【馬家?】涼州討議スレッド【反乱多発?】

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1無名武将@お腹せっぷく
いつの時代でもいいので(主に三国)涼州について熱く語り合いましょう
2無名武将@お腹せっぷく:2006/07/06(木) 22:45:07
涼州出身の武将って誰がいるの?
賈詡とかもそうだっけ
3無名武将@お腹せっぷく:2006/07/06(木) 22:47:32
賈詡も確か涼州出身です。
4無名武将@お腹せっぷく:2006/07/06(木) 22:49:14
うーむ・・・
地味だけど、いぶし銀揃いって言う感じだな。
馬騰馬超は言うにあらず、馬休馬鉄はもっと成熟していれば兄、あるいはそれ以上の武将になっていたかも知れない。
馬岱だって、蜀での活躍はめざましいし。
韓遂はまさしく反骨精神旺盛、旗本八旗はどいつも使えないって言うイメージがあるが、
実際は記載がないための過小評価だと思う。
5無名武将@お腹せっぷく:2006/07/06(木) 23:12:19
>>4
はいはい演義演義
6無名武将@お腹せっぷく:2006/07/06(木) 23:57:44
涼州といえば董卓
7無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 00:04:21
【馬超】西涼好きが集まるスレ【馬騰】
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1129441623/
8無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 02:56:47
韓遂は正史の方が魅力的だ。
9無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 06:03:47
皇甫嵩とかも涼州だよね。
皇甫規、張奐、段ケイあたりも好きだ。


涼州の人物って、合理的且つ実利主義的な人物が多い印象がある。
中原の人物が、儒教とか格式とかを大事にして(縛られて)いる所に
空気読まずザクザク入っていける。
董卓みたいなハッチャけた奴や、韓遂や賈クみたいな賢しい奴が解りやすい例。
皇甫嵩みたいな純粋過ぎて空気読めて無い奴も面白い。

馬超は本籍は涼州じゃないが、曹操に従ったり招聘拒否したり、
父親が人質でも挙兵したり、絶妙なタイミングで劉備に売り込む立ち回りは、
涼州らしい人物だと思う。
10無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 08:35:19
>>8
もしかして嫌々担がれてないか?と思いつつも、
結局最期まで反乱軍だったっけ?
11無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 08:55:42
曹操への降伏論者は配下の閻行だね。彼は結局裏切ったが。
12無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 10:01:29
語ってくれい
13無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 10:16:13
閻行って馬超を半殺しにしたんだよね
14無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 11:01:19
>>13
馬超が若い頃にね
15ひょーりみ ◆7rAzqBFcf. :2006/07/07(金) 11:06:10
じつはけっこう荒地
16無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 12:33:28
まぁ虚構だけど『反・三国志』の馬休と馬鉄は格好良かった
17無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 12:40:36
辺章・北宮伯玉・李文侯も涼州出身かな
18無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 18:23:54
涼州のようじょは可愛いと2ちゃんねらーの間では評判
19無名武将@お腹せっぷく:2006/07/08(土) 09:07:11
皇甫嵩は王朝に仕え皇帝個人には忠誠を尽くさなかったと思われる
20無名武将@お腹せっぷく:2006/07/08(土) 15:21:28
廃位されたら皇帝じゃないじゃん
21無名武将@お腹せっぷく:2006/07/08(土) 23:23:47
>>18
kwsk
22無名武将@お腹せっぷく:2006/07/11(火) 18:43:36
梁興が安定梁氏かもしれない件。
23無名武将@お腹せっぷく:2006/07/11(火) 19:05:08
>>22詳しく
24無名武将@お腹せっぷく:2006/07/11(火) 22:08:53
>23
石井仁「曹操」より。論拠はないけど
馬超が馬援の子孫なら梁興が梁冀の一族でもおかしくないだろ程度の認識では。
読み直してみると、関中軍閥て関中・涼州出身者ばっかじゃないんだな。
25無名武将@お腹せっぷく:2006/07/12(水) 15:06:14
>>24つまり同じ姓だからって位の認識かな、関中軍閥て涼州出身者ばかりじゃないんだ
調べようと思ったけどあんまり資料が無いね、出来れば教えて頂けますか、
貴重な情報サンクスです
26無名武将@お腹せっぷく:2006/07/12(水) 23:07:56
>25
馬超…右扶風
韓遂…金城郡?
程銀・侯選・李堪…河東郡
楊秋…安定郡?(本拠地?)
梁興…安定郡?
張横・成宜…不明

河東郡つーのは董卓の長安遷都と関係あるのかと思ったり。
27無名武将@お腹せっぷく:2006/07/13(木) 20:50:06
>>26程銀・侯選・李堪が河東郡か関羽とか徐晃かと同郷かな、成宜は献帝の
曹操を魏公に命じる辞令の中に成宜が馬超等と並んで主謀者に名前が出てたらしいです
張横はなんか一番情報が少ないと思う、河東郡と董卓の長安遷都ってなんか関係あるん
ですか?(毎回すみません)、情報dクスでした。
28無名武将@お腹せっぷく:2006/07/13(木) 23:24:14
>27
よく調べて書いた訳じゃないからツッこまないで。
単に遷都民の有力者が軍閥化したのかと思っただけ。だったんだけど、
よく考えたら洛陽からだと黄河の対岸なんだな。遷都民の線は薄いか。スマソ。

そういえば董卓は黄巾の乱で中郎将に任じられる(多分)前に河東太守になってる。
29無名武将@お腹せっぷく:2006/07/14(金) 22:07:22
>>28ツッこんじゃってスミマセンm(_ _)m、遷都民だったかもッて事ですか、
董卓は黄巾の乱の前河東太守だったのか、調べてみたら他にも西域戊己校尉(西域を護るんだと思う?)や并州刺史もやってるみたいです(ツッこんでる訳では無いです)、
話は変わりますが麹義も涼州出身らしいです、情報どうもです
30無名武将@お腹せっぷく:2006/07/18(火) 21:45:34
まったく書き込み無いので保守がてら。

>29
漢代の地図見ると、涼州あたりから西の方に大きく張り出してる地域があるけど、そこに西域諸国がある。
西域戊己校尉(戊己校尉とも)はその西域諸国にある車師国の高昌という所に駐屯していて、諸国の厄介事を鎮定する官の一つ。
他にも西域には西域都護とか宜禾都尉いった官が置かれてるけど、駐屯地が違うだけで職務は大体同じ。

あと麹義だけど、徳間書店の「三国志全人物事典」に載ってる麹義以外の麹姓4人が全員涼州出身
という所から来た推論だろうけど、ありえる話だな。
31無名武将@お腹せっぷく:2006/07/19(水) 09:08:03
麹義って羌族とかの戦法に詳しいんじゃなかったっけ?
出身って以上になんかありそうだと悶々とする。
詳しい人おらんかな。
32無名武将@お腹せっぷく:2006/07/19(水) 09:08:38
かせっかくだから上げとこう。
33無名武将@お腹せっぷく:2006/07/21(金) 21:23:19
董卓って出身は雍州なんだよな
34無名武将@お腹せっぷく:2006/07/21(金) 23:51:33
>33
董卓が生まれてから死ぬまではまだ涼州だったさ。
35無名武将@お腹せっぷく:2006/07/23(日) 17:58:23
良スレage
36無名武将@お腹せっぷく:2006/07/26(水) 21:43:56
ちなみに朧西郡は後漢〜魏にかけてあんまり形は変わってない。
37無名武将@お腹せっぷく:2006/07/28(金) 09:16:34
ドンキーコング
38無名武将@お腹せっぷく:2006/08/05(土) 00:44:17
涼州兵なんぞ水戦にもちこめば雑魚
39無名武将@お腹せっぷく:2006/08/29(火) 22:54:10
age
関中あたりと気候的な差はあるのか?
40無名武将@お腹せっぷく:2006/08/29(火) 23:08:06
チンクル
41無名武将@お腹せっぷく:2006/09/02(土) 23:02:45
涼州は11世紀が面白い
42無名武将@お腹せっぷく:2006/09/02(土) 23:32:29
西夏
砂漠に生まれた謎の王国だな
43無名武将@お腹せっぷく:2006/09/03(日) 00:42:14
西夏
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%8F
 西夏(せいか、1032年-1227年)は、タングートの首長李元昊が現在の中国西北部(甘粛省・寧夏回族自治区)に建国した王朝。
国号は夏だが、通例「西」の字を付して呼ぶ。首都は興慶(現在の銀川)。モンゴル帝国のチンギス・ハーンによって滅ぼされた。
歴史
 はじめ北宋と戦ってこれを大いに苦しめたが、1044年に和議を結び、臣従する代償に莫大な歳幣を獲得した。北宋が金に滅ぼされ
ると金に服属。1206年にチンギス・ハーンが北のモンゴル高原を統一するとこれに服属を求められたが、再三の攻撃にもかかわらず
これを拒否したため滅ぼされた。
 チベット語系のタングート語を書き表すために西夏文字を考案して使用した。

いくら資料が少ないとはいえ、これだけじゃあんまり。
いずれ暇な時に加筆してやろう。
44無名武将@お腹せっぷく:2006/09/03(日) 23:19:42
西夏って、宋と遼の二大国の間で結構巧みな外交しているよね
45無名武将@お腹せっぷく:2006/09/04(月) 14:19:46
最初はオルドスに割拠する一部族に過ぎなかったが、宋への服属と離反を繰り返しながら、
次第に河西回廊へ勢力を伸ばし、大勢力を築いたのだから大したもの。
46無名武将@お腹せっぷく:2006/09/06(水) 21:57:25
西夏は誕生から宋に服属と離反を繰り返していたあたりは面白いんだけど、
靖康の変以降、宋と国境を接しなくなってからは情勢が安定してしまって、
この板の住民的にはあまり面白くないんだよね。
47無名武将@お腹せっぷく:2006/09/09(土) 11:28:20
朧西=宋建
漢陽=尹奉・閻忠・姜岐
金城=閻行・韓遂・麹勝・成公英・郭沖
安定=胡遵・皇甫嵩・梁寛・梁冀・石徳林・師亮
北地=傅幹・傅燮・傅巽・李カク
武威=賈詡・周・周慎・段熲・段煨・張済・張繡・顔俊
張掖=郭・和鸞 
西平=麹演・麹義・郭憲
酒泉=黄華・黄ミ
敦煌=蓋勲・張奐・張猛・段灼・索靖・侯瑾
天水=尹賞・閻温・姜維・姜隠・楊阜・趙ミ
南安=趙衢
48無名武将@お腹せっぷく:2006/09/09(土) 23:14:22
トキメク人物リストですね。
49無名武将@お腹せっぷく:2006/09/10(日) 10:20:12
時代別の郡まとめ

後漢
敦煌、酒泉、張掖、武威、金城、朧西、漢陽、安定、北地、武都

建安〜三国(魏)
涼州…敦煌、酒泉、張掖、西海(張掖郡から分割)、武威、金城、西平(金城郡から分割)
雍州…朧西、天水(漢陽郡から分割)、南安(漢陽郡から分割)、広魏(漢陽郡から分割)、安定、新平(安定郡から分割)、北地
益州…武都

三国(魏)〜西晋
涼州…敦煌、酒泉、張掖、西郡(張掖郡から分割)、西海、武威、西平
秦州…金城

細かい県の統属関係が変わってるみたいなので、後漢と西晋の武威郡を比べてまんま同じ
というようには当てはまらないけど、大体こんな感じ。
50無名武将@お腹せっぷく:2006/09/13(水) 12:30:20
>>43
西夏って、その時代の宋の人たちなんかも西夏って呼んでいたのかな。
それとも夏国とでも呼んでいたのかな。
51無名武将@お腹せっぷく:2006/09/14(木) 00:16:37
宋は本気でやり合えば西夏を潰すことはできただろうけど、

北に遼という宿敵が控えている以上、全力を注入する訳にはいかなかった。

実際、宋と西夏が戦っている最中、遼は圧力をかけて、

宋に、歳幇の増額要求を呑ませていたりしているし。
52無名武将@お腹せっぷく:2006/09/15(金) 14:51:03
西夏には良質な青白塩の産地があって、それを宋に輸出したかったんだけど、
宋としては、自らの官塩の立場が危うくなるから、それは困る訳。
53無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 06:47:35
塩税というのはものすごく重要な財源だからね。
闇塩を扱う塩賊が巨利を得て力をつけ、
度々反乱を起こして、歴史を動かしている。
黄巣、張士誠とかはみんな塩賊。
54無名武将@お腹せっぷく:2006/09/16(土) 15:13:45
今の流れも興味深いけど、
後漢〜晋代あたりのウンチク希望。頼むよ賢い人
55無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 00:33:35
世界不思議発見で今度西夏を取り上げるみたいだよ

ちょっと楽しみ
56無名武将@お腹せっぷく:2006/09/24(日) 01:54:25
西夏って資料も少なくて、分かっていないことも多いからね。
まさに砂漠の謎の王国。
李氏は最初魏の末裔を称して拓跋氏を名乗っていたようだけど、
実際はチベット系に近い部族だったみたい。
57無名武将@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 00:28:03
>>55
絶対見るわ。楽しみだな。
58無名武将@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 11:02:03
この時代、宋は支配階級が貴族層から士大夫層に移り、
庶民文化が花開いて、現代に通じる中国文化の基礎ができたけど、
西夏は西域だし、かなり異国めいた情緒があったのかな。
国際化が進んでいた唐の気風が残っていたりして。
59無名武将@お腹せっぷく:2006/09/25(月) 23:19:50
ともかく資料が残っていないからねえ
仏教は結構盛んだったようだけど
60無名武将@お腹せっぷく:2006/09/27(水) 17:43:12
>>43
中国語版
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%8F

ちょっと大変だけど、訳すといいかもね
61!power:2006/09/27(水) 19:48:01
nanto
62無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 13:18:25
>>60
冒頭は訳したらこんな感じかな?

西夏の起源及び建国の経緯

 西夏は1038年から1227年に、中国西部に存在した封建政権である。

 西夏の歴史の根源は、唐代初期までたどることができる。この頃、羌族の中の党項族が勢力を強めた。その中の拓跋赤辞が唐に
降り、李姓を賜った。その一族が慶州に到り、平西公に封じられた。この時よりこの地に定住した。唐代末期、党項族の拓跋思恭は
黄巣の乱の鎮圧に功があり、再び李姓を賜った。それから拓跋思恭及び李姓を称した子孫は夏国公としてこの地の藩鎮勢力となる。

 宋代初期、趙匡胤は藩鎮の兵権を制限し、李氏の不満を呼んだ。彼らは宋の命令に服し始めたが、しかし両者の間の対立は絶え
ることなく、むしろ激化していった。1032年、李徳明の子李元昊は夏国公の位を継ぐと、盛んに宋から離脱する準備を始めた。彼はま
ず李姓を捨てて、嵬名氏を称した。二年目には乳の諱を避けるために宋の明道の年号を顕道に改めた。西夏は自身の年号を使い始
めたのだ。それから数年のうちに彼は宮殿を建て、文武の諸官を立て、法制、兵制を定め、独自の文字(西夏文字)を創造した。1038
年10月11日には皇帝を称し、国号を大夏とした。
63無名武将@お腹せっぷく:2006/09/28(木) 15:17:28
封建政権って言うあたり、中国らしいね。
64無名武将@お腹せっぷく:2006/09/29(金) 16:19:11
 何でもマルクス史観を持ち込みたがるからな。
 最近はわりと自由になってきているようだけど。
65無名武将@お腹せっぷく:2006/09/29(金) 18:14:38
無知な質問で申し訳ないんだけど、河西回廊ってどんな地形なの?
函谷関を平たく幅広くした感じ?
66無名武将@お腹せっぷく:2006/09/30(土) 19:35:49
どんな地形と言われても、
とりあえず甘粛省の地図を見れば分かるけど、
南側の祁連山脈と北側の砂漠に挟まれた、細長い回廊のような地形。
67無名武将@お腹せっぷく:2006/10/02(月) 14:42:19
険しい山脈の麓で、砂漠が側まで迫った、わずかに残った人が居住可能な地域か。
砂漠の側から攻められたら無防備だな。
68無名武将@お腹せっぷく:2006/10/03(火) 09:13:41
そのために、万里の長城が作られたんだよ。
それにいくら遊牧民でも、砂漠を越えて攻め寄せるのは難しい。
甘粛はそれほど豊かな地域というわけでもないし。
69無名武将@お腹せっぷく:2006/10/03(火) 15:11:25
涼州が一番栄えた時代ってやっぱり唐の時代かな?
東西交易が盛んだし。
70無名武将@お腹せっぷく:2006/10/03(火) 23:09:51
海抜が高く乾燥してるから草木が育たない。
草木が少ないからそれを食べる動物も少なくなる。
動物が少ないからそれを食べる人もいない。
という事ね。
71無名武将@お腹せっぷく:2006/10/04(水) 19:51:02
>>69
西夏の時代もそれなりに栄えていたと思うよ。
鎖国政策を採った明代以降は、ちょっと寂しくなるかな。
72無名武将@お腹せっぷく:2006/10/04(水) 23:50:29
宝元戦争

概略
 1039年(宋の宝元2年)から始まる、西夏が宋と正面から衝突した最初の大規模な戦い。1044年に講和が成立するまで
続いた。
 初期には比較的大きな戦いが何度か行われたが、宋が度重なる敗戦を受けて、城塞を修築して守りを固めたことで戦線
が膠着した。その後も小競り合いが続いたものの西夏側の疲弊も大きく、講和が成立した。

原因
 李元昊が跡を継ぐと、それまでの和平優先から一転して宋に対して強硬策を採るようになり、1039年に独立宣言を突き付
けることで国境は一気に緊張した。国境地帯における城塞の攻撃など小規模な小競り合いが始まり、李元昊が自ら軍を率
いて宋へ侵攻することで大規模な戦役へと発展した。
 京兆府まで一気に侵攻し、陝西全域を押さえる事を目論んでいたともいう。
73無名武将@お腹せっぷく:2006/10/04(水) 23:52:46
経過
 1039年、李元昊が皇帝を称し、年号を建てたことを宋に通告したことに対して、宋は官爵の削除、交易の停止などで報じた。
この年の暮れ頃からは、国境周辺で衝突が始まった。
 1040年、李元昊は軍を率いて宋へ侵攻して城塞をいくつか破り、宋の西夏に対する拠点都市の一つの延州を包囲した。西
夏軍は延州救援に駆け付けた宋軍を三川口の役で敗ったが、大雪のために包囲を解いて撤兵した。9月には西夏軍が鎮戎
軍周辺を攻めて宋軍を敗り、いくつかの城塞を陥れるなど戦果をあげたが、逆に宋軍に別の城塞を攻め取られるなど一進一
退の攻防が続いた。
 1041年、2月に李元昊が軍を率いて渭州方面へ侵攻し、迎撃に出た宋軍を好水川の役で敗った。しかし、西夏軍も勝機に
乗ることができずに撤退したらしい。秋に西夏軍は、陝西地方北部にある宋の府州、麟州を攻めたが陥れることができず、つ
いで豊州を攻めて陥れた。この後も国境地帯で小競り合いが続いたが、西夏は目立った成果をあげることはできなかった。
 1042年、年初から慶州や延州周辺で相互に侵攻を繰り返したが、目立った結果はあがらなかった。9月になると西夏軍が
渭州方面へ侵攻し、迎え撃った宋軍を定川の役で敗った。さらに渭州まで軍を進めたが、宋軍の抵抗もあり略奪のみで軍を
退いた。
 1043年の初め頃から本格的な和平交渉が始まり、翌年にかけて交渉が続けられ、1044年10月に和議が締結された。これ
で5年近く続いた戦争が終結した。
74無名武将@お腹せっぷく:2006/10/04(水) 23:53:58
結果
 西夏が宋に対して「臣」と称し、宋が西夏を「夏国主」に封じて講和が成立した。またこの際、西夏が占領した城塞の一部返
還、交易の再開、宋から西夏への歳賜(総額で銀7万2千両、絹15万3千匹、茶3万斤)の支払いなどが決められた。
 開戦当時西夏側は大幅な領土の拡張を目指していたともいわれ、その意味ではこの戦争は失敗だったと言える。西夏の宋
に対する国境線は、北宋の滅亡までこの時よりも拡がることはなく、結果として西夏の軍事力の限界を示したことになる。また、
和平交渉時点でも、西夏は宋に対して、宋と遼の間のような対等な関係を目指していたが、この点も結果的に失敗に終わった。
但し、歳賜の額は少ないものではなく、西夏にとって重要な収入になったと考えられ、「臣」を称することで大きな実利を勝ち得
たと評価されている。
75無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 10:09:12
全般的に西夏側が攻勢に出て、宋が守勢に回ったけど、
国力の違いから西夏側が攻め切れず、講和か。
76無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 09:39:11
宋と西夏で争っている隙に、遼が漁夫の利を得かねない事態が生じたことも、
講和成立の背景にあったしね。
77無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 16:05:50
>>43
確かに少ないねえ。
まずは起源、それから建国と対宋戦争、内政と文化、モンゴルとの関係について、
それぞれ項を設けて、しっかり記述しないと。
78無名武将@お腹せっぷく:2006/10/06(金) 17:24:36
>>60
西夏の経済とかの項も設けているね。
後半は記述が薄いけど、資料がなくて分からないことだらけだから、
仕方ないか。
79無名武将@お腹せっぷく:2006/10/07(土) 10:08:44
西夏の動員可能兵力ってどれぐらいだったんだろう?
80無名武将@お腹せっぷく:2006/10/07(土) 13:58:12
砂漠や草原が多く、わずかな農耕地では養える人口は多くはない。
経済面でも、交易による収入が大きかったと考えられる。
国民皆兵制度のようなものがあったみたいだけど、そう多くはないだろう。
81無名武将@お腹せっぷく:2006/10/07(土) 14:04:53
総合的な国力は、どう逆立ちしても宋には勝てんでしょう。
北宋は、人口1億人超、
当時の世界人口の4分の1、世界経済の半分を占めていた超大国だし。
諸般の事情により、軍事面では弱かったけど。
82無名武将@お腹せっぷく:2006/10/08(日) 07:13:32
諸般の事情w
83無名武将@お腹せっぷく:2006/10/08(日) 10:53:03
>>78

西夏的経済
 西夏は西涼地区にあって、遊牧民族で、経済は発達しなかった。西夏経済の源は、宋を侵略して得た土地
によってなされた。西夏は太祖(李継遷)の時期に宋の霊州(現在の寧夏霊武)と興州(現在の寧夏銀川)等の
地、また西で占領した涼州(現在の甘粛武威)と瓜州(現在の甘粛安西)等の地。これらの地区は五穀豊穣で
常に野菜や果物、食糧が栽培された。党項人はこの広大な耕地で耕作して、先進的な農業生産技術を習得
し、西夏経済の発展を促進した。しかも西夏は長期に渡って漢人と雑居し、農業技術もとても高い水準を達成
した。史書曰く「耕稼之事、略与漢同」。

 西夏には本来磁器がなかったが、掠奪した宋人によって磁器を得た。宋と西夏の慶暦の和議の後、西夏と
漢人の人々との交流によって同時に磁器生産技術を習得する。西夏の穀宗の時期、西夏は磁器を焼く窯を作
り始め、磁器の自己生産を始め、磁器産業を発展させた。西夏の磁器産業の中心は、“塞上江南”こと銀川平
原にあった。その磁器は中原地区の長所を吸収して、同時に民族の特徴である淳厚朴実等を取り入れ、一つ
の西夏独自の風格を備えた磁器が形作られた。西夏の磁器は遠く海外まで売られた。

 西夏は崇宗、仁宗の磁器、西夏経済は大々的に発展し、農業、商業、手工業は発展していって、四方の物
品は興慶に集まり、西夏経済の最盛期を生じさせた。

↑ざっとこんな感じのことが書かれているね。
84無名武将@お腹せっぷく:2006/10/08(日) 17:57:55
車田正美風に馬超を描いたなら…

馬超「おのれ曹操 しかし奴の勢力は強大すぎる
   一体どうしたら勝てる…」

  ザ  ッ  …

馬玩「フッ 俺達のことを忘れてしまっているようだな」
楊秋「水くさいにも程がある」

馬超「お…お前たちは…」

  ザ  シ  ャ  ア  ァ  ァ  ァ  ッ

馬超「涼  州  十  軍  閥  !  !」

  ガ  カ  ア  ァ  ァ  ッ
85無名武将@お腹せっぷく:2006/10/09(月) 15:52:57
>>83
西夏の磁器ってどんなかねえ?

銀川平原が塞上江南と呼ばれているのは初めて知った。
86無名武将@お腹せっぷく:2006/10/09(月) 17:46:45
西夏の話中にスマソ。

誰か大理について教えてください。
大理のことなら何でも可
87無名武将@お腹せっぷく:2006/10/09(月) 20:05:19
全然涼州じゃねえー!
88無名武将@お腹せっぷく:2006/10/09(月) 23:27:57
>>86
いずれ雲南を語るスレも立てたいな。どうやって三国志と結びつけるかだけど。
大理国は10世紀に雲南の少数民族白族出身の段思平が建国した、段氏の王朝。
現在の雲南省とその周辺の領域を支配し、途中に断絶はあったものの、
13世紀まで続き、元に攻め滅ぼされた。
ただ、元代にも段氏一族は保護され、地域の支配層の立場は維持し続けた。
明代に入り、明の下での王朝復興を画策するも、洪武帝に拒否される。
こんな感じか、まとめると。

関係ないけど、金庸の武侠小説「天龍八部」は、大理も西夏も舞台になって面白いよ。
テレビドラマ版はDVDも出ている。
89無名武将@お腹せっぷく:2006/10/09(月) 23:53:51
ここ何スレなんだ?

なんかなぁなぁなまま世界史板向けの話題で進んでるけど、
そういう話はしかるべき板かスレでやった方がいいんでないか?

議論に夢中になるとスレタイと関係無い所でも延々と続けてしまう人が多いのが
三戦板のネックだ。
90無名武将@お腹せっぷく:2006/10/10(火) 04:21:26
>>89
それネックじゃなくてメリット
91無名武将@お腹せっぷく:2006/10/10(火) 09:12:22
>>89
>>1には、主に三国(宋・遼・西夏)で語れと書いているではないか。
92無名武将@お腹せっぷく:2006/10/10(火) 11:47:05
>>90
スレ違いの所で語られるから、ちゃんとしたスレが育たない。

>>91
ヒント:ここは何板?
93無名武将@お腹せっぷく:2006/10/10(火) 12:04:20
>>92
>ヒント:ここは何板?

中華歴史娯楽総合板へ変貌を遂げつつある三戦板だよ
94無名武将@お腹せっぷく:2006/10/10(火) 12:05:56
西夏については三国の一つだからスレ違いではない
でも大理はさすがに涼州じゃないからほどほどに
ということだ
95無名武将@お腹せっぷく:2006/10/10(火) 19:34:59
なんだその新ルール。
世界史板でやりゃいいじゃん。
96無名武将@お腹せっぷく:2006/10/10(火) 20:43:29
出たよ「世界史板でやれ」厨…
このスレの内容に沿ったレスしないなら自分が出ていきなよ
時代が気に入らないならまず自分が後漢末〜三国時代の涼州についてネタ振りや議論を始めるべき
出来ないで文句つけるだけなら荒らしと同じだよ
97無名武将@お腹せっぷく:2006/10/10(火) 21:44:34
このスレは板の底に沈んでいて、落ちる寸前だったのを、
西夏の話題を振って引き上げたんだよ。
糞スレが多い中で、良スレとして活用できると思ったから。
98無名武将@お腹せっぷく:2006/10/10(火) 21:50:10
>>97
君は正しい
胸を張ってがんがれ期待しとるよ
99無名武将@お腹せっぷく:2006/10/11(水) 00:56:54
>>92
それはそうなんだけど、
付随した話であっても「○○の話は××でやれ」になってしまうと
議題が途切れてしまうよ。
付随しつつ枝葉が分かれるのは仕方ない事だと思う。
むしろ該当スレと相互リンクしてもいい位。

なんというか、現状でも板を細分しすぎだと思ってる。
スレが多くて収拾付かないから便宜上分けてるだけで。
100無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 14:38:37
2006/09/02の書き込みから話題が脱線してるね。
で、その前の書き込みは2006/08/29。
「底の方に沈んでたのを再利用してやった!」って言える程の期間
放置されてたわけでも無いようだけど。

てか、話題が無い時の一時的脱線ならともかく、
スレそのものを「宋・遼・西夏の話をする場所」と言うぐらいなら
こういうスレでしないで、別の場所を作った方がいいと思う。
101無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 14:40:42
馬家は西夏打倒を目指す
102無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 16:08:39
じゃあ後漢末期の話しようぜ!

涼州三明の中で誰好き?
僕は段ケイちゃん!
103無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 16:23:38
104無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 16:48:31
>>102
僕は張奐然明ちゃん!

段[火畏]みたいな強硬派も面白いけど
張奐の悲哀に惹かれる。

105無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 16:57:19
諸葛亮の北伐からケ艾によって成都を陥とされるまで魏蜀の争いの場となったわけだが、これって結果的に西涼の蛮族らの力もそぎ落とせたことになるのかな?
106無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 17:13:05
じゃあ、俺は清代の涼州でも孤独に語るか
107無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 17:15:39
乾隆年間のイリ遠征への中継地
108無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 17:42:31
>>105
逆でしょ
むしろ相対的に重要性が高まった
109無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 17:51:53
うん? ここは西夏の話題は禁止になったのか?
世界ふしぎ発見でもうすぐ西夏特集があるというのに。
110無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 18:16:41
>>108
中国の戦略的にみればそうかもしれないが、戦場になったわけだし羌族は移住させられたり支配下に組み入れらたりして国力あるいは勢力そのものは低下してない?

>>109
板違い。
111無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 18:36:29
>>110
>>1見ろ
いつの時代でもいいそうだから
112無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 18:45:00
1がどんな詭弁を弄しようが戦国時代・三国志以外の歴史関係は板違い。
113無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 18:47:09
>>112
スレ内容に関係ないことばかりレスしないでね
気に入らないからってスレ潰しは陰湿ですよ?


晋代を考えると、むしろ涼州異民族は強くなっていると思う
114無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 18:47:42
>>105
蛮族ってか羌族に絞って考えると
基本的に半農耕で温和な民族性だし
数千〜万程度の部族にわかれて統合性が無い。
匈奴とかみたいに一つの権力者の元で軍事集団を成してる民族じゃないから
反発する部族のみ制圧して、他は懐柔して間接統治したりだと思う。

僻地の部族に至っては把握されず普通に放置だったろうし、
「力をそぎ落とす」っていうような全面的な対立関係とはちょっと違う気がする
115無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 18:50:28
>>113
105=110=112でこのスレが一生懸命板違いにならないように力不足ながら三国志関係のネタを振ってみたんだがなあ。
116無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 18:52:06
>>113
「過疎ってるから、西夏の話して良スレにしてやった!」
「スレ違いや板違いを指摘するなら別の話題降れ!」
みたいに言ってる人多いのに、
いざ板に相応しい後漢〜三国あたりの話題が出始めると
>>1の文面引き合いにだして、居座る気満々じゃ、顰蹙も買うさ。
117無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 18:55:27
>>114
んー、そうかあ。
魏の誰の伝だったか忘れたが冀州は魏の要でここの住民に再び兵役を科すのはよくないみたいな記述があったので、
魏蜀の戦役で疲弊したのかなあと思ったんだわ。
兵站の強化の為の色々な施策の方が功を奏したということなのかな?
118無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 18:58:47
三国時代の話題振っても同じレスで板違いだのこ五月蝿く言われちゃあなぁ
正直引く

不言実行だろ、そういう時は
しっかりした知識や興味を元に話題を出せば皆食い付く
適当なレスはすぐ飽きられる


内地移住とか魏蜀戦に巻き込まれることで、羌なんかは文化受容や組織化して強くなったのかも
と言ってみる
119無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 19:00:48
例えば諸葛亮は陳式を派遣して武都・陰平2郡を獲得してるが、それ以前に魏が2郡の住民を移住させたりしてる。
国土に見合った国力を得られてないようだ。
涼州の幾人かの統治者の伝が魏書に載ってることも考えると、同じ涼州でも魏の領域と蜀の領域では充実度にかなり差があったと言える?
120無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 19:03:13
羌族って後漢初期ぐらいの頃で人口1300万近く居たという
中国古代史の論文を読んだ事がある。
(その論文のソースはわからないけど、
羌族歴の書籍に引用されてたぐらいだから、いい加減な論文では無いと思う)
匈奴とかは南北あわせて100万人ぐらいだった事を考えると
どれだけ規模が大きいかわかる。

後漢末期の羌族の反乱とかで、
10万規模の軍事組織になって長安に迫ってるのを、スゲーと思ってたけど
羌の総人口を考えると、ごく一部の反乱でしか無い事に気づいて、さらに驚いたよ。
121無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 19:06:59
>>117
羌や涼州と冀州って関係なくない?
122無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 19:47:30
>>121
地理的には無関係だが兵役などを課すと生産力が下がる例としてあげてみただけです。
123無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 20:05:30
曹操に下った楊秋の出世振りは何ゆえに?
124無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 20:28:56
張燕や臧覇、閻柔なんかのような、独自に兵力を擁する小軍閥を優遇したということ
彼等は事実上独立した勢力だったから、優遇しないと離れてしまう
125無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 21:19:02
最初は馬騰馬超を懐柔する予定だったのを
そのままシフトした感じだよな<楊秋
126無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 21:49:45
姜維と一緒に下った連中もそれなりに中央の高官に上がってるな。
127無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 22:12:40
臧覇とか封邑多いもんなぁ。
曹洪とか曹休が2000そこそこの時に3500戸とかある。
徐州は禍根多いし、やっぱ色々な意味で重要ポストなんだろうな。

涼州も統治の手間かかる地域だし、楊秋が厚遇されてるのも道理だ。
128無名武将@お腹せっぷく:2006/10/20(金) 15:00:23
地味に役立つスレだな
129無名武将@お腹せっぷく:2006/10/23(月) 20:49:57
保守上げー
130無名武将@お腹せっぷく:2006/10/23(月) 22:53:58
馬超かっけー
131無名武将@お腹せっぷく:2006/10/25(水) 20:58:47
後漢書郡国志(続漢志)によると武威郡は10042戸、34226人となってて
武威郡出身の賈詡は孝廉に察せられてる。
この調査とは年代が少し違うけど賈詡の成年時にまだ10万人を下回っていたとするなら、
実に三年に一人の確率の孝廉をパスしたわけだな。

>>47
でいうと武威郡出身の著名人に賈姓の人が賈詡以外ないけど、
どの程度の豪族だったのかちょっと気になる。
132無名武将@お腹せっぷく:2006/11/01(水) 01:13:32
董卓が大軍を引き連れていったのに、馬超が曹操を脅かす10万の兵を出す余裕があったからもっといただろ。
133無名武将@お腹せっぷく:2006/11/05(日) 20:34:12
>>132
そりゃ兵士には戸籍に入ってない者や異民族もいただろうからね。
134無名武将@お腹せっぷく:2006/11/10(金) 14:31:44
涼州は遊牧民ってことかな?

馬って印象が強いが農業はどんなもんだったんだろう?
135無名武将@お腹せっぷく:2006/11/11(土) 23:43:05
馬援が異民から領土を守るために派遣されたと聞いたから、遊牧民ではないだろう。
136無名武将@お腹せっぷく
かたれ