蜀将討議スレッド18

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260Jominian ◆Henri9gNlM
実は昔から疑問に思ってる事がある。
学研の『歴史群像シリーズ「三国志下」巻』とか、他にも色々なものに、
魏延、呉懿の涼州への前進に関して、諸葛亮が建威、或いは祁山に出てこれを援護したという話がある。
しかし、これを証明するような記述は、寡聞にして知らない。

そこで少し考えてみた。
曹真の発した蜀討伐軍は230年9月に撤退しているが、この後で作戦が行われたとすると、
魏延、呉懿の攻勢は早くても10月頃だろう。
羌中への前進の後に行われた第四次北伐では、231年の2月に祁山を包囲している。
華陽国志に拠れば6月に撤退して、8月に帰還しているので、漢中祁山間の行軍は2ヶ月ほどかかることになる。
華陽国志の記述が、8月に李平を処罰した事に依拠しているとすれば、
1ヶ月強の行軍で行えたとも考えられるが、いずれにしても正月早々には漢中を出なければ、
祁山への到達を2月に行う事は難しいだろう。

つまり、魏延と呉懿が作戦を終えて漢中に帰還した後で第四次北伐を開始したとするならば、
彼らは遅くとも年内には戻らなければならない。つまり、最大でも90日ほどだね。
地図で大雑把に測定すると、漢中羌中間は6百数十kmなので、実際に行軍する距離はそれ以上、
恐らく700〜800kmほどだったと考えられる。往復にして1400〜1600kmくらいだろう。
里で言うと4千里くらいだけど、これは司馬懿の遼東遠征の片道とほぼ同じくらい。
司馬懿はこの行軍に100日かけてる。
司馬懿と魏延らの軍隊の規模の違い等を考えても、与えられた日数の全てを行軍に費やさねば難しい距離。
行軍距離(1400〜1600km)を日数(90日)で割ると、1日あたり15.6〜17.8kmになる。
軍隊の行軍としては無理な速度ではないが、流石に90日も連続して行軍できる速度ではないだろう。
仮に3日の行軍につき1日の休息を入れるとすると、88日の行程に行軍は66日、速度は21〜24km。
無理じゃあないが強行軍ではあるね。
261Jominian ◆Henri9gNlM :2008/05/01(木) 00:36:51
続き

この作戦を、年内に全てが完了したと考えるから無理があるんじゃないだろうか?
むしろ、第四次北伐との連動で行われ、魏延らは漢中に帰還したのではなく、
祁山に向っている諸葛亮らと合流したと考えた方が、日数を考えると自然。
そうであるならば、魏延らの救援という目的ではないにせよ、
第四次北伐の為の諸葛亮の機動が、魏延らを援護するものとなり、
建威、或いは祁山に出たという話と一致させる事ができる。
しかし、そうなると、魏延らが昇進したタイミングが難しい。
督前部から前軍師への異動は、遠征の最中に行った場合指揮系統の混乱を招きそうだ。