1 :
楊儀:
間違いない!
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/24(木) 05:58:07
このスレタイにしてこの
>>1・・・ありえん!
ありえんが、ありえん故に三戦板のスレか・・・
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/24(木) 06:50:40
3
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/24(木) 14:56:54
猛暑が続いているからね。
>>1がおかしくなるのも頷けるよ。
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/24(木) 17:10:21
でも、もともとおかしい奴だったしなー
裏返ってまともに・・・
ないかw
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/24(木) 18:44:06
魏延の系譜
正史・・・反骨なし。叩き上げ?漢中太守に抜擢で驚かれる。首を踏み付けられる。
演義・・・反骨あり。活躍の場面は正史よりあって、コーメーが反骨にこだわる理由がわからない。
横山・・・反骨あり。演義と同じ扱い。趙雲が抜け駆けを提案した時も躊躇してみせる。
落ち度ないのにコーメーに罠にかけられたりして散々な目に。
無双・・・反骨?変な仮面にインディアン口調。妙に南蛮ステージが似合う色物扱い。
動きはトリッキーだが扱いやすい。オロチ再臨ではリョフ・光秀とともに裏切りトリオアタックが使える。
蒼天・・・反骨なし。なぜか土佐弁。叩き上げ。活躍はほとんどなし。
北方・・・反骨あり。肌があわないだけでコーメーに嫌われるも能力は高め。
まあ出会い頭に「ベジータ頭キモス」とか言われるようなもんだ
懐かしいスレだな
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/25(金) 23:10:11
馬超と馬岱が曹操にキルされていれば魏延さんの伝が、 魏関張黄趙伝 に載ったろうに。
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/26(土) 09:10:30
ここ最近の魏延賛美論は行き過ぎな気はするな。
むじんとかいう陰険釣師じゃないが、少し評価しすぎじゃないか?とは思う。
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/26(土) 10:48:41
儲には行き過ぎなんてありません
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/26(土) 23:12:04
ではまず魏延は兵卒出身か豪族かで議論しようじゃないか
そもそも、魏延が奴隷だの兵卒だのの出身だとする根拠は何なんだろうか?
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/27(日) 00:31:56
>>14 「以部曲随先主」を「部曲に所属」と見た、ということだろう
「以」は「将」つまり率いるの意味があるから、部曲を率いる豪族というのが正解かとは思う
>>15 なんだか無理矢理な感じだね。
一兵卒から牙門将への出世が、僅か一戦役で行われるのも不自然だし、
仰るとおり、部曲を率いて蜀攻めに参加したと見た方が自然だと思う。
確か奴隷については、以前、楊儀が魏延の首を踏みながら罵った「庸奴」の奴を、
奴隷の意味に採った事が根拠だったのを読んだように思える。
これも変だね。
奴という字が必ず奴隷という意味に採られるなら、
辛ピが審配を罵った時の言葉を以って審配を奴隷とする事もできてしまうし。
>>16 ただ、庸奴については楊儀の方に抜きがたい差別意識があった可能性はあるよ
奴隷だったという意味ではなく、楊儀が名士(士大夫)層に属していたのに対して魏延は豪族ではあっても学がない、つまり非名士だったのかも
(辛ピと審配も同じ)
>>17 辛ピと審配は、地元冀州豪族と外様の豫州豪族と言う対立も考えられるけど、
楊儀と魏延は出身地が遠くないので、辛ピと審配のような対立ではなさそうだね。
そうすると、楊儀に魏延に対する差別意識があったなら、
魏延が荊州における名士のグループに与していなかった事は大いに考えられるだろうね。
蒋琬や董允が楊儀の肩を持ち、費禕が魏延を騙して楊儀に付いたというのもあるし。
昔は、こういうスレには魏延オタがわんさか来たもんだが、
やはり今は殆どいないのかねぇ?
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/27(日) 03:57:14
魏延が漢中まかされた理由ってなに?よく知らないから誰か教えて。
劉備が張飛を対魏の前線拠点に据え置いて拘束する事を不便と感じたせいかも
とか思ったり
呉への東征を見越した場合も都合がいいのでは…とも
>>20 魏延就任当初の漢中はそれほど重要地点じゃなかったんじゃまいか?
荊州南部を押さえていたし、襄陽取る気満々だったしね。
それが荊州南部取られて唯一の魏への最前線になってしまったからね。
荊州は連絡がとりずらく独立軍に近い状態だったし、漢中が最前線であることは変わらないから、
漢中が重要地点であることは間違いないだろうさ
張飛は呂布のときとか、失敗があったから劉備が大守にするには信用出来ないと判断したのかもね
あるいは、張飛は忠誠心は確かだから側においておきたかったとか
で、張飛の次に大守を任せられそうな人物が魏延だったということではないかと
そもそも、劉備の意図が見えないんだよね。
曹操は5月に長安に引き揚げ、秋には洛陽に向けて軍を動かしているので、
漢中の当面の危険は回避されたけど、関羽への支援は行わず劉備は成都に引き揚げている。
関羽のもとに派遣した費詩が帰って来ていたか、関羽の孟達らへの救援要請を知っていたなら、
魏が対関羽の戦力を増強中なのは分かっているだろうし、
軍を成都に帰し、支援し難い状態に置くだろうか?
少なくとも劉備は、漢中から軍を動かす事は当面考えていなかった、という事は分かる。
「曹操が来たらこれを防ぎ、偏将が来ればこれを呑み込む」という魏延の言葉が、
劉備の意図を表し、漢中を守るに足るだけの能力があり、且つ劉備の意を解しているという事で選んだのかもしれない。
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/27(日) 18:03:54
少し考えると、魏延が漢中太守となった時、確かに曹操は長安を去り、
漢中に対する圧力は緩和されている。
しかしながら、東方に目をやると、上庸には申耽、西城には申儀と、
どちらの地も帰服したばかりの人間が太守となっている。
孟達も、帰服してから数年経つとは言え、上庸を任せるのに躊躇する程度の信頼しか、劉備から得ていない。
劉封がいるとは言え、彼では険悪さを作るだけで、上庸をまとめる事はできない。
東はいつ変事が起こっても不思議ではなく、実際にも220年に孟達が魏に降り、
彼は夏侯尚、徐晃を招いて西城、上庸、房陵を魏のものとしてしまった。
実際には、多少なりとも不安定な状況ではあったのではないだろうか?
また、魏延は劉封を救援しなかったが、それが責められている様子も無いので、
当時の魏延は、あまり多くの兵を動かす事ができなかった、すなわち、
漢中の軍兵はあまり多くなかったと考えられる。
横山三国志の魏延さんって活躍が他の作品の2割増ししてるね。
逆に横山は諸葛亮がきらいじゃない?と思うシーンもチラホラ。
いくらなんでも酒の席で魏延さんが諸葛亮の悪口を言ったくらいで
「反骨が育ったか・・・」って(笑)
コレじゃあまるでチンケやん。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/30(水) 22:54:07
何気に劉表病死直後に初登場を果たしている魏延さん
>>26 たしかに、劉封・孟達というもともとうまくいっていない二人を
位置的に微妙な上庸方面に配するセンスは解せないね。
この辺が任侠集団・劉備軍の限界なのかな。
>>29 そもそも、孟達は劉璋から劉備にもとに派遣された後、そのまま江陵に行き、
蜀の平定後は宜都太守だったから、劉備とまともに話していないと思う。
劉備自身、孟達がどんな人間かは人づてにしか聞いてないんだろう。
だから、劉封と孟達との相性がどうであるのかは、当時の劉備にはよく分かってなかったんだと思う。
まぁ、降伏したばかりで、人心を安定させなければならない場所で、
気の強い劉封を回すと言うのは、その時点で失敗かもしれんけどね。
>>6 顔という字は刺青した人を表すらしいので無双はそれを超解釈したんではないかと
最近の魏延オタは勢いが足りないな。
まぁ、これは魏延オタに限った事ではないが。
数年前なら、こんなスレが立つやいなや、子午谷を使った奇襲作戦について、
やかましく主張する魏延オタが沸いたもんだ。
個人的には、300kmもの距離を10日以内に踏破しようという時点で、
あの作戦には疑問が生じるけどな。
前進自体はできないことは無いだろうが、長安に達した時点で既に戦闘力は著しく低下してるし、
少しでも抵抗されたら終わりだろう。
加えて兵站が続かんだろうから、僅かでも抵抗されててこずると
敵地に孤立するのも想像つくね
勇気ある果断とみるか、無謀な博打とみるか、そのへんが難しいなあ
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/04(月) 23:14:44
魏延さんが名将?
とうぜんだな!
誰の元でもという訳にはいかないお方だが三国時代でも
屈指の名将である。
韓信の再来。
>>32 たぶん、むじんの活動に釣られちゃった連中が避けてるんじゃないか
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/04(月) 23:23:33
>>32 >>33 すごく分かるけど
それだけ絶好のチャンスだったんじゃないか?
へロヘロの少数の兵でも落とせる確率がある位の。
孔明も安全策を取っただけだし。
魏延的には
「チンタラやってたって絶対ムリなんだから、一か八かでもいくしかねーだろ」
って考えだったかも
>>33 負糧五千がどれくらいの量を指しているのかは分からんけど、
五千斛だとしても精々20日分程度しかないからね。
追加の輸送は不可能だろうから、それまでに落とさなくてはならない。
>>35 かつて蜀将スレでやった釣りとかの事?
>>36 趙雲たちへの対応の早さを見ると、曹真は相当早くに長安入りしてて、
歩騎5万を率いた張郃ですら、明帝の長安入り(2月下旬)までに馬謖が撃破された事を考えれば、
遅くとも1月下旬ごろには長安に入ってたと思うんだよね。
「俺が来れば長安の守将は逃げる」なんていうのは、それこそ、
魏延の長安までの前進を完全に秘匿できないと無理だと思う。
察知された時点で曹真が派遣されるし、軍隊としての行動ではなく、
少数で馬を飛ばせば数日で長安入りできるだろう。
そして、長安の軍の指揮権が彼に移るだろうから、敵の逃亡は望めなくなる。
明帝の長安入りは2月中旬の間違いだな。
曹叡自ら長安の後詰に向かうほど長安を重視してるのに
魏延は「俺を見れば敵は逃げ出す」とか言ってる
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/05(火) 01:32:39
>>38 うん。言っている事は道理なんだけど。
今まで戦果を挙げてきた歴戦の将が、
明らかに勝算の無い事をするのか疑問でさー。
その時代と場に居た人間の感覚では
それなりにやる価値はあったかもじゃないかなーと思うんだよ。
まあただの判官贔屓かもだけどさ。
>>41 ある程度の勝算はあったかもしれないし、なかったかもしれない。
後世の人間は史書に書いてある事から状況を推し量るしかない。
確かに、その人物の推測しうる能力や性格からかけ離れた行動は、
疑ってかかる事だし、「名将が拙い作戦を提案するとは考えにくい」と考えるのもありだと思う。
個人的には、魏延は、そう立脚する事が可能なほどの名将とは思ってないので、
やはり自分としては受け入れがたいものがあるけどね。
諸葛亮は魏の誘引にまんまと引っかかって北伐をやったという論があるな。
以下の事由をもって、魏は蜀を涼州の平原へ誘引したと。
地理
・魏は平地での会戦を得意としており、蜀とは山岳地帯を避けて戦闘したかった
・蜀は山岳地帯でのゲリラ戦を得意としており、魏軍との兵力差を隘路での局地戦で埋めたかった
兵装
・魏は慢性的な金属不足にあえいでおり、兵装はしょぼかった
・蜀には鉱山があり、精兵ともなれば鉄の武器を持ち、その兵装はかなりのもの。強兵である
機動的要因
・魏の自領内における行軍速度は、平原である事もあり、時代を通じて三国一であった
・蜀の行軍速度は、人力車での桟道越えもあって牛の歩みよりもはるかに遅かった
兵站
・魏は任峻の提言による万全の輸送体制をしいており、損耗率は低かった
機動力に長けているので、兵力補給は当然間断なく行われる。
・蜀は様々な事由で兵站構築能力が絶望的であり、兵糧を持たずに出撃した事が有るほどだった
絶望的な機動力から、物資は現地に着くまでに殆ど使い尽くし、兵力の逐次投入など論外である。
情報
・魏の情報収集能力は、蜀の内情にも詳しかったように時代を通じて三国随一であった。
・蜀は史官(書記・暦法官)がおらず、過去の正確な公式記録を持たない事から情報戦に弱かった。
現に劉備は、勘違いから劉協存命中に蜀帝に即位し、
孔明もまた、満寵がちょろっと呉の公文書を偽造すると、前後関係も考えずに孫呉を疑っている。
諸葛亮は引っ掛けられながらも、第一次を除いては山岳地帯での小規模戦闘に明け暮れた。
魏延は子午刻特攻を提唱する事で、
「まんまとクマーされてんじゃねぇよ、このボケが。
俺たちは特攻隊か?特攻しろってんなら、敵の策源地を直接狙ってやってやるよ。
成功すればよし。負けて俺が死ねば、こんな阿呆な事をやらなくなるだろ。
ここで決断できないなら、アンタは一生チキンのままだぜ。畜生」
と言いたかったのかもしれない。
学研歴史群像シリーズの三国志に、そんなような話が載ってたな。
その本の方が、内容はもっと簡素だったが。
仇国論に「孔明はクマーされてる。クマーすべきはこちらである」という論がある。
ショウ周は軍事の専門家でも何でもないから、当時から反孔明派が主張していた論なんだろう。
で、それを群像シリーズが拾いあげてたのかな?
論があった、とある。だな。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/05(火) 02:37:01
>>42 確かに史書で判断するしかないんだけどさ。
史書で判断するしかないんだけど
ただ昔の気候、地形、風俗、慣習、敵の人間関係等々の状況って
今と違うと思う。
千年後では今の日本人は獣みたいな感覚で語られるかもだしさ、
だからただ単に「魏延(さん略)は無謀で名将とは・・・」
とくくってしまうのは魏延さん高順さま好きとしてはどうかと、
と言う訳で魏延さんの再評価を強く求める所存。
ちなみに
>>42は誰が名将だと思うの?
>>45-46 仇国論にそんな話しあったっけか?
王沈の魏書には、諸葛亮が隴西に出た時、明帝が、
「諸葛亮は険阻な山に籠もっていたのに、今、自ら出てきた。
これこそ、兵書に言う『人を致す』というものである。
今、この機会を利用するなら、必ず諸葛亮を撃ち破れよう。」
という内容を群臣に語った事が記されているから、
少なくとも第?%E
書き込みが上手くいかなかった。「少なくとも」以下はこんな感じね。
少なくとも第一次北伐に関しては、諸葛亮が出て来た事を魏にとっての好機と捉える考えが、
王沈らの時代にあったのかもしれない。
>>47 俺個人としては、魏延を何かでくくった覚えは無いんだけど。
あくまで、「名将だから無謀な作戦を立案するわけない」
という考えが成り立つほどではないと思っているだけね。
魏延に関しては、その戦略に関する能力が殆ど分からない。
強い闘争心と勇気を有している事は、史書から分かるので、
リスクの高い作戦でも採用するだろうとは思う。
ただ、彼の作戦計画が、どれだけの計算に基づき、
どれだけ緻密で優れたものだったのか、という事までは全く分からない。
だからこそ、俺は最初に言った結論に達する事になる。
んで、誰を名将と考えるか、だけど、三国志に出てくる人物の中で総合的に判断すると、
曹操や陶璜、諸葛亮、ケ艾、王基、王渾など、他にも結構いる。
基本的に、深く考察するだけの材料があり、且つ、
名将と論じるに足るだけの根拠をそこから得られる人物だね。
魏延については、名将かどうかを論じるほど考察できない、という結論だ。
こいつはあまり関係ない事だが、誰かを名将と主張したいと考えるのは良い事だと思う。
俺自身、三国志の戦争の考察、と言うより、三国志の考察そのものを始めたのが、
姜維を名将と主張したいが為だったからね。
そういうのがきっかけで色々考えるようになってくれれば、三戦も面白くなるだろう。
>>48 たしかに、少なくとも第一次そのものに反対した蜀将は記録上居りませんな。
王連も故人となっとりますし。
そして、先制攻撃こそ兵法における常勝の型である事から考えても、王沈らの懸念は正しいと思う。
ショウ周は仇国論に「長く対する…」と書いたように、戦闘の長期化を懸念していた。
周文王は「敵は強い。今戦っても良いことはない。ここは待ちの一手!!」と、
強国に臣下の礼をとり、版図を後方に広げ、兵を鍛え…とまぁ、待ちの戦略を取った人ですな。
劉邦は「敵はヒキコモリに天下が取れるか、バーカ」とばかりに、
対決姿勢も顕わに、調略をもって大同盟を作り上げ、名将を起用して積極的に敵地に侵入し、
とまぁ攻めの戦略を取った人ですな。
このようにショウ周は、
蜀が魏を倒す事をもって、かつて蜀を制した周文王と劉邦の二者の体をもって準えた。
そして、「天下が乱れ、群雄が乱立するような状況でなければ劉邦にはなれない」と結論付けた。
電撃戦による早期決戦を主張する魏延と、出征回避を主張するショウ周とは、
形は違えど「長対陣と連年の出征は回避すべし」という点で共通しとると言えるでしょう。
似たような論は、全く違う状況で、官渡前に田豊とソ授が進言し、袁紹に退けられとりますね。
個人的には、待ちの戦略はショウ周の述べている通り、天下が定まってから行う物だと思います。
孫呉という半ば成功した例もありますんで。
「敵はヒキコモリ」は、敵はまとまりがない。ヒ〜 の誤りです。
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/05(火) 03:39:22
>>50 くくる云々は一般論ね。
なるほど、確かに判断材料が少ないのは間違いない・・・
でもだから面白いんだい!
ここまで来ると好みだねー
能力があるのに不遇な人に魅かれちゃう。
名将の定義ってなんだろうかのー・・・・
>>52-53 論旨は分かるのだが、「長く対する」という文言を仇国論に見つけられなんだ。
あと、魏延と譙周の議論の結びつけが、少々強引に思える。
「無闇に動かず、内を固めて時機を待つべし」という譙周の主張と、
「大胆に前進して一気に敵を撃つ」という魏延の主張は、少し違うかなと。
魏延の主張は寧ろ、譙周の言う、「射幸数跌」に当るんじゃないかと。
魏延のは博打だしね。
>>55 「長く対する」→「長く対立する」ですな。当方の誤訳と言わざるを得ない。
射幸数跌は「数うちゃ当たることも有る」だけれども、魏延のアレはどう考えても片道切符でしょう。
魏延の無茶な主張は「奇襲は相手の慮外を衝いて、一回きり」という点を如実に著しとりますし、
「成算は第一次北伐が最も高かった」というのは当時、現代に共通する認識だと思っとります。
そして、第一次北伐が失敗した以上、備えある強敵にまともに突っ込んでも得る物は無い。
上の認識がなければ、また北伐の方針転換のためでなければ、
あんな玉砕覚悟の作戦を提唱するのは、凡将ではなく狂人の類だと思いますんで。
実際、費イの代には相手の事情もあって上手く引きずり込んで勝利しとりますね。
追記。
孔明自身が全滅の可能性を指摘しているように、魏延が死を覚悟していたのは明らかであり、
魏延という軍を二分する重鎮が一命を賭して、孔明への反意も顕わに現状に匙を投げた事。
それ自体が、諸葛亮の北伐を思いとどまらせる材料になる、と。
まぁ、孔明は聞きゃあしなかったんですが。
で、魏延が孔明死後に帰国する軍を留めて魏にあたろうとしたなんて記述もありますが、
常識的に考えて、非常時でも権限の移譲も無いままに北伐の指揮を取れるはずもなく。
魏延が狂人でないならば、陳寿の述べた通り「ただ楊儀を除きたかった」のでしょう。
今日はこれにて。
魏延スレには昔から
「魏延の役目は諸葛亮に対案を出すことだから勝算の無い策でもあえて言ってるだけ」
「名前で嫌われただけ」
とかそういうネット小説があるのかと聞きたいような説が多いけど
「あてつけに愚策を提案して諌めようとした」
というのもこの流れを汲んでると思う
勝てる可能性がほとんどない状況下で、国のトップが攻めると言う。
前線を預かっていた者の責務として「これなら可能性があるかも」という立案をした。
単純にこれだけじゃないのかな。
無理がある作戦なのは事実だしね。
ただ、資料がある程度揃っていて、かつその場の瞬時の判断の必要がない
後世の机上の研究において「愚かな作戦なり」と言うのは簡単のことだけど、
その時の雰囲気とか色々な要素があったんでしょう。
実際魏延以外にこの案を支持する者がいなかったかどうかはわからないし。
反逆者として処分されたサイドの真意が記録として残らないのは世の定め。
仕方ないんじゃないかな。
>>56-57 「長く対立する」でも見つからんねぇ。
「今我与肇建皆伝国易世矣」の事なのかな?
譙周は、「両国は既に安定しており、大国の方に乱れが無ければ攻めるべきではない」
という主張であり、「やるなら一回で決めろ」という意味ではないので、
いかに奇策を弄しようとも、時機を得ていない攻勢は譙周の主張する所ではないと思う。
まぁ、魏延の提案を、諸葛亮に北伐を思い止まらせるものであった、と言うのなら、
譙周と共通もするだろうけど、それならはっきりと諫言するなりすればいいのであって、
そんな回りくどい方法を採るのは不自然だと思う。
単純に、自分の作戦に自信があったんだと思うよ。
我々と魏延とでは、得ている情報が違う。
我々には不合理だと思えるものであっても、当時魏延の得ていた情報からすれば、
それは十分合理的だった、という可能性も当然あるのだし。
>>60 そんな控えめではなく、61氏の仰るとおり勝算は十分あると考えていたんじゃないかな。
漢中太守就任の際の大言壮語などを考えても自負心が強かったのは間違いないし、
またそうでないと蜀の重鎮は務まらないっしょ。
とにかくアクは強そうだよねw
あの策で勝てると思っているなら、相当に見積りが甘いと思う。
何故なら、長安落としても30日以内には、呉と領域を接していない、
司隸、冀州、エン州、并州から援軍がやってきて、数倍以上の兵士に包囲される事になる。
包囲される事は諸葛亮も指摘している。
そして、魏軍が援軍を寄越す速度と、蜀軍が桟道を越えて援軍を寄越す速度とでは、雲泥の差。
相手の本拠地に近いだけに、桟道を越えて撤退するまでには、数の利を失って全滅する。
全滅する可能性は、夷陵の時以上に高い。
諸葛亮が独裁的な権限を持っている事を考えれば、直裁的に物を言うても仕方ないような。
数倍の敵を補給なしで打ち破るような魔法みたいな策に、合理性なんて有るわけがなかです。
>>61 >「今我与肇建皆伝国易世矣」の事なのかな?
そうですな。今、わが国とかの国は世代を何代も伝えており…ですね。
>>63 直接的にものを言うと危険が及ぶほどであるなら、
自分の作戦が容れられないからと不満を述べ、
諸葛亮を臆病者と罵る方が、よほど危険に思える。
そんな事をすれば、自分の真意が伝わらないまま殺されるかもしれないわけで。
諫言をした人物を処罰より、魏延のような態度をとった人物を処罰する方が簡単じゃないかな?
>>66 反論を述べたらどうなるか、という点ではいくつかの例がありますな。
・国是そのものを否定する
出師の表によって魏を討って漢を再興する事は国是となっており、否定する人は居なかった。
国是の否定は反意有る者達の言い分であり、組織内から述べて粛清されなかった人はいない。
・計画を立てる段階で、作戦の内容に異論を述べるのは、軍人に許されとる範囲でしょう。
段谷に進む姜維に対して副官の張翼が異論を述べても処罰されなかった事がこれにあたります。
・既に計画の建てられた段階で、計画の実行に不平を述べるのは、士気を削ぐ事から罰されます。
夷陵の役において、秦ミツ(子勅)が、天意が無いと述べて投獄された事がこれにあたります。
・権限の無い者が、主君に計画の方針について直言すれば罰されます。
官渡において、行政官の田豊が軍事に口出しして投獄された事がこれにあたります。
・既に結果の出た作戦行動に対して、事後に不満を述べれば、反意ありとみなされ罰されます。
リョウ立が劉備や関羽を誹謗中傷して処刑された事がこれにあたります。
これらの事は、劉備あるいは諸葛亮であれば違う裁定が下される、というものではなく、
軍という組織ならば、何時の時代の何処の国でも共通する物だと思っとります。
68 :
63 その2/2:2008/08/05(火) 18:35:54
続き。
魏延は作戦を容れられなかった事への不満は述べても、諸葛亮の命令には忠実であり、
天意や運気などを騙って自らの論理を補強するという事などもしとりません。
また、子午刻攻めという、孤立覚悟の作戦を提言する時点で、死は覚悟している物と思います。
当方では魏延の策に実現性が有るなどとは露ほども思っとりませんが、
もし、ある程度成算が有ったならば、魏延が策を容れられないままに殺害されれば、
諸葛亮の器量は、蜀政権内部からも大いに疑われる事となったでしょう。
現在にある、諸葛亮の将器を疑う声もこの系統と言えるでしょう。
いかなる場合にも「魏延の死」そのものが、諸葛亮の北伐に大きな障害を産む事は明らかであり、
魏延の死亡時点で「諸葛亮の翻意」という目的は、ある程度達せられるのです。
しかし、李厳やリョウ立のように他に罪を犯して単なる罪人として死んでしまえば、
魏延の論理は否定され、諸葛亮の論理を強化するだけで、何も変わりません。
諸葛亮にとって魏延の立場は、言うなれば姜維にとっての張翼やリョウ化です。
魏延が作戦方針にのみに発言を留めた事は、軍人という立場から見ても、自然と思います。
結果として諸葛亮が魏延を罰さなかったのは、北伐を継続するためだったと思っとります。
69 :
63:2008/08/05(火) 18:37:32
ageてしまった。ごめんなさい。
子午刻攻めじゃなく、子午刻経路による長安攻め ですな。
以上です。
えー
「俺が無理攻めして戦死しても疎まれて詰め腹切らされて北伐が頓挫すればそれでいい」
と思いながら従軍してたと言いたいのか?
なんか小説中の人物みたいな思考だな
>>67 細かいツッコミで申し訳ないが、投獄されたのって
秦フク(うかんむりに必)じゃなかったっけ?
うん
理論の一人歩きが激しすぎるよねぇ
第一臆病者って不満を"公言"してる時点で
魏延に細やかな配慮などないのは丸わかりだし
>>67-69 魏延とて、北伐そのものを中止するよう述べる必要は無いでしょう。
「今はまだ敵の体制がしっかりしてますから、
敵国に乱れが生じてから実行しましょう」とか何とか言えばいいんじゃないだろうか?
んで、なんだか話がよく分からなくなってきたので、最初のレスを確認すると、
・諸葛亮は魏におびき寄せられていた
・魏延はそれを理解し、敵の術中にはまるような行動を中止させたかった
・「やるなら俺の策で一気に決めろ。でなければやめろ」という意味で子午谷からの奇襲を提案した
という内容なわけだ。
そしてその根拠が、
・魏延の策は成功する公算が低い上、失敗すれば魏延が死ぬ可能性が高い
・そんな策を、自分の能力への自負で提案するわけなく、何か他の考えがあったはず
・諸葛亮は魏延を恃みにしているから、魏延が死ねば北伐は中止、或いは延期されるはず
・その事を魏延が理解していたので、魏延の作戦が実行されれば、成功しようが失敗しようが、
魏延の思惑は達成されるだろう
って感じかな。
「間違っているから、そう主張するのはやめろ」と言える内容ではないが、
大本の部分が、「諸葛亮はおびき寄せられていた」という推測なので、
やはり俺自身は、その主張を受け入れることはできないな。
>>67 あと、本筋と関係ないけど、姜維の名誉の為に言っておくと、
張翼の諫言は、段谷に進もう(退こう)とする姜維に対して述べたものではないよ。
洮西で王経を破った後、そのまま狄道を包囲しようとする姜維に対して述べたもの。
75 :
63:2008/08/05(火) 22:47:31
>>71 KOEIじゃ「ふく」だが、ちくまや坂口和澄氏の本だと「みつ」ですな。はてさて。
>>73>>74 > 「今はまだ敵の体制がしっかり〜
諸葛亮は「漢の高祖の道をなぞる」「出征は呉と連動すべし」と考えていたように、
「隙は待つ物ではなく作り出す物」と考える、精力的でかつ行動的な人物です。
待ちの一手をそのまま口に出しても、劉邦の故事を例に退けられた事でしょう。
そもそも、魏延が口のよく回る男なら、楊儀との喧嘩で剣を抜くような事にはならんのです。
>>73>>74 > 「間違っているから〜
正解を難なく導き出せる程に一事資料が豊富なら、こうして推測を述べんでもええのです。
補強になりますが、
「魏延には必勝の策があった」とするのは「諸葛亮はおびき寄せられていた」とするよりも、
さらに可能性が低いと事を説明します。
大兵に寡兵をもって当たることを当初計画として含む作戦などは、当時から下策とされとります。
端的に言って、勝てんからです。
戦は数です。大兵を前にしては兵士の士気も奮わんのです。怖気づいて離散する事もあります。
歴史上における「寡兵をもって大軍を打ち破る戦い」も、
敗者にとって不意の遭遇戦となった為であるか、
交戦地点にさほど多くの兵士が居らんかったが為に起こった物です。
姜維が王経の軍を全滅させる事ができたのも、夏侯覇が249年に投降した事により、
涼州方面の新鮮な軍事情報、これを手中とした事が大きかろう、と考えます。
軍幹部の持つ情報は、士卒を捕らえて得られるものとは、当然ながら質、量ともに桁が違っとります。
また、姜維は水路を用いる創意工夫をしておりましたから、孔明の時よりも遥かに進軍速度は速く、
兵站構築も容易だった事でしょう。
川沿いの会戦で勝利を得ているように、河川を中心に優位な状態を作りやすかった事と思います。
魏延の述べるように潼関で大軍を待ち受けたとて、関の攻防戦となっては、兵站が勝敗を分けます。
無い無い尽くしの孔明の代では、姜維の時のように上手く行きはしないのです。
この事は諸葛亮も魏延に懇々と説明しているはずです。
蜀はお粗末な軍制ではあれども、軍規は徹底されており、兵は精強を謳われました。
浪漫に胸躍らせるような人物が軍の重鎮として座する事など出来るはずが無く、
目的は別にあったと考える方が近いと考えます。
> あと、本筋と関係ないけど〜
段谷ではなく、狄道ですな。申し訳ない。
>>75 うーむ。
そもそも、「北伐を中止させたがっている魏延」というのが受け入れ難い。
誇り高く、自分の戦の才能を示したがっていた人間が、
北伐を中止させたいと考えるだろうか?
その魏延像は、説の蓋然性はともかくとして、一般にはうけないだろうね。
>>76 何も、魏延の策を必勝の作戦だった、なんて主張した覚えは無いよ。
俺は一貫して、魏延の作戦を高く評価していないから。
戦争とは、必ずしも必勝の態勢を以って始められるものではないよ。
「作戦計画は第一回会戦までしか立てられない」と言われるように、
戦闘の結果が戦略に与える影響は非常に大きく、それ以後の作戦は戦闘の結果に左右される。
そしてその戦闘も、必勝の態勢でなければ行わない、というわけでもない。
そりゃ、絶望的なまでに戦力差があるのに戦闘に踏み切る指揮官はまずいないが、
敵より数を集めなければ戦わない、なんて指揮官はただの臆病か、特殊な戦略状況下にあるのだろう。
魏延の場合、その作戦計画では、諸葛亮の到着まで、その戦闘すら行われない。
何せ、「守将が逃げるから長安が苦もなく手に入る」というものだから。
この前提はまずおかしいんだけど、魏延がそう考えていなかったと断定する事はできない。
「魏延がこんな作戦を本気で考えるわけ無い」とするよりも、史書に書いてある以上は考えていたとした方が良い。
既に述べたけど、魏延の得ていた情報と我々の持っている情報は別物なのだから、
魏延が、史実ほどの魏の迅速な対応を知っていたとも限らない。
あと、姜維は諸葛亮の時の2倍の距離を前進しているので、兵站は更に困難。
彼が隴西で行動できたのは、羌族の助けが非常に大きかったと考えられる。
254年は李簡の降伏による狄道の物資が、255年は前年の戦役の時に羌族の物資を用いて、
隴西に物資集積基地を設けた事が、彼の兵站を支えていた。
63殿は、もう少し史料の記述に拠った(寄った)方が良いのでは?
見てると、論の最初の起点こそ資料の記述によっているが
実際の結論として主張しているのは
「「記述を元にした推測」を元にした推測」になっておりますな。
仮説を持って仮説を立てても、余人の同意は得られないでしょう。
私の意見としては魏延が北伐の中止を狙ったというのは
正史本文の
延常謂亮為怯,嘆恨己才用之不盡
※魏延は常に諸葛亮を怯(臆病者)といい
己の才が用いられないのを恨みに思い嘆いた
の記述と明らかに矛盾しているので違うと思いますな。
恐らく63殿の主張する魏延は、史料に残された魏延ではなく
63殿の頭の中に住んでるMy魏延だと思いまする。
>>76 『漢晋春秋』の記述を信じるなら、第一次北伐の発動時点では
蜀軍の方が兵力的には多数だったんじゃないかな?
だから寡兵をもって大兵にあたるという前提そのものが不成立だと思うよ
81 :
63:2008/08/06(水) 01:50:36
ちょっとNHKを見とったので、夜更かしをしていたのだが…
>>78氏に誠意ある返答をしたかったのだが、気力を失ってしまった。
>>77 仮定を前提に語っているというのは、
>>76で述べていることです。
一次資料が無いのだから、新説を打ち立てたい訳ではないというのも、述べとる通り。
しかし何というか、そこまで悪し様に言われてしまうようでは、もうこちらからは何も言えませんな。
不愉快な思いをさせてしまった事は申し訳なく、ROM専となる事にます。
82 :
81:2008/08/06(水) 01:51:38
言わばこのスレは魏延オタのスレなのだから、妄想だろうと何だろうと遠慮する必要は無いだろう。
妄想だと言っているのに無理に突っかかってくる奴は、
意地の悪い奴か空気の読めない奴に過ぎない。
まぁ、異な事を言えば、周囲が疑問を呈するのは当然だから、
そこで議論したければすれば良いし、したくなければ「ただの妄想だ」と言って話を終えれば良い。
言いたい事があるのにROM専でいる必要は無かろう。
悪し様というより、急に論旨がずれた上に
別勢力別時代を例にとって自説を補強したりするから
想像なのか本気なのか伝わらない
そりゃつっこまれる
逆につっこみをかわせるように修正すれば
魏延の考察のひとつとして面白いと思うけど
皆がしっかりと自説を展開できるのなら苦労しないと思うよ^^;
ま、ツッコまれた側もあまり深刻に受け取らずに頑張りましょうや。
知識を成長させるためには打たれ強さも必要ってことで^^
論戦の弱い奴がそれに応じるとろくな事にならない。
論旨とは関係ない所のほころびを突かれて自滅する好例。
自説は否定され、相手の説は強化される。これ以上間抜けな話も無い。
またこの流れか…
知識人の尻馬に乗り、一人を煽って追い払い、勝鬨を上げる。
何時頃からか、これが三戦住人のお家芸。
ほんと浅ましいこと
などなどの煽りをいれるのが三戦住人の・・・以下ry
それじゃ同じ穴の狢だよ
もっと良い流れに持っていこうぜ
なんだか妙な流れになっているが、俺が言いたいのは、
あまり気にしない方が良い、という事。
理不尽な叩きや煽りなら無視すれば良いし、反論や疑問を述べているのなら、
できる範囲で答えればいい。
>>79も、叩きとか言うよりは、反論しているだけで、
「My魏延」とか、多少相手がイラっとする言葉はあるものの誹謗中傷という程ではない。
あまり気にせず、適当に話す事だ。
イラッとさせる発言をした人間を、そうして庇う必要も無かんべ。
スルーして粛々とレス付ければ良いのさ。
庇うってか、議論してる時は、そういう言葉も出てくる事があるから気にするな、って事なんだけど。
まぁ、いつまでも続けたって仕方ないので、魏延の作戦に話を戻す。
実際、子午道の距離というのがよく分からないんだよね。
斜谷は西征賦の注には、470里すなわち200km弱だから、
沔陽から褒中までの約30km、五丈原から長安までの約120kmを加えて、
沔陽と長安では約350kmの道のりになる。
魏略にある魏延の案だと、これを諸葛亮の数万が30日弱で移動する事になっている。
斜谷を日に10km、その他を日に15kmで進めば30日で踏破する事はできる。
子午道の方も、恐らく、斜谷とそれほど大きく距離は変わらないだろうけど、
成固より東に沔水を下り、黄金谷を越えて安陽の近くまで行って、
そこから直水を遡るという道なので、山道の割合は大きく増える。
その点で、「10日以内に踏破する」という魏延の計画は難しいと思うんだよね。
走ってどうこうって話でもないだろうから、初めから輜重を置いて行く事が前提なのでは?
>>95 当然、輸送なんかしないだろうし、輸送車は随行させないだろう。
ただ、魏略にある糧五千が五千斛なら、一人当たり一斛の糧を背負う事になる。
これが大体17kgくらいだね。
生米だけ持ってっても食えないので、武装の他に釜とかも必要だから、
結局、全部合わせて2,30kgは背負う事になる。
それだけを背負って、日に40km近くを、10日間も続けて進めるか、って考えた場合、
相当難しいと思う。できたとしても、ろくに戦闘できる状態にはならないんじゃないかな?
通常の人間の歩行速度が大体5km/h
日に40kmという事は一日8時間を歩き詰め
しかも20kgの装備を背負って
こういう計算になるなら困難というより
不可能といった方が近いだろうね
>>97 俺も、個人的には不可能だと思う。
アレクサンドロス大王の話になるが、彼も、エクバタナからラガイまでの約300kmを、
僅か11日で踏破した事があった。
その時は、歩兵の多くは途中で落伍して置いていかれ、騎兵もまた、
馬が力尽きて倒れるなどして落伍していった。
これは魏延より距離も短く、日数も僅かだが長い。
それでこれだから、魏延がどうなるかは想像に難くない。
登山家なら可能なんだが…まさか蜀兵1万がそうした訓練を受けてるとは思えんしなぁ。
俺の場合は、この作戦は不可能だから提案した事に他の理由がある、と考えるよりは、
この話を伝えている魏略、すなわち、魚豢が、何処まで真実を伝えているのか、を考えた方が良いと思ってる。
三国志の本文には、1万で別働隊を指揮して潼関で落ち合う、としか書かれてない。
単純に、この本文の内容だけで考えた方が良いんじゃないかと思ってる。
そもそも無理ゲーだから、魏延が本当にそんな作戦を提唱したかどうか妖しい。
ってのもアリってことかな?
>>101 魏略の内容に関して言えば、俺は本来はそういうスタンスだね。
「別の道を通って潼関で落ち合う」という本文の内容は、
無理かどうかも分からないから、書いてある以上は、
そういう提案はした、とは思ってるけど。
「魚豢が妖しい」と言われれば、否定する材料は無いな。
魏略(典略)は、「内容が雑多で何でも載せようとする」という批判もあるようだしね。
ただまぁ、実際にその記述が間違ってるかあってるかなんて分からない。
どれだけ確からしいか、ってのは他の史料とつき合わせて求められるかもしれないけどね。
だから、この作戦が提案されたと考えるのも自由だし、
そこから何かを導き出そうというのも自由だろう。
要は、自分の考えが、周囲の人間にどれだけ受け入れられるか、って事だと思う。
ところで、真面目に魏延を名将と証明するには、どんな事をすれば良いんだろうか?
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/07(木) 01:06:32
魏略って、魏延が諸葛亮に死後の軍を任せられてて、楊儀が陥れた、と言ってるんだね
言ってるね。裴松之君に完全に否定されてるけどね。
魏延と諸葛亮よりも柔軟な蒋エンのコンビは見て見たかったなぁ
>>107 ショウエンは柔軟には思えない
あんだけ総反対食らってやっと自分の策を取りやめる、強情者のイメージだ
蒋琬は頑固ってか、あまり考えを曲げない人ではあるかもね。
茂才にしろ益州刺史にしろ、固く辞退して、周囲がどれだけ薦めても結局考えを変えなかった。
茂才の時は、諸葛亮に諭されても尚受けなかったし。
しかし漢水を下って上庸を攻めるというのは
結構面白い作戦だと思う。
魏延と同じように、ショウエンも孔明の存命時から
毎回成果のあがらない北伐に苛ついてたんではないだろうか。
どうかな
上庸攻めは諸葛亮が上手くいかなかったのを見て考えた
とされてるし、結局反対にあって涼州主攻に切替えてるし
あまり成果はあがらなかったんじゃないかな?
どげんかせんといかん!
…という意識はここで論じられている人物が皆持っていたんだろうけど、
足並みは揃わない、人材は足りない、補給ライン確保は困難etc.…ではねぇ。
大変だわ。
迷将。謎将。
241年に呉が襄陽を攻めているから、それとタイミングを合わせる事ができれば、
結構な期間、敵の増援を気にしないで二郡(三郡)の攻略に傾注できるとは思う。
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/07(木) 23:11:09
>>104 >真面目に魏延を名将と証明するには、どんな事をすれば良いんだろうか?
無理ではないかと。すくなくともここでは。
真面目に議論しようとしても,むじんみたいな陰険釣師が妙な揚げ足取りで邪魔するし。
>>115 陰険釣師って…、蜀将スレの事が尾を引いてんのかい?
まぁ、ともかく、個人的には、どこでやろうと誰がいようと、
魏延を名将と胸を張って主張するに足るものを引き出すのは難しいように思う。
北伐の際に彼の提案した作戦、陽谿で呉懿と共に郭淮・費曜を破った事、
第四次北伐での働き(漢晋春秋)、蜀攻めでの働きとか、この辺りをどう考えるかだと思うんだけど、
これらから論拠を引き出すには、相当調べたり考えたりが必要だと思う。
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/07(木) 23:36:08
>>104 劉備と諸葛亮に信頼された将なわけだから、「名将劉備・諸葛亮が見込んだ男」となればいい
つまり劉備と諸葛亮が名将であると証明すればよい
とても優秀な部隊長というイメージなんだよね。
気の合う優秀な副官がいればとてつもなく威力を発揮するみたいな。
119 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/07(木) 23:38:14
>>116 尾を引いてるって,何を大した事じゃなかったみたいに言ってるの?
むじん自身,やばいことやったって自覚があるから自サイトのやばい書き込み即効削除したンでしょ。
とりあえず、むじんとやらが一部住民が本気で涙目になるほど釣り上げたことがあるのは良く分かった
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/07(木) 23:47:31
釣り上げたという意味では確かにそう。
教えてクン的な書き込みにスレ住人が親切に説明してあげてるのに
妙な粘着質問を繰り返し,いい加減スレ内で真面目に相手するの馬鹿らしい雰囲気になったら
自分のサイトでスレ住人を馬鹿にして
それを批判されたら即効削除した,って話。
親切なスレ住人が可哀想だった。
>>117 そういうのも一つの手ではあるけど、多くの人に受け入れられるだろうか?
例えばハスドルバルやネイは名将に信頼されていたが、
彼らを名将と呼ぶに相応しいか否かは、評価の分かれるところだろう。
>>119 その削除した部分ってのを知らんのよね、俺は。
あの時の議論は見てたけど、魏延が有能だって事に疑問を呈してた方がむじんさんだって知ったのは、
スレでそれが明かされてからだから、今ブログに残ってる部分の記事しか知らない。
ってか、この話はスレと関係ないんで、あまり続けない方が良いと思う。
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/07(木) 23:49:58
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/07(木) 23:53:36
>>122 >この話はスレと関係ないんで、あまり続けない方が良いと思う。
貴方が「大した話じゃなかったじゃん」的な書き方をしているので説明したまで。
つか,当時の議論を見てて,そういう感想をもてるとは大した大人だね。
まぁ,続けるつもりはないので,この話はこれまで。
未だに引きずってる人が子供すぎるんだと思う
まぁ,続けるつもりはないので,この話はこれまで。
魏延は名将にはなれない勇将
敵味方を超えて信望厚くなければ名将とは呼ばれない
せめて恐怖でも強権でも陰謀でもいいんだけど
部下を統率できないと駄目だな
同僚にも人気が無さ過ぎる
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/08(金) 01:21:46
>>126 確かに魏延は名将とは言えないと思う。
正史の記述からじゃ魏延の知略についても判断できないし。
(まぁ,蜀書からじゃ誰も判断できないけど)
いいとこ言って「忠臣」じゃないか?
出師の表の本気で実行しようと思えば,玉砕覚悟しかないのは明らかだし。
諸葛亮への「延常謂亮為怯」ってのも
出師の表でカッコいい事言っておいて,実際にはそんな気がないことを非難していたと考えれば納得もいくし。
蜀(劉備)を思うあまり諸葛亮の出師の表に感動して
本気で実現しようとして
諸葛亮初め諸将は誰も本気じゃないと知って
「嘆恨己才用之不盡」って感じでは。
>>127 事の是非はともかく
魏延がそう思っていたのは間違いではないかもしれんな
でも正史を普通に読めば
自分の積極策を取らない事への憤り、不満だな
つまり我侭だ
普通は不敬罪だが、諸葛亮は不問としてるぐらいだから
随分とかわいがられてるのはわかる
五虎大将亡き今、俺がやらんで誰がやる!ってな自負が裏目に出たかな?
魏延は今でいうちょっとKYだったということね
自分の最大の後見人が不満をぶちまける相手の諸葛亮であって、
これがいなくなるとみんなにハブられちゃう事が読めなかったと
KYを排除していった結果が、滅亡だよ!
排除されたKYって楊義?
楊義はKYというよりスネ夫な感じ
チクリ魔かつ、上司の虎の威を借り、自分の実力と勘違いして排除された印象がある
俺としては一番KYだったの姜維な気がするなぁ
KYを排除しなくても滅亡ですぜ!
楊儀はスネ夫というより……かな。
偉大なる丞相閣下の片腕であった事から、自分が一番諸葛亮を理解していると勘違いしていた。
権限も無いのに「遺臣は自分が率いるものだ」と思い込み、そのように行動した。
当然のように上官達から総スカンを食らうのだが、何でそうなったのかを理解しない。
パワーゲームに敗れ、閑職に追いやられてもなお、自分は嵌められたと不平不満をもらすばかり。
挙句の果てには謀叛を口にし、舌禍から処刑。
魏延以上に誇大妄想家で、魏延以上に思い込みが激しく、魏延以上に偏執病。
最後の一行が何より雄弁に心情を物語っているな
そんなに楊儀が嫌いかw
136 :
134:2008/08/08(金) 20:28:51
>>135 うむ。
魏延に謀叛の嫌疑をかけておきながら、イザ自分がその立場になると、
「謀叛しておけばよかった。後悔先に立たずとはこのことだ」
とか無茶苦茶やん。
嫌疑というより魏延は実際にやってるけどな
138 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/09(土) 01:15:51
魏略の諸葛亮死後の件は、松の字は否定しているが、少し真剣に検討する余地のある内容じゃないかと俺は思うんだがな
それを抜きにしても、ショウエンが次席に入った流れはどうも胡散臭さを感じて仕方ない
兵権のある魏延、兵権のない楊儀。
組しやすいのはどちらか?
といわれれば、後者だよな。
>>137 陳寿も松の字も否定してると思うが。
魏延の性格が性格なので、魏延が暴発したで皆納得してしまうんだが、検討してみる余地は確かにありそうだよな
あの辺りは色んな要素が絡んでいて、色々な可能性があるように思う
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/09(土) 09:13:53
>>137 いまだにこんな馬鹿いるんだ。
後主伝嫁
ありゃ政争だ。
142 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/09(土) 09:22:14
魏延の献策を趙雲はどう評価していたのだろうか?
>>140 なんか妙な世論誘導しようとしているのがいるな。
漢中を10年も専守した律儀者が暴発するなんてのには皆納得しないよ。
正史をしらない人間か,孔明オタくらいだろ。
正史を普通に読めば,魏延は慎重策の孔明の態度に不満は見せても,命令に逆らったことはないのが判る。
謀反なんて話も,魏延と敵対した楊儀や王平らの伝にしかないしな。
何を検討したいんだ?
横山版の趙雲は魏延にはタメ口。仲がよかったのか。
>>142 何で趙雲が出てくるのか知らんが献策したころにはもう死んでんじゃねえの?
>>143 つまり、仮説として
諸葛亮死後に楊儀、王平、ヒイ、ショウエンらによる暫定トップの魏延下ろしの陰謀があって、更にそのグループ内で楊儀潰しが行われた、
という凄く陰湿な政争の可能性を考える
魏延が咲きにやりました、魏延と楊儀が悪いんです、と二人に責任を被せられるのが他の者には大変都合がよかったように見えるんだよな
そして李厳は
「諸葛亮が死ぬ前に釈放してくれないと後釜の奴らが釈放してくれるはずがない」
とガックリ
関係ないが短文も読めない
>>143は頭悪いだろ
魏延ヲタの嫌われる原因を見たな
魏延は悲劇の主人公ってバイアスが掛かりすぎてる
兵乱を起こしたのもそれを鎮圧されたのも事実
その原因が政争であれ、何であれな
>>148 俺はショウエン、ヒイが胡散臭く感じるだけでそんな魏延ヲタってつもりはないけどな
>>148 俺も魏延を擁護しようとはあんまり思ってない
ただ、孔明の遺言聞いた奴らの行動の胡散臭さは結構なものだとは思ってる
この辺りはあまり検討されていない所だから考えてみるのも面白いかもね、くらいのつもり
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/09(土) 14:54:46
>>148 コーエーバイアス懸かりすぎじゃねぇか?
兵権持たない楊儀が勝手に兵を動かしたから
節持ちの魏延が鎮圧しようとしただけだろ。
成都に信じて貰えなかったのは笑えるがな。
>>149-150 いやあんたらにじゃない
一人だけ突っ切った馬鹿が居るでしょ
>>151 節は兵権じゃねぇw
第一、もし魏延の方が正当な指揮権を持ってたなら
なんで諸将が"全て"楊儀側に付いたんだよ
そんなに徹底的に魏延は嫌われ者だったのか?
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/09(土) 17:28:22
>>152 兵権持たずに勝手に兵を動かした者を罰するのを節持ちがやらんでどうするよ。
諸将が全て楊儀についたとは初耳だけど?
成都が誤判断したために逃げ散った諸将の名は伝わって無いけどな。
ちゃんと正史読んでるか?
154 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/09(土) 17:37:29
>>145 第一次北伐の頃なら趙雲生きてたんじゃね?
魏延の最期って大まかに言えば、
楊儀が「コーメー遺言で国帰るぞ!」
と、諸将を統制して撤退。
魏延が「てめえの言うこと聞くかボケ!」
と、楊儀と対陣
王平が「何がやりたいんだ!コーメーが死んだばかりで!何がやりたいんだ!なあ?」
と、一喝すると魏延の兵は塵じりに
魏延が「覚えてろよ!」
と、ベタな事言って(塵じりになった兵に紛れたのか?)逃亡。馬岱に追いつかれてキルされる。
楊儀が「先の遺恨覚えたか!」
と、魏延さんの首を踏みつぶす。
(中略)
楊儀自殺
こんな流れだっけ?
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/09(土) 19:39:05
>>155 大事な事柄を省いてる意図は判らないが
書いてあることの時系列は合ってる。
軍法違反という点では明らかに楊儀が黒なんだが、
他が何で楊儀に従ったのかが分からんのでサッパリだ。
>>155 1:孔明死亡
2:枕元遺言?(?を付けたのは、魏延伝以外にはその記述が無いため)を知らされたのは、
楊儀、費イ、姜維(この中では楊儀が最も位が高い)。
魏延が殿となるよう指示を出し、従わなければ置いて行くように、とも。
指名された後継者はショウエンだが、諸葛亮は楊儀にそれを秘していた←ここポイント。
3:楊儀が費イを派遣し、魏延に“自分の命令に従うかどうか”の意思確認をさせる。
魏延ブチ切れ、楊儀に従う事を拒否する。
4:費イ、魏延を騙して楊儀の元に逃げ帰る。魏延は慌てて費イを追いかけさせるが、間に合わず。
5:費イは魏延の反意を楊儀にチクり、楊儀は魏延を置いて出発する。
6:魏延、楊儀の行動を妨害しようと、先回りして橋を落す。
7:楊儀と魏延、互いに相手を誹謗中傷する上奏文を出し、董允とショウエンは楊儀に組する。
8:魏延、さらに直接的な妨害にで、先回りして陣を敷く。
9:王平、ぶち切れて魏延を「お前は何をやっているんだ」と一活。一戦して魏延を打ち破る。
10:馬岱が追撃をかけ、魏延を斬る。
11:楊儀、魏延の首を踏みつけ、罵る。魏延の三族は皆殺しにされる。
12:後継者はショウエン、楊儀は閑職に追いやられるm9(^Д^)プギャーーーッ
13:楊儀、慰問に訪れた費イに「丞相が死んだ時に謀叛すればよかった。後の祭りだ」と言う。
14:費イ、後主にちくり、楊儀左遷される。
15:何を思ったのか、楊儀はお上を誹謗中傷する上奏文を書き、逮捕されて獄中死。
>>153 すげえ吹いたw
どんだけ魏延に都合が良い解釈してんだよ
だから節にそんな権限はねぇってw
お前「節」の意味分かってるか?
お前正史読んだことないだろ?
楊儀の撤退が孔明の指示だった事も、諸将がそれに賛同し従ったことも
諸将が魏延の指示はシカトこいて従わなかったのも、
全て本伝に記載があるが?w
>>157 そもそも楊儀が撤退を指揮したのを軍法違反と考えるからおかしくなる
北伐はあくまで丞相府の主導でやってるから、
孔明が死んでも幕外の魏延が繰り上がり当選で指揮官にはならない←ここポイント
だから諸将が丞相府の参謀連中が"連名"で布告した命令に従うのは当然
だからあの時点で魏延の指令は単なる我が儘で、行動は兵乱とされてしまうわけ
一旦帰国してから手順を踏んで軍権を掌握すれば、みんな魏延に従ったろうにね
タイミングが悪かった事もあるがその辺が読めてないのがKYだね
>>159 普通なら単なる尚書(令ではない)の楊儀じゃなくて、率いるべきは姜維または魏延じゃねぇの?
魏延が命令を聞かないかもしれないから、と彼を外した事が、孔明の第一の間違い。
後継者をショウエンと表明しておかなかった事が第二の間違い。
撤退の際に「誰が率いるか」を記しておかなかった事が第三の間違い。
だから、楊儀が勘違いして増長し、魏延が反発したのだと思うが。
しかし、この一件に関する費イの行動に関しては、弁護しようもないな。
結局確実なのは
蜀最強のツッコミ担当の王平が
また男を上げたということ
>>160 この場合、位階は関係ないんだよ
丞相府の参謀(これ便宜的表現ね)が”連名”で”孔明の指示”を布告してんだから
またこの時の魏延は将軍としての位階が高くても
丞相府内での指揮権限は与えられてないから北伐作戦が終了するまでは
指揮官に”推戴”される可能性はあっても勝手に魏延が指揮官になる事はない。
また張コウの時みたいに楊儀らが魏延を推戴したなら話は別だけど
今回はみんながシカトしちゃったからNG
まあ、突発的な事態じゃなく”表向き”前指揮官の指示があるわけだから
それに背いた命令に諸将が同意しないのは当然なんだけど。
だから一旦帰国してから再度北伐を行った場合は
魏延が総大将になる可能性もあったのに残念だね
実際に自分も楊儀や費イ連中に黒いとこはあるんで、
考察の余地有りというのは大いに同意
でも魏延が兵乱を起したのは事実だし、まるでなんの罪もない魏延が
無理矢理謀殺されたとでも言う主張は魏延びいきのバイアスが過ぎるな
>>160 細かい事だが、楊儀は領丞相長史・綏軍将軍だから、尚書じゃないよ。
あと、この時の姜維は行護軍・征南将軍だから、そこまで位階は高くない。
丞相府内で見ても、それ以外で見ても、ケ芝とか費禕のが上だね。
>>160 ちなみに撤退時に楊儀は長史、費イは司馬、姜維は護軍だから
この三人が結託したら他の諸将は従うしかなかったというのもある。
>>163>>164>>165 言いたい事が有るのは分かるんだが、立て続けてこられてもなぁ。
で、全面的に同意するしかない。
楊儀伝の「自らは尚書であり、費イは尚書朗であったことから」という記述だけだと、
不正確だったのね。
楊儀と費イが何をやったか?までは記述に無いのでどーしょーもないっすね。
費イはその後の行動を見ると、楊儀に対しても義理立てしてないように思えるが。
なんでおまえらの口調ってこんなに気持ち悪いの?
形は違えど、魏延をこよなく愛するキモオタだからさ。
オタが熱く語るとキモイだろ?それと同じ事さ。
だから、キモイと思うなら、目に触れないようにそっと立ち去るんだ。
口調が気持ち悪いって言ってる
熱く語るとかそういうのは関係ない
個性
>>166 それは、蒋琬が楊儀より出世した時、それを不満に思った楊儀について述べた文だね。
劉備の時代に、楊儀は尚書、蒋琬はその下の尚書郎だったってやつ。
楊儀伝を最初から読んでいけば分かるけど、楊儀は尚書令の劉巴と不仲になって、
弘農太守(遙任)に左遷された後、諸葛亮が幕府を開くとその参軍に辟召され、
その後に長史に遷り、綏軍将軍を加えられてる。
>>171 thx。もう少し注意深く読み進めていくべきだった。
>>166 自分は費イは絶対確信犯だったと思う
魏延の時も楊儀の時も
恐らく毎回、毎回いざこざ起されちゃ仲介役で間に挟まれて
実は二人の事大嫌いだったんじゃないかな?
だから、この際、魏延を暴発させて楊儀に始末させ
その後にスッパリ楊儀を切り捨てたと
「確信犯」 (呵責などなく)正しいと信じて(結果として犯罪を)行う事
>>173 でも、陳寿の評だと「費イは寛容で、人を分け隔てなく愛した」なんだよなぁ。
陳震が蜀臣全ての評を残していてくれれば、事欠かずにすんだのにねw
>>175 >>蜀臣全ての評
そこで季漢輔臣賛なんじゃないの?
177 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/09(土) 22:03:43
裴注に引く魏略では諸葛亮の異名を受けたのは実は魏延のほうであり
これを怖れた楊儀が、魏延が魏に奔ろうとしているとでっちあげたとの異説があるな
×異名
○遺命
間違えた上にあげてしまった
無責任な異説としては面白いんだけど
さすがに苦しいよね。何故わざわざ魏延にだけ遺命を伝えたのか、
そしてどうしてみな疑いも無く楊儀に従ったのか、という点で。
>>175 聖人でもなけりゃあらゆる人間を愛すとはいかないんじゃない?w
>>179 松の字も否定してるように
ちょっと苦しすぎるよね
魏略に関しては、記述を引いた裴松之自身が否定してるんだよな。
>>176 残念ながら季漢輔臣賛には費イの賛はない。
あればまた、費イという人物に与えた、同時代人物の評が増えたのに。
>>180 褒めすぎという事かw
魏延が諸葛亮に対して不満をもってたから
誰も魏延に諸葛亮から遺命を受けたといっても信じてはもらえないってのはどう?
どう、っていわれても。
勿論、そういうような「ありき」で考えれば
いくらでも出てくるとは思うよ。
でも普通に考えると説得力に欠ける、それだけのことだよ。
魏延の性質と周囲の反応に関する記事として魏延伝に、性矜高 當時皆避下之
とあるくらいだから、誰しも魏延の勇猛さと軍事的才幹は認めていても
まともにつきあえる型の人間とは思っていなかったんじゃないかな
この手の性質の人間は不必要に敵を作りやすいうえ、利害損得が絡む状況が
生じたときは見限られやすいだろうし
石田三成みたいなタイプか
>>184 もう一つ、諸葛亮が魏延に後を任せたかどうかに関係なく、諸将が従わなかった理由の一つが、楊儀が言った「庸奴」という言葉に集約されてると思う
劉巴と張飛のエピソードにも見えるように、荊州の名士として鳴らした連中の「兵子」への差別感情は相当なものがあったようだ
彼ら荊州名士連は、自分たちの同類か、さもなくば諸葛亮のような他地方の名士にでもなければ風下には立たないんだろう
劉備や姜維は他地方の名士に該当するが、魏延は彼らから見れば同郷であっても「兵子」
どっちに正当性があろうが、どっちが有能だろうが、従いたくはないんだろうな
楊儀が魏延の首を踏みつけ罵ったぐらいだから兵子として常々馬鹿にしてたんだろうな
そう思うと、諸葛亮は魏延をかなり優遇していたんだと思う
当時の「兵子」相手としてはね
魏延が楊儀を嫌ったのもそういう露骨な差別とかもあったんだろうね
そうだとすると諸葛亮が死んだ時点で魏延の行末も見えてたって事か
>>189 踊る大捜査線の現場と会議室、あるいは湾岸署と本庁みたいな関係だったと思う
階級だけなら年齢や功績のあるノンキャリの方が上でも、実際には本庁から送り込まれてくる若手が指揮を執り、署長でさえもぺこぺこしている
キャリア組の方は署の人間を高卒や三流大卒のブルーカラーと蔑んでるし、署のノンキャリはキャリア組に反発したり頭でっかちと批判したりする
そんな関係の中では、魏延=青島にとって諸葛亮は室井のようなとてつもなく理解あるキャリア
劉備「あのー、ね、今回の曹操追撃なんだけどさ、孫呉さんのほう、根回しできてんの?ん?」
関羽「はっ、そのあたりは、張飛くんにすっかり一任してございます」
張飛「え?それは関兄がやるってハナシじゃござぁせんで?」
関羽「何を言っておるんだねキミは。私は、先方とは恩義があるから、その辺理解してくれたまえよ」
劉備「えー、まぁいいからさ、とにかくやっといて頂戴よー困るよー」
関羽「そういうことだから」
張飛「これだもんなぁー」
魏延の出自がどうのって以前に、使持節って時点で優遇の度が過ぎてる感はある。
使持節なんて、諸葛亮以外では、諸葛亮の死に際して印綬を贈る役を仰せつかった杜瓊(多分臨時)、
ライ降都督の李恢、そして魏延の三人しかいない。
杜瓊の場合は役目の重大さから、李恢の場合は不穏な南中を制する為、と分かるが、
魏延が使持節である必要性が俺には分からない。
逆にというか比較対象として妥当かはわからないが、仮節ですらないという趙雲…
魏延は仮節じゃなかった?
諸葛亮も仮節じゃない?
あと李厳が仮節を与えられてる
>>195 仮節もそんなにはいないからねぇ。
関羽、張飛、馬超、李厳、呉懿、呉班、蒋琬、費禕、姜維、張翼、廖化、胡済くらいか?
華陽国志見ればもうちょいいるかもしれんけど。
>>196-197 後主伝と穆皇后伝に諸葛亮の、李厳伝の注に引く李厳弾劾の上表に魏延の事がそれぞれ載ってる。
諸葛亮の方は、ケースとしては杜瓊と同じだけど、
その後に魏延が使持節を貰ってるのに、諸葛亮が仮節ってのは変だから、使持節のままだろう。
そういや、ケ芝も仮節だったわ。
劉備死後、魏延が破格の待遇を受けるに到った所以となる功績。
魏延伝には、それに類する記述は見当たらないな。
確かにイミフ
諸葛亮のは本伝の、しかも二箇所の記載だから可能性は高いけど
魏延のは仮節の間違いなんじゃないかな?
その前年に郭淮撃破で昇進して仮節を受けたばかりで
第四次の軍功といっても、李厳の弾劾は帰国後すぐのはずだし
どう考えても使持節になる時間も要因もないと思う
>>201 確かに間違ってるって可能性もあると思うよ。
正史の本文ですら、姜維の中監軍・征西将軍のように、
就任していないと思われる官が書かれているし。
仮にどちらかの記載が間違っているとして、どっちが間違ってると思うか問われれば、
不自然な使持節の方と答えはするね。
そもそも、蜀における使持節、持節、仮節が何を意味するものなのかが分からない。
宋書百官志に拠れば、晋の世における使持節、持節、仮節はそれぞれ、
二千石以下、無位無官、軍令違反者を処刑する権限となっている。
同様の内容が、晋書や通典にもあるが、恐らくは宋書をもとにしているのだろう。
晋の都督制が魏の都督制をおおよそ踏襲しているとすれば、
魏の節についても、この晋のものとほぼ同様だろう。
しかし蜀までもがそれに則っていたかは分からない。
漢書や後漢書からは、節の権限についての記述を今の所見つけられない。
ただし、詔勅を奉じ、皇帝の使者としての役目を仰せつかった者は、
基本的に使持節、少なくとも持節として任務についている。
蜀書においては、注釈の李厳弾劾の上表と李恢伝の記述を除き、
使持節は全てそういったケース。
これらを誤記としてしまえば、蜀における司令官は仮節のみとする事もできるが、
魏延の例はともかく、李恢の方は積極的に否定する根拠に乏しい。
この辺りを明快にする考え方は無いのだろうか?
>>203 そもそも蜀では区別していなかった可能性を否定できない
使持節は「使いして節を持つ」、持節は「節を持つ」、仮節は「節を仮す」
状態の違いを表している語だが、権限や階級が違うという確かな証拠は無いんじゃないか
魏晋以降で区別されているのは確かなんだが、漢制を基本としている蜀で晋のような区別があったという証拠は無いと思う
>>204 確かにそういった考えでいる方がいいのかもしれない。
仮されているか、持しているかはともかく、
節を手元に有して皇帝の権限を分与されている状態にあるかどうかの方が重要なのかもしれない。
やはり、蜀における節を考えるには、後漢や前漢における節の意義を考えなければなさそうだ。
206 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/11(月) 00:25:51
>>205 そいつについては漢書諸葛豊伝に面白い例がある
諸葛豊は弾劾相手に自分が持っていた節を掲げて「詔」を出しているんだ
つまり節の元に下す命令は皇帝の命令そのものなんだ
少なくとも当時はね
>>206 ありがとう。確認した。
「豊駐車挙節詔章曰」ってのだね。
持節や使持節なら、ある程度調べられる範囲だが、節が出てくる文章となると量が多く、
まともに漢文の読めない身には調査し難いので、こういう話は助かる。
そういや、例え魏延が使持節でなくとも、諸葛亮の時代に節を仮されたのは李厳と魏延だけなので、
やはり魏延に対する厚遇は他の追随を許してないと思う。
劉琰なんかは位階だけだし、実が伴ってるという点では李厳に次ぐ厚遇じゃないか?
性格と能力だけで、そこまで配慮するものだろうか?
どうもよく分からんな。
仮に、諸葛亮の漢中幕府が、政治的には中央に対して優越し、既に半独立状態だったとする。
でもって、中央の李厳に対抗する軍権を持つ将軍を欲し、そこに宛がわれたのが魏延というオチだったら笑う。
>>209 魏延厚遇の理由は、推測するしかないからねぇ。
李厳も魏延も、誇り高く能力もある、という点では一致してるね。
上下皆が李厳に対する厚遇を怪しんでいた、という諸葛亮の話もあるし、
魏延が孤立したのに、この魏延に対する厚遇も影響してたのかもしれん。
211 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/11(月) 21:52:54
>>209 逆の可能性の方があるんじゃないか
つまり独裁権者諸葛亮を抑える意味合いで、匹敵する地位と権限を劉禅の成都政府側が魏延に与えた、と
そうなると、魏延と楊儀の軋轢と争いも諸葛亮シンパと成都政府側の代理戦争のようなものだったことになる
(そして諸葛亮側が勝利し、ずっと自派から最高権力者を輩出することとなった)
212 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/11(月) 23:18:02
三戦に考察スレなど不要じゃ
213 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/11(月) 23:21:40
荒らすな
李邈が獄に下され処刑された逸話を見るに、劉禅自体は諸葛亮の独裁を危険視してなかった。
仮に諸葛亮を掣肘する為の存在として魏延が選ばれたとしたら、一体黒幕は誰なんだろうか?
そういった存在によって、諸葛亮の意に沿わないまま魏延が出世したなら、
諸葛亮に匹敵とは言わないまでも、相当な影響力を有さなければならないように思える。
なかなか難しいものだ。
215 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/12(火) 00:08:02
荊州閥と益州閥の争い?
>>214 いや、それは楊儀、ヒイらの諸葛亮チルドレンが勝利し、劉禅側が送り込んだ魏延が死亡したことを受けてのこととも解釈できないこともない
危険視していないのではなく、今なお危険だから口をつぐむしかなかったということだ
>>215 多分そこまで単純化は出来ない
魏延も荊州人ではあるし
荊州閥対益州閥、のような単純な構造に落とし込む前に、
色々と考えていった方がいいとは思う。
>>216 諸葛亮に対立する存在が劉禅、というのは主張するのが難しいのではないだろうか?
単純な記述を、あまりに複雑に解釈してしまうのも気が引けるものだし。
こういう独裁者に対抗する手段としては、宦官や外戚を使ったりするものとすれば、
張飛の一族や呉懿の一族の方が、魏延よりも諸葛亮に対抗しやすいように思える。
よく分からんなぁ。
諸葛亮が、こういう理由で魏延を厚遇した、と実際に述べてくれれば良いんだが。
案外、諸葛亮は魏延ラヴなとこがあったのかもね。
実際に魏延の勇猛さを頼りにしてたという記述は残ってるわけだし、
他に武官で諸葛亮が能力を大きく評価したのって李厳と姜維、王平くらいじゃない?
>>216 それだと魏延を失脚させようとする動きに
諸葛亮が庇ってやる理由が無いないな
そもそも諸葛亮の対抗馬が魏延じゃ力量不足も良いとこだね
使うなら李厳の方でしょ
地位・名声・実力ともに李厳を抜かして他ってのは考えられない
222 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/12(火) 09:08:17
法正が生きていれば…
妙な荒らしが寄りつくからageるな
そもそも外戚なのに呉一族が立伝されてないってのも不自然たぁ不自然だな。
そう?
魏だって、例えば甄氏の一族は「文昭甄皇后伝」などで記されてるし。
蜀で呉懿(壱)や呉班が「穆皇后伝」などの記載でまかなわれているのは、
バランス的にはおかしくないんじゃないかな。
魏延は諸葛亮が死んだから居場所がなくなったでFA?
もちろんそれはわかってる。
ただ、陳寿のまとめ方のパターンとして、
単純に考えた方が良いのかな、とも思う。
陳の字が「オイラ的にはあまり重要じゃないネ」と判断しただけだったりしてw
孫堅の嫁さんの弟呉景も軍の重鎮だけど立伝されてないよ。
>>226 そうだね
能力というより人格的な問題で
魏延の位階が極端に高かったのは諸葛亮が宥めるためだったんじゃない?
作戦は採用出来ないけど不満をぶちまけて不和を大きくされても困る
でも人材として前線から引き抜くのも惜しいし、やる気をなくされても困る
それで実権は与えないけど名誉を与えて自尊心を満足させてやり
いわば飼い殺しにしたと考えればどうだろう?
そういう方向性の考えかたはありだけど、
飼い殺しというにはさすがにどうかな。
むしろ充分に活用していると思うんだが。
アレ以上はもはや専断権を与えるしかなくなる。
そうれもそうか
じゃあ飼い殺しは撤回
どちらにしろ魏延のゴネ得という事で
毎回ゴネてたらしいし
なんか急に魏延がツンデレキャラに思えて来たw
文句は言うけど命令には忠実だし
「あんたがしっかりしないからアタシまで迷惑してんだからね!」とか
「任務だから仕方なくで、別にあんたの為に戦ってるんじゃないんだからね!」
ダメだ俺w逝ってくる
そのあたりを物凄く好意的に見るならば
張昭や程cのように組織のためにあえて直言を恐れず、
といったところだろうか。
「直言を恐れず」と「個人的不満を漏らす」を同一視したら
流石に張昭とかが怒るんじゃないかな?
うん。だから物凄く好意的に、という話ね。
さすがに「怯」とは言わないもんね。
「拙者は先帝の恩顧に報いんとウンヌン!」
と血の涙流すくらいでないとなぁ。
魏延は名将だという結論に達したな
確かに諸葛亮は魏延を厚遇したと言って良いと思う。
だが、よく考えてみよう。
劉禅が即位する以前から、魏延は鎮北将軍だった。
この上には四方将軍、四征、四鎮大将軍、鎮軍大将軍、驃騎将軍、車騎将軍、衛将軍、大将軍だけ。
郭淮らを破った後、呉懿と共に昇進したが、その時、
魏延が征西大将軍、呉懿が左将軍で、将軍位では魏延が上になっているが、
そもそも呉懿は討逆将軍なので、討逆→左将軍と見れば、
出世の度合いは鎮北→征西大将軍の魏延より上なのではないだろうか?
魏延が諸葛亮麾下で第一位の将軍に納まったのは、劉備の代でほぼ決まってた事なのではないだろうか?
真に重要なのは将軍位ではなく、やはり節を仮された事だと思う。
241 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/13(水) 23:53:03
>>240 うん、劉備時代、関・張の後釜となる人物として劉備は諸葛亮と魏延を選んでいたんじゃないか、と言えるかもしれない
その二人に割り込んだ形なのが李厳だが、李厳は先に失脚し、結局実質NO2は魏延のままで変わらない
官位やその背景としてある経緯からは、諸葛亮死後は魏延が蜀を背負って立つようになってしかるべきな訳だ
しかし実際には(事実かどうかはともかく)諸葛亮死後の撤退の指揮は楊儀が行ったとされ、後継者にはショウエンを大抜擢していたとされている
ここで重要なのは、この順番を信じれば魏延が殺される前から魏延外しが行われていたということ
劉備が敷いていたレールはここで荊州閥が敷いたレールに切り替えられたということになる
諸葛亮の魏延に対する厚遇は、魏延が生前劉備から信任が厚く、
生き残った最後の「劉備派」有力者ということもあったのかねぇ。
魏延がある種、かつての劉備集団を象徴する存在になっていたとか。
諸葛亮と魏延の間には先主劉備という共通の核が存在したが
諸葛亮チルドレンには諸葛亮という核しか存在しなかったのか
とかセンチメンタルな想像をしてみたり。
243 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/14(木) 00:11:12
>>242 松っちゃんが力いっぱい否定してたあの魏略の記事って、つまり敵国から見たら、
「劉備から特に目を掛けられていた魏延が同行していたんだから、諸葛亮死後の指揮は魏延がするのが当然だろうJK」と感じる、
ということだと思うんだよね
しかし実際には諸葛亮チルドレンが(魏延がいたにも関わらず)魏延の代わりを務め、魏延死後は呉壱ら官位・軍歴で明らかに上位にいる者を押しのけてチルドレンが最高権力者の地位を寡占した
内外誰から見ても楊儀・ショウエン・ヒイらの動きは相当怪しく見えたと思うんだよな
>>241 荊州閥という話には、俺自身は懐疑的な見方をやめてないので、
その劉備から荊州閥へ、という話には、議論の余地があると思う。
ただ、劉備の魏延に対する期待は本物だろう。
魏延が鎮北将軍になった時、車騎に張飛、驃騎に馬超がいたが、
四方の名は見られず、恐らく空位だった事を考えれば、将軍としてはそれに次する形になる。
四鎮の名も魏延の他には見られないしね。
そういや、李厳もよく分からんな。
それまでは雑号将軍+郡太守だったのに、突然の尚書令抜擢。
以後は、劉備の遺詔を受けて中都護にもなったり、一気に諸葛亮に次する位になってる。
あれって本当に孔明の指示だったのかなぁ
孔明と魏延って「劉備派」の最後の二人なんだよねぇ・・・
>>244 尚書令になる前は輔漢将軍だし、輔漢将軍になる時には劉備留守の南中反乱を抑えるという功績があったから、よくよく考えればありえない出世でもない
魏延同様、劉備が実力と自分の死後の首脳陣として期待したということだろう
諸葛亮と魏延の間に割り込むのは、それはやはり士大夫の壁じゃないかと思う
そう考えると、「劉備派」であって、「諸葛亮派」ではない存在というのは
諸葛亮チルドレンが主導権を握った状況では、すこぶる目の上のたんこぶ
というのは想像に難くない。
李厳の諸葛亮の死に対する絶望も、その文脈を踏まえたものなのかも
しれないねぇ。
>>244 そういや輔漢将軍だったわ。
ただまぁ、尚書令抜擢はどうなんかな、と。
李厳が抜擢されたのは、恐らくは仰るとおりで、劉備に認められたからだろうとは思う。
ちょっと思ったのは、劉備が蜀を平定した後、各郡の太守や、県の長や令を任命したが、
これに、今後の政権運営で抜擢すべき人材を見定める意味を持たせたのかもしれない、という事。
この益州平定後の人事で、劉璋の下にいた人材が多数太守とかになってれば、
そういう考えも補強されるかもしれんが、調べてもそうでもないから、あまり自身は無いが。
李厳弾劾の上表を眺めてたんだが、これの署名を見ると、当時の軍の重鎮、
すなわち、魏延、呉懿、袁綝、高翔、呉班の5人の内、節を仮されてるのは魏延のみ、
また、諸葛亮の幕府に入っていたのも魏延のみだという事が分かる。
この辺を突き詰めて考えると、何か分かるかもしれない。
個人的に、魏延に節を仮したのは、この後、つまり第四次北伐中か、或いはその後の北伐において、
彼にある程度の裁量を許す別働隊を任せての作戦を実行するつもりだったのではないか、と思う。
お笑いスレかと思って覗いて見たら、
お前ら、スゲ〜〜ナ〜〜w
将軍位ってどうなんかな。
魏延だと鎮→征で昇進になってるが、趙雲だと征→鎮で昇進になってる。
李厳は劉備に帰服前も後も政務・軍務の両面で手腕があるし、
あの当時の蜀では順当な人選だと見て良いのじゃないかな?
魏延の場合、実は劉備に信頼を受けたといいつつも、
北伐が始まるまで彼の功績は蜀平定の時しかないわけだから。
劉備は魏延に武官として期待はしてても、
政道を委ねようとは思ってなかったと思う。
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/14(木) 13:47:45
>>251 確かに劉備も魏延を蜀全体の指導者にするつもりはなかったかもしれないな
でも、北伐中に諸葛亮が死亡してから撤退するまでの間というのはほぼ純粋に軍事の事だ
そこで魏延をあからさまに外すというのは、劉備の遺志を無視したものと言えるのではないだろうか
諸葛亮の決定だとしたら、諸葛亮が主劉備の遺志を無視したことになる
>>251 魏延は鎮西将軍から征西将軍への昇進ではなく、鎮西将軍から四征「大」将軍への昇進。
蜀では四鎮から四征への昇進の例は無かったはず。
史書による昇進の例から分かる蜀の将軍位の序列は、
四征<鎮軍・輔漢<四鎮<四方<四征大<鎮軍・輔漢大<四鎮大<衛将軍etc
だな。閻宇の右大将軍を四方大将軍とするならば、四鎮大将軍と衛将軍の間にそれが入る。
>>252 どこを立て読み?
>>253 蜀の将軍位って名前ばっかりって気がするね。
征・鎮の将軍になっても全然、軍権がついてないし
職掌として与えられた官職の方が実態に近いよね。
縦読みとか、つまらん煽りを何でしたがるのかね
独裁チックな蜀の丞相の位が全て悪い。
撤退時は楊儀が丞相の可能性もあった筈だから魏延は相当焦ったんじゃないかな
楊儀が丞相って、それ蜀にとって何て罰ゲーム?って感じだしな。
それはそれでちょっと想像してみたいイフではあるね。
秦檜のようになるのかどうか。
>>255 別に煽りでもなんでもなく、話が飛び過ぎてイミフってだけ。
劉備は魏延を軍事の統括者に指名してたの?
そういえば楊儀についた軍人は王平と姜維辺りだったと思うけど、魏延の反乱時はこいつら、蜀軍にとって主流派だったのかな?
寝返り組だから軍の核、中心人物になるのは困難な気もするんだが
もし非主流派だったら魏延の失脚を画策したように見えてやな感じ
と、ふと思ったことを徒然と書いてみる
ふたりとも諸葛亮によって引き上げられたって点なら共通してなくもない
姜維とか、別に諸葛亮の死の直後に軍の中心になったわけではないよ。
姜維は征西(征南?)将軍から輔漢将軍と、将軍位は上がったし、
諸軍を統率した、とは書かれてるけど、一人ではなく、ケ芝や張翼と共に行ってる。
王平にしても、諸葛亮死後、車騎将軍に昇進し督漢中として漢中を統括した呉懿の副官。
王平は名前が無いけど、李厳弾劾の上表を見る限り、姜維は、
呉懿ら軍の重鎮、ケ芝や劉邕らの一世代上の奴らに次ぐ辺りに名前があるので、
若手のホープ的な位置だろう。
劉敏の位置を考えると、王平も姜維とほぼ同じ辺りだろう。
次代の軍を担う存在として、彼らが重要な位置に置かれても、さほどおかしくは無い。
>>362 姜維が諸葛亮の死の直後に軍の中心になった、とはいくらなんでも思ってなかったさー
もしそうだったら姜維が真っ黒すぎるし、疑う人だっているだろう
この件は寝返り組がこの後、蜀軍の中核を担って行くのに少し違和感を持ったっつーはなし
魏延の件が関わっていたら面白いなー、と
こいつらが重要な位置にいることがおかしくないなら何も問題はない
王平は、街亭では致命的な大敗に至るのを防ぎ、祁山では張郃を退け、
丞相参軍・討寇将軍ではあるけど、青羌からなる五部を統率する実力者だから、
その能力を買われて呉懿の副官というのは、ありうると思うよ。諸葛亮にも高く評価されてるし。
姜維に関しては、魏延の件と言うよりも、諸葛亮、蒋琬と、
どちらの宰相にも高く評価された事が何よりだと思う。
鎮西大将軍になった頃とかは、まるっきり、諸葛亮にとっての魏延のような位置だと思う。
まぁ、魏延と違い、この時点では孤立する事はなかったけど。
単純に比較はできないが、諸葛亮没後の姜維は、
「魏延が周囲と上手くやれていたら」というのを考える上で参考になるかもしれない。
結局、劉備から諸葛亮ラインにおいて格別引き立てられたにも関わらず
魏延が軍の主流派になれなかったのは、彼の人格のせいだろうね。
又性矜高,當時皆避下之
という一文が示すように、魏延は対人関係に難のあるところが伺える。
もし魏延にもう少し周囲と上手く付き合ったり
人の心理を読んだり、場の空気を読んだりというスキルがあれば
将の将として、軍を統括することも出来たかもしれないね。
そもそも、諸葛亮の遺命は撤退に関する処置のみで、その後の人事に関してではないだろう。
それ以前から、諸葛亮は密かに上表し、後継者が蒋琬である事を劉禅に伝えてたのだから、
諸葛亮死後に行われた人事は、そっちの上表に沿ったものだと思う。
仮に遺命がでっち上げだったとしても、その後の人事の方針が大きく変わる事は無いだろうね。
魏延を排除した事で変わったとすれば、その上表にけちをつける輩が一人いなくなる、という事だろう。
>>265 確かに、彼に協調性があれば、また違った結果になったと思う。
楊儀に忍耐力があり、魏延に協調性が有ったなら…
楊儀の場合、協調性もやや難ありだよな
季漢輔臣賛とか本来なら全員褒めるべきところに
わざわざ欠点を書いたりもしてる
元々一言多い奴だったと思う
そのくせ魏延に絡まれると涙目だし
鬼の形相で剣を突きつける魏延
子供の様に泣きじゃくる楊儀
その様子を苦々しく見守る孔明
劉封を危険視して処刑しさせてる割に孔明がなんか手緩いよな
お前が楊儀が嫌いなのは分かったが季漢輔臣賛はだすな
これだと魏延が節義もなく反乱を起したと書かれてる
軍事の魏延に事務の楊戯
どっちも外せなかったくらいに能力はあったんだろう
>>268 楊儀が現代の日本にタイムスリップしたら
案外しっくり来るかもね。粘着うぜーとか言われて
憤慨して自作自演とかしそう。
孔明には馬謖などを使ったりと、
人を見る目がないやつだから、
魏延を用いなかったのは孔明の目の悪さ。
これを孔明が楊義に伝言したから魏延がキレた。
悪いのは孔明
おいループすんな。
ループするな、とは言わんが、ログと空気はある程度読んで欲しいね。
劉備が魏延をどのように見ていたか、というのは難しいところだな。
魏延が守った漢中と並んで重要な拠点である江州とライ降の都督は、
劉備の時代には、江州が費観、ライ降が李恢だな。
費観と李恢、それに魏延を比べると、将軍位は魏延が最も高く、
権限は李恢が最も与えられていた。費観は両者に待遇が劣る。
魏延の鎮北将軍は、黄権が魏に降った結果だし、
多分、黄権に対する期待の方が魏延より大きかったのだろう。
その前の鎮遠将軍の核は分からんが、劉備を漢中王に推挙する際、
征西将軍黄忠に次ぐ位置で鎮遠将軍頼恭の名があり、その次が揚武将軍法正なので、
雑号よりは上だから、やはり将軍位は費観、李恢より上だな。
馮習や張南とかよりは上なんかな?
馮習や張南のほうが記録にのこっとらんので何とも…
そうなんだよねぇ。
馮習は南郡出身で、よく分からんが夷陵の時に呉班と並んで左領軍となり、
陸遜伝に拠れば大督だから、夷陵の指揮官連中では抜けた位置にはいる。
呉班クラスとすれば、諸葛亮の時代で言えば魏延の方が少し上かと思うが、
劉備がどう見てたかまでは分からないからなぁ。
個人的には、「劉備は魏延に軍事を委ねようと思っていた」というのは飛躍しすぎかな、とは思う。
後の蜀を支えるべき有力な将軍の一人、とは思ってただろうけど。
馮習は季漢輔〜でも、「彼の判断の誤りが夷陵敗北をもたらした」というような内容で書かれるくらいだから、
前線指揮官の中で最も権限があったんだろうね。
劉備は、自身の生きている間は「常に自分が前線の最高指揮官である」と思ってたんじゃないかなぁ。
人に任せると言う発想自体が無かったんじゃないかと。
強いて言うなら「張飛」を頼んでたろうね。
優秀な指揮官だし、漢中に充てなかったのも張飛自身の性質はもとより、
彼を大将軍のような立場にして中央に置くと考えれば、さほど不自然ではない。
年嵩の自分よりも張飛が先に死ぬとは思わなかったろうしなぁ。
ごめん、連投になるけど、張飛は何より「外戚である」ってのを書き忘れてた。
281 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/16(土) 02:24:09
なんだか変なのが住み着いたのー・・・
ここは楊儀が立てたスレとはいえ魏延さんスレであろ。
知識をひけらかしたいのであれば他に相応しい板があるだろうに・・・
貴方の好きな政治家諸葛亮でもそのくらいの空気は読める、
見習うべし。
そろそろ勘弁して下さい・・・orz
そして魏延さん名将!
魏延一人の事を調べるのにも、結局は蜀全体を調べてかなきゃ何も分からんってのが現状だけどな。
こういうレス見るとマジで空気は読んで欲しいと思う
何だかんだで一次資料が不足し過ぎてるんだ。蜀は…
そうだな
どんだけ調べても推測が混じっちまう当たり厳しいよな
ただでさえ資料の正確性が分からんのにさ
史料に関してはどうしようもないからねぇ。
現存する、自分の触れられる史料で考えていくしかない。
if多すぎ
ifを全く認めないなら「史書に目を通せ」で終わっちまうのが蜀なんだよなw
多すぎって言うほどif話をしてたかね?そうは感じないが。
将軍位がどうの、官職がどうのって話には、皆飽きてきているかもしれないが。
他に話す事と言うと、第一次北伐の魏延の作戦とか、呉懿と共に羌中まで前進した時の事とかか?
北伐の別働軍の話は突き詰めれば詰めるほどドリームな感じの評価になるしなぁ
羌中戦でも考察するかな?
魏延の武功で具体的なのってこれだけだし
誰も語らんようなので、気付いた事を少し述べる。まだ考えがまとまってないが。
羌中への前進は、魏延と呉懿の二人で行ったと考えられているし、華陽国志ではそうなっている。
しかし三国志を読むと、「羌中」とあるのは魏延伝だけで、あとは、
魏延が陽谿で費瑤と郭淮を破った、という記述のみ。
因みに、資治通鑑にはこの戦いの記述自体無い。
そして、季漢輔臣賛に付されている呉懿の伝を見ると、ただ、
「魏延と南安の郡境に入り、魏の将軍費瑤を破った(与魏延入南安界、破魏将費瑤)」とあるだけ。
この呉懿の記述だけ読むと、南安の郡境(恐らくは襄武西北の陽谿)までしか前進していないように見える。
もちろん、呉懿は魏延と同道して羌中まで行き、この記述がその帰途の事を指していると考える事もできる。
だが、別の可能性も考えられる。
つまり、魏延と呉懿は、別々のタイミングで、別々のルートを通り、
陽谿にて合流した、という可能性である。「入南安界」が「会南安界」だったら決定的なのだが。
この場合、魏延は真っ先に出て羌中まで前進し、郭淮らを西方へと引きつける。
その隙に呉懿が南安まで出て郭淮らの連絡線を遮断して、これを東西両面から攻撃する、という形だろう。
ただそうすると、第四次北伐まで含めた諸葛亮の戦略の意図を考えるのが難しくなる。
293 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/23(土) 03:02:28
自分の中で魏延さんのイメージは
UFOのCMのドン・フライ。
アホっぽいけど強くて的確。
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/04(木) 01:04:09
羌中戦の話の最中申し訳ないんだか一つだけ教えていただきたい。
魏延は他人からはばかられたとあるが、他にもチョウギやトウシなど
様々な人のところにもそういった記述がある。
しかし魏書や呉書には見かけないのですがそれはなぜでしょう?
蜀の人だけが対人能力に不備があるとは思えないのですが
>>294 羌中の話は終わったようなものだから気にしなくていいよ。
例えば、有名な所だと、ケ艾なんかは「同僚と協調できなかった」とはっきり書かれてる。
性格の悪さを表すわけではないけど、魯粛も郷里で「狂児」と呼ばれていた。
甘寧とか潘璋とかの呉の連中には、法は守らないは人は殺すわって奴もいるし。
誇り高い人間が高位につけば、皆遜るものだから、蜀ではそういう例があったってのと、
性格から身の破滅を招いた人間を纏めて立伝しているから、蜀で多いように見えるだけだと思う。
やはり関羽のかわりに魏延を送るべきだった。
297 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/04(木) 15:59:11
というか、諸葛亮自身も親しまれていなかったよね。
厳しくて公平なんだから、心服、尊敬はされていたけど。
敬され遠ざけられてたな。
孟達とどっこいどっこいだろ
300 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/04(木) 22:42:00
寒門出身者の武将には結構多いんですね。張飛も劉巴に相手にされていなかったし
名士じゃない人と名士は上手く行きにくいものなんでしょうか?
比較的田舎な呉も周泰は苦労しているし。
ケ芝は十分にいい家柄なはずだけど・・・
301 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/04(木) 22:46:23
>>300 ケ芝に魏延と楊儀や張飛と劉巴のような差別エピソードあったか?
子午谷を使い漢中から長安に攻め入った例はあるのか?
303 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/05(金) 03:08:05
あ、ケ芝は他人から避けられたって奴です。いい家柄でも、
避けられる奴っているんだな〜と思って。
魯粛と同タイプじゃね?>ケ芝
才能はあっても変わり者だと思われれば、保守的な連中は離れていくだろうし。
それよりオレの携帯のことなんだが
漢字変換で
張巍の「巍」の字はあるのに
ギ延さんの「ギ」の字がないんだ。
コイツをどう思う?
>>297 陳舜臣はエッセイで、諸葛亮は人好きのするタイプじゃないかと言ってる。
孫権の甥から貢がれていたり、関羽を手紙で「ヒゲ」呼ばわりしたり、帳簿を
めくっていて部下に「それはアンタの仕事じゃない」と注意されたり、本質的
に諸葛亮はあまり堅苦しい性格じゃなさそうだと思う。
諸葛亮=キャゼルヌ先輩
>>306 恐れて之を愛すだからね。
真面目で公の事には厳正だけど、憎めない人柄だったんだろう。
厳しいだけなら人は離れていくし、敬愛の情をもたれる事はないからね。
魏延もそういう厳しいけど、親しみやすい性格なら良かったのにね。
古代中国の戦争はどうにも洗練されていない感じがするね
紀元前後のギリシャとかアレクサンドロスでもハンニバルでもいいが戦術として完成されつつあるが
中国はそうだとは思えない
それを論じるほど記録が無いw
確かに、ギリシャのファランクスみたいな「古代中国といえばこれ」的な
戦術・戦法は伝わってないね。
武よりも文を重んじる社会ゆえに、「戦争の記録なんていらねー」てな感じで
割愛されたのかもね。
まさにそうだろうな。
何でもかんでも一つ普遍的な価値観があってそれ以外が否定されるような社会ってのは、
歴史すら失うという証左だな。
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/06(土) 16:23:32
西洋の場合、異民族同士の争いが多いということもあって、
如何に会戦で敵を葬るかの具体的な手順に対する関心が強かったのだろう。
翻って、中国の場合も確かに異民族との争いは多かったのだが、
それにしてもその多くは、城市を巡る攻防であり、
野戦においても「狄兵数千を斬る」という描写も史書に見られることもあるが、
基本的には討伐より宣撫を上策とし、
討伐の際も殲滅にこだわらず、追い払って済ますようなところがあった。
(特に機動力に勝る遊牧民相手だと、殲滅しようとしても振り切られる、という側面もあっただろうが)
孫子の兵法もそうだが、
戦争そのものよりも、「何のために戦争をするのか」という戦争目的の達成を重視し、
「戦わずして勝つが上策」とされた。
故にこそ、戦術論も、
西洋のような具体的な各論ではなく、
基本原則を解析した概論・総論であるがため、
西洋の軍記物のような華やかさには欠けるが、
戦術論としての汎用性には優れている。
「兵に常勢無く、水に常形無し」というやつだ。
八陣図は?
ファランクス戦術は、「兵に常勢無し」の典型
確かに、一時は地中海およびヘレニズム世界最強の戦術ではあったが
孫子や呉子などの兵法家は、
「戦場でファランクスを如何に破るか」ではなく、
「ファランクスを無力化する10の方法」を重視したわけで。
「そもそも敵対しないで、うまく味方として使おう」
「敵になりそうなら、戦場で出会わないようにスルーして進軍してしまおう」
「会戦が避けられない?事前に部隊長の何人かに調略を仕掛けていますが?」
「調略が失敗?しかたない、相手の英気が衰えるまで戦場を引きずりまわしましょう。」
「じゃ、身動きとりにくいところに釣れたことだし、そろそろ伏兵と迂回軍と連携して攻勢にでましょうか」
ここまでのうち、たいていは早い段階で「戦」を終わらせてしまう。
魏延の危うさは、あくまで決戦至上主義であったことであり、
ゆえに無類の強さを誇りながらも、蜀軍で人望を得られず、小人に粛清されてしまった。
同時代の西洋なら間違いなく無類の名将だ。
アレキサンダーの部下で言えば、エウメネウスの最期に近いところがある。
世界史板から見たら失笑買いそうなスレだな
実際どうなんだろね
優劣の問題ではなく、西洋と東洋の関心の対象が違うんだと思う
確かに古代中国では
敵を撃破すること以上に恭順させることを重視していたところがあって、
時代は違うけど
韓信が高祖に進言した関中平定策も、
李左車が韓信に進言した燕攻略も、
戦場での実践的戦術論ではなく、戦略または政略論だった。
これを大局的と見る向きもあるが、
むしろ、古代から近世に至るまで中国知識人を蝕んだ実学軽視の表れ
といえなくもない。
(まさにそれゆえに近世までのリードを生かせないまま近代化で遅れをとったのだが)
とはいえ、韓信が本来は戦略家以前に優れた戦術家であったのは、井陘の戦いの描写からもわかる。
韓信の事跡の記録を見ても、中国では古来、戦術論にはむしろ無関心ですらあったことがうかがえる。
また、西洋では具体的戦術論が重視された反面
敵を恭順させるということが軽視されていたところは
確かにあったのではないか。
時代は大きく下るが、ナポレオンの凋落はここに端を発しているといえたのではないか。
軍事的征服はともかくとして、統治、特にスペインにおいてナポレオンの大陸支配は当初から瓦解しつつあったわけで。
>>318 笑うなら笑え。
オレ自身、もう少しちゃんとしたものが書けたらと思うが、
それができるくらいならしかるべき道に進んでいたさ。
古代中国は「ごめんなさい」言ったら、その時点で戦争やめちゃうからな。
まじめに異民族対策やってた連中が閑職に回ったりして…
具体的な記録が皆無なのに西洋では無類の名将とか
その辺の結論付けが笑えるということでは?
三国時代では、
公孫瓚と劉虞の対鮮卑戦略の違いという例もあるね
あ、
あれはココが「ギエンスレ」なので勢いで垂れ流したリップサービス。
正直オーバー過ぎたし本気であんなこといえないし、そもそもあれを結論だなどと思われることはちょっとだけ遺憾。
ギエンが出てこないハナシに無理矢理オチをつけようとしてしくじった。
とはいえ軽忽のなせる業なので
存分に失笑していただきたく
まあまあ、俺は魏延好きなんで名将と言われてて嬉しかったよ
もちろん、「名将」は言い過ぎなんだけどさ
魏延をうまく操縦できるだけの器を持っていたのは、
先帝と共に苦労を分かち合った世代だけだったということだな。
諸葛亮の死により彼にとって一目置ける人物がいなくなっちゃったのが不幸。
劉備軍団から蜀漢王朝への変換期において適応力不足で犠牲になった個性的な勇将。
名将かと言われるとどうかなとは思うが。
孔明との子午谷論争以外で戦略に絡むエピソードがあればよかったんだが
民政上の事績もとくにないしなあ
どうしても叩き上げの猛将というイメージが強すぎるよね
結局ループだが、
「史料が少なすぎる」ということなんだよな。
敗者の側である蜀に関する史料からして少ないし、
魏延はその蜀の中でもさらに権力闘争の敗者だもんな。
加えて、陳寿の記述はあまりに簡潔すぎるし。
しかし、陳寿があんなにシンプルな、
およそ必要だろうというような注釈や説明すらも省いて「三国志」を著したのは、
ひょっとしていたら想定していた読み手があまりにもゆとりだったからかもな。
ちょっとでも長文を書いたら
「この漢文のどこを縦読みしたらいいんだよ」
なんて言いやがるもんだから、
キレたんじゃね?
>>327 信憑性の薄いものはできるかぎり排除したんだ
だから三国志の史的価値は非常に高いわけだ
ハイショウシ注も出典を明記してるし、十分に広がりがある
>「この漢文のどこを縦読みしたらいいんだよ」
というジョークです
魏延は魏でいうと張コウに匹敵するか、一歩及ばないってくらいかな?
さすがに張コウ以上とはいえんけど、そのくらいはある気ガス
>>325 演義準拠で言えばだけど、李厳はそれを自覚していたけど、
魏延はそれを認識できなかったんだろうね。
二人とも末路に恵まれなかったけど、どちらがまだ幸せだったと言えるんだろうか。
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/10(水) 21:47:24
関羽に推挙され、黄忠と組んで西川攻略、張飛と組んで張コウを撃破、
劉備に漢中太守に抜擢され、南蛮攻めでは趙雲と組む人気者
問題は孔明にあるな
前段が何一つ結論を導いていないようだが。
同意
頭がおかしい人なのかな?
335 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/10(水) 23:06:06
徐庶に推挙され、魯粛と組んで曹操攻略、張飛と組んで蜀撃破、
劉備に丞相に抜擢され、北伐では姜維を見出した人気者
問題は魏延にあるな
前段が何一つ結論を導いていないようだが(笑)
337 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/11(木) 00:25:52
同意
頭がおかしい人なのかな? (笑)
なに、このひどい自演
>>314 呉子、六韜ともに部隊編成からと具体的に書いてるぞ
僕の見方は
魏延 確かに 武力 90 智力 79 以上の人物だ
諸かく亮 より 統帥の力が低くて 貧乏でず
三国の中に 命が永い人あっての 歴史の進展の継く可能性があります
さあ 始めるぞ
英雄の彼 不死の伝説
僕は チャイナー
昔、鉄道建設かなにかの予定地に
魏延さんの廟があったんだが
躊躇なく取り壊して再建されないままらしいんだ
わかってないヤツが多いよな
342 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/25(木) 23:15:09
>>340 魏延が反逆してなければ、もっと詳しい伝記が残されたかもね。
>>342 それはネタにしても笑えないわ。
僕の意見は
四川 その地震 全国人までお金お募集していた
寄付の活動が それぞれに 起こっています
再び 紹介します
僕が中國人 先祖は関羽の故郷 東北地方のシンヨー
朝鮮血統 名前 スズミヤ と 参上
雑劇だと魏延の臉譜は赤色(または紫色)なんだよな。関羽と同じで。
一時期、民間では魏延を今みたいな裏切り者扱いをしてなかったんじゃないかな。
素人目には京劇の関羽と魏延は区別つかないな
どちらも赤と黒が基調で
意味は
赤が忠節、黒が勇猛、だっけ?
まぁ、どちらも勇猛で、劉備にだけは忠節一途だったな。
三国志平話だと、演義とは比べもんにならんくらい強かったような記憶が。
魏延て特別劉備に忠節だったかなあ
関さんは正史にも有名なエピソードあるけど
魏延が特別忠義者だったってのは妄想の部類じゃない?
妄想というと表現が悪いが、
まあ言わんとすることは分かる。
確かに魏延だけが忠義者だったエピソードはないからね。
演義だと信仰心のレベルだが、アレは忠義じゃないよな。
文句いいつつも、諸葛亮の指示に従う魏延
諸葛亮を絶賛しつつ、指示に従わない馬謖
文句も言わず、諸葛亮の指示に従うその他
どうみても他の人の方が忠義者だよな
>文句も言わず、諸葛亮の指示に従うその他
これって間違いだと思っても、反論せずに従う人も入るよね
一歩間違うと妄信、狂信になるんで、一概に忠義者というのは微妙
例外はなんにでもあるさ
だからといって魏延が忠義者とはいえない事に変わりはない
魏延は名将で主君にとっても良き武人だという結論に達したな
魏延は猛将だけど空気の読めない困ったちゃんという結論に達したな
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/03(金) 01:36:42
しかし、魏延は比較的諸葛亮の指令には従っていたほうだと思うがね
独断専行や命令違反はよくあることだしなぁ、
関羽の独断はソレこそシャレにならなかったし、
馬謖も命令違反の上、報告の遅れが事態を悪化させている。
そんななか、魏延の独断は、
戦場での先駆けの抜け駆けとか、そういうレベルで収まっていた。
少なくとも諸葛亮の生前は。
戦略面の対立もあったし、そりが合わなかったとはいえ、
諸葛亮も魏延を戦力としては当てにしていたわけだし、
魏延も諸葛亮の指令は着実にこなしている。
魏延の破滅はむしろ諸葛亮の死後であるし、
諸葛亮死後の事の経緯も、
生きて帰ってきた楊儀、費イ、姜維らの報告に基づくものだろうから、
むしろ、何か別に裏があるんじゃないかとかんぐってしまう。
・・・もちろん、裏づけが永遠に出てくるはずのない妄想だが。
逆
言っとくが基本的にどの時代も軍法違反はもれなく死刑だぞ
よって関羽の軍事行動は命令下のものであると考えた方が自然
馬謖は敗戦の責任を負っただけで軍法違反による刑死ではない
よくある、といえば言葉が過ぎるが
ちょくちょくあるからこそ
刑が定められたんだろうが
加えて、いわゆる抜け駆けのようなことは
毎度毎度ではないにしろ、起こりうることだ。
また、
関羽が命令で動いたというのは超解釈
魏延の独断って演義の話じゃね?
正史魏延は文句は言ってるが背いた事はないと思うが
>>359 だから諸葛亮に処刑されなかった魏延さんは軍法違反なんかしていないんだよ。
不満はあっても蜀のため、大義のために指示通り動く…漢じゃないか。
魏延は諸葛亮の部下ではあり続けた
あるいは、諸葛亮こそが、
劉備の死後、魏延の寄りどころだったのか
いずれにしても、魏延の非業の死は、
同僚との対立と人望の欠落によるもので
諸葛亮の死こそが引き金であったわけで
>>360 だから軍法はそれを防ぐために作られたわけで違反は規模と身分と状況によりけりだが司令官なら普通殺されるんだって
官位の高い人間が軍法違反したらまず確実に処罰受けるし歴史書にも確実に書かれるから
抜け駆けというのがどの戦闘のどの段階で程度の規模の物を指すのかは知らんが
独断で軍を動かすのは反逆と全くの同義。そんなことがちょくちょく起こると本気でおもっとるの?
また関羽に対外への軍事行動を起こす権力は無く単独の軍事行動であるという方がよほど超解釈
>>362 当時指揮権がどちらにあったのか知らんし、その後の経過もわかりかねるけど
結果的に魏延が自身の指揮下の前部部隊を率いて元諸葛亮の軍勢の後退を妨害したのだから、
これはさすがに軍法違反ではないというのは無理があるんじゃ
ただ役職パッと見楊儀が魏延を差し置いて指揮を告ぐというのは不自然に思う
俺も詳しくないからよくわからんが
366 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/03(金) 23:04:11
>言っとくが基本的にどの時代も軍法違反はもれなく死刑だぞ
>よって関羽の軍事行動は命令下のものであると考えた方が自然
「よって」、という接続詞の用法を間違えてないか?
前後の文に因果関係はないんだが。
大体、関羽は軍律云々以前に「敗死」してるしなぁ。
問責しようにも、「関羽は既に死んでいる」からなあ。
367 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/03(金) 23:05:29
>また関羽に対外への軍事行動を起こす権力は無く単独の軍事行動であるという方がよほど超解釈
軍を動かせと、劉備なり諸葛亮なりが指令した、という史料がどこかにあるならいざ知らず、
なんのソースもなしに、
「こう考えたらオレの中では辻褄が合うので、これが自然だ」というのは超解釈以外の何物でもない。
そして、状況証拠で言うなら、
関羽の独断であった、関羽に北上の指令なんか、まったくなかった
というほうがより「自然」だ。
第一には、同僚の士仁、麋芳や孟達の関羽北上時の反応だ。
もし、北上指令が関羽に下っていたのであれば、
同様の指令あるいは北上に協力する旨の指令が荊州諸将に下っていなければ、ずいぶんと中途半端な指令である。
そして、指令があったにもかかわらず、彼らが関羽の支援をサボタージュしたなら、
ソレこそ重大な命令違反であり、史書に残らないわけがない。
だが、そんな記述はどこにも「ない」
つまり、麋芳や孟達はあるいは裏切り、あるいは関羽を見捨てたが、
「関羽の北上を支援しろという命令を破ることだけはできなかった。なぜならそんな命令はなかったから。」
ということだ。
となると、関羽に北上命令が出ていれば、
ソレは、他の荊州諸武将を動員しない、という、ずいぶんと中途半端でいい加減なものであったということだ。
それは「自然」なことだろうか?
第二に、益州から荊州への支援、増援の記録がない。
漢中との連携も取れておらず、バラバラの軍事行動である。
そもそも、三分の計の一番の要は、益州・漢中方面と、荊州との連携による、二面作戦である。
しかし、関羽が北上したのは、定軍山で曹操が釘付けにされていたとき「ではない」。
そのため、于禁らの援軍の派遣が可能であった。
魏の援軍が水害にあったのは僥倖でしかなく、このような綱渡りが「天下三分の計に基づく益荊の連携」だとしたらあまりにお粗末である。
つまり、関羽の北上は蜀の本来の戦略から真っ向反している。
そんな指令があったという解釈が「自然」といえるだろうか。
ま、これらとて、所詮状況証拠に過ぎないが。
長文の上に魏延スレでスレチ、
しかも、sage忘れてageちまった。
丞相閣下に処断されてくる。
関羽は荊州の軍政権を一任されてたと考えた方が自然じゃない?
当時の交通状況を考慮すれば関羽の行動が一々本営の指示を受けていた
と考えるのは荒唐無稽に過ぎると思うが。
北上はあくまで荊州内での話で、本来の関羽の所轄内だし
魏との敵対は規定路線だから別に関羽が曹操との敵対を決めた訳でもない
普通に方面軍司令官の権限内での軍事行動だと思うがね
しかし結局のところ蜀は劉備と諸葛亮
という二つの巨星で成り立ってたんだなあ
>>365 ちょいとおまいさん、それは諸葛亮死後の撤退の時の話かえ?
あっしのは「諸葛亮に処刑されなかった」ってとおり、諸葛亮存命中の話。
その後の話はしてないよ。
確かにある程度の権限はあっただろうし、
「瑣末なこと」なら自由裁量の範囲だろう。
まあ、小競り合い、あるいは急襲を受けての防衛戦ならば。
しかし作戦行動の規模からして、天下三分綱領としては、
少なくとも蜀本国と(この時点でどっちが本国かというと微妙だが)
連携をとって進めるべき性質のものだし、
裁可を逐一仰がなくてもいい場合でさえ、少なくとも事実経緯を逐次報告する必要はある
さすがに呉の急襲を報告しろというのは難しかったろうが(そのへんは呉の手際が見事だった)
半畳責めは蜀にいる劉備、孔明に通知してあってしかるべきだ。
蜀のほうで関羽の行動をどの程度把握していたかはわからないが、
関羽に増援を送っていないのならば、「その必要は無い」と判断していたからだろう。
その判断が、関羽の軍事行動を承認してのもの(関羽になら援軍は必要ないだろうという意識)なのか、
そもそも関羽の動きの報告を受けておらず行動を把握できていなかったということなのか。
前者なら、孔明の現状認識が非常に甘いものであったといえる。
(関羽の北上自体の進捗が順調であればなおさら防衛網が薄くなるため、増援がいらないはずが無い)
後者ならば、やはり関羽の独断、あるいは報告義務の過怠による自滅である。
いずれにせよ、本来の天下三分の計からすれば、
呉の侵攻の可能性を考慮しないで魏への攻勢に転じたという判断自体が誤りで荊州失陥の根本原因。
関羽の手勢だけではできることではないをやろうというのだから。
スレ違いじゃないかなぁ。
374 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/05(日) 19:12:49
魏延の五丈原での最期だが
つまりは撤収派と戦闘続行派の対立だろ
そして、北伐推進派の巨魁である孔明の陣中での突然死の後
撤収派によって魏延は亡きものにされた
なにか陰謀があったかもしれない
と妄想してみる
375 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/05(日) 19:17:41
>>374 実際あったかどうかはともかく、あったかもしれないと思わせる状況は
色々と妄想をかき立ててくれて、大変面白い
>>375 なにげに読んでいて気づかなかったwww
惜しむらくは戦闘続行派が、派閥ではなく魏延のみだったところだな。
そのくらい諸葛亮の遺言は影響力を持ってたわけだし、
撤収派というより諸葛亮の陰対魏延という構図じゃない?
諸葛亮の遺言が戦闘続行だったら状況は逆転したと思う。
違うよ。全然違うよ。
遠征を継続するかどうかで揉めてんじゃなくて、
だれが丞相軍の指揮権を継承するかで揉めてんだよ。
揉めるっていっても権限を委譲されたのは楊儀達だから、
諸葛亮の遺言に逆らった魏延には正当性がないし、
諸将も味方には付かないって話。
もし戦闘続行が遺言だったら魏延側に諸将が付いたろうに。
381 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/05(日) 22:52:09
陰謀を妄想するなら
そもそも
諸葛亮に後事を託されなかった楊儀が
五丈原からの撤収の指揮を任されて
しかも、その後、不遇の内に死んだ
という伝に
なにか怪しさを感じる。
主席幕僚だから
383 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/06(月) 01:18:12
幕僚クラスの人間が、外部に出ている上官を差し置いて、最高権力者の遺言を称して最高権力者の権力を独占する
構図は始皇帝の死後に趙高が権力握ったりしたのと同じパターン
>>383 なんか壮大な誤解をしてるんじゃないかなぁ。
魏延は位階が高いだけで、べつに楊儀の上司なんかじゃないよ。
楊儀は長史(丞相補佐、代理)なので、諸葛亮が死んで後を仕切るのは普通のこと。
魏延は丞相府の人間じゃないから、外部から口出ししちゃいけないんだよ本来は。
ただ、魏延が考えたのは多分、漢中軍の指揮権をもつ諸葛亮が死んだ以上、
指揮権は軍部最高位の征西大将軍府に移されるべき、ってことだと思うよ。
簡単にいうと、諸葛亮が統括していたあの軍のことを、
楊儀は、丞相軍だと思ってて(だから丞相長史が仕切るのが当然)、
魏延は、漢中軍だと思ってた(だから指揮権が委譲されるのが当然)ってこと。
魏延って中村紀洋みたいなイメージがあるな
ノリと違って魏延は殺されたけどな
でも魏延は征西大将軍でも開幕はしてないはずじゃ?
確か幕府を開いてたのは、諸葛亮とごねた李厳だけだったはず。
だから一旦帰国して新たに皇帝の裁可を仰がないと、
軍権掌握に正当性はない気がする。
それと諸葛亮が漢中に丞相府を移した時点で
魏延は督漢中ではなくなってるはず。
だから厳密には漢中軍の指揮権も魏延にはない。
指揮官が没したからとりあえず撤退しましょうや、という意見が大多数だったんだろうね。
間を取ってとりあえず漢中に魏延を指揮官とする一軍を配しておくとかできなかったのかな。
ま、楊儀と魏延の仲を考えると無理な話だけど。
漢中までの撤退自体を反対した感じだし
どこまでいっても魏延は軍人であって
政治的な正当性とか分からなかったんだろうなぁ
教養は無さそうだし
教養は知らないが、軍を率いる将なんだから頭が悪いわけではない、と思うのだが
>>389 軍務の事しか知らない可能性は大きいね。
漢中時代も政治的な功績はないみたいだし。
魏延に対する陳寿の評価がすべて、という気もするなぁ。
と、言ってしまうと実も蓋も無いんだけれど。
いびり殺されたのには確かに魏延の人格や人望にも問題はあったんだろうが、
謀反人の汚名を着せられたのは不本意だったろう。
ましてや少し後で、楊儀こそが
「こんなことなら魏に降っておけば」なんて発言をして処罰されるわけだから、
魏延の謀反は無実だろうし、
ひょっとすると撤退の妨害工作も事実ではないかも、と申そう
393 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/06(月) 23:37:54
魏の方ではこの時のことを魏延が後事を託された、と言ってるんだよね
魏延VS楊儀というレベルに集約すればそうだけど
もし本当に事実に反するならその場の人間全てが嘘に加担したことになる。
それは流石に妄想が先走りし過ぎだろう。
裴松之も言ってるが本伝と敵国での風聞なら問題にならないし
謀反人の汚名も自ら招いたことだから
ここを無理に擁護するのはどうかと思う。
魏延の軍事手腕と魏延が謀反人かどうかは関係がないし。
まあ、魏延厨としてはある意味正しい姿勢なのかもしれないが・・・
楊儀との不仲で謀られた魏延がかわいそうだって彼女が言ってた。
最近過大評価気味ですね。
それはわかっているんだよ。
比較的同情的な正史でさえ、
魏延配下の兵士は魏延の下から逃げ出したという記述があるわけで、
魏延は相応に人望に欠けていたのは確かなこと
けれども、そうは言っても、
嵌められたということも確かなわけで、
魏延ファンとしては
もともと決して十分な資料があるわけではないところから、
いかに話を膨らませるか、ということなんじゃない?
いや謀反人の話はいくら膨らませても軍事的手腕とは関係ないんじゃ?
謀略説を膨らませよう
と言ってるんじゃないの
魏延の憂鬱
401 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/07(火) 12:51:09
さあみんなで魏延の軍功を語ろうZE☆
402 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/07(火) 16:46:34
兵力7,000位で子午谷進軍させても良かったよなあ。
陳式もくっ付けて。
失敗してみないとわからないタイプだろう。
以後はちゃんと言う事聞くようになるさ。
夷陵では水軍を任され、北伐では一軍の総大将を任され、
諸葛亮の指示通りに武都・陰平を攻略した忠実な将ですがなにか?
確かに陳式は忠実な武将だよなあ
以下妄想なんで
前からでもウシロからでもツッコんでくれ
孔明にとって重要なのは
北伐の意志を明確に示しつつ
兵や国力の損耗をさけることではなかったか
子午谷進軍を却下したのは
事の成否に関わらず、それは不都合だったのかもしれない
いわば、北伐とは
蜀の存在意義のアピールとして、
あるいは国論の統一のための、
内外への示威行動であり、
(国力に大きな負担をかけない程度に)膠着した戦線で睨み合いを続けるのが、
諸葛亮にとってはベストだったのかもしれない。
そして、その判断はたぶん間違いではない
確かに北伐が諸葛亮でも魏延でも不可能に近いって事は
後世の事実を知ってる人間からすれば一目瞭然なんだけどね。
そもそも国力でも地の利(攻勢かける上での)でも
相対的優位といえる呉が、全くといっていいほど成功してないんだから
つまり、北伐で本気で魏を打倒するつもりだったのは、
魏延一人だったのかもしれない。
度重なる北伐を繰り返しながら、積極的後世を極力避けた諸葛亮や、
諸葛亮の死後、魏の幕僚のほとんどが撤退論に傾いたのも、
その本心は魏と対陣することであって、魏と交戦するところには無かったとしたら・・・
一人本気だった魏延はとんだ道化である。
だが、そんな魏延が大好きだ
飛躍しすぎ
魏延一人という言葉は大袈裟に過ぎる
が、出撃前の出師の表の積極性とは裏腹に
前線では慎重を通り越して消極的な孔明の采配は
適性に問題がないなら、本気じゃなかった、ということかもしれないけれどね
>>397 面倒見は良かったとも言われるのにな
北伐関係は全部碌な結果にならず滅びてるの考えれば
イチバチでも勝算すくなくてもやってみりゃ良かったのにって気はする
結果論だけどね
仮に成功して一時的に長安制圧できたとしても、維持できないと判断したんじゃねーのかな?
その場合、退路を絶たれて、魏延を含む蜀の最強野戦部隊が壊滅。
それは、蜀軍にとっては、致命的な損失になるからね。
魏延案の基本戦略は
俺 最☆強ww夏侯楙なんて戦わずに逃げますよJKwwwバッチ任して!
という自意識過剰なところに根ざしてるからね。
まともな指揮官なら
ちょっwwwオマwwwそれ兵法じゃねえwwwうぇwwwうぇwww
って答えても不思議はない。
でも実際オンナスキーの無能だったんだろ
長いこと漢中仕切ってたんだから
それを知って判断基準にしてるって考える方が自然だろ
名指しだしな
自分を韓信に比してたり、長安近辺なんて見た事もないだろうに
簡単に1万程度の兵で占拠・保持できると判断したり
自分を過大に相手を過小に評価する性格的欠陥が滲み出てるな
まあ、そんなところが魏延らしさなんだけど
夏侯ボウは武略はないといわれたけど無能ではないからね
野戦ならともかく、長安に籠もってたったの数日耐えたら
逆に蜀軍終了のお知らせが届いたろうけど
長安の守将を解かれた後も中央で尚書になっているくらいだから、
演義等で描かれているほど酷くはなかったんだろうね。
単純に貴族化した2世ってのが実状だったのかもね。
魏とまともに戦うなら
普通に戦えば魏を打倒する前に
蜀の国力が尽きる
だが、寄り合い所帯の蜀が打倒魏の旗を下ろしてしまえば内部崩壊してしまう
諸葛亮の北伐はそうした観点に基づいたものなら
そもそも子午谷から長安を強攻する意味はない
だが同時に、そのような出師はいわばその場しのぎの欺瞞であり
いずれは国力か戦意が尽きて蜀が崩壊してしまうのは避けられない
あくまで敗北の先延ばしに過ぎない
だからこそ、国力がまだ多少なりとも残っているうちに
乾坤一擲の勝負にでて
魏の内部に衝撃と混乱をもたらすほどの
派手な戦果を挙げるしか
蜀には勝利の目はなかっただろう
関羽の北伐による動揺さえ収拾した司馬尉をして
立て直しが効かないほどの戦果として
長安占拠ではまだ不十分な気もするけれど
逆に考えればいきなり大博打を打つより
順当に国境を荒らして人員や国土を収奪して
少しでも国力差をなくしたほうが正解といえる。
そのための北伐と考えれば魏の主力との戦いは
出来るだけ相手の首都から遠く蜀の国境には近い地域を選択すべきで
あらゆる観点から考えても長安強攻は全くの無意味でしかない。
長安が魏の首都機能を有しており
これを陥落させることが魏を揺るがす事になるなら
一国を賭ける意味もあるけど残念ながらそれほどの価値はない。
そうかなあ
魏の周りうろうろしててマジギレされたら潰されるだけじゃね?
時間が経てば経つほど国力の差は開くだろうし
そもそも国土の陣取りも失敗気味だったけどな
成功したかどうかは結果論で
戦略的に順当かどうかの話とは別問題
魏打倒を標榜している以上はマジギレとか関係なく潰されるし
上でも他の人が書いてるが
蜀が打倒を果たせる可能性はもともと高くないけど
少なくとも長安に玉砕特攻をかけるより遥かにマシ
特攻相手がもう少し値の高い相手なら良いけど
長安じゃ完全にハイリスク・ローリターン
そこで荊州失陥が重くのしかかるわけだ
司隷強襲も関中方面との連携も可能な荊州を保ちさえしていれば
対魏戦争の勝ち筋も僅かながらまだあったのだろうが
漢中から関中に進軍ルートが限られた以上、
もう蜀は詰んでいた。
あとはローリスクノーリターン(やや粘れる)か
ハイリスクノーリターン(奇跡が重なれば生だかほぼ確実に死)か
あるいは
政治家視点か現場監督視点か
それだけの違いでしかなかっただろう
どちらが正しいからもう一方かが間違い、
なんてことはなく、
お互いの立場上どちらも最善を尽くした戦略だったんじゃないか?
× ハイリスクノーリターン
○ ハイリスクレアリターン
たいしてかわらないなんて言わないで
う〜ん、というより相手の選定が悪いという問題だからなあ
もっと前の時代や、もっと後の時代なら長安には政治的な意味合いも含めて
重要拠点であったり副首都的な意味合いがあったりしたが
この当時は寂れた一地方都市でしかなかったんだよね
前漢の首都であったというノスタルジックな感傷を除けば
長安には掛けをするだけの価値がない
奇跡が重なれば、という前提なら長安を的にしなくても
諸葛亮案で十分で、街亭で奇跡的勝利を収めていれば
長安周辺だけでなく関中以西が手に入るので
こちらの方が勝ったときのリターンも大きい
当時の長安に政治的・軍事的重要性がもっとあれば評価も変わるんだけど・・・
>>421 荊州失陥は手痛いがそれよりも夷陵がトドメだと思うのだが
荊州を関羽が堅守していれば
そもそも夷陵自体がないな
結局桃園トリオが自らの手で国を立ち行かなくしてしまい、
残された者はその後始末と幻影に振り回されたということか。
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/09(木) 12:49:12
仮に街亭で魏軍を撃退したとして
魏の防衛ラインが下がるまでのこと
ようやく関中でマトモに勝負ができるというまでのことで
ただちに関中を制圧できるわけでもないだろう
さりげなく馬超の死も政略・戦略面でショックが大きかったかも
428 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/09(木) 14:06:54
街亭で勝ったころにゃ諸葛亮が隴右の制圧終わらしてるだろ
長安陥落させてもその後の展望がないのに較べりゃ比較にならない
まぁ街亭守りきれば長安を取れる可能性は高かった。後ろに憂いがない分だけかなり面白い戦況になっていただろうな
あとの北伐3回はノーチャンス
孟達で失敗馬謖で失敗
陣中もごたごたでそううまく行くとは思えんけどな
そんなに言うほど高いとはおもわない
ようやく条件が五分に近くなる程度じゃね?
敵地への遠征という立場の不利を抑えられるようにはなるだろうが
根本的に不利な要因がなくなるわけではないし
「普通の勝ち方」をコツコツ積み上げても
とうてい埋まる戦力差ではないだろう
官渡の数倍の戦力差をひっくり返すだけの強みが蜀にあっただろうか
あるいはそれだけの弱みが魏にあっただろうか
官途でさえ、奇跡であり、しかも、決定打にはなりえなかったのだ
北伐の蜀軍は官途の曹操陣営にまさるとは言えないのに対して、
魏軍の戦力は官途の遠紹軍をゆうに上回り、
しかも攻守の利は逆だ。
ならば、攻める側の強みをフル活用したかと言えば
似たような漸進と緩攻の繰り返しで
見せ球さえない
これで西方をどうやって魏から切り取れるだろう?
演義では、司馬懿も、もし俺なら、子午谷から攻める。
と言っている。あながち魏延の献策も、的外れではないようだ。
ただ、司馬懿に出来るから、魏延にも出来るとは言えないが・・・
街亭で勝ったということは東方からの数万の増援を撃破し
しかも当時では随一の戦歴を誇る宿将・張?を破る事になる
これは長安を陥落させるのより魏の衝撃は大きいよ。
張?に比肩するほどの戦歴と勇名を持った武将は魏でも他にいない。
しかも祁山西方の平定が済めば先鋒だけじゃなく
諸葛亮の主力本隊が長安側へ出張ってくるわけで
涼州と雍州の西半分を後方策源地にして長安に相対できる。
これは子午谷経由の博打攻撃より比較にならないほど有利だよ。
結果論から言えばこの時明帝は長安に親征してるから
これで長安を下すのは結構大変かもしれない
それでも魏の西方国境地帯を切り取れただけで大戦果。
また逆にここで長安軍を撃破すれば魏は一気に傾く可能性がある。
しかも、この後には呉側からの侵攻も始まるしね。
ただ、これは当時の諸葛亮達は知らない情報だから別問題だけど。
>>432 正史でも司馬懿は子午道ではないけど似たような事いってるね。
この時のプランは褒斜道から武功を経由して長安を狙うというものだから
魏延の言う子午道を通るほど無茶な考えでもない。
蜀は長安急襲すべきだったという結論に達したな
街亭で勝てればって話だけど本当にそんな勝って当然の戦だったんかね
実際は山の上に居なけりゃ勝てましたってもんでもないだろ
これに限らんが手堅くやって勝ち目がある相手だとは思えんのだよな
436 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/09(木) 19:39:55
それをいうなら魏延が長安を落せるかどうかも問題だな
涼州・雍州の軍団相手に一万の兵で勝てるわけないじゃん
魏延の方は常にハイリスクって言われてるからな
それは否定してない
街亭の方が演義の演出に引きずられすぎなんじゃないかと言っただけだよ
蜀の北伐軍全軍なら魏の西方軍と対等だったかさえ怪しい
また、そもそも街亭で期待しうる蜀の勝利とは
街亭の地を死守することであって
魏軍を撃破することでは必要ではない
そもそもそんなことは不可能だし、
馬ショクの失態こそが、まさにそこのところを履き違えた必然的結果だ
蜀が街亭を守りきったとして
そのことで魏が直接的になんら打撃をうけるものではない
というか、街亭の戦いとはそういう決戦では断じてなく、
仮に馬謖が一度任務を全うしていても
その後も街亭の攻防は断続的に繰り返されただろう
自分は魏延が奇跡的に上手く長安を占拠した場合と、
街亭戦が上手くいった場合の比較を述べてるわけで。
それに対して、片方についてのみ上手く行くかどうか?
を問題にされたんじゃ話のすり替えだよ。
魏延案は長安戦に勝ってもその後も奇跡が必要だが、
街亭の方は一度勝てばあとは奇跡じゃなくても大戦果。
演義の演出とはいうけど、砦を捨てたとか、水道を断たれた、
山に布陣するのを諌められた、軍令に背いた、
というのは正史にも出てる話だしね。
王平も居たんだから、普通に砦を堅守してれば負けなかったと思うよ。
一方、負けた場合の被害を比較すると、
魏延案はあくまで諸葛亮本隊が西方の平定よりも、
急進して合流するのを基本軸にしてるから、
魏延の戦死や精鋭一万の消失のみならず、
場合によっては退路のない蜀の野戦軍全てが捕捉撃滅される可能性もある。
街亭戦は史実の通り、退路が確保されてるから本隊に損害なし。
リスクとリターンを較べれば、
大戦略としてどちらが良いかって話。
別に諸葛亮も司馬懿に天下の奇才と賞される逸材だし、
魏延が国家戦略で諸葛亮に劣るのも止む無しだと思うけどね。
魏延の真骨頂は壮大な大戦略を立てることではなく、
戦場での勇猛果敢な用兵の方にあると思うな。
多分、一万単位の部隊を率いて戦えば、
張郃にも負けなかったんじゃないかと。
>>468 まさにその通り。
街亭はもともと奇跡を求めた勝利ではなく、諸葛亮の主力部隊が西方、
つまり涼州と雍州の西側を鎮撫する時間を稼げば良かっただけの戦い。
これが終われば蜀の諸葛亮本隊が防衛ラインを引き直すので、
西方の確保は確実視しても良い所だね。
一回の勝利で1州以上の戦果が手に入る。
後方策源地の不備に泣かされた北伐も大分様相が変わったろうね。
また、これが一歩進んで先に述べたような張郃軍を破るような
奇跡的な勝利であったなら北伐が成功する可能性もかなり上昇するね。
街亭は戦果になる戦場ではない
と言う
戦闘自体は
蜀の街亭守備隊と魏の街亭攻略別働隊の局地戦にすぎない
仮に魏の攻撃軍の半数を返り討ちにしようと
張コウを三回ほど殺そうと
街亭を失えばなんら意味はない
また、そこまでの被害がでるほと慌てて街亭を無理攻めする必要は魏軍にはない
じっくりと着実に街亭を包囲すればよかったわけで
事実、百戦錬磨の張コウは無理なく馬謖を追い詰めた
蜀軍の本隊は街亭から遠く、報告連絡相談の過怠のため、
街亭を失うまで諸葛亮は何も知らされなかった
つまり街亭での戦闘には馬謖や王平ら街亭守備隊しか参加していない
街亭で魏軍に甚大な損害を与えるには
街亭守備隊しか蜀軍の戦力はいない
奇跡の入り込む隙間が見つからないし
その奇跡が街亭の地の利と引き換えなら 全く意味がない
>その奇跡が街亭の地の利と引き換えなら
別に奇跡が起きたら街亭を失うというわけでもあるまいに。
街亭に進軍した魏軍は張郃の部隊しかいない。
張郃の部隊が撃滅されたのに誰が街亭を奪うの?
そして、街亭を守りきったとして
それは諸葛亮の西方経営の成功を意味しない
むしろようやく魏軍と関中で綱引きが成立するにすぎない
またその後も蜀軍の急所たる街亭の危機が終わるわけではない
445 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/09(木) 21:54:20
結局何が言いたいのか分からん
街亭守るの大変な割にあんまり意味ないし展望開けないよね
VS
俺はとにかく魏延案と比べてるんだよ
447 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/09(木) 22:01:41
曹操「結論の用意されていない経過報告など要らん!」
448 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/09(木) 22:10:18
両者の聞いてたら諸葛亮策の方が良さそうだけど
魏延の作戦だとそんなに完璧な勝利が手に入るの?
そこのところが重要なんじゃないの?
449 :
翠 ◆58MRGtOpy2 :2008/10/09(木) 22:10:27
孔明はバショクが軍律を破ると知っててあえてバショクに街亭を任せた。
さほど重要ではない地点を重要だと言い、任せた。
結果計画どおりにことは運び、バショクを自然な形で殺すことに成功した。
腹黒い孔明ならやりかねる。
長持ちするけど絶対勝てないか
普通に考えて壊滅するけど奇跡が起これば目があるかもしれないか
451 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/09(木) 22:19:33
街亭の部隊が壊滅あるいは敗走するまでに涼州を切り取れれば諸葛亮の勝ち
涼州方面は中央に伝統的に反抗的なので、ある程度の時間があれば涼州はイケたかもしれない
長安を落としたって西方経営の成功にはならないよ。
だからその点はどちらも同じ。
ただ街亭を守りきれば西方平定は完了するけどね。
要はどっちが可能性が高いかって話だね。
魏延案では関中軍との綱引きにすらならないけど、
諸葛亮案なら綱引きに持ち込めればその時点で大戦果。
街亭は一度守れば次は防衛拠点としてだけじゃなく、
攻撃発起点としても機能するから急所どころか前進基地だよ。
453 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/09(木) 22:24:55
かたや奇跡を前提に話を進め
かたや戦略の順当性を語るか
とりあえず、魏延の軍事能力を語るなら
奇跡云々はおいて話し合うべきじゃないのかい?
分かってないね
奇跡込みじゃないと魏延のプランは駄目だってみんな分かってんだよ
魏延好きなら奇跡の勝利を積み重ねて
寡兵で関中軍と魏の主力軍を蹴散らす魏延を夢想しなきゃ
455 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/09(木) 22:35:13
蒼天関羽が思い浮かんだw
うん?でも待てよ
魏延がそんな強いんだったら
街亭に勝った後で長安に突っ込ませても
結局は勝てるんじゃないか?
俺は長安攻め夢想するより
街亭を死守できるかと涼州の切り取りが可能かの方が気になるなあ
こっちも奇跡とはいかないまでもかなり厳しいんじゃないかと思うんだが
関中軍は曹真が率いて陽動に引っかかってるから、
涼州・雍州は主力のいない状態。
しかも三郡がすぐに靡いたように涼州制圧は時間の問題。
街亭は馬謖は失敗したが順当に守れば時間稼ぎくらいできる。
それも出来ないような地形なら砦なんか作られてない。
後の蜀軍が野戦で度々魏軍を打ち破ってることを考えれば、
街亭以後の戦闘すら有利だと考えても良いくらいだと思うね。
関中軍団と増援を合わせた大軍と正面から戦って、
実際の戦闘では一度も負けたことがないわけだし。
458 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/09(木) 22:55:01
司馬懿と張コウってどっちが戦上手かな?
たしかに孔明は野戦の局地戦ではなんだかんだいってほとんど不敗だからな
460 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/09(木) 23:21:00
それより魏延無双を夢想しようZE☆
>>456 大いに同感
>>452 >ただ街亭を守りきれば西方平定は完了するけどね
その前提は到底納得いかないなぁ
どこにそんなことを言い切れるだけの根拠があるのかさっぱりわからないよ
だって、魏だって、そのだいぶ前から、当該地域の経営に着手して、
当地の漢民族や異民族の人心収攬に成功してるんだぜ?
昨日今日来たような蜀軍が
そう簡単に関中を抑えられる気はしないんだが。
撞関の戦いから何年たっていると思う?
その間、どれだけ魏が関中平定に腐心してきた?
>後の蜀軍が野戦で度々魏軍を打ち破ってることを考えれば
実際には姜維がたびたび兵を損耗したりで、痛し痒しだったわけだが。
>しかも三郡がすぐに靡いたように涼州制圧は時間の問題
もともと風見鶏な地域。
逆に言えば、その三郡以外はなびいていないし、
その三郡さえも蜀軍が撤退しはじめると結局また手のひらを返している。
言うほど簡単に涼州が制圧できたとは思えないし、
大変なのはそのあとだ。
益州南部の経営さえ度重なる反乱で徴税さえままならなかったのに、
涼州をうまく統治できるだろうか。
むしろ、お荷物を抱え込むことにならないか?
仮にうまく経営が軌道に乗ったとして、
それから先の国力の差はまだ依然として歴然としているのだが。
まあ、この問題は孔明の堅実案でも魏延の急戦案でも解決しないんだが。
464 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/10(金) 02:25:15
また痛いのが引っかかってるなあ・・・
みんな魏延と諸葛亮のこと語ってるのに
一人だけ姜維がとかいっちゃってるよw
なにをそんなに必死になってるのかねぇ
>姜維がたびたび兵を損耗したりで
孔明自身が陳倉を落とせなかったのも忘れるな
つか、街亭以降で多少なりとも成果を上げたといえるのは
陳式の武威攻略以外になにかあるの?
ひょっとしたら北伐に展望が開けるかも、みたいな
第四時北伐で張コウを討ち取っているけれど、それさえ決定打になってないよね?
466 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/10(金) 02:32:32
確かに一人イタイのが紛れ込んでるねw
というかこのスレまだやってたのかよ
>益州南部の経営さえ度重なる反乱で徴税さえままならなかったのに
南征の後に軍需物資が出て国が豊かになった書いてるのに
正史くらい読んでから書き込もうなw
なんか諸葛亮の北伐に泥付けたいだけみたいだね
ぜんぜん魏延の話が出てないし
あとsage進行で
南部益州で反乱が起きて徴税できなかったのも事実史実
なんぼか収益をあげるには時間が必要だろう
人心が落ち着かず課税できない
→課税開始
→反乱(ここまでは史書にある)
→平定
→長年の努力継続
→国庫が潤う(これも史実)
つまり、益州南部さえすぐには成果があがらないのに
擁州経営が一朝一夕でうまくいくのか?
しかも主戦場だし
と逐一説明させるから、
なかなか魏延が話に出せない
魏延の評価は子午谷ルートにかかっている
となれば、それをボツにして諸葛亮が実行した戦略が
はたしてどれだけ有意義だったのかは
つめる意味があるわけ
おわかり?
>>468 まるで長安経営は一朝一夕でうまくいくような言いぶりだが
なんの根拠?
軍需物資が出て国が豊かになるのと
経営が上手く言って利益をあげるのと
随分意味が違わないか?
で、諸葛亮の戦略がすべて間違ったとして
魏延の評価が相対的にあがるの?
両方だめってオチにならない理由(魏延すげー)を
詳しく
魏延は正史だと魏延(笑)
だけど反骨の相が出ると魏延さんと呼びたくなる戦績を残す不思議
魏延贔屓になるとどうしてもなのか子午谷経路の作戦に肩入れしたく
なるのかもしれんね
もう超解釈を持ち出し始めてる時点でダメだろ
正史に国庫が豊かになりました
って書いてあるのに対して
「いや、自分の脳内シミュではそんなことはない」だからなw
必死すぎる姿が逆に滑稽だw
>>469 >まるで長安(ry
逆だ
「長安を制圧したところで
魏と抗争しながらという益南より悪い条件で
うまくいくわけがない」
ここはもともと「魏延さんを称えるスレ」として
半分ネタっぽく代々やってきたところだから、
あまりカリカリしない方がいいと思うよ。
475 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/10(金) 12:57:48
おかわり?
476 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/10(金) 13:05:02
くそう少し笑っちゃったw
両者の聞いてたら魏延策の方が良さそうだけど
諸葛亮の作戦だとそんなに完璧な勝利が手に入るか疑問だな
たぶん食い下がってるやつの目論見は諸葛亮を貶めて
「結局どっちも上手くいかないよね だから魏延も諸葛亮も同じだよ」
としてドローに持って行きたいのだと見た
魏延策はハイリスク・ノーリターンのダメ戦略という結論が出たな
480 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/10(金) 13:14:17
以下、魏延さんの自画自賛レスが続きます↓
魏延「ブッチャケ何やっても魏に勝てねぇ〜でFA?」
魏延「俺なら勝てたね。俺最強伝説ktkr」
483 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/10(金) 17:50:07
魏延「ジョーショーはチキン!」
>>484 そうとも言えない。
蜀は一敗すれば即死する程度。
無理しても呉の勢力伸張の為の捨石になりかねない。
そもそも諸葛亮はそこまで無理して遠征を成功させる気があったとは思えない。
陳寿は応変之将略に疑問を呈していたが、彼は節制之師については知らなかったようだ。
政治的デモンストレーションあるいは
積極的防衛。
それが北伐の目的であり
またそれ以上は望むべくもない情勢だった。
ならば、虎の子の国防戦力で乾坤一擲のバクチはうてないし、その必要もない。
488 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/10(金) 19:30:03
諸葛亮の策を採用 → ローリスク・ローリターン
魏延の策を採用 → ハイリスク・ノーリターン
どっちが良いかなんて一目瞭然
でもそんなのは認めない
それが魏延厨というものなのだよ
>>487 この推論の出所ってさ
あの孔明が本気で北伐成功なんて夢を見るわけがない
っての以外に何かあるの?
>>468 正直いって呆れたわ・・・
益南で徴税ができなかったとか、
正史のどこに書いてあるのか書き出してみなよ。
反乱が起きても李恢がすぐに鎮圧して逆に貢物を納入させたため、
経費に不自由はなかったと書いてあるんだが・・・
西方平定が失敗する理由も具体的に挙げてみなよ。
関中の総戦力が曹真とともに進発したと書いてある。
これは陽動に引っかかって全く別方向に行ってる。
つまり諸葛亮本隊に対抗できる兵力は皆無なわけだ。
しかも涼州の半分は戦わずに帰服してるし、
この連中は諸葛亮の撤退した後も魏に背いたまま籠城して抵抗したが、
関中軍の本隊まで来て包囲するに及んでようやく降伏してる。
一体どういった人間が抵抗して制圧が失敗するの?
>>488 一緒にしないで欲しいね。
自分は魏延は蜀随一の勇将だったと思ってるが、
大戦略で諸葛亮に及ばなかったのは認めてる。
魏延は戦場での勇猛な戦闘指揮に真価があったというだけ。
ここは譲れない、実際に郭淮とか打ち破ってるし。
あれやこれやとケチを付けて認めてないのは一人だけでしょ。
そもそもどっちも積極戦略。
諸葛亮の策(積極戦略A)を採用 → ハイリスク・ハイリターン
魏延の策(積極戦略B)を採用 → ウルトラハイリスク・ハイリターン
蜀の戦力で抑えられる土地は限られている。
長安を押さえれば関中以西が全部靡くなんて前提が楽観的すぎる。
各個撃破を食らう可能性の方が高いだろ。
裏切り者の孟達を捨石に出来る状況ならともかく
魏延が捨石になりかねない作戦はリスキーすぎる。
諸葛亮の計画は街亭の人事以外パーフェクト。
なるほど
魏延の案の方が成功しそうだよな
諸葛亮にしてみれば、涼州刺史の徐バクや隴西太守の游楚の抵抗は
計算外だったのかもしれんな
斜谷は別物と勘定するにしても、上ケイに隴西に街亭にと軍を分散させた状況では
街亭以外は早々に埒があかなきゃジリジリと不利になるもの
序盤で帰順した雍州の三郡だって風向き次第でどうなるかもわからんのだし
残念ながら游楚に抵抗は元々すぐに関中軍が来るという前提のもので、
街亭で増援が防がれた場合は降伏せざるを得ない。
これは游楚自身が宣言してる事だね。
また徐邈はこの時着任して日が浅く揮下の部隊を集めていない。
曹真伝や張郃伝を読めば分かるが、
南安が平定されたのも関中軍が西方に戻ってきてからの事。
どちらも街亭で時間稼ぎさえすれば解決する問題なんだよね。
いや、というより徐バクは曹真と一緒でしょ
関中軍にはヨウ州も涼州も含まれるし
実際にヨウ州刺史の郭淮は曹真に随行してるんだから
>>495 確かに関右の諸軍を率いたと書かれてるから、
その可能性は高いんだけど確信が持てなかったから。
「一緒」の意味がよく分からないけど、徐邈は南安の攻撃に金城の軍を派遣しているし、
諸葛亮の侵攻時に涼州にいたのなら、距離が離れすぎているので曹真と合流した可能性は低いと思うよ。
曹真伝の「三郡平定」の記述が、徐邈の行動も含んで曹真の手柄になっている、というのなら否定はしないけど。
>>497 自分もそこが気になったんだけどいくつかの点を勘案すると、
あながち間違いとも断定できないんだよね。
まず明帝紀に曹真が諸軍を率いて一斉に進発したとあり、
諸葛亮伝の記述を見れば、
曹真が向かった部隊は箕谷の陽動部隊なのが分かる。
そして曹真が動いた後に諸葛亮が祁山に進軍し、
これに呼応して三郡が反乱を起こすという流れ。
つまり曹真の関右諸軍が進発した後に諸葛亮本隊が姿を表してる。
この後に慌てて明帝が長安にやって来て張郃を派遣。
街亭において馬謖を破り、諸葛亮は撤退を開始する。
「魏略」によると、游楚が守りを固めてまもなく南安の兵が表れ、
その後10日で諸葛亮は撤退してることになってる。
これを見ていくと南安平定は街亭戦が終わり、
曹真が戻った後だと考えた方がしっくりくるし、
この当時の金城太守が誰かは不明だけど、
単独で諸葛亮軍を打ち破って南安攻撃に向かったとは考え難い。
そうすると徐邈は元々曹真の軍に参加していた、
と考えるのもおかしくないと思ったんだよ。
ただ、確信は持てなかったから書かなかったけど。
>>498 「絶対」と言い切れるものは無いが、やはり可能性は低いと思う。
郭淮は諸葛亮の雍州侵入を知った時に巡察中だったので、
郭淮より遥かに遠方にいたであろう徐邈が、諸葛亮の侵入前に曹真と合流したとは考えにくい。
趙雲らが郿に着いたのと、諸葛亮らが祁山に着いたのは、そう変わらない時期だと思うよ。
>>499 >郭淮は諸葛亮の雍州侵入を知った時に巡察中だったので
ゴメン、これ知らないや。どこの記述?
>郭淮より遥かに遠方にいたであろう徐邈が、諸葛亮の侵入前に曹真と合流したとは考えにくい。
そもそも曹真は諸葛亮侵攻の報(宣伝)があって派遣されているんだよね。
そして関右の諸軍を統率したとあり、しかもこれは大軍だったと記述がある。
少なくとも曹真は箕谷の蜀軍が本隊だと誤認していたわけだから、
それに対抗し得るだけの兵力は確実に集めていたと考えられる。
という事は少なくとも雍州・涼州の軍兵を招集してたのは間違いない。
問題はここに徐邈自身も参じていたかどうか。
ここは確実な記述がないから自分も「絶対」とはいえない。
自分的には五分五分くらいだと思うね。
>趙雲らが郿に着いたのと、諸葛亮らが祁山に着いたのは、そう変わらない時期だと思うよ。
自分も何十日も違うとは思わないけど、
陽動である以上、曹真の動きを確認するだろうから、
一週間くらいはずれると思うけどどうかな?
あー、なんか魏延と関係ない話を長々続けて申し訳ありませんね。
>>500 姜維伝の注に引く魏略だね。
あと、趙雲と諸葛亮の動きが一週間空いていたとしても、
少なくとも涼州の兵を招集する事は不可能だと思う。
涼州と雍州の境界にある金城からでも、郿までは直線で450kmあり、
実際に行軍するとなると最低でも700km以上はあると思う。
日に20〜25kmの強行軍でも休みなしで1ヶ月くらいはかかる。
>>501 違う違う、そこのずれは関係ないよ。
曹真は実際に趙雲が箕谷に布陣する前に、
諸葛亮が郿を狙うという宣伝を流した時点で対応してる。
もし布陣が済んでから対応を開始してたんなら、
実際に出陣するまでには相当な日数が必要なはずで、
逆に諸葛亮の祁山侵攻に気付いてないとおかしいと思うよ。
それと距離をいうなら洛陽から郿までは直線距離で650kmだから、
実際には1000km近く移動してくる事になる。
涼州・雍州の軍兵に先に召集命令は出しといて合流するのに、
不都合はないんじゃないかな?
曹真は蜀の侵攻があるのを知って派遣されたんだから、
先に召集命令を出していないほうが不可解だと思わない?
>>502-503 陽動の喧伝も、早くとも12月に入ってからの事だろう。
孟達の挙兵する半月以上前から自身の侵攻を喧伝するとも思えんし。
なので、曹真は少数で替え馬なりを使って一気に長安まで行き、
現地の兵を郿に移動させたと考えた方が良いと思う。
曹操は洛陽から長安まで進むのに2ヶ月かかってるし、
実際、漢中から祁山に出るだけでも1ヶ月くらいはかかるので、
諸葛亮も12月には動き出してただろうからね。
秦代の伝馬で日に170km程度らしいので、洛陽が諸葛亮の動きを知ってから涼州に伝令を飛ばし、
それを徐邈が受け取るまで10日、更にそこから軍を整えて進発すると、
洛陽に諸葛亮北上の報が入ってから徐邈が軍を率いて郿に来るまで1ヵ月半から2ヶ月はかかる、相当な落伍者を出してね。
祁山に着いた諸葛亮と遭遇するようなタイミングで上邽周辺に来る事はあっても、
それ以前に曹真に合流したとは考えにくい。
箕谷の出口を押さえれば、敵が大軍でも抑えられる。
長安に駐屯していた1万や2万程度の軍勢を全て率いただけであっても、
「衆を挙げて」とか「諸軍を率いて」とか「兵を並べて進んだ」とかと矛盾しない。
これらの三つの記述は、雍・涼州の軍勢を合流させた明確な根拠にならないし、
第一、そんな召集がかかってるのに郭淮や馬遵が呑気に巡察などしていないだろうから。
あと、晋書司馬孚伝を見ると、諸葛亮が侵攻してた頃の辺境の兵では敵を制する事ができないので、
歩騎二万を関中諸軍に加えると共に、上邽に屯田兵5千を送った事が書かれているのが分かる。
果たして第一次北伐は、掻き集めても大した兵力にならなかったであろう隴右の軍を、
無理な強行軍をさせてまで郿に集めなければならなかった状況であったのか?
大して合流のタイミングは変わらないのだから、隴右は動かさず洛陽からの援軍を待つ方が合理的に思える。
それはおかしいよ。
実際に「関右の諸軍を率いて」とか、
「総勢をあげて」とか「大軍だった」という記述に矛盾してる。
また実際に洛陽の軍を率いて明帝が2月半ばには長安に到着してる。
そして4月には洛陽に戻っているわけだから、
実際に曹真が直下の兵を率いて進軍したとしてもおかしくはない。
というか替え馬で曹真だけが向かったというのはどこにも記述がない。
自分も涼州の兵を根こそぎ集めたとは言わないが、
金城や涼州東部の兵を招集したというのは、
無理な考えではないと思うよ。
300kmの差は伝令の早馬が駆けて行けば、
曹真と涼州軍が郿に至るのに丁度良いタイミングってところ。
涼州兵の半分で数千〜1万・雍州兵で1万〜2万、直卒で数千、
という風に考えて合計すると3万〜4万の「大軍」になり、
しかも「関右の諸軍」という記述にも合致する。
まあ、どこまでいっても徐邈がいたかどうかは謎だね。
可能性は五分五分としたけど、
Jominianさんの意見を取り入れて3〜4分ってとこかな。
これは話し続けても結論でないだろうし、
魏延と関係ないはなしになっちゃってるので、
以降自重します。
>>506 「大将軍曹真を派遣して関右を都督させ」ってのは、関右を曹真の麾下に置いたってだけだと思うがね。
「『衆を挙げて』が関中から涼州まで全ての軍を率いた証拠だ」と言うのは良いが、
涼州刺史だけ呼ばれて、涼州刺史より先に召集すべき雍州刺史が呼ばれてない事と矛盾している事の説明は無い。
曹真が軍を率いて洛陽から郿まで2ヶ月以上かけて悠長に向ってたら、
敵軍に関中まで押し出て来られる危険性が高いし、長安と、そこから郿までの郡県の守備兵だけとした方が良いと思うが、
納得できないのならそれはそれで良いや。
あぁ、言い忘れたが、洛陽と郿って直線距離で650kmもないでしょ。
直線で結ぶと500kmくらいだし、潼関以西は行軍困難な地形ではないし、
行軍する道路と両所を結ぶ直線は大きくは乖離しない。
涼州の方は、直線と実際に行軍する道路は、直角三角形の斜辺と他の二辺くらい離れるし、
「涼州からの方が早い」って事はないと思う。
蛇足申し訳ない。
509 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/11(土) 10:15:37
だから刺史がいたかどうかは謎っていってんじゃないの?
第一あんたらそれが魏延と何の関係があるの?
そうかい?自分は結構見てて面白かったけど
確かにちょっと長すぎるかもね
除バクさんの話は置くとして魏延の事については語ってほしいな
511 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/11(土) 11:39:04
(⌒)
r=====ュ (_ __)
{! l} |/
ヾ__o__〃 __
/~~~~~ヽ//
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ヽ__ノ お昼にカップラーメンカップヤキソバ食べる人
_ノ==-く
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| | {:::::::::::::::ト, l
| 〉|::::::i::::ヽ| |_j
` !:::::i:::::::i|
. |:::::i:::::::::!
l::::::〉:::::/
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. /:::::〈_
`ー一′
煽りあいや過疎よりはいいよ
魏延かっけ〜!
司馬懿は
「自分なら子午谷ルートで進軍するが、諸葛亮はそうしないだろう。
だから伏兵は子午谷に回さないでよい。」
と発言しているから、
司馬懿となら魏延はうまくいったかもしれないね。
演義ではそんな事いってるの?
516 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/12(日) 09:14:39
横光ではいってたよ
横光かよ
演義にもあるね
中文版サイトにもそれっぽい記述はある
横光オリジナルではないみたいだね
正史ではどうか知らんけどww
褒斜道って確か孔明も通ったよね
子午谷ルートとは全然違うんじゃないの?
誰か詳しい人教えて
これは晋書宣帝紀にある話だけど、
「もし諸葛亮が勇者なら武功に出て東に向かうだろう。
だが西に出て五丈原に行けば、慌てることはない」
というヤツだね。
子午谷と同じか、と聞かれれば全く違う。
北伐には5つのルートがあり、子午谷ルートは最短ではないよ。
523 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/13(月) 20:34:01
それで?
馬代だろ
たまには進軍ルートを変えるとか別働隊を動かしてもよかったと思うんだ
野球の配球と一緒にするのもなんだが
同じコースに同じ球種と見切られてちゃ
攻略されて当然
そして別働隊を率いて生還できる剛の者といえば・・・
526 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/13(月) 21:48:45
毎回進軍ルートが同じだと思ってる無知ぶりは笑える
陳倉攻めてみたことがあったりとか、結構毎回ルート違うのな。
よく確認しようぜ?
それはそれとしてsageてもいいと思うんだ
確かに進軍ルートは毎回違うね。
参考までに北伐5回の進軍ルートを書き出すよ。
第一次 建威から祁山を経て隴西へ
第二次 散関を経て陳倉へ
第三次 別働軍として陳式を武都・陰平へ派遣
第四次 前回に略取した武都から祁山へ出て上邽へ
第五次 斜谷から五丈原へ
というような感じかな。
ちなみに別働軍を出したいというのは魏側でも張郃が何度か進言してるが、
全て司馬懿によって却下されているね。
530 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/14(火) 10:05:34
同感
劉備も陳式をよく別動隊として使ってたし実績十分だ
531 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/14(火) 10:06:04
やばageちゃった
スマソ
532 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/14(火) 13:40:09
age
蜀、随一の名将は陳式という結論が出たな
陳式の演義での扱いの酷さは異常。
魏延のせいで・・・陳式カワイソス
いや、そこは魏延のせいなんか?
たしかにそうだな、羅貫中のせいというならわかるがw
陳式「魏延様の命令で…」
魏延「丞相が自分の策を用いていれば・・・」
馬岱「用いていればどうなったんですか?」
魏延「ま、魏にボロ負けしたやろうな」
馬岱「わかっとんのやないかい!」
法正なら、どうしたかな・・・
法正なら積極策を立案してかつ成功させたような希ガス
法正がいたら街亭に勝ったんじゃない
法正もわりとオーソドックな作戦しかたてないよ
黄権の進言にしたがって劉備が先陣に出張り続けなければ、
負けるにしてもあそこまでの大被害は食らわなかっただろう。
法正は中原なんか目指してないようなイメージだ
547 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/02(日) 10:48:12
魏延の本性
htp://gimpo.2ch.net/test/read.cgi/chinahero/1176452496/82
関中の民が魏の政治に心服してる段階で誰が指揮しても無理
心服してないから諸葛亮の侵入で大騒動になったわけだが。
550 :
コドッキー中佐 ◆E3Fo.t2xw6 :2008/11/02(日) 22:30:01
毛沢東「楊(尚昆)は魏延だ」
楊(俺そんな武力高くないけどな)
そりゃ魏の統治下で平穏に活きていた所でいきなり侵略されれば騒動にもなる罠
そりゃ道理だ
騒動といったって、どういう騒動だったのかによるよな
正直、諸葛亮歓迎ムード一色とは思えない
魏延ねぇ・・・
事件の経過を追えばほかに言いようはないんだが、
当人たちの自覚は別として
諸葛亮が魏延の生命線だったんだよなぁ
553 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/04(火) 00:31:39
>>552 むしろ、侵略のはずなのに一部でも歓迎ムードがあったとすれば、その方が重要だな
魏の支配が反感持たれていたということになる
そりゃあ両方いるだろ
当たり前だがw
諸葛亮の北伐で安定、天水、南安の三郡が一斉呼応したってみんな知らないの?
>>555 ああ、考えてみたら一部どころじゃないな
557 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/05(水) 07:46:18
バショクが街亭を守り切ったらどう展開したかなぁ?
558 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/05(水) 12:47:18
あくまで魏に対する反旗というつもりだろう
諸葛亮に呼応というよりはむしろ
便乗した
というほうがしっくりくるような
それ以降は当てにならないと見限られたのかね?
五丈原の対陣中は三郡はどうなっていたんだ?
559 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/05(水) 12:57:34
>>557 口だけ男だから守り切れるという選択肢が無駄
三群が呼応したのもそれまでに蜀と内通してたんだろう
561 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/05(水) 14:10:59
コウメイは無能だからな
敵がそっくり寝返ってくれでもしない限り
勝てるわけがないよ
>>560 にしては安定先走りしすぎじゃね。
隴関の向こう側だもん。各個撃破されるのが落ち。
諸葛亮の進軍速度を大きく見積もりすぎてフライングしたっぽ。
ちなみに安定の楊条ってたぶん楊秋の親戚だろね。
>>562 多分そのあたりなんかは当時でも曹操、夏侯淵による関中軍閥征服を恨んでたんだろうな
そういう潜在的な火薬庫状態だったわけだ、北伐開始時期のその近辺は
馬超が蜀に組したという事実も大きいと思う
565 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/22(土) 11:58:14
ま そりゃそうだ。
>>562-563 ここでスレタイに戻るんだが、
魏延の長安襲撃案が採用されてたら楊条は負けずに済んだんだよな。
楊条もそのつもりで挙兵したら、実際には遥か後ろから蜀軍が出てきたんで、
話が違うじゃねえか、諸葛亮に裏切られたぜーとか思ったかも知れんね。
さらに想像を逞しくすると、楊条に内応の約束を取り付けたのが魏延だったかも知れん。
小説ネタみたいで恐縮だが。
(・ω●)GUARD!
長安急襲案を採用すべきという結論に達したな
>>566 面白い想像だが、万一魏延が反乱にも噛んでいたならそのことを絡めて諸葛亮を説得しているはず
魏略収録の長安攻め計画にそういった要素が見当たらないから、内応についてはちょっと言えないかな
ただ、関中周辺の反魏的な空気というのは諸葛亮や魏延の戦略を考える上でキーになるような気はする
魏延も例の計画の中で「散民の穀」で兵糧を賄おうと言ってる
拠出が期待できると踏んでいるわけだ
>>569 ショウ周の仇国論がまさにそういうこと言ってるんだよな。
つまり、「いまはあっちが落ち着いてるから駄目だ」と。
魏略でいう「散民」は長安の事だから安定は関係ないけどね
第一、諸葛亮の進軍後に呼応したんだから予想外ってのもおかしい
楊条が先走りすぎちゃっただけだろ
>>571 うん、安定は関係ない
長安近辺にも反魏親漢的な民がけっこういたんだろう、という意味だ
逃げ出した後の物資を収奪するのと拠出では全然意味が違うと思うが
>>573 逃げ出した後の収奪=邸閣
拠出=散民の穀
全然意味が違うのはその通りだが、魏延は両方を言ってるんだ
拠出は自分たちから出してくれることだよ
逃げ散った民の食を収奪するのを拠出とは言わない
魏延は収奪の事しかいってない
根拠があるときは出さないとオレ解釈だと思われちゃうよ。
確かに長安近辺の民が食料を拠出してくれるという根拠は必要かもね。
578 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/02(火) 02:30:13
結局、初手の三郡のやや時期尚早気味な呼応をのぞくと、
おおむね魏のコントロールが勝っていた、ということだね。
三郡の呼応にしても、むしろうまく行き過ぎたがために手が広がりすぎて、
後の展開が苦しくなった、というところだったんじゃないの?
それほど動員兵力もなければ、食糧の備蓄が多いわけでもなく、即戦力としては期待できないのに、
かえって支援のために軍を割く必要さえありうるわけで。
蜀にしてみれば、寝返ってくるならもうちょっと後のタイミングのほうがよかった、と思うのだが。
その辺で無理をせざるを得なくなったことが、
街亭で経験不足の馬鹿を起用せざるを得なくなった袁胤ではあるまいか?
普通、勝手に呼応した勢力に支援はしないよ。
明らかに自軍を有利にする場合はもちろん支援するが、
あなたの言うように足手まといになるような惜しみなく見捨てる。
メリットもないのにわざわざ軍兵を割くような無駄な真似はしない。
関羽のときの侯音とか孫狼とかがそうだよな。
軍事的にはともかく政治的には切り捨てるなんて出来ないけどね。
581 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 01:13:36
その辺諸葛亮は結局どうしたんだっけ?
馬謖が大敗したあと、
楊条が「曹真さまがお出ましになったのでさっさと降服しますよ」と自首したので、
孔明が見捨てる見捨てないは関係なくなってるよ。
まあ、孔明に呼応した天水、南安、安定の他の連中は全員処刑されただろうけど。
つまり三郡がバタバタしたのは
諸葛亮の預かり知らぬところで起きて
そのまま収束した事件だったわけね
SLGのような俯瞰視点でも持ってなければまぁ、そんなもんだろうな。
>>583 孔明が三郡の呼応にどこまで関与してたかは不明だよ。
ただ助けてやる義務はないって感じ。
助けてやりたくても、馬謖がしくじったから助けられなかったし。
586 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/03(水) 20:54:13
>>582 三郡の住民は撤退時に一緒に漢中に移住させたんではなかった?
587 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/03(水) 23:18:42
>>586 撤退時に移住させたのは西県の住民千余家だよ。
一応、姜維や梁緒の家族も連れ帰ってんだろうけど、
ボリュームとしては西県の何十分の一くらいとかだろうなぁ。
こいつらが故郷を捨てたのは、たぶん天水の反乱の首謀者だったからだ。
589 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/04(木) 12:55:45
姜維の母親は魏に残った
そして息子に手紙を送って魏に帰参するよう説得している
これに対して姜維は、
蜀で立身出世するのが望みだ、といって
拒絶している
現代風にいえばこうなる。
↓
息子が業界最大手の地元企業に就職して一安心。
仕事も順調のようだし、あとはこのまま無事に務めあげてくれれば、
と思っていた矢先に、
当の息子がヘッドハンティングされて転職。
しかも転職先は、元の会社と対決姿勢満々の、異境の中小企業。
母親としては心配して
「あんた、そんな会社におるんやったら、元の会社に復職したほうがええんとちゃうの」と言えば
息子は「オカンはそう言うやろけど、今の会社の方が待遇ええし、オレ出世したいねん」
と言う
590 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/04(木) 20:00:07
とんだ親不孝もんだな。
晩年のハブられっぷりと末路を見るとママンのが正解だったようだね
正史には名前が残らなかった可能性はあるね
593 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 01:47:08
人生は二度生きられないからなぁ・・・
後で「あっちの道を進んでいれば」と言ってみても詮無いことよ
まあ、どっちがよかったなんて、わかるものじゃないさ
ふー
ママンは息子に幸せになってほしかった。
息子は幸せになる幸福より、負け犬・愚図のままで終わる事を恐れた。
じょしょにあやまれ!
596 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/05(金) 18:39:02
何者にも成れずして一生を終わるむなしさよりも亡国の悲運の名将たる方が男子の本望であるぞ、うんうん。。
>>591 ジュンイクも袁紹につくのが正解だったな
ジュンイクが曹操につかなければ曹操は勝てなかったから、勝者袁紹の部下でいられたし悪目立ちしないから粛清もされなかっただろうし
だが、漢を滅ぼした大悪人の一人として名を挙げられてしまっただろう
袁紹についても途中で田豊あたりと対立して凶刃に倒れるだろうさ
なんで田豊と対立するんだ?
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/07(日) 14:52:04
>「オカンはそう言うやろけど、今の会社の方が待遇ええし、オレ出世したいねん」
孝行ウンヌン以前に、一個の独立した人格としては当然の欲求じゃね?
道学的な忠孝一筋の虚像よりは、野心家として評価される姜維のほうが
まっとうな人間くささを感じてスキだな
魏延て、名前が縁起悪いよな
「魏」が「延」びる
だもんな
その変も演義で悪役にされた原因か?
603 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/08(月) 19:04:09
王経のことはどう?
母親は王経が宮仕えして出世してゆくのを危ぶんだ。
「出世なんかすると権力争いにまきこまれるからこわいよ。」と。
母の心配したとおり王経は権力争いの巻き添えをくって一族ともども死罪になった。
魏帝曹ボウが司馬昭誅殺のクーデターを彼に打ち明けていたのに対して、そんなことやめておけと忠告したが司馬昭に密告しなかったからだった。
刑場に引き出された王経は母に詫びた。
「まさに母上のご心配されていた通りにしてしまいました。親不孝を許してください。。」と。
そして、彼の母はこういった。
「いいえ。私は正しく生きたお前を誇りに思って死んでゆくのですから。」と。
すごいな。
どんな時代にも、まっとうな人々はいるんだな。。
母の洞察力には感服だけど、まっとうかどうかは……。
どっちかっていうと倒錯の部類に入ってくるような感じがするよな。
605 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/08(月) 20:18:56
子への最後の母の愛情でしょ。
>>603 なんで倒錯だと感じたか分かった。
原文には「お前を誇りに思って死ぬ」って文言がないんだよ。
このせりふは当時の中国人の感情としてありえない。
誇りって概念がポジティブに評価されるのは近代以降だからね。
恥、はネガティブな意味だったのにね
しかしじゃあポジティブじゃないってどんなん?
パッと思いつくのは
傲岸不遜に近いイメージかな、と
うーん、それは近代以前のポジティブな用法を探す方が早いんじゃないかな。
でも、だいたい誇りとか奢りとか言ったら、中国でも、日本でもそうだけど、
身を滅ぼす悪癖くらいにしか考えられてないと思うよ。
人名でも慎とか恭というのはあっても誇っていう名の人は思いつかないな。
あ、あと恥はネガティブと言い切れないと思う。
カリスマキャラ孔明に嫌われ、取り巻き文官達が増長して邪魔な武官トップを嵌めたでFA?
文武というより、丞相府の内外って気がする。
孔明は丞相時代、かつての曹操みたいに、有力な人物を丞相府に招いていたので、
朝廷も将軍府も人材が枯渇してたんじゃないかと思う。
丞相府を中心とするメインストリームの派閥と、その外側の人間の争いでは。
613 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/28(土) 11:11:44
614 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/02/28(土) 20:00:51
>>611 未だにこんな頭の悪い考えしてる奴いるんだ
616 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/01(日) 01:29:11
未だにこんな頭の悪い発言してる奴いるんだw
いや、615は612だよ。俺のだから。
619 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 03:24:02
正史をどう斜め読みしても、増長したのは魏延だよなぁ
惜しい事に
621 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 08:46:22
魏延が死んだ頃って陳寿はまだ生まれていない。
残された資料から真実を読み取るのは難しいんじゃないかな。
622 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 09:02:10
魏延死亡時の状況
(丞相府)
丞相__:諸葛亮
録尚書事:諸葛亮
長史__:楊儀
中軍師_:楊儀
前軍師_:魏延
後軍師_:費示韋
軍師祭酒:尹黙
主簿__:董厥、楊儀
参軍__:杜示其、王平、胡シ齊、女兆仲、馬齊、ハン?習
623 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 09:02:33
(成都留府)
尚書令_:蒋王苑
留府長史:蒋王苑、馬忠
尚書僕射:李福
主書令史:李言巽
侍中__:董允
太常__:杜瓊
衛士__:陳震
中領軍_:向寵
624 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 09:03:23
ミスった主簿は楊戯
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 09:07:04
征西大将軍:魏延
征西将軍_:姜維
益州牧__:諸葛亮
漢中都督_:なし
江州都督_:李豊
来降都督_:馬忠
626 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 09:13:57
魏延死亡後(235年)の状況
大将軍_:蒋王苑
録尚書事:蒋王苑
尚書令_:費示韋
尚書僕射:李福
尚書__:張翼
主書令史:李言巽
侍中__:董允
黄門侍郎:霍弋
中都護_:蒋王苑
中領軍_:向寵
驃騎将軍:呉班
車騎将軍:呉懿
益州刺史:蒋王苑
漢中都督:呉懿
江州都督:ケ芝
来降都督:馬忠
627 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 09:15:36
官職を見る限り、魏延死亡で一番トクをしたのは誰なのか?を考えると怪しい人物がいる。
そして、なぜか、伝が伝わらない。んなわけないだろう。
そう言えば、高定の首を晒した結果、南方でしょっちゅう反乱が起こったって記述が
確かどこかにあったかな。しかもその時、高定ルートで進軍してたのって諸葛亮本軍
だった記憶が・・・心を攻めてねえエエエエエエ、とちょっと思った。
そう言う意味では南方経営がうまく言ってた、と言うことには少々疑問がある。北伐
で西涼方面を伺うことが多かったことも、南蛮遠征の成果があまり上がらないから、
そちらの穴埋めをする為に北方異民族に目を向けた、と言うのも理由の一つとしては
考えられますな。
ちなみに魏延って死亡した時は祠とか建てて祭られるぐらい地域住民から親しまれて
いたらしいね。しかも後に蒋エンに無実と認められ盛大に祭られた、と言う話もある。
これについては軍部を抑えるために魏延を許すしかなかった、と言う話もあるぐらい
なので、そう言う意味では軍部全体は相当魏延を信頼し認めていたことになる。
もしかしたら魏延に使持節が与えられたのって軍部に対する魏延の影響力が大き過ぎ
ることを慮ってのことかもしれませんね。特に劉備生存中は魏延が漢中にいた訳なの
で、こいつを従えないと北伐軍全体を統括するのは困難と判断した、とまで言ったら
言い過ぎか。
だから、その権限を自分の力と過信して増長した結果と
陳寿も言ってるじゃないか。
諸葛亮が居た頃は、増長もコントロールされて
武勇として愛されたけど、庇護者が消えて抹殺された。
当然の報いと。
630 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 15:18:05
>>629 これが成都の益州派閥の言い分なんだろうな。
>>630 魏延を葬ったのはそのくくりで言うと明らかに荊州派閥だよ
やはり魏延には味方はいなかったのかね
>>632 理由はともかく味方だと思ってた人たちに裏切られてるからね
634 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 15:53:59
>>631 たしかに
魏延(義陽)
楊儀(襄陽)
王平(巴西)
馬岱(扶風?)
呉懿(陳留)
呉班(陳留?)
費イ(江夏)
蒋エン(零陵)
姜維(天水)
その言い分では、兵士達も裏切ってるな
裏切りってよりも明らかに自業自得。
他国の孫権にも品格は下と見られている人物だし。
手柄にあかせて傍若無人
中村ノリみたいなもんだ
636 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 15:56:55
でもさ、俺はぶっちゃけ主犯は呉懿と呉班だと思っているからさ、
荊州派閥じゃなくて、降将の馬岱と王平を抱きこんじゃないかと思うわけよ。
呉懿も呉班もよそものだけど、妹が劉備の嫁だったからさ。穆皇后。
こいつが曲者なんだよ。
みんな陳寿が嫌いなんだねぇ
>>636 皇后の親族でも無いし戦功も無いのに呉壱・呉班より上位に行った奴のほうがずっと怪しいだろ、それなら
639 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 16:09:28
>>637 そもそも陳寿はそれを知る立場にない。というか生まれてない。
20年くらい後にショウシュウあたりから真実を聞いたんだろう。
今の世の中だって20年前の出来事なんていくらでも生きてる者の都合よく
解釈するんだから、この時代ならなおさらだろう。
蜀の場合、史官が置かれてない時代があったからね
諸葛亮の命で、だからいくらでも歴史をでっち上げることができる
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/22(日) 20:13:01
ということは諸葛亮は自分が生きている頃には既に蜀漢が崩壊しかかっているということを認識はしていたわけだ。
兵の場合は言うても蜀と言う国に雇われているようなものだから、魏延に加担
する訳にもいかないでしょう。少なくとも先回りして陣を敷いた段階で彼配下
の兵が離反したようには見受けられないし、離反したのは明らかに反逆者扱い
された後。
史書は勝者の記録でもあるから、魏延の配下は非は魏延にあるから、等と言う
記述はあまりあてにはならないね。もしその程度の人物だったら死後祭られた
り、蒋エンが軍部の不満を抑えるために魏延の罪を取り消したりはしないので
はないかな。
実際魏延って増長してたんでしょうかね。相手が楊儀でなければちょっと言葉
を選んでなだめすかせばすぐに同意してくれたようにも思うのですが。
街亭に関しては張コウの戦術眼だけでなく戦略眼も相当光るからねぇ。
当時三郡が寝返ったのは魏側にも情報流れていただろうし、時間がかか
ればそれこそ隴西がどうなるか分からん状況。
魏としても速攻で街亭を陥としたい所で敢えて包囲、水道を絶つと言う
遅攻を行なう。馬ショクも時間稼ぎで良いのだから山上に布陣し、魏軍
が山に攻めてくれば上から撃退、と言う絵を描いてたんじゃないのかな。
そこを山上に攻め込むのは兵法的にも不利と睨んで、相手の意図しない
包囲を行なった段階で蜀勝利の目はなくなったと言えるでしょうね。
>>369 さらに我々はそれを知る立場に無い
陳寿の伝え聞いた事で陳寿を否定している
つまり陳寿の分析への否定
>>642 増長は諸葛亮への暴言でもわかる。
諸葛亮は武勇を愛するが故に黙認している。
また孫権の言動からもわかる。
彼がはめられたとしたならば
如何に能力が高くとも、軍部トップにおくべき人物ではないと思われたからだろう。
敵が多くある事からも増長した言動が多く恨みをかっていたことがわかる
庇護者諸葛亮(劉備)が居て、初めて組織で生きる人物だった事がわかる
つまり諸葛亮が居ない今
死んだ魏延は英雄たりえるが、生きた魏延は有害だった
647 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/23(月) 07:08:57
でも大人気なんなんだぜ
陳寿が取材したら「魏延は諸葛亮が臆病だから自分の実力が発揮できないと思っていた」
という証言、記録が取れる程度には、魏延は不平不満を表していたのだろう。
(証言に反逆者補正があるにしても)
650 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/23(月) 12:36:40
同僚との仲の悪さからいったら張遼のほうが遥かに上。
傲慢な態度からいったら関羽のほうが遥かに上。
なのに上の二人と違って評価が低いよな魏延。
>>650 同僚に剣をつきつけて半泣きにさせる魏延のほうが
仲の悪さでも傲慢さでも上だろう。
652 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/23(月) 15:44:52
>>651 楊儀は同僚というには格が下すぎるだろう。李厳は罷免され、車騎将軍の劉エンは
この年、処刑され、丞相の次は魏延で、並ぶものはいない官職にあったんだから。
そういや、楊儀が中軍師という閑職に追いやられて、
ショウエンが大将軍、ヒイが尚書令に位が上がったとき
楊儀は中軍師という閑職に追いやられて、不満を持ったという話がある。
ここで言ったのが「こんなことになるのなら魏についていればよかった。」
これを聞いた費イは皇帝に密告し楊儀は配流される。
しかしそれでも楊儀は他人を誹謗する過激な内容を上書を送り続けたために、
ついに処刑される。妻子は成都に戻った。
ポイントは2つ
配流された楊儀が誹謗した相手とは一体誰なのか?
そして内容は伝わらないけれども、それに真実が含まれているのでは無いのか?
つまり、ずばり魏延を殺したのに加担した人間が本当は誰であったのかを言ったため
殺されたということだ。
もうひとつは楊儀のいった「魏に寝返っていればよかった」という台詞。
これは、本当は魏じゃないのでは無いのか?ということ。
これが本当だとすると、この点からみても楊儀は魏延謀殺の主犯には成りえず、
他の誰かの計画に加担しただけだと思える。
一体魏延暗殺の首謀者は誰だったのか?
653 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/23(月) 15:46:04
一応書いておくけど、楊儀の言った「魏」とは魏延のことね。
654 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/23(月) 15:51:19
いづれにせよ、俺たちは楊儀と魏延が犬猿の仲だということを意識しすぎだと思う。
費イ伝の逸話だけに目を奪われて真実を見落としているような気がする。
費イはこの後も、蒋エンの失脚に影響を及ぼしているし謎が多い人物だ。
しかし、僕には費イが首謀者だとは思えないんだよな。
655 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/23(月) 15:56:01
ちなみに車騎将軍の劉エンが死んだ理由の下をたどれば、劉エンが魏延に罵詈雑言を吐いたため。
それで、諸葛亮が激怒して、劉エンを中軍師から外して成都へ戻した。
同格で無いなら剣突きつけて脅しても良いと。
さすが魏延信者は違う。
信者っつーか、呉懿が黒幕って言いたい人じゃないかと。
658 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/03/24(火) 23:51:41
>>642 ちょっと分からんのだが、「蒋エンが軍部の不満を抑えるために魏延の罪を取り消した」って何の話だ?
>>658 本人も断定的に言ってるわけじゃないし、推論のひとつってことだろ
>>658 私もネットであちこち見てたら、たまたま発見したものです。
ttp://www.chinatrip.jp/sankoku/weiyanmu.html まだ学者の推測でしかないようなのですが、こう言う話は非常に興味深いです。
史書からは読み取れませんがおそらく地元にずっと言い伝えられていた話なの
ではないでしょうか。今後の検証結果を聞きたいところでありますね。
これが真実だ、と言い張るつもりはありませんが、これが真実魏延の墓である
とすれば、魏延死後の蜀国内における彼の評価等が少し見えるようになるかも
しれませんね。
まま、こう言う話もありますよ程度に聞き流してくだされ。
661 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/03/25(水) 22:28:23
662 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/03/25(水) 22:36:37
>>661 「蜀丞相蒋ワン」って言っちゃってるので信憑性ガタ落ち
ワンはまあ単なる読みの問題だけど、史実では丞相にはなってないからね
664 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2009/03/25(水) 22:56:08
旅行会社が三国志ツアーって事で三国志の人物や出来事を紹介してる程度で、
信憑性を期待するのは酷だな。
まぁでも魏延に対する見方ってのが少し伺えるだけでもおおきいかなと思いま
すね。一方的に悪く言われないのは、相手の楊儀とかの態度とかがさすがに幾
ら何でもちょっとなあ、て感じの意識が根底にはあったのかもね。
信憑性の方は朱然の墓みたいに、本人の名刺とか出てこれば凄いことになるん
でしょうねえ。遺物の年代測定とかできたらまた違うのでしょうけどねえ。
そもそもあっちでの魏延の評価が芳しくないどころじゃないから
予算も下りず資金も足らずでまともな発掘はされそうもないんだが
>>667 たしか鉄道建設のために魏延の廟を壊しっぱなしにしたんだっけ?
壊しっぱにするほど嫌われていると採るべきかその時代まで廟があったからそれほど嫌わなかったとすべきか…
道路やら鉄道やらを引っぱってくるために史跡を破壊するってのは、
日本でもよくあるからなぁ…。清洲城とか。
それだけでは何とも…。
魏延ってゲームなんかじゃ不当な扱い多いけど
意外なことに三國無双の魏延は無類の劉備厨として描かれてて謀反の意志はなしとなっててなんか嬉しいわ
魏延は野心家なんだけど、それって董卓みたいに自分が皇帝に取って代わるとか、
侯景みたいに諸勢力を渡り歩いて自分を高く売るとか、そういう感じじゃないんだよな。
ある意味スケールが小さくて、為政者には使いやすい面もあったんじゃないかと。
京劇で赤ら顔なんだし忠義の人って扱いだよな
673 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/13(月) 01:18:47
>>662 ああ、いうこと分かるわ。
都合の悪い部分は陳寿は後世の人物だから記録の信頼性が云々・・・という話をしておきながら、
自分の主張に都合の良い話だと勝手に「当時の評価が伺える」という結論になっちゃう。
コレ明らかなダブルスタンダードだけど当人は気付いてないんだろうねえ。
なにか悲しいできごとに遭遇しちゃってんだろな。
そっとしといてやろうぜ……。
675 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/20(月) 22:49:54
>>653 だな。Wikipediaは間違ってるよね。
676 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/04(月) 12:58:50
自分が筆頭武人であるということにケチをつけるものが許せない、
そういう意味じゃ器は小さいけど、決して外道じゃないって感じ?
劉備的な評価では魏延=孟達。
つまり孟達は忠義の士。
Wiki読んだけど、董允と蒋エンに疑われるわ、王平に一喝されて兵士に見離されるわで
絶望的に人望がなかったんだな。口論で刃物出すDQNが好かれる訳ないけど。
ゲームでもうまく立ち回るには味方作っておくもんなのに、それが出来なかった魏延が
撤退命令に背き、橋を焼き、それで「楊儀が謀反起こしました」なんて言っても子供でも信用しない。
魏延って日本で言えば源義経に似てると思う
強い、調子こいてる、政治や人間関係の機微が読めない、最後は元味方に排除される
義経も頼朝との反目後、お御家人連中にはほとんど味方してもらえなかったみたいだしな
強いってのもそこまでじゃないけどね
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/15(金) 17:31:15
思ったんだが
中国人に嫌われる武将と言うのは逆に正しい事をしているのではなかろうか
682 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/15(金) 17:58:11
>>681 劉備なんかは中国の英雄像である決断の遅さが人気の一つなんだっけ?
でもまぁどの要素で評価されるかによるんだろうね。
部下を扱いきれなかったトップの原因かもしれないし
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/15(金) 18:28:07
魏延が義経並の将だったなら北伐で魏を滅ぼしてたろうな
その後の末路は義経と同じになったろうが
>>678 魏延自身がガキなんだよな。
列伝読むと、そうとしか思えん。
カクワイいわしたったり・・・実力はあるんだけどな。
講談や京劇では魏延は結構人気キャラなんだよな
最期のあたりはアレだけど
叩き上げの侍大将という経歴と、暴れっぷりが人気の秘密、らしい
孫悟空とお師匠さんって感じではあるよな
688 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/31(日) 07:15:06
ギエンは人望があったから、劉備に信任されて、破格の出世といわれる漢中太守に任じられたわけ
それを、楊儀だの費いだの、功の無い文官が嫉妬して反乱するまで落とし入れただけ
結局、楊儀はショウエンやヒイに嫉妬して迫害される
ヒイは、キョウイの北伐で手柄を立てさせないために兵を与えないように画策したわけだし。
文官はネラーみたいに他人の足を引っ張ることしかできない
ギエンやキョウイは自分で堂々と動くリア充タイプ
それだけの話だ
急進国だった蜀漢は武人を貴族に仕立て上げねばならなかった。
魏延は文官に吊るされた被害者だろう。
690 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/31(日) 07:45:13
費イは、ぎ延・楊儀・ショウエン・キョウ維ら中心人物を次々に裏切るわ失脚させるわしていった可能性が高いわけね
出世上手ですな
黄皓ら宦官が成都でのさばれるようになったのも費イがいたおかげだろうね。
やりすぎたバチがあたったのか、カクジュンに惨めな殺されかたしたけどw
>>690 キミはどこかおかしいと日頃いわれていないか?
狂人晒しage
全部は見なかったが、孔明ひいきの演義があるように、
魏延ひいきの話があっても悪くはないな。
演義同様、えこひいきが強すぎるように思うがね。
結局、善玉が劉備・孔明から魏延に、悪玉が曹操・司馬懿から楊儀に変わっただけ。
魏延は好きだが、あからさまな悲劇のヒーロー視は却って気持ち悪いし、
コメを見るとにわかが増殖してそうで空恐ろしさすら感じる。
本質はただの一指揮官の記録
一部マニアを除けば興味持たないから大丈夫
(・∀・)ギエーン
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/11(木) 14:32:38
魏延投降時の諌言、孔明死後の魏延離反は孔明の偉大さを示すエピソードだから孔明人気を魏延人気が上回らないとにわかには増殖しないだろうな。
孔明以上に脚色で盛り上がる存在は三国志に曹操ぐらいしかいないのでまぁ大丈夫。
699 :
氷堂 空也:2009/06/13(土) 20:20:03
蜀の名将といえば、まず大将軍関羽。
次に武勇の極み、趙雲。
魏延はその次。
張飛じゃなくて?
702 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/14(日) 04:34:10
張飛は劉巴クンに口利いてもらえなくて
孔明先生に泣きついたぐらいお茶目なお方。
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/17(水) 09:22:34
魏延さえいれば・・・惜しい人物
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/06/18(木) 02:38:20
>>699 つまりその二人亡き後は蜀、随一の名将は魏延ってことに・・・
諸葛亮のもとで魏延が果たしてきた役割はあるわけで、
魏延の粛正をやむなしとしても、
ならばその穴をどうやって埋めるかが問題だったはず。
706 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 19:13:47
今時、趙雲が名将とかどこの馬鹿の書き込みだよ・・・
707 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 19:44:43
そもそも魏延が漢中太守に抜擢される以前までの魏延の大功は全然孔明関係ない
魏延が敵将を次々と破ったのと、玄徳の信任が厚かったからであるし、
正史では魏延に反骨の相があるなんて孔明も誰も言ってない
魏延が謀叛したとも書かれていない。
孔明死後、わずかな部下と共に漢中に戻ったらいきなり勝手に殺されただけ
この話出尽くしてないか?
楊ギが勝手に暴走しただけ。さらにナンバー2の魏延がいなくなった以上、孔明の後継ぎは自分しかいないと思ってたが、
後継ぎが自分でないと分かった楊ギは不平不満をはきちらして平民に落とされた
漫画とかでは「楊ギはこの事を恥るあまり噴死した」とかでたらめ書いて、孔明が重用した楊ギをかばって描かれてるけど、
正史みれば分かるように、楊ギは全然羞恥心なんてない無節操な人物だから、
平民になった後も何度もしつこく不満の上奏文を出し続け、結局処刑されて殺されたわけ
孔明が特に可愛がって特別に重用したのが馬ショクと楊ギというアホ
そりゃ、こんな奴じゃ北伐は失敗するわな
馬鹿孔明の代わりにホウ統か法正がいきてれば、まだ北伐が成功してた可能性あるけどな
>>707 なんか十箇所くらいデタラメがあるんだが
709 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 20:17:48
>>708 具体的には?
それともただの脊髄反骨レス?
いや、あまりにめんどくさいので、708の一言で引き下がってくれればいいなあと思ったんだけど
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 20:42:27
>>710 正史に書いてあることを書き込んだだけだからねぇ・・・
まあ、『馬鹿孔明』だけは、史実に反するから訂正しておくわ。
めんどくさいけど仕方が無い
>そもそも魏延が漢中太守に抜擢される以前までの魏延の大功は全然孔明関係ない
>魏延が敵将を次々と破ったのと、玄徳の信任が厚かったからであるし、
>正史では魏延に反骨の相があるなんて孔明も誰も言ってない
ここはおk
>魏延が謀叛したとも書かれていない。
書いてある。楊儀の上奏が認められたので、蜀漢の正式記録では、最後まで魏延は反逆者。だから三族皆殺しになった。
陳寿がそれを庇って、魏延は楊儀と権力争いをしただけであり
その真意は皇帝と朝廷に反逆するものではなかったのだ、と私見を述べている。
>孔明死後、わずかな部下と共に漢中に戻ったらいきなり勝手に殺されただけ
全然違う。丞相府軍が魏延に断り無く撤収を始めたので、魏延が怒って楊儀の隊が
退く前に先回りして帰路の橋を落とした。
これだけで重罪に当たるだろうが、魏延と楊儀は情勢を有利に運び、かつ攻撃の名分を得るために
互いを謀反だと上奏した上で交戦した。その戦闘で魏延が敗れて漢中に戻った時に謀反のかどで誅殺された。
>楊ギが勝手に暴走しただけ。
費イ、姜維ら幹部の大方が楊儀と連携したことを指して勝手に暴走とは言えない。
>さらにナンバー2の魏延がいなくなった以上、孔明の後継ぎは自分しかいないと思ってたが、
魏延がナンバー2なのは軍部のこと。元から魏延は諸葛亮の政治的後継者になるような立場ではない(北伐の後継者になることは望んだが)
楊儀は丞相府長史として幕府首席であり、諸葛亮の死後の丞相府の撤収を任せられ、ついでに魏延討伐を成功させた。このまま後継者に任命されることは十分ありえる流れ。
しかし、諸葛亮が密かに蒋エンを後継者に指名していたことが後から公開されて楊儀の期待はご破算になった。
しかも蒋エンは留府長史として成都を仕切っていたとは言え年齢経歴共に楊儀の下だった。
その為楊儀はこの人事に非常に不満を抱いた。
>漫画とかでは「楊ギはこの事を恥るあまり噴死した」とかでたらめ書いて、孔明が重用した楊ギをかばって描かれてるけど、
出所不明の漫画の話なんかしても意味が無い
>正史みれば分かるように、楊ギは全然羞恥心なんてない無節操な人物だから、
楊儀は、高潔節操ではなかっただろうが、軍中で幅を利かせる魏延にただ一人立ち向って
論争を挑み退かなかったというような人物。人格的欠点が示されるのは諸葛亮死後の不満が鬱積してからのこと。
公正ではない。
>平民になった後も何度もしつこく不満の上奏文を出し続け、結局処刑されて殺されたわけ
楊儀は自殺。妻子は赦されているわけだから、自殺して罪に落とされるのを避けることで
自分の名誉と係累を救ったのだろう。この時代だと割とよくあること。
>孔明が特に可愛がって特別に重用したのが馬ショクと楊ギというアホ
魏延も加えてくれ。自分のことを怯者と広言する武官を諸葛亮は辛抱強く使い続けた
>馬鹿孔明の代わりにホウ統か法正がいきてれば、まだ北伐が成功してた可能性あるけどな
蜀征服までの権限・功績で比べても諸葛亮が上なのに、なぜホウ統が出てくるのかわからない
法正には部隊統率の功績が無い
714 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 22:03:40
とりあえず
>>707は魏延が好きなのか嫌いなのか…
諸葛亮は魏延と楊儀の仲が悪いことを憂いていたから二人とも後継者にしなかったとも考えられるけどね。
どちらか一方を選んだら選ばれたほうがもう一方を落とすから。
715 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 22:17:17
諸葛亮の後継者っていったい誰だったんだろうな?
李典
717 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 22:37:10
李厳か・・・!そうだな、そうかもしれんな。
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 22:44:15
いやいや、李巖は降格させられてなかったっけ?w
しかも諸葛亮死んだ後に自害してるし。
>>715 劉禅。
国が安定するまでの臨時全権代理から君主権を劉禅に返す。
能力的に北伐は不可能でも、有能な臣下の補佐を受けて国を維持することは出来るように
なるまで成長してるしね。
720 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 22:54:48
自害ではない
721 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 23:10:50
>>713 まず、楊ギは自殺でなく、処刑されたの。
あと、魏延は殺された後、文官つながりで勝手に楊ギに謀叛人にしたてあげられただけ。
だから、その後、魏延を謀叛人としたのは判断の誤りであり、
一族まで処刑したのは間違いであったとの文官達の公式発言がはっきり記載されている。
漢中の防衛線定軍山を奪取したのは法正の策
というか、法正が生存中は孔明は得意の内政をしていて、自分より軍略に優れてると判断した法正を戦場に送り込んでる
夷リョウの大敗も、もし法正が生存していたら有り得なかったと孔明も嘆いている
ただ、法正とホウ統は柔軟な軍略に長けていただけあって、臨機応変な立ち回りができないと定評のある孔明とは相性は悪かったらしいが。
ちなみに俺は関羽や魏延みたいな忠誠無比で主君の信任が厚い反面プライドが高く、
味方からも敬遠されがちで、それが原因で最期は仲間から裏切られ死んでいったタイプの人間の方が、
楊ギや費イみたいに政治争いに奔走していた人間より好感もてる
孔明自体、突然死んで後継者も周囲に(側近の楊ギにさえ)伝わっていなかった状態で
劉禅への遺言書を書くのが手一杯の中、魏延の謀叛がどうたらなんて楊ギに伝えてるかどうか非常に怪しいということ。
楊ギは仲の悪かった魏延に祝宴の席で剣を突きつけられて脅かされて大泣きしたぐらいだから、突然
完全に魏延を殺したかっただろうね。だから孔明に魏延のあることないこと告げてたけど、
孔明は二人の仲が悪いのは承知してたから楊ギの讒言は無視してた
そもそも孔明は魏延が謀叛するとかは思いもよらないだろ。
楊ギはただ単に孔明の側近だから、魏延よりはるかに身分が低いのに魏延に意見できただけ
はるかに目上の魏延に対抗する楊ギの方がそもそもおかしいし、義を欠いてる。
こんなおかしな人物だから、玄徳に解雇されたわけだろ
一方の魏延は漢中を10年まとめあげて防衛していたぐらい有能で、多くの仲間からも慕われてたってことだろ
魏延死後、楊ギは「やはり魏延についておけば良かった」と意味深な発言もしてるし
やはり孔明の死に立ち合った二人、つまり楊ギともう一人の費イが非常に怪しい、と感じる
証拠が何もないからなんとも言えないけどね
楊ギも費イも「自分が孔明の後継ぎ」だと思ってたんだろうね。
ところがショウエンが後継ぎ・・・ショウエンも若くして死んでようやく費イが後継ぎになれたけど。
権力者が若くして死ぬと、暗殺説はどうしてもついてまわるよね(笑)
722 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 23:11:00
あれ?じゃあ李巖てどうしたんだっけ?
>>713 もうめんどくさいので本題にしかレスしないが、
>まず、楊ギは自殺でなく、処刑されたの。
儀は自殺した,其の妻子は蜀に還った.(楊儀伝)
>あと、魏延は殺された後、文官つながりで勝手に楊ギに謀叛人にしたてあげられただけ。
延と儀はおのおの叛逆と表し、一日のうちに羽檄が交わり至った.後主は侍中董允と留府長史蒋エンに問い、両者は儀を保んじ延を疑った.(魏延伝)
この時点で帰趨は決まっている。魏延が死んだ後ではない。
>夷リョウの大敗も、もし法正が生存していたら有り得なかったと孔明も嘆いている
参謀の能力がいくら優れていても軍を統率することは出来ないよ。
もし法正が長生きすれば、法正に大軍を統監させるようなことはあったかもしれないが、その能力は未知数。
タイプの違いだよ。法正は参謀型で、諸葛亮は統率型。ホウ統はその中間辺り。丞相や大軍の総督には統率型の人間が向いている。
>孔明自体、突然死んで後継者も周囲に(側近の楊ギにさえ)伝わっていなかった状態で
違う。蒋エンの件は死の直前のことというふうには書かれていない。
諸葛亮は病篤くなってちゃんと遺言を残している。単に死後事が落ち着くまで後継者を明らかにしたくなかったんだろう。
まあ、或いは、成都で劉禅と長く接していた蒋エンの画策かという妄想をすることもできるが、意味は無い。
>そもそも孔明は魏延が謀叛するとかは思いもよらないだろ。
諸葛亮は謀反するなどとは思っていない。自分の死後、楊儀の言うことを聞かなくなる可能性があると読んでいただけ。
ところが魏延はそれ以上の墓穴を掘ってしまった。
>突然 完全に魏延を殺したかっただろうね。
前のレス読んだ?
>一方の魏延は漢中を10年まとめあげて防衛していたぐらい有能で、多くの仲間からも慕われてたってことだろ
魏延は軍将として有能だったし、兵にも慕われていたかもしれない。
だが、騒乱を起こす名分としてそれが十分かは別の話。だからあっさり軍兵が離散して負けた。
>一族まで処刑したのは間違いであったとの文官達の公式発言がはっきり記載されている。
あれ、そうだっけ。すまん。どこの記述だったっけ?
724 :
723:2009/07/26(日) 23:37:22
725 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 23:40:28
李厳は、孔明なら人間性に難があろうが、才能がある人物なら楊ギのように再度用いるからこともあるから
いつかまた官位を与えられ復帰できると考え期待してた
が、孔明ちゃん死んだから、「もう俺、復帰の可能性無いじゃん。オワタヽ(^^)/」→自害
諸葛亮死後の蜀漢政権は、諸葛亮の丞相府の人間によって運営されていく。
筆頭の蒋エンらは、李厳、魏延のような劉備時代からの高官より遙かに格下。
諸葛亮の威厳があれば彼らを使う事が出来たが、
蒋エンには李厳を使うことはできないし、宰相の座を譲るわけにもいかない。
だから李厳は復帰の見込みがないと絶望したんだろうね。
自害じゃなくて病死だけど。
727 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/26(日) 23:55:45
つまり楊儀は口封じで自害。
李厳は手に負えないから、諸葛亮が死んだ年にいきなり発病して死亡というわけですね。
728 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/27(月) 00:01:03
つまり、政権闘争につきものの暗殺
>>727 歴史から離れてみればそういうことも言える
730 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/27(月) 02:49:13
IDやトリップがないので同一人物かは断定しかねるが、
>>707は魏延が好きで、魏延を褒めるために嘘八百並べたってことか?
こんなやり口で魏延はすごいんだ偉いんだっつってもなあ…
嘘がばれたときの反動で、却って魏延にマイナスイメージが着くぜ。
正史が広まったときの、孔明や趙雲とか蜀の連中みたいにさ。
731 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/27(月) 02:59:58
>>730 めんどいから本題だけレスするとか説明できない部分をあやふやにしてたお前もかなり論理破綻してるし、
他の人が俺の主張に追随してるのに、都合悪い部分はめんどいとか言って逃げてるから
多分お前が馬鹿晒しただけだろ
あと、まさか最後にそんなくだらないレスをしてくるとは思わなかったw
よほど何か悔しかったんだね☆
>>731 反論が欲しい箇所があればそう言えばいいのに、
最後にそんなくだらないレスをしてくるとは思わなかった。議論終了ということでよろしいか。
と、712かつ713かつ723かつ726かつ729がレスしておく。他は知らん。
733 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/27(月) 03:17:00
まあ、魏延に関しては大分前に議論しつくされたしな
前にも書いた通り魏延・関羽みたいな、いかにも武人みたいのが俺は好きだから肩入れ気味にはなってるだろうな
あと、一点だけしつこくて悪いが、他の人も書いてるように楊ギは処刑されて死んだの
ここだけは譲れない
>ここだけは譲れない
楊儀伝を示したのに一方的に譲れないとか言われても…
もうどうしようもない感じ
>>731でどういう奴か程度が知れるってもんだな
736 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/27(月) 08:15:53
なんだか
>>731一人で魏延に悪いイメージ付けてる感じ。
議論に入ってないくせに横槍失礼。
737 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/27(月) 08:27:50
>>734-
>>736 お前、相当粘着だなw
バレバレの自演して、はっきり言ってキモイよw
739 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/27(月) 10:32:12
740 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/27(月) 12:35:28
うーん…IDが出れば自演でないことは証明出来るんだけどなあ。
とりあえず俺がレスしたのはマジで
>>736だけだよ。
お前そんなふうだと2chで身を滅ぼすぞ
741 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/27(月) 12:41:16
幾ら男が女を嫌いになたっとしても、女はどの道男に縋らないと生きていけない
生き物。だから自分に好機を抱かせ、何とかかまってもらおうと必死になる。
そのため女は、女嫌いな男を罵倒嘲笑し、何とか堕落した駄目な男
に仕立て上げようとする。女を嫌いな男は無能で見っとも無い人間というレッテルと
世間に植え付け、恋愛や結婚に興味持たないと周りからそういう目で見られると
男に思い込ませるわけだ。それで何とか男に寄生て楽しようと目論む。
少なくとも結婚願望のある女やこの掲示板に書き込んでる女は皆そうだ。
哀れで汚らわしい生き物だな( ´,_ゝ`)プッ
ずいぶんスレが進んでたから、これまでの経緯を呼んだ後、楊儀伝見直してみたが、やっぱり処刑されたなんて記述はないな。
ソースがないのに処刑された云々言われても、妄想乙という感じ。政治的に殺された、というなら分かるが。
あと、魏延が反乱と扱われたのは身から出た錆でもある。陳寿も弁護しつつ、その点を指摘している。
そもそも魏延は真っ向から歯向かった楊儀に対して、刀を抜いて黙らせるという、DQN行為を行っている。
魏延にデタラメな誹謗を行った奴は、諸葛亮の手で罷免されてるから、少なくとも楊儀のそれは、罷免されるほどの行為ではなかった筈だ。
にも関わらず、この対応。魏延の自尊心が尋常でなかった事の表れだろう。
仮にそうでなかったとしても、軍のNO2としては(あるいは最高司令官としての地位を引継ぐつもりなら)あまりにも幼稚な行動だ。
孤立するのも仕方ない。誰も、こういう性格の相手とは付き合いたがるまい。
才能を評価するトップ(劉備、諸葛亮)が後ろ盾になってやって、はじめて魏延は地位を守っていられたわけだ。
諸葛亮死後(遺言もあるが)ほとんどが楊儀に従うのも、当然の流れといえる。
楊儀の役職上、諸葛亮死後、丞相代理として行動できる権限はあるわけだし、政治的に孤立していた魏延に、この時点で勝ち目は無い。
まあ戦術では有能でも、機嫌損ねたら刀突きつけてくるようなDQNを最高司令官に仰ぎたくはないわな。
さらに、魏延は撤退に移る味方の軍に対し、橋を焼いて妨害している。
その上、先行して、遺言に従い撤退した“北伐軍(味方)”を迎え撃つべく防備を固めていた。
諸葛亮の遺言、つまり最終指令に逆らってるのは魏延なんだから楊儀と魏延の上奏、どちらに理があるかといえば、楊儀になる。
上奏の内容も事実ではなく、楊儀を殺した後、自分の地位を守る為の物に過ぎない。
まあ諸葛亮の遺言自体が捏造された可能性もあるし、そうでなくても政治的に立ち回れば引っくり返せるが、
魏延は前述通りのDQNっぷりで孤立している。打てる手はない。
魏延が忠臣だというのも疑問。というのも、撤退する味方の軍を妨害し、迎え撃とうとしていたからね。
軍事的な衝突によって楊儀を除き、力ずくで他を従えようとした。だが、兵士は魏延が悪いと知っていた。
まあ、味方の軍と戦おうとする将軍をマンセーは出来まい。王平の言葉で兵が離散しているのがその証左だ。
総じて、反乱と扱われても仕方のない状況だな。
魏延の本意はそこにはなかったのだろうけど、考え足らずが過ぎる。楊儀と同様、トップに立つには器が欠けていた、と結論せざるを得ない。
一言、夏休みだなあ…とw
妄想書いてる夏厨は正史読んでないだろ?
どこの記述か聞かれたらファビョってるしw
744 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/28(火) 21:52:07
正史至上主義キタコレ。史実妄想主義者の敵だな。
正史至上とは言わんが、一先ず読んでおくのは前提であって欲しい。
三国時代における一次史料として、重要かつ不可欠なものだから。
正史以外の史料とも照らし合わせて、その上で考察を行うのが理想。正史の記載自体にも矛盾はあるから。
正史にない、あるいは正史と相反する物事を追求するのはいいけれど、考察には史料という土台が必要だ。
ソースが史料として存在しない全くの空想で、盲信するのはどうかとは思う。
もしかしたら、という可能性の話が前提なら、この限りではないけれど。
反乱の件
官軍に矛を向ければ自動的に反乱軍になるんじゃないかな
そこで
魏延と楊儀どちらに正当性があるかが明暗を分ける
魏延とすれば楊儀に謀反ありと上奏して楊儀軍を打ち破りさえすれば
勝てば官軍でその後どうにでもなる
魏延はそう考えたんじゃないかな
でも敗けちゃったし反乱の罪を着せられても仕方ない
法的には至極妥当だと思う
名誉の問題としては
名誉は心の問題だからその意図が謀反でなければ謀反人扱いは正しくない
訂正
「罪を着せる」は間違い
「反乱罪とされても仕方ない」に訂正
>>746 楊儀に勝ったことをもって成都と劉禅を威圧できるなら、それでいいだろうけど、実際は違う。
既に相手を非難する両者の上奏は成都へ送られている状態だから、
「現場の処置で全て処理しましたが事後報告します」という段階を既に過ぎている。
楊儀を打ち破っても漢中以南の大軍が残存してしているので、それらが魏延を支持しなければ、
魏延が楊儀に勝っただけではどうしようもない。
魏延は、楊儀らが自分を欺き相談無しに退却したことに激怒したわけだから、
その事実を「楊儀謀反」を訴える上奏の柱にしただろう。
或いは楊儀の奉じる諸葛亮の遺言を捏造だなどと訴えたかもしれない。
遺言の真偽は、厳密にはもはや知る術はないが、
上奏が劉禅に認められるかどうかがやはり魏延の運命を分けることになっただろう。
成都とのパイプ作ってなかったんだろうか
妄想でも別に良いんじゃね?
夏厨の魏延擁護も一番最初に
「これはポックンの妄想ですが」
という断りの一文を挿入すれば
妄想を正史に書いてある〜とか
大嘘付くのが問題なだけで
>>748 >魏延は、楊儀らが自分を欺き相談無しに退却したことに激怒したわけだから、
>その事実を「楊儀謀反」を訴える上奏の柱にしただろう。
>或いは楊儀の奉じる諸葛亮の遺言を捏造だなどと訴えたかもしれない。
「楊儀が魏延を欺いた」というのは事実にないと思うが、あったっけ?
それに楊儀の上奏文を魏延が読んだというのもあり得ないだろうし
「楊儀の奉じた諸葛亮の遺言を捏造だ」と書くことはできないはず
相手の反逆を上奏するには反逆罪にあたる罪状を挙げる事が必要
「自分を欺いた」「遺言を捏造した」というのはそれに当たらない
>既に相手を非難する両者の上奏は成都へ送られている状態だから
>「現場の処置で全て処理しましたが事後報告します」という段階を既に過ぎている。
?
その上奏が
>>746の「楊儀は官軍に矛を向けた」だろう
事前に上奏していれば楊儀を討った名分が立つからね
>>752 >>748が言う楊儀が魏延を欺いた〜は、
魏延が諸葛亮の死を聞いた後、その遺体守って撤退する組と軍事続行組に分けた命令を、スルーして遺言どおり撤退した事? よく分からない。
楊儀が一応、費イを魏延に送り出してる(諸葛亮の死を伝えている。無論、遺言も伝えただろう)のを考えると、楊儀が欺いたとは言えないね。
むしろ魏延が状況を読めてないとしか。
正当性に関しては、北伐軍の監督を、丞相府(楊儀)で行うか、それとも軍部(魏延)で行うか、が焦点。
魏延の立場からすれば、軍部NO2が指揮権を引き継ぐという観念から、正当性を主張する事は可能だろう。
だが、楊儀も丞相死後は、一時的に代理として動ける権限がある。丞相諸葛亮が監督した軍だから、という理屈でも正当性は主張可能。しかも遺言つき。
上奏に関しては、トップ(魏延の脳内では自分だな)の命令を無視して軍部を掌握したから、反逆と位置づけたものと推測される。
だが、遺言がこの上奏の信憑性の無さを浮き彫りにしてしまう。
遺言の真偽がどうであろうと、北伐軍の大勢がこれを認めて丞相府(楊儀)についているのも問題。
大勢が楊儀側につく最中、また王平の一喝で兵が四散するほど人望を失ってる状況下、
「楊儀が官軍に矛を向けた」が中央に信用されるだろうか。そもそも上奏の時点で中央から信用されてないし。
果たして、楊儀を倒したからといって、その名分が信用されるか。魏延が正当性を認めてもらえるか。これは非常に難しい。
中央と北伐軍の諸将、どちらからも信用されてない状況だ。楊儀を除いただけで事が収束するとは思えない。
>>753 指揮権の所在ははっきりしていなかったように思える
そのうえで魏延は「諸軍の指揮を引き継いで敵を討つ所存だ」と言っていると思う
魏延からすれば、
指揮を引き継ぐのは自分なはずだし、
撤退のような大事を総指揮官不在のときに軍議もひらかず決定するなど以ての外
何者かがそのような事をしたのなら軍法違反に決まっている
魏延は問罪の師となり楊儀を追う
問罪の師に兵を以て抵抗すれば国家に対する反逆となる
よって楊儀らは反逆の徒となり皆殺しにできる
これが魏延の正当性
楊儀らを皆殺しにしてのち魏延が帰還したら
魏延を非難できる勇気のある者は朝廷内におそらくない
魏延の正当性を覆すのは困難であるし
有罪にまでもっていけなかったら自分が殺される
まあ、屁理屈だらけで正当性は皆無だけどね。
全部、魏延の一人決めに過ぎないし。
勝てば官軍ってとこさー
勝てば官軍のつもりで攻撃掛けて返り討ち
魏延・・・なんてアホの子なんだ
>>754 そもそも、魏延は丞相府では外様なんだ。全体の流れとして、丞相府が軍事を掌握している以上、
魏延のNO2だという自覚は、まったく実を伴っていない。諸将を掌握していないのだから。
それに危篤の状況で軍議を開くようなスーパー軍師っぷりを諸葛亮に望むのは酷だ。
「撤退のような大事」であっても、緊急事態である以上、命令を出す事は(筋道や、従うかどうかは別として)出来る。
いつ死ぬかという状況で、軍議をのうのうと開く余裕はない。さらに楊儀、費イ、姜維と証人がいるのだから、正当性の点でも揺るがない。
丞相府が北伐軍の軍権を掌握する流れを諸葛亮が狙うなら、むしろ魏延を遺言の場に呼び出さなかったのは理にかなう。
諸葛亮死後は、魏延が席次では頂点に立つ事になってしまうのだから。
遺言が偽物であった場合も、状況は変わらない。
総指揮官の丞相が遺言(命令)を残したという事になった以上、もう魏延には引っくり返せないんだよ。
楊儀は丞相の代理として、その命令を行っているに過ぎない。そこが、諸葛亮が死んだだけで軍権を掌握したつもりの魏延とは異なる。
楊儀らを皆殺しにする、というのは正気ではない。
諸将が総じて敵に回っているのに、魏延の持つ軍だけで潰すつもりか? 従わない奴は皆殺しにしろと?
楊儀を殺し、一時、諸将が魏延に従うような事があっても、不信は拭えないだろうしな。
しかも皆殺しにしたら中央に批判できる奴はいない、などというのは希望的観測が過ぎる。
諸葛亮の遺言という太鼓判と、側近の進言がある以上、劉禅が魏延の言葉に信を置くとは到底思えない。
そして、皇帝という丞相以上の地位を前にすれば、魏延の正当性は一気に霞んでしまう。
>>752-754 >楊儀が魏延を欺いた〜は、
>魏延が諸葛亮の死を聞いた後、その遺体守って撤退する組と軍事続行組に分けた命令を、スルーして遺言どおり撤退した事?
そのこと。費イは魏延と会議を開いて残留と帰還を分けたのにも関わらず、
費イは丞相府の陣営にすっ飛んで帰って会議を反故にし、当初の遺言に沿って軍を引き上げた。
これは楊儀と費イが魏延を欺いたで間違いない。
どんなに状況読めないアホの子が相手だとしても、一将軍に対し通達すらせず他の全軍を引き上げるというのは
重大な問題だろう。軍規違反、と断言できるほど当時の軍法に詳しくないけど。
しかし、これが反逆に該当するかというと、「魏延が言うことを聞きそうにないので便宜の処置でした」などと
いくらでも言い抜けは可能。この件は、魏延がキレたきっかけに過ぎない。
>それに楊儀の上奏文を魏延が読んだというのもあり得ないだろうし
上奏本文は当然読んでいないだろうが、互いに相手を謀反人指定したことは承知している状態。
羽檄とは羽を挟んだ檄文。檄とは元は確か封緘されていない文書のことだったか、記憶が定かではないけど、
召集のふれ文のことで、つまり両者は相手を非難する檄文を周辺の諸軍や郡県にばら撒いたのだろう。
ついでに、魏延は諸葛亮の遺言の存在自体は費イによって知らされているはず。
こうして両者が対峙している時期に、既に成都は楊儀支持を決めている状況。
北伐には将軍クラスだけでも多数の将が参加し、それぞれ一軍を率いている。他にも軍はたくさんいる。
魏延の征西大将軍府など、諸軍の中での「比較的多数部隊」にすぎないだろう。
漢中の北で魏延が楊儀を撃破しても、ただで成都まで帰れるはずがない。
劉禅が号令を発すれば、各地の要所を封鎖できるのだから
>魏延を非難できる勇気のある者は朝廷内におそらくない
というところまで、政治的な基盤が貧弱な魏延ではたどり着けない。地理的に。
上奏については、魏延がどのように楊儀を謀反人に仕立て上げたかはもはや解らないが、
>>754の考えは面白いと思う。
>>758 そこは論点じゃない。
魏延が政治的に絶望的に孤立しているということに異論をさしはさむ人間はいないとおもうよ。
楊儀に対して「勝てば官軍」に為り得たかどうかは論点の一つだけど。
「魏延の正当性」を述べている人間は、魏延が当時主張した「自分自身の正当性」がどのようなものであったか、
考察しているだけ。
761 :
760:2009/07/30(木) 01:47:32
あいや、指揮権の所在については考える余地があるな
総司令官の戦死によって、序列第二位の将軍が跡を継ぐというのは、その方が自然だろう。
夏侯淵の死に張コウが継いだり。
ただし、それには将司令官の幕府の人間の協力が不可欠になるだろう。
漢中での危機を救ったのは征西司馬の郭淮の功績でもあった。
魏延の場合、諸葛亮の丞相府への権力の集中は非常に高いもので、
監軍など諸軍を統監する役職もそこに置かれていた。
ただでは魏延が指揮を受け継ぐの不可能だっただろう。
ただし、その丞相府から費イが派遣されてきて、
魏延「丞相の遺言は撤退とのことだが、俺は残るべきだと思う」
費イ「うはおk。細部詰めましょ」
とやってるわけだから、魏延にとっては総指揮権を握るのは目前のはずだった。
ところが……という展開。
>>761 魏延のその発言からも、トップの命令が強烈に機能する軍隊だったわけだ。
このことについて、部隊の配分を行った後、費イに“告示”の文書を書かせてるわけだから。
軍議云々というレベルをすっ飛ばして上官の命令が通る軍隊なのだから、
丞相の遺言に従い、かつ代行として行動できる楊儀に諸軍が従うのは道理だな。
魏延の主観はともかくとして、費イはすでに魏延を見限っていただろうし。
「楊儀に説明するよ! 楊儀は経験不足だから、将軍に従ってくれるって!」なんて発言と、後の行動が一致しないもんな。
>>758 >>761が既に指摘してるけど、魏延も外様だし、楊儀以下もほとんど外様だよ。
一時的に主席大臣たる丞相の部下を兼任してるに過ぎないから、
その主席大臣がいなくなったら、官僚機構を次席大臣に横滑りさせるのが当然と魏延は考えたんだろう。
とすると、魏延にしてみれば、楊儀が官僚機構を「横領」してるように見えてたんだろうな。
魏延は彼の主観として自分に非があるとは思ってなかった可能性があるな。
魏延も楊儀も丞相府に組み込まれてるわけだから外様ではないでしょ。
通例として開府当事者の死=幕府の解体であれば魏延の正当性にも理があるというところじゃない?
諸葛亮の遺言にどれほどの拘束力があるのかも知りたい。
765 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 07:49:18
そもそも諸葛亮の遺言では蒋エンは後継者では無かった。
>>764 まあ組み込まれてんだけど本職でもないよな。
漢の直臣が、大臣の部下を兼ねるというのは、
曹操が丞相だった時代ですら、そういうことはやってなかったんじゃないか。
開府の資格者が死んで幕府が解散されるのはまあ当然なんだろうけど、
問題はその手続きだな。解散処理自体を幕府の吏僚が司るかどうかとか。
767 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 10:11:55
糞イタ三戦
768 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 10:25:37
つまり皇帝劉禅の実質的影響力(あまりの判断力の無さから周囲の文官に言いくるめられる傀儡っぷり)無さ過ぎ改めてヒドス
君主としての影響力の有無は孫権と比べるとよくわかる。
孫権のDQNボケ老人ぶりのひどさはひとまずおいとくとして。
769 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 10:39:18
自治スレってのは一部の規制大好き名無しが集まる排他的な集まりになりがち
それを打破すべく学徒閣下が提唱された新しい自治のカタチ、それが自治新党
全てを受け入れる博愛的自治のムーブメント、その総指揮にあたるのが自治新党党首
三戦板住民の心の指導者
どこまでいっても魏延自身が考えた正統性と、
諸将が認めた正当性は乖離しており、
事実として魏延には正当性が無かったという事。
これは普段から諸将の信望を得られてなかったという部分が大きいだろうな。
771 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 16:37:49
魏延は孔明より結構年上だったから、孔明死期にはかなりボケ始めてたのかもしれない
772 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 17:41:59
>>770 勝った側の見解が公式見解になるのはいつの時代も同じ。だから性格云々についてはいくぶん差し引いてみなければならない。
そもそもこの件に関しては、魏延がどうのこうの言う前に、諸葛亮の遺言に到る経緯が胡散臭いことが問題。
773 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 17:45:39
セクロスで性具使いそうなコテ
魏 はいだらー
呉 八戸のぶなが
蜀 佐倉広夢
胡散臭いとがなりたてるだけではどうしようもないな。
疑おうと思えばなんでも疑える。
諸将の賛同が無ければ単なる負け犬の遠吠え。
775 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 18:51:43
これだけ胡散臭い経緯が稀だから議論になってるんだけどな
人間性なら魏延より、劉備からも劉禅からも見限られ解雇されたり、
遺言書に孔明のフォローが何もなかった楊ギのほうがひどい
馬岱みたいな脳味噌空の馬鹿武将どもを騙すことはできても
さすがに君主達は騙せなかった楊ギ
確かに二度も官位を剥奪される奴も相当なもんだなw
>>760 その通り
>>758 >それに危篤の状況で軍議を開くようなスーパー軍師っぷりを諸葛亮に望むのは酷だ。
総指揮官なら軍議を開かずとも発令することはできるだろう
>>754で「不在」と言っているじゃないか
諸葛亮は死んでいる
>楊儀らを皆殺しにする、というのは正気ではない
正気だよ
諸将は敵ではない 何しろ魏延側に理がある
従わないなら謀反だぞということ
魏延を敵に回すと言うことは国を敵に回すことになる
従うだろう兵も忠臣も
戦にならず首謀者は逃げる 追いかけて捕まえるだけ(実際はあべこべだったけどね)
>>759 魏延を欺いたのは楊儀ではなく費イだろう
楊儀関係なし 費イの小手先の騙しでしかない 全然大した問題じゃない
軍紀違反は謀反ではない
三族皆殺しなどあり得ない
反逆となるには直接的な翻意や兵を挙げるなどの行動が必要なはず
よってどちらも軍事衝突の件以外にはないと思う
羽檄は緊急の檄文のこと
「檄」は説論の文書という意味もある
いや、こちらの方が主意だろう
説論によって喚起し軍を起こさせるのだから。
檄は招集の手段であり、招集は檄の目的である
こうすれば分かり易いかな
またこの場合、招集は直接ではないと考える
君主の命令なくして勝手に兵を動かせるのだろうか?
司馬懿の孟達討伐の件を見ると通常許されている行為ではないと考えられる
>漢中の北で魏延が楊儀を撃破しても、ただで成都まで帰れるはずがない。
魏延は北伐軍の大半を引き連れているだろうし
正当性もある
帰還を拒めば本当に謀反を起こす可能性もあるし
他国に降る可能性もある
封鎖などあり得ない
>>761 張コウとはまたちょっと違うんじゃないかな
張コウの場合は軍事指揮ではなく都督職の引き継ぎ
「都督府内の推薦があり張コウが新都督となる運びとなった」ということだと思う
780 :
777:2009/07/30(木) 19:36:49
魏延にも楊儀にも正当性がある
諸葛亮は丞相であると同時に大将軍
戦場で指揮を執っていたのは丞相ではなく大将軍の諸葛亮だろう
不在の緊急時に副将が代行するという決まりがあるのなら
軍事指揮は魏延が正当
一方、丞相には出征した軍隊を呼び戻す権限がある
これにより楊儀は撤退を発令することができる
これが楊儀の正当性
しかし、丞相職は緊急性をもたないので
丞相長史に完全代行権が認められていたかは不明
あとは丞相職の遺命に法的効力があるかどうかだが、
おそらくないのでは
魏延ヲタではないけども、こうして考えると魏延の方に分があるように思える
781 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 19:38:11
398 名前:クマッタ@三戦板天皇 ◆6heAgF.FgWp2 :2009/07/30(木) 19:23:54
>>396 マルチポストはいかんな^^
多少は工夫しないとよ
通報されたらネタどころではあるまい
399 名前:神ツコツ@兀突骨 ◆l5uYUz79nM :2009/07/30(木) 19:27:29
>>398 文末は 変えて みますた ほぼ 変わて おらんがの
400 名前:神ツコツ@兀突骨 ◆l5uYUz79nM :2009/07/30(木) 19:29:50
(゚д゚ ) 400
401 名前:クマッタ@三戦板天皇 ◆6heAgF.FgWp2 :2009/07/30(木) 19:32:42
もう少しだな・・・
402 名前:陳Q ◆rZi61QdJhjjG :2009/07/30(木) 19:32:56
待ってくれ。クマッタの野郎、この時期にいったいなんのガンダムを見てたって言うんだ?
おい、ゼロセンチ。ちょっと当ててみろよ
俺はベタにイグルー2だと思うね
403 名前:クマッタ@三戦板天皇 ◆6heAgF.FgWp2 :2009/07/30(木) 19:35:10
いやBSでやってるだろ今週
とりあえず楊儀は人間性にあまりに難がありすぎたのに、これを用いた孔明の責任も重い。
自信過剰過ぎ
>>775 いくら他者を貶めても魏延に正当性がないのは事実。
だから負け犬の遠吠えにしか過ぎないんだよ。
そういう貶めて相対的に引き上げよう、
という行為は醜いし魏延マニアが嫌われる要因だぞ。
>>777-778 なんかで書かれてるのは、あくまで魏延の「俺の描いた未来図」。
実際には魏延に正当性がなく諸将と配下に見捨てられたんだから。
>>779 確かに張郃の場合は全然話が違うね。
夏侯淵の戦死は予測された出来事ではなく突発的な事態で、
その後の指揮権が明確にされていなかったので緊急の処置がされた。
対して諸葛亮の死は予測されており、
死後の軍事行動についても指揮権も指令が出されている。
諸葛亮の死と共にこの指令が無効となる、
という正当な理由が提出できない限り、
魏延には指揮権を主張する正当性は皆無なんだよね。
追撃を断てという明確な指令がありながら、
従わず尚且つ逆らって友軍の撤退を妨害した。
これは越権行為である上に反逆とされても仕方ない。
>>780 諸葛亮が大将軍なんて初耳だけど、ソースはどこ?
785 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 19:53:42
>>783 他者を執拗に貶めて結論ありきで合理性を欠いて書き込んでるのは君だけだね
ご苦労様
>>785 やれやれ、反証が出来なくなったら煽りですか?
魏延ヲタ全部じゃないけど君みたいな人多いよね。
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 19:59:50
>>783 > 対して諸葛亮の死は予測されており、
> 死後の軍事行動についても指揮権も指令が出されている。
この妄想は何なの?
突然死じゃん
>追撃を断てという明確な指令がありながら、
????
あったの?証拠は?
>>786 自分が他人にやってることを、逆に自分がやられるとギ延オタ批判にもっていくのも少し(かなり)頭おかしいと思います
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 20:05:07
脊髄反射の子供が多いとこだなぁw
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 20:05:09
>>788 正史にはお前のカキコの内容は書かれていない
横山三国志(笑)には書いてあるけどな
>>791 魏延を語りたいなら、頼むから魏延伝くらい読んでくれ。
>>780 諸葛亮は大将軍の官は持っていないよ
丞相は万機を掌る。軍事も含む。
中国では宰相が軍を率いるのは当たり前のことで、蕭何だって遠征している。
丞相長史には当然、丞相職を代行する権限などない。
それに当たるとすれば御史大夫だろうけど、蜀はこれを置いていない。
楊儀は、諸葛亮の遺言を遂行する任だけを与えられたと見るべきだろう。
んで、
>>779 >「都督府内の推薦があり張コウが新都督となる運びとなった」ということだと思う
その通り。正確には代行だけど。
同じく魏延は
「北伐軍総督である丞相府内の推薦があり魏延が新総督となる運びと」なる寸前だった。ということ。
丞相府からの使者である費イの内諾によって。しかしその宣言文を持ってトンズラされたので
反故にされてしまった。費イの直筆文が無ければ、魏延が諸葛亮に代わるという告示も効果を発揮しない。
まあ、これは初めから険悪な魏延と丞相府との権力闘争であり、
費イも楊儀も魏延の意思を尊重するつもりはなかったのだろう。
先に欺いたのは楊儀と費イ。
より重罪を犯したのは魏延。
当初からのシンパシーと抗争勃発の経緯から、諸将軍と成都は楊儀らを支持した。
ってとこかと。
>>793 当時の費禕は丞相府司馬だから、彼の内諾にそんな効力はないと思うが?
魏延はあくまで丞相府は撤退し、自分は諸軍を率いるという意向を示しただけ。
これは告示されたからトンズラは関係ないし、
魏延の告示より内容よりも諸葛亮の指図に諸将が従っただけで。
795 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 20:12:32
夏厨相手にまじめに正史読めとかw
聞くわけね〜w
796 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 20:16:18
厨房がくるとスレが伸びる・・・
いつの世も変わらないなあ
>>794 費イだけでは効果はないよ。だから、「この文書を持ち帰って楊儀を説得します」と言って逃げ帰った。
道理で言えば、丞相府での検討の結果魏延の意向には従えない、ということなら、
それを征西大将軍に通知せねばならない。それを魏延が拒絶したとき、初めて丞相府と征西大将軍府が
決別する理由が出来る。
しかし楊儀と費イは費イの直筆の告示を無かったことにして、魏延に無断で諸葛亮の遺言通り
諸軍を撤退させたというわけ。
798 :
797:2009/07/30(木) 20:25:55
あ、ごめん。費イの直筆の文書は告示されているね。費イが持ち帰ったわけではない。
その点は
>>794の言うとおりだ。
あとは
>>797の通り
>>797 いやいや、それはおかしいよ。
【令禕手書與己連名,告下諸將】
と記述があり、魏延と費禕連名の文書は告示されてる。
また丞相府が従うかどうかの検討は意味が無いよ。
撤退と魏延の殿軍は諸葛亮の指図なんだから、
同格の諸将が意見調整してるのとはわけが違う。
結果、諸将は魏延・費禕連名の指令よりも、
諸葛亮の指図であるという撤退に従ったというわけ。
>>798 あ、ごめん、前後した。
でも、魏延にとっても殿軍を務めよというのは各個たる指令だから、
やはり諸将が意見調整をするという話ではないと思う。
801 :
797:2009/07/30(木) 20:29:41
>撤退と魏延の殿軍は諸葛亮の指図なんだから、
>同格の諸将が意見調整してるのとはわけが違う。
>結果、諸将は魏延・費?連名の指令よりも、
>諸葛亮の指図であるという撤退に従ったというわけ。
その通り。だから費イは、「丞相の計画を変更することを楊儀に相談する」と言って逃げ出した。
それが偽りだった。費イは明らかに矛盾する二つの命令に関わってそれを是正する措置を取っていないし、
楊儀も是正を試みていない。
802 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/30(木) 20:31:35
僕夏厨なんですが、皆さんは年中こんなところで不毛に時間潰しているんですね☆
僕も早く皆さんみたいな大人になりたいなぁ☆
>>801 その点で費禕は人格的に避難されるべきものだけど、
楊儀はそもそも是正する必要がない。
諸葛亮の指図として撤退が指示された以上、
魏延の告示は横車以外のなにものでもない。
さらに魏延が指図を無視するなら構わず進発せよ、
というとこまでも諸葛亮の指示だからね。
魏延伝の記述によれば。
>>793 長史は丞相が在府していない場合、代行を行う。
諸葛亮没後のこの場合、この事例と同じように、軍務を楊儀が代行できるかどうかは、結構グレーだが。
少なくとも、諸将は遺言もあって、指揮権を任せると判断したんだろう。
805 :
797:2009/07/30(木) 20:41:51
>>803 いやだから、「あんたの考えは横車なので俺らは従わないよ」と魏延に通達する義務が、楊儀にはあると言ってる。
両軍は敵同士じゃない。同盟軍でもない。本来統一された指揮系統下に置かれなければならない正規軍だ。
一部の部隊に知らせずに撤収を開始するなんてのはありえない話だ。
先に欺いたのは楊儀らであり、だから魏延がキレた。
その報復の軍道切断、両者が相手の謀反を告発し武力衝突に至る、というその後の事態に比較すれば、
「魏延がキレたきっかけ」という程度のものでしかなくなってしまうが。と繰り返し。
>>805 命令違反者に対してそんな事をする義理はあっても義務はないのでは。
連名の相手が楊儀なら話は別だが、
費禕の場合なら法的な効力も疑問符がつくし、
そもそも自身の行いも不当な事だから、
黙殺されても不当だと主張できるものではないと思うんだ。
そもそもなら命令違反で問責されても仕方がない行動なんだから。
ちなみに命令違反は撤退に従わないのもそうだけど、
殿軍を務めよという明確な行動指令に明らかに背いてるというのもある。
808 :
777:2009/07/30(木) 20:55:41
>>783 だから、丞相職の遺命に法的効力の有無が重要
資料的根拠を示すことはできないが、丞相の遺命に法的効力があるとは思えない
諸葛亮の意向と魏延の意向を比べた場合、
大半は諸葛亮を重視するだろう
だから部下すら魏延を離れた
しかし法的判断となると魏延は間違っていないと思う
劉禅も判断できなかった
>>784 あれ?違ったっけ 思い込んでたな
諸葛亮伝「三階級落とし右将軍となった」(その後復帰)
逆算すれば大将軍となるのでそう思い込んでたのかな?
丞相は政務担当の最高職
そういう認識
809 :
797:2009/07/30(木) 20:56:19
その命令(遺言)を伝える楊儀の使者として正式に訪れた費イが、魏延の意思を承諾してるわけだから、
魏延は少なくとも「命令違反」は何も犯してないわけだけど。
>>809 費禕にはそんな権限はないよ。
【儀令禕往揣延意指】
とあるように、楊儀から意思を伝えたメッセンジャーボーイに過ぎない。
正式でも何でも全権大使でも協議に行かせた訳でもなく指令を伝えただけ。
代理指揮官に命じられた楊儀が承諾したならそうだけど、そうではない。
本来なら費禕が「帰って意向を伝えて協議します」と答えるべきところ。
だから費禕には魏延を欺いた責任があるといってる。
まあ、この話はこの辺で良いかと思う。
おっしゃるようにキレた理由を云々してもしょうがないし。
ちなみに楊儀達からすれば撤退も殿軍の話もした相手から、
軍を分けて戦闘続行の指令が告示された時点で命令には不服従が明確だよ。
812 :
797:2009/07/30(木) 21:21:40
権限もなにも、使者とか伝令官とかいうのはそういうもんだよ。
現地の将軍が「その命令には異論があるので変更を求む」と言ったときに、
「それもそうですね。持ち帰って検討してもらいます」なんて言ったら命令は受領されたことにならない。効果を失ってしまう。
命令違反に持ち込むには、断固としてそこで拒否しなければならなかったし、
丞相府を監督代行する楊儀は過ちを是正しなければならなかった。
しなかった時点で両府間での指揮系統は途絶しており、途絶の責任は丞相府にある。
>おっしゃるようにキレた理由を云々してもしょうがないし。
あくまで後の衝突に比べれば、の話。なんか故意に卑小化されてるが…
まあ、この件はこの辺で打ち止めでいいと思うよ。
813 :
777:2009/07/30(木) 21:22:06
諸葛亮伝
二二一年
諸葛亮は、丞相の位を以って尚書の事務を担当し仮節となった
二二五年
詔を出して諸葛亮に、黄金の鈇と鉞を一揃い賜った
本来の丞相職とは尚書令・録尚書事の職務にあたるのでは
黄金の鈇と鉞は軍事最高権を表すものであるから、
本来の職権とは別と考えた方がいいんじゃないかな
815 :
777:2009/07/30(木) 21:53:15
816 :
777:2009/07/30(木) 22:00:07
黄金の鈇と鉞は諸葛亮本人が賜ったもの
これを楊儀が引き継げるわけはない
楊儀に軍を指揮する権限はない
ということで、
「丞相職の遺命に法的効力があるのか」
誰か論じてくれないかな
>>815 知ってる。だからこそ録尚書事を宰相職とか摂政職とは言えるが、丞相職ではない。丞相は官名だから。
>「丞相の遺命に法的効力があるのか」 (職は除いた)
戦時遠隔のことだから、遺言して総督代行を指名する力はあるだろう。
だが、生前に発せられたその他の命令に後の者が拘束される義務があるとは思えない。
軍事専断の考えもあるから尚更。
つまり諸葛亮死後の諸軍に命令を発するのは楊儀であり、責任も楊儀にある。
しかし権限はない
×権限 ○権威
楊儀単体では
>>817 >戦時遠隔のことだから、遺言して総督代行を指名する力はあるだろう。
撤退の指示じゃなかったかな
>>820 撤退するには総司令官を決めないと駄目なんだよ。計画が動かない。
直接の明記はないが、これを諸葛亮が決めなかったとは思えない。
しかし、諸葛亮が死んでしまえば、楊儀に遺命に従う義務
(反すれば法に問われるような)があったかというと、疑問。
ただ、楊儀の影響力からすると、丞相の遺志に従う、という錦の旗を降ろして
諸軍を統率するような権威があったとは考え難いので、
事実上は楊儀に選択肢は無かっただろうけど。
>>821 諸葛亮は密かに指示したのだから非公式となる
そのようなものが国の是と認められるとは思えない
魏延伝の記述だと
楊儀が総指揮を受け持つようになっている風には見えない
指揮権の所在ははっきりしていなかったように見える
楊儀伝、楊儀の言葉
「あの時、魏延についていればよかった」は、
楊儀の立場が魏延より上であった(総指揮権を引き継いでいた)のであれば出ない
>>822 いや諸葛亮の死後、楊儀が望めば総指揮権を誰かに委譲する可能性もあった、ということだと思ってる。
指揮権がはっきりしないと、「魏延が服従しないなら諸軍を率いて撤退せよ」という遺言で、
楊儀が「諸軍」に命じることができる拠り所は諸葛亮の撤退の遺志のみになり、
それでは想定外の事が起きた時点で指揮を取る者がいなくなってしまう。
…が、ちょっと吾ながら弱いな。
確かに遺言を残すのに魏延を呼ばなかったという時点でこの件はいささか怪しいものになってるんだけど。
諸葛亮が不和を危惧するなら魏延に直接撤収を命じないはずがないが、位階を考えると遺志を託す相手は
魏延が主になってしまい、ほぼ自動的に総司令官代行は魏延になってしまうから… という。
楊儀の恨み言は、
「吾が若し軍を挙げて以って魏氏に就いていれば」
だから、これは魏延ではなく魏国だろう。楊儀が魏延を呼ぶなら、魏延、文長、丁寧に言うなら官職で征西などというはず。
同僚または上役を魏氏とは呼ばないと思う。
>>823 諸葛亮が誰を頭とするようにとか指示したかもしれないが
いずれにせよ非公式なので、諸葛亮の私的な指示の域を出ない
それに従うのは個人の心であって法的効力は有していない
なので魏延伝の記述のようなやり取りになると思う
法は不在の緊急時には副将が指揮を引き継ぐとなっている筈なので
魏延に理がある
魏国なら「魏」或いは「曹氏」じゃないかな
825 :
823:2009/07/30(木) 23:48:43
考え直した。
「諸葛亮は楊儀に諸軍を指揮させ撤退する遺命を残したが、
それには楊儀を『北伐軍総司令官代行』に任じるほどの法的効力はなかったので、
楊儀が全軍を指揮するにはそれぞれ独立した命令系統を持つ魏延をはじめとする諸将軍の
同意を必要とした。
そのため楊儀は費イを派遣して魏延の意向を確かめさせた。魏延が同意する見込みがないので、
楊儀らは魏延を無視し、諸葛亮の定めた案に従う諸軍を順次進発させた」
というところかな?
>>777
魏延のみならず、向こうは魏延の一族だったのでは
827 :
777:2009/07/30(木) 23:51:19
828 :
823:2009/07/30(木) 23:57:23
>>824 >魏国なら「魏」或いは「曹氏」じゃないかな
んにゃ、そこには反対させてもらう。本題じゃなくなってるけど。
「漢氏」という用法は当時有り触れたもの。
逆に、個人を指して「魏氏」とか「諸葛氏」という日本的な使い方は
「諸葛氏集」のようにかなり改まった言葉遣いになる。ただの上役に対しては使わない。
また、個人に従属するのに「就」という言葉も使わない。…ハズ。
829 :
823:2009/07/31(金) 00:03:39
>>827 じゃあだいたい同意かな。
「緊急時には副将が指揮を引き継ぐ」という成文があったかはちょっとわからないけど。
そんな法があったのなら、漢中での郭淮も魏延も法を盾にするはずだから。
まあ魏延の主張は史書には正確に残らないだろうが。
830 :
777:2009/07/31(金) 00:04:52
そうだと思うと言ったが
我ながらここまで考えがブレながらきている
とにかく
>>825に同意する
831 :
777:2009/07/31(金) 00:12:05
>>828 向こうは魏延のみならず一族だったのでは?
名は残っていないが、魏延の一族に男子はあったろうし
そこそこの職に就いていたはず
勢力とはそういうものじゃないかな
>ただの上役に対しては使わない。
上役の首は踏まない
楊儀は魏延を上役とは思ってない
で解決するのでは
>>831 ただの上役には使わない=敬愛する偉大な人物に使う
じゃないの?
833 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 00:17:53
陳寿は「魏氏」は「魏国」のことだとミスリードして欲しいからそう書いたんじゃねぇの?
>>833 そんなことしても陳寿に利点は無いよ
むしろ蜀臣はあっさり国を裏切るもんだという故国の不名誉をばら撒くことになる
>>831 軍中だから家族は蜀にいるはずだし、多少高官がいても「魏氏」とは言わないだろう。
魏延は権臣でも外戚でもないんだから。
835 :
777:2009/07/31(金) 00:25:59
あ、そう そういう意味?
君じゃないの?
ちょっと調べてレスするよ
>>835 君は目上の人物に普通に使う語。楊儀が魏延を敬っていたのなら「魏君」と呼ぶだろうけど。
「氏」というのが対面や同時代に生きた個人に対する呼称として使われたのは見た事がない。
氏について詳しくはないが「ただの上役には使わない」は普通に読んだらただの上役程度には使わないって意味だろう
魏延を上役と思わないならなおさらじゃないか
>>836 しかし魏延はそのとき既に故人なんだよな
>>838 同時代に生きた個人に対する呼称として使われたのは見た事がない。
ていうか多分、生死時代を問わず個人への呼称じゃない。「諸葛氏集」は文書の名だから付けられたのだろう。
孔丘でさえ「孔子」とか「仲尼」だよ
魏書十三
評曰:鍾繇開達理幹,華歆清純コ素,王朗文博富贍,誠皆一時之俊偉也.魏氏初
祚,
魏書十六/蘇則
則及臨菑侯植聞魏氏代漢
魏書二十
評曰:魏氏王公,既徒有國土之名,而無社稷之實,又禁防壅隔,同於囹圄;位號靡定,大小歲易;骨肉之恩乖,常棣之義廢.為法之弊,一至于此乎!
魏書二十五/辛毗
文帝踐阼,遷侍中,賜爵關內侯.時議改正朔.毗以魏氏遵舜﹑禹之統,應天順民;至於湯﹑武,以戰伐定天下,乃改正朔
蜀書十/楊儀
儀對禕恨望,前後云云,又語禕曰:「往者丞相亡沒之際,吾若舉軍以就魏氏,處世寧當落度如此邪!令人追悔不可復及.」
蜀書十二/周戝
先主答曰:「芳蘭生門,不得不鉏.」裕遂棄市.後魏氏之立,先主之薨,皆如裕所刻.又曉相術,每舉鏡視面,自知刑死,未嘗不撲之於地也
吳書十五
評曰:山越好為叛亂,難安易動,是以孫權不遑外禦,卑詞魏氏.凡此諸臣,皆克寧內難,綏靜邦域者也.呂岱清恪在公;周魴譎略多奇;鍾離牧蹈長者之規;全j有當世之才,貴重於時,然不檢姦子,獲譏毀名云
841 :
777:2009/07/31(金) 00:37:24
>>839 魏延個人を指すのを避けたと考えればおかしくない
843 :
777:2009/07/31(金) 00:41:01
もう名前欄空にしていいよ
>>842 言語として間違ってるなら、どんな意図を込めてもおかしいものはおかしいよ
>>836 劉巴を諸葛亮が「劉君子初」と呼んで敬意を表したとかなかったっけ?
>>847 ああ、目上というと語弊か。敬意を示す相手は色々考えられるから。
「高い敬意を表す呼び方」だね。
>>846 個人を指す言葉じゃない
↓
個人を指していないならおかしくない
どこが理解できないかおねえさんに言ってみなさい
>>850 つまり
>>842は陳寿は「魏延個人を指すのを避けて宗族集団を指した」と言いたかったということ?
アンカ遡ると
>>839だから、個人/宗族の流れとは別みたいだけど。
言語としておかしいならって前提が意味不明だよな。
>>846は何と戦ってるのだろう。
>>851 ちんじゅがじゃなくてようぎがだろ
あほなのか?
だれのはつげんかわかってからかきこめよ
陳寿が魏に降りたがる三国志はここですか?
>>829 定軍山の時は郭淮が夏侯淵の司馬として張郃を推挙したわけで、
張郃は当時は雑号(盪寇)将軍でしかなく臨時代行しただけ
漢中撤退後は郭淮が鎮西長史、征羌護軍として張郃や楊秋を監督している
つまり夏侯淵の補佐をしていた郭淮の方が格が上だった可能性が高い
なんで?
魏延個人を指して日本語のように「魏氏」と呼ぶのは、
「ちゅうごくごがおかしい」んだよ。言葉の使い方自体が間違っているのだから
ミスリードも成立しえない。陳寿が発想することさえないだろう?
>>856 魏延個人を指してないならおかしくないってことじゃん
魏延の一族に従って北伐続けりゃよかったってことなら魏延個人に就くって意味じゃないぞ?
馬氏の五常みたいになんとか一族って意味で使うなら普通にあるんじゃないの?
あえて信長と呼ぶのを避けて織田家に従うと表現すんのと同じだろ
>>858 彼に言わせるとが「ちゅうごくごがおかしい」だそうだ
氏という言葉そのものを否定してるんだろう
>>857 だが普通はその場合でも魏延と呼ぶよ。魏延は正規軍を率いていたのであって魏氏軍閥を率いていたのではないから。
追い詰められて恨み言をいう当時の楊儀の心理からすると今更魏延個人を呼ぶのを避けるってのはよくわからない。
この本文中に突然魏氏宗族が登場すると意味が通らなくなるから陳寿が引っ掛かるな
>>861 魏延に従ったらよかったなぁって生理的に言いたくないから魏んとこの一門に従ったらよかったなぁって言うみたいな
864 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 01:12:13
つまり魏延軍団は魏延の一族が中枢を占めていたということかな。
だから三族殺したんだ。ようやくわかった。
ようぎがややこしいことを言わなきゃよかったんだよな
実際どこにも降ってないし酒の上でのグチの真意などどうでもいくね?
女性って姓+氏って記述されること多いし魏夫人(魏延とか魏とか無関係)に入れ込んでたらよかったって意味かもしれないぜ
結局魏延には正当性が無かったでFA?
二人の報告を成都で聞いた劉禅が楊儀を支持した時に初めて正当性が与えられた
ってとこか。
楊儀は孔明の遺命で正当性を主張
魏延は自身の位階によって正当性を主張
諸将は楊儀(というか孔明の遺命)を支持
魏延は実力で挽回しようとしたが敗北
さらに劉禅が楊儀を支持して魏延の正当性にはトドメが入る
ってとこ
870 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 02:25:59
そしてヒイとキョウイがあいも変わらず文官と武将の対立を繰り返し
滅亡に至った四川省でしたとさ
あと、劉禅は女と酒をあてがってくれる文官の声しか聞かなかったから、
黄皓達の讒言を信頼してキョウイを見限ったのも滅亡の原因か
ギエンの悲劇が繰り返されたわけですね
めでたしめでたし
871 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 02:34:31
謀叛人キョウイ
賄賂を送ってのうのうとくらした黄皓
文官達は自分達の命惜しさに劉禅に降伏を薦め、
それに従いあっさり国を捨てた劉禅
そういう背景は完全無視して、体系的かつ包括的な議論をできないのは
文学部や低学歴特有の馬鹿さ・社会不適合さが如実に表れていて楽しいスレだったよ
>>869 孔明の遺命もあると思うけど、それ以前に長史の職権もあるね。
長史というのは、もうまさしく丞相の職務を代行するのが役割なのだから。
で、それだけだと幕外への法的強制力が微妙なので遺命で補強したという感じ。
後漢の曹氏、魏の司馬氏という呼び方はある。
それは現在帝位にある者に対して簒奪する者(或いはそれが予測されている者)、
又は過去帝位にあった者に対して簒奪した者を指してする言い回し。
単に高位高官にあるというだけの者をそう呼ぶことはない。
天祚を受けるべき血筋という意味で使われる。
馬氏の五常という場合は、ご近所の馬さん一家というくらいの軽い表現なので、
ここで例に引くのはあまり妥当ではないと思いますよ。
魏氏=魏国の事だろ・・・・
魏延や魏延一族に付き従って、どうするんだw
そもそも、「魏に降れば良かった」みたいな事言ったからこその処罰だろ。
875 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 03:40:28
魏につけば良かった=魏延に従えば良かった
でとっくに解釈終わってたはずたけど。
要は費イと裏工作したが、費イの手柄にされて騙されたことに気がついて、
それならまだ魏延と手を組んでの裏工作をしていれば良かった、ってこと
何年前の議論蒸し返してんだ?
>>875 どういう根拠で終わったことになってるのか知らないけど、たぶん無理。
魏延を魏氏と呼ぶことは古代漢語として有りえないよ。
たぶん無理とかわろたw
尻馬に乗って批判してるだけだから自信ないんだろうなw
氏が国に使われた例ってあるの?
魏延の部隊は正規軍だったと思うけど
彼は部曲も抱えてたよな?
最後につき従った数百の軍には三族もいたろうし、魏延勢を魏氏と呼ぶのは特におかしくないと思うけどな
語弊あるな
魏延の軍が一族で形成されてるって意味じゃない
881 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 09:48:09
つまり、「魏氏」は「魏国」だと読むことが普通だけど、「魏延」と読むこともできなくはないってことだろ。
「魏国」の場合、議論は出尽くしているわけだから、
「魏延」だった場合、楊儀伝の意味がどう変わるかを検討してくれ。
酒の上でのたわいもない愚痴なんだし問題点は「寝返る発言」であって「寝返り先」じゃないな
国に氏って普通に使われるものなの?
>>828 漢氏って漢の国って意味なの?
あやうじじゃなくて?
さすが魏延スレはレベルが違うなw
無理やり魏延に従えばよかったとか超解釈を持ち出すあたりw
>>884 ぜひみなが理解できるご高説をお願いします
886 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 12:22:28
【三戦板之序列】
┌学徒閣下┬最高顧問―新党党首┬新党副党首―党首代行─幹事長─三元老─七奉行
│ ├八大英雄 . └征夷大将軍
│ │
│ │
│ ├ロコ家
│ ├婿家
│ ├魔玉家
│ ├斯波家
│ ├八戸家
│ ├ぴよ家 ─┬戸田家
│ │ └コロ家
│ ├メディシス家
│ └金王家─┬可児公家
│ . . . . └聖臣公家
│
├─────蛮王:ロコ皇帝(ロコモティブ)
├─────蛮王:三戦板天皇(クマッタ)
└─────蛮王:可児大帝(可児麿)
普通にどっちの解釈も存在するのに定説があるように情報操作するとは卑劣だな
全くひれつだ定説があるのに、まるで解釈が分かれてるかのように情報操作するとは
そんな訳をしてる本があるなら提示してみろクソカスがw
>>881 できなくはないんじゃなくて、できないんだよ。
魏延だった場合も、ない。ありえないの。
890 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 12:35:37
どっちも低レベルw
>>888 里が知れるな
それが人に物を乞う態度か
で、国に氏をつける例って存在するの?
なんで完全に沈黙しちゃうの?
>>891 さもソースを出せるかのように装って必死だなw
態度が悪いから教えてやらないとか言うんだろ?w
ソースもないくせに低脳w
都合悪いからスルーの予感
>>895 都合の悪いレスはスルーが2chの基本だ
それでいつまでも勝負がついてないと妄想する
よしよし、それがしが裁定してやろう。
魏氏=魏延だよ派はそういった役がされてる本と魏氏が個人を指す例を提示すればよい。
魏氏=魏国だよ派は、同じく魏氏が魏国さしている訳本の提示と、それ以外の用例を提示すること。
これで白黒ハッキリする。
よきかな よきかな
自分ちくまの訳本持ってるけど魏国だったよ。
これが違うというならソースは必要なんじゃないかな?
根拠なしに自己解釈を押し付けると喧嘩になっちゃうよ。
最近で一番まともな意見だな
なんか段々アホくさくなってきたな。
「魏氏春秋」とかあるやん。これが魏延か?
宋書には司馬晋を指して晋氏と呼んでる箇所もどっちゃりある。
三国志に限っても東西両漢を漢氏と呼んでる例はいくらもあるのに、
それすら知らないなら、まともに通読することもできないんじゃないの。
どうやって三国志読むのさ。
902 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 14:07:47
で、国に氏をつける例って存在するの?
なんで完全に沈黙しちゃうの?
三戦板らしいチープな流れに乾杯
906 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 16:40:27
>>840 のように「魏氏」とは「魏国」であるということは明らかなんだけど、それを以て「魏氏」は「魏延」では無いという理由にはならない。
「魏氏」とは「魏延」、あるいはそれに連なる一族・軍団では無いというのを示すのに
>>840を出されても見当違いとしか言いようがない。
907 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 16:42:04
それは楊儀伝意外には、「魏氏」に関連する「魏」姓の人物が出てこないからだ。。
908 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 16:44:50
これは絶対、陳寿ワザとやってるとしか思えない。1700年後の人間を釣る陳寿ヤバす。
909 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 18:07:04
アホだな
そんな事より先に魏氏が魏延だとする訳本や用例を出せばいい
出せないなら1700年ROMってろw
まず党員数をふやすために質より量でいくのか
党の規律を守るために最初から量より質でいくのか
なやましい選択だね
で、国に氏をつける例って存在するの?
なんで完全に沈黙しちゃうの?
912 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 19:36:01
魏氏=魏延のソースまだ〜?
913 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 19:49:49
そういや「魏延の強さは呂布に等しい」って金旋伝に書いてあったよな。
914 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 20:11:46
リプレイかよw
>>913 金旋は京兆出身で董卓・李カク時代の長安を目の当たりにした猛者だからなあ
917 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/07/31(金) 21:38:22
金旋伝か。一時期アイツのいい加減な話に騙されて、典型的な魏延好きの孔明嫌いになった
恥ずかしい過去があるがw あの腐ったミカンみたいなリプレイ、まだやってんのか?
918 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/01(土) 00:18:05
お前らすげーな
実生活でどっちかに会ったらどっちが正しいとか関係なしに言いくるめられる自信があるわw
魏氏=魏延のソースまだ〜?
金旋伝て何だと思って今検索かけたら痛い妄想の産物が出てきたんだけどあれのこと?
本人を知らないからとはいえ、よく歴史上の人物をあれだけ出鱈目に書けるな。
単なるリプレイのエンタメ小説にいい加減とか出鱈目とかw
羅貫中にも同じこと言うのか?お前らのリテラシーが痛いわw
金旋伝はファン以外は見なければok。
ただの自己満足のオナニーなんだから目くじら立てんな。
923 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/01(土) 22:47:11
コラムで関羽氏ねだの孔明氏ねだの言ってるのにはモラルの低さを感じたな。
演義で大活躍した二人への醜い妬みか、ちょっと正史をかじって中二病の症状が出たのか知らんけど。
お利口さん面したいのか?オナニーなら黙ってチンポいじくってろ。
魏延に曹仁を追い詰めて于禁とホウ徳を倒してなお徐晃と合戦できるだけの
能力があるとは思えんwww
てか正史関羽も頑張ってるよなあ
>>923のモラルの高さに惚れた。付き合ってくれ。
>>924 問題はうきんが過小評価されてることであって魏延が過大評価されてるわけじゃないと思うよ
過小評価って
今は5将軍の中でしょぼいって感じでしょ?
そんなもんじゃね?
普通の評価なら、どれくらいなんだ?
928 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/03(月) 02:09:37
実際の所、関羽と戦うまでは手柄ばかり立ててメキメキ出世してる感じがするな。
例えば官渡までに限定してみても、親族以外で于禁に並ぶ活躍も信頼も大きな
将官はいないってくらい存在感がある
呂布との戦いでは特にというくらい
赤壁以降で目立たなくなったのと関羽討伐での失態で大きく評価を落とされてる
という感じ
楽進の場合、張遼と共に合肥で活躍し、なおかつ五将軍の中でも退場時期が
とりわけはやくて後半生での失速した感じがないせいなんだろうな
930 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/03(月) 16:34:14
403 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/08/03(月) 15:42:12
馴れ合い厨は三戦に来るな
404 名前:無名武将@お腹せっぷく :2009/08/03(月) 16:23:52
クマッタ涙目敗走!
931 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/03(月) 16:44:00
新しい官位(仮)「|」上下関係「=」同格
水智督=火礼督=金義督=木仁督=土信督
| | | | |
水智守=火礼守=金義守=木仁守=土信守
| | | | |
水智衆=火礼衆=金義衆=木仁衆=土信衆
衆は名無し参加可能
こんなんで良けりゃ 考えといてくらさい 今夜意見を ききます んじゃ
電波乙
>曹仁を追い詰めて于禁とホウ徳を倒してなお徐晃と合戦できる
これだけできる能力は凄いな
しかし、こんなに頑張ってるのに蜀にプラスになってない
934 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/20(木) 04:34:04
>>911 漢氏つー用例が見事にあるけどな
お前古典や漢籍の類読んだことねーの?
どう見ても張飛や馬超より活躍してるんですケド
馬超の戦果は劉備に帰属した人間の中でも図抜けてる。劉備の下での活躍じゃないけど。
張飛は、漢中を夏侯淵に取られて巴まで張コウの進出を許すというヤバイほどの危機に
総大将として張コウを大破・駆逐するすることに成功している。
劉備が益州を奪って間もないころに曹操軍の攻勢を受けながら四川盆地を保全する事ができた軍功は
張飛に帰せられるものだ。
魏延の北伐軍副将格としての存在や、西方を固めた功績も重大なものだが、
「どうみても」なんて言えるようなものじゃない。
937 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/08/28(金) 00:10:04
魏延と楊儀の不仲については、目糞鼻糞の喧嘩って印象しかないね。だけどごく一部の連中は
「鼻糞は色が汚くてベチャベチャしてて食えたもんじゃありません。
目糞はスナック菓子みたいな色で、乾燥してパリパリしてて美味しいです。」
みたいに目糞を賛美して鼻糞を貶めてる。意図はわからんがバカみたいだな。
お前の印象には誰も興味ないと思うよ。
魏延の意見を素直に聞いてれば、長安くらいは楽に取れた
取るのは楽かも知れんけど、取れなかったときリスクが高いって話だよ。
ついでに取った後も保持困難
荊州保持出来てれば魏延の案も活きてきたのに惜しいな。
でもそうなると関羽は呉と魏に挟撃されるけどな
荊州の守りにくさは異常
関羽はむしろ良く持ちこたえた方
俺の尻を掘れる者はあるかー!
ここにいるぞー!
キーソケット キャノピスイッチ シーリングローゼット ジョイントボックス
コネクタ ロックナット
ボルトクリッパー ウォーターポンププライヤー プルスイッチ モンキー
レンチ ワッシャー リングスリーブ
ヒッキー ペンチ レンチ ボルト ワッシャー ブレーカー リングスリーブ
グローランプ
ワッシャー ビス ボルト ボルトクリッパー ウォーターポンププライヤー
レンチ ペンチ ドライバー
カップリング ロックナット ナット リングレジューサ ユニバーサル
ターミナルキャップ サドル ステップル
ブッシング ケーブルラック
アンカー カールプラグ ステップル ウォーターポンププライヤー ペンチ
パイフカッター ボルトクリッパー スケール ワイヤストリッパー
アンカー カールプラグ ワイヤストリッパー ワッシャー カンナ スケール
ボルト ナット ロックナット ブレーカー
パイプバイス カールプラグ ワッシャー ワイヤストリッパー カンナ
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アンカー ボルト カールプラグ リングレジューサ リングスリーブ
フレキシブル
ビニルテープ ブレーカー ブッシング キャップ プライヤー ハンマー
ヒューズ ワッシャー レンチ パッキン ユーパッキン
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メガー テスタ リングスリーブ ブレーカー プリカチューブ レンチ
バール カールプラグ パッキン ナット ロックナット ボルト クリックボール
ナット ホルソー クリックボール ロックナット
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ノギス カールプラグ クランプメーター バール ブラインド スポットライト
ハロゲン 水銀灯 モンキーレンチ ドレン ドレンパン 安定器
クランプメーター クリックボール サークライン ペンダ ハンダ ハロゲン
ルクスメータ ハンマー レンチ ウォーターポンププライヤー ウォータハンマ
ユーパッキン パッキン ロックナット カールプラグ ハンダ スリーブ バール
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スチュアート リー パンツァー
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ヒューズ ブレーカー ヒッキー プルスイッチ ケーブルストリッパー
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圧着端子 防水プリカチューブ クランプメーター カールプラグ がいし
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ルーシー・ヴェールズ ガヴェイン クロード パイプバイス
リングレジューサ リングスリーブ リーマ ブレーカー ウォータハンマ
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ブレーカー プルスイッチ ストレーナ カールプラグ
ウォータハンマ ウォーターポンププライヤー ハンマー ブレーカー レンチ
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ユーライン サークライン
バスダクト ライティングダクト モンキー ハンマー
モンキー ハンマー プライヤー 六角レンチ ウォーターポンププライヤー
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工具類 ハンマー プライヤー ワイヤストリッパー レンチ スパナー
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サンダー リーマ ホルソー パイプレンチ ガストーチランプ ケーブルカッター センターポンチ
がいし引き工事 コードサポート ノップがいし 引き留めがいし 玉がいし
特カップがいし バインド線 チューブサポート 平形がいし がい管 スリーブ
がいし引き工事 ユニバーサル カップリング ノギス メガー スケール
ボルト 防水プリカチューブ レンチ パイプレンチ バール
玉がいし ユニバーサル コンクリートボックス ロックナット 六角レンチ
パイプレンチ サークライン ユーライン ツイン 白熱灯 蛍光灯
リーマ クリックボール ホルソー ペンチ ラジペン がいし
ルーシー・ヴェールズ ニコシア・アークライン オットー・フォン・バーデン
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ユニバーサル ラジペン パイプレンチ バール ワイヤストリッパー
ハンマー ロックナット アンカー カールプラグ コンクリートボックス