1 :
無名武将@お腹せっぷく:
詳しい人教えて
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/10(水) 22:10:28
小説とかにもなってないしさ。
キョウイはメジャーなのになんで書かないかな。
滅びの美学的に書いて欲しい。キョウイなんて土方歳三みたいで
カッコウイイのに。
蜀末期のことは三国志演義にたっぷり書いてあるぞ。
生の演義の孔明死後の長さは異常。あん
なつまらん話をよく永遠に続けているものだ。
とりあえず、宦官が権力もって、魏に攻め込まれて終わりましたよ。
蜀滅亡後、2年後に晋ができて、280年に呉が滅んで天下統一万歳。
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/10(水) 22:17:12
永遠に続けている?
意味がわからん
えいえんと
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/10(水) 22:29:43
実際のところさ
キョウイがあんなに力もてたのはなんで?
元魏の武将がありえないぐらいの出世でしょ?
しかも孔明の息子を差し置いてなぜ実権握れるんだ?
Jominianさん、彼に姜伯約について教えてあげて下さい。
王平も大活躍
12 :
5:2008/09/10(水) 22:46:49
>>6 演技は蜀滅亡までではなく、実際に晋の統一まで描かれている物語(明代著者:羅貫中)です。
諸葛亮死後から呉(孫皓)の滅亡までの47年を長ったらしいと思うのも
納得できるけどね。もしかして皆さん、演技が蜀滅亡までって思ってる?
>>8 孔明の子息(諸葛せん)は綿竹で殺されました。
蜀滅亡後はかなりあっさりしていた記憶が
14 :
6:2008/09/10(水) 22:50:29
なんで私まで初心者向け講習に巻き込まれなきゃいかんのだ…
まあいいじゃないですか
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/10(水) 23:13:01
劉禅の政治はどうだったの?
>>8さんも言ってますけど、「永遠に続けている」ってどういう意味なんですか?
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/10(水) 23:30:22
>>8 ヒイの腰ぎんちゃくになったから
諸葛亮の子諸葛センはまだ若かった
しかし実質的な蜀の主諸葛亮の子は領民に異様に慕われていたので、滅亡せずにあと5年もしたら最高権力者になってただろう
20 :
5:2008/09/10(水) 23:51:13
>>17 あのね、多分言わんとしてるのは”延々と続けている”の間違いだと思うんだよね。
言葉のアヤぐらい理解してあげなさい。なんでそこで躓くの・・・
言葉の綾ではなく無知なだけだ
蜀の末期はいろいろ活字になってるが呉の末期はほとんど活字になってない
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/11(木) 09:49:58
>>19 諸葛亮の息子は無能だからな〜
食糧不足で袋の鼠のトウガイにコテンパンにやられている
もし最高権力者になっても蜀滅亡は免れなかった
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/11(木) 11:15:59
蜀きっての名将・姜維でも苦戦するケ艾相手に
実戦経験のない御曹司がぶつかる状況で勝てと言う方が無茶だろ。
それと軍才に乏しいのと内政担当者としての能力は別物だし。
諸葛亮やケ艾・姜維を基準にしたら、
大半の人間が無能になるわな、そりゃw
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/11(木) 11:31:52
実際に諸葛瞻が関わってなくとも
何かしら善政があれば民は諸葛瞻のおかげだと噂したようだし
周囲からの期待も集まってたようで、
諸葛瞻自身は重責で薬漬けだったって記述があるしなあ。
最高責任者になったらそれこそ長生きできなそうだな。
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/11(木) 13:12:41
綿竹を誰が守っても討ち取られてたって。
諸葛瞻が有能かどうかはわからないよ。
○栄のゲームでは、ちゅーとはんぱな能力値になってるし。
劉禅「末期?平和そのものだったよ」
>>26 >重責で薬漬けだったって記述があるしなあ
どこのどんな記述かkwsk
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/11(木) 21:52:31
蜀末期って
何もしない劉禅
非戦派の 諸葛セン カンガン
好戦派の キョウイ カコウハ
って解釈でいいんだよね?
どうしてもそのカテゴリーで分けたいのなら
好戦派は姜維とその子飼いの将兵
非戦派はそれ以外のほぼ全員
>>31 キミは姜維の対抗勢力として諸葛瞻に重きを置きすぎているのではないかな?
諸葛瞻が平尚書事となってトップ(それも董厥とのツートップ体制)となったのは261年、
つまり最後の2〜3年だけだぞ。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/11(木) 23:17:50
ああそうなの?蜀末期って「英雄いけるべきか死すべきか」
でしか見てないんだよ。あれもかなり端折っていたし。
後ネットで人物評とかちらっと見たぐらいなんだが。
キョウイ無能論ばっかなんだよな。個人的にはキョウイはリッパでいて欲しいんだが
やっぱ前線を下げたってのが一番の無能ポイントなんだろうか?
ショカツセンも無能っぽいけど。
ショカツセンが負けた最後の戦いって具体的にどんな戦いだったんだろう?
キョウイの最後も曖昧なんだけど
敵のトウガイとショウカイが攻めてきてキョウイが食い止めてたんだけど
ショカツがまけちゃって蜀に入られて劉禅幸福みたいな流れはわかるんだけど。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/11(木) 23:21:21
>>34 具体的と言っても、戦闘自体の詳細はそこまで詳しくは記述されていない。
流れとしては、
諸葛瞻フ城に入る→黄崇が敵の平地への侵入を防ぐよう進言するも、諸葛瞻は逡巡して容れず
→諸葛瞻軍の先鋒がケ艾に撃破される→諸葛瞻緜竹に退き、ケ艾を待ち受ける
→ケ艾は子のケ忠を右翼、司馬の師纂を左翼として諸葛瞻に攻撃をかけるが
>>34 キョウイは簡単に言うと降伏した後魏のショウカイと組んで反乱起そうとしたけどバレて死んだ。
ショカツセンは綿竹守ってたけどトウガイと戦って戦死。奇襲だったので備えも薄かったままやられたんじゃないだろうか。
キョウイは七回外征してなんの成果も上げてないからねえ。確かに当時の蜀では実戦経験も戦争のノウハウも一番だろうけど。
まあ北伐の結果だけみたら孔明もたいした成果上げてないからね。
失敗したのでレスし直す。
>>34 流れとしては、
諸葛瞻フ城に入る→黄崇が敵の平地への侵入を防ぐよう進言するも、諸葛瞻は逡巡して容れず
→諸葛瞻軍の先鋒がケ艾に撃破される→諸葛瞻緜竹に退き、ケ艾を待ち受ける
→ケ艾は子のケ忠を右翼、司馬の師纂を左翼として諸葛瞻に攻撃をかけるが、ケ忠らは撃退される
→ケ艾はケ忠と師纂を叱咤し、攻撃を続行、諸葛瞻を破り、諸葛瞻、諸葛尚親子は戦死→ケ艾成都に至る
となる。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/12(金) 23:42:44
ケ艾って何回もキョウイ倒してるけどどれだけの名将なんだろう?
けど一回だかショカツセンにケ艾は負けてるよね?
ショカツセン>ケ艾>キョウイ
って事なんかな?
キョウイが内政して軍事をショカツセンに任せるとかにした方が良かったんかな。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/12(金) 23:52:26
キョウイがどんな内政やんだよ
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/12(金) 23:58:26
>>40 軍国主義の内政やってればもう少し持ってたんじゃない?蜀は
キョウイが全権握れば不意をついて呉に攻め込んだりとか出来るだろうし。
しょうがいしん
生姜維新
キョウイは軍権しか握ってなかったんじゃなかった?
どっちにしろキョウイは曹操や諸葛亮みたいに超絶的に優秀ってワケじゃないし、そのキョウイ以上の人材もいない
決定的な人材不足
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/13(土) 08:25:21
やっぱキョウイって優秀じゃなかったのかな。
三国志という物語を見るとキョウイが優秀だとまとまりがある物語になるんだよな。
けどさ正史だとキョウイと孔明って接触なかったわけじゃん。
孔明派みたいなのは生まれなかったの?孔明の弟子というか
孔明政党みたいなのできててもおかしくないと思うんだが
孔明って弟子とか育てなかったんだろうか?
>>45 キョウイは別に無能じゃないよ。ただ曹操やら周喩やらのような軍事的天才性を求めるのがムリなだけだ
北伐に「諸葛亮でも出来なかったのにいまさら出来るワケがない」って反対意見が多かったように、孔明派っていうか彼の息のかかった派閥みたいなモンはあったと思う
>>46 蜀の立場で曹操やら周喩が軍を率いても似たような結果になる可能性のほうが高い
周喩はともかく、曹操なら別の手段を考えるだろうが。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/13(土) 19:32:46
ショカツタンが頑張ってる間になんとかならんかったのかな?
呉との連携はショカツリョウ時代より取れてないの?
せめて人物名は漢字で書こう
淮南での一連の騒乱があった時期に主戦派は実権握ってたっけ?
姜維はまだ軍権握ってなかったと思うが。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/14(日) 15:22:20
>>51 携帯だと無い漢字もあるからな…
周喩とかにするならカタカナの方がましかも
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/14(日) 16:21:51
ショクは永く地方政権化したために、孔明以来の荊州人士の組閣から益州人士の取り組み、ギ降将の投入等カスタマイズされてはいるけど、涼州人キョウイの反骨性だけでは、きつかったんだろうね。
>>53 2ちゃんの書き込みをコピーして辞書登録すりゃ無問題。
>>48 いるなあこういうすぐ極端な無能論に走るヤツ。
また演義と史実をごちゃまぜにしてるのがいるな
59 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/15(月) 18:59:12
もし本当に姜維が無能なら、劉禅みたいに後世までアホの代名詞『阿約』とでも言われていたのだろうか?
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/15(月) 21:36:55
北方三国志だとさ最後の孔明の北伐がすごい良く書かれてるじゃん。
孔明が生き残っていたら中華制覇できたぐらいの感じで
あんな感じでキョウイの最後の策のショウカイと組むってのを
最大限好意的に解釈して
「あのキョウイの策が成功してたら蜀が天下取れてた」
って風にできないかな?
諸葛孔明より
諸葛道明のほうが強そうだな。
なぜケ艾ではなく野心家鍾会の方と共謀しようと思ったのだろう?頼りになるという点では圧倒的に前者でしょうに・・・。
あっ、そうか。姜維程度じゃケ艾を扱いきれないからか!納得。
「劉備でも皇帝になれたんだから俺も蜀くらい取れるだろう」
と自分で言ってる人なんでせいぜい蜀止まりの能力なんでは?
後世に創作された「孔明の弟子」というキャッチコピーとは裏腹に
姜維は北伐遂行の意志以外には
何一つ孔明から受け継いでない。
少なくとも、残された事績からは
こと、北伐に関する準備や交渉については(成否は問わない)積極的に関わったが、
直接に北伐に影響がないと判断した内政や宮廷の根回しには
無能ですらなく、無為であった。
この内側に対する姜維の無関心と無策が北伐の遂行の妨げとなっているので
お世辞にも知者とは言えない。
さらに加えて言うが、
穿った見方をすれば、
姜維の北伐の意志が燭や孔明とは全く無関係の
天水人としてのごく個人的な動機でしかなかったのではないか
そう考えれば、姜維の言動に説明がつく
だいたい、燭復興のために鐘会に荷担したというのは
嘘臭くないか?
僻地へ逃げてまで徹底抗戦したわけでもなく、
自らが蜀帝であり続けることには固執しなかった劉禅だが、
姜維が蜀復興を企み失敗し(それも劉禅を迎え入れるつもりだったとのこと)、
その巻き添えで嫡子や旧臣が命を落としたことを耳にした時どう思っただろうか。
劉禅を呼び込むつもりだなんて
史料にあるのか?
姜維にそんな意図が本当にあったのか?
後世のファンが勝手に言っているだけじゃないのか?
もし姜維が本気でそんなつもりなら、
あまりにも杜撰で行き当たりばったりな計画だ。
まず、そういう計画なら事前に劉禅となにかしら連絡があって然るべき
そうでないと事が成った後で劉禅を招くのは遅すぎる。
劉禅の身柄を抑えられているのをどうやって連れてくるつもりなのやら。
むしろ人質にされてもおかしくない。
そしてもし、なにかしら手だてがあって事前の段取りまで準備できていたなら
事が露見して乱が失敗したときに、劉禅が無事ですむわけはない。
劉禅が無事だったのは
姜維の行動が劉禅とも漢の最高とも無関係だった、
少なくとも当時の当局はそうみなした、
からであろう。
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/16(火) 13:19:38
旧臣、それも軍事最高権力者の暴走を聞いて、どんな気持ちだったんだろうか?
と言っているだけに見えるのだが。
問いかけと答えがまるっきり違うじゃんw
格好、もとい括弧にとらわれすぎだ
カッコわるい
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/16(火) 19:05:28
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/16(火) 19:33:23
馬蜀
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/18(木) 21:30:36
ショカツリョウって遺言とかで北伐について今後どうしろ
とか言ってないんだろうか?ショカツの息子が北伐反対
するって事が意味不明なんだよな。
>>71 言ってはいないがショウエンを後継指名した
ショウエンは荊州から攻めようとして猛反対された
>>71 情勢が違えば判断が異なってくるのは当然だし、
ましてや
オヤジとムスコとで同じ意見にならなきゃいけない理由があるとお思いかw
ー丞相、後任の話ですが
「蒋エンがよかろう」
ーその後は?
「費イがよかろう」
ーその後は?
「・・・」
>>71 自分の力が父に遠く及ばないのを自覚していたからこそ、
今の状況では攻勢に出ることはできない…
こう判断することがダメという価値観のほうが意味不明。
アナタの仰るとおり瞻が無能だったら、尚更北伐は無謀と思えないのか?
そもそもセンは北伐自体を反対と言ったわけではないっしょ
姜維の遠征で国力が低下している状況で成都の総意として
「ちょっと控えてもらえんでっしゃろか」ってな感じだったんでないの?
>>64 元々魏の武将で、蜀漢へ参与したのがかなり後。
後ろ盾と言えるのは、実戦で付き従った諸葛亮位。
諸葛亮死後、魏延に行われた仕打ちをみれば、宮中
での影響力が無く、軍主流派とは言えない姜維は、
いつ難癖付けて処断されるか解らない立場だった。
ひたすらに諸葛亮の遺徳を継ぐ、という
他者から非難されず、自己の正当性を喧伝できる行為で
自己保身を図る必要が有った。
軍権しかないからなんとか軍事でわかりやすい結果を出したいしね
あせってたのかもしれない
なぜケ艾ではなく野心家鍾会の方と共謀しようと思ったのだろう?頼りになるという点では圧倒的に前者でしょうに・・・。
あっ、そうか。姜維程度じゃケ艾を扱いきれないからか!納得。
姜維は諸葛亮と同じく涼州方面への北進策だったけど
蒋?が企画していた漢水を利用した上庸・荊北方面への東進策は
実行されていたらどうなっていたのか興味があるなぁ(周囲からの反対は相当だったようだけど)
実際は戦線維持・撤退の困難さから成功の可能性はかなり低かったとように思うが。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/21(日) 18:42:12
キョウイってようは将軍タイプだったわけでしょ
司令官って言った方がいいのかわからんけ軍師がいなかったのが
いけないんじゃないかな。
いい軍師がいればもっとうまく攻めれたはず。戦略は悪くなかったけど
局地局地での戦術がダメだったって事じゃないの?
逆だ
生姜維新は兵法オタク。
人名に漢字を使わないバカにとっては脳筋の武将タイプの様だが。
なんにせよ人材が一人二人増えた所でどうにかなる状況じゃありんせん。
なぜケ艾ではなく野心家鍾会の方と共謀しようと思ったのだろう?頼りになるという点では圧倒的に前者でしょうに・・・。
あっ、そうか。姜維程度じゃケ艾を扱いきれないからか!納得。
「我々は諸葛丞相にはるかに及ばない。
その丞相でさえ、中原の平定をなしえなかったのだ。」byひー
カタカナくんは姜維や諸葛瞻の能力を北伐成功の鍵にしたいみたいだが、
個々の人物の能力云々ではなく、そもそも無理があったってことだ。
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/22(月) 21:51:27
諸葛丞相ではなく韓大将軍じゃないと無理なのよん
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/23(火) 00:32:18
そもそも蜀方面から攻め上がって統一したのって中国史長しと言えど劉邦だけじゃなかったか?
そんな劉邦も司隸は内応で落としていたような…
当時はまだ戦国の独立した他国であった頃の感覚が抜けきらず、
諸王が独立勢力だからできたことだろうが。
はなっから無理のある戦略だったかもね。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/23(火) 11:42:09
孔明って政治家だから元々あんま北伐うまくないでしょ。
キョウイは軍人って感じだからキョウイの方が成功する可能性あったと思う。
孔明って失敗をおそれて無難な事しかしないし。
>>89 その上で三傑を始めとした人材がそろっているって状況だからな。
三国時代は国家体制が楚漢の頃よりずっとしっかりしてるし蜀には周喩のような戦略眼のある人間も曹操のような現場の天才もいない。
物量差を跳ね返す強力な兵力があるわけでもないからやっぱりハナからムリ臭かったんだろうな。
>>90 最初の一回目こそよかったがそれ以降ずっと同じ手ばっかで対応されてるからな。
後の方になってくるとただ出兵して何もやらないまま退く、というような感じになってくる。
こうなるともう国内向けのパフォーマンスのような気さえしてくるんだよな。
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/23(火) 16:40:24
とりあえず、張翼・廖化最強
姜維の方が成功率低いっつーか、姜維の場合ゼロもいいとこだろ。
カタカナでキョウイって書いてる人は、ずいぶん姜維を推してる様だけど、
諸葛亮は戦闘でも十分化け物だぞ。奇策機略は苦手だったが、
魏から三郡を寝返らせたりもしてるし、カク昭にやられるまでは、直接指揮執った戦いでは負け無しだ。
ま、諸葛亮もいろいろ欠点はあるけどね。
政治に眼を向けず、国力衰退させて、北伐の成功率を皆無にした、という点で、俺は姜維を評価できない。
軍人としてはなかなかやるとは思ったけど、奴が北伐を行ったのがそもそもの間違いだ。
費イが一万しか軍を預けなかったのも頷ける。
ショウ周の仇国論に従えば、万に一つ(それでも万に一つ)ぐらいには成功したかもだけど、
姜維の場合は成功率ゼロと言っていい。
成功率ゼロってか、成功してないからなw
姜維の場合は、北伐して上手く勝てた所もあるが、それ以上にマイナス分が
大きすぎるのが厳しい
>>93 >>魏から三郡を寝返らせたりもしてるし、カク昭にやられるまでは、直接指揮執った戦いでは負け無しだ。
あんまり数が多いわけじゃないけどな。三郡を寝返らせたのは迂回策が功を相したからで戦闘云々の話ではないし。
戦闘狂の姜維に期待するべくもないってのは同意だが、諸葛亮は同じ事しかやらないから彼もたいした成果は望めない。
特筆するほど戦争が上手いわけでもないし、似たようなもんだろう。結局孔明も姜維のように勝ったり負けたりを繰り返してただけだから。
年々長安周辺の守りや連絡が強化されて諸葛亮時代でも侵攻ルートが限られてた
グーしか出せないジャンケンみたいな状態
姜維は現場の司令官としてはなかなか優秀だけど
大勝しても晋の援軍の到着が早いので援軍に大敗することもあった
ノーミスで三回くらい大勝しないと長安取れない状態だった
だから戦略は選択肢がなくてむしろ戦術レベルではかなり頑張った
ただ姜維は手柄にこだわって兵の損失に鈍感だったので大勝「も」したということかも知れない
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/23(火) 18:11:34
だから長期的な戦略を立てれる軍師政治家がいればよかったんでしょ。
孔明とかジュンイクとかみたいな。
キョウイはシュウユよりは優秀でカンウよりは優秀ではない感じかな?
なぜケ艾ではなく野心家鍾会の方と共謀しようと思ったのだろう?頼りになるという点では圧倒的に前者でしょうに・・・。
あっ、そうか。姜維程度じゃケ艾を扱いきれないからか!納得。
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/23(火) 18:30:57
諸葛亮は馬を求めて北進したのでは?230年なんて東なんて向いてないし…
でもこの時代にはどれぐらいシルクロードは機能してたんだろ?ローマは三世紀の危機だし、クシャン朝は滅亡だし、中世に向かって大陸全土が大混乱の時代だからね
>>97 逆だろう…関羽とはどっこいかもしれんが周喩とは比ぶべくもない
関羽>姜維>周喩の評価の時点でカタカナの人の底は見えたなw
>>97 >だから戦略は選択肢がなくてむしろ戦術レベルではかなり頑張った
百回読め
あと230年は魏延の意見による番外編だ
また姜維で荒れてるのか?
仲良くしなきゃダメだよ。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/23(火) 22:15:42
いやけど戦略にしたって孔明時代と比べるのはキョウイが可哀想だろ。
孔明時代は孔明が独裁できたけどキョウイは無能な奴等が発言力持ってたし。
キョウイが何かしなきゃ蜀がつぶれるのは必至なわけじゃん。
だから無理を承知で一か八かの賭けに出るしかなかったんじゃないの?
キョウイが一か八かに出たのは立場の問題もある。
一枚岩ではなかったからいつ失脚するかわからない。
だから目に見える功績がほしかったという焦りかもな
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/23(火) 22:22:10
政治的には一か八かの状態になっている状態では負け確定だけどね。
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/23(火) 22:22:37
ふと思うとバショクが生きてたら
バショクが内政してキョウイが戦争してみたいなやくわり出来たろうにね。
カンウの子孫とかカンコウ以外にいなかったんかな?
もうすこしまともな将軍がいてほしかった。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/23(火) 23:01:39
羅憲がいるのに不満か?
>>106 じゃー曹操どうすんでい
むしろ一か八かしかないぞw
110 :
姜維:2008/09/23(火) 23:24:57
呼ばれたような気がする
カタカナの人の頭の中では、蜀末期は姜維しか人がいなかった、と見ているようだけど、
実際はまともな将軍はいたし、蒋エンら諸葛亮の後継者がいたんだから、
馬謖がいようがいまいがさして変わんないと思う。
彼らが死んだ後も無能な人物ばかり中央にいたわけじゃないしな。
費イが内政の拡充を図っていたのに、彼の死後、無謀な北伐で回復しかけた国力をすり減らす。
黄皓と結んででも失脚させようとした人物がいたのも当然だろ、これじゃ。
陳寿の評「多年に渡り国力を無視した北伐を敢行し、蜀の衰亡を早めた」は的を射ているように思える。
裴松之のは、集めた資料はともかく、個人的な人物評には好悪がずいぶん強く現れるから、信用できん。
112 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/23(火) 23:38:26
>>81「戦略は悪くなかった」
>>97「長期的な戦略を立てれる軍師政治家がいればよかったんでしょ」
>>104「いやけど戦略にしたって孔明時代と比べるのはキョウイが可哀想だろ。」
姜維の戦略は正しいと言ってみたり、戦略担当が欠けてるのが悪いと言ったり
立場が悪かったと同情したり、そもそも論旨が固まってないので議論は無理だ。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/23(火) 23:41:20
姜維は外様だから蜀が滅びようと関係ない
何もせずに失脚するよりは北伐して目立った方がいいに決まってる
115 :
姜維:2008/09/23(火) 23:49:03
私は目立ちたがり屋だからな。フフフ。
男は常にロマンを追い求めるからな。
生き甲斐を北伐に求めただけで国なんてどうでもいいんだよ。
おまえらだってそういうところあるだろ?今の政治家だってそう。
現在ならともかく、2000年前の出来事なんだから、あんまり責めてやりなさんな。
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/24(水) 00:01:02
いや!許さん!
118 :
姜維:2008/09/24(水) 00:02:39
119 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/24(水) 00:03:31
よし、許す!
カタカナは釣りか?
121 :
馬謖:2008/09/24(水) 00:13:30
なんだなんだ?
お前は出てくんぬ!
123 :
司馬懿:2008/09/24(水) 00:21:59
みんな人望がないなぁ。
124 :
司馬昭:2008/09/24(水) 00:26:43
人の事は言えませんぞ父上。
125 :
鍾会:2008/09/24(水) 00:32:31
おまえがいうな
126 :
呂布:2008/09/24(水) 00:34:48
人望といえば俺にかなう者はおるまい。
127 :
姜維:2008/09/24(水) 00:38:44
俺、顔ちっさ!
なぜケ艾ではなく野心家鍾会の方と共謀しようと思ったのだろう?頼りになるという点では圧倒的に前者でしょうに・・・。
あっ、そうか。姜維程度じゃケ艾を扱いきれないからか!納得。
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/24(水) 04:18:06
諸葛亮は馬を求めて北進したのでは?230年なんて東なんて向いてないし…
でもこの時代にはどれぐらいシルクロードは機能してたんだろ?ローマは三世紀の危機だし、クシャン朝は滅亡だし、中世に向かって大陸全土が大混乱の時代だからね
ageてる奴の大半が
>>1としたら俺たちに勝ち目はない
>>120 素じゃない?
柴錬三国志での知識が中心とのことだし。
触るな触るな
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/26(金) 20:48:10
姜維あげ
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/26(金) 23:07:43
カコウハってどういう経緯で蜀に来て
最後はどうなったの?
>>137 曹爽が司馬懿に誅殺され、当時夏侯覇の上司だった夏侯玄も召還され、
夏侯玄に代わって仲の悪い郭淮が夏侯覇の上司になってしまったので、
自分の身も危ないと感じて蜀に逃げ出した。
最期については記述が無いけど、夏侯覇の就いていた車騎将軍が259年に左右に分割され、
それに張翼と廖化がそれぞれ就いたので、その頃に死んだと考えられる。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/26(金) 23:41:21
車騎将軍から昇進した可能性は?
>>139 車騎将軍の上と言うと、大将軍かい?それは流石に考えにくいような。
驃騎将軍への転任は昇進といえるか微妙だし、この頃は胡済が右驃騎将軍で、
左驃騎将軍は誰だかわからないけど、夏侯覇と胡済が同列になるという事も無いと思う。
趙雲伝の諡号云々の記事から考えるに夏侯覇は260年以前に死んでると思われる。
>>141 あぁ、それもそうだね。
趙雲伝に拠れば、関羽らに諡号を贈る頃には、夏侯覇は死んでいて諡号を貰っている事が分かるからね。
この時期は 武将から文官まで 桜のように散っていた
蜀末期の方面に 姜維だけ
来敏もこの頃逝去
私はいつ死んだのかね。
147 :
馬謖:2008/09/27(土) 20:43:35
許さんぞ孔明…
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/27(土) 20:49:57
wifiにつないで見ようと思ったんだけど利用規約みたら
なんか契約とか料金の文字がもしかしてこれ金かかるの?
無料じゃないの?
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/27(土) 20:52:16
ごめん誤爆。
150 :
涼宮さん:2008/09/27(土) 21:33:37
孔明とのは最後に残した南蛮特別部隊(夷兵)と西涼騎兵に
なくなちゃったが最後 蜀が完全の軍事衰亡を迎えるそうです
だた 陽平関 歴史について あの険悪の拠点に守らないですまない
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/27(土) 21:46:53
南蛮ってキョウイ時代はどうだったの?
南蛮の精鋭集めて兵増強とかはしてたんだろうか?
152 :
涼宮さん:2008/09/27(土) 22:11:30
生産の情状から考えて 蜀は完全に負けた
孔明は北伐の最初にその目的が中原を取らないでした
蜀の戦い方 セキヘキのときからには攻めです 宛洛から曹操の心臓
へ突破し
でも 関羽がなくなった以後 其目標が半に壊滅してしまった
これ以上をいざしらず 蜀の方針が絶対に変わることができない
で 防衛しようと防衛しまいとすべての兵士だちが死になってしまう
これで 孔明がまた 全部益州の力で 曹氏とあらがえってる
蜀の滅亡が必然だし しかし 漢室の正統としてに 人が情けます
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/28(日) 09:43:39
蜀ってさ何で西に領土を広げようと思わなかったんだろうね。
呉は東が海だから領土広げられないのは解かるんだけど
蜀は西にかなりの土地があるじゃん。そこを耕していけば普通に
人増えると思うんだけど。
154 :
涼宮さん:2008/09/28(日) 09:58:43
蜀の西は無人地域です
当時に その蜀は自ら 内部の闘争さえ解決もない
官僚の集団だちが 利益の違くて 統治集団へ不満があってた
この情状の下 領土を広げる可能性が零 発展とはいっても関西の
長安が最適の場所
その時 新しい基礎がない領土の発展が無理です
ゲーム脳としか良い洋画ない
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/28(日) 10:41:42
>>153 蜀の西は高地だから農耕は厳しいだろ
それでも?(テイ)族などの遊牧民族が少数暮らしていたが
?(テイ)族が東に領土広げる方が簡単
実際蜀漢滅亡後数十年で?(テイ)族が成漢を建国している
蜀の西側は土地としての展望が望めるような所ではないよ。
だからこそ長い間辺境だったわけで
蜀を拠点にして天下取れた政権なんてないだろ
必ず滅ぼされる側じゃん
劉邦は?
まあ、一つの成功例だけ真似て失敗するってのは、様々な形で見かけられるけど
本来、項羽は劉邦を牢屋に放り込む程度の気分で蜀を与えている
それを
>>89が言うように謀略で脱出した
でも魏はそういう隙が孟達くらいしかなかったし
項羽の故事があるからか曹叡まで出てくるほど上下結束してる
161 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/30(火) 18:09:59
あれだけ人がいるんだから道路とか作ればよかったのにね。
万里の長城作れるんなら蜀から長安への幅2キロぐらいの道路作るの
ぐらいできそうだけど。
幅2キロに釣られてやるよ
幅2kmワラタw
どうやったらこんな間違いを生じ得るんだ???
劉邦の場合は三傑始めとした人材がそろってる状況でなおかつ敵が一枚岩じゃなかったからな
166 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/01(水) 08:26:01
人材なんてのはいる所にはいるよ。
発掘できない上がバカなんだよ。
劉備は人を見る目があるからいい武将があつまり
孔明は見る目がないからたいした武将が出てこなかった。
ほんとのバカが涌きました
だって2キロくんなんだもの
169 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/01(水) 21:49:20
孔明が見る目ないのは常識なんじゃないの?
バショクとか劉備はたいしたことないって見抜いてたんでしょ?
劉備の所も旗本は若い頃のチンピラ仲間で別に取り立てて充実してるワケではないよ。
評判の悪い法正の器用だったり人物眼はありそうだけどね>劉備
幅二キロくらい楽勝では?
島国日本の中流都市、名古屋にだって100m幅の道路がある
さすが2kmくん
がんばってるね
>>169 テンプレの如き意見だわな
馬謖の一事のみで断じてる様なものじゃんよ
李厳を陸遜に例えたり
孔明の人物眼は当てにならんな
演義ですからー
昔懐かしポピュラススレですね
魏延の対応の時点で正直人物眼は評価できない
演義ですからー
179 :
1:2008/10/02(木) 23:31:41
う〜ん。なんかイマイチ末期の実態が掴めないな。
俺は定期的に三国志の末期を語るみたいなスレ立てるんだけど
今回は前ほど伸びてない。たしかキョウイのスレとショカツセンのスレ
立てた覚えがあるし。他にも立てたと思う
前はショカツリョウが魏を攻めてキョウイが呉を攻めればよかったのに
とかいろいろ書いて議論してスレは1000まで行ったんだよな。
俺はまず呉を攻めるべきだったと思う。
蜀は川の上流になるわけじゃん。はっきりいって有利じゃん。
定期的に立てておいて、
皆に議論させておいてその言い草はないだろ…。
ヒント:夷陵
こいつが蜀の実態を掴めることは未来永劫ないと思われ
みんないい加減相手にするの疲れたんでしょ
面倒見のいいJominianにまで見捨てられたら終り
オレも抜けよっと
山頂とか上流とか高い所が好きな奴は相手にするな
完全人任せで、その上いまいちワカランときましたか。
真面目に参加していたのがアホらしくなったわ。
>>64、
>>66はまず正史を読めよ。「日輪を取り戻す」っていってるだろ。
最後の最後まで蜀漢再興の為に動いてたんだよ。孔明と同じく財産を残すこともなく。
鐘会のほうが野心を持ってて独立の意志を持ってたんだから利用するのが当たり前。
何でもかんでも姜維を批判、疑えばいいって物でもない。
姜維は漢中の防衛ラインを下げたのが最大の失敗。致命的ミス。
これがあるからしょうえんも川を下り上陽側から上る策を検討できた。
内政面でなぁ
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/03(金) 19:48:22
防衛ライン下げたってのは
キョウイの致命的ミスとして良く聞くけど
人材がいないから下げざるをえなかっただけじゃないの?
防衛ラインを下げただけでそこまで劇的に変わるとはおもえん。
あのでかい中国大陸で数キロライン下げたってただの誤差みたいなもんじゃん。
だったら姜維は何の意味も無く誤差の範囲程度防衛線下げて何がしたかったんだろうな?
191 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/03(金) 20:34:50
>>190 敵を誘い込んで一網打尽にする気だったんじゃね。
192 :
姜維:2008/10/03(金) 20:51:49
俺はそんなこと考えてないぞ。
ただ怖かっただけだ。
防衛ラインを下げたって言うよりは防衛戦力を分けた。
一挙大勝を得るためってのが姜維の思惑なんだけど、そこら辺は正史を。
筑摩版正史が見当たらない…
「姜維が国境の戦力配置を変更し、その後に国家が滅びた」
という結果はあるが、国が滅びたのを戦力配置の変更に求めるのは乱暴だろうな。
そもそも、漢城と楽城に集中させるはずの戦力が黄金囲などに残っていたし、
敵の前進を抑えるはずの関城では軍の半分が敵に降伏している。
また、機動戦力として敵の後方に位置すべき姜維は、ケ艾によって西方に拘束されている。
姜維のプランそのものを批判するのではなく、方針が徹底されなかった事、
隴西の急速な策源化というイレギュラーな事態への対応がとられなかった事を批判するべきだな。
そしてそれらの殆どは、姜維と、成都を掌握する黄皓、諸葛瞻らとの間の信頼関係が喪失した事が原因だろう。
>>194 結局、あの時代に長くまとまった勢力を維持するには徹底した独裁政権が必要なんだよな
>>195 独裁とまでいくかは分からないが、国家を一つに纏める強力な指導力は必要だと思う。
まぁ、それは古代中国にかかわらず、乱れた時代にはいつでも必要な事だと思うけど。
魏も呉も晋も後継者問題で揉めたけど
蜀だけずっと安泰だったの?
そんなに劉禅って名君だったの?
部下に強く干渉しない皇帝なら、部下もどうかしようとか思わないだろう。
後継者の問題は、太子やその候補者の意思もあるが、
それを担ぐ事によって利益を得ようとする者の思惑も大きい。
幸い、そういった奸臣がいなかっただけだと思う。
劉禅の弟の劉永は黄皓と反目し、黄皓の讒言によって劉禅に遠ざけられたが、それくらいだな。
そういう事を以って名君としたいのなら止めないが、受け入れられる考えかは知らん。
2代目はおとなしくしてろってのが、良くも悪くも昔からの処世術だな。
隋の煬帝
201 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/11(土) 21:36:13
ショカツ亮は人材を発掘しようとは思わん買ったのかな?
学校ぐらい作って人材増やせばいいのに。
202 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/11(土) 21:39:11
学校作れば人材が増えるのか・・・
便利な世の中だな、すんばらしい。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/11(土) 21:53:42
>>202 増えるに決まってるじゃん。勉強しないよりしたほうが
いろいろ幅が広がるでしょ
まさか学校なんて社会にでたら意味ねーぜとか思ってるの?
その時代時代の社会背景や制度を度外視しているか、単なるゲーム脳なら
そういう意見も出てくるわな
>>203 生きるか死ぬかの乱世に、学校なんて悠長な施設を建設する余裕が有るものか、甚だ疑問だがな。
かんぬは学校の先生だったお( ^ω^)
ただ、子供がすくねェってのはあるかも
まあ太学よろしく実際にガッコはあの時代にもあったからやろうと思えば出来たかも
>>205 お前もしかして小学校とか中学校を連想してないか?
209 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/12(日) 09:05:41
孔明の政治学とかいろいろな物を文章にして残してたら
後々便利だったと思うんだよな。やってたんだろうか?
弟子もあんま以内みたいだし。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/13(月) 20:37:42
あげ
学校はあったけどな。
三国志に記述があるだけでも、田疇、王烈、孔融、劉馥、楊俊、王基らが学校を建てた事が分かり、
虞翻が、「鄭玄の行った注釈の内、間違いの甚だしい百六十七条が学校でそのまま教えられている」と上奏してる。
南陽に建てた楊俊、江夏に立てた王基以外は、
空っぽの城を再建した時とか、郷里の村落だとかに建てている事を顕彰されているので、
実際、そこまで珍しいものでもなかったと思う。
教えてる内容は、書や易、詩などの儒の経典が専らだろうね。
ageてお題を次々とふるのはイイけど、
思いついた疑問を自分では調べもしないただのクレクレくんなの?
相手の問いかけはほとんど無視してすぐ次の話題に移すし。
213 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/14(火) 18:09:58
うん。
こ。
215 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/16(木) 20:56:04
呉蜀同盟がドレくらい機能してたかなんだよな。
カンウの仇なんだから呉に攻め入った方が良かっただろうに。
>>201 軍事の世界で君が言うことが実現するには19世紀のプロイセン参謀本部の誕生を待たないといけないぞw
ナポレオン一世の時代までは大なり小なり極々僅かな天才的軍事指導者が時流を左右した時代。
ブリュッヒャー元帥はついぞ、ナポレオン一世が直接指揮した軍を破ることができなかったし、
魏軍も曹操が指揮した時と指揮しない時では勝率が段違い。
そして悲しいことに、学校造った所で教育された秀才は所詮歯車にしかならん。天才は教育からは生まれない。
秀才が天才に打ち勝つには、寄ってたかってボコるしか方法がないわけだが、当時はそのためのインフラが不十分。
統一した指揮をするにも命令するにも早馬w一旦戦闘が始まってしまうと指揮官の素質に全てがゆだねられる。
そして、その間に、天才が戦局を変えてしまう。
そういう意味では、いにしえの時代とは英雄を多く必要とした時代だったのかも知れん。
電信が発達した現代では天才は戦線の後方に一人いればいいのだからな。
プロイセン参謀本部の誕生が電信、鉄道の発明後というのは偶然ではない。
当時は士官学校の類を造るよりも、王平みたいに戦場で育って戦争の機微を肌で感じた人間を拾い上げていくほうが効率が良かったのかも?
>>216 曹操とそれ以外の指揮能力もあるとは思うが、
曹操とそれ以外の差は、曹操の直率軍が兵も士官も精鋭で、それ以外はそうでもない、という質の差もかなりあると思うよ
219 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/27(月) 14:28:03
あげ
>>217 トウタクの残党とか烏丸突騎とか相当強いけどな
>そして悲しいことに、学校造った所で教育された秀才は所詮歯車にしかならん。
>天才は教育からは生まれない。
>秀才が天才に打ち勝つには、寄ってたかってボコるしか方法がないわけだが、
>当時はそのためのインフラが不十分。
ああ、わかりやすいというか、しっくりくるな
ほんとそう思うわ
222 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/27(月) 17:57:37
>>221 天才が何人いるかね。
凡人を秀才にできるんならいいじゃねーか。
223 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/27(月) 18:34:41
部将クラスだったら学校で育成できただろうけど、一軍の将はなかなか難しいものがあるだろと思うよ。
とはいえ費緯以外育った天才がいないなら、学校も手ではあった
>学校作って増やせばいいのに
教師役がそもそも足りません。人材不足ですから。
孔融の二の舞いになります
粗製濫造された秀才ばかりだと逆に害悪にもなってしまうね
粗い目の無いまとまった出来だから秀才って言うんだろうが。孔融みたいなのはどっかで作り方間違ったエリートで、秀才とはいわん
つか曹操自身が天才だが学校で学問を修めた秀才でもある、まあ結局天才肌の人間だったが
天才はエネルギーが膨大で信じられないような事をするけど粗さも目立つもんだ
荀ケみたいな秀才(というと語弊があるかも知れんが)は天才みたいな離れ業は出来ないかも知れんがまとまっていて組織には欠かせない人材
>>228 曹操が天才なわけねーだろ
典型的な器用貧乏の秀才じゃねーか
秀才だからといっても
失敗しないでキレイに終われる幸運に恵まれないわけではない
秀才ゆえの失敗はありうるが
全ての秀才が失敗するわけではない
典型的な秀才の失敗とは
応用のきかなさ、つぶしのきかなさにある
秀才の典型的失敗例は孔融であり馬謖
>>229 アレだけいろんなことできんのは天才
っていうかアンチってどこにでも沸くんだなw
>>226を読んで「孔融みたいなのが育つ」と解釈するお花畑に乾杯w
>>231 色んな事にクビ突っ込んで専門家に突っ込み食らうのを繰り返してるじゃねーか
234 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/28(火) 19:42:09
蒼天航路みなよ。
>>232 孔融みたいなのばっかり育つのは地獄だなw
ぶっちゃけ口ばっかりで役立たずだろ
文才はあったかも知れんが
>>235 役立たんクセに社長に口答えばっかりするからクビ切られちゃった
>>233 ちょっと初耳かもな
同時代の誰かに突っ込み食らったりしてたか?
>>237 それこそクビ切られた孔融とかだろw
いつの時代も同時代の政治家やら有名人の批評家というのはいるし、いなきゃならない。
たとえそいつらが小物だったとしても
というか批評家というのは大体小物だがw
まあそんな揚げ足取りみたいなのでもやるヤツが居ないとバランス取れないからね
>>238 まあ天才、秀才と繋がるかはわからんが
ただの知識人で終わってる奴等ってそういうのばっかりだしね
>>237 「兵糧たりねー」
「屯田しましょうよ!」
「めどい、ださい」
「いいから、屯田しろ!」
「ハイ」
「揚州欲しいよー」
「殿、このまま3年くらいほっとけば勝てますよ」
「いーやーだーいーやーだー、俺は今勝つの!」
「燃えろ」
とかそういうのを繰り返してんじゃん
241 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/28(火) 21:39:45
費緯の暗殺さえなければ後20年くらいはもったかもな
魏は上手くやったと思うし、人材不足でなければ費緯の暗殺は防げた
暗殺がなくてもその時点で費イは60歳くらいだったはず。
そう長い時期国政を担えたかどうか…。
それに突然死でなくても後継は仲良しの陳祗だった可能性が高いからねぇ。
それまで国政、軍事両面のトップは荊州関係者だけだったのに、なんで姜維はそこに割り込んでるんだろうね
姜維が大将軍・録尚書事となった理由は分からないが、
そもそも簡単に「荊州」でくくる事ができるのだろうか、という疑問はある。
面子を見る限りは、諸葛亮死後の宰相人事は、諸葛亮にどれだけ評価されたかの方が大きい気がする。
仮に本貫を荊州に持っている事が一つの条件だったとしても、むしろ最大の異端は陳祗だろう。
彼は、本貫が荊州でもなければ、諸葛亮との関わりも薄く、確認できるのは費禕、許靖との繋がりだけだしね。
>>245 陳祗は軍事のトップじゃないな
あえて言うなら、姜維とのツートップか
軍事と政治の両方のトップを兼務したとなると、費禕の死後では姜維しかいないような。
敢えて言えば、中都護・衛将軍・平尚書事の諸葛瞻となるけど、
彼がどれだけの戦力を掌握していたかは不明だな。
姜維以前の蒋琬と費禕に限定するならば、これは諸葛亮の遺言によるもので、
仮に諸葛亮に荊州に本貫を持つ人物を引き立てたかったという意思があったとしても、
この二人を後継とする事しか述べていない以上、
それ以降の人物まで荊州という要素が必要になる理由にはならないと思うので、
姜維の就任が、少なくとも荊州云々という点ではそこまで不自然にはならないと思う。
姜維の出世がどうもおかしく感じるのは、
・降将であり、厚遇される余地はあっても、常識的に考えれば大権を握る可能性が低い状況
・他の権力者とのコネが無い
・大権を握るまで、特別に大きな功績があるわけでもない
といった点
249 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/29(水) 02:30:20
姜維は、
・諸葛亮に高く評価された
・諸葛亮の後継者である蒋琬に重用された
という事くらいかな。録尚書事を帯びるまでは。
この話になると避けて通れない、東征中止の詔勅に関わっていたという件も、
権力交代劇のキーパーソンの一人として影響があったと見るべきかもしれないが。
諸葛亮の遺言において、麾下のあらゆる将軍を差し置いて、魏延が遺命に従わなかった場合の、
対魏軍及び対魏延を想定した殿軍の指揮を執る事を任され、
実際にも楊儀と共に司馬懿の追撃を退けている事を考えると、
軍事に関して言えば、諸葛亮幕下では位階以上に重要な存在だったのかもしれない。
費禕の後継者って誰だったの?
そんなに人材いなかったの?
251 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/29(水) 03:00:44
>>250 権力を握った順番で言えば姜維だけど、彼は費禕と並び立つ形で権力の座に着いているので、
費禕の後継者という言い方は少し相応しくないかもしれない。
費禕が自分の後継者と考えていたと思われる人物で言えば、これは陳祗になる。
陳祗が後継者だった事を以って人材がいなかったとでき%
久しぶりに書き込みに失敗した。
レスの続きは、
「陳祗が後継者だった事を以って人材がいなかったとできるかは分からないが、
政権を安定させるという点で言えば陳祗の手腕は相当なものだと思う。」
だね。
とはいえ陳祗では小者だ
並び称された蒋エン、董允でさえ費緯に比べれば格段に落ちる
陳祗の役職名は?
蜀が滅びるまで内政の主導は陳祗たったの?
>>254 陳祗は蜀滅亡の5年前に死んでる。
最終的には侍中守尚書令・鎮軍将軍。
陳祗の死がもたらした影響としては、
・姜維の北伐を後方で支える人がいなくなった。
(成都と姜維との間で意思の疎通に問題が出るようになった)
・彼が引き立てた黄皓が権力の中枢に食い込む状況を残して逝ってしまった。
ってとこなのかな。
しかし費緯以降、姜維は別として、笑える程人材いないな蜀末期
武官は、張翼・廖化の老将が最後まで対魏最前線の指揮官だったことが象徴してるね。
内政官は、無能とまではいわないけど官僚タイプばかりで
国を統率できるような人材はいなかったって感じ?
地方政権の限界だろうね。
>>257 よく出てくるけど霍弋や羅憲なんかは蜀滅亡後でも晋将として活躍してる。
あと、何を以って人材がいないと断じてるのか知らんが、それをいうなら呉だって陸遜以降は強いて言えば陸抗くらい。
基本、両国(あるいは魏を含めてもいい)においては国力に応じた結果しか出せない程度の人材しかいなかったとも言える。
魏の人材に至っては司馬懿以降、司馬氏の簒奪を防げなかった程度の連中しかいなかったという言い方も出来なくはないw
>>258 > 武官は、張翼・廖化の老将が最後まで対魏最前線の指揮官だった
蜀滅亡時は成都から進撃してるわけで、259年以降はほぼ隠居だったろうと思うよ。
259年の時点でも十分だと思うけどね。
姜維・張翼・廖化…老将の域にある人間がいつまでも前線におらざるをえない状況、
これはすなわち代わりを任せられるだけの存在がいなかったことの証明だろう。
呉の滅亡は三国の中では一番最後だけどな
人材がいないのか、孔明が登用しなかったのかは微妙なところ
>>261 人材の具体例をあげてくれないか?
同時代の呉や魏で。
>>260 259年以降、対魏の前線は楽城の王含(蜀滅亡時は蔣舒と傅僉の逸話からすると変わってるかもしれないが)、漢城の蔣斌。
総司令官レベルでの前線は姜維ということになるかもしれないが、廖化や張翼は中央に引っ込んでいて前線とは言いがたい。
仮に鍾会の侵攻に対し出陣した廖化や張翼を前線というなら同じく出陣した諸葛瞻や董厥も前線ということになってしまう。
>>263 だーかーらー
259さんのご指摘に沿った259年までの話って前置きしたやんか…
265 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/29(水) 22:17:16
人材がないってたださ、正史に書かれてなかっただけで
優秀なのは揃ってたのかもよ。
盛り上がりに欠ける後半は正史書いた奴もまともに書く気なかっただけかもしれんし。
266 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/29(水) 23:00:56
なぜケ艾ではなく野心家鍾会の方と共謀しようと思ったのだろう?頼りになるという点では圧倒的に前者でしょうに・・・。
あっ、そうか。姜維程度じゃケ艾を扱いきれないからか!納得。
>>265 いちおう記録なんだからそこら辺はきちっとすんじゃね?
可能な限りで
蜀出身で後の時代も活躍して名前残した人物って
羅憲とその一族の羅尚くらいなんじゃないの。
晋王朝で出世した蜀将が全く出てこないんだから本当に人材いなかったんだろ。
呉は陸雲・陸機兄弟とか結構いるんだが。
269 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/30(木) 08:50:17
>>267 活躍の場がなくて地味な仕事ばかりしてたから
記録に残らなかったとかあるんじゃないかな。
三国志前半なんかは戦争が多くていろいろ活躍の
場があるけど後半は北伐しかないし。
南蛮だってずっと大人しくしてたわけじゃないだろう
何してたかしらんけど
>>269 とはいえ、陳寿が自分の目で見ているのは蜀末期だから、
信憑性があるのはそちらのはずなんだよね。
272 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/30(木) 13:19:43
>>271 あれじゃないかな。昔は凄かった的な、
たとえば今、野球史を作るとしていろいろ調べてったら
現役選手が王長島は凄かったっていうわけじゃん。そういう風な
感じなんで昔の人を凄く評価してしまった
的な。
大して長くもない文章なのに妙に癇に障る
的な
長島さんは水物だけどそれでも名選手だし王さんはマジで凄いじゃん
的な
なぜケ艾ではなく野心家鍾会の方と共謀しようと思ったのだろう?頼りになるという点では圧倒的に前者でしょうに・・・。
あっ、そうか。姜維程度じゃケ艾を扱いきれないからか!納得。
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/30(木) 20:47:41
>>275 まあコピペなんだけど一応反論しとくと
キョウイの策でケ艾も倒してるでしょ。
倒すと破るは全然違うだろwwwww
278 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/30(木) 21:01:38
俺の推理ではね最後全てキョウイの策なのよ。
キョウイのとった行動のおかげでケ艾と鍾会の魏の二大看板は
チカラなくなったわけだし。
後は劉禅が南蛮に亡命してれば時期を見て復活できたんだよ。
279 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/30(木) 21:04:24
280 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/30(木) 21:06:12
>>279 やたらそのサイトのコピペしたり紹介するけど
そのサイトの人?
はっきりいって浅いよ。防衛線下げたのも素人にはわからない
深い考えがあったんだよ。
三国時代の末期のように国力の差がはっきりとしてきた時点で一人一人の能力はさほど関係なくなってくるな
小さい勢力がうごめきあってる時点では違うが
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/30(木) 21:22:46
>>278 ハイハイ、凄い推理でちゅねー
何の根拠もないわ
283 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/30(木) 21:30:44
相手にするだけ無駄だと思うよ。
皆が議論している最中に
「今までもこの類のスレ立ててきたけどいまいちわからん」
という迷言を吐く御方ですから。
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/30(木) 21:50:33
>>282 そんなこと言ったら
>>279のサイトも根拠ないじゃん。
つまりね。なんだかんだ言って三国志末期で一番目立ってるのはキョウイなわけで
キョウイが一番として考えるのが自然って事。
285 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/30(木) 21:57:15
そもそも、
>>275に反論するなら、姜維がケ艾を破ったとか倒したとか、
そういう話をする必要はないと思う。
鍾会は煽れば反乱を起こす見込みがあるが、ケ艾はそうじゃなかった、というだけの事だろう。
更に言えば、姜維とケ艾が共に反乱を起こすという事に現実性は無い。
姜維は鍾会と共に成都に入り、鍾会は成都に入る前にケ艾捕縛を行わせている。
これでは「ケ艾と組んで反乱しろ」なんて言える理由が無い。
ケ艾はケ艾で成都入りすると暴走気味になってたから、とっ捕まってなければケ艾が乱の中心になっても不思議は感じないけどな
まあまあ、そういうなよ。ケ艾も鍾会もみんな仲良くしようぜ。
それもこれもケ艾と鍾会の反目を見込んでのこと。
全ては司馬昭のたなごころの上なのさ。
289 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/31(金) 07:07:07
ケ艾ってなんであんま名前残ってないんだろうね。
キョウイのライバル的なのに。無双にでてもおかしくないでしょ。
ケ艾って人間的魅力を感じないと言うか
簡単にすぐ殺されたし、使い捨てのガラクタみたいなイメージがあるんだよな
人間っていうより使命を果たすだけの機械って感じ
簡単に殺されたのは人間的魅力がないんじゃなくて
本人からにじみ出る威厳とか人を寄せ付けない威圧感とかそういうのが欠けてたんじゃないの
俺は血筋の持たない成り上がりの源義経みたいなイメージかな
>>284 お前が書き込む度にスレのレベルが下がるから消えろよ
ミーハーだから姜維贔屓ですとか自己紹介されてもウザイ
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/31(金) 11:55:58
姜維って名前が美しいから贔屓しちゃうんだろうな
名前が赫連勃勃だったら見向きもしなかっただろうよ
295 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/31(金) 12:13:44
だからさ三国志の主役を追っていくと
まず
曹操と劉備 で孔明 で最後はキョウイなわけじゃん。
って事はこれらの奴らと同格でしょ。
三国志の後期の主役が姜維だというのは初耳だわ
297 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/31(金) 13:17:26
孔明死後は司馬懿だろう、JK
柴錬の読みすぎだろw
298 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/31(金) 13:56:39
キョウイは英雄。
主人公なのは当然じゃん。
ナニ言ってんの?バカじゃん
姜維が主役かぁ
姜維ごときが曹操、劉備や孔明、司馬懿と同格とはとても思えんなぁ。
自身を悪く言った楊戯に、表向きは寛大な態度を取りつつ、恨んで庶民に落とすとか、人格面でも蒋エンに劣るし。
能力も自負するほどにはなく、結局、蜀の衰亡を早めただけ。
人格、能力とも英雄足るには届かず、己の功名の為に生きて自滅した男だ。諦めないしぶとさ、気骨はあったけどね。
最後の反乱にいたっては、主役は鍾会だろ。姜維は端役もいいとこ。
301 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/31(金) 19:22:39
>>300 ホウセイは劉備入蜀後、自分を冷遇してた上官を
処刑した。それを見た孔明は「ホウセイの才が手に入るなら
あれぐらい我慢しなさい」と劉備にいったそうな。
人格面って何かね。
法正はちょっとした恨みを持った奴でも殺しまくったとあるけどね
マジでヤクザだよ
自軍の不甲斐なさに切れた劉備相手に戦場でタンカ切るぐらいだし
法正は早めに死んでよかったと思う
長生きしてたらボロが出てた
つか魏延の件だけで後期の蜀首脳部の人格は尊敬できんなあ…
>>300 姜維批判のテンプレそのものって感じの意見だな
306 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/31(金) 23:23:16
主役とかって表現をするんだから、当然演義の話だと思うけど、
演義で言うなら諸葛亮死後の主役は姜維で良いんじゃないの?
司馬懿は公孫淵討伐と曹爽誅殺以降は出てこないし、
姜維の北伐が始まってからは姜維中心に物語が描かれてるしね。
第一百七回から第一百十九回までは姜維を主役としてると思う。
もともと蜀贔屓の演義で後半の主役が諸葛亮だしね
となれば歿後は姜維にタッチって流れも分かる気がする
司馬懿は諸葛亮が歿してからの老獪な立ち回りは面白い
諸葛亮以外なら敵無しっていう存在感も示してるし、物語としてみると
なんとなしにダーティーな魅力があるね
308 :
大司馬司馬氏:2008/11/01(土) 00:51:15
ははは、みんなヲラを褒めているね
謝謝
309 :
コドッキー中佐 ◆E3Fo.t2xw6 :2008/11/01(土) 02:25:25
張苞って張飛より先に死んでるのな…
関興も結構早逝
南征とか北伐の活躍は一体なんだったんだか
まあよくよく考えりゃ話できすぎだしな
夷陵行けばすぐ親の仇に遭遇するし
姜維は諸葛亮の後釜にすわったというだけで、
主人公というのは違うだろ
最後は鍾会と結託して反乱おこしてトウガイに殺されるだけだし
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/01(土) 05:35:38
主人公って何だよwww
孔明死後は司馬一族が主役なんだろうけど
ヤツらは性格がドライすぎて物語り向けじゃないんだよな
温家宝が「ダライラマは司馬昭」って例えたように、中国でも司馬一族は完全に悪役扱いだからな。
必然的に姜維が主役にならざるを得ない。
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/01(土) 12:03:01
なんかキョウイ批判してる人たちって
通ぶりたいのが見えすぎ。
キョウイを批判しとけば三国志通だと思ってるんだろうな。
「防衛戦下げたのが致命的ミス」って何回も聞いたけど
具体的になぜ下げちゃダメかを説明できる人はいないんだろうな。
315 :
コドッキー中佐 ◆E3Fo.t2xw6 :2008/11/01(土) 12:22:30
どっちみち姜維は戦い続けるしか生きる道なかっただろうしな
戦うという口実無しにあまり内政に口挟み過ぎると反対派に算奪者呼ばわりされるし
兵力を自分とこに掌握しておけばクーデターを未然に回避できるし
人材不足が逆に幸運だったのかも
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/01(土) 12:28:39
何回説明してもわからん池沼が吠えてるぞwwwwwwwwww
姜維の感情的な批判もアレだけど、
論理的な根拠も示さず盲目的に「姜維は主人公だ」とか
反対レスへの批判をするだけで
なぜそれが謝った見解かを反論しようともしないよりは
はるかにマシだろ
318 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/01(土) 12:56:07
キョウイのことを認められないヤツはニワカ
これはガチ
後期スレを何度も立てた自分が言うんだから
間違いない
319 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/01(土) 13:33:37
演技のキョウイってさ
チョウウンの武力受け継いでて
孔明の知略も受け継いでて
しかも劉備の志を継いでる
っていうまあ完璧キャラじゃん。そういうのに設定されたぐらいだから
相当のものがあったからなんだろうね。
防衛線下げたのは、防ぐ為ではなく大勝を期待してのもの。
しかもこの防衛線は王平が魏軍十万を凌いだものでもある。(費イの援軍込みだが)
これを下げた結果がトウ艾による蜀滅亡じゃ、評価しようにも難しい。鍾会を凌ぐ辺り、戦術的な効果はあったんだろうが。
もし下げなければ防げた可能性があたんじゃないか(状況的に無理っぽいが)というIFが残る以上、
防衛線を下げた事に高い評価を下すのは難しいんじゃないか。
個人的には防衛線云々よりも段谷の戦いがなあ。精鋭壊滅、西方離反で、もう勝ちの目がなくなった。
胡済に責を求める事も出来るけど、なんの降格もなされてないしな。
自ら降格してるし、諸葛亮に倣った面はあるにしても、姜維は己に責があったと自覚していたと見るべきだろう。
以後、トウ艾に対して負けっぱなし。毎年のように軍勢を動かしたが勝利を得られない将を評価はできん。
それ以前の経歴から見るに、能力はあった筈なんだがなあ。
演義のアレは、同年代において良くも悪くも比類なき暴れっぷりと最後の蜀復興の為(功名心も込みなんだろうが)の反乱。
それと、裴松之の人物評価によるものかな。
なんかこいつ厨房風に釣って考察スレを活性化させようとか思ってそうでイヤ
Jominian ◆Henri9gNlMと正反対のアプローチだがな
322 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/01(土) 17:58:42
だがそれがいい
323 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/01(土) 18:16:24
と思ってるのは本人だけだカス
思い込み激しすぎ
末期的症状に陥っていたから末期を迎えたわけだからなあ
単純化して言ってしまうなら
全てにおいて
魏に及ばなかった
ということ
国力も人材も
アタシ♀だけど、電話来ても悪い気はしないよ。
327 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/01(土) 21:36:07
じゃあ電話番号うpれや
演技のキョウイってさ
チョウウンの武力受け継いでて
孔明の知略も受け継いでて
しかも劉備の志を継いでる
割にやった事の結果は散々でした。チャンチャン
ああ、体どころか国を張ったギャグだったんですね、わかりました
329 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/01(土) 22:49:21
256年に祁山から南安を経て上邽へ転進した事は、はっきり言って強引過ぎた。
だけど、仕方ない面もあるにはある。
過去の二度にわたる戦役で洮西一帯を魏から切り離す事に成功し、
一気に畳み掛ける事によって隴西全体からも魏軍を駆逐する事も可能であったろう時だったから。
この年の行動に備えて集積していた物資も底を突きかけてはいたが、
むざむざ帰還すれば魏の反攻によって二年間に得た成果を大きく取り戻されてしまう可能性もある。
ただでさえジリ貧の国家なのだから、消極的な決断の結果によって失う事より、積極的な決断に賭けた方が良い。
あの転進は、胡済との合流という一縷の望みに賭けるだけの価値はあったが、
同時に、結果が示しているように全てを失う危険もあった。
実際、その距離は短いが、魏延の子午道経由の前進よりも、重要で危険な賭けだったろう。
諸葛亮から続く北伐の歴史の中で、蜀の命運を最も左右した決断だったと思う。
それを劉備でも諸葛亮でもなく姜維が行い、且つ失敗したのだから、批判が集まっても仕方ないだろう。
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/ `mj |ノ / ヽ ちゅばちゅぱ
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331 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/02(日) 08:11:42
姜維のアドリブ能力というか、現状最善手を即座に割り出す能力は恐らく諸葛亮以上だと思う
陽明学でもやってるのかというくらい知と行が一致してるしへこたれない
ただ、がんばり過ぎで実は最後まで読み切れてない碁打ちみたいなところがある
そういうのは見てる分には滅法面白いし策が当たってるうちは天才に近い
単に功績が欲しいだけならここで退却するのがベターだが、それだけの人ではなかったんだろう
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/02(日) 09:22:25
正史と演義の姜維ってどう違うの?
333 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/02(日) 09:33:55
そもそも失敗をキョウイ一人のせいにされてもな。
最後の戦いだってキョウイは戦いつづけてたのに
ショカツセンが無能で負けて劉禅がかってに降っちゃったんでしょ。
ずっと中央から隔離されてた時点で既に終わってるだろ
姜維の後継者って育たなかったのかねえ…
傅僉あたりじゃないのかな?
防衛線を下げた上に、その兵力も北伐に引っ張って失ってる。
しかも防衛線下げる作戦は、トウ艾の陰平越えで無効化。この状況で防衛しろってか。
諸葛センが凡庸なのは確かだが、この状況で姜維が幾度も敗れたトウ艾を、一回だけでも撃退しただけ対したもんだ。
姜維一人に敗因を求める事は出来んが、だからといって中央だけに罪を求める事は出来んな。
しかも姜維の判断はほとんどの敗因に一枚噛んでるわけだし。
338 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/02(日) 16:57:26
諸葛センはどうにもならない状態で出馬だから無能呼ばわりされる謂れはない
過去の魏の侵攻と違ってかなり深く侵入されてるから持ち堪えれば退却するという状態でもない
東からと北からの違いがあるが劉備入蜀に近い状態になっている
ちなみに蜀の最後のほうの軽い年表みたいのって
どこかで見れる?何の戦いがあったかとかくわしくわからんのだけど。
姜維の最大の問題は成都政府との対決を避けたこと
それゆえに成都での立場を悪くした
結果、功を焦った、いや焦らざるを得ない立場に自らはまりこんだ
そして最大の失敗はそれゆえに大勝をえねばならなくなり、諸葛亮なら絶対に回避した危険を冒さざるをえなくなり、決定的大敗を喫したこと
これで以後は魏に主導権を完全に握られてしまい、防戦一方となる
諸葛亮が朝廷での立場に慎重に気を使ったのに対して
姜維はあまりにも前線司令官でありすぎた
蜀における軍事の第一人者ではあったのはまちがいない
だが朝廷に味方がいなくなっては真価を発揮できない
そしてこの点については自業自得であろう
時々思うんだが仮に長安を落としても連絡の悪さをを考えると
益州とは半ば独立した政治軍事経済のブロックに成らざるを得ないよな
領土を倍に拡大してもその効果は多分倍にならない
やっぱり上庸以東の土地が欲しいな
>>341 それは違う。
関中を得たら、益州を純粋な策源地とすることが出来、国家の安定度が全く変わる。
益州は人口も多く灌漑も行き届き、鉱物資源も豊富。
秦や漢の覇業も策源地としての蜀が在ってこそ。
そもそも呉との連携をしなきゃダメでしょ。
それをやるのは中央の仕事じゃん。ショカツセンとか
孔明でさえ呉を利用して戦ってたのに
キョウイは呉の助けなしに戦わなきゃいけなかったわけで
それでも孔明並に戦えてるんだからさ。
344 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/02(日) 22:54:54
>>340 成都と対決する、なんて事をする必要があったのかねぇ?
「姜維対成都」という図式は、個人的には幻想だと思うし、
そんな図式になったとしても、それは段谷での大敗から始まる姜維らの発言力低下が起こってからだろう。
多分因果関係は逆で、「成都との対決を避けたから大勝が必要となり、それが大敗に至った」のではなく、
「大敗を喫したからこそ成都との対立が深まった」と見た方が良いと思う。
俺も昔は、姜維の権力基盤が軍事的功績にあり、政権を固める為に大勝を欲していた、と考えていたけど、
実際はもっと単純に、姜維は戦場においては軍事的な判断を政治的な判断の上位に置いていただけなんだと思う。
姜維は権力にしがみつきたいだけの人間ではないだろうし、北伐の為の権力掌握と言う点でも、
陳祗存命中は北伐を行うに足るだけの事はできていたのだから、「権力維持の為に大勝を」という考えには至り難い。
そもそも、諸葛亮時代と姜維時代とでは皇帝の発言力が段違い
良く言えば挙国一致、悪く言えば専制君主のように振舞えた諸葛亮と、皇帝、官僚群との微妙なバランスの上に立っていた姜維とでは、そもそも同じような存在として考えることは出来ない
いくつかの派手な戦勝と裏腹に
戦果自体は今ひとつで
しかも主力軍を大きく損なうリスクが現実になってしまう
諸葛亮とは全く正反対だ
そして、国力で大きく遅れをとる以上、
国を滅ぼさないための戦い方こそが必要だった
あげく、引いて引き込んだところを狙い打つ、という最後の賭け、
いわばオーラスの役満狙いも実らないまま終了
武将としては優秀だが、一武将止まりの器
名選手必ずしも名監督ならず
の典型だね
347 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/02(日) 23:09:31
348 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/02(日) 23:09:42
孔明は楽だったろうな、劉備から全権握ってるし
好きなまま動かせたし。
これ思うんだけど孔明って蜀の実権握るために
ライバルになりそうなの蹴落としてたんじゃないかな。
ホウセイ ホウトウ バショク
とかさ。
349 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/02(日) 23:12:03
>>346 「派手な戦勝」と「今ひとつな戦果」ってどういう事?
カタカナキョウイの人は妄言を吐けば吐くほど姜維の評価が下がる事に気付かんのか
他の人物を貶める方向にいっても、姜維の評価は上がらんぞ
それともそうやって姜維を逆に貶めるつもりなのか?
351 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/03(月) 01:37:27
姜維の後継者についてのレスがあったが、これはなかなか難しいね。
政治的な部分での後継者であれば、陳祗の死後に平尚書事となった諸葛瞻と董厥だけど、
これには姜維の意思が関係していたか定かでは無いし、むしろ姜維を追い落とそうとしているので後継者と呼ぶべきか微妙。
軍事的な部分だと明確に書かれてはいないが、蜀の末期にあって軍事の枢要な位置にあり、
且つ世代の若い(と思われる)人物として、漢城護軍蒋斌、関中都督傅僉、楽城監軍王含の三人がいる。
諸葛瞻も中都護衛将軍なので、国が滅んでなければ姜維の死後に全軍の総司令官になったと思う。
向寵の弟の向充、来敏の子の来忠も姜維を良く補佐したと書かれているが、世代的には姜維とさほど変わらないだろうね。
王嗣なんかは姜維の信頼厚かったし、生きていれば後継者のような位置にいたかもね。
個人的に、漢中で最も重要な漢城(沔陽)を任されていた蒋斌が後継者筆頭じゃないかと思ってる。
傅僉の場合、関城を任されていたなら文句なしなんだが、蒋舒を制する事ができなかった事が気になる。
諸葛亮を貶めるために法正ホウ統馬謖とは的が外れすぎている。
せめて李厳とか言えばいいのに。
>>344 実際のところ、姜維は軍事戦略的な目標をどの辺りに置いていたんだろう?
諸葛亮の時代はビ、陳倉の辺りで十分に勝負が出来た。
そこで一戦して曹真や司馬懿の西方軍を破り長安を陥れれば、
魏の屋台骨を揺るがすことが出来ただろう。
姜維の時代になると、雍涼州都督諸軍事の陳泰は狄道で王経を救った後
上ケイに帰還したとあり、秦嶺山脈北の防備は侵し難くなっていただろう。
ために姜維は遠く祁山を迂回して涼州を突いた。
狄道や天水でなら、陳泰やケ艾の率いる主力が駆け付けるまでに時間があり、
それを利用して勝敗を争うことが出来た。渭水の制水権(?)を獲っていたことさえある。
が、豊かではない涼州を獲っても、益州にとってはそれこそ飛び地であり、
戦勝を固めるには続けて雍州を狙い、雍州州郡と洛陽から派遣される中軍を相手に
さらにいくつかの大勝を重ねる必要があっただろう。
実際、蜀漢の滅亡は、姜維が西方へ赴いている間に鍾会が漢中を奪取するところから始まっている。
姜維は、
1)魏の雍涼州軍主力を西方へ釣り込んで壊滅させ、雍州制圧の前段とするつもりだった
2)故郷である涼州との繋がりを頼みとし、ここを制圧できればその後の魏との戦いを有利に運べると考えた。
3)故郷である涼州との繋がりを頼みとし、ここを制圧できれば満足だった。
4)戦術的功績が欲しかっただけで勝っても涼州支配を永続するつもりはなかった。
の、どれかを考えていたことになると思う。
2)かな。戦略的に一番下手を打っていると思うけど。
353 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 08:58:36
1800年前に過ぎ去ったことを蒸し返してどうする。
蜀が天下取れるわけが無い。
354 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 09:34:02
そもそも晋の奴らが歴史書作ったんでしょ
晋の皇帝になった奴と戦ったキョウイについて
良く書かれてるわけはないしな。
アホかチンジュは蜀の人間だ
356 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 09:46:21
あれは陳寿が趣味で作っただけじゃないの?
あと中国の正史は大体正しいと考えていいと思う
というのも後の歴史家によって容赦無く注訳されて矛盾や間違いを修正されてしまうから
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 10:04:07
>>357 後の歴史家が間違ってたとは思わんのか?
>>358 それはあると思う
ただ時の権力者がねじ曲げてねじ曲げきれる物ではないって事
永遠に権力を持ち続けられる訳では無いからね
361 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 10:19:07
さすがに1800年も経ったんだから
しつこく姜維を責めるのはやめてやれよ
おつかれさん!キョウイ!くらい言ってやれんのか
孔明が神秘的な名将になっていくのって姜維との対比が大きいんだろうね
孔明の場合無理しないから戦果は上げられなくとも戦死する可能性はまだ低いけど
姜維の時代は危険も犯すから将兵の死傷率も高くなっていく
孔明死後の世代にとっては、孔明の時代は旦那も父も帰ってきた、なんと素晴らしい将軍であったのだろう
それに比べて姜維ときたら…となる
363 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 10:30:25
けどな日本だって大化の改新あたりはすげえ怪しいらしいし。
田沼意次なんて最近まですげえ悪い政治家だったし
やっぱ歴史なんて簡単に書き換えられてしまう物だと思うよ。
始皇帝だって悪人じゃなかったんでしょ。
そんなのマスゴミの情報操作に比べたらかわいいもんだろ
何言ってやがる
姜維は偉いよ
蜀が一番好きだが姜維のせいで国が疲弊したなんて思ってないよ
新入りでまだいまいち馴染めてないのに前線でかなり頑張ったじゃないか
そんな環境だから無理したところもあったかもしれないけど、姜維がいなかったら…
て考えるとやっぱりさ
姜維の所為で蜀が疲弊したのは確かだろ。軍隊ってのは動かすだけでも金だの資源だのを食いまくる
毎年のように軍を動かせば、国家は疲弊する。だからこそ諸葛亮は国力維持に気を配った
姜維は政治に気を配らず、防衛戦力まで北伐に投入し、
反乱を防ぐ為に大赦が連発されるほど民衆の不満は高まっていた
この状況で国を疲弊させてないとどうして言える
まあ、263年の姜維の上表が握りつぶされたのはな。防衛線を下げたミスを埋め、魏に備えるものなんだが
まさか本気で巫女の預言を信じたわけであるまいし、簡単に握りつぶされるほど、姜維の発言力が低迷していたのか……
純軍事的には時に卓見を出す辺り、姜維は副将であるのが一番よかった気がする。まあ状況が許さないか
367 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 12:22:57
確かに何もかも不足してた蜀では軍を動かすだけでもダメージだけど
何もしないで守ってたから良くなる訳でもないし、どうしようもない
姜維ばっか責めるのはさすがにかわいそうだ
368 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 12:52:43
良くも悪くも1800年後の人達にまで語り継がれるのはすごい事ですね
今後も続くのでしょうね
今の世に後世にも語り継がれるような人がどれほどいることか
生姜繊維が死んだ後は家財とか残ってなかったっていうのは
全部軍事費につぎ込んでたって事?
それとも宵越しの金は持たないってだけ?
370 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/03(月) 13:44:55
>>370 異民族の隷属民化を図る魏に抵抗するため、蜀に積極的に協力したのかもな
372 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/03(月) 14:13:39
>>371 そういう面もあっただろうね。
だけど、姜維が大敗を喫した事で、「頼りにならない」と見られるようになり、
それが「隴より西でも騒動が起こり不安定になった」って言葉に表れてるんだと思う。
中央の情勢が変化した事も理由にあるけど、以後6年、姜維は隴西に兵を出せていないし、
262年に出兵した時も洮水上流を渡った所で魏軍に押さえられており、
狄道や枹罕に出た時とは比べるべくもなかったしね。
美化、とまでは言わないが
その手の「清廉さ」は職務遂行能力とは全く関係ないしな
戦国の晋の趙盾は典型で
その逆をやったのが曹操の求賢令なわけ
姜維はやはり一武将としての評価でこそ輝く
それ以上のことは求めちゃいけない
上に人材がいなかったから地位が先行してしまった悲劇
「地位が人を作る」、なんて曹操うまくいかないというわけだ
死後1800年経とうが、あくまで姜維をこき下ろし続ける気だな
鬼だなおまえら
幾転生も執念深く叩き続け、来世以降も叩き続けるんだろうな
おまえらにはほとほと愛想が尽きたよ
375 :
352:2008/11/03(月) 14:33:30
>>370 良い文章だね。ためになった。ブログ持ってたとか知らなかったよw
統治ではなく、羌族を利用して隴西を「切り取る」ことが戦略目標か。
確かに姜維は王経を撃破した翌年、段谷の敗北の前に大将軍に昇進している。
漢中の防衛線を下げたという記事は、年は定かではないが258年から262年の間で、
段谷の敗戦処理に追われてのことと取れるだろうか。
段谷といくつかの敗戦を境とした姜維の立場の悪化と成都との不仲が、
姜維をして北伐と漢中守備の均衡を失わせ、結局蜀漢滅亡の要因となった、か。
姜維当時の北伐の考えがやっと理解できた感じで、すっきりした。ありがとう。
376 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 14:45:20
>>375 すっきりって・・・過ぎ去った事だしもういいじゃん
しかも外国の出来事だぞ?馬鹿馬鹿しい
おまえは何でこのスレにいるんだ?
378 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/03(月) 14:46:54
>>375 楽しんで頂けて何よりだ。
姜維の目標を対魏緩衝地帯の確立とする考え方は、
俺自身はある程度自信を持ってるけど、あくまで推測だからね。
他にも色々考えられると思う。
ただ、段谷で大敗を喫した事がその後の最大の転機である事は疑いようが無いかな、とは思うね。
些細な事だ
380 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 14:53:23
____
( ___)
/ \
| ⌒ ⌒ |
| ▼ .|
| ( _人_ ) |
/ `mj |ノ / ヽ ちゅばちゅぱ
| 〈 ノ◆∨ |
|_|/ / .■ □ |_|
| / / ■ ||
▼
キョウイは良くも悪くも三国志後期の主役には違いない
さっきからageたりsageたり何やってんだオマエ
383 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 15:17:14
そいつ理不尽スレで暴れてた荒らしだからスルー推奨
段谷の大敗は痛恨だったのは疑いようが無いね
あそこで勝ってれば、姜維の評価もまた変わったかもしれんのに
ここを契機に姜維は立場的にも軍事的にもどんどん追い詰められてく
防衛戦力を切り詰めて、諸葛誕の反乱に乗じて北伐しても成果なく撤退したし、
侯和に出陣してもケ艾に敗れるなど、勝利を一度も得られない
蜀滅亡前後の行動の鋭さを見るに、耄碌したとは全く思えんし、
もうこの時点で姜維の手に負えない状況だったんじゃないか
自演が酷いな
>>383 大丈夫。
杜預は嫌いだけど姜維は好きだから。鼻につくんだよね、杜預は。
たとえ戦略が素晴らしかったとしても、
情勢がそれを許さないのに断行したり、
周囲が協力してくれなければまさに画に描いた餅。
姜維を見ているとつくづくそう思う。
それを「独りよがり」と解釈するか、
或いは「理解できない周囲が無能だった」と解釈するかは読み手次第。
姜維一人の才能ではいかんともしがたい
歴史が全てを語ってるじゃないか
それとも歴史のIFを語りたいのか?おまえたちは
389 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 15:30:41
黙れ!我らがキョーイを馬鹿にすると許さんぞ!!
綱渡りで有利な状況を作り上げてきたのに物資が底をついたから時間切れですって時に
20年前の状態に戻るくらいなら勝負って思ったんだろうな
1800年後の名も無い連中に当時の出来事を蒸し返され批判されるなんて
当時の本人も思ってなかっただろうね
392 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 15:42:31
>>390 いい加減、北伐の限界を悟っていたんじゃないだろうか
ブリリ!
今度はここが荒らしの標的になったか
よほど悔しかったんだろうな
395 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 15:49:12
ごめん、もう来ないから通報だけはやめてくれ。悪かった。
ブリリって何?
397 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 16:06:33
しかし国力の圧倒的に劣る側が大規模で大国に十数回も攻め込むなんて
世界史見ても他に例がないんじゃないか?
ここまで戦果なかったら途中で諦めてもいいと思うんだが
プッスゥ〜
398 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 16:40:34
なんかな。みんな演義に毒されて孔明持ち上げてばっかし。
孔明だって北伐には失敗してるからね。
しかも南蛮だってあれ効果あったの?その後南蛮から協力とかなかったし
人材不足の時のバショクまで切るわで
結局孔明が基盤を作らなかったからキョウイが苦労したわけで。
ブリリ!はどうした
オレが孔明を支持する理由はその清廉潔白さのみです
ギエンいじめたじゃん
魏延をいじめたっていうか
どっちかというと意見の相違により
魏延の狭量さのせいで自らの破滅を導いただけ
あれだよ、サッカーに例えると孔明はワンマンチームの司令塔的なMF
ゲームメイクに優れてチームを引っ張るがFWが使えないから自分で前線まで切り込むことに
さらにDFも使えないから最終ラインからボールを運んでこなきゃならない。
そうこうしてグラウンドを端から端まで動き回ってるうちにガス欠で交代
後半戦エースの退いたチームは守りを徹底してFWの一人が何度も切り込んでみるものの切り崩せず、結局ジリ貧のままホイッスルと。
>>398 南蛮の資源は北伐の生命線だった。まあこの功績は孔明だけのものじゃないが。
馬謖は成功率の最も高い第一次北伐の明暗を分ける戦いに、命令無視をした上で大敗。
その指揮は煩雑であった上に、脱走騒ぎまで起こしている。そうでもなきゃ孔明が自派閥の出世頭を斬ったりするかよ。
諸葛亮は抜群の統率力、政治力が持ち味な上、自身が指揮した部隊はほとんど敗北してないという化け物だぞ。
軍隊の統治には優れていたが、奇策が得意でなかった為に、数で勝る魏に勝てなかった、というのが実情だ。
軍事だけでなく政治にも携わった事を考えれば、姜維以上と評して問題ない人物だぞ。
つーかさ、演義に毒されてるといいながら、まともに正史の知識もないってどうよ?
405 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 17:28:27
そういえば司馬遼太郎の項羽と劉邦で
劉邦の軍師がすごくて劉邦はその軍師に全てを任すんだけど
その軍師はなにからなにまでキッチリ決めてしまって
それで勝ったんだけどこのままやると各将軍たちや他の軍師が
自由に動けなくなって負けてしまう
と正直に進言して劉邦がしょうがないから俺がやるか
となったみたいなのがあったな。そんな感じが孔明は。
諸葛亮が相当の自信家だったのは間違いないだろうね。
功績を言い触らしたり偉ぶったりはしないが、全部俺がやる、という。
しかも全部一人で切り回すだけの実力が本当にあって、
それが劉備亡き後の蜀漢の実情にぴったり嵌ったから敵も味方も手を焼くわな。
とは言っても、ちゃんと後進を見つけて育てる目もあった。
費イ、蒋エン、董允らを引き続き重用して後方を任せ、基盤を整えたために
蜀漢は死後30年持ったのだろう。
馬謖に対しては、机上の論理をそのまま実務に反映することができた昔の自分を投影してしまったのか、
それとも自分に欠ける戦略眼があると見込んだ故の期待だったのか。
私事でも公事でも諸葛亮の人生痛恨の失敗だっただろうな。
馬謖はどう見ても命令違反だから才能以前の問題だ
王平の振る舞いから見ても命令をちゃんと伝達された上で独断してる
防御拠点も川もあり、対して張コウはやや川から離れてるので不便だと思うんだが
後から来た張コウこそ???と思ったに違いない
408 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 18:06:36
そもそも相手はベテランのチョウコウに
なんで新人のバショクを当てるの?
孔明の作戦ミスでしょ。自分でいけと思うよ。
中軍こぞって行けるなら前軍はいらんだろw
410 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 18:11:48
なんかな、バショクに関しては罪を押し付けた感が凄いある。
本当に山に登るななんて言ってないんじゃないの。
いくらバショクでも山に登るなっていったらノボランだろ
ていうかだったらまずなぜ山に登ったらダメなのか教えておけよ
と思ったよ。横山三国志読んだときにさ。
>>406 自信家というより人に任せておけない性分だったと蜀書では批難されてるね
>>410 言ったのに、登ったから、馬謖は罰せられたんです。
しかも『本当に山に登るななんて言ってないんじゃないの』とか妄想も大概にしてくれ。
馬謖は孔明の軍が来るまでの時間稼ぎがお仕事。山道を死守して山頂に登るなと厳命してる。
張コウを凌ぐのに、山に登る必要がない。まして水源を確保してないとか話にもならない。
この明暗を分ける戦いに、諸葛亮は諸将の意見を無視して馬謖を任じた。
愛弟子に戦功を挙げさせたかった。それを命令無視の大敗という裏切りで馬謖は返した。
その上、馬謖は新人だから、歴戦の将である王平を副将につけてたのに、彼の意見を無視。
諸葛亮は道筋を押さえるように命じたが馬謖は無視。副将の王平はこれを何度も諌めたが、馬謖は聞き入れようとしなかった。
結果、馬謖は大敗。戦略的なバランスは蜀から魏に傾き、撤退せざるを得なくなった。これが現実だよ。
魏の皇帝自ら来なければならないほど蜀優位に進んでたのに、馬謖が全部パーにした。
馬謖に罪を押し付けたんじゃない。馬謖が北伐失敗の原因なんだ。これの所為で、以後の蜀の戦いは非常に苦しいものになる。
君の好きな姜維が苦境に置かれたのも、この馬謖の大敗の所為だね。
413 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 18:30:14
劉禅「末期?平和そのものだったよ」
>>410 馬謖がどんな命令違反を犯したのかは定かではない。
山に布陣するのは野戦の常套。険阻な南山に依りて、下って城に拠らず(野戦(陣地戦)を挑み)、
汲道を絶たれて敗れたとはあるが、それが命令違反だったのかはわからない。
街道云々は創作。
横山とか教えておけとかいうのは論外。
こういう奴がゼリーや餅で死ぬんだろうな
>>416 そのよく見る荊州閥と益州閥の対立ってかなり怪しいよな。
そもそも諸葛亮の時代までで益州出身の高官は殆どいないので
対立しようがない。劉巴くらいか。
419 :
412:2008/11/03(月) 18:42:00
>>414 ああ、そっか。確かに命令違反がどんなものだったのかは分からんな。
それに調べなおしたら山道の記述もなかったわ。
他のと混同してたみたい。
>>412はスルーしてくれ。
>>418 あ、ほんとだ。ごめん。誰か一人いたと思ったんだが…本当にいないな。
>>420 李厳や劉巴のように益州と縁がある奴はいるけど、先祖代々益州っ子って感じの奴は中央政権からは完全にハブられてたっぽいね
422 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 18:49:49
バショクがミスった時ってキョウイ居なかったんだ。キョウイがいれば
ミスる事もなかったのにな
街亭に城ってなかった?漢楚戦争時代にあった気がするんだけど
>>421 で、後期になると張翼などが功績を挙げて伸し上がってくるわけだ。
外部出身だけで高級官僚を埋めるのは無理があっただろうし、
豪族の勢力を無視し続けるわけにもいかなかっただろう。
その段になって宰相級を独占する荊州閥と益州閥の対立を考えるのは
意味があるかもしれない。
>>424 うん、でもその時代ですら国政を左右できる立場は
諸葛セン
ハンケン、トウケツ:荊州
エンウ:荊州
って感じだ
張翼も官位は高いけど軍事面以外での発言力、権力がどれだけだったかと思うと・・・
>>410 返答することを覚えろよ
失礼だと思わんのか?
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 20:58:31
>>426 返答したいんだけどね。スレが違う話題に言ってると
話を蒸し返すのが悪い気がしてね。
馬謖って結局処刑されたの?
向朗が馬謖を逃がしたので向朗を処罰したって書いてあるけどその後に馬謖を捕まえたのか?
>>428 処刑された。
向朗伝の馬謖逃亡の件は完全にその一件しか見当たらないもので、よくわからない。
431 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/03(月) 22:28:58
本貫が益州で尚書のトップまで行ったのは馬忠ただ一人だな。
尚書台の官僚をよく輩出したのは、益州では馬忠の出身である巴西郡閬中県で、他に馬斉や姚伷がいる。
巴西というくくりだと、黄権、馬勲、龔禄、王平、句扶、張嶷らの人材を輩出してるね。
他に益州出身で尚書令や録尚書事に近かった人物と言えば、梓潼郡の李福だね。
蒋琬政権下で費禕に次ぐ位置を占めたけど、すぐに死んでしまった為に尚書僕射止まりだった。
姚伷もそうだけど、尚書僕射まで上り詰めてりゃ相当なものだとは思うけどね。
432 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/03(月) 22:47:21
とりあえず孔明関係は新スレ立てたけど。
やっぱ末期の蜀の立ち居地は孔明が決めた部分が多いと思うんだよな。
>末期の蜀の立ち居地は孔明が決めた
創業者不在の蜀漢帝国を60年もたせた立役者だもんな。
>>431 そのへん、どうしても硬直化された蜀の行政機構の実態がみえてきてしまうな
益州一国しかない蜀漢としては、財力も地盤もある益州閥に高位に昇られて
逆乗っ取りを掛けられるという不安があったのだろう。
しかし涼州出身で気を吐いた姜維が面白い位置にいるなあ。
一緒に下った者たちが九卿まで昇ったとか(大きな実権はなかったのだろうけど)
費イを殺した郭循が前将軍だったとか。
437 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/03(月) 23:15:15
>>435 尚書自体、諸葛亮の開府と同時にじわじわと人員が削られ、
諸葛亮の漢中駐屯と陳震の衛尉就任を以ってほぼ解体されたからね。
解体されていた間に尚書の役割を担ったであろう丞相府が、恐らくは尚書台の母体となっているから、
諸葛亮によって重用された人間が上位に来るのは仕方ないと思う。
因みに、
録尚書事:諸葛亮(徐州)、蒋琬(荊州)、費禕(荊州)、
姜維(雍州)、馬忠(益州)、諸葛瞻(徐州)、董厥(荊州)
尚書令:法正(雍州)、劉巴(荊州)、李厳(荊州)、陳震(荊州)、蒋琬(荊州)
費禕(荊州)、董允(荊州)、呂乂(荊州)、陳祗(豫州)、董厥(荊州)、樊建(荊州)
尚書僕射:李福(益州)、姚伷(益州)、諸葛瞻(徐州)、董厥(荊州)、張紹(幽州)
確かに、録尚書事から尚書僕射までを列記すると、こうして殆ど荊州になってしまうのは確かだね。
438 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/03(月) 23:28:52
>>436 雍州と言うと、上官氏辺りは分からない事が多いものの面白いかもしれん。
姜維と共に蜀に降った上官子脩、李厳弾劾の上表に見える中典軍・討虜将軍上官雝、
新唐書宰相世系表にある太尉上官勝、来敏失脚のきっかけになった上官顯の四人の名が見える。
>>438 その上官氏って全員同一人物なんじゃないかと思ってしまうんだが
440 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 00:40:36
あまり重要な事柄為してないだけで結構居たんじゃない?
上官桀の同族でしょ。
441 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/04(火) 00:43:54
>>439 その可能性は当然あると思う。
上官顕は、来敏との対談の時期が230年前後なので、
上官子脩じゃなければもとから益州にいた上官氏という事になると思うが、
その可能性は高くないだろうし。
上官雝も上官顕と同じ理由で上官子脩と同一人物の可能性があるけど、
上官雝と上官顕は名前の出てくる時期が同じで、改名したとは考えられないし、
雝と顕を間違えるとも思えない、という疑問は残るけどね。
>>441 雝と顕は、確かに微妙なんだが、筆写の際に書き誤り読み誤りが起こった可能性はあると思うよ
443 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/04(火) 01:03:52
>>442 そうなのか。
雝と顕(顯)が、実際に書くとどういう風になるのか、俺には分からんからなぁ。
ぱっと見てあまり似て無くても、実物を見てない以上なんとも言えない、って事だな。
まぁ、
>>440の言うように上官桀の一族だから、上官子脩以前にも益州に上官氏が流入してて、
全員別人だった、ってのも当然考えられるし、結局結論の出ない話ではあるな。
ただ、上官雝や上官勝が上官子脩だったなら、姜維に協力的な存在ではあったろうね。
444 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 11:00:58
蜀末期って呉はソンコウだっけ?いっそ呉を攻めるぐらいすればよかったのかな。
陸抗を抜ける人物がいない…
446 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 11:08:49
リクコウを説得して謀反起こさせれば良かったのにな。
そもそもその親父のリクソンと孫権が仲悪くなった時もチャンスだった。
447 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 11:51:10
姜維と成都がギクシャクした時に
魏や呉が姜維を説得して寝返らせれば良かったと言ってるのと同じじゃねーか…
449 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 12:21:49
というか確か
生姜維新にはそういう働きかけがあった
母親か親族かに
魏に帰参してくれ
と言われたのを拒否している
理由はなんだったかな忘れたが
正史か注釈かは忘れたが
>>449 裴松之注(孫盛「雑記」)だな。
母親からの帰参を願う手紙に対して
「私は蜀で栄達する望みがある、だから絶対魏へは帰らない」と。
ただ、それは魏に降ってすぐの話だから
>>447のケースとは違うよね。
>>405 たいした事じゃないけど、司馬遼太郎の「項羽と劉封」に
そんな箇所は無い。
452 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 14:50:56
>>451 え?なかったっけ?なにかで見た記憶あるんだけど
俺は項羽と劉邦なんて横山のとジャンプのと司馬のしか見てないから
司馬のだと思うんだけど。
あったはずだよ?チョウリョウ?だっけ軍師が全権まかされて
勝つんだけど律儀にこのままだと全軍が弱まりますって言って
劉邦が「なんだお前に任せておけば楽が出来ると思ったに」
とか言う降り、
>>452 お前に任せておけば楽できるのになー ってところはあったかも。
あと「子房(張良の字)が来てから、私は決定するだけで良い。
楽なことだ」とか
ただ、全軍が弱まるとかは無かった!
と思う。
454 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 20:22:16
項羽と劉邦読んだのは8年ぐらい前だからそっちが正しいかも。
455 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/04(火) 20:26:40
ここの
>>1は、以前もどこかで「呉を攻めれば良かった」とか言ってたような。
正直、呉を攻める必要性が感じられないが、「陸抗が…」という批判も、
攻める時期にもよるが的外れだと思う。
陸抗が西陵に来たのは永安二年(259年)なので、既に姜維が孤立しかけている時期。
それ以前であれば、西陵には歩協、荊州の都督は施績という事になるので、
実際に相手となるのは、主にこの二名だろう。
456 :
1:2008/11/04(火) 20:38:43
>>455 うん。何回か発言してるよ。長江の上流だから蜀有利だろ
的な発言を過去に何回かしてると思う。
457 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/04(火) 20:56:48
>>456 以前もそうだったが、「呉を攻めるべきだった」という主張をするのは構わないのだが、
もう少し具体的な案を煮詰めてくれないと議論のしようがないのだ。
話ぶった切って悪いけど、綿竹での戦いは乱戦だったの?
有力武将に戦死者多すぎね?
諸葛瞻の衛将軍が首都防衛軍的な役割を持っていたなら、
かつての功臣達の子弟が多く入隊していて、士気も高く降伏しなかったのかもしれない。
460 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/04(火) 22:19:10
461 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/04(火) 23:23:07
呉攻めについて言えば、蒋琬の東征計画ですら強硬に反対されるのだから、
多かれ少なかれその反対の根拠となっている夷陵の戦いと同様の経路での呉攻めは、
はっきり言って廷臣の誰も賛成しないだろう。
「上流だから有利」ってのも根拠としては薄弱だし。
前のスレでどんな議論になったかは忘れたが、しょうもない話だった気がする。
462 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 23:29:56
閻宇も居るでよぉ
464 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/04(火) 23:39:48
閻宇?緜竹の戦いでって事?
465 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/05(水) 00:12:28
そもそも夷陵の前の黄権の進言からして
上流の優位なんてあてにならないことを示しているわな
黄権の言に誤謬がなければ
466 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/05(水) 00:27:32
黄権にしろ、蒋琬の東征反対派にしろ、進むのは容易くても退くのは難しい、って主張だな。
それは確かな事だと思う。川が逆流するなんてのは満潮時の河口くらいだろうし。
実際、上流で有利になると言うと、川を進む速さじゃないかと思う。
川の流れに乗れば、大軍を一気に遠方へ進ませる事ができるから。
前提として送るべき大軍が舟で輸送されるということ
それだけの船が必要だね
また船ならば上陸地を確保する必要もある
・・・実際どうなんだ?
船といっても陸路より速い訳ではないし
移動範囲が流域に限られるわけで
468 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/05(水) 09:58:32
東征案もあるにはあったんだ。意外と考えてはいるんだな。
食料とかは上から送りやすいよね。
長江の途中あたりに砦築いて中継基地に
すれば戦略練りやすいとおもうんだが。
東征ってのは漢中からベン水を下って襄樊を取る案だよ。
呉に攻め込むわけじゃない。
470 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/05(水) 19:53:20
なんだ。いっきに呉に攻め込めばよかったのに。
愚策だねえ。
雍・荊・揚州に臨む魏が指を咥えて黙っているとでも?
472 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/05(水) 20:11:27
魏と裏で同盟結ぶとか。
魏が何も得しない。
得するとしたらたとえば揚州を魏が、荊州を蜀が領有するというような条件。
当然、蜀滅亡への片道切符。
474 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/05(水) 23:13:29
>>467 史記張儀伝の記述だが、
「舫船に兵卒を載せ、一つの舫船に50人の兵卒と三か月分の食糧を載せて川を下れば、
一日に三百余里(約150km)を進み、距離が長くとも、牛馬の力を費やさずに済む」
とある。これは巴蜀から楚を攻めるという内容で、長江を下る際の話をしている。
船にもよるだろうけど、流れに乗れば日に100kmを超える速度で進む事が可能という事だろう。
現に、王濬は丹陽(秭帰)攻略の二日後に西陵を攻略し、更に二日後には夷道と楽郷を攻略している。
どう攻めるかはともかく、川を下って進むだけなら永安から江陵まで10日はかからないだろう。
陸路よりは確実に速い。
身近な例なら
モノポリーのようなボードゲームでもそうなんだが
二番手以下の勝ちの目はいかにトップを蹴落とすかで
ふつうは単独ではトップにはかなわないので
二番手以降は団結してトップに当たらなければならない
>>472 蜀建国の意義自体を否定することになるだろう、そんなことをしては。
曹魏へ対抗することをお題目にした以上、
小国の蜀としては呉と共同歩調をとる選択肢はあっても
呉を敵に回す選択肢は
>>471の指摘通り愚策だ。
そもそも呉を攻めるのであれば一気に殲滅できなければ意味がない。
呉の立場なら魏と結託することはできなくないんだから。
それをされた時点で二方面に敵を受ける形となる小国が耐えられるはずもない。
こんな実現不可能な話は天才軍師の活躍するif小説でしかありえないぞ。
>>475 二番手を確定させる為に三番手以下を蹴落としておいてから再度手を組んで
じっくり機会を伺うというのもモノポリーやディプロマシーではよくある
トップが金魚でもない限り
そうそううまくいかない
下の潰しあいは、
よほど特殊な条件が揃ってない限り、
基本的には愚策
特にトップがシェアの半ばを既に押さえている状況では
>>478 三国志では上手くいってんじゃん
二位確定させるための下位同士のつぶしあいはむしろセオリー
状況の違いを考慮すべき
特に、末期の蜀だぜ?
筆頭軍人の姜維をはじめとして、皆、水戦の経験は浅い、
北方の防備水準は落とせない、
魏が敵に回った時点で死地、
味方につけた場合も呉はどちらに下るか明白
川を下るなら、せめて攻略目標は荊州の魏領でないと話にならない
>>474 戦国時代の一里って約405mじゃなかったっけ?
>>480 その話にならないことを掲げて
「なんでやらないの、バカじゃん」
と蔑むのがスレ主の趣味ですからw
>>479 上手くいってないよ。
だから蜀呉は滅ぼされた。
jomiは自分の中に答えがないといけない人だから、自説を展開させる絡みかた、質問の仕方が基本。
今回の場合は、北伐を諦めた姜維が呉を含めた東征をする場合、最大の障壁は何だろう。
486 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/06(木) 21:49:17
自分の中に答えがないといけない、という言葉の意味がよく分からない。
誰の説であろうと、そこにあるのは蓋然性の違いだけで、完璧なものなど無いし。
確かに、ぼんやりしたものしか自分の中に無い時には、俺が何かを述べる事は殆ど無いと思うが。
>>481 戦国時代とかは度量衡が統一されてないから、明確には決められないと思う。
この場合、秦の楚攻撃に関する話だから、秦の度量衡とされている数字でやったけど。
>>484 >>485の言うように、実行する事自体は反対が無ければできるので、最大の障害は政権内で支持が得られない事だろう。
実際に決行した場合に、という事であれば、いかに迅速に陸軍を展開できるかどうか、という事だと思う。
いずれにせよ、蜀が何を目標として東征を行うのか、という事が全てを左右するとは思う。
味方の廷臣以前に、姜維自身の心が反対する。
姜維は北方の出身で、それを恃みに北伐によって功績を挙げようとしたとある。
であれば、「北は駄目だから東に行こう」とは着想自体できない。
仮に誰かが(魏の)襄樊を狙ってはと薦めたとしても、自信は持てないだろうし、そんな征旅を望まない。
姜維の立場で東へ行けるのはむしろ支離滅裂な人間だろう。
>>486 わからないならいいよ
別に批判じゃないから
東行くなら上庸と襄陽あたりが目標になるんだろうけど無理だろ。
人材もいなければ物資も兵力も無い。
おまけに呉が積極的に支援してくれる確率もかなり低い。
上庸で手間取っているうちに別働隊に漢中衝かれるのがオチ。
めっちゃうまくいって、
荊州北部占領出来ても長期的な維持は絶対に無理。
これで勝とうって方がどうかしてるだろ。
北伐はそれ以上に無茶だから気持ちもわからんでもないがな。
しかし内政等で国内まとめないといけない時期に、
毎年北伐して大敗してくる姜維って何がやりたかったんだ?
北伐で疲弊したり漢中駐留軍に手つけなかったりしたら、
もう少しマシに戦えたと思うんだがなー
戦略なき投機的な冒険は国を滅ぼすって典型例だな。
北伐に勝利することが姜維の政治生命の延長に繋がるんだから、
何がやりたかったんだはねーだろ
漢中と成都の間に完全に溝が出来ているのに
いまさら中央に戻って内政をできるとでも?
大勝を上げる以外に姜維に未来はないだろ
戦場で功績を挙げて立身することこそが姜維のすべて
そして、勝ち馬に乗ってその他大勢で埋没するよりは、
大穴狙いで小勢力で高い地位につこうっていう、典型的な賭博者気質
・・・悪いことではない。ただし、それで国が滅びない限りは
現場異常のことが見えていないという点で、
姜維はどちらかというと、諸葛亮の後継者というよりはむしろある意味では魏延の後継者ではなかったか
彼が大将軍になっている蜀がおかしいんじゃない?
>>490 それにしても個人の為に国の命運賭けちゃ駄目だろ?
勝つ可能性なんて0に等しいんだしさ。
国内固めて時期を待つしかないと思うんだがなー
勝つ可能性って
実際に姜維は王経に大勝しているわけで、そこまで0に等しいと断じられるモノではないだろう
その後の陳泰の行動は誰でもできるようなものではいしな
だいたいにして諸葛亮の歩兵中心の進軍で駄目だったんだから
姜維は騎兵重視の機動戦術に変えただけであって
それを戦略無き投機的冒険とは言わない
諸葛亮で駄目だったやり方を延々続けるのだって
充分戦略が無い訳であってな
姜維が騎兵の扱いに長じていた可能性は大いにあるが、
この時代、羽林騎のような部隊でも作らない限り
漢族の軍が騎兵主体の機動戦術をやるのは殆ど無理だろう。
蜀にはそんな軍馬も騎士もいなかったと思うよ。
この時代の基本は陣地戦であり、諸葛亮の八陣図が野戦の集団歩兵戦
の嚆矢となったという話もあるが、ともあれ歩兵と一緒に行軍しているはずだ。
497 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/07(金) 00:40:21
そもそも、姜維と言う存在に誤解があるのではないだろうか?
立身出世の為には戦功を、と言っても、姜維は北伐を始める前から衛将軍・録尚書事であり、
位階で見れば、ほぼ位人臣を極めていると言っても良い。
実質的な権力と言う点で見れば、費禕存命中は費禕、それ以降は陳祗が、
彼を凌駕する権力を持っていたと言えるが、姜維は彼らと敵対した様子も無ければ、
彼らを追い落とそうともしていない。
彼にとっての権力とは北伐を遂行する為の道具でしかなかったのだろう。
権力を維持する為の北伐ではなく、北伐を行う為の権力であったのだから、
彼にとって北伐とは権力維持などとは違う、別の目的を持って行われたと見る方が良い。
また、姜維とて、北伐を行う以上は勝利の獲得を望んでおり、
彼の求める大戦略上の目標は、半ば達成されていたであろう事が史書からも窺える。
彼は決して、勝ち目の無い戦いをしていたのではない。
更に言えば、
>>489など誤謬もいいところだ。
「毎年北伐して大敗してくる」などと、何の史料から読み取ったのか分からない。
じゃあ、姜維に勝ち目があったとでも?
実際に負けてるのに?
姜維をいくらほめて見せたところで、実際には負けたんだから、
その上で「実は勝てたんだ」などという結論を導くためには、
まず、敗因を精査して、
どうすれば敗因を克服できたか、という点を見るべきでは?
君はただひいきをして見せて、その同意を求めているだけ。
せっかく姜維に肩入れするなら、もっと効果的にやらないと
方法論は示した
期待しているよ
姜維は魏でその地位につけただろうか?
ムリだっただろう
>>498 「実は勝てた」と「勝ち目があった」の間には雲泥の差がある。
それを同列に置いて示された方法論には大きな誤謬があると言わざるを得ない。
>>496 諸葛亮の戦術は兵站重視で兵站に合わせて行軍し、屯田もする
姜維の戦術は先に土地をとって略奪と輸送を合わせて維持
だから西方異民族との共和を重視した。彼らの援助が受けられればこしたことはない
姜維の戦術は点の戦術で機動性を重んじた司馬懿タイプ
ケ艾は逆に諸葛亮と同じく面の戦術で対抗した
>>501 それはわかるよ。
でも、司馬懿や姜維が戦域レベルでの騎兵機動を用いたわけではないだろうということ。
>>498 実際に王経その他に勝って魏兵数万人を殺し、西域を支配下に置いたのに実際負けているのにとはこれいかに?
姜維が全戦全敗ならそりゃ「勝ち目がない戦いを続けて蜀滅ぼした馬鹿」でしょうけどね
段谷の敗戦がその後の蜀の敗北に直結していることは否定しないが
それで=姜維の戦略は全部駄目だったなんてのは只の詭弁ですよ
実際に負けてるってんなら諸葛亮さんも一緒なんだし
それそこアンタは蜀がどうすれば良かったか示しておくれよ?
蜀建国から滅亡に至るまで、その時々に敗因をどうすれば克服できたか
せっかく姜維を否定するなら、もっと効果的にやらないと
方法論は示した
期待しているよ
504 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/07(金) 01:12:07
戦術レベルでの騎兵の運用はしてたと思うが、騎兵主体という事は無いと思う。
騎兵の飼葉は、弾薬の使用量が増大する第一次大戦以前は、兵站を最も圧迫する存在だから、
現地で十分な飼葉が確保できない限りは、貧弱な輸送で大規模な騎兵を維持するのは難しい。
戦術レベルで見ても、機動するだけの地積が確保できないような戦場では、
騎兵はその効果を大きく減ずるし、山や河川に翼を依託できるような戦場であれば、
大規模な騎兵によって翼を防護しなくとも十分に戦えるだろう。
騎兵っても種類色々で
戦闘騎兵とは別の機動力としてだけの騎兵も存在するし
Jominianは以前どっかのスレで
古代〜中世の中国にクラウゼッツの戦争論に当てはめすぎてると指摘を受けてたよね
506 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/07(金) 01:58:33
>>505 上段が俺の意見と関係あるようには思えないが、俺に対してのものなのか?
下段に関しては、俺自身はクラウゼヴィッツに当てはめているつもりは無い。
俺の軍事に関する考え方が西洋戦史や西洋の名著に多くを拠っている為、
西洋的な戦争の考え方をしているように感じるかもしれないし、実際にもそうだと思うが、
戦略や戦術を構成する普遍的な真理のようなものを、できるだけ抽出して考えているつもりではある。
それに、俺はクラウゼヴィッツの考え方の内でも、
「敵戦力の殲滅、或いは無力化を目標とすべき」という部分は大いに俺の考えの内にあるが、
俺の戦略や戦術に対するスタンスの多くは、ジョミニとリデルハート、クレヴェルトの著書と、
アレクサンドロス大王とフリードリヒ大王の戦史によって構成されていると自分では思う。
>>503 >>498じゃないけど結局、大勝出来るのは王経の様な軍才のない相手だけでしょ
まあ魏が学習能力なく無能な人材を前線に出し続けていれば姜維の戦略も意味はあるんだろうけど…
蜀がどうすればいいかといえば魏晋に綻びが見えるまで国の負担になる程の出兵を抑えるだけだろうね
蜀が先に綻ぶ可能性が高いから難しいだろうけど史実よりは国家の延命が出来る
東征に話を持っていって申し訳ないが。
東征の基本概念は当然に襄ハン(魏領)の制圧なんだろうけど、それを検討しうるのは
やっぱり蒋エンら荊州の人間から出るべきで、それは姜維からは発想されにくいものだろう。
その蒋エンをもっても東征を実施に移しし得なかったんだから、250年代後半の姜維には無理だろう。
少なからず平野の広がる東征作戦はなお兵力が必要になることが想定されるのだから
漢中防衛に遊軍を含め10万に近い軍を確保しなければいけない以上、非常に小さな軍事活動になってしまう。
これが「進むに易く引くに難し」となったばあいその戦力はほぼ全滅にいたることが明白なわけで。
その敗戦を呼び込んだ場合、ケイシュウ方面の防衛が危うくなり魏に収まらず呉の動きも注意しなければならない。
単純にこれだけでも東征は非常に危険な作戦であることが考えられる。
逆に漢中を10万の軍で確保できるのであれば余剰戦力で襄ハンをついてほしいというのは願いとしてある。
それはやっぱり官渡の曹操の様な奇才でもなければ達成できないのかな。
あと、あえて付け加えるならば
諸葛亮のように挙国一致体制を確立させられるだけの政治家でないとね。
常にその積極過ぎる姿勢が周囲に危ぶまれていた感のある姜維では、
北上するよりもリスクが大きいと判断されるであろう東征について
劉禅(成都)の賛意を得られる可能性は限りなく低いのではないだろうか。
510 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/07(金) 10:05:46
蒋琬が死なず早い時期に北伐が実行されていれば
姜維の評価も変わっていただろうな
慎重派の費禕や諸葛瞻の邪魔も時期を逃した原因だろう
国を預かる政治家としてのスタンスを考えると
費禕を責めるのは酷だと思う。
諸葛瞻についてはそもそも単独で裁可できていた状況じゃなさそうだし
成都の総意と解釈すべきじゃないのかな。
慎重さのない経理担当者ってのも怖いしね。
そもそも諸葛瞻って北伐反対派だったのか?
510氏が「慎重派」と表現されているように
必ずしも反対ではなかったんじゃないかな。
514 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/07(金) 11:46:34
そりゃ表立って反対はできないでしょ。
慎重にってのがいくなって事なんでしょ。
表立って反対(ex.張翼・廖化)しても、聞き入れられていない。
姜維のやり方・ペースによる北伐にはそれだけ反対の声が多かったってコトでしょ。
諸葛瞻だけを槍玉に挙げるのはどうかと思うが。
いちおう諸葛瞻は董厥とともに、姜維の更迭を計ってはいる
ただ史料を読んでると諸葛瞻は状況に流されやすいタイプって気がするな
蜀の滅亡は263、魏は265だけど
魏が先に滅亡したら晋と結んだのかな?
諸葛瞻が姜維の更迭を図ったのは260年前後から以降、
姜維が成都に帰らなくなり、軍の疲弊が顕わになってくる頃だろう。
費イの北伐消極論とは別物だな。
費イにしても大々的な北伐をさせなかっただけで、
成都と漢中を往復し、在任中のかなり長い期間漢中に駐屯している。
また、数次に渡って姜維を派遣しているのだから、
この辺りの戦略目標を読み解かなければ姜維以外の蜀漢高官の
北伐観は推し量れないだろう。
519 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/07(金) 19:09:35
なぜ自分の国の太守を見て
篭っていれば国力は下がり攻め滅ぼされる
その前にまだ勢いがあるうちに
できるだけ魏の国力を落としておこうと考えなかったのだろうか
赤壁の時の呉の老臣たちに似ている
呉の国の太守は孫権だから事情は違うだろうけど
太守って何?
ってのはともかく、「魏の国力を落としておこうと考えなかった」のは誰のこと?
なぜその人物がそう考えなかったとわかるの?
文脈からすると、自分の国の太守とは劉禅の事かと。
魏の国力を落としておこうと考えなかったのは、蜀の非戦派の面々かな。
ま、ぶっちゃけた話、消耗戦に持ち込んだら蜀の国力が尽きるのが先なんだよね。
逆に天嶮の地を頼りにすれば大国の侵攻すら防ぐ事ができるし、
晩年の蜀の非戦派が取った選択は間違いじゃないよ。
結果的にケ艾という才能の前に破れはしたけどね。
>>521 蜀の晩年とはいつからだろう。
北伐消極論は当時の蜀漢高官が幾つか語った記録があるけれど、
それぞれがいつどんな意図で発せられたものかは選り分けなければならない。
比較的盛期の有力な一つとして、費イは姜維が大軍を以って北伐するのを制約し、兵一万しか与えなかったとある。
また、漢晋春秋には、
丞相でさえ為し得なかったのだから、我らは社稷を守ることに務めるべきだ。
僥倖を頼み一挙に成敗を決しようとしてもし事が成らなければ悔やみきれないぞ、
と姜維を宥めたという言葉が記されている。
しかし現実には、費イは姜維を少なくとも三次に渡り出兵させている。
特に247-278年のものは長期に渡った。
これは涼州蛮族のかなり大規模な叛乱に対する郭淮の長駆征伐に、姜維がこれも長駆して割り込み、
沓水の西で対陣するというものだった。結局、姜維は治無戴という豪族を収容して帰還している。
郭淮伝でさえ、彼の策が当たって退却に追い込んだとあるが、姜維が敗れたとは書いていない。
279年は、麹城を拠点として叛乱する羌族を支援したが、姜維の本隊と孤立させられ句安らは降伏するという敗戦。
280は西平に進出するも戦果なし。
そもそも姜維自身が、諸葛亮、蒋エン、費イの下で北伐を繰り返して出世した人物だ。
つまり控えめに言っても、その三相の下での姜維の行動と能力は蜀漢によって有益だと見做されていたことになる。
このようなことを見るに、費イのような人物が考えていた「社稷を守ること」が軍事的にはどのような戦略方針によって
実現するものなのか、言葉尻だけでは判断できないものがあると思うね。
523 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/07(金) 21:53:13
孔明って本人は天才だけに人を育てる能力に欠けてたようだ
息子然り劉禅然り、命がけで守った趙雲も泣いてるだろう
費禕にしても孔明をみて自身を無くすほど中途半端だし
もう少し人材が育っていれば・・・
馬岱が死んだあと残ったのは姜維だけ
これでは何もできない、いくら姜維が頑張って
内需を拡大しても、劉禅とあの取り巻きでは先細りはめに見えてる、
内乱に乗じて魏に攻め込むのも悪くないと思う
姜維の下に使える将軍が何人かいれば・・・
524 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/07(金) 22:06:39
247-248年の戦役は、費禕が漢中に来た248年5月には集結してると思うよ。
これは羌胡の大規模な反乱に干渉する形で突発的に起こったと考えられるので、
本格的な北伐の再開という事にはなっていなかったのだろう。
翌年の、249-250年の戦役は、麹城〜臨洮城までの一連の戦いを指していると見て良いと思う。
句安らの降伏は冬に至ってからなので、その後の反攻としての、
白水でのケ艾との対陣は、250年までずれ込んだ可能性は大いにある。
また、249年も250年も、それぞれ姜維伝、後主伝で西平となっているけど、
249年は姜維が牛頭山から動いた様子は無いし、丁度郭淮が涼州の異民族制圧に動いているので、
249年の敗北以降に西平に出られたとは思えないし、ケ艾を突破して西平に出ることができたとしても、
郭淮伝等に記述があってしかるべきだろう。
ただ、249年の戦役は長期に亘っているので、姜維が牛頭山にいたのは戦役の最終局面においてのみであって、
それ以前に西平まで進んでいた可能性はある。
西平郡にいた中郎の郭循が蜀に降っている事は確かなので、248年、或いは249年のどちらかに、
姜維は西平まで出て、そこを攻略している事にはなるだろう。
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/07(金) 22:23:37
チョウヒの息子とカンウの息子がもう少し頑張るべきだったな。
二代目が無能ぞろいなのが蜀の欠点
魏や呉は二代目でもそこそこ使えるのが多いのに。
526 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/07(金) 22:59:23
関興は諸葛亮が漢中に駐屯する前に死んでるよ。張苞も早くに死んでる。
張苞の弟の張紹は、侍中守尚書僕射なので、官僚としての道を選んだんだろ。
張飛の子だからと言って戦争で活躍しなければいけない道理はないし、
侍中と尚書僕射を兼任するという事は相当な高位にあったという事だし、無能とは断定できん。
>>524 247年の北伐が突発的なものだとしても、費イの北伐観をよく現していると思うよ。
当時、隴西や涼州は魏の領土とは言い難く、従順な郡県のものを除いては本格的な兵力を駐留させることは
できなかった(兵糧は現地調達が基本だから)。郭淮の主力は上ケイか、もっと東に駐屯していた。
この時期、郭淮らが反抗的な部族を戈ち、魏の支配権を押し広げようとしていた。
費イの戦略は、魏の征西に対抗し遅滞させることで、魏の勢力、ひいては将来北部戦線に投入される魏軍の戦力の
拡大を阻止する目的を有していたと思う。
予めその意図を持つのでなければ、雍州の羌族が次々斬られる状況で姜維を前線に留め続けたりはしないだろう。
最終的には遥か涼州の治無戴を収容して帰還している。
249年のものは永続的な根拠地を築くものだから、機動的な前回とは異なって戦場はずっと南方だが、
やはり羌族の連携を主眼としている(まあ、自明の戦略だったろうけど)
250年のことはよくわからない。
北伐に何度となく祁山を経由したにも関わらず、蜀漢はそこを領有できない。
魏もそこに十分な兵力を駐屯させられないが、進出すれば陰平太守の廖化を攻撃できる。
隴西にはそういう軍事力の希薄な地帯が広がっていた。郭淮もまた秦嶺方面を守備しつつ征西できる兵力は
限られたものだったろう。だから姜維は与えれた「兵一万」でも、費イの遅滞戦略をならば実行して勝敗を挑むことができた。
費イの死は253年。北伐の実権を握った姜維は兵力を大きく増強して、より積極的な隴西切断の戦略を実行する
というのはあなたが指摘するところ。254・255年の戦功は目覚しいものがあり、姜維は大将軍に昇進する。
が、256年の段谷の大敗によって流れは一変する
これが多分、史書に記される姜維の初めての大敗であり、やがて蜀漢の滅亡に至るターニングポイントになった。
>>523 諸葛亮は後事を蒋エンに託し、費イや董允を初めとする劉禅を補佐する官僚集団を形成して乱を起こさせなかった。
蜀漢滅亡時60代の姜維を補佐する人物って、40代なら諸葛亮の死亡時10代なんだけど。
死後30年の人材登用を全て予言して世を去るなんて、演義を超えるスーパー軍師をお望みなんだな。
因みに、演義でさえ、諸葛亮は姜維を蜀漢を束ねる後継者に指名したことはない。
死の床で「費イの次は誰が継ぐべきですか?」と問われたが、それに答えず息を引き取ることで、
費イの死後蜀漢が乱れることを暗示している。
それ劉邦の焼き直しだけど現実味あるね。
ショウエンって、賞賛されるようなことしてるかな?
大将軍になってからの主な実績は、「東征を皇帝・大臣・軍部の全てから反対されて実質失脚した」だけな気がするんだけど
>>526 蜀漢は魏呉、特に呉と比べて二代目に厳しいといえそうだ。
功臣の子で権力を持ったり実戦に出た人間は殆どいない。諸葛瞻と趙広が例外。
趙広は姜維の直率で各地を転戦したんだろうな。
呉は世兵制の萌芽が見られるだけあって優秀な二代目が多くいるが、
傲慢や罪を犯して誅された二代目もごろごろしている。
532 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/07(金) 23:27:01
みんなが後ろ向きな中、東征をする判断ができたという点だけでも
孔明が姜維と共にその才能を認めただけのことはある
能無しは皇帝・大臣の方
533 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/07(金) 23:32:15
>>527 費禕の考えはよく分からないが、少なくとも北伐に反対していたとは俺も思っていない。
費禕の戦略があなたの言うように、羌胡の支援による魏の勢力拡大の阻止だというのもあると思う。
この費禕の戦略と言うのは、恐らくは、蒋琬が東征を中止した際の代替案として挙げた計画に沿っているのだろう。
姜維が涼州を制圧し、それが完了次第、蒋琬(この場合は費禕)が進発して隴西を確保する、というもの。
その後の姜維の戦略も、後詰という形をとらないものの、異民族との協力で隴西を切り取るという事に変わりは無い。
そう考えると、241年の蒋琬と費禕(と姜維)による議論によって策定された方針が、
後の蜀における北伐の基本戦略になったと言っていいと思う。
東征計画を練ろうとしていた蒋琬はともかく、後の二人は、程度の違いはあれ北伐推進論者であろう。
534 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/07(金) 23:41:28
>>531 呉の場合は、親が死ねば子がその兵と、時には職務も引き継ぐので、
本人の適性や意思に関わらず、戦功を挙げる機会が与えられたという事だろうね。
呉では歩騭、歩協、歩闡と代々西陵の都督をやっているし、
施績なんかも、父の朱然の兵と、楽郷督の職務を引き継いでいるしね。
蜀の場合、二代目に厳しいと言うより、軍務に就かないという選択肢があっただけじゃないかと思う。
>>531 文>武の中国の中で実戦に出ることが優遇されてるとは言い難い
中央で官位を進めてる二代目を厳しいとは言えないだろう
むしろ一番二代目に厚い国が蜀漢という国な訳だ
ageんなカス
(外戚である)張飛の子だからこそ文官になれたんじゃないかな。
他に武官の二代目で文官になれた奴っているっけ?
皇后の兄弟だからだろ。
孔明の遺産でよくもったとはおもうよ、うん
なぜ執拗に孔明とその息子を無能呼ばわりしたいんだろうか。
まったく的外れな論理を展開しているように思えてならないが。
541 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/10(月) 22:52:17
542 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 02:04:50
孔明はよくやった。
だが問題は、
あえて不可能に挑まなければいけなかったことだった。
不可能に挑んで破滅するよりは、挑むポーズを巧みに見せつつ生き延びる道を選んだ。
これは賢明で現実的な判断だったと思うよ。
誰がどうやっても、蜀という地方政権が中原に覇を唱えることは不可能。
(タイトロープな可能性も荊州失陥とともに潰えた)
だがその看板を下ろしたとたん、蜀政権は存在意義を失い瓦解してしまう。
だから、攻めるポーズは常に必要だったし、逆に、リスクのある決戦/急戦は避けてきていた
そうして時がたつうちに、それまで何とかもたせてきた無理が噴出してきて
まさに末期的症状の様相を呈していたのが蜀末期だったんだな。
夷陵の劉備
第一次北伐の馬謖
ここが残念すぎる
まぁ、馬謖は優秀だった兄のようにあることを期待されて実力以上の職に就いたわけだから
結局、劉備が呉に矛先を向けた時点で大勢はきわまれり
劉備が死んでから呉との同盟関係が復活した所を見ると
劉備はもう少し早く死ぬべきだったね(そこまで単純な話ではないがw)
つまり、俺が言いたいのは蜀の命運を絶ったのが他ならぬ劉備なわけで、
みんな、姜維にもっと優しくしてあげてねってことだ
ええ、やさしく一武辺として瞑してあげます
>第一次北伐の馬謖
街亭の場所も未だによく分からず
演技での「山に登るな」等の指示は全くの創作
普通に諸葛亮の人事ミスな気がする
野戦の将軍には勝ち負けが付きもので、馬謖は第一次北伐の時に負けた
それだけの事
問題視するなら敗戦の後しばらく帰ってこなかった事だが
でもそれで首斬るか?というと、果たしてそれが適切な信賞必罰だったのか?
諸葛亮の失敗のスケープゴートの匂いがプンプンする
>>545 馬謖は敗戦後に逃亡図ってるのはほぼ確定的だろ
負けたから処刑するんじゃない
負けた程度なら更迭して終了だ
負けて尚且つ逃亡するから死刑になるんだ
547 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 13:39:22
でもバショクと一緒に配下の将軍も処刑されたんでしょ
それなら逃亡しなくても処刑してたでしょ
腹黒い孔明ならそれくらいやるよ
自分は降格したって前と同じ立場なのはわかりきってることなんだし
根拠はなく、状況証拠も貴様の脳内でしか通用しない
まあ可能性としては0とは言わない
他の事例、例えば李平の処遇などをみれば、
諸葛亮が果たして私心を本当に持たなかったか、疑問の余地はあるわけだし
そうしてみれば馬謖に責任を全面的に押しつけたわけではなくても
「片腕」を切り落としてみせた、というパフォーマンスによる保身、
という打算があってもおかしくない
だが、確認のしようがない以上、
断定したとたん、
そうかもしれない、という仮説は
ただの妄想に堕す
つか馬謖を庇って敗戦を隠した向朗こそ斬首にされるべき存在だと思うが
奴は解雇されただけで、後に復職しているし
>>549 ただでさえ乏しい人材が余計少なくなるので却下です
551 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/11(火) 16:19:32
しかし泣いて馬しょくを斬ったのはいくらなんでも厳しすぎないか
味方の大将を戦罰で処刑するって過去にあったかな
なら馬謖も助けてよかったやんという声が当時から上がっていたな
向朗は荊州時代から名声があって
諸葛亮とも同門だから斬りにくかったんだろう
敵前逃亡じゃなくて戦って逃亡だからな
暫く見つからないのだって戦争の事だからゴタゴタしてた可能性もあるし
恥を知って出てこれないって心理もあるだろう
保身の為なら魏に投降すればいいんだし
でも史書に卑怯な振る舞いがあったと描かれるぐらいだから
馬謖は本当に何かやらかしたのかも知れん
史書が諸葛亮寄りに描かれているのも確かだけど
しかし配下の将軍まで処刑って明らかに異常事態すぎてなぁ……
ただ諸葛亮も魏延の件だったり決して真っ正直な人間じゃねーからな…
責任を押し付けたって説もあながち無くも無いかも
五伍呉
魏延と何かあったか?
>>556 長安とかでもごちゃごちゃあったやん
魏延をドサクサにまぎれて殺そうとしたとかは演義だけど
>魏延
正史ではそれほど激しい軋轢があったわけでもない
仲は良くはないが
せいぜい第一次北伐のアレくらいで、
シコリはあっただろうが
考えてみれば
同じ職場で異なるポリシーをもった大人同士が
仕事の方針で意見が対立すること自体は当たり前だよね
それが元でプロジェクトが崩壊することさえあることを思えば、
むしろ、互いの本分をよくわきまえていたんじゃ?
巷説でいわれているほどには中悪くないよたぶん
仲良かったか悪かったかは知る由も無いが
なんで諸葛亮は魏延を最高責任者に立てないで馬ショクを使ったのか、とか
形はどうあれ魏延の策を避けて敗北したわけだから何かしらのアクションはあったのか、とかは興味あるな。
魏延は自分の作戦を強く主張してたみたいだし。
>>547 されてねー
コン刑は一種の見せしめで命まではとらんし
寒門が台頭してくる南北朝時代とちがって
まだこの頃は士大夫絶対だから
魏延や王平のような輩は取るに足らない競争相手だろう
562 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/11(火) 23:39:47
>>560 街亭の戦いの後の処置なら、将軍の張休と李盛は処刑されてるよ。
>>559 諸葛亮と魏延の不和?は一次北伐の件だけではなくて、
魏延が諸葛亮の消極的な戦略に不満を募らせていたということだろう。
ただ魏延もそれであからさまに反抗したわけではないようだ。
或いはそれが、諸葛亮の子飼的な楊儀への攻撃に転じられたのかもしれない。
階級の上下を考えれば、諸葛亮は生前は、自分に心服していない魏延をよく使ったと言える。
自分の死後の事からは爪弾きにしたけど。
多少公正な解釈を試みれば、魏延はそのままでは階級も武勲も高すぎて、
蒋エンでは抑えられないとの判断もあったのだろう。
李厳が諸葛亮の死に絶望したのも、諸葛亮の死後に召し返されると、
かつて罪を得た者が臣下中実績第一位の位置に付くことになってしまい、
新朝廷を安定させたい蒋エンらがそんなことを許さないと考えたのだろうね。
軍のトップには呉懿が車騎将軍として就くが、まもなく死去し、
かくて蜀漢は第三世代への移行を完了するというわけだ。
>>562 「馬謖と一緒に配下の将軍も処刑された」を
俺は馬謖と馬謖の配下の将軍と読んだけど
そちらさんは馬謖と諸葛亮配下の将軍とでも読んだかね?
>張休と李盛
何者?
567 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/12(水) 01:59:20
>>565 当時の軍制で言えば、丞相府の参軍である馬謖に正式な配下の将軍などいないだろう。
丞相諸葛亮の命令を代行するという形で、派遣された諸将を統制する立場で戦場に赴いたと考えた方が良い。
それならば、同行した張休や李盛らは、正式な配下ではなくても、一時的に馬謖の統制化に置かれているので、
誤解無き表現とは言えないが、配下として扱っても構わないだろう。
一つ聞きたいが、あなたが「馬謖の配下の将軍」と読み、張休らがそれに該当しないのならば、
コン刑に処されたとは誰の事なのだ?
568 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/12(水) 02:13:55
>>566 街亭の戦いでの処罰によって処刑された将軍、他に兵を取り上げられた黄襲がいる。
王平伝に名前が見える。
>>551 戦じゃないけど諸葛直と衛温は人狩りに失敗して孫権に処罰されたね
その企画自体孫権が許可したもんじゃんって話だが
もう明確に人柱、身代わりの類だね
于禁は辱められたけど死を賜ることは無かった
曹休も赦された
やっぱ魏が勝つのは当たり前な気がしてきたな
諸葛亮は当時仮節であり、軍法違反者を処断する専権を持っていた。
馬謖の処刑理由が命令違反だというのはこのためだろう。
(単に負けただけでは多分諸葛亮にその責を問う権限はない)
本当に命令違反を犯したのか、処断の名目だったのか、
名目だったにしても、大敗の責任を問い人心を安定させるための処置なのか、
単に諸葛亮の責任を擦り付ける詰め腹だったのか、それはよくわからない。
確かにいえるのは、劉封・馬謖・李厳他の事例を見ても、
諸葛亮は自分の権限を越えかねない所で他者を処断(乃至排除)する際にも
法的な手順を踏む人間であって、謀殺したり臣下の分を超える過剰な職権を
求めなかったことだな。
>>569 于禁や曹休が赦されたのは帝権が安定していたからだな。
徳を示すから強いのではなくて、強いから徳を示す効果がある。
諸葛亮は臣下の身分で劉禅の下で政権を宰領して、
権力を一点に集めて乱れを起こさないためには
人事に公正で信賞必罰に徹しなければならなかった。
馬謖の処断がその善例になるかはわからないにしても、
諸葛亮が法に峻厳な方針を取ったのはそのためだろう。
或いは、諸葛亮がそういう性格で、それが当時の蜀漢に必要な能力と
ぴったり合致したからこそ、劉備死後蜀漢は分裂しなかったと言える。
572 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/12(水) 12:48:55
無能なんだからギエンとかキョウイに軍事を任せればよかったのに
結局全部自分の思い通りにならないと気が済まなかっただけでしょ
574 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/12(水) 14:09:18
軍事ってのはわかりやすいかなと思ってあえて使ったんだが
じゃあ言い直すよ
何から何までいちいち口出さなきゃよかったのに
結局全部自分の思い通りにならないと気が済まなかっただけでしょ
どんな流れで何から何までっていってんの?
馬謖が自己批判して自分を罰するのを温かく見守って待っていればよかったの?
576 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/12(水) 21:58:52
そもそも孔明はなんでチョウコウにバショクをぶつけたんだろうな
チョウコウの戦歴しらんのか?孔明は。
曹真が張コウを馬謖にぶつけたんだよ。
578 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/13(木) 01:36:06
祭りがはやった
蜀末期の人々ってどんな生活してたの?
中央から離れたところに数十万人で住んでて
異民族みたいな感じで見られてたのかな?
魏からすれば攻めても利が少なく、だがしかし勝手に皇帝を自称して
山奥に立てこもる不良軍団。
人々は末期は困窮して姜維を恨んだ。
ちなみに姜維は「しょうがいじ」って打つと「生姜維持」となる
生と持を消して姜維になります。
今の四川盆地は、戦国秦代から開発が進められ、米、塩、鉄を産出する良地だった。
政治的中心にはなれなかったが、開発途上の楚や呉に比べれば古い土地。
中原から見れば辺境だけど後漢末の乱の被害も少なく、一般の暮らしぶりはこの時代としては良かっただろう。
姜維は大軍を動員した上にその主力が大敗するという、劉禅時代で初の打撃を被ったので、
戦死者の家族や軍税を出す者達から不満が噴出したのだろう。
損耗を補給するために漢中の防備を変えたと言われるけれど、孤立しつつあった姜維の権限で
蜀漢全体が困窮したかというと疑問。
魏の侵攻を受けた際にも、諸葛瞻の首都軍が壊滅しても北東南に健在の諸軍があり余力を残していたわけで、
劉禅の早々の降伏に歴史的な批判が加えられたのは自然な成り行きと言える。
まあ抗戦して耐え凌げたかは別として。
「しょうがいじ」→「障害児」
(´-`).。oO(ならねーじゃんか、ったく…)
四川盆地は
山間で霧が深いので日照時間が短い
「蜀犬日に吠ゆ」
とまでいわれた
が、盆地ゆえの土壌はよく、
春秋戦国時代の秦が躍進は
当時巴と呼ばれていたこの地を抑えたことが大きい
584 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/13(木) 16:47:05
三国志を通ぶる人は必ずなんか地形を
ひけらかすよね。実際中国行って見てきた人いるの?
後今と昔は地形変わってんじゃないの?
三国志通に嫉妬する人は必ずなんか地形を
語る人に噛み付くよね。書物からデータ読み取ろうとしないの?
586 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/13(木) 17:26:21
因みに四川は今でも中国の一大穀物地帯で食料庫。
四川大地震の影響でヤバス
>>584 開発進んでるだろうし
アスファルトも引いてるだろうし
>>584 日照時間が少ないとか
塩、鉄の産地とかは
ずっと昔から史書にも言われてきた事であって
今の地形の問題ではない
ひけらかしているように見えるのは己の知識が不足しているからとは思えないのか。
そういう風に他人を蔑む姿勢しか取れないからいつまでたっても理解が進まないんだよ。
590 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/13(木) 23:55:53
あまりにも
>>584が袋叩きなので
言っておく
無知な貴様が悪い
591 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/14(金) 00:55:07
専門家なら、1800年間で土地がどれだけ隆起したか沈降したかや、
河川の流路の変遷や侵食の具合、当時の植生なども分かるのだろうが、
我々素人は、現在の地形からの推測や、史料から読み取れる当時の地形を考えるしかない。
「分からないから考慮しない」とするよりも、例え間違っていても考えた方が面白いとは思うけどね。
中国は地学的に安定陸塊だから
2000年程度じゃそんなに盛大に隆起沈降しないとは思うがね
593 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/14(金) 01:17:23
>>592 それが確かなら、現在の地形で援用できる部分が多くなるので、
尚更、「分からないから考慮しない」というのは通用しないね。
何にせよ、「地形を考慮する=通ぶる」というのは穿った見方だと思う。
基本的には、より面白い、より確からしい考察を引き出す為の手段としているだけだろう。
俺を含めてね。
極端なとこまでいくと、当時は海だったとか、黄河の流れる位置も違ったって
のもあるよね
それに地形の変化だけじゃなく、当時と現代の森林密度や分布の差異もある
595 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/14(金) 03:41:12
地形は変わらないくても木は生え変わるでしょ
大雨 台風 旱魃 地震
平地だから進行しやすいとか
いえないと思うけどね。
596 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/14(金) 08:03:01
ええい!大局の見えぬ馬鹿め!
そういやこいつが他人の意見に同意してる所見た事ないや
納得いったのか飽きたのか最後はいつも無言で消えるか別の話題持ち出すし
>>595 >平地だから進行しやすいとか
>いえないと思うけどね。
いえる。少なくとも漢帝国の郡県があった領域なら城と城との間には道があるから。
それでも通行困難な難所には普通特筆がある。蜀の桟道、とか。
一番の問題は河川の流域だな。当時渭水がどこに流れていたか、などと特定するには
専門の研究を参照さぜるをえず、素人の手に負えるものではない。
が、まあ素人同士がネットで駄弁る分にはこのくらいは大雑把でも大要に差し支えはないだろう。
多少の流路やルートの違いは大局には影響はないと思われ。
大雑把でいいと思う。
逆に言えば、大雑把にでもある程度は抑えておくほうが面白い話ができる。
桟道を通ったとか、桟道を焼き落として道を足ったとか、迂回して急襲したとか・・・
蜀の最後の攻防はその辺のことが前提の話だしね
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/15(土) 20:54:37
中国って今の蜀と昔の蜀は同じ場所にあったのかね?
日本じゃその時代の邪馬台国の位置すらわからないのに。
詳細な地理文献や発掘遺跡が腐るほどあるからね。
2300年前に造られた堰が稼動しているくらいだ。
603 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/16(日) 01:50:46
森林の大きさや河川の幅や流速などは戦略を考慮する上でも必要だが、
それがどの程度まで機動を妨げるかをある程度推量できれば十分だろう。
細かい地形の把握が必要になるのは、戦術まで考える時だろうね。
戦術となると、そもそも三国志に殆ど記述が無い事なので、
結局のところ、あまりに細かい地形の把握が必要になる事は殆ど無い。
けど2000年間の間に地形変わる大災害とか結構あったと思うんだけどね。
大災害あれば史書に残るだろ
606 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/16(日) 22:30:23
大陸移動のレベルでないなら
そんなおかしなコトはないだろ
まあ土地が移動するのではなく
地名が移動することは
都市名のレベルならあるが
少なくとも蜀の地については、
西周時代から今にいたるまで
矛盾を生じるような変なズレはない
607 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/17(月) 23:01:53
話は変わるが、趙雲の長子の趙統が虎賁中郎止まりってのはどうなんだろうな。
恐らく最後に虎賁中郎将となったのは麋竺の子の麋威なので、その部下という事になる。
中郎なんて、傅僉は夷陵の直後、姜維も二十歳そこそこで通過してる官職だぜ。
それとも、楊戯が「南中郎参軍」という書かれ方をしたように、
将が欠落しただけで、本当は虎賁中郎将なのだろうか?
>>607 無論確定はできないが、「将」が入ったほうが自然な感じだな
609 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/17(月) 23:18:50
>>608 そうなんだよね。麋威の場合、その子の麋照が虎騎監になってて、
親父の麋威が健在な状況で、子の照が軍の枢要な職に就くってのは不自然だし。
麋竺は軍隊の統率なんてできない人間だったのに、子も孫も指揮官ってのは不思議なもんだ。
虎賁中郎将は、ほぼ動く事の無い宿衛兵だから名目だけかもしれんが、
虎騎監の方は、同様の職である虎歩監を考えると主力騎兵の指揮官だろうから、何気に麋照は凄いかもしれん。
虎賁中郎将は、董允の例を考えれば宿衛兵の統率をしていたはずだけど、
緜竹の戦いには参加した様子が無いし、趙統は何をやっていたのか?
弟の方は恐らく彊川口で戦死したようだが。
610 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/17(月) 23:59:48
逆説的に考えて息子がたいした職に付かなかったってのは
実は親がそんなにたいした奴ではなかったからではないだろうか。
>>610 趙統の場合は虎賁中郎と督行領軍が釣り合わないんじゃないか、ってのが問題の所在
親がどうこうではない
どっちにしろ親は間違いなく大した奴だが
612 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/18(火) 00:15:25
まあ、三国志の役職なんて詳しくしらないんだけど
チョウウンって今の職でいうと自衛隊の隊長なわけでしょ。
そんなに上の位置にいなかったんじゃないかな。
国防長官の下で政治に関わってなかったわけだし。
614 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/18(火) 00:23:11
督行領軍だけだとよく分からんよね。
個人的には、中部督行中領軍なんじゃないかと思う。
ただ、前後左右中部督は、諸葛亮薨去後は見られないから、
督行中領軍かもしれんけど。
いずれにせよ、比六百石で定員も無い虎賁中郎では務まらんのじゃないかと思う。
615 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/18(火) 00:33:13
素人だけどあえて言わしてもらうが
三国志の役職にそれほどの意味あるのかな?
だってコロコロ変わってるじゃん。孔明死後でなくなったりしてるんでしょ。
名前変わったりしてるって事はその役職の権限とかも変わってるわけでしょ
つまり曹操も孔明も丞相だけどやれる事というか仕事内容は全然違うんじゃないかな?
役職でどれくらい偉いとか解からないと思う。
617 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/18(火) 00:36:45
孔明って丞相だけどおそらく丞相
がやる仕事以外の事もしてたでしょ。
越権行為。そんな曖昧な職で優劣決められないよ。
>>617 部下がやりゃあいいことまでやってたけど越権はないよ
丞相の職務は「天子を丞(たす)けて万機を助け理(おさ)める」(漢書百官公卿表)だから
619 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/18(火) 00:47:55
まぁ、上下の明らかなものを除いて、どっちが偉いかを正確に把握する事は難しいだろうな。
蜀であれば、李厳を弾劾する上表などである程度の序列が分かったりするけど。
後は、多くを踏襲していたであろう後漢の官制を参考にしたりとか、
職掌であれば、実際にその職にあった人間がどういう事をしていたかを記述から見出すとかな。
少なくとも、「正確には把握できない」と「上下が全く分からない」とはまるで違うとは思うが。
「督行領軍」という語自体、官職名になってないと思う。「仮の領軍を督する」になってしまう。
虎賁中郎(督)[将]・行領軍 でどうだろうか。
622 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/18(火) 12:47:48
捨て置けい!
おおかたこのスレで泣かされたリア厨の遠吠えであろうよ
どうせすぐに落ちるわ!
というか
>>621は本人の宣伝だろww
そんなヤツと一緒にしないでくれw
伏してお願い申し上げる。
>>584 成都になら行ってきたことはあるよ。
水と緑が多くて、のんびりした感じの街だったよ。
その前後にいくつかの中国の都市をまわったけど、
気候の良さは一番だったと思う。
あんなところで、しかも外敵の侵入を受けにくいという条件で
生活してたら、劉禅みたいになっちゃうかなあ、とも思う。
626 :
1:2008/11/18(火) 21:40:44
>>621 いやまあこのスレ立てたのは俺なんだけどね。
蜀末期スレ
と
孔明は無能では?スレ
を立てていろいろ見てたりして思った事で
スレを立てただけでまあこのスレと孔明スレには
関係のないことなんだけどね。
>>626 そんなこと言われなくても一目瞭然だよ。
あなたが自分のことを素人だと自覚していたというのは新鮮な驚きだったが、
素人にもわかるようにというなら、スレタイ(孔明無能スレ)と態度が悪い。
マニアックになるのが嫌ならこんなスレなど立てないことだ。
「三国志素人の俺にも解るようによってたかって教えまくるスレ」だったら
喜んでご教授してくれる親切な人はたくさんいるだろうよ。
628 :
1:2008/11/18(火) 22:22:23
いやあえて素人と行ったんだけど俺はそこそこは知ってるよ。
蒼天航路で三国志にはまって演義は読んでないけど横山三国志
読んだし。北方三国志も読んだし。英雄生きるべきか死すべきか
も見たから。コーエイの三国志7もやったし三国無双も3までやったし。
今やってる劉備が日本人のとんでも三国志は面白くはないけど買って読んでいるし。
ここまで知ってたら中級でしょ。
それはひょっとしてギャグで言っているのか?
>>628 三国志は6までをやれ
三国無双は4をやれ
初級にも至ってないなお前
>>628 うん、まずその、作品群を並列して考える姿勢から止めよう。
演義、横山、北方、柴廉、koei。それらの作品は、個々が独立した文芸であって、互いに相通じるものは無い。全く無い。
演義の諸葛亮を読んだからといって、横山や北方の諸葛亮を「知っている」ことにはならない。
これは文学の根本的な鉄則だ。
また同じく、演義を知っているから史書を知っていることにはならないように、史書を知っているから演義を知っていることにはならない。
つまり、「蜀末期」というこのスレタイの問題について、最低でもちくま文庫版三国志くらいには目を通していない限り、あなたはド素人だ。
人物などの固有名詞をいくつか「暗記」しているに過ぎない。
裴松之がどんなに高名な三国時代史家であろうとも、演義を読んでいない限りは演義についてド素人なのと同じようにね。
このスレが立った時から
>>100くらいまでにかけて、あなたの望む方向とスレ住人の態度が乖離していった主な要因は、
そのことをあなたが自覚していなかったことに拠る。
632 :
1:2008/11/18(火) 22:45:35
あと、諸葛孔明ってのと曹操っての多分同じ作者ので
実は裏で盟約してましたってばかりの奴も読んだし
これだけ読んでれば大体わかるからね。
634 :
631:2008/11/18(火) 22:53:09
おーい、たまに真面目っぽく言ってみたんだからレスくれよw
あの頃のゲーセンは良かった
636 :
1:2008/11/18(火) 22:54:40
ああ天地を食らうも読んだけどあれは三国志じゃないでしょ
最後山登ってオワリってどういう事だよって話。
三国志漫画は少ないんだよね。しかも面白いのとなると
蒼天航路しかない。ランペイジとかも読んだけどイマイチだったな。
素人だの中級だのって話は、不毛な上にあまり意味が無いと思う。
多少詳しかろうが何だろうが、俺だって素人である事に変わりは無いし、
素人だろうが知ってる事は知ってるし、玄人だって知らない事は知らない。
自分が何を知っていて何を知らないのかを分かっていればそれで良いだろう。
638 :
1:2008/11/18(火) 23:14:02
>>631 まあいろいろ言いたい事はあるんだけど
演義、横山、北方、柴廉、koei。それらの作品は、個々が独立した文芸であって、互いに相通じるものは無い。全く無い
元が三国志って事が共通してるでしょ、複数の作品を読めば
三国志のおおよそがわかるってもんよ。
知識などなくても、文章を読んで矛盾を突ける力があればいい。
オレが言いたいコトは
>>631が丁寧にかつ優しく説いてしまった
まあ素人だの中級だののレッテルには意味はない
単に、これだけのことだ
「もっと見識を広げる余地が残されている。もしそう望むのならば、だが」
641 :
631:2008/11/18(火) 23:22:11
ところが解らないんだよ。
文芸というものは、作者の精神の表現だから。文学にとって元ネタは「仮面」であり、拝借元にすぎない。
姜維について、作者は自分自身の挫折を投影するかもしれないし、悲劇の英雄像を投影するかもしれない。
ただの単細胞の武辺者に書くかもしれない。
「元の世界」を知るためにいつも必要な作業は、あとから付加された「仮面」を丁寧に剥ぎ取って、可能な限り
傷がつけられていない地肌を露出させることなんだ。
それが小説にしろ史書にしろ、複数の出典をいくら統合しても、塗りつぶされて黒くなるだけ。全く逆の作業が必要なんだよ。
642 :
1:2008/11/18(火) 23:26:55
>>641 だからさたとえば3つのキョウイを見れば
大体、この作者はこう描いてって解かるでしょ
3つみれば大体元がどんなのか想像できるし
俺はキョウイはコウだったと思う
とか思えるまでになるでしょ?
>>642 もうそういうネタでレス伸ばそうとしなくていいからね
644 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/18(火) 23:31:35
c
645 :
631:2008/11/18(火) 23:36:11
だから、歴史を考える人間は(まあ自分が努力を払うに足ると思う範囲で)可能な限り原典に迫る必要があるわけだね。
一次史料、二次史料という言葉があって、史書は二次(以下の)史料に当たるわけだけど、
あなた
>>1はいつも六次七次に加工された複数の情報をさらに自分の頭の中で編集して言葉にする。
だからどんどん他人と対話が成立しなくなっていったわけだ。
だから、少なくとも大多数の人間と対話を成立させるために、まず史書「三国志」を読むことからお勧めする。
>>642 >3つみれば大体元がどんなのか想像できるし
姜維の歴史的真実を描写しようと誠実に試みた三人の歴史家の文章ならば、あるいはそこから想像可能かもしれない。
でも、残念ながら、そんなことを試みて小説を書く小説家はいないんだ。
646 :
1:2008/11/18(火) 23:45:55
まあもちろんWikとかで多少は調べて
自分なりのキョウイ像ができればそれでいいんじゃないかな?
俺が蜀末期スレを良く立てるのは
蜀末期が小説になってない(英雄生きるべきか死すべきかだけだね)
からそこあたりを自分なりに補完したいからなんだよね
自分のなかでキョウイはだいたいこんなんだろとおもってるんだけど
ショカツセンとかショウカイとかテイブン?とかがね
もっとイメージを固めないとダメだなって思ってるからね。
テイブン?
>>639 揚げ足を取る技術を教えてどうするw
焼肉だからってフライかよw
>>645 ちょwwwww
どこまで親切やねんwwwwwwwww
>俺はキョウイはコウだったと思う
>とか思えるまでになるでしょ?
君がそう思えるようになっただけ、にすぎない
そんな自分に違和感を覚えないから、他者と話がかみ合わないんだよ
649 :
1:2008/11/18(火) 23:48:58
ケ艾 とうがい
だった。
>>649 そんな麻生レベルの間違いされては流石に分からんよ
小説でもマンガでも振り仮名振ってるだろ
本当に読んでるのか
651 :
1:2008/11/18(火) 23:52:45
ケ艾が出てくるのは柴田の小説しかないんだけど
英雄生きるべきかなんとかはちょっとつまらないんだよな。
文章が古臭くて退屈だし。
北方に孔明死後も書いて欲しかった。
キョウイは書き方によっては盛り上がると思うのにな。
土方歳三みたいでカッコウイイ最期じゃん。
652 :
631:2008/11/18(火) 23:58:36
>>646 イメージが固まっていない割には、断定的な言葉遣いが多かったね。
姜維を引き立てようとして諸葛亮を無能扱いしたしね。
読んできた小説や解説本にはそんな人間像は語られていなかっただろう?
その辺は反省してくれ。
まあ、2chで語られるような姜維無能論の反作用と見れば、どっこいだけどさ。
三国志読まなければ語る資格は無いとまでは言わないし、大きなお世話はここまでにしとく(文庫で一万以上するし)
だけど、少なくとも日本語で入手しうる情報量の八割方を溝に捨てて語っているのだという自覚はしていてほしいな。
>>648 地理役職スレ
>>16を鑑みて、このスレ100レス辺りまでの1とその他が乖離していった展開について
多少フォローがあってもバチは当たらないと思ってね。
以上、オワリ。
653 :
1:2008/11/19(水) 00:05:18
>>652 孔明についてはいろいろ思う所あるのよ。
いろんな小説読んでも矛盾多いでしょ。こんなにリッパに
描かれてるのになんで勝てないんだ?とかバショク斬る必要あんの
とか。俺は小説読む時に考えて読んでるからさ。
ていうか地理と役職のスレでも書いたんだけど俺は
レスする時はわかり安さを重視してる。孔明の事を思ったから
俺は新スレを立てた。そこで孔明を無能扱いしてるけど
このスレとは関係ないし。地理と役職のスレも新スレ立てたから
このスレとは関係ないことなんだよね。
ただ孔明は蜀末期にも関係してるからここで語ることは問題ないんだけど
このスレで俺は孔明を無能だとは書いてないと思ったんだけど。
相手にだけ歩み寄りを強要する輩とうまくやれるわけないだろ
657 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/19(水) 12:58:49
まあ
>>1のやっていることはこんな感じたな
たまにテレビの野球中継を見ている暇人。
特にスポーツ経験は無いけれど身体能力には自信がある、なんとなく。
ある日ふと、なんとなく野球をやってみたくなった。
「メンバー募集!本気で本格的な草野球チームです」
すると集まってきたのは
元高校球児とかプロテスト目指してるとか、
プロには及ばないけど、ただの素人よりは明らかにできるヤツらばかり、しかも結構本気。
当然温度差はすさまじい。
ボクは野球をやりたかっただけなのに
後からきたアイツ等はボクの手が届かないところでプレーしてる。
それで文句があったので言ってやったら
「基礎的な練習をミッチリやれば追いつけますよ?なんなら朝練いっしょにやりませんか?」
なんてことを言う。
だからボクは野球がやりたいだけなんだって!
ちょっと、ねぇ?
姜維を調べるにあたって、妄想で人物像を補完しないでくれ
というか、他の意見に関しても妄想ばっかり
ネットにしても、誰にも編集できるウィキ以外にも資料としてアテにできるところはあるだろう
それを正そうとした人の意見を聞かないキチガイっぷりを散々見せ付けられて、
僕はこう思います、なんて論拠のない妄想を吐かれてもキチガイの戯言にしか聞こえん
そういう見世物だとかコントってなら別にいいが、本気でやってんならマジキチだぞ
色んな板行くけどな、
ボクシングとか意外と制度がややこしくてそこそこ詳しくても分からん事とか多いのよ
間違いを指摘されると時々
>>1みたいな奴が出てくる
デジカメは昔、初心者相手にキヤノンが売りまくって今は落ち目なんよ
で、今のキヤノンの文句言うと
>>1みたいなのが出てくる
要はどこにでも居るタイプよ
囲碁みたいにほとんど荒れない板になった時は終わった時かも知れん
もう1と名乗るやつ及びそれに類似したレスは放っておこうぜ…
水や養分がないと植物が枯れてしまうのと同じで、
相手にしなければいずれ死に絶えるさ。
>>660 でも、最近の三戦板でこれだけ真面目に語り合ってるスレってのは珍しいと思う。
そういう意味ではこのスレにも存在価値があるんじゃないか?
要は、
>>655の言ってる「
>>1が出てこなけりゃ良スレ」って事だな。
蜀末期についての解説なり考察を読みたいわけで
>>1の自己紹介は正直どうでもいい
ちなみに三国志考察サイトかなにかで
蜀末期を面白く解説してるサイトとかある?
>>664 まえからそこやたら薦めてるけど本人なん?
しかし姜維さん、なぜ独断のケ艾ではな
く野心家鍾会の方と共謀しようと思ったのですか?
頼りになるという点では圧倒的に前者でしょうに・・・。
あっ、そうか。ケ艾を扱いきれないからか!納得。
普通に考えてキョウイはケ艾を倒そうとしたから
鍾会と組んだんだろ。鍾会も後に倒すつもりだったんだろうけど。
ごくごく単純に位置関係の問題
668 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/20(木) 23:37:52
>>285でも言ったが、
>>667の言う通り、姜維は捕縛される以前のケ艾に会ってない、
と言うより、恐らく一度も会ってないんじゃないかと思う。
>>664のサイトの人は、その辺を知らないか、知ってて煽ってるだけで、
あの言葉はでたらめも良いところだな。
仮に姜維とケ艾が面識があったとしても、ケ艾が蜀で独立とか考えるわけもないしね。
だからこそ、鍾会はケ艾を排除したのだから。
ケ艾の「独断」というのは軍事的果断さであって、政治的なものではない。
扱いきれるとかいう以前の問題。
670 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/21(金) 01:27:27
ケ艾は功を誇りすぎた、とは司馬炎の弁。
後に名誉回復は行っているけどね。
連行されるときに自分の境遇を古代の名将白起の最期になぞらえるところも、
自分の功を誇りすぎだという気がするね。
まさにそれこそがケ艾の墓穴だったんだが・・・。
だが、その境遇を思えばそれは仕方がないことではあるけれどね。
もって瞑すべし。
姜維の最期の反乱計画って、
あくまで魏に対する抗戦の意思とか意地とかそういうものであって、
別に蜀の復興とは関係ない、・・・という可能性も十分高いと思うけどなぁ。
姜維自身がそんなことを言ってるという記録があったわけでもないし、
後世の南朝の史家の誰かが「そうだったんじゃないか」って勝手に言ってるだけでしょ。
勿論、蜀復興の意志に基づく行為だった、という可能性を真っ向から否定する気はないけれど、
それありき、というのは違うんじゃね?
劉禅にその旨の密書を送った、とされている(華陽国志)
意地にしろ忠誠にしろ、姜維が反乱を成功させようと思ったら
鍾会と独立するか劉禅の権威を頼るかどちらかだろう。
華陽国志か…
674 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/21(金) 09:41:12
暗い時代だなあ。
明るいだろ、寧ろ
昼にお線香焚いて夜に一族皆殺しにするような時代がスグ後にくるんだぞ?
正史では正とされてる魏からしたら
やっと小うるさい鼠を処分できたってくらいの話なんだろな…
>>675 西晋〜南北朝まで迷言のオンパレードだからなw
「米がなければ肉食えばいいじゃない」 司馬衷
「政治は人任せにしていた。亡国は私の責任ではない」 王エン
「四海皆兄弟なのだから息子を殺してなんの問題があろう」 石虎
「まだ千人も殺してないのに、どうして世間は私を誹謗するのか」 苻生
「鎧に矢が刺さったら鎧の職人を、刺さらなかったら矢の職人を殺すからね☆」 赫連勃勃
「そんなに夫が死んで哀しいなら一緒にシネ!」 高洋
「父上、どうしてもっと早く死んでくれなかったのだ」 宇文イン
678 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/21(金) 12:47:51
姜維と魏延はどんな関係だったのでしょうか?直接配下についていたことは無し?
>>677 今のかの国の元なのだろうか…
三国以降は興味ないな
唐以前の文化はむしろ日本に引き継がれているといわれるぐらいだが
三国志しか知らないのは勿体ないな
魏晋南北朝で一つの時代なのに
石勒なんかキャラたってるのにな
名言の宝庫でもあったりするからな
あと格好つけしいが多いのも貴族文化の特徴か
死んだ周とかその最たる例だろうが
なぜか惹かれない
あーでも呉好きには結構辛いかもな
陸兄弟とか周拠とか、呉将の子孫、晋では結構悲惨な目にあってるし
次々国が入れ替わって行くから感情移入難しいな
東周英雄伝みたいな短編漫画描いてくれる人がいると良いんだけど
次々入れ替わっていくのは三国志も似たようなもんかと
しかし三国志自体も後漢中期ぐらいから流れを理解しないと
曹操の凄さとかもピンとこないかも知れんな
後漢のお家芸の外戚と宦官の対立は
和帝即位から竇太后の権勢による外戚の跋扈
それに対抗した宦官の鄭衆から始まる訳だし
>>685 演義とかで超美化されていても蜀が好きなんで
蜀が滅んだ時点でもう興味なしw
蜀将子孫はパッとしないな
羅尚が李特破った位だけど、性格最悪扱いだし
690 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/21(金) 16:09:53
蜀末期より細木数子のほうが有名
蜀ってか三國志の簡易内容でも負けるかも…?
>>689 その李特に敗れて殺されたとはいえ、
一度は撃退した張微(父・張翼)もいるじゃないか。
693 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/21(金) 19:12:27
スケールの小ささと戦績のささやかさに泣けてきたぜ
呉もリクソンの子孫は有名なのに
シュウユの子孫は目立ってないよね。
だって若死と刑死
696 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/23(日) 23:31:06
てか子供いたんか?
普通いるだろけど記述とか聞いたことない
>>696 瑜兩男一女。女配太子登。男循尚公主、拜騎都尉、有瑜風、早卒。
弟胤、初拜興業都尉、妻以宗女、授兵千人、屯公安。黄龍元年、封都郷侯、後以罪徒廬陵郡。
瑜兄子峻、亦以瑜元功為偏將軍、領吏士千人。峻卒、全j表峻子護為將。
あ、いたおw
残念ながら遅い、お先に
701 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/24(月) 19:48:37
長男の周循は周瑜に似ていたが早死した。弟の周胤は興業の都尉だったが、罪で229年に廬陵郡に流された。
239年に諸葛瑾・歩シツが連名で周胤を許すように孫権に請願した。
孫権は言った。「周瑜の子という理由で若い周胤に軍権を与えたが彼は増長してしまった。
私は彼が成長しているのを待っていたのだ。10年経ったし、改心したと言うのなら考えなくもない。」
朱然と全jも請願したので、孫権は周胤を復帰させることに決めた。ちょうどそのころ周胤は病死した。
周瑜の兄の子の周峻は編将軍として1000人の兵士をまかされていた。周峻が死ぬと、全jが周峻の子、周護を将軍とするように上表した。
孫権は言った。「周瑜の功績は忘れないが、周護は粗暴だから駄目だ。」
孫権って多分他の奴が権力持つのを凄い嫌ってたんだろうね
シュウユの子孫とかも遠ざけてリクソンも晩年には
嫌ってたみたいだし。
>>702はいつもの人だな
こいつがいなけりゃ良スレなのに
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/25(火) 12:40:17
それは言い過ぎ
蜀スレまで出ばってくるなや
といいたくはなるが
コイツ一人いなくても良スレとは言い難い
>>702 ツッコミどころが多すぎるからスルーしますね^^
706 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/25(火) 14:30:25
スレタイの
どうなんだったの?
が日本語としてヘンダーソン
707 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/25(火) 15:23:52
人としてのコミュニケーション能力が不足してるから
仕方ないよはまだ16だから
16で普通のコミュニケーションとれないのはやばいぞ
>>706 なんか飛行場に砲撃したくなるギャグだなw
710 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/25(火) 18:33:19
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/25(火) 19:29:25
人とのコミュニケーションが不足してんだろ
周瑜に似てたから早死にしたんじゃね
713 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/26(水) 22:17:01
英雄ここにあり
って小説を以前読んだことあるけど、
どこまでほんとの事なのかわからんかった。
わおw
717 :
1:2008/11/27(木) 18:30:19
>>715 1だけどそんなスレ立ててないよ。
ていうか俺はキョウイははっきり言えば孔明以上の器だったと思ってるし。
蜀のために命をかけた感じがすごい好きだし。
蜀が滅びたのは孔明の愚策のせいだと思ってるくらいだ。
キョウイの北伐>孔明の北伐だろ。
>>717 姜維が諸葛亮より上って事はないな。
蜀滅亡は姜維がケ艾に立て続けに敗北したのが原因だし。
だが、姜維にとって時期が悪かったのも確か。
諸葛亮の北伐の時期は、魏は蜀と呉の侵攻に防戦一方だが、
姜維が北伐する時期は、魏は蜀と呉の侵攻を防ぎつつ逆に侵攻している。
すでに、国力差は絶望的と言っていい状態だろう。
北伐の影響力は、諸葛亮の第一次北伐>それ以外の北伐と言っていいのでないかな。
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/27(木) 19:28:57
「徐々に弱りゆくお前の拳ではオレは倒せぬ」みたいな話ですね
国力の回復待たずに戦争なんかするから
昭和の日本軍みたいなことになっちゃったんだよ
723 :
1:2008/11/27(木) 20:10:36
孔明は独裁が出来てたからね。
もしキョウイが独裁できてたら多分天下取ってたと思うよ。
キョウイは孔明と違って消極的な作戦は取らずに
一気に敵の本拠地に全軍進めるぐらいの豪快な作戦取ってたと思うし。
カコウハがいるから道も詳しいし。
724 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/27(木) 20:12:02
俺にとって姜維のイメージは武田勝頼。
725 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/27(木) 20:51:06
みんなやさしいな。
1を名乗る狂人の戯言に付き合ってやるなんて。
726 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/27(木) 20:56:26
>>717>>723 だからさー
抽象論でなく具体論を述べてよ
議論にならんやないの
アンタは議論をする皆を「小難しいことばかり」と貶すのがお好きのようだが
逆にアンタの言ってることは根拠が明示されないから全く理解ができんのよ
727 :
1:2008/11/27(木) 21:05:36
なんなんだろうね。全体のイメージとしか言いようないんだけど
正史とか演義とか本屋に売ってないし。
俺がいろいろなスレ見てるとさ。孔明の北伐のときに
ギエンが策だしたじゃん。あれが実は良かったんじゃないか
みたいな評価があるじゃん。三国志の考察サイトとかスレで
あの策、キョウイが実権握ってたらやってたと思うんだ。
そして成功してたと思うんだ。
>>724 どういうところが似てると思ったの?
自分は勝頼に対して「前世代の負の遺産に押し潰されて死んだ」ってイメージがあるんだけど
730 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/27(木) 21:44:52
高。これしかも読みにくい文章っぽいな。現代文にやくしたのとかないかな。
司馬遼太郎あたりが正史元にした三国志かいてりゃ読んでるんだけどな。
項羽と劉邦書く前に三国志書くべきだろ。
非常に平易な現代日本語だよ
これで難しいというなら歴史ベースの三国志を語るのはやめとけ
732 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/28(金) 00:15:01
姜維が独裁的な権力を握っていたら魏延の策を実行に移したか、
と問われれば、答えはNOだろうな。
姜維は政治的な制約によって隴西を戦場としたわけじゃないし。
「羌胡を味方に付ければ、隴より西を断つ事ができる」と言っていた人間が、
どうして隴より東に直接進むと思うのか?
733 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 14:15:09
姜維には思うほど権力はなかったって事か。
>>732 1は貴殿とは違い、
「オレの大好きな姜維は英雄なんだ」という結論だけをゴリ押ししてるんだもの。
「どうして?」と問うても返せる言葉なんてあるはずないよ。
なにせ「イメージ」と言い放つくらいなんだから。
ヒイが小出しに出征許可しすぎって感はあるが
中途半端な戦力で毎回毎回出てきたら魏側も対応マニュアルみたいなもんができるだろうと
736 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 19:22:23
つーか魏炎の方が同考えても脅威より軍事能力上だろ
魏延に秦嶺山脈を迂回して隴西まで大軍を動かし戦って戻ってくる処理能力があったとは思えん
姜維とは同じレベルにさえ立てない
魏延は魏延で、姜維は姜維で、
それぞれ違う持ち味の、優れた武将だったとおもうけど
そうは言ってられないのか?
一応230年に首陽で郭准に会うまでは単独行動してるが
その時は遭遇を聞くなり諸葛亮が援軍を急行させてる
>>727 魏延作戦を姜維がやればイメージ的に成功する
からの流れだからまぁこうなるわな
741 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 20:40:53
もどかしいな
地道に正史やらなんやら読まなアカンよ
Jominianなんかコテ名乗る前からずっと勉強して考察し続けてる
バックボーンがないとまとまった議論すらできんし話題の舵取りもできん
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 21:09:06
俺は、作品が読みたいんだよな。誰か書いてくれないかな。
孔明後の三国志。なんでゴジョウゲンで終らすんだろ。
744 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 21:19:16
>>743 俺が魏延が主人公の三国志書いてやるよ。
普通の三国志演義は孔明死後も続いたと思うが
他の漫画や小説、ゲーム等はそもそも三国時代まで続く事がまれなんで・・・
人気あるようであんまり人気ないよね。三国志。
三国鼎立状態になるまでが面白いからな
747 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 21:52:47
北方謙三の三国志だとさ。
孔明が最期、生きていれば統一できたみたいな感じになってるじゃん。
こうシバイに「戦いに着たのに敵がこない。つまりここは蜀の地だ」
みたいな事を宣言するのがすごい盛り上がるんだけど。
ああいう感じでキョウイがもう少しで三国統一できたみたいな
ストーリーで誰か作って欲しい。
つまり
「考察がしたかったのではなく、自分の妄想を語りたかったんです」
ってことですね。
よくわかりました。
749 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 22:20:20
もちろん考察もしたいんだけど。
意外とこのスレの人たちってあんまキョウイの北伐とか
戦績については語らないよね。
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 22:23:11
痴呆症はじまったな
>>749 だったらどうして
>>742などの意見はいつも無視するの?
考察ってのは「物事を明らかにするためによく調べて深く考えること」なんだよ?
自分は努力しないくせに、他人の議論に冷や水をぶっ掛ける言動を繰り返す…
人としておかしいぞ、その態度は。
752 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 22:40:11
生姜って無理な作戦立てて思い通り上手く行かないの繰り返しじゃん
魏延が作り上げた漢中の守り崩して蜀滅んだし
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 22:44:39
本当にキョウイの作戦は無理だったのか?
ていうかあれだけ北伐できたって事はなんらかの成果があったわけでしょ
孔明と違って独裁でもないのにあれだけ出来たし
処分もされなかったって事は負けてないんでしょ。
俺だけでも姜維の戦跡や立場についてこのスレで50行くらい語ったんだがなあ
姜維自身は北伐においてケ艾相手にしか負けたことがないってのは何度もこのスレで触れられてるんだがなあ…
756 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 22:52:51
ケ艾がどれだけ強かったのかが良くわからないのがな
ケ艾ってたしかショカツセンに負けてるんだよね。
まあコレは無能な奴に勝たせてキョウイの失脚でも狙ったんだろうけど。
>>756 負けてない、負けてない
間を置かずの連戦で最終的に勝ってるのだから精々が最初は不利だったけど
劣勢を挽回して勝利ってところだ
人口無能相手にしてるほうがマシだな、これは。
昔あった魏将ベスト10のスレでは第三位>ケ艾
一位が曹操、二位が司馬懿
後漢末から三国志通じても十指に入るだろうね
確か中国で売っている歴代中華名将トランプにもノミネートしてたよ
760 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/29(土) 02:18:19
諸葛瞻に関して言えば、会戦そのものの勝敗よりも、
なんで緜竹まで退いたのかって事が問題だな。
黄崇の進言を逡巡して容れられなかったという事に関しては、
涪まで強行軍で進んだ為に戦力の集結が不完全だった、と考えればまだ納得がいくが、
涪を棄てた事は擁護できないな。
敵は軽装の兵で難所を越えてきたのだから、城攻めなどできるはずも無いのだし、
涪をみすみすケ艾にくれてやる道理は無いはず。
フは漢中と蜀を結ぶ重用拠点らしい。
姜維と連携するつもりはなかったのか?
無茶すべき所で、安全策をとってしまったって所かな。
>>759 トランプの中にいた武将は、諸葛亮・姜維・関羽・周瑜・孔融の5人だ。
現地の人に聞くと、姜維は諸葛亮の弟子だからいるらしい。
どこで聞いた話だっけと思ったら田中よっしーの書籍の中にあった話だったから信憑性が薄いかもしんないw>ケ艾トランプ
まあケ艾の場合、向こうじゃ吃音の人の代名詞だから、そういう意味でも人気みたいなもんがあるのだろうが
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 08:22:20
曹瞞伝>田中よっしー
成都は本来なら涪〜雒の辺りが最終防衛ラインみたいだけどな
涪を抜かれると盆地に完全に侵入されて手がつけられない気がする
武将の優劣というやつは
ポーカーの役やグーチョキパーの強弱みたいに単純なモノではないよな?
(ここまでは同意いただけるよな)
肝心なのは、単純な勝敗ではなく
その勝敗がいかなる状況下での結果であったか、だろう
(これも同意いただけるよな)
自分の得意分野で勝負すればそれだけ優位に戦えるし
だから自分の土俵での勝負にもっていけるよう事前の工夫をする
相手の土俵にたってしまったら
それはそれで戦いようはあるし、勝負を避けるのもありだ
(これもry)
さて姜維だが、
そういう点では徹頭徹尾、自分の土俵でしか勝負しようとはしなかった武将だ
(これは意見はともかく感想は別れるところだろうがね)
朝廷との折り合いの悪さ、特に諸葛にまで批判されてしまうのは、
全面的とはいわないが、姜維自信の責任も大きい
そこで成都に顔を出さないという態度には、
木っ端武者ならまだしも、軍の指揮権をもつものとしては問題がある
そしてやはり、段谷は致命的すぎる。
負け方や被害もさることながら、
得意分野、自分の土俵での敗戦だ
これは一生の不覚というか、曹操の赤壁・官渡の艶笑だ
勿論これでそれまでの功績がチャラになるわけではないが、
同様にそれまでの功績でチャラにはできない
姜維は諸葛亮の配下にいた時期が一番輝いている
あくまで一武将としてなら優秀だったと思うがね
武将の優劣というやつは
ポーカーの役やグーチョキパーの強弱みたいに単純なモノではないよな?
(ここまでは同意いただけるよな)
肝心なのは、単純な勝敗ではなく
その勝敗がいかなる状況下での結果であったか、だろう
(これも同意いただけるよな)
自分の得意分野で勝負すればそれだけ優位に戦えるし
だから自分の土俵での勝負にもっていけるよう事前の工夫をする
相手の土俵にたってしまったら
それはそれで戦いようはあるし、勝負を避けるのもありだ
(これもry)
さて姜維だが、
そういう点では徹頭徹尾、自分の土俵でしか勝負しようとはしなかった武将だ
(これは意見はともかく感想は別れるところだろうがね)
朝廷との折り合いの悪さ、特に諸葛にまで批判されてしまうのは、
全面的とはいわないが、姜維自信の責任も大きい
そこで成都に顔を出さないという態度には、
木っ端武者ならまだしも、軍の指揮権をもつものとしては問題がある
そしてやはり、段谷は致命的すぎる。
負け方や被害もさることながら、
得意分野、自分の土俵での敗戦だ
これは一生の不覚というか、曹操の赤壁・官渡の艶笑だ
勿論これでそれまでの功績がチャラになるわけではないが、
同
なんで各論に入りつつあるのに序論に戻るんだ?
武将という単純なくくりで説明しようとしている時点でだめじゃね?
769 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/29(土) 14:00:58
>>761>>764 涪は、漢中にも成都にも巴にも道が通じ、蜀が東北の要と為したところ。
だからこそ蒋琬は涪に入ったのだろう。
県西北の孱山には金鉱や銀鉱があったらしいが、そういう点は措くとしても、
疲弊しきったケ艾軍に、休息できる拠点を与えてしまったのは大きい。
その後の緜竹でも戦いを急いだ事から、涪を奪ってもまだ余裕のある状態ではなかっただろうが、
涪で防御した場合と比べれば雲泥の差だろう。
ましてや、諸葛瞻は拠点で防御するのではなく会戦を選んでるからね。
ハンニバルに会戦という餌をくれてやったウァロみたいなもんだ。
>>767-768 >>765-766は、史書ベースで語ってるのかと思いきや、何の記述も無い諸葛亮時代を輝いてるとか言ったり、
正直、何が言いたいのか分からないね。
▲▲▲▲▲ 霞萌 ▲▲▲
▲▲▲▲ ▲▲▲▲
▲▲▲ 涪
▲▲綿竹
▲▲ 雒
▲▲
▲ 成都
だいたいこんな配置だ
綿竹・雒は涪の付城のような関係にあって
偶然ながら劉備も霞萌から成都攻略を狙って涪で一年粘られた
綿竹に入って涪・雒を放棄するのは成都までの道を譲って篭るしかない愚策だが
それもしていない
姜維にすれば、鍾会(方角は違うが劉備入蜀時の荊州からの援軍に当たる)を食い止めれば、涪でなんとか持ち堪えられると思っていただろう
姜維が防衛兵力にまで手をつけていたのがアダになった一面はあるにせよ
多分間に合わなかったのだと思われる
気付いたらフが落ちてたというところか
772 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/29(土) 14:54:19
>>770 雒城の位置は緜竹の後方で、緜竹と雒の東方には、比高にして300mも無いとは言え、
山が南北に走っているので、涪-緜竹-雒と数珠繋ぎになってると思うよ。
だから、涪が落ちれば次に籠もるべきは緜竹で、雒は緜竹が落ちた場合の、
成都を守る最後の砦になる。
劉備が前進を停止したのも雒城で、そこに至るまでに涪、緜竹と攻略している。
>>771 「諸葛瞻は諸軍を督し、涪に至って停まり」とあるので、涪に入っていなかったとは考えにくい。
黄崇伝でも、諸葛瞻が涪に到着した事が述べられているしね。
廖化や張翼を援軍に出した時点で涪周辺の防衛も考えてたはずなんだよなぁ
でも援軍の顔ぶれから見る限り、諸葛瞻が指揮した兵も質は悪そうだな
蜀:魏の戦力比ってWWUの日:米位と考えておk?
no
日米のがもっと絶望的
アメリカは核を作った
一方日本は風船爆弾をつくった
779 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/29(土) 18:23:55
風船爆弾って実は結構高度な事してたんだけどね。
当時アメリカ側が知らなかったジェット気流を利用してたし。
もし細菌兵器搭載されたら被害が甚大になるので
アメリカ側は被害をひた隠しにしたって
なにかのテレビでやっていたな。
おっと、スレチになりそうなのでここいらにしとこう
781 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/30(日) 00:11:03
>>773 やはりどうしても、羽林右部督である李球以外の面子や、消えた閻宇の行方とかは気になるね。
中軍であれば、それまでの蜀から言えば虎賁中郎将辺りが面子に加わってもおかしくないはずだし。
状況を姜維に伝えていたのかと言うのも気になるところ。
姜維は剣閣に籠もった時には4万乃至5万の軍勢を率いていたので、
魏軍が涪に迫っているという知らせが来れば、何らかの行動を起こしたと思う。
諸葛瞻の敗北を聞くや、瞬く間に300km近くも後退し、成都まで100km弱の所まで退いた姜維だからね。
諸葛瞻だけでいけると思ったのか、或いは諸葛瞻らが姜維に何も伝えなかったか、
前者であったなら、諸葛瞻が涪を放棄したのは姜維にとって予想外だっただろうね。
涪の失陥によって、姜維は成都との連絡を断たれ、退こうにも真っ直ぐ成都に向かえず、
結局は巴西から迂回せざるを得なくなったしのだから。
ケ艾と睨み合ってる状態から退却してきた姜維からすれば、ケ艾の兵が温存されてるのは分かってそうだけど
諸葛瞻の奇妙な振る舞いを理由付けるにも、
閻宇が戦場に着くなりあっさり降伏してしまい諸葛瞻の腰が砕けた、くらいしか思いつかない
閻宇も重要人物なのに一切記述がない不自然さ
陳寿が筆を曲げる理由があるとすれば羅憲に遠慮すべき事情があったかも、という程度かな
羅憲に後ろ暗いところは無さそうだけどな
784 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/11/30(日) 23:13:27
>>782 剣閣の地形から考えると、剣門関前面に敵全軍が展開する事はできないだろうし、
剣閣攻撃に投入されている敵軍の全容がどうなっているのかってのは、姜維には把握できなかったと思う。
剣閣強襲部隊の中にケ艾がいない事は、或いは姜維に分かっても、
その後方の本営にいるかいないかは分からなかったと思う。
閻宇も気になるが、霍弋と劉禅とのやり取りも気になる。
劉禅は霍弋に対し、「敵への備えは既に定まっている」と述べているが、これはいつの時点の事なのか?
剣閣で魏軍を押し止めた後とするならば、ケ艾への狼狽ぶりを考えると、
備えとは剣閣の事か、或いは閻宇を呼び戻した事なのだろう。
前者であれば、成都の防衛自体は考慮していないので、ケ艾に対して恐慌状態に陥ったのも自然な事だろう。
後者であれば、閻宇は成都防衛の戦力であるはずなので、ケ艾の侵入という予想外の自体のショックも、
史実から確認できるよりも弱かったはず。
従って、閻宇はその到着が間に合わず、対ケ艾の戦力として投入できなかった事になるが、
それだと閻宇の降伏先が不明な事や、剣閣から退く姜維とも接触しなかった事が不自然になる。
この時代の暗号って残ってないの?
難路なのは知ってたけど剣閣迂回ルートはそんなに非常識なのか
でも鍾会が待ちきれずに退却したらと思うと薄氷を踏む勝利だな
姜維や成都がケ艾の動きを察知したのは江油を取られた後くらいだとすると
むしろ諸葛瞻は迅速だったくらいか
それにしても涪の放棄は惜しい
民衆に暴動の気配でもあったんだろうか
なんか初心者ですまない
>>786 なんかこのレス(誤爆?)前にもこの近辺で見た気がする
789 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/02(火) 01:10:27
実際、江油を越えて涪に達したケ艾らの行軍はよく分からない。
例えば、鍾会の派遣した田章は、剣閣の西の道から江油に出て、
蜀の伏兵三部隊を撃破した後、ケ艾の先鋒となっている。
そもそも、ケ艾の奇襲がどういった手順で行われたのかも分からない。
奇襲を行う旨を述べた上表からは、ケ艾が奇襲を行う以前に、鍾会が姜維と対峙していて、
尚且つ彼がそれを把握している事が窺える。
諸葛緒はケ艾と共に奇襲部隊に加わる事を拒み、東の白水へ向い、鍾会と合流している。
記述に矛盾が無いように考えると、諸葛緒は姜維を取り逃した後、同様に姜維撃滅の命を受けていたケ艾と合流し、
その後、陰平で軍を集結させた両者の下に、姜維が剣閣に入り、鍾会がそこで進軍を止められている情報が入る。
そこでケ艾は、奇襲部隊を編制して諸葛緒と共に摩天嶺の突破を行おうとするが、
諸葛緒が詔勅に違えるという理由からそれを拒否した為、奇襲部隊を編制した残余の軍と上表文を諸葛緒に預けて、
自らは奇襲部隊と共に南下。
諸葛緒は東へ向い鍾会と合流すると共に、ケ艾の上表文も鍾会に渡す。
鍾会はケ艾に手柄を立てられる事を恐れ、自らも田章らの部隊を抽出して、
西へ向う道より江油へと向わせた。
これが江油北方で合流し、共に江油を陥落させて涪へと出た、という事だろう。
現代の地図だと、白水の辺りから江油の手前辺りまで繋がっている道があるので、
田章はそこを通ったんじゃないかと思う。
やっぱりケ艾はノーマークで蜀滅亡は頓死だったのかな
ところで「閻宇は召還を受け西へ引き返した」という記述があるけど、
「召還を受け引き返す」んだから目的地は成都ではないかと思ったんですが
この時期に張翼ら古株を追い出して硬骨漢の霍弋は拒絶して、
うやむやの内に閻宇を軍のトップに据えてしまおう、とか妄想ですが
>>787 黄崇の進言を却下したことで大きく株を下げた感のある諸葛瞻。
その拙策は結果的に見れば擁護できるものではないが、こういう見方もできないだろうか。
黄崇の詳細な経歴が史書からは不明だが、最後の官職は尚書郎。
単純に「経験豊かな将軍からの進言ではなかったから」取り上げられなかったのでは?
ある程度経験を積んだ将軍からの進言だと、諸葛瞻の対応も違ったかもしれない。
つくづく江油がもう少し抵抗できていれば…と思うよ。
>>790 さすがに魏の侵攻が現実として発生している有事に
そこまで強引な更迭劇を画策していたとは考えにくいけどなあ。
諸葛瞻に関しては、親の七光りも手伝った育ちのよさというか経歴なんかも
併せてみれば、正念場や危急の状況に強い性質じゃないんだろうって思うな
>>791 自分でも妙なこと言ってる自覚があるけど、袁崇煥もこんな最後だったからつい
閻宇の上昇志向がどれほどか、どこまで姜維を問題視したかは分からないけど、
姜維更迭派にとって姜維が魏軍を追い返してしまうと、ますます閻宇と交代しろとは言いにくい
戦後に上手く成都に呼び出して、閑職と引き換えに兵権を剥奪してしまう以外ないと思う
中国史上度々あった事だけど、書いててイヤになるな
少なくとも史書上だと結構有るよね、末期なのに権力闘争。
末期なのに、じゃなくて権力闘争やってたら転覆して結果として末期になった
と言う方が正しいだろう
796 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/02(火) 20:41:52
ショカツセンって実は諸葛孔明の息子じゃなくて
呉のショカツキンの息子なんだよね。
そこあたりが理由で出世できなかった可能性もあるのかな。
スパイ疑惑とか敵国の男扱い。
797 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/02(火) 20:58:24
それはないな
それ諸葛喬じゃね、とかいうツッコミは無しかね
799 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/02(火) 23:14:17
>>798の言うように、諸葛瑾の息子は諸葛喬だし、
諸葛瞻は三十代で行都護衛将軍平尚書事と、この上ないくらい出世してるから、
>>796は二重に間違えている。
800 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/02(火) 23:24:34
あれ?孔明って確か子供生まれないから
キンに養子もらったんじゃなかったっけ?
養子もらった後に生まれたの?だったらキンの子
はその後、必要なしって事になったんかな。
喬は別家立ててなかったか。
喬は瞻が成人する前に死んでしまっているからゴタゴタは全く無かったろ
803 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/03(水) 00:04:13
諸葛喬は228年に25歳で死んだ。諸葛瞻は諸葛喬の死ぬ前の年に生まれてる。
子の諸葛攀が諸葛喬の後を継いて、官は行護軍翊武将軍に至ったけど、
諸葛恪も諸葛融も死んで諸葛瑾の後を継ぐ者がいなかったので呉に帰ってる。
ただ、諸葛攀も早死にしてるんで、多分呉に帰った後すぐに死んでると思う。
804 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 00:44:44
ショカツセンが生まれた一年後にキョウは亡くなってるのか?
すげえ怪しい。孔明ってホウセイが劉備の配下になった時に
蜀にいたときの上司を処刑したみたいなのを聞いて
「ホウセイの才ならOK」ってみたいな事言ったから
邪魔者として排除されちゃった可能性あるね。
805 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 01:12:31
>>804 法正の素行の悪さを黙認した事例が、なんで邪魔者排除の可能性に繋がるのよ…
せめて後継者争いを防ぐために劉封を罪に落とした事例を挙げようよ
>>1さん…
1は小説で得た知識が史実だと思ってるヤツだから。
諸葛瞻が養子のくだりなんぞ柴錬そのままだ。
>>804 諸葛瞻が成人間近になって諸葛喬が唐突に死んだのなら諸葛瞻にお家騒動なく家督を継がせるために
諸葛喬を亡き者にしたって可能性を論じることはおかしくないと思うが、
諸葛瞻が生まれてすぐに諸葛喬を殺すってのは考えにくい。
諸葛瞻が無事に成人するかどうかすら解らん時代だし、成人しても
とても家督を継ぐことなどできない人物に育ってしまう可能性もあるから。
諸葛瞻が産まれたので諸葛喬を亡き者にしたってのは流石に諸葛亮の人格を貶め過ぎだろ。
もし、亡き者にしたのなら後世に諸葛喬の人格に問題あったとかの悪名残るだろう。
むしろ、諸葛喬の人格は称えられてる。才能に関しては比べる相手もすごいしな。
それに、諸葛喬が死んだ場所は漢中。
諸葛亮の跡継ぎになれるかどうかはわからないが、要地を任せる気はあったのだろう。
>>791 諸葛瞻は呉に援軍を依頼してるから、当初は長期戦を考えたはずなんだが、
涪の北で盆地への侵入を抑えるのは却下でも綿竹で野戦してるし、
黄崇も雒まで下がらずに対峙して敗れてる
なんとも言えずちぐはぐなんだよなぁ
811 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 21:06:39
なんという末期症状。
仕事ができるヤツがいて、そいつがなぜ仕事がデキルかというと、
たいていは個人の処理能力が高いからというよりは、
部下同僚上司といった周りの人間とうまく連携がとれるからだ。
(それこそリアルニュータイプみたいに、よほど能力が突出していれば別だが)
逆に、個人の力量が低くないのにそれほどの仕事ができないヤツは、
ヒトと連携がうまくとれていないからだ。
その点、蜀には建国当初から
連携不足が目立ち、
それを個人の処理能力でカバーしようとしすぎて、
ますます連携をとらなくなっていって
亡国に至った、という側面があるのではないか。
>>810 思いつきだが。
実はケ艾はフを無視して諸葛瞻を追撃し、諸葛瞻も仕方なく綿竹で戦ってたのはどうだ?
ケ艾は剣閣に蜀の兵の大半がいると考えてたようだし。
813 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 21:17:31
やっぱ羅憲が怪しんじゃね?
なんではるか東方で留守番してる羅憲が怪しいんだよ
>>1
>>812 黄崇がさらに北上してケ艾の進路をふさぐべき、と進言してるから、
諸葛瞻が涪に到着した時点では両者にそれなりの距離があったはずで、
実際に一旦綿竹に入ってケ忠らを追い払い、再び寄せて来た時に出撃して敗れてる
呉が仮にすっぽかしても成都や地方軍の来援があるまで事を急ぐ必要はないし、
当初そのつもりだったはずなんだが
816 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/03(水) 22:31:22
「瞻督諸軍至涪停住、前鋒破、退還、住緜竹」という一文を信じるならば、
諸葛瞻は涪に入った後、少なくとも一部を割いて前衛とし、ケ艾に向わせている。
好意的に見るならば、諸葛瞻は逡巡し時機を逸したものの、
間道の出口を押さえてケ艾軍の前進を拒止できるに足るだけの軍を派遣し、
ケ艾が平地へと押し出る前に出口を押さえられたなら自らも北上するつもりだった、という事だろう。
恐らくは、全軍が平地にてケ艾と対峙する、という事態を避けたかったのだと思う。
しかし前衛は間に合わず、それがケ艾に撃破されたので緜竹まで退いた、と。
だが問題はこの後だな。
仮に上記の理由で前衛を派遣したのならば、諸葛瞻が緜竹でとるべき行動は緜竹の固守だろう。
それが、ケ艾が緜竹に至るや、野戦に打って出ている。
強行軍の中で落伍した兵が緜竹に集結していたなら、それと合流するという判断であったともとれるが、
なんとしても涪は固守して欲しかったところだ。
意味不明な行動になったのかだが、情報不足ってのはどうかな。
諸葛瞻は、ケ艾だけでなく魏の大軍が来たのではないかと警戒した。
そこで、フでは守れないと考えて引き、偵察に兵を割いて向かわせた。
ケ艾の軍は少数だし一回勝ったので野戦で決着つけようとして敗北した。
魏が補給で苦しんでいるのを知っていて野戦に挑んだのなら流石に蜀の人材は枯渇してたとしか言えないが。
綿竹の敗報を姜維がすぐに知った程だから、成都-剣閣の間である程度の連絡は取れている
少なくとも姜維が敗れて敵の全軍がなだれ込んで来たとは思ってないはず
もし大軍を想定したならば、なおさら盆地への侵入を許すべきではなく、
Jominian氏の言うように涪〜雒まで東西を山に囲まれて一本道になっているなら
涪を明け渡すのは強行軍の収拾くらいしかメリットがなさそう
ケ艾が三つの城を立て続けに抜く手間を省いてやったことになる
(Jominian氏はグーグルアースなども参照しているのでたぶん合ってる)
できれば涪に留まって、ケ艾が自由に動けず補給も困難な状態で戦う方が理にかなってる
>>789 鍾会伝によれば、鍾会は諸葛緒と白水で会い、ともに剣閣に向かい、鍾会は剣閣を攻撃した。
ケ艾伝によれば、鍾会が剣閣を攻めたが勝てないでいた時、ケ艾は剣閣を迂回する作戦を上表した。
上の記述を考えれば
鍾会と諸葛緒がともに剣閣に向かう→鍾会が剣閣を攻めるが勝てない→ケ艾が剣閣迂回作戦を上表する
→ケ艾・田章が剣閣を迂回する→田章が伏兵3部隊を撃破して、ケ艾と合流してケ艾の先鋒になる
だと思う。それにしても鍾会伝の記述は時系列が分かりにくい。
10月、ケ艾は剣閣を迂回する
11月、劉禅降伏、蜀滅亡
821 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/04(木) 22:18:14
>>819 それだと、鍾会伝にある、諸葛緒とケ艾の奇襲を巡るやり取りとその上表とが一致しない。
仮に鍾会の剣閣到着が諸葛緒合流後だったとしても、鍾会率いる魏軍本隊の攻撃がそれ以降だったとは言えないだろう。
つまり、胡烈ら、魏軍本隊の前衛が鍾会に先立って剣閣に到達して攻撃をかけたが実らず、
それを聞いたケ艾が陰平より奇襲を提案、後、諸葛緒と鍾会が合流して本隊を投入しての剣閣攻撃が行われた、と見れば無理が無い。
>>821 そういう考え方もあるだろうね。
田章が伏兵3部隊を撃破して、ケ艾と合流してケ艾の先鋒になったということは
ケ艾と合流するまで田章がケ艾に先行してたんだろう。
もしケ艾が田章に先行してたらケ艾が伏兵に遭遇する確率が高いし、田章がケ艾の先鋒に
なる可能性も低いだろうな(この場合、田章がケ艾の後衛になる可能性が高いだろう)
823 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/04(木) 23:13:06
>>822 いや、恐らくは田章が撃破したという伏兵は、ケ艾の進路には配されてなかったと思う。
俺の考える田章が進んだであろうルートだと、白水から西に向かい、
今の青川県を経て江油のすぐ北に出る事になるが、百里ほどの地点で伏兵を破ったという事は、
まさにこの青川県の辺りという事になるので、ケ艾の通ったであろうルートには含まれない。
ケ艾は恐らく、陰平より南に進んで摩天嶺を越え、現在陰平古道と呼ばれてる道に入って青渓鎮辺りに出て、
その後、今の平武県の東方に出た後、川に沿って南下して江油に至ったんだろう。
現代の地図にある道路や地形を見ると、上記のルートが自然かなと思う。
824 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 20:52:37
825 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 20:59:50
でこのスレで言われてた段谷の戦いなんだけど
負けたのはキョウイのせいじゃないじゃないか。
鎮西大将軍胡済と連繋して上?で合流し、
魏を破る計画を立てる。だが、肝心の胡済が現れず、
さらにケ艾に動きを読まれたために攻勢は失敗し、
姜維は退却するも追撃を受け、段谷で散々に打ち破られる
胡済って奴がダメなんでしょ。誰だよ。こいつ。
もしかしてショカツセン派でキョウイを亡き者にでもしようと
してたのかね。孔明もギエンにたいしてそのようなことしてるし。
>>825 待ち合わせに来なかったのに罰されてない
政治力学の問題もあるが、こんな大敗しといて罰がないのは
悪いのは姜維という可能性がある
827 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 21:09:26
>>826 いやそれはおかしいでしょ。
罰せられてないのは中央が腐敗してたからに他ならない。
だって勝敗に関わりなく待ち合わせにこない事で厳罰物のはず
中央が腐敗してたからキョウイは防衛戦を下げざるをえなかったとも考えられる。
前漢の将軍なんて期限に遅れたら死刑だかんね
腐敗なんかしてたって証拠がどこに?
830 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 21:22:57
郤正がその人格を高く評価した文章に対する孫盛の痛烈なる批判について、再批判を加えている
この郤正がその人格を高く評価した文ってどんな文か解かる人います?
いや、今日は
>>1が珍しく検討に値することを言ったぞ。
…と思ったが、鎮西将軍胡済なる人物の名がでてくるのはこの一件きりなんだよね
だから降格されていないかはわからなあい。
史書に明記されるくらいの明確な命令不履行だから、普通なら厳罰ものだろう。
厳罰に処されたから出てこないんじゃ
一度しか名前が出てこない人物なんてごろごろいるから
「以後出てこない」だけじゃ判断できないな。
>>833 まあ、「罰されていない」「罰された」どっちも言えないわな
835 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 21:34:48
前から思ったんだけど三国志末期ってチンジュ手抜いてないか?
時代が近いからモット詳しく書けるはずなのに。
いろいろ一回きりの奴多いよね。
>>835 政治的に色々書けないこともある
日本でも明治以降の近現代史じゃあいろいろ憚ることもあるだろ、権力者本人や近い子孫がまだ健在なんだから
似たようなもの
姜維が北伐の実権を握った頃には陳寿は仕官しており、
末期には中枢近くにいたわけだからね。
姜維が外征を繰り返したことを批判しつつも、鍾会の評を用いて
その人物を賞賛するなど、微妙な心理が窺えて面白い。
遠慮してるってことか。そういえばチンジュってもうキョウイとかは
普通に見たり話したりしてるんだよね。
僕が見た限りこういう人でしたってのはダメなのか。
そういうチンジュの本音が記された裏三国志正史とか発掘されないもんかな。
皇帝に差し出す前に纏めた無修正バージョンあると思うんだけどな。
sageても分かりますよw
840 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/06(土) 23:14:46
少し話を戻すが、姜維と約束を違えた胡済という人物は一回しか出てこない、と言うのは、
その後に督漢中になった胡済と、鎮西大将軍胡済を別人と見てるという事になる。
しかし、それを裏付けるようなものはないと思う。
両者が別人だというのは、失策を犯した胡済が処罰されないはずは無い、という仮定から導いたものだろう。
だが、同時期に、同じ漢中という場所で、同姓同名の人物がそろって高位に、
それも両者とも官僚ではなく、将軍として姜維を支える立場にあったと考える方が無理がないだろうか?
胡済が打ち合わせ通りに来なかったのはなんでなんだろうな。
予定通り進発したが単に進軍が遅延したのか、
第三者(ここで言えば中央だと思うが)の働きかけにより胡済が動くに動けなかったのか
胡済が来れば企画通りに言ったとはもちろん思わないけど
段谷であそこまで壊滅的に叩かれることもなかったとは思うんだけどね。
842 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/06(土) 23:50:59
>>841 まず、姜維は255年の秋に狄道の包囲を解いた後、1年近く隴西に留まっていたので、
漢中にいたであろう胡済とは書簡でのみ連絡を取っていたという事が、
両者の間で、綿密に作戦を打ち合わせる事を多少なりとも難しくしていたという事が一つの理由だろう。
次に、姜維の当初のプランと実際の作戦とで、展開に大きな違いが出たという事も理由だな。
と言うか、殆どはそっちだと思う。
姜維が祁山を確保するつもりだったという事が、ケ艾の言葉と姜維の実際の行動とで分かる。
姜維としては、祁山の麦を拠り所としてケ艾と対峙し、その間に胡済が上邽へ迫る事で、
敵を撤退に追い込み、且つ敵の退路を断って挟撃の形に持っていこうとしたんだろう。
この姜維のプランでは、祁山で魏軍が十分に展開する事が一つの条件になっているので、
胡済としてもあまりに速く上邽に達するわけにはいかなかった。
だが実際には、姜維は祁山を確保できず、洛門でもケ艾にがっちり守りを固められ撃破できず、
恐らく予定より早く上邽に行く事になってしまったと考えられる。
姜維伝では「胡済失誓」となっているのが、華陽国志だと「胡済失期」となっているのも面白い。
>>840 今、蜀末期をウィキで調べてたんだけど
いろいろ見てる内に前漢のほうに飛んで見てたんだが
同時期に、同じ漢中という場所で、同姓同名の人物がそろって高位
珍しくないでしょ。前漢だとカンシンって二人いるらしいじゃん。
同姓同名のが。大体一文字一文字の組み合わせだから
パターンすくないんじゃないの?
>>843 特に意見が無いならどうでも良い部分に拘るなよ。
あんたに、胡済が同姓同名の別人だとしたらこういうことが言える!
っていう何か意見が有るのか?
>>825付近でのあんたの意見を見るかぎり、
成都の宮中に腐敗が有ったのでは、とか姜維と成都の対立が有ったのでは、とかそういう話なんだろ?
そこにどう「胡済別人説」が絡んでくるんだよ。
むしろ「督漢中になった胡済と、鎮西大将軍胡済を別人」と見るんだったら
鎮西将軍の胡済はしっかり処罰されてることになって、成都の宮中が腐敗してなかった、ということになるのじゃないか。
845 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/07(日) 01:23:18
>>843 何故一例を挙げただけで珍しくないと言えるんだ?
重要なのは、督漢中の胡済と鎮西大将軍の胡済、
両者を同一人物とするのと別人とするのではどちらがより確からしいかという事だろう。
例えば董和伝の注に引く胡済の記述では、
「遷中監軍前将軍、督漢中、仮節領兗州刺史」とある。
仮に鎮西大将軍から前将軍になったとすれば、彼は降格されている事になり、
処罰されてないとは言えないしな。
胡済
字は偉度。義陽郡の人《董和伝注》。
初め諸葛亮の主簿として奉公し《董和伝注》、崔州平・徐庶・董和とともに称揚された《董和伝》。
231年、行中参軍・昭武中郎将として李厳罷免の上表に名が見える《李厳伝注》。
234年、諸葛亮が没すると中典軍となり諸軍を統率、成陽亭侯に封じられる《董和伝注》。
248年、王平が死ぬと中監軍・前将軍に昇進し督漢中となる《董和伝注》。
→これは決め付けすぎかもしれんが。
256年、姜維と示し合わせ魏領に侵攻するが胡済の行軍の遅れにより孤立した姜維がケ艾に撃ち破られ敗走《後主伝・姜維伝》。
→『後主伝』においては「鎮西将軍」、『姜維伝』においては「鎮西大将軍」表記がなされている。
258年、姜維の建議により漢中から漢寿に下げられる《姜維伝》。
259年、右驃騎将軍に昇進、仮節を与えられ?州刺史を兼務した《董和伝注》。
→259年という明確な表記はないが、張翼・廖化が左右の車騎将軍に任じられたのが同年であるので胡済もおそらくそうであろうと推測した。
→しかし左驃騎将軍が不明ということ、閻宇の右大将軍が大将軍の分置でない可能性もあることを考慮すれば右驃騎将軍は誤記である可能性もあるのではなかろうか?
没年に関しては、「261年諸葛瞻が行都護・衛将軍となると宗預が?州刺史に任じられた」(宗預伝)とあるので260年頃か?
胡済は上邽の2年後、漢中から漢寿まで下げられてる。が、その翌年には右驃騎将軍に昇進してる。
胡済が同一人物であれば、軍事的ミスを犯してもそう簡単には処罰できないほどの大物だったといえる。
が、姜維や諸葛亮同様、一時的な降格があっても不思議ではない。しかし両人と違うのはその後、最前線から下げられてなおかつ上がりのポストに就けられちゃったってところか。
847 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 10:02:43
848 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 10:03:30
「戦わずに」っていうけど、姜維は普通に魏領に侵攻して戦いを挑んだけど魏軍は応じずに守りを固めていた。
で、年が明けたらに諸葛誕が敗れたから撤退した、という流れでしょ?
元々大将軍から降格したこと自体は形式的なものだし(大将軍としての職務はずっと行ってる)
敵地に侵攻して特に大敗せずに帰って来たなら、復職の口実にはなる戦果じゃなかろうか。
まあ、「威を示した」というあたりだろうね。
851 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 14:38:18
諸葛誕との時はチャンスだったからその千載一遇の
チャンスを逃したら基本降格物じゃないの?
なのに出世してるって琴はなにかがあったのかもしれない。
チャンスを逃して降格した例を探してきてくださいね
つーか「何か有った」って何が有ったと思ってるんだよ。
>>817 迂回されたって時点で成都付近がパニック状態とかそんな感じなんじゃなかろうか。
いくらなんでもあっさり成都まで肉薄されすぎだろ。
>>851 傍目にみても失敗しても当然に見えるだろ。諸葛誕があっさり鎮圧されすぎだもん
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 21:45:06
>>853 俺は戦闘があったと思うんだが。
>>855 多分出発が遅れたんだろうけど。キョウイが出発するっていっても
周りの許可取らなきゃいけない立場だから。
もしかするとそういう理由で後に出世した可能性あるか
いざという時にすばやい行動取る必要あるから
代償軍にみたいな。
戦闘があって得るところ無く帰還したら復職できるのか?
あと、
>元々大将軍から降格したこと自体は形式的なものだし(大将軍としての職務はずっと行ってる)
百回読め。
858 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 22:10:52
降格したのが形式的ってどうなんだろう?
孔明と違ってキョウイには政敵が居たわけだし
ここぞと責任問題に問われたと思うが。
この時点では摩擦は本格的ではなかったとする意見が(このスレでは)強い。
>>340から
諸葛誕の失敗は呉の援護の拙さもあるからな
勿体ないことに
861 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 22:47:59
>>347 これの年表だけ見るとさキョウイって
247年 姜維、ビン山郡を平定
254年 6月 姜維、隴西に出撃 冬 姜維、狄道・河関・臨トウの三県を陥落させる
255年 夏 姜維、狄道に出撃。王経を破るが追撃しきれず鐘題に退却
これで大将軍まで上り詰めてるけどこの三戦はすげえ戦果だったわけだよね。
3つでポンポンポンと大将軍まで上りつめたわけだし。
ここはメモ帳じゃないんだからさ。
もうちょっと言いたいことをまとめてレスしてくれないか。
思いつきっぽくポンポン書き込んで議論をまぜっかえすのはちょっとやめてくれ。
863 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 22:59:21
いや、さ三国志末期って記述が少ないからいろいろカット
されてると思うんだけど
たった三戦で大将軍まで上りつめれるのかな?ほかにも
いろいろ活躍してたと思うんだけど。キョウイは
キョウイが一番大活躍したのはいつなんだろうって思ってね。
すぐ下の348でレスしてんのに今更347の年表見てるのかよ…
どんだけ不誠実なんだ
とりあえず衛将軍でwikipediaの姜維とこのスレ検索してくれ
>>863 諸葛瑾は呉の大将軍って知ってますか?
目覚しい軍功だけが出世の道ではありません。
諸葛誕の反乱軍は数十万。
魏は反乱鎮圧に最初に26万派遣。
呉は反乱援軍に最初に3万、後に5万派遣。
比べる時期も変だけど、蜀は滅亡戦で姜維が剣閣で率いたのは合計5万。
蜀の首脳部としては、姜維が下手に魏を刺激するのを避けさせたい。
しかし、もはや姜維の才覚に頼るしかない。ってジレンマに陥ってたのかも。
866 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/08(月) 01:51:03
第五次北伐に関して言えば、駱谷を通って沈嶺に出た事以外に記述が無いので、
何かあったかもしれない、と妄想するのはともかく、そう主張する事はできないだろうな。
あの戦いについて考えると、姜維は駱谷より関中に出て、芒水左岸に陣を置き、
魏軍は駱谷水右岸の長城に軍を駐屯させて姜維を防いだ事になる。
また、姜維伝の記述も参考にすると、渭水河岸にも軍を置いたと考えられる。
これらの配置から何らかの戦いを妄想するのは楽しいかもしれんが、
議論の材料になるようなものではないな。
>>865 諸葛誕数十万は言い過ぎでしょ。
記述に拠れば、淮水流域に屯田していた官吏・軍兵10余万に自らの精兵4、5万だから、
全部合わせても20万には届かないだろう。
ケ艾伝に拠れば、淮水流域の屯田兵は4万か5万、諸葛誕の掻き集めたのがこれと考えると、
兵士は全部で10万といったところだろう。
それに文欽、唐咨らを加えると、篭城した兵力は13万だな。
>>857,858
「武威を示した」程度でも時に功績になるのが「政治」。
あと姜維は後将軍に降格したが、行大将軍事として大将軍を代行してる。
>>858 その時点での姜維の政敵って誰?
もちろん組織である以上、一枚岩ということはありえないが、姜維と陳祗が対立していたなどという形跡は特に無い。
ただし。
姜維が大将軍に復帰するのは258年なわけだが、この年に陳祗は没している。
そしてこの年は大赦が行われ年号が改められているでもある。
この大赦と改号は後主伝によるとそれは史官の進言によるものだが、じつはそれは陳祗の死に絡んだものであったらどうであろう?
陳祗が没したので大将軍に復帰できたと見ることも不可能ではなく、その場合は姜維と陳祗の関係は微妙なものであった可能性もある。
869 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/08(月) 19:03:09
姜維って幕府開いてるんだよね、たぶん
>その時点での姜維の政敵って誰?
これは質問の意味で言ってるんじゃなく、「んなわけあるかい」という意味だろうな。
257年に閻宇が、魏牽制のためとは言え永安に飛んだ時点で、姜維続投に決まったと思うけど。
872 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/08(月) 20:54:59
ところで別スレ見てて思ったんだけど
キョウイとギエンってどういう関係だったんだろう?
演義だとキョウイは孔明の弟子みたいな扱いだけど
正史だとそれほど接点ないみたいだし。
軍人のキョウイはなんとなくギエンの軍略とかに乗りそうな気もするんだけど。
姜維は諸葛亮に拾われて辟召されてる。滅茶苦茶繋がりが深い。
辟召というのは三公のような高官が、名高い人物に礼を払って自分の属僚として招聘し、
ゆくゆくは朝廷の高官候補に推挙するという制度。
それによって召されたということは将来の出世コースが開けたことになる。
そのため、召した者と召された者との間には私的な恩義関係が結ばれ、子孫の代に及ぶこともあった。
だから、諸葛亮のあまりの消極性に姜維が苦言を呈することはあったかもしれないが、
「積極戦術派」的な派閥として魏延に付くというのは考えづらいんじゃないかな。
>>872 長安奇襲作戦の事を言うなら、最後の一行はないだろうね
北西部に精通している事を強みにしており、
事実、軍権を掌握してからはその通りに動いた姜維が魏延の軍略に乗るとは思えない
875 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/08(月) 21:51:50
ああそうなの。
じゃあ孔明も遺言で「次をキョウイに任す」ぐらいの事いっとくべきだったね。
ショウエンやヒイって結局何も出来てないし
孔明の遺言のせいでギエンもヨウギも居なくなっちゃったし。
>>874 姜維は北からも南からも長安攻められるようにしたかったんかな?
涼州取れば、諸葛亮北伐の欠点だった単調な侵攻ルートが改善されるような気がするんだけど?
>>875 蒋エンも諸葛亮に辟召されてるうえに長史として成都の軍政を掌握していた。
姜維は若く、軍中でもトップではない(それにしても高位だけど)
いきなり後継者とか無理。年齢くらい考えて言うこと。
878 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/08(月) 22:09:40
そういやキョウイって劉備と会った事ないんだよな。
劉備のキョウイ評があればよかったのに三国志時代で
一番見る目があったのって劉備か曹操だろうし。
キョウイがあと10年ぐらい早く蜀に付いていれば
歴史は変わったかも名。
いくら劉備が少年を平気で働かせるからってな
姜維が15歳年取ってて、諸葛亮が信任して前軍を任せることが出来れば面白かったかもね。
ほらよ
つ【反三国志演義】
881 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/08(月) 22:48:05
姜維が史実より早く蜀に来るには、馬超が冀城を陥落させた頃しか可能性は無いだろうな。
馬超が冀県の豪族の反乱を防止する為、有力者の子弟を人質に取り、
それを保持したまま漢中に逃げれば、馬超が劉備に投降した段階で姜維が蜀に来る事になる。
882 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/08(月) 22:54:45
姜維って、孔明の弟子だって勝手に思い込んでたって話なかったか?
>>876 北西部の完全支配は、魏がてこずっている事から分かるように難しいだろう
この魏への反発を利用し、蜀への協力を取り付けようとしてるのは史書から読み取れる通り
最も理想的な展開は、魏をある程度追い払い、北西部から協力を得る、というものか
特に北側から長安を攻めるに辺り、兵站面で大きなアドバンテージが得られるだろうね
ただし、これには姜維の武威が轟いているのが条件として必要になるか
884 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/09(火) 01:35:34
仮に隴西を得たとしても、長安を奪うには一度敵軍を叩いておく必要があると思う。
敵の増援が長安に到達するのにそうはかからないだろうから、ゆっくりと包囲してはいられないだろう。
少なくとも、長安の包囲に兵を割いても尚増援と戦い得るくらいには、
長安に籠もる戦力を減らしておくべきだろうな。
姜維が隴西へと軍を進めたのは、第一には、隴西を魏から切り離し、
蜀にとって脆弱な側面となっていた武都、陰平の防衛を行うというのが理由だろう。
隴西を経由しての長安攻撃は大きく迂回する事になる為、
長安攻略へ向けての経路としての意味合いは、隴西に主力を駐屯させなければ薄いものとなるだろう。
むしろ、協力的な羌族、氐族より物資の供出を受け、それを渭水を用いて関中に運ぶ事で、
関中における長期の作戦を可能にするという事が、最も大きな効果となると考えられる。
>>883-884 なるほど。
姜維の方針は諸葛亮式の北伐を継承して
改良を加えたものと見るのが正しそうですね。
諸葛亮より姜維の方が色々な場所で戦ってるので
戦術の幅を広げるのが主眼かと思ってました。
886 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/10(水) 00:16:19
>>885 魏は隴西だけでもある程度の野戦軍を維持できていたので、
蜀としても、そこに置いた軍を支軍として戦略に幅を持たせる事はできると思う。
ただ、隴西を策源としようと漢中を策源としようと、結局は関中に出るしかないので、
隴西を取った後は、そこでどう戦うかが重要になるだろうね。
確かに姜維は、247-248年は西平、249-250年も洮水より西の地域、
253年は南安、254年は狄道と襄武に加え雍州と涼州の境界辺り、
255年は枹罕から狄道、256年は祁山、南安、上邽に、257年は長城、
262年は洮陽と、隴西各地を転戦しているけど、あくまで隴西を獲得する為だろうね。
姜維の一連の戦いから、彼の戦略に関する思想を読み取る事はできるけど、
彼は、特に軍権を握った253年以降は、軍を分割するという事をせず、
遠征軍全体を自分の指揮下において戦っているので、複数の作戦線を持つような戦略は、
少なくとも姜維が司令官として認めるだけの資質を持った将軍がいないと行わないように思える。
887 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/10(水) 13:43:23
るる
くわしいですな。
>>886 前から諸葛亮より遠出してしかも長居したりする姜維が不思議だったんで、参考になりました。
魏はなんで姜維と漢中を分断しないんだろう、とか思ってました。
有力な部下がいなくて胡済に賭けて失敗するのは、ちょっとワーテルロー時のナポレオンみたいですが、
やっぱり両面からの作戦ができるほどの連絡は取れてなかったんでしょうね。
890 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/10(水) 21:59:34
地名の連呼で中国大陸を把握してないとついていくのが難しいな。
ところでキョウイはたしか長安狙ったんだっけ?
漫画、蒼天航路でも劉備が長安に攻め込もうとした所
あたりで終ったけど。そこまで長安は重要だったのかね。
長安取れればそんなに有利になる?
魏の中心地からはかなり西に離れてるし
漢中と大差ないように思うんだけど
けど前漢の首都だっけ?なんであんな西に外れた所が首都だったんだ。
川下ればドコとでもいけるし、長安と洛陽の間は守るに易く攻めるに難い要衝
長安のある渭南盆地は秦が手塩に掛けた当時最大の穀倉地帯であり、
南に繋がっている蜀も飢饉知らずという米の産地だった。
秦はそれを基に天下を統一した。
前漢は山地に囲まれた天嶮と有事に自給自足できる生産力を選んで長安を首都にした。
秦漢交代期では他には斉が「東の秦」と呼ばれる有力地帯で、そこ以外は生産力の点では後進地域だった。
893 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/10(水) 22:20:08
川ねぇ。思うんだけどあの時代にどれだけリッパな船があったんだろうね?
馬さえあればどこまでもいける大陸で船で艦隊つくろうなんて
思わなかったと思うんだが。荷物運ぶようの船ぐらいでしょ
日本だと船作れば海に出ていろいろ有利だけど
中国だと川下って攻めるぐらいしかできないし。
バチョウなんてあんな所で反乱おこさないで川下って
敵本拠地に乗り込めばよかったのにね。
三国の時点ではその優位はかなり消えてしまっただろうけど、
長安を取られれば、魏はその至近の洛陽に首府を構えておくのは相当困難になり、
東への遷都を迫られる。呉の圧迫も強まるだろう。
魏王朝の最大の兵站地が遠く冀州だというのがまた厄介なところだったろうね。
>>893 周瑜は水軍三万で長江を荊州の中心近くまで前進して決戦を挑んだよ
>>893 そういう軍隊がどうのこうのって話じゃなくて
もうちょっとミクロなレベル。
川が多くて支流も多いから基本的に豊かな土地なんだよ。
馬超が関中で反乱を起こしたのは、当時の三輔(長安周辺)が不穏地帯で、馬超がその頭目格だったから。
彼らが反曹操か反漢王朝かは微妙だけど、曹操が討伐に進出してからも続々と諸豪族が呼応し集結している。
これにより一時的には潼関以西を完全に切り離すことが出来た。
その地盤が固まる前に曹操の中軍が待ち受ける山東にわざわざ出て行くはずがないよ。
898 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/10(水) 22:37:09
う〜んやっぱ地形が掴めないんだよな。
今、三国志地図でググってみたんだけど
地図だけで見たらどう考えても呉が一番良さそうなんだよね。
海もあるし川もあるし。
しかしいろいろ発見あるな。長安って漢中から近いじゃん。
しかもゴジョウゲンって漢中からもう目と鼻の先じゃん。
あんな所までしか軍進められなかったのか孔明。
キョウイの天水は結構遠いしキョウイはどうするつもりだったのか
とか。
キョウイの段谷の戦いの場所がわからないんだがゴジョウゲンとは
どれくらい違うルートで長安せめようとしたの?
ていうか中国って河三個しかないわけじゃないよね?
今日一番の面白レスだな
蜀の桟道のレベルから説明するのはさすがに途方に暮れるな…
だれか入門書でも教えてあげて
901 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/10(水) 22:43:23
902 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/10(水) 22:48:00
903 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/10(水) 22:49:59
905 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/10(水) 22:53:19
サンクス。結構河多いんだな。
906 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/10(水) 23:14:23
>>889 漢中と姜維の分断、と言うと、姜維が隴西にいる間に武都や陰平を攻略する、
とかってなると思うけど、これは難しいんじゃないかと思う。
各地に物資の集積ある自国領内を移動するのではなく、兵站を構築する準備をした上で向かう事になるので、
姜維が隴西に来たからと言って、間髪を入れずに進軍するのは難しいだろう。
羌族や氐族の協力が得られているなら、武都などの進軍先で物資を得られるけど、
魏が武都や陰平の羌氐から信頼を得られていたとは思えないし。
それに、戦線というものを形作れるような時代じゃないので、
少々の拠点を確保した所で、姜維は容易に漢中に帰る事ができるだろうからね。
907 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 20:56:25
キョウイは漢中で独立勢力として頑張るべきだったのかもな。
劉邦のカンシンみたいな。
頑張ってどうするんだ?
長安付近の生産力だが
唐代以降はむしろ慢性的な食糧問題を抱えている
唐の滅亡以降、長安が首都でなくなる一因
他の地域(特に江南)が人口と生産基盤が充実したのに比して、
長安は人口だけが肥大して生産力は頭打ち、(むしろ土地の荒廃、地味の劣化などで低下したかもしれない)
以来、現代にいたるまでどちらかというと決して豊かとは言えない一地方に転落した
910 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 22:08:23
>>908 中央から指図されずに独自に動いた方がいい結果えられたと思う。
>>910 姜維は中央から指図されずに独自に動いていましたが
912 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 22:25:11
そうなん?だとしたらやっぱ勢力としてと小さすぎたのか。
もし関羽がケイシュウを奪われてなかったら
キョウイはおそらくケイシュウをまかされてケイシュウ王ぐらいになっていたんだろうな。
ケイシュウぐらいの勢力があったら
キョウイならなんでも出来たと思う。そのまま魏に攻めるのも
魏に攻めた振りして呉に攻めたりできただろうな。
913 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/11(木) 23:26:04
>>912 >魏に攻めた振りして呉に攻めたり
こういう荒唐無稽な話ばかりでなく、もう少ししっかり考えた方良いんじゃないか?
914 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/11(木) 23:35:35
>>913 そこは話の流れ的に勢いで言った事だから
そこまでマジに言われてもね。
個人的にもっとキョウイに自由にやってほしかった
ていうかキョウイに大軍指揮させて進軍してほしかったな。
キョウイって良くて5万ぐらいしか指揮してないでしょ?
もっとカントとかイリョウぐらいの大きい戦してほしかった。
>>914 荊州あってもそういう二正面作戦はできないな
呉を攻めてどうすんだよ
>>916 首脳陣大半の故郷
荊州を奪われた後の蜀ってのは、太平洋戦争中に日本本土が占領されて中国領と満州だけが残ってるようなものだ
919 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/11(木) 23:50:28
>>914 いや、その発言にかかわらず、お前の場合いつもイメージで語るから結局荒唐無稽になるじゃないか。
5万程度と言うのは、一人の司令官が指揮できる数として限界という話もあり、
それ以上の大軍と言うと軍を分けて姜維が部下司令官を動かす形にしかならないだろう。
姜維の好む戦略、戦術のパターンとして、主力を以って敵を拘束しつつ、一部をその後方に回らせるか、
逆に一部で敵を拘束しつつ、主力が敵を迂回するという形がある。
姜維が雍州で大戦を指揮するのなら、胡済と連携しようとした第四次北伐みたいな形になるだろう。
920 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/12(金) 00:37:09
第四次北伐って例の大敗した奴だよね。
キョウイの北伐ってドレくらいの兵が居たんだろう?
孔明はイリョウで大敗した蜀の兵を復活させたみたいな
功績をあげる人は多いけどゴジョウゲンって
イリョウほどの大戦じゃないみたいだし。
大軍を送ってみたいな事はしてないんじゃないの?
キョウイもイリョウほどの全軍体制はやってないんだろうな。
921 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/12(金) 00:51:45
>>920 夷陵は孫権が魏に送った報告では四万。
普通、遠征軍は実際よりも大軍に見せかけるものだから、これより少ない可能性もある。
しかしながら呉軍が五万で、緒戦での優勢を考えると実際にも四万程度か、それより大きいだろう。
五丈原は「悉くを率いて」とあるので、五万や六万ではないだろう。
或いは十万にすら届いたかもしれない。
姜維の場合は、戦場が比較的遠距離である事、麾下に大きな権限を持つ司令官を置かなかった事を考慮すると、
五万には届かず、精々四万程度だったと考えられる。
922 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/12(金) 00:58:51
あんなでかい大陸でも5万とかなんだもんな
日本の戦国時代とさほど変わらないのがね
「水軍80万で呉の地で狩りをしよう」
みたいなとんでもない戦いがあって欲しかった。
演義だと平気で水増ししてるのはなんでなんだろうな。
演義の数量は元・明の水準だからね
三国時代は前後でも動員兵力と期間が大幅に減退した時代
924 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/12(金) 01:22:27
俺は「兵力百万」なんていうのには魅力を感じないがなぁ。
それほどの大軍が展開すると、数百kmにわたって戦線を形成する事ができるので、
機動の余地とかが無くなって面白くなくなると思う。
>>866 これは丁寧な回答申し訳ない。数十万ではなく、十数万ですね。
>>922 関ヶ原の合戦で、東軍7万5千、西軍10万。
しかも、この時代の日本は魏志倭人伝に書かれるのみ。
5万でも十分、桁違いのスケールだと思うが。
姜維が扱った戦力が少ないことで姜維の才覚が発揮出来なかったとは思えない。
官渡の時の曹操も、赤壁の時の周瑜も完璧な体制でも全兵力を使えたわけではない。
だが2人は勝利し歴史の流れは変わった。
姜維には歴史を変える事は出来なかっただけだと思う。
926 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/12(金) 01:31:30
個人的には、アレクサンドロス大王やフリードリヒ大王に十万も二十万も指揮するのが似合わないように、
姜維には数十万なんて大軍は似合わないと思う。
数kmの正面で戦われる戦闘で、四、五万の兵を率いて巧みに敵を撃破する方が似合うし格好良い。
ハンニバルの如く魏の内部に侵攻し戦えば必ず勝つ姜維ならかっこいいかもしれません。
勝てないのだけど。
ハンニバルなんて戦争に負けて死んだアホじゃん
929 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/12(金) 01:48:50
実際、姜維とハンニバルは似てると思うよ。
ハンニバルも、トレビア、トラシメヌス湖畔と勝利を得た後は、
ローマのフェビアン戦略に悩まされ、好戦的なウァロのお陰でカンネの勝利を獲得したものの、
その後は、再びフェビアン戦略に回帰し、アフリカ攻略という間接アプローチに出たローマが優位に立ち、
ローマとの戦争を優勢に進める事はできなかった。
姜維も、軽率に決戦を挑んだ徐質、王経を徹底的に撃ち破るが、
戦闘を回避し、拠点を堅守する事を徹底した魏軍に対して劣勢に立たされ、
本国との連携が上手く行かなかった上、その撤退の途上で大敗を喫した。
戦争の展開が結構似てる。
ハンニバルが同盟諸都市のローマからの離反、姜維が異民族の魏からの離反を狙ったという辺りもね。
違いは、魏では部下の独断によって決戦が惹起されたが、当初から戦闘の回避を行っていた事と、
戦略的攻勢から戦略的守勢へ、優勢から劣勢への逆転が非常に早かった事だろう。
930 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/12(金) 18:57:13
さすがにハンニバルとか知らんわ。
知識あるなら日本の武将で例えてくれ。
>>930 ハンニバルは戦争に負けて死んだ
へうげものに書いてあった
基本的に西洋史は過大評価
産業革命以前はユーラシアの端ででナァナァしてた連中だから
韓非子とマキャベリでは随分時代差があるからなぁ
>>933 ローマ帝国の最大領域の東西長は前漢のそれとほぼ同等なんですが
でも分裂したじゃない、とか言ってみる。
いや、あんまり詳しくないから正しくは知らんのだが。
>>937 漢なんかたった400年ちょっとで滅んじゃったじゃん
蜀漢や南北朝の漢を含めても500年
ローマは分裂後まで含めると1000年もったよ
現代文明の基礎を作った「西欧」、西ヨーロッパなら、後発地域だけどね。
現代に繋がる「西欧文明」が政治軍事文化的に周囲への影響力を持ち始めるのは、
見方に寄るが早くて11世紀だろう。
が、西欧だけが「西洋」ではないってことだ。西洋文明などと聞いて
今の英仏独辺りだけを思い浮かべるのは、それこそ過大評価だな。
なんで中国史だけを思い浮かべてんだろう?
中国が強い時代ってそんなにないじゃん
東に漢民族を討ち、西に月支を討って玉突き的にヨーロッパを大混乱に陥れた
冒頓単于最強ですね、わかります
突厥もかなりの勢力を誇ったな
あと忘れちゃいけないティムール
アジアから始まり、東ヨーロッパを制圧したオスマントルコ
ま、なによりもチンギスの一族がユーラシアを席捲してしまうから他をどれだけ言ったところで霞む、霞む
943 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/12(金) 23:56:34
けど漢ってなんで領土広げなかったんだろうな
西に向けて進軍とかしなかったんだろうか?
ヨーロッパだと力があればどこまでも進軍してくのに
アレキサンダーとか。
>>943 初期では冒頓単于に劉邦が負けたから
武帝の時代には伸長するけど、そもそも農本主義である中国が西に向かっても
土壌と生活様式が違うので、同じシステムでは統治できないっていう事情がある
領土広くても維持費と開発費がかかるより、領土狭くても国内生産力が高い方がいいって考え方は統治者としては自然だし
あまり正確ではないしニコニコだからアレなんだが
http://www.nicovideo.jp/watch/sm3553303 コレとか東アジアの勢力変換が判りやすいと思う
>>945 「おー面白いな」と思ってみてたら最後の感想が「日本つええなw」だった不思議
>>943 マケドニアはアレキサンダーの先代で実力的に全盛期になったが、別に遠征はしてない。
アレキサンダーは即位早々それを使うことができたが、
意図不明な遠征に配下は納得してなかった。
結局、暗殺説もあるアレキサンダー死後、
有力な配下数人がマケドニアを分割して独立、マケドニアは滅亡する。
ローマ帝国も途中からバブル状態で、
拡大しなければ崩壊するみたいな状態だった。
軍縮って考えがないからだと思う
一回軍拡で拡大始めちゃうと拡大折込で制度や体制が出来ちゃうもんだし
中国は自分たちを中心と考えてるせいか、果てしなく広がらずに異民族がいる場所で止まるイメージがある。
戦乱が落ち着くと避難してた人々も次々と中心を押さえた魏に戻っていってるし、
外に広がろうとした蜀の南方支配や、呉の山越や交州などは苦労している。
勝利のためには、魏の国土を切り取るのが一番なんだろうな。出来ないから広がろうとしたのだろうけど。
950 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 07:02:41
ローマはうまいこと軍縮したんじゃないの?
市民は兵役を嫌がるので外人部隊に切り替えて行ったが、
給料払えず反乱起こされ鎮圧する力も無かったってのも滅亡の一因だ。
コスト的には良かったかも知れんがな。
952 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/14(日) 13:52:05
>>945 元ってあんなに勢力あったのにいっきになくなったんだな。
明ってそんなにすごいのか。
漢もそうだけど中国ってなんで終るときはコンナにあっけないんだろうな。
あんなに土地がでかいんだから逃げて別のところに
街築くとかできそうなのに。
中国の場合、王朝交代は達磨落としみたいなもんだからな。
落とされた達磨の下にいた民衆は次の達磨が乗っかるのを待つだけで
帰属意識のようなものは薄い。
だからこそ易姓革命みたいな考えが成立する。
達磨落としで達磨を殴る馬鹿がいるスレですか
無くなったっていうか四散したというか>モンゴル
元という単位でなら北元作ってるし
チンギスの血を名乗る国家の多さってのは半端ではない
あと中国は日本とかヨーロッパとかと違って
森や山が少なく、平野が多いので逃げるのが難しいよ
逆説的に平野ではなかったら中国という広大な土地が一つの国にはならなかった
>>930 やった事言った方がイメージしやすいだろう。
本国の支援を碌に得られる見込みも無い地方指揮官が、
敵国のど真ん中に侵攻して野戦3回で延べ10万人殺して、15年間敵地に居座った。
まあこの後自国本土での決戦に負けたんだけどな。
ただ、その後本国の復興手がけたり、亡命したりで20年くらいは生きてた。
ちなみにその野戦の一つは現在でも士官学校の教材として用いられている。
>>950と
>>951は別の時代の話ではないの?
950はアウグストゥスの軍縮(約1/3に、まあそれでも正規兵だけで16万8千居るが)で、
951はもうグダグダの三世紀の危機以降の話だと思ったんだけど。
流石に250年離れてるから一緒に語りにくい問題だと思うんだけど
957 :
1:2008/12/14(日) 20:53:07
スレも950超えてきたか。そろそろまとめに入らないと
いけないのかな。次スレは必要か?
ちょっとスレタイのせいで魏とか呉との関連性はあんまり
議論できなかったな。
>>957 いらん。少なくともお前が立てるスレはな。
その説明だけだと
班超>ハンニバル
にみえるな
>>956 > ただ、その後本国の復興手がけたり、亡命したりで20年くらいは生きてた。
違うよハンニバルは戦争に負けて死んだ
へうげものに書いてあった
>>956 > ただ、その後本国の復興手がけたり、亡命したりで20年くらいは生きてた。
違うよハンニバルは戦争に負けて死んだ
へうげものに書いてあった
あれ二重投稿になっちゃった
963 :
1:2008/12/14(日) 22:06:49
>>958 俺が三戦板に立てたスレは基本的にはずれなしなんだけどね。
>>963 それは認める。あんたはすげえよ
レストランに入ったらあまりにも酷い料理が出てきたんで
思わず客が総出で厨房に乗り込んで
経験技術を問わずワイワイガクガクやってる感じだな。
まあ楽しくないわけではない。
965 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/15(月) 00:08:51
蜀との関わりで考えるなら、北伐時や大きな政治的動きがあった時に、
魏や呉、更には周辺異民族に何が起こっていたかを考えりゃいいと思う。
「三国時代末期ってどうなんだったの?」
でいいんじゃね?
ともあれ、末期を語れる専門スレが重宝するというのは
間違いじゃないんだから
967 :
958:2008/12/15(月) 01:20:43
北伐時の影響か。
諸葛亮の時は、魏と真正面から戦わないと行けなかった呉は助かっただろう。
魏の本隊はいたが、それでも司馬懿が抜けて蜀方面に行ってるし。
姜維の時は呉にとっては余り有り難味なかったのではないか?
蜀が滅亡するくらいなら大人しくしてろと思ってたかもしれない。
魏は、第一次北伐だけがピンチだったのではないかな。
その後は、蜀は持久戦に持ち込めば帰るし、呉を相手するだけでよかった。
姜維の時には、すでに中央からろくに援軍が行く必要もなくなってたし。
969 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/15(月) 02:29:12
姜維の時にはろくに援軍が行ってない、ってのは印象論じゃないかな?
253年は諸葛恪が合肥新城に来たんで主力をそっちに回してるが、
249年と254年は司馬昭が、255年はケ艾や王秘に加えて司馬孚が援軍に行ってる。
256年は中央からは行ってないけど、255年の援軍がそのまま雍州に駐屯してるんで、
その分、中軍は規模を減じている事になる。
また呉に関しては、確か姜維の時代に能動的に攻勢をかけた事は諸葛恪の合肥新城攻め以外に無かった。
淮南の反乱に呼応して軍を動かした事や、徐州に軍を進めようとした事はあるが、
前者は能動的とは言えないし、後者は孫峻が病死したのでろくに進まず帰還したしね。
特に荊州方面では軍を動かしていない。
諸葛恪は姜維と手はずを合わせようとしたが、その後、姜維は呉と呼応しようとはしなかった。
呉が蜀を頼らないと言うより、蜀の方が呉を頼っていない感じがする。
どちらも情勢を見て勝手に動いていただけだろう。
970 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 19:06:08
まあ呉はここぞって時に裏切ってカンウ襲った奴らだからね。
そもそも同盟国として信頼できるはずがない。
孔明の最初の見立てが間違ってるんだよね。
別に裏切ってないよ
先の講和は形だけ。残りの部分も狙っていることは双方承知だった。
だから関羽は最初は南郡に防備を置き、呂蒙を警戒してたんだね。
知略戦での呂蒙と陸遜の勝ち。
諸葛亮の見立てを真に受けたら、曹操さえ動いていけないことになるよ。
曹操が南に、孫権が西に食指を動かさないはずが無く、
現に曹操の南下によって奪われた荊州の奪還に孫権の力を借りなくては
ならなかった時点で劉備が安穏と二州を確保する見込みは消滅した。
三分の計はそんな普通に考えたら絶望的な不利を跳ね除けて
鼎立を達成しうる器の持ち主として諸葛亮が劉備を選んだ、という逸話でもある。
実際、荊州借用から漢中奪取までの劉備は八面六臂の大活躍だ。
その間他の部下は全部脇役と言っても過言じゃない。
そこで離・・・ですよ
このスレから
973 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 21:56:55
そういえば魏の本拠地についてはほとんど語ってないな
司馬炎だけどどうなんだろう?末期に堕落みたいな
評価がついてる奴っておれは多分前半もたいした奴では
無かったと思うことにしてるんだけど。孫権とか。l
975 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 22:01:24
少ない残りスレをくだらない使い方するなって
司馬炎の評価だよ。
wikだと蜀倒したあとはマジメにやらなかったみたいな評価なんだけど
後半堕落した奴って多分人生前半もたいした奴ではないんだろうねって事。
>>975 >少ない残りスレをくだらない使い方するなって
同意する。もう二度と書き込まないでくれ。あとスレも立てなくて良いよ。
お前も大した事なさそうだから
すでに人生後半に入ってるんだろうな
>>975 スレ違いのことを堂々と言い出しておいて大した言い草だね
魏の本拠地ってなんのこと? って話じゃね?
次スレあるなら
「三国末晋初情勢スレ」がいいかな。
晋初も需要がありそうだ。
ついでに孫権は230年代頃まではすげえ奴だよ。
人を治めるという点では曹操劉備を超えてる。
980 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/15(月) 22:31:17
正史においてホウ統は『人物評価・経学・策謀に優れ、魏でいうなら荀ケ』、法正は『並外れた計画・術策を持ち、魏でいうなら程c・郭嘉』
やはり法正がいれば・・・
981 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/15(月) 22:41:32
大した事じゃないが、司馬炎の堕落云々は蜀じゃなく呉を滅ぼしてからだろう。
Wikipediaにもそう書いてあるんじゃないの?
第一、蜀を滅ぼした直後って事は晋王を継ぐ前から堕落してる事になる。
>>979 孫権は15歳で孝廉に推挙されたスーパーエリートだしな
983 :
1:2008/12/15(月) 23:04:56
984 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/15(月) 23:10:36
>>983 まずはイメージで語る事から脱却してみると良い
985 :
1:2008/12/15(月) 23:16:24
立てたけど失敗だったかも範囲が広すぎた。
キョウイの北伐はどうしてればベストだったのか
とか
ショカツセン無能論
とか
蜀末期の宦官スレ
とかピンポイントで絞った方がスレは盛り上がるんだよな。
986 :
1:2008/12/15(月) 23:26:49
まあいろいろあったけど結局このスレを立てた目的は
「キョウイをなめんなよ」って事だったから。
こう三国志知識人がやたらキョウイを扱き下ろす
一石を投じるべくスレ立てたんだが。
まあ目的は果たしたかな。このスレを見て
キョウイが無能だと言う人は減るかな。
やっぱね三国志の中じゃかなり上位に入るんだよね
キョウイは。
>>986 お前みたいな半可通以外は姜維無能なんていってねーよ
988 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/15(月) 23:37:19
>>986 そう思うのなら、まずは知識をつけて自分でそう主張できるようにすべきで、
誰かに議論させる事で姜維無能論を覆すなんて回りくどい方法を取るべきではないだろう。
989 :
1:2008/12/15(月) 23:41:45
いや一応自分でも主張してるつもりなんだけどね。
あと三国志知識人によるキョウイ無能の考えは結構根深くあるよ
俺はずっと前にも三国志末期スレ ショカツセンスレ
を立てたんだけどその時から感じていた。
三国志知識人は孔明の評価が高いから相対して
キョウイの評価を下げる傾向がある。
俺はそれを覆したかったんだよね。
>>989 知識人による姜維無能説の大半は「政治的にはダメダメだな」という評価であって
それを主張する人が軍事的に全く評価してないなんてことはない
ケ艾を除けば姜維に正面から対決できる軍事的能力の持ち主は魏には現れなかった事は評価されてるよ
その知識人とやらって、ネットや主に2ちゃんで語ってる俺ら素人のことだろ?
なんともな。
スレ一つ立てて「啓蒙」に勤しむなんて徒労だよ。このスレを何人が見てるんだ。
まあ、そういう素人考えを鼻で笑い飛ばせる知識を身に付けるのが一番の近道だろうな。
992 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/16(火) 00:52:24
知識人の主流とやらが何なのかは分からないが、少なくともネット上の意見に関しては、
数年前まで「政治は最低、軍事も大した事ない」って意見は多かった。
だからこそ俺は姜維についての考察を始めたんだし、
ブログを開設してその内容を纏めるようにしたからね。
軍事無能論者のなかには、大抵が結果だけをみて、軍事そのものの考察を
ハナから放棄してるなんて輩もそこここにいたわな
戦略・術、作戦、兵站、地勢等の要素は度外視って感じの
漢字を減らしてくれ、俺の頭じゃ入りきらん
無理。文字が漢字だけで書かれた文化の話をしてるんだから
996 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/16(火) 01:33:40
>>993 まぁ、「負けてる→大した事ない」って主張するのは楽だし、
結果を根拠にしてる分、いくらでも言い張れるからね。
>>983 >正直俺は蜀以外は詳しくないから
え、蜀には詳しかったの?
998 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/16(火) 06:31:47
998
( ゚Дメ) 999
( ゚Дメ) 1000
1001 :
1001:
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
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ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ す 1000
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! 超
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