だった
26無名武将@お腹せっぷく:2001/07/09(月) 00:02
逸話:山田有栄の鞘

山田有栄(やまだありなが)は、耳川の戦いで高城を守備していた名将、山田有信の息子で、関ケ原の戦いにも従軍していました。
彼は普段から、黄金作りの鞘を使用していたため、同輩たちからも「見栄はり」「物好き」と陰口をたたかれていました。
しかし、関ヶ原の合戦で敗れ、山野をただよっている時、有栄は「私が先にいって、食料を調達してきましょう」といい、しばらくすると馬の鞍に米俵や粟袋を結び付けて戻って来ました。
皆がいぶかしがっていると、有栄は笑いながら自分の腰のあたりを叩きました。見ると自慢の黄金の鞘がなく、刀には白布が巻き付けてありました。これまで陰口を叩いていたものたちも、「山田有栄は武人として立派なだけでなく、有事の時のために普段から備えている立派な男」というふうに口々に誉めそやしました。
これ以降薩摩では、普段は貧しい生活をしていても、有事の時のために金品を貯えておくという習慣が流行したそうです。
27無名武将@お腹せっぷく:2001/07/09(月) 00:08
『島津奔る』読むべし。
28野望100:2001/07/09(月) 00:22
1.野望スカトロマニアー風俗いけないので、荒らして我慢!
凄いバカ!ホームページ作ってるけど・・いつも準備中
2.あはは、信長の野望シリーズを自慢する奴!いまだにクリアしたこの無い奴!
人徳がなくて、いつも周りに裏切られてる、挙句には80万石の所領を全部放棄して
関し荒れてる阿房ーっつ
3.松永久秀・・・度量が広く英雄、でも陰気なこの板の住民に袋叩きにあっている・・・
でも気にしないみたいねーいま新スレ作るみたいよー皆舞ってるみたいだシィ?
彼がいないと始まらないね!彼がいないこの板つまらないねーでも自作自演みたいだよー
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3.松永久秀・・・度量が広く英雄、でも陰気なこの板の住民に袋叩きにあっている・・・
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でも気にしないみたいねーいま新スレ作るみたいよー皆舞ってるみたいだシィ?
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29野望100:2001/07/09(月) 00:28
http://www.wasurena.sakura.ne.jp/~tana00/anzu01.JPG
杏姫タン...ハアハア
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30野望100:2001/07/09(月) 00:52
バナーを本来の物から変えたのは俺だ!
妨害工作をしたのも俺だ!
今のバナーになったのも俺の功績!
審査当日、ツールで自動的に連続アクセスしまくって動画バナーをわざと重くしたのも俺。
批判要望板に別のものを要請したのも俺。
人気投票で連続投票したのも俺。
バナースレ荒らしたのも俺。
ざまあみろ刑が。
下手クソな絵でいきがってるからだ。
ヒャーーーーーーハハハハハハハーーーーーーーーーーー
http://www.wasurena.sakura.ne.jp/~tana00/ami-0.JPG

ハアハア...亜美タン...ウッ...ドピュ!
31無名武将@お腹せっぷく:2001/07/09(月) 15:03
198 名前:名無しさんのレスが読めるのは2chだけ! 投稿日:2001/07/09(月) 14:11
昨日、電車に乗っていたら向かい側の席で高校生がマガジソを読んでいた。
袋から出して、最初にクロ高のページを探し当て読んでいた。
そして最初にもどって大吉を読む。
とばされたマンガはくわせモン、ゴリオ、KYO、ドラゴンボイスだった。


199 名前:名無しさんのレスが読めるのは2chだけ! 投稿日:2001/07/09(月) 14:59
>>198
これがヒキコモリがたたみ六畳の世界で作った作り話です。
みなさん良く読みましょう。
向かい側に座ってるやつが漫画読んでても、
何飛ばして何読んでなんて見えねーよ!(w
ひょっとしてコジキみたいにのぞき見してたの?(プッ

妄想君逝って良し!
32名無しさん@お腹いっぱい。:2001/07/09(月) 16:10
敵砲兵の遊爆は尚古集成館発行の本で見たなあ
33無名武将@お腹せっぷく:2001/07/09(月) 19:36
どうでもいいけど、琉球からぎゅうぎゅうにしぼりとったな島津さん
明治維新もおきなわの犠牲のうえに成りたっとるんだよ。
34九州覇王へ:2001/07/09(月) 21:33
でも、島津家は面白いね!戦国も義久・義弘の兄弟支配で幕末も斉彬・久光(異論は出ると思うが・・・実際は君主で無いけど・・・)
35無名武将@お腹せっぷく:2001/07/09(月) 22:55
島津義久が秀吉をおちょくった手紙だって、よく島津家は残ったよなあ

http://www14.freeweb.ne.jp/novel/rekiju/tegami/simadu.htm
36無名武将@お腹せっぷく:2001/07/10(火) 01:24
菜の花の沖と時宗を見て、ふと思った。
大河ドラマ。島津義久が竹中直人で、義弘が渡辺謙って、どう?
37無名武将@お腹せっぷく:2001/07/10(火) 07:14
>>36
義久が竹中直人って感じじゃないなあ
38無名武将@お腹せっぷく:2001/07/10(火) 14:42
 秀吉役が強烈だからね。
39無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 22:24
島津好きなんだけどな

沖縄人には嫌われ、東北人にも間接的に嫌われ、どうも板では人気ないですなあ
40無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 22:27
わしゃー幕末の島津大好きでのー
今の日本にああいう経営感覚もった方必要だと思う!
原哲夫当たりがマンガにして連載すると人気でるよーきっとね!
41無名武将@お腹せっぷく:2001/07/11(水) 22:39
>>40
松永君、スレ違いです
42無名武将@お腹せっぷく :2001/07/12(木) 11:31
原哲也って沖縄寄り故に、
その地を蹂躙した島津は書きたくないのではないか?
影武者家康でもほとんど登場してこなかったし。
43野望100:2001/07/12(木) 13:57
ロデムが欲しい!
ロプロスとポセイドンは要らない。
「ロデム、今日は上村 澄子に変身しろ」
「はい、ご主人様」
「うん、いいぞ。こっちへ来い」
「はい。あ、何をなさいます」
「何って? ナニに決まっておろうが。ほうれほれ」
「あっ、いけません、あ・・・」
44浪人いっぱい不満ガス抜き:2001/07/12(木) 14:14
 琉球攻略は家康の意向もあったらしいし徳川家の
思惑も無視できんよ。島原の連中もルソン攻略用に
異常な軍備してたし(それが重税とつながり家光時代
に島原の乱へと...。)秀吉とは違う方面で外征させる
気だったんじゃないかな。対スペイン(フィリピンベース)
戦の布石では?キリシタン対策は後に鎖国へシフトした
けどやる気だったのかも。
45無名武将@お腹せっぷく:2001/07/23(月) 23:12
関ヶ原で敵前逃亡。
この1点のみで、島津は全て卑怯者。
46無名武将@お腹せっぷく:2001/07/24(火) 00:17
↑沖縄人か東北人か知らないがしつこくて陰湿な奴だな
47無名武将@お腹せっぷく:2001/07/24(火) 01:18
ホントの所島津の関ヶ原は、他の武将からどう思われてたのかな。
当時の感覚では立派だったのかな。
48無名武将@お腹せっぷく:2001/07/24(火) 03:15
なんかあんまり好きじゃない。
49無名武将@お腹せっぷく:2001/07/24(火) 07:16
14みたいな話し、
信じとるわけ。
普通、誇張やって気づくはずやが・・・
50無名武将@お腹せっぷく:2001/07/24(火) 17:26
山田有信って信長の野望シリーズじゃ評価低いね。
島津義弘の側近で、各地の激戦では必ず最前線にいた名将なのに。
51無名武将@お腹せっぷく:2001/07/24(火) 22:20
>>47
漏れの感想では
関が原の戦いでカッコ良い行動をした武将に入る

関が原の戦いカッコ良い順位
1.大谷刑部
2.石田三成
3.島津義弘

カッコ悪い順位
1.小早川秀秋
2.毛利輝元
3.吉川広家
52無名武将@お腹せっぷく:2001/07/24(火) 22:25
強すぎるぜホント!
53無名武将@お腹せっぷく:2001/07/24(火) 23:38
なんで好感度こんなに低いんだ?
54無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 00:12
>>53
なんでだろうね?
鮮やかに勝った戦があんなにあるんだからもっと人気になってもいいと
思うのだが・・・
55無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 00:20
関ヶ原で逃げたから。
自分さえ良ければ後は知らんだと。
56無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 00:31
>>55
何か勘違いしてると思うよ、君。
57無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 01:08
俺は仙台人だが、島津は伊達と同じくらい好きだな。
カッコイイし、なにより強い。見せ場が多いのもイイな。
58無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 01:56
伊達政宗がそうだったように
島津が大河ドラマになれば、人気急上昇間違いなし
今は知る人が知っているマイナー武将だから人気がないのではないの?
59無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 02:19
>>58
俺もそう思う!
最近の大河っておもしろくないから、九州三国志か島津ネタで
やってほしいよな!
60無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 02:23
戦国はもうおなかいっぱい。

平将門とか、木曽義仲等のどちらかと言えば敵役にスポットを当てて欲しい。
61無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 02:31
将門や義仲も興味あるけど
俺はやっぱ戦国の方がイイ!
62無名武将@お腹せっぷく :2001/07/25(水) 03:01
NHK大河ドラマ化してほしいな。
戦いネタが多しね。一年でもネタは尽きなそう。
「島津奮戦記」とか名前で。
でも朝鮮や沖縄ネタがあるから厳しいだろうな。
63無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 03:26
強いぜ!
64無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 08:33
強すぎるぜ
65無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 09:07
島津に関する記述は戦国から明治にかけて
また第2次大戦時の軍国主義にさえ影響を与えた事柄を
多く含んでおり
東アジア諸国との現在の緊張状態の下での国営放送の
ドラマとしては非常に不穏当であると思われます

テレビ東京あたりで年末12時間時代劇でも厳しいと思われます
ハイ
66無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 09:15
戦力的にも魅力は十分あるから、合戦時の醍醐味は良し。
四兄弟の結束、秀吉への降伏後への兄弟崩壊など、
人情的にも魅力ある。
長兄義久の政治手腕、重臣伊集院の裏切りなど、諸々のネタも
あるし。

「毛利元就」で成功したのだから、島津でも失敗はしないと思う。
67無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 09:21
>>65
北条時宗すら平和主義者として脚色したNHKです。
なんとかしてくれないでしょうか。

>>66
確かに見せ場は多いと思います。あと義弘の関ヶ原脱出も。
68無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 09:36
>>66
「成功」はしていません
むしろ失敗だった気もします
69無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 09:54
>>67
無理でしょ
だって島津の肝は下っ端の特攻だもの…
70無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 10:18
だいたい戦国武将を平和主義者と描くこと自体無理があるよな
71無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 10:26
×「儂が天下統一して太平の世を作るんじゃ」理論←家康、信長、秀吉
×「領土野心皆無、困っている者の為戦う」理論←謙信
↑嘘だよな
○「わいが一番や!わいの思いのままや」理論←天下人系
○「越後は貧乏なのよ!だから略奪すんのよ!やほー」理論←謙信
↑これがほんとだよな
72くらげ:2001/07/25(水) 11:05
示現流一の太刀にしびれた
73無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 11:07
大名だけの意思というよりも領地を求める家臣団全体の意思が
戦いを求めるというのが本当の姿だろうな
74無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 11:12
案として
水戸黄門や遠山の金さん、大岡越前との
ばりばりのエンターテイメント勧善懲悪系時代劇にできたら
いいんじゃない?ってかできるもんならやってくれってかんじ
75無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 11:18
>>74
肝付、伊東、竜造寺、大友、豊臣、朝鮮、沖縄
を大悪人にしてみてください
島津が戦った相手って他にもいたかな?
76無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 11:43
>>73
朝鮮での奮戦もそれが原因みたいだね。
77無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 11:51
朝鮮出兵で加増された大名は島津家ただ一家だけという事実がある
78無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 14:21
朝鮮出兵に関しては、
悪者の秀吉・三成、
止むおえなく朝鮮<軍>と戦いながら、一方では諜報活動の為に朝鮮<民>を快く手懐ける島津、
として、描くのはどうだろう。
79無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 15:04
いや一番大量に民衆虐殺したって、あっちでは教えてるから無理。
80無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 16:12
>>78
一番過激だよ〜

昔、三田村邦彦、西岡篤馬、コロッケ、の出てた
何とか将軍世直し旅みたいな途方もない脚色が必要だと思うぞ
(もしくはダウンタウン浜田の関西弁の竜馬なみ)

案1水戸黄門風
義久=黄門
義弘=助
歳久=うっかりはちべえ
家久=角
こんぐらいのディフォルメしないとな

案2
「朝鮮道中記」みたいな西遊記調
なみいる土民をばっさばっさ(やばいか)
案3
じゃー関ヶ原までの珍道中をえがく「山陽道島津珍道中」
これが限界だね。
ガンバの冒険みたく、最初鹿児島出た時は3000人くらいいたのが
最後、鹿児島に帰ってきたら
ガンバだけになっちゃう(義弘)ってのどう?

っていうか島津ともう関係ないな
要するに無理だなぁ
81無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 20:15
>>80
>鹿児島出た時に3000人
ネタレスにマジレスはカッコ悪いけど(笑
義弘だけが上方にいて、国元に派兵を催促しているのだが
関が原の時は島津家は参戦しない方針で兵を送っていない
義弘を慕う者が自費で薩摩から上方に集まってきた兵たちが3000人?だったっけ?
俺の記憶では1500人だったと思うけど?
それだけ部下に慕われていたんですなあ〜、義弘公は
82無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 20:36
関ヶ原では西軍のためになることは何一つやらんかった。
83無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 20:40
>>81
ごめーんいいかげんにはしょりました
それにしても自費でいくなんて大変だよね

大規模な赤穂浪士?お百姓さんなんだろうけど
84無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 20:45
>>83
遠い薩摩から義弘公を慕う者たちが集まってきた
その者たちのほとんどを失ってしまうわけだから
義弘公もさぞ辛かっただろうと思う
85鮮神:2001/07/25(水) 21:12
拾い首の鬼島津が怖いよぉ〜ママ〜ん(ゲラゲ
86無名武将@お腹せっぷく:2001/07/25(水) 22:27
ママの首も刈ってやるたい(アーヒャヒャヒャヒャ
87無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 02:41
>82 そりゃ負け決定だったからでしょ。あとは島津家存続の
ためです。
義弘の武力もさることながら、知略はかなりのものだったみたいね。
家康も自分を葬る時には西向きにしろ、徳川を滅ぼすものは
西から来る、とまで言ったみたいね。
関が原でかっこよかったって言ったら
1、島左近2、大谷刑部3、義弘かなあ。
88無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 02:55
でもなんか好きになれないんだよなぁ
89無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 03:30
強すぎてなぁ〜。
90無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 03:53
まったくだ
91無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 06:15
ちえすとあげ!!
92無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 07:04
島津一門というのもいまいち人気が出ない原因かもなぁ。信長とか政宗とかみたいに
一人が光輝いとったらわかりやすいが、一門として、だとどうしても見劣りしやすくわか
りにくいかも。
93無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 07:27
薩摩、なにいってんのか分かんないから不気味さはあったんだろう。
94無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 07:31
家久最強!!島津一門は猛者揃いやねえ。
島津製作所のマークは島津家の家紋と同じです。マンセー!
95無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 09:32
>>92
いえてーるかも
毛利一門なら元就
織田一門なら信長
伊達一門なら正宗

島津って…義久?義弘?
均等に優秀なのが敗因だね
96無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 12:27
智謀の歳久と言われるが、どんなエピソードがあるのだろう?
97無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 13:13
>>96
そうは言っても小早川よりも小粒だと思われ
売りにするには弱い気がしますが
98無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 14:02
一族総掛かりで攻めたのが対豊臣の根白坂の戦いだったな。
20000人動員で大敗。でも一族は一人戦死を除いて無傷。
これが最大人数での戦いかな?
99無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 14:18
大友と高橋があるにょ。
100無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 15:13
島津四兄弟の中でもっとも優秀だったは家久だと思う
ゲームでは評価低いけど
101無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 15:24
島津兄弟全員高能力にすると 相良とかが悲惨な事になるから
バランスそれで取ってるんでしょ…
102無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 16:03
 戦果主義で数値決めるとむちゃくちゃ強ぇからな・・・。
103無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 21:19
島津家は忠良公以来「島津に暗君無し」と言われるほどでした。
つまりそれだけ代々の当主に聡明な人が多かったのです。
104無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 21:57
まったく強すぎるぜ
105無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 22:02
逃げた卑怯者。
106無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 22:06
強すぎて困っちゃうぜ
107無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 22:13
卑怯すぎて笑っちゃうぜ
108無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 22:43
どこが卑怯か具体的に示せよ
109無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 23:08
「鳥居元忠が城に入れてくれなかったから、やむを得ず石田に味方した」との、死人に口無しを地で行く言い訳のでっち上げ。
110無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 23:09
それがどうした
111無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 23:13
関ヶ原で逃げた。
ほかに逃げた奴もいるのは知っているが、島津も逃げた。

一門挙げてどちらにつくかはっきりさせなかった。

卑怯者で無いならはっきりした態度と行動をするはず。
潔さが無い。
112無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 23:22
後の事を考えての言い訳とか考えない?
死人に口無しだろうけど 生き残るための手段でしょ?
華麗の散るのもいいけど 歴史を作るのは生き残ったものだよ

既に勝敗が決した戦で後の事を考えたら 逃亡が最良の道だと思う
113無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 23:27
島津最強は家久だよね。

沖田畷とか最高だね。
戦果だけで比べるなら戦国屈指じゃないだろうか。

義弘より強いと思うのだがどうか。
114無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 23:31
生き残ったかどうかではなく、
卑怯かそうでないかの話。

卑怯に生き残った奴と、潔く滅びた奴とでは、
前者が偉いが、卑怯であることにはかわりがない。
後者は馬鹿だが、卑怯ではない。
115無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 23:57
>>114
なんでそんなに必死なんだw
116無名武将@お腹せっぷく:2001/07/26(木) 23:59
それほど島津が卑怯だから。
117無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 00:28
根白坂>>>>>>>>>>>>沖田畷
118無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 00:40
生き残り=偉いが卑怯
戦死=馬鹿だが潔い

短絡的とはおもわないですか?もっと相対的な視点を持ったほうが
いいとおもいますよ。
119無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 00:54
>>116
それほど島津が嫌いだから
に直したほうがいいな
俺は島津と毛利は好きだけど
120無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 00:55
>>111
一族あげてどちらかにつくかハッキリさせた例のほうが少ないだろう
真田家も西軍と東軍に分かれて一族存続を計っているし。
東軍側にも西軍側にも大した義理も縁もない島津なら当然だと思う
それを卑怯呼ばわりするアンタはいったい何様?って感じ(笑
121無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 01:06
というか島津義弘は卑怯者ではないよな。
卑怯者=命を惜しんで名を惜しまない者ならそうそうに西軍を裏切っているでしょう
義弘は命が惜しくて最後まで戦わなかったのではなくて、石田三成との感情的な行き違い
から西軍のために戦うのが馬鹿らしくなってしまったからだろ。
島津義弘はプライドのために戦わず、プライドのために退却したのが真相だろ。
こんな馬鹿らしい戦いで義弘公の首を取られてしまっては島津軍の名が地に落ちるということ
122無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 01:32
卑怯?思慮深いし賢明としか言いようがない
123無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 02:04
さて、関ケ原の合戦である。実は、この合戦の直前、島津家は内乱が起きている。重臣伊集院氏が居城に立て篭もり島津氏に叛乱を起こしている。叛乱が鎮圧したところへ、徳川家康の上杉討伐の命令が下る。
 この時、当主義弘は大坂にあった。当然、国許薩摩に兵を上方に送るように使いを出す。しかし、国許では朝鮮の役、伊集院の乱により財政は逼迫。とても大軍をはるばる会津へ出す余裕など無い。国許薩摩では兵を出さぬことにした。
 しかし、薩摩の武士は面白い。「お家では兵を出さぬらしい」という風聞が城下や、城外の野山に響いた。この時期、ほとんどの島津の侍は在所にあって平素は畑仕事をして自給自足している。ただ普通の百姓と違うのはいざ合戦に備えて、畦に槍を突き立て、旅費とわらじを結び付けてある点である。
 「上方でいくさでごわんど!」
 と、言う声が村々に伝わると、侍たちは鍬を捨て、畦から槍を抜き取り、具足を背負い、思い思いの形で駆け出した。
 (お家が動員されねば自費で行く)
 という性根であった。そのつもりで駈け、国境を飛び出した。そのような訳で、上方の義弘は大坂にあって兵が集結するのを待たねばならない。
 義弘が大坂で薩摩から軍勢が到着するのを待っていた頃、石田三成が家康打倒の兵を挙げた。三成は当然大坂にいた義弘を陣営に迎えた。さすがの義弘も兵が無くては三成には逆らえぬ。三成に請われるまま西軍に参加した。
124無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 02:04
義弘は伏見城の攻略に参加。これを落とすと近江、美濃方面に出陣している。
 義弘が美濃大垣城に着陣したころ、上杉討伐軍の東軍の先鋒は引き返し尾張清州城に着陣。膠着状態に入る。
 その膠着状態を破ったのは東軍である。国境を越えて美濃岐阜城を攻略、西軍の本拠、大垣にせまる勢いであった。
 この当時、美濃には石田三成、小西行長、島津義弘の軍勢しかおらず、主力は北陸と伊勢に分散していた。
 清州の東軍動くの報に慌てた三成は、義弘に美濃と尾張の国境、墨俣に出陣を要請し、自らも大垣を出て出陣したが、東軍大垣に迫るの報を聞いて三成は義弘に断らず大垣に引き返してしまった。義弘は激怒したがどうにもならない。島津軍は墨俣に置き去りにされる形になった。敵中に取り残された島津軍を救ったのは島津の勇名であった。何しろ朝鮮の役で20倍の軍勢を破った島津である。敵中にあって敢えて悠然としている島津に恐れをなして東軍は敢えて手出しをしなかった。義弘は無事大垣に帰還した。しかし、このことが後の関ケ原の決戦当日に大きな影を落とす。
125無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 02:05
慶長5年(1600)9月15日。関が原の合戦。この日島津義弘は甥の島津豊久を先鋒として千五百の軍勢を、石田三成の陣の南隣、小池村に布陣した。やがて合戦が始まる。しかし、島津義弘は一兵も動かさない。このとき義弘は墨俣の一件以来三成に愛想を尽かし、三成のために働くつもりはなかったのであろう。現に三成の出撃の督促をはねつけている。と言って、殊勝なことに裏切ることはせず、傍観することにした。東軍も黙して動かぬ島津を恐れ敢えて攻めかかるものはいなかった。
 正午過ぎ、西軍の小早川秀秋は東軍に寝返り、西軍を攻撃。これにより勝敗は決し、大谷吉継は戦死。小西行長、宇喜多秀家、石田三成は敗走。残るは島津勢一隊のみとなった。
 このとき、島津の前面は敵。後ろの街道は敗走する西軍で混雑し、越えるに険しい伊吹山であった。事、ここに至って義弘は決意する。家康本陣を突くと見せて右手に折れ、伊勢街道をまっしぐらに駆け抜け退却するというのである。つまり敵の真正面をぬけて逃げると言うのだ。
 島津軍の気迫に押されて東軍は思わず道をあけ、島津軍は家康本陣の脇をかすめて関ケ原の南の口、牧田にさしかかった。しかし、我に返った東軍諸隊はすかさず急追を開始。福島正則、松平忠吉、井伊直政、小早川秀秋の追撃隊が島津隊を捕捉、猛襲を加える。
 このとき、島津の重臣、長寿院盛淳(もりあつ)は義弘の身代わりとなって戦死。牧田烏頭坂では殿軍(しんがり)の島津豊久が奮戦の末戦死した。ちなみにこの豊久は無数の槍を受け7たび空に突き上げられたと伝えられる。
 東軍も家康の重臣井伊直政、家康の四男松平忠吉も島津方の銃弾を受けた。激闘の末、義弘は戦線の離脱に成功。生き残ったのは千六百の兵のうちわずか60名であった。しかし、この戦い振りは「島津の敵前退却」と言われ、島津の武勇を示すものとして後々まで語り継がれた
126無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 02:10
ヘタレ石田三成のために墨俣に見殺しにされてしまった島津軍
それでも、もともと義理も縁もない西軍のために戦うか?
関が原で戦わなかったからといって卑怯呼ばわりは酷すぎるだろ?
127無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 02:14
>>123-125
ヤバイ…
かっこよすぎるぞ
128無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 02:24
島津にまつわる話は外部に責任をなびろうとする話が多いね。
129無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 04:10
>>128
聞く耳持たないやつだな
お前リアルじゃろくに話が通じない人間だと思われてるんだろうな
島津かっこいいじゃん
俺このスレみて義弘ファンになった
島津義弘最高!
130無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 04:50
>>123-125
では、この続きを123殿の代わりに語らせていただきます。

関ヶ原を逃れた島津義弘は途中大阪に立ち寄り、人質としてとられていた妻を奪還
するのに成功しております。そして堺から海路によって薩摩へ帰国。
薩摩では国境を固めて応戦準備をすると共に、井伊直政に仲介を依頼しました。
最も激戦した相手に仲介を願うとは義弘公らしい考えです。井伊直政は自身が
負傷までしたのにもかかわらず、島津に頼られた事を武門の面目が立ったと喜び、
一気に島津家擁護の立場にたってくれました。
薩摩には「血を流しあった間だからこそわかりあえるもの」という考え方があります。
戦後、島津家に特別な咎めはありません。
131無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 07:16
>>126
あんまり言いたくないですが
島津義家、義弘(特に義弘)は
石田三成シンパですし、
関ヶ原前からはっきりと三成に同調する書状を送ってます。
132無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 07:22
義家でなくて、義久だった。
さて関ヶ原の島津の姿勢だが
島津義久は経済難から西軍ながらも兵を出さない方針。
島津義弘は積極的に戦う方針だった。
133無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 08:44
西軍は島津のせいで負けたようなもんだな。
三成もさぞ恨んでいることであろう。
134無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 09:34
>>130では、関ヶ原の戦後処理は義弘自身が行ったかに見えるが、
実際は長兄義久の処理によるもの。
現に義久は義弘を隠棲させている。
秀吉・家康から本領安堵を勝ち取ったのは、むしろ義久の政治力が
発揮されたから。
135さち子:2001/07/27(金) 09:53
>>134
はじめまして。関ヶ原の戦後処理については異論はないです。
義久の関ヶ原後の対応は見事ですし、彼の功績ですね。
義弘の影に隠れがちですが彼も英傑だと思います。
ただ、>>126さんも言ってますが、
秀吉から本領安堵の沙汰を得たのは義久の政治力というより
は石田三成の意向と彼の世話になったからでしょう。
三成は義久・義弘に秀吉への対応の仕方まで教えたそうです。
彼らも三成を「秀吉ここうの臣、その権威並ぶものなし」と賞賛し、
三成の意向には従うようしていました。
義弘の西軍参戦理由も三成への恩義です。
136無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 10:05
>>130で海路により帰国となっているが
確かその時に船を用意してくれたか、船頭だったかで義弘を助けた者が
義弘より褒美として島津の姓を与えられている。
その者が現在の一部上場企業・島津製作所の先祖になる。
137無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 10:06
>>136
訂正

島津製作所の先祖→島津製作所の創始者の先祖 
138無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 10:07
寡兵で最前線に置き去り。そりゃ愛想も尽きるわな。
139無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 10:30
強すぎるぜ!
140無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 10:45
兄貴(義久)っていい仕事してるよねえ。ちょっと目立たないけど
たいした器の持主だとおもうよ。幼少の頃は覇気が無いといわれ
てたようだけど、祖父日新斎(だったとおもう)は早くから目をかけて
たらしいです。有能な弟達並びに家臣団を束ねた手腕は凄い、且つ
後継ぎがいないから弟に家督を譲るとはただもんじゃないとおもう。
なにしろそこらへんでは家督をめぐって親兄弟が争っていましたから。
そんな愚を犯さなかったのは大器量だなー。
141無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 11:13
関ヶ原の前半戦、島津何もせず。
後半戦、逃げる。

自身のためには見事な戦いだが、西軍の勝利のためには何もせず。
142無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 11:31
結局、三成にはあのような大合戦を起こすような器量は無かったということだね
西軍についた諸将のほとんどが合戦で活躍しても戦後の恩賞に不安があったのが
今ひとつ士気が上がらなかった原因のひとつではないかな。
淀君が秀頼大事に思い過ぎて三成に全責任を押し付けて、しらんぷりしなければ
西軍諸将も働いたと思う。
だけど、この事が島津が動かなかった原因では無さそうだけどね
西軍に参加したときの義弘や従っていた武士たちは損得勘定で動いていないもの
143無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 11:35
>>136-137
これまた歴史の重みを感じるエピソードですね。
同時に家紋の使用も許されたのでしょうね、島津製作所の社章が
○に十字だったから。
話はそれますが、以前なにかの番組で「風呂さん」という人が出演
してました。その人の先祖は、源義経が奥州へ逃げていたときに
風呂をかしてあげたそうです。その礼として義経から「風呂」の名を
もらったそうです。それを思い出しました。
144無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 12:15
そんなにすごい話しかいのぉ
145無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 12:28
三成に愛想を尽かしても、
西軍全体のために獅子奮迅の戦いをしてくれたら良かったのに。
義弘も狭量だね。
目の前で西軍が戦っているのに知らん顔。
146無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 13:15
>>145
なんで島津がそこまでせんといかんのよ?
裏切らなかっただけでも有難いと思わんと。

もしかして君は三成のファンなの?
147無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 13:18
島津一門最強!
私は強い上に義を重んじる義弘のファンです
148無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 13:24
最後に取り残されるまで戦わなかったというのは
ある意味すごい勇気の要る行動だよな
149普通壊乱するが:2001/07/27(金) 14:18
 布陣見る限りでは主戦力じゃなくて抑えでしょう。兵力が
少ない以上消耗戦な叩き合いを回避するのが基本。
 体勢が決した後に小規模な島津ほっといて石田とか宇喜多追撃
するために包囲陣形(っていうかバラバラに各個判断)で分散
したから緩くなった徳川本陣方面に進撃。消耗してなかったぶん
敗残側なのに妙に強かったと・・・。っていうかあんな少数に
してやられた徳川方では自分たちがマヌケじゃなくてあいつらが
強かったって具合にしないとちょっとまずかったのかも。将官級が
負傷したりしてるし。
150無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 14:32
>>149
前から気になってたんだが、確か合戦が終了したのは午後2時だっけ?
ほとんど戦ってないのに、東軍の攻撃に持ちこたえた時間が
異常に短い気がする。
151将官を狙撃して時間稼ぎ:2001/07/27(金) 14:41
 戦線突破が目的だから。東軍も不意をつかれた当初はともかく
数はいるから時間かけるのはどう考えてもダメでしょ。
152無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 14:53
島津には西軍の勝利のために努力するという気持ちが無かったのね。
153無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 15:53
あくまで、西軍=三成でしょ
154無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 17:08
>>152
当初は勝利のために尽くす気持ちはかなり強かったようだよ
155無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 17:55
だんだんと関ヶ原スレになってきた感じが。

>>140
祖父の日新斎は義久のことを「三州の総大将たるの材徳、
おのずから備わっておる」と評しているし、徳川家康は、
「自らは働かず、人を動かすのが大将である。その点、島津義久に
及ぶものはない」と評している。
156無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 17:56
三成との軋轢で方針を変えたって話しあるね。
でも三成に恩もあるらしいじゃないの、九州征伐当時。
結局、恩ある三成に着いたけどはるばる戦場に来てみたらどうも負けそうだ。
ここは戦後の事も考えて慎重に動こうっていう吉川勢と対して変わらない動機で
あーいう動きをしたのだと思う。
157無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 18:07
>>156
というか、最初は上杉討伐のため上方から国許に派兵を要求→三成挙兵→島津義弘その時は兵なし
→やむなく三成に味方→味方しかからには名を上げる戦いをしたい
→三成に夜襲提案などを却下される→三成に敵兵うじゃうじゃの中に
置いてけぼりにされる→すっかり三成に愛想が尽き果てる→そして関が原当日を迎える
→三成のために兵を犠牲にして働くのは嫌だな〜、かといって西軍を裏切るのは
カッコ悪いし、どうしようか?→西軍大敗→この時こそ島津の勇名を馳せるチャンス。

こんな感じじゃないのかな?
158無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 18:10
卑怯すぎるぜ
159無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 18:21
全然卑怯じゃないじゃん。
どの辺が卑怯なんだよ?
160無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 21:32
強すぎる!
161無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 21:42
煽る奴もそれにいちいち乗る奴もウザイ
162無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 21:54
島津はかっこいいよ!
西国最強なのは間違いない!
163無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 22:07
>>161
お前が一番ウザイから出て行ってね。
164無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 22:12
島津貴久についても知りたいですね。どなたか詳しい人いないでしょうか?
息子がそろって優秀なので、あなどれない親父なはずです。
165無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 22:17
>>164
日本で初めて合戦に鉄砲を使った人です
166無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 22:21
最強かもしれんが卑怯はまちがいなし
167無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 22:26
>>166
どこがよ
言ってみ?
おそらく誤解だろうから
島津は7千で明軍20万を打ち破った日本の誇りだぞ!
しかも戦いが終わったあといつも敵味方隔てなく手厚く弔ったそうだ
これ知ったとき男の中の男じゃんって思った・・・
168無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 22:45
20万じゃなくて最大で37000.
もっと少ないよ。
169 :2001/07/27(金) 22:57
敵前逃亡は銃殺と軍法で決まっています。
170無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:10
でも島津は日本で最強だし
僻地じゃなきゃ天下取ってたと思う
たった1500の兵で関が原じゃいくら最強でも
どうにもならんわなー・・・
もっと運が良かったら完璧だったのにね
171無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:14
逃亡を選択した事が卑怯。
玉砕せよ。
前半戦の様子見が卑怯。
突撃せよ。
172無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:25
つーか、秀吉と戦ったときは小牧の家康以上に
動員できたので運だけ悪かったとはいえないよ。
173無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:33
>>171
卑怯なのはお前だ
人の話に耳を傾けず
勇敢な島津の悪口ばかり
島津は戦い慣れしてたから
経験に基づいた最善の方法をとったに過ぎないと思う
>>172
九州征伐のこと?
でもあれって島津だけで残りの日本全国を相手に
するようなものだからいくら島津でも無理だと悟ったんじゃないか?
武田信玄でもそんな無謀なことはしないと思うよ
174無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:34
もしも関が原の時にVS秀吉位の兵力投入できてたら変わってた?
175無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:37
無理と悟ってるなら、最初から戦わんよ
176無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:38
>>173
小早川秀秋の行動も生き残りのためには最善の方法だった。
でも彼も卑怯者。
最善だから卑怯でないとはいえない。
177無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:38
関ヶ原前半戦において、ぼけーっと見てた訳じゃあないよ。
退却開始時には兵が500人程に減っている。これは応戦だけで
一杯だったというのが真相に近いとおもう。
尚、もともと1500の兵では討って出るような戦力ではない。

退却戦ではステガマリという、凄まじい戦法が採用されている。
一度命じられたら死ぬまで戦い続ける事が義務つけられ、死体
となっても自分の身を街道の真中に置いて、敵の進軍を妨げる
というもの。
178無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:40
>>171
戦争のなくなった江戸時代以降の理想論ならともかく、戦国時代の気風が残っていた
あの頃に玉砕なんてやるのは馬鹿だけかと。
1500じゃいくらなんでも戦えばすぐに壊滅したと思うんで、敵をひきつけておく方が効果
はあったと思われ。
179無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:41
>>176
金吾と同列にすんなよ。
180無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:42
>>178
城を枕に全員討ち死にってのは美談で無かったけ。
181無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:45
>>179
同列にしなくても良いが、
最善の行動だったから卑怯ではないと言うのが納得できない。
182無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:46
>>176
小早川は最善な行動をとってないよ
お前ホント馬鹿
百戦錬磨の島津とあんなのと比べるなよな
関が原は島津が西軍の指揮をとっていたら
勝っていたといわれているんだぞ
183無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:48
>>182
島津は最善な行動をとってないよ、ともいえるな。
お前ホント馬鹿。
184無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:49
島津の勇猛果敢さを理解できない馬鹿がいるな
卑怯者卑怯者ばっかりで人の話をちっとも聞かないし
島津は真田雪村の次に強くてかっこいいと思う
185無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:50
>>176
小早川秀秋は裏切り者=卑怯者=命を惜しみ名を惜しまぬ者=当時の武士の感覚では嘲笑の対象

島津義弘は誇り高い武人=三成なんぞに従うつもりはないが、裏切るつもりもない=命を惜しんでいるわけではないが
何よりも武名に傷がつくのは耐えられない=こんな戦で義弘公の首を取られては島津の武名に傷がつく
=そう思ったからこそ薩摩武士たちは命がけで義弘公の戦線離脱させることができた

日本広しといえど島津以外の武将率いる部隊にこんな真似が出来るだろうか?

当時の武将たちはその辺りを理解しているからこそ島津を賞賛し、
関ヶ原の最功労者であるはずの小早川秀秋は嘲りの対象にしたんだよ。
186無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:50
>>180
高橋紹運だっけ?
島津相手に寡兵で篭城して城兵ともに討ち死に
何か九州って男やねって感じの話が多いね
187無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:51
島津の卑怯さを理解できない馬鹿がいるな
勇猛勇猛ばっかりで人の話をちっとも聞かないし
島津は小早川秀秋の次にずるくてかっこわるい思う
188無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:52
>関が原は島津が西軍の指揮をとっていたら
>勝っていたといわれているんだぞ

もの凄い電波を発してない?
189無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:53
>>185
当時の感覚ではそうかもしれんが、
現代の感覚では卑怯。
190無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:54
>>185
どー見ても島津贔屓な解釈だよ、それは

つか島津を卑怯卑怯言ってる方も、もうちょっと冷静になろう
191無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:54
>>187
お前どこの厨房だ?
コピペ返しなんて卑怯な真似をするやつが
勇敢な島津を卑怯者扱いするなんて
真の馬鹿か歴史を知らない夏厨房だな
192無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:55
つーかレスつき過ぎ!
ここ4日で140もついてるぞ。
193無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:55
>>182
この口調は昔どこかで見た事あるぞ(ワラ

旗本子孫のコテハンはもうやめたの?
194無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:55
>>188
島津好きの島津に対する思い込みは、戦前の天皇に対するがごとく
195無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:56
>>189
現在の感覚でも勇敢だよ
卑怯なんて電波出してるのお前だけ
196無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:56
>>189
なんで?
現代の感覚でも決して卑怯ではないぞ
というか当時の戦を理解してないんじゃないのか?
西軍といっても、いわば独立国家の連合軍なんだぞ。
197七誌は七草粥:2001/07/27(金) 23:57
>164
貴久が鉄砲を合戦に始めて使用したのって何年かわかりますか?
198無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:57
177のいうとうり。
問題は早朝から粘りまくった他軍団と違い、東軍の攻撃であっというまに
消耗したことにある。
さらに東軍が大損害を受けたという話も聞かない。
(井伊・松平の話は有名だが)
199無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:57
強者には常に相対する立場のものがいるもの。
当然アンチ島津も存在するからね・・・。例えばある東北地方の人
とかはかなり嫌悪している。
日本史板でも、毎日ひたすら薩摩を罵倒中傷AAの嵐に頑張っている
スレもあるしね。

煽りに対して過剰に反応するのもどうかとおもいますが。
200無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:59
200
201無名武将@お腹せっぷく:2001/07/27(金) 23:59
すぐにアンチとか言う言葉を持ち出すのは
思考停止してる証
202無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:01
島津ファンの俺にとっては
不愉快なスレだな
煽ってるやつ東北人なの?
あそこの戦国大名ってたいしたのいないから
やっぱりただの僻みか
203無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:02
煽り、僻みとしか取れない...末期症状だね
204無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:03
>>180
それは討ち死に以上に寡兵で大軍相手に善戦した事の評価の方が高いとおも。
美談ったってそういう話が広く流布したのは武士道とはとかタコ話が舞い踊り始め
た江戸自体の事だろうしな。
205無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:03
夏厨房うざい
206無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:04
ここいらで、話を本筋に戻しませんか?
207無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:05
>>202南部は強いぞ
208204:2001/07/28(土) 00:05
江戸時代だった
209無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:08
戦神島津義弘、智謀、勇将、謀将をあわせ持つ数少ない名将。
一族に多くの逸材が傑出している為彼の名声は近代に遠く届かず。
しかし、戦において最高のプロフィッシヨナルであることは余人
疑うべからず。
210無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:08
俺2ちゃんに来てはじめての夏迎えたけど
本当に夏厨ってくるんだなー
新鮮だった
211無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:09
>>210
どれが夏虫?
212無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:09
>>202
アンチ島津=東北人って決め付けは卑怯。
このことから島津=卑怯って言われるぞ。
213無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:11
>>209
戦前の天皇への信仰にそっくり。
214無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:12
関ヶ原敗戦後、島津のみ領地安堵の理由をいまだ疑問
215無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:12
>>211
島津マンセーと卑怯が口癖の東北人
216無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:15
>>197
岩剣城の戦いで日本で初めて鉄砲を使用したそうだよ
調べてみたら、1554年だった。
217>209:2001/07/28(土) 00:17
>>213 確かに。義弘には並ならぬ共感を感じる。
218無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:18
>>217
同士よ。
俺も島津好きだよ〜
219無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:19
結局世間の評価は島津贔屓
220無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:20
>>214
関ヶ原での前退却が見事だったので、島津を味方にしたかったのだよ
221無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:21
粘着逝っちゃったね
ちょっと面白かった
222>209:2001/07/28(土) 00:21
>>218
幕末の島津はあまり好きじゃない。
島津と云うより、家久、義弘は格別。
223無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:22
>>221
まだいるよ。
224無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:22
なぜあんなに島津を嫌うのか理解できないよ>粘着くん
225無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:23
>>222
幕末の島津も面白くて好きだよ
幕末は勇敢さよりも策略が鬼畜っぽくておもろい
226無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:23
ところで誰か177・198について意見はないのか?
自分も不思議だ。<短期間で壊滅
227>209:2001/07/28(土) 00:25
>>220
ようするに、島津領を没収してしまうと関ヶ原退却戦においての島津の名声を
考慮せず勝将に疑惑をもたせてしまうから?
228無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:25
なぜあんなに島津を慕うのか理解できないよ>粘着くん
229無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:25
>>226
そりゃあ、寡兵部隊が周りを敵に囲まれて撤退しているんだから壊滅するのも無理ないんじゃないの?
230無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:26
>>228
このレス自体粘着
231無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:27
>>230
このスレ自体粘着
232無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:27
東北人の粘着気質がよくわかるね(w
233無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:27
>>220
また、徳川政権安泰を急ぐには、さらに九州の端っこで戦争やってる
ひまは無かったのでは?
厳封処分などを言い渡しても島津が素直にきくとはわかならいし。
あまり島津家を追い詰めすぎてはやっかいなので、徳川家は得策を
とったものと考えられます。
234無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:28
義弘は摩利支天の再来とまで言われた。
235無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:28
>>231
スレタイトルから見て
ここは島津ファン専用のスレでいいんじゃない?
236無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:28
九州人の粘着気質がよくわかるね(w
237無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:29
最初に他人を粘着扱いする奴が、大抵粘着
238無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:30
>>236
粘着発見
本人自覚あるのかな
239無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:30
つーか、俺九州人じゃないし(笑
240無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:30
コピペ返しでしか対抗しない奴が粘着だろ
普通
241無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:31
つーか、俺東北人じゃないし(笑
242無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:31
>>238
236もだが、君もかなりの粘着だと思うが
自覚無し?
243無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:33
徹底放置でいきましょうよ。
244無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:33
>>240
お前のような粘着にはコピペ返しで十分
245無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:34
島津ファンのスレに混入して
荒らす東北人だけが粘着じゃねーか?
246無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:35
ああ、もうこのスレ終わりかな
夏はこれだから・・・
247無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:35
>>242
好きなものを貶されて怒らない人はいないでしょ?
そんなことも分からないで貶している粘着と同一視するなよ
あなたは観察力が足りないか思考力が足りないかのどちらかです
248無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:35
まだ東北人っていってる奴だけが粘着じゃねーか?
249無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:35
>>229
壊滅に近い状態に追い込まれたので(から)、
家康本陣に突っ込んだんだと思います。
250無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:36
いったい全体、島津嫌いの東北地方ってどこよ?
251無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:36
●板およびスレッドの占有は削除対象です。
スレの占有はルール違反ですw>>245

ついでに、自分の意にそぐわないレスを荒らしとは言いません。
252無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:36
>>248
ならどこだよ
253無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:37
>>247
あなたは観察力が足りないか思考力が足りないかのどちらかです
254無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:37
>>249
そんなことしていたら島津義弘は討ち取られていでしょう
考えが甘いです(笑
255無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:38
>>251
粘着
256無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:38
>>242
貶してるのか批評してるかは人それぞれ
誉めてばっかりが好きなら、自分で個人サイトでも作りなさい

自覚がない上に思考力もないみたいですな
257無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:39
>>252
鹿児島
258無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:39
あーあ
夏厨大会になっちゃった・・
賢い島津ファンはもういくべ
259無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:39
>>256>>247へのレスね
260無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:39
>>253
カッコ悪い、どうせコピペ返しするなら中途半端なことするなや(藁
261無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:41
馬鹿の一つ覚えの島津ヲタは哀れだねぇ(ワラ
262無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:41
>>257
鹿児島のどこ?
それと君の好きな戦国大名とその理由は?
263無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:42
>>256
卑怯、卑怯の連呼が批評ですか?
驚きですね、あなたあまりの暑さで脳みそ腐ってるんじゃないですか?
264無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:42
コピペ返しの粘着は馬鹿の一つ覚えw
265無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:43
>>252
秋田
266無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:43
関ヶ原の島津は誉められたもんじゃないけどな。

最初から最後まで動かず、疲労した相手に敵中突破を敢行しただけ。
267無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:44
>>257
本当か?
フシアナさんで晒してくれよ
268無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:44
>>263
勇敢、勇敢の連呼が批評ですか?
驚きですね、あなたあまりの暑さで脳みそ腐ってるんじゃないですか?
269無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:45
島津にもっと兵がいたら
おもしろい見せ場があったろうに・・
270無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:45
>>252
埼玉
271無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:46
>>263
島津は凄い凄いの連呼
どう凄いのか見てみれば、贔屓の引き倒しの解釈

相手の方と変わらないように思えるが?
で、反論はそこしか出来ませんか?
272無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:47
>>268
卑怯卑怯も批評になってないよ
だから夏厨大会って言ってるじゃん・・・
273無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:48
中傷合戦ならこっちへどうぞ、毎日やってる。
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=995196632
274無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:49
島津が嫌いな人ってそれなら
どの戦国大名がいいと思ってるの?
275無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:49
島津の1500はほとんどが戦闘員で義弘の忠実な部下の強豪ぞろい。
他軍団は5〜6割が非戦闘員。

つーわけで実質4000人ぐらいの戦闘力だったと思う。
276無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:49
>>266
ねぇねぇ漁夫の利って言葉知ってる?
277無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:49
島津強かった!

幕末に。
278無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:50
島津を評価したら嫌いと言われる
279無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:50
>>271
「贔屓の引き倒し」って意味わかって使ってるの?

>で、反論はそこしか出来ませんか?

反論って、反島津の書き込みが無意味なものしか
ないのに、どんな反論が出来るっていうんだよ?
スレを本当に読んでそんなレスしているとしたら、、あんたも本当に低脳だと思うよ
280無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:51
>>276
島津のどこに「利」があったんだ?
281無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:51
>>277
幕末の島津はおもろいエピソードが
たくさんあるよね
282無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:52
>>280
少なくとも武名は轟いた
283無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:53
>>281
平和だった江戸中期にもそれなりの面白さがあるよ。
284無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:54
どうせ幕末に薩長にこてんぱんにされた
会津とかが無意味な書き込みでいやがらせしてるんじゃない?
不必要に粘着だし
285無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:54
400年も前の事が中心なのにやたらレスが多いと思ったらこんな事になっとったのか(;´Д`)
286無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:54
>>279
このスレの島津評は、どう見ても贔屓の引き倒しの評価しか与えてませんが?
まともな批判に島津贔屓の解釈で答えたレスしかありませんしね

つか君は相手を罵倒せずにはいられないみたいだね
287無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:55
島津最強!こんなこともわからん奴は素人
288無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:56
>>286
つーか
反島津って人の話を聞かない
289無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:56
それが「漁夫の利」?>>282
日本語勉強して来い(藁
290無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:56
>>285
1さん?
291無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:56
>>286
このスレの中にまともな批判があるちゅうなら、そのレス番号示せよ
低脳!
292無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:57
コピペ返しのし甲斐のあるレスがいっぱい。
293無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:57
>>291
その前に島津のまともな批評がない
294無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:57
会津人は頑固で粘着質だよう。
100年以上も昔のことまだ恨んでるなんて。
会津が勝ってたら日本の近代化が遅れてたのになあ。
295無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:59
>>292
逃げたか
お前こそ卑怯だな(藁
296無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:59
島津好きがいるのはわかったが
島津好きは相手をどうしても東北人にしたいらしい
297無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 00:59
>>293の間違い
逃げたか
お前こそ卑怯だな(藁
298無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:01
>>293
ほらほら、お前の言うまともな批判とやらを示せよ(藁
299無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:01
薩摩人は頑固で粘着質だよう。
100年以上も昔のことまだ恨んでると思っているなんて。
薩摩が勝ったから日本の近代化が遅れたのになあ。
300無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:02
>>296
島津は日本で認められてるからな
あえて反発するとしたら九州か東北だろ
301無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:03
まともな批評がないのに、まともな批判がある訳がない
極端に片側に傾いたレスには、それ相応のレスしか帰らない

つかホントに罵倒しかできんようだ
302無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:03
>>286= >>293 は
いいかげんなことしか言えない低脳くんと判明しました
303無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:03
>>299
ほらこの根性
みんな見ろよこの粘着さ
この執着心は一体・・
304無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:04
島津ヲタの粘着振りは凄い
305無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:04
スレタイトルが反発を誘っている。
306無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:04
>>301
つーか、まともな批判って言い出したのはお前のほうだろが(w
307無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:05
>>296
島津支持層vs不明
の状況が続く、どちらの支持者か明確にしてください。
なんとなく嫌い、というのは無いはず。
相対する立場にあるから反対意見もだすのでしょう?
308無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:06
島津バカは数多くレスすれば勝ちと思ってるな(ワラ
ウソを数多く言えば真実になると思ってる韓国人と同じだ。
309無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:07
>>307
島津嫌いで十分だろ。
310無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:07
>>308
それはお前の方だろ?
こっちは人数が多いからレスが多く見えるだけ
お前は一人でよく頑張ってるよな(藁
311無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:08
>>308
どこの人?
で戦国大名で誰が好き?
でその理由は?
逃げるなよw
312無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:08
>>310
それはお前の方だろ?
こっちは人数が多いからレスが多く見えるだけ
お前は一人でよく頑張ってるよな(藁
313無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:10
どっちもコピペ返しされないようにカキコ内容を考えた方かいいよ
314無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:10
戦国時代の人物を好き嫌いで判断してるヴァカがいるw
315無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:11
コピペはいいからお前が>>286書いてるまともな批判とやら
のレス番号示せって(藁
逃げてばかりいないでさ(藁
お前って本当に卑怯者だよな(藁
316無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:11
ここは戦国時代の人物を好き嫌いで判断する所だが。
317無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:11
島津嫌いは戊辰戦争の賊軍の末裔だろ?
可哀想じゃん妄想だけが楽しみなのに
そんなにいじめてさw
318無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:12
317こそ妄想の見本
319無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:13
島津とか、信玄とか、謙信とか、幸村とか、
田舎で派手なワンマッチしただけで
「強い」と言う話になってる奴らはファックユーだな。俺は。
320無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:13
だから早く>>286で書いてるまともな批判とやら
のレス番号示せって(藁
逃げてばかりいないでさ(藁
お前って本当に卑怯者だよな(藁
321無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:13
コピペはいいから>>315書いてるまともな批評とやら
のレス番号示せって(藁
逃げてばかりいないでさ(藁
お前って本当に卑怯者だよな(藁
322無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:14
で島津嫌いはどこの人?
もう逃げないでね
君の名誉のためにも
323無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:14
>>319
おいおい、島津は国際派だよ
324無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:16
>>319

伊達政宗もな
325無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:17
326無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:17
>>322
そんなこと言っても無駄、こんな卑怯者に名誉なんてあるわけないさ(藁
どうせどこの人間なのか名乗る勇気もない蛆虫のような奴だと思うよ(藁
327無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:18
強い島津軍は10万の軍勢を率いて700人そこらの岩屋城を落せませんでした
328無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:18

フレッツと、YBBに、so-netも参入だよ?
他にも数社が今秋ADSLに進出するっていう話じゃん?
どうすんのよ、皆は?
329無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:18
よく万引きしない人に勇気がねえなと言う人がいますね。
それと同じですね。
330無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:19
自作自演が凄いな
331無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:19
>>327
でどこの人?
もうそろそろ時間切れだよ
言えなきゃ卑怯者の蛆虫
332無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:20
>>327
あの時の島津軍の内容が急激に膨れ上がった他国人ばかりだった。
士気も低いので義久も迷いに迷っていた状態。
だから弱かった
333無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:20
>>331
人に居場所を尋ねるときは、自分のIP晒して言えば?卑怯者君(w
334無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:21
なんにしろ賑やかなスレですな
335無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:21
>>329
ばか?全然違うじゃん
336無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:22
>>329
どこが?w


反島津に告ぐ
はやくどこに住んでるか言えよー
屁理屈こねて逃げる気かー?
337無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:22
おれはフレッツで様子見るよ。
338無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:23
>>333
で?
早く言えよ
卑怯者
339無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:23
>>335
2chでIPさらすことって本当に勇気があるって事か。
340無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:23
千五百の立花宗茂に追撃されて泣きながら撤退
341無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:23
>>337
あっ俺もしばらくフレッツ。みかかの対応に期待。
342無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:23

反島津に告ぐ
はやくどこに住んでるか言えよー
屁理屈こねて逃げる気かー?
343無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:24
342は粘着?
344無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:25
でも結局は落してるだろ>岩屋城
345無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:25
他人に言え言えうるさいが、自分は恐くて言えませーん
346無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:25
自分の支持するものに罵声をあびせられる事を恐れているのでしょう。
347無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:25
値下げしますで3800円は無いよな>みかか
348無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:26
>>328
他に参入予定のISPはどこですか?
349無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:26
おい! 喧嘩しないでコレを読め!

ある日ドラえもんは止まってしまい、のびたはどうすることもできず
ドラミを呼んで治してもらおうとするが、ねずみにちぎられた耳に
予備電源があったため、バックアップができず再起動するとドラえもんは
これまでの記憶をすべて失ってしまう。
それでもいいかと聞かれたのびたはドラえもんを再起動してもらうことを拒否し、
必死で猛勉強をはじめる。
その日からのびたは変わり始め、一流大学に入学し、静とも結婚し、研究者として
成功を収めた。家の研究室には静にさえ立ち入り禁止を命じ、毎晩遅くまで
こもりながら何かを研究している様子だった。
ある日、のびたは静を研究室に呼んだ。そこにはとまってしまったドラえもんがあった。
ゆっくりとドラえもんの起動スイッチを入れるのびた。
ゆっくりと動き出すドラえもん。「のびた君、宿題やったの?」
そう、実はドラえもんの作者はのびただったのだ。
350無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:27
>>347
確かに、よけいに非難の的になってるじゃん。
351無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:28
結局出身地を言わない
粘着反島津
卑怯者
352無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:28
353無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:29
秀吉に調子コイて喧嘩を売ったけど
攻めてきたら、土下座してゴメンナサイ
354無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:30
>>351
同意
所詮卑怯者の遠吠え
355無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:30
>>351
257とかは違うのかな
356無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:30
荒れた心が、スレを荒らす!
論じる前に先ず心をきれいにしろ!

ある日のびたはいつものように友達と遊んでいた。木に引っかかった
ボールをとろうとして木に登り、いつものように落っこちた。
しかし打ち所が悪かったのかいつまでも起き上がらない。
病院に運ばれ、「このままでは一生植物人間のままだ」と告げられる。
しかし貧乏な野比家は手術代を払うことができない。
みんなはドラえもんの道具に期待したが、未来を変えてしまう恐れが
あるため生命に関わる道具を過去で使うのは禁止されていた。
みんながのびたの病室で悲しむ中ドラえもんは一人未来へと急いだ。
そしてありったけの道具を売り払い、その金を持って宝石屋へといき、
世界で一番大きな宝石を買うとのびたの時代に戻り、それを宝石店で売って
手術代にした。その宝石店こそ未来でドラえもんが宝石を買った店だった。
手術が始まり、ジャイアン、スネオなどみんながのびたを応援した。
しかし、手術は失敗した。のびたは目を覚ますことなく植物人間のまま。
パパとママは疲れきってどこかおかしくなってしまったようだ。
ドラえもんは、のびたを背負うと、「のびた君、とっても楽しいところに行こう」
そういうと、たった一つだけ残しておいたどこでもドアをあけ、
その中に踏み出していった。どこでもドアの向こうには、天国の風景が広がっていた。
357無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:31
確かに不思議だよな〜
武田信玄や上杉謙信、北条、伊達スレとかあるけど
島津スレのような無意味な貶めレスなんて見当たらないよな?
一人だけ島津に異常な反感を持っている粘着がいることは確かだな
358結論:2001/07/28(土) 01:31
名古屋>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>その他
359無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:32
>>357
いっぱいあるぞ
360無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:32
>>358
お国自慢板に帰れ
361無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:32
例え出身地を書いても信じられんだろ。
俺は愛知
362無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:33
>>356
こっちの話は、なんかブルーになる・・・
>>349派だな、俺は。
363無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:34
>>353
勝者が敗者に媚びるような態度を取って
低姿勢だったのは秀吉の方
まあ、その辺が秀吉の偉いところなんだけどね。
364無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:34
案外島津側も一人で、反島津側も一人だったりして。
365無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:35
>>363
捏造すんなよ。
366無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:36
>>364
島津側は俺も含めてもう一人いることは確か
で、お前はもしかして反島津?
367無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:36
>>364
それ不気味だぞ・・
368無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:37
>>365
捏造じゃないよ
お前も物を知らないなあ
369無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:37
>>349
>>356
捏造すんなよ。
370無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:37
わかったよ。反島津厨房はカンコックだろ。
島津の名前を聞いただけで恐れおののいたほど散々に打ち破られたご先祖様の
恨み(ハン)をいまこそ晴らすニダヨ。
こんな所だろ?
371361:2001/07/28(土) 01:37
出身地を言え言えと、いってた奴は無意味なことをしていたね。
372無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:38
川角太閤記を読め
373無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:38
島津側は最低3人はいると思われ
374無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:39
すると、ADSLの話もドラえもんの話も
二人でやってるのか。
大の仲良しだね!
375無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:39
>>370
お前はハングル板に帰れ
376無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:40
反島津は一人だね
377無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:40
>>370
そんなのが島津側の本心なのか。
よけい嫌われるぞ。
それともあおり?
378無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:40
絵本豊臣勲功記にはばっちり島津義久・義弘兄弟が剃髪して土下座してる絵が載ってるな
379無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:42
>>378
それこそ勝者の捏造
380無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:42
一人か、多数か問うことも無意味だね。
証明方法があるかもしれんが、そんな面倒なことは普通しないし。
381無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:43
>>380
反島津はっけん!
ひとりでよく頑張った!
感動した!
382無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:44
強い島津は、2万余を率いて高城の後詰に向かい
宮部継潤の1万5千と根白坂で戦って完敗
383無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:44
みんな何言ってんだ
信長・秀吉を出した尾張が最強だ
>>378
流石愛知県民
そのとおり
384無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:46
>>382
お前の好きな戦国大名は?
島津ほどの実績があるのか?
385無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:46
>>379
秀吉が島津に低姿勢だってのも、江戸期から
どっちが捏造だろね
386380:2001/07/28(土) 01:47
>>381
馬鹿発見
387無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:48
>>385
秀吉は日本最強だ
島津は九州最強だ
尾張は偉い!
388無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:49
>>381
小泉さん支持率落ちてきたね・・・
みかかの光路線は、森さんの指示による物だったけど
早く光がメインになってフレッツADSLが1500円ぐらいに値下げになって欲しいものだよね。

では島津論争再開です。
389無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:50
しかしこのスレ
粘着のおかげですごい伸び率だな
390無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:51
両方に粘着つーか、基地外がいるのは理解した
391無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:51
>>388
まだタケェYO!
ISDN 500円
ADSL 950円 にしないと>フレッツ
392無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:53
今夜は寂しくないネ!

チャット楽しいナ♥
393無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:53
>>390
反島津はひとりしかいないから100パーセント基地外ということだね
394無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:53
>>390
たった一人反島津は基地外か
395無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:53
>>391
同意、フレッツはISP料金を含まないから、それぐらいにしないと。
396結論:2001/07/28(土) 01:55
十 強い!強すぎるぞ!島津一門
      ↓
十 強い!強すぎるぞ!島津一門(地域限定)
となりました
397無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:55
>>391
>>395
YBBに勝つには、そこは重要だね。
398無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:57
島津は国際的に強さを認められています
中国人や韓国人は島津の名前を聞いたら震え上がります
399無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:57
「ドラえもん最終回あれこれ」は不評だったのかな・・・

無視されすぎて泣けてきた・・・
400無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:57
Contre vous tout prets a se battre
A regret s'armant contre nous.
Qu'un sang impur abreuve nos sillons!
401無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:58
>>398
いつの時代の中国人や韓国人だよ?
402無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:59
中国人や韓国人には勝てても尾張には勝てませんでした

尾張はアジア最強決定!!
403無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:59
>>399
べつに。
ふうん・・・って感じだった。
404無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:59
今夜は島津祭りだ!ワッショイ!
405無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:59
おー、きっと現代の中国人や韓国人も震え上がるぜ
406無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:59
Es freute mich sehr,Sie kennenzulernen.  
407無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 01:59
>>400
hahahaha!
408無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:00
>>399
あれはあれで楽しめましたよ。
そんなに気を落とされずに・・・・
409無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:00
>>406
oh〜
410無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:01
>>402

尾張っていうか他地方の連合軍だろ。
純粋に尾張VS薩摩だったら薩摩の勝ちじゃん。間違いなく。
411無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:01
>>408
ありがとう・・・(嬉泣
412無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:03
>>410
言えてるな
島津も九州制覇して10年くらい経ったころに豊臣と戦っていたら
勝てたと思うよ
新しく加わった他国人が多いとどうしても士気が低くなるからな
413無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:04
>>410
馬鹿すぎて言葉もでんよ...。
414無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:04
薩摩が尾張ほどの石高があれば、なあ
415無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:05
愛知は天下人の名産地
なんと3人も輩出した
九州と東北は何人天下人を出しましたかなw
416無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:07
戦国時代強くて有名だったのは
三河兵・薩摩隼人・越後兵
417無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:09
>>415

それは尾張が日本の中心地にあったから。
人物そのものの器量という観点から見ると島津兄弟は天下人に耐えうるものがあったと思う。
418無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:10
愛知の3人の天下人って、後の2人はいわば同じ政権を引き継いだだけじゃん
それまでカウントして3人というのはフェアじゃないだろ
419無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:12
Freude,schoner Gotter funken,Tochter aus Elysium.
Wir betreten feuer trun ken Himmli sche,dein Heilig thum.
Dine Zauber bin den wieder,was die Mode streng getheilt,
alle Menschen werder Bruder,wo dein sanfter Flugel weilt.
420無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:13
織田信長は凄いとしても豊臣秀吉、ましては徳川家康なんて全然大した武将じゃないように思える
421無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:14
器量なんてもんは、なれたからあったと言える
なれなかったのにあったと言うのは妄想もいいとこ

そんな事言い出したら誰も彼もなれるな
422無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:14
>>418

確かになー。全然土俵が違う。
423無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:14
ウンコ漏らしてカッコ悪いしね(藁
424無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:16
大した事がないねぇw

この発言見ただけで馬鹿さ加減がよくわかる
425無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:16
Nous entrerons dans la carriere,
Quand nos aines n'y seront plus
Nous y trouverons leur poussiere
Et les traces de leurs vertus.
Et les traces de leurs vertus.
Bien moins jaloux de leur survivre
Que de partager leur cercueil,
Nous aurons le sublime orgueil
De les venger ou de les suivre.
426無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:17
だって、ウンコタレなんだもん、家康って(藁
くさいじゃん
427無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:18
>>419
いや、いちがいにそうとは言えんぞ。
428無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:18
>>425
それはそうかもな・・・
429無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:21
まあ
尾張人の俺に言わせれば
尾張以外は逝ってよし!
真田雪村はちょっと好きだがなー
430無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:23
鎌倉時代から所領を維持しつづけたのは南部と島津

理由は最南端と最北端
431429:2001/07/28(土) 02:26
でも尾張は薩摩藩に感謝はしてるからな
薩摩義士ってやつだ
悪く思わんでくれ
432無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:28
>>431
この百姓が!
俺も岐阜県人で島津姓なんだよ
だれだけ島津家が苦労したと思っているんだよ
433島津の正体:2001/07/28(土) 02:36
このスレを読んで島津の正体がわかったよ。
1 荒稽無稽な史学から否定されてるような誇張をデッチアゲて信じる。
例 八千で二十万の明軍を撃破した等

2 他人に感謝することがない。好運を自分たちの実力だという。
あるいは全部、自分たちで成し遂げた、あるいは利用したという。
例 石田三成や羽柴秀長への感謝や秀吉・家康の寛大な措置や仲間への感謝がなく、
皆さんのおかげです的な感謝がない。領土が削られなかったのは義久の政治力のおかげだとかいう主張
やマグレでの李スンシン撃破など。
朝鮮役で日本軍が帰れたのは自分たちのおかげ。

3 悪い事は他人のせいにする。
はじめから親秀吉派で義久・義弘を説得していた家久が急死したのを
秀長が毒殺したと主張したり(毒殺なら義久らが殺したんだろ)、伏見城入城拒否をデッチアゲだり、
朝鮮で民間人を殺害して耳鼻をそぎ戦果を水増しした。

4 人の話しを聞かない
このスレを見ればわかる。
434無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:37
個人的には
信長>秀吉>家康>真田>島津=武田=上杉>毛利>>>>ちょうそかべ>>>>>>>>>>>>>>>>>伊達
435無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:38
>>433
人の話を聞かないのは、どう見ても反島津派だと思うが
436無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:39
>>433
人がいなくなってから書き込んで
一人舞台?
437無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:40
>>434
それって、強い順?それとも好きな順?
438429:2001/07/28(土) 02:41
島津は強いとは思うよ
少なくても西国で最強なのは間違いない
東北よりは好きだね
439429:2001/07/28(土) 02:42
>>437
好きな順
440無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:43
>>439
ふむ。好きな順なら仕方が無いな
441無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:45
痛い!痛すぎるぞ!433!
442無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:52
ひまだったので419を訳しました。
喜び、美しい神々、天の楽園の娘さん!
我々は情熱にあふれて、あなたの聖なる場所に(近よる、又は入る)
あなたの魔力は時が厳格に切り離したものを再度結ぶ
あなたの柔らかい翼が滞在する所で、全ての人は兄弟となる

なんでしょうね?
尚、425の方はフランス語かイタリア語だと思いますが、そちらは
わかりません。
443無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:56
>>433
別に朝鮮で民間人を殺害して鼻をそいで塩漬けにして日本に
送って、戦果水増ししたのは島津だけではないたろう。
流行りみたいなものでみんな、やってるよ。
立花なんて5万もの鼻を送って来たんだぜ。
444無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 02:57
>>442
やめてくれよ・・・
こんな夜中に
1人で読むと妙に怖い

エロい意味なのかな?
445422:2001/07/28(土) 03:09
>>444
これはこれは失礼(w
あれはドイツ語ですが、難しい単語とかが入ってたので
つい訳してみたくなったのです。
ちなみに>>406もドイツ語ですね。
「あなたに会えて、とてもうれしい」という意味です。
>>400はわかりません。
なんかバイリンガルなスレになってますね(w
446442:2001/07/28(土) 03:10
↑442でした。
447無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 03:17
エロい意味でしょうね。
448無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 07:37
おはようございます。
早速ですが、島津は卑怯。
サツマイモでも食ってろでごわす。
449会津士魂:2001/07/28(土) 07:41
今まで島津を卑怯者呼ばわりして煽ってきたのは
会津藩士の末裔の俺だ!
会津の兵法恐れいったか!!
我が先祖の恨み思い知れ!!!
450無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 07:43



=========終了==================
451無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 08:12
朝もはよから煽りごくろーさん。ぷぷぅ〜。
452無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 08:46
朝もはよから煽りへのレスごくろーさん。ぷぷぅ〜。
453無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 10:46
なんとなく嫌いなんだよね、しまず
454無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 11:13
>>453
俺もなんとなくお前がきらい。
455松永久秀:2001/07/28(土) 12:04
久しぶり覗いたが・・・(益々厨房増殖中だのぉー)
島津殿!わしと同盟しませんか?
この板は、わしがおらぬと何も出来ないヒッキー
の集まりですからのー
456無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 12:15
うー・・・・ん
好きな大名というはあるが、嫌いな大名というのはあまりないなあ
なぜ、そこまで島津を嫌いなんだろう?
457松永久秀:2001/07/28(土) 12:18
>>456
それは、銀河皇帝の傘下案を拒否してるからじゃよ・・・・
(今なら間に合うぞー)
458無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 12:33
島津最強だよ
俺のゲームの中じゃ織田も豊臣も島津にひれ伏していたから
459無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 12:53
>458
こういう奴が一番困る。
460無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 13:16
>>447
いや、>400&>425はフランス語だが、エロい内容ではない。
すんごい事が書いてある。
461無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 13:20
>>460
なんて書いてあるんですか?
エロ以外で「すんごい」が考えられません(貧。
教えて下さい。
462無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 13:30
俺の戦略

ゲーム開始直後、島津兄弟を中核とした大部隊で海上より近畿地方に遠征する
近畿地方の本城を落し、そこを本拠に領土を広げる
手薄になった九州はひたすら専守防衛、この方法で信長よりも先に征夷大将軍任官をめざす
463無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 13:40
>461
>400が
集まれ、君たちに害をなすものと戦うために
俺達に敵対した事を後悔させてやるぜ
汚れた敵の血で、俺らの土地を潤そうぜ
>425が
俺達は塹壕にこもる 兄貴たちがやられちゃた時
そこで俺達は彼らの死体をみつけるだろう
そしてその勇気をしるしも×2 俺らは彼らが生きて戻るより
その棺をかつぐことを誇りにおもうぜ 俺らはその誇りを共有するぞ
仇をうって、その意思をつぐのだ

だいたいこんな意味。(少々間違えてるかもしれないが)
非常に危ない内容だな。
464無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 13:42
なんの詩なんだ?
なぜこんな詩を貼り付けたんだろう?
465461:2001/07/28(土) 13:49
>>463さん
ありがとうございます。
フランス革命のなんですかね?
この詩も不気味だけど、>464さんの言うようにその理由も不気味だ。

こうして不気味がらせる事貼った奴の狙いなら、俺に対しては成功。
466無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 13:52
韓国人の島津家に対する怨念と見た
467無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 13:57
>>465
いえいえ。
フランス革命の詩はLa Marseillaisだね。
出だしがAllons enfants de la PatrieLe jour de gloire est arrive !〜
こんなんだったからちょっと違うけど、一体なんだろね。
468無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 16:50
>島津は、2万余を率いて高城の後詰に向かい
>宮部継潤の1万5千と根白坂で戦って完敗。

主力の宮部隊は他の近江勢とともに4000人。
469無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 17:09
それより関が原で持ちこたえられずに壊滅した
事情を教えてくれ。
>>177が言うように壊滅してから有名な退却をしたようだが、
なぜ半日も粘った石田みたいな防御ができなかったの?
470無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 17:26
>>469
それはやっぱり退却する部隊は脆いという戦争の常識のような気がするが
471無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 17:29
 味方は退却で減っていくし敵は追撃でどんどん増えるとなれば…。
472無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 17:32
きちんと陣形を整えて戦っている部隊と
退却戦ではおのずと違う
473無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 17:41
また日本史板が荒れてたぞ
まったく東北人ってのは陰険だねえ・・・
474無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 17:52
 島津歳久は島津貴久の三男として天文六年(1537)十月七日、伊作亀丸城に生を受けた。兄は二人、四歳年上の義久、二歳年上の義弘である。末弟の家久が生まれたのは歳久誕生からちょうど十年後の天文十六年(1547)であった。
 義久をはじめとする島津四兄弟は、祖父日新斎と父貴久の薫陶を受け、徐々に並々ならぬ将器の片鱗を見せ始めた。祖父である日新斎は、四兄弟がそれぞれ持つ才能を見抜き、それぞれに批評を残しているが、歳久に対しては次のような評価をしている。
「終始の利害を察するの智計に並ぶものなし」
 政治的平衡感覚に優れた義久、摩利支天の再来と謳われた義弘、優れた戦術指揮官であった家久とは全く異なった才能を日新斎は歳久に見い出していたようである。やがて歳久は「知謀第一の人」と呼ばれるほどの知将として成人した。日新斎の見立てはまさに正鵠を射たものであったと言えよう。また、戦場における武勇も相当なものがあったといわれる。
475無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 17:52
新たに島津家の当主となった義久は器量優れた弟達に支えられ、天正五年(1577)には父祖以来の悲願であった三州統一を果たした。さらに天正六年には日向の耳川に侵攻して大友宗麟率いる大友家と対決し、この一戦で大友家に戦死者二万という壊滅的な打撃を与えている。このとき歳久は兄義弘の副将として実戦の指揮を取った。 耳川の合戦は、島津家を九州統一に向けて大きく飛躍させる切っ掛けとなった。肥後から筑後へと侵入した島津軍は天正十二年(1584)、肥前島原の合戦において「東肥の鷹」龍造寺隆信を討ち取り、ここに九州に辛うじて保たれていた勢力の均衡が崩れた。島津家の独走が始まったのである。天正十四年(1586)、島津軍は九州統一の総仕上げとして大友家の本拠地である豊後に侵攻を開始した。
476無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 17:53
しかし、この豊後侵攻は意外な方面からの敵を相手にすることになった。時の関白、豊臣秀吉である。大友宗麟からの救援要請を受けた秀吉は島津家に停戦命令(国割案)を出した。しかし、島津家はこれを拒否。翌天正十五年(1587)、豊臣方の兵二十五万の侵攻を招くことになってしまった。
 この時、秀吉との決戦を主張する重臣の中で唯一反論を唱えたのは歳久ただ一人であった。歳久は冷静に島津家と豊臣家の戦力を分析し、島津軍が如何に強悍であったとしても到底秀吉率いる大軍には勝てないことを見抜いていたのである。
 しかし、歳久の願いも空しく秀吉の九州侵攻は始まった。開戦当初は強硬策を展開していた義久であったが、根白坂砦の合戦で敗北すると弟や重臣に断りも入れずに独断で秀吉への降伏を決意した。剃髪して出頭した義久の手際を秀吉は誉め、三州を島津家に安堵したのである。
 だが、開戦前まで穏健派であった歳久は、義久の屈服後態度を豹変させる。降服に反対して居城である宮之城に籠って秀吉の元にも挨拶に出向かず、さらには領民を煽動して豊臣軍を険路に案内させたり、家臣に山林で秀吉の駕篭に矢を射込むよう命じたりしたのである。この態度の豹変の裏には、あまりにも腰砕けな兄の降伏に対する腹立たしさが多分にあったのかもしれない。また、末弟の家久が豊臣秀長に降伏した直後急死し、毒殺されたという噂が立ったことも歳久の秀吉に対する不信感をかきたてるに十分な理由であっただろう。ここに義久の家督相続以来一致団結を誇った島津四兄弟の結束は崩れた。
477無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 17:53
義久の降伏によって島津家は存亡の危機を乗り越えたものの、家中には降伏を潔しとしない不満分子が数多く存在していた。実戦兵力を十分に残しながら義久が秀吉に屈したことに不満を持つ人物は地頭や侍大将など、相当数存在したのである。彼らは、病と称して宮之城に引き蘢り未だ秀吉に拝謁していない歳久へと心を寄せるようになっていったのである。
 そして天正二十年(1592)年、ついに不満分子の怒りが爆発した。秀吉が明国征討と称して朝鮮へ出兵した直後、地頭職にあった海北国兼、田尻但馬、伊集院三河を筆頭とする叛乱兵二千が秀吉討伐を叫んで肥後の八代城と佐敷城に攻め寄せたのである。後に海北一揆と呼ばれる叛乱の勃発であった。
 この時義久は名護屋の陣中にあり、義弘は朝鮮に渡海していた。突然の叛乱勃発の報に接し、普段沈着冷静な義久も驚愕したと伝えられる。海北らの叛乱は当然成功するはずもなく、残兵を率いて薩摩へと退却してきたところを義久の命を受けた島津兵が国境付近で迎え撃ち、全滅させてしまった。しかし、問題が一つ残った。叛乱軍2千の中に、歳久の家臣が三百名も参加していたのである。
478無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 17:54
歳久が直接海北一揆に関与していた証拠は全くなかった。だが、歳久は九州出兵以来、秀吉に対して抵抗し続けた過去がある。そのような危険人物を秀吉が容赦するはずもなかった。叛乱鎮圧のために一時帰国していた義久に対して、秀吉から歳久討伐令が下ったのである。
 若年の頃から数十年、自分を支え続けた弟を討たねばならなくなった義久はどれほど苦しんだことだろう。だが、権力者秀吉の命令は絶対である。義久は事情を伏せた上で歳久を鹿児島へと呼び寄せた。歳久は道中事情を察知、家臣百名と共に宮之城へと帰還しようとしたが、すでに帰路は義久の兵によって遮られていた。やむなく歳久は、桜島を望む吉野台地に上陸し、急ぎ陣を張った。しかし宮之城との連絡はすでに断たれ、付き従う兵は僅かに百。そこへ義久は五百の兵を送り込んだのである。
 天正二十年七月十八日、義久の率いる本家の兵五百は、歳久勢に対して一斉攻撃を開始した。歳久は戦闘開始に先立ち、
「我太守に向つて弓引くに非ず、君臣武勇の本分を以て暫時の戦を励む者なり」
という文面の書状を義久に送った。いかにも質実剛健の薩摩隼人らしい文面である。
 僅かな手兵を率いて歳久勢は奮戦したが多勢に無勢、しばしの抗戦の後に歳久は龍ヶ水において自刃して果てた。時に歳久、五十六歳。歳久は短刀を腹に突き立てた際、
「婦人もお産の時はさぞ苦しい思いをするであろう。自分の死後は婦人の苦しみを救ってやろう」
苦しみに耐えながらそう言い残したと伝えられる。歳久が自刃した場所の石は後に「御石様」と呼ばれ、妊婦の守神となった。
479無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 17:55
歳久の死によって、島津家中の不満分子は一掃された。再び義久、義弘のもとに団結した島津家はその後の動乱の時代を巧みに生き抜き、後世にその名を伝えたのである。
 一般的に、歳久は秀吉の支配に抵抗する島津家中の不満分子によって祭り上げられ、実兄によって誅された悲劇の人物と評されることが多い。だが、果たしてそれは真実なのだろうか。
 歳久が兄義久の降伏後にこれまでの態度を一変させて反秀吉派となったのは前に述べた通りである。この裏には歳久自身の秀吉に対する反感以外にも何かが隠されているような気がするのだ。
 歳久の秀吉に対する抵抗によって、島津家中の不満分子はこぞって歳久へと与し、歳久の死と共に消滅・四散した。言わば歳久は島津家中の不満分子を道連れにして死へと赴いたということになる。もし、自刃に至るまでの一連の流れ全てが歳久自身の手によって周到に計画されたものであったとすれば、歳久こそ死を以て島津家を存亡の窮地から救ったと言えるのではないだろうか。歳久の死後、歳久を当主とする日置島津家には何の咎めもなかったこと、後に歳久の霊を心岳寺(現平松神社)に祀り祭礼を欠かさなかったことから見ても、歳久が自らの命を賭けて島津家を守ったことを、歳久の兄達や薩摩の人々も十分に知っていたことが伺えるのである。なお、戦前まで鹿児島には三大詣りという行事が盛んに行われていた。信仰の対象となったのは、島津忠良を祀った日新寺(竹田神社)、島津義弘を祀った妙円寺(徳重神社)、そして島津歳久を祀った心岳寺(平松神社)である。島津家中興の祖と讃えられた忠良、摩利支天の再来と讃えられた義弘と並んで歳久が神格化され、崇拝の対象とされたということは、歳久の為したことを島津家、ひいては薩摩の人々が決して忘れなかったことの表れだろう。
480無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 17:55
歳久を見直そう
481無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 19:44
島津が大河ドラマになったら、最大の泣かせどころだな
482松永久秀:2001/07/28(土) 22:49
>>481
それは無いだろう・・・
そもそも、戦前の夜警国家や大日本帝国を作ったのは薩摩・長州の藩士が大部分だ!
もし大河になれば、中国・韓国をはじめとする、アジア諸国に反感を買うのは必至だ!
あまり、島津、島津言ってると大変な事がおこるぞ!
483無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 22:55
>>430
遅レスだが鎌倉期より領土を保全したのは島津と南部だけじゃないぞ。
人吉の相良、飫肥の伊東、対馬の宗、平戸の松浦、諏訪高島、の諏訪、相馬の相馬、とまあ思いつくだけでもこんだけいる。
484無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 22:55
北条一門の方が強い
485無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 23:55
>>482
島津の話になると必ずそんな意見が出るが
戦国島津氏と大日本帝国なんて関係ないでしょ?
486無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 23:57
>>485
君が反島津でも島津シンパでも構わんが、松永にレスするのだけはやめろ。
487無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 23:57
このスレを見て信長の野望をやりたくなった。もちろん島津家で。
だが私は極めて貧しいので覇王伝しかもってない。
488無名武将@お腹せっぷく:2001/07/28(土) 23:58
幕末の情報操作で多少そういう面もありましょうが
大変なことが起こるほどなの?
489無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 00:00
どうやってもこのスレに松永を呼びたい奴がいるな。

この板を沈静化させるのにどれだけ苦労したと思ってんだ・・・
490反島津:2001/07/29(日) 00:04
また昨晩のようにしようか。
491無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 00:08
昨晩は面白かったNE!
492無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 00:10
>>489
光秀!貴様が何をしたというのじゃ!
493無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 00:12
>>487
島津は面白いよね
一門衆が優秀だと心強い
494無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 00:37
でもなんか島津って好きになれないな
495反島津:2001/07/29(日) 01:08
反島津氏は常識外れに強すぎると思います
2CHの戦いでは少数の反反島津が多数の島津オタを破るという
とんでもない無謀な戦いに勝っています
弁が強いのか当人たちの頭脳が見事なのか?
しかも反島津の全てのレスが有効、反島津家こそ2CH最強!

と1を真似てみる。どうよ。
496反島津:2001/07/29(日) 01:10
二行目の「反反島津」は「反島津」の間違い。はっはっは。
497無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 01:17
島津は悪の帝国。
すべての文書を焼いて存在してなかったことにすべし。
498無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 01:23
反島津って寒い・・・
499無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 02:07
近江衆は偉大だということがわかった。
500無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 02:27
500
501無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 02:47
>>496

なんで自信満々なのかがよくわかねーけど、
まあ、君が思ってるほど面白くはないよ。これは間違いない。
502無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 09:32
>>487
ドリームキャストの烈風伝なんて
やすくていいんじゃない?
503反島津:2001/07/29(日) 10:40
釣果二匹
504無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 11:44
>>502
487です。ご助言感謝いたしますが、私は貧しく
ドリキャス購入資金を捻出することができません。
去年中古でかった98用の覇王伝で我慢します。
505無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 13:16
ネット上をくまなく探せばどこかに落ちてるかもよ
506無名武将@お腹せっぷく :2001/07/29(日) 16:33
戦国期の島津氏ってとても団結力のある大名と思っていましたが、実は領内の有力豪族(家臣)との統制に苦慮していた(当主の思惑どうり動いてくれなかった…)事、義弘は義久に生涯頭が上がらなかった(関が原増援問題)など、今までのイメージと違っていました。
すみません、その事が書いてあった本の名前を度忘れしました…
鎌倉期からあるので、義久・義弘あたりが、中興の祖となるのでしょうか?それとも、戦国大名化したと貴久?
507無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 21:33
戦争屋というイメージだったけど、けっこう文武両道なのですね。
508無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 22:39
島津歳久と西郷隆盛のイメージがかぶった
薩摩人にはこういった自己犠牲の精神が強いのかな?
509無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 22:53
>>506
貴久が中興の祖といわれているね
510無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 23:25
日本の国旗である日の丸は島津の家紋からきたもの。
よって島津は最高!!
511佐渡守:2001/07/29(日) 23:48
>>510
オイ、「御旗」の立場はどうなるんだ?
512無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 23:53
島津の家紋は丸に十字だろ?
なんで日の丸なんだ?
513無名武将@お腹せっぷく:2001/07/29(日) 23:54
ローカルルールについて正しい理解を深める為に必ず、ご一読して下さい。

ゲームや漫画、小説、雑談、なりきり、及びネタは、ご遠慮下さい。
専用の板が、ありますのでそこでお願い致します。
どうしてもと言う場合はsageでお願い致します。
故意にageられた場合は削除対象となります。
ご注意下さい。

特にネタはご遠慮下さい。
この板にはネタを大変、不快に思われる方が多くいらっしゃられます。
この板で許されるのは真面目な議論だけです。
「張飛と呂布どっちが強い?」と言った歴史的に根拠が無く憶測の域を出ない議論もネタに含まれます。

憶測の域を出ない議論は全て雑談、及びネタに含まれると考えられて問題ありません。
議論をするなとは決して言いませんがsageでお願い致します。
繰り返しますが故意にageられた場合は削除対象となります。
例え事故でもあまりにもageが続く様だと削除対象になりかねます。
514無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 00:15
ところで島津にやられた東軍の死傷者の数わかる?
ほとんど話題にもならんのだが。
515無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 00:16
ローカルルールについて正しい理解を深める為に必ず、ご一読して下さい。

ゲームや漫画、小説、雑談、なりきり、及びネタは、ご遠慮下さい。
専用の板が、ありますのでそこでお願い致します。
どうしてもと言う場合はsageでお願い致します。
故意にageられた場合は削除対象となります。
ご注意下さい。

特にネタはご遠慮下さい。
この板にはネタを大変、不快に思われる方が多くいらっしゃられます。
この板で許されるのは真面目な議論だけです。
「張飛と呂布どっちが強い?」と言った歴史的に根拠が無く憶測の域を出ない議論もネタに含まれます。

憶測の域を出ない議論は全て雑談、及びネタに含まれると考えられて問題ありません。
そう言う事をするなとは決して言いませんがsageでお願い致します。
繰り返しますが故意にageられた場合は削除対象となります。
例え事故でもあまりにもageが続く様だと削除対象になりかねます。
516無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 00:37
↑なんだよ、こいつ?
粘着だな
517無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 00:43
>>516
ローカルルールあらしというやつだよ・・・
518無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 00:50
>>516
ローカルルールの内容が気に入らなくて、ルールのことを良く知らない住人に
間違ったより厳しいローカルルールをコピペしまくり洗脳。
ルール作成にかかわった奴らに対する非難にすり替えるという事を狙っている
荒らしです。無視してください。
519無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 01:07
東軍は西軍と戦っていたんだよ。
「島津だけ」にやられた人数の記録なんて、わかるかね。

『これこれこいつらは島津と戦ってやられました』
どうかね。
520無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 04:29
はっきり言って、ここに書いてある記述は
島津オタによる都合の良い解説ばかりなので
洗脳されないように。
521無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 05:01
あるいは嫉妬心に狂った反島津による中傷も
記述されているので無視するように。
522無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 10:21
>>163
お前が出て行けや
523無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 10:26
>>203
東北人発見!
524無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 12:01
俺は真田ファンだから島津に特別肩入れするわけじゃないけど
反島津という奴は醜い、大嫌いだね
525無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 12:02
幸村を誉めた島津は好きだ
526_:2001/07/30(月) 13:39
>>525
「真田は日本一の兵」ってやつだね。
家久が国元にあてた手紙だったけか。
527 :2001/07/30(月) 13:52
サツマイモ
528無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 14:00
島津と真田がチンコ舐め合ってるな。
529無名武将@お腹せっぷく :2001/07/30(月) 14:22
カライモ
530無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 16:13
ほとんどのマニア・オタクは島津最強では納得しない。
だから荒れるわけだろ?
東北とか朝鮮とは関係ないと思うぞ。
531無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 16:34
>>433
の記事を見ても分かる通り「反」島津派は出鱈目ばかり
たとえば
>3 悪い事は他人のせいにする。
はじめから親秀吉派で義久・義弘を説得していた家久が急死したのを
秀長が毒殺したと主張したり(毒殺なら義久らが殺したんだろ)、

家久ではなく義久・義弘を説得していたのは歳久。
家久は豊臣秀長との会見直後急死しているので豊臣に毒を盛られた可能性大。

デタラメを信じ込む反島津派のほうがドキュン
532無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 17:03
ここのスレにある「島津」を他の名前に読み替えて見れ
以下にばかげたことを書いているか島津オタも理解できるだろ

理解できないから島津オタなのかい
533無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 17:05
大体、なんでそこまで島津を嫌うのかを聞きたい。
反島津派君、教えてよ
534無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 17:10
>>533
きっと弱いオタクのひがみだよ・・
535無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 17:11
熊本人は島津が嫌い。というか鹿児島は九州ではない!
536無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 17:18
最強ってのは難しい最強という話しになると噛み付かれるし電波も出てくるね

確かに戦国期に珍しく優秀な血族が多く、九州を席巻し、
豊臣軍に攻められても、関ヶ原で負けても、幕末まで家がもったのだから
文句なく優秀だろね。

でもそれなら上杉も、毛利も同じなわけで島津最強宣言は乱暴な気がする。
っていうか最強主張スレは荒れても仕方ない(1は確信犯なのだろうけど)
537無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 17:25
>>535
有馬を助けたではないか?
恩知らずめ
538無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 17:29
九州以外の人間には解からんだろうが鹿児島、宮崎と
福岡、佐賀、長崎、熊本では言葉そのものが全然違う。
イントネーションからしてまるっきり異なる。大分は別格。
これも島津のせいに違いない!であるからして鹿児島と宮崎の
一部は九州というカテゴリーから排斥すべし!
539無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 17:41
>>538
非常にローカルなネタだ
麿にはついていけん
540無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 17:44
そもそも強さなら当時のアジアだと日本武士以上が
大半だから、狭い世界でどうこういうのもみっともない。
541無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 17:50
>>540
へー例えば?
542無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 17:53
チョンですら「一対一なら倭兵は弱い」と発言しとる。
543無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 17:58
>>542
ソースは?
544無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 18:05
あれ常識じゃなかった?
「ナガシノ三段撃ち〜」「真田日本一の兵」と同じで。
あっちでは当時からそういう認識だったはず。
545無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 18:39
おじさん達、その情熱を他のことに向けたら?
546無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 19:40
なんですたい
547 :2001/07/30(月) 21:35
島津斉彬マンセー
548無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 22:20
ある意味最強は島津家ではなく島津オタだな
549無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 22:57
他人のオナニーに文句をつけるのは野暮ってもんですたい
550愛知兵:2001/07/30(月) 23:39
んだな。このスレの中だけなら島津最強でもいいや。
他だとボコボコに文句言われると思うが。
551無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 23:43
ひとの目に入るところでオナニーされるのも腹立つってもんですたい。
552無名武将@お腹せっぷく:2001/07/30(月) 23:57
↑心の狭い人たちですね〜
553無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 00:46
>>552は正解
551以前は全員心が狭い。
554無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 01:07
朝鮮人が日本人よりも強いとか言ってる奴がむかつくんですけど・・
個人戦でも日本の方が強いに決まってるだろ!
555無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 01:21
島津が強いにかかわらず人気が今ひとつ足りないのは親しみやすさが足りないと
いえるんじゃないかな?
これは北条にも言えることで、親しみづらい武将、一門といえると思う

親しみやすさとは何かというと
例えば 戦国時代一の人気者 上杉謙信の場合 戦には滅法強いに似合わず
政治が下手だと言われている。
このアンバランスさが親しまれているんじゃないかな?

織田信長の場合は天才だけど、すごい短気とか
そういった人間味あふれるエピソードが親しまれていると思う。

何か短所を持っている方が親しまれるでしょ?
そういった意味で島津も北条も優等生っぽい大名なのではないかな?
556日本アメリカ化計画:2001/07/31(火) 01:27
<強迫性人格障害の診断基準>
アメリカ精神医学界 DMS-IV
秩序、完全主義、精神面および対人関係の統制にとらわれ、柔軟性、開放性、効率性が犠牲にされる。 成人早期に始まり、種々の状況で明らかになる。
以下のうち4つ(またはそれ以上)で示される。

1.活動の主要点が見失われるまでに、細目、規制、一覧表、順序、構成、予定表にしばられる。
2.課題の達成を妨げるような完全主義を示す。
(例:自分自身の過度に厳密な基準が満たされない という理由で1つの計画を完成させることができない。)
3.娯楽や友人関係を犠牲にしてまで仕事と生産性に過剰にのめりこむ。
(明白な経済的必要性はない。)
4.道徳、倫理、価値観についての事柄に、過度に誠実で良心的かつ融通がきかない。
5.感傷的な意味のない物の場合でも、使い古した、または価値のないものを捨てることができない。
6.他人が自分のやるやり方に従わない限り、仕事をまかせることができない。また一緒に仕事をすることができない。
7.自分のためにも他人のためにも、ケチなお金の使い方をする。お金は将来の破局に備えて貯めるべきだという歪んだ信念を持っている。
8.堅さと頑固さを示す。
557無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 03:16
たしかに武田信玄はホモ坊主だったりとか
家康はロリコンウンコ漏らし小心者だとか短所が可愛らしいね
558無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 03:33
>>557
薩摩は国を挙げてのホモ軍団だが何か?
幕末には彰義隊の少年兵士を手篭めにしてた薩摩兵のドキュソぶりには絶句。
559無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 03:37
>>558
薩摩のことは関係ない
ここは島津スレだからね
560無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 03:40
しかも戦国時代板だし〜
558はばかですか?
561無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 03:56
558は馬鹿決定!
562無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 04:43
558は基地外です
563無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 04:46
562はクリトリスです
564無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 05:13
>>559
薩摩のことは関係ないって・・・
もしかしてお馬鹿さんですか(藁
565無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 05:36
おい!!島津の悪口言うひきこもり共!!
今度はてめぇらの家まで行っていじめるぞ!!
566無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 07:51
563は真・ヴァギナ
567無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 10:02
さて、関ケ原の合戦である。実は、この合戦の直前、島津家は内乱が起きている。重臣伊集院氏が居城に立て篭もり島津氏に叛乱を起こしている。叛乱が鎮圧したところへ、徳川家康の上杉討伐の命令が下る。
 この時、当主義弘は大坂にあった。当然、国許薩摩に兵を上方に送るように使いを出す。しかし、国許では朝鮮の役、伊集院の乱により財政は逼迫。とても大軍をはるばる会津へ出す余裕など無い。国許薩摩では兵を出さぬことにした。
 しかし、薩摩の武士は面白い。「お家では兵を出さぬらしい」という風聞が城下や、城外の野山に響いた。この時期、ほとんどの島津の侍は在所にあって平素は畑仕事をして自給自足している。ただ普通の百姓と違うのはいざ合戦に備えて、畦に槍を突き立て、旅費とわらじを結び付けてある点である。
 「上方でいくさでごわんど!」
 と、言う声が村々に伝わると、侍たちは鍬を捨て、畦から槍を抜き取り、具足を背負い、思い思いの形で駆け出した。
 (お家が動員されねば自費で行く)
 という性根であった。そのつもりで駈け、国境を飛び出した。そのような訳で、上方の義弘は大坂にあって兵が集結するのを待たねばならない。
 義弘が大坂で薩摩から軍勢が到着するのを待っていた頃、石田三成が家康打倒の兵を挙げた。三成は当然大坂にいた義弘を陣営に迎えた。さすがの義弘も兵が無くては三成には逆らえぬ。三成に請われるまま西軍に参加した。
568無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 10:03
義弘は伏見城の攻略に参加。これを落とすと近江、美濃方面に出陣している。
 義弘が美濃大垣城に着陣したころ、上杉討伐軍の東軍の先鋒は引き返し尾張清州城に着陣。膠着状態に入る。
 その膠着状態を破ったのは東軍である。国境を越えて美濃岐阜城を攻略、西軍の本拠、大垣にせまる勢いであった。
 この当時、美濃には石田三成、小西行長、島津義弘の軍勢しかおらず、主力は北陸と伊勢に分散していた。
 清州の東軍動くの報に慌てた三成は、義弘に美濃と尾張の国境、墨俣に出陣を要請し、自らも大垣を出て出陣したが、東軍大垣に迫るの報を聞いて三成は義弘に断らず大垣に引き返してしまった。義弘は激怒したがどうにもならない。島津軍は墨俣に置き去りにされる形になった。敵中に取り残された島津軍を救ったのは島津の勇名であった。何しろ朝鮮の役で20倍の軍勢を破った島津である。敵中にあって敢えて悠然としている島津に恐れをなして東軍は敢えて手出しをしなかった。義弘は無事大垣に帰還した。しかし、このことが後の関ケ原の決戦当日に大きな影を落とす。
569無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 10:03
慶長5年(1600)9月15日。関が原の合戦。この日島津義弘は甥の島津豊久を先鋒として千五百の軍勢を、石田三成の陣の南隣、小池村に布陣した。やがて合戦が始まる。しかし、島津義弘は一兵も動かさない。このとき義弘は墨俣の一件以来三成に愛想を尽かし、三成のために働くつもりはなかったのであろう。現に三成の出撃の督促をはねつけている。と言って、殊勝なことに裏切ることはせず、傍観することにした。東軍も黙して動かぬ島津を恐れ敢えて攻めかかるものはいなかった。
 正午過ぎ、西軍の小早川秀秋は東軍に寝返り、西軍を攻撃。これにより勝敗は決し、大谷吉継は戦死。小西行長、宇喜多秀家、石田三成は敗走。残るは島津勢一隊のみとなった。
 このとき、島津の前面は敵。後ろの街道は敗走する西軍で混雑し、越えるに険しい伊吹山であった。事、ここに至って義弘は決意する。家康本陣を突くと見せて右手に折れ、伊勢街道をまっしぐらに駆け抜け退却するというのである。つまり敵の真正面をぬけて逃げると言うのだ。
 島津軍の気迫に押されて東軍は思わず道をあけ、島津軍は家康本陣の脇をかすめて関ケ原の南の口、牧田にさしかかった。しかし、我に返った東軍諸隊はすかさず急追を開始。福島正則、松平忠吉、井伊直政、小早川秀秋の追撃隊が島津隊を捕捉、猛襲を加える。
 このとき、島津の重臣、長寿院盛淳(もりあつ)は義弘の身代わりとなって戦死。牧田烏頭坂では殿軍(しんがり)の島津豊久が奮戦の末戦死した。ちなみにこの豊久は無数の槍を受け7たび空に突き上げられたと伝えられる。
 東軍も家康の重臣井伊直政、家康の四男松平忠吉も島津方の銃弾を受けた。激闘の末、義弘は戦線の離脱に成功。生き残ったのは千六百の兵のうちわずか60名であった。しかし、この戦い振りは「島津の敵前退却」と言われ、島津の武勇を示すものとして後々まで語り継がれた
570無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 10:04
 島津歳久は島津貴久の三男として天文六年(1537)十月七日、伊作亀丸城に生を受けた。兄は二人、四歳年上の義久、二歳年上の義弘である。末弟の家久が生まれたのは歳久誕生からちょうど十年後の天文十六年(1547)であった。
 義久をはじめとする島津四兄弟は、祖父日新斎と父貴久の薫陶を受け、徐々に並々ならぬ将器の片鱗を見せ始めた。祖父である日新斎は、四兄弟がそれぞれ持つ才能を見抜き、それぞれに批評を残しているが、歳久に対しては次のような評価をしている。
「終始の利害を察するの智計に並ぶものなし」
 政治的平衡感覚に優れた義久、摩利支天の再来と謳われた義弘、優れた戦術指揮官であった家久とは全く異なった才能を日新斎は歳久に見い出していたようである。やがて歳久は「知謀第一の人」と呼ばれるほどの知将として成人した。日新斎の見立てはまさに正鵠を射たものであったと言えよう。また、戦場における武勇も相当なものがあったといわれる。
571無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 10:05
新たに島津家の当主となった義久は器量優れた弟達に支えられ、天正五年(1577)には父祖以来の悲願であった三州統一を果たした。さらに天正六年には日向の耳川に侵攻して大友宗麟率いる大友家と対決し、この一戦で大友家に戦死者二万という壊滅的な打撃を与えている。このとき歳久は兄義弘の副将として実戦の指揮を取った。 耳川の合戦は、島津家を九州統一に向けて大きく飛躍させる切っ掛けとなった。肥後から筑後へと侵入した島津軍は天正十二年(1584)、肥前島原の合戦において「東肥の鷹」龍造寺隆信を討ち取り、ここに九州に辛うじて保たれていた勢力の均衡が崩れた。島津家の独走が始まったのである。天正十四年(1586)、島津軍は九州統一の総仕上げとして大友家の本拠地である豊後に侵攻を開始した。
572無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 10:05
しかし、この豊後侵攻は意外な方面からの敵を相手にすることになった。時の関白、豊臣秀吉である。大友宗麟からの救援要請を受けた秀吉は島津家に停戦命令(国割案)を出した。しかし、島津家はこれを拒否。翌天正十五年(1587)、豊臣方の兵二十五万の侵攻を招くことになってしまった。
 この時、秀吉との決戦を主張する重臣の中で唯一反論を唱えたのは歳久ただ一人であった。歳久は冷静に島津家と豊臣家の戦力を分析し、島津軍が如何に強悍であったとしても到底秀吉率いる大軍には勝てないことを見抜いていたのである。
 しかし、歳久の願いも空しく秀吉の九州侵攻は始まった。開戦当初は強硬策を展開していた義久であったが、根白坂砦の合戦で敗北すると弟や重臣に断りも入れずに独断で秀吉への降伏を決意した。剃髪して出頭した義久の手際を秀吉は誉め、三州を島津家に安堵したのである。
 だが、開戦前まで穏健派であった歳久は、義久の屈服後態度を豹変させる。降服に反対して居城である宮之城に籠って秀吉の元にも挨拶に出向かず、さらには領民を煽動して豊臣軍を険路に案内させたり、家臣に山林で秀吉の駕篭に矢を射込むよう命じたりしたのである。この態度の豹変の裏には、あまりにも腰砕けな兄の降伏に対する腹立たしさが多分にあったのかもしれない。また、末弟の家久が豊臣秀長に降伏した直後急死し、毒殺されたという噂が立ったことも歳久の秀吉に対する不信感をかきたてるに十分な理由であっただろう。ここに義久の家督相続以来一致団結を誇った島津四兄弟の結束は崩れた。
573無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 10:05
義久の降伏によって島津家は存亡の危機を乗り越えたものの、家中には降伏を潔しとしない不満分子が数多く存在していた。実戦兵力を十分に残しながら義久が秀吉に屈したことに不満を持つ人物は地頭や侍大将など、相当数存在したのである。彼らは、病と称して宮之城に引き蘢り未だ秀吉に拝謁していない歳久へと心を寄せるようになっていったのである。
 そして天正二十年(1592)年、ついに不満分子の怒りが爆発した。秀吉が明国征討と称して朝鮮へ出兵した直後、地頭職にあった海北国兼、田尻但馬、伊集院三河を筆頭とする叛乱兵二千が秀吉討伐を叫んで肥後の八代城と佐敷城に攻め寄せたのである。後に海北一揆と呼ばれる叛乱の勃発であった。
 この時義久は名護屋の陣中にあり、義弘は朝鮮に渡海していた。突然の叛乱勃発の報に接し、普段沈着冷静な義久も驚愕したと伝えられる。海北らの叛乱は当然成功するはずもなく、残兵を率いて薩摩へと退却してきたところを義久の命を受けた島津兵が国境付近で迎え撃ち、全滅させてしまった。しかし、問題が一つ残った。叛乱軍2千の中に、歳久の家臣が三百名も参加していたのである。
574無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 10:06
歳久が直接海北一揆に関与していた証拠は全くなかった。だが、歳久は九州出兵以来、秀吉に対して抵抗し続けた過去がある。そのような危険人物を秀吉が容赦するはずもなかった。叛乱鎮圧のために一時帰国していた義久に対して、秀吉から歳久討伐令が下ったのである。
 若年の頃から数十年、自分を支え続けた弟を討たねばならなくなった義久はどれほど苦しんだことだろう。だが、権力者秀吉の命令は絶対である。義久は事情を伏せた上で歳久を鹿児島へと呼び寄せた。歳久は道中事情を察知、家臣百名と共に宮之城へと帰還しようとしたが、すでに帰路は義久の兵によって遮られていた。やむなく歳久は、桜島を望む吉野台地に上陸し、急ぎ陣を張った。しかし宮之城との連絡はすでに断たれ、付き従う兵は僅かに百。そこへ義久は五百の兵を送り込んだのである。
 天正二十年七月十八日、義久の率いる本家の兵五百は、歳久勢に対して一斉攻撃を開始した。歳久は戦闘開始に先立ち、
「我太守に向つて弓引くに非ず、君臣武勇の本分を以て暫時の戦を励む者なり」
という文面の書状を義久に送った。いかにも質実剛健の薩摩隼人らしい文面である。
 僅かな手兵を率いて歳久勢は奮戦したが多勢に無勢、しばしの抗戦の後に歳久は龍ヶ水において自刃して果てた。時に歳久、五十六歳。歳久は短刀を腹に突き立てた際、
「婦人もお産の時はさぞ苦しい思いをするであろう。自分の死後は婦人の苦しみを救ってやろう」
苦しみに耐えながらそう言い残したと伝えられる。歳久が自刃した場所の石は後に「御石様」と呼ばれ、妊婦の守神となった。
575無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 10:06
歳久の死によって、島津家中の不満分子は一掃された。再び義久、義弘のもとに団結した島津家はその後の動乱の時代を巧みに生き抜き、後世にその名を伝えたのである。
 一般的に、歳久は秀吉の支配に抵抗する島津家中の不満分子によって祭り上げられ、実兄によって誅された悲劇の人物と評されることが多い。だが、果たしてそれは真実なのだろうか。
 歳久が兄義久の降伏後にこれまでの態度を一変させて反秀吉派となったのは前に述べた通りである。この裏には歳久自身の秀吉に対する反感以外にも何かが隠されているような気がするのだ。
 歳久の秀吉に対する抵抗によって、島津家中の不満分子はこぞって歳久へと与し、歳久の死と共に消滅・四散した。言わば歳久は島津家中の不満分子を道連れにして死へと赴いたということになる。もし、自刃に至るまでの一連の流れ全てが歳久自身の手によって周到に計画されたものであったとすれば、歳久こそ死を以て島津家を存亡の窮地から救ったと言えるのではないだろうか。歳久の死後、歳久を当主とする日置島津家には何の咎めもなかったこと、後に歳久の霊を心岳寺(現平松神社)に祀り祭礼を欠かさなかったことから見ても、歳久が自らの命を賭けて島津家を守ったことを、歳久の兄達や薩摩の人々も十分に知っていたことが伺えるのである。なお、戦前まで鹿児島には三大詣りという行事が盛んに行われていた。信仰の対象となったのは、島津忠良を祀った日新寺(竹田神社)、島津義弘を祀った妙円寺(徳重神社)、そして島津歳久を祀った心岳寺(平松神社)である。島津家中興の祖と讃えられた忠良、摩利支天の再来と讃えられた義弘と並んで歳久が神格化され、崇拝の対象とされたということは、歳久の為したことを島津家、ひいては薩摩の人々が決して忘れなかったことの表れだろう。
576無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 10:37
島津好きは弱いので強い島津にあこがれる。
まあ戦国好きはたいていそうだけどね。

他と違って作り話のメッキがはがれてないのが人気の秘密。
577無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 10:43
>>576
単純にそうとは言えないと思うが、、
単純に強いものが好きというならば、天下人 織田信長とか好きになりそうじゃない?
578無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 10:44
島津オタは自分の脳みそに分厚いメッキを
579無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 10:48
こんなに読んでも好きになれない。なぜ?
580無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 10:51
通好みの武将だよな?
581無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 12:31
 やっぱ強すぎてな・・・。信長とかは結構大兵力なわりに負けそうに
なったり四方敵だらけで天下とか面白いけど。
582無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 12:43
強く見えるのは九州だから。
信長なら秀吉以上に速攻で九州征伐に成功できたはず。
583無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 12:49
小牧・長久手の戦い・・・秀吉vs家康・信雄連合軍の戦いが長引いてくれていれば
島津は間違いなく九州制覇していたのにね。
信雄は島津にも迷惑かけてます(笑
584無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 12:56
>>582
九州は他の地方よりも強いよ
何せ鉄砲装備率が高い。
関東や東北のような感覚で九州一地方と軽視できない地域だ
585無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 13:05
他の地方よりは強いが、中央の軍勢には勝てないって。
その鉄砲の運用面で劣るし。

島津軍が秀長軍に大敗した根白坂の戦いだと、
竜造寺の場合とは逆に島津側が白兵突撃を行い、
数でも勝るのに攻撃は成功しなかった。
586無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 13:09
>>585
やっぱり島津は釣り野伏戦法取らないとだめだな
秀長は島津の戦法を知っていたのかな?
587無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 13:18
秀吉が送った第一陣の仙石久秀の軍勢に戸次川の戦いで
大勝してしまったから豊軍を甘く見たのかもね
588無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 13:30
>>583
島津義久が秀吉からの調停案を断ったのは
小牧長久手があんなに早く停戦になると思わなかったため
秀吉がすぐに軍勢を九州に派遣できないと読んでいた
それまでに九州を統一してしまおうという腹つもりだった
589無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 13:37
>>585
鉄砲運用面で劣ってるって?
訳知り顔でよくいいますね
少なくても島津は家康よりも野戦で鉄砲を有効に使ってますよ
590無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 13:47
585は中央と九州の比較じゃん。
591主力の兵力差と一族分断:2001/07/31(火) 14:02
 どっちも火力充実してるんで仕掛けた方が圧倒的に不利なのです。
秀長は仙石の轍を踏まずに物量で正攻法取ったのでじわりじわりと
国力の差を見せつけられました。短期決戦できなければ急造で配下
になった九州諸侯(以前は敵対していた連中が多い。龍造寺なんか典型)
も中立から関白側につくし島津強行派だけが孤立するように正攻法
で深追いしない方式でこられて負けです。火薬弾薬の供給ルートを
確立された時点で利点も半減ですし。近畿圏からの補給作戦は三成の
最大の功績っていっていいです。瀬戸内ルートを毛利小早川が確保して
いたのと四国ルートも大友支援名目で豊前拠点が効果的だったのも
大きいですが・・・。
592無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 16:18
島津最強の本質は島津オタの存在にある
593旅庵:2001/07/31(火) 17:32
>>885
 少し勘違いしているようだけど、根白坂の戦いは野戦ではなく攻城戦だよ。

簡単に説明すると

島津(数2万余)が根白坂砦(数1万5千余)に夜襲を仕掛けようとする
        ↓
豊臣軍に察知される→島津そのまま猛攻
        ↓
島津が砦の二の丸、三の丸落とす
        ↓
後詰の秀長軍(数7万5千余)から藤堂高虎、黒田如水、小早川隆景の軍が
援軍として到着、島津に鉄砲を撃ち掛ける。
        ↓
島津退却、豊臣方追撃しようとするも反撃を喰らい結局、双方軍を引く
        ↓
結果、消耗戦となり数に劣る島津が不利になる

こんな所だったと思う
594無名武将@お腹せっぷく :2001/07/31(火) 17:36
>>575
ちょっと美化しすぎ。平松神社(?)の宮司の子息(次男)から話を聞いたが、
そんなに込み入ったものではなかった。歳久が不満を抱いていたのは事実だが、
さすがに主家であり兄でもある義久に刃を向けることは憚られたので、
形ばかりの戦を行い、自刃したと言うのが本当らしい。だから、本気で義久に
挑むことは最初からしなかったのである。ゆえにお咎めなし(?)なんじゃない?
その宮司の子息(次男)は、全国紙の記者をしている。間違いない。
595無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 17:44
>>593
野戦でも、攻城戦でもない。砦を攻めたもの。
城の痕跡などどこにもないよ。
これかな?っていわれてる砦跡(?)はあるけど、怪しい。
臨時の砦を攻めたというのが正解。
596無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 17:48
島津オタの板のわりには未だに「耳川」で合戦があったなんて、
的外れなこといってるのがいるね。今の「小丸川」が正解。
597薩南学と儒学思想的発想。:2001/07/31(火) 17:50
 兄弟とか忠孝の思想はまだその頃はそんなに一般的ではなかった
はずなんだけど。ただ単に従うのがイヤだっただけかも。でも責任者
だけが死ねば他は免責ってのはわりと古くからあって自殺の場合はさ
らに丁重に供養するというのが慣例化していたのも事実。誰かが責任
とればあとは問わないカタチになるので結果的に兄を救うこと(名分)
ととれなくもない。江戸期に忠孝譚にまとめられた可能性は高い。
 誰が損するわけでもないので美談のほうがよいのかも。
598無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 17:53
>>596
どこに耳川の文字が見えましたか?
599無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 17:55
何だかんだ言われながらも、この板で最もレベルの高いスレに成長しているな
600無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 17:59
>>598
レスを全部読む、にして、検索すれば出るよ。
601無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 18:13
>>596
島津オタの板ってどこ?
602無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 18:13
>>585
沖田畷の戦いは、長篠の合戦より鉄砲が多く用いられたけど?
603旅庵:2001/07/31(火) 19:23
>>595
ありがと、少し調べたら目白坂塁 とも言うようだから
性格的には砦というよりも要塞陣地のような物だったみたい。
604無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 19:55
強すぎるぜ!!
605無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 22:11
小牧・長久手が長引いて秀吉が九州征伐できず
島津家が九州を統一していたら面白いことになったなあ
統一直後ならともかく統一後10年も経てば新しく配下に加わった武将たちも
心服してしまい豊臣家でも手出しできない存在になっていただろうと思われる
結果全国統一はされずに天下三分の計ならぬ天下二分の計と呼ばれていたと思われる
606無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 23:01
豊臣・徳川連合が相手だと根白坂以上の完敗になるでしょう。
607無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 23:04
>>606
いやいや、島津・徳川連合軍vs豊臣の戦争の可能性だってあるぞ
608無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 23:08
なんたって島津と徳川は同じ源氏同士だし、心情的には豊臣家を
血統的に軽蔑していたのじゃないかな?
609無名武将@お腹せっぷく:2001/07/31(火) 23:15
>>608
家康の源氏の出は完全な詐称だよ
実は被差別部落の出ともいわれる怪しい出自
家康は鎌倉時代からの名門島津家よりも
農民出の秀吉の方に親近感を抱いているんじゃない?
610無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 05:08
強いぜ!!
611風の谷の名無しさん :2001/08/01(水) 05:25
ふははははは
612無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 07:42
徳川が本当に源氏出身なんて思ってたやついるんだな。
613無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 07:50
せっかくだから、旗でも立てておこう。

 ___
│掠疾│
│如如│
│火風│
│不徐│
│動如│
│如林│
│山侵│
│――




614無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 12:50
>>612
現在では良く知られていることだが、
当時はそうでは無かったってことを知らない奴いるんだな。
615無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 13:39
>>614
おめでたい奴だ。
616無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 14:30
正確には漂泊の民※が松平家(土豪)の娘に(水野家の女にも産ませたらしい)
子供を産ませた所から勃興していったらしい(徳川)
※高野聖で名前は徳阿弥という人物
(江戸時代以降、高野聖等も被差別民)

当時は今ほど(江戸時代以降ほど)身分制度意識がきつくなかった
のでよくあるお話、各地の情勢に聡く、独自の情報網もある、
こういった人物は戦国の世では、徳川の先祖や、
顕著な所では蜂須賀のように
独自の発展をとげ、土地の豪族になる事も多かった。
また山人の組織化や、海賊、山賊、から
忍者集団、海軍衆等派生していったらしい
そういう民の多くは江戸時代は差別されていったらしい

深い
617よく分かっていない:2001/08/01(水) 15:42
 まあそれも大久保(バカなので冷遇されてた)が勝手に言ってた
説なんだけどね。
618無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 16:03
そのうち「明軍20万を撃破」も4万に満たない
というのが通説になるでしょう。
619無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 16:47
>>616
>>618
どちらも定説です
620無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 19:12
慶長3年晋州城(慶尚道の城塞都市)を占領し、船舶の運航を確保するため、そこに新城を築き、泗川新城と名付けた。同年明は大軍を朝鮮に派遣し、加藤清正の守る蔚山城を約7万の軍勢で攻め、落城寸前に援軍が到着、9死に1生を得たほどであった。

 正規軍を派遣した明軍は強く、あなどりがたかった。また、帯同する朝鮮義軍は志気が高く、兵站も自国であるため日本軍よりはるかに潤沢であったろう。加藤軍は土壁をすすり、死肉を食い、飲み水さえなくなるという極限状態の籠城戦を強いられたのである。

 志気高まる明軍は、南下を開始。ついに時機到来とばかりに日本軍壊滅をめざし、20万と号する大軍をもって島津義弘の守る泗川古城、泗川新城に迫った。港を守るここを攻め落とされれば、朝鮮にいる日本軍は1兵たりとも日本の土を踏むことはできないのであった。
621無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 19:13
義弘は文禄の役の時、財政の窮状から日本一の遅陣をし、さらにその装備は漁船をなんとか借りてやっと釜山にたどりつくという、はなはだ不名誉なものだった。そして今、さしたる活躍もないまま終戦を迎えようとしている。
 この戦に勝てば、島津の武門の名声はおおい高まる。それであろうか、この危機的状況に、なぜか義弘は立花宗茂、宋氏らの援軍申し入れを断っている。
 島津1家だけでこの大軍をけちらそうというのだ。これには他の理由もある。
寡兵で大軍をうち負かすには、作戦の細かいところまで、一つとして失敗があってはならない。思いのままにならない他家との協同戦線では逆に勝てないという読みもあった。
622無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 19:13
島津義弘は、寡勢の島津軍(7000)を勝利に導くため、軍略を練った。義弘の取った策は、島津得意の釣り野伏せ戦法を、マクロ的に利用することだった。この戦法は、これほどの大軍に利用した例はなく、成功した事例も歴史にないと思われる。1歩間違えば各個撃破されて散るのみ。中国では劉備玄徳が黄巾賊に青州城の戦いで使っている。

 釣り野伏せは、おとりが周りを伏兵でぐるっと取り囲んだ場所におびきよせ、周囲からいっせいに攻撃し、パニック状態に陥らせ、殲滅する戦法である。実は島津が得意としたのは、このおとりに原因がある。このおとりは、当然命がけで、中途半端に敗走してはいけない。

 あまりにも早く逃げると、悟られ、失敗してしまう。頑強な抵抗ののち、やっと逃げるという頃合いのタイミングが絶妙でなければならない。しかも全軍をその中におびき寄せるほどの強さが必要で、一軍だけ裂かれて追撃されても、これも失敗となるのである。少数の兵で、全軍を引き入れる。これは実際やるとなると大変なことなのである。しかし、島津の兵は強旱で、このような役をほとんどみごとにやってのけた。
623無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 19:14
この時は、義弘はおとりを泗川古城の城兵たちに課した。明軍は、まづ最初に、兵糧庫のあるこの城におめきかかったのだ。だが古城にはたった500人の兵だけのこして、全員泗川新城にひきあげさせたのである。20万に対し500人とはいかにも見殺しの感が否めないが、ここがみそで、明軍も、完全に島津軍がおそれをなして泗川新城まで逃げたと思った。寡兵で守る城を落とし、勢いにのりたい明軍であった、しかもここには兵糧庫がある。

 義弘は、歴戦の強者川上忠実を城将に配した。川上は迎え撃つに怠りない。まず城の全面に設けた木柵に倚って鉄砲を構えさせた。「まだまだ撃っちゃならん、合図まで待て。」当時の鉄砲は殺傷能力の範囲は36メートルとされている。ほんの間近まで引き寄せなければならない。大軍相手に、寡兵で守り抜くには、相当剛胆な城将が必要だ。

 城兵達は心もとない人数で、「シャー、シャー(殺)」と蛮声を上げ、津波のごとくおめきかかってくる敵の恐怖に耐えに耐えた。ここは城といっても簡単な砦のようなものである。大波のように寄せてくる大軍にはいかにも耐え難いように味方にも思われる。
624無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 19:14
ほとんど敵が眼前まで迫った頃「撃てーっ」と川上の絶叫に近い号令とともに、銃口が火を噴いた。とたんに敵は一瞬の大量死に恐怖に襲われ、退却するものと前に進む者とがぶつかりあい、大混乱に陥った。

 そして「弾籠めーっ」の合図とともに、一斉に弾が装填され、隊列を整え直して再来する敵にまたも激しい銃弾の雨が降った。明軍、朝鮮義軍の前線は死傷者が続出し壊乱する。そしてその最中にかねてから伏せておいた地雷火が炸裂し、地獄の様相と化した。

 惨敗を喫した明軍は、一旦しりぞき、体勢を立て直す。同夜、明軍は嵐のような猛攻撃を再開した。だが、今度はあせって突入せず、距離を置いて弓箭隊が矢を雨あられと降らせた。

 間断なく突き刺さる矢に、ついに持ちこたえられず、石塁の中に全軍が退いた。朝鮮勢は木楯を頭上にかざし、石塁を上ってくる。こうなると鉄砲も役にたたず、石塁を上ってきた敵との激しい斬り合いとなった。

 切っても切っても雲霞のごとくはい上がってくる敵に城兵も疲れ、さすがに敗色が濃くなってきた。が、その時、このために仕組んでおいた仕掛けが作動した。塀が崩れ落ち、石塁したの空濠に落下した。川上勢はすかさず煮えたぎった油を頭上からあびせかけた。つづいて松明を投げ落とし、煮え油と猛火で阿鼻叫喚の地獄絵が現出し、驍将李寧はあえなく戦死した。
625無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 19:15
朝鮮軍の戦死者は、はや5000を数えていた。が、数にものを言わせる敵はひるまずに攻め続ける。今度は火車で火攻めに合った。水が井戸しかないこの城は、たちまち火災が随所に発生し、防御とまた消火活動に人手不足に陥ってしまう。

 今や城を離れ、泗川新城に敵をおびき寄せる時が近づいてきている。問題は食糧庫の爆破だ。食料庫は城より離れたところにあり、爆破のしかけをして帰ってくるのに時間がかかりすぎるのが問題だった。敵を島津本隊に誘い込むための逃走と、食料庫爆破は同時でなければならない。食料庫の爆破は、それをあてにしていた敵に、新城即攻を決断させるわなである。

 一旦休息され、慎重に隊伍を整えて新城を攻められたら、いかに島津が強兵でも防ぎようがない。食料の払底している今、籠城戦だけは絶対避けなければならない。敵に食料を渡してはならない。食料を焼き払えば、敵も大軍であるから、早期決戦に決するはずである。あくまで敵がかさにかかって泗川新城におそいかかってもらわなければ勝利は見えてこないのだ。それには食料庫の爆破は必須なのだった。
626無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 19:15
だが、この食料庫は城より離れている。爆破に行ったが最後、敵中に取り残されて確実な死が待っている。だが、この決死の大役をひきうけた者がいたのである。「誰か行くやつはおらんか」との川上忠実の要請に、「おいどんがいきもす」と数人が向かった。敵を蹴散らし、食料庫にたどり着くと、直ちに爆薬をしかけたが、いかんせん、はや敵に取り巻かれてしまった。導火線に火を付けてなどと悠長なことをしておられなくなった。どうせ、敵に取り巻かれて、この囲みを突破することはもはや不可能。彼らは死を覚悟し、爆薬に直接点火して全員爆死した。

 泗川新城へ向かって敗走した兵も必死の逃避行が待っていた。この膨大な数の敵中に撃って出て囲みを突破しなくてはならないのである。切っても切っても敵が現れる。この時、泗川新城に向かった半数が戦死したと伝えられる。たどり着いたときには、全員体中に矢がささり、蓑虫のようだったという。
 義弘は到着した川上にねぎらいのことばをかけようとしたが、川上は全身包帯でぐるぐる巻かれており、息も絶え絶えだったため、「もう、何もせんでよか。休んでくれ」と言うしかなかった。
 さて、あんの定、翌日明軍は兵卒を休めると、翌々日の早朝より全軍による猛攻を開始した。義弘の思惑どおり、全軍で一挙にせめかかってきたのである。
627無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 19:16
島津義弘の息子島津忠恒らは、新城陥落の報を聞いて、歯がみすること一方ならぬものがあった。若武者達は、「こげん悔しかこつはなか、どうか討ってでもす。引きとめんで下され」と義弘に迫るが義弘は頑として聞かない。
 「戦には、時として味方を見殺すのもまた必要な時もある。今討って出て、敵に付け入られでもしたら、悔やんでも悔やみきれない事態になる。そうなったらどうするのだ。」
と、絶対に軽はずみな行動を制止した。実は、他家の援兵を断ったのもこのあたりに理由がある。手柄をたてたいがために勝手に敵に切り込み作戦を台無しにする者がいるからである。
628無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 19:16
 大軍に囲まれると、鎧などのこすれる音すら、膨大な音の圧力となって、恐怖を駆り立てる。静かな黎明の時に、それらの雑音は、やけに近くに感じられる。城兵は皆武者震いして、歯の根も合わないぐらいだ。

突然敵司令官の、突入の合図がする。一斉に銅鑼や太鼓の大音響が耳をつんざくほど鳴り響き、明軍の一大攻撃が開始された。敵が塀を越えようと迫ってくる。迎え撃つ島津軍は定石通り、火縄銃の一斉射撃で出迎える。島津得意の3段戦法(島津家は、長篠の合戦に織田信長がこの戦法を採用する10年以上前に薩摩平定にこの戦法を用いている)である。間断なく発射される銃砲に敵先鋒は混乱する。「撃て、撃てい」と皆間断なく撃ちまくった。すると火攻めに使おうと引いてきた火薬などに火がつき、大爆発して敵中は大混乱に陥った。

 引き続き、大砲に釘や鉄くずを入れて暴発させると、鉄片は凶器となり敵兵の肉を切り裂いた。敵前線は累卵のごとき死体の山となった。当然引き始める者、さらに突入してくるものなどが入り乱れ、収集がつかない状態に陥っている。
 その状況を義弘は確認すると。
「いまぞ、城門を開きて、敵を切り崩せ」と大音声を響きわたらせた。言うも終わらないうちに、満を持していた城兵が、引き絞った矢が放たれるように城門から飛び出し、激しい白刃戦が展開された。
629無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 19:17
薩摩隼人の猿声は、当たる者に恐怖を抱かせる。「チェスト−」の絶叫があたりいちめんに拡散していき、そこは殺戮の荒野と化した。切れ味鋭い日本刀(薩摩のは長刀)は圧倒的であった。

 だが、すさまじい攻勢にいったん退いた明将茅国器は体勢を立て直し、少し離れたところから戦況を見ると城内には城兵がいないように思われた。今、敵城に突撃すれば苦もなく城を落とせる。茅国器再び1万あまりの軍勢でとってかえしたのである。

 これに攻められれば、ひとたまりもない。これを見ていた島津忠長は、敵陣の前にある細い川を前にして、わずか百騎たらずで立ち向かった。川を渡らせれば島津兵は全員玉砕に決してしまう。必死の防御である。「一歩も引かぬ」という大将に若武者たちも奮い立ち、死を決して戦った。

 しかしながら多勢に無勢、奮戦も次第にもちこたえられなくなってきた。樺山久高、寺山久兼らは戦況を見て、「これほど士気の高い精鋭軍に、寡兵で立ち向かっても勝算はなかでごわんそ、背後には軽率らがおりもそ、背後からこちらに混乱をおこしてみもそ」と敵の背後から鉄砲や矢を射かけると、はたして敵の背後は大混乱になった。

 これには先鋒も動揺して、その鋭鋒は鈍った。そこへさらに城内から野添帯刀、本田与兵エらが討って出て、ついに明軍はちりじりに逃げまどい、潰走していった。この時島津義弘、忠恒自身も自ら撃って出て敵を討ち取っている。実に白刃で討ち取った者だけで3万8千人、切り捨てによる死者、負傷者、鉄砲による死傷者を入れると壊滅的な打撃を加えたのだった。
630無名武将@お腹せっぷく:2001/08/01(水) 19:17
だが、島津義弘の仕事はこれだけではすまない、どうやって敵国から引き上げるかである。
 さっそく、敵が敗戦のショックから立ち直らないうちにと、義弘は直ちに長寿院盛淳に敵との和睦交渉を命じた。条件は、当方の撤退期限は1ヶ月、その間明軍は手を出さない、そのかわり明軍撤退に必要な食料1万石を残すというものだった。”島津は強旱”が見にしみている董一元は、戦意が喪失しており、喜んでこの条件をのんだ。
631無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 21:36
壮絶だぜ!
632無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 21:40
このスレもしかして。
島津氏の末裔が書いてるのでしょうか?
あまりにも詳しすぎます。
島津製作所の社章と島津家の家紋は同じなのですが
関係はあるのでしょうか?
わかったら教えてください?
宜しく願います。
633無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 21:45
>>632
>>136に書いてあるよ
634無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 21:48
>>632
どっかのHPからのコピペだろ。
635無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 21:49
強すぎるじゃねーか!
636無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 21:50
>>633
ありがとう。すごいー
これで、6年間の悩みが取れました。
関係ないお話してごめんなさい。
がんばってください。
637無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 22:54
このノリで根白坂で圧勝できなかったのだろうか?
638無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 23:24
島津は秀吉の情けで生き長らえました
639無名武将@お腹せっぷく:2001/08/02(木) 23:28
こんなに強い島津ですが、秀吉には手も足も出ませんでした。
64057:2001/08/03(金) 00:21
しばらく来なかったらなんかスゴイことになってんなぁ・・・。
そんな俺は>>57。東北人だけど島津ラブな男だ。伊達の次に好きだ。

そんな野球じゃねぇんだから、「アンチ〜」ってのはやめようよ。
戦国オタ同士での叩き合いほどカコワルイもんはねぇよ。
好きなもんは好き、嫌いなもんは嫌いでいいじゃん。
確かに、日本史板での薩摩叩きやアヅマには腹が立ってるよ、
もちろん。でもせめてここ(三国・戦国板)にいるときぐらいは
マターリしようや。せっかくだからさ。どうよ?

それにしても>>620とかの長文コピペは圧巻だね。
まさしく「島津戦記」って感じだ。読んでて思わず手に汗握っ
ちゃったよ。その原文ってどこのHPから持ってきてんだろ?
全部読みてーなぁ・・・。
641無名武将@お腹せっぷく:2001/08/03(金) 00:47
>>640
東北人でもアヅマに腹立っているんだね!
俺は東北人はみなアヅマのような連中だと勘違いしていたよ(笑
だから最近は東北人ってなんて粘着なんだ〜って嫌悪感を覚えていた
一部の異常者のために偏見を持つところだったよ
ありがとう
64257:2001/08/03(金) 01:42
>>641
わかってもらえて有難い。マターリと行こうや。

ところでアヅマのことなんだが、確かに俺も地域ナショナリズムは
重要だと思う(グローバリズムや、その揺り戻しから来る国家ナショ
ナリズムに対抗、というか流されないためにも)。
でも明らかにアヅマの主張は誤りだと思う。あれじゃ連中自身の言う
「ヤマトによる皇国史観」と同じではないか。あの主張は所詮、
明治時代に薩長の藩閥が造り出した、「皇国史観」の陰画をなぞって
るにしか過ぎないと思う。

ま、手っ取り早く言っちまうと、
「同じ東北人として大いに迷惑」だな。(藁
アヅマは最近2ch中に溢れる、にわか右翼厨房と同じくらいタチが
悪いな。(藁
64357:2001/08/03(金) 02:53
>アヅマは最近2ch中に溢れる、にわか右翼厨房と同じくらいタチが
>悪いな。(藁
ここらへんは蛇足かもしれんな。スマソ。読み飛ばしてくれ。
644笛裸恥男:2001/08/03(金) 04:04
>>644
アヅマ史観っつーか、東北古代史を勉強したくって
アヅマの会だったか、そんなやつに入ろうとしたら
思いっきり左を向いてる人ばかりだったよ。
冒頭の挨拶が東北古代史を勉強する事によって
現代の資本主義社会に楔を打てるとか・・・

東北県民だけどおれもシーマンズーマンセーです。
645無名武将@お腹せっぷく:2001/08/03(金) 06:57
 __
│刀│
│八│
│毘│
│沙│
│門│
│天│
│王│
│―-




646無名武将@お腹せっぷく:2001/08/03(金) 07:08
>>629
だからあ、よくそんなの信じられるね。
647無名武将@お腹せっぷく:2001/08/03(金) 08:42
>>646
だからあ
 ↑
この言葉使うやつムカツク
648太郎五位:2001/08/03(金) 09:36

                   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                  | これより、倉庫入りするまで、深く潜行する。sageろ!!
                   \_  ___________________
                      ∨
                             『 ゴォォォォォ…
              ¶ ∧ ∧      / ̄ ̄ ̄ヽ
        ∧ ∧   ‖(* ゚Д゚)⊃  / ̄∈≡∋ ̄ヽ
       (* ゚ー゚)  / ̄U ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
 ( ̄ヽ/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄           ┏┓┏┓       ¢  \
 ∈≡∋              〓   ┃┃┏┛   〓    ¢  )
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
649無名武将@お腹せっぷく:2001/08/03(金) 12:11
このスレは宗教板へいったほうがいいな。
650作らなくても:2001/08/03(金) 14:46
 東北は偽史作ったり石器作って埋めたりするからなぁ。戦争とかしなかった
方が平和でよかったと思うのだがなんかもの足りないのかも。

 島津って戦功だけ見るとしゃれになんないくらい史実研究テーマあるし
古代も記述がちゃんとしてるんで。
651無名武将@お腹せっぷく:2001/08/03(金) 15:08
強すぎる!
652無名武将@お腹せっぷく:2001/08/03(金) 23:11
島津義弘かっこいい!
653無名武将@お腹せっぷく:2001/08/03(金) 23:20
家紋もまたカッコいいし、日本人の誇りだね!
654無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 14:25
強すぎるage
655無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 15:00
肥前の龍造寺氏は、もともと少弐氏の被官で、戦国期に主家を滅ぼし独立、肥前に大きな勢力を築きます。1578(天正6)年の耳川の戦いで大友家が島津軍に敗れると、龍造寺家の勢力は更に大きくなり、肥前・肥後・筑前・筑後・壱岐にまで及びます。当時の龍造寺家当主は、「肥前の熊」といわれるほど武勇に優れた龍造寺隆信でした。隆信は武勇・知略には長けていましたが、残忍な性格であり、新参の武将は必ずしも彼に心服していなかったようです。

1581(天正9)年、島津軍は相良氏を降し、肥後に勢力を伸ばしてきます。これをみた肥前島原領主、有馬晴信は龍造寺氏を離れ島津家に誼を通じてきます。これに怒った隆信は、嫡子政家に有馬討伐を命じますが、有馬家は政家の妻の実家ということもあり、なかなか成果が上がりませんでした。しびれを切らした隆信は自ら3万の兵を率い島原に上陸、有馬氏の居城・日野江城を目指します。
これを知った有馬晴信は、島津家に援軍要請を出し、龍造寺軍に備えます。しかし有馬軍の兵力は約3千で、龍造寺軍の10分の1程度しかありませんでした。
656無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 15:00
一方、晴信からの援軍要請を受けた島津家中では、援軍派遣の是非について論議がなされていました。家臣の多くは、地理不案内の島原への派遣に対し否定的な意見を出しましたが、島津義久は「古来、武士は義をもって第一とする。当家を慕って一命を預けてきたものをなんで見殺しに出来ようか。」といい、島原への派兵が決定します。
派遣軍の総大将には義久の末弟で、島津家一の戦上手といわれた島津家久が選ばれ、その他に島津忠長・新納忠元・伊集院忠棟・川上忠堅ら精鋭3千が派遣されました。
島津軍の来援で、有馬軍は活気を取り戻しますが、それでも有馬・島津あわせて6千余りの軍勢でしかなく、数の上での不利は否めませんでした。そこで家久は有馬方の諸将と検討した上で、島原北部の沖田畷を戦場に選びます。
沖田畷は左右を沼沢に囲まれた湿地帯で、その中央に左右2・3人並んで通るのがやっとの畦道があるだけの、大軍を展開させることの出来ない地形でした。
657無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 15:00
龍造寺隆信は、有馬・島津の主力は日野江城にいるものと思い込み、自ら沖田畷の中道へ軍勢を進めてきます。沖田畷付近で龍造寺軍の先鋒部隊が島津軍と遭遇しますが、彼らはこれが小部隊なのを侮り、物見も出さずに攻めかかります。島津軍はたいした抵抗もせず、ずるずると後退していきました。勢いに乗った龍造寺軍は一気に攻め立てようと沖田畷の畦道へ進んできました。
家久は龍造寺軍が十分射程に入ったのを確認し、一斉に銃弾を撃ち込みます。たちまち龍造寺軍は先陣が崩れ、退却しようにも後続の軍が次々と押し上げてくるため身動きがとれず、狭い道の中で大混乱に陥ります。
頃合いをみて、島津軍は一斉に抜刀し、3方から龍造寺軍に攻めかかります。もはや龍造寺軍はまったく統制が取れなくなり、成松信勝・百武賢兼らの重臣も次々と討たれていきます。

総大将の龍造寺隆信は、部下にすすめられ退却しようとしますが、島津軍の川上忠堅(左京亮)に追いつかれ、ついに討ち取られます。
隆信の首は島津義久の元に送られ、首実検のあと龍造寺家にかえされます。
658無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 15:02
耳川とは、日向国を流れる川で、現在の宮崎県日向市にあります。
薩摩、大隅、日向の三州統一をめざす島津義久は、1572(天正元)年の木崎原の戦いで、当時日向中央部に大きな勢力を持っていた伊東義祐を破ります。
日向を追われた義祐は、姻戚である豊後の大友義鎮(宗麟)をたよって落ち延びます。当時の大友家は、北九州に六ヶ国を有する九州最大の勢力を持つ大名でした。
伊東氏の願いを聞きいれた宗麟は、1578(天正6)年9月、日向侵攻を開始します。しかし、この遠征には、大戸家中でも意見が分かれ、宗麟の軍師、角隈石宗をはじめ老臣のほとんどが反戦派でした。しかし宗麟は彼らの言に耳を貸さず、自ら率先して出陣することを決めます。
宗麟が出陣を強行したのは、当然伊東氏の旧領回復という大義名分はありますが、当時宗麟はキリスト教に深く傾向しており、日向にキリシタンの理想郷を作ろうと考えていたからだといわれています。
659無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 15:03
大友家の日向侵攻軍は3〜4万、一説には6万以上という大軍だといわれ、本隊は豊後から直接日向に入り、また別働隊として肥後方面から一軍が侵攻し島津の背後を突く作戦をとります。
大友軍は進軍中に各地の寺社を破壊して回り、住民の怒りを買います。また、宗麟自身は務志賀(現宮崎県延岡市)に本陣を置き、その地に館と教会をたて、信仰に没頭し、宗麟の嫡男で、当時の大友家当主・義統も豊後の野津にあってキリスト教信仰に励み、家臣達の忠告も聞かず布教に精を出します。
大友軍は、合戦の前から君臣の足並みが会わず軍の士気はあがりませんでした。

一方島津軍は伊東氏を日向から追いやった後、義久の末弟家久を佐土原城主にすえ、日向守護代として守備に当たらせていました。また、北からの侵攻の際に備え、要衝高城に山田有信を配していました。高城は日向中部にある切原川よ小丸川に挟まれた標高約60Mの台地にある平山城です。大友軍の侵攻を知った義久は、出水、大口に島津義虎と新納忠元を配置し、肥後路の別働隊を警戒させ、家久を高城の援軍に派遣、みずからも三州すべてに総動員令を発し日向に向かいます。
660無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 15:03
10月に入って、田原親賢(紹忍)を総大将とする大友軍の主力は高城下にたどり着き、これを包囲します。大友軍4万に対し、高城守備隊は家久らの援軍をあわせても3千余だったといわれています。
大友軍は城下の村を焼き払い、幾度か高城に攻め入ろうと試みましたが、天然の要害である上に、城主の山田有信の必死の采配もありこれを攻めあぐね、いったん兵を退き持久戦の構えをとりました。
またこの時、伊東氏の旧臣が蜂起し、手薄になった都於郡城(とのこうりじょう)に迫るという事件も起こります。この時は都城の北郷時久が駆けつけ事無きを得ましたが、この知らせを聞いた義久はさすがに色を失い、鎮圧の知らせを聞きようやく安堵したということです。

10月末になると、義久率いる島津主力軍は佐土原城に到着、数日後には飯野の義弘らも日向に入ります。そして義久らは大友軍と高城を挟んで対峙します。
11月12日、高城下の小丸川でついに両軍は激突します。戦の口火を切ったのは大友軍の田北鎮周軍でした。彼は総大将の田原紹忍と意見が合わず、紹忍の命に従わず単独で進軍しました。これを見た他の大友軍の武将たちも遅れまじと一斉に進軍を開始します。
緒戦は大友軍が優勢で、島津の先鋒は潰走します。勝ちに乗じた大友軍は、一気に島津本陣のある根白坂に攻め入ろうとし、島津陣地へ深入りしてしまいます。大友軍は一気に川を渡ろうとして、水際での戦闘になりました。
661無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 15:04
そして、それまで戦況を見つめていた島津義弘は、渡河しようとする大友軍に対し一斉に鉄砲を撃ち込み、その横腹を突きます。この攻撃で、大友軍の先陣が崩れ、先手の田北、佐伯の両将も討死にすると、もともと統制の取れてなかった大友軍は一気に混乱し、両軍入り乱れての激しい戦闘が繰り広げられます。
島津義久も本陣より旗本を率いて戦闘に加わり、また高城守備隊の島津家久、山田有信も城から討って出て大友軍の背後を突きます。三方から攻められた大友軍は総崩れとなり、田原紹忍は全軍に退却を命じます。
島津軍は潰走した大友軍をなおも追撃し、耳川でも大友軍に大打撃を与えました。この一連の戦闘での死者は、大友軍が4〜5千、島津軍も千以上といわれ、負傷者はその数倍に上るといわれています。

務志賀で高城・耳川の敗戦を聞いた宗麟は、家族とわずかの従者を連れ、着の身着のままの状態で豊後に逃げ帰ります。
この戦を境に島津家は九州の覇者へのし上がり、大友家は斜陽の道をたどることになります。
662松永久秀:2001/08/04(土) 15:06
おい!これだけ資料探すんなら!
東大受かるよ!
ところで・・・高輪にある、島津山について知っていたら教えてね!
663無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 15:12
一帯は、寛保三年(一七四三)奥州仙台藩伊達家が下屋敷を構えた所である。幕末の切絵図には、雉子神社や宝塔寺に隣接する広い五角形の区画に「松平陸奥守(伊達家)下屋敷」と記されている。

 明治六年、屋敷はそっくり旧鹿児島藩主の島津公爵の邸宅となった。邸内にはツツジが植えられて、それが旧地名にちなんで「袖崎ツツジ」といわれるほどの名物となり、鹿児島出身の軍人や政財界人が集まるパーティが華やかに開かれたり、明治・大正天皇がお出でになったこともあったという。

 島津山の成り立ちで、建物が老朽化した明治末年には英国風洋館への改築計画から工部大学校造家学科(現東大建築学科)教授の英国人J・コンドルに設計を委託した。度重なる設計変更から建物の完成までに九年、さらに内部の設備や調度に二年の歳月をかけ大正六年にようやく落成した。

 ところが、昭和初期の金融恐慌で島津家の財政も打撃を受け、敷地の三分の二を売却した。さらに戦後、空襲の被害は免れたものの邸宅の維持が困難となって、土地と建物の所有権は日本銀行に移り、それを昭和三十七年清泉女子大が購入して横須賀からキャンパスを移した。

 女子大となってからも、白色タイル使用の壁面や精緻な石造技術を駆使した二階建ての邸宅は、ステンドグラスやマントルピースの内装もそのままに大学本館として機能している。東京都選定歴史的建造物にも指定されており、ツツジと共に明治、大正の面影を伝えている。
664松永久秀:2001/08/04(土) 15:21
>>663
ありがとう。
本当に有難うございます。すごいよー
清泉女子大の移転まで・・・・素晴らしいです。
何かお礼をしたいですけど・・・・・
また不明な点があれば、ご指導願います。
お邪魔するのは、悪いですな。
頑張ってくださいませ。
665無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 16:59
このスレ目が痛くなる
666無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 17:57
豊臣、徳川、織田、島津 この4家のうちで最も強いのはどれか?
それは島津です
なぜかって、この四家の中で明治維新で勝ち組みになったのは島津家だけでしょう
鎌倉〜明治〜現代(天皇家)まで権力を持っていた力強い一族です
667無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 18:23
江戸末期なら質量ともにかなりのものだが、
戦国なら島津は問題外。
隔離スレから出てくるなよ。
668無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 21:14
>>667
野暮な奴だなぁ(藁
669無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 22:25
他人のオナニーには文句はつけないように
670無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 23:20
>>667
なにをもって問題外なんだ?
豊臣、徳川、織田に対して問題外という意味だと思うが
それはどの時点で見るかによって変わってくるだろ?
織田・豊臣が力を持っていた期間なんてほんの僅かなもの。
力を兵動員力としてこれを縦のベクトル、時間を横のベクトルにして
この2次元グラフの描く面積を一族の歴史に与えた影響力とするならば
島津家は日本一強いと言い切れると思うぞ
671無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 23:24
>670
その理論で行くと、徳川家の方が上じゃないか?
672無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 23:26
>>671
徳川が歴史に現れた時期と島津が守護大名として薩摩に赴任した
時期では400年も差があるぞ
673無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 23:33
しかも島津家が持っていた荘園は薩摩・大隈・日向以外にも
島津家の分家は越前や播磨にもあった。
信州にも島津月下斎の家系があったように全国に力を持っていた
674671:2001/08/04(土) 23:39
670の理論って、力×力を保持した時間=歴史への影響力
って事じゃないんですか?
もし間違っていたらスンマソン。
675無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 23:41
>>674
そうだよ。
間違ってないよ
676671:2001/08/04(土) 23:44
666で
島津が鎌倉時代からあったことが。外出。
673で
島津は鎌倉から強い力を持っていたとのスレ。

勉強不足でした、三国志ヲタが口出し手してスマソ
氏んできます。
677無名武将@お腹せっぷく:2001/08/04(土) 23:56
時代の主役になったことはないな。
幕末維新は別に島津家が活躍したわけではないし。
678無名武将@お腹せっぷく:2001/08/05(日) 00:03
見落とされがちなのが幕末の佐賀の軍事力だな。
679無名武将@お腹せっぷく:2001/08/05(日) 00:03
義弘の肖像画。
どことなく相撲の舞の海関に似ているな

http://isweb14.infoseek.co.jp/novel/rekiju/image/sengoku/yosihiro.JPG
680無名武将@お腹せっぷく:2001/08/05(日) 19:36
しまずか・・・
この藩が日本の陸軍をだめにした様な気がする。
旧陸軍の抜刀突撃なんか示現流兵法そのものだし
玉砕なんかもそんな気がしない?
関係無い妄想なのでsage
681無名武将@お腹せっぷく:2001/08/05(日) 20:52
>>680
薩摩の影響が強いのは海軍だって言われてるよ
陸軍に強く影響を与えたのは長州だって聞いたことがあるよ
陸軍で使っていた「〜であります。」というのは長州の方言らしい
682無名武将@お腹せっぷく:2001/08/05(日) 22:28
信長の野望・烈風伝を島津でプレイした
最初は薩摩一国だったのをプレイ間もなく
大隈、日向を制圧、
宣教師が来たのでキリスト教の宣教を許す
結果、大友氏との友好が上がったので、すかさず大友と同盟を結び
大友と同盟していた肥後を完全制圧。
四国ルートで京を目指す途中で大名貴久が逝去。
義久が大名を継ぐも160超えていた威信が80くらいに下がる
官位が受け継がれないのが辛い
新武将登録で作っていた弟が日向で謀反を起こして大名になる
すぐさま義久みづから裏切った弟を討ちに軍勢を向ける
義弘が率いる軍勢は長曾部を制圧、四国に足場を築く
義久の娘が髪上げしたので、すぐに大友と結婚させる
おかげで減ってしまった威信値が回復する
これからの予定は強大な勢力になっている織田を討つために
中国ルートから大友軍が攻め、四国ルートから島津軍が攻める
それまでCOM大友が毛利に滅ぼされないことを祈るばかり
683無名武将@お腹せっぷく:2001/08/05(日) 22:58
(゚Д゚ )
684無名武将@お腹せっぷく:2001/08/06(月) 01:20
十河城を落してから雲行きが怪しくなる
織田勢がしつこく十河城を攻めてくる
同時に三好勢が白地城を攻めてくる
織田と三好は同盟も結んでいないのにだ
同盟国の大友は毛利を滅ぼしたが、その後織田勢に中国地方を取られてしまった
織田の勢力は西は中国地方から東は関東地方にまで及んでいるが
二条城の足利将軍家はいまだに健在。
織田よりもはやく上洛しなければ勝ち目が薄くなってしまう
685無名武将@お腹せっぷく:2001/08/06(月) 02:19
( ゚Д゚)
686無名武将@お腹せっぷく:2001/08/06(月) 10:06
(゚Д゚ )
687無名武将@お腹せっぷく:2001/08/06(月) 20:05
ガ━━Σ(゚д゚lll)━━ン
688無名武将@お腹せっぷく:2001/08/06(月) 23:20
いくら織田軍が攻めてきても十河城は落ちないどころか
門すら壊せないで全滅する織田軍
島津義弘(宿老)+鉄砲3段撃ちの威力は凄まじい
こうやって篭城戦で武将を増やしていこう
でもなかなか進軍できない。。。
689sage:2001/08/07(火) 00:09
なんか、リプレイスレになってきたのでネタをひとつ。
島津一門が能力高いのはわかったが、その家臣団についてはどーよ。
個人的には、新納忠元萌へ〜。
690無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 00:16
↑sageはメール欄に入れるんだよ
691無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 00:19
>>689-690
ワラッタ
692無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 00:26
>>689
>>623-626
の泗川の戦いでの川上忠実
>>357
の沖田畷の戦いでの川上忠堅
活躍してるな正直な感想
693無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 00:27
↑間違いだった、スマソ
>>357 は >>657 の間違いね
694無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 00:39
 川上家は島津貞久の子・川上大夫判官頼久に始まる。頼久は建武3年(1335)、薩摩の軍勢を率いて新田義貞の拠る越前敦賀城を攻め、文和元年(1352)に薩摩国加世田別府半分地頭職を与えられている
695無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 01:05
一つとや 肥後の加藤が来るならば硝煙肴に団子会釈それでも聞かずに来るならば首に刀の引き出物

ニつとや 深き手伊達は胸の中敵にもらすなこの事を味方味方の陣所には合図定めて附けし火を

三つとや 御国の人は残りなく鎧甲を備えつつすはやと言われれば其ままに陣所陣所に馳せ給え

四つとや 夜打ち敵が掛けるなら真弓鉄砲を構えつつ大将と見えし人々をねらいすまして打ち落とせ

五つとや 何時もわからん加藤めが片穂の槍で来るならば鎌やまさかり研ぎたてて諸鎌ともに打ち落せ

六つとや 昔の人もあざむける薩摩荒武者比度は思ひ定めし事なれば岩もこがねも一くだき

七つとや 中々こっちも退屈よ気をばきかせて引とれやいかに必死と極めても薩摩武者には勝てやせん

八つとや 屋敷屋敷の角々をさがし求めて敵方の間者居りなば其ままに縄や網にて縛り置け

九つとや ここの所は大口よ肥後の多数をやすやすとただ一口に引入れて口の中にて皆殺し

十つとや とがなき敵を法ももなく殺さば後の罪作りよわき加藤めそのままにいざや仁愛加え置け
696無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 01:09
戦国期の島津についての詳しい資料や小説ってどんなのがあります?
とりあえず池宮彰一郎の「島津走る」は読んだことあるけど。
697689:2001/08/07(火) 01:21
>>690
丁寧な指摘、感謝。マヂ恥ずかしいっす。

照れ隠しに新納萌えな理由を語ると、
>>572辺りにレスしてある秀吉の九州征伐の際に、薩摩・出水(いずみ)
で義久が降伏した後でなお、歳久らと共に抵抗した地頭の一人であった
(当時、大口地頭)という気骨のある爺さんだ、っつーとこだったりして。
確か、義久(義弘だったかも・・・)の説得で頭を丸めて降伏したが、そ
の秀吉との降伏の会見の場で、秀吉の「まだ楯突く気か?」という言葉に
対し「殿様(義久)がやれといわれれば今すぐにでも。」と薩摩隼人の意地
をみせたとこがイイッ。(秀吉はその一徹さを気に入ったらしい。)
698無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 01:29
>>697
鬼武蔵とか呼ばれているのに和歌を詠むが趣味という文化人でもあった
秀吉との会見の時に細川幽斎と和歌友達(?)になったんだよね
699689:2001/08/07(火) 01:49
更に、その後の酒宴で同席していた細川幽斎が、忠元のヒゲを見て「髭の
あたりに鈴虫ぞ鳴く」と詠んだところ、すかさず「上髭をチンチロリンと
ひねりあげ」と上の句を和して田舎者と思っていた豊臣方を驚かした、ま
さに文武両道の良将。

この幽斎の下の句が出てこなかった。探した結果、ソースとして出てきた
のが、
ttp://plaza20.mbn.or.jp/~junt_7/busyou/busyou-f.htm
あとで、ユクーリと覗こう。
700689:2001/08/07(火) 01:57
>>698
がいしゅつかよっ、ま、補足ってことで。
なんか新納スレに成りつつあるな。逝って来ます。
701無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 02:05
島津は岩屋城で思いっきり高橋親子の引き立て役になったのが痛すぎる
ドラマ的に完全に悪役だもん
アレさえなければとっくの昔に2回ぐらい大河ドラマの主役になってると思う
702無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 02:52
朝鮮・沖縄と触れてはいけない話題が多すぎるのでムリです
703無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 04:51
お久しぶりです。
早速ですが、島津は卑怯。
火山灰に埋もれちまえでごわす。
704無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 05:11
島津、生理的にダメ
705無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 09:06
島津オタは桜島が噴火しても会津のせいにします。
706無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 09:20
>>705
ほぼ毎日噴火してるけど・・・・
707無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 09:59
最近、してねーっつの。
708無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 12:09
島津オタは桜島がつまづいて転んでも会津のせいにします。
709無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 12:11
↑「桜島が」がよけいじゃねえか
710信濃攻略:2001/08/07(火) 12:22
嵐世紀攻略して何ヶ月経過したことでしょう。
燃えました、燃えつきました。またplayしたいな。
島津からはplayしたかったのですが、友達がやってて
仕方なく結城一族からはじめました。そして、毛利元就や織田信虎?(信長の親父)
尼子恒久など、その他もろもろ尼子恒久が生きてるゲーム時代があるのだから
やらなければなりません。戦システムは最初は混乱しましたが、総大将では
上杉謙信の騎馬が最高かなあ。家臣にしたとき先陣させた覚えがある。
711無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 19:14
>>694
島津って新田義貞を討っているのか、、、
知らなかった、、、
712無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 20:25
>>710
微妙に惜しい。
信長の父、織田信秀
震源の父、武田信虎
713無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 22:29
勇猛なるかな薩摩のいくさびと!
714無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 22:32
鹿児島の人間で会津を憎んでいる人ってあまりきかないな。
ひょっとして会津の一方的なもんじゃないの?
715無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 22:42
>>707
今日は灰が降ったyp
716無名武将@お腹せっぷく:2001/08/07(火) 22:44
>>715
藁タ
717最南端:2001/08/07(火) 23:17
当方頴娃地頭衆中。
高城・耳川の合戦にて功あるも短命で倒れし頴娃久虎の治めた地。
つーか、『頴娃』って地名、他国の者には読めんな(−−;

>>689
上方よりの帰還ご苦労。伏見屋敷の殿さぁの様子は如何だったか?(w
718無名武将@お腹せっぷく:2001/08/08(水) 00:02
>>714
そうじゃないよ。
「会津が一方的に薩摩を憎んでいる」と思い込んでいる島津オタがいるってことだよ。
719無名武将@お腹せっぷく:2001/08/08(水) 01:20
      ∂    ∧_∧
      (*  ̄ ̄(´・ω・`)  イエヒサ...
       UU ̄ ̄U U
720在京番衆(郷士):2001/08/08(水) 01:26
>>717
今出川ン下屋敷ン方は相変わらずごわんど。オイの様な若輩モンにゃ上屋敷ン中やら、
殿サァのお顔なんざ見ィがなィもはん。じゃっどん、お役目も務めて久々にこっちに
戻って見ン見ればァ、桜島は細んか灰(へ)ば吹きおっせ、兵児帯も乾せん。えらい
迷惑じゃ。
721無名武将@お腹せっぷく:2001/08/08(水) 13:15
>>718 いないんじゃないかなぁ。会津ってどこにあるのか知らないほうが
大部分だと思う。秀忠の不倫が開祖になったとか板垣が伊知地の提案無視して
一気に城下まで進軍とか知ってるのはよっぽどの通だよ。
722無名武将@お腹せっぷく:2001/08/08(水) 22:50
>>721
その通が島津オタ
723無名武将@お腹せっぷく:2001/08/10(金) 03:59
島津はもーイヤッ!
724無名武将@お腹せっぷく:2001/08/10(金) 04:06
>>723
ならあげんなよ。
725無名武将@お腹せっぷく:2001/08/11(土) 00:04
関ヶ原のとき加藤清正領の農民を攫った話はタブーですか?
(数十年後に返してくれたが(藁
726無名武将@お腹せっぷく:2001/08/11(土) 01:07
島津ヲタとういのがあるのね。
727無名武将@お腹せっぷく :2001/08/11(土) 04:29
よけいなお世話かもしれないけどさ
鉄砲を最初に使用したのは別に貴久が最初というわけじゃないよん。
貴久が使ったときは撃ち合いになってたんだよん。
つまり、当時薩摩地方にいた豪族にはほぼ均等に鉄砲が配備されてたのねん。
728無名武将@お腹せっぷく:2001/08/11(土) 04:35
>>680
薩摩はもともと火力重視の砲撃戦しかせんよ。
戊辰戦争でも大砲による攻撃に終始してただろ。
729無名武将@お腹せっぷく:2001/08/11(土) 16:55
 しゃれになんないくらい射撃重視だからな…。田原坂とか抜刀して
突っ込んだの肥後の連中と警視庁抜刀隊(旧士族な…)くらいで銃撃戦
がほとんどだったらしい。白兵でも強いのにそれに依存しないのよね。
 ヤバクなったら迷わず撤退するのも特徴。有利なとこまで退いて
銃撃って戦国から幕末まで伝統的戦術傾向。取り残された肥後藩士が
直近まで接近されて政府方と白兵戦やるはめに…。
730最南端:2001/08/18(土) 02:30
薩摩揚
731赤池長任:2001/08/18(土) 05:28
そろそろ出てきていいですか。
732じゃ、:2001/08/18(土) 22:05
>>730
つけ揚げ。
733無名武将@お腹せっぷく:2001/08/18(土) 22:40
http://salad.2ch.net/test/read.cgi?bbs=warhis&key=996925955

ここで高城の戦いが話題になってる。
734無名武将@お腹せっぷく:2001/08/19(日) 01:55
前略
島津は卑怯
後略
735無名武将@お腹せっぷく:2001/08/19(日) 12:40
強すぎるぜ!
736ケ艾:2001/08/19(日) 13:41
さ・・・薩摩大口で撃退された話はどうなった。
737無名武将@お腹せっぷく:2001/08/19(日) 13:43
君達だけだ・・・この板を活気つけてるのは。頑張ってください
738無名武将@お腹せっぷく:2001/08/20(月) 02:21
強いなー
739高白:2001/08/21(火) 16:58
141 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2001/08/13(月) 12:22
宮部継潤

 日向国新納院・高城は、天正15年に豊臣秀長軍に包囲された。
 そのため、島津義弘・義久は、天正15年4月17日二万の兵で、高城の南、要所根白坂
に陣をおいている。宮部継潤・蜂須賀家政・黒田孝高・尾藤知定ら合計1万五千の
の軍勢を破り、高城の城兵を救おうとした。
 島津軍の作戦は、まず、軍使を派遣して、城兵を助命すれば、城を明渡すといって、
油断させた後、夜襲をかけ、撃破すると云うものだが、継潤はこれを細作と見破り、
空掘りを深さ3.6m、幅5.4m、柵を二重にするなど防御を強化して待ち受けた。
 島津軍は、軍使の情報を元に突撃を敢行したが、空掘りを超えられず、また、
柵に手をかけると、偽装柵が落とされ下敷きとなったりして、死体の山を築き、攻略を
断念した。
 また、もう一つ負けた原因は、島津軍の軍法は、一人の敵を殺した証拠が無いものは、死刑、
その親族まで重罪になる上に、前進以外、横や後ろに移動した場合、相対する敵軍を残らず、撃破して
無ければ、将も士卒も死罪というもので、このため、戦術的後退が出来ずに、いらずらに、突撃を繰り返し、
犠牲者を増やしてしまった。
740高白:2001/08/21(火) 16:59
150 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2001/08/15(水) 16:54
なるほど、この戦いには有名な>>141の軍法が適用されたのか。
で、島津はその場に応じて軍法を使い分けてたという。
たとえば義弘は「刳り貫き」「鉄砲の交互射撃」の2つを多用したという。
(↑馬印を隠して一気に敵の旗本に突撃する)

竜造寺・明軍・四国勢に対して勝利した共通のパターンとして
「引き寄せて、銃撃」がある。
竜造寺に対しては鉄砲の数が少ないので大量の弓を使い
明に対しても大量の鉄砲だけではなく、士は弓も使いこなして
勝利した。(他国では弓は鉄砲に代わって使われなくなっていた)

この戦いでは島津側はなぜか鉄砲を使用していない。
動員されたのが銃・弓を使う騎乗の侍ではなくて、
野郎衆など「白兵専門」の兵だったからかな?
741無名武将@お腹せっぷく:2001/08/22(水) 02:16
強すぎるぜー
742無名武将@お腹せっぷく:2001/08/22(水) 02:26
卑怯すぎるぜー
743無名武将@お腹せっぷく:2001/08/22(水) 03:23
強いなぁ
744無名武将@お腹せっぷく:2001/08/22(水) 07:00
つくづく島津が日本をダメにしたとゆう事がわかりました
745無名武将@お腹せっぷく:2001/08/22(水) 07:01
どうでも、いいが幕末で島津が天下を制したなんて、
自慢する島津オタがいるが、
あれはどうひいき目に見てもそうは言えない。
もう、その時代になると「島津家」というよりも
「薩摩藩」というような感じで島津領は島津の持ち物と
いうより、組織になっていたのだ。
薩摩弁も話せない島津斎アキラはまだ、その辺がわかって
たから良いとして、
島津久光など島津が天下を取ったと勘違いして、
廃藩置県の時、悔しがったんだよな。
島津が実は最初に滅んでたんだと思う。
746無名武将@お腹せっぷく:2001/08/22(水) 07:06
天下を取ったのは
むしろ西郷どんと大久保どんで
島津は最初に乗っ取られて滅亡してた。
747無名武将@お腹せっぷく:2001/08/22(水) 08:15
結局、島津が好きな人は何が好きなんだろうね。
島津家の人物が好きなのか?
薩摩の風土が好きなのか?
まあ、多分、島津家の人々が好きなんだろうけど、
それだったら、維新を誇るのは違うのでは?
毛利家を好きな人が維新を誇るようなものだからな。
748無名武将@お腹せっぷく:2001/08/22(水) 16:58
なぜこんなに強いのかな?
749あと隼人だから:2001/08/22(水) 17:12
 火力火力火力。
750無名武将@お腹せっぷく:2001/08/22(水) 17:14
>>748

728・729を見よ。
突撃だけでは739がオチ。
751無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 00:33
>>747
島津家は維新の果は取っていないが、島津家が無ければ維新も無かったと思う
特に島津斉彬公が行った殖産工業政策が無かったなら薩摩藩の力が幕府に迫るほど
のものになっていなかったと思う
752無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 01:09
>>747
島津製作所に勤務してるんでしょ。
753無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 05:19
島津好きな人にも話せそうな人がいるんだな
754無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 06:49
>>751
その理論だと、
日本が維新後、軍国主義に突っ走ったのも
島津のせいということになるかもしれない。
維新はいずれは起きたでしょ。
755無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 07:14
沖縄の人にとっては島津は悪ですね。
ただ武力で侵攻して支配するだけなら、歴史的に良くあることなので仕方ないのですが、
自分たちに高額の入貢をさせたうえに
明に対しても引き続き入貢を続けるように指示したのは汚いです。
利益を求めるだけで支配者としての責任を果たしていないです。
756無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 14:44
>>754
まるで軍国主義は日本独自のものと言わんばかり。
当時は侵略して植民地を得る=先進国=豊かな国
日本が軍国主義に突っ走ったのは歴史の必然。

坂本龍馬の目指した「貿易立国」を理想視する人がいるが、
当時は世界中が植民地であり「自由貿易」など存在しない。
物を売りつける国が存在しないのだ。
貿易立国は非現実的である。
757無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 15:20
>>1
そんなに強いならどうしてさっさと九州を統一しなかったの?
758無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 16:03
 大友と龍造寺がいたのだ。ちなみに両方に決戦で勝ち
龍造寺を服従させ大友を壊滅寸前に追い込んだ時点で
大友宗隣が秀吉に泣きつき一大物量作戦が発動。
 九州を統一しそうになったから秀吉と・・・。
759無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 16:38
でも物量なら島津もかなりのものでしょ。
北条や徳川よりも戦闘員の数で勝ってない?
760無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 16:57
 黒田、毛利の北九州制圧で博多ルート押さえた上に
四国ルート豊前補給路&瀬戸内ライン確保しかも肥前の
龍造寺を揺さぶって事実上島津の一角から外れたために
肥前肥後のルートが崩壊。物量では豊臣官僚団の運営も
含めて圧倒的だった。
761無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 17:27
実際の戦力比は?豊臣の20万は本当?
762無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 17:34
強いな-
763無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 17:41
島津も降伏者を含めれば10万人に届くぐらいはいたかも。
764中国勢、九州勢合わせて:2001/08/23(木) 17:45
 10万はいたんじゃないかな。兵力の逐次投入をせずに
肥後、日向から示威的に半包囲。後詰めで直に行かなかった
連中合わせると20万は誇張無しでいるかも。
 四国勢だけ突出して確固撃破でやられたけど大兵力の示威
行為で島津の勢力下の連中がそのまま秀吉側についたわけだし。
765無名武将@お腹せっぷく:2001/08/23(木) 18:37
>>754
いずれ起きたかも知れないし、時すでに遅く西洋の植民地になっていたかも知れない
弱肉強食の危ない時代だったから悠長なことは言ってられなかったんだよ
766689=697:2001/08/23(木) 20:49
そのうち誰か訂正してくれるだろうとおもってたので、放置してたんだが
だーれもレスしてくれなかったので自分で訂正しますわ。あー、恥ずかし。
>>697 >秀吉の九州征伐の際に、薩摩・出水(いずみ)
   >で義久が降伏した後でなお、・・・
          ↓
    >秀吉の九州征伐の際に、薩摩・川内(せんだい)
   >で義久が降伏した後でなお、・・・

上の通りに訂正します。よってsage。 
767無名武将@お腹せっぷく:2001/08/24(金) 04:51
島津強いよー
768無名武将@お腹せっぷく:2001/08/24(金) 11:16
島津オタの妄想は強いよー
769無名武将@お腹せっぷく:2001/08/24(金) 16:47
>>765
侵略の際に欧米列強の尖兵となる現地のキリスト教徒が少ない日本を、
植民地にしようと思ったら、かなりの大兵力を海上輸送する必要が有るけど
その当時のヨーロッパの海軍力や財政で賄えたの?
770無名武将@お腹せっぷく:2001/08/24(金) 19:34
もし豊臣と戦やる前に島津が九州統一していたら
豊臣と戦には負けなかったかな?
そもそも戦が起きなかったかな?
771無名武将@お腹せっぷく:01/08/28 20:02 ID:FNGWz1Yk
九州統一したからって島津の戦力が増えるわけではなかろう。
九州負け組み残党は豊臣につくだろうし。
772無名武将@お腹せっぷく:01/08/28 23:43 ID:/oszcS8k
確か岩屋城責めだけで5万人超えてなかったか?
あと後詰めとか他戦線も合わせるとかなりの人数になるな。
773無名武将@お腹せっぷく:01/08/29 08:40 ID:KwKA.cDY
>>771

統一していれば、大友の支配地域を取り込めるから戦力は、増えるよ。
ただし、戦力化するのは、統一してから5年ぐらいたってからだろうけど。
もし、中央での戦乱がもう少し続き、秀吉の九州征伐が後、数年遅かったら、かなり
面白いことになったと思う。
774無名武将@お腹せっぷく:01/08/29 12:34 ID:9TfbJ9Vk
俺も島津賛成
775無名武将@お腹せっぷく:01/08/29 14:31 ID:FgMkpQA6
九州征伐・小牧長久手の豊臣勢は凄まじく烏合の衆なのだ。
長久手はそれで負けたようなものだし。
776無名武将@お腹せっぷく:01/08/30 00:22 ID:Hnr.pSQA
島津はドキュソ
島津ヲタ=クズ
777無名武将@お腹せっぷく:01/08/30 15:23 ID:NQtT.zX6
折れ、鹿児島に旅行に逝ってきたんだが、市内の至る所に
○十字の島津マークが見られた。お菓子、喫茶店、タクシー
薩摩切子などなど。
鹿児島は今だに島津家の支配下にあるって感じがしたな。
>>777
だって他に売るもん少ないんだからしょうがない(藁
売り物にするものが無い町に比べれば、そんなものがあるだけでもラッキーって
感じでしょ。ま、生かしきってないけど(藁
言っとくが、今は『島津家の支配下』には無いぞ。特定の個人を指してるので気
が引けるが、島津家は『お金持ちの旧家っつーか、一地方財閥』。
因みに777の言ってたタクシーは、おそらくここの『島津観光』のこと。
って言ってて結構すごいね、ココ(藁
779無名武将@お腹せっぷく:01/08/31 14:06 ID:nBEjR2O.
780教えて:01/08/31 14:53 ID:ShZ/0wp6
島津義弘の強さを知りたいです!
特に、朝鮮出兵の話を聞かせてください。
781無名武将@お腹せっぷく:01/09/12 00:47
島津奔る、よかったあ。
782無名武将@お腹せっぷく:01/09/21 13:47
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783 :01/10/01 22:43
784無名武将@お腹せっぷく:01/10/03 22:10
あげ
785無名武将@お腹せっぷく:01/10/03 22:22
ちょっと頼みがあります。
島津の関ヶ原のエピソードの
篭かきが「おれが食べて殿を守る」
というエピソードの詳細をだれか教えてください。
786無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 13:00
島津氏最強!
島津ヲタ最強!
788無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 20:27
天下人に逆らう無謀な奴はいるが、逆らってもしっかり本領安堵され生き残ってるところが素敵だ!
789無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 20:55
上方で家康の留守中挙兵した石田三成は、西軍を引き連れ家康の居城伏見城を落城、美濃国(岐阜県)に入る。
三成は当初、東海道を西上してきた東軍は岐阜城を相手にせず清洲城に留まると判断。
これに対し岐阜城攻略をいち早く察知した島津義弘は、岐阜城防備に努めるべしと進言をする。
だが三成はこれを聞き入れず、後方垂井にいた島津隊を一気に前進させる様、指示を出す。

8月22日:義弘の予想通り東軍福島隊・池田隊らが岐阜城攻め開始。
8月23日:舞(前野)兵庫、杉江勘兵衛ら率いる西軍石田隊1000は東軍牽制のため岐阜城に向かう。
が、途中の合渡川で食事休憩をとっていた際、東軍先鋒の黒田長政・田中吉政ら別働隊に急襲され壊滅してしまう(合渡川の戦い)。
この敗戦を沢渡村で軍議中に聞いた三成はおおいにうろたえ、慌わてて自軍を大垣城まで戻す指示を出す。

このため最前線の墨俣にいたわずか250の島津豊久隊(義弘の弟家久の息子、義弘にとっては甥)が取り残された。
そもそも義弘は進言を却下されながらも、三成の命に従って貴重な戦力を墨俣まで進めたのだが、その三成自らが引き上げようとするからたまらない。
義弘は大垣城への撤退を猛烈に反対する。
790無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 20:56
東軍進撃とは言え先鋒隊のみ。この地にあかるい石田勢が川沿いの竹林に潜み横腹から銃撃をもって迎撃すれば、戦況は必ずこちらに味方する。
岐阜城も落城した今こそ敵の気勢をそぎ、味方の勝ち癖をつけるべきでござろう。」
理にかなった進言である。しかし三成は、
「軍議は終了でござる。これ以上の長居は無用」
と相手にしない。さすがに義弘は語気を荒げ薩摩弁で、三成に抗議する。
「前線にいる豊久はどうなっとか!!」
「早々に退かれよ。大垣城でお待ち申し上げまする。」
「我が将兵を見殺しにすっとか!西軍の謀将とは思えん発言じゃっど!」
「今は無駄な損失はしたくない。とにかく石田軍はこれ以上派兵できない。」
あっけないほどにそう答える三成。沢渡村を急ぎ去ろうと乗馬する三成に、義弘配下の新納弥太右衛門と川上久右衛門が立ちふさがり、
「島津惟新の主従を見殺しにしても引くと申されるのか!卑怯者といわれても頼みを聞けぬのか!」
と詰め寄るが、ついに三成は軍を引き上げてしまう。唖然としながらもすぐに義弘は、豊久隊救出作戦を図る。
絶望の中で一度は死を覚悟した豊久隊だったが、救出のため義弘が動く事を知ると大喜びし、元気づけられたという。
豊久は義弘の命令通り緊急撤退の様相を見せない様、敢えて粛々と少しずつ引き上げていく。
791無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 20:57
一方義弘以下救援隊は寡兵ながら、あたかも大軍がいるかのように呂久川堤沿いに隊を並べた。
豊久隊はその堤後方を大垣城方面へ引き上げるが、高台である川堤の向う側は東軍には全く見えない。
そもそも東軍にとっては九州統一・朝鮮出兵でその勇猛ぶりが知られている島津軍団から、攻撃も仕掛けられずじっと凝視されているのである。
不気味さをぬぐえない東軍諸勢は凝然と丸十字の旗指物を見送り、結局攻撃を加えなかった。

義弘の策略を見抜いた者も僅かにいた。
黒田家重臣ながら後に出奔し、大坂の陣で活躍する後藤又兵衛基次がその一人である。
だが「攻撃してこない最強軍団を相手にわざわざ戦力を減らす事ほど、ばかげた事はない」と、攻撃を制した。
こうして勇名を武器にしながらまんまと島津勢は、日が暮れるまでに豊久隊を救出し、大垣城北の楽田に陣を張った。
792無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 20:58
9月1日に江戸を出発した家康は東海道を西上。
14日早朝岐阜城を出て大垣城近くの東軍集結地赤坂に向かう。
途中西軍の襲撃を避けるため間道を移動するが、家康が本巣郡垣の木戸に差し掛かると、島津鉄砲隊の奇襲を受け、あわや自害という境地にまで追いやられる。
この日、島津隊川上左京は垣の木戸の坂道両側それぞれに、鉄砲隊100人を潜ませた。
鉄砲大将川上は輿に向かって散々銃撃を浴びせた後、突撃を命じる。家康の護衛はあっという間に切り崩され、もはやかなわないと諦める井伊直政は家康に自害を勧め、
自らが介錯せんと太刀を振り上げた時ようやく本多忠勝隊が間に合い、なんとか島津隊を撤退させている。
この時東軍藤堂高虎は自らの鎧と家康の鎧を交換し、以後の身代わりとなる。
この際、家康の鎧には2発の貫通痕があったという。当時の状況を「美濃国雑事記」はこう描写している。
「島津兵庫頭(義弘)の郎党別所下野、今川曽根四郎追いかけきたり申し候。曽根四郎知行八千石、七十五人力御座候。
曽根四郎まっさきに進みきたり候。井伊兵部小輔は曽根四郎と戦い候て、曽根四郎を切り殺し候。然るところ川上左京は二百人の兵子野郎を召し連れ、
追い来たり候につき、もはやかない申さずとて、兵部小輔は東照宮に御切腹をすすめ奉り、御介錯つかまつるべしと貞宗の刀をふりあげんとすれば、腕くたびれて候て刀もあがり申さず候、云々…」
793無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 20:58
9月13日:楽田に陣を張る島津勢に、薩摩から駆けつけてきた義弘の謀将、阿多長寿院盛淳(あたちょうじゅいんもりあつ)・勇将山田有栄(やまだありなが)ら70名の武将・足軽が到着した。
合戦の2日前である。義弘は大いに喜び、一人一人手をとって感謝した。そもそも薩摩では前当主で義弘の兄義久が、いまだ実質の権力者であった。
義弘が西軍に加担してしまった事を聞き、「あれほど内府殿(徳川家康)のお手伝いをしろと言ったのに…。
こうなっては致し方あるまい、薩摩を守るためにも誰も義弘の所に行ってはならんぞ。
庄内も警戒せにゃいかん(後日解説)。もし加勢にいけば厳罰に処す。」
と命を下していた。この為、最低1万5000の動員が島津では可能だったが、公の派兵は結局実現されなかった。
それでも処罰にかまうことなく、「おとがめをうけて同じ死ぬなら、わしは殿様と一緒に死ぬ!」
と各自それぞれが一人二人と義弘の加勢に美濃へ向かっていった。中馬大蔵もその一人である。その兵数は合計で1000を超えた。
794無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 20:59
いよいよ岡山に着陣した家康。西軍宇喜多秀家は、士気上がる東軍の出鼻をくじくべく、
夜襲を行う事を提案した。義弘はこう同調する。
「東軍兵は長旅と野ざらしの陣中に1ヶ月滞陣しており疲労しきっているが、
内府到着で勢いづいている。
今夜こそ奇襲をかけねば勝利の機会はもうござらぬ。
命令があれば我が島津隊が夜襲の先鋒を務め、散々に敵を蹴散らしてくるがいかがであろう?」
しかし三成は家老島左近勝猛と共に、
「島津惟新様の武勇、誠に頼もしきことかな。しかしながら古来より小勢が大勢に夜襲をかけて勝利を得したこそあれ、
大勢が小勢に夜襲をかけるという事は存じ上げぬ。
そもそも古今未曾有の大決戦に夜襲などと姑息な方法は不必要。
今は兵力を温存させ集結しつつある友軍を待ち、来るべき時がきたら野戦で正々堂々と決着をつけるべきと心得まする。」
として、夜襲案に反対する。
これで千載一遇の西軍勝利の機会は永遠になくなった。
東軍に全勢力を集結させ、敢えて家康得意の野戦でその家康を葬り去ろうとする信じられない発言に、義弘と宇喜多秀家は驚く。
しかも三成は戦を「数」でしか考えていない。島津隊は軍勢こそ少ないが、1500人全員が死を決している。
寡兵という事だけで軽く見られている事に気付く義弘は落胆し、西軍についた事を大いに後悔したであろう。
恐らくこの時義弘は東軍でも西軍でもない、独自の路線を歩む事を決意したと思われる。
795無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 21:00
三成の島津に対する「数」へのこだわりは
8月5日付けで信州上田の真田昌幸に送った上方の戦況報告「三口への御人数備えの覚え」でも伺える。
ここで島津隊兵力を「羽柴兵庫 五千」と報告している(当時島津家は豊臣姓を許されていた)。
4000いるはずの小西隊を「小西摂津守 二千九百」と各隊の人数調整をしてまで島津勢を増やしている。
この時点での実際の島津隊兵力は1000。基本的にはどの部隊も若干の上増し報告は当然していただろうが、
島津隊だけは5倍というずば抜けた水増しのされ方である。
島津軍を結果として1000人しか引き出せなかった三成自身の才覚を隠し、陣容の強固さを取り繕う一方、島津勢の力量が高く全国的に周知されている事が伺える。
796無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 21:02
9月14日午後7時、西軍は1番石田隊、2番小西隊、3番島津隊、4番宇喜多隊の順番に大垣城をでて、
南宮山の南側を回り込むように関ヶ原へ進軍する。
先鋒石田隊が笹尾山に午前1時に陣取ると、機動力に富む島津隊は小西隊を抜いて2番目に関ヶ原に到着、
石田隊の右翼に脇備えとして布陣する。本来脇備えは基本的に参戦せず、あくまでも補強的な存在である。
そして勝ち戦になった時にダメ押しで突撃すれば良いという、戦力としてはあまり価値の無い部隊であった。
そんな扱いでも黙々と小池村に陣を張る島津隊。
朝もやの中、合戦ギリギリになっても「殿様御難儀」と息を切らして薩摩から馳せ参じた将兵が一人二人と到着する。
本領の伊作から馳せて来た前園忠兵衛は開戦に間に合うよう、途中で服も鎧も捨てて褌一丁でかけつけた。
義弘は忠兵衛に、「今回は誰もが死ぬるから生きている内に褒美の前渡しじゃ。」
と言って自分の陣羽織を着せた。遥々薩摩から走ってやってきた兵達は感激し、涙したと言う。
この時点で一人一人の兵士の士気が、他隊と全く違う。
積もり積もった精強な島津隊はついに兵数1500を超えた。
島津隊は豊久と山田有栄が先鋒750を率い、後方本陣に大将義弘750と分けて陣を構える。
義弘は、将兵にこう下知する。
「今回の戦いは望んで加わった戦いでもなければ、我らの意志が少しでも軍議で受け入れられたわけでもない。挙句の果てが今の有様じゃ。
これではどちらが勝っても後で無理難題をふっかけられるだけじゃ。西軍に加担した以上はこうして戦場に来たが、今後我等は独自で行動する。
西軍が勝てばおとなしく薩摩へ帰ろう。だが恐らく負け戦は必定。西軍うち破れれば内府の本営に突っ込み、最後に薩摩武士の底力を見せつけこの地で果てん。
後は国許の兄者と倅の忠恒がなんとかしてくれよう。そのためにも今は兵力を無駄に損じるでないぞ。…しかし我が陣をかき乱すものは敵味方なく打ち払え!」
義弘は陣中で歌を吟ずる。
797無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 21:09
陣を整え、時折晴れる霧の中から8万の東軍を目の前にする義弘。
「我が隊に8000、いやせめて5000あれば、おもしろい戦ができたであろうに…」
かつて20万の兵を7000で蹴散らした義弘の、決して自信過剰ではない、偽らざる本心であろう。

午前8時、井伊直政の抜け駆けによりついに開戦、天下分け目の戦いが始まる。
西軍では小西隊、東軍からは黒田隊から開戦ののろしが上がる。
島津隊左翼の石田隊6000に黒田・細川・加藤・田中隊ら1万8000が突撃。
一方島津隊右翼の小西隊4000には、古田・寺沢隊らが攻撃。
島津をすぐ脇においたのは三成の策略だった。
「三成憎し!」個人的な憎悪の感情をむき出しに突進する東軍各隊大将だが、三成のすぐ横にある島津隊はどうにも厄介な事この上ない。
兵の数が問題ではない。朝鮮でまざまざと見せ付けられた、最強軍団を率いる義弘の存在自体が問題なのだ。
しかも撃って出る事なく傍観している。
東軍諸隊は強い存在感と不気味さを感じながらも、わざわざ眠れる龍を覚ます事はないと、島津隊を避けて笹尾山に集中する。
豊久は、
「これはおかしき仕儀かな。敵がいっこうに攻めてこぬ。これも叔父上の御武勇の賜物なり。」
と苦笑する。また驚くべき事に、開戦してもなお、薩摩から掛けつけてきた将兵が到着してくる。
一方島津隊左翼に陣する石田隊では、最前線に布陣する島左近1000・蒲生郷舎1000の精鋭部隊が数倍する東軍を相手に激戦が続く。
特に前日杭瀬川の戦いで完勝し、意気上がる島左近隊の突撃はすさまじい。
関ヶ原合戦の数十年後、老いた黒田家家臣達は昔話をするのだが、誰一人としてこの時の左近を覚えていない。
そこで同じく合戦に参加した旧石田家家臣に左近の様相を聞くとこう答えたという。
「あの時の左近殿は、兜の立物は朱の天衝三尺、具足は桶側溜塗菱威に、上に木綿浅黄の陣羽織、縄を帯に致してござった。」
798無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 21:12
これだけ派手で目立ついでたちであってもやはり誰も思い出せない。
「かかれー!かかれー!」
と怒号し鬼神の如く敵をなぎ倒す左近に、敵勢は誰一人として顔を上げられず、震えながら逃げ惑っていたからである。
血と断末魔の嵐が突き進むような活躍をする石田勢の様子を、豊久と義弘は眺めながら言葉を交わす。
「治部少達もよく健闘しておりまするぞ。」
「まことに。しかし惜しいかな、兵が足りぬ。敵勢の横からあと2、3000の兵が突っ込めば一気に壊滅できるのにのう。」
石田隊を攻める東軍最前線の一つ、田中吉政隊は、敵の思わぬ善戦に驚きと困惑を隠せない。
「石田は両軍一の弱兵ぞろいではないのか?!!」
田中隊はかなわじと兵を南下、より弱いと思われる小西隊へ一直線に向かう。
799無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 21:14
ダダダダーン!!!
陣前を蹂躪するかのごとく旋回する田中隊に、島津隊が初めて銃撃を加えた。
薩摩は鉄砲伝来の地である。そのため「鉄砲隊は足軽の仕事」という当時の常識と全く異なり、
薩摩では全将兵が鉄砲装備を兵法で定められ、当主義弘自身からして名狙撃手であった。
当然1500の島津隊全員が鉄砲装備である。
この当時、鉄砲隊兵数は全軍団の10%程であったから、都合1万5000の軍団が持つ弾幕・掃討能力を有していた事になる。
そんな軍団から銃撃を食らうのだからたまらない。
田中隊は小西隊への移動を諦め、ようやくの思いで笹尾山攻撃隊の後衛に回り込む。
「やはり島津にはふれるな。」
無言の了承が東軍全体に流れるのであった。
当の小西隊も寺沢隊・織田隊・金森隊らを相手に一歩も引かず激闘を展開。
たまらず寺沢隊は一度兵をまとめようとするが、島津陣営のすぐ前に押し出されている事に気付き、慌てて小西隊南側に反転。
体勢を整え、再び攻撃を加えている。
800無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 21:20
午前10時、戦闘開始から2時間後。
隊列を乱さず堂々とたたずむ島津隊を、じっと見据える赤備えの武将がいる。
3600を率いる徳川四天王の一人、井伊直政である。
今回の戦では軍監(軍の監察官)として参陣した直政は、
もり役を勤める初陣の家康四男松平忠吉に見事先駆けの任を果たさせ、
今は遊軍として待機するのみであった。
「か弱き治部少や小西摂津守らの軍勢は豊家恩顧の武将に任せておけ。
今、武功を得んとするなら島津惟新の首をとるしかあるまい。それ!!」
戦場のエリート集団赤備えがついに動き始める。
井伊直政は松平忠吉隊3000も引きつれ、喚声を上げながら島津隊に向かう。
それを激しい銃撃で追い返す島津隊。
井伊・松平隊も銃撃をやりすごして何度も突撃を試みるが、攻めあぐんでしまう。
「赤鬼」と「鬼島津」の、人を超えた駆け引きが始まる。
小競り合いとにらみ合いの膠着状態が続く中、隣りの石田勢は島左近が銃撃され戦線離脱、
幾分勢いが弱まる。起死回生を図る三成は、助勢依頼のため島津隊に家臣八十島助左衛門を送る。
受け付けた島津豊久はこう言って追い払う。
「我が方よりも御味方にこそ気を使われよ。前衛が崩れかかっておりますぞ。」
「戦はすでに始まっているのに、貴殿らは一体何をしておられる?!御味方危急なればこそ合力つかまつるべきにあらずや!」
興奮の余り馬上から発言を続ける八十島の礼を失した行為に、豊久はついに怒りを表す。
「馬上からの物言い、なんと無礼な!叩っ斬るぞ!!」
801無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 22:03
豊久は抜刀して八十島の馬を斬りつける。
慌てて八十島は三成の元に戻り事情を説明すると、
「今度はわしが行こう。」
と単騎小池村に向かった。
「八十島の無礼は失礼仕った。きつく叱りつけましたので平にご容赦を…。
さて我勢の健闘振り実に目覚しく、あともう一押しで敵を壊滅せんという所まできておりまする。
つきましては島津惟新様のご助勢賜りたく何卒お聞きくださいませ。」
わずかであるが、石田隊が押され気味である事に気付かぬ義弘ではない。義弘はこう突っぱねる。
「この度の戦は、各隊がそれぞれの戦いで全力を尽くすはずではなかったのか?前後左右を省みる暇はないはずであろう!」
三成のせいで殺されかけた豊久は黙ってうなずく。これまでの義弘への扱いぶりをようやく自覚できた三成は、
がっくり肩を下ろして自軍へ戻る。・・・全ては遅すぎたのだ。
実際島津隊は助勢できるほどの余裕もなく、大勢が決まるまでに兵力500までに減っている。
この頃から始まった精鋭井伊・松平隊6600の攻撃は徐々に苛烈を極めていた。
撃って出ない事を知ったからだ。島津1500の兵が生き残るには撃って出ればいいのだが、それでは戦後交渉で薩摩を守りきれない。
前に出る事も後ろに引く事もできない島津隊は、すぐ隣の仲間がバタバタ倒されても毅然と耐えて立ち尽くすのみであった・・・。
802無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 22:05
午後12時、松尾山にいた1万6000の小早川軍勢が西軍を裏切り、麓の大谷隊へ攻め下っていった。
大谷隊はこれをよく防ぎ敵を500Mほど押し返すが、
同じく寝返った脇坂・小川・朽木・赤座ら4000に横から切り崩されると、大谷隊はまもなく壊滅した。
「小早川寝返り」「脇坂ら諸将寝返り」「大谷吉継討死」相次ぐ報告に、何とか支えていた小西隊がまず崩れ始める。
にわかに浮き足立ち、小西行長は叱咤と怒号を繰り返すが、怖気づいた兵らの動揺と混乱は止められなかった。
同じ混乱は宇喜多隊にも連鎖反応的に起こり、士気は急速に喪失。
各兵は散り散りになって後ろへ逃げ出していく。
逃げ惑い、助けを求める小西隊・宇喜多隊の兵卒と、それを追う東軍諸隊が島津陣営に殺到する。
しかし島津勢は両方ともに銃撃を加える。
「我らの陣を乱すものは何人たりとも柵の中に入れるな!」
さすがに石田隊はしばらく持ち応えたが、勢いづき殺到する東軍を支えきれず、ついに笹尾山は陥落。
この頃になると東軍後衛の兵卒の中には、既に笑顔で前線の戦い振りをやんややんやと見学する者まであらわれた
803無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 22:08
午後1時。戦場に残る西軍は島津隊のみとなった。
「さあ、どうしたものか・・・。」
決断の時をむかえた義弘は、床几からゆっくりと腰を上げる。
前方・両横は残存する6万の敵勢。後ろの伊吹山は小西隊や宇喜多隊ら敗軍の兵で殺到し、道がつかえてしまっている。
そもそも島津の兵にとって遁走など考えてもいない。
義弘は豊久と阿多盛淳を呼んだ。
「わしは薩摩武士の意地を通すため、此処に残った兵で今から敵の真っ只中に討ち入り、気が済むまで切り捨てた後は見事華と散ろうと思うが、
そちたちはどう考える?」
豊久は驚き、強く義弘に言い寄る。
「伯父上、何をおっしゃる!ここにいる兵達は、皆伯父上を薩摩に生きて帰らせるために集った者達ですぞ。
最後の一兵になっても、伯父上だけはなんとしても生きて帰って下され。
生きて伯父上が薩摩の地にいればこそ、内府も簡単には手をだせぬはずでござる。」
盛淳も大きく頷く。義弘は苦笑した。
「またお前らはわしを生かそうとする。・・・仕方ない。では、このまま内府の本陣に突っ込み、
嫌と言うほど薩摩武士の暴れっぷりを馳走してから転回、牧田川沿いに伊勢街道を通って引き上げるぞ!皆ここで命を使い捨ててくれまいか?」
残存する500の兵達は喜色を浮かべ、目の覚めるような声で口々に、
「よくぞ言って下された!」
「敵勢の中央突破でござりまするか?!これはなんと勇敢剛毅!!」
「泣こよか、ひっ飛べじゃ。」
と答える。義弘は全兵を前に指示を出した。
「よし、では恐らく最後の戦いになるであろう。
薩摩軍法全てを使い、薩摩武士ここにありと天下に知らしめん。
まずは繰り詰めの法で連射、次には穿ち抜けの法でまっすぐに内府本陣に切り込む。
陣形は鋒矢(ほうし)型。退却時には逆鋒矢に構え、追撃はステガマリで仕留める。よいな!」
「おう!!」
804無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 22:12
一本杉の馬印を倒し、全員旗指物をたたき折り、袖の合印を破り捨てて鋒矢の陣型を組む。
混乱する敵勢の中で島津隊と分からない様にするためだ。
先鋒を島津豊久・山田有栄が務め、本陣義弘を阿多長寿院盛淳が守るように構える。
急にざわつき始めた島津隊に、前線の井伊・松平隊は戦闘の予感を感じ、慌てて体制を整える。
井伊は先んじて突撃を命じた。豊久は突撃してくる井伊隊を前に指揮する。
「膝に敵が掛けあがるほど引きつけて撃て。よいな!」
押し寄せる圧倒的多数の軍勢を引きつけて撃つという事は、かなり勇気がいる。
しかし血気はやる薩摩隼人は敵の突撃を待つ時すらもどかしく、山田有栄隊の者は自ら撃って出た。
「何という事を…。」
前陣のわずかな隊列を井伊が見逃す筈が無い。
豊久は援護のため銃撃を加えるが、一斉射撃って二発目を撃とうとする前に井伊・松平隊が怒涛のようになだれ込み、すぐに乱戦となった。
混戦は島津本陣まであっという間に達し、義弘自らが愛刀大典太を振るう。
山田有栄はふと後ろを振り返ると前備えと義弘隊が分断され、義弘の周りには数騎の味方しかついていないのに気づき、慌てて義弘の元に向かう。
島津隊は井伊・松平隊が体勢を整える前にようやく再び合流し、喚声をあげながら眼前に待つ3万の徳川本隊へ向かう。
一塊の鋒矢が速度を上げ、疾風の如く過ぎ去る様に、しばらく東軍は気づく事すらできない。
ようやく敵勢と気づくが、あまりの気迫と形相に、戦わず道を開けるしかない。
すぐ横を駆け抜ける島津隊を見て戦場経験の長い福島正則は、
「構うな!行かせてやれ!」
と下知する。武辺者の正則は、闘将島津義弘を自らの手にかけたくない。
しかも怨敵石田隊は既に壊滅し、気も晴れた。
だが正則の息子正之隊にはこの下知が届かなかった。
初陣の正之は、良き敵みつけたりと1000の兵を引き連れ島津隊に突入する。・・・だがあっという間に弾き飛ばされた正之は、呆然とするのみだった。
同じく横を駆け抜けられた黒田長政は憤怒して島津隊に向かおうとするが、後藤又兵衛がそれを制す。
「きゃつらの顔をよくご覧くだされ。死をまるで恐れていないでござる。
勝ち戦なのに死兵にわざわざ手を出して何が得られましょうや?!」
細川・田中・寺沢・筒井ら将も諸隊に
「構うな!構うな!」
と西軍敗残兵の追撃を専念させる。
こうして徳川本隊へ向かう真空状態のような道ができ、島津隊は喚声を続けながら一直線に攻めあがる・・・。
805無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 22:17
遠くに蠢く黒い密集集団を、家康は怪訝な顔で見る。
「大方どこぞの敗残兵の、最後の抵抗だろうて。」
気にも留めない家康は、敗走する西軍各将の追討を全軍に命じる。
だがその爆音の如き音は確実に速度を上げ、地響きと共にみるみる迫ってくる。
「?!!奴等は何者ぞ?」
誰も分からない。島津隊と分かるものを全て廃棄したからだ。
「島津惟新にござります。」
「し、島津じゃと?!!」
もう遅い。
「チェストー!チェストー!」
島津隊は見る間に凶暴な旋風となって陣場野の大地を一気に駆け上がり、ついに正面から徳川本隊に衝突した。
薩摩特有の奇声を上げ、島津隊は錐が穴を穿つように一点を目指して深く切り込んでいく。
目指すは徳川本陣のみ。豊久率いる前衛100の抜刀隊が突貫し、3万の徳川本隊は第3段の陣まで切り崩される。
至近距離から間断なく放たれる銃撃。槍の一振りで徳川兵5、6人が吹き飛ぶ。
馬に触れれば馬を切り、人に触れれば人を切る混戦が続く。やがて島津隊は完全に徳川本隊に飲み込まれるが、依然その突進速度は落ちない。
「エイ!トウ!エイ!トウ!」
と勢いづく島津兵に、太刀打ち・槍合わせしても間に合わないと悟った徳川兵は、刀槍を捨て1人の島津兵に7、8人がかりで押え込み、死にもの狂いで止めにかかる。
1人1人と島津兵が討ち取られていくが、なおも突進を止めず、たまらず徳川直臣酒井家次は槍ぶすまを命じる。
東軍総大将徳川家康までついにあと120M。日本はおろか高麗・大明にも知られた「鬼島津」。
つい昨日も家康は死を覚悟させられたその島津が、鬼の形相でまたやってきた。
恐怖する家康は荒れ狂う嵐海のような戦場で、なんと一瞬義弘と目が合ってしまう。
馬上で槍を受け流す阿多長寿院盛淳は叫ぶ。
「あそこに内府がおりますぞ。今なら首が取れましょう。・・・殺りましょうや?」
義弘はしばらくじっと家康を見ながら、口を開いた。
「・・・いや、殺ってはならん。あ奴を殺ればいつまで経っても戦乱の世は終わらん。・・・運の良い奴。どれ、もうよかろう。帰るとするか。」
家康の首を取る事が目的ではない。
薩摩武士の底力を見せつけ義弘を無事帰還させれば良いのだ。
だが徳川兵にそんな事は通用しない。ボロボロに崩れた錐のようになった先陣豊久隊は、それでもしばらく持ちこたえ、全隊は逆鋒矢の陣形に展開し直す。
今度は阿多長寿院盛淳が先頭を務め、豊久が最後に備えしんがりを守る。
この時義弘は、義弘たる所以、痛快な真骨頂を見せて撤退する。
今更ながら家康にあろう事か軍使として川上何某を送り、こう口上させる。
「島津惟新入道義弘、内府殿の御恩をうけたまわりし身なれど、この度図らずも御敵となり弓矢を向ける事とあいなり申した。
戦い利あらずして、ただ今、御陣頭を過ぎて本国薩摩へ帰り申す。
わが心事については、後日に改めて言上つかまつるべし。」
散々に本陣を侵しておいて、一旦逃げてから詫びましょうというしたたかさと余裕を見せつけ、島津隊は弾けるように伊勢街道めざして南進した。
この時島津隊は残存300となった。
806無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 22:25
島津隊が反れていく様を見やり、ようやく家康は安堵する。
やがて「自軍本陣を蹴散らされしかもまんまと敵を逃す。」
「これほど武門の恥となる事はない。」とふつふつと怒りが湧き起こり、
蒼白だった顔が今度は真っ赤になって下知する。
「島津はあれだけの寡兵で我が陣営をこれだけ脅かしたのだぞ。
屈強なるかな島津。お主たちも島津惟新の首を取って武士の誉れとせよ!」
その頃、愛槍蜻蛉切を片手に島津兵を追い払ってきた本多平八郎忠勝が戻ってきた。家康は言う。
「我ら老兵が活躍できる機会ものうなった。平八、そちも行って若造達に進退の妙を見せ付けよ!」
「承知仕った。」
長年付き添ってきた忠勝は暗に(深追無用)という家康の心を察しながら、本多隊500を引き連れ、追撃を開始した。
一度は死を覚悟した島津勢も、
「ひょっとしたらうまく落ち延びられるかも・・・。」
と張り詰めた緊張から一気に安堵する。
だが今度は前に進むのでなく、しんがり戦となる。
戦いながら逃げる、これほど困難な事はない。
後陣は追撃隊にバタバタ切り崩されていく。
島津隊の兵士は1人2人、5人10人とその場に留まり、追撃隊に向かって鉄砲を散々放つ。
玉が切れると今度は小脇に抱えた刀槍を持って、
「チェストー!」
と敵勢の馬上武者のみを狙って斬り込んでいく。
いよいよ敵に囲まれ包み斬りにされ、息も絶え絶えに倒れると、今度は座って敵の足をなぎ払い、少しでも追撃の手を遅らせようとする。
玉砕戦法ステガマリである。残存兵は200を切った。
だが小早川隊・藤堂隊・京極隊ら東軍諸隊も追撃に加わり、意を決した義弘は切り返して撃ってでようとする。
しかしこれを豊久が止め、
「無茶をされるな。伯父上だけは何としても、生きて薩摩に帰ってもらわないとなりませぬ。
ここは私が支えます。さあ早く先に行って下され。」
豊久は、義弘が太閤秀吉より拝領した鳳凰の陣羽織を出して代りに羽織り、兜をまぶかにかぶって義弘らを見送る。
烏頭坂に至り、ついに本多隊が襲ってきた。
807無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 22:26
「伯父上、おさらば・・・。」
馬上の豊久は追撃隊に対し、ちらりちらりとこれみよがしに何度も振り返る。
時間稼ぎのため脇道へそれる豊久以下13名の佐土原衆。追いすがる忠勝は下知する。
「あれこそ島津惟新なり!追え!」
(ここが俺の死に場所か・・・)義弘の影武者となった豊久は馬を下り、
「われこそ島津惟新入道義弘なり。参られよ!」
と大音声で叫び、八双の構えで迎え撃つ。
タイ捨無二剣の奥義を持つ豊久はあっという間に2人の敵を切り伏せる。
「囲め!囲め!」
本多隊の武将は疲れさせて討ち取ろうと指示するが、なおも豊久は白刃煌かせて6,7人を切り倒す。
だがついに、
「うっ!下郎・・・」
一端脇腹を槍でえぐられた豊久は、あっという間に四方八方から槍ぶすまで突きこまれ、そのまま7度8度と宙に放り上げられた。
残る佐土原衆も次々に討ち取られる。
本多隊の検分役が打ち崩れた豊久の元に寄り、兜を引き剥がす。
「島津惟新にあらず!」
舌打ちして忠勝は追撃を続行する。
島津豊久31歳、烏頭坂の露と消えた・・・。
なおも追撃を続ける本多隊だが、突然銃撃を食らう。
馬が狙撃され、忠勝は落馬してしまう。
倒れる忠勝に駆け寄る家臣達。その横を疾風の赤備えが駆け抜けていく。
ようやく駆けつけた井伊直政は、井伊・松平隊6600を率いて「御先御免」と、続々と本多隊を追い抜いていく。
悔しがる本多武将達だが忠勝は、「深追いするでない。武士の情けじゃ。」と追撃を留めさせた。
808無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 22:29
黒武者軍団が一旦後ろに下がったかと思いきや、怒涛の如く井伊軍団が押し寄せる。
その勢いに豊久の討ち死にを察した義弘の胸中に、哀惜の念がかすめた。
次は我が身か…その思惑を知ってか知らずか、今度は阿多長寿院盛淳が、
「ようやっとわしの出番か。…山田、川上、後は頼んだぞ。」
と超然とした様子で話しかける。阿多盛淳は義弘より10歳も若いが、
義弘に瓜二つな背格好・容貌から影武者としてこれまで戦いに加わっていた。
「盛淳、早まるな!」
義弘は制する。が、盛淳は満面の笑みを浮かべて後ろを振り返る。
「殿の影武者として数多くの戦にお供させていただきましたが、今日ようやく御役目を果たせまする。
…そのような顔をされますな。これほど誉れ高き事がございましょうや。…さ、ここは我らにお任せを!」
義弘の側近達は無理やり義弘を先に進め、烏頭坂を下った所に、阿多長寿院盛淳以下蒲生・帖佐衆十五騎が残った。
盛淳は街道沿いに咲く花に目をやる。心静かに敵の来る間、その花を数えるとちょうど15輪であった。
「さあ、ここが我らの死に場所だ。追い詰められた薩摩武士が何をするか天下に思い知らせてやれ!
我らの体はここで朽ちても、また来年この地にあの花は咲くであろう。我らの命も名も永遠なり。」
坂の向こう側から現れた井伊・松平軍が一気に駆け下ってきた。
「チェストー!!」
死兵と化した盛淳らは、臆する事なく突撃する。細い街道も幸いし、なんと僅か十五騎で三度も追撃軍を追い返す。
しかしついに三度目の突撃の際に残ったのは六騎のみとなった。盛淳は街道脇で横たわる重傷の井上主繕に、
「お前はまだ若い。お前に運があれば、生きてこの戦いを後の世に伝えよ。」
と伝え、最期の突撃に向かった。
「島津惟新入道、ここにありー!!我こそと思わんもの、いざ参られい!!」
そう言った途端、盛淳は眉間に一発の弾丸を食らう。即死であった。残る六騎の武者達も瞬く間に討ち取られていく。
しかしこの盛淳らの奮戦により、義弘らは四半刻(約30分)も時間を稼いだ。

―井上主繕は後に無事に薩摩へ帰還し、「井上主繕覚書」という関が原戦記を残してこの激闘振りを後世に伝えた。―
809無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 22:32
一時は難を逃れたかに思えた島津隊であったが、地にあかるい筒井定次隊が先回りして前に立ちふさがった。
この数十倍の敵軍を蹴散らし囲みを突破するが、ついに井伊・松平隊ら追撃軍も追いついてしまった。
再び島津隊しんがりでステガマリによる激戦が始まる。
うち、一人のステガマリは大将・松平忠吉を見つけると、他敵兵には目もくれず、すさまじい形相で猿声をあげながら斬りかかった。
激しい斬り合いの中、忠吉は落馬し、島津兵と上に下にと組み合い格闘する。
忠吉側近らが主を守ろうと近づこうとすると、なんと井伊直政は、
「やめろ、行ってはならん。これしきの事で首を討ち取られては、とても大将の器に非ず。」
と、忠吉の守り役でありながら味方の助勢を止めさせた。
しかしいかんせん精強で知られた島津兵を相手にしている忠吉は、若武者でしかも初陣という事もあって明らかに歩が悪すぎる。
あわや忠吉の首が掻き切られる…!という寸前で、見かねた忠吉側近の武将が島津兵の首をはねた。
この時忠吉は手を負傷してしまい、後の追撃が不可能となってしまった。
だが執拗な追撃により、ついに島津隊は完全に取り囲まれてしまった。
ジリジリと狭められ追い詰められる島津隊。誰もがその最期を予感した。…その時、
「パーン」
一発の乾いた銃声が轟く。
一瞬後、井伊直政が肩を押さえ、前のめりに落馬した。
余りの唐突さに誰も何が起こったのか分からない。
先ほどの鉄砲を放った兵士−島津軍川上四郎兵衛配下、柏木源藤−はなおも武器を槍に持ち替え、
失神して動かなくなった井伊直政に、突きかかった。井伊の武将が尋ねる。
「何者か?!!」
井伊の兵士達があっという間に柏木源藤を囲み、槍衾で散々に突いた。
名乗りをあげる間もなく柏木は絶命する。
実は柏木は裏道を通って井伊直政に近寄り、至近距離から狙撃したステガマリであったのだ。
810無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 22:34
突然の直政の負傷に、指揮系統が乱れ動揺が広まったのを義弘は見逃さなかった。
「それ、今のうちだ、この機を逃すな!!」
呆然とする井伊の囲みの一端から疾風の如く、島津隊は脱出した。
当時の弾丸は速度が遅いので、貫通することなく肉をえぐりながら体内に留まってしまう。
出血おびただしい直政は意識朦朧としていたが、配下の武将が差し出す薬を気付け薬と思って飲もうとせず、何度も吐き出した。
銃撃により失神したという事が後に広められてしまう事を恥と思ったからであった。
ようやくその意を解した側近は薬の説明をする。
「殿、これは血止めの薬でございますぞ!」
安心して薬を飲み始めた直政は、そのまま昏倒してしまった。
牧田街道の端々になおもステガマリを配して備える島津隊であったが、突然追撃の手が止まったことを知る。
数千数万の追撃軍でありながら未だわずかな退却兵も仕留められないどころか、
かえって本多忠勝の落馬、松平忠吉・井伊直政の負傷といった大将クラスの危機を知った家康が、追撃中止命令を出したからであった。
「わずか300でのう…島津、もって恐るべし」
家康の脳裏に、何ともいえない恐怖感と不気味さがこびりついたのであった。
一方、島津隊は緊張の糸を緩めることなく三日三晩ほとんど飲まず食わずの状態で山中を走り続け、堺に向かって落ち延びていった…。
811無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 22:38
義弘らは落武者狩りや野伏りらと戦いながらようやく堺に入り、
自らが絶体絶命の状況でありながら薩摩屋敷の義弘夫人と忠恒(義弘の息子)夫人も見事脱出させ、
ともに薩摩へ戻っていった。
この時も黒田水軍と戦ったり、九州に入っては伊東家旧臣に命を狙われるなどして戦死者が出てしまった。
とにかく義弘は無事薩摩に帰還した。義弘は、兄義久に報告を終えると桜島に蟄居して、家康の沙汰を大人しく待った。
しかしそれは表向きのものであり、息子忠恒に次々と外交施策の指示を出していく。
■西軍参加については義弘個人の行動・責任であり、島津全体の意に非ず(当時の島津家は、義久・義弘・忠恒の三頭政治であった)
■もともと東軍参加予定だったが、伏見城入城を逆に家康家臣鳥居元忠に断られ、状況的にやむなく西軍側についた。
■西軍としての戦闘には積極的に加わっておらず、実際関が原では撃って出る事なく中立的立場を保った。
これらの事項を理由に、あくまでも島津家が豊臣家(実質的には徳川家)に対する謀反心がないことを頑と強調し続けた。
その際の家康への交渉役として、義弘は井伊直政を指名し頼った。直政としても逃げる寡兵相手に重傷を負ったとして屈辱の日々を送っていたが、
その敵が今となっては自分に泣き付いて助けてくれと懇願してきた事に、ようやく自尊心を回復した。
「一度刃を交えた者同志にしか分からぬ武士の情けもあるのだ。この直政、死ぬまで島津を守り続ける。」
と宣言し、その2年後関が原で被弾した傷が元で亡くなってしまうのだが、本当に死ぬまで島津の旧領安堵のために奔走した。
こうした直政の気概も義弘は最初から見通しうまく利用しつつ、家康陣営に対しては低姿勢で謝罪しつづけた。
その一方で国境の防備を固め、徹底抗戦もやむ無しという姿勢も露骨に見せた。もし本格的に九州入りして島津攻めとなっては、
東北の伊達・上杉がどう関東に関わってくるか分からず、
またその去就が不透明な黒田如水・加藤清正が、万一島津と同盟を組んだらまずい…という家康の判断をパワーバランスから先読みもしていた。
また何より嫌という程関が原で思い知らされた島津兵の精強ぶりも、家康の心にしっかり刻み込まれていた。
「わしの相手が島津でなく三成でよかった…。」
家康の妥協の本音であった。
812無名武将@お腹せっぷく:01/10/07 23:51
島津最高!カッコいいよ〜
義弘最高!豊久最高!盛淳最高!
敵である井伊直政もカッコいいよ〜
813無名武将@お腹せっぷく:01/10/08 00:33
鉄砲の装備率100パーセント。
この脅威の数字はどうよ?
なぜ島津はこれほどの鉄砲を持てるようになったのだろうか?
814無名武将@お腹せっぷく:01/10/08 00:43
精神主義は日本陸軍に負の遺産をのこした。
815無名武将@お腹せっぷく:01/10/08 00:50
>>814
精神主義って、この当時の武士に精神主義じゃない奴なんてろくな奴いないと思うけど
やっぱり島津ヲタ最強〜
817無名武将@お腹せっぷく:01/10/08 21:40
戦国大名強さの序列

島津家>大友家>毛利家>北条家>武田家>上杉家>竜造寺家
>>817
ヲタの妄想度の序列だろ。
819無名武将@お腹せっぷく:01/10/08 23:50
ん?大友ヲタなんて見かけないような気がするが
820無名武将@お腹せっぷく:01/10/08 23:52
>なぜ島津はこれほどの鉄砲を持てるようになったのだろうか?
シャブだよ。
821無名武将@お腹せっぷく:01/10/11 17:33
まあいいじゃない。
研究が進めば進むほど「実は戦果は水増しで大したことはなかった」
ということがバレル大名なんだから。

20年前の「第二次大戦のナチス・米軍最強」と同じだよ。
今は両者とも軍事板では冷めた目で見られている。

アンチは粘着にならず、茶でも飲みながら待ってればいいんだよ。
マンセーなアホ小説家は年取ってどんどん死んでるんだから。
822821:01/10/11 17:37
腹へって文章メタメタだ。
とりあえず「長篠の3段撃ち」「桶狭間は実は・・・」
以上の虚飾・粉飾は素人レベルでも信じてない人が多いとわかって安心した。
823無名武将@お腹せっぷく:01/10/11 19:30
789-811転載した奴は死ね。
でも他スレに張らなかった謙虚さは誉めてやろう。
824夏侯操:01/10/11 20:07
大友オタがいるのは立花宗茂、立花道雪、高橋紹運のおかげ。
825夏侯操:01/10/11 20:10
おれはモーオタ(萌
826無名武将@お腹せっぷく:01/10/11 20:17
>>822
変な奴
どうして安心するのかわからん
他人は他人、自分は自分でいいじゃん
お前の考えを他人におしつけようとするなよ
余計なお世話だっちゅーの
827夏侯操:01/10/11 21:17
825ごめんなおれモーオタじゃないんだ。
モーニング娘に魅力はかんじない。しいていうなら矢口かな?けっこう太いけど(笑
モーオタの人達つんくにだまされてるぞ目ぇ覚せ。
島津義弘、島津家久がいなければ大友が九州統一してたのにな、そしたら宗茂超有名人。
828無名武将@お腹せっぷく:01/10/11 23:21

>>817
おいおいおいおいおいおいおい
織田家は?
829名無しさん:01/10/12 14:58
精神主義っつーのはもともと悪くないもんなのに
日本陸軍が負の遺産にしたんだよ
物事を一面的に捉えるのはやめようね
>>828
織田家は別格なんだろ
831最南端:01/10/12 23:20
>>814
既出かと思うが、敢えて言わせてもらおう。
日本陸軍の精神主義は日露戦争における火力不足が原因とされる。
薩摩島津は無論、明治期の帝國陸軍は火力第一主義である。
が、火力の近代化は弾薬消費の増大も意味し、小国日本では補え切れない量となってしまった。
また塹壕・トーチカにより火力が充分に発揮できなかった。
つまり強固な陣地への攻撃の不利、弾薬不足により重砲による制圧が不十分な為、
白兵突撃による陣地突破・制圧が重視され始めた。
その前兆として田原坂でのかち合い弾がある。
かち合い弾が出るほど濃密な銃砲撃をしながらも火力での制圧が出来ず、白兵戦に持ち込む事が多かった。
これは現在の陸自でも同じ事。詳しくは自衛隊板のスレ
http://natto.2ch.net/test/read.cgi/jsdf/998660745/l50
へどうぞ。

少なくとも島津の鉄砲所有率を見れば火力を重視していたのは明らかであろう。
832無名武将@お腹せっぷく:01/10/13 00:48
自衛隊よりも島津家の方が進んだ考え方していたってことだね
しかし今でも突撃重視している自衛隊って、いったい。。。
833無名武将@お腹せっぷく:01/10/13 19:09
831はいいね。
789-811みたいなのが他大名ファンの反感を買うんだよね。
834無名武将@お腹せっぷく:01/10/13 19:33
あげ
835最南端:01/10/13 23:13
>>833殿
有難きお言葉、感謝( ̄▽ ̄)

序に申しますが、どこも国力に応じた装備で戦っています。
良馬の産地を持つ武田は騎馬軍団を用いた戦術を重視しますし、
海上交通路を要する地方であれば水軍を重視するのは当然と言えます。

一方、薩摩は南蛮渡来の火縄銃を比較的早く戦術に取り入れていますが、
シラスで知られる作物の実り難い火山性土壌に覆われ、その土地に住む事の出来る人数を制限しています。
この為、戦場に於いても動員数は限られ、数的に多い敵と戦う羽目になりがちです。
例としては御存知の通り龍造寺・大友を撃破した戦い(高城・沖田畷)が挙げられますが、
如何にして大軍を破るか、その術を苦心して編み出しています。

上記の鉄砲の運用もそうですし、「釣り野伏」も挙げられますが、薩摩特有の環境にも重点を置くべきでしょう。
先程述べました通り、薩摩は作物育ち難く、人口も少ない為に百姓・下級武士のみならず
上級武士の地頭でも開墾に精を出すことも珍しくは無かったそうです。
士卒の自ら育てた土地への愛着は如何程のものであったでしょう。

この「土地への愛着」が島津の強幹の理由と思えてなりません。
龍造寺・大友との戦も防衛戦闘の意識が働いたと言えます。
この戦いが防衛戦闘ではないと思われる方は、日清・日露・大東亜戦争・日中紛争の開戦理由を思い出して下さい。
泗川・関ヶ原の合戦でも島津の威名を示し、他国が薩摩へ侵入を企てない為だけの理由とも考えられます。
結果論から申せば、薩摩島津は西軍に付いたにも拘らず転封・断絶されずに現在に至っています。

当方、愛読書が「島津奔る」の単なる島津好きでありますが、
出身は大友の地でしたので可能な限り公平に妄言を吐いています(w

異論・反論・煽り・罵倒は状況に応じてお受けしますのでъ( ゚ー^)
836最南端:01/10/13 23:17
>>835
論点が途中でズレているぞ(゚д゚)ゴルァ!
と、自らを非難(反省)
今日発見したんだけどこのスレたまんないね〜。
鹿児島出身のオレは読んでマジ泣きしちゃった。
838無名武将@お腹せっぷく:01/10/14 15:36
桜島が煙噴きage
なんと・・・知らなかった。
840無名武将@お腹せっぷく:01/10/16 00:14
>>835
なるほど対大友戦は大友宗麟が日向にキリスト教の楽園を建設しようと侵攻してきた
ことへの防衛戦だし、対竜造寺は島津と親しい関係だった有馬家の援軍要請に応えた
防衛線でしたね。
こうみてみると元々島津氏には九州制覇という野望が無かったのかもしれないですね。
降りかかる火の粉を払いのけているうちに結果的に九州制覇していたという感じですか。
841無名武将@お腹せっぷく:01/10/16 00:27
島津忠久ってホントに頼朝の落胤なの?
842最南端:01/10/16 12:51
>>840殿
御同意頂いて有難う御座います。
只、>>835は島津側からの視点を重視した為、
敢えて客観的な視点を損ねています。

対大友・龍造寺戦は島津勢からしてみると明らかに防衛戦闘ですけど、
逆に大友・龍造寺の視点からすると侵略戦争になるでしょう。
龍造寺勢にしてみれば何故島原まで島津が出て来るのか、
領土拡張の意図があるのではないか?と思っても不思議ではないでしょう。

戦闘行為は基本的に外交・経済活動の一手段に過ぎず(宗教戦争は例外)、
自国の利益の確保(防衛)を目的にしています。
利益を確保(防衛)すれば対抗勢力に何らかの損失も出ますから、
何をもって侵略・防衛と判断するかは見る者の主観に掛かってきます。
現在のパレスチナ問題を見れば明白ですが、三国志・戦国板の住人の方なら
様々な事例を御存知だと思います。

結局、岩屋城の攻防戦を代表とする島津の九州制覇の限界点とも言える戦では

・拠点の南九州を防衛する為の戦いではなく、一刻も早く九州統一して
「自ら育てた土地ではない」占領地の(秀吉からの)防衛を企図していた。

・恥も外聞も投げ打って(元百姓の)秀吉に援軍を依頼し、事実上配下になった大友勢は
せめて援軍が来るまで持ち堪える必要があり、また援軍の規模は絶大で持ち堪えれば
勝利は間違いないとの希望があった。

と言う対極的な心理面での影響があったものと思われます。
当時の島津勢は新領地からの寄せ集めの部隊でもあり、豊富な火力も広大になった
戦域に分散されていましたが、中核となる外城の地頭や衆中が厭戦気分では既に勝負は
決まっていたのかもしれません。

これも明確なソースは無く、状況証拠とも言える妄言ですので信じないで下さい(w
843鹿児島県民:01/10/16 14:21
>>785
それは中馬重方のことです。
中馬大蔵といった方が有名かもしれません。
食料がなくなったときに馬を殺して食べようとしたのですが、
「駕籠かきをしている人間の方が大変だろうが!
 楽してる殿様が何で肉を食う必要がある!」
と言ったという逸話があるそうです。
ずれたタイミングで申し訳ありません。
844無名武将@お腹せっぷく:01/10/16 21:17
>>843
追加、というわけではないが、中馬大蔵についての逸話をもう一つ。
関ケ原から十年ほど後、鹿児島の数人の二才衆(若者達)が出水に住む大蔵に関ケ原の
戦功話を聞こうと訪ねたところ、大蔵は正座し「あん、戦っさは・・・。(あの、戦は。)」
といった後、涙を流して何も言えなくなった。この姿を見た二才衆は帰りに「今までの中で、
これほど戦っさを実感させられる話は無かった。」とか何とか言って感涙した。

・・・っつー話なんだが、ソースが出てこない。昔、厨房だか工房の頃読んだんだったかなぁ。
言っとくが折れは>>831〜の最南端氏ではない(w
と言うか、最南端さんどうもご苦労様です。いつもお世話になってます。
845鹿児島県民:01/10/16 21:29
>>844
補足ありがとうございます。
この話は、鹿児島ではよく聞く(見る)話ではないかと。
歴史関係の本とかではよく目にしてました。
中馬大蔵は、なかなかおもしろい人です。
846鹿児島県民:01/10/16 21:36
>>841
なんか、学説とかでは否定されてるみたいです。
惟宗忠康という人物の子だとか。
847さち子:01/10/16 22:18
>>843
わたしの知っているバージョンは少し違います。

まず、関ヶ原の前に中馬大蔵が薩摩で畑仕事をしている時に
島津義弘が危ないという話しを聞いて、家の者に自分の武器・具足などを家に取りにやらせ、
それを着て、その足で義弘への部隊に参加したそうです(義弘に送られた部隊は義勇軍のようなものでした)

そして、関ヶ原の戦い後に中馬大蔵は義弘の篭かきをしていました。
それで、義弘はじめ食料に窮していた一行でしたが、なんとか握り飯を手に入れて、それを義弘に渡そうとしたのですが、
それを大蔵が横から手を出して奪い食べてしまう。
呆気に取られる皆の前で大蔵は言いました。
「おいらが食べて殿を守る、追い詰められたら、腹を切るだけの殿に飯はいらない」と・・・
これには義弘も苦笑するしか無かったそうです。

島津義弘の身分だというのにまるで中小企業の社長のような微笑ましい話しですね^^

でも多分、わたしの知ってる話しは後世に脚色されたもので、
原典は>>843さん程度の話しだとは思いますが。
848844ですが、:01/10/16 22:38
>>845さん、いえいえ恐れ入ります。出来れば、出典されてる本など
紹介してもらえればありがたいな、と。

因みに、自分の聞いた話は>>843では無く、>>847です。と、言うより
843バージョンは初めて聞いたので、オモロイなと思ったわけですが。
なんか、久々に来てみればレスが活発になってるし、好い事だ。

もう一つ因みに自分も鹿児島県民だったりするわけだ、これが。
849鹿児島県民:01/10/16 22:50
>>847
さち子さん、レスどうもです。
脚色、という点では、どっちもどっちではないかと。

ついでに、大蔵参陣の話では、大蔵が畑仕事をしているとき、
単独で上京しようという同胞が通りがかり、大蔵に、
「殿様が上方で難儀しょっち。おはんなないしよっと?」
と声をかけます。
 それを聞いた大蔵は、その同胞を殴り倒して鎧櫃と鉄砲を奪い取り、
「おいはいそっで(急ぐから)、おはんの鎧ばかるっど(借りていくぞ)。
おいげぇ(俺の家)に、おいんとが(俺のが)あっで(あるから)、
おはんなそいをもっきいやい(おまえはそれを持ってこい)」
と言ってそのまま上京のため走り出した、と言う話もあります。
実話かどうかは不明ですが。
つまるところ、「ぼっけもん」の代表格の一人ですね。
850鹿児島県民:01/10/17 08:09
>>845
し、出典、ですか・・・。
すみません。覚えていないので、名前までは出せません。
ただ、義弘の伝記の中の最終章で読んだのが最初ではなかったかと(たぶん)。
あとは歴史と旅とか歴史群像とかあの辺にも載ってたかなぁ。
お役に立てず申し訳ない。
851最南端:01/10/18 01:59
>>844殿
挨拶はいいからコテハンで書けよ(笑)

>>ALL
何だかマターリと話が出来る環境になりましたから
sage進行しませんか?
何か新しい状況にしたい時にだけageたら宜しいかと…
852 :01/10/18 18:33
ここって・・・日本人のスゲーオナニースレだよな。
文禄慶弔の役でも兵卒レベルでは朝鮮人兵士は日本武士を圧倒したらしいぜ?
もちろん島津も例外ではないよ。
まぁ集団レベルになると互角になってしまうらしいが。
特に居合いなんて精強な朝鮮兵に対抗する為に作り出されたっていうからな。
853大納言:01/10/18 18:56
>>849
私も一つ。  ちゅうまおおくらのじょう
出水衆中であった中馬大蔵允(重方)が、「惟新様一大事」
の触れを聞いた。すでに川上四郎兵衛が米之津に到着しており、
船が出るところだという。
あわてて長野勘左衛門というものと米之津に急いだが、船が出た
直後であり、大声を出しても船は戻らない。
しかたなく、陸路を昼夜走り通し、関ヶ原合戦の14・5日前に何とか
義弘のもとに着き合流した。
義弘は感激し、
「大蔵は、このことを聞けばすぐに参るだろうと思っていた。早々
走りついたこと、神妙である」と声をかけたそうである。
『本藩人物誌』がソース
中馬大蔵の一騎駆けという逸話もあるそうだ。
854鹿児島県民:01/10/18 19:13
>>853
なるほど。それで陸路を延々走ったんですか。
それほど無鉄砲じゃなかったんですね。
勉強になりました。
855無名武将@お腹せっぷく:01/10/18 19:26
>852
http://salad.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1000232935/

こっちに行きましょう。
その点は司馬遼太郎の小説でも触れられてたね。
856無名武将@お腹せっぷく:01/10/18 22:17
>852
兵卒レベルで圧倒しているのに集団レベルになると互角ということは、
朝鮮人指揮官はとんでもなく無能なんですか?
857 :01/10/18 22:50
正直指揮官レベルでは李舜臣意外は平凡な奴しかおらんかった。
それに明軍と混成なのも不利ポイント。
まぁそれでも倭軍を撃退したのだから、個人レベルでの戦闘では圧倒していたって事だな。
とにかく当時の朝鮮兵と日本武士では体格が違いすぎ。
858無名武将@お腹せっぷく:01/10/18 23:51
>>857
日本人が朝鮮人よりも小さかったってこと?
どれくらい体格差があったの?
859無名武将@お腹せっぷく:01/10/21 18:01
age
860無名武将@お腹せっぷく:01/10/24 00:10
昨日、徳之島に行ったんです。徳之島。
そしたらなんか人がめちゃくちゃいっぱい暴れてて大変なんです。
で、よく見たらなんか垂れ幕とか下がってて、「10月21日伊仙町長選挙、公正な選挙で明るい明日を」
、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、町長選挙如きで普段来てない役場に来てんじゃねーよ、ボケが。
町役場だよ、町役場。
なんか親子連れとかもいるし。一家4人で町役場か。おめでてーな。
よーしパパ機動隊ぶんなぐちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、徳之島独立させてやるから好きにしろ。
選挙ってのはな、もっとマターリしてるべきなんだよ。
テーブルに座った選挙管理委員がいつ寝てもおかしくない、
投票率また下がちゃった、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。DQNは、すっこんでろ。
で、やっと選管確定と思ったら、DQNが、認めねえぞコラァ、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、コラァなんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、コラァ、だ。
お前は本当にコラァといいたいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、本当はただ暴れたいだけなんちゃうんか?
2ch通の俺から言わせてもらえば今、2ch通の間での最新流行はやっぱり、
ゴルァ、これだね。
ゴルァ!DQN、逝ってよし!。これが通の煽り方。
ゴルァってのは煽りが多めに入ってる。そん代わり威力が少なめ。これ。
で、それにとどめで「氏ね」。これ最強。
しかしこれをやると2ちゃんねらーだとばれるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあお前らDQNは、IT革命のITをインターネットのことだと勘違いしてなさいってこった。
861夏侯操:01/10/24 00:21
朝鮮人もでかいんだ。
漢民族はかなりでかいけど。
>>861
どこの部分がでかいのか問い詰めたい。
小1時間問い詰めたい(w
863無名武将@お腹せっぷく:01/10/25 19:08
そんな事より、聞いてくれよ>>1よ。スレとあんま関係ないけどさ。
このあいだ、美濃の関ヶ原行ったんです。関ヶ原。
そしたらなんか裏切り者がめちゃくちゃいっぱいで戦えないんです。
で、よく見たらなんか注意書きが下がってて、天下分け目の戦い、とか書いてあるんです。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、天下分け目如きで普段来てない関ヶ原に来てんじゃねーよ、ボケが。
天下だよ、天下。
なんか「豊家への御恩」とか言っているし。西軍全員で豊家か。おめでてーな。
よーし左近、突撃しちゃうぞー、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、天下やるから薩摩に関わるな。
関ヶ原ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
隣の山に陣取った奴がいつ裏切ってもおかしくない、
裏切るか裏切られるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。吏僚は、すっこんでろ。
で、やっと布陣出来たかと思ったら、隣の奴が、全軍突撃だ、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、全軍突撃なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、全軍突撃、だ。
お前は本当に全軍突撃したいのかと問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。
お前、全軍突撃って言いたいだけちゃうんかと。
戦通の俺から言わせてもらえば今、関ヶ原の最新流行はやっぱり、 無視、これだね。
何を頼まれようが、無視。これが通の戦い方。
無視ってのは相手に愛想つかした、と言うことだ。。そん代わりリスクが大きい。これ。
で、最後に敵中突破。これ最強。
しかしこれを行うと次から天下人にマークされるという危険も伴う、諸刃の剣。
素人にはお薦め出来ない。
まあ石田三成は、干し柿でも食ってなさいってこった。
864石田三成:01/10/26 22:47
┏━━┓
┃    ┃
┃    ┃
┃ 大 ┃
┃ 一 ┃
┃大大┃
┃吉万┃
┃    ┃
┃    ┃
┃    ┃
┃    ┃
┃    ┃
┃    ┃
┃    ┃
┃    ┃
┣━━┛





┃島津君はもっと頑張りましょう!
865史ね:01/10/26 22:51
ボケェ
866石田三成:01/10/26 23:34
┏━━┓
┃    ┃
┃    ┃
┃ 大 ┃
┃ 一 ┃
┃大大┃
┃吉万┃
┃    ┃
┃    ┃
┃    ┃
┃    ┃
┃    ┃
┃    ┃
┃    ┃
┃    ┃
┣━━┛





┃ごめんなさい
867最南端:01/10/28 20:57
妙円寺参りage
868無名武将@お腹せっぷく:01/10/28 22:27
島津氏では、名前に久が付くのが宗家で、忠が付くのが庶家なんですか?
869足利家:01/10/28 22:34
↑では島津忠久は?
870細川俊夫:01/10/28 23:07
島津光久って、なにした人?
水戸黄門にでてたけど
871無名武将@お腹せっぷく:01/10/28 23:30
>>870
義弘の孫で19代目島津家当主
872無名武将@お腹せっぷく:01/10/29 10:17
薩摩はチョン
873無名武将@お腹せっぷく:01/10/29 18:47
薩摩はチョンマゲが似合います。
打ち間違えた(藁
874無名武将@お腹せっぷく:01/11/04 14:19
875無名武将@お腹せっぷく:01/11/04 16:35
「弱い」と言うヤツなんて見たことない。
ただ「大袈裟過ぎる」という人は確実に増えている。
876無名武将@お腹せっぷく:01/11/15 11:56
撤退
877無名武将@お腹せっぷく:01/11/15 11:58
>>875
その通りだと思う
強いけどめちゃ強いわけじゃない
めちゃ強かったら天下統一してる
878無名武将@お腹せっぷく:01/11/15 14:34
長州人や九州人は半島人?
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/995662930/
879無名武将@お腹せっぷく:01/11/15 15:24
>>878
日本人なんて、ほとんど大陸の血入ってるよ。
誰も純血なのを証明できないはず・・
馬鹿な暇人相手にしてもしょうがないだろ!
880晴信ー信虎:01/11/15 15:33
琉球を締め上げ砂糖の権利を独占し、
弱いもの苛めした軍備費で、たしかに強かった。
これは認めよう。
881無名武将@お腹せっぷく:01/11/15 15:35
>>880
武田は信濃や駿河を締め上げて得た金で強かった。
それは認めよう。
882無名武将@お腹せっぷく:01/11/15 19:54
>>880
琉球を征服したのは江戸時代になってからのことだろ?
883無名武将@お腹せっぷく:01/11/15 21:17
>>882
そうだね
俺の母親は奄美大島出身の48歳
その母親は幼い頃、悪さをした時に
祖母に
「そんなことをしてると耳を切られるよ」と
言われたそうだ
江戸時代、奄美大島には島津の役人がいて
砂糖を島の人に作らせていた
その砂糖は島津が持って行く物だった
島の人が砂糖をこっそり持ち帰るのが見つかると
耳を削がれた
その恐怖体験をもって子供のしつけに
「耳を切られるよ」と言って聞かせたようだ

島津コワ〜イ
884無名武将@お腹せっぷく:01/11/16 00:15
沖縄の人って自分たちは日本人というアイデンティティを持ってるの?
それともあくまで沖縄人という意識であり、沖縄を征服した島津=日本人に憎しみを
持ってるのですか?
ヤマトンチューは沖縄人を差別視していないと思うのだけど・・・
差別していたら、あんなに沖縄出身の芸能人が活躍できるわけないよね?
885無名武将@お腹せっぷく:01/11/16 01:01
アンタら大和の人かね?
886無名武将@お腹せっぷく:01/11/16 03:36
>>852
典拠を示せよ。

負け惜しみの文献ならあるが。論拠なし。
887無名武将@お腹せっぷく:01/11/16 19:11
>>886
どういう意味?
琉球征服が慶長14年というのは常識というか、、、
888無名武将@お腹せっぷく:01/11/16 19:13
>>886
ごめん、間違えた、、、
>>886

まあまあ。
日本軍を討ち破ったと教えられた唯一の英雄、李舜臣の戦績が実は、主力部隊との戦いを避け
補給部隊のみを狙い撃ちにして作られた物であり、実際に正面から戦った露梁津の海戦では、
島津軍の手により戦死させられているんだから悔しくて堪らないんだろ。
露梁津の海戦は、追撃戦であり極めて朝鮮軍に有利だった筈なのに返り討ちに遭ってるんだから
情けないな。
890無名武将@お腹せっぷく:01/11/16 21:04
>>889
イ・スンシンの戦死は鉄砲のマグレ当たりだし。
彼が正面から優勢な日本水軍を破ったことは何度もあるよ。
もっと、勉強しなさい。
あと、朝鮮側に日本軍を破った将軍は何人もいるよ。
こんな事は歴史群像とか簡単に入手できる書物に書いてあるよ。
891無名武将@お腹せっぷく:01/11/17 10:34
鉄砲のまぐれ当たりだったのか、李舜臣の戦死。
892無名武将@お腹せっぷく:01/11/17 10:59
>>891
そうとしか言い様がない。
893無名武将@お腹せっぷく:01/11/17 12:31
>891
それ常識なんだけど・・・
島津側の記録では相変わらず誇大に自軍の戦果の底上げしてるのかな?
894無名武将@お腹せっぷく:01/11/17 12:32
でも、まぐれ当たりなんて言ってたらキリ無いんないの?
何だか戦術では負けてなかったんだよ
運が悪かっただけなんだよって負け惜しみっぽいよ。
895無名武将@お腹せっぷく:01/11/17 12:38
>>890
頼むから学研の歴史群像をソースに出すのは止めてくれ。
_板住人から言わせて貰うと意図的な間違いが多すぎるぞ。
896無名武将@お腹せっぷく:01/11/17 13:01
李舜臣は関が原の島左近と同じで早期に銃弾で戦死してる。
海戦そのものは朝鮮側の勝利のようだ。
旗艦が危ういのを種子島久時の銃撃で難を逃れたという記録からも、
他艦は苦戦していたことがわかる。
897無名武将@お腹せっぷく:01/11/17 13:44
>>896
海戦そのものは朝鮮側の勝利なんてありえないんじゃないのかな?
もしこの海戦で日本が負けていたら日本軍は全員半島に取り残されていたわけだし。
加藤清正も朝鮮の地で露と消えていたはず、、、。
898無名武将@お腹せっぷく:01/11/17 13:49
それにしても泗川の戦いと露梁津の海戦の島津義弘の八面六臂の大活躍を
見ると、島津義弘がもっと初期に段階に朝鮮に渡っていたら日本軍は勝てていたかも
という幻想を抱いてしまいますね
仮に朝鮮全土を支配下においたとしても当時の日本人に海外植民地の経営が出来たかどうかは
疑問ですが
無理無理。当時の大名の能力に大差はないよ。
>>899
無ければ信長も秀吉も、家康なんかも
成人する前に死んでたか歴史に名を残せなかったね。
その3人は別格では?
しかも明らかに運だけで生き延びた逸話も多いしね。
902無名武将@お腹せっぷく:01/11/17 14:41
>>901
家康の伊賀越えのことですか?
( ´∀`)<運も実力のうちとか言うなよ
(.  ´∀)く
(.   ´)る
(    )り
904無名武将@お腹せっぷく:01/11/17 15:07
運も実力のうちだよ
運が無ければ天下人にはなれません
905 :01/11/17 16:55
>>896
あの海戦は迎撃する朝鮮、明側に有利な態勢で始まったが、
結局は日本側が戦略目標(小西勢の脱出)を果たしている。
明、朝鮮側には戦場に留まる余力はなく、結局後退。
戦場に残ったのは島津側だった。
これでなぜ明、朝鮮側が「勝利」したというのだろう。

たとえば先の戦争で「サンゴ海海戦」「南太平洋海戦」は
戦闘では敗れながら戦略で勝利した米軍を「勝利者」と
表現したがるだろう。
著述者に問題があるのだよ、近著には。
906 :01/11/17 17:03
>>890
文禄慶長で日本側を破った朝鮮武将などというものは、
正規戦でなく、背後の少数の駐留部隊を大勢の義兵で取り囲み、
後退させたという程度の代物で、見るべきものはない。
日本側が戦線の伸長を警戒しつつ行った慶長の役では、
それすらも果たせていない。
陸戦では日本武士団に全く歯が立たなかったのが実態。
907無名武将@お腹せっぷく:01/11/17 17:19
>>895
歴史群像でも「文録・慶長の役」は信用度の高い名著なんだよ。
なぜか唯一、絶版してるが。
908>907:01/11/17 17:46
どうやらアノ人「日本武士は世界レベルではさして強くない」
に過剰反応して、島津と日本武士を誇大宣伝したいらしい。

珊瑚海海戦や南太平洋海戦までの戦闘レベルでは日本勝利なんて言ってるぐらいだし。
http://www.pp.iij4u.or.jp/~butakai/noryan.htm

相変わらず「明軍20万を撃破」とか言ってる困った
サイトですが、ここでさえ海戦は敗北としてます。

ついでに「立花が3000で30万を撃破」ともありますが
実際は5万対3万で日本側のほうが数は多いですよね。
910 :01/11/17 17:57
>908
朝鮮よりは強いだろうよ。
911 :01/11/17 18:01
>>908
サンゴ海海戦、南太平洋海戦の戦術レベルで日本は勝った。
=正解だろう。
912無名武将@お腹せっぷく:01/11/17 23:24
>>909
感動した!
そのページを転載

島津家はこの救出戦で多くの死傷者を出し奮戦した。
にもかかわらず、帰国のための出発港である釜山港に、
矢がつきささりハリネズミのようなよれよれの軍船で義弘が入港したときには、
なんとつれなくも加藤清正らは城を焼き払い、さっさと自分たちだけ引き上げた後だった。

 しかも潮に流されたり、海に投げ出され、
泳ぎ着いたりして南海島にとりのこされた兵約500を引き上げるため義弘は、
「いかにしても彼らを救出してから帰ろう」と、救出活動を展開する。

この500人の中にはかの樺山久高らがいた。
使者は明や朝鮮の日本軍狩りの船が往来する中をかいくぐり、
伊勢貞昌が安否を確かめに行き帰りの打ち合わせなどしたが、
彼らは敵にやられたのだろうか、迎えの船はいっこうに来ない。
彼らはたまたま島に来た対馬の漁船2隻で興善島まで往復する。
その中で勝手に釜山港までそのまま向かった不届きものがおり、
結局ただ1艘の漁船を何往復もさせるというとんでもない難儀をしている。

空腹と不安と疲労で島津の軍兵は困難の極にあり、
この状態を聞きつけた小西行長は、自分たちのために戦ってくれた島津軍にしのびないと興善島に船を出し
、釜山まで送り届けている。


義弘は、この時、救出に向かうというのは、よほどの決意だったろう。
これは歴史上希に見る義挙というべきもので、秀吉なく、評価してくれるもののない戦いの中で、自己犠牲の精神を発揮して順天城の日本軍を救出し、
撤退のしんがりをつとめたのは義弘の武士道精神のなせるわざだった。負け戦、そしてしんがり戦こそ義弘の真骨頂だった。

 このとき、義弘の申し出に賛同し救出に向かった立花宗茂についても触れて置きたい。
碧蹄館の戦いで明軍30万人に3千人で斬り入り、敵軍をまっぷたつにしたのは有名。
その他に肥後の一揆鎮圧で一日に13度の戦闘を行い、敵の砦を抜くこと7カ所という離れ業もやっているほどの天才戦略家だった。

 関ヶ原の戦いではやはり西軍にあり、敵城を開城させたが、関ヶ原にはなぜか召集されなかった。
それは島左近らが、宗茂のような外様に戦功をあまり上げられると困ると思ったからだと私は思う。
結局一浪人にまでなりながら、諸大名よりあまたのスカウトを受けるなどその実力、人気は当時並ぶ者がなく、
結局柳川11万石の大名に返り咲いているほどの武将だが、面白いことに彼の父高橋紹運は島津家の九州攻略戦において、
義弘との戦闘で戦死しているのだ。秀吉からその忠義、その豪勇鎮西1と言われたほどの男はできがちがう。
父を討った義弘に一も二もなく賛同し、自らも死地に赴いたあたりはさすがというべきであろう。
彼もまた、心すずやかなる戦国の男であった。
913無名武将@お腹せっぷく:01/11/17 23:24
島津軍が殿となり全軍引き上げを達成したあと、伏見で5大老に謁見した義弘は「もし貴殿がいなければ、日本の軍兵十万は、外土の枯骨となっていたであろう。
まことに希代の大功、異国、本朝に類がない」と称賛された。
ついで評定が開かれ、豊臣秀頼の成人までは新しい知行地は与えないという取り決めがあったにかかわらず、
家康を筆頭とする5大老は、島津の働きだけは格別と、計5万石もの加増を与えている。


この義弘の武士の本分に基づく行動は、深く各武将の脳裏に刻まれ、
それがまた、関ヶ原での勇敢な行動と合わせ、立派であるとのイメージを強く各武将に植え付けたのはまちがいない。
 関ヶ原でも、家康の眼前にもかかわらず、福島正則、黒田長政、加藤嘉明、田中吉政らは、島津軍の突撃に、誰も横やりを入れようとしなかった。
命がけで彼らを救った義弘に対する特別な心情が働いたのは間違いないだろう。
関ヶ原で義弘を執拗に追撃したのは、朝鮮の役に従軍しなかった徳川軍の精鋭達であった。
 ともかく、朝鮮での義弘の行動が関ヶ原で西軍に加担しながら、唯一本領を保ち得た遠因になっているのは間違いない。
また、関ヶ原後家康への仲裁役を引き受けたのは、この朝鮮での戦いで勇名を馳せた島津忠長だった。
このときの働きぶりで1武将とはいえ全国区の名声があり、各武将らも一目をおいていたであろうと察せられる。
 あげくの果ては、島津追撃戦で、自ら負傷しながらも、島津軍の戦ぶりに惚れたと言って徳川四天王の井伊直正までが強く家康にとりなす始末だった。

義弘を尊敬する各武将は、義弘を擁護する態度をとったため、家康は義弘討伐がどうにもできなかった。

 ただ、家康という人物は、敵の造反を謀ったりしていろいろ寝技を使っているにもかかわらず、
主君を平気で裏切っている人間をすかないところがあり、英雄好みのところもある。
関ヶ原で「薩人の勇気に負けるな」と味方を叱咤したのは有名であるが、心中いちばん感服していたのは家康自身だったかもしれない。
914無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 01:57
nagasugi
915無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 02:51
消化して終了しようね
916無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 02:56
>912
本当だったら、すげぇな
コピペいい加減にせい。
あのサイト、考証と妄想が入り乱れ、バランスを欠いている。
島津の贔屓の引き倒しになっているところがある。
このページは、島津義弘公の物語であって、史実を元にひとつのストーリーとして作り上げたものです。
したがって、歴史上の考証云々は度外視しています。
あくまでひとつの英雄伝として楽しんで下さい。
義弘公の精神のあり方や、当時の武士達の内面を感じていただくことを最大の目的としており、
歴史事実の紹介を目的としたものでは
ありませんので、あらかじめ申し上げておきます。

要するに妄想
919無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 08:56
そもそもサイトで得た知識ならまだしも、
文章そのものを勝手にコピペしていいの?
920無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 09:00
>>919
全面同意
921920:01/11/18 09:31
>>918
に全面同意の間違いだった。
922無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 10:51
>>917-921
何でそんなに必死なんだ?
島津義弘が素晴らしい武将だと困ることでもあるのか?
必死なのは島津側では?
わざわざ太平洋戦争まで持ち出す人もいるし。
924無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 12:01
>>923
島津側ともう一方は何側?
朝鮮側ってことですか?
925無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 13:13
早く消化しよう
926:01/11/18 16:57
朝鮮側が必至なようなw
927無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 17:02
強すぎるぜー
928無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 17:09
朝鮮サイドに立つ日本人が多いようだが、
これが織田や上杉なら、こんな珍現象は起きなかったよね。
929無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 17:31
↑どうかな
朝鮮の役が自らの政権基盤を崩す一因に
なったことがあるんじゃない?
930事実:01/11/18 17:32
>>908
珊瑚海海戦、沈没=米:正規空母1 日:軽空母1
南太平洋海戦、沈没=米:正規空母1 日:ナシ
931無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 17:34
レイラ最高
932無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 17:52
両海戦ともに日本が大兵力。
で失った飛行機・搭乗員は日本の方が多い。

南太平洋海戦はまだしも、珊瑚海では搭乗員の技量がはるかに劣る
米軍が効果的に日本攻撃機を落としている。
正規空母もガソリンタンクへの引火がなければ沈没はしなかったと思われる。
933無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 17:56
>>930
勝ち負けというのは沈没などの戦果だけではなく、
艦の損傷や航空機・乗員の損害、情報獲得、戦略的事情(日本側空母が
ミッドウェー海戦に間に合わなかったとか)などを考慮しないとダメ

だいたい、その理屈だと露梁津の海戦の損害そのものは日本の方が多いので露梁津海戦は朝鮮側勝利と言ってるのと同じ。
あの海戦で日本側が勝利と主張している人は
小西軍を逃がすという目的を達したから日本側の戦略的勝利だという理屈のはずなのでは・・・
934無名武将@お腹せっぷく:01/11/18 18:03
ああそういう判断か。
俺は戦闘で与えた損害と「どっちが巧く戦ったか」だけを問題にしていた。
935最南端:01/11/18 20:36
再び登場の_板住人です。

何故か話が島津から遠ざかっているので一応終止符を打たせて頂きます。

珊瑚海海戦におけるMO攻略部隊・MO機動部隊は
ポートモレスビーを占領し、米本土と濠太剌利の海上交通網を
分断し、濠を孤立させて停戦させるという戦略的目的がありました。

米軍としてみれば日本軍の攻略部隊を撃破すればポートモレスビーは陥落せず、
濠は聯合國から離反する心配も無くなります。
第17機動部隊がMO攻略部隊を先制攻撃したのは特に意図したものでは無かったですが、
結果的に祥鳳を撃沈しました。
翌日の空母同士の海戦では御存知の通り、レキシントン沈没・翔鶴大破(中破)となりましたが、
前日の祥鳳喪失と稼動機損耗により指揮官によりMO作戦の無期延期(実質中止)が決定されます。

撃沈d数から言えば日本軍の勝利ですが、
ポートモレスビー防衛=濠の聯合國離反を阻止と言う戦略的勝利を飾ったのは米軍側と言えましょう。
優秀な搭乗員を数多く失った。と同時に濠を離反させられぬゆえ、南太平洋の戦線を収縮出来ず、
泥沼の消耗戦に引きずられて行くのである。

さて、露梁津海戦では島津以下の軍勢による順天の小西勢等の救出が作戦目的であり、
明・朝鮮聯合軍は日本軍の脱出阻止・撃滅を意図していた。
結果から申せば明・朝鮮聯合軍は日本軍に出血を強いたが、日本軍は傷付きながらも脱出している。



      で、何の話をしていたんだっけ?
>>912-913
カッコいいなあ!
強くて、勇気と義を持ち合わせた武人
島津義弘、立花宗茂 最高!
断然この二人のファンになったよ
937ああ:01/11/18 23:43
>>933
馬鹿だなあ。お前は。レスの流れをよく読めよ。
お前の言ってることをすでに言ってるじゃないか。
戦死オタはこれだからコマル。
938 :01/11/18 23:49
>>932
失った航空機の差?
数機程度の差ねw

それと空母一隻、どっちが高い?
939>932:01/11/18 23:51
戦艦大和は昭和20年に沈没したが、当時、
日本軍の航空機損失はゼロだったなあw
まあまあ、ここは戦国板の島津スレなんだから
太平洋戦争関係の話は置いておいてさ、
はっきり言ってあんまり興味ないし・・・
>>912-913
のような島津義弘の素晴らしさに話を戻しましょうよ
941典厩:01/11/18 23:55
>>939
日本の圧勝ですな
942無名武将@お腹せっぷく:01/11/19 00:02
とりあえず別スレで
「本当は強くなかった戦国の日本武士」
とか立てたら面白いことになるかも。

誰かもっと悪趣味に改良して立ててくれ。

ところで俺は朝鮮兵はもっと低レベルだと思ってるよ。
念のため。
943無名武将@お腹せっぷく:01/11/19 00:24
「悪趣味に改良」という日本語w
がんばれ
944無名武将@お腹せっぷく:01/11/19 00:27
島津奔るの三成
945無名武将@お腹せっぷく:01/11/19 00:29
「島津奔る」って面白かった?
946無名武将@お腹せっぷく:01/11/19 00:33
「島津奔る」自分にはあわなかった。
947無名武将@お腹せっぷく:01/11/19 00:35
>>938
アメリカは終戦までに正規空母、それも第二次大戦最優秀空母と言われた航空機91機登載のエセックス級を23隻、就航させてるんだよね。
他に軽空母を月に一隻のペースで就航させた。
それに対して、日本が戦時中に就航させる事のできた正規空母は大鳳と信濃のみ。
それとゼロ戦を始めとする日本軍用機には一つ致命的な欠点がある。
塔乗員の生存率が極めて低い事だ。
これは日本の救出の考え方にも問題があったのだが、
とにかく、日本の軍用機が撃墜された場合の生還率はゼロに近いのに対し、アメリカの撃墜された軍用機の搭乗員は八割方、救出される。
アメリカでは一人の軍用機搭乗員救出にも大船団が日夜、必死で創作するのだ。
それでベテラン搭乗員が失われにくい。
日本にとって珊瑚海海戦で失われた熟練搭乗員の損失は痛かった。

話しはズレルが欧州戦線の方では一両のタイガー戦車は五両のシャーマン戦車(アメリカ戦車)に匹敵すると言われ、
ある戦いにおいては二十両のシャーマン戦車が待ちかまえていた
一両のタイガー戦車に全滅させられた事すらある。
しかし、このような被害の差が欧州戦線において勝敗の帰趨に影響を与える事はなかったのだ。
とにかく、アメリカと日本やドイツでは国力に差がありすぎた。
たとえ、アメリカの損害が日本やドイツの十分の一あろうと
アメリカ痛くも痒くないが日本・ドイツは痛撃を受けるものなんだ。
アメリカにとって空母一隻の損害などどうって事なかったの。
それよりもさまざまな戦略的目的やデータを得られたのが大収穫だったのだ。
948947:01/11/19 00:40
すいませんな。太平洋戦争の話しはもう止めよう。

とにかく、損失の量というのは戦闘の勝敗とは関係無いという事です。
どれだけ損失があろうと戦略目標を達した方が勝利、
小牧・長久手の戦いはその典型。
949945:01/11/19 00:41
>>946
面白いとかではなく?
作品を書いた人の視点が
少し変わってるのかな?
950無名武将@お腹せっぷく:01/11/19 00:49
>>942
強くなかったかもしれない。
鉄砲の普及のため、白兵戦においては意外と脆い所はあったかもしれない。
例えば、雨で鉄砲が使えない時に突撃されたら、鉄砲の存在を念頭に無い兵士より不利なとこはあったかもしれない。
しかし、鉄砲も含めて総合的には圧倒したろうと思われる。
951無名武将@お腹せっぷく:01/11/19 00:53
白兵戦で不利って事はないだろう。
しかし、普通の斬り合いになれば日本兵も朝鮮兵もそれほど変わらないと思う、同じ人間なんだしね。
952 :01/11/19 01:08
>951
朝鮮兵は問題でなかった。
まともにぶつかりえたのは明の軍隊だった。
953 :01/11/19 01:10
>950
ヘキテイカンは雨の日に戦闘をして鉄砲の使用は不自由のはずだったが、
白刃の威力で明軍を圧倒。
以後、明軍は戦意を喪失。
954無名武将@お腹せっぷく:01/11/19 01:13
殺伐とした環境で育ったやつと平和ボケしたやつのどっちが強いかなんて考えるまでも無い。
日本人とアフガン人、強いのはどっち?
955無名武将@お腹せっぷく:01/11/19 17:26
>953
違うよー。雨の後の泥濘で騎兵が立ち往生して大砲の運用にも苦労
したのが明軍。日本は鉄砲を終始有効に使ってる。
数は日本が2倍くらい多くて、さらに途中から後詰の宇喜多勢なども参加している。

動きのとれない明の遼東兵を一方的に銃撃と白兵戦で倒したんだな。
この戦いは日本刀がなければ勝利できないほど、日本刀の切れ味が
有効に作用した典型的な例。
取っ組み合いでは遼東兵が圧倒的に上だということを、
宇喜多家で一番巨体・怪力だという士が手記に残している。
956無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 00:22
島津製作所
957無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 00:38
まあ、当時の日本人(平均身長百五十後半)と
中国・朝鮮の兵とは体格が違いすぎんたんだよ。
958無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 00:40
>>957
やっぱり栄養状態が悪かったのかな?
競馬でも日本育ちの馬は成長が遅く骨が脆いらしい
原因は土壌にミネラル成分が少ないらしい・・・
959無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 00:45
>>958
一応、日本史板での結論は
武将はもう少し背が高いのだが、
民衆レベルで背が低かったのではないかという推測。
民衆の特に幼少の頃の栄養不足と
米が万能の食品といった誤解があったんだよね。
離乳した子供にお粥ばかり与えたり(それでもマシな方の部類)
960無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 00:49
それと、生物板の「日本の生物は何故、全体的に小さいのか」
というスレも参考になるかも・・・
961無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 00:58
強さの質が違うからな。
鉄甲でも切り裂く世界一の野太刀と、それを考慮した甲冑というハード。
隠れるのがうまく、素早い動作と身のこなしが身体的長所。

満州兵なんぞは、ハードは劣悪だが
「氷点下の雷雨の中で裸で睡眠がとれて、小麦粉を水に溶いた食料で
数週間生きていられる」とい野人のような生態が記録されてる。
遼東の兵は彼らと戦うための強兵なのだが、それでも
「凶漢な蒙古兵を避け、比較的組みし易い満州兵を追撃
するのが日課だった。」だって。
962961:01/11/20 01:15
大名は上杉景勝・伊達正宗・秀吉・家康とみな150前後と低いな。
ただ侍大将クラスは、後藤又兵衛は最後に家人が巨体のため運ぶのに苦労した
ほどだし、関が原の島津の初太刀役を受け持った2人も家中で有名な巨漢だった。
963無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 02:19
興味深い話ですな
964うそつきばかり:01/11/20 04:05
>958
体格にこだわる馬鹿。
言ってやるが、当時、中国朝鮮も日本人と同様、体格は小さかったのだよ。
それは世界的な傾向で、気候に関係するのではないかとも言われてきた。
朝鮮人が「相撲を取れば日本人に勝つ」といったのが唯一の「体格」差を
あらわす文献で、それ以外に体格差をうんぬんする文献はなし。
あれば出してご覧。
965 :01/11/20 04:07
>964
まあ、相撲に勝つ、というのもそれくらいしか言うべきものが
なかったふうで、日本人に戦闘で敗れたことへの晦渋として
書かれている。
体格差なんて今と同じくらい名ものだよせいぜい。
966 :01/11/20 04:14
>>955
原典を紹介してくれないか。(宇喜田)
967無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 07:02
>>964
おいおい、いくら2chでも「うそつきばかり」という
ハンドルはあまりにも失礼だぞ(−−#
ムカッときたわ!!
968無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 08:04
明治政府って、西南戦争までは事実上島津幕府だったよな。
969無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 08:33
>>968
そんなバカな!!
愚かな島津久光は最初はてっきり、薩摩が天下を取ったと勘違いして
薩摩藩というか島津家中心の政権を幻想してたんだ。
ところが廃藩置県の時、初めて幻想だと気づいて、
おのれ大久保めと激怒したそうなんだ。
大久保利通はじめ薩摩の人物の多くが明治政府に入ったのは
事実だがそれは薩摩藩がどうこうとは全く逆の考えなの!!

あなたの言ってる事は大久保たちの民主的政府構想を誹謗するものでしかないよ!!
970無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 08:42
>>969
維新の件については島津というより薩摩藩士をほめるべきだな。

島津なりあきら公はともかくとして、それ以降の島津はむしろ、大久保・西郷の邪魔をした感じだな。
971無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 09:59
維新のその時期、鹿児島藩の事実上の指導者は西郷と大久保だったワケだし。
鎌倉期や戦国期なら下克上が起こってるだろう。
天皇を推戴することになったのも武家政権が幕府を作る時の常道だし。
しかしながら、一般の藩士の意識と、「近代政府」を意識する大久保達との間に
意識の隔絶があったから西南戦争に突入したんじゃないの?
別に、「島津」の名前がどうこうって話ではない。
ただ、明治政府の発生当初の本質はそれまでの武家政権となんら変わるところは
無かったと思う。
972そろそろ終わりか:01/11/20 10:13
なんというか、少しでも「島津」「戦国武士」「旧日本軍」
に不利な逸話が出ると、ヒスを起こす奴がいるな。

ここに篭って世界史・軍事といった板にはこないでくれよ。
973無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 10:17
>>971
納得かな?
まあ、もう少しケチをつけるなら、
明治政府は当初から薩摩だけではなく、長州その他も加わってたという点だな。
974:01/11/20 14:31
「島津」「戦国武士」「旧日本軍」をけなすことに懸命な奴もチラホラ(w
975美濃武士の末裔:01/11/20 14:51
貶してるんじゃなくて、真相を教えてくれてるんでショ。
間違った事は言ってないと思うヨ。
976無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 15:20
でも所詮は主たる徳川を裏切った豚に過ぎない
977無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 15:40
しかし、長州や水戸すら加わってた新政府が
「薩摩幕府」だなんて考え方は
やはり薩摩や島津が一時的であるにせよ天下を取ったということを言いたいように感じるけど・・・・
なんというか日本の軍事力全体に関して力が抜けてくる話が多いな。
夢は夢のままでいたほうがいいということか。
979無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 18:53
あげ
980無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 18:54
>>976
「主たる」徳川家?
981:01/11/20 21:47
>>975
真相じゃなくてリアクションなのだよ。
島津の泗川戦の実相は4万におよぶ明の攻囲軍を8000の守備兵で
撃退したという事実は疑いようもない。
明史にはキッチリと島津の名が残されている。
また明史にも日本を追い出すのは軍事力では無理で
秀吉の死によるしかなかったとも明記されている。
これらの事実はさほど日本人に知られていないのだが、
一部のマニアが面白半分に2chなどではやす。
それに対して苛立つある種の人達がいて、
そのリアクションの表現としてこのスレは成立している情景だな。
1の命題も煽りに近いしな。
982クタジマ・トシト:01/11/20 21:49
知らなかった。
983クタジマ・トシト:01/11/20 21:49
プロジェクトXやってるよん
984ゼドウド・ジン:01/11/20 21:49
ファミコンの三国志といえば、光栄が有名だけど
ナムコ版はどうなのだろう
985クタジマ・トシト:01/11/20 21:50
島津さんってあの人だよね?
そうだよね
たしか
986クタジマ・トシト:01/11/20 21:51
確かに強いよね。
彼たちは。
すんごくつよい、
とってもつよいよ。
987クタジマ・トシト:01/11/20 21:51
俺、博物館で剥製みたとき腰抜かしちゃったし
988クタジマ・トシト:01/11/20 21:51
島津冴子って知ってる?
989無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 21:52
島津家が最強とは言うが、国力の点では
それ以上はもちろんあるわけで
990クタジマ・トシト:01/11/20 21:52
カンボジアでも島津冴子は有名なんだってさ。
びっくりしちゃttな
びっくりしちゃったな
991クタジマ・トシト:01/11/20 21:52
しーーーーーーーーーまーーーーーずーーーーーさーーーーーーーえーーーこー
992クタジマ・トシト:01/11/20 21:53
俺、オフィスじゃ冴子先生つかってるよ。
993無名武将@お腹せっぷく:01/11/20 21:53
島津の戦いは寡兵で大軍を破るケースが多い
木崎が原の戦いは200人で2000人を撃破
沖田畷の戦いは6000人(島津軍3000人)で30000人を撃破
泗州の戦いは7000人で200000人を撃破
994クタジマ・トシト:01/11/20 21:53
島津家ってホモの集団なんでしょ?
995クタジマ・トシト:01/11/20 21:54
じゃあ単純計算で一億人に勝てるね♪
996ゼドウド・ジン:01/11/20 21:54
戦国の最強というのは歴史が証明しているのではと
997クタジマ・トシト:01/11/20 21:54
カンボジア人って歯が白いなあ
入れ歯か?
998島津:01/11/20 21:54
島津家はこの救出戦で多くの死傷者を出し奮戦した。
にもかかわらず、帰国のための出発港である釜山港に、
矢がつきささりハリネズミのようなよれよれの軍船で義弘が入港したときには、
なんとつれなくも加藤清正らは城を焼き払い、さっさと自分たちだけ引き上げた後だった。

 しかも潮に流されたり、海に投げ出され、
泳ぎ着いたりして南海島にとりのこされた兵約500を引き上げるため義弘は、
「いかにしても彼らを救出してから帰ろう」と、救出活動を展開する。

この500人の中にはかの樺山久高らがいた。
使者は明や朝鮮の日本軍狩りの船が往来する中をかいくぐり、
伊勢貞昌が安否を確かめに行き帰りの打ち合わせなどしたが、
彼らは敵にやられたのだろうか、迎えの船はいっこうに来ない。
彼らはたまたま島に来た対馬の漁船2隻で興善島まで往復する。
その中で勝手に釜山港までそのまま向かった不届きものがおり、
結局ただ1艘の漁船を何往復もさせるというとんでもない難儀をしている。

空腹と不安と疲労で島津の軍兵は困難の極にあり、
この状態を聞きつけた小西行長は、自分たちのために戦ってくれた島津軍にしのびないと興善島に船を出し
、釜山まで送り届けている。


義弘は、この時、救出に向かうというのは、よほどの決意だったろう。
これは歴史上希に見る義挙というべきもので、秀吉なく、評価してくれるもののない戦いの中で、自己犠牲の精神を発揮して順天城の日本軍を救出し、
撤退のしんがりをつとめたのは義弘の武士道精神のなせるわざだった。負け戦、そしてしんがり戦こそ義弘の真骨頂だった。

 このとき、義弘の申し出に賛同し救出に向かった立花宗茂についても触れて置きたい。
碧蹄館の戦いで明軍30万人に3千人で斬り入り、敵軍をまっぷたつにしたのは有名。
その他に肥後の一揆鎮圧で一日に13度の戦闘を行い、敵の砦を抜くこと7カ所という離れ業もやっているほどの天才戦略家だった。

 関ヶ原の戦いではやはり西軍にあり、敵城を開城させたが、関ヶ原にはなぜか召集されなかった。
それは島左近らが、宗茂のような外様に戦功をあまり上げられると困ると思ったからだと私は思う。
結局一浪人にまでなりながら、諸大名よりあまたのスカウトを受けるなどその実力、人気は当時並ぶ者がなく、
結局柳川11万石の大名に返り咲いているほどの武将だが、面白いことに彼の父高橋紹運は島津家の九州攻略戦において、
義弘との戦闘で戦死しているのだ。秀吉からその忠義、その豪勇鎮西1と言われたほどの男はできがちがう。
父を討った義弘に一も二もなく賛同し、自らも死地に赴いたあたりはさすがというべきであろう。
彼もまた、心すずやかなる戦国の男であった。
999クタジマ・トシト:01/11/20 21:54
勝敗はアッラーのみぞ知る
1000クタジマ・トシト:01/11/20 21:55
ケビンベーコンのチンポ
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