意外な裏話、エピソード、説

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1名無しさん@お腹いっぱい。
三国志にしても戦国時代にしてもライトファンが
知らないような面白い話を募集します。
三国志に関して言えば寥化の寿命が異様に長いのは実は寥化と
呼ばれる人物が二人いて一つにまとめられていたという説や正史では
沙摩迦を倒したとされる人物は周泰ではなく陸遜であったりという話です。
ディープファンの皆さんよろしくお願いします。
2まむしの:2001/01/05(金) 14:23
斉藤道三2代説
初めて聞いたときは眉唾と思ったけど、
今ではこの説のほうが正しいとなりつつあるね
3名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 14:30
明智光秀の千利休説や南光坊天海
4名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 14:32
>2
ほんとっすか
源頼朝や足利尊氏の人物像(教科書によく載ってるやつ)
は実は違う人ってのは有名ですか
5名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 14:38
>>2
法蓮坊〜油屋の庄五郎〜長井新九郎までが初代で、その後代替わりして
土岐氏を追い出す「斉藤道三」のが二代、という説だっけな(うろおぼえ)
6だからお札が変わった?:2001/01/05(金) 14:52
>>4
聖徳太子もネ。 
7名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 17:11
秀吉には捨・拾の他にも実子がいたという話がある。
長浜城主時代にかかえていた妾との間に幼名を石松丸という
早世した息子がおり、その実名が秀勝だったというのだ
(長浜のどこかの寺の過去帳に記されてるそうだ)。
秀吉の養子に二人も秀勝という名前のものがいるのは、
この実子にちなんだものなのだというお話。

まぁ、真偽のほどはよく分からないが。
8名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 17:25
真田幸村は実は武田信玄の子
9名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 17:45
>8
ネタ?
10名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 17:47
なっち武将は実在した
11名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 18:14
真田幸村は大阪落城の際、秀頼公を連れて脱出、
薩摩へ落ち延びたという説。

花の様なる秀頼様を 鬼の様なる真田が連れて
退きも退きたる加護島へ

義経=成吉思汗 並に眉唾だと思う。
12加護島萌え〜。:2001/01/05(金) 18:30
幸村の末子大八は夏の陣後、事故死を装い片倉小十郎にかくまわれた・・・らしい。
13名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 20:13
 長筱の戦いでは、鉄砲が勝敗を決したわけではなかった。
当時の鉄砲は猛煙が発生し、一斉射撃が出来る代物ではなかった。
鉄砲の一斉射撃ができるようになるには、19世紀の無煙火薬の発明をまたねばならない。
実際は6万対1万5千+謀略という、圧倒的な戦力差で押し潰したのが、
本当のところだということだ。とか?
14名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 20:17
 武田騎馬軍団は存在しなかった。
当時の馬は現在で言うポニーほどの大きさであり、
戦場を自由に駆け巡る存在ではなかった
日本に騎馬軍が編成されるのは、明治に入って欧米からの軍馬が導入されるのを、
待たねばならない。
実際は武田領内では軍道が整備されており、兵力・物資が領内を自由に移動できたことから、
無敵騎馬軍団の伝説が生まれたといえる。とか?
15名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 20:37
今後、ライト層にはネタなんだかマジなんだか分からないものが
増えるだろうが、怯まずに書いて下さいね。
16士載:2001/01/05(金) 21:07
諸葛亮は、蜀が滅びる事を予想していました。

「ここを二士が通る時、蜀は滅びるであろう」
二士とは、私の字が「士載」、鍾会の字が「士季」ゆえ
私・トウガイと鍾会をさします。

それから、もう一つ私にまつわるエピソードを。
17士載:2001/01/05(金) 21:11
私は、自分が蜀を滅ぼした後、生きて帰れないことを
出陣前から知っていました。

出陣前夜、私が崖の上から成都を臨んでいるとき、
足下から水が湧き出すという夢を見ました。

これを部下に夢見させたところ、「勝利するが、生きて帰れない兆し」と言われたのです。
しかし私は公務を全うするために出陣しました。

結果、偽善国家蜀は成都に滅亡しましたが、
私は鍾会の命を受けた部下に殺されてしまいます。
もし、私があの時鍾会・姜維と行動を共にしていたら、
司馬炎様の三国統一は、もう少し時間がかかったかもしれません。
18名無しさん@そうだ天下をとろう:2001/01/05(金) 21:49
奥州真田家について調べてあるページがあったので、一応紹介しときます。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~kamomax/
19名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 21:56
>>18
ちっ。既出か。阿梅の事を書こうとしたんだがな。
20名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/05(金) 21:59
>>18
ありがと
21許儀:2001/01/05(金) 22:30
>>17
鍾会ってさぁ、本当に気が短い奴だよね。
桟道の真ん中に少し穴が開いていたくらいで・・・
22須田長義:2001/01/06(土) 01:56
>>13
結構知られていないことだと思うが
教科書に載っているような長篠の合戦絵巻で
馬防柵の前で鉄砲を構えている。
騎馬にやられるっちゅうに。

絵巻で武威を示すためのようだと解釈しているが。
23名無しさん@そうだ天下をとろう:2001/01/06(土) 02:12
>>13
一斉射撃ではなくて、連続射撃だったらしいですよ。
第一、当時の鉄砲は1度打つと二発目の準備に時間がかかるでしょ。
だからあらかじめ三千人を十数人程度のグループに分け、そのグループ単位で連続射撃をすれば、
数百丁の機関銃で弾幕をはるのと同じ効果があります。
機関銃Vs馬なら、どっちが強いか一目瞭然でしょ。
24名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 02:19
長篠の合戦は、織田・徳川連合軍が数の上で圧倒してるにも関わらず、
馬防柵や簡易の堀、長篠自体の湿地性による天然の要害化、
そして守りに徹底したことが勝因、っていうのが現在では通説。
25須田長義:2001/01/06(土) 02:32
馬防柵の前で鉄砲構えた絵を書かせる感覚は好きだな。

ちゃんと連子川がどぶ川みたいに描かれているし。

よく小説とかで勝頼と父と重臣たちとのバランスを
巧みに見切った信長の勝ちとかあるが
迎撃が一番という良い見本ですかね。

勝頼も三方ヶ原を見習わねば(笑)
26名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 10:13
>>14

>当時の馬は現在で言うポニーほどの大きさであり、
>戦場を自由に駆け巡る存在ではなかった

NHKの番組で、それ位の馬にのったモンゴルの人が草原を走るシーンがあったけど、
ほんとに、小さな馬に乗ってたのに、とても速くてびっくりした。
 多少小さくても大丈夫なのでは?
27名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 14:26
大内氏が少弐氏と筑前・肥前を巡って争っていた頃。
大内義隆は、少弐氏を滅ぼす大義名分を手にするため、大宰大弐の猟官運動を
必死に行っていた。少弐という苗字の由来が大宰少弐なので、それより上位に
立とうとしたのである。
魂胆がみえみえなので朝庭は当初これを拒否し続けてきたが、義隆が朝庭に
莫大な金額を献金し続けたためについに折れ、大宰大弐の位を与えた。
この後義隆はようやく本腰を入れて北九州制圧に乗り出し、少弐氏を事実上
滅亡させる。

肩書きが「ないよりはまし」程度にしか機能しなかった戦国時代にあって、
ここまで位階とそれに伴う名分を重視したヤツもいたというお話。

……そんな悠長なことやってるから「公家かぶれ」と陶の反感を買うんだよ
(↑ここだけ冗談)
28名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 14:37
>>26
そうなんですよね。軍馬で重要なのは耐久力ですから。
その点信玄の木曽馬やモンゴル馬は、軍馬に適していたでしょうね。
ただ当時は編成が豪族単位だったから、
結局騎馬専門の部隊は、存在しなかったんですよ。
奥州の南部や伊達が、小規模ながら使っていたようですが。
29名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 15:05
天主閣や多聞櫓などは、松永久秀による創始。
30名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 15:12
>>28
東北って馬の産地じゃないの
31名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 15:52
騎馬好きなら相馬の野馬追いは一見の価値はあるよ。
32名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/06(土) 17:06
 川中島の戦いは、実は啄木鳥戦法とか、
謙信がそれを見破ったとかはなくて、
単なる遭遇戦だった。
33名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 14:49
佐々木小次郎 実は年齢不詳 
34名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/07(日) 20:26
宮本武蔵の父親は、実は将軍(足利だった気がする)の御前試合で
吉岡憲法をやぶり日の本一の兵(つわもの)と賞されていた。
35ああああ:2001/01/07(日) 21:38
>>13.>>22-25
長篠の「殲滅戦」がありえなかった理由。
1.信長公記には「鉄砲千挺ばかり」としか記載されてない(3@`000挺もなかった)
2.朝6時から午後2時までと合戦時間が長い(連射でなぎ払われたのならあっという間でしょう)
3.信長連合軍は寄せ集め(細川・筒井隊等との合同訓練もやってない、指揮系統もバラバラ。
 これでは統一射撃ができるはずも無い)

結局のところ三段撃ちは読み物の「信長記」で脚色されたもの、ということらしい。
あー、夢がまたひとつ壊れていく・・・
36名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 07:57
信長は下戸だったという説がある
37名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 11:13
曹操の夢
曹操はあるとき、三頭の馬が一つの槽で餌を食てる夢をみた
その後、毎日同じ夢を見るので、曹操は馬騰親子(馬超・馬休・馬鉄)のことが気になり、
部下に夢占いさせた。判定は馬の夢は大吉。槽と曹は同じだから大吉と判定された。
実はこの夢にも続きがある。馬を司馬氏ににするとどうだろう。
司馬懿・司馬師・司馬昭を指していたのだ。つまり司馬氏が曹氏を食いつぶすという
暗示であった
38名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 11:25
安土城を庶民に一般公開。もぎりは信長自身がやったってのは本当の話?
(堺屋太一「鬼と人と」より)
39名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 11:42
フロイスは信長は酒が飲めないと書いている。
だとすれば骸骨酒も光秀けたぐり事件も嘘。
40名無しさん:2001/01/08(月) 12:30
>>39
骸骨酒は部下に振舞ったんだから自分が飲めなくてもいいだろう。
41名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 17:34
馬謖は街亭の敗戦の後処刑されたのではなく、獄中で生きていて、
脱獄しようとして失敗して殺された。
「蜀志」の馬謖伝と向朗伝の記述からこう解釈した説がある。
もともと諸葛亮伝では孔明は泣いて馬謖を斬ってはいない。
42名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 17:58
家康は秀吉に大坂城の攻め方を教えてもらった

家康は大坂の陣で真田入城と聞き震えたが
昌幸ではなく幸村だと知り震えがおさまった
43名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 18:00
桶狭間はじつは奇襲戦ではなかった!!

『信長の戦国軍事学』より
44名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 18:01
土井利勝、家康の実子説・・
45そういえば:2001/01/08(月) 19:20
石田三成は
関ヶ原の敗戦後、佐竹領に逃げ延びたという説が
あったような気がする。
46名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 20:17
伊吹山で下痢をして苦しんでいたのは替え玉か?
47蒲生郷舎:2001/01/08(月) 20:19
>42
司馬さんの城塞そのままだよ。
48名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 20:20
実は蘇我入鹿はいい奴だった
聖徳太子の内政業績は全て彼の一族の行いだった
外交政策も彼の親新羅にしておけば良かった
49名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 20:27
>>48
これこれ。三国・戦国だけにしておきなせぃ。
古代の知られざる説なんてそれでなくてもきりがないんだから
50名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 22:14
中国のドラマでさえ若い美声年として扱っている超雲、
実は桃園の誓い三兄弟達よりも年上・・・

三尖刀の紀霊の使用人の中には妖怪飛頭ぼんが混じっていた。
バレた後は気味悪がられて暇を出されたそうだ、あたりまえか。
51風の谷の名無しさん:2001/01/08(月) 22:52
逆にライトで誰でも知ってると思われる、謙信の「敵に塩を送る」が
どのゲームでも出てこないんだけど、ネタだったのかな?
52名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/08(月) 23:42
家康は願人坊主だった。
53名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 00:03
>>41
演義では潔く打ち首になっただけにその往生際のよさを評価してたんだけど>馬謖
救いようの無いドキュソだったのね。
54名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 00:04
豊臣秀頼の父は大野治長
55名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 00:10
>>53
さらに加えれば、孔明はすぐに解放する気だったらしいね。
かなり偶発的な事故だったらしい。
56名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 00:16
一乗寺下り松の決闘で武蔵と闘ったことで有名な吉岡一門。
実は(勝敗は武蔵側と吉岡側で伝えが違うのでさておき)別にこの決闘で
滅び去ったわけでは無い。
大坂冬の陣には一門そろって参陣しており、その後は道場を閉めて
町人となり、染物屋を始めたという。
57名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 00:47
>>55
孔明は馬謖を廖淳から廖化、李厳から李平のように改名させて復帰させようと
していたらしい。
58名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/09(火) 23:53
孔明は演義だと劉封を情状酌量もなしに劉備に殺すよう
命じていたくせに正史だとこんなにも馬謖をえこひいきしてたのか。
劉封好きだっただけにむかつく
59名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 00:08
>>58
演義のお話と正史の記述を比べちゃいかんよ。
60風鈴火山:2001/01/10(水) 00:12
>>58
馬謖を助けようとしていたという説はいずれも野史に見えるもので、
本当かどうかはかなり疑わしいですよ。
正史には「死刑にした(諸葛亮伝)」「投獄されて死んだ(馬良伝)」
としか書かれていません。

李厳のこともついに許さなかったし、馬謖のことも、本当に助ける気は
さらさらなかったのかもしれません。
61名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 00:17
>>60
ハイチュウの事?
62トクユウ:2001/01/10(水) 00:24
張飛殿の名誉回復のために申しておきますと、
私、都からの勅使“トクユウ”を鞭打ちにした真犯人は
劉備だったのです。(正史では)

劉備たん ハァハァ もっと叩いて (;´Д`)ハァハァ
63名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 00:25
孔明って馬謖の扱いについては、その裁き方に至るまで二重三重にミスってないか?
64風鈴火山:2001/01/10(水) 00:33
>>61
そうです。このスレッドのタイトルにふさわしい説が満載ですよ。
65名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:24
>>59
正史と比べて演義の孔明が妙にひいきされてるのがムカツクって意味も込めてます。
実際の孔明は人間的にあまり好きでない。
66風の谷の名無しさん:2001/01/10(水) 01:31
 まさか正面きって攻めかかって来はしまいと思っている相手に、
まともに攻めかかれば、奇襲になるでしょう。
67名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 01:35
魏の明帝曹エイは、文帝曹ヒの種ではなかった(かもしれない)
曹エイは皇帝にもかかわらず、その生年は正史に明記されていない。
崩じたとき36歳だと書かれているが、そこから逆算すると
曹ヒが曹エイの母であるシン氏を奪った年に重なる(どころか、それ以前になりかねない)
曹ヒがなかなか曹操に王太子として認められなかったのは、
その長子がエン氏の種かも知れないという恐れがあったため。
という説あり。

カタカナすみません。三国志辞書まだ入れてないマシンなもので。
68名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 23:37
>>64
実際、裴松子の信憑性って、どれくらいなんですかね?
学術的にはどう言われているんですか?
69名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/10(水) 23:39
あげときます。
70地雷業:2001/01/11(木) 23:51
>>68
 一言で言うと「玉石混合」といったものかと。
 ただ。とてもありがたい人ではあります。むしろ、その混合っぷりが。
71無名武将@お腹せっぷく:2001/01/12(金) 03:17
信長はシスコン!?
浅井の嫡男を死に至らしめたのは、政治的理由のほかに
嫉妬心によるところが少なからずあった?

72無名武将@お腹せっぷく:2001/01/12(金) 03:52
鐘会は鐘ヨウが70を過ぎてからの子
73実は:2001/01/12(金) 04:51
官職の上では、ビ竺の方が諸葛亮より上だった!
74風鈴火山:2001/01/12(金) 04:54
>>68
裴松之の注は、正史に記載されていない説を寄せ集めたものですから、
まさに>>70さんのいう通り玉石混合です。

正史の記述とまったく食い違っている説もありますし、そもそも裴松之
自身が、自分で注として引用した説について「これは論外のでたらめだ」
と言いきっていたりしますし。
75無名武将@お腹せっぷく:2001/01/13(土) 18:54
ついでに言うと玉石混淆ね。
76無名武将@お腹せっぷく:2001/01/13(土) 21:00
>>73
劉備が漢中王になった時ね。
糜竺が輔漢将軍で諸葛亮が軍師将軍。法正が尚書令。
77無名武将@お腹せっぷく:2001/01/13(土) 22:02
>>67
そういやそうだね。言われて初めて気がついた俺(ダメ)。
曹芳が曹叡の実子ではなかった(魏志)のに後継者となれたことと
合わせて考えると、真相っぽいね。
78風の谷の名無しさん:2001/01/14(日) 11:27
>>71
 それって、河村史観。
79無名武将@お腹せっぷく:2001/01/14(日) 11:43
武田信玄は
「家の危機には真田を頼れ」
と遺言していた。しかし、勝頼はそれを守らず穴山を頼り、その結果裏切られて家を滅ぼした。
80無名武将@お腹せっぷく:2001/01/14(日) 14:49
>>79
それ、意外でもなんでもないのでわ。。。
81名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/14(日) 23:19
35>
 長篠の戦いでは信長が持っていた鉄砲は千挺だったけど、家臣たちが持っている
鉄砲をかき集めて三千挺揃え、それを集中運用したから、武田に勝てたという説が
ありますが、それについてはどうでしょう?
 後、秀頼の母、淀殿の鎧は100Kgをあったって聞いたけどまさかね、、、
82あしたの丞相:2001/01/14(日) 23:22
>>79
それって真田ではなく上杉謙信じゃなかったけ?
83名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/14(日) 23:32
そりゃ上杉やっちゅ‐年
84名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/15(月) 01:31
当時の鉄砲の弱点
1.雨、もしくは、高湿の状況では使えない。
2.射撃時に1m以上の炎が前方に噴きあがる。(密集陣形での射撃は不可能)
3.射撃時に、猛煙が噴きあがる。(射撃後の視界は、極端に悪くなる)
4.有効射程距離は30m程度。移動体にたいしては、さらに下がる。
5.発射に時間がかかる
6.連続射撃が出きない。(銃身が熱くなるため、但しこの問題は当時の銃に限らない)
7.コストが高い。(短期戦なら、一挺で100人近い兵士が雇える)
こんなややこしいもの、みんなだったらどう使う?
85武田信玄:2001/01/15(月) 02:42
やっぱ石でも投げる方が手っ取り早いな!
一応、敵に使われても良いように竹でも束ねて置くか!
86名無しさん@お腹いっぱい。:2001/01/15(月) 03:01
>>84

お城や砦を30m幅の空堀にする
攻めてきた敵を射つ
87無名武将@お腹せっぷく:2001/01/15(月) 03:44
でも爆音による威嚇は相当なもんだよな
馬はもとより、兵士にも動揺を与える事この上ない
88無名武将@お腹せっぷく:2001/01/15(月) 03:50
三国志、戦国時代板の特徴。
必ずといって良いほど戦国系スレのが夜遅くまで生きてる。

何でだろ。どうでもいいか。
89無名武将@お腹せっぷく:2001/01/15(月) 04:03
↑どーでもいいなら、何故こんな訳のわからんレスを
このスレにするんだろ

馬鹿だろ。どうでもいいか。
90無名武将@お腹せっぷく:2001/01/15(月) 04:10
ん?意外なエピソードってことで
このスレにしてみました。

て一番上にあっただけだろ>俺。どうでもいいか。
91羽柴筑前守:2001/01/15(月) 04:47
陳宮は曹操の所で呂布を招き入れ反乱しましたが
その後 呂布の元でも反乱してます。
(郭ホ が反乱、高順が反乱軍は河内訛りだから
反乱してるのは郭ホ だ!と見破った時の)
失敗に終わりますが郭ホ は処刑、陳宮は有能な大将という事で死なずに済みました。

だから呂布が滅んで潔く処刑されたのも なにも呂布に忠義を尽くしたわけでも無く
自分の為であった。
徐庶なんかは一回他国に行っただけでもう戻れない、戻ったら笑われるだろうと
言っているのに陳宮なんとも情けないです。
黄権なんかも蜀に戻らなかったよな。


李典は諸将と功を争わず〜
とありますが
合肥で張遼、楽進、李典は3人それぞれが仲悪かったとありまする。

そういえば なんかの本で
鍾会は賈言羽の弟子だとあったんですが本当なの・・・?


馬謖の抜擢について

蜀の南征で馬謖の一言(心をせめるが上策)が諸葛亮に評価されたり
して北伐では抜擢されたとありますがこれはとんでもない事ではないだろうか?

南の反乱で中心となったところはそのちょっと前に馬謖が太守を努めていたところである。
そこでたいした事もできずに丞相府に呼ばれ その後の展開が待っているのである。
そんな感じで抜擢とは本当に諸葛亮のただのえこひいきだったのだなと思うと情けない。

趙雲
趙雲は夏侯惇と博望で戦い、夏侯蘭を生け捕りにした。
夏侯蘭は趙雲と同郷でふたりは小さい時からの知り合いだった。
趙雲は劉備に話して夏侯蘭の命を助け、彼が法律に詳しいので軍生(憲兵隊長)に推薦した。
だが、それからのち趙雲は自分から夏侯蘭に近づく事は避けていた。
個人的な情実で動いていると誤解されるのを避けるためであった。
趙雲の気配りの慎重なことは、ざっとこんな調子であった。」

正史では趙雲は劉備と共に袁紹の元にいましたが
この時、密かに兵を集めた事例があるんですが、これも評価UPして良いと思います−。

また、劉備が蜀を攻めた時、荊州に残り留営死馬(内務班取締責任者)に任ぜられましたが
これも厳格で公私をわきまえ全体を引き締めるにはもってこいの人物だと劉備の登用があったけど
これは統率力という意味も大きく加わってますね・・・。

蜀平定の時も諸将に(多分に)恩賞を与える話しがあった時も
反対意見を述べ劉備に意見を採用、評価されている。
ここの趙雲の進言はちょっと長いうえに書き込みが長すぎる可能性があるので
省きますが興味あったら読んで見て下さい。惚れ惚れしますから(^^
呉征伐の劉備を諌めた話しは、
「呉より魏の方が先です。魏を滅ぼせば呉は戦わずに降伏してくる」
の発言だけでそれなりに評価されるポイントだと思います−。
92無名武将@お腹せっぷく:2001/01/15(月) 04:54
>>91
趙雲のところって、某HPからのコピペ?
本人なら別に文句は無いけど。
93羽柴筑前守:2001/01/15(月) 05:25
>92
本人だよ
三国志7のところからだろ
陸遜の昔の名です。
94ああああ:2001/01/15(月) 06:33
信長が癇癪持ちだったのは、酷い虫歯の痛みゆえの八当たりなんて説も。
だったらみっちゃん報われない・・・。

>>81
当時の鉄砲といえば非常に高価なわけですから、個人々々の私費で二千挺もあるのでしょうか。
仮に三千挺揃ったとしましょう。ですが、やはり前述の理由で不可能かと。
まず信長軍と言えども、通常、各部隊に分散しており、急遽専門部隊を作れるかどうか。
指揮系統の問題もあり、とても任務部隊編成が採れるとは思えない。
次に運用。鉄砲隊は鉄砲大将の号令で射撃するわけですが、これも訓練で統一されていないと混乱します。

で、何より重要なのが、合戦前日の天候が雨。故に当日は高湿度で少なくとも午前中は鉄砲使えなかったはず。
鉄砲揃い、訓練され、天候回復後に「薙ぎ払え!」な展開の可能性はなきにしもあらずですが、
かなり低いものであると考えざるを得ませんね。
95イ為:2001/01/15(月) 09:17
>>81
> 後、秀頼の母、淀殿の鎧は100Kgをあったって聞いたけどまさかね、、、
あり得るな。「紅白」の小林幸子みたいなモンだろ。
96無名武将@お腹せっぷく:2001/01/15(月) 11:59
一般的に世間に広く知れ渡ってる武田信玄の肖像画(あのムスッとしたハゲオヤジ)は実は畠山某である・・・とこの前NHKでやってた(W
97無名武将@お腹せっぷく:2001/01/15(月) 12:37
>>94
雨だと鉄砲が使えないというのはウソ。
確かに台風や集中豪雨のような土砂降りでは無理だが、いわゆる普通の
雨なら問題無い。
濡れても消えにくい火縄と火蓋の上にテントのように油紙で覆いをして
使用していたらしい。
98うぐぅ:2001/01/15(月) 13:36
>>94
当然信長公記が二冊残っていて
一冊では「千人」に「三」が書き加えられていると言うのは知ってますね。
さらに地形的なものから千人が並べるようなところでもないことを。
さらに各部隊に向け、鉄砲(隊)を集めるように指示があります。
私は千人程度の鉄砲隊で300人で三段に並び、それぞれが
予備の鉄砲を用意していたため三千と言う数字が出てきたと思います。
その程度の人数なら何とか統制が取れたでしょうから。

99ああああ:2001/01/15(月) 16:09
>>97
うーん、そのレス、予想してたよ(w
その組合せで雨でも撃てることは知ってる。
けれど、「三段撃ち」の論拠となるのが素早い連射にあるのなら、
果たして晴天時同様に撃てるのかな。
あと「早合」が使えるかも(この時点であったとして)怪しいよね。

>>98
それも既知です。思うに、それが一番説得力のある説のように考えてます。
100ああああ:2001/01/15(月) 17:29
>>96
うむ。おそらくは高野山成慶院蔵の肖像画だね。教科書に載ってるやつ。
101ああああ:2001/01/15(月) 17:41
あらら、エンターキー押してしまった。100の続きです。
あれは明らかに信玄ではないのですよ。畠山某かは知らないけど(笑)

まず刀の目貫の家紋が「二引両」紋になってる。これは足利家のだよね。
武田家のは「剣花菱」紋だ。次に、あのハゲオヤジ、実は禿げてない。
実は紫電改を・・・冗談はさておき、髪が耳の上から後ろにかすかに伸びてたりする。
つまり元取りを結っている可能性がある。出家後ならツルピカじゃなきゃいけないのにね。

なにより、もうひとつの肖像画である高野山持明院蔵のものとは全然違っていたりする。
元々信玄は痩せているうえに、晩年は胃癌で苦しんでいる。あんなに太ってる訳が無い。
・・・また夢が壊れていく〜
102名無しさん@筆不精:2001/01/15(月) 17:51
淀君、実は父親似だそうです。
103URYYY:2001/01/16(火) 11:46
源義経は小男で出っ歯
小学校のときに、この説を聞いたときはショックだったなー
104無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 03:05
age
105無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 09:54
織田信長公が本能寺の変のときに、
薩摩へ脱出したという話もあったな。
106無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 10:11
>>103
義経は一騎討ちも弱く八艘飛びは赤軍から逃げ回っていて
伝承となったと言う
107無名武将@お腹せっぷく:2001/01/19(金) 10:40
義経は天狗に剣術を教えてもらった説。

見たんか?
108ああああ:2001/01/19(金) 20:52
>>103
平家物語より
「背が小さく色白、少し出た歯がよく目立つ。鎧を常時着込む動作俊敏な男」

鎌倉政権が出した手配書より
「出っ歯、青白い顔、いつも咳をしている」

なんか最近、夢壊してばっかりかも・・・
109無名武将@お腹せっぷく:2001/01/20(土) 15:15
何かのスレで読んだんだけど、
劉禅と許楮が互角に渡り合ったんだって?

知ってる人、詳しく教えてくれ。
110程c食人@お腹いっぱい:2001/01/20(土) 17:31
109>頭のよさはいい好敵手だったらしいよ。
111無名武将@お腹せっぷく
長篠の戦いは
中学の授業で習った時

前日は雨だった為、武田家は 織田軍は鉄砲を
所有していない(使用どころか行軍してる時にでも使えなくなるから=雨で)
と思い決戦に及んだと聞いた。