>>145 あれは暴政ではない。戦略的な弾圧
もともと孫策が陸一族弾圧したから周辺の名士と仲悪かったんだよ
でも大名士の周ユがまとめたからなんとかなってたしその死後は張ショウとか陸ソンを重用してまとめてた。
しかし名士の重用は君主権の縮小になるから、孫権は名士を弾圧して君主権を強くしようとした
これが後継者争いを巡った家臣の粛清(ex陸ソン)
結果としては自ら弱体化しただけだけどね
ちなみに蜀は諸葛亮という名士に全てを任せてこういうゴタゴタはなかった(こういう意味では劉禅は良君)
魏は司馬一族という名士がジワジワ権力を握って晋を建てた
名士を勉強するとよく分かるよ
有力臣下と君主with側近の相克は名士論を出すまでもない
陸遜死後に陸抗に謝罪した様子とか
そもそも粛清されてない豪族(全ソウとか)いるところを見れば
そんな君主権の強化とは関係なかった事件だと思うけど。
結局よくある御家騒動でしょ。
>>158 そりゃ根絶やしにはできないだろ
陸コウはかつて陸一族弾圧したあとに陸ソン重用したように、
名士まるめこむために謝罪したのでは?
孫策が陸一族叩いちゃったから
それと関係修復するために孫権は色々努力したわけで。
で、結局その後の孫呉政権では外に陸抗、内に陸凱と陸氏は相変わらず重職に有るんだよ。
君主が臣下を攻撃したら全部君主と臣下の権力争いと見るのはいかがなものかと思う。
少なくとも呉の陸氏に関しては最後まで政権と協調していたのではないだろうか。
攻撃しておいて丸め込むために謝罪って意味が分からんし。
161 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 19:57:42
>>155 蜀の例があるから孫権の配下がクーデター進めてくる可能性もある。
確かによくあるお家騒動だ。それに、人は個々の利害によって身を処するのであって、
「側近対豪族」とか「郷閥対郷閥」のように一言で表せる画一的な分断が起きることは、現実的には無いだろう。
でも、内部分裂したとき派閥の陣容を見ることによって、その政権の特色と内情を察することはできる。
というわけで検証。
・.陸遜が死に追い込まれたのは、孫和と孫覇のお家騒動で太子孫和に付いたため。
1.太子孫和派の陣容
陸遜、陸胤
朱拠
顧譚、顧悌 (以上、「呉の四姓」のうち三姓)
吾粲(太子太傅、呉郡)
会稽太守滕胤(北海国)
施績(丹陽郡、朱然の子)
丁密(会稽郡)
張休(彭城郡、張昭の子 孫登の四友)
朱公主(孫魯育、朱拠の妻)
2.魯王孫覇派の陣容、
楊竺(広陵郡)
孫弘(出身不明、中書令)
全j・全寄父子(呉郡)
歩隲(臨淮郡)
呂岱(広陵郡)
呂拠(汝南郡、呂範の子)
呉安(丹陽郡、呉景の孫)
全公主(孫魯班、全jの妻)
呉の四姓が見事に偏っているのが目立つ以外は、それほど陣容に特徴は見出せない。
孫魯班、孫魯育が割れていることからも完全に宮廷真っ二つの対立と言えるように思う。
この事変は、元々孫権が孫覇を外に出さずに宮廷に置いて太子と同等の扱いをした「迷い」に
惹起され、並立する二宮に廷臣達がそれぞれ群がったもので、始まりからして
「孫権の」「戦略的な」弾圧とは言いがたい。
ただし、抗争中、粛清されたのは孫和派の人物ばかりということから孫権の心情は孫覇に
傾いていたと察せられ、中書令の孫弘あたりはそれに乗じて意識的に強力な外官豪族の勢力を
殺ぎに掛かっていたかもしれない。
(相対的に君主権、すなわち側近の自分の権力も増大するのだから。ただし孫弘個人が
明確にそう意識していたという根拠はない)
陸朱顧家が揃って孫和に付いているのは、彼らがそもそも同郷の豪族であり、
特に陸・顧氏は元々縁戚関係を結ぶ間柄だったという事も軽視してはならないだろう。
結局、この事変は喧嘩両成敗という形で、二皇子と彼らに特に近しかった者達が処分されて
終結するため、何者かの「戦略」が存在したとしても、その意図は失敗に終わっている。
その後、歩隲を陸遜の後継の丞相にしつつ陸抗を登用し、
対立していたはずの滕胤と呂拠等もともに昇進を続け重臣となった。
群臣達の亀裂は表面上修復されたことになる。
が、孫登に続き孫和、孫覇を失い年少の孫亮を立てねばならなくなったことは
孫権死後の皇帝権の著しい弱化を招き、後の孫一族の専横やクーデター、反乱の続発、
呉国自体の弱体化へと繋がるのであったー。
てなとこか。
あ、歩隲は決着が付く前に死んでるから、丞相歩隲は完全に「孫覇派人事」か。
で、書いて思ったんだが、
孫権が「太子孫覇」の可能性に含みを持たせるのを止めて「両成敗」の形で収めることにした
直接の理由ってなんなんだろう?
>>161 どっちにしろそんな希望的観測で劉備がクーデターを起こすとは思えない
徐州で失敗してるんだからなおさら
>>161はとりあえず「クーデター」を辞書で引き直してから出直してこよう
>>164 薦めた楊竺は死んだし、全公主は今度は孫亮に擦り寄る事も忘れていない
孫権からして初めから「孫覇しかない」ってことで企画された廃立じゃなかったんだよ
理由はともあれ、「孫和じゃアカンわ」っていうのが先にあったんだと思う
孫和の替えとして孫覇がいただけのこと
そしてそんなクーデターなんて起こしたら魏が黙ってるわけも無く
間違いなく魏が統一への特急券だな
>>167 もうちょっと筋道立てて言って欲しいな
何度も調べるのめんどくさい
陸胤と楊竺への拷問の件か。見落としてた
陸遜を憤死させた件の主因はこちらの陸胤からの報告なのかもしれないな。
それにしても楊竺というのはどんな官についていた人物なのだろう?
>>169 多分そう
陸遜は皇帝の密談をスパイしていた当事者と疑われたんだよ
あまりに廃立を諌める動きがタイミングよすぎたから
(事実、陸遜は巻き込まれたのだとしても、皇太子孫和と陸胤が犯人だったんだからその疑いは妥当なものだった)
吾粲がどうして陸遜との文通を理由に罪を問われたのか、というのも説明がつく
陸遜に廃立情報を教えた人物=皇帝をスパイしていた人物と疑われたんだ
ああ、でも、楊竺の処刑が陸遜の存命中なら、孫和と孫覇が廃されるまでまだ五年の時間があるんだな。
楊竺の件は決定打にはならなかった…すると、廃嫡の翌々年(252)に孫権が死んでいるのだから、
自分の寿命を考えてついに決断したとも見えるかな。
そんなに孫和が嫌だったのかなんなのか。親子不和の原因は全公主の讒言にあったとされるけど。
>>163 詳しくありがとう
>呉の四姓が見事に偏っているのが目立つ以外は、それほど陣容に特徴は見出せない。
ここがポイントでは?
江東の名士が推す孫和と孫権自らが推す孫覇の争い、と見ることができると思う。
さすがに強引に孫覇を後継者にはできなかったけど、喧嘩両成敗という形で陸ソンなどを処罰したのではないかと
年長の子vs寵愛する年下の子というお家騒動の側面ももちろんあるとは思うけど少なくとも孫権が”利用”したのは間違いないと思う
陸コウは確かに統一的な説明が難しい
陸ソンを除いたことで一応の成果として、名士の反発を抑えるために子を登用したと考えるべきかな
全jも江東の名士なんだなこれが。
しかも、一方が明らかに地元豪族に推される勢力だとしたら、
他方には対抗軸となる勢力が集まるのが自然のはずだが、
僅かに中書令の孫弘の名が見えるだけで、
重臣の子弟も内外の士人も外戚も両派に適当に分散して
特色が見出せない。
これでは君主権と豪族の対立とはみなすには弱すぎるな
しかも、陸遜ら太子派が立て続けに責められて(最後に楊竺が処断されて一応の集結を見て)から、
喧嘩両成敗が為るまでは5年の時間がある。この間二宮は並立していた。
事変の主は明らかに後継者争いと孫権の迷い。陸家や顧家らが迫害されたのは副と見做すしかない。
名士であっても呉の四性とその他には名声の上で大きな差があると思う
それからその豪族って言葉の定義というか意味がよくわからないけど、名士の事?
豪族ってのは土地と人をたくさん持ってる農民のことだね
>>175は
>>173 このレスは
>>174 5年かかったことが、後継者争いが主であることの証拠になるのか分からない
というか主副を無理につけなくてもいいと思う
便宜的に呉の四姓と言っているが、初出は南北朝時代だったかな、確か。
陸張顧朱の四姓が孫呉政権に特段の影響力を持っていたという証左はないんだ、実は。
実際張家はほぼ張温一人だけだろう。
>>177 どちらにウェイトを置くか、孫権が置いていたかというのは非常に大事だよ。
豪族排除に重点を置きすぎると、まるで孫権が後継者争いを餌にして
政略的に陸遜を排除したかのように描かれてしまう。
太子をそんな風に使う皇帝なんてよほど的外れな猜疑心が強くなければできないよ。
>>176 なら君主と豪族の対立とは言ってないよ。
後継者争いを利用した、名士の抑圧(=君主権拡大)の試みだと思う
で、この後継者争いは儒教的理念に基づいて皇太子を推す名士+利害関係人と
孫覇を寵愛する孫権+利害関係人の対立ではないかと
あ、ごめん。呉四姓の記述は朱治伝にあったわ
>>180 全jや呂拠や呉安は名士ではなかったの?
ていうか多分楊竺も名士だ。
>>179 名士の抑圧は常々考えていた事であった
↓
そこで自ら招いた事ではあるが、後継者争いが起きた
(しかも孫権の意中と名士の意見が対立した)
↓
これを契機に名士を弾圧
↓
死期を悟って決着をつけた
俺はこう考えてるけど、この一連の動きだけに限定すれば後継者争いが主なのかもね
孫権は後継者と名士への対応はどっちが上ともなく悩んでいたと推測するけど
>>183 その論でいく場合、孫権は「名士」であるか否かの判別を
「長子相続に則って孫和を推したから」で決めたわけ?
サイコロ振って罪人決めるような話だなあ
>>182 名士が両陣営にまたがってるのが気になるみたいだけど俺は呉の四性が片側にいるだけで十分だと思う
まあ特別視する証拠までは持たないけど
>>184 そんなこと言ってないけど・・
>で、この後継者争いは儒教的理念に基づいて皇太子を推す名士+利害関係人と
>孫覇を寵愛する孫権+利害関係人の対立ではないかと
言ってるじゃない
この振り分け作業を意図的に仕向けたとしたら、孫権の人物像を大幅に変更せざるを得ないな
因みに「豪族」は家柄や資力の評価だが、
「名士」や「士人」は個人の教養や評判に対するもの。
「呉の四姓」というのは普通に考えれば「呉の大豪族」を示したものだろうね。
呉が(四姓のような)豪族達に大きく左右される政権だったというのはよく言われることだけど
(どの程度左右されたかはまた別個の検討が必要だとして)
それだと「名士論」とは話がずれるな。
>>186 お前が前提にしていて俺が前提にしていない(あるいはその逆)があるようだ。。
数ある名士たちのうち、反対派に回ったやつを弾圧したのが酷いって言ってるの?
孫権が悪いことをした、なんて一言も言ってないし、思ってもいないよ?
今までの全てのレスの中で、誰かの行動を「酷い」と評価するような文脈は一つも無いはずだけど。
>>187 いや呉の四性は呉における名士の家4選、だと思う。
名士が家として名士を受け継ぐのは珍しくないのでは(司馬氏とか諸葛氏とか)
>>189 正確に書けば
「数ある名士たちのうち、反対派に回ったやつを弾圧したのを『サイコロ振って罪人決めるような話だなあ』って言ってるの?」
四姓の字がずっと違ってたな・・
チャット的に使って他の人スミマセン。もう寝ます
前提というか、語の理解に差があるのだろう。
「名士」というのは家柄とは関係ない。教養と品行と評判が問題になる。
豪族や重臣の子弟が名士になることは多いが、それは教育を受ける機会に恵まれるからだ。
で、
>いや呉の四性は呉における名士の家4選、だと思う。
あー… そうなの? 初めて聞いた。根拠頼む。まあ明日辺りまでに。
>正確に書けば〜
そのように孫権が明確に意識して弾圧したのなら、ね。博打だ。
自分に都合の悪い人材が必ず孫和を擁護してくれるとは限らないわけだからね。