1 :
無名武将@お腹せっぷく:
というわけで新スレ。孔明死後の人物の再評価スレです
前スレでは蜀を議論したのでこのスレは
魏と呉 および晋あたりの人物を深く考察できれば幸いです。
じゃあ皇象と並ぶ書家の車騎将軍劉纂について
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 23:06:37
う〜んまずは孔明死後のシバイあたりがなにしてたとか
司馬炎の評価とかからの方が解かりやすいんじゃない?
孔明後ってキョウイと司馬一族ぐらいしか有名所いないんだよね。
では
孫和は本当に優秀だったのか?
について
晋初にしておけばよかったものを
まあいいか
>>4 ではまず孫和と周辺の人間関係の整理、及びあなたの見解から聞こうか
8 :
1:2008/12/16(火) 20:50:15
ああ被ってるスレあったか。じゃあこのスレはもういいか。
そっちもあんま盛り上がってないからな。
9 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/16(火) 23:03:46
呉に関しては深く語れる人間が今の三戦にいない、
或いはいたとしても語ろうとしないから、呉の考察スレは伸びにくい。
うっさい
南方戦線いたやつらって結構孫晧に忠誠心持ってんだよな。
実は孫晧って人気あったんじゃないか。
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 11:04:16
結構ネットの三国志知識人って偏りがあるんだよな。
自分の知ってる事だけ強気なレスみたいなのが多々ある。
もっと挑発的なこと書いてくれないとスレ盛り上がらないですよ
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 13:09:53
では挑発的なことを書いてみよう
孫晧は暗君ではない
挑発になってないです
むしろお好みの流れだろう
「ネットの三国志知識人」には孫晧や孫覇を持ち上げて
列伝の呉の主流達をけなすような論調がちらほらあるからな。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 15:34:02
晧ちゃんはなんだかんだ言って皇帝としてやるべきことはやってると思うんだよな
じゃあ禅とおんなじだな
>>17 孫覇を持ち上げてる奴なんて聞いた事もねえな
太子孫和に廃嫡の建議があったのはよほど素行に問題があったからで、
孫覇が宮を与えられたのは孫権の真意は孫覇にあったから。
陸遜ら豪族が孫和を擁護したのは都合のいい皇帝を擁立しようとした党利党略にすぎない。云々。
孫晧が亡国の君だから実態以上に悪く書かれた、という方は頷ける話だけどね。
>>21 これをもって陸遜らをけなしていると感じるとしたら相当アレだな
ではスレタイらしく
>>22に改めて「二宮の変」再評価論議を主導してもらうとしようか
状況整理からよろしく
史実の再評価ってのは、それが後世にどう影響を与えたかとか、
おれらの史実の見方を変えたとか、そういうやつだろ?
だれを持ちあげるとか、けなすとか、つまんないから止めようぜ。
そんなのは僕の考えた超人みたいなもんだ。光栄スレでやれって。
25 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/26(金) 21:42:46
後世にどういう影響を与えただとかってのは、素人にはなかなか難しい事だろうからねぇ。
無根拠に持ち上げたり貶したりだとかは確かにあまり意味は無いけど、
誰かを持ち上げたい、とかを動機として持つのは悪くないとは思う。
学者については分からないが、素人なら誰だって最初はそんなもんだろうし。
二宮の変は姉妹?スレの劉備スレでやってるようだから、ここはまた別な話題にするのが無難みたいだな。
スレの主旨としては魏晋と呉を中心にという事なので、軍事関係では魏と呉の衝突、
具体的には淮南の反乱とか東興の戦い辺りが無難かもしれない。
三国鼎立以降の魏呉の戦争って、石亭以外は殆ど濃密に語られる事ってないな
精々が毋丘倹や文欽、諸葛誕の叛乱くらいで、他はまず見ない
このへん、時代背景や蜀も含めた三国の情勢、戦争が起こる要因や至るまでの
状況の推移なんかも含めた多角的な検証が見てはみたい
本当に多角的にやったら本が何冊も書けてしまうぞ(書ける知識量を持つ人間はここにいないとしても)
もうちょっと論点を絞らないと
28 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/27(土) 00:09:22
東興、毋丘倹・文欽の乱、諸葛誕の乱以外では、
詳細に書かれてるのは250-251年の王昶による攻勢と、後は西陵の戦いくらいだからね。
荊州や揚州を戦場にしない戦争も含めれば、呂興の蜂起から数年続いた交州戦役があるけど。
あぁ、そういや、241年には大規模なのもあったな。
朱然とか全jとか諸葛瑾、恪親子が攻めたやつ。
29 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/27(土) 01:40:50
そういや、戦争の推移や、そこから推し量れる指揮官の力量なんかは粗方考えたけど、
戦争に至るまでの部分というのは、俺はあまり考えていないかもね。
例えば王昶の攻勢については、彼がそれを企図した主な原因は、上奏にもあるように二宮の変だろう。
だがそれのみでは無いだろうから、詳しく考えるには三国の情勢等を加味する必要がある。
魏では、この攻勢に前後して起こった事というと、前年の正月に司馬懿が曹爽を誅殺した事が大きな事件。
また、それまでの李勝に代わり、王基が荊州刺史として王昶の下について一年強経った頃。
更に、王昶が帰還した直後には王淩がクーデターを起こしている。
蜀はと言うと、王昶の攻勢が行われた年の初めには姜維が洮水流域に進出してきたが、
ケ艾が備えていた為に大きな被害を受ける事無く撃退し、以後蜀の対魏攻勢は三年間止む事となる。
呂乂の死と陳祗の尚書令就任も同じ頃だが、これは王昶帰還後の事なので、影響は無いだろう。
呉はやはり二宮の変だが、これがどのように魏に伝わっていたかは分からない。
タイミング的には陸遜が死んだ直後辺りが最も良いんじゃないかと思うが、
この時点では曹爽の専横が激しかったし、江陵には朱然がいたってのもあるな。
王昶は、既にこの頃から荊州の情勢をよく観察していたんだろう。
内に問題を抱え、陸遜が死んで荊州全体を指揮する人物が消えたとは言え、
かつての戦いでかなりの粘りを見せた朱然も健在では、攻勢を行うには足らなかった。
曹爽が死に、李勝に代わって優秀な王基が部下となり、
呉の方でも、太子の問題が決着したとはいえ、強引に過ぎて結束は固まらず、
また、荊州全体を指揮できる立場の人間が未だ立っていない。
これらの事から王昶はいけると判断したんだろう。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/27(土) 15:09:00
(・ω●)バカトンGUARD
31 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/27(土) 20:01:42
いきなり王昶と言っても分からない人もいるだろうし、
>>1のようによく知らない人の為に、
王昶がどういう人かとかも説明した方が良いのかね?
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/27(土) 21:21:49
実際に末期の人物なんて知らない奴の方が多いし
三国志の小説ほとんどが孔明あたりで終るからな。
ぐぐれば一番上にwikipediaの項目が出てくる人物に表面的な解説はいらないだろう
wikipediaの解説って事績の羅列にとどまってる事が多くて、
>>29の様な
広い視点からも踏まえた考察をしないと正しい評価は得られんよな
王昶でいえば、重要な事績のひとつに荊州諸軍の駐屯地を移転があるけど、
これも当時の情勢なんかを細かくみていかないと「ふ〜ん…」で終わってしまうし
35 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/27(土) 21:39:15
まぁ、確かにちょっと調べれば分かるような人物であれば、
何年に何をした云々、みたいな解説はいらんだろうね。
Wikipediaの王昶の項で言うと、王淩に兄事した事とか、荊州の治所を宛から新野に移した事とか、
そういう細かい事は省かれてるものの、大体の事は分かるので特に解説はいらんかもね。
息子と共に、三国志11で顔グラがいきなりかっこよくなった人物なので、
もしかしたらそれで興味を持ってくれた人もいるかもしれない。
36 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/27(土) 21:54:29
話を荊州攻めに戻すが、あれは個人的には実に良いタイミングだったんじゃないかと思う。
陸遜が死んで以降、259年に施績が西陵以西、陸抗が西陵から白帝までを指揮するようになるまで、
荊州は各拠点の都督がバラバラに防御するという形でしか防衛できなかった。
それはこの時にも現れていて、江陵と目と鼻の先にある公安の都督だった諸葛融が、
施績と全く連携する姿勢を見せなかった事などが目立っている。
西陵の歩協も、離れていたのでどの道連携は難しかっただろうが、
恐らくは施績と連絡は取り合ってないだろう。
王昶の荊州攻めは、揚州より戴烈らが増援として現れる事で撤退に至ったが、
施績が緒戦で敗れて江陵に包囲され、歩協は邸閣を襲われ物資を失っていたので、
時間を掛ければこれらは陥落していたかもしれない。
従って、仮にこの時期、王淩が揚州の軍を動かし、西へ増援を遅れないようにしていたなら、
実際に長江以北は魏の手に落ちていたかもしれない。
また、戦争が長期化したなら、或いは蜀も、この後に呉が行ったように、救援と称して荊州攻略を図るという事も考えられる。
37 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/27(土) 23:27:05
連レスは気が引けるので、もう一人くらい語る人間が欲しいぜ。
王昶のこの攻勢は、呉の状況で言えば好機だったけど、魏の事情を考慮すると変わってくる。
王淩は曹彪を立てようと目論んでいる頃だし、徐州の胡質はこの年に死んでいる。
豫州の毋丘倹が動かなかった理由はよく分からないが、朝廷が王淩の企みになんとなくでも気付いていたら、
それに備えて毋丘倹は留め置かれたという事も考えられる。
従って、王昶は荊州のみで事に当らねばならず、時間が掛かれば揚州より増援を得る呉軍に対し、
戦力の上で劣勢に陥る公算が比較的高く、実際にもそうなった。
王昶は地方にあっても度々中央の事を気に掛けており、この辺りの情勢に疎かったとも思えない。
その彼をして開戦に踏み切らせたのだから、孫権が太子を廃立し魯王を処断した事件は、
相当な影響を持って魏に伝わったのではないだろうか?
この戦争においてあらわになった施績と諸葛融の不和も、その件が何か関係しているのかもしれない。
翌年の東興の戦いは、恐らく王昶の撤退を受けて、揚州や徐州の動員も可能となった時期に、
西方の揚州正面を主攻として行われたものだろう。
孫権が死に、荊州では相も変わらず江陵の施績と公安の諸葛融がいがみ合っていただろうから、
少なくとも一定の戦果を挙げる見込みはあったと思う。
丁奉らの活躍で水泡に帰したけどね。
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/27(土) 23:39:28
呉ってやっぱ人気ないんだろうね。語れる人が少ない。
39 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/27(土) 23:55:56
人気が無いって事は無いと思うんだよね。
ただ、その人気がどういった層に集中してるのかってのは影響してるかもしれない。
まぁ、呉のファンにどういうのが多いのかは分からないけど。
40 :
キムチェッカー@焼肉+ ◆JUU/.JUU/. :2008/12/28(日) 00:11:12
お前さんもあちこちで見かけるけど、がんばってんね。
称賛はありがたい。
まぁ、あちこちと言うほど多くのスレに書き込んでいる自覚は無いけどね。
恥ずかしい間違いを詫びる。
折角だから中身も考えてみるよ。
この戦役で重要なのが、魏軍主力である王昶と呉軍江陵(施績伝では楽郷)都督施績との戦い。
大雑把に言うと、
王昶、江陵に向う→王昶、緒戦において施績を破る→施績、夜陰に乗じて江陵に入る
→王昶、偽って退き施績を誘き出す(施績伝では単なる撤退)
→王昶、伏兵によって施績を破り二将を斬る(施績伝では、当初施績は有利な追撃戦を展開したが、諸葛融のせいで勝てなかっただけ)
となる。
問題となってくるのが、王昶と施績との間で行われた緒戦の展開とその戦場。
この緒戦は、王昶が竹絙を両岸に渡して渡河する所から始まる。
王昶の渡河を知った施績は南岸に奔り、七道を穿ち王昶のもとに来攻するが、
王昶の用意した弩の斉射によって退けられる。
その後(恐らくは当夜)、施績は夜陰に乗じて江陵城に入るが、追撃を受けて数百の死者を出している。
分からないのが、川を渡っている場面。
原文は、「昶詣江陵、両岸引竹絙為橋、渡水撃之」であるが、「之」は江陵の事だろう。
水経注を読む限り、江陵の北にそういった河川は見受けられない(見落としが無ければ)。
曹丕の南征では江陵西方の百里洲争奪戦が繰り広げられたが、戦場がここだとすると、
「南岸」というのはおかしいし、江陵に向って施績の退路を遮る形にはなりにくい。
水経注に拠れば、江陵周辺には多くの中洲がある。
あるいは江陵の北に、川を挟んでの攻防が可能な地があったという事だろうか?
45 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/28(日) 02:27:39
sageてしまった。
「七道を穿ち」という表現も気になるな。
穿つという事は道の無い所を進んだという事になる。
江陵北方に森林でもあったのだろうか?
それとも、単純に街道を外れて南下したという事だろうか?
いずれにせよ、王昶は施績を迂回する事で退路を遮断し、
且つ自身に有利な戦場で迎撃の準備をして施績を待つ事ができた。
戦術的迂回の好例とも言える戦闘の推移だろう。
江陵との連絡を断たれた施績も、夜陰に乗じる事でなんとか挽回できたが、
ともすればあっさり江陵を奪われていた所。
両者の力量の差は明らかだな。
強くてかっこいい王昶さんのファンが増えて欲しいね。
「穿つ」は「通り抜ける」という程度の意味で使われることもあるよう
47 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/28(日) 03:21:27
そうなのかい?
って事は、単に軍を七つに分けて向かって来たという事になるのかな。
江陵周辺が険阻だったとも思えないし、わざわざ分進する必要性は感じられないんだよなぁ。
江陵包囲後、王昶が伏兵で施績を破ったのは紀南の辺りで、江陵から十数km離れていた。
仮に七道を通ったという事が会戦地集結による迅速な戦力集中だとするなら、
戦場は江陵からある程度、つまり江陵紀南間程度は離れていたんだと思う。
そうすると、純粋な戦術的と言うより、戦略レベル(ルトワクの分類で言えば作戦レベル)と戦術レベルに跨る感じの迂回だったかもね。
まぁ、それで結論が変わるわけじゃないけど。
どうでもいいが、施績とか朱異ってあんまり名将って感じがしないな。
それでも施績なんかは、最終的に荊州の総指揮をする立場になっていたり、
留平と共に「智略名将」とか書かれていたりするから、それなりのものは持ってたんだろうな。
>>44 >あるいは江陵の北に、川を挟んでの攻防が可能な地があったという事だろうか?
王昶伝を読んでて自分も気になった箇所だ
陸抗の伝なんかをみても、江陵の北方一帯は開豁な平野部という感じだし
ついでというかなんというか、紀南城って春秋から戦国期にかけてでいうところの
楚都の郢だよね?
紀南のすぐ南には漢水の支流としての川は流れてると思ったけど…違ったっけ?
49 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/28(日) 13:47:04
漢水か。
漢水は比較的江陵から離れているので考慮しなかったが、支流を含めれば分からんし、
荊北と荊南を結ぶ大交通線にもなり得るので、三国時代でも関羽などが連絡線としたように、
王昶が漢水に沿って南下したという事も大いに考えられるな。
つい沮水、漳水、江水にしか注目しなかった。
んで見てみると、まず荊城の南、当陽県の東は章山を水源として東流し漢水に注ぐ、権水という川がある。
また紀南城の南、赤坂岡より東北に流れ龍陂(摩陂とは別)を経て揚水と名を変え、
幾つかの川を合しながら漢水に注ぐ川がある。
この揚水は明史にも見えるが、中国歴史地図集だと何故か北から南流して漢水に注いでいる。
華容や章陵を経て北に漢水に注ぐ、と水経注にはあるので、これに従えば歴史地図集は誤りだろう。
すなわち戦場は、権水、或いは揚水を挟んだ場所という事になるだろう。
漢水を連絡線としているので、ある程度の長期戦には耐えられる筈で、
やはり王淩、胡質、毋丘倹らが動けなかったのが痛いね。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/28(日) 18:35:08
微妙に呉も魏と戦争してるんだよね。
イメージでは魏と蜀があらそっていて静観したまま
何もできなくなった馬鹿な呉ってイメージがある。
リクソンも劉備倒したほどの将軍なのに魏と戦ってないし。
結局漁夫の利を得ようとして失敗した馬鹿な国。呉ってことかな。
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/28(日) 19:31:51
>リクソンも劉備倒したほどの将軍なのに魏と戦ってないし。
ん?
蜀贔屓が過ぎたり色眼鏡で見てしまう度の過ぎた呉アンチは魏蜀が争っている
期間に呉が殆ど何もしなかったと思い込んでいる輩も多いな
実際には数えてみれば蜀と同等かそれ以上に戦ってるわけだが
53 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/28(日) 21:04:28
陸遜で言えば石亭と、234年の襄陽攻撃があるな。
石亭の方は、それこそ無双でしか三国志知らないって人でも知ってる戦いじゃねぇの?
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/28(日) 21:09:48
夷陵の直後も魏の侵攻を食い止めているのでは?
夷陵とその直後の魏侵攻の連戦では、応戦した顔ぶれが完全に入れ替わってる。
指揮下の軍が疲弊したとか一部の人間ばかりに連続で功績を挙げさせるわけにはいかないとか
あるんだろうな。
56 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/28(日) 21:29:54
>>54 でも、あの時って具体的に何をやったか書かれてないんだよね。
劉備の書簡を受け取ってる話は注釈の呉録にあるけど、
あの戦いの記述では潘璋や諸葛瑾、朱然らの事が書かれてるだけで。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/28(日) 23:14:47
呉からするとなんで孔明と協力しなかったんだろう?
孔明の北伐とかキョウイの北伐とズレがあるよね。
どんだけ距離があると思っているのか
59 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/29(月) 00:25:06
五丈原と孫権の合肥新城攻撃はほぼ同時期だよ。
あと、諸葛恪が合肥新城を包囲した時と、姜維が南安に出た時もほぼ同時期だな。
呉と魏が戦してないと思い込んでる奴は年表でも調べろ。
演技では蜀と魏が中心だが、三国志の歴史で見れば呉と魏の戦が中心だ。
呉から見れば、魏の本隊は呉側にいるのに蜀は魏に勝てない役立たずだ。
61 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/29(月) 01:39:49
どっから数えるかは知らんが、どちらが攻めたかにかかわらず呉と魏の衝突を数えると、
228年、石亭で曹休を破る
230年、孫権合肥を攻撃するも敗れる
231年、孫布偽って降り王淩を招くが、今一歩の所で逃げられる
232年、陸遜廬江に出るも功なくして退く
233年、孫権合肥新城を攻撃し、全j六安を攻撃するも敗れる
234年、大軍を動員し、合肥新城、広陵、襄陽、江夏を同時に攻撃するが敗れる
237年、全j六安を攻めるも勝てず
241年、朱然が樊城を囲み、諸葛瑾が柤中を襲い、全j、諸葛恪が淮南に出るも何れも敗れる
250-251年、魏将王昶らが荊南を攻める
252年、諸葛誕を東興に破る
253年、諸葛恪合肥新城を包囲するも、大いに敗れる
255年、毋丘倹・文欽の乱を起こり、支援の為に軍を出す
256年、文欽の計を容れ淮南に出るも、大将の孫峻が死んだ為退く
257-258年、諸葛誕の乱起こり、支援の為に軍を出す
263年、魏に攻撃された蜀の支援の為、丁奉が寿春に出るが蜀が滅んだ為帰還する
264年、歩協、陸抗ら、蜀の混乱に乗じて白帝を攻めるも勝てず
268年、丁奉合肥を攻め、施績江夏を攻めるも、利なくして退く
270-271年、丁奉穀陽に出るも敗れる
271年、孫皓寿春に出るが勝てず
268-271年、虞、陶璜ら交州を平定する
272年、晋将羊祜が西陵を攻めるが、陸抗がこれを防ぐ
273年、薛瑩豫州を攻めるも、王渾に敗れる
277年、晋将王渾皖城を攻め、穀物と船を大いに焼く
278年?、晋将杜預、西陵督張政を大いに破る
280年、晋の侵攻を受け、呉滅ぶ
石亭から数えて、大小合わせて計25回かな。
62 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/29(月) 01:52:58
229年の、孫権が魏へ降伏しようとした奴を追って魏領に入ったが、
満寵が孫権の攻める場所を予見して備えていた為に退いた、ってのも入れるべきだったかな。
蜀も大概だが呉もかなり弱いな
魏はこんな雑魚どもすら瞬殺できなかったのかw
>>62 変な子が涌くから、いいかげんsageてくれんか?
jominianはスレ活性化のためにageて書き込む方針らしい
諸葛亮の北伐が5回、姜維が7回。
魏からの蜀侵攻が3回か?郭淮の羌族討伐含めたら4回か。異民族討伐まで入れると他にも出てきそうだが。
魏が蜀と呉の侵攻でピンチと呼べたのは諸葛亮の第一次北伐だけだと思う。
それ以外の侵攻は十分に対処されてるし、援軍が着く前に勝利済みもあるし。
魏の力は圧倒的だが、地の利は蜀と呉にあり、魏も内部のゴタゴタで足踏みしてたのが三国時代が続いた原因でしょう。
68 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/29(月) 23:36:22
ageの方針は当面変えるつもりは無いからなぁ。
どうしても嫌だって言うなら、俺かスレ一覧の底でやりたい人か、どっちかが別スレに行くしかないな。
>>66 援軍が着く前に、と言うより、そもそも中央から援軍が来る事が殆ど無い。
呉の例で言えば、234年の合肥新城、241年の樊城、253年の合肥新城、256年の淮南、268年の襄陽、271年の寿春での六例くらい。
毋丘倹の乱や諸葛誕の乱は当然中央から来てるけど、地方軍の反乱だから来ざるを得ないだけだしね。
蜀だと諸葛亮の第一次、第二次、第四次、第五次北伐は中軍が増援として来ている。
姜維の時代になると、249年の麹城、254年の襄武、255年の狄道の三回になる。
対呉で6回、対蜀で7回だね。
意外と蜀のほうが警戒されてたってこと?
70 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/29(月) 23:51:19
>>69 と言うよりは、蜀の方、つまり雍、涼州には、当初十分な戦力が配置されてなかったんだと思う。
司馬懿や司馬孚の上奏にそういった内容がある。
その彼らの献策で戦力が増強され、恐らくその後も順次増強されていったんだろう。
姜維の頃になると、隴西だけで数万駐屯してたし、ケ艾は異民族を使って更に戦力を増強してるからね。
ただそれは呉の方も同様で、241年に朱然が樊城を包囲した時は、都督の夏侯儒は手持ちの兵力が不足し、
増援が来るまでは包囲に軍を接近させる事しかできなかったしね。
荊州は分からないけど、揚州方面の戦力増強はケ艾の済河論以降だろうね。
この辺りからも、呉も蜀も、時間が経てば経つほど不利になっていってるのが分かると思う。
71 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/30(火) 01:25:27
どうせなんで蜀の方も同じようにまとめる。
228年、第一次北伐
228年、第二次北伐
229年、第三次北伐
230年、曹真の蜀攻撃
230年、魏延、呉懿涼州へ侵入
231年、第四次北伐
234年、第五次北伐
238年、廖化隴西に出る
240年、姜維隴西に出る
244年、興勢の役
247-248年、羌胡の大乱
249年、麹山の役
250年、白水の戦い
253年、南安包囲(姜維の第一次北伐)
254年、姜維の第二次北伐
255年、姜維の第三次北伐
256年、姜維の第四次北伐
257-258年、姜維の第五次北伐
262年、姜維の第六次北伐
263年、蜀平定戦
計20回だな。228-263年で見ると、蜀の方がハイペースではある。
253年から258年、姜維って頭おかしいんじゃないか?
年表で見るとまさに狂戦士って感じだな。しかも出兵するたびに魏は戦力増強してくんだから
相当の焦りはあったろう
74 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/30(火) 01:57:48
ペースだけを見て批判するのは短慮と言わざるを得ない。
国家が戦争に注ぐ為の資源として、兵器や作戦など軍事的な部分でアドバンテージがあり、
且つ他の面では劣位にあって、しかもその差が時と共に開いていくのなら、
敵国の他の面での優位が、自国の優位を消すほどに至る前に徹底的に叩くのはありだろう。
実際、254、255年の二年間は、自身(自国)の優位によって戦争を優位に進めていた。
戦争ばっかしてたのは事実だが、それは頭がおかしいのとイコールではないな。
素人が口を挟んで悪いが。
蜀は北伐に於いて優位だった時期があった、ということ?
76 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/30(火) 02:15:28
直接的な表現は無いが、255年の蜀はまさに絶頂期だった。
それまで白水の線、分かりやすく言うと武都郡の北西部までは魏の勢力圏と呼べる土地になっていたが、
254年にはそのラインを黄河と洮水の線まで押し上げている。
国境と言う概念が当時に存在したかは分からないが、
魏の国境は金城-狄道-襄武-為翅を結ぶラインにまで後退していた。
更に、255年に姜維は王経を大破するが、その直後、
隴西の人心を静める為、彼らに対する慰問や賦役の免除を処置する詔勅が二度にわたって出されている。
これは石亭や東興における大敗にも見られなかった程の処置。
255年冬における雍州は、魏にとっては実に危機的な状況に陥っていた。
ほう。姜維は只の無謀バカではなかったんだな。
なぜその勢いを維持できなかったの?
79 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/30(火) 02:28:41
何故できなかったかと問われれば、ケ艾に大敗したから、としか言いようがない。
大敗ってそんなに酷い大敗だったの?
81 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/30(火) 02:36:38
ケ艾に対して、
「斬った者と生け捕った者は、ややもすれば五桁に届くほどである。
近頃の戦勝でこれに如くものは無い」
と詔勅が出て、それまで姜維が頼りにしてた西方の異民族が、姜維に協力するのをやめるくらい
無理問答くさいぞ。
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 02:42:35
最初からトウガイに指揮権与えておけばよかった
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 03:08:11
養護だから仕方なかろう
鍾会の作戦行動を見ると別段目を見張るような部分はなくて、
圧倒的多数を活かして敵国の中枢へ直進するという、いたって正直な行軍。
もちろん部分的な陽動もあるが、基本的には正攻法に徹していた。
この兵力差ってのはほとんど曹操、劉備の時代にすでにあったわけだから、
蜀があの時点で滅んだのは、魏がその気になったから、というのが一番大きい。
それまでは蜀が騒擾を起こしても、まあどうせ大したことはできないからと放置していたが、
末期になると、姜維の侵攻が現実的な脅威になりつつあったから、
それに危機感を覚えて、魏は滅蜀作戦に本腰を入れた。
そこに晋王に受禅の資格になりうる武功を立てさせる意図が重なった。
という感じに俺は見てる。
姜維がおとなしくしてれば蜀はもっと遅く滅亡してた?
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 09:53:57
>>81 段谷の戦いだよね。博打を打って負けたんだからしゃーない。
>>86 姜維が派手に暴れまわったのが滅蜀戦のトリガーになったとは思うが、
どっちにしても、魏がその気になればいつでも潰せる状態だったのと、
ちょうど晋王に受禅を要求する輿論が強まってきてたので、
姜維が大人しくしてたとしても
せいぜい5年程度しか延びなかったんじゃないかなぁ。
まあ魏の危機感って点でいうと諸葛亮の北伐の方が強かったと思うので、
それで全ての説明が付くとまでは思わないけどね。
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 14:22:16
>>70 その割には揚州の防衛の中心だった満寵が率いていた兵士数が6千人と少ない。
逆に諸葛亮の北伐の時、張コウは3万人の兵を率いてたし、曹真は「大軍」を率いている。
また陳寿は「諸葛氏集目録」で蜀軍より魏軍のほうが人数が多かったから本来は守備に回るべきところだと言ってる。
諸葛亮時代の魏が対蜀防衛を軽視してたとは思えないけどな。
>>88 ジョミが言うように、段谷までは涼州方面が魏にとって極めて不安定な状態だったようだから、蜀を「いつでも潰せる」状態だったというのは多分違う
兵力差はあってもそれを蜀攻めにまで使えるようになるのは、涼州方面を一時的にでも安定させることができた段谷以降が初めてだったと思うよ(例外は曹操が漢中を取った直後)
諸葛亮・姜維が攻めて来た頃は、涼州方面が魏の弱点だったから蜀も狙ったし、魏も弱点だったから打って出るのが難しかった(攻めても漢中を抜けない)
段谷以降は涼州での蜀の権威が失墜し魏有利になったから、やっと蜀攻めの機運が高まった
と同時に、だからこそ姜維もやっきになって涼州を再度影響下に置くため北伐するしかなかった
ということじゃないかと思う
>>81 姜維は王経戦で数万人を斬ってるんだよな
250年代の蜀と魏の戦いは、魏のほうが被害が大きそうだ
>>85 蜀攻めに勝機を見出している人は少ないが、鍾会は勝機を見出している、という司馬昭の言葉を信じれば、
鍾会の行軍に目を見張る部分はなく、魏がその気になったからというだけでは弱いと思う。
漢中はまさに天険の地で、大軍を送り込んでもうまく機能しないというのは
曹真、曹爽が立証しているし、鍾会が率いるのも曹爽と同じ十万だ。
姜維が改造した防衛線の弱みを見抜く辺り、鍾会はなかなかのものだと思う。
漢城の包囲攻撃が難航すると、胡烈を先行させて陽安関へ向かわせ、
楽城の五千、漢城の五千を、それぞれ一万で包囲して無力化し、
残りの軍を率いて一気に漢中を突破する、というのは、優れた軍略と胆力がなければできないだろう。
敵が漢・楽の二城を相手に疲弊し、撤退した時に追撃して敵を殲滅する、という姜維防衛線の戦略構想を
即座に見抜き、作戦変更で無力化した事例だけでも、
鍾会の軍事能力が優れており、それ故に困難と思われる蜀攻めに用いられたと考えられる。
もっとも蜀の内情も鍾会に大きく味方した、という面はあるが。
>>90 俺は、両国の兵力差、国力差は曹操時代から司馬昭時代まで変わってなくて、
鍾会の登場を待たず、魏が蜀を滅ぼすことはいつでもできたはずだが、
その状態が何十年も続いたのは、魏が本腰を上げなかったからで、
まあ孫呉とか公孫氏とかが一段落したってのもあるだろうが、
あの年ようやく魏が立ちあがったのは、姜維の侵略が本格的な脅威になったから
と思ってるわけね。
つまり姜維が隴西方面に伸長したのも踏まえてのことなんだよ。
まあ、俺がどう思ってるかを力説しても全く意味ないと思うんで、これで止めとくけど。
>>95 もちろん鍾会が正直な用兵をしたからといって、能力的に凡庸だと思わないし、
それに、曹爽らが失敗したのは鍾会より能力に劣っていたからだとも思ってない。
確かに人材面もあるだろうし、政治情勢というのもあるだろうし、
地理的条件、天候、士気、いろいろあるとは思うんだよね。
ただ、その中でやっぱり一番大きいのはトップの本気度だったんじゃないかなー、と。
鍾会の軍略と、司馬昭のマジと、どっちが失って痛いかっていうと後者だと思う。
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 19:57:54
期待のサラブレッドに結果論だけでそんなことを言ってやるな。
>>97 もちろん、トップがやる気を失くしたら、鍾会の軍略も生かしどころがなくなるだろうね。
誰が下にいようが、トップがやる気を失うというのは、下にとって大きすぎるのだけれど。
蜀攻めは分かれて進軍し、後に合流するタイプの作戦としては順当な用兵だけれど、
それでも、このタイプの作戦は、状況の変化についていけず合流の機を逃すと、各個撃破の憂き目にあう。
その中での鍾会の用兵は、正直なものとは思えない。状況の変化から巧みに作戦を変更しているしね。
鍾会は司馬昭と共に作戦を練る懐刀で、鍾会の軍略があったからこそ、司馬昭がGOサインを出したというのはあると思う。
もちろん、鍾会がいなかろうが代わりが出てきた可能性はあるが、
蜀攻めに勝機を見出している人は少ないが〜の下りや、鍾会が司馬昭の参謀として長く活躍している事、
さらに子房と評価されている事なんかを考えると、司馬昭と共に作戦を練り、かつ軍を率いれた人物がいたかどうか。
「結果論」って言葉はあらゆる意味で持ち出したら駄目だと思うぜ。卑怯だ。
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 20:30:21
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/30(火) 20:37:10
奇矯屋は卑怯や!
ナンチテ
そういえば今年は卑怯で始まった年だったなあ。
105 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/31(水) 01:14:15
スレが進んでて何から述べたら良いか分からないが、とりあえず、
姜維が攻勢防御のような形へと変更したドクトリンの弱点とやらを、
鍾会が見抜いていた、とかそういう事は無いと思う。
まず、その変更を魏側が知っていたかどうかは疑わしいし、
蜀討伐の詔勅にもそういった内容は無い。
あれの主旨は、
・蜀が恃みとしているのは姜維一人
・その姜維は精鋭を率いて遥か西方の沓中におり、これを繋ぎとめるべき
・もし漢中を守っているのが弱卒であれば、姜維のいない中、突破は容易い
こんな感じで、「姜維さえいなければ大丈夫」という考えで貫かれている。
実際、姜維がいなかった為、蓋をすべき場所であった関城は内部から崩れ、
その点では目論見通りではあったんだけど、漢城と楽城を最低限の軍で監視しつつ前進するというのは、
姜維の計画の不備と言うより、もとの作戦計画そのものが、姜維の来ない内に剣閣を確保しておく、というものであったからだろう。
まぁ、姜維とすれば、機動部隊による撹乱は失敗したものの、剣閣で押し止めれば、
敵が奥深くに入り込んでいる分、補給と撤退の困難は関城からよりも激しくなるので、
その撤退に乗じて追撃し、失った部分の国土を一気に取り返し、敵の大部分を殲滅させる望みもあった。
計画はすんでの所で形を保ってはいたので、その肝である剣閣の確保を鍾会が急ぐ事は、
姜維の計画の重心を理解していたと言えるかもしれない。
だがその行動自体は作戦計画に沿っている為、鍾会の臨機応変な判断だった、とは言い切れない。
なんでこの人こんなに詳しいの?学者か何か?
107 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/31(水) 01:53:52
揚州の防備についてだけど、確かに230年代に揚州諸軍事が大軍を率いた記述は見受けられない。
そしてケ艾の済河論にも、淮南で事が起こった際に、淮南以外より向わせる兵が半分以上である事が述べられている。
つまり揚州も、そして荊州も、防衛の為に駐屯する軍は大きくなかったという事になる。
満寵が都督揚州諸軍事だった時、孫権の侵攻に対して兗州や豫州から増援を向わせているしね。
呉の方で中軍の派遣があまり行われなかったのは、周辺諸州から派兵しやすかった事もあると思う。
結局、隴西にせよ、荊州や揚州にせよ、駐屯する軍の規模が大きくなるのは240年代以降という事は確かなんだろうね。
>>106 俺は単なる三国志好きで、学者でもなんでもない素人だよ。
>>105 確かに鍾会が見抜いていたと断定するのは難しいか。
というか、鍾会が姜維の狙いを見抜いていた、は言いすぎたな。結果として、という面も大きいし。
こっちの考えが間違っていた。
鍾会がいったんは漢城を包囲するも難航し、
最低限の包囲で監視しつつ進軍、というのは応変といえる気がする。
五千の篭城に対して一万の包囲は本当に最小限、ともすれば破られ補給線を切られてもおかしくない。
だが、作戦の目的を完遂する為、漢中占拠ではなく漢中突破に変更した。
ここでこの判断を下せたのは、作戦立案に携わっていたからこそでもあるだろうけど、
後ろに不安要素を抱えても、進軍を決定する判断は、目先の状況にとらわれない応変だと言えないか。
また、関城に対して軍の一部を先行させて関城を陥落させるという判断を見るに、
鍾会は関城が寡兵だと見抜いていたと思えるんだよね。
姜維がいない、というのもあるけど、もし寡兵だと知らなかったら、諸葛亮の祭祀なんて行ってる暇はないだろう。
鍾会が進発前に蜀の防衛線の変更を見抜いていたとは思わないけど、
その対応を考えると蜀防衛線の拙さを進軍中に把握していたように思える。
もちろん、姜維の防衛線の狙い云々以前に、姜維がいない、というのが一番の問題なんだが。
109 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/01(木) 03:05:56
>>108 臨機応変の云々って部分は、蜀軍の計画の不備を見抜いてのものとかって事では無いってだけで、
戦場における機知そのものを指したつもりではなかったので、あまり気にしないで欲しい。
関城の兵力が寡兵であるかどうかは、そもそも分からない。
なので、鍾会が前軍を派遣しつつ諸葛亮の祭祀を執り行った事を以って、
鍾会が関城の兵力が寡兵であるかどうかを見抜いていたとはしがたい。
また、水経注疏の注に引く一統志(大明一統志か?)によれば、
関城は北は嘉陵江、南は雞公山に依託し、東西の径は二里(1km強)とある。
恐らく峡谷に作られた堅固な要害であって、例え守兵が寡兵であってもよく落とせるものではないし、
逆に大軍の展開に有利な場所でもない。
前軍が本隊に先行するのは当然の事であるし、この鍾会の部署も妥当ではあっても、
そこから何か特別な事を引き出せる材料とは考え難い。
むしろ、鍾会が見積もった関城の兵力と言うのは、作戦計画の段階での推測との照合だと思う。
魏側は剣閣以北の蜀軍を五万未満と見積もっている。
漢城と楽城に五千づつ、黄金囲や、華陽国志にあるそれ以外の陥落した囲がそれぞれ数百とすれば、
陽安関口以北の兵力は一万数千となる。
姜維が率いているのが二万なら関城には一万強、三万なら数千となる。
これなら例え城兵からの逆襲があっても、前軍によって撃退できるレベルだろう。
だがいずれにせよ寡兵とは言えない。
彼の考えは、前軍のみで陥落させ得るというものではなく、
前軍の先行による関城周辺の状況把握と、強襲実行の為の準備を行わせるというものだったのだろう。
漢中の制圧に全軍を用いる事と、前軍を先行させる事によって、
主要な目標である関城と、その南の剣閣の早期制圧可能性を高める事を天秤にかけて、後者を選んだのだと思う。
鍾会は冷静な計算に基づく判断によって戦争を進めてはいた。
だが俺には、二城に戦力を集中しつつ関城で蓋をするという姜維の計画を見抜いていたとか、
或いはその計画そのものの不備を読み取ったと言うよりも、
実際の敵の抵抗、戦争の摩擦を当初の作戦計画と照合しつつ、
狂いの無い作戦へと修正していく為の作業を行っていただけのように思える。
110 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/01(木) 03:29:00
蜀、と言うか姜維に関しては、その北伐を国家戦略レベルまである程度推測する事ができたが、
呉に関してはよく分からない。
彼らはどういった国防方針の下、どういった目標を定め、
それがどういった軍事戦略に基づいてあれらの拠点を攻めるに至ったのか、
というのが殆ど分からない。
姜維の戦争に比べ、呉の戦争の考察に費やした時間があまりに少ないというのがあるのだけど、
これらを導き出す事ができれば、より深みを持った、より蓋然性の高い三国志世界を構築できると思う。
度々出てくるのが、襄陽、江夏、合肥新城(後に寿春)の三ヶ所に加え、六安、或いは安豊の地なんだよね。
その辺りから何か読み取れるんじゃないかという気がしている。
111 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 10:44:48
呉って蜀が負けた後すぐに降参してるんだよな。
防衛意識とか全然なかったんじゃないか。
それとも蜀が負けるとは思ってなかったんだろうか。
17年が「すぐ」なのか。お前はきっと時が加速してるんだな
113 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 13:38:45
結局、周家って没落したの?
114 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 13:42:18
国家からしたら17年なんてすぐだろ。
いつまでも三国でワイワイできると思っていた孫家
バカとしかいいようがない。
おほん
117 :
黄天当立歳在甲子天下 【末吉】 :2009/01/01(木) 22:02:16
呉ってなにか幼稚なイメージ。ここぞって時に足引っ張ったり
未来に向けて何も考えてない感じがしてな。どうにも好きになれない。
>>117 呉の江南開発の意義も成果も理解できてない奴が、
呉を幼稚だの未来に向けて何も考えてないだの言うなんて笑止千万だ。
>>117ってなにか幼稚なイメージ。周りの人の足引っ張ったり
(自分の)未来に向けて何も考えてない感じがしてな。どうにも好きになれない。
前も書いたし誰でも思いつくような事だけど、
呉と蜀が華南を開発してなかったら東晋が持ち堪えられずに
五胡十六国の初期に活躍した石勒とかが押し切ってたかも知れんな。
数百年スパンの考えで江南の開発をした訳ではないので、どーでもいいです
ここは三国末期と晋を再評価するスレだし
280年に滅亡するつもりで開発してた訳でもないんだがな
そのように江南開発を進め、山越を平定していたはずの呉が、
軍事力面で晋に対抗できなくなっていったのは
皇帝権力の弱化のために豊かさを国力に反映することができなくなっていったからだろうか。
皇帝権力の衰退ってことでいえば三国すべて当てはまってしまうんで、
結局、賢相でも権臣でもいいので権力の一元化が必要だったってことじゃないか。
125 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/02(金) 05:16:15
呉は皇帝権力が衰退していたと言えるかね?
能臣を殺しまくりだが。
あんまり好きな論ではないが、暴君孫皓のせいってことで良いんじゃないか。
英名な主が現れたらどうなるか分からない、と言われるぐらいだし。
まあ物理的には益州っていう上流を抑えられてるって部分は有るし
江南を再開発したといっても後々の南北朝ほど江南の生産力が高いわけでもあるまい。
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/02(金) 11:23:43
あの時代開発してたっていっても
攻め込まれた時に守れなきゃ意味ない品。
防衛にどれだけ力を咲いて他の加賀名。
呉では豪族が荘園みたいなのを開いて云々って話がなかったっけ。
もしそうなら、皇帝ひとりの問題じゃなくて国の構造の問題に持ち込めるんだけど。
荘園領主だからこそ呉の国体がどうなろうとも構わないわな
でも、新参者の扱いが悪くなったりは普通なんで、
出来れば呉のままでいて欲しいというのが既得権益者
そのへんは講談社学術文庫の「魏晋南北朝」あたりで手軽に読めるね
民衆の悲惨さでいえば三国でも随一って感じ
131 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/03(土) 01:51:31
少なくとも軍事面で言えば、呉は有力な豪族の発言権が大きい。
皇帝に取り上げられたり、それを他の者に継がせたりといった事はあるものの、
ある人物の持つ兵とその家族は、その人物の子などに引き継がせる制度があるので、
一元的な指揮系統を持たせる事や、兵種や武装の均質化を図る事が非常に困難。
孫権等から指揮権を授けられた人物が、その時に麾下に置かれた人物の統率に苦労する記述は多い。
各豪族が団結している内は良いが、その団結が失われれば、攻勢にしても防衛にしても、
上手く戦争を進める事は困難な国だろうな。
皇帝、或いは中央政府の統制力という点では、三国で最も小さいのは確実だろう。
呉は大豪族、州内外士人、武人等の多様な構成人員が鬩ぎ合う点について
確かに通説通り魏蜀より顕著だと思える。
盛期の孫権のような有能強力な君主が束ねている間はいいが、
誅殺が相次いだり皇族達が閥を作って争い続ければ
人心が離反・分散してしまっただろう。
孫権末期以後、臣下の誅殺が続いたが、これは後漢後期に似た派閥争いの末のものが多く、
不穏分子を抹殺して新体制を作り皇帝集権を強化するような方向へは働かなかったようだ。
それでかも知らんけど、
なんとなく魏や蜀より呉のほうが中国史読んでる気分になる。
魏も呉も無駄なくシステマチックというか。
蜀は確かに中央への集権が強固だね
魏は曹氏の失権から司馬一族による政敵排除の流れが鮮やか
四相や三司馬の手腕の際立ちが目立つ
135 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/03(土) 14:13:05
蜀が中央集権が強固だったのは劉禅が「わかっていた」からだろうか。
はたからみれば傀儡皇帝みたいなもんだしな。
やろうと思えば劉禅が四相から権力を奪回しようとすることはできたんだろうね。
後漢と同じく、侍中、尚書や宦官が影響力を行使するのは、
皇帝自身の権威に重きが置かれていたことになる。
それを使えば後漢のように内臣と外臣の抗争に持ち込むことはできただろう。
しかしそれを強行しても当然臣下は抵抗するし、ことさら不和を作っても益がない、
そして多分、自分には臣下たちほど政治の能力はないことを劉禅は
「わかっていた」ことになるんだろうな。
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/03(土) 14:39:40
無知の知ってやつ?
138 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/03(土) 20:41:41
魏では、功績を挙げれば領邑として邑を与えられる制度があるし、
呉では更に一歩進んだ奉邑制と兵の私有制がある。
蜀ではどちらも見られず、諸官僚は政府からの俸禄が収入の大部分だったように読める。
蜀で中央集権化が進んでいる理由は、高級官僚の多くが外来者であるというのもあるかもしれない。
土着の豪族は当然私有している土地や兵があっただろうけど、
仮にそういった土地を奪い取ったとしても、それを個々の官僚に与える事は、
土着の豪族とだけでなく、新たに土地を与えられた官僚とそれ以外の官僚との軋轢も生じるので、
政府も、外来者の諸官僚も望まなかったという事ではないだろうか?
結果、仮に土地や兵の私有があっても、それが政府の記録としては残らない状態になっていた、と。
そうして考えると蜀は専売制と南方交易と屯田があって、
初めて中央の財源が確保できる体勢なのかな?
なんかどんどん本領安堵してやって交易と金山で稼ぐ秀吉風な感じ。
でもそのどれも破綻していない所を見ると、
経済面と土着外来の住み分けは結構うまく行ってたのかも。
ただこういう国は秀吉とか足利義満みたいな人が居なくなると脆いと思うけど。
>>139 だから蜀は滅亡時に兵糧が足りなくなってる
破綻してるんだけど破綻する前に滅んだから目立ってないだけだな
>>138 蜀中枢部は外来者だし、その前時代の劉郾、劉璋政権も外来者で豪族と対立して潰してってるからなw
142 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/05(月) 01:21:05
米四十余万斛ってのは、首都の備蓄の事だろうな。
一人につき一日当たり七升を消費するとして、この米を翌年九月まで使うとするならば、
四十万斛丁度で大体一万九千人の食糧が賄える。
一年間だと一万六千人分だな。
官吏や住民は、官の食糧庫ではなく自分で食糧を持っているだろうから、
これは純粋に軍隊への供給、或いは官吏への俸給に使われるものだろう。
全てを軍隊へ供給するなら、首都で維持可能な兵力は一万数千となる。
諸葛瞻の率いた兵力もこれを超えるものではあるまい。
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/05(月) 02:10:10
このスレ面白いけどもう少しレベルさげて欲しいな。俺のように蒼天や吉川が好きで一般の人から見れば詳しいってレベルに分かるように。鐘会や陸抗よりマイナーな武将は略歴だけ書いてもらえると嬉しい。
144 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/05(月) 02:11:12
ググレカス
145 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/05(月) 02:22:30
ちょっと話が流れてしまったが、
>>110の続きを話す。
六安という場所を考えた場合、大別山によって分かたれているので、
そこのみを手に入れても維持するのは難しい。
施水と肥水の水源となっているのが敵の前進を困難にするほどの山地であればいいのだけど、
二川の水源は紫蓬山、或いは雞鳴山といった小山で、大した障害にはならない。
魏としては巣湖と大別山の間の平地を押さえるだけで、簡単に六安と長江とを遮断できる。
この六安という土地が機能するのは、合肥を押さえた時のみだろう。
仮に六安を維持できるなら、そこから流れている沘水は淮水、芍陂に注ぐので、
ここを基地として船団を配備し、寿春を狙う事も可能となる。
つまり六安攻撃は、寿春攻略、言い換えれば淮水の線まで国境を押し上げる為の前段階の処置となる。
ただ解せないのは、237年に合肥攻撃を伴わない六安攻撃が行われている事。
この時は荊州でも、襄陽ではなく江夏のみを攻撃するという事が行われている。
146 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/05(月) 02:32:14
>>143 一々解説すると煩瑣になってしまうので、王基や王昶と言った、
検索すればある程度の略歴が分かるような人物は解説しない方針に上の方で決まった。
それ以上にマイナーな人物で、どういう人物か知りたいというならできる限り解説するので、
その都度、具体的な名前を出してもらいたい。
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/05(月) 02:38:12
姜維って祁山出てるの?その前に撤退?
148 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/05(月) 02:52:00
姜維の軍が祁山に到達したか否かで言えば、到達していない。
だが、247年からの15年、9度にわたる攻勢の内、姜維が祁山を地理的目標としたのは一度だけ。
だから祁山云々が関係するのは、その一度についてのみとなる。
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/05(月) 03:45:22
そうなんだ。諸葛亮が執拗に祁山目指したの見てたのに、何で姜維は祁山目指さなかったんだろ?
状況は違ったんだろうけど。
150 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/05(月) 20:50:54
五度の北伐の内、諸葛亮が祁山を攻撃したのは二度。
陳倉攻め〜武都・陰平攻略までを一つの攻勢と考えれば、
四度の内二度だから、確かに祁山は重要な目標となってはいた。
だが、「何故祁山を攻撃したのか」を考えないと、大した意味はない。
祁山は、漢中から隴西に出る際の最も通行しやすい道にある要衝で、
大軍を迅速に隴西に向わせる際には必ず通る場所。
加えて、魏の隴西支配の最重要拠点ともいえる上邽とは目と鼻の先であり、
ケ艾の言葉によれば千頃の麦畑もある。
一畝で三斛の麦が取れるとすれば、千頃なら三十万斛である。
籾殻を除いて半分の体積となったとして、十五万斛の軍糧が得られる事になる。
これは六千人の兵士の一年分の食糧となる。
隴西という土地を攻略する足がかりとして、祁山の価値は大きいと言えるだろう。
しかし、祁山確保のみで隴西が得られるわけでの無く、
北伐における攻撃目標を選定する上では、もっと短期的な意味の方が比重が大きかったと思う。
第四次北伐で賈嗣らが駐屯していたように、魏の方でもある程度の戦力は祁山に置いていた。
これを攻略せずして上邽、或いはもっと前方まで軍を進めると、
連絡線を確保する為に、祁山駐屯軍の二倍程度は残置せざるを得ず、
魏の救援軍に対する戦力的優位が確保できなくなる可能性が高くなる。
つまり、祁山攻撃は戦略上の制約を取り除くためのものであって、
他の条件によっては無視しても構わないもの。
姜維の時代は隴西の戦力が増強され、例え祁山に出たとしても、
万単位の軍が即座に上邽より駆けつけて来る為、祁山攻撃の必要性が低下した、という事だろう。
この人なんでも知ってるわぁ〜。
本出したら?その辺のレッドクリフ景気で出た三国志本なんか裸足で逃げてくぜ。
こんなコアな本書いても需要がなかろう
日本では一般大衆に歴史を紹介するのって小説家なんだよね
小説家が書く本は当然面白さ重視で正確さ度外視
かといって研究家の本は深く立ち入っていて初心者お断り
世間に分かりやすく歴史を紹介する層がすっぽ抜けてる
図解雑学シリーズでいいと思うけど
Jominianが叩かれてたスレだって有るんだぜ。
と、いうわけで他人の言うことを鵜呑みにだけせずに自分で調べたり考えたりしような。
あと内容自体には色々ツッコミどころは有るかもしれないけど
学研とかの三国志本を読んだりすると視野広がるぜ。
一般人ならそれで十分だろ。
>>155は昔Jominianに論破されたのを根に持ってる小物
158 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/05(月) 22:46:11
よほど深く語るわけじゃないのなら、
>>154の言う通り図解雑学シリーズの三国志と、
あとは精々、学研歴史群像シリーズ三国志上下巻くらいで十分だと思う。
それ以上に語るなら、渡邉義浩先生の「三国志研究入門」でも読みつつ、
直接史料に当たるのが良いと思う。
yes
魏の名将スレでも叩かれてたろ
三戦板は久しぶりだが、このひとはこおろぎよりも濃いな。
ていうか、無双2のころと比べて随分板が寂れたなぁ。
脱線スマソ
>>153 たしかにそんな感じだ
良書もあるんだけど、どうしても有名にはならないし
九品官人法の研究(中公文庫)
西晋の武帝 司馬炎(白帝社)
魏晋南北朝(講談社学術文庫)
三国志軍事ガイド(新紀元社)
この辺はそこそこ手軽に手に入るし、読みやすい方だと思う
ちょいと敷居が高くなるけど、Jominianの様に軍事について考察する手引きを
求めるなら、やっぱり東西洋の兵書を読むしかないかもしれん
手軽に読むなら中公文庫や岩波文庫がいいと思う
最近読んだのでは、戦略の形成(上・下)が良かったなー
例によって洋書なんでアジアについての言及はないんだが
こういう軍事書物のアジア版ってないよなー
>>165 まあ、日本に近いアジアの国で、軍事を啓蒙するメリットあるいは需要のある国は
少なくとも建前上自由主義国家である日韓台くらい。
なんだかんだで韓台からはなかなか入ってこないし、
日本は軍事に関しちゃごらんの有り様だよ!だからなぁ。
啓蒙というか単なる知的好奇心を満たすためにそういう本があってもいいのになー
単純に向こうはクラウゼヴィッツあたりから
その手の論が盛んだからじゃないの。
ここなんのスレだっけ?
図解雑学三国志は、変に名士にこだわり杉てなんか納得出来んかった
さすがに二宮の変は孫権が名士層の影響力を下げる為に仕組んだってのは
無茶じゃねーか?
そういうことに考えが回るようになるだけでも読んだ甲斐は有る。
174 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/06(火) 23:33:24
本気で考えるなら、孫氏の君主権力が如何にして確立されたか、から考えなきゃならんのだろうな。
240〜250年だけ取り出しても、完全には理解できないだろうし。
世襲当初の孫権を支持したのは、孫策を支持した者達。
二張や周瑜、呂範、太史慈のような江東外の士人名士。
同じく武人の程普、黄蓋、韓当ら。孫家や呉家の一族。
ここまでは蜀漢政権と似ている。
また、孫権は呂蒙や周泰のような後ろ盾のない武人を重用して
軍権を与えるようなこともしている。
と、なると、むしろ顧雍や陸遜のような江東豪族が
(孫策のかなり苛烈な征伐の後にも拘らず)どうして頭角を現すことが出来たのか、
という方を検討しなければいけないようだね。
176 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/07(水) 00:24:15
豪族抑えられないってのはどういう事なんかね。
呉の地方独特の物なのか。曹操が支配したら文句なんて
言わせないだろうに。
自己解決的に一説。
山越か? 山越に限らないが、呉や会稽出身で、特に後に粛清を受けた者には、
揚州内の統治に功績があった者が多い感じがする。全jもそうだ。
孫権は自分の基盤安定のために地元の豪族や士人の力を多く利用し、
それが江東豪族の孫権政権内での勢力伸張に繋がったのかもしれない。
厳密には、ちょっとリストでも作ってみないとなんともだが。
>>176 豪族ではないが、曹操は漢魏交替の予備として魏国の基盤を強化するために
高名な名士をがっつりぽんと招聘してるし。
魏書第十一、十二は魏国名士列伝であると同時に曹操の辟召人材展示場だよ。
それで御しきれずに排除さぜるを得なくなったのが孔融や崔エンら。
所変われば、だね。
179 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/07(水) 01:45:05
渡邉義浩氏の「三国政権の構造と『名士』」に収録されている、
「孫呉政権の形成」という論文が氏のwebサイトで読めるので読んでみた。
それは、孫堅〜赤壁までを記述していた。
もう一本、「孫呉政権の展開」という論文に、赤壁以後〜滅亡までを述べているようだが、
そっちは上記の本を買うか、「『大東文化大学漢学会誌』39」を入手する必要がある。
その論文に拠れば、もともと孫氏を軽んじていた江東豪族との関係が、孫策の時代に決定的な対立関係となり、
孫権は張昭ら北来の名士、周瑜という揚州きっての名士の協力の下、
外来の人士や揚州の人士を取り込むことに成功したが、江東の大姓とは決裂したままだった。
しかしながら、二張と周瑜の尽力により孫氏の勢力が拡大した結果、
江東の大姓も孫呉政権に参画せざるを得なくなり、陸氏の政権参入が起こるが、
両者の和解と言うよりは妥協の産物であった。
その後、江東の名士は孫呉政権に参加するようになるが、彼らは自らの名士的な理念と、
江東豪族の権益維持のみを図るだけで君主権の強大化には与しなかった。
孫権は赤壁の勝利によって君主権の強化に成功し、漢室輔弼の理念を推し進めようとするが、
周瑜の死によってそれが頓挫し、魯粛の説く江東割拠と自らの即位へと方向性を変えるが、
それが江東名士のみならず北来の名士との対立を生むようになる。
って感じかな、大まかな内容は。
蜀の場合は、曹氏による受禅の後に劉備が即位したとしても、劉氏による漢の再興という名分は保てる。
ところが孫氏が即位する事は漢の再興には繋がらない。
その辺りの事は結構重要なのかもしれんね。
>>179 読んだ。概ね納得できる。
後半、というか論文が読めない赤壁以降の北来名士との対立とは、孫権と張昭に象徴されるものだろうか。
それに代わる形で江東名士が伸張した、というような。
確かに呉政権の宰相は(張昭)孫邵>顧雍・陸遜>歩隲と綺麗に代替わりしているわけだけれど、
顧雍の台頭の過程がやはりよく判らないな。
論文を実見する必要があるか。
181 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/07(水) 03:01:21
顧雍は虞翻や陸績同様、最初期に孫氏政権に加わった人間で、
且つ虞翻や陸績のように孫権の不興を買う事も無く、
会稽の丞として、孫権の意を汲み反抗的な会稽の人士と対峙した事もあるので、
江東名士ではとりわけ孫権の信頼厚かった人間だと思う。
丞相人事に孫権の意思が大きく関わっていたとすれば、江東名士を取り込む、
いわば尖兵として顧雍を用いた事は不思議な事ではないと思う。
「三国政権の構造と『名士』」は、丁度復刊ドットコムで復刊されてたので注文した。
今月下旬に届くらしいので、それを読んだらもうちょい詳しく話せるかもね。
マジで?
ネットの古書店でもずっと在庫切れだったんだよな
てことで俺も注文したわ
183 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/07(水) 14:12:32
俺も注文したぜ。楽しみ。
184 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/07(水) 22:53:55
う〜ん。マニアックすぎる。度が過ぎるマニアックはついていけなくなるから
知識があるなら解かるように語ろうぜ。
>>184 君に理解できないだけでジョミとかは物凄く判り易い言葉で語ってくれている
と言うかここに書いてある事は基本的に単語と三国志の歴史的事象さえ判ってりゃ大抵は常識の範囲で理解できる事ばかりだ
変えにくい他人をどうこうする前に一番変えやすい自分を変えたまえ
>>184 討論するスレにきといて「内容が難しいからレベル下げろ」って・・・
なぜそこまでしてここを見ようとする?
わからんなら調べるなりもっと易しいスレ行くなりしろ
何この排他的かつ閉鎖的な雰囲気
お前が求めてんのは馴れ合いだろ?VIPで三国志スレたてるのかいいんじゃないか
初心者を排他して閉鎖的に馴れ合ってるのはお前らだろ
漫画とゲームしかしらないような俺でもなんとなく理解できるこのスレは
本当にありがたい
特に今の呉についての流れはすごく面白かった。呉ってよくわからん国だった
が、なんとなくお国の事情と対外方針が繋がってきてイメージができてきたよ
次ぎの話題は後期の魏将をキボンヌ。このスレはこのままの雰囲気で続いて欲しいな
ケ艾とか・・・冒頭でちょっと触れられてるけど
いやスレタイ的には最初期の人物になるのか
193 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 18:14:25
t竊qト薜u#qソqツzNv\qニq?qシq舍ニqaqシqァq蚋ニq?qシqトq�q、qフqニq?qシqィqa
194 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 18:15:04
化けた。ケ艾と魏延って同郷なんだよな。
俺もかつては漫画とゲームくらいしか知らんレベルだったけど、
三戦板に入り浸ってるうちに色々知識付いていったもんだ
まあ、その頃は歴史ゲ板が無かったんで無双スレとか乱立しまくりだったけどww
後期魏将+再評価するに相応しいのって誰が居るだろう
ちょっと前の話題だった、二宮の変みたいな名士層の統治権確立に絡めるなら
司馬懿の対曹爽クーデターとかどうよ
あと、正始の政変って言い方全然されてないのなw
196 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 18:28:26
曹爽は無能の極み
後期魏将で再評価といえば、やはり叛賊扱いされてる諸葛誕、毋丘倹らだろうなあ
呉は、臣下達の立場や出身が複雑に絡み合うのが蜀魏より顕著で、読めば読むほど面白い
んてもってそれをまとめていた全盛期の孫権のすごさが読めば読むほど実感できる
魯粛・呂蒙・陸遜のリレーとか有り得んだろう常考ってなもんだ
198 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 21:22:17
カアンはどうなるの?蒼天航路でやたら大物っぽく出てきたけど
その後は書かれずじまい。
たしか曹爽と組んでシバイと対決するんだよね。
200 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 21:25:38
>>198 能無し曹爽と手を組んだのがいけなかった
張翼や廖化ももっと評価されて良さそうだな
馬隆が神
>>201 その二人は別にそこまで再評価するほどのことも……。
異民族に関わってた馬忠張嶷のほうが。
張温は優秀
206 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 22:17:06
曹爽は能無しだったのかね?
後に司馬一族がのさばって曹家がやられるわけだから
それと戦ったって事は優秀じゃないの。
>>198 政治家としてはともかく、歴史上の人物としては何晏は曹魏でも有数の重要人物だね。
何しろ彼の「論語集解」は現在通行する史記の注釈に引用されているくらい影響力があった。
魏代の「名士サロン」の中心人物だろう。
>>206 能無しで魏から天命が失われる原因にしておかないと司馬懿の行動が正当化されないだろ?
そういうことだよ
呉彦
呉質
呉惇
呉壱
212 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/08(木) 23:05:51
213 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 00:28:40
やっぱシバイってのは帝位簒奪を狙っていたんだろうかね。
結果的にうばちゃったんだろうか。
帝位まで計画していたとはちょっと疑問だけど、
曹爽との権力闘争が自己防衛だったとかいうのは違うだろうね。
身を守りたいだけならさっさと田舎に引っ込めばいいのだから。
司馬懿は完全に能動的に朝廷の支配権を取りにいっている。互角の権力闘争だった。
高堂隆は明帝生存中から司馬懿としか思われない人物に注意しろって警告発してるしね
どういう経緯にせよ、曹爽との二元体制になった時点で、滅ぼされるか自分がトップに立つかの二者択一になったといえるんじゃないかな
もうここまでくるとハンパな地位に安住するという道は無い
騎虎の勢いという奴だ
結局全部曹ヒの蒔いた種じゃん
>>214 巨大権力のNo2で引退すれば他の人がNo2になる范雎と違い
巨大権力の2topになってしまった司馬懿、曹爽は引退しても必ず粛清されるし
田舎に引っ込むってわけにはいかんですよ
曹ヒの時代って過渡期であって、さあこれからって時に死んじゃったから
その過渡期体制のままズルズルいっちゃったという感じだ
219 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/09(金) 01:10:16
曹爽が政治を専らにした頃と言うのは、司馬懿が九品官人法の改正を建議しようとした頃。
加えて、曹爽や、後に誅殺される夏侯玄に与したのは、
名声を弄び、浮華の徒と呼ばれて明帝に遠ざけられた連中。
司馬懿に拠る九品官人法の改正は、既に郷里に大きな影響力を持っている名族の権力を、
更に強化しようというものだから、新たに権勢を得ようという人間にとっては忌むべきもの。
丁謐や、夏侯玄の頃に誅殺される李豊なんかは、もとが大した家の出ではないので、
司馬懿らの動きを制しようという考えに至るのも分かる。
李勝なんかも父が漢中の人間なので、魏の領土に自分たちが影響を与えられるような土地は無い。
その辺の連中が曹爽を丸め込んで何かやってたようにも思える。
なんか自治新党の最近の動きにそっくりだなw
新党コテの頭の中身は1800年前の中国人と同レベルかwwww
>>217 んなことはないよ。
本当に無欲なら官位返上して河内に引っ込み、病気を称して士人との交流を断てば良い。
地理的に権力中枢から遠ざかり、人的交流が絶たれた者は政治的に無力となる。
現にボケたふりした司馬懿に騙されて曹爽は洛陽を空けたわけだからね。
しかし司馬懿は太傅の官を手放さず、洛陽にい続けた。
計画的に機を見計らっていた以外に考えられない。
>>221 実際に官位返上して自宅に引っ込み他者との交流を減らしてた爽やか三組がぶっ殺されてるけど?
もう引退なんかして引き下がれる領域じゃないんだよ、両者共に
>>222 それは既に政変が起きた後だからね。
一波乱あった後に敗者側を放置したのでは人心が安定しないし報復の危険が残る。
起きる前に自分から身を引くのとでは違う。
>>223 司馬懿が病気と称して河内に引っ込んだ時はもう一回政争に負けて左遷という波乱があった後じゃないか
これで司馬懿が安心できるとでも思うのか?
新帝の補佐が曹宇から曹爽・司馬懿に急転した時点で曹爽ってやり手の政治屋だと思うんだけどね
その時、司馬懿は外征中だし
近しい王族は遠ざけて、豪族に関しても警戒するといった魏王朝に忠実な行動を取っているよな>曹爽
226 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 09:02:14
シバイがゴジョウゲンで孔明と戦ってるうちにうしろからシバイを
倒すような魏のやつがいればよかったのにな。
>>224 できるんじゃね。それで実権取り上げられて曹爽は一先ず事を収め、
耄碌したと聞いて完全に油断したんだから。
政変で負けた後も曹爽が官爵返上すればなんとかなると考えていたのは、
それが士人の政治生命を絶つのに有効だと認識されていたからだよ。
ただ、曹爽は、勝利者である司馬懿にとっての事態の切迫を考えていなかった。
所詮外様の司馬懿が、皇族の曹爽相手に事を起こしてしまった以上、もう後が無い。
中途半端に赦しては後でしっぺ返しをくらう。
だから曹爽らは誅戮された。
>>227 司馬懿は「安心してないから」逆撃したという面の方が強いと思うがな
耄碌した振りにしたって安心してたらするわきゃない代物だ
お前さんがなんと言おうと歴史の事実は司馬懿は自分が安閑と出来るとは考えていなかったという証拠にしかならんぞ
229 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/09(金) 21:44:39
ジョショっていつぐらいまで生きてたのだろう?
出世しなかったのは孔明と仲良かったから
疑われたんだろうか?
>228
そりゃ、太傅の官を持って洛陽に居座ったままじゃ安心できないでしょ。
俺は司馬懿は、反撃するつもりだったからこそ芝居を打って反撃を選択したのだと思うけどね。
大国の2トップの位置まで上り詰めたんだ。能力と自負があり、高位に昇っておきながら
ここで野心を捨てて引ける人間は極めて稀だと思うよ。
司馬懿が反撃したのは確かに事実だ。
しかし一方の曹爽が、司馬懿との抗争を「引退しても必ず粛清される」命の取り合いだなどとは
考えていなかったのも事実だ。…言い過ぎかな。残された史料からはそう推察できる。
曹爽が当時の常識から外れた特殊な人間でない限りは、
政変前後の曹爽の対応は当時の「空気」を読む重要な証拠になると思う。
>>230 「殺すか殺されるかしかない」って分かってた桓範みたいなのも居るわけで。
曹爽の対応から「空気」を推測するってのは無理が有ると思う。
>>231 その桓範が進言したのは、司馬懿が(呆けて無いならば)洛陽を空けるのは危険だというものだから。
司馬懿は依然として太傅の官にあり、緊急時だと言えば洛陽を動かす
「権威」は残していたわけだからね。
逆に聞くけど、自分は「賢者は世を辟く」のように俗世を避けて危険を免れると言う処世術は
中国でよく聞くからこの論を立てて色々状況証拠を並べたわけだけど、
「2トップの場合はどちらかが引退しても必ず粛清される」という話は、中国のどんな風習に
則ったものなのだろう?
抗争当事者の一方、しかも有利な方が命まで取る気が無かったなら、
「どちらかが引退しても必ず粛清される」と当時認識していたのはいったい誰なのだろう?
>>232 それじゃない。実際に司馬懿がクーデーターを起こしたあと、
帝を擁しているのはこっちだから対抗しろと進言した。
司馬懿が曹爽に「命まで取るつもりはない」と伝えたから曹爽はその気をなくした。
で、それに対して桓範が
>「曹子丹佳人,生汝兄弟,犢耳!何圖今日坐汝等族滅矣!」
曹真は優れた人だったがお前ら兄弟は駄目だ。お前らのせいで一族滅亡するとは思わなかった!
って嘆いた。
要はこの時点で司馬懿と曹爽は殺すか殺されるしか無い。
このままだと曹爽は確実に誅殺される。当然それに合わせて自分も殺される、と桓範は分かってたわけだ。
>>232 史記とかでも「両雄倶に立たず」とか潰し合いになる事は結構書かれてる
>>232 2TOPというより、「当時並ぶ者なき名将」と考えるんだ
韓信が王国を奪われて劉邦におべっか使うようになってもなお警戒され殺されたように、司馬懿も引退しても警戒され殺されるだろうということだよ
後漢末の群雄達って基本的には光武帝を参考・理想にしているんだよ。一番その気が多かったのが曹操だけど
光武帝は豪族の利権を守ったって部分も大きいし、何より度量があった訳で
当代の連中にとっては一番理想的で支持される皇帝の姿であって、それに倣おうとした曹家の作った魏帝国において
走狗煮られるって状況はあんまり想像しにくいと思うけどね。功臣の粛清も起こってないし。
その後の司馬家に求められたのは法家ではなくて徳治政治だったし、漢帝も魏帝も廃された後も命を真っ当したわけで
血なまぐさい印象ってのは、それこそ曹操の徐州の虐殺ぐらいまで遡らないと無い。三国志は意外と大らかな時代だよ
>>236 うむ、孔融とかジュンイクとかが思い出されるところだな
曹操は長年二人三脚で国を運営してきた重臣中の重臣を実質死に追いやった
そういう人物が作った魏において、走狗が煮られないって状況はあんまり想像しにくいと思うけどね
孔融なんて魏になんの貢献もしてないし
荀イクを勝手に粛清されたなんて言わないで欲しいが
>>240 君は何を知ってるの?
荀郁の死の真相は専門家の間ですら未だもって研究中なのに。
研究中は無いわ
荀ケは荀氏傍流説とか、腹黒説とか色々あって未だによく分かんない人物ではあるよな
少なくとも巷で言われているような漢皇室に節義を立てたような人物とは思えないけど
>>238 いや、結局殺すか殺されるの状況になったわけでしょ、実際は。
それを分かってた人間も居たのに、曹爽はそう感じてなかったからそれが当時の空気だ、というのは無理だろうと。
俺には曹爽をそこまで無能と設定することはできないなあ
政変前、司馬懿派と曹爽派が命を取り合おうとした形跡が無い(勿論桓範も)
政変後も曹爽、陳泰、許允らはその先入観を引きずっていた。
桓範だけが、皇太后まで動かした司馬懿の決意と事態の急変を看取して
「今日に当りて、卿の門戸が貧賤を求めても復た得るべくや?」と反論したが受け入れられなかった。
「当時(政変前)の空気」を知るにはそれで十分だと思う。
後の結果を取り出して、それを過去に遡及して当てはめることは必ずしもできないと思うよ。
246 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 23:18:22
司馬懿は、
238年の、公孫淵の征討において
人質を差し出して助命を嘆願してきたにもかかわらず
これを許さず、
公孫淵親子を殺し、
高官も殺し、
さらに、
15歳以上の男子を数千人殺した。。。。
-----------------------------------------
反曹爽クーデーターの11年前に、
司馬懿=容赦のない人
と分かっているはず。
247 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/11(日) 08:01:35
シバイは優秀だったんだろうか。
息子の司馬炎だっけも優秀みたいだし。なんか作られた感じがするんだよな。
オレは親子二代が優秀みたいな事はありえないと思う。
親と孫が優秀ってのならありうるとは思うんだけど。
>>247の言ってる事柄がいろんな意味で理解できない
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/11(日) 08:20:50
>>248 だからさ司馬一族って三代とも優秀みたいにされてるけど
徳川家康 秀忠
源頼朝 頼家
足利尊氏 義晶だっけ?
と二代目が優秀になるなんて事はないでしょ。
なんの根拠も無いあなたの思い込みです。
次の話題どうぞ。
>>249 いやその例の2代目はどれも十分優秀な部類だから
>>251 「〜でしょ」を多用し、脳内ソースの妄言を次から次へと吐き散らす荒らしだ
スルーすべし
>オレは親子二代が優秀みたいな事はありえないと思う。
>親と孫が優秀ってのならありうるとは思うんだけど。
たぶん自分が親に及ばない出来損ないだと自覚してるんだろ
つうかいつから司馬懿と司馬炎が親子になったんだ?
>>246 俺は曹丕の詩を読んだらとてもじゃないが曹丕が理不尽に人を誅罰する人には見えないな
軍事で苛烈だからって政治で苛烈とは限らんし
物事の一遍を見て、それを別の物事に当てはめるのは愚かしい発想だと思うが
ヤンキーが猫助けてたから、そのヤンキーはカツアゲしててもホントはイイ奴なのか?
曹丕は情が深すぎたんだろうな
呉質へ送った手紙は泣ける
愛する者を深く愛するが、一度憎むと赦せない。
曹操にもその気があったが、
曹丕には父ほどの冷静な度量が少し足りなかったように見える。
いや、親父も充分激情家だろ
>>255 俺は三国志や注を読んだらとてもじゃないが曹丕が理不尽に人を誅罰する人にしか見えないな
詩が素晴らしいからって政治も素晴らしいとは限らんし
物事の一遍を見て、それを別の物事に当てはめるのは愚かしい発想だと思うが
ヤンキーが猫助けてたから、そのヤンキーはカツアゲしててもホントはイイ奴なのか?
>>258 >>255は
>>246に対して「政治抗争と軍事の判断は別」と言ってるにすぎないのに
レスの一片を見てそれを別の物事に当てはめるのは愚か(ry
おまえら優秀な親父を持ったからって喧嘩すんなよw
261 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/11(日) 20:11:33
>>259 >ヤンキーが猫助けてたから、そのヤンキーはカツアゲしててもホントはイイ奴なのか?
この一文の取り方ってむちゃくちゃむずいだろ
>>258の国語力は酷いな
ゆとり教育の弊害を垣間見た
成人式だけにゆとりの登場か
ゆとりがいると聞いて
266 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/11(日) 23:35:34
なんだか話がそれてきている感じがするが、要は、
殺されはしないだろうと考えた曹爽の判断が、間抜けだったのかそうでもなかったのかって事か。
この時、曹爽が殺されるだろうと考えていたのが分かるのは、桓範と楊綜の二人。
司馬懿の使者として曹爽の元に赴いた陳泰、許允の二人は殺されるとは語らなかったし、
蒋済も同様に手紙で曹爽を諭している。
彼らが司馬懿の意を汲んで、誅殺の意思を隠していたかと言うとそうでもなく、
蒋済は曹爽に対して嘘をついた事を気に病み、その心労によって俄かに亡くなっている。
司馬懿と仲が良く、このクーデターの時も共に行動していた蒋済ですら、
司馬懿に曹爽誅殺の意図ありとは知らなかったし読めなかった。
陳泰や許允に至っては言わずもがなであろう。
そもそも司馬懿は、曹爽誅殺の計画をただ司馬師のみと画策し、次子の司馬昭ですら知らなかった。
いったいどれだけの人間に、曹爽が殺される事が読めただろうか?
桓範は曹爽に「降伏すれば死ぬ」と述べたが、これは司馬懿の意向云々だけでなく、
洛陽を出る時の自身の発言も、自らの発言の根拠であったのだと思う。
魏略に拠れば、桓範は門候をたぶらかす際に「司馬懿が謀反した」と呼ばわったのだから、
彼が許される公算は非常に小さく、実際そうであったように死を賜る公算が高い。
桓範としては、曹爽が殺されるか否かにかかわらず、曹爽を動かさざるを得なかった。
彼の発言は、司馬懿の意向を見抜いたとかではなく、彼自身の必死さの表れと見る事もできるだろう。
士人の怒りの矜持を想うと、曹爽と桓範の息はピッタリ合ってるようにも見えるが。
上手い事弄ったのが司馬懿という収束をされなければならんのじゃないか。
>>236 ちょっと話はずれるが、光武帝が豪族の利権を守ったとは思えないけどな。
彼は基本的に王莽の政策にこそ親和性のある人物で、同じ儒学の徒として、
また皇帝として王田制の失敗を見たがゆえに、間接的に締め上げる方向に転じているというのが正確だと思う。
例えば奴婢は多くが豪族の荘園で耕作に従事していたが、
これを削りとることの集権効果は大きく、また酷吏と検地を徹底することで法の徹底をはかっている。
また時代は違うが、宋の旧法派の司馬光が光武帝を評価しているにも関わらず、
なぜ奴婢解放の事績をスルーするのかといえば、
やはり士人や地主層には彼のその政策は利権を大きく損なうものとして認識されていたと捉えるべきだと思う。
また大豪族故味方につけた韓キンなども一族の連座で息子ともども自害させられている。
彼の徳治はあくまでも民衆に対するもので、官吏に対しては酷政とも言われる法家。
三公の近臣クラスでも簡単に死刑にされていたことは申屠剛の伝にもみえる。
隙を見せた豪族を処罰することで個別に削りとっていたというのが実態。
また封邑貰った武官の家も二、三代のうちに誅殺くらうか不祥事で諸候から除かれるのが一般的。
某姉の件をみてもわかるように一族には若干甘かったものの、豪族一般には甘くない。
269 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/12(月) 05:59:42
とっさに考えて思い付いたのは
漢文、景帝
漢光武、明帝
魏武、文帝
陸遜、陸抗
唐太祖、太宗
明洪武、永楽帝
毛利元就、隆元
くらいだな>親子二代続けて優秀
まあまだ余裕で居るだろ
一部三代続けてってのもいるし
あとノーベル賞の下村親子とか
キュリー一家なんかも
野球の長嶋、野村、落合親子とかみてると優秀な二代目なんていねえ!といいたくなるのはわかるが。
比較的少ないだけで案外いるよ。
270 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/12(月) 07:05:10
血は繋がってないが
謙信かげかつも。
前、後北条なんかは数台以上。
足利義満、義教。
チンギス家もだな。
つか、スポーツ選手の方が息子がダメなのが不思議でならん。
内面より体力の方が遺伝が強いはずなんだが。
ではスレらしく陸抗か陳泰について語ろうか
>>269 漢なら高祖と文帝だろう
景帝は素直に優秀と言いづらいタイプだぞ
北条早雲-氏綱-氏康
島津忠良-貴久-義久・義弘
徳川家康-秀忠-家光
このへんもかな
274 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/12(月) 10:17:58
家光は残念だな。
秀忠入れていいなら氏政も認めてやれよ
275 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/12(月) 10:20:06
孫親子、司馬氏
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/12(月) 23:48:52
曹操と曹否で二代続けて優秀ってのは言いすぎじゃないか
始皇帝 劉備 孔明
と二代目は結構落ちるぞ。
操・丕・叡の三代は充分優秀だろ
曹丕なんて在位期間短いけど、打ち出している政策にはなんら失点もない
ホントに人の好き嫌い激しいのが惜しい人間だよ。曹操もだけど。
九品官人法は歴史的にも大きな意味をやってるしな
二代続けて優秀ってのは、賽を二回振って二度とも1を出すようなもんだろう(確率的にはもっと低いか)
歴史に名を残す創業者は殆ど全てが「親より遥かに優秀」なのに、その二代目が「親ほど優秀」でなかったから
云々言うってのは統計のペテンだよな。
やっぱ三国志って深く入れこむと政治的な方面へと進んで行くなw面白いからいいけど
文鴬ってどうなん?三国成立前までの勇将に匹敵する武将だったのか?
そもそも三国成立以前の将軍のアベレージが成立後の将軍のアベレージより高いって前提がおかしいだろ
>>279
281 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/13(火) 01:29:18
将軍としての能力とかはともかくとして、戦場で何人斬っただとか、
そういった武勇に関しては、動乱期に頭角を現した人の方が上じゃないかな?
もちろん、三国時代に突入してからも武勇の士は多かっただろうけど、
歴史に名前が残るのはそれらを指揮した人物の方が多いからね。
時代の違う人間の個人的能力なんて比べられないからね
活躍の度合いだけ見れば、張遼の敵本陣払暁奇襲と同じくらいのことはやってるけど
283 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/13(火) 02:16:58
文鴦は、間接的にとは言え司馬師を死に至らしめているからね。
乱の平定は馬隆の登場を待たねばならないものの、樹機能を破ってもいるし、
文稷、文欽、文俶(文鴦)と三代にわたって勇猛だったが、将軍としては文鴦が一番かね。
どうでもいいが、驚いて目玉が飛び出すというのも凄まじいな。
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 08:34:06
なんとなく親が安定して生まれた子どもは凡才って感じか。
天下が決まってから育てたから安定を求めてしまう。
だからソウヒはそこそこ優秀。
285 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 13:40:08
>>284 曹丕が生まれた年を何年だと思ってるんだ
287 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 19:08:52
>>277 九品官人は歴史的な意味合いは大きいが、
制度としてどれだけ国に貢献したかは疑問。
曹叡も優秀なのは確かだが、操/丕に比べるとだいぶ落ちると思う。
288 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 19:16:38
末期の人物って本当に小者だよね。
俺は孫権だって策や堅以下の小者だとおもってるよ。
289 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 20:02:23
うん、それは君が思っているだけで別にどうということはないよね
290 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 20:04:10
まぁ策と比べたら権はスケールは小さくなるだろう。
堅パパもスケールでかいが、武官としての活躍以外の事跡が少ないので
比較しようがないが。
>>286 確かに悪文なので勘違いしてしまうこともあろうが、
>>284は曹丕は天下が決まらないうちに生まれたから優秀と言っている。
孫堅は確かに武将としてなら後漢末1、2だろうな。
袁紹や張バクらが撤退した後に殆ど孤軍で胡軫、呂布、董卓、呂布、と連勝して
洛陽奪還とか漫画みたいな話だ。それを支援し切った袁術も凄い。
孫策もまさに「小覇王」だが、統治者としての度量と有能さでは
やはり三人の中で孫権(全盛期)が随一だろう。
孫権の次の代がなあ
二宮の変の後で、当時十歳の孫亮への求心力など殆どなかっただろうからね
諸葛恪は対外戦争に功名を求めて身を滅ぼし
孫峻・孫チンは臣下の身で競争相手を完全に黙らせて自分の基盤を固めきるには力不足だった
まあ孫権が撒いた種と言うしかないが…
295 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 22:02:53
晩節を汚すとその人物の全ての評価が下落するよね
曹操、劉備は死ぬまで偉人だったけど孫権はダメだったから
ランクが落ちる。
孫権はスゴイ時はスゴイけどヒドイ時はホントにヒドイから
大友宗麟みたいなやつだな
297 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/13(火) 23:34:56
曹叡元仲の父は中国魏王朝の始祖曹丕子桓(諡号は文帝)である。
元仲という字は、魏公国の方言で「客」「旅人」を意味するが、この名前は出生の事情によっている。
歴史書によると、曹叡が母、甄夫人の腹の中にいたとき、
まだ華北の覇者だった袁紹の幕営が、敵対する曹操軍によって襲撃される事件があった。
身重の母、甄夫人は曹丕によって拉致されたが、傾国の美と呼ばれる美貌のため曹丕の妻となる
曹丕の夫人として男子を生んだので、「旅客」を意味する元仲という字を与えられたのだという。
どこの小説からの引用?
>>298 数年前から存在するコピペ
初出は知らん
ただ、元「仲」というのはちょっと面白いな
曹叡が長男ではなかった可能性を示唆するわけだから
曹叡の享年が34で正しいなら、甄氏を娶ってから二年の時間がある。
側室を迎えて(或いは既にいて)先に男子が生まれていてもおかしくない。
曹協などが曹叡の兄だったとしても別に不思議では無いだろうね。
まあ、そもそも曹叡が皇太子になったのは曹丕が死ぬ直前だからな
それまでは王に立てられて他の兄弟と同等以下の扱いをされてる
甄夫人が死んで以降、曹叡はかなり肩身狭かったのは間違いない
302 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 00:40:29
しかし曹叡は、父である曹丕の度重なる呉への侵攻失敗を目にして、父の失敗を繰り返さないために努力したな。
逆に、呉からの侵攻を防ぎ、連勝し功績がある。
曹丕が曹叡の局面にたたされたら魏がアポーンしそうだな。
303 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/14(水) 01:07:15
度重なるっても、夷陵の後の222年と、225年の二回だけじゃなかったっけ?
前者では一定の戦果は挙げたし、後者もあっさり退いただけで大敗したわけでもない。
曹叡の時代には曹休が石亭で大敗を喫した例もある。
曹丕とて、その軍事的才能について、それほど叩かれるような事はしてないと思う。
304 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 07:25:10
ソウヒってそういえばあんま戦したイメージないよな。
>>303 曹丕はそもそも治世が短いから、「あの短い治世で二回も」とか言えなくはない。
306 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 10:03:13
進攻作戦と防衛戦争の難度の違いがわからない時点で
人生が哀しみに包まれていることはわかった。
307 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 11:57:56
>>302 よく守ったのはいいんだけど、
天下統一も果たしてないのに宮殿造営に明け暮れて士太夫を呆れさせ、
股肱の臣の一人も作れなかったのは辛い。
司馬氏の台頭をもたらしたのは曹叡の悪政とも思える。
>殿造営に明け暮れて
前年に大地震で宮殿ぶっ壊れてるのにか?
帝国の顔たる宮殿が壊れてるのに修理しないなんてどんな弱小国だよ
司馬氏の台頭は曹叡の政治じゃなくて寿命のせいだろうが
仲達の名のある友人や部下の名前とかクーデターに参加した人等
適当な羅列で良いんで誰か教えてくれないか
>>308 士太夫たちは反対しまくってるけど>宮殿造営
あの時期曹叡は宮殿建築と同時に平行して皇帝権力の強化に走ってた
評価が悪いのはそっちが理由
>>309 曹丕 陳羣 蒋済 徐晃 張? 賈充 ケ艾 張虎 楽? 夏侯威 孫礼 鐘会
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 20:43:20
諸葛誕 あたりの頃って魏の内部そうとうグダグダになってたみたいだけど
そこあたりでなんとか方向修正できなかったのかね。
諸葛誕が反乱した時期は、既に司馬氏が専横を固めていた
グダグダじゃなくて、帰趨が見えかけていたから反乱した
「方向修正」で済む程度の状況なら曹爽くらいまで遡らないとね
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 21:14:39
もう司馬の時代になってか。この時代呉も破滅へ一直線だしな。
孫権が有能って意見が三国志知識人の中で結構多いけど
Wikとかで見てたら解かったんだけど孫権って決断ができない男
だから君主としては失格だと思うよ。
赤壁の時も降伏か開戦か決断できなかったし。跡継ぎも決めれない。
ギリギリを超えてまでやるから部下に派閥ができる
降伏派 開戦派 親劉備派 反劉備派 長男派 次男派
特に最後の跡継ぎ決めが後の衰退を生み出したとなるとまあ
孫権の責任は大きい。
それは孫権個人の資質ではなく孫呉政権の成立と構造の問題だよ
三国中もっとも君主の力が弱い御輿のご本尊でしかない状態なので
決断したくたって出来ない状況だった
自分の恣にした孫策は(本人の性格もあるが)早死にしてるだろ
「果断な決断がしかも正解」なんて超人が同じ時代に何人か居たから決断が遅く見える。
正直孫権ぐらい考えてくれないと周囲の人間は付いていけない。まして国家の大事なんだし。
対曹操、対劉備の孫権の決断力はむしろ見事の一言に尽きる
孫権は決断力はある方だと思う
頭がキレている状態の孫権は臣下の意見からズバッと最善の道を取り上げて行動に移させる名君だろう
赤壁の辺りと、皇帝になった辺り
呉は孫魯班
魏は孫資と劉放
が衰退させた原因。
>>320 魏王朝は衰退したが、司馬氏の元で政権が一本化されて全国統一への機運が高まった
中原政権はむしろ孫資・劉放の行為によって勢力が強くなったということだ
まあ、あの二人がやってる事は皇帝周辺を除いた他の権限、権力の削減だからね
中央集権してりゃあそりゃ強くはなるさ
>>315 どうでもいいんだが
>Wikとかで見てたら解かったんだけど
とか言うとすげえ説得力無くなるから。
ウィキペディアの歴史系記事なんて玉石混淆なんだからさ。
wikipediaはマニアックな人物ほど記述が正確になる傾向があるな
>>324 マニアックすぎる人物の記事を作る行為自体が問題って部分も有るけどね。
呂布(蜀将)とか有ったんだぜ。夏侯惇伝の関羽討伐の際に出てくる「呂布」
呂布(蜀)は明らかにタチの悪いジョークか悪戯だろ…多分。
アンサイクロペディアのは傑作だけど、あれを真面目に書ける
知識量と判断力の欠如が両立するとは俄かには信じがたい
>>327 いや、知識量は無いぞ
そのほとんどがむじん書院のパクリだろ?
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 22:55:27
>>316 >それは孫権個人の資質ではなく孫呉政権の成立と構造の問題だよ
>三国中もっとも君主の力が弱い御輿のご本尊でしかない状態なので
>決断したくたって出来ない状況だった
まず俺は孫権は決断力があったと思う。それは同意。
そして、君主の力は強く、孫権は好きにやったと思う。
兄貴から勢力を譲り受けた(しかも孫権は若かった)ために功臣の発言権は大きかったとは思うが。
>自分の恣にした孫策は(本人の性格もあるが)早死にしてるだろ
これから見るに、孫呉の君主権の弱さの論拠を揚州の豪族においてるのだろうか?
それは違うと思う。
孫策は好き勝手にやったために部下や豪族の恨みを買ったんじゃない。
許貢という、軍事力で郡を乗っ取ったり名士を殺害したり山越と結んだりする群雄を打ち滅ぼし、
その遺臣に復讐されただけだ。
呂布(蜀)は誤解を招く人物紹介をするスレで重宝されてたなww
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 23:06:28
Wikってそれほど信用ないかな。俺はさらっと見た感じでは
それほどの間違いは発見できなかったんだが
一時期
Wikで三国志を纏めるスレ
とか作ろうかな、って思ったぐらいだし。
時代順に軽く書いてってWikへのリンクを張るとか
そういうスレあったら便利かなって思ってたぐらいだし。
>>332 問題なのはwikiの内容そのものよりもwikiの内容だけで全てを理解した気に奴
一極的なものの見方じゃなく、いろんなところから資料仕入れて多角的に判断してくれって話
そういうのは本とか読んでも結局は同じだけど、wikiは手軽だから余計に目立つ
それと「Wikで三国志を纏めるスレ」なんていうアホなこと考える奴が間違い発見できなかったと言っても説得力ない
wikiはサイトそのもので時代別やなど関連付けて検索できるシステムだろうに・・・便利って
>>332 そう思えるところが落とし穴
たまにとんでもないのが混じってる
「たまに」なのがポイント
335 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 23:13:33
Wikは重いし調べづらい
だから2ちゃんで多少軽い文章を書いて
そこにWikを付け足すってのが多分一番
便利だと思う。
手軽な索引としてしか歴史を理解するつもりがない これがゆとりか
こいつ最近Wikipedia知った奴だから
一時嬉しそうにWikipediaのアドレス書いてたりしてたからな
338 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 23:30:36
手軽って事は悪いことではないからな。
ネット三国志知識人はやたら正史とか演義を絶対読め
話はそこからだ。みたいな論調になるけど
纏められてるのがあるのならそっち読んだ方が早いし
詳しい人が纏めたのの方が誤解しないで読める事もあるし。
「ネット三国志知識人」ってとても独特だね(婉曲表現)
カタカナ君に続きWikipedia君の登場か
>>338 手軽に知ることは悪いことじゃない
そこから発展しないくせに
「手軽に知ったことで十分だ。それ以上のこと語るやつは悪だ」
って主張するお前みたいな奴が迷惑極まりないだけ
342 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 23:39:22
ネット三国志知識人は俺の造語だけどね。まあ大体意味は通じるでしょ
特徴は
孔明をやたら高く評価して
キョウイを評価しない。で防衛戦下げた事を酷評する。
レスには役職と地理を必要以上に書き込みその事には説明をいれない
曹操、孫権は高評価だが劉備はなぜか少し評価低く
カンウを「けど商売の神様なんだよね」とか言い出す。
とまあ、俺は最近スレを3.4個立ててこういう風潮がこの板にはあると思ってる
でそれを全面に押し出すのが「ネット三国志知識人」
俺はこういうのに異議を唱えたいからいろいろスレ立ててるんだよね。
>>342 例えば誰、またはどこにいる連中なんだ、その「ネット三国志知識人」(笑)とやらは
>>342 Wikipediaの知識だけで語ってる君に誰も問題定義されたくないと思うよ
大学生が小学生にそのやり方であってるの?なんて言われたらムカつくだろ それと同じ
論破されると自分語りして言い返した気になる思考回路が解らん
347 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 23:49:18
>>342 >レスには役職と地理を必要以上に書き込みその事には説明をいれない
せめてWikipediaでいいから勉強したら?
>>347 Wikipedia”だけ”に頼るなと言ってるのだが理解できないか?
例え、お前がWikipediaでなく正史の解説本を読んだとしてもその知識だけで語ろうとしたら同じなんだよ
350 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 23:55:25
もうスレ違いなんだけど一言
俺はWikだけの知識でレスしてないつーの
一通りの三国志の知識はある。人並み程度の。
むしろ最近Wikで三国志のを見始めたぐらいだ。基本知識は
Wikで仕入れた物ではない。
>>347 でWIkを紹介したのは知識のない人に参加してもらう為に
やってるのだ。自分のためではない。
まああまり責めんであげてくれ
>>1は当スレを始め数々の三国考察系スレを立ててその殆どを盛況にしている人なんだからさ。
歴史としての三国時代前後を好きな人間がこうやって集まっている恩人なんだよ。
僕wiki知ってるの。すごいでしょ。みんなにもこの素晴らしい知識を分け与えなきゃ。僕って偉い。キャハ
>>351 中身が無ければ盛況にしても価値は無いでしょ
354 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/15(木) 00:05:46
こいつは典型的なトンデモ科学にハマるタイプだな
・外に学ばず狭い知識だけで答えを出そうとする
・自分の意見にそぐわない定説を迷信旧説と言い張る
・仮想敵を作り常に被害妨害を受けていると感じる
・間違いを指摘されても時間が経つと忘れる
・資料収集やフィールドワークにお金や労力を使わない
・本人にしか理解できない使命感を持っている、又は救世主を名乗る
矢追その他と同じ臭いがプンプンするぜ
晋書とか原文で読破した人とかいるかな?
俺は訳文でも無理だわw
>>354 まあ、「人並み」と言ってることは間違いでは無いね
蜀の桟道をフィールドワークする勇気は俺にはないな。高い所怖い。
>>353 中身なんてスレ住人の俺らが込めればいいんだよ
>>358 劉邦は桟道焼いたのに1年くらいで北伐敢行
どんな魔術使ったんだろう
実際渡るかどうかはともかく見てみたいことは見てみたいな >蜀の桟道
>>359 だったら1は別に功労者でもなんでもないわ
邪魔なだけ
中国までフィールドワークは無理だ
フィールドワークは経済的に無理でも地図と付き合わせて史料を読むとかは、本気で知りたいならやるべきだと思う
365 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 00:22:05
グーグルのストリートビューで中国あたりが見れたらいいのにな。
合戦跡とか進軍した道とか見たいわ。
フィールドワークとは比べ物にならないけど、
素人レベルの「情報収集」でも馬鹿にならないけどね
万札が飛んでいく
>>365 蜀の桟道を10メートルごとに360度撮影とか勇者すぎる
368 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/15(木) 00:23:52
どれくらい険しい地形なのかとかは、Google Earthでも結構分かる部分がある。
現代人のひ弱な体力と当時のマッスルな兵士じゃ行軍速度も違うだろうな。
険しい蜀の崖っぷちを綱一本で渡ったりとか
370 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 00:27:42
>>369 体力なら現代人のほうがあるだろ。昔とは食ってるもんが違う。
371 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/15(木) 00:37:28
そろそろ話を戻すべきだと思うが、どこまで戻せば良いんだ?
孫権についてか?それともその前の曹丕やら曹叡やらの話?
>>1が何歳か知らんけどさ、
俺は高校の時昼飯代500円貰って食わずに貯めて、小遣いと合わせて一月足らずで正史八巻揃えたわ
だから身銭切ってまで知りたい奴と、そこまで行かない奴は差が出て当たり前だと思ってる
いちいち用語や人物を説明しないのが気に入らんとか、何でガキを俺らが無料で接待せにゃならんのだとしか思わん
これはネット知識人とか関係なしにな
Jominianまだおったんかいな
曹丕曹叡で行ってくれんかな?
374 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/15(木) 00:52:58
>>373 でもよく考えたら、曹丕にせよ曹叡にせよ、スレ主旨からは外れてるよね。
そうすっと司馬懿と曹爽の政争〜夏侯玄誅殺辺りの方が良いんじゃねぇか、って気もする。
曹叡では魏末期にならないか
漏れは曹叡たんは実は袁家の血を引いてると信じたい!
>>375 末期の末期まで皇太子に立てられてないし、かなり早い段階で廃嫡状態だし、一時期は平原王から平原侯に格下げまでされたみたいだから、誰の子供であれ曹叡は曹丕時代はかなり陰のある時代だったみたいだね
俺も袁氏説の方が面白いから賛成
>>1を馬鹿にするわりに、面白いからとかいう理由で説を支持するんだな
曹叡が遠ざけられたのは甄氏への寵愛が薄れて死を賜ったことが主な原因だろうから、
袁家云々の可能性とはそもそも関係無いな
なんで曹叡って自分で自分の廟号を決めるなんてことしたんだろう
滅茶苦茶批判されてるのに
叡は結構アレな性格しているからな
創作物とかでは手っ取り早くそこそこの名君扱いされることが多いが
陳御大の魏の一族は中々メス入れてたと思う
382 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/15(木) 21:16:47
諸葛キンの息子とか実際どんなもんだったんだ。
派閥争いは切り抜けたみたいだけど。
383 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/16(金) 02:15:42
これは俺の個人的な意見だが、曹叡が袁熙の子であるだとか何だとかって話は、
袁熙が幽州刺史として幽州に行っている時点で与太の類であるのは明白だし、
楽しく話している人には悪いが、議論し甲斐のある話題には思えんのよね。
俺も大して面白い話とは思えないが、
>>384辺りは試しに曹叡が曹丕の実子ではない説の根拠を羅列してみたらどうだい
袁煕の子って誰が言い出したか知らんけど、
どっかのサイトで、裴松之も出生年がおかしいと言って袁家を匂わせてる
みたいなこと書いててかなり脱力した。
秘密が隠されてると感じたら、なんでもかんでも予め仕組まれたことだと思っちゃう人がいる。
>>383 つまり袁煕が幽州に行ってる間にオイタして出来ちゃった子なんですね……
388 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/16(金) 12:21:30
三国志集解を見れば色々書いてるよ
結構古くから言われてる話
じゃあ集解から書き写してくれ。簡単だろ
そうでないと話が始まらない
何故に教示を乞う側が上から目線なのか
そりゃ、人妻とか人の妾が生母だったら噂立つ罠
>>390 適当に断片的な単語書き散らかしてそれっぽく匂わせるだけのレスが
「教示」できるだけの論理や根拠を持っているは思えないから、だなあ
>>392 ならほっとけば良いじゃない
そもそも確固たる記録でも出土でもされない限り確定できるような話じゃないし
だからこそ噂や想像の域を出ない与太話でしかないんだし。ネタだよネタ
同好の士が想像のネタ話に花を咲かせてるだけ
気になるんなら自分で時間を費やして真偽の確認すれば良いし
それを惜しむんならスルーで十分
単に会話のベクトルが自分に向いてなかっただけでしょ
>書き写してくれ。簡単だろ
他者同士の会話に割り込んで労力を使わせることに「簡単だろ」はないだろ
そういうのはただの痛い人の発言でしかない
見聞きするものすべてが自分に向いてないと気がすまない人なのか
>>393 そうだね、態度が悪かった。ごめん
これで終わりにします
ネタ話で済む話ならいいが
れっきとした事実と考えている人も少なからずいるだろうね。
カタカナ=wikipedia君とかはwikipediaに書いておけばすぐ騙されそうw
記録的に生年が微妙だからそういう想像はされて当然かもな
三国志なんて脳内補完を楽しむモノでもあるし
そういや集解の著作権保護期間が切れるのって何年後だっけ?
意外と盧弼さんは近代の人なんだな。
>>395 信憑性はともかくとして、「ネタ話」と言うのとは違う、伝説的なものではないかと。
別に今の三国志ヲタがふっと思いついたことじゃなくいんだから。
>>398 著作権がどうなっているかは知らないけど、
盧弼が最初に出版したのが57年、現在通行する中華書局版の発行が81年とある
話のネタってことだろ
402 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/16(金) 22:42:15
陸コウってのは凄いみたいな評価だがこいつは北伐しなかったのか?
wikipediaで調べればいいんじゃないかな
>>389 書き写すのは辛いが、盧弼君の主張を書いとく。
・延康元年に武徳侯になったというのが間違い。というか陳寿が改竄したんだろう。
・武徳侯になったのは常林伝注の吉茂んとこに書いてあるように建安22年で15歳が正しい。これなら享年36歳と符合する。
・だから曹叡の父が誰なのか、あとは分かるな?
>>404 この問題の最大のネックは、裴松之が言うように、漢魏交替で暦法が変わっているから
無理に数えて享年35とは言えるが36にはならないということ。
「武徳侯は建安22年」「その時曹叡歳15」「享年36」を全て正しいとすると、
建安は当然暦法が変わる前だから、曹叡の生年は建安8年になってしまうんだな。
つまりギョウ陥落時曹叡は数え二歳。
当時曹丕は五官中郎将にさえなっていないただの丞相の長男。
大姓甄氏の連れ子を誰にも知られず自分の子として育てるのは不可能だ。
にも拘らず、曹叡は曹操に存命中に侯に任じられ、曹丕の元で長く太子にはなれなかったが
他の子と同じく王に封じられており、後継者として長子を推す声も根強かった。
臣下なら血の繋がっていない養子も有り得るが、皇帝の子にこの扱いは有り得ない。
「享年三六」は陳寿か書写した者の書き間違い、
または陳寿が参照した史料が「吉茂が武コ侯庶子に為ったのが22年(これは誤りということに為る)」
「曹叡が武コ侯に封じられたのが十五歳」と記されており、そこから享年を計算したので誤ってしまった、
と見るのが単純で自然だろう。
後者は皇帝の崩御の公文書に享年を書かないものかどうなのか知らないから思い付きだけど。
406 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/16(金) 23:54:51
>臣下なら血の繋がっていない養子も有り得るが、皇帝の子にこの扱いは有り得ない。
ましてその母親は死を賜ってるわけだしね。
>>297の元ネタ
ジョチという名は、中世モンゴル語で「客」「旅人」を意味するが、この名前は出生の事情によっている。
ペルシア語の歴史書『集史』によると、ジョチが母ボルテの腹の中にいたとき、
まだ弱小勢力だったチンギスの幕営が、モンゴル部と敵対するメルキト部によって襲撃された事件があった。
身重の母ボルテはメルキトによって拉致されたが、チンギスの同盟者であるケレイトのトオリル・ハンによって保護され、
ケレイトの幕営地で男子を生んだので、「旅客」を意味するジョチという名を与えられたのだという。
本題に関係ないがこの時曹操はまだ司空だったね
すまんw
>>388 別に集解に袁煕がどうのと書いてるわけじゃない。
そんな書き込みしたら、また誤解しちゃう奴が出てくんじゃないの。
>>399 明帝の父が袁煕だなんて2〜3年くらい前に2chで初めて出てきた話だよ。
まっとうな学者でそんなこと言ってる奴は流石にいない。
>>405 曹芳がまさに「誰にも知られずに自分の子として育て」られてるからな
実例がある
あと、文帝健在時に曹叡を太子に推してたのって誰?
曹叡が一時期平原侯(王ではなくて)に落とされてたことなら知ってるが
411 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/17(土) 01:55:02
流れをぶった切って曹爽の話をするぜ。
曹爽一派が司馬懿に騙されてその警戒を解いた事は史書にもあるが、
司馬懿に対する警戒を解いたと言っても、まだ不十分だったんじゃなかろうか?
司馬懿が耄碌したとしても、その子の司馬師は中護軍に就いている。
普段は武官の選挙を司っているとは言え、中護軍も諸将を統制する官であり、
上司である中領軍が都を離れれば、有事の際に中軍を動かす権限は中護軍にあっただろう。
司馬懿を蹴落としておきながら、その子を重要な、ともすればクーデターを起こす事も可能な職に留め、
大将軍、中領軍、武衛将軍の三者が頻繁に都を空けるというのは危険極まりない。
曹爽は司馬師を見くびりすぎていたように思える。
夏侯玄伝の注に引く魏氏春秋では、司馬懿の死を受けて、許允が夏侯玄に「これで安心だ」と述べたという話があるが、
司馬懿存命中の司馬師というのはやはり見くびられていたのだろうか?
一方で、この注釈において夏侯玄は司馬師を危険視しており、
晋書景帝紀において何晏は司馬師を高く評価している、夏侯玄はともかく、
何晏は曹爽に何かしら進言をしておくべきだったのではないだろうか?
412 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 01:57:28
>当時曹丕は五官中郎将にさえなっていないただの丞相の長男。
>大姓甄氏の連れ子を誰にも知られず自分の子として育てるのは不可能だ。 >
曹叡の場合は、後宮が出来上がっていて情報隠蔽が可能だったという違いがある。
>>409 光栄の三国志9(2003年)では袁煕と曹叡が連鎖設定されてるから、もっと前かも知れない。
確か石井仁の「曹操ー魏の武帝」でも触れられ、サラリと否定されてたから、ネット以外でも言う人がいるのかも。
90年代以降に数々出た三国志本(正史と演義がごっちゃになてるようなやつ)あたりがクサそう。
見くびっていたと言えばそうだろうし、甘かったと言えばそうだろうし、
司馬師だけで蒋済ら司馬懿と懇意の者達を動かせるとは思えなかっただろうし、
ましてや「司馬一派」が皇太后を動かして(これは中護軍には到底出来ない行為だろう)
まで実力行使するとは夢にも思わなかっただろうし。
端的に曹爽らはこの抗争をそんなに深刻なものとは考えていなかったんだろうな。
414 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/17(土) 02:04:50
曹叡の父親については興味無いが、曹丕以外を主張するにしても袁熙は無理があろう。
袁紹の死後、旧袁紹領では、初めは曹操と袁尚・袁譚が、次いで袁尚と袁譚が争い、
曹操が河北を平定するまで戦争状態が続いていたわけだから、袁熙が幽州を固めず鄴に入る事は考えにくい。
仮に袁熙が鄴へと向う事があったとしても、それは必然的に袁尚、或いは袁譚の支援という形になるだろうから、
軍を伴った行動になるはずで、そうなれば曹操や袁尚、袁譚らの戦略に大きな影響を与える事となる為、史書に記されないはずが無い。
だが史書に袁熙の行動を記した箇所は見受けられない。したがって、袁熙は鄴に入っていないという事になる。
なんか書き方分かりにくかったな。
>>412は
>>410へのレスで、「曹叡の場合は」というのは「曹芳の場合は」とすれば良かった。
416 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/17(土) 02:14:09
>>413 これが司馬懿を筆頭とする勢力と、曹爽を担ぎ上げた勢力との争いだったとすれば、
「司馬懿一派」としての動きを警戒すべきだと思うんだよね。
ただ、名士の桓範が逡巡しながらも結局は帝を擁する曹爽に従い、
扶風の名士魯芝も曹爽の元に駆けつけている。
司馬懿の側も何か一枚岩の大きな勢力であったと言うわけではないのかもしれない。
それならば、曹爽が警戒しなかったのもある面では仕方ないと言えるかもね。
曹叡問題まとめ(俺用)
239年享年36才(数え)で崩御(明帝紀)
→ややこしい改暦問題踏まえつつ単純計算で203or204年生まれと考えられる
→曹丕が甄氏を見初めたのが204年8月
→生まれるには早すぎるから子種は袁煕なんじゃね?
ってのが『曹叡父は袁煕説』の発生原因
それの主な反証が
→203年〜204年の間は袁煕が?にいなかったんですよ(袁紹伝)
→だから袁煕が父親はありえないでしょ
(*203生まれだとしたら袁煕父説はありえる)
(*更に別の第三者説も浮上)
他にも『15歳で武徳侯に〜』(吉茂伝)で指すのが曹叡だとすると
203年生説が信憑性が増してくるかもしれない
とりあえずそもそも史書そのものが全編に微妙に悩ます判断のつきにくいいい加減な記述が満載だし
誰がどの部分を書き損じたのか全てが事実なのかどういう解釈するにせよ
それぞれの立場で都合の良い解釈で各資料を修正・補正するしかない問題で
これが正解ってのは想像の域をでない話
結論:中華民は昔から適当
おい、その時代の日本なんて記録すらろくに残ってないんだぞw
適当どころの騒ぎじゃねー
1800年前の人物の生没年について比較検討できる文字資料が残ってるなんてパねぇっス
420 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 09:32:55
当時の中国って妊娠期間とかの仕組みわかってたのかな?
10月10日かかるとかさ。
産婆とかいるだろうし、そういう知識体系は出来てるんじゃない?
>>409 「袁煕の子説」じゃなくて「実子じゃなかった説」ね。
>>423 あるよ。
盧弼はそう言ってる。
曹叡の年齢のところで、「陳寿は曲筆してる。年齢を逆算し、母が死を賜ったことやずっと後継ぎに立てられなかったことを考え合わせて見れば、父が誰であったのか言われなくても分かるというものだ」
って書いているでしょ。
>>424 だから、もっともらしいでたらめを言うと、また誤解する人が増えるから止めろって。
盧弼は、「史書を読んで年月を逆算したり、甄氏が死を賜ったり曹叡がしばらく太子に立てられなかったからといって、
『どの夫人の子か』などと詮索するのは論外だ」と言ってるんだよ。
それはどちらかというと信憑性の問題についての話じゃなかろうか。
世間でそういう憶測が有ったから、わざわざ触れてるんじゃないのか。
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 19:21:01
説というか憶測としては昔からあったんだな
>>425 出鱈目は君だ。
誤解する人がry
盧弼はまず先行する諸氏が「延康元年15歳」に拘泥しすぎて明帝紀の享年36歳を疑うのを批判している。
そして常林伝注の「建安23年武徳侯」と明帝紀の享年36歳が符合することと、「延康元年15歳」については文帝紀の延康元年条には過去のことが混ざっているからこれもそうだ、と言っている。
明らかに明帝は36歳だと言う説を提唱している。
そして、「窃かに謂えらく、承祚(陳寿)この文まことに曲筆たり」とまで言っている。
つまり「延康元年15歳」は明帝の真の生年と父親を隠すための陳寿の曲筆だと疑っているんだ。
次にくるのは「史を読む者、年月を逆推して証するに甄夫人の賜死・魏明(帝)の久しく立ちて嗣と為るを得ざるを以ってせば、すなわち元仲(明帝)誰氏の子たるかを究めるは言わずして喩るべし」
つまり「年月を逆算すれば父は文帝ではないし、母の賜死や太子になれなかったことがその傍証であり、明帝が誰の子であるかを確定させるのは、明言しなくても心の中で明らかになるであろう」という意味だろう。
盧弼はそれまでの「明帝=文帝の実子=享年36歳ではない」という立場の説を全否定しているんだ。
言っとくけど盧弼がそう言っているのであって、俺は絶対にそうだとは思ってない。
アーキモイキモイ
>>428 分かり易い解説お疲れ様です。
俺は漢文駄目だからありがたい。
しかし不思議だな。
>年月を逆算すれば父は文帝ではないし、母の賜死や太子になれなかったことがその傍証であり
太子にはなれなかったが、最終的には後を継いでる。
母の賜死もまったく傍証にはならないと思う。
陳寿が本当に真実を隠したいなら、享年も捏造すればいい話だし。
太子にはなったけど一回廃されただけだったような
>>433 文帝が魏王になった時?に武徳侯になる
文帝が即位後に斉公、ついで平原王になる
おそらく、平原王から平原侯に格下げされる
文帝が臨終の際になって初めて皇太子に立てられ、直後の文帝崩御によって即位
皇太子にはなってはいる。即位の直前に。
ちなみに盧弼は彼が後継者になったことについて、文帝のほかの子は先に死ぬか、東海王のように粗暴とされる奴しかいなかったからだ、文帝の本意ではなかろう、と言っている。
435 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 22:46:48
で?ソウエイがソウヒの子じゃないとなにが面白いの?
異説を唱えるならもっと人の興味を引くような
文章にして楽しませるべきだと俺は思うんだが。
436 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 22:50:49
>>434 他に候補がいなかったと言っても、結局は後を継がせたんだから赤の他人ではないんじゃないかねえ
>>435 明帝の自分で自分を烈祖などと廟号を決めるという超弩級DQN行為の理由が説明つくし、
自分の実子もいたのに誰の子かわからない子を養子にしていた理由も説明つくし、
実子が次々と死んでいる理由も推測できるようになるんだ
面白いじゃん
>>436 曹操のおじいさまは他に血縁の一族がいたのに赤の他人に家を継がせてるじゃん
逆ギレすんなよ……と、思ってよくよく見るとカタカナの人だったのか。
440 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 23:13:51
弱い。そもそも実力派のコテから否定されてるみたいだし。
その否定を覆せるほどの魅力もない。ソウヒとエンキなんて
はっきり言ってあんま魅力ある人物じゃないしね。親の七光り
二人で何しようが面白みはないよ。
やっぱ自分の考えとかを言うときに正史や演義から離れてるときは
どれだけイメージを増幅させて三国志を面白くできるかだと思う。
正史から外れててもその考え方面白いなってのならアリなんだけどね。
>>434 世界史板の方で面白いネタが出てたけど曹叡が一旦太子から廃されて王侯になってるという話があったな
>>438 いや宦官と一緒にすんなよ
>>441 いや、曹叡の(家系上の)先祖の話ですよ?
赤の他人だから家を継がせることはありえない、という証拠はないということ
明帝は父の末期まで一度も太子にはなってないよ
廃されたのは、王位さえも廃されて侯まで格下げされたことを言ってる
他の兄弟よりもさらに一段下に置かれたんだよ
文帝が元気な間は、明帝は一度も後継ぎとして扱われてないんだ
延康元年とされる武徳侯にしても、文帝の後継ぎとみなされていたなら封じられなかったはずなんだ
王太子に立てるべきなんだから
443 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/17(土) 23:48:15
いや、そもそも曹嵩は赤の他人と決まったわけじゃない。
そして、仮に夏侯氏だったとしたら通婚関係にはあったわけで。
また宦官と皇帝じゃ話が違う。
曹嵩の件は檄文で揶揄されたが、曹叡の件なんか蜀呉から批判もなし。
曹丕だって王太子になるまではちょっと間があるし封じられないはずはないって理屈も成立しないだろ
「赤の他人」じゃなくて「赤の他人かもしれない」でしょ。
>>444 意味がわかんないよ
曹丕は王太子になるまでも列侯などになっていない
その間爵位が無いことになるけれど、嫡子はいずれ太子になるからそれで問題ない
いずれ国を返上して太子になるなら、わざわざ封建する必要ないだろ
曹叡はその逆
さっさと列侯になっている
諸侯や列侯から太子になる例もあるにはあるが、決して順当な例ではない
だから、諸侯や列侯になるということは基本的には後継ぎとは見なされていないということ
この時代、養子縁組の力はかなり強力で、年少の実子を差し置いて相続することは確かにあった。
が、それは一般の話。なんの係累も無い別姓の子を皇帝にするというのは無い。
ギョウの落ちたのは8月。その年のうちに曹叡が生まれたのなら曹丕の子ではないのは誰にでも分かる。
ならば曹叡は「袁」と呼ばれていたはずだ。
にも拘らず、(恐らくは甄氏の誅のために)侯に落とされていた可能性はあるとしても、
曹叡は曹丕の晩年を待たずして公・王となった時期が現実にある。
これは嫡子への扱いではないが、他の兄弟と同列であり、后の連れ子への待遇としてはありえない。
てか甄氏がいくら大姓でも、嫡子もいないのに他を差し置いて王后に立てる理由が無い。
加えて陳寿の意図的な曲筆ならば、享年を偽って「34」とすれば良いのだし、
偽らないのならば「35」と書けばよい。36にする意味が無い。
ましてやわざわざ15歳で武徳侯なんて書くのは無益なこと。
まあしかし、
>>440 あんたさー Jominianには姜維擁護で散々世話になっただろ。
知らない振りで「実力派コテ」呼ばわりとかなんなのよ
448 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 00:40:55
>>432 真相を隠したいんじゃなくて匂わせたかったんじゃないの?
匂わせたかったんなら、陳寿は細心の注意を払ったはずで、
わざわざ延康元年の条に「封王子叡為武コ侯」と書く理由は無い。
あ、ごめん忘れてた。
>>447甄氏は曹丕存命時代に王・皇后に立てられたという記録が無いんだった
450 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 00:49:51
つまり、ギョウ陥落前から愛人関係だったってことだな!
>>446 後半はほぼ同意ではあるが、なるほど、臣下たる魏王の子であるというだけの曹丕に
わざわざ更に封邑を割いて侯にしろと仰せで?
そらちょっと無理というか事情違わないか?
魏公・王就任にも漢どころか魏の中枢付近から造反者だしてる状況だぞ?
功績あって完全平定後の論功でなら別だが、無いだろそれは。
>>451 俺446じゃないけど横レス。
そうじゃなく、侯王に封じられるというのはほぼ後継者競争から脱落を示す「冷遇」だということ。
京から離れて外の封国に出るわけだからね。いずれ王太子や皇太子になる人間への待遇ではない。
曹丕は太子に立てられるのは遅かったが、そこまで冷遇されていない。
曹叡は侯・公・王に封じられており、母も皇后ではなかったとするなら、
長いこと曹丕に後継者として看做されていなかったことになる。
というか、字も元仲だからそもそも長子ではなかった可能性が高い。
曹叡が曹丕の次子だったとすれば冷遇ではなく当たり前の待遇ではあるけど。
>>京から離れて外の封国に出る
通例ではそうなんだが曹叡の場合は宮内で皇后の郭氏に養育されてるんで
またちょっと状況がちがうぞ
それは未成年の頃だろう
曹叡は朝士と平素から接触がなかったとされるので、封国に出ていたと思う。
それに外に出ると後継に不利なのは朝臣に人脈が作れないからというのが大きいので、
いずれにしても曹叡は後継者としては不遇な皇子時代を送っていたことになる。
叡ちゃんは皇帝なっても引き籠もり体質だし、接触無くても不思議じゃない
帝位についた後も暫く誰にも会わんし、劉曄としか会話せんし
曹叡のDQN行為を出自のせいにして実子説を否定してるんだから納得しないと思うな
生来の引き籠もり体質だから引き籠もったんじゃなくて
実子じゃないから引き籠もったんだって論調掲げてるんだし
でも曹家って基本的にDQN遺伝子もってるから生まれのせいには持ってくのは難しいだろ
曹操はチーマーだし、曹丕はドSだし、曹彰はKYだし、曹植は奇人だし
458 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 07:52:45
つか叡って吃音だから
人を避けていたことも
父親が後継に最後まで選ばなかったことも
説明つかね?
459 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 09:53:55
>ならば曹叡は「袁」と呼ばれていたはずだ。
ならば曹真は「秦」と呼ばれていたはずだ。
あくまでも太子に立てなかったとか、母親が死を賜ったってのは
傍証、曖昧な状況証拠でしかなくて、
ギョウ陥落と曹叡出生の時期を比べると曹丕の子ではない、って理屈じゃろう。
でもあんまりここで話すことではないと思うね。
461 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 10:52:08
>でも曹家って基本的にDQN遺伝子もってるから生まれのせいには持ってくのは難しいだろ
曹沖の一休さんぶりもDQN遺伝子?
462 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 15:58:06
ソウエイって魏の最後の皇帝だっけ?
>>462 wikipediaで調べてください
それと姓名はできるだけ漢字で書かないと誰のことか判断しかねます
464 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 16:08:25
466 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 17:29:44
だから孔明がもう少し呉と連携取れてれば良かっただけなんだよな。
同時進行したら魏だって勝てなかっただろうし。
五次はきっちり連携している
468 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/18(日) 17:46:15
でも失敗したからな。
もっと完璧に連携して。魏の内部で反乱おこさせて北方民族に叛旗を促して
全方位から攻撃
ぐらいな事をして欲しかったね。天才政治家と言われるぐらいなら。
それは天才政治家じゃなくてテレパシストとかだよ
バカじゃねぇ?
五次は五次で司令官の体調(つまり自分)を考慮してないという
致命的なミスを犯している
>>461 珍しくマトモ人間だったから曹操が期待したんだろw
またキツいキャラが
473 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 18:46:48
なんで孔明は劉備を倒した呉と同盟を結ぶなんて馬鹿な事考えたんだろうな。
魏と同盟結べばよかったのに。
まともに反論する価値も無いが、
まあ、劉備は呉に倒されたんじゃないよ。
「みたいなもんだろ」は無しな。雲泥の差がある。
まぁ蜀陣営からすれば、黄権が魏に降ったのが痛いな。
なにせ曹丕・曹叡・司馬懿が絶賛していた人物だからな。
476 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/19(月) 21:30:26
赤壁後はさ
曹操
劉王章 劉備 孫権
の四つ巴な訳でしょ。だったら劉備はまず孫権を倒して
劉王章と同盟の方が良かったと思う。
孫権なんかよりは信用できる相手。
そんなエサに(ry
ぶっちゃけあの状況で孫氏政権倒せたら大したもんだよ。
たぶん争ってる間に曹氏が南下してくるのがオチでしょ。
いっそ倒せる案を出してくれって話で。
話巻き戻して司馬懿と曹爽の政争の件だけど、
>>411の中護軍司馬師に加えて司馬孚が尚書令であり、蒋済は太尉。
司馬懿も曹芳が即位すると通例実権が無い太傅に祭り上げられたとはいえ、
督中外諸軍事を剥奪されたという記述はなく、現に征伐にも赴いている。
晋書に名を残す司馬懿の股肱達やケ艾・鍾会らの事績を見ても、当時迫害で
官を離れていたなどという人物は殆どいない(何曾くらいか)。
当時曹爽一派が朝廷で専横を効かせたにしても、「曹爽派」と「司馬懿派」の間で
政争らしい政争が起きた気配が無い。
この政変って「司馬懿一派」の不意打ちに近い積極攻勢なんじゃないか?
但し司馬懿を筆頭にして権力を奪取する、というのではなくて、
大方の人間は単に曹爽の専横を排して「政治を正す」ことを目的に参加した攻勢。
と、すれば、曹爽が排除された政治の間隙に「曹爽謀叛の証言」が出てきたことが、
蒋済らにとってさえ不意打ちだったことにも説明が付く。
そこまで言うと曹爽が専横してたかすら不安になってくるな
>>476 その中で最も信用できないのが劉備だからw
あとガチで劉備と孫権が戦ったらほぼ孫権が勝つのは明白
>>479 もっと険悪な関係な例に傅カがいる。
魏志だと穏やか表現だが、晋書の荀の伝に「傅カを殺そうとした」とはっきり書かれている。
王粛が曹爽らを指して「弘恭、石顕の類」と評したとき、
桓範はそれを聞いていたし、蒋済も同席していたんだよな。
なのに桓範は詔勅を偽作してまで曹爽についていった。分からないもんだな。
>>482 なるほど、傅カを見落としていた
当時曹爽が権力を掌握していたのは多分確かで、それを憂慮する廷臣は少なからずいた。
(勿論司馬懿をやっかむ人間もいただろうけど)
曹爽と司馬懿の勢力争いが高じて正始の変が起きたというより、
正始の決起の段に於いて初めて司馬懿が「反曹爽」グループを形成し、
盟主的な立場で曹爽一派を駆逐した、というのが実像に近いのかな。
大方の朝臣は、これで政治が旧に復するとか褒美に預かれると暢気に考えていたが、
司馬懿と司馬師だけがガチだった。これが司馬氏専制の始まりとなる、と。
荊州に間借りした当時の劉備では孫権に歯向かうのは無理だろう
孫夫人が閨房で下女を武装させるのを止めさせられなかったくらい弱いんだから
487 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 14:57:07
孫夫人の話は別だろ。
曹操だって夫人扱いに苦労してたし。
諸葛亮が法正を評した逸話に内外同列として語られているよ
その境遇から脱出させたのが法正だと
489 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 19:08:30
関羽が軍勢三万を号して呉に襲いかかろうとしたのに
甘寧の千人の部隊がいると聞いただけで河を渡れないぐらい
劉備軍は呉には弱いへタレ
その劉備に陸遜いなけりゃボコボコにされた呉
>>489 なんかとてつもない誤解をしてるようだけど、
関羽は三万人いて千人に負けると思ったわけじゃないぞ。
>>484 孫礼伝見てみると、曹爽時代の孫礼と司馬懿の会話でこんなのが。(孫礼が并州刺史となったとき)
司馬
「なんでそんなに不機嫌なのかね。并州に行くのが嫌なのかね。」
孫礼
「そんなことではない。司馬懿殿は伊尹、太公望と同じように魏を支え、帝の委託を受けて万世に渡る勲功を立てる方だと思っていました。
それなのに今、社稷は危機に瀕しており、天下は不安に怯えている。それが不機嫌な理由です」
司馬
「まあ落ち着け。忍べかざるを忍ぶものだ」
司馬懿は明帝から子を託された立場にあるのだし、
潜在的には曹爽に対抗する際の旗頭として
司馬懿が期待されてたってことは有るんじゃないだろうか。
赤壁後の話はスレ違いだぞ。せめて劉備、曹操の死後くらいにしてくれ。
494 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/20(火) 20:29:49
劉備は一体どこで決戦するつもりだったんだろうな。
>>492 確かに曹爽の専横を忌む人間達にとっては、
権威・官位・能力のどれをとっても司馬懿以外に旗手に担げる者はいないと思えただろうなあ
>「まあ落ち着け。忍べかざるを忍ぶものだ」
すげえ意味深w
そもそもイリョウってなんで負けたかとかあんま
解かってないんじゃなかったっけ?
イリョウと赤壁は不思議だって・
>>490 なんかとてつもない誤解をしてるようだけど
劉備は昔小僧扱いした孫桓が守る西陵を抜けずに
もたもたしたあげく呉の狙いの長期戦に持ち込まれ
最後はカチカチ山の狸で全滅に近い大敗だな
陸遜がいなくても普通に負けたと思えるほどへタレだよ劉備は
500 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/21(水) 00:40:17
曹爽一派に排斥された人として他にも盧毓とか鍾毓とかいるが、
彼らや、上で挙がっていた孫礼は揃って明帝の宮殿造営に対して諫言している。
高柔も宮殿造営を咎める上奏をしていて、彼はクーデターの時に曹爽の営を押さえる任に就いている。
詳しく調べてないけど、何か関係あるかもしれん。
それとは違う話だが、ちくま訳の盧毓伝を読むと、畢軌が司隷校尉を免官になっているかのように書かれている。
原文を見ると、「頃之、出毓為廷尉、司隸畢軌又枉奏免官」とある。
まぁ、ちくまのようにも読めるけど、その後に盧毓を光禄勲と為したという記述があり、
畢軌は司隷校尉として曹爽と共に誅殺されているのだから、
畢軌の上奏によって盧毓が免官になったという事だと思う。
501 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/21(水) 22:49:36
「三国政権の構造と『名士』」が届いた。
それによれば、何晏や曹爽の行動もやはり中央集権化を進める為の行為であったようだ。
何晏は吏部尚書として、自らの創出した玄学を、人物評価の、言い換えれば人事の価値基準に据えようとし、
更に夏侯玄は司馬懿に対する意見書の中で、郡中正から尚書へと人事権の移行を提案した。
司馬懿は郡中正が人材を正しく評価し切れていない事を認識しつつも、
更に上の州大中正を置くという方策を採るが、それは曹羲によって批判されている。
また、曹羲は至公論を著して、名士の評価基準の内、最も重視される「孝」を主君への「忠」へ隷属させようと試みている。
正直、曹羲の至公論だとか、州大中正への批判なんかは見落としていたから、
この辺りの事は考える上で大きな材料となりそうだ。
なんだか、曹爽より曹羲の方が優秀そうだ。
>>500 盧毓の件は明らかに盧毓が罷免されたのが正しいね。
ちくまがそう訳してるんだとすると、これはかなり酷い。
そこだけ取り出せば畢軌が罷免されたように読めないこともないが、話の流れからしていきなりそこまで無関係な畢軌が罷免されたという話が入るのはおかしい。
陸遜流罪レベルの誤訳。
名士論の考えはそういう形か。
なんでもかんでも名士で説明しようとするのはあんまり好きじゃないけど、面白いよね。
504 :
か:2009/01/21(水) 23:19:41
いきなりで悪いが
馬岱について
三國志では記述は魏延を切ったくらい
最近
1、字は伯瞻
2、235年に牛金に敗れた
3、謚は武候
の三つを新しく知ったんだが信憑性はいかがなもの?
505 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/21(水) 23:21:48
>>502 翻訳する量が多いし、誤訳は仕方ないとは思うけど、
版が変わらないせいで全く修正されないのは問題かもね。
>>503 名士という考えをどこまで適用させるかは、自分たちで考えなきゃいけないだろうね。
まぁ、曹爽の件は、名士の基盤や権益を守ろうとする側と、
中央集権化を推し進めようとする側、とだけでは分類できないとは思う。
郷里に名声という基盤を持つ、所謂名士と呼ばれる人たちの全てが司馬懿側についたわけではないし、
そういった名士の中でも多くの人が、曹爽の掾属を経験したり、彼に辟召されている。
その本の中で、何晏が冀州論によって司馬懿の出身である冀州を貶めた話が引かれているが、
孫礼が冀州牧となった際、清河と平原の境界争いに曹爽が介入したという記述もある。
両事例とも「冀州」である事は偶然だろうか?
506 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/21(水) 23:32:31
>>504 1と3は随分前に紹介された話だな。
調べたら扶風県郷土志に書かれているようだが、これを編纂した現地の人が何を元にしたのかが分からないとなんとも言えない。
2については晋書宣帝紀にある話。ただそれ以外では見た事が無い。
他史料との矛盾は特に無かったはずなので、否定する材料は無いけどね。
507 :
か:2009/01/21(水) 23:38:35
>>506 レスありがとう
ただ謚が武候てなると相当活躍したイメージだけど記述がないってことはやっぱ早死にしたのかな。
>>507 ちょっとだけ訂正しておくと、「候」ではなく「侯」
509 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/21(水) 23:54:44
諡に関して言えば、諸葛亮が忠武侯であるが、馬岱に武侯などという諡が贈られるだろうか、という疑問が生じる。
また、関羽や張飛、馬超や龐統らの功臣ですら、諡が贈られたのは景耀三年と滅亡の僅か前。
彼らですらその時期にようやく贈られているのに、
何故馬岱のような立伝されてすらいない人物に諡が贈られるのか?
字はともかく、諡に関しては出鱈目であるように思える。
510 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/22(木) 00:58:28
「三国政権の構造と『名士』」の何晏についての所を読むと、
何晏が権力に与るようになってから、玄学が名士に必須の文化的価値になっていったと書かれ、
それを補足するような文脈で、司馬師、夏侯玄、何晏の三者の交流に関する話が引かれている。
ここを読むと、渡邉氏の実際の主張はどうあれ、
「玄学が必須になりだしていたから、後に政敵となる司馬懿の子まで玄学の評価を受けるようになっていた」
と主張しているように読めるのだが、これは肯んじ得ない。
司馬師は夏侯玄の妹を娶ったが、彼女は青龍二年、何晏らが抑圧されている時期に殺されている。
妹を殺されてもなお夏侯玄が司馬師と緊密な交流を持っていたとは考え難いので、
彼らの交流はそれ以前の話であって、玄学が名士の人物評価に組み込まれかけていた事を示すものではないと思う。
また、夏侯玄は曹爽や何晏の一派であったので、曹爽・何晏派と司馬氏の対立は、
青龍二年の段階で既に始まっていたとも考えられるのかもしれない。
晋建国の功臣の多数が魏の功臣の子孫であるように、
魏後期には既に名士の貴族化が進行していたように見える。
故に誅曹爽の前後に司馬氏に付いたのは、魏の封地や大族を抱える者達で、
司馬氏の豪族寛容政策に懐柔されたと看做せるかもしれない。
曹爽の掾属などから転向した裴潜、王沈、荀キョク、王渾、魯芝、辛敞、魯芝、盧欽は
全て地方の大族豪族か魏の高官の子弟になる。
ただ阮籍の父は曹爽の掾属とされているが高官に昇ったとは記されていない。
また鄭沖が寒微の出と明記されている。
曹爽に排斥されたという盧毓、鍾毓も言わずもがな。
孫礼の出自の程度はよくわからない。
しかしながら、魏末晋初の臣には上記の通り魏臣の二世三世が非常に多く、
旧曹爽派晋臣の偏りが優位性を持つのかどうか。
曹爽派で誅された側にも魏の功臣の子弟はちらほらいたりして
今ひとつ決定的なものに欠ける感じ。
ただ、この旧曹爽派の人数の多さは、当初の「司馬氏派」が決して
強い勢力ではなく、曹爽排除後も人心掌握に奔走せねばならなかったことを
よく示してはいると思う。
その懐柔に抗して起きたのが王リョウ・毋丘倹・諸葛誕らの乱ということなのだろう。
×旧曹爽派晋臣の偏りが優位性を持つのかどうか。
○旧曹爽派晋臣の偏りが有意性を持つのかどうか。
ここ誤字ったら台無しだw
あんまり関係ないけど
>王リョウ・毋丘倹・諸葛誕らの乱
なんでここらへんって揃いも揃って淮南方面での事件なのかな。
雍州涼州方面じゃこういう乱が起きなかったのだろうか。小さい叛乱はよくありそうな地域なんだが。
ん、なところで反乱起こしたって誰も助けてくれるわけじゃない、と蜀を舐めてた証拠ではないかな
三国志後半は完全に二強の争いで魏人からすれば呉くらいしかめぼしい敵がいないと思っててさ
揚豫州は呉との国境近くで軍備が整っていて、配されていたのは散号大将軍から三公間近という
魏の重鎮たちであり、反乱すれば成果が期待できたのだろう。
一方関中や雍涼は同時期、司馬昭・孚・望らが抑えてたりする。
他の都督の郭淮、陳泰が結局反乱のようなことに至らなかったのは、人柄なのか、自立の見込みがなかったのか。
その後のケ艾・鍾会は司馬氏の子飼で政争問題は起きなかっただろう(会は結局反乱したけど)。
確かに司馬氏の名前は対蜀戦線のほうがよく見る気がするな。
司馬氏が対蜀戦線と対呉戦線のどちらを重視してたのかそこから分かる……とかってのは憶測すぎるかね。
どちらが「功績を挙げやすいか」というのはシビアに判断してたと思うよ
前線指揮を執るなら確かに難度=評価は対蜀戦線の方が上だろうけど、
この時期の司馬孚や望は前線指揮して功績立てたわけでも無いし、なんとも。
完全に「地方の抑え」役だね。
司馬昭は懿や師の時代には東西に結構頑張ってるけど。
年表的に見ると、諸葛亮の死後曹爽専横から司馬懿の政権奪取、王リョウの乱以後まで
蜀の北伐は縮小期にあって、郭淮や雍州刺史(王経など)ら方面軍だけで防備を担っていただろう。
毋丘倹の乱が起きる255年がちょうど、姜維が実権を握り大軍を起こして王経を破った年になる。
ここで魏は完全に戦力不足となり、長水校尉ケ艾が行安西将軍となって急遽派遣され、
太尉司馬孚が都督関中諸軍事で抑えに入るという大騒ぎになる。
後に司馬望も都督涼雍諸軍事として派遣され、特にケ艾の活躍が目覚しく、
(東方では諸葛誕の乱が司馬昭自身の征伐で一年掛かりということも起きるが)
蜀漢への圧迫が強められていき、263年の蜀侵攻に至るというところか。
520 :
[―{}@{}@{}-] Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/22(木) 22:14:06
以前も言ったが、中央から雍州へと援軍が派遣されたのは249年と254年と255年の三回。
その内、249年と254年は司馬昭が援軍の指揮官として長安に入っている。
特に254年は、徐質が敗れてからの数ヶ月、陳泰は全く姜維に対して手出しできていない。
援軍が来ないと動くに動けないような状況まで追い込まれていたという事だろう。
たぶん魏は呉の事それほどたいした敵だとは思ってなかったと思うな。
呉なんてコウモリ野郎だし。
やっぱキョウイを一番の危険人物と判断してたのではないだろうか。
やはり、対蜀に司馬懿・対呉に曹叡本陣の時代が好きだな。
しかし、実母の甄氏がいればもっと好き。
524 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/24(土) 00:15:32
曹爽の掾属となり、曹爽誅殺後罷免され、その後栄達した者では、
王沈、王渾は太原郡、盧欽は涿郡、魯芝は扶風郡、
辛敞と荀勖は穎川郡、裴秀は河東郡、王基は東萊郡が本貫だな。
特に何処かに集中しているという事は無さそうだ。
王沈、王渾、廬欽、裴秀、辛敞、荀勖らは何れも魏の功臣の二世だな。
また、曹爽の掾属かどうかまでは確認できないものの、賈充や朱整が何晏に用いられている。
王粛が何晏らを激しく批判した際に、彼と議論していたのは蒋済と桓範である事を考えると、
桓範はやはり曹爽らに完全に与していたとは考えにくいし、
鍾会伝付王弼伝の注釈にある、王弼の登用を巡る話に見られるように、
曹爽派内部でも何晏と丁謐が争ってもいた。
曹爽に与する側も一枚岩とは言い難いね。
>>61 264年、歩協、陸抗ら、蜀の混乱に乗じて白帝を攻めるも勝てず
これって白帝って劉備が亡くなった所だよね。
この時は魏がいたの?蜀の残党がいたの?
>>525 蜀の羅憲らが元々守ってた。
成都が落ちて蜀が降伏したあとも、羅憲らがそのままそこを守ってた。
呉が攻めてきて、羅憲らは魏に援軍を求めてる。(結局ゴタゴタして半年間援軍はこなかったらしいが)
まあイメージ的には蜀残党かなあ。
528 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/25(日) 22:28:21
>>525 その時に白帝を守備していたのは、蜀の巴東領軍羅憲。
既に成都は陥落し、蜀は滅んでいたものの、鍾会の乱による混乱で魏から巴東への処置はまだ無かった。
呉がその混乱を突いて進軍したので、羅憲は城を固守すると共に、
参軍を魏の陳騫に送って帰順を明確にして救援を待った。
半年の包囲の後、魏の荊州刺史胡烈が羅憲救援の為西陵へ向かったので、
陸抗らは退いて羅憲は城を守りきる事ができた。
蜀残党というと魏に反抗してるように聞こえるから違うんじゃないか。
うわあ。呉の評価がさらに落ちたわ。ハイエナじゃん。
お前らが援軍送るのが遅れたから蜀が負けたってのに
蜀を攻めるのは早いんだな。
もう蜀がやられた時点で呉が勝てる可能性なんてないのに。
羅憲からすれば、
・永安を死守して魏に降る
・永安を呉に明け渡して呉に降る
の選択で魏を選んだってところか。
532 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/25(日) 22:42:30
蜀からの使者が呉に危急を告げたのが十月、成都が陥落したのが十一月なので、
呉の救援が間に合わないのは仕方ない事だろう。
ただ、もともと呉には蜀に兵を進める気はなかった。
最初の計画は襄陽方面へと寿春方面への出兵だったからね。
呉は263年中に蜀援護の軍を進めたが間に合わず撤退。
その後鍾会の乱を聞いて改めて攻撃の兵を送ったが、
魏からの正式の沙汰が出ていなかった永安の将羅憲はこれを拒守、
魏の援軍が荊州に至る半年間守りきった。
呉からすれば荊州の西と北が敵対勢力の支配下にあるのは
防衛上致命的な問題になるので、動揺しているうちに獲りたかったはず。
この失敗が滅亡へ至る第一歩だっただろう。
羅憲は正式に魏に帰順し、晋将となって「忠烈果毅、才策・器幹有り」と賞賛された。
死後列侯と諡され、晋書に独立の伝が立てられている。
羅憲、wikで見たがコウコウと争って左遷されてたのか。
こういう優秀なのが左遷されてたから蜀は滅びたわけか。
コウコウ派閥が結局蜀を滅ぼしたわけか。ショカツセンもコウコウ派閥なんだっけ。
最悪な奴らが中央にいたもんだな。そりゃ蜀も滅びるか。
後半のほうはチンジュはいい加減に作ってると見た。
コウコウ派もショウシュウを持ち上げるために大悪党に
描いたんじゃないかな。
万が一その時呉が燭を落としてたらその後の展開もガラッと変わるよね
晋に滅ぼされることもなかったかも
関係無いけど羅憲と陳寿って同門の兄弟弟子なんだな
539 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/01/26(月) 01:50:37
>>537 正月の時点で大軍を率いた司馬昭が長安に入り、賈充が漢中を制している。
すんなり永安を突破できたとしても、魏の大軍も四川盆地に入ってくるのは目に見えている。
胡烈が西陵に向っただけで退かざるを得なかったように、
呉軍は連絡線に不安を抱えていたので、益州を制するのは難しいように思える。
仮に永安の早期突破ができても、剣閣を制する前に魏の大軍が南下してくるので、
結局は撃ち破られてしまうだろう。
因みに、呉軍も別働隊を朐忍まで派遣し、武陵太守の孫恢が南浦を脅かしたりしてるけど、
何れも成功していない。
>>535 羅憲は元々巴方面の重要性を指摘していたし
外交官として呉側からも羅憲がいいって要請があったんじゃなかったかな?
別に左遷とは思わん。むしろ適材適所だったかと
イメージ的にが羅憲と吾彦
542 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 23:30:02
543 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 23:33:29
544 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/30(金) 23:35:55
545 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/01(日) 20:59:31
ちなみに孔明政権後は蜀と呉でのいざこざはなかったの?
546 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/01(日) 23:55:24
直接的な衝突は無かったが、まず孫権の皇帝即位について、
蜀内ではこれを批判する意見が多数出て、「同盟を破棄すべし」と述べる者もいた。
次いで244年、朱然や歩騭が「蜀は魏と結んで攻めてくるつもりだから備えるべき」という上疏を行っている。
これは、蜀より帰ってきた使者から、蜀が多数の船を作り城郭の修理をしている事を伝え聞き、
更に243年に司馬懿が皖城を攻めた時に、蒋琬が雍州に出ずに涪に入った事などを根拠にしている。
因みに、孫権は上疏の内容を出鱈目だと判断している。
また、呉で孫綝が権力を握った頃、当時荊州を任されていた施績が、
呉が魏に併呑される事を恐れて蜀に対して白帝の軍を増強するよう要請した事がある。
蜀はこの要請に応え、白帝に五千を派遣して兵力を増強している。
547 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 08:38:36
孫権が皇帝を名乗った時に同盟破棄しなきゃダメだったよな
蜀の大儀名分上さ、エンジュツみたいなもんでしょ
しかもこれを許したから晋が滅んだ後の皇帝乱立の
大混乱を招いたわけだから。
548 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 11:27:21
大義名分にこだわり過ぎて本質を忘れることこそ、愚かな行為なり。
呉建国容認を後世の混乱の主原因として語るなど笑止千万。
ま、毎度のように批判がしたいだけで議論できないだろうからどーでもいーけどw
549 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 18:54:48
孫権が皇帝を名乗った時に、それを認めた蜀の人物は諸葛亮なので
不満がある人は諸葛亮に文句を言いましょう。
550 :
1:2009/02/02(月) 20:07:46
まあ、諸葛亮の責任は重いだろうね。
実は数ヶ月前ぐらいに
「孔明は無能なんじゃないだろうか」
の続編スレで
「蜀が滅んだのは孔明のせい」って
スレをたてようと思ったんだけどこのスレが活発になったのと
別にたてた劉備スレも盛り上がってたので立てなかったんだけど
まあいろいろ考えると孔明ってのは後の時代に
悪影響を与えてるんだろうな。
氏んでしまって何も言えなくなった人間に負の責任全部おっ被せるような奴が
孔明を目の敵にしてるんなら、孔明は後の時代に悪影響残してると言われても
そりゃしょうがないな
553 :
1:2009/02/02(月) 21:28:15
まあいろいろ思うんだけど
蜀を本拠地にしたのって大失敗だったんじゃないの?
あそこすげえ攻めづらいじゃん。だからその後北伐とかで
大苦戦してさ。ケイシュウを本拠地でよかったんじゃないかな。
554 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/02(月) 21:44:55
荊州は呉からの借り物なので_
荊州を本拠地にしても守れない。
魏呉と人口を三分したら何も出来ない。
しかも三方を敵に回したら防御の縦深が殆どない。
退避して荊州南部を首都にしたらなおさら人口がない。
>>1の勢力は鼎立前に潰されました
>>554 劉gのものだから呉のモノってのはおかしい
>>556 もしそうなら劉備の「涼州獲ったら荊州返す」発言は変
誰のものだろうと荊州は呉に必要な土地には変わりない
どっちみち荊州だけってのは無理だろうね
三国志末期とおよび晋の話題以外はスレ違いです。
560 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/02(月) 23:21:10
スレ違いをあまりに厳しく取り締まるのも勢いを削ぐだけだろう。
とりあえず、
>>1は諸葛亮の当初の計画が荊、益二州の領有を前提としている事を知っているのかが問題だな。
>>546で挙げたもので最も重要なものは、施績の行った、白帝の兵を増強して欲しいという要請だろう。
施績の意図は、「績恐呉必擾乱、而中国乗釁、乃密書結蜀、使為并兼之慮」とある。
ちくまでは有事の際の牽制の為としているが、実際そんな生易しいものではないだろう。
魏が攻めてきた場合に蜀が荊州へ軍を送る事を想定しているのだから、
蜀による荊州の併合をも考えていたと見た方が良い。
施績の想定していた事態とは、恐らく孫綝が武昌に来る事であろう。
身の危険を感じた孫綝は武昌への駐屯を願い出たが、孫休はそれを認めてしまった。
施朔らの進言で、改めて張布らによって孫綝誅殺の計画が練られたが、
これが無ければどうなっていたかは分からない。
おっと、なんだか
>>9で挑発された気分だぜ。今の話題は何ぞ?
>>561 車騎将軍劉纂の書がどれだけ巧みだったのかについて
ちょっと話はズレるが、
「胡質は年少にして蒋済、朱績らと長江・淮水一帯で名を知られ」
この朱績と呉の施績って同一人物?
活躍時期的にも、この3者の並列は変な気がするが・・・
>>560 >施績の想定していた事態とは、恐らく孫綝が武昌に来る事であろう。
建業でのクーデター(そしてそこから内乱へ)の可能性はない?
>蜀による荊州の併合をも考えていたと見た方が良い。
もちろん何らかの「謝礼」は必要だろうが、荊州の併合とまで言えるのかなぁ。
それだけの高位の戦略を決定する権限が、他の荊州の重鎮を差し置いて施績にあったのだろうか。
まぁ他の重鎮もこの戦略に関わってるかも知れないが。
第一、蜀側の増兵は5000だ。
あくまで対魏の援軍準備の要請であって、それは荊州禅譲を念頭においての要請だったんだろうか?
呉の左大司馬・施績(朱績)その人だとすると、
その父・朱然が他の二人とほぼ同世代と思われるから、たしかに違和感はあるね。
>>566 閻宇率いる兵が少なかったのは、
その直前に姜維が段谷で壊滅的敗戦を食らった影響があったのかも。
張飛が夏侯の娘を見初めたって話、超絶眉唾ものだよな
劉禅が魏で厚遇されたことのつじつま合わせる作り話にしか思えん
>>564 別人の可能性が高いんじゃないかな
劉曄伝には曹操が寿春まで軍を進めた際の注釈に、
太祖は(劉)曄及び(蒋)濟、胡質等五人を徴した,皆揚州名士であった.
とある。これは、劉曄と蒋済の曹操の元での活躍年代から見て赤壁以前のことと思われる。
呉の施績は270年死去だから、かなり微妙な年代になる。
また、胡質と蒋済は確かにほぼ同世代で、同郷の寿春人。
胡質伝には胡質・蒋済・施績は江淮間で名が知られた、とあり、
胡威伝にも父質は若くして郷人の蒋済、朱績と供に江淮間に於いて名が知られたとある。
でも呉将の施績はおそらく丹陽郡の人で、これは江水の南に位置する。
曹操が招聘した五人の名士の中に同姓同名の施績という人物がいたのかもしれないね。
劉禅の夏侯覇に対する厚遇ぶりは縁者に対するものからくるとも考えられると思うが。
572 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/03(火) 00:32:27
>>566 孫綝が建業に留まったままで変事が起こるとすれば、孫綝による反孫綝派の弾圧か、
或いは反孫綝派による孫綝の誅殺だろう。
行われたとしても、諸葛恪誅殺の時のような形になるだけで、決定的な内乱にはなりにくいと思う。
孫綝が武昌にて蜂起し、荊州と揚州との連絡が断たれる形が最も怖い。
まぁ、実際施績が何を考えていたかは分からんけどね。
蜀が攻められた時も、呉は蜀へと軍を派遣する計画を持たなかった。
施績の父の朱然も、司馬懿の南下に対して蜀軍が雍州に出ず、蒋琬が涪に入った事を危険視している。
同盟国とは言え、領内に軍を引き入れる事が危険であったのだと思う。
だからこそ羅憲も、呉軍が永安を通って益州に入る事の目的が益州の併呑にある事を即座に見抜いたのだろう。
施績も、蜀軍と協力して魏軍を撃退した後、最低でも領土の割譲なくして蜀軍に帰ってもらえるとは思ってなかったはず。
また、施績は大っぴらではなく、密書を送って蜀軍を荊州に入れようとしたのだから、表沙汰にできない理由があったという事でもあろう。
>>569 劉備はショウの隣にある沛国を根拠地にしたことが三度もある
周辺平定か何かで張飛が夏侯氏の一族を捕虜にして
その中に年頃の娘がいても別に不思議じゃない
それに帰順した劉禅が厚遇される理由の大きさに比べれば
夏侯氏の娘を妻にしていたなんて微々たるもんだ
逆に蜀漢で夏侯覇が高位に昇った理由には少しはなるかもしれないが、
そうでなくても夏侯覇の投降というのは重大事件だから
車騎将軍くらいは不思議ではないだろう。
わざわざ辻褄あわせする理由がない。
>>569 劉備が徐州で反乱した時、劉備側に夏侯氏の名前が見える
なにしろ夏侯氏の本貫は劉備が牧やってるし、劉備が本拠にしたこともある
捕虜というより、曹操についていかなかった者や、曹操とは縁が遠い一族が平和裏に劉備に登用されていたことのほうがあると思う
張飛の妻もそういう状況の中で張飛に見初められたのだろう
実質は強奪だったかもしれんが
劉禅ってどれぐらい無能だったのかな。
三国志ではやったことがなにも書かれてないんでしょ。
内政のダメさが削られて書かれてないんじゃないの?
これじゃあいくらキョウイががんばっても無駄なわけだ。
>>575 同僚から猛反対食らってるショウエンの荊州攻めに詔勅出してじきじきに待ったかけたりしてるじゃん
皇帝が内政にしょっちゅう顔を出す方がどうかしてるわ
>>572 孫休廃立か孫綝自身の帝位登極の可能性、あるいは施績がそれを意識した可能性はないのかな?
まあ前者なら決定的な内乱にならないかも知れんけど。
>施績の父の朱然も、司馬懿の南下に対して蜀軍が雍州に出ず、蒋琬が涪に入った事を危険視している。
これに関しては、朱然にしても歩騭にしても、近視眼的な、というか軍人的な分析しか出来ないのかなとも思う。
前線指揮官という立場的に仕方ない面もあるが。
>同盟国とは言え、領内に軍を引き入れる事が危険であったのだと思う。
これはそうだとは思うが、絶対的だとまでは思わない。
呉と蜀の同盟は魏との対抗の前に必要不可欠なものだし、そこでの援軍要請から一気に関係悪化→交戦になったのでは本末転倒だし。
羅憲の場合は、あくまで諸事情を勘案して「呉軍の目的が益州併合」と結論付けたところが大きいのではないだろうか。
>最低でも領土の割譲なくして蜀軍に帰ってもらえるとは思ってなかったはず。
俺もこれは否定しきれないが、本当にそうかなぁという疑問も拭いきれない。
第一、施績はOK出してても歩兄弟はどうなる、少なくとも蜀が施績一人の口約束で動くかという点も気に掛かる。
579 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/03(火) 01:25:52
>>578 孫綝が帝位に昇る事を危惧していたというのは確かにあるかもしれない。
孫綝自身がそういった事をほのめかしているからね。
最も、それ以前、呂拠と滕胤が殺され、孫綝が荊州の牧となった時点の事かもしれないけど。
後段に関しては、仮に施績の考えに領土割譲が無かったとして、
蜀軍が荊州に入り魏軍を撃退した後の対応はどうするつもりだったのか?
金銭にしろ何にしろ、何かしらの物資を与えてそれで済むと考えていたなら、それこそ甘いと思うのだが。
馬隆、陶璜を推す
馬隆と陶璜ってなんか繋がりあったっけ?
582 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/03(火) 02:17:42
>>581 無いと思うよ。
馬隆は西の、陶璜は南の辺境をそれぞれよく統治したので、辺境鎮撫という共通点があり、
晋書の同じ巻に立伝されてるけど、直接的な交流は無かったはず。
誰か晋書のオススメ和訳版教えて!
584 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/03(火) 20:05:16
唐突にすまん
ちょいとゲームスレのネタ振りっぽくなるんですまないんだが、ここなら
詳しい人の意見を聞けると思って敢えて訊かせてほしい
・陳騫、石苞、州泰、胡遵
・田豫、牽招
・王昶、王基
このみっつの枠の中で各々の、総合的なかつ部門別的な優劣を論じるとどう?
面子が不足ならそれぞれ±してくれてかまわんのだけど、この辺の人物って
ゲームなんかじゃ昔はとりわけ似た様な半端な数値になってるんで…
じゃあゲームスレっぽくならないようにレス
・陳騫
西晋建国期の功臣。陳矯の次子
尚書郎から出て太守、相国(司馬昭)の司馬・長史、御史中丞などを遷ったあと、
将軍号を持ち 淮北・豫州・江南・荊州の都督諸軍事を歴任。晋大司馬まで昇った。
若い頃から度量があり、賈充、石苞、裴秀なども自分達は及ばないと認めていた。
地方の任地を累遷し、士庶をよく懐かせ、位人身を極めた。
・石苞
西晋建国期の功臣。
容儀偉麗で小節に拘らなかった。若い頃は小吏でケ艾と同僚。
謁者の郭玄信は自分の応対を命じられた二人を見て、卿相に至るだろうと評した。
中護軍(司馬師)司馬。好色で行いが薄いことから司馬懿は苦言を呈したが、
司馬師は石苞には經國の才略があるとして任用を続けた。
司馬昭が三方から呉を征伐し、東関の軍が諸葛恪に敗れた際、石苞一人が全軍を保って撤退できた。
司馬昭は自分の持節を指し「これを卿に授けなかったのを恨む」と言い、奮武將軍・仮節・監青州諸軍事に任じられた。
諸葛誕の乱では州泰・胡質らを督し呉の朱異・丁奉らを阻み、出兵してきた諸葛誕を大破する。
その後淮南の鎮撫に当たり、勤労し威徳があった。
低い官からの出世した人物であり、同僚に軽んじられたり、讒言を受け罷免されたが恨む色はなかった。
晋の受禅とともに大司馬となった。
ケ艾と同じく農事についての進言もある。
州泰
魏の臣。
石苞らと同じく小吏であったようだが、裴潜の従事になったことから
司馬懿の知遇を得て取り立てられる。孟達征討の先陣として活躍する。
その後9年の喪にあったが、司馬懿は属官の席を空けてその復帰を待った。
王昶に従っての荊州呉攻撃に新城太守として、諸葛誕の乱ではエン州刺史として功があった。
豫州刺史にもなり、各地で功績があった。
用兵を善くし,官征虜將軍・假節・都督江南諸軍事に至った。死後衛将軍を追贈された。
胡遵
魏の将。
安定の匈奴胡薄居姿?の乱に派遣され、これを平定する。
司馬懿の元で諸葛亮の五次北伐を迎撃し、諸葛亮の進軍を阻む。
公孫淵討伐にも牛金と共に従軍する。
征東將軍として諸葛誕と共に呉の東興を攻めるが諸葛恪に敗れる。
後に征東大將軍から衛將軍に昇った。
実は才能主義で低い身分から能力ある者を見出して取り立てたのは曹操よりも司馬懿の方が光っているという
そうだね。曹操が招聘したのは初めは潁川閥、後には名士が圧倒的に多くて、
「出自が低くて軽んじられたが曹操は構わず使い続けた」なんて人物はほとんどいない。
これは動乱の時代で人心を収攬する必要があったためだろう。
逆に司馬一族は曹氏の固めた支配の中で自分の地歩を築くために
高低内外敵味方を問わず人材を集めまくった感がある。
低い官から抜擢した人材が当時の価値観から言って強い忠誠心を期待できただろうし。
590 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/04(水) 23:20:01
個人的な意見で言えば、石苞、州泰は地方の都督としてこそ力を発揮するタイプで、
陳騫は中央にあって皇帝や宰相を補佐する事に本領を発揮すると思う。
胡遵は司馬懿の子飼いの将として長く働いていたが、出世してからは目に見える功が無い。
胡遵は代々武門の家柄なので、後年になって学問をよくした息子の胡奮はともかく、
胡遵自身に政治的な能力は期待できないであろうから、やはり軍人として用いるべき人物だろう。
王基と王昶はまさに万能という言葉が似合う。
軍事においては戦術においても戦略においても優れた能力を有し、
地方の統治においても優れた治績を挙げ、出処進退をわきまえ地方にあっても中央に対する関心を失わない。
王昶は政治軍事に関する論文を上奏し、曹操誅殺の折には今後の政策に関する意見を述べ、
王基は曹操の専横を指弾する論文を上奏し、司馬師が政権を担うと宰相としての姿勢について進言し、
鄭玄派として、経書の解釈について王粛と議論を戦わせるなど学者としての一面もある。
しかしながら、両者とも刺史や都督として官歴の大部分を過ごしたので、中央官僚としての能力が分かり難い。
曹操→曹爽のことでござろうな
>>589 八王の乱における司馬の王家と寒門が個人的に結びつくのは自然な流れか
司馬炎死後〜永嘉の乱あたりまで誰が権力を握ってたのかわからん
こんな感じ?
楊駿→賈南風→司馬倫(孫秀)→司馬冏→司馬穎→司馬顒(張方)→司馬越→王浚
権力の中心がよくわからんほど混沌とした時代だったってことかな。
身内同士によるすさまじい内戦状態だからねぇ。
595 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/05(木) 10:03:54
んー、ジョミアン=とあるサイトにいた『赤龍』??
>>586だが、意見をくれた方々に心から感謝
我儘かもしれないが、可能なら引き続き多くの意見を伺いたい
597 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/05(木) 18:35:49
胡済と合流する予定だったのはいつだったんだろう。
598 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/05(木) 23:14:59
>>593 三王起義以降は、王浚の存在感が圧倒的
中原に野心を持っていたならば、劉淵よりも先に覇権を確立できたはず
(実際、正面決戦で王浚勢力を撃破した群雄はついぞ現れなかった)
王浚が草原世界の盟主的な地位で満足していたがゆえに、中原は荒れに荒れた
まあ、「自己保存」のために異民族と結び挙兵した男だから、天下統一なんて
大それた野望は持ってなかったんだろう
しかし、306年以降は完全に群雄割拠だねえ
司馬越なんて、洛陽に腰を落ち着けれた期間なんてほとんどなかったしさ
司馬越は、乱を何とか収束させて、結果として偶然権力を握った形になって
いるけれど、どう見ても大損ぶっこいてる
599 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/06(金) 00:24:14
>>596 田豫と牽招の比較は少し難しいね。
どちらも北方異民族対策で功績を挙げた人物で、
特に牽招は、曹操の時代に青徐諸軍事となった時以外は、
常に北方にあって鮮卑対策に従事していた。
牽招は袁紹に仕えていた頃は烏丸突騎を率い、曹操に降伏した当初、
使者として烏丸に赴いた時には、公孫康が烏丸に派遣した使者を無礼だとして斬ろうとするなど、
勇敢で苛烈な人物であったと考えられる。
護鮮卑校尉や雁門太守となってからは、従順な異民族は手なずけ、反抗的な異民族はよく撃破し、
田豫と共に異民族同士の離間に尽力するなど、北方の鎮撫に努めている。
田豫は曹彰と共に代郡を征討した際に見せた巧みな車陣から分かるように、
対騎兵戦闘に熟知した人物で、曹丕が帝位につくと護烏丸校尉として北方異民族対策に従事する事になる。
彼も勇敢であったが、牽招と比べてやや軽率な所があり、手勢のみで敵に当たったり、
僅か百騎のみを率いて烏丸王の部落に入るなど、良く言えば豪胆、悪く言えば軽はずみともとれる行動に出る事もあった。
しかしながら、地勢や天候、戦況を読むのに長け、青州の軍を指揮した際は、
遼東より帰還する呉軍船団の上陸地点を読んでこれを撃破したり、
孫権が合肥新城を包囲した時も、戦況を判断して時宜に適った上奏を行い、
逸る満寵をよく抑える事に成功している。
辺境統治における牽招の名声は田豫に次ぐとされており、
田豫の方が辺境統治以外の功績も多いので、総合的には田豫に軍配が上がるだろうとは思う。
>>595 残念ながら、俺はJominian、或いはJomini以外のHNを用いた事は無い。
600 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 00:41:59
魏って内部ゴタゴタだったのによく晋に移りかわれたな。
エンショウの息子二人は争ったわけだし
司馬一族が皇帝になろうとした時に曹派が大規模な戦闘したりしなかったのか?
>>600 それは多分逆
袁氏の場合、袁紹の求心力がまだ残ってたから息子をそれぞれ立て、そこから分裂した
魏は曹氏(皇帝)とそれ以外の間に対立構造があったから、曹叡が臨終になるやいなや曹氏以外への求心力が働き始める
司馬一族はその求心力を上手く使った
魏はゴタゴタだったから簡単に晋に乗っ取られたというべき
602 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 01:05:02
けど魏ってさ曹家の親族とかも結構重要なポストついてるでしょ
カコウ一族とか。カコウハは蜀に逃げたりしてるけど。
親族まで見捨てたとなると、なんかね
>>601 そうかな
袁紹の求心力が死後も長期間維持されたのは、
袁紹が領土の大半を保ったまま病死したからだろう。
この時袁氏は、国力においては曹操をまだかなり凌駕していたはずだ。
袁尚と袁譚の分裂に乗じた曹操が、それを力ずくで捻じ伏せて支配権を奪うわけだが、
それでも度重なる遠征をして五年を要した。
司馬氏の政争はそれより遙かに難航した。
曹叡の死後、権力を握ったのは曹爽であり、その繁栄は非主流派が眉を潜めるほどだった。
司馬懿はその劣勢から不意打ちで権力を奪取したが、その後禅譲に至るまで、
曹魏派の重臣達の叛乱の平定、廷臣の慰撫取り込み、子飼の部下達が佐命の元勲足りえる
ようになる十六年の時間を必要とした。
魏末の「内部ゴダゴダ」というのは、司馬氏が専制を強化していく過程に生まれた軋轢だ。
晋を建てるための、言葉は悪いが「旧時代の膿」を掻き出す作業を司馬氏が行ったものであって、
元からあった混乱に司馬氏が乗じたのではない。
羅憲厨は羅尚の評価はどう思ってるの?
605 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 07:38:43
シバイは簒奪の意志はあったんだろうか?
政敵と戦ってるうちに権力握っただけなんだろうか?
よくわからんな。
なりゆき
十分すぎる上昇志向が有ったのは確か。
将来的に簒奪になるまでのルートも見えてただろうと思う。
帝位に対する意識があったかというと「否」じゃなかろうか。
ただ、己の死後に息子たちがそれをやるだろうとは当然考えていただろうけど。
夏侯玄と司馬懿の九品中正法についてのやりとり、
あるいは曹爽打倒後の司馬懿による州大中正制の創設からも推測できるとおり、
九品中正法は建前とは異なり、後世で貴族社会を形成していった名士たちに有利な制度。
それに気づいて危ぶみ、帝室の力を保持しようとした曹爽一派の力を削ぐ(倒す)ことは、
九品中正法によって魏の官僚制度を牛耳る者たちにとって必要不可避なことだったと思う。
九品中正が豪族名士に有利な制度、なのではないだろう。
中正は漢代の郷挙里選の弊害を踏まえて、地方豪族の力を削ぎ落とし
中央集権を図るための、当然350年後の科挙などと比べれば不完全ながら、
当時最大限の試みだった。
図らずも当の豪族名士司馬懿の台頭によって制度は骨抜きにされ、試みは無に帰した。
これらの司馬氏によるいわば地方主義によって、征伐の負担や重罰・苛政が指摘される曹三代から、
「煩苛を除き、平恵を布く」と評される時代へ移り変わる。
司馬氏が豪族達の負担を軽減して人心を得ようとしたことを示すだろう。
これによって晋は貴族・皇族の力が非常に強い王朝になり、早期瓦解の要因となるわけだけど。
九品官人法の運用状況を鑑みると、司馬仲達が手を加える以前から
豪族や名士に有利な制度だったのは否定できないのではないかなと思いますが。
たしかに制度の枠組自体は郷挙里選からの脱却、すなわち豪族の影響を排して
権力の中心であるべき曹氏のために役立つ有益な人材を発掘するというもので、
従来の縁故・品性主義から能力主義への転換を図る画期的なものだったのは紛れもない事実です。
ただ、現実としては肝心の中正官を豪族がかなりの割合を占めていたので、
漢代同様に豪族、そして彼らの支持を受ける名士に有利な運用がされていましたよね。
現に、本来の理念で運用したい側に属する夏侯太初が
その対極に位置する当代随一の権力を持つ名士たる司馬仲達に対して、
その点を問題点として指摘しているという記録が残っていますよね。
州大中正を設置した司馬仲達は決定的なダメ押しをしたに過ぎないのではないでしょうか。
穿った見方をさせていただくならば、そもそも
九品官人法を建議した陳長文その人だって当代きっての名士だったんですもの。
だからこそ当時としては最大限の試みだったんだよ
612 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/06(金) 20:48:34
けどシバイって最初は隠者を気取り
誰にも仕えなかったんじゃなかったっけ?
孔明気取りだったのかもしれんけど。
>>610 渡邉氏とかの名士論だとそんな感じの見方だったかな。
>九品官人法を建議した陳長文その人だって当代きっての名士
曹操が荀イク、崔エンらと対決し、曹植を後継にと動いた名士との戦いは、
結局曹操側が折れて曹丕を後継に。名士側の勝利となり、九品はまさにその勝利の賜物だと。
曹丕と曹植の後継争いで、なんで「名士」達が曹丕派に付いたなんて言えるんだろう
曹植が積極的に曹丕を追い落とそうとしたかは不明だが、
建安年間には両者とも広く交際を持ち名高い人物が双方の候の掾属になっているのに。
曹丕が王太子になって以後、わざわざ曹植の文学などから引き抜いて曹丕の属官へ移し
影響力を強化せねばならなかったほどだ。
曹植が勝っても魏の政策に大差が付いたとは思えない。
>>607 司馬イは丞相位を固辞してるから多分ないと思う。
曹操とならぶ意志があるなら受けてるはずだ。
息子どもの暴走は関与せざる所だろう。
>>613 曹植側だって楊修っつー大物名士が付いてるじゃん
>>614 ちょっとざっくり言いすぎた。渡邉が述べるところはこんなところ。
曹操が名士層との対立のなかで、名士層の基盤となっている「儒」に対抗するものとして「文学」を積極的に宣揚した。
ところがそうしたことによって、後継者問題に影響が出た。
「文学」において優れた曹植を建てることによって、「文学」を「儒」に代わるものとして確立できるのではないかと考えた。
一方で建前論を推した陳羣らは曹丕を推す。
曹植を建てるか曹丕を建てるか曹操は迷ったが、結局名士層との対立を避けようと考えて曹丕に決めた。
で、曹丕は自分を支援してくれた連中に借りを作った形となり、
曹操時代と比べて名士に巻き返された形になった、と。
曹丕を名士が支援した、というよりは
文学を基準に曹植を建てるということが名士への間接的な攻撃だったと解釈するのだろう。
曹植なら直ぐ曹叡を太子に立てるな。
619 :
617:2009/02/06(金) 23:14:36
ついでに話題の九品中正については
・陳羣が九品中正を制定させる(名士側の権力強化)
・曹爽、夏侯玄らは九品中正の名士に有利な部分を覆そうとする
・司馬懿クーデター 州大中世の制度を提案して名士層の支持を取り付ける
としてる。
九品中正については、理念はともかく実施上では豪族に有利になるであるからこそ受け入れられたのであり、
州大中世はまさに
>>610が言うように駄目押し(群中正の上官を作り、その官位を独占する貴族が生まれる)となったのだ、という解釈だね。
>>619の
>(群中正の上官を作り、その官位を独占する貴族が生まれる)
の部分はちょっと間違えた。除外してくれ。
>>615 司馬師、司馬昭も固辞し続けてる
司馬一族は曹操を反面教師にしたんじゃないかと思ってる
簒奪の意志が無いなら、皇族監禁なんてエゲツナイことまでやらないよ
622 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/06(金) 23:59:43
高堂隆は死を前にして、朝廷の内にある鷹揚の臣を防ぐようにと述べている。
胡三省によれば、これは司馬懿を指すようなので、それに従うなら、
この頃既に司馬懿の台頭著しく、魏室の帝位も危ぶまれるほどだったと言える。
高堂隆のこの上奏から分かる事は、高堂隆も曹叡の宮殿造営を諌めたが、
それは司馬懿らが行ったように、廷臣や民衆の怨嗟を自身の勢力拡大に繋げるような所業ではなく、
むしろ司馬懿らに付け入る隙を与えないようにする為の進言だったのであろう。
宮殿造営を諌める高堂隆の数々の上奏には始皇帝の例などを引き、
権力の乱用によって天下が覆る事を憂う内容に溢れている。
習鑿歯の言うように、高堂隆は明帝に対する忠義で溢れていると言えよう。
>>617 文学を積極的に宣揚したのは寧ろ曹丕じゃ・・・
曹操の時代、既に丞相府や魏王国の人事は名士に牛耳られてた
曹植を押してた連中と曹丕を押してた連中を比較してみればいいと思うんだが
曹植は曹氏と縁の深い丁氏や豪族として四世太尉で有名な弘農楊氏の楊脩に推薦されてて
どちらかというと旧来から物持ってる連中が取り巻きに付いた感じ
豪族や名士で曹丕にくっ付いていたりする奴もいたからあくまでもそういう傾向があるってだけなんだけど
豪族対名士の対立構造とかじゃなくて曹丕に味方した人間に恣意的に人事を操れるようにした法律という見方も出来るんじゃなかろうか
この時代、豪族と名士は限りなく同質に近い存在。
なので、豪族と名士の対立というのは起こらない。
ではあるけど、名士というのはその名の通り「名のある士」のことであり、
豪族で有利な生まれの者も、貧窮から自力で名を挙げて招聘された者も、
父祖が高官で親族の故吏に引き立てられた者も、全部名士になってしまう。
要するに後漢末・魏晋の宮廷はどっちを向いても名士だらけ。
史書に名が残るクラスの著名人なら尚更だ。
派閥対立を論じる時には濫用すればどうとでも便利に論じられてしまうから、
使用には慎重を要する語に思えるな。
豪族は名士だが名士は豪族とは限らない
>>617 曹操は儒教的名士を多く辟召して基盤を固め、
自身も仇敵になった旧友袁紹に態々哭礼し、他人の義挙を重んじるなど
儒教的色が濃い人物だ。
逆に曹丕は三公の災害罷免を取り止めにするなど実際的な面がある。
多様な出身の朝廷名士達が挙って儒教的倫理の一部に過ぎない
長子相続の建前を遵守するなどとは全く思わないが、そうだとしても、
曹操が儒教脱却を目論見、それに抗する名士勢が曹丕に付くというのは
アベコベの展開に見えるなあ。
629 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 03:50:13
>>627 「豪族は名士だが」
これもそう言えるのかなぁ?
名のある(有名な)士という意味では名士だろうけど、
その名が肯定的な作用をもたらなさければ意味はない。
例えば焦征羌は豪族であり、役人の経験もあったが、
態度が無礼であって、歩隲と共に頼って来た衛旌が憤慨してる。
そんな焦征羌が豪族としての財力以外に、「名声の力」や「名士間の結び付き」を持っていたとも思われない。
李典なんか結構大きい氏族だけど、名士って感じじゃないな
631 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 08:55:22
>>628 曹操は反儒教じゃなかったっけ?
コウユウの件とかあるし。
蒼天の読みすぎだ
実務能力がほとんど無に等しいのに自身の政策批判しかしない官僚がいたら
罰されるのは当然だろ。反儒とは関係ない
儒教ではなくて名士との対立でしょ。
>>628 政権のためには名士の協力が居る。
その上で強すぎる名士の力を削ごうと動こうとしたけど、
結局名士の協力が無ければ立ち行かないから妥協したというのが曹操の動き。
政略上の問題なんで、かつての曹操が儒教をどう思ってるかは別に関係ない。
問題は儒教ではなく、儒教的な名声を背景にした名士。
むしろ前半期の曹操は積極的に名士層の支持を取り付ける必要が有った。
635 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 11:39:41
名士の協力といっても名士だって一枚岩じゃないし、
任官を拒否するような力も気概もほとんどなかったと思う。
>>631 孔融は孔子の子孫だけど彼自身は必ずしも儒家というわけじゃないよ。
不肖なら父を捨てよと禰衡に教えたため、儒家の倫理に背くものと曹操に咎められている。
>>632 それこそ漫画の読みすぎではないかな。
孔融は曹操の野心を読み取って簒奪を阻止しようとしていたから殺された。
というのが後漢側の史観。
つーか能力がないとか政策批判されたから殺したって、曹操を馬鹿にしすぎ。
>>629 名士間の対立は別に珍しくないでしょ。
歩隲たちと違って高名で身分のある名士への対応は丁寧だったとも考えられる。
「豪族としての財力」と「名声の力」や「名士間の結び付き」てのも分けるのは難しいと思う。
ただ豪族って一個人をさす言葉じゃないから「豪族は名士」はおかしいかと。
638 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 16:09:00
けど曹操の遺言も反儒教な所あるし
才能があれば悪人でもいいみたいな事も言ってるからさ。
反儒もあったんじゃないの。
>>638 薄葬のことなら漢の明君文帝のやったことなので、儒教の中で推奨はされてなくても「反」というほど儒教側が否定するような内容ではないよ
個人の思想としての反儒はおそらく無いだろう。
権力争いの過程で士大夫からの支持を取り付けつつ、士大夫の権限を削ろうという動きに出たのだろう。
曹操には儒教に囚われ過ぎるのはよくないという思想はあっただろうな
かと言って儒教を撲滅するほど激しくもない
その辺は国家運営する上で適正のバランス感覚だったのでは
>>638 そこで引き合いに出されてる陳平の主公も儒家のレキ食其を重用してる。
反儒とかじゃなくてさ、要は儒家でも儒家じゃなくてもどっちでもいいってことだろう。
ちなみに薄葬の遺命ってのは魏書の捏造で、実際には(ry
反儒ってのはどっちかというと「俺は明君だから廟号は烈祖ね」って言い出すことの方じゃね
>>638 才能があれば悪人でもいいみたいな事の前置きは
「本来なら一番大事なのは儒教の徳だけど今は緊急事態なので」だぞ
反儒どころか儒教最優先
そういう部分の発言は周囲を気にしてのものだから
曹操個人が反儒だったかどうかなんて史書の少ない記述からじゃ分からんぞ。
が、少なくとも曹操の私生活はそこまで儒者に非難されるものではなかったのだろう。
646 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 18:11:47
まじで?じゃあ蒼天航路で言ってた、
反儒教を進めるために文学を持ちあげたってのは?
蒼天は漫画でありフィクション。
少なくとも馬鹿正直に史書を読んでもそういう解釈にはならない。
学者先生のなかにはそういう説を唱えてる人も居るけど、定説でもない。
蒼天はそういうのを参考にしたんだろうけど、娯楽作品としてかなり誇張してある。
蒼天の作者が
>>617の論文を読んで流用したんだろう
文学の宣揚の初出は95年とあるから不自然じゃない
定説じゃないといえば定説じゃないが、トンデモ扱いされるものでも無い。
650 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 18:34:59
へえ。蒼天航路が面白いからあそこあたりは無条件にそういうものと
思ってしまっていたな。
そういえば北方三国志では儒関連ほとんどでてきてなかったな。
曹操は仏教徒みたいになってした。
北方三国志は単に娯楽小説でしかない
もっとも北方自身がそのあたりの考察自体を放棄してる感じもするが
蒼天は誇張や歪曲はあるけど、積極的に史実ネタを持ってくるからね。その正しさについては別として。
北方は普通に北方の小説だよなあ。
史実に忠実に漫画や小説を書くのが決して偉いわけでもそうあるべきでもないが、
蒼天は曹操の性格からして全力で「蒼天ワールド」だしね。
「史実通り」とかいうなら性格だけ劉備と曹操交換した方がいいw
図解雑学三国志でも
>>617の説は当然の事実のように言われてたな
一つの説なのに初心者が観たら「そうなんだ」とそのまま納得しそう
横光、李志清、蒼天はありだが、
あれが全てだというのは話がややこしい。
>>654 それはただの歴史初心者じゃなかろうか。
別に名士論は平勢みたいにトンデモ学説じゃないんだし。
基本的には従来の豪族論に「名士」って概念を導入したってもの。
昔は興味あって色々調べてたけど、最近はどうなってるのか分からんなあ。>名士論
659 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 20:22:51
>>653 史実の曹操、劉備像ってどんなん?
蒼天曹操は完璧人間にかかれてたけど劉備の方が
完璧人間なんか?
曹操は食事中に笑い転げて食器に顔面突っ込むと言われた躁傾向。これは誇張があるだろうけど。
劉備は口数少なく喜怒を表に表さない。
対照的で面白いね
661 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 20:47:26
曹操・・・危険で傲慢だけど創造性にあふれた天才
劉備・・・身分に囚われない、そこそこ慈悲深い、そこそこ優秀なチンピラ
こんな感じだろ。劉備は少年漫画の主人公みたいな性格だよね。
>>661 チンピラではないぞ
儒学を修めた士人だ
曹操の価値観は貴族的で、劉備の価値観は庶民的という感じだな
曹操:兵家、法家、儒家のハイブリッド
劉備:高祖のコピー
という感じ。
劉備には名士を厚遇できる期間があまりにも短かったし、
史書に伝が立てられていないだけで曹操も同郷の古参を厚遇したりしている。
劉備が長年付き従った部下を高位に付けたのは
曹操にとっての夏侯家が存在しなかったことが大きいだろうし。
この時代に軍閥として成功する手法に、それほど選択幅はないように見える。
蜀平定後、関羽でさえ序列的には少なくとも馬超、許靖、ホウ義、射援、諸葛亮の下だったりする。
これに麋竺と簡雍が加わるのは確実。
でも簡雍こそが流浪の末の劉備政権を最もよく現す人物だと言えるかな?
曹操:時流に乗れた英雄
劉備:時流に乗るのが遅かった英雄
>>662 残念。正解は儒学を修めたチンピラ士人だ。
儒学を修めきれなかったヤクザに一票
669 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 22:46:53
射援って曹操配下でそ?
670 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 22:50:40
曹操は治世の能臣、乱世の姦雄だったけど。
劉備は乱世のお邪魔虫だな。
中国の侠と日本の侠は意味が違う
曹操が野心を抱かず帝を支えてたら、もっと早く平和になってたから
曹操が乱世を長くしたともいえるな
673 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 22:55:28
違わん。
人助けが侠。同じじゃわい。
青州にいた時点で既に孔融を青州刺史に推挙できる立場を確立していた劉備の
どこがチンピラだったのだろうか
675 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:10:47
ジョシュウを失った後の劉備ってただの一将軍って感じだったの?
配下にカンウとかチョウヒとかいたから凄い豪勢な感じだけお。
676 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:12:42
>>674 張世平、蘇双の援助を受ける前はチンピラそのものじゃん。
途中から公孫サン、田楷、陶謙の与力として活躍してるけど
678 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:15:13
チンピラというかなんというか。
679 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:18:18
とにかくかっこ良かったんだよ、劉備は。
関羽っても曹操は張遼・于禁らと互角の地位しか与えなかったわけだから、
劉備の高名に比べれば雲泥の差がある。関羽の評価は当時そんなもの。
いやこれは一介の部将にはもの凄い待遇だけど。外様武官の最高クラスだもんな。
劉備というのは、呂布に取っては西方最大の要所である小沛を
自前で防備させるに足る人材で、曹操にとっては逆に対呂布の最前線を任せ、
呂布に代わって左将軍に任じるだけの価値がある人物だった。
袁譚にとっては自分を茂才に推挙した恩人なので、礼を尽くして出迎えている。
>>677 いやあ、曹操や袁紹袁術をチンピラと言うのがあなたの価値観だというなら別にいいけど
歴史を読むのに適してはいないかな
682 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:21:13
>>680 袁譚にとっては自分を茂才に推挙した恩人なので、礼を尽くして出迎えている。
誰が?劉備?曹操? 主語がないからわからん。
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:23:35
劉備の功績ってなになのか。
そんなに黄巾をばったばったと斬り捨てたのか。
>>677 劉備がチンピラなら曹操や袁紹も嫁泥棒のチンピラですね
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:26:17
曹操、袁紹は不良少年。
劉備はチンピラ。
>>682 (劉備は)袁譚にとっては自分を茂才に推挙した恩人なので、(袁譚は)(劉備を)礼を尽くして出迎えている。
ほほう、してその話がスレタイとどう関わってくるのですかな?
688 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:29:56
劉備つぅのは何ができるっていうわけでもなく、けんかは弱いし勉強もあまりでけへんし。
でもなんか知らんけど友達だけはいっぱいおったんや。
そういう人物。
689 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:29:58
>>687 劉備という当時の代表的な軍閥諸侯が庶・士に対してどのような求心力を発揮し、
その政権を構築していったかを見ることによって、後漢末魏初の人心的動向を察知し、
三国盛期から晋へ至る「名士」層の志向と変化を把握しようとする流れです。
>>681 劉備、袁紹、曹操みたいなのはどう評価しても君子ではない
かといって小人でもない。だからチンピラ、ヤクザと言ったんだが。
何が気に障るの?
692 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:33:33
劉備をいじめると世間の評判が悪く成る。
でもいじめまくった曹操は立派。
>>691 そのように表現するのがあなたの価値観なら構わないよ
反論もない。お好きにどうぞ、と言っている。
まぁ出師の表を読むとこういう文章を書く
(君主に対して人生意気を感ずる)人物が
中央政権ではなく、地方政権に出てる所が面白いよね。
結局、劉備がそういう人物を好んだというのは大きいかもしれないなあ
師の盧植から始まって、交友があるのは名士であっても品行方正からちょっとずれた人間が並んでる。
696 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:42:47
むしろ品行方正な人間は劉備に近づかなかったから。
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:46:50
劉備と孔明の出会いってそんなにまじめなもんではなかったと思うんだよな。
劉備「なぁ。オイラをネタにおめぇ、やりたい放題してみねぇか?」
孔明「合点。では手始めに三顧の礼って一芝居をうってよね。」
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:48:42
出師の表なんてものは檄文の一種だから。
本当にどう思っていたのかはわからんよ。
>>696 曹魏の風紀委員こと陳羣。
徐州陥落で置いてけぼりにされる。
>>693 「歴史を読むのに適している」価値観とは?
そっちの方が聞きたい
701 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:55:08
陳羣かぁ。たしかにそうだな。
田豫なんかは劉備を見限った口だけどな。
>>698 まぁ統一王朝の始祖には大抵
意気に感じて動く奴がいるわけじゃない。
唐の魏徴とかさ。
そういうのが曹操にはおらんで
地方の劉備にいたりして、三国時代は面白いなと。
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:56:58
劉備ってのは何でもあり、の人間だったんだろうな。
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/07(土) 23:58:18
曹操にはいなくて?
いたかもよ?
郭嘉はどお?
曹操:衛慈、鮑信
孫策:呂範、張紘
劉備:張松
あたりか。
>>700 めんどい。お互いに干渉しない、でいいじゃないか。
オワリ。
707 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 00:02:56
孫策には周泰がいたではないか。
>>704 いた可能性もあるんだけど
出師の表や魏徴の述懐みたいに
読めば納得みたいなモノが残ってないからね。
文章や詩としてこれらが高い評価を受けると
更にイメージはふくらまされるという形になる。
そういう点では曹操は損してるかもね。
これは魏末の忠臣を語る流れ
一押しは王経だろう異論は認めない。
>>699 ああ、呂布の下では呂布に尻尾振って、曹操が呂布倒すと曹操に尻尾振った陳羣か
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 00:18:36
>>706 そうですか。
君子のご高説をお伺いしたかったが残念です。
>>710 州の官吏が刺史や牧に属するのが尻尾を振る行為だとはしらなかった
714 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 00:37:55
715 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 00:38:34
716 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 00:38:38
君子とは。
まず服装だな。
劉備みたいにヤクのしっぽで帽子作ってかぶってたりはせんよ。
>>708 陳寿は公式な正統王朝は魏にしてるけど、蜀の方が本物だった、って視点で書いてるからな
無意識か意図的かはともかく、魏側のそういう話を削ったり小さく扱ったり黙殺したりしてるんだろう
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 00:43:56
関羽、張飛、趙雲、糜芳みたいに何度置いてきぼりにされても捨てられても、顔に矢がつきたってても、名犬ラッシーやマルコみたいに千里の道を、いや三千里の道をおいかけてゆかないとなぁ。
劉備のファンとはいえんな。
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 00:49:37
君子、危うきに近寄らず。
720 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 00:51:02
いちいち蒸し返すなよ
>>714 袁渙というのは、このときまでに既に公府に辟召され宮廷に使えたこともある後漢末有数の名士なんだよね。
だから袁術も呂布も憚って害せなかった。
つまり、曹操に膝を曲げなくても良い高名と自負があった袁渙が際立って特殊なのであって、
それと比べて、まだ若く徐州にしか仕えていない陳羣他徐州人が平伏したことに何をか言えないよ。
多分その件の話をしてるんだと思うけど。
722 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 00:54:43
陳群っていうのは誰とでも仲良くやってゆける人間だったらしいね。
723 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 00:59:07
君子は厨房を遠ざく。
725 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 01:03:59
君子は窮すれど乱れず。
>>724 おっと失礼。徐州人及び徐州官吏と訂正する
727 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 01:05:24
陳群は陳紀の息子だったのか。
>>726 豫州別駕から柘令だから徐州官吏でもないんだ
>>721 陳紀は袁渙以上の経歴と名声だったと思うが、どうやら陳紀・陳羣二人して曹操に平伏したっぽいよね
731 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 01:15:46
陳群「劉公も呂公も曹公も皆、等しく漢朝の臣でござりましょう。私もまた漢朝につかうる者にございます。上司がかわったとて何の不都合がございましょうや?」
732 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 01:18:17
>>728 おお、これは全面的にごめん。誤解していたな。
陳羣は豫州で劉備に招聘されて、そのまま豫州に残ったのか。
その後茂才に推挙した豫州刺史というのが誰か興味深いけど、
陳父子が徐州に移ったのはその後で、呂布の客人として避難していたんだな。
しかしこの逸話、袁氏世紀だから袁家の譜伝かちょっと誇張があるかもね。
734 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 01:20:54
君子は和して同ぜず小人は同じて和せず
陳群は袁術派?
袁術派かは判らないが、
時機からすると勢力を再び盛り返した曹操を避けて徐州に逃げた可能性もあるかな。
当の呂布行ったり来たりしてるし、かなり微妙な時期になるけど。その点の負い目もあったかもね。
楊脩がもう少し見え隠れしてもよさそうな時期ではあるね。
>>731 陳羣と関係ないけど、それは国家に仕える一般則としては完全に正しい論理。
そのような経歴の代表格は張遼…というか何進・董卓・李カク・曹操と政権が移っても朝廷に残った廷臣は数多い。
その中で、自分が悪と信じた専横に抗するか、正義と信じて協力するか、まあなあなあですませるか、個別のケースが存在する。
739 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 01:49:35
君子は和して同ぜず開いてチン!
740 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 09:49:29
劉備がロシュクの元で学んだ経歴ってその後どれくらい役にたったんだろうな。
コウソンサンの所にいれたぐらいか?
741 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/08(日) 14:13:09
小人は同じて和せずで利権有り。
742 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/08(日) 23:50:06
死を前にした高堂隆が最後に行った上奏は、秦始皇、漢孝武のような行為に走らぬよう、
具体的には宮殿の造営や民に対する労役をやめるよう述べたものである。
高堂隆が引き合いに出した秦始皇、漢孝武は、奇しくも劉曄が曹叡を評した際にその輩として挙げた二人である。
高堂隆の上奏を読めば、秦始皇、漢孝武らのような政権運営は、
政権を構成する人々、なかんずく名士層の反発を買うものである事が分かる。
だとするならば、劉曄が曹叡を「秦始皇、漢孝武の輩」と評した事の意図が、
そしてそれを聞いていた多数の廷臣の考えが、単純に考えるべきものでない事が分かろう。
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 00:54:59
たかどう たかし って誰だよ
って普通に思ってしまった。ソウエイの時代の人物なのね。
しらんかったわ。・
744 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 08:07:16
三国志の正史では、曹操が漢王朝を上に戴き、天下を取ろううとして志し半ばで倒れけど、曹否が王朝を追い出さなくで、曹操の教えを受け継いで、封建国家にして地方分権にしてれば、もしかしたら日本みたいに武士が中国にいたかも知れない。
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 08:17:28
ソウヒが皇帝になった理由ってなんだろう?
曹操みたいに皇帝を傀儡にして権力握るだけじゃダメだったのかな?
それでは曹家の権力が法的に保障されない。
「漢室擁護」を掲げる下位の者達に常に脅かされることになる。
皇帝になるより強大な権臣であり続けるほうがはるかに難しい。
一族の繁栄に重きを置き、倫理的にも否定されないこの時代では、
人臣を上り詰めたらその上を狙う以外に道は無い。
それに董昭らのように自身のより大きな栄達を望んでる連中もいるわけで
748 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 18:32:31
三国志のころってのは儒学全盛で曹操もあえて王朝交代まで自分が手を染めようとはしなかったらしい
曹操は関羽討伐が終わって洛陽に帰還したその月のうちに急死だから
あと数年生きたらわからんよ。
実際、曹丕が一年未満に禅譲を完了できるところまでお膳立てが出来ていたんだから。
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 19:12:10
曹操はそんな人ではない!みくびるなぁ
曹操と曹叡みると、曹丕は小物。
>>748 儒学全盛は全く関係ないよ
むしろ儒学は王朝交代を肯定する理論
曹操がやらなかったのは、まだその時期ではないと判断しただけ
その時期ってのは、曹操は孫権や劉備へのリベンジを済ませてから、と考えてたんじゃないかな
曹操は「俺に天命があるなら、自分は周の文王であろう」と言ってる
殷王がいるのに周王を名乗っていて、殷王退治だけを武王に残した文王になぞらえてるんだから、「もういつでも皇帝になろうと思えばなれるんだぜ」って曹操自身も思ってたと思う
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 22:23:09
曹丕、曹叡。
ともに台=楼閣?を築いたことで批判をあびてるんだけどさ。
曹操だって銅雀台をおのれのために造ってる。
そんなに金がかかるんだろうか、台造ったところで。
ただで造るわけでもないだろ?
公共工事みたいにすればいいわけだし。
754 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 22:24:08
曹叡の工事は公共事業説ってちらほら見るね
755 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/09(月) 22:24:20
いや曹操は帝位簒奪なんて考えていなかったと思うよ。
756 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/10(火) 00:36:57
孫礼伝では、孫礼が明帝の宮殿造営を諌めた時は気候が不順で天下に穀物が少なかったとあるが、
曹叡の宮殿造営は太和年間、景初年間まで明帝の治世を通して行われているので、
その全てが飢えた農民へ仕事を与える為の行動であったとは考え難い。
例えば青龍三年の洛陽宮の修理は、三月頃から行われており、
農民救済の為とするには時機を逸している。
当時の経済において公共事業の乗数効果はあまり期待できないので、
財出の効果が地方へ波及するとは考え難く、救済するとしても結局は都周辺の農民に対する施策にしかならず、
凶作が遠方や、或いは広範囲に起こっていたのなら有効な政策にはならないだろう。
太和六年に許昌宮を修理した際、九月の修理開始と共に曹叡は摩陂に行幸し、
十二月に許昌宮に帰還している事を考えると、宮殿の修理にはその程度の期間がかかるという事だろう。
となると、新たな宮殿の建立にはそれを大きく上回る期間を要するという事になり、
造営開始をいつにしようとも、ある程度農繁期と重なってしまう事は想像に難くない。
仮にこれを農閑期における貧困農民救済の措置だったとするならば、
毎年三ヶ月程度の労役を課すにとどめ、工期を伸ばす事で農繁期との重なる事を避けたのだろうか?
いずれにせよ、この宮殿の大造営が名士の反発を生み、
それを束ねて己の権力を強化する機会を司馬懿に与えてしまった事を考えると、
曹氏の天下の維持という観点では失敗だったと言わざるを得ない。
司馬倫の懐刀孫秀と、呉孫一族の孫秀って別人だよね?
前者は奸臣というイメージだし、家柄がよろしくなかったとのことだから、
呉の皇族であり伏波将軍を務めていた後者とはさすがに別人だと思うよ。
759 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/10(火) 23:05:09
鍾会が降伏した姜維を「伯約を中原の名士と比べると、諸葛誕も夏侯玄も及ばない」と評した事、
夏侯玄も諸葛誕も司馬氏に反旗を翻し、鍾会は夏侯玄が誅されるに及んで彼に擦り寄ろうとした事、
孝を重視する世であり、司馬氏も己の権力掌握に孝を用いた中で、
姜維は本意はどうあれ母に尽くす事ができず、鍾会も伝記を著したほど敬愛していた母の喪中に司馬昭の元に馳せ参じた事。
この辺の事から何かを閃きそうで閃かない。考えが繋がりそうで繋がらない。
鍾会の心底に反司馬の意を見る事はできないのだろうか?
そういや司馬氏の親孝行はただごとではない
司馬炎が有名だけど、司馬懿以降みんな親の喪に真面目に服した、と評されてるそうな
そういえば袁紹は親の喪に服しまくったことで名を上げたんだっけな
なんか関係あるようなないような
761 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/10(火) 23:24:36
>>760 その辺は、渡邉義浩氏の「九品中正制度における孝」という論文に色々書いてある。
郷挙里選で最重要視されたのは孝廉だし、皇帝の諡には孝が冠されてるしね。
曹芳廃立の際も、その名目は「不孝」であった事というのもある。
孝を己の権力を行使する為の道具とし、真心より発するはずの「孝」本来の形を歪め、
政治的なものへと変えてしまった事に対する反抗が、阮籍の行った不孝である、という事らしい。
762 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/11(水) 00:34:32
主君に対する忠、父母に対する孝、どちらをより上位に置くのかという事も重要だろう。
明帝は、曹休が母を亡くした折、その喪を早期に切り上げる事を要求し、
解弘という役人が、当時の制度であった喪の百日後に就く役務を病を理由に拒否した時にも激怒している。
忠を孝に優先させようという彼の考えが窺える。
羊祜は司馬炎の孝心篤き事を以って、彼が漢の文帝によって三十六日に短縮された服喪期間に従わず、
必ず三年の喪に服するであろう事を述べている。
それに対して傅玄が、数百年続いた旧制を俄かに改めるのは難しく、
また、君主が服喪期間を改めているのに進化がそれに従わざれば、
君臣の綱が失われ、三綱の道がこわれてしまう、と述べてる。
孝を忠に優先させようとする羊祜と、それに反対する傅玄という構図になる。
曹叡の忠を孝より先にするという姿勢って、自身の父である曹丕との関係に
なにかしらの歪んだ感情があって、それに起因していたりするのかね
俺の個人的な思いかもしれないけど、曹叡に関しては正史よりも演義の
曹叡像の方がより名君なんじゃないかって気もしなくもない
「忠孝」の二つの徳目のうち、「忠」のほうにはあまり立ち入ってほしくないという権力者の思惑も有るかと。
765 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/11(水) 13:38:22
主君が臣下に対して、忠を何よりも尊重して欲しいと願うのは当然のように思う。
曹操も、張魯を降して漢中より帰還した折、殿上で靴を脱がず、宗廟で靴を脱ぐのは、
父を尊重しながら主君を蔑ろにするものであるとして、宗廟で靴を脱がないという布告を出した。
一方で兗州牧であった頃、反乱を起こした張邈が兗州別駕従事であった畢ェの母と弟、妻子を人質に取った際、
曹操に対して「二心を抱かない」と述べながら家族の元に走った畢ェを、
その後捕えた際に罰せず、「親に孝行でありながら主君に忠義でない者はいない」として任用している。
渡邉義浩氏は、これを力が弱く名士におもねらざるを得ない時期と、
権力を手にしておもねる必要がなくなった時期の違いであると述べているが、俺もそうだろうと思う。
魏公の時期の布告にこそ、曹操の本心があるように思う。
曹丕も五官中郎将だった頃、居並ぶ賓客に対して、「主君と父とが共に病篤い時、一つしかない薬をどちらに与えるべきか」という議論を行わせている。
主君と主張する人々、父と主張する人々どちらも多くいたが、
曹丕の長史だった邴原が押し黙ったままだったので、曹丕が自ら訊ねると、
邴原は悖然として父と答え、曹丕もそれ以上追及しなかった。
「悖然として」という言葉から、曹丕の心も孝ではなく忠にあったという事だろう。
>>763 有名な宮殿造営の件も、実際には諸葛亮健在のころからやってて諫言もされてるから、
諸葛亮が死んで安心して始めたという演義の方がまだマシに見えるという
自分の廟を烈祖と言うように決めたことも、なぜか『三国志』ではほとんど言及が無いけど、かなり傲慢な行為と士大夫には映ったと思うんだよね
明帝は優秀ではあっても士大夫的な価値観では暴君と呼ばれる類の君主だったと思う
廟号と諡号の違いはあるにしても、臨終の間際に自分の諡号を
霊もしくは獅ノせよ、といった楚恭王の故事を思い出すな
日本だと後醍醐が指定してたな。
明帝の場合は「祖」だからね
漢では太祖劉邦と世祖光武帝
魏では太祖曹操と高祖曹丕
実質的な創始者だけのもの
(字のとおり始祖を意味するのだから当たり前だが)
自分が生きているうちからそれを指定するってのは、ちょっと普通じゃないと思う
始祖ではないはずなんだし
魏は劉放と孫資
蜀は黄晧
呉は魯班
がいなかったら歴史は変わってたな。
黄皓が居なくても、魏に大ポカが無いなら滅亡は既定路線のような。
772 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 16:01:44
宦官に力を持たせちゃダメって教訓が全く生かされてないのがな。
孔明はなにをしてたんだか。
>>772 歴代統一中華王朝全てに言ってくれ。
中国史における宦官の問題はそういう風に単純に割り切れるものでは無いのだろう。
三国時代では宦官を一番抑えていた魏が真っ先に乗っ取られてる件
>>772 公明亡き後は少しは押さえていたんだよ
董 允がちゃんと押さえていたよ
董 允が亡くなり陳祗が蜀の国政を動かしていく頃からおかしくなってきてるんだ
776 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 18:30:16
董允と董厥って親子なのかな。
董允って人気があって、後を継いだ呂乂は人気なかったんだよな。
そういうと、董允ってすごい人物なようにみえるけど、
官僚に人気があるってことは、実は腐敗を助長させていたっていうことなんじゃね?
逆に呂乂が人気が無いってことは、綱紀粛正を図って宮中の紀律を正したっていうことなんじゃね?
ケ芝が247年ごろ、成都に参内したとき、宮中のあまりの変わりように怒り心頭だったエピソードがあったよな。
そう考えると、孔明亡きあと、劉禅が北伐しろと言ってるのになかなかされなかったり、
ショウエンの足をひっぱったり、成都組と漢中組に挟まれたヒイを悩ませた理由を作ったのは、トウインなんじゃね?
陳祗だって、官職が低いことと、劉禅が親政を始めたことを考えれば、外は姜維と結託し、内は黄皓と結託して
政権を動かしていく方針は間違ってないだろう。黄皓の官位を上げなかったことも、宦官に権力持たせると
ロクなことにならないと陳祗はわかっていたんだろうし。
黄皓がひどくなったのは、後を継いだ董厥の時代からじゃね?
んで、この2人の関係はなんなんだろうね。
>>776 董允と董厥は出身(本貫)が違うから親戚ですら無いよ
なんなのといわれても、赤の他人としか
2人とも荊州じゃねーの?
じゃ関係無いのか。
782 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 19:11:03
陳祗と陳到って親子なのかな。
783 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/11(水) 19:44:28
陳祗と陳到なら、南郡枝江県出身で、父と共に益州の劉璋の元へと移住した董允と、
義陽郡(後漢末では南陽郡に属す)出身の董厥とを親子と考えるよりはかなり近い関係だな。
陳祗、陳到共に汝南郡を本貫とするので、親子ではないにせよ縁者ではあったかもしれない。
しかしながら、豫州時代から劉備に付き従った陳到と違い、
陳祗は許靖の兄の外孫として、流浪して益州にたどり着いた許靖の一団の家の生まれだった。
もっとも、推測し得る陳祗の年齢を考えると、陳祗が生まれたのは益州に辿り着いてからだと思うけどね。
しかも陳祗は幼少に父を亡くしているので、やはり陳到の子ではないね。
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 19:46:03
出身地と本貫は必ずしもイコールではないけどね
もうちょっと珍しい姓ならともかく、「陳」じゃな。
陳祗の父が陳到ならその旨が書かれていてもおかしくあるまい。
787 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/11(水) 21:56:21
董允と董厥の関係は措くとしても、呂乂が尚書令となった後に名声を失った事については考える価値があるだろう。
これは所謂、「寛猛相済」というものだと思う。
司馬徽ら学んだ諸葛亮は、「寛」が行き過ぎた劉璋の治世の後を受けて、「猛」の態度で政治に臨んだ。
華陽国志劉後主志にあるように、大赦を惜しんでいるという批判に対してもはっきりと反論し、
「陳紀や鄭玄に学問を学んだが、彼らが大赦について語った事は無かった」という劉備の言も引いている。
寛は法を緩め、豪族の規制力を利用する事で政治を執る方法であり、
諸葛亮が丞相だった頃より政権内部に組み込まれてきた益州豪族が、
その死を境として、諸葛亮の頃から行われてきた猛政を寛治に改めるよう運動を起こしてきたのだろう。
それが延熙九年における費禕の大赦と、それを批判する孟光の話に現れてくる。
呂乂は、寛に傾き過ぎた政治を見て、「猛を以って寛を済う」事を目指したが、
主に益州豪族の反感を買い、その名声を失したという事だろう。
788 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 23:19:54
賞罰に公平の規準無くしてはなんの政治だろうか。
そういうことがわかっていた諸葛亮ってやっぱすごいよ。
>>784 先祖代々住んでたら引っ越してもそこが本貫になるんだっけ?
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 23:42:02
諸葛亮のした事は猛でもなんでもなくて。
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/11(水) 23:51:08
先祖代々の墓があるところが本貫。
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/12(木) 23:12:48
諸葛家ってさ魏呉蜀に分かれたけどこれって
真田家みたいな方針なのかな?兄が家康について
弟が秀吉につけば家は安泰みたいな。
>>792 特に方針はないと思う
一族のうちある家が南に流浪する羽目になり、他の者は故郷に留まれた
それだけでしょ
794 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/12(木) 23:30:01
列伝最初の、姓・名・字の後にある、「〜の人」ってのは出身地じゃなくて本貫なんだよね。
日本人ももう少し本籍を大事にしてほしいな。
現代的な国家の統合をむしろ阻害するものだけどね
797 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 09:04:07
諸葛一族ってもしかしたら
キン>>タン>>>亮
ぐらいの有能さだったのかもな。蜀に必要な諸葛は
タンだったと思う。将軍タイプの。
諸葛一族で一番地位が高かったのは諸葛恢か?
800 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 11:04:27
諸葛亮だろ
何言ってんだ
荀家と諸葛家は西晋統一後も結構地位を残してるな
西晋で名将の苟晞って荀家と関係あるの?
「苟」「荀」
明らかに字が違うから別じゃね?
荀イクは潁川で苟晞は河内の人だしな
>>797のいう有能さの根拠がよう分からん。
諸葛亮アンチは大抵演義とのギャップで考え違いをしている事に加え、勉強不足である場合が多いのだけれど
中でも
>>797は群を抜いてるな。それとも、一度諸葛亮を無能扱いした手前、考えを改める事が出来ない頑迷な馬鹿なのか。
それにしても諸葛誕が将軍タイプというのは、誕が軍事において有能だと認識しているのか?
オレとしてはギリギリ無能ではないぐらいの認識なんだが。
対呉においては奇襲によって一度敗れている。カン丘倹の乱の際も、見当はずれなところにケ艾を派遣しており、
ケ艾が独断で駐屯地を変更している。
反乱時の行動も、魏の包囲網が水害で崩れるのを期待し、包囲網が完成する前に攻撃をかけなかった。
ゆえに機を見るに敏とはいえない。
魏が自軍を弱く見せかけ、呉からの救援は近いという虚報を送り込むと、諸葛誕は篭城しているというのに物資の消費を激しくしてしまった。
ゆえに智謀があるとはいえない。
さらに食糧不足で投降者が出てきた戦局の中、、援軍と不仲になった事を理由に処刑し、投降者を続出させた。
子飼いからの人望はあったとしても、軍事における統率力があるとはいえない。
諸葛瑾と諸葛亮の例ってむしろ珍しくはないかなぁ。
通謀を疑われてもという危うさだと。
でもそれが無かったのはすげぇ人格が認められていたからだろうなぁ。
とくに瑾さんの。
亮のほうは人格者とも思えないのだが。意地の悪いところも有った人に思える。
でも蜀のトップだからなぁ。通謀も糞も無いか。
喬なんて養子をもらったりもしてるんだね。
荀或と荀しんも敵味方にわかれたけどね。いとこ同志だったかな?
「特にかわった人には見えませんでした。ただあの方が亡くなられてみるとあんな方には二度と会えないだろうと感じました。」
諸葛亮、すごいな。
こんなこと言われるのは「人間として」一級品だな。
809 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 20:09:16
>>808 当たり前の事しか言ってない気がするが。
亡くなっちゃったらもう会えないだろ。
前後抜けているからなw
桓温が蜀を征伐したときに自信満々の鼻高々な彼が
諸葛亮時代を知っている老人に向かって「彼はどんな人物だったのか(まあ俺には及ぶまい)」って訊ねたら
帰ってきた言葉だろ
その老人何歳だよって話だがw
>>804 面白いことに、この時代の諸葛三者って結構似てるところが多いんだよな
三人とも軍将として大任を背負ったが、戦上手の名将というタイプではない。
軍事の管理能力に秀でつつ、三者三様の信望があり、それが将としての強みになっている。
方伯・宰相に適任というタイプ。
812 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/13(金) 21:02:59
けどタンは反乱なのに10万の軍勢集めたんだろ。
決断力もあったし。
あの一か八かのギャンブルに打って出れる能力が
孔明にも合ったら北伐でもっと他の策取れたのに。
決起を優れた決断力といえるなら、諸葛亮も決断してるよな
つ【北伐】
>>1さんがいつも問題にし、最重要視し、諸葛亮を叩く原動力としているのは、
そこから先でどう勝つかという能力ではなかったのかね?
>>808 だよな。本当にあこがれるわ。
才があるのに見せびらかさず、部下を上手く扱って自信を持たせてたんだろうなぁ…
人の上に立つ人間のお手本だね。
815 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/13(金) 23:32:10
まぁ、諸葛誕は軍人としてはあまり高く評価する所は無いだろうね。
彼の場合、尚書吏部郎だった頃が一番有能そうに見える。
魏略の記述でどこまで当てになるか分からないが、
彼や夏侯玄らと共に四聡八達と称されたケ颺はぼろ糞に書かれている。
夏侯玄は有能だったが、四聡八達というのも名声や能力に相当ばらつきがあったんだろうな。
諸葛誕は、本人よりむしろ司馬伷に娘を嫁がせた事の方が色々影響を及ぼしてる感がある。
816 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/14(土) 00:39:51
「呉軍の救援は当てにならないから、戦意のある内に包囲陣地に攻撃をかけて脱出すべき」
っていう蒋斑らの意見を容れないどころか、文欽に迎合して彼を殺そうとする事でその降伏を誘い、
そうかと思えば二ヵ月後には文欽らと包囲陣地を攻撃して脱出を試みている。
結局最後には文欽を斬っているってのもね。
蒋斑らの言う通り、実際九月の初めには孫綝は建業に戻ってるし、
彼らが司馬昭のもとに降った十一月頃には呉の救援は望めなかった。
孫綝伝には孫恩を派遣して云々とあるが、朱異を斬った二日後には帰還しているので、
孫恩の派遣が実際にあったとしても孫綝が建業に戻った後の事だろう。
司馬昭の策に惑わされたってのもあるが、諸葛誕陣営の混乱ぶりと、
追い詰められて判断力を失っていく諸葛誕の姿が見えるね。
諸葛誕の失敗は、篭城戦の難しさを教えてくれているね。
情報の正誤を見極める事も、適切な時に献策を受け入れる事もそうだが、
なにより指揮官が平静を保ち、些細な感情で動いてはいけないという事がだ。
まあ、篭城に限った事ではないけどね。
状況に応じて適切に判断を下すのと、事態の変化に右往左往するのは違うという事が、
諸葛誕の例を見ると良く分かる。
818 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 07:31:46
水滸伝みたいに頑張ればよかったのにね。
誕は、
>>787 諸葛亮って司馬徽に学んだの?
どっかに記述ある?
820 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 18:53:24
呉ってのはここぞって言うときに何も出来ないイメージだよな。
呉がなければ曹操と劉備の物語ってもっと綺麗にまとまってたと思う。
そのときは劉備が208年ごろに曹操に喰われて終了だろ
いつもの子でしょ
>>819 学んではいない。その党派だったのだろうという類推から、
劉表派と反劉表派に色分けして荊州模様を解説しているのが渡辺氏の論。
話は変わるが、後漢書読み直してみると、
諸葛亮が劉備に出会うまで「隠者」志向だったというのは、丸きり出鱈目でもない気がしてきた。
ホウ徳公を非常に尊敬したこと、姉をホウ徳公の息子に嫁がせていることを見ると、
学問と農業とほどほどの交流だけにして、仕官するのは情勢が安定するのを待つ
つもりだったのかもしれない。歳四十にして始めて召されるとかいうのも不思議ではない
時代だから。
ただ、劉表死後のホウ徳公の消息もわからないし、今一根拠に欠けるが。
824 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 19:56:51
ホウ徳公は一族を引き連れて山の中に移住していったらしいけど。
825 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 20:03:18
なんせ字が山民だもんなぁ
>>824 その後どこでどう死んだかは解らないからね
曹操に士官はないにしても、劉表一族が排除されて北方の支配が安定すれば、
野に降りてどこかの豪族や長吏に保護を求めたりしたかもしれないし。
子の山民が魏に仕えたからには魏の勢力圏内に留まってはいたのだろう。
ホウ徳公の隠者ぶりがどの程度のものか判断するのが難しいので、
それを崇拝した諸葛亮も当時どの程度の隠者志願だったのか判断するのは
やはり難しいと思う。
827 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/14(土) 21:25:30
828 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/14(土) 22:13:29
諸葛亮に関しては渡邉氏の話そのままだけど、前提として、
・諸葛亮が、宋忠らによって開かれ左伝を中心とする荊州学を学んでいた事
・荊州学の中核をなす学者として宋忠や司馬徽がいたが、その内でも劉表に仕えた集団と、
劉表と距離を置いた集団が存在していた事
・諸葛亮が劉表と距離を置いた集団に属していた事
というのがある。
尹黙伝から荊州学の大家として宋忠と並び司馬徽の名がある事が分かり、
司馬徽は劉表と距離を置いた襄陽グループの中心人物であるのだから、
襄陽グループに属し荊州学を学んでいた諸葛亮は当然司馬徽の教えも受けていた、という話だね。
それと龐徳公に関しては、妻子を連れて鹿門山に登った後、薬草を採りに行ったっきり帰らなかったと言う話が、
後漢書龐公伝にあるので、劉表や曹操に仕えたという事はないんじゃないかな。
古文学の話で思いついたけど、崔氏譜によると崔州平、徐庶、孟建の「三人は精熟に於いて努め」たが、
「而して亮は獨り其の大略を観た」として、字句字体から古人の意思を精読しようとする古文の伝統に
真っ向から反してるんだよな。
この時代の他の古文系学者というと、馬融から鄭玄・盧植らの系譜があるようだけど、
盧植、鄭玄とは劉備の方が関わりが深ったりする。まあ劉備が学者として通じるほど精通していたかは別として。
司馬徽と劉備が交流があったらしいのもこの関係かもしれない。
でも諸葛亮の方は、襄陽時代の諸葛亮と親善したという人物が、諸葛亮伝側にある数人のみで、
ホウ統、尹黙、向朗などの伝の側には記述が無いことからも、諸葛亮は「荊州学派」他荊州人や北方避難組と
交流があったにしても微妙に距離を置いていた感がある。
後漢書はどの程度信用できるんだろか
831 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 11:03:49
ホウトウって呉にいた時なにしたの?
連環の計は演義の創作でしょ?
まあスレ違いだし、よそで聞けば
最近はスレタイ読めない池沼をいろんな所で見かけるが、流行っているのだろうか?
諸葛亮も厳密にはスレ違いだしな
諸葛恢とか語るかね?w
835 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 17:51:19
>>833 ここに出没しているのは"スレタイ読めない池沼"ではなく、
孔明に批判的なボクってカッコイイでしょ!のかまって&くれくれちゃんだよ。
836 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 18:04:04
蜀が堕ちたのは呉陣営はショックだったに違いないな。
837 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 18:42:27
まさに馬謖ショック
838 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 19:44:46
ゴジョウゲンって勝ってたらドレくらい蜀が有利になってたの?
創作物だとゴジョウゲンで孔明さえ死ななければ魏は倒せてたみたいな
展開が多いけど。
スレ違い。あと五丈原ぐらい漢字で書け。
義務教育レベルの漢字しか使ってないだろ。
840 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 22:19:46
俺の中で方針があって一発変換できるのは漢字
孔明とか曹操とか劉備とかは漢字で
それ以外はもうカタカナでいいと思ってる。
下手に誤字するよりはカタカナのほうがいいでしょ。
841 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 22:27:42
誤字するのが悪い
漢字ぐらい勉強しろゆとり
844 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 22:36:52
いや三国志の人物の漢字くらい大体わかるけどさ
関羽にしたって「カンウ」「換羽」「カンヌ」「かんう」しか変換ないわけよ。
カンで「関」にしてうで「羽」にするというね。なんか文章書くリズムが
崩れるのよね。しかも訓読みで出ない人物とかもいるわけだし。
後、俺はなんかカタカナで書くのが特徴みたいなスレのルールが
出来てるから今さら漢字には出来ないってのもあるし。
>>844 それは君の特徴であって、君に課せられたこのスレのルールではない
847 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 22:40:14
かんうはゆるさん。くわんうにせよ。
辞書くらい導入しろ
849 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 22:41:31
ちょうひもゆるさん。ちやうひにせよ。
850 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 22:42:22
ちょううんもゆるさん。てううんにせよ。
851 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/15(日) 22:42:50
そうそうはさうさうに。
関羽ぐらい普通に一発変換で出るだろ
どんな旧式のパソコンつかってんだよw
携帯ならいちいち辞書登録も大変だろうに。
そんなことより
>>838のネタ振りについて、
おまいらがどう考えてるかの方が俺には興味深いな。
結局そこんとこどうなんよ?
魏の打倒とかアホか
関中の制圧という可能性なら、第1次が1番可能性あった
五丈原で孔明が生きてようが、司馬懿が時給策取るなら時間切れで撤退、第6次に期待で終わり
はい、次の話題どうぞ
855 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/16(月) 07:16:33
シバイを討ち取れてたらどうだろう?
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/16(月) 09:05:23
シバイを討ち取れた可能性は241年の戦いくらいだな。
857 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/16(月) 19:01:59
諸葛亮の命数?
そんなものなぁんの関係があろうか。
短い人生でも本当の英雄は伝説を残すのだ。
858 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/16(月) 19:06:10
徳川家康や毛利元就は英雄じゃないのか
859 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/16(月) 19:08:04
徳川家康?毛利元就?
英雄だけどなに?なにがいいたいの?
860 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/16(月) 19:20:19
孔明は結局後ろで踏ん反りかえってるだけだからな。
キョウイのほうが前線で戦ってるかんじするわ。
魏延だな。
奴がやはり一番の・・・
>>860 総大将が前線に立って突撃とかあり得んと思うが。
>>862 光武帝は即位してからも前線で武器を振るってましたが何か?
それは圧倒的少数派やんか^^;
で?
有り得ないということに対する反証としては十分だろ
総大将が前線に立って突撃は「有り得る」
グスタフかっこいいけど、近視のせいで敵中に突出で戦死はかっこ悪い
>>865 口を挟んでスイマセンでした。
…なんでオイラが責められなアカンのやろ(´・ω・`)
棘のある様な言い方をせんでも、「劉秀の様な例もあるから皆無ではない」
くらいの反論なら余計な波風もたたんかったろうにとは思うわな
tuka諸葛亮は末期じゃないだろ
スレタイ嫁んのか?
じゃ蜀の末期っていつからなのよ?
871 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/17(火) 19:58:28
ゴジョウゲンは末期でいいんじゃねえの。大体の三国志の物語
あそこで終るんだから。。
姜維がケガイに大敗してからが末期って感じ
魏は大勝してからも念のため自重してるんだな。
その後小競り合いして「これはやれる」と思ったっぽい。
曹叡の死後って印象>末期
二陸あたりは晋でいいよね
陸機と陸雲以外にも兄弟がいてびっくりした
ふたり兄弟じゃなかったんか
五人兄弟です
6人でしょ?
晏・景・玄・機・雲・耽だから。
抗の軍を別け継いだのは五人じゃない
?
反論のご趣旨がよくわからないけど、
兄弟は6人で、末子の耽は父の死の時点でまだ年少だったから軍を引き継いでいない。
それだけのことでしょ?
880 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/19(木) 13:21:48
5人でも6人でもどうでもいいじゃん
何が言いたい
私は史書の記載通りのレスをつけたに過ぎません。
気分を害されるような言動をしたつもりは全くございませんが、
どうでもいいと仰るのならこれ以上口を挟むことは致しません。
失礼しました。
こいつは定期的にageてレスを催促するだけの奴だから。
883 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/19(木) 19:01:49
なんか殺伐としてきたな。知識がある人は自分の意見が
絶対と思って人の意見を聞かない傾向があるからな。
だったらなぜその意見は違うのかを解かりやすく説明すれば
いいのに。
兄弟分割って明かに朝廷が陸氏の勢力を削ぐ為にやってるよな
いかにも末期って感じだ(権時代から、世代交代の際に収拾や鉢変え、分割はやってるけどさ)
その路線でいくなら年少なんて言わず六分割もしちゃえばよかったと思うんだが
耽だけ別腹かなんかか
そこは孫呉に限らず、古今東西どの政権でもやることじゃね?
単にそこまであからさまな段階に進んでいなかったというだけだろう。
それから、大司馬荊州牧なんて大臣の領兵を、二十歳は若い息子に
そのまま継承させるなんて尋常じゃない。簒奪直前の権臣じゃないんだから。
むしろ息子達に分割させたことは陸抗の功績と陸氏の影響力に
相当気兼ねした結果だと思える。
そういう事じゃなく
大司馬荊州牧という孫呉の防衛の要を分割させるっていうことが末期だろうと
晋(外敵)に対して危機感を持っていなかったんじゃないかと
あんまりにも馬鹿っぽいけど
晋としても征呉に対しては慎重論の方が大きい雰囲気があったから
自国(呉)が滅亡の危機を迎えるのはまだまだ先と思ってたんじゃないだろうか
>>888 末期というか、それが古代の政権の限界というか。
抗の代わりになれる指揮官も居ないしなぁ
>>888 荊州牧の権限を分割して一家の人間に継がせるわけがないじゃない
>>891 てか、その時の呉では前線にいて魏に対峙していても、
常に後ろからの襲撃、すなわち皇帝からの誅殺を恐れておかないといけない状況だからねえ。
かわいそうだよな…。
>>892 そこら辺は蜀における漢中(姜維)の問題と似たようなモンだろ
軍事的な観点からいえば大軍を指揮できる指揮官が置かれて然るべきだけど
それが続くと半ば独立国みたいになってしまうジレンマ
荊州を(指揮権を)分割してどうやって大軍が防げるというのか
モンゴルが攻めてきた時の南宋と同じで、立ち上がる奴が居ても各個撃破されていくだけだろ
沈瑩は内地決戦を考えていたみたいだが
当時の官制の現実的な問題として、強大な権限を持つポストは
相応の高い権威と信頼を備える大臣が現れなければ置くことが出来ない。
現代的な組織も国家への忠誠心もないからね。
半端な人間を頭に置いても下が言うことを聞かない。
だからたとえば、呉の軍事を皇帝と分けることになる荊州牧は非常置の官。
陸遜(補国将軍)、孫リン(丞相)、陸凱(鎮西大将軍)と陸抗(大司馬)の四人くらいしかいないはず。
陸抗でさえ任じられたのは死ぬ一年前。
荊州での非常時には比較優位者が大都督などに任じられるか、君主自身が出張って総指揮を取る。
呉の地方官制は陸抗の死後常態に戻った、と言うべき。
呉末期に問題が多かろうと、少なくとも荊州牧が常置でなかったのは批判材料ではない。
ついでに陸抗の子らが分割相続したのは陸抗個人に与えられていた兵であって、
荊州所属の守備兵ではないよ。五人は兵を従えてそれぞれの任地に就いたはず。
古代戦でもコマンドコントロールが一括管理されてるに越したことはないな
898 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/20(金) 10:51:13
陸遜・陸抗だって荊州で絶大な権力を握ってたわけじゃないんじゃ?
北には朱然・朱績、西には歩隲・歩協・歩闡がいたし。
あと、歩闡の中央召還もそうだけど、孫晧は地方の重鎮に権力を与えたくなかったんだろう。
まぁその考えは間違ってると思うけど。
というか、孫晧が都で無道なことをやってるからこそ地方の離反を危惧しなくてはいけなくなるんだし。
899 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/20(金) 12:22:11
中国って、最前線の指揮官がいきなり主君によって更迭されたり捕縛されたり処刑されたりってことがよくあるよね。
指揮官のほうも敵とどう戦うかよりも、主君からいかに疑われないかのほうに心を砕いていたりするし。
日本史と比べてそこの違和感が大きい。
いつの時代の日本史と比べて言ってるの?
卑弥呼?
901 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/20(金) 13:10:31
901
902 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/20(金) 22:57:02
三国志時代ってなんか戦術とか進歩しなかったのかな?
日本の戦国時代は刀から鉄砲になったけど
三国志時代はあれだけ戦争しててなにか新しい戦法とか生まれなかったの?
武器は銅から鉄になったんだっけ?騎馬軍団とかいたの?
末期とコウキン退治の時ではどれくらい戦法変わったんだろうか?
904 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/20(金) 23:06:17
人造人間もこの頃だな
戦術や兵器の革新というのは、戦争が多発すれば起きるわけじゃない。
それの元となる技術発展や、兵士の構成要員の社会経済的地位、
教育水準が存在することによって起こる。
経済衰退期の後漢末から三国時代に掛けては難しいだろうね。
ただ、魏呉の戦争によって大規模な水軍組織が進展し、
また晋代以降、中原の歩兵が遊牧民族の騎兵を平地で防ぐための
集団戦術は、諸葛亮の八陣図を基にしているという話はある。
歴史的信憑性はよく判らない。
907 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/20(金) 23:21:40
戦国時代だと三河の兵が強いみたいな評判があったらしいが
三国時代だとどの国の兵が強いとかはあったのかな?
リョフ軍が強かったのは馬が良かったからか?
公孫サンは騎馬隊の規模という点ではかなりのものじゃないか?
界橋では少なくとも歩兵三万に対し一万数千の騎兵を動員している
白馬義従と恐れられた親衛隊は、その能力においても相当なものだっただろう。
恵棟の説に従えば、白馬だけで数千を揃えるぐらいだ。騎兵の規模は尋常じゃあるまい。
910 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/21(土) 23:00:44
911 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/22(日) 00:02:53
>>907 関東は官僚を関西は将軍をって言う感じで関西が軍事的に強い傾向があった
912 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/22(日) 01:14:50
戦国時代は秦の兵は体がでかくて強かったらしいからそのながれなのかな。
三国志末期はどこの兵が強いとかあんま聞かないなあ
中央集権化が進んで地方色が薄れた所以だろうか
>>913 どこの兵も士気の低い奴隷兵士だからじゃない?
特殊な例なのかもしれないが曹爽の青州兵、劉璋の東州兵なんてのはあるな。
あと丹楊なんかは割りと強兵のイメージはある。
まったくスレタイと時代を異にするが。
あ、曹爽じゃなく曹操ね。
青州兵とGMとクライスラーとフォードの労働者組合が被る。
918 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/23(月) 15:21:06
少しちがうかもしれないけれど「烏丸突騎」とかどお?
919 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/23(月) 22:00:50
騎兵でいうなら涼州兵
赤甲軍は何でフ陵群の住民なの?
子供の頃から弩を使ってるとかあるわけねーよな
たまたま何となくか?
地名だからだろう。
つか赤甲軍なんてスレ違いなネタ、この流れで出るほど有名な話だったっけ?
青巾兵よりは有名
藤甲兵は火に弱いよ
924 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/26(木) 00:39:16
赤甲軍自体も弩士だったなんて話はあったっけ?
諸葛亮が涪陵の獽族、蜑族を連弩士とした事と、
漢の時代に彼らを赤甲軍としていたって話はあるけどね。
諸葛亮が彼らを連弩士として用いたのは、連弩を引くのに膂力が必要だったからじゃないだろうか?
獽族、蜑族が漢人より巨躯で膂力もあったのなら、恐らくそうなんだろうけど。
925 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/26(木) 01:35:27
いや、そこまで民族間で差はないだろう。
そもそも連弩は滑車で引くんじゃないのか?
夷狄なんかを無理矢理移住させて兵士なんかにする場合と同じじゃね?
927 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/26(木) 01:57:33
>>925 当時の弩にそんな機構はあったっけ?
普通に、寝そべって翼に足をかけて引くんじゃないの?
とすれば、背筋とかが重要になってくると思う。
馬隆も三十六鈞の弩を腰で引ける者を募集してるしね。
長さ八寸の鉄矢を十本同時に発射するって事は、
威力を持たせるには相当な張力が必要になるから、
元戎は常人には引けないほどの弩だったのかもしれん。
馬鈞さんの手に掛かれば元戎は五倍の性能になるらしいが、
威力が上がるのか、引きやすくなるのかどちらなのだろうか?
928 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/26(木) 19:48:34
ふ陵って猟師さんが多い土地だったんだよ。
929 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/26(木) 19:55:55
>>927 ゴメン。
昔買った歴史群像シリーズ見たけど、滑車じゃなかったわ。
しかし、身体能力に優れてる連中が多いから弩兵に採用した、というのはどうかな。
人種間でそこまで差ができるものか。
そういう特定の地方の人間を採用する場合、身体能力よりも
例えば遊牧民なら生まれながらに馬に乗ってるから騎兵にできる、とか
そういう地域社会の影響のほうが多いのでは。スコットランドの長弓兵とか。
931 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/26(木) 22:32:01
>>930 あくまで推量だし、特に根拠があって言ったわけじゃないからねぇ。
んで、蜑族と獽族が何なのかって少し調べてみたんだが、
獽族の方は分からなかったが、蜑族は漁師らしく、
三国時代以外の時代で水軍として重用されてる例が散見される。
なんだか関係なさそうだな〜、と思ってた所で板楯蛮について調べると、
板楯蛮は閬中の渝水の両岸に多く住んでいて、よく白竹の弩を作り、
秦の昭襄王の時に秦、蜀、巴、漢の境界で猛威を振るっていた虎を殺して功を挙げたとある。
巴西と涪陵では少し離れているが、板楯蛮も河岸に住んでいた事から生業は漁であったかもしれず、
もし彼らが近しい民族なら、蜑族も板楯蛮同様弩の扱いに長けていた可能性はあると思う。
>>924 諸葛亮なら「呉子」は読んでいるだろうし、荀子には不評だったけど
「武卒」的な事を取り入れたかもって事なんかね
933 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/02/28(土) 00:27:44
>>932 呉子は読んだ事あるが、その「武卒」という概念については寡聞にして知らないので、
よければ教えていただきたい。
一応ぱらぱらと読み直したが、よく分からなかった。
>>933 すまない
うろ覚えなので呉子ではないかもしれない
荀子には確かにあるので、そちらを参照されたい
>>934 荀子は手元に無く、内容もすっかり忘れてしまったので、いずれ読む事にする。
荀子のおまんこ
じゅん!じゅわー!
937 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/01(日) 16:59:27
938 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/02(月) 00:16:50
羅憲ロール!
939 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/02(月) 00:25:16
940 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/02(月) 14:39:43
羅貫厨
蜀滅亡時に呉へ亡命した人っていないのかな?
出口は羅憲ががっつり抑えてたからなあ
成都降伏の報が来てパニックになったときに永安から逃げ出した
名も残らない吏民はいるかもしれない
諸葛タンを萌えキャラ化したら受けるのに
蜀滅亡時に呉へ助けを求めた外交官って誰なの?
945 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/04(水) 10:08:57
火事場泥棒で同盟国に攻め込んだ揚句に僅かな敵兵に敗れて逃げ帰った陸抗は親父とは似ても似つかぬ愚将
陸抗は同盟の盟約に従っただけだろ。
というかアホにかまわんでええ
陸抗が動いたのは劉禅が降伏しさらに鍾会の乱勃発前後だから攻め込んだ先は同盟国ではなく敵国魏だよ
年が替わっても本当にまだ羅憲が魏に帰順していなかったのかどうかは史書の書き方からして微妙な問題だろうけど、
おそらく呉は、永安を素通りするための羅憲への餌として蜀漢復興をちらつかせたのだろう。
勿論、それで勝ったからとて蜀漢を元通り復興させるなんてありえないけど。
950 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/03/04(水) 21:42:44
盛曼らが羅憲の元に達した時の記述は、
「外託救援、内欲襲憲(外は救援に託け、内は憲を襲うを欲す)」だから、
蜀の復興と言うより、攻められているから救援するって事だろう。
だが実際には、蜀を救援する為に漢川方面へ出兵する計画を取り止めてるので、
蜀の滅亡を知った上での巴蜀の併呑が狙いだったのは明らかであり、
滅亡を知りつつも、知らぬ風を装って永安を抜こうとしたという事だと思う。
復興をちらつかせたと言うのは、呉が既に滅亡を知っていた事と、
救援を装った所で容易にばれてしまうのは明白である事からの推測だと思うが、
史書にはそういったニュアンスでは書かれていないので肯んじ難い。
あと、
>>946の言う盟約に従っただけというのがいまいち分からない。
救援を装った以上、表向きは従っていると言えるかもしれないが、内実が侵略である事は明らかであり、
羅憲も、「盟に背き約に違え」と呉軍を罵っている。
選択肢としては永安を呉に明け渡して呉に属するって道も有ったけど、リクキーだものな。
952 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/03/04(水) 22:14:23
鍾会の反乱によって混乱しているとは言え、益州には魏兵十数万、蜀兵数万が存在し、
漢中には賈充率いる一万が、長安には司馬昭率いる十万と号する軍勢があった。
羅憲がどこまで益・雍州の事情を知っていたかは分からないが、
ここで呉に与するのは確かにリスキーだね。
呉が泥沼となった益州戦線に戦力を投入し続ければ、荊州や揚州が危うくなるだろうし。
羅憲ら上級幹部の個人的な地位を考えても呉はリスキーだったかな。
魏の元蜀の上級幹部への対応ってどんな感じなんだろうか。
954 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/03/04(水) 23:24:39
例えば、蜀のライ降都督だった霍弋は、交州が呉との紛争状態だった事もあって、
そのまま南中都督として留め置かれた。
羅憲も武陵太守・巴東監軍として巴東鎮撫の任に就いている。
また、平尚書事董厥と尚書令樊建は都に上り、相国(司馬昭)参軍となった後、
散騎常侍として蜀の慰撫に赴いている。
彼らのように、魏(晋)にそのまま任用された人物も認められるが、やはり羅憲の推挙は大きいと思う。
羅憲によって晋朝に推挙され、それによって任用された人物は、
陳寿、呂乂の子である呂雅、費イの子である費恭、諸葛瞻の子である諸葛京、
陳祗の子である陳裕、高翔の縁者と思われる高軌、許慈の縁者と思われる許国、
広漢太守常閎の子である常忌、蜀で県令を歴任した杜雄の子である杜軫などがおり、
多くが蜀高官の子弟。
他にも文立や柳隠、李密、何攀などがいる。
何攀は年齢的に蜀では官に就いていなかったと思われるが、
彼は王濬をよく補佐し、羊コと並び呉討伐の作戦計画立案の中心人物となった。
>>950 その時期の羅憲(晋)側の記述は簡略されすぎてて潤筆臭いのだけど、
264年に入っても羅憲が魏に帰順していなかったというのは、ちょっと日和見すぎて信じがたい。
帰順の旨は成都に伝えても、成都の混乱のため沙汰が無かったというところだろう。
その時期の羅憲に対して呉が「救援に来たよ」と称したとしたら外交的修辞だろうね。
羅憲の立場からすれば、漢が滅びて少なくとも自分の力では回復が不可能という情勢であれば、
主に仰ぐのは魏も呉も同じ。大局的に見れば勢力は魏に有利であり、
しかも自分が魏に帰順したばかりであるとしたら、さらにまた呉に寝返るのは変節が過ぎる。
賈充らの動向を知らなかったとしても呉を拒絶するのは当然の選択だっただろう。
「救援に来たよ」は何でばれたの?
「助けに来たからちょっと国内に軍隊入れさしてYo」
なんて言葉を鵜呑みにする人間には国境防衛できません
958 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/03/04(水) 23:51:41
>>955 それは確かに分からんね。
霍弋なんかは、劉禅の安否が分からないので降伏をためらい、
結局、劉禅が洛陽に着いたのを確認してから降伏の使者を出している。
魏書陳留王紀では、霍弋が魏の禄を食んでいる事が分かるのは九月の詔勅なので、
それ以前ではあっても降伏直後とは言えない為、この件に関しては漢晋春秋の記述を否定する事も無いだろう。
しかし羅憲の方は、永安なので南中と違い道路が険阻という事は無く、
呉と接する東の関門であるから、早期に降伏の使者が来た公算は高いと思う。
実際、襄陽記でも帰順を呉が攻めてきた時点とはしておらず、
あくまで印綬を陳騫の元に送った事が書かれているのみ。
晋書は呉軍が攻めてきたので帰順したと書いているが、
晋書は襄陽記も下敷きとなっているだろうし、この件で襄陽記以上の信憑性を有しているかは怪しい。
思うに、使者を陳騫の元に送ったのは、鍾会の乱で益州が混乱し、
鍾会に申し入れた帰順の措置がどうなったか不明であった事、
混乱した益州を通って都に使者を送るのは難しい事、
襄陽の陳騫を頼る事が地理的に最も永安を救うに便である事、の三つではないかと思う。
959 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/05(木) 00:13:43
真田昌幸みたいだな
年明けて二、三月頃まで南中六郡を維持できた霍弋は大したものだな
陸抗がメジャーになれないのは蜀攻めしてしかも失敗してるから。
羅憲厨の方がむしろ多いかもよ。
呉側が「助けに来た」って言うのは、要は「味方になれ」ってことだよね。
永安側は拒否したけど。
そこを呉の外交謀略的な失敗と評価するのはちょっと厳しすぎるだろうか。
しかし包囲して半年間陸抗は何やってたんだろうか
というか半年も包囲できたのって結構凄くないか
256年01月 【蜀】姜維、大将軍となり示β山へ進出。
256年06月 【蜀】胡シ斉、上圭βに現れず。
256年07月 【蜀】姜維、段谷でケ艾に大敗し成都へ帰還。
256年08月 【呉】孫峻、文欽、呂拠らを淮水方面へ進軍させる。蜀も呼応。
256年09月 【呉】孫峻、突然死。孫糸林が実験を握り、呂拠らに帰還命令を出す。
256年10月 【呉】呂拠、孫糸林殺害計画失敗し、自殺。
256年11月 【呉】孫糸林、大将軍となる。孫憲らの孫糸林暗殺計画失敗。
256年12月 【呉】丁玄が蜀漢に呉の内乱を伝える
257年04月 【呉】孫亮が親政を開始。孫糸林と関係悪化。
257年05月 【魏】諸葛誕が寿春で反乱。
257年06月 【呉】孫糸林、文欽・朱異らを諸葛誕救援へ派遣。
257年09月 【呉】孫糸林、撤退した朱異を斬り、建業へ帰還。
257年11月 【呉】全氏一族が魏へ亡命。
257年??月 【蜀】呉より施績が密使として到着。混乱した呉を併呑する旨の密書を届ける。
永安の閻宇が東征の準備に入るが、果たされず。
258年02月 【魏】諸葛誕、敗死。
258年09月 【呉】孫亮、孫糸林誅殺を計るが失敗。孫糸林、孫休を皇帝とする。
258年12月 【呉】孫休、丁奉らと計り、孫糸林を誅殺。
966 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/03/05(木) 21:12:39
陸抗ではないが、華陽国志巴志によれば、呉将歩闡(歩協)が羅憲を攻め、
その将である唐咨がシュン忍まで軍を進めた事が書かれている。
その後、唐咨は歩協が敗れた為に軍を退いたらしいが。
シュン忍は白帝より100kmほど長江を遡った所にある県で、大小の山々が連なる険阻な土地らしい。
魏に降っているはずの唐咨の名が出てくるのは少々変だが、
恐らく歩協は、白帝の守兵が少ない事に侮り、自ら白帝を包囲しつつ、別に軍を益州に進ませたという事だろう。
羅憲は、その手薄になった所を突いて歩協を大破したんだろう。
>>1460 満田剛氏の説によると、呉主伝にある229年の呉蜀同盟の条文「分天下文」の
「・・・若し、漢を害する有らば、則ち呉之を伐つ。
・・・若し、呉を害する有らば、則ち漢之を伐つ。
おのおの分土を守りて、相ひ侵犯すること無からん。」
呉及び蜀漢のいずれかの内部で混乱が発生し危機的状況になった場合、
もう一方の国が併合することがあり得るという解釈がなされていた可能性がある。
とのこと。これは関係ない?
968 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/03/05(木) 21:50:21
>>967 普通に相互防衛協定のようなものだと思うが、「之」の解釈によるって事かな?
之が漢、或いは呉を指すならば、そういった事もあるだろうけど、
漢、或いは呉を害す者を指すならば、単純に相互防衛協定になる。
その直後に不可侵協定が続いているのに、解釈次第でいつでも攻め込めるような条約にはしないと思う。
「混乱状態や衰亡明らかなら攻め込んでも良い」なんてのが大っぴらに決定されていたなら、
諸葛亮没後の巴丘と永安の守備兵増加による宗預と孫権のやり取りや、
施績の白帝駐屯軍増強要請が密かに行われた事が不自然になるように思う。
まぁ、その宗預伝に「二欲以事分割也」とあるのも根拠にしてるのかもしれないが。
説としてはあると思うけど、少なくとも俺はそういう解釈は取らんね。
969 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/06(金) 01:44:36
若有害漢,則呉伐之
若有害呉,則漢伐之
各守分土,無相侵犯
漢文的に見て「之」が漢や呉になる理屈が俺には思い付かない…
どう見てもただの安保条約じゃねーか
じゃあ羅憲は何軍なんだよ?
遅くとも陳騫に応援を要請した時には魏軍
一年後の魏晋交替により晋軍
>>946 日本がどこか他の国に攻められて東京が攻略され政府が抑えられた後で
中国軍が九州に上陸しようとしたら普通は火事場泥棒以外の何者でもないと考えるのが普通の日本人の感覚だと思うが
失礼だがあなたは何の国の人ですか?
純粋な趣味的雑談、或いは学術的考察の話題の中で国籍を問いつつ喧嘩売るような品性の人と
同種の人間だとは思いたくないなあ
でも呉がただの火事場泥棒でしかないのには違いないだろ
呉のファンなのか知らないがそういう事実をねじ曲げて呉を正義に仕立てようとすることの方が不快だわ
演義とか蒼天とか創作でそういう脚色を加えるのは構わないけどね
戦争に火事場泥棒なんざ存在しないよ。利害と戦略があるだけだ。
巴蜀を魏に獲られたということは、すなわち呉が長江の険を失ったということだ。
未来から見れば、この263年に呉は滅亡への第一歩を踏み出してしまった。
陸抗軍の行動はそれを阻止するためのものだった。
劉禅が魏に降伏した以上、同盟の義は存在しない。
つまり陸抗が指揮した軍事行動については
>>946も誤っている(前年に動いた丁奉の諸軍は別)が、
264年の戦略についていかにも呉が仁義を捨てて悪辣な行動をとったかのように語るのは、
同等以上に誤っている。
行動自体に問題は無かったと思うが、寡兵の羅憲に敗れたことが問題。
そういや鐘会が反乱しなかったら、呉に攻め入っていたんだよね?
羅憲を抜けなかったのは陸抗の軍歴最大の失点だろうけど、
盆地の入り口の巴東を固めている軍をそうそう突破して蜀に入れるものなら
鼎立時代は三十年早く終わってると思うよ
まあだからといって羅憲の功績を低く見積もることはないけど。
主君不在で半年軍兵を纏め上げるとかどんだけだよ
ていうか本格的な実戦はこの時が初めてなのか?
979 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/03/07(土) 00:13:16
>>977 それは、ケ艾が捕縛されず、彼の専断権行使が認められるかどうかによるね。
司馬昭がケ艾を信任していたかはいまいち分からないけど、
ケ艾の捕縛を許しているので、専断権まで認めようとはしてなかったかもしれない。
しかしながら司馬昭は、諸葛誕を討伐すると調子に乗って「呉を討伐しよう」とか言い出す人だから、
そのままケ艾に任せるかはともかく、呉討伐に乗り出したかもね。
とりあえず、司馬昭はケ艾・鍾会を三公に任じて召還しようとしたから、
益州の軍政権を一先ず分散しようとはしたんじゃないかな。旧蜀臣の整理もあるし。
もし比較的短期に蜀から呉に攻め入るとしたら、総指揮は賈充か、司馬孚・望辺りか。
鍾会の乱と呉の攻勢でその勢いが殺がれたことになるのかな。
でも賈充辺りが必死に止める気がするがw
981 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/03/07(土) 00:23:32
>>978 羅憲の官歴は太子舎人、太子庶子、尚書吏部郎、宣信校尉、巴東太守と移ってるから、
戦争の経験は恐らく無いだろうね。
まぁ、上司の閻宇の方も、ライ降都督時代に反乱の鎮圧とかをしてなければ、
実戦を経験していたかは怪しくなるけどね。
982 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/03/07(土) 01:09:47
>>980 賈充は止めるだろうけど、何て言うだろうね。
当時は隴西の鮮卑や羌も反乱には至っていないし。
泰始四年に王富による小規模な反乱があり、その後、泰始七年に汶山の白馬胡が反乱を起こしているので、
政情が安定していたとは言い難く、賈充ならその辺をネタにするかもね。
まぁ、劉禅を都に送ってる時点でケ艾の計画とは離れているわけだし、
新たに練り直すとしても年単位の時間が掛かるだろう。
そうすると隴西の方も騒ぎ出すだろうし、結局、
よほど迅速に行わない限り討伐には至らないようにも思う。
>戦争に火事場泥棒なんざ存在しないよ。利害と戦略があるだけだ。
ロシアの北方領土占拠は火事場泥棒だろ
例え話をすると余計にグダグダになるという例ですね。
日本は蜀じゃないし、アメリカは魏じゃないし、ロシアは呉じゃない。
というかそもそも火事場泥棒だって利害と戦略だろ
ただ呉の不義理が徹底抗戦を招き敗北に繋がったのは興味深いね
最初から少しでも援軍出しとけば羅憲もあそこまで頑張って戦おうとはしなかっただろう
>>975 北方領土を占領したロシアだって戦後を見据えての行動ですよ
仁義を捨てた悪辣な行動だったからこそ羅憲が頑張ったというのは恐らくその通りだろうと思う
まあ、実戦経験を問うちゃうと切りがないっつーか、
じゃあ自衛隊は無能かって事になるので、勿論、あるに越した事はないが、
それよりも実戦を想定した訓練の方が運用的には現実的に重要だよっつー事でここは一つ。
「わが王朝が転覆し、呉は唇と歯のような密接な関係なのに、わが国の危難に同情することもなく、利を求めている。わしはどうして降虜になどなれようか!」
羅憲さんカッコ良過ぎ
まあいくら呉がセコいだけの悪党と言えども圧倒的な戦力差の前には踏みつぶされるのが歴史のリアリズムだが
それをひっくり返したのが三国志通の心を掴んでるんだろうね
990 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/07(土) 16:40:11
羅憲は一発屋
中国には、この手の守城で名を馳せた人が結構いるじゃん
実戦経験が1回でも有るかどうかは重要だと思うけどな。
1回か2回かはそれほど重要ではないが。
特に指揮官にとっては。
自衛隊が無能かどうかはわからないが有能と見做す根拠も無いな。
993 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/07(土) 19:22:37
羅憲が関羽の背後を守っていれば蜀漢が天下統一!
できるかな
>>986 呉は援軍だしてるけど。
まさか、呉軍は成都に立て篭もる蜀軍を助けに急行し城下でケ艾と大決戦すべきだった、
とか言わないよな。
995 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/07(土) 19:49:14
呉はもっと孔明の役に立つべきだった
996 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/07(土) 19:50:45
呉はもっと関羽の役に立つべきだった
997 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/07(土) 19:52:07
呉は劉備の捨て駒になるべきだった
998 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/07(土) 19:52:41
呉は降伏しろ
999 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/07(土) 19:53:14
呉厨は死ね
1000 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/07(土) 19:53:52
1000なら蜀漢が天下統一
1001 :
1001:
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) 申 と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ す 1000
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
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