【227-234年】諸葛亮の北伐を成功させるには?

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1諸葛太郎
1.どのような武将が必要だったか?
2.姜維意外にも参謀が必要だったか?
3.どのような経路で攻略すれば良かったか?
4.キ山にこだわってよかったのか?
5.魏の武将で、司馬懿は無理としても、こいつは討っておいたほうがよかったと思う武将は?

などなど、いろいろ孔明の北伐について、まったり語り合っていきましょう。
2無名武将@お腹せっぷく:2008/10/14(火) 20:11:01
にぃ〜
3諸葛太郎:2008/10/14(火) 20:11:58
酸・・・
4無名武将@お腹せっぷく:2008/10/14(火) 20:15:47
W〜
5無名武将@お腹せっぷく:2008/10/14(火) 20:18:03
6無名武将@お腹せっぷく:2008/10/14(火) 20:19:06
呉と同時進行しかない
武将なんか頭数さえ揃ってりゃそこそこでいいんだよ
7無名武将@お腹せっぷく:2008/10/14(火) 20:20:05
奈菜
ガンキャノンがあればよゆう
9無名武将@お腹せっぷく:2008/10/14(火) 20:32:05
呉が石亭で大勝し魏を引き付けた後で北伐するべきだった
10無名武将@お腹せっぷく:2008/10/14(火) 20:34:58
ヘル・イクスパンションズを投入。
曹真にオプティカル・ファイバー・クロスボンバー。
11無名武将@お腹せっぷく:2008/10/14(火) 20:49:09
6の北伐路線図
12無名武将@お腹せっぷく:2008/10/14(火) 21:05:26
そもそも姜維って参謀だったのか?
13無名武将@お腹せっぷく:2008/10/14(火) 21:22:42
参軍
14無名武将@お腹せっぷく:2008/10/16(木) 03:35:36
諸葛亮って漢民族?
15無名武将@お腹せっぷく:2008/10/16(木) 11:29:42
魏延の策を登用する。
意外と行けたんじゃないの。
馬謖を使って負けるよりマシ
16無名武将@お腹せっぷく:2008/10/16(木) 11:57:47
魏延の策を用いて長安を落とせたとしても維持できねーだろ
長安は数万の兵で守備するのを想定した城だから維持無理だと思う
17無名武将@お腹せっぷく:2008/10/16(木) 15:55:09
18無名武将@お腹せっぷく:2008/10/16(木) 16:09:11
>>1
うんぴ#4649ikuiku
19無名武将@お腹せっぷく:2008/10/16(木) 17:24:15
一回目の北伐で涼州を取った後一気に長安を落とす
破れかぶれ的だが結果から考えるとそのくらいしないと
20無名武将@お腹せっぷく:2008/10/16(木) 17:46:12
(  ゚Дメ) 20
21無名武将@お腹せっぷく:2008/10/17(金) 01:52:56
諸葛亮ダーク・レヴァンティエン(暗黒黒鳥美唄剣)

相手は死ぬ
22無名武将@お腹せっぷく:2008/10/17(金) 09:13:18
(  ゚Дメ) 22
23無名武将@お腹せっぷく:2008/10/17(金) 22:03:17
ニーサン
24無名武将@お腹せっぷく:2008/10/19(日) 19:40:17
コメイは攻め戦はできんのだよ。逃げるか守るのみにおいて本領を発揮する。
25無名武将@お腹せっぷく:2008/10/19(日) 19:55:52
コメイって誰ですか?
米井さんのことだろ
あの人はマジハンパねぇ〜!
27無名武将@お腹せっぷく:2008/10/20(月) 21:19:44
個人的な意見だけど・・・
1.どのような武将が必要だったか?
蜀最大の弱点である輸送問題を解決できる
兵站の能力が高い人物その当時だどまさに諸葛亮自身
漢中争奪戦の時の兵站術はみごと

あと諸葛亮は軍事的英雄ではないので軍事的才能がある人物
その当時だと陸遜?か魏延あたりにやらせても面白いかも

2.姜維意外にも参謀が必要だったか?
姜維は北伐時は参謀ではない

3.どのような経路で攻略すれば良かったか?
安全策なら孔明の経路は間違いではなかった思っているが
第1次北伐の魏延が主張した子午道からの奇襲が面白いと思うが
長安を落としたあとどう維持していくのか不明

4.キ山にこだわってよかったのか?
安全策でいくならおkだが
安全策では勝てないのが実際だった

5.魏の武将で、司馬懿は無理としても、こいつは討っておいたほうがよかったと思う武将は?
個人的には第1次北伐で曹真
あと第4次北伐までに郭淮

なんちゃって三国志好きの意見ですが・・・
こんな感じでおk?



28無名武将@お腹せっぷく:2008/10/20(月) 22:22:50
安全策を取らないと維持できなかったからでしょ
少なくとも孔明はそう思ってた
29無名武将@お腹せっぷく:2008/10/21(火) 19:25:51
>>28
そうだけど
孔明は過度にリスクを取るのを嫌ったから
24が言ってるように攻め戦には向かないんだよね・・・
30米井:2008/10/21(火) 21:09:57
安全牌!安全牌!
だから嫁も誰にも取られない安全牌!
31無名武将@お腹せっぷく:2008/10/22(水) 17:05:52
北伐なんてどうでもよかったんじゃね?
もう蜀で独立国家としてやってきゃいいってな感じで
32無名武将@お腹せっぷく:2008/10/22(水) 19:38:30
>>31
それは孫権じゃん
蜀はマジで北伐でも起こして牽制してないと国が潰されるって危機感があったと思う
対立する三つの国があれば真っ先に狙われるのは小国だろう?
33無名武将@お腹せっぷく:2008/10/22(水) 19:40:12
後半はもったいぶって北伐しぶってたし
めちゃめちゃでやる気なくしたのかな
34無名武将@お腹せっぷく:2008/10/22(水) 19:46:41
そもそも軍の司令官が勤まる人がいなくなったから嫌々やってた感がある
嫌々っていうとちょっと違うかも知れないけど
今の感覚で言うと内閣総理大臣が自衛隊を引き連れて北朝鮮まで攻め込んでるようなモンだろ
35無名武将@お腹せっぷく:2008/10/22(水) 19:49:11
この当時の蜀の国力で外征自体が無謀
奇跡がいくつも重ならなきゃ無理
相手は数倍の国力を持つ敵なわけで
北バツ自体が国家防衛戦略+地方政権存続策だと考えるべきじゃね?
36無名武将@お腹せっぷく:2008/10/22(水) 19:53:43
費イの時代まで、大目に見れば陳祗の存命中まではね。
天水の麒麟児単独では成都への対応ができなくなって一気に瓦解。
37無名武将@お腹せっぷく:2008/10/22(水) 19:55:46
どうあがいても無理だった?
38無名武将@お腹せっぷく:2008/10/22(水) 21:21:18
魏は確実に攻め滅ぼせる状況じゃないとわざわざ蜀に大掛かりな遠征しないよ。
曹丕時代、蜀と呉が同盟しなおした後は主力を呉の方に回して毎年の様に呉に大がかりな遠征しても蜀は放置じゃん。
蜀が劉備の死や主力部隊の壊滅や反乱などで弱体化していたにも関わらず・・だ。
39無名武将@お腹せっぷく:2008/10/22(水) 21:42:05
>>16>>19
でもそれくらいの博打を打たなければ国力差を覆すなんてムリムリムリよ!
カタツムリよ!
40無名武将@お腹せっぷく:2008/10/22(水) 21:44:14
(  ゚Дメ) 40
41Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/23(木) 00:14:30
大規模な反攻に転ずる事が当分の間不可能になるだけの損害を魏に与える事ができれば、
少なくとも涼州の保持はできたと思うし、蜀側の損害によっては一気に長安以西くらいは手中にできたかもしれない。

魏の動員戦力は、諸葛誕の乱で26万、蜀平定で18万、呉平定で20万強だが、
諸葛誕の時は雍州方面の戦力を犠牲にしての26万だから、呉との国境防備を考えれば、
雍州方面に展開できる戦力は掻き集めても20万には届かないだろう。
少なくともこの半数、10万の損害を魏に与える事ができれば、
魏が、呉の攻勢に備えて数年間以上は雍州方面を放棄した公算は高いと思う。

問題は、それだけの損害をどうやって与えるかだけど。
42無名武将@お腹せっぷく:2008/10/23(木) 03:05:01
>>41
ダメージを与えるどころか、余裕で司馬懿らまで呉方面に出てきて、むしろ呉に迷惑かけてるわけだしな・・。
43無名武将@お腹せっぷく:2008/10/23(木) 10:36:31
廖元倹将軍の至言です。
「左伝にある『戦いをやめなければ必ずや我が身を焼くことになろう』とはまさに姜伯約のことである。
 知略・国力とも劣っているのだから、飽きるまで仕掛け続けたところでどうして成功できようか。」
44無名武将@お腹せっぷく:2008/10/23(木) 10:57:11
諸葛亮時代をよく知っている張翼・廖化が否定的なんだもんね。
諸葛亮時代の北伐も実際どこまで勝算があったのだろうか…。
やらなきゃいけないという義務感(国の存在意義も含めて)だったのかな。
45無名武将@お腹せっぷく:2008/10/23(木) 15:41:51
姜維なんかかわいそ
46Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/23(木) 21:14:49
>>42
もともと、司馬懿は曹真が死ぬまでは荊州方面の司令官じゃないか?
47無名武将@お腹せっぷく:2008/10/23(木) 21:41:02
自領に大きく侵入されなければ良い魏にとって、
雍州維持を放棄するほどの損害被るような戦はそもそもするはずがないしねぇ。
48Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/23(木) 21:52:02
>>47
漢晋春秋の記述を信じれば231年の祁山、あと時代は違うが、
姜維の指揮した254年の対徐質と255年の洮西、これらは万単位の損害を与えてるはずなので、
こういうのを短期間に何回かできれば良い線いったと思うんだよねぇ。

洮西で王経を破った時は、隴西駐屯軍は壊滅したものの、残った長安駐屯軍のみならず、
涼州諸軍、ケ艾らの援軍第一陣、司馬孚の援軍第二陣まで動員してるから、
恐らく全体で十数万の軍勢が姜維撃退に駆り出されてる。
魏の底力を感じるぜ。
49無名武将@お腹せっぷく:2008/10/23(木) 21:56:44
ホント、質量共に勝るまさに「底力」だよねぇ。
それに対して身を削って仕掛け続けた諸葛亮の精神力・統率力、
そしてさらに絶望的な状況で仕掛け続けた姜維の精神力は素直に凄いと思う。
後者の結果は別にしてね。
50Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/23(木) 23:07:57
個人的には、あの二人でも駄目なら誰がやっても無理ってくらいには思ってるけどね。

だが、魏の底力を分かった上で、何か方法は無かったのかを考えるのは興味深いね。
まず問題になるのは、出るべきは隴西か関中かって事だろうか?
51無名武将@お腹せっぷく:2008/10/24(金) 01:01:46
>>50
蒋琬の上庸攻略も可能性が低いが入れといてくれ
52Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/24(金) 01:04:45
>>51
失念してたわ、すまん。
だが、あれを北伐に入れるべきかは意見の分かれるところだろうな。
魏への攻勢と言う意味では当然範疇だけどね。
53無名武将@お腹せっぷく:2008/10/24(金) 08:55:57
シバイが恐れたように
長期戦ではなく玉砕作戦なら…
54無名武将@お腹せっぷく:2008/10/24(金) 10:09:39
国政を預かる立場の諸葛亮、
あまりタッチしていなかったとはいえ宰相格だった姜維の2人では、
さすがに玉砕覚悟の作戦は取れないだろうね。
55無名武将@お腹せっぷく:2008/10/24(金) 11:20:50
(  ゚Дメ) 55
56Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/25(土) 01:36:51
玉砕覚悟でやるってのは賛同できないなぁ。
姜維の時代ではあるけど、蜀にとって1万乃至2万の損害ですら、数年間は対魏攻勢が取れなくなる程の損害。
姜維は、段谷で敗れた事によってそれまでの二度にわたる決戦の成果をふいにしてしまったしね。
軍事的な賭けと無謀な作戦は違うと思うし、一定の勝算があってこそだと思う。
姜維のように結果として大きな損害を出してしまったのならまだしも、
初めから損害を想定するようなのはまずい。
57無名武将@お腹せっぷく:2008/10/25(土) 11:41:48
同意
玉砕覚悟は孔明が一番嫌った戦法だしね
58無名武将@お腹せっぷく:2008/10/27(月) 22:27:20
北伐って具体的には西涼をとってその後は長安辺りまで制圧するのが目的なの?
その後は順々に都を落としていくつもりだった?
西涼とか辺境だし一端は制圧しても維持していくのに難しい地域だったんでしょ?
59無名武将@お腹せっぷく:2008/10/27(月) 22:29:32
姜維と馬岱でなんとか影響力を保持したいところだろうね。
60無名武将@お腹せっぷく:2008/10/27(月) 22:42:46
馬岱では何の影響力もなかったってのが実情みたいだけどね
61無名武将@お腹せっぷく:2008/10/27(月) 23:12:37
魏延を漢中で討ったのは馬岱だがそれ以後どうなったか定かではない
62無名武将@お腹せっぷく:2008/10/27(月) 23:14:42
翌年魏領に侵入して牛金に撃退されていますが?
63無名武将@お腹せっぷく:2008/10/27(月) 23:56:44
発想変えて荊州に呉軍と駐屯して孫権との共同戦線にするとかは?

まあどっちにしろ山だの河だの隔ててる時点でリスク高いんだけどな…
韓信の五王征伐の時くらい相手にまとまりが無いならまだ可能性はあるが
魏の方がそれよりは体制は遥かにマシだしね…
64無名武将@お腹せっぷく:2008/10/28(火) 01:51:29
あと十万の兵力があれば…
65無名武将@お腹せっぷく:2008/10/28(火) 11:59:30
瞬時に兵站が崩壊します
66無名武将@お腹せっぷく:2008/10/28(火) 15:53:25
だね。
現状の兵力でも補給に苦労していたのに。
67無名武将@お腹せっぷく:2008/10/28(火) 17:26:55
人狩してきて山を切り開く
68無名武将@お腹せっぷく:2008/10/28(火) 18:29:22
>>63
そら無理だろ
呉と蜀を合わせても真っ向から攻められるほどの軍はないよ
69Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/29(水) 00:02:56
荊州に駐屯するって事は、襄陽とかで合流するとかじゃなく、
江陵とかに駐屯させてもらって、そこから北上するって事?
70無名武将@お腹せっぷく:2008/10/29(水) 00:19:01
>>69
イメージ的には襄陽あたりから北上って感じだけど…

蜀から荊州に出てきて一旦駐屯してから戦線を張る方がいいかなあ、と
まあ一箇所に固めるのも補給の面からアレだけど…
71Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/29(水) 00:31:49
>>70
その策が有効かはともかくとして、呉が蜀軍の荊州駐屯を許すだろうか、という問題があるね。

同盟中とは言え、魏を打ち倒した後は互いに戦い合うと言っているほどの国が、
かつて領有を巡って争った地に軍を置く事を許すとは思えないんだよね。

荊州へ軍を進める場合、中原進出の為の策源となり得る南陽は、
呉も蜀も欲しがる土地なので、仮に共同で襄陽に軍を進めて南陽一帯から魏軍を駆逐しても、
そこから先まで協力関係を維持できるかってのも難しいところだ。

蒋琬が企図したような、上庸や房陵の辺りなら呉も何も言わないと思うが。
72無名武将@お腹せっぷく:2008/10/29(水) 01:19:24
北伐が成功するか…ですか?
我が大漢帝国は、残念ながら曹賊を討つだけの国力がありません。
全ては戦う前から分かっていること。
しかし、臣は力を尽くすだけ…あとは天命のままに…

と孔明センセが言ってます…たぶん
73無名武将@お腹せっぷく:2008/10/29(水) 01:49:14
ショウエンって本当は呉から荊州を取りたかったんじゃねえの?
74無名武将@お腹せっぷく:2008/10/29(水) 23:08:20
>>73
それはないと思う
呉との同盟があってこその蜀だし
魏の荊州北部なら話は解るが
でも荊州あればかなり選択肢が広がるだろうな
75Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/30(木) 23:11:55
まぁ、なんで蒋琬が上庸に軍を進めようとしたのかは分からないねぇ。
「諸葛亮は幾度も秦川をうかがったが、道は険しく輸送は困難で、ついに勝つ事ができなかった」
というのが理由として述べられてはいるけど、そういった単純な理由だったのか、という疑問はあるね。

ただ、彼の計画が反対された理由に、夷陵での失敗があったのは確かだと思う。
二十年が経過したとは言え、数万の軍が壊滅した記憶は忘れ難かったのだろう。
76無名武将@お腹せっぷく:2008/10/31(金) 11:10:45
蜀の運命が定まってしまった壊滅的な敗戦だからねえ。
それを経験している人間も多く残っていただろうし、仕方ないかもね。
77無名武将@お腹せっぷく:2008/10/31(金) 11:48:38
なな
78Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/31(金) 23:50:23
>>76
だからこそ、あの蒋琬の作戦はろくに検討もされないまま中止に追い込まれたんじゃないかと思うんだよね。
後世になって俺たちのような人が検討しようにも、分かる事が遥かに少ないから難しいし。
79無名武将@お腹せっぷく:2008/11/01(土) 17:34:51
鉄道が有ればなぁ〜
80無名武将@お腹せっぷく:2008/11/02(日) 00:10:13
孔明曰く「ホウ統と徐庶がいれば、230年までにはモンゴルまで北伐余裕でした」
81無名武将@お腹せっぷく:2008/11/02(日) 01:39:04
馬超も生きてればなぁ〜
あの辺だと馬超かなり恐れられてるから
異民族仲間にできただろ
82無名武将@お腹せっぷく:2008/11/02(日) 10:18:25
異民族に見捨てられたから、蜀なんて僻地まで落ち延びたんだろ
83無名武将@お腹せっぷく:2008/11/02(日) 12:20:56
>>80
どこまで北にあがってくつもりだったんだよw
84無名武将@お腹せっぷく:2008/11/05(水) 00:00:27
age
85無名武将@お腹せっぷく:2008/11/16(日) 21:58:46
バカ殿が呉に負けた時点で無理です
86無名武将@お腹せっぷく:2008/12/04(木) 14:21:45
呉と結ぶしかないな
87無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 04:07:24
呉も何度か攻めてくれたんだけどねぇ
88無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 06:43:29
ハハ遅すぎるわ
89無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 00:20:17
227年天水に諸葛亮が速攻で姜維を迎えに三顧の礼をする
90無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 08:54:36
〈`∀´〉
91無名武将@お腹せっぷく:2008/12/09(火) 12:31:19
曹爽に頑張ってもらう
92無名武将@お腹せっぷく:2008/12/09(火) 19:33:26
>>80 だからね、ホウトウが馬謖のそばについていたら・・・とか考えちゃうの。
人材ね。それと劉備が有力者からお嫁さん来てたらとか。
93無名武将@お腹せっぷく:2008/12/13(土) 08:05:07
孔明が、劉禅の代わりに蜀を治めていればね・・・
劉禅が、宦官の言うこと聞いて、孔明を帰らせたのが一番の原因。
94Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/26(金) 23:37:33
孔明無能スレが埋め立てられてしまったので、当面はここが諸葛亮関係の本スレという事で良いのだろうか?
95無名武将@お腹せっぷく:2008/12/26(金) 23:51:17
>>94
それでいいかもしれんね

それと、ageなくてもいいのでは?
96Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/27(土) 00:00:32
>>95
sageでいくべきスレという事なら、このようにsageるけど、
最近の方針として考察スレはageるようにしてるので。



無能スレの最後の話題が何故か赤壁の戦いだったので、
さすがにそれの続きを話すわけにもいかないと思う。

水経注にある綏陽小谷の話なんかは議論するに足るかもしれない。
97無名武将@お腹せっぷく:2008/12/27(土) 00:13:22
Hokubatsu'227
こんなタイトルのウォーゲー出してくれw
シモニッチでよろしく
98無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 00:13:06
無理かな。
魏に何か起こるか、魏の首脳陣が無策無能じゃないと無理だよね。
首脳陣が無能で魏だけ大飢饉で各地で反乱軍でも出てくれば面白い。
そういう展開にならないと一番豊かな所は倒せないんじゃないか
99無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 00:14:16
>>98
魏は人口一番多いし兵数も一番多いけど、一番豊かではないよ
そこに付け入る隙があった
100無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 00:15:24
そうなんだ、すまぬ無知だったぜ
101無名武将@お腹せっぷく:2009/01/10(土) 00:44:47
>>99
銅が足りんのじゃ、銅が

でも支配域全部ひっくるめたら一番豊かじゃね
102無名武将@お腹せっぷく:2009/04/19(日) 02:47:31
4次北伐で司馬懿ボコったあと
李厳がミスしなければ長安は落とせたぽいがな。
103無名武将@お腹せっぷく:2009/07/01(水) 12:56:43
長安を落とせば、涼州は、自然に蜀の勢力になる
それで、蜀の国力は、魏に匹敵するだろう。
あとは決戦だ。そこでもやはり孔明のいる蜀は有利に違いない。
しかも、魏は、呉とも対峙しているのだ。
104無名武将@お腹せっぷく:2009/07/01(水) 13:20:30
呉がすぐに帰ったから
105Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/01(水) 23:51:46
涼州を手に入れるのに必要なものは、長安よりも異民族の支持だと思う。
魏や晋は長安を初めとして涼州の郡県を手中に収めていたが、
異民族の蜂起に悩まされ、泰始年間には十年にも及ぶ大乱が起こった。
首魁である樹機能を討つ事で乱は一旦は収まったが、結局は五胡の台頭を呼び、
その後の長い動乱の時代を招いている。

涼州を力で支配すれば、力が少しでも弱まると、その支配も崩壊してしまうだろう。
106無名武将@お腹せっぷく:2009/07/02(木) 02:14:55
>>105
馬岱がいたからって変わらないかな?
107無名武将@お腹せっぷく:2009/07/02(木) 08:50:23
>>106
現実として殆ど影響がみられないのだから、その仮定は意味をなさない様な
108無名武将@お腹せっぷく:2009/07/02(木) 12:04:52
長安を落としても涼州を安定して統治するには時間かかるし
異民族に対する備えも必要になる。
長安は中原に対しては守りやすいとは言われてるけど維持出来るかどうかも不明
北伐が成功しても厳しいんだよな
109無名武将@お腹せっぷく:2009/07/02(木) 23:46:26
1.どのような武将が必要だったか?



やっぱ孔明が成都に残って、劉備と法正が

漢中から長安に侵攻すれば長安は落とせたと思う。

まあタラレバの話だけど。
110Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/02(木) 23:58:52
>>106
個人的には、誰がいるとかいないとかよりも、どうやって異民族と折り合いをつけるかだと思う。
蜀に誰がいようとも、ただ搾取したり押さえつけたりすれば、どこかで破断するだろう。
ただ、異民族に対して声望のある人物がいれば、蜀が魏に取って代わるまでは協力的でいてくれるかもしれない。

まぁ、異民族も一枚岩じゃないから、その全てに協力させるのは無理だろうけど。
111無名武将@お腹せっぷく:2009/07/03(金) 00:00:40
グデーリアンとロンメルとルントシュテットとLSSAHと充分な燃料、弾薬、トラックがあれば勝てる!
112無名武将@お腹せっぷく:2009/07/03(金) 10:46:23
ケ艾の鮮卑移住政策の前ならそこそこ治めやすかったんじゃないかな?
といっても徐バクの例くらいしか知らないが
113無名武将@お腹せっぷく:2009/07/03(金) 18:20:49
孔明が天才だったら成功していた!
114無名武将@お腹せっぷく:2009/07/03(金) 20:55:49
長安って皆さん言うけど、馬超が落とした時もあんまり影響がなかった気がするんですけど・・・
115無名武将@お腹せっぷく:2009/07/03(金) 21:10:11
呂布を味方につければ成功していた
116無名武将@お腹せっぷく:2009/07/03(金) 22:15:26
>>114
潼関
117無名武将@お腹せっぷく:2009/07/03(金) 22:39:59
長安は多分落としてないよな
118無名武将@お腹せっぷく:2009/07/04(土) 15:07:15
姜維きた直後に連弩完成させて北伐用に持って行けたら…
野戦でも強力だしただでさえ少ない兵も減らずに済むし。

特に街亭の時点で使えたら馬謖の失敗も立派な策に、勝った気で麓を占拠した魏軍は翌日にはハリネズミになる?
119無名武将@お腹せっぷく:2009/07/04(土) 16:15:16
装備率が50%くらいあったら出来たかもしれないねwwwww
120無名武将@お腹せっぷく:2009/07/04(土) 17:37:45
国力差から考えて、北伐の目的ってギを攻め滅ぼすより人や物資を略奪することだったのかも。
121Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/05(日) 23:47:00
>>112
基本的に、規模の程度こそあれ異民族は反乱を起こし続けていた。
問題は、それが統御できる規模なのか否かという事だと思うけど、
後の時代の混乱の兆しが見えるのが、泰始年間の大乱だね。
これは、三国時代で言う雍州と涼州の境界辺りが主戦場だった。
ケ艾の統治していた地域と重なっているし、主力が鮮卑というのも、
ケ艾の政策にある程度ウェイトがあるように思える。

ただ、蜀は魏と違い、隴右で異民族の反乱を抱えながら魏と当たる事はできないだろう。
泰始年間の反乱ぐらいの規模では問題外だし、正始年間の規模でも隴右を放棄せざるを得なくなると思う。
どのタイミングだろうと、確固とした異民族対策無しに、蜀が隴右を得るのは不可能だろうね。

>>118
諸葛亮の連弩と言うと、恐らくは元戎になるだろうけど、
あれは十発も同時発射する代物だから、射程や威力は高くないと思うよ。
麓を遠巻きに包囲されたら、いくら高地を占めているとは言え、
相当肉薄しないと敵に損害は与えられないと思う。

それはともかくとしても、姜維が降伏した時点で元戎が完成しても、街亭には間に合わないだろう。
と言うか、街亭の時点で元戎が完成していなかったとは言い切れない。
122無名武将@お腹せっぷく:2009/07/06(月) 00:20:29
>>121
>あれは十発も同時発射する代物だから、射程や威力は高くないと思うよ。
弦の力が同じなら、重い物ほど飛ばない
つまり、通常の10倍の重さの矢1本より
通常の矢10本の方が遠くに飛ぶのでは?

jomi氏理系だよね?
重力ブレーキについてkwsk教えて
123無名武将@お腹せっぷく:2009/07/06(月) 00:24:26
普通の矢1本撃ちと、2本撃ち
後者は前者の半分しか飛ばない?
124無名武将@お腹せっぷく:2009/07/06(月) 01:13:15
連弩がそれほど有効性があるとは思えないんだが・・・・・
所詮三国時代の兵器だしな
125Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/06(月) 01:22:01
>>122
重力はあくまで地表に向って加速度を与えるだけだから、矢の減速には殆ど寄与しないと思うよ。
矢を減速させる最も大きな要因は、空気との粘性抵抗だろう。

あと、重いものほど加速しづらいので、当然重いものほど飛距離は落ちる。
だが、一本の矢と、その1/10の質量の10本の矢では、結局質量は同じ。
弓の蓄えたエネルギーが矢に与えられる際の効率が、1本の場合でも10本の場合でも変わらなかったとしても、
10本の方は1本辺りのエネルギーが1/10になるわけだから、遠くまで飛ぶという道理はないように思える。

初速度が同じであれば、10倍の質量を持つ方が慣性が大きいので減速しづらいだろうけど、
同じ弓を用いながら、10倍の質量の矢に通常の矢と同じだけの初速度は与えられないだろう。
126無名武将@お腹せっぷく:2009/07/06(月) 01:32:12
>>124
レッドクリフに出てきたようなやつなら強そうだけどな
まあその後広まってないようだからもっと使いにくい奴だったのかもしれんが
127無名武将@お腹せっぷく:2009/07/06(月) 16:12:55
連弩が1度に複数の矢を飛ばすものなのかははっきりしない
大型化すれば出来るだろうけど、行軍ルートの都合で大型は考え辛いし
弾倉があって連続発射出来るタイプなら、戦国時代にあったというし、その改良かもしれんし
128無名武将@お腹せっぷく:2009/07/06(月) 19:12:06
三国時代にそこまで技術力があると思えないよ
戦国時代と三国時代じゃまるで技術力が違うし
129122:2009/07/06(月) 20:12:19
>>125
なるほど
じゃ、122は撤回


弓矢の場合(弩含む)

矢が加速度を得られるのは
弦が引き絞られた位置から元の位置に戻るまでの間しかない
また、矢の加速度は空射時の弦のスピードを上回ることはない

質量1の矢10本と質量10の矢1本が弦に掛ける質量は等しい
なので、一纏めに「質量10の矢」とする

質量1の矢と質量10の矢

質量1の物体と質量10の物体を動かすとき
質量10の物体の方が加速が遅い
(理系ではないのでそれ以上のことはよく分からない)

しかし、矢の場合、実射で得られる加速度は
物を引っ張った場合の1:10の比率とは異なると思う

jomi氏のレスがヒントになってひらめいた

「加速する」のは矢だけではなく、元に戻ろうとする弓もではないだろうか

130122:2009/07/06(月) 20:17:44
シンプルに考える

重量が同じくらいなら車はハイパワーなほど加速が速い
物体は動かそうとする力が大きいほど加速も速い


弓を引き絞って、時間を止めて、瞬間を切り取ってしまうとする
(弓が溜めたエネルギーをゼロにしてしまう)

湾曲した弓を元の形に戻すには、単純に考えて弓を引いたのと同じだけのエネルギーが必要

弓を戻す力は変えられないので
矢をつがえると
弓が受ける力は、矢の質量を動かす分だけ引かれることになる

矢が重くなるほど
弓を戻す力が減り
弓が戻るのが遅くなる

弓の戻りが遅くなるということは
弦の戻りも遅くなるということ
ということは矢の加速も遅くなるということ


仮に弓の力を400とする
その場合の空射の弦の加速を、仮に「400」とする(よく分からないので)

質量1の矢をつがえた 弦 の加速は「399」
質量10の矢をつがえた 弦 の加速は「390」

質量1の矢の加速度:質量10の矢の加速度=399:390
矢が軽すぎるようなので重さを増すと
400(空射):395(1本):350(10本)
みたいな比率になるのでは? 

計算はもっと複雑な筈なので、これは正しい計算じゃないけど
要は注目すべきは弓の加速度で
弓の加速度云々に、矢の質量比は呑み込まれて
思ったより差が出ないんじゃないかということ
131無名武将@お腹せっぷく:2009/07/06(月) 21:31:28
第一次北伐の、街亭まで順調だった堅実な侵攻ルートでさえも途中で曹真と決戦した上で
曹叡と連戦しないといけないんだよなあ…
132130:2009/07/06(月) 22:38:26
×矢が軽すぎるようなので重さを増すと
○係数(計算式)を掛けると
133Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/06(月) 23:12:05
>>130
よく話が理解できない。
普通にバネ質量系でモデル化して運動方程式立てるとか、
或いはバネのポテンシャルエネルギーと、矢と弦の運動エネルギーの釣り合いから考えりゃいいんじゃないの?

つか、その考え方だと、弓っていうのは蓄えたエネルギーの大半を弦に持ってかれる
恐ろしく非効率な兵器という事になってしまうのではないか?

>>131
加えて、時間を掛けると曹真と曹叡の戦力が合流してしまうという点もある。
彼らと決戦を行うにしても、隴西まで誘き出してからの方が良いだろうね。
134130:2009/07/06(月) 23:28:13
>>133
考え方としては
「矢の加速度」というものは存在しない

弓の弧の加速度に従う弦の加速度に
矢は従う

矢は弓にとって錘

という考え方

これに梃子の原理(滑車の原理といった方が分かり易いかも)
を掛けたものじゃないかと思う
135無名武将@お腹せっぷく:2009/07/06(月) 23:41:01
曹真、曹叡と決戦するにしても長期戦は必至だから兵站が持たんだろうね
136130:2009/07/06(月) 23:53:29
>これに梃子の原理(滑車の原理といった方が分かり易いかも)
>を掛けたものじゃないかと思う
弧の移動距離と弦の移動距離の比が、スピードの比になる
弦の方が弧より速い → 矢は速い
137Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/07(火) 00:03:00
>>134
それで、エネルギーはどうやり取りされるんだ?
質量を5倍にしようと10倍にしようと、矢の初速度が殆ど変わらないとすれば、
矢が得るエネルギーは矢の質量が大きくなるに従って大きくなるの?
それは感覚的にも、物理的にもおかしくないか?

何もつがえずに弓を放てば、弦はその固有振動数で振動するだけだろう。
その間に種々の抵抗によって減衰し、ある時間で停止する。
矢をつがえる事で、弦の振動が持つエネルギーが矢に受け渡されて、
矢は弓の蓄えていたエネルギーの内、一定の割合を受けとり、
それが矢の運動エネルギーに変換されて、矢はある速度を持って弓を離れる。
矢が受け取るエネルギーは、その質量がどうあれ一定だから、
質量が10倍になれば、矢の初速度は1/10になるはず。
138無名武将@お腹せっぷく:2009/07/07(火) 00:04:03
そのために隴西の素早い占拠で基地化で、逆に魏が遠征の不利を背負い込む形にするものだったんでしょ
139130:2009/07/07(火) 00:04:05

弓の弧の先に錘をつけると弓の戻りは鈍くなる

もし矢が固定された錘ならそれに同じ

矢は固定されないので弓が戻ったときブレーキが利かず
すっ飛んでいく
という感じかな
140130:2009/07/07(火) 00:07:16
弦は伸縮しない(厳密には違うが)
弧がしなる

だから弦の振動という感じじゃなくて
弦の移動だと思う
141無名武将@お腹せっぷく:2009/07/07(火) 00:10:05
曹叡まで長期間遠征となると、魏側もそんなに余裕かましてられるとは限らんしな
大博打なんだろうが、諸葛亮が曹叡まで誘い出したという構図なのかもしれない
142130:2009/07/07(火) 00:18:58
例えば
10gの物を持って腕を振り上げたときと
100gの物を持って腕を振り上げたとき

速さは10倍も違うだろうか?
違わないでしょ
143Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/07(火) 00:26:43
>>142
どうやら思考の仕方が俺とは違うようなので、この話は切り上げよう。
さすがにスレ違いだし。

>>141
それはあるかも分からんね。
231年に司馬懿が隴西に出た時も、その軍糧は欠乏し、羌胡の供出に頼らねばならなかった。
隴西の内、二郡が寝返った状況、更に諸葛亮がその他の軍も制圧してたとすれば、
いくら曹叡が大軍を率いて隴西に出たとしても、短期間の内に窮乏するようになる。
敵が窮乏すれば勝機はあるし、敵が隴西に出なければ隴西の切り取りは為し得るだろう。
隴西を得るという事で言えば、張郃を破った時点である程度の勝算はありそうだ。
144Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/07(火) 00:39:37
間違えたな。
エネルギーで考えると、0.5*m*v^2∝0.5*k*x^2
だから、質量が10倍になっても、初速度は(1/10)^0.5倍だね。
145無名武将@お腹せっぷく:2009/07/07(火) 00:42:39
>>143
それと、主君が消えた河南・河北や揚州方面がきな臭くなる可能性があるよね
曹叡の出陣は英断だけど危険なバクチでもあったんじゃないかと思う
146130:2009/07/07(火) 00:53:21
俺とjomi氏の違いは
弓の弧の重さを入れるかどうかだね

弧の重さを100として

(単純計算)
1の矢をつがえた場合 アーム全体の重さは101
10の矢をつがえた場合 アーム全体の重さは110
147130:2009/07/07(火) 00:56:23
矢の重さの影響は全体として考えると小さくなるということ
148130:2009/07/07(火) 01:00:47
まぁ、弧の重さに矢の重さを入れて
アーム(弧)の加速度を計るという方だけど
149130:2009/07/07(火) 01:07:52
アームの重さは矢の100倍もないだろうけど
150無名武将@お腹せっぷく:2009/07/07(火) 19:43:54
俺は連弩に興味在るし良い機会だと思うから詰めてみたいんだが


>>137
弦の振動の件

弦が振動するのは高速で移動していた弦が急停止し、
その衝撃を体を震わせることで分散消費しようとしてのことじゃないかな
衝撃を生み出す元となる質量は、弦の質量なのでは?
なので、矢を定位置に置き、戻ってきた弦を当ててその衝撃で矢を飛ばすということなら
成り立つと思うが、そうではないのだから当て嵌まらないんじゃないの?


ということで、頭を真っ新にして考えてほしいんだけど
151無名武将@お腹せっぷく:2009/07/07(火) 19:53:31
矢が飛んでいくのは、弦に前に押され、勢いを得たから
弦の頂点が前に移動するのは、両側から弓に引っ張られ、弦が真っ直ぐになろうとするから
弓が弦を引っ張るのは、湾曲した弓が元の形に戻ろうと
弓の端同士が円軌道で外側に離れていくから

矢の速さは、弦が伸びる物でない限り
弓の形状が元に戻る速さに移動距離の比を掛けたものとなる



速度とは距離÷時間

矢の初速度は弦の頂点(矢と弦の接点)の移動した距離を時間で割ると出る
弦が移動した時間は弓が元の形に戻った時間とイコール
なので弓の先端(糸を結んでいるポイント)が移動した距離と弦の頂点が移動した距離の比が
弓と矢の速度の比になる
およそ2.5〜3倍、矢が速い
(コンパスと定規で大雑把に描いた図なので、しなりは考慮していない。
正確に書ければもっと正確に分かる)




エネルギーのやり取りの件だけど
いざ飛びださんとする矢のエネルギーは質量×速さ×速さ
速さを矢に与えることが出来ればいいわけだ
速さは弓が矢を引っ張ることで与えられる
矢の速さは弓の弧の戻る速さが生み出す


で、ここでやっと質量と加速度の話になるんじゃないかな
152無名武将@お腹せっぷく:2009/07/07(火) 20:11:36
矢の質量は、見方を変えれば、弦の質量となる
弦の質量は、見方を変えれば、弓のアームの質量となる

矢の質量の増減は
弓のアームの質量の増減となる

誰もが経験で知ってると思うが
棒を振るとき、軽い棒ほど速く振れる
重い棒は遅い

最終的にはこれが矢の速度差になる
153無名武将@お腹せっぷく:2009/07/07(火) 20:17:50
弓のアームの加速度を測るとき
アーム自体の質量も考えなければならない(弦含め)

荷物の矢の質量が10倍になっても

アームの自重+1の矢:アームの自重+10の矢 

という風になるはず
154無名武将@お腹せっぷく:2009/07/07(火) 20:20:57
矢の質量は、アームは上下2本なので1/2で計算
155無名武将@お腹せっぷく:2009/07/07(火) 20:40:39
これって科学の問題だから議論するような話なの?
俺はこう思うとかそういう類の話なのでは無いのではないだろうか。
156Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/07(火) 22:58:44
どうやら続ける事を希望しているようなので、少し真面目に考えよう。

んで、>>146を見ると、ようやく違いが分かり、俺がモデルを単純にし過ぎているという点に行き着く。
アキレスと亀のような哲学的な話をされていると思い込み、俺がまともに取り合ってなかったようだ。
すまない。

さて、それでモデルを修正して考えると、単なるバネマス系ではなく、剛体バネで考える事になる。
或いは、単純支持はりでモデル化しても良いけど、定性的な事なら剛体バネでいいと思う。
バネ(この場合は弓)の質量をm1とし、矢の質量をm2とする。
書くのが面倒なので計算を省くと、最終的に、この振動系は、
質量0のバネに(m2+m1/3)の質量が付いたものと同じになる。
等価質量という考え方ね。

少し単純に考え、等価質量から得られた系の等価モデルで
運動方程式を立て、適当に加速度aについて解くと、
a=-k/(m2+m1/3)*x
になり、これをxについて、ストローク-Xから0まで積分すると初速度になる。
(m2+m1/3)の部分は積分しても変わらないので、初速度にはそのまま効いてくる。

仮に元戎の矢が鋳鉄でできており、外径1cm、内径0.8cmの円筒とすると、その質量は約37gとなる。
10本を発射するとして370g、弓の質量を3kgとすれば、等価質量は1kgとなる。
つまり、元戎で矢を1本発射する場合と10本発射する場合を比較すると、初速度は、
(0.37+1):(0.037+1)となり、10本発射する場合、1本の時の75%の初速度を得る事になる。
しかし、機構の複雑さから矢の本数が多くなると抵抗が大きくなるので、実際は75%よりは低いだろう。
157無名武将@お腹せっぷく:2009/07/08(水) 20:08:59
張コウを破った戦いと言うと木門だろうか、あれは蜀側の資料にも勝利した、
とは書いてないから痛みわけだった可能性もあるのではないかな。その前の
陳倉の戦いの時は退却時に追撃してきた王双を「破り」切り殺した、と記述
しているように、陳寿の筆法で言えば、追撃してきた魏軍を破っているので
あればはっきりそう書くはず。

しかし蜀側の資料のどこにも破って射殺したとは書いていないこと、そして
資料的価値は低いとは言え、晋書側で司馬懿側が大勝したとあることから、
鵜呑みは出来ないにしても追撃戦は痛み分けだった可能性があると思います。

兵力的な問題で言えば、魏と言えど人口面の問題から支配全域を満たすだけ
の兵力を維持し続けることは不可能だっただろうから(そこで兵力を集中的
に運用するために司馬懿や 張コウは対蜀、対呉方面と忙しく異動していたの
ではないかと思います。曹操の親征が多かったのも人口問題が大きかったの
ではないでしょうか)そういう意味では蜀の北伐はむしろ相手を弱体させる
チャンスと睨んでた様にも思えますね。

この辺りはさながら狐と狸の化かし合いですな。

ただ蜀と呉への親征を見る限りでは曹叡の判断力は見事としか言い様がなく、
諸葛亮にとってはチャンスであると同時に危険な状況でもあったと言えるで
しょうね。
158無名武将@お腹せっぷく:2009/07/08(水) 21:15:18
>>156
質問
>弓の質量を3kgとすれば、等価質量は1kgとなる
これはどういうこと?
159Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/09(木) 00:34:43
>>158
弓全体をある質量を持つバネと見た場合の振動系と、
質量のないバネにある質量を持つ重りを吊るした振動系を比較した場合に、
バネの質量の三分の一を重りの質量に加え、それが質量のないバネに接続されている振動系と等しくなる。

物理的に言うと、
弦も含めた弓全体を、質量m1を持つ一つの大きなバネと見た場合、
矢はある質量m2を持って、そのバネに吊るされた重りと考えれば良い。

この時、弦(或いは弓)のストロークをXとし、矢がαsin(ωt)の振動をして、
バネの各点の振幅と、バネ端に接続された矢の振幅αとの関係がバネの静たわみの関係と同じであると仮定すると、
ある点xの振幅は、a*(x/X)となる。
その場合に、振動系の運動エネルギーの最大値を求めると、(α*ω)^2*[m2+m1*(1/3)]となる。

質量0のバネに質量Mの重りが吊るされている振動系の運動エネルギーの最大値は、
(α*ω)^2*Mなので、M=[m2+m1*(1/3)]となる。
つまり、バネの質量の三分の一を、重りに加えたバネマス系の振動が、
バネの質量を考慮した振動系と等価であるという事が分かる。


簡単に言うと、弓の質量の三分の一を矢の質量に加えれば、弓の質量を考えなくて済むという事。
160Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/09(木) 00:35:41
中段のaはαの事ね。
161無名武将@お腹せっぷく:2009/07/09(木) 00:36:12
いつまで続けてんだよ
クロスボウというか現代ボウガンならどっかに運動エネルギー計算したのがあるんじゃねーの?
162無名武将@お腹せっぷく:2009/07/09(木) 19:53:28
>>157


諸葛亮伝

九年、亮は再び祁山に出兵した。そのとき木牛で物資を運んだ。
司馬懿を大いに破ったが、またも食糧が尽きて撤退した。
追撃してきた張コウを待ち受け、コウを射殺した。


こうだと印象が変わる

違うのは
「司馬懿を大いに破った」があることと
「交戦した」が「追撃してきた〜を待ち受けた」になったこと

「交戦」と「待ち受け」
言葉の使い方ひとつで印象が変わる
木門の戦いは「待ち受け」のほうが相応しいと思う


陳寿は司馬氏に憚って司馬懿の汚点となるような書き方は出来なかったんじゃないかな
163無名武将@お腹せっぷく:2009/07/09(木) 20:49:40
痛み分けだと言うなら、李平の弾劾の時とかになんか言われたりしたんじゃないの?
あとは撤退時に輜重破棄しただの、降格人事があっただの
引き籠もり続け、攻撃したら返り討ちにあって、
ちょっと焦った司馬懿がらしからぬ追撃命令出しちゃったでスジは通るじゃん
164無名武将@お腹せっぷく:2009/07/09(木) 21:52:22
籠城を引きこもりとか言わないよ・・・・・
165無名武将@お腹せっぷく:2009/07/10(金) 07:34:59
いや、ちくまの諸葛亮伝ですら「張コウと交戦し、射殺した」としかかかれてない。
待ち受けて云々はあくまでも注釈の方でしかないのではないでしょうか。

北伐軍は諸葛亮が把握していた以上、実際にその内実を見ていない李平がどうこう
は言えないんではないでしょうか。勝ち戦でもある程度の被害は出るのですから。
見てもいないのに何が分かる、で蹴られて終わりですよ。
166無名武将@お腹せっぷく:2009/07/10(金) 19:53:33
陳寿の書き方に問題があるってこと

>>162は訳し方じゃなく書かれ方の話

正史諸葛亮伝の原文はこう

九年,亮復出祁山,以木牛運,糧盡退軍,與魏將張郃交戰,射殺郃。

これを誰が読んでも
「司馬懿を大いに破った〜」
「追撃してきた〜を待ち受けた」
にはならない

が、実際のとこ待ち受けじゃないかな
167無名武将@お腹せっぷく:2009/07/10(金) 21:14:50
敗走してる訳じゃねーし、追撃の警戒くらいはしてんだろ
168無名武将@お腹せっぷく:2009/07/10(金) 21:39:52
敗走でも追撃はを当然警戒するだろう
しかし備えができないからやられることが多い

備えの有無が分けるんじゃないか?
169無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 09:21:14
諸葛亮が追撃の可能性を考え備えをしていた可能性はもちろん高いですが、それ
と同時に張コウも、例えば街亭の際に伏兵の可能性を考えて、王平を敢えて追撃
しなかったようにただの猪武者ではない。

張コウが軍略に優れていることは陳寿もワザワザ書いていますし、他の書物から
の引用でも伏兵の可能性や備えがある可能性を張コウは認識していたことが伺え
ます。

そういった状況を潜り抜け、伏兵で張コウを射殺したのならば諸葛亮評で応変の
才略云々とも言わないでしょうし、この部分の戦勝内容をもっと詳細に書いてた
としてもおかしくはない。

そういったことが一切されてないと言う意味で伏兵が射殺した、とは単純に考え
づらく、伏兵よりは交戦中の流れ矢が張コウの腿に当たって負傷→それを機に魏軍
退却、蜀軍も兵糧が無いので同じように退却→腿近くの血管が傷付いた張コウは
失血死、と言う流れがあったのではないでしょうか。

個人的な意見ですが、張コウの死に方はむしろホウ統の様な事故に近い状態だった
のではないかな、と思うのです。
170無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 11:32:00
張?
171無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 11:34:48
魏書張合β伝の魏略だとはっきり伏兵と書いてあるね。

諸葛亮複出祁山
【訳】(231年)諸葛亮が復たもや祁山から出てきた。

詔合β督諸將西至略陽
【訳】詔勅によって張?は諸将を率いて西進し略陽へ至った。

亮還保祁山
【訳】諸葛亮は祁山を保つために軍を還した。

合β追至木門 與亮軍交戰
【訳】張合βは追撃して木門へ至り、諸葛亮の軍と交戦した。

飛矢中合β右膝 薨
【訳】飛矢は張?の右膝に中って、張?は死んだ。

諡曰壯侯 子雄嗣。
諡を壮侯という。子の張雄が嗣いだ。

魏略曰 亮軍退 司馬宣王使?追之
【訳】『魏略』によれば諸葛亮が撤退したとき、司馬懿は張合βに追撃を命令した。

合β曰「軍法 圍城必開出路 歸軍勿追。」
【訳】張合βは反論した「兵法によれば、城を囲むときは必ず逃げ道を開けておく。
帰りの軍は追ってはならぬとあります。」

宣王不聽
【訳】しかし、司馬懿は聞き入れなかった。

合β不得已遂進
【訳】張?はやむを得ず、遂に進軍した。

蜀軍乘高布伏弓弩亂髮 矢中?髀
【訳】蜀軍は高地に登って軍を伏せ弓弩を離髪(乱射)した。矢は張合βの腿に中った。
172無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 11:41:14
うん?つまりチョウコウは追っちゃダメだよー言うたのに
司馬懿が無理矢理追わせてチョウコウ死んでもーたってこと?
173無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 12:37:34
>>172
そういうこと。
河内の名門司馬氏は、黄巾の乱の際に河北へ移住し、北海地方の豪族と結びついた。
かつて、曹操政権は、曹操直属の将軍団と荀ケ抜擢の文官団が中心となって運営されていた。
曹操政権立ち上げ時に活躍した荀ケが憤死した後も、同郷で娘婿の陳羣や、鍾ヨウに代表される頴川閥によって曹操政権が運営された。
魏王即位の際に、崔王炎が殺されると、北海閥は華キンと王朗が主導して、頴川閥との水面下での政治の主導権争いが繰り広げられる。
司馬懿は、この頴川閥と北海閥の間をうまく立ち回ることによって曹魏においての地位を確立していく。
文帝期を経て明帝期には陳羣も鐘ヨウを既に、死に子が後を継いだが、彼らはまだ若く、権力を持っていなかった。
また、北海閥も王朗・華キン死後、目だった動きは無く、司馬懿が抜擢した王基が北海閥内で地位を築いていた。
結局、頴川閥と北海閥との争いは、河内の司馬氏に政権運営上の権力が集中する結果に集約されていく。
--------------------------------ここまでが前振り--------------------------------------------------
一方軍事に目を向ければ、夏侯惇、夏侯淵、曹仁、曹休、曹休、楽進、于禁、徐晃、張遼など曹操期に仕えた曹魏股肱の将軍はほぼ全て、
死んでおり、唯一武帝直属の将軍の生き残りとして信望を集めていたのが、車騎将軍領関中諸軍事として雍州・涼州方面で、政治軍事を
預かっていた張合βであった。既に荊州を預かり、曹魏の中枢たる華北と司州で隠然たる影響を誇っていた司馬氏が次に狙いを定めたのは
関中方面で影響力を持つことであった。司馬懿にとって幸運だったのは、僻地に追いやられた劉備軍の残党である諸葛亮が連年関中に
侵入していたことであった。司馬懿は大将軍大都督となり張合βに命令できる立場に昇進すると諸葛亮との決戦に赴く。
狙いは、張合βの抹殺及び関中地方を司馬氏の勢力下に置くこと。司馬懿の目論見は見事に成功し、これ以降関中は親司馬派の
郭淮によって統治されていくことになる。





174無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 12:45:37
かいつまんでいうと、この時期の魏で権力を掌握するには
軍事力だけでもNG,政治力だけでもNGで文武両方に置いて才能を持つ必要があった。
その意味において、張合βは司馬懿の地位を脅かすことができる唯一の存在だったわけよ。
175無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 12:48:36
でも俺は魏書はロクに読んでいないので、あきらかな間違いは諸先輩方に訂正をお願いする立場なのである。
176無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 13:01:14
指揮官がいなくて諸葛亮は魏延を処断できなかったというのに
権力争いのために呉蜀との戦争中に平気で有力な将軍を謀殺する司馬懿ときたら……。
177無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 16:25:47
>河内の名門司馬氏は、黄巾の乱の際に河北へ移住し、北海地方の豪族と結びついた。
これってどこに書いてあるんだろ?

大胆な推論でおもしろいけど、個人的には引っかかるところが多いな。
王基は北海ではなくて東莱だし・・・というか
そもそも華歆は平原だし、王朗は東海だし。
178無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 17:01:05
しかし劉備の入蜀も諸葛亮の北伐も視点変えるとアレな話になるなw
179無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 17:43:23
糞三戦
180無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 17:52:07
岡本マヨが好きな人が集まるスレだと聞いたんですがここでいいんですか
181無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 18:24:14
>>177
どこにも書いてない。司馬朗の伝からの推測。
北海は北海でも川藤なんとかが提唱していた北海グループの北海。
なぜ北海なのかは論文読んでないのでわからん。
182無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 18:43:42
こうして推論を重ねるけど、歴史上の人物が実はそこまで深く考えないで
決断してる可能性もあるんだよなあ…
ただ流石に孔明や魏延はそれぞれの目的地を持っていただろうけど
183無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 18:57:53
確かに張合βは放っておいても、子供の代になればなんとかできただろうから、邪魔だとは感じていても敢えて排除しようとは思わなかったかもね。
追撃を命令して、しんでくれればもうけもんみたいなもんだな。
184無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 18:59:19
でも曹叡が死ぬときも健在だったら、後見を頼まれたかもしれないから、そうなるとやっかいか。
185無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 19:28:12
>>169
とりあえずこれ読んで
http://www.t3.rim.or.jp/~miukun/end%20of%20sangoku%20wei.htm#(3)皇帝が謀反を起こして誅殺された話

186無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 19:50:32
司馬氏の台頭は幼帝の即位が大きな条件。
曹叡が若死にしなかったら張コウの生き死になんて関係ない。
曹叡が死んだ時のために張コウを殺しておくなんて・・・
そんなこと言ったら他に殺さんにゃならん奴がいっぱい出てくるよ。
それこそ曹爽がいるし。
それに張コウが派閥的なものを持っていたとか、名声を集めていたという話もないし
張コウ自身も後継者に恵まれていない。
さらに、張コウを死なせることで司馬懿の評価も落ちる。
187無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 20:08:03
>>181
むしろ司馬朗はどこにも移住しなかったように読めるんだが。
仮に移住したとしても、北海と特定する理由が分からない。
あと、郭淮が親司馬懿という根拠も分からない。
188185:2009/07/11(土) 20:17:59
陳寿は司馬氏のことを悪く書けない
追撃の詳細を書けば司馬懿にキズがつくからゆるされない

魏略は蜀に関しては貶める記述が目立つから
魏略の蜀に関する否定的な記述は信用できないが、
その魏略が伏兵のことを書いている
魏略の著者の魚豢は劉表と面識があるような世代の人間で、
陳寿のように司馬氏に憚る必要がなかった
その点、司馬氏に関しては正史より魏略の方が信用できる


個人的には
晋書宣帝紀の「追撃して捕虜にしたり殺した兵は1万人」というのはウソだと思う
五丈原での諸葛亮の司馬懿に対する自信、司馬懿の自信の無さ
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の追撃時の司馬懿の態度
どう見ても「前回いい勝負した」という風には見えない、明らかに孔明を怖れてる

明帝紀「秋七月丙子,以亮退走,封爵増位各有差」
これは曹叡伝の第4次の記述
「封爵増位各有差」これって不自然じゃない?
わざわざ書かなくても差があるのは常じゃないかな?
これも“陳寿の行間”じゃないかなと思う
つまり、司馬懿はダメだったって暗に言ってるんじゃないだろうか
189185:2009/07/11(土) 20:46:23
諸葛亮評で応変の才略云々
これは「北伐が成功しなかったのは…」という陳寿の推測

陳寿が正史を書いているとき、ちょうど馬隆が反乱した涼州を平定している
この馬隆が奇策を沢山用いている
馬隆が涼州を平定できたのは応変の将略に富んでいたからなのは間違いない

陳寿は馬隆の件が頭にあったんじゃないかな

陳寿は諸葛亮が北伐を成功できなかった理由を馬隆の例に勝手に求めた
ゆえの言葉だと思う
190無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 20:54:01
寒門の張郃が後見を頼まれる可能性は低い、息子の記録すらないし
どちらかというと交渉能力がある郭淮の出世の機会が増えて競争相手になりかねん
彼には親司馬という記録がない、夏侯氏との折り合いは淵の件の為か悪いが
王凌ネタで状況によってはどちらに動いていたか判らんよ

ついでに司馬懿は太子中庶子として曹丕の太子時代から補佐してきた
この積み重ねによる信任が大きいあと太子四友ね…朱鑠は微妙な扱いだけど

それはそうとそろそろ>>173は「司馬イがいなくても北伐失敗してたんじゃね?」
http://ex24.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1240293621/スレに帰レ
マルチポストで自論展開スナ
191無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 21:05:22
>>188
格差をつけて封爵を与えた、という記述は正史のあちこちにあるので
この記述にだけ行間を見出すのは難しいな。
192無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 21:07:28
>>189
それでは、185的には諸葛亮が北伐を成功させられなかった理由を、
諸葛亮のどんな能力の不足に求めるわけ?
193185:2009/07/11(土) 21:10:54
正確には
「連年、兵を動かして北伐が成功しなかったのは、おそらく応変の将略は、その長ずる所ではなかったのではあるまいか」ね

「応変の将略があったら絶対成功した
つまり成功しなかった諸葛亮には応変の将略がなかったんだ」
と言わんばかり

それは論理的に真ではない

陳寿の評には根拠がないんだ
194185:2009/07/11(土) 21:16:16
>>191
そうだっけ? 確認してくる 何伝?

>>192
運と理想の高さ
195185:2009/07/11(土) 21:18:12
運の無さと理想の高さで、成功せず
196無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 21:19:26
>>193
陳寿の論拠は別にいいんだけど。185の意見が聞きたいだけ。スレタイ的に。

まあ俺としては三国志と晋書で北伐の展開を追うかぎり、陳寿の評が卓越したものだと
考えてるけどね。短中期的な交戦戦力でほぼ五分を投入し、戦略面では優位を構築する能力がありながら、
ついに勝ちを得ることが出来なかった。負けなかったことから統率力の不足ではない。
197185:2009/07/11(土) 21:23:25
>>196
193書いてるとき192見てなかった

陳寿はテキトーだと思う
198無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 21:28:07
陳寿は蜀漢末期と晋に仕え、当時無数の諸葛亮評に接してきただろう人間だぞ
毀誉褒貶の激しさは現代などと比べ物にならないだろう。
その中で諸葛氏集を編纂した史家だ。
それが論の正しさを保障するものではないが、適当ってことは有り得ないだろうな。
199185:2009/07/11(土) 21:31:15
費禕、姜維に対して曰く「我々の力は丞相(諸葛亮)に遥かに及ばない。その丞相でさえ中原を定めることが出来なかった。まして我々に至っては問題にならない。」

諸葛亮が陳寿でさえ見抜けるような欠点を抱えていたとしたら
費禕の口からこんな台詞はでないだろう
200無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 21:34:43
201無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 21:37:27
見抜けるっておい

陳寿は歴史上の人物として諸葛亮を評価している。史料と分析力さえあれば、欠点を指摘することは誰にでもできる。凡人の俺らにも。
費イは北伐戦略の是非を自分自身で決定・実行せねばならない地位にあった。
仮に費イが、諸葛亮がかつて失敗した要因を完璧に分析していたとしても、それを補う能力が自分達に無く、
諸葛亮の域へ到達さえ出来ないと自覚していたのなら、「遥かに及ばない」というのは正しい自己評価になる。俺だって多分同じように言う。
202無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 21:40:40
陳寿の諸葛亮評価は、諸葛亮を貶めるものではないよね。
諸葛亮ほどの人が成功しなかったのは何故かなぁ、応変の将略がなかったということかなぁ、
程度のことでしょ。
それに、応変の将略がなかったのか、それとも、応変の将略を用いなかったのか、という問題もある。
203185:2009/07/11(土) 21:45:44
>>200
ありがとう あとで検討してみる

>>201
陳寿は理由を挙げていない 根拠のない予想を言っただけ
費禕や姜維は諸葛亮を間近で見てきている
費禕や姜維の言の方が重みがある
今時間ないんでまた明日

204無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 21:55:49
予想って…
費イの言に重みがあるのは間違いないが、そこは北伐がかつて成功しなかった要因を姜維と討論している箇所じゃない。
そこで諸葛亮の欠点を論じだしたら文脈がおかしいだろうに。
だいたい、費イの言に重きを置くならば、北伐成功の是非を運や国力差ではなく当事者の能力問題で説明していることに注目すべきだろう。
それでも牽強付会だと思うけどね。
んで、別に続かなくていいよ。日を跨いでまで話すようなことじゃない。
205無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 22:36:20
とりあえず五虎将とホウ統、法正が生きてれば何とかなったんじゃないかな。
孔明は内政に徹して軍師の方はホウ統と法正にお任せしたらいい。
孔明は軍率いるの慣れてないんだから内に引っ込めとかなきゃ。
外に出すのは外交の時くらい。
でもそうしたら姜維は仲間にならなかっただろうけど。
206無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 22:39:31
>>205
得々と語った最後に「仲間」とか言われてもな
207無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 22:41:51
結局、最終的に落ち着くところは「龐統と法正が生きていれば」という話なんだよなw
208無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 22:47:01
>>188
「死せる孔明、生ける仲達を走らす」は「前回諸葛亮が大勝した」と書いたのと同じ漢晋春秋だからね。
自分も晋書宣帝紀の記述は怪しいと思うけど漢晋春秋のほうも十分に怪しいよ。
209無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 22:48:31
法正:参謀として劉備を補佐した
ホウ統:劉備の下で軍を統率した
諸葛亮:張飛・趙雲と手分けして蜀の各県を平定した

統率力が一番優れているのは誰?
210無名武将@お腹せっぷく:2009/07/11(土) 23:42:47
曹真軍を完全に主戦場から切り離した
順調に敵地を制圧して周り、魏の辺境軍を追い詰めていた
張コウ来襲にも迅速に対応し、迎撃態勢を整えた


これだけやっても1回負けただけで全部崩壊するんじゃ、誰がやってもダメだろ。
211185:2009/07/12(日) 00:34:24
>>204
意味が分からん
誤読してないか?



「丞相でも無理だったんだから」という言葉は
“北伐には応変の将略が重要で、諸葛亮はそれを持っていなかった”という認識をしている人間からは
まず出ないだろう


費禕や姜維は
“北伐には応変の将略が重要で、諸葛亮はそれを持っていなかった”という認識をしていない

陳寿は
“北伐には応変の将略が重要で、諸葛亮はそれを持っていなかった”
と言っているも同じ


費禕・姜維>陳寿
ならば答えは出てる
212185:2009/07/12(日) 00:38:55
>>208
正史がそれを書けないのは先述の通り
司馬懿のことだから
213無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 00:47:23
>>209
孔明
214無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 00:48:36
正史って意外なところで肝心な事書いてないよね。
長安周辺なんて、いつのまに曹魏政権の支配化に入ってたんだよwwwって話だし。
その割にどーでもいいような公孫淵討伐なんかはバッチリ。
215無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 01:07:32
>“北伐には応変の将略が重要で、
軍事において、応変の将略なんてものは総司令官に必要な要素の二の次三の次以下。そんなものだけいくら豊富でも兵士は漢中から一歩も外へ出られないぞ
軍事観自体が食い違ってるんだから話が合う筈が無い。もういいよ
216無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 01:17:00
食い違っているのは軍事観じゃないぞ
217無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 01:18:02
215は何の話をしてるんだ?
218無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 01:21:08
陳寿の軍事認識について論じてる奴と、185の軍事認識について論じてる
奴が議論したってムダだわな
219無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 01:27:55
>>214
戦国大名じゃないんだから。
権力関係は多層的だし、分かりにくくて当たり前。
220無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 01:28:32
185の軍事認識というのは215だけに見える幻
221無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 01:36:41
じゃあ定義がめんどい「応変の将略」についてはいいや。陳寿の諸葛亮観をもっとシンプルに現す言葉として、
「亮の器政理を能くし(略)、時の名將に城父、韓信は無く」という言葉がある。
諸葛亮は政事において様々な手腕を見せ、その結果十数万の大軍を北伐に投入したことも本伝に記載があるが、
「名将」としての能力が欠けていたので勝てなかった。
俺やあんたの「軍事観」を削除してみてみると、これが陳寿の評。
真かどうかは別として、根拠もあるしテキトーな文言でもない。おk?
222無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 01:39:00
いいからお互いが言いたいことを纏めてくれ、お前ら何の議論してるんだよ?
223無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 01:59:44
陳寿の負け惜しみだったんじゃね?

必ずしも戦術指揮が一流とは言えない諸葛亮。

その程度を相手に引き篭もり戦法に徹してやっと勝った司馬懿って大した事ないよね。

m9(^Д^) オマエノジイサン プギャー
224無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 03:38:06
>>214
おかげで後三国志なんて小説も出たのでOK
225無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 04:25:56
>>212
正史が書けないからといって漢晋春秋が正しいことにはならないだろ。
三国志や晋書を懐疑的な目で見るのはいいと思うが
自分の説に都合のいいものも懐疑的に見れてる?
漢晋春秋は蜀漢正統論を唱え後出師の表とか七縱七禽を載せてる書物だよ?
226無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 05:21:35
筆者の立場から言えば、晋書も司馬氏に気兼ねをする立場ではない。
全体的に玉石混交なので信憑性が低い、とは言われているが、
少なくとも意図的に司馬懿らの功績を誇張して書く理由は無い。
司馬懿の対諸葛亮戦での八面六臂っぷりは、印象だけで見れば
怪しいところが多いように感じられるが、印象だけで判断はできない。
他ならぬ諸葛亮自身の言葉として、「野戦なら俺が勝つ」という
通説を支える最も有力な記述が採用されているのも晋書宣帝紀だ。
227無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 09:48:43
>>225
漢晋春秋は蜀と晋を正統としているから、司馬氏についてはどういう立場から書いているか検討が必要かもな
228無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 10:32:00
>>221
で、やっぱりテキトーだと思うよ
陳寿の言葉に根拠はないだろ?

あるなら挙げてみて
229無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 10:38:17
>>225
晋書を見ても「司馬懿が追撃を取りやめた」のは事実だろう

七縱七禽も馬謖伝にそれを思わせる記述がある

>漢晋春秋は蜀漢正統論を唱え
それのどこが悪い?
殆どの史書は自勢力を正統的に見ているんじゃないかな?
蜀漢正統論はなんら漢晋春秋の信用度を落とすものではないよ
230無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 10:49:44
>>226
>筆者の立場から言えば、晋書も司馬氏に気兼ねをする立場ではない。
晋書も何かしらの史料をもとに書かれている
その史料が司馬懿を礼賛しているのならそれを採用する以外すべがない
231無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 14:30:26
>>227
第四次北伐の漢晋春秋の記述は司馬氏にも配慮した書き方だね。

>>229
晋書宣帝紀には「帝以窮寇不之逼」の記述があり
明らかに孔明を怖れてるという風には見えない。
馬謖伝注の襄陽記は「故終亮之世南方不敢複反」と明らかに間違った記述があるし
漢晋春秋と作者が同じ。

漢晋春秋もバイアスがかかっていることを踏まえて読んでいるなら何も悪くないよ。
232無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 20:13:20
まぁ、晋書は一方的に司馬懿を賞賛はしてないからね。遼東遠征で15歳以上の
男子の首を切り落とし、京観を築いた(凄い規模の首塚みたいなもん?)ことに
対して、

「王朝の始祖たる人物が、徒に大量の血を流したことが、ひいては子々孫々に報い
となって降りかかったのだ」とばっさり切り捨てたりもしている。

また司馬懿の諸葛亮に対する評価で、謀多くて決しなし、と言う評価もあるが、
これも陳寿の評価も考えると一考の余地はあるでしょうね。

晋書の場合、内容が玉石混合だから最初から信用ならんと言うので無く、きちん
と吟味していく必要がある、と言うことでしょうね。

そういう意味では非常に厄介な資料。

張コウに関しては年齢的(231年の段階では恐らく70前後)な問題といくら
有能な人物を学者として推薦していたりしたとしても、元々が武官の立場だから、
司馬懿の立場を脅かす、とまでは行かないでしょうね。むしろ武官出身であそこ
まで行ったのが魏としては稀有と言った方がいいでしょうね。

まぁ、字のつけ方とか考えると元々学者肌の家系だったのかもしれませんが。

諸葛亮の場合、北伐を成功させるための必要条件として、どこまで権利を委譲
してやることができるか、が一番のキーになるんじゃないでしょうか。ホウ統
や法正が生きていたとして、彼らが閑職に回されていたら結局は同じこと。

リョウ立や李厳と同じ運命をたどっていた可能性はあると思いますね。
233無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 20:42:15
張コウは曹丕のお気に入りだったんだろうけど、曹丕死後も別に権勢が弱くなったとかないよね
234無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 20:42:29
というか、ホウ統や法正に与える兵力がそもそもない。
235無名武将@お腹せっぷく:2009/07/12(日) 20:48:10
>>231
>「帝以窮寇不之逼」
それは魏延と楊儀の争いの時の話
五丈原撤退時(「死せる孔明〜」)の話じゃないよ


>馬謖伝注の襄陽記は「故終亮之世南方不敢複反」と明らかに間違った記述があるし
そういえば襄陽記だったね

習鑿歯も当然三国志を読んでいるだろうから劉冑の件を知っているはず

そこで考えるが
劉冑はどこで反乱を起こしたのだろう?

「南方不敢複反」というのは文脈的に「諸葛亮が征伐した益州南部四郡」の事じゃないのかな

益州南部は四郡だけじゃない
劉冑がどこの郡で反乱を起こしたのかは重要だと思うが
どこだろう?
これを明らかにできないと「明らかに間違った記述」とは言えない
236無名武将@お腹せっぷく:2009/07/13(月) 03:34:58
>>235
南方というのが益州南部四郡なら、襄陽記は間違い。
越スイ郡では反乱が起きてる。
反乱というか、戦争継続のような気もするが。
南方というのが、諸葛亮が赦した孟獲のグループのことなら
間違いでもないのかも知れない。
文脈的には「馬謖は反乱者を心服させろと助言→諸葛亮が孟獲を許したら、二度と背かなかった」だから、
なんとか辻褄は合う。
馬謖の助言が正しかったことを喧伝したいわけだから、越スイや劉冑のことは関係ないんだろう。

まぁ俺は襄陽記も漢晋春秋も胡散臭く思ってるけど。
237無名武将@お腹せっぷく:2009/07/13(月) 12:52:59
>>235
魏延と楊儀の争いはこっちじゃね?
帝欲乘隙而進,有詔不許。
238無名武将@お腹せっぷく:2009/07/13(月) 19:28:54
>>236
たしかに「四郡」というのは訂正しなきゃいかんね
七縱七禽は孟獲に対してだし


>>237
あ、そうか  ごめん 
晋書だから帝は司馬懿のことだった
勅令の件と勘違いしてた
 

仕切直し

>>231

「宣帝は兵を出して蜀軍を追撃した。諸葛亮の長史の楊儀は、旗指物をかえし
戦鼓を鳴らして宣帝に向かってくるような様子であった。
宣帝は窮した敵を追い立てはすまいと考えた。」


うそくさい

これ美化してるだけじゃないのかな
239無名武将@お腹せっぷく:2009/07/13(月) 19:48:20
漢晋春秋の後出師表の件


漢晋春秋が後出師表を載せているからといって
これも別に信用を落とすものではないと思うよ

習鑿歯が蜀を美化しようと思って
ありもしない事実をでっち上げたわけではない
張儼の『黙記』を信じるならば、諸葛亮が第2次に出師表を奉ったのは事実なのだろう
習鑿歯はその出来事を記し、内容についても触れた
それだけのこと

疑わしいのは後出師表の内容文であって、漢晋春秋ではないと思うが
240無名武将@お腹せっぷく:2009/07/13(月) 19:58:48
後出師表
これの真贋もどうでもいい話
「陳寿の諸葛亮集の中にない」
「生きている趙雲が死者の名の中にある」
陳寿が資料集めしているとき既に後出師表は失われており
誰かが記憶を頼りに書き直した
そのとき間違って趙雲の名前が入った
そんな可能性もあるんじゃないかな
お宝鑑定でもないんだから話の中身があっていればそれで充分遺す価値はある

仮に内容が全くの創作であったとしても
前出師表を書いた名文書きの諸葛亮が書いた
本物の後出師表が駄文なわけがないのだから
ただ本物が読めなくて残念ってとこじゃないかな  
241無名武将@お腹せっぷく:2009/07/13(月) 20:11:12
晋書
>晋書も何かしらの史料をもとに書かれている
>その史料が司馬懿を礼賛しているのならそれを採用する以外すべがない

漢晋春秋
>習鑿歯はその出来事を記し、内容についても触れた

二書は同等ということだね
晋書も漢晋春秋も「バイアスがかかっていることを踏まえて読んでいるなら何も悪くない」>>231の言う通りだ
242無名武将@お腹せっぷく:2009/07/13(月) 20:37:54
宣帝紀に関して
ここ読んで↓ ここの「データ」をクリック 宣帝紀のウソを具体的に指摘している
http://aoki.moo.jp/cbai/


事例に挙がらないような細かな部分の美化はもっとある
243無名武将@お腹せっぷく:2009/07/13(月) 20:38:38
「基礎データ」
244無名武将@お腹せっぷく:2009/07/13(月) 20:40:39
あ、ごめん 「伝記」
245無名武将@お腹せっぷく:2009/07/13(月) 22:04:45
話が拡散しすぎて訳がわからなくなってきてるな
要は張コウが戦死した木門の戦いでの魏蜀軍双方の量的被害がどの程度だったかというのが焦点なのだろう。

張コウ伝
張コウは追撃し木門に至り、諸葛亮軍と交戦した。矢が張コウの右膝に中り、薨じた。

後主伝
夏六月、諸葛亮は糧食が尽き軍を退いた。張コウは追撃して青封に至り、亮と交戦し弓箭を被り死んだ。

諸葛亮伝
糧食が尽き軍を退いた。魏将張コウと交戦し、張コウを射殺した。

宣帝紀
帝は其の囲を攻め抜き、諸葛亮は宵に遁走した。追撃しこれを破り、俘虜斬首は万を計えた。

魏略
張コウはやむを得ず、遂に進軍した。
蜀軍は高みに登って軍を伏せ弓弩を乱射した。矢は張コウの腿に中った。

補足:
漢晉春秋
(上ケイでの対陣中、司馬懿は)張コウを使わして無當監何平を南囲に攻め、自らは中道を諸葛亮に向かった。亮は魏延、高翔、呉班を使わし拒みに赴かせ、之を大破した。


主張A
記述のどこを見ても木門(または青封)の追撃戦で諸葛亮が勝利を収めたという記述は無い。
宣帝紀の魏大勝の記述は誇張だとしても、蜀漢は張コウを戦死させはしたもののこの木門の迎撃戦で兵卒の数量的には魏に大勝を得ることは出来なかった。(双方損害が少ないか、痛み分け)

主張B
陳寿は司馬懿のことを悪く書けないし、晋書は司馬氏を美化した記述が非常に多い史書なので、
この件について三国志と晋書は信用できない。
漢晋春秋には退陣中に魏側が攻撃を仕掛けて敗退した記述があり、魏略には追撃戦でも伏兵を受けたと記述がある。
また、のちの五丈原での司馬懿の及び腰を見ても、諸葛亮に対していい勝負が出来たとは思えない。
231年の戦役に於いて、司馬懿は大局では諸葛亮を撃退はしたものの、作戦指揮ではにまったくいいところが無った。
(つまり追撃でも魏は伏兵を受け一方的な大被害を被ったと主張したい?)
246主張B:2009/07/13(月) 23:17:58
>漢晋春秋には退陣中に魏側が攻撃を仕掛けて敗退した記述があり
そこはちょっと違くない?


王平伝
諸葛亮は祁山を囲み、王平は分かれて南に陣を敷いた。
司馬懿は諸葛亮を攻め、張コウは王平を攻めた。
王平が堅く守り動かなかったので、張コウは勝利することができなかった。


漢晋春秋
之を大破した。〜、司馬懿は帰還して陣営に立て籠もった。



第四次の流れは

諸葛亮が祁山方面に侵攻し
勅令により司馬懿と張コウが防ぐことになった
張コウが略陽に至ったところで諸葛亮は引き返し祁山を守った
司馬懿と諸葛亮、張コウと王平が交戦し、魏は敗れ陣営に籠もった
食糧が尽きたので諸葛亮は撤退した
司馬懿に命じられ張コウは蜀軍を追撃した
木門(青封)で追いつき、張コウは射られて死んだ

こんな感じだと思う


>つまり追撃でも魏は伏兵を受け一方的な大被害を被ったと主張したい?
さぁ、どうだろ…

高所に弓弩を伏せたという事は、戦場は広い草原などではなかったということだろ
木門とは木門道で「道」 多分狭いだろう
そうすると追撃を受ける蜀の戦端は当然狭いと考えられる
魏が追撃によって蜀に大打撃を与えられるとは考えにくい
一方、伏兵を置いた蜀軍は誘い込んだ魏軍を側面からも攻めることが出来る
それで、魏の指揮官が戦闘不能に陥ったら、魏の敗けは必至じゃないかな

大被害かどうかは分からないが、蜀が一方的に勝利したんじゃないだろうかと思う
247無名武将@お腹せっぷく:2009/07/13(月) 23:24:07
>>246
>漢晋春秋には退陣中に魏側が攻撃を仕掛けて敗退した記述があり
ああ、ごめん、「対陣中」の誤字
248主張B:2009/07/13(月) 23:29:53
うん

そこ以外は上手くまとめてくれたなぁと思ってた
249主張B:2009/07/13(月) 23:40:37
読むと偉そうだな…

>戦場は広い草原などではなかったということだろ
>多分狭いだろう

この部分は考察中の独り言口調
250無名武将@お腹せっぷく:2009/07/14(火) 00:15:41
気候の温暖化と良質の絹があれば勝てた
蜀の屑絹では現地で米と交換できないしな
251無名武将@お腹せっぷく:2009/07/14(火) 00:30:16
現地に米なんて無いよ
252無名武将@お腹せっぷく:2009/07/14(火) 00:35:45
>>245
五丈原での司馬イの及び腰とあるが遠征軍に対して
守りを固めて長期戦に持っていくのは常道だぞ
諸葛亮だってそれを避けたいから色々と挑発をしてたんだし
253無名武将@お腹せっぷく:2009/07/14(火) 20:58:07
>>252
>遠征軍に対して守りを固めて長期戦に持っていくのは常道だぞ
出自は? まさかまた司馬懿様じゃないよね?



「遠征軍は長期戦に持ちこたえられないとされています。したがって、
公孫淵は必ずや、まず遼水を防衛線とし、その後に城を守るでしょう。」

この台詞はどうだろう?
相手が遠来軍でなくても防衛側が険阻な地に拠って敵を塞ごうとするのは当たり前じゃないかな

持久戦狙いじゃなくても防衛に有利な場所に陣取るのは当たり前
「遠征軍は長期戦に持ちこたえられないとされています。したがって」と言うのは不自然
254無名武将@お腹せっぷく:2009/07/14(火) 21:13:03
明帝とのこのやり取り自体、胡散臭い


明帝「公孫淵はどのような策を立てていると思うか」
司馬懿は
上・戦う前に城を放棄して逃げる
中・遼水に拠って我らを防ぐ
下・最初から城に籠もる
3つの可能性を示した

上は、今回、公孫淵は自立して王を名乗ったのだから戦う前から逃げることはまずない
中は、普通
下は、ありえない

 明帝「やつはどの策を取るであろうか」
司馬懿「上はありません。中です」


一見すると司馬懿の賢さを示すエピソードだが、きちんと見るとまるで中身がない
本当に司馬懿と曹叡はこんなやり取りをしたのだろうか



司馬懿「上はありません。遠征軍は長期戦に向いてないと言います。だから中です」

「遠征軍は長期戦に向いてないと言います」は
論理的に「中」に不適合、且つ、不要

こんな馬鹿なこと司馬懿が言うかな?
255無名武将@お腹せっぷく:2009/07/14(火) 21:19:48
>>252
常道は
「持久戦は避ける」だよ

でも敗けるよりはいい

だから持久戦は次善の手


司馬懿も言ってるが「戦えるときは戦い、戦えないときは守る」
これは兵法に適っている

勝てるなら短期決戦で戦ってるよ
256無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 00:04:03
一、戦う
二、守る
三、逃げる
四、降る
五、死ぬ
257無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 00:38:09
>>254
そりゃ公孫淵と司馬懿の戦略分析の違いだろ
公孫淵は当然、魏の討伐軍を撃退できる目算で王を名乗った。
遠征総司令の司馬懿は、公孫淵にそんな実力は無いという
正しい(戦勝したという結果的に見ると、だが)状況分析、
または自分なら問題なく勝てるという自負があるので、
「逃げの手を打つのが彼にとっては上策ですよ。でもパンピーには無理ですけどね」と言う話。

下策の場合、篭城は一見長期戦向けの選択のようだが、公孫淵は城中の
備蓄のみに頼らざるを得なくなる上に遠征軍は遼東の野にある穀物を
刈り放題になるまさに下策。まさかそこまで馬鹿ではない、と言ってる。

無理に疑わなくても筋は通る。
258257:2009/07/15(水) 00:56:36
あ、すまん。また話を拡散させるところだった。
>>254
一人で勝手に遼東戦を持ち出して司馬懿批判するのはいいんだけど、
それが五丈原で司馬懿が及び腰だったかどうかとどう繋がるのか全然解らない。
司馬懿はどうすべきだったの?
259無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 05:17:12
>>253
兵站に難を抱える蜀の遠征軍に対して持久戦を挑むのは至極当たり前の話
魏としてみれば防衛戦なんだから進んで打って出る必要もないし
結局、にらみ合いだけが続いて蜀の遠征は徒労に終わってるしな

秦と趙の戦いでも趙の廉パは秦の遠征軍率いる白起に対して同じ様に持久戦を取っている
白起は廉パを挑発したが司馬イと同じくこれを相手にしていない

打って出ないから及び腰とかじゃなく
相手は打って出るように挑発してるんだからこれに乗る方がおかしい
260無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 19:44:52
>>257
司馬懿は明帝の問いに答えていないんだよね
問いは「公孫淵はどうでるか?」だ
公孫淵が土地を捨てて逃げたりしないのは自明の理

司馬懿「賢明な者であれば…」
賢明な者であれば充分な勝算なくして自立しないだろう
公孫淵がいずれの者であろうと逃げはない

賢者は言を弄したりしない
司馬懿が本当にあのように答えたのか疑わしい
もし本当で、本気でああ答えたのなら司馬懿はおバカさんだ



一見もっともらしい話だがきちんと整理すれば筋が通っていない
発信者はまとも以上の人間 
そういう話は詐術の類
261257:2009/07/15(水) 19:53:21
>>260
そんなことはもうどうでもいいよ
どんな人間でも凡庸な言葉を吐くことはあるし、それを採録する人間が厳密な論理性を持つとは限らない
解釈する人間(俺やあんた)が真意を必ず汲み取るとは限らない
そんなはぐらかしより他の人にレスしてあげてくれ
262無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 19:59:16
>>258
>一人で勝手に遼東戦を持ち出して 
「遠来軍には長期戦で対応するのが常道」
これの出自はまた司馬懿様かなと思ってね

五丈原との繋がりは
「遠来軍相手に長期戦は常道」これが真かどうか明らかにすれば
司馬懿が「遠来」を理由に閉じ籠もったのかどうか
真か美化かが見えてくる


公孫淵討伐の時の話は、五丈原での消極的な戦い方を
積極的な作戦として作り変えるため、補強が目的で捏造したんじゃないか?
これが>>254の趣旨
263無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 20:07:48
>>261
これでいいかい?


>>259

東周列国伝 第二十六集 白起坑長平敗趙卒

趙は廉頗を将軍に任じ、そして出兵して秦に反撃し、互いに戦った。
趙軍の士卒が秦の斥候兵に戦いを仕掛けたが、秦の斥候兵は趙の副将茄を斬った。
6月、秦軍は趙の軍陣を陥れ、二つの保塁を取り、四人の将校を虜にした。
7月、趙軍は塁壁を築いてこれを守った。秦はまたその塁壁を攻め、二人の将校を虜にし、
その陣を破り、さらに西方の塁壁を奪った。
廉頗は塁壁を堅固にして秦軍が攻めてくるのを待った。
秦軍はしばしば挑戦したが、趙軍は塁壁から出なかった。
趙王はしばしば廉頗の戦いぶりを責めた。
264無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 20:10:07
ひどい論理破綻だ。
なんで司馬懿の言行だけを切り取って「防御側が持久戦を取るのは手も足も出ないことを美化しただけ」
と証明できるんだ。
一般的な戦術論の問題だろ? 侵攻側は、少なくとも当面の間戦力優勢を見込めるから侵攻する。
防御側は、戦力不利だが地勢の有利を得ることが出来る上に、兵站線の長い侵攻側の不利を突くために
持久戦をとることが多い。防御側が正面から野戦に出て勝つ戦力を初めから有しているのなら、
そりゃ侵攻側の立案段階の大失敗だ。
この一般論に五丈原が当たるか当たらないか、それを検討するのが筋。

司馬懿は五丈原で手も足も出なかったので、「遠来軍には長期戦で対応するのが常道」 という偽のセオリーを
製作した? なんだそりゃ?
265無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 20:25:30
長期戦は防衛側も出来れば避けたいものだよ
戦費は掛かるし、戦地一帯の経済活動は停滞し、土地は荒れ、
国家の威信は下がり、他国からはナメられ、民の期待を失い、
将兵の士気も下がる

ましてや、大国が小国に攻め込まれ、
ただ陣に閉じ籠もるだけで打って出ようともせず
「兵糧が尽きたら帰ってくれるだろう」だなんて
どれだけ笑われることやら

第四次までは魏もそうではなかった



>>264
それは前線の言い分じゃないかな?
司馬懿は然るべき兵力を持ち、遠征軍を迎え撃つべく赴いた中央軍だ
戦力不足とは言えないんじゃないじゃないかな
戦力不足ならその後充分時間はあったわけだから満足なだけ増員されただろう
266無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 20:27:38
端的に言っちゃうと、
>戦力不足ならその後充分時間はあったわけだから満足なだけ増員されただろう
それが長安以西で250年頃まで実現できなかったのが魏の国力
267無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 20:29:36
思い返せば
周瑜はカッコ良かったな

「曹操は自分から死ににやって来たのです。曹操を生け捕りに出来るのも
今日明日のことでありましょう。撃破することをお約束いたします。」

だもんね
268無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 20:30:53
>>266
なら持久戦は余計拙いだろう
269無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 20:35:00
なんで?
常備兵力は五分以下だったとしても、隴東の渭水流域を確保しておけば兵站は切れないだろうし、
時間を稼げば東方から援軍の見込みがある。
それに対して蜀漢は初期兵力で動員兵力を振り絞っている上に兵站が弱い。
持久戦を選択すべき見事な事例じゃないの?
270無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 20:35:09
司馬懿は正しかった
勝てないなら戦うべきじゃない

司馬懿は賢いんだよ 
俺はそう思ってる

史書の美化はイラネ
271無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 20:37:39
>>269
結構時間あったのに援軍きてないでしょうが

蜀は別に兵站弱くないと思うよ
272無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 20:44:44
今回は
273無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 21:23:54
>兵糧が切れたら帰ってくれるだろうだなんてどれだけ笑われることやら

兵糧攻めというれっきとした策です
勝てないから持久戦をとったのではなく確実に勝てるから持久戦を取っている
兵站の弱さを抱えた遠征軍相手にはもっとも効果的
274無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 21:45:15
兵力は魏側が不利だったってのはどうだろ?
たしかに蜀は主力の大半を導入出来たが魏は2戦線抱えてるとはいえ
275無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 21:53:51
>>273
時代は多少違うが、韓信と戦う陳余がそんな感じのことを心配してる

つまり持久戦は勝てる可能性が高いと理解していても選択しづらい状況ってのがあるってことだ

横綱が変化しただけで横審から文句を言われるようなもんで、強い側だからこそそういう策を取れないってこともあるわな
276無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 22:05:39
結果的に兵力の損害を全く受けずに撃退し正解だった持久策だけど
現代ですらこう言われるんだから当時は凄かったかもな。
277無名武将@お腹せっぷく:2009/07/15(水) 22:17:22
賈栩、魏平は度々戦を請い、そこで言った、
「公は蜀を虎の如く畏れているが、天下の笑いものとなるおつもりか!?」
司馬懿もこれには悩んだ。諸将はみな戦を請うた。
278無名武将@お腹せっぷく:2009/07/16(木) 00:04:22
名より実を取るタイプだったんだろう、シバイは
シバイは異常に用心深いしね
政敵の油断を誘うために10年ボケたふりもしてるし
279無名武将@お腹せっぷく:2009/07/16(木) 02:22:30
蜀は焦りすぎた。焦るしかなかったのかもしれないが

やはり劉備あっての蜀だったんだな。
280無名武将@お腹せっぷく:2009/07/16(木) 23:21:17
おいおい…劉備あっての蜀て…

○曹操あっての魏
△孫権あっての呉
(○孫家あっての呉)
×劉備あっての蜀
(○劉備あっての劉備軍)
281無名武将@お腹せっぷく:2009/07/17(金) 04:25:43
「曹操あっての魏」が○なら
「劉備あっての蜀」も○だろ
282無名武将@お腹せっぷく:2009/07/17(金) 07:52:47
孔明の配下に韓信、リチャード一世、バイバルス、モルトケとこれ位いれば成功・・・したかなぁ?
やっぱり国力差が絶望的だし厳しいよね。
283無名武将@お腹せっぷく:2009/07/17(金) 08:05:51
劉備いなくても蜀はあったよ。
呂布の配下に関羽、張飛、趙雲、諸葛亮などがいればもっとマシな三国になってたはず。
劉備堕ちるの早過ぎ。
284無名武将@お腹せっぷく:2009/07/17(金) 10:25:36
>>283
がんばったな
無理して書き込まなくていいんだよ
285無名武将@お腹せっぷく:2009/07/17(金) 13:13:04
北伐軍って10万近く(蜀の全軍)出してたのかねえ
それとも5万くらいかな?
魏なら10万くらいは出せたと思うんだけど
286無名武将@お腹せっぷく:2009/07/17(金) 14:56:38
>>285
晋書だったと思うけど
263年に魏が蜀に攻め入る時に
司馬昭が蜀の兵力を9万と予測してた。
そこから各地方の守備兵を除いて姜維が扱えるのが4万だったかな?(司馬昭の予測では)
まぁ本当かどうか分からんが。
287無名武将@お腹せっぷく:2009/07/17(金) 18:09:13
最後の北伐に諸葛亮が動員した兵力が十万というのも晋書にあったはず
288無名武将@お腹せっぷく:2009/07/17(金) 21:06:43
ほとんど国力ギリギリだな。やっぱ諸葛亮は凄いな。
289無名武将@お腹せっぷく:2009/07/17(金) 21:28:16
国力を絞るような本格的な北伐は1回目と5回目だけじゃないかな?
290無名武将@お腹せっぷく:2009/07/17(金) 23:47:02
降伏時の蜀の人口自体が100万くらいだったんじゃないか?
兵力10万って相当な負担だろ
291無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 00:01:49
蜀の人口100万弱で兵力は10万強、魏は440万で兵力は30〜40万?
ただ魏は戦線を二つ抱えてるから、経済力はともかく兵力だけなら
諸葛亮の戦略は言われるほど絶望的な戦いじゃないと思うけどな。
演義だと蜀30万に対して魏70万とか出してくるけど
西部戦線は蜀魏共に10万くらいの兵力だと思う。
292無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 00:05:04
逆に言えば司馬懿は言われるほど楽勝な条件ではないので持久策は妥当か。
293無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 09:02:31
孔明の野戦軍と同兵力で当たりたがる様な馬鹿はそうはいまい
294無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 19:27:02
蜀の総力を結集した軍だからな
魏といえどまともに当たれば勝っても負けても相当被害出ると思う
被害も出さず守っているだけで蜀は疲弊していくんだから持久策は妥当だな
295無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 20:20:05
司馬懿は呉に対しては短期決戦で勝負したんだよな
蜀の2倍あるのに

司馬懿ヲタ、答えは出てる
296無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 20:54:46
蜀は兵站弱くないだろう

蜀は沃野じゃなかったっけ?
蜀の兵站切れたのは孔明の第4次の長雨だけ

植え付けられたイメージって怖いね
297無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 21:01:51
兵站とは、戦争行動を持続するための組織・機能のこと。
298無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 21:19:09
李厳降格したから解決だ
299無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 21:29:02
輸送の問題があるじゃん、兵站の弱さとして
300神ツコツ ◆hsM5cuRuF6jy :2009/07/18(土) 21:40:46
300ゴッド!
風を起こせる孔明なら、お腹のポケットから兵糧位出せるであろう。
301無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 21:42:39
木牛・流馬で解決

問題は長雨だが

五丈原で屯田
一年目は無理だが2年目からは
梅雨まえに麦の収穫があるから雨が降っても食いつなぐことが出来る
1年目はカブか? 芋か? ま、大丈夫じゃないの?
302無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 21:43:17
>>295
どれのことを言ってる?
303無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 22:23:44
>五丈原で屯田
あれは屯田というよりただの自給自足では?
304無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 22:41:37
屯田って書いてあるよ
305無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 23:28:18
屯田といえば屯田かもしれないけど都市を中心にやるのが屯田じゃなかったけ?
306無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 23:39:43
それ民屯だべ
307無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 00:20:44
民屯は民を使ってやる屯田
軍屯は兵を使ってやる屯田

どちらも都市部を中心にやる
308無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 00:29:12
食料そのものが無いというのは殆どないお
食料を運ぶ物流がしょっぱいだけ
輸送手段、収集集積方法、輸送計画とかね
古代は言うに及ばず現代だって物流は大変だ
309無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 00:54:53
>>302
おそらく241年の戦い。

魏は曹爽が権力を握っていた頃。
呉は陸遜が健在で呉の絶頂期。
蜀は蒋エンが見えない敵と戦っていた時期。

あの戦いは司馬懿が出てこなければ荊州が失陥していた可能性があるし、
もし蒋エンが東征していれば魏は100%負けていた。
310無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 00:55:08
羊コもやってたな
311無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 00:59:18
>>309
>魏が100%負けてた
それはないよw
312無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 01:04:25
>>307
軍隊屯田と軍戸屯田に分かれる

軍戸屯田は兵士の家族に屯田させた >都市部中心
軍隊屯田は国境付近を駐屯軍が屯田した

蜀は軍隊屯田
313無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 01:05:32
>>312
それって兵士の家族「も」じゃね?
314無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 01:09:19
かもね

州に置かれた軍隊は家に帰れてたのかな?
そこが分かれ目だと思う
315無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 01:19:34
任地から戻ったら新しいパパがいたり、畑は荒れ放題だったり、ローマではよくあることだな
中国ではどうなんだろ
316無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 05:14:31
>>295
そりゃ城が包囲されてる場合の救援と
相手が万全の体勢で軍を率いてきたのと相対するのは違うだろ
317無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 06:57:58
亀レスだがそりゃ一方的に10万の損害与えられりゃ勝てると思うよw
318無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 12:18:45
諸葛亮は要所に至る前に対陣せざるを得なかったてことなのかな?
もう一回陳倉包囲すれば司馬懿も戦うしか無いと思うけど
319無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 13:06:41
>>316
樊城は堅城で、包囲されてるとは言え緊急性はなかった 持久できた
320無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 13:25:31
>>315
募兵制じゃなくて軍戸制だから、軍戸の家族の居住地は国家が管理する土地なので荒廃しない。
軍戸の集落?は国家が管理しているのでよその男か侵入してくる可能性もないので寝とられる心配もない。
軍戸制は結婚していることが前提なので、独身男性の軍戸希望者は、国家が嫁を斡旋してくれた。
よしんば嫁が逃げたとしてもおそらく国家が新しい嫁を用意してくれたに違いないw
321無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 13:41:55
>>319
司馬懿が諸葛亮の北伐は持久戦で問題ない、呉軍の同時侵攻は社稷の大憂になると考えたということでしょ。
この判断が正しいかは分からないけど規模を考えればおかしな話ではないと思う。
322無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 13:42:25
>>318
孔明はいつだって決戦を望んでるよ
>>320
望んで兵戸に入る奴っていたのかな?
奮戦した褒美が兵戸からの解放というのもあったそうだし
323無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 14:04:25
諸葛亮に一か八かはないだろうから決戦を望んでるということは勝算があるんだと思う
そうなると司馬懿は決戦を避けようとするから
相手の要所を衝くとかあえて弱味を見せるような方策が必要だったんじゃないかな?
324無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 14:31:31
>>322
昔からある国の戸籍から外れて豪族に保護されてその農奴になるというのがあって
乱暴に言えばそれを国でやろうというのが曹操の屯田政策なわけで
国の農奴になった人が兵役について功績上げれば、その強制的固着から外れて
さらに官職にも付けるわけだから民屯からなら望んで兵戸に入る人はいるんじゃね
ケ艾とかそんな感じななかったっけ?最初は民生官な気もするけど
325無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 15:16:33
>>319
>樊城は堅城

おいおい、逆で守るには適さない城なんですが。
ソースは横山三国志の徐庶のセリフ
326無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 15:22:57
そのセリフのソースを見つけるまでは書き込まないほうがいい
327無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 17:11:51
241年の荊州戦のことを言っているなら、
三国志斉王紀の注にこうある
宣王、「柤中には十万の民がいて水(漢水)に隔てらており,主もなくさまよっている
樊城は攻撃を受けて月を越しても包囲が解けず、危急の時だ」
議者は言った「樊城は堅城です。敵はこれを攻めて自滅するでしょう。太傅には優れた策を以ってこれを御されますように」
宣王、「将が有能ならばそれを御すのは軍を繋ぐと言い(略)」
六月、諸軍を督し南征した。

柤中とは、襄陽の南150里、呉との本来の国境との中間辺りの土地。この時諸葛瞻と歩隲がここに進出していた。
樊城は堅城であり、これを守るだけなら問題無いが、この長期戦によって、この時代の常として十万の民衆が呉に
略奪されるような展開を司馬懿は憂えたと見える。
結果、司馬懿は直接軍を率いて樊城に向かい、これを囲む朱然と対峙した。司馬懿が挑戦する姿勢を見せたにも拘らず、
攻め手のはずの朱然が一時守りを固めて応じないという逆転の現象が見られたが、
司馬懿は断固として決戦する決意を見せたので朱然は撤退した。

つまりこの戦いに於いて司馬懿が戦略上の要点としたのは、襄樊の南に滞在する柤中十万の民であり、
それを救うために早期に樊城を解囲する必要があった。
晋書宣帝紀を見る限り、司馬懿は四次北伐に対しては洛陽から率いた全軍をそのまま率いて上ケイに到達し、
諸葛亮を防ぐことに成功した。五次に対しては諸葛亮が五丈原でもたもた(屯田してたんだけど)しているうちに
渭水を渡り、背水の陣を敷くことで、諸葛亮を渭南に封じ込めた。
諸葛亮との対戦では、司馬懿は対陣した時点で既に「守るべき場所」を守るという条件を達成している。
朱然との戦いでは守るべき土地が既に呉軍の進出下にあったので、無理をしてでも攻撃せねばならなかった。
328無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 17:13:05
訂正、
>柤中とは、襄陽の南150里、呉との本来の国境との中間辺りの土地。この時諸葛瞻と歩隲がここに進出していた。
なんで諸葛瞻なんだw 諸葛瑾ね
329無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 17:24:23
そして大戦中に皇太子孫登は謎の死を遂げ、続いて大将軍の諸葛瑾も死ぬ。
この後二宮の変に突入する呉は二度と盛時の勢いを取り戻せませんでしたとサ。
330無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 18:49:48
というか司馬懿が動いたのは他の呉軍が引いたのになぜか朱然だけ包囲を続けたときじゃなかったっけ?
云わば援軍を出せばすぐに追い散らせる程度の孤軍
331無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 19:15:12
第5次に関してはニセクロのが面白かったな
332無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 21:59:06
>>323諸葛亮も、存命中に巍を潰したかったんだろうね。
333無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 22:01:59
しかし関係ないが蜀主体だと呉って安全圏から蜀だけを戦わせてるみたいだが
呉の方が攻められた時の「ヤバい」感は強いよな。
長江があるっていっても呉の全てを守るわけじゃないし
「魏が江凌に攻めこんだ」とかマジでピンチって感じするわ
334無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 22:07:19
長江越えられたらほぼ終了みたいなもんだからな
軍事力的に考えて
335無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 22:36:22
魏だって対蜀戦線より対呉戦線の方が動員兵数がはるかに多かっただろうしね
336無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 22:44:47
兵站の心配が少ないから大軍投入出来るんだよな
337無名武将@お腹せっぷく:2009/07/19(日) 23:02:57
そうだね。魏の雍州は衰退が激しく、大規模な軍を常駐させることが出来なかった。
そのため、蜀漢の大規模な侵攻には必ず洛陽からの中軍の応援を仰がねばならなかった。
遙か遠い隴西に至っては言わずもがなで、四次北伐は両者が補給不足を抱える厳しい状況だった。
338無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 12:23:13
諸葛誕の反乱の時は26万投入だっけ?
数字をそのまま信じられるかはわからないが、呉の援軍をあっという間にのみ込むような
大軍だったのは間違いないんだよな。
蜀と違い防衛しながらの勢力拡大っていうのが呉は極めて難しいんだなって思うわ。
蜀は西方の不安定な地域を狙ってたわけだし長安さえとれば防衛もかなり有利に戦えた。
しかも失敗したところで魏の大軍がそのまま攻めてくるわけでもなし
339無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 12:53:21
呉が攻め取れる荊州や徐州は交地だからね…
どうにか攻め取れても奪い返されやすい

防御は長江でほぼ鉄壁だけど
340無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 13:10:41
むしろ蜀も呉も中国屈指の要害ともいうべき場所を武器に守ってるから
魏からしたら統一は簡単じゃないよな。
あんな状況に入ったら膠着は当たり前で、それ以前に潰すべきだったな
341無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 15:14:24
それ以前に潰せるほどの国力を曹操が持っていなかった以上、
江水流域の戦場で周瑜+劉備に勝つって神業を捻り出せる名将か名参謀がいないと
342無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 16:11:10
曹丕のときは長江越える目前まで来てたんじゃなかった?
ただ曹丕が死んで結局駄目だったとか…
343無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 16:31:29
>>342
そのときは、「天が中華を南北に分かつために長江をつくったのだ」とか言って
長江のラインで撤退してなかったか?
344無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 18:23:56
>>343
すまん、そうみたいだな
勘違いしてた
345無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 18:34:02
司馬懿「なんかかっこいいこと言ってるけどカッコ悪いよ!ガーン」
346無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 19:17:41
>周瑜+劉備

この状況になるのがパラダイム
347無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 19:22:32
もしかしてパラドックスって言いたい?
348無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 20:33:29
いや「画期的なパラダイムシフト」の方だった
349無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 23:00:17
南蛮から藤甲いっぱい持って行って、雪や大雨など悪天候の日を選んで燃えない鉄壁藤甲兵団で魏軍に挑めば勝ってた。
籠城したって無駄かな?
伏兵上等怖いのは落石と落とし穴くらい♪
350無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 23:06:35
三国志Vならそれでいけるな
351Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/20(月) 23:10:11
>>330
>>327にもあるように、朱然だけでなく諸葛瑾らも荊北に出ていた。
孫権伝や諸葛瑾伝、斉王紀や晋書宣帝紀等を見ても、諸葛瑾らが朱然より先に退いたとは書いておらず、
朱然が撤退するまで、まとまった数の呉軍が荊北に展開していたのだろう。
斉王紀の注に引く干宝の晋紀を信じれば、全jは既に退いていたものの、
朱然らは五万という大軍を擁していた。
この五万という数字自体は確かでなくても、夏侯儒らが手出しできなかった事から大軍である事は間違いない。

少なくとも、すぐに追い散らせる、という程度の軍ではないだろう。

>>338
多分、少なくとも済河論が表されて淮水流域が開発されるまでは、
合肥こそが魏と呉にとって重要な場所だったと思う。
呉にしてみれば、水運を利用して大軍を投入でき、その後もまとまった規模の軍を駐屯させられるので、
魏侵攻の橋頭堡として最上な拠点となり得る。
魏にしてみれば、淮水流域からは少し離れており、兵站から言っても巨大な軍を駐屯させられる場所ではないものの、
失った場合のデメリットが大きい為、陥落は避けなければならない拠点。
そして呂蒙の言うように、また、魏が合肥救援に大軍を差し向けている点を考えても、
魏が合肥を失っても、その奪還に大軍を投入する事は可能な土地でもある。

呂蒙は、例え得られたとしても確保する事ができるか分からない、と述べていたが、
後年、合肥新城が僅かな兵力を以って呉の大軍の攻撃に抗し得た事を考えると、
合肥の確保は可能だったんじゃないかと個人的には思う。
352無名武将@お腹せっぷく:2009/07/21(火) 02:02:24
呂蒙の確保困難は徐州の話な
353無名武将@お腹せっぷく:2009/07/21(火) 03:23:40
旧合肥は巣湖があるから呉としては救援はし易い。
合肥新城は満寵が要害の地を選んだから守るのには適してる。

確保の目処が立たない場所を執拗に攻めるほど孫権も馬鹿じゃない。
まあ結局落とせてないんだがw
354無名武将@お腹せっぷく:2009/07/21(火) 06:44:05
まあ、落とせてないんだから、確保は可能だろうけど
落とした場合は奪回される可能性もあるというジレンマw
しかも蜀のようにルートは必ずしも限定されてるわけじゃないからな。
355Jominian ◆Henri9gNlM :2009/07/22(水) 23:33:29
>>352
徐州の話ではあるが、それ以前も以後も、孫権は徐州に直接出てはいないし、
合肥が念頭にあったようには思う。

いずれにせよ、合肥と言う土地が、呉軍も大軍を投入できるが、
魏軍の救援も相当数になる場所であって、呉がそこを確保する事で、
戦略的に大きなアドバンテージを得られる場所である事には変わりないと思う。

問題は、呉は再三合肥を攻めながら、ついに得る事ができなかったという点だけどね。


満寵伝からも、張既伝の注に引く魏略の夏侯儒伝からも、正始年間頃までの魏が、
荊州や揚州に大軍を張り付けていなかった事は分かるので、そうした配備の隙を突く事ができたらな、とは思う。
356無名武将@お腹せっぷく:2009/07/23(木) 01:25:48
後代みたいに10万くらいの遠征軍で長江から北進して、そのまま洛陽なり北側の首都まで行っちゃうようなのは無理かね
あれは運河とかの発達のおかげ?
357無名武将@お腹せっぷく:2009/07/23(木) 07:35:40
後代がいつのことやら…それは隋の煬帝の運河整備後の話か?
358無名武将@お腹せっぷく:2009/07/23(木) 10:26:52
仮に試みたとしても兵站・連絡線を脅かされ続けて、敵地で孤立する羽目に

一瀉千里に敵の国都を衝けるなんてのは、敵国の警戒と防衛体制が緩いか
国都の首脳部が混乱して空洞化してる時でもないと
359無名武将@お腹せっぷく:2009/07/23(木) 11:40:21
靖難の変は期間が短いけど山あり谷ありな感じだが
靖康の変は女真無双でいいのか?
あと永嘉の乱は司馬越が死んで指揮系統が混乱してる所を一気にやられた感じ
北斉の滅亡はコク律光が死んで(ry
360無名武将@お腹せっぷく:2009/07/23(木) 20:33:26
呉が動員10万程度で洛陽に直進しようもんなら
四方から倍以上の軍が押し寄せてきて袋叩きにされるw
361無名武将@お腹せっぷく:2009/07/24(金) 21:13:11
ありがちな北伐スレかと思ったら意外に面白い話してるなw
362無名武将@お腹せっぷく:2009/07/25(土) 13:49:30
思い切ってもっと南征して、インドまで征服しちゃえばよかったんじゃね?
363無名武将@お腹せっぷく:2009/08/02(日) 02:21:00
>>337
>魏の雍州は衰退が激しく、大規模な軍を常駐させることが出来なかった。
>そのため、蜀漢の大規模な侵攻には必ず洛陽からの中軍の応援を仰がねばならなかった。

漢晋春秋によると、第1次北伐の箕谷の戦いで曹真軍すら趙雲軍より少なかったようですからねえ…
第2次北伐の陳倉駐屯軍の兵力が1000…
魏は大国とはいえ、中央より離れた軍団は苦しい状況で戦わざる得なかったのがわかる
364無名武将@お腹せっぷく:2009/08/02(日) 08:04:31
歳端もいかない少女が2穴ファック
泣き叫ぶもおかまいなしに激しくファック
抵抗虚しく最後は2穴とも生出し
2穴から一条の線でわずかに垂れるザーメン
少女の虚ろな表情が痛々しい
洋モノて少女相手でも容赦ないな


365無名武将@お腹せっぷく:2009/08/02(日) 08:12:44
蛆クマッタ
366無名武将@お腹せっぷく:2009/08/02(日) 22:37:25
>>363
趙雲軍より少ないのか?
わざわざ中軍から兵を割いて派遣してるんだし、曹真と張コウで軍を2つに割っても3万くらいはいるんじゃないかね
一方の趙雲は1万以上あるとは思えないし
367無名武将@お腹せっぷく:2009/08/04(火) 00:53:56
>>363 , >>366
趙雲伝に「曹真が斜谷道に大軍を派遣した」とある
368無名武将@お腹せっぷく:2009/08/04(火) 11:54:46
別伝の記述では無いから、本当に大軍を差し向けたんだろうね。
369無名武将@お腹せっぷく:2009/08/04(火) 19:41:14
馬ショクが
街亭を落とされなけりゃ…
370無名武将@お腹せっぷく:2009/08/05(水) 06:55:13
そもそも馬謖は諸葛亮の言うとおりにしていれば張合βを撃退できたのだろうか?
371無名武将@お腹せっぷく:2009/08/07(金) 23:18:53
>>370
恐らく難しい。問題点は大きく三つ。
一つは張コウ軍の目的が涼州解放を企図したもので一定の独立性と自立性を確保した相応の軍規模だったろうこと
第二は諸葛亮体制下での軍事体制が未熟な状態で高度に戦略的な軍事行動に出てしまったこと
第三は第二の状態であるにも関わらず登山家に諸葛亮の指揮権が届かない敵中深くでの行動を行わせたこと

この他、趙雲の軍事行動が作戦目的を達成できなかったことも響いてる。
作戦所期の目的は魏の主軍を引きつけて涼州への魏軍の侵入を遅滞させること
だがこれは張コウ軍が街亭へ向かって遡上しはじめると曹真に封じ込まれて
軍事力として脅威性を失ってしまっている。
この時点で趙雲の軍事行動は作戦目的から大きく後退している。
372無名武将@お腹せっぷく:2009/08/07(金) 23:23:07
>>370
まぁ登山家が低くとも将軍職と護軍あたりの役職持った上で
仮節あたりを賜ってたら諸葛亮の救援が間に合った可能性はあるけどね
373無名武将@お腹せっぷく:2009/08/07(金) 23:36:42
>だがこれは張コウ軍が街亭へ向かって遡上しはじめると曹真に封じ込まれて
>軍事力として脅威性を失ってしまっている。

何か文章が辺なのでセルフ解説させて貰うと。
張コウ軍が街亭へ遡上を始めると曹真軍の作戦目的が戦域全体の中で張コウ軍の
軍事行動を阻害する要因を最大限排除すると言うものに置き換わったわけ。
そのために今度は逆に曹真軍が趙雲軍を拘置するという戦術目的で行動すること
になった。
にも関わらず趙雲軍の方は、前提条件の変容に伴う作戦目的の変更を行った節が
見られない。この段階で行動を変更しなかった趙雲軍は蜀の戦略に対応する魏の
戦略において自らのプライオリティを著しく減損させてしまっているわけだ。
じゃあ趙雲が悪いのか?と言うとそもそも張コウ軍が協力な打撃力と自律性を
持って街亭経由で諸葛亮の戦略を突き崩しに向かったという情報自体を知らなか
った可能性が非常に高く、まぁどうにもならんかったろうなという所に落ち着く。
それでも趙雲なら趙雲なら暴れまわって張コウが後背を憂うことなく行動する
と言う登山家にとってヤバイ条件を突き崩してくれてれば・・・とか夢見ちゃうけどね
374無名武将@お腹せっぷく:2009/08/07(金) 23:56:24
>>371
いや何だ。やっぱまとめるの下手だな。俺。
1.敵将は歴戦の名将。大戦力を預けられ、後背を気にせず作戦はフリーハンドが許されてる
2.こっちはシステムが未整備なため部下に言うことを聞かせる処断権が無く、統制を効かせられない
3.唯一部下に言うことを聞かせられる総大将は遥か遠くにいて状況を知らずその声も届かない

さあ、登山家は勝利を掴めるか?
375無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 00:17:15
あげ
376無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 00:47:03
登山家じゃ張コウ相手は荷が重すぎる
対抗できる将は魏延ぐらいじゃね?
377無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 08:45:05
相手は43歳×1出産経験無しです

ちなみに妻のWなんとかは38歳子供2人です
昨夜は妻とキスしながら3発しました
378無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 08:58:58
でも、曹真は陽動に引っかかったんだし、趙雲の別働隊が無駄ということはないんじゃね?
分遣の張コウくらいなら登山家でも時間稼ぎできるんじゃないかなーと
というか、そもそも登山家の目的は時間稼ぎなのか?
涼州軍はともかく、上ケイに籠もった郭淮は何とかしなければならんだろうが、どのくらいでこれで落とすつもりだったのか?
1ヶ月?2ヶ月?
登山家は張コウ軍の撃破が必要だったんじゃないかね?
379無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 18:58:40
>>376
事は単純に登山家無能pgrwwwに帰せられるようなものじゃないと思ってる。
まぁ、やっちゃった所はあるにせよ、それ以前の前提条件がきつ過ぎ。

>>371,>>374の2に書いてるように登山家は能力以前に手足を縛られた状態
で戦争の指揮を執ることになったと言うのが現在の俺の認識。

反骨やゴリなんかだと確かに妥当なんだが、それは周囲が彼らの実績を認め
ていたことが大きくて、未熟な軍事統制システムを認められた実績と言う世
評で補完して統制を保ちえた点が一番登山家と違うんじゃね? という。

だから当時の街亭の指揮官は登山家でなくて王平でも張嶷でも後期蜀の名将
誰であっても、周囲に実績を認められていなければ、才能があったとしても
登山家のように両手を縛られた状態で指揮をとらざるを得ず、結局登山家と
似たり寄ったりな結果だったんじゃないか?と思うわけよ。
380無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 19:29:49
>>378
>でも、曹真は陽動に引っかかったんだし、趙雲の別働隊が無駄ということはないんじゃね?

戦争初期はそれでいいのよ、それが目的だったんだから、だから満点の出来。
でも魏が二の矢に張コウを放って三の矢に皇帝親征の手を打った段階で趙雲が
最初と全く同じ行動を執っていたのならそれは残念なことになる。
趙雲軍の戦略目標は魏の主力軍が涼州へ向かわないよう出来るだけこれを拘置
することなんだが、蝶バルログが大軍率いてフリーハンドで街亭へ向かった以上
そのままだと戦略目標を達成できない。
それだけじゃなく、逆に曹真に拘置されるポルナレフ状態になってる。
できうることなら超パピヨンが鼻歌混じりで街亭へ遠足とか簡単に出来かねる
よう、パピヨンの後背が万全じゃないと言う状況へもってかないといけない。
後方に不安を抱えた状態だと幾らフリーハンドだと言ってもいつでも手を引け
る状態でフリーハンドを考える、見たいなことになるから登山家が意外に粘れ
ば「後ろがgdgdだし、ちょっと一旦手を引くか」みたいなことになる可能性も
あったろう。
勿論前に言ってるように、これは趙雲に期待し過ぎなわけだし、それ以前に
登山家がやっちまってるわけだからどうにもならんのだろうけどね。

しかしやっちまったとは言え登山家は定軍山みたいなのを狙ったっぽくて、
そこらへんは惜しいと思うね。
登山家と相見えた時にパピヨンは絶対嫌な汗とか流れたと思うし。
だから拙攻せず水の手断つって方策へ向かったんじゃね?みたいな。

>というか、そもそも登山家の目的は時間稼ぎなのか?

うぃ。俺はそう思う。
登山家に求められたのは敵を撤退に追い込むこと。

>涼州軍はともかく、上ケイに籠もった郭淮は何とかしなければならんだろうが、
>どのくらいでこれで落とすつもりだったのか?

諸葛亮には何らかの成算があったと推測できる。
381無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 19:48:51
>>378
で諸葛亮の成算てなに?なんだけど。
諸葛亮はこの最初の北伐にあたって念入りに下調べをしていたらしい。
年度行事である刺史の各郡視察の時期を狙って攻め込んだように見える。
この時の北伐だけ、開始時期が他のより早めに行われてる。
で、実際諸葛亮はこの地方の刺史の年度行事である各郡視察のことを
知ってたのか?どうやって知ったのか?となると、郭淮の前任者が諸葛亮
の知り合いだったりするわけよ。うはっ!てら機密情報だだ漏れ!
諸葛亮は時候の挨拶にかこつけて色々手紙で聞きだしたんだろうな。
そして事態が収拾した後で、この前任者はたっぷり絞られたことだろう。
さすがに気が引けたらしく諸葛亮は後に司馬懿への手紙で息災を尋ねてる。
彼は元気でやってますか?
いや、お前のおかげで多分左遷されたよ。
382無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 19:56:42
>>381
でも最後は征東将軍まで昇進できたから優秀なやつだったんだろう、そいつ。
あ。名前。孟建のことね。
383無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 19:59:01
記述を読み取ってみたら、登山家が陣張った山の近辺には城があったみたいだな
これも絡めて防衛すれば、史実よか善戦できたかもわからんね
打撃を与えるにしても、耐え忍ぶにしても、山に拠るだけよりは、効果的に機能させられるはず
隘路を抑えたというわけでもなし(水断たれてるし)、高地に陣張って正面に間隙を作るよか
マシだったのは間違いないと思うんだが
384無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 22:40:24
魏は張コウは涼州へ派遣し、守らせ、然る後、東西から諸葛亮を挟み撃ちする計画
馬謖は張コウの北上を食い止めるのが役目

諸葛亮の狙いはキ山での本隊同士の決戦
勝利を収めその勢いでヨウ州獲得
という計画
385無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 22:44:58
>>384
諸葛亮も街亭をめざしていたんじゃねーの?
386無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 23:28:00
>>366
諸葛亮が統率する蜀軍は公称20万(後主伝)。
そのうち一部を趙雲・トウ芝に割いたとしても結構な数になる。
一方、曹叡が対蜀に派遣した軍勢は公称5万。
どちらも実数には程遠いだろうし、戦闘部隊の割合も不明だから、額面の通りに受け取るわけにはいか
ないが、魏のが大軍とは限らないよ。
元々、対蜀の軍隊は撤廃してたうえに、呉が執拗に国境地帯を犯している状況で、
魏が対蜀用の軍隊をいきなり大規模に動員できるとは思えない。

そもそも趙雲軍が大軍でなかったら、曹真自ら関中の軍勢を集めて防御にまわらなきゃならない理由は
あまり無い。
387無名武将@お腹せっぷく:2009/08/08(土) 23:48:13
>>383
孟達の寝返りは潰され、先に攻め込んだ呉は既に撃破され、蜀の瑯西郡攻略部隊は撃退され、
魏の本部では蜀軍の背後の糧道を断つ計画が持ち上がっていた。
曹真が趙雲を蹴散らすのをもう少し早くして、そして進軍していたら孔明は背後を取られていた。
(背後を襲われるルートを防ぐという意味でも趙雲部隊が少数とは思えない)

曹叡が山奥に篭っていた諸葛亮が出てきたのは致人の術に相当するとまで言ってるように、
諸葛亮の進軍は薄氷を踏んでる状況だった。
正直、街亭の勝敗なんて関係無しに諸葛亮のケツには火がついてたと思う。
388無名武将@お腹せっぷく:2009/08/09(日) 10:02:54
致人之術というのは「誘き出し」のことらしい
389無名武将@お腹せっぷく:2009/08/09(日) 10:11:58
ただでさえ読みにくい文章の上にポルナレフとかパピヨンとか
何言ってるのかわけわかんね
フリーハンドが大好きなのはわかった
390無名武将@お腹せっぷく:2009/08/09(日) 10:12:35
釣ったつもりで釣られていた孔明
降格しなきゃならないほどの敗戦だったもんな
391無名武将@お腹せっぷく:2009/08/09(日) 10:23:31
魏臣の大半は浮き足立ってたし
冷静だった連中も魏延くらい狂った張り方されてたら動揺したかも。
馬鹿じゃないのとpgrしようにも近いのは恐いし。
夏侯楙みたいなのには尚更脅迫効果があったろうな
392無名武将@お腹せっぷく:2009/08/09(日) 16:07:54
相変わらず偽黒おもろいな
何でも交友関係とか派閥とか言うのはプギャーなんだが、孟建はそう言われるとそうなのかーって感じだ
でも、準備入念に必勝を期した1次北伐だが、それ故に馬謖なぁ・・・


393無名武将@お腹せっぷく:2009/08/09(日) 18:38:44
>>385
祁山−陳倉は街停を経由せずストレートに行ける
諸葛亮が祁山を空けて北上したら
陳倉から魏軍が真っ直ぐやって来て詰まれる


>>386
諸葛亮が出陣前に斜谷道からビに向かうと宣伝した
曹真は諸葛亮本隊を防ぐため大軍を連れて箕谷へ向かった

>>387
囮だから多くはないと思うよ。
敵を分散させ数的不利を解消して各個撃破する
これは兵法の基本
囮に兵を多く割いたら意味がない
桟道を守るとき兵力差は問題とならなくなる


魏書を真に受けちゃダメだろ

諸葛亮伝「関中が激震した」
魏略「蜀には劉備しかいないと思っていた。朝野は怖れ慄いた。」
後年、曹真が「連年蜀が攻めてきてウザイのでやっつけてしまいましょう」なんて言ってる

魏書は矛盾する
394無名武将@お腹せっぷく:2009/08/09(日) 18:40:14
トウ艾と陳泰を買収出来ればそれなりにいい勝負になってた。


買収する方法は考えてくれ
395Jominian ◆Henri9gNlM :2009/08/09(日) 19:05:45
孟建が情報を漏洩したって話は、俄かには信じ難いが、
手紙のやり取りくらいはあっただろうから、
その情報に対する孟建の認識と朝廷の認識に差があったとすれば、そういう事もあったかもしれない。

ニセクロさんに一つ指摘すると、細かい事だが、
郭淮の前任者は孟建ではなく張既で、孟建は徐邈の前任者だって事。
んで、この徐邈は涼州刺史になる前は司馬懿の軍師だった。
徐邈の着任後まもなく諸葛亮が北伐を行ったので、
徐邈の転任は司馬懿が荊州に行った後の事だろう。

申儀は孟達の謀反を上表したが、晋書宣帝紀に拠れば、
これ以前に郭模を偽投降させるなどのやり取りがあった。
司馬懿が、この孟達の動きとその後にある蜀の影を知ったのがいつなのかは不明だが、
その時期によっては、徐邈の涼州刺史転任は司馬懿の意向もあったかもしれない。

また、孟建の昇進に伴う人事と言うより、蜀に対するの人事であるから、
孟建よりも徐邈が適当であると思われた故の事だろう。
396無名武将@お腹せっぷく:2009/08/09(日) 22:03:24
彼女のおしっこを飲んだことのある人はいますか

・最初飲む時はどうやって彼女さんに理解を得ましたか?
・どんな味と匂いでしたか?(男の尿とは違うもんなんでしょうか)
・お風呂場で飲むものなんでしょうか。それとも部屋にビニールシーツ
 なんかをひいて飲んでいらっしゃいますか?
397無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 01:25:22
こういうスレで言うのもなんだが考えれば考えるほど北伐がいかに無謀だったのかがわかるな
398無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 02:14:36
北伐は蜀内の意識を一つにする為にも必要だったからなー。
399無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 11:42:37
引きこもるだけだと中原の人間にも忘れ去られる。
国内国外を問わず宣伝戦の一環と見ることが出来るだろう。

実際魏呉の対立の方が当時の為政者にとってメインのはずなのに
耳目を集めるのは蜀の無謀な北伐の方ばかりだ。
400無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 12:50:27
蜀が漢を名乗っている以上、魏とは絶対に戦わないと駄目だから
建国の時点で既に詰んでた
401無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 20:45:10
蜀の北伐が無謀とは思わないなぁ。
ラッキーパンチは、パンチを打たなきゃ起きない。
力の差はあってもそんなの絶対じゃない。
402無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 21:03:12
現実的な侵略戦争として考えたらどう考えても無謀でしょう、事は正面の軍を破ればいいという単純なものじゃないんだから
だからこそパフォーマンスとして考える向きがあり

そういう意味では確かに成果はあった
403無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 21:32:42
無謀とは思えない

北伐が成功しなかったのは
諸葛亮が強すぎたから
というのが大きい
404無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 21:34:47
結局諸葛亮が指名した後継者って誰だったんだろう。
405無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 21:34:51
当時の関中は馬超の乱が起こったようにとても政情不安な土地柄
それを力で制圧したのが曹操という構図で、要するに当地の豪族や異民族は魏に含みがある
事は正面の軍を破ればいいという単純なものじゃないんだ

つまり、蜀はまるで成算の無い、または単なるラッキーパンチ狙いでの侵略ではなく、こういった情勢を利用できれば関中での魏の支配をひっくり返せるという目算があっての戦争だったのだと思う
406無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 21:44:51
成算はあっただろうが諸葛亮は臆病すぎ姜維は粗忽すぎた印象
407無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 21:50:19
>>382>>395
ていうか、刺史の郡視察って太守の非法や囚人に冤罪がないか取り調べたりする
漢代から行われてる例のアレでしょ。
魏蜀は相手の大軍動員を察知できるくらいの情報網を持っていたんだから
毎年恒例の民政行事なんて機密でもなんでもなかろ。
408無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 22:04:00
漢にこだわりすぎたのが駄目
劉裕みたいなやり方のほうが良かった
409無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 22:39:59
漢朝四百年の神話を否定するのは曹操でも難しかったのにな
政権交代の暁にはついでに皇室を断絶して鳩山を天皇しようぜとか言われて納得出来るか?
410無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 23:33:27
内乱後っつうのを忘れちゃいけんよ。
非公式にだが箱舘に共和国が成立した例もあるわけだし。
411無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 23:34:14
>>407
魏は動員察知できてないじゃんw
412無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 23:56:34
動員を察知できないわけないだろ
413無名武将@お腹せっぷく:2009/08/10(月) 23:58:48
>>395
訂正ありがと。

>>407,395
刺史の郡視察は刺史、部下の高級官僚、郡太守、郡の主簿他にとっては
年中行事なのでそれ自体は機密でもなんでもない。
それが毎年いつ頃行われるのか、どういう日程で行われるのかも。
しかし、それはその国への奇襲戦争を目論む者にとっては一級価値のものになる。

諸葛亮からの時候の挨拶で刺史就任おめでとう。今は役所での挨拶回りも終わって
一息ついたでしょ? 最近体調とかどう? と聞かれて
「いやいやそれが今から各郡の視察をしなくちゃならなくて大変なのよ」と
手紙で返事してしまったとしよう。
書いた本人は魏の高級官僚なら誰でも知ってる情報だから機密でも何でもない
と言う認識であったろうが、諸葛亮にとってはそれこそ欲しかった情報の一つ
だったかも知れないということ。
情報価値の非対称性というか、そんなとこ。
諸葛亮はけっこうまめに手紙を出してる。相手が何気ないと思って漏らす情報
の中から必要な情報をうまく抽出して活用していたんだろう。

話は大きく逸れるけど、諸葛亮時代はそういう常に各国から情報を吸い上げて
蜀の制度に生かしてる風が伺えるけれど、諸葛亮没後、蒋苑から費イを経るあ
たりでその成長が止まる。
そして費イ没後から蜀の制度は急速に呉の制度を真似したものに変わっていく。
高位将軍職の左右への分割とかね。
それは呉の孫権の性格と、呉の私兵を抱える有力豪族を束ねた呉という国の性格
が生みだし育てた独特の皇帝権力の維持体系だったんだが、それを左程検討する
こともなく蜀に輸入してるように見える。
根本的な諜報力の衰退が生じてたとしか思えないんだよな。

そうした所まで含めてみると諸葛亮は不世出の傑物だったと思えるんだよね

414無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 00:02:40
魏が建国間もないころならまだ北伐やりようがあったかもしれないが
諸葛亮が北伐やる頃にはもう国として成り立ってたからなぁ
415無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 00:09:48
>根本的な諜報力の衰退が生じてたとしか思えないんだよな。

相変わらず面白い仮説だけど、
飛躍しすぎに聞こえる。
416無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 00:15:11
>>413
そして諜報と言えば指摘したいのが爽やか曹爽のおこした対蜀大攻勢。
これは恐らく蜀内部の蒋苑→費イへのある種の政変による権力移動を察知して起こされたものと推察してる。
参加してるメンツがこの後政変起こす司馬懿、曹爽二大派閥のメンバー満遍なく入ってる。
魏の首脳部が「これは政変であり、好機」と結論を一致させてオールスターで起こした戦争っぽいんだよね。

俺はここ殆ど手をつけてないけど、これは面白いことが暴けるかも知れないから
興味がある人は是非突入して見ることをお勧めするよ。
と言っても俺の憶測は100突っ込んでキラ星が1,2あるかどうかだから無駄足に終わるかも試練けどね
417無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 00:20:50
>>416
HP更新きぼん

さもなくば俺のブログに後輪してほすいぜ
418無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 00:22:27
>>415
軍事面での諜報力は姜維を見れば魏に何ら劣るものでないのは分かって貰えるだろうけど、
他国の制度について情報を収集して自国の制度の改革、発展につなげる向きでの
情報を得ようという力の込め方がね。
419無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 00:27:03
>>417
さもなくばって、どこだよwww場所が分からんwwwwwww
そしてHP更新だが、最終更新後の春にHD飛んでパスワード消えて俺涙目wwwwww
3年分の通鑑訳他色々データ消えたあの時の俺の凹みっぷりを見せてやりたいぜwwwwww
420無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 00:33:11
>>419
王騎ブログ

で検索してみてくれ
421無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 00:40:57
>>420
ノノノノは俺も好きだぜwwwアニメのエルフェンリートで
作者に興味持った口。スレちなのでこれで勘弁なw
あとは他の三国志好きに任せた。お休みノシ
422無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 00:45:46
>>421
おやすみ
昔のイヤな思い出は忘れてガンガレ
呉書見聞も復活したし
423無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 01:09:16
蒋エンは大将軍から大司馬に進んでいるけど、進んだということは昇進ということだよね?

大司馬>大将軍

として、この2つは何の違いがあるのかさっぱりわからん。
424無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 01:20:33
大将軍>ヒョウ騎将軍だけど

大司馬大将軍
大司馬驃騎将軍

とすれば同格になるというトリックの為。
衛青を落とす訳にはいかないが霍去病を出世させたい武帝の霍去病萌えの産物
425無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 01:24:05
答えになってないかスマヌ
どっちも上公だけど大司馬は太尉の系統で大将軍は将軍の系統っぽい
426無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 01:32:06
後漢末や魏の大司馬は大将軍の上位互換っぽいよ
曹仁とか大将軍から大司馬になってるけど、太尉は別にいるでしょ
427無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 01:58:07
>>422
ここで会うとは!?
ってか王騎ブログでいいのかw

っていう妄想w
↑でわかるか?
428無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 12:32:53
周  軍事の長を司る                  
秦  太尉に名前が変わる。              
前漢 武帝の前139年に太尉を廃止。丞相が軍司を兼ねる。
    武帝の前119年に大司馬を将軍号に冠する。     
後漢 光武帝の25年に大将軍の呉漢を大司馬とする。   
    光武帝の51年に大司馬は太尉に名前が変わる。   
   
189年 劉虞が大司馬に任命される。193年に死亡。
195年 李カクが大司馬に任命される。198年に死亡。
196年 張楊が大司馬に任命される。198年に死亡。

魏 曹丕の221年に大将軍曹仁を大司馬とする。223年に死亡。
  曹叡の226年に征東将軍曹休を大司馬とする。228年に死亡。
  曹叡の230年に大将軍曹真を大司馬とする。231年に死亡。
以後、縁起が悪いので廃止。



429無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 15:38:48

施績:上大将軍→左大司馬
丁奉:大将軍→→右大司馬
430無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 18:56:31
>>413
「刺史の巡察スケジュールは機密でもなんでもない」
それに同意してくれるなら、
諸葛亮は直接旧知に手紙を書くまでもなくその情報を入手する事が出来るし、
その情報が蜀漢に知られていたからと言って、
それを理由に刺史が左遷されるような事態も起こらない事がわかるはず。

蜀漢帝国は、北方に伝手のある官僚や豪族が史書に名が残らないような
中下級に至るまでごろごろんしてる政権なんだよ。
431無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 19:36:25
430の続き
>>413
末期にしか見られない車騎驃騎の分割を以って蜀漢後期が呉の官制を真似たというのは根拠が無さ過ぎる。
諸葛亮の没後、蜀漢の高位官制は、一人または数人の、比公将軍録(平)尚書事が軍政両権を掌握するという
漢朝のミニチュア版的な体制に落ち着き、滅亡時まで続く。
これらが両漢の同名官職と同じ職能を持っていとは断定しがたいが、
李漢を名乗る以上、表面的にでも積極的に真似る必要があっただろう。
これは勿論、呉の官制と大分異なる。
両国とも後漢官制をベースにしているだけに類似点は多いが。

蜀漢が高位将軍号を分割したのは、功績を挙げて昇進し、前線を退いた老将軍に
朝廷での高官を用意しつつ、枢機に関わらせないというものとみえる。
高位将軍からの順番待ちの感が強い形で丞相が任じられ、時には太傅があり、
時には丞相を左右に分けた呉とはかなり異なる意図だろう。
蜀漢の枢機は、最後まで尚書事と宦官という中朝官に握られており、これも両漢を思わせる。

まあ、官名だけから両国の体制を語ることは難しいが、「左程検討することなく」導入するような
表層的な類似は見られない。
432無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 20:08:51
>李漢

季漢でのうて?
433無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 20:10:28
>>432
ミスw
434無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 20:30:17
ちょっと思い返して、思いつくところを調べただけだけど
呉の要職左右分割って朱然と全jが最初(246年)だろうか。
で、その次は262年の御史大夫分割。
孫皓以降になると増えるけど、こうして見ると多くない。
なので蜀が呉を意識して輸入したと言えるかは疑問だな。

ただ>>431のいうような性質の違いがあったかもまだ保留。
結局のところ、蜀も呉も人材不足だったこともあり、
功臣たちを引退させることが出来なかったと思うんだ。
もし高官に任じつつも枢機に預からせたくないのであれば
それこそ三公でいい。
でも実際には現場から引退されたら困るだろう。
435無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 20:40:06
逆に、「高官にしてやらなければいけない人物が多すぎるから」左右に分けたんじゃないの?
つまり人材不足の逆で人あまり状態
(有為の人材は不足してただろうけど)
436無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 20:48:27
>>434
うん、廖化らは前線からは退いたが成都である程度の兵力を領していて、中軍の役を担っていたと思う。
だから姜維は援軍に真っ先に廖化を指名した。
蜀漢が三公を廃止したのは、小国であるためそんな高官を複数置いても与える職務が無く、
位にいるだけの高官を養う余裕も無かったこと、
将軍が行政を執る軍政一致政権であるため文治色が強い三公はそぐわないことなどを考える。
その代替職として成都に常駐する左右車騎や諸大将軍が置かれた面があると思う。
437無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 20:54:14
三公は乱世では役立たずな印象だよね
大将軍はなんか外戚用というか皇族用というか
驃騎将軍以下と比べて政治色が非常にきつい
438無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 21:58:12
賈クとか陳羣とか華キンとか王朗とか司馬懿とか満寵とか曹操とかが役立たずと聞いて飛んできました。
439無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 22:12:19
うそです
サーセンw
440無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 23:10:10
>>428
>以後、縁起が悪いので廃止。
ダウト!
441無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 23:11:20
>>440
曹真のあとに公孫淵がいるからな
442無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 23:26:46
つーことは大司馬しておけば死ぬだろうと思って任命したわけか。
443無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 23:28:29
そして公孫淵は大司馬に任命されたので、憤慨して独立したわけだ。
444無名武将@お腹せっぷく:2009/08/11(火) 23:32:41
>>442
曹爽はシバイを殺そうとして大司馬に任命したからな
445無名武将@お腹せっぷく:2009/08/12(水) 03:29:16
大司馬に関しては易中天の『品三国』の翻訳本に、こんな事が書いてある。
「(中略)建興12年(234年)、劉禅は蒋エンを尚書令に任命し、諸葛亮の後任として国事を統括させた。
建興13年四月、蒋エンを大将軍、録尚書事とし、漢の武帝以降の制度を復活させた。
延煕二年(239年)、蒋エンを大司馬に任命した。延煕六年、尚書令の費イを大将軍、録尚書事に任命した。

大司馬の蒋エンには行政を主管させる一方、軍事を兼任させ、
大将軍の費イには軍事を主管させる一方、行政を兼務させた。
このように二人の権臣の権力を交錯させ、しかも衝突することなく、互いに牽制させたのである。」

大司馬と大将軍に関しての見解としてこれは否定するべきものではないということいいのかな?


それから、これは全然関係ないのだけれども、廖立伝にみえる『諸葛亮集』の記事の中で、
諸葛亮が廖立が劉備に出仕してからの現在至るまでやってきた欠点が書きならべてあって、
その中に「大将軍に随行しているときには誹謗云々・・・」って書いてある。
時系列にこれは劉備が漢中王即位後から死ぬまでの間の出来事だと推測するのだけれども、
この大将軍って誰?



446無名武将@お腹せっぷく:2009/08/12(水) 03:39:46
と書いてておもったけど一応劉備も大司馬なんだよな

219年 劉備が大司馬を自称。223年に死亡。

大司馬伝説を考えると蒋エンは長生きしたほうだな。
447無名武将@お腹せっぷく:2009/08/12(水) 13:13:05
公孫淵は与えられた大司馬の地位が不満だったから反乱を起こしたんじゃなかったっけ?
どれくらいの爵位だったら満足したんだろうか
448無名武将@お腹せっぷく:2009/08/12(水) 13:23:15
燕王大司馬ならいいんじゃないの。
449無名武将@お腹せっぷく:2009/08/12(水) 22:15:09
>>445
どうなんだろうね
後漢の歴史上では、上公としての大司馬と大将軍が同一政権内に並置されたことはないはずだし、
魏の大司馬は対呉戦線で思いっきり実働しているから前例を参考には出来ないので難しい。
三国志や華陽国志以外の史料に基づいているのかもしれないけど。

というわけでやってみた。
大将軍蒋エンは238年に呉と連携して魏を撃つように命じられて漢中に駐屯し、
翌年大司馬となっている。駐屯期間は丸五年。
それより前、武都のテイ族の乱で苻健が少数で逃れてくる事件などが起こり、
この時期、魏蜀の戦線は益州内にまで押し込まれていて、それを巻き返す必要があったのだろう。
直接には大司馬司馬(ややこしい)の姜維によって指揮された。後の展開を見る限り
この攻防は2、3年で蜀の勝利に終わり武都・陰平付近の再確保を果たしたのだろう。
蒋エンが諸葛亮のような大規模な攻勢に出なかったのは、西方戦線のために準備が整わなかったのか、
元々蒋エンの戦略構想と合わなかったためか。蒋エンは「呉が約束を破り」と弁明している。

この間、大司馬は文字通り「兵馬を司る」最高官として機能している。
同時に重要項目の最高決定を劉禅に委ねられているわけだけど、日常の執務は成都の尚書令費イが
執っていただろう。
450無名武将@お腹せっぷく:2009/08/12(水) 22:18:35
しかし、この駐屯後期に問題が起きる。
蒋エンの唱えた東征策には反対が多く、241年にわざわざ費イが派遣されて詔が伝えられ、姜維らを加えて
今後の戦略を討議した。
その結果、242年に姜維はフ(倍の左はサンズイ)まで戻り、243年には蒋エンもフに駐屯した。
蒋エンの上書によると、姜維を河右に派遣して成功すればその後を追い、また東北(漢中だろう)で変事があっても
駆けつけることができる位置だ、としている。
しかしながら、対魏に備えて駐屯するにはフは遠すぎ、特に北西に行くには不便な場所に見える。
この配置転換の一ヵ月後、費イは大将軍となった。
大将軍費イは244年の曹爽の侵攻に対して援軍を率い、翌年には漢中の陣営を視察している。
フに駐屯していたはずの蒋エンは完全に素通りの格好だ。
少なくとも
>大将軍の費イには軍事を主管させる一方、行政を兼務させた。
というのは正しいのだろう。
では、
>大司馬の蒋エンには行政を主管させる一方、軍事を兼任させ
とは言えるだろうか。
成都の行政を司っていただろう蒋エンの出征に代わって召喚されたのは、平尚書事に任じられた馬忠だった。
246年、蒋エン卒。

一先ずの結論。
大司馬蒋エンは、その前期は漢中にて軍政両面の長として機能していたが、フまで後退し費イが大将軍となった頃を境に
両方の第一線から退いた。史書から推測されるその理由は、病が重くなったため、ということになるだろう。
451無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 09:11:39
>>450
レストンクス。史書から読み取れるのはそれくらいだよね。
フを抑える理由が分からんのよね。呉は動揺したらしいけど呉を攻めるためのものではないだろう。
フを抑えることによって見えてくる何かがあるはずなんだけど俺にはわからん。
北で変事云々というのは、そのまま受け取って行けないだろう。

ここで仮説なんだけど、蒋エンは大将軍から大司馬に進んだのでは無くて、
大将軍から大司馬大将軍に進んだのではないだろうか?
これだったら費イが大将軍に任命された時点で、蒋エンは軍権の無い大司馬に
なるわけだから、軍事行動が起こせないとしても不思議なことではないだろう。





452無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 09:22:02
僕が廖立の伝に見える「大将軍に随行」という言葉に拘るのは、
もしかして蜀書に書いていないだけで、諸葛亮は丞相大将軍録尚書事だったんじゃね?ということなんだよね。
他に劉備の時代に大将軍になれる人物が思い当たらない。
453無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 11:32:09
上表の中で自分のことは「臣」劉備のことは「先帝」と書いてるからこの二人ではないと思う。
454無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 12:23:43
>>451-452
おお、それはありえるかも知れない。
原文「就加為大司馬」、これが(大将軍の官に)大司馬を加えられた、と読んで良いなら、
蜀漢の大司馬は、前漢の一時期のように属僚・印綬が無いものだったのかもしれないね。
大司馬大将軍蒋エンは、大将軍の印と属僚によって職務を行っていた。
それが費イの昇進によって大将軍の権限を奪われてしまったと。

諸葛亮集の「大将軍」は確かに疑問だけど、これは諸葛亮による上言なのだから、
自分のことを大将軍とは言わないだろう。勿論劉備のことでもない。
他の史料と整合を取るなら、「隋大将」とか「隋軍」とかいう語の書写の間違い
ということになるだろうけど、まあ解らない。
それから、丞相は万機を掌る、という職であって、宰相は古くから軍事を担ってきたし、
蕭何や曹操の前例もあるから軍権を握るのに大将軍の官を加えることはないと思う。
455無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 13:53:38
横レスだけど、俺が不思議だったのは
丞相から三階級降格で何で右将軍になるのかということ

±0 大将軍
−1 驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍
−2 四鎮、四征、鎮軍大将軍
−3 四方将軍
−4 四鎮、四征、鎮軍将軍
−5 雑号将軍

とする方が分かりやすいのだが
456無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 14:15:55
±0 丞相
±1 大将軍
−2 驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、四鎮・四征・鎮軍大将軍
−3 四方将軍
−4 四鎮、四征、鎮軍将軍
−5 雑号将軍

こんな感じでしょう
457無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 14:37:53
左車騎将軍とか右車騎将軍で分割されたのは二人で一人前ってことか?
458無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 14:52:20
0 上公
-1 公
-2 比公
-3 卿

で、四方将軍は卿相当なら一応辻褄が合うが、
秩録制の中でこういう数え方をしたのか不明なのでなんとも言いようがない
459無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 16:12:09
比公って何?
460無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 16:15:55
公に比す位
大・驃騎・車騎・衛の四将軍は後漢官制では元々比公将軍
461無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 16:33:03
>比公将軍

thx。勉強になるなあ。
その四将軍はそういう風に言うのか
462無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 17:36:12
あ、いや、「比公将軍」という名称があったわけじゃないけど。
後漢書百官志には
「比公者四:第一大將軍,次驃騎將軍,次車騎將軍,次衛將軍.」
と記されている。但し、和帝の時代に権勢を誇った大将軍竇憲が、
その位を三公の上に置いて属官も強化した。
以後の外戚もこれに習った。大将軍が上公とされるのはここから始まる。
463無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 18:19:18
>>393
遅レスで申し訳ないが

諸葛亮伝では、諸葛亮出陣→囮に引っかかった曹真派遣→三郡攻略の順番だが
明帝紀では、諸葛亮の出陣→三郡攻略→曹真派遣の順番になっており、
諸葛伝の囮うんぬんの下りは孔明の智謀をアピールするための蜀側による後付のような気がする
一大軍事拠点である媚に曹真が大軍で駐屯していたら、既に最低限の対策(長安の守備)は採られていることになり、「関中が激震する」とか「朝野が恐怖する」必要性が無いじゃん。

魏側に蜀に対して備えが無く、かつ連年の呉との戦争で疲弊していた魏が(ただでさえ消耗していた関中に)いきなり大軍を動員できるわけないし、
だからこそ魏延が五千か1万の軍隊で侵攻して勝てるっすよwwwって余裕ぶっこいてたわけで。
曹爽時代に蜀に侵攻した時の動員数が7〜8万なのだから、
曹叡の時代に繰り出した防衛軍の動員総数が5万というのは妥当な数値だと思う。

>敵を分散させ数的不利を解消して各個撃破する これは兵法の基本
でも各個撃破されたのは蜀のほうだよ
464無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 18:51:21
「部勒兵馬歩騎五萬」と「率衆十餘萬」(これは第五次の数だが)と
どちらが前線の兵士数で上かというのは微妙な話だね。
一次北伐の際、蜀漢の方が総数で上だったというのは賛成できるけど、
前線の兵力差が二倍三倍というのは蜀の国力から有り得ないだろう。

レスを遡って見たが、
>>387
因みに趙雲は桟道を焼き払って追撃を絶っている。
逆侵攻するための用意など急行した曹真が持っているはずがないし、
陽平関のような超要害を奪って後方遮断というのはまあ無理だろう。
年を越すくらい長期化したら別だろうけど。
逆に言うと、諸葛亮が街亭で敗れただけであっさり退いたのは
「魏が本腰を入れる前に隴西を固めて勝負を決めなければ勝てない」
という目算があったからかもしれないな。
465無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 20:22:21
>>463
明帝紀は問題ないよ
明帝紀は「諸葛亮が侵攻した。曹真を関右に派遣した。」という単純な記録
それに「三郡寝返り」という「諸葛亮の侵攻」という事件に修飾をしたもの

曹真伝では「諸葛亮が祁山囲む。三郡寝返る。」となっている
それから曹真を派遣したのなら、なぜ大将軍曹真が祁山ほっといて箕谷に向かうのか


関中が激震したのは諸葛亮の祁山での戦いぶりが凄かったから
朝野が怖れ慄いたのは三郡が寝返るなど蜀の侵攻の威力が大きかったから
無論、曹真の備えあってのことだから
「備えがあったならそんなことは起きない」とは言えない



>魏側に蜀に対して備えが無く 以下
蜀も国境に大軍を配していた筈もなく、動員を掛けて集めた
蜀が動員を掛けたら魏にもすぐ伝わる
魏は蜀の動員を察知し、動員を掛ける
蜀と魏のタイムラグは魏の密偵が本国に伝えるまでの時間分だけ
蜀軍が移動している間に魏の動員はとっくに完了している
魏延の策は奇策で、「どうしてこんな所に蜀軍が!」という敵の動転を期待している
この作戦に関して源義経の屋島の戦いを想像してもらえれば助かる
466無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 20:28:23
俺も諸葛亮は大将軍だったと思う

曹操が三公制を廃止し、丞相を復活させた
丞相とは
三公
大使徒(行政最高位)
大司馬(軍事最高位)
大司空(監査・立法最高位)
を統合させたものと考えてよいのでは

大司馬が軍事最高位とは言え、兵権を持っていない役人なのなら
丞相もまた、持っていないのではないかな
大将軍は分類すれば役人ではなく「兵隊」

任命権のある皇帝から見れば
戦争は政治の一部だから
最高の軍権を任せることができるのは兵隊ではなく政治家だと思う
反面、政治家に戦場は任せられない
戦場を任せられる最高の人間が、兵隊大将軍で
国事としての軍事を任せられる最高の人間が、政治家大司馬だと思う


諸葛亮は
221年に丞相に任命され、225年劉禅により黄金の鈇と鉞を賜った

鉞は軍権の象徴で、黄金は天子の象徴
つまり黄鉞を賜るということは
王の軍権を委任されるということ
軍事最高司令官の大将軍・大都督が与えられる

丞相に軍権があれば、後に劉禅から黄鉞を賜るのはおかしい
467無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 20:31:05
>丞相に軍権
軍政権のじゃなく指揮権の意味ね
468無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 20:35:22
乱世で疲弊したキ州ですら30万の兵を得られるんだぜ?(サイエン伝)
ましてやただでさえ益州はキ州より戸数が多い最大の州であり、乱世の弊害は小さく、そこに東州兵や荊州兵が入り込んでたのだから
劉備の敗戦があったとはいえ、その兵力はその他の州が保持してるレベルを超えてる

一方、魏は領土は広いが、兵力を期待できるのは、キ州、エン州、司州、豫州の四州のみ(杜機伝)
四州の兵力で天下の8割を守護しなければならないので、その兵力は分散している

そして第1次北伐は蜀漢がしっかり計画を立てての侵攻計画だった以上、国力を総じた一代攻勢だったと思う
そうなれば、用意してなかった上、急仕立ての魏軍が多数の兵力を用意できる可能性は低くい
第1次北伐だけに考えれば、蜀に倍くらい兵力があってもおかしくないのではないかと思う
469無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 20:43:21
>明帝紀は「諸葛亮が侵攻した。曹真を関右に派遣した。」という単純な記録
>それに「三郡寝返り」という「諸葛亮の侵攻」という事件に修飾をしたもの
それは諸葛亮伝が正しいという前提だね。
明帝の詔勅無くして曹真が動くとは思えないし、三郡が願えるという大事件でもおきない限り
軍事No.2の大将軍を軽々しく動かすとは思えない。

>それから曹真を派遣したのなら、なぜ大将軍曹真が祁山ほっといて箕谷に向かうのか
張コウを派遣したからでしょ。
曹真は第2次の時だって、自分では直接動いてないよ。

>関中が激震したのは諸葛亮の祁山での戦いぶりが凄かったから
いや、戦いなんてほとんど無かったよ。

>朝野が怖れ慄いたのは三郡が寝返るなど蜀の侵攻の威力が大きかったから
>無論、曹真の備えあってのことだから
>「備えがあったならそんなことは起きない」とは言えない

二郡が陥落した時には同様なんて無かったのに?
そもそも「備えが無かった」とは史書に書かれてるし、大将軍が関中に大軍を率いて駐屯していたと?
470無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 21:06:01
「まさか蜀軍が侵攻してくるとは考えてなかったので無防備でした」

てことをリアルで司馬懿や曹真だってやらかすさ、人間だもん。
何でもかんでも深慮遠謀だと思ってたらやってられん
471無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 22:00:19
>>466
違うよ。元々前漢後期に、丞相に集中していた権限が三つに分割され三公への改変が行われた。
(正確には周代の旧に復された)

・丞相 →司徒
・太尉 →大司馬(後漢では太尉)
・御史中丞 →司空

曹操はこれを丞相制に戻しただけ。
丞相制では、丞相が「万機を理(おさ)める」と言われ、少なくとも執政面ではワントップ。
それに次ぐ席として太尉(や大司馬)が置かれ、これが軍事を掌握したが、
太尉は省かれる時代も多く、その場合は尚更丞相に権限が集中した。
元々三公が動議されたのは、大司馬大将軍が置かれていたが大司馬の印綬が無く、
つまり軍政を取る者がおらず、丞相に三権が集中していた幣を是正するという目的のものだった。

曹操と諸葛亮の時代というのは、まさにこの『太尉がいない時代』に相当する。

この場合、軍政権と領兵権を分けなければならない。
大将軍らは京師に常駐していても兵を領しており、それが権力を保障する面もあったとされるが、
基本的に軍政権とは別。大司馬や太尉がこれを執行する。置かれない場合は丞相が取ることになる。

さらに、漢では平時と戦時がかなり明確に区別されていた。
九卿や太守が異民族との交戦時には将軍に任命され、事が終わると免じられる。
これまた太尉が置かれなかった時代、太尉を置くよう求めた推薦に対して宣帝が
「太尉を止めて丞相がこれを兼ねるは武をやめ文を起こす所以である。
もし辺境に事があれば左右の臣皆将である」と答えている。
このように漢の将軍クラスは基本的に中央の高官や太守から任じられていた。
大規模な出征や乱世が定まらない時期は、皇帝や、丞相、太尉、大司馬らが諸将軍を統括する。

鉞を授けるというのは、元々は将軍の出征前に、いわば戦時法の行使という皇帝の大権を分与する儀式だった。
つまりこれは諸葛亮の指揮下で蜀漢軍が戦時体制に入ったことを意味する。
(曹操のような権臣が軍事専断権を自分の自由にするために持つこともある)
この時黄鉞が授けられたからといって丞相に平時の軍政権が無かったとは言えない。

というか、諸葛亮が「丞相大将軍」だったのなら、>>466の論理からすると
軍政両面の権力を既に握っていたわけで、後から黄鉞を授けられる意味が無いんじゃない?
472無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 22:01:43
>>466
書いた者だけど諸葛亮は大将軍ではなさそう。理由は>>453
黄金〜は、劉備の時代には諸葛亮は開府の権限を与えられていなくて、劉禅の代になってようやく開府の権限を与えられたということ。

じゃあ大将軍って誰なのよ?というと、>>454のように単なる写し間違いが濃厚。
それでも敢えて時期を特定するなら、おそらく夷陵の戦いの時だと思うので、夷陵の戦いで死んだ将軍の誰かが大将軍だったのかなと推測できる。
けど、黄権以上の将軍がいたとは思えん。
473無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 22:04:00
>>471
御史中丞じゃなくて御史大夫だよ
474無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 22:31:15
>>473
スマンw
475無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 22:42:21
>>468
益州の戸数は劉備の即位時に20万戸90万人。滅亡時に28万戸94万人。
冀州の戸数は曹操の言葉や荀攸の上奏から推すに20〜30万戸。
後漢書を参照すると冀州は一戸辺りの口が多いから100万人をかなり超えるだろう。
晋代には32万戸(漢代より所属郡が増えてるけど)。

それに、戸数に匹敵する兵士を動員して根こそぎ一方に投入するなんてのは不可能事。
蜀が兵戸制を取っていたと仮定しても、魏晋や呉の動員数から比定するに
五次北伐の「十余万」が国力限界値に思える。
一次北伐で同等の兵を動員したとしても、この時は諸葛亮の本隊が祁山に残っており、補給線も
長く、おそらく天水ら三郡にも多少は兵を派遣していただろう。
曹真が総兵力五万だとしても戦場が街亭と箕谷の二点だけなら甲乙つけ難い戦力差になると思う。
趙雲と曹真の実際の兵力どちらが上かというのは断定しがたいが、
趙雲の方が明らかに強大だったならそれを撃破するには相当の戦闘が行われたはずなのに
曹真伝などにはまったく記述が無いし、
箕谷の方が多かったとする『漢晋春秋』は諸葛亮の軍縮と軍の整備方針を訴える政治的意図臭さが
感じられてちょっと鵜呑みにし難いという難点がある。
476無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 22:44:52
サイエン伝のキ州っていつごろのキ州?
477無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 22:48:51
或いは、「箕谷不戒之失」というのは曹真を拘束するために出陣して攻撃を掛け負けたというようなことを
示しているのかもしれないな
478無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 22:49:42
>>476
曹操がギョウを落とした頃の冀州
479無名武将@お腹せっぷく:2009/08/13(木) 23:26:13
諸葛亮時代、大司馬っていたの?
480471:2009/08/13(木) 23:50:19
「違うよ」と言いつつ、大意では466と違うことを言ってるわけではないな ごめんw
相違点を纏めると、
「両漢の前例から見ると、丞相や太尉は平時から直属の兵を領する職ではないが、戦時征伐に出る際に将軍号の付与が必要な職ではない。
将軍号は、主に太守、卿、諸侯に征伐の兵権を与える場合に任じられた。
また、皇帝が幼弱である場合などに京師に置かれることがあり、常備兵を有することが首都での権能を担保した、とされる。
皇帝が外戚などの腹心を将軍に任命することもあれば、それが行過ぎて専横の地位に利用されることもあった」
としておこう。
481466:2009/08/14(金) 00:25:56
>>480
ググってみたらこんな記事みつけた
『314年 劉粲が漢の丞相・大将軍・録尚書事・晋王となった。』
丞相が大将軍を兼任しないという決まり事のようなものはないのでは?




廖立の件
諸葛亮の上表「大将軍」は関羽の事じゃないかな
劉備が死んだのが223年
劉禅が帝位に就き、廖立を長水校尉に任命
そして不満
諸葛亮が黄鉞を賜ったのが225年
これを大将軍就任のタイミングとすると
おそらく上表後のこととなる
482466:2009/08/14(金) 00:32:52
あと、諸葛亮が「三階級落ちて右将軍になった」というのも不確定

伝わっている品官は魏の九品法によるものだから蜀がどうだったかは不明
また、
九品法通りでも
「三階級落として」と上表したのは事実でも、そのまま聞き届けられたかどうかは不明
二階級しか落とされなかった可能性もある
483無名武将@お腹せっぷく:2009/08/14(金) 01:21:34
>>481
「決まり」ではない。漢官制では兼任する意味がない。という話。
樊カイ、灌嬰から董卓・曹操・諸葛亮に至るまで、三漢の相国、丞相、太尉が
出征の際に将軍を兼務した、という例は浅学にして知らない。
大司馬には呉漢という最たる例もある。
これは魏でも継承された。初期の曹氏や末期の司馬氏など。
例外は、大司馬が印綬を持たなかった時代の大司馬将軍のみであるようだ。

意味がないのだから、禁止するような法令や慣習自体が成立しない。
前趙(漢)の時代には兼任が必要な理由ができたのだろう、としか言えない。
漢でも、制度の変化によって大臣が宰相の権を得るには尚書事を領する事が必要になったように。

というか、廖立の件が225年より前と仮定するなら、
諸葛亮が大将軍を兼務したという可能性はゼロになるんでない?
484無名武将@お腹せっぷく:2009/08/14(金) 01:40:35
>>468
杜恕伝のその件は
・魏の総人口は古の一州にも満たない
・外制にあてられる兵力を期待できるのは兗・予・司・冀の四州

兗・予・司・冀の四州の兵で全土を守っているのではなく
遠征を行っても州の運営に支障を来さない余剰な兵力を作れる州が
兗・予・司・冀の四州だということ
つまり守備要員ではない

蜀はヨウ州守備軍と戦い、余剰兵力で編成された中央軍と戦わなければならない



>>469
蜀志を無視しているからそういう解釈になるんじゃないかな?

>>関中が激震したのは諸葛亮の祁山での戦いぶりが凄かったから
>いや、戦いなんてほとんど無かったよ
諸葛亮伝「亮身率諸軍攻祁山,戎陳整齊,賞罰肅而號令明,南安・天水・安定三郡叛魏應亮」

「戎陳整齊,賞罰肅而號令明」こういうのは戦闘しないと見れないでしょ


>そもそも「備えが無かった」とは史書に書かれてるし、大将軍が関中に大軍を率いて駐屯していたと?
夏侯淵の後を受けて都督関中となった夏侯楙がいたが、
それが「蜀に対する備え」ではなかったと思うの?
それなりの兵力が長安にあったと思うよ
ピンチヒッターで曹真が長安軍を率い、情報に従って諸葛亮と対戦すべく箕谷へ向かったと
考えるべきじゃないかな
485無名武将@お腹せっぷく:2009/08/14(金) 01:55:42
雍涼州諸軍事な曹真だけど、中外諸軍事に昇格したあとは、司馬懿が就くまでに空白になってるね
やっぱ兼任なんだろうか
486無名武将@お腹せっぷく:2009/08/14(金) 02:20:29
>>484
整然と「動かした」だけで「戦ってはいない」んじゃないのか?
もちろん前者だけでも凄い。司馬師くらい
487無名武将@お腹せっぷく:2009/08/14(金) 02:30:41
>>483
樊噲・灌嬰はバリバリの軍人上がり
政治家丞相に昇格する際、将軍位は返上したのだろうか?
元の将軍位でも結構な兵力を指揮する権限があった
丞相として出兵を決定 
特に黄鉞など受けてなければ元の将軍位で軍事指揮という感じだったのでは?

董卓・曹操は軍人のみならず自前の大勢力を持っているから諸葛亮とは違う
一応、董卓は前将軍、曹操は司空(大司空)・車騎将軍



どう頑張っても「大将軍諸葛亮」の証拠がないので予想の域をでないんだけどね
要は、純粋な「丞相」に兵権があったかどうか
そこを争うしかない
488無名武将@お腹せっぷく:2009/08/14(金) 02:32:37
>>486
行軍ではなく戦場でのことだと思うよ
489無名武将@お腹せっぷく:2009/08/14(金) 13:30:54
>>488
その根拠や如何に?
490無名武将@お腹せっぷく:2009/08/14(金) 13:38:40
呉の丞相の万ケも前線の守備についてる時期があるけど
将軍位は貰っていないっぽい。
それに当時は施績と丁奉が大将軍を経て左右の大司馬になってるから
臣下1位の万ケが貰うにふさわしい将軍位はなさそうだ。
491無名武将@お腹せっぷく:2009/08/14(金) 17:49:43
>>487
>将軍位は返上したのだろうか?
しただろうね。残したのなら「領兵元の如く」のような記述がどこかにあるだろう。
元々、将軍というのは、戦時が終われば免じられる征伐用高級管理職。
よほどの乱世でなければ「兵隊上がり」がなれるようなものじゃない。

>要は、純粋な「丞相」に兵権があったかどうか
軍政権、領兵権などと区分して論じようとしているのになんで逆行してしまうのか
492無名武将@お腹せっぷく:2009/08/14(金) 20:20:51
張温あたりから在外太尉も出るようになったらしいから
慣習は破綻してるんじゃないかな
493無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 01:11:31
>>489
読んだまま

>>490
万ケは左遷されて赴任した
そのとき諸軍事か都督か役職を加官されたんじゃないの?

>>491
>残したのなら「領兵元の如く」のような記述がどこかにあるだろう。
逆。 兼任が常識だったら書かないのが当たり前

>元々、将軍というのは、戦時が終われば免じられる征伐用高級管理職。
それは非常設の将軍位じゃないかな?
平時、武官は何してたの? また、「非常設」があるのに、皆、非常設なわけがない

>軍政権、領兵権などと区分して論じようとしているのになんで逆行してしまうのか
丞相が大司馬の職務も担っているのなら
軍政権はあるだろう
しかし、大司馬に指揮権があるのなら、大司馬は大将軍を兼任しないだろう
それなら丞相=大司馬に指揮権はあるのか?ということになる


>>492
孫堅伝
「中平三年、司空張温に車騎将軍の職務を行わせ、西進して辺章らを討たせた。」
494無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 01:40:01
常設の将軍号なんてねーよ。タコ
495無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 02:14:16
俺の記憶が確かなら、呉漢のケースは大将軍を兼ねさせないことを明言しつつ大司馬に任じ、
そのまま大司馬として様々な賊の討伐に向かわせてたんじゃなかったかな。

問題は、呉漢の大司馬の前の将軍位が大将軍だから、
前に受けた将軍位を兼ねてるということはあり得ないこと、
+他の官位を受けた様子がないこと。
+軍事行動の主体となってること。

それと「大司馬(or丞相)は将軍職を兼任しないと兵は指揮できないことが常識」っていうのと、
「大司馬(or丞相)は将軍職を兼任していることが常識」というのとでは流石にかなり大きな隔たりがある。

そして前者なら将軍職を兼務するってのは大事件だ。
大権を持ってる奴に更に大権を付与するんだからな。
書かないなんて事はありえない。
そして後者なら、「どれほどの」将軍職を兼任しているかは、政治的に大きな事柄となる。
なぜなら、それらの役職が、常にどのような将軍職を兼務しているものかが史書に明示されてない。
わざわざ丞相だとかの役職は書いているのに、それだけ書かないなんて事はありえない。

>しかし、大司馬に指揮権があるのなら、大司馬は大将軍を兼任しないだろう
いや、他にも大司馬が大将軍を兼ねる理由はある。
それについて権限を持つ誰か、あるいは大司馬自身が、
それを兼ねることで他の人間にその役職に就かせないようにしようと考えたときだ。
政争という観点から見れば非常に大きな意味がある。
496無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 02:17:41
>>493
三郡が降伏するほどの大勝にもかかわらず
魏の捕虜、戦死についての戦果の記述は皆無。
「諸葛亮の祁山での戦いぶりが凄かった」ならば
陳寿は孔明の手柄を隠したけしからん輩だね。
497無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 02:47:29
>>493
>万ケは左遷されて赴任した
左遷の根拠って何かあるの?
晋書の記録によると翌268年に襄陽に攻め入ってるし、作戦行動前提の異動にも思えるが。
そのあとの270年には建業に戻って来てるし、憂死するのは272年だ。

>そのとき諸軍事か都督か役職を加官されたんじゃないの?
つまり諸葛亮も益州諸軍事とか加官されていて、だが大将軍兼任ではなかったとかいう話?
498無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 02:50:39
>「戎陳整齊,賞罰肅而號令明」こういうのは戦闘しないと見れないでしょ

まずこれが間違いだろう。
戎陳整齊=兵隊の陣伍がきれいに整い揃っている
賞罰肅而號令明=規律が厳粛で、しかも号令がはっきりしている
程度の意味。

また他の伝だと交戦の結果の勝利ならば大破、撃破、破とかが書いてある。
勿論、不戦屈敵はベストだけどその論旨だと意味が違う
499無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 03:00:32
>>494
ソース要求

>>495
諸葛亮の死後、大司馬は最高軍政長官、大将軍は最高領兵将領となった
例:蒋琬

>>496
「戦いぶりが凄かった」
500無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 03:24:04
>>499
その人ではないが百官公卿表と百官志にある。

前後左右将軍、皆週末官、秦因之、位上卿、金印紫綬。
漢不常置、或有前後、或有左右、皆掌兵及四夷。

将軍、不常置。
本注曰、掌征伐背叛。
比公者四、第一大将軍、次驃騎将軍、次車騎将軍、次衛将軍。
又有前、後、左、右将軍。
501無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 03:25:50
>>497
>万ケ
・讒言され孫皓から譴責を受ける
・267年 巴丘守備

>つまり諸葛亮も益州諸軍事とか加官されていて、
赴任させるという事はそれに応じた役職が与えられるはず
諸葛亮は益州牧でもあるから漢中に居ても道理が通る

>だが大将軍兼任ではなかったとかいう話?
諸葛亮は南蛮征伐前に黄鉞を受けている


>>498
まだ決着がついてない場合はなんて書いてるの?
「統率が高いレベルで執れている=強いだろう」となる
行軍で「陣立て」「号令行き渡る」とかないだろう
502無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 03:51:18
>>501
>まだ決着がついてない場合はなんて書いてるの?

亮攻祁山、不能下とかA拒之、亮不能勝とかかな。
決着がついてないうちから三郡が降るとは考えがたい
が交戦してるならば>>498で言ったように記述が不自然。

ないだろうとか言われても、そもそも軍隊の機動自体が全然簡単じゃない。
最良の兵隊とは戦う兵隊よりも歩く兵隊、と天才戦争屋は言った。
桟道を越えてやってきた部隊が弛緩もせずに
そんな統制を維持してる不気味さに驚くだけで十分。
503無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 03:55:58
将軍位の件

百官志
「安帝より政治は衰缺し、始めから嫡舅耿寶をもって大将軍とし、京都に常在した。
順帝が即位すると、また皇后の父、兄、弟をもって相続けて大将軍とし、三公のようにした焉。」

安帝在位106年-125年だから、それ以来の伝統とすると百年の歴史がある
タコと呼ばれる謂われはないな
504無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 04:20:22
>>501
>・讒言され孫皓から譴責を受ける
言われてみればそんな話だったような気もするが
見つけられないので、どこに書いてあるか教えて貰えると助かる。
267年以前の話だよね?
505無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 07:55:36
巴丘守備の原文見りゃ左遷なんて出鱈目だって一発なんだが504はわざとなのか?

右丞相萬ケ上鎮巴丘
死ぬとき
右丞相萬ケ被譴憂死
どちらも孫皓伝
506無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 10:18:52
呉書は何も考えずに読むと馬鹿をみるんだよなw
507無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 11:46:19
北伐の成功?

うん…まず荊州閥の重用と益州閥の従属化
逆らう奴は三族誅殺
とく呉懿あたりはしっかり暗殺しとく
そして東呉に降伏して官位と益州の軍権を保障してもらう

そして劉禅とその一族を皆殺しにして呉国益州府を立ち上げ益州総督に就任

交州に力を及ぼしてる呉だけに南方鎮圧楽勝
孟獲との茶番などやらず逆らうもの右をから順に撫で斬り財産没収、降伏者は優遇し国力の充実

諜略で徹底して魏を揺さぶり諸民族を手なずけて荊州の陸遜らと一斉侵攻

これで北伐はなって呉の天下になりました

めでたしめでたし
508無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 12:56:29
多分劉禅と一族処刑した辺りで蜀臣に反抗されるか、呉側から危険視されてで自分が殺されると思う
509無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 13:24:40
>>499

>>496
>「戦いぶりが凄かった」

イミフ。つまり「俺の読み方がただしーのォ〜」
って自己主張したいだけなのこの子は?
510無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 14:00:21
>安帝在位106年-125年だから、それ以来の伝統とすると百年の歴史がある
>タコと呼ばれる謂われはないな

タコでカスでもどうでもいいから↓をもう一回読み直そう。
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/g_hyakkan1.html
511無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 15:53:42
書き下ろし)
諸葛亮集に亮の表有って曰く
「立、先帝を奉じて忠孝の心無し。
 長沙を守れば則ち門を開ひて敵に就き、
 巴郡を領すれば則ち其事に闇昧闟茸有り、
 大将軍に随へば則ち誹謗譏訶す。
 梓宮に侍れば則ち梓宮の側に於いて刃を挟みて人頭を断つ。
 陛下即位の後は、普く職号を増やし、立、比ひに随いて将軍と為る。
 面して臣に語りて曰く『我は何ぞ宜ど諸将軍の中に在るか!我を卿と為すと表さず、五校に在ると上当したか!」
 臣答ふ『将軍は、大比に随うのみ。卿に至る者、正方も亦た未だ卿と為らざるなり。且つ宜しく五校に処すべし』
 是の後より、怏怏として恨みを懐けり」

訳)
諸葛亮集の孔明の上表にこうあった。
「廖立は劉備様に仕えたけど忠誠心がありませんでした。
 その証拠に長沙では敵前逃亡で利敵行為をかましやがったですし、
 巴郡では出鱈目な仕事をやってました。
 大将軍(関羽?夷陵の役?)に随った時には文句ばっか言ってましたし
 劉備様の喪中の時には亡骸のお傍で殺人までしやがりました。
 劉禅様が即位した後は、廖立は慣例のおかげで将軍になりましたけど、
 私の目の前で直接こう言って来やがりましたよ。
 『何でオレが将軍たちと扱いが一緒なんだ?
  オレを卿にしろと上表してくれず、長水校尉にして騙しやがって!」
 私はこう答えましたよ。
 『あんたはビッグルールにしたがうだけっす。
  卿になるだろう李厳さんだってマダですけど?
  これから長水校尉のお勤め頑張ってね♪』と。
 それから彼は憂鬱そ〜に恨みを抱いてましたよ((((;゜Д゜)))アアコワイ〜」
512無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 16:14:51
廖立が流罪になった時期が分からないけど
自分で自分を大将軍とは呼ばないだろう。
臣で済ますと思う。
513無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 18:18:47
>>493
漢、特に後漢朝廷には、基本的に衛尉や常設の中郎将・校尉とそれに属する士官以外
武官ってものは存在しないんだよ。戦時、将軍は有望者から、士兵は徴兵によって満たされる。

>逆。 兼任が常識だったら書かないのが当たり前
そんなわけないだろ…兼任によって一つポストが埋まってしまい、その埋まるポストが不確定なら、
どこにも書かれないなんておかしい。
実際、大司馬大将軍、大司馬驃騎将軍、廷尉大将軍、衛尉前将軍、太常偏將軍などと
兼任や名号を有したことが判る箇所は腐るほどある。

そもそも、どこにも書かれていないはずの話をどこからどうやってあなたが着想し得たのか、
それが大きな疑問だ。

>>503
権力を握った外戚が大将軍に就き宰相のように振舞うのは伝統となったが、
大将軍位が常置になってはいない。
影響力の弱い場合は城門校尉などから徐々に昇進するし、宦官などに政争で負けることもある。
514無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 19:34:37
±0 上公 丞相、太傅、大司馬
−1 上公 大将軍
−2 三公 驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、雑号大将軍
−3 九卿 四方将軍、四鎮将軍、四征将軍
−4 大夫 雑号将軍

これでおk?大司馬>大将軍>太尉≧司徒≧司空らしいし
515無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 20:08:18
漢制を踏まえて「三等級」を捻り出すなら、

±0 上公 太傅、丞相、大司馬 、大将軍
−1 公  司徒 太尉 司空
−2 比公 驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、雑号大将軍
−3 中二千石 卿 四方将軍(想定)
−4 二千石 太守 列将軍
−5 比二千石 中郎将 校尉

か。
ただし、後漢滅亡の時点で丞相は上公ではない。
蜀漢では丞相が司徒と並置された時点で上公となったと推定される。
また、魏では長く丞相は置かれなかったが、相国として三公の上に立った。
三国職官表などは丞相を相国の改称と看做すので、丞相は上公の位置に置かれる。
前後左右将軍が中二千石という直接の根拠はない。
516無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 20:29:44
>>512
華陽国志では流罪になった時期は225年。
正史でも廖立の言葉を諸葛亮に伝えた
李邵は南征留守中に死去している為、225年とみるのが自然。
517無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 22:11:24
>>504
ごめん 呉に興味ないので詳しくない
あれは某サイトの受け売り
が、たぶん左遷だよね


>>502 , >>509
>亮攻祁山、不能下とかA拒之、亮不能勝とかかな。
それは決着でしょ

>最良の兵隊とは戦う兵隊よりも歩く兵隊、と天才戦争屋は言った。
それは機動力を尊ぶという話に過ぎない

戦闘がないならば、「陣立て」もないし「高度な号令」もない
句読点を無視してはいけない 句点までが1文
亮身率諸軍攻祁山、戎陳整齊、賞罰肅而號令明、南安・天水・安定三郡叛魏應亮、關中響震。
これを素直に読むべき


>>510
君がタコでカスでもどうでもいいから↓をもう一回読み直そう。
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/g_hyakkan1.html
もう少し先までね
518無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 22:14:11
>>513
将軍位がすべて非常設ならどうして「非常設将軍位」というものがあるのか
その説明は?

>そんなわけないだろ〜以下
>そもそも、どこにも書かれていないはずの話をどこからどうやってあなたが着想し得たのか、
>それが大きな疑問だ。

「書かれていない事柄は、存在しない」ではなく、
「書かれている事柄は、存在した」が基本

廖立伝の「大将軍」も、「『蜀に大将軍が居た』とないので誤記だろう」とするのではなく
まずは素直に受け入れ考えるべき
そうすると関羽が自然に思い浮かぶ
「関羽は記録にないが大将軍号を追贈されたのかもしれない」と考えることが出来るようになる

で、丞相だけど
・丞相に指揮権があったとは明記されていない
・丞相もありながら、大都督・大将軍など「軍事最高司令官」が同時に存在していたケースは存在する
  同位の丞相に最高指揮権があるのであれば指揮系統が乱れるのではないか
・一例ではあるが「丞相・大将軍」が存在する
しかも劉淵の漢であり、異民族でありながら漢の正統を継ぐと謳った
その漢が正漢の伝統に背くことをするとは、すこし考えにくい


>>512 , >>516
華陽国志で廖立が流罪になったのは225年春
諸葛亮の南征開始は3月
とすれば(ry
519無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 22:18:31
>>518
>将軍位がすべて非常設ならどうして「非常設将軍位」というものがあるのか
確認しておきたいけど、まさかちくま三国志の百官表を見て言ってる?
他に非常設将軍なんて言葉の出所に覚えが無いが

>とすれば(ry
7割くらいの確率で南征前に流罪だね
520無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 22:21:48
己の珍説をここまでごり押しするやつは珍しい
521無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 22:25:14
カスからゴミにランクダウンだな。
しゃべるほどに馬鹿さ加減が明らかになってる
522無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 22:33:09
>将軍位がすべて非常設ならどうして「非常設将軍位」というものがあるのか
>その説明は?

光武帝の軍縮で将軍号が非常設というのは常識のレベル。
君があぼーんでお察しくださいな輩なのは確定したから↓をもう100回くらい読み直そう。
ttp://www.geocities.co.jp/Playtown-Spade/4838/g_hyakkan1.html
523無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 22:45:03
ところで太尉と将軍の兼任、後漢書検索しまくってたら一件だけあったよ。
董卓。
卓遷太尉,領前將軍事,加節傳斧鉞虎賁,更封【眉β】侯.

董卓はこの前、何進・何苗・丁原の死に乗じて領兵を吸収しまくっている。
劉虞に大司馬を押し付けて太尉になり、軍政の権を握った上で、
実際の兵を手放さないように前将軍の事を領した、のだろう。
524無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 22:50:52
>>517
>それは決着でしょ

張コウ伝から引いたんだが、決着はついてないよ。見てみれば?
そんな見事な圧勝なら記述が不自然と言ったろ。二度も同じこと言わせないでもらいたい
素直に読むのと自論に都合よく読むのは全く別物だ。
交戦しなければ陣立ても号令もないと言うが、それが全く根拠がない。
たとえば戎陳整齊と似たような言葉に陳列嚇然なんてのがあるがこれは何の戦いで出たと思う?
525無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 23:03:42
>>519
仮にちくまだったら何?

>>522
理解できないようだね
君がもう一度読み直すべきだと思うよ
526無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 23:09:55
>>524
読解力ないな 理解する努力をしろよ
>>517>>502

>>501
>>まだ決着がついてない場合はなんて書いてるの?

>亮攻祁山、不能下とかA拒之、亮不能勝とかかな。

の「亮攻祁山、不能下とかA拒之、亮不能勝とかかな。」に対して言ったのだ
俺の「決着がついてない場合何と言うのか?」という問いに対し
「勝てなかった」という決着を答えたので、
「それは答えになってないぞ」と言った
527無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 23:17:01
>>517
魏略曰く
「始め国家は蜀中に惟だ劉備有るのみと以ふ。
 備既に死しして、数歳は寂然として声無し、
 是を以って略して備預なし。
 而して卒に亮の出づるを聞き、
 朝野恐懼し、隴右、祁山尤も甚し、
 故に三郡同時に亮に応ず」と
528無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 23:23:13
魏略じゃんw
529無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 23:35:43
>>526
攻撃側が自主的に退却、迎撃側に撃破されて敗走しない限り作戦は続くし。
「勝てなかった」と「決着がついた」を=で結ぶのはおかしい。
530無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 23:50:08
>>528
魏側の情報なら、魏略もさほど問題ないだろう
531無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 23:55:15
>>529
「不能下」「A拒之」「A不能勝」を
結果で論じていない文があるなら引っ張ってきて

「勝てなかった」というのは「負けた」「引き分けた」という結果を
言い換えたものだよ


暇だから「陳列嚇然」についても何の戦いか教えて
532無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 23:57:37
魏略真に受けてる時点でアウト
533無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 00:03:05
>>525
ごめん。「ちくまの」は撤回して謝罪する。
元の三国職官表にも「不常置」の語はあった。特殊な高官が任じられる諸大将軍が一時期を除いて
撤廃されたことを示すだろう。

この表は、軍兵を収められず将軍が事実上常置職に近くなった三国時代、しかも魏を中心としたもので
両漢には適用できないし、魏でさえ全ての将軍職がいつも埋まっていたわけではない。
一般に魏で四方の重鎮にあったとされる四征鎮将軍だが、実際には建国初期に
曹真・曹休・夏侯尚・臧覇らの前代からの高官・親族と特別待遇の黄権が任じられただけで、
彼らが昇進したり死去すると暫く史書から姿を消し、対荊州は東中郎将蒋済が、
長安には安西将軍夏侯楙が赴任していたりする。
史書に全ての官が網羅されているわけではないが、督軍御史中丞の存在などを思うに、
この明らかな記述の偏りは曹丕が一時期、旧の漢制に倣って軍備を官号だけでも「平時化」しようとした
ことを示すのだろう。
征鎮将軍が徐々に史書に戻ってくるのは、諸葛亮が北伐を始めた太和(227)年間以降のことになる。

漢については、安帝から霊帝までの80年ほどで、大将軍が存在したのは恐らく40年くらい。
梁氏が二人で二十年以上勢威を振るったが、
車騎将軍はもっと短い。ただ、度遼將軍だけが北辺が沈静化せず、事実上の常置官となった。
他には征西将軍が時折派遣されるだけで、他の将軍は滅多に現れない。
534無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 00:12:27
535無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 00:16:44
age厨の胡散臭いごり押し解釈よりかは
魏略の方がはるかにスマートに見える
536無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 00:26:02
>>518
>・丞相に指揮権があったとは明記されていない
>・丞相もありながら、大都督・大将軍など「軍事最高司令官」が同時に存在していたケースは存在する
>  同位の丞相に最高指揮権があるのであれば指揮系統が乱れるのではないか
>・一例ではあるが「丞相・大将軍」が存在する

根本的な問題として、漢では「軍事最高司令官」という臣下は存在しない。征伐の大権は皇帝だけのもの。
戦時、必要に応じて仮す権限の証が「鉞」。
時によって丞相だったり太尉だったり将軍だったりする。それだけのこと。
権臣でもなくして大将軍が存在する時期というのは、統一直後で征伐が起こるの可能性が高い時期だろう。
元々、大将軍というのは「複数の将軍を率いる将軍」という程度の地位で、総司令官でもなんでもなく、
だから諸大将軍のように複数置かれることもある。
その場合は太尉や丞相がいても大将軍に征伐の任が下されることが多いだろう。
丞相、太尉、大司馬らが出張るのはさらに多くの将軍を率いる必要があるとき。
複数の将軍を出すまでもないような場合は、一人だけ将軍が任じられて派遣されることになる。

この原則は基本的に三国でも続くが、戦時が常態となるため将軍号が乱発されて
「将軍=征伐権の持ち主」という原則が崩れる(或いは漢代のうちに崩れていたのかもしれないが)
そのため、仮節・持節によって権限の大小を示し、都督諸軍や牧などによって管轄を示すようになる。
大都督というのは孫権によって始められた号で、まさに「戦時権限」を示す。
孫権は州単位の軍事力を普段から一人の人間に集中させたくなかったようで、
牧が置かれた一時期を除き荊州に一本化した指揮系統というのはなかった。
大戦に際してこれを統合して総司令官に任じる称号として使われた。
537無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 00:28:34
>>534
ttp://dbo.sinica.edu.tw/~tdbproj/handy1/
こっちの方がいいよ。後漢書を「將軍」で片っ端から検索すれば判る
538無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 00:37:39
>>531
太祖壮之、乃遣歩卒二千人、使禁将、守延津以拒紹、太祖引軍還官渡。
劉備以徐州叛、太祖東征之。
紹攻禁、禁堅守、紹不能抜。

この時点では決着はついてないな。他にも探せばいくらでもあると思う。
まあ大概は「還」した方「破」された方が負け。
539無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 00:40:46
>>534の『東觀漢記』-「百官表」を読んでみて

下方に「度遼諸將軍」とある
後漢の「度遼將軍」は将軍号というより、
“遠くに居る”将軍という「在外人」的な"総称"で
複数の雑号将軍だった可能性もあるのではないかな
540無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 00:44:35
劉備軍陽平關,淵率諸將拒之,相守連年(翌年戦死、陽平関を奪われる)
541無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 00:47:37
>>539
ねえよ…

一応少しは丁寧に対応して、後漢書やら職官表やらめくり倒して
100行くらい使って論理立てて来たのに、
「度遼」の意味を調べようともしない場レスに付き合わなきゃならんのか。

もういいわ
542無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 00:51:55
>>438ならび>>540は結果

もうめんどくさいから

>>469
>いや、戦いなんてほとんど無かったよ。

の自説の展開を頼むよ
そっちを論破していく方が納得させるのに早そうだ
543無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 00:54:35
度遼将軍→渡遼将軍→遼河を度る将軍じゃなかったっけ
544無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 00:55:05
>>541
度遼の意味調べたわい「遠く(遼…はるか)に居る(渡る)」だ

「度遼諸將軍」の納得いく説明を頼むよ
545無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 00:59:38
>>544
後漢において、度遼將軍が常置になっていたことを示す。
故に他の「諸將軍」と分けて特に明記されている。

あなたが後漢において複数の「度遼將軍」とやらが各地に派遣されていたことを明かし立てるまで終了。
546無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 01:03:03
>>542
君には基礎的な修辞、制度の知識が欠けているから
これ以上解説されても理解出来ないと思う。というか馬鹿
それだけ読んでて、変な解釈ばかりがぽんぽん飛び出るのは逆の意味で凄い。
本当に読んだのかどうかはあやしいけど
547無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 01:04:19
呉棠(65年 - 73年)
来苗(73年 - 76年)
耿秉(76年 - 82年)
ケ鴻(82年 - 90年)
皇甫棱(90年 - 94年)
朱徽(94年 - 95年)
龐奮(95年 - 98年)
王彪(98年 - 109年)
梁慬(110年 - 111年)
耿夔(111年 - 114年)
ケ遵(114年 - 121年)
耿夔(121年 - 122年)再任
法度(122年 - 124年)
傅衆(125年)
龐参(126年 - 129年)
宋漢(129年 - 133年)
耿曄(133年 - 140年)
馬続(140年 - 145年)
呉武(145年 - ?)
陳亀(? - ?)
种ロ(? - ?)
李膺(156年 - 159年)
皇甫規(163年)
張奐(163年 - 166年)
皇甫規(166年 - 167年)再任
橋玄(? - ?)
徐淑(? - ?)
賈j(189年 - ?)
耿祉(? - ?)
鮮于輔(200年 - ?)
548無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 01:06:35
度遼の遼は遼東の遼だぞ
それ理解してないようでは話にならないな
549無名武将@お腹せっぷく:2009/08/16(日) 01:11:13
遼河の東岸が遼東だろーが
こいつ馬鹿のくせに何でそんな横柄で自信満々なん?
滑稽伝に立伝されたいの?
550無名武将@お腹せっぷく:2009/08/17(月) 21:21:40
>>545
読んでないんじゃない?

http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=69206&if=gb
抜粋
「九卿、執金吾、河南尹秩皆中二千石,大長秋、將作大匠、度遼諸將軍,
郡太守、國傅相皆秩二千石,校尉、中郎將、諸郡都尉、諸國行相、中尉、
内史、中護軍、司直秩皆二千石,」

もし545の意味なら
「度遼等諸將軍」「度遼以下諸將軍」「度遼他諸將軍」
じゃないかな?

○○諸△△とある場合、
○○はグループ名、△△は分子
「関東全県」「近畿諸県」「関八州」などのように

「日本諸国」に違う解釈の仕方がある?


>>546
バカはそっち
いいから説明しろ

>>549
お前も >>548は俺じゃねぇよ
551無名武将@お腹せっぷく:2009/08/17(月) 21:22:59
論破とか言い出す時点で馬鹿すぎw
552無名武将@お腹せっぷく:2009/08/17(月) 21:24:26
>>550
恥さらしが明らかな間違いを指摘されて自分を別人認定したかw
こいつ本当にクソだわw
553無名武将@お腹せっぷく:2009/08/17(月) 21:24:40
>>548
http://f58.aaa.livedoor.jp/~dicsan/3k/dic/4500.html
度遼将軍 / どりょう-しょうぐん

 辺境守備司令官の一人。職名は「遼水を渡る」将軍の意。
前漢昭帝(BC87-BC74)の頃に置かれたが、中興後には永平八年(65)に置かれた。

 職務は五原郡曼柏県に駐屯し、南匈奴の単于を護衛するが、
匈奴の新たに降った者に二心があり後に平安がなくなったので常に護衛するようになった。
秩二千石で銀印青綬、節を持つ。属官は左右校尉、長史、司馬。初代度遼将軍の呉棠が
任じられた時に副校尉・左校尉・右校尉がそれぞれ任じられているが、副校尉はこの時以外に
見えないので後で省かれたのだろう。建武二七年(51)、大司農耿国が北方守備に度遼将軍を置くよう
上言したが亡くなり、永平八年(65)に行度遼将軍が置かれた。元初元年(114)に外戚のケ遵が任じられると
正式に度遼将軍と改められた。

 ■ ■ ■ ■ ■ ■


“遼東”将軍なら
「職務は五原郡曼柏県に駐屯し、南匈奴の単于を護衛する」なわけはない
西戎と戦ったりしてるし、戦場も三輔だったりする
というわけで「遼水を渡る」というのは、誰かの間違った解釈が広まったものだろう

漢字
「度」は「居る」の意 
また、「渡る」とも読める
「遼」は「はるか(遠い)」が主意 (「川の名」というのもあるが)
554無名武将@お腹せっぷく:2009/08/17(月) 21:27:57
>>551
論破は普通に使う言葉だろ?
君には縁がないんだろうね

>>552
>>548は明らかに俺の発言と矛盾する
アホなレスを返すとは恥さらしな奴
555無名武将@お腹せっぷく:2009/08/17(月) 21:29:43
お復旧したか

>「度」は「居る」の意

これどこの辞書?ソース要求
556無名武将@お腹せっぷく:2009/08/17(月) 21:33:10
>>554
だからおまえは馬鹿なんだよw
自分の意味不明な主張を説明せずに
こっちを論破してもおまえの主張が正しいということにはならんだろうが。本当に馬鹿なんだなw
おまえの発言は矛盾だらけで支離滅裂だから
548のような妄言を吐いても全然不思議じゃないよ。
557無名武将@お腹せっぷく:2009/08/17(月) 21:34:20
>>555
「大修館書店 『漢語林』 改訂版」
558無名武将@お腹せっぷく:2009/08/17(月) 21:40:56
>>556
言い訳が苦しいぞ?w

祁山のことだよな?
普通に理解できるレベルの説明をしているが通じないのでな
自分の脳みそ疑ったがいいぞ
559無名武将@お腹せっぷく:2009/08/17(月) 21:50:50
>>558
それで何処の誰が理解出来るの?
文章の解釈にしてもレトリックに長けている人間の説明には全く聞こえないし、
持論に都合の悪い史料は発狂して全否定するのが『普通人』の所業とは思えんw
おまえは精神病院か樹海に行けよwゴミが

>>545の証明からも逃げるんだろうな。雑魚の典型例っぽいしw

>あなたが後漢において複数の「度遼將軍」とやらが各地に派遣されていたことを明かし立てるまで終了。
560無名武将@お腹せっぷく:2009/08/17(月) 21:58:21


一 はかる 
二 @ ものさし。ながさ Aめもり Bのり Cさだめ Dほど。どあい Eたび Fようす Gきりょう Hわたる。こえる I仏門に入る
561無名武将@お腹せっぷく:2009/08/17(月) 22:02:17
>>553
同一ページ内に

>任官表を見てもらえれば分かるが、官が置かれてより桓帝の時代まで度遼将軍の任官者は(恐らく)全て判明している。

とあるがそれについてコメントよろ
562無名武将@お腹せっぷく:2009/08/17(月) 22:32:02
>>542
意味がわからん。
>>538の後、結局延津で支えきれずに官渡まで防衛線が下がるのだが。

>結果で論じていない文があるなら引っ張ってきて

まず結果とは何のことを指すのかを定義してもらわないと困る。
563無名武将@お腹せっぷく:2009/08/17(月) 22:44:31
應劭曰「當度遼水往?之,故以度遼為官號」


泰山太守がわざわざ解説してくれてるのに、「居る」の意とか「はるか(遠い)」が主意とか面白解釈乙
564無名武将@お腹せっぷく:2009/08/17(月) 22:44:58
>>562
そいつは理屈を捏ねてるだけのゴミだから期待するだけ無駄
565無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 00:03:56
所詮2ちゃんだな…
566無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 00:47:09
>>562
大体、「魏略は信用がない」ということで>>484で終わってるはずの話なんだが


>結果
>>531はちょっと誤解を招く ミス
>>531の「A拒之」は>>502の「A拒之」とは違う

「Aこれを拒み、〜」 と「Aこれを拒んだ」では違うからね

>>531で言ったのは
「Aこれを拒んだ」の方
>結果で論じていない文があるなら引っ張ってきて
と言ったのは失敗だった 違うアプローチをするべきだった

>>538
>紹不能抜
「抜けなかった」は結果

>>502の「亮攻祁山、不能下」「A拒之、亮不能勝」は結果・決着


結果の定義? 一段落と呼べるもの 
567無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 00:49:17
>>563
ということは、應劭が間違った可能性があるね
君らの所為じゃない
568無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 01:25:41
魏略より君の脳みその方がはるかに信用がないと思う。
569無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 03:17:33
>>566
正史での一段落の定義は大体以下の通り
・敵部隊の撃「破」による敵の敗「走」
・敵乃至味方の本拠への撤退、帰「還」
官渡の戦いだと 遂大「破」潰。紹與子譚輕身迸「走」
北伐だと 「還」于漢中 が一段落に該当する。

また「亮攻祁山、不能下」「A拒之、亮不能勝」は
結果・決着に即つながるとは限らない。
それから後に記事が続く場合
「だが最後には勝った」「返り討ちにあって負けた」
「退路を脅かされたので撤退した」と続く可能性を当然考慮してしかるべき。

「勝てなかった」が「負けた」「引き分けた」の言い換えになるのは
「Aがこれを拒んだ」だけですぐに別の記事に行く場合だ。
袁術來攻先主,先主拒之於盱眙、淮陰。 みたいなの。
俺が>>538で例にあげたのはそうでない。
読解力があるならいい加減わかるだろう。

交戦しなければ陣立ても号令もないと言うが、
ほぼ似たような表現の 治軍整頓,禁令必行,
はただ魯粛の統率の見事さを称えただけの記述。
孔明へ描写もその類として何の問題もない。
570無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 15:12:46
秦:丞相、御史大夫、太尉
西漢:丞相、御史大夫、太尉

新の十一公
 四輔……太師、太傅、国師、国将
 三公……大司馬、大司徒、大司空
 四将……更始将軍、衛将軍、立国将軍、前将軍

東漢:太尉、司徒、司空
・董卓期の大司馬と太尉の並置
・董卓期の相国と三公の並置
・曹操期の丞相、御史大夫の復活と太尉の廃止

魏の三公
 太尉、司徒、司空

西晋の八公
 上公……大司馬、大将軍
 三師……太宰、太師、太傅
 三公……太尉、司徒、司空
571無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 15:21:51
丞相=大司徒、司徒
御史大夫=大司空、司空
太尉=大司馬(≠上公の大司馬)

序列では
丞相>御史大夫>太尉>司徒>司空
572無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 17:54:44
復旧したと思ったら荒れてんなー
>>550
古い漢文ではそういう省略は日常茶飯事。
だから読むのが難しいのだが、
「度遼將軍」というのは>>553が中国史学において1800年来の鉄案となっている。
なんせ後漢朝廷に使えた高官の注釈だからね。
それを覆す「新説」をあなたが打ち立てるのなら、最低限、

>あなたが後漢において複数の「度遼將軍」とやらが各地に派遣されていたことを明かし立てる

必要と責任がある。それを果たしてから出なければ論が進まない。
漢文を捏ね繰り回して「こんな可能性もある」と言ったところで、
こちらは、「そーだね、トンネル効果を肉眼で観測できるくらいの可能性はあるんでない?」
と答える以外に無いよ。

というわけで、どうぞ。
573無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 19:36:06
つーかこの流れ厭きたし。
574無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 19:52:30
>>569
>孔明へ描写もその類として何の問題もない。
それはないね
諸葛亮伝;臣壽等言「於治戎為長」とは同類だろうけど

魯粛は実戦経験がある
呉書評は彼の人生を語っている
よってそのような記述がある


>俺が>>538で例にあげたのはそうでない。
>>566で明かしたように、>>531の「A拒之」はミス
「Aこれを拒んだ」を求めたんだが
「Aこれを拒み、〜した。」という使い方をあの瞬間は見落としていた
>>566を読んで分からなかった?


>また「亮攻祁山、不能下」「A拒之、亮不能勝」は
>結果・決着に即つながるとは限らない。

「亮攻祁山」→結果「不能下」
「A拒之」→結果「亮不能勝」

>続く可能性を当然考慮してしかるべき。
「亮攻祁山」→結果「不能下」→展開「粘った」→結果「最後には勝った」となる
その後に展開を迎えても「不能下」が結果であることは揺るがない


>一段落の定義
例文「仕事が一段落したらお茶にしよう」

>>569の例は戦役の“完結”という一段落
一段落は沢山ある 何しろ「一区切り」なのだから
575無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 19:53:11
「結果」の話は派生もいいとこだから>>498に立ち戻ろう

>>498
>また他の伝だと交戦の結果の勝利ならば大破、撃破、破とかが書いてある。

>>502
>決着がついてないうちから三郡が降るとは考えがたい
>が交戦してるならば>>498で言ったように記述が不自然。

まず、「三郡が降るとは考えがたい」ことはない

ケンカのとき、相手が強いかどうかは体格や動きを見れば分かる
体格=兵力 動き=戦いぶり
相手が強いことが分かり、自分が貧弱かつケンカ慣れしていないのであれば、
逆らわないという選択肢を択らぶのも自然
意地を張るほどの理由がないのならば尚更だろう


「亮身率諸軍攻祁山,戎陳整齊,賞罰肅而號令明,南安・天水・安定三郡叛魏應亮」
を普通に読めばいいんだよ
句読点の無視はよくない

第一、「“攻”祁山」
祁山で戦闘がなかったと考える方がおかしくないかな?
576無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 19:54:26
>>572
待っててね
もうすぐ珍説を打ち立てるからw
今準備中
577無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 20:27:37
説はもういい
文献考証によって論証する段階
578無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 22:03:22
>>574
結果の定義も一段落の定義もその説明じゃ誰にも分かんないよ。
その話は収拾がつかないから終わりにする。

>>575
>関中が激震したのは諸葛亮の祁山での戦いぶりが凄かったから
>朝野が怖れ慄いたのは三郡が寝返るなど蜀の侵攻の威力が大きかったから
>無論、曹真の備えあってのことだから

>蜀も国境に大軍を配していた筈もなく、動員を掛けて集めた
>蜀が動員を掛けたら魏にもすぐ伝わる
>魏は蜀の動員を察知し、動員を掛ける
>蜀と魏のタイムラグは魏の密偵が本国に伝えるまでの時間分だけ
>蜀軍が移動している間に魏の動員はとっくに完了している

どう読めばこうなるんだ?

問題の部分もせいぜい、
「関中が激震したのは三郡が降ったから
 三郡が降ったのは諸葛亮が非常に統制の取れた部隊を率いて祁山にいたから
 諸葛亮が祁山にいたのは、諸葛亮が自ら祁山を攻めたから」
程度だろう。
諸葛亮は祁山を攻めたが、そこに魏のまともな守備隊がいたかは不明。
仮に関中が激震するような戦いがあったなら戦果の記述が皆無なのは不自然
出会い頭の小競り合いはあっても不思議ではないが、
大した抵抗もされずに占領したという印象以上はない。
579無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 22:34:13
魏は当時、長安より西に数万の大軍に抗しうるような配備を持っていなかった。
郡県の兵は主力軍より遙かに劣弱で、しかもそれらを統合する指揮権を持つ将もいなかった。
洛陽から中軍が届くには遙かな時間が掛かる。
恐らくは曹真は、命を帯びて現着し、陳倉・ビの辺りで「関中諸軍」を糾合する役割を担っただろう。
その最重要防衛地点は隴西・天水ではなく右扶風。こここそが、漢中から魏中枢を突く最短ルートなのだから。
(実際散関には趙雲・ケ芝が進出していた)
その間、諸葛亮は数万の大軍を率いて祁山に到着していた。
雍州西部は民情不安定で羌族が多い土地。相対的に官府の力が弱い。
そこに突然現れた敵の大軍。「而卒聞亮出,朝野恐懼,隴右、祁山尤甚,故三郡同時應亮.」したのである。
この雪崩を打った降伏に「關中響震」した。
「祁山を攻めた」だから諸葛亮伝に残すほどではない程度の小規模な戦闘はあったのだろう。

因みに、句読点は遙か後代の点校で付けられたものだから、精密な文の解釈を行うときには当てにしてはいけない。
まあ、そんな精緻な作業なんて誰もしてないと思うけど。
580無名武将@お腹せっぷく:2009/08/18(火) 22:52:12
あ、ごめん。
元々敵領土の天水郡に属する祁山を「攻」したからといって戦闘があったと断定することは出来ないな。
581無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 20:34:55
>>578
駐屯地の沔陽から祁山まで行くには
武都郡のど真ん中を突っ切る事になるが
魏の抵抗は一切なかったと思うの?
蜀は周辺を攻略することなく素通りしたと思う?
ゲリラ攻撃に遭い糧道確保は大変だよ
582無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 20:36:13
>>579
>魏は当時、長安より西に数万の大軍に抗しうるような配備を持っていなかった。
長安より西って微妙な表現だね 
長安に居る都督関中夏侯楙様は?
夏侯淵の漢中駐留軍はどこ行った?
それと、雍州はそっちの言葉から受ける印象ほど痩せていないと思うが

痩せているというソースは何?

>郡県の兵は主力軍より遙かに劣弱で、しかもそれらを統合する指揮権を持つ将もいなかった。
何度も羌族らの反乱を鎮圧した雍州刺史郭淮


大体、孟達にちょっかい出されそれが一大事件になり
翌年、大軍を率いて敵国の実質トップが国境地帯に移って来、
更に、出陣し、より国境に近いところに駐屯した
それから春を迎え侵攻してきた 

これでノーマークで備えをしていなかったと本気で思うの?

魏略なんか信じちゃダメさ
魏略は全体通して魏を持ち上げ蜀を貶めている
魏略の対外的な部分は全く信用できない
戦時下の敵国の新聞みたいなもんだよ
583無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 20:57:41
>>572
もう度遼將軍の件はいいや

後漢の人間といっても應劭は孫権とほぼ同年代の178年前後の生まれ
紀元前78年や65年の名付けの由来など直接知っているはずがない  予想か伝聞だろう  
由緒正しい資料があったのなら應劭が記すはずだ
職務や任地を見れば“遼東”将軍でないことは明か

『東觀漢記』-「百官表」の「度遼諸將軍」の謎は解けた気がする
"総称"ではなかった
「左・右度遼將軍」なのだろう
http://www.weblio.jp/content/%E9%AE%AE%E4%BA%8E%E8%BC%94
584無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 20:59:20
>>580
出来るんじゃないの?
「侵」「進」「出」だったら分からんが
585無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 21:05:37
>>581
武都は放棄されている。曹操が漢中を放棄した際のあらゆる記述を読めば判る。
当時の武都太守張既が郡府を右扶風まで後退させている。
武都内で、少なくとも魏の官軍が防衛線を敷くことは殆ど考えられない。

>>582
長安にはある程度まとまった軍がいたと思われるが、現実に対応していない。
夏侯楙が任命されていることからもせいぜい長安周辺を守るだけの名誉職的な存在に
成り下がっていた方がよい。曹真軍の一部としては有効に機能しただろう。

雍州西部、隴山周辺の三郡は痩せまくっている。晋書郡国志を見ればよい。
そこに記される数字は、蜀の北伐に対応して天水郡上ケイへの移住が大規模に計られて以後のもの。
それを採用してでさえ、仮に諸葛亮が5万を率いていたとすれば、三郡は住民の半分を超えるような
大武装集団を敵に回したことになる。しかもまともな防備も用意していない状況。
その外に、豪族の私兵や不服従の羌族が多数いたと考えられるが、
彼らが圧倒的な大軍を前にしてどちらに付くか?

>雍州刺史郭淮
刺史の駐在地の明確な記述は無いが、最有力候補は勿論長安。ならば夏侯楙軍と同じ扱いとなる。
群小の羌族を破るのと数万の軍を破るのとは必要な兵力は桁違い。
実際、郭淮は張コウと行動を共にしたように書かれている。
将軍号をもっていた様子の無くつまり独自の領兵のないと思われる郭淮が単独で祁山周辺まで急行し
諸葛亮に敗れたが、郭淮の恥なので魏書にも蜀書にも記されていないなどと主張するのは自由だが、
あまりに無謀な機動で無理がありすぎる。

>魏略は全体通して魏を持ち上げ蜀を貶めている
この段階の魏略の記事は魏を持ち上げていない。

>これでノーマークで備えをしていなかったと本気で思うの?
絶対的な数量の不足は敵の動員を察知してから頑張ってどうにかなる問題じゃない。
586無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 21:08:43
>由緒正しい資料があったのなら應劭が記すはずだ
>職務や任地を見れば“遼東”将軍でないことは明か
漢書を読んでからそういうこと言ってくれよ。論外。
587無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 21:15:38
586追加
東觀漢記は建安初年に編纂が終了した史書であり、記述は霊帝代までと伝えられている
588無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 21:32:13
>>585
もういいや、じゃなくて「出鱈目な言いがかりをつけてゴメンナサイ」だ
もう少し勉強してから出直せよ学生くん
589無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 21:44:22
>>583
>後漢の人間といっても應劭は孫権とほぼ同年代の178年前後の生まれ

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%9C%E5%8A%AD

178年生まれって何が根拠?
590無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 22:03:09
×魏略は全体通して魏を持ち上げ蜀を貶めている
○魏略はぶっちゃけ夏侯楙を貶めている
591無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 22:17:24
陳寿は諸葛亮を忠義の人として持ち上げて三国志を著すことで
晋での蜀人の登用を有利な方向に働かせる意図があった。
そんなスーパーな戦績があったなら喜んで詳細を書かなければおかしい。
書いてないということはキ山の戦いとやらが
無かったか会戦としては大したことがなかったかの二択、ということになる。
アンチ魏略の人の都合通り魏略をシカトしても推理に無理が出る。
592無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 22:47:58
改めて見ると、一次北伐で趙雲とケ芝の囮がかなり有効に効いていたことが想像できる
散関から一軍が強襲突破して後方遮断する可能性がある限り、
洛陽軍も長安軍も雍州軍も迂闊に天水方面を救出しにいけないという状況
だからこそ張コウのクリティカルが光る
593無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 23:08:50
1 戦う (とりあえず相手にコストを要求する。提出されたらもういいやと言って投げ出す)
2 守る (自分がミスしても謝らない。相手の要求はスルー。詭弁を弄して反論したつもりになる)
3 逃げる (この件は永遠に未解決か1000到達で時間切れということで己の自尊心を守る予定)

こんなとこじゃないの
594無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 23:25:28
え?青州黄巾を曹操より先に破った応劭が孫権と同年代?

面白いねぇ〜
595無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 23:48:13
>>592
慎重な作戦と不必要なまでに大胆な人事
どの道、孔明には無理だったんじゃないのかな。
596無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 23:50:40
>>585
>武都は放棄されている
武都太守楊阜 楊阜伝を読むべし
張既は武都在住の異民族5万人を北方に移住させた
漢民族も余所に移住させたかい?


>雍州刺史郭淮
話が噛み合わないなぁ 
雍州刺史郭淮が反乱を幾度も鎮めたということは、
雍州に刺史を中心とする軍事システムがあったということだよ
雍州刺史郭淮軍は地元軍、都督関中夏侯楙軍は駐屯する中央軍
大戦時は、雍州軍は都督関中の指揮下に入る


>長安にはある程度まとまった軍がいたと思われるが、現実に対応していない。
曹真が率いて箕谷へ向かった



>雍州西部、隴山周辺の三郡は痩せまくっている

雍州 九萬九千五百戸。
秦州 三萬二千一百戸 (内、上邽 九千三百二十戸)


梁州 七萬六千三百戸
益州 十四萬九千三百戸

魏 計 13万1500戸
蜀 計 22万5600戸

いい勝負じゃないか?
597無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 23:51:20
>蜀の北伐に対応して天水郡上ケイへの移住が大規模に計られて以後のもの。
晋書宣帝紀にそうのような件があるが宣帝紀には上表したとあっても実行されたとはない
また、三国志明帝紀には司馬懿の上表の件自体書かれてない
勉強不足で申し訳ないが、何に書かれてあるの?


>この段階の魏略の記事は魏を持ち上げていない。
魏略の記述はご都合弁明
598無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 23:52:18
>>586
何を言っているんだ 
漢書の注釈に
『應劭曰:「當度遼水往擊之,故以度遼為官號。」』があるんだぜ

>>587
何を言いたいのか分からんが、
呂布・袁紹などお馴染みの人物の伝がある
599無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 23:54:49
600無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 23:55:51
>>594
面白いねぇ〜
601無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 23:58:12
>>599
載ってないじゃん
602無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 00:05:53
>>601
>約東漢靈帝光和元年前後在世。
603無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 00:06:50
>>599
生没年不詳と書かれているが
604無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 00:09:05
正確に特定できないの意だろ
605無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 00:14:16
中平6年(184年)には太守にまでなってるのに?
10歳にもならずに太守かよ
606無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 00:15:49
晋書の地理志で当時の人口を語ってもな・・・
607無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 00:17:04
>>605
応ショウは天才だったんだよ
でも度遼将軍に関しては間違えたんだ
608無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 00:18:27
>>607
流石は風俗通だな
609無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 00:24:04
>>595
馬謖は将軍でも都督でもないよ
>>371辺りがちょっと触れてるが、
馬謖は丞相参軍として派遣され、複数の将を統監した刺史や護軍と似た「使者」の役割を担ったと思われる。
曹操も征西将軍以前の夏侯淵や趙儼、郭淮をそういう風に使った。張遼らが守った合肥にも薛悌がいた。
管区の軍権ピラミッドの頂点に立つ都督が置かれていた時代には時代遅れだが、
>>371がいうような「軍事体制の未熟」というよりもこれは
臣下の立場で強固な統一体制を維持しなければならなかった諸葛亮の立場の限界だろう。
強力な専断権と領兵権を兼ねる将を任命して派遣する事が出来ない
(曹操には股肱の夏侯惇らがおり、于禁らを魏臣とすることで問題を解決した)。
つまり、馬謖の件は大胆な人事というよりは、これも慎重な人事に属すると思える。

また、馬謖は命令違反の責任を取って斬られたとされているが、実のところ
その違反の内容は明言されていない。王平が諌めたというのも「煩雑な命令」という
妙に曖昧なもの。確かに監軍や護軍的な者が将軍の指揮に喧しく口を出すのは
罪悪だろうけど。
よく言われる城を捨てて山に陣取った「過失」は、王平伝や戦後の諸葛亮の弁明では言及されない。
(山に陣取ったこと自体は過失ではなかったと認められていたのか?)
馬謖は他の処刑された将軍級と同列に敗戦の責めを負わされたものであって、
馬謖個人にそれほど大きな失策や、そもそも大胆に失策できるような権限があったとは
考え難いと思う。
結局張コウに負けたのは馬謖以外の諸将も含む実力と運によるものなのだろう。
610無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 00:29:18
>>605
中平六年は189年だよ

Wikiをまとめると
代々太守などを務めた名家で、父は司隷校尉?で
若い頃から勉強熱心で、博覧強記の人であった。
霊帝の時に孝廉に推挙され、車騎将軍何苗に招かれて掾(属官)となった。

「若い頃から」とわざわざ書かれるぐらいだから余程だったのだろう
それに、車騎将軍にスカウトされるぐらいだから目立って賢かったのだろうね
611無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 00:40:41
どの道、20代にもならんうちから太守なんてありえん。
612無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 00:52:34
>>597

>武都太守楊阜 
すまん、張既じゃなくて楊阜だったね
>徙郡小槐里,百姓襁負而隨之.
槐里は右扶風にあるんだよ。郡府が外にあるのにどうやって統治・迎撃するのか

>雍州に刺史を中心とする軍事システムがあったということだよ
そう、あった。将軍ではなく、郡県軍によって編成されたと思われる
だから人口編成が問題になる。

>雍州 九萬九千五百戸。
>秦州 三萬二千一百戸
都合のいい抜き出し方をしてはいけない。晋代の雍州は長安中心の東部のもの。
秦州は武都など旧益州を含む。
諸葛亮の侵攻に直面した三郡は、
南安郡 四千三百
天水郡 八千五百
安定郡 五千五百
計 1万8300戸、5掛けして口数9万人でしかない。ここに諸葛亮が5万で侵攻したら?
(上ケイ 九千三百二十戸って何?)

>曹真が率いて箕谷へ向かった
その通り。夏侯楙・郭淮・曹真ら魏の迎撃軍の主力はまず陳倉-箕谷間に展開したと思われる。
天水は孤立無援というわけだ。

>>597
おいおい…認められなかった、と明記されない限り実行されたから史書に記載されると読むのが
普通だろ。持論のためにそこまで捻じ曲げるのか

>>598
漢書を読んだのなら、初めての度遼将軍が最初にどこに派遣されたのかもわかるし、
昭帝期の将軍の特質もわかるはず。「一人一号」だ。
後漢の官制の実際を知っていた王劭がそれを踏まえて、「度遼將軍は遠くへ居る将軍の総称となった」
などと書かなかったのだから、「一人一号」の原則は後漢末まで継続されたとわかる。
いやまあ、当たり前のことだけど。

>東觀漢記
これまたスマン。「霊帝代」は間違いだったようだ。「建安以前」までだね。
理由は袁紹や呂布の項を見ると判る。(紀伝体じゃないから伝じゃないよ)
613無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 00:55:59
あ、またもやごめん。
東觀漢記は紀伝体だった、らしい
614無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 01:21:34
王劭178年生まれ(10歳にならず車騎将軍縁、数え10歳で泰山太守)さえも訂正撤回できない
人間を相手にしているのかとちょっと気が遠くなった。
615無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 01:22:08
わざとやってんだろ
616無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 01:27:18
読解力もなく人格もアホということでFA
所謂無能な働き者ですな。
617無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 01:49:05
一旦、全部リセットして
そろそろスレタイ通りの話題に行くべきではないか?
618無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 02:56:10
>>602

http://zh.wikipedia.org/wiki/%E6%87%89%E5%8A%AD
應劭,字仲瑗,一字仲援、仲遠,东汉人,生卒年不詳,僅知曹操207年據有河北時已經過世,
汝南南頓人,約東漢靈帝光和元年前後在世。父應奉,司隸校尉。一弟應c。
應劭應劭年少篤學,博覽多聞。曾擔任過蕭縣縣令、御史營令。
熹平二年為郎、六年為汝南主簿,中平六年(184年)出任泰山太守。獻帝初平二年(191年)大破黃巾三十萬眾。

熹平二年為郎

熹平二年というのは173年。
となると「光和元年(178年)前後在世」というのは、
汝南主簿に転じた177年以降くらいには世に名が知られていたとかいうことではないの?
178年頃に生まれた、じゃなくて。
619無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 04:01:08
蕭縣縣令とか御史營令というのは漢書敘例に、
熹平二年為郎というのは後漢書・志第十七 ・ 五行五 ・人痾に、
六年為汝南主簿というのは張昭伝に記述があった。
620無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 09:15:45
>>617
ほんと、どいつもこいつも
「論破してやろう」
「粗を探して叩いて煽ってやろう」
という底意がみえみえ
2chでいうのも野暮だがちったぁ紳士的にやれんもんなのかと
621無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 10:33:58
>>620
まぁそれでも意見だすだけマシだろ。
1番最低なのは、ニタニタ見てるだけで何も発言しない奴。
622無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 12:18:53
最低なのは意見出さずに文句だけ言う奴だろ
ロムってるだけで最低とか感性疑うわ
623無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 15:33:58
文句言われて仕方ないお粗末さ
624無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 20:45:15
>>618-619
なるほど 納得


>>614
「約・前後」±4才ぐらいとすれば、15歳太守の可能性もないことはない
早熟の天才、名家、父の影響力など合わせれば可能性はゼロではないだろう
中国の人がそう言っているだから何か論拠があるのだろう
それを決定的な根拠もないまま無責任に撤回など出来るわけないだろ 記者に失礼だ
それで誰かが気を遠くするのも自由だが

まぁ、結局解釈の誤りだったわけだけどね
625無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 20:48:38
ほんと、めんどくさいね
應劭の年齢とかどうでもいいんだよ 
要は應劭が200年以上昔の号名の由来を知るわけないということだから>>583


>>612
“総称”はもういいよ  東觀漢記の度遼諸将軍の謎解きの仮説の単なる種だから
もう謎は解けた 「左右度遼将軍」なのだろう

>後漢の官制の実際を知っていた王劭がそれを踏まえて「度遼將軍は遠くへ居る将軍の総称となった」
>などと書かなかったのだから「一人一号」の原則は後漢末まで継続されたとわかる
逆だろう 後漢の度遼将軍が“遠地”将軍だった、とすれば
後漢末の應劭が「前漢は“遼東”将軍だった」と記したかった意味も分かる
626無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 20:56:32
>>624-625
>もう謎は解けた 「左右度遼将軍」なのだろう
それもありえないけどね。
東觀漢記は建安初年に編纂が終了している。鮮于輔の事例が載ることは無い。
つーか、左右の二種しかないなら「左右度遼将軍」と書けばいいだけだろうに。

まあ掻い摘んで解釈すると、度遼將軍と王劭についての全ての主張を撤回するということだよね
おk。了解した。
627無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 20:58:23
もうどうでもいいだろ
それより応劭が青州黄巾賊30万を打ち破った件について語ろうぜ
628無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 21:01:14
>>624
ある程度の知識と知的誠実さがあれば
ウィキに光和元年前後在世と書いてあったからといって
それを應劭の生年と見なすのには躊躇があるのが普通だろう。
まして直後に熹平二年為郎とあり、矛盾するのはすぐに分かるんだから。

前にも万ケを左遷と言い張ってみたり、
自論を補強するために裏も取らずにネタを継ぎ接ぎするからこうなる。
629無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 21:10:04
>>627
いやそれは流石に本題から離れまくりすぎだと思うがw
630無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 21:20:01
>>626
ふ〜ん 根拠は?
631無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 21:20:56
「東觀漢記は建安初年に編纂が終了している」という
632無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 21:31:55
>>626
http://chinese.dsturgeon.net/text.pl?node=69666&if=gb
東觀漢記 耿恭伝
耿氏自中興以後訖建安之末,大將軍九人,卿十三人,尚公主三人,列侯十九人,
中郎將、護羌校、尉及刺史、二千石數十百人,遂與漢興衰。

「建安之末」 


まあ掻い摘んで解釈すると、思いこみで全てを決めつけてましたってことだね
おk。了解した。
633無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 21:38:27
634無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 21:40:54
>>633
>但未能把散逸的篇章如數補齊。
って書いてあるじゃん

翻訳サイト
「しかし散逸の文章を数をそろえて全部補うことができなかった。」
635無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 21:43:41
もう度遼将軍の話はいいだろ
636無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 21:46:16
>>632
なるほど、楊彪で終了したわけではなかったということか。
確かに思い込みだったな。すまんかった。
637無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 22:21:44
>>636
この状況でその相手にさらりと謝れる君は人格者と見た。
立派なものだ。
638無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 22:32:54
それ以前に無駄な煽りを入れるからなぁ
煽って謝るというよく分からんやつだ
639無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 22:47:32
>>612
>おいおい…認められなかった、と明記されない限り実行された
いつから「上表した」がそれ以上の意味を持つようになった?
「従わなかった」ともあれば「従った」ともある
「従った」と明記がないのは「上表した」に留まるからだろう

「従わなかった」と無いのは、その結果なにも悪いことが起きず、
「言う通りにしておけば良かったのに」という好結末に繋がらないからだろう

1.〜と、宣帝は上表した。帝は認めなかった。

2.〜と、宣帝は上表した。

認められなかった事実は書かない方が司馬懿の印象はよくなる


3.〜と、宣帝は上表した。帝は従った。これを以て○○は発展し、国は潤った。

4.〜と、宣帝は上表した。

認められたのなら3の方が印象がよい なぜ明記しなかったのかな?


答えは2だよ
640無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 22:56:41
又以關中連遭賊寇,穀帛不足,遣冀州農丁五千屯於上ケイ,秋冬習戰陣,春夏修田桑.

安平獻王孚伝
641Jominian ◆Henri9gNlM :2009/08/20(木) 22:58:59
横からで悪いが、冀州の農民を上邽に移住させた話は、晋書司馬孚伝にある。

「又以関中連遭賊寇、穀帛不足、遣冀州農丁五千屯於上邽、秋冬習戦陣,
 春夏修田桑。由是関中軍国有餘、待賊有備矣。」

という記述がね。
642Jominian ◆Henri9gNlM :2009/08/20(木) 23:00:17
>>640
ありゃ?
もう挙がってたか。すまん
643無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 23:05:02
>>639
司馬フ伝にあるだろ
だからおまえはアホなのだ。

・キ山の戦いでの孔明の戦い振りはすごかった
・魏略は戦時下の敵国の新聞
・度遼将軍は複数人いた
・応ショウは15歳で太守になる超人の可能性
・でも度遼将軍については間違っている
・司馬イの上表は認められなかった

馬鹿なおまえが謝罪すべき妄言がまた一つw
644無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 23:06:42
いっぺんに3人に突っ込まれるしw
もう尻尾巻いて逃げろよw
645無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 23:06:50
>待賊有備矣
この一文、天水近郊でついに姜維の撃破に成功したケ艾の戦果を想起させられて
印象的だ。250年代には上ケイこそが「必争の地」となっていたんだろうな。
646無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 23:19:23
魏略の成立年代ってFA出てたっけ?
647無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 23:23:40
ありゃりゃ、あったのか 
資治通鑑にも無かったんでないかと思った 失礼
なぜ司馬孚伝?
648無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 23:26:02
>>643
・度遼将軍は複数人いた
居ただろう いや、席はあっただろう

・応ショウは15歳で太守になる超人の可能性
可能性もあの段階ではあった

・でも度遼将軍については間違っている
そう “遠地”将軍だ
649無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 23:27:11
が、度遼将軍のことはもういいだろう
650Jominian ◆Henri9gNlM :2009/08/20(木) 23:33:32
>>647
歩騎二万を関中に送るという上表とあわせて、
司馬孚がそういう内容の上表をしているから。
651無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 23:37:36
司馬孚が上表した? どのくだり?
652無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 23:41:52
ついでに、京兆・天水・南安の製鉄はどうなったの?
653Jominian ◆Henri9gNlM :2009/08/20(木) 23:42:43
>>651
あぁ、「上表」とは書かれていないな。
司馬孚が度支尚書になったくだりの後、諸葛亮の侵攻の度に中軍が
関中まで奔走しなければいけない事を憂慮した司馬孚が、
それらの措置を行った事が書かれている。
654無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 23:49:59
>>612
>郡府が外にあるのにどうやって統治・迎撃するのか
郡府が外にあるというのは張嶷伝の越巂太守みたいなもんか
しかし越巂郡のように反乱があるわけでもなく
蜀に民を取られないように避難させているわけだから基本的に武都郡は平和だろう
すべての民を移したわけでもないだろうし、武都には価値がある
官庁を安全地帯に移し官僚を守りながら離れ小島で郡を統治したということなのだろう
扶風には扶風太守傅幹がいる
武都太守楊阜の治める離れ小島の民から徴される兵は槐里で何をするのだ?
扶風太守の指揮下に入るか? それなら武都太守の存在は意味がない

魏が武都を完全放棄すれば蜀が奪うだろう
槐里の兵は武都で防人するんじゃないかな


>>雍州に刺史を中心とする軍事システムがあったということだよ
>そう、あった。将軍ではなく、郡県軍によって編成されたと思われる
>>579
>郡県の兵は主力軍より遙かに劣弱で、しかもそれらを統合する指揮権を持つ将もいなかった。
だから、その“統合する指揮権を持つ将”が雍州刺史郭淮だろ
話をややこしくしないでくれ
>郭淮が単独で祁山周辺まで急行し
何これ? こんなんどっから出てきたの?
655無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 23:51:06
>都合のいい抜き出し方をしてはいけない。
そんなつもりはない
>>585
>彼らが圧倒的な大軍を前にしてどちらに付くか?
反旗を翻すというのはそう簡単な決断ではない
戦役で勝利を収められそうな方に付くだろう

蜀 22万5600戸
魏 防衛軍13万1500戸  +  中央からの援軍

これがおおよその“戦役”兵力推測に繋がる

蜀軍が兵士数で雍秦2州を上回ろうとも、魏は中央からの援軍があるので
戦役総兵士数では魏が上回る 強さを同じとすれば兵力で上回る魏が勝つ
囲まれる前から降伏する馬鹿はいない 
戦が終われば首を刎ねられるのは確実だろう
反旗を翻したというのは忠誠度が低かったというのも勿論あるが
蜀が勝つことを見込んだからだ
つまり蜀は強かった
656Jominian ◆Henri9gNlM :2009/08/20(木) 23:51:08
>>652
そっちについては、晋書食貨志にある。
「嘉平四年、関中饑、宣帝表徙冀州農夫五千人佃上邽、興京兆、天水、南安塩池、以益軍実。
 青龍元年、開成国渠、自陳倉至槐里築臨晉陂、引汧洛溉舄鹵之地三千余頃、国以充実焉」

まぁ、宣帝紀と内容は変わらないから、編纂の際にもとにした史料は同じだろうね。
因みに、注釈で「嘉平四年は太和四年の間違いだろう」ってある。
657無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 23:53:07
>>656
調べてくれてありがとう
658無名武将@お腹せっぷく:2009/08/21(金) 00:11:59
>>655はイッペン、いつ誰がどのような権限によってどこからどの程度の数の軍を
抽出して諸葛亮と同時期に祁山に到達し三郡降伏より前に負けることになったのか、
順を追って説明したほうがいいな
「こうもできる」「この可能性もある」など具体性を欠く話ばかりでは
反証不可能だ。
659無名武将@お腹せっぷく:2009/08/21(金) 14:12:55
度遼将軍のことはもういいだろうクンの連レスぶりが凄いなw
突っ込まれて動揺してるのか
早く1000まで埋めて逃亡しようとしてるのか
あと300ちょいだぞがんばれw
660無名武将@お腹せっぷく:2009/08/21(金) 14:22:00
   _,,....,,_  _人人人人人人人人人人人人人人人_
-''":::::::::::::`''>   ゆっくりしていってね!!!   <
ヽ::::::::::::::::::::: ̄^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄
 |::::::;ノ´ ̄\:::::::::::\_,. -‐ァ     __   _____   ______
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_,.!イ_  _,.ヘーァ'二ハ二ヽ、へ,_7   'r ´          ヽ、ン、
::::::rー''7コ-‐'"´    ;  ', `ヽ/`7 ,'==─-      -─==', i
r-'ァ'"´/  /! ハ  ハ  !  iヾ_ノ i イ iゝ、イ人レ/_ルヽイ i |
!イ´ ,' | /__,.!/ V 、!__ハ  ,' ,ゝ レリイi (ヒ_]     ヒ_ン ).| .|、i .||
`!  !/レi' (ヒ_]     ヒ_ン レ'i ノ   !Y!""  ,___,   "" 「 !ノ i |
,'  ノ   !'"    ,___,  "' i .レ'    L.',.   ヽ _ン    L」 ノ| .|
 (  ,ハ    ヽ _ン   人!      | ||ヽ、       ,イ| ||イ| /
,.ヘ,)、  )>,、 _____, ,.イ  ハ    レ ル` ー--─ ´ルレ レ´
661無名武将@お腹せっぷく:2009/08/21(金) 14:25:48
       ,, -──- 、._
        .-"´         \.
        :/   _ノ    ヽ、_ ヽ.:
        :/  o゚((●))  ((●))゚oヽ:
      :|       (__人__)    |:   ぷ・・・
      :l        )  (      l:
      :` 、       `ー'     /:
       :, -‐ (_).        /
       :l_j_j_j と)丶─‐┬.''´
          :ヽ   :i |:
             :/  :⊂ノ|:
662無名武将@お腹せっぷく:2009/08/21(金) 14:26:11
>>659
つってもあと3分の1も残ってるぞw
663無名武将@お腹せっぷく:2009/08/21(金) 14:30:21
 ∧ ∧
(*‘ω‘ *)  ちんぽっぽ
 (   )
  v v
       ぼいんっ
   川
 ( (  ) )

664無名武将@お腹せっぷく:2009/08/21(金) 14:44:47
    r'ニニ7      本当にすまないという気持ちで…
     fトロ,ロ!___       胸がいっぱいなら…!
 ハ´ ̄ヘこ/  ハ
/  〉  |少  / |      どこであれ土下座ができる…!
\ \    /| |
 ┌―)))――)))‐―┐      たとえそれが…
  ヽ ̄工二二丁 ̄
   〉 ヽ工工/ ;′∬     肉焦がし… 骨焼く…
  lヽ三三三∫三三\;'
  h.ヽ三∬三三';.三三\';∫   鉄板の上でもっ………!
  └ヽ ヽ三,;'三三∬三;'三\'"
    ヽ |__|烝烝烝烝烝烝|__|
      lj_」ー――――‐U_」
665無名武将@お腹せっぷく:2009/08/21(金) 15:54:07
               _
              /  \―。
            (    /  \_
             /       /  ヽ   / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
         ...―/          _)  < ちんちん シュッ!シュッ!シュッ!
        ノ:::へ_ __    /      \_____
        |/-=o=-     \/_
       /::::::ヽ―ヽ -=o=-_(::::::::.ヽ
      |○/ 。  /:::::::::  (:::::::::::::)
      |::::人__人:::::○    ヽ/
      ヽ   __ \      /
       \  | .::::/.|       /
        \lヽ::::ノ丿      /
          しw/ノ___-イ
           ∪

666無名武将@お腹せっぷく:2009/08/21(金) 21:41:09
>>659
お前馬鹿だろ? 
667無名武将@お腹せっぷく:2009/08/21(金) 21:47:17
>>666
おまえが度遼将軍のことはもういいだろうクンなの?
>>659に図星をつかれたのかな?
668無名武将@お腹せっぷく:2009/08/21(金) 21:53:48
馬鹿は話にならんw
669無名武将@お腹せっぷく:2009/08/21(金) 22:29:59
>>668
自己紹介しなくてもいいw
670無名武将@お腹せっぷく:2009/08/22(土) 16:41:25
頭のいい人間の話し方が出来るようになってから
上から目線しないとなw
671無名武将@お腹せっぷく:2009/08/22(土) 21:08:06
>>658
考え方が根本的に異なる
導くために質問に素直に答えてくれるかな

1.曹操が武都から住民を移したのは何故か?

2.その他の地域で同様な移住政策の例はあるか?

3.その地は放棄されたのか?
672無名武将@お腹せっぷく:2009/08/22(土) 21:15:58
>>670
生意気言うのは一生早い
673無名武将@お腹せっぷく:2009/08/22(土) 21:40:31
1.2.3の答えは待つまでもないので質問を続ける

質問
4.武都は放棄されたのか?

5.土地を支配するとはどういうことか?
674無名武将@お腹せっぷく:2009/08/22(土) 21:56:58
要求に質問で返す馬鹿

>>672
まったくだ。馬鹿は死ななきゃ直らない
675無名武将@お腹せっぷく:2009/08/22(土) 22:03:08
お前のことさ
676無名武将@お腹せっぷく:2009/08/22(土) 22:04:03
どうせ自分の主張を変えないのだから質問と答えはセットで書いたほうがいいぞ。
677無名武将@お腹せっぷく:2009/08/22(土) 22:06:34
>>671
論理の展開がわからない

武都についてレスはしてないし、祁山にて激しい戦闘があったか否かが本題の一件であって、
武都の話は末節もいいところ。なんで今そこを詰める必要があるのか?

>「考え方が根本的に異なる 」
からこそ、第一次北伐での、時間経過と諸軍の動きについて
全体像を示して欲しいと言ってるんだけど。
でないと議論にならない。
武都については触れても触れなくてもいいよ。
678無名武将@お腹せっぷく:2009/08/22(土) 22:21:07
>>675
馬鹿ほど鸚鵡返しする傾向があるよね。口惜しかったの?w
でもその前に自分のゴミっぷりを反省しないと。
この話題がこじれた原因は
おまえが詭弁と遁辞を使って自分の立証責任から逃げ続けているのが100l

やるべきことをやってえらそうにする分には何の問題もないのだよ。
679無名武将@お腹せっぷく:2009/08/22(土) 22:34:21
>>671-673
>祁山にて激しい戦闘があったか否か

↑に答えずに相手にばかり質問するのは汚いぞ。
まあ論破してやるとか言ってるアホだから汚くて当然なんだろうが。
680ジャイアニズム:2009/08/22(土) 22:50:36
機関銃と戦車が必要
681無名武将@お腹せっぷく:2009/08/22(土) 23:20:08
まじでこの話題で1000までやるつもりなんだろうか。
もう秋田
682無名武将@お腹せっぷく:2009/08/23(日) 00:58:46
1 自分が質問する側になって攻勢に出る事によって云々でどっかの丞相の真似
2 論点を逸らして逃亡準備
3 もう秋田、度遼将軍のことはもういいだろうで逃亡準備

ど〜れだ?

683無名武将@お腹せっぷく:2009/08/23(日) 02:56:11
>>682
もう秋田、は俺なんだけど。
まあ1〜3の全部じゃん。
>祁山にて激しい戦闘があったか否か
これを裏付ける根拠が素直な読み方とやら以外ないんだろう。ただの誤読だけど。
684無名武将@お腹せっぷく:2009/08/23(日) 09:11:42
空気を読まず漢中徙民ネタでも
・曹操が占領時に漢中の民八万を徙す(これにより漢中はほぼ空)
・張郃が巴西で劉備軍と交戦しつつ徒民(王平が魏に所属したらへん)
・諸葛亮が降伏した隴西三郡(天水・南安・安定)の民を徒す(姜維が降伏の使者になりそのまま所属)
・姜維が降伏した隴西三郡(狄道、河関、臨洮)の民を徒す
たぶん他にもありそうだけど思いついたのだけ

三国志の徙民代表例といえば董卓の洛陽から長安への遷都だろうねぇ
ついでに呉ネタになると多すぎておなかいっぱい
685無名武将@お腹せっぷく:2009/08/23(日) 14:30:24
>>682
4.今忙しい
5.魏ヲタの相手ってめんどくせぇなぁと思っている

>>683
な? 682馬鹿だろ?
686無名武将@お腹せっぷく:2009/08/23(日) 14:38:58
>>684
おなかいっぱいって言うなよ
ネタが続かないだろw
687無名武将@お腹せっぷく:2009/08/23(日) 15:47:01
>>685
忙しいのに言い訳と捨て台詞は書き込む馬鹿乙w
688無名武将@お腹せっぷく:2009/08/23(日) 16:03:12
>>684
呉は山越関係はやばそうだ。
曹操は長江沿いの郡県を奪われるのをおそれて内地に強制移住させようとしてるね。
住民は驚き十余万人が長江渡って江東へ。
江西の合肥以南は皖城がだけになってしまった。

これは強制移住の失敗例だね。
689無名武将@お腹せっぷく:2009/08/23(日) 17:22:30
>>685
俺にはおまえが孔明儲に見える。もちろんまともな孔明ファンだとは思わない
690無名武将@お腹せっぷく:2009/08/23(日) 20:57:55
強制移住とか蛮族の傭兵化とか目立つ時代だよな
691無名武将@お腹せっぷく:2009/08/23(日) 21:08:50
兵糧と人手不足が深刻な時代だからね
鉄も木材も何もかもが足りなかったが、特に人間が問題だった。
一旦敵地を占領しても恒久的に維持する軍事力が無かったり、
攻勢を掛けたついでに敵の駐留拠点周辺を破壊するような節があったり。
内地や辺境から前線近くに移動したり。
淮江間や漢中・武都などは典型的な緩衝地帯化政策が取られた場所だろう。
692無名武将@お腹せっぷく:2009/08/23(日) 23:55:51
>>685
6,捨て台詞吐く奴って器ちっちぇえなあって思う。
693無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 00:55:18
戦い振りが凄かった孔明を斥けた方が、
そうでない孔明を斥けるより魏sugeeとなるのだがな。

むしろ685がめんどくさい魏オタで孔明オタ。
694無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 17:14:47
夷陵以後の魏の蜀に対する認識は呉との緩衝地帯だったのかな?
695無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 17:32:23
どこで緩衝するんだよw
696無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 21:42:47
移住ってそれなりにコストかかるはずだけど、それでもプラスなんか?
697無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 21:53:16
>>696
移住させずにその場を守るのもそれはそれでコストがかかるし、仮に負けたらその民も失ってしまう
それなら取られないように自分の手元に置く方がいい

ただ、これは住民の気持ちや被害は一切考慮していないので、揚州のようにかえって呉に逃げる民が出たり、移住させられた民が恨んだりといったことが起こるので、中長期的にはプラスばかりでもない
698無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 21:59:34
>>694
緩衝地帯どころか、終わった国って認識だろう。
だからこそ、諸葛亮が統率の取れた大軍で来た時に衝撃うけたんだし。
699無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 22:04:13
人口が減った
というのはどの程度なんだろうか?
豪族が相当抱え込んでたようだが
700無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 22:14:02
>>1
基本的な質問なんだが、どんな戦果を得れば北伐が成功した事になるの?
701無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 22:26:46
>>700
魏を滅ぼしたら
702無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 22:33:48
そういや魏では幽州や涼州で異民族雑居にして晋における火種になったにもかかわらず
呉では山越に対する人狩りやってたのに東晋の基盤になるという謎
703無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 22:34:37
長安 VP+50
隴西 VP+10
涼州 VP+10
この3つが全て達成された時点で蜀のサドンデス勝利
魏軍の損害1万につき VP+1
蜀軍の損害1万につき VP-2
孔明の戦死は、魏のサドンデス勝利

VP60 蜀の戦略的勝利
VP30 蜀の戦術的勝利
VP20 魏の戦術的勝利
VP10 魏の戦略的勝利
704無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 22:37:05
>>702
魏の雑居異民族は被差別民として酷使された
呉の山越はそもそも本当に異民族なのか疑問もあるほどで、おそらく酷使されたのは同じだろうが民族として被差別民扱いはされなかったのではなかろうか
705無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 22:39:26
山越に孟獲みたく呉の宮廷で出世しちゃった人とかいないん?
706無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 22:47:20
>>704
だが、呉は荊州どころか
夷州(たぶん台湾)や
遼東(公孫淵討伐後のゴタゴタをつき)
にまで出張って人狩りしているわけで
707無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 23:02:31
>>702
晋は八王の乱で、異民族に大きな権限を与えつつそれを統制する実力が失われたのが致命傷になった。
制御できる範囲内での雑居なら問題ない。それなら前漢(もっと前?)から関中で行われている
708無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 23:10:03
>>701
魏を滅ぼさなければ、北伐を成功した事にならないとするならば
蜀軍をどうにかしただけでは、成功の見込みはないな

国として確立した勢力は、内憂なしに外患だけで滅ぶことはまずない
どんなに外征をしても、それだけで魏を滅ぼすのは無理だよ
709無名武将@お腹せっぷく:2009/08/24(月) 23:33:47
>>706
>>704が言いたいのは呉では差別がないという話ではなくて
山越が異民族でなくて只の反乱勢力ならば編入→同化するのに障害が少ないということだろう。
710無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 01:28:48
魏ですら、中原全域を維持するには人口、兵力的にきついとこだからねえ。ちと
別方向からの切り口で言うと、第一次の北伐時、張コウは馬ショクを破った後、
諸葛亮に呼応した三郡を攻略してますが、南安、天水、安定の内、安定はかなり
北東に位置しているんじゃなかったでしたっけ。

そこまで諸葛亮は到達していない訳(街亭よりも更に先)だから、キ山での戦闘
が降伏の引き金になったとは考えにくい。また、武徒辺りはキ山へ抜ける途中に
ある訳で、ここも当時魏領なのだが、もしキ山で大規模な戦闘があったとみるの
ならばこの辺りでも戦闘がないとおかしな話になる。キ山のある天水だけに兵力
が集中していたとは考えにくい。

そう考えると戦う前から降服していた、と言うそんなバカな話になっていた、と
言う可能性は充分ありうる。諸郡にはそれぞれにある程度の兵力があてがわれて
いたことは張コウが街亭の戦の後反乱を起こした南安、安定、天水の諸軍を全て
打ち破り、とあることからもわかる。

しかしいくら張コウが名将とは言え、これだけ一気に打ち破られる、と言う事は
彼らの持っている兵力が微笑でしかないことは容易に想定がつくし、だからこそ
蜀軍が攻めてきたらすぐに降伏した、とも言えるのではないかな。

また、この後張コウが荊州に赴いて司馬懿と共闘する際は関中諸軍を統率し、と
あるように、この時代は兵力を一極に集中させるための移動がシバシバ見られる。
そう考えると戸籍と兵力は必ずしもシンクロするとは言えない。

ちなみに第二次北伐時、張コウは召還されて西方へ派遣されるのですが、張コウ
伝を見ると南鄭に到達し、とあるのですよね。コレ間違いかねえ。南鄭となると
もう漢中の方になるから、漢水を遡るルートでないと到達できないような・・・。
711無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 12:36:46
とりあえず、長安取れれば成功でいいんじゃないか
維持できるかどうかはまた別の問題で
712無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 19:52:29
つまり長安奪取後に馬超のように壊滅的敗退に追い込まれても良いと!

では魏延案でおk
713無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 19:59:18
>>658

諸葛亮が趙雲を先鋒とし、斜谷道へ向け出発
その報は間諜によりすぐさまに魏に伝わった
「蜀動く!」の報は国境に面した地から雍州中へ伝播した
報を受けた縣は戦闘準備を整え、上からの指示・援軍を待つ
前線の縣は兵を集め城や要塞に籠もった
後方の縣は兵を纏め郡都へ向かった 
槐里の郭淮・長安の夏侯楙に伝わった
郭淮・夏侯楙は戦の準備を開始
斜谷道出口に先鋒趙雲着陣
日ごとに蜀軍到着 相当に大軍な模様
都に伝わる
夏侯楙を不安視する声が挙がり理由をつけて呼び戻し、曹真と交代
武都前線が蜀の別働隊に破られる
郭淮、司令「安定・天水・南安、戦闘準備のまま待機」
曹真、長安到着 夏侯楙が準備した軍を率いて蜀本隊を防ぐべく箕谷へ向かう
洛陽、張郃に兵を与え援護に向かわせる
武都の蜀別働隊、関山道北上中
曹真、箕谷で蜀本隊と睨み合う
武都の蜀別働隊、魏の戦線を次々破りながら北上 意外に兵数多し
祁山周辺の縣兵、祁山に拠る
武都魏軍、祁山に撤退 
蜀別働隊、祁山到着  
蜀別働隊、蜀本隊と判明
蜀本隊諸葛亮軍、祁山攻める
蜀圧勝 祁山陥落
関中激震  
南安・天水・安定、寝返る
郭淮、州兵に不足する
朝廷恐懼する
明帝、兵を率い長安へ向かう
張郃、涼州へ向かう
郭淮軍、張郃軍を補佐すべく動く

こうだろう
714無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 21:30:09
>>711>>712
長安を取るだけなら魏延の策で上手くいったかもね
諸葛亮には取れない策ではあるけど・・・

取った後の維持の問題は、馬超のような結果になるとは限らないかな
援軍のあてのあるなしは大きいからね
魏延なら援軍が来るまで守りきれる自身と算段があったように思う
715無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 21:52:22
そもそも馬超って本当に長安落としてるのかどうかもはっきり分かってないんだよな
716無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 22:04:09
>>713
やたら冗長な文だが…
それじゃ「祁山での諸葛亮の戦いぶりが凄まじかったから降伏した」の、なんの証明にもなってないぞ。
むしろ「祁山に現れた蜀軍が想定外の大軍だったから降伏した」を補強することになっている。
戦闘があろうが無かろうが713の大筋になんの影響も及ぼさない。
しかも、『攻祁山』が祁山で戦闘があった有力な証拠と見なしているはずだったのに、
史書にまったく現れない武都郡内での抵抗が、対諸葛亮戦闘のメインになってしまってるし。
717無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 22:16:16
>>716
改行が多いだけだ

>それじゃ「祁山での諸葛亮の戦いぶりが凄まじかったから降伏した」の、なんの証明にもなってないぞ
蜀圧勝というのは圧勝しただろうなという↓から当然のように導かれた答えだ
「亮身率諸軍攻祁山,戎陳整齊,賞罰肅而號令明,南安、天水、安定三郡叛魏應亮,關中響震」

>むしろ「祁山に現れた蜀軍が想定外の大軍だったから降伏した」を補強することになっている
原文を見れば分かる通り、大軍だったから降伏したと取れるところはどこにもない

>しかも、『攻祁山』が祁山で戦闘があった有力な証拠と見なしているはずだったのに、
祁山は秦嶺山脈西回りルートの重要防衛拠点
武都で大軍を食い止められると初めから考えられていない
だから“祁山”なのだ

>史書にまったく現れない武都郡内での抵抗
うん ある
718無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 22:28:44
>>717
もうめんどくさいや
姜維伝、姜維が蜀に降った箇所を読んでみ
719無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 22:39:36
>蜀圧勝というのは圧勝しただろうなという↓から当然のように導かれた答えだ
>「亮身率諸軍攻祁山,戎陳整齊,賞罰肅而號令明,南安、天水、安定三郡叛魏應亮,關中響震」

結局それなんだよな。
あんたのその漢文解釈は、それ単独では、この場に居る誰一人をも説得する事が出来なかった。
だからこそ、あんた流の全体の流れを提示して、
祁山で激しい戦闘が存在する流れに無理が無いことを示してみせてくれと言ったのだが…。

結局、あんたの主張の拠り所は「この一文」に帰結する以外にないと言うのなら、
永遠に他人を納得させることはできないので、そろそろ止めた方がいいと思うよ。
720無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 22:48:56
>>718
「諸葛亮が祁山へ向かっていたとき、天水太守は外出していた。」
書いてあることはこれだけだろう
「諸葛亮が祁山へ向かっていたとき、三郡が降った」とは書かれてない
違うかな?

で?どこに>>713に無理があるのだ?
721717:2009/08/25(火) 22:50:17
>>720は俺
722無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 23:20:07
>>720
天水の軍権責任者である太守にとってさえ諸葛亮の祁山出現が寝耳に水で
何の備えもなく右往左往していた時期、諸県が呼応して降伏を始めていたと書いてあるね
太守は上ケイに篭ってしまったので、勿論天水郡を率いて祁山で交戦などしていない

諸葛亮伝では三郡が示し合わせて一斉に降伏したように書いてあるが、
実情は県城ごとにばらばらと降伏したのだろうし、上ケイなどは交戦したかもしれない、
とも言える。
723無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 23:21:42
やっと不毛な論争に決着が着いたな。
724無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 23:29:11
決着なんてずっと前から着いてるよ
725無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 23:37:59
相手を見下したり屁理屈を捏ねると
謝罪解決が出来なくなるという典型例だな
謙虚さと慎重さが足りてないからこんなことになる。
726無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 23:40:15
>>722
>天水の軍権責任者である太守にとってさえ諸葛亮の祁山出現が寝耳に水で
>何の備えもなく右往左往していた時期、諸県が呼応して降伏を始めていたと書いてあるね
そんなことどこに書いてあったっけ?
727無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 23:41:46
>>723
決着なんてずっと前から着いてるよ
728無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 23:49:25
>>725はそっくり逆だよ
729無名武将@お腹せっぷく:2009/08/25(火) 23:53:25
>>726
多分、君の目にだけ映らないんだと思うよ
730無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 00:03:00
書かれてないだろ また思いこみ?
731無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 00:14:29
>>713だと、天水郡祁山で諸葛亮に対する防衛線を張ったのは
武都郡であり、天水太守のあずかり知らぬところだったようだ。
この時武都は右扶風の東の端まで郡府が後退していた状況。

とすると、万一魏の県府がおかれていたとしても、武都は司令官不在のバラバラの数千戸(徒民しているので
もっと少ないか)があるに過ぎない状況。ここに奇襲に近い形で諸葛亮が攻め寄せたのにもかかわらず、
冷静に他郡まで防衛線を後退させて迎撃戦闘するというとんでもなく高度な機動を武都郡はとったことになる。

その取るに足らない郡兵を「凄まじい戦い」で破ったので三郡が降伏したと。
太守さえいない少数兵を破って諸葛亮の強さを知らしめる効果があったのだろうか。
残虐な戦いで皆殺しにしたならまあわかるけど。
732無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 00:21:32
>>731
郡の軍事を太守から預かる郡都尉は武都にいただろうね

そして「凄まじい戦い」と言ってるのは俺じゃないんだよね
勝手に思い込まれているとずっと感じていたが
俺はそうは言っていなく「見事な戦いぶり」と言っている


>>726には答えてくれないのかな?
まぁいい、どうせ魏略だろ
733無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 00:24:40
郡都尉は原則廃止で一部特に置かれてるけど武都にはあったの?
734無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 00:30:34
あったと考えるが自然
だから>>671-673で土台の武都やあれこれについて導こうとしたんだけどね
735無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 00:30:36
>>465
関中が激震したのは諸葛亮の祁山での戦いぶりが凄かったから

確かに思い込みだったようだ。
465は、三郡のみならず関中が激震するほどの凄い戦いを諸葛亮が祁山で示した
と主張していた。
736無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 00:35:42
>>671
1.蜀と国境を接しており、住民を無駄に置いても奪われて連れ去られるだけだから。
2.672以後沢山出た
3.特別の防備が置かれた城以外は放棄された
4.官府による支配は放棄された
5.現地住人を行政・司法などによって統制し、
 税を有効に還元することで生活の利便を増進し、武備によって護ること
737無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 00:35:51
>>735
確認だけど、あの時代の関中とは三郡も含む広義だよね?
738無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 00:38:34
>>737
安定の大部分は入るよ
739無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 00:49:31
じゃあ、あってるじゃん
740無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 00:51:21
あってるな。
なんかの大事件で九州と山口県に恐慌が広がった時に
「本州は激震した」というのが正しいくらいあってる。

741無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 00:56:34
関右というぐらいだからねぇ
742無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 00:57:43
>>736

>>671-673
1.蜀一国が兵を挙げた場合、相応の大軍でないと防ぎきれない
しかし、武都ではその軍糧を賄いきれないので
大軍を維持できる大都市に留めるほかない→長安
侵攻軍の規模が小さければ武都の備えで時間を稼ぐことは出来るが
蜀が大軍を起こし侵攻した場合、武都は占領される
蜀の侵攻を誘発する人民を移せば、蜀に武都侵攻の目的を与えずに済む

大軍を動かし武都を攻略するにはそれに見合うだけのメリットが要るが
過疎の武都にはない
武都攻略のメリットに見合うだけの軍勢なら、武都の防備で対応出来る

そういう措置だと思うよ

2.武帝紀にまだ出てたと思うよ

3.放棄されていない

4.1〜3の通り、武都を放棄する理由がないし前例もない

5.一言で言うと、兵を置くこと
743無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 01:03:40
兵を置いて民政を置かないのはつまり統治が放棄されたということ
兵がいても統治できない。自衛隊に市役所の代行はできない
しかも肝心の武都に兵が置かれていたという記述さえ無いのに
742の論では都尉までがいたことになってしまってる
744無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 01:08:20
>>734
なんだ、根拠無いんだな。つまりは。
745無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 01:09:49
>兵を置いて民政を置かないのはつまり統治が放棄されたということ
そんなことは言っていない

>しかも肝心の武都に兵が置かれていたという記述さえ無いのに
当たり前なのだからそういう記録はないだろう
むしろ「放棄した」「兵を引き揚げた」とかいう方が異例で明記されるだろう

兵が居たなら都尉も居たはずだよ
746無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 01:11:50
>>744
根拠大ありだろ
兵が居た なら 都尉も居た
747無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 01:14:47
>>746
都尉がいないと兵が存在できないわけじゃないから、根拠には全くなってないよ
雑すぎて考察、推測とも言えない
根拠っていうのは武都に都尉が置かれていた証拠や、実際に武都の都尉の名が出てくる箇所のことだよ
748無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 01:23:33
存在出来ないよ 誰が監督する?
根拠は証拠とは違う 兵が居て太守不在なら都尉の存在は根拠充分と言える
749無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 01:28:56
おまえの主観に基づく非合理的な推理は根拠にならんから
750無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 01:40:54
>>749
君に議論は早い
751無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 01:41:33
凄い面白いスレだ
752無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 01:42:44
武都に兵が居たという根拠がそもそも無い
753無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 01:49:24
>>745
またその悪魔の証明詭弁に頼るのか

>当たり前なのだからそういう記録はないだろう

太守や県令が確実に存在して政治を行っている土地なら、「兵が居るのは当たり前」だよ。
しかし武都は、既に太守が在地統治を放棄するという異例事態になっており、
そんな場所に郡レベルの兵力が残留していたならば、その方が「異例」であり「特例の明記」が必要なケース。

というわけで、武都にまとまった兵が居たという明確な記述を提出する責任があるのはそちらになる。
どうぞ。
754無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 02:50:40
そもそも武都の太守が政治をブン投げてたってのがようわからんな
どっちにしろ当時の基本的行政スタンスから考えて郡に全く軍事力がないというほうが特殊だろ、普通に考えて
突起事項として記録されるなら
兵が居たことでなく兵が全くいなかったと言う事態の方だ
特別な記述が無いって事は、
最低限の常備兵はいて、それを監督する人間も居たと考えるのが自然じゃないかね
755無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 02:51:14
主観と憶測でここまで拗れさせる阿呆のどこに
素直な読み方が出来る要素があるのだろうか
756無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 02:53:38
曹操時代の漢中も行政は為されてなかったけど軍事力はあったしね
757無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 03:23:27
つーか、その最低限の常備兵ってどんだけ居たんだろ?
国力からすれば万は居たとは思えないが。
758無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 03:25:54
建興六年、丞相諸葛亮軍向祁山、時天水太守適出案行、維及功曹梁緒、主簿尹賞、主記梁虔等從行。
太守聞蜀軍垂至、而諸縣回應、疑維等皆有異心、於是夜亡保上邽。
維等覺太守去、追遲、至城門、城門已閉、不納。
維等相率還冀、冀亦不入維。
維等乃倶詣諸葛亮。
會馬謖敗於街亭、亮拔將西縣千餘家及維等還、故維遂與母相失。
759無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 03:33:15
魏略曰、天水太守馬遵將維及諸官屬隨雍州刺史郭淮偶自西至洛門案行、
會聞亮已到祁山、淮顧遵曰「是欲不善!」
遂驅東還上邽。
遵念所治冀縣界在西偏、又恐吏民樂亂、遂亦隨淮去。
時維謂遵曰「明府當還冀」
遵謂維等曰「卿諸人回復信、皆賊也」
各自行。
維亦無如遵何、而家在冀、遂與郡吏上官子脩等還冀。
冀中吏民見維等大喜、便推令見亮。二人不獲已、乃共詣亮。亮見、大ス。
未及遣迎冀中人、會亮前鋒為張郃、費繇等所破、遂將維等卻縮。
維不得還、遂入蜀。
諸軍攻冀、皆得維母妻子、亦以維本無去意、故不沒其家、但系保官以延之。
此語與本傳不同。
760無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 05:04:11
明帝紀
蜀大将諸葛亮寇辺、天水、南安、安定三郡吏民叛応亮。※1
乃部勒兵馬歩騎五万拒亮。
遣大将軍曹真都督関右、並進兵。
右将軍張郃撃亮於街亭、大破之。亮敗走、三郡平。
丁未、行幸長安。※2夏四月丁酉、還洛陽宮。

※1
魏書曰、是時朝臣未知計所出、帝曰、
「亮阻山為固、今者自来、既合兵書致人之術。
 且亮貪三郡、知進而不知退、今因此時、破亮必也」

※2
魏略載帝露布天下並班告益州曰、
「劉備背恩、自竄巴蜀。諸葛亮棄父母之国、阿残賊之党、神人被毒、悪積身滅。
 亮外慕立孤之名、而内貪専擅之実。
 劉升之兄弟守空城而己。
 亮又侮易益土、虐用其民、是以利狼、宕渠、高定、青羌莫不瓦解、為亮仇敵。
 而亮反裘負薪、裏尽毛殫、刖趾適屨、刻肌傷骨、反更称説、自以為能。
 行兵於井底、游歩於牛蹄。
 自朕即位、三辺無事、猶哀憐天下数遭兵革、且欲養四海之耆老、長後生之孤幼、先移風於礼楽、次講武於農隙、置亮画外、未以為虞。
 而亮懐李熊愚勇之智、不思荊邯度徳之戒、駆略吏民、盜利祁山。
 王師方振、胆破気奪、馬謖、高祥、望旗奔敗。
 虎臣逐北、踏屍渉血、亮也小子、震驚朕師。猛鋭勇躍、鹹思長駆。
 朕惟率土莫非王臣、師之所処、荊棘生焉、不欲使千室之邑忠信貞良、与夫淫昏之党、共受塗炭。
 故先開示、以昭国誠、勉思変化、無滞乱邦。
 巴蜀将吏士民諸為亮所劫迫、公卿已下皆聴束手」
761無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 05:06:19
曹真伝
諸葛亮圍祁山、南安、天水、安定三郡反応亮。
帝遣真督諸軍軍郿、遣張郃撃亮将馬謖、大破之。
安定民楊条等略吏民保月支城、真進軍囲之。
条謂其衆曰「大将軍自来、吾原早降耳」
遂自縛出。三郡皆平。
真以亮懲於祁山、後出必従陳倉、乃使将軍郝昭、王生守陳倉、治其城。

張郃伝
諸葛亮出祁山。
加郃位特進、遣督諸軍、拒亮将馬謖於街亭。
謖依阻南山、不下拠城。
郃絶其汲道、擊、大破之。
南安、天水、安定郡反応亮、郃皆破平之。

郭淮伝
太和二年、蜀相諸葛亮出祁山、遣将軍馬謖至街亭、高詳屯列柳城。
張郃擊謖、淮攻詳営、皆破之。
又破隴西名羌唐氾於枹罕、加建威将軍。

徐邈伝
明帝以涼州絶遠、南接蜀寇、以邈為涼州刺史、使持節領護羌校尉。
至、値諸葛亮出祁山、隴右三郡反、邈輒遣参軍及金城太守等撃南安賊、破之。
762無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 05:07:07
後主伝
五年春、丞相亮出屯漢中、営沔北陽平石馬。
諸葛亮集載禅三月下詔曰(省略
六年春、亮出攻祁山、不克。

諸葛亮伝
五年、率諸軍北駐漢中、臨発、上疏曰(省略)遂行、屯于沔陽。
六年春、揚声由斜谷道取郿、使趙雲、ケ芝為疑軍、拠箕谷、魏大将軍曹真挙衆拒之。
亮身率諸軍攻祁山、戎陳整斉、賞罰粛而号令明、南安、天水、安定三郡叛魏応亮、関中響震。※1
魏明帝西鎮長安、命張郃拒亮、亮使馬謖督諸軍在前、与郃戦於街亭。
謖違亮節度、挙動失宜、大為郃所破。
亮抜西県千余家、還于漢中。

※1
魏略曰、始、国家以蜀中惟有劉備。備既死、数歳寂然無声、是以略無備預。
而卒聞亮出、朝野恐懼、隴右、祁山尤甚、故三郡同時応亮。

郭沖四事曰、
亮出祁山、隴西、南安二郡応時降、囲天水、抜冀城、虜姜維、駆略士女数千人還蜀。
人皆賀亮、亮顔色愀然有戚容、謝曰、
「普天之下、莫非漢民、国家威力未挙、使百姓困於豺狼之吻。
 一夫有死、皆亮之罪、以此相賀、能不為愧」
於是蜀人鹹知亮有呑魏之志、非惟拓境而已。

難曰、亮有呑魏之志久矣、不始於此衆人方知也、且于時師出無成、傷缺而反者衆、三郡帰降而不能有。
姜維、天水之匹夫耳、獲之則於魏何損?
抜西県千家、不補街亭所喪、以何為功、而蜀人相賀乎?
戮謖以謝衆。
上疏曰、
「臣以弱才、叨窃非拠、親秉旄鉞以試O軍、不能訓章明法、臨事而懼、至有街亭違命之闕、箕谷不戒之、咎皆在臣授任無方。
 臣明不知人、恤事多闇、春秋責帥、臣職是当。
 請自貶三等、以督厥咎」
於是以亮為右将軍、行丞相事、所総統如前。

漢晋春秋曰、或勧亮更発兵者、亮曰、
「大軍在祁山、箕谷、皆多於賊、而不能破賊為賊所破者、則此病不在兵少也、在一人耳。
 今欲減兵省将、明罰思過、校変通之道於将来。若不能然者、雖兵多何益!
 自今已後、諸有忠慮於国、但勤攻吾之闕、則事可定、賊可死、功可蹻足而待矣」
於是考微労、甄烈壮、引咎責躬、布所失於天下、歯コ講武、以為後図、戎士簡練、民忘其敗矣。
763無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 05:10:00
魏延伝
五年、諸葛亮駐漢中、更以延為督前部、領丞相司馬、涼州刺史。
延毎随亮出、輒欲請兵万人、与亮異道会於潼関、如韓信故事、亮制而不許。
延常謂亮為怯、歎恨己才用之不尽。※2

※2
魏略曰、夏侯楙為安西将軍、鎮長安、亮於南鄭与群下計議、
延曰、
「聞夏侯楙少、主婿也、怯而無謀。
 今仮延精兵五千、負糧五千、直従褒中出、循秦嶺而東、当子午而北、不過十日可到長安。
 楙聞延奄至、必乗船逃走。長安中惟有御史、京兆太守耳、横門邸閣与散民之谷足周食也。
 比東方相合聚、尚二十許日、而公従斜谷来、必足以達。
 如此、則一挙而咸陽以西可定矣」
亮以為此県危、不如安従坦道、可以平取隴右、十全必克而無虞、故不用延計。

馬謖伝
建興六年、亮出軍向祁山、時有宿将魏延、呉壱等、論者皆言以為宜令為先鋒、
而亮違衆抜謖、統大衆在前、与魏将張郃戦於街亭、為郃所破、士卒離散。
亮進無所拠、退軍還漢中。
謖下獄物故、亮為之流涕。良死時年三十六、謖年三十九。

趙雲伝
五年、随諸葛亮駐漢中。
明年、亮出軍、揚声由斜谷道、曹真遣大衆当之。
亮令雲与ケ芝往拒、而身攻祁山。
雲、芝兵弱敵強、失利於箕谷、然斂衆固守、不至大敗。
軍退、貶為鎮軍将軍。

ケ芝伝
及亮北住漢中、以芝為中監軍、揚武将軍。
764無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 09:05:11
>>715
馬超は長安落としてないと思うな。
落とした記録も、曹操が取り返したという記述もなかった気がする
765無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 15:21:31
>>757
そりゃあ大軍があったなら大軍があったと書かれるだろうし
少なくとも攻略困難なほどの防備があったとは思えん
だから武都に兵がいたとしても
イコール激戦があったことの証明にはならんだろうな
766無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 16:36:34
王平伝
建興六年、属参軍馬謖先鋒。
謖舍水上山、挙措煩擾、平連規諫謖、謖不能用、大敗於街亭。
衆尽星散、惟平所領千人、鳴鼓自持、魏将張郃疑其伏兵、不往偪也。
於是平徐徐収合諸営遺迸、率将士而還。
丞相亮既誅馬謖及将軍張休、李盛、奪将軍黄襲等兵、
平特見崇顕、加拝参軍、統五部兼当営事、進位討寇将軍、封亭侯。
767無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 17:45:17
>>757
通常体制の戸籍三千の郡で、都督などが駐留しておらず郡兵だけなら、千人いるかどうかってとこか
768無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 17:51:32
226
孔明が李厳を江州に移す

227
孔明が漢中に駐屯
孔明、李厳が孟達を離反
司馬懿が孟達を撃破

227〜228
曹叡が徐邈を涼州に派遣

228
?郭淮、馬遵が洛門の西まで巡察
春に孔明が斜谷道から郿を攻めると宣伝し、趙雲、ケ芝に箕谷を防御させる
曹叡が五万の部隊を動員して曹真を郿に派遣
曹真が箕谷の趙雲、ケ芝を攻撃

?徐邈が涼州に着任
孔明が祁山に侵攻して占領
天水、南安、安定の三郡が孔明に呼応
769無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 17:53:20
【関中激震以後】
郭淮、馬遵が上邽に逃亡
馬遵の部下の姜維、梁緒、尹賞、梁虔が上邽で入城を拒否され、冀に移動
曹叡が長安に出動、張郃を特進にして街亭に派遣
孔明がごり押しで馬謖を抜擢して街亭に派遣。高翔を列柳城に派遣
?姜維、梁緒、尹賞、梁虔が冀に到着し、孔明に投降

【街亭の戦い】
馬謖が街亭で南山に布陣、王平の勧告
張郃が街亭に到着して汲道を断ち、馬謖を撃破
王平が千の部隊で伏兵を偽装して、張郃を抑止
王平が敗残兵を寄せ集めて撤退

列柳城で郭淮が高翔を撃破
箕谷で趙雲、ケ芝が不利になるが撤退
孔明が西県の千余家を拉致して撤退

【孔明の撤退以後】
張郃が天水、南安、安定の三郡を平定
徐邈が部下を派遣して南安を平定
曹真が月支城を包囲して楊条を降伏させ安定を平定
郭淮が枹罕で隴西羌の唐氾を撃破

【戦後処理】
孔明が馬謖、張休、李盛を処刑、黄襲の部隊を没収、自分と趙雲を左遷、王平を抜擢
曹真が郝昭、王生を陳倉に派遣
770無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 19:46:40
高翔と高詳って同一人物?
771無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 19:53:55
孔明が漢中に駐屯しているのに
のこのこ巡察してる郭淮の行動を何と見るべきか。致人之術?
772無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 20:06:45
>>771
臨戦態勢で諸軍が結集しつつある関中軍事を夏侯楙と曹真に任せて
自分は隴西慰撫に出かけた、と見るべきかな。
刺史は本来軍事責任者ではないし、将軍号も持っていないようだし、
隴西は夏侯楙の管轄外だから雍州刺史郭淮は隴西諸郡を纏める最適任者になるだろう。
ところがその隴西が諸葛亮本隊の目標だったと。
773無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 20:24:27
>>750
おまえのやってるのは議論じゃなくて根拠のない妄想オナニー
>>713は主観が入りすぎだ。
〜と考えるのが自然、じゃねえ。それが通用するのはおまえの中だけだろ
774無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 20:34:51
>>713
>蜀本隊諸葛亮軍、祁山攻める
>蜀圧勝 祁山陥落
>関中激震  
>南安・天水・安定、寝返る

関中激震の位置がどう見てもおかしい。目を擦ったぞ
775無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 20:42:36
>関中が激震したのは諸葛亮の祁山での戦いぶりが凄かったから

>そして「凄まじい戦い」と言ってるのは俺じゃないんだよね
>勝手に思い込まれているとずっと感じていたが
>俺はそうは言っていなく「見事な戦いぶり」と言っている

この人、人格分裂でも起こしてる?
776無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 20:45:39
もう何で争ってるんだかわかんねーよ

度遼将軍の面白解釈みたいな切れ味鋭いネタ頼むぜ
777無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 20:46:11
>>755
拗れるのは君がアホだからだよ

>>765
まだ激戦とか言ってんのか
そもそも激戦ってのはどこからきたんだ?

いいか、激戦だの何だのというのが君らの主観以外の何でもない
それに必然の理も見えんようでは話にならんよ
アホなのは自分だといい加減気付こう


>>752
ある
それに土地を支配するということは兵を置くということなのだ
 

>>753
武都を放棄したとするなら更に遠い陰平も放棄してないと変だね
放棄していたのなら第三次と呼ばれる北伐で郭淮が出向いてくるのは変だろ
そもそも武都・陰平が魏ではないのなら北伐とは言わんだろう
778無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 20:49:56
>>775
君は国語も苦手なんだね
779無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 21:00:03
>>772
郭淮が兵権を持っていたのは明か
780無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 21:03:22
>>777
>そもそも激戦ってのはどこからきたんだ?
激戦じゃない、と断言するならそれでもいいよ。
では、三郡の降伏要因を定義し直して欲しいな。

>ある
>それに土地を支配するということは兵を置くということなのだ
兵がいた記述もなく県府の記述も無く郡府は外に避難したと明言がある状況で、
土地を支配していた根拠をどこから引っ張ってくるのか?
これに答えてくれないと

>武都を放棄したとするなら更に遠い陰平も放棄してないと変だね
曹操・曹丕時代に曹魏が陰平に統治体制を置いたという記述自体ないんだわなこれが。
テイ族が曹操に協力して呉蘭を斬ったという記事があるだけで、曹操軍が到達できたかも怪しい。
いわゆる「三次北伐」は、陳式が二郡を攻めた後で雍州刺史がすっ飛んできたという記事があるだけで、
「北伐」なんて言葉は本来使われていない。演義からくる印象の産物だよ。
この益州北西部が二国の係争地となったのは、この諸葛亮の北伐の意図が明らかになって以後のこと。
隴西から漢中を経ずに益州に出入りする重要点だから。
781無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 21:07:25
お前ら誰と戦ってんの?
782無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 21:14:27
>>777-778
おまえは日本語能力も漢文読解力もディベート能力も落第だがな
こっちにおまえの馬鹿さ加減ゆえの失敗の責任を振るな
いったい両親にどんな教育を受けたんだか
783無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 21:18:56
反撃してるうちは恐怖感が紛れるという心理かな
納得させるだけの知恵がない上に間違いを認める勇気もないカスであるのだが

784無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 21:25:17
>>776
とりあえず、祁山で諸葛亮に大して纏まった抵抗ができる可能性のある魏軍は
「武都郡兵」に限られる事で合意を見たみたいだから、今はその可能性の潰し合い。
785無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 21:52:36
戒厳令下、戦時下で持ち場を離れる馬遵ってどうなんだ?
786無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 21:56:09
天水は戒厳令じゃなかったんだろう。来るとは思ってなかったから。
完全に不意を突いてろくな戦闘も無く三郡を降伏させたところまでは、
諸葛亮は文句無く素晴らしい
787無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 22:03:11
呂蒙に比べれば詰めが甘いと言わざるを得ないけどな
長江上流との戦いに関して呉は神懸ってるのもあるが
788無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 22:11:47
みんなは真似しちゃ駄目だぜ☆
789無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 22:30:48
>>787
そりゃ蜀呉の攻防戦は究極のところ縦に長い江水一本しかないんだから詰めも何もない。
790無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 22:39:56
>>780
>三郡の降伏要因を定義し直して欲しいな。
初めから激戦だなんて言ってないだろう?
読み直すことを勧める


>>武都を放棄したとするなら〜
武帝紀
「相公征關右,赫怒振天威,一舉滅獯虜,再舉服羌夷,西收邊地賊,忽若俯拾遺。」
これでいいんじゃないか?これに
「陰平氐強端斬呉蘭,傳其首。」
を合わせれば陰平が魏の支配下にあったことは伺える

>北伐
無論、便宜上だよ
しかし、第三次を北伐(対魏戦)ではないと思っているなんて珍しい人だね
それとも屁理屈また捏ねてみた?


>兵がいた記述もなく

諸葛亮伝『袁子』
「所至營壘、井竈、圊溷、籓籬、障塞皆應繩墨,一月之行,去之如始至,」

人も軍も武都に居るね


>>782-783
君のこと
791無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 22:53:24
>>790
>君のこと

いやあおまえのことだろw
俺は流石におまえほど馬鹿じゃないし

・キ山の戦いでの孔明の戦い振りはすごかった
・魏略は戦時下の敵国の新聞
・度遼将軍は複数人いた
・応ショウは15歳で太守になる超人の可能性
・でも度遼将軍については間違っている
・司馬イの上表は認められなかった
・俺は見事な戦いぶりだったと言ってる立証はしない ←new
792無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 22:54:17
で、キ山で戦いがあったか無かったかで何が変わるんだ?第一次北伐が成功してたのか?
793無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 22:55:21
>>791
>>791を見だけで君が馬鹿だというのがわかる
794無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:00:46
>>793
はあ?
屁理屈と自論に都合のいい解釈の為には
資料否定も辞さないゴミが何をえらそうにw
795無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:03:30
とりあえず応ショウが10代で黄巾30万を撃退した曹操以上の天才だということはわかった
796無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:05:55
>武帝紀
關右というのは、普通隴西部に使われる。
武都は隴の真南に位置し、隴西に当たらない。陰平は確かにそれより西だが…
武都も入らない表現に陰平が入るのか。陰平が入ってしまうなら、
俺が「関右を征したのだから曹操はこの時涼州全土を制覇した」と言ったら正しいことになると思うが、
正しい?

>傳其首
その首を傳(つた)う。
蛮夷がわざわざ首を獲って「送って寄越した」くらいだから、陰平に曹操軍がいたのか? と疑問を呈している。
他に陰平で兵が動いた記述はあるかい?

>「所至營壘、井竈、?溷、?籬、障塞皆應繩墨,一月之行,去之如始至,」
………。マジでいってんの? 「營壘」って誰の軍のこと? これかなり有名な箇所のはずだけど…

>初めから激戦だなんて言ってないだろう?
>読み直すことを勧める
あんたの意見、変転しすぎてもう読み直してもわからないよ。
始めは雍州全軍が諸葛亮に対して動いたかのように人口計算したり、その総督として郭淮を設定したり
してみたけどいつのまにか無かったことにしてるし。もう手に負えないからそっちの手で頼む。
797無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:08:00
魏略「蜀には劉備しかいないと思っていた。朝野は怖れ慄いた。」

は資治通鑑にも乗ってたけど間違ってるのかな?
798無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:09:23
>>794
資料批判は当然だ
そんなこともしない奴が人をゴミだというのか 呆れる
俺のレスに屁理屈など一切ないが、君のは屁理屈ばかり
いい加減わきまえたらどうだ?
魏ヲタはこんな奴ばっかりだw
799無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:12:02
>>796
>あんたの意見、変転しすぎてもう読み直してもわからないよ。

まったくだ。
あとから「それはこっちのミスだった」とか言い出して謝らずになかったことにするし
後出しが多すぎる。
800無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:17:45
>>798
俺は魏オタでも蜀オタでもない。
資料批判は当然というのは正論だが、おまえのやり方は論外のレベル。
屁理屈が一切ないなら俺はおまえを指弾したりはしない。する理由も必要もない。
つまりおまえは嘘をついて出鱈目をほざいているのだ。
おまえの場合これまでの過程を見るに
わきまえるだけの頭脳がないのだろうから銃殺されるしかない。可哀想に。
801無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:17:50
もう死ねよおまえら
ゴミだとかわきまえろだとかどの面で偉そうに言ってんだよ
ただの悪口の言い合いじゃないか
屁理屈ですらない
外野にはもうおまえらが何を主張したいのかすらわからんわ
802無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:20:31
>>796が蜀中毒患者と言うことしかわからない
すでに何の是非を争っているのかも
803無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:23:15
>>802
俺は相手の人に魏オタ認定されてるんだけどw
まあ、俺は論点判ってるので別に構わないよ
相手の人が判ってるのかは知らないが
804無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:23:31
とりあえずキ山で大した戦いは無かったと思うよ
すぐ降伏してるし
まああくまで主観だが
805無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:28:34
曹操は関右に遠征したからそこを支配した
強端、呉蘭を斬ったからそこを支配した
武都には魏の部隊がいた
孔明と武都の部隊で祁山の戦いがあった
孔明の采配が見事だったので関中が激震して三郡が降った

今の論点はこんなとこか
806無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:36:03
>>796
>陰平
張魯征伐後の夏侯淵を漢中に留めたくだりだよ


>「營壘」
もちろん魏だよ
諸葛亮至る所の營壘、井竈、圊溷、籓籬、障塞


>あんたの意見、変転しすぎてもう読み直してもわからないよ
かなりそっちに思いこみが目立ったからね そう思うのも無理はない
が、俺は一貫してるよ
807無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:41:58
>>797
既に回答してるが、
南蛮征伐し、孟達にちょっかい出し、諸軍を率いて国境地帯に移り
出師表をだし、更に出陣して国境に近いところに駐屯し
それから春を迎えた遠征を開始した
それで「魏が当然のことで驚いた」なんて事があると思う?
808無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:52:07
>>801
「わきまえる」というのはこういう意味だよ
書くのが面倒くさいから辞書で
http://dic.yahoo.co.jp/dsearch?enc=UTF-8&p=%E3%82%8F%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%88%E3%82%8B&stype=0&dtype=0
809無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:52:46
まとめ

氏が、
「諸葛亮の祁山での戦いぶりが凄かったので関中が激震し三郡が降伏した」
といったので、諸葛亮が「攻祁山」をしたときに迎撃した魏軍は何者か、
それができる存在がいるのか、というのが論点となった。
300レスに上るやりとり(呆れたもんだ)の結果、以下のことまで同意が得られた。

大将軍 曹真と魏朝廷中軍 × 趙雲にスタック
漢中都督夏侯楙と漢中諸軍 × 曹真と同行か長安留守番
雍州刺史郭淮と雍州諸軍 ×  天水で馬バクと同行している(魏略を全面的に無視するなら関中にいると思われる)
天水太守馬バク × 巡察中に祁山来襲を知る。諸県が降伏する中、上ケイに立て篭もる。
武都太守 × 右扶風へ郡府ごと避難

雍州と武都の主な軍事責任者が祁山に所在することは不可能ということになった。
そこで、天水郡祁山で戦線を張ったのは武都郡兵だという主張が得られた。

すると、以下が論点になる

・行政長官兼軍事責任者の太守が存在せず、他の官吏が存在した形跡もない郡は放棄状態と言うのではないのか。
・放棄されていなかったとして、太守と郡府が存在しない武都郡に抗戦能力があるのか
・万一諸県府が置かれていたとして、広範囲に分散する県城の兵を誰が統合するのか。
・郡兵を統合する可能性の或る職、諸郡都尉は魏では非常置の職で、設置される場合は
帝紀に載るほどなのに武都都尉の存在が一切見当たらないのはなぜか。
・晋代でも戸数3000の武都郡が、奇襲に近い諸葛亮の攻撃に対しどれだけ急速に
戦力を結集できるのか(武都の東西幅は約150キロ)。
・仮に戦力を結集できたとして、そんな微小戦力を破ったことで「関中が激震し三郡が降伏」するのだろうか。
天水などの兵力は完全に温存されており、武都の兵力など魏からすれば1%にも満たないだろうに、
>655
>蜀軍が兵士数で雍秦2州を上回ろうとも、魏は中央からの援軍があるので
>戦役総兵士数では魏が上回る 強さを同じとすれば兵力で上回る魏が勝つ
>囲まれる前から降伏する馬鹿はいない 
という、氏の自己主張と相矛盾するのではないのか。
810無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:54:33
>>806
>もちろん魏だよ
>諸葛亮至る所の營壘、井竈、?溷、?籬、障塞
うんうん、怒らないから、無理して漢文読まずに落ち着いてちくま文庫の該当箇所を開いて御覧なさい
811無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:55:45
ああごめん
807書き直し

>>797
既に回答してるが、
南蛮征伐し、孟達にちょっかい出し、諸軍を率いて国境地帯に移り
出師表を発表し、更に出陣して国境に近いところに駐屯し
それから春を迎えて遠征を開始した
それで「魏が突然のことで驚いた」なんて事があると思う?
812無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 23:56:17
>>809
すまん、あまりにも適当だったw
夏侯楙は関中都督で、天水太守は馬遵ねw
813無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 00:00:46
>>810
ちくまが誤訳してんじゃねーの?
814無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 00:04:58
>>811
魏略の原文
而卒聞亮出,朝野恐懼,
「卒然、諸葛亮が出でたと聞き」。
魏は諸葛亮が祁山に来襲したときに初めて慌てたわけじゃない。
「出」が出兵なら、漢中から出兵したときかもしれないし、成都から出たときかもしれない。
ともあれ、「おいおい、諸葛亮がこっちに攻めてくるんだってよ」「マジで? つか正気?」
という情報が伝達したときに朝野恐懼したことになる。
815無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 00:06:31
>>813
わかった。

サイバンチョ、以上で今日の口頭弁論を終わります。
816無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 00:07:35
731 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/26(水) 00:14:29
>>713だと、天水郡祁山で諸葛亮に対する防衛線を張ったのは
武都郡であり、天水太守のあずかり知らぬところだったようだ。
この時武都は右扶風の東の端まで郡府が後退していた状況。

とすると、万一魏の県府がおかれていたとしても、武都は司令官不在のバラバラの数千戸(徒民しているので
もっと少ないか)があるに過ぎない状況。ここに奇襲に近い形で諸葛亮が攻め寄せたのにもかかわらず、
冷静に他郡まで防衛線を後退させて迎撃戦闘するというとんでもなく高度な機動を武都郡はとったことになる。

その取るに足らない郡兵を「見事な戦いぶり」で破ったので三郡が降伏したと。
太守さえいない少数兵を破って諸葛亮の強さを知らしめる効果があったのだろうか。
残虐な戦いで皆殺しにしたならまあわかるけど。
817無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 00:14:00
応劭、魚豢、裴松之、司馬光、ちくまの翻訳者等よりも正しい男がいるスレ
818無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 00:15:59
>>815
判決、君らの勝利。
819無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 00:41:12
>>809
>設置される場合は 帝紀に載るほどなのに武都都尉の存在が一切見当たらないのはなぜか。
載ったのは「郡を分け新しい郡を設けて都尉を置いた」という箇所
新しい郡を作ったことが主眼 都尉はおまけ
郡都尉程度のことをわざわざ帝紀に載せないだろう
「新郡を作った」のであれば「太守は誰か」という疑問になる
それを解消すべく「(太守は置かず)都尉を置いた」と記したのだろう

>奇襲に近い諸葛亮の攻撃に対しどれだけ急速に戦力を結集できるのか
魏略に基づくと突然だが、807の通り蜀が攻めてくるのは当然注視していたはず
武都に別働隊がくるかもしれないというのは
当然警戒していなければならないことだと思うよ

>そんな微小戦力を破ったことで「関中が激震し三郡が降伏」するのだろうか。
それは「戦果」のことだろう?
「戦果」はどうでもいい

>という、氏の自己主張と相矛盾するのではないのか
それ(809)は武都の事を言ってるんじゃないのかい?
俺は雍州の事を言っている



>>814
そこポイントじゃない
始,國家以蜀中惟有劉備。備既死,數歲寂然無聲,是以略無備預
ココ


>>816
>>732
820無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 00:53:58
百官志
中興建武六年、省諸郡都尉、並職太守、無都試之役。
821無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 00:54:38
ちくまも結構誤訳してるみたいだね
http://www.project-imagine.org/chikuma/fix.html

あてにならないみたいだよ?>>810
822無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 00:55:06
分魏郡為東西部,置都尉.新郡を作ったのではない
復漢寧郡為漢中;分漢中之安陽、西城為西城郡,置太守;分錫、上庸郡,置都尉. 新郡を作った
分江夏南部,置江夏南部都尉.新郡ではない
分襄陽臨沮?宜城??陽???音其己反.四縣,置襄陽南部都尉.新郡ではない

都尉は主に、郡内を東西か南北に二分して太守と治安担当を分けた際に置かれたものと思われる。
武都から太守が退去するというこの回の件は、それだけでも珍しい事であり、
治安担当の都尉が置かれたのなら記されるべき格好のケースと思われる。

まあ、魏の郡軍事は征伐でも鎮圧でも殆ど太守が担ったんだけどね
823無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 00:58:43
そういえば魏は并州の諸太守をほとんど廃止してるけど
都尉でも置いてたんだろうか
824無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 01:00:01
>>821
ちくまが>>806みたいな論外誤訳やらかしたんならそのサイトの人が嬉々として赤字で校訂してるよ
どこに書いてある?
825無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 01:07:34
>>822
ま、いいんだけどさ 郡みたいなもんだから
そういう意味で言ってるし
823にも答えてみてよ

>>824
教えてやれ 
826無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 01:09:01
ちょっと>>821
曰:亮率數萬之衆,其所興造,若數十萬之功,是其奇者也.所至營壘〜
〜袁子曰:亮治實而不治名,志大而所欲遠,非求近速者也.

まで訳してみてくれないか
827無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 01:09:16
少し間違いがある、疑いがある=まったく信用できない
俺の意見は正しい=間違ってるのは資料の方

となる思考回路
828無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 01:11:57
>>823は全然違うか。太守どころか郡ごと潰してるから
829無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 01:16:15
>>828>>823
うん、北西部は完全に破棄されている。晋書地理志
黄初元年,復置并州,自ケイ嶺以北並棄之,至晉因而不改.

>>825
答えてみますたがこれがどうかした?
830無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 01:34:47
ようやくわかってきたよ。
>蜀が勝つことを見込んだからだ
>つまり蜀は強かった

諸葛亮率いる数万の大軍が、多く見積もっても数千以下、堅城でもない場所で迎撃した武都軍を
鎧袖一触、史書にも戦果が残らないほどあっさりと駆逐した。
それを聞いた三郡はどう反応するか?

1.諸葛亮軍は強い。聞いただけでわかる。魏の本隊が来ても勝てるわけない。この戦役はもう負けだから降伏しようぜ。
2.こんな所にこんな大軍アリエナス。持ちこたえられるわけないから包囲される前に降伏しようぜ。

ちなみに、漢法では包囲後の降伏は赦されない。
831無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 04:59:19
双方に機動の制約を与えない土地での会戦では
敵の1.4倍の頭数を用意した方は効率性が同じでも、
ほとんど被害を出さずに圧勝出来る。
832無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 07:43:03
史書にもろくに残らないようなどうでもいい敵との戦いで見事な指揮をしたので関中激震age
833無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 12:09:11
1.4倍の法則は全ケースに必ず適応されるわけではないが(現実的に機動力と戦線の比率が同じであることはありえないので)
西のはずれの一郡に征伐軍と一戦やらかせるような兵力がなかったことは確かだろう
逆に言うならそんな所に大軍で現れたからこそ大した障害も無く占領できたわけで
834無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 18:12:32
孔明は北伐にいくら動員したんだろうか
835無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 19:17:07
把握人口100万だから10万以下
姜維の頃で9万
836無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 19:26:56
呉242年 240万
蜀263年 94万
魏263年 443万
晋280年 1600万
837無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 20:30:10
>>826
残りレスも少なくなってきたし、これで議論するといくらか消費することになる
なので漢文スレでこの件は語ることにしよう
http://yutori7.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1243786138/l50
838無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 20:35:06
いや、この話題はこのスレで閉じるべきだろう
他所で第2Rはまずい
839無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 20:47:11
>>830
だいぶ近くなったね

「あっさりと駆逐した」とかもどうでもいいんだよね
関中を驚かせたのは、「諸葛亮軍の動きが尋常でない
(軍隊をひとつの生き物に見立てれば動きがキレてる キレが凄い)」
ってこと


>聞いただけでわかる。
たぶん軍目付がいただろうから
「やつらハンパねぇッスよ! マジで!」とたぶん報告が行った


>ちなみに、漢法では包囲後の降伏は赦されない
張遼・曹仁に聞いたらそんな事ないってさ



>史書
三国志なんて小中学校の歴史教科書みたいな簡潔さだ
教科書に科白いれたら雰囲気は近くなる
載らない戦が大半だろう
教科書の桶狭間の戦いに丸根砦、鷲津砦の戦いは載っていない
あの簡潔な三国志に載らないことはさほど大事ではない
後漢代で一州につき大体100個の城があったが殆ど登場しない
街亭の戦いで馬謖が惨敗していなければ県城も列柳城も歴史に登場しなかったかもしれない
歴史に埋もれた戦闘は数限りなくあるだろう
祁山の戦いは「攻祁山」とある これで充分
840無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 20:49:46
>>838
そう? 30くらいは食いそうだし
本流と絡み合って読みにくくなると思うが俺はどっちでもいいよ
841無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 20:56:14
卑しくも漢文スレで、武都が蜀だとかいう翻訳にまともに反論するなんてこと
こっぱずかしくてできやしないから大丈夫
842無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 20:58:41
>>839
そうだね

つまり>>578の後半で合意を見ましたってことだ。
やれやれ遠回りをしたもんだ
843無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 21:01:44
>>839
「諸葛亮軍の動きが尋常でない(軍隊をひとつの生き物に見立てれば動きがキレてる キレが凄い)」

これには同意出来る。
だが関中を驚かせたのは
不安要素満載の三郡がろくに抵抗もせずに蜀についたことだろう。
844無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 21:13:44
>>833
武都で大軍を拒むことは初めから考えられていない
とすれば、どこかで食い止める防衛戦略があったはずだが
それはおそらく祁山
祁山は漢・関を結ぶ西回り路線の重要防衛拠点だったはずだ
だから「そんな所」ということはないと思う
第一次でも別働隊が普通規模の数千人くらいなら、食い止められる備えは出来ていたと考える
でなければ魏の防衛戦略は機能していないということになるが
それはないだろう

>>713で述べたとおり
諸葛亮の陽動作戦が効いたんだと思うよ



>>841
春秋時代に蜀という国があの辺一帯にあった
三国時代に荊南人を楚人とよぶのと同じなんだろ
845無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 21:17:53
>>842
合意には至っていないよ

>>843
そういうことは通常本文には書かないと思うんだよね
評とかでいいだろ?

本文に特記したということは、その事件に大きな影響があったということじゃないかな
846無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 21:23:51
>でなければ魏の防衛戦略は機能していないということになるが
>それはないだろう
当事者の天水太守が巡察してて武都兵(想定)が単独で応戦している時点で機能してないね
847無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 21:41:23
キチガイさんは毎日書き込みしてるんだな
暇なんだねぇ
848無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 21:51:02
ブトってどこからか涌くんだよね 不思議だ
849無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 21:53:01
武都郡は 二度と魏に戻れなかった・・・
涼州と益州の中間の郡となって 永遠に蜀をさまようのだ・・・
850無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 22:35:15
【北伐のルート一覧】
漢中

├−子午谷−長安
├−楽城−駱谷道−
├−漢城−褒斜道−箕谷−郿−
└−陽平関−┬−故道−散関−陳倉−
      ├−関山道−┬祁山−上邽−渭水−
      ├−武都道−┘
      └白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                      └
851無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 22:36:46
【北伐のルート一覧】
漢中

├−子午谷−長安
├−楽城−駱谷道−
├−漢城−褒斜道−箕谷−郿−
└−陽平関−┬−故道−散関−陳倉−
         ├−関山道−┬祁山−上邽−渭水−
         ├−武都道−┘
         └白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                             └
852無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 22:38:45
【北伐のルート一覧】
漢中

├−子午谷−長安
├−楽城−駱谷道−
├−漢城−褒斜道−箕谷−郿−
└−陽平関−┬−故道−散関−陳倉−
         ├−関山道−┬祁山−上邽−渭水−
         ├−武都道−┘
         └白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                └
853無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 22:42:58
ageの人が言うには、祁山で戦った魏軍の規模や、戦闘の凄さは問題ではないらしい。

で、祁山というのは、この北伐期以降、「祁山を保った」とか「祁山で戦った」という
記述が晋代までしばしば見られる場所。秦嶺山脈の西端にあり、以後、重要な係争地になる。
確かにある程度兵力が駐屯していてもおかしくはない。
ならば、
・武都は放棄状態だったので諸葛亮はほとんど素通りした
・天水太守は諸葛亮がこっちに来るとは思っていなかったので諸県を巡察中だった
・祁山は天水郡下の県レベルの兵力(数百人)が駐屯する場所だった
・諸葛亮は突如天水内に出現して祁山を攻め、確保した
・その見事な戦いぶりは隴西・関中に伝えられ、、
亮身率諸軍攻祁山,戎陳整齊,賞罰肅而號令明,南安、天水、安定三郡叛魏應亮,關中響震した。

これでいいじゃん。ageの人的には大満足。

郡府もない武都郡兵が交戦もせずに整然と天水郡まで後退して防衛線を張ったけど天水太守の
あずかり知らぬ所だったとしたり、雍州の兵力を大きく見積もろうとしたり、
袁子の言ういつの北伐のものかもわからない營壘、井竈らが武都軍のものだと設定したりしなくとも、
完璧に希望通りになり、他の全ての人間との争点も
「戎陳整齊,賞罰肅而號令明」
の漢文解釈のみになる。これが「戦闘しないと見れない」「祁山の戦闘結果」「この戦いぶりのために三郡が降伏した」
いう主張に多数が賛成するとは考え難いかもしれないが、ともあれこの一点に論点が絞られる。素晴らしいことだ。
854無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 23:18:22
訂正

・武都は放棄状態だったので諸葛亮はほとんど素通りした、または、
放棄されていないが抵抗は散発で、諸葛亮の進軍速度に殆ど影響は無かった
・天水太守は諸葛亮がこっちに来るとは思っていなかったので諸県を巡察中だった
・祁山は天水郡下の県レベルの兵力(数百人)が駐屯する場所だった
・諸葛亮は突如天水に出現して祁山を攻め、確保した
・この戦いは、規模と激しさから言えば諸葛亮伝にも戦果が載らないほどささやかな小競り合いだったが、
・そこで示した蜀軍の見事な統制・号令は隴西・関中に伝えられ、、
「亮身率諸軍攻祁山,戎陳整齊,賞罰肅而號令明,南安、天水、安定三郡叛魏應亮,關中響震」した。
855無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 23:25:18
董卓が建設したビの城は魏が引き続き使ったのかな?
856無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 23:28:02
使ったというか、ビは県城なので普通に県人が住んでる。

陳倉は北伐に対応して修復されたけど、ビにそんな記述はないし、
ビは董卓以降、馬騰・馬超が駐屯していたから整備は維持されてたんだろうね
857無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 23:42:55
【北伐のルート一覧】
漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬┬長安
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−┘
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−−−−−−┐        │
└−陽平関−┬−故道−散関−陳倉−五丈原−郿−武功−┘
         ├−関山道−┬祁山−上邽−渭水−
         ├−武都道−┘
         └白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                 └
858無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 23:52:09
【北伐のルート一覧】
漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−−槐里−−長安
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐                │
└−陽平関−┬−故道−散関−陳倉┴五丈原−郿−武功−┘
         ├−関山道−┬祁山−上邽−渭水−
         ├−武都道−┘
         └白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                 └
859無名武将@お腹せっぷく:2009/08/27(木) 23:54:07
【北伐のルート一覧】
漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−−槐里−−長安
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関−陳倉┴五丈原−郿−武功−┘
         ├−関山道−┬祁山−上邽−渭水−
         ├−武都道−┘
         └白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                 └
860無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 00:14:10
【北伐のルート一覧】
漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−−槐里−−長安
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐             │
└−陽平関−┬−故道−散関−陳倉┴五丈原−郿−武功−┘
         ├−関山道−┬祁山−上邽−渭水−
         ├−武都道−┘
         └白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                 └
861無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 00:15:48
【北伐のルート一覧】
漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−−槐里−−長安
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関−陳倉┴五丈原−郿−武功−┘
         ├−関山道−┬祁山−上邽−渭水−
         ├−武都道−┘
         └白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                 └
862無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 00:27:24
【北伐のルート一覧】
漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−槐里−−長安−−
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関−陳倉十五丈原−郿−武功−┘
         │         │
         │         雍
         │         └−−−−−−−−┐       
         ├関山道┬祁山−上邽−渭水−街亭┘
         ├武都道┘
         └白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                 └
863無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 00:32:11
【北伐のルート一覧】
漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−槐里−−長安−−
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関┬陳倉┼五丈原−郿−武功−┘
         │         │      │
         │        隴関      雍
         │         │      └−−−−−┐       
         ├関山道┬祁山−上邽−渭水−街亭┘
         ├武都道┘
         └白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                 └
864無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 00:35:04
【北伐のルート一覧】
漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−槐里−−長安−−
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関┬陳倉┼五丈原−郿−武功−┘
         │         │    │
         │        隴関    雍
         │         └−┐   └−−┐       
         ├関山道┬祁山−上邽┴−−街亭┘
         ├武都道┘
         └白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                 └
865無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 00:38:39
【北伐のルート一覧】
漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−槐里−−長安−−
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関┬陳倉┼五丈原−郿−武功−┘
         │         │    │
         │        隴関    └雍┐
         │         └−┐    └−−┐       
         ├−関山道−┬祁山−上邽┴−−街亭−−┘
         ├−武都道−┘
         └−白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                 └
866無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 00:48:55
【北伐のルート一覧】

漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−槐里−長安−潼関−函谷関−弘農−洛陽−−−
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関┬陳倉┼五丈原−郿−武功−┘
         │         │    │
         │         └隴関┐  └雍┐
         │            └−−┐    └−−┐       
         ├−関山道−┬祁山−上邽┴−−街亭−−┘
         ├−武都道−┘
         └−白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                 └
867無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 00:55:13
【北伐のルート一覧】

漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−槐里−長安−潼関−函谷関−弘農−洛陽−孟津関−成皋関−滎陽
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関┬陳倉┼五丈原−郿−武功−┘
         │         │   └雍┐
         │         └隴関┐  └−−−┐
         │            └−−┐     └−−┐       
         ├−関山道−┬祁山−上邽┴−−街亭−−┘
         ├−武都道−┘
         └−白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                  └
868無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 00:56:04
地理の壁が越せない俺に
楽城→駱谷道がだめなのか教えてくれ
869無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 00:57:11
【北伐のルート一覧】

漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−槐里−長安−潼関−函谷関−弘農−洛陽−孟津関−成皋関−滎陽
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関┬陳倉┼五丈原−郿−武功−┘
         │         │   └雍┐
         │         └隴関┐  └−−−┐
         │              └−−┐    └−−┐       
         ├−関山道−┬祁山−上邽┴−−街亭−−┘
         ├−武都道−┘
         └−白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                   └
870無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 00:58:57
【北伐のルート一覧】

漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−槐里−長安−潼関−函谷関−弘農−洛陽−孟津関−成皋関−滎陽
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関┬陳倉┼五丈原−郿−武功−┘
         │         │   └雍┐
         │         └隴関┐  └−−−┐
         │              └−┐    └−┐       
         ├−関山道−┬祁山−上邽┴−−街亭−−┘
         ├−武都道−┘
         └−白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                   └
871無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 01:00:32
【北伐のルート一覧】

漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−槐里−長安−潼関−函谷関−弘農−洛陽−孟津関−成皋関−滎陽
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関┬陳倉┼五丈原−郿−武功−┘
         │         │   └雍┐
         │         └隴関┐  └−−┐
         │              └−┐     └−−−┐       
         ├−関山道−┬祁山−上邽┴−−街亭−−┘
         ├−武都道−┘
         └−白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                   └
872無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 01:01:14
【北伐のルート一覧】

漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−槐里−長安−潼関−函谷関−弘農−洛陽−孟津関−成皋関−滎陽
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関┬陳倉┼五丈原−郿−武功−┘
         │         │   └雍┐
         │         └隴関┐  └−−┐
         │              └−┐   └−−┐       
         ├−関山道−┬祁山−上邽┴−−街亭−−┘
         ├−武都道−┘
         └−白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                                   └
873無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 01:05:33
【北伐のルート一覧】

漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−槐里−長安−潼関−函谷関−弘農−洛陽−孟津関−成皋関−滎陽
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関┬陳倉┼五丈原−郿−武功−┘
         │         │   └雍┐
         │         └隴関┐  └−−┐
         │              └−┐   └−−┐       
         ├−関山道−┬祁山−上邽┴−−街亭−┘
         ├−武都道−┘
         └−白水関−┬−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                       │            └
                       └剣閣
874無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 01:07:32
【北伐のルート一覧】

漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−槐里−長安−潼関−函谷関−弘農−洛陽−孟津関−成皋関−滎陽
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関┬陳倉┼五丈原−郿−武功−┘
         │         │   └雍┐
         │         └隴関┐  └−−┐
         │              └−┐   └−−┐       
         ├−関山道−┬祁山−上邽┴−−街亭−┘
         ├−武都道−┘
         └−白水関−┬−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                   │             └
                   └−剣閣
875無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 01:08:18
【北伐のルート一覧】

漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−槐里−長安−潼関−函谷関−弘農−洛陽−孟津関−成皋関−滎陽
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関┬陳倉┼五丈原−郿−武功−┘
         │         │   └雍┐
         │         └隴関┐  └−−┐
         │              └−┐   └−−┐       
         ├−関山道−┬祁山−上邽┴−−街亭−┘
         ├−武都道−┘
         └−白水関−┬−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                  │                   └
                  └−剣閣
876無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 01:10:58
【北伐のルート一覧】

漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−槐里−長安−潼関−函谷関−弘農−洛陽−孟津関−成皋関−滎陽
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└−陽平関−┬−故道−散関┬陳倉┼五丈原−郿−武功−┘
         │         │   └雍┐
         │         └隴関┐  └−−┐
         │              └−┐   └−−┐       
         ├−関山道−┬祁山−上邽┴−−街亭−┘
         ├−武都道−┘
         └−白水関−┬−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
                  │                  └
                  └−剣閣
877無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 17:58:38
そんな無駄なAAもどきより、ぐぐるマップの画像加工でもしとけよ
878無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 19:37:12
だが断る
879無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 19:38:59
【北伐のルート一覧】

漢中

├−子午谷−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−槐里−長安−潼関−函谷関−弘農−洛陽−孟津関−成皋関−滎陽
├−楽城−駱谷道−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−漢城−褒斜道−箕谷−−−−−┐              │
└┬陽平関−−−故道−散関┬陳倉┼五丈原−郿−武功−┘
  |                 │   └雍−−−−−┐
  |                 └隴関−┐        |
  │                       └┐       |       
  ├−−−関山道−−−−┬祁山−上邽┴−−街亭┘
  ├−−−武都道−−−−┘
  └┬白水関−陰平橋−陰平道−孔函谷┬牛頭山−狄道−
   │                       └
┌−┘
剣閣
880無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 20:52:00
>>853-854
>ageの人
「緑の人」でよろしく age意識は別にないんだ 色分けが狙い

>郡府もない
もと郡府の施設はあり、日本における守護の留守を預かる守護代のように
郡都尉あるいはそれに代わる何者かが留まり、郡の軍事を仕切っていたと考えられる


軍事的武都の意味

・完全放棄
蜀が少数の兵で攻めて来ても蜀領とされる
武都が蜀領となった場合、蜀が侵攻してきても魏の大軍は祁山防衛に間に合わない

・必要数の軍配備
蜀が小規模の軍で攻めてきても撃退できる
中規模の軍で攻めてきたら固く守り、援軍の到着を待てる
大規模の軍で攻めてきた場合、守れない しかし時間稼ぎにはなる
時間を稼いだ分だけ州軍・中央軍の準備が進む
結果、防衛拠点(祁山)を大軍で守ることができる

武都に兵を配備することの意義は大きい
武都を放棄すれば雍州を危うくする
郡府の遠方移転は、伝達に多少のタイムロスを生むが統治を不可能にするまでには至らない
兵は国を守るためにいるのだから、蜀の脅威にさらされながらも現地に残り
雍州防衛に関わる武都を守ることは重要な意味を持つ
魏が武都に兵を置かなかったとは考えにくい
881無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 20:53:45
>袁子の言ういつの北伐のものかもわからない營壘、井竈らが武都軍のものだと設定したりしなくとも

>いつの北伐
「又問諸葛亮始出隴右」の流れだから第一次

>武都軍のものだと設定したりしなくとも
キーの「繩墨」を好みで「支配」と解釈したわけじゃない ちゃんと根拠がある
繩墨を「軌範」「規則」と訳すと、“應”がおかしい(他にも問題点がある)
882無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 20:54:37
>天水太守の巡察
これは謎
根拠の弱い予想でなら、姜維を連れていたことから戦の準備だったのではないかとなるが、、
(彼らの予想以上に、別働隊であるはずの蜀軍の侵攻が速かったため、巡察を終えていなかった と)


>雍州の兵力を大きく見積もろうとしたり
別にそんなことをした覚えはないが

>「戦闘しないと見れない」
見れないだろうね 見れると思う方がどうかしていないか?

>「祁山の戦闘結果」
何を言っているのかな? 

>「この戦いぶりのために三郡が降伏した」
まぁね 大きく影響したと思う
祁山に大軍が現れたとしても強くなければ魏が勝つ
蜀軍が自領に押し寄せてくれば殺される可能性もないこともないが
寝返っていれば蜀が敗退した後、魏により確実に殺される
地元豪族が動いたことは張既に読みとれるが
蜀が押し寄せた場合、豪族たちは一時避難することが出来る
魏軍が蜀軍を追い返した後土地に戻ればいい
しかし蜀が勝ったら土地に戻ることは出来ない
彼らにとって勝利を占うことは大変重大
>>845も根拠
883無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 21:20:27
案行
1 調べて回る、巡察する
2 隊列を整える
884無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 21:33:54
源層界

├−天界山脈−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┬−六聖域−−天聖界
├−六魔極−−−−−−−−−−−−−−−−−−−┤
├−魔性暗黒域−−悪球域−悪和合球−−−−−┐  │
└┬天魔界−−−−┬次界暗裏道−未層域−次界道−┘
  |                 │   └無縁域−−−−−┐
  |                 └螺域−−┐         |
  │                          └┐       |       
  ├−天蓋瀑布−−┬−智道┴−−次動ネブラ┘
  ├−−−−−−−┘
  └┬無次元−久遠域−虹層球−┬次界−アクア層−
   │                               └
┌−┘
曼聖羅
885無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 21:39:55
>>854

紫:武都は放棄状態だったので諸葛亮はほとんど素通りした

緑: 放棄されておらず、抵抗に遭いながらも諸葛亮の進軍速度は敵の想定より速かった


紫:天水太守は諸葛亮がこっちに来るとは思っていなかったので諸県を巡察中だった

緑:別働隊が来るくらいのことは想定内 規模を見誤っていたため対応が遅れた


・祁山は天水郡下の県レベルの兵力(数百人)が駐屯する場所だった
緑:だろうけど、もしかしたら長安の中央軍の管轄かも


・諸葛亮は突如天水に出現して祁山を攻め、確保した
緑:突如はないかな  


・この戦いは、規模と激しさから言えば諸葛亮伝にも戦果が載らないほどささやかな小競り合いだったが
そこで示した蜀軍の見事な統制・号令は隴西・関中に伝えられ、、
「亮身率諸軍攻祁山,戎陳整齊,賞罰肅而號令明,南安、天水、安定三郡叛魏應亮,關中響震」した。
緑:ささやかな小競り合いだったとは思ってない
  武都の軍が全滅したとは思えない 後退した部隊や敗残兵が祁山に入ったはず
  常備兵も幾らかいただろうし、有事に周辺の県は軍を祁山に派遣するという取り決めもあったはず
886:2009/08/28(金) 21:44:59
>>885
負けたよ
もう降参だ
887無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 21:46:39
と思えない、とか、あったはず
ばっかじゃそこまで断定する根拠にはならんだろ
888無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 01:08:02
三国志の何れの伝でも「攻」から始まった戦いの終わりに
殺、卒、死、戦死、誅、焼、壊、略、抜、降、克捷、敗、敗歸、敗亡、陷、禽、屯、
撃破、之撃、破之、大破之、屠之、之破、抜之、不抜、不能抜、下之、不下、潰奔、
走、退走、堅守、斬、引退、拒之、固守、拒守、不可護、大獲、死者万数、戴之
不能拒、不得入、罷、大破敗、不能抗、不能久処、引去、城陷、殘破、不勝、敗走、
不克、入、屠其城、攻不可卒拔、還、害之、乃定、引兵去、城壊衆亡、為〜所虜、
降誅即定、未拔、果敗、破走、平之、不能救、為〜所敗、不克而還、乃去、堅守不下、
破斬之、不能克、不能久攻、退、降之、即破滅、即不能自守、遁退、馳還救、
損耗、不得入、解圍、不利、没属城などとあるのが普通。
例外は相攻、従〜攻の場合と会話中の修辞表現。

それに孔明伝の
「亮身率諸軍攻祁山,戎陳整齊,賞罰肅而號令明,南安、天水、安定三郡叛魏應亮,關中響震。
 (省略)還于漢中」と、

鍾離牧伝の
「魏遣漢葭縣長郭純試守武陵太守,率涪陵民入蜀遷陵界,
 屯于赤沙,誘致諸夷邑君,或起應純,又進攻酉陽縣,郡中震懼。
 (省略)即率所領,晨夜進道,緣山險行,垂二千里,從塞上,
 斬惡民懷異心者魁帥百餘人及其支黨凡千餘級,純等散,五谿平」の場合のみ。

この二つは一方が対応力のない部分を急襲されたために
そのエリアが動揺して敵に占領されたが反撃して奪い返したという感じだろう。

>そういうことは通常本文には書かないと思うんだよね
>評とかでいいだろ?
>本文に特記したということは、その事件に大きな影響があったということじゃないかな

秦嶺山脈を越えて、関中をも制しうる大軍をそのレベルの統制で不安定な隴西に出した、
大きな影響力はそれだけで十分すぎるほどにある。
指揮官がいるんだかいないんだかよく分からん部隊に勝つまでもなくこの時に三郡は落ちた
それが出来なくなったのは曹真、張コウ、司馬イと魏が北伐の対策を取るようになったから。
魏略の記述を一切無視しても辻褄が合う。
それを絶対に否定せんとして無理な解釈を捻り出すよりも宜しいのではないのかな。
889無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 10:25:10
何が何でも諸葛亮が会戦して戦果をあげたことにしたい人がいるのが謎だね。

孫子にもあるように百戦百勝は最善とはいえない、相手のスキをつき戦わず
して相手を屈服させることこそ最善。そういう意味でこの時の諸葛亮の戦い
はまさにそういう戦い、と見て取れる。だから陳寿も諸葛亮の見事な指揮振
りで、としか書いていない。相手の規模も指揮系統も分からんようなケチな
戦に勝つよりもこちらの方が余程蜀軍の評価は上がる。
890無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 11:02:46
緑: ソースは?
緑: と思えない
緑: あったはず

ageキチは他人にはソースを求めるのに自分は憶測で語るのなw
891無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 11:04:57
そうは言ってもやはり目に見えた局地戦の勝利があったほうが戦上手の評価は受けやすいからな
信者としては譲れないよね
892無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 11:32:42
太守もいない状態で大軍相手に果敢に合戦挑めるほど有能で兵からも人望ある
都尉が武都にいないと何もかも成立しないような気がするんだ。
893無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 11:34:33
ああ、それがやられたから大騒ぎになったのか。
894無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 11:36:33
って太守がいないのは天水か。まあどっちでもいいや、たまたま武都に太守がいなかった
可能性は否定できないし
895無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 18:43:27
戦時下の巡察に郭淮だけでなく
太守と側近まで同行するというのが謎
896無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 22:16:24
>>887
>と思えない、とか、あったはず
それが考察というもの


>>890
俺がソースを求めるのは、相手は断定するが納得行かないとき。
俺が違う考えに根拠を持っている場合に求めることが多い
「と思えない」「あったはず」は断定じゃない “堅めの推測”
897無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 22:17:59
>>888
>それを絶対に否定せんとして無理な解釈を捻り出すよりも宜しいのではないのかな。
いやぁ? 否定せんと無理をしているのはそっちだと思ってるが?


だからね、
「亮身率諸軍攻祁山,戎陳整齊,賞罰肅而號令明,南安、天水、安定三郡叛魏應亮,關中響震。」
を素直に読めばいいんだよ
句読点無視せず訳してみ
なんてなる?

そっちの言い分だと
「亮身率諸軍攻祁山,戎陳整齊,賞罰肅而號令明,南安、天水、安定三郡叛魏應亮,關中響震。」
である必要はない

「亮身率諸軍攻祁山,南安、天水、安定三郡叛魏應亮,關中響震。」
でいいじゃないか

わざわざ「戎陳整齊,賞罰肅而號令明」と書いたことには意味があるんだよ


>それが出来なくなったのは曹真、張コウ、司馬イと魏が北伐の対策を取るようになったから。
寝返りがなくなったのは第一に一次で不穏分子が一掃されたからだろう
そして第一次以降、蜀が雍州の覇権を手にするだろうと思えるような戦役がないから
898無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 22:18:51
>>888-891
>「攻」
攻めるを「戦闘」と取るか「軍を向ける」と取るか
俺は戦闘と取るが、紫の諸君は「軍を向ける」と取るんだね?
曹真伝は「諸葛亮囲祁山」となっている
「戦闘」でいいんじゃないかい? 
「攻は戦闘」でもう決着じゃないかな

囲むということは相手にそれなりの防衛力があったということ
祁山にそれなりの兵が居たことも決定的だね
899無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 22:30:50
>>895
郭淮も案行していたと書いたのは魏略 相手にしなくていい

郭淮のようなビッグネームが同行していたのに
なぜ陳寿はその他小者の名は載せても郭淮を載せなかったのか?
同行していたのなら正史に名前がない方がおかしい

功曹・主簿・主記が同行していてもそれ程変じゃない
戦にはありとあらゆる物が関わる
兵の準備のみならず、物資の調達・貯蓄具合、運送
豪族らとの調整など沢山の仕事がある
900無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 22:51:29
1.単車刺史はビッグネームじゃないから
2.姜維と関係ある人物じゃないから
3.まともな敗戦でもないつまらないことを関係ないところで殊更に書いて子孫の高官達に睨まれるのが嫌だったから
901無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 23:14:18
>「と思えない」「あったはず」は断定じゃない “堅めの推測”

本当にそうならここまで文句言われないと思うが……
言ってることとやってることが違う。
魏略の記述が絶対に間違っているという前提で組み立てているが
否定するだけの論拠に欠ける

>いやぁ? 否定せんと無理をしているのはそっちだと思ってるが?

少なくとも筋の通った論ならばこちらとしては頷くのみ。

>「亮身率諸軍攻祁山,南安、天水、安定三郡叛魏應亮,關中響震。」でいいじゃないか
>わざわざ「戎陳整齊,賞罰肅而號令明」と書いたことには意味があるんだよ

それには同意するよ。こんなことを態々書いているのは珍しい
それを過大に見積もればそういう理屈を延々と主張し続けるのも不思議ではない。
だが君の言うような意味ではないだろう、というのが
本文を素直に読み、かつ他の伝の記事と比較して検証した結果の結論。

>そして第一次以降、蜀が雍州の覇権を手にするだろうと思えるような戦役がないから

第二次は曹真に読みきられ、第五次は勝手にドツボに嵌ったが、
第四次は勝てる戦争
902無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 23:18:19
>「攻は戦闘」でもう決着じゃないかな

自論に都合のいい部分だけ論じて全体を見ないというのは問題があるね。
結論から先に入っているように見える。

寇 明帝紀
囲 曹真伝
向 明帝紀、姜維伝
出 張郃伝、郭淮伝、徐邈伝、後主伝、魏延伝
攻 後主伝、諸葛亮伝、趙雲伝

寇……あだする。害を加える。そこなう。しいたげる。乱暴する。掠め取る。あだ。外敵。徒党。かたき
囲……囲む、取り巻く、守る、囲い、周り、かかえ、限り

 高窓。向く。向かう。面する。対する。赴く。向かっていく。心を傾ける。近づく
 向き。おもむき。傾き。味方。先に。以前。むかし

 出る、内から外へ出る、進む、行く、臨む、現れる、記録に出る、生まれる、作られる、抜きん出る、仕える、去る、下がる、逃げる、
 出す、外へやる、押し進める、帰す、離縁する、追い払う、除く、捨てる、ゆるす、現す、支出、甥、姪
攻……打つ、おさめる、つくる、みがく、ならう、攻める、敵を撃つ、責める、たくみ、かたい

すべての意味を確かめて見ても君の主張における疑問は解けない。
一応の結論を述べる。
「諸葛亮は陽動作戦で魏の主力を趙雲らに引き付け、
 敵が手薄な関右方面の祁山に侵攻(出、向、攻)して占領し(囲)、辺境を掠め取った(寇辺)
 この際に魏側の局地的な抵抗があったかどうかは
 陳寿の政治的立場、他伝での記述方式を検証した結果
 『戎陳整齊,賞罰肅而號令明』だけでは断定出来る根拠にならない」

以上
903無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 23:23:27
まあ別に、どんなトンデモ説だって言うのはタダだ。
だが、論争によって一派の仮説を定説に引き上げるために必要なのは、
論破することではなく、より多くの他者を説得することだとされる。
いかに万言を積み上げても頷く者が居なくては説は意味を為さないんだ。
だからこそ、恣意によれは読み替えがいくらでも利き、
記録の空白を自分の有利に埋める事ができる文献史学においては特に、
史料と自説に対する誠意と良心が必要なのだと思う。
904無名武将@お腹せっぷく:2009/08/29(土) 23:59:09
諸葛亮が第一次北伐の際、街亭前に大規模な戦闘をしていたかどうか?



これで600レス揉めるというのも凄いな
905無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 00:06:26
>>904
約一名面白すぎる人材がいるからな
906無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 00:19:32
濮議もこんな感じなんだろうな
907無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 00:24:20
めんどうくさいな

亮身率諸軍攻祁山,戎陳整齊,賞罰肅而號令明,南安、天水、安定三郡叛魏應亮,關中響震。

これ訳文書いてみせて
もちろん句読点無視せずに
908無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 00:32:11
>単車刺史

当時の魏の全州の刺史わかる?
できれば単車か領兵かで分けてほしいんだけど
909無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 01:02:50
>>905
議論初期に比べて議論してる面々の知識が向上してくるから
肝心の議論の内容まで変わってて収拾つかなくなるあたりもなあ。
910無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 01:35:34
>>902
言葉の問題だね


その1

「出」
張郃伝…諸葛亮出祁山
郭淮伝…蜀相諸葛亮出祁山
徐邈伝…諸葛亮出祁山

蜀側にはない

「攻」
後主伝…亮出攻祁山
諸葛亮伝…身率諸軍攻祁山
趙雲伝…身攻祁山

魏側にはない

「A飴あげた」と「A飴くれた」
立脚点が変わると同じ事象でも言葉が変わることがある


その2
「向」
姜維伝…丞相諸葛亮軍向祁山
馬謖伝…亮出軍向祁山

これは時間の問題で瞬間を切り取った物
「攻」とは時間の次元が違う
911無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 01:36:27
その3
「寇」
明帝紀…蜀大将諸葛亮寇辺

目的語が違う これも次元が違う
帝だからマクロな視点で国を念頭に置いている
視点の高さが違う


その4
「圍」
曹真伝…諸葛亮圍祁山

具体性の違い


その5
その他

魏延伝…延毎随亮出  
魏略だから魏の視点 「攻」は相応しくない

後主伝…亮出攻祁山
(亮、出でて祁山攻める)
この「出」には「出る」という以上の意味はない
912無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 01:38:30
>>901
>本当にそうならここまで文句言われないと思うが……
本当にそうだよ 言葉の法則だから普遍だろう
>>887>>890のように語感の鈍い人もいるからじゃないかな
論理理解力も弱い


>魏略の記述が絶対に間違っているという前提で組み立てているが
魏略の性質は明か

>否定するだけの論拠に欠ける
じゃあ>>807に反論したらどうだろうか
913無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 01:39:24
>>903
緑の説がスタンダードだと思っているが違うのか?
ここの紫たちの考えが非常に不思議だよ

>史料と自説に対する誠意と良心が必要なのだと思う。
全く同意する 紫が思っているとはおかしなもんだね
914無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 01:49:36
>論理理解力も弱い

度遼将軍が複数いるとか
応ショウが10代で太守になったとか言ってる人もいたね
915無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 01:50:38
>>901
>少なくとも筋の通った論ならばこちらとしては頷くのみ。
筋は通っているよ

>こんなことを態々書いているのは珍しい
珍しいで片づける態度に問題があるんじゃないか?

>かつ他の伝の記事と比較して検証した結果の結論
他の伝とは?


>第四次は勝てる戦争
その通り しかし司馬懿を破ってほどなく撤退した
それに、「第一に」と書いているように
一次で不穏分子が一掃されたというのが大きいだろう
916無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 01:55:27
>>914
「度遼諸将軍」だから、ちゃんとした語感を持っていれば
複数であることは分かるんだよ

応ショウの件も思考力がある人間はあらゆる可能性を探るんだよ
そして論理的に10代太守は可能だ
まぁ解釈の違いと見落としだったんだが
917無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 01:55:34
>>913
緑の説がスタンダードだと思っているが違うのか?

     /: : : : : __: :/: : ::/: : ://: : :/l::|: : :i: :l: : :ヽ: : :丶: : 丶ヾ    ___
     /;,, : : : //::/: : 7l,;:≠-::/: : / .l::|: : :l: :|;,,;!: : :!l: : :i: : : :|: : ::、  /     ヽ
    /ヽヽ: ://: :!:,X~::|: /;,,;,/: :/  リ!: ::/ノ  l`ヽl !: : |: : : :l: :l: リ / そ そ お \
   /: : ヽヾ/: : l/::l |/|||llllヾ,、  / |: :/ , -==、 l\:::|: : : :|i: | /   う う  前  |
.   /: : : //ヾ ; :|!: イ、||ll|||||::||    ノノ  イ|||||||ヾ、 |: ::|!: : イ: ::|/   な 思 が
   /: : ://: : :ヽソ::ヽl |{ i||ll"ン    ´   i| l|||l"l `|: /|: : /'!/l     ん う
 ∠: : : ~: : : : : : : :丶ゝ-―-      ,  ー=z_ソ   |/ ハメ;, :: ::|.   だ ん
   i|::ハ: : : : : : : : : : : 、ヘヘヘヘ     、  ヘヘヘヘヘ /: : : : : \,|.   ろ な
   |!l |: : : : : : : : :、: ::\    、-―-,      / : : :丶;,,;,:ミヽ   う  ら
     丶: :ハ、lヽ: :ヽ: : ::\__  `~ "      /: : ト; lヽ)   ゝ
       レ `| `、l`、>=ニ´        ,  _´ : :} `   /
         ,,、r"^~´"''''"t-`r、 _  -、 ´ヽノ \ノ   /    お ・
       ,;'~  _r-- 、__     ~f、_>'、_         |  で  前 ・
      f~  ,;"     ~"t___    ミ、 ^'t         |  は  ん ・
      ,"  ,~         ヾ~'-、__ ミ_ξ丶     |  な  中 ・
     ;'  ,イ ..          ヽ_   ヾ、0ヽ丶    l         /
     ( ;":: |: :: ..          .`,   ヾ 丶 !    \____/
     ;;;; :: 入:: :: ::      l`ー-、   )l   ヾ 丶
     "~、ソ:: :い:: :     \_  ノ ,    ヾ 丶
918無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 01:58:41
>>916
ちゃんとした人間は誰が任命されてたか調べてから複数説を言う。
思考力のある人間はあらゆる可能性を探る前に資料を読んでから発言する。
919無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 02:04:30
度遼将軍とかどうでもいいんだよね
ふとした疑問を軽く振っただけだったんだが
「1人に決まってんだろ!タコ」などと言う傲慢な人間がいたので
展開したというだけのこと
920無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 02:11:03
そして傲慢にホラを吹いて大恥を掻いたと
921無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 02:20:29
ホラとは言わんだろう 言葉の勉強が先
恥も掻いてないしね
「1人に決まってんだろ!タコ」と言った奴が恥を掻いたよ
922無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 02:53:30
>>910-911

>>907で侵攻の部分で一まとめにしといたろ。
分かりきってることを説明しなくてもいいよ。
また、交戦して戦果を挙げたなら>>888で言ったようにそれだけじゃ説明不足だと言ってる。
めんどくさがる前に何を問題点として指摘されてるのか、よく読んだ方がいい

>>912
>本当にそうだよ 言葉の法則だから普遍だろう
>じゃあ>>807に反論したらどうだろうか

何の話?議論の姿勢のことを言っている。
事実>>807は論になってないから、皆さん相手にするまでもなく放置してただけだろ。勘違いしている
自分の主張は可能性を根拠に断定的に論じ、それに反する史料は都合よく否定する姿勢では、
誰も賛同しないだろう。事実、緑の論を唱えるのは君一人。

蜀の不穏な動きには魏もそこそこ警戒しているし、事実曹真は迎撃している。
それでも過小評価していた分、足りていなかった。それだけの話
夷陵の大敗から5、6年で、しかも自ら討って出てこられれば誰だって驚く。
ムキになって否定するようなことなのかな?

>>915
>>こんなことを態々書いているのは珍しい
>珍しいで片づける態度に問題があるんじゃないか?
>>かつ他の伝の記事と比較して検証した結果の結論
>他の伝とは?

無いね。三国志全六十五巻の中でも珍しいから珍しいと言った。
戦上手の曹操でも誰と戦ったのか分からないような局地戦の指揮で
ここまで称えられたことはない。孔明は曹操以上なのですか?
蜀が精鋭だったのは事実だろうし、別に書いても書かなくてもよい。
俺はそれを陳寿の政治的立場に基づく潤色と解釈しただけ
第一次北伐は不味い人事で負けてるしな
付け加えておくなら攻められた後、救援を求めたケースも例外に含まれる。

>一次で不穏分子が一掃されたというのが大きいだろう

韓遂、馬超の時期にそれを念入りにやらなかった理由を考えよう。
923無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 03:16:02
>>921
ホラじゃなかったら出鱈目だな。どうでもいいけど
非常設が普通の将軍で
度遼将軍は遠地の将軍を総称する称号なんて珍説を唱えて
大恥を掻いたゴミはおまえだけ
924無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 03:21:52
【ゴミ緑の妄言集】
・キ山の戦いでの孔明の戦い振りはすごかった
・魏略は戦時下の敵国の新聞
・度遼将軍は複数人いた
・応ショウは15歳で太守になる超人の可能性
・でも度遼将軍については間違っている
・司馬イの上表は認められなかった
・俺は見事な戦いぶりだったと言ってる
・武都には太守不在にも関わらず諸葛亮に見事な戦いぶりをさせるかませ都尉がいた←new
・俺は恥を掻いていない←new
・俺にはちゃんとした言語感覚と思考力がある←new
925無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 06:06:15
>>921
ついに火病ったか?
「1人に決まってんだろ!タコ」と言ったのがどう恥を掻いたのか意味不明。
おまえが捨て台詞と一緒に投げ出しただけじゃん
こういうのを恥の上塗りって言うんだよ
926無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 06:09:24
とりあえずこの阿呆な緑は
まともな反論はろくに出来ないようだから
「おまえがな」とか「おまえのこと」とか俺らに涙目で鸚鵡返しすると予言w
927無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 07:33:01
紫派は合戦があったなら何故
「亮身率諸軍攻祁山,之破, 戎陳整齊,賞罰肅而號令明,南安、天水、安定三郡叛魏應亮,關中響震」
ではないのかと問い

緑は何故
「合戦でないのに陣立てや号令があるのか」
と問うている
928晒しage:2009/08/30(日) 08:33:10
583 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/19(水) 20:57:41
>>572
もう度遼將軍の件はいいや

後漢の人間といっても應劭は孫権とほぼ同年代の178年前後の生まれ
紀元前78年や65年の名付けの由来など直接知っているはずがない  予想か伝聞だろう  
由緒正しい資料があったのなら應劭が記すはずだ
職務や任地を見れば“遼東”将軍でないことは明か

『東觀漢記』-「百官表」の「度遼諸將軍」の謎は解けた気がする
"総称"ではなかった
「左・右度遼將軍」なのだろう
http://www.weblio.jp/content/%E9%AE%AE%E4%BA%8E%E8%BC%94
929晒しage:2009/08/30(日) 08:38:50
639 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 22:47:32
>>612
>おいおい…認められなかった、と明記されない限り実行された
いつから「上表した」がそれ以上の意味を持つようになった?
「従わなかった」ともあれば「従った」ともある
「従った」と明記がないのは「上表した」に留まるからだろう

「従わなかった」と無いのは、その結果なにも悪いことが起きず、
「言う通りにしておけば良かったのに」という好結末に繋がらないからだろう

1.〜と、宣帝は上表した。帝は認めなかった。

2.〜と、宣帝は上表した。

認められなかった事実は書かない方が司馬懿の印象はよくなる


3.〜と、宣帝は上表した。帝は従った。これを以て○○は発展し、国は潤った。

4.〜と、宣帝は上表した。

認められたのなら3の方が印象がよい なぜ明記しなかったのかな?


答えは2だよ
930晒しage:2009/08/30(日) 08:39:45
640 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 22:56:41
又以關中連遭賊寇,穀帛不足,遣冀州農丁五千屯於上ケイ,秋冬習戰陣,春夏修田桑.

安平獻王孚伝


641 :Jominian ◆Henri9gNlM :2009/08/20(木) 22:58:59
横からで悪いが、冀州の農民を上邽に移住させた話は、晋書司馬孚伝にある。

「又以関中連遭賊寇、穀帛不足、遣冀州農丁五千屯於上邽、秋冬習戦陣,
 春夏修田桑。由是関中軍国有餘、待賊有備矣。」

という記述がね。


642 :Jominian ◆Henri9gNlM :2009/08/20(木) 23:00:17
>>640
ありゃ?
もう挙がってたか。すまん


643 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 23:05:02
>>639
司馬フ伝にあるだろ
だからおまえはアホなのだ。
931恥晒しが反論できなかった正論を顕彰age:2009/08/30(日) 08:41:35
628 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 21:01:14
>>624
ある程度の知識と知的誠実さがあれば
ウィキに光和元年前後在世と書いてあったからといって
それを應劭の生年と見なすのには躊躇があるのが普通だろう。
まして直後に熹平二年為郎とあり、矛盾するのはすぐに分かるんだから。

前にも万ケを左遷と言い張ってみたり、
自論を補強するために裏も取らずにネタを継ぎ接ぎするからこうなる。
932無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 08:51:30
魏を正統とする司馬光でも載せてるような記事を魏略だから、
だけで否定するのはどうなんだろ
933無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 08:54:27
>>927
合戦でなければ号令や陣立ては行われない
と主張するだけの根拠を要求したいものだな
まあ無理だろうけど
934無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 09:05:06
論理理解力とやらが皆無のアホに出来るわけないな

【基地外ゴミ緑の妄言集】
・キ山の戦いでの孔明の戦い振りはすごかった
・魏略は戦時下の敵国の新聞
・度遼将軍は複数人いた
・応ショウは15歳で太守になる超人の可能性
・でも度遼将軍については間違っている
・司馬イの上表は認められなかった
・俺は見事な戦いぶりだったと言ってる
・武都には太守不在にも関わらず諸葛亮に見事な戦いぶりをさせるかませ都尉がいた
・俺に文句を言うやつは論理理解力が弱い
・俺の主張は筋が通っている。証明?めんどくさい。どうでもいい
・俺は恥を掻いていない
・俺にはちゃんとした言語感覚と思考力がある
・度遼将軍が複数だと証明出来てないが俺に文句を言ったやつは恥を掻いた←new
935無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 10:51:34
緑は議論が解決する前に新しい議論を提示してうやむやにして、
自分が勝てそうな議論だけして、それでも結局自爆する。てのを繰り返してるからな、
永遠に終わりそうに無い。
936無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 11:14:29
それ以前にスレが終るお
937無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 12:42:29
色々2ちゃんのスレで議論したけど>>934くらいミスして
なお威張る馬鹿は見たことがない
938無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 12:51:49
緑のギブせずにテイクだけされようとする態度は流石に呆れる
ソース乞食とでも言うのか
939無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 13:25:21
論理理解力と思考力の活用
1.どうせ七誌なんで相手に自分が誰かはわからない故に恥はかきようがない
2.ここで収集したソースは別で流用し威張る予定
940無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 14:43:37
中華書局の三国志は1959年点校だよ。後漢書も大差ないだろう。
「句読点」は陳寿や范曄の意図ではなく、二十世紀の史学者の意図。
諸葛亮が祁山でどのくらいの戦闘を行ったか、なんてことをまともな史学者が考察して
点校するはずもなく、読解の補佐という以上の意味はない。
言葉の使い方が普遍的だなんてことが有り得たら歴史学者は苦労しない
中国語はこの二千年で語順さえ変わってるのに

周囲の状況や記述を勘案して「句読点の正しさ」に拘るなら、
「亮身率諸軍攻祁山,戎陳整齊,賞罰肅而號令明。南安、天水、安定三郡叛魏應亮,關中響震。」
「度遼、諸將軍,二千石」
と打てばいいだけ。つくづく無益な作業だが。
941無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 14:55:40
結論。緑はクソ
942無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 15:02:06
古文の解釈で新釈を訴えるときに、
「一般の点校ではこのようになっているが、今は一旦それを忘れて、原文に即して解釈しなおしてみよう」
などと言うのはわかるが、
「句読点を無視するな。それが原文解釈だ」
なんてのは錯誤もいいとこ
943無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 15:04:07
まあ多感なお年頃の子がちょっと背伸びしてみたくなっちゃっただけなんだし、そういじめるな
944無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 15:11:12
ようやく決着がついたみたいだな
スレも埋まったし万々歳だ
945無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 15:43:57
【基地外ゴミ緑の妄言集】
・キ山の戦いでの孔明の戦い振りはすごかった
・魏略は戦時下の敵国の新聞
・度遼将軍は複数人いた
・応ショウは15歳で太守になる超人の可能性
・でも度遼将軍については間違っている
・司馬イの上表は認められなかった
・俺は見事な戦いぶりだったと言ってる
・武都には太守不在にも関わらず諸葛亮に見事な戦いぶりをさせるかませ都尉がいた
・俺に文句を言うやつは論理理解力が弱い
・俺の主張は筋が通っている。証明?めんどくさい。どうでもいい
・俺は恥を掻いていない
・俺にはちゃんとした言語感覚と思考力がある
・俺の言葉の使い方が普遍的←new
・度遼将軍が複数だと証明出来てないが俺に文句を言ったやつは恥を掻いた
946無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 15:49:00
       ____
    /  . ∩ \
    /..>~ ̄ | |‘く \
  / >´. l^l^l^!,.!  く \
.  | <  | <◎>|   > | 
  \ へ、> -- <  , <^/   俺の解釈が正しいンだ 文句を言うな友愛するぞ!
,,.....イ.ヽヽ^「 ̄ ̄l ^ ノ゙-、.
947無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 15:55:49
緑のライフはとっくの昔にマイナス
948無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:02:50
>>945
>【基地外ゴミ緑の妄言集】
あんまり形容詞つけなくてもおかしいことは分かるから
簡略に(誤)【緑発言集】でイインジャネ?
949無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:08:56
そうだね
緑というだけで頭のおかしい人というイメージに十分に直結する
950無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:16:09
【緑妄言集】
・キ山の戦いでの孔明の戦い振りはすごかった
・魏略は戦時下の敵国の新聞
・度遼将軍は複数人いた
・応ショウは15歳で太守になる超人の可能性
・でも度遼将軍については間違っている
・司馬イの上表は認められなかった
・俺は見事な戦いぶりだったと言ってる
・武都には太守不在にも関わらず諸葛亮に見事な戦いぶりをさせるかませ都尉がいた
・俺に文句を言うやつは論理理解力が弱い
・俺の主張は筋が通っている。証明?めんどくさい。どうでもいい
・俺は恥を掻いていない
・俺にはちゃんとした言語感覚と思考力がある
・俺の言葉の使い方は普遍的
・度遼将軍が複数だと証明出来てないが俺に文句を言ったやつは恥を掻いた
951無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:21:49
魏略曰く「初め、国家は蜀にはただ劉備有るのみと思っていた。劉備が既に死んで、
数年蜀は寂然として大人しいので、警戒を解き前もって備えをしていなかった。
こうしたところへ突然諸葛亮が出てきたので、朝野も恐懼し、隴右・祁山は最も甚しく恐懼した。
ゆえに三郡同時に諸葛亮に応じた。」
952無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:24:39
緑「魏略は出鱈目だから論外」
953無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:25:00
南蛮征伐し、孟達にちょっかい出し、諸軍を率いて国境地帯に移り
出師表をだし、更に出陣して国境に近いところに駐屯し
それから春を迎えた遠征を開始した
それで「魏が当然のことで驚いた」なんて事があると思う?


事実↑は論になってないから、皆さん相手にするまでもなく放置してただけだろ。勘違いしている
954無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:26:16
>>938を修正しとく
緑のギブせずにテイクだけしようとする態度は流石に呆れる
ソース乞食とでも言うのか
955無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:27:10
ダメだコイツら
お前らどうしようもないアホだな
956無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:29:01
>>954
クソみたいな珍説はもう厭きたから↓の弁明をやれ。ゴミカス

【緑妄言集】
・キ山の戦いでの孔明の戦い振りはすごかった
・魏略は戦時下の敵国の新聞
・度遼将軍は複数人いた
・応ショウは15歳で太守になる超人の可能性
・でも度遼将軍については間違っている
・司馬イの上表は認められなかった
・俺は見事な戦いぶりだったと言ってる
・武都には太守不在にも関わらず諸葛亮に見事な戦いぶりをさせるかませ都尉がいた
・俺に文句を言うやつは論理理解力が弱い
・俺の主張は筋が通っている。証明?めんどくさい。どうでもいい
・俺は恥を掻いていない
・俺にはちゃんとした言語感覚と思考力がある
・俺の言葉の使い方は普遍的
・度遼将軍が複数だと証明出来てないが俺に文句を言ったやつは恥を掻いた
957無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:29:45
おい、>>954言われてるぞw
958無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:36:03
>>922
どうも自分の立場を分かっていないようだね
なぜ緑がチャレンジャーの立場にあるんだよ?
いいから>>907の訳を書きなよ
曲げた解釈をしているのはどちらなのか
それで立場がはっきりするだろう


>事実>>807は論になってないから
なっているよ  


>誰も賛同しないだろう。事実、緑の論を唱えるのは君一人。
ここのちびっこが味方しても意味無いってw 紫が正当派だと思わない方がいい
959無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:38:09
>>956
理解できずにそのような書き出しをするのならお前が間違っている
俺は回答している
理解できるまで何度でも読み返せばいい
960無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:46:02
漢旧儀やちくまの誤りを提唱し、魏略を考察から全削除して
今まで誰も唱えたことのなかった魏の隴西対蜀戦略構想の存在を
提出した人間がチャレンジャーでないとは
961無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:48:09
分別がないんだろうな
アホすぎて話にならん
首だけで夢でも見てろw
962無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:50:26
自分の立場が一番分かってない阿呆がその台詞を言うか
963無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:51:09
×)
○)自分の立場を一番分かってない阿呆がその台詞を言うか
964無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:53:24
緑のガイドラインチェック
☑ฺ 1:事実に対して仮定を持ち出す
☐ฺ 2:ごくまれな反例をとりあげる
☑ฺ ฺ 3:自分に有利な将来像を予想する
☑ฺ ฺ 4:主観で決め付ける
☑ฺ5:資料を示さず自論が支持されていると思わせる
☑ฺ6:一見関係ありそうで関係ない話を始める
☑ฺ7:陰謀であると力説する
☑ฺ 8:知能障害を起こす
☑ฺ9:自分の見解を述べずに人格批判をする
☑ฺฺ 10:ありえない解決策を図る
☑ฺ11:レッテル貼りをする
☐ฺ 12:決着した話を経緯を無視して蒸し返す
☑ฺ13:勝利宣言をする
☑ฺ14:細かい部分のミスを指摘し相手を無知と認識させる
☑ฺ 15:新しい概念が全て正しいのだとミスリードする
965無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:53:37
いいから訳書けよ
966無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:56:04
緑「もう祁山の戦いなんてどうでもいいや」
967無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 16:59:25
馬鹿緑キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
968無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:03:19
>>959
ここのちびっこさえ賛同させられない
ろくに資料も確かめないおまえの憶測と妄想が主成分の反論モドキでは
誰も納得しないだろうということは理解してるよ
969無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:05:03
【緑妄言集】
・キ山の戦いでの孔明の戦い振りはすごかった
・魏略は戦時下の敵国の新聞
・度遼将軍は複数人いた
・応ショウは15歳で太守になる超人の可能性
・でも度遼将軍については間違っている
・司馬イの上表は認められなかった
・俺は見事な戦いぶりだったと言ってる
・武都には太守不在にも関わらず諸葛亮に見事な戦いぶりをさせるかませ都尉がいた
・俺に文句を言うやつは論理理解力が弱い
・俺の主張は筋が通っている。証明?めんどくさい。どうでもいい
・俺は恥を掻いていない
・俺にはちゃんとした言語感覚と思考力がある
・俺の言葉の使い方は普遍的
・度遼将軍が複数だと証明出来てないが俺に文句を言ったやつは恥を掻いた
・俺はチャンピオン、紫がチャレンジャー←new
・俺の喚いていることを理解出来ないやつは間違っている←new
970無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:05:20
922じゃないけど

諸葛亮は自ら諸軍を率いて祁山を攻めた。陣列は整然としており賞罰・号令は明らかだった。
南安、天水、安定の三郡は魏に叛し亮に応じた。關中は響震した。

読点の打ち方にも色々あってね。日本語の「〜して、〜した」のように順番に順接で繋いでいくとは限らないんだな。
中文の読点には「語列の中の区切り」以上のものを求めてはいけない。
どのように接続されているのかは前後の文脈や、用語の知識を駆使しないとわからないことが多いのだから。
971無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:08:10
まあ将軍が非常設と明記されてる後漢書百官志も読まず
度遼将軍が複数人とか言い出すアホにはこの手の議論は難しい
972無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:11:12
>曲げた解釈をしているのはどちらなのか

おまえのアホな珍説に賛成するか反対するかで
こっちにはそんなことをする要素がない。

>>事実>>807は論になってないから
>なっているよ

なってねーよ
973無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:19:08
>>807の件は>>814が答えてる。
答えたのだが、>>819が「そこはポイントじゃない」と言いだし、
当初の論点に出されなかった「始,國家以蜀中惟有劉備。備既死,數?寂然無聲,是以略無備預」
の箇所を突然出してかわされた。
何がポイントなのかは結構遡ってみたけど明示された事がなかった。
974無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:19:19
思いつきを口走って、それを理路整然と反論されたら
屁理屈を捏ねる為の都合のいい記述を必死こいて探してるんだろうな。
だから↓みたいなことを窘められてしまうのだが全く反省しないで馬鹿を晒し続けるのは面白い

628 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 21:01:14
>>624
ある程度の知識と知的誠実さがあれば
ウィキに光和元年前後在世と書いてあったからといって
それを應劭の生年と見なすのには躊躇があるのが普通だろう。
まして直後に熹平二年為郎とあり、矛盾するのはすぐに分かるんだから。

前にも万ケを左遷と言い張ってみたり、
自論を補強するために裏も取らずにネタを継ぎ接ぎするからこうなる。
975無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:23:45
【困ったときの言い逃れ口調テンプレ】
もうどうでもいいや
どうでもいいんだよね
めんどくさいな
そこはポイントじゃない
早く〜しろよ
976無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:24:41
餌を与えないで下さい
977無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:25:26
いやもうこのまま走り抜けちゃおうよ
あと20少々だ
978無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:27:07
俺の返答のために残しといてね
979無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:33:03
498 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 02:50:39
>「戎陳整齊,賞罰肅而號令明」こういうのは戦闘しないと見れないでしょ

まずこれが間違いだろう。
戎陳整齊=兵隊の陣伍がきれいに整い揃っている
賞罰肅而號令明=規律が厳粛で、しかも号令がはっきりしている
程度の意味。

また他の伝だと交戦の結果の勝利ならば大破、撃破、破とかが書いてある。
勿論、不戦屈敵はベストだけどその論旨だと意味が違う


499 :無名武将@お腹せっぷく:2009/08/15(土) 03:00:32
>>496
「戦いぶりが凄かった」


500レス近く何やってたのこの緑とかいうのは?
980無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:39:37
祁山に有力な魏軍を結集するために、
太守不在の空白に武都都尉を当て込んだり
諸葛亮が厳しく統制した蜀人を武都人のことにしたり
祁山を防衛ラインとする対蜀戦略構想を設定したりした
981無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:41:16
>>980
成る程、緑さんは学会を揺るがす大天才なのかもしれないな。”可能性”の上ではw
982無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:41:16
>>970
句点までが1文
読点は読みやすくするためにつける
読点はどうでもいい
単語を淡々と並べても文は完成される
一連の事物を句点で区切るんだ

句点までを一言として事象を脳裏に浮かばせる
それを意味上で勝手に切っちゃダメだろ

あと、「戎陳」は「戦陣」「戦場での陣立て」の意
983無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:43:26
>あと、「戎陳」は「戦陣」「戦場での陣立て」の意

いや、陣立て=部隊の配置、編成だから
984無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:43:29
緑はようは自分が最後に長文レスしたいだけだもんな
985無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:44:44
>>982
中文にはそもそも句読点というものが存在しないと言ってる。「一文」なんて概念自体がない。
あとから句点を切ったものは、読解の助けにするだけなら良いが、
勝手に意味を解釈して「句点までを一言として事象を脳裏に浮かばせ」たら駄目だろ
986凄いまとめ:2009/08/30(日) 17:45:45
>>465
関中が激震したのは諸葛亮の祁山での戦いぶりが凄かったから
>>716
祁山での諸葛亮の戦いぶりが凄まじかったから降伏した
>>717←この時点では否定せず
蜀圧勝というのは圧勝しただろうなという↓から当然のように導かれた答えだ
>>731
その取るに足らない郡兵を「凄まじい戦い」で破ったので三郡が降伏したと。
>>732
郡の軍事を太守から預かる郡都尉は武都にいただろうね

そして「凄まじい戦い」と言ってるのは俺じゃないんだよね
勝手に思い込まれているとずっと感じていたが
俺はそうは言っていなく「見事な戦いぶり」と言っている
>>839
「あっさりと駆逐した」とかもどうでもいいんだよね
関中を驚かせたのは、「諸葛亮軍の動きが尋常でない
(軍隊をひとつの生き物に見立てれば動きがキレてる キレが凄い)」
987無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:46:42
>>985
クリーンヒット乙
何度言ってもこの馬鹿餓鬼は理解出来ないんだけどね
988無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:49:16
>>971
複数人だろう
何故それが理解できんのか理解できない
度遼将軍が複数人であるにもかかわらず
「度遼将軍が複数人とか言い出すアホにはこの手の議論は難しい」
と未だに言うやつが何も理解できなくても不思議じゃないが


>>973
言い出したのではない 指摘だ
答えた側がきちんと掴んでいなかったんだよ

>>974
どこが理路整然だよ 馬鹿を言っちゃいけない
屁理屈捏ねられすぎてめんどくさくて適わなかった

>>975
困ったことがないw 
どうでもいいと言ったのはどうでもいいし、間違いが明らかになった相手への配慮だ
989無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:51:20
>>979
他の伝に戦果「捕虜○人、討ち取った首○こ、物資○○獲得」などとあるが
全ての戦に記録されているわけではない
が、無論、捕虜や死者、戦利品などあっただろう
記録にないと無いとする論法は成立しない
戦争の結果をどう纏めるか
それはそれをどこに重点を置くかなどでも変わるだろう
第一次北伐は「三郡寝返り、関中響振」が大きな出来事で
取り立てて局地戦の戦果を書かない方が文章的によかったのではないかな
990無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:51:54
かれこれ半月以上皆から三国志について教わってたのか、いいなあ。
991無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:52:05
>答えた側がきちんと掴んでいなかったんだよ
で、この問題のポイントは何?
またそうやって設問の明文化から逃げる
992無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:53:53
>>990
なんだかんだで付き合う側も結構収穫あったな
曹操の漢中撤収後の武都・陰平の統治の空白とか
993無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:54:08
>どうでもいいと言ったのはどうでもいいし、間違いが明らかになった相手への配慮だ

そうだねえ。君自身に対する配慮だよねえw
994無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:54:12
>>985
君も句点で漢文読んでいるだろ
屁理屈を捏ねるな 面倒くさい奴だな
995無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:54:54
緑のつうしんぼ

にほんごのうりょく: がんばりましょう
かんぶんどっかいりょく: がんばりましょう
でぃべーとのうりょく: るーる いはんが おおすぎます
しりょうひはん: まるで でたらめです
しゃかいせい: ごりょうしんが かわいそうです

ごりょうしんへ
 うそつきは どろぼうの はじまりです
 へりくつを いうのを やめさせましょう
 このままでは 緑くんは はんざいしゃに なるかもしれません
 ようしゃなく きびしいしつけを ほどこしてください
996無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:55:51
屁理屈を捏ねまくりのゴミが屁理屈をこねるとかねーわ
ダブルスタンダードって知ってるか?アホ
997無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:56:32
まさにおまえがいうな

ほんとゴミだわw
998無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:57:13
>>986
どうでもいいまとめだな。
「戦いぶりが凄まじい」とされる戦いを
「凄まじい戦い」と呼ぶことに何か不都合があるんかな。
彼の相手してた人も小競り合いや局地戦はあったかもしれない、とは言ってるはずだが。
あーうざかった
999無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:59:16
(^ω^)おっおっおっ
1000無名武将@お腹せっぷく:2009/08/30(日) 17:59:31
1000なら緑は別のスレで粘着し続ける。



そして皆さんお疲れ様でした
10011001
  立  新   /   ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、    ,r';;r"           _ノ  と   何
  て  し    L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/             )   申   と
  ね  い   //;;/´         `' 、;;;;;;;;,,l;;'            /ヽ  す  1000
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  い  レ   l |;|┌--‐フ  ┌----、、   |;ヾr''‐ヽ,  ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く  !!    超
  か  ッ   i  |l ~~__´ 、   ``'__''''┘  |;;;;;l rO:、;  ´ ィ○ヽ    'i;;;;;厶,     え
  ん  ド   l _|. <,,O,> 〉   <,,O,,>    |;;;;;| `'''"/   `'''''"´     !;;;;;;;;ヽ   た
  の  を  ._ゝ'|.    /   、       |; ,'  /   、        |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
  う     「 | |    (    )       .ソ l  ,:'   _ ヽ       .|;;;;;;;//-'ノ
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