>>205>>207 成都から綿竹に赴いた面々の中に近衛兵を統轄する羽林右部督の李球がいるね。
それ以前に廖化、張翼、董厥を派遣しているから、おそらくこの時点で成都には
野戦軍としてまともに機能する戦力は無くなってたんじゃないかな。
そのせいで羽林なんていう近衛兵までが動員されたってことだと思うわけで。
瞻が羽林中郎将やってたよね
そのときまで兼任というのはないか
ケ艾が来たときに、実際どう判断したとかはどこにもないんだよね?
ショウ周の対応はあるけど
ショウ周伝読む限りじゃトウ艾が現れたときの対策会議で
議題に上がってるのが南方逃亡か呉亡命しかないあたり
諸葛瞻軍がまともな戦力として把握されていたようには思えないんだよね
劉禅が最終決定を下すまでの時間稼ぎでしかなかったんじゃないかなぁ
ぐだぐだの会議の結果、諸葛瞻が時間稼ぎに選ばれたというのを希望
本人もまじで?という感じで
213 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/13(木) 06:44:24
>210
衛将軍だからな。形式的には羽林を含む近衛兵を指揮するには適任でしょ。
>211
諸葛瞻軍が破れた結果、対策会議が開かれたんじゃなかったっけ?
対策会議がいつ開かれたか、ってのは難しいね。
譙周伝の該当箇所では、まずケ艾が江油を突破して長駆前進した事が書かれ、
その後に、ケ艾が既に陰平に入ったのを聞き、人々が山野に逃げ始めた事が書かれてる。
劉禅が群臣を招集した記述はその後の事だから、恐らくは江油が抜かれてからの事なんだろうけど、
「陰平に入ったのを聞き」という記述の扱いがよく分からん。
華陽国志だと「平地に入ったのを聞き」だから自然なんだけどね。
黄崇伝によれば、諸葛瞻はケ艾が平地に侵入する前に涪に着いている。
地図で見ると、成都から涪までと、江油から涪までは殆ど距離は変わらない。
直線距離だと江油の方が近いけど。
いずれにせよ、江油陥落の報が成都に届いてから諸葛瞻を派遣したとすると、
史実の状況に間に合うか否かはぎりぎりくらいだと思う。
「諸葛瞻が強行軍で、涪に着いた時は軍勢の集結が十分じゃなかったから前進を躊躇した」
ってのは前に述べたけど、もしかすると、諸葛瞻の派遣が決定された時は、
「諸葛瞻は間に合わない」って成都で認識されていたのかもしれない。
ただ、早期に降伏を決めたにしては姜維への報告が遅れているので、
会議がぐだぐだ続き、結論の出ないまま諸葛瞻をとりあえず派遣し、
最終的に降伏が決まったのはケ艾が雒城に入ってから、って感じかもね。
譙周伝でも、「ケ艾は既に近い位置にいるので降伏を受け入れない」という意見があったと言うし。
215 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/12/19(水) 06:23:32
諸葛瞻は行都護も兼ねてるよね。
だから、張翼等が派遣された際に後詰めと言うか、後備のよな感じで涪に派遣されたのではないかな?
姜維、張翼等の後方支援的な立場で。
涪は劉備の入蜀時やショウエン時代も軍事上の要地でしたから。
>>214 > いずれにせよ、江油陥落の報が成都に届いてから諸葛瞻を派遣したとすると、
> 史実の状況に間に合うか否かはぎりぎりくらいだと思う。
ケ艾伝だと「先登至江由、蜀守将馬毣降。蜀衛将軍諸葛瞻自鄜還竹、列陳待艾」。
つまり江由が落ちたので諸葛瞻は鄜から緜竹に軍を下げたわけで、諸葛瞻を派遣したのは江由が落ちたというのを聞いて朝廷がパニックに陥るよりずっと前だと思うよ。
あ、「鄜」じゃなくて「涪」だわ。
「毣」も「邈」だし……
この件はよく分からんのよね。
黄崇の伝だと、涪への到達はケ艾を防ぐ為に前進した後の事となっているし、
譙周伝だと、そもそも成都がケ艾の侵入を知ったのが江油の落ちた後であるかのように書かれている。
諸葛瞻の伝だと、彼の派遣した(であろう)先鋒が敗れた為に緜竹に退いたとあり、
ケ艾伝だとケ艾が江油を抜いた後、涪にいた諸葛瞻が緜竹に退いた事が書かれている。
ただ、ケ艾伝でも、江油を突破する前から諸葛瞻が涪にいたとは必ずしも言えないし、
黄崇伝でも、涪に到ったという記述の直前の、「随衛将軍諸葛瞻拒ケ艾」との関係も、
どこまでなのかは断言できない。
種々の記述を合わせて合理的に解釈するならば、もとより諸葛瞻は成都におらず、
剣閣で防御する姜維らの後詰として雒辺りに入っていたが、
ケ艾の陰平侵入を察知して涪まで前進し、逡巡しつつも先鋒を派遣したが敗れ、
緜竹まで後退すると共にケ艾の平地侵入を成都に報告した、と考えるのが良いのかもしれない。
>>219 > 涪への到達はケ艾を防ぐ為に前進した後の事
「隨衛将軍諸葛瞻拒ケ艾。到涪縣、瞻盤桓未進、崇屢勸瞻宜速行據險、無令敵得入平地。瞻猶與未納、崇至于流涕。
會艾長驅而前、瞻卻戰至綿竹、崇帥詞R士、期於必死、臨陳見殺」(黄崇伝)
この場合の「隨衛将軍諸葛瞻拒ケ艾」は以下の文の目的ではなく、以下の文の要約とは取れないかな?
「六年冬、魏征西将軍ケ艾伐蜀、自陰平由景谷道旁入。瞻督諸軍至涪停住、前鋒破、退還、住竹」(諸葛瞻伝)
これもそうだけどケ艾の軍の動きは単に事実を記述しただけで、その後の諸葛瞻の動きはそれを受けたものだとは必ずしも言えないんじゃないかな?
いずれにしても諸葛瞻がいつ成都を進発したかについては「ケ艾が陰平に侵入してくるよりも以前である」としても、どの記述とも矛盾は生じないと思う。
>>219 正直、これはどうとでも取れると思うよ。
読み方によって、黄崇伝や諸葛瞻伝も、ケ艾が来る前から涪にいたとしていなかったとしても、
そう大きな矛盾は生じない。ケ艾伝にしたって同様だしね。
どう解釈するのが最も蓋然性が高いかを、自分で判断するしかないと思う。
どっちをとっても、相手の意見を覆させるほどの違いは無いだろうしね。
追加の動員とかしてたんだろうか
禁軍を派遣するのは魏も良くやってたけどさ
全然関係ないんですが、三国鼎立時代の宦官のことを知りたいです。
何か良い本などありませんか?
「宦官」三田村泰助/中公新書
「宦官」顧容・葛金芳/徳馬書店
古いか…
225 :
223:2007/12/28(金) 23:01:55
>>224 ありがとうございます。
さっそく図書館で探してみます。
226 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/11(金) 09:57:27
保守あげ
このスレだと晋は対象外なの?
晋だと平呉戦くらいしか話題になってないみたいだけど。
>>227 全然問題ないと思うよ。
むしろネタ振り歓迎。
とは言ってみたが、あんまり思いつかなかったり。
魏晋の武将だとこのスレじゃ滅蜀か平呉がらみでしか話が出てこないけど、
それ以外の戦役で活躍してる武将がいるはずと思うんだよな。
司馬師・司馬昭時代の武将とか活きのいいヤツいないかね。
あと武将ばっかじゃなくて宰相とか学者とかも欲しいよな。
よく知らんけど何曾とか張華とか。武将だと石苞とかその辺。
陳寿を忘れて貰っちゃ困る
王祥とか
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2008/01/25(金) 01:43:05
馬隆とか
文鴦とか
王祥のことはあんまり知らなかったので晋書見てきたが、
曹髦が殺されたとき自分を責めて泣いたとかあるけど、
その後も晋に仕えて太保になったり大封もらったりしてんだな。
なんか偽善者っぽく見えて仕方なかった。
王祥は
蜜柑万引きの陸績
筍盗みの孟宗
と並ぶ三国時代の三大窃盗犯
>>234 ま、すぐ辞めてるし。
親孝行で有名な人物だし、根っからの偽善者ってことはないと思うけどねえ。
いつの間にか、スレの寿命三週間切ってるんだな。
次スレとかどうすんだ?
>>229 蜀が滅んだ後じゃなく、司馬師や司馬昭の時代まで考えて、
更に対蜀戦線や呉攻略に関わってない人物で有能な指揮官と言うと、
真っ先に浮かぶのは王基だろうね。
蜀が滅んだ後は、呉と晋の間では数年おきにしか戦争が起こってないから、
(比較的)有名な人物以外では、それほど名は挙げられないように思える。
交州では数年間戦火が絶えなかったし、樹機能らの反乱には手を焼いてたけどね。
話題って程のものじゃないんだけど、ゲーム能力値関係のスレ行くと、
極たまにだが、過小評価されてるとして霍弋の名前が挙がる事がある。
大抵は羅憲とセットとかでだけど。
そういう場合、話の流れから考えると、どうにも指揮官としてもっと評価して欲しいという感じなんだが、
正直、そんなに高く評価できるもんでもないように思えるんだよね。
指揮官として霍弋のやった事と言うと、精々、永昌郡の異民族を討伐したくらい。
成都への救援は終ぞ行われなかったしね。
漢晋春秋には交州を平定した事が書かれているが、これは呂興の蜂起を支援する形で部下を派遣しただけで、
霍弋本人は南中から動いていないから、指揮官としてどうこう言えるものじゃないし。
彼の場合、自国が滅亡するという状況にもかかわらず、
ただでさえ統治の難しい南中を、さしたる混乱も無く統制し続けた事が凄いんじゃないかと思う。
そういうのをゲームでどう評価するのかはよく分からんが。
霍弋に限った話じゃないけど、能力というより、人格とか意志とかで結果を出しちゃうやつがいるね。
特に籠城戦で名を成した武将。
能力的には未知数なのに、最後まで諦めずに戦い続けたことで結果的に勝利してしまう。
ゲーム的には評価のしようがないから、武力が高く設定されて野戦でも活躍しちゃったり。
まあ部下を離反させなかったのは統率能力の高さと言ってもいいかもしらんが。
そういった人格や意志も、一つの才能ではあると思うね。
不撓不屈の精神などは、状況を好転させるような幸運を招く事もあるし。
霍弋は史書を見た感じ、羅憲と違って都に上った様子が無いんだが、
敵国の臣下として一地方を鎮守していた人物を、一度も呼び出す事無く、
死ぬまでその地に留まらせたってのはどうなんだろうか?
呂興の蜂起以降、その呂興の死や、後任の死などが立て続けに起こった上、
最終的に呉の介入が始まったから、呼び出そうにも呼び出せなかったのかもしれないね。
まぁ、自分が見落としてるだけかもしれないけど。
そういや、むじんさんが石苞伝を訳してくれてる。
晋書は原文でも一応読んでるが、よく分からない部分も多いし、
分かった気になっている部分も、あくまで分かった気になってるだけだし、
こういうのは実にありがたいね。
確か陳羣だったか、才能は善行を行うための道具だとか言ってたと思うんだけど、
人格とか意志とかはそういう何かの仕事のツールではないよね。
それ以前の、善行をなさんと決定された段階で、その決定を下から支える別の何かだと思う。
将官に求められる資質ではあるが、能力とは別次元の何かだよ。
という主旨だった。分かりにくくてすまんけど。
羅憲は晋書に伝があるのに霍弋はないんだよな。
結局その程度の存在感しか無かったって事なんじゃないかな。
石苞は伝がそこそこ長い割に具体的な行動がよく伝わらないな。
諸葛誕の所がちょっと詳しいかなって程度。
勇敢さや冷静さ、大胆さや慎重さと言ったものは、人格に属すべきものだと思う。
それが天賦のものであれ、努力によって培ったものであれ、
その人間を構成する要素である以上、それが善行であれ悪行であれ、行動を決断して以降の、
種々の局面における彼の判断を変化させるものだと思うし、
その前段階の、如何なる行動を決断するかという事にも、それらは影響すると思う。
人格が才能・能力と別のものだったとして、何処までが人格で、
何処からが才能かを決める事は非常に困難に思える。
その陳羣の意見というのも、理はあるのだろうけれど、少なくとも自分にはよく分からない。
霍弋の伝は確かに無いね。
数年に亘り、南中と―間接的にとは言え―交州を統括していたのだから、
取るに足らないという事は無いと思うんだけどねぇ。
晋ではある時期まで、北の平州と南の寧州の刺史が3年に1度入朝するのが慣わしだったようだけど、
これはいつ頃からだったんだろうか?
南中を益州より分けて寧州とした事自体が、霍弋が死んでからの事だから、
霍弋の話にはあまり関係なさそうだけどね。
270年頃から始まった、涼州、秦州、雍州における動乱を考えているんだが、よく分からんね。
一方では樹機能に殺された事になっている胡烈は、
他方では白虎文と薬蘭泥に殺された事になっている。
一方では武威で死んだとされている楊欣は、
他方では丹嶺にて死んだ事になっている。
丹嶺だと沓中の少し北辺りになるので、武威という記述とは一致しない。
胡烈の敗死した万斛堆と、牽弘の敗死した青山は位置も近いし、
宋書五行志では二人とも白虎文と薬蘭泥に殺された事になっている。
動乱の烽火となった胡烈の敗死は、
その後の牽弘の敗死と同様の部族によって為されたものと見ていいのかもしれない。
晋書の載記などの禿髪部の記述では、10年近くにわたる動乱を主導したのが
樹機能であるかのように書かれているが、実際に樹機能の名前が現れるのは275年頃から。
単に最後まで戦い続けたというだけで、実際は、
同時多発的に反乱しだした多数の部族の一首領に過ぎないのかもね。
まぁ、まだそれほど多くの史料に当ってるわけじゃないから、
これから色々調べて全貌を把握する必要があるけど。
あまり人気のある話題ではないかもしれないが、
各人に先行してるイメージってのも面白いよね。
例えば陳泰ってやってることだけ追いかけると、相当司馬家にベッタリの腰巾着(言い方悪いが)なのに、
東晋の頃には「魏帝に忠義を尽くす数少ない気骨の士」みたいに書かれ、
世説新語までくると司馬昭に向かって遠まわしに「お前が責任とって死ね」と言わんばかりだったりw
やっぱりあの年に亡くなったというのが世間の想像力を書き立てるのですかね。
確かに陳泰は生真面目そうなタイプだけど…
そもそも陳泰は、司馬師、司馬昭兄弟の親友だしね。
陳泰の後任として司馬望、司馬望の補佐としてケ艾、
そして司馬望の後任には鍾会が配置された事を考えても、
対蜀戦線は司馬氏に信頼されている人物が置かれていたのだろうし、
司馬望にいたっては一族だしね。
東方では王淩、毋丘倹、諸葛誕と立て続けに反乱が起こったけれど、
西方はそれによって動じる事も無かったというのも、そういう事を表しているように思える。
ただ、親友ではあっても、皇帝を殺すという暴挙に対しては何か含む所はあったのかもね。
何の根拠もなしに、そういった逸話や評判は生まれないだろうから。
少し違う話だが陳泰に関連して、以前、と言っても数年前で、ここではなく、
姜維北伐スレでの事だが、ちくまの三国志でケ艾を王経の後任としている事は間違いで、
実際には陳泰の後任だったんだろう、という内容の話をニセクロさんとしたんだが、
やはりあれは王経の後任で良いのかもしれない。
どうも雍州刺史というのは、都督の麾下ではあったけど、
上邽にあって隴西の軍を統括していたように見受けられる。
ケ艾は結局、都督雍涼諸軍事にはならず、隴右諸軍事であったので、
実質的には雍州刺史の権限を拡大したものに過ぎず、陳泰の後任と考えるべきではないのかもしれない。
陳泰の後任としては、既に述べたけど司馬望が送られていたしね。
そういえばその王経の方も高貴郷公殺害にあたって難しい立場に立ってたね。
武力蜂起を思い止まらせようと説得するものの、かといって司馬昭に密告もせず、
結局王経の方は死罪に処せられちゃうわけだけど、ある意味陳泰は幸運だったのかもね。
聞いたタイミングが違うだけで、心情的には似たようなものだろうから。
確かこの時の王経の役職が尚書だから、当時も陳泰の部下に当たるのかな?
司馬孚が司空に移ってからの尚書令がハッキリしないが、
この系統の人士は皇室に対して特別な思い入れができるのだろうか。
何故王経は殺されなければならなかったのだろうか?
世語に拠れば、王業と王沈が王経の意思を司馬昭に伝えなかったからとあるけど、
この王経の意思がどんなものだったのかは分からないし、
王業や王沈が司馬昭に伝えなかった理由もよく分からない。
王経を蹴落とそうと故意に伝えなかったのか、
気付いた時には王経を弁護できないような空気になっていたのか。
向雄が慟哭した話や、皇甫晏が王経の埋葬を行った話も世語だけど、
世語では王経の人格はやたらと評価されてるみたいだね。
太后の命の中に王経を名指しで殺害するようにとの文書があるらしいから、
高貴郷公を唆したとして罪を着せられたのかも。
高貴郷公を殺した大罪は既に成済に擦り付けたわけだけど、
高貴郷公が何故あのような暴挙に至ったのかという理由には殆ど触れてない。
その辺りを王経個人の罪にして、司馬家の専横という本来の原因を表面上隠蔽しようとしたとか…
根拠のない与太話で申し訳ないが。
一個一個は世話のツクリの可能性もあるけど、ここまで重なると王経もやはり一角の人物だったのかなと思っちゃうな。
姜維に負けたというだけで侮られガチなのはなんだか可哀想だ。
この辺は推測するしかないだろうからねぇ。
ただ、王経が唆したとするのならば、皇太后の詔勅でその事に触れても良いように思える。
単に悪逆非道であると王経の人格を非難するだけで済ますものだろうか?
数年後には、武帝が詔勅によってその孫を郎中に取り立ててるし、
王経が曹髦を唆したという構図を作ったわけではないように思える。
曹爽を嫌って、その命令書を開きもせずに江夏太守を辞したり、
蜀の侵攻と羌族の離反によって不安定になっていた雍州の刺史を任されたり、
高貴郷公の事件までは、司馬氏寄りの人間として評価されていたように思えるんだよね。
個人的には、「汝田家子」という王経の母の言葉にあるような気がする。
農民出身の王経を、太原王氏の王沈なんかは内心嫌っていたのかも。
そういや、晋書王沈伝に、「沈既不忠於主、甚為衆論所非」とあるんだが、
これは世間で王沈が非難されていたという事だよね。
そのわりに、反司馬氏の動きは完全に抑えられていたように思える。
>>250 皇后による指示が出た時には「凶逆無状」だから殺せと言ったのに、
武帝の時には「法によって身を陥れられたとはいえ、志操は貫き通したのだ」と真逆の表現になっているから、
この間に王経に対する評価の変化があったと考えるのはどうだろうか?
例えば今までに挙げられたように、事件後も文帝の意向に反して王経の追慕が続いたことや、
高貴郷公殺害の事件直後から、既に世間では事実に近いことが知れまわっていた様子が散見できることなど。
(ご指摘の通り、王沈が世間から非難を受けたこともその証左の一つかと)
この辺りを考慮した結果、晋の武帝は即位に際してケ艾・王経など、
『罪を着せられた人間』の子孫に対する恩赦を出すことで、
司馬家に対する反感を抑えることを狙った…みたいな。
>>251 なるほど。
結局、推し量るしかないってのが辛いところだね。
なんにせよ、王経はもうちょっと注目されても良い人物だと思う。
大半の人は覚えてないだろうし、覚えてても「姜維にボコられた人」くらいの認識しかないだろうし。
晋書の荀勗伝に関係ありそな記事が。
カッコ内の補足は勇み足だと思ってスルーしてくれ。
高貴郷公の変のさい、大将軍掾の孫佑らが門を固く閉じ、司馬幹は司馬昭の元へ着くのが遅れた。
これを聞いた司馬昭ブチギレ。孫佑の親族まとめて誅殺しちゃる!と考える。
荀勗はそれを諌めて、
「いやそりゃあ弟君を通さなかった孫佑にも落ち度はありますけど、
物事には順番ってものがあって、感情によって刑罰に軽重を付けるのはよろしくない。
いま成倅の兄弟だけがお咎めを受けています。もし(これだけのことで)孫佑の親族に
まで刑を及ぼすなら、(この事件に反感を持った)義士たちが私義することが心配です。」
こうして孫佑は庶人に位を落とされた。
254 :
253:2008/02/13(水) 23:17:09
×私義→○私議 ですー。
上手く言えないし関係ないかもしれないんだが、司馬氏って、初めて「名士層から皇帝になった」んだよな
つまり名士の評判とかコミュニティに皇帝家自身が取り込まれている
しかしその一方で皇帝となると名士以外の層の忠誠も勝ち得なければいけないんだよな
諸葛緒、胡烈といった武門との婚姻やケ艾・王経の名誉回復などは、非名士への配慮から生まれたんじゃないかなあ
>>253 荀勖伝は以前読んだので、その話も少し覚えてる。
少し疑問なんだが、「今成倅刑止其身、佑乃族誅、恐義士私議」という文章は、
皇帝を殺した成倅らは刑が一身にとどまり、親族には及んでいないのに、
孫佑については親族ごと誅殺してしまっては、司馬氏に反するような態度をとるだけで
族滅の憂き目に遭うような状態を恐れ、義士が密議を企む事になる、という意味だよね?
つまり、高貴郷公の件に限定してかは分からないけれど、
司馬氏に対する蜂起を促すような行動は慎むべきである、という進言なわけだ。
この進言がいつの事なのかが気になるね。
王経を殺してしまった後だとしたら、それまで親司馬氏だった人物を、
高貴郷公のもとにとどまっていたという理由だけで母と一緒に処刑してしまった事で、
既に、ここで「義士」と呼ばれている人々を刺激してしまっている事になるから、
この荀勖の進言もより重要性が増すように思える。
>>255 名士論が正しいとしても、名士というのは「名士」という一枚岩ではなくて、
幾つものコミュニティの集まりなわけだよね?
名士と非名士の対立と、その両勢力の取り込みという形ではなく、
名士の各々のコミュニティにせよ、非名士の各々の集団にせよ、
政権を構成するより多くの要素から支持を得なければならないという事なのではないだろうか?
あと、胡烈に関しては、晋書胡奮伝に武門の家である事が書かれているから分かるんだけど、
諸葛緒は琅邪の諸葛氏なんだけど、これは武門と考えていいのだろうか?
>>252 卑賤の身ながら名声があり、どうやら市中の人々からの人望もあり、中央官僚としても出世してる。
地方刺史としても純粋な軍才こそないのかもしれないが、
キチンと部下の心を掴んでるという一点だけでも評価に値するはず。
人格的にもそれなりに人気でそうなタイプなんだけど、
一番人目を引くのが殆ど唯一の汚点である敗戦なのが痛いね。
この辺りの人間だと調べようと思って追っかけないと見えてこない人達だから。
>>257 そもそも、五丈原以前と以後で人気に大きな差があるしね。
俺自身、自分で色々と考え出すまでは、王経に対する認識は姜維に大敗を喫した人物という程度だったし、
今でこそ王基や王渾を賞賛してやまないけれど、数年前は殆ど知らなかったし、
王経辺りが注目されないのは仕方の無いことなんだろうね。