1 :
無名武将@お腹せっぷく:
最近そう思うようになってきた。
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 22:44:40
具体的ににはまあカンウを孤立させすぎた事とか
バショクの件とかあまりにも浅はか。
馬謖の一見は弁護できないが、それと結局は魏に勝てなかったこと以外、
諸葛亮は失敗らしい失敗をしたことがない。
関羽? 当時諸葛亮は成都で後方を支えてたよ。
責任を問う相手は漢中にいた劉備とその軍師格だった法正だ。
盛り上がってまいりました
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 22:54:33
>>3 失敗らしい失敗をしなかったってのがダメ。
蜀は大成功しなきゃいけなかったんだよ。
負けそうになったらすぐ撤退。こんなんじゃ勝てないよ。
ギエンの策とって攻めるべきだった。
後、孔明って実権握る前はやたら後方支援で安全な所にいたよね。
蜀攻めはしなかったし漢中もあれホウセイでしょ
だからさ自分は安全な所にいたから実権とってからも
危険なことができずにすぐ撤退してたんだよ。
こいつはなんでこうイラッとさせるキャラなんだ
諸葛亮は蜀攻めで一隊の指揮を執った。
漢中攻めでは益州の軍政を一手に取り仕切る長として
南征して基盤を固めた上で北伐に移った。
ために蜀漢は60年もった。劉氏の親族でもないにも拘らずだ。
並ちょっと上程度の人間が宰相だったら勢力争いで分裂して10年ももたないよ。
法正は一軍の将帥・兼・軍師。建国後は尚書令(皇帝の官房長官的重職だが)。
格は一枚落ちるね。
>>7 漢中攻めでは益州の軍政を一手に取り仕切る長として兵站を総括した
だな、ごめん
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 23:12:34
だからさやっぱ政治家なんでしょ。
兵站とかを管理するのに向いてる。
こう将軍の器ではなかった。危険を冒さず
時間だけすぎてすぐに引き返す。で
「負けませんでした」って言って誤魔化してきたんだよ。
それなら負けたけど勝つ可能性があったキョウイの方が良い
後南西もする必要あったのかな。しかもあれって南西した後も
南はまとまってなかったとかどっかでみたんだが。
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 23:16:20
孔明が無能じゃ、誰が有能なんですか?
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 23:18:15
曹操
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 23:19:29
ああっとそういえばイリョウ忘れてた。なぜ同行しない。
いけよ孔明。
>>1は蜀末期スレでもたわけた事言って、
姜維や馬謖以外をこき下ろそうとした(それで論破された)阿呆
蜀末期スレで叩かれたから、こっちに移行してきたんだろ
アホくさ
違うよ。
兵站を輸送するというのは、兵士を動かすということだ。
漢代、反乱を鎮圧するのは多くの場合太守や諸郡都尉、(行政権を持った)刺史の役割だった。
実地の行政能力と軍政能力は高い親和性があると考えられていた。
満寵やケ艾の出世コースを見ればわかる。
「将軍の器」というのはまずそういった統率の能力のことだ。姜維もその類の人物だった。
諸葛亮や姜維には満寵やケ艾ほどの知略は欠けていたが、それは幕僚の補佐があれば
済むことだ。残念ながらその人材は得られなかったが。
南征は、反乱が放置状態だったから鎮圧に出た。
その後完全に安定したとはいえなかったが、蛮族の主だった者を人質として成都に置き、
金銀馬牛犀などを朝貢させて軍費に当てたと李恢伝に明記されている。
因みに諸葛亮は軍事畑で出世した人物だ。むしろ文治の官についたことは無い。
大事なことだから二度言うよ。一度も無いんだ。
>>12 君主と宰相が同時に出兵するなんてありえんよ。
だれが本国を守るんだ。
立った経緯はどうあれ、諸葛亮無能スレは久々のような気がする。
三戦や中英以外だと、今でも「諸葛亮は政治家、軍事は大した事ない」って意見はよく見るな。
副読本とか読んで知識を得ると一度は天才軍師→実は政治家みたいになるな
前提を引っくり返したくなるというか
俺は「反抗期」と呼んでるが
>>16 「軍事」というのが、敵と対陣して知略を競ったり武勇を示したりすることだと思ってる人が
結構いるからだろうね。
>>17 俺は、ネット上に蔓延していた「姜維無能論」を覆そうとして色々考え始めたので、
孔明無能論を唱えるにしても、ちゃんと考えた結果であって欲しいと思う。
同じ主張でも、本にそう書いてあったからってのと、自分で考えた上での意見とでは全然違うしな。
>>18 武勇はともかく、知略と言う点では史実の諸葛亮も凄いと思ってるけどねぇ、俺は。
特に、陳倉攻囲から武都・陰平を切り取るまでの流れとか、
曹真の攻勢から、魏延らを羌中に派遣しつつ祁山に出る辺りの流れとかね。
少なくとも無能ではないな
>>19 >知略と言う点では史実の諸葛亮も凄いと
いや、それはわかる。
曹真や司馬懿が東方に駐屯していたこともあって、諸葛亮はかなりの自由な選択肢と
一定の数的優勢を以って魏と対戦し、戦果も挙げた。
諸葛亮の軍略の最大の欠点は、自軍の優勢が時限的なものだと承知しつつも、
その時間内に危険に踏み込むことをせずに、陣を構築したり安全に拠点を確保するのを
優先してしまう性分にあったと思う。
4,5次北伐の際にそこに踏み込めたのが司馬懿で、そのために後から押っ取り刀で駆けつけて来る
魏軍に対して優勢を確保しきれないまま長期戦に持ち込まれたり、兵糧が尽きて撤退せざるを得なかった。
>>21 諸葛亮が堅固な陣地を構築したのは第四次と第五次だね。
第五次はともかく、第四次はおしかったと思う。
第四次、第五次ともに、恐らくはある程度の長期戦を想定してたと思うよ。
第四次では西県に強固な砦を築き、そこで司馬懿を迎え撃つ形を取ったけど、
これ自体は当初の予定通りで、問題はその前の段階、渭水の麦を刈り取る所だね。
これは推測だけど、諸葛亮は祁山から上邽までの麦を刈り取る事で魏軍の物資を欠乏させ、
西県の砦への攻撃を強いると共に、物資不足での撤退に持ち込んで追撃を行う算段だったんだと思う。
その試みは半ば成功していて、郭淮が羌族から物資を集めなければ、
関中からの大規模輸送が必要なほど魏軍の物資は欠乏していた。
華陽国志にある、「敵の後方を断つのが上策、持久するのが中策、引き返すのが下策」
という諸葛亮の李厳への手紙にも、その事が表れてるんじゃないかと思う。
直後に、「時に宣王らの糧もまた尽き」という記述もあるし。
実際、帰還せずに踏ん張ってれば、面白いことになったかもしれん。
>>22 叩き上げの武人なら、多少兵士を餓えさせても踏ん張ったかもしれないが、
そこで引き上げてしまうのはやはり諸葛亮の軍政家らしいところだろうか。
魏延はそういう部分が歯痒かったのだろうね。
五次は完全に秦嶺の北側に兵站地を築いてじっくり攻めあがる計画だったけれど、
急進してきた司馬懿が躊躇い無く渭水を渡ったため、その年の渭南の収穫を
半分持っていかれたということだと思う。
それでも長期戦の用意は出来たし、蜀漢こぞった大軍が漢中-五丈原に
集中していたということなので、歳を越せれば諸葛亮と司馬懿の直接会戦が実現した
(兵力的に劣勢は司馬懿だろう)のだろうが…。
以前どこのスレか忘れたけど、
孔明は無能ではない万能じゃなかっただけだと言ってた人がいたな
まあこういっちゃつまらんくなるか
有能の対義語?は無能だと思うけど
まったく無能なやつっているんか
25 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/04(火) 01:25:20
>>23 それが諸葛亮の限界と言えばそれまでなのかもしれないが、
自分で下策と言ってる策を実行してしまう辺り、と言うより、
前線にいながら、後方の李厳の意見を仰ぐってのが歯痒い。
南側から麦積山の方に迂回して、段谷方面に別働隊を出すとかってできなかったんだろうか?
祁山を包囲しつつ西(鹵)城の陣地を守備しなければならなかったから、予備が不足していた可能性もあるけど。
26 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/04(火) 01:32:32
五丈原は、長引けば長引くほど蜀が不利だったと思うんだよね。
魏としては斜谷の出口で蓋をした形だから、豊かな三輔の物資を余す事無く使える。
諸葛亮の関中侵入を予見して、灌漑も実施済みだったし。
また、隴右にも蜀軍がいないので、冀州から上邽に屯田兵を送った成果が挙がっていれば、
渭水を使って輸送できるしね。
仮に年が明けて235年になったとしても、魏が攻撃に踏み切ったかどうか。
南北朝や五代の益州政権との比較をしないと何ともいえないけど蜀漢が一番長生きなはずだよ
成 43年
蜀漢 42年
と思っていたらそうでもありませんでした。
28 :
歴代・益州政権の特徴:2008/11/04(火) 08:14:16
滅亡の原因は基本的に外部勢力の侵入であり内部抗争で崩壊することはない。
体制の寿命は最大40年程度。これが限界らしい。
群雄割拠の最終段階まで生き延びていることも多い。
益州から出て成功したのは高祖くらい。また蜀漢みたいな攻撃的な政権も稀
漢民族ではない政権もあるが漢化している。また宗教色の濃い政権もある。
なぜ歴史に名を残した無能が歴史に名を残さない無能にこんなこと言われてるのか
自尊心が高い有能な政治家。
俺は大嫌いですがw
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 09:28:38
なんかね。実は有能なのを使ってこなかったと思うんだよね。
孔明って自分が実権握る為に有能なのは排除してたと思う。
32 :
あ:2008/11/04(火) 10:22:59
んなわけねーだろ。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 10:53:13
>>32 ホウトウとかホウセイとかバショクとか怪しくない?
後イリョウって負けるのが解かってて反諸葛亮のメンバーを
総動員させた気がする。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 11:15:31
政治的に邪魔になりそうなのは消してるな
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 11:36:21
孔明好きの人はしらんだろうけどなんかね孔明の話でさ
劉備が蜀攻めが成功してホウセイが蜀にいた時に
自分を冷遇した人らを処刑したんだって。
で劉備がちょっと問題だな。と思って孔明に相談したんだけど
孔明は「ホウセイの才能が手に入るなら安いもんだ。やらせときなさい」
って言ってホウセイをそのままにしてた
ってのがあるんだよ。俺はコレが孔明の本質だと思ってるんだけど
これってようは孔明は邪魔者は処刑しても言いと考えてるわけで
自分に邪魔なのは本当に排除してたと思う。
なんか公明正大で信賞必罰とか言ってるけど怪しいもんだよ。
バショク処刑して自分謹慎っておかしない。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 11:49:45
司馬懿ならまったく問題にならないようなことも諸葛亮がやったとなると大問題なのだな。
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 11:58:20
>>35 孔明好きならそれくらいの逸話は知ってるだろ。
>>35 ちゃんと読んだ?
「才能が手に入るから安いもんだ」じゃなくて
「止めたいんだけど法正の功績が大き過ぎて口出しできない」だよ
そもそも法正を重用したのは劉備だよ
信賞必罰には反していても
蜀入りに関する法正の功績・彼の才能・そして何より劉備からの信頼
これだけのものがあれば諸葛亮が口出しできる状況ではない
法正の存命中における諸葛亮の権限なんてそんなもんだ
少しは調べてから話を振ってくれよ
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 13:45:17
>>39 劉備に文句いえなくてもホウセイには言えるでしょ。
孔子から引用して人の正しいあり方教えてあげるべきだろ。
>>1は無能という言葉の意味すら理解できていない方に1億ペリカ
42 :
1:2008/11/04(火) 14:01:24
なんかな、スレタイはインパクトつけるためにあえて
無能ってつけたんだが
じゃあ言い直すよ
孔明は中の下の凡人だったんじゃなかろうか?
政治に関してはあれ全部曹操の物まねなんでしょ?
曹操のところに居たジュンイクとかの方が政治能力あったんじゃないの?
つか劉備が孔明とウマの合わないタイプの法正を使ってたのは牽制の意味もあったかも知れんなあ
孔明は結構自己主張の強いタイプだから、あんまり孔明を重く置くと劉備的にはやりにくい場面もあったんだろう
44 :
1:2008/11/04(火) 14:05:39
ていうか劉備はどれくらい孔明を信用してたのかね?
蜀取りにはホウトウ連れて行くし、ホウセイのほうが信用されてたんでしょ?
イリョウでは孔明のいう事聞かなかったし。
思うんだけど、劉備が遺言で孔明に全てを託すって言ったのも嘘なんじゃないかな。
確か蜀って歴史書ないんだよね。それも孔明の指示で
都合の悪い過去を隠すために消したと考えれば辻褄があう。
>>42 まあ三公じゃなく丞相制にもどして中央に権力を集めるって方法は曹操のパクリだが
>>43 そこなんだよな
有能無能で単純な足し算的に人材が使えるのなら誰でも名宰相になれる
46 :
1:2008/11/04(火) 14:15:21
>>44 蜀取り時は後詰の将軍として張飛、趙雲らと同様に一軍を率いる大将として扱われてる
留守役の関羽、後詰の張飛、趙雲の次に「一軍の将」として信頼されていたということになる
あと夷陵戦時に諸葛亮は政治的な立ち位置を明確にしてない
「法正が生きていればこんなことにはならなかったのに」
これを「劉備を諌められたのに」と受けるか「劉備を勝たせることができたのに」と受けるかは解釈の分かれるところ
少なくとも丞相として皇帝の命令に対して異を唱えなかった
蜀で史官が廃止された時期は確かにあるのだが都合の悪い過去を隠す為とは言い切れない
同時期、他の「とりあえず戦争したり政治したりするために必要なもの」以外諸葛亮は切りまくってるから
何でも陰謀論に走るのは頭の悪さを疑われてもしょうがないよ
>>46 屯田自体、曹操が後漢からパクってんじゃん
49 :
1:2008/11/04(火) 14:19:07
>>47 政治するためには歴史書は必要だと思うんだが
過去になにがあったか学ばないと政策なんて作れないだろ。
>>49 そりゃ思い込みだ
正史を作る理由なんて宣伝以外にゃほとんどない
過去の記録は個別の収入や支出を見てきゃ分かるもんだし
総括した歴史書なんてのは余力のある国にしか出来んよ
>>48 曹操の導入したんは流民を使う「民屯」のほう
>>51 屯田という限定があるんだから別段曹操の独創とは言わないだろ
というか政治に独創なんて代物はねえ
基本的に何でも過去の政策を焼き直して発展させたもんだ
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 14:33:18
中の下の凡人を同時代の敵国の人間が褒めるんですね。
そしてそれをすぐ後ろの世代の敵国の史官が正史として記録するんですね。
つまり全ての史書は捏造されたクソという主張ですね、わかります。
54 :
1:2008/11/04(火) 14:37:51
じゃあ求賢令は?
孔明は人格を優先するあまり人材がなくなった
って話を聞いたけど。
>>40 諸葛亮は法正の家庭教師ではありません。
そもそもそんなことは諸葛亮に課せられる作業ではないと思いますが。
>>52 だれもそこまで話は飛躍させてないんだが
曹操が行った政治改革の中で諸葛亮も行った政治体系?の話じゃねーの?
>>56 だから基本的には後漢の政治から曹操もパクってるわけで
「曹操のパクりじゃん」という批評は間違ってるってことよ
お前の言うように「両者に共通した政治手法」ってな話だったらそりゃいいんだが
>>45>>46みたいな物言いは違うだろ
>>54 求賢令なんてそれこそ春秋戦国の世から常にあるだろ
諸葛亮が人格を優先したという話は聞かないな
むしろ使える奴は楊儀でも使うという実例がある
>>52 先進的な制度の導入や制度の作り変えは普通「政治改革」と表されるもんだが。
別にだれもそこまで曹操を意識してないよね。曹操の独創なんて言ったのキミが初めてだし
>>59 >>48で曹操も後漢のパクリだねと言うと
>>51で反論されるわけだ
「曹操のは違う」と
「曹操の独創」と言葉にしたのは俺かもしれないが
>>51の意識がそうなっているから「そんなわけねぇ」って言ってるだけ
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 14:46:05
キョウイをコウメイに変えればそっくりそのまま1自身のやってることだな。
>なんかキョウイ批判してる人たちって
>通ぶりたいのが見えすぎ。
>キョウイを批判しとけば三国志通だと思ってるんだろうな。
>>57 ていうかパクり疑惑はともかく、曹操ンとこでやりはじめた制度を他の所でも真似したってのはあったよ。
先に出た民屯や丞相制も同時代でやり始めたのは確か曹操が最初だし、
あと求賢令繋がりだが曹操とは時代がずれるが九品なんかは魏がやり始めたら呉蜀も真似した。
>>60 そりゃそうだろw
兵に開墾させる従来の「屯田」と
流民を使って開墾させる曹操が部下に起草させて導入した「民屯」は別モンだもの
制度的に差があるのに「屯田という概念が〜」なんていう方がおかしい
>>62 丞相制も漢代に前例があるから
単純に曹操が一番乗りで朝廷を保持して形式を整え、かつ実力を蓄えたので
同時代でやり始めたという評価になってるだけ
劉備も孫権もそんな政治的なことやる前にその日その日を生きるので精一杯だった勢力なわけで
>>63 部下に起草させてたわけじゃない
部下が自発的に起草して導入を進言したが最初は退けられてる
何度も強く言ってやっと曹操はその効果に気付いたようで
曹操の命令で考え出されたもんじゃない
>>63 彼の主張を考えると「前身の要素は全く考慮せずゼロからひねりだせ」
という事だから…
「改正」でもパクりになるな
でもそれってどうなんだ?
>>64 だから丞相制に「もどした」といってるじゃないか。
同時代に三公制だったのを中央集権化のために制度を変えたんだからこれは「改革」といえるよ。
こっちの方が自分の子飼いを好きなところに付けられて良いしね
諸葛亮がしたのが曹操の影響だったのか、それとも独自的に考え付いた方法なのかは知らん
ただ同時代にこの手法をとったのは曹操が最初。
>>65 どっちにしろ部下の草案を採用し改正制度を導入して成果を挙げた事には違いない
政治家のトップの役割ってそういうもんだ。
>>68 董卓は丞相じゃねーべよ
自分が実権を握るって点では共通してるが厳密には違う
>>68 董卓は丞相よりも強大な権力を持つ相国です
あとこういう場で相手を貶すような言葉は使わないほうがいいですよ?
64-65
それはあまりにも厳しいな
つか言ってることはその二人と変わらないだろう
俺にはその二人がメチャクチャな事を言ってるようには思えないが
君の主張は辛いだろう。
それは歴史的な政治家すべてにいえることだ。
>>71 結局董卓は集中させすぎて傾いちゃったからな…
やっぱあまり既存のものから離れすぎてもダメだっちゅうこっちゃな。
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 15:13:23
孔明は祈りで風を呼んだり、寿命を伸ばしたり縮めたり出来るのだからある意味、超人だろう
74 :
1:2008/11/04(火) 16:35:46
それは演義でしょ。
正史じゃ赤壁関係じゃ孔明特になにも書かれてないらしいじゃん。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 16:55:52
自分だって正史の記載を捻じ曲げて解釈したり
正史の記載を改竄してレスつけてるくせによく言うよ
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 20:21:21
根本的なところで演義はただの小説だからな。
創作物をどこまで信じていいのやらって事になる。
孔明スレは盛り上がるな
78 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/04(火) 20:34:25
諸葛亮の政治が曹操のパクリだって意見はたまに見るけど、あれの具体的な話聞いた事無いんだよね。
あの意見のネタ元ってなんなんだろうか?
蜀漢(諸葛亮)の政治制度が曹操のパクリか、というのは
後漢と蜀漢のほんの一部しか見ていない意見で、意味がない。
蜀漢は滅びた後漢を辺境で受け継いだ王朝であり、外に強大な敵を迎える状態で
自分達の正当性を示さねばならなかった。
そのために、少なくともその形式は、積極的に後漢(彼らは中漢と呼んだようだ)
の制度を踏襲しなければならない立場にあったわけだ。
万機を司る丞相。それより格は落ちるが政軍の全権を握る官としての大将軍。
内朝にて皇帝を補佐し執務を掌握する尚書台、その長の尚書令。
公卿の形式化。
鎮征将軍の成立と地位の向上。
これらは漢代の複雑な歴史の中で育ったものであり、
ゼロから朝廷を作った蜀漢なら、もっと効率的な組織を作ることができたはずだが、
それは現実には不可能だった。「漢」ではなくなってしまうから。
国内は不安定で、外には強力な新王朝がある状況で、そんな機械的な改革を行うのは自殺行為だ。
故に蜀漢は、後漢官制の形式と名称を維持しつつ、状況に合わせて簡略化し、
外戚や宦官のような後漢の問題を排除し(後者は成功しなかったが)て
政府機能を作り上げた。結局は大将軍−尚書台に軍・政の権限を集中させることで安定する。
そのようにして作った制度に曹操の時代のものが残るのは不思議でもなんでもない。
なぜなら、董卓や曹操が支配した時代も「漢」であり、劉備は長くその朝廷から官位を受け、
孝愍皇帝(献帝)から帝位を受け継いで即位したのだから。董卓や曹操が悪臣だとしても、
その時代のものをすべて否定してしまっては蜀漢へ至る連続性をも否定してしまうことになる。
80 :
1:2008/11/04(火) 20:40:51
81 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/04(火) 20:54:39
蜀が後漢の制度を結構踏襲していた、というのは言われるし分かるね。
蜀の場合、宋書百官志とかより、後漢書(続漢書)百官志の方が、
蜀書等の記述から窺える蜀の政治体制と合致してたりするし。
そういや上の方で、屯田が曹操のパクリとかっていう一連のやり取りがあり、
「曹操のは民屯、後漢の軍屯とは違う」って話があるけど、諸葛亮って民屯してたか?
>>46は五丈原の軍屯のことじゃないかな。屯田兵と言ってるし。
つまり諸葛亮は曹操のじゃなくて後漢のパク(ry
ていうか、民屯は曹操が初めてだったのか。
そりゃ韓浩の政治がkoeiゲーでやたら高くもなるはずだな。
83 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/04(火) 21:21:23
>>82 まぁ、そうだと思うんだけど、諸葛亮の屯田の話で、
曹操の民屯が云々って話になるのが分からん。
読んだ限りは、相手の意図を読み違えたようだけど。
諸葛亮をどう批判しようと、「諸葛亮は凄い」という意見なら、
史書からいくらでもひねり出せるからなぁ。
両派がどこで折り合いをつけるかって事かな。
>>47 孔明が張飛・趙雲に同行したのは伝にあるが、
孔明に兵権ってあったの?
>>83 陳寿と裴松之自身が諸葛亮の信奉者だからね。
裴松之注三国志から凡庸な諸葛亮像を導き出すのは殆ど無理難題だ。
>>84 当時諸葛亮は、軍師中郎将・使督零陵桂陽長沙三郡。
官に使われる「督」の字は、その地の軍事警察権を示す。
入蜀では張飛、趙雲と分担して諸県を平定したとある。
兵権がなかったら何が出来る?
87 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/04(火) 21:38:17
益州攻略での諸葛亮に関する記述は、
・諸葛亮、張飛、趙雲らは兵を率いて長江を遡り…(先主伝)
・諸葛亮と張飛、趙雲らは軍勢を率いて長江を遡り…(諸葛亮伝)
・張飛と諸葛亮らは長江を遡り…(張飛伝)
・諸葛亮は趙雲と張飛らを率いて…(趙雲伝)
となっており、同格以上で扱われている。
また、三国志では張飛が破った事になっている張裔だが、
華陽国志では、諸葛亮と張飛はテン江で分かれ、諸葛亮は西に出て張裔を破って徳陽を平定し、
張飛は北に出て巴西功曹龔ェを破って巴西を平定している。
つまり、少なくともテン江から成都までは諸葛亮が単独で軍を動かしており、単に同行したわけではないという事だね。
>>83 レスをみる限りではそいつらは「曹操は後漢のパクリ」といわれた事に関して反論しただけだと思う
孔明のパクリ云々には特に言及してないし
>>67などは「孔明がパクッたかはわからない」と言ってるしな
>>84 それ官職じゃないし。
やったのは租税の徴収でしょ。
>>85 七縱七禽の記述ある華陽国志だし、
ある程度は割り引いて考える必要はあるね。
「三郡を督し、賦税を調して軍費に充てた」が「やったこと」なんだけど。
どんな根拠を以って「三郡を督し」の部分だけ割り引きたがるの?
「三国志」の各伝の入蜀の記事には諸葛亮と趙雲と張飛の名前が併記されているのに、
なぜ諸葛亮だけ別の役割を持っていたように捉えたがるの?
92 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/04(火) 22:12:27
華陽国志だから、と割り引いて考えるのは勝手だが、
諸葛亮が張裔破ったのではないとすると、張飛は江州から巴西に向って北上し、
その後に南下して資中まで戻ってからコ陽に向かい、張裔を破って成都に至った事になるわけだが、
兵を分けて郡県を平定したはずの諸葛亮はボーっとしてたって事になるのか?
正直言って不自然すぎる。
張飛が巴西を降してから改めて劉璋が張裔を派遣したのなら、
ただでさえ後手に回っている張裔の派遣が更に遅れる事になるし、
あれは諸葛亮が破ったとする華陽国志のが自然。
そういうことにしておくのが優しさじゃないかな
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/05(水) 09:52:41
そもそもさ孔明が政治上手ってなってるのはさ
「あんなに戦争したのに国力落とさなかった」
みたいな事がよく言われてるけどそれっておかしくないか?
結局はプラスマイナス0じゃん。なにもしてないのと同じじゃん。
戦争して勝てば+ しなければさらに国力が上がってて+
政治家って結局は結果だろ。孔明はなにもしていない。
いや、涼州の一部を切り取りしてる
1は相変わらず抽象的な表現に終始して
具体論になると逃げる卑怯者だな…
議論のしようがないだろうが
>>96 諸葛亮が托孤を受けた(223年)ときの蜀漢の状況
・一代で皇帝まで昇った強力な君主が建国二年で死去。
・後継は十七歳。
・荊州喪失と夷陵の大敗による将兵の損耗。
・本貫を失った荊州人士他古参臣下と土着の益州豪族の動揺
・特に南部の叛乱。
諸葛亮の事績
・自己の指導下での政府の再編成と集中。
・南征し、独立状態だった四郡の平定。
・北伐し、武都・陰平二郡の領有。
・夷陵に匹敵すると思われる大軍を少なくとも二度動員可能になるまでの国力回復。
・五度の北伐の規模の割には捗々しい成果を挙げられず。
・後事を蒋エンらに託し、政事軍事に特に後顧の憂いを残さず死去(234年)
この間11年と半年。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/05(水) 20:10:12
>>99 おおこれは解かりやすいね。
・一代で皇帝まで昇った強力な君主が建国二年で死去
これはけど建国まもなくだったから逆にやりやすくなった面もあるよね。
・後継は十七歳。
当時17歳は十分大人だよね。
後
・荊州喪失と夷陵の大敗による将兵の損耗
これあるけどさ
これを二度大軍動員できるまでに回復させた
って言うけどどうやって?
在任期間11年でしょ。11年じゃ子供は生まれても兵にはできんし
人をどっから持ってきたの?
当時「大人」になるのは二十歳。十七歳は未成年。
だが二十歳の若造が国政を仕切れると思うの?
四十でも難しい。俺には無理だね。君には出来る?
諸葛亮はそのとき四十前半だったんだけどさ。
おそらく朝廷に居並ぶ列卿より一回り若いとかそんな世代。
当時中華は、飢饉、戦乱、統治の緩みによって民衆が離散し、
山野に隠れたり豪族が不法に所有したりしていた。
それをどうやって国の戸籍に組み込むかに三国とも苦慮した。
諸葛亮(ら)が文治面で主にやったのは、蜀漢の朝廷の機能を立ち上げること、
その下に法制を敷き民を安定させ、王化に帰し、そこから税を徴し
軍兵を揃えて強力な武器を作り、訓練して統率された軍隊を揃えること。
諸葛亮から姜維の時代に掛けて、蜀は強兵だと司馬懿やケ艾が語り、
事実野戦ではしばしば魏軍を破っている。
他の群雄や諸国もやった常套手段として、北伐で奪取したが永続的に
領有はできない土地から民衆を内地に強制移住させるというものもある。
>これはけど建国まもなくだったから逆にやりやすくなった面もあるよね。
これは論外。
正統な統治者の名分がないまま国を統治し続けるというのは、
臣下の不満や君主の猜疑を押さえつけるだけの圧倒的な実力と信望を要する。
簒奪したほうがよっぽど楽。
両漢のように長期間続いた国なら、その伝統が重石になって
権臣の専断も国という器の中の小さな波風と許容されることがある。
国家機構に対する忠誠心と保守姿勢があるから。
二年ではその保守心が生まれようがない。
それでも諸葛亮への権力一極集中を他の廷臣が許容したのは、
諸葛亮自身と能力に大きな信頼が置かれていた以外に解釈するのは難しい。
軍権と政権を集中させながら社稷を守り通したのは孔明が今も評価される美徳でしょうな
>>100 >在任期間11年でしょ。11年じゃ子供は生まれても兵にはできんし
>人をどっから持ってきたの?
10歳の男の子は10年たてば20歳の立派な青年になる。
当然、そういう若年層だけを動員して賄ったわけではないだろうけどな。
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/05(水) 23:22:31
>>100 支配力を伸ばして戸籍の外にいる人を戸籍に組み込んだんだろ
新野時代からの常套手段だよ
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/06(木) 00:36:28
日本の土人国並の政治レベルは世界の笑われ者
(日本人はいつまで顔面身体障害者の麻生を総理大臣にしておくつもり?????)
アメリカで史上初の黒人大統領が誕生した!
人種差別が今なお色濃く残るアメリカだがそれでも現状を打破するために有権者は民主党への政権交代を選択した。
アメリカの民主主義の底力を世界に知らしめたと思う。
ところが日本では長年に渡って自民党が政権の座につき、
政官業が癒着していてもまともな改革が行なわれることは期待薄というお寒い政治状況だ。
それでも金と権力にまみれ顔面が麻痺した麻生は脳も侵されているのか国民の審判(解散総選挙)を仰ごうとしない。
日本の民主主義のあまりの低レベルぶりに世界中の人が失笑している!あ〜情けない!!
さあ!今こそ日本の民主主義の底力を世界に示すため草の根からの政権交代の声をあげるんだ!!!
日本の民主主義の底力を世界に示そう!!! 草の根からの政権交代の声をあげるんだ!!! 民主党にチェ〜ンジ!!!
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109 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/06(木) 00:37:45
諸葛亮が組織した軍と言うと、飛軍と号した、南中の青羌によって組織された部隊や、
涪陵の獽族、蜑族より選抜された三千人の連弩士などがあるな。
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/06(木) 02:55:12
コーエーの本にあったよね。
孔明は主を辺境の偽帝にした…ってね。
たしかに流浪の将軍が領土を持って割拠したのは凄い。
天下三分の計も、それなりに形にはなった。
でも、一部でご都合主義と評価され、歴史的にも中途半端で不完全に終わったところが、評価が上がりきらない理由だろうね。
その辺は、現実がそうだから仕方ない。残念だ
論理立てて反論してるんだからちゃんと答えてくれよ。
>>110 古代、論語に「君君たり、臣臣たる」「賢者は世を辟(避)く」とあるように、
国や君主が相応しくないならば危難を避けても良いというのが倫理の中にあった。
だが、匈奴の進出に追われて東晋が成立すると、いわば「君君たらずとも臣臣たれ」
という倫理観が発展し、同じ亡命王朝である蜀漢の再評価の機運も起きる。
蜀漢正統論自体は長続きしなかったようだが、衰亡した漢を受け継ぎあくまで護持した蜀漢、
特に諸葛亮は、臣下の鏡として称揚されて時代は下り、朝廷は廟に祭り、
民衆は講談・民話に語り継いでそのイメージを発展させていった。
それは、明代、三国時代から実に千年の醸成期間を経て、「三国志演義」として結実する。
というわけで、歴史的に言うならば、諸葛亮は小国の一宰相という地位に不釣合いなほど
高い知名度と評価を中国史の中で得て、現代に至る(周知のことだね)。
諸葛亮の歴史的な「評価が上がりきらない」などという「現実」は無い。
その事跡が「中途半端で不完全に終わった」というのは確かに言える。
その観点から言えば後漢末・三国時代の人物は中国史の中ではすべて二線級ということになるが。
「辺境の偽帝」が誰の評価か知らないが、演義ベースを掲げるkoeiがその説を記載するというのは
興味深いな。詳細を求める。
鑑だ、と訂正しておくw
>諸葛亮
三国志演義という歴史小説により異常に持ち上げられたってのが事実だね
確かに正史の観点から見ても偉大な人物ではあるが演義によって作られた偶像としての
諸葛亮に及ぶべきものではない。
高い知名度と評価と言うのは偶像としての諸葛亮に与えられたもの。
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/07(金) 11:48:20
上の方でさ同時期の奴が
「孔明はすごい」って褒め称えたってのがあるけど
具体的に誰なん?
シバイがなくなるときに「あの世で孔明に教えを請いたい」
なんて言ったのは創作でしょ?
具体的には司馬懿
>>115 確か、晋書宣帝紀に司馬懿が諸葛亮を「天下の奇才であった」評したってのがあったはず。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/07(金) 12:28:56
>>115 117氏の仰るとおりです。
原文で「天下奇才也」。
これ以上の賛辞がありますか?
徐庶「諸葛亮は臥龍である」
劉備「諸葛亮と私は水と魚のような関係だ」
「諸葛亮の才能は曹丕の十倍である」
劉g「諸葛亮は深器だ」
司馬懿「諸葛亮は天下の奇才だ」
諸葛亮伝でパッと思い出せるところだけ抜き出してみた
敵味方から大絶賛です
実際孔明は当時の民衆から支持されていたから、時が流れて演義でも超人にされた事を忘れてはいけない
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/07(金) 14:25:59
たしか「奇」って今と意味違うんじゃなかったっけ?
奇才ってあんま褒め言葉じゃなかったような。
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/07(金) 14:35:43
どうせ捏造か創作でしょ
具体的にどこがどうとかじゃないし
負けてないシバイが絶賛するわけないじゃん
( ゚Дメ) 123
>>121 晋書におけるその前後の記述を読んで、
それでもまだ褒め言葉ではないと解釈されたのでしたら仕方ありません。
司馬懿
諸葛亮(のした祭)は、天下の奇祭
なんじゃね?
具体的には饅頭(マントウ)を河に流す祭の事だと考えられる
蜀軍が引き上げた後の陣地跡を見て、天下の奇才と驚嘆した、とある
ただまあ、晋書だし、創作である可能性は否定できん、が
諸葛亮に勝利しつつも第四次では迎え撃とうとして返り討ち、撤退した相手を追撃したら伏兵、と
意外と痛い目も見せられてる。あと私的な手紙(黄権の時の)を交わしたりもしてるね
その点から言えば、諸葛亮を賞賛する、という流れに違和感は感じない
少なくとも、晋書が書かれた時代において、評価はされてたって事だろう
ただ
>>121の言葉が気になる。文の前後的には賞賛と取れるんだが……
>>126 >>121がバカってことでok
漢文における「奇」は「レアで優れてる」って意味だから
「天下の奇才」は「この広い天下全ての中でも数少ない優れた才能の持ち主」という意味になる
>>127 説明ありがとう
だとすると天下奇才とは賞賛の中でもかなりのもんだな
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/07(金) 21:04:22
けどシバイと戦ったから孔明は持ち上げられて
書かれてるって説あったよね?
孔明を無能にするとそれと引き分けたシバイまで
無能になるから。シバイの子孫の晋の歴史書ではダメになってしまう。
説があるだけでそれが真実になるのか?
ならないだろ
131 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/07(金) 21:35:46
イヤだから奇祭ですよね
132 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/07(金) 22:12:56
今更なつっこみかもしれんが、「天下の奇才である」っていう司馬懿の言葉自体は、
諸葛亮伝の本文にあるよ。
晋書は諸葛亮伝から採ったんだと思う。
>>119 天下の奇才と称したのはたしか事実
でも教えを乞いたいとかいったのはたしか創作
天下奇才は正史の伝にあったのか
だとすると信憑性は結構高まるな
あと、饅頭の逸話は『事物紀原』にあるが、小説に云う、と前置きされてて信憑性は乏しいみたいね
奇才というのはどーも関羽の万人敵やら曹操の超世の傑やらと同じ匂いを感じる…
>>129 で、あるならば、司馬懿が有能であるなら、それと渡り合った諸葛亮が有能であるのも
また必然となるわけだ。一方が無能なら決着付いてるはずだからね。
いや、諸葛亮が死んでも30年近く持ってた事を考えたら
それはもう個人の資質云々だけでは片付けられない
蒋エン、費イが北伐をしなかったからだろ、30年もったのは
とにかく北伐で疲弊した国を立て直すのに費やしている。
蒋エンは諸葛亮とは違うルートで計画立ててるけど計画倒れだし
費イは諸葛亮死後、主戦派の魏延を排除するように動いてた節があるし
姜維に兵の大権を与えるような真似もしていない。
とにかく内政に腐心している。
私見だが蒋エン、費イは北伐が示威行為だというのを理解していたんだろう
で魏延、姜維はガチで魏打倒を考えていたと
蜀の建前
魏を打倒し漢を復興させる
諸葛亮の本音
漢を復興させるなんて大見得切って建国した以上、何もしないというわけにもいかないし・・・・・
国が傾かない程度に攻めて被害が出ない内に退却すればいいだろ
これで国としての一応の面子も保てるし
って感じかなw
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/08(土) 07:42:15
出師表の出来を考えると、孔明が魏打倒を考えていたのは間違いない。
140 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/08(土) 08:59:47
でも晋書だと諸葛亮(というか蜀軍)は魏軍相手にフルボッコ。諸葛亮(の才能)を持ち上げる描写なんてほぼ皆無。
三国志が諸葛亮をやや持ち上げて書いていたとしても、それは陳寿の好みの問題だわ。
142 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/08(土) 10:24:34
出師の表はリッパなマニフェストだと思うよ?
兵は機動なり、とも、味方を欺くにはまず味方から、とも言うしね
>>140 曹操は曹丕に対して、司馬懿はいつまでも人の下にいる器ではないから注意しろよと忠告した。
曹丕の代でではないが、事実そうなった。
曹操が有能で、曹丕がそれに及ばないとするなら、司馬懿は曹操に有能と評価されていたことになる。
>>138 諸葛亮の北伐はそんなに分の悪い戦ではない。
その死後、国が疲弊していた証は皆無。
蒋エンは東征を反対されて北伐に切り替えた。
費イは北伐をしている。
姜維は危ない橋を渡ったが、途中までいい線行っている。
建前主眼で軍を動かしたというのはあまりに根拠薄弱。
145 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/08(土) 11:00:57
>>138=142
なのだろうけど、見せかけだけの北伐なら、民衆の不満を和らげる為に恩赦連発してまで行わなかっただろう。
大赦が連発されたのは姜維の時代、しかも256年に大敗して以後のこと。
諸葛亮の時代では劉禅即位時の一度だけ。
その後は234・238・243・246・249・254。
これでは北伐の濃淡とは関係ないな。
>>138 諸葛亮の北伐は国の疲弊を最低限に抑えたものだよ
30年かかって復興させるような大打撃は受けてない
外向きの力が失われたのは諸葛亮死後に大量人員雇用によって
巨額の経費が必要になった事の方が要因としては大きいのでは?
劉禅降伏時の蜀は人口に対して官人の数が異様な程多い事からも
蜀の朝廷がロスの大きな運営をしていたことがある程度わかる
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/08(土) 12:45:13
ていうか国疲弊させたくないなら北伐なんかしなきゃいいのに
孔明もさ。
諸葛亮が有能なら、北伐がいかにムリな戦が十分に見切る事が出来ていたはずだが
まず国力が言えるが、何よりも人口が少なすぎる。把握できる限りで100万にも満たないなんてのは尋常じゃない。
この国力で大規模な戦線を長期間支えるなど現実味に乏しい。これは三国すべてにいえることだがね。
さらに北伐自体歴史上成功させた政権は数えるほどしかない。
韓信が成功させたが、韓信が相手にした五国に比べて遥かに魏の方が安定しているし、体制も磐石。
諸葛亮ほどの政治家ならどれだけリスクの高い戦だったか見切れなかったはずがない。
事実三国の中で一番強大だった魏が統一を果たすのにあれだけの時間がかかったのだから。その間に内部われまでおきて首もすげ変わってる
それもこれも全土の漢民族あわせて人口が1000万を切るという人口崩壊がそもそもの原因。
だから後漢が事実上崩壊してからの分裂期も相当長かった。そして後の時代の五胡以降の分裂はさらに長い。
いつも思うけど、孔明には北伐を本気で成功させるつもりはなかった、
あれは政治的パフォーマンスに過ぎないっていう説を唱える人の根拠って
孔明ほど有能な人間が北伐の無謀さに気付かないはずがない、って意外に何もないよね
でもさ、本気でやる気がないなら、自身が陣没するほどの病をおしてまで
北伐を敢行したりしないと思うよ。
陣中で総大将が病死したりしたら、軍が総崩れになる危険性だってあるんだから
別に孔明は予知できない急病に倒れたわけじゃない
>>150 何故諸葛亮は本気で成功させるつもりじゃなかったか?の根拠はここでもそれ以外に出てるだろ。
国内向けの建前的ポーズ、国外への防衛の意識を向けるための蜀の延命措置
根拠じゃなくて「理由」じゃないかね。
諸葛亮は本気で北伐しようとしてなかった。その理由は〜 っていう感じで。
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/08(土) 17:52:03
俺はね。孔明って格好つけたい奴なだけなきがするよ。
だから最後の余命幾ばくもないときにも
わざわざ北伐しに言ったんだと思う。
154 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/08(土) 18:45:30
203 :可児 ◆aveHu8CtDk :2008/11/08(土) 18:44:06
>>200 ふざけんなてめぇ!俺の200だろーがシネカス!
可児家にバッタモンが現れたんで俺が登場したんだよ
文句あんのか?子猫ちゃん
基地外来襲age^^
>>151 だからそれ理由じゃん
何の根拠にもなってない
>>155 それで根拠にならないなら
本気で北方政権を倒そうとしてたって根拠も無いじゃん
>>156 諸葛亮が出師の表に書いてて、その後その表の通りに何度も魏に対し出兵した
普通は本気で倒そうとしていたと思うだろう
そうでないというなら、まずそれなりの根拠を示す必要がある
>>155 逆に言うが本気で北伐を完遂しようとしてたならあんな安全運転ばっかりしねーだろ。
それも五回とも同じような撤退の仕方をしてるじゃねーか。
>>157 出師の表こそ逆に考えればまさしくポーズだ
そして5回も出撃してなんで大した事もしないまま退いてるんだ?
本気で倒そうとしてたなら多少は強引になってもいい、それこそ魏延やキョウイのような姿勢が少しは見られてもいいはず。
ジリ貧になるのはわかりきってたはずなのにな。いつも似たような形で退いてるだろう。
>>159 だからそれらを組み立てれれば孔明は軍事面では無能だった、って結論になるだろ
孔明は無能じゃないんだから、という結論ありきで話は組み立ててはいけない
出師の表がポーズだった、という証拠なりそう推測できる当時の証言なりがないと話にならない
そもそもあれが出師の表がポーズに過ぎないなら
あれが千古の名文という評価はちょっと与えられないな
>>157 >>諸葛亮が出師の表に書いてて、その後その表の通りに何度も魏に対し出兵した
まさしくパフォーマンスじゃねーかw
建前を成立させるための
>>159 大した結果が出なかったことと大した事をしなかったことは全く意味が違う
諸葛亮は前者
偽兵など手の込んだことをし、天水などが呼応したり、
兵糧不足ですぐ退いたものの追撃する敵将を殺したり、
二郡を奪ったり、
長期持久戦から屯田を起こしそのまま定着しようとしたり、
能力不足なのか天運に見放されたのかはともかく、ガチでやることはやってた
ハイリスクハイリターンに手を出さなかったというだけでは理由にならない
>>160 文学的に高い評価なのは「それらしさ」が十分に出てる、単純に文章としてのレベルが高いからだろう。
まあ曹操の書が「悪人のヤツがこんな素晴らしい書を書けるわけがない」と評価されなかったという逸話もあるし、諸葛亮びいきも多少あるのかもしれないけどね。
164 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/08(土) 19:52:35
今現在だと文の才能はどう見ても曹操なんでしょ?
孔明は誌とか作ってないみたいだし。
>>162 その通用しないやり方を何度も続けたってのが問題だ
もともと安全策で勝てる勝負じゃない事はわかりきってたはずなのに
国力の消耗を最小限に抑えてなるべく長く蜀の独立を保つ方針にシフトしたんじゃないか?
まあ諸葛亮が能無しだってんなら、確かにそれ以上の理由は無いがな。
普通に領土広げるつもりで侵攻してるんだろ。
陰平とか武都とかそっち方面には戦果だってある。
>>165 現に魏より二郡を奪っているので、「通用しないやり方」という認識は当時も今も到底できないんじゃないかな
通用してるじゃん
>>167 北伐ってのは魏を打倒する事が目的なんじゃないのか?出師の表によるならば。
その程度の戦果で満足してどうする。それじゃいつまで経っても当初の目的を果たす事は出来ない。
何年にも渡って何度と大規模な戦役起して長安も取れてないのに「通用してるヨ!」とアピられてもなんだかなあ、って感じだろうな
当時も今も
>>169 通用したとアピった人間はいないだろうな。今も昔も。
孔明厨とアンチ孔明の論争は1500年からの歴史があるが、
結局陳寿の「応変の軍略はその得手とする所ではなかったのか」
という評が原点で終着点なんだよな。
>>170 じゃあなおさら通用したという認識も無いな
孔明が本気だったなら能力不足ということになる
孔明に能力があったなら本気じゃなかったということになる
今回の流れは特殊だな
単純に戦略目標が長安じゃなかったってだけじゃん
何言ってんのお前ら
それだといつまで経っても北伐は成功を見ないんだが。
北伐の最終目標は魏の打倒だろ?
諸葛亮のルートで行くなら中原に進出するためには長安くらいまで進出しないとお話にならないんだが
本気だったなら、の話だけど
魏を妥当するかただのアピールかの二択しか無いんすか。
>>175 魏が手抜きで能無し揃いだったら、それで正しいんだけどね。
>>176 魏への対外政策って相手を倒すか身を守るかの二つしかねえんじゃねえの?
講和なんてムリだろう。特に蜀は漢室復興と曹魏の打倒がスローガンなのに。
本気で勝ちに行くか建前とわりきって国防の方針で行くかの二択以外になんかあんのか
>>178 君の頭の中には「本気で勝ちに行く」には「ごく短い間に戦局をひっくり返す」しか選択肢がないのか?
>>178 自分自身の持論を捻じ曲げちゃだめだよ。
>>175は「諸葛亮が本気だったのなら、北伐は成功したはずだ。失敗したのだからポーズだったはずだ」
と言っていたのに、
>>178は「魏との外交政策は打倒か専守のどちらか以外に有り得ない」
に変わってる。
178には賛成だけどね。で、諸葛亮は打倒を取った。
>>180 誰が曲げてんのよ、俺は北伐は建前のためのポーズであると同時に、国防のための延命措置だと思ってる。
だが蜀の基本理念からして全く攻めないのはまずい。だから諸葛亮は被害を最小限に抑える戦い方をした。
出師の表や出兵等は建前のため、引いては国の意識を外に向けるためのポ−ズ、というのが俺の考え。
つか
>>178では国の方針についての話なんだけど。魏を打倒するかアピるかしかないのかというから、それしかないだろと。
>>179 国力で下回る国が持久戦で勝てると思ってんのか?
>>180 ついでにいうなら俺は北伐を成功させられたなんて言っちゃいないし、思ってもいない。
考えれば考えるほど無理な戦だ。で、諸葛亮ならそれくらい十分わかってたはず。
でも攻めないわけにはいかないから、建前を果たし無理をしない方法をとった。
本気で打倒するつもりならもっと強引に行くだろう、諸葛亮の意思はまず第一に防衛にあった、と俺は考える。
同時に北伐の敢行は国内向けのポーズであった、とも。
だからポーズなら重病をおして自分を総大将にして敢行する意味があったのか?
あまりにもリスクが大きすぎないか?
孔明は本気で自分が死ぬまでに長安までは欲しかったんだと思うけど
最期の北伐以外は長安そのものが目標だったわけでなく
長安よりも西側を切り取りたかったように見えるがね
>>184 もしかすると最後のは諸葛亮なりの博打だったのかもしれないなあ
単純にそっち方面への交通網が整備されかけてたから
物量差に圧殺される前に何とかしときたかったんだろ
>国力で下回る国が持久戦で勝てると思ってんのか?
>考えれば考えるほど無理な戦だ。で、諸葛亮ならそれくらい十分わかってたはず。
そこが見解の差だな。
北伐、少なくとも長安を取るくらいのことは、困難ではあるが、不可能事ではなかった。
双方の当事者がそう認識していただろう。
魏と蜀の人口的国力比は4:1。だが、承知のことと思うが、その国力差を魏は雍州に反映することが出来なかった。
司馬懿、後には郭淮も、配下の兵数が諸葛亮、姜維と比べて優勢ではないことを言明している。
諸葛亮が大敗しなかったのは、勿論彼の慎重によるところが大きいだろう。が、
では隴西を縦横に行き来した姜維はどうか?
郭淮・陳泰は姜維の侵攻を何度も撃退してはいる。姜維は彼らを打ち破ることが出来なかった。
だが、彼らも姜維本隊を破ったことは一度もない(はず)なんだ。北伐に出た姜維を直接破ることができたのはケ艾だけだ。
秦嶺山脈という要害を挟み、南北の防備が固まっている以上、それを超えて地歩を得るには、
まず機動力を持つ敵の主戦力を撃破せねばならない。逆に言えばそれを保全することが出来れば
敵の侵攻を防ぎ通すことができる。
やや当て推量込みで言えば、諸葛亮と対した司馬懿のみならず郭淮も陳泰も姜維との決戦を避け続けたと言えるかもしれない。
諸葛亮や姜維が魏の諸将を相手に決定的な勝利を得ることが出来なかった理由の一つはこれだろう。
次に諸葛亮の北伐がただのアピールに過ぎなかったのか、という問題。
諸葛亮が国内の安定に非常に気を配ったのは確かだが、それは極言すれば、全て北伐のためだった。
丞相府による一極支配体制、峻厳な法の執行による強兵の編成、南征による収穫の軍費への注入。
次代まで伝わる軍政一致の政府機構。諸葛亮の治政には文治の風は殆ど感じられない。
北伐というのは「北へ兵を動かした」によって始まり終わるものではないんだよ。
「国内向けのポーズ」を示すために国家機構の編成の段階からこれほどの労力を国力を費やすという話は
ちょっと聞いたことがないし、そういうものはポーズとは言わないだろう。
この時代、戸籍人口の低下によって兵糧不足が深刻だったのも確かだ。
戦国時代のように数十万の大軍を数年に渡って出兵させることはできなかった。
そのような形の「持久戦」を取れば、当然政体はあっという間に滅んだだろう。
だから、蓄えた兵糧によって大軍を編成して敵国に侵攻し、敵の主力を破って占領地を得たのち、
主力は中央に戻り、要害を諸将が守る、という戦い方を、この時代の群雄は行った。
「蓄えた兵糧によって大軍を編成して敵国に侵攻し」までなら諸葛亮も見事な手腕で行っている。
その先を得られなかったが。
故に結論は
>>171かつ
>>177になる。
>>187 宮崎市定先生の学説を信じるなら、後漢末期〜三国時代は兵士の専業化の時代で
戦国時代や秦漢時代に比べて動員数が少ないのは戸籍人口の減少だけでなく
専門化された高度な軍人を一朝一夕に揃えることができなかったからという事らしい
>>188 その説は読んでないけど、
大軍を擁することができないから専業化が進んだといえないかな。
ただ、徴兵制から募兵制に移行したのは漢代あるようだ。
後漢は中郎将のような朝廷の常備軍、郡県の諸兵、度遼将軍や使匈奴中郎将のような辺境の守兵の
三種しか基本兵制を持たない国だった。
それを引き継いだかはともかく、前線の城の守兵は数千単位(張遼時の合肥諸軍7000とか)の専業兵士で
構成されていたと思う。
でも蜀漢の人口90万に対する兵数10万とか、曹操の「冀州は20万の兵を得ることができる」
というのは、徴兵でなければ出せない数字だろうから、
「即応戦力は募兵を中核としつつ徴兵での大動員も行われた」という感じでなかろうか。
諸葛亮の北伐により蜀はまったく疲弊してないとかあり得んよ
五回もの北伐で碌な成果もなし、二群をとったと言っても辺境の土地
戦争というものは勝ってこそ得られるものがある
大きく負けはしなかったが得られたものは辺境の二群のみ
莫大な戦費をかけた割にこれでは割に合わないよ
国庫の出費は莫大でも、民衆や兵士が消耗したかどうかは別だからね。
戦時徴発をガンガンとったなら消耗しただろうが、それらしい記述はない(かな?)。大赦はない。
「戦争しなければもっと潤ったはずだ」というなら、まったくもっともなことだが。
>>191 一応諸葛亮は塩鉄の専売やってるから徴税という形ではないが民衆からはある程度搾り取ってるよ
兵を出すだけでも莫大な出費、遠征に伴う兵糧を消費する
それだけで国はどんどん消耗していくよ、勝って大きく得るものがない限りね
塩鉄専売は漢代からの法家の夢だな。
諸葛亮は別に民衆にのびのび暮らさせる徳治を敷いたわけじゃないからね。
>>193 しかし生憎と、陳寿三国志、裴松之注、華容国志、どれをとっても諸葛亮の治世を賞賛するものばかりなんだな。
批判があるとしたら「当時諸葛亮の法は峻厳だった。ので民衆は苦しんだ(はずだ)」という裴松之が反論するためのたたき台と
用いられているものくらい(諸葛亮の死の隙を狙って巴西を増強した呉に対抗して白帝の守備を固める「余裕」があったりする)。
陳寿は故吏、裴松之は信奉者、華陽国志は蜀の郷士の評価を上げるためのものであるので不評を糊塗しているとするなら、
各所に拡散しているだろう生存中や死亡後の蜀の動揺の記述などを見つけて総合的に推量しなければならないわけだから、
単純にはいかないし、「諸葛亮は本当に蜀漢を疲弊させなかったのか?」というのは興味深い課題だ。
>>187程度には期待している。
蜀をとったとき劉備が兵に倉のものを好きにしてよいとしたため国庫は空になったが
それを補ったりイリョウの敗戦からの蜀の復興等、諸葛亮の政治手腕は当代一のものがあるだろう
しかしだ、イリョウの敗戦から北伐に至るまでの蓄えがあったからこそ北伐はできた
およそ、6年の間に5度も北伐を行い得るものがほとんどない、
また蜀の戸数も約28万戸と少なく税も兵糧も多くは期待できない。
北伐の成果も少なく税も期待できないのでは疲弊したと考えるのが自然であろう。
>>196 蔵の物を持ち出し可能にして空になった国庫を潤したのは劉巴の知恵だぞ
>およそ、6年の間に5度も北伐を行い得るものがほとんどない
これは三次で奪った二郡の戦略的価値を甘く見すぎている
漢中の表口が諸葛亮の使った進行ルートならば、二郡のある場所は言わば裏口
漢中の守りが万全だったのは二郡あったればこそだ
さらにこの二郡はマンパワーが不足しがちな蜀において貴重な人的資源をもたらした
得るものがほとんどないというのは大間違い
二群の価値をあまりにも過剰に見すぎだろう
それぐらいしか成果がなかったから誇張して言いたいのはわかるけどね
どこが過剰かね?
防衛網の構築という意味で二郡を取ってなければ王平が漢中守れたかも怪しいぞ
事実漢中が落ちた時はこの二郡方面からの侵入を許してしまった(それだけが理由じゃないけど)
魏の最辺境で人口も大したこともないのに人的資源をもたらしたってところと
無いよりはあった方がまし程度の防衛網、その二群は
それほど重要な地帯なら魏が放置するわけないしね
魏にとってさして重要な地ではなかったのだろう
重要でないというか、あんな場所守りきれないよな
陳倉の守備を固めるのが精一杯なのに。
二郡が齎した財政的価値を高く見るわけにはいかないが、
>>196は結局、諸葛亮の死後財政が逼迫していたとか反乱が起きたとかいう記録を提示しないと空論。
拡張戦争で占領地を拡大しないと割に合わないというのは、戦時体制が敷かれ総力戦の度が増す近代のことで、
諸葛亮がいくら集権体制を整えたからといって近代の論を即座に適用できるほどの総動員体制を実施したかというと、
やはり論拠がないと無理。「自然」に導き出せる答えではない。
当然徴兵動員によって遠征すれば、その歳の収穫は減ってしまい、度が過ぎれば官民共に疲弊するわけだが、
諸葛亮はそれを補いうために内政の期間を置いている。
やらないから具体的にやってみた。
228年春 一次 南征などによって蓄えた財力を使った大規模なもの。馬謖の敗北により撤収。
228年冬 二次 呉の侵攻に合わせた陳倉攻撃。一ヶ月ほどの短期のもの。一次の物資の残余を使用したと思われる。
兵糧が尽き、洛陽からの援軍が迫り退却。
229年春 三次 陳式が武都と陰兵奪取。諸葛亮が郭淮に対抗して出兵、撤退を強いる。小規模・短期のもので四次の前段と言える。
231年春 四次 祁山攻撃。長雨によって補給が途絶して退却。
232年 農耕に務め兵を教練する。南方にて反乱、馬忠が平定する。
234年春 五次 斜谷から出陣。五丈原にて屯田を行うが、冬、諸葛亮の死により撤退。楊儀の成都帰還に伴い大赦。
235年 馬岱が出兵するが、牛金に撃退される。
236年 武都のテイ族を蜀郡に移住させる。
238年 妹の張氏を皇后に立てる。大赦。冬、蒋エンが漢中に出陣。
240年 張嶷が越スイ郡を平定。
五次の北伐と言っても、国力を傾注するほどの作戦は、228、231、234の三度。期間が空いている。
疲弊の色は見当たらないよなあ。曹操が、196年の献帝奉戴から208年の荊州攻撃まで
毎年のように出兵しているのとは大違いだ(こちらはちゃんと領土拡張があったが)
蒋エンが4年で成都を離れて対魏攻撃を考えられるくらいだし。
精査すれば、あるいは記されていない細かい反乱は多く起きたと思われるが、それは魏も呉も同じ。
それを鎮定して虫食いだらけの領域を埋めているわけだ。
ちょっと訂正
>236年 武都のテイ族を蜀郡に移住させる。
というのは、張嶷伝にある話のようだ。
武都のテイ王符健が帰順を請うたが、その弟や諸将が反乱して魏に属した。
符健は400家だけを率いて蜀に帰順し、広都県に移住したとある。
このことから諸葛亮の死後の一時期、武都は離反していたと言えるかもしれない。
姜維が蒋エンの司馬の時代に征西したというのはこの近辺でのことかな?
28万戸のしかない税収で大規模な北伐を6年の間に5度やっていると言っている。
それに蜀の総力をあげての一大事業、国が傾かないと考えるのがおかしい
>拡張戦争で占領地を拡大しないと割に合わないというのは、戦時体制が敷かれ総力戦の度が増す近代のことで、
>諸葛亮がいくら集権体制を整えたからといって近代の論を即座に適用できるほどの総動員体制を実施したかというと、
>やはり論拠がないと無理。「自然」に導き出せる答えではない。
近代でも古代でも戦争は勝つ以外大きく得られるものは何もない
それに期間が開いていると言うのは消耗したから回復に努めたのであろうことは容易に想像できる。
少し回復したら攻め、また消耗の繰り返しではジリ貧になるのは明らか
人の話聞かないって言われるでしょ
ジリ貧になる、って言われても
実際のところ諸葛亮から費イにかけては魏につけいられる状況になってないし
国内からも批判意見が出たりとかもしてないんだけど。
明らかに疲弊しだすのは姜維の代になってからじゃないのか。
いわゆる「北伐はデモンストレーション」って話は姜維にはモロに当てはまるだろうね。
外様出身で、軍以外の自己の勢力基盤が故諸葛亮の評価だけ。
それが権力を維持しようと思ったら軍を動かしつづけるしか無い。
>>207 >>魏につけいられる状況になってないし
というか魏からしてみれば関中平野よりむこうは簡単に行き来出来る場所じゃなく、まさに陸の孤島だからな
そんな辺境の争いに重点を置いてかまってるヒマもないし、それだけの意味もない、という前提がある。
>>208 対呉楚戦線で考えるなら長江の上流ってのはかなり重要だと思うが。
28万戸のしかない税収そして成果の上がらない北伐なのに疲弊していないのはおかしい
言ってるのにそこはスルーか史書には批判がないの一点張り
史書には蜀の都合の悪い歴史を書かないのは当たり前なんじゃないのか?
諸葛亮の北伐を擁護するとき必ず姜維は貶められるなw
「28万戸の税収」て言うけどさ、
具体的にどれだけの税収ならどの程度の規模の遠征が可能なのかとかの目安有るの?
>>211 >史書には蜀の都合の悪い歴史を書かないのは当たり前なんじゃないのか?
ちゃんと「国が疲弊する」って批判も書かれてますが。諸葛亮死後だがね。
「疲弊」の意味に食い違いがあるな。
「戦果がなかったのだから、軍を動かした分だけ財政・備蓄等の収支がマイナスだったはずだ」というなら当然ながらYes。
だから回復期間が必要なのだね。>205はそう言っているようにみえる。
「諸葛亮の北伐によって、蜀漢には、財政悪化、軍隊の消耗、民衆の困窮・不満の蓄積等が起きたはずだ」
というのはNo。勿論まったく起きないことはありえないが、
少なくとも史書にあるほど目立つ形のものは、諸葛亮の死の前後に見つけられなかった。
だから提示してくれ。
>>213 三国時代と他の時代の人口比を考えてみると
なかなか大規模な遠征は難しい気がする
蜀のある四川は中国で最も貧しい土地
いくら諸葛亮がうまいこと国家経営をしていたと記述が史書にあっても
得られるものもない北伐で何度も失敗していれば困窮するのは火を見るよりも明らか
>史書にあるほど目立つ形のものは、諸葛亮の死の前後に見つけられなかった
蜀は諸葛亮の命により史官が置かれなかった時期があるためそれは仕方がないことだろう。
その記録が残ってないんだしね。
219 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/09(日) 22:36:36
>>218 >蜀のある四川は中国で最も貧しい土地
こんな大間違いを前提に語られたら、もう何を言われても聞く気にもなれない
>>213 孫子には10万の軍を動かすには70万戸の支えが必要とある
そのまま適応はできないだろうが蜀の軍は約10万とされる
対して蜀は28万戸、それだけでもどれだけ無理しているかがわかる
>>219 「古来、天府の国と呼ばれて知味肥え、天然資源に富む」ってのを信じちゃってるのかw
よく諸葛亮は人を見る目が無いって言うけど、最近どこかのスレで
「諸葛亮は魏延、楊儀を後継者に選ばなかった。
実際のところ、魏延と楊儀は不平不満を抱いて自滅する程度の人間だった。
魏延、楊儀がその程度の人間と見抜いて後継者に指名しなかったのだから
諸葛亮の人物眼は悪くない。」
ってレスをみてそういう考え方も有りだな、と思った。
>>221 後漢の動乱で激減・流出した中原の人口は、冀州、揚州、益州へ避難した。
それらを確保することで魏呉蜀の三国が成立した。
劉焉・劉璋の時代から南陽三輔の人口が流入しており、豪族が富裕だったの記述もある。
晋書の郡国人口を見れば一発だよ。
故に諸葛亮は法令を厳しくして放漫だった豪族を統制したわけだね。
魏は現物経済だったのに呉と蜀は大銭作ったり武器作りの逸話があったりという逆南北格差も有名だよね
>>220 さすがに春秋戦国のやつを参考にするのはアレだろう……。
戸数だけで判断するなら、魏が66万戸 呉が52万戸、蜀が28万戸
これをそのまま70万戸=10万の比率にしちゃうと
魏:9.5万 呉:7.5万 蜀:4万
とかになるんだが、この兵力比なら呉蜀の二面作戦なら十分勝ち目が有るように見えないか?
仮に70万戸=10万ってのが間違ってるにしても、動員兵力を戸数から割り出すのならこの比率は変わらない。
>>223に対して魏は、曹操が魏王となり冀州牧を兼務することで自分自身の軍事基盤は確保したものの、遥か北方のこと。
洛陽・長安周辺が大打撃を蒙ったうえに山東の人口が激減したため、広域の軍事行動に支障をきたした。
首都洛陽には人為的な人口集中の跡が見られるが、曹真の時代までは西方軍の主力を長安に置くのが精一杯。
それでも不足で、蜀・呉の侵攻があるたびに洛陽から援軍を出さねばならなかったと
諸葛亮の時代から祁山経由での侵攻が繰り返されたにも拘らず、
上ケイに駐屯したと初めて記述が見られるのは陳泰(実際にもっと早いだろうが)の記事。
この段に至ってやっと洛陽の援軍を必要としなくなるが、姜維はさらに西方周りで隴西の羌族と結んで兵站を確保しために
兵力的な優勢を得ることはやはりできなかった。
司馬懿・郭淮らの苦戦の所以だ。そのため司馬懿は兵站を確保するための策を複数上言している。
「大国魏の優勢」なんてこんなもんなんだよ。勿論、国力の劣勢を戦場の劣勢に反映させないための
諸葛亮や姜維の戦略・外交上の苦心も大いに考慮せねばならない。
演義的な「蜀は小国少数で、大軍の魏を相手に果敢に挑んだ」というような図式は当てはめることができない。
>>220 孫子の軍事行動は、十万の徴兵軍を重地(敵地奥深く)に進入させて長期に渡って対陣させ、
一つの戦機を拾って敵主力との会戦に及び、その壊滅を図ると言うもの。
三国時代のものとはまったく異なるのは
>>187-189にある通り。
>>225 >魏が66万戸 呉が52万戸、蜀が28万戸
呉の人口多いな
>>223 四川の気候、風土を考えれば穀物が育たないのはわかることだろう
四川は日照時間が濃い霧の発生により短く穀物は育たない
追加
そんな土地なので保存のきく穀物は多くは得られないので
当然兵糧も多く得られない
>>228 どんどん話がずれてきてるぞ。
二行レスに応じるために農耕史のネタ仕入れて長文講義までして差し上げなけりゃならないのか。
そこまで手に負えんよ。
>孫子の軍事行動は、十万の徴兵軍を重地(敵地奥深く)に進入させて長期に渡って対陣させ、
>一つの戦機を拾って敵主力との会戦に及び、その壊滅を図ると言うもの
秦嶺山脈を越えての敵国への遠征は敵地奥深くに当たるだろう。
長期に渡って対陣したくとも慢性的な兵糧の欠乏でそれが成しえなかっただけでね
敵主力と会戦に持ち込みたくとも魏には常に持久戦を取っている。
遠征はしたけど兵糧の欠乏、持久戦挑まれて毎回失敗という結果だけがある。
>>230 穀物が育たない土地なので貧しい土地なのは一目瞭然だろう。
銅は採れてたようだからその辺は大丈夫だろうがそれも出費で消える
史料で豊かと書いていたから豊かと言い張るのにも限度があるぞ。
本当に孫子読んでる? 当時の軍事行動は多年に渡るのが前提だった。
後漢末三国では年を跨ぐ遠征は数えるほどしか起きない。
兵站への負荷はまったく異なるよ。
また、諸葛亮の北伐で問題になったのは兵站輸送の困難であって、兵糧不足そのものではない。
しかも、持久戦に持ち込まれた結果敗退というのは231年の一度だけ。このスレのレスくらい読んでくれ。
んでもって、四川は現在でも米の名産地であり、古来稲作の発祥地の一つという説があった(これは疑わしいらしいが)
より有利な条件の江南には及ばない(孫呉を契機とする南朝時代の発展が巴蜀に起きなかったのはこのためでもあろう)
にしても、稲作の華北や異民族の多い雍涼州と比べて、人口当たり生産力で劣っているとは言い難いな。
「天府」は誇張であるにしても、生産性が貧弱だという評は聞いたことがない。
対する渭南盆地もまた穀倉地帯であったけれど、洛陽遷都と後漢末の混乱で後退し、
司馬懿の建策による灌漑を必要としている。
四川が米の名産地なのは近年における土壌の改良があったからだよ・・・・・
戦国・前漢の時代から農耕入植の記録があり、稲作の遺跡が出土してるよ。
この際は、疲弊した北部と比べても人口比が当てにならないほど「穀物が育たない土地なので貧しい土地」
であったという主張を否定できれば十分だ。
気候風土を考えて史料を考察しろよ。
それで史料のおかしな部分も見えてくるんだし・・・・・
それに全然否定できてないw
史料を考察さえせず、聞きかじり知識で場当たり反論しかしない人間に言われてもなあ。
もう疲れた。
蜀の中心にある四川盆地も丘陵に富んでいて穀物を育てるには向いてないうえ
山に囲まれ霧も多いので日照時間もきわめて短い
穀物の収穫はこれではあまり期待できない
華北一帯は平地が続き日照時間も長く穀物を育てるのにはこれ以上ない土地
>>237 史料を都合のいいようにしか解釈しない人間に言われても・・・・・
せっかくの資料も台無しだよ
黄河以南は衰退が激しかったと言ったんだが…
河北は豊かだったがその生産力を対蜀や呉に反映させられなかったとも言ったんだが…
テレビで見たことがあると思うけど、山の傾斜に堤を作って水稲する「段々畑」ならぬ
「段々水田」の陂塘型水田の記録は前漢からあり、
それだけの投資を行ってでも水稲を行う土地だったといえるのだが…
>>238のどこに史料の考察があるのか聞きたいのだが…
さらに花粉などの出土したものによって年代による森林分布状況を調べると
黄河流域では壊滅的だった森林が四川には生い茂ってたという話だ
木材資源の重要性を低く見積もりすぎてない?
蜀の収穫力は中原の8〜9割くらいだったという話はどっかで読んだな
稲作と麦作の播種量の格差は歴史語る上で常識的だけど、
この時代の南(稲)北(麦)中国にどれだけ適用できるのかはちょっとすぐには言えないな。
史料の考察ではなく実際の地形から考えれば簡単に考察できることだろう。
史料史料というから実際の四川の気候風土で反論したまでのこと
段々畑で耕作面積を増やしても日照時間が極めて短いため穀物は多くは望めないのは言った通りだが
大量の雨が降る地なので土中の栄養分まで流し去ってしまっている貧しい土地でもある。
蜀の大軍を動かすには当然兵糧が必要不可欠、だが収穫も大きくは期待できない土地、
これで諸葛亮が行った北伐で国は疲弊しないと考える方がおかしいであろう。
三国時代は特にどの群雄も兵糧には苦慮してるしね
穀物育てるのには日照時間が重要
年間日照時間
蜀(四川) 1200時間程度
魏(黄河下流域) 2500時間程度
これじゃ穀物は期待できないのがわかる
今のように品種改良もないしな
やる価値があったというよりやらざるを得なかったのであろう
その土地で生きていくためには不向きであっても穀物を育てるのは必須なわけだし
そもそも熱帯植物の稲の生育に最も大事なのは、日照時間ではなくて気温だと思うんだが。
温帯の日本で日照り不足というのは、即ち冷害なので、その年は凶作になる。
一方、梅雨も台風もなく広大な土地の北海道で近年まで稲作が振るわなかったのは、そもそも低温だから。
低温に強い品種改良を待つ必要があった。
そんな気候の日本や黄河流域と亜熱帯気候の四川の「日照不足」を同列に論じるからおかしいことになってるんじゃないかな。
その土地にあった品種なら、江南と比べれば不利ではあっても穀物生産に不利というほどではない。
と、思うんだが、現代農耕に詳しい
>>246の意見を伺いたいね。
因みに品種改良は古代からある。
巴蜀廣漢はもとは南夷で、秦が併せ郡と為した。土地は肥え,江水沃野があり、
山林、竹木、菜、果実の富がある。(略)民は稲魚を食い、凶年の憂えなく、習俗は愁苦なく、
しかして輕易で淫楽にふけり、柔弱で偏狭である。
故の秦地(雍益)は天下三分の一、人は十分の三に過ぎないが、しかしその富の量を図るに十分の六である。
「蜀は貧しい」ってネタは学研の歴史群像の中に有った。
文は田中重弘。
・蜀は雨が多いから土壌の栄養分が流れてしまう。そのため地味は悪い。
・日照時間が短い(1200時間程度)
・霜が降りず、冬にも作物を育てられる。ただし年間を通じて米などの作柄はいま一つ。
・土地の人は稲など穀物が無くても、野菜類が有るので大丈夫。
・遠征のために必要な米は少ない。
以降、諸葛亮が屯田に悪戦苦闘して失敗したであろうとつづく。
具体的な数値は日照時間くらいで議論の参考に出来ないが。
251 :
250:2008/11/10(月) 10:25:41
あ、僕は一連の人じゃないよ。
むしろ戸数の話をあっさりスルーされたことを不満に思ってるほうだ。
>>249 は漢書地理志からだな。
これに始まり蜀を天府と呼んだ諸葛亮その他の証言を全て覆すのが「日照時間」だけではなあ
>>250 その本が後漢書に比べて信用度高いっていう理由は何?
254 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/10(月) 17:20:05
そもそもさ孔明が有能ならもっといろいろな所から
誘いが着てなきゃおかしいじゃん。逃げていく劉備に
従うなんてよっぽど誘いがなかったからなんじゃないかな。
>>254 正史の注釈にもあるが諸葛亮はただ誰かに仕えたいんじゃなくて
天下の奇才であることを自負して自分を重く用いてくれる人に仕えたかった
だから劉備に従うんだよ
256 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/10(月) 17:52:17
けど才能があればどこ行っても重く用いてくれると思うけどね。
曹操なんかは才能があれば他はいらないとまでいってたんだし
曹操の所へ行けばよかったじゃない。
多分行ったら他の人たちに埋もれるぐらいの才能だって
自覚してたんじゃないかな。
>>256 お前が思うだけだな
実際に曹操在世中に重く用いられたのは初期からの重臣か名門、土豪の連中ばかり
あとは自前の部局持って曹操に仕えた連中か
諸葛亮は、劉備に仕える前は認める者が少なかった。
一方、自分の才能に自負があって、劉備に高く売ったのも確か。
劉備に仕えた後なら孫権から勧誘来たよ。
>>253 もう
>>250の論を全面的に肯定して
「諸葛亮は困ったが民衆は困らなかった」でもいいような気がしてきた。
261 :
250:2008/11/10(月) 20:12:50
>>253 別に信用度高いとかなんとも言ってないよ。
「蜀が貧しい」ってネタ見て、昔そんな記事読んだなあと思って紹介しただけじゃないか。
わざわざ与太話を参考にしろといわれても困るぞ
諸葛亮が屯田始めたのは蜀ではない件
そうだね。それに、諸葛亮が苦心して対応を練ったのは兵站線の問題であって、
兵糧の確保そのものではない。蜀の生産性の問題が前線の労苦に直結するのは
不自然にみえるが、その辺はどう書いてあるのだろう。
まあしかし、先入観というのはあるもので、史記と漢書の志をざっとさらったが
巴蜀が米を特に産するという記事は実際には見当たらなかった。
地理志には「民は稲魚を食い」というだけで、特産物には入っていない。
全体的な生産性から言って蜀が貧しいというのには頷けないにしても、
穀物の生産高については保留と検討が必要に思われる。
>>249 当時の蜀って流刑まがいや左遷にもよく使われてた土地だよな。
いくら人口流出があったといってもどれだけ貧しかったかはいざ知らず、それほど豊かだったとは考えにくい
第一山ばっかだ。
四川は盆地なんだけど。
起伏は多いがね。
267 :
250:2008/11/10(月) 21:35:18
>>263 屯田云々は北伐での話。
・五丈原は水の少ない台地。そこに基地を作ったのは原住民との摩擦を避けるためだろう。
・春に行軍を始め、秋に陣地を構築したのは秋蒔き用の粟を植えるつもりだったから。
・屯田に使用したのは四川盆地で用いられる秋蒔き用の「粟」であり
五丈原の原で、蜀では主流の農法である「焼き畑」を行ったのだろう。(蜀の農民がその方法しか知らないのだから)
しかし、その方法では満足な収穫を得ることができなかったはず。
ついでにこの人の持論としては、蜀は満足な「牛」を用意できなかったろうと言ってる。
南方は水牛がメインで、水牛は輜重の輸送に向いてないからだそうだ。
ツッコミ所があるならどんどん頼むよ。俺にはこれ読んだかぎりじゃ与田なのかどうか判断できん。
>>267 >五丈原の原で、蜀では主流の農法である「焼き畑」を行ったのだろう。(蜀の農民がその方法しか知らないのだから)
>しかし、その方法では満足な収穫を得ることができなかったはず。
ここはアレだな。なぜなら関中等の流民が流入していた当時の蜀では、関中の農法の知識は皆無であったというのは苦しい。
そういう記録が無い限りはね。
>>265 後漢末期ですら荊州は中原から見れば流刑地扱いなんだが
荊州も貧しかったとでも言うつもりかね?
270 :
250:2008/11/10(月) 21:59:56
>>268 確かにそれは思った。
ただ、関中で同じように小麦を育てるには牛が要るそうだけど、
益州には牛が少なかったって書いてるんだよね、この人。
この人の一連の文章読むと、
・遠征には輜重を運ぶために牛が居る
・益州は牛が少ない遠征ができない。できたとしても牛歩の歩み。
・木牛流馬なんて人力車が記録に残ること自体、まともな牛車を使用できなかった証拠。
って感じでボロカスなんだよね。
実際益州って牛があまり居ないのかね。
北は牛を使った小麦作りだけど、南は水牛を使った稲作が主って書いてるんだけど。
>>270 水牛は牛に比べて水辺に強く、乾燥に弱い
孔明が北伐を敢行した理由
・孔明は下戸だったので劉禅の傍に仕えて酒の付き合いをさせられるのが嫌だった
・辛いもの苦手な孔明は毎日四川料理を食べることに耐えられなかった
・実は司馬懿と激しい恋仲にあり戦時だけが逢瀬の刻だった
どれか選んでくれ
つまり諸葛亮の遠征で最大のネックは兵站輸送であり、それは史書にくどいくらい明記されている。
蜀本体の生産性とはあまり関係な(ry
で、四川盆地について
ttp://www.togenkyo.net/area+index.content_id+228.htm 成都のある盆地西部の日照時間は確かにかなり低い900〜1200時間
が、東部は1400〜1600時間と、これは日本の主な都市の下限をさらに下回るという程度。
しかも稲作に必要な「春と夏の日照時間は秋と冬より長く、真夏は最も長い」とある。
日本で比べると、夏が乾季の新潟の日照時間1650時間。
夏が雨季で6、7、9月の日照時間が年間で最も短い仙台の日照時間が1840時間。
盆地東部なら、日本と比べて驚くほど曇天続きというわけではなさそうだ。
盆地の大部分の地区の年間降水量は900〜1200ミリ
これは仙台の1240ミリと遜色ない。山地の長野は900ミリ、宮崎などでは倍の2450ミリ。
つまり湿度が高いが降雨量自体はモンスーン地域と比べて少ないと言える。
台風などの豪雨が多い西日本で降雨のため土壌が貧弱というのは聞いたことがない。
>・蜀は雨が多いから土壌の栄養分が流れてしまう。そのため地味は悪い。
というのは無いと考えていいだろう。
年間平均気温はセ氏14〜19度。
静岡16度、宮崎17度と同じくらい。
「四季の分かれ目がはっきりしている」とある通り、亜熱帯に位置するとあるが、
意外に寒暖差が激しく、日本の太平洋沿岸に似た季節別温度推移をする。
「曇りがちなのにピーカンと同じくらい暖かい(暑い)太平洋側日本」という感じだろうか。
因みに1800年前の中国の環境には即座に適用されない可能性があることをご考慮されたい。
参照。
ttp://www.jma.go.jp/jma/menu/report.html
>>273 阿呆め
それをやるなら
・徐庶に逢いたかった
一択だろ
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/10(月) 22:41:59
ていうか食料ぐらい考えればすぐに運べそうだけどね。
山の上からロープ張って運ぶとかすればよかったと思うが。
>>275 徐庶に会いたかったなら撤退などせずに全滅覚悟で攻めただろ
まったく浅はかとしか言いようがない
そのロープ一本に手押し車何台分繋げられる?
万国旗じゃないんだぞw
279 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/10(月) 22:46:32
>>277 最後の北伐は死ぬ前にどうしても逢いたくなったんだな
281 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/10(月) 22:48:23
>>278 何回かに分ければ台車より効率よく運べると思うが。
孔明の北伐は黄氏の案だった!
内助の功(笑)
283 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/10(月) 22:53:12
具体的な収量の話は、華陽国志にあるにはある。
華陽国志には、多くの所で「有稲田」とかって記述があるが、
緜竹県の記述に、雒と緜竹では一畝につき三十斛、多い時には五十斛の収穫を得るという内容がある。
一畝は二百四十歩なので、東晋の度量衡で考えれば約517平方メートル、22.7m四方の広さになる。
一斛は東晋だと約20リットルなので、三十斛で600リットル、五十斛で1000リットルだな。
泰始四年(268年)の傅玄の上疎に、魏の頃は水田なら一畝で数十斛、畑なら十数斛を収穫できたという話があり、
それ以外にも、一畝につき一鍾から数鍾の収穫があるという記述も漢書貨殖伝や晋書食貨志にある。
一鍾は六斛四斗なので、やはり収穫としては一畝につき数斛から数十斛となる。
一畝あたり三十斛が通常の収量である雒や緜竹は豊かな方であるとは言えると思う。
>>283 サンクス。
華陽国志持ってないしwebの横書き読むの疲れるから後回しにしてたんだw
なんというか、あっさり片付いてしまったな
286 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/10(月) 23:24:12
元々たいした奴でないのは確か
消炎、ヒイとかが代わりでも何の問題もなかったし
ヒイはかなりの傑物だろ
官僚的な能力は相当なもんだ
288 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/10(月) 23:30:57
そのヒイが孔明には遠く及ばないと
言ってるんだよね
289 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/10(月) 23:44:11
謙遜という言葉を知らないのかね
特にヒイは振る舞いや言動に問題があったからな
これで俺は孔明より凄いなんて言ってたら色々面倒なことになったろうな
ヒイだって処世術くらいはわきまえてるだろ
色々面倒になるということは、周辺の全員がコーメイを
ちょーすげー奴だったと信じていたんだね。
あくまで「信じていた」んだな
俺も信じてるよ
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 01:47:40
孔明は政治能力を買われて劉備に雇われたんだよ
決して軍事才能を期待されてたわけじゃない
そして無能説は正史にしっかり書かれちゃってるわけで
総理大臣としての内政能力はかなり有能だったんじゃないかな
それを支えた五虎将軍らが最大の功労者
蜀攻めに最初に孔明を連れて行かなかったことが、
劉備の孔明の軍事能力への評価を物語ってると思うけどね
>>291 軍事能力はともかく人望はあっただろうからな
そりゃ面倒なことにはなるだろ
297 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 02:04:21
よく考えたらあのイスイの戦いにも参加してないだなんて‥
どこが軍師だよ、ただの文官じゃないか
298 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 02:05:46
↑イリョウの戦いだった
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 02:07:29
スレタイ見て最初に思った事
「えっ、今気づいたのwww」
>>297 その当時は丞相
丞相を文官とか言っちゃう辺り程度が知れるもんだ
302 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 09:35:07
政治に関しては全てパクリ
軍事に関してはキョウイの足下にも及ばない無能
蜀の歴史は全て孔明に都合の良いように捏造されたもの
これが真実
>>302 史実上キョウイは無能とされてるよ
ヒイが健在の頃は北伐行くって言い出しても兵1万までしか許されなかった
蜀末期スレのスピンオフスレだが輪をかけてひどいな
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 10:03:42
劉備が蜀に行くとき
荊州の守りを任せるのは関羽が道理
その関羽の傲慢、強気を抑えられるのは孔明しかいなかった
現に、孔明がいない隙に荊州を取られてしまった
ここから蜀の滅亡への道が決まった
確かに軍事では姜維には及ばないかもしれないが総合的には上
それに費禕ごときと比べて劣るといわれる筋合いはない
孔明が費禕の立場ならもっといい結果を出していただろう
しかし、夷陵のときは何をしていたんだろうか
>>305 夷陵は私憤戦だったしね
あの時は蜀に残ってなきゃダメな状況だったんだろうね
307 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 10:06:46
>>303 ヒイが自身の能力に限界を感じ
万が一姜維が負けたとき支える自身がなかった
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 10:15:28
孔明の能力というより、人材不足
もし、関羽が暴走したとき荊州に除庶がいれば
もし、夷陵の戦いのとき龐統がいれば
そもそも龐統がいれば孔明が荊州を離れる必要がなかった
第一次北伐のときに姜維がいれば兵糧の守りに専念できた
一人であちらこちらに・・・
いくら能力があっても無理だろ
蜀=豊臣家
呉=北条氏
魏=織田家
晋=麻生内閣
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 10:32:32
蜀=武田氏
312 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 10:33:00
なんで孔明をかばうの?
無能は糾弾されて然るべき
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 10:40:51
無能ではないからな
むしろ劉禅の下でよく蜀を見捨てなかったと感心するよ
趙雲が長坂でご子息助けなきゃ何か変わってたかしら
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 11:00:07
劉禅は漢の文帝に匹敵する仁君
孔明・費イは無能ではないが、姜維・蒋エンは無能
無能というのはトップとして見た場合の評価
318 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 14:13:56
319 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 17:59:37
姜維に軍略以外の才があったかどうかは不明
孔明が蒋琬の何を高くかっていたのかも不明
但し、この2名は劉備の意思を尊重していた。
その点に共感できる。
320 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 18:22:58
これぞ用兵の奥義
まあ三国志じたいほぼ神話なんでwww
真実なんて絶対にわかるわけもなく
>>312 そんなことしたらお前は未来永劫叩かれてしまうじゃないか
突然煽るようなやつしか来なくなったのは何故?
325 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/12(水) 06:51:44
>>317 荘園が無能とかねーよ、孔明死後蜀をまとめた人物だし大局観はあったんだろ
脅威も別に無能ではない将軍レベルなら有能
326 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/12(水) 06:59:08
>>305 流石の関羽も孔明がいようがいまいが
劉備が蜀獲りの最中に勝手に他国を攻めたりはしないと思うけど
また関羽の勝気を押さえるために孔明を置いておいたなら
なんでその後孔明を動かしたのかという疑問も残るし、
危険性を熟知していながら関羽の暴走を事前に察知できなかったことにも
大いに疑問が残るけど
327 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/12(水) 09:33:35
龐統が死んじゃったからね
関羽も守っていればいいだけなのに
どうしてわざわざ曹仁を攻めたんだろう
ホウ統や法正と、諸葛亮とではまったく役割が違うよ。
二人は劉備の下で隊を指揮し、助言した。狭い意味での軍師だろう。
諸葛亮は劉備とは独立して軍を編成し、組織を構築運用する能力があった。
能力、地位(仕官暦の長さ)、劉備からの信頼を総合すると、益州奪取後に
成都を中心とする軍政組織を運営できる人材は諸葛亮以外にない。
ホウ統の生死に関わらず諸葛亮は成都に留まっただろう。
劉備-諸葛亮ラインでなければ、劉備の荊州援護・漢中奪取・夷陵出陣という
連戦は成立しなかった恐れがある。
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/12(水) 20:21:16
けどね、結局イリョウで劉備は負けたわけで
そういうの考えると無能だよ。軍の編成とかは
孔明がしたんでしょ。
結果論だけを持ち出すのは愚かしい
劉備の軍の編成をしたのは劉備とその幕下の将だろ
劉備は兵を率いるのを他人に任せたことがない三国きってのワンマン君主だぞ
>>329 城を落せなかったんだから普通に考えればあの場合負けです
戦闘で一時押してても勝ちとはいえん
>>330 お前は孔明が無能だとその鳥頭の中で確信しているようだが、
お前の妄想にいくつも反証が出されたのを忘れてるのか?
そもそも、まともな資料も論拠もなく自論とは名ばかりの妄想を展開して他人が納得すると思うか?
お前は自説の間違いがあっても謝罪もせず直しもせず、だんまりでほとぼりが冷めたら同じ言葉を吐き、
そうでなければ論拠のない、歴史からは程遠い妄想で言い訳を続ける
孔明を無能という結論にしたい、というところからスタートしてて、それを妄想で補強、孔明がどういう人物かまともに探ろうともしていない
その孔明無能論も、理屈はちぐはぐ、理論はツギハギ、論拠のない想像に等しいもの、賛同する奴がいなくて当たり前だ阿呆
こいつはレス数増やして三戦に貢献してるとか思ってるだけだから
投稿数記録スレで「今日の一番は孔明スレでしょ?」とか自慢げに言ってる奴だぜ?
>>335 まあまあ。俺は反論するために色々探したり人の意見を読んだり出来るから楽しいよ。
なんというかたまに思いもよらないところから攻めてくれるのが良い。
そのためにも
>>1氏には同じことの繰り返しではなく、もっとラディカルな攻撃を心がけるように
努めていただきたい。さすがに同じことを二度も三度も繰り返すのは疲れるから。
338 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/13(木) 00:39:57
さすが中国人は過去においても日本人にも認められる有能な人物が多い
邪馬台国とは違うね
>>333 なんも出来なくなった曹仁には勝ってるだろ
援軍がこなかったらどん詰まりの負けだったんだぞ?
大局的に見て、関羽は負けたということじゃないのかな
襄陽はその後放棄してるので、かなりキツイ状態ではあったみたい
前線の要所を攻撃して援軍が来ないなんて有り得ないし、
曹仁vs関羽でどっちが勝ったとか言うのは無意味だろう。
大局で見るしかない。
>>341 無意味じゃあないだろ
一局面として曹仁は負けた
関羽は他の連中に負けた
城守り切ったほうが負けってのは新説だな
くわしく教えてくれないか
>>342 演義の一騎討ちじゃないんだから。
一将軍同士で勝った負けた言い合ってどうすんの。
もし関羽が「俺は呂蒙や徐晃に負けただけだ。曹仁には勝っていた」とか言ってたら
株大暴落だよ。
345 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/13(木) 01:55:23
戦略・戦術面
法正>所轄
コレはガチ
>>343 城を守りきった?
関羽討伐に荊州に投入された曹仁がボコボコにされて自分の城に閉じこもってるだけじゃん
何言ってんの?
>>346 その引き篭もりの城を落とせなければ関羽の戦略目標は達成ではないのだが。
曹仁を野戦でボコボコにして勝ちなら包囲の必要ないじゃん。
えーと、曹仁が野戦に迎撃に出たって記述はあったっけ? 確認しないで書いた。
>>347 俺関羽勝ったって一言も言ってないよ
曹仁は負けた
関羽討伐失敗したからな
>なんも出来なくなった曹仁には勝ってるだろ
これの主語は誰なんだ?
>>339が
>>346>>348でないなら別だが。IDでないんだから「俺」というならはっきりしてくれ。
曹仁が関羽の南郡を攻撃してボコボコにされて帰還したとかいうなら、
「その時点では関羽は曹仁に勝った」と言えるだろうけど。
>>350 おいおいwwww それが「まさってる」なら、
初めて曹仁と関羽の勝ち負けを言い出した
>>342はあんたじゃなかったのか?
352 :
しずちゃん:2008/11/13(木) 03:15:11
泣いて馬謖を切るは、
主語だれ?孔明自ら?
孔明は決して万能な人間ではなかったが
国政を立て直して軍を編成して、やれるだけのことはやっただろ…。
どっかの誰かが呉に攻め込んで国力と人材をアホみたいに
失っちゃったから孔明も後始末で苦労したんだよ。
アレが北伐にむけれたらなぁ
355 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/13(木) 10:13:53
勝った負けたの結果論じゃなくて
関羽は荊州を守りきればよかった
調子に乗って攻めに出て行くからその隙に呉に取られた
荊州が取られれば北伐どころではない
蜀が滅んだ原因は荊州が取られた事
そしてその後、呉と戦った事
馬良が生きていれが馬しょくも育っていただろうし・・・
それを全て孔明の責任に押し付ける
>>1、ステキです。
>>348 そもそも関羽討伐っていうよりは、北上してきた関羽からジョウヨウ守れば曹仁的には目的達成じゃね?
守勢が援軍を待って耐えるのは極めてオーソドックスな戦法だし。
結局関羽の部隊も壊滅っていう結果に終わったのに曹仁が負けた曹仁が負けたと騒ぐ理由がわからないな。
戦争がゲームみたいにいつでも野戦で決戦してはっきり白黒つけるようなモンだと思ってるなら別だが
>>357 別に勝った負けたの争いに加わる気はないが、
冬十月,宛守將侯音等反,執南陽太守,劫略吏民,保宛.
初,曹仁討關羽,屯樊城,是月使仁圍宛.
って武帝紀にあるから曹仁の目的は関羽討伐だったのは間違いないみたいよ。
ただ侯音の乱で予定が狂い、その間の情勢変化によって逆に攻められる結果になっちゃったみたいだが。
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/13(木) 16:55:03
まずさ、孔明に軍才がないのはここにいる人は
すべて納得するでしょ。
でさ今の日本じゃないんだからさ
当然当時は政治と軍事なんて切り離せないわけよ。
政治の中に軍事があるわけ。だから軍才のない孔明ってのは
政治の才能も欠けてるわけさ。
三国志ヲタなら誰しも
「史実の孔明は戦下手」→「史実の孔明は意外と戦上手」→
って過程を辿るはずだ。最終的にどちらに落ち着くかは人それぞれだが。
362 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/13(木) 17:42:08
363 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/13(木) 17:59:25
孔明の政治の才→ショウエン、ヒイでも十分出来ますた
孔明の軍事の才→たいしたことない
過大評価の典型ですありがとうございました
諸葛亮には当たらない話だが、
軍才がないと政治家失格なら荀ケ張昭陳羣辺りも落第になってしまうがそれでいいんだろうか。
政事の才がない武人は軍事の才能に欠けている、というならまだしも判るけど。
天才軍師ではないと思うけどな
理詰めの人間だと思うよ、孔明
>>357 関羽との戦いで負けて城に篭ってるしかできなかったのは事実だからな。
【関羽対曹仁】なら曹仁の負けでしょ。
援軍があったから勝てたわけで。
だから、皆大局的に見れば関羽の負けと言ってるのよ。
天才的なカンに頼るのはむしろ曹操なんだよな
だってやってることはバカとしか思えないじゃん、あの人
ま、当時は今と違って文武の区別なんぞ無い時代だからな。
士大夫が統治し軍勢を率いてた訳で、
そういう意味で考えれば軍才が無ければ失格ってのは正しい。
>>365の挙げた荀ケ陳羣辺りが落第かどうかは、記述が無いので知らん。
張昭は孫策に軍事全権をも委ねられていたと思ったが、どうだったかな。
>>367 そもそも局地的な話で勝った負けたなんてことで騒ぐこと自体意味がないとお前も気付くべきだが。
関羽の株が上がるとでも思ってるのかね。
371 :
367:2008/11/13(木) 20:53:56
>>370 株が上がる上がらんじゃなくて事実をのべただけだが?
>>371 事実は関羽が戦略的敗北を喫したのみ。
局地的にハン城を落城寸前まで追い詰めたのは認めるが、城が落ちてない以上明確に負け、とはいえない。
まあ関羽も「曹仁に負けた」とは言えないかもしれないがね。戦争の勝ち負けって明暗くっきり分かれてないケースもある。
つか局地的な場合で押してただの勝ってただの言っても何も始まらん。負けたのが事実。
>>369 張昭は孫策の将軍府や会稽郡の軍政を取り仕切ったのだろうね。
実際自分で兵を率いたこともあるが、目だった武功はない。
戦上手ではなかったのだろう。この点は諸葛亮に似ている。
荀ケは、封爵の話が持ち上がったときに「戦場で武功を立てたわけではない身だから」と
言って辞退している。
陳羣は曹叡の代に 鎮軍大将軍として恐らくは内軍を掌握する役割を持っていただろうけど、
実戦経験の記述はないはず。ゼロとも断定しがたいが。
>>373 諸葛亮は目立った武功があるよ
・蜀攻めでの道中を難なく平定
・南征を成功させる
・北伐では2郡を奪い、魏の2将を殺す
「戦上手ではなかったのだろう」という点がね
「臨機応変で無かった」だぞ。
戦下手なんて評価を捏造するな。
「戦上手ではなかった」
戦下手なんて誰が言ったのかな?
それとも戦上手っていう評価をされてたっけかな?
わかってるよ。軍才がないなとどいう評は諸葛亮には当たらない話だが、と最初に断ってるじゃない。
タイプとして、軍人としての張昭や諸葛亮は軍政や組織の運用に秀でた種類の人間であり、
「応変の軍略」を得意とする司馬懿や実を以って虚を突く呂蒙、後方にて敵味方の心理を読み抜く荀ケなど
のようなものを長所とはしていないということだよ。
武徒と陰平に関してはあまり高評価の対象にするのはどうかと思う。
と言うのも地形的に言うとどちらも漢中からは比較的攻略し易い地域、
魏側からすれば、イ水から離れたこの地域と言うのは非常に守り難い
地域と言うことになる。
また、後漢書郡国志ではこの二つの地域はヨウ州の中でも人口の多い
重要なエリアとなっているが、これはまだ戸籍の多かった時代の数値
であり、しかも漢中攻防等で住人を大量に移住させたりしている曹操
のこと、このエリアも同じようなことをやっていても可能性も高く、
人的資源の補充として適当かと言うと怪しい部分も多い。南征と違い
ここで大量の資源(人的、物的)を入れたと言う記述も無いですしね。
ここを取ったのは北伐がなかなかうまくいかない諸葛亮が点数を稼ぐ
のに容易いエリアを狙ったものと考えるのが妥当ではないでしょうか。
武都は、魏から見れば護ることは殆ど不可能な位置にあり、攻略は容易だったと思えるが、
蜀漢にとっては無防備であっては絶対にいけない土地。天水などから武都経由で南下すると、
秦嶺山脈を通らずに容易く白水関まで到達する。魏が西回りで南下する力を整える前に
ここの防備を固めなければ、漢中の利が消滅してしまう。
また、後々陰平太守の廖化が姜維の後詰となったように、祁山経由での攻撃での重要な
後方拠点として利用できる位置でもあった。ここの攻略は231年の北伐の前段階と見るべきだろう。
武都は古来異民族の多い土地であって、彼らなら曹操の連行を免れた可能性がある。
諸葛亮の死後、テイ族の符健が帰順を願い出たという話がある。
ただし、この計画は弟らの反逆と魏への帰順によって半分以上失敗に終わったようだが。
×秦嶺山脈を通らずに
○漢中盆地を通らずに
だね
あ、いや「秦嶺山脈を通らずに」でいいのか。完全に迂回できるな。
重ねてごめん。
>>378 諸葛亮を評する上での軍才というのを軍政に求めるか、それとも戦上手に含めるか
俺は後者よりだが、前者の考えも理解できる
ま、それはともかく
後半二行であげられた人物には、それぞれの欠点を埋める人材層の厚みがあったけど、
諸葛亮には欠点を埋めうる人材が出てこなかったっていうのが蜀敗北の一因だろうな
蕭何ひとりで、張良、韓信の役もこなさなきゃいけないようなもんだ
>>383 俺も前者だよっていうか
>>14。
諸葛亮の軍事能力についてはこのスレの120辺りまでで出尽くした感があるな。
俺「も」じゃないやw 間違えた
あ、
>>14にあったな、どもども
最初の方からもう一回見直してくるよ
387 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/13(木) 23:48:09
武都や陰平は、隴西とかと同様、もともと氐族等が大部分を占める土地だから、
戸籍人口がどうのってのはそこまで参考にはならないだろうね。
武都の氐族の徙民に関しては、確か張既の行った5万余落を扶風、天水に、というものがある。
また楊阜伝にも、彼が武都の住民と氐族一万余戸を扶風や天水に徙民したという記述がある。
恐らくそれでも、氐や羌は相当数いただろうし、武都や陰平を奪った後に重要な事は、
どれだけ彼らを手なずける事ができていたか、という事になるだろう。
少なくとも姜維の時代には、この辺りは蜀軍にとって安全になっており、
263年に姜維が沓中より退いた時でも、武都や陰平の異民族が彼らを襲った記述は無い。
実際、
>>380の言うように、生産力のあるなしに関わらず、二郡を領有する事は、
蜀の国防上大きなアドバンテージにはなるだろうし、高く評価しても良いと思う。
しかしながら、注目すべきは二郡を奪った事ではなく、陳倉の攻撃と合わせたその手際の良さだろう。
いや、蜀にとって重要なのはいわずもがな、というか、あそこは本来
魏に何時までも抑えられていたらまずいでしょ、と言う位置だからこそ
高く評価する、と言うニュアンスにちょっと違和感を感じるのですよ。
恐らく諸葛亮の目算としては第一次の時に上手く街亭を抑えることが
できていたら恐らくアノ辺りまで一気に併呑することができると言う
目算があったのだと思う。
しかし結果としては上手くいかなかった。229年の2郡攻略と言う
のはこの時の代償行為的な要素を非常に感じるのですよね。
必要最低限の目的は達したと言えども本来の目的から考えると諸葛亮
としてもちょっと不本意な形だったんではないですかね。ケイ州の様
に3国どこも欲しい、いわば必争の地を勝ち取ったとか言うならまた
話は別でしょうが。
魏にとっては楔のような、蜀にとっては脊髄に刃物を突きつけられて
いるようなものですから漢中同様、両国のこの2郡に対する認識には
かなり大きな隔たりがあった、と考えられます。
まあ諸葛亮の北伐が一貫して同じ目的だったと言うこと自体無理のある
話しだと思います。この時期は蜀内部で権力争いも起こっていましたし、
諸葛亮も右将軍のまま職務をこなすと言うのは不穏分子につけこまれる
恐れがあるので早いトコ実績を残す必要があった。
そういう意味での2郡攻略と言うのは非常に効果的だった、と言うこと
で良いのではないでしょうか。
389 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/14(金) 01:04:58
そもそもの問題として、諸葛亮の軍才とやら評価するのに、
二郡の平定という結果のみを考えるのは少し違うのではないかと思う。
二郡を平定したという結果から考える事ができるのは、
諸葛亮の能力の内でも大戦略の部分に相当すると思う。
大戦略も広い意味での軍才と言う事はできるが、多くの人がその言葉から連想するであろう、
戦略や戦術に関する能力ではないだろう。
それらを考えるのなら、二郡平定の中身を考える事の方が重要に思える。
確かに二郡平定の名目で諸葛亮は丞相に復帰した。
この戦功自体、当然ながら一次の北伐が成功していれば不要なものだ。
が、権力争いに対抗するための出兵というのは大きな疑問がある。
すぐに思い浮かぶ対抗馬は勿論李厳だけど、諸葛亮はのちに李厳一人を庶に落とすだけで事を収めた。
収める余裕があった。李厳派なるものの存在はこの前後まったく姿を見せない。
普通の権力闘争なら、敗者の同盟者や一族、推挙に預かった者まで撫で斬りにされるもの(でなければ収まらない)
だが、諸葛亮は二子の兵を取り上げただけで引き続き任用してさえいる。
これで李厳が権力争いをしていたつもりならまさに蟷螂の斧というものだ。
思うに李厳は、あくまで廷臣ナンバー2に相応しい地位や権限(開府など)が欲しかった程度で、
諸葛亮に取って代わるような野心を持ってはいなかっただろう。
391 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/14(金) 03:28:13
>>374 この武功もね。蜀攻めの時は劉備軍総動員だったわけだから
カンウ以外は、チョウウンとかチョウヒにびびって楽になった可能性がある
南征も演技の影響強いし。あれって正史ではどれくらい書かれてるの?
たしかあまり大規模な戦闘はなかったと思うんだが
だから孔明の武功は北伐の2群と魏の2将なんだろうけど
それも五回ぐらい北伐してその程度でしょ。しかもその
2群と2将がどれくらいの価値あったのかも微妙だし
武田信玄なんかはさ上杉と5回戦ったけどちゃんと領土も取って
しかも上杉以外の所も攻めてるわけで
北伐に全生命を掛けた割には成果はしょぼかったと思う。
392 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/14(金) 09:46:38
孔明を無能という事で
自分が偉くなった気がします
でも自分が孔明だったらあそこまで出来たかどうか・・・
393 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/14(金) 19:18:52
独裁を握ったのが不幸だったね。独裁するなら
完璧でなければならない。せめて自分に欠けてる
軍事関係を任せる人を見つけるべきだった。
軍才がないのに独裁をしてはダメな時代だったんだね。
394 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/14(金) 20:05:50
董卓の事?
もしかして、無能な劉禅でも君主と仰いだ孔明の事言ってるの?
軍事面はキョウイとの出会いが遅かったね
馬超、趙雲はそのタイプではないし、他にいないぞ
一日経つとまるで今までの展開を忘れたようなレスがつくのは何故なんだ
>>391 とりあえず張コウが微妙とか大規模な戦がなければ大功ではないとかいう演義脳をどうにかしてから、
李恢伝を読めばいいと思うよ。
>>391 この武功もね。官渡の時は曹操軍総動員だったわけだから
夏侯惇以外は、許チョとか張遼にびびって楽になった可能性がある
みたいなこと言ってるんだぞ、お前さん
まあベテランどころの趙雲、張飛と一緒に使ったのは新人への配慮だろう
ここらへん劉備はわかってる。いきなり馬ショクを使った孔明とはやはり違う。
二群も取ったのも防衛上のメリットを考えれば評価できる戦績だ。
ただ諸葛亮の功績でそこまで高い評価あげられるかなあ?っていうのはあるよ
その二群は蜀からは攻めやすく、魏から守りにくい。簡単な戦とは言わないがそこまで難しいことをやったというわけでもなくね?
成果としても関中より東に出れてねーし…
長安をとったわけでもなければ中原に出たわけでもねーもの
戦果は戦果だが、持ちあげすぎだと思う。
>>399 いや、このスレの主旨は「無能かどうか」だ
持ち上げすぎというより、こういう戦果を無視している1が過小評価過ぎるだけの話だ
「2郡を奪い2将を殺したから天才」と言ってるんじゃなく、「2郡を奪い2将を殺してるのに無能はねーだろ」って言ってるんだわ
>390
開府したいって人がNo.2で満足ってのはヘンだと思うよ。開府するのは
独立して政務を執り行なうことになるんだから。もちろん開府する人物
の位も関係してくるけど、根本的にNo.2とか言う話ではなくなってくる。
ちなみに李厳派がいないのは当たり前のこと、開府できないのだから当然
自らの派閥を作ることは出来ない。個人的な付き合い人はいたとしてもね。
李厳の1人相撲と言うのはその通りだと思います。
ちなみに丞相府を開府した状態で右将軍に位が下がった場合、府内の人員
とかはどうなるんでしょうね。右将軍に見合った人員になる、ってことは
ないか。結局は丞相と同等の権限を有していた訳だから。
でも逆に言うと、それが多少ひずんだ組織だってことも見えてくる。そう
言うのが何時までも続くと権威失墜にも繋がりかねないから、やはり実績
は必要だったと思いますよ。
まぁ、李厳更迭を行なうためにわざわざ22人もの署名を出したりするなど、
ただ1人の更迭で済んだと言うほど穏やかでもないんだよね。色々と裏が
感じられるけど、まぁそこは記録に無いし、妄想としては面白そうなネタ
ってトコですかね。
>>401 諸葛亮が皇帝になって、李厳が臣下の第一位になればいいんだよ
権力者の序列ではNo2だし、開府もできるだろう
そもそも李厳自身が諸葛亮に引き上げて貰ったようなものだしな。
権力争いしようにも諸葛亮に対抗できなかったのは当然か。
>>394 >>もしかして、無能な劉禅でも君主と仰いだ孔明の事言ってるの?
そのまんま曹操です本当にありがry
>>401 開府は公府に付属した権限だと思うよ。
光禄勲経験者の前将軍が望む「次の階位」としては、ナンバー2としても不自然ではない。
妥協して車騎将軍開府くらいでもよい。
「開府していなければ派閥を作ることは出来ない」というのは辟召のことを言っているのかもしれないが、
そんなことはない。
辟召というのは、制度付けされ、員数の定まった自分の幕下への登用、ひいては朝廷への人材供給制度と考えられる。
確かに辟によって強い恩顧関係が成立したが、それは私的な恩顧関係を尊ぶ漢人の風習の制度化であって、
そのような関係を結べる習俗は他にもたくさんあった。師弟、食客、故主故吏、孝廉茂才のような推挙、
人物評、経済支援、他個人的な恩義。
派閥というのは突き詰めて言えばそういう個人的な付き合いの集合なんだ。
220年代後半から李厳に諸葛亮を追い落とすつもりがあったのなら、
そのような派閥を動員して内外に勢力拡張を試みなかったはずがない。
だが、史書に残る記録は
>>390だ。これでは、231年以前の段階で諸葛亮が焦るほどの争いがあったと
見ることはできないだろね。李厳がもっと出世していたら、話は違っていただろうけど。
丞相から左将軍、すぐに丞相へ復帰というのは、当然ながら予定調和だろう。
ぶっちゃけ、ごく近代まで、国家のナンバー1を本当の意味で懲する制度は無かった。
そんなことをしたら国家そのものがガタガタになるから。
実質トップとして万事を任せられた諸葛亮の場合、政争に負けて劉禅の勅が引き出されでもしないかぎり、
その地位を喪う心配はない。それをして歪んだ組織といっても良いが、ともあれ、
諸葛亮は丞相に復帰する武勲が欲しかった、というよりも、
口実として丁度いい功績が出てきたので衆議一致で待ってましたと復帰させた、
という方が実態に近かったのではないかな。
李厳更迭の署名について。
そもそも李厳を更迭する権限は諸葛亮にはないんだよ。劉禅の詔勅がなければいけない。
そして同じ托孤の臣であり『第二位の大臣』だからこそ、諸葛亮は形式を踏む必要があっただろう。
諸葛亮に内心の思惑があったにせよなかったにせよ、一人で上言して劉禅に即決させたりしたら
後ろ指刺されただろうね。周到ということはできるが、別段舞台裏を読むようなこともない。
>>403 というわけで、李厳を引き上げたのは劉備だろう。
>>395 無能を通り過ぎて意思無能力者なんだよ
察してやってくれよ
ポカさえ無ければほぼ確実に諸葛亮の後釜に座れたよな、李厳。
408 :
405:2008/11/14(金) 23:12:57
あ、ちょっとタンマ
ざっくりと検索したら、蜀漢では丞相や大将軍でも即座に開府とは限らないんだな。後漢や魏呉晋とは逆だ。
そもそも三公制を採ったこともないわけだし。
当時撫軍大将軍開府辟召だっただろう司馬懿のことが李厳の念頭にあったわけだから
まったく無関係とは言えないだろうけど、蜀漢での開府の価値というのは検討しなけりゃいけないか。
諸葛亮孔明 ≒ 石田三成
と言う説が、能力や功績などを勘案しても、一番しっくりくる。
石田三成って一番槍の功績挙げたりしててさり気なく武功もあるから
似てるって言われたらそうかもね、程度には思う
>405
>確かに辟によって強い恩顧関係が成立したが、それは私的な恩顧関係を尊ぶ漢人の風習の制度化であって、
そのような関係を結べる習俗は他にもたくさんあった。師弟、食客、故主故吏、孝廉茂才のような推挙、
人物評、経済支援、他個人的な恩義。
それらと言うのはある程度条件のそろっている人じゃないと出来ないんじゃ
ないのかな。例えば諸葛亮のように荊州名士層と繋がりがあれば可能だが、
荊州から流れてきた状態の李厳が果たして荊州人士とどの程度の繋がりが
あったのか。また益州人士に対しても荊州から流れてきた李厳に対しどれ程
の人と付き合いがあったのか。立ち位置が中途半端な状態で簡単に派閥等
は作れないんじゃないかね。
それと実質的なNo1であるとか関係なく、実力の無いものは淘汰されていく
時代だから、諸葛亮とて結果は残さなければ国内に不穏な動きが起こったと
しても全然おかしくない。不穏分子が李厳かどうかは別にしてね。
結果を求めていなかったなんてことはあり得ないでしょ。2郡攻略が丁度
いい機会だったと言うのはその通りと思います。
署名に関しては、そもそも李厳が本当に上奏されていたような人物だった
として、じゃあそういう人物を己の下に配して使っていた諸葛亮に責任は
全く無いのか?っていう部分がいつも疑問に思うのですよね。
馬ショクの時は彼を使った自分にも責任があるって言ってるのに。
用意周到というのはその通りと思うのですがね。上奏内容で李厳のことを
少々悪く書きすぎている。まるで責任を全て李厳に擦り付けてるかのよう
な、少々言い訳がましく見えるんですよ。
言い訳がましく見えるのは何か後ろ暗いことがあるんじゃないかな、と私
の場合は思ってしまうのですよね。
>>412 >上奏内容で李厳のことを少々悪く書きすぎている。
それはしょうがないんじゃないか?その手の上奏文ってのはそういうものでしょ。
414 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/15(土) 20:32:41
シバイがどの程度だったのか?
って問題もあるよね。演義だと孔明はシバイのみに
注目してるけどシバイを地方にやった策は正史でもあるの?
あとシバイがいなくなってる時でも北伐成功してないんだよね。
>>409 あれ?俺こんなレスしたか?
もっとも、俺が似てると思うのは性格だけど。
融通が利かないところとか、戦ではセオリー通り過ぎるところとか
撤退するときの追撃に反撃して敵将殺すのはセオリーどおりなんだろうか
>>412 >ある程度条件のそろっている人じゃないと
父親を失って徐州から揚・荊と流浪した諸葛亮に
荊州人士と関係を結ぶ条件が揃っていたというのに、劉表の下で県令、
益州に移って劉璋の護軍まで務め、その後の順当に昇進した李厳に
同様の条件が揃わなかったというのはおかしい。
むしろ流されても食客百数十人を擁していたという明記まである。
>国内に不穏な動きが起こったとしても全然おかしくない。
>結果を求めていなかったなんてことはあり得ないでしょ。
一般論としては全然おかしくないけれど、『この時期は蜀内部で権力争いも起こってい』た
とする根拠にはならないよ。諸葛亮も人の子だから二度出兵して戦果が無ければ
焦っても不思議ではないが、三次北伐の主な動機が、早期に丞相に復帰するための
名目稼ぎと見るのは斜に構えすぎている。
わざわざそんな見方をしなくても戦略的に理に適っているのだから。
>そもそも李厳が本当に上奏されていたような人物だった
李厳はそんな人物ではなかったと思うよ。それは
>>413の言う通りだと思う。
罪に落とす上奏で根はいい奴なんですとか言えないからね。
さらにいえば、その上奏文は限りなく建前に近いというのが周知のことだったのだろう。
少なくとも諸葛亮は非公式にそのような態度を取って見せた。
でなければ、李豊は父親を悪し様にののしった、またはそのように評価していた
宰相が牛耳る朝廷に仕え続けた腰抜けということになってしまう。
また、そこまで悪し様に言われているはずの上奏でも、権力争いの敗者に対する常套句、
私党を養ったとか大逆を試みたとかいう言葉が見当たらないことからも、
諸葛亮と李厳との間にあったのが権力闘争の類ではないことは類推できる。
諸葛亮に後ろ暗いことがあったとすれば、自分の判断で李厳を漢中に置いて使ったということだろう。
その点で責任逃れくさいといえばくさい文だ。が、そもそも李厳の人事権は本来諸葛亮にはない。
上奏で李厳を用いた自分の責任をあまり言い立てるのはむしろ皇帝権への僭越ということになってしまう。
これが馬謖とは決定的に違うことだろうね。
>>416 セオリーといえばセオリー。
ただ諸葛亮はこのセオリーの成功率が高すぎる。どこの魏武だってくらいだ。
戦場レベル、野戦のどつき合いでは間違いなく強いと言っていいだろうね。
本当にそうならもっと成果あげてるって。
野戦やら現場能力やらはよくやってるくらいのレベルで、決して無能ではないがさして優れたわけでもない。
そのどこぞの魏武は不利な状況でも現場で何とかして勝てるんだしよ。
うまく撤退したり反撃できるのはどんな状況でも対応できるようきちんと用意してるからで、それはそれで優れてるが野戦に強いとかではないんじゃないの?
持ちあげすぎはよくない。
ここのスレタイがちと過激なのがよくないな
孔明は過剰に評価されてるんじゃなかろうか?
にすりゃ良かったんだ
421 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/15(土) 21:54:29
>>420 そんなセンスのないスレタイなら5レスでdat落ちだな
>>420 インパクトのあるスレタイだからこそ人が集まるんだろう
>>419 >>422 この時代の戦闘は陣地戦が基本で、野戦が行われることは少なかった。
追撃戦・撤退戦はその少ない機会の一つ。野戦に於いては蜀漢軍の
勝率は高い(よく言われること)。
だが陣地攻撃や城攻めの勝率がとても悪い。
いや全体的に見れば悪いわけがないんだけど。
史書に残らない県城級の攻撃は多く行われたはずだから。
ただ、
>>419がいうところの「成果」、戦術的勝利を押し広げて
戦略的価値を得る局面での勝率が悪いのが蜀軍であり、
逆から見ればその重要な一局面を的確に把握し
抑えることが出来たのが魏将達だったといえるだろう。
425 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/16(日) 00:37:34
追撃っても色々あるから、それだけで一概には語れないだろうね。
王双の場合は騎兵を率いての追撃だけど、これの行われたタイミングはいつだろうか?
陳倉は当初千人あまりしか兵がいなかったので、追撃可能なほどの騎兵は無かっただろう。
張郃、費曜らの増援が到着した後であれば、諸葛亮らは相当後方に退いた後と考えられるので、
これは追撃自体が軽率だったと言わざるを得ない。
既にある程度の距離を退いた軍を追撃する以上、少なくとも追撃部隊の前衛は騎兵のみで構成せざるを得ない。
火力に秀で、迎撃を準備する暇が得られるほどに追撃部隊と距離が開いている敵軍に対し、
騎兵のみで追撃を行えばまず戦果は得られないし、実際にそうなったように、追撃部隊が相当の被害を出す事も考えられる。
追撃するのなら、騎兵には敵の撤退を遅滞させる為の監視のみを行わせて本隊の到着を待つ、という形でないと難しいと思う。
426 :
孔明:2008/11/16(日) 03:28:54
中国人、みな優秀アルね
邪馬台国ひれ伏すアルよ
>>412 う〜〜ん、何て言ったらいいんだろうかねえ。謀反の可能性云々の根拠
は現実に李厳がウソをついて責任を諸葛亮になすりつけようとしてるじゃ
ないですか。例え李厳の1人相撲だとしてもこれは充分権力争いになる
と思いますよ。
李厳派だったと思われる人物の記録が無いのは敗者側だからという単純
な理由じゃないのかな。李豊がそれでも蜀に仕えた理由と言うのは良く
分からないんですよね。完全に親と子は別と言う区別をつけていたのか。
と言ってももうこの辺りは李厳とのやり取りを権力闘争と見るかどうか
の違いでしかないですな。李厳が諸葛亮に責任を取らせようとして逆に
追い落とされたのは事実な訳ですから、認識の差ということか。
もしくは色々書きましたが、密約説って可能性も考えられますけどね。
李厳にドロを被ってもらうことで木牛・流馬が上手く機能しなかった責
を回避しつつ、李厳及び息子の李豊には上手く言い含めて、後の復帰を
約束した、と言う。
いくら諸葛亮が公正な人物だとしても李厳のあの最後の台詞は色々と穿
ちたくなるような内容ですからねぇ。ま、ここは蛇足です。
諸葛亮は職務に対して実直であっても、過度に潔癖廉直な人間ではないよ。
地位相応の財産を持って暮らしていたし、洒落者でもあったという。
人の好き嫌いもあるし政謀もやる。自分の独裁体制を崩そうとする李厳に対して
私怨か義憤かはともかく含むところが無かったとは言い切れない。
困難に陥れば隙も生まれるだろう。
が、そんな普通の人間関係と、功利を求めて軍事が動くほどの規模の「権力争い」を
直結させることはできない。ただそれだけのこと。
>李厳派だったと思われる人物の記録が無いのは
だから、李厳派の記録はある。実子の李豊。
桑が八百株、痩せた土地が一千五百畝ってのは地位相応なのかどうなのか
哀帝の時代に、王侯吏民の持つ田地は三十頃までという布告があるから、
特段収賄や殖財をしなければ宰相の財産としては過不足無いんじゃないの
諸葛亮が荊州派の名士層とつながりがあるって
自身も流れ者で友達が少ないのにな地域に根ざした派閥なんか作れそうも無い
あったとしても諸葛亮を中心とした個人に発する派閥だろう
その諸葛亮派閥の中心人物に李厳、魏延、馬良って感じかね
>>431 諸葛亮と荊州人の繋がりってのは面白い問題だよね。
まず諸葛亮自身が荊州人ではない。
それから、黄承彦の婿になった時期がわからない。
黄家と蔡家繋がりで諸葛亮と劉gが縁戚になるという面白い話もある。
嫁を取ったのが曹操南下前なら、黄承彦は無名の諸葛亮に娘をくれてやった
変わり者だということになるが、これなら諸葛亮が劉gの周辺に出入りできたことにも
納得がいく。縁戚の布衣無官の一士人という扱いだったのだろう。
だが曹操南下によって黄承彦が北に留まったのか、南へ移ったのかは判らない。
嫁取りが曹操南下以後なら、劉備を頼って南に移動した襄陽名士が
劉備の高官である諸葛亮に取り入ったということになる。
まあどちらにしても、諸葛亮を荊州閥の頭目的に見るのは根本的に間違っているだろうけど。
>>432 >黄家と蔡家繋がりで劉表の身内
これは良く聞くんだけど、劉表が諸葛亮を身内と認識はしていないと思う
理由1
あまりにも遠縁、親戚の親戚の親戚の親戚、ほぼ他人
あるいは劉表に仕えていれば、小さな恩恵に浴せていた可能性はある
理由2
その後、蔡一族は曹操にくだり、諸葛亮とは無縁
理由3
劉表から士官要請が無い
不相応な家格の嫁取りは、理由に一応嫁さん不細工というのがあるけど
小さなコミュニティで才能が認められていたという事と
「俺、将来はビック(管仲楽毅)になるんだぜ!」というビックマウスが
アホの子みたいで可愛かったからかもしれん
家柄は没落しているとはいえ、悪くは無いしね
諸葛亮が辟召した名を漁ってみる。
董恢 襄陽
蒋エン 零陵
姜維 天水
楊戲 ケン為
永南 廣漢
姚チュウ 巴西
この辺りは劉璋や劉備の薫陶を受けていない生粋の「諸葛亮閥」といえるだろう。
人材にも出身にも意外にばらつきがあるな(大半が儒士の曹操が特殊なのか)
他に勿論、子飼とされた費イや馬謖、楊儀らが加わるのだろうけど、
彼らを含めた廷臣の殆どは劉備の時代から頭角を現しているのだし、
完全に「諸葛亮閥」に入れてよい人間がどれほどいるのかはちょっと怪しいな。
>>433 一応、自分が問題にしたのは劉表じゃなくて、劉gが諸葛亮を高く買っていたという話ね。
このとき劉gは既に嗣子の座から転がり落ちかけているわけだから、
そこに出入りする諸葛亮が劉表や蔡家の眼中になかったというのは確かにそうだね。
渡邉氏の論だと、劉備生前と劉備死後の諸葛亮の動きは別に考えるべきかと。
劉備生前は諸葛亮の地位が組織内で確固たるものでもないため、
自己の権力基盤である荊州人士を積極的に優遇して益州人士は優遇していない。
劉備時代の政権中枢に益州人士がほとんど居ないことからも明らかだと。
劉備死後、託孤されたことによって権力基盤が確立された諸葛亮は
益州政権として安定するために、益州人士を既存の荊州人士名士グループに組み込んで融和を計ったのだと。
この考えだと、諸葛亮時代にはそもそも荊州閥やら益州閥なんてなくて
一個の大きな諸葛亮閥とでも言うべき名士グループしか存在していないことになるのかね。
>>436 劉備時代の高官に益州人士がまったく見当たらず、
諸葛亮時代にもそれを色濃く引いていることは確かだけど、
それを諸葛亮の権力基盤云々と見るのはおかしいんじゃないかな。
丞相でありながら開府でさえなかった諸葛亮にそんな権限があったのか。
それは劉備の意向、というか東州兵等を擁した劉璋を継いで益州に割拠した
劉備政権にとって自然な流れだったのだろう。
諸葛亮の時代になれば、荊州を失ったことにより既存の子弟ではない
荊州人材を得ることは不可能になり、政権安定というよりも切実な
長期生残の方針として、また純粋な力関係として、益州人が頭角を
現すのを押さえつけることは出来なかっただろう。
>>435 ああ、すまない劉「g」が化けて読めなかった
でも、劉キが諸葛亮を知ったのは
巧みな劉備の人事パフォーマンス(隗から始めよの諸葛亮三顧)の
おかげな気がする。
>>437 同意
>>437 同意として、
諸葛亮の権力基盤は劉備の寵愛のみだと思う
如何に古くからの臣下に若い諸葛亮を認めさせる為の
劉備の努力が史実として残ってるし
孔明は逸話で美化されすぎてるけど、よくやったほうでない?
人材不足でいろんな方面に携わらなくちゃならなくて、可哀相な奴だ。
曹操の下についたとしたら、軍に関われなかったかもしれんが、それでも組織の中では抜きん出てそうだな。
ちょっと理想主義なのがアレだが
>>437 >諸葛亮にそんな権限があったのか。
あくまでも人事権は劉備にあった。だから劉備時代には完璧には諸葛亮の意図通りにはいっていない。
それでも推薦って形で諸葛亮の意図は反映されている。
劉備と微妙に距離が有った劉巴を推薦して、法正の後釜として尚書令としたのがその一例だそうだ。
劉備の意向が荊州人士優遇だったとしても、それは諸葛亮の意向と合致していたと見て良いと思うけどね。
劉備自身は法正を重用してるから荊州優遇って意向にはちょっと見えないけど。
法正は劉備の恩人
なんせ裏切って国を売ってくれた
首謀者は死んじゃったから、次席の法正が功績独り占め
諸葛亮はおろか劉備も頭が上がらない
法正は益州の人じゃないじゃん
益州人でも荊州人でもないのにあの扱い。
荊州人、益州人に拘りすぎないほうが良いけど
全く歯牙にもかけないのはどうかと思う。
少なくとも益州人が諸葛亮の治世に不満を持ってる記述は無い。
どっちかというと迎合してる連中のほうが多い。
いわゆる荊州閥と益州閥の対立ってのは無かった、あるいは有っても深刻なものでは無かったのだろう。
446 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/16(日) 21:27:01
ケイシュウの人材っていうけどあんな戦争から
逃げ続けた土地でどれだけの人材がいたのかね。
劉巴 李厳 陳震 蒋エン 費イ 滕胤 呂乂 董厥 閻宇 樊建
トウ芝 宗預 胡博 劉武 習忠 羅憲 王連 向朗 楊儀 来敏
魏延 廖化 霍弋 廖立 馬良 馬謖 董允 郭攸之 向寵 費観 傅僉 等々
×滕胤 ○董允
ハンシュンとか張悌なんてのもいる
少なくとも諸葛亮は、公平な人物。
あれほどクドい程、公平だと描かれている人物も少ないだろう。
これをもって派閥政治とは違う次元の政治手法ではないかな
公平だったらお気に入りの馬ショクを使わないでそれこそ魏延あたり使うんじゃね?
功績からいっても一番妥当でしょう
諸葛亮が公正だったといわれるのは法の執行についてだな
李豊は特殊でしょ。実際李厳の考え方に迎合していたか不明ですしね。
アレは李厳の息子と言うことで特例として名前が載っただけではないかな。
黄権とかは普通に益州人士を使ってるし、益州人士が優遇されてないという
ことはないでしょ。劉備にしてみたら流れ者集団が益州に根を張るためには、
益州の人たちを無視する訳にいかんはずだし、呉班達一族から嫁をもらって
いるのもその辺りと関係あるのでは。
記録には残ってない所でもかなり登用してると思いますよ。
公平かどうかと派閥政治はまた別次元の話と思います。諸葛亮の場合も
アレは普通に派閥政治だったと思います。ただ不満を持つ人は少なかった。
後に姜維が同じ基盤を受け継いでますが彼はモロに派閥争いに巻き込まれ
ています。彼も別に不公平な人事を行なったりはしていないのに。
人の好みってのはどうしてもあるから諸葛亮も100%とはいかなかった。
どこかで石田三成と似てるってあったけど、石田三成の戦争手腕をもう少し
良くしたら諸葛亮と同じぐらいの評価になったかもですね。
>>451 馬謖はお気に入りではあるが、期待された人材でもある
これがえこひいきであれば劉備の諸葛亮を抜擢することもできない
>>452 嘘はいけないね
公正な政治を行った。法を厳正に行った。評。別物。
>>453 基本、独裁だと思うのだけどね
あれで派閥政治だと、派閥政治じゃない政治は存在しなさそう
>>453 姜維のどこが諸葛亮の政治的後継者なんだ。尚書事を費イや諸葛瞻と分けてる上に
もっぱら漢中にいたため、成都の行政には殆ど預かれなかっただろう。
李豊が特殊というのは多分李厳派云々の話だと思うが、
史書に残る少数例を特殊と言ってしまったらどんな妄想でもありになってしまう。
他に李厳と関係があった人物としては楊洪がいる。
>>441のレスを見てよく見直してみたが、
劉備時代の序列では、荊州出身者が意外に少なかった。
頼恭、黄忠、劉巴くらい。他は荊益以外の人間で占められている。
一個人としての諸葛亮が荊州派を優遇する利益があったのかは未だにしっくり来ないが、
頼恭が太常であり、行政の執務から離れた位置にいたとするなら、
劉巴亡き後の荊州閥筆頭が李厳だったのは確かだ。
>>453 呉懿呉班は陳留人
記録に残らない中堅以下の官吏はそりゃ大多数が益州人だっただろう
後に出世する楊洪、李恢、馬忠、張嶷、馬斉、馬勲、姚チュウなどはちゃんと劉備の時代前後から働いている。
今の問題は、劉備や諸葛亮政権下での最高幹部が、郷閥等の派閥政治によって動いていたかということ。
劉備時代には、少府の王謀と治中従事・護軍という劉備の側近ではあるが最高幹部とは言いがたい黄権くらいしか
見当たらず、諸葛亮政権下で徐々に増えていくが、結局益州人が政権を取るようなことはなかった。
これをどう評価するかという話をしてるんだろう。
457 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/17(月) 08:30:16
そもそも正史だと孔明とキョウイになんの繋がりもないんでしょ。
あるよ
459 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/17(月) 09:03:32
お前若年性痴呆か?
一晩寝るとリセットされてるぞ
>>459 そいつの言ってることにいちいち反応してたら時間の無駄だぞ。
461 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/17(月) 10:16:22
>>456 政権担当者にまで益州人が上り詰めてないのは
多少なりとも最高幹部の意図が働いてるでしょう。
益州政権なのに荊州人の存在感有りすぎだもの。
それに対して益州人がさして不満を漏らしていないってことは諸葛亮の操縦が上手かったってことなんだろう。
益州人を政権に取り込みつつも、直接の政権担当者は蒋エン、費イなどの荊州人という流れを作れた。
463 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/17(月) 12:15:14
益州の有力者は劉エン・劉ショウがさんざん戦ってあらかた潰した
主が変わっても益州人が被支配層であるという状況には変わりがないということ
>>462 ただし蜀末期は役人がやたら多い
益州人を懐柔するために官位をばら撒いてたとしか思えない
益州しか領してない政権なのに益州人士を優遇、懐柔しないわけにはいかないだろう。
>>465 懐柔はしたかもしれないが優遇は最初から最後までしてない
逆で、益州しか領してないからこそ非益州人を優遇しなけりゃいけない
地盤がないから官僚として君臨するしか生きる道が無いからな
>>455 誰も姜維のことを政治的後継者なんぞ一言も言ってないが?
費イの時代から劉禅自ら政治も執り行うようになってて、結局姜維がその
跡を継いだときにはモロ派閥政治の争いに巻き込まれただけだろうが。
李豊の件に関しては個人レベルの付き合いがある人のうちで名前が残った
と言う内の範疇ではないのかな。楊洪にしてもそうでしょ、李厳閥だから
名前残ったんではなく、名前が残るような人物だから残っただけ。
と言うかあれだな、別に李厳閥があったと言いたい訳じゃないんだけどな。
呉懿たちの件は完全に勉強不足、深く反省する。
しかしそうなってくると、ますます益州人士という考え方はイカンのかも
しれませんね。荊州にしてもそうですが益州も相当あちこちから人が流れて
きてる。諸葛亮だって荊州閥の代表みたいに言われてるけど彼も元々は徐州
から流れてきた人間。劉エンと父親が知己で一緒に益州に入った呉懿も当時
まだかなり若年のはずで、そういう意味では諸葛亮と似た立場だったりする。
劉ニ牧時代に使えてた外部の人間、土着の人間、仕えていなかった外部の
人間、土着の人間、ここまで分ける必要あるのかな・・・。
>>467 姜維が諸葛亮の跡を継いだと言えるのはせいぜい軍事面だけだと思うよ
姜維の立場についてはここの派生元スレで結構語られている
派閥争い的な面に触れられたことはないと思ったなあ。
蜀末期ってどうなんだったの?
http://ex24.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1221052168/ あなたの李厳観を総合すると、
李厳は諸葛亮に到底及ばない地位と勢力しか持っていなかったにも拘らず
諸葛亮を追い落とそうとし、それに焦った諸葛亮は軍を起こして近視眼的な
武功を望み、のちには兵站任務の失敗に乗じて過剰にあげつらった上奏を
してまで罪に落とし、李豊はそんな風に父を扱った朝廷に仕え続けた、
ということになってしまうのだが。
劉備の益州政権前半の首脳部陣容は、概ね以下の4通りに大別される。
1.劉焉・劉璋の下で有力者だった非益州人
ホウ義 許靖 劉巴 呉懿 李厳 (法正) 等
2.劉備古参の非荊州人
麋竺 関羽 張飛 諸葛亮 等
3.劉備陣営新参の荊州人の中でも特段の有力者。
頼恭 黄忠 等
4.益州制圧時に格別の功績があった者、またその前後に参入した有力者
馬超 法正
つまり、劉備政権初期において、荊・益の士人は目立たない存在だった。
劉巴・李厳が首脳部に食い込んでいるのは、荊州閥だからではなく、
益州閥を排した劉璋幕下での有力者だったから。
ここまでは異論はないと思う。
ところが、劉備政権後期から諸葛亮政権期に掛けて、荊州失陥という事件にも拘らず
荊州閥が大きく伸張する。
荊州の士人名士が治国に長じていたことが当然大きいだろう。
その重用の背景には、俗に「荊州閥の頭目」と言われる諸葛亮の私的な思惑が働いたのだろうか。
徐州出身の諸葛亮にとって荊州閥は>436『自己の権力基盤』となり得たのだろうか。
ここら辺はまだ明らかではないように思う。
>>469 劉備政権にとっての益州は属国であって本国じゃないということに注意が必要だと思う
劉備が留守にしているだけで本拠は荊州なんだよ
あくまで大まかに分けると、
1劉備
2劉備の古参(関張諸葛他)
3赤壁前後から参加した荊州の有力者(伊籍、向朗、霍峻他)
4劉璋政権下で支配層にいた非益州人(劉巴、呉懿、李厳他)
5益州人
という層に分かれ、もちろん細かい差異はあるがおおむね数字の小さい方が権力に近い
益州出身者はおおむね下位のカーストに置かれていたと言わざるを得ない
被支配者なんだからしょうがない
一部の征服者に尻尾を振った奴がガス抜きと他の益州人への支配のために高位に上げられているだけだろう
張裔のようなのも確かにいるが、こういう奴のほうが例外ということだ
嫁が荊州名士筋の一族ってこととか
荊州学者グループの中の俊才って部分を考えれば
徐州出身とはいえ荊州名士から支持を受けうる立場では無いだろうか。
それと、諸葛亮側から荊州名士に歩み寄ったって部分も有るんじゃないかね。
在野時代は純粋に荊州に住む士大夫として。赤壁後は荊州を領有する勢力の幹部として。
>>471 劉キがお知恵拝借しようとした一件からすると、過大には考えられないものの、赤壁前から荊州においてある程度の評判や発言力はあったんじゃないかとは思う
それが向こうにいる劉備の威を借りたものか、諸葛亮本人のものなのかはともかく
>>470 劉備政権にとって益州が本国だと思うよ
防備に優れ生産物の豊かな割拠の地として巴蜀があり、それによって荊楚を支える
という図式は荊州を失わなくても変わらなかったはず
守りに弱いうえに曹孫と三分して係争地帯の荊州に本拠を戻すという手はない
だから、というだけでもないが、俺の見方では
>>470の序列は
1劉備>≧4旧劉璋派≧2劉備古参(赤壁前)>3劉備新参(赤壁後)>5益州人
だと思う。例外的大物として馬超
475 :
474:2008/11/17(月) 21:51:15
≧が多かったw
1劉備>4旧劉璋派≧2劉備古参(赤壁前)>3劉備新参(赤壁後)>5益州人
そういや蜀末期だと色々有名な閻宇、羅憲も荊州人なのか。
でもこの二人は益州在住の荊州人だっけ。
廖化や宗預も荊州人だね
478 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/17(月) 22:08:27
諸葛亮が丞相府の掾属とした人物を調べると、記述があるのは35人で、
その内、18人の本貫が荊州、10人が益州、2人が雍州、1人が豫州、不明なのが4人。
閻晏が閻宇同様南郡で、杜義が杜祺同様南陽郡、樊岐が樊建同様義陽郡なら、
荊州は更に3人増えて21人になるけど。
丞相掾属の内、分かっていない部分も同様の比率だとするならば、
丞相府は過半数が荊州本貫であるという事になる。
丞相府以外に、益州牧の属官として取り立てられた人物を調べたり、
丞相府、益州の両属官を、本貫だけでなく、益州に入ったタイミング等でも分けないと、
細かい部分は分からないけどね。
479 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/17(月) 23:47:27
劉備が一時期居座ったジョシュウには人材いなかったのかね。
なんでケイシュウだけいいのが揃ってたんだ?
>>479 そりゃ、徐州を呂布に取られてから新野に落ち着くまで6、7回敗走してるんだから、
良い人材がいても脱落するよ。陳到とか陳羣とか。
だから麋竺はすげえやということになる。
陳到じゃない、陳登だw
482 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/18(火) 00:10:53
徐州は徐州で、一枚岩ではなく色々複雑だったらしいからねぇ。
徐州といえばいつも不思議に思うのは、ゾウハが割拠してるはずの瑯邪になぜ曹嵩は避難してるんだろう
しかも曹操の誘いを蹴ってまで
>>468 >李厳は諸葛亮に到底及ばない地位と勢力しか持っていなかったにも拘らず
諸葛亮を追い落とそうとし、それに焦った諸葛亮は軍を起こして近視眼的な
武功を望み、のちには兵站任務の失敗に乗じて過剰にあげつらった上奏を
してまで罪に落とし、李豊はそんな風に父を扱った朝廷に仕え続けた、
ということになってしまうのだが。
話を捻じ曲げないで頂きたい。まず、李厳が諸葛亮に責任をなすりつけた
こと自体は紛れも無い事実である。たとえ1人相撲だったとしても李厳は
諸葛亮に対し不穏な行動をとっている。
それとは「別に」、別にですよ、たとえ権力のTOPだったとしても北伐を
国是とした以上、諸葛亮は北伐に対して結果は残す必要がある責任があった
と言うことを述べているのだが。
相手が李厳であるとか言うことは関係なく、と途中でも述べているはずですよ。
都合よく捻じ曲げてむちゃくちゃな理論を展開しないでもらいたい。
>>484 >李厳が諸葛亮に責任をなすりつけたこと自体は紛れも無い事実である。
事実だね。でも、231年の任に失敗して追い詰められた者の言葉を以って、
229年時点に権力争いがあったと遡行して判断することは出来ないよ。
>諸葛亮は北伐に対して結果は残す必要がある責任があった
多大な責任があったね。ならば、諸葛亮の(やや過剰な)責任感が軍を起こさせたと言えば良かったのであって、
>この時期は蜀内部で権力争いも起こっていましたし、
>諸葛亮も右将軍のまま職務をこなすと言うのは不穏分子につけこまれる
>恐れがあるので早いトコ実績を残す必要があった。
などと、蜀臣間に具体的な不協和が存在したかのように言う必要は無かったね。
>>483 臧覇はそれなりの士人だよ。生まれは高くなかったようだが、名声信望はあったようだ。
折り合いをつけていたんだろう。
>>485 信望があったとしても、わざわざ行く理由にはなってないよね
それでも敢えて考えるなら、
・中原から遠くに行きたかった?
・武装中立的な地域なので、案外平気だった?
・曹操から離れたかった?
やっぱ分からんね
>>486 ・記されてないだけで伝手があった
というのが普通なんじゃないかな。
むしろ琅邪よりショウの辺りが危険だったというのが面白いけど。
この辺は有力者不在の小競り合い地域だったのかな。
曹操と不仲だったとしても(信憑性は薄いと思ってるけど)
曹操が豫州に手を出せるのはもっと後だからショウにいても問題ないはずだし
>>485 確かに2年のラグがある状態で、権力争い云々はちょっと言いすぎだった。
その点は申し訳ない。
そこ以外は、まぁ納得はいかんでもある程度理解はしてくれると思います
が如何か。
489 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/18(火) 05:13:27
馬鹿め
>>487 沛国って豫州に属してはいるが、
実際に支配してるのは徐州の統治者(陶謙・劉備・呂布)みたいだね。
小沛に劉備や呂布を配置し曹操に対抗してるし。
豫州自体は袁一族の根拠地であり、また当時は袁術の影響下にあって、
袁紹・曹操と袁術・孫堅の二大派閥が争った土地。
更に黄巾残党もいて、とても隠居生活送れるような環境ではなかったんじゃないかな。
もし曹操が危ないからって伝手を頼らせて比較的平和であろう所に送ったんだとしたら悲劇だな
このスレのお陰で蜀の国が北朝鮮にみたいに見えてくるから不思議だ
文盲としか思えない
>>491 徐州牧達が西の守りとして呂布や劉備を置いた沛県(小沛)は、
沛国の東端、豫州と徐州の州境に長く伸びる微山湖の西岸に位置する。
ここに有力者を置いたのは徐州の西の守りの要だったからであって、
結構広い沛国全域に支配を及ぼせたわけではないんでないかな。
しかもショウ県は沛国の西端にある。
袁術も元々豫州全域に影響力を持っていたとも思えないし、揚州に引っ込んだばかり。
陶謙挙兵前後のこの時期、ショウの近辺は歴史に残るような有力者の支配下には無かったと思う。
後漢書をひっくり返せば判らないけど。
だからかえって危険だったのかもしれないな。
>>492 後漢書宦者伝によると全く逆
曹操は自分のところに呼び寄せたけど父は拒否して徐州瑯邪に向かった
497 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/18(火) 21:44:02
まず、思う事は孔明ってさ最初に
誰かの評判ありきだったよね?水鏡だっけ?
「孔明かホウトウのどちらかを配下にできれば天下は取れるだろう」
って評価だったけど。これは大間違いだよね。
二人を配下にした劉備は結局中国の3分の1ぐらいしか取れなかったんだから
であとホウトウと同レベルって事でしょ。孔明も。
ホウトウの実績みてるとたいしたことはしてないんだよね。
>>1 6年前にいた魏延さんかな?だったらナツカシス
孔明を模倣して天下を取ったって言われる明国は
確か呉の領域から天下取ったんだっけ…蜀の地だけでは天下取れない希ガス
孔明って実績見ると司馬仲達とどっこいだよね
>「孔明かホウトウのどちらかを配下にできれば天下は取れるだろう」
それは演義の創作。
因みに、演義においてなぜ劉備・諸葛亮が統一を果たせなかったのかは、
作中に明記してあるので読んでみよう。
>>480 陳登や陳羣は非常にもったいなかったな。
>>497 当時の名士社会について勉強して下さい。
マンガや小説以外にも目を向けようね、ボク。
503 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/19(水) 14:26:24
やだ
504 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/19(水) 14:29:52
あきこ
505 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/19(水) 21:27:08
孔明は劉邦の軍師には及ばないって事だよね。
劉邦の部下になってたら末端だったろうな。孔明は。
蕭何が楽になる
劉邦だと
ショウカ チョウリョウ カンシン
と三人居たんだよね。
孔明は図に乗ってこの三人合わせたような事やっちゃったんでしょ。
自分ひとりでやるから周りが育たないんだよな。
その三人合わせたくらいの実力だったとしても、劉邦がいないからな、蜀には
509 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/19(水) 22:28:46
漢字多すぐる目が痛てええw
510 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/19(水) 23:22:15
人材不足は否めないな
511 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/19(水) 23:46:25
劉邦・・・・・・・・アト
ショウカ・・・・・・ヒイ
チョウリョウ・・・・ショウエン
カンシン・・・・・・ギエン
確かに小粒だな
512 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/20(木) 02:58:01
カンシンのところは姜維じゃないか?
513 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/20(木) 07:06:08
劉備自体が阿斗程度の能力しかなかったとか言ったらいけないんだろうか
いけないだろうね。史実に反するから
三国志に伝を立てられている中では三指に入るくらい
能力を評価されている人物だよ
ここに魏延のなりきりやってた人がいるらしいのであえて言ってみるが
実は魏延とかも権力闘争に負けた時点で、孔明程度の能力しかない気がする…
孔明が凡夫だってのは同意だが。。
強引な遠征は兵站が不足してくるし、
やがて物資の調達は略奪に頼らざるをえないから北伐の大義も失い
蜀が魏に勝てる可能性は実は無かったような
劉備が無能というのは論外にしても
なんか蜀の人材は曹操に勝ちきれないというか全員粒が小さい。
蜀が天下を制覇できないないのはやっぱり劉備玄徳の責任
曹操が無能というのは論外にしても
なんか魏の人材は中華統一しきれないというか全員粒が小さい。
魏が天下を制覇できないないのはやっぱり曹操孟徳の責任
くだらない言い方だ
そうだよ。中国の歴史の中ではそんなに大した人材じゃない希ガス
良くも悪くも劉備は西郷隆盛なんだと思う
人間の才能を見ぬく力はあるけどここぞと言う時の押し出しが弱い
曹操との相性を考えるとそれが悪い方向に作用した
結果潰し合って共倒れ
520 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/20(木) 07:38:47
歴史の変革を感じさせる日本の戦国時代と違って、
三国志の世界って中国史や世界史全体の中で大きくは扱われないのがなんかな
あの騒乱って曹操の強引な軍国主義政策のお陰で
無駄に人材が潰し合った悲惨な時代って感じ。
歴史的な意義ってもう少しあってもいいような
曹操一人の政策で乱世が400年も続くなら曹操って逆にすごい奴だな
結果、曹操の政策のお影で兵法学が法学同様
後の時代の中国の政治に取り入れられた…わけで。
始皇帝みたいに爪痕は残した、とか言って見る
>>520 歴史的な意義はあるよ、ちゃんと
・戦乱で豪族の多くは焼け太り、貴族の時代が幕を開けた
・戦乱で一般民衆が流民化して人口分布が変化し、南北の経済的、文化的格差が縮まった
・曹操を初めとする各政権による流民の奴隷兵士化が進み、府兵制の礎となった
・主に曹操による周辺異民族の中原への強制移住と半奴隷化が進められ、100年後の五胡の乱の遠因となった
>・主に曹操による周辺異民族の中原への強制移住と半奴隷化が進められ、100年後の五胡の乱の遠因となった
これは正に歴史の発展の中の反面教師って気がするが
>・戦乱で一般民衆が流民化して人口分布が変化し、南北の経済的、文化的格差が縮まった
これは知らんかった、dクス
この時代、もうちょっと評価されていいような
>>514 劉備ってそんなに評価されてるの?
前半は負け続けな気がするんだけど。
526 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/20(木) 07:54:14
・曹操を初めとする各政権による流民の奴隷兵士化が進み、府兵制の礎となった
・戦乱で豪族の多くは焼け太り、貴族の時代が幕を開けた
歴史は変えたけどその貴族の一人である司馬一族に滅ぼされたわけだな
中国を統一して時代を切り開くには惜しい人物だったな、曹操は
世界史で言う劉備の歴史的な評価とか意義ってどうなるんだろう
NHKでは曹操の軍国主義に楯突いた事に意義があるって解説してたけど
流民化した一般民衆の代表者…って事だろうか?
曹操の軍国主義ってあの時代軍国主義は悪い事なの?
ていうか曹操が軍国主義なら孔明もそうじゃないか?
劉邦だってさ。
529 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/20(木) 08:04:43
劉備は曹操の行き過ぎた政策に対する
反動勢力…だったが結局負け続けたお陰で
曹操と同じ政策を採用せざるをを得なかったって事なんだろうって思う。
保守勢力とも違う
除州での大虐殺が無ければ曹操は中国の政治改革に成功していたろうにな
政治が変革して行く上での過渡期には間違いも色々とある
優秀な人材が全員軍事に向かって内戦で滅びあっていった悲惨な時代
しかし歴史の中では決して無駄では無かった…って事でしょう
533 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/20(木) 09:26:35
まあ冷たい言い方をすれば
呉と蜀が晋の逃げ場を一生懸命作ってた時代だな
げに。
>>527 そのとき歴史が動いたでの話しだったら、あれは正直だいぶ適当な内容だったので気にしないで良いかと。
NHKは人形劇三国志の影響か
中国史自体を軽視し過ぎるからな
>>522 まじめに言ってるの?
兵学なんて鬼谷子や孫子によって既に戦国時代にはある程度学派まで作られてるという風に言われてるのに
斉の百家争鳴とか知らないのかな
538 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/20(木) 15:44:21
いやむしろ有能さ。
539 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/20(木) 16:14:05
でも三国時代は埋没していて孫子は曹操が再編集しなければ埋もれていた罠
540 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/20(木) 16:16:09
つか光栄ゲームの孔明知力100とか曹操統率力100の評価が妥当かどうか疑問
知力100は演義評価込みだし統率100だったの6だけだし
そもそもゲームの能力値の話題はスレ違い
>>539 埋没してないしてない
漢代〜三国時代にも兵書と言えば孫子は代表的なものの一つだった
ただある程度結果出した曹操が編纂した魏武注が現代まで残っただけで
他の人が注釈入れた孫子ってのも一杯あったとされてるから
まあレベルの低い話はこの辺にしといてだ
話を巻き戻すと…えらく戻るな。
>>496 歴史に現れてるところから不仲説を想像すると、
曹嵩は義父の曹騰に恩義を感じていたようだから、
曹操が宦官誅殺の謀議に加わっていたことで仲が拗れたのかもしれないな。
ごめんなさい
じゃ曹操はとび抜けて天才って訳ではないんだね
「君主」として、乱世から中華を統一することに成功した中華史上十人強よりは
一枚落ちるのは事実だろうね。
割拠状態から統一を果たした英雄は10人もいないだろうけどな
成程…中国を歴史的に捉えるのなら
基本に帰って中華史上十人強から勉強しなければあかんわけか
把握しました
統一王朝に反旗を翻してその統一王朝の本拠に乗り込み君主を降伏させ、
その後の割拠状態からも抜け出して再統一を果たした劉邦が最強
統一王朝倒したのは項羽だろ。
劉邦はただの下克上じゃないの?項羽の部下だったんだろ。
>>551 全部違う
劉邦と項羽は本来同格で楚懐王の将
項羽が総大将だった宋義を殺して地位を奪ったが、少なくとも劉邦は部下とは言えない
項羽が秦本隊と戦わなければ劉邦も勝てなかったのは間違いないが、最初に関中に入って秦の防衛線突破し、秦王の降伏を受けたのは劉邦
三国時代の蜀攻めで言えば
トウガイ=劉邦
ショウカイ=項羽
と考えればいい
>>551 じゃないの
項羽は秦を倒した後、各地に王を復活させて春秋戦国の割拠状態に近い状況を作り
王による連合政権みたいなものを構築した
その一番上を自分が握って全土を間接統治しようとしてコケた
そうだっけ?一応司馬遼太郎の項羽と劉邦は見たんだけど
記憶が曖昧になってる。
項羽と劉邦って三国志よりわかりやすいのにあんま小説とかにならんよね。
劉邦の晩年がひどいってのといがいとなんか劉邦がいいところ取りした
感じなのがいやなんだよね。中国だと劉邦大人気らしいが
項羽の方が死に様はカッコウイイんだよな。
劉備ももし全土統一してたら孔明と争ったりしたんだろうかね。
555 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/21(金) 00:00:32
レッドクリフ(赤壁)イマイチだった
このスレ終わったな
孔明より細木数子のほうが有名
780 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2008/11/21(金) 16:03:05
中国中央電視台より細木数子のほうが有名
62 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2008/11/21(金) 16:02:20
米倉涼子より細木数子のほうが有名
91 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2008/11/21(金) 16:01:34
日本とイギリスより細木数子のほうが有名.
770 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2008/11/21(金) 16:00:26
自治新党より細木数子のほうが有名
19 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2008/11/21(金) 15:59:23
孔明より細木数子のほうが有名
52 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2008/11/21(金) 15:55:15
徳川家康より細木数子のほうが有名
24 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2008/11/21(金) 15:57:16
信長の野望より細木数子のほうが有名
158 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2008/11/21(金) 15:56:02
太閤立志伝より細木数子のほうが有名
14 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2008/11/21(金) 16:13:55
講談・創作より細木数子のほうが有名
4 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2008/11/21(金) 16:14:36
ゴッドマンより細木数子のほうが有名
レッドクリフだと孔明は金城なんだっけ?
あれは蜀はオマケ程度らしいけど。
遅いんじゃね
561 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/23(日) 16:50:59
そもそも呉と関係が悪化して
カンウが裏を取られたのも孔明のせいだよね?
孔明がシュウユといろんなやりとりしたせいで呉から
恨み買ったわけでしょ。
後背を突かれた原因はともかく
諸葛亮の提示した天下三分は呉を信用できる相手として設定されてるからね
まあ戦略上のミスということは正しい
元々、蜀はケイ州を漁夫の利で得てるのだから呉が面白くないのは当たり前
呉が蜀を信用しようはずがない
564 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/23(日) 19:20:55
孔明の人を見る目のなさは異常だよね。
劉備はギエンはOKバショクはダメって言ってるのに
逆を行ってるし。
呉全体もそうだけど
たしか孫権も年取って貫禄ついた。みたいな事言ってるけど
孫権は年取ったらひどくなっちゃったしさ。
>>562 蜀漢も呉を信用していなかった。だから関羽は南郡に防備を置いていた。
その上をいった呂蒙の勝ちってだけだよ。
孔明じゃないだろ?
はわわだ
>>562 最大勢力に対抗する為に
二番手、三番手が協力する関係
信頼とは違う
>>564 仮に諸葛亮派閥があるとすれば
第一に魏延が居る、諸葛亮の人材群の中で中心人物
副司令官、参謀で貴族の地位を与えられ
これ以上無い厚遇を受けている
遺言からのけ者にされた魏延が諸葛亮閥とは言い難いとは思うが、
劉備以来の第一位の武臣として非常に厚遇されていたのは確かだね。
征西大将軍ってのは光武帝期にしか使われていない前線の将軍に与えるには破格の重職で、
それを復活させるほどの資格を認められていたことになるんだろう。
李厳・魏延(・呉懿?)は諸葛亮の閥に収まらないくらいの最後の大物と言えるんでないかな。
諸葛亮の遺志って結構面白いよな。
撤退の指示は楊儀に任せて「魏延は命令聞かないなら置いてこい」
ところが実際の後継者は楊儀じゃなくて蒋エン。
「魏延、楊儀が小人なのに重用したのは人を見る目が無い」
っていう論に対しては、自分の死後のことを二人に託してないてことから反論できる気がする。
571 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/24(月) 22:12:52
人を見る目のなかった孔明だから
後継に選んだショウエンとヒイもたいした奴ではなかったのだろうな。
正史には逆の事がくどい程書かれているがな
>>572 でもヒイはともかくショウエンって若い頃から有名だったことと諸葛亮の幕府の後方任務をやったこと以外、
能力を示すエピソードが全然ないよね
彼の立てた戦略は蜀あげて反対されてるし
本当に諸葛亮の後継者の器だったんだろうか
ヒイと陳寿ってあったことある可能性ある?
費イの死亡時、陳寿は21歳。
費イは死亡前の二年間、漢中にいる。
陳寿が既にショウ周に師事して成都に出ていたとしても、すれ違う可能性は低い。
よほど特別の経緯でもない限り、大将軍の行軍を見たことがあるかもしれないという程度か。
576 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/25(火) 00:44:05
費禕が最後にいたのは漢中じゃなくて漢寿じゃないか。
陳寿が費禕と会った事があるかは分からないが、華陽国志に拠れば、
陳寿は初め州の命に応じて衛将軍主簿となっている。
「諸葛瞻の属官だった」という、常璩の説く蜀の長老の話を考慮すると、
衛将軍は諸葛瞻の可能性もあるが、衛将軍主簿の後、東観秘書郎、散騎侍郎、黄門侍郎と官が遷っているので、
初出仕が261年では遅すぎるだろう。
諸葛瞻の属官云々は、諸葛瞻が侍中だった時に黄門侍郎だったって事じゃないかと思う。
従って、陳寿は衛将軍姜維の主簿としてスタートしたと見るのが良い。
姜維が衛将軍だったのは247年から255年、二十歳前後なら252年頃の出仕で、
漢中の姜維の元に赴く前に、漢寿の費禕に挨拶した可能性は大いにある、というか十中八九してるだろうな。
>>576 示唆に富む話だが、20-24くらいの若造がいきなり衛将軍主簿ってのは早すぎないか?
正確な秩石は解らなかったが、低い官ではないだろう。
後の官歴を見ても、諸葛瞻の属官になった後、朝廷の官を短い間に歴任した、
或いは兼任したと見た方がいいんでないかな。
578 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/25(火) 02:14:20
>>577 たった三年の間に幾つも官が遷るだろうか?
更に晋書陳寿伝に拠れば、父の喪に服している時期もある為、
三年どころか二年や一年の間という事も考えられてしまう。
また、同様に晋書陳寿伝だと、黄皓に屈さなかった為に遠ざけられたともあり、
261年以降に、他の官から黄門侍郎に遷すのも不自然に思える。
丞相や大将軍の主簿であれば変わるかもしれないが、主簿は主簿だし、
州や郡の主簿であれば、二十歳前後でも就く事ができるだろう。
官品がどれだけ参考にできるかは分からないが、三国職官表では衛将軍主簿は八品なので、
そこまで高い官とは思えない。
俺には、諸葛瞻の主簿よりも、姜維の主簿だったとした方が、無理の無い解釈に思える。
>>578 うんまあ違和感程度のもので、色々考えたけど諸葛瞻の主簿だったという確信には行き当たらなかった。
衛将軍の秩石も不明だけど、万石か少なくとも中二千石はあったはずで、
ちょうど廷尉(官人法では三品だけど)の主簿も八品とある。
他に八品の官というと、県長などがあるが、これに若くして為るには後漢では孝廉に挙げられた者が
郎官を経るなどのエリートコースをたどる必要があった。
他の官を見ても、比三百石か三百石くらいの職だったろう。
陳寿に特に大きな縁故が無かったのなら、20代前半で衛将軍主簿というのはやはりかなりの抜擢だと思えるし、
この時代では学問を修めたというには早い年齢だと思う。
陳寿がショウ周に師事したのが何歳か、師の影響力がどれほどのものか解らないけど。
また、「初め州命に応じ」、のはずなのに、州の属官に就かずに将軍の幕府へ行くのは奇妙な話だ。
州で数年勤務し昇進してから、何らかの推挙か招聘で衛将軍府へ遷ったという記載の漏れと見るのが自然だと思う。
もっとも、益州一つしかない蜀漢に特異な制度があったのかもしれないが。
逆に、諸葛瞻の主簿になったのなら、主簿(三百石くらい?)から 黄門侍郎(六百石?)まで昇進するのが
二年前後というのは確かに早すぎるとは思うけど。昇格はともかく、短期間に転任を繰り返すのはたまにあることだとは思う。
結局「どうもしっくり来ない」という感じ。姜維と諸葛瞻の間に衛将軍がいたのなら別なんだけど。
580 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/25(火) 23:21:09
初の任官が主簿だった人物と言うと、あまり参考にはならないが、
光武帝の主簿となった朱浮とかがそうだな。
三国志だと、南陽に遊学した後、北海の相孔融の主簿となった王脩
よく分からんが州に仕えた後、刺史丁原の主簿となった呂布、
若くして郡吏となった後、州牧劉璋の主簿となった黄権、
張飛に従って蜀に入った後、諸葛亮の主簿となった宗預、
前将軍関羽の主簿の廖化あたりは、恐らく三十前に主簿だな。
まぁ、主簿とひとくくりにはできないが。
安漢の陳氏は県レベルでは大姓で、他に後漢の陳禅がおり、
陳氏以外の安漢の大姓だと、閻圃とかがいるな。
県の大姓である事や、中散大夫として太子に近侍している譙周の影響力は計りかねるが。
読み直すと、「初め州命に応じ」の後に、「為」とか「以」とかはなく直接「衛将軍主簿」とあり、
その後、官職が列挙される形になっている。
ひょっとすると、指摘の通り、初めは州吏となっていたのかもしれない。
ただそれにしても、衛将軍主簿は諸葛瞻よりは姜維だと思う。
州命に応じて刺史費禕の掾属となり、評価されて衛将軍姜維の主簿に転じた、という事かと。
費禕以降益州刺史は見られないので、州吏であれば費禕だろうし。
大姓だというのは参考になった。
でも、初任ではなく、若すぎるのが気になるの。
朱浮や王脩はそれが初めての任官だとしてもそれなりに年を取ってからだろう。
三十過ぎまで在野でいて、名声か家柄が高ければ、辟召でもされて初任で相応の高位に就く、
という例はたくさんある。でも陳寿からはそういう感じは受けない。
24といえば諸生の年頃だと思っているので、それで北伐を繰り返す当時の姜維の主簿というのは、
その後の官歴から見てもどうもぴんと来ないんだ。
結局ぴんと来ないという程度の話なので、意外に吏才があったということなのかもしれないけど。
時間をとらせて悪かった。
話を変える(つもり)けど、
>費?以降益州刺史は見られないので、州吏であれば費?だろうし。
正式の刺史は任命されなくても、州府の機能はあったのではない?
政治的な意味はまったく異なるけど、冀州刺史やエン州刺史が遙任されるくらいだから体裁は整えていただろう。
582 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/26(水) 00:27:24
>>581 分からんねぇ。
費禕が死んでから州の掾属になった人物が見られないし。
李密辺りはひょっとするかもしれないが、年齢を考えると蒋琬か費禕の頃だろう。
ただ、時期はおかしいが、宋書州郡志に閻宇が益州牧だった記述があり、
姜維を益州刺史にする上表もあったという事を考えれば、残っていたとも考えられる。
しかしながら、トップのいないままの州が、誰かを辟召するという事があるのだろうか?
それもそうか。辟召や察挙の権限は州郡じゃなく刺史や太守にあるんだっけ。
するとどう転んでも、最初の質問
>>574にはかなり高い確率で「ある」ってことになるんだな。
585 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/26(水) 01:05:01
孝廉や茂才であれば、最終的な決定権が郡守や刺史にあったとしても、
豪族との合議に大きく左右されるだろうね。
州の掾属として辟召する際は、やはり刺史の意向によるところが大きいし、
刺史がいない場合にどうなるかは俺にはわからない。
官吏の任官は、俺にはよく分からん事が多い。
史記田叔列伝に?%
586 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/26(水) 01:06:12
レス失敗。続きはこれね。
史記田叔列伝に拠れば、漢代には、衛将軍に対してその舎人から郎官を選抜するよう勅が下った事もあったようだし。
まぁ、閻宇が費禕の後任として益州刺史となった、という線も残されてるけどね。
587 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/26(水) 21:17:27
そもそも自分の体に不安があるのに出撃するのは
ただの無謀で指揮官としては失格でしょ。
589 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/26(水) 22:48:06
蒋琬の場合は、持病が酷くなったから東征を延期し、そうこうしてる内に中止になったじゃん。
病を押して遠征したわけじゃないでしょ。
恐らく諸葛亮に対して言ってるんだろけど、
>>587は流れをぶった切ってる上に、
誰について言ってるのか書いてないから、若干分かりにくいレスになってるな。
>>589 俺は最近、なんで蒋琬はあんなにフルボッコにされたんだろうか、と不思議でならない
本人の能力や人心掌握力の問題なのか、そもそも大抜擢だったことが関係あるのか、諸葛亮の選択は正解だったのか
疑問が湧いてくる
戦略のリスクの問題じゃね?
592 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/26(水) 23:13:54
>>590 フルボッコと言っても、基本的には東征計画に対するものだと思う。
あの計画では、恐らく夷陵の敗戦で東征、特に水路を下る遠征に対するアレルギーがあった中で、
蒋琬は、朝議で多数の賛同も得られないままに船まで作り始めてしまっている。
その辺が、蒋琬に対する警戒感を生んだんじゃないかな?
蒋琬は諸葛亮の後継者だけど、廷臣は諸葛亮ほど独裁的な権力を持って欲しくはなかったんだろう。
その辺の事が、蒋琬の存命中から費禕が軍事の大権を握ったり、
蒋琬と費禕、費禕と姜維、姜維と陳祗、姜維と諸葛瞻、董厥のように、
宰相や宰相格の人間が並立するような状況を生んだのかもしれない。
>>592 >朝議で多数の賛同も得られないままに船まで作り始めてしまっている
後の姜維と成都の反目状態の芽は既に出ていたのかもなあ
諸葛亮レベルの独裁は当然皇帝と大臣しては避けるところだろうね
李バクの言は退けても、諸葛亮が簒奪一歩手前だったのは明らかだから、その後継者にすんなり全権を渡すわけが無いよな
宰相の並立っ、て皇帝が最高権力者として一応機能していればそもそもそれが普通の事態だろうね
そういや蜀漢が三公を置かず、呉も置いたのは遅く孫晧の頃と思われる影響か、
この二国は左右丞相とか複数尚書事体制で臣下の分権が目立つね。
595 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/26(水) 23:29:30
>>593 261年以降は、録尚書事と平尚書事が合わせて三人もいたからなぁ。
これが摂政としての職であったと考えると、結構異常な状態だと思う。
相当な機能を持っていたであろうかつての丞相府が漢中にあり、
有事には独断で漢中(と武都・陰平)の防衛を行わなければならない以上、
ある程度の権力分与は不可欠とは言え、ちょっとやりすぎな感じはする。
その点、権力は大きかったとは言え、侍中守尚書令のままだった陳祗は、
後の諸葛瞻や董厥と比べると節度があったと言えるのかもしれない。
尚書令か録尚書事かでかなり違ってくるだろうからね。
ただ、恐らく姜維と協力関係にあった陳祗と違って、彼を制しようとする諸葛瞻らなら、
より大きな権力を欲するのも仕方が無いとも言える。
>>595 皇帝がある程度最高決定権を持つ者として機能している状況では、録尚書はそもそも摂政じゃないんだろうね
漢では領尚書、録尚書、平尚書が複数人並立するのはよくある光景だ
むしろ単独のほうが異常事態
597 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/27(木) 00:02:38
>>596 おぉ、よく調べると確かになってるね。
漢の宣帝が即位した際、既に領尚書事だった霍光に加え、
于定國、張敞が並んで平尚書事となっている。
また、元帝即位の際には蕭望之と周堪が領尚書事に、
成帝の時は張禹と王鳳が領尚書事になっている。
後漢でも、趙憙と牟融が章帝即位の際に並んで録尚書事になっとるね。
並立は普通の状況のようだね。
ただ、摂政という職掌自体に変化は無いんじゃないかな?
結局は皇帝が未熟な時に置かれるものだし、成熟した皇帝が権力を奪おうとしても、
領尚書事や録尚書事はそれに対抗し、あくまで権力を保持しようとするだろうから。
並立は、宰相を互いに牽制させる為の処置と見た方が良いように思う。
姜維を抑えようとしている背景には、後主の意思があるような気がするんだよね。
明確な根拠はないんだけど。
末期に劉禅への影響力が大だった黄皓がステロタイプな「佞臣」だったかどうかだな。
権力争いをしたし自分を売り込むために董允を貶めるようなことをしたのだろうが、
閻宇や諸葛瞻との連携を見ると本当に外を省みなかったのかというと少し疑問だと思う。
亡国の責任を負わされすぎてる感は否めないな、たしかに。
まあ、滅亡した時に残ってた人物は誰かが泥を被ることになるからね。
劉禅が無能って決め付けられるのもその類ですし、黄皓が佞臣呼ばわり
されて演義で八つ裂き(だっけ?)にされるのもそう。
国が滅ぶと言うのはその国全体の問題であって本来一個人がすごい大きな
影響があって滅ぼした、とは・・・ナカナカなりにくい。逆にそれだけの
影響を及ぼせたならばいろんな意味でたいした人物と言えるでしょうねw。
わざわざ擁護する必要は無いと思うがな。
三国志などの正史に書かれた記述通りに受け取れば良いのさ。
正史に書かれてる内容だけなら格別悪逆でもないんだし。
ただ、宦官なのにそれなりの権力を握っていたことは事実。(陳寿伝とか)
士大夫からの名声を全く背景にせず、劉禅個人の信任だけをバックに権力を握ってた以上、
劉禅がよほど意欲的で黄皓自身も傑物でも無いかぎり、普通の佞臣だったと思っていい気がするがね。
603 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/27(木) 22:36:18
宦官が権勢を誇るってのは、バックに皇帝の権力があるってこと
無力な傀儡の信任があっても権力には直接は結びつかない
つまり、劉禅自身の権力、影響力の拡大が黄皓の出世と絡んでいたと思われる
604 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/27(木) 23:27:47
なんで後漢を狂わした宦官制度導入しちゃったんだろうね。
孔明が止めるべきだろ。
思うに孔明が実権握るために劉禅を表にださないようにしたんだろうけど。
宦官は清の滅亡まで続いた宮廷の根幹を成す制度だよ。
廃止なんて言い出したらラディカルすぎて誰もついてこない。
発想さえしないだろうな。漢の後継者を標榜した蜀漢なら尚のことだ。
問題はその専横をどう抑えるかだが、黄皓でさえ結局中常侍に留まり
他の官を兼ねることが無かったらしいというのは、
その試みは相当程度成功していたと言える。
いやあ、実際黄皓が行なった悪政って何よ、となると意外と話が無いのです
よね。
姜維の権限剥奪の件もどちらかと言うと派閥争いに近い話で、黄皓のみ非が
ある訳でもない。他にも陳寿も免官になったりしてるけど、それらも黄皓が
悪だから、と断じるほどの材料にはならない。逆に、それが為に必要以上に
悪く書かれている可能性だって考えられる。
黄皓が権力を握ってあちこちで民衆の反乱が起きた、とか悪政を敷いたため
民衆が重税に苦しんだ、とか言うエピソードがあれば別ですが・・・。
それに黄皓の場合は意外と蜀臣達とも上手く折り合っていると思う。単純に
劉禅のバックアップだけで権力を握っていた、と言うのとはちょっと違うの
ではないかな。
擁護の必要ないといえばそうなんですが、最初から決め付けるのも好きでは
ないので・・・。天邪鬼と言えば天邪鬼ですね。
>>604 孔明はなんでもできる超人でも独裁者でもありません。
それでも孔明から信任されていた董允が存命中は不都合が起きなかったのだから、
その弊害を最小限に食い止めていたと評価することは可能でしょう。
その後は陳祗がうまく使っていたけれど、
陳祗が死ぬと残された大将軍閣下は有効な手を打てなかったですよね。
どう考えても責められるべきは諸葛亮ではありませんね。
極論を言えば、後漢的な政権じゃ宦官が権力を握ること自体が悪。
皇帝が自分の権力拡大を目指すこと自体が悪。
>>590 でもさあ241年に朱然が仲達に大敗してるよね
その兵法神のごとしとまではいかないがしばしば仲達に苦杯を味わわせた孔明ならともかく
朱然より上とは思えない蒋苑さんじゃやっぱ不安だったんじゃないか?
しかも撤退も難しいときたもんだ
611 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 20:52:30
孔明ってその場その場だけの人なんだよね。
もっと後に続く政治形態とか作れなかったんだろうか?
>>610 いやまあ、そういうつもりで「悪」って言った。
>>611 そんな時間的余裕も政治的余裕も存在しなかった
あと10年長生きしつつ長安辺りまで取れてればそれも可能だったんだろうけどな
614 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 23:21:40
やはり死ぬのが早すぎたのか。
どっかの大酒呑みの長すぎる寿命を分けてやりたいくらいだな。
長すぎるというが孫権も70歳までしか生きてないのよ
あの時代では驚異的な長寿じゃないの?
曹操も66歳まで生きてる
孫権は君主としては長く上にいたけど寿命そのもので見ると70歳は結構いるもんだよ
長生きする人間は今と同じ感じで矍鑠と生きたんだろう。
ただ若くても病気でぽっくりいく可能性が現在と比べてとても高いので、平均寿命で見ると40歳とかになる
とりあえず出生率と幼児死亡率がヤバそう
(0+0+5+5+10+30+40+50+60+70)/10=27歳だからなあ。
「平均寿命30歳未満」とかいう社会はかなり後まで続いただろうし、
計算してみるとそんなに異常なことじゃないね。
621 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 12:54:39
動乱の時代なんて病気だけじゃなく殺されて死ぬ人間も多かったろうに
622 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/02(火) 20:49:53
まあ孔明は後ろにいるから戦場で死ぬなんて事はないだろうけどね。
そういや孔明が鎧着ずに道服のまま指揮してたって話は本当かな?
太平御覧に引かれた晋の裴啓の「語林」に
諸葛亮と司馬懿が渭水のほとりで戦ったとき、司馬懿が諸葛亮の様子を探らせたら、
輿に乗って葛巾を着けて白羽扇を持って全軍を指揮して、皆それに従っていたそうだ。
戦闘服に身を固めていた司馬懿はそれを聞いて「名士と言うべし」と評した
という一文がある、らしい。ソースは某SRPGの攻略本。
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/02(火) 23:13:26
ただのナルシストなんだろうな。自分が一番だと勘違いしてるんだよ
孔明は。
仲達も絵つきの三国志だと大抵は文官スタイルのまんま突撃してるけどなw
それはともかく「名士と呼ぶべき」って言葉はやっぱり称賛してるって意味でいいのかな
暑がりだったんだな
>>625 というより、それも策略の一つなんだと思うぞ。
原文持ってないが、引用しているものから又借りすると、
素輿に乗り、葛巾、羽扇もて、三軍を指麾し、皆其の進止に随う。宣皇聞きて嘆じて曰く、「名士と謂う可し」。
素輿というのは白い木製の小さな車のことらしい。勿論防御力はない。
武事は本来野蛮だとされた時代だから、全く武装せず余裕を見せて戦陣に立ち、
にも拘らずその羽扇の指揮に蜀兵達が見事に随う様子を聞いて、
司馬懿は諸葛亮に名士の理想像を見た、というエピソードなんだろうね。
孔明ってものすごい高潔な理想主義者だったんかなあ
演義系だと周ユからかったりと結構性格悪いんだけど
実直でやや使命感過剰、仕事面では堅苦しい人間ではあっただろうけど、
高潔ってイメージではないなあ。
>>629のような洒落っ気があり、それなりの田地を持って生活していて、
仕事一筋の清貧家だったわけではない。
人材にも別に潔癖を求めないし、政謀もやる。
632 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/04(木) 21:41:59
うーん。いろいろ考えた結果の孔明のイメージは
見栄っ張り 自分が一番じゃなきゃ気がすまない
人のいう事は聞かない。自分が常に正しいと思っている
自分以外は全てバカ。作戦で失敗しても部下のせい
性格良さそうに振舞っているが根は性格悪い。
こんな所でしょ。
>>632 自分が一番じゃなきゃ気が済まないってのは確かだな
ただ「自分が一番」というよりも「一番評価してくれる人を探す」という感じだが
自分が常に正しいってのはない
結構人に意見言われてそれを容れてるし失敗したら素直に認めるからね
政争とかはやるし結構腹黒いところもあるが
>>633 いやうんまあ…もう構ってあげなくていいと思うんだ
635 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/04(木) 23:35:31
失敗したら素直に認めるって言ったってさ
あれどう考えても自分が辞めても劉禅が引き止めてくれる
って前提の行動だったと思う。
負けても大物感を出すための演出。結局孔明必要だな
みたいな雰囲気作りでしょ。
>>635 そう言い切る根拠は?
第一次北伐失敗後の事後処理は面白いくらいアタフタしてて
周囲からダメ出し食らってそれをちゃんと容れて色々修正してたじゃん
>>632 まず自分が持ってる孔明へのコンプレックスをなくさないと、正しい判断は出来ないと知れ。
>>633 策謀を立てる人間に腹黒さがない事を求めるのは無理だろ。
孔明の人としての人格と、策士軍師としての孔明とは
切り分けて考えないと無駄だと思うぞ。
一番の問題は、人は己の理解及ぶ範疇しかわかる事が出来ない、って事だな。
633が孔明のことを判りたいと思うなら、まず孔明と同等位まで己を高めないと無理だろ。
お前と同じ位置まで引き下ろしてどうする。
詭弁のガイドライン
17.勝手に極論化して、結論の正当性に疑問を呈する。
「確かに犬は哺乳類と言えるかもしれない、しかしだからといって、哺乳類としての条件を全て持っているというのは早計に過ぎないか。」
>>640 詭弁のガイドライン自体が詭弁化してるしなぁ。
どうしようもない。
642 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 16:59:37
「なぜ孔明はここまで神格化されたか」って考えると
多分劉備が孔明を配下にしてから劉備軍が上り調子になったから
って事なんだろうね。
けどここ当たりにちょっと胡散臭さを感じる。
まず孔明が仲間になってから別に劉備ってそこまで
よくなってない。劉備の目的は曹操を倒す事なのに
孔明はただ矛先を変えて田舎の主にしただけだし。
いままで劉備は蜀なんて田舎は狙わなかっただけで
別にあそこを手に入れるぐらいは孔明なしで出来たと思う。
そういう詐術的な所がある。後、ネットとかだと劉備無能論が
やたら蔓延ってるのが問題だな。俺は前半の劉備無能論には
意義を唱えたい。キョウイと劉備はかなり有能だったと思いたいし。
劉備無能論とかどこで流行ってるんだよ。
蜀末期スレと同じような輩なのか。
諸葛亮の神格化の過程は
正統論とか朱子学とかそういう部分が大きいので
「諸葛亮が来てから昇り調子」とかそういうものではないよ。
孔明を貶したいならそれはそれで知識と知略がいるってことがよく判る。
1じゃ頭不足だな。
647 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 19:15:48
>>643 ちょっと三国志を知ると曹操賛美に走る。
まあ曹操が凄いのはいいんだけどそれの
反動で劉備が無能って言い出すのが普通の流れでしょ。
自分の経験談を語られても困る。
曹操賛美と劉備無能がなんでイコールで繋がるのか。
649 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 20:17:08
通ぶりたい人の思考ってのはあると思うんだけどね。
大体まず演義劉備に触れるわけじゃん。で完璧超人の
劉備を知るけどネットとかで知ってそれほど聖人君子じゃない
ってわかり批判に回るわけ。
孔明も通ぶりたい人は「軍師じゃなくて政治家として一流なんだよね」
とか言うわけ。
だから一般の定義をあえて斜めから見ます的なのがカッコウイイと
思ってるんだろうな。キョウイとかも「防衛戦さげたのが致命的だよね」
とか言うけど。
すべて反動から着てるんだよね。最初に知った情報を否定したがる
反動。だから正確な判断が出来なくなってる。
俺が考えるに劉備は良く出来た将軍。孔明は凡将、キョウイは孔明より上
ってのはあるね。
650 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/05(金) 20:23:21
俺を含め、姜維好きってのは諸葛亮も好きなもんだと思ってたが、そうでもないのかね?
>649
その「孔明は凡将」ってのこそ、お前の言う「通ぶりたい人」なんじゃねぇの?
>孔明も通ぶりたい人は「軍師じゃなくて政治家として一流なんだよね」 とか言うわけ。
とか自分で言ってるし、そうなると、お前は「自分は正確な判断ができていない」と自分自身で言ってるわけか。
651 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 20:29:51
まあ名無しの板でいうのもなんだけど
俺は今までの主張でだいたい孔明は政治家としても
2流と言い続けてるんだけどね。
まあ俺はキョウイが好きなんだけど
キョウイってさ評価として必ず。孔明と比べるとダメだ
っていう評価のされ方なのが嫌なんだよね。
孔明が作った防衛戦をキョウイは崩したってのはさ
お前孔明時代から何年たってんだよ。って話だよね。
敵にも研究されてるだろうし。同じ手をずっと使い続れるわけねーだろ
って普通に思う。
だからさ、そういう自分だけの体験談を漠然と語られても困るんだよ。
直接スレでそういう主張してる人に言ってくれ。
653 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/05(金) 20:39:07
>>651 どう主張しようと構わないと思うが、どんな主張であれ、
イメージで語ってるうちは相手にされないだろう。
議論しようと思うなら、史料に基づいた論理的根拠が必要だ。
更に相手を納得させるなら、その主張に高い蓋然性を持たせなきゃならない。
654 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 20:48:10
蓋然性って思わず調べたけど。可能性とかでいいじゃん。
史科に基づくのもいいけどわかりやすくしようぜ。
ただでさえ三国志はマニアックとされてるんだから。
地名とか役職とかもだけどさ。
史科でいうなら俺は最初に言ってるんだよね
「孔明はホウセイの悪事を見逃した」ってね。
そこに孔明の人間性が全て現れてると思う。
これは多分演義じゃなくて正史だったと思うし。
655 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/05(金) 21:05:47
>>654 蓋然性と可能性は意味が違うんだよ。
蓋然性は英語で言えばprobability、可能性はpossibilityだ。
さっきも言ったが、お前が、法正の振る舞いを諸葛亮が見逃した事を元に、
諸葛亮の人格を批判するのは構わんと思う。
ただ、周囲がそれに納得するかどうかは別の話だ。
その記述だけ、それも曖昧な記憶だけでは周りは納得しないだろう。
俺らはエスパーじゃないんだから、ちゃんと言葉にして書いてくれないと分からんぞ。
今のままじゃあんたが考えてる「孔明は政治家として二流」とか「姜維は無能じゃない」って主張が
正しいのか間違ってるのかすら判断できない。
グダグダイメージだけ語りたいなら帰れ。
657 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 22:22:05
まあずっと書いてるんだけどね。
前にその時歴史は動いたでは孔明は
「信賞必罰、公明正大の政治を行ったリッパな人」
って評価されてたんだよね。つまりNHKが孔明の
政治家としての評価はそれだけって言ったに等しいんだけど
それが俺があげたホウセイの話でもろくも崩れ去るわけなんだよね。
後、劉備関係は言いたい事多いので新スレたてた。
これで劉備スレ、孔明スレ。蜀末期スレ(実質キョウイスレ)
と蜀関係は全部立てちゃったな。やっぱ繋がりがあるから
一部分だけ語るって難しいもんだね。
658 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 22:25:33
無知自体は罪ではないが無知を自覚しないのは罪だ
まあなんというか。
1さんの目論みと貢献度はともかく、そのスレを使って
それらの話題を掘り下げてみることに繋がれば
スレ住人にとっては結果オーライなんじゃないだろうか。
乱立ではあるが。
無知とかそういう話以前に、もう少し議論する時の態度というものを考えてもらいたいものだ。
諸葛亮の凄いのは
劉備亡き後に国を立て直し戦争できたこと
これは神業に近い
そして戦争し続けられたこと
これも凄い
663 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/06(土) 01:25:13
夷陵で壊滅したという劉備軍は、一体どれほどの数だったのだろうか?
文帝紀の注に引く魏書では孫権の上書が記載され、「劉備支党四万、馬二、三千匹」とある。
また、同様に文帝紀では劉備が七百余里(約300km)にわたって陣営を連ねているという報告があったとある。
更に孫権伝では、陸遜は前後五十余の陣営を撃ち破ったとされている。
四万人だと300kmも縦深に軍を配置するのは難しいように思える。
仮に陣営の数を60とすると、七百余里にわたって陣地を置くには、縦に並べても一営あたり5kmの間隔が必要になる。
七百余里というのが間違っているか、劉備軍が更に多いかになるが、恐らく前者だろう。
或いは最後方に置いた陣地が敵と七百里離れている、という事か。
ともかく、敵である孫権の報告なので四万がどこまで正確かは分からないが、
それを劉備軍の数とすると、その半数を失ったとしても二万、七割なら約三万となる。
姜維が段谷で失ったのは、戦死者と捕虜合わせて一万というのが魏側の詔勅にある。
この戦果が誇張されているとすれば、更に逃亡者を合わせても一万程度だろう。
段谷の場合、劉備の失った兵を最も小さく見積もっても、その半分程度であるが、
それだけで国家の滅亡を大きく早めるだけの敗北であった。
この辺りを考慮すると、
>>662の言う事がより分かると思う。
碌な戦果をあげることはできなかったけどね
665 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/06(土) 02:01:31
結果だけで考えるのは短慮と言わざるを得ないだろう。
軍の司令官としての諸葛亮の手腕がどうであったかを考える為に、
五次にわたる北伐を一つずつ検討していくべきだろうか?
確か、法正って諸葛亮より地位が上じゃなかったっけ?
その上、劉備の入蜀に大きな功があって、さらに劉備が法正の品行を咎めてないとあっては、
いくら諸葛亮でも法正を罰する事は出来ないだろ。
劉備が生きてる間は、諸葛亮だって劉備配下の一人に過ぎないんだから。
序列自体は一貫して諸葛亮が上。
でもまあ、劉備って曹操以上のワントップ型の君主に思えるしね。
国家滅亡の危機だったのは確かだろうけど
諸葛亮が凄かったというよりは魏呉が争いを始め蜀が放置されたおかげじゃない?
魏は第一次北伐まで蜀に対して何もやってないような…
北伐しなければ蜀だけ傍観者でいられた気がする
第一次は勝機もあっただろうから北伐自体は間違った行動とは思わないけどね
あと「戦争し続けられたことが凄い」ってのは結果を考えると
「軍師じゃなくて政治家として一流なんだよね」を裏付けるみたいで微妙な表現に思える
軍の司令官としてというのはそんなに重要なことでは無いと思う
北伐を発案したのが本人である以上、結果が求められるのは当然でしょう
ただJominian氏の考察は興味あるし勉強になりそうなので読んでみたい
諸葛亮が並の宰相なら、魏が何もしなくても内乱崩壊コース。
有能な宰相なら、保身のために簒奪コース。
強力な君主が即位二年で死去。
上に年少の君主、
下に先代の武略名声の許に集った雑多な群臣、
内は疲弊した軍と亡命政権、
外には漢から禅譲を受けた強大な敵国を迎える状況で、
「諸葛の威略は異端を検衛するに足り,異同の心を起こす由が無かっただけだ」
と評させるのは尋常のことじゃない。
だから魏は安心しきって雍州に何の防備も施さなかったのだろうね。
670 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 03:24:24
現世で晋・呉、遼まで倒してくれたよ。
>>669 そう有ろうとすることは並大抵ではなかっただろうな。
>>668 >>「軍師じゃなくて政治家として一流なんだよね」を裏付けるみたいで微妙な表現に思える
このスレの考察でもやっぱり「政治家としては一流。軍人としては……」って評価の人が多いんじゃない?
軍人として稀代の名将って評価してる人は少ないのでは。
軍人としての評価で揉めてるのは、どの程度の戦果を上げたのか、とか
そもそも北伐でどの程度勝てるつもりだったのか、とかそこらへんじゃなかろうか。
法正のエピソードで重要なのは孔明の答そのものよりもそれを聞いた法正が復讐を止めたってとこだろうな
孔明が杓子定規にしか動かず法で裁こうとすれば法正も意地になって要らん禍根を残しただろう
かと言って単に黙認するのは下策、法正はますます暴走するだけだったろう
この辺りに既にまっすぐに進むのではなく人の心理の裏を突く後の天才軍師評の萌芽が見られる
>>673 俺は政治家として超一流
軍人としても超一流
ただし運がない人と思ってる
稀代の軍人かどうかは八陣の後世の影響次第かな
後の世の模範として広く使われてたならぶっちぎりで三国志一の天才将軍なんだけど
諸葛亮八陣の法は、平地で歩兵が騎兵から身を守る集団戦術として北魏の時代に採用されている。
ゆえに、槍の発展と集団歩兵戦術の祖形の一つを諸葛亮に見る向きもあるようだ。
が、後代に伝わった八陣図をどこまで諸葛亮が実施していたものかというと怪しいんじゃないかなあ。
( ゚Дメ) 678
679 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 16:36:44
俺が孔明だったら劉禅みたいな愚君は暗殺だな。
世襲の絶対君主だとバカが生まれた時点で国が滅ぶ。
>>679 劉禅が愚かだという演義史観に囚われてる奴も暗殺だな
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 17:07:04
>>680 このスレには正史観で語らなければならんというルールでもあるのか?
だとすれば我が非を認めよう。そうでないなら引っ込んでろ。
>>681 少なくとも史実を元に語っている流れの中で唐突に演義を前提に書き込むのは流れを読めてないよね。
取り合えずここは史実中心の流れで語ってるので演義前提なら「演義では」とか一言言うべき。
でなけりゃ流れの読めない愚かものだと俺は思うよ。
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 19:08:26
俺は別に流れの中に書き込んだわけではない。そう思うのはお前の勝手だけどね。
言わばスレタイに対して書き込んだようなもの。
お前のレスには「演義は邪道で認めない」という臭いがプンプンする。
まあ面倒臭いので逃げるわ。後は好きなだけ罵っていいよ。
演義の孔明はちょー天才スーパー軍師に決定なんだから、
スレタイと
>>1に即するなら歴史を元に話をする以外にないんじゃないの?
まあ
>>1さんはそれを望んでないわけなんだけど。
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 19:12:55
見事な馬鹿の負け逃げでした
こういえば満足なんだろうきっと
しかし「劉禅が馬鹿殿」と言っただけでそれを「演義史観」とか言っちゃうのも反発されて当然じゃないのかと。
史実劉禅には無能説も普通説も名君説も有るだろうに。
そうだね。史書に則ったうえで「諸葛亮は劉禅を殺して簒奪すべきだった」と主張するなら、
それは立派に検討の余地がある話だったんだけどね
でも諸葛亮にとってはいい主君だっただろう
特に諸葛亮の政策について意見することもないんだし
やりたいようにやれる
多分、幼年時代から劉禅と諸葛亮の個人的な交流もかなりあったんだろうな。
だから諸葛亮が成都を留守にしても、讒言を取り上げたりせず
諸葛亮に全て任せきることができたんだろう。
690 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 20:16:28
ていうか劉禅が無能だとしたらそれは孔明の責任なんだけどね。
孔明は劉禅を育てる仕事も請け負っていたわけだし。
自分が好き勝手やりたいから劉禅を凡愚にしたんだろうな。
皇帝を導く官はこれを太傅という。
諸葛亮は当初太傅だったようだが、劉禅の詔によって丞相となり、
実務全般を任せられた。
諸葛亮は劉禅を育てる職務には就いていない。
>>690 演義ならともかく正史だと劉禅は無能じゃなくて理想的な中華君主だぞ
694 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 20:25:43
>>691 職とか関係なしに。劉備の遺言で劉禅育ててって言われてなかったっけ?
才能なきゃ孔明が皇帝になっていいからみたいなので。
>>693 白糸のような人で部下に全部委任できるってのは中華皇帝としては理想的だぞ
>>693 うん、俺もどっかでちらっと見ただけだから記憶違いかもしれない
>>694 言われてないね。
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 20:44:39
「君の才能は魏の曹丕に十倍する。必ずや国に安定をもたらし、
統一を果たしてくれると信じている。
わが子、劉禅が帝君としての素質を備えているようであれば、これを補佐してくれ。
だが、もし劉禅が補佐するに足りない凡器だと思ったのなら、
君が取って代わって皇帝として国家を統率してくれ」
Wikだとこんな遺言か。補佐をどう捕らえるかでちょっと変わってくるね。
しかし「曹否の10倍」か。劉備なんて曹否の事なんもしらんだろうに。
自分の良く知る曹操と比べると劣っちゃうからあえて曹否の10倍でお茶濁したんだろうな。
劉備・諸葛亮による曹操評だと、後出帥表のやつが好きだな。
偽作説が濃いけど。
>>695 委任をさせられてるだけの人は理想ではない
劉禅が理想なら献帝はもっと賞賛されるし、前漢の昭帝なんか最高の聖天子になるはずだよ
>>699 献帝の謚って大絶賛
昭帝って謚も大絶賛
謚の意味も知らんの?
>>700 当時の大臣が決めて次の皇帝が決裁するんだから、殺された悪逆の皇帝とか、次の大臣や皇帝が先帝に批判的でない限り、絶賛されないほうが変
平和裏に禅譲を受けた魏としては献帝は魏への禅譲を決意した賢君だから好意的
昭帝死後もずっと同じ権力者霍光が権力を握ってたんだから、霍光としては昭帝は「明君が自分に委任している」という風でなければ困る
君こそ知らんの?
>>695的な皇帝の理想というのは、
能力実力を有した臣下に委細を任せ、信じて疑わない度量を持つ皇帝のことだろう。
これは凡人にできることではない。
多少でも自分の能力に自信があれば、指一本で何でもさせられる地位に就いておきながら
臣下のやることに口を出さずにいるというのは非常に困難だろう。
昭帝は死が若すぎる。献帝は曹操の武力に実権を奪われたもの(魏から見れば大絶賛の聖天子だけど)。
この点に限っては、劉禅は費イの時代までは完璧と言っていい。
その後亡国の君主になってしまったので、評価が大逆転してしまったけど。
>>699 中国人の持つ理想の上司像ってのは演義の劉備みたいな無能で全委任してくれる人だよ
「中華皇帝としては」理想的なんだよ
他にも理想の形はあるが
現代的な価値観で考えちゃダメよ
理想的な中華皇帝は臣下の妻に手を出した疑惑や、宦官を重用した疑惑は受けないものだ
>>703 それこそ後の時代に確立した価値観だよ
三国時代やそれ以前の理想の君主はどれもバリバリの実務派だ
>>705 どこでそう言ってるかね?
既に秦漢時代には三皇の逸話があって
部下に丸投げの聖君が理想の君主の一人になってるんだが?
>>706 五帝も夏禹も周文王も自分でやることやってるよ
それより劉禅は途中から○投げですらなくなってるからどっちみち理想じゃないんじゃない?
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 21:35:32
どんな名君でも駄目な時期はあるだろ
康熙帝くらいの名君だとは言ってない
709 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 00:23:04
今、wikで蜀末期の人物調べてたら
ふと張良に飛んで。この人は前漢時代の人なんだけど
それ見ててふと思ったんだよね。
孔明って劉備勝たせる気なかったんじゃないかな?
孔明程度ならある程度歴史は知ってるわけで
劉備が天下取ったらカンシンの二の舞になる。
劉備は劉邦に似てるって評判だったらしいし。
だから天下三分なんていって戦争状態が長く続く
作戦を取ったんではなかろうか?
北伐とかも勝つ気なかったのかもな。まあ張良と比べたら
才能はないんだけど孔明は。
新野や荊州で曹操孫権に圧迫される日々を送る劉備を主にして
勝たせる気もないのに楚蜀を取らせることができるなんて
>>709の諸葛亮像ってまさにスーパー天才軍師だな
>>711 内部崩壊しない相手に勝てると想像してるくらいだ
凄いスーパー軍師なんだろうな
補佐役の孔明や蒋エン、費イなんかを劉禅が自分で見出して自分でお前に任せると決めてたなら名君だけど
実際は周りが決めた人を追認してたまたまそれが上手くいって簒奪が起こらなかっただけだし
やっぱり理想の君臣関係となると劉備と孔明になるんじゃね?
特に主君自ら三顧の礼を取ったってのがでかい
三顧の礼は作り話じゃなかったか?
先帝三顧は出師の表にも載ってるじゃん
716 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 14:38:55
出師の評ってあれは偽者の説があるのは二枚目の方だけだっけ?
>>714 出師の表諸葛亮自身が言ってるし、他にもいくつか劉備が諸葛亮を訪ねた記述がある。
演義のように三回目でやっと会えたのか、
回数が本当に三回だったのか(単純に何回も訪れたって意味で3回なんじゃね?という)
そこらへんは色々話せそうな部分ではあるけど、基本的には三顧の礼は有ったと思って良いはず。
儒教の弊害というか最初は断って後からそれを受けるということが好まれる時代だから
真偽はわからんね
「劉備自ら諸葛亮を何度も訪ねた」ってことを三顧の礼とするなら、有った。
>>717も言うように、」厳密に三回訪ねたのか、とか最初の二回は会えなかったとか
そこらへんは真偽不明というか検証しようがない部分だね。
まあ演義の最初の二回は留守ってのはさすがに無かったと思うけど。
アポくらい取るのが普通だろうし。
>>718 知った風な口を…劉備がやったのは太公望を求めた古事のごとく良い臣下を得るためにはそれなりに礼を尽くすってこと
三顧の礼の美徳はそこに集約されてるのであって、何度も断るのが礼儀という話とは何も関係ない
いや関係あるよ
そういうのが儒教では美徳とされてるんだしな
とりあえず
>>718が「真偽は分からん」って言ってるけど
それが何を指してるのかを言えば噛み合うと思うんだが。
別に
>>718は三顧の礼っていう故事が有ったかどうかのことを「真偽不明」って言ってるんじゃなくて
厳密に三回訪ねたのかどうかって部分が「真偽不明」って言ってるんだと思ったんだが。
もしも「劉備から何度も訪ねた」っていう事実すら無かった、というのならまた話は変わってくるんだが。
劉備から訪ねたって事実は無いのに、諸葛亮や史家が美化するために三顧の礼を捏造したのだ、という解釈になるから。
そういう意味で「儒教の美徳の概念による美化」って言ってるのかな。
謙譲の美徳な。「二度断って三度めに受ける」という儀礼は禅譲に限らずあった。
が、それは高位高官に任命されるときの形式。
偉い人(漢王朝左将軍)に招聘されるときに何度も断るのは、
本人は謙譲のつもりであっても賞賛される美徳に当たるかというとちょっと疑問。
ここは劉備が三度「車を曲げた」ほうに美徳があり、
そこまでの恩顧に自分は報いるつもりですよ、というのが出師の表の文脈。
だよね、ちょっと違和感有ったよ。
魏略の方では諸葛亮の方が出向いたとあるけどこれも否定されてるしね
まあ、諸葛亮の弁では「三度車を曲げて」うちに来てくれたといってるだけなので、
魏略と出師の表だけなら矛盾しない。
その三顧が初対面という諸葛亮伝と、先に諸葛亮が逢いに行ったという魏略だと矛盾する。
信憑性は置いといて、魏略の方が劉備と諸葛亮の関係っぽくて好きだけどね。
魏略の方の出会い方が否定されるのは出師の表の方で三顧の礼の記述があるからだしね
でも三顧の礼が有ったってほうが、名士論とかの
「諸葛亮ら荊州グループの協力を取り付けるために、劉備のほうから訪れさせられた」とかの考察ができるから面白い。
てか陳寿が本文で採用してるんだから素直に初対面説を取って良いと思うがね。
わざわざ魏略っていう微妙なものの記述を採用するよりも。
「出師の表と魏略だけなら矛盾しない」っていうもの、ある程度魏略の記述を恣意的に解釈してって感じだろ。
いやいや、三回も勧誘させたってのは普通に孔明が躊躇しただけって方が話が通じるだろ
最初は「えー、劉備?落ち目じゃん」だったから何回も劉備は誘ったと
その言い分だと魏略は虚偽の記述ばかりで信頼に足る史書ではないということになる
蜀書だって蜀に史官が置かれてない時期があるから正確とは言い難い
しかも陳寿は蜀出身だしね
諸葛亮は隠遁してたわけだしどこかに仕官しようとしてたわけでないしな
そりゃ劉備が頼んできても断るだろうよ
仕官しようと思えばサイ氏と縁故でもあるしそっちに仕官してただろうし
資料の無い部分は史家が創造できる、と言うのが暗黙の了解だから、別に
それぐらいで矛盾があったとしても別にヘンじゃないと思うけどね。その
一点を撮って魏略は信用ならない、と言う風にはならないと思う。
魯粛のもですが、天下三分の話はそういう意味じゃ少し微妙ですよね。
どちらも人払いした上での話しだから、創造の産物の可能性が結構高い。
>>730 別にそこまでは言ってないけど、なんでわざわざ魏人の記述のほうを信じて
諸葛亮自身の文章や、蜀人(陳寿)の記述を積極的に疑わなくちゃいけないのかと。
「自国のことだから美化したはずだ」っていうことくらいでしか疑えないじゃないか。
魏略以外にも諸葛亮から訪ねたって記述が多いならともかく、
だいたいは司馬徽や徐庶らが諸葛亮の存在を劉備に教えた、って類の記述のほうが多いわけだし。
>>732 三分の計は劉備が、二分の計が孫権が、
「俺が抜擢したこいつはこんなにすごい奴なんだぜ。だから要職につける(た)んだ」と宣伝するので、
創造の産物である可能性はかなり低い部類のものだろう。
教えた後、どういう経緯で出会ったかが問題じゃなかったのか?
違うと思うよ。
魏略では、劉備は諸葛亮のことを年少で諸生として扱ったとあるから。
すでに厚遇している徐庶や名士の司馬徽に存在を知らされたあととしては不自然。
>>734 いやいや、例えばそれで一気に筆頭家臣まで持ち上げられたとか言うなら
ともかく、別にそう言う訳でもないですからね。
個人の発言関連は公の場でなければ基本的には疑う方が自然だと個人的に
は思っています。
でもホウ統のことは当初軽んじてるんだよな、劉備
魯粛や諸葛亮のとりなしもあって事なきを得てるけど
>>737 事細かな発言内容はともかく、常々そういう戦略を提案していたってことはまあ事実と思って良いはず。
>>737 30そこそこで中郎将、40代前半の丞相とか漫画みたいな大抜擢なんだが。
まあ、劉備自身も三十で国相とか、後漢盛期なら「ハイハイ豪族坊ちゃん乙」みたいな早さなんだけど。
個人的な会話には創作の疑いは払拭し得ないが、「史家の」という可能性はこの場合は低い。
当時の蜀や呉に広く流布していた話と見る方が自然。
741 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 21:43:08
けど3分の計って孔明のオリジナルって訳じゃないんでしょ。
昔言った事ある奴いたらしいし
孔明の時だって知識人はほとんど言ってたらしいじゃん。
それ前も同じこといわなかったか?
で、三分の計の価値は独創ではなく劉備にその戦略的指針を与え成功に導いたことだ
と論じられていたと思ったが。
忘れっぽいならレスした方がいいよ。覚えがよくなる。
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 21:52:04
>>742 成功に導くてt
三分の計って別に蜀に国作れば成功って策じゃないだろ
とりあえず第3勢力としてみたいなので三分した後いかに天下取れるか
は考えてなかったのかね。
じゃあ、その価値は劉備を皇帝まで押し上げたことだ、と訂正しておくよ。
結論には差し障りないから。
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 22:08:21
けど劉備は皇帝になりたかったわけじゃなくて
戦乱を収めたかったんでしょ。
脊髄反射でレスするのやめな。
749 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 22:18:52
揚げ足取りとか脊髄反射とかじゃなくて
俺はね。孔明で一番すごいのは自分を人に大物だと見せる能力
ナンダと思う。中身を薄っぺらいけど他人には「あいつ大物だ」と
思わせるように頑張ってきたんだと思う。
孔明は多分60点ぐらいの中身なんだけど演技力とか
詐術的な会話で120点に見せてたんだと思う。同時代の奴にはね。
けど改めて評価するとやっぱり孔明は60点なんだよ。
俺的には諸葛亮は90点くらいかな。
95オーバーは韓信や管仲クラス。
別に同時代の人間に120点だと思われてはいないと思うぞ。
ただ90点台に乗るような人間が同時代に四人も五人もいないだけだ。
>>749 実力を認めたくないからって必死の言い草だな。
てかそれってあんたが必死でいつも自分自身がそう有ろうとしてるから
そう思うんだよ。
もっと素直な目で世の中見てみなよ。
なんというか、中身60点の奴を見破れない蜀臣や魏将達は50点以下、
と遠まわしに諸葛亮を持ち上げてるようにしか思えないんだよな。
いつもながら
>>1さんは
中身60点に殺された張コウなんか正味30点くらいかな
裏切り者だし
別に諸葛亮にやられたわけじゃないんだけどな、張コウ
追撃中に流れ矢に当たって戦死しただけだし
戦地じゃ当たり前のこと
>>754 その矢を撃ったのが諸葛亮が指揮する蜀軍以外だというのでなければ、同じことじゃないだろうか
運も実力のうち
757 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 23:29:29
諸葛亮は軍の総大将というよりは、本来は後方で支えては
前線に助言をしたりする参謀タイプ。
さらにいうと軍人よりは政治家、文官なわけだ。
軍略においては、司馬懿や陸遜、あるいは法正の方が勝っているだろう。
諸葛亮が凄い所は、大規模な北伐を繰り返しながらも
蜀の国力を衰えさせなかったばかりか、前線指揮をしながら
軍旅陣中成都の政治も行ってたからことだよ。
>>757 本人は参謀としては劉巴の方が上と言ってて、むしろ軍の指揮に自信があったようだがな
>>755 追撃時の乱戦のさなか流れ矢に当たっただけだね
>>759 いや、だからその矢を撃ったのは諸葛亮の軍だし、張コウの軍にダメージを与えるためでしょ?
そのとおりになったわけだから区別する理由があるの?
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 23:41:43
あぁだから陳倉が落とせなかったんだな。
張コウを死亡の殿軍の手柄であって諸葛亮の手柄というわけではないな
北伐の戦果はすべて諸葛亮って考え自体がおかしい
敗戦の原因はいつも他に挙げるけどね
×張コウを死亡の
○張コウを死亡は
龐統が流れ矢で死んだときだって○○がすごいなんて話ないしね
>>765 ○○が殺した、って史書に書いてあればそいつを凄いって言うかもね
張コウの場合、現に諸葛亮伝にも張コウ伝にも諸葛亮と交戦して矢に当たって死んだって書いてあるから
魏略によると伏兵に嵌った結果らしいし、誘い込んだ諸葛亮の功績と数えるのは普通だと思うんだが
魏略は信用できないってよく言うんだがな、諸葛亮関連の話になると
正史の方は矢に当たって戦死ってだけだしね
>>767 変換をそのまま打ち込んだだけなんだがな
それぐらい察しろよ、馬鹿
都合のいいところだけは信用するんだよ、魏のものであろうとね
>>770 他の件は俺は知らんが、張コウ伝注については、魏側の資料である魏略でわざわざ諸葛亮に嵌ったと嘘をつく必要はないはずなのに伏兵だったと書かれてる
これをどう評価するかだよ
君自身が全て都合がいいかどうかで判断しようとするから、他の人も同じだと誤解するんだよ
流れ矢で死亡と書いてあるがね、流矢ではなくてね
>>773 そういうときは「ちくま文庫には」と頭に入れるのを忘れないこと。
流矢とは個人を狙撃したわけではない戦場での矢のことで、
現代の「流れ弾」的な意味ではない。
>>772 司馬イの命により追撃(張コウは反対)
矢にあたり死亡より伏兵にあって死んだという方がまだましということだろう
張コウの危惧したとおり伏兵が配置されていて死亡の方がまだ納得できる死にざまだしね
魏略の場合、その前に張コウが追撃に反対している、と言うエピソードを
入れている。つまり張コウが待ち伏せしている可能性が高いですよ、と言う
伏線を入れておいて、事実諸葛亮は伏兵を張っていたと言う話に繋げている。
どちらかと言えば、張コウの予言が正しかったと言うことを強調するために
あえて伏兵、と言う言葉を使っていた可能性は高い。まあ、それ以前も王双
を返り討ちにしたりしてるから、伏兵がいたとしてもおかしくないけどね。
ただし蜀がここで大勝した、と言う記述は無く、晋書の方ではここで魏側が
大勝した、的な話になっているので単純に蜀側が優勢だった訳でもないんじゃ
ないかな。張コウも伏兵の存在に気をつけながら追撃していたはずですし、
恐らく伏兵が見破られ乱戦状態→乱戦にて双方共にそれなりの被害の中流矢
にて張コウ重症→双方共に退却、と言う感じじゃないでしょうか。
三分の計に関しては知識人の間では一般的な話題だった可能性は高いと思い
ますが、劉備の場合は、同族2人の領土を奪い取って初めて成り立つ計な訳
ですし、あの段階での三分の計はあまりにも現実離れしすぎてる。
内容も後の出来事と符号しすぎていますし(上将1人が荊州を北上して等は、
具体的過ぎ、何で1人じゃないといけないのか?後に関羽が1人で荊州北部
を席巻することを知っていたかのような記述)あそこでの話としてはあまり
適当では無いと思います。
晋書の記述をなんでも却下する必要はないが、車騎将軍張コウがそこで戦死したことに
まったく触れてない時点で、宣帝紀のこの件での信憑性は格段に落ちる。
別に張コウを殺した武勲を諸葛亮に帰する必要はない。
元々「諸葛亮が60点なら張コウは30点だよな」という他愛もない話なんだから。
軍指揮官として蜀漢丞相諸葛亮が魏車騎将軍張コウにまさった逸話と見て、60、30の評価を与えるのは別におかしくない。
陸中の時点で史書に記されている通りの文言で三分を提案したというなら、諸葛亮は神懸りすぎている。
しかし、その後の劉備が明確に拠点確保と曹操との軽々しい決戦の回避を以って戦略構想と為している事実がある。
その功績を何者かが諸葛亮に帰した。陸中対話はそれが還元されたエピソードだろう。
何者かが誰かというと、劉備の可能性が高いね。…という話を別スレでやったな。
>>778 > 晋書の記述をなんでも却下する必要はないが、車騎将軍張コウがそこで戦死したことに
> まったく触れてない時点で、宣帝紀のこの件での信憑性は格段に落ちる。
張コウの戦死が戦全体に影響を与えてないから書かれてなくても不思議ではないと思う。
曹仁伝にはホウ徳捕縛は書いてないし曹真伝に王双戦死は書かれてない。
張コウはかなり高位にあったとはいえ明帝紀に張コウ戦死は書かれてない。
晋書が正しいとは思わないけど紀伝体ってのは厄介な代物だよ。
晋書が怪しいのはこのときの北伐で蜀軍が数万の被害を受けて敗れたとされていること
段谷ですら滅亡寸前になるのにそんな大敗はこの時点では有り得ん
晋書に限らず誇張はつきものだし数万を鵜呑みにしてる人はいないでしょ
10倍の法則を信用すれば結構信憑性はあるけどな
数千の蜀兵を討ち取ったら折り悪く張コウ戦死ってな具合で
>>779 ホウ徳の件は于禁伝に記されている。于禁の件は曹仁伝に記されている。
王双は官位も不明のおそらく低い将。それに対して張コウは車騎将軍だよ。
本紀はそもそも大まかに時代の成り行きを追う性質を持つものの上に、
魏武帝紀や晋宣帝紀は個人の伝としての性格を合わせ持つから、
事件の詳細を検討するには不向きと思う。
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/08(月) 17:17:25
チョウコウ討ち取ったのはギエンだろ。
ギエンの方が孔明より優秀だった可能性もあるからね。
>>784 おまえ、なりふり構わずだなwww
土俵の違う者を較べてどうするよ。
孔明の偉大な所は、千年以上後の世の、名も亡き>1のような人にすら
これほどまでの影響力を与えることだな。
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/08(月) 18:59:42
ウキン関係で思うのはさ。なんであそこまでウキンは嫌われなきゃ
いけないんだ?って事だよね。孔明があそこまで難癖つけなければ
普通に名将なのに。ギエンとキョウイで北伐とかしてたら
そこそこ戦果挙げれたと思うんだけど。
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/08(月) 19:00:12
ああごめん間違えた。一行目のウキンは間違いで
ギエンね。
諸葛亮が魏延に難癖を付けた記録は無いなあ
789 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/08(月) 19:05:29
あれは演義の創作なの?顔が嫌いとか
こいつは裏切るだろ。みたいな。事ばかり言ったっていう
>>789 演義の創作。
史実にも有るのは、常々魏延は別軍を率いて山道伝いに長安を奇襲したいと考えていたけど、諸葛亮が許さなかった。
そのことで諸葛亮が臆病だから自分の才能を発揮できないのだ、と魏延は考えていた。
というくらいじゃないかね。諸葛亮側が生前に特に魏延を疎んじた記録はない。
諸葛亮の遺言については演義みたいに「魏延が反乱するだろうから斬れ」なんてものは残していないが
「撤退するにあたっては魏延を殿として敵を防がせろ。もしも魏延が命令を聞かないようなら置いていけ。」としてる。
魏延が命令を聞かない可能性を考慮してるあたり面白い。(事実、魏延はその「遺言」には従わなかった)
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/08(月) 20:27:42
情報どうも。
ギエンが命令聞かないようならなんていい残してるって事は
それなりに確執があったんだろうね。
劉邦は「私が項羽に勝てたのはなぜか?」
みたいな質問して答えは
「私はカンシンチョウリョウショウカを使いこなしたが項羽はハンゾウすら使いこなせなかった」
ってのがあるけど孔明もバショクギエンを使いこなせなかったんだろうね。
魏延なんて羊飼いレベルだ、って孫権に笑われた程度の奴じゃん
そして孔明は…それを否定しないどころか嘆息した
劉エンの件からも分かるように、諸葛亮は魏延唯一の後ろ盾と言ってもいいんだがなあ
確執があったというより、魏延が一方的に嫌ってるだけとしか
諸葛亮自身は、その能力を評価しつつも人物の偏狭さに頭を痛めていたわけだし
さらに馬謖と魏延を同一に扱い、孔明は使いこなせなかった、とかないわー
馬謖は諸葛亮の命令を無視しての暴走、魏延は自身過剰による自滅だ
どちらも能力に不足があったという点だけだな、同じなのは
単にNo.2は俺だ、と思ってるが実態はそうでもない奴がゴネるかも知れんから、
その対応マニュアル作っただけだと思うが。
なんで
>>789読んで人材の使いこなしまで裏読みできるんだ?
>>794 ブツクサ言いつつ諸葛亮のいう事には従うという魏延は傍目には可愛げがあるよな
当事者は胃に穴が開きそうだが
魏延は擁護されるのに楊儀は擁護されないという。
まあ転落への過程を比べると分からないでも無いが。
都合の良い部分しか読み取らないのにはいい加減ウンザリだわ。
>>797 楊儀は泣いちゃった時点でヘタレ道に堕ちちゃったな
しかも度々言わでもの憎まれ口を聞いてそのつど立場を悪くしてるから
なんか蜀より呉に居そうな性格だよな
800ニダ
張コウ戦死の件は司馬イの無理な追撃命令が原因の可能性があるから
おいそれと宣帝紀に書くことはできないでしょ。
そもそも本紀の方では主な出来事を記述することになるから宣帝紀や
明帝紀に張コウ戦死の話が載っていなくてもフシギは無いというのは
他の方も言ってる通り。信頼が無くなるなんてことは別の話。
ちなみに軍指揮官として諸葛亮と張コウに大きな差があると言うのは
考えづらい。張コウは三国時代通して見ても上位に入る戦術家ですよ。
>>801 だから言ってるだろ。「諸葛亮は60点だ」「諸葛亮が60なら張コウは30だなw」というレベルの話なんだから
誰も真面目に張コウの戦術能力の検討なんかしてないのよ
>>801 確かに張コウは上司が足引っ張ったせいで死んだようなもんだな
孔明の下についてりゃ名コンビだったかな?
>>793 孔明は人を見る目がないから。
孫権だって晩年みればたいした奴じゃないってわかるし。
>>792 確執があったとは言い切れない。
孔明が魏延の正確を把握していたとはいえるけどね。
しかしこうやってみると、魏延の名前は縁起が悪いな。魏と戦っていた蜀としてはさ。
孔明は好き嫌いの激しい人間じゃなかった?
劉備のほうが人選に対しては上だった気がス
有能だけど性格に問題があって喧嘩しまくりの部下二人(片方は自分を臆病者だと思ってる)を我慢強く使った人間です。
孔明の不幸は、君主と部下に恵まれなかったってこと?
>>808 そしてその二人に対する自分の死後の算段もつけていた人間です
>>807 正史ではクドい程、バカみたいに、何度も
諸葛亮が公平な人物だと書かれている
劉備は張飛に任せて城を乗っ取られた男ですよ?
公平だから魏延の武勇とその問題点を正しく計算出来ていたんだろう
命令に従わない場合は置いてけってね
昔見た諸葛亮の人物眼を疑問視する理屈は
魏延や楊儀のような偏屈を重用しないといけないほど人材不足だった→諸葛亮が人材を見る目がなかった
と繋げる感じだった気がする。
だから魏延や楊儀、李厳の運用法なんかどうでも良い。
それらに代わる良才を探せなかったあたりに人物眼がなかったのだ、とそんな感じ。
>>813 それは劉備の責任なのでは?
曹操なんて自分で人材見つけてるみたいだし。
>>814 曹操が見出した人材は意外に少ない
初期の人材登用は荀ケが中心だし後期の人材はもう機構によって自動的に上がってくるからね
>>815 それも結局は曹操の魅力によって
人材が来るのでは?
>>816 そうでもない
曹操が嫌だからという理由で断った人もいる
仲達なんか脅迫まがいで加わったぐらいだからな
徐庶が寝返ったきっかけは母が人質になったからだし
徐庶の寝返りは本人がとっ捕まって投降だろ
史実では徐庶は囲まれて降伏してるんよ
だから短い間だけど諸葛亮と一緒だった時期がある
いやいや、徐庶は母親が捕まったから投降したんだろ。普通に諸葛亮伝に書いてある。
徐庶は曹操を避けて劉備と南下したが、敗戦の際に母親が虜になってしまった。
そのため劉備に辞去の挨拶をし、劉備も受諾して北へ帰した(徐庶の郷里は潁川)。
初め、徐庶は荊州に避難すると諸葛亮と親しく交流し、
若い頃の諸葛亮の能力を認めた数少ない一人とされている。
諸葛亮もまた、他人に過ちを指摘されてそれを謙虚に認めるのは難しいが、
それを迷い無く実行できたのが徐元直だった、彼には何度も教示を受けた、と回顧し
若き日の四人の友人の一人に数えている。
>>813 そこまでまわりくどい理屈だろうかね
大抵のというか、ろくすっぽ考察しない連中の言うところは
殆どが馬謖の起用だけにとどまっていたり、それ以上でも精々が
魏延の長安強襲案の不採用を叩くって程度に過ぎない気がする
むしろ後継に指名したショウエンがダメだったことを挙げるべきだよな、諸葛亮の人選を云々するなら
まわりくどいというか、
蜀の人材不足の責任をトップの諸葛亮に求めるっていう形だろう。
「前時代の劉備の責任だ」というなら、諸葛亮死後の蜀の人材事情のほうから諸葛亮の責任を問うことになるだろう。
>>825 そういうのって、演義のスーパー軍師を超えたスーパー軍師を更に超えたスーパー軍師3、
くらいの能力を求めてるんかな。
演義の諸葛亮像が「虚構」だった失望を必死に埋めようとしている屈折した愛情を感じることが多々ある。
別にそこまで言ってないって。
蜀の人材事情あたりは議論の種になりそうだから話題として振っただけじゃないか。
アンチ的な輩は鬱陶しいけど、これくらいのことにもそう過敏に反応されたら困る。
「そういうの」は「そういうの」であって、825がそういう考えの持ち主だと言ったわけじゃないよ。
829 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/10(水) 22:10:14
ショウエンとヒイについては俺も疑問に思ってるんだけど
孔明とキョウイの間で資料も少なくて微妙な存在なんだよな。
けどこの二人って孔明に輪をかけて無能だよね。
在任期間が短くてあんま目だった事してないから
触れられないけど。
>>829 孔明は無能ではないから、その言い方はおかしいんじゃないか?
831 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/10(水) 23:03:11
>>1の基準ではどういう奴が無能でどういう奴が有能なのか、気になるところだ。
832 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/10(水) 23:09:04
目的に対して進み目的達成できる可能性が高いのが有能
達成できたら一番有能。もしかしたら達成できたかもってのが
その次に有能。
833 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/10(水) 23:19:45
>>832 その基準で、どういった理由から蒋琬と費禕が無能になるんだ?
834 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 00:13:12
>>833 だってその時代の最大の目的は北伐でしょ
両者ほとんどしてないじゃん。
孔明は有能だった、しかし万能ではなかった
━━完━━
>>834 どうしてそういう結論に?
北伐が最大の目的だと認定した理由は?
837 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/11(木) 00:46:40
>>834 そもそも北伐、と言うより戦争そのものを目的とする考え方自体が間違っているだろう。
確かに戦争が政治と切り離されている状況というのは多々ある。
むしろ、「戦争は異なる手段を以ってする政治の継続である」という状況の方こそ、
人類の歴史全体では少ないだろう。
だが、蜀漢という国家にとっては、戦争を政治と切り離して考えるわけにはいかないし、
戦争の先に何を見ているのか、という事を考えなければならないだろう。
魏と蜀は、互いに相手国を完全に滅ぼすまで戦わざるを得ない国家であるけど、
宰相がまず考えるべきは国家の安全保障であって、戦争の遂行じゃない。
国家の保全という目的を達成する為の手段として戦争を選択しなかったとしても、
それのみで有能か無能かを判断する事はできないだろう。
加えて言うなら、国家を傾けるほどの規模ではなかったとしても、費禕も北伐を行っているし、
反対にあって中止したとは言え、蒋琬も戦争の遂行を考えていた。
838 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 20:57:46
ヒイの北伐って
あれはキョウイが言い出したからしかたなくでしょ。
ヒイがやりたかったわけではないだろうし。
ショウエンとヒイが無能とはなかなか驚くべき意見だな
孔明は魏にいたら有能な文官だったとは思うな。
南蛮征伐の件があるから、辺境防衛・統治には有能そうだ。
っていうか、孔明はあの時代に天下三分を唱えたことが凄いんでしょ。
一神教の世界に多神教が入り込んだような感じで。
>>839 そお?ヒイはともかくショウエンは実績欠けてるから、そういう疑問が出ても不思議ではないよ
842 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 22:07:41
俺の中ではショウエンとヒイって
鎌倉幕府の2代将軍三代将軍のイメージ
ヒイが暗殺されたからかもしれんが実朝と被るわ。
843 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 22:23:21
ショウエン、ヒイは諸葛がこなした役割を軽くこなした蜀の四相だぞ
>>843 こなしてないでしょ、特にショウエンは起こそうとした軍事行動を国中の猛反対食らって止めてる
諸葛亮のやったことのスタートラインにも立てていない
845 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 22:36:23
軍事行動はともかく政治面じゃショウエン、ヒイ、トウインの健在時はなんら問題なかったよ
魏が攻めてきた時も撃退してるし蜀は40年も続いてんだぞ
846 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/12(金) 02:43:41
>>840 それは言い過ぎ
孔明の天下三分の計は、あくまでも劉備が天下統一に向けて動くためのプロセスを語ったもので、三分して終了と言ってるわけではない。
>>840 孔明が魏にいたら仲達陳群は相手にならなかったそうだから
やっぱり八面六臂の活躍をしてたと思うし仲達にクーデターをさせる隙も与えなかったろう
>>1はさ、蒋エンと費イを北伐に積極的ではない=無能と断じてるよな。
その基準で語るなら、確かに姜維は超有能ってことになるんだろうな。
>>844 >軍事行動を国中の猛反対食らって止めてる
これは諸葛亮と蒋エンの発言力の差だろうな
荊州方面でほんの2年前に朱然が仲達に大敗したのも影響したのでは…
とは言え孔明なら呉が負けてようが出兵にこぎつけられたかなあ
851 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 20:01:00
だってさ北伐するために生まれた国家は
北伐することが第一じゃん。
国家を長持ちさせたら優秀なんてのは現代の感覚に囚われすぎている
蜀という国家ではまともに北伐出来なかったショウエンとヒイは
無能なんだよ。
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 20:51:12
>>852 北伐するために生まれた国家だよ。蜀は。
>>853 北伐するために生まれた国家だという証拠は?
劉備の即位理由は「漢の社稷をつなぐ」だよ
つまり漢の継続
魏との抗争なんてのはそのオマケ
855 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 21:03:05
だって魏を認めたら
漢はつぶれたって事を認めなきゃいけないじゃん。
存在理由がなくなるでしょ。
漢王朝の継承と存続が第一義で、中国統一は公約みたいなもんだな。
北伐だけで一元的に評価できるものでもない。
857 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 21:14:22
エンジュツみたいに偽帝って扱いにされたら
存続だって難しいだろうに。
だいたい魏だって皇帝名乗った以上蜀は倒さなきゃいけないし。
蜀は後回しにされてたけどな
呉の方を相手にしてたし
蜀の北伐が鬱陶しくなって逆に目を付けられたw
859 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 21:40:53
本来なら蜀は呉の孫権が皇帝を僭称した時点で倒さなきゃいけないんだけどね。
恐らくJominianはアク禁に巻き込まれて来れないから代わりに
>>837を読み直せ
蜀は魏から「中国を脅かす賊」というような言い方をされていて、
まさに田舎の偽帝扱いで42年続いた。
存在理由も何もそんな物は元々蜀国内にしか無かった。
が、蜀国内でそれなりに自立していたから42年持ったと言える。
お前の言い分だと西ローマを回復出来ないビザンツも無能になるんだよ。
袁術に至っては完全に自立してない状況で、漢が存続したままの即位だから問題外。
それでも帝位は呂布を味方に引き込む程度には役に立ったように見えるけどな。
861 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 22:29:34
>>860 北伐をしたから偽帝と言われても続いたんだと思うよ
だって偽帝と言われて何もしなかったら偽帝と認めたって事になるじゃん、
劉備の死は223年、諸葛亮の北伐が227-234年。
姜維の本格的な北伐が253-262年。
真ん中の20年を無能が自重して過ごしたわけだが、魏はこの期間に何回攻めて来たと思う?
863 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/14(日) 23:33:33
どうやらよく分かっていないようだな、
>>1は。
魏を打ち倒さなければいけないという事と、常に戦争状態でなければいけないという事は同一ではない。
蜀が魏を存続させるわけにはいかないのは当然だろうし、
最終的に中原を回復し、魏を打ち倒す必要があるのは確かだろう。
しかしながら、戦争というのは上記の目的を達成するための手段であって、
戦争の為に戦争を遂行するのではない。
闇雲に戦争を遂行した結果、自国を滅ぼしてしまうのなら、
それは国家目的であるところの魏朝の打倒を達成できるものではないし、
自国が滅んでしまうのだから、国家目的を未来永劫達成できなくなるだろう。
宰相が国家目的へ向って諸政策を遂行していくにあたり、
当面の政策として戦争を選択しないという事も十分に考えられる事。
当時の蜀において戦争という手段を選択しなかった事が妥当か否かは個別の問題であって、
蜀や、その周囲の情勢等を十分に鑑みて検討すべきだろう。
崔浩も曹氏と天下を争う事もできず劉璋から国を奪い辺境で皇帝を僭称させたと魏書で言ってるね
>>860の「中国を脅かす賊」ってのは、誰か魏の武将の上奏文か何かに使われてた。
正確な文章は思い出せない。
あとローマうんたら言ってたのはここだと思ってた。
とりあえず、すまんかった。
866 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 18:57:14
けどね慎重にやって勝機がなくなる可能性もあるからね。
貧乏な国のまま40年永らえるより
可能性があるうちに戦いを挑まなくてはね。
実際キョウイの時代になるともうどうしようもないでしょ。
北伐しなくたってもう滅ぼされる事は目に見えてたよ。
孔明ショウエンヒイあたりのせいで魏も強靭になったし。
キョウイが北伐しなかったら蜀は永らえてたと思う?
>>866 どうしようもないわけじゃない
ケ艾さえいなけりゃまだわからなかった
868 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 19:19:42
ケ艾はいたし。ケ艾倒す為には北伐しなきゃならない。
それともケ艾に裏切りを進めるのか?
北伐で姜維が敗れた唯一の戦である段谷(敵将ケ艾)が無ければ、という話だろ。
>>867 if的な例えは控えたほうがいいよ。変な突込み方されるから
>>868 現実問題としてケ艾はいた
ただケ艾の存在を知らない蜀からすれば展望はあったって事な
>>866 >孔明ショウエンヒイあたりのせいで魏も強靭になったし。
意味が解らないんだが。
872 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/15(月) 20:20:23
例え段谷で大敗を喫した後であっても、成都(と剣閣以南にあった予備軍)と姜維との連携が取れてれば、
あのタイミングで滅亡する事は無かったと思うけどね。
んでもって、姜維と成都との対立は、北伐を強行する姜維の姿勢によってもたらされたのだから、
姜維が北伐を行わず、国防に専心していたら史実より国を保った可能性は高いだろうね。
しかしながら、それを以って北伐をすべきではなかった、とは言えないだろう。
費禕のスタンスもこれにあたると思うが、勝ち目が薄いのなら北伐をすべきではない、というものが、
当時の蜀としては取るべきスタンスであったのだろう。
費禕と姜維の認識の違いは、北伐そのものの是非論ではなく、
姜維が戦争に勝利するに足る能力を持っているのか否か、
言い換えれば、戦争を遂行したとして望む戦果を挙げられるのか否か、という事に対するものだろう。
姜維は政治目的に資するだけの戦果を挙げられると思っていたが、費禕はそうではなかった。
俺としては、姜維の戦争もある程度の勝算はあったと思っているが、
敗北と滅亡という結果がある以上、費禕のスタンスも正面から批判できるものではない。
873 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 21:51:39
セイトの連中が腐っている限り
守っていても意味ないと思うけどな。
キョウイの時代にキョウイ以外で北伐できる奴は
いなかっただろうし。
874 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/15(月) 23:15:43
果たして本当に成都の連中は腐敗していたのかという事、
また、仮に263年頃に腐敗していたとしても、それが始まったのはいつのなのかという事、
それらを考えないと、「成都の連中が腐っているから…」というのは根拠が無い。
姜維にしか北伐ができなかった、とは言い切れないかもしれないが、
東征から北伐へと切り替えた段階、つまり242年か或いは243年の時点で、
姜維を中核として北伐を行う方針にした事は、上奏の内容から考えてまず間違いない。
875 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 23:31:08
宦官の奴をを最大限好意的に解釈しても
セイトは無能ばかりだったと思う
具体的には決断力のなさだよね。
キョウイに北伐させないなら絶対にさせないために
頑張らなきゃいけないし。キョウイに北伐を任せたのなら
全力で支援しなきゃいけない。事なかれ主義の
セイトは無能どもらの集まりだったと思う。
「蜀の長老」の347年頃の言い分によると、
「陳寿は諸葛瞻に恥辱を受けたことがあったので諸悪を黄皓に帰し、
諸葛瞻はそれを矯正できなかったと書いた」
のだという。
その陳寿に対する評価は怪しいわけだが、「蜀の古老」の見解によるなら、
彼は陳寿の評価ほどには黄皓に蜀滅亡の責任があると考えていなかったことになる。
それが当時の蜀人の一般的な見解なら、蜀滅亡当時の成都情勢には
色々と光を当てられるだろうね。
877 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 23:47:09
チンジュってたしか親が孔明に冷遇されてたり
結構諸葛家に恨みもってたのかね。
878 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/17(水) 00:56:37
>>877 親が諸葛亮に冷遇されたって何の話だ?
晋書にある、陳寿の父が馬謖の参軍となっていて、
馬謖に連座して髡刑になったという話だとしたら、これは少し信じがたい。
丞相参軍である馬謖の参軍というのが存在したか怪しいしな。
丁儀の子孫に原稿料を要求したと言う話も、曹丕が王位に就くと、
丁儀、丁廙兄弟と、その一族の男が誅殺されているのに、
子孫が陳寿にどうこうという話が出てくるわけ無い。
この丁儀の話が非常に信憑性が低いため、これと合わせて付されている父の髡刑の話も、
陳寿を非難する為の与太話の類と見られ、非常に疑わしいものだろう。
879 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 01:27:50
>>878 陳式の事だと思われ
まぁ、記録では親子という記述がなくてわからないんだがな
880 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/17(水) 01:51:51
>>879 いや、親子であるという記述が無いのに、どうして陳寿と陳式を親子とできるんだ?
それとも、
>>1が言っているのは陳式だ、って話?
881 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/17(水) 02:36:57
>>880 >>876が言ってる親な
陳寿と陳式の親子説は有名なのに根拠が無いからなぁ…俺が知らないからかもしれないが
後、
>>876に
諸葛亮に対しては「正史三国志」でかなり高く評価されてるから、諸葛亮に対しては恨んでたかどうかは怪しい
管仲や簫何に次ぐってかかれてるくらいだからな
恨んでたらもっと酷評したろう
882 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/18(木) 01:52:41
>>881 陳寿と陳式については、三国演義第一百回で陳式が諸葛亮に処刑されている事と、
晋書陳寿伝の髡刑の話を勝手に結び付けてるだけだと思うよ。
少なくとも二十四史には両者の関係を示す記述は無いし。
884 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/18(木) 22:22:54
チンジュとチンシキは親子でいいんじゃないの?
同じ苗字だし親族の可能性は高いでしょ。
王平と王允も親子でいいよね
実際に大陸を平定した者が何人も居た中で一地方政権の代表
"比較"すると無能な人
相対評価だし結果論だけどね
887 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/18(木) 23:30:26
少なくとも親子は有り得ない。
陳式は229年の武都・陰平攻め以降出てこないが、彼は劉備時代から相当高位の将軍だったので、
引退していなければそれ以降も名前が出てくるはず。
李厳弾劾の上表にも名前は無いので、第四次北伐の頃には死んでいたか引退したかは確実。
陳寿が父の喪に服していた時期は、彼が既に成人してからなので、
230年頃に一線を退くほど高齢だった人物ではない。
また、仮に陳式が陳寿の祖父か、或いは血縁関係の人物だったとすると、
彼は巴西郡安漢県の人という事になる。
その場合、蜀漢において重要な将軍の一人だったのだから、
陳寿が益部耆旧伝において何らかの記述を残しておいたはずだし、
漢中攻略戦や夷陵の戦いで劉備軍主力の指揮官というポストには就けなかっただろう。
全く関係ない人物だったと見た方が遥かに自然。
888 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/18(木) 23:49:32
ははは
ははは
ははは
管仲とどっちがええんな?
>>887 >李厳弾劾の上表にも名前は無いので、第四次北伐の頃には死んでいたか引退したかは確実。
仮にそうだとすると、陳式は演義じゃ曹真の蜀侵攻時に魏延共々命令違反をして処刑されるけど
いちおうそれとタイミングが合うことになるんだな。ちょっと面白いと思った。
>>890 演義演義ってバカにするけど羅本さんはマジ天才だからな
その辺調べ上げてるよ
1の思惑と外れて、読めば読むほど孔明って偉かったんだなって思ってきてしまった。
1ごめんね。
べつに謝る必要はないじゃんよ
894 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/19(金) 23:23:30
そう?俺はこのスレで孔明のメッキがはがれてきてるな
って思ってるよ。
三国志知識人の孔明の評価は高いんだけど
あれって流れ的には
演義見て孔明が凄いと思う。
↓
正史で知識身につけて演義の創作多かった事に気づく
↓
けど政治家としては有能だよね。
↓
やっぱ有能でいいんじゃないの。
って流れでさ。最初の演義の孔明が頭にこびりついてて
孔明は有能でなければならないって自己暗示みたいになってるんだろうね。
陳寿さんからも大絶賛の有能宰相というのを見なければいいよね
896 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/20(土) 00:57:15
チンジュね〜。どうなんだろうね。
俺は一時
「チンジュの歴史家としての能力を疑うスレ」
とか立てようと思ってたぐらいだからな。
>>894 > けど政治家としては有能だよね。
> ↓
> やっぱ有能でいいんじゃないの。
というのがなぜ自己暗示になるのか分からない。
演義の孔明は登場人物の中で頭抜けて優秀だった。
正史の孔明は同時代の一流の人物と比べても遜色ない。
凄さは違っても有能なことには変わりないと思うんだが?
>>1は自分で「小説しか読んだ事がない」と言っているのに、
「孔明を有能だと思うのは自己暗示の結果」だの、
「陳寿の歴史家としての能力を疑う」だのと自信満々に言えるんだろうか?
899 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/20(土) 05:06:54
有能ではあるが万能ではないというイメージだね
過大評価ではあるが俺は好きだよ
900ニダ
メッキがはがれるも何も、
>>894みたいな見方・主張をしているのは徹頭徹尾
>>1しかいないからなあ。
>>1の脳内にスレが立つ前から存在していた結論を繰り返しているだけなので、
真に遺憾ながらこのスレの流れは
>>1の脳内の「孔明無能説」には何の影響も与えられなかったと言わざるを得ない。
曹操の死後じゃないと活躍の土台が整わなかったのが可哀相だな。
曹操の圧力じゃ難しいだろうが、せめて彼が生きてる時に、孔明の功績見てれば「なんだこいつ、やるな」って曹操自身が付けた評価点で、正史の扱いも変わってきたかもよ。
いや、十分正史で大きな扱いされてますが。
偏った知識と一方的な主観と独り善がりな希望と固定観念に塗り固められた
>>1こそ自己暗示に陥ってると言わざるを得ない
906 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 01:56:15
曹操って多分孔明の事そんなに意識してなかったんだろうね。
曹操からしたら小者もいい所で。
たしか正史の曹操の欄には孔明に関する記述が一切ないらしいし。
そらぁ曹操と孔明が直に絡んだこと無いもん。記述しようがない
「曹操の欄」ってのがなんとも
(前略)からしたら小者もいい所で。
たしか正史の曹操の欄には伯言に関する記述が一切ないらしいし。
たしか正史の劉備の欄には仲達に関する記述が一切ないらしいし。
たしか正史の曹叡の欄には伯約に関する記述が一切ないらしいし。
たしか正史の呉帝の欄には叔子に関する記述が一切ないらしいし。 (注には一箇所ある)
はわわ
911 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 10:49:56
漢中で曹操と孔明戦ってんじゃないの?
>>911 演義に毒されすぎw
ちなみに博望も諸葛亮いないからな
だからといって無能とかいうなよ
演義の諸葛亮と比較してもしようがないから
でも人材コレクターの曹操が諸葛亮獲得に食指を伸ばした形跡がないのは痛いな
呉でも張紘や大史慈などは曹操から直接お誘いが来ている
いや、曹操死後はよく働いてるんだよ孔明。
曹操って、可能性よりその時点での実力で評価してるんじゃない?
だから選びかねてたのかもしれん
915 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 18:45:12
けど元から有名だったでしょ。ケイシュウでシバキがあれでけ
こいついたら天下取れるみたいに言ってたわけだし。
>>913 荊州人士の獲得に乗り出したのは荊州制圧後
諸葛亮は200年〜203年くらいには既に劉備幕下
つまり曹操が諸葛亮に食指を伸ばせる機会はない
>>915 ないない
司馬徽は隠士生活送ってて自分から表に出ようとしてないし、そんな噂を広めたという記述も無い
曹操に召し出されても直後に亡くなってる。
第一、そんな有名だったら、司馬徽に直接言われる前に劉備の耳に入る
劉備が劉表の元に流れてから諸葛亮の存在を知るまで五年以上の期間があるんだぞ
>諸葛亮は200年〜203年くらいには既に劉備幕下
ん?
>曹操って、可能性よりその時点での実力で評価してるんじゃない?
それなら、曹丕を差し置いて曹植や曹沖を後継者候補に挙げる事はないはずでは?
諸葛亮がそんなに有名なら劉表が士官要請している
諸葛亮は隠れた無名な人士にすぎない。
有名な人物であれば、○○に士官要請されたけど見る目があるので断りましたという
エピソードが入っているもんだ
荀?郭嘉張昭周瑜魯粛とか
>>919それは色々とあるよ、曹丕の息子が他人の子疑惑とか?
曹操から見ても、人に好かれる植らの方が本心からは理想だったのかもしれんし、結局シビアな曹丕選んだからな。
「曹操の欄」には赤壁で敗れた相手は劉備になってるので周ユも大したことないってことか
>>922 それは連合軍で最も位の高い人物は劉備だったからでは?
925 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/21(日) 22:37:47
いやおそらく実際は劉備軍が大活躍だったに違いない。
>>925 赤壁は劉備も活躍してんだが知らんのか?
正確には赤壁の追撃戦だが
「劉備は俺と互角だが」のくだりか
山陽公戴紀だけど好きな逸話だな。
曹操は負け惜しみが振るってる。
他にも殆どの記述で赤壁〜荊州平定戦は
劉備と周瑜の合同作戦だったと書かれてるね。
第一曹操基準で有能か無能かを測るのに無理がある
曹操が負けてもプライドが傷つかないのは劉備だけ!君と予だ!劉備最強!
ってことになっちまう
>>928 実際そうですよ?
劉備は三国志中でもトップを争う軍略家だし
こと、クラウゼヴィッツの提唱した戦闘を継続する二要素の一つである精神力に限って言えば
三国志中でも最強を誇る不屈の名将だよ
周瑜は軍人、劉備は自分と同格の群雄
931 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/22(月) 16:55:07
曹操の英雄論で言うと孔明なんかは絶対英雄にはならないからな。
劉備は、村人が旗揚げしていつのまにか最高ポストになり、曹操が「あれ、なんで俺の隣なんだこいつ」みたいな感じですか、わかりません。
>>932 劉備は落ちぶれちゃいたが豪族の出身だね
まあ一族のバックアップはほぼ0で自分でコレと言った人材を見出して旗揚げしたから
村人が旗揚げっていう感覚はある意味で間違いではないが、正確ではない
人形劇の劉備軍団のフレンドリーさに憧れてた曹操はなんか良かった
いまわの際に「わしに度量がもっとあったら玄徳たちを受け入れられたかも知れない」と考えてる曹操を
にべもなく撥ね付ける劉備は大人気ないなあ(曹操の幻覚だけど)と思ってた
豪族ってのはつまり農民だから、その意味で村人というのは確かに間違っちゃいない。
所有する土地の大小があるだけ。
で、劉備は祖父が県令で金持ちの叔父がいたわけだから、宗族はそこそこ。
ただ劉備の家自体は父親が早世したので働き手がいなくなって貧乏になった。
普通ならよほどの勉強家で独学するか他の特別な才能でもなければ
勉強もできずに庶に落ちぶれるコースだが、劉備は幸い盧植に師事することができた。
義勇軍とその資金を集めることができたのは、劉備自身の人望や才能もあり、
盧植の弟子という名声もあり、弟子時代に作った人脈もあるだろうな。
それでも他の群雄連中と比べりゃちっぽけなものだが
938 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/22(月) 21:02:48
孔明とケイシュウ人士連中の繋がり
ってどんなもんだったんだろうね。この人士ってのがドレくらいの
価値があるのかも分からない。このスレでも劉備はケイシュウ人士
の支持を得たいから孔明と接触したなんてあるけど
孔明って隠れて住んでたんでしょ。人士との交流あるんかな。
後、劉備ほど戦地を渡ってきた人間が人士とかを信用するのかな。
口だけの人間なんて必要なさそうだが。
あの時代に身分とか名声とかってどの程度意味があったのかね。
劉備だって皇族と同属なのにリョフと戦っても身分が低いみたいに
言われてエンショウに相手にされなかったとか
演義にあるし。
>>938 史書を普通に読めば、諸葛亮が劉備に仕えた当時〜荊州奪還直後の諸葛亮にそんな価値はない。
諸葛亮は別に隠れて住んでいたわけではなく、司馬徽や劉gと交流がある普通の士人だった。
おそらくどこかに仕官も考えていただろう。その上で、「当時認める者が少なかった」んだ。
荊州南部を孫劉同盟が奪還して劉gが荊州刺史、劉備が督荊州を名乗ると、
劉備の名声を慕って荊州人士が集まってきたとされるが、これはその通り劉備の名声
(それからおそらく劉gの正当性)に集まってきたもので、諸葛亮の存在は問題とされていない。
ただ、この時諸葛亮は三十歳で軍師中郎将というありえない程破格の待遇を受けており、
その裏に何か特別な人脈があったのでは? という意見を見たことはある。俺は支持しないが。
その後、諸葛亮はその地位と劉備からの信頼によって多くの荊州人士を推挙している。
諸葛亮と荊州人との間には強いつながりがあったのは確かだ(結婚もしているし)
ただ、その人脈によって諸葛亮が高位に付いたのではなく、
高位にある諸葛亮をパイプにして荊州人士が荊州や左将軍府(劉備は左将軍)に仕官し、
諸葛亮もそれによって人脈を強化した、と見るほうが自然だと俺は思っている。
後漢末において、名声というのは登用、出世に非常に強い影響力を持っていた。
孝廉、廉吏、茂才といった推挙制度は、孝行や廉直と評価される人材が
地元の太守や州刺史によって朝廷に推挙されるというもの。
そのため後漢代には人材を見極める人物関定が流行し、彼らからの評価が人の将来を左右した。
許劭、司馬徽といった人物が名を残すのはこのためだ。
後漢末の乱世になると武力が大きな価値を占めていき、劉備もそれによって頭角を現したものだが、
依然として人物評論が行われ、劉備もそれに参加していた記録がある。
(それによって人材の情報を得たり他所の情勢を知ったりしたのだろう)
因みに劉備は、前漢の第六代景帝の子孫。本流から枝分かれしたのは三百年前の話だ。
ぶっちゃけその程度の劉氏は中華にごろごろいたと思われる。名刺代わり以上の価値はなかったと思うよ。
「劉氏の裔」という看板が外交的に現れるのはずっとあと、荊州牧の時代。劉備自身に箔が付いてからのことだ。
>>937 そこ読まずに言うが、記述を額面通りに取るなら赤壁・烏林時の兵力は
孫呉の水軍三万。
劉備は劉gの夏口の兵一万+劉備の敗残兵。
対等ではないがこの時点で戦力として貴重な数字。
しかも赤壁は戦役のターニングポイントに過ぎず、荊州争奪戦はその後一年続くんだ。
当然劉備は周辺の豪族や郡県を取り込み、兵力増強を図り、戦闘に投入しただろうね。
周瑜が南郡を包囲している間、南方四郡の制圧は劉備が担当したように。
劉備と周瑜の合同作戦という諸記述が的を射ていると思う。
ただ、荊州を「借り受け」てからの劉備の立場の弱さを見ると、
決して劉備が十分な兵力を持っていたわけではないのだろう。
孔明の士官がなかったのは自分を管仲楽毅になぞらえてたことから
安売りしたくないという孔明側の事情+実績もない若僧が偉そうなことばかり言いやがってという誘う側の反発
この相乗効果によってじゃないかなあ
ちょっと待って、孔明って自らテクテク劉備側に士官しに行ったんだよね?
>>942 「そう伝える書もある」というだけなので、まるで間違いない事実かのように語るのは妥当ではないな
両立もするよね
諸葛亮は劉備に面接に赴いた
劉備は内定を自らの足で渡しにいき
高い地位で誠意を見せた
これでも三顧の礼は成立するから
三顧の礼は隗より初めよの効果を狙ったものかもとは思ったりする
襄陽記を採用すると三顧の礼の時点で初対面だから両立しない
両立なら逆でしょ
劉備が孔明の元へ勧誘に訪れた
後日孔明が劉備の元へ仕官に赴いた
それは普通の三顧の礼じゃね?
>>940 リンク先くらいめんどくさがらずに読んでみなさい
そこはどっちかというと演義の考察じゃないのか。
具体的に史実の赤壁についてどうこう言ってる部分がどこなのか分からん。
曹操軍20万 周瑜の軍が3万 劉備劉キ勢が寄せ集めで3万
とかそういう部分の話しなのか?
リンク先のを読んでみた。
赤壁考察のシメと読み取りうる部分も、資料的な裏づけがない。
読み物として楽しむ分にはいいと思うけれど、空想の域を出ない。
リンク先の人も分かってやってるのだろうけど。
内容も演義と正史の考察が錯綜して分かりづらいし、的外れと思える部分もある。
例えば正史が劉備が孫権の援護を受け曹操と戦ったかのように書いてある云々は、
軍の数では同等(あくまでリンク先の考察では)とはいえ、
実態とかけ離れている=正史への疑問とつなげたいのかもしれんが
当時劉備の方が官職では上だった事を考慮すれば納得できる。
劉備が左将軍なのに対し、孫権は討虜将軍だから。
劉備が主体で曹操を破ったとされるのは、正史が、というより武帝紀が、だね。
魏蜀呉それぞれで大分異なる史料を基にしたと思われるので書き方に差があるのは良く見られるけど、
蜀書先主伝でさえ劉備と孫権の五分の共同体制と書かれているのに、魏書ではなぜ孫権や周瑜の名さえないのか
というのは不思議な話だ。
陳寿の曲筆と言えばそれまでかもしれないが、
もしかしたら赤壁の当時では魏軍は劉孫同盟の実態が掴めず、敵は「劉備軍」と認識していたのが
そのまま記録に残ってしまったのかもしれない。
劉備軍に周瑜等を援軍に派遣して撃退しているわけだから
曹操から見れば主体は劉備軍と考えても問題ない
実践戦ったのは周瑜だとしても
>>951 訂正サンクス。
曹操軍が劉孫同盟の実態が掴めてなかった、という発想は新鮮かつ面白い。
しかし、だとすると首をかしげる部分がある。
曹操の動きは性急だったろうけど、黄蓋の偽投降を受け入れる辺り、
当時から孫権陣営も敵に数えてたんじゃないか。
その上で、実質連合でも名目上は劉備を頭と見た、と考える。
>>950 呉の孫権の伝でも普通に周瑜と程普を劉備の援軍に派遣したと書いてあるのだが
あと周瑜の戦ったのは手下であって曹操本人が実際に雌雄を決さんと対峙してたのは劉備ということなのかも
曹操は劉備のみしか見ておらず周瑜ごときは眼中になかった、と
>>954 援軍てのはどこからの判断?
「遣」てのは遠地へ派遣するというだけで援軍という意味は持たないと思うんだが…
街亭の張コウも「遣」を使ってるけど援軍ではないでしょ
周瑜ごときは眼中になかったかどうかは分からないが
曹操としては劉備を追っていただけで孫権が出張ってくるとは考えていなかっただろうね
956 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 01:12:34
赤壁が水上戦だっていう確証もないらしいしね。
実際は陸地で戦ったとかなんとか。
近年、赤壁の地の川の底調べてみたら船の残骸とか
一切発見できなかったらしいし。
船を焼いたってのは先主伝や武帝紀(裴註)にもあるわけで
船の残骸なんて千何百年経っても残ってるものなのかな?
風化しそうだし下流に流されたり土砂に埋もれてもおかしくないだろうし。
赤壁以外なら三国時代の遺物が長江の川底から発見されたことはあるんだろうか?
>>955 援軍なら「瑜助備」という記述になるかな。
荊州水軍4万と呉水軍3万が赤壁の戦いという名の局地戦をしてる中
曹操本隊15万と劉備1万が血みどろの攻城戦を行なっていた…というのはどうよ?
これなら曹操普代の家臣がほとんどダメージないのも分かるわ
>>956 は?
まだ実際に赤壁の場所すら見つけられてないのに
船の残骸なんか出るわけねーだろ
2000年近い年月だからなあ。水や砂で腐食したり、流れ流れて海に出てるかな。
でも周辺陸はホント発掘してほしい。
椀でもやじりでも何でもいいから、そこに存在した確定がほしいな
962 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 19:56:12
そもそも戦上手の曹操がわざわざ水上で
戦う必要なんてあったのかね。すごく怪しい。
思いつきだけしゃべるなクズ。
それこそチラシの裏に書いてろ。
964 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 20:10:55
イブに2ちゃんなんてみるんじゃねー
赤壁の最大の受益者は劉備・・・って言うのはOKなのかな?
967 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 20:31:18
いいと思いますが?なにか不都合でも?
968 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 21:15:56
970 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/24(水) 21:21:13
俺はもうイベント終わったもんねー
971 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 15:57:09
受益者って何さ?
益を受けた者
973 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/25(木) 22:01:14
後に三国志演義を大ヒットさせた羅貫中かもしれん。受益者
974 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:11:03
バイバイキーン
975 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:12:24
バイバイキーン
976 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:13:34
バイバイキーン
977 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:14:53
バイバイキーン
978 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:16:12
バイバイキーン
979 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:19:09
バイバイキーン
980 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:19:54
バイバイキーン
981 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:21:05
バイバイキーン
982 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:22:00
バイバイキーン
983 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:23:43
バイバイキーン
984 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:24:31
バイバイキーン
985 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:25:29
バイバイキーン
986 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:27:50
バイバイキーン
987 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:29:16
バイバイキーン
988 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:30:09
バイバイキーン
989 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:30:55
バイバイキーン
990 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:32:26
バイバイキーン
991 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:33:42
バイバイキーン
992 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:34:27
バイバイキーン
このスレのおかげで孔明の有能さを知る事が出来たよ、ありがとう!
994 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:35:19
バイバイキーン
1000なら2000年後にまたこのスレが建つ。
996 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:36:05
バイバイキーン
997 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:36:48
バイバイキーン
今度はまともなスレタイで、最初に否定ありでは無い
きちんとした論議のできる1の建てたスレが出来ますように!
999 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 10:37:19
バイバイキーン
1000ならきょじょが三戦から消える
1001 :
1001:
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) 申 と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ す 1000
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! 超
か ッ i |l ~~__´ 、 ``'__''''┘ |;;;;;l rO:、; ´ ィ○ヽ 'i;;;;;厶, え
ん ド l _|. <,,O,> 〉 <,,O,,> |;;;;;| `'''"/ `'''''"´ !;;;;;;;;ヽ た
の を ._ゝ'|. / 、 |; ,' / 、 |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
う 「 | | ( ) .ソ l ,:' _ ヽ .|;;;;;;;//-'ノ
ヽヽ | _,ニ ニ,,,,,_ ', ゞ,' '"'` '" i;;;;;i, `' /
⌒レ'⌒ヽ厂 ̄ `| ,、ィ-‐''__'''‐-`,、 '' .', i、-----.、 `''"i`'''l
人_,、ノL_,iノ! . ', :i゙''''''''''`l' ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\ ,' ト、,
/ ヽ L__」 「 で 書 Lヽ ヽ〈 i| Vi゙、
ハ ワ {. ヽ. -、、、、 ' ノ き き 了. ゙, ,ヽ===-'゙ ,' , // ヽ
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