1 :
無名武将@お腹せっぷく:
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/21(日) 13:23:47
人望
一族
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/21(日) 13:36:01
一族にそんな差はないような…
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/21(日) 13:43:56
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/21(日) 13:46:20
寿命
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/21(日) 13:47:25
陳到と趙雲、なぜ差がついたか・・・慢心、環境の違い
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/21(日) 14:00:42
猿家も曹家も名門だよな
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/21(日) 14:10:02
>>4 どう見ても曹家の方が上です、ありがとうございました
┌―――┐ ┌――┐
|曹操 | |袁紹|
|曹洪 | |〜〜|
|曹仁 | |〜〜|
|曹純 | |袁術|
|曹真 | └――┘
|夏侯惇|
|夏侯淵|
└―――┘
子 子
曹昂 袁譚
曹丕 袁煕
曹彰 袁尚
曹植
曹彪
曹沖
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/21(日) 14:13:27
これでさらに仲間割れしてちゃな
お家滅亡も仕方ない
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/21(日) 14:16:01
跡継ぎ争いは曹家にもあったけどな
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/21(日) 18:50:08
袁家にも史書には残ってないけど優秀な連中って結構いたんじゃないかな
袁紹、優柔不断で猜疑心が強く人材をまとめる器にあらず。
曹操、決断力に富み、人の言をよく聞き入れる。
ここが大きな差よ。
とは言え、官渡での奇跡的な勝利があった故の評価だよな。
あそこで許攸が裏切らなければ袁紹の圧勝で終わってたのに。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/22(月) 20:21:36
許攸の裏切りも袁紹の猜疑心の強さが撒いた種。
それよりも許攸の裏切りが偽者か本物かを見抜いて行動した曹操はやはり指揮する実力が違う。
仮に袁紹が北を占領してても後に出現する孔明と劉備の力を前にして、猜疑心や優柔不断の袁紹の性格上がある限り、いとも簡単に魏は滅ぼされていたことになってただろう。
どのみち袁紹は天下を取る器にあらず。
末っ子ヒイキで仲の悪い無能は息子達が後を継いでもまたしかり。
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/22(月) 20:22:48
許攸の裏切りも袁紹の猜疑心の強さが撒いた種。
それよりも許攸の裏切りが偽者か本物かを見抜いて行動した曹操はやはり指揮する実力が違う。
仮に袁紹が北を占領してても後に出現する孔明と劉備の力を前にして、猜疑心や優柔不断の袁紹の性格上がある限り、いとも簡単に魏は滅ぼされていたことになってただろう。
どのみち袁紹は天下を取る器にあらず。
末っ子ヒイキで仲の悪い無能な息子達が後を継いでもまたしかり。
国力差があるんだから、袁紹は持久戦やってりゃ確実に勝てたのにな。
魏が蜀の北伐を持久戦で撃退したように。
曹操軍にも内通者がいたけどな。
袁紹に「持久戦を!」と田豊は進言したけど、袁紹「討ち滅ぼそうと盛り上がった指揮を下げる気か!」と却下され田豊は牢にまで入れられる始末。決断力ともいえる【どうするべきかの行動の選択ミス】が敗因。
それに引き換え、曹操は配下からの進言をいろいろな人物から述べさせて良い手段を選ぶ才がある。
ここも勝敗を左右したポイント。
八戸のぶながと学徒出陣なぜ差がついたか…慢心、環境の違い
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/22(月) 21:22:23
妙スレage
22 :
聖天使ザビエル∬ν゜ゝ゜》つ† ◆llkBnTV0DI :2007/10/22(月) 21:38:27
ひょーりみと無双ファンなぜ差がつかなかったのか〜僕と君は似ている〜
23 :
無双ファン ◆.IjycOFqtg :2007/10/22(月) 22:09:10
まあcとリザードンなぜ差がついたか
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/22(月) 22:49:28
袁紹にとって不運だったのが、跡継ぎをしっかり決めなかったこと。カントの戦いで
袁紹が終わったといわれてるが、これがとんでもない間違いで、その後袁紹は
立ち直り、兵力も曹操と互角以上にまで回復していた。人口が最も多い4州を
持っている袁紹の実力は健在だったが、この時期に病が悪化して死んでしまう。
3人の息子の間で後継者問題が起こり、内乱の隙を曹操に突かれて滅んだ。
>>1 カントの大敗北の後も曹操以上の力を持った袁紹は、負けてないんだよ!
負けたのは息子じゃ!後継者を指名できなかった決断力の無さが、袁紹の実力の無さと
言われればそうだけども。
でも曹操も袁紹を倒してから
慢心で気が緩みっぱなしになったけどなw
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/23(火) 00:26:57
袁紹は負けたけどそのまま倒されたわけではない。
曹操は彼が死ぬまで四州に手出しできなかったし。
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/23(火) 00:42:16
>>25 お前バカか?
ここでは曹操と袁紹の差についてのスレだが。
その後のことは論外。
袁紹信者
>>25みたいな袁紹信者キモいなw
あらゆる角度から曹操の落ち度を取ろうとしてるw
>>15 許攸の裏切りは袁紹の猜疑心ではなく、審配に罪を犯した身内を処罰された逆恨みから。
曹操が許攸を信用したのは、元からの知り合いだと言う事と、
残り一週間ももたずに兵糧が尽きるっていう切迫した事態だったから。
>>17 実は官渡って持久戦で、先に兵糧が尽きかけた曹操が一転、
奇襲に打って出て逆転してるんだよね。
また田豊らが主張した曹操の後背で劉備と賊を動かしての撹乱を試みてるが、
曹仁の別働隊により軽く一蹴されている。
孫策と劉表が共同して曹操の後背を突く可能性があったのなら分かるんだが、
両者は抗争(孫策的には親の仇討ち)の真っ最中だからな。
一応、黄祖を落とせないと悟った孫策が北上を考えてはいるが、その場で暗殺されてる。
跡を継いだ孫権もとりあえず黄祖討伐から始めてるし。
結論としては、曹操と袁紹の差は「運」としか言いようが無い。
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/23(火) 15:35:07
どっちにしろ幹部クラスの部下の間で確執ありすぎだよなー袁紹陣営は
普通有利な方こそバラけず団結してるはずだけどね…
袁紹の責任かどうかはわからんが
<幕僚の活躍>
・兗州牧⇒陳宮
・張邈の乱⇒荀ケ、程c
・官渡の戦い⇒荀ケ、許攸
・赤壁の戦い⇒賈詡
・合肥の戦い⇒蒋済、張遼
・潼関の戦い⇒曹仁、賈詡
・漢中の戦い⇒司馬懿
・樊城の戦い⇒曹仁、満寵、司馬懿、蒋済
<降伏>
・青州黄巾
・張繍
・黒山賊
・劉j
・五斗米道
<都合よく病死、暗殺>
・劉岱
・孫策
・袁紹
・劉表
<勝手に仲間割れ>
・呂布と袁術
・袁譚と袁尚
・馬超と韓遂
・孫権と劉備
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/23(火) 17:56:47
みんな正史と演義のどっちを主題にしてるの?
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/23(火) 18:11:45
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/23(火) 18:27:23
>>32 同じこころざしをもって形成してる他の勢力と違って、袁紹軍は袁家の名門の名の下に集った名士達ばかりだったから志しが極端にバラバラだったんじゃない?
こういうふうな確執が多い環境は中心がシッカリまとめれてない場合が殆どだしな。
袁紹は配下に頼りすぎていた現われでは?
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/23(火) 19:11:44
>>37 かもな。
曹操にも傲慢や慢心のある時代が後期になるほど
現われてきたしな。
まあはっきり言って負け犬にかける言葉は無いな
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/23(火) 20:22:35
えんしょうはカス。
ただそれだけのこと。
200年ぐらいまで生きてたのは周りの支えの力だけでしかない。
えんしょう=りゅうぜん
間違いない。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/23(火) 20:26:18
携帯厨乙です
炎症信者乙
袁紹って頭悪そうだよな
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/23(火) 20:58:02
頭は良いだろうよ
袁紹:韓馥、公孫瓚、張燕
曹操:袁術、陶謙、呂布、劉備、張繍
袁紹が過小評価される一因に
「後継者に相続失敗し、その息子たちがそろって曹操に殺された」という点
曹操>袁譚、袁尚は確実。
しかし、それがそのまま曹操>袁紹に直結しているような感じだ。
官渡後でも袁紹存命のままなら黄河を挟んで対峙が続いたことだろう。
もう少し寿命があれば、戦力の喪失で独力で曹操を倒すのは無理でも、
孫権や劉表、馬騰&韓遂を外交でまとめ上げて四方から圧殺する戦略も取りえた。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/23(火) 21:34:05
界橋の戦いは官渡と並ぶ奇跡的な大勝利
あの時期の公孫サンはかなり強いからな
呂布が袁紹の配下として飼われたままなら
曹操は劉備と潰し合って共倒れになっていた可能性が高い。
カントの戦いで、袁紹の大軍が攻めてくると聞いて、曹操の配下は色を失う。
「とても勝ち目はない!」と思った。
だが曹操は、こう言って配下の気持ちを静めた。
「袁紹の人物のほどは、先刻承知だ。(野心は大きいが、知略が伴わない。
容貌はいかついが、度胸や決断力に欠ける。猜疑心が強いから、部下を心服
させられない。こんな男に何が出来よう。それに兵は、数を誇るばかりで
統制が取れておらぬし、将軍どもはいばりくさって勝手な命令を出しておる。
たしかに領地は広く、兵糧は豊富だが、このざまではどうにもならぬ。わしに
使ってくれと差し出すようなものだ)」
いかに力がものを言う乱世であるとはいえ、大義名分を持たない戦いをしかけるのは、
世の中の指示を得られず、結局は敗れることになる。これは、袁紹が曹操攻略の腹を
固めたとき、幕下の祖授が諌めたことば。
「戦乱を救い暴虐を滅する、これを義兵といいますが、多勢を頼み強大さを鼻に
かけるのは驕兵であります。義兵であれば向かうところ敵なしですが、驕兵では
滅亡あるのみです」
さらに祖授は、曹操が天子を擁し大義名分を手にした以上、今、これを攻めるのは
義兵とはいえないこと、表面的な力の強弱は、勝利の為の絶対的条件では無いこと
などを力説して、袁紹に翻意をうながした。
だが、この諌言は聞き入れられず、袁紹軍は南征し、やがて官渡の戦いが行われる
ことになる。
この時袁紹は、まさに祖授の言う、多勢をたのみ、強大さを鼻にかけた驕兵の戦いを
演じてみせた。結果はいうまでもなかった。
袁紹軍10余万、対する曹操軍は1万足らず、これが官渡の決戦を前にした両軍の
兵力とされている。ざっと10倍を超える差である。これだけの兵力差があって、
はたして勝負になるものかどうかは知らないが、至弱が至強に勝ったと喧伝される
ゆえんである。この苦しい戦いの最中、曹操は常に陣頭にあって部下を叱咤激励
しながら、必ず勝つと言い続けていたが、本音の所ははたしてどうであったろうか。
後年の彼の回想によると、「どう比べても、こちらに勝ち目は無い。仕方ない、
国の為に死のう、正義の為に身命を投げうとう。そうすれば後世に名が残るだろう」
こんな心境であった。勝てたのは自分が幸運だったからだ、と述べている。
戦いには、予測不可能な変化が生じるもの、あらかじめ決めてかかってはいけない、と
いうのである。袁紹が全軍に渡河命令を下し、一気に官渡に攻めくだろうとした時、
側近の祖授が諌めた言葉。彼はさらに次のように言う。
「本体は延津に残し、官渡攻撃は1部の兵力で当たるようになさるがよろしい。
本隊を迎えるのは勝利を得てからでも遅くありません。全軍をつぎこんで、
手こずる事態にでもなれば、帰還はおぼつかなくなりますぞ」
だが、袁紹は聞き入れなかった。敵に10倍する己の軍が、必ず勝つと頭から
決め込んでいた袁紹には、姑息な作戦と思えたからであった。
祖授「ああ、上に立つ者は野心のかたまり、下にいる者は功ばかり焦っている。
悠々たる黄河よ、わしはもう戻れないのか」
黄河を渡るとき、祖授はこういって嘆いた。凡庸なトップに仕えた者の悲哀である。
官渡の決戦を前に、曹操の謀臣荀ケが、敵情分析をしてみせた。彼は
以前、袁紹のもとにいたことがあるので、袁紹幕下一人一人の性格をよく知っていた。
「(袁紹軍は兵力が多くても軍令がいい加減。田豊は剛情な男でよく主命に逆らう。
許攸は欲が深くて身持ちが悪い。また審配は深謀遠慮に欠け、逢妃は向こうみず、
このふたりが留守を任されているのだ。許攸の一家が法を犯しても、政治的配慮など
できはしない。そうなれば、許攸はきっとこちらに寝返ってくる」
戦いは、敵の参謀許攸が寝返ってきたことで決着がつくのだが、その許攸の寝返りの
理由が、まさに荀ケの予測にずばりと一致していたのであった。
これほどのナンバーツーがいたのだから、曹操もずいぶんと心強かったことだろう。
子遠とは、許攸のあぎな。官渡の戦いのとき、彼は袁紹軍の参謀を務めていたが、
献策をことごとく退けられた上、曹操と対峙している重要な時期というのに
法を犯した身内を何の配慮も無く処罰された怒りから袁紹を見限り、曹操のもとに
身を投じた。曹操は、許攸が投降してきたと聞くなり、はだしのまま出迎えに
飛び出したという。そして手を叩き、満面に笑みを浮かべながら言った。
「許攸どの、そなたがまいられたからには、わが方の勝利は間違いなしじゃ」
将棋でいえば、相手がぽかをしてくれたおかげで、労せずして敵の大駒を
手に入れたようなもの、曹操でなくても笑いの止まらない所であろう。ときに
開戦から半年後、兵員の不足と兵糧の欠乏に苦しみながら、なんとか
持ちこたえてきた曹操にとって、願ってもないチャンスが転がり込んできたことになる。
曹操は、危ぶむ臣下を抑えて許攸の献策をいれ、その夜奇襲部隊を率いて出陣。
めざすは1万台におよぶ敵のシ重車、なんの備えもしていないという。
この兵糧焼き討ちが成功して形勢は一挙に逆転、こうして天下分け目の戦いは
曹操の勝利に終わるのである。
曹操信者VS袁紹信者か。
これはまた面白い構図ですなw
信玄厨にはまだ「病に負けたんだ!子孫は無能だし!戦なら最強だった!」って言い訳があるが
袁紹厨は病に負け戦争でも負けた奴を擁護しなきゃいかんから大変だな
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/24(水) 01:24:31
曹操も赤壁で大敗してるけどな
許攸の時と同じ展開を期待して黄蓋の投降受け入れた挙句に裏をかかれっちゃってるのが情けない
なんか曹操ってイマイチ勝ち方も負け方も冴えないんだよなあ
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/24(水) 01:53:02
S級妖怪が現れたな。
これは見ものだ。
自分はB級の上位妖怪ぐらいなもので。
長文の正確な論理が出来るS妖怪のレスは凄いな。
雑魚は文体見ただけで理解できなくなって近づこうとしない。
自 殺 し た い
赤壁の戦いで、劣勢の呉軍を勝利に導いた最大の功労者が、孫堅の挙兵いらい、
戦場を駆け巡ってきた老将の黄蓋だった。その黄蓋が、周楡に献策したことば。
「曹操の兵力は数においては絶対的に優位、じっくりかまえて戦ったのでは、
とうてい勝ち目はありません。しかし、敵の大軍は(へさきととも)が
噛み合わんばかりで身動きもできません。ひとつ焼討ちをかけてやりましょう」
こういって黄蓋は、曹操あてに投降するむねの偽りの書簡を送りつけておき、
みずから快速船をひきいて曹操軍に近づき、みごと焼討ちを成功させる。
『三国志』の中でも、もっとも知られた場面であろう。小説では、裏切りを
曹操に信じこませる為に、黄蓋と周楡のあいだで一芝居がうたれる。それが
「苦肉の計」だ。いずれにせよ、この敗戦で、曹操は天下統一の夢を
打ちくだかれ、以来、二度と統一のチャンスはめぐって来なかった。
曹操が、東は呂布、南は張繍とかれらの平定にてこずっていたころ、
黄河以北に強大な勢力を張ったライバルの袁紹から、小馬鹿にしたような
手紙がとどいた。めずらしく逆上した曹操は、この手紙を参謀の荀ケに見せ、
「袁紹をこらしめたいが、力ではかなわない。どうしたものだろう」
と相談した。すると荀ケは、
「(昔から、勝つか負けるかは、君主の器しだいです。ほんとうに君主に
ふさわしければ、弱小であっても強大になるし、その器でなければ、強大であっても
衰えるということ。)これは劉邦と項羽の存亡をみればわかるではありませんか」
と述べたあと、曹操と袁紹のふたりを、包容力、決断力、統率力、指導力の4点から
比較してみせ、いずれも曹操のほうがまさっている以上、いくら袁紹が強大であろうと
恐れるに足らないと、曹操を勇気づける。
組織の強弱は固定したものではなく、トップの器量しだいだとは、たしかに
その通りであろう。
官渡の戦いは、天下分け目の決戦だったが、このとき、洞が峠を決め込んだのが
荊州の主劉表である。かれは、袁紹からの救援要請にも応じず、かといって曹操に
与するでもなかった。これを見て、参謀の韓崇が進言した。
「(もし将軍が天下の覇権を握ろうとのお志をお持ちでしたら、いまこそ漁夫の利を
占めるまたとないチャンス。またそのお志がないのでしたら、いずれか有利な
ほうに味方すべきです)。あたら10万の精鋭を擁しながら、こんなことでは、
いずれが勝っても恨まれ、中間に立って勢力を保ちつづけることなど、
できなくなりましょう」
だが劉表はためらうばかりで、なんら具体的な行動を起こすことができなかった。
このときの劉表の態度を、史書は、(狐疑して断ぜず)と表現している。
結局、劉表は、天下雄飛のチャンスをみずからつぶすことになった。そればかりか、
15年間にわたって苦心して経営してきた荊州の地は、かれの死後まもなく、
劉ソウの代に、戦うことなく曹操に奪われることになる。
「今、天下の英雄は、君とわしぐらいのものだろう。袁紹(あぎなは本初)など、
とるに足らない」
劉備が献帝から曹操チュウ殺の密命を受け、実行のチャンスをうかがって
いたときのこと、ある日、曹操から食事に招かれる。その席で曹操は、なにげなく
こう言ったのだが、料理に手をつけようとしていた劉備は、ぎくっとして、
思わず箸を取り落とした。その瞬間、雷鳴がとどろいた。
「これはとんだ粗相を……雷鳴や暴風のさいには、粗相をせぬよう気をつけよと、
孔子が言っておられるが、まことにそのとおり。わたしは雷が大の苦手でしてな。
とんだ醜態をお目にかけました」
劉備は、こう言ってその場をとりつくろった。
小説や芝居でもよく知られた場面である。当時、最大の勢力を誇っていた
袁紹よりも、居候同然の劉備のほうが格が上だというのだから、言われた本人が
驚いたのは無理もない。だが、英雄は英雄を知るである。曹操の人を見る眼は
たしかであった。乱世においては、誰が真のライバルかを見誤るようでは、決して
勝ち残れない。
後漢王朝の存在が有名無実になってしまっても、皇帝という名の持つ重みは、
容易には失われないようだ。これにいち早く気づいて利用したのが曹操で、
後れをとったのがライバルの袁紹だった。
じつは、幕僚の祖授が、袁紹にこうすすめていた。まだ曹操が献帝を擁する前の
ことである。
「いま天子を迎えるのは、りっぱに筋目のとおったこと。そればかりか、
これは時宜を得た策でもあります。(早く手を打たねば、かならず人に
先んじられます。機を逃さず速やかに行うことが肝要、そこのところをよく
お考えください)」
袁紹は、この意見をとりあげなかった。皇帝が身近にいたのでは、なにかと行動を
束縛されるだけだ、というのがかれの判断だった。
曹操が献帝を自分の本拠地許に迎えると、ここが都となり、河南一帯が
曹操の支配下におかれ、諸将はわれもわれもと曹操になびいた。このときになって
袁紹は歯ぎしりして口惜しがったが、後の祭り。
曹操「それ劉備は、人傑なり。今撃たずんば、必ず後の患とならん。」
建安5(200)年、袁紹との対決が目前に迫る曹操にとって、面倒な問題が起こった。
徐州に拠る劉備が反旗をひるがえしたのだ。曹操はみずから征討に
向かおうとする。
「わが君と天下を争っているのは袁紹ではありませんか。その袁紹がいまにも
攻め寄せてくるというのに、これをほったらかしにして東征なされるとは……
袁紹に背後を衝かれたら、どうなさるおつもりです」
と、あわてて諫める諸将に、曹操がこたえたのがこれである。劉備ほどの傑物、
今たたいておかないと、のちのち厄介な存在になるというのである。
その劉備にくらべれば、袁紹などは機敏な対応ができない男、こちらの隙を
衝かれる気づかいはない、というのが曹操の読みであった。
また、大仕事にとりかかる前だからこそ、懸案の事項はきちんとかたづけて
おくほうがよい―――曹操はこうも考えたのである。
東征が断行され、結果は大勝利、劉備を敗走させ、妻子を捕えた。また、関羽を
捕えて許都につれ帰ったのも、このときのことである。曹操の読みどおり、
その間、袁紹はなんの動きも示さなかった。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/24(水) 22:39:23
さすがの曹操が弱気を見せたことがある。官渡の戦いのさなかでのことだ。
戦いが長引くにつれて、曹操の陣営ではしだいに兵糧が乏しくなっていった。
そのため曹操は、留守をまもる荀ケにあてて手紙を送り、許都に軍を引き揚げたいが
どうだろうかと相談した。これにたいする荀ケの返書。
「決して弱気になってはいけません。わが君は、至弱をもって至強に当たって
いるのですから、もしここで相手をたたかなければ、総崩れとなるのは必定。
いまこそ天下分け目の時です」
戦いには、ここががんばりどころという局面が必ずある。そのとき弱気になって
へたな引き技をつかうと、相手を勢いづかせることになる。これは、どんな
勝負の世界でも同じであろう。
荀ケは、その危険性を指摘するとともに、さらにこうつけ加えて、曹操の自信を
回復させ、撤退を思いとどまらせるのである。
「袁紹ごときは並の英雄、人は多くても満足に使いこなせぬありさま。こちらは、
公の類まれな武勇と明知に、天子奉戴の大義名分もあります。事の成らぬはずは
ありません」
カク「紹は強盛なり、われ、少衆をもってこれに従えば、必ずわれをもって重しと
なさず。曹公は衆弱く、そのわれを得るや必ず喜ばん。」
袁紹は曹操との対決を前に、群雄に参加を呼びかけたが、そのなかのひとりに
張繍という人物がいた。かれは曹操とは敵対関係にあったこともあって、
袁紹の呼びかけに応ずるつもりだった。
ところが、参謀のカクは、曹操側に加わるべきだと主張した。
かれはその理由として3つをあげるが、そのうちの2つめの言葉である。
「袁紹は強勢をほこっているので、こちらがわずかな手勢で従ったのでは、
大事に扱われないにきまっている。
これにくらべ、曹操のほうは兵力が劣っているから、
われわれがはせ参ずれば、歓迎されることはまちがいない」
勝ちそうな側につくのではなく、
自分たちをより必要としている側につこうというのである。
小勢力としては去就のむずかしい局面だが、それにしてもしたたかな計算といえる。
ちなみに第1の理由は、曹操が天子を奉じていること、
第3は、曹操には覇王の志があり、その器量からして過去の私怨など
すぐに放棄するだろうというのであった。
カクの思惑どおり、曹操はかれらを大喜びで迎え、
のちに重要なポストを与えて厚遇した。
曹操が郷里の陳留郡で、私財を投じて義勇軍を起こしたのは、
中平6(189)年のこと、これがかれの覇業へのスタートであったが、
旗揚げの軍勢はわずか5千だったという。
後年、挙兵当時を回想して曹操はこういっている。
――董卓の暴虐に対抗して、わたしは義勇軍を起こした。
当時、挙兵した者は、だれもが軍勢は多ければ多いほどいいと考えていたが、
わたしは兵の数を減らすことを心がけた。
というのは、数が多ければ意気があがり、とかく強敵にぶつかりたくなる。
これは破滅の第一歩と考えたからだ。
数を少なくしたのは、最初からの方針だったのである。――
このとき、袁紹、袁術など有力な諸将もいっせいに蜂起したが、
いずれも数万の兵を擁していた。
そのなかで、もっとも兵力の少ない曹操が、
しだいに反董卓連合軍のリーダーシップをにぎるようになる。
曹操は、当時の情勢では、大軍団を形成するよりも小まわりのきくほうが
なにかと有利と判断したのである。一族の夏候氏・曹氏を中核とした
精鋭軍団を組織したが、これは正解であったようである。
組織は、つねに大きいほうがいいとはかぎらない。
曹操が食料自給のため、屯田の事業をおこしたのは建安元(196)年のこと、
当時は、連年の兵乱と凶作のために、どこも深刻な
食糧不足にあえいでいた。
各地で蜂起した軍はいずれも食糧の調達問題に留意せず、
飢えれば略奪し、余れば捨てるという無計画ぶりだったから、
最後はばらばらに崩れて流民と化し、戦わずして自滅する軍が無数に出た。
河北の穀倉地帯に拠る袁紹の軍でさえ、一時は桑の実で命をつなぐありさま。
郷村は荒れはて、廃墟同然と化していた。
こうした状況のなかで、曹操は難民をつのり、許都の周辺で開拓事業をおこす。
「国家を安泰にみちびくには、軍の強化と食糧の充足をまず心がけねばならぬ」
腹が減っては戦ができぬ、というわけである。
さいわいにも、初年度に百万石の収穫をあげ、これがはずみとなって、
それ以後、各地に農務官を置いて穀物を備蓄していった。
この政策によって、曹操支配下の郷村はよみがえり、
また、軍の兵糧問題も解決することができた。
曹操がやがて他を大きくリードすることになったのは、これが要因である。
目前の急務にのみとらわれない遠い慮り、これができるかどうかが、
天下を制するものと滅びるものとのちがいといえよう。
「逆順には大体あり、強弱には定勢あり。」
208年、南征してきた曹操の前に、父の劉表の後を継いで
荊州の主となったばかりの劉ソウは、戦わずして荊州全土を引き渡す。
これは、劉ソウに降伏をすすめた部下の一言。
「(ものごとには順逆の理、強弱の勢いというものがあり、
これにさからうことはできません)。
臣下の身で主君に刃向かうのは『逆』です。
領有したばかりの荊州に拠って盾突く、
その勢いはとうてい比較になりません。
また、わがほうの劉備と曹操では、やはり格段のちがいがあります。
以上3点、いずれもわがほうに不利、これで朝廷の軍勢と戦うとすれば、
滅亡は目に見えております」
漢の献帝を推戴した曹操の政策が、正解であったことを示す話である。
なにせ前後400年にわたってつづいた漢王朝である。
畏敬の念をいだいていた人たちは、まだまだ多かったのである。
『劉予州は王室の冑にして、英才世を蓋い、衆士の慕い仰ぐこと、
水の海に帰するがごとし。
もし事の済らざれば、これすなわち天なり。』
諸葛亮が孫権に会って、曹操との決戦をすすめたときのことである。
亮はまず、「早いところ武装をといて曹操の臣下となるのが得策では……」と、
わざと反対の方向に水を向け、
「もしそうなら、劉備どのも曹操に降伏したらよいではないか」と
孫権に切り返される。
そこでかれが答えたのが、このことば。
「(わが劉備どのは漢室の血をひくお方。その英明さは天下を圧し、
あたかも川の水が海に流れこむがごとく、天下の人望を集めておられます。
たとえ失敗に終わったとて、それは天命というもの)。
どうして、曹操に膝を屈することができましょうか」
このひとことは、若い孫権のプライドを刺激し、
ライバル意識を燃え上がらせる。
そして赤壁の戦いが行われることになる。
まっこうからの説得だけでは、人はこちらの思いどおりには
なかなか動いてくれないもの、ときにはこうしたテクニックも必要だろう。
相手が自発的に動いたと思いこんでくれれば、完璧。
『諸将、あえてまた操を迎うべしと言うものあらば、この案(つくえ)と同じからん。』
若くして江東の主となった孫権が、最大の危機に直面したのが
曹操の大軍を赤壁にむかえたときである。80万と号する曹操軍に対して、
孫権の軍勢はわずか数万。青年君主を前にした論議の席で、
旧臣たちは口々に降伏論をとなえた。
そのなかで、若手の周楡、魯粛は、両軍の実勢を詳細に分析してみせて
主戦論を展開する。
表題のことばは、孫権がこの論戦に断を下したときのせりふである。
かれは、刀を抜き放って目の前の机にはっしと切りつけ、
臣下たちに向かって語気するどく叫ぶ。
「よいか、以後ふたたび、わしに曹操へ降れという者があれば、
この机と同じ運命になると思え!」
組織の命運がかかった大問題であり、意見百出、議論沸騰するのは当然である。
これに最後の決断を下すのが、トップの役割であるが、
こうした激論のあとこそ、断固とした態度を示す必要がある。
孫権は、この一言を吐くことによって、自身のまよいをふっ切り、
みずからの心をふるいたたせると同時に、
臣下の奮起と覚悟を促すことに成功した。
当時かれは27歳、若手とはいえ、みごとなリーダーぶりである。
孫権は、周楡・魯粛の主戦論に従って、曹操軍との決戦を宣言したものの、
まったく不安がなかったわけではあるまい。
なんといっても兵力の差がありすぎるのである。
そんな孫権の心のうちを見抜いたのが周楡である。
かれは、会議が終わって夜になってから、ひとり孫権のもとへ出かけていって、
ふたたび進言した。
「みなは、曹操が水陸両軍合わせて80万と書き送ってきたのに震えあがり、
真偽をたしかめずに頭から講和論をとなえておりますが、
まったくけしからんことです」
といって、曹操軍の内状を分析してみせる。
曹操が率いてきた軍勢は、じっさいは15、6万にすぎず、
しかも戦いに倦み疲れていること、
新たに加わった劉表の軍勢は、
曹操に心から従っているわけではないことなどを述べて、
重ねて孫権を勇気づけるのである。
「わたくしひとりで、曹操を追いかえしてごらんにいれます。心配はご無用です」
この一言で、孫権の迷いは完全にふっ切れたようだ。
赤壁の戦いを前に、孫権、劉備両軍の連合がなり、劉備の駐屯しているハン口に、
周楡に率いられた呉の船団がやって来た。
そこで、劉備は部下を派遣して周楡を慰労に正体した。ところが周楡は、
「任務があります。部署を離れるわけにはいけません。劉備どのご自身がおいでなら、
いつでもご好意をお受けいたしましょう」
というきっぱりとした返事。そこで劉備は、関羽と張飛を呼んだ。
「周楡から、出向いてくるよういってきた。孫権と手を組んだ以上、
これもやむをえまい。同盟の趣旨に反するからな」
こうして劉備は、小さな舟に乗って周楡を訪問した。
軍の最高指揮官が、みだりに持ち場を離れられないのはもちろんのこと、
まして慰労のためとあっては言語道断である。
劉備は、自分の軽率な申し出を深く恥じ、周楡のみごとな軍人ぶりにほれこんだ。
すぐに反省して気軽に腰をあげるなり、劉備もまたみごとである。
『人50なるは夭と称せず」といわれた三国時代のこと、平均寿命が
どれくらいであったかは知るよしもないが、それにしても享年36というのは、
いかにも若すぎる死という気がする。呉の将軍周楡のことである。
赤壁の戦いの2年後、周楡は曹操を滅ぼす大計を立てたが、
遠征を前に急病のため倒れる。死を覚悟したかれは、
孫権にあてて上奏文をしたためたが、これはそのなかの一文。
「人はいつか死ぬもの、長短は天命であります」
いかにも達観したような言い方だが、このあと、つぎのことばがつづく。
「命を惜しむものではありませんが、無念なのは、もはや将軍のご命令を
奉じえなくなったことであります」
当時、孫権は28歳。この青年君主をのこして先立つことを思うと、
とうてい達観の境地どころではなかったのかもしれない。
いま、日本人の平均寿命は、80歳といわれる。いうまでもないことだが、
これは統計上の数字であって、だれもが80まで生きることを
保障されているわけではない。いかに長寿の社会になろうとも、
人間ひとりひとりは、やはり『修短は命なり』なのである。
諸葛亮が構想した天下三分の局面ができあがるかどうかは、
孫権の決断ひとつにかかっていた。建安13(208)年、80万と号する
曹操の大軍が江東に迫ったときのことである。
すでに荊州の劉ソウは戦わずして降伏し、劉備もまた長阪にて大敗を喫して、
残るは江東に拠る孫権ただひとりとなっていた。
このとき諸葛亮は、単身呉にのりこんで孫権を相手に熱弁をふるい、
断固決戦すべきことを説く。
これは、諸葛亮が曹操軍の弱点を列挙していくことば。
「曹操の軍勢は遠征に疲れきっており、さきにわが軍を追ってきた騎兵も、
1日1夜で三百余里も走りずめだったとか。(強弓から放たれた矢も、
勢いを失えば絹をも通さぬ)とはこのこと。
兵法で無謀な強行軍を固く戒めているのも、このためです」
この例にかぎらず、中国の人たちは、人を説得する場合に
成語や譬えをよくつかい、しかもじつに巧妙であって、ぴたりとはまったときには、
すばらしい威力を発揮する。なにせ、成語、譬えを駆使する説得術は、
紀元前のむかしからみがき抜かれてきたものだからである。
ただし、この説得術が、今のわれわれの社会で有効かどうかは
保証のかぎりではない。
孫権を赤壁の会戦にふみ切らせた魯粛のことばで、
「一刻も早くご決断を。衆議にまどわされてはなりません」というのである。
ところでなぜ戦うべきなのか、魯粛が孫権に述べた意見というのが、
なかなかユニークなのである。
一同の降伏論は孫権を誤らせるものだと決めつけたうえで、こういう。
「たとえばわたしが降伏しても、曹操はわたしを故郷に帰し、
巡察官ぐらいにはとりたててくれます。そして学者、文人とつき合っているうちに、
州知事か郡の長官ぐらいには昇進できましょう。しかし将軍はそうはいきません。
将軍がいったん帰順されたときは、この江南は奪われ、
身を寄せるところはなくなってしまうのです」
魯粛のことばを現代にあてはめていえば、たとえ会社がつぶれても、
平ならほかで雇ってくれるところもあり、うまくいけば中間管理職ぐらいにはなれる。
しかしトップともなると、あらゆる権限は剥奪され、行きどころもない、と
いうのである。
組織の方向を決定するさい、多数意見がかならず正しいとはかぎらない。
トップは、ときにあらゆる反対を押しきった決断を迫られることもある。
『トップは孤独』といわれるゆえんである。
曹操と袁紹なぜ差がついたか…うんこの色の違い
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□■□■☆JUVENTUS 110☆□■□■ [海外サッカー]
エロ小説wwwwwwwwwww
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/29(月) 13:00:21
門生故吏は袁紹の方が多く抱えてたのに・・・
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/29(月) 15:33:53
>>74 地理的な要因は無視っすか
>>75 曹操はその兵数の少なさから徐々に発言権失ってたんすけど無視っすか
最終的に袁紹の元に泣きついてたっすよ
>>76 屯田制が軌道に乗るのは曹操死後っすよ?
初年度百万石wwwwwwサーセン無知なんでソースください
>>77 結果論www
献帝奉戴は同盟者だった袁紹と仲違いする切っ掛けなのにwww
>>78 それ以前に孫権は江夏をすげー欲しがってたのご存知?
こんな会話はどーでもいいんすよ?ロマンはないっすけどねwww
>>81 どう見てもそんなんじゃねーよwww
主導権争いだってのwww
>>82 当時の平均寿命は乳児死亡も含めてのだろ
医学の発展無視っすかwwww
生きる奴は100とかまで生きてるっての
>>83 例え話は今でも有効だろ、常考
タイミング次第なんて何時だって一緒だし
お前何が言いたいの?
>>84 トップが孤独なのは決断だけじゃねーだろwwww
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/29(月) 20:01:27
一番の関心は曹操ヲタと袁紹ヲタ
どっちがエヴァのエロ小説を覗いているかと言う事なんだが・・・。
レイたん派=袁紹
アスカ派=曹操
と見た
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/30(火) 17:57:14
そんな派閥があったなんて・・・。
93 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/10/30(火) 18:19:03
俺はレイたん派の曹操
やっぱり似た者同士かw
仲良くしろよ!
曹操もふもふもふもふ
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/11/01(木) 21:06:42
袁紹が馬鹿だったから
曹操のうんこがみどり色だったから
袁紹はビタミン不足
野菜ジュース飲めよ
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/11/06(火) 00:41:40
よく袁紹を語るときに「門生故吏」っていうキーワードが出てくるけど、
一体どういうものなの?
天誅
100
マジレスすると戦下手だったからだろうな
やっぱりキクギや田豊がいないと駄目だったんだろう
>>101 マジレスすると袁紹さんは戦争上手いっすよ
何で下手だと思うんすかね
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/11/06(火) 07:12:31
界橋の戦いで自分が光武帝の再来だと思ったはずだぜ。
八戸のぶながと学徒出陣なぜ差がついたか…慢心、環境の違い
まあ曹操に比べたら戦下手だろう
>>106 マジレスすると曹操よりも上っすよ
曹操が勝てたのはただのラッキーさんさ
運までも含めて「上手い」とか言うんだったら勝った奴が強いんだから
上手いの下手のという必要は無いよね
司馬炎最強で終わるんだから
赤壁の戦いは曹操軍に水軍に慣れた者がおらず、さらに疫病も発生してたみたいだし
正面対決でもかなーり苦戦して勝利してた予感。
官渡の戦いは許攸が寝返ってくれなければ負けて死んでたと思う。
>>108 水軍に慣れた→荊州の常備軍
病→どっちもどっち
袁紹は負けてしまうからこそカッコイイ。
曹操信者の言い分も解るが、俺は袁紹が好きだ。
111 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/11/19(月) 18:10:21
袁紹は全てが中途半端
だから俺は袁術陛下の方が好き
馬騰一族の暗殺はひどい
死ぬ間際に、殺した相手の亡霊が見えたのもわかる気がする
曹操が赤壁の直後に死んでいたら、
曹家はお家騒動で分裂するか、豪族や有力家臣が反乱を起こす確率が高い。
それに劉備や孫権が乗ずるのは目に見えている。
曹操が勝っていたのは、寿命だろう。
まあ少々炎症が年上なんだけどさ。
我が軍の力に仰天せよ
八戸のぶなが公が成敗してくれるわ
117 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/11/20(火) 17:08:04
小魔玉が許さんぞ
金正日将軍>>>>>>次元の壁>>>>越えられない壁>>>>>曹操>袁紹
曹操は60歳まで生きれた
袁紹は40歳
周楡は35歳
長く生きれた分、有利だったな。
mmbmfgg
gfhfgjg
fgsdgsd
mfgjfgj
jggfjgfjg
ggdsgsdgsdg
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/10(木) 21:27:32
こんな女に統一は無理
当時の病気は強かったと
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/03(日) 12:55:58
人使いのうまさ
曹操配下のいうことを良く聞いた
袁紹は聞かなかった
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/09(土) 23:58:30
一人か・・・我が威光に誘き寄せられたな
学徒侯みたいにな
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/14(木) 18:57:38
>>123 部下の言うことは聞いていたよ。
田豊や沮授が牢屋にぶち込まれたり仕事を干されたりしたのも、
別の部下の讒言をきちんと取り入れてあげたからだ。
曹操は人材が国を支えると思っていた
袁紹は家柄による威信が国を支えると思っていた。
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/16(土) 17:34:18
息子の出来は全然違うな
曹操は官渡戦のようなもっとも大事なときに、子飼いの部下を粗末に扱ったりしない。
気に食わない奴は後でいびり殺す。
袁紹はその逆だね。
131 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/02/17(日) 19:13:23
タイミング掴むのは曹操のがうまいよね。皇帝擁護とか烏巣奇襲とか。
袁紹は皇帝擁護を早くから進言されてたのにそうしなかったし、官都の戦いで曹操が本拠地を空けたときも動かなかったからね。
ただ、河北はほんと勢力は強大だったみたいだな。
物語見ると袁紹を下してあとは消化試合みたいな印象があったが、
実際は曹操は遺児たちとの戦いすら死力を尽くしてたみたいだし。
郭嘉の進言は正しかったと言える。
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★ NIKE誕生にまつわる汚れた歴史をご存知ですか? ★
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'63年にアメリカ人の若者フィル・ナイトが
アメリカのランニングシューズマーケットに関する広範な
研究結果を携えて日本のオニツカタイガー(現アシックス)の
鬼塚喜八郎社長を訪ねてきた。
そして、オニツカのシューズが世界で最も優れているから、
アメリカ国内で販売させて欲しいと頼んだ。
鬼塚はそのアメリカ人に感銘を受け、彼と取引することに合意。
フィル・ナイトは帰国後、オレゴン州にブルーリボンスポーツ社
(NIKEの前身)を設立した。
オニツカとブルーリボンスポーツの業務提携は大成功を収める。
ところがその後1970年、オニツカがブルーリボンスポーツと共同の
販売会社を設立する直前に、フィル・ナイトは裏切った。
シューズ製造を事前承諾なく別のメーカーに変更、
さらにブルーリボンスポーツはサブブランドネームの使用に関して、
契約の盲点を突いて、オニツカを告訴した。
両者の話し合いの結果、
オニツカが多額のお金をブルーリボンスポーツに支払うこととなった。
全てにおいて用意周到に計画を遂行してきたフィル・ナイトの勝利だった。
その直後にブルーリボンスポーツは社名を「 NIKE 」と変更。
オニツカから強奪した資金を元に快進撃が始まるのであった。
幹部は、ほとんど韓国系。なるほど・・・・。
ttp://ex21.2ch.net/test/read.cgi/k1/1171691363/325
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/01(土) 14:25:14
うむ
135 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/01(土) 14:34:46
匈奴が居たから南征がなかなか出来なかった為、地理的不利だった。それと人材を上手く使い熟せなかった為。荀いくや郭嘉が愛想尽かす訳だ。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/01(土) 16:58:18
将としての器が違うってことですね
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/05(水) 12:28:31
惇様が居るからですな
一大決戦で負けたから何かとヘタレな印象ついちゃったけど
本当にただの無能ならあんだけ勢力拡大させることなんて
出来なかったと思う。
乱世に強いタイプと平時に強いタイプがいるわけで、
袁紹は「どちらかというと」平時に強いタイプだったのだろう。
最終的には「より乱世向き」の曹操に遅れを取ったが、
総合力は他の群雄より優れていたのであそこまで拡大できた。
惜しむらくは、人生の最終盤に致命的な失策を積み重ねてしまったこと。
諫言・献策の取捨選択、後継者問題等……
>>139 キク義を始末したのが良くなかったね。
てゆーか袁紹軍なにげに名将ぞろい
キク義、高幹、郭援、張合β・・・
なぜあれで勝てん?ってぐらいだ
機をみる目がなかったんだろうな なかったというか曹操よりかなり劣っていたんだな
>>142 いや逆
曹操との比較はともかく、袁紹の機を見る眼の鋭さは異常
宦官殺しなど中央に混乱を引き起こして自らの覇業の舞台を作り出し、無位無官から東軍の有力者になりあがり、数年で最大勢力になった
とんでもないことだよ
プライドをかなぐり捨てて勝ちに行く泥臭さがあれば、
官渡の勝敗はわからなかった、というか袁紹が勝っていた気がするね。
「兎と亀」に喩えれば、あの時点の純粋な戦力的としては袁紹が兎。
曹操自身も認めるところだった。
袁紹仁、司馬懿のような「負けない戦い」に徹する冷静さがあれば……
145 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/08(土) 09:57:55
>>144 プライドをかなぐり捨てなかったというのはどういう事から?
負けない戦をやってた(包囲して削ってく)のに失敗したのは本当にこれはもう
運が無かったとしかいいようがないな
>>144 実質的に大規模な兵糧攻めという側面があって成功してたから曹操が窮地に立ったわけで、これ以上何かしろと言うなら袁昭のどの辺がプライド気にして負けたのか具体的に言ってから
あと袁昭が勝ちに逸って失策した例も出してね
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/08(土) 23:25:23
袁紹は鈍いよ 帝の価値はなくなったと思いこんで、いざ曹操が献帝を手中にしたら拗ねてんだもんな
>>147 曹操が近くに連れてくるまではリスクが高いから理由付けてやらなかった
曹操が連れてきたら楽に手に入れられそうだったからちょっかいかけた
この図々しさこそあの時代の覇者には必要
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/09(日) 14:48:33
地理的不利もあったな。荀イク、郭カ、田豊、ホウキ、審配、郭図の参謀が居て、顔良、文醜、張コウ、高覧等が居て勝てないのは、やはり総大将の決断力一つで態勢は決まる。
判断の早さだな
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/09(日) 17:17:34
>>149 判断が遅かったという理由はなに?
劉備を曹操が攻めてる時はまだ袁紹は動きが取れない時期だぜ
曹操は劉備反乱までは黄河北側にいた
つまり袁紹を黄河の北側で迎え撃ち、黄河を渡らせない戦略だったと考えられる
劉備の反乱によってそれが出来なくなり、袁紹は余裕で黄河を渡ることが出来た
確かにもっと早く南下したら曹操はもっとピンチだっただろうけど、どこまで実現性があったのか
公孫サンを完全に滅ぼしてからさほど経っていない時期だから、袁紹も十分な兵力で攻め込むにはある程度の時間が必要だったはず
曹操が劉備に向かったお陰で再編成や休養の時間が取れたと考えるべきじゃないか
153 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/09(日) 17:41:56
>>152 その意味がわかってるから袁紹は劉備の裏切りに感謝して丁重に扱ったのにな
154 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/09(日) 20:52:06
>>143 勘違いしてるが、当時の「曹家」も「袁家」も名門。無位無官などとんでもない。しっかりとしたバックが有るからこそ官位を買えたわけだ。
売官とかある末期的政情で黄巾族や太平道教等宗教などへ民心が走ってるのに大衆に目を向けなかった袁一族と、黄巾信者数十万を抱え込んだ曹一族の違いが原因。
魏武の強云々を知らない?
三国時代だけを見るのではなく、深い歴史認識を磨くほうがいいな。
155 :
.:2008/03/09(日) 21:51:57
>>152 後方に下がっても兵糧不足なのに、前で戦えたかねぇ
>>155 官渡での兵糧不足は、供給源となった豫州方面にも袁紹のゲリラが出没したから
黄河を渡らせなければ袁紹が豫州まで簡単にゲリラ活動の手を伸ばせたかどうか
>>154 勘違いしているが、無位無官とは董卓から逃げ出した時の袁紹のことを言っただけだよ
青州兵は実際にエン州に攻め込んだからエン州にいた曹操が傘下にできただけで、袁紹が「大衆に目を向けなかった」のかどうかは何とも言えないな
>>155 兵糧不足は官渡の蓄積分、曹操軍全体じゃないぞ。
選択肢としては許に撤退してそこで迎え撃つという手もあった。
この時ジュンイクは敵にけつ向けるのは不味いといって踏みとどまったけど、
実際正史で言われてるほど差し迫った事態じゃなかった。(これについては裴松之のツッコミあり)
袁紹軍の方も戦線延びる訳だしな。青州からソウ覇がうかがってる状態で。
大衆に目を向けないという表現は語弊があったね。
漢の治世に造反した反体制派の取り込みを積極的に試みた曹と
旧態依然とした組織のまま漢に取って代わろうとした袁
の違いですね。
>>158 そんな縦深陣のような真似が出来るなら最初から白馬とか救助に行かなきゃいいのにな
官渡ですら曹操には想定外の押し込まれっぷりだと思うぞ(兵糧不足ってのはつまり準備不足ってことだ)
>>160 確か于禁放置プレー事件もこの頃の話だな
>>159 どっちも似たようなことをしてるのに勝者の方だけ評価してるよ、それ
黄巾残党や匈奴・烏丸には袁紹や袁術に与した奴らもいたんだから
漢の王朝という旧態依然とした組織のまま漢にとって代わろうとした曹
在地豪族という反体制派の取り込みを積極的に試みた袁
みたいな言い方が出来てしまう
勝った方が強いし偉いんだよ。所詮。
>>163 じゃあ司馬炎最強
統一できなかった曹操はゴミ
ってことな、はいはい
>>164 なんでやねんw
魏→晋で続くんだから正統王朝でしょが
官渡では曹操が準備不足だったというが、
曹操は必要ない戦いを戦って無駄に兵が経験積んでるな。
徐州に突っ込んでエン州取られるとか張繍に奇襲受けるとか。
>>165 正統とか関係ないし
第一魏晋の政争に負けた魏弱過ぎ
そんな国しか残せない曹操はヘタレ
統一もできなかったし
169 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/12(水) 03:51:50
息子同士が争う袁家よりはずっといいが…
170 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/12(水) 18:31:08
袁紹も序盤の快進撃は見事だったのにな。
相手が悪すぎたな。
悪かったのは相手じゃなくて運だ
>>167先生!
魏晋の政争の時なんて曹操とっくに死んでるんだから関係ないと思いマース
>>172さんや
彼は当時最強の国家をあんな国よばわりし
それを一代で建てた男をへたれ呼ばわりするような男ですから・・・ね?
>>172>>173 もう少しその前のレス読んどけ
>>163 勝った奴が強いし偉い
>>164 じゃあ司馬炎最強、統一出来なかった曹操は弱い
という流れがあっての
>>167、つまり皮肉
もう少し頭使え
それともお前の頭に詰まってるのは八丁味噌かなんかで思考の為には使えない代物か?
いや俺は先生が
>>165さんの正統発言に対して
正統とか関係ないし
第一魏晋の政争に負けた魏弱過ぎ
そんな国しか残せない曹操はヘタレ
統一もできなかったし
ていうから言ってみただけなんだけど・・・
皮肉なのは
>>164までじゃね?
もし炎症が長生きしてたら…
曹操に河北を切り取られるのをみながら憤死するんじゃない
後継者争いが無くなるので、曹操の付け入る隙も無くなる。
袁紹死後、袁兄弟が手を組んでる間は曹操も落とせなかったんだしな。
河北勢力はかなり強かったみたいだからな
内政手腕はかなりあったんじゃねーだろうか
袁紹厨の自分としてはコーエー三国志では知力を50台まで下げて政治・魅力を
もっと上げてほしい(もしくは武将に例えば名士優先とか相性重視とかの仕官傾向をつけるとか)。
統率は白馬将軍や張燕と同じくらいかな。
寛大にみえて猜疑心が強かったってあるのに魅力上げるの?
182 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/16(日) 02:56:28
息子たちに一州づつ任せるなんて事したら当然揉める原因になるわな
そもそも袁紹はなんであんな早く死んだの?
後継者を選ぶステータスは何?
>>180 知力50はやりすぎw
ただ自陣営の知力を1/2の確立で半減させるみたいな
優柔不断ぽい挙動がほしいね。
せっかくの知力の高い武将も、袁紹のそばにいると性格に振り回されてダメになる、みたいな。
>>183 ちょっとそれ思った。
官渡の戦い後から発病して二年後に死亡って病にしても
絶好調の時の印象が強くて死ぬのが早いような気がしてしまう。(でも吐血してるから強烈な病だったのか?)
実はもう官渡の前からその兆候があったとかないかな?だから開戦を早まった…とか。
それなのに何故早く後継者決めなかった、とか疑問残るけど。
結局、袁紹は愚将なんだよ
いや、一州を治めるには賢い君主だったんだろう。
だが名家だかなんだけ知らないが
調子にのって4州も統治下に治めようとするからダメになった。
愚行は犯したが、君主として不適切だったかといえばそういうわけでもない。
おとなしく、分をわきまえなかったことがすべての敗因だな。
>>181 袁紹は人材を使うのはどう見ても下手ですが人材はなぜか続々と集まってきたわけで、
名門だからという理由がゲームシステムに取り入れられない場合は魅力で表現すべきかと。
霍去病と衛青はどちらもなりあがりですが腰の低い衛青より鼻っ柱の強い霍去病のほうが
人気があった……といった話を聞くと性格が悪くてもカリスマでカバーすることは出来るようですし。
どうでもいいけどさ、曹操が始めにあんまり出世できなかった理由って容姿があんまり優れなかったからかな。
袁紹は名門でイケメンだったからすごかったらしいけど。
出世するのに容姿って関係あるのかな?
191 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/16(日) 10:50:10
儒学だと中身は見た目に現れることになってるからな
>>185 優柔不断は曹操のプロパガンダで実際の袁紹は剛毅果断な人物だよ
>>186 吐血して死ぬ病としては胃潰瘍、胃癌なんかがあるわけだけど
どちらも物凄いストレスで発病するよね、袁術も同じような死に方
袁氏って胃酸が出やすい一家なのかもね
>>189 名門だからって理由なら袁術の方が人集まるし、袁紹は人使いも下手じゃあない
ただ大事にしないというか、結構サックリ切り捨ててるだけなんだ
>>190 曹操もすっごい出世してる
洛陽北門部尉とか20歳の若造が抜擢されるのは普通ない
なんか誤解されがちのようだけど、曹操は権門だから若いころからかなり高い地位(年齢や官歴からすれば)にいたし、
逆に袁紹は確かに名門でエリートコースを歩んでいたが微妙に傍流で、一族から白眼視されたり悪い仲間とつるんでいたりと決して品行方正なおぼっちゃんではない
そこで袁術閣下の出番ですよ
>>190 おいおい・・・曹操こそエリート中のエリートじゃねーか
宦官とトラブル起こして官職ほっぽって引きこもっても
その都度中央に呼び戻されたり、地方長官に任命されるほどの中央政界とのコネがあったんだぞ
袁紹は決断力に欠けるな。部下をまとめる力もない。でなきゃ官渡で負けないよ
袁術>>>袁紹
>>196 決断力に欠ける根拠を書いてみろよ
部下をまとめる力もないって根拠もどうぞ
あれほど有利な状況で負けるんだから大将の器量の差が大きいね
>>199 そういった大将の器量に還元してしまうと、赤壁で圧倒的有利な曹操を破った周瑜の器量は天井知らずになってしまうよ
>>199 あれほど有利な状況で漢土統一出来ないんだから曹操も大した事ないね
白馬将軍の威
>>200 大将の器量に還元するんなら周瑜じゃなく孫権だろ。
実際の所、官渡では造反者が出た為に完全勝利の半歩手前で大逆転喰らった訳だから、
造反者を出した袁紹と、その造反者を信用した曹操の器量差の話になるのは仕方がないと思う。
赤壁は疫病が原因だから大将云々の話は関係無い。
それをいうなら合肥戦や陳倉城戦だろうな。
>>203 え?曹操は部下の反対もあったのに進軍を強行したり、造反者を利用してしめしめと思ってたらまんまとひっかかったりしてるのに?
疫病にしても周瑜に完全に見抜かれていた
ちょうど袁紹の配下の弱点を曹操たちに見抜かれていたように
別に周瑜でも孫権でも劉備でもいいけど、大将の器量は確かに問題になる場面はあるが、まるでそれが決定的な差であるかのように言うのは間違いだってことだ
>>203 造反者出まくりで本拠が三郡しか残らなかった徐州攻め時の失敗はどうなっちゃうの?
206 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/16(日) 23:44:01
その頃の太祖はまだ未熟だったのである。
失敗をバネに立ち上がったのだ。
>>203 官渡は状況的に曹操に不利だったけど
袁紹の完全勝利の半歩手前・・・とまではいってませんが
テキトーなこと書かないようにね
正史の官渡の戦いは曹操の戦力をを過小にして劇的な勝利を得た・・・という過剰な宣伝だから
裴松之の注にもあるように
>>206 晩年に折角従えた巴夷の一部に逃げられて劉備に戦力接収されてるけどそっちは老衰?www
しかも大事な大事な漢中も落としちゃうけど、それも老衰と
赤壁で裏切り頼みの強引な進軍して大敗するのも老衰っと
50代前半で老衰しちゃうんだから、人生50年ってのは本当に含蓄ある言葉だネッ
>>207 許:兵糧残りいくつ?
曹:もう殆どないです
敗北半歩手前
ソウソウは負ければ後がない分必死に機を探っており
エンショウには若干余裕があった分、機会をつかみそこねた
という違いじゃないか。
必死さと、必死さを形にする行動力の違いみたいなもんじゃないか。
よくあるでしょ、会社や学校でも。
卑近なところに置き換えてみると、
意外にそうした光景を目にしている気がする。
決断の出来る曹操:よし、兵糧庫狙うぞ!
優柔不断な袁紹:よし、曹操が兵糧に釣られてる隙に本陣落とすぞ!
あと張コウちゃんは兵糧庫に救援に行ってネ!
優柔不断な割に随分と危険な橋渡りますね
>>213 何故?
撤退しようとかいう余裕があるのに?
>>215 落とさなきゃ意味ないでしょ
落とせる根拠を述べてね
地図見るとえらく袁紹側の兵站が延びる訳だけど、
青州のソウ覇も遊撃隊の曹仁・徐晃が顕在でえらく苦戦が予想されますが・・・
>>216 官渡落ちたら曹操に抵抗力が残らないよ
南方の抑えに出した曹仁が無傷→でも南方抑えないと結局死ぬからそこから兵力引き抜けない
ゾウ覇がいる→何時裏切ってもおかしくない立場とそれまでの経緯
ってかゾウ覇が南下したら青州側から敵も一緒に雪崩れてくる
一見浮いてるように見える遊撃部隊とかは理由あって遊撃してるんだから
そいつらが防衛にあたったって結局その抑えてた連中も攻撃に参加して来るわけで
健在のように見えて全然健在じゃない罠
>>217 兵力差判ってます?
曹操と袁紹、総兵力はほぼ互角なんだよ
官渡に布陣した際に劣勢になったけど、
許都に近づけば近づくほど兵力差は無くなるんだよ。
守備隊も残さなきゃならないし。
官渡でさえ攻めあぐねてたのに。
南方の守りは李通がいるから無問題。
汝南の親袁家勢力はほぼ平らげられてる。
一方袁紹は深く敵地に潜り込んで兵站が遠くなり、今度は袁紹が兵糧に苦しむことになる。
史実よりは苦戦するが、いったい何を持って完全勝利間近なんて云えますか?
>>218 兵力差判ってる?
そっくり返してやろうか?
俺は全然わからんよ
彼我の兵力差なんて史書のごまかしで殆ど判らないようになっちゃってんじゃん
兵法スレのクソがご出張かw
官渡から引いたら正史で曹操が焼いたあの手紙の山が気になるところだが。
>>215 その地図で見るとずいぶん変なところに兵糧まとめてたんだな
まるで釣り餌のような位置だ
でも袁紹だってあそこまで領土をでかくできたわけで、並の君主ならあそこまでできないし
それは曹操にもいえることだろ。お互いに勝るところがって総合的には曹操のほうがすごいってことじゃね。
間違いなく曹操>袁紹だったのは寿命と運
他はどっちにも転びかねない程度の差だったと思う
何処に書き込むべきかよく分からんから、とりあえずここに書き込む。
官渡では、許攸の寝返りは大きな事態だったと思うけど、彼の投降の一因となっている、
袁紹が彼の進言を容れなかったという漢晋春秋の記述は間違いじゃないかと思う。
許攸は、曹操を避けて許昌へと軍を進ませる事を進言したけど、これ自体は行われている。
曹仁伝や荀攸伝によれば、袁紹の将である韓荀が雞洛山で撃破されると共に、
故市に集積した物資が、曹仁、徐晃、史渙らによって焼き払われている。
荀攸伝に従うならば、これらの敗北の後に許攸の投降がある。
許攸の投降は、自分の策が失敗した事を受けてのものだったんだろう。
曹瞞伝によれば、許攸は投降した後、故市と烏巣に兵糧が集積されてる事を述べているので、
或いは韓荀の敗北が分かった時点での投降であって、故市の焼打ちが行われる前かもしれないけど、
どっちであろうと、自身の失態が原因である事を否定するものではないしね。
袁紹が帝をとらなかったのは公孫さんがいたから?
必要性を感じてなかったからだよ
>>228 曹操が拉致してから「俺によこせ」と言ったそうだから、全く必要性を感じていなかったわけでもないようだ
ただ、公孫サンがいたため楊奉たちにまで手を出しにくかったこと、
曹操が手を出すのでさえ家臣の多くが反対するような博打であったこと(軍事的には楊奉らはあなどれない強敵)、
皇帝を連れてきてもメリットばかりでもないこと、
これらの点から当時の袁紹にとってはメリット<<<デメリットとなったため見送ったのだろう
曹操が許へ連行してからは、袁紹にとっても皇帝を利用しやすい状況になったので、今度は曹操に「俺によこせ」とジャイアニズム爆発のことを言い出したのだろう
官渡の情けない敗戦といい後継決めずに死んだことといい曹操よりも間違いなく劣ってるな
>>230 そんな真っ白な灰を投げられても燃料にならんよ
>>230 それ以前にお前このスレの主旨理解してないだろ
信長の野望の能力値で言ったら袁紹ってどんな感じだろう? 一太守から河北の雄になって優勢だったはずの
決戦で敗北し、その直後に病死……陶晴賢の能力に下駄を履かせた感じかな。袁紹は戦死はしてないから。
234 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/26(水) 14:44:14
今川義元さん
235 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/03/26(水) 17:39:41
三好長慶
歴史は常に勝者の味方。
敗者には正史は容赦ない。
要するに這い蹲ろうが、醜態見せようが、長生きした者の勝ち。
袁紹の欠点は『短命』ということ。
お前が言うと説得力があるな
最後に笑う者は良く笑う、ということか
曹操がもし張繍に殺されてたら、袁紹以上に笑い話の種にされただろうな
やはり生き残ったもの勝ち
ていうかそれだと史書にも残らないな、たぶん
まあ官渡は俺は曹操の力だと思うけどね
ターニングポイントは許攸だけどそういう勝負どころを見極められるのが武将の能力だしな
優れた袁紹に勝った曹操が強かったんだと思うな
241 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/12(土) 21:09:55
官渡の勝利はたまたま曹操の方が運が良かっただけだろ
だからその運をモノに出来たのがすごいっていってんのさ
敗色濃厚のなかじっと耐えてやっと転がり込んできた運だから
袁紹は曹操の比較対象としてよく引き合いに出されるせいで、欠点ばかり論われてる部分はあるな。
袁紹は内政がよくて死んだときは領民が親を亡くしたかのごとく悲しんだとか、
そういう袁紹の優れてた部分はあんまり取り上げられる事ないし。
官渡なんて二人の明暗が分かりやすくついたから余計に、
敗戦の原因は全て袁紹の人柄って感じで記述してある歴史本も結構ある。
244 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/13(日) 07:21:39
袁紹て朝廷に勤めてた若い頃に、取り巻きと一緒に曹操を虐めてたんだろ。
因果応報だな。
245 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/04/13(日) 08:44:40
ぷっ
袁紹の欠点は短命っつーか後継ぎも定めないまま死んだことだろうな
多分そんな暇もなくころりと死んじゃったんだろーね
後継ぎさえしっかり決めていれば豪族集団の棟梁的な袁紹のポジションはどの息子が継いでもそれなりにつとまっただろうし
>>246 官渡中なんかに豪族連中を処罰して名士仲間に権力与えてたから、もう少し時間があれば袁譚を頭にして名士仲間が補佐して豪族集団に君臨する体制が固まっていたと思う
どっちもすげーんだよ。
という事だな。