>>59 孔明だけの責任じゃないよ
当然当人に一番の責任があるね
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/25(月) 22:00:10
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/15(月) 23:19:40
age
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/23(火) 20:56:45
64 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 13:29:23
演義しか見てない姜維厨か
大好きな孔明や姜維がけなされてるのが我慢出来ないみたいだな
魏延を貶めようとしてる時点で典型的だな
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 14:08:24
キョウイ様って殺された後に乱暴されたんでしょ?
酷いよね
キョウイ様の最期が強烈な快感に悶えてたなんて想像したくない…
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 14:09:39
まぁ最後はジジイだけどね。
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 15:28:35
手足の魏延
肺肝の姜維
68 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 15:36:05
手足の魏延がデカイ顔してたとき
Dr.スランプのニコチャン大王みたいだったろ?
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 16:37:11
となりのメガネは馬岱。
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/18(土) 23:19:37
>>65 ゲームのやりすぎだ。死んだとき63歳だぞ
ゲームとか以前の問題だ
この変態め
>>46 お前なら曹丕余裕です
倒してください
とか言ってるじゃん
魏延が立ち回り美味く軍権握ったとしても姜維のように活躍できたかは難しい
特に諸葛亮の調整能力無しに彼が軍の総帥として兵を率いる事ができることがあるのか怪しい
また、軍略に比嘉の戦略を考えない軍事行動で大敗の可能性がある
諸葛亮に拒否された別ルートに魏延ルート支持の声が無い事からも明らか
諸葛亮に遠慮して支持が無かったのではない
馬謖任用否定の進言の時は魏延に支持者は多く現れた
戦略自体が正当性の高いものであれば諸葛亮意見に反対者は出る。
また諸葛亮は公正な人物であり、それらの事で懲罰は無いことからも明らか。
正史において諸葛亮の人事への公正さ、識見は、クドい程、繰り返し記述されている。
魏延の案は戦術的に無理だべ。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/20(月) 19:03:25
魏延の戦術能力は疑いない
だが、戦略策定、兵站確保といった裏方の仕事を統括できるか不安
さらにブレーンの存在も見えない
姜維には涼州の知識と羌族につながりがある点が有利
その程度では地図魔ケ艾には手も足もでないけど
>魏延の戦術能力は疑いない
弁証しろべし
部曲を以って先主に随い入蜀し、しばしば戦功があった
抜擢されて督漢中鎮遠将軍領漢中太守となった
第一次北伐の際、先鋒は経験のある呉懿か魏延にすべきとの声が多かった
四次北伐の前年、呉懿と共に諸葛亮に派遣されて羌中で費曜・郭淮らを破った
征西大将軍となった(蜀漢初の諸大将軍)
四次北伐において、蜀将何平を攻撃に出た張コウを迎撃し、これを大破した
魏延は士卒を善く養い、勇猛は人に過ぎるものであり、矜持が高かったため当時は皆これを避けた
諸葛亮は楊儀の才幹を深く惜しみ、魏延の驍勇を頼みにしていたので、
常に二人の不仲を残念に思いどちらかを廃するのが忍びなかった
>>77 ま、ある程度武勲はあったようだけど、その内実が一部除いて不明だから
手放しで名将の類とは言いにくいけどね
諸葛亮も魏延には昇進したり気をつかってた。
演義ほど不遇な扱いは受けてなかったよ。
でも北伐時の蜀の陣形、戦術からすれば魏延の戦略は無理があった。
あの機動力のいる戦略(長安奇襲)はむしろ魏の得意な分野。
まあ自分のところと相手のところの戦術を理解してる人からすれば取らない策かな。
だからそれ見抜けずに長安奇襲進言してた魏延にトップは任せられない。
>>78 どこで誰に対して勝利したのか、蜀将では明確に判明している部類の人物なのに
「内実が不明」ってなんなんだ?
史料不足で陳寿が嘆くところの楽進・張コウらも
「内実が不明なので名将とは言い難い」と78は見做しているってことでいいのか?
>>80 うん
三国志は詳細が不明な人が多くて単純に「すげぇ」とか言いにくくて困る
マジレスすると、個人の武勇や建策みたいな逸話は誇張される率が高いから、
「功績挙げて重んじられて出世して要所を任されました」とかいう記述の方が
よほどあてになるよ。
でもあの時代って縁故出世がやたら多くね?
縁故なら縁故と区別がつく
諸葛・張・関・夏侯・諸劉・麋・馬
うろ覚えのオレが持つ蜀漢の家格イメージ。
役割に厳密区分はないが
戦略…軍師
戦術…軍団長
戦闘…部隊長
みたいなイメージ
例えるなら
戦略…張良
戦術…韓信
戦闘…樊噲
かな
樊噲 ← 部曲を以って先主に随い入蜀し、しばしば戦功があった
樊噲 ← 抜擢されて督漢中鎮遠将軍領漢中太守となった
樊噲 ← 第一次北伐の際、先鋒は経験のある呉懿か魏延にすべきとの声が多かった
樊噲 ← 四次北伐の前年、呉懿と共に諸葛亮に派遣されて羌中で費曜・郭淮らを破った
樊噲 ← 征西大将軍となった(蜀漢初の諸大将軍)
樊噲 ← 四次北伐において、蜀将何平を攻撃に出た張コウを迎撃し、これを大破した
樊噲 ← 魏延は士卒を善く養い、勇猛は人に過ぎるものであり、矜持が高かったため当時は皆これを避けた
樊噲 ← 諸葛亮は楊儀の才幹を深く惜しみ、魏延の驍勇を頼みにしていたので、
常に二人の不仲を残念に思いどちらかを廃するのが忍びなかった
魏延=樊噲じゃないか?
魏延は樊カイのように側近から信任されて軍を任されたというタイプじゃない
純粋な戦術屋
樊噲ならもっと何人切ったの羅列になるべき
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/22(火) 00:06:07
そういや張嶷って戦死ってことになってるけど
姜維がワザと死ぬように仕向けたかもね
涼州刺史を無視して「涼州取れたらそこに留まって守る」とか言ってるし
思いっきり邪魔だよな
結果的に姜維の時と同じように徒民したけど、生きてたらもめただろうし
と とみん?
なにそれ
>>91 多分造語
民を徒歩で移動させるとかそういうことなんだろう
徙民
徙民
>>90 張嶷ってそこで姜維の意向(というか命令)を無視できるほど偉くも影響力もない
数十年地方に張り付いて太守・雑号将軍で留まった人間だから
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/19(金) 12:13:32
http://www5d.biglobe.ne.jp/~ryuzen/index2.html >昨日はこのスレで姜維弁護の人を小一時間問い詰めてたりしたんですが、なんというか話がループして実り多い論戦にはならなかったなあ。姜維擁護論者の方はもう完璧に自分が見えなくなってたし。
>「2ちゃんねる」って確かにいろんな人が集まってくるからいい議論の場所になりえるんだけど、一度論戦に参加すると頭冷やして討論するのが難しいんだよな。これは2ちゃんに限らず、人の集まる掲示板ならどこでもなんだけど。
姜維擁護はキチガイであることが証明されましたw
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/19(金) 15:24:42
高校(宇治山田商)のときはおすしを40皿(80貫)食べたことがあります。肉なら、朝からでも食べられますよ!!
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/19(金) 21:18:48
>>96 ちょっと調べてみたら2002年のコトじゃん古すぎす
100ごっどー!
きょーいは 魏が 好き な 気が する
>>98-99 2002年と言うと、俺が三戦板に来たばっかりの事で、
まだほぼROM専だった頃だから、それが2002年の事なら俺ではないね。
jominianと神ツコツが並ぶと違和感があるな
全米が泣いた
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/11/06(土) 21:58:51
浮上
>>79 だからその着実鈍重な戦術は諸葛亮好みの戦術だろ。諸葛亮がしなければ
「蜀には不可能、魏が得意とした戦術」か?
魏延は最低限の物資でって言ってるし、第三次だっけ?西方だけど長距離
の侵攻に成功してる。
そりゃあ途中で探知されても長安落とすのに手間取っても壊滅する魏延の
提案が危険すぎるのはわかってる。
でも、諸葛亮のゆっくりのんびり戦術も補給度々破綻して失敗してるよね。
>>107 魏は比較的優位な兵力を生かして別働軍にもある程度の戦力を持たせる事が可能だし、
変事に対する対応の早さと正確さから、諜報網がかなり整っていたと考えられる。
魏が急襲作戦をとる時は、兵力と諜報による裏付けあって立案された可能性が高い。
結果的に魏が得意な戦術と言えるかも知れない。
漢中から羌中は長安までより倍以上の距離があるとはいえ、
敵に打撃を与えて撤退に追い込んだ後の辺境の順撫と、
これから援軍5万が来るという状況下での重要都市の攻略では比較にならない。
魏延案の最大の問題はその主旨「俺が場所取りしとくから早く来い」である点で、
急襲部隊だけでなく本隊までも長安に釣り上げてしまうリスクを軽視している。
仮に長安から退却する場合、ビあたりまで平地を100km以上逃げねばならない。
武都より北は関中か隴西を一気に制圧しない限り一部だけ保持するのは難しい。
諸葛亮の北伐が骨折り損に見えるのは地形的に仕方ない部分ではある。
第四次北伐に成功していれば、この辺りの評価は全く違っていただろうから惜しい所だ。
個人的に第一次北伐で、馬謖が敗れた後の全軍撤退が気になっている。
もしかすると徐バク軍の実力を測りかねて包囲される事を過剰に恐れたのかも知れない。
蜀は敗れてなお年内に再征する余力があったので、諜報の不備だと勝手に考えている。
そう考えた場合、慎重居士の諸葛亮が魏延を羌中まで進出させたのだから、
230年頃には隴西の守備兵力を正確に読める程度に諜報を充実させた事になる。
実際、この頃の諸葛亮は怖いくらい冴えてる。
109 :
無名武将@お腹せっぷく:
なるほど