1 :
無名武将@お腹せっぷく:
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/29(水) 00:35:13
2Get
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/29(水) 22:08:56
蜀スレ復活age
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/02(土) 03:02:53
諸葛亮・法正・劉巴・李厳・伊籍
蜀科に拘わった人をみると伊籍の陰が薄く感じるのは気のせいなんだろか
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/02(土) 03:08:52
汁かヴォケ!消えろゴルァ!
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/02(土) 14:31:02
蜀科の内容って伝わってないんだよね?
天竺にはね
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/03(日) 13:14:50
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/04(月) 00:05:53
前スレ落ちた?
ここもさびれてんな。
蜀将の寂しい層の薄さを表してるのさ。
“また騙されて中国英雄板まで飛ばされたわけだが ”
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/16(土) 06:50:39
レスないな
19 :
マ狂:2006/12/17(日) 02:06:11
まー人口的に考えるとしゃーないわ
蜀の七不思議でも探してみようかね…
21 :
マ狂:2006/12/17(日) 22:30:11
七不思議か、それも良いんではなかろうか
俺は馬岱が五丈原の翌年(だっけ)に牛金に撃破されたのが不思議だ(何しにいったんだろうか?)
ってそういうのではないなw
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/18(月) 22:13:53
たぶん孔明が死んでも蜀はまだまだ北伐をあきらめないぞ!
ってことを示すためだったんじゃないかと思う
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/19(火) 22:33:10
王平>>>姜維
楽天みたいなものだな…
って、オリックスは弱いけどw
>>21 馬岱の魏領内侵入は晋書によると235年内の出来事
陳寿の蜀志にも華陽国志にもこの侵攻に関する記述がないことから
蜀側にとってこの侵攻は領土奪取や魏との戦闘をメインにしたというより
敵情視察的なものを目的としていたのではないかと仮定してみる
(戦闘がメインなら姜維の侵攻時のように後主伝に記載されるものとみて)
次に侵攻が行なわれた当時の蜀の内政だが、
楊儀の失脚と蒋エンの大将軍就任が行われた年にあたる。
234年までは蒋エンは諸葛亮の後継として尚書令につき国政は担っているが
軍政に関しては、華陽国志によると楊儀・費イ・姜維・ケ芝・張翼の5人がそれぞれ担当したとあり、
蒋エンに軍を統括する官職(権限)はまだ与えられていなかったように見受けられる。
よって、235年の大将軍就任をもって初めて蒋エンは軍政も担える立場に立ったと思われる。
馬岱の侵攻がこの蒋エンの大将軍就任(235年4月)以降のことならば
蒋エンは軍権を得たことで北伐の実施に向け魏の涼州方面の情勢を偵察させたのではないだろうか?
そして、この偵察軍が魏の牛金に破られ、涼州方面の守りを崩すのは困難と判断した蒋エンは
水路による魏興・上庸方面侵攻へと北伐の方向性を変換させたのではないか?
と、適当に言ってみる
続く記事が苻健の弟の帰順に関する記述である事から、
235年正月の司馬懿の太尉就任から、236年4月の苻双の帰順までに
起こった事件だと分かるが、まぁ、235年内の事だろうね。
資治通鑑にも記述が無いから、やはり詳細は分からないな。
238年の廖化の侵攻は、焼当羌族の芒中の叛乱に呼応したものだろうが、
この馬岱の件はよく分からないね。
ただ、正確な時期は不明だが、青龍年間に涼州刺史徐邈が羌族の柯吾を討っている。
もしかすると、これに呼応したものかもしれない。
馬岱とはさほど関係ないが、司馬懿は牛金をよほど気に入ってたんだな。
231年に祁山で諸葛亮を防いだ時も、この馬岱の時も、公孫淵討伐の時も牛金を連れてっている。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/20(水) 01:12:42
気に入ったというより司馬懿直下だったんじゃね?
まあ最後は毒殺なんだけど
>>26 けど姜維は岩隈か一場で、唯一どこ行ってもエースになれる素材だな。
>>29 玄石図とかいうのに書かれていた、「馬後有牛」とかいう言葉を信じての事だったな。
司馬師が「牛金は名将だから、大いに用いるべきです」と止めたにもかかわらず。
それにしても牛金も息の長い将軍だな。
周瑜の江陵包囲から司馬懿の公孫淵討伐まで、一線で活躍してたみたいだし。
32 :
マ狂:2006/12/20(水) 02:38:31
>22氏
すまん、こっちの板見るの忘れてたw
>23氏
それもあるかも知れないね、ヒイとかは北伐反対だったみたいだけど、
蜀の軍上層部では攻勢的防衛論(って言うの?適当だけどw)が根強かったのかも
>27-28氏
おお、丁寧なレスどうもありがとう!晋書は読んだ事無かったので気になってたんだ
やっぱり目的がはっきりわからないね、確か4桁に上る損害を出して退却云々と聞いた気がして、
バリバリやる気満々やんけ!とか思ってたのよ、今度ちょっと探してみるわ>晋書の訳
偵察失敗に因る戦略の方向転換は脈ありじゃないかと思うよ
第一次北伐で諸葛亮が誰かに「上庸取っても意味ないっスよ」って言われてた(ハズだ)し、
敢えてそっちを狙うのは苦肉の策だったのかも知れないね
でも牛金渋いね、曹仁の下に居た時はまだ青い若将軍だったのに、
年月かけて年輪のように彫りの深い男になったのだなー
>>30 そんなまともな人材か疑問<姜維
でも、ちゃんとしたバックボーンのある陣営で活動してれば
まともな実績も上げられたかもね。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/21(木) 03:44:48
北伐覚えたてで、初めて街亭の守備を命じられて
本陣敷こうとしたとき、場所がわからず山のてっぺんに
布陣してしまった。で、魏の軍隊に水路を立たれて
戦に負けてしまった・・・
その後、諸葛亮がピンセットみたいなもので一人づつ
部下を処罰していたが、
「おまえわざとか?」とかイヤミを言われた。
オレはぜんぜん悪くないのに、イヤミを言われてアタッマきた。
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/21(木) 11:52:50
>35は悪くな(ry
>その後、諸葛亮がピンセットみたいなもので一人づつ
>部下を処罰していたが、
どんな処罰なんだろうなww
黄忠って何歳ぐらいで死んだの?
不明
>>35 YOUは悪くないよ。
悪いのは先主がYOUを重要な場面で使うなと釘を刺したのに、
使った野郎が一番の極悪人だよ。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/24(日) 12:52:20
でも逃亡するのは良くないよね
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/24(日) 13:08:24
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/25(月) 11:41:01
45 :
阿斗:2006/12/27(水) 14:00:22
朕が親征しようか?(´・ω・`)
46 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/27(水) 14:23:42
>40 でも60〜70過ぎなんでしょ?
姚伷(字:子緒)
・統率 50↓
→兵を率いたりということはないが、諸葛亮の参軍を勤めるなど一応の従軍経験はある。
・武力 20
→とはいえ武功はない。
・知力 65
→特に智謀を示すエピソードはないが、人物眼からこのくらいあげてもいいかと。
・政治 75
→劉備が益州を平定すると功曹書佐、劉禅が即位すると広漢の太守、諸葛亮が漢中に赴くと丞相掾、参軍を任じられ、諸葛亮没後は尚書僕射まで昇った。
特に諸葛亮の元では文武両面に渡って人材を推挙し、称揚された。
・魅力 80
→郷里の人にとても信頼された。
久しぶりにマイナーどころを取り上げてみた。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/28(木) 01:06:09
光栄スレでやりたまへ
51 :
阿斗:2006/12/29(金) 20:33:28
朕が親征しようか?(´・ω・`)
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/30(土) 02:23:32
関羽と馬超って会話したことあんの?
無い
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/30(土) 02:53:14
ちゃんと関羽に挨拶しに行かないとまずいんじゃないの?>馬超
関羽って馬超のことどう思ってたの?
張飛と互角に戦ったみたいだけど>馬超
はいはいそんなエサにそんなエサに
>>54 演義の話だな?
手紙見せびらかせていたじゃないか
他のは知らない
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/31(日) 17:45:52
>54 担当地区が違うから。 馬超って後に都に攻め込んだ事あったっけ
関羽の侵攻と時期を合わせていたら対面も出来たのかね
都に攻め込んだ?
誰もしてないんじゃないか?
十八志略って本にそう書いてあった。でもこの本「張遼が戦死した」とか正史と考えると?な部分が多いんだけど
十八史略?
馬超とか黄忠について討議するスレッドは別にあるの?
馬超は専用スレがあるが、ここで語っても不都合は無い。
黄忠の専用スレは無いね。
楊儀って叩かれてるけど無能じゃないよね。
どっちかと言うと必要。
でも、俺は魏延擁護派だけどw
いや、魏延擁護論言ってる奴とかのレス見ると結構楊儀なんかに…。ってレスが多い。
そりゃ感情の問題だろう。
劉備スレにあったが蜀は採用基準ツンデレだから…
程畿(字:季全)
統率 50
→特に統率を評価すべきエピソードはなし。
が、夷陵の戦役において敗走する中で呉軍に徹底抗戦した点を評価。
武力 68
→その際、自ら戟を取って奮戦の末に戦死。
知力 65
→劉備が益州を平定すると従事祭酒(軍略などを担当)に任じられた。
政治 65
→劉璋時代、漢昌県の長、広漢太守に任じられた。
魅力 72
→ぶっちゃっけ適当。
※
かなり剛毅な人物であったろうことは龐羲の誘いを断ったこと、その最期の奮戦に見て取れる。
また漢昌には獰猛な賨族が住んでおり、程畿の剛毅さが役に立ったであろう。
>>50 まあ、そう言わんと。
程機は大陸じゃ人気なんだっけか
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/06(土) 00:10:35
程機?
>>76 乙です。
入り口の碑文、落書きされてる?w
>>76 こちらでもよろしくー。
落書きされてるっぽいな…。
中国は日本の観光地と同じような落書きが多かったです
「〜ちゃん愛してる by〜」みたいな感じです
中国語は分からないのですが、何となく分かってしまうw
次は漢平北将軍馬岱の墓石です
四川省広漢市の市街地にありました
なぜ石しかないのかは、txtを読んでください
2.85MBあります
■HAUU UPLOADER
ttp://hauu.cc/up/ 00000710.zip (馬岱墓.zip)
パスは batai
馬岱の墓もそうですが、探しても見つからなかった物が
かなりありました。
古い文献には、それらの墓や遺構がどこにあるか、
周囲の景色がどれほど美しいか等の記述があるのですが、
実際に訪れてみると、破壊されてしまって現存しない物が
多いのです。
次の[广龍]統墓は、逆に数が増えてしまった例です。
四川省の観光ガイドブックで[广龍]統祠墓を調べると
小さいながら博物館になっています。
当然観光客も多く、我々の他にも二人の日本人がいました。
しかし、実際に[广龍]統が戦死した場所は、そこから山道を
ほんの少し歩いたところにあり、そこにも墓があります。
現地のガイドの話では「一般の観光客は絶対に行かない場所」
だそうです。
■HAUU UPLOADER
ttp://hauu.cc/up/ 00000725.zip ([广龍]統が戦死した場所.zip)
パスは houtou
22.55MBあります。
>>69 楊儀なんかに任せるか?とか、某サイトで見かけたんだ。
それに、魏延と楊儀を比べた場合魏延を指示する人のほうが多いと思ったから。
いや、違うんならスマソ^^;
>76 >79-80 いや、素晴らしいですね。 これから三国志に関しての描写にも影響を与えそうです。
これは希望なんですが、そのうちそちらの画像を使用したサイトでも立てられてはいかがですか?
大勢の方の目に触れるべきだと思います。
鮑三娘って誰だか知らなかったです
研究旅行には毎年誘われるので、写真は増えていくと思いますが
私は中国史に関してもネットに関しても素人なので、
サイトを立てるというのはちょっと……
[广龍]統が戦死した場所が急坂の途中だというのは興味深いですね。
214年7月7日、[广龍]統は鹿頭関(白馬関)の前で敵を待ち伏せして
いたところ、敵の攻撃を受け、矢に当たり落馬して死んだとされて
いますが、鹿頭関から落鳳坡までは下り坂なのです。
普通に考えれば、関を背にして坂の上に布陣していたと思うのですが、
なぜ、軍師自らあそこまで坂を下って敵の目の前に出て行ったのか?
謎ですよね。
次は孔明の右腕といわれた蒋[王宛]の墓です。四川省綿陽市にあります。
ここは日本人が行かない街で、近畿日本ツーリストのコンピューターに
ホテルのデータが一つも登録されていなかったそうですw
■HAUU UPLOADER
ttp://hauu.cc/up/ 00000744.zip (蒋[王宛]墓.zip)
パスは syouen
17.04MBあります。
そうですかあ、観光旅行で立ち寄った史跡の写真をアップしていらっしゃるサイトは少なくありませんので
軽い気持ちでやって全然OKだと思いますけどね。
アップローダーだといつかは流れてしまいますから。趙雲の石碑の画像を落とし損ねた・・・
何はともあれありがとうございます!
ああ、名前+字の件ですが 文帝・曹丕ですらも
公的な文書で「曹丕子桓」と表記されていたなんて事もあるそうなので
それほど厳密な事では無いようです。
214年7月7日というのは、恐らく西暦での事だろうから、当時で言う5月か6月だろう。
雒城が落ちたのは214年夏(4月〜6月)だから、その戦死した日付を信じるならば、
落城寸前の戦死という事になる。
つまり、張飛らによる雒城の孤立化が成された後、城攻めの最後の場面で戦死したという事だ。
ちょっと迂闊すぎるように思える。
余談だが、この龐統の戦死を嘆く劉備に対し、
「龐統と雖も惜しむべからず」と語った広漢太守で南陽郡出身の張存が、
その発言のせいで太守を免官になっているな。
広漢太守という事は、占領地の太守という事だから、
張存もまた劉備に期待されていた人材だったろうに。
劉備は龐統をよほど気に入っていたと見える。
86 :
85:2007/01/08(月) 03:58:15
訳を間違えた。
「龐統は惜しむべきと雖も、大雅の体に違う」
だな。惜しむべき男だが風体がしょぼくれていた、と語ったわけだ。
>85
>85と>86では劉備からの受け取られ方が全然違うだろうなw
>85はともかく、>86は確かに言った方が悪いわ
>>84 趙雲祠の写真もう一度アップしておきました。
■HAUU UPLOADER
ttp://hauu.cc/up/ 00000745.zip (趙雲祠.zip)
パスは tyouun
27.2MBあります。
>89は総身が胆じゃあ!!
自宅のパソコンが突然ネットにつながらなくなってしまったので、
費い墓と鮑三娘墓の写真がアップロードできません
今、職場からこっそり書き込みしてます
自宅の方が復旧したら、また写真をお見せできると思います
では、やばいのでこの辺で失礼します
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/10(水) 01:41:03
やっと復旧しました。 何とか原因を突き止めましたよ。
ケージから逃げ出したハムスターが、電話線をかじったのが
原因でした。
さて、日本人はほとんど行かないという蒋[王宛]墓ですが、
地元ではちょっとした観光名所なのだそうです。
その蒋[王宛]墓に比べるとずっと地味なのが、
次の費[ネ韋]墓です。
四川省広元市の昭化古城の近くの道端に墓石だけがあります。
費[ネ韋]は蒋[王宛]と共に、孔明亡き後の蜀を支えた人物で、
突っ走る姜維を止められるのはこの人しか居なかった。
最後は大将軍・録尚書事まで昇進したが、宴席で酔ったところを、
降伏したふりをして蜀に入り込んだ魏の武将・郭循に刺し殺され、
その後、指導者を失った蜀は衰退していったとのこと。
■HAUU UPLOADER
ttp://hauu.cc/up/ 00000765.zip (費[ネ韋]墓.zip)
パスは hii
10.84MBあります。
ありがとん
次は鮑三娘墓です。
この人は関羽の三男の嫁さんだそうです。
実在の人物かどうか疑問視されてもいますが
面白いエピソードがある人で、なかなか人気があるみたいです。
場所は四川省広元市です。市街地というほどでもありませんが、
道路に面して建物が結構あるところで、建物の間の空き地に
ぽつんと墓がありました。
■HAUU UPLOADER
ttp://hauu.cc/up/ 00000770.zip (鮑三娘墓.zip)
パスは housanzyou
24.82MBあります。
次は平陽府君闕(へいようふくんけつ)です。
四川省綿陽市にありました。
文献には、仙人橋という橋の近くにあると書かれていましたが
今は近代的な街の中で、後ろには巨大な博物館が建っていました。
ところで、平陽府君とは誰なのか、闕とは何なのか、
すぐに分かる人は本当にすごいと思います。
俺はその場に連れて行かれて、実物を見て、
英文の解説を読んでもまだ分かりませんでした。
この平陽府君闕とはとある人物の墓の門のようなものです。
(正しくは門ではないそうですが…)
墓はありません。闕だけが残っていました。
■HAUU UPLOADER
ttp://hauu.cc/up/ 00000779.zip (平陽府君闕.zip)
パスは heiyoufukun
17.29MBあります。
平陽亭侯の李福の事ですね。諸葛亮が後継者を??に指名するとの
遺言を直接伝え聞いた人物です。
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 05:56:27
ほう
いろいろくわしいですね
本当に、こういう人がいるから油断できないw
趙雲スレにも書きましたが、俺は本当に素人なので、
写真は確かに俺がその場で撮影した物ですが、
解説はあまり信用しないでくださいね
もう既に間違いが発見されていますし…
某サイトによると、
趙雲廟は2000年3月には廃屋と化していたが残っていた。
その時には既に趙雲祠はあったとのこと。
趙雲スレに書いた「廟だけが近くの公園の中に移築?」は間違いです。
ちなみに俺が行ったときには、もう廟はありませんでした。
崩れかけた小屋はいくつかありましたが、
ガイドが中学校の人の話を通訳してくれたところによれば、
趙雲と関係がある建物は残っていないとのことでした。
李福といったら息子が陳寿と仲が悪かったから記載されなかった人だっけ。
李福自身は蜀の支えになる人とか書かれてたようだけど。
その息子の名前はなんだったっけ?
さらに某サイトによると、
費[ネ韋]墓は昭化古城の西門から約50m、
写真を見ると、墓もあり、石もいっぱいあります。(2001年8月)
俺が行ったときには門の前の道路が拡張されていて
墓はなく、墓石だけが道端にあり、石は全部で三つでした。
場所は門から200m位だったと思います。
これは墓を壊して移動したんだな…
とにかく古い物はどんどん壊されていますから、
見に行くなら今のうちですよ、皆さん。
さて、今回行ってきた三国志の時代の遺跡は、
これでだいたい終わりです。
あとは、観光地になっている方の[广龍]統祠墓と
成都武候祠博物館の写真がありますが、
三国志と関係ないもの(李白・杜甫などの遺構)も入れると
全部で1000枚以上撮影してきたので、整理が終わらないんです。
後で[广龍]統祠墓を何枚かアップしますから、すこし待っていてください。
李驤
俺の書き込みは完全にスレの進行を妨げていますね。
申し訳ない。
もうすぐ終わりますから、ご容赦ください。
さて、次は観光地になっている方の[广龍]統祠墓です。
枚数が多いので、三つに分けました。
■HAUU UPLOADER
ttp://hauu.cc/up/ 00000794.zip (1白馬関と金牛道.zip)24.74MB
00000795.zip (2靖候墓.zip)21.17MB
00000796.zip (3[广龍]統祠.zip)31.30MB
パスは houtou です。
>103 あなたのおかげで盛り上がってますよ。
特に趙雲スレッドはいつにもまして盛況です
ホウ統って人気あるのかな? 夭折した才人は評価が高くされるけど
蜀(四川省)の人からすると劉備たちが平定してから前任よりも上手く施政したからって事だろうか。
だったらホウ統を戦死させた張任らも非難されてんのかな?
岳飛を陥れた秦檜が彼の廟に至るまで唾棄されているように、とか思ったが
張任も忠臣って事で好かれていて広漢市に墓があるんだよな。
墓前に線香の煙が絶えない程度には、[广龍]統は人気があるみたいですよ。
中国が旅行ブームで、観光客が多いということも関係あるかもしれませんが。
ちなみに、成都市内の旅行会社の公告で、一番値段が高かったのは
九寨溝行きのツアーで、1450元くらいでした。 安い!
さて、お墓巡りの最後は武候祠(成都武候祠博物館)です。
ここは、孔明を祀った祠(武候祠)と劉備の墓(昭烈廟)が
セットになった豪華な博物館です。
資料には成都市の南の郊外と書かれていましたが、
行ってみたら市街地の真ん中でした。
カメラのメモリーが残り少なくて、画質を落として撮影しています。
■HAUU UPLOADER
ttp://hauu.cc/up/ 00000807.zip (武候祠.zip)
パスは bukousi
27.06MBあります。
武候祠の写真を見ていただいた方には分かると思うのですが
成都の朝は暗いです。 昔から
「蜀犬は陽に吠える」
(蜀は曇りの日が多いので、太陽に驚いて犬が吠える)
というのだそうで、雨や霧も多いようです。
滞在中は毎朝霧が出ていたので、7時半頃までは、まるで夜のような暗さ。
昼間の屋外でも、カメラをオートにして撮影すると、かなりの確率で
ストロボ撮影になってしまいます。
空気中の水滴に光が反射して画面は真っ白。
被写体までストロボ光が届かないので被写体は真っ暗。
しかたなく、できるだけ発光禁止にして撮影していましたが、
1/8秒の手持ち撮影はきつかった。
さて、ここからはオマケです。
「蜀の桟道」
本来、桟道の遺構は、岩壁に杭をさした孔が残っているだけですが、
観光用に桟道を再現しているところもあります。
■HAUU UPLOADER
ttp://hauu.cc/up/ 00000818.zip (蜀の桟道.zip)
パスは sandou
28.99MBあります。
ホントにもう・・・
なんとお礼を言ったら良いのやら
オマケその2は天雄関です。
広元市昭化鎮のけっこう高い山の上に、何かの戦いで、
孔明が布陣した場所があります。
現在は甘露寺という仏教のお寺があり、劉備と孔明ともう一人
誰かの像がありました。
天雄関に興味がない人には面白くも何ともない場所です。
この日は一日登山かと思いましたが、
道路が出来ていたおかげで助かりました。
天雄関についての詳しい説明は… 誰か分かる人お願いします。
■HAUU UPLOADER
ttp://hauu.cc/up/ 00000825.zip (天雄関.zip) 15.07MB
00000826.zip (甘露寺.zip) 16.42MB
パスは tenyuukan です。
昭化鎮って漢寿(葭萌)だろ。
そんな所に孔明が布陣するような戦いは知らないなあ。
民間伝承か何かだろうか?
ガイドさんは「諸葛亮が陣を敷いた場所」と言ったんですが…
先生に詳しく聞いておけば良かった。
ググっても何も出てこないし…
さて、オマケその3は、八陣図遺址です。
諸葛孔明が軍を駐屯させ屯田や演習を行った場所だそうです。
■HAUU UPLOADER
ttp://hauu.cc/up/ 00000831.zip (三国八陣図遺址.zip)
パスは hatizinzu
30.49MBあります。
八陣図遺址は碑があるだけでどこが遺跡なのか分からない所でした。
もしかしたら、市が立っていた大きな広場が孔明が軍の演習を行った
場所なのかもしれません。
さて、オマケその4は、剣門関です。
剣門関は、かつての蜀道の両側に険しい山がそびえる天然の要塞で、
諸葛亮が官を置いて防備を固めた所です。
姜維が立てこもり、魏の進撃を食い止めた場所としても知られています。
■HAUU UPLOADER
ttp://hauu.cc/up/ 00000842.zip (剣門関.zip)
パスは kenmonkan
4.84MBあります。
今回俺が撮影してきた、三国時代の遺構の写真はこれで終わりです。
残りは、唐代・宋代など別の時代のものなので、これで止めておきます。
ですが、最後に【万里橋】の現在の様子を少しだけお見せしたいと思います。
前にも書きましたが、文献を頼りに訪ねてみると、破壊されてしまって
現存しないものがかなりありました。
【杜鵑城遺址(とけんじょういし)】
三国時代より少し古いものですが、蜀王杜寧の都城で、
城壁だけしか現存しないとはいえ、長さ数百mに及ぶ広大な遺跡とのこと。
行ってみたら、城壁は完全に破壊され、広大な工事現場になっていました。
碑だけが、少し離れた民家の庭先にある墓地の中に移動されていました。
【諸葛井(しょかつせい)】
成都市の中心部に諸葛井という地名があり、孔明が使っていた井戸が
保存されているとのことでした。
行ってみたら、井戸は破壊されて繁華街になり、地名も変更されていました。
どうも中国は近年の建設ラッシュで遺跡の破壊が続いているようです。
さて、【万里橋】ですが、これは旅人が成都から出発するときの
起点となる場所で、日本でいえば、お江戸の日本橋のようなものです。
孔明が訪れたという三国時代の橋が残っているはずはありませんが、
最近の資料には、「清代の石橋が現存する」とあります。
この橋の名の由来は、孔明が…… この続きは明日の晩に書きますね。
【万里橋】は、成都市の市街南部、錦江に架かる橋です。
現在も市街の中心部から南へ向かうメインルートにあたります。
杜甫や張籍の詩にも詠まれた成都の名所です。
資料によると、
『かつて船に乗って東航するときの起点で、
三国時代に蜀の費[ネ韋]が呉に使者として赴く際、
諸葛亮が当所まで見送ってくると、費[ネ韋]が
「万里の行も此の橋より始まる」と言ったのにちなんで
万里橋と命名された』
『現存するのは、清の康熙50年(1711)に架設された
七孔のアーチ石橋で、花木が生い茂り、古い橋と
引き立て合うその風景は、まさに絶景をなす』
とあります。
これはもう行ってみるしか!
というわけで、これが現在の万里橋です。
■HAUU UPLOADER
ttp://hauu.cc/up/ 00000849.zip (万里橋.zip)
パスは banrikyou
5.71MBあります。
(注意)美しい景色を期待している人は見ない方がいいです。
というわけで、これで本当に終わりです。
「次は7月に西安の予定。今度四川に行くのは2〜3年後です」
とのことですから、当分の間は、このスレをお騒がせすることはないと思います。
しかし、3年後に、果たしてどれほどの遺跡が残っているやら。
皆さんも、中国に行くなら今のうちですよ。
それでは皆さん、長い間お付き合い戴きまして、本当にありがとうございました。
お疲れさんでしたー
乙!
写真で見られるとやっぱり違うな、すごく面白かった
>>115 ありがとう
もっとお騒がせして欲しいんでこれからもよろすく
119 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 20:23:39
張翼とか廖化が好きなんだが彼らは四川省とかに史跡が遺こって無いのかな?
彼らは何故 後世において五虎将のような扱いをされ無かったんだろう?
そして陳式も彼らに次ぐ名将だと思うが 陳寿も もっとねじ込めばよかったのに
季漢輔臣賛ねじ込んでるくらいだからホントに史料がなかったんじゃないか?
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/23(火) 22:39:11
ゲームから入った人間には、張翼はともかく廖化や陳式って、
どうしても雑魚なイメージが拭えないんだよな。
同じく雑魚イメージだった曹豹・趙累・馬忠・簡擁あたりは、
マンガ『蒼天航路』でずいぶんイメージが変わったけど。
陳式か。
漢中では別働隊を率いて馬鳴閣道から武都方面へ進出し、夷陵では水軍の指揮を執り、
孔明の第三次北伐では中心的な役割を果たしているのに、いまいちメジャーになりきれんね。
たぶん、演義は知らないけど、横山あたりで軍令に遵わずに
突出した挙句に大敗して斬首、ってだけのイメージの人も多いんだろう
いまだにゲームでもてきとうな数値しかつけられていないし、
麋芳や士仁も含めて似たような扱いってことには俺も甚だ遺憾
>>123 んなこと言っていたら、
優秀なヤツだらけになってしまうがな。
ゲームで廖化は重宝すると思うけどな。
まぁ、後半は後方要員だけどさ。
ゲームセンターでは廖化とか趙累とか大活躍だよ
>121 張翼・廖化・陳式も蒼天の終盤に登場して 出番は少ないながらも印象的だったな。
まあ陳式はあの後、徐晃に敗退させられているわけだが
何で陳式は演義で刑死しているんだろうか。そのあたりもメジャー化を阻んでいるんだろうな
演義は諸葛亮の政策や軍略の停滞・頓挫の原因と責任を他者に負わせるからな
この場合は陳式が生贄
魏延も絡めれば反骨云々の複線も回収しつつ諸葛亮は正当だと演出できるし
いやー史跡写真よかった。
久々にいいもの見れたよ。
けど中国の史跡って偽物多いんだよね。
赤壁とか孔明が東風を呼んだ拝風台とか。
四川の史跡は観光地化して無いから信頼できそうだけど。
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 22:05:55
能力について討議するなら正史の記述を元にするのが妥当だろうけど、
どこから三国志に入ったかによって武将のイメージって確かに固定化するのは分かる。
俺は最初がナムコのゲームで、横光読んで吉川いって光栄のゲームしてちくま読んで蒼天航路と来たが、
ナムコゲームの曹操軍がスーパーマン揃いだった印象が強く残ってる。
どうでもいいけど、ゲームで廖化って重宝するか?
>>128 桃園もだな。
>>129 全体に平凡な能力値で長寿だから
前半は守備的壁、後半は後方と使えたよ。
昔の光栄三國志での話だけどね。
三国志大戦の廖化は大人気だぜ
計略も割と使えるし
132 :
129:2007/01/25(木) 22:06:53
>>130-131 俺がやったゲームは、ナムコの中原の覇者と光栄の3と4だからかな。
130さんの言ってるような使い方をできたマイナー武将は、
蔡帽とか馬謖だった気がする。ずいぶん昔で記憶が曖昧だけど。
廖化や趙累だと火刑で焼いてたかも(汗
>>129 大戦だと1コスト騎兵だから
入る余地はいっぱいある
ほっしゅ
135 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/02(金) 17:18:33
陳式の官職って何ですか?
>>135 三国志には明記されてないね。
・劉備の漢中攻めの時に十余軍を率い別働隊として馬鳴閣に向かったこと(徐晃伝)
・夷陵の戦役の際に呉班とともに夷陵に駐屯したこと(先主伝)
・呉班は劉備の時代に領軍に任命されていたこと(楊戯伝季漢輔臣賛)
あたりから呉班と同じように領軍などの中央軍の将領だったと思われる。
また
・229年に諸葛亮に派遣され武都と陰平を平定(後主伝・諸葛亮伝)
・230年に西方に侵入した魏延、呉懿はそれぞれ鎮北将軍・督前部・丞相司馬・「涼州刺史」、護軍・討逆将軍・「関中都督」だった。
呉懿との比較から同じく中央軍のそれなりの高官に昇っていたのではないか?
まあ確たることはほとんどわからん。他の史書はどうか知らん。
137 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/02(金) 17:55:00
護軍あたり?
>>135 「華陽国志」の後主七年に、丞相亮遣護軍陳戒攻武キ・陰平、とあるため、
>>137さんの仰るとおり
呉蜀対立辺りに出払ってるんかな
140 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 19:28:55
蜀AGE
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 19:52:46
テスト
保守
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/10(土) 21:51:38
廖化・張翼・王平・句扶と、
いわゆる五虎将軍を比較したいんですが。
>>143 軍才は王平>>>>>>廖化>張翼だな。
句扶は王平に次ぐ将だったらしいが、具体的に図れそうな事跡がないからなあ。
>>143 まず蜀の将軍制度について考えてみると、ある時点で位階の逆転があったことが分かる。
ひろく五虎将軍と呼ばれている中の四方将軍、関羽・張飛・黄忠・馬超の生前は
馬超が平西将軍から左将軍になっていることからも分かるように四方将軍の位は非常に高いものだったが、
その後をみると四方将軍位を持つものが軍を総督することはなく、
四征将軍、四鎮将軍などが目立つようになってきている。
そこで劉備の漢中王即位時の四方将軍がどの将軍位に対応するかが分かれば
後期における誰が五虎将軍のポストにいるのかもわかると思う。
あくまで個人的な見解だが、四方将軍以外で五虎将軍というカテゴリに加えられた趙雲が
征南将軍、鎮東将軍を歴任していることから
恐らくは四征、四鎮あたりが当てはまるんじゃないだろうか。
蜀は後漢王朝の延長線上にあるということを主張していたから、
正式な将軍は驃騎・車騎・衛と四方将軍、それに臨時任官の大将軍が加わって8名のみという事情もあるね。
(四征、四鎮が二品、四平、四安、四方が三品・・・というのはあくまで魏の序列だから。)
その後時代が移るにつれて魏と同じように実戦で指揮を執る遠征、国防の司令官である四征、四鎮が台頭したんだろう。
ちなみに、蜀の人士の序列は連名の上奏文を見ればよかったりする。
漢中王即位の際の上奏文なんかとても興味深い
あとは李平弾劾のときのとかね。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/12(月) 13:53:52
李厳弾劾の表は北伐参加者の連名で成り立ってるな
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/13(火) 02:22:17
ほす
>150
当時の蜀の序列がわかりやすくて重宝するよね
23人の連名を挙げて欲しい保守
行中軍師車騎將軍都郷侯臣劉琰、使持節前軍師征西大将軍領涼州刺史南鄭侯臣魏延
前将軍都亭侯臣袁綝、左将軍領荊州刺史高陽郷侯臣呉壹、督前部右将軍玄郷侯臣高翔、督後部後将軍安楽亭侯臣呉班
領長史綏軍将軍臣楊儀、督左部行中監軍揚武将軍臣鄧芝、行前監軍征南将軍臣劉巴
行中護軍偏将軍費禕、行前護軍偏将軍漢成亭侯臣許允、行左護軍篤信中郎将臣丁咸、行右護軍偏将軍臣劉敏、行護軍征南将軍當陽亭侯臣姜維
行中典軍討虜将軍臣上官雝、行中參軍昭武中郎将臣胡済、行參軍建義将軍臣閻晏、行參軍偏将軍臣爨習、行參軍裨将軍臣杜義、行參軍武略中郎将臣杜祺、行參軍綏戎都尉盛勃、領從事中郎武略中郎将臣樊岐
漢中組のみだな。
155 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 19:17:02
>154
中央の人間が入るとしたら高翔あるいは呉班の次に陳震、楊儀の次に蔣琬、って感じかね。
あとは、費禕の上くらいに李福か。
李平への文句とか残ってないの?
魏延あたりなんかなんか言いそうなもんなのに
157 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 21:49:25
>>156 蜀は記録を残さないことで有名BY田中芳樹
>>154みると、陳式はやっぱり中央軍の人間って認識でいいのかな
護軍だった経歴から考えても
159 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/15(木) 00:32:43
保
160 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/16(金) 06:03:18
>158
護軍云々は関係ないと思うよ。姜維も行付きだけど護軍だし。
武都、陰平攻略を単独で任されるくらいの人間だから、北伐当初は参加してたとは思う。
たが、李厳弾劾の上表に連署してない、ってのは武都・陰平攻略から、李厳弾劾までの間に死去したか、引退したんじゃないかな。
保守
162 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/18(日) 01:44:09
age
164 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/19(月) 02:20:54
後期の蜀軍にスポット当てた作品ってどんなのあります?
柴練と芳樹
演義も良い
ミ・д・ミ ホッシュホッシュ
陳式についてはもうすこし資料がほしいよな。
今の状況じゃ妄想が膨らむばかりだ。
保守
演義での夏侯尚と陳式の人質交換を匂わす出来事ってあったのかな
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/23(金) 10:05:31
出たか 逃げ上手を不敗とほざく駄法螺の大将
駄法螺吹き
173 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/26(月) 02:14:45
羅憲
174 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/27(火) 09:27:29
姜維や王平や夏侯覇ら降伏組は魏に負けたら誅戮されるだろうから
周囲を巻き込んででも必死にやっていたって話はどこまで信憑性がありますか?
175 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/27(火) 12:19:49
魏と呉を行ったり来たりした唐咨、魏と蜀の間をフラフラした孟達など、出戻りが誅殺されるとは限らない
降将なのに厚遇してくれる人のために尽くそうとか、それは日本人的感覚ですか
蜀の老臣二君に仕えず!
178 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/27(火) 22:27:14
>174
夏侯覇はホントにそうかもしれんね。魏でも皇族の上、反司馬家を標榜してる訳だから。
王平の場合、出身地付近(巴西郡から漢中郡)を領有してる側に付いてるだけであって、国家と言うよか故郷に忠実な感だな。
姜維もどうかな。もともと魏で高官だった訳でもなし、高名だったわけでもない若造だった訳で。
出戻ったら殺されそうなのは、夏侯覇くらいじゃないかな。
179 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/28(水) 21:15:50
何故か王平にはジジイという印象がある・・・
廖化(一人説.ver)や張翼は良い年だろうに妙に若いな…
廖化の二人説って何?
>>181 廖化が長生きだった為に廖化という名前の人物が実は二人居たのではないか?という説
正史だと70歳越え程度だが、演義だと100歳越えてそうだからな >廖化
だが90歳代なら司馬孚や呂岱が同時代にいるからあながちありえなくはない
>>183 演義じゃ元黄巾賊だっけ?
そんな長生きで蜀の人なんだし
陳寿もインタビューしてたらなあ
185 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/01(木) 14:24:06
なぜ演義だと100になるわけ?
演義と正史じゃ登場年と死ぬ年が変わってる場合があるから。
187 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/01(木) 14:34:23
いや、演義でも100とは書いてないだろう?
黄巾族出身でなおかつ蜀の滅亡まで生きていたことを考えると
大体それぐらいになるだろ
190 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/01(木) 16:24:11
だいたいそれぐらいってアバウトだな。80も100もおんなじって?
関羽と遭遇した時点で20歳としても蜀滅亡時で80代にしかならんのだが。
>>190 関羽と遭遇した時点で20歳ってことは
4歳で黄巾の乱に参加してたと言いたいのか?
廖化「ばーぶハーイ(蒼天既死)」
193 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/01(木) 16:48:39
>>191 なんで4歳になるのか意味が分からん。その数字はどこから出てきたんだ?
演義にはそんなこと一言も書いてないんだが。
黄巾の乱は184年から186の間
千里行中の関羽と遭遇したのは200年
これだけ言ってもまだ分からんか
黄巾の残党にいたと言うことなんじゃね?
196 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/01(木) 17:42:58
廖化が184年から186年の間に黄巾軍に参加していたとはどこに書いてあんの?
周倉あたりと混同してるんじゃないか。
元黄巾族という経歴からそう考えるのが普通だろ
198 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/01(木) 18:12:12
黄巾賊なんてそこいらにうようよいるのに
なんでまたタイムスリップまでしなきゃならんのさ。
演義につっこんでたらキリない
200 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/01(木) 18:14:08
いや、演義に書いてないって言ってんだが。
関羽と遭遇した時点でまだ黄巾の残党やってるならともかく
あくまで「元黄巾族の山賊」として登場する廖化が20歳というのはなあ…
ありえなくはないけど読者は普通ある程度年いってる人を想像するんじゃないだろうか
202 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/01(木) 18:27:54
少年と明記されてるのに?
本当だ、これは知らなかった。
失礼
Wikiで廖化(りょうか、189年?−264年)になってるが
この189年はどこから出たんだろう
分かってるのは、261年に70歳を超えてるって事だけだと思う。
本当に189年ってのはどっからきたんだろうな?
光栄ゲーじゃね?www
宗預伝から推測したとしても特定することは出来ないだろなあ
208 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/01(木) 20:22:05
記憶が曖昧で恐縮だが、宗豫伝の「諸葛贍が宮中の諸事を取り仕切る様になった・・・云々」時期を、261年に行都護・衛将軍・平尚書事でなく、258年の尚書僕射と考えた場合どうだろう。
70歳は現在では69歳でカウントするから、258年−69=189年って感じ。
Wikiに書き込んだ人は、258年に70歳とカウントし、189?としたのでは?
>>208 そうだとすると、その人はだいぶ勘違いしてるな。
宗預伝には「時都護諸葛瞻初統朝事」とあるので、
258年じゃなく諸葛瞻が都護となった261年の事だし、
「吾ら年七十を踰え」だから、70丁度とは書いてないしな。
ところで、宗預は247年に60丁度と見ていいのかな?
つか、本人も正確な数字は覚えてないだろ。
211 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/02(金) 06:46:43
>209
ああ、都護って記載されてたか。うろ覚えなんで申し訳ない。
247年のケ芝との会話かな。
60ちょうどとは断言できないだろうけど、60歳以上とは言えるでしょうね。
とすると、188年以前の生年と言う事になるかな。
廖化、なにげに兵法沢山知ってるから使いやすい。
で、数多くの戦闘に参加するから、更に兵法覚え込む。
かわいいぞ、オレの廖化。
光栄ゲーの場合
倚天の剣、青スの剣は廖化、向寵専用
黄巾の乱で処刑されちゃうorz
義理がたいから引き抜き応じないし
俺は廖化の黄巾出身って設定に嫌気がさしてるんで、夢を変更させて他の陣営に
流れやすくしてやってる
実際には楊儀とかの仲間だからなあ
輔匡、劉邕、陳到の記録が少ないのは東方に配置され李厳のラインに付けられたからかねえ?
印象操作乙
220 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/04(日) 21:40:28
李厳の弾劾文に載ってる劉巴ってのが劉邕のことらしいよ。
劉邕、建興年間に監軍・後将軍まで上った。
劉巴、建興9年、行前監軍・征南将軍。
「邕」と「巴」。
建興9年時からさらに出世し、「行」の字が取れて「四征」から「四方」へ上った。
うーん、ありそうだ。
222 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/05(月) 00:18:25
どっかに劉巴=劉邕って書いてあったんだよ。
史料じゃなくて注釈か何かだったと思うが
どこに書いてあったんだっけな。思い出せんの。
劉邕
字は南和 義陽出身
劉備に従って入蜀し、江陽太守を経て、監軍・後将軍、関内侯となる
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/06(火) 10:26:07
226 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/06(火) 10:38:46
某日、歴ゲー板に「無双シリーズ史上最悪の失敗点」というスレが立つ。
しかし良スレだったスレは三国無双2信者によって中盤から荒らされ大変なことに・・
しかし荒らし達はカズ子なるコテが犯人だということにしようとしたものの
明らかに自分達がスレの混乱を招いた張本人であることがバレバレw
好評な無双シリーズの他作品に対するすさまじい嫉妬から、いつもの如く
気持ちよくスレを荒らしてたゴキブリ共であったが
スレ住人らに自分達の厨行為を正当化するのが無理であることを思い知らされ突如豹変。
自分達のスレでコソコソ陰口叩きつつも恥ずかしいログを流すべく、
怒涛の連投で失敗点スレを埋めていくのであったw
この日を境にものすごい勢いで2信者は暴れ出し今も無双関連スレを荒らしてるが、
失敗点スレで論破されたという恥ずかしい過去は消えるのだろうか・・・
彡川三三三ミ
川川 ::::::⌒ ⌒ヽ
川川::::::::ー◎-◎-) / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
..川(6|:::::::: ( 。。)) < 2こそ最高w
川川;;;::∴ ノ 3 ノ \__________
ノ\_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ ゲプッ
( * ヽー--'ヽ )
(∵ ;) ゚ ノヽ ゚ ):) ○三国無双2信者
(: ・ )--―'⌒ー--`,_). ○36歳
(___)ーニ三三ニ-) ○歴ゲー板の荒らし(そろそろ2年目に突入)
(∴ ー' ̄⌒ヽω ). ○無職
`l ・ . /メ / ○中卒(議論で瞬殺される凄まじい低能ぶり)
ヽ ∵ /~- / ○童貞
(__)))))_))))) ○好きな行為『2を誉めてくれないスレへの荒らし』
. ○嫌いなコテ『カズ子』
保守
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 20:08:57
何度でも言うが、張翼徳と張翼のような改変は配慮して欲しかった
張翼の事をどうでもいいと思っていたわけではないのだろうが
229 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/09(金) 20:34:34
長水校尉の諸葛均は活躍できなかったの?
>>230 改変した結果他の人と紛らわしくなった
ってことじゃね?
益徳→翼徳か
龐悳と龐徳公は紛らわしいよなあ
保守
236 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/13(火) 15:09:37
蜀将の肖像画とかどこかに残ってませんか?
前に馬岱スレで見た奴思い出しちゃった
黄権がイイ!
魏に仕えた期間の方が長いのに蜀志に立伝されている、ってことは、
陳寿も彼の節義や、その子黄崇の戦死に心打たれるものがあったのかな。
239 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/15(木) 01:18:47
その割には張任とかの扱いは軽いな
240 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 05:51:14
魏延や諸葛亮たちを貶めずに楊儀を擁護するにはどうすればいいだろう?
241 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 14:40:40
楊儀はあの劉備や関羽もみとめた天才
242 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/17(土) 17:15:12
こないだ、ある談合にて 馬超の家系の人と会えた
やっぱ馬さんなの?w
馬超の家系って全員殺されたんじゃないの?
>>244 馬承という息子が後を継いだ。
あと、秦良玉の旦那・馬千乗は馬超の子孫と称してたはず。
246 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/20(火) 04:13:55
張魯に殺された馬秋カワイソス
曹操は殺さないで送り返したって言う事だけど、
もしかして降伏し立ての張魯がどういう対応をするか試すつもりでそうしたんだろうか。
劉璋も張魯もお互いの親族を殺し合ったりしているが
このあたりのくだりを知ると本当に嫌気が差してくる。
>>245 劉理の子が馬超の血を引いているんだな。
全員がそうと言うわけではないんだろうが。
馬承しか居ない気がしてたから、レアな血縁だと思ってたけど、
そうか、劉理に嫁いだ娘もいたんだな。
>秦良玉の旦那・馬千乗は馬超の子孫と称してた
これって、小説じゃなくて、史書の記述でも「馬超の子孫」を称してるんかな?
秦良玉の記述は読んだことなく小説と史書の記述の区別がつか無い…(´・ω・`)
誰か詳しい人の子細説明せつに希望。
程畿、傅肜、傅僉……
>>248 でも劉理の血統は永嘉の乱に巻き込まれて絶えてしまってるけどな。
251 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/03/28(水) 13:49:12
三国志マガジンに羅憲の漫画が載っていたよ。驚きだ。
mjdk?
読みに行こう
253 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/01(日) 18:56:05
羅憲は良い武将だ
出来れば、成都陥落以前にもっと活躍して欲しかったがな
そのタイミングで呉を攻めるの?
256 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/06(金) 01:39:03
蜀勢力は、他にやる人がいなくなったりでケツ叩かれて活躍し出す人が多い気がする
257 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/08(日) 09:00:26
蜀は人材が不足しているのが難点だ
難点は他にもあるぞ。
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/09(月) 07:56:17
どこだ?
年寄りばっかな所とか?
おいおい
地の利も悪いな
政権維持し続けるだけならともかく天下を窺える場所じゃない
漢楚の頃は、天険の要害に守られた地で、項羽がそれで満足しちゃって
関中をうかがえる程の国力増強に努められたけど、
三国時代は魏が放置してくれなかったからね。
国力が小さすぎる。
パロディがオリジナルを超えるのは難しいよな
266 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/16(月) 15:59:44
誰が誰をパロったの?
劉備が劉邦を
268 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/04/18(水) 16:30:30
諸葛亮が曹操を
かと思った
天才同士、思考が似通うんだろう
曹操と孔明を“天才”と言ってはいけません
立証不能な気分だけのそんな言葉を口にするから
俺様を喝破できぬのです
劉備が劉邦を真似たってのも、明確に記述があるの?
たまたま同じ領地を得ただけじゃないの?
273 :
マ狂:2007/04/20(金) 01:13:13
あれじゃね、けだし高祖がどーたら
暗渡陳倉の故事だろ。
予期しない時点で抵抗の少ない地点に奇襲を掛ける、この発想。
孔明は一身にして三傑を兼ねようとした男。
ただ、そのどれもが中途半端に終わった。
支那史を通してみると三国時代は上から下までボンクラぞろいだ。
キチガイ度で南北朝よりマシなのだが、
当時の崩壊した社会基盤では本来天才など出ようはずがない。
むしろ劉邦を真似たのは袁術説
276 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/01(火) 01:10:37
諸葛亮スレッドは無いの?
277 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/09(水) 09:58:51
ネタが浮かばん
ネタが無い?
それなら放っておこうよと思うが、
カンヨウなんかどだ?
マンコ好きそう
呉征伐でほぼ総指揮を任された馮習、張南って何者なの?
>>280 馮習 字は休元。荊州南郡の人。
中郎将として蜀征服戦に参加、益州諸郡を攻略。
成都入城後は揚武将軍に任ぜられる。
漢中攻防戦では張飛に従って張コウを破る。
劉備が皇帝に即位すると鎮東将軍・建昌亭侯。
夷陵の戦いでは領軍・大督として、全軍を指揮したが、
敵を侮って深入りし敗北した。
張南 字は元進。荊州南郡の人。
中郎将として蜀征服戦に参加。
成都入城後は建忠将軍に任ぜられる。
漢中攻防戦では劉備に従って夏侯淵と戦う。
劉備が皇帝に即位すると征虜将軍・都亭侯。
夷陵の戦いでは前部督として、先鋒を指揮したが、戦死した。
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/11(金) 16:17:04
蜀将のランキングをつけるとどうなる?
不毛な燃料はけっこう
>>282 自由奔放No1:簡雍
兵が上司にしたくないNo1:張飛
文人が上司にしたくないNo1:関羽
愚痴りたくない相手No1:馬超
容姿の優れない嫁No1:孔明の嫁
帰りが一番早い官僚No1:費倅
>>281 二人とも夷陵の戦いで急に出てきた印象があったけど、荊州時代からなら長いこと従軍してるんだな
馮習
> 成都入城後は揚武将軍に任ぜられる。
> 漢中攻防戦では張飛に従って張コウを破る。
> 劉備が皇帝に即位すると鎮東将軍・建昌亭侯。
張南
> 成都入城後は建忠将軍に任ぜられる。
> 漢中攻防戦では劉備に従って夏侯淵と戦う。
> 劉備が皇帝に即位すると征虜将軍・都亭侯。
これらのソースは?
あと両者の入蜀の際の官職、張南の夷陵時の官職のソースも。
287 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/12(土) 22:20:28
流れ豚斬りですが
劉盾が蜀でどれくらい出世できたのかが気になって仕方ない。
劉備が乗っ取りに来なければ、
蜀の皇帝ないし悪くても魏帝国の蜀王になれたポジションだろうし。。
ちなみに劉樟は呉帝国で益州牧に任じられたよね。
>>281 確かに良く見ると入蜀直後の揚武将軍といえば法正だし、でっち上げ臭いな…
>>287 奉車中郎将に任命された後の消息は不明。
>>289 行方不明とは資料に名前がそれ以後出てこないの?
>>290 そう。劉循の名前は奉車中郎将に任命されたところで史書から消える。
>>287 無能ならそれなりの地位を与えて厚遇しただろう。
が、劉循は正史じゃ劉備を寡兵で年をまたいで防いだ訳で。
用いるのには優秀すぎて、自分の基盤を脅かすと考えたんじゃないかなぁ。
293 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/13(日) 09:24:07
孔明死後の蜀は人材不足だったんですか?
もっとマシな武将いなかったのかね
>>281 そりゃ負けるわ
夷陵には孫呉は主力陣を大量投入してるしな。
馬良ってどういう死に様だったんだろ?
諸葛亮の生前から、
国家のTOPが二足の草鞋履いて外地に遠征し、ろくに都に帰ってこれない程度には乙ってた。
これは才能云々より、自覚の問題による所が大きいんだけどね…以下列挙。
・諸葛亮は国のTOPでありながら、部下の諫言を退けて全ての仕事を自分でやった結果、過労死。
・劉備から諸葛亮と共に後事を託された李厳は、利殖と権力闘争に明け暮れた結果、諸葛亮死亡以前に失脚。
・魏延と楊儀は、諸葛亮の遺命をやらかした挙句、双方とも私怨の果てに破滅した。
・呉懿・呉班は軍の重鎮だったけれども、劉禅の弟・劉永の伯父であり、劉永は後主に憎まれていた。
・蒋エンは、蕭何の後を継いだ曹参よろしく諸葛亮時代の法制を維持したけど、運悪く病に倒れた。
諸葛亮の北伐で疲弊した国力と兵力は取り戻せた物の、現状回復しか出来なかった。
姜維に北伐させ、自らは漢水を伺う北伐計画も、機会には恵まれながら病と世論の反対の結果頓挫した。
・費イは、実務能力は素晴らしく、蒋エン時代の状態を維持したけれども、足元がお留守だった。
魏延と費イに信頼され、止められる唯一の人物でありながら、かえって彼らを追い詰める行動をしている。
大赦を乱発して安易な人気取りに走り、張嶷に諌められながらも降将と無闇に交わった結果、刺された。
また、董允がその生前決して宮廷に近寄らせなかった、陳祇とその金魚の糞黄皓を宮中に入れてしまった。
・姜維は、内政を省みず外征を繰り返した結果、一時の勝利を得たものの人心を失い、兵力も失った。
諸葛亮以後の指導者では最も軍事的才能に恵まれた様に思うが、外に目は向いても内は見えてなかった。
結果、宮廷の権力は陳祇と黄皓に掌握され、蜀滅亡以前に政治生命は詰んでしまっていた。
このように、蜀の人材は他はともかくTOPレベルで見ると先細りだった。
誤:魏延と楊儀は、諸葛亮の遺命をやらかした挙句、双方とも私怨の果てに破滅した。
正:魏延と楊儀は、諸葛亮の遺命に反して、内ゲバやらかした挙句、双方とも私怨の果てに自滅した。
→諸葛亮は魏延に命令に従えと遺命を下したが、魏延は従わなかった。
楊儀も楊儀で、諸葛亮は魏延を置いて、さっさと帰れとは命じていたが、一戦交えろとは言ってなかった。
(内紛で兵が減る事、魏の介入という最悪の事態を考えれば、諸葛亮の命令は至極当然であるのだが。
・呉懿・呉班は軍の重鎮だったけれども、劉禅の弟・劉永の伯父であり、劉永は後主に憎まれていた。
追加:その結果、彼らは重んじられながらも、周囲から常にはばかられた。
(張コウを破るなど大功を立てた呉班は、諸葛亮氏誤直後とは言わずとも本来後事を託されて当たり前。
それが行われ無かったのは、同僚はおろか、劉永を警戒した劉禅の警戒感が有ったとも考えられる。
李厳(劉備、そして相方の諸葛亮は、左右両輪の働きを望んだが、李厳本人は脱輪する事を望んだ)
諸葛亮(部下「丞相、ご自愛なさってください」 諸葛亮「なぁに、これしき」→アボーン)
→魏延・楊儀(諸葛亮は自分と李厳に出来なかった事を彼らに託したが、土台無理な相談だった)
→蒋エン(諸葛亮に劣る事を自覚し成すべき事は心得ていた…が、死ぬまでに仕事を完遂できなかった)
→費イ(能力では恐らく蒋エンの上を行くが、想像力は貧困で、忠臣の言を退け、悪臣を近くに侍らせた)
→姜維(軍事的才能では上記二者に勝ったが、TOPに必要なバランス感覚が欠如していた)
これじゃあねぇ。
物事は表裏一体だし、その裏ばかりを列挙しても・・・
>>298 表の部分は演義読めば大体分かると思うんで、裏の部分を列挙してみた。
補え合えば異様に濃い連中だし、
個々の力を上回っただろうに…
301 :
素人考えですが、、:2007/05/13(日) 20:19:37
諸葛亮⇒馬謖
魏延⇒夏侯覇
李厳⇒楊儀
蒋苑⇒ケ芝
りょうか⇒姜維
こんな感じでスムーズに役割交代していけたらよかったのにね…
やっぱ、すべてをまとめるカリスマが欲しいね
やっぱり、街亭では馬謖の初陣飾らせるなら飾らせるで、呉懿か魏延を付けるべきだったな。
強権を発動してでも。
>>302 もう一人でも人事のバランス感覚に秀でた人材がいれば違ったかもね。
個々の能力は決して低くないのに、互いに潰し合うもんだからなあ…
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/13(日) 23:54:11
なんだかんだで孔明は才能のある人だったんだな
もしも孔明が劉備が死ぬ以前にどっかの段階で死んでたら、政権はアッサリ崩壊してただろうな。
劉備生前はともかく、死後はまとめられる人間がいないもんなあ
ところで陳祗は性格はともかく才覚はなかなかのものだったと思うんだよ
>>307 その才覚を何故国に捧げないのか、というのは確かに酷ではあるんだよな。
陳祇は宦官に接近したのは、つまる所、費イが横死した事に起因する。
費イ以外に後ろ盾が無く、董允に嫌われ、その後を継いだ呂乂からも忌み嫌われていた。
であるから、官位はその才覚と比べても、政権を運営するのにも、あまりに低かった。
つまる所、宦官と結託する以外、費イの死後、姜維に対抗する手段が無かった。
また陳祇以外にはそれを思いつく奴も、やった所で政権をマトモに運営できる人物も居なかった。
しかし、その陳祇自身も早死してしまった。
黄皓自体が糞なのはどうでも良い。
奴に期待してる奴なんて、初めから何処にもオランw
姜維にバランス感覚が無く、費イが横死した時点で、蜀は既に詰んでるんだよな。
あの丞相の息子もそっち側だよなあ
外戚まで…
姜維ある意味凄い
ベクトル間違ってる気もするが
陳祗は単なる佞臣じゃない
あの状況で自分なりに蜀と劉禅を守ろうとはしてたんだろう
もちろん自分の利権も重視してただろうが
視野もなく方策もなくただ劉禅におもねっていたのとは違う
費禕が暗殺さえされなければそのサポート役として違った形で歴史に名を残せただろうに・・・
>>310 費イはなんだかんだで濃い連中をくっつけるもんなあ
切り捨てる時はえげつないが
費イ最大の失敗は、降将・郭循という悪臣に気を許し、傍に置いてしまった事だな。
呉に埋伏した陰藩は計画半ばで失敗した事を考えると、費イの対応はちょっとなぁ。
313 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/05/22(火) 18:58:35
姜維が最後っ屁みたいなやり方で鍾会とケ艾を誅殺させたのはけっこう好きだ。
劉?や張翼を巻き添えにしたのは頂けないが
314 :
無名武将@お腹せっぷく: