周瑜 魯粛 呂蒙 陸遜 陸抗 呉の軍師を語るスレ 6

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217名無しさん@お腹いっぱい。
演義では、樊城攻めが対魏の重要な起点として書かれているみたいだが、
実際はどうだったんだろう。
荊州での小競り合いがある中、呂蒙不在ってだけで一気に北上するか?
そもそも、益州との連携なしで単独ってのが・・・・
孔明策だと、益州と荊州の二方面に加えて、合肥方面からの三面攻撃が
前提だった気が。
218名無しさん@お腹いっぱい。:2008/11/08(土) 00:50:34 ID:1Vpezakg0
そもそも呉が荊州の残りを狙っていることは周知のことだったようだ。
漢中の劉備もすぐには動けない。
だが、この時の関羽の状況はその不利を振り切るには十分すぎるものだったのだろう。
なにしろ劉備が漢中を得て、漢水によって直接連絡するという見込みが立った。
曹操の中軍は遠く関中にあり、戦の後必死に急行している状態。
樊城が堅城とはいえ、曹仁の征南軍自体は大規模なものではない。
宛などで反曹操の反乱が起きて関羽に呼応した。
しかも、魏王国左将軍仮節鉞という枢要にいた于禁の増援七軍を水没させる。
つまり、襄樊を抜けば許都まで要害も大規模な兵力も存在しないという千載一遇の好機。
関羽がそれ以上北上できないとしても、人心に与える影響は巨大なものになっただろう。
遷都案も出ようというもの。
これを阻止するために、急遽徐晃が派遣される一方、曹操の中軍が駆け戻り、
対呉都督夏侯惇が張遼を率いて急行し、エン州刺史裴潛、豫州刺史呂貢までが召集される
という総動員体制。
結局徐晃の驚異的な奮戦で樊城は解囲され、呂蒙が背後を襲うことで関羽軍は瓦解するわけだけど、
この時の曹操のシフトは樊落城の最悪の事態を想定した背水の陣だったといえる。