1 :
依頼:
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/17(月) 20:50:40
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/18(火) 09:51:27
甘寧が蜀将になっていた可能性ってあんのかな
もともと劉表を見限って呉に行こうとしたけど黄祖が夏口にいたから通過できず、
やむなく滞在してわけだし、心は呉にあったわけだから、
可能性はゼロに近いんじゃないかな。
八戸のぶなが公が蜀の征服に乗り出される。
心せよ。
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/19(水) 01:23:14
喫緊時の誤報通達者は法令により打ち首ぞ!
李厳が北伐の時になんで後方の兵糧輸送係にされていたのかわからん
兵糧輸送係は諸葛亮的に他に適任者がいなかったから、やむなく一番政治的な実績のある李厳に任せたのかな?
兵站管理が漢中からの北上で重要な責務だったから
あまり実戦的な兵権を与えると危険だから
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/19(水) 19:50:40
李厳には独立の意志でもあったの?
諸葛亮を唆すそぶりはあったけど
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/19(水) 20:09:18
李厳は過大評価されてたけど、孔明に見抜かれただけ
その過大評価をしてたのが諸葛亮なんでないかい。
地方の一太守に過ぎなかった李厳を尚書令に取り立てたのは劉備。
少なくとも軍の指揮において李厳が非凡だったのは反乱平定の手腕を見ても間違いない
ただ一方で史書を見ると野心家なのも又事実のようで。まあそういうことだな
ふーふー
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/20(木) 09:52:34
李厳の出世の仕方は物凄いけどよほど名門の生まれなんだろうか
肛門の生まれ
>>17 南陽は豪族の多い土地だから彼の家もそれなりに豊かだったのかもしれない
ハルヒはどう?
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/21(金) 15:05:19
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/21(金) 15:13:02
そういう意味の「蜀」か、こりゃやられたなw
Linuxで見れない・・・
個人的にショクの人材は防衛戦が少なかったから評価が低いんだと思う。
どの国も、荊州奪還以降の勝ち戦は基本的に防衛戦だから、攻める側に回ることが多かったので将軍たちが目立つ活躍が少なかった。
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/24(月) 04:23:08
法正って張粛には報復しなかったのか?
法性は長縮を愛していたからな
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/24(月) 15:40:53
法正「私は 童貞だ。
知らなかったか 私が愛するのは市民と革命だ。誰かではない。」
孟達「や は り !」
童貞
包茎
陳固
中国人の名前としては普通にあり得るな
童貞 包茎 陳固
三義兄弟、桃園の誓い
陳[示古](ちんこ、?−263年)
陳祗の子。
幼少の頃から武勇に優れ、若くして将軍に取り立てられる。
建興11年、馬忠に従い反乱鎮圧に従軍して功を挙げ、その功により胤猛将軍に任ぜられた。
平定後は南中に留まり行政面において大いに功績を立てた。
やがて父が死に劉禅が黄皓を重用し始めると、姜維と共に黄皓を除くよう劉禅に嘆願したが聞き入られず罷免され成都に留め置かれた。
263年、魏が攻め入ってくると再び将軍に任ぜられ諸葛瞻らと共に綿竹に立てこもり奮戦した。
諸葛瞻らが討ち死ぬと敗残兵を纏め成都に撤退させようとするが恐慌状態の軍を纏めきることができず乱戦の最中戦死した。
法景(ほうけい、198−222年)
法正の子。
智術に明るかったが規律に疎く、度々軍令を破るようなことがあった。しかし才を見込んだ劉備の取立てにより事なきを得た。
221年、劉備が戦を起こすと馮習の副将として従い李異らを破った。
翌222年、劉備が水軍の後退を命ずると法景は脆弱な兵站線を指摘し、水軍の維持を進言するが聞き入れられなかった。
しかし法景は備えを怠らなかったため水上からの陸遜の奇襲にも動じず鉄壁の守備を見せた。
だが、やがて味方軍営の陥落により兵が四散し始め、敗北を悟った法景は自害した。
白帝で法景の死を知らされた劉備は「朕が(諌言に注意を)むけていれば」ともらしたと言う。
つまらん。
がんばったのに(´・ω・`)
>>28-29 童貞、包茎はどちらかと言うと女の名前だな。
貞淑とか、草冠の字は、女の名前に使うことが多い。
童貞ちゃん・・・
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 13:44:21
法正が謀殺した人物って具体的に誰かとか分かりますか?
八戸のぶながだよ。
>>35 全玄、毛雄、楊憲、紀嬰、文亭、劉玉、張寛
三戦板住民な蜀将
しかし法正も国内の馬鹿ドモを粛清してる暇があったら、
同数の敵国名士を殺してくれればよかったのに。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 17:18:22
すれ違いなのはわかっている
三国知識は漫画とゲームだけなのもわかっている
ぶっちゃけ2chは素人といってもいいぐらいのレベルだ
それをふんできいてくれ
過去すれってどうやってみんの?
切腹汁
46 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/27(木) 22:48:30
40です
すごい!!当初の予想はすれ違いだバ〜カ自分で調べろとかスる〜
などと予想していました。5件の返信様感激です。
書き込んでからずっとつけッパで陸遜のシナリオをクリアしてレアアイテム
2つとって待った甲斐がありました
このスレの過去すれがみたかったんです。
おやおや、少々長く書き込んで島しました。
ありがとうございました!!
高橋大輔すごいな
蜀は社会民主党
みずぽたん。。。
電波国家かよW
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/29(土) 01:54:37
張巍や陳式は演義ではどういう扱いなの?
/ || :ヽ
┌|(⌒ヽ :|| ..:⌒: |┐ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|::|::ヽ.__:):||(___ノ ::|::| │
|:|: .. :|| .. |:| │
:|: .. || ..|| < ジュワ!
:\ [_ ̄] /::| │
:: |\|_|_|_|_/:::| \________
__| | / / :|___
スイーツな蜀将
*``・*。. 。.:☆ . *。+゚ ★
| `*。 ;* †▲_*;.。.: ∧ ∧ /*。
,。∩ *. ゚*: (('A`);゚' +< ,,‘∀‘> つ *。+゚
+ (・ω・`)*。 ゚・* ( 7 `*。 二つ *゚*
`*。 ヽ つ*゜* . < ヽ \+。*・'
`・+。*・`゜⊃ +゜ *。+゚ ∪`J
☆ ∪~。**'``・* 。
`・+。*・゜. | `*。
,。 _,,∩,_ * もうどうにでもな〜れ〜☆
+ / ,' 3 `ヽ* 。+゚
`*⊂ ,j *゚ *
゚と・+。*・' ゚ +゚
☆ `(ノ′ 。*
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/31(月) 09:14:26
>54
蜀にあたる四川省の人々は、
凄く辛党だと言いますが
むむむ
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/01(火) 17:58:44
>>37 そういうのって、どこに載っているんでしょうか?
蜀志?
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/02(水) 13:04:56
かたらろう
62 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/02(水) 13:18:19
夷陵の戦いで戦死した都督2人って誰ですか?
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/02(水) 13:24:55
ケータイ小説を書いていそうな蜀将は誰だ?
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/02(水) 14:04:16
サテライトキャノン法正
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/03(木) 16:43:46
職場の中国人に三国志について語ろうと思ったが、俺より知らなかった件。
法正とか知らないんだぜ?
中国では三国志ってあんまり教わらないのかなぁ
>>70 歴史の一部だからな〜〜
日本くらいだろ
三国志は
中国人だからってみんなが知ってるとは限らないよ。
日本人だって赤橋守時とか熊谷直実とか言われたら大抵はきょとんとするだろ?
中国では、
紅楼夢ヲタ、金庸の武侠小説ヲタ >> (超えられない壁) >> 三国志ヲタ、水滸伝ヲタ
紅迷と金迷は狂気に包まれている。
陳?とか、法景とかいたのね
知らなかったw
ところで最近、董卓が童貞に見えてしまう件
むふふん
>>74 お前のせいで童貞に見えるようになったじゃねーか
新春童貞スペシャル
寿春董卓スペシャル
80 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/07(月) 14:24:37
素人童貞が集まるスレはここですか?
違う、真正童貞だ
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/10(木) 20:20:30
神将魏延
お前らのおかずって何?
魏延
焼売
餃子
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/12(土) 12:13:45
蜀的には饅頭じゃないのか?
93 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/13(日) 09:52:45
蜀的には四川風麻婆豆腐だろ、常考
綾波レイ
95 :
陳登:2008/01/13(日) 11:40:38
魏延って本当は義陽出身じゃなくて南陽出身なんだよね。黄忠と同郷じゃん。
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/24(木) 04:54:42
でも魏延と黄忠の逸話って殆ど無いよね?
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/24(木) 04:59:47
おれがその時代にいたら・・すぐ死ぬな・・・
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/29(火) 00:06:49
魏延は三戦板で過大評価され過ぎ
貧しい所からのし上がった人に評価された
貧しい所からのし上がった人には
夢があるんジャマイカ
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/29(火) 18:54:41
>100 むしろおかげで魏の北伐への対抗者が過大評価される傾向にあるな
色々三国志の本読んでみたけど、全部大体孔明が死ぬまでなのな。
孔明死んでから、蜀滅亡までを描いたオヌヌメの本とかない??
キョウイとかリクコウとかかっこいいー
三国志ものの原作の演義読んでないの?晋の統一まで書いてるよ。
あと柴田錬三郎の『英雄生きるべきか死すべきか』が『英雄ここにあり』の続編で
姜維が主役。俺は読んでないけど。
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/30(水) 09:51:09
>>104 柴錬のは活劇としてなら良いかもしれないけど、
かなり創作が入ってるから好みはわかれると思う。
二宮事件を面白く書いてくれる人がいないかねえ
太子派と魯王派の陰湿な足の引っ張り合い!
孫魯班の跳梁跋扈!
拷問されながら嘘をつく陸胤!
巻き添え食って散々言われて自殺する陸遜!
面白い政治ドラマになるよ
>>108 どう面白く書いても読者が限定されそうな話題だなw
二宮(金次郎)事件を面白く書いてくれる人がいないかねえ
金次郎と校長の陰湿な足の引っ張り合い!
人体模型の跳梁跋扈!
拷問されながら嘘をつく薔薇乙女!
巻き添え食って散々言われて自殺する笠地蔵!
面白い人形劇になるよ
112 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/31(木) 14:23:15
面白そうだな
>90は大丈夫かな・・・
114 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/31(木) 15:18:45
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/31(木) 20:41:08
そして宇宙へ
ヒイとかショウエンって軍師としての才能はどうだったんだろう??
文官としての能力と戦略を考える能力が全く別なのは当然だけど、ジュンイク・ジュンユウはどっちも揃えてそう。
後蜀では、戦略的に全体を見える人はいなかったのかな。
キョウイは戦術に固着しすぎに思うし。
ジュンイク・ジュンユウ
クラスの文官なんてそうはいないだろう。
蜀じゃ孔明だけだろうな
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/01(金) 02:39:24
蜀は学者肌の人は多いのにね
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/01(金) 02:58:41
ショウエンって普通に魏だか呉だかの討伐計画練ってたでしょ
内部に反対の意見が多く実行されないまま病死したが
ヒイも魏が攻めてきたとき平然と碁だかしながら援軍を送り撃退した
積極的な北伐を行わなかった(行えなかった)間は、国力の衰退が目立たなかった。
いざ積極的に撃って出てみたら、やはり彼我の国力差がありすぎてジリ貧に陥った。
すると今まで表に出てこなかった不満が一気に噴出しだして、
戦争を知らない世代が増えたこともあり厭戦感が蔓延して下り坂をローリングストーン…。
てな感じ?
ショウエンはアル中
費イはギャンブル狂
キョウイは北伐厨
魏延は最強厨
魏延が見直されれば見直されるほど楊儀の評価が落ちるな
何か功績あったっけ
>>127 コツコツと手紙を書く事が出来る根気と執念は尊敬に値する
功績に関しては一番大きなもので諸葛亮の死後全軍を無事に退却させたというのがある
>>127 陣立と物資分配(計算)にかけては天才的だったらしい。
マネージャーとしては超優秀。
リーダーとしては二流。
それが楊儀。
中間管理職としては優秀って評価だよな>楊儀
古今問わず、「出世したことが身の破滅につながった」というタイプは後を絶たんねぇ。
せめて蒋エンが楊儀より年上だったら、もう少しマシな晩節を送れたのかも。
……楊儀の暴走が後送りになるだけか。
どうあっても結局は費イに嵌められるだけだな。
費イだけが魏延と楊儀の間を取り持てたのに、本人からその気が失せてるから如何ともしがたい。
まぁ、諸葛亮という重石が抜けた後での両巨頭の決戦には巻き込まれたくないよな。
蜀末期について凄く疎いので、申し訳ないが知りたいんだけど
260年から261年にかけて建国時の主だった武将達に諡号を送ったのはどうしてなんだろか
>>133 段谷の大敗で滅亡にもいよいよ王手がかかったんで、
そこらへん誤魔化すために英霊祭って士気高揚はかったんじゃないかね。
>>133 理由が史書に書かれているわけではないので、推測でしか言えないのだけれど、
まず以って挙げられるのが、陳祗の死以降急速に朝廷内に広がっていった厭戦気分を打ち消すためという事。
武を以って建国を大いに助けた人物を称揚する事で、
北伐の意義を再確認させる必要があったんではなかろうか。
とするならば、姜維が主導した事である可能性が高いと思う。
関羽らの翌年に行われた趙雲への諡号追贈は、趙雲別伝に拠れば姜維が深く関わってるしね。
魏が青龍元年と正始四年に功臣を太祖廟に合祀したのと同じ理由なんじゃないかな。
姜維にとって、唯一生でお目にかかった五虎将だからな>趙雲
趙雲に対する世の中の評価はともかく、思い入れも違っただろう。
今でもあるな
有名人が「生前の○○にお会いしました」といって
イデオロギー操作するっていうの
>>137 分からんぞ、案外馬超に会ったことあったかも
五虎将なんてもんには、姜維以外の蜀の人間も
見たことも聞いたこともないだろ。
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/16(土) 01:17:08
むしろ姜維への当時においての世評が気になる
>>141 兵士「生姜うぜぇ」
下級官吏「生姜うぜぇ」
金持ち「生姜うぜぇ」
貧民「生姜うめぇwww」
付き従っていた将兵の間では最後まで士気旺盛だったようだが
じじいには評判悪くて若者に人気があったのかな?
でもじじいでも東芝さんとかには好かれてたんだよな
>>145 明らかなネタレスに日本語もくそも無さそうな気がする
つーか短すぎて日本語もクソもない
145が思ってる正しい日本語ってのが分かんない。添削するとしたらどうなんの?w
「生姜がうざったい」とかw
「生姜がおいしゅうございます」じゃないかな。
そういや、関羽と馬超って会った事あったっけ?
無いだろ、関羽は蜀入りしてないし
ただ、馬超の勇名を気にした関羽が孔明に
「馬超はどれほどの武将なのだろうか」と手紙を出したはず
関羽って成都入ったことないの?
>>152 おそらくは。
ただ馬超は劉備に臣従した時に臨沮を任されてるんだよね。
これって襄陽の臨沮?それともどっか別の臨沮?陽平関近くの沮県周辺?
蜀とった時点で呉は「新しい領地手に入れたんだから荊州返せや」って
行ってくるのは目に見えてたからな
そんな状態で荊州の最高指揮官が現場を離れるとは思えん
荊州の最高指揮官だったっけ?
荊州で守ってるとき関羽陣営に居たのって
関羽関平王甫趙累廖化周倉だっけ?
ホウトウでも生きてて一緒に守ってたら話は変わってたかもなぁ
ホウ統が生きてたら劉備と一緒に漢中に行ってるんじゃないの?
周倉って…
周倉は一応()つけようと思ったけどめんどいからそのまま
ホウトウが漢中行ってたらそれはそれで諸葛が荊州に残ったかもしれないっていうのもある
>>156 潘濬、郝普、郭陸、・晏、陳鳳、ケ凱、ケ輔、樊友、文布
219年の呉の荊州侵攻時に荊州にいた面々。劉備に通じていた豪族含む。
あ、麋芳、(傅)士仁もね。
>>160 行政スタッフの潘濬を含むなら、別駕従事の殷観は?
>>162 季漢輔臣賛で一緒に名前を上げられてる不明の衛文経、韓士元と当の殷観以外の馬良、張存、習禎は益州入りしてるんだよね。
断定は当然できるものではないが、殷観も益州入りしてるんじゃないかなあ?推測(妄想?)の部分が大きいかな?w
その中で戦略練ってたのって結局誰?
関羽の勝手な暴走なの?
諸葛亮じゃね?
関羽の暴走は無い
死後別に蜀内で評価下がってない
167 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/23(土) 01:02:10
>164 都督とか主簿じゃねえの
168 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/23(土) 01:08:30
潘濬をどうしてもっと上手く使えなかったかな?
はっきりモノを言うタイプだから関羽とは合わないのはわかるが・・。
>160 所で、ケ凱、ケ輔らは
ケ芝やケ艾とは何か血縁関係とかある?
後者二人は出身地が近かったよね
エネルギーとエレクトロニクスのケ芝がお送りします
いケ芝マース!
172 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/26(火) 00:48:14
DVD競争で負けた人か。
呂布(蜀)も忘れないでください
174 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/19(水) 11:28:48
周倉ってのはひょっとしてモデルになった人物がいるような希ガス
日本語でおk
176 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/19(水) 16:13:37
俺は
関羽「お帰りなさいませ!兄者!」
張飛「兄者!今日は元気そうだな!」っていわれる」
三国志喫茶のほうがいいや
178 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/19(水) 20:39:02
>176-177
北方三国志の趙雲の最期の言葉が頭に思い浮かんだ
関羽からの呼ばれ方は兄者じゃなくて兄上の方が萌えるな
180 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/26(水) 19:37:30
魏延と王平って役割は似ていたんでしょうか。
役職も似ていますし
でも王平は節は仮されていないのは、単純に
権限が小さかっただけという事ですかね。
魏延は軍師の役職にも付いていますから
>>180 王平の役割は、劉備時代の魏延の役割と似ているのではなかろうか。
単なる漢中防衛軍司令官。
魏延が節を与えられたり、軍師の役職に就いたりしているのは、
諸葛亮時代になって北伐の中心戦力となり、
漢中防衛の任から外れたからだと思われる。
南鄭侯だしね
侯爵さまだぞ偉いんだぞ
ご主人様
184 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/05(土) 09:08:15
魏延が殺されなかったら蜀はどうなってたんだろう?
185 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/05(土) 10:28:18
>>184 もうあの時点で魏延が生きていてもごっそり兵を持っていかれて
滅亡が早まるだけだったんじゃね?
186 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/05(土) 23:12:14
キョウイは名将なのか?
>>186 それなりに名将ではあると思う。
北伐では郭淮・陳泰・ケ艾と相手が名将揃いながらも、
そこそこの戦果は挙げてるし、、
魏が侵攻してきた時も、
素早く軍を動かして剣閣に立てこもり、
鐘会の軍十万を釘付けにしている。
ケ艾の山越えがなかったら、
タイムオーバーで遠征軍を撤退に追い込んでいた公算が強い。
>そこそこの戦果
戦果を挙げたのは郭淮・陳泰・ケ艾以外の相手と戦った時でしょ
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/07(月) 02:38:02
鍾会と王経に郭淮の部下か
戦力の差を考えるとよくやったと言えると思う。
KYな感じだけど…
191 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/08(火) 16:26:55
張翼が出世できたのって名家だからか?
灰焼死さんも生姜気に入ってたみたいだしね
わざわざ孫盛の批判的な長文を引用した後それを批判するツンデレっぷり
しかしその一方で「姜維ごときは天水の一男児に過ぎん
彼を失ったところで魏に損害はほとんどない」と酷評していたりもする
まあ孔明も酷評されたこともあるくらいだから好き嫌いにはあんま関係無いかもしれんけど
実際、大勢を揺るがすような
大きな損害は無かったからなぁ。
そもそも裴松之は、孫盛の行き過ぎた批判を批判しているだけで、
「姜維は凄い人物だ」みたいな事は言ってないしね。
姜維を擁護しているし、気には入ってただろうけど、
「姜維は大勢を覆す事のできる程の人間だ」などと嘘をつく必要は無かったろうね。
王経に勝って数万人の首取ったのに致命的な損害じゃなかったのか…
自軍の100倍の打撃を与え続けてやっとこさ何とかなるレベルだからな。
>>196 あれはあれで相当なものだけど、流石に致命的と呼べるほどじゃない。
まぁ、あれが短期間にもう一回起これば、隴西ぐらいは一時的に領有できたと思うけど。
>>197 100倍は言いすぎじゃないか?
5,6倍の戦闘効率で戦い続けられれば、或いは何とかなったかもしれない。
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/10(木) 00:06:27
実際蜀と魏は2、3倍ぐらいの戦闘効率とも言われてるが。
蜀は兵器開発重視の重装歩兵で、魏は数の力。
魏は武器が粗末だったり、実は兵士の強さはそれほどではない
馬が多いのはどちらだ?
蜀って輸送用の牛には困窮してたんだよな
何か面白い記述は無いかと思って、太平御覧を流し読みしてたら、
巻三四六 兵部七七 刀下に、陶弘景の刀剣録の記述として、
「又曰蜀主劉備令蒲元造刀五千口皆連環及刃口刻七十二錬柄中通之兼有二字」
とあった。
蒲元って劉備の頃から刀作ってたのか?
>>201 400〜500kgの馬なら、日に10kgくらいの飼葉を食うからねぇ。
それを大量に運用するとなると、輸送がしやすい土地か、
或いは馬の餌となるような植物が多い土地を通るかしかない。
また運用の面で考えると、斥侯や追撃に、或いは、
戦術的には包囲機動などに使うのが一般的。
この時代は鐙が無いので、騎兵による衝撃行動は期待できない。
だから、戦術的には敵騎兵を駆逐し、密集する歩兵の側面に切り込む形で使うと思うのだけど、
正面の広く取れない地形なら、断絶地に歩兵の翼を依託する事で、
騎兵による側背への攻撃を防ぐ事ができる。
少なくとも、蜀が雍州において大量の騎兵を運用するメリットは小さい。
だから、中原でも同様に軍隊を運用していたであろう魏の方が、
馬は多かったと思うよ。
>>198 彼我の最大動員兵力が10倍だったら、100倍の打撃を与え続けないと勝てんですよ。
与え続けるんじゃなくて、100倍の戦果が必要だ、だな。
そりゃ魏兵全て殺しつくさないと勝利じゃないんならそうなるだろうな
いや、単純に倍する国の兵の回復量は倍なわけでさ…
戦場でA国が5000人、B国が10000万人で戦った時、A=500とB=1000づつ損耗してっても、
後方の余剰戦力で、戦場での打撃以上の兵力が回復してたら結局勝てない。
結局、内乱に乗じる事でしか勝てないんじゃねーの。
んが。A国が5000人、B国が10000人ね。
なんで1000万なんじゃ。
蒲元の話はどこまで本当か微妙だな
>>207 過大に見積もりすぎているように思える。
国力差は現有戦力の差だけでなく、戦力の回復量にも影響してくるけど、
大国とは言え、それをすぐさま回復できるわけではない。
人を軍隊に入れるだけで、兵士として使い物になるわけじゃないからね。
当然、相当期間の訓練を施さなきゃならないから、
敵が戦力を喪失してから、それを回復しきる前に更なる打撃を加えられれば、
崩壊にもってく事はできるだろう。
戦力を養成するのは国土だけど、敵の戦力に大打撃を与えれば、
その国土をも自らの手に帰する事はできるだろうしね。
「100倍の打撃を与えなきゃならない」というのは、
敵が、どれだけ打撃を受けても国土を全く失わず、
戦意を保ったまま戦力を即座に回復できる、というおかしな状況を考えなきゃならないと思う。
そもそも、魏とて、国力の全てを蜀に傾ける事ができるわけではないし。
>>209 蒲元は何者なのかよく分からんね。
いつ頃から仕えてたのかも分からんし、西曹掾だから官吏の選抜を担当するはずなのに、
何故か刀なんか作ってるし。
>>210 253年、姜維が王経の涼州軍を壊滅させてるが、
256年、段谷において大敗し、王経が受けた打撃とは1桁違うにも関わらず再編不能となり、
263年、段谷敗北後に防衛力を削いだ事が仇となって蜀滅亡。
となってるのを見るとね。
蜀が受けた打撃に数倍する打撃を受けながら魏は数年後には侵攻軍を起こしているのを見ると、
蜀が勝つなんてのは端から夢物語だったんじゃねぇかと思う訳ですよ。
>>211 王経軍を殲滅したと言っても、雍州駐屯軍の一部である隴西駐屯軍のみであるし、
隴西のみで5万も6万もいたわけじゃないから、敗走後の王経が1万を保持していた事を考慮すれば
死者、負傷者等を合わせても、2万くらいだとおもうよ。
魏の人口は、後漢書(続漢書)郡国志の注に引く帝王世記によれば、
蜀の4倍から5倍ほどだから、恐らく全兵力の4〜5%ほどの損失。
段谷では死者の桁は違うけど、2,3千なのか、5,6千なのかは分からない。
「斬ったり生け捕ったりした数は、ややもすれば万に届くほどである」
という記述であるから、損失全体で言えば全兵力の10%近くになる。
両戦闘における単純な兵力損失比でも、洮西と段谷では2:1か、高くても3:1程度。
魏蜀の差は大きく、蜀が魏を打ち倒す可能性は絶望的なまでに低いけど、
100倍必要だってのはやっぱり言いすぎかなと思う。
まぁ、絶望的な状況を強調する為、大げさに言っただけなのかもしれないけど。
214 :
213:2008/04/11(金) 00:25:43
計算ミス?
採るべき係数と計算する方程式と計算の結果とを間違えた。
なんだかよく分からんけど、あなた自身が納得してるならそれで良いのかな。
戦力二乗の法則使ってたつもりだったんだが…。
算 数 苦 手 で納得&溜飲下げてくだせぇ。
説明したかったのは、そちらも述べているように
> 魏蜀の差は大きく、蜀が魏を打ち倒す可能性は絶望的なまでに低いけど、
という事だったんで。
ランチェスターの二次法則の使い方を間違ったって事か。
まぁ、「なんで100倍なんだ?」と疑問に思っただけで、
もともと下げるような溜飲も無かったけどね。
自国の敗戦を誇大に書く人って居るんかのぅ…
黄皓
223 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/11(金) 17:24:50
劉備が騎兵隊による傭兵を率いていたとかどこかで聞いて
以来、劉備は有力な軍指揮官だったのだと認識しているのですが
それを正しいとすると劉備は戦術や騎兵の用兵術をどこで学んだのでしょう?
劉備の伝に「馬術や騎射を好んだ」とか書いてあるのでしょうか?
224 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/11(金) 20:20:08
蜀書先主伝
「先主不甚樂讀書,喜狗馬、音樂、美衣服」
どうやら、若い頃は馬が好きだったらしい。
馬術もこの頃に覚えたんじゃなかろうか。
ただ、劉備は騎馬民族と接する機会の多い幽州の生まれなので、
基本的教養として幼少の頃から
馬術を嗜んでいたのかも知れない。
>>223 騎乗の技術に関する記述としては、
>>224が挙げてくれたのがあるけど、
騎兵の扱い方に関する記述は無いね。
ただ、劉備は徐州の陶謙を救いに行く際、私兵以外に烏丸の騎兵を率いてもいたから、
この時点で騎兵を使う術はある程度体得していたのかもしれない。
彼が誰かに用兵を学んだとすれば、可能性としては廬植辺りが高いんじゃないかと思うけど。
まぁ、
>>224も言うように、劉備は幽州出身だから、烏丸の騎兵の話もあるし、
もともと北方異民族の騎兵と、その戦術について親しんでいたかもしれないけどね。
しかし、劉備が騎兵を中心とした部隊を以って傭兵をしていたとするような記述自体、俺は知らないな。
勢力を失う事の多かった劉備が、金のかかる騎兵をいつも多数擁していたとは思えないし。
>>225 劉備に騎将の能力があったことは、「烏丸雑胡騎」を率いていたということや、騎将文醜と共に騎兵5000を率いたというあたりから察することができるね。
また、長坂で曹操の虎豹騎に追われながら見事に逃げ切ったあたり、本人たちにもそれなり以上に馬に親しんでいたという見方が出来るかもしれない。
俺は、騎将として優秀であったことや一定数の騎兵を擁していたことが、劉備が各勢力で優遇された最大の理由じゃないかと思うんだ。
>>226 そういや、文醜と一緒に騎兵を率いて曹操と当った事があったね。
劉備は身一つで逃げる事もあったし、常時騎兵を一定数有していたというのは、
少し可能性が低いように思える。
汝南の劉辟に呼応する為豫州へ向かった時は、曹仁が、
劉備の率いていたのが袁紹の兵だった事を述べているしね。
騎兵の扱いに長けているというのは、実際、相当重要な事だとは思う。
騎兵で敵を破るには、その隊列の乱れに乗じる必要がある為、
敵の隊列の綻びを見出す能力、更には敵を撹乱してそれを作り出す能力も必要。
歩兵と連携せず、騎兵のみで敵と当るような場合には特にね。
たとえ自前の騎兵を持ってなくても、騎兵の扱いに長けているというだけで、
重宝される理由はあると思うよ。
劉備がどのように騎兵を扱ったかという事については、
同じ幽州の出身で、劉備とも親しかった公孫瓚が参考になるかもしれない。
公孫瓚は界橋の戦いにおいて、3万の歩兵陣の両翼に騎兵を5千ずつ配置している。
恐らくこれが、歩騎混合の軍を率いて会戦を行う時のスタンダードな配置だとは思う。
ただ、この時の騎兵の配置に注目すると、少し見えてくる事がある。
両翼に分かれていた騎兵は、画一的に同種の騎兵が配置されていたわけではなく、
中央に白馬義従が、そして両翼には弓を装備した軽騎兵が配置されており、
この騎兵部隊両翼の軽騎兵は、左翼は右方を、右翼は左方を射撃する事になっていた。
ここから分かる事は、両翼の軽騎兵の射撃によって乱れた敵隊列に、
精鋭である白馬義従が切り込むというものが、公孫瓚の騎兵の使い方だったんじゃないかという事。
白馬義従は騎射の技術を持った騎兵のみで編制されているけれど、
騎兵部隊の中央に配置して、両翼が射撃をするという記述に拠れば、
白馬義従は弓と刀槍の両方を装備し、敵隊列突入までは射撃しつつも、
最後の段になると白兵戦を行ったんじゃないかと思う。
劉備が逃してしまった俊才の代表例として、よく惜しまれるのが陳羣だけど、
実際、陳羣を部下にしておく事はできたんだろうか?
留まって豫州にいたとして、それを保持できなければ、結局陳羣は部下として留まらないだろう。
劉備が徐州を受けなかった場合、やはり袁術が北上して支配することになるんだろうか?
或いは、曹操に敗れた呂布が掠め取るのだろうか?
いずれにしても、劉備の状況は厳しいように思える。
故郷を離れ、官職から財産から投げ打ってでも劉備についていった人間の方が普通じゃあないんだよ
>>230 そりゃ当然だわな。
自分の地盤を捨てて、着いていくわけない。
ましてや、豫州穎川に深く根を張り、声望のある陳氏なら尚の事だね。
だからまぁ、残念ではあるけど、陳羣を失ったのは起こるべくして起こったのかなと。
ただやはり惜しい逸材だから、ある程度の可能性くらいはあったのだろうか、
とも考えてしまうのだよ。
そうすると、豫州の維持ができるかどうかにかかってるんだけど、
材料が少なくて確たる結論は出ないとは言え、
ちらと考えた限りは難しいだろうな、って事ね。
でも仮に身一つで劉備に付き従ったとして何か変わる事ってあるのかな
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/13(日) 08:01:09
そら土地も資産も持って歩けないしな。大変な決断だろう。
麋竺は実際についていったわけだが、土地なんかはどうしたんだろうね。
いくら曹操にも信頼されてたといっても、敵同士になったわけだし、本貫が
そのままだったかどうか。
いずれにしても、相当苦労したから孔明より上の位に任じられたんだろうけど。
田豫なんかは孝を理由に去ったけど、本心は奈辺にあったんだろう
何か劉備に含むところがあったのかもと勘繰ってしまう
235 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/13(日) 09:05:05
うん。その辺りも、劉備の実像がかいまみえる話かも。
武人はともかく、インテリはあんまり吸引力ないのかもね。
地盤が安定してからはエリートも加わってるからやっぱり金じゃね?
かもな。
ただの軍人崩れのごろつきについていくには田豫も陳羣毛並みが良すぎ
たんだよ。麋竺は「除州牧・劉備」に賭けた行きがかり上しょうがなかった。
田豫って毛並みいいのか?
同じ幽州の、右北平の田疇は多くの人に評価され、
渡邉義浩氏流に言えば名士となっていたけど、田豫の方はよく分からん。
後に曹操が田疇を招いた時、その使者となったのが田豫だから、
なにかしら関係はあったのかもしれないけどね。
そういや、陳羣が劉備のところに行ったって事は、誰からも辟召されて無かったって事だな。
既に荀ケが曹操のところにいたから、劉備の辟召より先に荀ケが推挙しててもよさそうなのに。
それに、豫州刺史と言っても、劉備の支配領域は沛の周辺のみだろう。
陳羣の地盤である穎川からは遠い。
李傕の劫掠があった時に避難はしてたんだろうけど、
沛まですぐに行けるような場所にいたんだろうか?
陳羣を茂才に挙げたのは劉備だということはあまり言われないなあ
ある意味、彼を中央(曹操)に紹介したのは劉備な訳で、陳羣を逃がしたとか陳羣が愛想つかしたとかいう解釈自体が的外れなんじゃないかと
俺は愛想尽かしたなんて思ってないけど、「逃した」という表現は語弊を招いたかね。
陳寔も陳紀も穎川きっての名士だから、劉備の茂才の有無に関わらず、
豫州では相当名の知れた存在だったと思うけどね。孔融との逸話もあるし。
荀ケを抱える曹操なら、陳羣の評判は既に知っていた可能性は高いし、
そうでなくても荀ケが知らないはずはないし。
多分、陳羣が茂才に挙げられたのは、劉備が呂布に敗れ、沛に戻ってきた時だろうね。
その後、陳紀について徐州に行ったって事は、劉備が再び呂布に敗れる事を予見したって事だろうか?
そういや、郭貢って劉備が刺史になった頃はどうしてたんだろ?死んでたのかね。
>>240 238は一般論で、あんた一人に向けたわけじゃなかった
誤解させてすまんね
荀ケだって曹操だって知ってはいただろうけど、結局曹操に付くような場所にいなかったんだろう、呂布が敗れて曹操の軍門に下るまでは
袁カン伝注からは、陳羣たちは「とりあえず近場で勢いのある勢力についておこう。負けても勝った側が俺たちを手荒に扱うわけが無い」みたいな計算で動いているように思えないことも無い
>>241 そうだったか。勘違いすまない。
袁渙の話に関して言えば、名士ってのはそういうもんらしいからね。
個人的な結び付きではなく、地元での名声を拠りどころとしつつ、
自分の政策を実現できるような人に仕えるって感じで。
ただ、袁渙は淮水流域に、陳羣は徐州に逃げているし、
自身の影響力の及ぶ範囲であれば、必ずしも地盤の郡に留まるわけじゃなさそうだけど。
曹操が陳羣を呼べなかったのは、兗州の動乱の痛手から回復しきってない上、
陳羣が既に豫州東部に避難していたからなのかもね。
そう言えば、劉備は高唐の令になった後、賊軍に敗れて公孫瓚のもとに走ってるけど、
この賊軍というのは、本当にただの賊なのだろうか?
武帝紀によれば、平原の単経や発干の陶謙と合わせて、高唐の劉備を
袁紹と曹操が協力して撃ち破った事になっている。
これを突き合わせると、高唐県令の劉備を撃ち破ったのは、
袁紹・曹操陣営の何某じゃないだろうかと思ってしまう。
どうでもいいが、この発干に駐屯した陶謙というのは、
徐州牧とは別人だよね?
徐州牧が発干なぞに駐屯するとは思えないのだけど。
>>243 賊軍=袁紹に属するものの誰かとはオレも思う。
陶謙の方はどうだろう?
たしかに発干?と思うけどそれ以外は特に矛盾しないと思うから、別人の可能性もあるね程度かな?
考えたのは、別に同姓同名がいるってのと、陶謙の部下が援軍として公孫瓚の下に来たって事。
少なくとも、発干という記述が間違ってなければ、徐州牧陶謙その人ではないと思う。
まぁ、陶謙の危機に、田楷と劉備が駆けつけている事を考えると、
陶謙麾下の誰かってのが、可能性としては高いかな、と思う。
丁度界橋の戦いのすぐ後くらいで、公孫瓚が援助を欲していた時期だろうし。
『後漢紀』っていう本に、
陶謙と孔融の二人が献帝を洛陽に連れ戻そうとしたけど
曹操が攻めてきたので中止したと書いてるよ。
それも関係ありそう。
>>246 おお、ありがとう。
後漢紀というとニセクロさんが訳していたので、それを読んでみたが、
確かに、興平元年(194年)夏四月に、そういった記述があった。
興平元年というと、既に劉備が徐州に陶謙を救援し、豫州刺史として沛に入った頃だから、
高唐で対袁紹・曹操の最前線に駐屯していた頃とは少し違うように思える。
劉備は高唐で敗れた後、公孫瓚の別部司馬として功績を挙げ、
平原県令、平原国相を経て、田楷と共に斉に駐屯した後、徐州に行ってるんで、
高唐で敗れたのは192年の内だと思うんだよね。三国志の記述の位置もその辺りだし。
そうすると、この後漢紀の記述に関しては、あまり関係ないかなと思う。
ただ、どうやって献帝を洛陽に迎え入れ、更に迎え入れてどうするつもりだったのかというのが分からない。
当時は、曹操は既に兗州牧だし、袁紹も冀州牧。
豫州を通れば洛陽まで行けなくは無いと思うけど、南を劉表、北を曹操に挟まれた豫州を間に挟みながら、
本拠地から遠く離れた洛陽を維持できるとは思えない。
洛陽に戻す事そのものの政治的影響か何かを狙ったんだろうか?
あぁ、時期的に呂布の兗州強奪と重なるから、
それと示し合わせる事で、黄河以南から親袁紹勢力、
と言うか曹操勢力を一掃しようとしたって事かな。
と思ったら、時系列が逆だな。
陳宮の謀略自体は既に陶謙に告げられてて、それを見越して動いたが、
曹操の攻撃が予想以上に激しかったので支えきれず、計画が頓挫したとかか?
河内、河南方面には張楊のような勢力がいるから、献帝を中原に連行できれば親献帝勢力の団結を図り、反献帝勢力(特に曹操)を挟撃することになったかもしれない
問題は李カクたちが献帝連行を許すかどうか、ということだろう
>>250 この頃の呂布は張楊を頼っていたし、スタンスとしては反袁紹なのかな?
やはり、対袁紹大同盟を確固たるものとする為の処置という事なのだろうか。
ただ、曹操は親袁紹とは言え、袁紹の劉虞擁立には断固として反対したし、
献帝を陶謙らが押さえた場合、どう転ぶか分からんね。
案外、袁紹を見限るのかもしれん。
>>251 劉虞うんぬんというより、形勢を見て袁紹を見限る可能性が高いという感じじゃないかな
>>252 大義では無く、実利を判断基準とすると。
まぁ、あくまでifだし、そこまで知識も無いので、どう転ぶかはよく分からん。
>>253 大義で決めるような曹操なら、袁紹派でありながら献帝に近づき、しかも献帝を拉致してくるなんて真似はできないっしょ
貴方の言うようにIFだからどうとも言えるかもしれないけどね
>>254 すまない。俺の言い方が悪かった。
当然、曹操も自分の利益になるように行動するとは思うんだけど、
その行動を大義で装うか、あからさまに利益の為に動くのかどうかって事が言いたかった。
反袁紹勢力が献帝を戴き、大義を掲げて結束を固めた時ではなく、
初めは袁紹に与すか或いは静観しつつ、袁紹の形勢如何で決めるような態度をとるだろうか、って事ね。
190年代の群雄たちの争いを、袁紹、袁術のどちらかに与する勢力のものと見る意見がある。
袁紹と曹操、劉表の三者が盟を結び、公孫瓚、袁術と相対したのは記述から窺えるし、
陶謙が公孫瓚と協力体制にあったのも窺える。
だが、袁術と陶謙との間には、強固な繋がりは無かったように思える。
陶謙が死んだ時、劉備は袁術を後任に推したが、徐州の人士はこぞってこれを拒否し、
劉備に徐州を継ぐよう要請したし、陳羣も、徐州牧の就任は袁術との対立を生むと語ってる。
劉備自身、曹操を防ぐ為に徐州に入りながら、呂布に敗れた後は曹操を頼り、
その後はすぐに曹操と対立して袁紹に与するようになる。
この辺まで考えて思ったけど、もともと袁紹、袁術の両派の争いに単純化するのが無理があるんだろうと思う。
袁紹と曹操、曹操と劉表なんかも早期に関係がこじれてるし、
実際、袁紹、袁術の両者を中心に乱世が動いたのなんて、ほんの僅かな期間に過ぎず、
それすらも緩い協力体制に過ぎなかったのではないだろうか。
呂布も、袁紹の下を去った後も袁術を警戒してたし、どちらかに明確に協力してたわけではないしね。
だから、劉備も特別変節漢だったわけじゃなく、当時はあれが普通だったんじゃないかと思うね。
まあ、二袁の対立図式が成り立っていたのは、
反董卓連合軍が瓦解してから、
袁術が曹操に惨敗を喫して、
拠点を南陽から揚州に移すまでだよな。
それ以後は、どの群雄も自立して動いている。
>>256 確かに単純化しすぎの感はあるかもな
ただ、
>>257のいう時期においては勢力図はおぼろげながらも2色に分けられるとは思うんだよね
おれが違和感を覚えるのは、李カクや袁術や楊奉を「勤皇派」と称する場合があることだね
彼らはもしかすると心から献帝を信奉していた者もいるのかもしれないけど、勢力や政治的スタンスの実態は「献帝を正統な皇帝として認めたうえで傀儡にして使い倒す」だろう
袁紹は「献帝を正統な皇帝として認めない」派なわけだが、これと漢王朝や皇帝への不忠は必ずしもイコールにはならない
一時期は「献帝は正統性がないし劉虞の方が徳高くて皇帝にふさわしい」と、漢王朝の権威回復につながったかもしれない策を実施しようとしているのだから
袁紹が董卓や袁術らとの対抗上否定したのは献帝であって漢ではない(名目上はね)
袁術にも袁紹にも、元皇帝を殺した董卓にも、自己都合で積極的に変節した曹操にも主張できる「勤皇の大義」はあったんだよ
(元皇帝を殺すのは前漢の夏侯嬰だってやっていること)
献帝を擁した者が「勤皇」なわけではない
言い換えると全員「勤皇」じゃねーんだから適切ではないだろ、ということ
どんな内容にせよ、まずは自分で考えてみなければ、
誰かの主張を簡単に容れるべきではないだろうね。
実は昔から疑問に思ってる事がある。
学研の『歴史群像シリーズ「三国志下」巻』とか、他にも色々なものに、
魏延、呉懿の涼州への前進に関して、諸葛亮が建威、或いは祁山に出てこれを援護したという話がある。
しかし、これを証明するような記述は、寡聞にして知らない。
そこで少し考えてみた。
曹真の発した蜀討伐軍は230年9月に撤退しているが、この後で作戦が行われたとすると、
魏延、呉懿の攻勢は早くても10月頃だろう。
羌中への前進の後に行われた第四次北伐では、231年の2月に祁山を包囲している。
華陽国志に拠れば6月に撤退して、8月に帰還しているので、漢中祁山間の行軍は2ヶ月ほどかかることになる。
華陽国志の記述が、8月に李平を処罰した事に依拠しているとすれば、
1ヶ月強の行軍で行えたとも考えられるが、いずれにしても正月早々には漢中を出なければ、
祁山への到達を2月に行う事は難しいだろう。
つまり、魏延と呉懿が作戦を終えて漢中に帰還した後で第四次北伐を開始したとするならば、
彼らは遅くとも年内には戻らなければならない。つまり、最大でも90日ほどだね。
地図で大雑把に測定すると、漢中羌中間は6百数十kmなので、実際に行軍する距離はそれ以上、
恐らく700〜800kmほどだったと考えられる。往復にして1400〜1600kmくらいだろう。
里で言うと4千里くらいだけど、これは司馬懿の遼東遠征の片道とほぼ同じくらい。
司馬懿はこの行軍に100日かけてる。
司馬懿と魏延らの軍隊の規模の違い等を考えても、与えられた日数の全てを行軍に費やさねば難しい距離。
行軍距離(1400〜1600km)を日数(90日)で割ると、1日あたり15.6〜17.8kmになる。
軍隊の行軍としては無理な速度ではないが、流石に90日も連続して行軍できる速度ではないだろう。
仮に3日の行軍につき1日の休息を入れるとすると、88日の行程に行軍は66日、速度は21〜24km。
無理じゃあないが強行軍ではあるね。
続き
この作戦を、年内に全てが完了したと考えるから無理があるんじゃないだろうか?
むしろ、第四次北伐との連動で行われ、魏延らは漢中に帰還したのではなく、
祁山に向っている諸葛亮らと合流したと考えた方が、日数を考えると自然。
そうであるならば、魏延らの救援という目的ではないにせよ、
第四次北伐の為の諸葛亮の機動が、魏延らを援護するものとなり、
建威、或いは祁山に出たという話と一致させる事ができる。
しかし、そうなると、魏延らが昇進したタイミングが難しい。
督前部から前軍師への異動は、遠征の最中に行った場合指揮系統の混乱を招きそうだ。
>>258 袁術が勤皇って誰が言ってんのかなぁ、って思って検索してみたら、
中英のスレとか理不尽能力スレとかが引っかかった。
それは良いとしても、Wikipediaの李カクの項に堂々と書くのはどうなんだろうね。
あれは独自研究の範疇に入らんのだろうか?
>>262 あれは独自研究だろうねえ。
二袁の争いは勤皇派と反勤皇派の争いじゃないからねえ。
そもそも袁術は自分勝手に刺史や太守を任命して、
漢王朝の威信を失墜させている側だし。
袁紹寄りの劉表も李カクから官位を受けているし。
>>263 俺からしたら、Wikipediaにああいうのを載せようと考えるのが理解できんけどね。
劉備は、徐州を失陥するまでは公孫瓚を助ける為の行動に終始してたんじゃないかと思ったけど、
よく考えると、徐州を得た時点で、陳登が使者を袁紹の所に派遣してるし、
曹操が劉備を鎮東将軍にしてるんだよね。
自発的にせよ、徐州の豪族らの主導にせよ、袁術と相対し、袁紹らと結ぶ事を選んだって事かな?
劉備が得た鎮東将軍って、曹操の前任官なんだよね
>>265 そうだっけ、と思って武帝紀を読み直したら、建安元年の6月に鎮東将軍になってたね。
劉備が徐州を得てから1年半、呂布が劉備の元に逃げてから1年くらいだね。
曹操が大将軍になったのが9月だから、劉備の鎮東将軍就任もこの辺だろう。
何らかの策動の結果とも考えられるかもしれない。
267 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/06(火) 07:54:03
>>260 三戦板にあるまじきもの凄く詳細な研究ですね。
何度も祁山に出るから簡単に行ってるように見えるけど、その後の
姜維の苦労などを見るにつけ、膨大な距離を踏破しての軍事行動
で、諸葛亮の優秀さがわかります。
>>267 実際、祁山に出る事自体は、それほど難しい事じゃないとは思う。
もちろん、兵站という、軍隊の前進に関する要素を考えれば、
誰にでもできるような事では無いけどね。
恐らく祁山までの道のりは300〜400kmほどだから、普通の行軍なら1ヶ月強で到達できると思う。
諸葛亮の凄い所は、その緻密に計算された機動だと思う。
ただ前進するのではなく、戦略的優位を作り出す為の周到な計算に基づいた前進。
それが諸葛亮並にできる奴は、三国時代にそうはいないんじゃないかと思う。
269 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/06(火) 22:37:13
うーん道のりだけですまないのが蜀の桟道w
それを遺漏なく越えて当然のようにその後の作戦行動に
移っていく孔明の手腕ですね。姜維などは頭を出すだけ
でやっと感がある。
トウガイなんて、もう超人の域なんだろうな・・・。
機動力や進撃速度は軍団の重要なステータスだね。
蜀の兵が複雑な地形での山岳戦に鍛えられていたという側面もあるかも
しれんが、やはり決めてとなるのは、指揮官の采配によるものかと。
>>269 漢中祁山間に桟道は無いと思うよ。山道ではあるけどね。
「姜維などは頭を出すだけでやっと」というのが、何を言っているのかよく分からないが、
姜維は姜維で相当だと思う。
姜維の場合、毎回のように洮水流域に前進してるから、
険しい山道を600〜700kmくらい踏破している。
諸葛亮ほどの巧妙さは無かっただろうけど、大胆な機動という点では諸葛亮よりも上だろう。
>>270 純粋な機動力という点では、賞賛されるのは恐らく姜維くらいじゃないかな。
その姜維とて、255年は、夏に出て王経を破ったのが8月という事は、
枹罕まで最低でも1ヶ月以上かかっているので、1日25kmは超えないだろう。
1日25kmを1ヶ月続けるのも尋常じゃない、って言うか不可能じゃないかとは思うけど。
諸葛亮は、300〜400kmに1ヶ月か2ヶ月かけてるので、まぁ常識的な範囲だと思う。
>>271 行軍距離「だけ」なら白地将軍様もいい線いってるのを忘れないであげてください
>>272 すまん。蜀スレだから、蜀の将帥の中で考えてたんだ。
まあ、姜維や諸葛亮は蜀の険しい山道や桟道で、しかも万以上の単位での行軍だからな
白痴将軍は条件が全然違う
実際の所、夏侯淵の「典軍校尉夏侯淵、三日で五百、六日で一千」
ってのは、あくまで語呂合わせだろうと思う。
里だとすると、3日で200kmだから、1日70km弱、しかもそれを6日間続ける事になる。
騎馬民族クラスかそれ以上の行軍速度だ。
こんな言葉が残るくらいだから、実際速かったんだろうけど、
姜維とかと比べてどうだったかは分からんね。
白馬将軍と勘違いしてしまったのは俺だけでいい
短里ねw
あれって、邪馬台国関連の話以外で見た事ないけど、実際信憑性の程はどうなんだろう?
仮に短里(75〜90m?)で計算すると、速くても1日15kmくらいで、
別に迅速でもなんでも無くなるな。
これで奇襲されるなんて、どんだけ警戒緩いんだよ、って感じだ。
>>278 一舎が大体三十里、短里だと百五十里。
三日だから三舎で四百五十(短)里。
大して早くないなあw
>>279 「いつ何処を出て、いつ何処に着いた」っていう記述でもあれば、
そこから大雑把には計算できるんだけど、夏侯淵の場合、
「いつ何処で誰を破った」で終わってるから、それもできないんだよね。
実は夏侯淵のあの言葉は、行軍がノロマだったことをあげつらったんだよ!!!!
短里が使われ出すのは魏帝国成立以後というのをどこかで見たので
典軍校尉だった夏侯淵は漢の将軍だから、後漢の単位でいいんじゃない?
>>281 、__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__人__,
_) (_
_) ナ ゝ ナ ゝ / ナ_`` -─;ァ l7 l7 (_
_) ⊂ナヽ °°°° ⊂ナヽ /'^し / 、_ つ (__  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ o o (_
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/イ ,ィ/l/ |/ リuヽlヽト、 | ゝ ,、.___, \ > , ! | ,ィ/l/ l/ uハlヽトiヽ. |
イ /r >r;ヘj=:r‐=r;<ヽ│ 「 ./ u \ | ≧ , ,ィ/ハヽ\ | |/゙>r;ヘ '-‐ァr;j<`K
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ト、 ヽ. ノ u,イl. ヾ! v ヾ__ v イ‐' ヾl ヾ_ v ./' ト、 、__丿u ,イ ト、
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まぁ、短里でも遅かねぇけどな
>>282 そりゃそうだね。
まぁ、初めからネタで話してた感はあるが
>>283 普通の里だと3日で500里(13舎強)だから3日で4倍速〜5倍速の超速軍隊ということになるな
1舎が大体普通の軍が1日で進める距離だ
3日で500、6日で1000
よく考えると、これって「3日で500進軍した後に休み無くまた3日で500進軍した」
ということなんじゃないのかな
つまり普通なら3日で500進軍したあとに休みを入れるところなのに、夏侯淵はよく休みを入れない強行軍を行った、ということなのでは
もっと考えるとこれはそんな強行軍を強いられた兵士たちの怨嗟の声なんじゃないだろうか
>>285 一舎が12kmくらいだからね。夏侯淵の速度は、具体的には
>>275で言ってるけど。
司馬懿は四千里の行程を100日の行軍で進ませる、って公孫淵討伐で言ってるね。
往路の休息30日を入れて130日になるけど、実際には、正月に出て6月に到着だから、150〜180日掛けてる。
1日平均10kmくらいだね。まぁこんなもんだろうと思う。
長距離になればなるほど、長期間になればなるほど、速度を維持するのは大変だから。
>>286 そういう考え方もあるかも分からんね。
機動力が人間の脚によっていた時代は、5〜7日くらいなら連続で行軍できたらしいから、
6日連続の行軍はできない事も無い。
ただ、そればっかり続けられた兵士の疲労は相当大きいだろうね。
「俺たちは千里も進んできたんだから、これから陣地の設営なんかしてたら動けなくなる」
なんて自分で言ってるし、強行軍を好む男ではあったんだろう。
ナポレオン?
>>289 何が?一週間の連続行軍の事?
それならフリードリッヒ大王とかだね。ナポレオンもやってはいるだろうけど。
まぁ、ナポレオンの命令書やら書簡やらを精査した事は無いから、確かな事は言えんが。
質問させて下さい。
武将名の「日本での正しい読み」があると聞きました。
それによれば、関平は「かんへい」だとのことですが、
Wikipediaなどを参照しても「かんぺい」としかありません。
「日本での正しい読み」があるか否か、
「かのへい」なのか「かんぺい」なのか、
ご教示の程よろしくお願いします。
292 :
291:2008/05/09(金) 12:37:30
>「かのへい」なのか「かんぺい」なのか、
「かんへい」なのか「かんぺい」なのか、
訂正します。すみませんでした。
「かんぺい」って最初に言い出した奴はアホ
「関」と「平」がそれぞれ苗字と名前であることを無視してる
「かんねい」と同じアクセントで「かんへい」でおk
「ぶんぺい」や「ちんぺい」なども間違いね
「平」はピンインだと「ping」だからh音じゃなくp音が基本じゃね?
だから「王平」も「おうぺい」と呼ぶべきなんでは?
もっとも、後漢から魏にかけても当てはめられるかはわからんけどw
「はんぞう」もアクセントは「は」
姓が高音→名が低音
(そうそう、りゅうび、とうたく、りょふ、しょかつりょう、じゅんうけい…)
服部半蔵の「はんぞう」とは別
>>294 何でピンイン持ち出す?しかも平にだけ特例?イミフ
いずれにせよ、正確な発音じゃないんだから、日本語読みでいいんでないの?
日本語読みの場合、"ん"の後は室町時代以前か以後かで分かれるらしいが、濁音か半濁音だね
名前の読みなんて、基本的には漢音で読んでりゃいいんじゃないの?
「へ」だとか「ぺ」だとかって、そんな目くじら立てて訂正するほどのものかい?
あまり言及される事は無いけど、251年と252年の蜀は面白い事になってたんじゃないかと思う。
251年の夏に費禕は成都に帰還したけど、この時、占い師から、
「都に宰相の位がなくなっている」という言葉を聞いて、同年冬に漢寿に行ってる。
251年は尚書令呂乂が亡くなった年で、後任は陳祗。
陳祗も占卜には通じてたようだけど、侍中だから占いを専門に仕事してたわけじゃない。
祭祀や天文などは太常の職掌の範疇だと思うが、当時の太常は恐らく鐔承だな。
鐔承は広漢郡シ県の人で、直言を憚らなかった孟光や来敏と違い、
和を以って地位を築いた人として両者と対比されている人だが、
漢寿行きを決めた占いが彼の指図であったかどうかまでは分からない。
費禕と懇意だった陳祗が個人的に占った結果を伝えたとも考えられるしね。
ともかくも、相当規模な軍隊と行政組織のある漢中を姜維が統括し、
成都は陳祗が抑える事となった状況で、費禕が漢寿に幕府を開いている。
三人の権力を掌握する人間が、別々の場所で別々に行動している。
彼らがどういう思惑で、互いにどういう駆け引きをしていたのかは、
推し量るしかないけれど、興味深い事だと思う。
で、費イはそんな中、自分に人望を集中させようと宴席開きまくって暗殺される。と。
費禕ってなんか人が良いイメージを持たれがちな感じだけど、
実際にはかなりクワセモノだと思う
費禕が宴会開いたのが人望を集めるためだったかは分からんけど、
正月の費禕の死から僅か三ヵ月後には姜維は南安を包囲している。
姜維も録尚書事を帯びてはいたが、実質的な宰相は費禕だったはず。
その費禕が死んだ直後にもかかわらず、姜維がここまでスムーズに軍を動かす事ができた事に、
費禕の漢寿行きも影響していたのかもしれない。
姜維を制していた費禕が、漢中に大軍を置いたまま成都に帰るとも思えないので、
費禕は、以前涪に置かれ、244年と248年に自らが率いて漢中に動かした野戦軍を伴って帰還しただろう。
姜維としては、何かあった時の為に、軍にはより漢中に近い位置にあってもらいたい。
そうすると、成都にいるより漢寿にいた方が都合が良い。
まぁ、三人の関係はそんなにギクシャクしたものじゃないと思うんで、
姜維も陳祗も、費禕を陥れるだとかは考えてなかったと思うけど。
>>300 魏延を騙した事とかが理由で?
費禕が人の良い人間だったかは分からないけど、
張嶷に諫言されるくらい、自分の身辺を警戒しないような人間だったのは確かだね。
自分自身の事にはあまり気を回さない人間だったのかもしれん。
もしくはそれなりの自信家だったか、という見方は?
費イ「ヒィーーーッ!!!!」
うかつにも吹いたorz
恩赦&宴会の連発と来ると、人心収攬くらいしか思いつかん。
両方とも側近などから注意されてるあたり、
費イは野心家か、徹底した性善説の人のどちらかだったのかもね。
後者だったら相当に頭がお花畑だけど。
ちょっと思いついて推測交じりで計算してみたんだが、
姜維は247年後半から258年初めまでの約11年間に、
行軍も含めて丸4年間くらいは戦争に従事している。
平均すると1年の3分の1以上は戦争している事になる。
姜維が単独で録尚書事を帯びてから、すなわち253年正月から258年初めまでの5年間だと、
戦争に従事した期間はおよそ2年半から3年で、1年の半分以上になる。
作戦計画の立案も含めると、更に伸びるだろう。
この間、成都に帰ったのは数えるほどしかない、って言うか、
254年、255年、258年の3回だけだな。
戦争が好きだったのか、成都が嫌いだったのかは知らないが、
成都にいた期間より、戦争と漢中にいた期間の方が、
生涯を通しても長いんじゃなかろうか?
>>306 俺はどうしても費イが病床のショウエンを精神的に追い詰めて漢水下り取りやめの上奏を書かせたように思えてならない
得体の知れない薬を飲ましてみたり、血圧に悪い食事を食べさせ続けたり、
『誰も見舞いに来ない』などの絶望的な言葉を耳元で毎日毎日言い続けたりして
>>306 実際、費禕が人心を収攬する必要性がどれだけあるのか分からんのよね。
陳祗だって費禕が目を掛けてやった人間だから、内心どうあれ、
表面上は親密な関係だったと思うし。
蒋琬同様、政策について漢中まで諮問に来るくらい信任されてたってのもあるし。
恩赦にしても、どういった層に対するご機嫌取りなのか分からんしね。
>>309 そうすると今度は「イミフな事を諫言されても続けた」事になるので、
ますます行動に一貫性の無い人という事になる気がする。
311 :
310:2008/05/13(火) 01:32:48
費イじゃなくて何らかの理由で「劉禅の声望を高める必要があった」と考えると、
また違うのかもなぁ
>>310-311 孟光に諫言されたのは、延熙九年夏の大赦だね。
このタイミングでの大赦は、実際、理由がよく分からない。
続く延熙十二年は夏侯覇来降を祝うもの、
延熙九年の前の、同六年のものは費禕の大将軍就任を祝うものと考えれば理由はあるが、
こればかりは分からんね。
何かめでたい事があったわけでもないし、蒋琬は恐らく危篤状態だろうし。
大赦によって恩恵を被るのは、罪人(とその家族もか?)だけど、
正当な理由の無い大赦は、罪人以外の民にとって歓迎されるものだろうか?
宰相と、仰るように君主の声望を高める為とは言え、乱発はむしろ声望を落としそうに思う。
考えられるのは、そもそも人自体が足らなくなっているとか。
罪人が増えれば、生産活動に従事する人間が減る上、
肥大化する獄の管理もコストが掛かる。
ただ、国政に影響が生じるくらいに罪人が増えるほど、治安が悪くなっていたとも思えないし、
釈放されたとは言え、元罪人がまともな生産活動に従事するとも考えにくい。
そうすると、兵員の補充と言うのも考えられる。
罪人を兵士として徴用するのは一般的だろうしね。
>>312 そのくせ、姜維に与える兵や前線の兵を増やした訳でもない。
姜維が大きな失敗をしてその補充をした訳でも無い。
姜維以外のところで軍事行動があった様な記述も見られない。
まさかとは思うけど私兵の獲得が目的というオチかねぇ。
中国四川で大地震…
三国志の遺跡や子孫は大丈夫か?
文革の頃に粗方無くなっちょる
>>313 流石に、大赦によって釈放した罪人を私兵として徴用する、
なんて事はしてないと思うよ。
そんな事すれば、政権内で大いに反感を買うだろうから。
大赦が頻繁に行われるようになったのは、むしろ費禕が死んでからで、
それは恐らく戦争が続いて民心が荒廃し、犯罪に走る人が増えたからじゃないかと思う。
費禕時代にあって不可解な大赦は、延熙九年の1回のみで、
これの説明さえ付けばそれほどおかしな事にはならない。
孟光に諫言されたとは言え、その孟光自体、思慮深い郤正との談話でも相手の反感を買うような人だし、
正しい諫言とは言え、政権全体ではある程度妥当と思われていた大赦だったのかもしれない。
本格的に考察しようと思ったら、中国史における大赦について細かく調査して、
大赦とは何かを深く理解しないと難しいだろうね。
大赦って、多分あれだよ
戸籍を捨て農地を捨てた民、逃亡した兵士を連れ戻すためのものだよ
民心の荒廃みたいなこともあるかもしれないけれど、主たる目的は足抜けという犯罪行為を不問にして連れ戻すことなんじゃないかな
>>317 確かにそうだね。
姜維・陳祗時代に大赦が増えたのは、戦費の増大で税負担が増えた為、
農地を捨てて山野に逃げる人が増えたと。
そういった人を再び呼び戻して、生産活動に従事させる必要があったという事か。
でもよく考えると、姜維・陳祗時代も、253〜255年までは大赦をしてなくて、
256〜258年の三年間に集中している。
民の逃亡や、兵士の死傷などによって大赦が必要になったのは、
段谷でケ艾に大敗を喫してからという事なんだろう。
その大赦も、姜維が帰還して戦争が止むと、ある程度抑えられるようになる。
しかしながら、246年秋の大赦は、やはりいまいち説明がつかない。
北伐が再開されたわけでもなく、孟光の言に拠れば政治が行き詰ったわけでもないから、
姜維や陳祗の時代のように逃亡民が増えたとも思えない。
改元したり太子を立てたりと言った事が行われたわけでも、大きな戦争に勝利したわけでもない。
費禕の治世において、理由の考え付かない大赦があるという点は否めないのかな。
320 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/14(水) 01:26:08
>>318 大赦は現在獄にいるか労役刑に従事しているかまだ捕まっていないか、どれかでないとあまり意味がないからな
まだ捕まっていない者に「もう戻ってきても捕まえないんだよ」と言って出てこさせるんだろう
大赦は皇帝の大権だから、頻発すればありがたみがなくなるし、国家や法令の威信を損なう恐れがあるから、
頻発するべきものじゃあないというのも正論だろうけどな
逆に言うと逃亡民が増えていたということでもなるなあ
罪人って牢獄の中に押し込めておくんじゃなくて
重労働を課すんでしょ?
322 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/14(水) 01:35:32
または処刑
>>320 逃亡民が増えたとしても、それが深刻になるのは、やはり費禕が死んでから、
もっと言えば256年以降だと思うんだよね。
まぁ、費禕も意図不明な大赦は1回だけだから、もともとの話題である、
費禕の野心や腹黒さみたいなのには、それほど影響しないとは思うけど。
>>321 周礼大司寇に拠れば、罪の重さに応じて、桎梏を付けて嘉石の上で13日座らされた後、1年の徒役
というものから、9日座って9ヶ月徒役、5日座って5ヶ月徒役、3日座って3ヶ月徒役まであるらしい。
脚切りとか鼻削ぎとかもあったけど、漢代に廃止されているので、
それ以上の重罪となると、
>>322の言うように処刑か、或いは流刑や鞭打ちだろうね。
つまる所…北伐は結局、蜀の国力を虫食んでいたのか。
>>324 北伐で結構税重かったのに反乱が起こらなかった孔明の政治手腕ってすごくね?
実は普通にそこまでの悪政もせず、なおかつ孔明、ヒイの没後もあんだけ姜維が北伐したのに
実は反乱起こさせなかった劉禅って実はすごくね?
>>325 いや…恩赦が逃亡者に向けられた物だとするなら、すでに破綻してたって事だ。
鼎立後の税率ってやっぱり蜀が一番ヘビーだったのかな
晋書における蜀の人々の晋の益州刺史・王シュンへの献身的な協力ぶりを見るに、
蜀の政治というのはすでに極まっており、
そのために新統治者への帰順もスムーズに行ったのかもな。
>>328 どうだろうね。
蜀の統治が行き詰まりを見せ始めていたのは確かとしても、
益州人士の王濬らへの協力を以って、その崩壊を示す事はできないと思う。
益州土着の豪族たちは、それが蜀だろうと晋だろうと、
自分たちの権力と利益を保証してくれさえすればいいだろうから、
蜀が滅亡した後まで、これに尽くすとは考えにくい。
蜀学の大家である杜瓊や譙周が、既に滅亡を予言していたくらいだし。
皇甫晏や王濬へ協力する事で、権益の保全と、
中央政界進出の足がかりを得ようと考えていた、とする方が自然だと思う。
晋への積極的な協力者の代表と言えば何攀だが、彼にしても益州土着の人だしね。
ましてや、姜維による反乱や、もと蜀軍の王富による小規模な蜂起があった後なので、
新支配者への忠誠を示す為には、より積極的に協力しなければならないし。
>>328 そう読んで欲しかったってのもあるかと。
331 :
328:2008/05/15(木) 02:47:34
晋書に国なき人々の悲哀を見た。
>>327 魏が安過ぎるだけじゃないかな
あと、蜀は税金より色々専売にしてそっちで搾り取ってた気がする
蜀は逃亡民が出るほどの苛政だったのではないかという考えが出る一方で、
永和の初め頃、蜀の古老たちは、姜維の計画が失敗に帰した事を残念がっていた。
蜀の人々が西晋の統治を嫌ったのか、成漢の統治を嫌ったのかは分からないが、
滅亡後100年も経たぬ内に、蜀の統治を懐かしむ人が現れたのは確かだね。
334 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/17(土) 08:52:39
永和と言えば、杜預、王シュンははるか前に死に、晋−成漢の戦乱にあえぎ、
成漢も衰亡の一途にあった頃で、蜀の統治を懐かしむのも仕方の無いことかな。
246年の大赦って逃亡民の増大とかよりも名臣として
名声を持っていた董允と蒋エンが立て続けに亡くなって
意気が下がりそうなところを、新体制で頑張ろうってな
意味合いが強いとか、ないですかねえ。
そういえば、関係ないかもしれないが、同時期の話として、
呂ガイが中央政界に入った後、酷吏を登用しまくって声望を落としたと有るな。
成漢は、羅憲の甥の羅尚を破って初代皇帝になった李雄の死後はgdgdだったからなあ。
永和三年にはもう桓温によって滅ぼされちゃうしね。
>>336 酷吏の大量登用は、緩んでいた綱紀を
立て直すためのものだったのではないだろうか?
>>338 呂ガイのそれが恩赦乱発後の話なのか、乱発前の話なのか。
そこら前後関係がはっきりせんのよな…
乱発と言うと語弊があるのではないだろうか?
呂乂が文俗の吏を好んで用いたのが、朝廷内の弛緩した綱紀の粛清を目的としていたなら、
延熙九年秋の大赦を批判した孟光の言葉と矛盾する。
孟光が周囲に嫌われたのは、あくまで直言を憚らなかった為である事、
彼の批判に費禕も反論できなかった事などを考えれば、彼の批判を的を射ているものであったのだろう。
仮に綱紀粛正を行わざるを得ない状況が現れたとするならば、
それは延熙九年の大赦よりも後の事と考えられる。
ん〜結局そうなるのか。
呂ガイ伝の記述からは「246年秋の大赦」についての新展開は望めないか。
そもそも循吏・酷吏は実際の業務内容とは関係ないからな。
民衆から上手く税を巻き上げられれば、循吏だし。
343 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/19(月) 01:20:41
>>342 いや、豪族と癒着してヨロシクやりつつ民からも好かれ、有力者からの評判が良かった奴が循吏
豪族をバシバシ取り締まって有力者から嫌われるのが酷吏
豪族と癒着して民衆から上手く税を巻き上げる奴は循吏じゃなくてただの汚吏
今の話題とは関係ないが、呂乂伝にちょこっと書かれている杜祺は、
監軍、大将軍司馬を歴任したとあるが、この大将軍司馬は、
費禕と姜維どっちだったんだろうな。
244年の時点で参軍で、恐らくはその後に、郡太守と監軍を経て大将軍司馬になっているので、
費禕のだとしても、その末期であるとは思うけど。
かと言って、姜維のだとすると256年まで待たなきゃならない。
まぁ、姜維の大将軍司馬であるか、費禕の大将軍司馬であるかで、
何か面白い考察ができるかと言うと、そうでもないんだけど。
蒋エンの良さは度量の広さ
費イの良さは卓越した行政、外交手腕と調整役
董允の良さは公明正大、謹厳実直さ
でもこれ全員荊州組だよねえ。入蜀したいきさつは違うけど。
347 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/20(火) 22:12:08
>>346 李厳だって馬良だって姜維の後釜候補の閻宇だって荊州だし
蜀は実質的には荊州出身者が支配する国だったってことだ
言うまでもないが、荊州はまぎれもなく文化学問の地で益州はそうじゃないからね
>>348 前漢末から連綿と続く蜀学の系譜を無視するか。
351 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/21(水) 21:53:50
>>348 益州とか揚州を単純に田舎と考えるのは浅はかだよ
353 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/21(水) 21:59:31
>>352 端的に言えば、讖緯の学と呼ばれる、緯書という経典の解釈に基づく予言だね。
讖緯学て晋が禁止してから蜀ではどうなっていったのかね?
そのまま廃れていったなら
実質蜀学の最後の継承者はショウ周門下生までになるのか?
>>355 譙周自身も、蜀学の正統を継いでいるわけではないようだけどね。
譙周が師事した杜瓊は、後進に天文観測に拠る図讖術を伝えなかった為、
彼は歴史に根拠を求めて予言を行うようになったから。
だから、周羣の術を受け継いだ周巨がどう伝えていったかが、
蜀学の系譜を考える事になると思う。
自分はそこまでは知らないけど。
>>347 費詩伝をみて思ったが、益州豪族は基本的に気を使う宮仕えより自宅
で悠々自適を好むのかもしれないね。
諸葛亮が目をかけて抜擢していた益州出身の楊洪、張裔、李邵などは
のちに重要な地位に就いた可能性があるが、早々に退場しているしな。
そういえば諸葛亮〜のつづりで思い出したけど諸葛均ってどうして校尉程度にしかなってないんだろう。
血縁から言えば尚書の高位に上っていてもおかしくないはずなのに。
早死にしたのか能力がそれほどまでに欠けていたのか。妄想は楽しい
>>358 長水校尉は閑職だけど、格式は高い地位。
諸葛亮の血縁として高位には昇ったものの、
能力がないから閑職に留め置かれたってところじゃないかな。
諸葛均早死に説をオレ提唱。
つうか益州閥なんて劉焉の時代に潰されてるんじゃね?
諸葛均が長水校尉になった時期がいつかってのも、考える上で重要になると思う。
蜀で長水校尉が出てくるのは、劉禅が即位して、侍中だった廖立が遷された時が初めて。
その後、廖立が処罰されて、秦宓がその後を襲ったのが建興二年。
他に諸葛均以外では、胡済の弟が長水校尉になった事が書かれているが、時期は不明。
廖立より前に長水校尉を拝命したとすると、30そこそこで比二千石だが、
廖立や秦宓を飛び越えてなるとは思えないので、やはり建興三年以降となる。
そうなると、長水校尉拝命の時点で40近くにはなっていたと思うので、
拝命後早々に死んでしまったとしてもおかしくはないね。
362 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/24(土) 02:38:45
にしても、均が史上に大きく登場することがなかったのは確かだから、
やっぱり大したことなかったんだろう。
兄貴や他の諸葛氏の活躍と比しても、ダメダメなんだろうねw
兄弟の力があるかないかって観点から見ると、三国で兄弟が揃って
有名なヤシも珍しいな。つうか、いるかそんなの。謹と亮ぐらいじゃね?
袁術・袁紹 袁尚・袁譚 司馬師・司馬昭
ここらは良くも悪くも全国区じゃね?
364 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/24(土) 04:46:40
>袁尚・袁譚
これなんかは自力というより醜い襲名争いって感じだなw
孫策、孫権がいるではないか
曹丕、曹植とか
367 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/24(土) 22:29:04
>>364 後漢書だとはっきりと審配らが遺言偽造して袁尚を後継に立てたことになってるんだよね
368 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/25(日) 00:21:04
馬休や馬鉄って処刑されたって事ぐらいしか分からないけど
それまでは官位を得ていたんだろ?
それなりに優秀だったんじゃないの
ありゃあ、馬騰を涼州から切り離すための政治工作。
官職を与えられたのも生活保障が先で、馬鉄・馬休が実際どんなもんだったかは分からん。
馬鉄は騎都尉。馬休は奉車都尉だな。
どっちも閑職ではないが、
特別な能力を必要とする地位ではないな。
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/27(火) 21:27:09
呉の人物とか兄弟で活躍した連中を結構思い出せた。
そういや趙雲にも兄がいたんだったな
兄弟で活躍した、という事であれば散見されるだろうけど、
その名声が全土に鳴り響いていたかどうかと言うと、
そういう人は非常に少ないだろうね。
孔褒と孔融とか
劉岱と劉ヨウとか
鍾会と鍾毓は、鍾毓の方は全国区とは言い難いのだろうか?
許靖と許劭と思ったが、ありゃ従兄弟だしな。
陸遜と陸瑁は?
弟は全土に鳴り響くほどじゃなさそうだが名士間ではかなり名声がありそう。
>>374 廷尉や後将軍を歴任し、徐州の都督になっているから、
全国区で良いと思う。
麋竺と麋芳
>>376 そういや、荊州の都督にもなってるから、少なくとも呉は鍾毓の名を知っていただろうね。
379 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/29(木) 00:46:50
鍾会らの乱に成功の目は無かったのだろうか?
380 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/29(木) 00:48:03
>>379 あの脱出劇がなかったらどうなっていたか
丘建らの活躍が無く、何とか反乱にこぎつけたとしても、
その後に姜維が鍾会に叛いたろうから、
鍾会の思惑通りに行っただろう、とは言い難いだろうね。
張松 法正 孟達
この3人の中で一番人格がまともなのは誰だろうか
売国奴ばっかじゃねーかw
孟達が最悪ということでFAだろうが
張松が一番まともなんじゃないか?
一番最初に死んだから、記述が少ないだけかも知らんが、
不法に人を殺した法正や
三度主君を裏切った孟達よりは、
まっとうな人間のような気がする。
法正かな。
不遇時代の仕返しエピソードはあるけど、あとの2人ほど酷評はされてないし。
とはいえ、法正は天寿を全うし、あとの2人は哀れな死に方だったという点で
そもそも扱われ方(記され方)が違った可能性があるからなあ。
>>384 「(張)松為人短小、放蕩不治節操…」
歴史書にここまで書かれてるんだぞw
孟達を擁護するのは俺だけか
他2名と違って積極的に裏切ったというより保身のための投降だし
俺はそいつらよりも裏切り者をいびる虞翻のほうがずっとろくでもない人格だと思う
というか3人ともマシなほうでしょ
389 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/29(木) 21:53:55
しかしその虞翻も
孫権のためには文字通り奔走した
390 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/29(木) 21:57:02
演義だと最初に劉備に国を売ろうとしたのが張松で
正史だと法正が最初に劉備に国を売ろうと二人に持ちかけたっでいいよね?
法正と孟達はもともと外様だから、売国奴と言うのは語弊が有るな。
張松は…兄がどうなるか、などという事を考えなかったんだろうか。
392 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/30(金) 02:46:33
劉璋が甘寧らを撃退できたのは
法正や孟達のお陰もあるのかね
>>21で、法正が甘寧をそそのかして劉璋を攻めさせたという話があって
どうも頭に残っているが
虞翻は門下生数百人(誇張はあっても)って話だからそこまで悪い印象はないな。
正論を相手の気持ちも考えずに言い放つあたり友達にはしたくないが…。
正しい言葉は時として嘘よりも相手を深く傷つける。
しかし張松・孟達・法正という人選が凄いよな
どいつも「人格」でいったら褒められたもんじゃない気がする。
類は友を呼ぶ
394 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/30(金) 17:01:40
孟達は悪く言われ、法正は賞賛を受けている
この違いは劉備を裏切ったか、裏切らなかったかの違いなんだろうな
あと、法正は劉備に惚れ込んで裏切った感じが少しするが、孟達はただ自分の栄達のためだけに動いている印象を受ける
孟達は売蜀の事はともかく、魏に逃亡はしょうがない状況だと思うけど。
むしろ魏から蜀に戻ろうとしたので悪印象受けてる気がする
孟達だって曹丕には気に入られたじゃん
てか、曹丕に比べれば張松、法正、孟達なんてまともなんじゃねーの
人格ってのは難しい問題だけど、俺は何回内応したからこいつは非人道的だ、とかには賛同できないな。
降伏はそんなに非人道的な行為なんだろうか?
>>397 曹操の徐州民虐殺、降伏した兵士虐殺の方が非人道的だわな、そりゃ
399 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/30(金) 23:25:30
劉エンは劉備の生前は郡太守止まりだったのに、
どうして諸葛亮の時代になって急に重用されたんだ?
千人の兵を統率する程度の能力しかなく、
国政には参与せずに議論ばかりしてて、
魏延と不仲であるなど、人間的にも問題があるのに。
諸葛亮は馬謖といい、
こういう口先だけの人間が好みだったのだろうか?
劉備の予州時代からの古株だし、ガス抜きの年功序列だったんじゃないかな。
位は上げたけど重用とは言えないし、馬謖とは意味合いが大きく違うでしょ。
ま、DVの先駆けとして名を残したけどねw
>>399 劉備の賓客として厚遇されていた人物だったから、
引き続き厚遇しただけだと思うよ。
千人の兵を率いてたと言うのは、それだけの能力しかなかったと見るより、
それだけしか率いさせてもらえなかったと見た方が良いし、
国政に参与しなかったのも、参与させてもらえなかったと見た方が良いように思える。
位は高く、俸禄は多くとも、政治的な実権を伴わない職に置かれたんだろう。
むしろ、郡太守として腕を揮えたであろう劉備時代の方が、
政治に参与させてもらえているという点で厚遇されてたと言えるかもしれない。
うーん、見事な対比。
これぞまさしく知識の差だなwww
地位が上昇したのは、関羽や張飛のような序列が上の者が軒並みくたばったからだろう
それが劉備死亡前後に集中したから諸葛亮に厚遇されたように見えるだけ
少し確かめると、劉琰の異動は、固陵太守から衛尉という事になる。
しかしながら、固陵郡は216年から220年までしか存在していない郡であり、
その後、221年に巴東郡とその名を変えている。
華陽国志巴志に拠れば、初めに固陵の太守となった人物は、武陵出身の康立であり、
劉琰の任官はその後という事になるだろう。
また、固陵郡が巴東郡となった際、その太守となった人物は南郡出身の輔匡である。
従って、劉琰の固陵太守在官も220年までとなる。
221年は劉備が皇帝に即位した年であるから、当然、衛尉も置かれただろう。
劉琰の前に衛尉になった人物の記録は無く、劉琰の衛尉就任はこの時かもしれない。
とすると、諸葛亮は彼に後将軍と中軍師を加え、その後に将軍位を車騎将軍へと昇進させたのみという事になる。
中軍師は、諸葛亮直轄の中軍の軍師であり、常に諸葛亮の目の届く所にいる事になる。
後将軍の方は、220年に黄忠が死んで以降、劉琰が就任するまで誰かが就いたという記述は無い。
衛尉も、九卿とは言え、単に宮門の警備を司るだけだから、さほど実権を持つわけではない。
やはり「諸葛亮が重用した」とは言い難いね。
むしろ、李厳の後を襲い尚書令となっていた陳震が衛尉に遷されてしまった事の方が気になる。
秩石は衛尉の方が上だが、政権中枢から遠ざかるという点で言えば左遷だろう。
これには或いは、陳震が李厳を批判した事が関係しているのかもしれないが。
>陳震が李厳を批判
これどんな内容かkwsk
>>405 231年に李厳が免職になった際、諸葛亮は蒋琬と董允に手紙を送り、その中で、
「以前、孝起(陳震)が呉に赴く際、私に、李厳は腹の中にとげがあり、
郷里の人も近付けないと言っている、と話してくれた。〜中略〜孝起にこの事を知らせてやらねばならない。」
と述べている。詳細は陳震伝にある。
呉には尚書令の時にも衛尉の時にも行っているので、この李厳批判がいつの事かは分からないが、
わざわざ、「孝起に知らせてやらなければならない」と言っている事を考えると、
尚書令から衛尉に遷った事に李厳が絡んでると考えてもおかしくはないと思う。
>>406 thx!
この二人同郷なんだな。
にも関わらずそんなことを言われるとは……
>>407 共に南陽郡出身だけど、李厳は曹操の荊州侵攻の際に、
秭帰県長だったが西へ逃げて劉璋に仕え、
陳震は赤壁後に、荊州牧となった劉備に辟召されてその従事となった。
郷里の人間も近付けない、と言うのは、地縁を尊重しない人間だったのを示しているのかもしれない。
李厳は犍為太守から尚書令に昇進したけど、実は陳震も同じく犍為太守から尚書令に昇進している。
二度にわたって李厳の後任を務め、同郷でもある人物が批判しているというのも興味深い。
409 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/05/31(土) 23:42:55
国を売るとかずっと後世のイデオロギー持ってきてどうしろと。
もともと劉焉だって一文官が赴任してそのまま半独立国の
体制で馬鹿息子に後を継がせただけで、国はあくまで漢の一
州にすぎない。地元の名士がDQN劉璋頼むにたらずってアク
ション起こしたって問題ないだろ。むしろその3人を比べる理由が
よくわからん。
男伊達で孟達、行動力で張松、知嚢で法正、そんなところでいいんじゃね?
それか火を付けたのが張松、整備して整えたのが法正、ぶち壊したのが孟達w
後世最も評価されたのは法正だが、俺もそれで間違いないと思うよ。
ジェットストリームアタックみたいだな。
忠義の思想は後世のイデオロギーなんだろうか?
君側の奸を討つというのは当時においても正義だと思うが。
張マツが踏み台にされたんだな。
忠節と裏切りなんて遙か昔からある話だし、同時代でそのどちらも褒め称える話があったりする
それが駄目と言われるのは所詮個人の性格がどうとかでの好悪で、
イデオロギーも糞もねーよ
仇討ちは…
儒家にとっては美徳だな。
法家にとっては私刑であり、むしろ俗悪。
415 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/03(火) 23:31:44
法正も蜀科の制定に力を注いでいるが
彼は法家なんだろうか?
自分を律するのは難しいからね。
417 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/04(水) 06:20:21
法正は諸葛亮の法律の適用が厳しすぎる事を諌めたという記述が有るね。
ここから考えると、彼は寛治の立場から諸葛亮と両軸を勤めたんじゃねぇかなぁ。
名目上のTOPは許靖だけど、この人は亮・正ともに御輿扱いだし。
官僚のTOPが二人とも法治か寛治のどっちかによっちゃうと危険だしね。
法正のこと正って呼ぶ人はじめてみた
諸葛・法じゃしまらんだろ
法正は不法に人を殺したりしてたから、
法律が厳しくなると困るんじゃないか?
だから、諸葛亮に反対したんじゃないかと。
亮はいいけど、正もしまらない気がする
422 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/04(水) 22:03:58
正だけじゃだれだかわからんなあ・・・
中国では、誰かわかるようにって付ける事もあるんだろうか。
備とか操とか権とかならわかるが、正って何か・・・。
法誤
蒙ちゃん
正って名前の人物って法正以外に居たっけ?
おお、確かに。
逆に法がいない
居ようが居まいが、あの略しかたは初見だ。
山崎
ちと話題戻るけど、李厳更迭の状況ってかなり異様に思えますよね。
わざわざ23人もの署名を取ったりしてまで更迭しなければならない
ようなモノともちょっと思えない。当時の状況を見ると
・長雨で兵糧輸送がうまくいかない→雨のせいで別に李厳に罪はない。
・諸葛亮と打ち合わせをし、撤退→兵糧無いんだから仕方ない
・ナゼ戻ってきたのかと諸葛亮に言う→ウソをついている。けど・・・
・敵を漢中に引き込んで討つつもりと言う→状況的には軍を引けば敵が
侵攻する可能性あるので嘘とは言えない。
まず、長雨が続いて兵糧輸送が出来ないんだから李厳に責任はなく、
責任転嫁する必要性がない。
また諸葛亮を追い落とすつもりなら他にいくらでも手はあったハズ
なのに、ウソをついた割に他に工作らしい裏工作は一つも行なって
いない。
またその発言に対しての過剰な反応、李厳の発言の矛盾、あら探し
をしたり、陳震がとげがある発言をしたり、署名を23人から取り、
更迭に追い込む等。
意外と、北伐がうまくいかないことに対して諸葛亮へ怨嗟がいかない
ように李厳が泥を被ったとかあるのかも、と思ったりもしますね。
そうなると諸葛亮死後の李厳の発言も納得行きますし、まあ、小説と
かのネタとしては面白いかも。
でもダーク諸葛亮じゃ人気でないから逆にダメですかねえ。
>>431 李厳更迭の理由はもっと別にあって「何故諸葛亮は退いたのか」という劉禅に
「食料は多いにある」「敵を誘引して叩こうと思ってるんじゃないでしょうか」というデマを流してる
>>432 いやあ、その辺りってどうなんでしょう。食料の輸送はうまく行って
ませんが食料自体は漢中にはあった訳なので「(漢中には)食料がある
ので、そこへ退却」理由としては「敵を誘引して叩こうとしているの
では?」となれば別に筋は通ってくる。まあここはこじつけですが、
ただ、この時の発言はおかしなことが多い。
まず李厳ほどの人物が行なう嘘にしてはあまりにも稚拙過ぎますし、
そもそも木牛・流馬を開発して実行したのはこの時期になりますから
もし兵糧輸送が失敗したとした場合の責任は、ヘタしたら李厳よりも
諸葛亮の方が大きくはないですかね?
本来なら李厳が嘘をつくまでもなく、やろうと思えば確実に諸葛亮の
責任を追求することが可能なのです。
でも李厳が稚拙なウソをついたことで、都合よくその辺りがぼやけて
ますよね。なぜ、安全に諸葛亮を追い詰めることができる材料がある
のに、ばれたら失脚するかもしれないような嘘をつく必要があるので
しょうか?
しかも李厳罷免の署名をしているのは漢中に駐屯している面々のみで
行なわれています。と言うことはそのほとんどは諸葛亮派と言う事に
なりますから、いくらでも情報操作はできると思うのです。
劉禅に対する報告もドコまでが嘘だったんでしょうね。実は本当の事
を報告されて一番困るのは諸葛亮かな?とか思ったりもします。
キ山で魏軍を撃破してるのに漢中に引き込む要素がないだろ
色々ツッコミどころ満載過ぎてアレだが、諸葛亮を叩きたいのだけはよくわかった。
>>431=433
前年に大規模な攻勢に出て失敗している魏が、蜀軍が祁山から撤退したとて、
その直後に攻勢に出る公算は著しく低い。
また、木牛が開発され、実際に運用された戦役がこの第四次北伐ではあるけど、
長雨が続くまでは輸送は行えていたのであり、何故木牛の開発によって責任を追及されるのか分からない。
敗戦そのものの責任と言うのであれば、当然諸葛亮に生じはするが、その場合、
撤退の主因である兵站を取り仕切り、政権のNo.2である李厳の責任も大きい。
あの時の李厳に、自身の立場を安全にしたまま、諸葛亮に厳しい追及ができる要素は無いと思うよ。
督運領の岑述を殺そうとしているのも、李厳の方に隠したい何かがあった事を示しているとも言える。
李厳に対する弾劾状に名を連ねているのが漢中にいた面々であるのは当然だろう。
この件について分かる人間は、漢中にあった人たちだけだし、
何も分かっていないであろう成都の人間が署名している方が不自然だ。
「李厳が簡単にばれるような嘘をつくはずがない」という事のみに立脚しているように感じる。
李厳というと、諸葛亮に九錫もらっちゃおうぜ発言したことを思い出すな
諸葛亮はアレに対し「北伐成功して魏倒したらね」って答えてる
これは何気に凄い発言だ
九錫ってのは王莽や曹操や孫権が貰ってるやつで、皇帝一歩手前の認定証みたいなもんだ
これを「とんでもない」と否定はしなかったということは、諸葛亮は北伐が成功した暁には自分が九錫を受けてゆくゆくは皇帝への道を目指すと考えていたことになる
更に李厳に至っては北伐前の段階で諸葛亮には九錫の資格があると考えていたことになる
劉備の遺言とか、丞相録尚書事は曹操と同じ地位だとか、そういったことと考え合わせると定説とは全く違う諸葛亮像が見えてきそうな予感
438 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/06(金) 22:10:22
えー ただの諧謔じゃないの?
>>437 それは李厳の機嫌を損ねない為のリップサービスじゃないか?
そもそも、正史では諸葛亮は李厳を高く評価していない。
「李正方には実力以上の事をいい、おだてて使うのです」というような事を劉禅に上訴していたような記述があったが。
>>439 そうかもしれないが、それはそれで当時の蜀に「諸葛亮を皇帝にしたい」という人間がいたことになる
それなりに力を持った人間か、ある程度の勢力となっている人数か、とにかく諸葛亮がリップサービスをするような相手が存在したことになるよな
諸葛亮だってそういった相手を喜ばすという理由でもなければ、意に反してまで自分の忠節を汚すような発言する必要がないわけで
>>437 魏倒したらね×
↓
魏倒したらそんな事考えなくてもいいくらいご褒美出るから黙れこのクソ野郎◎
あの手紙がいつ交わされたものかは明確ではないが、
「今賊を討ち、未だ効あらず」という文言を見るに、
第一次北伐以降であり、恐らくは第二次北伐以前だろう。
詔勅によって第二北伐の王双撃破と、第三次北伐の二郡平定を賞されているので、
効が何を指しているかにもよるが、第二次北伐以降であれば未効と述べた可能性は低くなる。
また、手紙でやり取りしている事から、李厳がまだ江州にいた頃だと考えられるので、
230年の魏の攻勢以前であるのは、まず間違いないだろう。
そうすると、諸葛亮が敗戦の責任を取って降格する事となった時期であり、
李厳は相当空気の読めない人間だという事になる。
443 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/07(土) 00:22:39
素朴な疑問なんですけど
そういう亮と平の密談らしきものが
何で史書に残っているんでしょうか?
誰が書き残したの?
化、飛、翼、雲、羽、超、正、忠、権
>>443 捏造や想像でしかない可能性もあるが、密談といっても各人の部下やら奴婢やらがぞろぞろいたんじゃないかな
現代の政治家の密談だって、料亭なら秘書や女将が聞いてるかもしれないし、車の中だって運転手がいる
皇太子孫和が孫権の密談を入手した件みたいにね
446 :
431:2008/06/07(土) 02:05:00
第4次北伐で食料の輸送ができていたと言いうのは本当でしょうか?
例えば上邽で麦を刈りとっていますが、この時蜀軍に兵糧が充足して
いれば、焼き払えばいいのです。それで兵站面において相手に多大な
打撃を与えることが出来ます。
わざわざ刈り取っていると言う事は最初から食料輸送がうまく行って
いないことを表してるように思います。また3年後に行なわれる北伐
において、諸葛亮は五丈原の地で屯田を行なっています。と言うこと
は結局木牛・流馬等では蜀の兵站状況が改善されていないことを示し
ているのではありませんか?
この場合輸送出来ないことが問題なのではなく、輸送手段として開発
した木牛・流馬が機能しなかった点に問題が発生してきます。
異説もありますが開発者は諸葛亮であり、当然責任の所在は諸葛亮の
方にあります。李厳が諸葛亮を追求する材料とは、輸送の不備等では
なく、不良品に対するクレームで充分だと言うことです。
>>446 輸送というものに幻想を抱いてはいないか?
古来より、数万もの軍隊の消費する物資全てを輸送で賄えた事などまず無い。
穀物だけで日に数十トン消費するのに、馬匹の為の秣や、各種の武装等、
数多くの物資を必要量運び続けられるわけが無い。
従って、諸葛亮が上邽の麦を刈り取った事を以って、
輸送が上手くいってなかったと主張する事はできない。
推測しうるその構造や運用方法から、木牛の有効性を疑う事はできるだろうけどね。
また、郭淮伝を見れば、この戦役において魏軍が兵站面で苦しんでいた事が窺えるし、
華陽国志劉後主志にも、「時に宣王らの糧もまた尽き」とある。
諸葛亮が刈り取りきれなかった麦をどうしたかは書かれていないが、
魏軍の兵站を苦しめるだけの成果があったのは確かだろう。
根拠にならないような根拠を理由に木牛や流馬を不良品とみなし、
しかもそれを以って諸葛亮を厳しく追及できる、と主張するのは無理だろう。
>>442 みのもんたの「励ましです」と同レベルだな。
意図的なものか意図せぬ物だったのかは知らないが、人の感情を逆なでする発言であるのにゃ違いない。
450 :
431:2008/06/07(土) 09:18:58
少々論点がずれてきてる・・・かな?私としては李厳を再評価したい
のであって諸葛亮を貶めたいのではないのです。
木牛の件に関しても、こういう可能性もありますよ、と言いたいだけ
で絶対そうだ、とは到底言えません。常識的には李厳の方に非がある
のは明らかですから。ただ、蜀史の場合、史官がおかれなかったため
記述があいまいではっきりしない部分と言うのがかなり多い。
その分いろんな可能性というのが考えられると思うのです。
ちなみに北伐時刈り取れなかった麦ですが、常識的にこれは当然魏軍
への食料として補給されることになり、魏軍を助けることになります。
後、大敗直後で蜀軍へ追撃の余裕はなかったのではと言う意見もあり
ますが、司馬懿は追撃を行なっております。晋書の方では魏軍がこの
追撃戦で勝利(まぁ、ここは眉唾ですが)を収めた、と書いてあり蜀
軍にもかなりの被害が出ていることを示しています。
もちろん鵜呑みにはできませんが、かなり激しい戦闘があったのは間
違いないでしょう。兵站にも苦しんでいましたが、それでも魏側に追
撃できるだけの余力は残っていたことになります。
451 :
431:2008/06/07(土) 09:29:40
ちょっと視点を変えてみましょうか?長雨が原因で輸送がうまくいかない
のはどちらかといえば天災であって、この時李厳にはほとんど非はない、
と思うのですが、では何故あのような稚拙な嘘を李厳が付く必要があった
のでしょうか?わざわざ長雨のため、と言う記述もありますし、食料輸送
を怠った、と言う訳でもありません。
ウソをつく必要性が見当たらないのです。
>>449 この空気でもあえて言わせてもらうがお前が一番ウザイ
>>451 少なくとも李厳はバカってことは判ってるからなぁ
どうしてもバイアスかけてみちゃう
>>453 李厳=バカってのを前提として見るのはどうなんだ?
>>454 諸葛亮の性格読みきれず九錫受けちゃおうよ!って嬉々として言うような奴がバカじゃなくて何だってんだ
>>455 それが既に「李厳=バカ」→「バカだから九錫発言をする」→「九錫発言をした李厳はバカ」という循環論法になってないか。
九錫を受けろという進言の真意はいくつか考えられるけど、アホな発言だったと断言できるようなものとは思えないな。
諸葛亮が断るとしても、諸葛亮を高く評価したことにはなるから、諸葛亮から見ても悪い気はしない。
また、発言自体が劉備の例の遺言を受けてのものだとすれば、私利私欲ではなく亡き主君劉備の発言を現実にするための発言であったことになる。
>>456 最後の行は劉禅=無能が前提になってるね
もしそうなら李厳が劉禅=無能発言をしたってことになるんじゃないか?
李厳は輸送担当官のシン述らと揉めてなかったっけ。
>>457 >>458 実際はともかく確かに李厳は劉禅を無能だと思ったことになるな。たとえ方便だったとしても。
つまりあの発言は
「九錫受けて王になっちゃえば?」=「劉禅は無能だし先帝の遺言通り皇帝になってよ」
「魏を討つまでできねー。魏を滅ぼしたら九でも十でも貰うよ」=「魏を討った功績があれば嫌でも俺が皇帝ってことになるからそれまで待て」
という流れなんだな。
そうかなぁ。
この時代、九錫発言といえばマズ最初に来るのは王莽、至近で言えば魏武(曹操)だよね。
李厳のアレは「曹操の後を襲って、貴方も同じことをやってみては」というのが一番近いような。
で、孔明は「天下統一すれば王位だろうが何だろうが貰ってやるが、今はそういう時期じゃない」
つまり「曹操と同じ徹は踏まない」って事のような。
>>460 魏を討った功績があれば皇帝に〜じゃなくて
魏を討った功績があれば恩賞は厚いし態々九錫なんていう象徴的な物を貰う必要もない
ってことだろ
第一出師の表で散々「忠臣諸葛亮」を演出しておいて、まだ何も終わってないのに
手の平返ししようぜっていう李厳がバカ以外の何者でもないのは諸葛亮の野望の有無に関わり無く動かしようのない事実だ
魏討伐なんて存命中にはまず成らないことを考えれば、李厳の発言は現実的ともいえる。
が、それを出師の表のような文を書くロマンチストに言っても無駄な上に、かえって立場を危うくするばかり。
諸葛亮と李厳の関係は複雑だろ。
共に死に際の劉備に呼ばれて劉禅の補佐を頼まれた身であり、
李厳が幕府を開こうとしたのを諸葛亮が却下した話もある。
兵糧輸送の件も、正史に書かれているだけの事情とは考えにくい。
蜀の内情は諸葛亮が史官を廃止した為に当時の記録が残っておらず、
後年の人物の記憶を頼りにしたものだから、作為的に書き換えられている可能性はある。
無論、根拠などないから妄想の域でしかないけどな。
465 :
431:2008/06/08(日) 01:00:41
李厳の九錫発言は実際、何時だろうと言うのはちょっと気になりますね。
ここでは第二次前、と言う話が出ており、ソレがタメに空気読めない人物
と言うことになっていますが「今賊を討ち未だ功ならず」と言うのは色々
な意味に読み取れますよね。
例えば第三次で郭淮を退けた時だったとしても充分に考えられます。
今、賊を討ち、功績を挙げたのですから、この際九錫を受けては如何?
と言うのに対し、賊は討ったけど本来の目的である中原回復にはほど遠い、
功績などあって無きが如しですよ、と言うやり取りだったとしても違和感
はありません。
結局何時言ったとしても別におかしくはない。第二次の前だったとしても
国民の意気が阻喪しないような、何らかの慶事としてそういうことをやる
のも一つの手では?と言う受け取り方もありますしね。
>>462 「忠臣諸葛亮」だからこそ、九錫なんていう皇帝一歩手前の格式にふさわしいんだよ
手のひら返しじゃあなく、逆に
「国威発揚、戦意の高揚、諸葛亮体制の維持などのために九錫・王位(将来の諸葛亮即位)が必要なんじゃない?」
というのが李厳の意見だろう
李厳の意見からも、「簒奪を勧める気か」みたいな怒り方をせずに将来へ先延ばしして九錫受けること自体は否定しなかった諸葛亮からも、
皇帝諸葛亮待望論が当時の蜀には存在していたんだと思う
「李厳は自身の失敗によって失脚したのではなく、諸葛亮との政争に敗れただけだ」
と主張したいのならすれば良いと思うのだけれど、
その根拠の大本が、「こんな簡単にばれる嘘をつくはずがない」というだけではあまりに弱い。
説得力の無い言い方で容疑を否認する犯罪者もいるし、
不祥事を誤魔化そうとして簡単にばれてしまう人もいるしね。
第四次北伐以前から、李厳と諸葛亮の間に亀裂が生じていたような事が、
上奏や手紙から分かるので、これを機に諸葛亮に排されるのではないかと恐れた李厳が、
混乱して非合理な行動に走ってしまったとも取れる。
「あんな嘘をつくはずがない、だから輸送の失敗をごまかした事が原因ではない」
という論理だけではどうにもならないだろう。
真に李厳の名誉を回復したいのであれば、当該事件だけではなく、
蜀の政権そのものについて事細かに考察し、脇から固めていかなければ駄目だろうよ。
>>436 > 李厳に対する弾劾状に名を連ねているのが漢中にいた面々であるのは当然だろう。
> この件について分かる人間は、漢中にあった人たちだけだし、
> 何も分かっていないであろう成都の人間が署名している方が不自然だ。
弾劾状の中身は兵站の件だけじゃないんだから成都の人間が署名している方が不自然というのはおかしくない?
>>465 時期を判断する一つの材料として
裴松之が注を入れ込んだ箇所に留意してみるのはどうだろう?
裴松之はこの注を諸葛亮が孟達に宛てた手紙の記述に絡めて掲載している
また、出典は諸葛亮集となっている。
陳寿の諸葛亮集上奏文に載せられている諸葛亮集の目録では
孟達に与えた手紙は一つの巻に編纂されているが李厳に与えた手紙は一つの巻に編集されていない。
と、なるとどこかの巻にこの記述がおさめられていたということになる。
ならば可能性として陳寿は孟達の巻に何らかの関連性を含めて李厳への返答文を収録し
それを受けて裴松之が孟達の記事に注をしたとも考えられないだろうか?
もし孟達とのやり取りと李厳の発言が関連事項であるとするなら
時期としては第一次北伐の前と言うことになる。
魏への攻勢を開始する直前に李厳が諸葛亮に王になれと進言していたなら
丞相と言う臣下の形より王としてのほうが北伐がやりやすくなるだろうと
李厳は考えたのかもしれない。
あくまでただの憶測の話ではあるけど、
時期の可能性を論ずるなら北伐前も考慮に入れてみても良いんじゃないかと思うよ
>>466 忠臣が九錫受けるってのはもう2回の簒奪実例があるけど
しかも1回は目の前で同時代に
それで諸葛亮が忠臣です、なんて言って悲壮感演出した意味全部ぶち壊しじゃないか
>>469 北伐前に討った賊ってーと南中か
さすがに無理ないか?
>>468 弾劾の直接のきっかけである事や、この時の李厳の不可解な動きも述べられている事などから、
漢中の人間で行われるのは当然と考えたが、確かに、
主旨としては李厳の資質そのものを否定するないようとなっている。
この部分に関しては考え直した方がいいかもしれんね。
で、別の部分で考えてみると、この李厳罷免の上奏が行われたのが8月で、
諸葛亮は遠征から帰ってすぐの事であり、その身は漢中にあった。
とすれば、これに成都の連中を署名させるには、諸葛亮自身が成都に赴くか、
相当数の書簡を往復させて李厳の罪状を、はっきりと明らかにさせてから行わなければならないだろう。
今まで厚遇していた以上、何らかのはっきりした汚点が李厳にある事を示さねば、
「罷免するので署名しろ」と言っても正当性が得られない。
ここから分かる事は、諸葛亮の上奏にもあるように、処置を遅らせたくなかったという事だな。
「若し事を稽留すれば、まさに禍敗に到る」と諸葛亮は思っていたが故、
漢中だけで一気にけりをつけたかったという事だろう。
>>470 「忠臣諸葛亮にこそ漢(蜀)に皇帝になってほしい」という臣民の願いがあり、それに基づいて皇帝が禅譲する、という形なんだから、ぶちこわしになるという問題じゃないよ
問題は、蜀の臣民がそれを願うのか、または文句を言わないのかどうか、ってこと
李厳は世論をまとめられる、メリットとデメリットを勘案してメリットの方が大きいと判断したんだろうし、諸葛亮は現段階ではデメリットが大きいから時期尚早と判断した
473 :
431:2008/06/08(日) 07:28:33
そう言えば「中国皇帝歴代辞典」では後主のところで
「先主に後事を託された諸葛亮と李厳に国政を委ねた。亮は李厳および有力
な政敵を巧みに失脚させ、事実上、独裁に成功した」
と書いてあるそうです。意外と李厳更迭の裏に、劉禅が絡んでた、とか言う
ことは・・・考えすぎかwww。
でもこの頃って劉禅も丁度20超えてて、普通なら自分で色々と試したいと
思っても不思議はないですからねぇ。自分が成人して気がついたら実質的な
権力は諸葛亮に握られ、それを打開するために暗躍して李厳とやり取りして
たが、諸葛亮によって李厳はあっさり更迭、また劉禅にも署名を差し出す事
で間接的に諸葛亮の権勢を見せ付け、動きを封印する。
そう言えば劉禅の謐が曹植と同じ「思(意味は美)」であると言うのはたま
たまかもしれませんが、時代に翻弄された2人をうまく表しているかのよう
なイメージがありますね。
>>472 だから、それやった魏に対してNOを突き付けてる国が同じ事できるかっての
まず蜀の成立を考えろよ
>>474 蜀の成立を考えてみると、劉備は徐州を譲られ荊州を譲られそうになり孫権から荊州を与えられ蜀の人から擁立された
つまり優れた人物に国を譲ったり、不才の君を捨て優れた人物を擁立するのは蜀の国是と言ってもいい
そもそも禅譲は全否定できるようなものではなく、魏だろうが蜀漢だろうが他に優れた徳と実力を持つ者がいたら国を譲るという議論が出たって不思議じゃあない
もっとも、諸葛亮が李厳の進言を断ったのは、魏が滅びる前に魏と同じことは出来ない、ということだったかもしれないけどな
だとしても諸葛亮自身が言っているように、魏を滅ぼした後なら九錫を受けてもいい、ということではある
「魏を滅ぼしたら九錫を受けてもいい」というのは、
単なるジョークじゃないの?
李厳は叱り飛ばすには大物すぎるから、
冗談を交えてやんわりと断ったと。
関羽の件といい、諸葛亮にはユーモアのセンスがあると思う。
>>475 いい加減にしろよ
受けてもいいなんて言ってない
議論する前に原文読め
諸葛亮集有嚴與亮書,勸亮宜受九錫,進爵稱王.
亮答書曰:「吾與足下相知久矣,可不復相解!
足下方誨以光國,戒之以勿拘之道,是以未得默已.
吾本東方下士,誤用於先帝,位極人臣,祿賜百億,今討賊未效,知己未答,而方寵齊・晉 ,坐自貴大,非其義也.
若滅魏斬叡,帝還故居,與諸子並升,雖十命可受,況於九邪!」
改めて読んでもすげぇ文だな。
「知り合って長いことになるが、あんたの事がサッパリ分からん」ってw
>>477 >若滅魏斬叡,帝還故居,與諸子並升,雖十命可受,況於九邪!
受けてもいいって言ってるよね
確かに9どころか10だって受けちゃうよ、ってのはユーモアセンスかもしれんね
若滅魏斬叡,帝還故居,與諸子並升,雖十命可受,況於九邪!
もしも魏を滅ぼして曹叡を切り、帝の旧居(漢の都、洛陽の事だな)に帰せたならば、
皆立身出世できるであろう、その時には9どころか10といえども、受け取ろう。
481 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/09(月) 00:48:32
李厳の都護って何の都護なんだ?西域じゃあないよな
>>479>>480 若滅魏斬叡,帝還故居,與諸子並升,雖十命可受,況於九邪!
もし曹叡を斬って魏を滅ぼし、皇帝陛下を元の宮殿に還し奉る事が出来たならばその功業に携わった者は出世できるであろうし
十命でも受けられるようになるだろう、ましてや九などと!
雖十命可受の可受を「受け取ろう」「受けてもいい」と訳すのは強引だろ
「受られるようになる」の方が自然な翻訳になる
しかも受けるのは「錫」じゃなくて「命」であって錫命という経書の言葉を上手く使った駄洒落にしている上に
「ましてや九なんて」と九錫の持つ別の意味を受けられるわけがないと否定してる
>>482 雖十命可受,況於九邪 を普通に書き下せば
十命といえども受くべし。いわんや九においてや だよな。
明らかに自虐を交えながら洒落で「9どころか10であっても受け取る」と述べてると思うのだが。
484 :
483:2008/06/09(月) 01:24:53
いや、それで正解なのか。理解した。
漢文をポンと出されてもその場で訳すのは難しいのぅ。
485 :
483:2008/06/09(月) 01:28:44
少なくともそちらの出来ることはワシにはできん。
これ以上恥をかかないように以後はROMる事にするワイ
どうして考察スレは殺伐とするのかねぇ…
>>486 議論慣れしてない奴が殺伐してるように感じてるだけじゃ
慣れてる奴の方が少ないからしゃあない罠
つまりみんな慣れろ、ってことで
ネット上のやり合いを議論というかどうかは別にして、
顔をつき合わせての議論以上に表現がキツくなりがちだからね。
顔合わせての議論だとボディランゲージとかで言葉抜きに話が伝わることあるしな
>>476 暗に李厳をたしなめただけのような気がするがなあ。
>若滅魏斬叡,帝還故居,與諸子並升,雖十命可受,況於九邪!
魏を滅し、帝を元の都(洛陽?)に落ち着かせることができるならば、君たちと共に階を昇り栄達しましょう。
そのときはまた十ものご命令をかしこみ勤め励むだけで、九つぐらい問題ではありません!
ダラダラ続いて申し訳ないが、これ(・∀・)イイ!
手紙で九錫発言をスルーしなかった辺り、どうみても諸葛亮はこれを不忠と取ってます本当にありがとうございました。
>>493 その解釈はどうかねえ。
「九命」は「九錫」のことだから(漢書武帝紀注、漢書王莽伝など)。
それに、「九命」が「九錫」のことを指していないとすると、諸葛亮は李厳の進言をスルーし、全く回答していないことになって首尾一貫しない。
曹操が禅譲の意志を聞かれて「俺に天命があるなら俺は周文王」と答え、自分の即位を否定しつつも自分を文王になぞらえて息子の即位は否定しないという巧みな言い回しと同種の受け答えだと思うけどね。
つまり現時点での九錫は否定しつつも、将来には含みを持たせた、と。
まあ、お互い思いたいように思えばいいか。
まぁ、要はどっちのが蓋然性が高いのかって事だけど、
手紙だけでは優劣がつくほど蓋然性に違いは無いだろうね。
ただ、李厳が諸葛亮の死を聞いて自身の復帰を諦めた、という話にしても、
「それだけ諸葛亮の誠心を恃みにしていた」と考える人が多いと思うが、
「諸葛亮が死んだ事で、自分がはめられた事を証明する手立てが無くなったから嘆いたのだ」と言う人も以前見た。
後者の考え方は無理があるんじゃないかと個人的には思うが、
手紙の事にせよ何にせよ、相反する解釈の仕方がある事は確かだろう。
そうなると、様々な記述を持説に有利になるよう解釈するだろうから、
蓋然性の比較も難しくなるだろうね。
>>481 誰も答えないので答えると、李厳は中都護、李厳伝に記述がある。
>>481 中都護って総司令官って意味かなあ?
それにしては兼任している役職が軽すぎるんだが。
497 :
493:2008/06/09(月) 23:18:59
>>494 「九命」っていうと九錫のことなのか…知らんかった。
九の字だけ出して、いちおう釘だけ刺しとくってくらいかなと取った。
将来ねえ…。若し〜諸子と「並升する」だから、
(九錫受ける受けないは置いといて、)皆と同じく臣下として仕えるってことにならんかね?
>>497 九錫はそうそう与えられるものではないからね。
「諸子と並び升」った上で、九錫を得るということはやはり群臣を超越した立場になる、という意味には違いないと思う。
ただ、諸葛亮のこの発言の上辺では「自分が即位する」とは言ってない。もらうのはあくまでも九錫であって帝位ではないんだから、「皆と同じく臣下として仕える」と言っていると言えない事も無い。
でもそれは「九錫」→「禅譲」という、ちょっと教養があれば当時の誰でもすぐ気づくであろう連想を無視した解釈でしょ。
王莽だって曹氏だって、表向きには自分からは一切帝位を要求したりはしなかった。それどころか皇帝を守り奉る忠臣、という顔をしていた。諸葛亮も同じだったとしても不思議じゃあないっしょ。
結局李厳は何をやりたかったのやら。
「内外軍事を統べる」中都護李厳が健在の間は、諸葛亮の率いる兵もまた李厳の統制を受ける立場だったということなんだろうか
>>496 総司令官かどうかば別にして、李厳の役職はそんなに軽くもないんじゃないか?
尚書令は言うまでもないけれど、輔漢将軍は単なる雑号将軍じゃなく、かなり格式の高い将軍位だし、その上に光禄勲という皇帝の近辺を守る官
十分重要な役職、高い地位じゃないか
李厳は、尚書令に関しては後に陳震に譲っているが、
これは恐らく、諸葛亮が漢中に出た時の事だろうと思う。
諸葛亮が漢中に出る事によって、録尚書事が漢中、尚書令が江州と、
尚書台のトップが成都にいなくなってしまう事を憂慮したものだろうからね。
九錫の話は一段落ついたようだ。
少し話は戻るが木牛について。
「これは不良品だったんじゃないか」という意見があったが、
実際、これが実用に堪えるものであったのかどうかは分からない。
木牛の積載量は食糧1年分で、1日の前進距離は8kmなので、
5人以上で運用する事になると、遥か遠方まで輸送する事のできる代物であったとは考えにくい。
以前ニセクロさんとも話した事だが、
・1t以上の総重量になる車両を、少人数で運用できるかどうか怪しい
・その後の司令官が木牛に頼ろうとしたという記述が無い
など、木牛の性能の低さを匂わすものはある。
しかし、単なる輸送車両では発明品として特筆はされないだろうし、
木牛の構造を示した記述からは、ギアを用いた可能性も考えられるので、
少なくとも、牛を使った輸送車両が使えない蜀で、
その代用品として一定の効果を挙げられる程度の人数で運用できたかもしれない。
二つ目についても、後主伝に「始以木牛運」とあるように、第四次北伐以降も用いられたとも言えるし、
司令官がなるべく兵站の負担を軽くしようと努力するのは当然の事なので、
木牛の実用性の低さを示す決定的な証左とはならないだろう。
ただ、後の時代に使われた記述が殆ど無いという事は、牛車よりは効率が悪かったという事だろうとは思う。
>>502 豊富な森林資源を誇る蜀も、連年の武器製造等によって払底しつつあり
木造の木牛にまで回せなかった
というのはどうだろう
蒲元が物凄い勢いで武器を鍛造してるから木材はいくらあっても足りないだろうしな
んで後の時代には技術が失伝したって安直に考える
蜀の桟道を通るのがキツイのかも…。
現代で言えば、狭い木で作った不安定な仮設の足場にリヤカーやら手押しの一輪車や馬がごとごとと通るんだ。
想像しただけでぞっとするな。
命綱なんてもんもないし、下見たくないな。
鉄製の車軸の無い木製品が、複数回の使用に耐えるとは思えんからのぅ。
>>503 王濬は闘艦を建造する際に、蜀にある神祠に植えてある松柏を伐採してまで、材木を調達している。
仮に木牛が5人で運用できたとすると、140km先に5万人の食糧36日分を送るのに、1万台必要になる。
300km先の祁山に送るとなれば、その数倍の車両が必要になるので、
木牛1台に必要な材木の量は分からないが、全てを輸送するのに必要な車両を用意するには、
途方も無い数の木が必要だったと思う。
後の時代にも、例えば新唐書盧徴伝に「始議造木牛運」という記述もあるし、
宋史楊允恭伝に「莫若用諸葛亮木牛之制、以小車発卒分鋪運之。」というのもある。
これを見ると、木牛が失われたという事も無いだろうし、
兵卒に小さい車を使わせて運ぶよりも効率が良いって事だろうね。
>>504 木牛より小さい流馬は、斜谷を通ったので桟道で使ったけど、
木牛の方は祁山までだから、山道ではあっても桟道ではないと思う。
寧ろ、魏が蜀を攻める時に、牛車を桟道が通ったのかどうかの方が問題だな。
大型の車両は桟道で運用できるんだろうか?
>>505 車軸って木製だったっけ?
でもまぁ、負荷のかかる部分は金属で強化してあったとは思う。
507 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/11(水) 21:53:23
後の時代に見えないのは、それが「あって当然のもの」になったから
当時の製法などの詳細が分からないのは、改良されて原型を留めていないから
>>506 復元図を見る限りでは車輪も木製。
とすると、重量以前に耐久性に乏しいと思う。
それでも刀剣の工房を開くなど、製鉄を振興していた記述は見られるし、
金属の産出量自体も魏よりはマシだとは思うんで、改良を重ねていった可能性は有りますなぁ。
>>508 そもそも、車輪全体を鉄製にするという例は無いんじゃないかと思う。
車輪に鉄を使うとすれば、車輪外周とか車軸と車輪とが接する面くらいだと思う。
>>509 復元図だと、どうも輪切りにした丸太をそのまま芯を抜いて…という作りになっている。
あの構造だと重量に耐えられずに壊れるはずなんで、
合板にして釘打つか、外周を鉄板で補強してあるはずですよね。
>>510 正直、その復元図というものの信憑性が問題になってくると思う。
何を元に復元したのだろうか?
>>511 漢代の「画像磚」という本に四輪車の絵が載ってるらしく、
また、蜀の鍛造技術は「作剛鎧教」という本に詳細が乗ってるとの事。
それらの資料をもとに三国志研究者が考察した物らしい。
鉄の車軸自体とスポーク構造は漢代にゃ戦車に採用されてるし、
その戦車の絵とあわせて何故か隣には木造の木牛と流馬がある。
>>512 戦車や他の輜重にはスポークが使われてたはずだろうに、
木牛に使わなかったと考えたその研究者がよく分からんね。
その復元図はあまり気にする必要が無いように思える。
そうですね>復元図自体は気にする必要ナッシング
また諸葛亮集によると、作剛鎧教という本は諸葛亮自身が書いた物らしい。
それによると「敕作部皆作五折剛鎧,十折矛以給之」とある。
堅固な鎧は鉄板五枚を重ねて鍛えられ、矛は十枚の鉄板を重ねて作られたってところでしょうか。
少なくとも合板を作る程度の技術はあったっぽいですな。
してみると、
どの文献でも戦の主流は矛なので、乱戦に入れば個人の力量が重要にならざるをえませんな。
追記。
たしか魏など北方では鋳型に流し込んで仕上げる鋳造形式が多かったはずですが、
「作剛鎧教」を信じるなら、蜀では日本の刀作りに似る鍛造法によって作られていた事になりますな。
蜀の強兵は個人的技量と、優れた金属加工技術によって支えられていたのかもと考えると、
非常に興味深い。
確か晋書馬隆伝に、魏の武具は質が悪いって話があったなあ
金属不足は董卓の時代にはもう顕在化しとりますな。
銅銭作る銅に事欠いたとあるくらいだから、物資を流通させる経済も相当酷い事になってたはず。
物が回らないなら、必然的に補給もえらい事になるはずで。
魏が蜀や呉を一息に飲み込めなかったのも、そこらの台所事情があったのかもしれませんな。
してみると、曹叡が北方の馬を南方に売却してでも珍品宝物集めに奔走したのも、
皇族自身が利殖に励むというのも、儒教を基とする国家としては異例である事を踏まえると、
もしかすると外貨獲得手段の一つだったのかもしれないわけで。
>>514-515 個人の力量というのがよく分からんが、矛なんだから隊列を組んで戦うんでないの。
乱戦になるほど接近した状態なら、むしろ腰に帯びていたであろう刀を使うと思う。
魏の涼州兵と呉の丹陽兵などの主力武器が戟であった事を考えると、
逆に蜀は矛を用いる事で、一対多数の状況を作り出していたって事かなぁ。
>>517 どうかなぁ。
銅銭が用いられなくなったと言うのは、布帛や穀物などの商品貨幣が流通するようになり、
金属貨幣が選好されなくなったというだけに思える。
当然、布帛や穀物よりも銅銭の方が貨幣としての使い勝手は良いから、
そういった点で影響はあるだろうけど、「相当酷い」と言うほどの経済状態とも思えない。
>>519 戟でも変わらんような。
矛だろうが戟だろうが、弓だろうが刀だろうが、兵士の錬度は大きく影響すると思うよ。
522 :
517:2008/06/12(木) 01:31:29
>>521 後の律令への流れを考えると、それが自然なのかもしれませんな。
ただ、霊帝が売官によって官庫に銭を集めておるはずですから、
巷の流通量自体が相当へってたんじゃないか、とも思うんです。
当方、董卓の行動は追い詰められた末という印象を持っとるので、好意的な解釈をしとるやも。
>>521 一斛数万銭とかハイパーインフレは起こってるから
経済的にはかなり混乱してると思うよ
>>522 前漢後半からこのかた、銅銭の流通は減少傾向だったという
豪族の蔵に死蔵された分もかなりあった模様
>>522-523 まとめて答える。
銅銭が選好されなくなれば、経済に流通する銅銭は当然減ると思うよ。
銅銭が選好されなくなった原因は、当然の事ながら悪貨の供給にある。
悪貨が政府の御墨付きを持って供給される事で、政府の供給する銅銭量も、
それ以前より大きくなるし、私鋳が横行する事で、それは更に倍化される。
そうなれば当然、貨幣の過剰供給に伴うインフレーションが起こるはずで、
それが董卓以降にはハイパーインフレにまで達してしまった。
ハイパーインフレは経済に混乱を引き起こしただろうけど、
人々が信用の低下した銅銭を放棄して、商品貨幣を用いる状態に移行した後なら、
成り立たないほどの経済状態からは脱してると思うよ。
>>524 使い道が無くなってしまえば、塩漬けにするほか無かった、と。
>>526 荘園内でほぼ自給自足できてしまう豪族には使い道があまりない
でも、人頭税は銭納なので一般民衆にとっても政府にとっても銭不足は死活問題で、後漢政府の弱体化の一因とされるそうな
528 :
522:2008/06/12(木) 02:01:50
>>525 皆さんのここまでのレスを振り返るに、
私鋳が金銭価値の下落を招き、霊帝が良貨を売官して集めたように、各地の豪族も死蔵しとったと。
死蔵された分の良質な銅は表に出てこんので、周辺に銅の産地を持たない中原に都を置く後漢は、
悪貨を駆逐しようにもできなかった。
董卓が悪貨乱造し、群雄割拠の時代となる事で止めを刺され、経済は物々交換の時代に逆戻りしたと。
しかし、それは経済危機を脱するというより「不便に慣れた」だけであったと。
呉はも南方交易を開拓する事によって玉等が手に入ったので、経済的困窮から免れた。
蜀には銅があった。魏だけには銅も玉もなく、ただ馬だけがあった、と。
だから、晋は是が非でも律令を制定する必要があったんですな。
>>527 バブル期に土地を塩漬けにした資産家と同じような事が後漢でも起きてたんだ…
蜀は資源国だった。
劉焉が漢中を閉ざした事でインフレも進行せず、経済的にも良好な状態にあった。
だから魏とも渡り合えた。
この三段論法は乱暴だろうか。
>>530に加えて言うなら、蜀の涼州を狙い、また羌族などと親交を結んだのは、
遊牧民との接点を潰し、魏の交易品を奪う事も目的の一つだったんじゃないかと。
物々交換の国で、有力な交易品を奪われる事は経済的な支配を意味するわけで。
西域の馬は珍重されたみたいだし。
>>525 ハイパーインフレって俺の感覚だと相当酷い経済なんだけどもしかして大袈裟過ぎた?
>>528 劉備が貨幣発行差額で儲けてる事考えると悪貨が蔓延して銅貨の信用失墜してしまっただけで
塩漬けとかはあんま関係ない気はするな
だって豪族が死蔵した銅云々っていうけど、豪族が銅で儲けられる環境になってるのに出さないわけないし
>>532 非常にマズイ状態なのは間違いないけれど、一方で農業従事者が圧倒的多数な世界だから、その点を割り引いて考えられるんじゃないかな
あと死蔵は必ずしも投機目的とは限らない
むしろ、単に銭が集まってくるけど使う必要がないからそのまま持っているだけか、個人で万一に備えて備蓄しているか、この二つの方が多いんじゃないかな
多分、霊帝の官爵売買はこういう「使い道も目的もなくたた死蔵されるばかりの銭」を市場に流すための策でもあったのかもしれない
霊帝って金を市場に流したっけ?
桓帝の奢侈への反省から、貯め込む一方だったような
>>533 使う必要がないからそのまま持ってる銅、というけど銅不足になったら銅は使いでのある資産じゃないか
言ってる事が何かおかしくないか?
>>534 軍隊整備で盛大に散財してるよ
西園軍の整備とかな
>>534 西園八校尉設立は農閑期における民間の雇用拡大や、
市場への金銭流出には役立っとらん可能性は有るのでは。
豪族に金を流して私兵団作らせても、お金は豪族の所で止まってるかも。
董卓が五銖銭を作らせたからには、官庫は空に近かったのかもしれないけど。
>>536 豪族に私兵団作らせたって意味がわからない
西園八校尉って普通に官軍だろ?
>>532 宋代の話だが、張方平が言うには、農民は新年の用意ぐらいにしか銭を使わないらしい。
税の銭納化に反対する立場での言葉だから割り引いて考える必要があるが、
農村周辺では流動性として商品貨幣が一般に用いられていたと考えていいと思う。
また、そもそも、銭のような零細額面の通貨は還流しづらく、地域経済に滞留しやすい。
その為、市場において銭が足りなくなると言う現象が発生すると共に、
貨幣需要を満たす為の私鋳銭が発行され、それが飢饉などと重なる事で、
穀物価格の高騰を呼んだりする。
そういった私鋳銭を駆逐する為には、高品質で画一的な貨幣を大量に供給する必要がある。
従って、額面価格が素材価格を下回る高品質な貨幣が出回り、
時代によっては、貨幣を溶かして銅に戻す私銷が行われたり、
私鋳銭が横行した時には、それまでの高品質銅銭にプレミアムを付ける選銭が行われ、
取引用に低品質銅銭、資産用に高品質銅銭と使い分けが行われる事になる。
董卓のハイパーインフレは、低品質な官銭を供給した事により、
それまで流通していた貨幣の価格が選銭によって上がり、全体として大きな貨幣供給が生じた事と、
李カクや郭の周辺地域略奪による穀物流通の減少が主な原因だと思う。
略奪された人々は当然相当な被害を被っただろうけど、
数十年も経済がずたぼろだったという事は無いと思う。
恐らく、魏の頃にも銅銭は使われてたんだろうけど、低品質なものが未だ一般に流通してただろうから、
中途半端な貨幣の供給が選銭と相俟って、文帝紀にあるようなインフレが起こったんだと考えられる。
>>537 でも189年以降、皇帝が万単位の軍を持ってる様子が無いんだよな。
>>538 文帝紀のインフレは呉蜀の経済的締め上げがあった可能性も無きにしもあらず
何故か唐突に曹丕は関税を撤廃とは言わないまでもかなり軽くするんだよね
商人さん、銭もってらっしゃいと言わんばかりに
>>540 黄初二年三月の五銖銭復活と、同年十月の穀物価格の高騰に伴う廃止が、
関税を軽くした事と関係があるとするならば、
商人に持ってきて欲しいのは銭ではなく穀物だと思うよ。
貨幣が過剰に供給されるからインフレになるわけだし。
542 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/12(木) 21:55:26
>>539 西園校尉が董卓の影響下に置かれたことから考えると、霊帝、宦官、何進すべて死んでしまって指揮官不在となり、董卓に吸収されたと考えるべきじゃないかな
>>541 貨幣が過剰に供給されるからインフレになるのは現代の理屈ではないかな?
当時は現代よりも貨幣量によるインフレより信用失墜で需要が減って起こるインフレの方が起こりやすいと俺は考えてる
>>543 現代の理屈ってか、貨幣需要の低下がインフレに繋がるなら、
貨幣供給の増大もインフレに繋がるのは当然で、
どっちにしたって貨幣を更に供給すればインフレが更に進むと思うんだが。
正直な話、「商人が銭を持ってくる」という表現が何を意味しているのか分からん。
>>542 ああ、そういう事か。
許攸の企てで袁紹が洛陽から逃げた時に一緒に、と思ったけど、その方が自然だね。
>>544 魏が色々貨幣に苦しんでた同時期、呉蜀の銭はかなり良質のもので魏の遺跡から幾つも発掘されてる
そういった経緯があって関税を安くして良質の銭を持った両国の商人を苦心して呼び寄せてると俺は考えた
>>546 商人の行き来はあったろうけど、それを銅銭獲得の為と考えるのは少し違うように思える。
単純に、貿易による生産の拡大や、関税、市場税などによる税収の拡大を欲していたんじゃなかろうか。
商人が銭納した貨幣だけで、董卓五銖銭を始めとした悪貨を駆逐できるほどの銅を得られるだろうか?
当然、銅の獲得に寄与はするだろうけど、呉や蜀で作られた銅銭は、
大部分が商人が交易を行った地域に滞留する事になると思う。
と言うか、五銖銭の復活と、その後の穀物価格高騰と五銖銭廃止のプロセスに、
呉、蜀の商人が大きく関わっていたとは、やはり思えない。別個の話のような。
>>547 商売に関する税金下げといて
>関税、市場税などによる税収の拡大を欲していたんじゃなかろうか
ってのは難しいんじゃないか?
別に悪貨を駆逐する程の銅を得たいのではなくてさ
信頼のおける貨幣を獲得する事で通貨に対する信用を取り戻したかったんではないかな
結局魏で発行する貨幣は悪貨ばかりで、ロクな貨幣が作れずに通貨の信用がまるでない状況なのだし
549 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/13(金) 01:07:44
通貨の信用がない→じゃあ通貨に頼らない方向で→租・庸・調の成立
>>548 書いてなかったけど、そっちの理由は主たるものじゃなくて、
どっちかって言うと、先に挙げた、貿易による経済全体の生産の拡大かな。
それはともかく、魏で悪貨しか作れなかったのは、別に鋳造技術が無かったわけじゃないと思うんだよね。
って事は、単純に銅が足りないだけ。
んで、例え呉や蜀から来る商人が高品質の銅銭を使って売買したとしても、
悪貨が大量に出回っている以上、高品質の銅銭が悪貨に対して額面価格より高く扱われるというだけで、
貨幣が信用を取り戻す、という状況が訪れるとは思えない。
それこそ尋常ない数の商人が訪れ、計り知れないほどの高品質銅銭が出回れば別だけど。
この状況は、別に従来の高品質な五銖銭そのものの信用が低下したと言うのではなく、
単に、1文という単位が低品質な銅銭に移り、五銖銭が実質的に高位額面貨幣になっただけだと思う。
だから、貨幣の信用を取り戻すのは、私鋳銭や董卓五銖銭、
魏の発行した低品質銅銭を上回る程の高品質五銖銭が供給されなければ無理だろう。
従って、本気で悪貨を駆逐して、混乱以前の銅銭経済を取り戻すのであれば、
市中に出回っている低品質な銅銭を回収し、それを鋳潰して大量の五銖銭を供給するしかないと思う。
>>549 まあ結局魏は一回そっちの方向に行くしな
>>550 高品位の銭の登場によって、インフレには歯止めがかかるぞ
それに
>従って、本気で悪貨を駆逐して、混乱以前の銅銭経済を取り戻すのであれば
こんな破天荒な主張はしたいわけじゃない
関税下げて流通を活発にしつつ、足りない銅を南方から呼び寄せようとしてたんではないかと言ってるんだ
>>551 どういうプロセスでインフレが止むんだい?
それと、「銅を南方から入れようとした」という主張なら、
最初からそう言って欲しかった。
「信用を取り戻す」と言っていたから、
「信用を取り戻すには悪貨を駆逐しないと」という話になっただけだから。
>>552 ある程度高品位の銭が登場すると、高額紙幣が登場したのに似た状況になるってだけだけどね
高額紙幣が登場するとある程度インフレは抑制されるよ
ちょっと経済の話で宮崎市定のアジア史論に面白い記事あったな
文化的な物の輸出で金を手に入れるペルシアの王朝と金を輸出する中国、インド、そしてヨーロッパという話
曹丕が文化事業にこだわったのってこのペルシアの真似して文化の輸出で金を稼ごうとしてたりしてな
推論の上に推論乗っけてるから一笑にふしてもらって結構なんだけど
>>553 高額面の貨幣でインフレが抑制されるなんて教科書に書いてあったかなぁ?
マクロ経済学の教科書は何冊か読んだが、すまんがそういった内容は覚えがない。
考えられるプロセスとしては、
高額面貨幣の流通→物価の上昇によって従来の零細額面貨幣では取引が困難なので、高額面貨幣を使う層が増える
→実質的高額面貨幣とは言え、額面は一文なので、物価が抑制される
という感じか?
しかし、ちょっとやそっとの流入では、貨幣需要全体を支える事はできないから、
やはり従来の貨幣が主に使われる事になる。
そうなると、実質はどうあれ、悪貨に対する物価は高いままだから、
銅銭より商品貨幣に移行するだけで、あまり意味が無いように思える。
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/06/15(日) 17:58:26
あげ
>>557 いや、漢の税が原則銭納だったのが物納の租庸調に変わるのは、魏の銭不足がその淵源でしょ
はて、漢の税が物納に変わる理由が、
魏の銭不足にあるとはどういうことか?
未来が銭不足になったから、
過去の税が物納になったってこと?
言葉足らずなのは一目で見て分かるのだから、そんなところに突っ込まんでも
「租庸調」と表現しているんだから時系列は理解できるだろうに…
それが理解できてたら559みたいな言葉は出てこねーべ
陳震が何故尚書令から衛尉に遷ったのか考えているが、なかなかしっくりくる考えが浮かばない。
陳震が尚書令になった事は諸葛亮の漢中駐屯に伴うものだとは思うが。
諸葛亮が漢中にいる間、勝手な詔勅を発行されぬよう、諸葛亮の息のかかった人間を置く必要があったのだと思う。
とすれば、衛尉に遷ったのは、成都でのそういった動きを心配する必要が無くなった、という事だろうか?
そうであるならば、ちょっと前に考えた李厳の圧力と言う形ではなくなり、
陳震の、李厳を警戒するよう、という言葉も、李厳に対する恨みとかではなく、
「警戒を解き、自分を衛尉に遷してしまっては、李厳が何らかの動きを見せるかもしれない」
という忠告になるのかもしれない。
まぁ、そもそも陳震が衛尉に遷ったとて、尚書令が空位になったという事も無いとは思うが。
ただその場合、何故この期間だけ、政治の中枢である尚書令が誰なのか記録されなかったのか、という疑問が残るが。
外向きで無い蜀の政道がどんなものだったかは本当分からん部分が多いっすからねぇ。
565 :
564:2008/06/30(月) 06:31:39
訂正。
蜀の政道のうち、外交や戦争など外向きの物以外は、本当分からん部分が多いっすからねぇ。
諸葛亮の時代に史官が置かれなかった事も、大いに関係あるのだろうね。
それでも陳寿の生きた頃であれば、その記憶によって補足もされたろうけど、
226年から234年頃の事では、伝聞でしか知りえなかっただろうから。
ただ、尚書令ほどなら、史官がいなかった頃の事でも、その後の時代を生きた人も知っていただろうし、
陳寿にその気があれば、陳震の後任が誰だったかくらいは記述はできたと思う。
陳震のこの事について分かるのは、
・陳震が229年に尚書令から衛尉に遷った事(ある意味左遷)
・陳震が、李厳の警戒すべき性質を諸葛亮に述べた事
・李厳弾劾時に、その事について諸葛亮が、「陳震に伝えてやらねばならない」と述べている事
くらいなので、どういった政局によって陳震が異動したのかは、はっきりと知る事ができない。
567 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/01(火) 05:52:55
つか、尚書令で衛尉も兼ねた、ってのじゃ変かね?
229年の呉訪問は、以前とは比較にならんほど形式的には重要なものだったから、尚書令じゃ軽い、と(実質的な部分は別として)。
で、九卿格も帯びさせた、てんじゃ説明つかないかな。
>>567 自分も、その事をちらと思ったんだけど、「震以衛尉守尚書令」とかじゃなく、
「以震為衛尉」だから、兼任じゃなくて異動だと考えていた。
ただ、「以〜為〜」という記述の仕方でも兼任している、という例もあるかもしれないので、
異動である、という結論は性急だったかもしれない。
暇があったら、史書を洗って、そういった例があるか確かめてみる事にするよ。
蜀書覗いてると尚書令だけじゃなく
尚書関連の役職の記述が229年以降ごそっと消えてるな
それで諸葛亮が死んだとたんに一斉にまた出だしてる
華陽国志覗けば誰か見つかるかもしれないけど
229年は諸葛亮が丞相復帰を果たした年でもあるから
そのときに盛大に内部改造したのか?て気もするが
まさか尚書台を実質なくして行政機関をほぼ丞相府が独占なんて
えげつないことはしないよなぁ・・・
570 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/02(水) 18:32:32
諸葛亮は丞相と尚書令を
兼任していたという記録を
見たことがあるのだが…
録尚書事のことだろ、それ
録事と尚書令は違うよ
>>569 言われて調べてみたけど、確かに尚書台の役人がいなくなっている。
ただ、229年がその境であるという事を示す内容は見つからない。
むしろ、開府を機に、尚書のみならず、
政権内の各所から幕府へと人材を集中させたように思える。
しかしこれは、諸葛亮の幕府に辟召された人間が出世したから、という事もあるかもしれない。
その過程で尚書台が不要になったかはともかくとして、
諸葛亮が己の幕府に人材と権力を集中させた、ってのはあるだろうね。
皇帝による勝手な詔勅を抑えるのであれば、侍中でなんとかなるかもしれないし、
政権=丞相府という形になっていたのであれば、仰るとおり
尚書台は実質的に不要になっていたのかもしれない。
仮に諸葛亮が尚書台の形骸化を進めていたとするならば、
陳震の異動は左遷と言うよりその一環であったと見る事ができる。
尚書令を、既に高位にあり発言力も大きい李厳から陳震へと移し、
尚書の権力を録尚書事である自分に集中させながら、じわじわとその解体を進める。
同時に、政権の各部署から丞相府へ、或いは益州牧の属僚へ人材を集中させて、
成都の事を丞相長史に任せられるような体制に移行していった、という流れだったのではなかろうか?
574 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/03(木) 00:33:47
やってることは曹操と同じ、いやもっと徹底的だね
>>574 「諸葛亮は尚書台の形骸化を進めた」という仮定から出発してるんで、
その仮定の蓋然性が議論全ての蓋然性に直結するんだけど、
こうして考えた場合、李厳の九錫発言は、諸葛亮への権力集中を見て、
その真意を王位、或いはそこからの禅譲と見てしまった所にあるのだ、と考えられそうだ。
個人的には、諸葛亮が忠臣であるという考えは変わらないので、
この権力集中も、あくまで北伐を滞りなく進める為の処置であったと考えたい。
李厳は、諸葛亮の行動を江州という外部から見てた為に誤解してしまった、という感じで。
576 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/03(木) 00:46:30
>>575 でも、諸葛亮の内心が忠臣かどうかはあまり関係ないかもよ
もし反対者を潰し、権力集中を進めて独裁体制を敷いた上で北伐に成功でもしたら、本人の意思を超えて周囲が
「実力がある上に忠誠無比の諸葛亮様、俺たちにできないことを平然とやってのける!それにしびれるあこがれるゥ!」
となり、諸葛亮禅譲待望論が高まることは明らか
辞退すればしたで「これだけ実力があるのに謙虚だなんて、ますます皇帝にふさわしい」となる、という矛盾
>>576 どうなんだろうね。
皇帝にさせようという意思が強い場合に、それを制して人臣のままでいるというのは、
どれだけ可能な事なんだろうか?
まぁ、なんでもやろうとする諸葛亮の事だから、仮に北伐に成功したとしても、
結局過労で早々に死んでしまうように思える。
>>577 皇帝に殺されるか、皇帝に担がれる前に死ぬかすればいい
ただし前者は謀反人扱いされ、後者は子の代に謀反人扱いされて一族全滅の諸刃の剣
>>578 それでは救いようが無いな。
まぁ、史実の諸葛亮は、忠臣の美名を全うできたので、その点は幸福と言える。
>>579 ま、北伐に成功しなかったからね
皮肉なことに、劉禅の帝位は北伐が不首尾だったから守られたんだよ
失敗したら形だけとはいえ丞相から降格
じゃあ、成功したら丞相から昇進するのか?丞相より上ってなんだ?って話
>>580 李邈のように、直接的に諸葛亮を批判した人間もいたし、
確かに北伐成功した場合、どうなったか分からんね。
諸葛亮が皇帝になるというのも面白いことかもしれんが、
そうなった場合、三国志が今のように広く読まれるものとなったとは思えないのが難点だ。
582 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/03(木) 05:48:50
尚書系の職務は229年以前より、と言うか蜀漢政権成立時から少数だよ。
尚書令と数名の尚書、尚書郎の名が分かるのみ。
当初は、尚書系の職務整備が、劉備の外征&敗北、死去と言うゴタゴタで進まず、223年以後は諸葛亮の方針。
ただ、この方針というのは丞相府の権限強化・充実と言うのも確かにあったのだろうけど、小国・蜀漢では冗官を省かなければ、と言うのもあったと思う。
だから、諸葛亮時代に名前が判明してる尚書系の人物は、陳震、李福、馬斉くらいなのかもしれない。
こうなるとショ周の仇国論を詳しく調べてみたくなるな。
姜維の代に於ける事とはいえ、幕府に対する中央官僚の意識が垣間見えそう。
>>582 依然尚書台がしっかりと整備されてなかった、という点はあるかもしれないね。
ただ、陳震はともかく、馬斉、李福は諸葛亮時代の尚書とは言い難いと思う。
馬斉は劉備存命中に尚書郎となり、その後、建興年間に諸葛亮の幕府に招かれている。
これは多分、開府と時期はそう違わないと思う。
蒋琬も尚書郎だったが、諸葛亮の開府と同時にその掾属になってるから。
ケ芝も同じ頃尚書郎で、彼の場合は諸葛亮が漢中に行くのと同時に尚書を離れ、中監軍に遷ってる。
李福に関しても、建興元年に巴西太守で、その後に江州督に遷るけど、
これは恐らく李厳が失脚し、その子の李豊が江州都督を解任されてからだから、
231年以降の事なので、その後の尚書僕射は、蒋琬の尚書令就任と同じ頃だと思う。
李豊の江州都督解任は諸葛亮死亡後じゃないかな?
諸葛亮が李豊に言った言葉や死去後の李厳の発言からして
彼の生存中に解任されるとは思えないんだが
ごめん
ちょっと勘違いしてた。上のレスは無視してくれ
あほな事書いてスマン
>>586 華陽国志劉後主志、及び李厳伝の注に引く諸葛亮の李豊への手紙を見ると、
李豊は李厳失脚後、兵を奪われ従事中郎参軍とされ、
蒋琬と共に丞相府の仕事に就いた事が分かるので、江州都督は解任されたと見た方が良いと思う。
>>587 む。どうやら早まってレスしてしまったようだ。すまん
いや、自分が思い込みしたまま書き込んだのが悪いので
間際らしいことしてしまった
あと、たいしたことじゃないんだが
李福の江州督就任は諸葛亮死後と思っていたから
彼が劉禅の使者として遺言聞きに行くのが不思議でしかたなかったんだが
231年に江州督就任なら諸葛亮が死ぬ直前に中央に呼ばれて尚書僕射に任命され
遺言を聞きに行った可能性もあるかな?
これはこれで後任のケ芝が江州督につくまでに間があいてしまうから変かとも思うんだが
地方官で涼州に近いわけでもない人物が劉禅の使者に立つのがどうにも府に落ちない
>>590 確かに不自然と言えば不自然なんだけど、少し後の話だが、
馬忠が蒋琬に聖旨を伝える為に南中から呼び戻された事もあるから、
李福が使者として適任と考えられていたなら、江州督のまま使者に立った可能性はある。
李福は後に、蒋琬の司馬となっているので、
諸葛亮存命中に蒋琬を上回る尚書僕射にまで出世したとは考えにくい。
江州督のまま五丈原まで行き、軍の帰還後に尚書僕射に昇進、
大司馬となった蒋琬に司馬として辟召されるもすぐに死去。
江州督の後任はケ芝が、大司馬司馬の後任は姜維が担った、という所だと思う。
ああ、そうか
馬忠のことがあるからそれほど不思議ではないのか
ありがとう、やっとしっくりいったよ
大した事では無いのだが、司馬懿の孟達討伐において、
呉と蜀が、西城の安橋と木蘭塞へと救援の軍を出した事が晋書にある。
これがどうも合点がいかない。
安橋は西城県城の西方にあるようだから、蜀が救援の軍を派遣するのはまだ分かる。
しかし木蘭塞は更に東にあり、申儀を突破しない限り十分な戦力を送れないだろう。
水経注巻二十七沔水上によれば、この時に木蘭塞へ軍を動かしたのは呉だとある。
当時、呉で荊州を統括していたのは陸遜であるが、彼が何か行った記述も無いし、
孟達の離反を知っていた蜀とは違い、呉には援軍を送る時間も無かっただろう。
安橋、木蘭塞へと動いた呉蜀の救援軍を、軍を分遣して防いだという晋書の記述は、
どういった先行史料をもとにしたのであろうか?
司馬懿は、孟達の決起より僅か八日で城下に到達し、その後十六日で陥落させている。
西城に申儀がある以上、司馬懿が軍を分遣せずとも救援は間に合わないだろう。
また、遅くとも228年2月の初めには街亭で馬謖が撃ち破られているので、
諸葛亮は227年の年末頃には軍を進め始めていただろう。
正月早々に敗れた孟達を救援する暇があっただろうか?
この呉蜀の救援の話はでたらめではないかと考える。
少し続けると、この時の、八日で到達したという話は、個人的に信じ難いものがある。
孟達の手紙に、「私が事を起こしてから八日」という内容があるので、
何らかの時点から8日で司馬懿が上庸に到達したのは間違いないとしても、
それが、郭模の偽投降によって事が漏れたと孟達が感じてからなのか、
或いは、司馬懿の手紙を受け取ってからなのか、
それとも、その手紙を受け取って実際に兵を挙げてからなのかは分からない。
最初の段階であれば、司馬懿は宛と上庸の間を8日以内に行軍したと見て良いだろうけど、
手紙を受け取った時点より後であるなら、司馬懿は既に上庸に向けて軍を動かし始めた後と考えられるので、
8日以上かけていると考えて良いだろう。
ダヴーはアウステルリッツ会戦に間に合う為に日に50km以上を行軍したが、
それとて8千の兵で2日間程度に過ぎない。
480kmを8日でと言うと、そのレベルの行軍を8日間続ける事になり、兵の多さを考えると信じ難いレベル。
手紙のやり取りによる時間稼ぎを考慮して、10日から2週間程度かけたと見た方が良いと思う。
司馬懿がいつから動き始めていたか分からない孟達にとっては、僅か8日に見えた、と。
10日から2週間でも、限界レベルの強行軍だしね。
相当な強行軍には変わりなさそうだけど、
8日で到達したのは一部の兵(特に騎兵)
だけだということはないだろうか
>>595 そいつはそうかもしれん。指摘ありがとう。
8日で1200里という数字の大きさに囚われて、考えが雑になっていたようだ。
騎兵のみで構成された前衛が、8日で1200里を駆けた、という事になる。
馬の状態が心配にはなるが、替えの馬とかを用意すればできない事は無いだろう。
俺の大好きなアレクサンドロス大王も、300kmを11日で踏破するとか、
三日間昼夜ぶっ通しで、それもたった一回の小休止のみで行軍したりしてるしね。
これが軽騎兵軍団なら、指揮官は牛金の可能性もあるな。
いずれにせよ、相当な強行軍で騎兵のみが戦場に到達するという事は、
仮に孟達が攻撃をかけたなら、容易に崩壊していた可能性もある。
その辺まで読んでの行動だとしたら、司馬懿も相当なものだ。
話が魏スレ向きになってしまったな。もし続きをやるならそっちに行くことにした方が良いかもしれん。
衛継の就いた大尚書という官職は何だろうか、と思って調べたんだが、
晋書良吏伝に、魯芝が大尚書となり刑理を司った事が記されている。
蜀の大尚書も同様の職掌かは分からないが、尚書の内の一つであって、
尚書より上の官職と言うわけではなさそうだ。
他には、後漢の崔寔も大尚書になっているらしいが、詳細は分からない。
ところで、この魯芝という人物は、大尚書となる前に荊州刺史となり、
諸葛誕の乱の際に、軍を率いて寿春まで赴いている。
当時の魯芝は王昶の麾下であったが、その王昶は夾石にあって呉の荊州諸軍を抑えていた。
王昶は麾下の軍を分割されながら、敵の大軍を牽制するという役目を仰せつかった事になる。
598 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/07/30(水) 21:02:48
姜維が剣門閣で豆腐を作って兵馬に食べさせたって実話なんでしょうか?
確かに剣門の名物料理は豆腐らしいが
ちょっと話が出来すぎなんで、後世の作り話では?
ご当地ヒーローの姜維にあやかってのことじゃないかな。
飯の暈を増やすために、豆のスープにしたというのなら有かも。
俺の知る限りでは、何かの史書に姜維が豆腐を作った話なんて出てきた事は無いなぁ。
民間伝承とかだったら分からないけど。
地元の住民が剣門関の水を使って豆腐を作り、これを姜維に献上したところ、
姜維はこれをいたく気に入り非常に喜んだ…という民間伝承はあるらしいよ。
603 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/01(金) 02:31:14
豆腐が発明されたのって前漢時代だってさ
604 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/08/11(月) 01:34:15
魏延スレで節の話題になったので、それに関連して少し気になる事を。
建寧郡(益州郡)俞元県の李恢は、南郡のケ方の後を襲ってライ降都督となった。
彼の後には、張翼、馬忠、張表、閻宇、霍弋と続いたが、
李恢だけが他の都督と一線を画している。
まず、数あるライ降都督の中で、節を与えられていたのは李恢だけである。
また、ただ李恢のみが、任地と本貫が一致している。
更に悪い事に、李恢は諸葛亮の南征後、その治所を牂牁郡平夷県から、
李恢の本貫である建寧郡(味県)へと遷され、建寧太守まで加えられている。
節はともかく、任地と本貫を一致させるのは、都督としても太守としても異例。
しかも李姓は、四姓五子に数えられる当地の大姓であり、
ともすれば南中に割拠される恐れもあった。
その事が逆に、李恢の赤心を際立たせるが、危険な処置には変わりない。
劉備、諸葛亮の、李恢に対するこの処置は、理解し難いものと言える。
えー有力な家臣は独立を志さないといけないって決まりでもあるの?
606 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/08/11(月) 21:35:52
>>604 曹操がゾウハに対して取った措置と似たような感じだろうか
独立の危険というより、「蜀よりの独立国」の独立を援助した、という状態だったのじゃないだろうか
中央派遣の役人や将軍がギリギリ抑えて反乱の種をまくより、現地の大物にある程度好きにやらせたほうが反乱や不満は少ない、ということだ
>>607 ふむ。
李恢が、ケ方の後任を自分に任せるよう語ったのにも、そういう意図があったのかもね。
そういや、漢晋春秋に、諸葛亮は南征後、南中の人間に統治を任せた、という話が載っている。
少なくとも李恢の続投に関しては、諸葛亮の方針の一環だったのかもしれない。
ただ、雍闓にせよ、孟獲にせよ、現地の大姓が反乱を主導しているので、
李恢の内心が分からない以上、劉備の決断は思い切ってると思う。
李恢が包囲された時、「反乱に加担しに来た」という彼の言を南中の人間があっさり信じる辺り、
李恢の建寧での影響力は小さくないだろうし、仮に彼がその時の益州太守だったら、
その気は無くとも乱に加担せざるを得ない状況に追い込まれたかもしれん。
魏延を欺き陥としいれ、蔣琬に対しては姜維と組みクーデターを起こし、陳祗を引き立て劉禅を堕落せしめた。
延煕十六年正月、前年に幕府を開き我が世の春を謳歌していた宴会の最中に魏からの降将郭循によって刺し殺されたのは因果応報というべきではなかろうか?
その見方が成り立つなら、
今度はヒイが今の魏延のような扱いを受けていたのだろうね
アカ日的論評乙
612 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/14(木) 13:51:26
ライ降都督のライ降って地名ですか
>>609 費イの死は過去の悪行による因果応報というより、独断専行、頭が平和だったのが原因じゃねぇかと。
後主伝を流し読みしてて気付いたが
諸葛亮死後、時間が経つにつれて大赦の頻度が増してるね。
これは諸葛亮以後の政治において人心の収攬に翳りが見え始めたという事かな?
他のを精査してないから確実じゃないかもだけど、大体だと
諸葛亮(221年丞相就任〜234年没 統治13年間で大赦なし)
蒋琬(234年尚書令就任〜246年没 統治12年間で大赦2回)5,6年に1回
費禕(246年蒋琬死後〜253年没 統治7年間で大赦2回)3、4年に1回
姜維(253年費禕死後〜263年 統治?10年間で大赦6回)1、2年に1回
よく大赦の乱発は国政の乱れっていうのを勘案すると、
諸葛亮死後の蜀は、北伐を行わなくてもゆるやかに衰退に向かっていた気がする。
>>615 >>306-344でも少し議論したけど、姜維の時代と、246年秋の大赦以外は、
一応大赦令を出す理由があるであろう大赦。
ただ、諸葛亮の時代は、劉禅が即位しようが、皇后を立てようが、
魏に勝利しようが大赦を出す事は無かったので、後の宰相と違い、
大赦を出す必要の無い政治状態だったのは確かだろう。
この辺は、諸葛亮の偉大さを示しているのかもしれない。
>>615 姜維のところは呂ガイと陳祇とすべきかも
つまり諸葛亮生存中に状況打開できなかった時点で蜀は詰んでたんだよ
>>614 費イはざっくばらんであけすけな性格が災いした。
張ギに手紙で戒められてたよな。
酒は災いの元だな。蒋エンも劉備に殺されそうになったし。
>>619 ちょいと一杯と 手酌で飲んで
いつの間にやら 大宴会
気がつきゃ降将の眼前でゴロ寝
これじゃ自重もあったもんじゃないよ
分かっちゃいるけどやめられない♪
と、くらぁw
関羽の死で詰み。
関羽という一都督の死より荊州失陥で詰んだ。
漢中奪取まではシナリオ通りだったんだろうけどなぁ。
てか、関羽より法正の死の方が痛い。
関羽の死から始まる一連の劉備の暴走は蜀にトドメを刺してるからな。
ホウ統といいコイツ等の短命は諸葛亮の寿命も確実に縮めただろ。
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/23(土) 00:13:08
法正が諸葛亮の膨大な政務を分担するのか?
ホウ統がやる気になったら出来る子だってのは演義だけじゃないのか
どこをどう読んだらそうなるのよ。
軍師としての法正がいれば、劉備の暴走を抑えられた可能性がある。
それが叶わなかったとしても、法正が健在なら少なくとも諸葛亮が軍を率いる機会はかなり減る。
だから負担が少なかったんじゃないかという話だと思うんだが。
>>626 諸葛亮は元々軍務畑の人間だから、法正がいてもいなくても軍を率いて出て行くと思うよ
もちろんそれならそれで法正がいれば諸葛亮の負担は軽減されることに変わりは無いけど
いや法正がいれば夷陵で勝てたね
629 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/23(土) 02:11:46
でも太史慈が生き返ってフルボッコ
司令官級、参謀長級の連中が220年前後にバタバタ死んだり投降したりしてるからな。
後知恵で見れば、蜀建国の時点で詰んでるのは明白だわ。
諸葛亮が撥をもって軍鼓をうち、人をまとめるのは出来るが、
計略は劉巴が上とかって話があるからね。
司令官・諸葛亮 参謀長・法正
という組み合わせは見てみたかったな。
>>631 それは多分かなりイケてますな。
先鋒はこの黄忠にお任せあれィ
ジョジョが魏に降りないどころか、寿命さえ無かった事にする反三国志みたいだな。
ジョナサンかジョセフか丈太郎か悩んだじゃないかw
へっへっへ、徐庶か。
ジョジョって呼んでやるよ。
636 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/24(日) 15:30:45
丈助なんだけどな
何でJOJOの話になってるねん
そもそも承太郎とかいたら魏呉蜀全部平らげちゃいそうだぞ
640 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/08/30(土) 00:25:01
費禕、董允、陳祗と、蜀後期に尚書のトップに就いた三人は、
いずれも許靖と親しくしていたので、当時の朝廷における許靖の影響力を考えようと思ったが、
その三人以外に、許靖関係の人物が見当たらない。
王商の一族辺りが出世してくれてれば、許靖の流れを政権に見出せたかも知れんけど。
蒋琬、費禕、董允、姜維、呂乂の五人は諸葛亮によって評価された人物で、
間に諸葛亮と関係の薄い陳祗を挟むが、董厥、諸葛瞻、樊建も諸葛亮の流れだし、
諸葛亮の影響力が他者を隔絶したものだと考えるのが、やはり自然なのだろうね。
本格的な議論は、ID出る板でやったほうが。
・許靖の人脈はそもそも中原が主
・許靖が交州から益州に入ってから、劉備入蜀まで間が無い
・許靖は劉備が成都を囲むと、いち早く逃げ出そうとした
・法正曰く「中身がなくて役に立たないものも、周囲を欺く飾り物(郭隗)にはちょうど良いんです」
ここら踏まえると、益州での影響力はあまりなかったんじゃないかな。
起用も、中原に向けてのアピールだったんじゃないかと。
>>642 それは理不尽スレの顛末を慮っての事かい?
忠告はありがたいが、移住は、居場所が完全になくなったと思ったらにするよ。
2chで最初に来たのが三戦だし。
で、許靖についてだけど、蜀での許靖の影響力については、
諸葛亮とのかかわりの薄い陳祗が尚書の長官としては異色だった事と、
董允、費禕らの許靖との繋がりから、諸葛亮グループみたいなのの中に許靖グループがあって、
それによる権力掌握劇のような事があったら面白いかもしれん、と思っただけだし、
別に堅持するような考えでもないから、その辺はこだわってないんだよね。
ただ、許靖ってのも結構面白い人物だと思う。
許靖の入蜀時期はよく分からんけど、蛮地に入って十年って言ってるから、
206年頃以降で、王商存命中だから211年以前なのは確か。
個人的には、宋忠が荊州から王商に手紙を出す余裕があった頃なので、
208年の曹操による荊州侵攻以前だと思う。
その頃なら、董和や費伯仁らが蜀に入った頃とそうは変わらないだろうし、李厳よりも前だろう。
法正の言うように、本当に虚名だったのかは分からないけど、
名声があり、人物評価が得意で、死ぬまで士人と交わった人だから、
蜀にいた十数年間で結構な影響力を得る事ができたんじゃないかとは思う。
蛮地云々は、交州に居た時期も含め…じゃないかなぁ。
成都で逃げた時も単独に近かったように読み取れ、蜀書第十二など益州の知識人の伝にも登場しない。
当人も蛮地と述べたように馴染めなかった様だし、益州では相当浮いた存在だったんじゃないかと。
曹操よろしく、士人達も「箔付けのためだけに出入りした」という前提で物を考えると、寂しすぎる。
>>644 ん?許靖が蛮地と述べているのは交州の事だけど?
曹操に送った手紙でそう述べていたはず。
つまり、孫策の東進(195-196)を避けて蛮地(交州)に入って十年って事かと。
「足下が帝を迎えた事を知り、今すぐ中原に帰りたいと思いますが、
荊州からの道は断絶してる上、益州にも入れぬ有様です。」
みたいな内容だったかな。
成都から逃げて投降しようとしたのは、少なくとも劉備が軽蔑するようなものではあったろうね。
許靖が浮いてたって可能性もあると思うけど、許叔龍、費禕、董允の三者が名声を斉しくしていたって記述を考えると、
益州では新参の劉焉勢力の内でも、劉璋の時代に益州に入った更に新参の費氏や許氏らで、
一個のグループができてたんじゃないかとも思える。
費氏は姻戚だったっけ。それと並ぶ名声ってのは特異ではあるね。
>>646 費伯仁の叔母が劉璋の母だから、外戚に当るね。
ただ、外戚だからこそ孤立した可能性もあると思う。
突然荊州からやって来て、外戚だと言って権力に与られても、
もとから劉璋の元にいる人にとっては面白くないだろうし。
その3家の勢力と、在来益州豪族家との接触が伝に見られないのも道理だなぁ。
>>648 一応、費禕伝に拠れば、費伯仁が益州に入ったのは遊学の為らしいけど、実態は分からんね。
同じようなつてで益州に入った人に来敏がいるが、
彼も自身の性格故とは言え、あまり人望は無かったね。
劉璋政権は結構複雑な構造だったと思う。
在地の益州豪族、劉焉に付き従って益州入りした人々、
後から劉璋が招いた人々や、戦乱を避けて逃げてきた人々、
これらが劉璋政権下でどう絡んでいたか、それが劉備の登場でどう動いたか、
とかは意外に考え甲斐があるんじゃないだろうか?
許靖と共に益州入りした許慈も、その来敏も、学識を買われはしたが、
権力に与るような職には就いてないね。
まぁ、許靖自身は蜀郡太守という要職に就いてはいるんだけど。
そういや、上で「樊建も諸葛亮の流れ」と書いたが、これは間違いだね。
樊建と諸葛亮に繋がりがあったかどうかは書かれてないや。
費禕、董允と名声を斉しくした許叔龍だけど、彼がその後一切出てこない所を見ると、
許叔龍は早くに死に、恐らくは許欽=許叔龍って事なんだろうね。
叔龍だから三番目だと思うが、曹操への手紙で10人の内1人か2人しか生き残ってないと述べてるし、
長子と次子は死んでいてもおかしくはない。
ただその場合、伯母の死に触れておきながら、息子の死に手紙で触れてないのがよく分からんけど。
少し分からないのは、許欽の子の許游が景耀年間に尚書に昇ったとあるが、
はとこに当る陳祗は、彼を引き上げてやったりしなかったんだろうか?
龐統の子の龐宏の出世を妨げたりはしたが、人事は結構公正にやっていたりしてるんだろうか?
費イが横死して空白状態になった成都を掌握するので一杯一杯だったんじゃないかな。
陳祇が権力の亡者扱いなのも、急激な権力掌握が敵対し去れた部分が多分に有ると思う。
しかしながら、費禕はその二年前から漢寿に行ってしまっているし、
251年から253年まで、録尚書事の二人はそれぞれ漢中と漢寿にあり、
侍中守尚書令の陳祗のみが成都にいたのだから、そこまで一杯一杯な状況とも思えんのよね。
もとから陳祗に敵が多かったのなら分からんけど。
陳祗が悪く思われるのは、やはり黄皓を使ってたのが大きいんじゃなかろうか?
黄皓を使う事で、権力を握りやすくなったものの敵も作ってしまったのかもしれない。
陳蕃を輩出した汝南陳氏で、声望ある許靖の外孫、というのは、
少なくとも中原では大きな利点になりそうだな。
俺の心情的には、陳祗は良い奴だったと思いたいんだがなぁ。
全ては黄皓に起因する、と見なすのもどうかと思うが、
宦官と結託して聖詔を思うままとした事が、まず第一として憎まれるのは自然ではあるか。
清流派巨魁の一族だし、中原にいたほうが幸せだったかもね…
全てが黄皓に起因するとみなしているつもりはないんだわ。
それに実際の所、陳祗に敵が多かった、だとか、
陳祗の権力掌握が急だったとか強引だったとかって記述は無いと思う。
呂乂のように名声を失墜させた記述も無ければ、
姜維のように明確な反対運動が生じた記述も無い。
抜擢人事によって国政の中心を担った事は確かなので、
陳祗が権力を握る事を嫌ったり危ぶんだりした人は当然いたと思うけど、
反陳祗運動に繋がるようなものだったとは思えない。
陳寿によって、皇帝に諂った事、宦官を任用した事、権力が強大だった事が書かれているので、
それが陳祗の権力欲の大きさを暗に述べているとも取れるけど、当時の朝廷でどう思われていたかは別。
彼の早すぎる死と、それによって暴走した黄皓の行いによって、
彼の実像が、その死後急激に歪められてしまったというのもあるんじゃないだろうか?
蜀書にある選曹郎が尚書選曹郎で、陳祗の任官が23,4の頃だとすれば、
彼の生年は210年頃以降なので、死んだのは50前だし早い方だろう。
もう10年長生きすれば、どう書かれたかは分からなくなるだろう、と思う。
そういや、陳到も汝南陳氏だが、どこまで関係あるんだろう。
豫州時代から付き従ってるから、194年頃には刺史の劉備に辟召される程名が知れていたのだから、
案外近い関係かもしれんね。
むしろ陳祗は八方美人的な存在で敵を作らないタイプなイメージがある。
武功の記述しかない陳到が、実は名族だった説か…面白いかも。
>>655 慎み深い人間だったとはあるけど、細かい部分は分からんからね。
恐らくは陳祗がモデルであろう高賢卿を、譙周がもっと細かく描写してくれてれば、とかは思う。
>>656 ただ、色々とほっぽり出して劉備に付いて行った事を考えると、
汝南に強固な地盤があるような人ではないのだとは思う。
陳羣は付いて行ってないしね。
許靖が重用されたのは、名士としての名声の高さに加えて、
当時の益州で後漢朝廷を直接知っている数少ない学識者だったからというのが大きいのではないだろうか。
蜀漢建国の際、礼典の実際の運用に益すること多大だったろう。
法正が許靖を「虚名ではありますが」と言ったのは、
劉備の機嫌を損ねずに事を収める法正の性格が出ている方便だと思う。
後漢の朝廷を実際に経験しているのは、有益だったかもしれんね。
宮中の制度に関しては、蜀書には許慈、胡潜、孟光、来敏らが制定に当ったと書かれてるが、
彼らの通じているのは礼や尚書などの経典だろうから、後漢の朝廷が実際にどのようであったかを、
許靖らと議論したというのも考えられると思う。
法正の発言は、やはり方便だろうね。
成都を逃げ出そうとした事以外に汚点らしい汚点も無いし、
学識豊かで、朝廷の管理選抜も担った事があり、高い名声を有する人間を、
「実質を伴わない。」などと本気で思うだろうか?
虚名か否かはともかく、法正の言うように、許靖を排した時に天下が不審に思うってのは的を射ているとは思うけど。
話は変わるのだが、北伐、特に姜維の北伐を批判する際に、
「内政に専念していれば良かった」とかって述べてる人を見る事が、以前は結構見た。
で、思ったんだけど、こういう人は「内政」というものを具体的にどう考えていたんだろうか?
こういう意見は大抵の場合、「国力の充実に努めろ」みたいな論調だから、
恐らくは、穀物等の生産力を高めるという事を意識しているのだとは思う。
だがその際に、録尚書事に何ができるのか?何をすべきなのか?
その辺りまで考えて「内政に専念しろ」と主張する人は、果たしているのだろうか?
尚書僕射は「廩を授け銭穀を仮すを掌す」と蔡質漢儀にあるので、
尚書台でも国家財政に関わる事はできるし、詔勅を発して、大司農や各郡県へ、
統制力の強化や、それによる戸籍人口の増加を命じる事はできるだろうけど、
それがどれだけの効果をもたらし、それによって魏の攻勢に耐え続ける強固な国家を作る事ができるのか否かというのは、俺に分からんな。
姜維批判の人間の多くはそこまで考えて述べてはいないだろう
内政といってもゲーム的な感覚の人も多いかもしれん
だいいち蜀が外征を控えて国を富ませば、より大きな魏は輪をかけて強大に
なりそうなものだがね
姜維は、その職掌から携われる内務、軍事行動の中から読み取れる能力や特性
あたりの要素の検証をなおざりに結果のみの安直な批評にとどまった意見も
多いのは残念な様にも感じる
>>661 姜維批判を抜きにしても、内政を曖昧に捉えている人が多いと思う。
俺自身、そこまで深く考えたことは無いしね。
諸葛亮に関しても、「内政に長けている」と言われても、具体的な内容はピンと来ないし。
夷陵の敗戦で傾きかけた国家を立て直した、と言われれば、それが凄いのは分かるが、
どういう事をして立て直したのかは、いまいち分からない。俺が無知なだけかもしれんが。
一度、当時の内政がどういうものかというのを、本格的に考えるべきかも知れないね。
例えば穀物生産にしても、土地が足りないと言うよりも、国家が戸籍で管理する農民が少ない方が問題だろうし、
それを解決するには、実際に諸葛亮や姜維がやったように外から人を連れてくるとか、
政府の統制力不足で戸籍に入りきれていない人々を、政府の戸籍に登録させるとか、
農地や農民を私有している豪族の荘園を解体したりとかが必要になると思う。
そして蜀の政治制度において、誰がどういう行動を採れば、穀物生産を高める事ができるのかを考えるべきかもしれん。
内政という言葉自体すごく曖昧だけど国内の事柄という感じかな?
そうすると内政に専念していれば良かった=出兵を繰り返すべきでなかったになるんじゃない?
詳しいことは知らないけど姜維が国内に目を向けていれば蜀は延命したでしょ
魏の中にも侵攻に慎重な連中はいるから連年攻勢を受けるという事態は起こりにくいと思う
後は相手次第だけど…
もともと絶望的な状況だから何やっても難しい
「無闇に出兵しなければ、蜀は史実より長く国家を保つ事ができただろう」
という主張は、恐らく正しいだろう。
ただそれでも、以降百年の単位で国を保てたか、となると難しいところだろうし、
少しでも長く命脈を保てればいい、という考えが、国家の指導者たるに相応しいか否かも、
議論の待たれるところだろう。
攻勢に出る事、守勢を堅持する事、どちらにもメリット、デメリットはあるし、
百年先を見据えた場合、どちらがより妥当な方針であったかは分からないと思う。
姜維が批判されるとすれば、攻勢に出た事そのものより、それに失敗した事だろうね。
失敗した事を批判するのは良いとしても、失敗した事のみを以って北伐そのものを批判するのは的外れだと思う。
そういう人は最近は見ないけどね。
結果論からの議論展開に成りがちなのは、作戦の内容そのものを語ろうにも、一次資料に乏しい。
ってのもあるだろうな。
むしろ場合によっては後漢末よりも詳しい戦役もないこともない気がする
語られない・語れない、というのには、この時代の戦争を詳密に検証した
解説書や資料が殆どない影響が少なからずありそう
まあ内政に関しては姜維はほとんど放棄してたといわれてもしょうがないだろうね。
費禕 存命中は費禕 が、費禕 死後は陳祗を始め董厥・樊建・諸葛瞻らが握っていたようだし。
実際、姜維伝を読むと費禕 とともに延煕10年に録尚書事になってからも戦争関連記事ばかりでどう内政にかかわったかまったく不明。
それは費禕 死後も変わらないw
姜維にとっては録尚書事は単なる加冠、名誉職程度の意味しか持たなかったのかもなあ。
上位者がいる間は政治は上位者に任せ自らは軍事に専念、上位者がいなくなると政治は下位者に任せ自らはやはり軍事に専念。
政治を任された下位者にとっては姜維は浪費するバカ社長同然の存在だったかもしれない。
「魏は帝位を簒奪した偽者だ、劉氏が正統だ!」って主張で建国したから
ひきこもるわけにはいかなかったんじゃないかな?
まぁ出兵するとしても頻度ってものがあるが
もともと録尚書事は、幼帝の補佐を行い、上奏、詔勅をチェックするような職だったらしいから、
できる事と言えば、国家の大方針を策定し、それに応じて各省に方針を伝えるような事だろう。
皇帝が親政するなら、そこまで必要な職ではないし、皇帝にとってみれば鬱陶しい存在かもね。
姜維のような録尚書事にとっての政治力は、国論をまとめて、
国家を一つの方向に進ませる事だろうね。
そういう意味では、陳祗の死後国家がまとまりを欠いてしまったので、
宰相としての政治力は姜維にあまり無かったと言ってもいいだろうね。
北伐を繰り返した姜維の方針は、個人的には間違ってなかったと思う。
隴西はもともと漢人は少ないし、租税収入という点では価値はあまり無く、
周囲に散在する多くの異民族を懐柔して貢物を得たりとか、西方との交易がメインになるだろう。
西方との交易がどれだけの利益をもたらしたかは分からないが、
状態によっては簡単に魏に放棄させる事のできる土地だと思う。
蜀軍がその強さを誇示し異民族を味方に付ける事で、
魏が隴西を維持する事の利益と蜀軍と当る事のリスクを計り、
一時的にせよ隴西を放棄する、という状況に持ち込む事ができた公算は高いし、
実際にも魏は、洮水以西、黄河以南の地域を約二年間放棄していたように見える。
あと一度ないし二度、魏軍を撃ち破る事ができれば、状況は相当良くなったんじゃないかと思う。
その点で段谷で大敗を喫したのは痛いし、ケ艾による隴西経営で、
隴西が大軍を養い得る地域になったのは、蜀という国家の命運を決めたと思う。
まぁ、ケ艾の隴西経営は、その裏で泰始年間の異民族蜂起を醸成してしまったとも言えるが。
>>669 > 皇帝にとってみれば鬱陶しい存在かもね。
ただ劉禅はうるさい董允を嫌いはしたが、姜維に関しては悪感情は無いみたいな感じ。
諸葛瞻らが姜維を引きずり降ろそうとした時も、姜維が遠隔地で軍権を握ってるからか、単に時間切れになっただけか知らんが、果たされてないし。
> 陳祗の死後国家がまとまりを欠いてしまったので、
具体的には何を指して?
陳祗の死が契機になったのではなく、むしろ費禕 が死んで姜維を抑えられる人がいなくなったことが原因では?
姜維による度重なる北伐で国力が疲弊しただけのような気がするけど?
> 宰相としての政治力は姜維にあまり無かった
それはそうだろうね。
内政によって国を富ますことより、外征で成果を上げることに重点を置いていたようだし。
>>670 国家がまとまっている事と、国家が疲弊している事は別問題だと思う。
陳祗が死に、黄皓が権力に与るようになるまで、反北伐、反姜維の動きは、
あったとしても表に出てくるようなものではなかった。
現に255年の段階では、朝議で北伐に反対したのは張翼一人だし、
姜維を軍から引き離そうなんて動きも出てこなかった。
姜維を引き摺り下ろそうという動きが起こり、姜維が身の危険を感じて成都を離れるようになるのも、
やはり黄皓、諸葛瞻、董厥、樊建らの時代に入ってから。
この頃になると、廖化も姜維の批判を行うようになってくる。
史書を読んでいくと、政権が分裂状態に陥ってくるのが陳祗の死後だというのが分かる。
あと、俺の言っている宰相としての政治力は、こういった分裂状態を抑え込む力の事だから、
国家方針を内政中心に定めようと外征中心に定めようと関係ないよ。
内政に重点を置いたから宰相として相応しい、外征だから相応しくない、とかって意見を言ったつもりは無いな。
>>671 挙国一致でなければ国にまとまりが無いというのはどうかな?
右手が左手を制しようとするのはまとまりが無いとは言わない。
まとまりが無い状態というのは右手と左手が干渉しあわず勝手にやりたいことをやっている状態。
まあ、オレ定義だけどな。
単に対立する状態だったらこれまでにもあったが、それを評してまとまりが無いとするのはちょっと賛成しかねる。
詳しくは知らんが録尚書事姜維が宰相のような役割であるのなら、
外征した結果国が纏まりを欠いた、よって政治力はなかったと考えるより
戦時の国民主義的な団結を見込んだと考える方が自然だと思ったりするんだが。
もちろんそれだけに戦争の理由を求める気はないけど。
>>672 単なる対立ではなく、宰相職にある人間を、別の宰相職にある人間が更迭しようとし、
しかも一方が身の危険を感じて都に戻らなくなる、という事態で、
それが滅亡の一つの要因にすらなっている。
これをまとまっていると思うのも自由だが、少なくとも俺は深刻な事態だと思う。
剣閣辺りを境に、姜維?%
しっかし、姜維の政治的実績はまったく不明だなあ。
ほんとに名ばかりの録尚書事だったとしか思えないわw
書き込みに失敗した。続きは、
剣閣辺りを境に、姜維の勢力圏、黄皓らの勢力圏みたいな感じになって、
それぞれが協力する事を放棄してしまっているのだし。
まぁ無理に同意してもらわなくてもいいけどね。
こうね。
>>674 深刻な事態であろうが、それは姜維のあまり成果の上がらない北伐が続く限り陳祗が生きていても状況は変わらないと思うよ。
>>677 どうも話がかみ合わないなぁ。
反姜維の動きが表面化し、俺の言う「深刻な状態」が引き起こされたのが、
陳祗の死後である、という結果があるわけで、しかもその頃には、姜維は北伐を中断している。
そういった事から推測している。
もちろん、陳祗の死が契機であるというのは史書に書かれてない俺の推測だから、
陳祗なんて関係ないと思うのは自由だけどね。
しかし、陳祗の存在を軽んじ、原因の殆どを北伐に求めようとする姿勢は、
少なくとも俺が受け入れられるものではないね。
>>678 別に陳祗を軽んじてはいないよ。
が確かに陳祗死後姜維の北伐はやんでるな。ちょっと勘違いしてた。
ちなみに、オレの陳祗に対するイメージは
・技能は高いが、政治的主張はとくには無い。
・人当たりは良く他者にへりくだるが、その実それと気づかせず相手をコントロールしている。
こんな感じw
それはそれとして蜀末期の諡号贈与の件は姜維の政治的実績と言えるのかな?w
>>679 上でも言った理由から、俺は北伐反対派を陳祗が黙らせていたと思っているので、
「姜維にそういう力は無かった」ってのがもともと言いたかった事だね。
宰相としての資質を何に求めるか、そして姜維らをどのように評価するかは、
人それぞれ考え方があるだろうから、自由に考えていけばいいと思う。
陳祗は、その思想を表すような記述が皆無だから、人によってイメージは違うだろうね。
北伐に反対したわけでも、姜維と対立したわけでもない事は彼の行動から分かるけど。
諡号の追贈は、実績といえば実績だが、どういう評価をすれば良いかは議論の対象だろう。
個人的には、姜維主導の北伐再開キャンペーンの一環としてのイメージ戦略じゃないかと思うが。
かつての功臣を表彰する事に反対意見は出にくいだろうしね。
>>680 > 「姜維にそういう力は無かった」
それには特に反対しない。
国論をまとめるということに関して、正論(あくまで姜維基準の)と軍事的実績でどうにかしようと考えていたとしか思えないんだよね。
>>681 軍事的実績でどうにかしようとした、ってのは確かにあると思う。
262年に洮陽に出たのなんて、それ以外に理由が考えられないしね。
俺の考えでは、姜維、陳祗の両宰相が北伐を推進しようとし、
当初は戦果も得られ魏の勢力圏を押し込む事にも成功したので、反対意見も殆ど出なかった。
それが、256年にそれまでの成果を無に帰すような敗北を喫してしまったので、
国内で不満が持ち上がるが、陳祗がその強大な権力を背景にこれを抑えこむ。
しかし、陳祗が死に、姜維自ら政権内の不満を抑えるよう努力するが、
成功するどころか陳祗の子飼いだった黄皓に諸葛瞻らと結託され、自らの身さえ危うい状況になる。
起死回生の勝利を求めて洮陽に出るが、数年前と同じくケ艾に敗れ、
進退窮まった姜維は成都に帰れなくなり、両者の溝が深まったまま魏の侵攻を迎える。
というのが費禕死後の流れだね。
>>675 そもそも、姜維の録尚書事就任自体が、俺らからしてみれば突然の事だからねぇ。
その人事について文句が付けられたような記述は無いし、
当時の廷臣には普通の事だったのかもしれないが、史書にはさっぱり書かれてないので、
「なんでこのタイミングで姜維が録尚書事になるんだ?」って疑問は湧く。
誰のどういった意図で姜維が録尚書事になったのか、というのは、
過去に何度か議論しているが、気になる事だろうね。
前年に死んだ蒋エンの遺言的意向があった
軍部全体の要望があった
費イがわざわざ自分の同格に姜維をつけた
董允が死んで動きやすくなった劉禅が引き上げた
思いつくとしたらこれぐらい?他にもあるかね?
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/09/27(土) 01:11:18
董卓のハイパーインフレは貨幣鋳造とともに生産の激減があったと思われ
>>683 姜維が本格的に出世したのは延煕6年の鎮西大将軍・涼州刺史就任からだろうか。
この年は蒋琬が皇帝じきじきにダメ出しされた年で、姜維は蒋琬を「説得」してから昇進している。
皇帝劉禅による蒋琬の実質更迭の立役者となった功績がものを言ったようにしか思えない。
録尚書事になったのは蒋琬の死を受けたものだろう。
録尚書事は「参録尚書事」などとも書かれ、後漢では外戚の将軍と士大夫の太傅が共に就任していたから、単独ではなく複数人にしておこうという意志が働いたのかもしれない。
この話題と切っても切れないのが、やはり蒋琬の東征を中止する詔勅だね。
この騒動の解釈に関して結論が出ない限り、姜維の録尚書事就任についても結論は出ないのだろう。
ただ、この話は骨が折れるんだよね。
姜維出世の契機というのも問題だね。
輔漢(国)将軍は格式高く、これに就いた面子を見ると、
大司馬司馬・輔漢将軍の時点でレールには乗ってると思う。
宰相にまで上り詰める契機だったかは分からないが。
姜維
姜維、蜀に下る
228年 倉曹掾・奉義将軍・東陽亭侯
不明 中監軍・征西将軍
諸葛亮、死後
234年 右監軍・輔漢将軍・平襄侯
蔣琬、大司馬昇進
238年 大司馬司馬
243年 鎮西大将軍・涼州刺史
費禕、大将軍・録尚書事昇進
247年 衛将軍・録尚書事
249年 節を与えられる
費禕 、253年に死去
254年 督中外軍事加官
256年 大将軍
同年 後将軍・行大将軍事
陳祗、死去
258年 大将軍に再昇進
以後、関連記事なし
蜀最末期の他高官の官位記事もあわせてみてみると面白いかも。
思ったんだが、費禕の昇進もけっこう急激じゃないか
尚書令からいきなり大将軍録尚書事だ
蔣琬は尚書令から大将軍までの間に一応行都護、仮節、益州刺史が入っていたが、そういった過程もすっ飛ばしていることになる
>>688 華陽国志劉後主志では、姜維が護軍・征西将軍に遷ったのを230年春の事としている。
231年には護軍になっている事が李厳弾劾の上表から分かるので、まぁ妥当だと思う。
ここからは俺の見解だが、姜維伝では征西将軍となっているが、
この頃は、魏延が征西大将軍になる直前なので、征西将軍に就任したとは考えづらい。
李厳弾劾の上表では征南将軍だが、これは劉巴とかぶる。
劉巴は恐らく劉邕の事であり、劉邕は建興年間に鎮南将軍になっているので、
劉巴(劉邕)の所は鎮南将軍の間違いで、姜維の征南将軍が正しいのだと思う。
なので姜維は、230年春〜231年春の間のどこかで、護軍・鎮南将軍となったのだろう。
>>689 費禕は、正確なタイミングは分からないが益州刺史になっているよ。
244年の興勢の役の後、蒋琬が刺史兼任を固辞したので、
「禕、復た益州刺史を領す」とあるので、それ以前に益州刺史になっている事が分かる。
諸葛瞻なんかも、尚書僕射から平尚書事へ遷っているので、費禕が特別というわけでもないし、
費禕は諸葛亮の遺言で蒋琬の後継になる事がほぼ決定しているしね。
本来はもう少し時間を置いてからだったのかもしれないが、尚書令から録尚書事に遷る事にあまり違和感は感じない。
時期が早まった事については、蒋琬の病気とを主な理由にするか、
政争の結果とするかは意見の分かれるところだろうが。
蜀末期の話でよく思うんだけど、
陳祗死後の成都サイドの意思決定ってのはどんな感じだったのかなあ?
やはり誰かが強いというのではなく、
諸葛瞻・董厥・樊建らの合議、それに黄皓が影響を与えるって感じだったんだろうか。
前述の3人ともなんとなく影が薄いんだよね、蜀廷の中心者だったにしては。
実際は劉禅が親政していた、なんてことは…ないかな、やはりw
費イの時代から親政してたよ。
だから董允はじめ、常侍や侍中が相克していたんだ。
諸葛瞻・董厥・樊建らはどうかな。
蜀漢の尚書台(があったかは疑問だけど)は行政の長として機能していたと思う。
最高意思決定を劉禅が行っている場合、中常侍の黄皓が幅を利かせるのを
防ぐのは困難だっただろう。
後主伝裴松之注の『魏略』の記事ではあるけれど、と付け加えるの忘れてた。
魏略の件は存じ上げている。
あれは国事に携わるようになったくらいの意味かなと思ってたんで。
親政って言葉が適当ではなかったのかな、ごめん。
諸葛亮並に政治の主導権を握っていたというニュアンスで使ったんだ。
というわけで誰か劉禅の詳しい事跡を。
蜀漢第2代皇帝
後宮の女官を増やそうとしたら董允に怒られました。
その夜は枕を涙で濡らしました。
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/04(土) 18:42:08
高官の美人妻を引き止めて軟禁してました
それは皇太后がやったことだろうが
本当に皇太后がやったと思うのか?
なんでわざわざそんなことしたんだと思う?
「皇太后の命令ってことで」拘留したんだろ
皇帝の命令だったらいかがわしすぎるが、皇太后の命令ってことなら698みたいに騙される奴も出る
701 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/05(日) 03:58:11
くやしいでも
702 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/05(日) 11:37:05
皇太后が引き止めたと考えてはいけない
劉禅が引き止めたとしなければならない…
そこまで言い切れるほどの記述には見えないんだがなぁ
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/22(水) 18:22:09
劉禅も内乱では軍を率いてなかったっけ
705 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/22(水) 22:49:44
そもそも内乱って何を指してるんだ?
諸葛亮らの平定した南中の反乱とか?
漢嘉太守黄元の反乱じゃね?
707 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/10/23(木) 00:20:17
>>706 あぁ、あれか。
劉備が長くなさそうで不安になって反乱した奴ね。
劉禅が皇帝になった後の事しか考えて無かったわ。
一応、楊洪の進言があったとは言え、劉禅の判断で皇太子の近衛兵を派遣してるな。
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/10/26(日) 00:36:30
[
意外に蜀入りする可能性があった大物いる?
>>709 トウガイ
荊州人で、屯田に連れて行かれたというから曹操の侵攻で流民化した可能性が高い
劉備についていって劉備配下になっていた可能性がある
そしたら、そのまま農民として埋もれて終わりだな
712 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/27(木) 05:11:05
この大澤さんは割りと独断と偏見で断定しまくりんぐな人だから
派閥闘争が確定的とまでは言えないけど、蜀政権のトップを見るとやっぱりその手の派閥はあったと思うよ
土着じゃない勢力が権力握ると土豪と軋轢が生まれるってのは古今枚挙に暇がないし
ざっと読んでみた。
司馬懿のクーデターが294年だったり、
鍾会が鍾ヨウの長子と書いてみたり…
とりあえず「ちゃんと校正しろよ」と言いたい。
曹奐が6代皇帝になってるね
書いてることは興味深いだけにアラが多いのが凄く気になる
>>715 初代 曹操
二代目 曹丕
三代目 曹叡
四代目 曹芳
五代目 曹髦
六代目 曹奐
って計算なんじゃね?
まあ「太祖」を初代と認定するならそれでもいいかもな
>>716 その計算だと北魏とか皇帝の代数がえらいことになるなあ
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 03:36:36
>710
ケ芝とケ艾って生まれが近いよね
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/11/28(金) 04:00:51
そりゃ親戚ですから
720 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/01(月) 04:38:40
そうなの?
721 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/01(月) 15:11:37
トウガイが蜀配下だったら…多少滅亡が遅れるくらいか
ケ艾が蜀配下だったらかなり大きいんじゃね?
>>724 そいつらいてもケ艾以外は姜維に決定的打撃与えられてないでしょ
段谷がなくなるだけで全然違うよ
姜維が負けなくなっても多少滅亡が遅れるくらいでしょ
ケ艾がいれば陳泰や郭淮にも打撃を与えられるかも知れん
少なくとも、異民族同士をぶつけてうんたらかんたらのようなトンチキな事態には陥らずに済むな。
728 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/02(火) 01:35:52
姜維とケ艾が異民族を雇ってうんたらかんたらってのはjominian氏も言ってた事じゃなかったっけや。
違いましたっけ?
730 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/02(火) 02:43:38
>>729 雇う、と言うか、俺の主張は、姜維は羌胡を手なずける事で隴西の確保を狙い、
ケ艾は、打ち続く戦争で大きく数を減らした隴西の漢人の穴を埋め、
隴西の策源地としての能力を高め、単独での遠征の維持を可能とする為に羌胡を漢人居住地へと徙民した。
んで、それによって隴西全域の、かつての居住範囲を越えた所にまで羌胡が浸透し、
且つ彼らに対する抑圧が反乱を醸成し、泰始年間の大反乱が長期化する事になったって事だな。
だから、姜維とケ艾が、互いに異民族を煽って戦わせた、って事にはならんね。
蜀には諸葛亮の頃から、南中の青羌や涪陵の獽族、蜑族らの部隊があったし、
ケ艾が征蜀に際して指揮した軍に雍・涼州の異民族部隊を擁していた事は史料から分かるので、
異民族部隊同士がぶつかった、という事は言えると思うけど、それはケ艾がいるいないとは別の話だろうね。
ケ艾じゃなくても異民族を徴兵しただろうし。
陳泰や郭ワイは良くも悪くも鮮于輔などとは違って、異民族活用…という方には行かないんじゃないかと。
思わんでもなかったり。
いざ運用するにしてもケ艾ほど本格的にやれたかどうか。
732 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/02(火) 03:26:03
>>731 傅玄の上疏ではケ艾が数万もの鮮卑を漢人の近くに徙民した事が糾弾されている。
ただ、こういった事も、ケ艾だからこそできた、という事もあるかもね。
段灼によるケ艾の弁護が泰始三年に行われ、合わせて征蜀の際に羌胡の部隊が差別的扱いを受けた事を批判している。
その後を追うように、翌年、傅玄が、胡夷は獣の心を持っているので中華と同化できない、と述べ、
鮮卑を徙民したケ艾を非難しつつ、胡烈を秦州に送る事を提案している。
その二年後、胡烈が万斛堆で異民族連合軍に敗れた事で大乱が始まった事を考えると、
異民族に慕われ、瞬く間に隴西の生産力を回復させたケ艾と、
異民族を蔑視、抑圧した中央の人間やケ艾の後任の刺史たち、という構図が見えてくる。
異民族の徙民を行ったのはケ艾だが、それを反乱に導いたのは別という事だな。
一番大本の原因は、隴西を荒廃させた姜維の北伐ではあるけどね。
つまり、姜維が耕した土地に、ケ艾が大乱の種を播き、晋の廷臣がそれを育てた、と。
晋の廷臣が異民族を差別しないなんてまずありえないので、
(賈充と羊コ・杜預の政争、司馬駿の末路を考えれば、功臣・権臣が同僚の過失を糾弾する状態だし)
姜維とケ艾が戦いを繰り広げてしまえば、余波としての樹機能の乱は不可避だと思う。
そもそも、後任刺史の上司だった陳ケンは後任者達の単細胞ぶりから不適だと言ってるし、
やっつけた馬隆からして、前任者の楊欣のやり口が不味いと糾弾している。
結果がそうなったのは2人のせいじゃないけど、
2人が原因を立ち上げてしまいさえすれば、後は他が要らん事してお膳立てしてしまうのは確実。
いつの時代も辺境地域の異民族問題に対して足を引っ張るのは、
中央政府の官僚って構図なんだろうな…
735 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/02(火) 22:53:20
「羌戎の和を失った」と評された楊欣、牽弘、胡烈の内二人は、同僚や部下と仲の悪かったケ艾の部下。
高い功績を挙げた涼州の羌胡の兵が、功績に見合った褒賞を得ていない事を非難した段灼は、
一方でケ艾を弁護している。
ケ艾が嫌われたのは、性格もあるとはいえ、漢人と異民族を差別無く扱うケ艾の態度も大きかったのではなかろうか?
唐彬の報告でも「処身無礼」と言われてるが、それも何を指していたのかって事だ。
この辺は、ケ艾自身が、故郷より拉致された屯田民だった事とかも影響あるんだろうな。
羌胡の居住地に近い場所に住んでいたとはいえ、姜維は魏でもエリート官僚コースに乗ってた人間だし、
四十頃に司馬懿に見出されるまでうだつの上がらなかったケ艾とは考え方が違うだろう。
二人とも羌胡を手なずけたが、アプローチの仕方は全く別だったんだろうね。
他人に情けをかけることが命取りになるなんて、なんか寂しい時代だな。
737 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2008/12/03(水) 00:19:22
ただまぁ、ケ艾の性格があまり良くなかった事は、段灼も述べてるしなぁ。
一緒に仕事するとなると、あまりいい気分にはならない人間ではあったのかもね。
自分がやった事とはいえ、強制移住させられた異民族に、かつての自分の境遇を重ねて同情的になっただけかもしれないし。
異民族云々は措くとしても、吃音で位階も低い農吏だった奴が都督として自分たちの上司となり、
しかも態度がでかくて独善的で直言を嫌うってんだから、大なり小なり怨まれても仕方ない。
738 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/06(土) 12:22:26
ケ艾を撃退できてる蜀将っています?
諸葛センがいるじゃない、孔明の息子
740 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/12/13(土) 11:52:18
鐘会がケ艾の軍も取り上げていたら軍勢をどう進行させたんだろ?
蜀ももっと抵抗しやすかったのかな
741 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/01(木) 07:21:28
魏延が降伏した時の太守って韓嵩?
魏延と韓嵩って南陽出身ってこと以外接点無いぞ。
魏延って益州攻略の時に
私兵を連れて参戦が最初じゃなかった?
744 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/01/14(水) 20:35:04
それまでは郷里で畑でも耕してたのか
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/03(金) 06:03:35
黄コウって本当に最低な宦官だったんだろうか
宦官史上最低は本宮趙高だなあ
馬じゃのォーーー!とか最高ですよ
李斯処刑もわりと言い訳きかないレベルでアレだしな・・・
749 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/04/11(土) 21:33:38
ふーん諸葛亮が知恵の輪を開発したのか
蕪については知ってるが
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/06(水) 01:45:45
全然盛り上がらないね
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/06(水) 03:39:33
忠義の士というわけじゃないが佞臣と言えるかどうかは結構考える余地がある
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/06(水) 15:31:31
素糸はただ染められるままとなる・・・。
劉禅を染めたのは黄皓だった.。いや違う。
染めたのは皇太子時代がついてきたあいつだ。
格落ちのあいつが四相として並び称されていたということは、それだけ民、
民といっても民衆じゃないぞこの場合は、民にとっては旨みのある男だったということだ。
754 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/07(木) 21:37:58
孔明の最後の直前の蜀臣の序列が知りたい。
755 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/07(木) 21:39:42
トウガイの兵力って三万ぐらい?
ショウカイが十五万で、
キョウイが五万?
>>752 いや佞臣ではあるんじゃね?
だが蜀漢滅亡の責任の大半を着せられるほど大した権限があったのか、
というと大いに疑問だけど
757 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/15(金) 05:23:22
もしそうなら処刑されてんだろ
だよな。
姜維を美化するため、諸葛瞻を貶めないため、
ひいては蜀の礎を築いた先人たちの残した負の遺産を覆い隠すため、
全てを黄皓に押し付けたストーリーが作り上げられた面も否定できない。
ま、宦官が政治に口を出した場合の大半はそういう扱いだから仕方ないけど。
いや、史書では黄皓が劉禅に取り入って蜀の政治を混乱させたとされ、
それと連携し、排除することが出来なかったという諸葛瞻も同時に非難されている
758はストーリーって言ってるんだから演義とか後世の評判を指してるんじゃね?
「黄皓がこういう行動をして、その結果こういうことになってしまった」
と具体的な記載がある程度の量あればわかりやすいんだけどね。
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/05/16(土) 11:12:47
演義しか知らない人は劉禅はボンクラだって印象は有っても
黄皓の方はおぼえてない事が多いようだな
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/23(水) 21:04:21
劉禅はよくわからん
764 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/23(水) 22:25:34
劉禅は土木工事に無駄金使ったりしないし、無闇に処刑したりしない
普通の君主。
>>764 配下の妻に手を出した疑惑があるくらいの普通の君主だよな
疑惑一名ってのがまた普通っぽい
それがこじれて大臣処刑は普通じゃないけどな
処刑されたのは私事で妻を罰するために勝手に官吏を用いたから。
元は離縁された妻の告訴のため。
武侯祠の建設すら渋るほど土木工事を行わず
気に入らない言動をした家臣を処刑し
降伏後に司馬昭に呆れられるほど普通の君主
>>768 それが処刑するほどのことなのかと考えてみると、劉エン処刑の本質が分かると思う
公私混同は割とホイホイ処刑されるよ
仮に劉エンがあることないこと周囲にばら撒いて、その不敬の意味を込めて可能性はなくはないが、
劉禅が人妻に手を出したのが真偽いずれであろうとも不敬罪は成立するので
劉エンの処刑から劉禅の行状の真偽は割り出せないな。
むしろ劉禅が潔白だった場合の方が処刑される可能性は高くね?
それから妻がそれなりの家の人間だった場合、
不名誉な罪を着せられて離縁を食らった報復の可能性が出てくる
773 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/26(土) 23:36:20
十二年正月 234年の正月に
エン妻胡氏入賀太后 劉エンの妻の胡氏が穆皇太后に年賀の挨拶のため入朝した。
太后令特留胡氏 穆皇太后は特別に命令して胡氏を留めさせた。
經月乃出 1ヶ月経ってやっと出てきた。
胡氏有美色 胡氏は美人のため
エン疑其與後主有私 劉エンは劉禅と密会したのではないかと疑い
呼五百鞭胡 500を呼んで胡氏に鞭を打たせ
至於以履搏面 草履で顔をぶって
而後棄遣 離縁した。
胡具以告言エン 胡氏は劉エンを告訴した
エン坐下獄 劉エンは投獄された
有司議曰 担当官僚は言った
卒非エン妻之人 卒(500の人)は胡氏を鞭うつ人では無い
面非受履之地 胡氏の顔は草履が踏みつける地面では無い
エン竟棄市 劉エンは公開処刑された。
自是大臣妻母朝慶遂絶 これより後、大臣の妻母が年賀の挨拶に入朝する風習は絶えた。
774 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/26(土) 23:51:59
胡氏を呼んだのは誰か?
胡氏が告訴する際に相談したのは誰か?
劉エンの処分を決めた官僚は誰か?
結局誰の怒りを勝って劉エンは処刑されたのか?
西暦234年正月である。国権を担う丞相諸葛亮は漢中において、
最期の北伐の準備に入っていただろう。ナンバー2の李厳は3年前に流された。
当時のナンバー2は車騎将軍の劉エンである。
775 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/27(日) 00:05:01
つまりナンバー2である劉エンを処刑できるのは皇帝である劉禅でなければならなく、
それ以外の者が劉エンを処刑したというのであれば、皇帝よりも権力が強い人間がいたということになり
都合が悪いということになる。そして、その可能性がある。
このことは諸葛亮政権の実態を探るのに非常に有益な話題だと思うんだけどな。
補足、劉琰は魏延と一悶着あり、諸葛亮により成都に追い出されていた
777 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/27(日) 00:15:00
その件は、諸葛亮は魏延と仲が悪かったという説を否定する材料になるよな。
歴史家としての陳寿は起こった出来事については嘘を書いてはいないが、
ある人が何を思っていたのかという感情的な記述についてはある結論に導かせるために
わざと偏向した内容のみ残していると思う。感情だから嘘かほんとか判然としなくても
しかたがないんだけど、それで歴史が決定されるのだから歴史家としてこの態度はどうかと思う。
778 :
無名武将@お腹せっぷく:2009/09/27(日) 00:17:25
あと、劉エンを処刑できうる立場としては諸葛亮がいるけど、彼に意見を求める前に処分していることも明らかだな。
>>775 別に考えるまでも無く、この時期の丞相諸葛亮の承諾無しに高官の処刑が行われることはまず有り得ない。
>都合が悪いということになる。そして、その可能性がある。
まあ、可能性は皆無に近いだろうね。
。
781 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/06(土) 23:31:57
王平が叩き上げつーのは盛大な勘違い
王平は非漢民族の支配者層の人間で、巴夷の王侯クラス
(正史では直接非漢民族とは書いてないが巴夷の王が曹操の所へ出頭する時、実は王平も一緒に行っている)
漢字は読めないものの、別に叩き上げというわけでもなく、無学というわけでもない
文字ってのは大体10代くらいまでに読めるようになってないと文盲になるといわれてるし
単純に漢字に触れる機会がなかっただけだろう、不便もなかっただろうしな
非漢民族の支配者層が文字に対してあんま興味ないってのはよくある話
しかも王平は当初、他の家に養子として入り何平と名乗ってた時期もあり
また、後になって王平と実家に戻ったりしている(戻したのは第四次北伐後っぽい)
こういう「家」をちゃんと使い分けてるってのはそれなりの家柄でないとあんまやらない
それ軍板の三国志スレの奴じゃん
わざわざここに書き込む必要あんのか?
>>782 あっちはもう別の話題に移っているから
こっちでやろうってことになった
>>783 それ言ってるの一人だけだろ。
ここにそこの話題持ち込むな。
自治よりかは面白いレスだね
俺は歓迎するよ
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/07(日) 00:14:18
このスレ時が止まってたからなw
そろそろ保守するかと考えてたところ
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/02/07(日) 00:58:48
他所のスレから話題引っ張って来るんならせめてその出展やらなんやらを書けよ
>>781 俺も王平は異民族だった可能性は高いと思うが、その論には穴もあるな。
当時、巴から曹操に降伏した連中の子孫に趙キンがいる。
益州刺史になると西晋に反旗を翻した奴だが、こいつは漢民族と思われる。
>こういう「家」をちゃんと使い分けてるってのはそれなりの家柄でないとあんまやらない
それなりの家柄と王侯クラスというのは断絶があるだろう。
父が漢族で母が異民族ということはあったと思う。
>>788 後漢から三国時代の侯はピンキリだろ
侯って名前だけのものだったし
皇帝
諸侯王
列侯
関内侯
都郷侯
郷侯
都亭侯
亭侯
そう考えると、句扶も蛮族系だったのかな
板楯蛮とはまた違うんだろうけど
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/06/23(水) 20:36:29
王平って、横柄な人だったの?
そうです。
>>792 心が狭く疑り深く、軽はずみな性格。
まあ人望を得られる性格じゃないな。
蜀の軍人は癖の強い奴が多い。
マジレス…
>>794 「という性格で有った」とだけ言われても納得いかないな
劉敏とか味方もいたし
単に嫌われてただけじゃね?
>>796 異民族出身でちょっとした事ですぐ失脚する可能性ってのを常に頭においてたとしたら
心も狭くなるし、疑り深くもなると思うんだ
それでいて功績を常に挙げないとやはり失脚するので軽はずみというか
常に前に前に俺が俺が、とかな
妄想だけど
でも曹爽を蹴散らしたのは王平の奮戦あってこそだよな
799 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/09(月) 04:04:49
あげ
800 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/19(木) 20:15:39
官職とか序列がよく分からんね(´・ω・`)
801 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/22(日) 13:21:31
五虎大将
無知からの質問で間違いがあるかもしれませんが、許してください
蜀にとって大ダメージになった劉備の大敗について、よくわからない事があるのだけどさ
火計くらった時の劉備軍の布陣を見て、孔明があぁオワタみたいな話をしたというのをどこかで見たか聞いたかしたのだけど
出陣している劉備軍には軍師というか戦術等を提案したりする人はいなかったの?馬良はそういうタイプではなかったのでしょうか
それとも、決定権は劉備にあるからすべて劉備の独断で突き進んだのかな
ありえないくらいに酷い布陣だったみたいな話をどこかで見たか聞いたのだけど
803 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/22(日) 14:40:19
まず、劉備の布陣は、長江沿いにダラダラと伸びた長細いものだった。
これは、最初からこうだった訳では無く、陸遜が持久戦に持ち込んだ為に
補給線が伸びた結果と言える。
又、当初は水陸両軍で攻めていた蜀軍が、水路から陸路へと攻撃ルートを
切り替えたのも大きな敗因。
曹ヒは、この布陣を見て「戦を知らない」と評した。
諸葛亮は、「法正がいれば」と嘆いたらしい。
法正は蜀の戦術担当としての信任厚かったので、劉備も彼の進言なら
聞き入れたであろうという意味に思える。
一方で、黄権も戦の前に「長江からの進撃は容易だが撤退は困難」と
劉備に進言しているが、黄権が自分を先陣にしろという言は無視した。
馬良は、進軍に際して異民族の帰順に奔走し、成功させている。
彼も優秀な人材だっただろうが、蜀の有能な戦術家・策略家は法正や
黄権が挙げられると思う。
804 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/22(日) 14:42:14
厳顔開けたら二分で呉班
806 :
源九郎義経@検非違使 ◆03pP8RJIjOvt :2010/08/22(日) 21:20:29
>>804 厳顔って定軍山で夏候徳を斬って以来いつのまにか我々の前から消えていたな
補足すると孔明が劉備の布陣を観て終わったと言ったのは演義の話で正史には無い
正史的には確かに酷い布陣ではあったが、後に呉将に「あの布陣はあの状況では仕方なかった」と擁護されてる
演義的には劉備が戦下手だったから独断でああいう布陣したってことで間違いないんだろうけど
正史的にも劉備の戦下手って事になってるよ。
三峡全域に五十もの陣営を分散して配置したのに、水上や水際の防御を考慮せず、
呉の水軍に後方に回られて退路を断たれた上で殲滅されたんだ。
そりゃ曹丕も笑うし諸葛亮も嘆くだろう。
ところで擁護した呉将って誰だろう?
劉備は武将として一軍を統率するのは得意でも大将として全軍を率いるのは駄目だったんだねえ
劉備は逃げるのは得意でも攻めるのは駄目だったんだねえ
811 :
源九郎義経@検非違使 ◆03pP8RJIjOvt :2010/08/25(水) 16:24:28
地図見ればわかるけどすごい移動距離・・・
お疲れ様です
>正史的にも劉備の戦下手って事になってるよ。
なってねーよw
赤壁と漢中で二度も曹操を破ってるし。
>そりゃ曹丕も笑うし
ろくに戦をしたことがない曹丕が言っても説得力ありませんから
>ところで擁護した呉将って誰だろう?
それも知らん奴が正史がどうのって語っちゃうんだからなぁw
曹丕の人物評は全くアテにならない
劉備曰く、曹丕の才なんて孔明の10分の1に過ぎない
ふーん、曹丕ってろくにいくさをしたことがないんだ…
>>812 >赤壁と漢中で二度も曹操を破ってるし。
赤壁でも漢中でも劉備自身は特に何もしてないと思うが。
ろくに戦をしたことがないならどうやって
敵地である袁紹屋敷に乗り込んで
曹操よりも先に甄夫人を手に入れることができたんだろうね
818 :
源九郎義経@検非違使 ◆03pP8RJIjOvt :2010/08/26(木) 18:02:14
曹丕って甄氏に自殺を指示したり
嫌いな曹洪を召使の罪に連座して処刑しようとしたんだからいやなやつなんだろう
>>816 劉備が何もしてないという根拠はどうせ蒼天だろ?
>>819 さすがに漢中で何もしていないってことはないだろうが,
呉志と蜀志の記載の差を考えれば,
赤壁では本当に何もしていなかったんじゃないか。
その後の江陵の方は知らないが。
それは単に呉志と蜀志の全体の文量の差だろう
赤壁に限らない
>>821 張飛や趙雲のように大敗した長阪での活躍すら残っているのに,
勝ったはずの赤壁での具体的な活躍が誰にも全く残っていないというのは,
実際には活躍していないと考えた方がいいと思うのだが。
赤壁のような状況だと1万の兵が要地にいるだけで意味はあったと思うから
「何もしてない」ってのは言い過ぎかもしれないが、
少なくとも「劉備が戦上手だから勝利した」とは言えないだろうよ
>>822 新聞の野球欄をご覧なさい
2安打したり打点を上げても活躍が語られるのは殊勲を挙げた選手だけ
張飛や趙雲の長坂の記事はサイクルヒットや満塁打のようなもの
野球欄にもこれらは載る
結局劉備は赤壁で何かしら役に立ったかもしれないが特筆すべきほどの活躍はしてないってことだろ
>>817 そりゃー曹操は大将なんだから女漁りより他にすることがあるだろ。
それに、曹丕がギョウ城攻略で指揮官として何がしかの働きをしたと本当に思ってるのか?
劉備が動いたのは曹操が敗走してからではないでしょうか。
周瑜が手塩にかけた水軍だからこそ自在に操れるけど、劉備軍は扱いが
難しいと思う(最前線に出すわけにもいかないだろうし)
劉備は1万の兵でどっしり構え、呉軍に安心感を与えた、という活躍かな
張飛や趙雲が赤壁で活躍してないってのは劉備自身も何もしてないという根拠にならん
赤壁以前にも劉備の勝ち戦はけっこうあるがそれでも張飛や趙雲はまるで触れられてない
少なくとも呉志でも先主伝でも魏志でも劉備は活躍したように書かれてる
劉備が何もしてないと言ってるのは江表伝だけ
劉備の名は出ているがほとんど劉備の軍勢がどう動いたってことで
「活躍」と呼べるほどのものかは簡単には断言できないだろ。自分も「何もしてない」とは思ってないけどな。
赤壁で同盟が勝利したのは周瑜や黄蓋の計略によるところが大きく
劉備勢が火計後の追撃に動いたことは確かだろうが、追撃は呉の面々も行っているわけだから
「劉備の活躍によって勝利した」と言えるようなものじゃないし
「赤壁で勝ったから劉備は戦が下手じゃない」ってのは無茶な論法
劉備の戦が上手いか下手かを論じる時に資料の少ない赤壁の話を持ち出すこと自体が間違いだ
劉備の戦が上手いか下手かの結論まで出たわけじゃないが
この話題の発端である
>>812のこの部分は否定できる
> >正史的にも劉備の戦下手って事になってるよ。
> なってねーよw
> 赤壁と漢中で二度も曹操を破ってるし。
劉備は諸葛亮を呉へ派遣するという活躍を
戦上手でなければ夏侯惇や夏侯淵に勝てるはずない
うむ
劉備が戦下手とか言ってる奴は演義厨だわな
夏侯惇→徐庶
夏侯淵→法正
の可能性はあると思うが?
曹丕は演義厨で決定
>>834 徐庶は文官。軍略に優れていたとか、劉備の軍師的役割を果たしていたという記述は史書のどこにもない。
夏侯淵攻撃を直接命令したのは法正じゃなくて劉備。
文官という記述もないし、参謀に決定権(命令権)もない
838 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/08/28(土) 00:31:25
魏では吏僚だったが劉備に仕えていた頃にアレをしたこれをしたという記述は…
羅漢中さんや反三国志の作者は何で徐庶をあんなスーパー軍師にしてしまったんじゃろうか
夏侯惇や夏侯淵に勝てば戦上手なのか?
どっちも猪突猛進タイプだと思うが
夷陵の戦いでのズサンな進軍についてどう説明を?
舐めていた
船戦は不慣れだった
長対陣で気が緩んでいた
連戦連勝で浮かれていた
出兵への反対者が多く、半ば意固地になっており、臣の意見を聞かなくなっていた
相手を舐め、船戦が不慣れで、長対陣に気が緩むような武将を
戦上手と評価するのはどうかと
あの一回の敗戦で劉備はそれまで築き上げてきたすべてを失ったね
>>840-842 曹操にも当てはまりそうだがw
お前らは議論をミスリードしてる。
お前らの意見なんて鼻くそだよw
正史で劉備が戦下手だと言ってる奴は二人しかいないだろ。
この二人が誰か分かる奴しか議論に参加する資格はないんだぜ?w
劉備は逃げるのは得意だった
KOEIの三国志11でも劉備の特技は「遁走」となってる
劉備の戦の手腕は、一流とは言えないが三流でもない。そんな感じかな
>>844 右中郎将は近衛の武官だから、皇帝や宰相の腹心の官僚が就任する事が多かったよ。
近衛の武官は、武官と考えるよりは吏僚と考えた方がいいよ。
馬謖かな?
ホウヨウじゃなかったか
>>845 曹操の場合、喪失したのは旧劉表軍の船団だろ。
それに損害を受ける前に撤退(死者の大半は疫病によるもの)したじゃないか。
劉備の場合は都督以下、参加した主だった将兵を失ったんだけど、
どうすれば同一視できるのか不思議でならない。
それと
>>841-842は船戦に不慣れと書いているが、
そもそも夷陵では劉備が水軍を撤収させたので船戦は行われて無い。
なので呉軍に退路を断たれて蜀軍全滅という惨事に繋がった訳だ。
>曹操の場合、喪失したのは旧劉表軍の船団だろ。
>それに損害を受ける前に撤退(死者の大半は疫病によるもの)したじゃないか。
こう断言できる根拠はなかろう。
それに旧劉表軍の船団だろうが、兵を失い、しばらく南征できず、
曹仁がサンドバックになってるのに、自分は引き籠ってるじゃんw
荊州六郡を失ってるんだぜ?
まぁ曹操の場合は決戦直前で焦慮から子飼いの騎兵を失って後方に下がり、
よりによって天下分け目の大戦で、外様を槍面に立たせて後ろから追い立て
それでも不安だからと降兵を受け入れた結果が、あの有り様だよ、だからなぁ
そりゃ同一視はでけん
家康の逆を振りまくりだわ
>>853 でも曹操の将領の被害は無かったことからの判断かも
曹操って逃げるの得意でしょ。おそらく劉備以上かと
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/03(金) 09:16:21
>>839 惇兄はともかく、淵は軍略に長けた名将だろう
「白地将軍」は急襲が得意だったという意味も有るのに
最後が戦死だから完全に悪口になったね
しかし劉備は曹操を相手にすると逃げ出す事が多いね
どうも苦手意識が有ったんだろうか、引き際が良かったのか
局地戦に持ち込んだら相手が曹操だろうが張コウだろうが勝ち星挙げてるのに
個人的には張コウや李通の方が猪突猛進タイプな印象が有る
生前は幾ら強くても、戦死や陣没をしたら意味ないよ
劉備は逃げ出した末に病死したんだからまだマシ
857 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/03(金) 14:37:32
張コウのどこに猪突猛進なイメージがあるんだ?
基本的に冷静沈着な名指揮官だと思うが。
わけわからないこと言ってる奴だから無視しとけ
KOEI三国志11での夏侯淵と張コウの能力
夏侯淵
統率87武力91知力54政治61魅力80 特技:急襲
張コウ
統率90武力89知力69政治57魅力71 特技:昂揚
夏侯淵のほうが猪突猛進っぽいかな。統率知力特技が張コウは
名将に近いものを感じる
>>856 惇兄とか腐女子臭い呼び方は腐女子板だけでやれ
>>859 ゲームの能力値が根拠になると思ってんのか。ここは歴ゲ板じゃねえぞ
KOEIなめんな
惇兄は三戦発祥だろ
惇兄は無双だろ。発祥がどこであれキモイが
曹操は夏侯淵の猪突猛進ぶりを心配し、度々「勇ばかりではダメだ」と注意している
最後の時(定軍山)も直前に曹操から猪突猛進を注意する手紙を受けているが、
逆に奮起してしまい雄叫びを上げつつ出撃、死を招いている。
張コウは曹操から「我が韓信」とまで評価された名将。夏侯淵が討ち取られた時、
動揺する魏軍を張コウが見事に治めている。
>>864 自分から出撃して討ち取られたんじゃなくて、
劉備の攻撃を受けて迎撃に出たら討ち取られたんだぞ?
>>867 劉備軍の攻撃を受けのは間違いないけど、曹操直々の書面で「お前の妙才を見せろ」と
言われてむしろ発奮してしまい、無理に黄忠を討ち取ろうと頑張った結果、戦死。
曹操は慟哭したそうです。
これが夏侯淵ではなく、例えば徐晃とかであれば、無理に蜀の一武将を討ち取ることに
力を入れすぎず、ある程度の迎撃で陣に帰り、ひたすら守りに専念しただろう
>>868 劉備が張コウを攻撃→夏侯淵、張コウに援軍送る→劉備が他の陣地を攻撃→
夏侯淵、自ら陣地の逆茂木の修理に向かう→黄忠の急襲を受けて戦死という流れ
別に黄忠を討ち取ろうとして返り討ちにあったわけでは無い
>>870 普通に迎撃するのではなく、背後を突こうとしているのでは?
戦死するほどなんだから、自ら先頭に立っていたのか、少人数だったのか、
いずれにしても無理な攻撃だったと思いますよ
>>871 張コウに援軍送ってたから、夏侯淵の手兵は手薄だったろうね。
それで劉備に攻撃された陣地に行って逆茂木の修復とかは、
確かに軽率だと思う。俺が言いたかったのは、夏侯淵は戦うために出たのではなく、
黄忠を討ち取る気も無く、陣地に駆けつけて逆茂木の修理をしてたら急襲されて殺されたと言う事だけ。
「夏侯淵、自ら陣地の逆茂木の修理に向かう」
ここが誰かに任せられなかったのかなという感じか
曹操は夏侯淵に「将」としての伸び白を見て南鄭をまかせつつも、
一方では「勇」を誇る行動を心配し、たびたび注意喚起
思い出したんだけど、ここは蜀将のスレだったねw
気づけば魏将に関してズラズラとw
よくよく考えてみれば野戦で将帥が死ぬケースってのが、むしろレアだな
捕虜となって捕らえられて切られるという方が圧倒的に多い
死んじゃう武将ってのはよほど運がないのか、自重してないのか
捕虜となって処断という方が圧倒的に多い、か
大事なことではあるが二回繰り返してしまったw
捕虜となるケースも戦死するケースもあまり大差ないのでは?
いずれも自身の周りに敵が多く居る状況になっているのだろうから
大事なのはそこに至る過程かと。夏侯淵のケースでは、果たして夏侯淵が
自ら逆茂木修理に出向く必要があったかどうか。そして黄忠の背後を突く
必要があったかどうか。このあたりがポイントかと。
偶発的あるいは突出したことで陣が薄くなって死ぬ、投降後処断される
この2つは大分違うと思うぞ
>>878 張昭と孫権の虎狩りの一件一つ見るだけでも
「総大将は切ったはったなんてやるもんじゃない」「そもそも前線に出るもんじゃない」
ってのは当時の常識だったんじゃないかな
建前論で展開してるだけに前例や凡例の無い事は言わないだろう
夏侯淵も張コウも蜀将に敗れて死亡だろ
>>880 孫権の例は軍を預かる大将の話じゃなく勢力のトップについての話だから
夏侯淵や張コウには関係ない
どっちも一緒だよw
くたばったらそこの戦は負けなんだからw
>>834 夏侯惇の時は劉備陣営に徐庶はいないよ。
886 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/11(土) 14:07:42
>>878 捕虜になるのは戦場じゃなく逃亡中や宮殿で味方に裏切られてってのが多い。
もちろん殺されることもある。
887 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/11(土) 14:42:26
征夷まんこ大将軍w
劉封の出身は冠氏じゃなくてケ氏だよって注釈は誰の物だっけか
鵜呑みにすれば長沙劉氏(光武帝の系列)の甥で、ケ禹(二十八将筆頭)の一族
俺からするとなにそれかっこいいなんだけど、当時はそう大したもんでもない(=信憑性にかけるorどうでもいい)のかね
孟達の勧誘を跳ね除けるシーンはカッコイイんだけど最期の言葉がちょっとなぁ
何か好都合な解釈の仕様はないのかな
むしろその後の魏での孟達の厚遇ぶりを考えると
孟達は凄い奴で劉封の失策のせいで蜀を出ないといけない羽目になったのではないかと言う邪推も
けど劉封をあまり悪く書けないから全部孟達のせいにしてそのとばっちりを受けたかのような記述にしたと
でも旗色が悪くなるや蜀へ転向ってのは相当のデンプシー野郎じゃないとできないんじゃないか
人品と能力は別だとしても寝返る種が孟達側にあったってのは確定だと思うね
そもそも蜀志十巻に纏められてる時点で名誉もヘッタクレも無い感じががが
あの地域になんらかの強固な影響力があったんじゃないだろうか。出身ではないし……
むしろ孟達は良い人
劉封のせいで魏に行かざるをえなかったのに劉封の蜀での地位が危なくなった時に援助を申し出てる
劉封が断ったのも不義理を働いた孟達の世話になるのを忌避した為ではないだろうか
劉封の罪状にも関羽を見殺しした事と共に孟達を追い詰めて魏へ走らせたことも上げられてる
劉備の心証としては孟達>劉封であろうしだからこそ後年孔明も孟達を再び用いようとしたのではないだろうか
孟達は魏では仮節・建武将軍・散騎常侍・新城太守・平陽亭侯なんだよね。
仮節は普通は州刺史・都督クラスじゃないと持たせてもらえない高位の指揮権。
散騎常侍は皇帝の側近。そして亭侯。度外れた待遇としか言いようがないが、
ここまで厚遇するならなぜ黄権のように中央に置いて皇帝の側近として仕えさせるか、
逆に郡太守以上の官位を与えなかったのかが不思議だな。
とは言え新城太守ってのは孟達の為にいくつかの郡をあわせて作られた新設のポストではなかったっけ?
あ
>>893読んでたらものすごい要地に強く結びついてて引き離すこともできず、
高位を与えておくしかないような扱いに見えてきた
高位を与えて前線に置くなら、いっそ荊州刺史とか平南将軍とか安南将軍とかにしてやれば良かったのにね。
そうすると喜び勇んで南に仕掛けていきかねないのが孟達
しかも、そこそこ成功しかねない程度には優秀
ああウザいウザい
いや、刺史や平南将軍や安南将軍じゃ都督の夏侯尚を無視して勝手な軍事行動はできんだろ。
夏侯尚との仲は良かったというけど孟達を客として遇してたのか本当にダチだったのか
どっちなんだろうな
そして生まれる鎮北将軍孟達
903 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/21(火) 17:35:01
あげった
904 :
無名武将@お腹せっぷく:2010/09/21(火) 18:22:15
90年代中盤頃までは風呂やシャワーのカタログに裸の女性モデルが写ってるのがあった。
後ろ向きのやつが多かったんだが中には前向きでおっぱいが写ってるのもあった。(オークションにでも出品されてないかな?)
それに新聞に折り込んであった生活の知恵の事とか書いてある別冊の小冊子(朝日家庭便利帳みたいなやつ)にトイレの広告が載っていて横向きの全裸の女性モデル(顔は写ってなかったと思う)が便器に座ってるのもあったな。
あとはそういう小冊子にはバストアップできる器具(胡散臭いと思われるやつ)の広告も載ってたこともあった。
それは水着つけてるのとかが多かったんだが中にはある器具を使えば短い時間でバストが上向きになるとかいうやつがあっておっぱいの写真を使って実演方法を説明してた。
乳首はその商品のブランドマークの印刷で隠されてた(当時は実際の乳首ういうシールでも張ってるのかと思った)が当時はエロ本も見れなかったから興奮した。
【三戦板之序列】
┌学徒閣下┬最高顧問―新党党首┬新党副党首―党首代行─幹事長─三元老─七奉行
│ ├八大英雄 . └征夷大将軍
│ │
│ │
│ ├ロコ家
│ ├婿家
│ ├魔玉家
│ ├斯波家
│ ├八戸家
│ ├ぴよ家 ─┬戸田家
│ │ └コロ家
│ ├メディシス家
│ └金王家─┬可児公家
│ . . . . └聖臣公家
│
├─────蛮王:ロコ皇帝(ロコモティブ)
├─────蛮王:三戦板天皇(クマッタ)
└─────蛮王:可児大帝(可児麿)
906 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/04(火) 12:53:59
あげあげ
907 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/13(木) 00:26:39
蜀の武将って言ったら個人的には趙雲が最初に思い浮かぶな。
関羽とか張飛ほど目立たないけど男らしくてかっこいい。
子供のころは張飛とか馬鹿じゃん、関羽趙雲かっこいい!
今は張飛が好きで仕方が無い。
>>907 「趙雲別伝」が曲者だ。趙雲のかっこいいイメージの8割はここから来てる
>>908 関羽と違って頭使って敵に勝つ逸話もあるんだよな。
でも死に方で損してるよね
死に方で言えば三兄弟みんな頭悪いよね。
次兄→同盟国の君主を侮辱したのちその方面の防衛を削減
末弟→警告されていたのに部下を虐待して殺害される
長兄→反対を押し切って出陣、戦術上の禁忌を犯して大敗
912 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/01/18(火) 10:08:42
>>908 馬鹿な張飛が好きなの?実は賢い張飛が好きなの?
単純な張飛が好き
なにげに馬岱が凄いと思う
>>914 晋書宣帝紀によれば235年に魏を攻めて撃退されているけど,
その後の事跡って残っていたっけ。
916 :
Jominian ◆Henri9gNlM :2011/02/26(土) 23:33:38.65
街亭の戦いから、蜀における「軍」の規模と街亭における馬謖軍の数が分からないだろうか?
あの戦いでは、名前が見える限り、
・丞相参軍 馬謖
・裨将軍 王平
・将軍 李盛
・将軍 張休
・将軍 黄襲
が参戦している。
他に陳某が馬謖の参軍として参戦していたともされるが、丞相参軍の参軍とは何だろうか?
それはともかくとして、彼らの内、率いた兵数が明確に分かっているのは裨将軍王平の千人だけである。
この千人と「裨将軍」を手がかりに何とかするしかないだろう。
裨将軍は何れかの将軍の副将であって、時代は不明なものの通典に載っている軍制によれば、
軍の半分の兵を率いる事となっている。
そして一方で偏将軍という存在もあり、偏将軍、裨将軍がそれぞれ左右の庶長に対応するという記述もある。
また、牙門将という将もあり、これは牙門を守る位置にある将であるから、必然的に中央の隊にある。
牙門と偏・裨将軍が「軍」に置かれていたとするならば、彼らが軍を三分し、それぞれ中央と左右を率いてたと推定できよう。
翻って王平の率いた兵数を見ると、これは千人である。
王平が牙門だったか裨将軍だったかは不明だが、これは軍の約三分の一の規模としても良いだろう。
したがって、一軍は約三千となり、それを中核として輸送隊等が付随する。
そう考えると、一軍というのは三千から四千の間くらいであっただろう。
街亭の戦いでは、上記のように三人の将軍がいる。
彼らの戦力を、先ほど算出した一軍の人数で当てはめると、九千から一万二千程となる。
更に、王平が馬謖を諌めていた状況を考慮すると、王平は他の将軍の下にあった裨将軍ではなく、
馬謖の下についていた裨将軍であったとも考えられる。
とすると、馬謖もまた一軍を率いていたのかもしれない。
そうなれば、先ほどの規模に更に一軍を追加して、街亭における蜀軍の数は一万二千から一万五千となる。
李盛や張休や黄襲なども、偏将軍や裨将軍だった可能性は?
偏将軍や裨将軍だった頃に、他の人物の伝に「将軍」として登場する人物はわりと多い。
>>917 それだと、李盛らの上に何らかの将軍がいたはずで、
その将軍連中らを差し置いて李盛らが処罰されるのも不自然だろう。
彼らは将軍だったとする方が自然に思える。
919 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/27(日) 00:09:26.86
>>918 ジョミさんに聞きたいと思ってたんだけど、
羊コ・杜預・衛カンらって記述にない戦にも参戦してると思いますか?
特に杜預・衛カンは蜀滅亡の時が初陣とは思えないんですがね。年齢的にも。
>>918 その上位の将軍に相当するのが、臨時に指揮権を与えられた馬謖としたらどうだろう?
三国時代ではあまりないけど、晋や南北朝なら参軍の資格で軍を率いた人物もいる。
あと、軍の直下の単位を率いるのは、偏将軍や裨将軍ではなく、校尉ではなかろうか。
三国の伝記を見て、将軍位の叙任者を比較すると、下位の将軍と偏将軍・裨将軍・中郎将あたりは、
率いる軍の規模や戦場での使われ方などの役割は大差がなくて、
称号と序列の違いだけに過ぎないように思える。
>>919 何らかの戦争に参加していなければならない合理的理由が無いなら、参戦しているとは思わない。
朝廷で官僚を続けていれば、戦争なんか参加しなくても出世できるしね。
彼らとは別だけど、ケ艾なんて40くらいまで地方の小役人だったんだし。
当初から軍人だったのでない限り、年齢の高さはさほど不自然さを持たないと思うよ。
922 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/27(日) 00:35:32.01
>>921 なるほど
では、戦慣れしてるのはケ艾と鍾会ぐらいだったという見方ですかね
本格的に蜀を滅亡させる為には、それなりの精兵と戦慣れのした将らが抜粋されて揃ってそうに思ったんですが。
三国志は孔明が死んでからの記述が雑に思えてならないです
>>920 その可能性もあるとは思うよ。
蜀でも太守が裨将軍を帯びていたり、呉でも拠点の督が裨将軍だったりする。
ただ、王平の件で言えば、裨将軍が将軍と同等だとするならば、千人では少ない。
千人では軍として、少なくとも戦略単位として機能させるのは困難だろう。
ふと思って李厳弾劾の上書を確かめたが、
行中護軍偏将軍臣費禕、行前護軍偏将軍漢成亭侯臣許允、行左護軍篤信中郎将臣丁咸、
行右護軍偏将軍臣劉敏、行護軍征南将軍當陽亭侯臣姜維、行中典軍討虜将軍臣上官雝、
行中参軍昭武中郎将臣胡濟、行参軍建義将軍臣閻晏、行参軍偏将軍臣爨習、行参軍裨将軍臣杜義、
行参軍武略中郎将臣杜祺、行参軍綏戎都尉盛勃、領従事中郎武略中郎将臣樊岐
偏将軍は多いね。逆に裨将軍は一人しかいない。
こうなると、偏将軍が左、中央に牙門、右に裨将軍という図式を当てはめずらくなる。
そもそも、この上書に牙門が出てこない。
>>922 杜預は鍾会の長史、衛瓘は兵千人を与えられていたものの、実際はケ艾と鍾会の監視役。
二人とも実戦における指揮の巧みさが要求される職じゃないと思うよ。
蜀討伐で言えば、ケ艾麾下の王頎とか、鍾会麾下の胡烈とかは歴戦の将軍だし、
道案内も兼ねて蜀の降将である句安なんかもいた。
「将軍としての仕事は初めてです」みたいな素人が集められたわけではないね。
925 :
無名武将@お腹せっぷく:2011/02/27(日) 00:59:16.76
>>924 さすがです。
なんか状況が少し納得できて来ました。ありがとうございます。
>>923 その頃になると、牙門を見かける頻度が少なくなるね。
だいたい、赤壁以降から三国の本当の初めまでに頻出した印象だ。
叩き上げの軍人は、司馬or校尉→中郎将or偏将軍or裨将軍→将軍の順で昇格してくのが多い。
そろそろジョミ編集の後・三国志が読みたいお( ´・ω・`)
俺編集って何すりゃ良いんだ?
書式は何でもいいが、ジョミなら姜維を中心とした推論と史実に基づく三国志かな
ブログを時系列や事跡順に並べるだけでも、結構それらしくなると思う
ところで、モツを取り出された武将って姜維くらいか?
摘出されたのか、内臓撒き散らして死んだだけなのか・・・・・・
文鴦・文虎が諸葛誕の腹を割いて肝を食らったという逸話が、御覧だかに載ってた。
三国志について一冊の本に纏めるというのは非常な労力だろうからなぁ。
何か強烈な動機があるか、或いはそこに利益があるかしないとやらないだろうね。
とりあえず今は、適当に思いついた事を書いているだけの状態が続くだろう。
姜維については当帰と遠志の話が好きだなあ
孫盛の雑記の記述はウィットに欠けて詰まらない
蜀末期の傅僉さんマジ勇者
てs
>>935 姜維の母が「当帰」を入れた手紙を姜維に送り
その返事に姜維が「遠志」を入れた手紙を母に送った
「帰れるか?」という問いに「志が成就するまで帰れない」と答えたという逸話
で、あるか。
938 :
無名武将@お腹せっぷく:2012/02/26(日) 09:42:57.51
こんな長い歴史のある由緒正しいスレでもレスがほとんどつかずに沈むんだな
最下位復活上げ
939 :
魏延:2012/02/26(日) 10:04:49.91
初代スレスレ立て人アゲ
「当帰」といえば太史慈もそうだっけな
と
942 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/01/30(水) 18:43:36.40
そろそろ新しい発見が欲しいところ。
943 :
無名武将@お腹せっぷく:2013/05/01(水) 22:29:30.56
たまには蜀を持ち上げるとするか
2、3年ぐらい前と比べて三国志関連スレが揃って過疎化してるんだが何かあったの?
疫病
蜀将のハナシはもう食傷なのだ (,,´w`)ナンチテ
947 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/08/31(日) 10:33:38.45
>>931 新版三国志新聞があの素晴らしい充実度とまとまりようだから、
倍のページ数にしてネタや写真だったスペース省いて地図やら文章で埋めれば相当なものが出来ると思う
948 :
無名武将@お腹せっぷく:2014/10/22(水) 20:43:25.19
「遠志」て「志が成就するまで帰れない」という意味だったのか。なるほど程遠志
949 :
無名武将@お腹せっぷく:
蜀持ち上げ