1 :
魏延:
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 14:45:45
孔明、劉備、法正の能力比較
孔明
統率 A
内政 A
外交 B
軍事 C
魅力 C
劉備
統率 A
内政 B
外交 B
軍事 B
魅力 A
法正
統率 C
内政 B
外交 A
軍事 B
魅力 C
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 14:49:22
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 14:50:00
>>4 劉備は大敗続きの負け人生だが
軍事Bもあるのな
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 14:52:31
>>6 1 戦術的には必ずしも弱くない
2 負けても常に生き残る
というかなんで法正と孔明と劉備なんだ?
だいたいこの三人を比べるのがおかしいだろ??
普通なら、主君は主君。軍師は軍師。文官は文官だろ??
違う立場の奴を比べてはいかん
劉備と法正の内政が同等?
諸葛亮と法正の魅力が同等?
>>3 せめて各項目がどんな内容でを指していて、どういう基準で各人の優劣をつけた書いてないとそもそも突っ込みようがなくね?
>>10 そう。
まさにそこからしてつっこみどころだから「満載」だと思ったのよ。
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 14:58:29
>>9 劉備は内政の達人ではないが人事眼が優れてる
法正も蜀の法律制度作りに関わってる
諸葛亮は個人の魅力というよりトップとしての統率力で評価してる
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 15:00:00
ちなみに
A=達人
B=得意
C=可もなく不可もなく
D=苦手
>>7 諸葛亮も
劣勢の戦力(劉備がイリョウで燃やしちゃったよ!)
戦術的には必ずしも弱くないし(敵も誉めれてくれるよ!)
負けても常に生き残る(兵の損害も無いよ!)
劉備の「戦術的には必ずしも弱くない」ってのはどこから来たの?
敵国には小馬鹿にされたりしてるけど
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 15:05:19
魏延、姜維の能力
魏延
統率 B
内政 B
外交 C
軍事 A
魅力 B
姜維
統率 C
内政 D
外交 B
軍事 B
魅力 C
>>15 いかにも姜維嫌いの魏延厨らしいな
がんばれ
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 15:10:33
>>16 公平に評価したらこうなっただけ
私情は入れてませんよ
>>17 私情入りまくりジャンw
姜維の統率が低すぎる!
魏延の魅力が高すぎる!
姜維の軍事が高すぎる!
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 15:22:28
>>18 姜維は無謀な外征で不満もたれまくってましたから、上に立つものとしての統率力は高くつけられませんね
魏延は劉備からも信頼され、部下からも父のように慕われてましたから魅力は高いですね
姜維は軍事的才能はそこそこありますよ
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 15:24:52
ですYOの最近はあやまることばっか〜。
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 15:26:03
もし法正の軍事がBなら、さしずめ孔明はHぐらいか。
基準も理由も書かずにアルファベットだけ並べてる人間はそれで相手に自分の考えが伝わると本気で思ってるんだろうか…
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 15:30:58
>>21 法正は軍事の軍略面では非常に活躍してます、ただし自ら将軍として兵を指揮したことがないのでBです
周りの将軍の同調も得られず、配下は王平の一喝で四散した魏延にそんな魅力あるわけ無いじゃん。
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 15:35:26
>>24 当たり前の話でしょう、魏延についたら謀反人になるわけだから
劉備の場合は謀反人になろうと人がついてくるから魅力Aです
姜維の外交Bって、なにを評価したの?
大将軍として軍事遠征の繰り返すばかりで、外交らしきことしてたっけ?
>>21 法正って兵を自分で動かせないし
作戦は黄権に看破される常識的な普通の作戦
劉備が最大戦力を持っていた頃に勝利したに凄いのに
凄いね
またただの能力値評価になってますよ
他のスレでやればいいじゃない
>>23の論理だと自分が総大将で一軍率いてない奴は全部Dになるな。
趙雲も黄忠も曹仁夏候一族全般全てDになりますね^^;
>>25 何その意味不明な基準
諸葛亮の遺言ありとは言え、政争なのに人望の無い楊儀にも劣るような人望で
諸葛亮の魅力の上をいってのBとか有り得ないから。
同じく統率B・政治B・外交Cの基準も訳分からん
>>30 軍事、が智謀に近い判定だからまず武力馬鹿はオールCとかDにしかならんw
>>32 「劉備を招くのは二君存在させるようなものです」と諫めたら左遷された。
多くは降伏したが黄権は門を閉ざして屈服しなかったが、劉璋が降伏すると劉備に出頭した。
劉備はその忠義を認めて偏将軍に任じた。
これ以外に入蜀にある記述ってあったっけか?
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 16:29:20
ゲームじゃないんだから、
せめて「統率」「軍略」「武力」「人事」「内政」「外交」「計略」「魅力」「権威」
これぐらいの項目に分けて話せ。
勿論評価は100段階で。
昔のファミコンですら4段階の評価なんて有り得ないのに。
>>34 漢中戦な
何?君の正史だと、法正は益州でも軍事で大活躍してんの?
地図持ち出し以外で
>>35 ゲームだから数値ではなせるんだろ?
歴史人物をどうやって細分化した数値で語るんだよ
アホか
>>34 後主簿だった、ぐらいじゃね?
全く最近の演義厨は「見た」とだけは言う脳みそを持ったようだw
>>36 漢中戦は「張魯を迎えに行かせたが既に曹操に下った後だった」のはずだが?
定軍山には法正と黄忠以外確実に参陣していたと言う確証が無いわけだけど
君の正史の全文だとさぞかし大活躍したように書かれているんだろうねえ?
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 16:36:18
>>37 ゲームではその性質上、能力の項目を多くする事が出来ない事を俺は言っている。
君の頭は蟹味噌でも入っているのか?
地図渡す、がまず演義の演出の件。
もう語るに落ちたとはこの事だな、喋るほどにボロ。きっと蟹ミソじゃなく蛆湧いてるんだろう。
まあ孔明ファンは法正を評価するわけに行かないからな・・・
ファンは専門スレでオナニーしてればいいのであって議論スレでプッシュするのは困るわ。
「しかしトコ・フコを撃破し、夏侯淵を殺害し、漢中を支配することになったのは、
すべて黄権がもともと立てた計略にそったものであった」
横スレだが↑の様な文書が正史にばっちり書かれてるな。
三戦板で関羽・孔明・姜維の評価を悪く言うのは北朝鮮で金正日侮辱するのに同罪だ。
しかし黄忠伝と張コウ伝には法正、夏候淵伝には先主(劉備)とあり本当は誰だか不鮮明ではある。
列伝形式だから各人物ごとに重複矛盾するような記述いっぱいだけどな
>>41 地図を書いて益州の詳細を教えたというのが注釈の呉書に載ってるから、
演義って訳でもないと思うけど。
>>45 まあ一人で全ての策謀を決定するって方が不自然だから、
参謀として法正も黄権も参与しただけって気もするが。
ただ夏候淵伝は蜀側のマイナーな人物を扱わなかっただけだと思う。
>>39 作戦を看破するのになんでその場所に居なきゃいかんのだ?
>>26 姜維云々はともかくとして
戦争ってのも主要な外交手段のひとつだろ
実際、諸葛亮の北伐は魏を倒すとか長安を奪取するとかよりも
「魏と戦ってます」って主張するのが目的だったわけだし
>孔明ファンは法正を評価するわけに行かない
こいつ、こんな論理が正しいと思ってる時点でゴミ以下じゃないの?
諸葛亮には諸葛亮の、法正には法正の評価されるものがあり
それぞれ高く評価されるカテゴリーが違うだけって話
なんで頭の悪い法正厨は法正に有利な土俵で諸葛亮を貶す事だけに
汲々としてるわけ?
>>40 四段階もなにも
人物を数値化しようとしてる時点でゲームのやりすぎ
能力の項目を多くする事がとか以前の問題
ゴミ以下ってのは賛成だが法正は法正、諸葛亮は諸葛亮で評価すべきで
なんで比べて甲乙を付けたがるんかねここの住民は
>>52 ハゲド
キチガイはともかく良識ある人間は諸葛亮と法正なんて比較せんものね。
ハナから役割の違う宰相と軍事参謀を比較する事自体おかしいのに、
軍事参謀としての一面だけで比較してほくそ笑んでるアホは法正厨だけ。
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 17:36:37
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 17:38:34
>>53 孔明厨が普段から、
「孔明は軍事の天才!」とか「完璧な軍師!」
とか言ってるから、こんなスレが立つわけなのだが・・・。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 17:39:05
>>55 日本語が読めませんでした、って正直に言えよチョンくんw
>>49 >戦争ってのも主要な外交手段のひとつだろ
もちろんそれはわかっているつもり。
ただ、あくまでも姜維について尋ねてるわけなんで。
彼の北伐によって対外的な効果があったかは微妙だし。
>>56 別にスレを批判してるわけじゃないと。
孔明の能力を低く評価するならするで、法正とか魏延とか出す必要ないだろ
ってことだとおもうよ
>>59 蜀の武将で孔明と同時期にいて軍事を担当してた人間だから
名前が挙がってきても別に不思議じゃないと思うが?
孔明の政治力と比べてるわけじゃないんだし。
>>56 軍事の天才とか言ってる人居るの?
過去スレでもよいので教えてみ?
>>61 自分で探せ。
このスレにも以前いたし、三国板全体なら腐るほどいる。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 17:53:09
後の北伐を見ると諸葛亮が『魏と交戦するよ』
とアピールするためという真意がヒイ位にしか伝わらなかったんだね。
蒋エンの寿命がもっと長ければなあ
と孔明厨なら誰もが一度はおもうはず
どうやら日本語すら不自由なレベルのようです
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 18:01:06
でも法正「厨」とか相手を見下す時点で自分も厨だよねー
まずそこら辺が孔明「ファン」の人たちには理解できてないんだから困ったものだ。
孔明と法正の違いは、単に劉備の生前と死後の蜀と言う一点に過ぎないと思ってるけど。
法正厨と言う奴がイコール諸葛亮ファンとは限らないと思うのだが
もう頭の悪すぎる子は書き込まないでもらいたいもんだ
まあどちらにしても××厨と決め付けたり、特定武将を卑下する奴は来るなと言う話かな。
間違いなく諸葛亮も法正も蜀漢にとってはS級の人材であった事は間違いない。
うむ。あの国力で五度も北伐し超大国魏とタメを張った。
この事実だけでも亮の軍事は3S+。
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 21:10:18
諸葛亮の真の偉大さは対陣中にカブラの栽培を行なった事だ!
軍事ってなんだよ。
陣頭指揮能力、軍勢を揃え効率よく進退させる、
兵戸数に応じた動員可能兵数を管理する実務、部隊の編成
補給物資の調達整備、敵情把握、前線偵察、
いろいろ含むが、それで諸葛亮や劉備がCとかBって… ??
>>73 いや、真の偉大さは饅頭の発明のほうだって。
気球も発明したんだってね
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 23:50:24
孔明は天才です
どんなに事実がねじ曲げられ捏造された歴史書がでてこようともそれが真実です
今なお、たくさんの人々に尊敬され愛されているのが、その証拠
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 00:27:49
孔明に人事と軍事の才はないということで
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 00:31:04
孔明伝要するに機を掴む能力が欠けていた
正史は捏造でFA?
81 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 00:43:08
何故捏造と思ったの?
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 00:43:28
sage出来てない奴これ全部同一かw
蒸し返すんじゃねえとか釣られて反応するところだったぜ・・・
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 00:54:11
ぶっちゃけ孔明は政治家として、北伐でリスクは取れなかったといってる信者がいるが
曹操なんかはリスク取りまくって、自分より強敵に勝ったから英雄といえるんであって
諸葛はただの文官。
勢力が安定しちゃうと「隴を得て蜀を望む」とか言っちゃう
曹も文官
一応諸葛亮の軍事について聞いてみたいことがあるから、ちょっと聞いて欲しい。以下2ページの長文です。
諸葛亮の指揮といえば益州制圧の援軍・南中の征服・五度の北伐。
その内一定の成果を納めたと言えそうなのは益州・南中、三次北伐の二郡占領。
そして特筆すべきは四次北伐の郭淮らの軍、司馬懿軍の連続撃破だろう。
しかし、よくよく考えてみると、四次北伐時にこれだけの戦果があったとしたならおかしな点がある。
それは何故勝った蜀側の諸葛亮伝・後主伝などの本文にこの勝利が全く触れられて居ないのか?という点。
負けた側に載っていないことなどしょっちゅうだが、その場合勝った側の国の伝に載せるのが「三国志」の基本姿勢。
確かに最終的には撤退したが、だからこそ(蜀側は)局地戦の戦果を声高にうたうものなのに、この時は全くない。
それまでなら撤退時王双を殺しただの魏延が郭淮を蹴散らしただの、ちょうど四次北伐でも張コウ射殺はあるのに、
郭淮・司馬懿連破だけない。
そこでこの二つが何に書かれていたかと確かめてみるとどちらも「漢晋春秋」だとわかる。
これは「蜀漢正統論」に基づいて書かれた恐らく最初の書であり、全体的な傾向として、
「晋武帝が諸葛亮を賞賛した」とか、諸葛亮がいかに偉大であったかを説き、
あの信憑性が疑問視される「後出師の表」を載せ、「七縱七禽」、「死せる孔明、生きる仲達を走らす」などに続く。
先祖の習禎は劉備に仕え、荊州出身の名士として龐統に次ぎ馬良以上の名声の持ち主、李漢輔臣賛にみえる。
…つまり、仮説としてこの大勝の信憑性は大いに疑えるんじゃないか?ということ。
それがなければ、諸葛亮は詳細不明の益州・南中と、派遣した陳式が取った二郡、魏延の勝利だけとなり、
所謂「諸葛亮はそこまで軍事に通じていないのでは?」という説に繋がる。
ただこの説に自分なりの反論を加えてみると、全く逆の可能性も出てくる。
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 01:17:49
続き。
全く逆の可能性は何かというと、「三国志、あるいは魏に阿る史書において司馬懿は特別にプロテクトされているのでは?」という説。
つまり、晋の初代皇帝である司馬懿に都合の悪い記述は魏・晋側の書だけでなく、呉蜀書に渡って隠蔽されてるのではなかと。
根拠としては漢晋春秋も体裁としては「蜀→晋と受け継がれてる」としてるわけで特別(晋の基礎を作った)司馬懿を貶める意図はないであろうこと、
四次北伐において魏書・呉書共に司馬懿の大敗こそないが、同時進行の張コウが王平を攻め、これを防いだことは王平伝に存在すること。
これが漢晋春秋の記述は確かで、司馬懿敗戦のくだりだけ削った可能性を示唆してる可能性もある。
ただ、漢晋春秋の方が後発なので単に王平伝を見て脚色しただけかもしれないし、司馬懿だけ削るにしても郭淮の敗戦は削る必要ないわけで、
むしろ後付け説の根拠にもなるかもしれない。 張コウの戦死自体も両者共通し、これまたどっちにもとれる。
仮に漢晋春秋の記述を信じるなら、司馬懿は張コウの懸念を無視して結局懸念通り部下の突き上げを食らい、
それを捌ききれずに張コウに王平を攻めさせ自分は諸葛亮を攻めるもこれに大敗。
これまた張コウの読み通り兵糧難から退却する諸葛亮を、張コウが「危険だ」と指摘してるのに追撃させ張コウを死なせる…
この戦いにおいて歴戦の読みを見せた張コウや、部下の突き上げも抑えきって最後には敵軍を文字通り壊滅させた陸遜などに比べると、
一段下の将軍に(この記述を頭から信じるなら)思える。
もし仮に蜀書においてすら戦術的には大敗した事実が隠されてるなら、他の戦いはどうだったのかなという疑問も出てくる。
転載&一部修正になるけど、この辺皆はどう解釈したらいいと思う?
蜀書は元々欠落だらけ
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 04:27:11
正史を編纂する頃までショクのようなド辺境の弱小国に正式な記録なんて残っていたのか?
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 04:38:23
曹操の能力
統率 A
内政 B
外交 B
軍事 A
魅力 B
陸中策の信憑性ってどうなのかな。
密談のはずなのにずいぶん詳細なことが書いてあるし孫権、劉表、劉璋を
無視した内容、もし相手に知られれば同盟どころではないはず。
初めて中華まんを作った人。
93 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 05:34:03
オイラは今でも、孔明は偉大な軍師と思っちょる…
…昔この件でとある所に、論文書いた事あったなぁ…
南伐、北伐は貿易道の確保の為だと…
つまり、北部侵攻はシルクロード確保のついでと言うところじゃないかな?
あわよくば長安を確保出来れば儲けものといった感じかな…
北伐で長安目指すのは、その後の防衛のためです
関で防衛できるからね
むしろ、孔明の目指すは魏の支配が不安定な涼州を切り取ることじゃないの?
そうすれば自ずと長安は指呼の間となる
それよく言われるけど涼州を切り取っても維持できるか?
できる。
魏が涼州を取る為に遠征すれば長安が空く殊になるから
蜀が涼州を取る場合は魏の連絡線を切ってやれば反曹と馬超等のコネで
遠征する必要が無い為、魏方面の戦力を割かずに涼州制圧は可能である
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 07:27:07
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 10:11:50
>>93 蜀が三国随一の商業国家であったのを考えればあり得る。南蛮討伐も食料の補給地とビルマ・ベトナムとの交易ルート確保が目的だから。
>>96 馬岱を仮節涼州都督にして半ば涼州を異民族の自治を認める形にすれば維持はできる。
でも正史では馬岱は二箇所にしか記述ないレベルの人物だからなあ・・・
悪いけど孔明にそう言う(馬岱起用)ヴィジョンは無かったと思う。
あったら北伐時に前もって涼州刺史に任命して同道させるくらいの行動取るだろう。
というよりも、魏の影響力を薄くしてしまえば涼州独立するだろうから
同盟結べば十分じゃね?
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 12:33:06
>>100-
>>102 シルクロードのウマミがなくなるだろう。そのウマミ欲しさに魏も西域の国の使節を呼びまくってるし、「親魏〜王」という印
綬も与えて土産を持たせたりと国力を割いてる。経済が農業主体だった魏にしてみれば相当な負担だったと推測される。
涼州を纏めて独立できるようなやつって誰よ?
第一、他勢力に取られたんじゃ貿易できないじゃないか。
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 12:41:54
>>104 通行料、中間搾取が増えるだけで貿易そのものはストップしない。その分、西域からの文物の
料をコントロールされたり、代金に通行料分が上乗せされることにはなるけど。
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 13:10:07
涼州切り取りにしても独立にしても結局失敗してるんだろ?
>>106 西晋滅亡後、五胡十六国時代に一時期涼州が国が出来て独立してる。
まぁ、涼州を占拠することで魏に決戦を強いる事が出来、それに勝てば長安までいける
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 13:40:46
>>88-89 まず史官を置かなかった件にしても、陳寿にとって不鮮明になるのは放浪時代の記述だろう。
実際に蜀に住み蜀に仕え、祖父は諸葛亮の指揮を受け、本人が諸葛亮集を発表してるくらいなのに、
あれだけ大きい事柄を知らないわけもないだろうし、王双の撃破みたいな細かい事象も見逃さない諸葛亮伝も杜撰とも思えない。
「杜撰だから抜けたんじゃないか?」という説は殆ど有り得ないと思うのだが…
>>110 史官を置かなかったって、つまり情報を集めて分析するような機関がなかったんだな蜀には。仮に情報があっても孔明が1人それを独占するよう
なカタチにしてたのかな?そのメモ的な文書が断片的に蜀の役所にたくさん残ってたのを陳寿が編纂したのかも。陳寿の師匠は天文とかそういう記録関係の役所の
人だったのでそのツテで蜀書を作るときに蜀の役所の文書も見れたのかも。
>>109 しかしその時成立した前涼は五胡十六国期前半では唯一の漢民族政権。
異民族が多数を占める州で異民族に抵抗する政権が成り立ったのは皮肉の話だ。
西晋自体には終始服従し中央に反目したのはその後の前趙(匈奴劉氏政権)に対して。
その地に居たテイ族や羌族が築いた政権が蜀の後に作られた成漢だったり前涼を滅ぼした前秦など。
もう少し蜀が長持ちしてたらテイ羌族にクーデター起こされて滅んでいたかも知れんね。
姜維が北伐時に曹操ばりにその二族を強制的に移民させたのが遠因だし。
国だけでなくても楊儀のように人物評を書いてる人がいるしそのようなものを参考にしてるんじゃね。
>>112 蜀の場合は非生産要員が異常に多いので生産要員を増やさないと国が持たない
という切実な理由からだろう。だから姜維も北伐の「成果」としてその移住を推進したような希ガ
ス。
・魏呉蜀の各役所に残ってた記録文書
・個人の伝ならその当人の親族(息子娘・孫)の証言
・地域の古老による伝承
・それまでに発行されてきた書物
を参考にして三国志を書いたんだろう。
>>104 各州づつ、小さい単位で
同盟って言っても、そのうち相手から帰順の申し出になるだろうし
涼州って独立性が高いから蜀が取ったら反逆食らうんじゃね。
呉に全幅の信頼を置かなければ
とても長安奪取して魏と雌雄を決しようなんて思えないとおもうんだけど。
>>117 馬超を助けた、部下になったという事実は
涼州じゃ大きな意味を持つから
魏よりは治めやすいと思われ
ばちょ死んでるしあんまり効果ないと思われ
>>86 第4次北伐の記述に関しては晋書の宣帝紀に
漢晋春秋とはまったく逆の戦功の記述があるけど
この戦功も三国志には見えない
直接戦闘で司馬懿が蜀軍を破っているなら
魏書がそれを記述しないのは不自然な話だし、
だとするなら、この晋書の記述も疑わしいものになる
第4次北伐の戦闘部分が漢晋春秋も晋書も疑わしいとなると
そもそも直接戦闘が行われたのかも疑問になってくるんだが
第5次北伐時の魏の方針が陣営に立て篭もり持久戦に持ち込むことであったのに対し
第4次の時にはそのような命令も方針も見られないことから
それなりの規模の戦闘は行われただろうと思うのだが、
どちらの戦功も三国志が記述していないとなると
わざと記述を避けているのでは?と疑いたくなるな。
それが司馬懿と諸葛亮のどちらに遠慮して避けているかはわからないが
>>121 両軍が対峙してる際、ぶつかりあいが何度かあり、
魏が勝ったこともあれば、蜀が勝ったこともあった。
両軍とも当然のように、それぞれ自軍の大勝利のみを誇大にアピール。
が、実際はいずれも戦局を決定的に左右するほどのものではなかった。
なので陳寿は、司馬氏への遠慮と諸葛亮への敬慕もあり
特別一連のぶつかり合いは記録しなかった。
晋書は司馬懿の顕彰のため、司馬懿の勝利のみを記述し、
漢晋春秋も諸葛亮を称えるため、亮の勝利の記事のみを書いた。
みたいな推測じゃ駄目?
4次は優勢であったのに兵糧切れから撤退というのはどの伝?
やはり、4次は孔明が勝利したんじゃないか
>>121 晋書か…まあ魏書に司馬懿の戦功が中々見えてこないのは三国志内に司馬懿の伝が無いんだからある程度はしょうがないのかも知れない。
晋書だと司馬懿は諸葛亮に限らず朱然と戦った時も「追撃し、〜万人を斬り殺し捕虜にして云々」とあるけど、
明帝紀には「守りきった」としか書かれない。…これこそ多分に水増し疑惑があるところかも。
あれだけ直接戦闘を望んでた諸葛亮が司馬懿の登場に逃げて守りを固めたり、
結局二つの山や河を用いて二重に固めた諸葛亮渾身の堅陣を突き破ったり…
>>86で酷評しといてなんだがまだ漢晋春秋の方が信憑性ありそうと思ってしまう。
直接戦闘は少なくとも二度、「張コウが王平を攻め王平が防いだ」「退却する諸葛亮を張コウが追撃するも逆に矢を受け死亡」
これは三国志本文中に確認できた。
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 17:55:43
四次はあまり目立たないな。
一次は馬謖がやらかして
二次は陳倉を攻め抜けず
三次は張コウ倒すも李厳がやらかして
五次は五丈原の対陣。
>>122 そういう解釈もありだとは思うんだが三国志以外の魏関連の史書にも
司馬懿の戦功が書かれていない(裴松之が注に取り上げていない)のがちょっと気になるかな
まあ、裴松之の時代には諸葛亮神聖化が始まっていて
その影響を受けたという可能性もあるけど
>>123 優勢だったという記述は三国志中にはないんじゃないかな
兵糧切れによる撤退は明帝紀にも後主伝にも諸葛亮伝にも記載されているので
第4次北伐における蜀軍の撤退理由は
戦闘による損害ではなく兵糧切れであることは確かだろうけど
>>124 確かに司馬懿本人の伝がないから司馬懿の勝利は書かれなかったという可能性もあるわなぁ
晋書は各所に水増しじゃねぇの?と言いたくなる箇所があるからなんとも困るんだが
86は酷評ではないと思うよ
むしろ漢晋春秋の資料的な問題提起は諸葛亮を考察する上で重要なことだと思う
128 :
関中攻略法教科書:2007/02/08(木) 17:58:41
B.C.206
8月、劉邦は韓信の計を用い、旧道から関中に入り、雍王章邯を襲った。
章邯は陳倉で迎え撃ったが、敗れて退却し、 好畤に陣して戦ったが、敗れて廃丘に敗走した。
劉邦は雍の地を平定し、咸陽に進軍し、章邯を廃丘に囲んだ。
10月、韓信は函谷関を出て、魏の河南地方を手に入れ、韓王・殷王らはみな降服した。
漢軍が関中を攻略し中原に出るのにかけた時間は2か月だった。
漢・魏時代の知識人は皆、この韓信の関中攻略を知っていたし、
それを知った上で、諸葛亮は劉備に蜀を取って三分せよと献策したわけだが。
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 18:55:56
空城の計って本当にあったんですか?見破れますよね?
1、罠だとしても察知してるから無意味。
2、空なら勝ち。離れたとこに待機してても察知してるから無意味。
3、つまり孔明がアホか、ほんとに居ないかだからGO
>>127 すまん、125だが、よく
>>123を読んでなかった。
兵糧切れでの撤退の史料をあげてた。
蜀優勢とかは、そのどれも書いてない。
何が凄いかって言うと、演義の創作なのにそれを見て空城の計リアルでしちゃった徳川家康。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 19:33:36
趙雲の空城の計は史実
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 19:44:40
いや、でも趙雲別伝の記載だからかなり信憑性低い
135 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 19:46:06
>>132 家康君やっちゃったんすか?!すげーたまげたっす。やっぱ大物なんすね。
>>133 趙雲だったの?だとしたらコーエーは歴史歪曲ひどい。
ちなみに孔明って節のうち「使持節」「持節」「仮節」のどれを付与されたんだろうか?
著者や成立年代すら不詳の書物だしねえ・・・
それを差し引いても
・曹操は北山の麓に兵糧5000万袋を貯蓄した(まず正史と補給地点が違う)
・黄忠はそれを奪い取ってやろうと思った(直前に夏候淵討ってそこで欲張ると思えん)
・趙雲は兵を貸した
(当時趙雲は万単位の軍率いる将じゃないし・・・そもそも焼き討ちじゃない時点で?)
・黄忠が帰ってこないので騎兵数10騎連れて様子見に出たら曹操の本陣にぶつかった
(どれだけ近いんだよw第一そんな近くに敵大将いて兵糧強奪に兵貸すかよw)
・趙雲は包囲を突破して自分の陣へ駆け込んだ(まあこれはいい)
・魏軍は隣の張著の軍を襲って彼を負傷させた
(ここでしか名前が一切無いレベルが一砦を任されている?)
・趙雲は張著の陣に乗り込んで彼を救出した(まあこれもいい)
・城門は開け放たれ全ての旗も下ろされ一切の音が消され・・・(何でお前だけ城持ち?)
・曹操「あれだけの勇将だ、趙雲は智将でもあるに違いない」(関張ばりに記憶されてるっけ)
・弩弓の嵐で壊走、追撃して漢水に死屍累々の死体の山を築いた(ノーコメント)
・そもそも当時の蜀軍は高地(恐らく山間部)に陣取ったとあるわけで・・・
なんで趙雲(と張著)だけが別個平野部にそれも個別に陣(と城)持ってるんですかー
もう・・・筆の走りすぎってレベルじゃねーぞー(AA略
>>137 先主が帝位に就くと丞相となり、尚書を担当し仮節となった、とある。
>>138 陳寿も往々に筆の走り過ぎを出してるけれど。
徐晃はトンネルを掘って曹仁に援軍の来訪を知らせた・・・だとか。
辺り数`四方水没した中、かなりの深度で掘り抜ける技術すげーわ徐晃。
140 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 20:40:18
>>136 だってそうでしょ?決定をこっちに委ねている訳だから、
勝ち以外は逃げるか五分で負けは無い。超おいしいじゃん。
理詰めで考えたら一発ジャン。
それとも簡単に引っかかるほど戦って簡単なの?
3、つまり孔明がアホか、ほんとに居ないかだからGO
そう思わせてGOしたら、
孔明が天才か、兵士がいてあぼーんって策じゃないの?
>>139 「仮節」とは案外低いのだな軍事上の地位は。やはり軍歴の浅さからか?
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 21:12:05
>>141 相手はこっちの決定を待っているわけ。時間があるわけ。
偵察だすなり何なり十分可能。そんな不気味ぐらいで何もせず引く?
一応調べるでしょ普通。
144 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 21:15:45
孔明と仲達は互いの立場を守るためにほどほどに戦っていたからだよ
そうして深追いした挙句孔明のカウンター食らって戦死した魏将がいましたな。
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 21:20:29
>>145 そいつのせいで僕の自信は粉々です。誰よっ!?
キ山の負けを取り返そうと無理な追撃させたでいんじゃない?
>>143 調べたら人が居ないって報告だったんじゃねーの?
それで突っ込んでもし居たらやられるじゃん
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 21:39:50
>>148 それだけ大勢の敵をじっくり偵察した上で(中に入っても良いし)
見逃すわけ無かろうに。
それ以前にまず苦肉の策である空城の計使わざるを得ないほどの状況になってると。
寡兵になるほどの惨敗、或いは少数で居る場面を捕捉されたなどの失点があるわけで。
空城の計が実在する=その前に少なくても局地的敗北を喫している。
史実では負けてない部分に脚色つける為に実質敗北が存在する矛盾。
羅貫中は蜀ヨイショしすぎて各所に矛盾作ってるよなホント。
南征の時、呂凱に地図貰って喜んでいるのに、なぜか「兼ねてより作っていた」ウェポンを
次々地勢に合わせて出していてお前は魔術士か!みたいな。
>>149 じっくり観察しても居なかったらどうすんの?
入るの?
入ってもしいたらあぼーんじゃん。
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 21:48:09
それで実は倍の兵士がいてやられるわけだね
>>150 いっそ反三国志並みにぶっとべばよかったのになー
155 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 21:55:22
もう僕の負けです
>>137 劉備逝去時、劉禅を託された時に使持節を持ってた
李厳が免官になった時には魏延が使持節を授かってて、
その段階で諸葛亮は使持節を持ってる魏延を使ってるわけだから
「使持節ってレベルじゃねーぞ」ってレベル? 奴だけは特別なのさ
劉禅の詔勅に「之に授けるに旄鉞の重きを以てし、之に付すに専命の権を以てす」
ってある位だからその時の制度の規定にない権限を許したってことだったのでは?
でも冷静に考えて敵の総大将が砦に篭ってると知っていれば即時攻撃の可否は別にして
最低でも包囲して力攻めか兵糧攻めかの選別議論はするはずだよね。
「この城に孔明が居るぞー」「でも怪しいから退くか」これは普通にありえない。
>>138のトンデモ趙雲別伝みたいなオチが付いてるわけでもなし。
158 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 22:08:25
空城の計って敵に入られたらアウト!という破れかぶれの策。
裴松之自身も「んな訳ねぇ〜だろ」と言ってるし。
廊下を何度も確認して人が来ないのを確認したのに
笛を舐めてる最中に誰か来るってくらい、
孔明の空城の計はいくら深慮しても一抹の不安を拭いきれない策だから
十分ありえる
160 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 22:16:16
>>158 ナイスハイショー(?)!自信復活。
これで1ハイショーのリーチ。
>>156 同じ役員の資格はあっても部長クラスでいた魏延と実質代表取締役にまでなった孔明
とではウマが合わんなそれでは。でも、それなら「公」称号とか「九錫」を孔明にやればよかったのに。
または、周公坦の幼王を補佐する絵でも賜ればアピールにもなったんでない?
空と見せ掛けて城内には爆薬がつまれてる・・・
そう想像しても無理はない
この節というのはある程度の軍歴や功績があれば誰にでも付与されの?それとも何か特別な大功
でも起てないとくれないもんなのか?
そういやあの時代って火薬ってあったのか?石油は出てただろうが。
165 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 22:56:19
曹真はいままでの軍歴や北伐の功績で、宮中での帯剣や土足での昇殿、名前を呼び捨てにされない特権をもらってたんだろう。曹一族の中では
破格の待遇。
>>163 本来は必要に応じて与えられるものなんだけどね
軍事職の場合は必要に応じて与えられる場合もあれば位の高さ(功績)で与えられることもある
他に特別な行事を行う時に、三公や九卿などに、あと彼らがいないときにそれなりの文官に
三公九卿の職に臨時で就かせて使持節など与えられることがある
例えば皇帝や皇后の葬儀とか
位が微妙なのに節を与えられた例
1)呉質:北中郎将、使持節、督幽并州諸軍事、治信都
2)田豫:汝南太守、加殄夷将軍、督青州諸軍事、仮節
(加◎◎将軍←太守だけだと不味いので取りあえず将軍職をオプションでつけましたって感じ?)
概ね辺境の軍事職(度遼将軍、護匈奴中郎将、護烏垣校尉、西域戊己校尉などなど)は
仮節を授かることが多い。遠方で変事に備えてるから無いと色々不便なので。
>>167 呉質や田豫は「督○州諸軍事」だから、
節授けられてても不思議じゃない立場だとおもうけど。
末期の人材不足を見た時は、正直孔明可哀想になったね。
170 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 00:53:42
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 01:06:34
つか空城の計は演技の創作だし
172 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 01:38:09
>>171 計の実施時期は違うが正史注にある。
しかし採用した裴松之がみな虚なりと断りを入れている。
>>168 諸軍事なら節がないとおかしいだろうな。そこのエリアの軍事総責任者なのに節がないと処断できんし
将兵の統制もできんだろう。
ちなみに仲達が孟達を成敗したときは、仲達は「節」を持ってたのか?至急なので皇帝の許可を得ず
軍隊を動かした感じがするが。南陽の都督だからあの辺の決裁権限はあったかもだろうが
引っ張ってきたのが晋書の高祖宣帝懿紀で何だが。
黄初五年(224)宣帝は抑えとして許昌にとどまった。向郷侯に改封され、撫軍兼仮節となった。
・・・と言う記述があるから一応所持していたのには間違いない。
一方で『魏朝は孟達を新城太守とし、侯に封じ、節を貸し与えた』とあり
当時の位では詔無しに討ち果たしていいレベルの相手だったか事後独断か微妙なところだが。
176 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 03:10:34
当たり前だけどおまえらサッカー経験者だよな?
>>175 孟達は伝に拠ると仮節、建武将軍、散騎・常侍、新城太守。
建武将軍は雑号に過ぎず撫軍将軍は鎮○将軍と同権。
散騎も常侍も皇帝の車駕に伴ったり近侍する役割・・・何だがこれ曹丕の代の話だからどうなんだろ。
>>175 夏候淵が涼州の叛乱を鎮圧するのに曹操の許可を待たず軍をだして鎮圧してるところを見ると、非常時の場合は大目に見られたんだろう。
とりあえず軍を出したと事後承認というカタチになるだろうけど。
ちなみに節を持ったもの同士が競合するような場合は、どちらの節が優先される?本人の官位がモノを言うのか、それとも使持節>持節>仮節と
節の優位で決まるのか?
孔明なんてカス
やっぱ国士無双の韓信大元帥に采配して頂きたい
そりゃ、諸葛亮に祈祷して神降ろしでもしてもらわないとダメだな
軍を動かすのに必要なのは割符な
半分に割った判子
>>182 三国志のドラマで将の机の横にたくさん立てて棒状の板か?部将に指示を与えるときに渡してる。符
節ともいうな。
184 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 12:06:21
>>180 ちょ、韓信みたいな超一級を出されたら話にならないよ。
孔明の軍才は、まあ疑問符ですね。いや才能はあったかも?しれないけど
いきなり下積みなしだった人が、大軍を交えて戦略を練っていたのですから
前線や群雄割拠を生きてきた人達に比べれば、劣っている点は多かったと思います
経験なくば予測も大局も見通せないでしょうし、悪くはないけど
取り立てるほど戦上手ではなかったでしょうね
仲達に虐殺されなかっただけでも大したものだと思うが…
186 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 12:19:57
仲達に虐殺された奴って、公孫なんちゃら以外に誰かいたっけ?
188 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 12:24:48
当たり前だけどおまえらサッカー経験者だよな?
韓信を超一流とかいってるうちは語るに足らずだよ^^;
シバイは雑魚は確実に手際良く瞬殺する戦争マシーン。
その鬼畜指揮官と戦って引き分けたのだからやはり大したものだ。
陳寿の評は応変の将略云々は断定形ではないし、所々に孔明崇拝が窺える。ほぼ孔明マンセーの提灯記事。
スレタイは「ない」ではなく「あるだろうか」が適当。
そして答えは「あるけど足りなかった」だろう。
191 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 12:49:53
芝居は政略謀略に長けてるけど軍人としては天才的と言うほどでもない
諸葛亮や司馬懿は
魏延みたいな一軍を率いてどうこうじゃなくて
全軍を統率しての軍略とかが凄いわけだし
軍人じゃなくても別にかまわないっていうかむしろ軍人じゃダメだろっておもふ
軍人の大将って姜維とか大局をみれないやつ多いし
193 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 13:15:56
孔明の軍略が凄いとはとても思えない
軍略が凄いなんてどこから想像できるのやら
194 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 13:18:30
孔明は内政以外ごく平凡な能力の人物
平凡諸葛亮に司馬懿は賛辞を送る
馴れ合いだな
198 :
193:2007/02/09(金) 14:15:10
孔明の軍略のどこが凄いのか語ってみろや
無論根拠がないから不可能だろうがね
>>183 虎符と呼ばれる虎などを象った置物
軍事作戦があるとき、地方に駐屯してる将軍には作戦の命令書などとともに虎符の半分が渡される
200 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 14:22:20
演技の洗脳力って凄いよな。
孔明が天才軍師に思えるようになるんだから。
>>200 諸葛亮は政治家!ですよね!
曹操も劉備も政治家だけど
光栄は偉大だなぁ
202 :
193:2007/02/09(金) 14:29:24
曹操なんかは袁紹相手に勝ってるし名将といえるが
孔明は結果はもちろん出してないし、それ以外でも軍略が凄いなんてとこ見えないけど
じゃあ、テーマとして陸中策とその可能性と行動について
204 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 16:04:42
孔明は超一流では無かったが軍才それなりにあったよ。
少なくても姜維よりはあった。
うん、少なくても光栄ゲーで関羽より統率高いべきだと思う。
てゆーか一回だけしか統率してなくそれで城一つ落とせず自滅した関羽が統率100がまずおかしい。
決死の千里行
孔明90、関羽83くらいでいいと思う指揮に関しては。
208 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 18:46:53
実際なら統率100は劉備。
あれだけ個性的な人材を纏める手腕は有り得ねー。
統率だと紛らわしいから組織運営とでもしておけ
統率力って一言で言っても色々な意味があるよな。
項羽なんて戦場で士卒への統率力は100だけど、
平時の武将への統率力はゼロに近いし。
>>210 気のせいかな?
項羽の「戦場で士卒への統率力」はもの凄い高いと思うのだが
ガチだと韓信でも勝てない
統率100とか数字にしてる辺りもう
せまいんだよオマエラ
数値化できるわけねーだろ人間の能力を
この近代世代の子供たちが
正しくは光栄の子供達だな
214 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 21:29:46
項羽の場合は、統率力があっても、それはうわべだけ
配下の武将によっては不信感を持つものが多く、心から項羽に忠誠を尽くす武将が少なかったのではないかな
ある意味、力と恐怖による統制
力では心まで心服させる事はできないって事だね
諸葛亮の軍は機動力を犠牲にして生存性を高めた武装度の高い部隊。
司馬懿は機動力重視で柔軟性が高い部隊。
だから諸葛亮は統率90前後で訓練と武装が高いが奇襲戦がしにくいのがしっくりくる。
217 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 05:41:51
将たる者は勇ある者を使い智ある者を使う
つまり将としては曹操、劉備の方が孔明より上
当たり前だろうが。
劉も曹も君主、諸葛は軍師。
本来なら用兵じゃなく作戦立案の立場の人間なんだから。
将としてって時点で間違っとる。
>>217 劉備はそこそこの武勇と智略しか無いのに
自分が大将となってものごとを押し進めたから失敗した
劉邦のように部下に任せることをできなかった
みたいな評が有った気がする。
220 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 11:21:32
>>218 将とはトップ=政治家のこと
政治家として劉備の方が上と孔明より言うこと
魏武=巨大企業の社長+内閣総理大臣
先主=弱小企業の社長+皇族
孫権=中小企業の社長
孔明は社長代行。
>>219 ホートーや法正が死んだため軍事を統括出来る人間がいなくなったからな。
自分自身でやらないといけなくなったんだろう。
223 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 12:27:23
>>221 蜀の場合は、弱小金融機関といったほうが良い。仮にも魏呉よりも貨幣経済が活発化してたんだから。余剰人口(ケイ州からの兵隊・役人)が多く
それらに財政を圧迫されてた。故に劉備が家臣の進言で貨幣を作ったり官市を作ったりと商業を盛んにしていた。孔明が南蛮に遠征したのもあそこの交易のアガリと
交易ルートの確保にある。
>>222 法正が軍事を統括できるなんてとても思えないのですが
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 14:00:02
皆さん歴史にお詳しい様なのでお聞きしますが、光栄の評価は間違っているって事ですか?
諸葛亮以外も能力高すぎだったり低すぎだったりですよね?
しかし劉備は死ぬまで法正や黄権を同道させて遠征していた。
単に孔明の内政や規律面を買ったのかも知れないが、入蜀〜漢中辺りでは法正達の方が
参謀として取るに足る存在と思っていた事はかたい。
まあその二人には軍略の才能があっても政治・司法・軍備と全てを司るオールマイティの
マルチ的才能までは無かった事は同意せざるを得ないが。
>>225 光栄が間違ってると言うか、単にアレは演義準拠で能力決めているから。
演義の活躍度から見ればそれなりに妥当だが、演義補正を抜けば過大評価されてるケースも多い。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 14:15:47
>>226 「法孝直が生きていれば、遠征なんかなかったしあっても負けるようなことは無かった」と孔明は夷陵の敗北でコメントしてるな。
それに、法正が昔の個人的な恨みで報復するのに、規律にうるさい孔明でさえ法正の劉備からの信頼の篤さを慮って間接的にたしなめてるだけ。
229 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 14:17:45
そもそも、絶対に正しい能力値なんて、数値化できるわけないしね。
例え専門の研究者になろうとも、その人ごとに人物に対する評価はかわるわけだし。
光栄のだって、単なる演義準拠じゃなく、
正史補正をいれたり、世間一般のイメージを重視したり、
その時その時の人気や流行も考慮したりと、
いわば妥協の産物ともいえる。
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 14:46:43
>>229 シリーズが進むにつれて武将の平均値が上がってきてるな全体的に。
極度の過大・過小評価はそれなりに是正、しかし何かやっつけ70台とか没個性も増えてるか。
関羽の統率100陥落や姜維・鍾会のそれなり化などが最近顕著かな。
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 15:14:21
>>231 リョウカや王平、趙翼・ウキンとかがかなり使える将になったな。それはそれで弱小勢力プレーしても
面白くはなるが。終いにはみんな80とか超えるんでないか?
三国志11の演義補正は特殊能力に掛かってるからなあ・・・
関羽:神将(自分より武力低い部隊への攻撃全部クリティカル)
孔明:神算(自分より知力低い相手に絶対計略成功&クリティカル絶対計略阻止)
趙雲:洞察(完全無敵絶対に誰からの計略にも掛からない)
こんな感じで多少能力差詰まっても最早戦場でのグレードが違う。
まあ張角さんの落雷には敵いませんけどね。
>>233 もう最強は張角+荀攸or馬謖or賈充or諸葛恪でいいよ。
誰か忘れてる気がしなくもないけどさ。
いやいや敢えて周瑜+呂蒙+兀突骨だろうここは
236 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 16:07:42
>>226 法正は蜀建国の法整備にしっかり関わってる件
>>236 整備に関わってるならせめて政治80台は欲しいよな。
それはさておき、法正・黄権共に定軍山などにはしっかり正史で散陣確認出来るし。
214-221年の孔明の記述がゼロの点が蜀記に専念したのか何らかの意図あるのか不思議だ。
238 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 16:27:28
なるへそです。士気って一番大事な気がするのは僕だけ?
法正は狭量な感じのエピソードも政治力ダウンに一役買ってるのかもしれない。
本来はそういうのは魅力の役割なんだけどね。
240 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 18:18:04
孔明じゃなく法正が生きていたら
出師の表→第一次北伐で魏を滅亡→蜀の忠臣で天才軍師といわれる→現代において太公望、張良に並ぶ英雄として評価される
劉備の呉討伐に軍師として従軍→呉撃破→その後魏と南北朝に→三代後に魏を撃破、創業の功臣として祭られる
単純に呉遠征回避できただけでも大分違う気はする・・・
黄権や馬良失わずに済んだはずだし、蜀は上庸近辺はキープ出来たはずだから
陸地と漢水使った水軍セットで南陽方面への侵攻を企画する事が出来たはず。
243 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 19:03:01
>>225 光栄の評価の中で正史厨から反対意見がでないのは
関平と周倉くらいだよ
だってそもそもあれ演義基準だものな。
いい加減その手の正史からの批判は飽きた。
人を厨と呼ぶ時点で間違いなく
>>243も同類以下の存在だがねまあ。
「ゲーム」で更に演義と言う「仮想小説」と言う二重矛盾ワールドにケチをつける方がまず小さいと思う。
「このゲームは正史を正等準拠しました」とあって関羽統率100とか姜維オール90だったら
何これとは流石に思うけれど。
周倉とか実在しない人物に目くじら立てる奴とか演義派でもまず居ないだろw
火星人はタコかそれとも実はクラゲかとか議論するくらいに不毛。
北伐して負けても全滅しなかったし、名将ではあると思う。
ただ、名声ほどの天才性は疑問
一流ではあるけれど、天才では無い
全滅するほどの決戦はしてないからね。
まあ賭けに持っていかない面では評価出来るかも。
ただ軍事行動による目的が遂行されていないため及第点での一流かな?
間違っても超一流ではない。
251 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 02:03:22
袁紹相手に滅亡をかけて戦い勝った曹操
諸葛亮は機動戦や決戦がなかったり撤退戦も余裕があるうちに引いてるしなあ。
秀才ではあるけど軍事の天才のイメージがないなあ。
決戦は孔明の望むところだが、魏がそれを避けている
諸葛亮は決戦を望んでないが?
あくまで自分が有利な状況か相手が崩れるのを待ってただけ
本当に決戦を望んでいたなら魏が陣に篭る前に攻撃してるしチャンスもあった。
孔明は根本的に政務を司る人物。
書物に通じていた故、戦略的視点で軍事を語る事が出来
それを応用する事で、実戦指揮に臨む事は一応出来た。
だが、所詮は従軍経験の無い、書生の学問レベルであり
だからこそ孔明本人も、軍事に精通した者が居た頃は、それら武将を
従軍させ、本人は自分の能力が最も発揮される内政関係を担当していた。
根本的に戦術、戦闘レベルで指揮を行うタイプではない。
目的に臨んで、所持した戦力を配分し、戦術目標を明示した後の
裁量は現場指揮官に任せていた観が強い。
北伐に関しては、自身が前線に出る事での督戦といった意味合いの
他、確実に信用できる軍司令官が存在しなかった点が挙げられるだろう。
孔明が、自身の軍才に対して過信を抱いていた節は見受けられず
出ざるを得ない状況だったからこその出陣であった。
その点、自己分析、状況判断は的確であり、残った資料から見た場合
本人の軍歴、蜀漢と魏の国力差を考えれば、指揮官として
十分評価させるべきである。
ただ、内政家としての能力はそれを上まって居た事も間違い無い。
256 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 05:22:53
孫策流にいえば内政の才はあるが
兵を引き連れ乾坤一擲にかけることはわしに遠く及ばない
バクチで攻撃しかけるのは決戦とは言わないだろ
>>255 大半の諸葛亮擁護派はそう考えているはず。
>>255 状況に対してのアドリブがうまくなかったんだろうな。
260 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 12:29:10
北伐の失敗は、兵糧がネックだったんだろうどう考えても。重い装備の上、山道を牛で兵糧運んでいくのには限界がある。だから麦を現地で刈ったり、屯田
したりと「現地調達」を重視してた。 実際、曹爽の蜀遠征で牛を大量動員しても途中で倒れる牛が続出して補給が困難になって失敗した。
しかも兵糧を運ぶ、戦略物資・手段とも言うべき牛なんてのは馬と並んで三国時代にはかなり値段が高騰していた。馬一頭の値段で霊帝当時、劉備が初任官し
た署長クラスの官が買えたくらい。牛は屯田制でこれの有る無しで 官民の取り分が一割違ったことを見ても分かる。上記の曹爽の遠征で失敗した結果、動員した
関中の牛馬の多くが失われ関中はそれを境に疲弊し曹爽へ非難が続出した。その後曹爽が仲達のクーデターで失脚したのもこれが原因の一つ。 姜維が北伐を再開し
たのも、関中が疲弊し地元の政情が不安定化したことに乗じることができるという判断が働いた。
261 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 12:40:20
>>260続き
牛の希少性や、それを動員することへの農業や民間経済への圧迫のリスクを孔明は慮ったので常に北伐
は兵糧不足になった。その難点が木牛流馬の発明に繋がったがそれでも人力で運べるものには限界があった。
木牛流馬といっても背負うのよりは楽というレベルだからね。
予定どおり運ぶのも難しかったんじゃないかな?
兵糧不足はあくまで諸葛亮の問題でしかなく漢中と益州を所持してた国が
すべて兵糧不足で負けてたわけじゃない。
漢中と益州だけの国が勝ったって劉邦くらい?
でもあれって、戦争云々というのもあるけれど、項羽の政策で
内部があまりにも脆弱だったからだと思ったが
そもそも蜀を政権基盤にしていた勢力の殆どが領土拡大意欲の野心を抱いていないよな。
唐の時代は皇帝の避難所になってたりしたし。
諸葛亮、姜維の北伐は領土拡大が目的ではないしな。
>北伐は領土拡大が目的ではないしな。
つ出師表
諸葛亮オタの言い訳でしかないな
1次北伐は魏打倒の第一歩として、まじめに関中制圧目指してる
それ以降は微妙だけど
>北伐は領土拡大が目的ではないしな。
これを言うと中原に打って出る野望が無いどころか涼州一郡支配すら出来なかったと言う
結論になって余計小人にしか写らない諸刃の剣。
>>226 やれやれ最初からいい訳って決めてかかってる奴ってなんなんだろうか・・・
北伐は魏を倒すのが主目的なんじゃなかったんですかね?
違うんですか?
>北伐は領土拡大が目的ではないしな。
これは記述されていたりしているわけではない、想像の一つなので
確定した断言は
くどい程、正史でくり返し書かれている公平な諸葛亮像を無視して
想像で「諸葛亮は派閥云々」とか言ってる人と同じになっちゃう
271 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 20:01:52
ガイエ(田中芳樹)曰く、法正が死んでから劉備は勝てなくった。
これがすべて。
272 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 20:05:18
>>255 ガイエ曰く、孔明は輜重担当の幕僚が本職。
法正、ホウトウが生きている間は出番など無かった。
彼らが戦死、病死してから急遽出てきた「でもしか」人事で
しかない。
孔明なりに頑張ったが、「経過は大切だ、しかし結果が全て」な世界からいうと
孔明は結果をだしていない。
今更そんな結果論言われても面白くとも何ともないんだよ
というかあからさまな田中の受け売りなんて恥ずかしくないのだろうか
275 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 20:39:35
>>263 道路事情も悪かっただろうしな。狭い未整備に近い山道を行くわけだから。大荷物で牛を通すのは難しい。鐘会が蜀討伐で真っ先に道の整備を
優先したのも曹爽や孔明の教訓があるからだろう。これなら孔明も漢水を船で下って上庸方面から進出すればラクだし呉も呼応しやすかったのにな。誰も検討しなかったのか?
それとも長安から漢中を衝かれるのを警戒してたのか?
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 22:19:36
>>273-274
後世の評価は全て結果論なのは当たり前じゃん
努力しましたから評価してくださいなんて世界じゃないだろ
大体おまいらより田中の方がどうみても信頼性あるしなーあれ院卒だぞ
まあマターリしようや
結果がすべてのやつは、こんな板来てもつまらないだろ
279 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 22:27:31
それと法正とホウトウが死ぬと劉備はホントに勝てなくなった。
劉備軍団の快進撃を支えたのは対魏戦、入蜀戦を仕切った
2人あってこそだ。
で、二人が死ぬと本来輜重役だった孔明に出番が回ってくるほど
幕僚どもが使えなかった。
そういう意味で孔明は劉備にとって「次善の人事」でしかなかった。
夷稜の戦いでも孔明ともなってないだろ?
孔明の諫止を蹴った事もあるだろうが、最大の理由は孔明じゃ
全然勝てなかったから信頼をなくしつつあったんでないかと思ってる。
結果的に負けたから後事を孔明に託して逝ったが、
本当はホウトウ、法正、馬良らが生きていたら彼らに後をたくしていたんじゃね。
輜重役も重要だし、そつなくこなしていたと田中はいってる
でも、作戦参謀としては優秀でないともいっている。
280 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 22:38:08
孔明の戦というのは基本に忠実。オーソドックスな戦略が基本だ。
これはおそらく彼が長年兵站業務に携わっていたから補給の重要性を
知り尽くしていたからだろうな。
逆にいえば弱小勢力を伸ばすのに向いていないんだよね。
劉備軍団の快進撃を支えていたのは馬、鳳、法の3人の鬼謀と戦略だよ。
彼らの力で荊州の居候勢力の身から三国の一角にまで成長できたんだよ。
しかし惜しいかな、彼らはまさにこれからと言うときに皆死んじゃったんだね。
馬駿もそういう意味では兄馬良系統のひらめきタイプだったが、輜重畑で
育った彼には補給を無視した街亭の戦いが許せなかったわけだ。
孔明とは軍令違反だけでなく、日ごろから魏に対する戦略や戦術面で
対立していたんじゃないかと思う。
孔明は守勢には向いているが、劉邦にとっての韓信や張良ではなく、
どちらかというとショウカタイプ。
実務家ではあるが、天下を引き寄せる力は無い。
それが孔明の実像だよ
281 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 22:46:18
孔明は軍令に厳しい
特に馬駿や李厳のように輜重あるいは補給に怠慢があった武将には処刑あるいは庶民に落とすほど
しつこく補給を重視した。
重視するのは良いが、法正のようにかなりの癖がありながらもホウトウと共に蜀を魏、呉に先んじて
電撃的に征服していくようなスピードはない。
現に、孔明は入蜀時には荊州で関羽と共に守り後方の実務、折衝に専念しており、
実際に蜀攻略にかかわったのはホウトウが戦死してからの急遽登板にすぎない。
よく天下三分の計というが、実際に行動し、形にしていく州湾をみせたのは前述の馬、鳳、法で
あって、孔明ではない。 蜀に入った後の行政官としては能力があったが、
なんというかね、清濁併せ呑むような度胸の広さが前述の3人に比べて無いのね。
そこらが孔明の限界かな
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 22:53:11
結論から言うと孔明に軍事の才能は無いといえば語弊になるだろうが、
司馬イや前任者に比べれば役不足。
政治力やリソースの配分能力、輜重面では才があり、物事のひとつひとつにまで
自ら決済しないと収まらない誠実な面は広報任務に向いているが裏を返せば
まとまりすぎており、敵軍や人の裏をかくのにはあまり向いてない。
北伐にしてもオーソドックスだし、向こうが持久戦でくるのは目にみえていたはず。
彼は秀才であって、法正やホウトウ、馬兄弟のような機略を編み出す参謀では
ないんだよね。戦の基本には忠実だが良くも、悪くも想定内。
>>275 漢水は進みやすく退きがたいからね。
一戦して敗北すると退くに退けなくなるから手を出さなかったんじゃないかな?
諸葛亮の最初の構想では孟達を抱き込んで上庸を手に入れ、漢水からのルートを作ろうとした。
しかし司馬懿の速攻により上庸を抑えられてしまい漢水ルートを断念したと思われる。
285 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 23:23:28
前述したが、孔明の不幸は、彼は本来はショウカタイプの宰相であったこと。
馬、鳳、法が健在なら 彼らが前線で侵略するごと火の如しで
陸遜や曹操、シバイ相手に膨張していけただろうが、
ショウカタイプの孔明が軍の最前線で采配を奮い、国政も見るという点に
蜀の限界と、孔明が能力以上の重責を負わざる得なかった悲劇がある。
286 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 23:26:30
>>283 それで軍隊進めたのに漢中にしばらくじっといたわけね。上庸を根拠地に
襄陽やハン城を脅かそうとしてたけど(陸遜も出てくるだろうしな)、孟達の件が失敗してやむ
を得ず北ルートを取ったということか。ちなみに曹真が逆に蜀攻撃をしようとしたときに司馬懿が
漢水の方面から軍を進めるつもりだったらしく、孔明が子牛道ルートを避けたのも関中と上庸からの
挟撃を警戒したからだそうな。
287 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 23:29:39
>>283 司馬懿の用兵の才はとにかく行軍が早い事。
公孫氏討伐でも遺憾なく発揮され、呉が呼応する隙を与えなかった。
孔明は兎に角地盤を固めて準備万端に物事を進める。
基調j面なかれらしいが、法正や馬良、ホウトウならさてどうしていただろうか
北伐にしてもあの3人なら国力が数倍の入蜀戦で文字通り魏や呉に
先んじて掠めとっていったスピード感は孔明にはないモノだ。
彼らなら陸遜や司馬懿に対抗して勝利をもぎとれる可能性があったんでないか
少なくとも劉備や孔明よりはマシな戦しただろうとすら思えてくる。
劉備の天下とりは彼らの死と同時に終わったんだと俺はそう思っている。
288 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 23:29:57
>>285 軍中で丞相として国政の決裁までしてたのか?まあ、鞭ウチまで処理してたというから。
皇帝への上奏文の朱筆をわざわざ遠征中でも書いてたのかな?ショウエンやヒイが代行してたの?
そんなありきたりな長文読まないよ
290 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/11(日) 23:46:34
長文読解能力がないだけだろ厨房くん
それよりもさっきから気になってたんだが一体何をもって馬良の参謀としての能力をそんなに高く評価してるんだろうか?
入蜀時は留守番、使者を二回やって終了の男なのに…
>>281 馬謖が補給で失敗したってのは、何処にある記述なんだ?
あと、諸葛亮は龐統存命中に張飛らと共に益州入りしてるよ。
293 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/12(月) 00:03:35
>>292 街亭で山上に陣を張って補給を切断され、全軍の行軍が不可能になった件
孔明は戦略の肝心要を、人任せ(呉任せ)にしてしまったのが敗因。
独力で勝ち取る気概がなくては何事も成就しない。
魏延が〜と同レベルか
>>286 曹真の構想では本隊が子午道から、司馬懿が漢水から、
他の部隊が斜谷道と武威から南テイを目指すという国力に物を言わせたもの。
結局は長雨で進攻出来なかったが・・・
ショクに国力があればこういう作戦が取れたろうに。
297 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/12(月) 01:59:23
>>296 総勢20万くらい?一箇所からだと道が狭すぎて進撃できんからそうなるだろうが。
息子の曹爽はそれをやって失敗だったけ?
298 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/12(月) 02:03:43
でも、曹真の遠征が成功して漢中が陥落してたら剣閣で防げても国力が大幅減退して、軍隊を
維持できず蜀は自壊したかもな。孔明も運が良い。そして蜀を滅ぼした功績で曹真が九錫を受け、司馬氏は台頭する
隙が無かっただろう。
>>298 息子の曹爽が同じ作戦の焼き直しをやったが
諸葛亮の構築した防衛線を使って王平にケチョンケチョンにやられているのを忘れたか?
曹真の遠征も長雨さえなければ同じ結果になってただろうさ
300 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/12(月) 02:43:30
>>299 息子の場合は補給を考えてなかった。動員した輸送の牛は全滅して関中は疲弊するという
オマケ付きで。曹真の場合は漢水から船で兵糧運びこむつもりだったんだろう。
>>287 へっ?ホウ統ってほとんど役にたってないような?
馬良が凄けりゃ、夷陵は安泰だな
益州で法正は軍事的功績は薄く、
裏切り工作により多大な功績を得ているな
漢中戦は蜀が最大軍事力を得ていた時の作戦で
黄権の作戦とほぼ一緒らしいし。誰も考え得ない奇策とは少し違うと思うのだけど
この3名も一流所だけど、神憑かりに凄いと思うのはどうだろう?
諸葛亮は夷陵の後の作戦だから気の毒戦力でもあるしな
>>300 曹真が船で運び込むつもりだったという記述あったかい?
龐統は実績なくして死んだが、奴を認めないと、それは孔明の人物眼の無さに直結してしまう。
夷陵は馬良の制止も聞かずに戦下手の劉備が独走。
まあ法正と劉備のような信頼関係を築けていなかった馬良がまずかったといえばそれまでだが。
漢中攻略戦は、魏の状態も北伐の時の様な雑魚ではない。
黄権は策を示したというより、漢中攻略という方針を進言しただけ。
>>303 なんでホウ統の神憑かり的な軍事的才能を認めないと諸葛亮の人物眼が云々になるんだ?
馬良の制止って、制止した作戦って曹丕で鼻で笑われてたけど、制止しただけで神憑かりな軍事的才能になるの?
「漢中攻略戦は、魏の状態も北伐の時の様な雑魚ではない」ってのは始めて聞いたな
曹操が守り難いって逆切れして撤退したり、司馬懿の献策で年々防御構築が進んで攻め難くなったのは知ってるんだけど
>>297 曹爽は六、七万の大軍を率いて駱谷から侵攻。
補給がままならず徴発された牛・馬・ラバ・ロバがバタバタと道に倒れた
敵が山を利用して守りを固めているので、それ以上は進むことが出来ないとある。
これは司馬懿の反対を押し切った形で行なわれているため、
規模は曹真よりも小さく、準備もいい加減だったみたいだ。
306 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/12(月) 10:05:26
まあ同考えても軍略は法正>孔明だしな
諸葛亮は城攻めが下手 長安にいこうにもカクショウの篭る城ひとつ抜けない
戦下手。
調略も司馬懿に破られる。
機をみて敏に対応するといった応用ができない
法正は性格が悪かったが、調略は得意だった。
入蜀の先鞭をつけて攻略して言ったのはホウ統だ
諸葛亮は基本を抑えているが、将才はせいぜい良将レベル。
よくも悪くも劉備にとってのショウカだよ
劉備にはショウカはいても韓信、張良にあたる人物になる可能性があった2人の死で
天下取りの夢はおわった。
>>293 それって何故か街亭が蜀軍の補給路になってるっていう演義の設定なんじゃ?
実際に蜀の全軍が退いた原因は補給の問題じゃないし
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/12(月) 12:29:17
一分孔明
豫州時代の参謀は陳群で、呂布がらみの政策がうけいれられずに所領を失うと野に下り、魏に走り、
荊州時代の参謀は徐庶であり、彼も母がらみの魏の調略で出資先をかえるなど
劉備も人材逃がしまくり。
陳群や徐庶いれば楽になったのに あほな劉備
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/12(月) 13:28:22
劉備が逃がした人材は陳群、徐庶、潘濬、黄権、孟達と一級品が結構いるんだよねえ。
312 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/12(月) 13:30:44
陳羣はともかく徐庶はどのあたりが一級品なのかね?
司空とかになったっけ?
曹真は運が良かった
漢中まで進軍してたら退却もままならず、そこで魏の主力1個軍団がまるまる壊滅してた
そうなれば孔明の北伐に1次以来のチャンスが訪れるところだったのにな
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/12(月) 13:39:09
いまだに徐庶を過小評価する人がいるんだねえ。
寒門の出身で御史中丞までなっているのに。
忘れられる田豫…
御史中丞止まりなら別にすごくないよ
未だに
諸葛亮は役不足だと嘆いたけど、人材豊富な魏で云々
とかいってるやつのほうがありえないよ。
>>317 つ先棒にナントカという諺あっただろ。
蜀に人材がないという意味で
あれがすべてなんじゃないか
ド辺境の弱小国と同等視されたら魏が不憫だ。
思い出した先棒に廖化だ
かつては綺羅星のように武将がいたのに、今では廖化
ぐらいしかいないという意味。
確言にされるほど職の人材枯渇の現状を示す言葉だお
>>303-304 その「馬良の制止も聞かず云々〜」の出典を聞いても良い?中々見当たらないけど…
また演戯厨かw
フィクションをソースに歴史を語るなよw
>>323 孔明孔明言ってるから演義典拠でも不思議はないけど、
逆に演義の諸葛亮が参謀として優秀じゃないなんてかなり斬新な意見だな。
でも確かに演義孔明は関羽が逃がすと判ってて関羽を用いて千載一遇のチャンスを逃し、
関羽が北上して裏突かれて死んだのも確か半分くらいこいつのせいだったり(こいつが呉の策にまんまとひっかかり関羽を北上させた)、
そういう考えも不可能じゃないのかな・
フィクションでの活躍や判断ミスなど正史の前には無力無意味
327 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/12(月) 14:55:21
演義の諸葛亮はなんで夷陵に行かなかったのか不思議に思ったよ。
>>324 ここは三国志の板で孔明のスレです。
正史厨こそ世界史板とかにいけよ
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/12(月) 16:17:10
>>328 三国志板で孔明スレで正史語ってなんでダメなのか?
と言うかこのスレどう見ても正史の孔明についてだし
324 :無名武将@お腹せっぷく :2007/02/12(月) 14:42:43
また演戯厨かw
フィクションをソースに歴史を語るなよw
正史厨ってのはこれ。
正史をもとにするのがダメだとは誰もいってないお
フィクションありきなら諸葛亮は万能の天才でケリがつく話だし。
正史も演義も両方でいいだろ
つまらんことで揉めるなよ
>>331 少なくとも演義の諸葛亮なら万能じゃないぜ
実際に魏を倒さずに死んでるし
反三国志はよかですか?
よかですよ
流れを読まないで演義で語ってる人も問題でしょ
>>316あたりからちょっとおかしいなとは思ったけど
電撃的にせめて
長安手前までいっきに占領しないとだめだ
339 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 12:07:43
孔明は、戦力が劣っているにも関わらず、
奇策を拒否し正攻法で戦ったお馬鹿な人。
実務官僚それも補給畑のヤソだから良くも悪くもそういう戦いしか出来ない。
>>337 司馬懿だと落としていたかもな。
奴の進軍、城攻略、撤収は鮮やかの一言。
曹爽相手の政争にも勝ち抜くし、彼に匹敵する
才の持ち主といえばシュウユか、カクカクラスだな
孔明はちょっとねぇ。
>>339は釣り?
局地戦なら普通に使ってますよ?
孔明が教科書通りっていわれてるのは軍略レベルでの話ですが。
>>342 公孫氏戦、孟達戦、曹爽に対する一網打尽のクーデターなど
ここ一番の即断、速攻は凄まじいよ
孔明には無いモノだ
345 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 13:00:18
346 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 13:16:45
孔明は政治家として大久保利通なんかと比べるとだいぶ小物
孔明は王道の采配はうまい
魏の全軍指揮したら立派に役目の果たせたであろう
しかし、蜀のような人材・国力に劣り地形も攻めには不利なところでは
向いてない
兵は詭道なり
の言葉を孔明に贈る
348 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 13:46:15
>>344 つ 格下にはね、自分よりレベルが上にはからっきしダメな司馬懿・・・
司馬懿と諸葛亮の対決は、局地レベルでは判断し難い(両者に有利・不利な記述が散見できるため)。
大局的に見ても魏蜀の差は歴然だねとしか…
>>348 自分よりレベルが上って誰の事?
ちなみに孔明はカクショウ一人抜けずに長安進出を断念している。
ちなみに何の本だったが、司馬懿の遠征について考察されていた本があって
公孫氏、孟達戦共に戦準備、城落とし、撤収が当時としてはごく短期間に
終えていたとする考察見た事がある
行軍速度◎
城攻めスキル◎
決断力◎
孔明にはないものだお
>>348 司馬懿にすこぶる辛く評価するなら、
孟達 →内応者の手による早期落城。しょせんは裏切り者相手。
諸葛亮→見通し甘く判断を誤り、優秀な部下を死なせ、大敗も経験した。
公孫淵→むしろ家臣の反対を押し切り「戦は数だ」と大軍を託し、出費がかさんでも途中で呼び戻さなかった明帝の器量が素晴らしい。
朱然 →窮地に陥る城を前に、大軍を持ちながら野戦を避け「いくぞ、いくぞ」のポーズだけ。
と言って言えないことはないが、北伐に関しては逆の結果も導き出せるくらい詳細はあやふやだし、
孟達・公孫淵戦でも見事な行軍速度が戦の決め手になったという説が有力で、
朱然は結局その動きを見て引き上げ、結果被害なく勝ったのだからケチをつけるようなものでもないだろう。
まぁ晋書など司馬懿を過度に礼賛してるのでは?という疑問も当然あるけど、
そういう細かな描写取っ払っても、やはり当時の魏で司馬懿以上の大功の持ち主は居ないので実力があることは疑いない…と思う。
赤壁の戦いもシュウユの活躍が大きなウエイトを占めているし、
演戯はともかくも正史での軍事面での活躍はパっとしない諸葛亮
後方兵站業務など不可欠だが地味な方面での功績は大きいんだろうけど
よくも悪くもショウカだよ
三国板なのに司馬懿単独スレがない不思議
一度司馬懿の軍事的才能を検証したスレが出来た方がよいな
355 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 15:41:53
>>354 以前司馬懿は挑発に弱いとかいうスレがあったな。
>>354 なんだかんだで単独でスレ建ててちゃんと回せるのは諸葛亮・関羽・姜維・曹操・劉備くらいまでだと思う。
司馬懿の追撃下手には触れないんですか?
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 15:48:37
ハハハハハ、司馬懿が下手なわけではないよ。
諸葛亮が巧すぎたんだよ。
>>357 若き日の曹操も追撃下手。
薫卓戦でよく大敗していた
360 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 15:57:37
何だこのスレ。こんなスレ必要ないだろ。
何か遠まわしに評価とかいろいろしているが、孔明氏ねって言いたいだけじゃん。
そんな遠回りしないで孔明氏ねって言って去ればいいのに。
>>357 晋書によれば司馬懿は追撃によって何度も数万単位の戦果を挙げてるんだぜ。
つーか晋書の信憑性も含め散々論じられてきたじゃないですかい。
遠回しじゃなくはっきり言おう!
孔明は天才で偉大な英雄だ!
と言って去ります
364 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 16:15:03
>>363 それには皆同意してる。
しかし、何の才能で偉大だと思うかは人によって違う。
>>364 別に「諸葛亮は天才でも偉大な英雄でもない、努力家で限界にぶつかりながらも挑戦し苦悶し続けた等身大の人間だ」
という人間が居てもおかしくないだろと混ぜっ返してみる。
>>362 つーかその頃の報告って戦果は10倍拡大が当たり前じゃなかった?
367 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 16:27:53
>>365 限界にぶつかるまで努力した人物が天才と称されるんだぜ?
>>366 魏では戦果を報告するときにかなり上澄み計上するって話しは聞いたことあるけど、
それと魏側の記述の正確性は必ずしも一致しないんでない?上奏文の中のやつとかはモロだろうけど。
http://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/01-1.html 諸葛亮は、魏軍が大軍でやってきたと聞き、自ら民衆を率いて上?の麦を刈り取ろうとした。
武将たちはみなそれに不安を抱いたが、宣帝は「諸葛亮は思慮深いが決断力に乏しい。
必ずや自軍の守りを固めて安泰にし、それから麦を刈り取るだろう。私なら二日間昼夜兼行で
進めば十分間に合わせることができる」と言った。そこで、兵の装備を軽装にし、
昼に夜をついで上?に向かった。諸葛亮は魏軍の巻き上げる砂塵を遠くから見、逃げた。
宣帝は「我々は通常の倍の道のりを進んで来たため、疲労している。兵法を知る者であれば
むさぼりかかるところである。
だが、諸葛亮は渭水を天険に我々に攻めかかろうとはしない。これなら与し易い」と言った。
さらに軍を進めて漢陽に宿営し、諸葛亮と遭遇した。宣帝は陣をかまえて諸葛亮を待ちうけた。
武将の牛金に軽騎を率いて諸葛亮をおびき寄せさせた。両軍が接触したが、それだけに終わり、
諸葛亮は退却した。宣帝はこれを祁山まで追撃した。諸葛亮は鹵城に屯営し、南北の二つの山を
天険とし、川をせき止めて二重に防御を固めた。宣帝が攻撃して防御を破ると、夜になって諸葛亮は
逃亡した。
宣帝はこれを追撃して破り、捕虜と斬られた者とは数万にのぼった。皇帝は使者を遣わして軍を労い、
宣帝に封邑を加増した。
その頃、軍師の杜襲と督軍の薛悌とが、「来年麦が実れば、諸葛亮は必ず攻め入ってくるでしょう。
ところが隴右には穀物がありません。冬になったら予め穀物を隴右に運び込んでおくべきです」と
言ってきた。宣帝は言った。「諸葛亮は、二度祁山に侵攻し、一度陳倉を攻撃したが、いずれも敗北し、退却した。
たとえ今後出撃してきたとしても、再び城を攻撃することはない。
野戦を仕掛けてくるはずだ。戦う場所は、隴東であって隴西(註22)ではない。また、諸葛亮はいつも食料不足を
かこっている。帰還すれば必ずや穀物を蓄えにかかるだろう。推測するに、三年間以上は動けないであろう」。
そして、宣帝は、冀州の農民を上?に移住させて耕作させ、京兆・天水・南安の製鉄を統制してゆくよう、上表した。
孔明の評価
宣帝の弟の司馬孚が、手紙で軍の様子について尋ねてきた。宣帝は、「諸葛亮は、志は遠大であるが、
機を見るに敏でない。謀計に優れるが、決断力に乏しい。戦術に長けるが、正攻法しかとることができない。
十万の兵を連れているといっても、すでに私の術中に堕ちているのだ。必ず打破できる」と返事を送った。
諸葛亮と対峙すること百日あまり、諸葛亮は病で逝去した。蜀の武将たちは軍営を焼き払い遁走した。
住民があわててそのことを告げてきたため、宣帝は兵を出して蜀軍を追撃した。諸葛亮の長史の楊儀は、
旗指物をかえし戦鼓を鳴らして宣帝に向かってくるような様子であった。宣帝は、窮した敵を追い立ては
すまいと考えた。そこで楊儀はこれを助けに陣を整え、撤退した。数日たち、蜀軍の軍営跡に行った。
蜀軍の遺していったものを見、文書や糧秣を大量に獲得した。宣帝は、諸葛亮は間違いなく死んでいると
判断し、「彼は天下の奇才であった」と言った。辛?はまだ本当に諸葛亮が死んだのかどうかは分からないと
考えていた。宣帝は「武人が重んじるものは、軍の文書や機密、兵馬や糧秣である。
今、蜀軍はこれらをみな置きすてていってしまった。五臓をみな捨ててなお生きながらえている人間など、
どうしておろうか。すぐに追撃すべきだ」と言った。
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 18:45:38
やっぱり孔明は英雄なんですね!
372 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 18:57:37
内政以外は平凡
>>371 英雄(ヒデオ)じゃなくて亮。諸葛亮だよ。
>>374 でも、諸葛亮が死んだら「天下の奇才」と誉めてみたり、
その時その時の状況しだいで、自分に都合のいいことを言っている。
たいしてあてにならない評価だということがよくわかる。
>>374 「彼は天下の奇才であった」つーくらいだから
晋書の内容と考えれば大讃辞に近くね?
宣帝は「諸葛亮は思慮深いが決断力に乏しい。
宣帝は、「諸葛亮は、志は遠大であるが、
機を見るに敏でない。謀計に優れるが、決断力に乏しい。戦術に長けるが、正攻法しかとることができない
別々の状況の時に諸葛亮の時について同じ事をかいているから、これが諸葛亮への彼なりの評価だろう。
呉書の周瑜伝になると周瑜の口から孔明のコの字も出ていない件について
http://www.project-imagine.org/search2.cgi?text=wu9-1;lang=JpCh 呉書 周瑜伝より引用
劉備の危険性を主君に説いた時、
劉備が京に参詣して孫権と会見したとき、周瑜は上疏して言った。
「劉備には梟雄の相があるうえ、関羽・張飛といった熊虎の将がおり、久しく屈従して他人のために働いたりは
きっといたしますまい。(国家の)大計を愚考いたしますに、劉備を移して呉に留め、盛大に宮殿をこしらえ、
彼のために美女や娯楽を増やし、そうして彼の耳目を喜ばせてやるがよろしゅうございます。あの二人を
離ればなれにして各方面に配置し、周瑜のような(立場の)者に味方させて戦闘に参加させれば、
大事業を完成させることができるのです。
いまみだりに土地を割譲して彼の元手にしてやり、あの三人を集結させて国境にまとめて置いておくのは、
おそらくは蛟龍が雲雨を得たようなもので、しまいには池の中のものではなくなってしまいますぞ。」
と語っている。周瑜が脅威と見ていたのは、劉備の傍につかえる、関羽・張飛を熊虎の将と形容するほど
警戒しているのに孔明なんて一言も語っていないんだよね。
そりゃ、孔明はまだ何もしてないもの
周瑜伝通して言及していないのに何もしてないもあるかw
ちなみに晋書の宣帝懿伝でも武帝(曹操ね)が関羽の攻撃が凄まじいので遷都しようかと相談してきたおりに
移る必要は無いと持論を述べているが、その頃の孔明には一言も言及ないんだが。
曹操もそうだよな、蜀がらみでは劉備や関羽に警戒しても孔明に言及ないのは何故?
晋書が偏っているとかそういうレベルではなく、呉も魏も晋も孔明の前半生など一言も言及してない。
孔明が死んだらホッとしたソウエイが暴政を始めたってのは演義?
>>375 司馬懿は諸葛亮が生きているうちは雑魚扱いして自分を大きくみせ、
死んだら持ち上げ抜かせなかった自分は凄いとやはり大きくみせたんだな。
>>381 前半生は対外的には殆ど活躍してないからな
それでも劉曄が言及してたと思うぞ
あと晋書って司馬懿のことをかなり貶してると思うんだが…
劉備亡き後の蜀に諸葛亮以上の将がいなかったのが最大の不幸
蕭何が韓信のかわりに大将軍として兵を率いているようなもの
386 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 21:16:50
天才軍師といえば、孔明と答える人が多いに一万元
演義の孔明は魏を打倒できなかったのが不思議なくらいの天才軍帥!
だから天才軍師=孔明は間違いではない。
(その作品はフィクションです実在する団体名人物名とはそれほど関係はありません)
388 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 22:46:45
>>381 他国で評判がある人物なんて極少数、そいういう意味では関羽・張飛、特に関羽が異常なだけ。
その論でいくなら周瑜も武帝紀や諸葛亮伝でなんの言及もないけどな。
389 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 23:33:03
>>385 ショウカは軍を率いたことすらないだろう。
孔明と同列にすること自体おかしい。
>>389 物事の比喩すら理解できない孔明厨ですか?
391 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 23:43:23
簫何も、秦が滅びるまでは陣中にいただろ。多分。
まあ確かに軍を率いた事はないだろうが。
>>388 入蜀途中まで関羽と共に孔明もハン城で従軍していたはずだが、
誰も話題にすらしていませんねwww
>>384 貶めているのは曹爽一族の粛清の件でしょ
それに続いて事実上魏の実権を掌握したことね。
逆にいえば君臣の面からあれほど叩いているにも
かかわらず、彼の軍事面での業績を貶めていないのは
批判的な見地からみてもすごかったからなんじゃね
395 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 00:23:23
張飛と諸葛亮は同格の独立した将軍で、諸葛亮に率いられる将が趙雲だったんだろう
亮を仲達が奇才であったといってるけど、その一方で決断力がないとか勇猛じゃないとか
すき放題いってるけど、実際北伐で主要都市全然とれてないし、
撃破した有名どころなんて曹真と張ゴウと何ヶ月も遅滞食らわされて
ようやく降ろしたカクショウぐらいしかいないんじゃね?
北伐で有名になったとあるけど、弟との手紙のやりとりでも亮なんて勝てるよと
いってるし、嘗めてるじゃん
>>395 そんな感じかもしれんね。
法正が張飛の名を出したのも、援軍の面子の中で、対外的に一番知られた将軍だったからだろう。
多分、援軍が現れた当初から、劉璋側に対して「張飛が来た」と喧伝してたんだろう。
だから、劉璋側は「敵の援軍は張飛」と認識してたので、
徳陽で敗れた張裔を、「張飛に敗れた」と認識したんだと思う。
398 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 00:40:31
>>397 自分で言ったことを否定するようでアレだけど、
貴方の説を借りるなら、対外的には張飛が一番有名だから張飛の名が使われ、実際の内部的な命令系統では諸葛亮の方が指揮権を持っていた、という関係だったのかもなあ
張飛が他国にも名のしられた将軍なのに、数年公安の政庁詰めの実績しかない孔明が
急に長飛の上位につくの
なんかアリエナサス
400 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 00:59:57
現代の国家公務員のキャリアの課長とノンキャリアの係長
年上でベテランなのはどっち?
>>398 断定できるようなものが無いので、結局は自分が納得するように採るしかないと思う。
ただ、趙雲伝や諸葛亮伝を読む限り、趙雲が諸葛亮や張飛とは一段下の立場だったのは確かだろう。
張飛は諸葛亮と分かれた後、一旦巴西に出て、巴西郡功曹の龔ェを破っているんだけど、
これは向存らが葭萌に出てたから、それと一緒に郡太守らが出払ってたからじゃないかと思っている。
当時だとまだ龐羲が巴西郡太守なのかな?
この張飛の動きは、葭萌の霍峻を救うと共に、劉備の連絡線の安全を確保する効果がある。
こういう慎重な用兵は張飛よりは諸葛亮に似つかわしいので、張飛を巴西に送る事を提案したのは諸葛亮かもしれない。
でも、やはり軍隊の指揮は初めてである諸葛亮が大将とは考えにくい。
諸葛亮と張飛が同格、或いは諸葛亮が張飛の参謀のような位置だったのかも。
張飛は将軍で、万単位の軍を指揮できる権限を持っているが、
孔明は劉備に使えてわずか数年でしか無い。
課長と係長にたとえるなど不適切も大概に汁
兵隊の采配は張飛、方針は諸葛亮。
何の方針
参謀よりはむしろ護軍、督軍、監軍に類する存在だったんじゃないかとも考える
将軍と呼ばれていても名誉職的な役職名の場合もあるので
「将軍」を、今日の感覚で読み解くのは止した方が
張飛は諸国に知られた勇将だが・・・・
孔明はしらなくても張飛はみんな知っている。
408 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 02:52:11
>>373 チッチッチッチッ
ヒデーオ チガーイ マース
コウメイ イズ ヴェリー フェーマス ヒーロー
409 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 07:52:31
張飛ってキョチョみたいな猪武者でもなかったみたいだしな。最後は車騎将軍(三公の次?)になって
蜀軍部のトップになったところを見ても。たしか魏のチョウコウも演義のようなイメージではなかったはず。
>>379 その論でいけば曹操は赤壁で劉備に負けた事になるな
周瑜は何もしてないのか?
>>410 周瑜伝全部よんでから書け
拾い読みするな
>>411 諸葛亮伝全部よんでから書け
拾い読みするな
413 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 10:50:04
劉備は決戦を尻目に、敗走する曹操軍から旧ケイシュウ軍を自軍に吸収してた感じが。
それで油江口に本陣構えてた。
伝には孫権に同盟して曹操にあたる利を説いたぐらいしか赤壁に関して書いてないがな
>>412 周瑜は黄蓋と図って曹操の軍に大損害をあたえているが
伝には孫権に同盟して曹操にあたる利を説いたぐらいしか赤壁に関して書いてないがな。
魏の武帝本記には劉備との戦いは不利であった云々と書かれているが、特に諸葛が
どうこうという記述がみあたらない。諸葛亮伝にも無い。
仕事といえば呉主に同盟の利を説いた事ぐらい。
>>410で
周瑜は何もしていないのか?と書き記すぐらいなら亮は同盟の利を説いた以外に赤壁で何をしたというのか。
功の大小を論じればおのずと明らかになるだろう。
>>415 曹操の伝で劉備に撃退されたとされる
劉備が勝てたのは孫呉が援軍に来たからであって他でもない
援軍を連れてきたのは諸葛亮であり
それは奇策と賞賛される程困難な同盟であった
>>415 そして何が言いたいかと言えば
他伝に載るのは有名な代表者の名前であり
載ってないから何もやっていないという事にはならない
>>416-417 意味不明
>他伝に載るのは有名な代表者の名前であり
周瑜伝には亮の活躍など記載されていない
魏将や魏主らも敗北の原因に同盟のことなど書いてない。
>劉備が勝てたのは孫呉が援軍に来たからであって他でもない
援軍を連れてきたのは諸葛亮であり
はぁ? 援軍をつれてきた?どこにそんな事が書いてある。
孫権が援軍を派遣したとは書いてあるが亮がつれて来たとなど一言もないんだが。
備は曹公に打ち破られ、南方へ引き揚げて長江を渡ろうとしていたが、当陽で魯粛と遭遇し、
かくて共同して計画を立てることになった。そこで夏口に進駐し、諸葛亮を孫権のもとに派遣した。
孫権はかくて周瑜および程普らをやって劉備と協力して曹公を迎撃させ、赤壁で対峙した。
時に曹公の軍勢はすでに疾病を抱えており、初めに一度交戦しただけで曹公の軍は敗退し、
長江北岸に引き揚げていった。周瑜らは南岸に布陣した。周瑜の部将黄蓋が言った。
「いま賊は多勢、我は寡勢であって持久戦は困難です。しかしながら曹操軍を観察いたしまするに、
艦船をまっすぐ連ねて舳と艫とが接しております。焼き討ちにすれば敗走させられましょうぞ。」
そこで蒙衝・闘艦数十艘を選び、薪や草を詰め込んでその中に膏油を注ぎ、帷幕で包んで上に牙旗を建て、
あらかじめ曹公に手紙を送り、偽りの降服をしようとした。[一]またあらかじめ走舸を準備して、
それぞれ大船の後方に繋いでおき、それから行列を作って前進した。曹公軍の官吏・兵士らは
みな首を伸ばして遠望し、指差しながら黄蓋が降服してきたと言った。黄蓋はもろもろの船を放ち、
時を同じくして火を起こした。時に風は猛り狂い、ことごとく岸辺の陣営に延焼した。
しばらくすると煙や炎が天に漲り、人馬のうち焼けたり溺れたりして死ぬ者は非常に多かった。
軍はついに敗退し、引き返して南郡に楯籠った。[二]劉備が周瑜らと再び一緒になって追走すると、
曹公は曹仁らを江陵城の守備に残して、まっすぐ自分は北方へ帰っていった。
>>418 曹操の伝には劉備が勝ったとある
なら「周瑜は何もしなかったの?」となる
そんな事はなく、勝てたのは周瑜等孫呉のおかげ
周瑜等孫呉が援軍に来たのは諸葛亮の同盟工作が為
これらを踏まえて
有名な代表者である劉備の名前が使われた
わからんかね?
>>419 諸葛亮伝に「〜権 大に悦び、即ち周瑜・程普・魯粛等の水軍三万を遣はし、亮に随ひて先主に詣り、力を并せて曹公を拒ましむ」とある
>>420 曹操の伝には劉備が勝ったとある
>>419の周瑜伝の赤壁の記述をみてもわかるように赤壁の大勝は
呉軍によるもので
劉備の活躍は「劉備が周瑜らと再び一緒になって追走すると」とこのぐらいしか明記されていない。
ましてや亮の活躍など同盟にいたる折衝しかあげられていない。
>>420 さらにいえば、武帝本記には「劉備との戦いは不利であった」としかかかれてないぞ。
劉備が勝ったなどといつどこで曹操が言及したのかw
>>422 だから対して活躍していない劉備の名前で「勝った」と
記述されたかの理由を説明しているだけなのだが
>>425 不利で退却したんだから劉備の勝ちじゃん
まぁ言葉尻を替えてもいいけど
戦場で周瑜が活躍して曹操を退けたにも関わらず
曹操が劉備に不利で退却したと記述されたのは何故かと
言いたいのですが
有名な劉備の名前が代表して使われたという
簡単な事実がご理解いただけませんでしょうか?
有名つうか、曹操の場合は劉備とはある意味腐れ縁。
曹操はじめ主な群臣がごぞって劉備一行がどういう
連中かみている
孫権とは一度も曹操と会見したことすらないし
確執の度合いが違うわな
>>418-419の天才性に鼻血フイタ
もう周瑜伝に書いてない事はねつ造って事にしようぜ
周瑜伝>超えられない壁>武帝本記>他伝>諸葛亮伝
史料批判できない人間が嫌いな人物を貶めて考察をしてゆくと
ここで繰り広げられているリアル反三国志が出来上がります
お前らもう少し餅衝けよ
ま何をいおうが、三国志の勝者は司馬一族だけどナー
>>429 史料批判が高じて、正史にくどい程繰り返し公平と書かれ
魏延を擁護さえしている諸葛亮が
派閥政治のボスで魏延を阻害した事になっているインターネットにようこそ
そもそも今何を争点としてるかもわからないんだが…武帝紀に「劉備と戦い不利だった」と書かれた理由?
それなら劉備追っかけてたら孫権軍がやって来て〜という過程を詳しく書きたくなかったから(負け戦だし)、
「劉備と戦ってたら疫病が流行ったので引き上げました」にしといたんだろう多分。
武帝紀のあの辺は時系列も滅茶苦茶だし、真面目に考察しようとすると良くわからなくなってくる。
>>431 ちょwwっおまwwww
それこそ史料批判の仕方を知らない厨房だろうが!
孫権が合肥に攻めてきたが撃退した、劉備と赤壁と戦ったが不利で疫病もひどくなったので引いた。
武帝紀に書いてあるのはこんだけ。
元々の主張である「他伝(武帝紀・周瑜伝)で諸葛亮の記述は無い=何もしていない」
っていうのが間違いなだけ、その論を周瑜に適応されると周瑜伝で反論したりと
ダブスタしてるうちに、破綻した論理が脇道にそれていってる感がある。
それにしても武帝紀・周瑜伝・諸葛亮伝もまともに読んでないのが如実に分かる。
>>432 そこで「"周瑜"と戦ってたら疫病が流行ったので引き上げました」と記述が
ならなかった理由を繰り返し書いただけ
詳しくは
>>435が書いてくれたので
>>433 そんなこと書くと正史読めとか言われて演義厨扱いですよ!
史料批判とか、意味わかって使ってんのかなあ?
難しい言葉使っとけば、なんとなく専門的な話をしてる気分になれるからなあ。
>>437 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B2%E6%96%99%E6%89%B9%E5%88%A4 そこでお手軽にウィキを参照ですよ
上をざっと見したけど概ね↑こんな感じの理解でいいと思う
それでそこを踏まえた上で今までの書き込み見てゆくと
>また、複数の史料同士が相互に矛盾している場合は、
>単なる事実誤認・勘違いによるものなのか、それぞれの記述者の
>利害関係によるものか、思想的な背景があるのか、など
>様々な面から検討を行ったうえで、史料を総合的に判断することになる。
こういう姿勢に欠けてるわけですよ、つまり
史料批判というものを知らないか
史料批判というもののやり方を知らないか
史料批判というものを間違って理解してやった気になってるか
そのどれかだと思うわけですが、さぁどれだ?
横槍で悪いんだけど質問
周瑜と魯粛ってどちらが有能なの?
つーかの周瑜の後任って魯粛には重すぎたの?
魯粛って演義の影響でなんか冴えないイメージがあるんだけど
将軍としての才能以外は魯粛はかなり優秀だと思うのだか・・・
>>436 俺は有名だったから劉備の名前が使われたとは思わないが…
それなら周瑜が攻め、劉備が助力した江陵の戦いも曹仁伝・徐晃伝共に「周瑜と戦った」となってることに矛盾する。
「赤壁時に劉備が一番有名だから選ばれた」なら江陵攻めでも劉備が選ばれるはず。
元々自国の敗勢を詳しく書く気がなく(しかも帝の本紀なら背景の政治情勢にも触れなきゃいけないし)、
援軍その他の事情を差っぴいたんじゃないかと。
例えば李通なんかは(全体では負け戦でも)本人にとっては活躍の記録なので
「劉備が周瑜らと共に攻めてきて、その部下関羽を破って云々〜」と結構詳しく(細かく)書いてある。
これで関羽に負けてたら「李通は江陵に周瑜を攻めた」で済ませたかも。
>>439 周瑜は有能な実行者
魯粛は有能な計画者
守備範囲が違う
443 :
438:2007/02/14(水) 19:07:10
>>440 どう読もうと自由なのは確かだが
そんな読み方だと読解力の程が知れるぞ
>>439 比べようがないよ
曹操の南下は周瑜でなければ防ぎ得なかった
三国鼎立の構図は魯粛でなければ導き得なかった
至高のソフトクリームと究極の蟹クリームコロッケを
クリームって字面だけでどっちが上か比べるようなものさ
ちなみに呂蒙はお腹に溜まるガッツリうまいカツ丼かな
周瑜と魯粛の比較も魅力的な話題ではあるが、さすがにスレ違いだろ。
呉スレとかでやってくれ。
445 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 19:29:45
孔明が有名になったのは智謀と言うより頑張りと忠義心から
軍事や外交面は平凡
普通に議論が展開されていた静かな展開に
新たなる波が押し寄せてくるのであった
流石
>>445!
447 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 19:33:24
つまり諸葛亮は若林ではなく森崎だと?
普通に若林
諸葛亮が外交に平凡なら呉と同盟は無理ですね
当時、魯粛の発言力は周瑜よりずっと小さいしな
軍事が平凡なら司馬慰さんがチキンか平凡かどっちかですね
周瑜本紀には書いてないけど
450 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 20:01:38
>>449 同盟は共通の敵がいる以上当たり前
大体芝居は普通に孔明に勝ってるし
周瑜本紀には書いてないけど
おまえの脳内の話に興味は無いからチラシの裏にかいとけw
454 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 20:29:08
孔明と関羽は能力うんぬんより
儒教の模範的人格だから過大評価されてるんだろ
士大夫に傲慢な関羽が儒教の模範的人格とは思えん
そもそも関羽って商売の神様だよな
武の神や忠臣の象徴ならわからんでもないが
なぜ商売の神になるんだかわけわからん
457 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 20:40:29
忠臣というより、昔からの傭兵仲間という感じだけどな
あの3人
君主に忠実なだけの人間ならこの二人以外にいくらでもいるだろ
460 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 21:10:13
それこそ忠実さだけがとりえみたいな魏延があれだけぼろくそに扱われてるからな。
孔明って自分の策読まれたら何も出来ずに負けるよなw
臨機応変能力0ww
司馬懿がその場その場で都合の良いことしか発言していないって奴が過去ログにいたが、
贔屓目でみても司馬懿の孔明評適確すぎるものな
宣帝は「諸葛亮は思慮深いが決断力に乏しい。
宣帝は、「諸葛亮は、志は遠大であるが、
機を見るに敏でない。謀計に優れるが、決断力に乏しい。戦術に長けるが、正攻法しかとることができない
別々の状況の時に諸葛亮の時について同じ事をかいているから、これが諸葛亮への彼なりの評価だろう。
>>456 商人が航海の安全を守る神として各地に関羽を祭った。
それが華僑達に受け継がれたという説があるらしい。
関羽って劉備と出会う前は商人やってたんじゃないのか?
そろばん発明したからじゃないの?
>>465 塩の密売人じゃなかっけ
商売のトラブルで人殺してそのまま逃げたというから現代でいえば犯罪者だなw
肉屋の張飛もにたような経歴で人をころして以下略
>>462 司馬懿が諸葛亮に快勝して蜀に攻め入ってるとかならともかく、圧倒的な魏の物量でもって
手堅く防御していているだけな上に、張コウを派遣して死なせてるのだからイマイチ言う事に信憑性がない。
そもそも三国鼎立以降は領土拡大なんてほぼ無いし、魏・晋も相手の内部崩壊に漬け込んでの征服、
北伐の不達成は諸葛亮っていうか三国時代の将の限界と思うけどなあ。
469 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 21:54:17
>>467 塩屋・肉屋・ワラジ屋
よくぞあそこまで成り上がったものだ!
つまり関張は何進クラス
471 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 22:01:52
司馬懿は亮の死後、都に帰ると政争に巻き込まれて失脚、痴呆を装い、
曹爽が猟に出た隙に政変を起こし、実権を掌握、そういうしている内に
寿命がつき、子2人が各地で起こる反乱や呼応する呉との戦い、蜀の
あいつぐ北伐に忙殺されていたから無理ないと思うが。
全て耐えた後に蜀を平らげるが師も昭もあいついでなくなり、炎が
簒奪するすったもんだで呉征討がおくれたというか、陸抗ぐらいしか
まともなのいなかったから死ぬの待てば自ずと呉は弱体化するの
目にみえていたから無理する必要もないだろ。
>>470 何進と違うのは何進は縁故で大将軍になったが、実力ないからすぐに歴史から消えた。
あの3人はそういう意味ではほんとなりあがりものだな。
平時ならゴロツキで官憲に捕縛されて処刑されていただろうが、ある意味乱世に生まれて
良かったとすらいえる。
蜀が天下統一できなかったのは何故か
>>474 劉備はある意味劉邦と共通するが、曹操は項羽ほど馬鹿ではなかったからさ
呉あたりもふくめて孫か劉どちらかに修練できれば良かったが、
結局南北朝になるのはもっと後世の話になった。
>>474 ド辺境だからさ(ウイスキーグラスを置きながら)
蜀にいた武将は全員最強ってイメージあるけどな。
それ演戯補正がかかっているから、
特に宋代以降になると朱子学の影響もあってどんどん蜀補正が強くなっていってる
蜀厨が蔓延したのも吉川栄治が蜀よりなのもみなそういうことだ。
>>469 乱世ならチャンスを生かせば成り上がれる
明の朱元障なんかも乞食坊主から皇帝になったんだし
>>475 劉備に陳平がいなかった
曹操は楚漢抗争期の人物に例えると韓信だった
韓信ってそんなに凄い人には見えんな。いやあんまり知らんけど
483 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 23:06:43
>>482 韓信のこと詳しく知らんのなら首突っ込むなw
何進は横山のイメージだとしょぼいけど、大商人か何かだったんじゃねーの
中国のみならず世界軍事史上の名将として名高く、同様に悲運の将軍として知られる。
凄い人だったなんだな韓信
486 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 23:30:06
関心は軍事職人みたいなもの義経とかわらない
総合力じゃ曹操の方が当たり前のように凄い
やっぱり張良だろ
何が?
489 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 23:50:29
関係ないけど古代中国の文化って進んでいるよなぁ
しかもこれほどの人間ドラマがあったなんて
なんか以前からここ見てると、
韓信の名前が出るたびに過敏に反応し、貶める奴が多いな。
韓信批判も、歴史通ぽく振舞うためのポイントなのか?
結局反乱しようとして失敗したチキン
支援
>>484 肉屋
当時精肉業を営めるなんてのは金持ち
お金大好きな霊帝に上手く取り入る賄賂を悠々と出せるくらいの資金力はあるはず
そして妹が美人だったということは何進も美形
494 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 01:10:13
韓信+張良+蕭何+項羽<曹操
どこが
曹操なんて劣化韓信だろ
韓信はニートの夢だからな、どこまでも美化される
ガチだと項羽に勝てないのが珠に傷だけど
その曹操を脅かした馬超が最強ってことで
>>490 同意
韓信をただの軍事職人とかチキンとか言ってる奴はかなり痛杉
>>493 肉屋もピンキリじゃね?何進jはそうかもしらんが、燕人張飛が
肉屋だった頃はどうもお金もちなイメージが無い。
>>496 項羽にガチで勝てる奴なんて同時代に居るのかね?
季布や龍且辺りでも渡り合うのキツイと思うぞ
501 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 01:33:41
同時代どころか中国の歴史上で、項羽に正攻法で勝てる奴はそうそういないだろ
502 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 01:39:13
人民解放軍なら余裕だろ
>>501 前趙の劉曜や後趙の石虎、宋の趙匡胤とかならいい勝負しそうだな。
趙ばっかりだな。趙雲も大丈夫だろ
505 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 02:35:44
能力であらわすとこうなります
曹操
統率 A
内政 B
外交 A
軍事 B
魅力 B
韓信
統率 B
内政 C
外交 D
軍事 A
魅力 C
やはり総合的には曹操が上ですな
曹操は統率下手
反乱頻発
曹操は内政下手
反乱頻発
曹操は外交下手
棍棒外交が通じない相手にはションボリ
お前らここは孔明スレだ
曹操は政治(ゲーム的に言えば内政?)の革命児
戦争の強さよりも、政治を評価した方が良いと思うが
アンチ諸葛亮は不思議と曹操の政治を手本にしている二番煎じの諸葛亮の方が
政治家だから!という意図不明な理由で評価しているのが不思議
>>501 李存勗。 項羽以上の戦術の天才と思われ。
>曹操は政治(ゲーム的に言えば内政?)の革命児
くあしく
賄賂って、
あったとしても妹が皇后になってからで肉屋が金持ちとか関係ないし、
肉が高価だとしても売るのと食うのじゃ違うし、
そもそも四足を殺して云々てのは汚れ役じゃないの?
韓信はすべてをもってる
足りないのは野心
自分を表に立たそうという心
513 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 11:00:05
韓信厨って痛くてうざい
>>508 内政で曹操個人のオリジナルなんて何一つ無いけどね
516 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 12:14:51
兵戸制の確立は曹操の業績じゃなかったっけ?
517 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 12:16:04
曹操一人の功績にはできんしょ
518 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 13:39:12
519 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 14:16:07
クセのある人材もうまく使いこなせたのが曹操の功績でないの?「将の将」とか
いうやつ。ただ文帝はこれを崩して司馬氏の台頭を許してしまうカタチになったが。
曹操も夢で「馬3頭が桶(曹)で草を食う」のを見てるのになんで粛清しなかった
んだ?やはりカクカが早死にしたのが惜しいな。
>>517 政治や軍事をもってどのような功績も一人に帰すわけねー
>>518 諸葛亮の事を二番煎じと言って貶めるのにも関わらず、
曹操は「オリジナルである必要はない」か...
君は自分が何を言ってるのか理解していないのかね?
大体諸葛亮の何処が曹操の二番煎じなのかも具体的に論じてさえいないしな。
522 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 16:05:33
成功=有能、失敗=低能ではなく、真偽のはどはどうでも良いので、
「〜の」「〜の時の」「〜は凄い」「〜だから」ってのを議論したいのですが、そういう
スレはありませんか?
例えば僕この前空城の計について質問させてもらったんですが、理詰めの議論をしたいです。
523 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 16:06:08
>>522 >真偽のはどはどうでも良いので、
>理詰めの議論をしたいです。
君は一体何を言ってるか分かってるのか?
真偽の程がどうでもいい状態で理詰めの議論?
それは理詰めの議論なのか?ただの屁理屈のこねあいじゃないか?
空城の計は理詰めの議論説
527 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 16:23:12
お前らときどきで良いからスレタイを読めと。話し逸れまくりじゃねーか。
諸葛亮の四次北伐の詳細、街亭の責任問題、総合的な戦績と他将との比較。
論争になりそうなのはこの三つかな?
529 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 17:01:22
第四次は北伐最大の圧勝にもかかわらず、李厳のせい(桟道のせい?)で撤退。
ただ圧勝といっても赤壁のように相手が退いてないのが気になるな。
街亭は馬謖wwwwww
総合的な戦績は戦略の目的達成率の低さはあるが局地戦では見所あり。
以上
>>529 諸葛亮圧勝説を取るなら
>>86で上げたような問題や、529で貴方が指摘するような書かれてる戦果と、実際の影響の関係とかはどう思う?
それと街亭を「馬謖wwwwww」の一言で片付けてしまうなら、その他の戦いの部下の奮闘も諸葛亮に還元できなくなり、
そうすると諸葛亮の戦績と呼べるものは局地的に見ても非常に少なくなると思うのだが。
孔明が万も失うような大敗したなら、また丞相から降格人事してただろ
>>529-531 >>86にはまず
>>531の尤もな指摘があるな
それに傍証になるが魏延が四次北伐の前後で仮節→使持節になってる
まず郭淮,費遥を破った時に(建興8年秋以降)仮節を授かっている
次に李厳を弾劾する表の時に使持節として名を連ねている(建興9年秋)
これらから何か功績があって節のランクアップがあったと推し量れる
この間に第四次北伐がある。
そこで魏延の節ランクアップは四次北伐の郭淮、司馬懿軍の連続撃破で
活躍したことによるのではないかと考えることが出来る
以上の考察から漢晋春秋の記述には拠るところがあるものと考えられる
久しぶりに見た
サイトはもう更新しないの?
534 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 21:05:33
三戦板全てのスレで、レスが四時頃から止まってるのは何故?
537 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 21:32:36
逆に魏側では、司馬懿の降格ってなかったのかな
明帝のお気に入りだからセーフ?
540 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 22:14:02
>>524 ほんとに在ったかはどうでも良いんです。
例えば
「誰々が何々の戦いについて書いた文献では、こうこうこうして見事何々が
勝ったと書いていますが、それは理論的に可能なのか?」
ってのを理詰めで議論したほうが建設的じゃないでしょうか?
もちろん検証するにしてもある程度の正確な情報が必要なわけですが・・・。
つまり文献のあら捜しをしてやろうって事です。
>>539 司馬イは国土防衛に向かってるんだから
経過がどうであれ最終的に防衛が成功したなら降格はないでしょう
相当まずいことしたならありえるかもしれないけど
孔明より張良のほうが賢いと思うよね
張コウの戦死はまずくない?
文帝はたいそうお気に入りだったみたいだけど、明帝はそうでもないのかな
544 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 23:20:35
孔明は誰もがみんな天才と認めている
やっぱ孔明ってすごいなぁ
太公望だろ
孔明が敬愛してる管仲・楽毅は?
駄目駄目。俺にすらかなわんと思うぞ
548 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 23:52:30
>>543 敗戦ならともかく配下の武将が戦死したくらいで一々処罰しないんじゃないか?
お気に入りだったから処分したかたっけど、あいつ1人欠けても魏に何も損はないとか
言いくるめられてただろ。
馬超の評価が低くて気に入らない
廖化の評価が低くて気に入らない
ミロ飲もっと!
552 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/16(金) 02:11:57
>>531孔明は追撃されて数万の損害を出しているが。
http://strawberrymilk.gooside.com/text/shinjo/01-1.html 諸葛亮は、魏軍が大軍でやってきたと聞き、自ら民衆を率いて上?の麦を刈り取ろうとした。
武将たちはみなそれに不安を抱いたが、宣帝は「諸葛亮は思慮深いが決断力に乏しい。
必ずや自軍の守りを固めて安泰にし、それから麦を刈り取るだろう。私なら二日間昼夜兼行で
進めば十分間に合わせることができる」と言った。そこで、兵の装備を軽装にし、
昼に夜をついで上?に向かった。諸葛亮は魏軍の巻き上げる砂塵を遠くから見、逃げた。
宣帝は「我々は通常の倍の道のりを進んで来たため、疲労している。兵法を知る者であれば
むさぼりかかるところである。
だが、諸葛亮は渭水を天険に我々に攻めかかろうとはしない。これなら与し易い」と言った。
さらに軍を進めて漢陽に宿営し、諸葛亮と遭遇した。宣帝は陣をかまえて諸葛亮を待ちうけた。
武将の牛金に軽騎を率いて諸葛亮をおびき寄せさせた。両軍が接触したが、それだけに終わり、
諸葛亮は退却した。宣帝はこれを祁山まで追撃した。諸葛亮は鹵城に屯営し、南北の二つの山を
天険とし、川をせき止めて二重に防御を固めた。宣帝が攻撃して防御を破ると、夜になって諸葛亮は
逃亡した。
宣帝はこれを追撃して破り、捕虜と斬られた者とは数万にのぼった。皇帝は使者を遣わして軍を労い、
宣帝に封邑を加増した。
その頃、軍師の杜襲と督軍の薛悌とが、「来年麦が実れば、諸葛亮は必ず攻め入ってくるでしょう。
ところが隴右には穀物がありません。冬になったら予め穀物を隴右に運び込んでおくべきです」と
言ってきた。宣帝は言った。「諸葛亮は、二度祁山に侵攻し、一度陳倉を攻撃したが、いずれも敗北し、退却した。
たとえ今後出撃してきたとしても、再び城を攻撃することはない。
野戦を仕掛けてくるはずだ。戦う場所は、隴東であって隴西(註22)ではない。また、諸葛亮はいつも食料不足を
かこっている。帰還すれば必ずや穀物を蓄えにかかるだろう。推測するに、三年間以上は動けないであろう」。
そして、宣帝は、冀州の農民を上?に移住させて耕作させ、京兆・天水・南安の製鉄を統制してゆくよう、上表した。
>>552 それは魏の戦果報告の問題が絡んでくる
どの史料も見ていた司馬光が通鑑でどう記述してるか見れ
晋書の司馬懿の戦勝報告は何も書かず漢晋春秋の記述を採ってる
よってその問題はこれで決着
両軍が大いに激突した以上、どちらにも損害が出た筈だから
諸葛亮がノーダメージで司馬懿をこてんぱんにのしたとは言わんが
両者の交戦は結果として諸葛亮に軍配が上がったということだろ
>>553 あくまでそれは司馬光がそう編集しただけ。
それが本当に正しいかどうかは全くの別問題。
司馬光の意見としての参考になるだけに過ぎない。
陳寿の書いてることが全て正しいと言ってるのと、同レベルの発想。
そういう記述があるから一歩進めた話しろよ
他の文献などもあわせて、魏側の勝利と取れるような推論をしてくれ
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/16(金) 05:34:20
孔明は忠義心厚い文官に過ぎないことは歴史が証明してる
曹操は忠義心厚い文官に過ぎないことは歴史が証明してる
>>532 まず
>>531の指摘だけど、諸葛亮の降格人事は北伐の初回・街亭で負けた時だけで、例えば陳倉で負けた時なども普通に降格はしてない。
単純に被害が大きかったから降格し、大きくないと降格しなかったんだとしても、街亭並の敗戦じゃないかぎり
「降格してないからおかしい」とは言えないんじゃないかと。どこからがアウトなのかは我々には基準がわからない。
プラスマイナスで考えて陳倉なら王双、追撃で被害を出しても大物張コウを戦死させたからチャラだったのかもしれないし、
そもそも降格時の諸葛亮の上奏文を見れば「(大将である自分が)軍規を徹底させることができず、結果大事に及んで命令違反者を出し〜」
とあるわけで、この時は単純な被害の責任というだけでなく、自らを含め徹底して厳しい措置を取ることで軍規の徹底を狙った政治的意図が窺える。
街亭の厳罰は命令違反者が出たからこその、必要以上な措置だったとも考えられる。
この戦いは其谷に布陣した趙雲が(状況からすればそこまで咎があるとも思えないのに)降格してることからも特殊なんじゃないかと。
魏延の昇進について、例えば趙雲なんかも記録に残ってない期間(223年、223年から227年)に二回昇進してるけど、
223年は劉禅新体制作りの一環としての昇進だろうし、二度目の昇進は時期からしてそれこそ南征にでも参加して大活躍でもした証左なのかもしれないが、
やはり北伐に向けての形式的な昇進だろう。上の方の人材は(特にその時手柄を挙げたわけじゃなくても)不意に昇進することがままあるのでは?
それが補強材料にならないとも思わないし、
>>86で挙げた疑問点より魏延昇進の方が重きを置くならこちらもそれ以上の反論はないけど。
絶対にどうこうとは元々言える話しじゃないわけで、どっちが妥当と思うかによるしね。
>>531 そもそも、
>>86-87で指摘したのは蜀書にそれだけの戦果・功績を陳寿が残さなかった理由、
それと「漢晋春秋」の信憑性についてであって、「晋書の追撃何万〜」を丸呑みに書いた部分なんてないわけで、
>>121→
>>124のやり取り見てもらえばわかって貰えると思うけど、俺だって晋書の過剰表現には否定的な立場。
なので「晋書の記述は大げさで疑わしい→漢晋春秋の方が正しい」みたいな論法は少しズレてると思う。
長くなったんで分割。
560 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/16(金) 12:54:15
孔明「は、はわわ、ご主人様、敵が来ちゃいました!」
561 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/16(金) 15:12:39
北伐の山路ってどれぐらいの道幅?兵糧輸送に苦労するということは牛も
通れぬくらいの狭い隘路か?それとも単に蜀のほうが慢性的な食糧不足だったの
かな?演義には食料がたくさんとれて鉱業盛んな裕福な国と書かれているけど
562 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/16(金) 15:17:14
北伐の山路ってどれぐらいの道幅?兵糧輸送に苦労するということは牛も
通れぬくらいの狭い隘路か?それとも単に蜀のほうが慢性的な食糧不足だったの
かな?演義には食料がたくさんとれて鉱業盛んな裕福な国と書かれているけど
羅貫中の両者疲弊、蜀有利ってのが案外的を射てるのがワロタ
しかし、この過疎板だってのに孔明スレは伸びるよな。
貴殿らは皆孔明が好き過ぎる。
565 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/16(金) 20:01:46
祁山の役に関して言うと、司馬懿にとって隴西方面での指揮が初めてで、すでに関中方面に居った諸将の統御に苦慮した可能性はある。
また、諸葛亮に対する知見はある程度持っていたのだろうけど、やはり対戦は初めてなので、五丈原の役の時のような、当初から固守・持久と言う確固たる方針も持っていなっかったように見受けられる。
隴西方面への進出は隴西地方の主導権を蜀漢側に渡さない、と言う意味で当初は急いだ、と。
ただし、諸将の統御、対蜀漢における経験が浅い事から、決戦は急がない(あるいは必要としない)と言う感じだったが、指揮下諸将の突き上げで、祁山の包囲陣を攻めるハメになった、と言う漢晋春秋の流れは不自然では無いと思う。
その結果に関して言うと、蜀書・王平伝に「張コウを防ぎ〜」とあり、蜀漢側が撃退、あるいは魏軍の攻勢頓挫させた可能性は高い。
が、司馬懿自身の戦意が高くなく、蜀漢側の戦果拡大を図った様子でも無いようなので、晋書・漢晋春秋両書のような、どちらか大戦果、と言う結果でなく、引き分けか、戦術的に蜀漢側がやや有利に終わった、と言う程度と考える。
長い上、ごくごく普通の結論で申し訳ない。
>>92 見過ごされ易いけど、一番重要なポイントだよ。
567 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/16(金) 21:08:48
>>562 うろ覚えだが観光用に復元工事中の桟道を何かの映像で見たが、2〜3m位だった気が。
そこに至る道は車道に整備されていたから解らない。
万単位の兵が移動したわけだから、広くはなくともそれなりの幅はあったんじゃないかな?
馬超スレなんか全くの伸びないんだぜ…
不人気極まりないな
いつの時代も諸葛亮の人気が一番なんですよ。信者もアンチも。
570 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/16(金) 22:59:34
孔明のベビーカーは何とかならんのかね
>>570 史実と辻褄を合わせるとあれは劉禅からの賜り物
「はわわ、ご主人様、このベビーカーに乗って戦うのですか!?」
「うん、亮ちゃん、よく似合ってるよ」
573 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/17(土) 15:46:21
「痔」だったのかもよ孔明。馬で山道は痔だとつらいだろうし。だからそれを
いたわって後主が車くれた。
574 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/17(土) 15:48:18
かも
575 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/17(土) 15:50:09
それか馬術がなかったか。でもあの当時の知識人=たいていは地主(金持ち)なんで
それができなかったというのもおかしい。今で言えば免許がないというのが同じで
何ごとも自分でやらなきゃ気のすまない孔明のことだ。
山のような文書を傍らに置いて仕事をしていたのだろう。
つまり、馬上よりは車のほうが読み書きに便利じゃないかと。
578 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/18(日) 02:21:48
馬車や戦車はダメ?
一応、士だから、馬に載るような軍人じゃねーぜ
つー意見もある
でも若い頃はよく馬に乗ってたよな。
581 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/18(日) 13:09:33
亮は定軍山では何か指揮したの?
583 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 03:10:39
蜀って実は楚に似てないか?
人材少ないし
補給路をのびのびにする様な無茶な遠征するし
蜀の山岳を越えて軍勢が来られる訳無いと高くくってたら奇襲されるし
過大評価だった奴は叩かれるんだよな
ほら戦国でも信玄が叩かれてるじゃん
武田信玄の何が過大評価なんだ?
実力どおりの現象がおきてるのじゃないか?
586 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 12:12:16
>>584 信玄のせいでせがれの勝頼の評価が極端に低いのが問題だろうよ。遅く出てきた
武将ではあるが。
1 名前:☆ばぐた☆投稿日:2007/02/16(金) 17:00:40
【社会】 “世の中のカン違いバカ男に「殺意を覚える」” 女性の支持集めるmixi本に、アンチコミュニティも★2
ニュース速報板
http://news22.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1171612840/ ・「世の中のカン違いバカ男をぶった斬ります!」
これは今年1月に発売された「話のつまらない男に殺意を覚える」の帯に書かれたキャッチ
コピー。この本は「mixi」上で女性たちの支持を集める同名のコミュニティ(掲げられた
テーマに賛同する人が集まり、掲示板にトピックを立て、書き込みをする仕組み)に書き
込まれたコメントを抜粋して紹介したものだ。コミュニティの参加者は1万人を越える。
合言葉は「オマエが黙らなければわたしが黙りますから…」。
合コンでいきなり馴れ馴れしくしてくる男、職場でセクハラ発言を繰り返す上司、自分を
かっこいいと勘違いして女を見下げる男、やたらと甘えたメールを送ってくる男に「殺意を
覚えた」発言が目白押し。その内容を5段階の「殺意レベル」に分け、コミュニティの管理人
ドレミファ氏が痛快なコメントをつけている。思わず「ああ、いるいる。こんな人」と納得する
内容。殺意まで覚えなくてもいいと思うが、日頃からその人にムカついていたら、小さな
一言で我慢の限界に達することもある。普段から困った男性諸氏にストレスを溜めている
女性たちは、読んでスカッとすることだろう。立ち読みで失笑する女性を見かけることもある。
俗にいう「あるある」本なわけだが、「あるある」なだけに、男性たちが読むと不愉快極まり
ないはず。帯には「男友達へのプレゼントにも最適」と書かれているが、相手によっては
友情にひびが入る恐れもあるので要注意だ。
さて、出版に当たっての著作権問題も絡み、mixi内には「話のつまらない男に殺意女に殺意」
「話のつまらない本に殺意を覚える」という、殺意返し的なコミュニティが立っている。もちろん
困った女性たちに日々苦しめられている男性たちにも言い分はあるだろうから「勘違い女に
殺意を覚える」「話のつまらない女に殺意を覚える」などのコミュニティも出てきているようだ。
http://news.livedoor.com/article/detail/3019679/
織田に当てはめると信玄のやったことって信長の父の世代にやっとくべきことだったわけだしな
勝頼は信玄の失敗全部被って不幸
589 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 12:54:11
590 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 12:54:28
違う
592 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 13:18:12
なるほど、つまり孔明は天才という結論にいたるわけだ、納得
593 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 16:35:33
ようするに孔明はインテリ官僚だったが
軍事と人事に才能なしということですか
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三戦にキン肉マンスレ立てた奴がこの中にいる
>>593 いい加減過去ログよもうよ
才能はあったんだから
596 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 19:02:20
>>595 読んだ結果ないという結果にたどり着くと思ふ
軍事って戦術レベルしか考えないのか?
599 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 19:34:15
才能はあっただろ
ないと断言は不可能だ
問題は結果が残せるだけの才能ではなかったというだけのこと
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 19:38:18
なかったとあったけど果せないというのは結果だけ見れば一緒
しかし北伐のプラン、局地戦の結果を見る限り才能皆無というわけではなく
能力が理想に追いついていない一行目の後者だったという結論になる
603 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 20:16:53
兵力が少ないのにかかわらず、孔明のおかげで兵士たちは実力以上の力を発揮しよく戦った
だが、いろいろ運が悪かった
志半ばで寿命も尽き、天が見方しなかったのだ、これも天命
彼以外でベビーカーに乗れる人物は孫子しかいないというのにお前らは
605 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 20:31:00
606 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 21:50:45
>>603 信賞必罰が徹底してたので手柄を立てようとする意識があって蜀軍はそこそこ強かった
らしい。演義に出てくる、兵士交代の話は実際あったようだし。
607 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 22:18:46
そもそも英明なる曹操様の善政に刃向かったのが
天命に反していないだろうか?
曹操は善政してないというか統治下手
壌陽記がどれくらい信憑性あるか知らんが、わざわざ民衆が孔明を祀ろうとするくらいだからな
善政ってのは各地からひとさらいしまくることかい?
611 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 22:47:52
晋がつくったから、正史では曹操は実態よりも悪く書かれている
演戯ではさらに輪をかけて悪く書かれている
孔明ってIQ220だったんだろ?頭の回転は大天才だろ
613 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 23:59:23
正史の孔明はどうみても忠義心厚い愚直な秀才官僚にしか見えない
天才にも英雄にも奇策謀略に長けた策士にも見えない
614 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/20(火) 01:06:59
曹操の政策って屯田以外なんかやった?
強制移住政策
みかん食べよう政策
617 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/20(火) 01:16:20
>>615 あ〜あったね。
すっかり忘れていたよサンクス。
故郷から追い出して連れさるなんて奸雄はとんでもない奴だ。
強制移住は、三国どこもやってるからなあ。
曹操や諸葛亮だけが特別悪いというわけでもない。
兵戸制の導入
>>619 独身者を無理矢理結婚させたりした兵士の世襲制度だっけ?
622 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/20(火) 13:01:46
曹操は屯田して食料の確保に成功と同時に流民化してた農民の叛乱防止ができた。あとすねにキズが
ある者でも能力があれば採用した。
623 :
孔明:2007/02/20(火) 15:51:21
織田信長みたいだな
624 :
孔明:2007/02/20(火) 15:52:01
織田信長みたいだな
625 :
孔明:2007/02/20(火) 15:52:53
織田信長みたいだな
626 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/20(火) 18:34:36
人生五十年、天下の内をくらぶれば…
武田は信玄が、家臣団への絶対支配という課題を
やりのこしたまだだった。一代限りのものだった。
それをいうなら信長、秀吉も同じことだ。
家康はもったほうだが結局毛利と島津にやられた。
>>627 織田家のどこに家臣への絶対支配などというものが出てくるんだ?
小説かまんがの影響かしらんが、その調子じゃ鉄甲船とかも、外枠が鉄でできてると信じているんだろうなぁ。
それはともかく、信長に比するべき人物は曹操ではないことだけは確かだ。
姜維が鍾会と反乱したときに心臓痛くならなければ勝ってたと思うんですよ。
んで…
・徴兵方法
・対騎兵作戦の進歩、騎兵の重装甲化
・兵法書の研究
・装備革命
・長江による防御
632 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/20(火) 22:25:40
一度生を受け、滅せぬものの、あるべきか
633 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/20(火) 22:58:12
>>631 長江による防御に依存した江南政権は長くは持ったためしがない(陳や南唐)。
長江を最終防衛ラインとみなし、淮南を領有した上で淮河、漢水の線での防御線を敷いた政権は長持ちしている。
黄河と長江の間をいかに荒らすか
敵は長江の上を飛んできたのか!?
637 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 02:43:36
孔明に軍事の才能がないのなら、
孔明在命中に蜀は滅亡しとるだろ。
シュウユや法正や郭嘉やカクほどの才能はなかったかもしれんが
蜀一国を支える分には充分な才能があったんだろ。
639 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 17:14:00
>>638 同感だが,その理屈でいうとショウワンやヒイも同じ事が言える。
640 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 17:55:15
軍政の才能はあったが、実戦の指揮は苦手でFA?
諸葛亮が存亡をかけた防戦でもしてるならともかく、軍事の才能がないのなら在命中に蜀は滅亡理論は良くわからんな。
蜀一国を支える才能ってのは別の面だろう。
具体的に見て益州攻略の援軍や南征を指揮し、五度の北伐を行い、まあまあの手腕を見せたからソコソコあったはず。
これじゃ駄目なん?
北伐一回目を除けば、優れた戦闘成績を残してるだろ。
なにせ諸葛亮が指揮した戦では負けがない。
兵糧不足で撤退することはあっても敗戦の末の撤退ではない。
兵站が理由で負けるって相当基礎からやばいんだけども。
蜀の峻険な地形にはあの曹操ですら補給難に苦しみ、結局克服できなかったんだがね。
孔明は屯田と輸送方法の改善で解決を図ろうとしたがこれも失敗した。
戦術指揮の能力にしても、追撃してきた魏将を次々と討ち取っているわけで、
さして戦下手だったとは思われない。
孔明陣頭指揮で本軍壊滅でもしたらそれはその時点で蜀滅亡にまっしぐらだべ
困難な撤退戦を混乱なくこなせ、さらに敵将を返り討ちにできる能力を評価しているのだが。
「運籌策於帷幄之中、吾不如子初遠矣。若提枹鼓、會軍門、使百姓喜勇、當與人議之耳」
つまりこういうこと。本人の弁の通り。
649 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 19:39:11
むしろ正史の孔明のほうが凄みがある気がする。
まさに管中・楽毅を足して割ったかの如き名将だと思う。
650 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 20:44:09
651 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 20:44:21
退き佐久間=諸葛亮孔明
軍事の才能よりは、
人事の才能が決定的に欠如してたんじゃないかと。
>>652 こういうこという人は馬謖しか例を挙げられない……
ん〜、諸葛亮に人事の育成、発掘、抜擢の話はあまり聞かないが。
>>654 配置ということでは特に問題はない。
馬謖に関しても街亭以外は問題なし。
蔣琬・費禕・姜維らは抜擢に良く応えたと言っていい。
楊洪とか鄧芝も抜擢といっていい。
656 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 22:24:33
ケ芝って補給任務怠慢で庶民におとされなかったか
>>656 それ李厳。
鄧芝は劉備に見出され尚書まで上った。
ほぼ内政を担当させていた鄧芝を諸葛亮は呉との外交に使い、さらに軍に関与させたりなどした。
そのいずれにも十分な功を上げ昇進していったので抜擢と言っていいのではないかな。
>>657 李厳を抜擢したのは劉備。
後主の補佐を諸葛亮とともにし、内外の軍事を統括しろと遺言。
決定的な落ち度のない段階で諸葛亮がどうこうできる人物ではない。
街亭の戦いで敗残の兵をまとめて引き上げてきた王平を重用したのも抜擢といえるかな?
660 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 22:45:23
王平はひろいものだったな
662 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 22:46:13
>>659 それは劉備の手柄。
つーかジョコウの手柄。
蔣琬・費禕・姜維は抜擢というか、自力で昇進だと思うんだが。
でも三国中唯一大規模な反乱が起きなかったのは評価できるんじゃ?
孔明死後も、大きな反乱、離反がないまま終わったし。
厭戦気分が広がって姜維ら主戦派との軋轢ってのはあったけど。
>>653 廖立はどうよ?
評価か人事のどちらかで間違えてるのは確かだと思うが…
666 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 22:57:12
>>664 劉禅って可哀想だよな。
良い事は全て孔明の手柄で、悪い事は全て劉禅のせいなんだから。
>>660 楊戯はちゃんと仕事してたよ。
>>662 演義基準で語ってるなら別に反論はないが……
>>663 蔣琬は劉備に罷免されそうなところを諸葛亮がとりなした。
費禕は諸葛亮が南征から帰還した際に特別に名指しして車に同乗させた。
年齢・官位が上の人物が他に多くいるにもかかわらず。
これによってみなの費禕に対する見方が変わった。
姜維は降って早々に文武の才ありと評価され異例とも言える抜擢をされてる。
668 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 22:59:26
>>667 貴重な人材である魏延を、無実の罪で殺した事とかか?w
>>642 前スレでも書いたんだけど、
一次の馬謖の大敗を諸葛亮の戦とカウントしないなら、三次の陳式による二郡平定も諸葛亮の戦じゃないし、魏延の魏将撃破なんかもそう。
第二次や第四次が「諸葛亮が自主的に撤退したから」ノーカウントなら、同様に自主的に撤退した郭淮の三次もノーカン。
五次も結局直接刃を交えないから、北伐自体対象外となり、征蜀時の援軍にしても(形式的な大将は諸葛亮だった可能性が高いが)
実際に敵を破ったり城を落としたりが記録されてるのは張飛や趙雲。
すると良くわかんない南征の勝利だけを見て「諸葛亮は常勝無敗!」とは言えないでしょ。
都合の悪い事案を全て省いた「〜〜を除けば無敗」なんて抽象的なものは根拠になり難いでしょ。
馬謖重用の結果の大敗が諸葛亮の責であるように、二郡平定も諸葛亮の計画者である功績でもある。
何時出兵しどういう風にどのくらいの期間攻め込むのかを決めてるのも諸葛亮なんだから、
城を落としきれず撤退も立派な敗戦だろう。
その上で、「〜〜を除けば無敗」みたいな抽象論が無意味なのと同様に、
諸葛亮の置かれた状況の難しさなどの条件を顧みずに「負け=駄目な証拠」みたいな安易な考えも無意味なんだから、
我々はひたすら具体的な事案についてどうだったのかを論じた方が良いと思う。
>>665 廖立なんかは呉の侵攻に対してあっさりと長沙から逃げ戻ったりとあまりいい印象ないね。
自負心が強く、良くも悪くも口舌の徒って感じ。
>>668 元々魏延にも非があるからな。
どっちもどっちだろ。
存命中はどちらの才能も生かさせていたしね。
>>671 後に楊戯の捏造だった事が証明されてますが?
>>672 は?楊戯の捏造?
って楊儀か。オレも
>>667で誤変換してるなw
で魏延の行動に全く非がなかったとでも?
>>673 魏延に非があろうとなかろうと
二人とも孔明が重用した人材だぞ
>>674 魏延は劉備も抜擢したと思ってたが?
こっちはお咎めなし?
まあどう擁護しようと孔明の重用する人材に偏りがあるのは事実だがな。
劉備や曹操の人物眼と比べたら月とすっぽんだよ。
>>676 龐統や蔣琬を罷免しようとしたのに?
関羽に荊州任せたら見事に失陥させたのに?
まあその辺は単なる経験不足でしょう。
劉備だって徐州時代には張飛に城を任せて見事に(ry
679 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 23:46:32
680 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 23:49:43
>>678その反省いかして
張飛でなく魏延を抜擢した事あったなー
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 23:50:55
孔明にも重用されてるだろwww
だよね。
反面、楊儀を重用はしても後継には指名しなかったりもしてる。
劉備・曹操人物眼有り、諸葛亮人物眼無しなんてのは思い込みの産物でしかない。
684 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 23:56:07
>>682 ああ、要するに君はさっきから全ての手柄は孔明に、
都合の悪い事は他人の責任にする手法で
このスレを進めて行きたがっているとこういう訳か
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/21(水) 23:57:12
>>683 ねえ、多数派を装ってまで過疎スレで孔明論を捏造して楽しいの?
687 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 00:17:18
司馬懿や陳寿の評価を理由をつけて退けつづけているのは変。
>>684 孔明の下でも充分出世しているし重用もされてるじゃん。
もしかして長安奇襲作戦が蹴られたことしか見てないの?
今来たばかりなのにwwww
人物眼とか言っても仕方ないだろ
蜀という時点で上限が限られてしまうんだし
690 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 00:24:54
>>689 数時間に1、2スレしかつかないようなスレで不自然に即レスつく方が
おかしいな
みるからにバレバレ
お前みたいに24時間貼り付けないしさ
別に俺は何の主張もないよ
単に孔明は魏延も重用してたと言うだけで
馬謖云々で手柄を分けるなら、そうするべきだろうし
>>687 陳寿の評価は
「成功しなかったのは軍事が得意分野でなかったからかもしれない」
(得意分野でもないのにここまでの功績残せて凄いけどね)
季漢輔臣賛も合わせて読めば陳寿の諸葛亮評は「運悪く結果でなかったけどすごかった」で落ち着くはずなんだがな
孔明派が軍事が得意とあくまで言い張るなら、
せめて数倍の敵を倒した経験でも書いてもらわないと説得力ないよね。
勿論雑魚の寄せ集めな反乱軍相手や、
何の戦果にもならない撤退戦での勝利は省いてくれよ。
蜀で劉備ごときに競り負けた曹操は軍事が得意じゃなかったのかね?
>勿論雑魚の寄せ集めな反乱軍相手や、
では黄巾相手の戦勝もノーカンということで。
>何の戦果にもならない撤退戦での勝利は省いてくれよ。
撤退戦のときこそ軍事的能力が最も試されると思うんだがね。
>>693 その理屈だと、寡兵で曹操を破った周喩は軍事が得意だといえるが、
呂蒙や陸遜はダメだということになってしまうなぁ。
あ、周喩にしたところで実際に動いたのは部下の武将だからノーカウントでいいかな?
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 02:21:48
だれがなんと言おうと孔明は天才軍師
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 02:25:58
>>696 その三人は戦略的な不備を智謀で状況を覆した
赤壁、ハン城、夷陵はそういう意味で意義があるが
孔明の北伐で対魏の状況が変化しただろうか?
>>695 >撤退戦のときこそ軍事的能力が最も試されると思うんだがね。
何度も書き込むが、
つ退き佐久間
700 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 02:29:28
孔明の軍事の能力って明治の日本で言うと山本権兵衛だよな。
決して東郷平八郎や児玉源太郎じゃない。
>>698 変わったけど?
それまでほぼ無警戒だった蜀に対呉並の防衛線を構築せざるを得なくなったんだし
つーか周瑜以外は戦略的な不備を智謀で状況を覆した、わけでは全然ないんだけど?
呂蒙も陸遜も手薬煉引いて機会を待ってたんだがなぁ
702 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 02:53:35
>>701 呂蒙、陸遜の活躍で蜀は中央への出口を失った
呉は伸張し大きく勢力バランスが変わった。
諸葛亮は益州の疲弊を克服できなかった。
あまりにも身びいきがすぎるよ
孔明厨さん
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 02:55:51
付け加えれば魏と呉は互いしかみていない関羽の死、夷陵、劉備の死で
蜀は事実上覇権争いから脱落したんだよ。
亮の北伐などあくまで第2戦線でしかない
メインはあくまで魏と呉の戦い
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 03:06:53
>>701 つまり関中にも攻められる事をすっかり忘れていた魏に
孔明がわざわざ教えてくれたって事か。
そういえば孟達が裏切ると魏に教えてくれたのも孔明だったな。
奴はまじめに魏を攻略する気があったのか?
>>702 でそれのどこが呉の戦略上の不備を覆せたわけ?
元々戦略上、江陵を取りに行く事は既定路線で戦略上の不備を解決したわけではないぞ
孔明存命中はどうみても関中がメイン戦場だけどな
707 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 03:27:52
>>705呉は荊州を劉備にとられて不利であった。
これをロシュクが交渉で3郡を奪回し、
呂蒙が魏と分割して関羽をうち、怒りにかられた劉備が
攻勢かけて荊州の返却寸前までいくと陸損が不利を
覆し再び蜀の地に追い返した。
いずれも戦略レベルの勝利であるし、
そもそもそれが規定路線と謗るならば北伐で何も得られなかった
孔明は何の戦略を覆した?
>>707 俺が言ってるのは「呂蒙は戦略上の不備を覆したのではなく魯粛の打ち立てた戦略上に沿って動いている」ということなんだが
つまり戦略上の不備なんて何一つ覆していない
陸遜もそう
関羽討伐時に陸遜が夷陵周辺を抑えた時点で劉備の敗退はほぼ確定してて不利どころか有利だった
それを互角に近い形までもって行って勝機さえも覗えるところに戦況を覆しかけた劉備を褒め称えるべき
もっと言うと210年代後半から220年前後の呉の戦略には一切とは言えないがほぼ不備がなかった
>>709 期間限定なら
蜀も関羽が北伐するまで(陸遜に煽てられて守備兵も北上させるまで)
不備ないよ?
>>707 魯肅の路線(呉書見聞説?)で呉は国力1.3倍になったけど
諸葛亮の路線で国力は100倍くらいになったよ
荊州失ったと後も国力60倍くらいだよ
>>710 不備ありまくり
そもそも対呉同盟そのものが呉を信用できると仮定した上での砂上の楼閣
孫子でも攻めて来ない事を頼みとするのではなく攻められない防備こそを頼みとせよつってるでしょ
712 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 04:42:31
>>698 「孔明派が軍事が得意とあくまで言い張るなら、
せめて数倍の敵を倒した経験でも書いてもらわないと説得力ないよね。」
これに従う限り呂蒙や陸遜が「軍事が得意」と言ったところで説得力がない。
ていうか、戦術的な能力の話をしてるんじゃなかったのか?
寡兵で数倍の敵を破るってのはあくまで戦術レベルの話だろ。
>>698 「呂蒙陸遜は軍事は得意ではなかったが謀略奇計は得意だった」
というのが君の意見なら筋は通るが、
>>698ではあくまで周喩と同列に扱ってるよな。
これはどういうこと?
その他の弱小勢力のことも忘れないでやってください。
716 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 10:04:50
児玉「孔明は内政手腕に長けた官僚で軍事と人事の才にかける」
孔明が5度の北伐を敢行したのは
軍事戦力比を考えてのことだろ。
あのまま黙ってみてれば魏が侵攻してきたんだよ。
蜀側から攻める行動を起こし続けなければ
蜀はとっくに滅んでいた。
そういう先手を打って、孔明は蜀を守っていたんだが。
その圧倒的戦力差の状況で一度は長安近くまで
攻め上ったのだから、孔明は天才とみるべき。
当時の蜀の武将をみても、魏に勝てるなんて思えないしな。
一騎当千の武将は一人もいなくなっていたのだから。
軍事と内政のバランスを常にはかりながら
戦略をたてることのできる孔明は
法正やほうとうとはタイプの違う軍師なのだから
この二人より劣るというのはおかしい話だ。
三国鼎立は孔明の案から出来たことだろ。
流浪の武将だった劉備を一国の皇帝にまで至る
企画を立て、それを実際に成し遂げることが
どれだけすごいことなのかよく考えるべき。
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 10:31:55
>>708 呉の勝利も蜀厨の手に関わるとこういう言い草になるんだな
要するに孔明を持ち上げる目的で魯粛、呂蒙、陸損を貶めたいんだろう
吉本新喜劇のギャグでぼこぼこにされておいて「今日はこの辺で勘弁したるわ」って
いうノリと同じ。
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 10:34:08
「孔明派が軍事が得意とあくまで言い張るなら、
せめて数倍の敵を倒した経験でも書いてもらわないと説得力ないよね。」
これに従う限り呂蒙や陸遜が「軍事が得意」と言ったところで説得力がない。
ていうか、戦術的な能力の話をしてるんじゃなかったのか?
寡兵で数倍の敵を破るってのはあくまで戦術レベルの話だろ。
>
いつから戦術的な話になった?
>>696でノーカウント論を持ち出してきたのは貴様だろうがw
720 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 10:35:23
>>717 つ北伐は何の成果もなかったで
はいおしまい
>>711 呉と同盟を結んだことで得をどれだけしたかを考えてみ?
というか盲目的信用はしていないというかできない。
関羽も無名の若造陸遜のおべっかお手紙で騙されるまでは警戒していたし
小競り合いも何度もあったのは知ってる?
>720
北伐時に法正とほうとうは居たのか?
居ないのだから比べようがない。
そもそも法正やほうとうは孔明のたてた戦略に沿って
戦術を立てていたにしか過ぎないだろ。
孔明の才能は戦略にある。
戦術においては劣るかもという話にしかならないだろ。
そもそもその戦術も俺には劣るようには見えんがな。
法正、馬良、ホウトウなど有能軍師たちを失って
たった一人になった孔明が、シバイやカクなど魏の軍師団の知略に対抗し、
一騎当千の武将たるチョウコウやジョコウたちを策で翻弄し続けた。
この二人に武略で対抗できる武将なんか蜀には居なくなってたろ。
その孔明が本当に戦術で劣るとはとても思えんな。
どれだけ有利な戦をしていても結果が得られなければそれは意味がない。
724 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 10:57:32
孔明厨気持ち悪すぎ 死ねばいいと思うよ^^
725 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 11:06:01
>>722 カクとの知恵比べと、ジョコウを翻弄したところを詳しく教えてくれよ。
>723
孔明は劉備を蜀の皇帝にしましたが?
とんでもない戦果でしょ、これって?
両者ともなにを意地になってるか知らんが、スレの主旨を離れた言い争いならもっと別な場所でやってくれ。
お前らの自説の正しさとかはお前ら以外興味ないから。
諸葛亮のおかげで戦略的なバランスが〜と言うならそれが諸葛亮の軍事能力と、どういう因果関係があったのか、
周瑜・呂蒙・陸遜との比較にしても、もっと具体的な戦役で、何がどう違うから結局諸葛亮の軍事能力はどうなのか?
にキチンと話しをまとめる努力はしよう。
話してる途中でそこから脱線して相手を言い負かす口喧嘩になってないか?
728 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 11:41:31
孔明に戦略なんてないよ
兵の指揮能力はあった。
誤った戦略を選ばなかった。
大きな勝利に結びつくような戦略は立てられなかったor実行できなかった。
これで終わり。
>727
お前が何がいいたいのかさっぱりわからん。
孔明の軍事の才能の話しか語っとらんのだが何の主旨が違うと?
戦略は軍事の根幹の部分だろうに。
戦略をたて、準備をし、実際の行動を移す。
それが軍事だ。
戦術は行動をおこしたあとの
ハプニングやいきあたりばったりをなんとかするための技術の話だろ。
何かおもいっきり勘違いしてるだろお前?
>>718 何言ってるの?
この当時の呉は神がかったような正しい戦略を奇麗に実行してたって事だよ
戦略がこの時期の三国の中で最も正しいのに「戦略の不備を戦術で〜」とかふざけんな
呉を低く見積もりすぎだぞ
何が蜀厨だ
戦術指揮能力:優
戦略策謀能力:良
733 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 12:08:36
>>731 >それを互角に近い形までもって行って勝機さえも覗えるところに戦況を覆しかけた劉備を褒め称えるべき
この最後の一行に噛みついてるんじゃないの?
呉の戦略が正しかったことには同意するが、最後の一行には同意できない。
別に劉備は戦況を盛り返してないと思うんだが。
>>732 両方とも優でいいんちゃう?
特優は与えられないけどね。
>>731 蜀厨になったり呉厨になったり孔明厨は目的のためなた毀誉褒貶いとわないんだな
次は魏厨にでも偽装するのか ん?
>>735 むしろ諸葛亮を貶めるためにころころ論点を変えてるのはお前w
呉で言うならシュウユがたてていた戦略、
荊州と益州をとって魏と対抗する、
いわば天下二分の計とでもいうべき戦略は
孔明がたてた天下三分の計で打ち砕かれているしな。
しかしその後、呉との同盟で魏に対抗しようとしていたが
呂蒙、陸遜による荊州失陥で未来図を書き換えなければならなくなった。
だが、呂蒙、陸遜のこの行動は
荊州を取り戻したいと願った主のための行動というだけで
戦略では大きく失敗している。
それによって蜀が呉を攻めてくることになったからな。
荊州失陥とイリョウの大敗で蜀の力が大きく後退したため、
呉は魏に対抗する力を失ったようなものだったからな。
よってこの両名は三国を統一するための戦略センスにおいて
孔明どころかシュウユより上であるとも思えない。
三国のバランスをとるための才能ならあった、という感じだな。
>>737 それはちょっとどうかな?
蜀との同盟なんて攻勢の際にはほとんど役に立たない。
これは実際の歴史、蜀呉の連動が名目で終わってる事からも明らか。
が、不戦同盟は役に立っている。
それを考えると呉にとって江陵を抑える戦略はプレゼンスを保つためには最良のものといえる。
>>737 荊州を取り戻したいと願った主のための行動というだけで
戦略では大きく失敗している。
意味不明 孔明の天下三分の計は荊、益両州の確保を前提としたモノだったが、
蜀が益をとられるとなんで呉の戦略ミスと解釈できるのか?
おまえやっぱり孔明持ち上げるために他を貶めているだろw
740 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 12:30:04
>>730 >戦略は軍事の根幹の部分だろうに。
補給は軍事の要だから、
補給の能力に優れていた簫何は軍事の天才だよねwww
>>737 夷陵の戦い時孔明が参加していればあそこまでの被害は防げたのだろうか。
>>730 貴方がどちらのレスした人かはわからないが、
諸葛亮の戦略の、どこがどう優れていたから、諸葛亮の軍事能力はある(もしくはその逆)はスレの主旨に適ってるでしょうよ。
そこから互いの俺理論展開とその反論、
呂蒙や陸遜の勝利によって対魏の状況が変化したのかどうかだの、
諸葛亮が動いた結果、対蜀の防衛ラインは何処まで変化したのかだの言い合うことが不毛だと言ってるんだけど…
貴方のレスはどれですか?自分で見返したときに本当に諸葛亮の軍事の才能に限った話しをしてる?
655,658,659,667,670,671,673,675,677,683,686,729,732,736,738
昨日からの自分のレスを拾ってみた。
>>743 >>727は(読めばわかってもらえると思うが)主に
>>693からの展開への指摘なんだけど…
693〜727の間一切レスして無かったなら「貴方に対してじゃない」としか言えないな。
>>744 正直話しズレてきてる気がするが指摘するほどじゃないかな。ここから呉蜀同盟の有用性についての議論が続くなら別だけど。
>>737 君は張紘知らないの?
呉の大まかなラインは長江流域を抑える事
次にそれをどう実行するかで周瑜案と魯粛案に分かれる
周瑜案は自分で全部取っちゃう、魯粛案は前者が難しい状況で反曹勢力でさえあれば誰が取ってもよし
だから戦略の不備なんて呂蒙も陸遜もひっくり返してない
そもそも戦略が破綻してないんだから
このスレにずっとはりついている孔明厨きもちわるすぎ><
>>745 まあ、スレタイに即して言うなら「孔明に軍事の才能はある。が、最高とは言うほどではない」で終わりなんだよね。
何度も言うようだけど。
>>693 数倍する敵を倒して戦略的優位を築き上げたのは曹操の官渡と周瑜の赤壁くらいしかすぐには思い浮かばないな。
あと寡兵で大戦果を挙げたというと細かく上げると切りがないが、代表的なのは張遼か?
こいつら以外は軍事の才能がないという主張なのかな?
>>747 内容の無い、あるいは事実を無視したレスしかしない誰かさんよりマシ。
>739
違うだろ。
天下二分は実現できなかったが、
天下三分の計は実現できたという差だろ。
荊州を失陥しても三国鼎立の形は崩れてはいない。
孔明の戦略は成功している。
そこから先の未来図に関しては変わってしまったがな。
>746
チョウコウの構想は呉一国の安寧にしかならんだろ。
その後の魯粛案でいくかシュウユ案で行くかが
呉の天下統一の分かれ目だったんじゃまいか。
しかしシュウユ案は孔明によってつぶされた為
魯粛案で行くしかなくなったんだろ。
魯粛案でいくと孔明の天下三分の計を後押しする形になってしまった
というのが現実だろ。
呉は孔明の戦略に完全に飲み込まれている。
>>750 > 呉は孔明の戦略に完全に飲み込まれている。
どちらにとっても妥協の産物だよ……
>>750 張絋戦略がどんなもんだか全く調べないで語るのやめてくれ
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 14:20:32
孔明に戦略などないよ
天下三分の計なんて戦略でもなんでもないし
孔明厨は一日中レスつけているな。
おまえは24時間営業しているのか?
くだらん
755 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 14:40:51
なんて戦略の話になってんだ?
ここは孔明の軍事能力を語るスレだろ?
756 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 14:54:31
不利になると話題転換。
わかりやすいなw
758 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 14:58:44
755がんばっとるのう 何時間このスレにへばりついているのかのう
マジキモい
>>753 それで話を通すなら天下二分の計なんて戦略でもなんでもなくなるけどな!
760 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 16:04:51
>>759 当たり前だろ
そんなの当時の知識人なら当たり前に考えてた事だろうし
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 16:07:53
天下二分&三分の計とは
当時志士たちに幕末の薩摩と長州が手を結べば
幕府を倒せると言われてたくらい当たり前な話
それで現実に手を結ばせたのが諸葛亮
「前からそう思ってた」とかの類とは
別格の識見となるな
>760&761
想像することと実際に実行するのでは意味がまったく違うだろw
実際に天下三分の計を実行して実現させたことに意味があるんだろ。
そういうのをコロンブスの卵ってんだ。
コロンブスの卵は例えが違うだろw
765 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 16:31:24
どう見ても三分になってないけどなw
766 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 16:32:34
江稜の奪取を規定路線とほざいていた奴が
どの面さげて
>>763のようなことを平然といえるのかな
まじでこいつ恥ずかしくないのか
孔明とそれ以外で主張がころころ変わっていて
何こ生ゴミ野郎って感じ
>766
一体どのレスのこと言ってるか知らんが
俺はそんなこと言った覚えはない。
誰かのレスと勘違いしてるぞ。
ここはIDでねえんだから、想像で勝手に同じ人にするなよ?
768 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 16:39:09
魏に対抗する為呉と蜀が手を結ぶのは当たり前の話
これが戦略だの言ってるのは逝ってるやつのみ
孔明は内政手腕に長けた誠実な官僚と言うのが実像
権謀術数にも戦略戦術にも長けてない
内政手腕に長けた乃木希典みたいなもの
ちなみに俺のレスは
717、722、730、737、750、763、766な。
それ以外は違うぞ。
>768
お前は劉備は当時流浪の軍の長だったという事実は無視ですか?w
天下三分を実現できる位置に居たのは
魏、呉のほかに張魯や劉しょうも居るんですけどね?w
その流浪の軍の長が孔明を得たことで
赤壁という大きなチャンスを利用して
たったの13年後には蜀漢の皇帝ですよ。
誰が想像するんだよw
770 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 17:00:53
>>769 劉備側の立場から考えれば2分ではなく3分になるのは当たり前
荊・蜀取りが実現したのは別に孔明が凄かったって話でもないし
>>763 天下統一は不可能だけど三分の一(地図上)なら取れると、
劉備に教え発想転換させた点では確かにコロンブスの卵だw
>>770 凄くないのに若造が主席になるなんて
劉備見る目無いな
774 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 17:19:47
凄い、凄くないを別にして才能だけで高官にはできないよ。
>>773 荊・蜀取りの功績で主席になったわけで
荊・蜀取りが凄くなかったのになんで主席?という疑問なんだが
>>774 「内政」って単語、ほんと光栄だなお前
というか荊・蜀取りが諸葛亮が一番輝いていた時代
華北・中原を全て押さえられたらこっちも長江ラインは押さえないと防衛もままならないのは識者の一致した意見だろう。
当時揚州一帯を既に治めていた呉には、@、自分で全て押さえる A、荊州(+益州)を押さえてる勢力と組む
という大まかにわけて二つの選択肢があり、当然前者の方が良いけどその分難易度も高いので、
1を目指しつつ2で妥協する感じで使い分けてきた。
(ちなみに劉璋・劉表共に曹操に対抗しようなんてガラじゃないんで、魯粛が劉備見つけてくるまでは例え無理でも@の一択だった)
一方劉備はこの時まだ領地すらないわけで、問題外の存在。
ただ、唯一の強みは既に荊州の内部に入り込んでいたので、上手くすれば荊州を手に入れ舞台に上がれるかもしれないこと。
だからこそ諸葛亮は劉表死亡・曹操侵攻時に「このまま取ってしまえ」って言ったんだと思う。
荊州さえあれば孫権と同盟し(必須)、その後蜀を狙う・あるいはこちらとも結ぶという展望も開けてくるけど、
このままじゃ交渉の舞台にすら立てない(普通に考えたら呉は劉jと交渉し、駄目なら分割を狙うぐらいしかない)
諸葛亮からしたら殆ど唯一の選択肢蹴られて、もう一体どうすんだって時にまさか向こうから声かけてきた。
(隆中対を既に聞いていたはずの劉備が驚喜し、諸葛亮が魯粛が来るまで進言しなかったのは、まさかこの状態で交渉対象になるとは
当人達も思わなかったからだろう。下手すれば諸葛亮は逃げる気かと疑われる)
魯粛が向こうから話しを持ってきた以上、これは乗るしかないわけで、夏口まで逃げた後満を持して「私が行って交渉してきます」となる。
諸葛亮は非常に理論的な判断をし続けたと思うけど、稀代の奇策というのは陳寿の褒め殺しだろう。
あと、こっちから見ると魯粛が凄い的な書き方になっちゃったけど、こいつも相当行き当たりばったり出たとこ勝負です。
>>119 名詞の裏サイズに文を要約しろよ
3行以上の長文は読まない主義なんだ
>>779 @、自分で全て押さえる
A、荊州(+益州)を押さえてる勢力と組む
は、良いとして、発言力は@が10だとしたらAは1、2だぞ?
他にも降伏を唱えている人の発言力は10以上だ
いかな魯粛が寵臣とはいえ、軍部にも政府にも影響力は皆無
これの交渉が纏まる、それも同等の同盟で
ってのは奇策として十分だと思うが
>>780 三分までの過程を通し、
諸葛亮は至極妥当な判断をし続けたわけだが、
陳寿の賛辞は言いすぎw
↑こんなんでどうよ?
孔明の壮大なオナニーに付き合わされた蜀の連中も大変だなwwwwwwwwww
>>781 赤壁目前になると@以前に降伏派が圧倒的多勢になっちゃってるから、
軍部にも政府にも影響力絶大な人間である周瑜と組めたのが魯粛の幸運。
赤壁以後は魯粛自身の発言力が増してきたんじゃね?
>>784 その周瑜と方針が違うにも関わらず同盟案が通ったのは
諸葛亮のプレゼンテーション手腕が大きい
これは正史にも相当数ページが割かれて書かれているし、
絶賛の対象でもあるわけだから
誰でも出来たというものでは無いな
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/22(木) 18:27:13
>>772 >凄くないのに若造が主席になるなんて
>劉備見る目無いな
何の主席か知らないが、
孔明の地位って皆が思っている程高くないよ。
孔明の壮大なオナニーwww
>>785 周瑜と魯粛の方針が分かれるのは赤壁後、具体的に言うと劉備が京城に来た時じゃね?
もしこれが劉備側の交渉力の手柄だとするなら、それは劉備になっちゃうんだよね。(諸葛亮はこの時着いてきてもいないし、むしろ行くなと言った)
赤壁時に国を割る議論になったのは「戦うのか、それとも降伏するのか」、劉備ど同盟するしないが話題になったのは諸葛亮と孫権の直接会談の時くらいで、
呉の群臣は誰も触れない(決戦か降伏かに比べたら)遥かに些細な問題。一応、決戦派への追い風にはなってると思うけど…
なんで京城の時に魯粛案が通ったのかについては、色々考えられるけど、
赤壁の勝利を受けて魯粛や孫権自体の求心力が増してるとか、呉書見聞の解釈に倣って「実は周瑜にも魯粛の折衷案でいった」とも取れる。
ちなみに「正史にも相当数ページが割かれて書かれているし、絶賛の対象でもあるわけだから」諸葛亮のプレゼンテーション手腕が大きいってことだと思うけど、
実際問題赤壁時でもそこまで大々的に書かれてるわけでもない気がするが…
孔明は劉備陣営じゃ競争相手ゼロだったから。
徐庶は曹操のところに行っちゃうし
ホウ統はまだ出仕してないし
法正に至ってはまだ劉樟の臣下。
周喩は自分の案にすべてを賭けるのを嫌ったんじゃないの。
周喩案を実行に移せるのは本当に周喩だけなんだから、
周喩になにかあれば即座に挫折するわけで。
魯粛案はその予備。
>>788 諸葛亮が行くなっていうのは初耳、何処にあったっけ?
んで諸葛亮伝にはちゃんと赤壁時の孫権との会談の内容が書かれてるし、
使者として来ていたことは多くの伝に記述が見られるけど。
>>791 ホウ統伝裴注『江表伝』
788が言ってるのは赤壁後の劉備が荊州牧につくかつかないかあたりの話
791が言ってる赤壁時の諸葛亮と孫権の会談とは時期が違う
なるほどそんなところにあったのか、ありがとう。
んで俺が気になったのは
>実際問題赤壁時でもそこまで大々的に書かれてるわけでもない気がするが…
この部分ね、諸葛亮の使者の話は結構記述されてるから。
赤壁開戦の功労者の記述は歴史記述の根本に違反していると裴松之から非難されるぐらい
各所が自身の功績だけを大々的に扱ってるから
あまり記述の大小は目安にはならんと思うよ
もし、諸葛亮の意見で孫権が開戦の意思を固めたとするなら
魯粛のトイレでの功績はどうなるの?って問題があるし
また、諸葛亮伝をとるにしろ魯粛伝をとるにしろ
最後に群臣を黙らせたのは周瑜の抗戦意見だから
周瑜がいなければ開戦ができなかったことを考慮すれば
あまり諸葛亮の外交力をここで評価しすぎるのは難しいと思うな
孫権を開戦に向けさせたのは魯粛(or諸葛亮)の功績
群臣を説得したのは周瑜の功績
ぐらいじゃ駄目?
795 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/23(金) 07:47:00
あげ
796 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/23(金) 08:31:52
>>788 孫権の家柄を考えたら降伏しても出世の見込みが無いからだろう。魯粛が
「私はそこそこの家柄だから降伏しても出世はできるが、アンタは家柄低いから無理だよ」
といったのが決定的だったのでは?
あの当時は王莽の例から極端に家柄が重視される時代になってたみたいだし。劉備が中山靖王の後裔と
いうのもその時代背景があるからだろう。曹操後の曹魏にあっという間に司馬氏が台頭したのも
しかし今までの話からはプレゼン能力があるくらいで、
孔明に軍事の才能があるとは見受けられないな。
798 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/23(金) 09:17:08
>>797 軍事というより同盟締結が主眼でしたからな。軍事は劉備自身がするでしょ。
劉備は自分が軍事だけでなく参謀みたいなこともしないといけなかったのが面倒だから
孔明とかを欲していたかと
>>797 軍事の才能ってどの範囲を想定して言ってるんだ?
ただ単に「北伐が成功しなかった=軍事の才能がなかった」と短絡的に言ってるに過ぎないんじゃないか?