1 :
無名武将@お腹せっぷく:
呉について語ろう
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/06(火) 03:54:31
2呉
珊瑚
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/06(火) 07:29:17
死後
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/06(火) 07:30:38
午後
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/06(火) 07:31:31
ロックゴーゴー
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/06(火) 07:34:54
名護
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/06(火) 07:36:40
ヤゴ
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/06(火) 07:37:35
救護
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/06(火) 07:38:19
統合
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/06(火) 08:45:08
軍港
前スレは知らない間に落ちててビビッタ。
一つ気になったんだが、
あの時代驢馬ってどこに生息してたんだ?
馬と一緒なのか?よくわからん。
諸葛家に生息してました。
呉で一番口喧嘩強いのって誰だろ?虞翻?
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/09(金) 19:34:57
go
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/09(金) 19:37:12
20 :
17:2006/06/09(金) 22:00:27
>>20 ありがとう。
手間をかけさせて申し訳ない;;
戦艦大和大好きー
>>21 そして書き込んだあとにページ翻訳があるのに気づいたorz
なので基本的にはそのまんまコピペですが
部分部分読みやすいよう手を入れてみたのでその辺注意
専門家は六朝の大きい墓の地面の建物を探す 墓の主人は孫権の親戚だかもしれない
昨日の午後、1度の突然やってくる大雨は六朝の大きい墓の考古の仕事にしかたなく一時停止させて、
再度が地滑りの情況が現れることためを防止する、従業員は大きい墓に階をプラスして天蓋形のひさしを防ぐと
《金陵夕刊》によって報道している。
連続して3多い月の考古の発掘を経って、考古人員はついに六朝の大きい墓の通路をきちんと整理し終わって、
そしていくつか出土して価値の磁器、陶器などの文化財がある。
しかしいまどきになって、依然としていかなる墓の主人の正確な身分と関係がある発見がなくて、
でも過程の中等専門学校の家達を発掘してまだ発見して、
大きい墓地の上に地面の建物がまだあるかもしれなくて、そして存在するかもしれない建物の遺跡を探すことを始める。
専門家は驚嘆する“よい風水”
大きい墓のニュースを知った後に、多くの専門家はわざわざ江寧の上で坊に向かって、六朝の大きい墓を実地調査して、
“風水が本当によい”はこれらの専門家になって現場の第1感じに着く。
考古人員は記者に教えて、六朝の時期の墓がとても重んじて車の学を調査測量して、要した“後によることがあって、
前照らすことがあって、あちこちぐるりと取り囲む”,この墓は例外ではない。
その東の北方は2組の群山があって、“背の山”と言えて、寓意“の前に遠い眺める力があって、後後顧の憂いがない”;
同時に山は8字形が現れて、1つの風の通路を形成して、寓意の“順調だ”、古墳は着席して2山がぐるりと取り囲む間に囲む。
その他に考古人員は発見して、墓地の前方に遠くなくもとは池(工事が埋めて平らにされなければならないため)につきあうこととがあって、
“顔の水”と言えて、寓意の“財の、に集まって活気がある”、
“風水のこんなによい墓、普通の身分の人が決して埋葬してここにあることができるのでない。”
現場の考古の専門家の王引は言う。
ここは名前を“孫家墳”と言う
六朝の大きい墓は江寧の上で坊の科の学園に位置して、もとはここは1つの小さい村落で、仲夏村を叫ぶ。
しかし現地の民衆もここを“孫家墳”にという。
東呉の大帝の孫権は于鍾山の陽の呉王の墓を埋葬して、すぐ今梅花山、この孫家の墓は確実に人に聯想を生ませる。
王引の紹介、江寧の一帯の自身は孫家の大本営で、彼らが活動の最も多い地方の?に従事するので、
そのためこの墓の規模と規格から見にきて、完全にこのような可能性を備える。
しかし具体的に墓室の中で墓誌銘のれんがを探し当てて、買地券あるいは竹木の書簡を見る。
これらのものは普通はいずれも通路あるいは前の室で集中して、しかし現在から情況は見て、通路の中にいたずらに1物がなくて、
ただ前の室ある程度発見したことを期待する。
墓地の上は建物がある
普通の規格のとても高い墓、地下の乱雑な墓室の以外、
地面の上にも後代の人の祭祀の墓に建物に弔いをするように供えることがいることができ(ありえ)て、
六朝の大きい墓は例外ではない。
700年余りの変遷を経って、地面が造ってとっくに跡に会わないで、不完全かも知れないれんがは瓦を切って依然として深く地下を埋めて、
もしそれらの位置を探し出すならばことができて、もしかすると位牌、墓誌銘と竹木の書簡が墓の主な身分を証明しにくることを発見することができる。
ここ数日、考古人員は洛陽ですくって古墳の東側に対して掘削機の破壊する土壌に測定を行われる。
洛陽がすくうのは最も常用する考古のツールで、2メートルは長くて、底部の空腹の円柱の形の鉄器を通じて(通って)土壌に潜り込んで、
更にすくいだす土壌に対して分析を行う。土壌が異なっている時代の幾重にも重なり合う畳むことを通じて(通って)合わせるのだため、
異なった方面の土壌、色と匂いはいずれも違いがあって、特に人為的な破壊のもとの熟化していない土を経ていないで、
もし考古人員はすくいだす土壌の中で東呉を探し出す建物のかけらを跳躍するならばことができて、
更にかけらのありかの土壌の色と匂いを標準にして、
掘り起こして、もしかするとある程度発見することができる
墓主の身分の四大推測
一番早い?として決裁(添削,批判,注文)して江寧で文博の仕事の文化財の専門家の?に従事して、
南京市の文物局研究員の王引は江寧の上で坊の六朝の大きい墓について濃厚な興味を生んだ。
“ここの俗称の孫家墳、信じるのは気軽に叫んだのではない。”
実際に史料を理解して調べるを通じて(通って)、王引の紹介、六朝の大きい墓はおそらく孫氏の一族と直接の関係があって、
そして記者に何種類推測したのかもしれない。
1推測する:孫策の墓
根拠:大きい墓は東南の方向に面する
“本当にもし孫氏の一族の墓だならば、第1考慮のは孫策だ。孫策の墓が今までも適切な言い方がないためだ。”
王引は、孫策は東呉が国を立てるの帝王の孫権の兄で、彼は東呉の大きな塊の国家を築いて、
江寧、湖の熟している一帯も孫策の活動の最も頻繁な地区の1つだと言う。
彼は生前ただ将軍の府だけを建築して、一日の帝王の生活がなくて、孫権継の位が帝位についた後に、
死後に爵位を与える貴兄がそして大きい墓を建築するのは非常の可能性のだ。
その他に大きい墓の方向も王引がこれが孫策の墓の1つによってであることを推測するので、
古人が埋葬して1つは風水を重んじるため、2は郷里の観念を重んじるのだ。
六朝の大きい墓は所在地を選んですでに占めて風水を尽くして、しかし少しとても奇怪で、
それは方山を“照らす”にして、方向は東南の方向をえこひいきするので、
これはちょうど孫策の故郷の浙江の富陽の方向で、そのため東南に面して,“魂が故郷に帰る”も通すことを釈明することができる。
2推測する:呉国太の墓
根拠:アオヒツジのランプソケットを発見する
六朝の大きい墓の墓室の中で、考古人員はアオヒツジのランプソケットを発見して、用いて常夜灯を放置する。
この細い点は王引に墓の主な身分の推測について1種多くならせたのかもしれない。
“古代に羊は2種類の象徴的意義があって、1つは代表の吉祥、その他に1種代表は親孝行をして、羊がひざまずいて乳を飲むのだためだ。”
王引の紹介、史料によって記載して、呉国太に孫堅の妻だ。その長子が一統の長江下流地域を鞭打った後に、
国はあまりに貨幣と穀物を出資し援助して、東呉の発展に対してとても貢献がある。
孫策は死ぬ前にかつて孫権がきっと呉国太を尊敬するとくれぐれも言い聞かせて、
それ以後孫権はずっと親孝行をしてさらに増えて、死んた後にとても高い規格によって厚く埋葬するのも有り得ないのではない。
3推測する:東呉将軍
根拠:墓のれんがのしわ
六朝の大きい墓の墓のれんがのしわはとても複雑で、
紋様、お金の紋様を放射してその上墓のれんがの中にくさびの形のれんががまだあることがあって、
とても繁雑で、工事量もとても雄大で、そのため東呉の初期の墓のあまりようではなくて、もし東呉の末期だならば、
呂蒙、陸遜など軍功の世人にぬきんでる将軍が厚いに埋葬されるこのような風水の肥沃な土地で恐らくのだ。
4推測する:皇族一支
根拠:“孫家の墓”の名称
東呉の4人の帝:孫権、孫休、孫亮、孫皓、その中の孫権は梅花山で埋葬して、宋山の大きい墓は呉景帝の孫休の定陵だかもしれなくて、
孫皓が捕虜になった後に于洛陽を埋葬して、孫亮は廃棄されて殺す。
南京は東呉の首都として59年続いて、このような規格の墓がとても少なくて出土して、ここをさらに加えて
“孫の家の墓”のこの俗称に広く伝わって、埋葬したのかも知れないのは孫氏の皇族1本で、皇帝ではない、
それでは更に王の爵級の的人物だかもしれない。(汪明宇)
27 :
17:2006/06/09(金) 23:08:33
以上です
・・・中国語が読める神プリーズorz
読んでみてけっこう面白いな
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/20(火) 00:11:18
語らないか
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/20(火) 23:49:43
どうぞ
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 22:44:24
二喬は奪略同然に連れ去られたって本当?
能力スレ見てて思ったけど、やっぱ呉関連で伸びやすいのは都督連中なんだな。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/26(月) 12:04:57
そりゃそうだ
劉纂なんか伸びやしない。呉後期の重鎮なのに
盛り上げろ
36 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/06(木) 18:32:15
張悌の死に際はいい味だしてるのにな、、、
張悌は俺も好きだ。が、知名度低いな。前身となる呉書成立以降に活躍したせいか立伝もされてないし。
張悌は諸葛亮に面識があるらしいが
いつ会ったんだろう?
39 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/06(木) 19:59:21
>>38 張悌は襄陽出身で幼い頃に諸葛亮に評価されたとあるね
襄陽なんだろか
張悌は280年に死んで、諸葛亮が襄陽に居たのが207〜208ぐらいまでだろうから、
この時子供だったとすると最後の戦場は80歳近くの高齢での出征になるな…
仮説だが、張悌は張温の一族で
張温と共に蜀へ使いした事あり
そこで諸葛亮と会ったとか。
でも張温の本籍は呉郡っぽいから違うなあ。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/07(金) 01:46:39
ぽいじゃなく呉郡です
張悌はおそらくだが劉備に仕官していた父に従い一度は益州に行き、そこで諸葛亮に会ったんだろう。
で荊州陥落までに父が荊州に赴任、それに同行して荊州が陥落し呉人となった、と
まあそれでもかなりの歳だろうけど
襄陽時代のニート孔明に誉められても憶えてるものだろうか?
個人的には幼少時に会ったと思う派ではあるが
張悌と諸葛誕の息子が一緒に晋と戦ってたというのが奇遇
そういえば文欽の息子の文鴦も一時期は呉将だったんだよな
>>43 ニート時代の孔明はそれなりに名声があったからなあ
>>45 でも劉備は教えてもらうまでは臥龍鳳雛を知らなかった訳で
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/09(日) 19:25:07
96歳まで生きた呂岱について語ろうぜ
呂岱はほぼ陸遜の後継者みたいなものか?
でも呂岱は陸遜の親父ぐらいの年齢だからなあ
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/10(月) 00:50:32
161〜256だもんな。劉備と同年生まれ。
呂岱すげーー
交州遠征時で還暦過ぎてたんだな。
でも相手の士一族も長寿で有名。
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/11(火) 22:07:44
呉といえばやっぱり大和ミュージアムだよね。
あと、「海猿」の舞台にもなったし、最近話題になることが多いよね(^O^)
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/11(火) 23:18:45
くれ
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/12(水) 23:11:00
呉って
囲碁がブームになってたんだな
自演自作
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/14(金) 07:19:51
呂岱も陸遜のように隠し玉みたいな感じで
対魏蜀で登場したら人気でたかも
無名の老人司令官とかで
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/15(土) 00:21:22
呂岱もっと有名になるチャンス一度だけあったのにな。
劉備征蜀時に張魯のもとに派兵してたよな。
59 :
信玄:2006/07/15(土) 01:05:09
朝鮮について語ろう
60 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/15(土) 12:24:27
却下
張昭と周瑜と孫権って誰が一番人望あったんだろ?
ハウディの定休日教えてください。
孫策だけ広辞苑に載っていないのはなんで?
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/18(火) 20:46:44
>>63 マジレスすると、孫策は皇帝ではないからかも。(孫堅、孫権は皇帝)
でも孫策の曾孫(正確には陸遜の孫)は広辞苑に載ってるので許してやれ。
孫堅と孫権と周瑜と大喬小喬と陸機は載ってるな
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/23(日) 14:03:03
何故か魏のショウヨウが載ってたりするのが
広辞苑クオリティ
諸葛タン(;´Д`)ハァハァ
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/29(土) 10:26:35
陸機は載ってて陸雲は載ってないの?
教えてエロい人。
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/07/29(土) 13:10:41
呉556
孫皓の宴会には絶対に出たくない
断ったら目をえぐりとられます。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/01(火) 16:56:56
_, ,_ ∩ アニキバッカリヤダー
\ ドンドン (#`Д´)ノ /
\ ⊂l⌒i / /
シュウユもリョモウモ \ (_) ) ☆ /
シンデイヤダイヤダ \ (((_)☆ / ジタバタ
\∧∧∧∧/ _, ,_
〃〃∩ _, ,_ < > 〃〃(`Д´ ∩ 遼来来ヤダー
⊂⌒( `Д´) < の > ⊂ (
ヽ_つ__つ < 予 名 > ヽ∩ つ
────────< 感 君 >──────────
< !!! > ゴフジン↓
オニータマ・・・ < > _, ,_ リュビハモウワタシノムスコヨ!
(* ゚∀゚) /∨∨∨∨\ (;´Д`) _, ,_
⊂⌒、つ ⊂ノ / ∩ _, ,_ \ ⊂彡☆ ) Д´) エー!?
⊂⌒( `Д´) / ⊂⌒( ゚∀゚ ) \
`ヽ_つ ⊂ノ / `ヽ_つ 9mノ \
イモウトニナメラレルノヤダ! ギトショクガタタカッテルヨ?ナンデー?
陸機といえば弁亡論で孫権の善行として「酒を3杯以上飲んだ命令は無効とした」ことを
挙げているのを見たとき少し笑った
>>75 そこは「自己の欠点を自覚し、改めようと努力した」ということで一つ…
保守
虞翻伝は読むたびに笑える・・・
虞翻は糜芳に酷い事をしたよね
虫の居所が悪かったんだろう。
調子乗ってたのに恥じ入る糜芳が素敵。
殺人未遂事件のとき周囲の連中は動転して劉基だけは冷静だったとあるが、
虞翻本人は知らん顔してたんだろうな
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/11(金) 13:40:44
虞翻=仲翔を知らない横山厨は逝ってよし
このスレでのたまう意味がわからんのですが
言わんとしていることはわからなくもありませんが、自分で文字を発明して
子どもの名前にするあたり凡人とは一線を画しますね三代目
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/15(火) 13:59:04
孫休と曹休と一休、どれが1番???
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/15(火) 16:19:57
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/08/15(火) 17:34:16
メロリンキュー
諸葛恪vs一休さん
第五文休
爾汝の歌を作って朕を楽しませろ
↓
おーいおまいら元気かー
またーりしすぎだぞー。そういえば
えいがやるんだっけ?赤壁の
実際のところ山越ってなんなんだ?
95 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/01(金) 00:51:18
わたしはまいつた
孫堅孫権孫乾孫謙
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/05(火) 22:43:53
呂岱より長生きって、蜀漢の来敏だけ?
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/06(水) 12:47:00
>>93 そうなの?結構楽しみだったり
だがどうせ諸葛(ry
ドラマ化の話もあるようだ
呉の扱いはry
呉るぁ!
楚と反乱起こした国か
ありきたりな質問なんだが孫呉好きになった理由は?
>>104 光栄ゲーに手を出す
→まず能力高い奴の名前覚える
→曹操が好きになったため(理由:ゲームで一番優秀だったから)その後演義読むも違和感あって嵌れず
→ネットその他で「実は誰々は正史で〜」系の話しを聞き、興味を覚える
→年齢も上がり史書に手を出すようになり、孫呉は初めて聞くような珍エピソード多くて注目
→決定打は姉の「周瑜ってただの吐血魔じゃんwお笑い担当?」みたいな心無い誹謗を訂正してる内にいつしかすっかり魅了されてた
「周瑜ってただの吐血魔じゃんwお笑い担当?」
を
「魯粛ってただのオロオロしたお使いじゃんwお笑い担当?」
でも可
やっぱり呉書の面白さが一番の理由だな
性格に一癖ある奴ばっかりだし
約束破った同僚をぶち殺すために兵士招集したり
「気が狂ったんで帰ります」などと言い出したり
主とコントじみた大喧嘩をしたり
驢馬面ってからかわれたり
降将をいびりまくったり
部下の影に隠れがちな皇帝も酒乱とか学問ヲタとか暴君とか意外と癖が強かったり
呉面白いよ呉
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/21(木) 20:37:54
>108
>驢馬面ってからかわれたり
これだけは その人本人には責任がありませんがw
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/09/21(木) 21:39:46
太伯が建国した呉?
弟はキレイなジャイアンだから文句なんていったら・・・
他スレから転載
369 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2006/09/23(土) 17:24:59
>>354 赤壁の政治的意義を示す好例。
・赤壁以前、曹操からの脅しに近い手紙に対し、
張昭「曹操はまがりなりにも漢の宰相、双方の戦力差は絶望的、ここは残念だが曹操を迎え入れるべき」
・赤壁以後、曹操から呉王任命の使者が礼儀に反して車から降りなかった時、
張昭「テメー礼儀を守るから法が守られるつーこと知らんのか?(無礼な奴にこっちがいつまでも手を出さないと思うなよ)
調子こいてるみたいだがオメー江南の人間をナメてんのかあぁ?この刃が飾りだとでも思ってんのかって聞いてんだよボケ!!」
なんかウケたw
なんつーか俺張昭好きだ。
張昭の必殺技「母君が死際、あなたのことを私に託されて・・・」
そしてループ
魏の武将は個室に入っているが、呉の武将は大部屋で野放しって感じ。
それがいい。
ひとつの大部屋に生真面目組と不良集団が混在か
んで間に入って緩衝材となる呂蒙諸葛瑾劉基
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/02(月) 00:53:42
生真面目組の頭領の張昭と
不良集団の頭領の孫権w
生真面目組の頭領とやらも、気をつけないといつキレるかわかりません
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 00:30:31
生真面目組の頭領をキレさせる
魏のKTも凄いなw
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 03:46:45
張悌かっこいい!
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/05(木) 13:03:24
みんなおもしろい!かわいい!
あなたは幼稚園の先生か何かでつか
文庫版で正史を読んだとき滕胤伝があまりに見事にぶった切れてるんで
落丁かと思いました
滕胤は諸葛恪誅殺後あたりから突然はじけた気がする
なにかが吹っ切れたのかやけくそになったのか
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/12(木) 18:54:19
滕胤と諸葛恪は マ ブ ダ チ
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/13(金) 15:17:22
呂蒙が病気になったとき、壁に穴開けて中のぞいてた孫権カワユス。
どのくらいの大きさの穴だったんだろ。片目でコソーリだったらさらにイイ!
孫権て、人間臭いエピソードが多いね。
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/14(土) 22:22:10
二張あげ
130 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/14(土) 23:21:29
呉爆
131 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 00:28:27
現代なら田代や植草のような末路を辿っていただろう。
生まれた時代と立場が良かったな。
じゃあ劉備はストーカーだなww
文学スレで知ったのだが
安徽省の省都が「合肥市」らしい。
なんかツボったw
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 10:37:44
135 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/15(日) 22:29:19
も
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/18(水) 22:54:42
う
復刊ドットコムで「呉書三国志」の復刊をずっと待ってるんだけど、
交渉中のまま止まってる…誰かもっと投票してくれるやつはおらぬか
酒乱といえば孫権のイメージだが胡綜も相当酷いな
実際に諸葛恪みたいなガキがいたらむかつくだろうな
保守
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/10/28(土) 08:05:23
>>139 確かに鉤鼻で大人をナメたガキは殴りたくなる
ナメられる大人にも問題があるさ。
そういえば張昭は諸葛恪はもとより甘寧にも言い負かされていたな
甘寧たんは頭いいのです
甘寧は戦略眼もそこそこだもんな
伊達に20年近くニートだったわけじゃない
保守
ニート上等
朱然はちび
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/14(火) 20:53:42
小男でも名を馳せた武将がいると希望が沸くなあ。 楽進とかも背が低かったんだよな。
何かよくわからんがおまいさんも頑張れ
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/18(土) 10:38:47
二張すきすき
>>130 呉爆?
あの伝説の暴走族ですか?
爆走天使の特攻服の人が最高だった。。。
>>153 cats the white kure
ってのもあったな.
20年位前の族だろ?
当時呉のチームは最強だったな。
155 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/21(火) 10:29:51
片山連合? 極龍会
危須美異連合?
甘寧はどこかの地方で水神になったんだっけ?
159 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/11/24(金) 01:27:49
>>159 うん
二張好き好き
ジジイコンビってところがいいよね
漢和辞典を見たら張昭が載っていた
韋昭だって載ってるぜ
孫権って張昭の事が素で嫌いだったんじゃないかって気がするんだけど。
だって、名士としてしの声望があったから丞相に任命しちゃマズい。
外では孫権より声望あって、内でもNo.2だったら・・・・。
ただ、赤壁で降伏派だったとはいえ、孫権を立ち直らせて孫策死後の
呉国内の動揺を最低限に抑えるのに尽力した張昭の私邸の放火するのはどうかと思うけど。
主君が嫌っていても無視できない立場に居るのが張昭で、だからこそ張昭は不興を買うのを覚悟で行動できる(してくれる)。
気に食わないやつを殺したり投獄したり流刑に処したりすることが許されてしまう権力者にとって、目障りだけどかえがたい存在。
孫権と張昭の主従コンビは、いつ喧嘩が始まってもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいい。
主が門の前に土盛ってふさいだかと思えば、臣はそれに対抗して
内側から土を盛って完全封鎖。
こんな馬鹿げた喧嘩はこの二人じゃないとできない。
>>165 張昭がいらないとは言わないが、孫権の時代ではむしろ諸葛瑾や顧雍のほうがかえがたい気が
孫策の時代は張昭必須だったけどね
だが、諸葛瑾は呂壱事件の時、「私達は軍部ですしー、陸遜・潘濬にお願いします」といったから
こんなときは苦言を呈する重鎮、張昭(ry
さすがの呂壱も張昭には手出しできなかっただろうな
諸葛瑾は孫権よりもまず息子の教育をし直した方がいいな
教育してアレだったんじゃないんかね?
喬は父に似た性格だったようだし。
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/06(水) 20:25:26
呉で子育てが上手くいったのって陸遜ぐらいだろ
>>171 朱然・朱桓・呂範の子供はそこそこ優秀だった気がする。
確かに朱然の息子は頑張っていたな。長生きだし
175 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/06(水) 23:39:02
施績のことか
孫権も孫登・孫和は良く育ててたんだけどな。
孫権のボケさえ無ければ孫登が死んでも孫和が廃されず後をついで
皇帝になってればファザコン孫皓もグレルことなく
名君になった可能性高いし呉の衰退は元を辿れば全部孫権の痴呆が原因なんだよな。
二宮の変は呉の四姓ら豪族連中の勢力を削ぐための孫権による工作だったんじゃないの。
そのすぐ後に本人が死んだから逆効果に終わったが
張昭と諸葛謹さえ生きていれば…
孫権って諫言されても大体好きにやってるんで有力豪族の影響力がイマイチ分からない
張昭とか諸葛瑾とか諫言する人は北来の名士だし。
秀吉ほどではなくても年齢を考えれば耄碌していてもおかしくない>孫権
虞翻の諫言は場の空気読まずに言う上わざわざ逆鱗に触れる言い方するのが難点w
虞翻は性格自体が最悪じゃまいか
185 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/08(金) 12:21:45
グホンゲホン
虞翻って諸葛瑾のとりなしがあって死刑を免れることが出来、流刑に処されることになったとか。
諸葛瑾がとりなしても流刑って、フォローが出来ませんよそりゃw
禰衡よりはマシだろ
禰衡くらいしか下にいないのか
最低クラスには変わりないな
…虞翻ってそんな駄目?俺はむしろ好感持てるんだが。
降伏した于禁や糜芳へのイジメは、人格的にも、降伏者を優遇するという君主の方針からしても最低の行為だ
降伏した于禁や糜芳への仕打ちは、忠節を全うするという君臣の道の尊重から出た善行とすら言えないか?
だからこそ于禁自身虞翻を賞賛し魏でも重んじられたわけで。
忠孝の道を語る上では誤りじゃないが、降伏を勧めるという国家戦略をぶち壊しにするのは、ある意味自分の君主に対して不忠じゃないか?
以前の呉スレに較べると武官だけでなく文官についても語られているのが良いですね
虞翻は将軍では無いけど本人は矛などの達人だと自負してたそうな
ニ張とかに較べても硬骨漢だったのかね
虞翻からしたら国家戦略としても「(裏切りものは処罰して)忠節を全うするという道を全軍に示す」>「(裏切りものを受け入れてでも)降伏を促す」なんだろう。
ついでに主君に誤りあれば意に逆らってでも直言する、という思想の持ち主だから…本人は自分の行為が不忠だなどとはこれっぽっちも思ってなかっただろう。
虞翻の思想自体の正しさは、俺にはなんとも言えない(法家的には多分アウト、儒教的にもちょっとやり過ぎに思えるが)。
虞翻の場合は本人の性格的問題もあるんじゃないか?
儒者として不忠者は許せなかったのかもしれんが、それでも何かを超越している気がする
チンシュンシンの小説だと虞仲翔を配流と見せかけて作戦地域へ派遣して工作をさせてるって表現されてるな
交州に流されたのは士一族と蜀の南方への工作だった
197 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/13(水) 13:11:15
陳ちゃんはそういうのが好きよねー
若死にが多いイメージがあるけどみんなけっこう長生き
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/17(日) 22:17:56
孫権の死因って老衰?
おそらく肺炎
孫権の息子たちはあまりいい死に方してないな
長男次男六男は病気で早世、三男四男七男は若くして自殺、五男は一族誅殺
孫策の息子はどうなったんだろうね
>>201 孫紹なら侯にしかされなかった上に子の孫奉は誅殺。
あまりいい死に方出来ないのは一族の宿命のようだ。
203 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/12/24(日) 05:17:29
二僑は余生をどう過ごしたんだろうね?
自称孫権の子孫という人たちは系図とか持ってないんだろうか
具体的にどういう風に繋がっているのか見てみたい
205 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/03(水) 01:18:31
↑あったとしたら、公開するメリットってあるのかな?
正確さは期待できないと思われ
正確だったら、そこに載ってる先祖に
殺された人達の子孫に復讐されないのかな?
現代には無くても 過去にやられてそう
あっちの人は執念深いからな
呂岱は90歳すぎても現役だったわけだが肉体的な支障は
生じなかったんだろうか。耳が遠くなるとか。
呉じゃなくて魏だけど王思は歳をとって目が悪くなってから大司農になったので
文字が読めず終始イライラして周囲に当り散らしていたというような逸話が残っているし
やはり目とか耳は衰えていたんじゃないかな
甘寧は 郷里では役人だったそうだけど
どうやってその地位に付いたんだろ
誰かとコネがあったのかな
陸遜あの世でまた憤死するな
「呉はいつも脇役だから想像して遊ぶ余地がある」なんて言ってるらしいぞ
あんまりファンがいなさそうだから、ブーイングも少ないだろとか思い込んでるんでないの?
>孔明と陸遜と孫権の三角関係が見所
( ゚Д゚) ・・・・・
呉オタ\(^o^)/オワタ
216 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/13(土) 20:06:39
どーも最近、呉はとみにつらい目にあわされるなあ
バンヤローとかいっきとうせんとかどうして呉は妙なネタでばっかとりあげられるのか
佐々木泉が描いてる魯粛の漫画は面白いぞ。
23日にメディアファクトリーから単行本が出る。
ほんと?一話しか読んでなかったから続き読みたかったんだよ。
(田舎だもので本誌どこ探しても売ってないんだもんよ)
>>210 へえー
痴呆になった人物なんかもいるかもしれんね
またどこかで誰かの墓とか発見されないかなー
そんですごい史料が発掘されたりしないかなー
224 :
無名武将@お腹せっぷく:2007/01/24(水) 08:45:40
>>220 すまん、本屋に行ったが置いてなくて
発売は一ヶ月延びたってよ。ページ数が足らなくて
今月27日発売の三国志マガジン収録する予定の話も収録するためなのかな
225 :
220:2007/01/26(金) 18:11:26
>>224 わざわざ有難うございます
しかし考えたら、本誌が売られていない本屋にコミクスが来るのだろうかと
226 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:2007/01/26(金) 20:22:20
まあそれはあるかも知れんが、火鳳燎原やSTOP劉備くんは置いてあったからな。
でもこれらも再入荷はしないだろうし、確実に入手したいなら注文や予約を薦める。
ってか更に延びて3月23日発売予定らしい。
それまでにちょっとまとめてみるか
『江南行 三国志連作集』 佐々木泉 作・画
第一話「江南行」魯粛と周瑜の出会いとデビュー?
第二話「伍君神」南方民族の伍子胥信仰? 孫権登場?
第三話「遊仙洞」第四話「麻保屯」山越退治&凌統のデビュー戦。
凌統は蒼天みたいなチンピラっぽい所とかは全然ない。ただの子供と言ってもいいくらい
第五話「捕風船」魯粛の指図で作成した新型船を導入し孫権らが黄祖討伐に乗り出す。
甘寧&董襲が大活躍と凌統の大ハッスル
魯粛が第二夫人と周瑜のはからいで歌妓を妻に娶る。
第六話「盤上戯」曹操の追撃を振り切るべく劉備が取った作戦で虐殺が起こる。
そこを見聞に訪れた魯粛と諸葛亮、邂逅す、天下三分に乗り出す?
ついに曹操と劉備が初登場。 仏教についての紹介も。
んで今月27日発売の三国志マガジンに続きが掲載予定。
特に最初の方がかなり怪しいので補完お願い。陸遜とか呉範も登場しているらしい。
陸遜、ぽやーんとした地味顔だったよな。舟レースんとき
あの漫画は風景とか服装がらしくっていい。実際はどうだったか知らんけど
ほっしゅ
230 :
名無し@取扱い地域・時代、自治で議論中:
赤壁で一番武功があったのって誰?