1 :
無名武将@お腹せっぷく:
魏が中国大陸の3分の2を支配していたが、
赤壁の戦いでの敗北により三国鼎立となった。
その後は蜀と呉は盛り返すことなく、
結局晋が統一したが、チャンスはあったと思う。
蜀は呉を先にブチ殺すべきだった。
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/11(月) 00:44:32
>>2 最大のポイントは関羽と組むか曹操と組むかで呂蒙が
ケイ州をとりに行ったことだと思う。
あのときは徐州をとりに行くという選択もあったはず。
それを長江をはさんで兵を割けないとのことで
ケイ州を攻めたけど、結果的にこれが魏に有利な状況と
なった。
関羽みたいなバカタレを荊州に駐留させたのがまちがい。
魏延とかでよかった。
5 :
やれやれ:2006/09/11(月) 01:15:11
歴史を陰で操るのはいつも女か
結局、統一したのは魏呉蜀のどれでもなかった三国志。
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/11(月) 01:21:52
呉はなんちゃって皇帝だから天下統一は無理というかする気もなさそう
孔明が北伐やってる時に呉がもうちょっと積極的に魏を攻めてれば状況は変わったと思う。
あまりにおとなしすぎた。
ここは蜀厨の巣窟?
魏:呉:蜀
6:3:1 この国力差ではひっくり返せないだろうよ
今すっげー事思いついた
そもそも誰も天下=中国大陸全土だなんて言ってねーんだから
天下=益州ってことにして俺天下とったぜキャッホーって言っとけば天下とったことになるだろ。
名づけて「天下三分の一の計」
ウーン、我ながら物凄い戦略眼。
俺孔明超越したわ\(^o^)/
生めよ増やせよで人口差を縮めて耕作地を増やして国力差を少しでも減らす以外に何か方策あるのか?
蜀漢は西・南方面へ拡張し、て呉はベトナム・台湾方面に拡張。北伐は嫌がらせ程度に留める。
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/11(月) 01:43:10
他民族を統治することの難しさを知らない厨がいますね
益州や江南で国力上げられりゃそれでもいいんだけどな。
そもそも前提が無茶だから無茶を重ねるしかないわ。
>>1 基本的には蜀と呉が強固な同盟関係を結び、相互に連携して作戦を実施する事が必要。
その上で戦略的な大勝を何度も重ねないとダメだろうね。
実際蜀と呉の間にはそんな信頼関係もなければ相互に連携して作戦もできない。
だから蜀や呉に天下を取る機会はなかっただろうと思う。
16 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/11(月) 10:30:44
・関羽の荊州敗北
・劉備の呉討伐敗北
・馬謖のガイ亭敗北
・姜維の無謀な北伐の繰り返しと黄皓の例の件
チャンスはいくらでもあったのに
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/11(月) 10:52:12
南蛮は成功したのにな。
>>8:1、5:0、5
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/11(月) 16:03:23
歴史にもしもはない。それは分かっているのだが俺もこういうことをよく考えてしまう。
それは普通なのかな。
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/11(月) 16:04:39
>・姜維の無謀な北伐の繰り返しと黄皓の例の件
これが天下統一のチャンスだったのか?
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/11(月) 16:11:43
22 :
黄ちゃん:2006/09/11(月) 16:24:50
劉備が孔明の言う事を聞き
関羽の仇討を思い止まって要れば
国力も落ちなかったものを
張飛も死ななかった。
>>22 それは陸孫の所為。
>>20 16がそう言うんだから間違い無いはずだ。
>>16の案件が全てうまくいっても確率は半分にも満たないだろ、どう贔屓目に見ても
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/11(月) 23:31:52
ショウシュウが呉に降ると2度恥を受けるとか
言っていたが、これは先見の明があったのか?
逆に呉に降っていたときのニ国志も興味あるな。
kaere
わざとかw
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/12(火) 19:41:59
呉は河川が防壁であり、蜀は山岳地帯。守るに有利なところ。
攻勢はあきらめて、防御に徹する。長年月のうちに魏で内乱が起こり分裂したら
打って出ればよかった。孔明さんは自分が生きているうちにと焦ったんだろうが
国民には迷惑だったよね。
魏で内乱起こるかも知れんが、同じように蜀や呉でも起こるのさ。
それが中華クオリティ。
孫策の暗殺であっちがグダグダってた上に
官渡の決着が決まった時点で
もうあとは消化試合と決まってたんでね?
そうなると劉表だよなぁ・・・
その時にどこかにちょっかいをかけてたら
かなり展開違ってたような
>>38 劉表(と黄祖)は孫権にちょっかいかけられてたからな。
すくなくとも、諸葛亮が生きていた頃は魏の国境防衛も厳しくはなかった。
その頃までならなんとか逆転できる可能性もあったはず。
寿命とか、官途の勝敗とか、ふまえたうえでの超結果論だけど
劉表は張シュウと組んで曹操と争ってるときに
決定的なアドバンテージを得られなかった時点で
38の言い方すれば、負け側の消化試合だったのでは。
張シュウが曹操に下った時には
もう孫策は黄祖を攻められるまでの地盤になってたよね?
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/12(火) 22:33:53
孔明の話に終始すると
キョウイの北伐は何の意味も
なかったことになっちまう。
43 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/09/12(火) 23:12:41
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/12(火) 23:37:46
>>42 意味なっかたじゃん 人員だけバンバン失って国力衰退させたのみ
孔明は政治家っでもあったから謀略も駆使したし堅実な作戦に終始した
けどキョウイにはそれはない 糧道絶たれるかぼろ負けするかするのみ
国力の衰退を気にする風もなし
46 :
無名武将@お腹せっぷく :2006/09/12(火) 23:44:47
>>44 国力衰退を気にしないというか、職務外と割り切っていたと言うか。
一回、讒言で戻されてるよね。 内部にも足を引っ張るやつはいた。
蜀は夷陵以後は消化試合
ていうのは諦め早すぎ?
街亭のアホを忘れないでくれ
蜀のハイライトは諸葛が肉まんをつくったところ。
つい忘れたくなるよ、そのアホを。
いっそなかったことにしてくれたら…
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 00:04:49
黄皓ね
でも孔明のときもそれはあったでしょ 李厳とかコウアンとか
蜀の要人同士の喧嘩はお家芸でしょう
しかし孫武と比べると格がねー
軍人なのに呉の国力をみて外征を止めてるし
孫武と比べたら、かなり振り落とされるって。
そういえば三国演義で、姜維が讒言受けたとき、楽毅と岳飛が引き合いにだされていたな…
黄皓の讒言で戻ったのは演義だけだろう。
どうすれば天下を取れたか、ってのは正史ベースで話すべきじゃない?
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 00:13:41
>>50 仮に街亭で勝ったとしてもそこから長安までいけたかどうかね
実際人員の不足、兵糧確保の困難、要人同士の不和、皇帝の凡庸
不安要素はいくらでもある上に、魏にはシバイもいるし
やっぱ関羽が負けたところで終わったでしょ
>>56 可能性が皆無だったわけじゃないんだよね。
むろん荊州失陥は大きすぎる痛手だけど。
どっかのスレでも書いたけど、漢王朝復興世論の喚起という狙いが、諸葛亮にはあったとされる説。
それならば、軍事勝利を背景に洛陽の前後漢朝の臣で魏に多少不服のある連中に、揺さぶりをかけるという政治的な狙いが達成できたかもしれない、ということ。
>>56 >要人同士の不和、皇帝の凡庸
諸葛亮が生きてる間の問題じゃねーぞ
特に劉禅は凡愚だったわけじゃないし
59 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 00:45:09
>>57 漢王朝復興世論ねえ
漢臣には多少効果あるかもしれないけど一般庶民には全く無い
霊帝の売官とかの失政で漢室の威厳、信頼は完璧に失墜してるからね
かりにうまくいっても金偉とかみたいに一日で平定されそう
大掛かりにいくには長安まで行くぐらいの大勝利を上げないと無理では
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 00:59:52
>>58 生きてる間の問題だよ
関羽と、ビ芳、孟達 魏延と、楊儀、劉エンとかね
あと李厳みたく足引っ張るやつとか
劉禅も黄皓みたいなのをちかづけたり、
キョウイの北伐を止め切れなかったのは十分マイナス点
孔明も出師の表で、
やれ人のいうことをよく効けだの、えこひいきするなだのいってるし
そもそも出来が悪いのを知ってたから
劉備もお前が取って代わってもいいって遺言したんだと思う
61 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 01:11:02
勝ち目があったとするなら
関羽がらみの呉と蜀の戦争が無くて、キョウイの無理な北伐が無くて
孫権の後継者争いが無くて、孫チンが実権握らず、孫休が長生きして
とにかく司馬炎が死ぬまで呉と蜀が残っていたなら
晋の二代目の恵帝は暗君で8王の乱を引き起こしてるし
北方異民族の劉淵とうまく連携すれば晋を倒すところまではできたかも
蜀が健在であっても晋への禅譲が行われただろうか、という疑問があるのだが
中華という枠内のことであれば難しいと言わざるを得ないんじゃない?
呉に関して言うなら、中原を諦めて海洋国家として貿易で利益を上げつつ
支配域を南に伸ばしつつ国力を整えて
覇を唱えるぐらいが精一杯じゃないかなー。
天下の枠を大きく広げることで飛躍する可能性はあったと思う。
64 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 01:40:49
共産中国方式でいこう
まず、魏の手が及びそうにない山岳地帯とかの辺境で勢力を拡大して、北方の異民族
と魏をケンカさせるように仕向けて中原を混乱させ、それに乗じて魏と手を組むとか
何とか言って中原まで勢力拡大と宣伝の為に進出。異民族問題をどうにかした後にド
サクサに紛れて拡大した勢力を動員して魏を滅ぼす
これしかない。多分
>>60 なんつーか浅はか過ぎる
もう少し三国志をお勉強してくれ
66 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 02:02:43
>>62 多分あったでしょ
司馬昭が晋公(王だったかもしんない)になったのは蜀を滅ぼしたことが
大きかったけど、もともと簒奪するきだったのは明白なわけだから
時期がずれるだけでやってたと思う
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 02:15:46
>>67 例えば要人同士の不和の例
>関羽と、ビ芳、孟達
別に不和だからって2人が本拠地を即座に呉に渡したり、援軍を拒んで関羽を助けなかったとかってわけじゃない
むしろ2人ともよく連携をとって関羽と相補の関係にあった
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 03:10:09
>>68 最初のころはね そもそも二人の仕事は関羽のサポートになるわけだし
ただビ芳の寝返りは関羽との確執を呂蒙に利用されたのは間違いないし
孟達は最初援軍を出して逆に関羽におこられたんできれて
呉に背後を襲われたときに援軍を出さなかった
結局要人同士の不和が原因のひとつであったことは間違いないと思う
そもそも劉備軍は各地の軍閥の寄せ集めで、かつ征服者でもあったから
どうしても派閥ができるとかの弱点があったと思うんだけど
>>68 孟達は間違いなく不和だから離反したんだろ
劉封とだけどさ
その書き方だと要人同士の不和と言うより、関羽の自業自得では。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 03:47:12
いやもちろん関羽の性格上の問題点もあるけどさ
もし仮にこれが簡擁とかで関羽と問題なさそうなやつだったら
簡単には裏切りや見殺しはしなかったんじゃないかな
その意味で要人同士の不和に入れたけど
>>69 それこそ浅はかだっての
糜芳が簡単に呂蒙の奇襲に降ったのに対して以下の二点を無視すんな
・3万の捕虜を抱える
・北上中の関羽にはギリギリまで兵糧を供給
この状態で江陵は既に戦える状態にない
また孟達の場合、呉に背後を襲われて関羽が南下すると上庸に孤立する
ここで援軍とか出せるわけがない
関羽が再度北上して来るまで守りきる為にも援軍など出せやしない
関羽が敗死して北上して来ないならば魏の中で孤立するしかないので降伏か死かの二択
援軍を出さなかったのは関羽が襄陽の包囲を残して南下したのと同様、次につなげる為の動きだぞ
どちらも個人的な不和の種はあったのかもしれんが、その事が原因で蜀を裏切ったわけではない
むしろどちらも最早個人ではいかんともし難い敗勢の中で、降伏という至極当然の選択を採ったに過ぎない
蜀がわはホウ統の死による孔明が荊州から異動と
呉がわは魯粛の早世が決定打な希ガス。
異動が早まったのは事実だし
ホウトウがいれば交替できた。
魯粛が生きていれば関羽との共闘路線は続いたろうし
それが魏にとっては最も脅威であったのは間違いない。
魯粛伝、呂蒙伝読もうが魯粛が生きていても
関羽との共闘路線は続くようなことはないだろ。
だからホウ統が生きてたらって仮定で話してんだから
魯粛伝呂蒙伝も変わってくるだろうに。
タラレバの話をしてんだよ。
タラレバの。
>>76 諸葛亮の益州入りはホウ統戦死直後ではなく
劉備が劉ショウに攻撃を仕掛けた直後に張飛、趙雲らと一緒に益州平定に乗り出してる
ホウ統の死によって諸葛亮の異動が早まったとするならば
諸葛亮の益州入りはホウ統死後でなければならないが事実は上記の通り
諸葛亮の益州入りがホウ統戦死よりも前
80 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 12:27:05
江陵にいたのは藩シュンだったとおもうが
孟達が降ったのは関羽敗死後しばらくしてから
劉備の怒りを恐れてのことだったとおもうんだけど
>>80 孟達なんてもともと裏切りの常習犯じゃん。
ホウ統が生きてれば蜀取りの後荊州に戻された可能性はないのか?
荊州放置ってことはないだろう?
劉備がホウ統と孔明を併用するとも思えないし。
蜀には法正もいることだし。
つかホウ統がなんでそんなに過小評価されてるのか謎だ。
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 12:35:06
>>79 ほう統がいれば関羽と交代できたとしても
実際したかどうかはわからない
ま、交代してれば呉との関係を緊迫化させたり
呂蒙にだまされて守備隊を抜くようなことは無かったと思う
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 12:38:43
>>81 全部で三回か とはいえあの時代多少はありでしょ
それなりの理由はちゃんとあったわけだしね
孟達みたいな奴ばっかだったら困っちゃうけどな
>>85 彼なりに親父の轍を踏むまいと頑張ったのかも。
より酷い気もするけど
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 12:59:44
それをいったらあれでしょ
張遼とて裏切り者の呂布と一緒に渡り歩いて降参一回
徐行も寝返り一回だし
劉備は何回になるか知れたものじゃなくなる
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 13:51:28
確か演義じゃ
荊州本城(藩濬)公安(傳士仁)南郡(糜芳)の順番だったと思うけど
荊州本城イコール江陵イコール留守の大将藩濬だと自分も思ってたけど
違うの?
それか呉への備えと兵糧集めのため出ていたとか?
糜芳らの降参の速さと過去の経歴から内通していた可能性が高い
という話だけど
演義の地理はむちゃくちゃだから、引用するには注意がいるね。
たしかにアテにならんし、ここでそれを取り上げても無意味に思えるな
いいや正史だよ
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 21:10:43
ビジクは安漢将軍という高位にあったが
ビホウはどうだったんだっけ?
南郡太守という高位におるぞ
朱元璋は孫呉の半分程度の版図で北伐に成功したことをお忘れなく。
杭州、泉州やいわゆる江浙の経済力と生産力をバカにしてはいかんぞ。
江南開発は東晋期に伸張したと覚えておこうね。
でなければ、五代十国期に華南は華北に比べて分裂していても対抗できていた事実を無視することになる。
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/14(木) 01:30:15
いやとりあえず三国時代の話だし
呉は領土の割には人口が少ないのが悩みだったわけで
東晋時代に開発が進んだのは北方からの避難民、
人材の流入も原因のひとつにあげるべきでしょう
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/14(木) 05:09:58
夷稜の戦いで蜀がバカ勝ちしてたらどうよ
官渡の戦いで袁紹がバカ勝ちしてたらどうよ
>>99 それだと、蜀と呉の力関係が逆転するだけでやっぱり変わらなかったんじゃ
ないかな。6:3:1が6:1:3になっても魏の勝ちは動かないでしょ。
ところで、戦国時代だと桶狭間や川越のように一つの戦でパワーバランスが
激変するなんてことがよくあったけど、三国志ではそういうことは起こりえない
のですか?赤壁のような大勝利を収めれば、ドミノ倒しのように一気に魏領に
進行することもできそう?
>>101 まあ、大将が流れ矢で戦死して全軍崩壊なんて事にでもならんと無理だろうなぁ。
劇的な大勝って事になると曹操が戦死しないと厳しい。
曹丕以降は補佐役がある程度取り仕切ってることを考えると曹操の戦死がないと魏の崩壊は考えにくい。
武帝死後、魏が統一を目的とした遠征が出来るようになるのはずっと後。
この時代において天下統一は武帝だけが出来た。
武帝は赤壁と漢中の失敗で諦め禅譲を目的に移行、
三国鼎立という異常事態の収拾には半世紀近くかかることになった。
文帝、明帝は基本的に専守防衛に務めた。
この時期の土木事業と国防の成功が大きなアドバンテージになった。
その為、蜀漢が姜維の北伐で消耗し、黄皓に惑わされた後主は堕落。
一方呉では二宮の変が起こる、孫皓といった暴君が出てくる時点で既に末期。
それでも征蜀戦の成功の遺産が巨大なものであるから征呉戦が完遂できた訳で、
鍾会の芸術的な戦略立案やケ艾の戦功は偉大。
基本的に国境線の膠着状態が長く続いたことが魏晋の勝因。
「攻め疲れ」を待つのも戦略のうちということだ。
104 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/14(木) 08:04:26
曹操の戦死で曹丕擁立勢力と曹植擁立勢力が対立する構図か
曹植勢力はちょっと弱いんじゃないかね
曹植に曹彰がつけば話は別。つーか曹彰が付いた方が勝ち。
なんにせよ蜀の統一は厳しかったと見る
宰相が暗殺されるような国は遅かれ早かれ内乱で滅ぶよ
>>104 ただ、曹操の継嗣問題って文官は口出ししまくってたけど、
武官で口出したって話は聞かないなぁ。
国が乱れる時ってのは継嗣争いに武力が絡むってのがよくあるパターンだが、
魏に関して言えば武官が静観気味なら案外そのままって可能性はあるよな。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/14(木) 09:54:10
>>101 桶狭間だって織田が今川を滅ぼしたわけじゃないし
なかなか一戦で決着とはいかないよ。
バランス崩壊の契機になる戦いなら三国志にも戦国時代にもあるが。
一戦で壊滅といえば、唐初の唐・秦王軍対夏王軍の汜水の戦いかな?
ま、そのあと残党が割拠したけど。
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/14(木) 11:08:22
日本なら島津がそういう決戦を何回かしてるな
>>105 史実でも曹彰は曹植についてるけど?
>>107 文官って誰?っていうか何?
この当時文武の官を兼任することなんて珍しくない
カクは文官でも武官でもあったし口出しもしてるぞ
そんな話聞かないってのはお前さんが無知過ぎるだけ
士大夫は口を出す。出さないのも珍しくない。
だが寒門は口を出すのが例外。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/14(木) 20:36:14
シュウユが蜀遠征の途中で死んだのは
大きかったのか?
統一とか考えずにいくつかの国に別れたまんまでヨーロッパみたいになってたら
面白かったかも。
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/14(木) 20:46:04
劉邦が匈奴征伐で討ち死に、その後中国は異民族も入り乱れて小国家乱立に
それによって、匈奴の大移動がなくなって、西ではローマが強力な統一国家を
現実の東西と立場が逆に
こんな感じで始まる架空戦記小説があったんだけど、タイトルなんだっけ?
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/14(木) 20:51:35
それ面白いな。
青木なんたらの竜騎兵シリーズ。
あれ微妙な出来だったよ。詰めの甘い設定だし。
高祖もどきと夏侯d崩れの騎兵隊長と影の薄い砲兵隊長が組んで
胡人もどきのアマゾネス系ヒロインの天才に対抗する話だった。
続編は見たいが、脚本があのままの低空飛行なら買う気がしない。
発想はいいのにね。
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/14(木) 23:19:52
呉って単独でも魏と渡り合ってるよね。
やはり揚子江の防衛線を使えば無敵かも。
119 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/14(木) 23:23:00
>>111 文官自体は知っているクセに(´ι_` )プ
実際には江北での戦闘が多いのだけどな。
北朝側に長江のラインまで戦線を押し下げられると、首都が近い分かなり不利になるし、そういう政権はまもなく滅んでる。
だから長江北岸を必死で押さえなければならなかった。
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/14(木) 23:40:14
>>120 ただ戦力差を考えると周ホウの偽装投降とか
徐盛の偽城とかの変化球は必要だったよ。
まともにやったら勝てないからね。
>>118 >>121 実際の蜀漢と呉の共同作戦はなかったのだっけ?
魏は二国に対し両面作戦を展開するも、皇帝自ら親征したりと、君主の格の違いを見せてるね。
両面作戦はいかに強大国でも苦しいはずなのに、それを埋めるのに皇帝自ら戦場へ出るという覚悟があるから、保てたという側面もあるのじゃないかな。
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/15(金) 05:28:41
>>118 呉の場合、防衛に徹すればいいだけの国力はあったからな
>>123 それはどうかな? 人的資源の枯渇が問題で、日本(と思ってる)にまで人買いに出てるのは、結構厳しい状況だったと思うな。
__, -ー- 、__
(_,' ',_)
l ● ● l
i (_ ● _) i そんなエサでは釣られん!
ノ |∪| ', 悪いが帰ってくれ!!
/,, -ーヽノ , -‐ 、
( , -‐ '" )
`;ー" ` ー- -ー;'"
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/15(金) 21:30:51
諸葛亮を荊州王にしる。話はそれからだ。
”荊州”王って、おまえ……
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/15(金) 21:52:22
孫権って魏に臣従してまで
蜀と戦った割には
アッサリ魏を裏切ったよな。
この時期の孫権の官爵はインフレが激しいよな。
関羽を埋伏の毒として敵国に侵入させて出世させる。
そして関羽が曹操にいっぱい兵を与えられたら、戦争を仕掛けて寝返らせる。
これで蜀は長安陥落(姜維をパーティに加える)→洛陽陥落(曹操討たれる)
を果たし献帝を擁し、帝位を簒奪し
劉備が戴冠する!
劉玄徳無敵説の出来上がり
それなんて天地を喰らう?
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 17:38:30
龍騎兵の姫小宝は、どんな人物なの?
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 17:57:40
ケイシュウに法正がいれば・・・・・
「大国と小国が一緒に組んで戦をする際、
敵に勝てば大国が福を受け小国が禍を受ける」
219年の時点では蜀≧呉がすぐにも蜀>呉となり数年以内に蜀>>>呉となる可能性があった。
そうなった場合、形勢は明らかで魏と呉が組んでも後漢朝中興の義軍に簡単に打ち倒されるだろう。
呂蒙の荊州侵攻は孫呉にとって最善。
それが魏の弱体化という呉蜀同盟の原理に反しても、
呉の天下統一を困難にするタイミングだったとしてもだ。
どうでもいいことかも知れんが、漢朝中興と言うならともかく後漢朝中興はなんかビミョー
まったくだ
東漢朝中興ですな。
>>134 そうか、しかし蜀または呉に天下をとらせるスレで言うことではないな
≪その機会≫
魏:208年、216年、220年〜何時でも
呉:210年、219年、222年、228年、238年
蜀:219年、228年、234年
140 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 22:55:54
>>139 234年は孔明さんがお亡くなりになられました。
公孫淵が反乱を起こしたときは
チャンスなかったのかなぁ?
>>140 「屯田が成功していたら」というIF。
あれは過労死だが絶望死でもある。
なんかこういう話をしだすと切りがなくなる気がする…。
チャンスは群雄すべてあったんじゃないかと。
とんでもないほど、風が吹けば桶屋が儲かるの理論だけど
筍イクが袁紹見限って曹操のもとに走った時点で
ある程度の流れは決まってた悪寒が。
それと、呉は孫策とシュウユが死んだ時点で
全土統一は無理な気がす。
割譲された上での強豪国ってポジションはまだありえるとして
隆中対では
先主:高祖 孫権:韓信
孔明:張良、ショウ何 関羽:王陵
だから219年時点で蜀も無理。
145 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/17(日) 01:48:04
荊州に王を、置なら名称はなんだろう?
「韓王」か?「北楚王」か?単純に「楚王」か?
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/17(日) 03:05:17
荊州の劉表の後を玄徳が継げば何ら国力に差は出なかったと思うけど
もし歴史どおりだとして玄徳の将兵の配置が悪すぎると思う
魏や呉は地の利を考えて配置していたと思う
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/17(日) 03:08:42
荊州の劉表の後を玄徳が継げば状況は変わっていた
後は将兵の配置が悪い・・・魏は地の利を理解しているしな
青州黄巾党を先主が接収していたらどうなってたかな。
もしかしたら武帝が南に逃げる羽目になってたかもしれないし、
右腕になって統一⇒禅譲というパターンだったかもしれない。
無理だろ。
>>145 なんで荊州が韓なんだ?
楚の歴代の首都の位置を考えても北楚というような位置では明らかにないし
君ってバカ?
はいはい馬鹿馬鹿
楚は江陵だな。 で後代、荊州とは荊南節度使の使府があったところ。
ほぼ江陵なわけだが、北荊は襄州あるいは新野を含む鄧州あたりが相当するのかな。
つうか、後漢三国の州、郡、県はよくわからんな。
戦国楚の国都・郢はおおよそ江陵と同じやね
戦国韓の国都・新鄭は少しずれるが潁川郡の許あたり
もっとも漢代には長沙王やらなんやらと封国されてるし、戦国時代の国号に
拘る必要もないだろうけど
>>152 新設、廃止の連続で混乱しているのは確か。
>>152 補足。 五代のときは江陵に鎮した荊南節度使は、後梁などの河南軍閥により「南平王」に封じられていて、「楚王」を名乗っていたのは、潭州(長沙)に鎮した馬殷。
長沙王とされなかったのはなぜかはわからない。
もし長沙王なら、長沙国あるいは長沙朝という語呂の悪い国ができたのだろうか…
長沙(郡)王だお。
…
上入力ミス
>>156 …恥をさらしてしまったようで。吊ってきます
戦国は楚王
漢代は長沙郡太守or長沙国相
唐代は潭州刺史
五代は南平王
宋代は潭州知府、以後変化無し。
現代は長沙市長
>>159の修正
戦国は楚王
漢代は長沙郡太守or長沙国相
唐代は潭州刺史
五代は楚王
宋代は潭州知府、以後変化無し。
現代は長沙市長
荊州⇒南平、北楚、荊南
潭州⇒楚
これならわかり易く収まる。
荊州⇒荊北、北楚
潭州⇒荊南、南楚
>>159 長沙は楚の一部でしかないからその言い方なら戦国時代は楚王でなく○○君とかそういう人物になるのでは?
>>161 潭州=楚なのは五代十国のころの話で戦国時代の楚は長江北岸を主体とした国家
>>161 そうすると、長江の北か南かで、荊北荊南の境とみれば良い、と?
長江もそうだが童貞湖でも区切れる。
166 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/17(日) 17:40:20
1.官渡の戦いで袁紹が勝つ
2.曹操は中原を捨てて南方に逃れる
3.袁紹が中原を制圧するが、史実通り病死する
4.袁家の後継者争いで両方が共倒れになる
5.劉備が混乱に乗じて河北を制圧する(袁家を駆逐して漁夫の利を得る)
6.劉備が曹操を追撃して南下するが、赤壁の戦いで惨敗を喫する
7.劉備の魏、孫権の呉、曹操の蜀、史実と違った三国時代が到来する
こんな展開なら、劉備にも蜀にも呉にも天下統一の機会があったかもしれない
ただし、この展開だと孔明は劉備の配下にはならないだろう
そんな展開はありえないから安心しろ
1〜4は僅かばかり可能性あるが5から糞になった
2と3順序逆じゃねぇ?
制圧される前に曹操逃げちゃうのかよ
170 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/17(日) 17:56:31
>>166 統一の可能性を議論するすれなので
孔明の第一北伐の状況を見ると魏の指揮官があほなら何とかなりそうな
曹氏、司馬氏政権で落ち着いているときは
国力差からどうがんばっても無理っぽい
多少の内乱に乗じてせめても撃退されてるし
最悪蜀が天下望むならゲームの地理知識になるけど
江陵の関羽が北上したときに同調して江夏から呂蒙
益州から劉備が揚州から孫権が北上
遼東から公孫が南下ぐらいじゃなきゃ無理じゃね?
でも関羽を史実どおり撃退
楊州の孫権は張遼が(張遼も関羽撃退に行ったっけ?)
蜀は仲達が持久戦
公孫は曹彰辺りが撃退で終わりそうな気もする
172 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/17(日) 18:23:56
>>171 北方系異民族も南下してくれたら、まだ可能性ありそうだな
>江夏から呂蒙
北上すると山脈にぶち当たるぞバータレ
>>171 呉蜀漢同盟は、そういう対北朝包囲のためにあったわけで。
それをぶち壊しになさった関羽が晒し上げられまくった歴史がにちゃん。
ぶち壊してるのは孫権だけど?
んじゃまあ呂蒙は髭と一緒に襄陽を攻めると。
仮に落としても襄陽を巡って仲間割れ
ダメだな
襄陽を髭が得たことによって
江陵を呉に渡すという手もあるが
今度は荊州から呉が北上できなくなるしな
呉軍も共同軍として襄陽を通過&使用させるにしても
道を借りて草を枯らすになるだろうし。無理か
>>177 戦下手な孫権は関羽の勇名を慕いつつもその脅威に怯えていた。
それを少しでも和らげようと孫権が政略結婚を提案。
「お前の娘を俺の息子とくっつけない?」
孫登は当時10歳だが孫権はもの凄い期待を掛けていた。
決して悪い縁談ではない。だが、上司に窺いもせずに断る関羽。
孫夫人と破局した劉備にムカついているのは判るが、
主筋を無視して政略結婚を提案する孫権にも問題がある。
やんわりと断れば角が立たなかっただろう。
だが義兄への無礼に激怒した関羽はこう罵る。
「虎の子を犬の子にやれるか」
関羽が嫌いなやつはもっと過剰な拒絶反応を起こすだろう。
こうして大事な息子を侮辱された孫権は蜀との同盟をぶっ壊すのでした。
ところで、その虎の子(関羽女)が犬の子(孫登)に種付けされるシーンを想像してみると幸せな気持ちにならないか?
>>179 江陵と襄陽は、蜀漢がぜひ押さえておきたい要地だろうから、共同戦線の場合、悪いが呂蒙くんには、江北地帯の制圧に向かってもらいましょう。
そのほうが、孫権軍本隊と挟撃態勢がとれていいだろうと舌先三寸で…
>>180 そもそも劉備からの完全トップダウン式だった蜀陣営で
劉備を通さない外交なんてやれない
どう見ても調略、切り崩しの類で関羽が怒るのは当然だわな
縁談の話は同盟国として信用できないから人質よこせじゃねーの?
>>180 犬の子って孫登だったの?そういえば犬の子について考えたこともなかった
十分にいい縁談だな。孫登が髭の娘で起つかどうかわからんが
優秀な子供ができそうだ
とりあえず兄者に相談するといって
時間稼げばいいのに。使者の往復だけで1ヶ月ぐらいはかかりそうだし
髭は乗り気(のフリ)だが劉備は反対してる
でも実現させたいから劉備を説得する(フリ)
で半年ぐらいは稼げそうなんだが
間違いなく孔明は反対しそうだけどね
劉備死後「NO2はワシだ。呉が蜀と同盟を結べているのは誰のおかげだ」
とか言って髭が暴走するのを防ぐために
1孫登=犬の子、関羽女=虎の子
2孫権=犬、関羽=虎
1のみか2も含むのかどっちかな。
1+2
>「虎の子を犬の子にやれるか」
出典って何?
どうでもいいけどここは呉が天下スレにしないか?
蜀スレはある訳だし。
じゃあここが呉スレで。
呉が天下を取る機会なんて孫策暗殺されないか周瑜の天下二分成功かの二択だろ
195 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/17(日) 23:09:16
>>194 諸葛亮の北伐時に呉は三路から侵攻したが
あのときは最大のチャンスだったと思われる。
孫堅の荊揚二州領有が官渡時に成立してたらどうか?
孫堅の中興
孫堅が揚州狙うとは思えん
襄陽落とした後は袁術と共に対袁紹となるか
袁術を倒すかじゃないか?
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 08:08:35
宝刀が流れ矢で戦死したのが痛かったな。
仮に宝刀戦死、諸葛孔明が蜀入りしたとしても張飛を単独で攻め入らせ自身は趙雲を率いて入蜀。
タラレバ禁物だけど孔明自身単独兵を率い入蜀して南郡に趙雲を守らせ、襄陽方面進出に関羽でいいんでは?
南郡に趙雲が守ってれば簡単に荊州失陥は無かったと思う。
仮に呉軍が攻め込んで来ても良く防いだろうしまして趙雲が守ってるなら無謀に攻め込んでくる事もなかったと思うね。
兎に角宝刀戦死と関羽戦死と同時に荊州失陥が蜀が天下統一を出来なかった敗因とみる。
魏がつけいる隙を与えなかった。
それだけ。
どれだけ蜀が充実していようと、安定期に入った倍以上の戦力を持つ大国を倒すというのは不可能に近い。
曹操の死後に、後継争いとかでもやってくれなかった限り無理。
呉が統一するIF小説ってある?
蜀が統一する小説は何作か読んだんだけど
まあご都合主義過ぎてこのスレの参考にはならんかな…
203 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 12:02:15
曹操の死後に後継者争いがあって袁家の二の舞にでもなってくれれば、まだ呉や蜀にも逆転の機会があったと思う?
演技ではなく史実では趙雲ってどういう立場だったんだろうな
特に劉備に合流してからの7年間のブランク期間の交友関係とか
劉備三兄弟に文官トリオあとは寥化、陳到、故班あたりか
205 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 12:21:42
魏延が蝋燭を倒さなければなあwww
__, -ー- 、__
(_,' ',_)
l ● ● l
i (_ ● _) i そんなエサでは釣られん!
ノ |∪| ', 悪いが帰ってくれ!!
/,, -ーヽノ , -‐ 、
( , -‐ '" )
`;ー" ` ー- -ー;'"
袁紹と董卓に天下をとる機会はなかったのか?
209 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 12:58:38
>>202 当時の趙雲の立場教えてくれよ。クソカスがw
210 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 13:02:20
董卓が健在なら、関西の董卓と関東の袁紹で
中原を二分する展開になったと思うけど・・・
211 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 13:03:53
呉の天下の場合。
周ユの益州遠征成功→孫策の暗殺なし→揚、荊、益三州の呉軍の北上、公孫淵の乱
かな?
蜀の天下の場合。
徐州時代に呂布恭順→劉袁(紹)同盟→曹操包囲→袁紹南下の間に劉備も南下→袁術、孫策撃破→
なんか書いてて虚しくなるなorz
212 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 13:11:16
>>211 その場合じゃ蜀の天下じゃ無かったなwあの辺は韓か?w
>>212 地域的に韓でも蜀でも、国号は漢。
二回目の中興のばあい、何漢と呼ばれるだろうか。 後漢が中漢になる?
214 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 13:39:49
ハマーン漢だと桃色っぽいなw
215 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 13:49:15
実際は魏王朝に逆らう小物どもってかんじだからね
217 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 15:27:00
孔明の「天下三分の計」以後の戦略が、ちゃんと出来ていなかった。
三分した後、呉と組んで・・と考えてたようだが、
それなら先に荊州問題とかを片付けておくべきでしょ?
それと、孔明は小役人の仕事も自分でやってて、それがために身体を壊したが、
それは、項羽と劉邦の、項羽と似たところがあるよね。
もっと、部下を信用して使ってやらにゃぁ
まあ、それを言えば、劉備が死んだ時点で終わりなんだろうけど・・・
208〜231、234年までが赤壁の大敗で魏の国防が揺らいでいた時期。
その後の30年間は呉蜀は僻地で足掻いてるだけだし、
263年には完全に蜀を滅ぼす程に国力が回復していた。
よって208〜231、234年の時期以外呉蜀にチャンスは無い。
にも拘らず、215年、219年、222年と三度も荊州を賭けて争っている。
この原因は210年の周ユ病死による呉の江陵譲渡にある。
呉蜀が外交的戦力的に共同戦線を回復した時期は228年。
この時点では制限時間から見ても戦力的にもほぼ魏の打倒は困難。
219 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 16:58:02
263年のは蜀が度重なる遠征で国力を衰退させていたこともあるかと
呉は280年だからそれから17年かかっているし
よくは知らんが長江による防衛は鉄壁だったのでは
孫酷の暴政さえなければ漢,趙北朝対呉の新南北朝時代にとかいったりする
220 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 17:09:21
劉備と孫権は、なぜ赤壁の大勝利を生かせなかったのだろうか?
そもそも、大勝利というほどミリタリーバランスが傾くような勝利ではなかったと推測。
追い返した。 ととるのが妥当だと思うが…
222 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 17:15:39
官渡の戦い以降なら、魏の打倒は不可能
>>221 じゃあ何で江陵が維持できなくなるんだよ?不自然だろうが。
実際には漢中戦の被害より大きかったと思われる。
224 :
.:2006/09/18(月) 17:27:17
>>223 時期は微妙だがその後すぐに言焦、合肥まで兵を進めて廬江の反乱も鎮圧してるんだから、
防衛しようと思えば出来ただろ
曹仁が無能だったか、入らないから捨てたのかの二者択一だ
曹操の江陵失陥で劉・孫に微妙な影を落としているのは、ケガの功名という感じ?
226 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 17:33:00
江陵は維持できなくなったのではなくて、戦略的撤退により放棄したのではないか?
あまり無理に戦線を拡大すると、防衛が難しくなるからね。
それに、占領して間が無く民心も得ていないから、統治するのに苦労するよ。
だから、無理な負担を避けるために撤退したのだと思われる。
>>226 その後取り戻すのに70年以上掛かってるわけだが…
それにしても晋であって魏じゃない。
誰の策かは知らんが、自分の死んだ後まで範囲に含むような不確定なものを戦略と言えるのか?
>>224 淮南のすぐ向こうが中原。やるのが当然だと思う。
また曹仁は無能じゃないし江陵がいらないだなんてのは理解しがたい。
>>226 江陵は維持できなくなり、漢中も失い、魏の計画は一旦白紙に戻った。
新しい計画では戦線を後退させ、防衛に徹した。
229 :
.:2006/09/18(月) 17:51:28
白紙で新しい計画も何も手に入れてから漢中で4年、江陵は1年で失地してるじゃねーか
維持できないだけだろ
河川沿いの拠点だと、船が使えないと苦しいからな
劉表時代から船はあったし人もいたけど、それは何処に行ったの?
焼いた
233 :
.:2006/09/18(月) 18:52:41
江陵にあった船は赤壁で燃やして、樊の船は関羽が持ち逃げ、襄の船はそのままかな
そういや、劉備についてった民衆は孫権にプレゼント?
呉が天下を・・・とういうか魏と並ぶ勢力を得る可能性があったのは
@孫策が暗殺を免れ官渡戦に乗じる
A赤壁後の江陵攻めが短期間で成功
B周瑜の蜀攻めが成功
ってとこだと思うが
Aの江陵攻めに際して孫権は周瑜の援軍に向かわず
合肥を攻め、劉馥に防がれている
この軍を江陵に向かわせていれば・・・歴史は変わっていたかも
合肥も攻めなければならない拠点だったろ。
判断自体は悪くない。問題は結果だ。
236 :
.:2006/09/18(月) 19:42:15
短期間で江陵抜いても中原狙わないで天下二分だろ?
江陵手に入れても、江北一帯を手中にしなければ、中原には届かんな。
東晋期では、四川も手に入れて桓温が洛陽陥として長安まで迫ったことから、天下二分となっても可能性がないわけではない。
>>226 合肥攻めが悪いのではなく、少ない兵力を二分していることが悪い
結果江陵攻めが1年間と長期間になり周瑜も負傷してしまっている
また江陵を短期間で抜くことで劉備軍の膨張を押さえることができ
荊州南部の領土・人材が手に入る可能性もある
この時期曹操に対抗できる指揮官は周瑜と劉備ぐらいだと思うし
実際に周瑜没後の呉はしばらく停滞しているので周瑜の早期退場
は呉にとって非常に惜しかったと思う
>>202 趙雲が入蜀直後に翊軍将軍止まりなんで馬鹿にしてるのかも知れんが、
より下位の魏延(当時牙門将)や劉封(副軍中朗将)が重要地点漢中太守やら上庸攻撃やらを任されてるんだから
趙雲が格式的に南郡太守駄目なんてことはないと思うぞ。
魏延は漢中を任された時の昇進で、劉封は上庸降伏させた功によってようやく将軍位で趙雲に並ぶわけで。
もしかしたら中央の遊軍的立場のことを指してるのかもしれないが、別にこれは趙雲でなくてはならないということもないでしょう。
そもそも
>>199の「趙雲なら防げただろう」が疑問ではあるんだけど一応…
240 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/18(月) 23:20:20
カンキュウケン討伐で活躍した
諸葛誕が一緒に反乱起こしてれば
また違ったかも。
>>208 故班って演技のみの人?そういえば髭信仰の人だ
>>239 俺も髭の留守に趙雲辺りがいればと思ったことはある
徐庶あたりがいれば一番いいんだけどね
関羽とは元狭同士気は合いそうだし
劉備も関羽だけ残すのはどうかと思う
確かに馬良とかもいたけどどう考えても傲慢大王を抑えられるとは思えん
名士嫌いっぽいし
趙雲なら「まあまあ雲長どの」とか言って抑えられそうだ
>>240 どうせなら一緒に反乱起こすといいかもな
孫策が生きてや可能性はあったかもな。
死んで10年は呉の発展が遅れただろう
孫策が生きてたらどうなったかは気になるな
官渡以前は曹操が4州袁紹が4州だったはずだから
官渡勝利後曹操が袁家を潰すにあたり1州切り取ったら孫策と袁で
挟み袁がまた一州取り返したら孫策が引くような感じだと面白いかも
でも袁家が滅んだのは後継者問題が原因だからな。ダメか
244 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 00:18:16
官渡までは拮抗していたから
許ユウが烏巣の場所を教えたことが
致命的かと。
さらに辿ると烏巣の防衛よりも
本拠地を襲撃しようとした郭図が元凶。
こう
246 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 03:37:07
三国志最大のターニングポイントは
劉表の領土を劉備が受けなかった所の気がする。
反三国志のような展開になるわけか
>>246 荊州を受け継がなかったからこそ劉備は生き残れたんじゃね?
249 :
.:2006/09/19(火) 09:07:41
引き継ぐ余地なんかどこにもねーだろ
250 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 09:14:20
最大の痛手は宝刀戦死と関羽の戦死による荊州失陥。
次点というか次ぐのは法正の早世。
劉表死後荊州受け継いでも多分駄目だったと思う。
人心の不安、諸官の意思統一不一致、蔡一族の存在等不安要素有り過ぎ。
後に分裂状態になった荊州を一つ一つ拾って行く方が結果的には良かったと思う。
>>250 諸葛亮は蔡氏の親族なんで纏めようと思えば纏められたんだと思うよ
だから劉備に襄陽取っちまえなんて進言したんでないかな
>>241 関羽は基本的に名士だろうが黄忠みたいな軍人だろうが、自分に近い階級の同輩殆ど全員を敵視してるので
趙雲だから仲良くやれるなんてのは幻想じゃないかな。むしろ相手が劉備であっても直言して憚らない奴なので
衝突しまくりの可能性も…
どうせなら費詩みたいに下手にでつつも煽てたり宥めたりしながら良い方向に誘導する関係調整力のあるタイプが良かったんじゃないかと。
諸葛亮とかその点バッチリだが中央から動かせないのが残念。
劉備陣営に参画した幕僚クラスの人物で人間間の調整能力に秀でている
といえばホウ統あたりは上手い方
ただ入蜀を企画し劉備の腰を上げさせておいて、益州を制圧後に劉備の
スタッフを外されて荊州に還されるとは思えん
半ば用済みと言ってる様なもん
このスレ、ホウ統を過大評価しすぎwww
呉にいた時や、劉備のところにきても紹介状をみせずにすませたあたり、
ホウ統もかなりひねくれているというか自分の気に入らない相手に対する
態度が傲慢だと思う。
256 :
.:2006/09/19(火) 11:08:23
ホウ統はどう甘く見ても法正以上のは評価はできんなぁ
257 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 12:51:23
官渡で曹操が袁紹に勝ったことは、劉備や孫権に好都合だったの?
>>252 黄忠のあれは諸葛量が劉備の無理人事を諫めるためで、おまけに単なる心配。
>自分に近い階級の同輩殆ど全員を敵視してる
っていうのも一種幻想だよ、実際に関羽が問題を起こしたって話はほぼ無い、
馬超の件も諸葛亮への相談で留まっているし、麋芳・士仁との軋轢もどっちが
原因かはわからんし、関羽評も武人で寒門出身という立場も考慮しなくちゃ。
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 13:34:00
陳到や簡雍なら関羽止めれたり出来たかな?
旗揚げからの同志みたいだし。
陳到は無理だな。簡雍はどうだろ。麋竺、孫乾も無理
孫乾は死んでるか。じゃあ張飛しかないな。
>>255 ホウ統の気持ちもわかるけどね。自分と同等と思っている
孔明のとこに三回足運んだんだから俺にもそれぐらいしろと。
いいたいんだろう
諸葛亮が北伐中に将達が小粒になってしまった。魏や呉が羨ましいと
言っているが。ゲームだと呉の方が悲惨な気がする
>>258 黄忠の件を単なる心配じゃなく、実際に「大丈夫たるもの老兵と同列でがまんできるか!」と劉備からの任命の使者を突っぱねてるのを多分貴方は見逃してる。
余談だけどそもそも黄忠は本来無理人事でもなんでもない…参入以来常に手柄に合わせて昇進していてこれ以前から(将軍位だけなら)既にトップ扱いだし
これまでの昇進を、手柄立ててるのに昇進させていなかったら逆に劉備が適切に報いてないと責められてもおかしくないですよ。
麋芳・士仁との軋轢は「かねてから関羽が自分を軽んじていると嫌う」、士大夫に対して驕慢な態度取った、
剛情で自信家という欠点で身を滅ぼす、とまであって「どっちが原因かはわからん」はないでしょ。さらに潘濬とも揉めてるわけで
これじゃ当時荊州の主だった人物全員と仲悪かったことになる。
馬超は正しく他者の関係調整の結果何事もなかったわけで、だからそういう奴が近くにいたらよかったんじゃないかという流れ。
これで実際に問題をおこしたことがほぼ無いだなんて言えないでしょ。冷静に読めば関羽は劉備陣営で一番優秀で偉いと思っており、
(ここまでは別に問題ないが)そのために他者を見下し、それを態度に出して実際揉めてるからこれだけ問題視されてるしその資料も残されてる。
他にも人間関係で色々と揉めた人間はいるけど、(薄い蜀書にありながら)関羽ほど様々なエピソードからそれが判る人間もそう居ないと思うのだが、
これを「幻想」と言い張るのはちょっと見方が偏ってはいやしないだろうか。
>>259 陳到は予州時代からで、これは麋芳と同じ時期。推して知るべしでしょう。簡雍との仲は俺もちょっと気になるけど、
それらしい話は知らないなぁ…
262 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 15:40:13
呉というか孫権って周瑜存命中は中原制覇視野に入れてるよな。
赤壁勝利直後、江陵と合肥を同時に攻めてるのがその証拠。
割拠するだけなら南郡を劉備が制圧するの放置しないでそっち取りに行ってただろ。
江陵と合肥は中原に至るためにこそ必要な拠点なわけだしな。
孫権はその辺の戦略眼は悪くない。
ただ、結果が伴わず、江陵陥落に一年かかり、周瑜が負傷し寿命を縮め、
自身は囲んだけど追っ払われる、と。
結果、呉蜀に火種を残しただけだったな。
263 :
.:2006/09/19(火) 16:38:36
孫権の合肥攻めは意味あるだろ
あそこら辺まで軍を出せることを見せ付けたから、陳蘭、梅成、雷緒あたりが反乱起こしたんだろうし
結局大して軍送らないで見捨てたけど(w
>>261 >実際に「大丈夫たるもの老兵と同列でがまんできるか!」と劉備からの任命の使者を突っぱねてるのを多分貴方は見逃してる。
これは確かに見逃してた、すまない。しかしながら費詩に諭されて直ぐに態度を改めている、
>だけどそもそも黄忠は本来無理人事でもなんでもない
これは諸葛亮がはっきりと「黄忠の名声・徳望は関羽・馬超と同列でない」と言い切ってる。
>麋芳・士仁との軋轢
麋芳にはかつて南郡で失火を起こした事があり、軽んじられる原因が関羽だけに求める事は出来ない、
また具体的にどういう軽んじられ方をしたのかという記述は無いし、
ボイコットという手段で問題を起こしたのは麋芳・士仁側。
んで潘濬との仲も悪かったようだが、潘濬とは間に揉め事や問題があった訳では無い。
また当時の士大夫層の態度っていうのは張飛に対する劉巴の態度に代表されるように、
寒門かつ武官を良く思って無いんで関羽だけを剛情で自信家とみるのは早計。
>馬超は正しく他者の関係調整の結果何事もなかったわけで、だからそういう奴が近くにいたらよかったんじゃないかという流れ。
先に諸葛亮に相談しているように>自分に近い階級の同輩殆ど全員を敵視してる
と言えるほど分別がないという事だよ、費詩の意見も聞き入れてるようにね。
まあ馬超の相談を敵意を持ってるというほどのもんじゃないけどね。
>そのために他者を見下し、それを態度に出して実際揉めてるからこれだけ問題視されてるしその資料も残されてる。
関羽が具体的にだれかを見下した史料といえば黄忠の件だけ、それも直ぐに改める程度のもので
諸葛亮が危惧してたとおりの無理人事の結果。
>関羽ほど様々なエピソードからそれが判る人間もそう居ない
上に挙げた様に関羽の一方的な敵意で揉めたというエピソードは殆ど無い。
>実際に「大丈夫たるもの老兵と同列でがまんできるか!」と劉備からの任命の使者を突っぱねてる
>>294は好意的解釈がしたいようだが
こんなこと言う時点で傲慢さとそれによる失敗は十分想像できそうなもんだけど
>>294に期待
それは置いといて黄忠の場合実際に何やってるのか現場見てないから知らないのあると思う
三軍に先駆けて先陣を切り夏侯淵を切り敵の輸送線を切った現場にいないからわからないって諸葛亮も言ってるし
みんなすごいな。
漢文読解の技術がうらやましすぎる。やっぱ専門の教育を受けた?
>>264 「名望が及ばない」ことで前後左右に並ばないと人事にいちゃもんをつけるのが適切と言えるだろうか。
挙げた功績に報いるという観点で言えば黄忠は必然的に高くなる。馬超なんかが手柄よりも名望故に選ばれてるだけで、
諸葛亮の進言は己の名望の高さから強烈な自尊心の持ち主である関羽の気持ちを憚ったものでしょう。
南郡で失火というと呂蒙伝註呉録の記述だと思うが、この記述は同じく註の呉書の記述に反しており若干真偽の疑われるものであり、
仮に事実であったとしても「これがあったから軽んじらた」という時系列かどうかが不明で因果関係をしめす記述も無し。
普通に考えると三国志本文中にある「関羽が侮り軽んじる→反発」の流れの方を取っていいんじゃないのかな?
しかも麋芳・士仁ともに軍需物資の供給はきちんとしていて「(関羽が出撃した後)全て挙げてこれを助けようとはしなかった」のはず。ボイコットではないでしょう。
むしろこの戦役で出た出征費用や捕虜に対する食料供給などの負担が大きすぎて(呉の侵攻に対し)江陵は抵抗できなかった可能性すらある。
江陵は本来寡兵だろうと年単位で大軍から守りきれる場所で、それが短期間に已むおえず降伏したとしたら食料面の不安が考えられる。
1人ぐらいなら折り合いもあるだろうが、麋芳・士仁・潘濬と当時名前残した人全てであれば関羽に原因があったと考えた方が自然で、
それゆえに著者も「剛情で自信家」であり「性格的な欠点で身を滅ぼす」と結んだんでしょうよ。
>>268の続き
それに他でも以前見かけた記憶があるが、「張飛に対する劉巴の態度」を士大夫層の代表と捕らえるのは曲解の部類。
劉巴はそもそも他人との付き合い自体を意識的に断ち劉備も「自分でなかったら使いこなせない」とまで評した頑固者。
当代きっての名士であり、儒教的礼節に対する知識に人一倍詳しいはずの呉の張昭が「見識が狭い。あれ程手酷く拒絶すべきでない」
と述べている以上、当時の礼節的にも狭量な態度に当たるのは間違いないし、それを「代表的態度」と一般化するのはどうかと思う。
諸葛亮に対しての態度については、有名な故事を度忘れしてるみたいだね。まあ有名すぎてパッとでてこないとかあるけど。「水魚の交わり」
一方的な敵意で揉めるというのも中々ないシチュエーションなのであれだが(大抵双方向的に悪感情に陥ってるわけで)、
関羽の態度が元で揉める、あるいは他者の仲裁でことなきをえる、というのを含んで使ってるなら以上のように沢山ありますよ。
長すぎたので分割しました。
黄忠に対する発言も、費詩が説得したから事なきを得たけど、もし使者が費詩で
なかったらどうなっていただろうか?
このエピソードはむしろ「関羽には対人関係でとりなし人が必要」と読める。
あと諸葛亮の発言は「黄忠の功績は十分だが、関羽は実際にその活躍を目にしていない
の納得しないだろう」というものでなかったかな。
これだと、劉備が部下の働きに報いようとしたときに関羽の存在が邪魔している
ことになってしまう。
他に誰憚る事ない劉備も関羽には弱いというツンデレ
またバカが涌いてきた
>>268 >「名望が及ばない」ことで前後左右に並ばないと人事にいちゃもんをつけるのが適切と言えるだろうか。
適切でしょう、黄忠は武功を挙げても関羽・馬超と共に序される程では無いって事だから。
また諸葛亮の言い分である「近くにいる馬超・張飛の二人ならまだ考えを理解できる」
というのは逆に言えば遠くに居れば馬超・張飛でも納得できないって事だからかなりの抜擢人事。
劉備も諸葛亮の諫言に「私が説明するよ」と抜擢人事なのは理解してたみたいだし。
呉が南郡の失火に関してわざわざ捏造する意味は無いでしょう、そして時系列は不明だが
こういう事件があったりしてるので関羽だけが原因かは分からんって事。
また軽んじるっていう具体的な記述がないのでどういう風だったかも分からんしね。
>「(関羽が出撃した後)全て挙げてこれを助けようとはしなかった」
まさにボイコットですが。降伏の経緯も蜀書を見るならばこのボイコットの処罰を恐れての内通、
食糧の負担でもなんでもない話だよ。
>麋芳・士仁・潘濬と当時名前残した人全てであれば
3人じゃん、麋芳・士仁は自分達のボイコットが原因の内通で、潘濬とは折り合いが悪かったらしいが互いに問題を起していない。
>劉巴はそもそも他人との付き合い自体を意識的に断ち
これは劉備に従う経緯が複雑だったから疑いを避けるため、
劉備の「自分でなかったら使いこなせない」というのも性格でなく才智の事に関しての事。
劉巴の人格面は頑固者どころか多くでは賞賛されているよ、
諸葛亮でさえも「張飛は武人だけども、我慢してくれ」ってな言い分で劉巴に接しており、
んで張昭の言に対する孫権の反論が「劉備の言に従い、不適切な人物と交際したらどうして高尚な人物と称されよう」
季漢輔臣賛でも「清潔高尚であり、行を謹しみ身を整え、志高く道義を貫き〜」
とあるようにね。
諸葛亮についても張飛と共に不機嫌になっただけで、劉備にいわれれば態度を改めており、
>自分に近い階級の同輩殆ど全員を敵視してる、と言われるほどもない分別の持ち主と分かると思うが、
仲の悪い人物でも理不尽な事をした様子は無いしね
>>265 傲慢という程じゃないでしょう。
逆の視点で見れば、古くからの功臣からすれば劉備の人事は理不尽だという事、
諸葛亮でさえも諫言した人事だし。
んでこれのみを挙げられる事が多いが費詩がちょいと反論すればそれを素直に聞き入れており、
単に傲慢と評される事件でもないんだけどね。
>>270 劉備が説明するんじゃないの?本人がそう言ってるんだし、
というか納得しない事を織り込み済みで費詩を向わせた気もするが。
んで対人関係というよりは功績面での話だね。
功績十分とは言ってないね、あくまで近くで見れば趣旨を理解できる、っていう程度、
前提としては名声・徳望は馬超・関羽に並ばずで、劉備得意の抜擢人事。
上記にあるのは3人だけだが、それ以上の数、人間関係がよくなかった可能性は大いにある。
信頼関係を築きあげられなかった原因は両者にあると思うが、
関羽だけを擁護するには無理があると思うよ。
関羽は人の好悪がはっきりしすぎるところがあり、それが悪い方向にでていた。
そんな事どこにも書かれてないが
関羽は士大夫に対してプライドが高かったって話しはあっても
それが原因で何かトラブル起こしてるわけじゃない
また南郡陥落時に人間関係のトラブルが原因でバックアップをしっかり受けられなかったとあるが
関羽が兵糧に困った事はないし捕虜が3万人も江陵に送られてる時点で孫権に攻められたらビ芳は徹底抗戦なんかできようもない
状況を無視して関羽を悪く言おうとする人間が多くて困る
277 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 22:47:29
法正が生きていたらと諸葛さんは事あるごとに言ってたけど、
陸遜と対等に戦えたのは法正だけって意味?
>>274 十分傲慢だと思うが
いくら親しかろうが古来の臣だろうが今や蜀という一大勢力を
築き上げた集団の君主にあたる劉備に対して配下の関羽が
堂々とそんなことを言うようじゃ公私混同してると言われても仕方ないだろ
ケジメというものがある
劉備の使者に対してすらそうなんだから、他ではもっと酷かったとは考えられない?
ぶっちゃけ陸遜じゃ法正の敵じゃないよ
夏侯淵と同じ運命を辿っていた
関羽は公私混同をしなかったとの記述が正史あるね
というか若い頃と老後じゃ別人みたいだな
歳取ったら短気になるからね
関羽がボケ老人だったという説を聞いたことがある。
陳瞬臣説だな
関羽は一武将としては有能だけど荊州を治められる器ではなかった
権限を与えすぎた劉備の失敗
荊州を治める器ではあったよ
荊州に関羽の恩徳と威信とがよく行われているとの記述がある
むしろ荊州を治めるには関羽の勇名が必要であり
それを持つ人物は劉備配下には他にいなかった
関羽が一目置くような人物が一人でも配置されていれば
最悪の事態は避けられたかもしれない
285 :
関平:2006/09/19(火) 23:10:24
はやく おやぢを きってくれ!
必要なのは関羽が一目置く人物ではなくて江陵の捕虜を何とかしてくれる人物だろ
于禁の降伏は埋伏の毒とする見方もあるって事をお忘れなく
江陵の兵糧は関羽軍と捕虜に食い尽くされていたから電撃的落城があったんだと俺は思う
287 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/19(火) 23:14:01
諸葛亮であれば荊州の失陥は防げただろうか
関羽が一目置くような人物なんていないんじゃないか
穴埋めにしちまえば良かったんだ。
それをしない時点で凡夫。
>>状況を無視して関羽を悪く言おうとする人間が多くて困る
その状況は関羽の行動の結果だとおもうんだが。
人の使い方が下手だったんだろ
自分が功を上げることが最優先
>>273 名声だけを根拠に将軍位が決められるものならばともかく、功績に報いる手段であり、発揮した能力に相応しいものが与えられるべきもので、
全然適切じゃないですよ。だから説得を受け関羽は考えを改めたわけで、適切だったなら話しが通らない。
貴方は「近くにいる馬超・張飛云々〜」を弄くって「遠くに居れば馬超・張飛でも納得できない」を導いたけど、
その種の言葉遊びなら「良く知っていれば納得できる」問題であり、「良く知りもしないのに主君に文句をつける」とでも言えちゃう。
大体人事権は厳密に言えば統治者の裁量に委ねられた独占的な権利であってあれこれ口だしすることも本来憚られるものなのに、
任命を受け取らないだけでなく(上の理屈でいえば良く知りもしないのに)他者の処遇に批判を加え使者を送り返すことが
どれだけの越権行為であり問題であるかは廖立の例をみなくても火を見るより明らかのはず。
わざわざ呉に捏造する必要がないでしょうと言われても、
片一方では「関羽に責められた麋芳が関羽を恐れて事前に内通して準備して迎え入れた」とあり、
「城に立てこもったが、士仁を見て(公安が落ちたことを知って)諦めて降伏した」の両方呉の人が残したもので、
それを言うなら両方とも捏造する必要は無い。どっちが信憑性あるかは微妙なところだが…
どのように軽んじたか具体的に書かれていないと、軽んじていたから恨まれたと書かれていることが無かったことになるわけでもあるまいに。
「どういう風だったかも分からんしね。」というのは何が言いたいのかちょっとわからない。
麋芳については註の記述でも「わざわざ捏造する意味は無いでしょう」と信用して失態があったとするのに
関羽については一番関羽に都合よく書かれてしかるべき関羽伝本文の記事も「書かれてない何かがあったかもしれず信用できない」
とするのはどういうことかと。大体この論法では麋芳は当てはまるが士仁は当てはまらなくなる。
>>293続き
「まさにボイコット」とは何故?ボイコットは「職務放棄」という意味で使ってるんだよね?
原文「不悉相救」この四字から麋芳・士仁がどうしてそう呼ばれなきゃいけないのかわからないので詳しく説明して欲しい。
「持てる全てではこれを助けようとしなかった」浅学な俺は恐らくこのような訳になるだろうと思っているが、
呉に対する備えを考えなければならない立場の麋芳・士仁からすればむしろ職務に忠実であるとすら言える。
麋芳・士仁の降伏の経緯だけは蜀書を参考にするだけで十分なんでしょうか?他伝をみれば食糧の負担も十分考えられる範囲かと。
3人じゃんって…当時の荊州の重要人物を上から3人全てと不和なら問題視されてしかるべきでしょうに。
「劉巴の人格が頑固ではない。(別の方向で?)賞賛されてる」というのはどの記述を指してるの?
俺の知る限り劉巴の態度はいつも厳格過ぎな程厳格で、学術的な名声はあるが性格的に寛容だとかそういった性格面の賞賛は聞いたことない。
孫権と張昭でどちらが礼節に通じていたかは明らかだし、孫権も私的な交わりを絶つという初志を貫き通したことを褒めてるだけ。
時流に合わせて劉備の怒りを恐れなかったことが高尚だと思ったんでしょう。
季漢輔臣賛の賞賛は正直に言って身内贔屓の傾向があってそもそもあれだが、身を慎み、志高かったのは確かかな。
諸葛亮に対する態度もそうだが、周りからの説得があり納得すればなんとか我慢もできるってのは期待できるのは間違いじゃないけど、
それを分別ある態度とは言わんでしょう。主君から「もはやこの件で文句を言わないでくれ」と言われて言うのを止めるくらいで、
それまで公然と文句を言っていたならこれは問題。
>>294続き
>>274 諸葛亮が讒言したのは関羽の態度を不安に思った故なんだから「諸葛亮でさえも諫言した人事」というのは傲慢じゃないの補強材料にはならないでしょう。
何故「ちょいと反論すれば納得する」内容で腹を立てて突っぱねたことを問題視しないのだろうか…
近くで功績を見ればというのは(実際には同じ戦場には居なかったのだから)功績を知れば納得できるということなんじゃないですか?
>>276 貴方が
>>273氏ならという前提になるけど、
関羽と麋芳が揉めたと言う時はできもしない「全力を関羽方面に回さない」で麋芳を責め、
今回は「必要なバックアップは受けてるし麋芳とはトラブルという程ではない」というのはどうかと。
人間関係はどこからがトラブルでどこから問題なのかについての基準は議論に値するけど、恣意的に使い分けられると困る。
多分別人なんだと思うけどね。麋芳がもとから徹底抗戦なんかできないとか、きちんと協力したというのには同意します。
>>295 別人だよ
俺は関羽の対人関係のトラブルは公的な場面では出ず極々個人的な感情で
仕事を遂行するに当たっては喧嘩相手とともにお互いにやるべき事はやっていたんだと主張したい
297 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 00:28:59
関羽が呉を見下してた感はあったんじゃないかな。
呉も進攻のきっかけを狙ってたんだろうな。
ところでみんな下げてレスしてるのはなんでなのん?暗黙の了解でもあるのか?
板によってsageが普通な場所もあるんだ
ロムってろ
んじゃ髭レスで
というか、関羽と慶州云々の時期って
天下の大勢は決まってるような気がしないでもないけど。
やっぱり、可能性があったとしたら
孫策が暗殺されずに、それこそ後の蜀と呉の関係のように
袁と孫呉が両面から曹操を脅かすってなってたらて展開ぐらいじゃね?
それでも袁のお世継ぎゴタゴタしだいでは
結局同じ歴史になるのかもしれないけど。
孫策期は有力豪族との提携がほぼ存在しないので、徐州名士の寄寓政権と言っていい。
孫権は孔明に比すべき男だろうな。やってる仕事が天下盗りじゃない。
301 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 00:43:34
>>298 なんでsageが普通なの?
説明できないお前がロムってるといいんじゃない?
>>301 まぁあれだ、暗黙の了解でいいかと
俺もsage知らないときage厨とか言われたしな
質問やそのお礼、スレが落ちそうなときはage推奨だがそれ以外は極力sageがいいな
>>302 ありがとう。そう説明してもらえるとスッキリする。
結果論で語ると曹操がつぶれてしまえば残る近接した地域の主である袁紹、劉表は寿命の残りが少ない
孫策が暗殺されずにいれば呉の天下の目はかなり大きかったと思えるよね
曹操敗北→袁家中原制圧してから分裂→中原分裂中に劉表も死亡→呉の荊州進出
で史実よりも速い荊南奪取ができるやもしれぬ
>>301 E-mail欄に「sage」と入力。
三戦板は近年、厨房板と化したのでage進行だと荒らされやすくなる。
まあそんなこと問題にならないくらいの過疎化が進んでいるけど。
あくまでたらればの域は出ないがな。
逆もありけり
1武帝が徐栄戦で死亡。
2孫堅は劉表を殺して荊州を領有。
このどっちかが必要。
>293
名声・徳望っていうのは功績を挙げるから付く訳ですよ、
つまりは黄忠には関羽・馬超と並べられるほどの功績は無いって事だ。
んで関羽は費詩に「官位であんたと劉備との仲を量るのは適切じゃないよ」
と諭されて考えを改めた訳で、別に黄忠が官位に相応しいと諭されたわけじゃない。
また近くで良く知らなきゃ納得させられない人事自体が無茶な訳ですよ、
それはわざわざ諸葛亮が諌め、劉備が「俺が説明するよ」と言ってるように、
黄忠の人事は不平不満を言われる事を劉備自身が承知してる程。
あと実際に使者を送り返してはいないけどね、費詩に説得させられてるし。
失火事件自体を捏造する必要が無いって事。
軽んじると言っても多種多様だからね、能力があるのに関羽が冷遇したのか、
能力も無いのに不相応な待遇を求めたのかでは前提が全然異なる。
つまりは具体的にどのように軽んじられたのかという記述が無ければどちらに非があるかは不明という事。
麋芳については上で述べたとおりで、関羽に関しては書かれて何かがあったのであろう、ではなく
書かれていないから判別不能と言ってるんだけど。
続き
不悉相救は「全力で助けようとはしなかった」
不悉相救は関羽の命令に対する2人の態度であり、江陵&南郡の国力限界まで支援しなかった、
とかいう意味じゃない訳よ、だから意味は関羽の命令に手を抜いていたって事で、
呉に対する備えで援助できないなんて意味にはならん。
おまけにその後の文章を見れば分かるが関羽は命令違反だから二人を処分しようとしたので、
二人が呉に対する備えで命令を遂行できないならそれを関羽、無理なら劉備に申し開きをすればいいだけだが、
二人が取った行動は呉への内通だから申し開きできないような立場なんだろう。
>麋芳・士仁の降伏の経緯だけは蜀書を参考にするだけで十分なんでしょうか?他伝をみれば食糧の負担も十分考えられる範囲かと
食糧不足の話は呂蒙伝にあるのみで、関羽がって事になっているし米を奪い取って解決済み。
江陵・南郡が食糧不足での投降なんて話は無い。
荊州以前の同僚とは不仲な話は無いし、荊州には諸葛亮が益州にいってからも馬良がいたり、
郝普が居たりもした訳で、そういう人物とも不仲という話は無い。
3人が重要人物だったのは不運としか言いようが無いな。
普通に高潔だの、高尚だの称されてるが。「行もつつしみ」と書かれており、
頑固だの偏屈だのいう事を言ってるのは張紹だけ、孫権も言も「不適当な人物と」と言っており、
>私的な交わりを絶つという初志を貫き通したことを褒めてるだけ、
とは違う、つーか私的な交わりを絶つために劉巴は張飛との面談を断ったわけでもないし、
孫権もそんな事は褒めて居ない、あくまで劉備に言われたからって気に入られるような態度にしない事を褒めてる。
諸葛亮に対してもあくまで不機嫌であったとあるだけ、公然と文句言ってるかは不明。
また元々一介の書生をいきなり劉備一派のNo2にしてるからそりゃ不機嫌にもなるだろ、
士大夫に対して特に何かあったわけでも張飛も不機嫌だったしな、
それでも一言言われれば直に命令に服してる辺りは分別あると言って良いだろう。
多分関羽は一人残されて寂しかったんだよ
兄や弟話の合いそうな趙雲豫州時代からの三文官
みんな益州に行っててさ、一人荊州に残されたんだからさ。
引き篭もりが傲慢になるのと一緒さ。
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 02:30:06
ロシュクが長生きしてたら
312 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 02:31:49
このさい霊帝がまだ生きてたら
まあ正史読み込むのはモチロン一番大事だけど、伝によって表現とかニュアンス違うのあるし、
それらと併せて前後の状況や他の事象から推測するのも大事だよね。
魏の伝なら魏の人が良く書かれてるし、蜀の伝もしかり、裴松之もそういってるよ
書かれてないから判別不能とばかり長文で言ってるが
十分推測可能だろうと
>>278で言ったんだけどスルーされるし
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 08:07:30
魯粛が長生きしていたら、魏を脅かす存在になったと思う?
316 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 08:32:25
長文読む気は起こらんよ・・・。
萎えるから止めてくれ。
>>316 自分はロムしてるが、君のような考えの人は、悪いが他所へ行ってくれ。
長文のないところへな。
呉が関羽を斬らずに荊州だけとって蜀にかえしてたらどうなったかな。
319 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 09:31:06
魯粛が魏の脅威というより魯粛がいることにより、蜀と呉の仲が裂かれることはなかったと思われ。
>>318 それはありえない
蜀で唯一の艦隊運用経験の持ち主である関羽を生かして返すって事は
虎を野に放つようなもの
>>278 ああレスし忘れた、ごめん。
劉備と関羽の関係は一般的な君臣ではないからその甘えが出た点はあろうけども、
そもそも人事自体が諸葛亮に諫言されるほど理不尽なので関羽のみに非がある訳では無い。
劉備も「私自身が説明する」とか言ってた割には費詩に丸投げしてるところを見ると配慮が足りてない。
そんでこの一件では費詩の言う事をきちんと飲み込んでいるのだから、
他の人物に対してもっと酷いという事でもないでしょう。
>>320 運用経験があっても所詮は蜀なんだからそこまで恐るほど艦隊が出来ないだろう、
それなら多少はギャンブルして蜀と平和的な関係を続けるための餌として関羽解放も考えれない?
関羽開放は気になる。孫権も張昭に言われてハッとしてるし
324 :
関羽:2006/09/20(水) 11:27:47
ラッキーだった。たまたま孫権の恥ずかしい写真を持ってたから
魯粛だったら蜀との同盟を保ち協力して魏を討つよう進言したろうな。
ていうか呉が蜀を裏切るのって意味不明
呉を守ることしか考えてなかったのなら納得いくけど。
まともな名士は少々生意気なヤツに対しても「顔では和して腹の中では忌む」を実践するだろう。
ところが関羽は寒門なので、そいつら全てと対等以上に張り合おうとした。
彼の慈恵というのは自分より下位のものにしか与えられない性質のもの。
そして彼が上に向ける感情は先主に対しての忠義だけだった。
それは当然だろう。彼の地位が先主とそれへの忠義あってのものだからだ。
武帝の登用を蹴っても先主に仕える、これ以上の忠義を示すものはない。
だから忠義と将才という分野では関羽に誰も及ばない。
だが、それだけの優越では彼の自尊心を満足出来ないほど
出自の卑しさは当時にあってもほぼ絶対的で、彼の人間性を大いに損ねるものだったと思われる。
その種の苦悩への納得は彼のような才人には中々出来ない。
むしろ凡人の方が妥協と諦観を抱くことにかけては長けているとさえ言える。
このような人間は珍しくはない。そしてそれが世にも稀な戦功を立てて、
多少驕慢な振る舞いをしていたら、信じられない悲惨な敗戦で大いに叩かれるようになったというだけのこと。
これらのことは九仞の功を一簣に虧く性質のもので、関羽が特別劣っているという訳ではない。
概して馬鹿にする割には要求が高過ぎるのだ。
つまり荊州総督という仕事はそれこそ神人にしか勤まらない困難さだったということだろう。
327 :
.:2006/09/20(水) 13:43:37
世にも稀な戦功を立てて、多少驕慢な振る舞いをしていたら、信じられない悲惨な敗戦で大いに叩かれるようになった
傲慢になる前に戦功ってなんかあったか?
328 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 13:49:29
三国志で曹操に次ぐ二番目の名将であった陸遜でも、魏の圧倒的な軍事力には対抗できなかったのだから
他の奴では、絶対に無理・・・
白馬津の戦いかな。それ以外にも長兄の戦術を支えてる面も大いにあったろう。
まともに考えれば徐州時代に袁術と寡兵で渡り合えたのが凄いこと。
ただ局地戦の勝利がふいに成るくらい大局に恵まれていなかった。
この三兄弟は漢末の徒花としてとらえている。
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 14:06:28
なんかなー 関羽伝読んでてどうみたってそこまでの人物だと思えないんだよな〜
武帝陸司馬は別格としても、五大将あたりと比べたって事跡が少なすぎる。
妄想というか願望入ってるようにしか見えない。まあこのスレ向きなんだろうけどな
331 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 14:28:39
関羽は人質を出してまで呉との同盟を強化しなければならない立場なのに、
むしろ魏と呉両方に喧嘩売ってるからなあ。
呉みたいな日和見主義は利用して捨てるべきなのに
関羽は魏を討ったら次は呉だという態度がありありと見えていた。
蜀書は特筆事項だけしか書いてないからな。
予備知識のない人間にそのまま評価させたら、ちょっと大手柄を立てただけの凡将に過ぎない。
だがその大手柄を更に大きくすることが出来なかったのが現在の評価につながる。
>>330 そりゃ関羽伝読んだだけじゃ関羽の凄さはわからん
関羽の凄さは他人の伝を統合して初めてその先にうっすらと見えてくる
335 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 15:09:37
特筆事項だけしか書いてない蜀書で馬超、孫権、麋芳、士仁、黄忠と
性格のことがあるからなあ。
やっと全部読み終わった なかなか面白いスレに育ってるな。
武帝が徐栄戦で死んでたら天下取るのは袁術だろうよ。
袁紹は後継者問題で分裂。袁術は皇太子が居たからね。
呉が天下を取る上で曹操の死ぬタイミングは官渡直後以外にないな
339 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/20(水) 18:17:40
>>337 あの施政能力で他の群雄がまだいるのに生き残れるとでも?
関羽は劉備陣営の武官No1だから、必然的に関羽>その他っていう戦功を挙げてという事は推測できる、
おまけに魏・呉の評価でも関張、特に関羽への評価は絶大でやはり蜀では随一の人物でしょうな。
また珍しく詳細が書かれてる(他伝も含めて)ハン城の戦いでは戦上手っぷりは発揮してるし、
評判だけでもないっぽいしね。
袁紹がもっとしっかりしてればな
>>339 袁術の支配領域もう少し考えてみ?
南陽・寿春だよな?
南陽は誰かさんと誰かさんの長年の抗争で荒れ果てた
その誰かさんの片割れが関羽の北上に対する防備の為に
強引な徴兵・徴収を繰り返した結果民衆叛乱まで起きたりするようになってた
寿春はやっぱりその誰かさんが民衆を呉に渡すまいと強引に中原に引き込もうとして荒れ果てた
その誰かさんが荒廃させた地域と袁術の支配領域は合致する
不思議だな
>>340 実績が不明瞭という点では夏侯惇と似てるかな。
北でやってた頃は劉備の話題がほとんどだし。
副将・先鋒として優れてるんだろ。緒戦の勝利は重要。
武帝に対する盲夏侯、先主に対する関公、孫郎に対する周郎、
呂蒙に対する孫咬、陸遜に対する朱然、孔明に対する魏延、
仲達に対する張郃、姜維に対する夏侯覇、鍾会に対するケ艾ってとこ。
345 :
.:2006/09/20(水) 21:22:35
なんかめちゃくちゃな組み合わせのような
>>308 名望・徳望は功績を立てることでももちろん付くが、功績を計る物差しじゃないよ。
呉に目を移すと孫堅・孫策時代で一番多くの功績を残したのは程普だけど、呉でも随一の英傑として評判高かったのは周瑜。
関羽の評判の高さに大きく貢献したであろう白馬での殊勲や、漢王室から賜った爵位や曹操の厚遇、
それでも尚留まらなかった義心なんかはどれも素晴らしいし価値あるが、蜀(劉備)のために立てられた功績ではない。
馬超も馬家の(現在は貧乏だったが)祖先の存在や関羽同様賜った爵位、また入蜀以前に上げた数々の勲功や轟かせた武名は立派だが、
劉備のために立てた功績と言えるのは、既に包囲下にあった城の降伏が早まったと言われる件だけ。
純粋に劉備のために立てられた功績で言えば(前半が不明な関羽はともかく)馬超は黄忠に及ばないのは明らか。
なので名声から「黄忠には関羽・馬超と並べられるほどの功績は無い」なんて間違い。
費詩の説得文には貴方が引用したと思われる後半部分だけでなく「そもそも創業を成すには多くの人物を任用するもので、蕭何・曹参は
劉邦の古くからの友人だが、後から韓信・陳平が来て席次を抜かれたが恨み言を言ったとは聞いたことがありません。今一時の功績によって
黄忠が高い身分になりましたが、どうして殿(劉備)の心中での軽重が貴方(関羽)と同じでありましょう。(以下略)」とあって
関羽を蕭何・曹参、黄忠を韓信・陳平に対比させ、黄忠が現在の功績によって一時的に同列になることの妥当性を訴えてるわけで、
「黄忠が官位に相応しいと諭されたわけじゃない」はおかしい。
「また近くで良く知らなきゃ納得させられない人事自体が無茶」とあるがこれもおかしい。
貴方はキチンと功績を知っていれば納得できるもの=実際には妥当なだけの功績があっても、
偶々遠くに居て良く知らず同格になる一臣下のためには妥当な人事が不適当になるとのお考えか?
黄忠が主に功績によって相応しいと考えたように、主に高い名声によって高い地位をえたと考える馬超も、
偶々遠くに居て良く知らずに居る関羽がその人物と力量がわからず納得いかなければ相応しい人事じゃなくなると?
>>346続き
諸葛亮は黄忠の人事自体が不適当だと思って諌めたわけでもなく、主張としてはただ「関羽が納得しないだろうから良くないんじゃないか?」
と言ってるだけだし劉備も「吾自らこれを解くにあたらん」とか言って諸葛亮を安心させてるがまさか実際会いに行ったわけでもなく、
事前に手紙でも送って説得した様子もない。
関羽は君命を受けた使者を前に「大丈夫は老兵と同列にならん!」と怒鳴り、黄忠の名誉を傷つけ君命を受けようとしなかったが、
>>293で挙げた廖立は「(劉備が任用した人物を誹謗することで)結果的に劉備自身を誹謗し、また臣下の名誉を傷つけた」ことを理由に庶民に落とされたが、
こういった行為が国家の運営を乱し問題視されることは確かで、
>>273に戻るがこの関羽の態度が「適切だ」なんてことはなく、
もし費詩が上手く説得し事なきをえなければさらに本格的に問題になっていたはずで、多分諸葛亮はそうなったら困ると危惧したんだろう。
失火事件自体の捏造がどうとか言ってるが、そもそも呉録の著者は出身地方は呉でも年代的には晋の時代の人間で、
彼が何を思って史書を残したかも判らなければ、彼じゃなくとも基本的に伝聞なんだから間に入った誰がどういった意図で
その話を伝えたかなんてわからないじゃない。結果の異なる記述の二つの資料があり、その一方の一部だけを何を思って
「間違いない」と確信しているのか。
>>347続き
「軽んじるというのが多様で詳しく書かれてないからわからない」とのことだが、
そのまま使えばニュアンスとしては「(実際よりも)相手を侮る、軽視する」であり、貴方が言うように麋芳・士仁側が身分不相応に
奢り高ぶっていたなら軽視なんかではなく、正しく適切な対応になるはずで、なんでそういったことが書かれてないのか不自然じゃないか。
貴方が言う方が正しいならなんで史書は「麋芳・士仁が分不相応に奢った態度をとり関羽の処遇を逆恨みした」と書かず、
関羽の方だけ「士大夫に対して驕慢な態度取った」「剛情で自信家という欠点で身を滅ぼす」「人との交際に礼儀がない。浅慮である」とだけ書いたのか?
虚心に読めば、それは関羽側の態度の方に非があったと考えられたからであり、既にこれまでにも
>>261などでも指摘して、
貴方も当然知ってるエピソードなのに、「詳しく書かれてないからわからない」というのはどうなんだろう。
「不悉相救」について。俺は浅学なんで笑われるかもしれないが一応。
「芳、仁供給軍資,不悉相救.」「麋芳(芳)・士仁(仁)は軍資(軍資)を供給(供給)し、全て(悉)で関羽を(相※)救わず(不〜救)」
※『相』で一方(麋芳・士仁側)が他方(関羽)に対する行為など(救わず)を表す。
単純に書き下すと上記のようになるはずだけど、前段を受けての不悉相救を持って「(軍資を供給はしたが)全てでは救わなかった」という物資面ではないと否定でき、
「全力で助けようとはしなかった」という精神的な取り組み方・態度に限定できる根拠は何処に?
全力でと限定的に言いたいなら普通「悉力」という用法を用いるのではなかろうか。
探してみたところの武帝紀註の袁紹討伐時の「理應當悉力圍守」みたいに。
馬良は諸葛亮が行って直ぐ、ラク城陥落辺りでもう蜀に赴いており、カク普は同じ荊州と言っても任地が遠く離れた零陵だもの。
関羽と揉めた3人は南部を取られた後、南郡・公安・江陵と狭くて近い空間に、
(実際に手に入れてない地域の)太守兼軍事総督・重要拠点太守・重要拠点駐留将軍・治中従事(州の事務責任者)と
地位の近い人物がひしめいていたため、特別揉めやすかったのもあるんだろうね。それだけは関羽が可哀想だったと言える。
>>348続き
劉巴についてだが、劉巴ぐらいの名士ともなれば黙ってても賞賛は集まる。
虞翻なんかは言葉が厳しく讒言を食らったり悪口言われたりするが尚、
性格面において「一本気である」とか「明らかな志操に乗っ取り行動する」とか言われるし純粋な賞賛も多い。
高潔、高尚あるいは一本気、志操正しいのは事実ではあろうが、それと一場面の態度が狭量であるとかは話しが別。
貴方が言ってるように孫権は(初心を守り)劉備に言われたからって気に入られるような態度にしない事を褒めてるだけで、
劉巴が考えを曲げて「交わるべきと考えていた人ではない」張飛とは交わらなかったから「高士」と褒めたんでしょう。
孫権が「交非人」とでも言ったら確かに張飛を相当侮蔑していたことにでもなろうが、実際は「交非其人」なんだから
孫権から張飛への侮蔑的意思は別段感じられない。
諸葛亮に関して、口や態度には出さずに居たら劉備に伝わらないし、態度だけで何も言わなければ「願諸君勿復言」が通らなくないですか?
「劉備一派のNo2にしてるから」の根拠はどこ?私の知る限り「日々親密になっていった」とあるだけですが。
主君が誰かと親しくするのに不平を漏らし直に説明がなきゃ納得しないのは分別あると言っていいのだろうか。
長文且つ文字数の関係上1レスあたりの配分が不恰好で読み難いこと、今更ながら失礼します。
蔡瑁が天下を取りました
横レス失礼
関羽も純粋な賞賛は多いよ
劉巴に関しては褒められたというよりフォローされたというニュアンスを感じる。
張昭は別に劉巴を取り上げて言ったわけでなく孫権に聞かれて答えただけだし
人を見て露骨に態度を変える人間を褒める理由はないでしょ。
ただ主君の顔色を伺ってコロコロ変わるよりはいいっていうことだと思う。
353 :
308:2006/09/21(木) 10:10:30
>>346 正直な話、あんまりにも長いんで反論もやたら長くなりそうだからもうやめときます。
能力スレからの転載になるが、
94 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2006/09/21(木) 09:18:10
姜維の構想といえるかは微妙だが、253年の呉蜀初の(そして唯一の)同時出兵は悪くない戦略だったかと。
姜維が軍権を受け継いだばかりで、さらに呉の方ですら前年12月の戦勝直後且つその年の春に急遽立てられた計画だったため、
姜維の方は準備不足から兵糧を切らしあっさり引き上げてしまい諸葛格もン十万を大号令して散々な結果に終わったが、
もし諸葛格が戦勝から1年程間を置き計画を練り公に準備を重ね、また姜維側も早くから前もって知らされ密かに用意を整えていれば、
255年に合肥新城に号二十万の大軍による計画的な大攻勢(あるいは複数路からの東部戦線一挙侵攻)
→姜維の電撃戦で王経に大勝という魏始まって以来の危機を演出することも可能だったのに。
結局史実通りの惨状になり呉が以後内乱やらで出兵を控えたため姜維は二度とこのカードはきれなかったが、
諸葛格の着想自体は悪くないと思うだけに残念…
この作戦をどう思う?俺は史実通り呉が大軍を持って合肥新城一択なら配分的に蜀側により兵を割き姜維の敗退は免れなさそうだが、
呉が241年並に軍を別けて侵攻させれば魏は中央軍を各ルートに別けて迎撃せざるを得ない気がする。
虞松も言ってるが諸葛格の狙いがバレバレな上に、難所に大軍を長時間駐屯させるのは難しすぎるのが敗因だったかと。
355 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/21(木) 13:53:31
曹操が孔明の立場であっても、北伐は困難だったと思う?
うん
下ヒで曹操が呂布の処断について、劉備にたずねた時
劉備が「登用すべきです」って答えてたら、変わってたんじゃないだろうか。
数年で呂布に裏切られて曹操アボン。
あるいは張遼を関羽の説得で、劉備の下に貰うとか。合肥があそこまで硬くならなかった
+蜀の人材不足がすこし解消+呉の天敵なのでケイシュウ守備任せたら鉄壁とか
「もしも」っていう漫画みたいな展開で現実性は?だけど三国志好きとしては
そんな展開を考えてしまう。呂布の件は適当だけど、張遼が劉備の部下って
やっぱり一度は考えねえ?居候の身で処断時に引き抜くとか、そんなあつかましい事
曹操が許すわけ無いが、もし成功してたら・・・
当時の武帝はまだ後漢朝復興の意思があった。
呂布の申し出はそれなりに検討すべきものだ。
こいつ以上の騎兵指揮官なんて当時には存在しないからな。
騎兵だけでは戦争に勝てない、という当たり前の常識に敗れただけで、
名将とは言い難いが、やはり当代随一の猛将だったろう。
張遼がほとんど蜀と戦わなかったのは三兄弟への義理立てでは?
合肥より漢中の方が重要拠点だった訳だし。
>>358 呂布の騎兵団より同じ数でやったら強いのは居ないだろうね。
劉備も呂布を「登用すべきです」と言った後数年後ぐらいに、
内応工作とかすれば良かったのにな。
>>357 曹操アボンより、光栄某ゲームみたいにそれなりな領土を得てからの反乱とか、
まぁ呂布が荊州に居てもそこまで怖くは感じないかもしれんが、
361 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/21(木) 21:06:56
呉と組んだ段階で失敗だったね
あそこの国マジ空気よめてないもん
天下3分で!ってことになってるのに2分とか裏で進めてるし
孫権は関羽に喧嘩売るし
孫尚香の一件で劉備がどんだけ落胆したことか…
そういう事やっといて「うちの子と政略結婚しねぇ?」じゃねぇだろ
そりゃ誰でも激怒するよ
でも権坊は都合の悪いことは忘れてるから逆ギレしても平気
こんなとこと同盟結んだ時点で間違ってたんだよ…
362 :
◆mTsmZDGOUQ :2006/09/21(木) 21:23:37
なんつっても馬岱
阿呆。じゃ、魏に付かれたら勝算が上がるのか?
阿呆も何も、他に選択の余地がないわけで
>>354 うーん…魏側が兵を割いた前提なら呉側は膠着するだろうから、ようは姜維の西部戦線の結果次第かな。
呉側の攻勢によって陳泰の足が史実より遅れていたらあるいは…
366 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/21(木) 23:03:51
367 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/21(木) 23:28:53
魏が鮮卑の問題を抱えていたが
呉も山越、蜀も南蛮と民族問題を
抱えいてた。
これでは魏と同等の国力がないと
どうしても攻勢には出にくいだろう。
そういう意味で呉蜀の兵士不足は
重大問題だったはずだ。
>>366 実際の255年侵攻も呉→蜀と続いているにはいたが約半年のタイムラグがあり、これでは諸葛亮時代と大して変わらず
魏側も呉を撃破し体制を整えなおした後に蜀に当たっているので、ただの連戦でしかなく効果が薄い。
これがもし354の前提通り253年の例に倣っての同時侵攻だった場合、少なくとも255年に東方の後続部隊を勤めた司馬孚に
預けられた軍は(253年の例に習い)東に赴くだろうし、ケ艾も諸葛誕の元でやはり呉方面になるだろう。
さらにもし呉側の戦略が準備万端に複数路侵攻だったとしたら、241年並に魏側中央軍を各地に割いた可能性はある。
もし蜀が呉の動きに合わせて準備をし、魏が呉の侵攻に対処しようとした時点で急遽軍を進め王経を破った場合、
陳泰はかなり苦しい判断を迫られ形成逆転のチャンスがある、かもしれないかなぁと…
問題点は、呉がそんな計画的な大侵攻を行えば逆に魏側が萎縮して一挙に中央軍を出し渋るんじゃないかという点と、
王経がこの事態に慎重になって拠点に引きこもった場合「王経撃破」とはならないかもつーのがある。
呉も蜀も手紙か使者でやりとりしてたんだろうが
何年何月に上旬OR下旬とか具体的に決めて出兵しないもんなんだろうか?
>>368 魏の立場からすれば呉か蜀かどちらかは引き篭もるかもね
魏は片方を相手にすればほぼ負けないんだから
片方を撃破したのちもう片方に行けばいい
ただ合肥と長安ではすさまじい距離があるが
一ヶ月ぐらいかかるか?
つうかいつもタイミング悪いよな。
公孫淵だってカン丘倹の乱まで待てよ
カン丘倹反乱→呉が援護→公孫淵反乱→蜀も呼応
ぐらいならどうにかなるかもしれないのに。
まあ、当然のことながら
ネットもテレビもラジオもない時代だからねぇ
さらにあの広大な大地ときたもんだ
手塚の火の鳥では頼朝と義経が電話してるのに。
諸葛格って優秀だったのかね。なんか馬ショクや鐘会と
似たような臭いがするが。孫登が後継いでれば殺されることも
なかったかな。後継者争いもなくなるし。
孫権が晩年ボケたのもやばいが。自分より20歳も年上の呂岱に後事を
託すとはどういうことだ
>>369 一部の指揮官を帰還させて、戦略予備を長安に機動させるなら、1,2ヶ月で済むと思うが、
合肥に展開した軍隊全体を丸々長安に機動させようとすると、最低3,4ヶ月はかかると思う。
そもそも、洛陽から合肥まで前進させるだけで1ヶ月以上かかるだろうし。
375 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/22(金) 13:54:18
鮮卑が強くて、かつ山越と南蛮が弱かったら良かったかもね
376 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/22(金) 19:36:05
スレタイに沿うと呉には勝機は無いと言えますね。孫策のしだって暗殺だし魯粛にしたって
病死だしね。そもそも猛将や智将がいなすぎる。孫策・魯粛・周喩ぐらいだろ!?
蜀にしたら劉表領地の荊州の継承が成ってればと言う事意外に可能性はあまり無いと思うが・・・
日本語でおk
>>376 __, -ー- 、__
(_,' ',_)
l ● ● l
i (_ ● _) i そんなエサでは釣られん!
ノ |∪| ', 悪いが帰ってくれ!!
/,, -ーヽノ , -‐ 、
( , -‐ '" )
`;ー" ` ー- -ー;'"
俺は人材レベルで見ても魏>>呉>蜀だと思ってるんだが少数派?
「蜀に猛将や智将が沢山居る」と思ってる方は予想以上に多いんでしょうか?
同時侵攻できなかったのは単純に計画が杜撰とか相手を信用できないとかだろうが
呉と蜀、攻めこむ先の長江北岸と涼・ヨウ州では収穫時期が異なるため
食料の備蓄状況や敵地での略奪・屯田すべき時期がずれているため
攻めこみやすい時期がずれているとかは有りうるだろうか?
>>379 沢山いるよ
220年代前半までの短い時期に
寄らば大樹=魏、呉
乾坤一擲=蜀
土着化が枯渇の原因。
全国からの流浪の過程で形成された幕僚集団だからな。
後漢王朝再興だかなんだか言ってる時点で終わり。後漢王朝をよくみてくれ。無理に決まってんだろ。だまってコウホウスウが天下盗ってりゃ良かった話。だから晋なんだろ
たとえショク、ゴ、エン、が同時攻撃をかけたとしても国力差がありすぎ。地方豪族の寄せ集めがなんども大々的に軍事行動なんて出来んだろ。エンはよくしらんが背後に問題ありだろうからな
演義すらも読んだことがないんだけど、
>54の
「姜維が讒言受けたとき、楽毅と岳飛が引き合いに」
なして、姜維より後の時代の岳飛が話の途中で出てくるの?
>>385 演義を読んでからもう一回質問してみる気が起きるかどうか。
燕、蜀、呉、胡族、羌族が一斉に攻める。
これに限る。
>>379 曹操と劉備孫堅のスタートラインを比べてみれば、
一概に人材レベルが、魏>>呉>蜀
なんて言えないと思うよ。
曹操が、劉備や孫堅と同じような立場に生まれたら、国が形成出来たとは思えんのだが。
>>388 そのスタートレベルの差が後の人材獲得競争においても響いてきてると思うので、
それは人材レベル格差を促す意味しかなさそうなもんだと思うがどうか?
曹操は色んな勢力から様々な人材を吸収しつつ巨大化し、孫呉も程普・韓当・黄蓋といった初期メンバーを追い抜く若手が次々登場したが、
蜀は初期メンバーの関羽・張飛が蜀政権を通じて最後まで一番のタレントだったわけで。
逆境を生き抜いた劉関張は凄いが、人材の層としてはどうなのよって話し。
>386
わずか数行の疑問を解決するためだけに読む気は起こらないから。
あなたなりのウィットに富んだ解釈も交えて教えてよ。
羞恥心に欠けているし、図々しくて皮肉が嫌味。
何様のつもりなのか?
>>390 演義は読まなくていいから礼記と論語くらい読んどけ。
393 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/22(金) 21:58:51
君主の実力は
曹操>劉備>孫権
の順番だろうか?
>>390 該当箇所みりゃそれで済むだろうに。
さて、姜維は連日、戦いを挑んだが、鄧艾は堅く守って出撃しなかった。
姜維が内心、疑いを強めていたところに、突然、勅使がやって来て、入朝せよと詔があった。姜維はわけがわからなかったが、やむなく軍勢を返し成都に帰還することにした。
鄧艾と司馬望は計略が図に当たったことを知ると、渭水南岸の軍勢をあげて、その背後を襲撃しようとした。これぞまさしく、
楽毅は斉を伐つも間に遭って阻まれ
岳飛は敵を破るも讒されて回る(かえる)
というところ。 はてさてこの勝負いかがあいなりますでしょうか。まずは次回の分解をご覧ください。
以上、ちくま文庫「三国志演義」井波律子訳 から抜粋。
これでおk?
もはやこのスレでは気軽に三国演義の話ができないから、ここまでな。
395 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/22(金) 22:02:18
劉備より孫権だな
創業者の劉備と、2代目(ある意味3代目?)の孫権を、
不等号で比較するのは無理がある。
曹操も孫権も血縁地縁に恵まれていた。
根無し草からそいつらに対抗した劉備はやはり凄い。
劉備もトウケン、公孫賛、劉表、劉ショウと
恵まれてるような気もするが
まあ徐州は自分で手に入れたようなもんだが
荊州だって貰っちまえばよかったんだし
益州だってさっさと劉ショウ暗殺してしまえばよかったわけで。
人材レベルで言えば魏は曹操があちこちから有能なの引っ張って
くるからいいけど呉と蜀はそんなにかわらんだろ
劉備も陳群と田豫はキープしとけよ
馬超もホウ徳をつれて来い
399 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/22(金) 23:23:13
>>398 それよりも陳登を魏に持っていかれたのが痛い。
素で陳親子忘れてた。でもこいつらは徐州の名士だから動かない
気がする。陳群も許昌はなれてまでついて行くかな?
田豫ぐらいか可能性あるのは?
三人ともそれぞれに違った長所を持った傑物だよ。
曹操が劉備の生まれだったら、関張の子分にされた揚句に張飛の機嫌を損ねて殺されてたろうし、
劉備が曹操の生まれだったら、思い切った事が出来ないままに中途半端な朝臣として一生を終えていただろう。
単純に比較は出来ない。
>394
あんがと。
>>400 田豫は劉備と仲違いだとか、地盤がどうとかじゃなくて、
母親が老齢だから豫州までは行けないってだけだったもんな。
出身も同じ幽州だったし。
>>403 むしろ益州まで付いてく方が異常としか言いようが無い。
地盤があればなおさら。
糜竺は曹操にえらく買われてて太守にまで任命されてるのに、
それを捨てて流浪の劉備について行ったからな。
406 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 06:57:26
孟達が関羽の死後立場が悪くなって魏に投降したのは分るが、
文帝死後寵愛を受けなくなったから蜀に帰参するってのは
軽率だと思うがね。ビホウ、フシジンとなんら変わらんと思うが。
今のサラリーマンだって人間関係がうまくいかなくとも
みんな我慢してるんだし。
人間関係うまく行かないと簡単に左遷、下手すれば殺されちゃうような時代だし
なんか演技準拠か正史準拠かわからんスレだな。
>>406 今上帝に寵愛を受けなかったからじゃなくて、先帝に寵愛されすぎたからだろ
外様の降将が寵愛を受けるだけでも妬み嫉みは受ける
行き成り受けていた恩恵がパタリと途絶えて自分に敵意を持つ人間が過去の自分の立場にいると想像してみ
命の危険を感じるから
>>406 いいたいことは判るが、その事例にビホウや士仁をもってくるのが判らん。
ひょっとして、演義の二人の行動のことか?
>>398 わかってる限りだと呉と蜀でも結構開きがあるよ。優れた司令官、武将、名士、行政官どれも呉の方が多い。
蜀の記録不足もあるわけで単純には比較できんけど、両国の差の原因として考えられるのは、呉には先進地域である中原から
大量に人が流れてきてること、単純に国土と人口の差、あとは(想像だが)土着政権と外来政権ではその下での意欲が違うのかも。
どっちも似たような政権だと思うんだが
君主の出身も違うし、高官の出身地構成も違うよ。
つかたまに出る長文カスがうざいな
縦読みすらする気せん
考察スレで長文がウザイとか言ってるアホは出てけ。
劉備も経験を積んで人を見る目はかなりあっただろうけど
キレてる頃の孫権は人事当てるは育成
キレが無くなってからも陸抗重用なんかで
人材に関しては孫権の方が上手っぽい
最後劉禅に諸葛亮を残した劉備と、陸遜を憤死させて諸葛格を残した孫権か…。
418 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 23:22:49
袁紹は官渡で惨敗
曹操は赤壁で惨敗
劉備は夷陵で惨敗
孫権は晩年の老耄
419 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 23:24:34
蜀は人口から考えても魏に勝つのは無理だったんだろう
信長みたいに頭が切れて勇気のある奴は中国にはいるわけないしね
兵隊の数だけで中国じゃ決まりそうだよ
まあ呉も蜀よりは強くても魏とはだいぶ違うからな
420 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 23:26:52
ビホウとフシジンって関羽と
うまくいかなくて呉に投降したんじゃ
なかったっけ?
確か呂蒙の大軍に囲まれて無条件降伏?
421 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 23:29:36
建国当時は北斉に国力で劣っていた北周が
名君武帝の登場により北斉を滅ぼしたという事例がある
かならずしも国力で全てが決まるわけではない
上手くいってなかったんだろうね。
城には兵も兵糧もあっただろうから。
423 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/23(土) 23:30:41
>>420 頼むからこのスレを一度は目を通してくれ
そこの議論がいくつもころがってる
呉が蜀(関羽)を攻めた意味ってなんだ?
その後成都を攻めたのではないから天下二分てわけじゃないだろう
蜀の足引っ張っといてその後魏にも攻め入るって意味わかんね
借刀殺人という計略
関羽を討つにしてもキツイところは曹仁に任せて、美味しいとこ取り。
「孫呉第四軍師呂子明が楽してズルして頂かしらぁ〜」みたいな。
足を引っ張らないと何処まで伸びるか想像も付かなかった。
ましてや武帝は関羽斬首後に直ぐに亡くなっている。
呂蒙の判断は必要悪かつ妥当なものだよ。
そのまま組んでいても今度は逆に蜀によって滅ぼされるだけなら、鼎立に持ち込んだ方がマシ。
>>425 荊州は元から呉が欲してた地。
蜀に優勢になられすぎるのも困る。
以上の理由からだと思うが。
あまり考えすぎると思考の袋小路にはまりそう。
>>425 まずは呂蒙伝の該当箇所を読んでくれ。そこに一応の理由は書いてある。
そこから先は各自の推論になるが、読んで気になる点があればまた聞いみるといいと思う。
対魏で状況が閉塞していた呉が荊州に活路を見出した、ってところじゃないかと。
策の実行者である呂蒙は徐州攻略ルートに否定的で、関羽に対して敵愾心バリバリの対蜀強行派、
荊州攻略も防衛の為の策ではなく領土を拡大した後に荊州方面から北上する攻めの策で、
想定通りに推移すれば蜀も魏も同時に敵に回すという非常に危うい策だった、
結果的には良くも悪くも三国鼎立が強固になったけど、やった事の意味を考えればむしろ三国鼎立の破壊で、
荊州の賃借問題やそこから来る対蜀・関羽への悪感情、そして呉が魏から圧迫される状況から打開できないにも関わらず、
日の出の勢いを見せる蜀への複雑な感情の爆発とか色々複合した結果の侵攻だと思う。
正直戦略的・大局的とは言い難い、三国鼎立へ行き着いたのは偶然の要素が大きい。
徐州方面攻めるならやっぱ合肥通るの?
単純に張遼アレルギーとかじゃないの?
そこで海路を使って後方攪乱ですよ
>>429 指摘すると、
呂蒙は、襄陽を抑えれば曹操に憂いを抱くこともなく、
関羽の助けは必要ないと言ってるだけで、荊州から北上とは言っていない。
また魯粛の同盟策も、同盟勢力という他者に戦略の要諦を委ねなければ成らず、
結局の所、偶然の要素、他力本願、希望的観測の含む物であることに変わりない。
弱者の戦略に偶然的要素が入るのは当然。
そもそも、呉の戦略の閉塞状態は劉備のみに伸張を許し、
呉そのものの伸張どころか荊州や劉備に対する明確な戦略を持ち得えなかった魯粛の責任が大きい。
これも同盟のよって当面の北からの圧力を和らげる意図があったわけで、
それが為のリスクだったことも考えなければならない。
私は魯粛の戦略も呂蒙の戦略も、呉の国として大局を考えた物で、
その時に於いて個々人が取りうる手段を選択し、
一歩ずつ地歩を固めようとした物であると思います。
荊州から北上とは言っていないけど襄陽を抑えといてそこから北上しないわけないじゃん
呂蒙の戦略としては蜀を先に攻めるつもりだったんだろうけどね
合肥と襄陽からの同時作戦はなぜやらなかったのだろう
襄陽は占拠してたけどすぐ取り返されちゃったからかな
それか魏と野戦できる陸戦部隊が揃ってなかったのかやる気がそもそも無かったか
やった
その度に合肥の攻略に失敗した
まぁ是が非でも抜くという気概はなかったような気がしなくもない
>>432 指摘すると、呂蒙の戦略へ至るには魯粛だけでなく周喩・孫権の存在も大きい
魯粛が早世しない場合に呂蒙と同様の戦略を採ったかは不明だが、
そもそも呉の戦略に閉塞感が出たのは合肥・濡須での敗退が原因
437 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 21:44:56
もし呉が合肥と濡須を勝っていて、かつ馬超が健闘して
長安を維持していたら、かなり違った展開になったと思う
張寮が合肥守れなかった時点で呉の勝ちじゃね
濡須での敗退とはなんだっけか?
濡須では勝ったけど降伏した
>>432 俺が言ってる北上とは襄陽奪取の事、また433が言ってるとおり魏の領土である襄陽を奪い取って
そこからさらに北上しない可能性も薄いと思われ。
また俺は魯粛の同盟策が万全だったとかそういう主張ではなく、呂蒙の戦略は三国鼎立の破壊だという主張だよ。
(ただ魯粛の戦略が頭打ちに近い状態だったのはその通りで、これは魯粛の責任)
もし仮に呂蒙の戦略が実行に移されれば蜀と魏の両方を敵に回すことになり、
蜀と同盟を結んで魏に当たるという三国鼎立とは逆方向の戦略、
再び三国鼎立に行き着いたのは魏へ侵攻する前の呂蒙の死去、夷陵での陸遜の大勝と劉備の死、
丞相の諸葛亮が呉との同盟志向だった事や夷陵で大打撃を被った蜀を立て直す手腕を持っていた事、
そういう偶然が絡み合った結果があってあの状態に落ち着いた。
んで俺が戦略的でないと評したのは魏と蜀を同時に敵回そうとした事で、
これは弱者の戦略というのは博打の戦略過ぎるから、とてもではないが成功したとは思えない。
>>433 呂蒙案では白帝に潘璋、蔣欽が遊軍一万人を率いて長江を上がり下りして敵に応戦、
だから蜀まで攻める気は無いと思われ。
ただ蜀の侵攻を予見しながらも潘璋と蔣欽の1万で応戦する気だったから
かなり無茶な戦略だと思うけど。
呂蒙の戦略は、長江ラインに沿って魏からの侵略を単独でも十分防げるっていうやつでしょ。
だからこそ孫権は、壮大さでは周瑜に及ばないと言っているんじゃないか。
最も、これが見事に当たって呉は3国の中で最後まで生き残ったわけだけど。
第一、戦争においても常に万全を期する呂蒙が無茶な戦略を立てるものかね。
政治的にはともかく戦略的戦術的にそれなりに勝算があったんだろうな
それに呉が荊州をしっかりと取りさえすれば
蜀が呉と戦うと言うのは
三国鼎立とは逆方向の戦略であり弱者の戦略というのは博打の戦略過ぎるから
蜀が敢えて呉と消耗戦をすることも無いと考えたのかも。
周瑜:大呉主義
魯粛:大呉主義、同盟重視
呂蒙:小呉主義、同盟軽視
陸遜:小呉主義、同盟重視
>>441 史実通り直ぐさま取り返しに来ればまだ魏との関係は続いてるため二方面作戦は避けれる。
また期間を置けば荊州は安定し感情論的な名分も薄れ自然と領土も固定化される。
両国とに窓口を開いてる呉の特性を活かして二方面作戦は立ち回りで避ける自信があったんじゃないか?
それ行き当たりばったりすぎじゃねーの?
魏に背後を任せるというのもおかしいし、
運良く蜀を追い返してもどちらかが滅ぼされる可能性大じゃん。
三国鼎立は偶然の産物。
448 :
.:2006/09/25(月) 08:03:21
呉蜀には曹丕の早死が最大の幸運だったな
逆に最大の不幸は曹操の長生きか(w
449 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 08:17:21
曹操が死んだ時点で曹叡が跡を継いでいたら、魏は天下を統一できた可能性があると思う?
450 :
.:2006/09/25(月) 08:38:44
曹操が死んだ時点だと16歳か?
36歳で死んでるから在位20年か・・・・・曹彰やら曹植が邪魔しなきゃ何とかなるかな
しかしどいつもこいつも早死だなぁ
>>446 関羽が殺されたのが220年の1月くらい、劉備の出兵が221年の7月だから
結構期間が空いてるんで、史実どおりの出兵だったら魏と開戦してると思うけど。
>>447 可能性は低い、蜀も呉も防衛ラインは確立していたため、
政治の腐敗がなければ専守防衛の5年や10年くらいは可能。
むしろ曹丕長生きしたら
司馬の離反が起きなかった目はどうなんだろ?
曹爽の暴走無かったらどうなってたんだろうな
455 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 19:37:39
曹叡が長生きしても、結局は曹芳と同じような運命を辿ったと思うよ
456 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 19:55:50
蜀は、蜀を得た段階で、荊州を呉にやるべきだったんだよ
または、襄陽あたりの北方を呉にやって、蜀は南方を取るとかね
三国鼎立の基本戦略は、蜀と呉が結んで魏に対抗すべきなのに、
荊州問題で呉と蜀が争う形になったのが、最大の問題だよ
でも荊州あっての天下三分だったんだろうしなあ
>>456 >襄陽あたりの北方を呉にやって、蜀は南方を取るとかね
逆だろ
459 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 20:12:10
呉や蜀に天下統一の機会が僅かにでもあったら、天下三分の計なんて出てこないからな。
よく勘違い&中華の誘導に引っ掛かってる人いるけど。
天下三分の計とはただ3勢力で残って争いあうことじゃなくて、(だとしたら計略でもなんでもない)中華は一つ、太陽は一つであるという概念&宗教をぶちこわして世界を3つに割り冷戦を展開する計画だ。
フランク国が今の独仏伊に別れているようなもの。たまにちょっかいはだすが、たがいに独立国家だ。
当時は今で言う地球を物理的に3つに割るくらい衝撃があった。だから、蒼天の変態孔明もやぶさかではない。
どうでもいいが蜀も呉も、魏を倒した後のことは全く考えていないよな。
本気で統一するつもりなら劉孫両家の連結は絶対的なものにするべき。
孔明の天下三分も孫家に対する協力報酬を全然考慮していない。
ゆくゆくは先主を国王、孫権を首相として北朝に対抗するのが最も北朝妥当の可能性が高い勢力構成だった。
それを取らなかった時点で相互に足を引っ張り合うのは目に見えているはず。
先主が孫家の御輿になることを拒んだ時点で同盟破綻は必然だったのさ。
462 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 20:52:19
>>458 いや、そのままだよ
呉と魏を戦闘に持ち込ませるためさ
江水(長江)系の南部を捨てて漢水系の北部を取るのは有り得ないだろ。
徐州時代に何とかすべきだった説。
孫策、周ユの長生きした仮定。
魯粛の同盟重視政策を呂蒙が告いだとする仮定。
逆に呂蒙の長生き(カンウあぼん)→蜀制圧の天下二分とする仮定。
イリョウは不必要だったとする説。
キョウイ、孔明の北伐を呉と合わせて出兵すべきとする説。
この中から一番天下取れそうなの探そうや。
うん、それが第一
第二に蜀は自らの手で中原を奪回しなくてはならない。
そのためには荊北と長安の二方面からの同時進行が必要。
長安方面だけではムリポ
>>464 単純に時代が経てばたつほど可能性が悪くなるかと
早いうちの仮定でいくとしてもその後の展開は全く違うものになるから
予想しようにも出来なくなる。
468 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 22:31:12
魏フウの反乱が成功していたらと言ってみるが
あまり関係ないか。
それにしても文欽は反乱側にしか付けないのか。
逃避行中に逮捕され処刑。
酸棗戦で戦死。
青州黄巾との戦いで降伏交渉失敗。
張呂陳の反乱で本拠地完全失陥。
官渡戦で敗北。
袁氏の後継者闘争が起こらない。
二袁のどちらかが来ても武帝以上の脅威には成り得ないだろう。
袁紹が曹操を破れば、孫権や劉表はそれに従ったのかな?
劉表は袁紹の与党だからその公算は高い。
472 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/26(火) 20:48:23
劉表は初めは従っても後から裏切りそうな気がする
473 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/26(火) 21:46:46
赤壁の戦いは袁紹VS孫権・劉備になるのかな?
北伐単独成功はさすがに無理かw
蔡ボウの暴走があったら面白そうw
476 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/26(火) 22:05:01
>>473 そうなるかどうかは後漢皇帝の
扱い次第じゃね?袁紹は献帝を
認めていなかったわけだし。
477 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/26(火) 22:09:25
劉備はまっさきに担ぎ上げるよね
孫呉は・・・・どうでるんだろ
呉という国を存続できるなら臣従という形をとるかもしれないね。
でも元魏の将が呉に流れてたりしたら交戦派が勢い持って抵抗するかも。
480 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 06:54:37
赤壁の戦いが袁紹VS孫権・曹操になる可能性は?
赤壁の戦いそのものが起こらないと思う。
482 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 10:51:02
北伐やめてひたすら西進and南征。
483 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 17:29:40
徐州の民衆は、魏と呉のうち、どちらの支配を望んでいたのでしょうか?
税の軽い方
485 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 17:31:48
魏
487 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 17:44:54
魏のほうが軽かったらしい
だから、呉より魏の領土であったほうが良かったらしい
呉の領土になるのを防ぐために、魏が徐州の税を軽くしていたらしい
488 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 17:53:34
呉の戦略は、魏とは正反対で、民衆から過酷に重い税を取立てたらしい
つまり、人心を掴むことより
徴収を徹底することで財源を確保することを優先させたらしい
呉は魏に比べて弱小だったから、税を軽くするような余裕が無かったらしい
いまだに南京がどうのとブーたれる連中が
よく曹家に従属していられたな
491 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 17:58:20
>>490 魏も強固な支配基盤を確立した地域には重い税を取立てていたそうだよ
呉の重税について手軽に知りたい人は講談社学術文庫の「魏晋南北朝」でも
読んでみるといい
493 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 18:07:55
つか税軽いままで戦争出来る状態維持なんか出来ないんじゃないの?
備えがなけりゃ負けるんだし。
495 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 18:53:42
文帝は秦淮の住民の大半を内地に移住させたとか聞くが本当か?
それだと三国時代後期の戦いが何の益も無い陣地戦だと言うのは判るが…
>>495 地域辺りの収入の絶対量が違うんじゃないの
498 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 19:10:07
中原の戦乱から逃れて、魏から呉に流入した人口は多いらしいよ
499 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 19:11:08
赤壁の戦いは、曹操が勝ったほうが天下万民の利益に適っていたわけか?
>>498 その後中原が安定するに従って人は中原へと流れていきました、という話ではなかったっけ
>>499 曹操が荊州に攻め込まなければ戦いにならなかった。
更に言えば官渡であっさり袁紹に負けてた方が天下万民のためには良かったはず。
魏も呉も蜀も天下万民の利益には繋がらなかったと
>>503 袁紹が中原に攻め込まなければ戦いにならなかった。
506 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 20:03:42
>>503 劉備が益州に攻め込まなければ戦いにならなかった。
更に言えば赤壁であっさり曹操に負けてた方が天下万民のためには良かったはず。
>>505 曹操が独立して皇帝を傀儡にしなければry
経済的側面から統一王朝の誕生を渇望する、下層民の声もたまには聞いてあげてください。
510 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 20:41:25
燕王に全てを任せようぜ
というか税制やら生産力やら、そういった事への興味は薄い人が多そう
レスが減ったから?
まぁそのへんは地味な内容だしね。
人物で話を進めるより、地形などで話を進める方がよほど現実味がある
>>506 三国鼎立後に蜀と呉がいきなり降伏した場合
武将たちはどうなるんだろ?
王平あたりは殺されると聞いたが
孔明や陸遜他重臣たちたちはどうだろう。
劉禅孫権は閑職だよね?
>>507 更に言えば董卓にあっさり従ってた方が天下万民のためにはry
鐘会の独立が成功してたら天下は統一されてた
魏蜀のトップクラスの指揮官2人と巴蜀の精兵
518 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 12:10:35
>>516 結論
宦官が何進に従っていれば何進の下で天下は安泰
始皇帝に逆らわなければよかった
521 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 12:52:50
>>518 張角が漢王朝を打倒してくれた方が天下万民のためには良かったはず。
よくない
張角の政治能力は未知数
キョチョの息子をあんな粗相で処刑するぐらいだからねぇ・・・・
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 18:47:35
赤壁の戦い直後なら、まだ呉にも天下を統一できる可能性はあったと思う?
無理だろ
どう贔屓目にみても無理だと思う。
魏の最盛期は、いつだと思う?
明帝期かな。
530 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 19:21:28
531 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 19:22:11
張春華様∩(´∀`∩)万歳
魏ですらないのは内緒か?
534 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 20:15:57
魏じゃなきゃ何なんだ?
535 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 20:16:46
全て漢
536 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 20:27:44
つまらない事言うな
うわ、痛スギ
538 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/29(金) 06:21:12
カンヌの孫権の息子を「犬コロ」呼ばわりは正史でもそうなの?
カンヌが孫権と信頼関係を築いていたらケイ州は安泰で、カンヌは守りきれていたんだよね?
それとも犬コロ発言は演義の「カンヌのケイ州失陥への布石」なの?
>>538 関羽伝にも、呉の使者を罵倒したという記述はあるよ。
ちなみに、関羽が孫権を罵倒したことは呉が蜀を攻める大義名分の一つにすぎない。
荊州は呉の国防に絶対必要である土地だから、もし孫権を罵倒していなかったとしても、
荊州攻めの大義名分が一つ減るだけで結局攻め取られていたと考えるのが妥当ではないのかな?
荊州を落とした後の超速基盤固めには少しは影響する可能性も無くもないかもしれないけどね。
罵倒したどころか援軍要請も突っぱねたんじゃなかったっけ
それで呉としては同盟の維持や荊州の返還に疑問が生じたってことでは
いずれにせよこの時期の蜀の外交は杜撰すぎる
支援の提案じゃなかったっけ?
つってもそれをネタに後で返還を迫るのは目に見えてるけどな。
後の外交を考えるなら支援は受けるべきだった
長安・荊北の制圧のほうが蜀にとっては荊州より重要だったと思う
んなこたぁない
荊北取れても荊南なきゃ蜀から荊北は孤立した土地で守れない
朱崖州と夷州に黄金が埋蔵されてると教えて彫らせろ。
糸井重里じゃあるめぇし。
547 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/29(金) 13:51:16
呉に荊州を返還しても、呉が劉備に協力したとは限らないのでは?
無理
ttp://a-draw.com/uploader/src/up0686.jpg.html ≪西部戦線≫
Chengdu:成都 Hanzhong:漢中 Xi'an:長安
≪中部戦線≫
Yichang:夷陵 Shashi:江陵 Xiangfan:襄樊 Nanyang:宛 Luoyang:洛陽 Xuchang:許都 Handan:冀州 Taiyuan:并州
≪東部戦線≫
Hefei:合肥 Huainan:揚州 Xuzhou:徐州
Nanjing:建業 Chaohu:居巣 Tongcheng:廬江 Jiujiang:九江 Wuhan:夏口 Puqi:陸口
呉にとっての荊州は、蜀にとっての漢中みたいなもの?
>>543 荊北取ってしまえば上庸の劉封とかと連携利かない?
ゲームだけ?
蒋宛が考えてた漢水下って呉と連携取って
荊州を攻める案はそういう事じゃないの?
ゲームだけなんじゃない?
>>556 そら勿論解ってますけど、劉封と連携取っても微妙か
強かったという説もあるし、人を見る目がある劉備が気に入ったぐらい
だから凡将ではないだろうけど、曹彰には負けてるし
劉備に人を見る目が?wwwww
んなアホな。
559 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/29(金) 22:17:17
李厳の偽情報事件は大勢に影響なし?
>>557 曹彰は漢中戦に間に合ってないよ。
あれは演義。
蒋宛が馬鹿だったということでおk?
諸葛亮が推薦した人物だから、所詮肝心のところで馬ショク並みの大失態をしていた、と。
おいおい^^;
>>560 マジで?なにが正史で演義かわからんな。
>>563 魏略曰、太祖在漢中、而劉備栖於山頭、使劉封下挑戰。
太祖罵曰、「賣履舍兒、長使假子拒汝公乎!待呼我黄鬚來、令撃之」
乃召彰。彰晨夜進道、西到長安而太祖已還、從漢中而歸。
彰鬚黄、故以呼之。
という風に任城威王彰伝に注が引かれてるだけ。
正史に記述が無いだけで実は魏略の記述が異伝であり、実際は劉封対曹彰はあったかもしれないと強弁しようと思えば出来なくもない。
が、相手にはされないだろう。
はあーじゃあなかったのね。
横光で読んで劉備は息子も曹操に勝てないのかと思ったんだよな
孟達が直後に挑むけど後で出てきて、え?死んでなかったの?とも思った
曹否と孫権、曹彰と孫策
どっちが優秀なんだろう
>>565 ちなみにその頃、孟達は宜都太守で秭帰から北上して房陵を攻略中で漢中にはいない。
その後、劉封は漢水を下って孟達と合流し上庸へ向かうわけだけど、これはやっぱり曹操が漢中から撤退してからのことかな?
567 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 00:23:25
しかしよく漢中から川下って合流したよな
怖くなかったのだろうか?
下手した孤立するのに
最悪大将の自分だけは逃げれると思ったんじゃない?
>>568 それもあるかもしれませんが
もしかして既に孟達はほぼ城を制圧寸前ではなかったのでしょうか?
>>571 能力はあっただろ
3人とも諸葛亮の人事ミスが原因
それに李厳は立場的に重用せざるおえないしな
防衛上の観点から荊州を取りに行くのは呉として選択肢の一つだが
関羽殺したことで呉蜀消耗戦が勃発し、両方の機会を奪い去った。
生かしておけば、仮に戦いが起こったとしても和睦の可能性はまだあった。
小さいところ同士が潰しあったのが決定的。
蜀の北伐ではもう無理、せいぜい領土が少し違った程度だろう。
そこら辺が呂蒙・陸遜をあまり評価できないところなんだよな。
天下統一などしませんよ、自分のところの安全が確保されればいいんだ。
と言ってるみたいで。立場的にはわかるんだけど。
陸遜関係なくね?
関羽の態度から呉蜀の消耗戦は絶対だからそれが早いか、遅いか
呉に有利か、蜀に有利かでしかないよ。
>防衛上の観点から荊州を取りに行くのは呉として選択肢の一つだが
ひとつじゃない。
殆ど絶対条件といってもいい。
そもそも蜀視点で御都合的に考え過ぎ。
>>574 夷陵を決断した劉備はどうなんだつーの。消耗戦引き起こした愚行ってか?
呉オタに話にならんのがいるな
天下統一する気がない、しなくてもいい、史実通りの方法がベストだった、これらの意見の方はお引き取りください
スレの無駄だ
劉備にしてみれば関羽殺した時点で、目的が魏より呉になるわな。
君主としては明らかに失格だけど、それが劉備だし。
上でも挙がっているが、あの場面で呉はそれをわかっていたのに
関羽を殺すしかなかったのかなあ?
蜀はよほどの僥倖がないかぎり無理だったけど、
呉はまだわずかに選択肢があったと思うのだがことごとく潰れた(潰した?)
周喩や魯粛が長生きしていたら大分違っただろうか。
関羽が死んだ後世代交代のようにばたばた死んでくからな
夷陵でも双方の武将が大量に死んだし
蜀は馬良、黄権あたり失ったのは痛いよな
>>580 魯粛に荊州問題が解決できる手段がなかったから
呂蒙が行ったわけなんだけどね
魯粛が長生きして出来ることは、濡須で北からの圧力を必死に防ぎながら
劉備が益州と荊州から行動するのを指をくわえて見てるだけだろう
蜀にしてみれば諸葛亮の独裁体制にならざるを得なくなった時点で
現実的にはもう天下は無理だったからなあ。
ただでさえ人材不足の中であれだけ失ってはなあ。
人材の死も痛いが1年間も戦いが続いたというのが
双方の国力に大きな痛手だった。
呉オタだが。
荊州奪取が呉にとってMUSTとは言えん気がする。
孫権が魯粛を任用していた以上、荊州は超重要拠点ではあるが、
それ以上に劉備と共同する必要性の方が高いと感じていた時期もあったはず。
ところが劉備側にその気がなく、魏呉の争いを上手く利用して勢力を拡大。
呉からの外交圧力にたいしては関羽を使って実力で排除しようとした。
こうなると呉は同盟の利がないので蜀を敵国としてみなすようになり、荊州を奪った。
劉備もまた奪われた土地を奪還すべく出兵、結果は史実の通り。
蜀政権に荊州閥がたくさんいる以上、関羽が生きていても出兵はすると思う。
結局荊州失陥ってのは呉にとって同盟に利益があるものと
思わせることができなかった(その気がなかった)
劉備側の戦略ミスでしかないと思う。
どっちが悪い、こっちに非はない
そんな意見に何の意味がある?
劉備側は外交の傲慢さ、孫権の同盟に対する評価を見誤っていた、
孫権側は徐州進出失敗のツケ、中魚を得て大魚を逃した、ただそれだけの話
どっちもどっち、50歩100歩
586 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/01(日) 23:00:12
孫権はヨウガイを唆したり、公孫淵を唆したり
外交は上手だったと思う。その点は評価できる。
しかしながら兵士不足から積極的な出兵が出来ず、
結果的に蜀と同時北上しか手はなかったと見る。
≪西部ルート≫
成都―剣閣―漢中―長安
≪中部ルート≫ \
江陵―襄陽―樊城―南陽―洛陽―許都―魏郡
≪東部ルート≫ / /
建業―居巣―合肥―寿春―徐州
≪長江ルート≫
成都―巴郡―三峡―夷陵―江陵―陸口―夏口―九江―廬江―建業―呉郡
>>587 東部ルートが笑えないレベルの金城湯池。遼来来恐ぇー。
隣の中部ルートを使おうにも関羽に拒絶される。どうすりゃいいんだ。
しょうがないので、がら空きの長江ルートを溯上するしかないだろー、
荊州取っちまったら全面戦争間違い無しだし、ムカつく髯の首は刎ねちまえ!
文句があるなら掛かってこいや大耳児!
「以逸待労」と「火攻」のコンボで配下将兵皆殺しじゃゴルァ!
…ってのが呉の本音かと。
天下がどうのこうの言う以前にあのまま律儀に同盟を遵守しても逼塞は確実だしな。
>>587 寿春から洛陽に向かうには、途中許都を抜かなきゃならんぞ
あと、南陽から洛陽は、摩陂と梁を経由して北上する事になるが、
そうすると連絡線の防護が大変なので、やはり先に許都へ向かった方が良い。
わざわざ江北なんか行かんでいいんだよ
お外行くのかったるいし、飲んでくだまいてたほうが気楽だし
むかついた奴は流して、やりすぎるとジジイが口だししてくれるから
591 :
美修正:2006/10/02(月) 00:31:31
≪西部ルート≫
成都―漢中―長安―新安―洛陽
≪中部ルート≫ ↓
江陵―襄陽―樊城―南陽―許都―官渡―魏郡
≪東部ルート≫ / ↑
建業―居巣―合肥―寿春―徐州
≪長江ルート≫
成都―巴郡―三峡―夷陵―江陵―陸口―夏口―九江―廬江―建業―呉郡
しかし、こうなると曹操が赤壁の引き金となった
降伏勧告だしたのって事実上の呉へのチェックメイトだわな。
赤壁の頃は江陵まで抑えてたからな
角に追い詰めて後一手で積みってとこで反対側の角までワープ
したようなもんだな
常識的に考えれば襄樊を押さえるのが限度で、江陵まで押さえるのは性急過ぎる。
それほど先主の割拠を嫌がったのが見れるし、ここで手を緩めなかったことが両方とも失敗した原因だろう。
208年の赤壁以後は263年の蜀滅亡まで長江ルートに食い込むことすら出来なくなってる。
その間、実に半世紀近く。やはり赤壁の敗戦はそのレベルの大損害だったと推測出来る。
官渡戦の明らかにおかしい兵力をそのまま書いてる点から見ても、赤壁の負けも実態を疑うべきだろう。
江陵まで押さえるのはなんら問題は無い
アホなのは江陵を越えて劉備を追って大敗したこと
さらにアホなのは江陵を失ったこと
半世紀近く長江ルートに食い込むことすら出来なかったのはそれだけ長江防衛が堅固だっただけ
江陵は長江防衛の肝だから劉備が江陵で息を吹き返すのを恐れるのは分かる
597 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/02(月) 21:39:40
呉は、なぜ赤壁の大勝利を生かせなかったの?
それほどの大勝利じゃなかったってオチが案外。
599 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/02(月) 21:49:17
>>597 逆に考えるんだ
赤壁の大勝利を生かしたからこそ江陵まで落とせたんだと
>>581 >夷陵でも双方の武将が大量に死んだし
呉側で死んだ武将って誰だろ?
>>583 >双方の国力に大きな痛手だった。
直後の魏の侵攻も全て退けてるが、呉の国力の大きな痛手とはどこから推し量ったの?
普通に考えれば損失は大分抑えられ、荊州南部を手に入れ国土拡大と交易路掌握で国力はかなり上がったと思われるのだが。
>>585 徐州進出が荊州獲得に比べ大魚ということだろうか?その心を詳しく。
>呉側で死んだ武将って誰だろ?
甘寧
確かに正史スレとは書いてないが…
ああ、そうか演義では沙摩柯にやられたんだっけ?
演義ありなら「魏延が孔明の延命の儀式を邪魔しなければ」つーのもポイントの一つじゃない?
>>606 魏を叩く好機とは?どんな展開を想定してるのか具体的にお願い。
>>606 徐州に出たところで魏の兵力とまともにやれないから撤退だろうな。
609 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/03(火) 00:26:18
ケイ州は確かに三国の中心に当たるから防衛は難しいだろう。
徐州を取る最大の欠点は兵士を滞留させなければならないこと。
兵士不足の呉にとっては無理だったんだろうなぁ。
呂蒙の言で考えるならば、徐州を奪い取ること自体は問題ない、
呂蒙が問題にしているのは後に曹操が軍を率いて奪いに行く事。
だから焦点になるのは当時の魏(曹操)に徐州へ侵攻できる余裕があったかどうかと、
その後の展望だと思う。
で、私見だけども関羽が北上している際の魏に徐州へ兵を送る余裕は無いと思う、
夏侯淵が漢中で破れ、曹操も漢中で攻めあぐねて被害だけを被って撤退、
荊州では荊州北部の指揮権を持つ曹仁は数千(討ち減らされた?)で篭城、
援軍の于禁軍3万は完全に壊滅、対関羽に兵を急遽集め中。
そんな状況下で呉が徐州へ攻撃を仕掛ければ関羽へ掛かる圧力も減り、
荊州戦線は停滞or後退する可能性が高いし、徐州へ遠征する余裕があるかどうか・・・。
特に曹操は遷都を考えていたし、呉と同盟できなければ実際に遷都してしまうんではないだろうか、
そうすれば荊州・徐州を失った魏内部も混乱するであろうし、曹操の死去が重なれば
魏は大混乱に陥ってもおかしくない。
まあ上に書いた事は蜀の伸張を許す上に当時の視点ででは不確定な事が多いのでリスクが高いのが欠点。
このスレではあくまで蜀または呉が天下をとる、統一するって前提で話してるんだから、
国力比が魏:呉:蜀で7:2:1と言われる小国同士が争うのはどう考えてもマイナスにしかならんよ
天下統一のためには、魏が河北への後退するあたりまでの同盟の維持が必要だろう
>>609 ここで言われる荊州というのは江陵を指すから、防衛は難しくはないだろう
赤壁での蜀と呉
れをベースにできなかった。
人材的には魏が圧倒してのは間違いない。
呉は周瑜が死亡して基本的な国家戦略がぶれた。
と言うことで周瑜の死亡が呉の誤算。
蜀は呉との対立、孔明の過度の進軍により一発勝負に出れない
、土地の問題により進軍の難しさ、そもそも人口不足により魏にダメージを与える事ができない。
呉の人材最盛期は赤壁かねえ
蜀は益州取った直後か?
魏は郭嘉が死ぬ直前ぐらい?
赤壁以後に正直チャンスあったと思えない気が。
北部統一されて北方の情勢がひとまず落ち着いてしまったら
(公孫一族とか匈奴とか不安要素はまだあるにはあるけど)
もう、あとはそれこそ天下三分して
延命していくぐらいしか蜀と呉は道が見えないかと。
官渡の直後に誰かが官渡の勝者にちょっかいをかえられれば
また違った展開になったのかもしれないけど
それこそ孫策の暗殺が痛すぎる。
赤壁後最大のチャンスは関羽の北上
やはりカンヌの北上の時呉が協力姿勢だったならなぁ・・・。
そうじゃなきゃ厳しすぎるでしょ。
後、燕建国が早まれば言うことなしだね。
少なくとも魏の天下は無くなるわけだ。
赤壁で負けた時点で魏の天下はねーよ
618 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/03(火) 19:23:30
赤壁のあと数年は、魏と呉が停滞期に入ったのに対して
蜀は躍進期を迎えたので、ここに逆転の機会は無かったのだろうか?
619 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/03(火) 19:34:12
ないよ
>>618 赤壁のあと数年間の蜀は劉備が暴れてました
621 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/03(火) 19:54:28
>>612 周瑜の死って誤算ではあるだろうけど、呉にとっては±の両方が存在する。
プラス面は周瑜自身が優秀な司令官である事、また仮に征蜀が成功すれば呉は一気に勢力拡大に成功する事。
マイナス面は周瑜が征蜀に失敗した場合の展開がかなり悪くなる事、遠征に失敗すれば国力が減退するだろうし、
最悪の場合は対蜀の遠征が長期化して、その間隙を魏に突かれ一気に勢力が後退する事態に陥る可能性もある、
個人的にこの可能性は決して低くは無いと思う。
以上の点を踏まえた個人的な感想を述べると、周瑜の死は結果的に呉にプラスであったと思う。
周瑜が死ぬ事によりリスクの高い征蜀を避け、魯粛が劉備との同盟政策による天下三分を具体化できた事は大きく、
征蜀を実行する前に死去したのはむしろいい時期に死んだとさえ言えるかもしれない。
まあその後の魯粛の死も大きな分岐点であったが、荊州奪取を実行できた呂蒙に後を継がせれたのはまだ良い時期に死んだと言えるし、
呂蒙は呂蒙で荊州奪取後に魏と戦端に開こうとしてたから、呂蒙もいい時期に死んだと言える。
そう考えれば周瑜〜魯粛〜呂蒙〜陸遜の流れはベストとは言えないが、ベターな流れだったと思うな、
人材的損失は痛いけど、バトンタッチ出来た時期を考えればそれを補える位いい時期に死ねた。
はいはい
そうして引き篭もっているうちに国力差はどんどん開いていき、滅亡することになりましたとさ
いい流れでしたね(^^)
>>623 蜀も呉も国力差というよりは内政の乱れが大きな原因でしょう、
遠征に失敗してそのまま滅亡なんて流れよりは、三国鼎立でチャンスを伺う方がまだ良い、
もっとも内部で破綻してれば世話無い話だけどもね。
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/03(火) 20:41:13
蜀も呉も引き籠ってないじゃん
引きこもるとかおいといても
周瑜が死んで一番いい方向にころぶのはどう考えても魏じゃん
>>626 いや、劉備だよ
自分で蜀を取る道が開けた
>>626 周瑜の征蜀が長期化(1〜2年以上)すればその間に呉の手薄な所に攻める事が出来る、
そうすれば呉を一気呵成に滅ぼせる可能性も出て来る訳だから、
一概に魏が得したとも言えない。
全ては蜀制圧を行う周瑜の手腕次第だろうね。
それでも一番得した人物を考えるならば
>>627の言うとおり劉備でしょう、
周瑜が成功しても駄目、失敗して魏侵攻の呼び水になれば最悪という状況だし。
>>623 そして最後まで残ったのは呉。
三国の中での一番の勝者は呉だといいたいんだな。
630 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/03(火) 22:25:50
赤壁の戦いでは、船団を焼き払われた曹操軍が
再び起死回生の大逆転勝利を狙うには、どんな戦術があったと思う?
>>622 鼎立ってこと考えたら悪くない流れかもしれないけど
統一を考えるとどんどん絶望的になってるよね
個人的には周瑜の早死はプラス面なんて考えられないくらいマイナスだったと思う
>>622 >最悪の場合は対蜀の遠征が長期化して、その間隙を魏に突かれ一気に勢力が後退する事態に陥る可能性もある、
>個人的にこの可能性は決して低くは無いと思う。
史実において江陵や南郡を押さえた劉備側が長期遠征しても侵攻の構えを見せなかった魏が、
呉の場合にだけ国境線を左右するような大侵攻を赤壁直後に仕掛けてくると思った理由はなに?
江陵を墨守する髯>>>>江東の犬
>>632 劉備の場合は魏の目は呉へ向っており、呉の魏への侵攻or魏から呉への侵攻
といった具合に呉が魏の注意を引き付けていた。
それから劉備は南郡を借り受けることにより荊州南部の大部分を領有する事が出来たけど、
周瑜の場合は荊州での領土は南郡と荊州のその他一部の領有に留まり、征蜀をするならかなりの兵力を
呉から引き連れて来なきゃいけないだろう、そういう面を考えれば楊州方面は手薄になってしまうし、
多くの人材を引き連れて向わなきゃならんから楊州方面からの侵攻は史実に比べれば
大分劣る規模になる、ひょっとしたら侵攻しないかもしれないので、劉備程の陽動は得られない。
また本拠の防衛という点に置いても劉備は味方として益州に入り込む事に成功してるから、
古参や兵力を荊州に置いて防備を疎かにしないまま侵攻の準備を整えてる、
さらに本格的に侵攻したのは曹操が孫権に対して遠征中の最中である212年中、
終了したのも曹操が孫権に遠征しようとしてた214年中だから時期的にはベストとしか言い様が無い。
劉備が受けたこれだけの恩恵を周瑜は受けられないのだから、やはり魏が黙ってみてるとも思えない。
635 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/03(火) 23:36:04
私見ではショウ会がトウガイを逮捕し、エイカンを反逆者に
仕立て上げることに成功していれば、呉にはまだチャンスは
あった。
>>634 210年に始まる周瑜の侵攻に対応しようと思ったら211年の関中制圧をキャンセルして南下するぐらいしかないが、
曹操が潜在的に10万以上の規模を有する後輩の不安材料を残したまま大敗の記憶新しい長江沿いの水郷地帯に再び大軍を動員するとは思えない。
>>632 呉の長江ルートでの方針
孫策期:九江〜江東間の制圧による自立が目的。荊州勢力と対峙しつつ北方を窺う。
周瑜期:夏口攻略が目的。赤壁以後は単独での長江ルート制圧が目的。
魯粛期:陸口〜江東間の維持が目的。対蜀外交は友好。
長江ルートの反魏勢力による完全制圧が目的、先主入蜀は次善策。
呂蒙期:夷陵〜江東間の制圧が目的。対蜀外交は敵対。
陸遜期:夷陵〜江東間の維持が目的。対蜀外交は友好。
陸抗期:夷陵〜江東間の維持が目的。圧倒的不利。
赤壁で中部ルートの完全優位が覆される戦力減があったようだ。後退の仕方が異常。
212年の先主入蜀時点でも本腰を入れた侵攻など不可能ではないだろうか?
210年の周瑜征蜀時点なら尚更。
東西を孫氏に挟まれれば先主の勢力も自然消滅するだろう。
280年の征呉戦時には西部ルートは完全制圧され、長江ルート上流に食い込まれている。
これは魯粛の国防構想の破綻を意味する。
(長江ルートに魏の勢力を入れないという点で)
呂蒙期:白帝城〜江東間の制圧が目的。対蜀外交は敵対。
じゃない?もちろんその場合、征蜀も睨んでるから事実上の天下二分。
>>636 211年の関中制圧の発端である馬超らの反乱は漢中へ侵攻しようとした曹操への反発から来るもの、
つまり210年の段階では関中制圧はキャンセル云々以前に起きてない事件、
もし210年中に周瑜が蜀へ遠征するというなら、曹操は荊州及び呉or漢中という選択肢を選ぶ事が出来る、
その場合大敵である呉が手薄になっているのならばそちらを選ぶ可能性の方が高いでしょう。
また赤壁はそこまでの大敗でないという話もあるし、わざわざ大魚を逃がす程、
敗北の記憶を重視するとも思えない。
思えないしね。
>>638 将来的には征蜀も睨んでいるだろうけど、孫権に戦略を語る段階では征蜀までは睨んでないと思うよ、
征蜀を睨むなら潘璋を白帝で留める意味が無いし、ショウ欽が友軍1万を率いての遊撃というのを
合わせて考えれば潘璋・ショウ欽は蜀から来る軍への防備だと思われ。
>>637 >212年の先主入蜀時点でも本腰を入れた侵攻など不可能ではないだろうか?
これは魏の事?だったら212年の段階で曹操は孫権討伐へ遠征してるし、
211年の段階では馬超を倒して関中を再制圧しているし、209年でも夏侯淵が雷緒を討伐したり、
軍事行動は行われているよ。
>東西を孫氏に挟まれれば先主の勢力も自然消滅するだろう。
これはどうだろうねぇ、自然消滅する前に何かやらかしそうだけど、
特に蜀が制圧されれば呉の東西は南郡を挟んだだけという非常に薄く東西へ延びる領土、
遠征を成功させても蜀を落ち着かせるには当分益州に兵を留めないといけなくなるから、
そこを狙われれば・・・とかあるかもね。
>>639 馬超らについては赤壁以前から周瑜が指摘してるぐらいで元々何時反旗を翻すかはわからない相手。
それを放置したまま、再び長躯して南下していくリスクを犯す意味は?そして勝算は?
「一気に勢力が後退する事態に陥る可能性もある」程の大攻勢をかけて打ち破れず、
馬超らが大軍を動員して侵攻してきたらどうするつもりだったと?それとも馬超が侵攻してくることはないと確信できた?
それらを片付けた212年の儒須侵攻だって殆ど交戦しないまま軍を返した程慎重になっているのに。
「また赤壁はそこまでの大敗でないという話もある」
これについても詳しく。
>>640 白帝って益州の玄関口でしょ。
こんなところ押さえられたら蜀としては北伐どころではない。
三峡を緩衝地帯にする方が天下三分には都合が良いだろう。
ところが白帝まで進撃する(つもりだった)ということは天下二分の実行かと。
敵が劉璋から先主に代わっただけとも言えるが、周瑜案の提示された時とは全然状況が違う。
これっていかにも軍人の発想ではないだろうか?
>>641 馬超、韓遂、張魯だのって先主や孫権に比べれば雑魚だろ。
何時でも打ち払える連中を生かしておくくらい207年時の武帝は勢力が張ってた。
それが一年で萎むくらいの衝撃が赤壁の敗戦かと。
>>632 その場合呉にとって劉備は潜在的な敵となることもお忘れなく
あと輸送線が江陵発なのと呉のどっかもっと東発なのかで負担も全然違ってくる
劉備の江陵は根拠地でもあり兵站基地なのでもあったのに対して
周瑜の江陵は軍事基地で兵站基地ではあっても出城にも近い位置
自ずから防衛体制の堅さにも違いが出てくるだろう
>>642 それでもかつて馬超らを放置して劉表討伐に向ったのは曹操、
リスクを犯す意味や勝算は既に書いたとおり、
周瑜が蜀へ向うならば呉の領土拡大を押し留めるとと同時に、
兵力が西へ行って手薄な呉領土に侵攻できるチャンス、
上手く生かしきれば南方に割拠する呉を一気に平らげるチャンスになる。
馬超らが大軍を動員できたのは漢中侵攻への危機意識から来るもの、
それまでは鐘ヨウが上手く関中を治めていたし、具体的に反乱を起こす前に危険視し過ぎるよりも、
明確な敵である呉が隙を見せればそっちを叩くことを優先してもおかしくない。
>「また赤壁はそこまでの大敗でないという話もある」
>これについても詳しく。
割と広まってる話だと思うけど?俗に言われてるような戦禍の後が赤壁に無い事や、
曹操側の戦死者が皆無な事、疫病で引いたという魏書の記述とか。
>>643 荊州奪われて関羽を殺された蜀はそれ以前の段階で北伐どころじゃないでしょう、
俺が言いたい事は、
呂蒙案では元々天下三分を取る気も無いが征蜀まで視野に入れてる訳では無い
という事で、白帝に潘璋を留めるのは益州の玄関口を押さえる防衛役で、
ショウ欽は益州からの侵攻に対する遊撃ではないかという事。
>>644 馬超らの反乱は些細な反乱を鎮圧しようと思ったら大きな反乱を招いてしまったってものだから、
そういうのではないかと。
曹操の支配はかなり脆弱なんだよ、実は。
旧袁氏支配下と徐州では虐殺の遺恨。
青州は黄巾地盤なので支配下といっても下手に手を出せない。
関中も荒れ果てた。
肝心の中原も荒廃と豪族支配で曹操は隙間を支配するのが限界。
一貫した行動など出来る余裕がなく、行き当たりばったりにしか動きようがなかったのが曹操。
蒼天はもちろん演義の姿も美化されているんだよ。
>>649 南軍が北上するたびに頻発する反乱がその意見を裏付ける。
651 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/04(水) 06:15:37
>>649 曹操の支配が脆弱なら、まだ呉や蜀にも天下統一の機会があったはずだが?
652 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/04(水) 08:30:29
>>651 我々が抱きがちなイメージよりは曹操は弱かった。だからこそ呉や蜀が勢力を伸ばすことが出来た。
もしもだが袁紹が官渡で曹操を破り中原を制圧していたら、不安要素が少なくつけこむ余地がないので呉や蜀や荊州はひとたまりもなかったのではなかろうか。
袁紹にそれだけの求心力があっただろうか?
彼は新王朝を立てるように動いていたので、もっと付け入れる隙ができたと思う
袁紹のただひとつ曹操より大きな不安要素は寿命。
中原制覇して新王朝立てるのは大した問題にはならないよ。曹丕が証明してる。
>>647 蜀に隙があれば蜀を攻める
魏に隙があれば魏を攻める
どっちでもなければベターに戦力を温存
って感じだと思う
機転の良さが呂蒙の武器じゃないのかな
それは機転かねぇ、という疑問を抱く人がいるわけでして
悪く言えば、目先の利益しか見てないじゃん、とも取れるわけでして
657 :
.:2006/10/04(水) 19:31:43
魏に攻め込んだら合肥カウンター
蜀に攻め込んだら自分が死んだ後に劉備本軍に攻め込まれてるからな
658 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/04(水) 20:21:12
呂蒙とケ艾の直接対決希望。
お互いに奇襲を得意としてるし
同タイプだろう。
寿命でケ艾の勝ち
冷静に対処されて、陸抗の勝ち
陸抗じゃしょうがないな
個人的にケ艾は三国志の歴史の中でトップ10に入るほどの
逸材だと思う。呂蒙はトップ10には入らん
待て、そういう時は五指で語るものだ
10じゃ多すぎてそんなことねーよと言われるのがオチだ
曹操、司馬懿、ケ艾でトップ3
陸抗は攻めに回ったときどうなんかね?
待て、それは司馬懿にも言える事では
666 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/04(水) 21:31:56
三国志の名将に順位を付けたら
1位:曹操
2位:陸遜
この上位2名は確定だろうな
問題は3位以下だが
司馬懿、周瑜などが有力候補だと思う
>>663 トップ5にしたいけど
曹操、劉備、孔明、仲達、周楡で決まりだからなあ
んで陸遜、孫策、ケ艾、張遼。あれ?一人たらねえ?
個人的な感情で姜維にしとこう。違うのは解ってるけど
少なくとも陸遜は無い
長生きしただけ
その難癖の付け方はないな
その基準だと全ての将が凡将になってしまう
>>646 劉表討伐って曹操が袁氏をついに掃討し上り調子の時で天下の趨勢がほぼ決まりかけていた時じゃん。
だから劉表死亡と同時に荊州は全面降伏し、それを受けて呉も降伏一色の状態となり、劉璋も帰順の流れだった。
それが赤壁で一変し、孫権陣営は以後強硬派が席巻し、劉璋も劉備を招き再度抵抗を示した。
ここで曹操勢力の求心力・権威が一気に落ちたのは疑いないところだと思うのだが、
「それでもかつて馬超らを放置して劉表討伐に向ったのは曹操」というのはどういう意味?
劉表討伐時と赤壁以後においても曹操と馬超の関係は大した影響をうけてないだろうという読みがあるのでしょうか?
そうじゃないなら、状況がかなり違ってるので比較対象として適切じゃないと思う。
「リスクを犯す意味や勝算は既に書いたとおり」
以上から曹操の持つリスクは急上昇し(敵対勢力は勢い付き)、長江流域での勝利の難しさは既に天下に証明された後に、
それでも尚長江流域越えを目指して大軍を動員し積極攻勢をかける意味や勝算は、「呉が手薄になっているから」の一点のみ?
どれ程周瑜が動員をかけるのかも不明だけど、揚州本国の防衛線が危ぶまれるのは大体どの程度からだと考えてる?
また馬超を大分信頼していた(だろうと推測してる)ようだけど、呉の防衛線を突破できるということは西方の防備もある程度軽視して
また10万以上のような大軍を動員すると考える?江陵は後に5000の兵で孤立状態から半年に渡る防衛戦に勝利させ、
揚州方面も進入を許したのは結局最後の一戦だけだけど。
>>646 それと赤壁について「割と広まってる話だと思うけど?」だけで内容の説明がないと、まるでわからないよ。あの大戦に対する認識はかなりばらつきがあるのだから。
「俗に言われてるような戦禍の後が赤壁に無い事や」←これは船の残骸についてのことだと思うが、噂レベルでなく
どこの研究機関・あるいは個人が何処を調べて(赤壁は最近まで場所に諸説があった)、その結果がどの程度信頼できるのか知ってるなら聞いてみたい。
「曹操側の戦死者が皆無な事」、それと「疫病で引いたという魏書の記述とか」についてもそうだけど、
疫病については呉書でも書かれているしなにか矛盾が出るわけでもなく「疫病で犠牲出したから」何が言いたいのかイマイチ伝わらない。
しかも魏書は疫病で「吏士多死者」だから引いたとあると当然知っているだろうに省いて「曹操側の戦死者が皆無な事」と言うのは何故?
貴方は赤壁の被害を具体的にどの程度なんじゃないかと思ってるの?「世間一般より云々〜」では曖昧すぎてわからない。
そういえば20世紀に至るまで
戦争の死亡原因のトップは戦死ではなく病死だったな・・・
下痢ピーで死んでいくんだろうな
>>667 t竊qヒy!yq夢q、q轆コxJ
t竊q`|Jz`?瑙qハ3x麭ィOw0uqハTOP3
t竊qィu\vハy!yq夢q、q輌ァqトq�q「qッqトqヌqタq�qツtラ|ンzサ|ンqニqナy\q�qトvq「qィ
qケq゙qケq゙y!yqヒtハy?qニy始メqテq柢ソqツq゙wdw!qハykvケメqテqヒqニq�q益ミ牧テq゙xォ。qテq゙vx尋テq゙q?
y!yvミu衛トby諂hqヌqッqッqテvツqメq赫ヒy!yqィゥ{Iqテykv?|FqツqツzYqヌvRq、qツq�qサq誨ウqサ牧ハw?z痃柢ソqツv痒ヒヌzォzvv紐qアq鑷サ
y!yvミuヒ薜w0zqテqヒu?{テq柢誨ケq鑷蚋竺q蚋ヌy?vj{ヒqヌu}|尋ウqサx~u述`{3yvj{ヒqテqハu}|尋ヌxェvウqサt竊qニqナqィqヲq?
y!yqヒゥvニqハvミ睦荒dr屍dqナ{Iqィvミ勃トqウqツzyqンqツqウqレqソqサqィvハqヌOw0框ヒハ{コxJqハyカz~qァq蚫|qィq諫-qスq逍qトqニqソqサqハqテq柢ソqサ
qスqニqロqヌ|Jzヒqケqハxレq鑷ニq�wIxゥq`?瑙qヒx施匝?qハzレ|lq|u^qウqツqハr(r2rmrbr2
誰か翻訳してくれ
2行目に TOP3 があることしか分からん
>>670 >「それでもかつて馬超らを放置して劉表討伐に向ったのは曹操」というのはどういう意味?
書いたとおりの意味、潜在的な反乱因子という意味では当時から馬超らはそうであったが、
曹操は大軍を動員して荊州征伐へ赴いており、反乱が顕在化されていない状態では
曹操は西方にそこまでの脅威を抱いていない。
>劉表討伐時と赤壁以後においても曹操と馬超の関係は大した影響をうけてないだろうという読みがあるのでしょうか?
受けてないだろうね、赤壁以前も以後も馬超らは曹操に対しては半独立状態のまま、
以前に本格的に臣従しようとした事も無ければ、以後に反乱行動を起こしたわけでもなく、
馬超らの反乱は漢中遠征への過剰反応の結果。
>以上から曹操の持つリスクは急上昇し(敵対勢力は勢い付き)、長江流域での勝利の難しさは既に天下に証明された後に、
この時曹操に明確に敵対してる勢力は張魯・劉備・孫権の3者程度しかいない、
その敵対勢力の中でもっとも強敵である呉が蜀に遠征を開始して江陵を手薄にしてくれるならば、
その一点がなにより重要だろう、リスクを取り除くチャンスになる。
また周瑜がどれ程の動員をかけるかだが少なくとも数万単位、2〜3万かそれ以上は必要だろうね、
(劉璋が防衛を気にせずに動かせる軍が3万以上、全軍合わせればもっと行くであろう事を考えればまだ足りないくらいだが)
そうなると南郡を手に入れて日の浅い呉は赤壁〜江陵戦までの兵をそのまま引き連れて征蜀する必要があり、
呉が絶体絶命だった赤壁でさえも動員できた兵力が3万なのだから、これに荊州の防備を出せばもっと楊州は手薄になる。
後に魯粛が劉備に荊州を任せたのもここらへんが原因だろう。
魏が動員する兵力も10万は超えるかもね、少なくとも馬超戦くらいの兵力は集めれれるだろうし、
江陵が後に5千で勝利できたのは偶然とも言える神業的采配のおかげだろ、それを基準に語る事は出来ないでしょう、
楊州方面からの侵入を許さなかったのは楊州を手薄にする自体がなかったせいに過ぎない。
>>671 >どこの研究機関・あるいは個人が何処を調べて(赤壁は最近まで場所に諸説があった)、その結果がどの程度信頼できるのか知ってるなら聞いてみたい。
さぁ、具体的には知らない。ただそういうのが出て来た事は無いとさ。
>「曹操側の戦死者が皆無な事」
これは言い方が悪かった、曹操側の戦死者っていうのは名のある武将の事ね、曹操軍で死んだ人物の名前は何処にも無い、
疫病が出たというのは、疫病が蔓延したところに呉&劉備との戦闘があって、その2つが重なったから引いたと言う事、
戦術的に大敗を喫したからというよりは、戦争続行を諦めたという事だろう。
だから赤壁での被害は『敗北の記憶を引きずる』というほどの大敗ではなく、小競り合い少々に疫病被害まあまあといったところでしょう、
それでも名のある武将が死んだ訳じゃないから疫病もそこまでの被害ではなかったと予想。
君はどの程度の被害だと思ってるんだい?
>>671じゃないが
曹操の軍事行動は翌年まで一切なし
最重要拠点な筈の江陵への救援は李通くらい
数は少なく守将曹仁を逃がすのが関の山
何で曹操は江陵を手放したのか?
長江北岸の都市だから襄陽と連絡が疎というわけでもなく維持は難しくないはずなのに
何で赤壁の被害が小さいなら救援の兵を送らないのか?
何で大規模な軍事行動は一年以上あとになって行われたのか?
江陵に孫権と劉備を釘付けにしている間に何で合シ肥を落とさないのか?
赤壁の敗戦を低く見積もると説明が出来ない事だらけだ
>>677 兵隊と指揮官の待遇の格差を知っての発言なのだろうか?
217年の司馬朗の末期が美談として伝えられるのはそれが稀なことだからだ。
貴方の例えは「農民が死ななかったから蝗害や凶作で農作物が全滅しても大したことはない」といってるのと同じ。
戦争が将だけでやるものなら、何故、呂布は194年に戦争を中断して武帝に勢力を立て直す時間を与えたのか?
兵が将と同じ人間か、それとも農作物のような資源かはともかく、疫病を軽視しすぎている。
680 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 22:10:56
>>664 トウガイの政治力は90以上あるはずなのにな。
っていうか農地開拓とか測量が彼の仕事だろ?
それが司馬イに認められて将軍に取り立てられたんだよな。
名将っていうよりは賈逵、韓浩タイプのような気がするが。
謀殺最凶の軍師と戦争最強の刺史が10万の兵を率いて南下してきたのだから、
一たまりもない。
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 22:28:24
赤壁の火攻めで曹操軍30万が壊滅したが、この戦いは周瑜が過労死する遠因にもなった。
魏は30万の兵力を失ったが、呉も周瑜という逸材を失った。
つまり、どちらにとっても手痛い結果となった。
そして、荊州を獲得した劉備だけが漁夫の利を得る結果になった。
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 22:32:17
>>683 >魏は30万の兵力を失ったが、呉も周瑜という逸材を失った。
どちらの損害が大きかったと思う?
687 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 22:38:39
>>686 赤壁の戦いは魏呉どちらの損害が大きかったのかな?
688 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 22:41:51
魏は20マソで呉は…
689 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 22:58:25
魏に一番勢いがあったのは、どの時期だと思う?
赤壁
赤壁の直前。
魏ではなく、後漢の権臣曹操の丞相府軍のときだな、それは。
魏で一番勢いがあったのは、二代目曹叡のときだと思う。皇帝の資質も英雄だし。
693 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 23:09:59
>>691 蜀を併合した263年時点より勢いがあったってこと?
694 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 23:13:49
いや、司馬昭が晋王になったのは蜀討伐後だから、実質も魏軍。
ただし、晋公軍といってもいい状態だったかもしらん。 鄧艾は魏臣だけど。
696 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 23:17:32
>>691 燕を征服した239年より勢いがあったのか?
燕の征服って住民皆殺しじゃん。
司馬仲達の名を広めても魏の勢威を強めたとは思えない。
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 23:43:28
晋の政策は、魏の政策と蜀の政策のうち
どちらに似ているの?
699 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 23:52:42
軍事的才能:曹叡>孫権
政治的才能:孫権>曹叡
701 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 00:44:30
孫権に政治的才能なんてあるのか?
豪族連合みたいな性格の強く残る地域を基盤にして
まがりなりにも呉という国を作り上げた上
大国の魏と敵対しながらも国を維持し続け
なんの根拠もないのに勝手に皇帝を名乗っても
それが原因で国が滅ぶことも滅ぼされることもなかった。
天下を統一したり農政改革や人事制度で
画期的な提案をしたことはなくても
孫権に治的な才能はそれなりにあったと思うよ。
長生きしすぎてボケてからはろくなことなかったけど。
>>678 >曹操の軍事行動は翌年まで一切なし
赤壁自体が12月頃だし、209年に夏侯淵に雷緒を攻めさせて反乱鎮圧をしたり、
曹仁への救援を派遣してるから軍事行動自体はある。
210年は江陵を破棄して情勢が一旦落ち着いたせいか軍事行動は停止、211年からまた軍事行動を再開させてる。
赤壁〜江陵の流れで痛手を被ったとはいえ、周瑜が征蜀を開始しようとした数ヵ月後には回復してるっぽい。
>最重要拠点な筈の江陵への救援は李通くらい
この時に李通の武勇は諸将で一番って事なので、李通は救援軍の一部だと思うが。
>数は少なく守将曹仁を逃がすのが関の山
一緒にいた牛金やその他の諸将も討たれた様子は無いので、そこまで逼迫してはいない。
>何で曹操は江陵を手放したのか?〜
赤壁で若干痛手を受けたのと、急激に拡張した領土を抱えたままの侵攻に無理が来たためだと予想。
呂蒙伝で呂蒙は「曹操は袁氏を打ち破ったばかりで幽州・冀州を慰撫しており、東方を振り返る余裕は無い」と指摘している、
事実曹操は205年に袁譚を破って河北を手に入れてからずっと戦争続きであり、208年に南征を開始しているから
河北を手に入れてたった三年しかたっていない、特に208年は丞相制を始めた直後でありながらの遠征であり、
内政を十分に行わないままの遠征、210年に求賢令を出している事から同時に人材不足も伺える。
つまり元々南征自体が内治を疎かにした勢いに乗っただけの遠征で、そのつけが赤壁後の軍事行動の停滞だと推測する。
>江陵に孫権と劉備を釘付けにしている間に何で合シ肥を落とさないのか?
この時期は雷緒が廬江郡で反乱を起こしていた時期で、遠征する状態じゃなかったせいでしょう。
江陵も放棄するくらいだからこの時期の曹操は領土拡大は考えても無いだろうし。
>>679 待遇の格差があっても疫病で死ぬ時は将官でも死ぬ。
>「農民が死ななかったから蝗害や凶作で農作物が全滅しても大したことはない」
この例えは意味不明、疫病被害まあまあという表現からなんでこういう例えが出るのか?
赤壁の被害がまあまあであった事は否定していないし、将官が無事でも兵が無事じゃないから
撤退した事も否定してない、ただ1〜2年も軍事行動が不可能なほどの被害は受けてないだろうという事だ。
705 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 02:21:36
曹操は江陵の戦略的価値を理解できなかったのだろうか?
理解していたが戦力が整わなかったから退いたのだろうか?
漢中のケースと同様に考えてたとか?
保持しても争乱の火種になる可能性が高くてより安定したところまで退いたとか。
707 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 03:12:12
保持しない方が戦乱の火種になったと思う
江陵といい漢中といい
>>704 「まあまあ」どころではないだろ。中国文明圏の統一病を理解して来い。
急速な拡大で天下統一間際まで来た大勢力が、敗戦後の30年間は関中、荊北、淮南の維持で精一杯。
人が生きながら得るのは食料その他があればこそ。同様に覇者が覇者足りえるのも兵力に基づいた威信あってのことだ。
西征⇒南征ではなく、南征⇒西征だったのは先主の存在があったからだ。
劉表は自守の賊に過ぎない、死のうが死ぬまいが、先主を弱いうちに殺すのが天下統一の近道。
武帝がそれほど先主の飛躍を警戒していたにも関わらず、
結果的に荊南割拠と入蜀を見過ごし、漢中王即位まで許した。
孫権に気をとられていた、という言い訳は合肥のような要地を寡兵で守らせていた当時の状況を見ても通じない。
「赤壁の敗戦が覇道を阻まれるほどの大損害だった」
それをついでに認めてもらおうか。
秋七月公南征劉表.
八月、表卒、其子j代、屯襄陽.劉備屯樊.
九月、公到新野、j遂降、備走夏口.
公進軍江陵、下令荊州吏民、與之更始.
乃論荊州服從之功、侯者十五人、以劉表大將文聘為江夏太守、使統本兵、引用荊州名士韓嵩、ケ義等.
益州牧劉璋始受役、遣兵給軍.
十二月,孫權為備攻合肥.公自江陵征備、至巴丘、遣張熹救合肥.權聞熹至、乃走.
公至赤壁、與備戰、不利.於是大疫、吏士多死者、乃引軍還.備遂有荊州、江南諸郡.
>>704 反乱鎮圧も最前線の曹仁を救援するのも主権者としては当たり前のリアクションでしょう。
問題は雑魚の反乱が起きてしまうような搾取をせざるを得ない状態、
救援を送っても戦線が維持できずに撤退するしかない状態、
それらのような状態になってしまう敗北をしたことですよ。
貨幣鋳造できなかったからじゃないの
ライバル企業を合併するも大きくなりすぎて給料が払えず機能不全、内乱続出ってとこか。
勝利か敗北かだけで引分が無いってことだね。赤壁は勿論負け。
208年、217年と征呉戦を仕掛ける度に大打撃を受ける魏にワロスw
209年、215年と魏と戦ってもいいところの無い呉も笑える。
同様に218年以降魏に連戦連勝でイケイケだったのに、
219年、222年と呉に連破されて山奥でヒッキーになる蜀も悲惨。
概ね戦略レベルでは魏が圧倒的だが、戦術では二者を相手にして側面を晒し出した方が弱い。
戦略と戦術を取り違えていないか
「百戦百勝は善の善なるものに非ず」だよ。
武帝のような名将が「天子」と「中原」と「青州兵」を押さえたことで得た有利は計り知れない。
その有利が完全な勝利に繋がらなかったのが不思議なくらいだ。
「天子」も「中原」も価値が暴落してたからじゃねーの?
周ユの死ってのはどういうものだったんだろう。
過労による突然死だったのか、とも思うけど、あとは魯粛に、とか遺言を残していたということは、
事前にそれなりの兆候があったんだろう。まだ30代なわけで、何もなければ
さすがにそんなこと書かないだろうから。
となると、周ユは自分が病気で死ぬのを覚悟した上で遠征に出たとういうことだ。
いくらなんでも、総司令官が病死するかもしれないのに
普通は遠征には行かないだろう。周到な準備や状況分析などがあり、
周ユが死にさえしなければまず負けない、と確信し、周ユの寿命に賭けることが
できるだけのものがあったんではないだろうか?
江陵の辺に住血吸虫がいる水系がいくつかあるんだよね
曹操も軍勢がそこで疫病に遭うし、周瑜は病死
魯粛、呂蒙も病死
どう見ても寄生虫にやられてます
死亡直前の周瑜は顔とかやばい事になってたんじゃない?
そう言えば三人が三人ともそっち方面当たってる時か
演義でだけど甘寧も体調崩したりしてるな
寄生虫の病気だと外見でかなりわかるよね。
防衛戦なら相手の都合もあるけど、自分から出て行くのに病気ってのは
やっぱりおかしいし、そうなると諜略なりの下ごしらえはできていたんだろうな。
多分死ぬ前の一仕事のつもりが、思ったより早く病気が進行したという
感じではないだろうか。
結局周ユが病気を推して遠征したって所に、当時の状況があらわれてるんじゃないか。
すなわち、何のかんのといっても曹操は動けないで、周ユさえ生きていれば
蜀は獲れていたんではないかと。
>>722 戦争には何があるかわからない。謀略による裏切りとかもあるだろ。
江陵に一年かかったからといって蜀(この場合全土じゃなく主要な城だろうが)
をとるのに時間がかかるとは限らない。
周ユが死んだからどう戦うかなんてわからないし、それがうまくいく保障はないが、
少なくとも当人には病を推しても行って短期間で勝てる準備や算段・計画が
あったんだろう。曹操が動くにしろ、期間の問題もあるからな。
>>723 >蜀(この場合全土じゃなく主要な城だろうが)をとるのに時間がかかるとは限らない。
おいおい、本気で言っているのかよ…
てか周喩の天下二分論では呉本国の守りってどうなってたんだっけ
魏が再南下する前に蜀を制圧できると考えていたんなら、その時点で破綻してると思うんだが
>>724 本気で、っていうか、そうとでも考えないと周ユの行動が極めて異常なことに
なってしまう。おまいが孫権や張昭だったとして、きっちりとした計画や
裏づけなしに、しかも結構病気が重そうなのにOK出せるか?
赤壁の時にあれだけもめてるんだぜ。
当時の人間がその方向に動いたということは、それなりに説得力のある
何らかの計画とかがあったに違いないんだよ。
>>725 じゃあ周喩が病で異常な考え方をしていた、赤壁の勝利に国が酔っていた、
としたほうがスッキリするんじゃないの
道を借りて草を刈る、じゃなかったっけ?
まともに考えるなら荊南を攻め滅ぼしたほうが早くて確実。
赤壁は呉の絶体絶命の危機ではあるが、あの時点で呉は全軍を動員してはいないはずだ。
当然本国を守れるだけの兵は残してあるだろ。
いきなり全軍で出て戦うのはアホのやること。普通一回負けても本国に侵攻されたときに
戦えるように備えるのは当たり前。そもそも、赤壁で戦った部隊は
江陵を落とした外征部隊でもある。そのまま蜀攻めに転用できた
としてもなんらおかしくはない。
江陵で多少なりと兵を徴発して増えたかもしれないし。
本国の守りはとりあえず大丈夫として、荊州方面だが、ここには劉備がいる。
呉から見れば信用できない相手だが、曹操から見れば最近力をつけてき始めた
手ごわい相手。篭絡できる相手でもなし、おいそれと手を出せない。
周喩ならそのぐらい計算に入れるだろう。
結局、赤壁の時に戦った部隊が呉軍の中でどれほどの割合かによって、
違ってくるわけだが、やっぱり本国防衛軍はある程度残ってるだろう。
破綻してるとまではいえないと思う。
>>703 何で曹操の受けた打撃は小さいのに曹仁ちゃんと助けないんだよ
軍勢がしっかりと残ってるならそのまま数に劣る劉備・孫権連合軍なんか得意の陸戦でぶちのめせばいいのにさ
>>703 >210年に求賢令を出している事から同時に人材不足も伺える
これをそんな単純なものと思わん方がいいよ
素朴な疑問。
江北方面の軍司令官は誰だったの?
東晋期の北府軍のような軍閥でもあれば、周瑜はこの時代の桓温になるんじゃないのかな。
桓温率いる江陵の西府軍は蜀も洛陽も陥としてるんじゃなかったっけ。
>>730 求賢令は人材不足ってよりは頴川系の豪族・名士を取り込みつつジュンイクだけに絶縁状叩きつけてる形だからなぁ
>>708 >「まあまあ」どころではないだろ。中国文明圏の統一病を理解して来い。
「隴を得て蜀を望む」で曹操が詠ってるのを見ると、曹操個人にそこまでの統一志向は無い。
>急速な拡大で天下統一間際まで来た大勢力が、敗戦後の30年間は関中、荊北、淮南の維持で精一杯。
三国鼎立の確立は赤壁〜漢中と長いスパンで魏が戦略的に遅れを取りつづけたからであって、
赤壁の一戦のみで語る事は出来ないし、三国鼎立の安定状態が続いただけで維持が精一杯という訳では無い、
その証左に時間が立てばたつほど魏と蜀・呉の国力の差は開いた。
>西征⇒南征ではなく、南征⇒西征だったのは先主の存在があったからだ。〜
んな事は無い、当時の劉備はそこまでの存在ではないし、曹操は西征と南征を天秤掛けてはいないし、
劉表もそんな小物ではない。
>結果的に荊南割拠と入蜀を見過ごし、漢中王即位まで許した。
赤壁の一件のみでなく、その後の戦略の結果。まさに結果論。
>孫権に気をとられていた、という言い訳は合肥のような要地を寡兵で守らせていた当時の状況を見ても通じない。
寡兵で守らせたのは一回きり、それ以後は呉に度々遠征をしかけているし、
劉備が入蜀している間も孫権討伐に出かけているんで、普通に孫権に気を取られてる。
>「赤壁の敗戦が覇道を阻まれるほどの大損害だった」
上に書いた理由で無理。
なんか必死な人がいるな
>>710 >問題は雑魚の反乱が起きてしまうような搾取をせざるを得ない状態
反乱自体は搾取に関わらず起きる、雷緒以外では大きな反乱も無いので、
これで魏が搾取をせざるを得ない状態とするのは無理がある。
>それらのような状態になってしまう敗北をしたことですよ。
敗北の被害自体は否定していないが、しかしながら同時に曹操は軍事行動を起こしていないというのは嘘であり、
その後すぐに大規模な軍事行動を起こすくらいには回復している。
俺はずっと前から「赤壁で発生した疫病は(主に)寄生虫だ」
と考えてたけど、同意見の人がいたみたいだね
(文献では一度も読んだ記憶がないけど)
>>704 寄生虫そのものは宿主を殺さないから、
その後の治療の格差で生死に差が出ると考えられる
739 :
738:2006/10/06(金) 16:05:42
補足;
弱った状態で何か別の病気にかかったりしたら死ぬかもな、って事
陳登も寄生虫にやられたんだっけ
当時は多かったのかもしれないね
長文君、数字コテでもつけてくんねーかな。
742 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 18:20:31
長文君って秦の貴族みたいだ
小競り合い程度でも、呉が蜀に対して侵攻の気配を見せ続けとけば
劉備が蜀を取りに動く事が難しくなる。周喩としては、自分が生きてる
うちにある程度、そういった流れを作っておきたかったんじゃないかな。
呉の中で、最も劉備に対して警戒心の強かった人だし。
744 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 19:39:32
いや、周瑜は劉備を過小評価気味だったよ。
呉に留めて傀儡にしようとしたことは、本当に警戒していたら出てこない発想でしょう。
劉備を一番警戒していたのは魯粛。警戒していたからこそ安易な対立ではなく妥協したわけで。
そうかな?劉備一人ならたいした事なくても、人や土地を得れば
脅威になると考えたから、関羽や張飛等と引き離そうと考えたんだろうし、
ヘタに領地を与えたくなかったんだと思うんだけど。
746 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 21:32:12
>>745 劉備一人なら大したことなくても
が甘く見てる証拠
ワラタw
過小評価というよりも、劉備を人質にして部下どもを
使いたかったんじゃないの?
関羽、張飛は将軍としても優秀で、戦闘力なら当時最強
陸戦が弱い呉でこいつらを部隊長として使えれば素晴らしい軍隊になるぞ
750 :
744:2006/10/06(金) 21:56:23
いやいや周瑜はホントいい奴だったよ
意外と口が臭いのが欠点だな
>武帝はやる気無し
望蜀も鶏肋も言ったのは将才に翳りが見えて来た晩年のことだ。
官渡〜北征で袁氏を滅ぼし、覇者としての自信に溢れてた時期ではない。
それを以って意思が薄い論拠とするのは無理がある。
烏桓制圧〜赤壁に詠まれた短歌行には周公旦の如き王佐足らんとする意思があるではないか。
>先主は小物。
当陽の奇襲が如何に兵法の常識を無視したハイリスクなものか理解してから来い。
孫子に注釈を付けるほどの兵法家が調子付いた軽挙妄動はしないものだ。
>国力回復策
それは天下統一策が不可能になった末の結果論。
219年も228年も亡国の危機であった。
魏晋の交代が起こったのは三国鼎立が長引いたのが原因。
早期に統一が出来ていれば司馬氏の台頭は有り得ない。
魏は勝者に非ず、強い敗者に過ぎない。
>合肥を寡兵で守らせたのは一度だけ。
211年馬超、韓遂、215年張魯討伐と赤壁以後はほとんど西に目を向けている。
215年の合肥の戦い、216年の濡須口の戦いまで実に8年。
そんな長期間合肥を寡兵で守らせていた理由は何故か考えてみよ。
>軍事行動
赤壁後は、戦わずして敵を屈服させるような兵力を揃えるのが不可能になったことをどう考える?
「百戦百勝は善の善なるものに非ず」と聞く。その論に注を付けたのは武帝だぞ。
赤壁前に出来たことが何故出来なくなったのか?
敗戦で兵力減⇒威信揺らぐ⇒無理な徴兵⇒反乱⇒反乱鎮圧…の連続と考えるのが妥当。
違うというなら御高説を賜ろうか。
>>749 ・劉備が簡単に人質になるか?
・一切地盤のなかった荊州でさえ後継者と目される名望は孫権をしのいでしまうのではないか?
そういう危険を度外視してるあたり、周瑜は劉備を過小評価してる。博打としてもかなり危険。劉備が呂布を受け入れた以上に。
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 22:15:53
曹操が、あと10年生きていたら、魏の天下統一は可能性があったと思う?
やっぱ劉備を傀儡の皇帝に据え、南朝が妄想してて楽しいな
755 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 22:27:18
周瑜は関羽と張飛がどうしても欲しかったのではと思う。
>>749の言う通り、この二人が呉に加われば陸戦でも盤石と言える程強力になったはず。
劉備自身幾たびも続いた敗戦からいろいろ学び取ってそれなりの指揮官であったはず。
劉備陣営全てを引き込みたかったと思うのだが。
まあ劉備自身が呂布並みに危険人物なのだが。
>>742 俺も思った
秦というか戦国時代の貴族っぽくてワロタ
>>753 曹操が生きていてもだめだろう。
郭嘉や戯志才があと少し生きていたならば、魏はすぐにでも
天下が取れたのではないか
と、思う。
758 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 22:38:17
>>757 曹操が、あと10年生きていたら、どんな結果になったと思う?
変わらん
魏帝国初代が曹操になるだけ
760 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 22:55:23
もし曹叡が長生きだったら、結局は曹芳のような運命を辿ったと思う?
>>752 >
>>749 > ・劉備が簡単に人質になるか?
諸葛亮が心配し劉備が後悔したくらいだから可能性は低くなかったんじゃないかと思う。
> ・一切地盤のなかった荊州でさえ後継者と目される名望は孫権をしのいでしまうのではないか?
後継者と目されたのは演義じゃないか?人望はあるが軟禁された状態で孫権をしのぐほどではないでしょ。
>>752 >・劉備が簡単に人質になるか?
についてはなるだろう。南郡の領有権交渉のために劉備は孫権を訪れており
そこで実力行使されたら留まるか、南郡を捨てて逃げ出すかしかない。
それでも孫権がそれをできなかったのは
>・一切地盤のなかった荊州でさえ後継者と目される名望は孫権をしのいでしまうのではないか?
まさしくこれ↑でしょうね。傀儡にしたときのリスクを孫権は恐れた、と。
一人の英雄がいても歴史はたいして変わらんというのはある。
周瑜なんかは大きな可能性だが若死にしたのが高評価に繋がっている側面も否定できない。
もしかしたら鳳雛のように戦死してたかもしれない。
天下二分の考察については孫ぽこのサイトが詳しい。
わけわからん話になりすぎてるな。
魏呉蜀の争いは俺たちには荷が重過ぎる。
ここらでレベルを落としてりかく、かくしの争いの話にしようぜ。
>>760 それはないでしょう。曹叡はかなり有能だからな
やばいと思えば仲達を殺すと思う。
仲達が曹叡に疑われたまま二人の息子共々殺されたらどうなっていただろう?
孔明の北伐の相手はどうなるんだ?蟄居したときに暗殺しておけよ
仲達がいなければトウガイも出世は
できなかっただろうし。
長文君マダー?
孫策が死ななければ呉が天下統一する可能性があったと言ってみる
>751
>烏桓制圧〜赤壁に詠まれた短歌行には周公旦の如き王佐足らんとする意思があるではないか。
周公旦云々は曹操個人の身の処し方の話、むしろ自分が皇帝にならんとしない点では覇気が足りないとさえ言える。
>当陽の奇襲が如何に兵法の常識を無視したハイリスクなものか理解してから来い。
奇襲した理由は江陵の軍需物資を奪われることを恐れたから、また弱小の劉備勢力に曹操軍を押し返す力などないのは明らかであり、
そこまでハイリスクな作戦ではない。
>それは天下統一策が不可能になった末の結果論〜
219年はともかく、228年は亡国と言えるほどの危機ではない。
早期統一出来なかったのは戦略的失敗の積み重ねの結果、しかも魏が勝者とか言ってない。
>211年馬超、韓遂、215年張魯討伐と赤壁以後はほとんど西に目を向けている〜
213年に孫権討伐に出兵してるんで8年間寡兵だった訳じゃありません、
合肥の件も劉備と孫権が争ってる間に漢中へ出兵したその間隙を突かれたもの、むしろ例外な寡兵。
>赤壁後は、戦わずして敵を屈服させるような兵力を揃えるのが不可能になったことをどう考える?
それは曹操の勢いに相手が恐れをなしていただけの話、元来は相手を戦わずに屈服させるほどの兵力差は無い、
赤壁の時、結局は曹操の勢いを恐れなかった呉が戦いに踏み切ったのがその証明、
三国鼎立がずっと続いて魏と蜀・呉の兵力差がさらに開いた時でさえも戦わずに屈服なんて現象は起きてはいない。
>敗戦で兵力減⇒威信揺らぐ⇒無理な徴兵⇒反乱⇒反乱鎮圧…の連続と考えるのが妥当。
だったらその連続を挙げてみて具体的な説明をしてみせてくれ。
208年:赤壁戦
210年:周瑜病死
211年:関中討伐、先主入蜀
212年:荀ケ自殺
213年:第一次濡須戦
214年:入蜀の完了
215年:荊州紛争、合肥戦
216年:第二次濡須戦
217年:魯粛病死
218年:夏侯淵戦死
219年:関羽戦死
>覇気
覇気が無いなら南征も西征もする必要ないだろ。それこそ「自守の賊」になればいい。途中で諦めたのが明白。
>先主割拠の脅威
本隊から突出し、輜重を捨てて、一昼夜で100kmの進撃する作戦の何処がハイリスクじゃないのか?
228年の脅威はもう少し検討した方がいい、君の主張は結果論だから。
>結果論
何故当陽、赤壁という兵法の非常識が連続し、武帝の天下統一策が破綻したのか。
赤壁で大した負けを喫していないのに、天下統一が出来なかったのは武帝が無能だから、と言うのは乱暴すぎる結論。
勿論そうは言ってないだろうが、元々北方と荊州の全勢力を併せても江東一つ下せない、と言うのはおかしい。
また、赤壁が大したことの無い敗北だと言うには説明不足だし、戦力差が圧倒的ではなかった、と言うのも納得が出来ない。
正確な情報を収集して事態の推移を予測出来てたのは孫呉の陣営では周瑜だけではないか。
第一五年掛けても夏口一つ落とせない勢力だった当時の孫呉が、北軍とまともに戦えると断言する根拠を述べて貰おう。
長文君は結果論が嫌いな癖に自分では平気でそれをやるから困る。
>>771 再軍備には8年とは言わんが4年は掛かってるな。
もし、その四年間に西涼、関中、漢中の確保に費やしても、
荊州の勢力は完全に先主の手中に落ちている可能性があるかもしれない。
774 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/07(土) 02:20:37
長坂の追撃戦は曹操が劉備決死の囮作戦にまんまとひっかかった戦い
江陵を伺いながら自分は民とともにゆっくり進行したのは誘い
曹操は自分の持つ最高の戦力と言える虎豹騎を大挙投入してしまい、追いつかれてから民を盾に逃げ出すという非情な劉備を取り逃がした
赤壁も荊州失陥もこのミスが痛かった
曹操はいわば切札を相手の一番弱い札に当ててしまったようなもの
>長文君
戦略的撤退、あの勢力範囲で誰がそんな負け犬の戦いを誰が好んでするのだろう?
赤壁が江陵維持さえ困難なレベルの損害だったのは確実。それを早く認めろ。
それを巡って呉蜀が争うのが計略だと言うなら、簒奪されるのも計略の想定内?
自論の証明責任を怠って他人にそれを要求するのは理不尽。
雷緒馬超張魯の様な小物をいくら狩っても自らの衰えを誤魔化している様にしか見えない。
乱の根源は南だ。そのことが理解できていないのなら、
官渡戦で采配を誤って徐州独立を許し、両面作戦を強いられて戦死してる。
それとも8千で8万を捕らえるスーパーマンに不可能はないと言う気なのだろうか?
史書を鵜呑みにするのも大概にした方が良い。
官渡と赤壁、魏公就任、荀ケ病死のあたりはいかにも筆を濁しているな。
南征が成功していれば戦乱自体が終結した可能性が高い。
軍事行動が出来るかどうかは問題では無く、する必要が無くなる。
そのことを長文君は理解していない。
戦時⇒平時の転換点でスイッチを押す機会が、
1赤壁で失われた。
2元々それをする実力が無かった。(長文君の意見)
のどっちか。
長文君が自説の正しさを主張するなら、
一度は確保した江陵、漢中を維持できないのは何故か証明すればいい。
戦略的放棄は無しだからなw
≪西部ルート≫
成都―漢中―長安―新安―洛陽
≪中部ルート≫ ↓
江陵―襄陽―樊城―南陽―許都―官渡―魏郡
≪東部ルート≫ / ↑
建業―居巣―合肥―寿春―徐州
≪長江ルート≫
成都―巴郡―三峡―夷陵―江陵―陸口―夏口―九江―廬江―建業―呉郡
>>778 建業と居巣の間に濡須が抜けてるよ
呉の東部の最前線は濡須なんだから
中部ルートは完全制圧。
西部ルートは降伏の見込みが高いので無視。
あとは東部ルート、長江ルート東半分を押さえ込むだけ。
陸口さえ落とせば陸路で九江まで攻め込める。
そこまで行けば最後まで攻めなくても自然消滅する。
孫氏の求心力など当時ではその程度だからだ。
それがならなかったのを実力不足では片付けるのは暴論。
>>771 >覇気が無いなら南征も西征もする必要ないだろ。それこそ「自守の賊」になればいい。途中で諦めたのが明白。
覇気が無いとは一言も言ってない、ただ統一病と言われるほどの統一願望は無いというだけ。
>本隊から突出し、輜重を捨てて、一昼夜で100kmの進撃する作戦の何処がハイリスクじゃないのか?
劉備勢力は弱小、荊州も曹操に降伏済みであり劉備以外に荊州に敵は居ない、
負ける要素が少ない上に根拠地はあちこちに存在する、君が言うほどにはハイリスクな作戦でも無いね。
228年も長安より西の陥落の危険性はあったが、同時に魏の援軍も来ており、亡国の危機というのは言いすぎ、
亡国と言うならどういう経緯で魏が亡国に至るか是非に語ってもらいたいね。
>結果論
まあ確かに武帝が無能なんて一言も言ってない、ただ晩年は戦術に冴えは無いし戦略的失敗もあった、三国鼎立はその積み重ねというだけ。
江東を下せないのはおかしいとか言われても、実際に下せなかったし、後年の圧倒的国力差でも呉が降る事は無かった、
つまり兵力差だけは他が自然と降伏するなんてのは元来では有り得ない状況だったって事。
赤壁の件では正確な情報は諸葛亮が孫権に述べてるし、劉備との同盟に踏み切った魯粛も把握している、
また周瑜は呉の重鎮であり、その周瑜が情報を手に入れてるってだけでも決戦の決断に至るには十分過ぎる、つーか実際に決断した。
あと赤壁自体は疫病まあまあ+敗北少々と書いており、合計で見れば中々の被害だった事は否定していない、
敗北少々の理由は曹操側の将官で戦死者が居ない事と書いた。
んで、>敗戦で兵力減⇒威信揺らぐ⇒無理な徴兵⇒反乱⇒反乱鎮圧…の連続と考えるのが妥当。
の具体的な例を挙げた説明は?
>>775 好んではしてないだろう、俺も好んでしたとかいった覚えは無いし、
内容も書かないのに「確実」「認めろ」とか言われても困るな。
散々理由とか書いたんだからそれに具体的に反論してくれ。
>それを巡って呉蜀が争うのが計略だと言うなら、簒奪されるのも計略の想定内?
オマケにこんなんも書いてないのに勝手に付け足して、それの証明責任を求めるな。
>雷緒馬超張魯の様な小物をいくら狩っても自らの衰えを誤魔化している様にしか見えない。
誤魔化しっていうか3人とも反乱・敵対したから討った訳で、それを誤魔化しとは?
馬超は西涼を纏めて数万単位の兵を率いて関中を落としているし、小物でもないしな。
>乱の根源は南だ。そのことが理解できていないのなら、
お前は史料の前に人の文を読め、曹操が南を軽視してるとか俺が何時・何処に書いてるんだ?
>>776 お前も同類、>南征が成功していれば戦乱自体が終結した可能性が高い〜
俺がそれに反論するような内容を何処に書いたのか?
成功していればって、誰も成功した場合の話なんてしてないっちゅーの。
>>777 お前も同じか、
>2元々それをする実力が無かった。(長文君の意見)
こんな事は一言も書いておりません、赤壁〜漢中までの流れで平定する機会を失ったと書いてますね、
人の文書を読まないのなら勝手に纏めてくれるな。
長文君晒し
639 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/04(水) 00:14:45
>>636 211年の関中制圧の発端である馬超らの反乱は漢中へ侵攻しようとした曹操への反発から来るもの、
つまり210年の段階では関中制圧はキャンセル云々以前に起きてない事件、
もし210年中に周瑜が蜀へ遠征するというなら、曹操は荊州及び呉or漢中という選択肢を選ぶ事が出来る、
その場合大敵である呉が手薄になっているのならばそちらを選ぶ可能性の方が高いでしょう。
また赤壁はそこまでの大敗でないという話もあるし、わざわざ大魚を逃がす程、 敗北の記憶を重視するとも思えない。思えないしね。
646 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/04(水) 01:17:59
>>642 それでもかつて馬超らを放置して劉表討伐に向ったのは曹操、リスクを犯す意味や勝算は既に書いたとおり、
周瑜が蜀へ向うならば呉の領土拡大を押し留めるとと同時に、
兵力が西へ行って手薄な呉領土に侵攻できるチャンス、
上手く生かしきれば南方に割拠する呉を一気に平らげるチャンスになる。
馬超らが大軍を動員できたのは漢中侵攻への危機意識から来るもの、
それまでは鐘ヨウが上手く関中を治めていたし、具体的に反乱を起こす前に危険視し過ぎるよりも、
明確な敵である呉が隙を見せればそっちを叩くことを優先してもおかしくない。
>「また赤壁はそこまでの大敗でないという話もある」
>これについても詳しく。
割と広まってる話だと思うけど?俗に言われてるような戦禍の後が赤壁に無い事や、曹操側の戦死者が皆無な事、疫病で引いたという魏書の記述とか。
676 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/05(木) 14:05:30
>>670 >「それでもかつて馬超らを放置して劉表討伐に向ったのは曹操」というのはどういう意味?
書いたとおりの意味、潜在的な反乱因子という意味では当時から馬超らはそうであったが、
曹操は大軍を動員して荊州征伐へ赴いており、反乱が顕在化されていない状態では曹操は西方にそこまでの脅威を抱いていない。
>劉表討伐時と赤壁以後においても曹操と馬超の関係は大した影響をうけてないだろうという読みがあるのでしょうか?
受けてないだろうね、赤壁以前も以後も馬超らは曹操に対しては半独立状態のまま、
以前に本格的に臣従しようとした事も無ければ、以後に反乱行動を起こしたわけでもなく、馬超らの反乱は漢中遠征への過剰反応の結果。
>以上から曹操の持つリスクは急上昇し(敵対勢力は勢い付き)、長江流域での勝利の難しさは既に天下に証明された後に、この時曹操に明確に敵対してる勢力は張魯・劉備・孫権の3者程度しかいない、
その敵対勢力の中でもっとも強敵である呉が蜀に遠征を開始して江陵を手薄にしてくれるならば、その一点がなにより重要だろう、リスクを取り除くチャンスになる。
また周瑜がどれ程の動員をかけるかだが少なくとも数万単位、2〜3万かそれ以上は必要だろうね、
(劉璋が防衛を気にせずに動かせる軍が3万以上、全軍合わせればもっと行くであろう事を考えればまだ足りないくらいだが)
そうなると南郡を手に入れて日の浅い呉は赤壁〜江陵戦までの兵をそのまま引き連れて征蜀する必要があり、
呉が絶体絶命だった赤壁でさえも動員できた兵力が3万なのだから、これに荊州の防備を出せばもっと楊州は手薄になる。
後に魯粛が劉備に荊州を任せたのもここらへんが原因だろう。
魏が動員する兵力も10万は超えるかもね、少なくとも馬超戦くらいの兵力は集めれれるだろうし、
江陵が後に5千で勝利できたのは偶然とも言える神業的采配のおかげだろ、それを基準に語る事は出来ないでしょう、楊州方面からの侵入を許さなかったのは楊州を手薄にする自体がなかったせいに過ぎない。
703 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/06(金) 01:48:02
>>678 >曹操の軍事行動は翌年まで一切なし
赤壁自体が12月頃だし、209年に夏侯淵に雷緒を攻めさせて反乱鎮圧をしたり、曹仁への救援を派遣してるから軍事行動自体はある。
210年は江陵を破棄して情勢が一旦落ち着いたせいか軍事行動は停止、211年からまた軍事行動を再開させてる。
赤壁〜江陵の流れで痛手を被ったとはいえ、周瑜が征蜀を開始しようとした数ヵ月後には回復してるっぽい。
>最重要拠点な筈の江陵への救援は李通くらい
この時に李通の武勇は諸将で一番って事なので、李通は救援軍の一部だと思うが。
>数は少なく守将曹仁を逃がすのが関の山
一緒にいた牛金やその他の諸将も討たれた様子は無いので、そこまで逼迫してはいない。
>何で曹操は江陵を手放したのか?〜
赤壁で若干痛手を受けたのと、急激に拡張した領土を抱えたままの侵攻に無理が来たためだと予想。
呂蒙伝で呂蒙は「曹操は袁氏を打ち破ったばかりで幽州・冀州を慰撫しており、東方を振り返る余裕は無い」と指摘している、
事実曹操は205年に袁譚を破って河北を手に入れてからずっと戦争続きであり、208年に南征を開始しているから
河北を手に入れてたった三年しかたっていない、特に208年は丞相制を始めた直後でありながらの遠征であり、
内政を十分に行わないままの遠征、210年に求賢令を出している事から同時に人材不足も伺える。
つまり元々南征自体が内治を疎かにした勢いに乗っただけの遠征で、そのつけが赤壁後の軍事行動の停滞だと推測する。
>江陵に孫権と劉備を釘付けにしている間に何で合シ肥を落とさないのか?
この時期は雷緒が廬江郡で反乱を起こしていた時期で、遠征する状態じゃなかったせいでしょう。
江陵も放棄するくらいだからこの時期の曹操は領土拡大は考えても無いだろうし。
704 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/06(金) 01:58:14
>>679 待遇の格差があっても疫病で死ぬ時は将官でも死ぬ。
>「農民が死ななかったから蝗害や凶作で農作物が全滅しても大したことはない」
この例えは意味不明、疫病被害まあまあという表現からなんでこういう例えが出るのか?
赤壁の被害がまあまあであった事は否定していないし、将官が無事でも兵が無事じゃないから
撤退した事も否定してない、ただ1〜2年も軍事行動が不可能なほどの被害は受けてないだろうという事だ。 734 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/06(金) 13:20:27
>>708 >「まあまあ」どころではないだろ。中国文明圏の統一病を理解して来い。
「隴を得て蜀を望む」で曹操が詠ってるのを見ると、曹操個人にそこまでの統一志向は無い。
>急速な拡大で天下統一間際まで来た大勢力が、敗戦後の30年間は関中、荊北、淮南の維持で精一杯。
三国鼎立の確立は赤壁〜漢中と長いスパンで魏が戦略的に遅れを取りつづけたからであって、
赤壁の一戦のみで語る事は出来ないし、三国鼎立の安定状態が続いただけで維持が精一杯という訳では無い、
その証左に時間が立てばたつほど魏と蜀・呉の国力の差は開いた。
>西征⇒南征ではなく、南征⇒西征だったのは先主の存在があったからだ。〜
んな事は無い、当時の劉備はそこまでの存在ではないし、曹操は西征と南征を天秤掛けてはいないし、
劉表もそんな小物ではない。
>結果的に荊南割拠と入蜀を見過ごし、漢中王即位まで許した。
赤壁の一件のみでなく、その後の戦略の結果。まさに結果論。
>孫権に気をとられていた、という言い訳は合肥のような要地を寡兵で守らせていた当時の状況を見ても通じない。
寡兵で守らせたのは一回きり、それ以後は呉に度々遠征をしかけているし、
劉備が入蜀している間も孫権討伐に出かけているんで、普通に孫権に気を取られてる。
>「赤壁の敗戦が覇道を阻まれるほどの大損害だった」
上に書いた理由で無理。
769 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/07(土) 00:31:06
>751
>烏桓制圧〜赤壁に詠まれた短歌行には周公旦の如き王佐足らんとする意思があるではないか。
周公旦云々は曹操個人の身の処し方の話、むしろ自分が皇帝にならんとしない点では覇気が足りないとさえ言える。
>当陽の奇襲が如何に兵法の常識を無視したハイリスクなものか理解してから来い。
奇襲した理由は江陵の軍需物資を奪われることを恐れたから、また弱小の劉備勢力に曹操軍を押し返す力などないのは明らかであり、
そこまでハイリスクな作戦ではない。
>それは天下統一策が不可能になった末の結果論〜
219年はともかく、228年は亡国と言えるほどの危機ではない。
早期統一出来なかったのは戦略的失敗の積み重ねの結果、しかも魏が勝者とか言ってない。
>211年馬超、韓遂、215年張魯討伐と赤壁以後はほとんど西に目を向けている〜
213年に孫権討伐に出兵してるんで8年間寡兵だった訳じゃありません、
合肥の件も劉備と孫権が争ってる間に漢中へ出兵したその間隙を突かれたもの、むしろ例外な寡兵。
>赤壁後は、戦わずして敵を屈服させるような兵力を揃えるのが不可能になったことをどう考える?
それは曹操の勢いに相手が恐れをなしていただけの話、元来は相手を戦わずに屈服させるほどの兵力差は無い、
赤壁の時、結局は曹操の勢いを恐れなかった呉が戦いに踏み切ったのがその証明、
三国鼎立がずっと続いて魏と蜀・呉の兵力差がさらに開いた時でさえも戦わずに屈服なんて現象は起きてはいない。
>敗戦で兵力減⇒威信揺らぐ⇒無理な徴兵⇒反乱⇒反乱鎮圧…の連続と考えるのが妥当。
だったらその連続を挙げてみて具体的な説明をしてみせてくれ。
781 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/07(土) 03:03:37
>>771 >覇気が無いなら南征も西征もする必要ないだろ。それこそ「自守の賊」になればいい。途中で諦めたのが明白。
覇気が無いとは一言も言ってない、ただ統一病と言われるほどの統一願望は無いというだけ。
>本隊から突出し、輜重を捨てて、一昼夜で100kmの進撃する作戦の何処がハイリスクじゃないのか?
劉備勢力は弱小、荊州も曹操に降伏済みであり劉備以外に荊州に敵は居ない、
負ける要素が少ない上に根拠地はあちこちに存在する、君が言うほどにはハイリスクな作戦でも無いね。
228年も長安より西の陥落の危険性はあったが、同時に魏の援軍も来ており、亡国の危機というのは言いすぎ、
亡国と言うならどういう経緯で魏が亡国に至るか是非に語ってもらいたいね。
>結果論
まあ確かに武帝が無能なんて一言も言ってない、ただ晩年は戦術に冴えは無いし戦略的失敗もあった、三国鼎立はその積み重ねというだけ。
江東を下せないのはおかしいとか言われても、実際に下せなかったし、後年の圧倒的国力差でも呉が降る事は無かった、
つまり兵力差だけは他が自然と降伏するなんてのは元来では有り得ない状況だったって事。
赤壁の件では正確な情報は諸葛亮が孫権に述べてるし、劉備との同盟に踏み切った魯粛も把握している、
また周瑜は呉の重鎮であり、その周瑜が情報を手に入れてるってだけでも決戦の決断に至るには十分過ぎる、つーか実際に決断した。
あと赤壁自体は疫病まあまあ+敗北少々と書いており、合計で見れば中々の被害だった事は否定していない、
敗北少々の理由は曹操側の将官で戦死者が居ない事と書いた。
んで、>敗戦で兵力減⇒威信揺らぐ⇒無理な徴兵⇒反乱⇒反乱鎮圧…の連続と考えるのが妥当。
の具体的な例を挙げた説明は?
782 :無名武将@お腹せっぷく :2006/10/07(土) 03:18:29
>>775 好んではしてないだろう、俺も好んでしたとかいった覚えは無いし、
内容も書かないのに「確実」「認めろ」とか言われても困るな。
散々理由とか書いたんだからそれに具体的に反論してくれ。
>それを巡って呉蜀が争うのが計略だと言うなら、簒奪されるのも計略の想定内?
オマケにこんなんも書いてないのに勝手に付け足して、それの証明責任を求めるな。
>雷緒馬超張魯の様な小物をいくら狩っても自らの衰えを誤魔化している様にしか見えない。
誤魔化しっていうか3人とも反乱・敵対したから討った訳で、それを誤魔化しとは?
馬超は西涼を纏めて数万単位の兵を率いて関中を落としているし、小物でもないしな。
>乱の根源は南だ。そのことが理解できていないのなら、
お前は史料の前に人の文を読め、曹操が南を軽視してるとか俺が何時・何処に書いてるんだ?
>>776 お前も同類、>南征が成功していれば戦乱自体が終結した可能性が高い〜
俺がそれに反論するような内容を何処に書いたのか?
成功していればって、誰も成功した場合の話なんてしてないっちゅーの。
>>777 お前も同じか、
>2元々それをする実力が無かった。(長文君の意見)
こんな事は一言も書いておりません、赤壁〜漢中までの流れで平定する機会を失ったと書いてますね、人の文書を読まないのなら勝手に纏めてくれるな。
長文君の珍説
・「赤壁は大敗ではない」
≪↑を否定する意味不明な言質の数々≫
・「赤壁〜漢中までの流れ」で統一の機会を失った。
・敗北少々の理由は曹操側の将官で戦死者が居ない事。
・赤壁自体は疫病まあまあ+敗北少々と書いており、合計で見れば中々の被害だった事は否定していない。
・>何で曹操は江陵を手放したのか?〜
⇒赤壁で若干痛手を受けたのと、急激に拡張した領土を抱えたままの侵攻に無理が来たためだと予想。
・>「農民が死ななかったから蝗害や凶作で農作物が全滅しても大したことはない」
⇒この例えは意味不明、疫病被害まあまあという表現からなんでこういう例えが出るのか?
赤壁の被害がまあまあであった事は否定していないし、将官が無事でも兵が無事じゃないから
撤退した事も否定してない、ただ1〜2年も軍事行動が不可能なほどの被害は受けてないだろうという事だ。
あと苦しすぎる弁明の連続。鸚鵡返ししかしてないので残す価値も無い。
こいつの大罪は「赤壁の敗北によって○○○○が出来なくなった」の空白部分を、
「天下統一⇒軍事行動」に論点をすり替えている点。
それが長文君が詭弁を使っている証拠だ。
こいつの主張以下の主張が罷り通るのなら世の中さぞ愉快だろう。
・将さえいれば兵が足りなくても、合肥戦のような奇跡が起こるのが当然
・敵が弱ければ補給線など無視して良い
・本気でやる気はないがリスクは掛けて良い
・リスクが高ければ勇気で乗り越えれば良い、否リスクなど無い!
なにこれ?荒らし?
793 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/07(土) 05:58:56
赤壁の戦いは、魏にすれば再起不能なまでの惨敗ではなかったが、呉にすれば起死回生の圧勝であったといえるだろう。
長文君の断罪と発狂のループが1000まで続くと予想。
秋七月公南征劉表.
八月、表卒、其子j代、屯襄陽.劉備屯樊.
九月、公到新野、j遂降、備走夏口.
公進軍江陵、下令荊州吏民、與之更始.
乃論荊州服從之功、侯者十五人、以劉表大將文聘為江夏太守、使統本兵、引用荊州名士韓嵩、ケ義等.
益州牧劉璋始受役、遣兵給軍.
十二月,孫權為備攻合肥.公自江陵征備、至巴丘、遣張熹救合肥.權聞熹至、乃走.
公至赤壁、與備戰、不利.於是大疫、乃引軍還.備遂有荊州、江南諸郡.
微妙なニュアンスの差で揉めている様だが、
被害が軽微なら「吏士多死者、」の部分は削除したと思う。
それか「吏士在死者、」とするだろう。
そして赤壁が大敗でなくとも、江陵失陥は大敗以外の何でもない。
あそこさえ抑えておけば拡大のしようがないからな。
いやいや、正史が事実を忠実に書き記したものかどうかという疑問から発展したんじゃないのか
官渡の記述とかを真に受けるのはちょっとなあ。
いいところは大袈裟に、悪いところは抑え目に書いただけで、
無いことをあったとするような部分はないだろう。
>敗戦で兵力減⇒威信揺らぐ⇒無理な徴兵⇒反乱⇒反乱鎮圧…
侯音の反乱が政治的野心ではなく義侠心によるものだったとは聞いたことがある。
龐悳伝の矢カンヌも同様。ほんとかよ。
>>797 逆はあるんじゃないのか
あったことを伏せておくことがあっても不思議じゃないと思うんだが
長文君は何で曹操だけ武帝って呼ぶんだろ
他の人間も諡号で呼べよ
呼称を統一して欲しいもんだ
長文君の名が定着していてワロスwww
ちょっとカコイイwww
食客は何人抱えているんだろうな、長文君
むしろ長文君が食客だろ
>>802 あれ全部が主張っていうか、今まで書いた文を全部貼り付けられただけだからねぇ・・・
>>803 ああ、武帝って書いたの781だけど武帝って771で書かれてたからそれを受けて書いちゃった、
他は全部曹操で通してるけど。
煽りと晒しageと自演扱いしかできん奴も長文君と大差ないだろ
>>808 なんじゃないの、長文君の主張とやらで俺の文書が貼り付けられてるわけだから。
ただ俺が武帝と書いたのは一回きりで、俺が反論してた奴の方が武帝って呼称多いから、
長文君って人物特定も人によって違うんでしょうな。
あと784-794を貼り付けた奴の相手はもうしんどいのでパス、
書いても無いこと捏造されるわ誇張されるわで、論理的な反論もないわ
煽られるわ、もう話しても無駄だろうし。
はい。余計のことは糸冬了。
呂蒙の病死がなけりゃ蜀は落とせそう。
812 :
.:2006/10/07(土) 15:10:00
落としてどーするよ
てか無理だろ
814 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/07(土) 20:01:32
>>810 長文君降伏晒しage
孫権劉備の赤壁以後の伸張を考えれば、君の赤壁は大敗では無かったという主張に論理の欠片もない。
捏造云々以前に論旨をまとめる努力をしたまえ。
できそうだけど?
ここって呉スレでもあるんだろ?
そしたら呂蒙が生きてる場合を推測すれば・・・。ってそしたら孫策の方がいいか。
ところで荊州降伏時の兵力ってどれくらいだったんだ?
まともに抗戦すれば打ち払えるくらいの兵力はあったと思うのだが。
それが戦いもしないで降伏したから孫権も焦ったんだろうし。
>>811 関羽討伐の後、三峡を越えて勝つのは呂蒙でも無理だろ。
夷陵の逆をやられそう。
>>816 一番はっきり書いてあるのが周瑜伝の「大きく見積もっても7〜8万」。あくまで周瑜の推察だが、特に疑う要素もないかな。
しかし15万で南下する曹操を食い止めるのに全域を合わせて7〜8万は厳しすぎないか?
横に仇敵呉も居るわけで。
219年⇒荊州討伐
222年⇒益州討伐
226年⇒涼州討伐
呂蒙病死が無ければこんなスケジュールかな。
ただ彼の場合電撃戦が最大の売りで準備万端の相手を攻め落とせる保障は全く無い。
>>818 そこは唇歯輔車、呉越同舟というやつですよ。
まともに戦うつもりなら同盟を組むことも出来ないことは無い。
北を防いでる間に、孫権に合肥を攻めさせれば囲魏救趙の成立という訳。
その後は益州、荊州、揚州の南軍同盟が成立するのではないか?
偽黒氏の南陽地勢論を参考にした意見だが、
1敵の弱点は補給線、よって持久戦を敷く。
2後方を撹乱する。
指揮系統さえ取れれば跳ね返すのも不可能ではないと思う。
魏軍にとっては許都を挟んで南陽盆地があるのはキツイ。
15万もの大軍ともなればな。
いっつも気になるんだが
蜀後期は人材が乏しかったっていうけど、
何万もの兵士の中から一人くらい将たる器の奴がいてもおかしくなくね?
そこで三国志9の抜擢ですよ
一州だけであの層なら十分だろ。
才能あってもそれを活かせる地位につけるかは別問題だからな
埋もれていった人材の中に名将の素質をもった人物もそりゃいただろ
>>825 将軍っていうのはまずどうすればなれたんだ?
獅子奮迅の働きをする
↓
大将に目をつけられる
↓
部下として大活躍
↓
(゚Д゚)ウマー
って感じか?
王双みたいに
827 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/07(土) 21:32:11
どうでもいいが次スレはいるか?
蜀単体のスレと統合した方がいいと思うけど。
>>826 その方式だと体力バカしか成り上がれない
829 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/07(土) 21:42:24
>>828 文官タイプは村一番の学者とかそんなのだと予想しました
晴耕雨読で世を儚むのが賢者です
>>829 学者になれてる時点でそれなりに恵まれた環境にいる。
頭使うことに素質があっても学問を学べる環境に生まれなきゃ成り上がれないし
兵法を理解して実践する素質があっても実際に活用する機会がなきゃ評価されない。
>>831 確かに一兵卒が計略巡らせても相手にされないな。
一から成り上がった賢者って誰かいる?
陸遜が近いか・・・
韓信
834 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/07(土) 21:50:36
韓信は浮浪者から一国の大元帥に成り上がりました
>>832 資料読み返したら俺とんでもない事
言ってて恥ずかしかった。
>>833-834 韓信もショウ何がいなければ成り上がれなかったな
三国志はそこまで派手な成り上がりがないからな
838 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/07(土) 22:00:16
蕭何に見出だされ
蕭何に引導を渡される韓信カワイソス
ケ艾
>>839 農民から出世したんだっけな
そういえばケ艾が障害者だっていうのは本当か?
>>832 「家柄は代々農民、金銭的にも貧乏で学資もない」という状況から立派な儒学者に成ったということでカン沢が一番近そう。
障害者が文オウと互角に戦うのは無理だろう
ああ吃音か。
>>841 なるほど。
しかしどうやって抜擢されたんだろう。
こっちの資料では勉学に励んだと書いてあるが
励める程の余裕はあったのだろうか
>>842 軽い知的障害って聞いたんだがどうやらガセみたいだな
>>843 どうやら代筆をしながら金溜めて勉強し、しまいには写し終わった時には写した内容を暗礁できるところまでいったらしいが、
代筆できるだけの字を教えたのは誰なのか、もしくは代筆しながら覚えたのだとしたら(字も書けないカン沢を)誰が最初に雇ってあげたのかは不明。
劉焉や劉璋が野心を抱いてたら
意外とうまくいきそうだったんじゃね?
あの親子は武将を抜擢する目があったと思う。
黄権とか董允などの働きで政治面はよかったし。
張ジンや厳顔などの忠臣も多かった。
方や劉備は他の国の武将を引き抜いてばかり
な気がする。自分で招いた者もいるだろうけど。
あくまで偏見だけどね
847 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/07(土) 22:46:35
>>845 勉強になた。
写した後に暗唱できるぐらい賢かったのなら
カリスマ性を見抜いた少し上流の人に教えてもらったとか。
少しぐらい謎があるほうが妄想が膨らんで楽しいな。
劉焉や劉璋って内政面は駄目なとこばかりじゃねーか
劉焉の長安侵攻がもし成功していれば、
関中、漢中、四川を領有し、西涼と南中を服属させる大勢力が赤壁以前に出来たろうね。
そうなった場合、中原と河北を領有しても易々と南征は出来ないだろう。
>>846 董允は多分年代的に劉璋時代はほとんど何もしてないと思う
張壬は東州兵とかいう連中?派閥?の親玉で
それを保護?参加に入れたのが劉焉で
益州劉家が滅ぶと立場が悪くなるから徹底抗戦したという
説を聞いたことがある。
>>847 >少しぐらい謎があるほうが妄想が膨らんで楽しいな
万事においてそれが真理な気がちょっとしてきた
今横山三国志読んだ
孫堅が流氷に殺られなかったら呉の天下
趙雲が阿斗を落してきたら蜀の天下統一
ここは一応正史スレじゃねーの?
そういう流れだね
855 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/08(日) 11:47:10
>>848 劉焉や劉璋 特に劉璋は暗愚の将として
描かれているが実は政治面はしっかりできていたらしい。
長年の平和ボケで出世が望めそうにない
張松などが劉備を招きいれたって事らしいよ。
戦争が起こると真っ先に民の心配をしていたし、
民からしてみると戦争ばかり起こしている劉備のほうが
嫌な存在だったろうね。
でも、劉焉だって火事場泥棒みたいなもんじゃないの?
その後は上手く治めてみたとはいえ
いや上手く収めてないし
>>856 なるべくしてなったって感じじゃない?
黄巾賊討伐も果たして平穏を取り戻したし。
助けてもらった豪族を殺したのはいただけないが。
>>850 すまん、董允と董和の親子関係が逆になってた
劉焉が東州兵を率いたってのは書いてあった。
張任が親分というのは初耳だ。
色々勉強になるな。感謝
主君のために奮戦した
既得権益を守るために戦った
>>859 親分というか東州兵出身と聞いた
あの状況からすると死ぬ間際は
おそらく親玉だろうと推測した
>>861 手元の資料を読むと
流浪の民と書いてあったが多分東州兵のことだな。
張任ってなんであんな高評価なんだろな。
胆力や精神力は強かったらしいが敗戦しか記録がない。
ぶっちゃけ劉循の方が頑張った気がする。
863 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/08(日) 13:01:51
演義補正とゲームバランス
>>861-862 先主伝注の益部耆旧雑記には、張任は益州蜀郡の人とあるが。
東州兵の親玉なら、南陽とかの出身じゃなきゃならんような?
権力を傘に狼藉を働いてだけの人
>>864 司令に益州人を置かないと統制できないやん
黄忠が東州兵出身だということには驚いた
劉璋は東州兵で地元民を押さえ込んでいたんだから、劉備防衛のために成都から出すとは考えられないなあ。
地元民抑えるために成都を落とされたら元も子もないから
>>869 東州兵を成都から出したら民衆の押さえが効くとも思えんがなあ。
趙韙の反乱の時も東州兵が必死に成都を守っていたからこそ撃ち破ってるんだし。
まあ決め手はないけどね。
I love me.
>>870 劉備が入蜀を企ててた頃にはもう少し住人の懐柔が進んでたと思うが
内部にそこまでの反乱要素を持ったまま、一年以上耐えるなんて無理だよ
874 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/09(月) 22:14:08
ホシツ程の人物が演義で冷遇されているのに納得がいかない。
息子が反乱を起こしたとはいえ、それは司馬イも一緒。
『演義』にとって呉の陣営は、そこそこの描写でいいんだろう。
羅貫中もそこまで絡ませる気はなかったと思う。
876 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/09(月) 23:35:34
逆に正史で冷遇されて
演義で優遇された賈クについて
877 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/09(月) 23:42:40
冷遇?したのは裴松之だけだ
878 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/10(火) 01:21:51
孫策が死ななかったら天下にいけたかもなぁ(根拠ないけど)
孫権は弱虫で外にでようとしなかったからなぁ
879 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/10(火) 03:18:58
○○が死ななければとかは「機会があったか?」と言う言葉には不適合だと思うなw
軍事力や戦略面・政治面や戦局を議論しないと意味が無いと思うんだ
>>877 董卓に仕える前は少なくともされていたはず。
曹操に仕えたときも冷遇ってかビビッて出世できなかったんじゃなかったっけ?
まぁうろ覚え
身の程をわきまえて慎重だったと言うべきかと
自分の娘は医者とかそんなのと結婚させたとかだっけ?
他の同僚とも私的な交際はあまりなかった。
カクは冷遇どころか曹操の元でも漢臣として他の参謀格より一段も二段も上に扱われてたし、魏が禅譲を受けてからも実質的に最高位。
だからこそ本人は慎重な身の振り方だったんだろうがね。
裴松之はカクのせいで漢王朝の滅亡が早まったような書き方だが
カクはその時の主人に最適と思われる進言をしてる
厳密には蜀も呉も天下取っているよ。皇帝もいるし、史書もあるし、両国とも現代に一文字国号を残してる。
春秋時代とか16国時代には群雄国はあっても中華の正統国号は一つしか残ってない。
それこそが天下三分の計だと思う。
中華&天下を3つに分け、ひとつの天下を取る。そして3国県立。
お互い、いがみ合い利用しあう関係。今の朝鮮とかハンガリー&オーストリアみたいな。
ただ中華思想は強烈ですぐもとに戻ってしまったが…
畜生、綺麗にまとめやがって
つд`;)
そういう、たった一つの正統国号を残せなかったからこそ、天下を取れなかったということではないか。
だからこの時代は国号ではなく、三国時代と呼ばれているのでは。
200年も安定政権が続けば、1つの国という固定概念はかなり強固なものになるからなぁ
>>887 おぉ、その通りだ。
だからこそその意味では魏も天下を取っていない。あくまで三国時代。
晋すら後の十六国時代に組み込まれてる。
しかし、「三国の時代」と解釈できまいか。
中国の皇帝を挙げろと言われて曽ヒをあげる人はリュウビとソンケンも挙げると思う。
それでまとめたら、このスレの趣旨にそぐわねぇ。
天下ってのは、統一するもんなんだよ。
まあ確かにスレにそぐわないね。
時節の札に欠けたかな。
李カク、郭シがもっと頭の回る連中だったら
ひょっとしたら色々と可能性あったかも?
十分すごい奴らだけど?
鐘会の益州での反乱が成功したらどうだろう?
君主や皇帝が誰になるか問題だが
263年で有能な人間と言うと
鐘会、姜維、トウガイ、司馬昭、ヨウコ、陸抗、杜預、王シュン
あたり?
反乱が成功すればトウガイは間違いなく殺されるし
杜預も蜀に従軍してたから、従わないなら殺されるわけで
魏で鐘会、姜維のコンビを止められる奴いなくない?
兵も大量にいるし。
897 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/11(水) 23:00:01
ホシツは名宰相だったはず。
898 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 22:53:35
外征ばっかやってた姜維は民衆に恨まれてるし、だれも従わないだろ
>>878 無理。
守るべきときに守ってこそ一流。
それをせず攻めてばかりいるのは二流。
このスレで外に討って出るのを無理とかいうな。
無理と言っていいから代案を出せ
代案といわれてもねえ。
「太平洋戦争で日本はどうやったってアメリカに勝てない」といったら
「じゃあどうすれば日本がアメリカに勝てたか代案をだせ」といわれるようなもんだな。
_, ._
( ゚ Д゚)
(; д) ゚ ゚
( ゚д゚)
( ゚д゚ )
>>902 だからこのスレでは「じゃあどうすれば日本がアメリカに勝てたか」という会話をしているんだよ。
可能性が極度に低いことは分かっているが、それでもこのスレでは様々な案が検討されている。
そういう場に自分から踏み込んでおいて、
なにもアイデアがありませんけど無理です、とだけ言い出すお前は、思索のできないただのアホだ。
>>904 思索した結果「どうやっても無理」と結論した場合でも「思索できない」となるのか?
>>907 何も現在の話をしてるわけじゃないんだから
「実際に可能かどうか」よりも
「こうしたら出来るんじゃね?」って部分が大事だと思うんだ。
勿論それらに対して「うはwwムリポwww」ってのも
貴重な意見だと思うよ。
909 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 21:57:27
曹操が徐栄の伏兵に死んでたらどうなっただろうか?
910 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 22:35:49
正直孫堅が劉表に殺されなかったら
4方の豪族全てと締結して江南の覇者になって天下狙えてたんじゃね?
孫堅、孫策が生きていたらifはその後の展開が読め無すぎる
袁術との関係がどうなるか分からないし
そもそも孫堅の目的がなんなのか分からない
912 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 23:12:20
孫堅も孫策も空想の人物なんだぞw
知らないの?w
孫堅は玉璽拾ってとんずらしたから皇位を狙ってたのは間違いない
>>911 孫堅はちょっとifが広がりすぎるけど
孫策はまだ考慮の余地あるんじゃ?
袁術の残存勢力を併合したあとの展開だし
ちょうど曹操vs袁紹vs孫策 (と劉備が各地でちょこまか) みたいな
孫策の死と官渡の戦いが同年だから大勢に影響なかったと思うが
なまじ好戦的だから下手に魏と戦って滅亡→曹操存命中の統一があったかもな
許都攻略がまるまる頓挫してるから影響ないことはないかと。
許都攻略って呉の?
そんなの返り討ちに遭うに決まってるだろ
それがまさしく下手に魏と戦って滅亡→曹操存命中の統一の流れだ
もっとも袁紹が官渡で大敗→死亡→後継者争いで分裂の状況を見れば
孫策だって自重するだろうが
IF検証するスレで、決まってるだろ、ってアホか。
すまなんだ
でも官渡〜赤壁の間は曹操が鉄板すぎて妄想するのも厳しい
袁氏が分裂しなければ状況も違ったろうがそれは蜀呉がどうにかできる話じゃないし
劉表は動けば変わったかなあ
>IF検証するスレで、決まってるだろ、ってアホか
いくらIF検証でも突拍子もない妄想じゃキチガイと紙一重にも思うけどな
突拍子もない妄想を否定している流れじゃないだろ
やっぱり極端な妄想は御免蒙りたい気はする。
じゃないとどんな展開でもありになっちゃうし・・・。
885の県立にげんなり
ある意味で鬼才かも
そうだな、無双世界は勘弁だ
>>917,919
孫策が殺されたのは官渡の決着がつく前だよ?
攻撃対象が許か徐州かは判然としないけど準備は整っていたわけで
袁紹と対峙している間に孫策が攻めてきたら曹操の勝利が揺らぐ可能性はあると思うよ
孫策に軍を挙げられたら天子奪還の成否以上に曹操苦しすぎ&袁紹大チャンスじゃないか?
当時の曹操が孫策に対応するために軍を割いたら兵糧焼き討ち以前に戦線崩壊もあり得ると思うのだが。
>>917、
>>919はどう読んでるのか気になる。曹操が鉄壁とはどういうこと?
結局は孫権の代になるまで江夏一郡を抜けない孫策陣営に、許都を衝くだけの
底力があるとも言い切れないと思うけどね
929 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/16(月) 23:42:24
黄祖がガチガチに守る江夏と違い徐州や豫州は政情不安だから同一視は出来ないよ
豫州なら豫州牧劉備が活動中だし
930 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 00:11:19
>>101 >ところで、戦国時代だと桶狭間や川越のように一つの戦でパワーバランスが
>激変するなんてことがよくあったけど、三国志ではそういうことは起こりえない
>のですか?
亀レスだが
官渡の戦いはそれに相当するのでは?
>>930 んなあほな。
袁紹は官渡のあとしっかり地元を固め、
十分曹操と互角に戦えるだけの勢力は維持している。
その後たしかにいろいろあって滅んだが、
パワーバランスが一気に激変したわけではない。
932 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 00:38:49
>>931 いや、官渡で敗戦する以前は袁紹が圧倒的優位だったのでは?
それが「互角に戦える」程度になってしまったということは
一つの戦いでパワーバランスが激変したと言えるのでは?
933 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 00:43:08
つ赤壁
934 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 00:44:16
どう考えてもやっぱり換羽が赤壁の戦いで斬らなかったのが大きい。
あそこで斬ってたら蜀漢Forever!だったのに・・・
>>932 曹操と袁紹は普通に拮抗する勢力で、そこまで
圧倒的差というほどではないはずだが。曹操と孫権じゃないんだから。
大敗したあと互角に戦えるってのは、袁勢力の底力を示すものであって、
パワーバランス激変ということではないと思う。
あと、曹操の功績を大きく見せるためあえて当時の勢力差を大きく記録した、
なんて話を聞いたことがあるが…。
>>935 >功績を大きく見せるためあえて当時の勢力差を大きく記録した
曹操ならやりそうだな。
>>935 正史三国志によると当時の誰もが「曹操は1万で10万の袁紹を打ち倒した」認識のようだ
呉の人物もそう言ってる
しかし注釈のツッコミもあるようにそんな数字は有り得ない
これは曹操の宣伝工作の賜物じゃない?
呉はなんかさ、本気で魏や蜀を制圧する気が無かったとも思う。
地方の一領主、あるいは
>>885の鼎立国家で満足してる面がある。
あるいは、下手したら益州なんて蛮地にすぎないと思い、天下二分の計を実現したんじゃなかろーか。
呉が統一するには、カントの時に徐州突破。
蜀はなにをどうやっても天下を割るしかない。割って2000年前も耐えてれば、蜀漢共和国として今に至れる。
青州兵数十万を傘下に収めていた曹操が、袁紹との決戦に一万しか連れていかないとか
んなアホなー
940 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 06:33:51
>>939 そこまで少なくないと思うが
曹操は背後にも敵が居たから
遠紹との戦いに兵を最低限しか導入できなかったのでは?
劉表とか背後にいたしね
袁紹→周りに敵がいない。異民族とも仲良しだったみたいだし、ということで
最低限の守備隊だけ残して全軍出撃(10万)
曹操→周り中敵だらけ。劉表が、劉備が、孫策が、みんなが曹操を狙ってる。
そのあたりのやつらに対応するため、一部の軍しか繰り出せない(1万)
っていう感じか?勢力全体の兵力差はともかく、現場においてはたしかに袁紹圧倒的優位、か。
それでもさすがに1万は少なすぎるな。この中で大物は劉表だけで、孫策は
しんだ頃だし、劉備は規模が小さいからそんなに大兵は割かんだろう。
だいたい、兵力差が10倍もあったら奇襲部隊が城から外に出られないんじゃないか?
942 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 07:03:22
>>941 10倍だから外に出て奇襲しない
10倍も兵が違うなら内と外で対応しないと直ぐに城は落ちると思うよ
立てこもるなら増援を期待して初めて成功すると思います。
王平もギから漢中に攻め込まれた時
内と外で戦って本軍来るまで耐えてたようですよ
まあでも、袁紹よりも劉備討伐を優先したり、官渡前後の曹操主従の発言とかを見ても、
なんか袁紹を舐めきってる感じだよな。
周辺の勢力の中で最も楽な相手と見ていて、
それで一万しか連れていかなかったのかも。
案外一万てのは本当だったのかもしれん。
944 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 08:56:37
舐めきって弱音吐いてたらアホ丸出しだよ
んで次スレどうする?
蜀天下スレは現在地政学を交えて真剣な長文君が降臨中
もういっそ、「晋以外に天下を取らせるには?」とかにした方が良いんじゃね?
公孫淵で天下取りとか言い出す輩も出そうだが。
ってか、スレを一本化しよう。
一本化する意味がわからん
949 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/17(火) 16:24:20
950 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/18(水) 02:01:16
うめ
951 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/18(水) 03:07:14
rニYニヽ , ---一 、
|レ //__殺_j | / 教レオ i
!!_ イ t` !_,` } | ,' えイ.レ i
゙- '´ ,、 /j ト ‐=' レj l てプ.が |
-''´ ,r'´ ̄`゙} |二二j l|rニ二ト、 | やの本 |
〉─7-'´l|jト、`}-イl;|`--l一〈 .| るや当 |
__ii__ | レ ルリ-ト、|州リ | .| `| り.の |
イi j j ,, ヽヽ |/ | ', | 方 i
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ノ } / }、 ヽ} ヽヽ| ノ ', | ` ---一 '
/ イ } {ニ二ニニ}´7二ニニ} ', |
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/ / l レミj {ニ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄{ {三i
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ヽ/ / { / | | l
ヽ / レ、 | | レ-、 /
`-- ´--、__ j ヽ j | ./', | `丶{
 ̄| ', / ̄| / ij
', 〉{ |./ l|
',__,r' } .|k j
', | |`丶、r'
', | | j
952 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/18(水) 03:10:54
うめ
953 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/18(水) 04:18:45
うめ
954 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/19(木) 03:22:59
うめ
クラウザーさん!!!
956 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/19(木) 11:36:01
三度のメシより三国ちぇ
うめ
958 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/19(木) 20:18:31
ViVi
えべっさん
960 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/20(金) 18:50:44
みんなうめてくれ
断る
962 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/20(金) 22:34:21
963 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/20(金) 23:00:26
馬
964 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/21(土) 00:22:45
場所
n生め
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ume
ume
うめ
うめ
うめ
うめ
うめ
うめ
うめちん
うめ
うめぷろ
mれ
ちんこ
うめちん
長いすれももうすぐうめうめ
ねじうめ
ぱんぱんうめ
がっしりうめ
じりじりうめ
ぬるぬるうめ
ぴちゃぴちゃうめ
そろそろうめ
ひきうめ
ずっしりうめ
ぎっちりうめ
はめうめ
1001 :
1001:
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) 申 と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ す 1000
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! 超
か ッ i |l ~~__´ 、 ``'__''''┘ |;;;;;l rO:、; ´ ィ○ヽ 'i;;;;;厶, え
ん ド l _|. <,,O,> 〉 <,,O,,> |;;;;;| `'''"/ `'''''"´ !;;;;;;;;ヽ た
の を ._ゝ'|. / 、 |; ,' / 、 |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
う 「 | | ( ) .ソ l ,:' _ ヽ .|;;;;;;;//-'ノ
ヽヽ | _,ニ ニ,,,,,_ ', ゞ,' '"'` '" i;;;;;i, `' /
⌒レ'⌒ヽ厂 ̄ `| ,、ィ-‐''__'''‐-`,、 '' .', i、-----.、 `''"i`'''l
人_,、ノL_,iノ! . ', :i゙''''''''''`l' ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\ ,' ト、,
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ハ ワ {. ヽ. -、、、、 ' ノ き き 了. ゙, ,ヽ===-'゙ ,' , // ヽ
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