39 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 19:52:30
以前太常の山濤は吏部尚書と為っていた。濤は典選すること十餘年,一官が
缺ける毎に,輒ち才資ありて為す可き者を擇んで數人を啓擬し,詔旨を得て向
う所が有ることとなってから,然る後に之を顯奏した。帝之用う所で,或いは
舉首に非ざるため,衆情は察せず,以濤輕重任意,言之於帝,帝は益すます之を
親愛した。濤が人物を甄拔するにあたり,各おの題目を為して而して之を奏上し
たため,時は稱えて「山公啓発事」とした。
山濤は嵇紹を帝に於いて薦め,請うに秘書郎と為すを以ってすることとし,
帝は詔を発して之に征かせた。嵇紹は以って父の康が罪を得ていたことから,私
門を屏居しており,辭して就かないことを欲した。濤は之に謂って曰く:「君が
為に之を思うこと久し矣,天地の四時というものには,猶ち消息が有る,況んや
人に於いてをや!」紹は乃ち命に應じ,帝は以って秘書丞と為した。
初め,東關之敗れるや,文帝は僚屬に問うて曰く:「近日之事,誰にか其の
咎を任ぜんか?」安東司馬の王儀は,王修之子であったが也,對して曰く:「責
は元帥に在るものです。」文帝は怒って曰く:「司馬は罪を孤(われ)に委ねよ
うと欲するのか邪!」引き出して之を斬りすてた。王儀の子の王裒は父の非命を
痛み,隱居して教授した,三たびの征も七たびの辟も,皆就かなかった。未だ嘗
て西へ向かって而して坐らず,廬は墓側に於けるとし,旦夕柏に攀して悲しみ號
し,涕涙が樹に著わされて,樹は之が為に枯れてしまった。《詩》を讀んで「哀
し哀しや父よ母よ,我を生みて劬勞す」に至ると,未だ嘗て流涕(なみだ)を流
すこと三たび復さざることなかったため,門人は之が為に《蓼莪》を廃した。
家は貧しかったが,口を計って而して田し,身を度って而して蠶した;人が或い
は之に饋そうとしても,受けず;之を助けようとしても,聽きいれなかった。諸
生は密かに麥を刈るを為し,裒輒ち之を棄てた。遂に仕えぬまま而して終わった。
臣光曰く:昔舜は鯀を誅したが而して禹は舜に事え,至公を廃すこと敢えて
しなかった也。嵇康、王儀は,その死皆其の罪を以ってせざるものであった,そ
のため二子は晉室に仕えなかったが可というものである也。嵇紹は苟くも蕩陰之
忠を無くしたのだから,殆んど君子之譏りを免れまい!
40 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:01:04
呉の大司馬の陸抗は病に疾み,上疏して曰く:「西陵、建平は,國之蕃
表であります,即ち上流に処して,二つの境に敵を受けております。若し
敵が舟を泛して流れに順い,星奔るがごとく電邁るがごとくすれば,他の
部曲に援けを恃んで以って倒れ縣かったものを救う可きに非ざることとな
りましょう。此れ乃ち社稷安危之機でありまして,非徒封疆侵陵小害也。
臣の父である陸遜は,昔西垂に在って上言いたしました:『西陵は,國之
西門であります,雲って守るに易かるも,亦た復し失うに易いものです。
若し守れざること有れば,但だ一郡を失うのみに非ずして,荊州は呉の有
すに非ざることとなりましょう也。其の虞を有すが若かれば,當に國を傾
けてでも之を爭うべきです。』臣は前より精兵三萬を屯すことを乞うてき
ました,而しながら主る者は循常しておりまして,未だ差し赴けること肯
われておりません。歩闡のことあって自り以後,益更損耗。今や臣が統め
し所は千里ともなり,外は強對を御し,内は百蠻を懐にしておりますうえ,
而して上(流)も下(流)も兵に見えておりますのに,財は數萬有るのみ,
羸敝も日ごと久しく,以って變を待つにも難しいありさまです。臣は愚か
しくも,以為らく諸王は幼沖でありまして,兵馬を用いること無くなった
ため以って要務を妨げ;又た,黄門宦官が占募を開き立てたため,兵も民
も役務を避けて,逋逃して占に入っております。乞いねがいますに特に簡
閲の詔をくださいまして,一切料出し,以って疆場受敵の常處を補わせ,
臣の所部するところを使て八萬を満たすに足らしめ,省みて衆務を息つか
せ,力を並べて御りに備えさせられますように,庶幾(こいねが)わくば
を無くしてくださいますように。若し其れ然らざるなら,深く憂う可きこ
ととなりましょう也!臣の死せる之後には,乞いねがわくば以って西方は
屬と為さしますように。」卒すに及び,呉主は其の子の晏、景、玄、機、
雲らを使て其の兵を分け將いさせた。陸機、陸雲は皆屬文を善くしたため,
名は世に於いて重んじられた。
初め,周魴之子の周處は,その膂力絶人であり,細行を修めず,郷里は
之に患った。周處は嘗て父老に問うて曰く:「今時は和し歳ごとに豐かに
なっているのに而して人は樂しまずにいる,何ぞや?」父老は歎じて曰く
:「三害が除かれずにいるのに,何ぞ之を樂しむこと有ろうか!」周處曰
く:「何をか謂わんとしているのだ也?」父老曰く:「南山の白額虎,長
橋の蛟,並びに子(きみ)がその三つを為しているからだ矣。」周處曰く:
「患う所に若いて此れを止めよというなら,吾は能く之を除いてみせよ
う。」乃ち入山して虎を求め,之を射殺すると,因って(川の)水に投げ
いれ,(餌に誘きだされた)蛟を搏殺した。遂に陸機、雲に従い學問を受
け,志を篤くして讀書し,節を砥ぎすまし行いを礪き,比して期年に及び,
州府が交わり辟した。
41 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:04:59
八月,戊申,元皇后を峻陽陵に於いて葬った。帝及び群臣は除喪即吉,
博士の陳逵が議して,以為らく:「今の時の所行は,漢の帝が權制したも
の;太子は國事を有すこと無いなら,自ら宜しく終服すべきであります。」
尚書の杜預が以為らく:「古には(者)天子、諸侯は三年之喪,始同齊、
斬,既にして葬られれば服を除き,諒闇にて以って居し,心喪にて制を終
えたものです。故に周公は言わず高宗は服喪すこと三年して而して諒闇に
雲ってしましたのは,此れ心喪に服したと之文なのでございます也;叔向
は景王が喪を除したのを譏らず而して其の宴で樂しんだこと已にして早か
ったと譏ったのであります,既にして葬られたのだから應じて除した(の
は問題ない)が,而して諒闇之節を違えたこと明らかであったからです也。
君子之禮に於けるや,諸内に存す而已(のみ)。禮は玉帛之謂いに非ざる
ものでありますからには,喪も豈に衰麻之謂いでありましょうや乎!太子
とは出れば則ち軍を撫すもの,守らば則ち國を監るもの,事えるのを無く
すこと為せぬものです,宜しく哭を卒し衰麻を除き,而して諒闇を以って
三年を終えるべきであります。」帝は之に從った。
臣光曰く:規矩は方圓に於けるを主るものである,然るゆえ庸工が規矩
を無くせば,則ち方圓は得ることも而して制すことも可からざることとな
る;おなじく衰麻は哀戚に於けるを主るものである,然るゆえ庸人は衰麻
を無くせば,則ち哀戚もまた得ることも而して勉めることも可からざるこ
ととなるのである也。《素冠》之詩,正為是矣。杜預が《經》、《傳》を
巧みに飾りたてて以って人情に(阿り)附いたのは,辯則辯(詭弁の弁と
いうものであろう)矣,臣は陳逵之言の質略にして而して敦實なるに若か
ずと謂っておく。
九月,癸亥,大將軍の陳騫を以って太尉と為した。
杜預は以って孟津の渡しばが險難であるため,富平津に於いて河橋を建
設することを請うた。議者は以為らく:「殷、周の都とせし所であって,
聖賢を歴しても而して作さざること,必ずや立つる可からざる故がありま
しょう。」預は固く請うて之を為すこととした。橋が成るに及び,帝は百
寮を従えて会に臨んだ,觴を舉げて杜預に屬させて曰:「君に非ざれば,
此の橋は立たなかったな。」對して曰く:「陛下之明に非ざるなら,臣も
亦た其の巧を施す所とて無かったことでしょう。」
42 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:07:32
是歲(274年),邵陵詞の曹芳が卒した。初め,曹芳之金墉に廢
遷せらるや,太宰中郎であった陳留の范粲は素服にて拜送し,哀しみは左
右を動かした。遂に疾と称して出ず,陽狂して言わなくなり,寢所は乘車
とし,足は地を履まなかった。子孫に婚宦の大事が有ろうとも,輒ち密か
に焉れを諮り,合えば則ち顔色は變わらず,合わざれば則ち眠寢しても安
んぜず,妻子は此れを以ってして其の旨を知ったのである。子の喬等三人
もまた,並んで學業を棄てて,人事を絶ち,侍疾家庭,足は邑裡を出なか
った。帝が即位するに及び,詔がくだされて二千石の祿を以って病を養っ
ているものに,帛百匹を加え賜るものとしたが,喬は父の疾が篤いことを
以って,辭して受けること敢えてしなかった。粲は言わざること凡そ三十
六年,年八十四,所寢之車に於いて終えた。
呉は比三年の大疫があった。
世祖武皇帝上之下咸寧元年(乙未,西暦275年)
春,正月,戊午朔,大赦し,改元した。
呉で地を掘ったところ銀尺を得た,上に刻文が有った。呉主は大赦し,
天冊と改元した。
呉の中書令賀邵は,中風となり言うこと能わざることとなった,職を去
ること數月して,呉主は其の詐りを疑い,酒藏に收め付けると,掠考する
こと千たび數えたが,卒するまで一言も無かったため,乃ち燒いた鋸で其
の頭を断ちきり,其の家屬を臨海に於けるに徙した。又た樓玄の子と孫を
誅した。
夏,六月,鮮卑の拓跋力微が復た其の子沙漠汗を遣わし入貢してきた,
將に還ろうとするにあたり,幽州刺史の衛瓘が表して之を留めんことを請
い,又た密かに金を以って其の諸部大人に賂して之を離間させた。
秋,七月,甲申晦,日食が有った。
冬,十二月,丁亥,宣帝の廟を追尊して曰く高祖とし,景帝を曰く世宗
とし,文帝を曰く太祖とした。
大疫があった,洛陽の死者は萬を以って數えることとなった。
43 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:18:19
世祖武皇帝上之下咸寧二年(丙申,西暦276年)
春,令狐豐が卒して,弟の宏が繼立したため,楊欣が之を討ち斬った。
帝は疾を得ること,甚だ劇しかったため,愈えるに及び,群臣が上壽
してきた。詔に曰く:「每念疫氣死亡者(気が疫んで死ぬ者のことを念ず
毎に),之が為に愴然とする。豈に一身之休息を以って,百姓之艱難を
忘れようか!」諸もろの禮を上げた者は,皆之を絶った。
初め,齊王攸は文帝に於いて寵を有していた,(文帝は)司馬攸に見
える毎に,輒ち床を撫でて其の小字を呼んで曰く:「此れは桃符の座なの
だぞ!」幾らもなく太子と為そうとすること數(たびた)びであった矣。
臨終のさいに,帝の為に漢の淮南王、魏の陳思王の事を敘して而して泣き
だすと,司馬攸の手を執って以って帝に授けさせた。太后も臨終にあたり,
亦た涕を流して帝に謂って曰く:「桃符の性は急であるのに,而して汝は
兄が為に慈しまぬ,我が若し起てなくなれば,必ずや恐らくは汝は相容れ
ること能わぬこととなろう,だから是を以って汝に屬させるのだ,我が
言を忘れること勿れ!」帝は疾が甚しくなるに及び,朝野は皆が意を司馬
攸に於けるに属させた。司馬攸の妃が,賈充之長女であったため也,河南
尹の夏侯和は賈充に謂って曰く:「卿の二婿は,親疏等しきのみ耳。人
(の上)に立たんとするなら當に徳を立てるべきであろう。」充は答えな
かった。司馬攸は素より荀勖及び左衛將軍の馮紞を悪み傾諂していた,荀
勖は乃ち馮紞を使て帝に説かせて曰く:「陛下は前に日ごと疾み苦しんで
愈えずにいたおり,齊王は公卿百姓が歸す所と為っておりました,太子が
高讓を欲すと雖も,其れ免れるを得られんか乎!宜しく遣わして還藩させ,
以って社稷を安んじさせるべきです。」帝は陰ながら之を納れると,乃ち
夏侯和を徙して光祿勳と為すと,賈充から兵權を奪ったものの,而して位
と待遇は替えること無かった。
呉の施但之亂があると,或るものが京下督の孫楷について呉主に於いて
譖って曰く:「孫楷は討伐に赴くのに時宜をえず,兩端を懐いております。」
呉主は數(たびた)び之を詰讓し,征為宮下鎮、驃騎將軍。孫楷は自ら疑
い懼れ,夏,六月,妻子を將いて來奔した;そこで車騎將軍を拝し,丹楊
侯に封ぜられた。
44 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:21:10
秋,七月,呉人の或るものが呉主に言って曰く:「臨平湖は漢末より薉塞し
ておりました,長老が言っております:『此の湖が塞がれば,天下は亂れ;
此の湖が開ければ,天下は平らかになる。』と近くでは無故が忽として更めて
開通したとのこと,此れは天下が當に太平となり,青蓋が洛中に入るだろうと
の祥瑞でございましょう。」呉主は以って奉禁都尉である歴陽の陳訓に問うた
ところ,對して曰く:「臣はもはや望氣を能くすことを止めておりまして,湖
之開塞について(天命を知るところまで)達すことわぬのです。」退いて而し
て其の友に告げて曰く:「青蓋が入洛するというのは,將に銜璧之事が有ろう
ということで,吉祥に非ざることだ。」
或るひとが小石で「皇帝」の字が刻まれているものを献上すると,雲って湖
の岸辺で得たとした。呉主は大赦して,改元し天璽とした。
湘東太守の張詠が算緡(税の一種)を出さなかったため,呉主は在所に就い
て之を斬りすて,首を諸郡に徇らした。會稽太守の車浚は公清であって政績を
有したが,郡が旱にあい(飢)饑となるに値して,表して振貸せんことを求め
た。呉主は以為らく私恩を収めようとしているのだとし,使いを遣わして梟首
した。尚書の熊睦は微かに諫める所有っただけで,呉主は刀鐶を以って之を撞
殺し,身は完肌するところ無かった。
八月,已亥,何曾を以って太傅と為し,陳騫を大司馬と為し,賈充を太尉
と為し,齊王の司馬攸を司空と為した。
呉の歴陽山に七穿駢羅が有って,穿たれた中は黄赤であった,俗に之を石
印と謂った,云わく:「石印の封が發かれれば,天下は當に太平となるべし。」
歴陽の長が石印が發かれたと上言すると,呉主は使者を遣わして太牢を以って
之を祠った。使者は高梯を作して其の上に登ると,硃を以って石に書して曰く:
「楚は九州の渚であり,呉は九州の都である。揚州の士は,天子と作して,四
世にわたり治めてきたから,太平が始まったのである。」還って以って聞かせ
た。呉主は大いに喜び,其の山の神を封じて王と為し,大赦し,明くる年に改
元して曰く天紀とした。
冬,十月,汝陰王の司馬駿を以って征西大將軍と為し,羊祜を征南大將軍
と為し,皆開府し辟召すものとし,儀同三司とした。
45 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:28:19
羊祜は上疏して伐呉を請うと,曰く:「先帝は西へむかい巴、蜀を平らげ,南
して呉、會を和しました,庶幾くば海内は以って休息せんことを得たいとして
おります。而しながら呉は復たも背信し,邊事を使て更めて興こしております。
夫れ期運とは天の授くる所と雖も,而して功業は必ずや人に因って而して成さ
れるもの,一大舉げて掃滅するのでなくば,則ち兵役無時得息也。蜀が平げら
れし之時には,天下は皆が呉も當に並びて亡ぶべしと謂ったものですが,是よ
り以來,十有三年がすぎております矣。夫れ之を謀ること多かると雖も,之を
決すには獨りとなるを欲すものです。凡そ險阻を以ってして全うを得んとする
者は,其の勢い均しく力敵うを謂うだけなのです耳。若し輕重が齊しからず,
強弱が勢いを異なえたなら,險阻を有すと雖も,保つ可からざることでござい
ます。蜀之國を為すや,險ならざるに非ざるものでしたが,皆雲って一夫が戟
を荷うと,千人でも當たるもの莫かったのです。進兵之日に及び,曾無籓籬之
限,勝ちに乗じて席捲し,成都に逕至したのですが,漢中の諸城は,皆鳥棲と
したまま而して出ること敢えてしませんでした,これは戰う心が無くなったに
非ず,誠に力が以って相抗するに足らざるゆえでありました也。劉禪が降服を
請うに及ぶと,諸營堡(陣営や堡塁)は索然としたまま俱に解散したのです。
今や江、淮之險しきは劍閣に如かず,孫皓之暴は劉禪に於けるより過ぎており,
呉人之困窮せしこと巴、蜀に於けるより甚だしく,而して大晉の兵力は往時に
於けるより盛んなのであります。此際に於いて四海を平壹せずに,而して更め
て兵で阻みあい相守りあったなら,天下を使て征戍に於いて困じせしめること
となりましょう,經歴盛衰(勢いは盛んなときから衰えたときへと経歴してし
まうものです),長く久しくす可からざることです也。今若し梁、益之兵を引
きつれて水陸俱に下りおり,荊、楚之衆が江陵に進み臨みて,平南、豫州が直
ちに夏口を指し,徐、揚、青、兗が並んで秣陵に会すなら,一隅之呉を以って
して天下之衆に當たることとなりましょうから,勢いは分かたれ形は散りぢり
となり,備える所は皆急ぐものとなりましょう。巴、漢が奇兵もて其の空虚に
出て,一たび傾壞に處してしまえば則ち上下は震盪してしまいましょうから,
智者が有ろうと雖も呉の為に謀ること能わないことでしょう矣。呉は長江に縁
って國を為しておりまして,その東西は數千里となっております,敵す所とな
る者が大ならば,寧息を有すこと無くなるのです。孫皓は情(動)を恣にして
意(きもち)に任せ,與下の多くが忌んでおります,將は朝に於いてを疑い,
士は野に於いて困りはて,保世之計も,一定之心も有すこと無くなっているの
です;平常之日には,猶も去就を懐こうとも,兵臨之際には,必ずや應ず者が
有りましょうから,終には力を齊しくして致死すこと能わざること已にして知
る可きなのでございます也。其の俗は急速なれば持久すこと能わず,弓弩や戟
46 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/13(土) 20:32:18
楯は中國に如かず,唯だ水戰だけが是れ其の便ず所有るのみでありまして,一
たび其の境に入ってしまえば,則ち長江は復た保つ所に非ず,還って城池に趣
くなら,長所をすて去って短所に入ることとなり,吾らが敵に非ざることにな
りましょう也。官軍が縣ねて進み,人が致死之志を有すなら,呉人は内で顧み
て,各おの離散之心を有すことでしょう,此の如くなれば,軍が時に逾えずし
て,克つこと必ず可きこととなりましょう矣。」帝は之を深く納れた。而して
朝議は方に以って秦、涼を憂いと為していた,羊祜は復た表して曰く:「呉が
平げられれば則ち胡は自ら定まりましょう,但だ當に速やかに大功を濟すのみ
であるのです。」議者の多くが同じくせざること有った,賈充、荀勖、馮紞が
尤も以って呉を伐すは不可と為すとしていた。羊祜は歎いて曰く:「天下の意
に如かざること十に事えて常に居ること七、八ともなるが。天の與えしものを
取らざれば,豈に更めて事えんとす者が後の時に於いて恨むこと非ざるといえ
ようか!」唯だ度支尚書の杜預、中書令の張華だけは帝と意を合わせ,其の計
に贊成したのである。
丁卯,皇后楊氏を立てて,大赦した。後(皇后)は,元皇后之從妹で,美し
く而して婦徳を有した。帝は初め後(皇后)を聘すると,後(皇后)の叔父で
ある楊珧が上表して曰く:「古より一門に二後(二人の皇后)あったもので,
未だ其の宗を全うすこと能わった者は有らず,乞いねがわくば此の表を宗廟
に於いて藏しおき,異日(他日)臣之言の如くなったおりには,以って禍を
免れること得られるようにしてくださいませ。」帝は之を許した。
十二月,後(皇后)の父である鎮軍將軍の楊駿を以って車騎將軍と為し,
臨晉侯に封じた。尚書の褚略、郭弈は皆楊駿は小器であるから,社稷之重き
を任す可からずと表したが,帝は從わなかった。楊駿が驕傲自得となったた
め,胡奮は楊駿に謂って曰く:「卿は女(むすめ)を恃みとして更めて益す
ます豪となった邪!前世を歴観するに,天家(皇帝の家)と結婚したもので,
未だ門を滅ぼさざる者が有ったためしなし,但だ早いか晚いかという事だけ
あるのみだ。」楊駿曰く:「それで卿の女(むすめ)は天子の家に在らずと
でも?」奮曰く:「我が女(むすめ)は卿の女(むすめ)とちがい婢(はし
ため)と作っているのみ,何ぞ能く損益を為そうぞ!」
49 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:00:04
>>48 残念ながらモチベーションが沸かない。三国志が絡まないと無理す。
それでは晉紀2の続きを始めるのだ(恋姫無双の鈴々のナレで)
世祖武皇帝上之下咸寧三年(丁酉,西暦二七七年)
春,正月,丙子朔,日食が有った。
皇子裕を立てて始平王と為したが;庚寅,裕は卒した。
三月,平虜護軍の文鴦が涼、秦、雍州の諸軍を督して樹機能を討ち,之を破った
ため,諸胡二十萬口が來たりて降った。
夏,五月,呉の將である邵、夏祥は眾七千餘人を帥して來降した。
秋,七月,中山王の睦が逋亡を招誘したことに坐して,貶されて丹水縣侯と為った。
流れ星が紫宮の分野に没した。
衛將軍の楊珧等が建議して,以って為すに:「古には諸侯を封建するとは,王室を
籓衛せんとの所以がありました;今諸王公は皆京師に在りますが,扞城之義に非ざ
ることです。又た,異姓の諸將が邊に居りますが,宜しく親戚を以って参じさせるべ
きです。」帝は乃ち詔をくだして諸王は各おの戸邑の多少を以って三等を為すことと
し,大國には三軍五千人を置き,次國は二軍三千人,小國は一軍一千一百人とした;
諸王で都督と為っていた者は,各おの其の國を徙して相近づけ使むこととした。八月,
癸亥,扶風王亮を徙して汝南王と為し,出して鎮南大將軍と為し,都督豫州諸軍事と
した;琅邪王倫を趙王と為し,督鄴城守事とした;勃海王輔を太原王と為し,監并州
諸軍事とした;東莞王人由を以って徐州に在らしめ,徙封して琅邪王とした;汝陰王
駿が關中に在ったため,徙封して扶風王とした;又た太原王顒を徙して河間王と為し
た,汝南王柬を南陽王と為した。司馬輔は,司馬孚之子である;司馬顒は,司馬孚
之孫である。其の無官の者は,皆遣わして就國させた。諸王公で京師に戀こがれる
ものは,皆涕泣して而して去っていった。又た皇子瑋を封じて始平王と為し,允を濮
陽王と為し,該を新都王と為し,遐を清河王と為した。
其れ異姓之臣で大功有る者は,皆郡公、郡侯に封じることとなった。賈充を封じて
魯郡公と為し,王沈を追封して博陵郡公と為した。巨平侯の羊祜を徙封して南城郡
侯と為したが,羊祜は固辭して受けなかった。羊祜は官爵を拝す毎に,常に避讓す
ること多く,その至心は素より著わされていたため,故に特に分列之外に申しのべら
れたのである。羊祜は二世に歴事し,職は樞要を典じてきたが,凡そ損益を謀議す
ると,皆其の草稿を焚きすてたため,世は聞くを得るもの莫かったし,進達する所の
人も皆由る所を知らなかった。常に曰く:「官を公朝より拝受しながら,私門に恩を謝
すなどということは,吾の敢えてせざる所である。」
兗、豫、徐、青、荊、益、梁の七州で大水があった。
50 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:05:26
冬,十二月,呉の夏口督であった孫慎が江夏、汝南に入ると,千餘家を略して
而して去った。詔がくだり侍臣を遣わして羊祜について追討せざる意を問い詰め
るとともに,並んで荊州に移そうと欲した。羊祜曰く:「江夏は襄陽を去ること八百
里でございます,比して賊の訪問を知ったころには,賊は已にして去ること日を經
ております,歩兵の軍が安んぞ能く之を追いえましょうか!師を労すことで以って
免責されんとするのは,臣の志に非ざることです。昔魏武帝が置きし都督の類は
皆州と相接近しあっておりました,それは以って兵勢が合わさるに好ましく離れるが
悪まれた故であったのです。疆場之間は,一彼一此というもの,慎んで守るのみで
あります。若し輒ち州を徙さば,賊の出ずること常など無くなりましょうし,亦た未だ
州の宜しく據るべき所を知らざることとなりましょう。」
是の歳,大司馬の陳騫が揚州より入朝し,高平公を以って罷めた。
呉主は會稽の張俶が譖白する所多かったことを以って,甚だ寵任に見え,累遷し
て司直中郎將とし,侯に封じた。其の父は山陰縣の兵卒と為っており,俶の良から
ざるを知っていたため,上表して曰く:「若し俶を用いて司直と為されるなら,(俶に)
罪が有ろうとも,坐に従わざるよう乞いねがいます。」呉主は之を許した。張俶は表
して彈曲二十人を置かせ,不法を糾司することを専らにしたため,是れに於いて吏
民は各おの愛憎を以って互いに相告訐しあうこととなって,獄犴は盈ち溢れ,上下
は囂然とすることとなった。張俶は大いに奸利を為し,驕奢となり暴となった,事が
發覚し,父も子も皆車裂きとなった。
衛瓘は拓跋沙漠汗を遣わして歸國させた。沙漠汗より人質が入れられ,力微可汗
の諸子で側に在った者の多くが寵を有すこととなった。沙漠汗が歸るに及び,諸部
の大人が共に譖じて而して之を殺した。既にして而して力微の疾は篤く,烏桓王の庫
賢が親近して用事しており,衛瓘より賂を受けて,諸部を擾動しようと欲し,乃ち庭に
於いて礪斧すると,諸大人に謂って曰く:「可汗は汝曹が太子を讒殺したことを恨んで
おり,汝曹の長子を盡く收めて之を殺さんと欲している。」諸大人は懼れて,皆散りぢ
りに走った。力微は憂を以って卒した,時に年は一百四。子の悉祿が立ったが,其の
國は遂に衰えた。
初め,幽、並二州は皆鮮卑と<与>接しており,東には務桓が有り,西には力微が
有って,邊患を為すこと多かった。衛瓘は密かに計りごとを以って之を(離)間させ,
務桓は降り而して力微は死すこととなった。朝廷は衛瓘の功を嘉して,其の弟を封じ
て亭侯と為した。
51 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:11:03
世祖武皇帝上之下咸寧四年(戊戌,西暦278年)
春,正月,庚午朔,日食が有った。
司馬督であった東平の馬隆が上言した:「涼州刺史の楊欣は羌戎の和を失い
ました,必ずや敗れましょう。」夏,六月,楊欣は樹機能之黨である若羅拔能等
と武威に於いて戦い,敗死した。
弘訓皇后の羊氏が殂した。
羊祜は病を以ってして入朝を求め,既にして至ると,帝は乘輦して入殿するよ
う命ずると,拜さずに而して坐した。羊祜は面とむかい伐呉之計を陳べ,帝は
之を善しとした。以って羊祜が病んでいたため,數(たびた)び入ること宜しか
らざるべしとし,更めて張華を遣わして就きて問わせ策を籌(はかりめぐ)らせた。
羊祜曰く:「孫皓の暴虐なること已にして甚し,今に於いては戰わずして而して克
つ可きこととなっています。若し孫皓が不幸にして而して沒してしまい,呉人が更
めて令主を立ててしまえば,百萬之衆を有すと雖も,長江は未だ窺う可からざる
ことになりましょう也,將に後患を為すことになります矣!」張華は深く之を然りと
した。羊祜曰く:「吾が志を成しとげる者は,子なり也。」帝は羊祜を使て諸將を臥
護せしめんと欲した,羊祜曰く:「呉を取るに臣が行くこと必ずしもせず,但し既に
して之を平げました後には,當に聖慮を勞すべきのみです耳。功名之際に,臣が
居ることは敢えてないでありましょう。若し事が了しましたならば,當に付授す所有
すべきなら,願わくば審らかに其の人を擇ばれますように也。」
秋,七月,己丑,景獻皇后を峻平陵に於いて葬った。
司、冀、兗、豫、荊、揚州に大水があり,螟が稼を傷つけた。詔がくだり主ってい
た者が問われた:「何をか以って百姓を佐(たす)けんか?」度支尚書の杜預が上
疏して,以為らく:「今たびの水災は,東南が尤も劇しいものです,宜しく敕して兗、
豫等諸州には漢代の舊陂に留まり,繕って以って水を外に蓄えさせ,餘りは皆決
瀝させます,饑えた者を令て魚菜螺蚌之饒を盡く得させるのです,此れは目下の
日給之益というものです。水が去りて之後には,之を填淤して田となせば,畝あた
り數鐘を収穫できましょうから,此も又た明くる年之益となります。典牧している種
牛は四萬五千餘頭が有りますが,耕駕に供しておらず,老いて穿鼻せざる者が
有るに至っております,分けて以って民に給わられ,春の耕(作)に使わしむ可き
です;谷(穀物)が登りし(納められた/熟した)之後には,其の租稅に責す(上積
みして回収する),此れも又た數年すれば以って後之益となりましょう。」帝は之に
從い,民は其の利をョりとした。杜預が尚書に在ること七年,庶政を損益すこと,
不可勝數(数えきれないほどとなっていたため),時の人は之を謂うに「杜武庫」と
したが,其の有せざる所無くなったことを言ったのである。
九月,何曾を以って太宰と為した;辛巳,侍中、尚書令の李胤を以って司徒と為した。
52 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:21:05
呉主は己に勝る者を忌みきらっていた,侍中、中書令の張尚は,張紘の孫で,
為人は辯捷つものであったため,談論が其の表に出る毎に,呉主は以って恨み
を致さんとするを積もらせていた。後に問うた:「孤(わたし)が酒を飲むさまは以っ
て誰にか方ず可きか?」張尚曰く:「陛下は百觚之量を有すでしょう。」呉主曰く:
「尚は孔丘の王ならざるを知っていて,而して孤を以ってして之に方じたのだ。」
因って怒りを發すると,尚を収めた。公卿已下百餘人が,宮に詣でて叩頭し,張
尚の罪を請うて,死を減じて,建安で船を作ること得られるようにとしたが,尋くし
て之を就殺した。
冬,十月,征征北大將軍の衛瓘を尚書令と為した。是時,朝野は咸(みな)が
太子の昏愚を知っており,嗣と為すこと堪えずにいた,衛瓘はこと毎に陳べ啓発
しようと欲していたが而して未だ敢えて發せずにいた。陵雲台での宴に侍るに會
すると,衛瓘は陽醉してから,帝の床の前に跪いて曰く:「臣には欲すに啓発いた
したき所が有ります。」帝曰:「公が言わんとする所とは何であるか?」衛瓘は言わ
んと欲しながら而して止めること三たび,因って手を以って床を撫でて曰く:「此の
座は惜しむ可きです!」帝は意悟ると,謬ちに因って曰く:「公は真に大いに醉っ
ているのか?」衛瓘は此れに於いて言うこと有るを復たしなかった。帝は悉く東宮
の官屬を召すと,為に宴會を設け,而して尚書に疑事を密封させて,太子を令て
之を決させた。賈妃は大いに懼れると,外の人に倩して對を代わらせたが,(その
対は)多くが古義を引用したものであった。給使の張泓曰く:「太子の學ばざること,
陛下も知る所ですのに,而して詔に答えたものは古義を引くことが多いようす,必
ずや草稿を作った主が責められ,更めて譴負を益されましょう,意を以って對した
ものに直すに如かず。」妃は大いに喜ぶと,張泓に謂って曰く:「我が為に好ましい
答を便じてくれたなら,富貴は汝と之を共にしようぞ。」張泓は即ち具草すると太子
を令て自寫(自筆)させた。帝は之を省みて,甚だスび,先ず以って衛瓘に示した,
衛瓘は大いに踧□したため,衆人は乃ち衛瓘に嘗て言が有ったことを知った也。
賈充は密かに人を遣わして語らせたところ妃は云った:「衛□瓘の老奴め,幾らも
なく汝の家を破ってくれよう!」
呉人は皖城を大いに佃し,入寇を謀ろうと欲した。都督揚州諸軍事の王渾が揚
州刺史の應綽を遣わして之を攻破させ,斬首すること五千級,其の積みあげた穀
百八十餘萬斛を焚きすて,稻田四千餘頃を踐し,船六百餘艘を毀させた。
十一月,辛巳,太醫司馬の程據が雉頭裘を献じてきたため,帝は之を殿前で焚
きすてた。甲申。内外に敕して敢えて奇技異服を献ず者が有れば,之を罪とするこ
ととした。
53 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:27:33
羊祜は疾篤くなると,杜預を自らの代わりに挙げた。辛卯,杜預を以って鎮南大
將軍、都督荊州諸軍事と為した。羊祜が卒すると,帝は之を哭すこと甚だ哀しんだ。
是日,大寒となり,涕(なが)れた涙が沾(ぬ)らした鬚鬢は皆冰と為った。羊祜は遺
令で南城侯の印を以って柩に入れることを得ないようにとしていた。帝曰く:「羊祜が
固く謙讓すること歴年となっていた,身は沒してもその謙讓は存している,今聽きい
れて本の封に復し,以って高邁な美徳を彰らかとしよう。」南州の民は羊祜が卒した
と聞き,之が為に市を罷め,巷で哭す聲が相接しあった。呉の邊を守っている將士
も亦た之が為に泣いた。羊祜は峴山に游ぶを好んでいた,襄陽の人は其の地に碑
を建て廟を立て,歳時には祭祀をし,其の碑を望む者は流涕せざること無かったこ
とから,因って之を墮涙碑と謂ったのである。
杜預は鎮に至ると,精銳を簡抜し,呉の西陵督である張政を襲うと,之を大いに
破った。張政は,呉之名將であったため也,備え無かりしを以って敗北を取ったこ
とを恥じいり,實を以って呉主に告げるを以ってしなかった。杜預は之を離間させん
と欲し,乃ち其の獲た所を還すよう上表した。そのため呉主は果たして張政を召し
て還すと,武昌監の留憲を遣わして之に代えさせた。
十二月,丁未,朗陵公の何曾が卒した。何曾は自らを厚くして奉養すること,人
主に於けるより過ぎていた。司隸校尉である東萊(出身)の劉毅は數(たびた)び何
曾は侈汰であること度が無いと劾奏(弾劾の奏上)をしていたが,帝は其の重臣で
あることを以って,不問としていた。卒すに及び,博士であった新興(出身)の秦秀
が議して曰く:「何曾の驕奢さが度を過ぎていたこと,その悪名は九域を被っており
ました。宰相や大臣というものは,人之表儀であります,若(けだ)し生きているあい
だは其の情を極め,死しても又た貶すこと無くしておくものです,王公貴人も復た何
をか畏れんか!謹しんで《謚法》を按じますれば,『名と實が爽なるは曰く繆とす,
怙亂にして肆行なるは曰く丑とす』とあります,宜しく繆丑公と謚すべきです。」帝は
策して謚して曰く孝とした。
前の司隸校尉であった傅玄が卒した。玄の性は峻急であり,奏劾の有る毎に,
或いは日が暮れるに値すころから,白簡を捧げもち,簪帶を整え,竦踴したまま寐
ず(床に付かず),坐したまま而して旦(よあけ)まで待った。是に由って貴游(貴族
で遊びあるいているもの)は震懾し,台閣には(清廉な気)風が生じた。玄は尚書左
丞であった博陵(出身)の崔洪と善くしていた,崔洪も亦た清獅ノして骨鯁であって,
好んで面前で人の過ちを折責したが,而して退けば後言すること無かったため,人
は是を以ってして之を重んじたのである。
鮮卑の樹機能が久しく邊患を為していたため,僕射の李喜が兵を徴発して之を討
つことを請うたものの,朝議は皆が以為らく出兵は重事であるし,虜は憂うに足りず
とした。
54 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:36:27
世祖武皇帝上之下咸寧五年(己亥,西暦279年)
春,正月,樹機能が涼州を攻め陷とした。帝は甚だ之を悔むと,朝廷に臨んで
而して歎じて曰く:「誰か能く我が為に此の虜を討つ者あろうか?」司馬督の馬隆
が進みいでて曰く:「陛下が臣に任すこと能うれば,臣は之を平げること能うもの
です。」帝曰く:「必ずや能く賊を平げうるというなら,何ぞ任じまいと為そうか,方
略の何如を顧るのみだ!」隆曰く:「臣願わくば勇士三千人を募りとうございます,
從り來たる所を問うところ無くし,之を帥して以って西へむかいますなら,虜不足
平也。」帝は之を許した。乙丑,馬隆を以って討虜護軍、武威太守と為した。公卿
は皆曰く:「見えている兵は已にして多いわけですから,ざまに賞募を設けるは
宜しくすべきではありません,馬隆は小將であって妄言しております,信ずに足り
ません。」帝は聽きいれなかった。馬隆は能く弓四鈞を引くもの、弩九石を挽く者
を募って之を取りたてることとし,標を立てて簡試することとした。そうして旦(よあ
け)より日中に至るまでで,三千五百人を得た。馬隆曰く:「足れり。」又た請うて自
ら武庫に至って仗を選びたいとし,武庫令が馬隆と忿り爭ったため,御史中丞が
馬隆を劾奏した。馬隆曰く:「臣は當に命を戰場に畢えんとすべくしているのに,
武庫令は乃ち給すにあたり魏の時の朽ちた仗を以ってしようとしました,これは陛
下が臣を使わした之意の所以に非ざることです。」帝は命じて惟だ馬隆が取る所
とせよとし,仍ち三年の軍資を給して而して之を遣わした。
初め,南單于の呼廚泉は兄である於扶羅の子の豹を以って左賢王と為してい
たが,魏武帝が匈奴を分けて五部と為すに及び,豹を以って左部帥と為した。豹
の子の淵は,幼くして而して俊異であって,上黨の崔游に師事して,博く經史を習
った。嘗つて同じ門生であった上黨の硃紀、雁門の范隆に謂って曰く:「吾は常に
隨、陸に武が無く,絳、灌に文が無かったことを恥じてきた。隨、陸は高帝に遇っ
たものの而して封侯之業を建てること能わず,降、灌は文帝に遇いながら而して
庠序之教を興すこと能わなかった,豈に惜しまざらんか哉!」是に於いて學と武の
事を兼ねようとするようになった。長ずるに及び,その猿臂は射を善くし,膂力は
人に過ぎ,姿貌は魁偉であった。任子と為って洛陽に在ると,王渾及び子の濟は
皆之を重んじ,屢ねて帝に於いて薦めたため,帝は召しよせてこれと語りあい,
之にスんだ。王濟曰く:「劉淵は文武に長才を有しております,陛下が東南之事を
以って任せたなら,呉は平げるにも足らざることでしょう。」孔恂、楊珧曰く:「我ら
が族類に非ざるのですから,其の心は必ずや異なりましょう。劉淵の才器は誠に
比すべきあいてが少ないものですが,然りながら重任す可きでありません。」涼州
が覆り沒すに及び,帝は問將於李喜,對して曰く:「陛下が誠に能く匈奴の五部の
衆を徴発せられて,劉淵に一將軍之號を假しあたえ,之を將とし使わして而して
西へむかわせたなら,樹機能之首は指した日のうちに而して梟せらる可きことでし
ょう。」孔恂曰く:「劉淵が樹機能を梟すこと果たしますなら,則ち涼州之患いは方
(まさ)に更に深まるのみとなりましょう。」帝は乃ち止めた。
55 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:42:51
東萊(出身の)王彌の家は世に二千石たりてきており,彌は學術勇略を有し,
騎射を善くしたため,青州の人は之を謂うに「飛豹」とした。然して任俠を喜ん
でいたため,處士であった陳留の(人)董養が見えて而して之に謂って曰く:
「君は亂を好み禍ちを楽しんでおりますが,若し天下に事が有れば,士大夫に
作れないことでしょう。」劉淵は王彌と友となり善くしていたため,謂って稱えて
曰く:「王、李とは郷曲を以って見え知っている,こと毎に相稱え薦めあってきた,
適足為吾患耳。」因って歔欷して涕を流した。齊王の司馬攸は之を聞くと,帝に
於いて言って曰く:「陛下には劉淵を除かずにおりますが,臣は并州が久しく安
んずることを得ないと恐れます。」王渾曰く:「大晉は方(まさ)に信を以ってして
殊俗を懐けてきたものだ,奈何(いか)でか無形之疑いを以って人の侍子を殺
すというのか?それで何で徳度を弘められようか!」帝曰:「渾の言や是なり。」
劉豹が卒すに会い,淵を以って代わりとし左部帥と為した。
夏,四月,大赦した。
部曲督以下の質任を除くこととした。
呉の桂林太守である修允が卒し,其の部曲は應じて分けられ諸將に給され
ることになった。督將の郭馬、何典、王族等は舊軍で世を累ねてきており,離
別することを楽しまず,呉主が廣州の戸口の實を料ろうとしてきたことに会って,
郭馬等は民心が不安になったのに因って,衆を聚めて廣州督の虞授を攻殺し,
郭馬は自らを都督交、廣二州諸軍事と號すと,何典を使て蒼梧を攻めさせ,
王族をして始興を攻めさせた。秋,八月,呉は軍師の張悌を以って丞相と為し,
牛渚都督の何植を司徒と為し,執金吾の滕修を司空と為した。未だ拜さぬうち
に,更めて滕修を以って廣州牧と為して,萬人を帥して東道に従い郭馬を討た
せることとした。郭馬は南海太守の劉略を殺し,廣州刺史の徐旗を逐いだした。
呉主は又た徐陵督の陶浚を遣わして七千人を將いさせると,西道に従い交州
牧の陶璜と共に郭馬を撃たせることとした。
呉には鬼目菜が有り,工人である黄耇の家に生じた;買菜というものが有り,
工人である呉平の家に生じた。東觀では圖書を案じて,鬼目と名づけられてい
るのは曰く芝草のことで,買菜とは曰く平慮草のことである。呉主は黄耇を以っ
て侍芝郎と為し,呉平を平慮郎と為し,皆銀印青緩とした。
呉主は群臣を宴にまねく毎に,鹹(みな)沉醉せ令めた。又た黄門郎十人を
置いて司過と為し,宴の罷わりし之後に,各おの其の闕失を奏上させ,迕視や
謬言など,罔有不舉(余すところなく挙げさせた)。大なるは即ち刑戮を加え,小
なるは記録して罪と為し,或いは人面を剝がし,或いは人の眼を鑿った。是に由
って上下は心を離し,為に力を盡くそうとするもの莫くなったのである。
56 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 20:54:18
益州刺史の王濬が上疏して曰く:「孫皓は荒淫凶逆でありますから,宜しく速やか
に征伐すべきです,若し一旦あって孫皓が死んでしまい,更めて賢主が立ってしま
えば,則ち敵を強めることになります也;臣は船を作すこと七年,日ごと朽ち敗れて
いるもの(舟)が有ります;臣は年七十となり,死に亡ぶまで日が無くなっております。
(せっかく揃っている)三つの者(条件)が一たび乖れ離れになってしまえば,則ち圖
ること難しくなりましょう。誠に願わくば陛下には事機を失われること無きように。」
帝は是に於いて呉を伐せんと決意した。安東將軍の王渾が表して孫皓が北上せん
と欲しているため,邊戍は皆戒嚴しましょうとの表をするに会い,朝廷は乃ち更めて
議して明くる年出師することとした。王濬の參軍であった何攀は使いを奉じて洛中に
在った,上疏して稱うるに:「孫皓は必ずや敢えて出ないことでしょうが,宜しく戒嚴に
因って,其の易きを掩い取るべきです。
杜預は上表して曰く:「閏月より以來,賊は但だたんに下に嚴しくするよう敕令す
のみでして,兵の上ること無くなっております。理勢を以ってして之を推しはかります
なら,賊之窮計は,力が兩つを完うせざるため,必ずや夏口以東を保って以って視
息を延べんとすることでしょう,多くの兵に縁って西上し,其の國都を空しくすること
など無いでありましょう。而して陛下には(多数の意見を)聽くこと過ぎております,便
じて用って(他者の意見に意を)委ねて大計を棄てられてしまえば,敵を縱にして患い
が生ずことになります,誠に惜しむ可きです。向使舉而有敗,勿舉可也。今事為之
制,務從完牢,若し或いは成ること有れば,則ち太平之基を開くこととなりましょうし,
成らずとも日月之間(時間)を費やし損なうに過ぎぬのですから,何をか惜しんで而
して一つも之を試みようとしないのですか!當に後年を須つべき若かれば,天の時
にしろ人の事にしろ,常に如かることを得ざるものです,臣が恐れますのは其れが
更まって難しくなってしまうことです。今や萬安之舉を有し,傾敗之慮りも無いからに
は,臣の心は實に了としておりまして,暖昧之見を以ってして自ら後累を取ることな
ど敢えてせざることです,惟だただ陛下には之を察せられんことを。」旬月しても未
だ報ぜられなかったため,杜預は復たも上表して曰く:「羊祜は朝臣に於いて博く謀
ることを先ずせず,而して密かに陛下と共に此の計を施してきました,それ故に益
すます朝臣を令て異同之議を多くせしめているのです。しかしながら凡そ事というも
のは當に利害を以って相校ずべきもの,今此の舉之利は十に八、九を有すのに,
而して其の害は一、二であります,止めれば功を無くすに於くだけとなりましょう。
必ずや朝臣を使て破敗之形ありと言わせましょうが,それも亦た得る可からざるこ
とです(それらの意見を採用してはならないのです),直ちに計を是としても(その計
謀は)己から出たものでなく,功あろうとも(その功績は)その身に在らざるものであ
るゆえ,各おの其の前言之失を恥じ而して之を固守せんとして(破敗之形ありと言
わせて)いるわけです。自頃(ちかごろ)は朝廷の事は大も小も無く,異意が鋒起し
ております,人心は同じからざるものと雖も,亦た由って恩を恃みにし後の患いを慮
らず,故に輕がるしく相同異しあっているのでございます。秋より已來,討賊之形は
57 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:00:03
頗る露わとなりましたから,今若し中止すれば,孫皓は或いは怖れて而して生きなん
ことを計りましょう,都を武昌へ徙し,更めて江南の諸城を完璧に修繕させ,其の居
民を遠ざけてしまいましょう,そうなれば城は攻むる可からざることとなって,野には
掠める所とて無くなりますから,則ち明年之計も或いは及ぼす所とて無くなりますぞ。」
帝は方(まさ)に張華と棋を圍んでいた,杜預の表が至るに適うと,張華は推枰斂手
して曰く:「陛下は聖武であらせられ,國は富みて兵は強壮であります,呉主は淫虐
にして,賢能を誅殺しております。當に今之を討つべくば,勞せずして而して定む可
きことでしょう,願わくば以って疑いを為すこと勿らんことを!」帝は乃ち之を許した。
そこで張華を以って度支尚書と為すと,運漕について量計させた。賈充、荀勖、馮
紞が之を爭ってきたため,帝は大いに怒った,そこで賈充は冠を免いで謝罪した。
僕射であった山濤は退くと而して人に告げて曰く:「自ら聖人に非ざれば,外寧んず
れば必ずや内憂が有ろう,今呉を釋してやって外懼と為しておくことが,豈に算に
非ざることといえようか!」
冬,十一月,大舉して呉を伐すると,鎮軍將軍である琅邪王の司馬[人由]を遣わし
て塗中に出させ,安東將軍の王渾には江西に出させ,建威將軍の王戎には武昌に
出させ,平南將軍の胡奮には夏口に出させ,鎮南大將軍の杜預には江陵に出させ,
龍驤將軍の王濬、巴東監軍である魯國の唐彬には巴、蜀から下らせた,東西凡そ
二十餘萬。賈充に命じて使持節、假黄鉞、大都督と為し,冠軍將軍の楊濟を以って
之に副とさせた。賈充は固より伐呉の不利を陳べ,且つ自ら衰え老いたため,元帥
之任に堪えないと言ってきた。詔に曰く:「君が若し行かないなら,吾が便じて自ら出
よう。」そこで賈充は已むを得ず,乃ち節鉞を受けると,中軍を将いて南して襄陽に
駐屯し,諸軍に節度を為すことになった。
馬隆は西へむかい温水を渡ると,樹機能等は衆數萬を以って険阻に據って之を
拒んだ。隆は山路が狹隘であることを以って,乃ち扁箱車を作り,木屋を為すと,
車上に於いて施し,轉戰して而して前へすすみ,行くこと千餘里,殺傷したもの甚だ
衆ねかった。馬隆が西へむかってから,音問が斷絶したため,朝廷は之を憂い,
或るものは謂わく已に沒したとした。後に馬隆の使いが夜に到ると,帝は掌を撫で
て歡笑し,朝廷を問詰め,群臣を召して謂って曰く:「若し諸卿の言に従っていたら,
涼州を無くしていたわい。」乃ち詔をくだして馬隆に節を假すと,拜して宣威將軍とし
た。馬隆が武威に至ると,鮮卑の大人である猝跋韓且萬能等が萬餘落を帥して來
たり降った。十二月,馬隆は樹機能と大いに戰い,之を斬りすて,涼州は遂に平げ
られた。
58 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:11:13
詔がくだされて朝臣に以って政の損益を問うたところ,司徒の左長史である傅鹹
が上書して,以為らく:「公も私も不足しているのは,設けられた官が太いに多かる
に由ります。舊の都督は四つが有りましたが,今や監軍を並べてみると乃ち十より
盈れております;禹の分けたりし九州は,今の刺史幾向一倍;戸口は漢に比べて十
分之一となっていますのに,而して置かれた郡縣は更めて多くなっております;虚し
く軍府を立てては,動くこと百たび數えること有るというのに,而して宿衛を益すこ
となど無く;五等の諸侯は,坐したまま(働きもしないのに)官屬を置いております
;諸所の廩給は,皆百姓より出されたものです。此れぞ其の困乏となる所以なのです。
當今の急務とは,官を並べて労役を息つかせ,上下とも農に務める而已に在るのです。」
傅鹹は,傅玄之子である。時に又た州、郡、縣の吏を半ばに省き以って農功に赴かせ
ることが議論され,中書監の荀勖は以って為すに:「吏を省くは官を省くに如かず,
官を省くは事を省みるに如かず,その省事は心を清めるに如かざるものです。昔蕭、
曹が漢朝の宰相たると,其の清靜を戴いたため,民が以って壹に寧んじたことが,
所謂清心というものなのです。浮ついた説を抑え,文案を簡素にし,細苛(細かな苛
め)を略し,小さな過失を宥(ゆる)し,常(法)を變えることを好んで以って利益
を徼えとろうとする者が有れば,必ず其の誅を行うこととするのが,所謂省事という
ものです。以って九寺は尚書に並べおき,蘭台は三府に付けるが,所謂省官というも
のです。若し直ちに大例を作して,凡そ天下之吏は皆其の半ばを減じますならば,
恐らく文武の衆官,郡國の職業は,その劇しさ易しさは同じからざることとなりまし
ょうから,以って一概に之を施す可きでありません。若し曠闕が有れば,皆更め復す
を須つこととし,或いは激務であって而して滋繁(次第に繁雑な務め)となるのであ
れば,亦た不可不重也(重ねざる可きでないといたしましょう)。」
60 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:20:07
それでは 世祖武皇帝中太康元年(庚子,西暦280年)
春,正月,呉は大赦した。
杜預は江陵に向かい,王渾は横江に出て,呉の鎮、戍を攻めたたところ,向う所
で皆克った。二月,戊午,王濬、唐彬は丹楊監の盛紀を撃破した。呉人は江磧に
於いて要害となる処には,並んで鉄鎖を以って之を截していた;又た鐵錐を作し
た,長さは丈餘で,江中に暗置し(隠れるように配置し),以って舟艦を逆い拒も
うとしたのである。王濬は大筏數十を作した,方百餘歩,草を縛って人と為し,
甲を被せて仗を持たせると,水を善くす者を令て以って筏を先行させた,鐵錐に
遇うと,錐は輒ち筏に著わされて而して除去された。又た大炬を作った,長さ十
餘丈,大なるものは數十圍ともなり,麻油を以ってそれに灌がせると,船の前に
在させた,鎖に遇うと,然るに炬が之を燒き,須臾にして,融液となって斷絶さ
れた,是に於いて船は礙す所無くなった。庚申,王濬は西陵に克ち,呉の都督で
ある留憲等を殺した。壬戌,荊門、夷道の二城に克つと,夷道監の陸晏を殺した。
杜預は牙門の周旨等を遣わして奇兵八百を帥させて泛舟させ夜に渡江させ,樂郷
を襲った,旗幟を多く張りたて,火を巴山に起てた。呉の都督であった孫歆は懼
れて,江陵督の伍延に書を与えて曰く:「北より來たる諸軍は,乃ち江を飛び渡
ってきた。」周旨等は樂郷の城外に伏兵していた,孫歆は軍を遣わして王濬を出
て拒もうとし,大敗して而して還った。周旨等はそこで伏兵を発して孫歆の軍に
隨って而して入ったが,孫歆は覺らなかったため,直ちに帳下に至り,孫歆を虜
にして而して還った。乙丑,王濬は呉の水軍都督の陸景を撃ち殺した。杜預は江
陵に進み攻め,甲戌,之に克つと,伍延を斬りすてた。是に於いて沅(水)、湘
(水)以南から,交(州)、廣(州)に於けるに接するまで,州郡は皆が風を望
み印綬を送りつけてきたのである。杜預は節を杖にして詔を稱え而して之を緩撫
した。凡そ斬獲する所となった呉の都督、監軍は十四,牙門、郡守は百二十餘人と
なった。胡奮は江安に克った。
乙亥,詔がくだった:「王濬、唐彬は既にして巴丘を定めたなら,胡奮、王戎と
共になり夏口、武昌を平らげ,流れに順いて長騖し,直ちに秣陵を造せ。杜預は
當に零、桂を鎮め靜め,衡陽を懷輯すべし。大兵の既にして過ぎたれば,荊州の
南の境は固められようから當に檄を傳えて而して定むべし。杜預等は各おの兵を
分けて以って王濬、唐彬に益してやり,太尉の賈充は屯を項へ移すように。」
王戎は參軍であった襄陽の羅尚、南陽の劉喬を遣わし兵を將いさせて王濬と合
わさって武昌を攻めたところ,呉の江夏太守の劉朗、督武昌諸軍の虞昺は皆降っ
た。虞昺は,虞翻之子である。
61 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:46:40
杜預は衆軍と会議した,或るもの曰く:「百年之寇なれば,未だ盡く克つ可か
らざるものです,方(まさ)に春水が生ぜんとしておりますから,久しく駐まる
ことは難しいでしょう,宜しく來たる冬を俟ち,更めて大舉を為すべきです。」
杜預曰く:「昔樂毅は藉濟して西へむかい一戰して以って強齊に並びたった,今
や兵威は已にして振るわれている,譬えるなら破竹の如し,數節之後には,皆刃
を迎えれば而して解けてしまい,復た手を著す處など無くなろう。」遂に群帥に
方略を指し授け,建業へ逕造することとなった。
呉主は王渾が南下したと聞くと,丞相の張悌、督丹楊太守の沈瑩、護軍の孫震、
副軍師の諸葛靚を使て衆三萬を帥させて渡江して逆戰させようとした。牛渚に至
ると,沈瑩は曰く:「晉が水軍を蜀に於いて治めること久しい,上流の諸軍は,
素より戒備など無く,名將は皆死んでしまい,幼少が任に當っている,恐らくは
御ること能うまい。晉之水軍は必ずや此に於けるに至ろう,宜しく衆の力を畜(
たくわ)えて以って其の來たるを待つべきだ,之と一戰し,若し幸にも而して之に
勝てば,江西は自ずから清められよう。今渡江して晉の大軍と戰い,不幸にして而
して敗れたなら,則ち大事は去ってしまおう!」張悌曰く:「呉の將に亡びなんと
するは,賢愚の知る所であり,今日のことに非ず(昨日今のことではない)。吾が
恐れるは蜀兵が此れに至らば,衆心が駭れ懼れてしまい,復た整える可からざるこ
とになることだ。今渡江するに及べば,猶も戰いを決す可きものとなる。若し其れ
敗れ喪われても,同じくして社稷に死すのだから,復た恨む所とて無くなろう。
若し其れ克ち捷てば,北の敵は奔り走(のが)れよう,(彼我の)兵の勢いは萬倍
となる,便じて當に勝ちに乗じて南へ上るべし,之に逆らい道に中るにさいし,破
らざるを憂いず。若し子の計の如くすれば,恐らくは士衆は散り盡きてしまい,坐
したまま敵の到るを待つこととなろう,君臣倶に降り,復た一人とて難に死す者が
無いなど,亦た辱しからざらんか!」
62 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:56:39
三月,張悌等は江を濟り,王渾の部將で城陽都尉の張喬を楊荷に於いて圍んだ。
張喬の衆は才七千ほどで,柵を閉ざして降ることを請うてきた。諸葛靚は之を屠っ
てしまおうと欲したが,張悌曰く:「強敵が前に在るからには,宜しく先ず其の小
を事えるべからず,且つ降りしを殺すは不祥である。」諸葛靚曰く:「此屬めらは
以って救いの兵が未だ至らず,少なき力ゆえ敵せざるため,故に且つは偽って降っ
てみて以って我らを緩ませんとしているもので,真に降伏したに非ず。若し之を
捨ておいて而して前へすすめば,必ずや後の患いと為りましょうぞ。」張悌は從
わず,之を撫して而して進んだ。張悌は揚州刺史である汝南の周浚と,陳(陣)を
結んで相對した,沈瑩が丹楊の鋭卒、刀楯五千を帥していたため,三沖の晉兵は,
動けなかった。沈瑩が引き退くと,其の眾が亂れた;將軍の薛勝、蔣班は其の乱
れに因って而して之に乘じたため,呉兵は以って次つぎに奔り潰え,將帥は止め
ること能わなくなった,張喬が後ろより之を撃って,呉兵を版橋に於いて大敗さ
せた。諸葛靚は數百人を帥して遁れ去り,張悌を過ぎ迎え使まんとしたが,張悌
は去ることを肯わなかったため,諸葛靚は自ら往きて之を牽き曰く:「存亡とい
うものは自ら大數の有るもの,卿一人が支える所に非ず,奈何故(何故に)自ら
死を取らんとするのか!」張悌は涕を垂らし曰く:「仲思よ,今日是れこそ我が
死す日なのだ!且つ我は兒童と為りし時に,便じて卿の家の丞相に識られ拔擢さ
れる所と為って,常に其の死を得ざるを恐れてきた,賢者の知顧をえたものだと
の名声を背負うことになったからだ。今や身を以って社稷に徇じられるのだ,復
た何ぞ道ならんか!」諸葛靚は再三にわたり之を牽きつれようとしたが,動かな
かったため,乃ち涙を流して放りだし去った,行くこと百餘歩して,之を顧みる
と,已にして晉兵に殺される所と為っていた,並んで孫震、沈瑩等七千八百級が
斬られたため,呉人は大いに震えることとなった。
63 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 21:59:38
初め,詔書では王濬を使て建平に下りきたれば,杜預から節度を受け,建業に
至れば,王渾から節度を受けることとなっていた。杜預は江陵に至ると,諸將に
謂って曰く:「若し王濬が建平を得たなら,則ち流れに順い長驅させよ,威名は
已にして著われているのだ,宜しく我に於ける制約を受け令むるべからず;若し
克つこと能わざるなら,則無縁得施節度(則ち節度を施すことを得るような縁る
べなどもとより無くなろう)。」王濬が西陵に至ると,杜預は之に書を與えて曰
く:「足下は既にして其の西籓を摧(くじ)かれたからには,便じて當に建業を
逕取すべきです,累世之逋寇を討ちほろぼし,呉人を塗炭に於けるより釋(すく)
いだし,軍旅を振るわせて都に還るも,亦た曠世の一事ではないですか!」王濬
は大いにスび,杜預の書を表呈した。張悌が敗死するに及び,揚州別駕の何ツは
周浚に謂って曰く:「(呉の丞相たる)張悌が全ての呉の精兵を舉げておきなが
ら此れに於いて殄滅してしまったため,呉之朝野には震懾せざるものなど莫くな
っております。今王龍驤(※龍驤将軍である王濬のこと)は既にして武昌を破り,
勝ちに乘じて東下してきており,向う所輒ち克ち,土崩之勢いが見えております。
謂わんとするのは宜しく速やかに兵を引きつれて渡江し,直ちに建業を指すべき
ということです,大軍が猝至すれば,其の膽氣を奪うことでしょうから,戰わず
して禽える可きこととなりましょう!」周浚は其の謀を善しとし,使いして王渾
に白させることとした。何ツ曰く:「王渾どのは事機に暗く,而して欲すのは己
を慎み咎を免れんとすことですから,必ずや我に從わざることでしょう。」周浚
は固く使いをやって之を白させたが,王渾は果たして曰く:「受けし詔命は但だ
たんに江北に駐屯し以って呉軍に抗すようにとの令であって,輕がるしく進ま使
まざるものであった。貴州は武なりと雖も,豈に能く獨りで江東を平らげえよう
か!今は命を違えて,勝ったとしても多いとするに足りまいが,若し其の勝たざ
るなら,罪を為すこと已にして重くなろう。且つ詔には龍驤を令て我が節度を受
けさせよとある,但だたんに當に君に舟楫を具えさせ,一時にして俱に濟らんと
すのみとしよう。」何ツ曰く:「龍驤どのは萬里之寇に克ち,既成之功を以って
して來たりて節度を受けるのですが,そのようなことは未だ之れ聞かざることで
す。且つ明公は上將と為っております,見えれば可として而して進みましょう,
豈に一一(いちいち)詔令を須つこと得るべきでしょうか!今此れに乘じて渡江
すれば,十全にして必ず克つものです,何をか疑い何をか慮って而して淹留した
まま進まざるのですか!此れ鄙州の上下が恨恨とする所以ですぞ。」しかし王渾
は聽きいれなかった。
64 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:06:01
王濬が武昌より流れに順って建業へ徑趣した,呉主は游撃將軍の張象を遣わし
舟師萬人を帥させて之を御がせんとした,張像の衆は旗を望むと而して降ってし
まった。王濬の兵甲は長江を滿たし,その旌旗は天を燭らし,その威勢は甚だ盛
んとなって,呉人は大いに懼れることとなった。呉主之嬖臣であった岑昏は,傾
險諛佞を以ってして,位を九列に致し,功役を興すことを好んだため,衆が患い
苦しむところと為っていた。晉兵の將に至らんとするに及び,殿中の親近數百人
が叩頭して呉主に於いて請うて曰く:「北軍は日ごと近づいておるのに而して兵
は刃を舉げずにおります,陛下には將た之を如何せんか?」呉主曰く:「何故か
?」對して曰く:「正しく岑昏を坐すのみです。」呉主は獨り言った:「爾が若
かば,當に奴隷を以ってして百姓に謝すべきだというのか!」衆は因って曰く:
「唯!(それだけです)」遂に並び起って岑昏を収めた。呉主は駱驛して追い止
めんとしたが,已に之を屠ってしまったあとであった。
陶浚は將に郭馬を討とうとして,武昌に至ったところで,晉兵大いに入るを
聞いたため,兵を引きつれて東へ還った。建業に至ると,呉主は引見し,水軍の
消息を問うた,對して曰く:「蜀の船は皆小さいものです,今二萬の兵を得て,
大船に乗って以って戰ったなら,自ら之を破るに足ることでしょう。」是に於い
て衆を合わせ,陶浚に節鉞を授けた。明くる日當に出發すべきとなると,其の夜,
衆の悉くが逃れ潰えてしまった。
時に王渾、王濬及び琅邪王の司馬[人由]は皆が近境に臨んでいた,呉の司徒の
何植、建威將軍の孫晏は悉く印節を送り詣でて王渾に降ろうとした。呉主は光祿
勳の薛瑩、中書令の胡沖等の計を用い,使者を分け遣わして書を渾、濬、伷に於
いて奉じさせ以って降らんことを請うた。又た其の群臣に書を遣わして,深く自
らに責を咎めて,且つ曰く:「今大晉が四海を平らげ治めんとしている,是れぞ
英俊が展節之秋であろう,勿以移朝改朔,用損厥志。」使者が先ず璽綬を琅邪王
[人由]に於いて送った。壬寅,王濬の舟師が三山を過ぎると,王渾は信書を遣わ
して王濬を要して(軍事行動を拘束して)暫く事を論じて過ごそうとしてきた;
王濬は帆を挙げ直ちに建業を指すと,返報して曰く:「風が利ろしいゆえ,泊ま
るを得ませんな。」是日,王濬の戎卒は八萬となっており,方舟は百里になんな
んとし,鼓噪して石頭に於いて入っていった,呉主の孫皓は面縛して輿櫬し,軍
門に詣でて降ってきた。王濬は縛めを解き櫬(かせ)を焚きすて,延請相見。
其の圖籍を収めてみると,克ちとった州は四つ,郡は四十三,戸は五十二萬三千,
兵二十三萬であった。
65 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:12:08
朝廷は呉が已に平げられたと聞くと,群臣は皆が慶賀し壽(ことほぎ)を上ら
せてきた。帝は爵を執って涕を流して曰く:「此れは羊太傅の功である。」驃騎
將軍の孫秀は慶賀せず,南を向いて流涕して曰く:「昔討逆(将軍孫策)さまが
弱冠にして一校尉を以って創業せられたものを,今や後の主が江南を挙げて而し
て之を棄てさってしまう,宗廟も山陵も,此れに於いて廃墟と為ってしまおう。
悠悠たるかな蒼天よ,此れ何をか人たらんか!」
呉の未だ下らざるや,大臣は皆が以為らく未だ輕がるしく進む可からずとした
が,獨り張華のみは堅く執って以為らく必ずや克ちましょうとした。賈充は上表
して稱えた:「呉の地は未だ悉く定む可からず,方に夏になれば,江、淮の下流
地域は濕くなるため,疾疫が必ずや起こりましょう,宜しく諸軍を召して還らせ,
以って後圖と為さしむべきです。張華めを腰斬すると雖も以って天下に謝すに足
らざることですぞ。」帝曰く:「此れは是れ吾が意であって,華は但だたんに吾
と(意見を)同じにしているだけだ。」荀勖が復た奏上し,宜しく賈充の表の如
くすべしとしてが,帝は從わなかった。杜預は賈充が罷兵を乞う奏上をしたと聞
きつけ,馳せて表し固く爭わんとした,使いが轘轅に至ったところで而して呉が
已に降った。賈充は(見通しが外れたことを)慚じ懼れ,闕に詣でて罪を請うた
が,帝は慰撫して而して不問とした。
夏,四月,甲申,詔あって孫皓に爵を賜り歸命侯とした。
乙西,大赦し,改元した。大いに酺すこと五日。使者を遣わし分けて荊、揚に
詣でさせ撫慰させた,呉の牧、守已下は皆更め易えることせず,其の苛政を除く
こととし,悉く簡易に従うようにとしたため,呉人は大いにスんだ。
滕修は郭馬を討って未だ克てずにいたおり,晉が呉を伐さんとしていると聞き,
衆を帥して難に赴かんとした,巴丘に至ると,呉亡ぶと聞き,(衣服を)縞素に
して流涕し,還ると,廣州刺史の閭豐、蒼梧太守の王毅と各おの印綬を(晋へ)
送って降らんことを請うた。孫皓は陶璜之子の融を遣わして手づからの書を持た
せて陶璜を諭すと,陶璜は涕を流すこと數日,亦た印綬を送って降った;帝は皆
其の本の職に復させた。
王濬之東下するや,呉の城の戍は皆が風を望んで款附してきたが,獨り建平太
守の吾彦だけは城を嬰して下らず,呉が亡んだと聞いてから,乃ち降った。帝は
吾彦を以って金城太守と為した。
66 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:17:48
初め,朝廷では孫秀、孫楷を尊寵していた,以って呉人を招來せんと欲しての
ことであった。呉が亡ぶに及んだ,孫秀(の位階)を降して伏波將軍と為し,
孫楷を渡遼將軍と為した。
琅邪王の司馬[人由]は使いを遣わして孫皓及び其の宗族を送りだし洛陽に詣で
させた。五月,丁亥朔,孫皓が至ると,其の太子である瑾等と泥頭面縛し,東陽
門に詣でた。詔があって謁者を遣わして其の縛めを解かせ,衣服、車乘、田三十
頃を賜り,歳ごとに錢谷、綿絹を給わること甚だ厚かった。孫瑾を拝して中郎と
為し,諸子で王と為っていた者は皆郎中と為し,呉之舊望は,才に隨って擢敘し
た。孫氏の將吏で渡江してきた者は十年を復し,百姓は二十年を復すこととした。
庚寅,帝は軒に臨み,文武で位に有るもの及び四方の使者をあつめ大會したが,
國子學生は皆預ること焉れなったのである。歸命侯の孫皓及び呉の降人を引見す
ることとなった,孫皓は登殿すると稽顙した。帝は孫皓に謂って曰く:「朕は此
れに座を設けて以って卿を待つこと久しかったぞ。」皓曰く:「臣も南方で,亦
た此れに座を設けて以って陛下を待っておりました。」賈充が孫皓に謂って曰く
:「聞けば君は南方に在りしおり人の目を鑿ち,人の面皮を剥いだというが,此
れは何の刑に等しいかな?」皓曰く:「人臣で其の君を弑し奸回不忠に及ぶ者が
有れば,則ち此の刑を加えるのみですな。」賈充は默然として甚だ愧じいったが,
而して孫皓の顔色は怍すところ無いものであった。
帝は從容として散騎常侍の薛瑩に孫皓が亡びし所以を問うた,對して曰く:
「皓は小人を暱近し,刑罰は放濫であったため,大臣も諸將も,人は自らを保て
ませんでした,此れが其れ亡びし所以であります。」它日,又た吾彦に問うたと
ころ,對して曰く:「呉主は英俊で,宰輔は賢明でありました。」帝は笑って曰
く:「是れに若かば,何故に亡んだのだ?」吾彦曰く:「天は永らえるさまと終
わりのさまを祿しておるもので,歴數には屬すものが有るものです,故に陛下の
為に禽われとなっただけです。」帝は之を善しとした。
67 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:25:28
王濬之建業に入るや,其の明くる日,王渾が乃ち長江を濟ってき,以って王濬
が己を待たずに至り,先んじて孫皓の降伏を受け入れていたため,意は甚だ愧じ
忿って,將に王濬を攻めようとした。何攀が王濬に孫皓を送りだして王渾に与え
るよう勧めたため,是に由って事は解けるを得た。何ツは以って王渾が王濬と功
績を爭ったために,周浚に箋を与えて曰く:「《書》にあり、貴ばれるは克讓で
あると,《易》にあり、大いに謙れば光かがやけりと。前に張悌を破ったおり,
呉人は氣を失い,龍驤どのは之に因って,其の區宇を陷しいれた。其の前後を論
ずるに,我らのほうは實(まこと)は師を緩ませてしまい,既に機會を失ったこ
と,事に於いて及ぶものではない,而るに今方に其の功を競っている;彼が既に
して聲を吞まずにいるのだから,將に雍穆之弘を虧し,矜爭之鄙を興すこととな
ろう,斯かる愚情なりし所は(吾の)取らざることだ。」周浚は箋を得ると,即
ち王渾を諫め止めた。しかし王渾は納れず,表して王濬は詔に違えて節度を受け
なかったとして,その状を罪とするを以って誣した。王渾の子の王濟は,常山公
主を尚んでおり,宗黨が強く盛んであった。(その為そのことを慮って)有司が
これを奏して檻車を請うて王濬を征すようにとしたが,帝は弗(けっ)して許さ
ず,但だたんに詔書を以って王渾の命に従わず,制を違えて利に昧であったこと
を以って王濬に(功績を?)謙譲するよう責めただけであった。それについて王
濬は上書して自らを理めて曰く:「前に詔書を被りましたおりには,臣を令て直
ちに秣陵へ造さしむものとし,又た令があり太尉である賈充さまの節度を受ける
ようにとのことでした。臣は十五日を以って三山に至りまして,王渾の軍が北岸
に在るのに見えたため,書を遣わして臣を邀えさせました;臣は水軍でありまし
たから風が発して勢いに乘っておりましたうえ,賊の城が逕造しておりましたか
ら,船を回す縁るべが無く軍を過ごすこととなりました。そうして臣は日中を以
って秣陵に至ったわけですが,暮には乃ち王渾が下せし所の當に節度を受けるべ
し,臣を令て明くる十六日には領せし所を悉く將いて還って石頭(城)を圍むよ
うに欲しているとの符を被りました,それには又た索きつれてきた蜀兵及び鎮南
諸軍らの人名を定め見ておくようにともありました。臣以為らく孫皓の已にして
來り降ったからには,空しく石頭を圍む由縁など無いものでしょう;又た,兵と
人を定め見ておくこと(※名簿を作成して作戦に参加した人員を確定する作業)
など,倉猝として就くを得る可からざるもので,皆當今之急に非ざることです,
とても承り用いる可きでないもの(命令)であって,敢えて明制を棄てること忽
れというに非ざることでございましょう。孫皓と衆が親しきより叛き離れてしま
ったことは,匹夫が獨りだけで坐にあって,雀鼠が生を貪って,苟くも一活を乞
いねがうのみといったありさまでありました,而るに江北の諸軍はそうした虚実
というものを知らずに,(呉を攻略して)縛り取ること早くせず,自ら小さな誤
りを為していたのです。臣が至って便じて(呉の降伏という成果を)得てしまっ
てから,更めて怨み恚りを見るようなことをしています,並べて云いますが:
68 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:35:46
『賊を守って百日たち,而して他の人を令て之を得させしむ。』というものです。
臣は愚かしくも以為らく君に事(つか)える道とは,苟しくも社稷に利ろしくあ
るもので,死生は之を以ってするもの。若し其の嫌疑を顧みて以って咎責を避け
んとするのなら,此れぞ是れ人臣にあるまじき不忠之利というものであり,實(
まこと)に明主からうけられる社稷之福に非ざるものであるでしょう。」
王渾は又た周浚に書を騰げて云った:「王濬の軍は呉の寶物を得た。」又た
云った「王濬の牙門將である李高が放火して孫皓の偽宮を燒いてしまった。」
王濬は復た表して曰く:「臣は孤り根でありまして獨りだけで立っております
から,強宗から恨みを結ばれております。夫れ上を犯し主を干す,其の罪は救
わる可し;貴臣から乖れ忤らえば,禍ちは測らざること在る、といいます。偽
の郎將である孔攄が説明しました:去る二月に武昌が守りを失い(失陥し),
水軍が行き至ることとなって,孫皓は石頭に行くことを案じて還ってきました,
そうしたところ左右の人は皆が刀を跳ねあげて大呼して云ったといいます:
『要して當に陛下の為に一えに死戰して之を決すべし。』孫皓の意は大いに喜
び,意うに必ずや然ること能うるものとし,便じて金寶を盡く出して以って之
に賜り與えました。小人は状など無いもの,得るや便じて持ちだし逃走してし
まったのです。そこで孫皓は懼れ,乃ち降首を圖ることとなったとのことです。
そうして降使が去るに適うや,左右のものが財物を劫奪し,(孫皓の宮殿にい
た)妻妾を略取し,火を放って宮殿を燒きました。孫皓は身を逃れること竄首
のごとくし,脱けだせず死すことを恐れたのです。そこに臣が至って,參軍の
主だった者を遣わして救うこととし其の火を断っただけでございます。周浚が
先んじて孫皓の宮殿に入り,王渾も又た先んじて孫皓の舟に登りました,臣が
入り觀たことは,皆其の後に在ったものです。孫皓の宮之中は,乃ち坐す可き
席とて無くなっておりました,若し遺された寶が有ったのだとしても,それは
則ち周浚と王渾が先に之を得たはずでございます。等雲臣屯聚蜀人,不時送皓,
欲有反状。又た呉人を動かしてしまうことを恐れてか,臣に皆當に誅殺すべき
であるとか,其の妻子を(人質に)取るべきであるとか言ってきましたが,其
れ亂を作して,私忿を騁すを得んと冀うものでありました。謀反は大逆である
ものですが,尚も以って(大赦を/詳しい取り調べが)加えられるに見えるも
のです,其の餘りの謗りなど□沓というものです,故(もと)より其れ宜しく
すべきのみでございましょう。今年は呉を平(定)なさいましたからには,誠
に大慶を為したことでございます;臣之身に於けることについては,(慶年で
はない翌年にでも)更めて咎累を受けたくぞんじます。」
69 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:43:06
王濬が京師に至ると,有司が奏上して王濬は詔に違えて,大いに不敬である,
請いねがわくば廷尉に付けて罪を科りたいとしてきた;しかし詔がくだって許
されなかった。又た奏上があり王濬は赦免後に賊船百三十五艘を燒きすてたか
ら,輒ち敕令をくだして廷尉に付けて禁推するようにとしてきた;しかし詔が
あって推すこと勿れとなった。
王渾、王濬が功を爭って已まなかったため,帝は守廷尉であった廣陵(出身)
の劉頌に命じて其の事を校ずようにとしたところ,王渾を以って上功と為し,
王濬を中功と為してきた。(その歪んだ校じかたに)帝は以って劉頌は法を折
り理を失ったとして,京兆太守に左遷した。
庚辰,賈充の邑を増して八千戸とし,王濬を以って輔國大將軍と為し,襄陽
縣侯に封じた;杜預は當陽縣侯と為った;王戎は安豐縣侯と為った;琅邪王の
司馬[人由]の二子を封じて亭侯と為した;京陵侯である王渾の邑を揩オて八千
戸とし,爵を進めて公と為した;尚書であった關内侯の張華は封を廣武縣侯に
進められ,増邑して萬戸となった;荀勖は以って典詔命功を専らにしたとして,
一子を封じて亭侯と為した;其の餘りの諸將及び公卿以下は,賞賜に各おの差
が有った。帝は以って呉を平げたため,策をくだして羊祜の廟に告げさせると,
乃ち其の夫人である夏侯氏を封じて萬歳郷君とした,食邑は五千戸である。
王濬は自らを功大なるを以ってしながら,而して王渾父子及び黨與の為に挫
抑される所となったことから,進見する毎に,其の攻伐之勞及び枉げられるに
見えた之状況を陳べ,或るときには忿憤に勝てず,逕出するにあたって辭すこ
となかったほどであったが;帝はこと毎に之を容恕したのである。益州護軍の
范通は王濬に謂って曰く:「卿の功は則ち美しいが,然りながら恨む所以は美
しきに居る者として未だ善を盡くしておりませんな。卿は旋旃せる日には,角
巾私第し,口不言平呉之事(呉平定の事について自分では言わないが宜しい),
そして若し問う者が有れば,輒ち曰く:『聖人之コがあって,また群帥之力めに
よるもの,老夫が何をか之に力めたこと有ったろうか!』とするのです。此れぞ
藺生が廉頗に屈した所以,王渾も愧じること無くすこと能うでしょうな!」王濬
曰く:「吾は始めケ艾之事で懲らしめられたおり,禍ちが身に及ぶことを懼れて,
無言でいることを得なかった;其終不能遣諸胸中,是れが吾が褊である。」時の
人は鹹(みな)以って王濬の功が重いのに報われたことが輕かったため,之が為
に憤邑したのである。博士の秦秀等が並んで上表して王濬之屈辱を訟えたため,
帝は乃ち王濬を遷して鎮軍大將軍とした。王渾が嘗て王濬に詣でたおり,王濬は嚴
しく護衛を設け備えてから,然る後に之に見えた。
70 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:51:58
杜預は襄陽に還ると,以為らく天下は安んじたと雖も,戰を忘れれば必ずや
危うしとして,乃ち講武に勤め,戍守を厳しくしておくよう申しわたした。又
た滍、淯から水を引きこみ以って田を浸すこと萬餘頃,揚口を開いて零、桂之
漕に通じさせたため,公私は之をョりにした。杜預は身づからは馬に跨れず,
射撃は札を穿ざるものであったが,而して兵を用いて勝ちを制すことにかけて
は,諸將で及ぶもの莫かった。杜預が鎮に在ったおり,數(たびた)び洛中の
貴要へ餉遺をおこなっていた;或るひとが其の故を問うと,杜預曰く:「吾但
だ害されることに為るを恐れるのみ,益を求めず。」
王渾は征東大將軍に遷り,復た壽陽を鎮めた。
(呉が平定されてしまってから)諸葛靚は逃竄したまま出なかった。帝は諸
葛靚と旧縁が有り,諸葛靚の姊が琅邪王妃と為っていたことから,帝は諸葛靚
が姊の間に在ると知り,因って就きて見えること焉れならんとした。諸葛靚は
廁に逃れたが,帝も又た之に逼り見え,謂って曰く:「不謂今日復得相見!
(今日復た相見えることを得たと丕いに謂うところだな)」諸葛靚は涕を流し
て曰く:「臣は漆身皮面すること能わず,復た聖顔を睹すことになり,誠に為
に慚じ恨みいるしだい!」詔がくだされて以って侍中と為そうとしたが;固辭し
て拜さず,郷里に於けるに歸ると,終身朝廷を向かずに而して坐したという。
六月,復た丹水侯睦を封じて高陽王と為した。
秋,八月,己未,皇弟延祚を封じて樂平王と為したが,尋くして薨じた。
九月,庚寅,賈充等が天下一統なったことを以って,屢ねて封禪を請うてき
たが;帝は許さなかった。
冬,十月,前將軍で青州刺史である淮南(出身)の胡威が卒した。威は尚書
と為ると,嘗て時政之ェを諫めたことがあった。帝曰く:「尚書郎以下,吾の
假借する所など無いのだが。」胡威曰く:「臣が陳べし所は,豈に丞、郎、令
史に在るものでしょうぞ,正しく臣等の如き輩に謂うもので,始めるに王化を
肅し法を明らかにするを以ってす可きだけですぞ!」
是の歳,司隸が統めし所の郡を以って司州を置くこととなった,凡そ州は十
九,郡國は一百七十三,戸(数)は二百四十五萬九千八百四十である。
71 :無名武将@お腹せっぷく:2010/02/15(月) 22:57:33
詔に曰く:「昔漢の末より,四海は分かたれ崩れおちてから,刺史は内では
民事に親しみ,外では兵馬を領すこととなってきた。今天下は一つと為ったの
だから,當に干戈を韜戢すべきである,刺史は職を分かつこと,皆漢氏の故事
の如くとす;悉く州郡より兵をとり去り,大郡には武吏百人を,小郡には五十
人を置くものとす。」交州牧の陶璜が上言した:「交、廣州は西すこと千里を
數えるものでして,賓屬せざる者は六萬餘戸もあるというのに,官役に服し従
うに於けるに至るものは,才五千餘家でございます。二州は脣齒でありまして,
唯だ兵だけが是れ鎮めおけるものです。又た,寧州の諸夷が,上流で接し據っ
ておりまして,水陸並び通じておりますから,州兵は未だ宜しく約損したりし
て,以って單虚を示させるべからざることです。」僕射の山濤も亦た言った
「宜しく州郡より武備をとり去るべからず」。しかし帝は聽きいれなかった。
永寧以後に及んで,盜賊が群れ起つと,州郡には備えが無かったため,禽制す
こと能わず,天下は遂に大いに亂れることとなったこと,山濤が言いし所の如
くとなった。然るに其後に刺史は復た兵民之政を兼ねることとなって,州鎮は
愈すます重くなったのである。
漢、魏以來,羌、胡、鮮卑で降った者は,多くが之を塞内の諸郡に處すこと
となっていた。其の後になり數(たびた)び忿りや恨みに因って,長吏を殺害
し,漸いに民の患いと為ってきた。侍御史であった西河(出身)の郭欽が上疏
して曰く:「戎狄が強_でありますこと,古を歴してより患いを為しております。
魏の初めには民が少なかったことから,西北の諸郡は,皆戎居と為りまして,内
及び京兆、魏郡、弘農は,往往にして之が有るわけです。今は服從していると雖
も,若し百年之後に風塵之警が有れば,胡騎は平陽、上黨より三日もせずに而し
て孟津に至ることでしょう,北地、西河、太原、馮翊、安定、上郡は盡くが狄の
庭と為りはてましょう。宜しく平呉の威と,謀臣や猛將の方略を及ぼすべきであ
ります,漸いに内郡の雜胡を邊地に於けるに徙(うつ)して,四夷から出入之防
を峻別(峻拒)し,そうして先の王たちがおこなった荒服之制を明らかとなさい
ますように,此れぞ萬世の長策というものです。」帝は聽きいれなかった。
張賓字孟孫,趙郡中丘人也.父瑤,中山太守.賓少好學,博涉經史,不為章句,闊達有大節,
常謂昆弟曰:「吾自言智算鑒識不後子房,但不遇高祖耳.」為中丘王帳下都督,非其好也,病免.
張賓は字を孟孫といい、趙郡中丘の人である。父・張瑤は中山太守であった。若くして学を好み、
経書や歴史に詳しく、文章は作らず、闊達でおおいに節度があった。
いつも弟にいうには「私の知謀見識は張良にも劣らないと思っている。ただ、劉邦に会っていないだけだ」と。
中丘王の帳下都督となったが、意欲を抱けず、病気を理由にやめた。
張賓は字を孟孫といい、趙郡中丘の人である。父・張瑤は中山太守であった。若くして学を好み、
経書や歴史に詳しかったが大意をつかむところでとどめており、また、闊達でおおいに節度があった。
常々、弟に語っていた。「私の知謀見識は張良にも劣らないと思っている。ただ、劉邦に会っていないだけだ」
中丘王の帳下都督となったが、意欲を抱けず、病気を理由にやめた。
及永嘉大亂,石勒為劉元海輔漢將軍,與諸將下山東,賓謂所親曰:「吾歷觀諸將多矣,
獨胡將軍可與共成大事.」乃提劍軍門,大呼請見,勒亦未之奇也.
後漸進規謨,乃異之,引為謀主.機不虛發,算無遺策,成勒之基業,皆賓之勳也.
及為右長史、大執法,封濮陽侯,任遇優顯,寵冠當時,而謙虛敬慎,開襟下士,
士無賢愚,造之者莫不得盡其情焉.
肅清百僚,屏絕私昵,入則格言,出則歸美.
勒甚重之,每朝,常為之正容貌,簡辭令,呼曰「右侯」而不名之,勒朝莫與為比也.
永嘉の乱の際に、石勒は劉淵の輔漢將軍として、諸将とともに山東に来ていた。
張賓は親しいものに話した。
「私はこれまで多くの将を見てきたが、あの胡將軍だけが共に大事業を行うに足る」。
剣を携え、軍門に行き、大声で呼んで会うことを求めた。
石勒は別段、この時は優れた人物とはみなさなかった。
のち、少しずつ、策略をすすめ、ただものでないと思い、謀主にした。
機は見逃さず、計略にあやまちはなかった。石勒の基業成功は皆、張賓の功績であった。
右長史、大執法となり、濮陽侯に封じられ、特別な扱いを受け、寵愛は当時で一位であった。
さらに、謙虚で慎み深く、下の士大夫にもあけっぴろげであり、士大夫は賢愚となく
百官を静め、コネを絶ち、幕下に入ってからは名言を放ち、
石勒はとても、彼を重んじ、毎朝、常に身だしなみを整え、「右侯」と呼んで名を言わなかった。
石勒は
永嘉の乱の際に、石勒は劉淵の輔漢將軍として、諸将とともに山東に来ていた。張賓は親しいものに話した。
「私はこれまで多くの将を見てきたが、あの胡將軍だけが共に大事業を行うに足る」。
剣を携え、軍門に行き、大声で呼んで会うことを求めた。石勒は別段、この時は優れた人物とはみなさなかった。
のち、少しずつ、策略をすすめ、ただものでないと思い、謀主にした。機は見逃さず、計略にあやまちはなかった。
石勒の基業成功は皆、張賓の功績であった。
右長史、大執法となり、濮陽侯に封じられ、特別な扱いを受け、信任は当時第一であった。
さらに、謙虚で慎み深く、下の士大夫にもあけっぴろげであり、
士大夫は賢愚となく、張賓とあうものは全て目をかけてもらえた。
百官を静め、コネを絶ち、朝廷の中では適切な進言を行い、朝廷の外では手柄を他人のものにするのをよしとした。
石勒はとても、彼を重んじ、毎朝、常に身だしなみを整え、簡略に「右侯」と呼んで名を言わなかった。
石勒の朝廷では比肩するものはいなかった。
張賓は字を孟孫といい、趙郡中丘の人である。父・張瑤は中山太守であった。
若くして学を好み、 経書や歴史に詳しかったが大意をつかむところでとどめており、
また、闊達でおおいに節度があった。
常々、弟に語っていた。
「私の知謀見識は張良にも劣らないと思っている。ただ、劉邦に会っていないだけだ」
中丘王の帳下都督となったが、意欲を抱けず、病気を理由にやめた。
永嘉の乱の際に、石勒は劉淵の輔漢將軍として、諸将とともに山東に来ていた。
張賓は親しいものに話した。
「私はこれまで多くの将を見てきたが、あの胡将軍だけが共に大事業を行うに足る」。
剣を携え、軍門に行き、大声で呼んで会うことを求めた。
石勒は別段、この時は優れた人物とはみなさなかった。
のち、少しずつ、策略をすすめ、ただものでないと思い、謀主にした。
機は見逃さず、計略にあやまちはなかった。石勒の基業成功は皆、張賓の功績であった。
右長史、大執法となり、濮陽侯に封じられ、特別な扱いを受け、信任は当時第一であった。
さらに、謙虚で慎み深く、下の士大夫にもあけっぴろげであり、
士大夫は賢愚となく、張賓とあうものは全て目をかけてもらえた。
百官を静め、コネを絶ち、朝廷の中では適切な進言を行い、
朝廷の外では手柄を他人のものにするのをよしとした。
石勒はとても、彼を重んじ、入朝するたびに、常に身だしなみを整え、
言葉遣いを選んで「右侯」と呼んで名を言わなかった。
石勒の朝廷では比肩するものはいなかった。
彼が死んだ時、石勒は自ら哭して、側近に哀しみを告げた。
散騎常侍、右光祿大夫、儀同三司を贈り、諡を『景』とした。
正陽門において葬る際、石勒は眺めて、涙を流し、側近に語った。
「天は私が大事を成すのは望んでいないのか。なぜ、私から右侯をこんなに早く奪ったのだ!」。
程遐が代わりに右長史になった。石勒が程遐と議論し、合わないところがある度に、嘆いた。
「右侯は私を捨てて去ってしまい、こんな奴らと大事をさせようとしている。なんという残酷なことだ!」。
そのため何日も、涙を流した。
石勒、字は世龍。初めの名は背(つつみがまえ付き)といった。上党武郷の羯族の人である。
先祖は匈奴の別部である羌渠族の冑である。祖父の名を耶奕于といい、
父の名を周曷朱もしくは乞翼加といった。
ともに少数部落の族長で、石勒が生まれたときには赤光が部屋に満ち、白気が天から中庭に降りてきた。
十四歳の時、邑の人に従い、洛陽にまで商売に来て、上東門に寄り掛かり鼻歌を歌っていた。
その時、王衍が彼をただ者でないと見て、側近を見て言った。
「向かいにいる胡人の子供は、私が声・姿を見るにたぐいまれなる志がある。
天下に災いになることが恐ろしい」。
側近をつかわし、捕らえようとしたが、石勒はすでに去っていた。
長じるに体は丈夫で力・度胸はあり、武芸に優れ、騎射を好んだ。
周曷朱の性格は凶暴でおおざっぱで、胡人たちが従わず、
いつも自分の代理として石勒に(部族を)統括、監督させた。
部族の胡人たちは石勒を信愛していた。
居住していた武郷の北側の台地にある山の草木はみな鉄騎のような形をしており、
家の庭に生えた人参は花葉がとても生い茂り、全て人間のような形をしていた。
石勒とあった長老たちは皆、こういった。
「この胡人の容貌はただ者ではなく、志が常人とは違う。
死ぬまでにどれほどの人間になるか、想像もできない」。
(長老たちは)邑の人に厚遇するように勧めたが、その時はほとんどのものが笑い飛ばした。
ただ鄔人の郭敬と陽曲のィ駆だけが、長老の言葉に同意し信じ、(石勒に)資金をめぐんだ。
石勒は恩を感じ、二人のために全力で畑を耕した。
その度に鐘の音が聞こえ、帰ってから母のそのことを告げた。母は言った。
「苦労して農作業をして耳が鳴るのは、悪いことじゃないよ」
太安中,并州飢亂,勒與諸小胡亡散,乃自雁門還依ィ驅.北澤都尉劉監欲縛賣之,驅匿之,獲免.
勒於是潛詣納降都尉李川,路逢郭敬,泣拜言飢寒.敬對之流涕,以帶貨鬻食之,并給以衣服.勒謂敬曰:
「今者大餓,不可守窮.諸胡飢甚,宜誘將冀州就穀,因執賣之,可以兩濟.」
敬深然之.會建威將軍閻粹説并州刺史、東嬴公騰執諸胡於山東賣充軍實,
騰使將軍郭陽、張隆虜群胡將詣冀州,兩胡一枷.
勒時年二十餘,亦在其中,數為隆所敺辱.敬先以勒屬郭陽及兄子時,陽,敬族兄也,
是以陽、時毎為解請,道路飢病,ョ陽、時而濟.
既而賣與仕(草かんむりつき)平人師懽為奴.有一老父謂勒曰:
「君魚龍髮際上四道已成,當貴為人主.甲戌之歲,王彭祖可圖.」
勒曰:「若如公言,弗敢忘コ.」忽然不見.毎耕作於野,常聞鼓角之聲.
勒以告諸奴,諸奴亦聞之,因曰:「吾幼來在家恒聞如是.」諸奴歸以告懽,懽亦奇其状貌而免之.
太安年間(302〜303年)。并州で飢饉が起き、石勒は若い胡人とともに遠くに散っていった。
のちに雁門郡から帰り、ィ駆を頼っていった。北沢都尉の劉監が石勒を捕らえ売ろうとしたところ
(ィ驅が)を匿ってくれ、とらえらえずに済んだのである。
石勒は事態がここに至ったので、ひそかに、都尉の李川のところに行き自首した。
路上で郭敬に会い、拝み泣いて寒さと飢えを訴えた。
郭敬も石勒に向かって涙を流し、持っていた金と食料と衣服を与えた。石勒は郭敬に言った。
「今は大飢饉です。困窮するのを待つばかりではいけません。多くの胡人たちはとても飢えています。
冀州に食料があるといって誘導し、捕らえて売ってしまうべきです。
それで、あなたと胡人ともに助かるでしょう」。
郭敬は石勒の言葉に大いに同意した。并州刺史、東嬴公の司馬騰が建威將軍・閻粹に、
胡人たちを捕らえ、山東に売り、軍資金にあてるように説かれ、(派遣された)
将軍の郭陽と張隆が胡人たちを捕らえ二人一枷にして冀州に赴いているのに会った。
石勒はその時、二十数歳であり、その中にいれられて、何度も張隆に殴られ、辱められた。
それ以前に郭敬は、郭陽が自分の兄筋の親戚だったので、
石勒を郭陽と兄の子、郭時に所属させるようにさせていた。
それで郭敬、郭時はいつも(張隆に石勒をいたぶるのを)やめるように頼んでいた。
途上で、飢え、病にかかったが、郭陽を頼り、なんとか助かった。
仕(草かんむりつき)平の人、師懽に売られ、その奴隷となった。ある老人が石勒に言った。
「あなたは、人の主となる貴い相をしている。甲戌の歳、王彭祖、図るべし」。
石勒は答えた。「もし、その言葉どおりならば、あなたの徳を忘れることはないだろう」。
(老人は)ふいに姿を消した。野を耕作する度に、太鼓と角笛の音が聞こえた。
石勒は他の奴隷たちに(そのことを)告げると、奴隷たちにも聞こえていた。それで石勒は言った。
「私は幼いとき、家にいる時からこれが聞こえていた」。
奴隷たちは帰ってから師懽に(そのことを)告げた。
師懽も(石勒の)姿形からただ者ではないと思い、耕作させるのを免除させた。
及成都王穎敗乘輿于蕩陰,逼帝如鄴宮,王浚以穎陵辱天子,使鮮卑擊之,穎懼,挾惠帝南奔洛陽.
帝復為張方所逼,遷于長安.關東所在兵起,皆以誅穎為名.河間王顒懼東師之盛,欲輯懷東夏,乃奏議廢穎.
是歳,劉元海稱漢王于黎亭,穎故將陽平人公師藩等自稱將軍,起兵趙魏,眾至數萬.
勒與汲桑帥牧人乘苑馬數百騎以赴之.桑始命勒以石為姓,勒為名焉.藩拜勒為前隊督,從攻平昌公模於鄴.
模使將軍馮嵩逆戰,敗之.藩濟自白馬而南,濮陽太守苟晞討藩斬之.
勒與桑亡潛苑中,桑以勒為伏夜牙門,帥牧人劫掠郡縣繫囚,又招山澤亡命,多附勒,勒率以應之.
桑乃自號大將軍,稱為成都王穎誅東海王越、東嬴公騰為名.桑以勒為前驅,屢有戰功,署為掃虜將軍、忠明亭侯.
桑進軍攻鄴,以勒為前鋒都督,大敗騰將馮嵩,因長驅入鄴,遂害騰,殺萬餘人,掠婦女珍寶而去.
濟自延津,南擊兗州,越大懼,使苟晞、王讚等討之.
成都王・司馬穎が恵帝をつれて蕩陰において敗北し、恵帝は鄴にある宮廷に押し込められ、
王浚が司馬穎が天子を陵辱しているとして、鮮卑をつかわして、司馬穎を攻撃させた。
司馬穎は怖れて、恵帝を連れ、南・洛陽に逃げ、恵帝は今度は張方に押し込められ、長安に移された。
関東で兵を起こすものは、皆、司馬穎を殺すことを名目とした。
河間王・司馬顒は東の軍の勢いが盛んなのを怖れて、東のいる晋人をなだめようと、司馬穎を廃することを奏上し議題にあげた。
この年に、劉淵が黎亭において漢王を名乗り、司馬穎の武将であった公師藩が将軍を自称し、
趙魏地方において、挙兵し、数万の衆となっていた。
石勒は牧人の総帥である汲桑とともに牧場の馬に乗り、数百騎で公師藩の軍に赴いた。
汲桑はこの時、初めて石勒に石姓を与え、勒を名とさせた。
公師藩は石勒を前隊の督に任命し、鄴において平昌公・司馬模を攻めた。
司馬模は将軍の馮嵩に迎え撃たせ、公師藩を破った。
公師藩は白馬の南から(黄河を)渡ろうとしたが、濮陽太守・苟晞が公師藩を討ち、斬った。
石勒は汲桑と牧場に逃れて潜み、汲桑は石勒を伏夜牙門に任命した。
牧人たちを率い、郡県の囚人を攻め取り、山にいる亡命者を招き寄せ、多数が石勒についた。
汲桑は大将軍を自称し、成都王・司馬穎のために東海王・司馬越、東嬴公・司馬騰を誅することを名目とした。
汲桑は石勒を先鋒とし、しばしば功績をあげたので、掃虜將軍・忠明亭侯に任命した。
汲桑は進軍して鄴を攻め、石勒を前鋒都督にし、司馬騰の武将・馮嵩を大いに破り、長駆して、鄴に入り、
遂に司馬騰を殺し、一万余人も殺して、婦女子や珍宝を掠めとって去っていった。
延津から(黄河を)渡り、南に行き、兗州を攻撃し、司馬越は大いに怖れ、苟晞と王讚に命じて、汲桑を討たせた。
桑、勒攻幽州刺史石尟於樂陵,尟死之.乞活田禋帥眾五萬救尟,勒逆戰,敗禋,與晞等相持于平原、陽平間數月,
大小三十餘戰,互有勝負.越懼,次於官渡,為晞聲援.桑、勒為晞所敗,死者萬餘人,乃收餘眾,將奔劉元海.
冀州刺史丁紹要之于赤橋,又大敗之.桑奔馬牧,勒奔樂平.王師斬桑于平原.
汲桑と石勒は幽州刺史・石尟を楽陵に攻め、石尟は戦死した。
乞活の田禋が五万の衆を率いて石尟を救いにきて、石勒は迎え撃ち、田禋を破り、
苟晞と平原、陽平の間で数ヶ月、相対した。
大小あわせて三十数回戦い、互いに勝ち負けがあった。
司馬越は怖れて、官渡に軍を宿営させ、苟晞のために(汲桑を)牽制させた。
汲桑と石勒は苟晞に敗れ、死者一万余人を出し、残った衆を集め、率いて劉淵のもとに逃げていった。
冀州刺史・丁紹が赤橋においてこれを阻み、大いに破った。汲桑は馬牧に逃げ、石勒は楽平に逃げた。
晋軍が汲桑を平原において斬った。
浚、字は彭祖。母は趙氏の婦人(未亡人?)で、良家の生まれであったが、生活に困窮し
王沈の屋敷に小間仕えで出入りしているうちに、まもなく浚を出産した。
王沈ははじめ、浚を嫡出子とは認めなかった。
浚が十五歳のときに王沈は薨じたものの、嫡子に恵まれず、親戚達は相談して王浚を嗣子とし、
当主に擁立した。このとき【馬付】馬都尉の官職に蔭補された(拝領した)。
太康年間の初め(280年)、諸王侯に付き従って任地の郡国に赴任した。
太康三年(282年)、朝廷に召し出されると、新たに員外散騎侍郎の職に任ぜられた。
元康年間の初年(291年)には、員外常侍に転任し、さらには越騎校尉、右軍将軍へと位を進めた。
転出して河内太守に補任されたが、司馬氏の郡公が知行を得ていたので、地方長官として
政務を執り行う機会は得られなかった。(ここの意訳は自信がない)そこで、東中郎将に転任し、
許昌に出鎮することになった。
愍懷太子が許昌に幽閉されるに及んで(元康十年・300年)、王浚は賈后の意を受けて
?門の孫慮とともに太子を殺害した。
(この功によって)寧北将軍、青州刺史へと昇任した。
ついで間もなく、寧朔將軍、持節、都督幽州諸軍事にまで昇進を重ねた。
時に、朝廷は(八王の乱によって)混乱を極め、巷間には盗賊が跋扈して、平寧を得る様子が
なかったので、王浚は自らの保身を案じて、夷狄と交際を親密にして友好関係を築き、同盟を
結ぶことを計画した。そこで一女を鮮卑の段務勿塵に、一女を蘇恕延に嫁がせることとなった。
趙王倫が簒奪するに及んで、三王(斉王、成都王、河間王)は義兵を挙げ檄を飛ばしたが、
王浚は配下を使って国境封鎖を厳にして檄書をさえぎり、領内の士大夫から庶民に至るまで
三王の挙兵には参加しないように措置を講じた。 (永康二年・301年)
成都王穎はこのことを根に持って、いつか王浚を討伐してやろうと意気込んだものの、なかなか
その機会を得ることができなかった。趙王倫が誅伐されるに及んで、王浚は安北将軍を号するに
至った。河間王?、成都王穎は共謀して兵を洛陽に差し向け、長沙王乂を詐略に嵌めて討ち
滅ぼしたが、このことで王浚は成都王穎に対し不満を抱くようになった。(太安三年・304年)
成都王穎は上表して、幽州刺史石?を右司馬に、右司馬の和演を石?に代えて幽州刺史
に任じるような人事異動を要求したが、その実、密かに演に命じて王浚を攻め滅ぼさせ、幽州の
衆人を己の勢力に併呑しようと目論んでいたのだった。
和演は烏丸単于の審登と暗殺計画を共謀し、王浚と薊城の南清泉で遊覧する約束を交わ
して、そこで彼を亡き者にしようと図った。薊城には西に通ずるにふたつの幹線道路があって、
浚と演はそれぞれの一道を通ってやって来た。
演は浚と合い鹵簿することを望み(干戈を交えるの意か、それとも行列を並べてともに遊覧に
行こうと誘っているのか?ちょっと自信なし)、よってすなわち計画をここで実行することにした。
ところが、天候はたまたま暴風雨にあたり、準備しておいた兵卒・装備は雨に濡らし、何の成果
も得られないまま還るはめになってしまった。
単于はこの出来事で考えるところがあったので、烏丸の衆人たちを集めて相談することにした。
「和演の野郎は、王浚を暗殺しようと図ったが、もう少しで事が成るってときに、大雨が降ってきて
まんまと取り逃がしちまった。こりゃあ、天が王浚を助けようと思ったからに違いねえ。」
「ツキに見放されちまった和演の野郎なんかと一緒に行動するなんて真平御免だな。」
こうして、烏丸の部衆は暗殺計画があったことを王浚に密告した。王浚は密かに軍に戒厳令を
布き、兵旅を準備させ、烏丸単于と共に和演を包囲した。演は白旗を揚げて王浚に投降した。
王浚は和演を斬首して、成都王への叛旗を翻し、ついに自ら幽州を領有する意図を明らかにした。
兵器を大々的に製造し、娘婿の段務勿塵を招聘して胡漢合わせて20,000の兵を率いさせ、
成都王穎討伐の軍旅を進める次第となった。主簿の祁弘を尖鋭部隊として進軍し、平棘に
おいて成都王の部将石超の軍と遭遇した折には、これを散散に撃ち破った。
王浚は勝ちに乗じて遂には【業β】城を攻め落としたが、この際兵卒に略奪を許可して、
多くの城民がその災禍に巻き込まれ命を落とした。さらに鮮卑は婦女子を略奪すること甚だしく、
見かねた王浚が「敢えて略奪した婦女子を隠匿する者がいたら斬る!」と発令すると、あわてて
易水に沈められてしまった婦女たちは八千にも達したといわれる。
黔庶荼毒、自此始也。(人民の害悪、これより始まる)
王浚が薊城に帰還すると、その声実は否が応でも高まった。東海王越はまさに天子(恵帝)を
迎えんとしたので、浚は祁弘に烏丸突騎を率いて派遣させ、先駆の任務を申し付けた。(永興二年・305年)
恵帝が洛陽に凱旋すると、浚は驃騎大將軍、都督東夷河北諸軍事、領幽州刺史に任じられ、
燕国から博陵の封地をもって加増を受けた。(永興三年・306年8月)
懐帝は即位すると、浚を司空及び領烏丸校尉に任じ、段務勿塵に大単于の位を授けた。
王浚はまた、務勿塵に遼西郡公の封位を授け、烏丸の大飄滑及びその弟羯朱らをして親晋王
と為すように上表した。
永嘉年間(307年〜312年)、石勒が冀州に寇略してきたため、王浚は鮮卑の段文鴦を
派遣して石勒を討伐させた。この敗戦によって石勒は南陽(黎陽の誤文?)方面へ敗走した。
(永嘉三年・309年「飛龍山の戦い」)
明くる年(310年)、石勒はまたもや冀州に侵攻し、刺史の王斌を殺害した。このため、王浚は
ふたたび冀州に軍を差し向けることとなった。王浚を大司馬、加侍中、大都督、督幽冀諸軍事
に昇進させる詔勅が発せられた。
しかし、その詔勅を届ける使者が出立しないうちに、洛陽は匈奴に攻め落とされてしまったので、
王浚は大司馬の威令をもって、自ら征討の軍を起こし、督護の王昌、中山太守の阮豹たちをして
諸軍及び段務勿塵の世子疾陸眷、並びに弟の文鴦、従弟の末?ら鮮卑兵を率いさせ、石勒
を襄国に攻略した。勒はその部衆を率いて長躯来寇したが、王昌は逆撃してこれを敗走させた。
段末?がこれを追撃して、襄国の塁壁に侵入したあたりで石勒の捕虜となってしまった。勒は
末?を人質として水面下で和平交渉を始めたので、段疾陸眷はついに鎧馬二百五十匹及び
金銀各一?をもって末?と交換することにし、停戦の盟約を結んで、その軍を撤収させたのである。
時胡部大張※督、馮莫突等擁眾數千,壁于上黨,勒往從之,深為所昵,因説※督曰:
「劉單于舉兵誅晉,部大距而不從,豈能獨立乎?」曰:「不能.」勒曰:
「如其不能者,兵馬當有所屬.今部落皆已被單于賞募,往往聚議欲叛部大而歸單于矣,宜早為之計.」
※督等素無智略,懼部眾之貳己也,乃潛隨勒單騎歸元海.元海署※督為親漢王,莫突為都督部大,
以勒為輔漢將軍、平晉王以統之.勒於是命※督為兄,賜姓石氏,名之曰會,言其遇己也.
時に、胡族の酋長、張背(つつみがまえ付き)督、馮莫突は衆数千を擁して、上党に籠もっていたので、
石勒はそこに赴き、昵懇の仲となり、張背督に言った。
「劉単于(劉淵)は挙兵して、晋を滅ぼそうしているのに、酋長は従属することを拒んでいる。独立できると思っているのか?」。
(張背督が)答えるには「できないだろう」。
石勒は言った。「そのようにできない者が、兵馬を所有している。今、部族のものは全員、単于の召募にかかっており、
幾たびも酋長に逆らって、単于のところに行きたいと望んで議論している。その計画が実行されるのももうすぐだろう」。
張背督たちは元々、知略が無く、部族のものの二心を怖れ、ひそかに石勒に従い、単騎で劉淵のもとに帰順した。
劉淵は張背督を親漢王に任じ、馮莫突を都督部大にした。石勒を輔漢將軍、平晉王として、二人を統率させた。
石勒は張背督を兄とし、石姓を与え、名を会とさせ、彼に対して自分に対するのと同じ言葉遣いを(部下に)させた。
その後(
>>210 襄国包囲の後)、王浚は天下に布告し、(内々で)詔を受け制を承ったのだと称して、
司空の荀藩を太尉に光禄大夫の荀組を司隷校尉に、大司農華薈を太常に、中書令李?を河南尹に
任命した。
王浚は一方で、祁弘を石勒討伐のため廣宗まで派遣した。ところが、途中凄まじい濃霧に見舞われて
迷ってしまった行軍を立て直すために、祁弘が道を探して兵を誘導していたところ、不運にも石勒の軍と
鉢合わせてしまう。祁弘は捕らえられ、石勒の斬殺するところとなった。
(王浚の軍事力の要とも言うべき祁弘が亡くなったことを受けて)劉コン(以後字の越石で通します。)は、
王浚と冀州の覇権を争う意図を顕わにした。劉越石は一族の劉希を中山へ帰還させて、拓跋部の勢力
と中山の現地兵力を合流させたので、代、上谷、廣寧の三郡の人々は(その威勢を恐れて)
みな劉越石の下へこぞって帰順した。
浚はこのことを大変煩わしく思い、準備していた石勒討伐の出陣を取りやめ、劉越石との国交を断絶し
て、先に并州の憂いを取り除こうとした。浚は燕国の相胡矩に兵を授けて、段疾陸眷と共同で劉希を
攻撃させこれを撃ち破った。代、上谷、廣寧の三郡の士女は大いに略奪を受け幽州まで連行されたため、
劉越石はそれ以上王浚と戦争を継続することが出来なくなった。
建興元年(313年)、王浚は薊城へ帰還すると再び石勒征討を企て、棗嵩に総司令官として諸軍を
率いて易水に駐屯させると、段疾陸眷に共同で襄国を攻略する作戦計画を持ちかけた。
この時期になると、王浚の政治は苛暴となり、またその官吏たちは貪欲で残酷、誰も彼も国有地である
山沢を荘園として広大に占有横領し、勝手に公共の堤防から己の荘園の農地に水を引き入れ、
墓荒しが横行し、租税の徴発が度重なったため、庶民は堪えきれずに多くが造反して鮮卑(拓跋部、
段部及び慕容部)部落へと亡命して行った。
從事侍郎であった韓鹹はこのことを強く諫言したが、浚は激怒して彼を処刑した。
疾陸眷はこの事件のせいで、盟約を違えたときに王浚に誅殺されるのではないかと恐れるようになった。
石勒もまた賄賂を段部にたびたび贈答して誼を通じて来ていたので、疾陸眷たちは王浚の招聘に次第に
応じなくなっていった。王浚は大いに怒り、拓跋単于の猗盧に厚く賄賂を贈って、右賢王の日律孫を
派兵してもらい疾陸眷を攻撃させたところ、逆に撃破される有様であった。
烏丸張伏利度亦有眾二千,壁于樂平,元海屢招而不能致.勒偽獲罪于元海,因奔伏利度.
伏利度大ス,結為兄弟,使勒率諸胡寇掠,所向無前,諸胡畏服.
勒知眾心之附己也,乃因會執伏利度,告諸胡曰:「今起大事,我與伏利度孰堪為主?」諸胡咸以推勒.
勒於是釋伏利度,率其部眾歸元海.元海加勒督山東征討諸軍事,以伏利度眾配之.
烏丸の張伏利度が衆二千をもっており、楽平に籠もっていた。劉淵は何度も招安しようとしたが、
来させられなかった。石勒は偽って、劉淵から罪を得た形にして、張伏利度のところに逃げた。
張伏利度は大いに喜び、結んで兄弟となり、石勒に胡人たちを率いさせて、攻めさせた。
向かうところ敵無く、胡人たちは畏れ、心服した。
石勒はみなの心が自分についたのを確認すると、張伏利度を捕らえ、胡人たちに言った。
「今、大事を起こす時に、私と張伏利度、どちらが主となるに堪えようか?」。
胡人たちは石勒を推し、石勒は張伏利度を解放した。その部族を率い、劉淵のもとに帰順した。
劉淵は石勒の職に、督山東征討諸軍事を加え、張伏利度の衆を配下にした。
劉聡による劉越石への圧迫が目に見えてに増大してくると、中原の乱から避難していた多くの人士たちが
王浚のもとへ帰順するようになった。王浚の勢力は日増しに強盛となる。その権勢は、祭壇を造営して
天に犠牲を捧げる儀を執り行い、皇太子を建立し、百官を設置するまでに増長した。
浚は自ら尚書令を拝領し、棗嵩、裴憲を尚書に、その子は王宮に近侍させ、持節、護匈奴中郎将に
任命した。また妻舅であった崔を東夷校尉に、棗嵩をして監司冀並びに?諸軍事及び行安北将軍に、
田徽をエン州刺史に、李ツを青州刺史にそれぞれ任命した。しかしながら李ツは石勒に敗れ、殺害されて
しまったので、後任に薄盛をもって代わらせたのであった。
※ 記事的には永嘉五年(311年)7月の王浚による仮の立太子の儀の内容だと思われるのだが……
浚の父王沈は字を「處道」と名のっていた。そこで王浚は、古の予言書に顕れるという「当塗高」とはまさに自分のことであるとして、帝号僭称の謀議を諸将らに打ち明かした。(建興元年・313年 11月)
胡矩は王浚を必死に諫止し、薄盛は「そりゃ無理です。」と申し上げた。浚はこれに不満を覚えて、胡矩
を魏郡の太守に左遷した。
つづいて、前の渤海太守劉亮、従子の北海太守劉搏、司空掾の高柔らが雁首揃えて諫言しにやって
来ると、王浚の怒りは頂点に達し、彼らをことごとく誅殺してしまった。
浚は平素から長史である燕の王悌と不仲であったので、いろいろと理由をこじつけて彼を処刑した。
当時、こんな童謡が謡われたと言われる。「十嚢、五嚢、棗郎へ入る。」
棗嵩は王浚の娘婿である。王浚はこの童謡のことを聞くと、棗嵩を叱責するにはしたが、ついに刑罰を
加えることはできなかった。また、こんな童謡も流行った。「幽州(薊城)の都城は倉庫にそっくりだ。
中に横たわっているのは王浚の屍だ。」
この頃、狐が府門にうずくまったままだったり、尾長雉が庁舎に進入するといった変事があった。
時に燕の霍原は、北方の諸州においてその賢才が広く知れ渡っており、王浚は帝位の僭称の件に
ついて彼の意見を聞いてみることにした。霍原は王浚が望むような返答をしなかったので、浚はこれもまた
一思いに抹殺した。この事件によってついに幽州の士人は憤激し、王浚に愛想をつかして離散するものが
続出した。
しかしながら王浚の驕慢は日に日に甚だしくなり、政治に倦んで政務を顧みなくなっていった。こうして
政治は悪辣な酷吏の手に委ねられることになった。折悪く、幽州は旱魃・蝗害に毎年のように見舞われて
いたことも、士官兵卒の衰弱に追い討ちをかけたのである。
王浚が百官の制を定めた際に、譜代の参謀・幕僚はみな高官に叙任されたのだが、司馬の遊統だけが
この行賞人事の蚊帳の外であった。統はこのことを怨みに思い、密かに石勒と内通しようと企んだ。
石勒は王浚軍閥内の不協和音を感じとった。そこで王浚に偽りの降伏を申し出、主君として奉じる
策略を実行に移すことにした。(建興二年・314年)
折も折、幽州では民衆の造反が已むことなく、段部の叛乱・侵略はひっきりなしに続いていた。
王浚は石勒が自分に寝返ったことを大変喜んだ。石勒はこれによりますます言葉使い丁寧に、礼儀態度
は必要以上に謙るようにして王浚に仕えるようになった。珍宝を贈答する際には、駅を途切れることなく
乗り継がせて献上させた。
王浚は石勒に二心が無いことを確認し、襄国に対する備えを全く顧みなくなった。やがて石勒は使者を
遣わして、王浚に尊号を称するように上奏させると、浚はこれを快諾した。
建興二年(314年)3月、石勒が易水まで進出して兵を駐屯させると、督護の孫緯はその行動に何か
裏があるのではないかと訝しがり、早馬を出して王浚に「石勒に軍を引き上げさせ、その隙に逆撃を喰ら
わせる」ように申し出た。王浚はこれを無視し、勒に真直ぐ参内するように使者を出した。
諸官はみな口を揃えて言った。「胡人というやつはそもそも貪欲にして、信義というものを知らず、
その言葉には必ず詐術が紛れると言います。こんな連中、即刻攻撃してしまいましょう。」
王浚はその建議に激怒し、石勒を誹謗中傷するような連中は斬罪に処するとまで言い切ったため、
ついぞ、その後命がけで諌める者はいなくなった。また、勒を饗応する宴席の場の準備を張り切って
設営させた。
石勒は薊城に到着すると、兵卒の思うがままに略奪を許容した。(かつて王浚が冀州で同じことをやって
いたわけだから、このときの趙魏の兵士たちの略奪には多分に復讐の意味合いが強かったと思われる。)
王浚の側近たちはなお勒を討ち取るように哀願したが、この期に及んで浚はそれを許さなかった。
石勒が庁舎に進入するに及んで、王浚はあわてて堂皇?に逃げ込んだものの、石勒の将兵の捕えるところ
となり石勒の面前へと連れて来られた。さらに、浚の妻もとっ捕まえられて夫婦並べて引き出されてしまった。
王浚は石勒を思いっきり罵って言った。「この胡奴(適切な訳語が見つからないが、毛むくじゃらで彫深の
奴隷人種野郎くらいの意味にしておく)め!貴様いったい何様のつもりで俺にこんな悪逆非道な真似を
するというのだ!」
石勒は王浚の晋に対する不忠の数々を列挙し、さらに庶民の飢饉窮乏を知りながら粟穀五十万斛を、
倉庫にただ山のように積み重ねておくだけで、何の窮余策も講じなかったことを並び立てて非難し、その
罪を弾劾した。
石勒はおよそ五百騎ほどに王浚を護衛させて襄国に先遣させる一方で、王浚麾下の精兵万人を収容
して、後顧の憂いを除くべく、これらを悉く皆殺しにした。二日間ほど薊城にとどまって戦後処理をしていたが
その帰路、孫緯が径路を遮断して襲撃を仕掛けたが、石勒は僅差でこれを免れることができた。
石勒は襄国に到着すると王浚を斬刑に処したが、王浚は最期まで石勒に屈するところなく、大いに罵倒
して死に臨んだ。嫡子はいなかった。(太元二年・377年のお家復興の記載は割愛)
王彌(字は不明)は東莱出身であった。その家門は代々太守を輩出する家柄で、祖父は魏の
玄菟太守を経て、武帝司馬炎の時代には汝南太守にまで昇任している。
王彌は知恵と能力に恵まれ、特に文書記述において幅広い見識を持ち合わせていた。しかしながら
若い頃は京都(洛陽)で遊侠の徒に交わるような一面もあったりした。隠者の董仲道がそんな王彌を
見かけて思わず話しかけた。
「君は、豺のような声と豹の眼を合わせ持っているようだが、そりゃあ兵乱を好んで災禍を楽しむ
人物の相に他ならない。もしも、天下が騒擾するような乱世がやってきたら、君が士大夫として
身を興すようなことは到底考えられないね。」
恵帝司馬衷の時代に、妖賊(宗教叛乱)劉柏根が東莱で兵を挙げると、王彌は実家の従僕たちを
率いてこの叛乱軍に身を投じた。(光煕元年/306年 3月)
劉柏根に長史に任じられていた王彌は、柏根が戦死して、海岸部に逃れた敗残兵たちが苟純に討伐
されるに及んで、長廣山に入って群賊となり一時の雌伏を図った。
王彌は権謀知略に優れ、掠略するところあれば必ず事前にその成否を検討し、抜かりない作戦を
計画することしばしばであった。弓術馬術は迅速にして敏捷、膂力は常人の敵うものではなく、青州の
人士は彼を畏敬をこめて「飛豹」と呼ぶようになった。
後に兵を引き連れ、青州・徐州へと暴れこんだものの、刺史苟晞の逆襲に遭い大敗を喫してしまう。
(永嘉元年/307年 2月)
王彌は残余を集めて撤退、あちこちへと散らばって身を潜めていたが、再びその勢力を盛り返すように
なると、もはや苟晞の手に負える相手ではなくなっていた(晞之と連戦し、克能わず)。
王彌は兵を進めて泰山、魯国、梁、陳、汝南、潁川、襄城諸郡を寇掠し、許昌に入るとその府庫を
開放して武器装備品を奪取した。城邑が陥落すると、多くの太守、県令が殺害の憂目に遭った。
その衆は数万を擁し、朝廷はもう青州の王彌の勢力を如何こうすることも出来なかった。
(永嘉二年/308年 4月)
※ ちなみに劉柏根の軍は、劉暾(司隷校尉などを歴任した高官)による討伐軍を退けたものの、
王浚の派遣した軍により討ち取られたとある。また、最後の段の王彌の軍事行動については、
京師にまで攻め込んでいる凄まじい寄せっぷりである。
天下大乱の時勢に乗じ、王彌は洛陽へと逼迫した。洛陽ではその脅威に震え上がり、宮城の
門は堅く封鎖された。司徒の王衍たちは断固死守すべく、百官を率いて防御態勢をとると、王彌は
これに対して七裏澗へと布陣した。朝廷軍は進撃して、王彌の軍を大破した。(永嘉二年/308年 5月)
王彌は仲間の劉霊と相談して言った。
「晋軍はまだ手強い、俺たち単独ではこの先やっていけまい。
実はな劉霊、匈奴の劉淵とは昔、やつが質子として洛陽に留め置かれていた頃、いろいろ世話を
焼いてやったこともあってな、兄弟の契りまで結んだ仲なんだ。
あいつは今漢王を称して、正に日の出の勢いだ。
ちょっとばっかし、あいつのところで世話になろうと思うんだが、お前はどう思う?」
劉霊がその考えに同意を示したので、王彌は黄河を渡り劉淵のもとへと帰順した。
劉淵は王彌が帰順したことを聞くと大いに喜び、侍中兼御史大夫であった呼延翼を出迎えの
使者として送り出すと、平陽の城外で王彌を郊迎させ、文書を彼宛てにしたためて言った。
「将軍には不世の功、超時の徳が備わっていることは誰の目にも明らかです。だからこうして歓迎
させてもらいました。将軍が来るのを今か今かと待ち望んでいましたが、私が今から直接将軍の
お館にお邪魔させていただき、すぐにでも酒席を準備してグラスを洗い、将軍に一杯注がせて
頂いて、真心をこめて歓待したいものです。」(※ 超意訳、相当脚色してます)
王彌は劉淵と接見するや、皇帝を称することを勧める。劉淵は王彌に答えて言った。
「私は昔、将軍を竇融に比されてしかるべき人物だ(竇融程度の人物でしかない)と思っていたが、
今はまさに、私にとっての諸葛亮、ケ禹であったと思い知らされた。
(ただただ、己の不見識を責めるばかりである。)
昭烈帝には青雲の志があったが、烈祖が言った水魚の交わりとは、正しく私と将軍との関係の
ことを言うのだな。」
ここにおいて劉淵は王彌を司隸校尉に任命する。侍中、特進の位も与えようとしたところ、王彌は
これを固辞した。王彌は漢軍に合流するや、劉曜とともに河内攻略に参加したり、あるいは石勒と
共同で【業β】を攻めるなど、その軍事行動を再び活発にした。
以前、劉曜は王彌をもって洛陽先遣の任に当たらせていたが、王彌が自分を待たずに勝手に
入城したことを怨んでいた。ここに至ってついに、両者の嫌隙は決定的なものとなった。
(晋の司隸校尉で降将の)劉暾は王彌に、青州に還り割拠するように主張した。
王彌はそれに同意すると、すぐに左長史の曹嶷を鎮東将軍に任命し、兵五千を与えるとともに、
多額の宝物を贈与した上で郷里の青州に派遣させ、それで戸籍を失った流民達を招誘し、
その一党に迎え入れようと企んだ。
王彌の将であった徐貌、高梁は間もなくその部曲数千人を率いて、曹嶷に従って王彌の陣営
から離れていったが、これにより王彌の勢威はますます衰弱してしまった。
以前から石勒は王彌の驍勇を忌々しく思っていたが、衝突を避けるために平素は親密に
振舞うようにしていた。
洛陽を陥落させた時期、王彌は数多の美女寶貨を石勒に贈答することで、彼と義兄弟の
契りを結ぶことにした。
時に、石勒は苟晞を降伏させると、彼を左司馬に登用した。王彌は石勒に申し出た。
彌「公が、苟晞を獲たばかりかこれを登用するとは、余人には思いもよらぬことでしょう。
苟晞を公の左司馬として用いられるのであれば、私を右司馬として用いられるべきです。
そうすれば、天下を定めることなど何の造作も無いことでしょう。」
石勒は(この話を聞くと、たいへん胡散臭く思ったのか)、ますます王彌を憎むようになり、
裏で王彌暗殺の陰謀を張り巡らし始めた。
劉暾は、ふたたび王彌に献策し、曹嶷を支配下に再度収めて、その兵力を併せて石勒を
誅戮するように勧めた。
こうして王彌は劉暾を青州へと、曹嶷に兵を引き連れて己が勢力に合流するように、
その上で騙し討ちで石勒を要撃して、しかる後に青州に共に下向するように説き伏せるべく
派遣させた。
ところが、暾は東阿に差し掛かったあたりで石勒の遊騎に捕獲されてしまった。
石勒は王彌と曹嶷による謀議の密書を発見すると、大いに怒り、そのまま劉暾を殺害する。
王彌は己の策が漏洩したことを知らずにいたため、逆に石勒の伏撃に襲われて殺害されてしまう。石勒は王彌の勢力を併呑した。
これより先、東海王・司馬越は洛陽の衆二十万余を率い、石勒を討とうとしたが、軍中で司馬越は死に、
衆は太尉・王衍を主に推した。衆を率い、東に下り、石勒は軽騎兵でこれを追い、追いついた。
王衍は将軍の銭端を遣わして石勒と戦わせたが、石勒に敗れ、銭端は戦死し、王衍の軍は壊滅して、
石勒を騎兵を分け囲んで射撃し、山のように倒れ、一人も逃れられるものはいなかった。
ついに王衍と襄陽王・司馬範、任城王・司馬済、西河王・司馬喜、梁王・司馬禧、斉王・司馬超、
吏部尚書・劉望、予州刺史・劉喬、太傅長史・庾ガイ(山:左上、豆:左下、攵:右)らを捕らえ、
幕下に座らせ、晋がここに至った原因を問うた。
王衍や司馬済は死ぬことを怖れ、自分から色々話したが、ただ、司馬範だけ顔色一つ変えず、
意気を落ち着けながら、二人を顧みて言った。
「本日のこと、いまさら何をいおうや!」。
石勒は(司馬範を)とても傑出した人物とみなした。
石勒はもろもろの王公卿士を引き出して殺し、死者はとても多かった。
石勒は王衍が清談がたつのを重んじ、司馬範の神のような気力をすばらしいとし、刃を下すことができず、
夜、人を使わし、壁をおさせ、(二人を)つぶし殺した。
(司馬越の)左腕・何倫、右腕李ツは司馬越が死んだと聞き、
司馬越の妃・裴氏と司馬越の世子・司馬ヒ(田:左、比:右)を奉じて洛陽を出て、石勒は洧倉において、迎え撃った。
晋軍はまた壊滅し、司馬ヒ(田:左、比:右)ともろもろの王公卿士は皆、殺され、死者はとても多かった。
精鋭の騎兵三万を率いて、成皋関に入り、劉曜、王弥と合流し、洛陽を攻めて、洛陽を陥れた。
石勒は王弥の功績にし、劉曜は轘轅から出て、許昌に駐屯した。
劉聡は石勒を征東大將軍に任命したが、石勒は固く辞退し、受けなかった。