1 :
無名武将@お腹せっぷく:
考えてみよう
2get
3 :
n:2006/12/22(金) 16:35:13
しらん
単に魏呉に謀られたからだろ
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/22(金) 16:44:39
このスレタイにしてこの
>>1・・・ありえん!
ありえんが、ありえん故に三戦板のスレか・・・
急に呉が来たので
Qに呉が来た
満足に部下の管理もできない男だったから。
髭が素敵だから
急や
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/22(金) 20:44:01
髭だからさ
9に5が来た
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/22(金) 21:25:03
QGK
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/22(金) 21:28:26
傲慢で気持ちが悪いから
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/22(金) 21:38:24
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/22(金) 21:46:00
蒼天関羽も在○を部下に持った覚えはないだろ。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/22(金) 21:57:25
そういえば劉封が援軍に来てたら守りきれたのか?
QGKで決定
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/22(金) 23:07:34
髭踏まれたから
ここはコテと自治を語る板
中国英雄板でやれ
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/23(土) 01:22:53
>>18 それはないだろう
但し曹仁を倒していたらもしかしたら?
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/23(土) 02:56:49
ゆっくり来たらどうなった?
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/23(土) 03:53:41
魏呉から攻められ、援軍もなしなら普通守りきれんと思うが。
しかも最初から攻められることわかってて守備的にいけば
わからんかもしれんが、
攻めたところを不意打ち+味方の裏切りなら守れなくて当然かも。
そういえば正史ではどんな感じだっけ?
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/23(土) 04:02:52
俺が関羽なら荊州中の美女を集めて喜び組を作り、全員脱げって言ったら
生まれたまんまの姿になるよう訓練する。
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/23(土) 06:27:11
よく分かった。
「関羽なんか最初から居なければよかった」、という事ですね。
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/23(土) 07:32:36
そういうことです。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/23(土) 08:14:47
>>24 速さが命の戦にのんびり来たら意味ないだろ
兵が疲れるほど早く来ても意味ないがな
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/23(土) 13:26:03
って事は織田家の子孫もそうなんだね。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/29(金) 12:43:10
そうだねプロテインだね
基本QGKでok
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/30(土) 22:44:23
関羽ではなく張飛だったら守れた
35 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/12/30(土) 23:09:57
カンヌまんせーーーー!!!!!!!!!
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/31(日) 03:06:16
関羽クソだろ
蜀を壊したのはこいつ。 ただの馬鹿。頭ワルスだから
呉の動きを読めなかった+部下に裏切られた。
なにが関羽うんこーだ。劉備カワイソス
37 :
黒眉:2006/12/31(日) 08:37:12
実は関羽が攻めている間は孔明が守っていて呉が攻めてきたら、孔明は守りもぜずに諸葛謹の計らいで蜀ににげのび、指揮官を失った部下たちは仕方なしに呉に降伏してしまい、関羽は退路を絶たれて捕えられ殺されてしまった。これが真実
卞喜「坊やだからさ」
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/31(日) 12:09:49
法正がいればなぁ・・・
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/31(日) 12:10:49
ビジクがいればなぁ
ホウセイかぁ・・。
ホウ統でもいいけどね
アンチ蜀スレはもう飽きたお(^ω^)
張飛が荊州総督だったら名士好きだから呉の名士たちにへこへこしてあるいは蜀呉関係がうまくいったかも
でも孫家は名士じゃないから婚姻を怒鳴りつけて断るかな?
張皇后か敬哀皇后が呉に嫁いで蜀呉でハン城落としてたら・・・
張飛なら呉というより麋芳・士仁と上手く付き合って円滑な支援を受けていたら…という可能性がある。
荊州の蜀陣営の結束が固ければ呉も動くのを躊躇われるし、その上で呉に丁寧な対応すれば攻める名分も無くせるかも。
ようは関羽は隙を作りすぎ。
ただ張飛のやり方じゃ関羽が後ろを呉に奪われた時の様な苦境に陥ったら速攻で直属の部下に寝首をかかれそうだから、
やっぱり一長一短だな・・・
関羽と張飛を荊州に残せばよかったんだな
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/09(火) 06:35:17
なかなか難しい
張飛だろうが趙雲だろうが諸葛亮だろうがあの状況で守りきるなんて無理。
さっさと呉に荊州を返さなかった劉備がアフォ。
呉蘭くらいに荊州をまかせて(というか呉に返してもいい)
本陣に伏兵たっぷり置いておきゃいい
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/09(火) 15:17:29
曹操侵攻→撤退後の荒れた荊州じゃ呉と魏が同盟した時点で荊州守れるものはいない。
関羽と揉めつつも親劉備派を通してた魯粛が死んだ時点で\(^o^)/
呉との友好関係を深めていたらもしかしたら守れたのかもって意見は分かるけど、
友好関係保つには南郡は返さなきゃならない。
その場合の江陵のみでの兵力・国力なんてのはたかが知れてるし、
呉の友好重視してたらとても曹魏を益州・荊州両方面から脅かすってのは出来なそうなんだよな。
結局蜀は益州から何度も北伐して魏を倒せなかったわけだし、
まぁ時の流れといって良いんじゃないかと。
52 :
正義の味方クソスレマソコ:2007/01/09(火) 17:50:56
つまり関羽があほだったということか
53 :
正義の味方クソスレマソコ:2007/01/09(火) 17:52:12
そもそも関羽が北上した時期が謎だと思う。
半年前の漢中争奪戦の時に二正面作戦で攻め上れば許都も落とせたのでは。
219年は業や宛で中規模な反乱が起こったり、その時に攻めれば魏は打つ手なかったのに。
もう一つ言えば関羽の侵攻後、なぜ劉備も孔明もろくな援軍や進軍連携をしなかったのか。
漢中奪取して士気最高潮の時に何でここでも二正面作戦を取らないのか謎。
最大の問題は関羽に意見を言える同格の人間を荊州に置かなかったこと。
何で義兄弟の劉備は関羽の性向くらい見通して格の高い同僚や参謀を置かなかったのか。
>最大の問題は関羽に意見を言える同格の人間を荊州に置かなかったこと。
>何で義兄弟の劉備は関羽の性向くらい見通して格の高い同僚や参謀を置かなかったのか。
そんな人材はいなかったんだからどうにもならん。
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/09(火) 19:41:18
>何で義兄弟の劉備は関羽の性向くらい見通して格の高い同僚や参謀を置かなかったのか。
まず劉備は馬鹿だからね、見通せない。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/09(火) 19:56:21
劉備を馬鹿にすんなぁぁぁぁぁあぁぁぁぁあぁ!!!!
実際、関羽って信頼されてたの?
信頼されてたから援軍とか送らなかったのかな?
信頼はされてたでしょ
少なくとも張飛よりは
>>54-55 関羽と同格なんて無理でしょ。そもそも関羽自身が己をナンバー2くらいに任じているのだから。
馬超・黄忠問題の時の諸葛亮の受け答えをみると、彼にも無理そうだし。
…と、思ったら。この問題の時に関羽を説得した人がいたな費詩だったっけ?
彼を関羽の参謀役につけることは出来なかったのかなあ。
関羽が麦城で包囲されたときに
張飛と趙雲、あと諸葛亮辺りが五十万くらいの部隊をすぐ側までつれてきてたら
関羽は助かってたのかな?
五十万いれば天下が取れるよ
64 :
62:2007/01/09(火) 20:36:13
うるさーい!!
五十万いれば天下がとれるんだーい!
空爆すれば関羽は救えていた。
荊州の状態を察知出来るレーダー及び無線を設置せず、また空軍を編成してなかった
劉備が悪い
時代を考えましょう
孔明辺りに三国志の本もっていってあげてたら天下とれてたかな
荊州に在日米軍ならぬ在荊米軍を駐屯させていれば守りきれた
守ってくれる保障があればな
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/09(火) 22:43:51
糜芳なら劉備の義弟だし立場としては対等でしょ
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/09(火) 23:15:18
でも確か官渡じゃあ袁紹軍2000万と曹操軍10万の戦いが起きたんだろ?
2000万?
ばかか?
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/09(火) 23:25:19
ぶふwwwわろswww
多分さっきから恥晒してる奴は同一人物(
>>62)なんだろうな
2000万って1州の総人口ぐらいか?それより多い?
>>71 正史じゃ、義兄弟は糜兄弟・孫権他で、関・張は違う。
>>77 漢代の最盛期の総人口が1億以下、たぶん7、8000万くらいとされてるから、
(実は清代あたりまで中国の総人口はこのあたりを上下してるだけ)
中原の五州を全部合わせた総人口ならそれくらいになったことがあるかもしれない。
でも後漢末〜三国時代には戦乱と旱魃の影響でそれが半分以下に減ってる。
少なくとも2000万は蜀の総人口より多いと思うよ。
魏約400万、呉約200万、蜀約100万
これが三国の人口。
そりゃ戦乱で人が散ったあとの戸籍人口だから実際はその何倍かはある。
二世紀中葉の人口は約7000万、統一された晋代初期の人口がおおよそ750万。
人口比は
>>81ぐらいであってるだろうから総員できる兵の数など知れる範囲だわな。
だから実際は袁紹が官渡で曹操の十倍の兵力、とかそんな事もありえない訳だ。
無論赤壁での曹軍百万とかもそんな数は自領の男子全員動員して達成できたか怪しい。
戸籍漏れした人口は辺境地へ逃れたり異民族に接収される道を歩んだだろうから
結局各国ごとの戦力や生産人口には影響しない気もするが。
>だから実際は袁紹が官渡で曹操の十倍の兵力、とかそんな事もありえない訳だ。
そりゃ曹操軍全部集めりゃもっといたさ。しかし曹操は回り中敵だらけで
袁紹軍には全軍の一部しかあてられなかったのだ。
一部しかあてられなかったといっても、
袁軍と対峙してた戦力がその10分の1てことはない。
と言いたいのでは。
>>84 いや戸籍ってのは課税対象人口であり兵役対象人口でもあるんで、
中央統制が緩んでる乱世には平気でごまかす連中が多かったはず。
実際、戦乱が終わった瞬間に人口がいきなり倍以上になった例もあるw
にしても三国時代の人口では一国で100万動員するのはかなりきついな。
仮にできても半数近くは補給と雑役部隊なんで実戦力は数十万がいいとこ。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/11(木) 08:24:20
曹操は黄きんぞくボコして
100万の兵士を手に入れたとか吉川三国志ではやってた
正史では青洲兵として2-30万人だから、演義や以降の創作では全部数倍加されるわな。
だから半数はまだ生存していたとして官渡で一万や二万の軍だったは考えにくい。
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/11(木) 13:04:02
てか、劉備と関羽の関係って、主・従関係というよりも
「超友好的軍事・政治同盟」の関係であったとどっかで読んだ希ガス。
つまりどちらも君主であり、蜀に移ったのは劉備の家臣団で、
荊州に残ったのは関羽とその家臣。
こう考えれば支援の問題、北上のタイミング等、多くの疑問も
納得がいく。荊州を守りきれなかったのは、関羽軍単独での
力が足りず、また今までのような劉備軍との関係に何らかの
変化が起こっていた、ということだ。
ソースは出せない。俺の脳内ソースだったらごめん。
むむむ
何が脳内ソースだ!
>>90 荊州は陣容から見ても留守部隊だわな。
陸口には、呂蒙が控えて虎視眈々と荊州狙っているのに
留守部隊が留守にしちゃ本末転倒もいいところ。
呂蒙にとっちゃ「どうぞ取ってください」と言われているようなものだしな。
>>90 劉備の義理の弟であるビホウが関羽の指揮下にいるわけだから
どっちも君主って風に考えるのは無理があると思うが。
長いこと荊州のトップをまかされて関羽が増長したとしても、
孫権からの婚姻の誘いは断ってるし、やはり本人は自分を
劉備の臣下と考えていたのではないか。
普通に眉唾ものの話だろ。常に劉備から授かった将軍号で仕事してる、まぎれもない部下です。
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/11(木) 19:37:43
孫権の妹を娶る話は正史だよね?
孫権が婚姻を申し入れたということは
関羽を独立した君主もしくはそれに準ずる者と見ていたということだろ
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/11(木) 22:50:48
こっちは同盟結ぶ気満々ですよ、と関羽にアピールして油断させる一環かと。
多分絶対プライド高い関羽は蹴ってくると分かった前提での。
まさか婚姻蹴られたから関羽ヌッコロとか魏に味方したわけじゃないだろうしw
南郡返さないなら、せめて人質ぐらいだせって話でしょ。
外交能力のない関羽は理解できずに、使者追い払って呉の信用なくしたと。
関羽が独立を志向していたなら孫権から縁談持ちかけられて増長して油断したかもしれないけど
劉備の家臣を自負していたなら逆に刺激して警戒されるだけろう
>>90 案外そういうこともあるかもね。史書には書かれてないことって、多いだろうから。
ただ、入蜀後の劉備陣営は、別働隊による陽動作戦をよく使っているので、関羽の軍事行動は
タイミングがずれたとは言え、漢中戦の支援だったのかも知れない。このタイミングだって、蜀陣営の
予想を上回る速度で、魏側にケアされてしまったってことかも知れないし。
武田信玄も、別動隊での陽動作戦を比較的好んだから、山国の小国にとって、使いやすい戦法
だったのかとも思う。これこそ俺の脳内ソースだが。
219年の動静
1月 定軍山の戦い(夏候淵敗死)
5月 曹操軍撤退(鶏肋→蜀漢中版図確定)
7月 劉備が漢中王を自称する
7月 関羽が北上し樊城を包囲
8月 魏援軍の于禁軍が関羽に降伏
12月 関羽敗死
時期的に見ると蜀本国の漢中争奪戦とはリンクしてないように思える。
漢中王に即位した劉備が満を持して関羽にGOサイン出したと捉えた方が妥当そうだ。
流石に半年近く魏の動静が伝わらないとかはありえないから、関羽が「そんなのなくても
最低荊州北部は切り取れる」と判断したか、蜀本国が現場と上庸の孟達劉封だけで十分と踏んだか。
あっさり于禁捕虜にしたりして劉備も関羽当人も慢心したのはあるかもな。
増援なしでいいだろう、手元の軍勢だけでいけると双方判断してしまったと。
105 :
90:2007/01/12(金) 09:27:25
五虎将って演義?史実?
黄忠や馬超と同格に封じられたことへ不満があったって
件があるけど、関羽ほど忠義に篤い人物なら主君への不満
なんて抱えていても口には出さないんじゃね?って思ってた。
そこに「二人とも君主」論を読んだもんだから、合点!
と思った記憶がある。
かなりカチンときた関羽が、
「俺、おめーの配下じゃねーし。俺だけでも充分自立できるし。
見てろヽ(*`Д´)ノゴルァ!」
なんて感じで、無謀な北上作戦に出たと。劉・関の関係の変化
を読み取った呉陣営は、蜀からの援軍は無いと踏んで荊州侵攻
を開始、結果はそのまんま関羽アボンで。
史実やら演義やらごっちゃの妄想垂流しスマソ・・・
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/12(金) 09:43:47
関羽が劉封に援軍要請したけど、断られたのって
どの話でも共通して孟達が口挟んだから、結果的に援軍出さなかったんだっけ?
他の説あったっけ?
五虎将は創作だけど正史にも黄忠と同格にされブチ切れた記録はあったりする。
先主為漢中王 遣詩拜關羽為前將軍 羽聞黄忠為後將軍 羽怒曰「大丈夫終不與老兵同列!」不肯受拜
・・・って描写で費詩に説得されて何とか受命したと。
二人君主という関係はちょっとどうかと思う。ただちょっと公私混同をしやすい性格で、
同格の立場の人を見下すような態度をとる事が多いらしい。そういう意味で、荊州守備部隊の将と仲があまりよくなかった説がうなずける。
漢中王と部下という公の関係よりも、義兄弟としての劉備と自分の関係を重視したい事が結果的に敗北を生んだのでは。
正史だと『山中の郡が帰服したばかりなので動揺させてはなるまいと考え』」承知しなかったとしか。
実際孟達と劉封が上庸を攻め取ったのが219年の6月で、安定しないうちに援軍出せと来ても
江陵なり南郡から幾らでも呼べるでしょ、と言う考えだったのでは。
魏援軍も軽々蹴散らして水没した城包囲なんて俺ら来なくても楽勝っしょ?みたいな。
(実際はその江陵も南郡からも増援来ない→挙句呉に寝返ってしまうわけで
まさか孟達に麋芳達まで援軍ボイコットしてるとか知る由もないし)
上庸攻めたのは明らかに関羽の北上の地ならしだろうから、援軍出せなくてどうすると言う面と
降伏した申耽兄弟やその配下が裏切ったら・・・と地盤固めるまではやむを得ないような微妙なところだ。
関羽が独立した君主なら関羽が荊州で迎え入れた楊儀がそのまま劉備の配下として益州で任務についたことはどう説明するの?その逆(麋芳ら)は?
関羽伝の「劉備に護衛官に任じられ〜大勢のあつまる場では一日中傍に立って守護し、劉備のために奔走し苦難を厭わなかった」とかどう理解する?
あの有名な関羽が曹操の元を去った時の話しはどうなるの?関羽は「曹操には良くしてもらってるけど決して劉備を裏切れないから留まれない」として去り、
曹操も「ただ主君への忠義を果たさんとしているのだ」と追撃を見送ったのに。これで関羽が一人の群雄であり、劉備との関係同盟や連合だとしたら顛末が意味不明にならないか?
111 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/12(金) 13:57:56
「事実上」独立した君主
でどうよ
関羽が君主って、蒼天の影響か?
劉備に従属した群雄、と考えた方が近いような。
113 :
90:2007/01/12(金) 14:19:02
>>110 うん、だから俺が書いた(どこで読んだ)のは「珍説」の部類なんだと
思う。自論に固執するつもりはないけど、もう一言語らせて。
関羽という人物は、あなたが書いたようなエピソード・事実が
示す通り、「忠義」・「義侠」の権化、そんなイメージで語られること
が多いじゃない?まさに大人物。弱きに優しいことから民間信仰の対象
にもなってるし。
そんな関羽が、自分の主君の覇道を閉ざすような失策を、多くが語る
ように「慢心」だけでやらかすものかな?とは思うのよ。
上庸を獲った蜀軍にとって、荊州軍の北上は果たして必要だったのか?
そこが一番の疑問。関羽が公安から荊州北部を狙うふり、それだけでも
漢中からの魏領侵攻は後の北伐時よりもやり易かったであろうし。本陣が
出すべき指令は「対呉防衛、対魏陽動」ではなかったのか?決して
「荊州制圧」ではなかったはず。それが何故劉備の漢中王即位と同時に
単独で北進を開始したのか?最も忠義に篤い配下武将はその尊大な性格
故、主命をも忘れてしまうのか?
>>113 やらかすものか、といわれたら、えてしてそういうもんだとしか…。
まあ、何らかの齟齬が生じた可能性はあるかもな。
何しろ、劉備と関羽の間の物理的距離、そして最後に会って話をしてからの
時間を考えると、コミュニケーション不足の感が否めない。
>>113 「上の忠義、下への情愛に溢れ、その反面同僚その他への激しい対抗心を持つ」という評と関羽の実際の行動は殆ど完全に一致してるでしょうに。
関羽が主君の覇道を閉ざすことを目指して率先して失敗したわけでもあるまいに、どこに疑問があるのよ?
関羽はあくまで劉備の天下を目指して力の限り爆走したけど、視野が狭いとこがあり横から足引っ掛けられて無念のリタイア。
これと貴方の言う「忠義・義侠の権化で大人物」になんか矛盾でもある?
俺としては「俺、おめーの配下じゃねーし。俺だけでも充分自立できるし。 見てろヽ(*`Д´)ノゴルァ!」 な関羽の方が、
その何倍も違和感アリアリで矛盾してると思うのだが。つーかこれこそただの小人物だろ…
元々劉備が借りた荊州をいつまでも返さなかったんだしなぁ。
兵糧無断拝借も、呉との折り合い悪化も、
呉側が巧みに関羽側から問題行動が噴出するように
巧妙な罠を仕掛けて多感も否めない。
もちろん関羽にもう少し自覚があれば、防げた話だとは思うが。
でも薄氷の上とはいえ上手く渡れた可能性も0じゃないだけに惜しいと思っちゃうんだよな…
そういや、関羽が死んだ時点でどの程度の年齢だったのだろう。出生年不明だっけ。
桃園の誓いの時点で20代中盤、或いは30代の印象がある。
死んだ時点で50代か60代か?
>>119 劉備より年上だけど、劉備がリーダーだから
劉備に兄事したという話もあるぐらいだから、
劉備より年上にしても年下にしても、そう変わらない年齢なんじゃない?
劉備は当時59歳ぐらいだったはずだから、その前後と考えればいいかと。
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/12(金) 16:37:36
てか、孟達は一回援軍出して怒られたんだよね。関羽に。
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 06:17:57
>>117 「借りる」と言っても、孫呉には本来所有権はないんだけどね。
劉表に迎え入れられ人望を集めていた劉備と違い、孫呉はまごうことなき侵略者。
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 06:42:34
>>117 まあ〜刑州の民は劉備を支持したからな〜
>>123 そういうのを遡っていくと劉表も何進の意を受け後からやって来るも反発に合い割拠する宗族の頭目55人を呼び寄せて騙まし討ち、
その後も五渓蛮・武陵蛮なんかの異民族や太守の反乱に合いながらこれを根こそぎ討伐することで支配に漕ぎ着けてるわけで、
名目があれば従ったり、侵略者だから支配権無いのかと言われると別にそうでもないような…
劉備が孫権が攻め落とした土地を「しばらく借ります」と言って借りたならやっぱり借りたことになるんだろう。
…だからこそ、一度目の衝突の結果国境線を新たに引き直したわけで、あそこで貸し借りは清算されてる気もする。
あれは江陵←→長沙・桂陽の正式なトレードじゃなかったのか?
劉表を上奏したのは董卓だった気がするが。
敵対的な前任者や豪族を一気に粛清したり、それが住人に支持されたか不明だし。
それ以前に既に××刺史とか○○太守とかの肩書きが複数存在して「所有権」など
実質奪い取るものだという風潮になっていた。
(そう考えると魯粛はどうしようもない御人好しだったと矢張り言えるのか)
まあ江陵や南郡ひっくり返って大した反乱起こってない事見ても
別に住民に取っては所属が蜀だろうと呉だろうとどうでもいいと思っていたのは確かだろ。
生命の保証とそれなりの平和があればその支配者に信服するものだ。
中国という国は政変を幾度と無く経験しているので、
国が変わる事自体には余り執着が無いらしいのでね。
魯粛はアレか、絶対踏み倒すに決まってる奴の連帯保証人になったようなものか。
多分「孔明は同じ天下三分の意図を持っている」を念頭に考えて
だから呉と無闇に争う事はせず地盤が出来たらちゃんと返してくれるはずと思い込んだ。
担保に夫人でも人質に取っておけば結局後の双方のためだったのにねえ。
ある種孔明が関羽を見殺しにした(援軍出さなかった)一つには「孫権にも三分刷り込まれてるはず」
とかこっちも都合よく思い込んでしまった節があるのではないだろうか。
呂蒙病気で帰った後、孫権が合肥攻めたりして呼応してるように見せかけているし。
無論実際は既に魏と密約できた後のダミー進軍だろうけど。
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 15:01:26
>113
関羽は慢心してたわけじゃない。
もう一度関羽が敗北したあたりを読みかえしてみろよ。
陸遜という当事無名に近い知将の存在。
狼煙台は呂蒙により機能を果たせず。
びほう、ふしじんが突然現れた呉軍にほとんど無血で開城。
これで荊州が落ちた。
どんな名将でも無名の武将を知る由もない。
それにびほう、ふしじん、孟達の言動を見る限り、
関羽は部下に厳しすぎて、人望がなかったと見るのが筋かもしれない。
劉封でさえ、孟達の言にあっさり説得されてしまうくらいだから
よほど嫌われていたのではないか?
荊州の留守将たちが関羽たちに早馬でも飛ばして、
関羽たちが戻ってくるまで持ちこたえていれば
歴史はかなり変わった可能性が高い。
劉備たちも援軍に現れただろうし。
全ては関羽の人徳の問題だったように見える。
そして荊州が落ちてしまったことで
関羽のプライドにより荊州を取り戻すために
単独で動いてしまったための末路だ。
荊州を取り返そうとせず、そのまま
益州に撤退していれば、また歴史は変わっていたはずだ。
士仁な
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 15:07:32
>130さんに同意
でも陸遜を無名若輩と侮ったのがやっぱり関羽だって感じだよなあ。
当時は出生や名声がモノを言う時代で、陸遜は揚州では名門も名門の一族棟梁。
関羽仇討ち戦の前に孔明ですら「才は周瑜に劣りません」と諌めて
「そんな無名の指揮官何するものぞー!」と意気込む劉備に却下された下りがある。
まあ義兄弟揃って士大夫層の威光を軽視、或いは蔑視していた節があるから
「同僚や名士を軽んじた」とされる関羽だけが悪いとは一概に言えないのか。
孔明も荊州では一流の名声を持つ一級名士だからね。嫁繋がりとかで更にプラス補正。
名士層は敵味方を超えた一種の情報網があり、それで同じ士大夫層に関しては色々と
詳しい情報や情勢を知る事が出来たわけで。
一方、悲しいかな武人は鉾を直接合わせた相手しか直接の評価は出来ない。
だからそっち関連に欠如してる関羽が陸遜をノーマークだったのはある意味で当然。
>>133 孔明は、劉備の東征を諌めていない。
それに張飛は名士層を礼遇していた。(相手にされていないが)
まあ、だからといって「○○であればこうなった」とか言い出してもキリはないのだが。
まあ、劉備は孔明迎えるまでは、名士層と良い付き合いは出来ていなかったが。
>>133 孔明は「法正が生きていてくれたら・・・」と嘆いただけだったのでは?
確か陸遜を警戒したのは馬良で、劉備に一蹴され結局夷陵で戦死した。
そこが劉備や関羽の良さでもあるしな。
時代の転換期には、そういう既存の常識に捉われないパワーを持った人間が現れる。
そしてそういう人達の多くは、次の時代を見ることなく消えていくんだよ。
坂本龍馬?
孔明は劉備を諌めてないってあるけど、
法政が生きていれば・・・のくだりを考慮するとあんまり乗り気でも無かったんだろ
義経も尊氏も信長も
幕末はそういう連中の宝庫だな
陳勝呉広だな。
144 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 16:30:45
>>126 >劉備が孫権が攻め落とした土地を「しばらく借ります」と言って借りたならやっぱり借りたことになるんだろう。
孫呉側からすればそういう理屈になるだろうね。
厳密に言えば、孫呉の軍が曹操と戦っている間に劉備たちが南荊を接収したわけ。
有り体に言って火事場泥棒なわけで、孫呉が怒るのも無理はない。
火事場泥棒じゃなくて連携した作戦だよ
>>136 演義はわからんが馬良伝にはそれらしいのはないね。陸家はあくまで「呉郡の有力者」で郡の外にも通じるほどの名声は無かったのでは。
中央に役人を送り込んでるわけでもなし…
>>144 俺としては周瑜の占拠した江陵一帯を指したつもりだった。南部四つは(たとえ火事場泥棒的といえど)呉が四の五の言える立場にないはず。
ただ江陵こそ蜀や荊州北部に通じる要衝なので、ここが一番重要だったはず。
陸遜は呉内部でも舐められていたから
劉備や関羽が知らなくても無理はない
寧ろ呉重臣は地主上がりの魯粛や寒門出身の呂蒙蔑視しても陸遜舐めたのはないはず。
それでなくても当時の呉は揚州豪族連合で陸家は周家に次ぐ家柄なのに。
>>144 このスレは演義の内容を話してるの?
正史だと劉備と周瑜は一緒になって南郡の江陵を攻めている
江陵包囲の南側の安全を保つ為には南部四郡の占領が必須
劉備の有耶無耶の火事場泥棒でなく、劉備、孫権両者の合意の上での軍事行動
荊州貸与問題はそんなところに端を発してるわけでなく魯粛の巧妙な策略による江陵貸与からのスタートだ
>>149 …と断言できるほど詳細な情報が残ってないのが頭の悩ませどころだと思うのだが、
その説の場合劉備軍は何万程いて、劉備軍の諸将は南北どちらに攻め寄せたと考察する?
その説信じると劉備が周瑜と共に江陵を攻め、張飛が呉軍と行動を共にし、関羽が江陵の北道を断っているわけで、
赤壁時に多く見積もって二万程度の劉備軍が、主力の3人(当然相当数の兵を率いているだろう)を北に割きつつ、
残った将と兵士で瞬く間に南郡四箇所も同時攻略してたことになっちゃうんだけど…
関羽の話だと演義と正史ごっちゃになってる人が多いな。
誰も突っ込まないけど130とかもそうだし。
陸遜との手紙のやり取り、呂蒙の仮病に対しての
関羽の行動はどう考えても慢心なんだが。
あと、士仁、麋芳にしても守備兵の引き揚げでどう守るんだ?
呂蒙は関羽に対して友好的な態度を取ってきて、新任の陸遜も友好的な手紙を送ってきたわけで、
呉がうまく騙したなというべきであって、慢心とはちょっと違うな。
>>150 劉備本人は周瑜と一緒に江陵囲んでた
しっかりと記述が残ってる
この時関羽は別軍を与えられて北道(これがどこだかは知らん)を押さえていたが李通に抜けられた?っぽい
そんで同時期に張飛を呉に貸して代わりに数千の兵を借りている
数千を借りるって事は劉備本隊も別軍もそんなに大きな規模ではなかったろうな
南部四郡は北部との連絡を断たれているから案外簡単に降伏したのかも
この辺は色々不明だが俺の主張したい「劉備は火事場泥棒ではなく孫呉の了承済みの南部四郡接収だった」ということは揺らがないと思う
あと荊州南部四郡と南郡は別物
ゴチャゴチャにすると色々面倒なんでちゃんと分けて書かれたし
南郡は江陵を郡都とする荊南の水運の要衝
南部四郡は、長沙、零陵、武陵、桂陽の四郡
154 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 19:12:27
>>152 関羽自身が呉に対して非有効的な態度である以上騙す、騙さないはないな。
>>154 呂蒙伝を読むと
単刀赴会後はずっと友好的だったみたいだよ
呉との婚姻断ったのはその前の時期
>>154 呂蒙伝のどこ?
単刀赴会後のあとだと、與関羽分土接境しかないが?
呂蒙が魯粛の後任となり、陸口にやって来た当初は、表面的には以前にも増して手厚い心遣いのもとに、関羽と友好関係を固めた。
>>155 ごめん、きちんと読んでなかったみたい。
でも、呂蒙伝読み直してみたら
羽討樊而多留備兵,必恐蒙圖其後故也.蒙常有病,乞分士眾還建業,
以治疾為名.羽聞之,必撤備兵
ってあった。これで、陸遜の友好的な手紙きても慢心なんじゃね。
>>158 呂蒙がこうやって関羽をハメましょうって献策してるだけで
関羽に慢心があるかどうかは別にその一文ではわからないな
そもそもその文は呂蒙の発言を記述したにすぎないわけで
事実を記した文ではない
でも少なくても呂蒙→陸遜になって組み易しとは思ったんだろうなあ。
逆に言えば呂蒙の時は侯音の乱などの絶好機にも動けないほどの警戒があったとも。
>>153 俺が思うには、当時の劉備軍が劉備・張飛・関羽を北の江陵攻めに割いた以上、同時に南部四郡を攻略なんて殆ど有り得ないんじゃないかと。
劉備はそれまでの合戦という合戦は全て自分が主軍を率いて戦い、別働隊は殆ど使わない(つーか単にそんな兵が居なかっただけかもしれないが…)
僅かな例で兵を割いたりしたこともあるが、基本はまず関羽、次いで張飛。なのにこの3人を除いて大規模な軍団を分けるとも思えない。
それに劉備は江陵平定後、南郡太守の周瑜に(当然南郡内の)領地を割いて与え、それでは足りないと劉備が直接孫権に頼んで数郡借り受けてる。
同時に四郡の攻略をしていたなら借りる必要はない…というか荊州に残る数郡なんてもう南部四郡ぐらいしかないので、
借す=攻め取って使って良いよということだろう。はっきり言って押し付けがましい発言だ。
周瑜は征蜀の準備に1年近くかけてるのでこの期間が劉備の南部四郡平定時だと思う。
当時の劉備軍はせいぜい万余だろうから、自発的に江陵攻めるとかまして落とすなんて
ぶっちゃけあり得ないと思うんだがね。
江陵包囲戦は一年近く続いていて、劉備軍はその間に江陵の南岸部分を占拠している。
多分この時周瑜が存外に江陵一つに時間掛けているから
その間に離脱して占拠地(公安)を布石に南部四郡を占拠したのではないだろうか。
>>148 呉の重臣にしてご意見番張昭が呂蒙を推挙し、呉の重臣にして随一の名門出身の周瑜が魯粛を推挙しているという事実。
出身が貧家であっても学問に励むなど儒徳を積めば十分取り返せることはカン沢や歩シツの例でもわかる(彼らは名士として扱われた)
学問の他にも親に孝行だったり身を慎んだり忠義に篤かったりもポイント高い。魯粛は劉曄なんかとも付き合いがある。
ついでに陸家を含む所謂『呉の四姓』って、後の時代から振り返って「三国の時代に隆盛を誇った」とあるだけで、
呉が政権を立てる前の後漢末期や三国初期からそこまでの権勢を誇ってたかは厳密には不明だと思う。
陸遜は代々江南の豪族だったとあるから元から有力な一族ではあったろうし、城門校尉を排出してるのは既に中々の家柄でもあるけど、
親父さんのことから肩身狭そうだし、淳于式に非難されたり夷陵時には朱然・韓当ら重臣と言っていい連中から反発を受けてたり、普通に舐めたやつも多いでしょ。
>>123 そんなこといったら、劉備にも当然劉表にも法的な「荊州の所有権」なんてないよ。
仮に劉表に荊州の所有権があったのだとしても、それは劉表の死後には後継者である
劉[王宗]のものであり、さらに劉[王宗]は赤壁前に正式に曹操に降服して荊州を献じた
のだから、あえて荊州の正統な所有権者を挙げれば曹操ということになる。
あとで劉備が名目にした劉[王奇]なんて、本来は荊州の所有権とはまったく無縁の存在。
>>161 劉備は赤壁前夜の時点で既に万を越える兵を動かせる状態だった
関羽は数千の兵で船団を率いて劉キと合流した
劉キは対孫呉の最前線基地江夏を抑えていた
孫呉は黄祖を打ち破っても江夏を実効支配する事は出来ていないことから考えて
江夏にはまだまだ充分孫呉とも戦える兵力が残っていた
この時点で劉備が手を付けて動かせる兵力は、従来言われていた吹けば飛ぶような代物ではなく
数万とまでは行かないにしても一行目に述べたように万を越えるかなりの兵力を動かせる状態だったと言っていいはずだ
タイムマシン作ったから一緒に見に行こうぜ
167 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 23:18:07
>>164 あんたの理屈で言えば荊州の所有権は皇帝にあると思うんだがな
>>164 劉表に所有権はないけど、支配権はあるぜ
ちゃんと任命された刺史だからな
>>164 劉表は朝廷から任命されて州牧として赴任してるだろ。
それとも董卓時代だから認めないという意見?
朝廷に任命された劉表にないなら逃亡生活で新野間借りしただけの劉備になどあるはずもないだろw
印綬を返還していないなら名目上は確かに劉表が刺史だもの
>>165 江夏にある拠点夏口や尋陽、あるいは周辺にある麻・保の砦あたりまで陥落させ、
その内西部にある夏口は何故か劉キが押さえているが(孫権が一旦引いたっぽい)、
「江夏を劉キが押さえている」かは疑問じゃないか?多分後の武昌あたりを挟んで東西に分かれているくらいじゃないかと思う。
蔡瑁の「江夏の鎮撫をご命じになり、東部の固めとして〜」からもそれなりの軍勢は率いていただろうけど。
それが先主伝にある「劉キ勢一万余人」でしょう。なので赤壁時最大二万ぐらいは考えられる。
でも二万じゃ
>>165の言う孫呉とも十分〜には悪いけど満たない条件ではあるよね
>>173 荊南同時攻略に?それとも単に赤壁〜江陵攻めで?
>>173-174 『赤壁時最大二万』は関羽が温存したと言われる主軍+帰還兵合わせた劉備軍一万と合わせた数のつもりだったんだが…
その劉備軍一万も諸葛亮が孫権説得した時の、若干フカシ臭い主張が根拠。
劉キ軍自体は他でも1万余と表現されてるからたそこそこ信頼できると思うけど。
>>165 孫呉の当時動員できた兵数も数万程度だから二万もあれば充分相手になる
山越とか色々問題抱えてるしその数万も全て動員できるわけじゃない
劉表にも、というのは言いすぎですね撤回。ただそれでも劉備に所有権を譲ったことなぞありません。
劉[王奇]を押し立てようとそれは変わりません。荊州の権利は劉表>劉[王宗]の流れですから。
蜀ファンがいう「呉に所有権が移ったことはない」というのは、そのまま「劉[王奇]・劉備に所有権が移った
ことはない」と跳ね返ってくるだけです。蜀ファンが荊州問題で主張することは、とことん
ダブルスタンダードなんですよね。
ファンて
語ってる人が呉ファンか蜀のファンであるかで判断してると思ってんのかよ
>>178 臨時の場合、刺史や太守は皇帝の認可なく名乗ったりしていい
ただしそれは副官やら属官やら周囲の役職に就いた連中ないし刺史、太守本人によって認められた時に限りだが
劉備の場合、緊急の劉キの更に緊急として印綬を受け取ってさえいれば荊州の支配権は存在する
181 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 00:22:36
孫権が荊州に侵入し江陵などを占領しても、荊州の豪族たちはまだ孫権を主として認めず、劉備を主と仰いだ
その意味で、所有者ではないかもしれないが荊州にとって正当な主は劉備であって孫権でも曹操でもない
孫権は力づくで荊州から叩き出される前に自分から退くと同時に、「俺が攻め取ったんだから荊州は俺のものだったんだけど、劉備に貸してやった」ことにした
劉備にとっても孫権のお陰で荊州の主になったのは事実なので借りになった
という主張であって、何ファンとか関係ないと思うんだがな
>孫権が荊州に侵入し江陵などを占領しても、荊州の豪族たちはまだ孫権を主として認めず、劉備を主と仰いだ
ソースくれ
>孫権が荊州に侵入し江陵などを占領しても、荊州の豪族たちはまだ孫権を主として認めず、劉備を主と仰いだ
というのは?
>孫権が荊州に侵入し江陵などを占領しても、荊州の豪族たちはまだ孫権を主として認めず、劉備を主と仰いだ
蜀ファン乙、でいいのかこれ?
既に過疎化が著しいネタだと思ったが、関羽VS呂蒙のテーマはいつでも盛り上がるんだな。
スレタイから完全に逸脱してるけどな
187 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 00:44:05
劉備を主と仰いだというのは分かるけど
孫権を主と認めずって具体的にどこらへんでしょうか?
関羽を討った戦で恩賞を受け封爵の途中で発病して死ぬ
それ位病弱だったのに戦に赴いた
性交したから呂蒙は歴史に名を残したけどギリギリというか非常に危ういよ
下手したら対陣中に発病したかもしれない
総大将が取るべき手じゃない
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 01:12:32
呂蒙の善政で完全に呉に傾いてるじゃん
>>182-184 >>181の根拠はなんだかわからんが
劉備が荊州刺史を名乗ると挙って人が劉備の元に集まったからとかが根拠と言えば根拠なんかな
孫権は長らく荊州に攻め込む側で住民感情としてはかなり悪い物があっただろう事は推測されるが断言はできねーしなぁ
住民感情というより荊州諸将の感情だろ
孫呉に従っても厚遇されるとは思えんし
劉表以前に王叡や張咨とも孫氏は因縁があるな
193 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 01:59:48
孫堅の南陽攻略に呼応した江夏太守劉祥は江夏士民に殺されてるな
ぶっちゃけかなり呉が荊州で嫌われてたとすると
魯粛の一旦劉備を間に置くという考えも理解しやすいんだが
劉gを荊州刺史に上奏したが、その死後名乗った州牧は自称に過ぎないぞ。
「名分」とか「威光」で所属権を言うなら劉gの死で名目的権利は消失してるな。
現地住民に好かれた、とかがそもそも大勢に影響を与えるのかすら疑問だが。
曹操があれだけ虐殺した徐州ですら晋代に至るまで磐石なる魏の領土だったのに。
196 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 02:13:07
呂蒙はいわゆる「戦わずして勝つ」という日本の戦国武将では羽柴秀吉が良く使用した戦術を使っただけ何だが
これは当時の時代間を考えると呂蒙を褒めるべきであって、関羽の落ち度を問うのは可愛そうだ
孫権という人物は晩年の傍若無人ぶりで低評価されるが孫登が死ぬまでは君主としては充分すぎるほど魅力のある人物であったと思う
もちろん欠点も多かったがそれは曹操にも劉備にも言えることだしね
中国では孫子の教えに「戦わずして勝つ」が普通に上策として認知されていたと思われ。
特に孫子の末裔を称する孫氏としては会心の勝利だったろう。
その次文が「攻城の法は、已むを得ざるが為めなり」とあるから皮肉だよなあ。
関羽は左伝ヲタだったから孫子の兵法知らなくても仕方ないよまあ
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 02:31:31
そういえば劉備の玄徳という名も左伝からの引用だそうな。
…劉備って実はかなりのインテリだったんじゃないか?
200 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 02:34:11
>>199 不真面目な学生だったとはされてるが、彼は当代随一の大儒鄭玄に連なる学統じゃないか
劉備は当時最高の学識者とされる士大夫階級の末席ですよ。
だから取るに足らない実績でも上奏すれば官位もらえたり、
督郵ぶん殴って逃走してもまた上奏すれば官位もらえたりするわけです。
鄭玄学派の慮植門下生だからな
面白い事に儒学に通じてる人間程劉備を厚遇してる
204 :
くだらん:2007/01/14(日) 07:07:11
以上で不毛な議論を
糸冬了
みんな 巣 に帰れ
徐コウが歴戦の曹操が見ても常識外れの戦線突破力を見せたというのは?
フランスがマジノ線で備えはダイジョブ、と思ってたらグーデリアンに
一挙に突破されるとか。その場合フランスの将軍は有能ではないけど
単に常識的な人々であったという事で責められるのも少々酷で、端的にグーデリアンをほめるべきだとか
そもそも関羽の樊城包囲が天候に助けられたものだから
その例えは適切じゃないだろう
公孫サンは思いっきり名士層蔑視したり、挙句劉虞ぶっ殺したり。
元はどれくらいの評価受けていたにしろ結果同派や名士層全てから敵視されたのでは。
>>208 つまり、誰の弟子かどうかとかは関係ないってことでしょ。その人の行いであって。
逆に関沢のように単家出身でも勉学に励んで士大夫扱いされた人もいるしね。
>>209 そうではなくて、学派・学縁関係を有効に利用できるかどうかということ。
劉備はそこら辺を意外とうまく使えてたという話。
実は曹操とも若い時分からの親交があるという説もあり、
劉備の人脈関係はけっこう謎。
ぎりぎりまで追い詰められても、「じゃ次は○○を頼ろう」で生き延びた男だからな。
頼られた側からすればこれ以上の疫病神も居なかっただろうがな・・・
ある種の寄生虫なのに「××もアイツを手厚く持て成したから俺もしなければ沽券に関わる」
と言った処が実際じゃないかとは思ってしまうが。
劉備のことを「毒を以て毒を制する」つもりで自分なら使いこなせると
思って食われてるのがほとんどでしょ。
劉邦と似てる
似てない
2周りくらいスケールダウンした劉邦が劉備だと俺も思ってた
劉備は自身が蜀建国後に名誉職につけた許靖と同じ感覚だろうよ。
あの名声は使える、ただ当人が使えるわけではない。そんな感じの人種。
下手に孔融みたいに才が立ったり強烈な個性を持っていたらどこかで首飛んでいたと思う。
凡庸だから生き延びれた、誉めると凡庸ゆえに孔明に丸投げして後半生は大成功した。
219 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 19:27:56
劉備はアレだ。
もし孔明が居なくても、交州へベトナムへとどこまでも流れて、それでも天寿を
全うしたようなそんなイメージがあるw
「毒にも薬にもならない無能」と思って名声のために取ったらしっかり毒発揮されたというとこか
実は劉表より官位が上だったりするし、
名目上なら許都とかの統治者は豫州牧の劉備だし、
騎兵の指揮も出来るし、
「劉備は危険だが巧く使えばイケる」というのが曹操を含む宿主の判断だろ
無能と思われてた訳がない
劉備は傭兵として行く先々で役に立っている。
それで群雄に雇われていたといったところ。
公孫サン(対袁紹)、陶謙(対曹操)、袁紹(対曹操)、劉表(対曹操)………
あまり役に立ったというイメージがないなあ。曹操(対呂布)くらいか?
それでも後に暗殺計画に加わったり袁紹との対戦間近に徐州で反旗を
翻したり、曹操にとっては災厄の方が大きいような。
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 21:39:40
>>205 ハインツは良くないよ。
その後対ソ戦でスモレンスク包囲すりゃ良いのに自分の韋駄天を信じて独逸をだめにしたバカ。
226 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 21:44:49
曹操の元では袁術を攻撃し、
袁紹の元では許近辺を脅かし、
劉表の元では夏侯惇らを撃退してる
劉備が無能、というのは中国文化の持つ無為自然的ヒーロー観の所産で、
現実というより大衆のイメージの投影されたものだろ。
実際にはかなり優秀な現場指揮官
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 21:46:45
演義の影響が根強いな。
無能だけどなぜか各地で厚遇される劉備、みたいな。
当時の劉備の評判に凡庸とか無能といった感じのものはない。
呂布に追われればその敵である曹操の元へ行き、曹操に追われればその敵である袁紹の元へ行く、といった具合に「敵の敵は味方」という関係性を上手く利用している。
そして、行った先では常に前線で戦って信頼を勝ち得ている。
そういう生き延びる術というものを知り尽くし、強かに発揮して乱世を渡って来た人物が劉備。
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 21:51:35
実際の劉備ってファッションセンスいい今時の若者ってやつっだっただよねw
俺はあの暗殺計画とか実は無かったんじゃね、と思うんだよね。
だって実働部隊の無いクーデターなんて常識的に立案する馬鹿が居るかと。
ちょうど袁紹戦で留守中に朝臣が何か企んだりするとも限らないから
劉備を実行部隊首班に奉って董承共々葬り去ろうと曹操が考えたんじゃないかと。
(実際の権限は皆無だが、予州牧と言う名目では一帯の軍権を持つ)
で、劉備はそれを察知して袁術討伐の名目でトンズラした、と。
>>228 曹操はマシだったと思う。
何せ曹操以外、劉備が頼った相手は全て滅亡に追い込まれているんだからw
キングボンビーも真っ青の疫病神、あるいは死神だな劉備は。
>>232 いやブラックダイヤみたいなもんじゃね価値考慮してw
ホープのダイヤだろうな
劉備「うわーん誰か助けてー」
金旋「じゃあ俺が」
張魯「教義から見捨てられんので」
馬騰「いや私が」
董卓「ワシが三人とも引き取ろう」
孫策「俺が使ってやるよ」
袁術「いや朕が貰ってやるぞえ」
袁紹「四世三公の余が特別の慈悲を持って導いてやろう」
一同『どうぞどうぞ』
考えれば考えるほど劉備の中身が見えないなw
諸葛亮はなんとなく中身が見えるが曹操と劉備は見えん。
従兄弟の兄ちゃんが結婚したときは
叔父さんが
「どうしようもない愚息ですが、
なにとぞ、なにとぞよろしくお願いします」と土下座したらしいが
関羽は親馬鹿だったのか?
ちなみにその妹が結婚したときは
「お前みたいな奴に大切な娘はやらん」と言ったらしい。
息子は大切じゃないらしい
237 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/15(月) 02:42:48
>>230 それでいて、無口で人に良く謙る大人風の男だったと言う。
でもぶちぎれると何をしでかすか分からない激情家(督郵鞭打ち事件)。
>>232 曹操に対しても疫病神も真っ青のことをしているだろ。
官渡のときの徐州強奪は、袁紹と対峙していた曹操の命取りになり得る一手だった。
ただでさえ少ない戦力で二正面作戦を強いられれば、いかに曹操といえど勝ち目はなかったはず。
まあ速攻で劉備を叩き潰した曹操は更に凄いのだが。
>>230 若い頃から関羽や張飛を従える今時の若者は想定しにくい。
やっぱり普通のやつとはちょっと違うと思う。怪物のたぐい。
督郵とかも、笑いながら鞭とかじゃなくて棍棒で
撲殺寸前まで殴ってそうなイメージ。
劉備の凄さはこれだけやりたい放題やらかして
宿り木を滅ぼしまくってるのにしっかり重用されてるところ
劉備に比較的近いのは日本では足利尊氏かな。
なんか得体が知れないが回りに大人物だと(勝手に?)思わしめる力があった
というか
ちゃんとやる事やってるからだろ
保護者に敵対したのは曹操相手くらいだし。
劉樟と孫権にも敵対してるじゃん
>>239 俺三国志を知る以前の幼少の頃、
劉備の名前だけちらっと知った事があって、
こいつ乱暴者だよなと思ってた。
俺前世で何かあったのかw
杖でめった打ちにされた督郵の生まれ変わりw
248 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/15(月) 14:23:59
みんなー!スレタイ読めよー!
この話題はいま別のスレで盛り上がってるしなあw
話題が変わったのは、劉備の人徳の賜物。
恐るべき超人だ。
身を挺して義弟を批判から護ったのか。
偉いな劉備
趙雲曰く「まずご自分の国を守って欲しかった」
国より義弟を優先する性格してるからなぁ。この性格ゆえに一国の主にのし上がり、
この性格ゆえに一国を破滅に追い込まざるを得なかった。
あれは関羽の仇討ちっていうより
ただ単に荊州を取り返したかっただけかも知れないけどね
裏切られたのは関羽じゃなく劉備だからな
257 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/17(水) 21:10:24
一番凄かったのがNHK人形劇での関羽。
篭城した関羽軍に、その人望を慕ってコッソリ抜け道から食料を運んでいた領民が、
呂蒙に見つかって人質になった。関羽の目の前で領民を殺す呂蒙。
「止めろ!」と叫ぶ関羽に、「止めて欲しければ投降しろ」という呂蒙。
「おら達はどうなってもいいから、降参しちゃだめだ」と叫ぶ領民を殺す呂蒙。
堪らず投降した関羽を縄で縛りつけ、約束を破って領民を殺す呂蒙。
「殺すか殺されるかの世の中に、約束信じる馬鹿がどこにいる」と毒ずく呂蒙に
襲い掛かろうとする兵士を、「犬死には俺だけでよい。抵抗するな」と叫ぶ関羽。
これほど見事に関羽=正義、呂蒙=悪と断定した三国志は、他にあるまい。
258 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/17(水) 21:20:40
関瓢が関羽のもとに居れば助かったかもしれないのに
>257
確かにスゲェな・・
260 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/17(水) 21:42:43
マルチポストやめようぜ
>>263 史実に関羽を悪とした文言なんて残ってないだろ
呂蒙を悪とした文言も残ってないからこそ
>>257が笑止千万の捏造なんだけどなまあ
>>264 規制中につき携帯からになるが、呂蒙が虐殺←→本当は関羽が虐殺ではなく、
呂蒙が虐殺←→本当は呂蒙は民を労ったという意味で「史実と正反対」なんだと思う。
詳しくは呂蒙伝の荊州統治の部分を調べてくれればピンとくると思う。
267 :
263:2007/01/18(木) 17:22:26
>>264 確かにそうだがそれ突っ込むところなのか?
人形劇 関羽を最後まで支持→呂蒙に虐殺される
正史 呂蒙が徹底して善政を敷く→民は皆呉を信頼し、兵もほぼ呉に降る
この点で反対だと言ったんだが。
NHKの人形劇は造型と演出のレベルはめっちゃ高いが、
脚本はアニメスペシャル版と大差ないからなあ。
関羽神話の犠牲者だな
270 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/18(木) 19:15:41
関羽はなぜ荊州を守りきれなかったのか→無能だから
お し ま い
>>270はなぜsageを入れきれなかったのか→無能だから
は い つ ぎ
>>267 呂蒙は「関羽の統治はうまくいっている」といってたしな。
虞翻の予知が無ければ糜芳降すときに損害蒙ったかもしれないし。
(糜芳が投降したとき、呂蒙は河原で宴をひらいていたが、
は城の兵士が謀反を企てていた)
>>265 捏造ではない。一度DVDをレンタルして見てみるといい。
時代劇ならまだしも人形劇(笑)だからな…
>>272 でも、書いてあるのが呉志だからなあ。
蜀志を読むと豪族との確執もあるし正直、そこまで統治がうまくいってるかな?
魏志の官渡みたいに敵国に対して過大に書かれてる可能性もあるし。
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/18(木) 21:37:18
所詮、チャンコロが書いた小説だから99%は捏造なんだろ?
関羽や呂蒙が居たかすら怪しい。
小説ってのは何人が書いても100%妄想の所産で一向構わないと思うけど?
くだらんイチャモン付けてると自民族の品位を他から疑わしめるからやめとき
あと是非我が太平記も読んでみてくれ
>>273 中国には1800年前からDVDあるのか・・・初耳だわ・・・
>>276 正史を否定する人間はまずこの板に来る必要が無いと思うんだが・・・?
>>277 史書などの資料として用いられるもの以外に関してはそうだな。
だから演義は90%以上妄想飛躍の産物だけどアハハ孔明すげー関羽つえーと純粋に笑える。
>>278 煽らんで普通に書き込めないのかお前はw
それとも273が何に対して捏造ではないと言っているか理解できないのか?
だとしたら日本語能力に相当問題があるぞ。
原書を読む前にもっと日本語の文章に親しめ。
>273が何に対して捏造ではないと言っているか理解できないのか?
>だとしたら日本語能力に相当問題があるぞ。
むしろ、皮肉とか冗談とかいうものの存在すら知らない貴殿の日本語力の
方が問題かと・・
>>281 引用の上の行を意図的に無視してその返し。
性格が悪いだけか。よくわかったよ。
>>283 だから普通に指摘しろ、って書いたんだよ。
わざわざ皮肉(どう見てもイヤミ)を書いてどうする。
>>284 一行の煽りに三行も掛けて煽り返すお前が言える事か?w
>性格が悪いだけか。よくわかったよ。
性格が悪いとか言い出したら、そもそも人形三国志の逝っちゃってる度を
紹介する微笑ましいレスからなんで無理に噛みつき合う流れにもってくんだ
次に
>>280に俺のは善意だとかただの指摘だ、と言い出す
おれのは善意のただの指摘だ。
孔明なみの読みの軍師出現
私はニートです
新渡戸稲造
292 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 03:10:49
文体の流れを読まない人がいるスレはここですか?
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 05:14:17
関羽はなぜ荊州を守りきれなかったのか
↑
スレタイ自体が間違ってる。
関羽じゃなくとも守りきれなかっただろう。
もしかしたら関羽の代わりに孔明が荊州の太守だったとしても
どうなってたか分らない。
当時の蜀には劉備関羽張飛馬超しかいなかったんだよ。
296 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 13:10:30
>>295 天下一の名将
魏延様が居るでしょうが!
漢中太守やん。
最前線の太守には赤ら顔のヒゲを選ぶ習慣でもあったのか
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 14:04:42
>295
ちゃんと漢中という最重要の場所の太守に抜擢されてるやんw
趙雲、張飛を差し置いてだぞ?
こういうのが劉備の人材配置の妙なんだよな。
孔明は頭はよいが、劉備ほど人を見る目がないためそれができなかった。
関羽を荊州に置いたのは間違いなく関羽が名実共に
劉備軍NO.2だったからだ。
関羽なら守りきれると劉備も信じていたんだろう。
それでも守りきれなかったのだから、
張飛、趙雲や他の誰かが守っていたんだとしても
無理だったと思う。
趙雲が守ってたらちゃんと撤退してきたように思うが、
それでは諸将が納得しなかったろうし、関羽が一番怒ったろうな。
「新参者の諸葛亮を軍師にしただけでなく、
漢中を魏延、荊州を趙雲と?兄者は長年一緒に居た我ら義兄弟より
後から入ったものを重用なさるのか?」とかね。
趙雲を過小評価する気はないがケイ州大守は役者不足だろ
そもそも荊州を趙雲、が出てくるのが分からん。
典韋に襄陽を任せるって言ってるようなもん。
302 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 14:22:32
>300、301
当事の劉備軍の主だった将軍といえば
関羽、張飛、趙雲、馬超、黄忠、魏延だろ。
魏延がすでに漢中太守につき、馬超は劉備軍に加わったばかり。
関羽以外に荊州を守らせようと思ったら趙雲しか居なくね?
親衛隊長に一国を任せるか?
304 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 14:54:50
>303
ではお前なら関羽以外なら誰に任すんだ?
超雲が無理なら張飛、黄忠なんてもっと論外だろうし。
あとは劉封、び竺、びほう、呉い、呉蘭、雷同、厳顔、孟達
くらいか、太守ができそうなのは。
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 14:59:34
テスト
李厳か劉楯
趙雲は大守経験もあり(別伝だが)、益州攻めをみても劉封あたりより格上の一軍の将なんだから郡大守程度なら分相応。
関羽は州レベルなのでこれに代えるとなると話しは別だが、江陵大守とかなら十分アリ。
潘濬もいるぜ。
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 15:41:00
>307
だろ?関羽が荊州守りきれたとして、
その後領土が拡大していったら関羽以外にも
太守や牧として任命していかなくちゃならんのだからな。
関羽以外に最前線の州を任せられそうなのは馬超だが、
この時なら加わったばかりで
預けたら謀反してくれと言ってるようなもんだからな。
趙雲しかおらんだろ?
任命される前は州を任せる器がまだなくても
趙雲なら任せればその器に成長できたと俺は思う。
正史に関すれば圧倒的に益州・漢中戦では黄忠>趙雲なんだがねまあ。
呉蘭とか雷同とか死んだ時しか名前出てこない連中名前挙げてるとか謎過ぎだし。
>>306 劉循は郡太守くらいさせてやってもいい人材だったとは思う。
史実ではラク城に一年以上篭り足止め続けたり無能では決してない人物だし。
>>304いまいち基準がわからんが、呉蘭や雷同らならば簡雍、陳到らでも良いだろうな。
んで、張飛が論外とは?当時の情勢か?
関羽は趙雲ですら格下と見下しただろうが。
それでも武官では張飛と趙雲だけならまだ一定の理解や配慮は出来ただろうな。
逆に言えばそれ以外の人員が要所の郡太守になったから関羽は驕り彼らの反感を買い自滅した。
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 16:02:03
黄忠を太守にし、軍師に法正を付けるのでは駄目なの?
死んでも荊州を守りきれと命令しとけば死んでも荊州を守っただろうと思うよ。
荊州を枕に討ち死にするかもしれないが、きちんと篭城して固く守ってさえいてくれれば
蜀からの援軍が間一髪で間に合ったかもしれないし。
河を上流から一気に駆け下るわけだから何とかならなかっただろうか?
>>310 益州・漢中合わせてどっちが活躍したかなら黄忠だろうけど、それまでの官位なら趙雲と同定か下だった。
ついでに活躍の種類も完全な突撃要員なので手元で使いたいタイプじゃないかな?
>>313 最初から守るだけなら関羽に専行権をあたえなければ十分かと。
>>313 当時の劉備は軍事面において法正に頼りっきりだったので放出はありえないと思う。
まだ孔明を荊州に送り返して関羽の補佐役にするならありえたと思う。
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 16:14:08
張飛を根拠地である下邳(かひ)の守将にして呂布に奪われ
関羽を根拠地の一つである荊州の太守にして呂蒙に奪われ
劉備は全然、成長してねえな。
この義兄弟は二人とも呂姓に城を奪われる所までソックリだ。
呂姓は偶然だろwwwwwwwwwwwww
318 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 16:21:52
劉備が新妻をさらに迎えて、それと子供を付けて荊州に置いとけば
関羽は積極性を慎み、劉備の家族と荊州を守る事に専念したかも。
万一、呉に敗れても劉備の家族を人質に取れば討ち死にせずに
曹操に降りたように呉に降ったかもね。
呉も荊州さえ手に入れば蜀と徹底抗戦する大義も理由もなくなるし
案外、あっさりと劉備の家族と関羽を蜀に帰して恩を売りつけたかもしれない。
319 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 16:31:34
>310、311
呉蘭、雷同などは最初にあげた6人以外で武官の名前を
適当にあげただけだから、最初から任せられるとは思ってないよ。
劉循、李厳も最前線ではない地方の郡太守にしか向いてない。
渡り合う相手はあの張遼と呂蒙なんだぞ?
あと、張飛と黄忠は314がいうとおり、誰かのコントロール下にあってこそ
真価を発揮する猪突猛進武将だろ?
もしかして趙雲も張飛や黄忠と同様の猪突猛進武将扱いしてるのか?
曹操にも信服せず使いこなせなかった関羽を孫権は使えると思わなかったのでは。
部下にするのは無理と事前に承知していたからこそ迷わず即斬に出来たんだと。
序でに外交カードにする意図もない(あくまで荊州南部全支配)ので捕虜にもしない。
仮に関羽が生きて落ち延びても荊州奪還に蜀は出向かざるを得ないから
蜀では数少ない一軍統率能力ある関羽消しておくのは呉にとって大きなプラスだろ。
>>319 張遼は合肥で対呉最前線に居て鉾交える機会無いと思うんだが?
趙雲もあくまで誰かの知恵を借りて動く武将に過ぎないと思うが史実ではね。
演義補正掛けて喋ってるんだったら相手にするだけ無駄だから辞めとく。
漢中では法正、南蛮では孔明の献策どおり動いていたに過ぎないだろ。
次にマンセー君は『趙雲は一身都て、是れ胆なり』を持ち出してくるはず。
どう見ても100%ガセ設定です、本当にありがとう御座いました。
323 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 16:53:18
>321
なるほど、やっぱりそうなのかw
なら話はあわんわなw
>>321 「史実では…」というわりに孔明の南征を挙げたのは何故?趙雲が南征に参加したこと自体演義の創作だし…
法正云々は何を基にしたのかもちょっとわからない。
>>324 演義補正抜いて趙雲別伝補正掛けちゃったんじゃないの。
あんな作者すら不詳の三文文献加えたらもっとダメだっつーのw
法正は伝では確か漢中に随行した節はあるんだが、定軍山の件では名が見えないんだよなあ。
まあ劉備・黄忠・夏候淵・張コウ以外出てこないけどまず。
>>325 いや、南征に関しては別伝にもないはず。
ついでに漢中戦で法正の指示を趙雲が受けるなんて演義でもあったかどうか…
元々演義では法正の手柄全部諸葛亮のものになってるから論外として。
正史に至っては趙雲が定軍山の戦いに居たかすら不明だから法正の指示以前に
漢中攻略戦での趙雲の功績はゼロ換算して問題ないなあ。
法正伝の方には「黄忠は高所に至りて、太鼓を鳴らし夏候淵を攻撃した」とあるから
まあ少なくても定軍山戦に従軍していたのだろう事は間違いなさそうだが・・・
その太鼓が黄忠伝では「鼓舞」で夏候淵伝では「挑発」どっちなんだとはまあ。
文面的に法正が黄忠に策を施して夏候淵を斬らせたように取れなくもないし
献策で無いとすれば上で言われたように黄忠はステレオタイプ猪武者とは言えないし。
とりあえず候補としては、関羽張飛馬超に、劉備の血族の誰か。
魏に睨みを効かせられる人物は関羽と張飛と馬超だけ。
新参の馬超はありえないとして、張飛ならどうだったかを論じるくらいしかないな。
だから潘濬は無視か。
一番実力があるぞ。
ハンシュンが開花したのは呉に降ってからだしなあ
それに、もしあのタイミングで荊州を任されていたら内憂外患で悲惨なことになっていただろう
諸葛亮とか潘濬とか挙げてる奴はもう少し時系列とか立場とかを考えよう。
潘濬は荊州従事とか治中の立場にあって、行政事務を一任されていた立場だから
ぶっちゃけ蜀時代からかなり抜擢されていたとは思うんだが。
何を持って一番優秀とか必死なのかは分からないけどw
魏書でも呉書でも劉備に潘濬ありとは名前が挙がっていないんだから
そりゃ無理だよ
まあ潘濬は行政面で関張らと比較して「一番実力がある」と言っても過言じゃないが、役割違うし。
既に荊州で大任に付いている以上、むしろ「諸葛亮らとの入れ替え」を模索すべきじゃなかろうか。
「もっと関羽と仲が良いやつなら…」とか。
呉懿を忘れてやるな。
潘濬のなにが問題だ?
荊州が落ちて隠棲していた彼を孫権自ら説得するほど名声はあるし、
実力もすぐに呉の重鎮になるほどだぞ。
むしろ、荊州閥の台頭を恐れて劉備が高官に就けなかったと思うほどだし。
>>337 > むしろ、荊州閥の台頭を恐れて劉備が高官に就けなかったと思うほどだし。
荊州の人士は思いっきり抜擢されてますがな。
>>338 でも、荊州にいた荊州閥の人間で抜擢や重要な地位にいたのって少ないよね。
>>328 大した問題ではないんだが、高所に位置取りして攻撃を仕掛けることを指示したのは劉備と明記してあるんだし、
「法正が策を弄したじゃなければ猪武者とは言えない」ってのはおかしくないか?
命令を受けて突っ込んだだけ。
>>339 > 荊州にいた荊州閥の人間
具体的にどういう人間をさすんだ?
劉備が南郡に拠点を置いて以降、蜀が滅亡するまでの政権中枢はほとんどが荊州人士だぞ?
蜀入り最中は、荊州は劉備唯一の領地
そこまで考えれば潘濬が選択肢に入らないことはわかるはず
まだ縻芳のがマシ
>>342 俺も関羽の代わりに潘濬はないと思うが、それだけじゃ説明不足だろ。話がいきなり飛躍してる。
関羽の代わりに潘濬という話じゃないのなら
実際に潘濬は荊州にいたんだから結果は出てるじゃん
諸葛亮らが蜀へ向かった後の荊州。
荊州軍事総督 関羽
従事クラス
馬良(襄陽)
荊州従事 潘濬(武陵)
太守クラス
南郡太守 麋芳
長沙太守 廖立(武陵郡)
零陵太守 郝普(義陽郡)
その他
公安駐屯 士仁(広陽郡)
関羽の主簿 廖化(襄陽郡)
関羽の都督 趙累
etc.
潘濬ヲタは実質ナンバー3でも不満でひょっとして関羽より有能だと言うつもりか?
・・・それにしても潘濬ヲタとは随分マイナーな勢力が居たもんだw
>>344 それが
>>343に対してのレスなら、
343は「荊州は劉備唯一の領地」から「潘濬が選択肢入らない」までの理論が抜け落ちてるってことだから。
>>345 諸葛亮が向かった直後としては正しいけど、主な争点になるであろう219年時点だと馬良は益州に引っ張られ、
廖立・カク普らは一時捕虜なり、蜀に戻ってはいるが当時の荊州には居ないだろう。
>>346 別に考えようによっては関羽より有能としてもおかしくはないだろうけど、こういうと俺も潘濬ヲタにされるのかな?
関羽を差し置いて荊州の軍事総督に任じられるような立場には居ないというなら賛成。
>>348 ナンバー3の座でまだ潘濬の地位が軽かった、と言えば立派なヲタかも知れない。
軍事や戦略面も兼ねた実質の都督、荊一州を統べる器であるかはNOと言わざるを得ない。
誉めても行政一式を劉備から一任された有能な内政官であり、軍事面に関しては
どう考えても素人か並みレベルであるとしか言えないだろう?
まあA級内政官であって最前線のトップを任すべきレベルの人材ではないはず。
>>348 軍事に関しては呉に降ってから山越討伐などの実績はあるから問題ないと思うけどね。
ただ劉備の配下時代に関羽の上位者になるのはムリがありすぎると言うお話。
>>348 >>349と被るけど、能力としてなら後に仮節を授かり多数の軍団を指揮して山越討伐などで活躍、
荊州の軍事全般に関して常に孫権から相談を受けたとされているし、陸遜と共に州の管理を任されるほどなんだが、
どう考えてみても「どう考えても素人か並みレベルであるとしか言えないだろう?」とは言えないと思う。
さらに言うなら
>>347でも
>>343でも言ったけど、人事として関羽を差し置いての昇格は妥当じゃない。
どうやらそうは読めなかったみたいで申し訳ないが。
ここでまったく蚊帳の外の別駕従事の殷観…
>>352 荊州牧劉備、荊州軍事総督関羽じゃない?
>>353 なるほどね、確かに当時の荊州はナンバーワン不在状態だ。
別に潘濬を上位にしなくても関羽を益州に戻せばいいんじゃね。
普通に李厳か、劉循でいいだろ。
劉循は十分やりあえるし。李厳は…知らんけどw
関羽を漢中に置いて、魏延とかを荊州に置くのはどうなんだ?
>>356 狭くて都から近く魏だけ見てればいい漢中と広くて都から遠く魏と呉を見なければならない荊州じゃ違うだろうに。
>>355 州牧たる劉備が居ないのだから代理となる軍事指導者が居ないと荊州各郡は軍事的に孤立してしまわないか?
>>356 魏延は漢中太守・督漢中として重要拠点の守備を任されてはいたが、漢中方面から攻勢にでる時は多分劉備指揮下の益州本隊だろう。
対して関羽は専攻権を示す節・鉞を貰っているので「任意で軍を動かして(攻めて)いい」のゴーサインが出てる。
当時の魏延にそこまでの信頼はなかったんじゃないかな。
関羽は孫呉と折り合いが悪かったからこそ長年荊州に置いたんだろ
誰某なら守れたとかそんな視点は二の次
「折り合いが悪かったからこそ」って何故?
>孫呉と折り合いが悪かったからこそ長年荊州に置いたんだろ
あの時点では古参で最も信頼の置ける人間が関羽しかいなかったってとこでしょ
リーダーシップを発揮できて、軍事のみならず対外情勢にも目配りできる人材が
必要なんだろうけど、層の薄い劉備陣営にそこまでもとめるのは酷だろうけど
孫呉が荊州を狙っていたことは周知の事実
もちろん劉備に譲る気はない
蜀漢本体は益州にあり揚州に取り込まれる危険大
この状況で新参の魏延その他に任せられる訳がない
363 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 22:38:37
光栄の三国志やるぶんにはいいけど
やっぱり蜀は層薄いよな。
荊州の係争地を返しちゃって関羽の軍を温存、呉と魏を争わせ疲弊させ
隙を見て漁夫の利、というのが実際一番良かったんでない?
取られて軍も失うよりマシだし「劉備は約束を違えない」と喧伝できるしさ
>>364 係争地は荊州の南側全部
返せるわけがねぇ
366 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 22:52:48
韓国が九州の領有権を主張してるので譲って兵力温存して中国と戦えばいい
と言うようなもん
367 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 22:54:38
ああ、池沼だな
368 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 23:16:07
吉川三国志ではロシュクに対して
劉備・孔明はケイシュウの一部を返すと約束し
関羽はロシュクに対して返さないぞと言って追い返したとされてるけど
正史には何と書いてあるの?オシエテクンデスマソ
領土も軍も失うよりは領土だけ失う方がまだ良いだろう。
そもそも保てない戦線は縮小する方が合理的であって無理してもオナーニ玉砕になるだけ。
このスレでもケイ州盤石の戦略は出てこないじゃん
そう思って一旦譲ったのが魯粛、でも魯粛は「貸した」ことにして将来奪還の布石にしてる。
蜀は江陵から撤退すると蜀本国まで遠い上に動きが取り難いのがちょっと。
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 23:36:37
劉備軍団にとって「本国」は荊州だからな
譲るのは有り得ない
あと戦略の基盤の一つだからなあ。
守る策もなし撤退もあり得ないじゃそもそもこのスレの意味がないのぉ。
三戦板には大軍師は居ないか
北上をしなければ良かった。以上。
375 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 23:54:48
376 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 23:54:52
劉備が荊州に戻ってれば呉に奪われなかったと思うが、
その場合漢中を奪うのが困難になってる罠
377 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 23:57:11
>>358で書かれてるが関羽に権限を与えすぎたのかもしれない。
任意に軍を出して良い権限を与えれば関羽の性格から北上を止められないだろう。
糜芳は?
>>375 だって関羽がでんと構えてたら、少なくともああいう形での陥落はありえなかったわけだし。
やっぱり兵をどんどん徴発して空っぽに近くしちゃあいかんよね。
同盟が磐石って訳でもなかったし。
久々にちゃんと議論してるのでむしろ自演じゃないかとびびった
381 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 00:01:36
諸葛亮もたいした事が無いよな。
荊州と蜀の間の早期連絡網制度や早馬制度を完備しておいて
関羽の北上と同時に蜀から荊州と南郡の方へしかるべき将と軍隊を送ってれば
最悪の事態だけは防げただろう。最悪でも将をまとめて蜀へ引き返させて
もしできるなら兵は住民まで蜀へ移住させるという策もありえただろう。
382 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 00:06:21
荊州がいくら要地でも住民が居なければ
あとは寂れるだけだからね。呉に荊州を返して劉備は「名(声)」を取るべきという
意見があったけど、住民を根こそぎ益州や漢中へ移住させてしまい
糧食も全部片付けた後で、城を破壊し田畑も全部焼き払って焦土と化した上で
呉に返しても、さほど痛くないしね。
かくも諸葛亮は偉大かw
当時から蜀を裏で操ってたのは諸葛亮ってイメージが固定なんだな
実質は劉備が死ぬまで、郡の内政官と政策顧問ってレベルでしか使われてなかったのに
384 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 00:11:00
どう考えても益州と荊州の連絡網と交通網の整理
そして人事のフレックスな入れ替えや活用を怠って
関羽の名声と人望と才能におんぶにだっこをしてもらおうとした
劉備と参謀陣の失敗だよな。関羽を責めるのは酷かもしれん。
>382
その場合、孔明は劉ショウ以下の奴ということになるぞw
386 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 00:13:53
意味が分からん
誤爆か?
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 00:16:50
>>385 トウタクのような強制移住は名声と人心を大きく傷付けるというならば
仮に呉への領土一部返還が決まったら
その事実を返還地域の住民全員に布告し
関羽とついて新しい地域への移住を希望するか
それとも呉の住人として荊州に居残るか住民自身に選択させるという方法もある。
曹操は呉との境界地域の住人を北方へ強制移住させると布告し
逆に住民は怒って、ほとんどが呉へ亡命してしまい
境界地域の町は住民が消え去り寂れてしまったんですよね。
>>382 実は曹操が漢中でそれやってるんだよな。
漢中制圧してる間に巴西へも度々侵入して人さらい事業を行っている。
だから生産人口が全く存在しない漢中ロストしても魏としては蜀へ攻め込む手段が
一つ減ったくらいの軽症も軽症に過ぎないんだよなあ(夏候淵死んだのが一番の衝撃か)
人口の把握すら困難な時代に有効な手段とは思えないけどな
連れ去った方は一時的に難民抱えて食糧難
いずれ住民は元に帰るだけだと思うが
390 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 01:05:55
>>388 それ以後関中や涼州にさんざん攻め込まれてるから戦略的にはあまり上策とも思えないがな
>>390 でも蜀は結局涼州責めても全く版図を増やす事は出来なかったからな。
三国時代は中国人口が一気に数分の一にまで減少したから人口確保こそ推奨事項。
馬超が下弁に攻め寄る前に地元民の氏族数万も強制的に天水へ移住させて
事前に馬超を使った異民族と蜀の連携を一つ潰す役割も果たしてるし。
尤も短期的に見たら上策だが、後の歴史を見るとこれが次の五胡十六国の混乱を
魏(曹操)が自分で招いたとも言えるんだけドナー
(辺境部の人口カット&異民族を大量に中国本土へ流入させる)
>>391 実質的に漢中を放棄し蜀にくれてやることで蜀に関中・涼州侵攻の足掛かりを与え、魏は諸葛亮や姜維に対し、絶えず広範囲に備えなければならなかった
漢中の民を拉致しておいたからよいというものではない
>魏は諸葛亮や姜維に対し、絶えず広範囲に備えなければならなかった
どう考えても長安に大軍置いておけば事足りたと思うんだが。
徙民政策のせいで漢中から武都〜天水方面に関しては無人の野。
どうあっても蜀側からすれば長安落とさない限り中原へ打って出る手段を持たず
魏側からしても長安さえ維持できればぶっちゃけ涼州全体失陥しても大きな損害でもない。
現実的に一度も長安に辿り着けず、涼州をキープする事も蜀はできなかったんだから
結果として曹操の取った行動はベターだったんじゃないかと。
>蜀側からすれば長安落とさない限り中原へ打って出る手段を持たず
荊州ロストの最大の痛手はこれだよな・・・
これ故に以後は呉と連携しない限りは二正面作戦を立てる事が出来ずに
毎回魏に察知されて漢中〜長安間の俗に言う漢中五道で激突→撤退を繰り返すだけに。
395 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 01:58:31
>>381 >>384 当時の配置をみて、それが可能であれば即座にやるだろ。
2ちゃんねらーの思い付く事くらいだれでも一度は考えるさ。
関羽が短時間で敗北したために対応が間に合わなかった可能性もある。
漢中争奪戦〜劉備の漢中王宣言〜曹操軍との対峙と関羽の北上はほとんど同時期。
確かに全て219年の出来事だが。
漢中王宣言を挟んで漢中と荊州での係争は全く同時進行系ではない別物だぞ。
打って出たのが全ての元凶
城に食料を50年分蓄え、引きこもってれば守りきれた
>>397 同時進行ではないが一連の動きだよ
あと君だけじゃないけど漢中王「宣言」つーのやめようぜ
宣言したんじゃなくて即位したんだからさ
漢中奪取→漢中王即位→上庸奪取→関羽北上
という流れがあるわけで漢中で曹操を引き付けての陽動で生じた空隙目掛けて関羽が突っ込んでる以上
「別件」とするのは近視眼的過ぎる
>>399 じゃあ、袁術も皇帝僭称とか自称とか宣言でなくて即位か?
401 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 10:07:07
>>399はただ自論=正当を主張してるだけ。
今こだわることでもないから議論する必要はないかと。
>>400 袁術の帝位も即位でいいだろ
帝位に即位した事とその帝位が僭称だったのか正統だったのかはまた別件
403 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 12:12:23
呉と同盟は結んでたんだよね一応
一応ね
面白い事に同盟って言葉が出てくるのは呉の側ばかりなんだが
これは陳寿の春秋の筆法なんだろうか
>>399 その一連の「流れ」であるのは間違いない事だが。
漢中王即位の前に益州方面では決着付いて双方主力は撤退をしている。
劉備が即位するまで関羽は動かず(重圧を掛けたという意味はある)候音の反乱とかの
侵攻絶好機すら見逃し(或いは支持により見殺し)ているほど。
「別件」とは言い切れないが同時進行的とも言えない。単に219年の「一連の流れ」だ。
406 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 15:35:56
>>399 陽動の隙を突いたんじゃなくて(陽動か否かは論外として)、
曹操の南征に関羽が先制を打ったんじゃなかったっけ?
それに
>>399が言う一連の動きなら、劉備は関羽の北上に際して支援策若しくは
魏進攻を行ってるはず。
結果的に救援が間に合わず版図を奪られるに至ったのは
関羽北上が劉備にとって想定外の事だったから、という事になる。
つまり漢中攻略に始まる一連の動きとは言えない。
別件として捉えるなら、呉が裏切った時点で関羽が絶対的に不利。
偶発的なので迅速な救援も期待できない状況では
即時撤退か、進攻以前の外交戦略しかないと思う。
>>362 なら何で漢中を任せたんだ?魏に狙われるのに。張飛がいるのに。
信頼できるからこそ、太守にしたんだろ。
関羽は劉備からの命令が無い限りは動かない。
呉が三郡を攻めた時も、攻め寄せて来た魯粛から江陵を守る動きしかしておらず、
劉備からの三郡奪還命令が来てから、初めてその動きを見せている。
北上開始の時点では関羽に専断権は与えられておらず、
本国から何らかの指令があって動いたと思われる。
>>408 関羽が専断権を与えられたのが前将軍任命時の219年とするなら、215年に三郡を攻められた時積極攻勢に出れないことの説明になるし、
北上が関羽の独断だった可能性は依然残ると思う。
410 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 16:40:46
>>407 一郡と一州という時点で同列に論じるのは無理
411 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 16:51:01
劉備が関羽に北上を命じたとは思いづらいな。
北上を命じた上で、空いた荊州のフォローすらしてなかったとすれば
劉備は孔明はとてつもなくアホだったとしか言い様がない。
孔明ってそこまでアフォだったっけ?
呉の侵攻は想定外
荊州問題は解決済みと思っていただろう
専守防衛を期待しながらわざわざ専断権を与えたたなんて馬鹿な話があるか
「専断権を与えた=関羽の裁量で侵攻も許す」だろうけど、=北上を命じたとまではならないのでは。
劉備が、関羽を支援しなかった事を理由に劉封を罰したことを考えれば
やっぱ北上は命令によるものだったのかなって思う
>>413 219年の状況で侵攻するといったら魏しかないと思うが
孫権が曹操に通じていることまで知っていたならともかく
>>412 >呉の侵攻は想定外
217年に魏に呉は降伏している時点でこれは無理がありすぎ。
蜀漢とも仲良くしてたし形だけのことだと思ったんじゃね。
肝心の呂蒙は病で死に掛けてたし無名の陸遜は媚び媚びの書簡を送ってくるし。
>>415 ちゃうちゃう、俺が言ってるのは「好きなときに勝手に曹操を攻めていいよ」と「(今この時に)曹操を攻めろ」の違い。
>>411 フォローはしてる
してるんだが呉の侵攻が上手過ぎて蜀が後手後手に回ってしまっただけ
420 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 20:50:28
演義では関羽は呉の侵攻に対して一応の備えをしているが、どうだったっけ。
実際には烽火台は無かったときいたが。
>>414確かにそうだよね。でも専断権があったなら話は別かと。
>>415侵攻する相手は魏を考えるだろうけど、北上の命令が出てかは不明って
ことでしょ?
命令があったかどうかは決め手にかけますね。
でも命令の有無に関わらず、現実として成都からの支援は無かったわけで、
なら関羽の独立勢力としての敗因をさぐるのがこのスレの趣旨になるのかな。
気になるのは、荊州陥落後に援軍要請として馬良・伊籍を成都に送っていること。
この大事な局面で、二人の賢人を外に出すのは当時普通のことなんかな。
考えた理由
1.軍令を無視しして北上した上に荊州を奪られたので、適当な理由を語れる
人物を送った。
=関羽自身が戦況を把握できていなかった。
2.荊州陥落で最悪の事態を想定した関羽が蜀漢の人材確保を優先した。
=大軍に包囲されており、この時点が敗北を悟った。
3.戦況が非常にデリケートであったので、正確かつ対策を講じれる人物を
成都に送った。
=まだ反抗の可能性があるとみていた。
でも呂蒙の策で関羽の軍は離散してしまったので、3は関羽の勝利に結びつかない。
では理由1と2から勝機を模索すると、時間を荊州陥落前に戻す必要がある。
もし、荊州陥落前にハン城を落としていれば、上庸との連携で魏の侵攻にも
備えることが可能になる。そうなれば呉も魏侵攻の利を取って荊州攻めに
二の足を踏む。
つまり敗因は関羽がハン城攻略に手間取ったためであり、曹仁が頑張ったから
という結論を勝手にだしてしまいました。
演義では曹仁が自分の愛馬を切り捨てて兵士を鼓舞する場面がありますが、
魏にとってハン城は重要な拠点だったのでしょう。関羽の死と同等の価値を
付けて良いかと。
長いうえに「演義では」多すぎ
>>421 >援軍要請として馬良・伊籍を成都に送っていること。
これ自体演義の出典だからそれ以降の仮定が全て無駄長文乙、になってしまうなあ。
>>420 狼煙台としての機能があったかどうかはわからないけど、見張り所はあったよ。
424 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 22:34:09
その手の狼煙台は前線から後方に敵の襲来を知らせるために作るのが普通なんだが
後方の危機を前線に伝えるために作るなんて間抜けな話だな
敵と対峙しながらそうそう退却なんてできないだろ
破滅覚悟で北上したのかそれとも兵法の素人だったのか
>>425 別に危機を知らせるとかでなく通信手段の少ない古代に狼煙を準備して置くのは普通
たまたまそれが危難時にも使えるつうだけのこと
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 23:26:05
一体何年前の話してるんだと言いたくなる話題。冗談ですがね。
今にだけ伝わってる部分多々あるんだろうな。
428 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 23:50:14
武田信玄が信濃侵略のために、まずやった事は
砥石城攻めの失敗の教訓を生かして軍道(軍用道路)建設と
煙筒(三色煙)の設置なんですよね。
織田信長が京都を落してまずやった事も岐阜と京都
尾張と京都の最短経路を万全にし、最短時間で移動を可能にした事です。
その成果で松永久秀の反乱などでも、たった三日で岐阜から京都へ
軍勢を押し出す事が出来ました。蜀から荊州への最短経路というと
船と陸路の併用になると思いますが、万一の時に備えた早舟の開発とか
遊軍の存在とか、あまり聞いた事が無いんですよね。
荊州と蜀の間を数珠繋ぎとする城の建設や町の開発をしたという話も
あまり聞いた事がありません。危機時の対応がおろそかでしたよね。
ていうか蜀奪取から3年ぐらいしか経ってないのに無理だろ。
江陵〜成都はもう少し遠いような気がする
431 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 00:54:51
日本に当てはめるとどこからどこラ変って感じ?
432 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 01:03:58
あり〜おりとはべり〜いまそかりの間
433 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 06:26:42
だいたいなんで関羽様一人で呉の相手をしなくてはならないのだ
あまりに放置しすぎだろ
超雲あたりを付けて守りをちゃんと固めろよ
かわいそうだぜ関羽
>>428 たしか成都から荊州まで400くらいの駅は作ってたはず。
先主伝の注にあった。
漢中王即位記事のところ。
典略曰、備於是起館舍、築亭障、從成都至白水關、四百餘區。
436 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 10:20:41
そもそも関羽って指揮官として強かったの?
経験不足のうえに未知数
438 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 11:07:04
ただのカス
野戦司令官としてどれほどだったのかは想像の域を出ないけど
やたら魏呉の将達に恐れられてるし蜀将の中では強かったんじゃない?
魏の重臣達が唯一名将と認めていた蜀将が関羽
魏呉から見ると蜀に将は関羽と張飛しかいないような扱いだからな
というか知名度の問題って気もするが
だからそれだけ知名度があるのが凄いんだよ
444 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 15:27:56
魏にとって蜀で怖いのは劉備と関羽だけと考えてたらしい
2人が死んで蜀は終わったと考えてたらしい
孔明が魏に侵攻してきたとき中国中が震撼したらしい
劉備一党は徐州譲られる頃にはそれなりに知られていたみたいだから、
やはり傭兵仕事とかで有名だったんだろうな。
現代には残っていないような小規模な賊征伐では無敵の強さを誇ったとか
そんな類じゃないか。
446 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 16:54:35
二メートル超ある毛もくじゃらの男が青龍刀振り回してたら
そりゃ引くよな、色々な意味で。
小規模な乱戦では無敵かも。
劉備は若い頃相当優秀な学生だったらしいし、
皇室の血を引く秀才に付き従う、人語を話す化け物って事で
名が知れわたり、それが尾を引いたと。
取りあえず、史実と演義の区別つかない人は議論に参加すべきでないと思うんだ
若い頃って勉強しに行ったけどまともに勉強しないで遊んでたんじゃなかったか?
遊んでる振りをして実は結構勉強していた。
まともに勉強しないで遊んでたとは書いてない
勉強よりも遊ぶ方が好きだったと言うことは書いてあるんだが
劉備の学力に関するコメントは全然書かれてない
>>433 劉封と孟達を送ったよ。
2人とも関羽を見捨てたけど
先主ハ書ヲ好マズ…
と陳寿が書いてたような。
454 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 18:58:45
好まずって打ち込まなかったて意味?
先主不甚樂讀書、喜狗馬・音樂・美衣服。
456 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 19:26:55
無能だからさ
↓は妄想な
劉備は勉強はちょっとやっただけで何だか簡単にわかるようになるタイプだったために
勉学をあまり熱心にはやらず遊びまくっていたような感がある。
そういうタイプは最後は負ける。 でもその頃の人脈を活かして生き抜いてもいるんだよな
>446 青龍偃月刀は後代の武器だから使ってたとしても大刀じゃないの?
それでも怖いけど。 劉・関・張とついでに趙は体格が大柄だったみたいだから
大きな武器を振り回してれば普通に強かったと思う。
劉備は「身長七尺五寸。手を垂れれば膝に届き、顧りみては自から其の耳を見る」とある。
当時の七尺五寸はおよそ170センチ強(今の単位とは違う、同じとすると小人と揶揄された
曹操でも七尺=2mある巨人になってしまう)だから並みかちょっと上くらいか。
因みに関羽は髭としか特徴の記述がなく、張飛にいたっては正史で外見の描写が皆無。
趙雲は補伝だが正史内に八尺あり姿形が際立っていたとあるから一番イメージには近いのかも。
たしか劉禅への遺言に「自分は勉強しなかったからダメだった。お前は書をよく読め」
とか言っていたような。自分で認めてるよな。
ついでに、このときのコネを活かして〜とあるけど、具体的には?正直、自分には公孫サン
くらいしか思いつかない。
肝心の魯植は劉備のことなんか記憶にとどめてもいなかった気配で、黄巾の乱の時も劉備
は自分から会いにいって、そこで重んじられた形跡もなし。戦後に魯植に引き立てられた
ということもない。もちろん、魯植学閥の誰かに重んじられたことも以後ない。
その頃「の」人脈と言うか
その頃「から」人脈を活かして と言えばよかったかな。
これでも不満かも知れないが。
何か人からの援助を受けていたようだからさ、そう書いた。
461 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 20:38:33
462 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 20:42:45
463 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 20:50:35
>>461 ダメだこいつ・・・早く何とかしないと・・・
wikiが正史だったとは驚天動地の思いですよ。
466 :
461:2007/01/22(月) 21:49:38
>464 私はwikiを鵜呑みにして引用するバカだが、
デスノートのような厨漫画の台詞を引用するほど愚かでは無い。
>>459 多分だが、孔融だのが劉備を気にかけたり、陳登と付き合いがあったりするのは盧植門下のネームバリューかなと思う。
漫画引用するより演義でしか三国志を知らない奴が不要なんだよ議論の場には・・・
空気呼んだら二度と来るな、
>>461>>466
>>466 孔融に関しては黄巾の時、青州で助けていたのが覚え目出度い理由の一つかもね。
470 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 22:12:02
関羽が皇帝から位をもらったのは作り話なの
>>470 後世になってからちょくちょく貰ってるらしい。
>>469 助けを求められて「孔融どのは広い天下に私が居るのを知っていてくださったのか!」と喜ぶぐらいだから、雲の上の人みたいな感じなのかね?
473 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 22:44:41
五虎大将軍
474 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 22:50:59
龐統が生きてたら荊州軍の参謀をやってたというレスをたまに見るけど、龐統がいたら呉の不意打ちを見抜けたの
>>474 北上の時期、投入する兵の規模、領内の諸将の活用…いくつか改善点はあったと思う。
>>472 そりゃ孔子の子孫として(直系じゃねーけど)名高い孔融に名前覚えておいてもらえば
20歳そこそこの血気盛んな功名心溢れる若造なら嬉しくてしょうがねーでしょ
名士とかの間ではその知名度こそが出世の糸口なんだしさ
関羽が荊州守備に選ばれた理由はそれまで完璧な働きをしてたからじゃないか?
だから、劉備も孔明も関羽の苦手分野が外交であることを見抜けなかったんだと思う。
荊州陥落の遠因は鳳統の死にあるようにも思えるなあ。
やむやく諸葛亮が劉備の救出に回ったため、呉との外交を関羽に任せることにもなった。
関羽にしてみれば、それまでも孔明に散々いいように言われ荊州を奪えなかった呉に加え
蜀の地を得て大国とも正面きって戦えるだけの国力も得たため呉を下手に見るようになっちゃったんだろうな。
そこらへんは関羽の「傲慢」と言われる性格からくる致命的な失策の必然だったのかもしれない。
>>467 陳登との交流は、劉備が陶謙のもとに居候して以降じゃないの?
>>472 逆にいうと、当時の劉備がどれほど無名でたいした存在ではなかったかってことだよな。
これをもって劉備を無能だなんていう気はさらさらないがね。
479 :
478:2007/01/23(火) 00:05:00
誤爆。すまん。
劉備には仁も淵もいなかったから遼ぽいのを選ぶしかなかった
>>477 いい加減にしろよお前
過去ログくらい読め
ホウ統の死と諸葛亮の益州入りは因果関係にない
482 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/23(火) 12:37:19
「先主が(言い方は変だが)人並み外れて小才が利くので、大成しなかった」というのには同意。
また関張の二人が先主から離れるほど性格的な欠点が浮き出るというのも納得出来る。
その二人は自立した人間というより先主のスタンドだよなあ。
関羽は最も先主から離れた時に人柄が良かった件
処刑されて首だけになった時か?
>>481 べつに正史的見地から考えないといけないわけじゃないっしょ。
477がそのつもりだったらアフォだとは思うが。
>>484 曹操陣営には短い時間にも関わらず張遼・徐晃ら同僚と仲良くやれるのに、
随分長いこと一緒に居たはずの麋芳あたりと仲悪いのは不思議だよなw
関羽は孫権は舐めてたけど呂蒙は警戒してるし、バリバリの武闘派以外を馬鹿にしてるのかも。
縻芳は失火で軍器を燃やしたのを咎められて、それを逆恨みして敵と内通したりするような奴だからな。
コイツと仲良くするのも難しそうだ。
>>488 付き合いが長い方が軋轢を生じやすい。
曹操の陣営にいた時は降将の上、新参。
偉そうにできるものではないと思うが?
>>490 その「身を慎まなきゃいけない」という意識が本当に関羽に必要だったのかもね。
劉備との特殊な信頼関係が逆に増長させてしまったというべきか…
関羽って縻竺とは仲良かったのかな。そういえば。
士大夫を見下す関羽だから、縻竺兄弟とも仲が悪かったとか…。
そうは言ってもあのポジションは関羽以外ありえないって結論は出てるんだから
南郡太守をもちっとマシな奴にしとけば良かったな。
>>489 呂蒙伝だと、失火したのが縻芳でなくて責任者として責められてないか?
関羽も責任者として責められるべきでは。
別に麋芳に問題があったとも思えないけどね。
蜀志関係には進んで呉軍を迎え入れたような記述のされ方をしてるが、呉志関係だと、引用されたものではあるが、初めは城に篭り抵抗しようとした旨の記述もある。
はじめから意気を通じていたという記述もあるけどねw
>>495 > 別に麋芳に問題があったとも思えないけどね。
ちょっと庇いすぎたかな?
一方的には責められない程度に言を変えるわ。
縻芳みたいに城を明け渡しちゃうような奴じゃなけりゃあな
関羽は嫌いだけど劉備様の為に死ぬまで戦うぜ
ってような奴
衆寡敵せず城を明け渡すのはごく普通のこと
麋芳の人間性や関羽との関係に原因を求めるのは短絡的過ぎる
>>498 でも兄貴は恥ずかしさのあまり死んじゃったじゃん
内通してたんだからどのみち開城しただろ
麋芳は本心じゃ流浪の劉備になんて付いて行きたくなかったんだろうな。
おいおい兄貴かんべんしてくれよって思いながら嫌々付いて来たんだろう。
あのまま徐州に残って曹操に取り込まれるのが一番幸せだっただろうな。
>>489 呂蒙伝にそんな記述あった?
そもそも、失火云々は演義の創作で、
正史ではもとから仲悪くて、やる気無しの非協力的だったんじゃなかった?
演義では関羽の責任を回避するため、麋芳の悪さのみが誇張されてる。
でも俺達が麋芳の中の人だったら10人中7人くらいは呉に下ってる気もする
>>502 又南郡太守麋芳在江陵、將軍士仁屯公安、素皆嫌羽輕己。自羽之出軍、芳・仁供給軍資、不悉相救。
また南郡太守麋芳江陵に在り、将軍士仁公安に屯す。
もとより皆己を軽んずる羽を嫌う。
羽の軍を出してより、芳・仁軍資を供給するも、悉く相救わず。
守備兵を減らしてまで軍資を送ってるのに全力で援助しないので処罰してやるという関羽の言い分も酷いなw
507 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 13:40:37
正史正史と五月蝿い連中棚w
おまいら正史を全部読破した上で言ってるのか?
俺の考えでは、正史に書いてあることも、怪しいことばかりだぜ。
何時、誰がどの戦で死んだ、くらいは信憑性があるが、仲が悪いだの
性格がどうのというのは全くもって誰かの主観。
ここにいる連中は、ちょっと正史を齧ったからって、演義を馬鹿にして
優越感に浸っているだけ。どの書き込みを読んでも、
「いや、こういう記述があるから、こういう考えもある」
と、誰かの書き込みを否定しているだけ。重箱の隅をつつきあってるに過ぎない。
でないというなら、何故関羽は荊州を守りきれなかったのか、その答えをだしてみろよ
509 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 13:59:46
俺は
>>507だが、正史ヲタ達に教えてやろう。それは
「歴史は全て後付けである」
ということだよ。後世の人は結果を知ってるから、誰かがやってきた事も
無意識のうちに結果と結びつけようとすているんだよ。
例えば今川義元。彼は桶狭間で少数部隊の織田信長に討ち取られるという
結果で死んでしまったため、今川義元=育ちはいいが傲慢なボンボンという
観点でしか彼の行動を見なくなってしまっている。
関羽が有能な武将であることは事実かも知れんが、彼だって若いころ、何度も
生命の危険に晒されたことがあるだろう。もしその時討ち死にしていれば、
関羽という人物の名前は永久に闇の中に葬られていただろう。勿論、正史にも
出てこない。即ち、関羽と同等の優秀な武将は、他にいくらでもいた可能性がある。
関羽が劉備軍の要職に就けたのは、運が良かったからであり、荊州を守りきれなかったのは
運が悪かったからに過ぎない。
>>507 何故関羽は荊州を守りきれなかったのか答えを出す事「だけ」が目的じゃない
性急過ぎるよ
>>509 今川義元について言うならまともに戦国時代について調べようとする人間だったらどんだけ凄い人物かわかってる
ボンボンなんてのはただの無知
調査不足の人間だけを取り上げて「〜でしか見てない!」ってのもどうかと思う
結果名前が残るってのは同意する
同意はするが、運がよかったから勝利した、運が悪かったから敗北したでは思考停止
関羽の不運とやらがどうして起こったのかとか考えないのかな
基本的にお前は思考停止しかしてない
運という便利な言葉に逃げ込んでいるだけの負け犬だよ
そもそも運の定義ですら未だ完全ではないというのにな
運がいいとはどんな状態で運が悪いとはどんな状態なのだか科学的に説明できるかい?
運がいい、悪いという判断も観測者の主観でしかないのに「主観だから」と
>>507で他を否定する傲慢さ
話しにならないよ
512 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 14:20:10
正史と演戯は、中国の歴史家が便宜上区分けしただけで、
実際にその場面を自分の目で見てきたわけでも
1800年も昔だから写真などねえんだから
当事これを書いた作者たちでさえ、
三国志はこうだったのかも?
としか言えないはずじゃないのか?
事実としては、ある部分は正史のほうがおかしくて
実は演戯のほうが正しかったのかもしれん。
が、確認する術がない。
どちらも人から聞いた話と、過去の文書での記録を見て、
まとめて想像と主観を加えて語ってあるにしかすぎない。
正史が全て正しいとする論法はもうちょっと控えて欲しいと思う。
たとえば正史で法正が漢中で軍師をしてていたという話と
演戯で諸葛亮が漢中で軍師をしていたという話を
演戯のほうが100%間違ってるという確証はどこにもねえんだろ?
正史を正しいとしたら、という話でしかねえはずだ。
>>512 この世で絶対〜であるという保証があると思ってるその脳内ファンタジーを解消してから出直すんだな
514 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 14:28:33
>>512 同意。
>>511 俺が言いたいのは、「関羽はなぜ荊州を守りきれなかったのか」というスレタイには、
「なんで関羽ほどの武将が・・・」という思惑が見え隠れするから、そして大多数の
人間が、正史を聖書のように持ち出して検証しようとしているから、違和感があったんだ。
「関羽ほどの」武将は他にいただろうし、その多くは運悪く討ち死にしてしまっただろう
というのが、俺の結論。先ず関羽ありきで議論するのではなく、荊州を奪われた武将の名前が
たまたま関羽であった、と俺は思う。
>513
文盲のお前が出直せ。
どこをどう読んだらどうなるんだ。
どうなるんだ→そうなるんだ
OTZ
>>512の言葉で目が覚めた
今まで羅貫中は三国時代の人間ではなく陳寿・韋昭は三国時代の人間だからと思い込んできたが
確かに真逆つまり、羅貫中が三国時代の人間で陳寿・韋昭が後生の人間である可能性も100%否定はできないな
だったら演義がより正しい可能性もある
>>512 演義は正史を読んで学んだ人間が面白おかしく話しを脚色して作った話しなんだから、
どう考えても正史のが事実に近い可能性が遥かに高い。
100%正しいと言えないならなんなんだ?99%と1%が同列に扱われると思ってんのか?
これが三国志と江表伝と華陽国志との記述の食い違いとかだったらまだ議論になるし、
必ずしも正史である三国志の方が事実に近いとは言えないけど。
519 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 14:41:15
>>515 そもそも学問の基本すらインストールしてないのか…
この世界には仮説ではない説はないし、確定した事柄というのも存在しない
だから仮説の中で最も信頼性の高い者は何か模索していくのが学問の出発地点なわけ
そこで「正史が100%正しくなくて演義が正しい可能性だってあるから演義も考慮しろ」と君は言う
元々完全に正しいという保証がなくて正史だって常に史料批判を受けながら議論されているのに
「正史が正しいという話しで皆話している」と言う思い込み
途中で送信してしまったので続き
「正史が正しいという話しで皆話している」と言う思い込みも甚だしい
お前だけが正史を疑ってるわけじゃないんだぞ
>518
だからさ。
なんでそう主観でこりかたまってんのかな、正史厨は。
正史をより面白くって羅貫中自身がそう語った文献でも見つかったのか?
羅貫中は「正史が間違ってる。本当の三国志はこうだったんだぞ」
と書き直しただけなのかもしれんのだぞ?
実際の話、歴史というものは時を経たほうが事実が見えてくることが多い。
当事の人物だからこそ、時の権力者から圧力を受けて
脚色した可能性があるんだ。
いまの韓国、中国との歴史認識問題でもそれがわからんか?
>>522 演義が羅貫中の作である保証もないんだが
演義、演義って言ってる奴は演義が本毎に全然違う内容になってるような事知ってるのかな。
演義つったって全部同じじゃねーんだよ?
でさあ、史料として考える場合、そんな毎回のようにコロコロ内容の変わる奴は危うくて使えない。
仮にもし史実が書かれていたとしたって、そんなんどれがどれだかわからんもん信用できない。
史実がどうであったかを語る上で、演義は上記の理由で採用できない。
正史は本毎に数字や1センテンスの違いはあるけど内容が違うなんてことはない。
内容にブレのない分こっちの方がまだマシじゃねぇ?
>>522 なんで「これが正しい歴史である」と思って残した人間が題名に演義とつけたりしなきゃならないんだ?
だいたい「実際の話、歴史というものは時を経たほうが事実が見えてくることが多い」
というなら時を経て多くの人間の検証を経てきた三国志の信憑性は大きく高まってるじゃねーか。
日本語訳こそされてないが多くの一次資料があり、それによって学問として大いに研究されてきた分野だ。
というか俺らが日頃目にする裴松之なんかまさにその一人。
演義のどの辺に「時を経て見えてきた事実」があるんだ?
演義の中にはチョーセンがカダの作ったラブドールだったとするバージョンもある
これは真実で23世紀の天才科学者Ca Dah(インド系アメリカ人)が時空震で2世紀に飛ばされた事実を示している
半分くらい本当
>525
三国志演義自体は正史と違い、年代を経て、
いろんな創作が確かに書き加えられている。
だが、元々羅貫中自身が書いた物自体は現存していないし、
それは正史も同様。
羅貫中の書を受け継いできたと思われる現存最古の書には
羅本貫中編次とある。元々には演戯などついておらずに
歴史書が年月を経て変化していったものではないか?
という説が存在する。
だから俺が言ってるのは中には事実も書かれているのではないか?
という話であって、演戯を全て創作、正史が全て正しいと
声高に言うのが間違ってるという話だぞ?
おまいら
>>507に釣られすぎ
いまさらこんなキチガイもスルーできんのかよ
529 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 16:26:24
魏&呉の軍の方が関羽率いる荊州の軍より上だった。それだけだよ。実も蓋もないけどな。
>>527 >元々には演戯などついておらずに
>歴史書が年月を経て変化していったものではないか?
>という説が存在する。
誰だ、その珍妙な説とやらを唱えているのは。正直論文読みたくなってきた。
記述形式その他どう考えても小説として書かれたものであり、史書の形式を微塵も感じさせてねーじゃねーか。
少なくとも現存最古の書には確か「三国志通俗演義」と書いてあっただろう?
>>527 だいたい漢中で諸葛亮が軍師してたならでもなんでもいいが、
百歩譲って『羅貫中は「正史が間違ってる。本当の三国志はこうだったんだぞ」と思いそれを事実として残した』と「仮定」して、
どうして三国志にその「事実」なるものが残らず、且つその他膨大な資料を閲覧して検証してきた学者たちもどうしてその「事実」とやらに気付かず、
なんで突如明の小説家にだけ何故かその「事実」がわかり、しかも歴史書のはずがどういう理由で後世勝手に小説として改変され、題名まで変えられ、
尚且つ物語の中身はそのまま「事実」が残ってるなんて言えるんだ?そんな可能性がどんだけあると思ってんだ?説明してみろよ。
それでよく他人を「主観でこりかたまってる」なんて言えたもんだ。
演義に書かれていることのほうが真実かもしれない。という理屈がありなら、
北方謙三の小説の内容の方が真実かもしれない。とか、
三国無双の内容こそ史実に最も近い可能性もある。
という理屈もありだよな?
>>532 そこまで考えてないと思われ
おかしな劣等感や生理的な嫌悪が先行してるとしか思えん
>羅貫中の書を受け継いできたと思われる現存最古の書
誰かこれ日本語訳頼む・・・
羅貫中以前に書物史書が存在しなかったと言いたいのこの御方は・・・?
>>527の理論だと時代が後になって成立した歴史小説の方が引用文献が多いから
リアルタイムやその直後に編纂された各種史書より信憑性が高い、という事になりそうだなw
「羅貫中の書いた演義」の写本として残ってる最古のもの、ぐらいの意味だろ。
だから演義が出鱈目とかは誰も言ってないさ。
史実に蜀びいきに肉付けしたのが演義であって。
ベース部分は正しく肉付け部分に行き過ぎた脚色や歴史捏造があるだけの話。
まさか本当は華雄も文醜も関羽が斬ったんじゃボケーとか主張したいわけじゃないっしょ
>>527も。
>>535 その理論だろ信憑性が週刊誌>>>>>>>>新聞だね
539 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 18:53:23
やっぱり三兄弟は一緒にいないとダメだったんだよ。
劉備、張飛とともにあってこその関羽。
540 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 19:07:16
>>507は別に間違ったことをいってないだろ
実際近年の考古学的研究によって正史の記述が否定されている
>>541 まずその近年の考古学的研究によって明らかになった事実をソース付きで明示して、
それが507の主張の正しさをどう保障するのか理論的に説明してくれ。意味不明だ。
演義ってのは正史に羅貫中が創作を加えたものじゃなくて、
正史を含む後漢末から三国にかけて書かれたさまざまな史料に、民間伝承や脚色を加えながら書き綴られてきたものが演義。
著者の立場や時の権力なんかにおもんばかって書かれた正史よりも歴史を正しく伝えてると言っても、あながち間違いではない。
どの辺がどの伝承からの引用なのかきっちりソース付きで証明してみ
あと脚色も創作を加える事と同義なんだけど一行目と二行目矛盾してない?
545 :
543:2007/01/25(木) 19:29:58
ちなみに俺は541じゃないよ
演義は正史より正しい。
これが演義厨のだした結論。
物語が史書より信憑性を上回るとは…。
別に矛盾してないやん
聖徳太子は10人の話を聞き分けられた
これも正史
・正史にも間違いがあること
・伝承の中にも真実があるかもしれないこと
この2点は一般的には真であろう。
で、そのこととこのスレの関係は?
正史にだって間違いはある、というのはその通り。二十四史にも信憑性の低い
ことで悪名高い晋書やら元史などがあるしな。
しかしだからといって「正史より演義の方が信憑性が高い」とはならん。
>>543 おい三国志演義が正史以外のどんな史料を参考にしたっていうんだ?根拠はなんだ該当箇所はどこだ?
改変部分が元の正史より正しいとする根拠はなんだ?
>>531の疑問にはどう答えるつもりだ?
552 :
陳寿:2007/01/25(木) 19:54:06
やれやれ、後世になると
>>551のような厨房まで現われるのか。
まあ、俺にも責任はあるか。
羅貫中なみのユーモア見せとけばよかったなあ〜、関羽は25尺もあったとか。
まあ、俺の作りもんなんだしあんまり気にすんなよ。
人物の名前はなり切りスレ以外禁止だぞ
何やってんだこの違反者
554 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 19:58:42
俺がその
>>507だが、何故か論点が「正史と演義、どっちが正しいか」になっちゃってるな。
俺の
>>507をもう一度よく読め。
俺が言いたいのは以下の3点
・演義は小説であり、史実とは異なる点が多々ある
・正史にも著者の主観が入っている点があり、全てが正しいとはいえない
・此処の正史信者は、演義を見下していながら、その演義同様、史実かどうか怪しい事柄まで
「正史だから」という理由で史実として断定している
つまり、そんなに史実に基づいた議論をしたいなら、正史の中の、史実と主観くらい分けて議論しろ
と言いたいわけ。「関羽が荊州を守れず打ち首になった」ことは史実として仮定するのは結構だが、
「他の武将から嫌われていた」とか「プライドが高かった」などという意見は、あくまで主観(作者でも自分でも)
として書き込め。正史に書かれた作者の主観まで、史実として仮定するな。
陳寿は魏贔屓とか蜀贔屓といわれることはあるが呉贔屓という話は聞かない
正史が関羽を不当に貶めているとは考えられないんだけど
>>551 君でも知ってそうな有名エピソード
治世の能臣乱世の姦雄(異同雑語)
勘違いでの呂伯奢殺し(世語・雑記)
挙げればきりがないよ
>>554 >俺の考えでは、正史に書いてあることも、怪しいことばかりだぜ。
とか言っといて
>・正史にも著者の主観が入っている点があり、全てが正しいとはいえない
これはないだろ
どう見ても意見の微調整で誤魔化そうとしてるだけだ
>・此処の正史信者は、演義を見下していながら、その演義同様、史実かどうか怪しい事柄まで
>「正史だから」という理由で史実として断定している
これなんか一方的なただの決め付けだ
>・演義は小説であり、史実とは異なる点が多々ある
これに至っちゃ
>>507に一言も書いてねぇ
俺らみたいな場末の正史オタじゃなくて世界にでも向けてその爆笑コントを発表しといてよ
で、俺らみたいなダメな奴のことはほっといてくれ
それがお互いの平和のためだ
>>556 普通正史三国志っていうと裴松之の註釈込みだと思うんだが…
559 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 20:20:44
要するに
>>554は関羽が陸遜見くびってたってのはあくまで主観であり
本当はそんなに傲慢ではないと言いたいのか?
情勢等考慮して、ああいう出兵をするのは傲慢な人間である確立が高いと思う
>>555 呉書は呉の史官韋昭が書いたものを丸写ししただけ
これも併せて覚えておくといいよ
>>554 >俺の
>>507をもう一度よく読め。
>俺が言いたいのは以下の3点
>・演義は小説であり、史実とは異なる点が多々ある
そんなこと一言も言ってねぇしwwww何処見りゃ書いてあんの?
>此処の正史信者は、演義を見下していながら、その演義同様、史実かどうか怪しい事柄まで
>「正史だから」という理由で史実として断定している
一体どのレスが演義を見下してて、同時に史実かどうか怪しい事柄まで「正史だから」という理由で史実として断定しているんだ?
具体的に指定してそいつにいえよ。レス番幾つだ?
大体陳寿が会って判断したんじゃないんだから好き・嫌いとか仲悪いは本人の言か、周りの評判。
何陳寿の勝手な思い込みみたいに書いてんの?
「関羽は糜芳らと仲悪かった」と「関羽は糜芳らと仲悪いと周囲に思われてた」に、議論する上でどれ程違いがあるというんだ?
「関羽は糜芳らと仲が悪いと思われてたけど、本人じゃないと本心はわからないよね?」なんて言うつもりか?
関羽が荊州を守れず打ち首になったことを史実として仮定するのと、
関羽が周囲と上手くいってなかったとを史実として仮定するのに、どこまでの違いがあるんだ?
>>556 オイオイ、モロに裴松之註じゃねーか。だから演義が素晴らしいってどういう理屈だよ?
>>561 お前がソースだと思っているものを正確に記述してみろ。
恐らく韋昭の書を参考にしたとはあるが丸写しなんてどこにもないだろ。
565 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 20:30:19
>>562 生まれた、死んだ、勝った(城を奪った)、負けた(城を奪われた)というのが史実。
何故勝ったか、何故負けたかは全て主観。その背景を探るのは大いに結構。
しかし、主観はあくまで主観でしかない。
正史の中の主観を引き合いに出して論じる者が、
演義の中のストーリーを引き合いに出して論じる者を
見下すな!
と言いたいだけ。
566 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 20:31:42
正史って一応魏が正統になってるの?
>>563 >おい三国志演義が正史以外のどんな史料を参考にしたっていうんだ?根拠はなんだ該当箇所はどこだ?
これに対する回答だから
>>554 では、君の指示どおりに議論を進めてみてあげるから、
まず、スレタイの問題について、まず君の模範的な回答を書いてごらん。
569 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 20:36:24
お互いに突っ込みにまわろうとする、この駆け引きいいね
>>565 要は、
「僕は正史読んでなくて、小説の内容だけでしか話できないけど、みんな馬鹿にしないでね」
ということですか?
>>564 ちょっと考えてみればわかるだろ
陳寿が呉の人物についてあんな事細かに書けると思うか?
好き嫌いで取捨選択が出てくるのは仕方ないよ
陳寿の主観によると顔良は名将って事になるけど
関羽に批判的な人はそれを無視する
そのあたりは人間だから仕方ない
>>571 陳寿は韋昭の呉書から引用はしてるが丸写しとは何か根拠が有ってのことかな?
>>572 孔融の主観というか、言い分によると顔良、文醜は三軍に冠する勇。
それに対する荀ケの反論は顔良、文醜は一夫の勇。
呂蒙伝によると単刀赴会後の関羽は呂蒙とずっと友好関係にあったとあり、
さらに新任の陸遜も友好的な手紙を送ってきたために、呉が攻めてくる恐れはないと判断した。
これを傲慢とは思えんな。
呂蒙が攻める気をバリバリ見せてるのにそう判断したのなら傲慢だろうけど。
陳寿・羅貫中・そしてお前ら
主観や好き嫌いで好きなように取捨選択しなさい
こういうことだな
攻めてくる恐れはないと判断したのに狼煙台を築いたのか
矛盾してるな
>>565 線引きが意味不明。
呂蒙伝の記述なら、
「強力な弩を大量に用意し、先鋒隊を攻撃し打ち破ったから儒須に勝利した」が主観で
「儒須に勝利」が史実になるのか?
何で前者だけ主観なんだ?伝聞だからというなら両者共通のはずだ。
何で後者だけ史実なんだ?これだって魏側の資料と一致せず検証の必要がある。
それと都合の悪い部分無視すんなよ。
>「関羽は糜芳らと仲悪かった」と「関羽は糜芳らと仲悪いと周囲に思われてた」に、議論する上でどれ程違いがあるというんだ?
>「関羽は糜芳らと仲が悪いと思われてたけど、本人じゃないと本心はわからないよね?」なんて言うつもりか?
>関羽が荊州を守れず打ち首になったことを史実として仮定するのと、
>関羽が周囲と上手くいってなかったとを史実として仮定するのに、どこまでの違いがあるんだ?
これに具体的に答えないの?どういう理由があってどうまずいんだ?
しかも「演義の中のストーリーを引き合いに出して論じる」行為と同列に語れる根拠はなんだ?
「関羽は糜芳らと仲悪かった」という記述と同程度の信憑性が演義の創作部分にあると主張してるのか?
「演義を見下してて、同時に史実かどうか怪しい事柄まで「正史だから」という理由で史実として断定している」レスはどれだ?
>>573 呉志は孫権などのメインの人物の伝は陳寿の文体なんだけど
ちょっとマニアックな人の伝なんかは普段の陳寿とか全然違う文章表現を用いることが稀にあるという話があって
そこから文体が変わるのは呉書から丸々移してきたからではないか、という説が出てきたそうだ
>>575 >>571のどこが根拠になるの?
胡綜の子である胡沖の呉歴や魏側の魏略等も参照してないとでも?
>>567 普通は裴松之註も含めて正史として扱われてると思うんだが。
しかも羅貫中は裴松之註三国志を読んだ根拠になりこそすれ、
三国志以外の「後漢末から三国にかけて書かれたさまざまな史料」を参照した根拠にならないじゃん。
>>571 書けないと思う理由はなんだ?そもそも魏と蜀は何故書けたと思ってるんだ?
蜀のことについても陳寿が全てに関して知っていたわけでもないだろうし、
魏に関しても参考資料が当然あったろう。陳寿はそれを丸写ししたと思うのか?
それとも陳寿は呉に関して呉書しか参考にするものが無かったというソースでもあるのか?
>>574 そもそも関羽が傲慢と出てくるのは糜芳らに関しての関羽本人の伝とか、
李漢輔臣賛にある評とかが根拠だと思うんだが。
糜芳の失火も演義だな
>>579 部分的に写したことと、「呉書は呉の史官韋昭が書いたものを丸写ししただけ」には大きな隔たりがあるでしょ。
とりあえず正史本文以外に記述があるものを演義の一言で一くくりにしないこと。
>>583 自国であった蜀と直接の敵だった魏に関しては必死で書いたけど呉はどうでもいいや
という風に考えた為呉志は手抜きだったのかもしれない、とする説はネットのあちこちに転がってるな
ソースは知らん
>>579 丸写し説は知ってたけど、時代的に呉歴なんかも引用できたろうし、
魏書が主に魏略と魏書(王沈撰)を史料に用いたように、韋昭の呉書を用いたため、
魏書と呉書、主体となる史料が違うのだから文体に差が出ても不思議じゃないよ。
>>589 だから呂蒙伝註って書いてあるだろ…注釈を読んでるから三国志以外を参照したことになんのかと。
>>585 ああ、誤解されてるようだ
悪かった
俺は説があることを言ってるだけで丸写しと言う主張してる奴とは別人
陳寿は諸葛亮に鞭打ちの刑罰をくらわされたとか
父親を失脚させられたとか
それで怨恨があったとか
正史とはそういうもんだ
>>592 こちらこそゴメン。俺も呉書見聞だったかで説自体は覚えがあったが、それを曲解してやがると思って追求してしまった。
諸葛亮に恨みがあったとしてもそれが関羽酷評の理由にはならんだろ
むしろ関羽よりも評価している
>>595 「関羽が傲慢」自体は陸遜に関係ない部分で書いてあったり、そもそも陳寿以外が書いた部分にあったりもするわけだしね。
ホウ徳や于禁の親族をはじめとして関羽に恨みを持ってる奴らは魏にウジャウジャいたから
関羽を良くは書けなかったんだよ
関羽の血族皆殺しとか目の前で見せられたんだからそりゃビビるだろ
演義を見下してるとか言う奴。
どのレスなのか言って欲しかった…。
資料から性格のプロファイリングするのが主観とか言ったら
FBI捜査官はどうなる。
士太夫に傲慢ってだけだろ?
身分の低い奴に優しく身分の高い奴にへつらわずって男の鏡じゃん。
同僚にも傲慢じゃなかったっけ。
部下の受けがいいだけ、という解釈も可能だな。
>>600 一応「人との応対に礼節を欠く」とも評されてるけど。当時的にはアウトだったんでしょう。
現代だと確かに男が憧れる漢的なかっこよさに通じるね。
高卒から一筋30年のベテランに対して院卒の上司が傲慢って感じなんだが
白馬は馬じゃないと論議するスレですか?
演義の前に平話があったと思うんだが無視ですか?
>>602 一方で当時のビッグ2に人柄を認められているしなあ。
問題は麋芳・士仁が関羽への恨みによって寝返ったという部分で、
彼等が本当に恨んでいたなら呂蒙と示し合わせて、
関羽が江陵に逃れて来るのを待って捕らえることもできたと思うんだが、
状況から判断するとただ単に呉軍を防げないから下ったようにしか見えない。
歴史:権力者や観察者に捻じ曲げられたり、伝え間違えたりしながらも残された記録
平話:超有名エピソードを町の先生など聞きかじったおじいちゃんが面白おかしく孫たちに語った作り話
劉備や曹操に対しても言いたい事ははっきりと言っている。
麋芳あたりはそれを馬鹿にされていると感じたのだろう。
始末すると言われてブルブルとは武人としてあまりに情けない。
元々武人じゃないし…
豪商だな。
人間関係だからさ、もちろん双方向的ではあるんだよね。
程普だって「しばしば周瑜を侮辱した」と関羽より直接的に相手を侮辱してるが、結局は周瑜が水に流して上手くやってる。
張遼と楽進と李典もそろって仲が悪かったけど、「公事に私情は挟まない」として皆協力して活躍してる。
関羽の周囲が特殊なのか、上記の奴らが立派なのかはわからない。
関羽が麋芳を始末するなんてどう考えても不可能だろ。
劉備がそんなの認めるはずがないし、麋芳はもっと堂々としてれば良かったんだよ。
現代に例えるなら「あいつぶっ殺す」みたいなもんだろ
それで実際に殺すわけじゃないし殺す気もない。
そういう常識が通じる相手ではないことを知っていたとも考えられる
常識人なんてつまらないぜ
麋芳は劉備の外戚
下手なことできんよ
そうでなくても徐州以来の長い仲間なんだし簡単に処断できない
だが劉備は遠い蜀にいてビホウをかばえないぞ?
関羽なんて劉備がとめなかったら徐州取られた時に
張飛も切りかねなかったやん。
619 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 23:12:42
麋芳は南郡太守だから関羽が勝手に始末するとか無理
麋芳は失敗談を聞かないから無理でしょ。
非協力的というだけで斬ろうとする→傲慢に繋がったのかも。
関羽は野蛮な古代人の、しかもどう考えても普通に100人や200人は
その生涯で殺してるからな。殺すといわれたときの迫力は常人とは
桁が違うだろう。麋芳が恐れをなすのは仕方ない。
麋芳・士仁は公安、南郡太守だから中心になるけど
城に二人だけしかいなかったわけではないんだが。
関羽=傲慢にはならんが、そのあと反乱らしい反乱もなく
荊州人もすぐに孫権に降ってるから少なくても統治が上手くはいってないだろ。
>>618 これでお前さんにレスすんのは最後にしとくけど
いい加減にしてくれ
関羽は士大夫を見下すという部分だけ真に受けて部下には優しいという部分は無視するのか?
兵が潔く従ったなら麋芳・士仁が私怨で内通したのではなく戦況によりやむなく降ったという状況証拠になるが
兵卒って表現じゃなかったっけ?
>部下には優しい
これも主観だから疑問視が付くんだよなあ。
関羽が捕らえられる時、兵が四散して殉じるのが少ないし。
寧ろ優しいと言うか、一定の配慮は関羽でなくても大抵の将にはそれなりにあるだろ。
自分の部曲には優しい、だけの武将でも結構な割合で居そうだ。
取り合えず関羽マンセーの奴は、まず中立的観点で議論に加われ。
どっちかにぶれた意見ははっきり言って不毛であり不要。
そんな釣りはいらん
>621
麋芳だって野蛮な古代人だぞ!なめるな!
>>626 古代中国の兵卒のモラールの低さ知らないのか?
だから中国では兵法のシステムが発達したんだぞ
日本みたいになまじ兵士の士気が高いと、個々人の強さに依存した戦いになるしな
ローマみたいな例もあるから一概には言えんが…
兵卒と言ってもその実9割は地元の農民だからなあ。
農兵分離など中世までそれも一部の人間しか実行し得なかったこと。
(だからこそ先んじた奴がその時代の勝者に直結した歴史が多いとも言える)
農民に対する最大の恩恵は戦争をしないこと、次は戦勝地への略奪行為の許可。
関羽は後者をOKできたかどうか・・・と多少関羽善人説にたった意見で言ってしまうと結局は・・・?
634 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/26(金) 20:15:00
議論するのは大いに結構だが、
なんでどっちも喧嘩腰なんだ?
637 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/26(金) 20:57:40
前世に関係してるんだよ、みんな。
>>631、632
三国志でも、本拠地失っても兵卒がついてくる場合があるんだがな。
関羽にも関平趙累ほか最後まで付いてきた兵士もいたみたいだし
劉備も兵士に逃げられたことがあるし、曹操は兵士に殺されかけてるし
それぞれ状況が異なるんだから、兵士に逃げられたからどうとかはあんまり本人の資質とは関係ないよ
640 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/26(金) 21:52:01
正史に取り入れられず民間に伝承されてる事実を
演義が拾ってる部分もあるとは思うけど
どこだなんて分からないしな
>>639 そうか?
将が兵卒に信賞必罰に公正で優しい場合、死兵ができるんだが。
第一、普通は美談の部類は本人の伝に書かれるけど
関羽伝に兵に優しい記述はないし、あくまでも張飛との比較で出された場合もある。
>>641 忠義の美談とかってのは実態は悲惨なのが多いよ。
逃げようがなかったとか、逃げても捕まったら殺されるからとか、逃げられないようなしがらみがあるとか、
そんなもんさ。
兵卒に優しいっての注釈でもなくて本文にきっちりと記述されてるしなあ
これを否定しちゃうともはや何を基準に話をすればいいのかわからなくなるな
別に本文に書かれてるからって全部鵜呑みにしなくてもいいんじゃね。
三戦板の基本だな
好きな人物なら都合の良い記述だけを採り
嫌いな人物なら都合の悪い記述だけを採る
>>644の言う通り
正史なんて眉唾な書物だから信じるに値しない
やっと結論が出たな
>>646 はいはい
ひとりで死ぬまで納得してればいいよ
つまり演義はラノベレベルというわけか。
陳寿が233年生まれなのにどうして正史が完全に正しい物なんて言えるのかな。
それ以前に亡くなってる武将なんて噂程度でしか知らないはずなんじゃないの?
早い話、陳寿版演義ってことでしょ。
誰も正史が完全に正しいなんて言ってないが。
だから、三国志だけでなく後漢志、晋書など調べて
矛盾を探したりして時代の流れを議論してるんだろ。
なんで完全に正しいなんて言葉が出るんだ、教えてくれないか?
じゃあ何で一千年近くあとの物が四半世紀後のものより信憑性高いの?
教えて、昨日から必死な人w
ここ最近の、やたら演義を持ち出してくる人見ると、
正史は歴史書で、演義は小説、つまり大衆向けの娯楽作品だという根本的な違いが分かってないように思える。
三国志演義も代表的な古典のようにいわれてるから、そこで勘違いして、
実質以上に権威ある存在と思っちゃってるのじゃないだろうか?
吉川英治や北方謙三の小説がいかに面白くてよく出来てても、
そこに史料的価値は見出せないだろ?
「演義を見下してる」とかそういうもんだいじゃなくて、
演義を同列に出してくるのがお門違いで、その行為が批判されてるわけ。
>635
>512>522>527は俺のレス。
>578は俺へのレスと507がまざっちゃってるぞ。
>>653 だからさあ、小説の演義の前に平話は無視ですか?
あと、演義を持ち出すのでなくその参考になった野史でなら
まだ議論になるんだが。
>>653 はあ?
>>578が指してるのは
>>565 線引きが意味不明。
(略)
何で後者だけ史実なんだ?これだって魏側の資料と一致せず検証の必要がある。
↑これはアンカー通りそのまま565に対して。
それと都合の悪い部分無視すんなよ。
>「関羽は糜芳らと仲悪かった」と「関羽は糜芳らと仲悪いと周囲に思われてた」に、議論する上でどれ程違いがあるというんだ?
>「関羽は糜芳らと仲が悪いと思われてたけど、本人じゃないと本心はわからないよね?」なんて言うつもりか?
>関羽が荊州を守れず打ち首になったことを史実として仮定するのと、
>関羽が周囲と上手くいってなかったとを史実として仮定するのに、どこまでの違いがあるんだ?
これに具体的に答えないの?どういう理由があってどうまずいんだ?
↑これは
>>562の繰り返しなんだから当然
>>554へのレス。
しかも「演義の中のストーリーを引き合いに出して論じる」行為と同列に語れる根拠はなんだ?
「関羽は糜芳らと仲悪かった」という記述と同程度の信憑性が演義の創作部分にあると主張してるのか?
↑これも
>>565「正史の中の主観を引き合いに出して〜〜〜論じる者を 見下すな!」に対して。
「演義の中のストーリーを引き合いに出して論じる」なんてコピペで聞き返してる。やはり勘違いしようがない。
「演義を見下してて、同時に史実かどうか怪しい事柄まで「正史だから」という理由で史実として断定している」レスはどれだ?
↑これも
>>554にある文章をそのまま聞き返してる。勘違いしようがない。
全部565、554に集約されてんじゃねーか。どこが混ざってんだ?
>>512、
>>522、
>>527に対してのレスってどれだよ?
しかし全くの別人が同じ勘違いとは、随分意見が合いますね。
656 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 11:06:01
正史は記録書だから、性格に歴史を判断しようと思ったら
拠り所にせざるを得んでしょ。
かたや演義は創作。
でも現地の伝説が元ネタになっているので、
中には正史に書かれていない事実があるかもしれんな。
仮に演技に真実が含まれていたとしてもそれは偶然。
偶然を当てにするのは学問ではない。
658 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 11:21:18
>>656 演義は三国時代から千年近く後に成立した書物でその可能性はほとんどない
だいたい三国志演義は娯楽目的で書かれた作品であるため文学の研究対象にはなるが、三国時代を研究するうえでの史料にはならない
正史厨は視野が狭くてウザいなあ。
正史にも拾いこぼしの逸話もあるかもしれないって分かってる?
民間伝承を取り入れて成立したのが演義
民間伝承は歴史を研究する上で重要
>>659 取りこぼしを補完した形の裴松之註なんか高く評価してるし、その他歴史資料も尊重してますが?
662 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 12:04:10
俺は霊媒を呼んで前世が関羽、ビホウ、リクソン、ジョコウの人に
直接聞くのがいいと思うんだよね。
663 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 12:10:58
演義は元末明初の歴史考証になら多少役に立つのかもしれない
>>660 別に民俗学の分野で演義の中の伝承部分を研究するぜ!とかなら素直に応援するけどね。
伝承で周瑜と小喬夫妻は頻繁に取り上げられ、姉夫妻はあんま見かけないのか?とか、
関羽の顔は何故赤いのか?とか。
そんなものがあっても考察には必要ないといってるんだよ。
いきなり正史厨などと言い始める
>>659がいちばん視野が狭そう
三戦板の考察って結局は好きか嫌いかの論争にすぎないからな
あんまり深く考えるな
自分が好き嫌いで判断してたら他人もそうだと思うものですよね。
演義の史料としての価値については定番ネタで定期的に繰り返されるんだよな
大概は演義のネタとなった史料ならそれは価値があるが、
演義自体を引っ張り出す必要はなく、その史料で語ればいい、って感じで
決着してるんじゃなかったっけ
Q(急に)
G(呉が)
K(来たから)
の頃みたいなマターリスレに戻ろうぜ。
関羽が普通に病死とかだったら三国志なんてつまらないぜ
そうなると夷陵の戦いも起こらなくて劉備も普通に病死
歴史物語ってのは主要人物の戦死が大きな見せ場となるんだから
三国志演義なんて物も出来なかったろうな
日本語でおk
671のように関羽と劉備が病死したとしても、
残った諸葛亮の過労死だけは変わらなさそうだw
演義は正史に無い部分の付属部分は各種伝承や正史成立後の資料補填されていて
そこは見所参考にしようがあると俺は思っている。
ただ正史で既に主要事項で書かれていて演義でありえなく捻じ曲げられてる箇所は
単に(蜀に都合のいい)捏造であると思ってるから取り上げる価値が無い。
675 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 14:47:40
>>674 いやだから歴史小説と歴史資料をごっちゃにしたらダメだって。
>655
勘違いしてるのはお前だw
俺が書いたレスが512、522、527だと言ってる。
誰がこれに対してのレスだといったw
507とは別人だから一緒にしないでくれ。
それにこのスレで検証してるのは正史じゃなくて
「関羽がなぜ荊州を守れなかったのか?」だ。
演戯に真実が含まれてる可能性がある以上、
正史のみが正しいという話をするなと言ってるだけだろ。
何度同じこと言わせんだ?
677 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 15:47:36
>>676は凄い奴だな。
真実ときたか…、史実こえて真実とは恐れ入るな。
きっと君なら演義の中でどの記述が正史などの史書以外の真実か…
お見通しなのだろう。
民間伝承も平話や演義成立後に出来た与太話から、
成立以前の口伝などの区別も付いてるんだろうな。
きっと
>>676は演義に対して史料として厳正な史料批判を行い、
尚かつ史料としての価値があると判断したんだろう。
>>676 >>578は前部554と565に対するレスなのに何が「>578は俺へのレスと507がまざっちゃってるぞ」なんだ?
アンタが507=554=565じゃないなら、まるで混ざってないし、
>>578はアンタ(507)へはレス付けてないことになる。
↓
653 名前: 名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中 [sage] 投稿日: 2007/01/27(土) 09:15:09
>635
>512>522>527は俺のレス。
>578は俺へのレスと507がまざっちゃってるぞ。
↑
これは何を言いたいんだ?
なにが「勘違いしてるのはお前だw 俺が書いたレスが512、522、527だと言ってる。」なんだ?
お前が512、522、527しか書いてないって言ってるからこそ、
俺は(578は)全部565、554に対してに集約されてんじゃねーか。どこが混ざってんだ?って聞いてるのに。
何にせよ自分の正当性を主張するスレではないので。
681 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 16:24:24
もうね、何がなんだかよく分かんない
だからageちゃう
「史実は事実か?」と507の人は言っている。
だがこのスレは「史実が史家の捏造であろうと事実である」とする人々が議論しているので場違いだと言える。
彼が持論を語るに相応しい場所は歴史学の教授様のお部屋。
そうするべきだ、とオススメしておく。
683 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 16:53:53
史実は事実とは違う
歴史学っていうのは史料批判等によって史実をより真実に近付けていく作業
于禁最高だな
し‐じつ【史実】
歴史上の事実。「―に忠実な小説」
[ 大辞泉 提供:JapanKnowledge ]
しじつ10 【史実】
歴史上の事実。
[ 大辞林 提供:三省堂 ]
歴史学云々以前に日本語の勉強してくれ。
これだからゆとり世代は・・・
683とは違うが、なんで「歴史上の事実」=「事実」になるんだ?
取りあえず正史を否定したら一切の議論が成り立たなくなるから。
正史否定派はもうぶっとんだ演義以上のif三国志作って悦に浸ってればいいんでないの?
ここは正史記述をベースとしてなぜ関羽が荊州守れなかったか論議する場だ。
別に演義とか民間伝承の是非を話す場ではないっつー
正確には「史実」=「歴史上の事実」=「事実」ではなく
「史実」=「歴史上の事実」∈「事実」
事実にあらざる史実なんてものは存在しない
>>687 いやいや、正史を取らずその他史書の記述を取ることは頻繁にあるでしょ?
ただそれと演義になんの関係もないわけで…
聞き慣れた言葉に対して一々辞書を持ち出すアホは消えていいよ。
権威に頼らなければ会話出来ない無能力者であることを自覚しろ。
まあ他史書とはいえ、ほとんどは正史の注釈部分のどの説をとるかだけどな。
>>690 煽り一辺倒のおまいが真っ先に消えればいいんじゃない?
693 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 18:30:45
最近は三国時代に関する出土資料が発見されて研究が進んでいるらしいから正史に書かれていない事実が分かるかもね
iloveme
>>693 それなら演義もソースにならないよね僕ちゃん
696 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 18:39:02
タイムマシンが出来るまでこのスレ保守ペースでいこう
697 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 18:41:00
>>697 正史も演義も否定するお前は何のためにこの板にいるわけ?
全否定してただ荒らしたいだけだろ間違いなく。
言い方悪くなるけど、タチの悪い演義厨って、
・演義の事象や人物像しか認めないもしくは否定されたくない
・正史に対する生理的な嫌悪感
・別に抱かなくてもいいのに正史に触れてない事への劣等感
なんかこういった事で正史を攻撃してないか?
まともに正史を考察してる連中は疑わしい記事には疑問符を差し挟む事が
必要だってのもわかってるし、完全無欠だなんて思ってもいないのに
ぶっちゃけ8割が一番上の理由だと思われ。
故にこの論議だと関羽以外が無能だったとか悪いんだとかそう言う論点にしか出来ない。
何しにここに来てルンって思うわけだ、多分関羽馬鹿にする奴荒らしてやると思ってるんだろうが。
>>700 正史でも関羽は超一流の男なんだが…
ただ演義に比べて人格面が大分偏狭っぽい感じはある
タチの悪い演義厨
・実は演義でなくその他の演義を元にした小説・漫画・ゲームしかしらない。
問、以下より正史にも記述のあるものを選びなさい
・桃園の誓い
・華雄を斬った
・顔良を斬った
・文醜を斬った
・関所で六将を斬った
・赤壁後華容で曹操を見逃し恩を返した美談
・荊南平定時に黄忠と一騎打ちを演じた
・囲碁を打ちながら華佗に腕の治療をしてもらった
・まだ男子がいなかった為に関平を養子に貰った
まあ△が二つあるかな・・・
704 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 19:58:14
>>703 下2つか?それ以外がもし正史に書かれていたとしたら、俺は正史と演義を
同列に見る。
ところで、甲陽軍艦と正史三国志、どっちがより信憑性があると考える?
705 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 20:02:27
ケイシュウの防衛には北上が必要だったのかな。
上庸からさらに北上した理由はなんだ?
・華雄を斬った
・顔良を斬った
・文醜を斬った
この三つが正史に記述がある。
ただし
・孫堅が華雄と交戦して撃破し、これを斬った。
・荀攸の策で曹操が文醜を破って、これを斬った。
で関羽が斬ったのは顔良だけ
腕の治療は、華佗でない医者で、尚かつ囲碁ではなく宴会をしていた。
707 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 20:39:03
おいおい、華雄や顔良を斬ったなんて、明らかにドラマの世界じゃないか。
関羽軍が華雄軍を破り、敵の大将を捕らえて首を刎ねたというならまだ信憑性はあるが・・・
正史も所詮、フィクションの世界なのか?
華佗は遅く見積もっても208年以前に死んでるので、関羽を治療したのは別の人。
ちなみに斬ったってのは一騎打ちで倒したって意味だけじゃないぞ。
しかしながら古代は将の個人的勇猛さが軍の指揮能力に直結していたので、
前線指揮官は常に最前線で先頭に立って戦う必要があった。
ゆえに実際に斬った可能性もけっこう高い。
>>707 明確に武将個人が敵将を斬ったとされるのは、
上記三つでは関羽が顔良を斬った奴のみだよ
>>707 演義厨もどうかと思うが、正史だろうと読んでそのまま事実と信じるのはどんな本でも危険だ、と昔の偉い人も言ってたぞ。
一応自分にできる範囲で検証してみて、「こう考えるのが一番妥当かな」って程度に思っておくのが吉。
スレタイ自体が間違ってるなぁ。
関羽は荊州を死守するためだけにいた訳じゃない。
荊州北部を支配下にする軍令に従い、結果的に荊州を失い斬首されただけ。
戦略案を考えた人物の読みが甘かったため、荊州を守りきれなかった。
呉と荊州領有を巡って揉めたことを忘れてる。
関羽は前線指揮官としての任を見事に果たしていた。
スレタイは 蜀はなぜ荊州を守りきれなかったのか に変更すべきだ。
演義は主に平話と正史を参考にして、書き上げられたのだろう。
正史=歴史書(すでにいろいろと注釈が入っていた)
平話=紙芝居(庶民の娯楽として人気があった、結構大雑把、張飛大暴れw)
演義=講談(庶民の娯楽から文学的に高い物になった、関羽大人気になり神となる)
例えるならこんな感じかな。
712 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 21:24:46
荊州留守部隊が間抜けだったのがアレだけど
関羽が把握してなかったのも、ちっとな
いや、ここ数日暴れてるのが明らかに天然だから。
>前線指揮官は常に最前線で先頭に立って戦う必要があった
おいおい…
実際の三国時代の戦争ってそういうタイプの指揮官も多かったかもね
717 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 22:14:02
>>711 それはお前の個人的見解だろが。
スレタイに間違いもなにも無いよ。
718 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 22:41:25
719 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 23:09:05
またしてもこの手の流れ・・・
正史VS演義はこの板の華と見ていいのかw
三戦板にまともに議論出来る奴なんて一人もいないよ
>>711 関羽の人気と神として祀られるようになったのは演義成立以前からだったような。
関羽の失策
士仁、糜芳、潘濬、荊州の士人たちとの不和。
呉との同盟を軽視。
呂蒙の仮病に騙される。
陸遜を軽視。
孟達の援軍を断る。
食糧不足になり、さらには呉の食料を奪う。
徐晃の足止めしようとするが看破され命乞いをする。
>士仁、糜芳、潘濬、荊州の士人たちとの不和。
不和なのは前の二人だけ だろ
しかもそいつら別に荊州の士人じゃねぇ
>呉との同盟を軽視。
これは関羽じゃなくて劉備
>呂蒙の仮病に騙される。
>陸遜を軽視。
軽視も何も情報不足だったんだからしょうがない
情報戦は関羽の仕事じゃないよ
つーか呂蒙は仮病じゃなくて本当に病気だぞ
>孟達の援軍を断る。
孟達「が」断ったんだろ
事象を逆にすんなや
>食糧不足になり、さらには呉の食料を奪う。
これは本当に奪ったのか色々反論があったりするな
>徐晃の足止めしようとするが看破され命乞いをする。
命乞いじゃないだろ
>しかもそいつら別に荊州の士人じゃねぇ
士仁、糜芳が荊州の士人とは言ってないが
>これは関羽じゃなくて劉備
荊州の責任者として問題なしとでも思ってるの?
>孟達「が」断ったんだろ
そのまえに孟達が援軍を送ろうとしてるんだが
>命乞いじゃないだろ
関羽伝に泣きを入れてるが
>>725 一つ目は誤読だな
二つ目は蜀の政治体制を無視した暴言
三つ目はタイミングの問題だろ
四つ目は泣き=命乞いか?そんなわけないだろ
劉備に確認せず婚姻を拒否してるんだから、劉備と別勢力扱いされても文句は言えないな
あとたぶん725が言っているのは呉に包囲された時だろうな、降伏しようとした
>二つ目は蜀の政治体制を無視した暴言
当時の名士とかの付き合いとか知らないのか?
>三つ目はタイミングの問題だろ
孟達が動けないタイミングでで援軍を求めてるな
>四つ目は泣き=命乞いか?そんなわけないだろ
驚き恐れて戦いを避けようとしてるからな
当時の蜀は完全トップダウンな体制
劉備に話を通さずに縁談を持ち込む時点で関羽が跳ね除けて当然
と言うか跳ね除けなければ関羽と劉備の間に色々不具合が出るよ
劉備は聖人君子でも何でもなくて感情の赴くままに不快だと感じたらすぐ行動する男
孫権との婚姻関係でしか反論してる人がいるが
当時の名士、豪族、トップ層の外交や親交を知らんのか?
731 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 16:05:02
>>730 知ってるけど関羽てそういう名士、豪族、トップ層とかじゃないし
関羽って荊州のトップ層じゃないのか?
正史スレで呂蒙の仮病云々言ってるアホだしまともにレスしても仕方ない
勉強してないとかじゃなく根本的に頭が悪い
>>734 荊州方面軍司令官だとしてもトップ層というものとはまた違う
関羽は軍人でトップの人間というところからはまだ一段下にいるわけ
度々
>>729みたいな意見がでるがどうも納得いかん
婚姻が呉による切り崩しだとわかっていて跳ね除けたなら、あのタイミングでの北上はあり得ない
劉備に話を通さない非礼を怒るにしても、大規模出兵という重要事項に関しては連絡不足
>>737 お前いい加減にしろよ
孫権が婚姻持ち掛けたのは北上のずっと前だ
大規模出兵と言う重要事項に関しては仮節授けた時点で当然連絡済み
と言うか節授ける事がどう見ても攻め込めって合図だわ
ずっと前も何も普通切り崩しと思うだろ
>>735 病を理由に建業に帰ってるけど、速攻で戻ってきてるし騙されてるは事実じゃね。
切り崩しでなくて信用無いから人質よこせって露骨なものだろ。
>>740 その直後に病死してるわけで
自分の病気をも利用して最後の策を成功させた呂蒙の作戦勝ち
745 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 18:03:08
おれに2万の軍勢と副将に天津飯とヤムチャがいたら
荊州守り通したんだけどな〜。
しかし、もし自分が糜芳だったら多分寝返っただろうなと思ってしまう。
・5年以上頭ごなしに命令・罵倒・蔑視してくる分社最高責任者
・あのワンマン野郎が海外に取引に行ったぜ羽伸ばすぜヒャッホー
・あ?落札に手間取ってるからもっと送金しろ?てめーのケツくらいてめーで拭きやがれ
・やべwwwアイツかなり怒っていやがるwちょwww帰ったらリストラされるwwwwwww
・ん・・・待てよ?何で俺分社トップに首切られなければならないんだ?任命したの本社だし
・取りあえず部長の士仁に相談すっか、何だお前も同意見か
・ライバル呉社から引き抜き要請だと?実質は併合か・・・さてどうしたもんだ
・しかし任命権は別にしろ社長の弟に泥を塗ったんだ、どの道解雇は免れまい・・・
・よーし呉社の傘下に入るぜ!あばよワンマン野郎wwwww
悲しいけどこれが一般人なのよね。
糜芳士仁が紀信周苛の輩ならもう少し面白い話だったろう。
748 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 18:35:42
>>746 しかし将来引き抜き先の呉社が蜀社と業務提携。
その条件として、リストラの運命。
>>748 そう言えるのは学生のうちまでさ・・・
今月でリストラと数年後にリストラ(されるかも)なら後者を選んでしまうものだよ。
一日でも長く働けるよう岩にでも何にでもしがみつかなければやってらない。
750 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 18:49:06
もしかしたら呂布のほうが武力だけでなく
才能や魅力も上だったかもね。
まあ同盟復帰でリストラされたとかどこにも無いし現実世界でも無い話だが。
>>750 こいつ担げば何とかなると思わせる魅力はあったんじゃないかと。
あと関羽よりちょっとだけ人のいう事を聞く才能もあったか、もうちょいあればよかったんだろうが。
さすがにそれはないw
753 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 18:56:50
でも呂布は養父を裏切ったのに、
主だった部下はついてきたし、
以降トップとして部下を率いて、
何度もピンチ切り抜けて、結構頑張ったといえなくもないと思うんだが。
曹操が上手だった、相手が曹操で運が悪かったと考えられなくもない。
関羽にここまでの気概があるだろうか。
もう少し陳宮を信用して陳珪親子をさっさとぶっ殺しておければなあ・・・とは。
王甫に全く耳を貸さなかった関羽よりはましだろ
ビホウを斬ったら劉備からも見放されるな。関羽。
呂布が人の言うこと聞かない?あの状況でどうやって陳宮信じられるんだよw
それこそ、配下の言うこと良く聞く奴でも無理だな。
何せ反乱起こしたんだぜ?未遂だけど。
757 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 19:14:15
あくまで伝わってる書物から、勝手にイメージするしかないわけだけど、
関羽は一国(一州)のトップの器じゃないよね。結果的に守り切れなかったから
言う訳じゃないし、曹操にも相当恐れられていたみたいだけど、
凄いのは、戦場(最前線)での総大将までって感じだ。
劉備救援軍総大将にもってこいだったと思うが。
>>746 麋芳は一般入社じゃなくて縁故採用だってことを忘れてるぞw
実の兄貴は本社の共同出資者にして重役。妹は社長の奥さん。
実績はあまりないけどコネでなんとか支社の幹部にしてもらったのに、
支社長である社長の弟が出張中に支社をそっくりライバル企業に売り渡した。
くらいのことをやってる。
>>746 俺だったら
分社の社長に俺をリストラする権限なんて無いから、これまで通りに蜀社の支社長を続ける。
呉社に行ったって地位は格段に低くなるし。
761 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 20:32:50
劉備はなぜビホウを兄の手前の官位にしなかったんだろう?
コネじゃなくて共同出資者ね。
麋竺単独で麋家のこと決められるわけはない。
もう少し勉強しましょう。
麋芳びびりすぎだよな
失火を咎められて逆恨みするような奴と一緒に仕事したくないなあ。
仮節あるからおkってあるけど、使持節なくていいの?
関羽の人望なんて捕まる時。兵卒が関羽を捨てて全員投降するぐらいだろ。
>>764 問題は失火の原因が麋芳のせいなのか、起きた事を八つ当たりされたのと二通りとれる。
家族のいる城が敵の手の内にあるうえに逃げ帰ってもお咎めなし。
抵抗すれば家族が罪に問われるかもしれない。
これで逃げない兵士なんていないよ。
豊臣恩顧の大名はみんな豊臣を見捨てたけど、豊臣を嫌いになったり恩を忘れたわけじゃない。
家族を守るためには仕方ないんだよ。
>>767 明らかに前者としかとれないよ
後者はさすがに曲解すぎ
では、麋芳はもとは商人。
当時は祭祀などもあり討ち死には美化は特にされてなく
勝てない戦になぜこんなに批判があるの。
籠城してればいくらでも援軍がくるのに私怨で降伏したんだから責められて当然
772 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 20:59:57
失火事件の原因の真実なんて誰もわからないし
KOEIとか横山で雑魚キャラに祭り上げられてしまった、ビホウが
不憫でならん。
まあ部隊長として責任取らされたんだろうが。
関平とリョウカだったら、同じ扱いしただろうか。
篭城するにも兵がなく、士仁もすでに降伏。
援軍なんか来るはずもなく麋芳カワイソス(´・ω・)
仮に失火が麋芳の責任でないとして
それなのに咎められて、反論するわけでもなくただビクビクしてたのなら
まさに雑魚キャラだと思ふ
援軍が来ないわけないだろw
でもここで麋芳叩きしてる人もその立場なら降伏しただろう?
幾ら篭城すれば〜と言え散々罵倒され続けた上司のために命をかけられるのかと。
武官よりとは言え元が他州の豪商の出の人間にそんな忠誠求める方が間違い。
ま、そのレベルの忠誠しか期待出来ない人間を要所の太守にした劉備がどうかしてるわ。
どこから援軍が来るのか?
食料も兵もない城で何日篭城するのか。
778 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 21:11:23
>>776 そうなんだけど麋芳は他の武将とは違って
劉備の義弟(妻の兄弟)だったわけだし。
当時の中国は血族のつながりが強く
裏切る事が稀だったのだから、劉備が麋芳を要地に置いたのが
間違いだったとは言い切れない。
前線の関羽が江陵包囲(降伏)された時点でそれを知らない。
益州も義弟の関羽に(上庸以外で)全く援護すらしてない。
更に関羽に疎まれていて帰ったら殺される可能性が濃厚、例え耐え切っても一緒。
この状態で包囲されて蜀あるいは関羽の帰還まで頑張ろうと言う人間が果たしてどれだけ居るか。
780 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 21:12:41
しかも長年仕えた劉備を裏切る事に悩んでたみたいだしね。
史実でもきっと悩みぬいた挙句だろう。
もしかれが蜀に送り返された後、許してやってれば、
五虎将軍よりも活躍していたに違いない。
>>778 それを思えば関羽も義兄の義弟にあれだけ蔑視する要求拒否されるのは何だかなあ。
関羽に麋芳は義弟だとかそう言う一辺の親愛とか信頼があれば違う結果になったろうにねえ。
>>776 別に上司のためじゃないよ
社長の劉備や兄のために籠城するよ
上司が嫌いでその腹いせに開城とかありえない
783 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 21:16:17
Uでは忠誠度100でも裏切るビホウが不憫でならん
南郡太守で劉備の義弟でもある麋芳を関羽が勝手に殺せると思ってる奴がいるみたいだけど、
完全な間違いだから。
最初は篭城しようとしたが、士仁の姿を見て無理だと思ったんだろ。
腹いせなら最初から降伏してる。
麋芳の立場なら関羽にビクビクする必要なんて全くない。
要するに麋芳が小心者すぎたということだ。
787 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 21:24:47
魏延様が荊州の太守だったら呉も恐れ慄いて
荊州に手出し出来なかったのにね。
呉録によると麋芳は以前から呉と内通していて
呂蒙軍が来ると酒と肉を用意して城門を開けて迎えたらしい
夷陵の戦いをみてると太守だからとか通じそうに無いけどな
790 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 21:35:38
>>788 麋芳は劉備の人柄の良さに甘えてた部分もあるかもしれませんね。
麋芳の兄を初めとして蜀に彼の血族が何人も残ってるのに
彼等の死を恐れず呉に降参するなんて、ちょっと異常だと思います。
もし曹操もしくはトウタクが主君だったりしたら麋芳の親類縁者は
全て根絶やしにされる事になるので麋芳も親類縁者根絶やしよりは
自分が勇敢に戦って自分だけが死のうと思ったかも。
ある将(孟達だっけ?)は魏に下った後、魏の人々から「貴方の親族は全て劉備に殺されましたよ」と
言われても、「絶対に劉備様が、そんな事をするはずがない!」と反論し
その事については、いささかも疑った事はなかったとか。
実際、劉備は魏に下った武将の家族をその後も大切に保護してたとか。
791 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 21:43:35
>> 790
それ黄権の件だな。
一番の責任は南郡に守れるほど兵力を置かなかった関羽だな。
いくら兵力があっても麋芳に守る気がさらさら無いからな
守れる兵は置いてた
防備もしっかりしてた
だが、捕虜を取ったことによってそれらの目算が全て崩れた
しかし捕虜を認めないわけにもいかない
于禁の降伏は恐ろしく地味だが強烈な一撃となって関羽を追い詰めてる
795 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 21:51:48
一番の痛手は宝刀が樂砲派で戦士した事だな。
宝刀が健在なら諸葛亮は慶州を動かず関張趙で慶州は磐石じゃった。
それは分からんよ。
第一、麋芳が最初から裏切るつもりなら士仁の所に行かず
重要拠点の南郡を最初に取るはず。
士仁も一人で公安に篭城していたが虞翻に説得されて泣く泣く投降してる。
麋芳は逃げ道を無くされた状態で降伏してる。
城門前に現われた士仁に矢を射かけ、麋芳は徹底抗戦を叫んだ。
体に無数の矢傷を作りながらも敵の猛攻に必死で耐え続けた。
麋芳の執念で城は持ちこたえ、関羽さらには劉備率いる本軍も河を下ってくるとの報を受けた呂蒙はついに撤退。
たが、その時麋芳は矢傷がもとで既にこの世の人ではなかった。
城に戻った関羽は麋芳を見直し、後悔の号泣。
後に著された正史蜀書において、麋芳伝は蜀臣の筆頭に記述された。
>>762 麋竺が創業以来の古参で、位の上では蜀No.2級の大幹部であるのに対して、
弟の麋芳は南郡太守になるまで正史に名前すら出てこないのだから、
基本的に兄のオマケで、外戚であるという信頼だけで成り立ってる人事だろ。
それをコネと呼ばずして何と呼ぶのだ?
好意的に考えれば麋竺とは年齢がかなり違ってたのかもしれんな。
徐州時代に劉備と麋竺が知り合ってから25年以上経過してるんだから、
いくらなんでも外戚にしては出世遅すぎ。
799 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 22:11:12
>>797 そうそう、おれがいいたいのはそこなんだよ!
歴史の真実がついに解き明かされた!
800 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 22:14:58
正史に伝すらない重要人物なんかたくさんいるんだが。
あと、いくら劉備とはいえ外戚だけでいきなり荊州の2なんかできない。
麋芳の最大の失敗は、将来神様になる人を敵にまわしちゃったことだろうな。
おかげで世間から言われたい放題。
関帝廟では秦カイなみ待遇まで受ける始末。
麋芳も潘濬なみの才能があれば呉に降っても別かもしれんが。
804 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 22:29:02
人を統率するのは苦手で、一軍を率いたことが無い、と明記されてる麋竺。
仮に兄のコネにしろ、前線の太守に任ぜられた麋芳。
少なくとも、兄よりは現場向きの実力はあったと認められてるわけだろう。
あとちょくちょくきになるのが、麋竺は商人じゃなくて豪族だから。
>>767 義兄の劉備なんかなんども本拠地を失ってるのに兵士全員逃げ出してないぞ。
三国志で関羽以外いるか?兵士全員に逃げられたの。
807 :
806:2007/01/29(月) 23:01:29
商売もしてる豪族、だわな
だから関羽なんて山本キッド並みの神のなんたらに過ぎないんだよ
劉備は真っ先に逃げ出すから
811 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 23:10:07
劉備は人生において何度か大きな人事配置の間違いを犯してるよね
徐州の城主に張飛を置いてしまったのと
荊州に関羽、南郡に麋芳、士仁を置いてしまった事。
普段は冷静で素晴らしい鑑識眼と人事配置をするが
義兄弟や一族に対しては甘い判断をくだしがちな欠点がある。
812 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 23:10:20
関羽が荊州を守れなかったのは・・・
それは関羽の能力に関係無く時の流れ、時代の変化と言う事だな。
黒田如水の関ヶ原後の言葉が良く思い出されるよ。
>>関羽の能力に関係無く時の流れ
暴論でしかないな。
814 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 23:14:11
>>813 暴論ならそれでもかまわんがちゃんと論破してくれ。
話はそれからだ。
守れなかったことに関しては対呉同盟決裂が全て
人事がどうとか大勢に影響ない
関羽の能力と人格の問題だろ100%で。
無能だったと言うわけでなくそれなりに有能ではあったが、それが限界だったと言うだけで。
議論もなにも呉が形だけにしろ魏に降伏している状況で
判断を誤りまっくてるからな。
>>812 関羽を戦国最高の軍師如水と一緒にするとは、
あまりにも如水に失礼ではないか。
劉備の判断ミスが原因だろ
関羽は既定路線を動いてたに過ぎない
>>819 関羽が兵の将だったらたしかに劉備のせいだが
将の将の立場で状況判断ができてないからねえ。
821 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 23:29:34
劉備が関羽の能力を過信しすぎてた事は間違いない。
どんな状況に陥っても関羽ならやってくれるとか、関羽なら無様な負け方はしないと
根拠のない自信や願望を持ってたんだろうね。
>>817 それを言ったら魏に臣従するような相手に荊州割譲したのは大誤算だろ
荊州割譲?
普通に攻め取ってるが、それに荊州戦は215年、降伏は217年。
タイミングは魏だけを見ると悪くないとしても徐晃にやられてしまうし
結局戦略的に無理があったことは間違いないだろう
825 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 23:45:26
>>812 おまいはアフォか?
どこに関羽と如水を一緒にしてるくだりがある?
それすら分からない奴はココにくんな。
関羽は自他共に認める当代では並ぶ事の無い
国士無双の完璧武将であったが故にそこから持ち前の傲慢な性格が災いし
隙が生まれ、そこに付け込まれ敗北したんだと思う。
敗走が重ねていた時期ならば、軍師の言いつけもよく守り惰弱な軍を守り抜くため
規律の保持に邁進していたが、漢中攻防戦における曹操軍を正面から打ち破った勝ち戦が
皮肉にも敵を侮る油断を生んだのかもしれない。
呉に対しても劣悪なまでの外交下手を発揮し、確実に挟撃態勢を作る怨恨を生んでしまったのも
失態だったように見えるよ。
そもそも劉備の無理が関羽のとこに回ってきたというイメージだな。
孫権を騙して入蜀したのも、江陵を返せないのも最終的には天下を狙ってる以上しょうがないんだが、
その後にもうちょっと「攻めさせない工夫」が欲しかったな。
まず孫家の妹は意地でも引き止める。蜀からも常に一人くらい外交官を送っておく。
江陵を除く南部の半分くらいなら戦火を交える前に交渉で譲歩も視野に入れる。
「いざとなれば実力行使もあり」の前例を作らない。
劉備に「自分を信用させよう」という意思が感じられない。孫権だって外堀埋められたら個人の思惑だけじゃ動けない。
信じさせるのも永久にじゃなくていい。あと1年2年判断を延ばさせられればよかったのに。
828 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/30(火) 00:29:06
関羽は将の将になれる器じゃなかったって事だ
関羽は小さい勢力にいたから大役を仰せつかる事も無く歳を重ねたんだよ
829 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/30(火) 01:35:14
>>828 つまる所そうですよね。
関羽は500人ほどの兵士の将としては最強だが
10万の兵を手足のように扱える能力は無かったんだろうね。
そう考えると、大部隊の指揮なんかとった事がない韓信が劉邦に
「貴方は10万の兵の将、私は∞の兵の将」と言い切ったのは凄い事だよね。
最後の項羽討伐戦では雲霞の如くの大兵を的確に駆使して
完璧な戦をしたしね。関羽は、そこまでの神レベルの人じゃなかった。
830 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/30(火) 03:41:35
今さら死んだ人のことなんてどうでもいいよ。
>>829 劉邦の援軍で韓信は項羽に勝っただけだぞ。
比較に出すのは良いがその韓信を知らないんじゃ語るに落ちてる。
>>831 韓信の援軍が来たから、劉邦は項羽に勝てたんじゃなかった?
最初韓信達来なくて負けてるし。
あまり韓信しらないのに、他人にはけちをつけるのはどうだろうか?
最後の対項羽戦は、
疲弊しきった圧倒的小勢の項羽を劉邦が大軍で攻めたが苦戦し、
そこに大軍引き連れてきた韓信が到着し項羽は敗北した。
韓信が雲霞の如く大兵を的確に駆使し完璧な戦をしたのではなく、
劉邦が勝つべくして勝った戦い。
この戦を持って韓信が神レベルなどと言うのは横光漫画しか読んでないんじゃないのか。
追撃をかけた劉邦が固陵で返り討ちに遭い、その後に到着した韓信の軍勢が
前衛として再戦するとこれも返り討ちにされかける
そこで中軍以下劉邦の本隊を投入して項羽が敗退
おおまかにこんな流れ
麋芳がどれくらい籠城していたら、益州からの援軍が駆けつけたのだろうか?
おそらく間に合わないと思うのだが。
劉備が漢中をとったら荊州で譲歩があると、呉では思っていただろう。
だが劉備と呉の間では何の交渉もなく、関羽は北上を始めた。
呉では劉備が信用できなくなっていっただろう。
その辺の呉との疎通を疎かにした、劉備と諸葛亮のミスではないか。
836 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/30(火) 12:49:07
韓信に関して言えば、司馬遼太郎の「項羽と劉邦」と
横山光輝の「項羽と劉邦」と横山光輝の「史記」では
終わり方が違うからな(前二者はかなり似通ってるけど)。
題材の史記、項羽ホンギ、高祖ホンギで
四面楚歌までの経緯が異なってるようだから仕方がないが。
横山史記では、項羽は一旦無事に楚に帰り着いてる。
そこから劉邦が討伐戦をするに当たって韓信に総大将を命じ
項羽をおびき出すための謀略に力を尽くす様子が描かれている。
大体、江陵が陥ちたという報を受けても半信半疑でなかなか戻ろうとせず、徐晃に打ち破られて初めて撤退してるぐらいなのに……
やっぱ「三国」なんだな
関羽にもう少し外交センスがあれば微妙なバランスを見据えて動いただろう
裏で敵が増えているのも性格が災いしたワケだが狭量さがかいま見えるな
それでも「英傑」には違いない
関羽の広げた版図が蜀の限界だったのだろうね
この時期はまだ劉備本軍は漢中に居なかったけ?
援軍程度なら来たとしても夷陵を抑えられて救出にいけんだろ。
あの外交関連の失敗は関羽のセンスだけじゃなく、呉側の外交・戦略センスもまた同様に欠落してた結果だと思うね。
関羽の呉への態度が無礼だという話をよく聞くが、呉も劉備に話を通さない関羽への縁談の持ちかけ、
おまけに劉備は孫権の妹と離縁してるのにも関わらずの縁談という無遠慮極まりない事をしてる。
まあそもそもの荊州譲渡問題自体が、劉備が自力で切り取った四郡を江陵貸出しの代償としてよこせっていう無茶苦茶な話だし、
当初の劉備勢力の弱さを考えればこういう話も通ったであろうが蜀を手に入れて呉と対等以上の力を得た
劉備にこういう論理が通る訳が無いのは当たり前で、荊州分割自体が既に上々の結果といえるのにも関わらず
関羽北上時の荊州奪取は魏を利して蜀を敵に回したのは小国としてはあまりに無謀な選択であり(呂蒙はさらに魏と争う気だったようだけど)
戦略的に見れば魏の圧倒的優位を確立させてしまった結果を生んだ。
故に時期の荊州侵攻は当事者である関羽からすればまさに慮外だったと思うね、普通に考えれば蜀と呉が争う事の無意味さを理解できるだろうから。
また荊州侵攻は呂蒙の関羽への異常な敵意(対抗心?)の作用も大きく、魯粛という呉蜀同盟の主導者と長らく付き合ってきた関羽にすれば
ありえない侵攻だと判断してもおかしくはなく、外交センスで解決できる問題でもないと思うな。
なれるはずの無い孫権が皇帝になった
三国で最後まで残った
この二点だけであの時期の孫呉体制、孫権がそうとうきれてるのが証明されている
ありえない侵攻なのに見張り台立てて警戒心ビリビリの件について。
無いと思えば最初から予備兵ほぼ残さず全力で北上して、流石に五ヶ月も経たずに
城の一つや二つ抜いていたと思うんだが。
序でに裏返せば蜀は何としても呉には味方で居てもらわなくては困るのに
多少の譲歩を拒んで結局敵に回られるんだからそれも蜀全体の判断ミスだと思われ。
843 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/30(火) 18:54:50
>>838 関羽の広げた版図が蜀の限界だったのだろうね
そういえばそうですね。
いろんな意味で、関羽はロンメル将軍に似ていると思います。
戦術において天才だが、戦略の素養がない。
そして戦機を捉えるのは上手いが、補給に関して無頓着。
何れも与えられた兵力で最大な結果を出した。
そして個人のもっとも輝かしい時期も自国の黄金期とダブる
戦術において天才だが、戦略の素養がない。
そして戦機を捉えるのは上手いが、補給に関して無頓着。
中国に例えるなら項羽だね。
項羽の無慈悲さ、不義という部分を除けば
確かに関羽は項羽とダブる部分があるかも。
>>842 三郡じゃ多少にもならんって言うのか?
しかもその「多少」のために大局において魏を助けるなんて常人には理解不能な理屈だ
いつ関羽が版図を広げたんだろうね。
>>845 あれは呂蒙が奪ったものですよ。
むしろ奪った三郡から一群返したわけですが
その理屈ならそもそも荊州は劉備が自分で切り取った領地なんだが
関羽って荊州の軍司令官の立場でありながら
なにもせずに呂蒙に三郡奪われているからな。
劉備が援軍に来て初めて動いたが甘寧にびびって逃げてるが。
>>840 むしろ関羽に対する策を持たないのに、
孫権に意地をはっていた魯粛の方が司令官として異常で、尚かつ無謀で、
ついでに言えば魏に対する方策もただ蜀との同盟のみだった。
呉自身が如何様にして魏に対するか提示していない他力本願、それが魯粛の同盟策。
その結果、呉は呂蒙が南郡を奪うまで閉塞状態に陥っていた。
呂蒙は関羽に対する警戒と策を満ち併せていただけだし、むしろ当然のこと、
それを敵意や対抗心なんて捉えるとはね…
>>849 関羽は魯粛の侵攻から南郡を守っている。
当時の関羽の権限は限定されており、三郡の守備はそれぞれの太守の責任。
劉備の命令があって初めて攻めに転じることができる。
>>848 違うね。
ホウ統伝や周瑜伝に、
周瑜の江陵攻めも劉備の南部四郡攻略も協力して行っていたことが書かれている。
>>848 蜀側の記述であるホウ統伝を抜粋するよ。
呉將周瑜助先主取荊州。
て、あるのよ。
周瑜伝の方は、貴方自身で確認してね。
三郡戦はどっちにも利がある引き分け。
蜀は借りているという立場だったのが正式に自国の領土となり、
呉は実効支配されてた二郡を取ることが出来た。
>>845 まず周瑜の江陵攻めに劉備が参加してるように呉から劉備軍への協力(兵の貸し出し)もされてるし、
そもそも北で曹操軍と対陣してるから南部を取れるわけで、元々共同作業。
そうじゃなく、「あくまで南部は占拠した劉備のものだ」とするなら江陵は完全に呉のもの。
蜀は南部四郡に閉じこもり、呉はいつまでも江陵に居座っていて良かった。
当時の認識としてそうだったとは思えないけどね。もしそうなら京城の会見なんか要らない。
どういう意図かは別に、その後呉は江陵から退き、「一緒に蜀を攻め取ろう」と持ちかけたが劉備は
「私に劉璋どのは攻められない」と言って拒否、直後に自分で攻めるという裏切りをかます。
怒って縁戚関係を解いたのがこの時期。
その後劉備に貸し出した土地の返還(これが江陵のことなのか、荊州全体を借りたことになってるのかは不明)を求め、
劉備は婉曲に拒否したため実力行使で南部四郡の内3つを奪取、その後劉備が曹操に攻められたため、
重要拠点江陵は返さず、奪われた3つの内の2つで停戦。
これじゃ「多少」以前に譲歩ですらないでしょ。戦火を交える以前に外交交渉で手打ちにしたとかならともかく。
ちなみに俺は
>>842とは別人で、意見としては
>>827。
荊州における劉備と孫権の言い分はどちらが実際に尽力したか?ではなくどういう取り決めがなされたか?が重要。
>どういう意図かは別に、その後呉は江陵から退き、「一緒に蜀を攻め取ろう」と持ちかけた
それは荊州に兵を入れるための策略だろ
>>853 どうでもいいが、原文引用するなら、書き下しか和訳ぐらいそえたらどうだ。
これに限らず、他の連中もだけど。
もし自分でできないなら、素直に訳本から引用したほうがいいと思う。
>>858 それくらいの短い文くらいで何を言ってるんだ?
とりあえず、荊州でも南郡と南部四郡は別物だから分けて言ってくれ。
>>858 誤訳があるから原文引用でいいんじゃね。
自分で訳本見ればいいだけだし。
オレも引用するときは基本、原文。
その方が間違いが少ないから。
たまに自分なりの読み下しをつける時もあるけど。
俺は訳文から引用するけど、どっちにしろ人に指図されるような話しじゃないわな。
あとは文の長さとか流れとか住人層に合わせればいいんじゃないの。
>>858 昔は、そういう風に考えたこともあったんですよ。
でも自分は学者でも現役の史学生でもないんで、
訳したりするのはそれなりには骨がおれる作業で、
2chの場合議論が先に行ってる場合も多々あったんですよ。
ですから、原文が気になる方はご自身でネット上や書籍の原文に当たるか、
筑摩の訳文を読んで欲しいです。
そうする方が、該当箇所の確認や前後の文脈などにも気を配れますし有益と思いますよ。
まあ自分の勝手な言い分ではありますけど…
相手が読めなきゃ、原文提示しても意味ないし。
せめて意訳ぐらいでもいいからつけてやれってこと。
どうせ漢文読めない奴の方が多いだろ。
ちなみに、研究論文の世界でさえも、原文のみの引用はあまり評価されません。
見た感じ、訳本も持ってないもんのほうが多そうだしなあ。
まあ、余計な突っ込みいれてすまなんだ。
867 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/30(火) 20:54:07
研究論文では先生によって引用の仕方は多少異なる
出来れば原文か書き下し文を引き、それに訳を付けておけばベスト
>>855 呉主伝で呉側は荊州の諸郡を返還するように要求し
劉備は返答として涼州を取ったら荊州全体を呉に渡すと言ってる
そこから推測するに借用の範囲はせいぜい南郡とその周辺(長沙郡も入るかもしれん)
まあ、南郡=南荊州なんだけどね。
蜀にとって南部四郡だけでは飛び地なるし、元々戦略価値のないもの。
ビホウループに戻るけど、
何であいつが臆病者なんだ?
あの状況でさらにほぼ全軍蜀の軍勢は漢中にいるのに援軍なんて来る訳も無い。
さらに、兵も兵糧も無く、関羽から嫉まれている。下手したら降格もありえない話ではない。
まぁ、それは無理だろうけど、士仁も降伏してるし。南郡だけでどうやって守れと。
一族が成都にいるのに開城して敵に降伏したから
普通なら麋竺をはじめとして一族皆殺しだよ
麋芳に関しては蜀志と呉志で違う書かれ方をされてるからね。
蜀志だと呂蒙が攻め込む前から裏切っているけど
呉志だと士仁の姿を見てやむなく降伏している。
蜀にとって麋芳は裏切り者だから悪意があって書かれてる可能性があるし、
もし、本当に最初から内通していたのなら呂蒙は公安よりも南郡を最初に
取りに行くはず。
それほど南郡は意味が重い。
内通してたから南郡を後回しにして公安を取りに行ったんだよ
>開城して敵に降伏したから
当時の観念で玉砕はない。
むしろ士仁の説得で
戦死なされば一族の祭祀は絶え、天下の笑い種となりましょうぞ。
とある。
内通の記述があるのは呉録
呉録というより裴松之な。
呉書だと内通してない。
>>874 玉砕がどうとかどこに書いてある?
麋芳が敵に降れば普通は麋竺ら一族が殺される
劉備が特殊なだけ
そもそも士仁の発言は説得するための口八丁だし
麋芳一族が残るだろ。
>>875 いや蜀書の麋竺伝でも「叛いて孫権を迎え入れ」たとあるから、
むしろ積極的に裏切ってる。
呉書の記述にしても、外戚だから裏切らないだろうという信頼で
成り立ってる人事なんだから、いくらなんでも開城が早すぎ。
せっかく降ってくれた麋芳を呉が悪く書くわけないしな
なら蜀は呉に降った麋芳を悪く書くな。
反動で演義で悪く書かれている人物を必要以上に持ち上げる人がいるけど、
正史でも麋芳の良い所なんて書かれてないよ。
于禁の一族が誅されたとは過分にして聞かんなあ。
・それと麋芳が降伏前に呉と通じていた、迎え入れたという記述。
関羽伝、麋竺伝、楊戯伝(季漢輔臣賛)、呂蒙伝注(呉録)
・それに対して呉軍が迫ってから降伏という記述。
呉主伝、呂蒙伝、呂蒙伝注(呉書)
蜀志と呉志とでは微妙に書き方が違うね。
麋芳からすれば士仁を見たときに公安が落ちて益州からの援軍が絶望になり
予備兵も食料もない状態で開城が早いも遅いもないな。
麋芳は外戚でもあるんだからもっと頑張ればよかったのに。
内通のメリットが微妙。いかに戦勝の立役者になろうが外戚のほうが栄達は見込めるだろ
まず正史で良い所、悪い所を論じても蜀志だと記録されてる人物自体がすくない。
伝になった麋竺にしても官位は高いが名誉職と言ってよく、
むしろ外戚であるにしろ荊州の2である麋芳のほうが重要な職といえる。
>>887 呉録によると関羽に失火を咎められて逆恨みして呉と内通したそうだ
現代で言うところの、カッとなってやった、ってやつだろう
劉備も外戚である麋芳に関羽のブレーキ役を期待しただろう。
ところが麋芳はただビクビクするばかりで何も言えない。
これじゃ臆病者と言われても仕方ないよ。
(´-`)oO(そもそも劉備が関羽のブレーキ役を必要としたという根拠はどこにあるんだろう……?)
しかし、話がループしかしないなあ。
麋芳を批判するのはいいけど内通の真偽が怪しくないかという話で
正史に載ってるから絶対だというのは論議にならないのだけど。
>>891 ブレーキ役という書き方がまずかったかね?
何にせよ、ただビクビクするばかりで何も言えないってんじゃダメだろ
関羽自体が蜀志で人格面で難ありと言われるぐらいだからねえ。
むしろ、それは麋芳より関羽だろ。
>>892 正史に載ってるから絶対だって誰か言ってるのか?
896 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/30(火) 22:45:28
ところで
糜夫人はもう死んでいる
糜夫人に子供がいたわけでもない
外戚と呼べるのか?
糜芳は糜氏の私兵を率いていたから高い地位にいたんではないか?
>>893 > ところが麋芳はただビクビクするばかりで何も言えない。
何をソースとしてるんだ?
関羽は堂々と正論を言う人物の言うことは素直に納得するよ
麋芳はびびりすぎだろ
>>898 麋芳がびびっていて何も言えなかった……ってソースは何よ?
ずばりでなくてもいいけどそう考える根拠は何?
>>899 「羽言『還當治之』、芳・仁咸懷懼不安(関羽伝)」か?
これは関羽が帰ったら処罰してやると言ったので不安に思っただけで、普段からびびって何も言えなかったということにはならんぞ?
>>893 ビクビクしてたというのは、失火とか補給の不足を咎められた件についての事だから、
その解釈はおかしくない?
それとも、俺は悪くないと文句言えということ?
>>901>>902 わかってるじゃないか
そこまであからさまにびびってたことが記述されてるんだから
>>842 三郡の件があるから無論警戒はあったであろうけども、魏と結んで蜀を攻撃する程の侵攻は予想外だと思うよ、
またあの辺は南方に異民族も割拠してる地域でもあるし、全兵力を攻めに廻すなんてする気も無いでしょう・
蜀に呉が居なくてはならないように、呉も蜀がいないと魏を倒すなんて無理なのだから、
譲歩に満足できずに侵攻した呉もまた判断ミスした事になる。
んで多少じゃなくてかなりの譲歩だと思うけど、蜀が領有していた荊州領の半分くらいわたしてるよ。
>>850 関羽に対する策は呂蒙が提示していたし、関羽対策を前面に出しても仕方が無い、
蜀との同盟が魏と対抗できる大前提なのだから、それは他力本願とは言わない。
また呂蒙が荊州奪取に成功しても閉塞状態は続いたまま呉は滅んだ。
そして呂蒙の関羽への敵愾心は異常といっていいもんだよ、
「自分が死ねば関羽は呉を狙う」とか
「自分の計略通りにすればどうして関羽を頼りにする必要がある」
とかあの時期の関羽が呉へ攻撃するのが許される訳無いのに警戒していたり、
呉蜀同盟の重要性を無視してまで対関羽案を孫権や魯粛に提言し続けており、
さらには蜀と戦端を開いたまま魏との開戦を提言するなど元々が急進派過ぎる。
呉録の張勃は呉の人だが父の張儼からして諸葛亮オタだからなあ。
南郡の価値が理解できてないのか、わざとなのか分からんが
南郡なくして南部四郡の価値はまったくない。
劉備も孫権も南郡は呉蜀の同盟より価値のあるもの
譲歩などなく魯粛が勝手に停戦しただけ。
>>855 845とは別人だけど気になったんで。
>そうじゃなく、「あくまで南部は占拠した劉備のものだ」とするなら江陵は完全に呉のもの。
とするなら何も完全に呉の物として領有されてるが、
京城の会見は呉の領有物だからこその会見で賃貸を求めた訳で、
呉が江陵を退いたのも蜀との話し合いの結果であろうから当時の認識でも江陵は完全に呉のものでしょう。
>「私に劉璋どのは攻められない」と言って拒否、直後に自分で攻めるという裏切りをかます。
当初は援軍として赴いてるんで、形式的には孫権に対する裏切りといえるかは微妙だよ。
>その後劉備に貸し出した土地の返還(これが江陵のことなのか、荊州全体を借りたことになってるのかは不明)を求め、
これは長沙・零・桂を求めたとあるが、これのみに留めるつもりだったのか、それとも第一段階としてまずこれらの返却を
求めたかは不明だけど江陵のみって事は無い様子だね、荊州の返却を求めるっていうニュアンス的には多分荊州全土っぽいが。
>劉備は婉曲に拒否したため実力行使で南部四郡の内3つを奪取、その後劉備が曹操に攻められたため、
>重要拠点江陵は返さず、奪われた3つの内の2つで停戦。
奪われた三郡ってもそれは奇襲だからこそなった一時的な戦果な訳で、劉備が本腰いれて孫権と戦争をはじめれば
あの時点ではどうなるかは分からな上に官位的には領有権は劉備にあり、また劉備が曹操に滅ぼされれば困るのは孫権も同じなので、
劉備側も譲歩したといえるし、孫権側も同じく譲歩しているだけの話と思うが。
むしろあのタイミングで曹操が攻めてきたのは呉にとって都合よくね。
孫権が曹操が劉備に仕掛けるのを予め知っていた可能性はないかな。
909 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/31(水) 00:04:36
南郡(江陵)を劉備と孫権でガチに奪い合ったら、共倒れもありえる
魯粛をそれを避けるために譲歩した
江陵を奪っちゃいたいのは彼も同じだが親蜀路線も江陵を手にするまでの我慢
呂蒙は隙を突けば江陵を取り関羽を倒せる、そうしたら譲歩なんかいらないという意見
ただ隙を突くのが前提なので、江陵攻めまでは魯粛路線を継続した
実は魯粛と呂蒙の意見は一連の流れの上にある
910 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/31(水) 00:05:01
南群に張飛を置いておけばよかっただけの事!
でも張飛だったとしても士人と呂蒙に囲まれて討ち死にするだけかw
麋芳の立場に誰が居ようと降伏するか討ち死にするだけの運命だったかもな・・・
911 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/31(水) 00:07:41
日本語不自由な人は長文書かないでくれ。
>>904 はて呂蒙によって揚州と交州と長沙郡等三郡という閉塞状態から脱出したのですが?
さらに関羽を警戒する呂蒙は異常ではありませんね。
陸遜伝では陸遜が強く警戒しておりますし、周瑜伝では周瑜が、呂範伝では呂範が劉備を警戒してます。
さらに彼らも呂蒙と同様に劉備や関羽の無力化を策しています。
異常と言うからには呂蒙が特別で有るべきでしょう?
貴方が、たんに呂蒙だけが突出していたとしたいのでしょうが、
呉には貴方の言うところの異常な敵愾心とやらが、そこそこ散見されるようですね。
さらに同盟相手の劉備も呉を警戒しておりますし、殷観なども同様ですね。
>>904 関羽への策は呂蒙が提示していたが、
孫権は後に
「魯粛は自身で関羽に対処できないから大言を吐いているだけだ」
と評してましたよ。
>>913 そこから脱出して、また閉塞状態に陥っただけの展開、
それも今度は蜀と同盟破綻、魏は蜀と呉の争いの漁夫の利を狙えるというポジションに着くという形のね。
結局呉が大勝できたから泥沼は防げたものの、蜀は疲弊して魏はその間に力を蓄え、
三国鼎立の力関係を変える事は出来ずに小国2つは滅びた。
貴方が挙げた例の警戒心も同盟存続の理を無視した警戒心を持ちすぎた例ですな、陸遜はそうだね呂蒙と一緒と言える、
それでも「自分が死んだら関羽が攻めてくる」っていう有り得なさ過ぎる呂蒙の自負と警戒心よりはいくらかマシ、
周瑜・呂範の劉備不要論は劉備は扱いにくいからやめろっていうのはまあ理が無い訳じゃない。
>さらに同盟相手の劉備も呉を警戒しておりますし、殷観なども同様ですね。
警戒心を持つこと自体は当たり前、ただし劉備や殷観が
「自分が死ねば呉が攻めてくるから、先に攻めよう」なんて言っただろうか?
2人とも警戒心に引きずられた結果の行動なんかおこしていないが。
>>915 まず殷観は孫権が蜀攻めを持ちかけた際、退けば呉につけ込まれるとはっきり述べている。
劉備もそれを指示しておりますよ。
陸遜は呂蒙が関羽から離れた建業に向かうことを攻めております。
関羽と協会を接しているのに帰還して、後のことに憂いはないのかとね。
どうも都合の悪い記述は読めないようですね。
こう言っては何ですが、貴方の呂蒙への敵愾心の方が異常に見えますよ。
間違えた
協会じゃなく境界です
魏は関羽の北上戦あたりまでは魏は不安定で内乱や賊の蜂起が頻発していた。
まだまだパワーバランスの変化する余剰があった。
しかし、数年に及ぶ蜀呉の紛争の間に魏は国内を固めて安定させ、蜀呉との力の差は覆せないものとなった。
>>914 あの評は荊州攻略については魯粛より呂蒙」って前置きがあるとおり、
魯粛が蜀との同盟堅持を唱えており、関羽攻略は愚行としていたという面を無視した評価だから、
そんなに気にする必要ないと思うけど。
まあ孫権にしてみれば(魯粛が描いていたであろう)江陵を貸し出して荊州ゲット、
っていう絵図が一向に達成される気配が無いから魯粛に大して不満を持っていてもおかしくない。
赤壁の勝利で割を食った感じだし、格下の劉備勢力が順当に勢力を伸ばして呉と対等かそれ以上にならんとしてるのに
呉は合肥への進出もままならない、それなのに魯粛は蜀との同盟堅持を唱え、呂蒙はかつての周瑜と同じく
勇壮な軍略を説いてくれるとあっては余計にね。
実際に魯粛の荊州ゲット案は都合が良すぎた計略ではあるが、蜀との同盟堅持の方針まで評価が低くなってる感がある、
また評価した頃の孫権は「劉備を撃退して、再び蜀と同盟を結び呉が荊州を奪取できた」っていう結果を手に入れた後だろうから、
劉備侵攻により起きるであろう危機や、関羽北上の頃の魏の状況ってのは慮外のもんでしょうし。
>>916 >まず殷観は孫権が蜀攻めを持ちかけた際、退けば呉につけ込まれるとはっきり述べている。
まさに事実と思うけど。
劉備が雄飛するためには蜀は必須であり、呉と共同or呉単独での蜀攻めは劉備の存亡に関わる問題、
だが劉備は威嚇はしたものの呉の譲歩を引き出した後は普通に修好しており、
呉を攻めたり、異様に警戒したりとはしていない。
>関羽と協会を接しているのに帰還して、後のことに憂いはないのかとね。
見落してたよゴメンね、じゃあ陸遜も呂蒙と同じく関羽に警戒心を持ちすぎた一人だね、
荊州奪取の急先鋒だったし。
>>918 >魏は不安定で内乱や賊の蜂起が頻発していた。
これもなあ、正直パワーバランスが崩れるとは思えないなあ。
于禁が敗れてもすぐに徐晃が援軍に来れるほどの国力。
呉が荊州を取らなくても関羽が勝てる可能性ゼロだし。
>>919 それは、たんに孫権が荊州のことを根に持って魯粛を不当に評価したと、
貴方が言い立てているだけにしか見えませんが?
孫権は、魯粛が自身で解決できないのに棚上げして強がっている事を攻めているだけなのに、
貴方自身の推論「だけで」でもって、孫権の評を否定するのは如何でしょう?
約一人呉蜀の同盟に必死になってる人がいるが
蜀に都合の良い事しか書いてないなあ。
第一同盟堅持は魯粛だけであり蜀側で同盟に努力したことはなく
関羽が安全とは信用できんだろ。
魯粛が健在だったら関羽が江陵空けた時にやっぱり手のひら返して攻め込むんじゃないかと思うぜ
裏切る前に死んだから分からないだけだな
>>921 そうでもないよ
中原は動揺して遷都論も出るほど
徐晃は新兵しか与えられずに進軍を躊躇
樊は落城寸前
呉が矛先を荊州に向けて魏が攻められる恐れが完全に無くなったために、曹操は全軍を関羽戦に投入した。
戦後曹操は今回は危なかったと語っている。
>>920 いいえ、あくまでも殷観の仮定です。
私自身、孫権がつけ込むとは思いますし、殷観の判断を指示しますが仮定は仮定です。
あと普通に修好というのは呉に対して詐術を用いることですか?
わざわざ蜀討伐を賛成するフリして時間を稼いだのは、孫権の行動を警戒したからでしょう?
そして入蜀したんでしょう?
その結果、孫権は激怒しましたよね。
あと私は劉備の警戒も呂蒙の警戒も異様とは思いません。
実際、劉備は上記のような詐術を用いてますし、
京にいた頃、周瑜は劉備を害しようとしました。他にも両者は背信行為を行っています。
蜀呉とも互いを信用せず警戒していただけです。
魯粛は蜀と争えば魏を利するだけだと誰よりも理解していたからなあ
>>925 ちょっと質問。
>戦後曹操は今回は危なかったと語っている
これって、何伝だったっけ?
そして魯粛は同盟よりも南郡の価値を理解してるけどな。
>>925 仮に合肥に呉が攻め込んだとしても、徐晃の兵力(中央からの援軍込みで)で
関羽に勝るし、やばくはあったが負けはしないだろ。
>>931 仮にその時に負けなかったとしても魏は依然不安定なまま
>>930 ありがと
襄陽と樊城は、昔の即墨とキョ以上のやばさ。
って奴ね。
魏国そのものの危機と勘違いしてたよ。
>>932 半年以上の遠征の失敗は蜀にとっても、相当な負担になるよ。
魯粛はもちろん南郡の重要性を理解していたが
魏を打倒する為に蜀を利用する事を重視していた
だからこそ曹操が漢中に進出すると、南郡を目前にしながら矛を収めて劉備が漢中戦に集中出来るように配慮した
>>934 大事なのは安定させないことなんだよ
安定したら終わりってのはその後の歴史が証明してる
>>935 実は魯粛も呂蒙も、魏を打倒までする策は立ててないんですよ。
魯粛は魏を拒ぐために同盟し、呂蒙は曹操に対抗するために江陵と襄陽を欲した。
呉で魏打倒の戦略を立てたのは私の記憶が確かならば、
周瑜だけで、よく天下二分って言われるやつです。
まっとも、天下二分は超難関であったと思いますが…
魏打倒というか魏に対抗するためにね
南郡を取る為に手を尽くしただろうけど、蜀と全面戦争になるような展開は避けただろうな魯粛なら
>>922 まあ不当な評価であるという形で書いてるからねぇ、
内容に関する反論がないと反応の仕様も無いね。
>貴方自身の推論「だけで」でもって、孫権の評を否定するのは如何でしょう?
こういう場で推論や推察を出さないでどうすんの、また史料を論拠にしてるつもりだから
「だけで」とか「如何でしょう?」って言われてもね、個人の意見を述べる場だからしゃーないんじゃないかい?
>>923 劉備が孫権の元に赴いて会見したり、妹を嫁に貰ったりと劉備側も結構気を使ってるけど。
趙雲別伝を信じるなら劉禅誘拐未遂があってもなお同盟を堅持してのだから相当なもんだと思うよ。
魯粛は周瑜の幕僚だったから基本戦略は同じだろ
蜀に同盟者の劉備を入れて気心通じている諸葛亮やホウ統と連携して東西から魏を圧迫する
自分達でやるか他人にやらせるかの違いだけ
>>936 その理屈はわかるが、如何せん体力と弾数が違うよ
>>938 ただ関羽が成功すれば樊城、襄陽、江陵と、
北と東に対する要衝を確保することになり、さらに荊州を取りにくくなるよ。
江陵だけでも隙を突いての侵略だったんだし…
戦争を除いた外交交渉で取り返すのはさらに困難だろうし…
>その理屈はわかるが、如何せん体力と弾数が違うよ
これを言っちゃったら戦乱そのものを否定というか、
弱い国は抵抗しないでさっさと従えよってことになってしまうよ。
>これを言っちゃったら戦乱そのものを否定というか、
>弱い国は抵抗しないでさっさと従えよってことになってしまうよ。
安定したら国力差は埋まらないって言うのも同じだろ。
>>926 殷観の仮定だけの話ならば殷観は共同遠征ははぐらかせといっただけ、
915で書いたような「自分が死ねば呉が攻めてくるから、先に攻めよう」みたいな類の事ではないが?
>あと普通に修好というのは呉に対して詐術を用いることですか?
その後に別に争った形跡も無いんだから、献帝春秋にあるような威嚇の後には、
普通にもとの同盟関係にもどったという事でしょう、
また孫権の激怒自体は仕方が無い、いつまでも顔色を伺っても仕方ないから。
ただしこの時の劉備側の荊州割譲に一切応じようとしなかった態度は問題ではあるが。
何か勘違いしてるが警戒自体を否定してはいない、
ただ呂蒙の様に警戒心により相手に先制攻撃をしかけた事は少なくもと劉備側にはない、
その警戒心の元である「自分が死ねば関羽が呉に侵攻してくる」というのが異様だといってるんだが。
関羽が樊城落とせば許の喉元に刄を突き付けることになって中原の動揺はますます広がり
曹操はそれを鎮めるのに手いっぱい
そこで呉は容易に徐州へと進出出来る
その後関羽が魏の反撃を受けて危機に陥った時に救援しつつ南郡を譲り受ける
魯粛ならこれくらいのことはやっただろう
>>939 反応も何も、貴方の推論だけで出来た理屈に反論なんて無いですよ。
勝手にしてくださいとしか言えません。
あと貴方は史料を論拠にしていません。
貴方は魯粛が関羽に対抗できたという論拠を示さないのに、
ただ荊州問題から不当に評価したと持論を展開しているだけです。
殷観の件は、劉備が姻戚となり京に行ったあとの話しですよ。
趙雲別伝の件も、充分に剣呑な話しですが堅固などはしてません。
劉備の入蜀の後、交渉決裂し先端が開かれました。
この時は魯粛が外交に携わっていたため、時期を見ていたと思われます。
>>943 だから安定させないようにしましょうってことだよ
安定しなければ引っ繰り返せるチャンスは増える
>>931 徐晃の兵力がどれ位の時期に援軍により増強されたのかは分からないけど、
呉が荊州攻略を打診してこなければ増強具合や増強されるかどうかも変わって
くるんじゃなかろうか
同盟が修復したかは謎だが、魯粛が死んで
呂蒙が継いだときは表面上は恩義厚礼を倍して関羽と友好を結んで
呂蒙から陸遜が継いだときはそれを信用して侮りそして守備兵を減らしてるなあ。
対して蜀側は同盟強化になにもしていなく狼煙台を作って警戒してるだけ。
自己の安全のため呉に攻め込んでも不思議じゃないね。
狼煙台=見張り台?はいつ頃作られたかも定かではないから作られた目的もわからん
劉表時代からあったのかもしれないしそれ以前かもしれないし
>>950 至羽所置江邊屯候
関羽が設置したと書いてあるが?
>>944 「自分が死ねば呉が攻めてくるから、先に攻めよう」
も
「退けば呉につけ込まれるから賛成したフリ」
も仮定です。
有っては成らない状況に対する危機感でもあります。
荊州と入蜀で目的が違うから手段が違うただそれだけです。
>殷観の仮定だけの話ならば殷観は共同遠征ははぐらかせといっただけ
これにいたっては大嘘です。
劉備は殷観の策に従ってます。
普通の同盟関係とは、入蜀するために詐術を弄し、
その後、呉が領土割譲を要求したり、それが元で戦争になることですか?
異様だと思いません。
国家の柱石足る、孫権や呂蒙を始めとする諸将が亡くなった後に、
危機意識を持つことは異様ではありません。
まして蜀がそこに付け入らないとする保証など出来よう筈もないです。
呉は孫策や周瑜や魯粛が早死にしてますし、死後のことを考えても不思議ではないと思います。
なにが一番異様なのは蜀に取って呉との同盟は必須のはずなのに
その策を持っていたのは魯粛だけ。
むしろ、蜀のほうが同盟を軽く見ていたようだ。
>>952 その有っては成らない状況に対する危機感が、どれだけ現実的かという問題がある訳だよ、
何も両方仮定だから同じだなんていう詭弁じみた下らない話じゃなくて、
その警戒心がどれだけ正しい推論なのか、それに対応するための目的・手段・状況とそれを講じた場合の結果の話。
殷観の場合は抱いた警戒心は貴方が
>>926で言ったとおり正しい、そしてその手段もあくまではぐらかすといった程度の事で、
両者の間に戦端が開かれるほどの事じゃないし、現実それで収まった。
反面呂蒙が抱いた危機感である「自分が死ねば関羽が攻めて来る」というのは現実的ではない、
まず蜀側に呉を攻めようとした話はなく、当時の情勢からいって呂蒙が死んだからといって蜀が呉に攻めるという戦略は愚劣極まりない、
天下三分を基本方針とする蜀にとっては有り得ない話であり、とった手段の奇襲は魏を利して蜀と争い、
結果は陸遜が大勝したから良かったものの泥沼の戦争の危険性さえあった。
その違いを無視して同一視してどうする。
大嘘?殷観の提言は「呉に賛同する一方で自分達は新たに支配した土地なので行動を起こせないと言えば、
呉は領土を越えての思い切った戦争はしないでしょう」というもので、どこが大嘘なのか説明してもらいだけど。
互いに互いを利用しようとしてるんだからそんなもんでしょう、仲良しで誠心誠意溢れる同盟なんざ
両者が天下を望む以上は初めから望むべくも無いと思うけど。
呂蒙が言ってるのは諸将や孫権の死ではなく、あくまで自分の死の事。
危機管理を持つなら蜀と争うことが魏をどれだけ利するか、またそれが呉にとってどれだけ危険かが抜けており、
さらには同時に魏をも相手にしようとした呂蒙の戦略は死後の前にもっと考えるべき事が多い。
>>946 いや推論だけじゃくてちゃんと史料を参考にしてるけど?
何処がどういう風に参考にしてないかを指摘してくれないと答えようが無いしね。
>貴方は魯粛が関羽に対抗できたという論拠を示さないのに、
んーとね、まず魯粛は関羽に対抗する気が無いとは散々述べたように、
魯粛は同盟保持を戦略としてもって動いてるのが大前提。
んで同時に呂蒙が魯粛に関羽に対抗する策を述べたのは呂蒙伝にあるとおり。
>殷観の件は、劉備が姻戚となり京に行ったあとの話しですよ。
蜀が同盟堅持の努力をした事が無いっていう923宛てのレスなので、
殷観の件とはまた別の話だよ。
>趙雲別伝の件も、充分に剣呑な話しですが堅固などはしてません。
この話は入蜀の大分前の話であり普通当主の後継者が誘拐未遂に逢えば戦争ものだが、
それでも同盟を続けようとする態度は十分に堅固してる範囲でしょう、
入蜀後の諍いも魏の侵攻があれば互いに手を引いてるのでこの時期にはまだ互いに堅固しようとしてる。
とりあえず、蜀が呉に対して荊州を返すつもり全くないこと。
関羽の北上が成功したら荊州つもりだった記述がないので蜀は返すつもりまったくない。
あと、呉は蜀を利用してるだけにしかなく、必要あったから組み、必要無くなったから攻めだけ。
呉の方針が最初から呉国の安定である以上、天下統一はあくまで蜀の言い分に過ぎない。
本当に無能なのは呉に取って江陵の重要性を理解できず守りを怠った関羽。
>この話は入蜀の大分前の話であり
權聞備西征,大遣舟船迎妹
大分前の話?
時系列めちゃくゃだな
>956
なぜ荊州分割条約が結ばれた後まで
蜀が呉に荊州を返還する義務かあると思ってるの?
そこの認識おかしくないか?
でも裏を返せば孫夫人が呉に戻って以来明白な同盟関係は存在してないよね。
魯粛・呂蒙の侵攻時もいいとこ手打ち停戦レベルに留まったに過ぎないし。
関羽も停戦未満の関係である事を承知だからこそ狼煙台作ったり北上するのに
江陵に相応数の後詰分残して出兵しているんだし。
>「自分が死ねば関羽が攻めて来る」というのは現実的ではない、
>まず蜀側に呉を攻めようとした話はなく、当時の情勢からいって呂蒙が死んだからといって蜀が呉に攻めるという戦略は愚劣極まりない、
なんか、馬鹿が暴れてるな。
魯粛伝読め。
義務はなくとも呉とすれば蜀が何と言おうと取り返す気満々だろう。
呉は双方と交渉持てる位置に居るから、魏と組んででも関羽抹殺して奪還は至極当然。
ただ関羽と真正面からぶつかると甚大な被害を出すのが想定されるので極力避ける。
結果ほぼノーダメージで荊州奪回、ある意味呉の一人勝ち状態の結果だな。
tu-ka、議論が広がりすぎてね?
スレタイからして対象は
「関羽の一州を統轄する資質の有無」
「劉備の荊州人員配置の是非」
「そもそも関羽の北上の意味と実現可能性
(独断か、蜀本国との疎通不都合か、或いは関羽を過信したのか)」
これくらいだけ決めればいい話じゃね?
寧ろ3番目すら不必要に感じてしまうが。
呉に関しては荊州の奪還を目指していた、でいいなこの議論に関しては。
奪取は国是だから最低江陵を呉のものにするまでは蜀と同盟と言う選択肢はないだろうし。
>>854 現実的でないのは貴方です。
戦乱の世の中で、同盟国だから攻められないなんて考えあり得ません。
現に、同盟推進者の魯粛でさえ荊州を攻めてます。
殷観の件は、後の荊州での戦端の原因の一つです。
魯粛伝をお読みください。
いいえ大嘘です。まず先主伝の記述は、殷観が言っただけではないからです。
その後、劉備がこれに従ったことが無視されてます。
呂蒙が自分の死だけというのも大嘘です
『今羽所以未便東向者、以至尊聖明、 蒙等尚存也。
今不於彊壯時圖之、一旦僵仆、欲復陳力、其可得邪』
意訳すると
『今、関羽が東に向かわないのは、至尊が英明で呂蒙等が尚あるからです。
今、強壮な時に事をはからなければ、(僵仆)倒れたあとに力をお持ちいようとしても、それが可能でしょうか?』
そて、呂蒙は自分の死のみを対象にしているでしょうか?
>>955 はて、どこがですか?
「魯粛は自身で関羽に対処できないから大言を吐いているだけだ」
に対する因果関係のある記事が、貴方が書いた
>>919のどこにあります?
ましてや孫権の評価が不当とする根拠となる記事がありますか?
呂蒙が策を示して、呂蒙は対処して見せましたが…魯粛「自身」はどこですか
>まず魯粛は関羽に対抗する気が無い
そもそも、孫権は魯粛自身では対処出来ないと言ってるんですがね。気持ちの問題ではないんですよ。
貴方が魯粛になったつもりで対抗する気がないと言われても困りますね。
>魯粛は同盟保持を戦略としてもって動いてるのが大前提。
これを前提にしても、魯粛自身では対処出来ないと言う孫権の言い分は変わらないでしょう。
貴方は魯粛を口寄せして真実を述べてるつもりかもしれませんが…
う〜ん、アンカーミスだけじゃなく誤字までしてた。
>>964の
(僵仆)倒れたあとに力をお持ちいようとしても
(僵仆)倒れたあとに力を用いようとしても
そて、呂蒙は…
さて、呂蒙は…
恥ずかしい。すいませんです。
寝覚めのコーヒーでも飲も
劉備勢力の狙いはあくまで漢室復興。
対する曹魏には圧倒的な大軍がいるんだから、
呉への警戒を完璧にして出兵なんてそもそも無理でしょ。
荒れた荊南の一部を持った関羽と呉じゃ兵力に絶対の差があるんだから。
呉にしてもあそこで江陵を奪ったはいいが、
結果的に一度も中央には近づけず滅ぶわけだ。
劉備にとってはその機に魏と呉が組むなんて思わなかった。
呉に取っては襄陽を取れても劉備勢力にまだ魏を倒す力はないと見ての、
力の補強の好機と見たのかもね。
969 :
>>1:2007/01/31(水) 08:22:13
こんなヒットすると思わんかった
おいおい、関羽VS姜維、荊州争奪戦、曹操の能力(歴代皇帝との比較)は三戦でもっとも盛り上がるコンテンツだぞ
しかし関羽も関羽厨も江陵の重要性をまったく理解してないな。
江陵=南荊州なのに南部四郡貰ったとしても吊り合う訳ねえのに。
呉蜀にとって江陵の重要性をもう一度お勉強しておいで。
呉蜀の間に江陵の価値について認識のズレがあるよね
蜀は中原への足掛かりと政権中枢を占める人間の出身地
呉は護国最低限度の防衛線
中継地点と見てた蜀と最後の砦と見てた呉じゃ気合の入り方も違うだろうさ
>>1呉が裏切ったから。孫権が三国志をつまらなくしてしまった。ダンカンばかやろっ。コロッケとって
・官渡で袁紹を破った後、分裂した袁氏を滅ぼすのに7年もダラダラ
・赤壁で大チョンボしでかして武力統一へ黄色信号を灯す
・張魯を下して隴を得て更に蜀も望めば恐らく劉備完全アウトだったのに
これだけ曹操さんが三国時代成立アシストしたのに劉備も孫権も・・・
やっぱ呂蒙すげーな。って結論に至った。
>>966 >因果関係のある記事
江陵貸出し・荊州譲渡の交渉失敗・劉備勢力の躍進・呉の進出停滞気味・かつての周瑜の戦略
呂蒙が説いた関羽攻略案・実際に荊州奪取成功・陸遜の大勝・関羽北上時の魏の状況等等
これらがそれぞれ魯粛評価への因果関係が存在する上に史料に存在する記事で、
孫権の評価が不当とする根拠は
>>919で既に書いてあるので重複するから919を読んで欲しいけど、
第一には呂蒙が蜀と開いた戦端を陸遜が最良の形で埋めてくれた後であろう評価なので、
蜀と戦端を開いた危機的状況が考慮に入れられてないというのが一番大きい。
>そもそも、孫権は魯粛自身では対処出来ないと言ってるんですがね。気持ちの問題ではないんですよ
気持ちではなく、魯粛にとっては関羽攻略は=蜀との同盟破棄に繋がる自殺行為、
それを実行したくないというのは呉書で呂蒙が同盟堅持論者であったという事が散々書かれているのが何よりの証拠。
>呂蒙が策を示して、呂蒙は対処して見せましたが…魯粛「自身」はどこですか
呂蒙からの提言を受けていれば魯粛自身が策を提示する必要もないでしょう、そのための配下ですし。
>これを前提にしても、魯粛自身では対処出来ないと言う孫権の言い分は変わらないでしょう。
孫権側の言い分はしょうでしょうな、同盟堅持という大前提を理解しないのであれば。
自分が麋芳だったら・・・と思えば恐らく俺も呉に降伏している。
自分が呉の軍権を担う立場なら当然何としてでも荊州奪還を考える。
三国時代の人物も一人の人間だぜ?
上司に殺意を持たれるほどの険悪関係で自分の命を掛けて任務を真っ当するか。
他国にみすみす勢力拡張されて自国だけジリ貧に陥るのを黙って見てる奴があるか。
>>957 ああ悪い、入蜀っていうか蜀を手に入れる前の話ね。
>>964 >戦乱の世の中で、同盟国だから攻められないなんて考えあり得ません。
同盟国だから攻められないんじゃなくて、当時の情勢からいって蜀が率先して呉を攻めるのが有り得ないと
言ってる訳ですが。
>殷観の件は、後の荊州での戦端の原因の一つです。
遠因の一つであるが、荊州での諍いの根本は劉備が領土割譲に一切応じなかった事、
呂蒙のそれとは大きさが全然違いますね。
>その後、劉備がこれに従ったことが無視されてます。
ああ「いっただけ」というのがそういう捉え方された訳か、納得。
言い方が悪かったが、「内容は共同遠征をはぐらかせというだけに留まり、別に呉を攻めろとは言ってない」
という事ね。
>さて、呂蒙は自分の死のみを対象にしているでしょうか?
当時の関羽の年齢と、孫権の年齢や呉にいる数多の将の年齢を考えてみればいい、
どう考えても先に死ぬ可能性が高いのは関羽の方で、関羽攻略後に急死した事をあわせて考えれば
この「倒れたあと」が誰を指しているかは明白だが。
もし孫権+呉にいる数多の将帥が倒れた後、とか考えていたならそれこそヤバイ。
だから219年時点では同盟関係では無いだろと何度言えば分かるんだ長文野郎
>>976 それって、君が関羽に対処する必要ないと連呼しているだけで
魯粛が関羽に対処できないということへの反論にすらなってないよ。
ちゃんと劉備の復讐に備えて魏に半臣下状態になっているしな。
呉と言うか孫権の外交はその辺りしたたかと言うか老獪だよ。
長文君は魯粛伝を一から読んでください。
そして、「蜀が率先して呉を攻めるのが有り得ない」これが過ちなのをきずいて下さい
>>981 同時に魏蜀一辺に敵に廻す状況は作らなかったしね、皇帝になるまでは絶妙なバランスだった。
その政策には魏には勝ち目は無いが蜀単体には負けないだろ、と言う自負があるはず。
無論蜀と魏が組むはずが無いと言う状況があり、更に言えば魏と言えども単独では
当時では蜀呉一国を滅ぼす力(実力か気力か)はないとすら踏んでいただろう。
>>978 今後、情勢が変化しないとでも言うの?
殷観の件は、明らかに原因の一つです。
魯粛伝をお読みください。
さらに入蜀と荊州。目的が違うのに、君は何故呉を攻めるという発想にいたるのですか?
最後のは、明らかに曲解ですね。
原文でも明らかな通り、あくまでも「蒙等」です。
さらに、この戦略を提示した際、呂蒙が病だったか不明ですが、
魯粛が関羽より若くして死んだであろう事は明確ですがね。
そもそも呂蒙は、危機に対する対策について述べているのに、その危機はあり得ないと断言する。
そりゃ君の理論は完璧ですよ。
だって歴史上存在しない仮定の部分が、有り得ないと確定しているんですから、
これを前提にすれば、あらゆる危機管理なんて無意味ですね。
長文君は蜀側が同盟堅持仕様とした記述なりを出してください。
趙雲別伝の件を信用するにしても劉備が裏切って蜀を攻めた時期ですよね。
>>976 呂岱伝を読めばわかるが、魯粛は関羽と通じた反乱で呉トウを逃す始末。
一方、呂岱は袁龍を捕らえて斬っている。
魯粛は関羽どころか、その差し金である反乱の対処する出来てない。
>>980 だから「魯粛が関羽に対抗できない」っていう反論自体がね、
「関羽に対抗する必要がない」のだから反論になっていない。
それでも関羽に対抗する案なら呂蒙からの提言を受けてるって書いてるし。
>>982 蜀が呉を征服しようとした例を教えてください。
>>984 情勢は変化するだろうね、ただその情勢は蜀>魏+呉になった場合でしょう、
当時の情勢ではまだまだ先のことであり蜀+呉<魏の段階ではありえない話。
殷観の進言の結果劉備は孫権を怒らせはしたものの、諍いの直接の原因となりえていません。
孫権は怒りながらも蜀制圧の件については追及してませんせんし、
諍いの直接の原因になったのは劉備が領土譲渡を一切に認めなかった事です、
孫権を本気で怒らした遠因の1つではありますけど。
曲解ではなく、蒙等というのが具体的に誰を指していたかという事ですよ。
魯粛が死んだのは46歳でさほど早死にでもないしね。
また危機に対する対応も防備を固めるとかならまだしも、その危機意識を元に
蜀を先制攻撃して蜀VS呉という状況を作り出した事が問題な訳で、
貴方は魏が不安定な時期に、この蜀VS呉が戦略的に正しかったとでも?
有り得ないというのは「歴史上存在しない仮定の部分」ではなく、戦略上での判断の結果。
よく呉の四人の大都督などといわれるけど、
実は魯粛は、都督になったことがない。
周瑜は江夏攻めの時に前部大督。赤壁の時に程普と共に左右の督。(周瑜伝、呉主伝、程普伝)
呂蒙は濡須の時、蒋欽と濡須督。江陵攻めの時に大督。(呂蒙伝、蒋欽伝、孫皎伝)
陸遜は江陵攻めの前に右部督。夷陵の時に大都督。(陸遜伝)
魯粛は軍事的には明確に、彼ら三人より劣ると孫権から見られていた思われ、
呂岱伝からも、それが不当でないことが伺える。
>>985 劉備の裏切りはあくまで蜀を手に入れるためのもので、呉が害したものではない。
諸葛亮が説いた天下三分が蜀の戦略の根本なのだから、同盟堅持が前提なのは当然の話だが。
>>986 呉トウは反乱は呉が三郡を奪取した際の一局面に過ぎない話だし、
呉トウが逃亡したものの攸県は治めてるようだからそんな所まであげつらってもしょうがないでしょう。
単に呉とすれば呉>蜀のパワーバランス逆転されるの恐れたんだろ。
それどころかもし許都まで関羽が侵攻、呼応して劉備が長安まで占拠と言う自体になれば
もう呉蜀どころか蜀=魏に匹敵する勢力をつけてしまう事になる。
それを望まぬ呉とそれを怖れた魏の思惑が一致しただけの話であって魯粛の外交とかと
既に切り離して考えるべき問題。
現実的に考えれば城一つ5ヶ月余り落とせない関羽に二国とも過大にビビっただけだが。
>同盟堅持が前提なのは当然の話。
だから蜀がどう堅持したか聞いてるんですが?
これ出さないと、蜀は呉に攻め込んでもおかしくないぞ。
>同盟堅持が前提なのは当然の話。
百歩譲ってこれがありだとする。
しかし呉には蜀とも、あるいは魏と組む選択肢の両方がある。
蜀は呉と組む以外には両方敵に回す選択肢しかない(名目上魏と組めないっしょ)
だからそんな前提あったとしても、結局呉も「どうせ組むだろ・・・」と思い込んでいた
蜀の外交政策の根本の錯覚だ、としか言えないのだがね。
先に言われてた。
「呉も蜀との同盟を維持するはずだ」
「関羽が北上しても悪くて中立のはずだ」
「三国鼎立してる状況で魏を利する行動を取らないはずだ」
要はこれ全て蜀の勘違い&思い上がりに過ぎないんだよな。
蜀、でなく蜀びいきの人間と言った方がここではいいのかも知れないがw
>>987 >「関羽に対抗する必要がない」
そもそも孫権はこんな事問題にしていない。
呂蒙から提言を受けても、関羽と通じた反乱一つ対処できてない。
むしろ孫権の評価を補強する記述が呂岱伝にある。
>蜀が呉を征服しようとした例を教えてください。
何故、そんなこと答えなければならないの?一応、夷陵。
劉備の目的が入蜀だった時、何故、呉を攻めるという発想にいたるのですか?
>蒙等というのが具体的に誰を指していた
これから先の死者を具体的に挙げられるわけないでしょう。
この時、呂蒙が病気だった記述もないのですよ。この場合、蒙等はあくまで蒙等です。
長文君は
>>904で長沙・桂陽を荊州領の半分くらいって書くほどの無知だから
呉の国是とか理解できないだよ。
>>989 そりゃ変ですね。
呉書の各伝に反にたいして乱鎮圧し首領を捕らえた記述が散見されますし、
呂岱の方は捕らえ斬罪に処しているのです。
魯粛が反乱に首謀者を捕らえて断罪する形で対処しきれなかったのは明白ですし、
首謀者を捕らえて断罪するのと、首謀者を逃がしてしまうことは、
あげつらうというレベルではないでしょう。
>>991 呉に攻め入ることしなかったし、荊州割譲の盟約を結んでいたはずだが?
>>992 選択肢だけなら蜀にも存在するよ、やったらどうなるかは話は別だが。
しかし問題は呉も蜀も手を組まないと魏に対抗できないという事、
「どうせ組むだろ・・・」と思い込んでいたのは間違い無いが、
手を組む事をやめた呉の行動は魏を利して、その後両国とも国力差を覆せずに滅亡しましたねと。
蜀と手を組まないでもやっていけると呉も同様に錯覚してるんだよ。
>>994 >呂蒙から提言を受けても、関羽と通じた反乱一つ対処できてない。
呉トウの逃亡を許しただけで反乱一つ対処できない扱いはないでしょう、
攸県は実際に鎮圧してるようだしね。
また「関羽に対抗する必要がない」というのを問題にせずに戦術手腕だけの問題ならば
魯粛の戦略を理解していないって事になる、関羽攻略をしたいだけならば
魯粛にしてみれば関羽対策を考えてる呂蒙を使えば良いだけの話だよ。
>何故、そんなこと答えなければならないの?一応、夷陵。
蜀が率先して呉を攻めるのが有り得ないというのが過ちであるなら答えるのが義務でしょう、
また夷陵は呉の先制攻撃に対する報復ですよ。
>これから先の死者を具体的に挙げられるわけないでしょう。
例を挙げろといってるのではなく、呂蒙が一体具体的に「誰が死ぬかもしれない」と考えていたかという事。
>>995 彼はわざとそのようにしたんでしょう
>>840で、南部四郡を劉備が自力で攻略したと言い。
>>915で陸遜伝の記事を無視したり。
>>954で原文で蒙等とあるのを、呂蒙一人と解釈。
>>955で趙雲別伝の劉備の征西を無視して入蜀の大分前と曰う。
史料の無視、改竄となんでもあり。
>>995 劉備が領有していた荊州領の半分くらいってかいたけど、
何か間違ってる?指摘あったらよろしく。
>>996 首謀者を逃がしても攸県を抑えてれば問題ないでしょ、
単に呂岱は最上の戦果を挙げれて、魯粛は最上ではなかったというだけ。
こんな一局面の戦術をもって、「そんなんじゃ魯粛は関羽に対抗できない」
っていうのはあげつらいでしょう。
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