1 :
無名武将@お腹せっぷく:
2ゲゲゲッ♪
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 17:38:15
赤壁について調べてみたんだが
場所がよくわからない。
呉と蜀が完全に一体の国になったという前提だとどうだろう?
逆に戦略的に不利か?
荊州から洛陽を全力で攻めて、上手く落とせたらそこで五分。
>>4 それでもサイコロ振って奇数が5回連続で出るくらいの確率
六朝のうち東晋〜梁は呉蜀の版図を治めていたが結局北に統一された
東晋と梁の時代には北の分裂に介入するも失敗に終わった
どう考えても無理だな
>>4 そもそも具体的な魏侵攻作戦は軒並み失敗してるわけでどうしたら個々の戦いでの勝算を上げられるかだと思うんだ。
例えば241年の呉の同時侵攻では全jが敗れた後も朱然の激しい攻勢で包囲網は厳しかったとあり、
蜀が連動して司馬懿を引き付けられれば襄樊が落ち荊州からの侵攻路が開けたかもとか、
255年の姜維の侵攻時に呉が動いていれば陳泰に兵が回されずレキ陽を占拠できていれば
陳泰の危惧が実現し西部戦線は一気に色が塗り変わったかもとか、
紙二重ぐらいの戦いは結構あるので考察の価値はあるんじゃないかな?
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 23:28:37
孫権のタコも後継者をきちんと決めた上で隠居してしまえば
良かったのにな。
というか目障りだろうがなんだろうが陸遜を後見に残しておけば後の政変続きの憂き目はやはり避けられたのでは?
諸葛格も才能無いわけじゃないけど人望薄いような…
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 23:43:19
蜀が漢中取ったとき、そのまま侵攻を続け(あるいは続ける振りをして曹操を引き付けておき)
関羽が呉と連携して壌陽を攻め、呉が徐州を攻めていたらどうだったかな。
12 :
2chカキコ初めてさん:2006/10/17(火) 23:52:46
赤壁で曹操が逃げてたときに関羽が、曹操を討たなかったのが、イタイあれが最初で最後の魏を簡単に滅ぼすチャンスだったのに・・・その後は多分蜀が天下を取ったかもしれない(将の強さ+諸葛亮で)
前スレで散々語られつくされたのかもしれんが
>>1は魏が天下を取ったとでも思ってんのかな?
関羽はともかく劉備が火計をやってればあるいは……
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/18(水) 00:09:23
ここは演義で語ってもいいの?
15は一応演義ではない。
18 :
2chカキコ初めてさん:2006/10/18(水) 00:21:39
>>13さんへ
だったそれ以外機会なかったモン!他ありましたっけ?魏を簡単に滅ぼすような機会
合肥で張遼が孫権を討っていれば魏の統一は曹操在世中になったろうな。
曹操の寿命が延びない限り不可能だろ
呉が矛先を転じるきっかけになったと言う意味では重要な戦いだが
215年じゃ孫権死ねば呉は瓦解するんじゃね?
>>14 >>1には結局晋が統一したがって書いてあるやん。
晋は魏の勢力をそのまんま継承したようなもんだから、あえてIFを語る必要もないだろ。
司馬一族のクーデターを押さえられたら、という仮定しか語れん。
>>21 当時は対蜀同盟派の魯粛が生きてるから魏の都合のいいようにはならんよ
長文君の食客になりにきたんですけど
才は?
飯を食いやがて死ぬでしょう。
>>19 曹操自身がそれは無いって言った記述があったはずだが?
もうすこし呉が空気読めたらな・・・
蜀は長安は取れたかも知れん
>>26 そのような才では長文君はよろこばぬ。
スレが荒れはじめたらおいでになる。
そのとき再び来るがよかろう。
>>27 何が無いって?
張遼が孫権を討ち取ることか?
その上で曹操自身が天下を統一すること、或いは帝位に就くことか?
>>29 赤壁後?曹操自身は自分が天子になることをその時点では望んでなかったんじゃ。
なんつうか曹操が望んでたのは終止劉備の排除だと思うが
>>30 帝位云々はポーズの可能性も大だと思うけどな。
それはそれとして合肥後も曹操は217年に濡須攻めなどしてる。
合肥で乱戦の中、孫権が討ち取られ呉が瓦解してたら江南の平定がなった可能性は十分にあると思うがな。
そう考えますか。漏れはこれまで曹操の合肥・濡須攻めを孫権に対する牽制程度にしか考えてなかったですよ。
なんか
IDがないことに初めて気がついた
今更だな
曹操は赤壁後明らかに外征の意欲を失ってるよ
それは対呉のみならず劉備に対しても
歳のせいか赤壁の損害のせいかわからんが
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/18(水) 18:14:28
本人の意欲の問題じゃなく、それだけの軍事的な実力や本拠の安定が無かったから
漢中を失った後は再侵攻と統一後の即位に意欲的だったよ
すぐ死んだけど
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/18(水) 18:23:13
蜀が漢中を取った辺りでは人材的に蜀は凄かったように見えるけど
実際にはどうだったんだろうか。
関羽、張飛、趙雲らは当時既に50代。常識的に考えればそんなに強いわけがない。
演技や横山ではその頃でもまだ全盛期と変わらぬ強さを維持しているように描かれているけど。
別に陣頭で闘いながら指揮してるわけじゃないんだし年齢ってのはあんま関係ないよ
それよりは個人の判断能力と経験が大事
>>33三戦板見たのは初めてだったもので・・・
>>36元益州閥と刑州閥と劉備の古参の三大派閥争いが起きてた
益州閥などほぼ存在しないのに……
>>38 派閥争いの形跡が感じられないのは気のせい?
大体古参組といえば関羽・張飛・趙雲・簡雍・糜竺・孫乾・麋芳らとわかり易いが特に連帯意識は無さそうだし、
益州閥と刑州閥なんて構成員の基準からして不明瞭。参加時期か?
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/18(水) 19:37:29
蜀に関する研究論文読んでたら古参組も荊州閥に含めるらしい
武帝なんかフットワークが加齢で鈍くなってからはどうしようもない。
魏武注孫子を読むと如何に化け物じみているか理解できるが、
218年当時では思考が行動に反映されてるとはとても思えない。
ワーテルローが無かったのが天与の幸運というものだな。
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/18(水) 23:19:14
曹丕って剣術、弓術は一流、詩にも優れ当代の名君だった。
唯一曹休、曹真らを除く親族を冷遇したこと、早死にしたこと、
司馬一族を優遇したことが凋落のきっかけだった。
>唯一曹休、曹真らを除く親族を冷遇したこと
私怨に近い感情で良臣を殺していますが
鮑や楊俊だな。あれはひどいな。
曹洪に対してもあれだしw
丕「金貸して」
洪「えぇ〜やだよ〜」
丕「マジムカツク、あいつ左遷ケテーイ」
知ったかキター
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/19(木) 03:17:41
かなわんな
>>48 生まれ変わりキタ━━( ・∀)∀゚)Д゚)▽^)Д´)ω゚)_-)ゝ`)з゜)━━ッ!!
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/19(木) 22:18:35
呉質っていう腰巾着いたけど、
政治能力はあったが度量が狭いという
評価?
っていうか、剣術・弓術みたいな個人的武勇って
名君の必須条件に当て嵌まらなくね?
剣術って君主どころか士大夫でも必須でもなんでもないしね
純粋に武人でも目指さない限りは弓と馬が扱えればいいんよ
曹丕スレ逝って来いw
曹丕の最大のネックは
度々討呉遠征を起こしては無益どころか自爆気味な被害を蒙って撤退してること
>>31 あくまで個人的推測でしかないが・・・
曹操は適材適所を根底においていたので
祭り上げられるよりは
才を重視し己の才を発揮できる位置にいたいと考える人間のように感じる
けど王まで逝ってんだよね・・・
やっぱりオマイの言うとおりポーズかなぁw
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/20(金) 00:23:48
皇帝こそ一番才を生かし放題な地位じゃないか
あの時代に曹操だけ忠臣という評価に無理があるんだよね
弱い者いじめ大好きドSの曹丕様
人気取り政策ミエミエのアイドル曹丕様
蜀は荊州を失った時点で天下取る目は無くなったと思う。
呉は天下取るよりも、江南の半独立状態を維持できればいいと考えてたんじゃないか?
荊州に関しても関羽ともども見殺しにされた感があるが
DQN(呉)が殺さなかったら曹操は関羽を殺しただろうか?
放逐されても自殺するだろ
埋め立て行為はいかなる場合でも
重大な荒らしだぞ・・・・
何を持って埋め立て行為とするかだな。
保守カキコすら埋め立てと見るのかとか
>>66 前スレの最後がひどかったからだろ
それと中身のない保守カキコも運営は禁止事項として捉えてる
罰を与えられることは滅多にないがな
>>64 プライドが高いから自殺すると思ったんだが、そうじゃないのか?
69 :
.:2006/10/21(土) 17:10:18
自殺するくらいなら捕まる前に自殺するような
そんなこともなかろう
自殺するとしても蜀に逃げ帰った後だな
蜀に帰れば劉備や張飛が意地でも説得するだろう
劉備「おお、関羽がもどったか。斬れ」
プライドの高いあのお方のこと、ウ禁の如く悶死することだろう
>>73 んで切り役が張飛なw
ってないない
>>74 于禁はハブ、カンヌは君主お墨付き
曹操攻めたのは漢中の援護
孫権の要求を突っぱねたのも蜀の方針
関羽が敗戦の責を負ういわれはない
77 :
.:2006/10/21(土) 22:43:50
>曹操攻めたのは漢中の援護
宛の反乱の時期ならともかく、関羽さんは全く関係ないだろ
呉に捕まったまま拘留されて和解の後に帰国って事になったら
于禁と同じ道を辿った可能性はあるな
劉備からは何も言われなくとも、周りと仲が良かったようには思えんからね
自意識過剰と自尊心の高さが相まって、その内発狂するだろ
>>77 関羽が北上したのは劉備が漢中王になってからだしな。
関羽は曹操の捕虜にもなってるし
捕虜のまま返還されたからって急に不忠者扱いされるのはおかしい
>>78 君主自ら率先した于禁イジメとじゃ状況が違いすぎる
>>79 君主と絆の深い関羽じゃ周りがどうこう言える訳がない
つか、関羽のその後はどーでもいいから
>>62応えてくれ
于禁も曹操を裏切った訳じゃないし
元馬超配下のホウ徳が曹操に義理立てして斬られたのもよくわからんなあ
>>79 和解後なら劉備死んでるだろ。
諸葛亮にとっては関羽は邪魔者でしかないと思う。
>>62 曹操が殺すかは分からんが曹丕が殺す。
関羽を生かしていてそれでも劉備が攻めてきたら捕虜の関羽を停戦交渉に使う
応じなければ殺して劉備が義兄弟を見殺しにしたと喧伝する
いずれ劉備死後に戻ることはない
関羽を殺さないと劉備が釣れないから殺さないことはありえない。
孫権は蜀とけい州を争う時点で天下というより2番手争いする気満々だし、
それなら劉備を明確に3番手にするために叩いておかないといかん。
俗に言う、決着をつける、ってやつ。
というか、関羽が自殺することはない、と言っている人は何故自殺する人間がいるのか、という問いに答えられるのだろうか
>>87 いや無理でしょw
宗教やら個人がおかれた環境やら全然違うし
人間ってくくったらスコープでかすぎだろ
問いというにはあまりに稚拙
>>86 荊州を奪った後劉備を釣る事にメリットはあるのか?
結果的には呉が大勝し劉備が死んで蜀と停戦できたが
魏に後背を晒しながら蜀と長期抗争する可能性は十分あった
司令官が呂蒙で短期でけりがつくと見たから荊州を攻めたわけで
ついでに夷陵で守れるとも思っていたわけなのでその可能性は低い
劉備があのタイミングで死んだのは偶然の産物だろ
魏呉同盟が信頼にたるならその後、蜀とよりを戻す必要もなかった訳だし
>>86 荊州は蜀呉どちらにとっても要地だから攻めたんだろ
2番手争いって・・・どこの厨だよw
魏の222年の江陵侵攻の時、陸遜は蜀国境を警戒していて助けに行かなかった(行けなかった)という説が正しいなら、
劉備が死んで白帝城から軍が引き上げられるまでは十分呉側に負担となっていたと見ていいんだよね?
>>93 蜀の進軍目的考えれば負担になるのは当然じゃないか?
しかし魏の江陵侵攻は陸遜予測していたんじゃなかったっけか?
荊州強奪→蜀との戦争→魏の南下→蜀との再同盟
ここまでは想像してたろ
劉備が生きてたら再同盟はなかっただろ
>>95 陸遜は蜀国境を警戒していて助けに行かなかった(行けなかった)という説
↑
俺気になってんのここなんだけど
敗北後、魏の侵攻に対して救援の軍を向けようかとぬけぬけと手紙を送る劉備の図太さは凄いw
じゃあ劉備が生きていた場合の流れを書いてくれ
夷陵の敗戦→
>>89 おれは孫権が三国鼎立の安定を望んでいたと考えている。統一願望も薄かったのではないか。
当時魏は問題も多く、国王も老齢で、時間が経てばぐだぐだになる可能性があった。
関羽とともに北上し、魏を一気に潰すよりは選び易い選択肢だ。
で、三国の安定を図るには蜀の外征の牙を抜かないといけない。
ただでさえけい州を押さえられてるのに、その上勢力が北に伸びられたら、
呉が最弱になってしまう。
蜀の牙に相当するのが、けい州の関羽と益州の劉備なわけで、
両者を消してしまえば、蜀は小さくまとまって逼塞するしかない。
まあ実際には蜀は一生懸命国力回復して北伐に精を出すし、
魏も期待ほど問題が起こらず、結局ジリ貧の方向に進んじゃったが。
なお、当時呉は王国ですらなく、名目上は魏の臣下。したがって、魏に対しては
さまざまなアクションが可能。陸遜が劉備に負けた場合、本格的な臣従を取りつつ
揚州の権益を守るように画策するとか考えてたかも知れない。
>>92 なぜ荊州をとったかの話じゃないぞ。
なぜカンヌを斬ったかの話だ。
>>97 どういう風に気になってるかわからないとなんとも言いようがないけど…
>>99 生きてても同盟になるんじゃね?
>>100 オマイの考え方だと蜀が北伐成功して長安取れたら呉は蜀に攻め込む事になるな
呉は蜀を敵視していたというよりは呉を守る為に荊州侵攻だろ
105 :
95:2006/10/22(日) 12:17:30
>>103 長安を確保(奪い返されることなく)できれば蜀は橋頭堡を得て、西方も連絡路が途絶え自然と蜀に帰順の流れになり、
「蜀方面からの北上」という観点でいけば一つの焦点となり得る一代事業だけど、それで国力が飛躍的に増大するのかといえばそうでもないわけで。
長安とったから呉が蜀侵攻という流れは俺には想像しがたいな。
>>103 それは違う。
少なくとも、呉が裏切ったら北伐なんて成功しない。これは100%確実。
つまり、呉の身の振り方しだいで、三国の行方が変わる瀬戸際だった。
そして、呉は自身のためにより有利になると思える方向を選び取った。
仮に北伐が成功するほうに呉が賭けるとしたら、迷わず北上して魏を潰そうとするはず。
蜀を敵視していたからけい州に侵攻したのではなく、呉の方向性のため
あえてそのときは蜀を敵に回したということだ。
>>102 予測していて「いけなかった」というのはおかしくない?
予測してれば準備してるし実際別で援軍着てるし
なんか揚げ足とってるみたいだからこの話題止めるわ
>>107 頼むからifだという事を忘れないでくれ
>>62 「DQN(呉)が殺さなかったら」に対して
>>86 「関羽を殺さないと劉備が釣れないから殺さないことはありえない」
>>103 「蜀が北伐成功して長安取れたら」に対して
>>107 「少なくとも、呉が裏切ったら北伐なんて成功しない。これは100%確実。」
if全否定だなw
>>104 >>86は呉がカンヌを殺さないなんてifはありえない、カンヌを殺す意義はうんたらかんたら
>>92はそれに対して荊州を攻める理由はうんたらかんたら
会話がかみ合ってない。
関羽と呂蒙の話は荒れるなw
ifはありえないってスレ自体全否定
>>103 ああ、すまない。誤読していた。北伐成功で長安確保って、諸葛亮のときのやつか。
そのifなら呉は蜀を攻めないと思う。その場合、呉に対する蜀の圧力は変わらないが、
魏に対する蜀の圧力は増えるからな。魏がより苦しい立場に追い込まれれば、
呉の位置も相対的に上がるだろう。三国がよりバランスよく鼎立、ということになりそう。
どう見ても
>>103の北伐は関羽存命中の動きだろう
>>107はほぼ的確な指摘だろう
>蜀を敵視していたからけい州に侵攻したのではなく
ここがちょっと怪しいが
この当時の蜀に呉を軽視する向きがあったのは事実だし、
関羽が援軍の申し出も結婚も断ったことがマズかった
荊州を一部割譲した蜀が呉を軽視していたとは思えんが
むしろ蜀本国は荊州と関羽を軽視しててそこに呉が付け込んだ気がする
>>108 魏の三方面侵攻に対して陸遜の名前がどこにもない(荊州牧なのに江陵にも絡んでこない)のは劉備に備えて
蜀との国境地帯に居たためじゃないかという説だから。予測してたからどうこうなる問題じゃないのでは?
予測してたら蜀を放っておけるわけでもなし。
劉備が白帝山にとどまったということは荊州を諦める気はないという意味だし
そのまま長生きされたら呉にとってきつかっただろうな
劉備は白帝にとどまったのは、大敗してボケ老人のようになって
成都に戻る気力を失ったからというイメージがある。
まあ陸遜の側からすれば同盟復活もしてないのに備えを怠るわけにもいかんが。
>>117 軽視していたというより、読み間違えたんだろう。
関羽北上でうまくやれば魏にかなりの打撃を与えられる機会に、
宿願の合肥に行かないで荊州に来るとは思ってなかったんだろうな。
いずれ孫権と戦うことはあっても、まず先に魏を潰してからぐらいのことを
蜀は考えていただろうから。
予想の斜め上を行ったというところかもしれない。
あと、関羽は当時でも大物扱いだろうから、過剰な期待もあったと思われる。
>>120 劉備の手紙読めばそんなボケ老人なんて毛ほども感じられないがな
関羽の北上に関しては呉の動きを読み間違えたのは確かだが
漢中方面の蜀軍の動きが見られないのが不自然
関羽の独断だったのか?
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/22(日) 22:41:34
姜維、王平、楊儀ら魏の降将が中核を
やっているようじゃ蜀は駄目。
いい加減、カンヌって言ってる奴は自分が痛い子だって気づけば?
このスレタイで関羽の話は避けて通れないべ
孔明の北伐よりはチャンスがあった
>>122 劉備が漢中王になった際に、関羽は節鉞を与えられてます。
これは独断で兵を動かして良いという証であり、
機を捉えたら遥か遠くの劉備に判断を仰がず、すぐに兵をだせるように、
との配慮だと考えられます。
樊城攻めの頃は、まだ曹仁が宛の侯音を破って樊城に帰還したばかりで、
まだ兵が疲れている+手薄だと判断して攻め込んだのではないかと思います。
漢中勢は、まだ長安遠征の準備が出来ていなかったのではないでしょうか。
こちらも、漢中遠征を終えたばかりですし。
ああそうなのか
しかし防御命令が当然の時期にわざわざ全権委任与えるって不自然だよな
大軍を率いていたとは思えんし
なにをもって防御が当然の時期と?
むしろ攻め時だと思うが
侯音は関羽と内通しての反乱だったそうだが、思ったより早く
滅ぼされてしまったので、関羽は焦ったのではないだろうか?
関羽はそろそろ老境に差し掛かりつつあったし、あのポイントが
蜀の雄飛の最大のチャンスと読めば、関羽とて気持ちが押されるかも。
本当は年が明けまで反乱軍に城に篭らせておいて、それから徐ろに
北上、同時に漢中軍も長安攻撃、とかの予定だったかもしれない。
魏と蜀だけを見れば攻め時で関羽の北上はむしろ遅いくらいだが
呉が魏に降服している事を考えれば攻め時とは言い難いかも。
でも江陵があんなに早く落とされるとは魏でも思ってなかったみたいだし
防御が当然の時期てことは無いでしょ。
樊城は許昌への最短経路
そこに荊州の防衛戦力だけで攻め込むなんてあまりに無謀だろ
荊州勢が囮で漢中勢が主力ならわかるがそっちの準備はできてない
まして呉との関係が微妙とくれば
劉備が関羽を止めた形跡が無いんで独断って事は無いだろう、
ちょうど同年に劉封等が上庸を占拠してるから示し合わせた荊州北部への侵攻だと思う、
あの時期に関羽が北上しないと上庸が孤立した形になるしね。
>>129 関羽はあちこちの反乱勢力に印綬与えて反乱を扇動してる
火種はどこにでもあるわけで現に関羽北上時もそう遠くない所で反乱があった
宛が失敗してても焦って出撃する必要もないな
完全に結果論だけどあのタイミングで北上しなかったら于禁は流されないわけだから
別のタイミングで北上しても魏にあの時以上の脅威を与えるのは無理だ。
とりあえず関羽北上の理由は、漢中-上庸-樊城(さらに北進して襄陽)を制圧し、
漢水流域を確保する事にあったのだろう。
では、あの時でなければならない理由とは。
まず、上庸の連絡線の強化。
漢中とも漢水によって繋がってはいるが、長安及び南陽から兵を出されると孤立してしまうので、
そうなる前に兵を出さなければならなかった。
次に、各地の反乱勢力へのアピール。
兵を起こせと言われても、主催者が高みの見物ではやる気も起きなくなる。
主催者もやる気があり、反乱成功の見込みがあると見せなければならなかっただろう。
そして、魏軍の疲弊。
曹仁は宛の侯音を鎮圧したばかりだし、曹操本隊は漢中戦を終えたばかり。
曹操本隊も関羽戦に向かおうとしていたようだが、時間がかかりすぎる為に于禁に樊城救援を要請した。
また、そうして魏軍を疲れさせておけば、漢中勢が涼州や長安を押さえに行く事も可能で、
魏はその為の援軍も出せず、北方は取りやすくなっただろう。
また、曹仁本隊も疲れている事を考えれば、樊城を取るのは絶好の機会だったのではないだろうか。
ただ、曹仁が意外に頑張り、あらかじめ備えていた対呉の狼煙台も機能せず、
麋芳・士仁がアッサリ呉に降るというのは、関羽には予想出来なかったろう。
これに関しては、関羽が甘かったとも言えないだろう。
>>135 最後のまとめは「甘かったと言えないこともないだろう」でいいのか
曹操本隊が許都の危機を放置して涼州や長安まで行く訳がない
魏は呉を100%信用していないし
曹操本隊が駆けつければ呉軍が動かなくてもアウト
結局関羽は捨て駒だったんでしょ
荊州勢があまりにも早く敗走したので蜀軍本体の出番はなかったけど
>>136 そのままでいいだろ。
呉がうまくやっただけで、すべて関羽の責任というには酷。
まあ麋芳・士仁とそんなにうまくはやってなかったが、
投降が読めないのが甘いと言われるほどあからさまに
悪い関係だったというほどでもないだろうし。
曹操軍の疲労、とか言う人は、どうして「劉備軍の疲労」を考慮に入れないのだろう?
>>139 だって漢中のほうはともかく議題の荊州劉備軍は疲労してないし。
141 :
.:2006/10/26(木) 11:53:27
まぁ関羽が壊滅するのが早すぎたんだろ
7月に于禁援軍で1月には首切られたんだっけ?
>>139 同意
継戦能力を少し甘く見積もってる気はする
関羽の敗死から夷陵までに1年以上もあいてる事も考えればいいのに
>>139、142
俺も以前関羽の北上について考察して、北上の理由の一つに「魏軍の疲弊」を挙げたけど、そのことで蜀軍の疲弊の方を無視したわけじゃないと言いたい。
益州-漢中ラインの疲弊こそ関羽の孤立化に繋がったものだろうとも思うが、そもそも(
>>135も言ってるけど)主に上庸攻略への助勢と
反乱勢力の扇動が目的の補助攻勢が目的だったと思われるので本来なら大怪我さえしなければ良かったはず。
誤算があったなら「曹仁が粘ったから」というより「干禁らが水没したから」じゃないかと思うね。
この偶発的な好機を受けてリスク覚悟で単独の本格攻勢に踏み切ったんじゃないかと推察。
>>138 どうだろ、荊州の人材の配置転換があと一月ほどで完了した、とも言われていることだし、
呉との関係を考えればやはり見込みが甘かったと思うが
上でも言われているように「天は味方した」とでも勘違いして冷静さを欠いたのかもね
人材の配置転換を目前に控えて関羽に節鉞を与えたのか
おかしな話だな
↑それだけ関羽の劉備とのつながりが異常だったという事じゃない
むしろ黄忠の件に見られるように微妙な溝ができていたからご機嫌取りでしょ
148 :
.:2006/10/27(金) 11:14:52
つーか節鉞なら干禁でももってるぞ
でも魏の人事権を握ってるわけじゃねーだろ
節は監察権の印
基本的に使持、持、仮とランクが存在し、ランクに応じて処断できる権限が異なる
人事権を行使するためのもんじゃないよ
だから結局は黄忠に対して後将軍という破格の扱いをしたから節鉞をあげなくてはならなくなったんじゃない
黄忠とほぼ同列に並んだために箔をつけたというよりも、一州の軍事を総監する
立場を確立させるために与えたとみたほうがよさそう
ただ史料をみると珍しく節”鉞”なんで、仮節以上の裁量権を与えたとみた方が
いいんかな
後にも先にも蜀臣では関羽だけだった気がするし
孫権からの婚姻話と合わせると
関羽は蜀からも呉からも造反の可能性ありと見られていた(と関羽自身思っていた)んだろうな
この状況で権限を与えられれば潔白を証明するために出撃するしかない
それはないだろう…
関羽とは面識もない益州閥が政権の中枢を固め
自身は古参の功臣といっても主君とは何年も会ってない
前線の将軍が佞臣の讒言で謀反の疑いをかけられた例はいくらでもある
主君が漢中王を名乗ったのだから関羽が自分を漢の功臣になぞらえても不思議はない
孫権があからさまに調略をかけてきたことで自分の立場の微妙さを思い知らされただろう
むしろ高祖と蕭何の関係になぞらえて、信用されている証だと考えてもおかしくない。
孫権があからさまに調略してくる事も、己は国の柱だから、と捉えるだろう。
ところで、時折聞く「人材の配置転換」だが、
その人員は何処を見たらよいのだろうか?
またその時、関羽の権限を凌ぐ者が来る予定だったのだろうか?
疑っている本国が権限を与え、
身の潔白を明かすために出撃、なんて発想がアホすぎる。
俺のトンデモ大予想!
劉
(´-`)。〇「荊州都督黄忠、副将関羽、参軍許靖…
関
ヽ(`A´)ノ「ムキーッ※%$※&¥!!」
721 名前:該当過去レス[sage] 投稿日:2006/08/29(火) 10:27:08
957 名前: 945 2006/03/15(水) 22:36:25
曹仁の軍が少なかった理由ですが
元々与えられていた兵力が少なめだったとか侯音の乱で兵力をすり潰したor
宛への守備に兵力を割かざるを得なくなったとか、漢中戦役に対処するため
曹操が行った戦力再編で引き抜かれたとか考えられる要因や可能性はあるの
ですが、オレ的には劉備側の宜都太守孟達による房陵の攻略とそれに続く
劉封・孟達の上庸攻略に対処するため軍を分けて差向けたところものの見事
関羽に突かれて囲まれたんじゃないでしょうか。
>>955氏よりも少し踏み込んだ感じですか。
722 名前:該当過去レス[sage] 投稿日:2006/08/29(火) 10:27:39
この傍証として晋書宣帝紀にある荊州刺史胡修と南郷太守傅方の降伏状況
などが、于禁やホウ徳の降伏と別になっていることがあります。
当時の曹操勢力の軍事体制を分析すると、前線は節を与えられて諸軍を統括
する漢朝の将軍とそれを主に兵站面でバックアップする州刺史及び兵站面では
刺史の監察下にあり、兵力の供出等に関しては(多分)節を持った将軍の
統括下にあって実際に兵站を充実させたり兵力を拠出したりした郡太守が
セットになっていることが判ります。
(更にいうと、こうした節を持つ「漢朝の」将軍がどうにもできなくなると、
漢の丞相にして魏王たる曹操の率いる「魏王の」軍が救援にやってくる手筈
になっています。)
こういうシステムを見た上で、荊州方面を統括していた征南将軍曹仁の周囲を
見ると、曹仁についてるのが汝南太守の満寵で、荊州刺史の姿が見えない訳。
それは何故かと考えると、荊州刺史は襄陽・樊城周辺から離れていたのだろう
とくる訳です。(で、実際、南郷太守なんかと一緒になってるからこの襄樊
からは離れていたことが判る訳です。)
で、曹仁にくっついているべき荊州刺史がなぜこの時期、曹仁から離れて
南郷太守と一緒になってたか? 考えると、先に述べたように、房陵・上庸の
危機に対処するために曹仁からの指令などがあって、上庸方面へ向かっていた
のだろう、と、なるわけです。
723 名前:該当過去レス[sage] 投稿日:2006/08/29(火) 10:29:39
965 名前: 945 2006/03/18(土) 21:40:16
停滞するスレに再び殺伐とした埋立主が!!(\│゚∀゚┃/ペカー!(AAry
>>964 自分は南郷太守の郭睦は劉備が任命した太守だと解釈しています。
南郷太守の郭睦は房陵太守のトウ輔と共に陸遜の派遣した謝旌に破られてますが
それは 呉書陸遜伝で陸遜が江陵を押さえ宣都入りした後のこととされています
南郷郡、房陵郡の地理関係から見て、郭睦やトウ輔は関羽が送り込んだのではなく
劉備の任命によって成都(または益州・荊州間のどこか)から派遣されて任地に
赴く途中で陸遜らの攻撃を受けてとっつかまったと推察されます。
傍証として、蜀書劉封伝中に注としてあげられている孟達が劉備の下を辞去して
魏に寝返ったときの手紙をあげておきます
「(略)ここに臣は事の原因を求め、自ら房陵・上庸をお返しし云々」とあり、
孟達の中で、劉備の下を辞去する時点で房陵と上庸が孟達の治下にあったことが
窺われます。
既に関羽が敗れる時に房陵太守としてトウ輔の名が陸遜伝に載せられているので
もっとも整合的な説明は、トウ輔は孟達と交替で房陵太守になる予定であった。
しかし、任地に到着する前に陸遜らの攻撃を受けた。と推察されます。
これらのことから更に推論の足を延ばすと、劉備側は、トウ輔や 郭睦を房陵や
南郷に派遣すると共に、彼らが任地へ就き次第、劉封や孟達らを関羽の助力として
荊州北部へ派遣する予定だったのだろうと考えることが出来ます。
名前しか出てこない 郭睦やトウ輔と違い、劉封は武力が売りである旨描かれてますし
孟達も、シ帰から山麓を越えて房陵を強襲して陥落させ、更に上庸へも攻撃をかけた
ことから判るように、その軍事能力は相当なものです。
(孟達の軍事能力はもう少し評価されてもいいかもしれません)
966 名前: 945 2006/03/18(土) 21:41:23
>>963 と言う訳で、上記考えから自分は 郭睦を南郷を攻略した将軍だとは考えません。
荊州刺史胡修と南郷太守傅方は、房陵・上庸の危機に赴いたものの、
状況を覆せなかったか、救援に間に合わず撤退した、又は、劉封や孟達と対峙している
最中に、曹仁から、今度は襄樊を囲まれたので急ぎ襄樊方面へ戻り、節度を受けるよう
連絡あって、撤退したと考えられます。
ホウ徳が樊の外にいたのも、単純に寝返る可能性を疑われたばかりでなく曹仁から何か
指示を受けていて、それを 胡修・傅方らに伝え、合流するという役目を負っていたの
かも知れません。
まぁ想像に過ぎませんけど。
968 名前: 945 2006/03/18(土) 21:50:50
ということで、こうした所から呉の荊州侵攻が、劉備側の人事異動と体制整備の途中、
劉備陣営が力の再配分を行っている途中のドタバタした時期にドンピシャで行われた
ことが分かります。
呉からすれば最高のタイミング、蜀からすれば考えられる中で最悪のタイミングだった
と見なせるわけです。
あと一カ月呉の判断が遅れていたら、劉備陣営の勢力内パワーバランスの再編は終了
していた可能性が高く、呉の襲撃に対し、あれほど脆い醜態を晒さずに済んだ可能性が
大きいと考えてます。
969 名前: 無名武将@お腹せっぷく 2006/03/18(土) 21:55:54
まあ魯粛ん時からの悲願だからね。
曹操・劉備と違い、唯一長期計画でやってたのが呉だから。それにあらゆる焦点を合わせた準備がなされてたんだべ。
徐州への野心さえ大規模な偽装だったのではと。
>>158-160 ありがとう。関羽伝、曹仁伝、陸遜伝、晋書の宣帝紀だね。
主に陸遜伝からだけど、蜀陣営で名前が判明しているのは、
房陵太守・ケ輔 、南郷太守・郭睦、宜都太守・樊友 、部将の・晏、陳鳳。こんな所かな。
この人員を見ると、関羽を凌ぐ権限を持っていたとは思えない。
これらよりも、麋芳の方がよほど位も権勢もコネも上だろう。
また、関羽の暴走を止める為のお目付け役とも言えそうに無い。
となると、劉備が関羽を押さえつける為に配置転換を行い、
関羽はそれに焦りを感じて攻め込んだという事も無い、と言える。
162 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/28(土) 18:46:41
>>161 その考え方もあるけど
他にも関羽が亡くなった時を考えての配置ともとれるんじゃないか?
意味不明なんだけど
いずれにせよ配置転換が完了する前に動いたんだから
関羽には危機感があったんだろ
>>164 関羽が北上したのはそういった動きが始まる前、そもそも上庸が落ちる以前(上庸攻略の援護?)でしょ。
そこから上庸陥落→干禁ら野戦軍沈没→侵攻本格化で本国からの支援体制云々に繋がるわけで。
何時のどんな行動が何に対する関羽の危機感?
留守番役で手柄を立てられないせいで老いぼれと同格に扱われ
その危機感から功をあせって北上したんだろ
それは「劉備による配置転換が始まったばかりで、まだ移動中だった」とした場合。
一応上げとくと、劉備による任命があったとされているのは宜都太守・樊友のみ。
しかも、後述するが、その「劉備による任命」というのも少々怪しい。
他は劉備なのか関羽なのかも不明。
なお、関羽にも人事権があった事は、麋芳・士仁の処罰をほのめかす言葉や、
梁郟・陸渾に印綬を与えていた事からも分かる。
その為、彼ら全てが関羽の任命によって太守になった可能性がある。
この場合、成都や漢中からではなく、荊州にいた者が任命されていると考えられる。
さらに陸遜伝の元文では、「備宜都太守樊友委郡走」となっている個所があり、
これを、ちくまも「劉備の指名した〜」となっているのだが、誤りである可能性がある。
通常、名だけを記載する場合は、先に姓も書いてある場合がほとんどで、
陸遜も呂蒙も孫権も関羽も費棧も、名だけを記載される前には必ず姓名が出ている。
ところがこの一文については、それ以前に「劉備」の名が無い。
後の夷陵戦で初めて「劉備」と出てくるのである。
これに従えば、上記の一文は「備えていた宜都太守・樊友は郡を委ねて(捨てて)逃げた」
と訳す方が自然だろう。
また、この文は陸遜が宜都太守に任じられた記事の後に書かれている。
つまり、呉・蜀ともに宜都太守を任命し、陸遜が蜀の宜都太守を追い出した、と言う事で、
劉備の漢中進出前にあった、荊州折半のきっかけになった事件と同じである。
前回は関羽によって、呉の太守達は追い返されたが。
以上の点を踏まえると、配置転換は関羽の手で行われ、配置転換は完了していた。
と考えられる。
>>166 老いぼれと同格に扱われて焦る?
その老いぼれは人事権も勝手に兵を動かす事も出来ませんが?
それを考えれば、てんで別格である事くらい分かるでしょ。
>>167 反乱者に対する印綬はともかく麋芳・士仁の処罰は仮節として「軍法違反者の処刑」に当たるんじゃないかと思うがどうか?
揚儀を功曹に任命したような自身の将軍府内の人事ならともかく、太守任命権は(少なくとも建前上は)州牧たる劉備にあるはず…
荊州にいた者が任命されたなら戦力的には全く増強されてないのね
それじゃどのみち呉の餌食だな
>>168 確かに関羽が州牧に任命されたとは何処にも書いていない。
しかし、劉備が漢中王になった際に左将軍・宜城亭侯の印綬を漢に返上した、とある。
これは州牧である事も返上したと見て良いだろう。(王と州牧は権限に差があるし)
関羽伝ではこの時に、前将軍位と仮節を授けたとしている。
(前将軍は三品官、元の盪寇将軍は五品官)
少なくとも、軍事権に関しては都督クラス(又は大都督)と見て間違いないだろう。
魏の場合だが、辺境や要地では都督に州牧も兼ねさせる事がほとんどだったと言うし、
「荊州牧」なんて任命したら、荊南を抑えている呉からの反発をさらに買う事は目に見えている。
そういった状況から考えると、記されてはいないが、州牧並みの権限も与えたと見て良いと思う。
この時の仮節には、それくらいの意味があってもおかしくないだろう。
>>169 戦力増強って、どっから何を持ってくる気で?
それに呂蒙は「徐州なんて今取ってもしょうもない」と孫権に言っており、
最初から荊州に狙いを定めていた。兵や将を増やした所で手を変えてくるだけ。
貴方には是非、「兵がどれくらい、将の誰が荊州に赴任してきたら呉の餌食にならないか」
というのを述べてみて欲しい。
牧は牧、王は王だよ
別の意味を持っているんだから返上するわけない
劉備が牧位を返上したなんてのは有り得ない
>>170 上の方で蜀の力の再配分の途中でどうこう書いてたから
それが終わってれば荊州の防衛と侵攻が両立できてたのかと思ったんだが
ただの人事異動じゃ荊州の防衛はできても侵攻は無理だってこと
>>171 漢中王になる際の「帝への」上奏文にもあるが、
政治を壟断する曹操から漢朝の威信を取り戻す為、
故事にならって自らの爵位等を上げ、独断で政治を行うと言う物。
つまり、「帝の臣」であり続ける為にも曹操政権下にはいられない、
と言う事で曹操の政権下で機能している将軍位や爵位等を返還した。
それでいて、職位である州牧だけは返上しない?その方がありえないと思うが。
>>172 力の再配分云々については、それはどうかなぁ、と思っている。
まず、劉備が荊州に大駒を配備しようとしていない事。
張飛は司隷校尉に任じられている事から、対長安方面。
馬超はまだ任じられていないが涼州方面。
魏延は漢中太守。黄忠は、関羽との軋轢を考えると危険。翌年死んでるし。
では趙雲は。長く劉備につき従っているにも関わらず、官位は五品官と、意外に低い。
しかし、関羽と共にいた期間もあり、軋轢が生じる事も余り想像できない。
これらの選択肢から見れば、趙雲くらいしか荊州の留守を頼む適任者はいないだろう。
また、どの将にも関わらず、兵の増援をしようというならそれなりの記述があっておかしくない。
にも関わらず、派遣したという記述は無い。何故か?
1、劉備が現在の荊州の将兵で不足は無い、と考えていた。麋芳もいるし。
2、蜀攻めで劉備がいない間に、関羽と趙雲の間に軋轢が生じていた。
3、呉が攻めてくるなど、微塵も思っていなかった。
4、実は将兵を派遣しようとしていたが、関羽が「不足無し」として拒否した。
5、将兵は漢中から漢水ルートで来る予定だったが、孟達のところで編入された。
さて、どれだろうか?(多分5は無い)
1、は3、と合わせると妥当
2、趙雲は劉備の後を追って蜀入りしたから軋轢が生じる間などないと思う
五虎大将軍は演義が発祥で、趙雲は明らかに格下だが、留守居役ならありか
4、狼煙台の話から関羽は呉を警戒していたと思うが
いろいろあって断ったかもな
そもそもまだ動いてもない長安・涼州方面に張飛・馬超を配する前提では
荊州に自衛以上の兵力を投入するのは無理
兵力を増強すれば隣接する勢力との仲が険悪になることもお忘れなく
>>173 漢中王即位以降もしっかり従事の面々が存在するんだが、これについては?
牧(も刺史も)不在で属官だけが存在していたと?
それに張飛の司隷校尉って劉備が帝位についてからの話なんじゃ?
>>173 俺理論が暴走しているな。
劉備から献帝への上奏をよく読んでくれ。
群臣が劉備を大司馬・漢中王にした。
だから将軍位としてダブる左将軍と、爵位としてダブる宜城亭侯を返上した。それだけの話だぞ。
牧位は全く言及していないし、別のカテゴリーであり返上する必要もない。
大体漢中王は蜀の王だから荊州を支配する名分上の根拠は牧位しかないんだから、返上は有り得ない。
にわかに活気付いてきたようで。
誰か
>>173の5を推す猛者はおらんかな…w
>>175 >しっかり従事の面々が存在するんだが
すいませんね、浅学なもんで。
例えば誰でしょうか?
>それに張飛の司隷校尉って劉備が帝位についてからの話なんじゃ?
こちらの説明が足りなかったようです。
帝位につく前は右将軍・仮節となっており、役職については書かれていません。
この時に魏延が抜擢されて漢中太守になっています。
これは既に司隷校尉にする(長安方面へ進軍させる)予定だったから漢中太守にしなかった、
とも考えられます。
>>177 >俺理論
まあねぇ…こんな話は聞いた事も無いですし、
王と牧を兼ねて任じられるというのも聞いた事がありませんし。
>群臣が劉備を大司馬・漢中王にした。
劉備自身も「漢中王に、オレは、なる!」と送っていますね。
>荊州を支配する名分上の根拠
根拠なんて、あってないような物でしょう。
では、関羽死亡の際、孫権が劉璋を益州牧に任じていますが、これは何の根拠があったので?
さらに、劉備死亡の際には劉璋の子を益州牧に任じていますが、根拠なんてありますか?
179 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/29(日) 16:51:17
>>178 ホントに浅学だな。
曹操は魏公(王)で冀州牧、孫権は呉王で荊州牧。
あと勝手に名乗ったりするのと、わざわざ返上するのとでは全く意味が違う。
自称でもいいから牧であることが、書類上のことであっても支配を正当化できる理由(言い訳)になるから称していたんだろ?
わざわざ返上するのは自分で支配するを諦めたのと等しいじゃないか。
王号と官職は別物なのに王になったら牧になれないって光栄三国志のやりすぎじゃねーの
182 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/29(日) 17:45:34
やっぱりホウトウの戦死が・・・。
>>181 ああなるほど、彼はそこから発想してるのか。
あと劉備が漢中王になった時の荊州の従事といえば潘濬がいるが、劉備が漢中王になっても彼の官職や仕事に異動等があった形跡はないな。
>>178 黄権伝等を参照
劉備は漢中王と益州牧を兼務してる
文脈からみて黄権は益州の治中従事
少なくとも、劉備が漢中王に即位して以降も
潘濬:荊州治中従事
趙筰:益州別駕従事
楊洪:益州治中従事
何宗:益州従事祭酒
杜瓊:益州議曹従事
上記の面々は存在している
程畿も益州の従事祭酒だった可能性がある
また、劉備が皇帝に即位して以降も
王甫:荊州議曹従事
ホウ林:荊州治中従事
が存在し、劉備が皇帝に即位して以降は崩御の後に諸葛亮が兼務するまで
牧が存在せず、おそらくは劉備が牧の属官を直轄化していたと解釈できなくもない
そう考えると、個人的な主観と想像に過ぎないが、張飛の司隷校尉は軍事的な
目的よりは益州牧の代行を主旨として置かれたのかも
185 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/29(日) 19:25:06
諸渇亮を荊州王に任命して独立させれば完璧だったんだ。つまり天下四文の荊である。
話を戻す為にも、己の論のあやふやな事を認めます。
こんな枝葉は成長する前にさっさと剪定しましょう。
王は牧を兼任する事が出来るし、牧位を返上した形跡は無い。
>>181、
>>183 別にゲームからの発想じゃなく、実質の牧・刺史の仕事は王はやらないんじゃないかと思いましてね。
>>184 ああ、はっきり書いてありますねぇ…。
5ページ後まで読み進んでればこんなアホな事も書かなかったろうに。
知識の披露もいいけど議題は何なんだ?
関羽の樊城包囲に関して
1、関羽の独断か否か
2、時期は適切だったか否か
こんなところか?
>>187 お前の最大の間違いは指摘されて知識不足とすぐに認めるほどの知識のクセに
知識があることを前提とした議論をしてることだ。大人しくROMるか、知識ないなりの質問レスにしとけよ
ま、そんな知識なんざなくてもここの議論にはついていけるんだけどな
偉そうな人にはお題を出して欲しいもんだ
この手のスレの流れが、わりと現実味のある推論→電波・妄想の類→煽り→知識人の召喚→結論でないよね、
このループだからなぁ…
知識保有者
>>189を弄るスレだと聞いて駆けつけましたw
関羽の権限に関しては董督荊州事に任じられてるから荊州の総督として
人事権を担ってるとみてもいいと思うんだけど、鉞の授与はその大分後だから
単なる箔付けでしょう、もしくは北上についてのOKサイン。
呂蒙の言でも関羽が荊州の政務を担っていたであろう事は推測できるし、
荊州の総督なのに人事権や政務を担う権限を持っていなかったとは考えにくい。
>>194 荊州牧やその属官が存在する事を踏まえても?
>>195 踏まえても。
荊州牧の劉備は益州を本拠にして荊州不在、それでは秘書官である各従事達は権力を十分に振るえない。
また劉備は州牧の属官をあんまり重視しては無く、それよりは左将軍の方での任官を重視してるし、
荊州牧の属官は肩書き程度のものでしょう。
なんかまた俺理論が…
199 :
187:2006/10/29(日) 21:32:02
194は私ではありませんよ。
信じるも信じないも君次第、ホントの事なんだ
一々言わんでもわかる
201 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/29(日) 21:40:28
どっちでもいいよ
>>198 ん?出来ればどこら辺が俺理論なのか指摘して欲しい。
まあ秘書官と書いたのは正確では無いが、ただ従事が州牧の属官である事は事実だし、
劉備が左将軍としての任官を重視していたのも諸葛亮・ホウ統を見れば明らか、
漢中王に即位後はさらに。
州牧から切り離されたトップ不在の従事がどれだけの権力があるのかといえば微妙だろう、
劉備の任命で州の総督としての関羽も存在してるしね。
>>194 というか「董督○州事」なんて役職名聞いたことないから「関羽に荊州の事を董督させた」と訳すのじゃないかと。
具体的な権限(官位・役職)ではなくこういった曖昧な表現だから皆どこまでの権限があるのか
(魏晋でいう都督に近いのか州刺史に近いのか)を計りかねてるわけで。
>>196 刺史や牧の代行はそれこそ「治中」「治中従事」もしくは「別駕」「別駕従事」ではないかな?
確か別駕は臨時代行のための役職。
>>197 「刺史・牧・別駕従事不在の荊州で従事達は権力を十分に振るえない」とのことだが、
実際潘濬が劉備入蜀後の事務を担ったこと明記されてるわけでそれはちょっと…
というか牧が不在だからこそ責任者たる治中従事らの責任が大きくなるわけで、
組織のトップ不在でナンバー2の力が弱まるという考えがイマイチ理解できない。
左将軍の方での任官を重視というのも、それこそ入蜀後左将軍府の在籍地である益州と荊州では意味が違う。
>>202 法正は蜀郡太守でホウ統は荊州従事じゃなかった?ホウ統を見れば明らかというのはよくわからん…
>>203 >というか「董督○州事」なんて役職名聞いたことないから
多分作ったんだろう、本来劉備に荊州の総督を任じる権限は無い。
まあどっちにせよ董督=都督なんで「関羽に荊州の事を董督させた」っていう位だったら普通に都督でしょう。
>刺史や牧の代行はそれこそ「治中」「治中従事」もしくは「別駕」「別駕従事」ではないかな?
違う、別駕従事の役目は司隸校の秘書みたいなもの、治中従事は州牧の場合の別名。
>実際潘濬が劉備入蜀後の事務を担ったこと明記されてるわけでそれはちょっと…
上に書いたとおり治中なんて本来は州牧の副官的なポジション、それが事務処理を担う程度では本来の権限から見ればかなり落ちる、
だから牧が不在だから治中従事らの責任が大きくなるってのは違うね、従事らは彼等の職務だけでは
命令権を持たず、正当な命令権を持つ州牧の属官だから大きな権限を有せる訳。
だから左将軍府の人材達を側近にしている劉備の下では従事等は本来の職責から比べるとかなり弱い。
実際に兵曹従事なんて無視されて関羽に軍事の大権を与えてるだろう。
>法正は蜀郡太守でホウ統は荊州従事じゃなかった?ホウ統を見れば明らかというのはよくわからん…
法正は揚武将軍、ホウ統は治中従事から軍師中郎将への昇進。
諸葛亮は従事をすっとばして軍師中郎将、劉巴は左将軍府の西曹掾、
つまり劉備の側近のベースは左将軍府>州牧っていう事、まあ当たり前だけど。
肩書きだけと言えば豫州牧もだね。
これを漢中王即位まで大事に持ってるけど、
荊州に入ってから権限を使ったというのは記憶に無いなぁ…。
>>194、
>>203 董督の意味は「監督して正すこと。とりしまること。(三省堂提供「大辞林 第二版」より)」とあり、
牧・刺史の役目も、州の各郡の監察である事から、
やはり、役職名が合わないにしても、牧と同じ権限はあったんじゃなかろうか?
それ以前に、州牧に太守の人事決定権があるならの話だけど、
もしそうなら、関羽が太守を決めたという可能性も出てくる。
そういや別駕で思い出したけど、上で張飛の司隸校尉についての話題があったんでついでに、
司隸校尉は州牧としての権限も併せ持つけど、本来は都の警備+百官の取り締まりが仕事なんで、
長安方面への進軍云々よりもそっちの方を意識した任官だと思う。
>>204 >多分作ったんだろう
いやいやご冗談をwわざわざあの場面で勝手に役職名作って任じたなんてどうやったらそんな話し出てくるの?
三国志における董督の使われ方は「三軍董督」「七郡董督」と軍を、あるいは地域を率いるというような意味。董督=都督というわけではないよ。
ちなみに都督ととるなら「職務は軍事的事柄に限定される」ということに。関羽の人事権云々といった
>>194の主旨に自ら反しているのでは。
>違う、別駕従事の役目は司隸校の秘書みたいなもの、治中従事は州牧の場合の別名。
へ?別駕従事は司隸校尉に限らず刺史(牧)の場合もあるでしょ?八従事の一つらしいし。というか司隸校尉の属官の中には見えないような…
>>204下段の内容に対しての内容に被るけど、治中従事の職務とは「中に居て事を治め、衆の主となって文書を曹す」
つまり統治責任者且つ文書管理の責任者のはずなんだけど、その「従事らは彼等の職務だけでは命令権を持たず」ってのはどういう意味?
一々劉備(刺史・牧)を通さなければ命令書が効力を持たないとそういうこと?それはないでしょ。
「事務処理を担う程度では本来の権限から見ればかなり落ちる」って、事務処理こそが治中の本分のはずでは?
というか事務処理って行政の中枢を担う重要職務ですよ?孫権が太守に任じられても赴かず文書処理を任された丞の顧雍が実際に太守としての役割を担ったように。
益州に関してはともかく、現に荊州統治において治中は本来の権限を発揮してるよ。
「ホウ統は治中従事から軍師中郎将への昇進」っていうのは、考え方として根本的に間違ってないか?
劉備の上奏文の中に「議曹・従事中朗・軍師中郎将」と並立して記入されるように職責分野が違うので上下の関係にはないよ。
ホウ統は入蜀に従軍するまでは治中従事と軍師中郎将を兼務してたと捕らえるのが自然でしょうに。
>>206 俺もそれっぽく書いたけど同意
皇帝の劉備が益州牧の権限を握った状態だったろうから、州牧の職務を
司隸校尉が代行する形式だったんじゃないかと思う
蜀が僅か一州で成立した国家って事もあるし、(劉備の健在時は)府を開けない
丞相の諸葛亮との兼ね合いからも車騎将軍の張飛を州牧にするってことは
できないだろうし、その辺を配慮した様にも
209 :
207:2006/10/30(月) 00:11:06
「統治責任者」ってのはオーバーだったかも。「事務の長」といった方が適当かな。
>>208 >丞相の諸葛亮との兼ね合いから
その割には同時期(221年)に馬超を涼州牧にしちゃってる訳ですが、
それについてはどう思います?
袁紹陣営をみると従事の権能が随分と大きいよね
田豊や沮授、審配あたりは幕僚としてはもちろん、幕府の事務や軍の処務を
統括する権限まで与えられてて、これって任命する牧やら刺史の権威に
比例したものなんかな
>>207 >いやいやご冗談をwわざわざあの場面で勝手に役職名作って任じたなんてどうやったらそんな話し出てくるの?
別に冗談じゃないけど、無いなら作る場合もあるだろう。
>董督=都督というわけではないよ
そうか、じゃあ俺の間違いだ。多分君の言うとおりの地域を率いる方の意味だろう。
>へ?別駕従事は司隸校尉に限らず刺史(牧)の場合もあるでしょ?八従事の一つらしいし。というか司隸校尉の属官の中には見えないような…
別駕は本来は司隸校尉の属官、ただ職責が同じなんで治中と混同して使われてるだけでしょう。
>下段の内容に対しての内容に被るけど、治中従事の職務とは「中に居て事を治め、衆の主となって文書を曹す」
通典だろそれ、後漢書の百官史では治中と別駕の職責は「校尉が行部すれば則ち奉じて引きつれ事を録する」
後漢では秘書的な存在、劉備を通さないと命令権は無い、また事務処理は重要な仕事ではあるが、
行政的な命令権が無いんで州の政治を担うとか言うレベルにはない、顧雍の例はハッキリと太守の任務を代行させてる、
例として適当でないでしょう。
>劉備の上奏文の中に「議曹・従事中朗・軍師中郎将」と並立して記入されるように職責分野が違うので上下の関係にはないよ。
『軍議中カ将』な、諸葛亮の例を見るに従事と中郎将を兼務した事例は無く、
従事→軍師中郎将と段階を踏んでいるから出世と見るのが妥当だろう。
>>208 私見だけども>州牧の職務を司隸校尉が代行する、とまでは考えてないと思う。
元来司隸校尉は州牧の権限を持たなかった訳だから、とにかく都の警備担当者を決めて、
成都=都である、という体裁を整える為の処置ではないかと。
>>211 開府を許されてないからなのかは知らないけど、袁将軍の構成は良く分からないよね。
従事も初期に田豊・審配とかが任じられただけで詳しい構成は不明、
審配・逢紀に軍事、田豊・荀ェ・許攸を謀主、顔良・文醜を将帥としたっていう適当ッぷりだし。
体裁だけでも成都を都とするなら益州刺史部を司隷部にしなければならない。
しかしそういった改編をしていないから、劉備(蜀漢)はあくまでも中原を漢の都と考えていたことになる。
あとその職官志は後漢書ではなく続漢書だよ。
細かいことだがどちらを書くかでその人のレベルが分かるから気をつけた方がいいよ。
>>215 体裁を整えるにしてもそこまでやる気がなかっただけでは?
司隸校尉は既に広く知れ渡っている官位であるし、
わざわざ益州全体の名称を変えてまでやる事でもないでしょう。
ただ劉備が皇帝に昇ったからには皇帝が居を構えるところ=都になるし、
漢を自認するなら有る程度は整える必要はあったと。
指摘ありがと。
役職名を変えるだけでいいんじゃない?
なんて偉そうなマルチなんだw
test
内容上どう見てもこっちの板の方が相応しい件について……
都が許昌に替わっても、都の警護の役目は司隷校尉のしごとだったのかなぁ?
許は仮住まいだろうし、現実には曹操の兵が守っていたから司隷の出る必要はなかった
司隷は関中対策と洛陽復興に出ている
それって越権行為になるんじゃぁ・・・。誰も罰与えられないだろうけど。
そもそも、その頃に司隷校尉、若しくは司州の刺史とか牧ってのはいたのかね?
227 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/04(土) 01:43:58
その頃がいつのことを示しているのかわからんが、まず鍾ヨウを忘れてはいかんぜよ
司州刺史ってゲームじゃないんだから
それに許って豫州なんじゃないの?
229 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/04(土) 11:23:29
漢では曹操が司隷管轄を廃止再編し、九州制を施行した。
これは漢の権威を損なう=相対的に魏の権威を高めるための措置と言われる。
この時に司隷校尉は廃止されたか?
なお魏になってからまた再編され、今度は「司州」が生まれている。
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/04(土) 11:43:13
補足すると、魏には司隷校尉はいるので、九州制施行時も廃止ではなく州監察を止めただけなのだろう。
なんか時代によってまちまちだなぁ、司隷校尉。
魏は司州に刺史を置くようになってから完全に役割が分離したんだろうけど、
蜀の場合、張飛を司隷校尉にした時はどの意味合いが強かったんだろうか。
魏が定めた「司州刺史」を踏襲する訳にはいかなかっただろうから、
司隷校尉部方面軍の司令官とも、首都(益州)警護ともとれる。
孔明の場合はその行動から、本来の職分である首都警護の意味合いが強そうだけど。
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/05(日) 13:02:00
司隷校尉に首都警護なんて職務は無いよ
あるのは
・官僚の監察弾劾
・州刺史に属さない首都圏の監察
であって、首都を警護する必要はないんだよ
だから張飛などについて首都警護などという考えはない
あるとしたら官僚の監察か、将来的に関中を攻める時を見据えた人事ということになる
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/05(日) 22:03:18
史上最大の愚策
山本勘助の啄木鳥戦法。
スレ間違ってないか
それよりどうでもいいんだがスレタイの?の位置が気になる
首都の警備や治安維持って執金吾の仕事じゃないの
237 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/06(月) 22:26:53
239年
卑弥呼が魏に朝献
238 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/06(月) 23:07:11
劉備と孫権は知らんが
袁紹は取るチャンスは大いにあった。
また袁紹が後継者を指名していればよかった。
少なくとも赤壁は5年は後になっていただろうね。
239 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/06(月) 23:39:57
もともと関羽が、赤壁の戦いの後、
曹操を助けてなければ、全然ちがかったと思う。
241 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 00:16:51
そりゃ演義だろ!本当にやったら感動も何もとんでもない武将として後世に残ってる。
>>238 それを言ったら話が終わるw
つかそう考えると、歴史って面白いものだな。
初期なんて、エン家のお家騒動みたいなもんだし、
エン紹も後継を一本に定めていれば、どちらが継いだのであれ、
曹操ではかなわなかっただろう。
243 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 01:08:05
袁厨は他所に池
関羽北上時に話を戻すが、
劉備が漢中から上庸を経て荊州に入ったら
どうだろうか?
実際には漢中を魏延に任せて、自分は成都に行っちゃったけどさ。
245 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 01:36:04
呉とは同盟関係だと考えていたんだからそんなことは考えもつかんだろ。実質関羽は裏切られたようなもの。彼あの頃ちょっと調子に乗ってた節があったからね
>>245 それは蜀漢全体にいえること
むしろ関羽個人は当時調子に乗る理由は見当たらない
焦りはあったかもしれんが
247 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 07:22:40
そうかな。当時、孫権からの縁談を一蹴してるし、前将軍になってハン城戦で大勝利。気を良くしたのか危なっかしい奴らに江陵任せて寡兵で名将徐晃に立ち向かい案の状負けて帰る場所も呉軍に取られてた。自分を過信し過ぎてやしないかな?
248 :
.:2006/11/07(火) 07:26:44
いろいろ突っ込みどころはあるが、寡兵ってのはどっから出てきたんだ?
10万は寡兵だろ?
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 07:33:20
正史に詳しい記述は無いが、普通あの状況で城を空っぽにするバカはいない。当然守りが第一命題なんだから寡兵で野戦に持ち込むのは当然かと思う。だが輩どもが守将ならば勝つことを前提に行軍したのだろう。そこに過信を思う。果たして大主自ら出ることが冷静であったろうか?
251 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 07:40:03
蜀漢サイドの甘さが原因!関ヶ原の西軍と同じ!
常識で考えれば、孫呉は天下統一を目論む曹魏と対立しなければ存続できない為大丈夫と考えた!
まさに、豊臣系の大名は家康政権では存続できない為に敵に回らないと考えてたのと同じ!
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 07:42:55
小早川がビホウとフシジン?
>>251 どちらも結果を知っていると「甘い」だけど当時としては下策とは言い切れなくない?
もっとも予測が外れた時はどうするのかって点ではイマイチだけど。
そういや劉備陣営の交渉って何か特徴的だよね。
254 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 08:33:09
そのココロは?
>>254 昨日の見てたなw
いや、何というか共通の敵をもつ相手に保護して貰う形が多いなあと。
蜀乗っとり後は変わらざるを得ないけど。
256 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 08:53:49
だから同盟し、共闘の意義があり、そこに交渉の余地があるんだろ。それは劉備軍の特徴じゃなく、交渉の特徴だ!!
>>256 劉備軍の共闘って殆ど傭兵の契約じゃなかったっけ?
孫権は兄貴の頑張りもあってそういうのはないけど。
関ヶ原はどう考えても下策
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 09:09:05
同盟というのは何も共闘だけのことではない。日米のように互いの利益の妥協によって為されるものだ。そも鼎の状態を維持しなければバランスが崩れるを命題とするのであれば共闘より互いの守護が優先され魏の侵略を受けやすい刑州守護は呉にとっても交渉の余地がある案件だ。
260 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 09:11:03
同意。外交とはそういうこと。
261 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 09:42:15
孫権って晩年もうろくして陸孫ころしたのってまじ?
孫権って陸孫信頼してたんじゃないの?
孔明死後よくわからん
>>261 殺したというか…死にたくなるほどいびった。
しかも空器みたいな洒落はなし。
期待の息子が死んでからはどうもスランプみたい。
263 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 10:46:55
陸遜の孔明死後の経緯詳細希望!
264 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 10:51:08
太子の孫登が死んだ後、孫和を立てたら宮廷で支持派と不支持派の派閥が出来た。そこで孫和を廃し、更に災いの元であった魯王孫霸に自害を命じ、当たり障りない末子の孫亮を太子にした。この二十年近くの騒動で陸遜を含む直諫の士十名が処刑や追放に処された。
265 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 10:57:03
陸遜は嫡子相続を唱えていたので、いずれも太子にならなかった孫和と孫霸を押したがこれが孫権に誣告ととられ流罪になった。その後も孫権は執拗に罪を問責し、陸遜は憤りのあまり死んでしまいましたとさ。
266 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 11:01:23
孔明死後はまともな戦闘には参加していないのでは?コヨウ亡き後丞相になったがちょっと違う気がする先程の経緯で追われるからね。60歳くらいで死んだらしいよ
267 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 11:01:33
陸遜は流罪になっとらんよ
268 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 11:28:32
んっ!? そっちが間違い?
269 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 12:25:53
ちくまの誤訳として有名じゃないか
孫権が皇太子孫和に代えて孫覇を立てようという動き、孫和側がスパイにより察知
陸遜に伝えられ陸遜は諌言した
孫権は彼が知らないはずの皇太子廃位を知っていたことを疑い、その件について陸遜を詰問
陸遜は詰問の末に「憤死」した
自らの誇りを守り、また自分の口を封じるとともに自分の死でこの件を収拾しようとした覚悟の自死だろう
流罪にはなっていないよ
丞相位などを取り上げられてもいないのだから
270 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 12:59:24
勉強になったな。
んで、どうでもいい事だが、いくちゅで死んだの?
271 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 13:01:36
勉強になった。ありがとう。
で、顧ヨウの次は誰が丞相?
272 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 13:06:03
双子ハケーンっ!!
273 :
.:2006/11/07(火) 13:09:00
ちくま伝説の誤訳だな、もう直してるらしいが
身内が飛ばされて、味方も獄死させられて憤死(自殺)と・・・・
>>273 息子もその事知ってるのによくアレに仕えたよなあ。
曾孫だっけかは彼らのことをを詠んでないのかな。
それどこの声優?
277 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/07(火) 14:36:26
9月まではジブリにいたけど11月からは掘プロのアイツ
ちょっと逆に考えてみよう。
蜀の国はけい州を失陥しても数十年にわたって持ちこたえたわけだ。
ということは、関羽がおとなしく蜀に引っ込み、劉備も呉蜀戦などをしないで
ひたすら殖産に励み必要以上の戦をせず、防備に専念したとして、
蜀が長持ちしたらまた違う歴史展開になりえるだろうか?
貨幣は抑えているからなんとかなるかもしれないが、曹操の寿命がないのと同じく劉備の寿命も残り少ない
そこが問題だ
いっそのこと野心的な劉備・孫権が揃って早々に退場して劉禅(諸葛亮)・孫登(陸遜)体制の方が良かったんじゃなかろうか…
孫登が生きてたら呉は磐石だろ
後続の南北朝時代に北朝はさらに東西に分裂したが、それが再統一されるとまもなく南朝も併呑された
三国時代においても魏が曹氏から司馬氏への政権移譲の仮定にあったから呉蜀が延命しただけで
魏の政権移譲が完了してしまえばそれは難しいだろうね
HAHAHA
蜀が国力の疲弊する遠征を一切しなかったとして、
三国鼎立の安定化ってのは無理かな?
例えば諸葛亮の北伐がなければ、司馬イあたりの台頭もなさそうだけど。
どこまで考えるのかによるんじゃないか?
純粋に考えたら引きこもった二国を力で攻め落とすことの難しさは既に証明されてる。
しかし統一行動を全く行わずに地方に割拠し続けることの政治的難しさを考えると…
>>274 ついでに陸遜本人の叔父(義父に近いが)は孫策に討たれてるw
諸葛亮の北伐は呉との同盟を正当化するためにやむを得なかったとも言えるが
魏はほっといてもいずれ攻めてくるだろうし
>>287 うーむ。派手な方が好きなのか…。
>>288 陸康だっけ?あの辺諸葛玄といい彼といい何か凄いな。
ミカンも陸氏だっけか。
ミカンは陸康の子供
劉基もそのクチだな…
などと意味不明の言葉を発しており、動機は未だ不明
>>290 陸機も詩人だからねえ(曹植以来の才子と言われてた)
詩人同士惹かれるものがあったんじゃないかな。
「魏の武帝を弔う文」なんてのも書いてるよ。
この人は呉というよりほとんど晋の人だね
>>294 詩聖クラスか。凄いな…。臨書したくなったよ。
詩吟出来ればいいんだけどなあ。
>>294 詩人としては才人ではあったが、軍人としては凡人もいいところ。
陸抗は忙しすぎて教育が出来なかったのだろうか?
そんなものさ
日本の戦国時代も同じようなことしてたはず
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/09(木) 22:25:19
陸遜に仇討ちの概念など無いのだろう
>>288 寧ろそのシチュエーションいいね。
娘を慰み者として差出すから仲良くしてねってことでしょ。
どうせ戦わねばならないなら相手は強者より弱者がいい。
どうせ刃を血で濡らすなら、寸鉄より肉がいい。
夜な夜な屈辱と復讐心を差出された妻の体で快楽に変えて忠義に励む、これぞ国士の道であろう。
陸遜の仮面鬼畜説を提唱する。
分家の辛さを考えてみた方がいいと思うぞ
場合によってはぬッ殺されるからな
303 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/10(金) 13:55:50
昔のIFモノの本で、南征をもっと進めて、ビルマあたりまでを
蜀の勢力圏に収めて大国化させる話があった。
現実味があるのかは不明だけど・・・。
山道でなく山と谷を越えねばならんな・・・。
無事辿り着き、乙と言える兵士が果たして何人いることやら
輸送用の牛馬を食料にしそうな気がしてしまった…
諸葛牟田口
数百年かけて開発すれば大国化するんじゃないの?
後代になれば海洋交易ルートでウハウハできるだろうし
呉と山越の争い見てると、とても未来が明るいとは思えん。
南方に向けても開けてるわけじゃないから進軍も撤退もままならないような気がする。
そのうちインパール作戦みたいになるかも。
俺の息子にもインパール作戦してくれ
別名、白骨街道か。夷陵でやったろ。
そういや孔明の艦隊ていう本があったなあ。
色々間違ってる気がした
∧_∧ よーし独立しちゃいます〜♪
( ´・ω・`) ∧_∧
/ 鐘 会 \ ( )何言ってんだこいつ
.__| | .| |_ / ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄ / .| | |
||\..∧_∧ (⌒\|__./ ./
||. ( ) ~\_____ノ| ∧_∧
/ ヽ 氏ねよ \| ( )
| ヽ \/ ヽ. オマエ基地害だろ
| |ヽ、二⌒) / .| | |
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/14(火) 20:32:39
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/14(火) 20:59:22
>>315 元ネタのモンゴル軍もベトナムで負けてるのにあのネーミング。
無理は承知てのは孔明にも言えるけどさ…
318 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/19(日) 22:39:38
孔明党党首 諸葛孔明氏に熱き一票を。
319 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/20(月) 22:49:57
おことわりだ
320 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/21(火) 00:15:30
諸葛亮がいなけりゃ呉が5分の2くらい領土持ってた。
322 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/21(火) 00:23:15
諸葛亮がいなけりゃ曹操が5分の5くらい領土持ってた。
諸葛亮がいなけりゃ光栄三国志の知力100は郭嘉のものだった。
諸葛亮がいなけりゃ呉蜀同盟が復活しなかったのは事実だろう
325 :
.:2006/11/21(火) 14:52:45
別に主戦派がいるわけじゃないし、向こうから持ちかけられれば即OKだろ
陸遜も手をとりたがっていたと思うぞ
>>325 ちょい時期がズレるけど、呉が帝位に就いたとき群臣は揃って同盟破棄を主張するなど、むしろ対呉強硬路線の支持者は多かったんじゃないかな?
張飛と関羽がやられなければ…………(T_T)
それにホウトウが戦死しなければ…………
天下統一も夢では、なかった。
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/21(火) 22:03:28
無理だろ。どっちにしろ寿命でくたばる。
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/21(火) 22:06:36
まあ実際蜀も呉も天下統一はほぼ無理だよね
王平があと30人くらい居れば何とかなるかも。
劉備も関羽も恐らく張飛も天下統一を指向していたが
呉と諸葛亮は天下三分を志向していた
諸葛兄弟の策かな?
諸葛一族で天下を取るという壮大な作戦。
とれてませんが
諸葛誕がミスった
オレとしては
>>331の人選が何故王平なのかが気になる
寿命を考慮して。
>>332 >呉と諸葛亮は天下三分を志向していた
>呉と諸葛亮は天下三分を志向していた
>呉と諸葛亮は天下三分を志向していた
>331
無学文盲が30人いても結局無学文盲
それよりは馬良馬謖鳳雛が存命してればおk
341 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/23(木) 12:21:32
魏延があと10人いれば呉よりは長く粘った
342 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/23(木) 12:24:11
こういう考察系のスレはまじで中英板行った方がいいかもな・・・
最近の三戦板見てると・・・
>>341 蜀漢を取らない限り魏は呉を征服できないから
蜀漢が先に滅びるのは必然
>>344 呉攻略に蜀は必要?
荊州とって維持できればいけるでしょ?
>>345 流石に季玉も背後襲うでしょ。あるいは曹操に臣従とか。
>>346 臣従を持って征服とするならば蜀を取っていない状態で呉も臣従してる訳で・・・
しかも張魯が蜀狙ってたんだから劉璋には他方へ攻め込む余裕は無いでしょ?
荊州持ちで呉に攻め込むとしたら
張魯に同調を促して蜀はけん制し、かつ山越にも反乱させる
と思われる
呉の「臣従」って、ほんとマガイモノだよな・・・
宗主を遠国の吏員として飛ばし、呉内各地に中央からの統括官僚を派遣し
兵も組織も解体して官軍に編入して、初めて臣従したと言えるのではないのか?
荊州南部には赤壁があったとされる頃に侵攻を断念してるんだから
呉に併呑された後はなおさら無理だろ
>>345 江陵落とせれば可能だけど蜀なしだと難しい
史実でも晋の軍勢で呉に一番乗りしたのは蜀から出た部隊だったっけ
長江下流の戦いは割と互角だったとかいう話だった気がする
つまり呉を落とすなら、蜀を抑えているなら楽、江陵があるなら可能、下流域からはダメポ
こんな感じ
>>351 呉領に真っ先に侵攻したのは揚州方面の王渾。
彼は揚州の長江北岸をあっさりと制圧し、楊荷橋において張悌軍3万を撃破している。
彼の尋陽攻略が1月下旬、益州から出た王濬が丹楊を攻略したのが2月初め。
建業一番乗りは王濬だが、これは呉の揚州方面軍の大半が王渾に引き付けられていた事も大きな理由。
>>352 我慢してたのに突っ込んじゃったよ・・・
354 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/24(金) 22:21:10
蜀の細木数子こと譙周
355 :
木村貴光:2006/11/24(金) 23:05:53
間寛平は?
関羽が赤壁後に曹操を見逃さなければな・・・
ってあれは演技?
>>357 らしいね。曹操殺す→孫権頑張る→劉備ピンチ→関羽増長→益々ピンチ
を読んだ孔明スゴスってことらしい。
>>359 暗号なんじゃねーの?どーみても日本語じゃねーだろ
361 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/25(土) 17:19:23
もし曹操が赤壁で死んでいたら、孫権と劉備に飛躍の機会はあっただろうか?
機会があった可能性は大いにあるが、曹操急死後の曹丕?陣営がどう乗り切るかは想像の域を出ないからなぁ…
孫策死亡時の孫権陣営なんて下手したら空中分解してもおかしくなかったけど、見事に乗り切っちゃったみたいな例もあるわけで。
後継者問題が表面化するんじゃない?
漢王朝存続派がどう動くかも気になる
いい感じで丕・彰・植で分裂したら面白かったかもな
曹彰はないんじゃないか?
ゲームなら曹家分裂ってシナリオがあるな
曹丕・曹彰・曹植に大体は分かれる
ゲームではね
彰も遠巻きに謀殺されたって妄想してるんだけど、どうだろ?
タイミングよすぎるというか
369 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/26(日) 00:29:50
妄想どころか暗殺の疑い濃厚
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/26(日) 10:50:33
曹丕と曹植に分裂したら、曹彰はどちらの陣営に加わるかな?
それとも、どちらの陣営にも加わらず中立を貫くだろうか?
372 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/26(日) 11:07:08
黄忠じいちゃんがあと30年若ければ
顔良文醜がゲームみたいに関羽に勝てれば
馬超とかもっと長生きしてれば
寥化がもっと優秀だったら
趙雲がアトなんかほっぽっていれば
顔良文醜が関羽に勝てるゲームって何?
曹彰派の重鎮っていたのかな?
375 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/26(日) 11:29:31
1.曹操が赤壁で戦死
2.曹丕と曹植に分裂
3.孫権が曹丕を応援して劉備が曹植を応援する
こうして曹丕と曹植の共倒れを狙えば、孫権と劉備に天下統一の可能性は残っていたと思うよ。
ちなみに、ここで孫権と劉備が偽装対立を演出することも重要ではないかな?
>>374 いちおうそのときに長安にいた人間としては賈詡あたりかな
光栄ゲームでのIFシナリオではありえない人材が曹彰の下に集まってたがw
377 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/26(日) 12:53:45
曹操が死んだ時、彰が大軍率いて都に向かったって話があるじゃん。
あれってどのくらいの兵だったのかな?
一人で率いるような数じゃなければ諸将が賛同してるんだろうし。
あの話が事実にしろ、創作にしろ、当時彰派(後継者として)がいたってことなんじゃない?
>>376 でもカクって後の手腕や曹操への後継者の進言みてると
かなり曹丕側(波風立たない側?)の人間っぽいし
長安にいたとしても曹彰に肩入れはちょっと可能性薄いよね
曹沖が跡継ぎになれば無問題
あ、呉は孫登で
…蜀は知らん
劉封だな
382 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/26(日) 21:43:50
魏フウさんの話題は?
あれの失敗で曹家の地盤が確固たるものになったって見方もできないかなぁ
>>383 曹操や魏ってクーデター潰しながら拡大して晋になっていったような…
取って変わる側だから仕方ないだろうけど
せめて、劉備が漢中取って余裕が出た後にクーデターしてくれたら
その場合は後背の心配が無い曹操が漢中を全力で防衛してきそうなんで微妙な気もするが
日本語でおk
うむ。意味わからん
せめて、劉備が関中取って余裕が出た後にクーデターしてくれたらなあ。
その場合は後背の心配が無い曹操が全力で中原を防衛してきそうなんで微妙な気もするが。
成程
三国鼎立より前の話になってしまうが、劉備が劉jを倒して荊州奪ってたら?
「劉表から譲り受けたら」の方がまだ可能性がありそうだが、
どの道「孫権HelpMe−」という展開になるだろうな
巴蜀方面はまだゴタゴタしてるし、馬騰君と連携できることも条件になりそう
袁家の長男坊がお利口だったら
ずいぶん展開違った気はするんだがなぁ。
劉j派などの反劉備派が曹操に助けを求める→お決まりの敗退パターン
>>390 曹操が攻めてくる前に州内がまとまる可能性は低いな。
そのまま曹操に当たっても、乗じた叛乱や内応が多そうだし、話にならないだろう。
劉備が荊州着いてすぐ奪えたなら、周りの勢力との連携次第だが少しは面白くなるかも。
そもそも劉表がもっとちょっかい出せばよかっただけの話
>392
袁譚は袁紹の死後、一時期は曹操と同盟を結んだんだから、
そのままの流れで降っておけば、一官僚としては生き残れたかもしれんのだがなぁ。
>>396 そして残存する袁勢力を統合して曹操政権内で巨大な力を持つか、なんだかんだいって潰されるか。
398 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/12(火) 23:02:26
なかなか
袁譚なんて危険因子を曹操が残しておくとは思えないんだが・・・
張繍の例もあるからなんとも
張繍は心服してたみたいだし、指揮官としても見所あったのだろう
袁譚なんざ粗暴で使えるところもなさそうだ
万が一、残ったとしても曹丕にいびり殺されて終わり
>401
でも曹叡の種親は袁譚だか袁煕だかだろ?
そういう説もあると言うだけだろ。
ちなみに袁煕な。
3兄弟の中では人柄的には一番まともで扱いやすそうではある。
404 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/14(木) 03:19:35
無理か
405 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/14(木) 03:23:54
蜀&呉天下取らすには
巍を弱体化させるしか無いのか
>>405 弱体化どころか多少内部分裂してても難しいかと。
曹操も袁家を滅ぼした時に内部分裂を利用したけど、それでも8年掛かった。
蜀や呉と魏の国力差は、それどころのレベルではないしな。
五胡の皆さんに一足早く侵入してもらえれば或いは…
>>402 そういう妄想は該当スレ行ってやれ
最近何の根拠も無しに実父は袁氏とか言うアホが多くて困る
>>408 曹叡が袁煕の実子ではないという根拠を述べてくれ
鄴城が包囲されていた期間は2年に渡るが、
その頃の袁煕さんは幽州にとばされてた。
412 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/14(木) 13:46:33
逆に考えるんだ
曹叡の年齢の通説が誤りで常林伝注が正しいと
そう考えるんだ
「正史」で歴代皇帝の年齢生年月日が間違ってちゃダメだろ。
三国志は私選の書が正史になったんだからそのくらい問題視することではない
>>413 間違いじゃなく隠蔽工作が不徹底なんだよ
まぁ、確かに信憑性がないと言えない事もないけど、それは言わない約束ではないだろうか
アウグストゥスだって妊婦を嫁さんに貰って、連れ子を2代目皇帝にしたんだから、
そんくらいのコトでガタガタ言うなよ
血族継承が必ずしも好ましいとされていたわけでないローマ帝国と血族こそ最優先な中国を一緒にすんな
420 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/14(木) 18:43:53
>>419 曹嵩とか曹真とか劉封とか朱然とか陳矯みたいな例もあるからなあ
>>420 曹嵩は元夏侯氏であったが曹騰の縁者が夏侯氏に嫁いだりしていた可能性がかなり高い事が指摘されてる
そもそも曹氏と夏侯氏は丁氏と一緒に豪族のカルテルのようなものを形成していた可能性が高く
血縁上も全く赤の他人だというわけではない
422 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/14(木) 19:11:32
曹真って関係ないじゃん
いい加減にしろよ
>>407 いち早く政権立てたのは巴ショクの成漢という罠
いつごろから曹叡が袁の血を引くなんて
とんでも説がまかり通るようになったんだ?
子種仕込むタイミングが時期的にあわなさ過ぎるし
それの記述が間違ってる改変されてるなんて言い出したら
歴史を語る上できり無いことぐらいわかるだろうに
なんかやけに必死に否定する人がいるんだよな
自分の本当の親が誰か不安だったりする人なんだろうか
曹叡の年齢に複数の異説があり、皇帝なのに何故か臣下の前に顔を出したがらなかったという話があり、若いのに養子を取っていたり、自分の廟号を烈祖と定めたり、何故か曹叡を巡ってどうも不審な話が多い。
その理由を説明できる仮説を検証しているのにトンデモ説といきなり切り捨てるとは
ところで
す れ ち
史書は読めるようだがコレは読めるか?
わざわざひらがなで書いてやったぞ?
袁家の血を本当に引いてたら、または疑われていたら皇帝にはなれないのでは?
曹操が徹底して袁一族の後継者を根絶やしにしていることを見てもありえないと思う。
429 :
402:2006/12/14(木) 23:42:06
なんか私の書き込みが元でエキサイトしだしたようで申し訳ない。
でもスレチガイではないだろ?
もし曹叡が袁氏の子で、それが元で魏が分裂紛糾したら、蜀呉に天下のチャンスが回ってくる。
あたかも袁尚と反目した袁譚が曹操に降ったように、曹氏の大物が蜀呉に降るかも知れん。
つーか実際、夏侯覇なんかは蜀に降ってたな。
430 :
402:2006/12/14(木) 23:48:31
突っ込まれる前に補足しとくと、
夏侯爵覇王が降ったのは司馬氏との反目があることは知ってます。
決して曹操叡智が袁氏だから降ったと思い込んでる訳では無い事を申し添えておきますが、
もしそうだったら面白いし、何より蜀と呉の天下のチャンスです。
あえて申し添えたんだから、わざわざひらがなでスペース入れて煽らないでくださいね。
曹叡が袁氏の子であることが事実だとして、
でも魏は分裂紛糾してないよね
あと曹叡くらい辞書に入れといたほうがいいんじゃないのかな
430
>もし曹叡が袁氏の子で、それが元で魏が分裂紛糾したら、
~~~~
431
>曹叡が袁氏の子であることが事実だとして、
>でも魏は分裂紛糾してないよね
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
まるで話が噛み合わない三戦板クォリティw
曹叡袁氏説になるとファビョり気味になる人がいるから仕方ない
>>430 > 夏侯爵覇王
最初「?」と思ったが、夏侯覇のことか。
侯爵の爵、覇王の王の部分はちゃんと消しとけw
なつこうしゃくはおう
五胡の一つ匈奴が立てた国
夏王朝とかなかったっけ
禹が出てくる古代王朝
赫連勃勃が立てた王朝
竇建徳が立てた王朝
李継遷が立てた王朝
土木作業ヲタの引き篭もり美少女が曹叡だと言ってみるテスト。
『種瓜篇』 曹元仲
東の井の上に種うた瓜 冉冉として自ら垣を踰す
君と新たな婚を為り與し 瓜葛は相結連す
不肖の躯を寄託すること 太山に寄るが如くなる有り
兎糸に根株無きも 自ら蔓を延べ縁を登らす
萍藻 清流に託し 常に身の全からんを恐る
丘山の恵を被蒙し 賤妾 拳拳と執る
天は日を照らし之を知る 想うに君も亦 倶に然えん
これ実は女が詠んだんじゃねーの?と思ってしまう。
洒落でも何でもなく率直な欲求だったりしたら面白い。
ヒッキー臭いのは不浄日には女だとバレちゃうから。
曹操が可愛がってたのは性欲がメイン。時代はロリですから。
文帝が嫌っていたのは政治的ポーズで内心では母親みたいにヤリテエーという葛藤があったというのはどうだろうか?
>>440 君みたいな変態は文学スレにでも行った方がいいと思うよ。
話ずれすぎ
443 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/15(金) 21:06:00
まずは魏をどうやって弱体化させるかだな
しばいが曹爽を倒したからだから
曹爽がもし逃げることに成功したら
少しは弱体化したか?
考えてみれば魏の中枢近くに居るような高官達は、後漢の名の下に集まったくせに魏への禅譲を黙認したような奴らだから、
自身の身を省みず王朝に尽くそうだなんて奴は少数派だよな・・・
445 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/15(金) 22:00:25
446 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/15(金) 22:51:27
巨大な国に逆らう人は、そんなにいないか
>夏侯爵覇王
姜維を生姜繊維と書く痛い子と同じ匂いを感じる
公孫淵が司馬懿に勝っていたら…
>>440 文学スレ住人ですが、ほかの整合性がとれないので
それはないかと思います……
>>441 (´・ω・`)
魏国分裂弱小化の道筋をいくつか考えてみた。
赤壁で曹操死亡⇒跡目争い⇒蜀呉涼州侵入
関羽・侯音大活躍⇒断続的な小反乱の連続⇒蜀呉侵入
魏諷の乱成功⇒曹操逃亡
曹操死後、兄弟で骨肉の争い⇒蜀呉侵入
司馬懿の曹爽暗殺失敗⇒内戦状態⇒蜀呉侵入
どうだろうか。。
蜀は弱小すぎるし、呉は刺青とかしてる蛮族だから無理。
452 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/16(土) 06:49:55
馬超が曹繰を倒すってのもあるな
この時期なら反乱も成功しやすいんじゃないか?
453 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/16(土) 08:36:44
>>450 可能性あり
赤壁で曹操死亡⇒跡目争い⇒蜀呉涼州侵入
曹操死後、兄弟で骨肉の争い⇒蜀呉侵入
可能性なし
関羽・侯音大活躍⇒断続的な小反乱の連続⇒蜀呉侵入
魏諷の乱成功⇒曹操逃亡
司馬懿の曹爽暗殺失敗⇒内戦状態⇒蜀呉侵入
神様はみなに等しく機会をお与えになりました
天下を分けたのはひとえに神様えの信心です
455 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/12/16(土) 09:16:24
公孫淵の独立王国はまったくチャンスなしでつか?
曹叡元仲の父は中国魏王朝の始祖曹丕子桓(諡号は文帝)である。
元仲という字は、魏公国の方言で「客」「旅人」を意味するが、この名前は出生の事情によっている。
歴史書によると、曹叡が母、甄夫人の腹の中にいたとき、
まだ華北の覇者だった袁紹の幕営が、敵対する曹操軍によって襲撃された事件があった。
身重の母、甄夫人は曹丕によって拉致されたが、傾国の美と呼ばれる美貌のため曹丕の妻となる
曹丕の夫人として男子を生んだので、「旅客」を意味する元仲という字を与えられたのだという。
>>453 赤壁時点での曹植の年齢を考えると、後継者争いが生じる可能性もないと思うが。
458 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/16(土) 15:44:33
>>457 曹丕と曹仁や曹純、曹洪といった曹氏間で争うと思う
直系がいるのにでしゃばるほど頭悪いとは思えんが。>曹仁曹洪
曹丕が一門を冷遇すれば当然不協和音は生じる
曹氏政権が不安定なうちに献帝を廃位しても同じ
461 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/16(土) 17:52:06
>>459 その直系が曹氏はおろか当時の最大勢力の指揮を取らなければならないとなりゃ話は別だろ
赤壁直後で仮定すれば、まだ若い曹丕ではなく年長の親族を立てろなんて声が部下から出てくる可能性が高いと思うよ
まだ若い曹丕に地方の反乱を抑えきれるのだろうか
後見人立てればいい。嫡子を退けて跡を継ぐなんて危険すぎる。大きな勢力ならなおさら。
仮に劉備の跡を諸葛亮が継いで皇位に就いてたら「簒奪者」扱いされたんじゃないかな。
464 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/16(土) 19:54:45
赤壁で曹操死んだら
魏なら魏なら反乱する・・・・そう信じてる
曹操の時代でも反乱があるのですから
中国の歴代王朝に反乱のない平和な時代などない
公孫淵の河北制定。ここから時代が動き出す
467 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/16(土) 20:46:01
>>463 当時の曹操の地位、丞相も冀州牧も世襲すべきものではないからね
曹丕が嫡男でも実力や実績が無ければ認めてもらえないかもしれない
そうなれば曹氏内の実力者がその地位を占めることになるだろうが、曹丕を含め誰を選ぶかで分裂の危機になるってことよ
似たような例で孫権の場合、
@ナンバー2でもある補佐役張昭に孫策自ら遺言を託す時間があり、張昭も孫権に引き継ぐため迅速に形式を整えた。
A孫策勢力の漢朝廷に対する駐在大使的役割だった張紘の働きによって正式に位を引き継いだ。
B急遽引き返してきた軍部で最大の影響力を持つ周瑜が率先して従った。
この孫策勢力トップ3が孫家(特に呉夫人を中心として)と個人的親交があり、意思を一つに合わせたから
難局の混乱は最小限に抑えられた。
劉禅の時は既に皇国としての形式が出来てたことと、諸葛亮の存在が色んな面で大きかった。
曹操が突然死んだ場合、@Aを兼ねる荀ケが軍部の有力者達(夏侯惇・曹仁ら)と協調体制を築ければ、
曹丕あたりを擁立して体制大きく衰退させる前に立て直せるんじゃないかと思うけど、荀ケが複雑な人物だけに読めない…
荀ケスレなんかでも語られてるけど
腹の内が読めない人物だからどう動くはわからないわな
でも最悪のパターンはお家騒動のタイミングに
呉蜀に攻勢かけられるって事は聡い荀ケなら解してるだろうし
案外、当面は子飼いと手を取り合ったりするんじゃないの
荀ケが蜀漢に亡命するというifがあったなあ柴戴三国志だっけ。
時間逆行して天下統一、最後孔明が暗殺されて終わるアレ。
曹家の御家騒動は、反逆を芽を大きくなる前に暴発させて
摘み取るためのフェイクだって見解もあるらしいけどね。
蒼天航路を読め
荊州が呉領になった時点で魏は楽になったよな
蜀軍が荊州にいたら魏も守備兵を
475 :
474:2006/12/17(日) 13:50:13
スマン 忘れてくれ
俊臣でも欣太でもいいが、
吉本の乱なんかは王必が殺されていたらどうなったかわかったもんじゃないし、わざと叛乱を起こさせたなんてのはあまりに危ない橋だ
ぶっちゃけありえない
魏風の乱だったら曹魏政権の中枢がふっとんでたな。
ま、芋づる式に反体制派を引っ張り出せて結果オーライだったから、「わざと反乱起こさせた」説があがってくるんだろうけど。
480 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/18(月) 08:33:32
>>474 益州も呉領になっていたら、もっと魏は楽になっていたのではないか?
481 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/23(土) 01:17:57
>>480 どうかな?
楽になるとは、どんな風になる?
さて弱体化させるにはどうしたらいいものかな
馬超涼州で独立してたら少しはかわるかな?
涼州の兵馬はつよかったらしいからね
曹操が呂布に勝利したとき、高順と一緒に張遼を殺していたとしたらどうだろう。
合肥あたりの情勢がかなり変わってきそうな気がするのだが。
呉と蜀が天下を獲るのがあまりに無謀だから他力本願になってきたな
無理だっつの(笑)
485 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/23(土) 16:27:15
戦力差がありすぎなんだよなぁ。
対蜀、対呉で戦力を二分してなお攻勢に出れる魏の戦力。
結局あの頃は中原を中心とした時代だな。
劉備、孫権、馬超、公孫淵、一応軍を率いて反魏として一勢力を確立できたのは僻地でのみ。所詮蛮族に過ぎなかったな。
486 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/23(土) 16:35:10
呉は
エンショウトと曹操が戦ってる時に、負けてるほうに加勢して戦いを長引かせ、国力を衰えさせる一報
劉備と手を組んで荊州益州をとる
はいはい面白い
負けてる方っていうと序盤は曹操と組むわけか。
で、その頃の劉備は荊州や益州がどうのっていう状況じゃないけど。
呉はひたすら江南開発を進めて人口を増やして時期を待つ。
なせばなる。
孫策が死なないで許に攻め込んだらどうなるかな。
成功すれば曹操が潰れるが、逆に
失敗して孫政権が潰れても曹操がすぐ江南を支配できるわけでもない。
となると劉表がケイ州と呉を合わせた一大勢力になり
そこに食い込んだ劉備の動き次第で、とかならんかね。
491 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/23(土) 17:56:11
宛で死んでたらガラッと歴史変わっただろうな。
まあエンショウがたぶん統一するか。で死後また動乱が起こる。
493 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/24(日) 10:48:39
エンショウ勢が敗れた時点で完全に中央固められた
呉にとって望ましいのは中央が混乱してる状況
馬騰馬騰馬騰 董卓残党 袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹公孫康
馬騰馬騰馬騰 董卓残党 袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹紹袁紹袁紹袁紹
馬騰馬騰馬騰 董卓残党 袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹 袁紹
馬騰馬騰馬騰 袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹 袁紹
馬騰馬騰馬騰 袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹
馬騰馬騰馬騰
張魯張魯張魯張魯張魯張魯 張縮張縮張縮 曹操曹操曹操曹操曹操曹操 劉備劉備
張魯張魯張魯張魯張魯張魯 張縮張縮張縮 曹操曹操曹操曹操曹操曹操 劉備劉備
張魯張魯張魯張魯張魯張魯 張縮張縮張縮 曹操曹操曹操曹操曹操曹操 呂布呂布
張魯張魯張魯張魯張魯張魯 袁術袁術袁術
張魯張魯張魯張魯張魯張魯
劉表劉表劉表劉表劉表劉表 呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉
劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉 劉表劉表劉表劉表劉表劉表 呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉
劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉 劉表劉表劉表劉表劉表劉表 呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉
劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉 劉表劉表劉表劉表劉表劉表 呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉
劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉 呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉
劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉 蛮族蛮族蛮族 呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉
劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉 蛮族蛮族蛮族 呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉
こういう状態ですか?
董卓の頃がチャンスか・・
張縮って誰さ。
>>493 赤壁の時点で考えれば、まだ関中は軍閥が占拠してたし、許の朝廷もアキレス腱だった
袁氏残党が残っている方が好ましいだろうが、曹操も中央を完全制圧まではいってない
孫権にも付け入る隙はあった
>>494 がんばったなおいw
だが韓遂を忘れることは許さん。
499 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/24(日) 13:37:34
もともと孫策って袁紹と組んで南北から同時に攻める気だったんじゃねーの?
袁紹が頼りしてたのは劉表じゃね?
勢力は袁紹>曹操>劉表>孫策
孫策の許遠征なんか蜀漢の長安占領以上に現実味のない話
本当に計画してたのかもあやしい
そうだとすると陳登が孫策を撃退したのっていつなんだろ
(これって裴松之の注のみ?だとしたらアレですが
その辺は呉スレとかでかなり考察されてた気がする
サンクス
呉の考察スレを巡回してみます
505 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/12/24(日) 23:19:06
孫策は項羽と同じく力で地方豪族をねじ伏せたから
とても曹操と戦える状況ではなかった。
そういう意味で文治派の孫権が後を継いだ時点で
守勢は決定的だろう。
506 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/24(日) 23:21:32
荊州を積極的に侵略した孫権が守勢か?
自分とこの領地気分だったから中原へのそれとは違うんじゃないの。
508 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/24(日) 23:37:16
合肥とかガンガン攻撃してるし益州も攻める気満々だったけど、あれも全部自分の領土気分?
合肥は魏呉両軍にとって楔となる場所。守勢としても押さえる必要がある。
益州を説明できてませんな
守勢なんて大間違いなんデスヨ
南方で割拠するために長江の両岸を狙ってただけだろ
守勢も糞もないわな
>>509 益州攻めって誰がどの段階で提言したの?
孫権自身?
513 :
512:2006/12/24(日) 23:49:50
蒼天航路で周瑜が言ってたよ!
515 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/24(日) 23:58:57
>>512 そもそも魯粛は長江流域を全て領有してから天下を本気で争う計画だった
益州は長江上流だから占領すべき土地と考えていたことになる
また周瑜が益州攻めを計画したのは有名
さらに呂蒙が荊州を占領した後、孫権は益州をも占領しようと図り、周泰を漢中太守に任命している
アイツは領土を増やす機会があれば必ず手を出すし、地の果て海の彼方まで調査隊を送り込む
ような男だ。
守勢だなんてとんでもない!
…って衛温が言ってた
守勢ってのは違うけど、呉は領土を譲らないって断固とした決意は感じるな。
蜀や魏はそれなりに状況を見て戦略的拠点放棄とかするけど。
呉は領土譲ると守れなくなって死ぬからな
呉の場合、踏み込まれたら最後だろ。実際の最期も止めようがなかったし。
攻めるぞ〜♪気分でいいのかよww
さすが呉w
涼州の軍閥は纏まりがなかったから軍閥なわけで、
早いうちに馬騰なり韓遂なりが統一できてたら一石を投じたかも知れんと思うが
結局中原には影響なかったかも知れんなァとも思う。
どうやったってまとまり得ない者を、
暴力と恐怖でムリヤリまとめた菫卓は、
2000年前のサダムフセインなわけか。
>497
亀レスだが、分かった!
馬騰馬騰馬騰 董卓残党 袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹公孫康
馬騰馬騰馬騰 董卓残党 袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹紹袁紹袁紹袁紹
馬騰馬騰馬騰 董卓残党 袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹 袁紹
馬騰馬騰馬騰 袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹 袁紹
軍閥軍閥 袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹袁紹
韓遂韓遂韓遂 軍閥軍閥
張魯張魯張魯張魯張魯張魯 張縮張縮張縮 曹操曹操曹操曹操曹操曹操 劉備劉備
張魯張魯張魯張魯張魯張魯 張縮張縮張縮 曹操曹操曹操曹操曹操曹操 劉備劉備
張魯張魯張魯張魯張魯張魯 張縮張縮張縮 曹操曹操曹操曹操曹操曹操 呂布呂布
張魯張魯張魯張魯張魯張魯 袁術袁術袁術
張魯張魯張魯張魯張魯張魯
劉表劉表劉表劉表劉表劉表 呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉
劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉 劉表劉表劉表劉表劉表劉表 呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉
劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉 劉表劉表劉表劉表劉表劉表 呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉
劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉 劉表劉表劉表劉表劉表劉表 呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉
劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉 呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉
劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉 蛮族蛮族蛮族 呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉
劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉劉焉 蛮族蛮族蛮族 呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉呉
あけおめ
今年こそは蜀と呉が天下をとれますように
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/09(火) 06:36:16
取ったり
526 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/09(火) 09:58:53
つか、関羽の北上を孫呉が支援してたら普通に勝ったんじゃないか?
于禁軍が消滅した以上曹魏の予備兵力はすっからかん。
徐晃たちは改めて募兵し直さなきゃならない有様だったんだから。
527 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/10(水) 01:38:22
>>526 そうだね
良いところ行ってたかもしれませんね
…募兵?
529 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/10(水) 03:25:48
徐庶が行かずほうとうが死ななければいけたのでは?
まず軍略に優れるほうとうに北伐をまかすそして内政は諸葛亮担当
北伐中に呉の荊州進行
そこで徐庶の出番
関羽に万全の策をあずける
さらに南蛮の反乱
うろたえる劉備しかし三人は顔色一つ変えず話し合う
これどう?
なんかの本で読んだw
530 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/10(水) 06:23:00
ともかく関羽VS曹操の対決は見たかった
>>530 討ち取ったらある意味商売の神様らしい展開かも知れないね
532 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/10(水) 18:12:57
蜀 敗因
・諸葛亮がほざいた天下三分の計...蜀を取ったがため人材不足になるのは必然
・古将との確執
・財政の独裁...分担を知らない
・食料の輸送路の整備法...かなりの金をかけたのに最後まで完成していない。
・人材育成...非凡な才能しか認めない、時間をかけて育てる方法を残さなかった。
・魏延...意外なことに魏延は人から好かれておりまた頭も優秀であった、これを消す。
魏延が愚痴を言いふらしていたのは、魏延の意見をことごとく撥ねつけるから
「もっと良い言い方があるだろう」と思う
・寿命...諸葛亮は、死ぬかなり前から病に侵されていた、それを受け入れるのが遅すぎた。
やはり知識を残すのも非凡な将にのみ、個人への負担倍増
・夷陵の戦い...これがなければ国力も衰退しなかった。
・北伐...降伏武将を受け入れない、かなりの才あるものが降伏を申し出たらしい。
・職務の重責...個々に与えられている職務の重さが人材を潰した。
2代目は、皆凡才ばかり、父親から学ぶ時間がない。
・劉禅...死ね!!!!死んだ武将に謝れ!!永遠に
他にもまだまだあるけど俺は、この敗因も蜀の魅力だと思う。
__, -ー- 、__
(_,' ',_)
l ● ● l
i (_ ● _) i そんなエサでは釣られん!
ノ |∪| ', 悪いが帰ってくれ!!
/,, -ーヽノ , -‐ 、
( , -‐ '" )
`;ー" ` ー- -ー;'"
他の時代も考えると
南方の王朝で天下取れたのって明だけなんだよな
好き好んで暖かくて米があって文化レベルの高い南から寒くて麦しか取れなくて文化レベルの低い土地には誰も行きたくないというのが理由らしい
馬鹿げてるように感じるがが実際どこも天下取れてない
蜀の位置からだと取れる可能性は少ないがある
北周が蜀+涼州+長安+江陵(衛星国後梁))から天下を統一してる(実際は北斉滅ぼした後隋に代替わり)
北周は北斉より兵が弱かったらしいが軍制改革と北斉が暗君のうちに有力な重臣を讒言で葬ることによって統一できた
蜀は好条件が重なれば取れた可能性がある
蜀オンリーで天下取った勢力は無い
536 :
黒眉:2007/01/11(木) 16:14:55
蜀ってどんぐらいの兵力があったんだろ
>>535 厳密に言えば「天下を統一した勢力など地上未だ嘗て存在していない」
お前の言う天下はどこからどこまでかね?
>>529 それまんま反三国志じゃん。
反三国志でも、蜀陣営では将が足りず、架空武将を登場させちゃうぐらいだから
人そのものが足りないから、蜀での統一はゲームの中だけで済んでしまうな。
>>536 当時の益州の人口から換算すると、
5万ぐらいが限界なんじゃなかったかな。
>米があって文化レベルの高い南
これは孫呉時代の呉じゃないな
人口は益州>荊州>揚州だったと思う
>>529 徐庶って…w
と今さら釣られてみる。
ホウトウと法正が長生きしてればちょっとは違っただろうとは思うけどさ。
無理
創業者劉備が全国をヘッドハンティングして集めた優秀な人材が二代目劉禅の時は生え抜き主義に代わっていなくなってったわけで
ヘッドハンティングして集めた人材が死んで、その次の代がダメだったから滅んだのであって
創業者世代の人間が長生きしても多寡がしれてるわ
反三国志って蜀陣営がボンバーマンなんだよね。
ホウ統や法正、徐庶が云々というよりやっぱ袁紹だな、長生きすべきだったのは。
官渡で敗北して中原進出失敗しても、華北で袁家を束ねて雌伏していれば充分魏にとって
充分「北の脅威」となったはず。
北に大勢力が残ってたら魏はかなり振り回されるから馬超も含め大勢力化した群雄
誰にもチャンスがあったと思う。公孫度や烏丸・匈奴ではやや中央への脅威としては弱かった。
官渡から袁家完全滅亡まで7年あったわけで・・・
その7年は曹操の目は北にあり、しかし劉備も孫権も他群雄も実質その7年ゼロ成長だった。
(劉備は新野ヒッキー、孫権も黄祖討って山越もぐら叩きしていた程度)
しかもその時期は曹操は劉備にも孫権にも西方にもとりわけ大規模な行軍はゼロ。
その7年でどちらかが最低劉表を食う程度できなかった時点でダメじゃないかね。
劉表を食うって
当時劉表がナンバー2か3くらいの勢力なのに
確かにその7年で曹操は自分に数倍する袁紹勢力を滅ぼし中原を制覇した。
劉備、孫権はほぼ何も出来ずに無為な7年を過ごした。
北(袁紹)が滅べば次は自分の番、と分かっていてこの拙速ぶりじゃなあと。
何せその黄祖破ったのでさえ赤壁前哨の208年になってからだしな。
でも孫権に関しては七年かけて地盤を安定させて山越問題に区切りもつけてようやく黄祖討伐に成功、って感じだと思う。
袁家がもっと早くに滅んでたら多分孫家は曹操への内応者が続出して抗戦に持ち込むこともできずに降伏してた。
ただ袁家が長引くとその間に荊州・揚州の全面対決になったりして逆に曹操に有利だったかもしれない。
孫策が築いた政権ってのは急進的に築いたおかげで不安定なものだし、
代わって立った君主が僅か19歳では動揺も政権内には確実に存在しただろう。
集権化されているわけでもなく、孫策時代から内包する不穏分子への対応も
喫緊だろうし、南方にはまだまだ不服住民も多い。
普通にいけば4,5年くらいかけてじっくりと国内を安定させたいくらいのもんでしょ。
それでも孫権は張昭、周瑜らの協力もあって数年で外征に踏み切れるだけの
ところにまでこぎつけて、その間に不服住民の討伐や版図の整備もすすめ、
名士や豪族の支持も取り付けた。
20歳そこそこで立派なもんだよ。
劉表もあと10年元気で長生きしたら、
こんどは劉表が蜀攻めということになっていたかもな。
そのとき、劉備がどう動くか。留守番部隊のはずケイ州を乗っ取るか、
あるいは遠征部隊を買って出て蜀を乗っ取るか。
失敗して乱世の徒花と化すか。
かなり微妙な匙加減で変わる展開だったのかも。
552 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/12(金) 13:19:03
>>551 劉表がもう少し長命なら劉備は手土産にされたりしてw
劉表自身荊州の豪族達に祭り上げられているだけだから、
豪族達から降伏を主張されたら徹底抗戦出来ないし。
それでも曹操には簡単には屈しないという姿勢がある。
反対されながらも劉備を受け入れたのはその証拠。
劉表自身は降伏などしたくはなかったのだろう。
554 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/12(金) 14:14:22
袁紹の死後も袁家が安泰だったら、曹操は先に劉備と孫権の制圧に動いたかもしれない
そうなれば、もっと早い時期に赤壁の戦いがあったかもしれない
袁家が安泰だったら曹操も南下できないっしょ。
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/12(金) 14:33:20
557 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/12(金) 14:44:42
>>553 袁家が滅ぼされ状況が変わってきている。
>>556 あそこまできて和解はかなり難しいと思うんだが、何をもって手打ちとする?
両者相手を大賊と非難して全面抗争までいってるわけでその手前出した拳の引っ込めどころに困る気がする。
劉表は長生きしたら劉璋と結ぶだろ
徐州の虐殺は荊州の民にも印象悪いから豪族もそう簡単に曹操に降るって選択肢は出ないと思う。
560 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/12(金) 15:42:20
曹操の烏丸征伐時に劉備が許都を襲うように言っても動かなかった劉表。
曹操と覇を競う器量は無かったんだろうな〜。
>>556>>558 袁家が天下を伺うには、曹操の領土が蓋になっちゃってるわけだから、
同盟はありえないと思うな。
第二次官渡の戦いが起こるか、総力戦に持ち込まれるだけかと。
200年時には袁紹に圧迫され対峙している時にすら、怪しい動きを取った劉備を
電光石火で攻めて曲りなりにも徐州一州握っていた劉備を壊走させた曹操。
状況がひっくり返った時勢に曹操が背後や側面に気をつけていないわけが無いかと・・・
劉表も案外「常敗将軍の劉備が何言ってんだw」くらいにしか受け取らなかった気がする。
tu-ka、俺でも「正史の」劉備に何か打診されたらOKはしないだろうなあ・・・と。
張繍には援軍送ったり呼応してその頃は結構前向き(?)だったんだがねえ。
ただその時のまだ拮抗した戦力差ですら決定打討てないのに半分天下の帰趨が
定まった今ではもう焼け石に水か・・・と思ったんじゃないの文治タイプの主には。
或いは張繍+カク>>劉備ぐらいの信頼度しかなく「同姓の好で新野貸してやった」だけとか。
何か勘違いしているが、曹操が北を固めている間に劉表は南を固めている
東には孫策がいて北に迂闊に兵を出す余裕はない
曹操と覇を競うからこその袁曹対決放置だという事を認識すべき
>曹操と覇を競うからこその袁曹対決放置
>曹操と覇を競うからこその袁曹対決放置
>曹操と覇を競うからこその袁曹対決放置
上二行は同意見なんだが、こればっかりは絶対ありえないわw
劉表は北方に野心をかなり見せてるよ
「官渡ん時やっときゃよかった!」って悔やんで劉備に「次あるよ!」って励まされたりしてる
実際は動けなかったんだろけどな
その後曹操のギョウ攻めの時背後を劉備に命じて南陽盆地からエン州に攻め込ませているし
曹操と戦うからこその南の地盤固めをしてたんだろ
でもさ
例え官渡の時に北上してもそれで曹操が倒れたら
袁紹が力を増して
結局は中央から追ん出されるんじゃないか?
そこを孫家は絶対に見逃すはずもないし
568 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/12(金) 19:23:19
ああ見えて劉表は敵が多いからな。
>>567 そうそう
だから実際は動けなかったし兵は出さないけど後になって悔恨する程に北には興味津々だったんじゃないかなーと
君の言う通り孫家との確執もあるしね
孫家の方が狙いに合わせて態度がハッキリしてるよな。
孫策存命時の最後、色々国内に不安があるが勢いに乗ってたのでそれまで何気に友好関係だった曹操が危惧を抱くほど露骨に、一挙に北方進出を狙う。
孫権政権に移ると一転婚姻関係をさらに固めるなど曹操とは協調路線を鮮明に。
孫呉は基本的に地方軍閥集合体だからそのときの利益で動くからな。
まがりなりにも漢を後継した魏と、反魏亡命政権である蜀とはそこが違う。
572 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/12(金) 21:45:18
曹操が烏丸を征伐する前に孫権が山越を征伐していれば、かなり魏と呉の勢力が拮抗したのではないか?
それは無理だろ
山越と一括りにされてるがあいつら烏丸と違って複数民族だぞ
山越同士で潰し合いをさせれば良かったのでは?
575 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/12(金) 22:09:02
取りあえず和議でよかったのにね。
>>575 だから何だ?
今の呉が山越を速攻で討伐できるかの問題に何の関係がある?
578 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/12(金) 22:40:06
曹操や司馬懿が蜀の軍勢を率いたら、魏を攻め滅ぼすことは可能だったと思う?
579 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/12(金) 22:50:31
>>579 阿斗は周りが優秀だと大人しく神輿やってくれるんで多分無理。
581 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/12(金) 22:55:07
配下武将が優秀だったら、劉禅のほうが孫権より脅威かもしれない
山越は地元(楊州)の豪族や名士とつるんで反乱起こす事も度々あったからな・・・
そこら辺りが単純に外敵だ!と攻撃できた匈奴や烏丸とは立場が違う。
結局呉政権は延々と山越対策で常に相応数をそっちに裂かざるを得なかったし。
普通に魏にAクラスの司令官が居たら無理な気がする曹操などでも。
584 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/12(金) 23:03:39
チンギスハンが蜀にいたら…
偽書一つで孔明をあっさり最前線から戻してしまうバカ劉禅が脅威とはとても思えない
>>578 曹操個人の実力より、人材を実力優先で抜擢する制度を作るという意味で曹操なら可能かもしれん。
劉邦もそれでのし上がったんだし。
ただ、魏もそのままのオールスターだったら結局国力差で負けか。
あくまで「凡庸な将と広大な国土の魏」に「優良人材詰め合わせ小国蜀」で、
わずかに逆転の可能性が出てくる程度だろうけど。
凡庸な将では広大な領土を切り取れないので、その前提は無理がある。
実質的に曹操を倒すチャンスがあったのは袁紹だけで、官渡の後では誰が
どうやろうと完全にノーチャンス。
呉蜀が勝つためには魏の後継者争いなどの内部分裂が必要だったろうね。
ところが呉蜀という適度な外敵があったために逆にそれが起きなかっ(ry
魏と呉・蜀では国力と人口(=徴兵可能数)が数倍違っていたからなあまず。
1vs1ではそれこそ破竹の勢いどころじゃない勢いで連戦連勝しない限り打倒は無理だろうと。
孔明も陸遜も魏相手に勝ったのは局地戦に過ぎず、一発で魏に打撃与える決定打は
撃てなかったし撃つ機会もそもそも無かった辺りが魏の巧さではないだろうか。
曹操の後継者争いが激化しなかったのがイタイな。
漢の忠臣系は結局実行力(兵権)が無いから、お家騒動が唯一のチャンスだろうに。
曹植・曹熊を呉か蜀が亡命受け入れしていたら、魏国内に多少揺らぎを起こせたかも。
夏侯楙じゃだめだよ、夏侯楙じゃ。
いや、夏侯覇だろう
>>590 いや逆に扱い難いような…特に蜀なんて魏の存在をそもそも認めてないのに、その魏の正統性なんて論じられないでしょ。
魏の人間にしても呉蜀に逃げたら裏切り者のいいとこだ。もはや求心力はあるまい。
曹操は自分の一族にしか兵権与えてなかったからな。
闘争に奔走する文官連中は口だけで実行力は皆無だったし
曹真とか曹休とか次代を軍事の次代を担う者を曹丕に幼いうちから通わせておいたので
最初から曹植だとか曹彰に跡目の可能性は無かったのでは。
594 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 00:18:49
曹操から直接に曹叡に引き継がれていれば、魏の天下統一も可能だったかもしれない
595 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 01:27:27
よく曹操は実力主義の人材登用を行ったっていうけど
武官に関してはイマイチ小物ばっかなんだよね
実力主義というほど実力主義じゃないからな、実際
まぁ家柄・名声のみだったのが実力も加味するって変わった程度だろ。
でもそれまでの流れからしたら大改革だよな。
演技の誇張抜きにすれば三国ともに大物武官など数えるしか居ないと思うが。
あくまで国を動かすのは文官、しかも士大夫や地元の名族だったと。
まあ当時の識字率などを考えればぽっと出の農民上がりや叩き上げでは
ろくな政治手法や理念など持ち合わせようが無かったから仕方ない事ではあるけど。
(呂蒙はその例外中の例外だからこそ後世故事にされたんだろう)
曹操の実力主義って敵方の人間でも許して出仕させると言う意味だと思ってた。
一州皆殺しの勢いであだ討ちした父親罵倒文書いた陳琳許したり、30年前蔑視された
相手を荊州まで追って断罪すると思ったらその場で書記に取り立てたり。
才より口が過ぎる人間は後々刑死の運命が待っていたようではあるが。
いまさらながら>470が気になる
ぐぐっても分からん・・・
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 06:37:59
>>595 曹操は基本的に不信の人だから。
曹操が配下の武将に数万単位の軍勢を任せた例はかなり少ない。
親征ばっかりやってたのもこれが理由。
孫策が長生きしていたら、呉はどうなっただろうか興味あるな
604 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 07:08:24
605 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 08:40:29
606 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 08:48:20
曹操の人材主義布告は、当時の公務員試験で絶対視されていた儒教倫理の項目を撤廃しただけ。
それでも当時としては信ジラレナ〜イ布告らしいが。
布告は資料にのりにくい地味〜な部署ではそれなりに効果があったのでは?
魏国の兵権を自分や一族で握るのはやはり、張バクや劉備にアレされた苦い経験があるからかな?
一族の武将が二流〜三流で小粒でも、本人が超一流の兵法家と自認してたから使っていたのかも。
曹仁だけはそこそこ優秀だけどな。
曹真は滅茶苦茶優秀だぞ
夏侯淵も優秀
曹操よりも曹丕の方が実力主義なんだよな
後漢の臣下でしかなかった曹操と曹魏の皇帝だった曹丕では、勿論取れる行動の制限も全然違うせいなんだがな
>>600 タイトルが「孔明の野望」という小説
五丈原で陣歿した諸葛亮が、目覚めると何故か劉備が隆中の草盧を訪れる
時代に戻ってて、改めて劉備に仕えて蜀の統一を果たしていくって筋書き
反三国志よりも御都合感は大きく感じるけど、テンポがよくてサクっと読める
中古書屋でも探せばあるかもしれない
610 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 10:50:07
>>588 蜀は無理でも、呉だけでも魏に従属していたら、魏の内部分裂が期待できたかもしれないよ。
曹真・曹休や夏候淵の息子などは結構優秀だったと思う。
ただその子世代になるともうC級人材に成り下がっていたり、知らず知らずに司馬氏に
軍権を少しずつ持たせ(握られた)た事で後のクーデター成立を招いてしまっただけ。
違うぞ
司馬氏云々じゃなくて曹魏の国家体制がまだ未熟な段階で2代で20年しか経ってない皇帝の連続した早逝が問題
人材の優秀さはそこにあまり関わりがない
曹丕があと10年も生きて皇帝権の確立をしてからならば藩屏となる親族ももっと力を付ける事が出来た
帝位が磐石で安心して付けさせる事が出来るなら司馬氏の台頭なんかありえなかった
付け加えると、後漢末の豪族の寄り合い所帯からスタートした魏は常に皇帝権の確立というものに腐心していた
経済も不安定で皇帝権はかなり不安定だった
曹丕は6年、曹叡は13年の在位期間なわけだが、これじゃ一世代も過ぎてない
皇帝が代替わりする度に起こる権力闘争は人の意識をかなり変えるぜ
個人的紐帯によって曹操、曹丕、曹叡と仕えてきた豪族も代替わりが続いて小帝が就けば色気も出すってもんだ
614 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 16:39:17
蜀や呉という外患も健在なわけだしね。
西からは諸葛亮、南からは孫権が元気一杯攻め込んでくるんだから堪らんな。
>609
ありがとう、探してみる
616 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 19:39:48
>>615 あの范彊、張達でさえ
張飛の副将としてそこそこ活躍するという
蜀ファンにはたまらない一冊です。
617 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 01:01:31
実質的に孔明先生とキョウイではどっちが
軍指揮官として優れていたの?
618 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 01:12:46
いくらなんでもキョウイと比べたら諸葛亮に失礼すぎる
タイプ違うしなぁ
620 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 02:26:33
軍指揮官としてだけなら蜀では魏延が一番優れていたと思われる
個人としての武勇なら張飛・馬超。戦略的な大きな視点での軍の動かし方ならば関羽がトップだろうが
諸葛孔明は実践能力は机上の人なだけに不足していたが、少なくとも戦略的に大切な事はわきまえていたし、国力を低下させることは無かった
キョウイがやったことはオナニーで軍を動かして適当にあしらわれて、国力の低下を招き、責任を自分以外の人間にぶつけていただけの人物。戦争馬鹿だったので権力欲が強いだけの内務官には都合が良い人物だったわけだが
蜀という国の寿命を縮めたのは劉禅でも宦官でもなくてキョウイだろう
スレに対立する意見だが、蜀には独自の力で天下を取る機会はほぼ無かったと思える
国の存続なら出来たかもしれないが、前述の理由で縮まった
いや、姜維が蜀の滅亡を早めたってのはごく定説的な意見だしいまさら言われても
関羽がトップだ、とはお世辞にも言えないと思うが・・・
恐らく生涯、自分で一軍を統率したのが荊州北部侵攻の時だけ、しかも敗死と来たら
正直及第点以下、ではないのか?
荊州に独自の水軍作ったりした点は評価できるが、戦略的視点は欠如していたと言わざるを得ない。
姜維は異民族と組んだり孔明とは別の視点で北伐を計画したりそれなりの視野はあったと思う。
国力を疲弊させたのは大きなマイナスだが、戦略視点だけで見ると優れていたと思う。
何しろ孔明ですら結局数度の北伐を行いながら局地的勝利以上の成果を挙げれなかったわけだし。
本気で関中以北を獲れというなら姜維の機動戦術の方が可能性がある
しかし、最低限諸葛亮時の時代状況が望ましい
逆を言えば姜維存命時における状況なら諸葛亮の方が蜀は寿命が延びたと思う
姜維が無能か有能かといえば間違いなく有能で、後漢末三国通じても上の方だが
残念ながらトーガイの言ってることが心理「姜維の不幸は相手が自分だったこと」
しかも皮肉にもそのトーガイを見いだした司馬懿の方が姜維の戦略志向に近く
トーガイの方が諸葛亮の戦略志向に近いという罠
姜維が魏の武将で、異民族相手に外征できる体力が国にあったら、文句なしの名将に扱われてたかも知れない
624 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 05:15:22
魏との国力差がありすぎるうえ人材も揃っている。
漢中〜関中の道程も遠征するのに適していない。
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/14(日) 08:30:53
司馬意カッコいいから許す。
626 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/15(月) 21:21:40
再議論
627 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 01:01:50
荊州領有問題がうまく片付けなかった時点でアウト。
>620
関羽が戦略的な目を持ってたら呉との連携はなんとしても維持するでしょ
良くも悪くも「有能な戦術家」の域を超えてないと思われ。
629 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 01:28:18
>>628 関羽は当時の蜀において
・古参の部下で実質的NO2のポジションにいても他の将からの不満は少なかった
・部下には公平らしいので、人望が充分以上にあった
・ケイシュウという土地にも長く住んでいるだけにそれなりの人脈があった
・トップかどうかはともかく武勇に名を馳せ、蜀では比較的優秀な司令官の一人であった
・劉備が自分に次ぐ広大な領地を任せても、決して裏切らないと信用できた
等の条件で唯一といっても良いケイシュウを任せても良い将軍だった
関羽以外だと、どこかで破綻を起こしていただろう
だから関羽はその当時考えられるもっとも優れた人選だった
だとすると少なくとも蜀にはケイシュウを守りきれる手段が結局のところ無かったということなのだろう
630 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 02:06:26
ケイシュウって、あんなに広大な地域を何故
関羽に一任したの?計六郡の中の南三郡くらいは黄忠に任せるなり
張飛を置くなりしとけば、まず二人が蜀を裏切る可能性は0だし
呉がケイシュウを攻めるのも思いとどまったかもしれない。
魏と呉で関羽を挟み撃ちしようとすれば背後を南郡の黄忠やら張飛に突かれるしね。
それは結果論じゃないかな?
益州を統治したばかりだから、武官の主戦級(張飛・魏延・黄忠)なんかは治安や不慮の反乱に
備えてやはり益州に入れておく必要があると思う。
で、関羽を筆頭にして麋芳は古参の将、近くに養子の劉邦や当時の蜀を売ってまで劉備に仕えた孟達を配置してして
これはかなり当時忠誠も実力も信頼できるメンツで固めていると思うよ。
632 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 02:24:30
うん。結果論だけど麋芳と孟達の配置は間違えましたよね。
二人は劉備に忠誠を誓ってるのであって関羽に忠誠を誓ってるわけではないし
特別な間柄でもないから関羽が危険になれば自分の命を優先して
あっさり関羽を裏切る事自体はさほど抵抗感が無い。
関羽に任せるなら任せるで彼の子供達を各郡に置かせて
関羽を絶対に裏切る事のない関羽が気の置ける武将たちだけで
ケイシュウを任せてしまった方が良かった気がする。
633 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 02:42:32
まず間違えてはいけないのは、孟達らにかぎらず蜀の武将は劉備に対して忠誠を誓っている
もし劉備ではなく関羽に忠誠を誓っていて、かつそんな武将を関羽の傍に置いたらいくらなんでも反乱してくださいというようなもんだ
自分の危険とか云々は関係がどうかじゃなくて結局人間は自分が一番可愛い。どんな関係だったとしても裏切る奴は裏切るし義理堅い奴は義理堅い
部下の命を守るために降伏するのも、あくまで主君に忠義を貫く為に死ぬのも結局は個性だ
>>631 の言うとおり当時としては考えられる最高の布陣を蜀は敷いていた。
他の布陣だったら上手く言っていたかもしれないとかじゃなくて、それが本当に一番ベストといっていいだろう
それで敗れたんだから結局のところケイシュウは奪われていたのだろう。
ようは蜀のどの人材より呂蒙のほうが上手だった
ようはそういうことだったということだ
634 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 02:57:25
>>633 反乱?ケイシュウ全体の太守である関羽に対して反乱は起こさないんじゃないの?
関羽自体が劉備を裏切って反乱を起こすと考えてるなら、もう見解の相違だから
議論は差し控えます。また、あくまで麋芳や孟達だから関羽を裏切ったのであって
そのポジションに張飛なり周倉なり関平が麋芳や孟達のポジションに居たら
関羽を見殺しにしたり裏切った可能性は限りなく0だったと私は思います。
635 :
631:2007/01/16(火) 03:05:04
まぁ結局関羽を抑えたり、助言できる人物がいなかったんだよね。
一応孔明がそのポジションだったけど益州攻めの援軍に呼ばれちゃったし、
もし呼ばれなくても正直強く関羽を抑えられたか疑問。
劉備は孔明を演戯ほどでは無いにしてもよく遇していたけど、関羽がそこまで孔明の言うことを聞いたかわからない。
当時、荊州取りを防ぐとしたら益州への援軍を関羽に任命するしかなかったんじゃないかな。
それで、荊州は守れるが蜀取りが成功したかは微妙になってきちゃうけど。
636 :
631:2007/01/16(火) 03:13:02
>>634 多分、
>>633が言ってる反乱は「関羽の腹心・血族で荊州を固めたら、関羽が劉備から独立する」ということだと思う。
実際今でも関羽独立勢力説ってのはあるからね。
当時性も出身も違う劉関張が、乱世をのし上がるためにお互いの人脈や名声・能力・財力・血統など
あらゆるものを相互利用しようという契約が義兄弟の契りだったわけで、単純な友好の印とはちょっと違う。
まぁ実際関羽・張飛を失った劉備の反応をみると3人の絆も深かったと思うけど。
だから、関興などを蜀に連れてっていたのは悪く言えば人質、よく言えば関家の血筋を絶やさない知恵だった。
そういう側面があり、関羽は蜀を本国としても本国に迫る軍閥のトップだからね。
劉備としては荊州をガチっと守らせたいという一方で関羽に力をつけさせすぎないという匙加減も必要だった
難しい局面なんだよね。当時の荊州情勢は。
酔っ払って城を取られた某虎髭に任せるわけにはいかんのだから、
拠点を任せられる人間は関羽しかいない。
638 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 03:29:05
>>636 そっか。だとしたら少し寂しいですね。
彼等の桃宴の誓い・義兄弟の契りというのは三国志全体の背骨とも言える
大テーマの一つですものね。
日本で同じ様な例を上げるとしたら後北条氏の七将の誓いで
一説には義兄弟になったとも言われますが、たまたま京から伊豆に下向する際に
道すがら仲間になった七人が伊勢神宮で神水を飲みながら
「この中の一人が出世したら残りの六人は心を一つにして助けあおうぞ!」と
誓いを立て、その後早雲は興国寺城の城主になるや昔の約束を守り
六人ともに重臣に取り立て、早雲は彼等を信用して軍を預けたし
六人も終生早雲を守り立て決して裏切るなどせず
それも子孫代々まで六人の部下は北条領内の城主などになり
御由緒家等と呼ばれ、北条一族とほぼ同じ扱いを受け続けましたからね。
ほぼ、それと同じ様なもんかなと勝手に思ってました。
639 :
631:2007/01/16(火) 03:34:03
>>638 いや、本筋はその解釈で良いと思うよ。
当時やその前後の中国で義兄弟や刎頚の友とまで契った中でも、状況が変わって袂を分かった中は多い。
多少思惑があったとはいえ、劉備・関羽・張飛の絆は本物だったと見ていいはず。
ただ張飛に比べて関羽は周囲(国内外)への影響力の強い人物だった。
劉備が「保険」をかけたという部分はあるんじゃないかな。
極端な話、関羽自体に裏切る気が無くても下手に力与えすぎると他の部下がどう思うか、ってのはあるな
孫権側ともつながれる位置に居た訳だし家臣内から不信の芽がでる可能性もある
641 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 04:28:09
劉備の人材配置って大胆だし意外性もあるよね。
ケイシュウという要地に諸葛亮なり、自分の息子なり(名目上)を置かず
重鎮の関羽をドーンと置いてしまうし
その後も漢中を攻略するや、この最重要拠点の一つに群臣は張飛を置くと思いきや
魏延を置いて任せ切ってしまうし、任された本人は凄く気分が良いし
忠誠を誓う心も責任感も増すが、意地悪い言い方をすれば危なっかしいというか
「そんなギャンブルしなくてもいいんちゃう?」というような人材配置や人事機用のようにも見える。
結局はこの時点で一州を与えるのに信頼が足る武将は関羽と張飛、まあ趙雲くらいしか居なかった。
(正史準拠で言うと趙雲すら入っていいのか疑問符がつくが・・・)
しかし万に値する勇将であっても、劉備の寝技流浪生活のお陰で実際彼らと言えども
一軍を統率して・・・と言う経験はほぼ皆無に過ぎないのが何とも。
この辺りは赤壁以後のわずか五年足らずで急膨張して人材面で追いつかなかったのか。
643 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 05:41:04
劉備が蜀を攻める際に最初から諸葛亮を連れていたならどうなのか?
庖統ならば、荊州にいて防御を取ることも可能だったろうし、諸葛亮であれば、
もっと容易く蜀を落とせたのではないか?(庖統よりも辛らつな策を使って?)
その場合、北伐の際には関羽、張飛も参加してる可能性もあるのではないだろうか?
(荊州が呉に落とされていない場合に限るが・・・)
実は桃園の誓いすら演義の創作なんだよねえ・・・
ただ正史にも(劉備は)関羽・張飛を兄弟のように遇した、とあるから
それに近い、単なる君臣を超えた結びつきがあった事は間違いないだろうけど。
>>643 一番は最初に?統が言った、最初に劉璋を捕縛(斬殺)してしまえを実行すれば
恐らく3年も掛からずに益州支配は出来ただろうねえ。
孔明の方が残ったのは名士層とのコネなどがあり、人材収集に長けていると言う判断では。
(妻は蔡瑁の姪、孔明の姉妹も有力豪族妻、弟の嫁は有名名士)
簡雍も旗揚げ当時から付き従った同郷人なのに(´・ω・)カワイソス
劉備にも魏の曹仁や夏侯淵みたいに
親族で優秀なのがいればよかったんだけどね
荊州一州を任せて絶対に呉に寝返らないといえる人物は関羽しかいなかった
その判断が正しかったことは麋芳とか傅士仁が証明している
>>643 諸葛亮は途中から攻め込むの既定路線だから
最初から連れて行くとかありえない
別にホウ統死んだから益州入りしたんじゃなくて諸葛亮益州入り→ホウ統死亡の順番
649 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 08:11:21
漢中を魏延に任せたのはギャンブルと言うほどではない。
魏延が問題になるのは五丈原以降だからね。
あと、ホウトウの代わりに諸葛亮というは考えにくい。
軍才はこの際おいとくとして、
根拠地として得たばかりの荊州の安定や益州入り時の後方支援等は諸葛亮であればこそ。
>>647 士仁、孟達はまだしも麋芳、劉封は関羽だからこそ裏切ったわけだし。
司令官が戦争で勝てないのはまだいいとして、ボロボロに負けたら
裏切る、裏切らないは関係ないよ。
651 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 11:26:42
>>650 劉封が何で裏切ったことになってるの?
というか孟達、劉封一行が関羽を助けられる状況にあったとでも考えてるわけ?
ゲームじゃ
援軍出しますか Y/N
で直ちに派遣出来るから勘違いしてるんだろう
651=652だとは思うが620からの流れが読めないのかな?
孟達に援軍寄越せと言うのはお門違いの気がしなくも無い。
実際上庸支配して数ヶ月、前太守は兵ごと降伏してて兵を裂けば裏切るとも限らない。
何より「俺が出さなくても後ろ(麋芳、士仁)から来るだろ?」と思ったのでは。
まさか孟達にしろ劉封にしろその二人と関羽が不和でそっちでも援軍要請シカトされてると
思わないだろうし、着任した二人が分からないのを蜀陣営が知ってるはずもないから
「ああ関羽楽勝ペースじゃん」と安心しきって援軍のえの字も出ない。
確か一度なんて援軍送ったら「余計な事すんなヴォケ」と関羽に冷たく追い返されてるしな。
そりゃあ余程親しくなければ「じゃお前だけで何とかしろや」と誰でも思いそうだ。
麋芳、士仁にしても「戻ったらただではおかない」とか言えばビビッて敵方に走るのも無理はない。
要するに(正史の)関羽は兵卒に優しいが同僚には傲慢が過ぎて勝手に滅んだ気がする。
正史の、の但し書きは要らん。
演義ソースに議論する奴などそうそう居ないだろうしな。
そうは言っても結構な割合で演義と正史ミックスになってる人はいそうだが
まず
>>629の条件なら殆ど張飛でもいけそう。その場合入蜀に行くのが関羽、残るのが張飛になるが…
そして「・部下には公平らしいので」はともかく「人望が充分以上にあった」はダウトだろう。
それと
>>636、
>性も出身も違う劉関張が、乱世をのし上がるためにお互いの人脈や名声・能力・財力・血統など
>あらゆるものを相互利用しようという契約が義兄弟の契りだったわけで、単純な友好の印とはちょっと違う。
こんな断言しちゃまずいでしょ。まず「契約としての義兄弟の契り」なんてそもそも契り結んでないし、
資料から純粋に導き出せるのは精々「強固な主従関係」ってだけで、
「人脈や名声・能力・財力・血統などあらゆるものを相互利用しよう」を示唆する記述は皆無じゃないか?俺が見逃がしてたらスマンが。
659 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 13:43:46
>>655 関羽はケイシュウ一帯を任せられる程の器じゃなかったって事だね。
660 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 13:50:27
劉備も諸葛亮も関羽の才能を過信しすぎて
関羽が死んだ時には、配置の失敗があったと恐らくは悔やんでたと思うよ。
「俺は万全の配備をしたし、現状考えられうる最高の人事をしたのだから
死して一片の悔いなし」なんて思ってたとは思いづらい。
というか思いたくない。
結果論だけど、荊州を呉と争うことになった時点で
劉備側としては詰みだったんでしょ。
上の方でなんども上がってるけど
劉備陣営としてはほぼベストに近い布陣をしいてる。
ただその詰み方が、離反するものはでるわ
それによって呉の手によって関羽戦死するわっていう
魏にとっちゃ万々歳なパターンだったってのは大きいけど
関羽一人生きていようがいまいが魏にとっては大したことじゃない
>>653 裏切ったとかわけわかんねーこと書いてるからだろ。
自演認定とかトンチンカンなこと書く前にモノ考えろカス。
664 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 14:27:26
蜀が天下を獲り損ねたのは
ライブドアが天下を獲り損ねたようなもんか?
取り損ねた、と言うか独力で魏に対抗できる兵力や生産力がまず無いからな。
譲歩続けても呉と組み続けない限り統一の目はありえなかった。
何より呉と違って魏と組むと言う選択肢は立場や体面上これもありえないし。
666 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 15:05:20
結局、この国力差がついた時点で五虎将が生きて呉と同盟組んだとしても、どうにもならない
>>662 当時の魏の臣らにとっては
たいしたことだったみたいだけどな
668 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 15:34:35
呉・・・魏、蜀どちらとも同盟は可能
蜀・・・呉と同盟は可能、魏と同盟は不可能
外交上も呉が有利
669 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 16:02:46
魏延が冤罪で死ななかったら、もう少し蜀の寿命は延びてたかな?
その前に魏延の寿命がすぐに尽きそう
もう当時結構歳行ってるだろ
671 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 16:21:14
一番の誤算は鳳雛の早世。
彼が生きて蜀攻略を達していれば随分天下の動きは変わったかも。
荊州を治める諸葛亮以下関羽張飛趙雲で軍を率い、入蜀した劉備率いる宝刀と法正、黄忠魏延で漢中攻略。
呉に備え荊州益州の軍勢で二方面からの魏征伐には可也戦えると思った。。。妄想か。
外征する度に寿命縮んでいったという気もするが。
まあ・・・座して死を待つのに孔明も姜維も善しと出来なかったんだろうねえ。
673 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 16:24:05
本当に守るだけなら関中と漢中の間の桟橋を全て焼き払い
西部方面の部族を懐柔して(馬超の役割だったけど)
北からの憂いをなくし、史実のように呉とは友好関係を強固にし
できれば再度、血縁を結び政略結婚もし魏からの攻撃だけを
未然に防ぐべき努力してれば、持ちこたえる事自体は
それほど難しくなかったんじゃないかと思う。
674 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 16:30:39
100年持ちこたえれば蜀帝の中に劉邦、家臣の中に韓信のような天才が・・・
宝くじを当てるくらい可能性は低いわけだが。
675 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 16:38:20
結局宝刀が死んだ時点で蜀の天下統一への夢は費えた。
676 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 16:43:53
魏の自滅を待つ作戦が一番手堅かったと思う
ただし、それまで蜀が持ちこたえることが条件である
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 16:44:04
突如として上杉謙信が越後の猛兵を引き連れて現れたら天下取れるよ
三国県立以後、蜀が対魏戦に動員できた最大兵員は諸葛亮が動員した(漢中守備部隊と合わせて)10万人前後。この内戦場に駆り出せるのは
6〜7万も居るだろうか?
呉の対魏戦最大は孫権時代の三路侵攻(孫権10万、陸遜ら数万、孫韶ら数万)や、諸葛格は号して20万の遠征からして
15万前後が限界だろう。
この合わせて約20万前後は、呉蜀の国力を総動員したもので、どうしたって慎重にならざるを得ない。大敗でもしたら取り返しがつかないからだ。
対して魏軍は東南西にそれぞれ数万規模の駐留部隊と防衛拠点、中央にはこれまた10万以上の中央軍が居て、
しかも多少無理しても補充が利く体制。防衛有利の原則を考えれば呉蜀は非常に厳しい。
まず第一に呉蜀に完璧な連携が取れたと仮定して、呉が孫権10万で合肥(おとり)、陸遜が5万以上で襄陽(準本命)で包囲し、
魏帝、もしくは司馬懿あたりが率いる中央軍を誘い出し、中央軍が来た地点は陣地築いて持久戦の構えを取り、
そこに魏延(姜維)軽装精兵一万で西方から急襲、野戦軍を撃破したところで諸葛亮が本隊を率いて本格侵攻(本命)…
長安か、襄陽か、合肥かを奪取できたら撤退。
このぐらいやって一歩ずつ進めて行くしかないと思う。
679 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 16:50:11
ザ・ザ・ザ・ザ・ザ・ザ・ザ
ん!何の音?!!
謙信公「義により弱小の蜀をお助けもうす」
こうして蜀は天下を奪う
1300年待つのは大変そうだな
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 17:03:47
魏延の活躍時期を見れば170年代後半から180年代前半くらいだな。
多分諸葛亮と同じくらいだと思うぞ
682 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 17:04:26
魏延の活躍時期を見れば170年代後半から180年代前半くらいだな。
多分諸葛亮と同じくらいだと思うぞ。
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 17:06:26
そこに謙信公が突如として・・・
684 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 17:08:34
1400年後から来るわけねえだろw
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 17:28:53
魏延の活躍時期を見れば170年代後半から180年代前半くらいだな。
多分諸葛亮と同じくらいだと思うぞ。
686 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 17:38:24
そこに謙信公が突如として・・・
正史だと演義以上に蜀における関羽張飛の比重が大きいからなあ。
魏書や呉書だと劉備の配下にはその二人しかいないような印象だし。
魏の群臣なんて関羽と劉備が死んだら蜀終了扱いだし。
>>673 呉にとっても蜀が魏に睨みを効かせているという状態が不可欠。
桟道を焼き払って蜀だけ安全なんて手前勝手な同盟を、呉が承諾するわけがない。
689 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 18:23:32
>>688 呉に残された選択肢は二つだけしかない。
魏と同盟(風下につく)して蜀や他国を攻め天下二分にするか。
魏と対抗するため燕でも蜀でも魏以外の全ての漢人勢力・異民族と手を結んで均衡を保つか。
魏と同盟されたら、もはや手の施しようがないが
そうでない以上、蜀が魏の背後を突こうが突くまいが
とりあえず何かしらの同盟を組まざるを得ない。
魏は呉より数倍の勢力を持ってるのだから呉自身が生き残ろうとしたら
選択肢はさほど多くない。赤壁の戦い前夜と基本的な状況は変わってない。
>>688 長江上流を敵に回さずに済むってだけでも呉に同盟の利益がある上に、
魏は呉方面に戦力を増強し、蜀も対呉方面に完全に戦力集中されたら蜀を攻めるに攻められない。
よって承知しない可能性の方が低そうだが。
問題は打倒魏を捨てた蜀政権がどうやって支配を正当化するかだが。
魏と結んだら正当化問題は生ずるが
だからといって積極的に攻める必然性はないだろ
ていうか桟橋を焼き払えばそれでOKというところには誰も突っ込まないのか?
692 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 19:19:35
693 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 20:22:36
ホリエモンも本気でフジテレビを傘下にできるとか
首相の座を金で買えると信じてたしね。
その状況下で、ライブドアのどの社員が
「殿!御乱心めさるな〜」と諌める事が出来ただろうか。
法正なら・・・
695 :
初めて書きます:2007/01/16(火) 20:37:45
もし関羽が死んだとき劉備が呉に攻め込まなかったら劉備は天下をとったはずと思う
696 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 20:44:41
それはない
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 20:48:34
魏と対等に渡りあえた国力があったのはその時が最後のはず
そしてショクが漢朝復興を大義とした国家である以上その後諸葛亮がしたように魏を攻め続けなければ崩壊する国と考えて間違いないと思う
益州一州しか支配していない状態であと4年の命でどうやって統一すんだよ
699 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 20:50:55
対等はいいすぎだけとね。
700 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 20:55:22
あれがショクにとって決戦と呼べる力をもってたピークだとおもうから
ホウ統は生きてても死んでても大差ない事に気付くべき
702 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 21:08:21
魏延様の指図通りに、あの北伐の時点で諸葛亮が漢中軍に長安侵攻を許し
食料は穀倉地帯である関中で現地調達する事とし長安奪取の後
そこを根城にして押し込んで行けばどうなってたか分らないよね、
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 21:18:29
関羽の死後 呉に攻め込む兵力で長安を攻めるべきだった。
呉と敵対してるのに成都をがら空きにすんのか?
蜀にとっては決戦でも魏にとってはただの局地紛争。
やっぱり結論として突如として謙信公が(ry
706 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 21:37:47
とくに魏延の案がなぜここで出ないか不思議。
707 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 21:39:31
呉を攻めたときも漢中はがら空きにしていない
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 21:44:05
魏延の作戦が出たときもう滅びる寸前の国家を諸葛亮が無理矢理動かして長安を脅かす素振りをしただけにすぎない。だから損害の少なくなるキザンに出兵した。
滅びる寸前の国家を30年ももたせたのか
蜀にはいい人材が残っていたんだな
710 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 22:18:16
まぁそこを突かれると弱いところだが国家として負けをしりながら魏と戦うことでしか漢朝復興が大義の国家をまとめることができなかったから損害の少ないようにキザンで戦い続けていたと思う。本気で一か八か長安をとるチカラがあれば魏延の案を実行してたとおもう
711 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 22:36:11
>>709 立地条件がよかったんだよ。
逆に攻めるときグダつくんだけどね。
712 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 22:46:02
>>711 漢の高祖があそこから出てくるなんて項羽が思わなかったくらいだものね。
でもショウカにあたる孔明はいたが、韓信がいなかったのは痛かった。
おとなしくヒッキーしてれば良かったのに。
けっこう平和だったと思うよ、当分は。
前漢の時は関中の支配者が無能な上に分裂していたから比較にならん
714 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 23:05:05
>>713 変に立地条件とかにつなげたのがまずかった。
俺が一番言いたいのは二行目のショウカしか蜀にはいなかったということ。
そして韓信にあたる曹操が敵君主。
だから蜀に天下は無理。
>>646 幽州啄郡の劉氏一族に優秀な人材がいなかったというより(その可能性はあるが)、
一族で劉備についていこうというものがいなかったという点が問題では。
韓信て無能君主が治める弱い国を征服しただけだろ
この時代の劉備と同じ
だって劉備は親族の長じゃないから、一族を率いられるわけがない。親戚の援助で生活してた男だよ?
孫堅は劉備の一族よりもさらに家格が低かったかもしれないが、それでも一門の長だ。
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 23:33:40
>>695 関羽の死に際して、国策を優先したなら、それはすでに劉備ではない。
(蒼天航路風に)
719 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/16(火) 23:37:47
>>715 曹家と思うと出が良いわけでないしね。
出てくる親戚関係は少年時代の叔父劉子敬と、
行学時の劉徳然とその父劉元起くらいか?
>>717 曹操も、たしか曹一族の長ではなかったぞ。曹仁も最初は曹操に合流せず独行していた。
>>719 そりゃ曹家と比べればだけど、でも演義や吉川横山で語られるような単家の出身でもない。
721 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/17(水) 00:51:21
何気に劉備が白帝城で病死したのは痛いな
漢だって劉邦が死んでもショウカが劉盈(後の恵帝)を守り立てて
関中を一定期間守り抜く事は十分、可能だったと思える。
ある意味、関中の土民の忠誠心は劉邦ではなくショウカに向いてたしね。
でも、各武将が存分に働いたのはやはり劉邦という存在があっての事で
彼の息子を守り立ててショウカがいくら神のような善政を敷いて
考えうる限り最高の人材配置をしたとしても
もはや楚に立ち向かって、なおかつ中国全土を統一するのは
夢のまた夢だったのではないだろうか。
>>720 曹操は曹一族の長ではなかったが、曹氏の資産の大半は曹操と父曹嵩の物だった
つーか没落した曹氏がまたのし上れたのは曹騰が宦官やって貯めこんだ金のお陰だ
金があるところに人は集まるのだよ
>>721 とりあえずオメーは劉備の漢中王宣伝効果から抜け出してからまた来い
劉邦に劉備を重ね合わせて語りたいのはわかるがお前の書き込みは本当に的外れでしかない
ウザイ事この上無しだ
じゃあ昭烈帝劉備と光武帝劉秀でも重ね合わせてみるか
725 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/17(水) 10:04:10
劉備を他人と重ねんでも・・・
726 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/17(水) 10:16:12
関羽の四男の関瓢が南陽を守ってれば関羽は死なないで済んだ。
2chネタかよw
728 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/17(水) 19:16:38
南陽は魏の領土だ。
729 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 16:05:56
関羽はケイシュウでも五関突破して蜀に戻ってこいよ
ボケ
徐晃に敗れて撤退を余儀なくされた時点でまだ万余は居ただろうからなあ・・・
幾ら呉軍が周到に包囲網掛けていたとしても益州方面に全力で逃走すれば
高い可能性で落ち延びれたとは思うんだが。
余程裏切り者ぶっ殺してやる!と頭に血が上っていたのか。
江陵南郡落ちてるなど虚報に決まってる馬鹿馬鹿しい!と疑わなかったのか。
731 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/19(金) 17:13:46
蜀にとって荊州が要地だから奪還するつもりでいたのかな?
自分の問題で陥落したことを痛感したから、
自分で取り返そうとしたのでは。
面子第一の中国の思想の中自尊心の強くなってた当事の関羽は
敗走して落ち延びるってのは戦死以上に恥と感じたんじゃないかな。
とりあえず江陵の様子を確認してたんだろ?
はっきりとした状況が確認できないうちに益州へ行くことはできんだろうに。
それで何度も連絡を取ってるうちにようやく状況を把握した結果、もうダメだーと悟り益州へ逃げ込もうと思ったが間に合いませんでした。
これだけのこと。
史料を盲信してるようだが
関羽の敗北を知って麋芳等が寝返ったとすれば矛盾が解決する
時系列だと11月に江陵や房陵方面は呉に下っているわけだが。
(関羽の斬られる先月であるとの呂蒙、陸遜伝からの推測上)
だから関羽伝にあるように「帰ったらぶっ殺してやる」と言ったのを聞いた両人が
「関羽なんかに斬られてたまるか」と思い孫権の誘降に渡りに舟とばかり降った。
正史否定したらまずこの板で議論しても無駄じゃね全くw
「帰ったらぶっ殺してやる」の約束を守るために敗軍引き連れて江陵を目指したのか
常軌を逸してるな
>>738 な訳ねえってw
断定はできないけどな。
普通に考えたら
・樊城囲んでるうちに呉が荊州に侵攻したという情報が入る。
・真偽がよくわからないうちに徐晃に敗戦、樊城の囲みも破れる。
・関羽撤退。本当に荊州は陥ちたのか?と信じたくない気持ちで一杯。
・何度も使者をやり荊州陥落はマジネタと確定!多くの軍兵が離散。
・マジでやばいと益州へ向かわんと麦城入りするも囲まれる。
・城を抜け出して西上途中でつかまり斬首。
っていう流れだろ?
>>739 襄陽の囲みは敗戦後も保持されて結構後に(といっても年内にだけど)改めて徐晃が打ち破ってるからなー
これで流れがほぼ確定するでしょ
江陵が健在なら敗北して樊の囲みを解かれた後全力で襄陽を落としにかかるもんだ
で漢水の南北で睨み合う形で戦線を作っていく事が可能だ
処断の為に包囲残したまま江陵に帰ろうとする事は考え難い
741 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 01:00:37
自分なりにまとめると、
傅士仁・麋芳が何かやらかした。
→関羽激怒。傅士仁・麋芳がびびる。
→呂蒙が傅士仁・麋芳に呼び掛けて帰順させる。
→樊城包囲中に知らせを受け、包囲したまま様子を見に行く。
→その時に出した使者が呂蒙の善政を知らされ兵士の戦意ダウン。
→たまらず麦城を脱出
→先回りされて捕まる。
こんな感じで理解していいのかな?
何その横山三国志
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 01:36:04
子供の頃横山光輝三国志って蜀が正義で不公平だなって思っていたけど
過去のスレとか見てみると、むしろ日本では悪役にしか描かれなかった曹操や呂蒙等を敵ながら良い役どころを用意したりしているな
スレ違いだが
士仁・麋芳が兵を送ってくれない。
→関羽激怒。士仁・麋芳がびびる。
→呂蒙が士仁・麋芳に呼び掛けて帰順させる。
→樊城囲んでるうちに呉が荊州に侵攻したという情報が魏から入る。
→真偽がよくわからないうちに徐晃に敗戦、樊城の囲みも破れる。
→輸送隊が孫権に襲われたことを知り襄陽の包囲を解いて撤退。
→呂蒙に使者を出すが善政を知らされ兵士の戦意ダウン。
→たまらず麦城を脱出するが兵の多くは孫権に降服。
→先回りされて捕まる。
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 04:13:50
蜀と呉に天下をとる機会はなかったのか?
→無かった
しゅーりょー
定期的に終了クン沸いてくるなw
お前の人生終わらせておけばいいんでね?
>>746 煽りにももう少し頭を使えや・・・
>>745に部屋を出て社会復帰する機会はなかったのか?
→無かった
しゅーりょー
748 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 20:26:56
無かった
749 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 21:38:40
朝鮮が日本と中国を支配下に治め天下統一するくらい可能性が薄かった?
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 22:02:48
九州の大名が全国統一するようなもの
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/20(土) 22:48:39
ヌル山が格闘技界を統一するようなもの?
752 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 01:05:29
ヌル山はオイルマンという弱小超人だったため永久追放された。
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 21:56:10
玄徳が領土を得た時点で50過ぎてたから、
蜀は無理。
孫権は恵まれた地形だったのに、呂蒙が早死にしてからというもの
守勢ばっかりでツマラン男だよ。
むしろ呂蒙が蜀呉のわずかな天下取りの可能性を完全に摘んだ
むろんそれが悪いというわけではない
755 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 22:38:10
呉は「荊州・蜀まで手に入れた天下二分の後に天下取り」という戦略だから、呂蒙はそれに従っただけ
呉にとって最後のチャンスを潰したのは羅憲
756 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 22:42:32
>>755 その戦略を立てているなら、合肥を攻めて徐州を取ろうとしたこと
自体が無駄な時間だったわけだ。陳武やトウシュウなどが無駄死に
だったことになるわけだが。
757 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 22:43:28
周瑜の早死にしなければ・・・
周瑜が生きていれば、蜀取りは成ったかもしれないが逆に呉政権はより短命になったかも。
むしろ曹操が長生きしすぎたんじゃない?
魏の形があまりに磐石になりすぎてからの政権交代だったが、もし曹丕が若輩な段階で
代替わりしてたら地方でもっと活発に反乱あったかも。
孫策の早死にしなければ・・・
760 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 22:56:18
>>756 どうしてそうなるのかわからないな
それはあまりに単純なデジタル思考じゃないか?
合肥は来たるべき天下二分後に攻める足掛かりとしても、曹操から攻められないようにするためにも、無視は出来ない
逆に荊州は劉備がいる内は攻め込もうとはしておらず、ひたすら隙を見せるのを待つ状態だった
その間は兵力を徐州側に向けるのもある意味当然だろう
合肥攻めを止めて集中するだけで簡単に取れるくらいなら苦労はしないし、むしろそんなことしたら荊州は最悪の内乱状態になる
戦後を考えたら呉にとっても美味くない
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/21(日) 23:24:45
>>760 しかし、長江の険と土塁を築いておけば、防衛側が
圧倒的に有利だろう。むしろ曹操と協力しケイ州を取る
呂蒙の戦略はもっと早くしていても良かったと思うが。
762 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 00:06:46
赤壁で関羽が情に絆されず曹操を討ち取ってれば良かったんですよ
官渡で袁紹に寝返っていれば
周瑜が蜀とった方が呉の寿命は延びるし
曹丕も幾つ地方反乱が起きたところで揺るがないだろ
>>761 あれは一方的に魏に兵損害出させて漁夫の利だと思うんだが。
荊州失陥までは国力で蜀>呉だったし、痛み分けみたいな勝利だと
その後魏にやられるから堂々と関羽に2vs1は挑み難いんじゃないかと。
>>762 はいはい演義演義
766 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/22(月) 01:16:50
周瑜が生きて征蜀を敢行。ある程度戦果が挙がったところで、
劉備が共同軍派兵。
劉備が持つ荊州の領土を全て呉に渡す代わりに、益州は劉備に。
蜀を攻めてた周瑜の部隊は荊州に戻って襄陽を狙い、
劉備は関羽を伴って漢中、長安と攻めていく。
って展開になったら面白そうだけど、周瑜が納得しそうにないな
呂岱がベホマかザオリクかライデインのどれかひとつでも使えれば勝てたよ
馬良がメガンテを使えればあるいは。
771 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/23(火) 00:51:31
ロシュクの劉備を曹操の対抗馬としてある程度まで
領土を拡大させる戦略は納得できるんだが、
結果として呉蜀がつぶしあったところを見ると
早めに劉備をつぶしておくべきだったな。
>>758 周瑜存命中はほう統は呉の配下だし
いけんじゃね?
周瑜が死んじゃった以上、蜀取りにいける人材がいないんだから
劉備あたりに任せるしかないでしょ。
>>771 それは魯粛が早死にしたのと、
魯粛の戦略をしっかり理解した後継者に恵まれなかったからだろ。
孫権ですら完全には理解してなかったんだし。
劉備に荊州を譲ったんじゃなく孫権がとれないから劉備がいただいただけ
荊州ですらそうなのに劉備と潰しあいしていたら益州は確実に曹操が手に入れていただろうな
>>774 おいおい、215年の荊州侵攻時には魯粛が一方の将となってるぞ。
777 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/23(火) 23:17:07
諸葛誕のタコは兵糧が欠乏しているのに篭城した上、
文欽を殺害し、部下に逃げられる。さらに、呉軍と分断され、
逃亡を図るが、殺される。
→こいつのせいで呉の天下はなくなった。
そのロジック、よそ者をあてにしてる時点でダメダメじゃん。
当時の呉自体がダメダメだしな
呉と蜀はもうしばらく手を結んでおくべきだったんじゃね?
781 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/25(木) 22:53:28
阿斗を誘拐しようとした時点で呉は逝かれてる。
趙雲を悪く言うな
783 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 09:46:10
そもそも一軍を指揮する武将クラスで考えると
蜀はその絶対数が欠けてた。
>>781 阿斗拉致に成功してたら
呉にとっては関羽の傲慢さを抑えるための外交の切り札になってたかも
劉備は息子ぐらい簡単に見捨ててきた男だからさして影響ないと思うが。
他の息子たちと同じように正史から名前を消されるだけだったかも。
786 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/27(土) 14:41:33
だいたい魯粛は「北方には課題がありすぎて全部課題を終わらせるまで時間かかりそうだからまず俺らは江夏の黄祖を
ブッ殺して長江流域を抑えようぜ。」なんて言ってるけどまだ孫権が黄祖と戦ってる時にはもう袁譚斬られてるしww
ちと江夏の平定が遅すぎた。
まぁそれは北の平定が早すぎたんだけどな。あの曹操の進撃速度は異常。
北の群雄袁紹があんなに早く倒れるとは誰も思ってなかったさ。
なんのかんの言いながら袁紹いる間は曹操も手が出なかったわけで
789 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/28(日) 00:14:56
関羽が北上してる時に、呉が全軍で合肥に全軍を集結させたとしても無理?
無理。
むしろ、合肥を取らせて曹操本軍と惇26軍が南郡を取りに来る可能性がある。
791 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/28(日) 00:29:25
司馬イ以前に、曹真、郭ワイに手こずり過ぎたようだ。
>>792 なぜ?
周瑜も赤壁に勝った後、余力で江陵を落としてるんだよ。
まして、援軍の呉は合肥に行ってる状態。
魏にとってはちょっと面倒なことにはなるが、それで国家が揺らぐことはないな。
まあ劉備が長安取れる可能性は少しあるが長期維持は難しい。
そもそもそれで呉に何の得があるというのだ?
呉が参戦しなくても徐晃戦は勝てんよ。
徐晃は初め、新卒の兵ばかりなので戦う事を躊躇していた、
しかし、対呉戦線にいた兵が援軍として来て、それらを糾合して進軍して関羽を破った。
つまり、呉が魏を攻めていれば徐晃は動くことが出来なかったと思われる。
魏の内部も内乱や賊の蜂起なんかが相次いでいて不安定だったからね。
曹操も戦後にやばかったと語っている。
あれが呉蜀が魏を倒す最初で最後の機会だったな。
798 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/28(日) 01:50:52
もし劉備が長安を獲るなんて事が起きたら擁州、涼州は馬超効果ですんなり
蜀に帰順するのかな?
>>793 江陵攻めには劉備の力も大きく関わってた
周瑜の独力じゃない
まあそれは置いといて26軍なんて大軍が目の前の敵以外に即応して動けるなんて事がまともにありえると思うなよ?
>>797 218年の末には候音の乱で南陽一郡反乱起こしてたりするしな。
何で4ヶ月も魏が鎮圧できなかった乱を蜀はもっと有効活用できなかったのか不思議だ。
>>798 それは演義入ってない?そこまで馬超一人で取り込めるかの名声はない。
まだ韓遂の息子とかの方がキョウ族に受け入れられる可能性はあったか程度で。
>>800 有効活用してるがな
あれで荊州部分に余計な兵力を割かなくてよくなったんだから
あれなければ関羽討伐にやってきた曹仁と関羽の本格的な戦闘が始まってたと考えると
劉備は漢中戦後に孟達、劉封を荊州北西部に送り込んで、曹仁を孤立させたから
関羽の北上が途中まで上手く行ってたわけで、
孤立した関羽が曹仁の攻撃を受けて救援を出さざるを得ず
曹操との漢中決戦に深い陰を落としたであろうと推測される
あの反乱があったから漢中戦に最後まで集中できたのさ
802 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/28(日) 02:44:36
>>796 ちょっと史実と違う。
夏侯惇・張遼・温恢らは関羽戦に間に合わなかった。
徐晃に合流したのは殷署・朱蓋ら。
でも実は関羽の敗走は徐晃戦とはあんまり関係なくて江陵陥落がほぼ全てかと。
803 :
いきぬき:2007/01/28(日) 03:04:48
腐女子ったら、大塚みさ、新見、西山かおる、とみたなどです。
脳が腐るゲームをしたりしていますwwwww
ブサイクでウザイったら最低な低俗なおんなだよ、こいつら勝手に許可なく
くだらない事を参加させられていたりするんだよ、行きたくないったら
「なんで」、「強制だから」とか言うんだよ
この姫路出身の 腐 女 子
>>802 賊圍頭有屯,又別屯四冢.晃揚声當攻圍頭屯,而密攻四冢.羽見四冢欲壞,
自將歩騎五千出戰,晃擊之,退走,遂追陷與俱入圍,破之,或自投沔水死
これを読むと江陵陥落とは関係なく、徐晃に負けてる。
>でも実は関羽の敗走は徐晃戦とはあんまり関係なくて江陵陥落がほぼ全てかと。
だから呉が魏を攻めていればという仮定だというのに
806 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/28(日) 04:11:56
劉備って義理人情に弱いっていうかなんていうか
劉表だっけな?死んだ後そのまま劉備が自分の国にしちまえば良かったのに
他にもいろいろ回り道ばかりしている感じがする
そんな簡単に自分の国になるはずねーって
>>804 いや、徐晃戦は単なる小競り合い程度で、
襄樊周辺の戦局を大きく左右するもんじゃなかったのでは、と。
関羽が樊城の包囲を解いたあとも漢水の制海権、襄陽の包囲は継続してたわけで。
>>805 だから呉が江陵を落とさなければ関羽の敗走も疑問だというのに。
>>806 演義読み過ぎ
あそこで荊州奪ってたとしても、すぐ曹操が南下してくるから
得策ではない
最終的には逃げるにせよ、荊州あったほうがもっと楽に逃げられたろう。
でもあそこで自重して評判を残したことが巴蜀を奪うときに大いに役立ってる。
なんというかあれは劉備の一世一代の命を賭けた大ばくちかもしれんな。
811 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/28(日) 11:53:42
つまりあれだ
最初で最後の魏打倒の機会を、
目先の荊州(それも南郡限定)に、
欲かいて目ぇ眩んだ孫権がガンなんだな。
>>811 清の学者はほとんどその意見で一致してるらしいな。
呉の国家形態考えたら
荊州攻略を却下したら別の歪み出そうだけど
>>808 徐晃伝だと、襄陽も陥落させてる。
包囲を解くではなく陥落とあるし呉とは関係なく関羽の大敗北だろ。
援軍自体、本国から来てるからもし呉が合肥に行ったとしても変わりがないし。
815 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/28(日) 13:45:30
なんかの本で読んだんだけど清朝の学者、王夫之はその著書【読通鑑論】で
「北伐の本質的な目的は攻撃によって国力と防衛力の不備を補うこと」
と述べている。
もしこれが北伐の本音だとしたら、諸葛亮自身、漢の復興は、無理だとわかっていたのかもしれん。
ただこの論理でいけば姜維が北伐にあれほど、拘ったのに納得する。
816 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/28(日) 13:50:39
>>815 漢復興のために北伐してたと思ってる奴いるの?
軍も政も最高の地位にいた孔明はともかく、姜維は降将というのもあってか成都の
政務官連中から孤立し、北伐から帰ってきても漢中に留まっていたからなあ。防衛の
ための北伐とは言っても、姜維の場合は
>>815の意味合いから外れてしまっていたな。
姜維はある意味蜀内の漢中政権を指揮してたようなものだ。
>>814 徐晃伝には襄陽を救出したことは明記されてないはず。本が違うのかも。
徐晃が陥落させたのは樊城や襄陽城ではなく、それらの包囲陣だけだよ。
その後の関羽の消息は趙儼伝に出てくる。
821 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 00:30:37
蜀と呉の天下を取れる転機を初期〜中期〜後期でお願いします。
初期
官渡前、徐州を劉備が取ったときに取って返してきた曹操を返り討ちにする。
中期
曹操陣営に招かれたとき、逃げずにそのまま残って司馬懿のポジションを狙う
後期
馬超の反乱鎮圧時にうっかり曹操死亡
826 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 09:22:06
中期
赤壁敗北後、江陵に逃げようとする曹操を関羽が逃がさず斬る
827 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 09:24:35
次からは「蜀と呉に天下を取る機会はなかったか?」に変えて、
「劉氏と孫氏に天下を取る機会はなかったか?」にしないか?
漢はオワッテマセーン
832 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/29(月) 22:00:57
劉禅のお陰で蜀は長持ちした。
間違いない。
劉禅陛下の治世は中華で皇帝を名乗った人間の中で
5本の指に入る長さだったそうな。
地方に割拠しただけとはいえ、偉大であることは間違いない。
魏みたいに世継争いでごたごたしなかったしね。
親子二代強運だったんだろ。
世継争いは諸葛亮が芽を摘んどいてくれたお陰でなかった
836 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/30(火) 00:51:30
劉禅は劉邦みたいな部下の策を用いる大将のイメージ
周りにろくな奴が居なくなるとどうにもならない
837 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/30(火) 00:56:56
陣頭指揮し続けた劉邦と一度も兵を指揮したことがない劉禅
現行の劉邦のイメージが一番実像の劉禅に近いってのは同意
だが劉邦は劉備に似て何でも自分でやろうとする総合能力の高い男
桃園の誓いって元は建国までのもの(横山演義)というのが実際もそうだったのなら、
建国後に主従の誓いを改めて立てて、私憤に流されないようにすればよかったのかもしれないが…
桃園の誓いって結構蜀の方々の枷になってるイメージがある。
残念ながら実際は行われていない>桃園の誓い
というか別に、誓ったから敵討ちしようとしたわけでもないだろう。
桃園どころか義兄弟ですらないぞ。
普通の主従関係を越えた親密さを示す描写があるだけだ。
例えば劉曄伝の「且關羽與備、義為君臣、恩猶父子」という劉曄の評かな?
あとは(関羽と張飛は劉備と)一緒に寝起きした という記述があるが
実際問題劉備と同じ屋根の下で寝たのは趙雲だってそうだしね。
あと、一緒に寝起きした=うほっ説ってどうなんだろ
先主與二人寝則同床,恩若兄弟。
同じ部屋じゃなくてそのものずばり同じ寝床で寝た、とある。
また、劉備旗揚げ以前からの知り合いを暗示する描写もあるんで、
知り合った頃はお互い貧乏だったろうから別に不思議ではない。
趙雲が加わったときは、すでに劉備は元太守で軍閥の親玉だから、
状況が違う。
あと、中国には建前上は男色の習慣がない。
一緒に寝たという記述のせいで関羽は女だっただの
諸葛亮は女だっただの趙雲は女だったのと後に創作されるようになる。
蜀軍は女だらけだな。
まぁ自分の都合の?良いように解釈する人は多いよな・・・
>>845 >『蜀書』趙雲伝には、公孫サンのところにいた劉備と趙雲が仲良くなり、
>趙雲が兄の喪のために公孫サンの下を去った後、袁紹の下についた劉備と
>再び出会ったときに、「劉備と趙雲は同じ床で寝た(先主興雲同床眠臥)」と書かれています。
>しかしこれは、べつに「うほ」ではなく、相手への信頼の証として同じ寝室、
>あるいは同じ寝床に眠る、という中国古代の風習だそうで、さらに言えば
>互いに同じ向きで眠るのではなく、一方が南枕で眠れば一方は北枕、というように
>足と頭を交互の向きで寝たそうです
足が臭い奴だったら嫌だな
寝返りうってうっかり主君の顔蹴ったらえらい事だ。
緊張しておちおち眠れやしねえ。
そういう事態があること含めて許してるんじゃないの?
足がにおうのは湿気と通気性の悪い靴が原因だろ。
大陸は湿気はあんまりないだろうし、靴は分からんが、
足が臭いやつってそんないなかったんでないか?
>>851 時代は違うが纏足小娘の足は大変臭かったそうだ
現代日本のブーツで蒸れた足のおにゃのこの足が臭いようなもんか
違うのは当時の中国の男共はその臭いがたまらなく好きだったとか
苦肉の策のとき周瑜がそんなんしてたな。
>853
周瑜「女の子のブーツに踏まれるのっていいよね。ところで鞭打ち始めていいッスか?」
黄蓋「いいけどその前置きは何?」
856 :
853:2007/02/05(月) 00:55:21
ぐはっ 違っ
周瑜の旧友が魏のスパイとして篭絡にきたとき、
親友なので互い違いに寝るって表現があった気がしただけ・・・・
>>854 そんなおもろいエピは知らんw
857 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/05(月) 23:19:44
演義では天下を取る機会があるように書かれていたが
実際はほとんどなかったって話だよな。
蜀が劉璋政権下ってのなら、機会が無いでも無かった気がする。
張魯を早期にどう料理するかにかかってると思う。
てか、結果論かもしれないけど
張魯と完全交戦な体制になった時点で
戦略的に終わってると思うんだが>劉璋
うんだから、張魯を吸収する道が必要だったんじゃないかな。
領土内の信教の自由を認めて領土拡大に協力させるという外交政策で懐柔できんかったかな。
861 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/06(火) 00:21:40
曹操奪われる前の漢中を取らないと駄目だな
人材も何人か確保できるしな
863 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/06(火) 22:56:20
864 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/06(火) 23:14:24
>>863 龐徳は、豪胆でそこそこ有能な軍人として使いでがあっただろうと思う。
張魯、張衛あたりも、宗教に根ざしてるとはいえ、人心収攬に有用。
そして何より、あの高名なる揚松先生をわが陣営にお迎えできる事は素晴らしい。
865 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/06(火) 23:44:26
>>863 少しは変わるだろう
涼州や長安近辺に詳しいだろうし
ホウトクに付いてきた兵士もいる
曹操領土の漢中は民を移住してたらしいので
その民を手に入れる事ができる
もうちょっと袁紹に粘ってもらわないとどうにもならないんじゃね?
867 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/07(水) 04:25:51
いや
馬超が粘ってたらすこしはかわってかな?
868 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/07(水) 09:30:06
官渡でソウソウ負けてたらどうなるよ?
869 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/02/07(水) 09:31:52
それこそ負け方による
袁紹の寿命がまったく同じとしても
袁紹つーか袁氏は7年も曹操の南下の時間延ばしたじゃん、官渡後滅びるまでに。
寧ろその7年新野ヒッキーしてた劉備とかやっと黄祖討っただけの孫権とかが何だって話。
>やっと黄祖討っただけの孫権
( ゚д゚)ポカーン
実際は孫策死んで−5、その後7年間で+6くらいなんだから当たってるとも外れてるとも言えるな。
873 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 22:47:01
ハハハ
874 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/07(水) 22:53:52
宝刀がいれば天下を獲れた。
落鳳破で宝刀が斃れなければ、、、魏も呉も蜀漢に併呑されただろう。
結論、宝刀の死が天下を逃した。
完璧な理論だな
876 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 01:36:42
せめて関羽に強く文句を言えるヤツを荊州に置いていれば、
呉との対立もなんとかなったかもしれないのに
むしろ関羽が顔良に切られていれば、ケイ州に関羽が
赴任することもなく、丸く収まったのだ。
呉の国内事情から来る領土拡大への強い野心に、
蜀が国家目的からしてそれに応えられない事情があるので、
たとえ何を言われようが、
「返せんものは返せんのだー!!」
と言い放つであろう関羽のキャラがベストだろ常識で考えて。
879 :
新参物:2007/02/08(木) 10:06:46
関羽がけい州から北上したときに後ろの守りをもっとまともなやつにしとけばよかった
関平か寥化だな そうすれば関羽が戻ってくるまでは持ちこたえれたはず
関平はあれがウィ陣じゃなかったっけ?
881 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 10:57:23
劉禅が特に暗愚というわけでもないな。
17歳で皇帝に即位したが、その時点で既に蜀が天下を獲ってれば
ごく普通の皇帝として劉禅は評価されたでしょう。
しかし、現実は一地方政権の王程度の領土しか持たない人だから・・・
>>881 ライバルの問題山積みなのに短命てのもあれだが、
健康なだけじゃなあ
中華の皇帝で長生きした人間の方が少ないだろ。
劉禅の健康で耄碌もせず、という点は
「だけ」という言葉で済ませられる程度の美点ではないはずだ。
884 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 16:19:02
遂に三戦板にもマルチが現れたか
886 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 22:37:14
まず前提がちがってないか?
俺には呉が積極的に天下を狙ってたとは思えんのだがな。
あわよくば漁夫の利を狙ってとゆう国家戦略じゃね?
その程度で天下をとれる訳ないと思う。
887 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/08(木) 23:21:02
>>866 孫権が皇帝になった時点で天下を取る気はあるだろう。
あの江南が孫権的には天下だったんじゃネーの
889 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 00:52:03
890 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 01:09:51
天才諸葛亮がマシンガンの量産を成功させていれば蜀が天下を取った。
891 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 01:51:06
連弩では足りなかったんだね
892 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 02:28:58
孔明と鳳統が仲良く
姜維と馬ショクが仲良く
孫権と陸遜が仲良く
曹操と典イが仲悪ければ
劉備と曹操が仲良ければ、もっと話は早かったんじゃない?
>>887 皇帝にならないとどっちかの部下ってことにされてしまうからだろ。
劉備も孫権も魏に降ってればよかったんに。
>>893 どっちもトップじゃないと能力が数段下がりそうな
897 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/09(金) 11:14:37
リュウビは同じだと思う。
>>892 他の六人登場するまえに情勢がえらい変わりそうだ
保守
孫権が皇帝になったタイミングってどうなんだろ?
蜀と再同盟して臣下と勘違いされると困るから
孫権が帝位についたのって第三次北伐時だっけ?
北伐したけりゃ文句は言ってこないと踏んだんだろうか?
903 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/12(月) 00:18:27
孫権は長命だったが、その後の孫一族ってなんで
皆短命なんだ?
孫登、孫亮、孫休、孫シュン
おっと魏もそうだったか。
皇帝は長生き薬と称して水銀とか食わされたりすることがあるらしい。
なんか変なもの食わされたんじゃね?
孫権が異常だったんじゃね?
中薬の材料にはもともと毒性のある鉱物や動植物が数多く含まれてるのだが、
当時の薬は貴重品で平均寿命も短かったので、長期的な服用による副作用について
ほとんどわかっていなかった。
皇帝が新薬の実験台になってたようなもんだなw
909 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/02/14(水) 21:10:29
諸葛謹がいなかったら諸葛格も生まれず安泰。
しかし呉は困るぞ
>>904 劉禅は食わされていたと思いたい俺ガイル
劉基の息子が増長しそうだな