2 :
まとめ:2006/05/21(日) 04:21:34
上洛の可能性 ↓以下で上洛可能
・信玄が健康で長命
・足利浅井朝倉松永本願寺三好残党六角残党らも包囲網一致協力
・三方ヶ原の戦い後、徳川家を早期に攻略乃至は降伏
・武田軍が甲斐に帰らず1年以上遠征可能
・上杉が空になった信濃、上野を 襲うことは決してない
・北条も軍艦の記載のように援軍を出す
・三河尾張国境の 水野家が離反する
・織田との決戦で勝利する
42スレまとめ
>7-32テンプレ
>33-61テンプレの正誤について
>45>50小浜の所領安堵 >59>96織田の堺代官
>62-126 >149-166川中島以後の上杉の対武田信濃への行動 城の守備兵力と防衛力
>196-240武田上洛の可能性
>239-261嫡流断絶後の両家
>256-286甲尾同盟と越尾同盟
>265>269年表
>287-360武田戦績浜松攻めの可否信長の戦術能力
>287-290>303>325>326>339>342344>346武田戦績
>359-388真田など >364大熊朝秀
>422-437織田の援軍・出撃の理由・領国荒らしの効果
>454-484>494-537武田の採るべき徳川戦略・徳川の抗戦力と浅井六角の抗戦力
>485-493短期間での大名の滅亡・大敗の滅亡への影響力
>570-572武田氏参考本
>565-580野田城
>573-630北遠江の城の数支配領域東三河の支配領域 >630奥山への安堵
>677>685東美濃十八城 >687リンク先ソース
>694-742武田織田の領民への統治・税
>717竹生島参詣 >737NHKコピペ
>768-792信長の一向一揆殺戮について >775長島攻め
>793-848大名の寺社政策・寺社同士の抗争
>852-986北遠江諸城・落しただけか支配下か・武田の勢力範囲・北遠江の安堵・孤立した城
>852北遠江諸城一覧 >881北遠江の安堵状報償 >893充行の日付
>909久能城リンク >928武田進撃ルート
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)
ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。
関東
上野:49万6千石/12400
甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375
東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450
北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125
畿内
山城:22万5千石/5625
大和:44万9千石/11225
摂津:35万6千石/8900
河内:24万2千石/6050
和泉:14万1千石/3550
伊賀:10万石/2500
四国
讃岐:12万6千石/3150
阿波:18万4千石/4570
淡路:6万2千石/1550
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)は以下参照
ttp://homepage3.nifty.com/ksatake/
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
18(21?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。
総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。
総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
池田和田淡路の安宅などはテンプレ時は旗幟をはっきりさせていない。
●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。
総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 05:34:42
何で乱立してるの?
■三方ヶ原の戦い後の情勢。
1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
■この情勢をもとにした推測。
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千〜三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
信玄率いる遠征軍は石高的には84万石〜90万石で21000〜22500ほど+北条の援軍2000〜3000
+美濃へ入ってくる秋山隊が3000ほど
>>9 スレ立てを上杉厨の荒らしのせいにして 50の城の話題から 逃げたかったから。
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 09:32:06
【殺人狂 織田信長】
・直臣の家族510余人を人間バーベキュー。
・織田嫡流(信長・信忠)は家臣の裏切りで殺される
・家臣に織田家を乗っ取られ滅ぼされる
・6000人も討ち取られながら長篠を大勝と捏造
・革新的と言われている三段打ちも捏造
・手取り川で惨めに惨敗
・信玄に怯え岩村城の叔母を見捨てる臆病者
・二万もの軍勢で秋山に翻弄される戦ベタ
・秋山との約束を破り城兵を皆殺し。生きたまま叔母の腹を割いたキチガイ
・侍女の不手際を許さず一刀両断。助命嘆願した僧さえも殺す
・徳川と連合を組みながら武田に大敗をする弱さ
・弱兵浅井朝倉に敗北
・朝倉に媚び諂い土下座をしてまで許してもらう
・それでありながら一方的に条約を破る卑怯者
・斎藤義龍に永久に勝てず敗北しまくりw 3戦全敗wwwww
・何度も暗殺されかけるカリスマのなさ
・本願寺攻めで足を狙撃されて苦しむ。惨め
・しかも百姓相手の長島一向一揆で大敗をする惨めっぷり
・700年もの歴史を持つ偉大な延暦寺を気に入らないからと丸焼き
・何万人も虐殺する異常な虐殺マニア
・松永に二度も裏切られる先見のなさ
・荒木にまで裏切られる人徳のなさ
・最後は重臣の光秀に殺されるwwww
↑
論破されたからと織田スレに八つ当たりすんなよ。
おまけに上杉厨のせいと自演してるし武田厨は最低だな。ま1部だけどさ
上洛の可能性 第2弾
・信玄が長生きする ○(このスレの最低条件)
・結束があんまりなかった信長包囲網がいきなり結束を固める ×
・他の大名が信玄を上洛させるがために信長を攻撃する ×
・上杉が攻めてこない △
・北条も決して同盟を裏切らない ○
・北条が更に援軍を送ってあげる ×
・武田軍が最低でも小説や漫画ぐらいに強い ×
・武田信玄が小説や漫画くらいに頭が良くて戦争に強い ×
・信 長 と の 決 戦 に 勝 つ (多分無理)
以上×3つ以内で上洛可能かと思われるが――
とりあえず前提というものがあるわな
・武田信玄は小説や漫画のように頭が良くて戦争に強くない
・武田軍は小説や漫画のように強くない
・騎馬隊なんて存在しない
・しかもほとんど農民だから多分兵農分離の信長軍よりも・・
・重税かけていて国内ボロボロ
・信長はそんなにたくさん鉄砲持ってない
【亀田三兄弟のような 武田信玄】
・武田騎馬隊なんて存在しない
・武田軍が戦国最強なんてあるわけない
・少ない兵数だと普通に負け
・同じ兵数でもきっちり負け
・相手よりも多くてもしょっちゅう負ける
・実は大したことない上杉がライバル
・実は大したことない上杉にやられそうになる
・ホモラブレター発覚
・女略奪
・捕らえた者達を奴隷にして売る
・勿論虐殺もしてる
・信虎よりも重税をかけている
ホントに亀田三兄弟みたいだなwww 捏造しまくり
>>15 他はともかく、兵農分離は関係ないから。
この時期織田軍だって兵農分離なんて全然していないし、
そもそも半農半兵だって農繁期にも普通に戦争している。
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 11:04:19
武田信長
というか、兵農分離ってのをやると兵士の数が減少するから、
実行するとむしろ軍事的には不利になるんだけど。
だから、そんな事が出来るのは他を圧倒する大勢力だけ。
織田政権の後期や豊臣政権にならないと無理。
つまり、兵農分離をしたから強くなったのではなく、
強くなったから兵農分離も出来るようになったというのが正しい。
その他の勢力 東国
●長尾上杉
・越後…100%(9775)
*ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10%(1240)
*沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
・越中…20〜25%(1900〜2375)
*神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5%?(510)
*飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。
総計13425〜13900
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。
●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。
その他の勢力 畿内
●朝倉
・越前…100%(12500)
*寺社領については、明確な根拠を示さない限り否定されます。
・若狭…?
*守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)
総計12500+?
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。
●浅井
・近江…9.5〜14.5%(1850〜2825)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。これも考慮に入れた。
総計1850〜2825
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。
●六角
・近江…?
*愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?
●松永・筒井(反松永)
・大和(11225、ただし双方合わせて)
*寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×(両派とも)
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
●長島一向宗+国人
計20000?
遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。
●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接
軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。
※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ
の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。
●北畠
・伊勢…30%(4253)
*大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
するものが出る。
計?
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。
●伊賀
六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
その他の勢力 三好
三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)
畿内
・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。
・摂津(8900)
・河内(6050)
・和泉(3550)
*ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、など
その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。他に足利家につくものも多数いた。
総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。
四国
・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には義昭信長につく。
・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
*安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
離反は確実であるが織田に付いたとも言い切れない。
総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる
おまけ
●足利将軍家
・山城…?
*北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。和田池田伊丹などは義昭勢力。
総計不明
・遠征能力×(史実でも城に篭った)
>>20 42スレでスレ立て報告もなくそちらのスレではテンプレも貼られていない。
そんなスレを本スレと言われても困る。
>>20 テンプレも貼らず、前スレに報告もしないで何を言うか。
28 :
続いて:2006/05/21(日) 15:50:47
情勢:信長包囲網側圧倒的に優位という状況にて
信玄が死去しなかったらどうなっていたかを推測
以下、1572年(元亀三年)末日の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…99%(10000)*飯山以北は残す。
・上野…45〜50%(5500〜6250)
*利根川以西に北部と南部の東岸を加える
・駿河…99%(3750)
・飛騨…50%(500)
*江間150騎が先方衆となっている。元亀3年9月に木曾方面からの侵攻もあり
・越中…15%(1500)
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っている。71年には謙信に落とされているというのは
誤りで、近年は上洛開始時健在でほぼ確定。
・遠江…40%(2500)
*元々境の地域は両属の領主が多いうえ、徳川側記録に拠ると
侵攻により地侍が靡く様に寝返ったとある。東海道沿いに逼塞、ぺちゃんこ
・三河…20%(1500)
*山家三方衆を誘降、足助城を落とし、賀茂郡、設楽郡ほぼ全域・八名郡一部を支配。
・美濃…5%(675)
*秋山信友が岩村を制圧。
計32000〜33000 + 北条からの援軍2000
●織田
・尾張…100%(13000)寛永検地では52万石
・美濃…90%(12150)恵那を失陥 岩村遠山、郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…50%(9500)
*浅井・六角は追い詰め中。湖南のいつ蜂起するか判らない一向一揆。
・伊勢55%(8000)
*桑名・三重郡の一揆衆。南部5郡の北畠氏を除く。
・三河…0%(0)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族は家康の寄子。
総計43100
●徳川
・三河…75%(5500)
・遠江…60%(3750)
侵略しぬかれぺっちゃんこ
計9250 ただし味方が原の大敗でもっと減じている可能性大
さらに各所城砦へばらばらに篭っているとの報告もあり、手許の手勢はより少ない可能性も
●朝倉
・越前…100%(14000)
・若狭中、東部…70%(1500)
*若狭侵攻で一部を除く中、東部を支配、逸見氏・粟屋氏は織田についたため雪隠詰め
朝倉軍の一部が粟屋氏の居城を包囲中。(武藤氏が反織田に回った)
・加賀…20%(1800)
計17100
●浅井
・近江…18%(3500)
*伊香郡、高島郡の朽木、志賀境を除く、浅井郡7割、朝倉との関係上城は元々破却済み。
計約3500
●北畠
・伊勢…40%(5600)
*南伊勢五郡を領有、誰かが織田へ離脱したと主張し始めた国衆はもともと南勢ではない。
織田軍へ加勢するのは長島を根切りにした時の戦から。
計5600−α 織田は北畠一族や国衆を動かせないが
北畠も表立った行動は難しいかもしれない
●六角
・近江…30%(3000)
*騒動にて家中は崩壊状態の雑魚、甲賀郡他丘陵部を占拠、一揆みたいなもん
●三好
主体は阿波、讃岐、淡路の義賢一門、ただし長春は最悪
・淡路(1550)
・阿波(4600)
・讃岐(3200)
計9350 反織田、とはいえ交戦する情勢でもない
三好康長と
三好義継、松永久秀、俗に言う三好三人衆、三好政勝
・河内(6050)
・和泉(3550)
代替わりと内訌、微妙な存在
●本願寺
まあぱっとみ3万人、近江各地で蜂起する
●長島一向一揆
追い詰められた末根切りに遭ったのが2万人、おそらく3万前後かw
*信長の弟が拠る城を短期間に陥落させたこともある
●将軍義昭
プライスレス
>>33 否定する場合は、言い張るだけでなく何かしら説明した方がいいと思うよw
前スレの安堵、宛がい状調査している人
結果はどうでした?
信玄一人が死んだだけで、国力自体が極端に落ちたとかそういうことはないんだよね。
信玄一人生きてても対して変わらんだろう。
>>34 >●本願寺
>まあぱっとみ3万人、近江各地で蜂起する
>●将軍義昭
>プライスレス
こんなのに説明が必要なのか?
というかいい加減これはるの止めて欲しい
ますます武田の評判が悪くなるじゃんか
38 :
武田厨:2006/05/21(日) 16:20:25
>>37 2日経ったけど、安堵状と宛がい状の調査結果は?
武田厨>信玄死後に後退した武田の支配域は最低限武田方
織田厨>それはまあ納得する、徳川に攻められたらまたあっさり離反するから
織田厨>確実に戦力と数えられるのは武田の次の遠征時まで離反しない地域
とまあ、自分で認めてるから言うまでもないか‥
消耗戦になれば国力の差が時間とともに現れる
信玄一人生きててもこの基礎条件はどうにもならんね
信玄存命中すら信虎以上の重税かけないといけないくらいだから…
そうだね。
敵の多い織田家が消耗戦を選ぶのは、消耗度の大きさからして危険だね。
>>39 いやその織田厨となってるレスは自分だけど
武田厨だよ一応。
そのような自分以外はすべて織田厨と考えるのは他の武田厨が迷惑するんだけど。
>>39 調査というか確認しようと調べてはいるが、
日付だけでどこ所蔵かもわからないモノは簡単に探せません
寺社のも閲覧できるものではないから、典拠先探してるが、
現在ではまだわかりません
そもそも提示した本人が「らしい」という曖昧さなもので…
だから、どうやって確認したのか尋ねたが返答はなかった
つか確認にかなり時間かかると書いてる訳だが
それに
>>37は別人だよ
>>43 調べるまでも泣く適当に言っただけだろ
実際に詳細聞いたら返答ないんだろ?
それから
>>37の彼は軽い被害妄想に取り付かれてて自分に意見するものは全員自演で一人しかいないと思ってる人だから
ついでに落としたとして挙げられた50の城の名は、
明確に武田側だとわかるのを書いてくれないかな?
根拠付きで
あれは元亀三年10月からの出征で落としたという城だよね?
もう、50の城云々は挙げられませんでいいんじゃあないの?
私は武田贔屓の人間だけど、
無理にそんなものを挙げて欲しいとも、挙げなければならないとも思わない。
まあ、挙げられると言った人がいるなら自身の言葉に責任を持たなければならないが、
ひたすらそれを待ち続けて、その為にスレが空転するのもなんだし、
今後ちゃんとした根拠をもって再度挙げてくるならその時また検討するとして、
とりあえず今は「挙げられなかった」ということで決着としておいてはいかがか?
>>46 それでいいはずなんだけど、どうも本人が納得してないような…
というか緩衝地帯として、扱えばいいだけかと
信長は100害あるが100利がある人間
確かに人を殺しまくったことは確かだ だがその一方で税率は低く軍の規律もしっかりしていた
関所も廃止されたし楽市楽座も行われた 商人の利益を奪い取ったのはいいことの方に入るであろう
何よりも戦乱の世を終わらせる一歩となった 信長がいなければペリーが来るまで未だ戦国時代でもおかしくはないのだ
信玄は害は10程度しか無いが1の利もない
信虎よりも税を厳しくとり
捕虜は奴隷にし
虐殺も行った
まぁどっちがいいかはその人次第
自分としては城の名前だけでも上げられて立派だと思うが・・・
まあもともとテンプレへはほとんど影響力無いし、単に武田厨が嘘吐きかどうかだけを
はっきりさせるためだけの話題だったからね
名前あげるだけならググれば5分で可能。
>>49 「武田厨」とはくくらないでくれ。
嘘つきなのは出来るといった者だけ。
武田厨と言われる者が全部そうなわけじゃあない。
信玄の苦しいところは駿河の美味しい部分を穴山に与えなければいけなかったような、戦果を即自分の直下に組み込めない武田家の体質でしょ
重税体質は信虎の代からだからこれは地勢としか
良識ある武田厨に
>>3や
>>15のまとめ(このまとめは織田厨の皮肉だが)
についての考察をお聞きしたい
武田厨が何というか知らないが、
・北条援軍、戦巧者の大藤以下2000の兵というのは、北条にとっても大きい。これ以上の援軍は応じまい。
・また結束を固めようにも距離の所為で意志疎通・戦略の共有すらままならず、
・それが出来ない以上、反織田方の信玄にあわせた織田領侵攻も不可能に近い。
故に、
>>14の通り×が三つ以上は確定
信玄が勝頼並みのペースで出兵を重ねれば、当然勝頼のように領国破綻を招きかねないほど負担がかかる
かといって手を緩めれば協力してくれそうな勢力が撃滅されて、戦略状況は悪化する一方
戦術的に信長を討つような大金星が転がり込んでこない限りは…
だから家康を封じ込めて、信長との決戦に挑もうとしてたのでは?
三方ヶ原とか見る限り、決戦志向だと思うけど
その信玄の戦略構想を踏襲しから勝頼が長篠で決戦したのかと
家康を餌に信長誘い出し、決戦か
ありえるとすれば場所は三河西部かな?
家康を餌でなくて、家康は当分の間、軍事行動できない程度に痛めて
信長が受けて立つなら尾張国境かそこらでしょうね
>>55 ・信玄が健康で長命
最低条件
・足利浅井朝倉松永本願寺三好残党六角残党らも包囲網一致協力
一致協力は無くても多少の時間稼ぎと織田兵の拘束はできる
・三方ヶ原の戦い後、徳川家を早期に攻略乃至は降伏
流石にそれはありえない
・武田軍が甲斐に帰らず1年以上遠征可能
そりゃ無茶でしょう
・上杉が空になった信濃、上野を 襲うことは決してない
73年にはまず襲われない、74年以降も軍鑑の勝頼のように守備兵を増やせばまず襲われない
・北条も軍艦の記載のように援軍を出す
現状以上の増援は難しいと思う
・三河尾張国境の 水野家が離反する
離反するとは思えない、また地理的に離反するメリットが無い
・織田との決戦で勝利する
同兵力なら難しい、というか信玄なら余程有利な兵力差で無いと決戦は挑まない
結局足利浅井朝倉松永本願寺三好残党六角残党らと徳川どっちが粘れるかということだと思う
>>61 まあ、そんなところだと思うけど。
後世の歴史を知っていると、どうしても徳川が残りそうな気がするな。
63 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/21(日) 22:07:23
信玄死去・撤兵後の5月には大井川越えして反撃を実施してるからな
消耗度からいえば徳川にまだ余力ありと見えちゃうしね
あと浅井に対する虎御前山要塞みたいな付け城というか、武田軍が徳川軍の動きを封殺できるだけの措置ができなかったことも
>>61 守備兵増やせば上洛への兵数が減るぞ
ただでさえ兵数で劣勢なのに・・ 長篠がちょっと早くなるだけになりそうだ
―――で、武田の家臣達って戦争は上手いがそれ以外はカスの老害ってことでおk?
>>64 NO。
頑固になる老人というのは、己の経験談(成功体験)に基づいての自信からなんだそうな。
つまり、かつてこういう状況でこうやって成功した、或いは過ちを犯さなかった俺が言うんだから間違いないってな感じで。
逆に言えば、政戦両面で成功者としての実績があるものほど、
政戦両面で変革を志す勝頼を非難する側に回るといえる訳だ。
まあ老害ってのは間違いないが。
一つには、勝頼の改革が長篠後…つまり負け戦の後から急激化したのも原因だろうね
余裕が無い時に馬鹿やってどうするんだ、みたいな感覚だったんだろう
武田の老臣は老害であったか
メリット
修羅場を戦い抜いている
戦争は上手い
デメリット
頭が固い
長篠とその後のことを考えると一概には言えないが・・
彡川三三三ミ
川川 ::::::⌒16⌒ヽ
川川::::::::ー ◎-◎-)
川(6|:::::::: ( 。。))
._川川;;;::∴ ノ 3 ノ
/;;;:::::::::::::::\_;;;;;;;;;;;;;;;;ノ:::::::::ヽ
>>66 あれだなバブル期に余計な事業まで手を伸ばして経営を窮地に立たせておきながら
改革叫びながらも自分が可愛がっている部下の意見だけを尊重する馬鹿社長ってとこか。
>>69 余計な事業に手を出して経営を圧迫させたのは先代社長じゃないそのたとえだと?
先代社長が一発勝負の新規事業に手を出し、そこそこ順調かな?という矢先に死去
受け継いだ二代目はより大きくそれを継承したが失敗
そこで改革を志すが重役達は(以下略)ってところかね?
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 04:02:56
>>60 信玄は、死ななかったら、家康は放置で、信長に決戦挑みそうな勢いだったけどね。
この両者の決戦が実現していたら、戦国史はもっと面白くなったのに。
武田2万5千vs織田2万8千
戦場は尾張平野
こりゃ、長期戦必死だね
↑さも見てきたかのようにいうなw
なんだよ勢いってのはさ
長期戦になれば体勢を立て直した徳川が挟撃、あるいは後方攪乱にでる可能性が極めて高いのですが。
武田厨は戦において信長よりも信玄を遙か上に置きたがるが、その絶対的根拠は?
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 08:53:49
騎馬特性と戦闘力
それはまさか信長の野ぼ(ry
荷駄特性と投石力
精力とテクニック
>>45>>47>>50-52 井伊谷〜刑部〜三方ヶ原〜匂坂、向笠〜飯田〜各和以北の拠点
久頭郷、一宮、秋葉、犬居、中日向、幡鎌、本郷、中の谷、高藤
各和、高代山、飯田、只来、向笠、本城山、匂坂、二俣、高明
三岳、伊平、上野、谷津、刑部、井伊谷、奥山、池田峠、千頭峰
ここ迄が、城郭体系で武田の持城、及び武田へ付いた領主の持城。
若子、水巻、鶴が、小川、勝阪、岩小屋、川上、樽山、萩野
笹峰、尾上、、吉岡、峯、市尾、孕石、寺田、米倉、社山
新居館、笹岡、今、乾山、田沢、渋川、鯉山
これは、家康がわざわざ兵力分散の愚を犯していないと思われる城。
ま、兵を各城に分けて守らせていた、と主張するなら話は違ってくるけどw
>>75 そんな奴いないけど‥
自分の抱く不安からくる神経過敏じゃね〜の?w
>>81 あ〜‥ た領⇒武田へ付いたとしてある領主の持城。 で
>>83 一宮は三河じゃないの?
同地名が遠江にもあるってこと?
>それぞれの寺社所蔵文書と、奥山・小笠原文書。
寺社所蔵文書は一般公開用に活字化されてない
どうやって内容確認したのか?
奥山文書自体の存在確認出来ず
小笠原文書は膨大な数あるが、どの小笠原文書なのか?
はっきり言えば、確認した二次資料なり答えてくれれば話が早いのだが
天野氏に見付を与えたとするのは、もしかして天野文書なのかな?
>寺社所蔵文書は一般公開用に活字化されてない
あ〜らら、断言しちゃったよw
>奥山文書自体の存在確認出来ず
おいおいw
>天野氏に見付を与えたとするのは、もしかして天野文書なのかな?
ではなく、遠江国風土記かな
>はっきり言えば、確認した二次資料なり答えてくれれば話が早いのだが
要求ばかりするな、自分で探せ。
87 :
一応:2006/05/22(月) 16:04:07
>>86 大きな図書館には必ずある、超メジャーな二次資料の中にある
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 16:15:44
>要求ばかりするな、自分で探せ。
>要求ばかりするな、自分で探せ。
>要求ばかりするな、自分で探せ。
晒しage
もう50城なんてどうでもよくない
大勢に影響ないんだし
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 16:46:19
>遠江国風土記
こういう風に明確に答えてもらうと確認も容易なんだけど
天野の根拠答えなかったのは風土記モノだったからだね、納得
>大きな図書館には必ずある、超メジャーな二次資料の中にある
規模でいえば、かなり大きな図書館なんだけど…
二次資料とは何か理解して言ってるのか疑問…、読み物と論文集は違うのだから
というか寺社や奥山家文書、小笠原文書、それぞれ典拠されてる書籍名を答えるだけで
確認も容易に出来て、自己の主張の正当化も早いのに、答えず引っ張るのは何故だろう?
小笠原文書集とか信濃史・中世・史料集とかでまとめられたのがないから聞いてるのにな…
>>92 多分、風土記モノという語感に惑わされて内容を勘違いしている
に、25000甲州金。
>小笠原文書集とか信濃史・中世・史料集とかでまとめられたのがないから聞いてるのにな…
もっとざっくりまとめてある二次資料があるじゃんけ
ついでに挙げてる50の城と、今確認しようとしてる史料は
直結しないから
一応言っておく
元亀二年三月に武田側に付いた天野氏の居城の犬居城を、
元亀三年十月からの西上戦で落とした数に含めたり、
武田の侵攻ルートから大きく外れた城砦も落としたとしたり、
逆に侵攻ルートで充行までされたという見付は落ちてないとしてる不自然な選出
単に彼が明確に落ちたとある城を繋げて、勝手に武田のラインとしただけだから
>>93 遠江風土記伝は成立時期も編成者も明確だから、勘違いも何もないよ
ていうか答えなければ答えないほど、確認出来ないし、信頼性損なうんだけど
依怙地になった武田厨が適当な地名挙げただけでFAだろ、これって
数レスに跨ってやるほどのネタとも思えん
信長は部下もちゃんと育ってた
1国を治められる大名クラスが何人もいた 戦争だけじゃなくて政治もできる奴だな
柴田 戦争◎、政治は少々だめか・・?
秀吉 政治も戦争も上手い
明智 政治も戦争も上手い
丹羽 政治も戦争も上手い
滝川 戦争はできるが・・・
対する信玄の部下は・・・・・・・
治績という点では柴田が一番じゃないの?
一揆狩りで興廃した越前建て直して検地・刀狩・七層の大城作りに町割、江戸期まで使われた架橋工事やったし
個々の資質はともかく、人材層の絶対的な差がありそうだ
そりゃ仕方無いべ
武田家は基本的に政治は伝統的な国人層がそれぞれやっていて
治水工事みたいな複数の領域に跨る問題は宗家(信玄)が指導するっていうシステム
政治手腕が必要とされたのは穴山・小山田あたりか信玄側近ぐらいでしょ
必要の無いところに人材は育たない
>>94 >武田の侵攻ルートから大きく外れた城砦も落としたとしたり
まず名称と落ちてないと考える理由を挙げるべきじゃないかな。
ついで見付を追加、と
>>95 遠江国風土記に書状を活字化したのが載ってるけど、確認できた?
>>100 国衆以外の給人・御家人領は蔵前衆の管轄だけど?
>基本的に政治は伝統的な国人層がそれぞれやっていて
とか無知すぎw
活字化と口語訳の使い分けを間違ってるよ(笑)
覚えたての言葉を使いたがる癖は止めたほうがいいよ
遠江風土記伝は明日だね、五時過ぎてるし
・落ちたとする根拠がない
・孤立しつも落ちなかった城がある
・挙げた本人が見付に表わされてるように、テキトーに挙げてる
以上の点から、挙げられた城砦は何ら信憑性もない
そもそも史料的根拠がなく、挙げた当人の観念による主張に過ぎないのだから
>>103 「遠江国風土記」と「遠江風土記伝」は同じなのか?
「遠江国風土記」は古代に編纂されたもの以外にもあるの?
なんか両者に食い違いがあるんじゃない?
>>105 何がいいたいのかわからないが、遠江風土記は古代史なんで
三方ヶ原前後での記載あるなら遠江風土記伝の事だと判断して話たのだけど
違うのかな?
>>102 だから間違ってないじゃん
国人層のさらに上に家臣が立ち包括的に政治する地方なんてないでしょ、武田家は
読解力不足乙
武田家臣団なら郡代が限界でしょ>政治的受け持ち範囲
穴山氏・小山田氏・木曾氏ぐらいじゃないかね
この郡代っていうのも後世の用語だけど…
暴れてるのは、どうも一人の武田厨だけだね。
こいつのせいで武田側のレスの信憑性なくなるようで、他の武田厨が哀れすぎる。
>>106 いやだからさ、書状が載ってると言ってる方はあくまで「遠江国風土記」なわけじゃん。
だから古代の「遠江国風土記」以外にもあってそれを言ってるのかもしれないし、「遠江風土記伝」の事を「遠江国風土記」と言ってるのかかもしれない。
一方、あなたは「遠江風土記伝」の事だと思って言ってるわけで、果たして両者は同じ書物について話してるのか第三者からはわからんよということなんだ。
まずその辺をはっきりとさせてみては?という意味でレスを書いた。
わかりづらくてスマン。
つーか信長の部下って凄いよな
秀吉光秀の政治面が天才的な上に光秀は戦争が相当できて秀吉は頭が無茶苦茶切れる
丹羽も政治かなりできて戦争も凄い、柴田もイメージだけで政治下手みたいになってるけど意外とこれが上手かったりするんだな
滝川・・・
元亀3年3月に天野氏は武田に寝返り、居城の犬居城と支城の樽山・萩野はその時に武田方になったと考えられる
そして別説で天野氏の居城と言われる篠ヶ嶺城はなぜか挙げられもしていない
なのに見張り砦的な勝坂砦は含まれてるという選出の疑問
落としたとして鶴ケ城挙げてるが、近くの亀ケ・別所城には触れもしない
奥山氏が武田方としながら、奥山氏の支城である若子城を徳川方の城としてる、同じ久頭郷城は武田方にしてるのにだが
米倉城と社山城は武田のルートにないのに、落としたとしてる謎
家康が兵力分散のク愚を犯してないというが、久能城には犯していたとするのかが謎
千頭峰城を落ちたとしながら、超至近距離にある佐久城と野地城は触れもしない
選出理由がわかりません
だから地名並べ立てただけでしょ
いつまで弄る気だよw
楽しいのはわかるけどな
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 21:08:41
と、いうか織田家臣団は層厚い上に淘汰があったから使える奴だけが残った、というほうが正確だろう
途中で脱落したのが松永・村木ら
信長に駄目出しされたのが佐久間・林ら
↑前々から気になってたが、村木とは誰だ?
チミは信長スレでいつも村木と書いてるが
どうみても荒木の間違いだろw
荒木村重は池田氏配下の土豪から成り上がり摂津一職支配を認められた出世人
柴田らと並ぶ軍団長クラスだったときもあるが、結局佐久間に本願寺攻撃指揮官を横取りされる形で干されていき最後は謀反
妻子も家臣も見捨てて毛利領へ逃げ、晩年は秀吉の側仕え
石山攻撃指揮は原田直政担当で、荒木村重は播磨担当だったんだよ
荒木は佐久間信盛でなく、秀吉に立場奪われたのです
いやいや、本来は荒木や松永こそが・・ だったんだがな
あの状況で更に荒木や松永が加わったらもう究極最強
だが裏切ってしまったのだよ、両者
滝川や丹羽並、それ以上だったのに
滝川一益は領国維持できなかったせいでこのスレ的に酷い扱いだなw
柴田>光秀=秀吉>丹羽>前田>滝川
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 23:06:37
その順位に前田を入れずに佐久間を入れろ
前田なんか一回り下の存在。佐久間は地味だが追放されるまでは間違いなく織田軍の四強
柴田>光秀=秀吉≧荒木=松永>丹羽>佐久間>前田>細川>滝川
途中まででいいのなら、滝川はトップクラスじゃないかね
美濃を抑えきらないうちからの北伊勢攻略を任されてた
つまり後の軍団長方式の走りともいえる
>>124 それは一体なんの格付けなのかと。
なんにせよ前田が入るのはおかしい。
滝川は晩年運がなかっただけだからな。
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/22(月) 23:35:17
なんでも追放ありき、謀反ありき、滅亡ありきで考えるからおかしい。
なんか最近結果ばっか見てその本質を見ない輩が増えたな
ところで丹羽を否定したい訳じゃないが丹羽の戦上手のソースって何?
丹羽も70年代前半はかなり各地を転戦してるが後半になってむしろ奉行としての働きが目立つ
丹羽が佐久間や滝川より戦上手な理由が分からん
丹羽は尾張統一前から織田の戦ほとんどに関わっているが、明白な大敗や失敗を犯したことがない
輸送用の船出す奉行やらなにやらの後方支援をあわせてやりながら、だから
地味だけど便利で堅実な『米』だからだろう
ただ、ちょっと厳しいことをいうと、丹羽には信長から離れての単独行動で
軍事功績を挙げたことがない。柴田、佐久間、羽柴、明智、滝川らにはそれ
があり、十分な功績も挙げている(もちろん失敗もあるが)。
丹羽が単独行動をとったことがないのはそういう立場にならなかったからだが、
それが信長の信任(手元で使いたい)故なのか、それとも単独では任せられない
と考えていたからなのか?あえて言えば両方となるのだろうけど。
131 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/23(火) 02:02:38
キルヒアイスみたいな立場
戦も上手だが越中の治水でも才覚を見せた
登山家の佐々成政も忘れちゃいけないよ。
こうしてみると織田配下って、国持ち大名クラスの人材がごろごろしているんな。
どいつもこいつも、主君の仇も討てないクズばっかだけどな。
藤吉郎
長秀も恒興も信孝も協力してやったじゃんか・・・
佐久間は折檻状見る限りじゃあ今の評価もしゃーないと思う。
佐久間は肥三国志シリーズであった年齢で能力値上下なら
間違いなく中年期から↓に当てはまるタイプだな
佐久間は、滝川同様、途中までで評価して良いのなら良将なんだがな。
粉骨砕身働くのと、高野山に行くという二託で後者を選んでいるようじゃなあ・・・。
でもその後荒木みたいにぬけぬけと生き残ったならともかく、一年経たないうちに死んでるからね
体調的にも精神的にも引き際だったんじゃないの。
当時の55歳はもういつ死んでもおかしくない年齢だし
>>139はどういう理由で「世界の同性愛者」を調べようと思ったのか
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/23(火) 08:15:56
しかもわざわざ英語で
しかし両刀と同性愛は分けた方がいい希ガス。
家康はホモ、というよりはロリコン(ただし実用本位で後家)という印象のが強いからな・・・。
家康は熟女、ロリは秀吉
秀吉は女子高生マニア
本物のロリは武田信玄。
なにせ23の時に親を殺してまで小学生に手を出しているからな。
>>143 後家は一度産んでいるという実績がある者を選んでいる事からわかるように、子供を産ませるため。
小作りも必要が無くなった晩年に、ロリに走ったことからロリコンとみる。
別にお六の方だけだろ。若いのは。確か16くらいじゃなかったけ?
戦国時代にいきteeeeeeeeeeeeeeeeeeeee
>>113 >別説で天野氏の居城と言われる篠ヶ嶺城はなぜか挙げられもしていない
笹峰の別称じゃないの?
>奥山氏が武田方としながら、奥山氏の支城である若子城を徳川方の城としてる
おいおいw 若子城は武田方として扱ってるけど
>千頭峰城を落ちたとしながら、超至近距離にある佐久城と野地城は触れもしない
城郭体系に依れば、なんとか街道を挟んで奥山氏の千頭峯支城群と
原氏(だっけ?)の城郭群が向きあってたそうだよ、佐久城と野地城は徳川方
批判が的外れ‥というか知識無さ過ぎ
>>103 今日調べるらしいから一応
口語訳じゃなく活字化ね、だいたい口語訳ってw
な〜んか、御託並べるだけで結局何一つ調べてなさそうな‥
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/23(火) 12:23:19
御託並べるだけで何一つ答えてないw
>>149 活字化というのは出版された場合に使われるんだよ
風土記伝に口語訳して転写されたんだんだから、活字化というのは間違い
活字化されたのは、明治33年だから(笑)
で、うちには置いていない
取り寄せの貸し出し願おうと思ってるが、全13巻の何巻なのかな?
まさか御託並べてる本人が受け売りで内容確認してないとかないよね?
城郭体系の受け売りとか
せっかく図書館に来てるんだから、他の挙げた史料の典拠も知りたいな
今は日本城郭体系の9見てるから、気長に待つよ
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/23(火) 13:30:48
age忘れ
遠江風土記伝を静岡県立図書館から貸し出し申請したから
一週間以内には確認出来るだろう
これでなかったらどうしよう
それと見付端城も追加とあるが、廃城とあるぞ
君の大好きな城郭体系の城之崎城のところ読んでみるといい
孕石館を読んでも挙げられてる理由わからないし
>城郭体系に依れば、なんとか街道を挟んで奥山氏の千頭峯支城群と
>原氏(だっけ?)の城郭群が向きあってたそうだよ、佐久城と野地城は徳川方
というから読めば、城郭体系のP127の千頭峯城には、
そんな記述一切ない
君、かなり胡散臭いんだけど
>>110 彼が使ってる日本城郭体系の9には遠江風土記伝とあるので、
たぶん違いもわからず書いてるんじゃないかな?
どうも城郭体系の受け売りというか、城郭体系から自分に都合のいい解釈して、
抜粋してるだけって感じ
>>154 井伊谷周辺の城郭について全部見れば何処かしらにあるはず。
>>151>>155 なんだちゃんと調べる人だったのか。
証文は遠江風国土記伝からの引用で、大日本史料に収録されてるよ
~~
>>155 あと、家康が兵力分散していたと解釈できる記述はあった?
あるわけないけど
>井伊谷周辺の城郭について全部見れば何処かしらにあるはず。
三岳城も読んだし、井伊谷周辺全部読んだよ
けれどなかったのは事実
>証文は遠江風国土記伝からの引用で、大日本史料に収録されてるよ
へぇ、こんな重箱の隅つつくような揚げ足とろうとするの?
なら最初の君の遠江風土記と遠江風土記伝は全く別史料になっちゃうよ?
ついでに大日本史料に収録といわれても、大日本史料がどれほどあるか、知っててのセリフかね?
寺社や奥山・小笠原文書も大日本史料というのかな?
で、活字化と口語訳の違いはわかったかな?(笑)
>>157 分散してるしてないに触れてません
そして武田が落としたという根拠もありませんでした、あしからず
見付端城の追加の件はどうしますか?孕石館はなんで挙げたのかな?
一つ一つに挙げた理由と、そう思う根拠欲しいね
>>158 >へぇ、こんな重箱の隅つつくような揚げ足とろうとするの?
>なら最初の君の遠江風土記と遠江風土記伝は全く別史料になっちゃうよ?
勝手に勘違いしてたから、説明してあげたのになぁ‥
>ついでに大日本史料に収録といわれても、大日本史料がどれほどあるか、知っててのセリフかね?
年月分かってるのに、何トンチンカンなこと言ってんだ?
>で、活字化と口語訳の違いはわかったかな?(笑)
まだ解ってないみたいだねw
>>159 敵中に在ってなお健在だったなら、特筆すべき事柄として触れて然るべき
「家康公はわざわざ重要でない城へ兵を置いて守備し、武田軍に放置されました」
とか「家康公はわざわざ重要でない城へ兵を置いて守備し守り抜きました
見方ヶ原では大敗しましたが‥」とかねw
>>160 最初(
>>86)に「遠江国風土記」と言ってきたのはあんたじゃないの?
結局、ソースは何なの?
1.「遠江国風土記」
2.「遠江国風土記伝」
3.「遠江国風土記」の記事を引用した「大日本史料」
4.「遠江国風土記伝」の記事を引用した「大日本史料」
1〜4のどれよ?
はっきりしてくれ。
>>160 勘違いしてないんだけど・・・ん?わかってるのかな?
>年月分かってるのに、何トンチンカンなこと言ってんだ?
え?年月分分かってたらなんなんだろ?君が載ってるという元亀3年12月分はどこなの?
>まだ解ってないみたいだねw
説明してみてくれればいいよ、活字化とは手書きの史料を読みやすく出版化したもんだから
>>161 城郭体系はそんな主旨の本ではないから(笑)
武田勢が落としたら、攻略したと書いてあるのに、書いてない城まで君が落ちてるんじゃないかと
勝手に決め付けてるだけでしかないわけだけどさ
165 :
横レス:2006/05/23(火) 15:25:18
6.「遠江国風土記伝」の記事を引用した「城郭体系」
たぶん彼のはこれだと思われw
3.「遠江国風土記」の記事を引用した「大日本史料」
4.「遠江国風土記伝」の記事を引用した「大日本史料」
これはありえないだろw
大日本史料って知ってる?
166 :
横レス:2006/05/23(火) 15:28:09
活字化とも言うかもしれんけど、正しくは翻刻という。史学の基礎用語
>>165 でもね、天野氏に見付を知行充行したとは城郭体系にはなかったんだよ
ただ、城郭体系は本の構成上、遠江風土記伝の引用を多用してたから、
これ使っとけば間違いないと思ったとかかも知れない
ま、でもこんな事の為に、わざわざ静岡県立図書館から取り寄せてもらうんだけどね・・・orz
>>165 ごめん。横から興味深げに覗いてるだけでなのでオレはよく知らないw
>>162 そういや伝を付け忘れてたようなw 4番ね。
>>163 確か10巻か11巻か12巻
>説明してみてくれればいいよ、活字化とは手書きの史料を読みやすく出版化したもんだから
俺の解釈で問題無い、と
>>169 ほぅほぅ、とすると遠江風土記伝に天野氏に対する知行充行状の写しがあって、
大日本史料の10編(巻ではない)に、その写しだけを抜粋してると言う事でいいですか?
君はそう言いたい訳ね?
>遠江国風土記に書状を活字化したのが載ってるけど、確認できた?
に対して↓
>説明してみてくれればいいよ、活字化とは手書きの史料を読みやすく出版化したもんだから
答えは
>俺の解釈で問題無い
どんな解釈したんだろ?
で、見付端城の疑問など、君への問い対する返答がまだなんだけど
>>164 でも、久能城の説明にはわざわざ守りきった事が書かれてたよ〜な
書く必要ないらしいのに‥
>>171 攻撃されて守りきった事は書かれてるよ
でも、君が落ちたと勝手に断定してる城には、落ちたどころか攻撃された云々もないですが?
攻撃受けたら受けたと書いてあるのに変ですねー
>>170 上段:10巻か11巻か12巻だってば。
中段:まあどうでもいいけど‥口語訳してないじゃん
下段:さあねぇ、見付(地名)領有をしてたんだな、と言っただけで
見付端城が落ちてたなんて一言も言ってないしw
>>172 バカバカしいけど、守りきるタメには攻撃されなきゃならんのは自明でしょ?
つか書く必要ないのは、
>「家康公はわざわざ重要でない城へ兵を置いて守備し、武田軍に放置されました」
>「家康公はわざわざ重要でない城へ兵を置いて守備し守り抜きました見方ヶ原では大敗しましたが‥」
↑みたいな、城砦の歴史に関係ない、家康の戦略や戦術に関してなんだけど
どうも変な解釈するというか、自分に都合のいいようにしか考えられないみたいだなー
困ったもんだ
>>173-174 >上段:10巻か11巻か12巻だってば。
大日本史料には10巻など存在しません、10編でも20冊近くありますが
どれにどう記載されてるのですか???????
確認したのではないのかな?
>さあねぇ、見付(地名)領有をしてたんだな、と言っただけで見付端城が落ちてたなんて一言も言ってないしw
>>101 >まず名称と落ちてないと考える理由を挙げるべきじゃないかな。
>ついで見付を追加、と
口語訳とは毛書体から語訳したからなんだけど?
>バカバカしいけど、守りきるタメには攻撃されなきゃならんのは自明でしょ?
意味がわかりません、守りきる為?攻撃されなきゃならん??
kwsk
50城厨が後付けで言い訳してるようにしかみえない。
>>176 ごめん、10巻じゃねえw 10冊だ、間違えた
>口語訳とは毛書体から〜色々〜
それって活字化‥じゃなくて翻刻だっけ? じゃないの?
>>178 10冊?意味がわかりません
大日本史料の何編の何に、どういう形式で記載があるのか?
はっきりしてくれないかな?
で、適当な誤魔化しで答えられる箇所以外は無視ですか?
>>179 そりゃ戦国期だから10編、で10冊か11冊か一応12冊
>>180 大日本史料の第10編之十か十一、十二なんだね?
てっきり徳川関連だから、十八・十九・二十辺りかと思ったが、朝廷関連が主の十から十二ね
わかりました(笑)
それで奥山や小笠原への充行も大日本史料見ればある訳だね
>>182 妙恩寺・天宮社の所蔵文書もね
で、何度も聞いてるが、攻撃されたかも不明な城を落としたと挙げてる理由と
その理由付けになった根拠をいい加減に出して欲しいのだけど
見付端城みたいに、1569年に廃城と大好きな城郭体系に書かれてるのを追加したり
孕石館など、高天神城付近の館で、当時使われてなかったニュアンスのものを含めたり
元亀3年10月からの西上から落とした城と言いつつ、元亀2年や3年上旬のものを含めたりする理由もplz
なんか城郭体系に書いてあるというので確認すれば、書かれてなかったり
コロコロ言う事が変わったりして、その場凌ぎに見えるから、今度はあって欲しいなぁ
>>183 書き込みからして「朝廷関連が主の十から十二」という誤解は解けたっぽいねw
>ついで見付を追加
~~~~
>見付端城みたいに、1569年に廃城と大好きな城郭体系に書かれてるのを追加したり
~~~~~~~~~
自分の都合で追加したことにして、自分で叩くなよw
>>184 解けてないよ、何言ってるの?
>自分の都合で追加したことにして、自分で叩くなよw
落ちた城の名前を挙げて、それに見付を追加とし、見付には見付端城しかないが
それ以外というのなら、何を追加したのかね?
で、他の箇所は答えられずスルーですか?
>>181 尊敬する
過去スレで信玄の江馬宛ての書状書き出してくれた人?
トリップ付けずにゴチャゴチャやられても誰が誰だかサッパリわからん
という傍聴者の愚痴。
一時的でいいから城関連終わるまで鳥つけた方がよかないか?
>>185 >落ちた城の名前を挙げて、それに見付を追加とし、見付には見付端城しかないが
見付所領宛がいの事実を追加。 見付には見付端城しかないとも言えない、平野部だし
まあ、当時の見付に城があったか築いたか無いままかは分からないけど。
他は‥久能の話? 守り通したから記録されてるけど
さくっと開城なりラッキョなりして、それが明らかに自明の場合だと記録しないでしょ。
50城、飽きた
つーか両者とも信頼できるソースなんか
出せねーだろ
ラッキョ?
>>189 >見付には見付端城しかないとも言えない、平野部だし
なら、他にあるという根拠だしてくれよ・・・ハァ
あったかも分からないのに、追加した理由は?根拠は?
なんかもう言う事グダグダだね
守り通したから記録された、落ちた・攻撃されたも記録された
なのに開城した、落城したは記録ないが、落ちたとするのは
>>189の勝手な憶測
落ちたら落ちたと書かれてるのにどーしてですか?
明らかに自明とは頭痛が痛いですか?
他の件は答えられずにスルーですか?
>>190 うっせ〜バカ!
ソースなんか掛けなくても常識的に考えて明らかに城は落ちてるんだよ!
で、久能城は落ちてなかったのだが(笑)
城の規模といい、勝手に落ちたとしてる城と規模は変わらず、家康が増援送った形跡もない
>>190 落ちなかった城砦もあり、落ちた城砦もあるでしょう
事態の大勢が決まるまで、多くは静観する、緩衝地帯でという意見が多かったが
一人どうしても落ちた事にしたい模様です、
>>193の常識らしいですが(笑)
>>192 さあね、見付を切り取ってるなら別に城があってもなくても大差ない
根拠は宛がい書状で充分でしょ? そろそろ見つかったと思うけど
>落ちたら落ちたと書かれてるのにどーしてですか?
家康の今川領侵攻でも、落ちた(及び寝返った)のが書かれてない城は多いでしょ
状況が明らかに自明の城は書かないだけで、今川家臣が延々篭城してるわけじゃない
そゆこと
>>193 なに興奮してんだ
じゃ落ちてるでいいよ
50城以外の話してくれ、双方こだわり過ぎ
小城や砦、落ちても落ちなくても大勢に影響ない
>>194 >落ちなかった城砦もあり、落ちた城砦もあるでしょう
>事態の大勢が決まるまで、多くは静観する、緩衝地帯でという意見が多かったが
2人の人が大車輪の奮闘してたのは知ってるw
>>195 >家康の今川領侵攻でも、落ちた(及び寝返った)のが書かれてない城は多いでしょ
>状況が明らかに自明の城は書かないだけで、今川家臣が延々篭城してるわけじゃない
城主の逃亡や、城に徳川家の家臣入った、家臣に組み込まれた等、残っており、判断材料は存在してますけど?
>さあね、見付を切り取ってるなら別に城があってもなくても大差ない
切り取ってなくとも、充行出す事はありますが?
>根拠は宛がい書状で充分でしょ? そろそろ見つかったと思うけど
5時過ぎたら、図書館は閉館ですよ?
行った事ないのですか?昨日も書いた覚えが・・・
相変わらず、何も根拠ないですね、困ったもんだ
50城、どーでもいい
武田厨は
>>3や
>>14のまとめが
可能だと証明する方が説得力あるよ
>>197 へぇ、2人だったのか、これだけでも君の思い込みの強さがわかるね(笑)
何の物証もないが、こうと思ったらそれが事実化されると
>>198 あなたは武田厨極右に認定されました
おめでとうございます。
>>199 >城主の逃亡や、城に徳川家の家臣入った、家臣に組み込まれた等、残っており、判断材料は存在してますけど?
武田方が落としただろう城にも、その後数年に渡り遠江北中部を武田が統治した
という判断材料は存在してますよ、っと
城郭体系にはどちらも記述されてないというだけで。
>>203 勝頼が落としたであろう城もあるのが、城郭体系で風土記伝の一文を抜粋してありましたよっと
というか、これは元亀3年の10月から信玄の死で撤退するまでに落とした城ではなかったのかな?
孕石館や見付端城の件は?
>城郭体系に依れば、なんとか街道を挟んで奥山氏の千頭峯支城群と
>原氏(だっけ?)の城郭群が向きあってたそうだよ、佐久城と野地城は徳川方
これも書かれてるというが、なかったけどね
>>204 >勝頼が落としたであろう城もあるのが、城郭体系で風土記伝の一文を抜粋してありましたよっと
それを書き出せば、その城についてははっきりするね。
と同時に特段注釈がなければ、信玄の死で撤退するまでに落とした城だろうということも
>>206 はっきりするね????
君ははっきり落としたと書いてるのには根拠もないのに??????
で付け加えて>同時に特段注釈がなければ、信玄の死で撤退するまでに落とした城だろうということも
↓これはスルーですか?
孕石館や見付端城の件は?
>城郭体系に依れば、なんとか街道を挟んで奥山氏の千頭峯支城群と
>原氏(だっけ?)の城郭群が向きあってたそうだよ、佐久城と野地城は徳川方
これも書かれてるというが、なかったけどね
>>204 >ついで見付を追加、と ⇒ >それと見付端城も追加とあるが、廃城とあるぞ
得意の改竄ですかw
それに見付他宛がいの書状を提示したけど?
まあ、見付けないのはそちらの自由だけどさ
>>207 見付、と地名を出したのに対して、わざわざ見付端城と置き換えたのは
何か理由があるの?
>>208-209 得意の改竄?改竄はどっちだろうね?
えとですね、君が落ちた城の名前を挙げてる中に見付を追加と、君が
>>101で書いてるんだよ?
見付の城は、見付端城しかないんだよ?
君が挙げたのは当時の地名で、城の名前ではないと言う事かな?
それとも見付の地に見付端城以外のしろがあり、それを君は落としたとして追加したのかな?
>それに見付他宛がいの書状を提示したけど?
充行状は提示してないじゃん、君はあくまで遠江国風土記にあるといい、調べようとしたら
大日本史料に抜粋されてると言い換えてるだけだけどね(笑)
で、孕石館を挙げた理由はまだですか?
50の地名適当に挙げれば突っ込みこず相手が黙ると思ってた武田厨、サンドバック状態W
>>200 都合悪そうになったら無理やり話題変えてうやむや狙いですか?w
どうでもいいとおもうならあぼ=んするなりNGするなりすればいいだろ
すれ違いの話題でもなし
NG指定してアボーンするには極右武田厨がトリップ使えばいいんだが、使ってないから無理。
>>211 かまって君なんだから、サンドバック状態は望むところだろうよ。
むちゃくちゃな事を言っているのはみんな分かっているんだから、
相手せずに放置すればいいんだよ。
反論せずにほって置いたって、誰も極右武田厨の言い分が正しいなんて思わないんだから。
本当は極右武田厨ですらなく、ただのかまって君だし。
伸びてると思ったら
くだらんレスばかりだな
ていうかもう、自説を証明したのなら証拠をちょろちょろ後出しで追加していかないで
最初から全部だしちゃってよ。
そもそも落とした城が丁度五十ってのが怪しすぎる・・・
まだやってるのかよ・・・・
信玄が城を五十落として進撃したとある←ソースは知らん
↓
五十も落としてねーよ、どこ落としたんだよ
↓
だったら落とした城あげてみろよ
↓
城の名前あげただけ・・・←今ここ
3回目か4回目くらいのな。
224 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/23(火) 21:58:32
城名だけ挙げて逃走
↓
織田厨追撃
↓
殿登場
↓
即座に討ち死に
↓
自演スレ流し。消滅狙う ←つか、ここ
「三河だけで」「(攻撃で)落とした」城が50あった、だろそもそもは
ここまで条件がユルくなってる時点でもう・・・
>>224 アホ言うな、
本当に消滅狙っているなら、こんなになんかいもループしないだろうが。
確実にこの流れを続けたい信性のアホが一人は実在するんだよ。
やっと終わったかと思うと、
懲りずに城名書き連ねるのが発生するからなあ。
まあ、同一人物とは限らないが。
新ネタがないから退屈なんでしょ
でも当の本人はかなりマジっぽいような、、、
マジで自分の主張が正しいと思っていたら、都合の悪い部分を意図的にスルーしたりしないだろう。
>>230 いやいや、武田厨だからな
自分が正しいと思い込んでるんだ
ホント武田厨はチョンだな
50城を主張しているかまって君が、
もっとかまってもらう為に自分で
>>231を書いているとしても
俺は驚かない。
今日は図書館行けそうもない
確認したいのは、奥山・小笠原文書は元亀三年十二月と日付わかるが、
遠江風土記伝に転載されて、それが大日本史料10編十〜十二に抜粋されてるという
天野氏への見付の充行状の日付が不明
寺社の安堵状の日付も不明
確認する為に是非書いててくれ
今日行けなくとも、明日明後日には行けるだろうし、
確認する為には必須だから
>>233 まあ、仕方ないでしょうね。
大日本史料10編十〜十二は朝廷関連が主!
とか言い切っちゃう知ったかぶりの断言君は内容確認に手間取ってるだろうから。
参考までに、妙恩寺での禁制は1572/11に出てるらしいよ
>>233 あとの充行状の日付は判らない
俺が交霊して話を聞いたのだが日付は聞いてないからね。
>>234-235 ん?君は大日本史料に記載されてるのを見たんじゃないの?
“らしいよ”とか曖昧な事言われても困るけど
天野氏宛の充行状は日付もわからないな、君が曖昧な発言している以上、
こちらが調べた、見つからなかった、では別のに…と言いだしかねない
何せ、城郭体系に書かれていると捏造した前歴がある君だからね
天野氏宛、奥山氏宛、小笠原氏宛と寺社の禁制(安堵状と聞いてたが、
何故禁制に変わったんだろうか?禁制の中で寺社の所領を安堵したという意味か?)
は、大日本史料に確実に記載されてるんだろうね?
君は視認したんだろうね?
そろそろ煽りまくられて悔しいから適当に地名だけ50上げました、とゲロしろよ
突っ込みに大して曖昧すぎる対応とか、そろそろ哀れになってくる
なんか、わざとらしいぐらいに自分がレスした直後に煽りレスが続くのが恐い…
狙ったようにやられてる気がするなぁ
今まで誰もレスしなかったのに自分がレスした4分後って、逆に恐い
自意識過剰じゃないかね(笑
だいたい根拠曖昧・言が左右という点は事実だし
>>236 あ〜らら‥わざと"らしいよ"を付けたけど、見事に突っかかってるねw
んで、曖昧な記憶じゃなくちゃんと記載されてるから見つけて下さい。
朝廷編ではなく元亀3年の事柄で
天野・奥山・松井氏宛の充行状は12月、調べたら報告してくるとありがたい
ただし「端城」の様な文言を勝手に付け加えたりせずにw
>何故禁制に変わったんだろうか?
細かく説明しないと、粘着質にぶつぶつ言う人がいるから
>大日本史料に確実に記載されてるんだろうね?
記載されてます、ただし朝廷編ではなく元亀3年の事柄として
241 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/24(水) 15:52:45
極右武田厨って本当に往生際が悪いな…
もう鳥つけてくれないかね?あぼんに便利だから
>天野・奥山・松井氏宛の充行状は12月、調べたら報告してくるとありがたい
>ただし「端城」の様な文言を勝手に付け加えたりせずにw
だからさ、調べるというか確認はするよ
そうでなくて重要なのは「君が視認したのか?」と聞いてる事なんだけど
そこは触れないのは何故?
見付の件も、追加と書いたのは何を何に追加したのか?
明確に答えてくれないかな?
>細かく説明しないと、粘着質にぶつぶつ言う人がいるから
細かくって禁制と安堵状は全然別物だから、同じ扱いする事は有りえないのだけらど…
それよりも、君は所領の安堵で挙げたが、それが禁制に書かれてるのか?と聞いてるのだが
禁制は周辺に支配権を誇示し、法令的な内容が主なので、
君のいう安堵を示した内容あるなら、大変珍しいからね
大日本史料の件も、どうも目を通した事なさそうだしね
朝廷関連のが主と書いた理由がわかってないし、朝廷編なんて意味不明な事言いだすからね
おもろい奴がいれば、人がワラワラ来るのが2ちゃん
面白いと言うかおかしな子
正しいか正しくないかはともかく、見たと主張する人は余裕を持ってるようなレスをするくせ言ってることにブレがあるんだよね。
どうせ武田氏の下についても重税に喘いでいずれ徳川に帰参かアボンだろうけどな
>>245 見てないだろw
何かの本の鵜呑みなんで、見た事ないから大日本史料と書いとけばあるだろみたいな感じw
よく重税と金山枯渇が話題に昇るけど
慶長何年かの山梨郡の何所かしら一帯の、年貢高約20000俵の内
7500俵を金で納めてるから、なんとはなしに15000俵分くらいの収入があったっぽいよ
みたいな
249 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 16:15:02
重税説の根拠になるのは、棟別銭の高さや信玄期に新説された新税についてで
本年貢についてではないのでは?
棟別銭等に関して、なんかの本で新設した時期と首都圏で大きな地震が起きた時期が重なる
という話を見かけたよ。
で、それを再建費用に充て復興したらしく
何もしなかった北条は年貢未進や脱走(呼称忘れた‥)が相次いだ為
徳政令まで出したと書かれてたから、重税とは違うような。
252 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 18:19:31
武田氏は様々な新税を作って、棟別銭の他大名に比べた高さを見るに重税だったことには違いないが
本年貢だけは例外じゃないの?
江戸期も根強い地元の要望で存続した信玄制定の法律(大小切税)によれば
年貢のうち三分の二は物納だが残り三文の一は金納。そして金納として課せられる米価のレートは一定だったから米価上昇ならば相対的に年貢はどんどん安くなることになる
一番の収入は略奪じゃないの?
軍鑑にも「敵から分捕りした刀脇差や、乱捕りした馬女のお陰で民が豊かになった」と書かれてるぐらいだし…
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このメールは指示を守るものには天使のメールとなるのです。
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>>252 武田が50〜200文、北条は最初50文
数年後一律90文(確か)に増税したから大差ない
>>255 それでも最大百文以上も差がついて大差ないって(汗
北条氏の棟別銭は低い時分だと三十五文程度
伊達氏が百文前後
地頭役・御印判・布役・鍵役・窓役・樹木役・代官役・田地役・田地諸役
竹年貢・塩役・徳役・後家役etc…
武田領ではこんな雑多な税・諸役が一杯
笹本正治氏によれば、大規模な農業収益が期待できないから個人の動きにかかる税を重視せざるを得なかったそうだ
治水による新田開発の成果がでるのは慶長前後みたいだし
259 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/25(木) 21:59:03
重税と略奪…なんか典型的な悪党に見えてきた
そんなに民衆から収奪して何に使ったんだよ
生臭坊主どもから取るのはまぁいいとして
尻化粧
262 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/26(金) 13:24:46
>>258 お〜い‥変なのが混ざってるw
あと雑多な税というが、単に品目分けされてるだけじゃん
諸役も北条と大差無いし
北条は税を簡素化しているだろ
実質的な負担がどの程度かは分からないが
>>264 簡素化はしてるけど負担軽減はしてないべ
まあ、それ自体が負担軽減なのかもしれないけど
北条の四公六民は有名だね
過去スレでもあったけど、税を簡素化・比較的軽く済ます代わりにそれ以上の減免には応じず、確実に徴収する
そういうシステムを好んだ点では織田と北条などは共通する
武田氏の領国は山ン中
海運貿易みたいな収入は見込めず、農地も決して豊かじゃない
多数の税を新設したのも仕方無い
金山だって直接経営してたわけじゃなくて、間接支配してた程度なんでしょ実際は
租税の簡素化は普通、それ自体が負担軽減になるな
あと北条の税制度では、中間搾取の排除も特色。
在地領主達を飛び越えて、政権−民衆がやりとりしている。
というか、もう領主権をほぼ認めてないよな、これ。
イメージとしては、江戸時代末期の書類上のみの知行に近いと思うが。
>>270にちょっと蛇足
要するに、表に出にくい在地領主達の中間搾取を排除することで、
北条政権が定めた以上の搾取は一切否定した。
もし不正が有れば小田原へ訴える権利も認められていて、その制度も整えられている。
逆に言えば、そういった対策をしていないのならば
在地領主達のさじ加減一つで税が昇降していた危険性はある。
武田はこの手の対策は打ってたのかな?
>>271 在地領主達って何を指すんだ? 地侍とか御家人ならわかるけど
国衆だとしたら中間収取の排除はあり得んぞ。
北条氏は氏康の代で年貢と段銭・懸銭・棟別銭だけに税を整理しただろ
信長の国掟にも新税創設禁止の項目がある
信玄の金山支配は間接統治だよ
直臣を代官を置いたわけでもなく、昔から金山掘ってる連中の権益を追認して替わりに納めさせるっていう国人への支配とほとんど変わらないシステム
>>272 まあ、当然だな。
北条家中の給人に限定される。
>>273 氏康は分かるが、信長が領国一括の分国法定めたことあるっけ?
>>274 それは直轄だろ
間接統治だとすると、大久保長安が奉行へ就任する理由がわからんし
信長は分国法を制定してない(はず)
代わりに国掟を出しているが、北国に出したのも国掟に出したのも書き出しは
「一、 国中へ不当なる課役を申し付ける べからず…(越前)」
「一、関銭、駒口@を取るべからざること。一、百姓前には本年貢の外に不当な課役をすべからざること…(甲・信)」
となっている
280 :
279:2006/05/26(金) 17:24:06
×北国に出したのも国掟に出したのも書き出しは
○北国に出したものも旧武田領に出したものも書き出しは
大久保長安が武田時代に奉行に就任してたか?
立場はあくまでも土屋氏与力でしょ
実のところどれぐらい金が取れたか?は不明だからな…
大名家の予算決算書とかが残ってれば経済力推計も楽なんだけどね
>>281 いや、徳川時代、伊奈忠次を差し置いて鉱山経営に携わってたなあと思って。
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/26(金) 17:37:24
信玄が奴隷狩りした労働力は金山に送り込まれたそうだから、重要視してたのは確実でしょ
ついでに同じように人攫いした女付で…
信玄の金山支配は金山衆とかの地元者を保護しつつ、でしょ
この辺りは穴山氏の支配も変わらないから、武田氏全体の風習だったんじゃない?
専門技能と権益持ってる連中を直轄化しようとしたら抵抗されて大変だろうし
まあ色んな税金作ったおかげで帰って自分の財政圧迫したアホな某帝国みたい
な例もあるが、廃止してないんならそれなりには儲かったんだろうて
他の職人と同じく、金山衆の一部に知行やら扶持やら与えて管理してたらしいから
直轄といえなくもないんじゃ?
まあ、代官支配みたいな100%丸取りとはいかんけど
小規模鉱山なら半分巻き上げとかの方が効率いいかもしれんし。
直轄化と口で言うのは簡単だが
当時の当然とされていた権利関係からすれば、やろうと思ったらかなり難しいからな…
手付かずの鉱山なら余裕じゃね?
誰の土地でもないならな
手付かずなら何とでもしようはあるだろうけど、実際問題見つかったのか?
これまで知られていなかった金山が新たに発見されたかってこと?
たしかにそういう話はきいたことないな。
信長と信玄は兵力も違うが何よりも財力が違いすぎる
最初から信玄に勝ち目などない
>何よりも財力が違いすぎる
>何よりも財力が違いすぎる
>何よりも財力が違いすぎる
織田家は元々信秀の代から津島を抑えて経済的に豊かだったらしいからな
禁裏や寺社に大規模な寄進をしてたそうだし
信長も堺・大津に代官を置く許可を地位より優先して求めた逸話が示すようにそういった箇所を直轄支配するのに熱心
後年には生野銀山などもその手法で抑えてるし
実際にどうだったかはもう大名の財務書類なんかほとんど残ってないからわかんないけど
ざっと見る限りでは石高以上に差がついてたと予測できるだろう
また、あほが湧いてきな
経済観の違いかね
虎の子の金山すら直轄化できなかった武田は所詮中世大名の枠から這い出られなかったんだ
…と、断定していいのかね?
武田側からの反論はもう無いの?煽るだけ?
先生!支配しようにも信玄の領国に商業都市と呼べるレベルの領域はありません!
後年手に入れた駿河も穴山らにやっちゃったし
何をもって直轄とするのかで違うと思うがどうだろう?
金山衆を支配していても直轄扱いしないのに
収取もできない堺政所の権限を以って
勝手に直轄化したと思える妄想力は素直に凄いと思う。
駿河取るまでは信玄の領土は敵対勢力に囲まれてたわけでしょ
当時は輸入に頼りきりだった鉄砲用の玉薬とかの物資入手は不便だったんじゃなかろうか
金山衆に対する支配はかなりユルかったでしょ
元々地縁的な集団じゃなかったけど、信玄から勝頼への代変わり期には鉱脈減少を受けて勝手に移動したりしてるし
被官化といえるレベルですらなかったんじゃないか
信玄が遺した金山衆宛の朱印状は書式格式からいうと民間人へのそれだっていうけど
誰か詳しい人いる?
信長は直臣の松井友閑・政商の今井宗久を代官に任じてるから、直轄といっていいレベルじゃないかね
宗久は小谷攻めの時に鉄砲火薬三十斤を送るなど兵站にまで踏み込んでる
>>303 詳しくはないけど‥形式は民間人宛てのもの、武士じゃないしね
とはいえ知行を与えたり奉公をさせたりしているから被官にはかわりないと思う。
>>304 どー考えても直轄じゃあない、つーか何か勘違いしてる。
俺は間接的に支配しているかどうかも微妙な程度と思うけどね。
具体的に金山からの収入の何割が信玄の懐に入ったのか、がわかればねぇ
必要とされる収入を得られるのなら別に直臣じゃなくてもかまわんだろう
代官は直接支配地を治める役人のこと、じゃないのかね戦国期の一般的意味では
でなければ新しい定義が必要になるな
代官置いた地域が直轄と呼べないのなら、どのレベルなら直轄と言えるわけ?
まぁ大事なのは具体的にどの程度支配が浸透したか、大名により有用だったかの実態だろうけど
信長公記だと、「信長、金銀・米銭不足これなきの…」というように永禄十ニ年(1569年の時点でかなり金持ちになり
上洛だの伊勢攻めだので入用だったはずなのに茶器の名物を買い上げる余裕を見せてる
矢銭でたっぷり儲けたからかね?
ノブヤボと違って、満貫あれば名物茶器くらい何十個と買えるべ
近世大名対中世大名
豊かな信長に対して時代遅れの信玄に勝ち目無し!
>>312 なんで?
元々若江への移動だって秀吉が手配したわけだよ
いわば逃走は織田家公認
実際長くいたわけじゃないしね
温故知新で信玄の勝ちに決まってるじゃん。
信玄さんには金より時間がなかったって落ちだけどな
>>314 そりゃ信長公記の捏造
当時、敵対していた三好義継の若江に秀吉送る自体無理がある
というか尋憲記か言継卿記には、城から逃げ出した義昭が
野盗に襲われ、乞食公方と笑われながら落ちていった記述あるよ
信長公記の記述通りなら、秀吉の警護ついていて野盗に襲われるのはおかしいでしょ?
義昭さんが堺宛てに槇島篭城時の感謝状贈ってもいるしね
代官を置いて支配と言うと
秀吉も関白になった後、堺や博多に代官置いていなかったか?
当時の都市支配の仕方はその程度なんじゃないか
江戸時代だって代官支配でしょ
>>317 野盗に襲われたって話のソースは?
貧乏公方云々は公記にも出てるけどそこは無いぞ
だいたい堺が直轄領として、既に人質出して実戦力もない人間が一時滞在して何か不都合が?
ソースはってソース書いてるんだけど…
ググったらどこかに詳細あるかも知れないよ
時系列が混乱してないかね?
堺に代官として松井が置かれ商人も任ぜられたのはいつだ?
>>317 引渡しと考えれば敵対勢力への侵入もおかしいとはいえん
引渡しに大軍連れて行けばそれこそ相手に誤解される恐れもあるから少数
→農民が軽んじる&襲撃もされやすい
乞食公方のくだりはゴマスリとも言える
という解釈もある
上げられたソース本当に見たことがあるのなら、前後をぼかすな
山城枇杷荘にまず移った義昭が盗賊に襲われたから、秀吉が警護について送り届けたの
またアンチ織田の捏造か・・・
兼見卿記の間違いだった>ソース
>>325 >山城枇杷荘にまず移った義昭が盗賊に襲われたから、秀吉が警護について送り届けたの
信長公記では槇嶋から送ったことになってるが?
そっちのソースはなんだ?
>>327 だから兼見卿記
城国枇杷庄に引く途中で一揆にあったとあるぞ
秀吉が警護についたのはその後
義昭が堺にいたのってたった4日じゃないかね
将軍様…
無知なオレがググったところ、らしいページに引っかかった
直リンしていいかわかんないから題名だけ
「天下統一期年譜 1573年」
>>328 信長公記には山城枇杷庄へ行った事も、野盗に襲われた事も書かれてないぞ?
どうやって
>山城枇杷荘にまず移った義昭が盗賊に襲われたから、秀吉が警護について送り届けたの
となる訳?
御命を助け 流し参せられ候て 先々にて 人の褒貶にのせ申さるべき由にて
若公様(義尋)をば止め置かれ 怨みをば恩を以て報ぜらるるの由にて 河内国若江の城まで
羽柴筑前守秀吉警固にて 送り屈けらる
兼見卿記では、秀吉が警固ついたなんて一言もない、しかも山城枇杷荘に引く途中とも書いてない
逃げる途中に一揆に襲われたとだけある
しかも兼見卿記には義昭は逃れたと書かれてるが?
ちょっと待て。信長公記を信じるのなら、野盗には襲われてない
兼見卿記を信じるなら、別に信長が警護中に襲わせてしまった失態があるわけでもない
どっちにしろ信長には問題ないじゃん
史料を都合よくつまみ食いするのはアンチっぽいぞ
別に信長が問題だとは言ってない
信長が義昭を秀吉の護衛つけて送った話が捏造だと言ってるだけ
だからなぜ捏造なんだよ
それぞれの史料をつき合わせて時系列的に並べれば、矛盾は発生しないだろ
落ち武者狩りが横行してたとするのなら、尚更それすら打ち払えなかった義昭一行が地力で若江まで移動したとするほうがおかしいじゃん
>>334 落ち武者狩りが横行していたから義昭は家財財宝奪われたんだろ?
時系列もないだろ、何言ってんだよ
そっちが都合のいい繋ぎ合わせしてるだけじゃん
若江に送ったなら、三好義継の若江城を義昭匿った理由で攻めるのもおかしいし、
その後に帰還交渉するのもおかしい
矛盾に気付け
>三好義継の若江城を義昭匿った理由
初耳。これは他の諸城と違って敵対姿勢を止めなかっただろ
恒例だけどソースは?
義昭はその後も手紙工作しまくりだから、懐柔策として帰還を求めても何の不思議もないが
反証とはとてもいえないものを出して、捏造とまで言い切るのはちょっと…
兼見卿記によると、吉田兼見が義昭の若江逃げを知ったのは織田信長に見舞いにいった7月20日付
その間の空白を知らなくても別に不思議は無いでしょ
おまえら餅つけ。本題から離れての重箱のつっつきあいはみっともない
>>336 明確なソースはないよ、でも一般的な解釈
>これは他の諸城と違って敵対姿勢を止めなかっただろ
そんなにいうなら他の諸城とどう違うかソースな、攻められたのは付近の城の中では一番遅かったがな
今時、信長が義昭追放したなんて10年前にタイムスリップした感じだが
>懐柔策として帰還を求めても何の不思議もないが
懐柔策として帰還求めた?最初から義昭逃がす気なんかサラサラない訳だが
つか本願寺文書には義昭が若江城に逃げる為に、顕如に仲介を頼むようあるがな、兼見卿記の記述は18日だしな
秀吉が敵対していた若江に送り届けるね、誰がどう見ても不自然極まりない
発狂アンチ織田に餅つけといっても通じないW
信長は、義昭が今後手紙攻勢するとは思わず、敵である三好義継に送り届け、堺に移っても放置して
後から焦って懐柔策で帰るように説得したが、毛利のところへ逃げられた?
信長がバカにみえる
信長の度量とも見えるな
本願寺顕如の退去を許したようなものでしょ
公方殺害(あるいは法主殺害)のデメリットとを秤にかけた結果だろうが
石山本願寺は和睦の結果だろうに・・・度量の結果とは無理あり過ぎ。
流石に殺すわけにはいかないと思ったんだろうな
義輝を殺したことで三好松永は・・・
あんま影響無いかもしんない
義昭京都復帰は毛利からの申し出じゃないのか
安国寺恵瓊が使僧になって信長に会って交渉したんでしょ
義昭とも形式上和睦でつよ
>>347 義昭が堺に居る時に帰還交渉はじめてるけどねー
あれ?信長の直轄地じゃないの?堺って?
>>349 ソースは?毛利家文書によると、秀吉が毛利氏に対して「公方様御入洛」に対して信長の同意が得られました、と9月7日付で通達してるが
だから代官置いた場所を直轄といわないのなら、どのレベルで直轄というの?
和睦した相手が領内を短期間滞在して移動してる分には別におかしくないでしょ
まさかワープしろとでもいうのかねぇ…?
毛利は最初義昭受け入れに難色しめしたんでしょ
天下取りに色気出すなって元就の家訓からかね?
結局受け入れてなし崩しに織田と敵対するけど…
レスは一つにまとめよう
アンチ織田逃走?
355 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 03:40:54
信玄は鉄砲を入手できるルートが限られている
これは大きい
当時の火縄銃の火力ではそれだけで突撃を抑止できないが、長篠のように他の兵種や防御設備と組み合わせれば脅威となる
戦況によっては長篠が数年早く訪れる可能性も
鉄砲自体もそうだが、硝石の安定供給路が限られているのも大きいよな。
当時は輸入のみが頼りだからな>硝石
もっとも盛んに射撃が行われていた点からみて、当時の船の積載量から考えて貿易で到底まかなえてたとも思えない・国産化は従来の予想より早かったんじゃないかって説もあるけどね
あと鉄砲自体も中国製の鉄砲が既に入ってきていて信玄が信濃攻略戦の時に集中配備したのはこっちじゃないかって話も。やっぱり鉄砲伝播速度から逆算してのことだが
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 07:59:09
>>357 >国産化は従来の予想より早かったんじゃないかって説もあるけどね
誰が唱えているの?
硝菌が確立したのって18世紀だけど?
遠江国風土記傅届いたから借りた
P451から天野文書の写しがあった(天野文書ではないと言われたのが不思議)
P484までの34ページ確認した
元亀3年11月から元亀4年4月までで探してみた
ないぞ?
本は二週間借りれるから、詳細よろしく
360 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 11:50:12
とりあえずage
天野でないと、今から大日本史料の確認作業をする気が失せるんだけど
キタキタキタキター
>>358 天野文書があるなら遠江国風土記伝から引用したりしないでしょ
>ないぞ?
ん〜、どういう形式で並んでる? 書状の日付は元亀3年12月14日だけど
詳細つっても、遠江国風土記伝のことは知らん
>>360 天野さん宛てだから、安心して確認してくれ。
オイオイ、自分から風土記伝の名を挙げて知らんとはどういうこった?
>>365 >>87 >>天野氏に見付を与えたとするのは、もしかして天野文書なのかな?
>ではなく、遠江国風土記かな
どうすればいい?
ころころ変わるんだが
今日はやる気なくしたから帰るわ
大日本史料の確認作業はまたにするわ
はぁアホらし〜
遠江国風土記伝は借りて帰るから問題はないぞ
騙り乙
マジでどうすればいいのか?
言う通り、遠江国風土記伝取り寄せてまで確認した
元亀三年11月から元亀四年4月にはなかった
つか晴信御判は元亀三年9月まで、次は勝頼御判で元亀四年5月
はぁ…
主張者の根拠を調べるために史料を取り寄せて調べたがなかった
そのため、どの辺りにあるのかの詳細説明もとめるも「頑張って探せ」
なら「最初から存在しなかった」と考えるのが妥当
絶対にあるというなら該当資料の何処にあるのか明記すればよい
それをしないなら「なかった」と考えるのが妥当
最初から吹いてただけだと思うけどな
日付も挙げてるから嘘とは思えないが、とりあえず見つからないのは確か
>>372>>374 ん〜‥マジで無いの?
無いならどうしょうもないから、そのうち気が向いたら時にでも
大日本史料を探してみて、そちらには確実に在るから。
>>375 ある、と主張しているあなたなら捜索は容易いでしょう。あなたがやって証明
してくださいよ。
元を提示してこそのソース
極右武田厨、そろそろ敗北宣言しろよ
適当に地名並べただけでツッコミ受けるとらしいこと言って誤魔化すけど、明確に回答したこと無し
これだから・・・
織田だろうが上杉だろうが武田だろうが一条だろうが
やっぱウリナラ最強みたいな輩はどうしようもないねえ。
380 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 21:49:29
それを非難もせずに擁護する武田厨も同じ様なもんだな。
他大名の厨は味方でもキ○ガイは擁護せずに攻撃するのにな。
381 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 22:39:34
10年早く関東に上洛できる状況を作れてればあったかも知れない。
382 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/27(土) 23:38:59
1570年に、近江の浅井が落ちる前に
挟撃する形で上洛できれば、天下はなくても
美濃落として織田は倒せたかもね。そう考え
ると2年遅かったわけか・・・。
その頃は信玄自身が駿河進攻を発端とする足元の火を消すのに大変だったからな
駿河を早めに安定させられてたら戦略的な選択肢はもっと広がっただろうけどね
鉄砲の問題にしても勝頼の代のように海運で買い付ければいいわけだし
384 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/28(日) 08:32:34
/::::::::::/ノ::::::::ノ::::::::ヽ:人::::::::::ヽ:::::::::::::::)
(::::::::::/ ):::ノ::::ノ ) ソ ヾ::::::::::::丶::::ヽ
(:::::::::/ 彡 ノ 信玄命 :彡:/)) ::::::::::)
(::::::::::/彡彡彡彡彡 ミミミミミミミ :::::::::::)
( :::::::// ̄ ̄ ̄ ̄ヽ===/ ̄ ̄ ̄ ̄ヽ |:::::::::)
| =ロ -=・=- ‖ ‖ -=・=- ロ===
|:/ ‖ / /ノ ヽ \ ‖ ヽ|ヽ _________
|/ ヽ`======/ .⌒ ` ========ノ. ..| | /
.( 。 ・:・‘。c .(● ●) ;”・u。*@・:、‘)ノ /
( 。;・0”*・o; / :::::l l::: ::: \ :。・;%:・。o ) < ボクの信玄タンを貶すやつは許さない!
(; 8@ ・。:// ̄ ̄ ̄ ̄\:\.”・:。;・’0.) \
.\。・:%,: )::::|.  ̄ ̄ ̄ ̄ | ::::(: o`*:c /.. \_________
>>383 今川を徳川と共同で攻めるのではなく、
何とか氏直を動かして、徳川を今川と共同で攻めるべきだったね。
そして、上手くいって三河の大半。
最低でも信濃から尾張に抜ける事が出来るルートを確保できれば、
まだ織田と戦えたかもしれない。
386 :
385:2006/05/28(日) 11:44:31
信濃から三河経由で尾張に抜けるルートね。
>>385 その頃の信玄は、将来織田と戦うことを予想できていないから
五十城の武田中は結局詳細を明かせないのか?
>>385 東を北条、北と西を武田に囲まれた今川がおとなしくしてると思うか?
実際に信玄は氏真に共同で徳川を攻めようと持ちかけたことはある。
しかし、それ以前に信玄は信長と同盟を結んでいたので、
親の仇と同盟を結ぶような奴と共同では戦えないと突っぱねられた。
確かに将来織田と戦うことまで考えていなかったのでしょう。
と、すると氏真タンのほうが先を読めてたことになるな
>>390 先を読めていたというか、信長が親の仇なのは単純な事実だからねえ。
もしも氏真がもっと老練だったなら、信長との同盟を破棄させて、三国同盟を再確認し、
織田・徳川同盟対今川・武田同盟の戦いに持っていくように誘導すべきだった。
まあ、そこまでは望むべくもないだろうし、信玄も徳川を攻めるだけならともかく、
織田との絆を切ってまで今川につくのはかなり躊躇するものがあったと思うけどね。
まあ、その時点で将来的には織田とも戦うという構想が信玄にあれば、
或いはそういう選択肢もあったかもしれないけど、
その時点ではそういうことまでは考えていなかったのでしょう。
桶狭間の戦い後、信長の勢力が徐々に東美濃に伸びてきた為、
既に木曽を領有し、一部東美濃の豪族にも影響力を持っていた信玄と、
信長の勢力範囲が直接接するようになった。
この時信玄は上野攻略戦が大詰めで西に係わりたくなかったし、
信長も美濃攻略が最優先で信玄と対立したくなかった。そこで両者は同盟を結んだが、
この同盟が信長に親を殺されていた今川の不信感も招くことになった。
で、上野がひと段落したところで、
次の侵攻先として三河徳川を今川と共同で攻めることを提案するが、
上記のように信玄に不信感を抱いていた今川はこれを拒否。
そこで逆に徳川と共同して今川を攻めることにするが、この際北条と対立して泥沼の抗争に。
正直この辺の信玄の戦略は間違っても優れていたとはいえないと思う。
もっとも、信長との同盟締結後に義信の謀反・自刃事件が起きており、
この原因は今川侵攻を狙った信玄との戦略上の対立であるとの説もある。
だとすれば、その時点で信玄の意思は既に今川攻略に向かっていたことになるから、
この説を採用した場合は、共同で徳川を攻めるという提案はただの見せかけであり、
氏真はそれを見破ったのだと見ることも出来る。
つまり氏真タン最強
395 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/28(日) 21:36:45
家康からの義元仇討ち要請にも動かなかった氏真だから、単に名目つけて戦争避けたかっただけかも
内政や教養には興味あっても戦はとことん消極的
396 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/29(月) 12:44:34
>>392 さらに北条は上杉と同盟を組んでいた。優れていたとは到底思えないな。
まさに四方を敵に囲まれちゃったからな。
まあ、信長と謙信が積極的に動かなかったおかげで助かったけど。
398 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/29(月) 15:12:25
>>397 謙信は、信玄倒そうZE!だったが信長が乗ってくれなかったからな。愚痴の書状が残っている
信長のほうが律儀だねぇ
信玄は信長の苦境にあっさり便乗したのに…
>>376-380 少しはまともかと思ったけど、違ったね。
都合が悪いと、見つけても惚ける積もりのようでw
遠江国風土記伝
ウ
今度取前属御味方条、神妙候、因茲遠州見付之内百貫〜略
元亀三年 壬申 土屋〜奉之
12月14日 天野〜殿
401 :
400:2006/05/29(月) 16:59:36
それを示すのにお前どれだけ時間かかったんだよ
何回も示せよといわれて史料取り寄せる人が出て、、ないといわれて、そんでそれから数日後に示すって
>>397 というか信長とは同盟関係。
もっとも信長本人も結構きつい時期だったから、東に手を出す余裕はない。
東がもめてくれてありがたかったといったところ。
>>401 待たせてすまん、見つかったよ
それで気を悪くするかもしれないが、ちょっとこれは疑わしいので調査中(確信はない)
もうしばしの猶予頂戴
一応そう思う疑問点書いておくよ
1.充行発給しているのが、土屋右衛門となっている
土屋昌恒だと思われるが、彼が奉者として遠江で活動するのは、
勝頼の代になってから、天正三年以降と考えられているので不自然
2.充行があまりに不明瞭
他の充行だと「…遠江州土橋郷之内 此間来候十貫文之外…」
「一 江草之郷爾棟別 拾五貫百文…」など、充行する場所が明瞭
しかし、これだけ何故か「…遠州見付之内百貫被下置候…」と曖昧
3.宛名の天野菅左衛門
当時の天野氏には、小四郎・安芸守・宮内右衛門といるが、左衛門と名乗る人物が確認出来ない
江戸期に天野宮内右衛門景貫を宮内左衛門と表記したのがあり、
また宮内右衛門には小四郎という子がいたようだが(勝頼書状)、
天正十二年の北条氏直の感状が天野左衛門という人物に出され、
その添状(宮内右衛門宛)に「御息左右衛門殿」とあるので、
小四郎=左衛門とも考えられるが、武田関係の発給文書には、
前述の通り、小四郎と表記されている
以上が疑問点です
大日本史料も確認するんでよろしく
>>404 その可能性も考えたけど、昌次はこの地域で奉者として活動していないし、
天正年代に土屋右衛門の発給文書が多く見られる事から
(天正元年には単に土屋という署名、天正三年には土屋惣三という署名で発給している)
昌次ではないと判断しました
ほんとうにおつかれさまです。あたまがさがります。
…本来、こういった作業(内容の検証・証明)はあると主張した側がするもんなんだけどな。
武田厨にそんな常識を求めてはいけない
だから武田厨は地名挙げただけだって
最初に突っ込まれた時もある一定ラインより上の土地出しただけってうっかり白状してたじゃないかw
あまりツッコミ入れると他のスレを荒らすから程々にして欲しい。武田厨は執念深いから・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
というか、武田厨と一括りにして欲しくないのだが。
412 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/31(水) 00:47:19
こうも情報が入り乱れているとまとめにくいな
あと自分も武田厨と一括りにしないで欲しい
用語は正確に
極右武田厨、な
ぶっちゃけ、もう騒いでいるのは一人だけじゃあないかと思うので、
「この馬鹿」とか「50城の人」とか言う呼び方でもいいと思うけどね。
後十条氏
トリップ付ければなんて事ないんだがな。
つけたら逆に皆相手しなくなる希ガス
>>406 大日本史料じゃ注釈で(土屋昌続)となってる。
それと、件の書状の場所指定が曖昧というより
例に挙げた相手の知行分が少ないから、というだけのような。
金山収入は50万石に匹敵するよ
その断言が美しい
その50万石の+があって信長以下の領土しか持てなかった信玄って一体……
>>419 詳しくないんだけどさ、宛行状って誰それにどこそこの土地を与えるってシロモノ
でしょう?それで土地が具体的に示されていないのってありえるの?
これっていってみれば役所の公文書みたいなもの。これじゃあ土地争いなどになった
ときに裁判で証拠として持ち出せないだろう。
仮に50万石だとしても金山衆やらを介してだから信玄の手元に落ちる時には10万石未満分というオチw
てか五十万石の内高としたら、その割には軍事行動がせわしないっていうか余裕がないっていうか。
逆に無能じゃねえか?って思ってしまう訳だが。
>>419 大日本史料で土屋昌次とされているから何だとしか言えない
本能寺の変の際の天王寺屋会記で杉原とあり、それは杉原家次と解釈されてるが、
杉原家次はその当時、堺にでなく秀吉に帯同していたはずなのにね
現状ではそんな程度です
大日本史料に書いてあるからでは何の説得力もありませんよ
土屋昌次だという確証的なものがあれば別ですが
「…遠州土橋郷之内萬疋之改替 三倉之谷百貫文所被下置候…」
とりあえず、こちらが挙げたのだけ見ての、充行が少ないからという理由付けは止めてもらいたい
充行が百貫程度で曖昧なのが当然というなら、他の類似する充行状提示すればいいかと
>>423 自分の知る限り、充行状で知行地を明確にしない事は有り得ません
しかも百貫程度の少なさなら尚更です
428 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/31(水) 19:41:00
50万石もの収入がありながら妙法寺記に売買なし、撰銭と書かれるとはなw
余程経済概念がなかったものと思われるな
50万石に匹敵するのは確か
ただし、粟とか稗とかのな
稗の50万石ってすごいな。
431 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/01(木) 00:19:50
実際のところ当時の金山の採掘量とか、そのうち何割が武田の財源になったか、はわかってないんでしょ
わかっていない。
だから、農業生産+商業利権+鉱業(金山)によって行われたのが、史実の武田家の
行動としか判定できない。
黒川金鉱
天分年間で百十九貫三百七十匁の黄金を産出した記録が残ってるそうだよ。
それって埋蔵金伝説にまつわる怪しげな記述じゃ…
出処を提示(出来ればURLかISBNも併記)しない話なんてスルーが2ちゃんくぉりてぃ
>>426 >>406の個人的見解よりは信用できるけどねw
>昌次はこの地域で奉者として活動していないし
遠江で活動しているわけないじゃん、詭弁
>充行が百貫程度で曖昧なのが当然というなら、他の類似する充行状提示すればいいかと
奥山さんの宛がいは、(駿河)平尾・鶴松之内になってるよ。
それと、松井広経宛の書状は知行地を明確にしてあるけど
飯田・長田村って浜松より南なんだよなぁ‥
>>434 地元の観光協会のホームページで見かけた記憶がw
本当だとしても、年間2万石換算にしかならんし
>>438 そのレスの中に答えが出てる
>「この馬鹿」
武田の直轄地を考えれば、毎年二万石分の自由に使える金かあるのは、
かなり大きいのでは?
俺も、知行地でも給人領でもない直轄地二万石相当の収入は結構美味いと思うな
問題はその2万石の質だな
>>436 信用するのは勝手だが、検証もされてない代物だという事は理解した方がいいよ
>遠江で活動しているわけないじゃん、詭弁
活動している訳がない理由を論理的に説明しないと、詭弁とこじつけてるだけになるよ
それで曖昧な充行状の提示による存在の証明はないのかな?
その二万石分がまず正確なのか不明
ついでにそのうちの何割が武田家の取り分だったかも不明だからぁなw
445 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/02(金) 23:20:39
あげ
二万石分…兵糧やら調略の資金にしたのならたしかに軍事行動も大きく動けるわな。
各地の城普請の資金や水利工事にも。
前に挙げられた甲斐国の天災をみると、こいつで食いつないだのかもしれん。
食いもん無いなら、金持っててもしょうがないような・・・
と、子供っぽい疑問を投げかけてみる
448 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/04(日) 02:05:57
秀吉は鳥取城の干殺しの時は、敵地で米を買いあさったわけだが。
449 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/04(日) 02:39:23
秀吉は朝鮮侵略という人類史上最悪の凶行を行ったわけだが。
>>446 藤木本の後ろに付いてる災害年表?
あれは、未完成すぎると本人が言ってるから
甲斐が食いつなぎに苦労する程だったかは分からないでしょ。
集めやすい処から取りあえず集めた段階で
地域毎の比較もできないから、他国とも比べらんないし
451 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/04(日) 05:01:11
朝鮮侵略が何で凶行なの?
朝鮮は他国に攻め込んだ事ないの?
元寇の時やる気満々だったのは、元軍ではなく半島勢だからな・・・。
明進出戦で秀吉が最悪だったのは、
1:その衰えた指揮能力で軍を統率しようとしたこと。
2:国内の反対派を黙らせるだけの大義名分を用意できなかったこと。
秀吉が因幡で米買い漁った時は、鳥取はまだ織田方の時です。
>>451 つ【対馬】
これが原因で報復倭冠が増えたのは内緒だ
455 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/04(日) 16:36:49
井伊谷〜刑部〜三方ヶ原〜匂坂、向笠〜飯田〜各和以北の拠点
久頭郷、一宮、秋葉、犬居、中日向、幡鎌、本郷、中の谷、高藤
各和、高代山、飯田、只来、向笠、本城山、匂坂、二俣、高明
三岳、伊平、上野、谷津、刑部、井伊谷、奥山、池田峠、千頭峰
ここ迄が、城郭体系で武田の持城、及び武田へ付いた領主の持城。
若子、水巻、鶴が、小川、勝阪、岩小屋、川上、樽山、萩野
笹峰、尾上、、吉岡、峯、市尾、孕石、寺田、米倉、社山
新居館、笹岡、今、乾山、田沢、渋川、鯉山
講義も終盤で出席とるときになってようやく教室に入ってくる奴みたいだな
正確には講義終わってからか
>>455-456 知行論争に敗れたからって、再戦狙いで蒸し返すなよ織田厨
話題がつまんねー
>>457が再興に面白い議題を提供してくれるようです
>知行論争に敗れたからって、再戦狙いで蒸し返すなよ織田厨
>知行論争に敗れたからって、再戦狙いで蒸し返すなよ織田厨
>知行論争に敗れたからって、再戦狙いで蒸し返すなよ織田厨
>知行論争に敗れたからって、再戦狙いで蒸し返すなよ織田厨
>知行論争に敗れたからって、再戦狙いで蒸し返すなよ織田厨
逃げ出したのは武田厨だろwwwwwwwwwwww
極右武田厨の勝利宣言キタ?( ^∀^)
なんでこー、すぐにバレる発言するんだろう
結局のところ信長が上洛して順調に勢力を広げてることに焦って、
駿河に侵攻したことがだめだったと言うことか。
焦らずじっくりちょうりゃくして力不足の氏真を後見するという名目で
駿河に軍を入れ少しずつ実権を奪う方がよかった。
それなら姉川は無理でも野田か志賀くらいに美濃に乱入して
岐阜を囲えたかもね。
いくら腹が減ってても、毒まんじゅうじゃなぁ‥
いや後見役なら北条でもいい訳で、結局あの時点では倒す以外なかったとは思う。
まあ最短の時間を遡及して失敗を指摘すれば、駿河侵攻で北条を外交で味方に
しておかなかったことだな。
駿河侵攻する時点で北条が味方にならない
一番下っ端だった奴が旧とは言え、ボスに逆らえば叩かれるのは必定。
駿河攻めておいて北条が味方に付くとかさ、なんで愉快な発想しかできないんだろ
ならば北条を屈服させれば連鎖的に今川もほぼ屈服したも同然ではないか
ここは上杉と電撃和睦して北条攻め…できれば苦労ないかw
それで勝てるんなら将軍様の怪しい話にひょこひょこ飛び付かなかったんだろうけどね…
常に会話しようとしないね、この人は‥
つくづく信玄や勝頼は外交を軽視しているな
>>471 軽視してるわけじゃない
ちょっと考えが甘かった油断したぐらいだろう
信長だって浅井の件があるしね
共に配慮が欠けたせいで3年ぐらい無駄にしてると思う
信玄の時間的損失は3年どころではない
人生そのものが無駄になっちゃったもんねえ
根拠は何も無いが、そういうことにしておきたい信長厨なのであった・・・
476 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/08(木) 19:19:38
結局信長の勝ちってことでFA?
長篠がちょっと早くなって、史実通りに信長は本能寺で死ぬ
ただそれだけのことか・・
駿河攻めで年月を消費して、織田を倒せる一番良い時間を逃す
結果、弱体化した畿内の諸勢力を撃破した織田と敵対という最悪の戦略状況だけが残り…の悪循環だからなぁ
ちょっとこれはいただけない
478 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/08(木) 20:36:45
上杉さえ邪魔をしなければ天下を取れた!
秀吉と違い稀代の名将信玄公ならば明の大群にも勝利した!
武田騎馬軍団ならばユーラシア大陸さえも統一できただろうに。残念だ。
全ては上杉のせいだ。
そうだ、その通りだ。偉大なる信玄神は本来であれば天下の覇者になるべく
神が使わした神の分身であったのだ。
それを邪魔した謙珍の罪は海よりも深く重い
480 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/09(金) 02:58:28
と、織田厨が(以下略
武田信者を神格化している480は(以下略
482 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/09(金) 08:20:48
483 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/09(金) 10:25:05
武田と付くスレはチショウしか集まらない点について
信玄へのコンプレックスから、必ず織田厨が荒らしに来るんだよね
本論の議題になると武田がボコられてFAだからな
信玄厨からすれば荒しのレッテル張りが最後の防衛線(^∀^)
自説が通らなくなり流れが止まりだすと
必ず煽り始めるのが信長厨の悪い癖の1つ
武田厨の言い分が通った議題ってあったっけか?
488 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/09(金) 15:16:06
通る前にボコボコに論破されてきたからな。それに対しての意見が荒らしですか・・・・w
大日本史料(朝廷編)を見た織田厨はぼちぼち納得したっぽいのに
煽るだけの信長厨は空気読めず延々煽りっぱなしという罠w
納得してないよ
反論もなかったし、明らかに間違ってたから
煽りはいいから実質を示せ
次の議題はなんだ
>>443への返答ないから逃げたと思ってたけど居たのね
詭弁とする理由や根拠提示まだかな?
へんじがない
ただのしかばねのようだ・・・
>>492 定書の文面は見たわけだよね、そして
>>406と判断した。
でも、昌次も右衛門尉を名乗っているから前提が間違いね
>>492 松井ナントカへも宛がいしているけど、こちらははっきり御園郷とあった
その書状についてはどう考えてるの? 位置はかなり浜松に近いが‥
>>494 右衛門尉という署名の書状が、この地域に見受けられるのは天正6〜7年以降、
天正3年には土屋惣三という署名、元亀4年(正確には天正元年)には土屋という署名のがある
元亀3年のを土屋昌次とすれば元亀4年と天正3年のとの署名の整合性がつかず、
また、元亀4年の充行状とあまりに内容が異なっている点もある
土屋昌恒は昌次の後を受けて活動しているが、彼が右衛門尉という署名始めたのは天正7年からで
それまでは曽根が活動している
天野氏に対して右衛門尉という署名で元亀3年にあるのは不自然極まりない
充行状の内容の不自然さもあり、右衛門尉だけで土屋昌次とするのは無理
そして充てがわれた天野菅左衛門尉という名も、当時には該当する人物がおらず、
江戸期に天野宮内右衛門を左衛門としている事から、
かなり疑わしいと述べてる
ちなみに元亀3年9月に信玄から天野安芸守に出された書状で
「長坂筑後守所より可申越候」とあるので、天野氏の担当は長坂筑後守だと思われる
また暫く潜行しますね、こりゃ。
>>495 まず内容挙げればいいんじゃないのかな?
御所望なら今書いた信玄発給文書や天野氏宛の土屋氏発給文書を全部書きあげても構わないよ
ただし君も書きあげてくれるのならって条件だけど
見事としか言いようがないな
瞬殺されてるよ
その武田の書状は、戦前、戦時中、戦後のどのへんのものなの?
戦前なら、関ヶ原前の調略合戦みたいなのもあったりするの?
>>496 >1.充行発給しているのが、土屋右衛門となっている
>土屋昌恒だと思われるが
軍鑑の徳川領侵攻時信玄公軍備えでも土屋右衛門昌次の名前があるのに
わざわざ土屋昌恒だと思えちゃった理由はなんなんだろう?w
>右衛門尉という署名の書状が、この地域に見受けられるのは天正6〜7年以降
実際書状が確認されているのに
何を根拠にこんな意味不明発言をするのか、説明が欲しいなぁ
>>498 俺も奥山兄弟、松井広経宛ての文書を書き上げるから
そちらにも書き上げてもらおうかな。
W杯だし今日は大丈夫だぞ
>>502 土屋昌次と思われる活動がないから、理由も書いたよ
遠江風土記のは写しだから
年号等の誤読は当然ながらあるよ
そんなの古文書解読でも常識
書いてくれるのか、いいよ、こっちも書くよ
それと軍鑑は単独的な史料価値は皆無だよ
>>503 >>504はアナタ?ではないよね? 例の信長厨かな・・
アナタだとしたら、タダ賢しらなふりしたバカを相手するのは
時間の無駄になるから一応聞いてみる
>土屋昌次と思われる活動がないから、理由も書いたよ
一度も見ていない。
>遠江風土記のは写しだから年号等の誤読は当然ながらあるよ
勝頼への代変わり後は、見付を与える情勢にないね。解釈が不自然
>>505 昌恒だと考えた理由は何度も書いているよ
というか、最初に昌次では?という指摘受けてからずっと同じ回答してるけど
勝頼の代で不自然?
不自然とする理由がわからない、君は史料的根拠もなく、
自身の固定観念から決め付けで語る癖がある
以前の詭弁と決め付けたのと同じ、理論だてて説明求む
ちなみに土屋氏発給文書には長篠から二ヵ月後の七月に
和田河内守宛に土橋郷に知行地を充てがわれてたりする書状がある
というか天野氏の充行状は勝頼の代の方が多い
遠江風土記伝にある元亀三年の右衛門尉宛の書状の問題点挙げると
・天野氏文書でなく、唯一瀬尻村にあった書状らしい
(原書不明の注釈有り)
・天野菅左衛門尉という人物の存在
・他の充行状と違い、知行地が不明確
・〜貫とあるが他の充行状では〜貫文とある
ではサッカーに集中するので返答は遅れます
>>506 >昌次はこの地域で奉者として活動していないし、
>天正年代に土屋右衛門の発給文書が多く見られる事から
これしか見当たらないよ
で、元亀年間初めに土屋貞綱が遠江で奉者として活動していたから
406の推測は外れてる可能性が高い。
>>507 ・〜貫とあるが他の充行状では〜貫文とある
奥山文書にある定書は〜貫とある
>君は史料的根拠もなく、自身の固定観念から決め付けで語る癖がある
まあ自責しといて下さいw
あと、宛てがいがあまりに不明瞭とあるけど
奥山文書の定め書きも、「平尾・鶴松之内百貫文」なんだよね
ま、話の出所は大体分かったからいいや、相手する価値無さそうだし
あと、どうでもいいけど賢しらぶるのは程々にね
>>508-509 >元亀年間初めに土屋貞綱が遠江で奉者として活動していたから
>406の推測は外れてる可能性が高い。
昌次が活動していたとする史料はないという判断でいいのかな?
自責しろとは反論出来ないという解釈でよろしいか?
>平尾・鶴松之内百貫文
明確だね
平尾は城飼郡内田郷平尾、鶴松は南周智郡久野郷鶴松しかないから
見付は磐田郡見付のどこか全くわからない
全然違うね、ちょっと浅はかすぎるよ
結局、書状も挙げず、理論だてての反論もなく、
相手に出来ないとするんだね
まあそれでも構わないよ
他者がどちらが筋道たてて話してるか、読んで判断するだろうからね
これまた見事としか
512 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/10(土) 14:58:21
極右晒しage
513 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/10(土) 20:32:40
そろそろ1を
仮に信玄が長生きしても史実の状態、能力ならば上洛は無理
だがそれでもどうにか都合のいい理由をつけてそれでも信玄が上洛できるかできないかを議論するスレです
とかなんとか書かないか?
信玄が長生きしたぐらいじゃ上洛無理なのはもう確定だろ
514 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/10(土) 21:10:55
>>513 史実の武田は惨めな大敗を繰り返し、数多の名将、重臣を討ち取られ、一族、家臣に裏切られ、過去の栄光は何処へやら、
何十年も苦労をし、幾多の屍の山を築き手に入れた領土は見るも無残に織田軍に蹂躙され、民にまで見放され追いやられ、
そして跡形もなく滅亡していった。
名将と呼ばれた信玄ならば・・・・そんな藁にもすがる思いの希望的妄想の余地ぐらい許してあげるのが優しさってもんだよ。
余り優しくし過ぎると付け上がり50の城なんて言ってくるが、生暖かい目で見つめてあげなよ。
それが武田厨なんだからさ。
同じく、家来に裏切られ惨めに跡形もなく、皆殺しにされて滅亡した織田嫡流父子が生きてたら・・・?
なんて妄想仮説が流行ってるんだからな。
>>516 武田厨の脳内では織田家は滅んだ事になっているんだよ。
生暖かい目で見守ってあげなよ。
現れるたびにボコボコのサンドバックにされる武田厨の姿に惚れたw
所詮武田にしろ上杉にしろ地方大名
織田・豊臣・徳川といった天下の流れを左右した一流どころにはかなわない
豊臣や徳川はともかく、織田は二流だろ。
綱渡りの畿内政権をかろうじてでっち上げたが、信長アボンで一挙に崩壊・・・
つか、公家化することで平家の二の舞を演じたのが織田と豊臣か。
上杉も武田も伝統的に関東武士だから、畿内には興味なかっただけじゃね?
523 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/10(土) 21:58:07
>>521 その織田家に殲滅された大名武田wwwwwwwwwwww
織田があったから豊臣は成立したわけで
徳川と織田は互助関係だが従属性が強いからな
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/10(土) 22:05:43
武田は公家と姻戚を結び、家臣も度々京へやっている
上杉にいたっては謙信自身が二度も上洛している
興味がなかった、というのは信じられん
単に力をそちらへ向けることができる勢力を築き上げるのに晩年までかかって時間切れ、としか
返答に給するとごちゃ混ぜにしようとするんだな
とりあえず
>>510に答えたら?
それともまた
>>510がいなくなるの待つために時間稼ぎ?
>武田は公家と姻戚を結び、家臣も度々京へやっている
信濃守護職任官の件ね。それと、三条家を通じた本願寺工作。
>上杉にいたっては謙信自身が二度も上洛している
関東管領任官の件ね。織田との同盟時には信長は京都を、
自分は関東を従えて公方様を供奉。としてるがな。
結果論だが、関東にしか武家政権はムリとしてたんじゃね?
過去の歴史(平家滅亡・建武政権崩壊・足利幕府崩壊)
未来の歴史(江戸開府)から考えて。
528 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/10(土) 23:09:24
壮絶に武田厨を追い込んだせいで三戦のみならず、日本史版まで荒らされたじゃねーか!
程々にしてくれよ。ここは隔離病棟なんだからさ
LRすらない史板がいつから隔離板じゃなくなったのか教えろよ。
また自治厨か。お前はもういいよ
誰が自治厨だ誰が。
朝廷や将軍の権威は衰退していたが、名分は名分
実力のテコ入れがあれば蘇り、天下経略に大きな力になる
結局のところ信長以前の大名はその発想がないか、あっても実力が足りないか
上杉や武田は尾張より京に遠かったが、信長より遥かに早く生まれていたというメリットがあったのに駄目だった
天下の器というのはそういうものだ
>>527 確かに結果論でしかないな
その関東政権だって結局壊滅してるじゃないか(平将門・鎌倉幕府)
もし本当に謙信がそう考えていたのなら戦略馬鹿という評価は事実だw
>その関東政権だって結局壊滅してるじゃないか(平将門・鎌倉幕府)
室町時代の武家に愛読された「平家物語」「源平合戦記」「太平記」は
すべて東国源氏史観だがな。教養のない信長や秀吉は、読んでもなかっただろう。
鎌倉府(関東府)は室町全期を通じて存在してるしな。公家として滅んだ平家(織田)と藤原(豊臣)畿内政権、
哀れ・・・。
/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄~\、、
/..:: ::. :. :.. :.:::. :.:.::::::ソヾil、
/─-、__,.-─--、 :::::ヽlllll|
l─- -─--、 ソllllllll|
ノ'""ゝ ;;γ゙⌒゛ヾ :::lllllllll|
( ニラ; / ヾァラ、,, ..::;ノllllll|
)""/ ヽ """ 〃;ゝlllll|
(:::: c、__r-、) 、,,_,ノ る))
ヾ、,i_!、 ヽ ヽ ..;;j )
と_─、ヽ ,,;;;) ヽ_ノ
(__二ニゝソ _;;/
)〒) ,,;ノ .:::i、
(___/ ::::|
〉了 ヾ .:::::::人
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/ > i─''" ,.ヘ__
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/ ̄/ \/ゝ ソ"')__/ ..:::/⌒ ̄\
/ .:::l .ヽノo ...::::::/ ..:::::ヽ
>天下の器というのはそういうものだ
わかったようなことを言ってるが、天下というのは通俗的には全国制覇
だが、厳密(狭義)では京都(天子様の下)という意味だぜww
つまり、中世史学では畿内政権(朝廷の政所)という意味だ。
要するに、天皇の直臣、朝廷の下僕だわな。その証拠に、信長も秀吉も
自分の城(安土城・聚楽第・大坂城)の壁は黒塗り(臣下)の構えだったな。
白壁の城が出来るのは、家康が関東政権を打ち立ててからで、天下(京都)を
気にしなくても武家の棟梁が大手を振って、天下一統(京都も俺の傘下)を
公言できるようになってからだ。ただし、松平をはじめ徳川一門以外に白壁は
許されてないが。
537 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/11(日) 02:59:09
>>534 結局関東だろうが畿内だろうが滅んでる時は滅んでるだけとしか
何がいいたいのかさっぱりわかんね
そもそも謙信が関東府に拘っていたかもという妄想の上にさらに軍記マニアというもう一つの妄想を重ねるお前が哀れ・・・( ^∀^)
畿内=天下なら
信長が存命中から北は伊達・南部
南は島津氏に至るまで関わりを持ってる事実は一体…
もしかして意地でも上杉>織田とこじつけたい厨が暴れてるわけか?
このスレが板違いになりそうな件について
板分割かよ!
>そもそも謙信が関東府に拘っていたかもという妄想
誰もが異論を唱えない史実を妄想といわれてもなw
関東管領職の意味、わかるか?
>>537君よw
>信長が存命中から北は伊達・南部
>南は島津氏に至るまで関わりを持ってる事実は一体…
そりゃ信長史観だな。島津家が自分を中心に天下があるとしたら、
織田は畿内の一政権にすぎないぞ。伊達が奥州の盟主のみならず
俺が天下と考えてたら、信長は京都に近い地方武将にすぎないと思っていただろうな。
543 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/11(日) 03:25:56
信長は島津・大友の間に介入したりしてるのに・・・
上杉厨ってマジ痛い奴ばっかだな。どのスレでも嫌われるわけだ
関東管領についたから畿内に興味がなかったという暴論を笑われてることにも気付かないのか
あと、信長については常盤御前を殺した者の子孫とのエピソードがあるから源平を知らなかったなどというのは低レベルの煽りとしてもヒドス
>>542 たらたら言ってるが天下の概念が畿内を中心としてるのは事実だろ
詭弁特有の有り得ない仮定するバカだろ
あくまで関東府とやらに執着してた割には信玄や氏康没後にその方面からの圧力が軽減されたら途端に北陸に執着しだしたのは一体・・・
上杉の話はスレ違い。ここは義景公対信長のスレだ
天下というのは日本全域を指すんじゃないの
「皇帝が統治する地域」という中国の概念を持ってきたもので
でなければ六十余州…なんてやらないでそれこそ畿内以外は蛮地とでも扱うだろ
関東や九州なんか辺境ですが何か
上杉厨荒らさないで下さい。今度はどこのスレの遺恨でつか><
>>534 >鎌倉府(関東府)は室町全期を通じて存在してるしな
自分でいってる矛盾に気付いていないのか?
君が主張する武家政権である鎌倉府は、やはり君が主張するところである公家政権の
室町幕府と同じ期間存続していたと自分でいっているのだがね。
ちなみに、支配政体としてなら関東府は京都の幕府よりも早く崩壊しているのだが。
関東府は北条氏として継承された。
京都幕府−守護体制を初めて否定した、まさに鎌倉幕府がモデルの本格的戦国大名政権だ。
上杉謙信って手取川の時、上杉勢の姿を見て、後退する織田勢を見て
我が姿を見て尻尾を巻いて逃げだすとは口ほどにもないとか勘違いして、
方々に大勝したと書状を出した方でしたっけ?
そうそう関東の有職故実を知らないで、敵を作ってしまった関東管領さんです。
50の城を挙げられるわけもなく論破され、今度は上杉厨に偽装して話しを流そうとしているのかw
深夜に自演して逃げるんじゃないよ。
>>515よ早く
>>510に答えてくれないか?
>>510 これではっきり確信できた。 知ったか乙w
>昌次が活動していたとする史料はないという判断でいいのかな?
意味不明、現実に天野への定め書きを発給しているし
養父が遠江の奉者として活動しているのに
わざわざ
>>406と解釈する理由が謎。
>>平尾・鶴松之内百貫文 >明確だね
>平尾は城飼郡内田郷平尾、鶴松は南周智郡久野郷鶴松しかないから
>見付は磐田郡見付のどこか全くわからない
見付も磐田郡見付しかないけど、何を言ってんだ?
なんつっても 磐 田 郡 だし
それと
>>404にある天野家の構成。
余程の事が無い限り、旗本になったわけでもない天野さんの
家譜が残ってるワケないだろう?と思いつつ放置してきたけど
>また宮内右衛門には小四郎という子がいたようだが(勝頼書状)
これの文面を書いてくれ。
アンタは人が挙げた書状には内容証明を要求するのに
自身は1つも書状を書き上げていないからいいよね?
横レスすれば、土屋貞綱の養子は土屋昌恒の希ガス。
土屋昌次は土屋姓貰っただけの希ガス。
横レスすれば、土屋貞綱が遠江に活動しているのと
土屋昌続が文書発給に関わってることからして
土屋右衛門尉=土屋昌続として何の問題もなく
=昌続を否定する意味がちょっと解らない。希ガス w
>>558 誰の書状かは知らないが、土屋昌次が土屋貞綱を養父とするのは違うと指摘しただけなんだけど。
その土屋昌次が関わってるとする証拠がないから揉めてるのだろうと思うが。
しかし誰彼かまわず噛み付くヤシだな。
50城厨は矛盾しまくり無知晒しまくりをつかれると
逆ギレして暴れちゃうからほどほどにw
なんつーか戦国版ができたとこ申し訳ないが武田板が欲しいなw
>>556 さも自分がある書状を書き上げたみたいに言ってるけど
今の今までお前が求められたにもかかわらず書き出さずに、書かれてるところも「それぐらい自分で探せ」
で逃げてきた経緯はまるっとエブリシングスルーですか?
50城厨は文書書かないから相手にしてあげてる
>>510が調べたりしてる罠
まずは言い出しっぺの厨が文書の中身を示すのが常識なのにね
次スレは戦国板だな
50城厨はアボソ出来るから議論もしやすい
566 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/11(日) 23:35:34
戦国板なんて嫌だよ
ID出るから自演できない
武田ファンは自演ばかりだからな。
【自作自演を告白する武田厨】
566 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2006/06/11(日) 23:35:34
戦国板なんて嫌だよ
ID出るから自演できない
それは織田厨にも言える事だろ
「も」ってことは自覚してるんだな
えらいぞ
ワリス
>>563 いつも他人にばかり要求し、書き出すと沈黙駿河
すぐまた次ぎを要求(面倒臭いにも程がある)
自分は思い付きの感想とインターンッツ資料ばかりのお手軽手抜き工事
それ以外は何も提示しないのが信長厨コリティだからなw
それに、織田通が図書館で探し物した時は
>>400を書いとるよん
で、これはまだなの?↓
>また宮内右衛門には小四郎という子がいたようだが(勝頼書状)
コリティってなんでそ
>>556 >現実に天野への定め書きを発給しているし
>養父が遠江の奉者として活動しているのに
>わざわざ406と解釈する理由が謎。
充行状の問題点は挙げた、土屋貞綱の養子は昌恒なのは他の人が指摘
また昌恒は惣蔵の名で天正三年に活動してる文書もある
以上から年号等の誤読か偽文書の可能性ありとしてる
見付も、磐田郡見付(見附でなく見付表記も珍しい)のどこかという指摘もない
君が曖昧として挙げた奥山氏の地名は郷の中の地名で
見付と比較にならない程明確だと指摘した
勝頼発給文書も挙げるが、天野氏関連の書状も挙げると書いた
ただし、君が奥山・松井の書状を挙げてくれるならとね
というか自身は返答に2〜3日明けて、勝手に納得してると決め付けるのに、
人が覗かず1日明けると勝ち誇ったように催促とはね
書状挙げるから、君も書状挙げてくれ
中略しなくてきちんと全部挙げてね
期限は明日の深夜12時まででどうか?
それまでに、勝頼発給文書と天野氏宛の土屋関連の書状を挙げるよ
>>574 >以上から年号等の誤読か偽文書の可能性ありとしてる
あぁなるほど「昌次ではないと判断しました」と断言したけど
実際は「可能性がある」程度の認識と。そういうことね?
土屋昌続は奉者として書状発給しているし、土屋貞綱は遠江で書状発給しているから
遠征において土屋の右衛門さんが発給していても不思議無いと俺は思うけどね
>見付も、磐田郡見付(見附でなく見付表記も珍しい)のどこかという指摘もない
>君が曖昧として挙げた奥山氏の地名は郷の中の地名で
>見付と比較にならない程明確だと指摘した
見付自体、かなり限られた区域なんだけどw
奥山・松井宛書状は明日挙げる。
あと、勝頼発給文書は↓をはっきりと確認できる書状を挙げてね
>また宮内右衛門には小四郎という子がいたようだが(勝頼書状)
(別々にはいらんよ、宮内右衛門は本人だし小四郎は天野さんちに多いから)
>>575 写した内山真竜の誤読多いのは活字化した遠江国風土記傳で原書とを確認して
誤読を修整したと書かれてて、その修整箇所がかなりあるから
天野菅左衛門尉宛の書状は原書不明とあるので、可能性があると考えて問題ないかと
>土屋昌続は奉者として書状発給しているし、土屋貞綱は遠江で書状発給しているから
>遠征において土屋の右衛門さんが発給していても不思議無いと俺は思うけどね
・土屋昌次が遠江で奉者として活動してたのが他にない
・貞綱の養子は昌恒
・昌恒は貞綱の死の直後から遠江で奉者として跡を引き継いでる
>見付自体、かなり限られた区域なんだけどw
駅家相連名見附宿 所以号見附者 入海付之地也故負名 西坂東坂北井等為之名
遠江国風土記傳の引用、見付の中にも地名あります、どこが限られた地域なんですか?
>あと、勝頼発給文書は↓をはっきりと確認できる書状を挙げてね
>>また宮内右衛門には小四郎という子がいたようだが(勝頼書状)
全然おk、添状付きで挙げますんで
1.土屋貞綱が土屋昌次を養子にした件
2.奥山文書が天野文書と同じように不明瞭とする件
3.当初述べてた土屋昌次が遠江で活動している訳がない、詭弁とした件
上記1〜3の納得いく説明頼みます、特に3は他人に詭弁として、現在は活動しても不思議はないとする矛盾
他人に対して(
>>563は別の人)
>自分は思い付きの感想とインターンッツ資料ばかりのお手軽手抜き工事
ということ述べてるのだから、今までの発言の整合性を答えて欲しいね
リミットは明日の二十四時か
>>572 煽るなら自分の書いた文章見直したほうがいいよ
揚げ足取っちゃうから
それはそれとして
>それに、織田通が図書館で探し物した時は
>>400を書いとるよん
提示要求から何日かかってこれが出てきた?
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>>576 自分の説は証明せず、他人の説は攻撃して証明を求めるのかよ。
その説の証明確約してるじゃん
武田厨が出さないで口八丁で逃げるの防止するために、武田厨の確約求めたんだろ
そのリミットが明日の二十四時
ことごとく論破されてる50城厨はファビョりだしてるな。
>>589=
>>579-586 織田厨じゃない信長ヲタ乙
>>576 >天野菅左衛門尉宛の書状は原書不明とあるので、可能性があると考えて問題ないかと
土屋昌続ではない、ではなく可能性があると考えるだけなら別にどうこう言わない。
>土屋昌次が遠江で奉者として活動してたのが他にない
奉者をしていて、地域は特に定まっていないのは知ってるけど
「活動してたのが他にない」と断言できちゃう神経が超謎。
>駅家相連名見附宿 所以号見附者 入海付之地也故負名 西坂東坂北井等為之名
>遠江国風土記傳の引用、見付の中にも地名あります、どこが限られた地域なんですか?
見付は見附宿、天神として発展した状態で、織田厨得意の石高が鶴松の約4倍
>見付は磐田郡見付のどこか全くわからない ではなく限られた地域
50城厨が576の質問にひとつも答えられない件について。
爲人質在府苦身 無是非次第候 剩妻子等相招 可有住宅之由候之條 駿州岡清水之内百貫文 所出置候
父宮内右衛門尉別而忠節之上者 追而涯分可加悃切者也 仍如件
元亀四癸酉 甲斐
十一月十五日 勝頼御判
天野小四郎殿
定
一 朝氣郷 三拾五貫文
一 蔵出 三拾貫文
一 年中扶持 百廿俵
己 上
右如此就在府被相渡候 彌奉公要之由 被仰出者也 仍如件
元亀四癸酉十一月十九日 御朱印 土屋奉之
天野小四郎殿
勝頼発給文書とそれに伴う充行状
定
敷地 150貫
野郡神蔵 250貫
御厨屋五ヶ村 . 603貫
蒲公文前、同飯田・長田村共に.520貫
久津郡 300貫
上平河之内 60貫
気賀之内 100貫
合 2000貫文
此内 200貫
同心給
雖非忠節、近年在分国被達本意候之條
如此相渡候、猶依戦功可宛行重恩者也、仍如件
元亀三年壬申 12月16日 信玄公の花押
松井山城守殿
で、敷地・長田・飯田村共に見付の南方にある。
定
其方知行沼上之郷 向後有證人爲摯ェ出来者 御糺明之上 爲御重恩可被相渡之旨 被仰出者也 仍如件
天正八年庚辰 土屋右衛門尉
卯月十九日 御朱印 奉之
天野宮内右衛門尉殿
別而奉公候之間遠土橋郷之内 此間拘来候十貫文之外 餘分ニ十貫文之處 爲重恩被下置候
彌可抽忠節之旨 被仰出者也 仍如件
天正三乙亥七月八日 土屋惣三奉之
和田河内守殿
定
爲遠州土橋郷之内萬疋之改替 三倉之谷百貫文所被下置候 萬一本領主豊前守抽忠節至馳参者
以相當之替地 可被補之由 被仰出者也 仍如件
天正七年己卯二月八日 土屋右衛門尉奉之
和田河内守
定
今度最前属御味方條神妙候 因[玄玄]遠州見付之内百貫所被下置候 彌忠節可爲肝要候者也 仍如件
元亀三年壬申十二月十四日 朱印 土屋右衛門奉之
天野菅左衛門尉殿
>>593 一、敷地 150貫
一、野郡神蔵 250貫
一、御厨屋五ヶ村 . 603貫
一、蒲公文前、同飯田・長田村共に.520貫
一、久津郡 300貫
一、上平河之内 60貫
一、気賀之内 100貫
合2000貫文
此内200貫同心給
こうでしょ?貫文となってるのだけど?
>>595 何も違いが無いぞ?
それに奥山宛の定め書きは、合わせを出さず全て〜貫となってるのだけど?
>>593、
>>595、
>>590 >で、敷地・長田・飯田村共に見付の南方にある。
飯田や長田は飯田城の周辺地域では?なんで見付の南方となるのかがわからない
それと奥山文書も挙げてね
>土屋昌続ではない、ではなく可能性があると考えるだけなら別にどうこう言わない。
うん、昌次とする根拠もないわけだけどね
なにせ原書がなく、書状自体に疑問点多いものだから
>「活動してたのが他にない」と断言できちゃう神経が超謎。
答えは簡単、活動時期長いのに、遠江方面での書状が他に存在してないから
>見付は見附宿、天神として発展した状態で、織田厨得意の石高が鶴松の約4倍
なおさら、百貫という貫目から言って、曖昧な表記は疑問だね
>>576への返答はないのかな?
1.土屋貞綱が土屋昌次を養子にした件
2.奥山文書が天野文書と同じように不明瞭とする件
3.当初述べてた土屋昌次が遠江で活動している訳がない、詭弁とした件
4.敷地・長田・飯田村共に見付の南方にあるとした件
5.鶴松の4倍もあるのに、「見付之内」とだけ書かれた件
しっかり答えてね
>>597-598 >飯田や長田は飯田城の周辺地域では?なんで見付の南方となるのかがわからない
予想通り勘違いしてる模様
飯田村、長田村は見付の南、敷地の東に位置していた。
>なおさら、百貫という貫目から言って、曖昧な表記は疑問だね
1つの単位としては見付より細かく分けようがないにもかかわらず
「百貫という貫目から言って、曖昧な表記は疑問だね」とは意味が分からない
見付の指す範囲が分からず、自分の想像だけで書くからこうなるんだろうね
>>599 勘違いじゃないけど?遠江国風土記伝でも場所確認したし
松井氏は二俣城を拠点にしてた国人で、飯田も敷地も長田もその周辺なんですが?
ttp://plaza.across.or.jp/~ai-kankyo/matsui.htm >1つの単位としては見付より細かく分けようがないにもかかわらず
>>576 >駅家相連名見附宿 所以号見附者 入海付之地也故負名 西坂東坂北井等為之名
見付より細かい地名ありますが?
見付の南とする根拠お願いするよ、その他の質問にも逃げずに答えてね
^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
御土居が・・・御土居が崩れて行く・・・
定
今度忠節神妙候、然者家康宛がい候所領並びに本領
聊不可有相違者也、仍如件
元亀三年壬申 10月21日
土屋右衛門尉 奉之
奥山左近将監殿
土屋右衛門尉さん仕事してたみたいね
>>700 >見付より細かい地名ありますが?
見付宿できたからね。それに便宜的な呼び名かもしれない(推測だけどw
>松井氏は二俣城を拠点にしてた国人で、飯田も敷地も長田もその周辺なんですが?
いいえ違いますw
飯田・敷地・長田は見付より南に在った村々です。
これは例の国立公文書館にあるインターネッツ資料でも確認したし
家にある天保国絵図でも確認した。
>>602 その奥山氏宛の書状は何にあったのかね?
今までで一番ありえない内容なんだけど
また大日本史料かな?
>見付宿できたからね。それに便宜的な呼び名かもしれない(推測だけどw
読めないの?地名の由来を書いてる文なんだが???
推測なら根拠あると思うので便宜的だとする根拠求む
まさか憶測と推測は間違えないだろうから
南周智郡飯田郷飯田、豊田郡野部郷敷地・長上郡蒲廿四郷永田(長田)
奥山氏宛の書状まだですが、挙げられませんか?
都合の悪い事は答えない気ですか?
604 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/13(火) 19:38:53
最近、横山光輝の「武田信玄」を読み始めて武田信玄に興味を持ったのですが
今まで漏れが思ってたほど信玄は天才でもないし
ミスや意味不明な采配も随分、振るってるんですね。
やはり、天下統一を果たした秀吉や天下泰平の世を開いた家康より
一等落ちる人物だと思いました。
ミスがあることを認めるのはやぶさかではないが、
意味不明の采配って例えばどんな?
また武田厨が逃亡したのかw
>>603 いつもおつかれさまです
608 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/14(水) 08:08:07
>>605 滋賀城攻めで、3000人の首を城壁に飾るとか
板垣信方の進言を無視して小笠原長時を放置したまま上田原の戦いを起こすとか
>>603 >その奥山氏宛の書状は何にあったのかね?
>今までで一番ありえない内容なんだけど
感想ですか?w
これは奥山文書に収録されてる。みたいだが(一応)
>>607 >大日本史料も19か20と嘘つくしね
改竄ですか? はっきり、10か11か一応12と書いてある。
確かに
>>600で紹介したサイトの地図にある鎌田は見付より南にあるね。
飯田・鶴見・大塚村共近い位置、これも見付より西南にある。
>>600によってはっきりしたかな
>>603に長上郡蒲廿四郷永田(長田)とあるので確認してみたら
永田村は飯田・大塚の北、見付の西方にあるね
しかもその辺りには蒲の付く村々がワラワラある。
何が言いたいかというと、土屋右衛門尉の否定をもっともらしい調子で書いてるが
これらの事実からしてじぇ〜んじぇん信用できない。そう推測できるってこと
50城厨から言い出して
>>603氏が信用できないから推測できるってwwwwwwwwwww
厨が言い出したんじゃねーか、順番がむちゃくちゃw
もっともらしい調子で書いてるのは
>>610だと皆が思ってるが本人はそう思ってない。
>>609 奥山文書みたいだが(一応)
↑
まーた逃げ道つくってるよ、こいつ
>>611-613 ごくろーさん。 www厨等狂乱之図、ですね
実際、奥山文書見れるわけないシナぁ
2次資料に奥山文書収録とあれば充分でしょ?
それとも
>>613は古文書の原書なり写しなりを見れんの?
奥山文書収録って何よ?福岡にしかないぞ、貸し出し禁止でwwwwwwwww
一般人
2次資料のナンタラという本に
>>602があった
50城厨
奥山文書に収録されてる。みたいだが(一応)
m9(^Д^)プギャー
正直信玄がどうしたかったのかなんて、もうどうでもいいぐらい楽しいスレと化してる。
612は俺だが611と613は知らんぞ。
>>618 50城厨が厨といわれる理由でつwwwwwww
不利になると逃げ出すのは50城厨の特徴
次に現れたときにはその話題はもうしない、ひたすらスルーwwwwwww
>>616 普通文面を載せるとき、何々から採用したと書くんだけどねw
2次資料のナンタラという本に奥山文書からの引用で
>>602があった
>実際、奥山文書見れるわけないシナぁ
>2次資料に奥山文書収録とあれば充分でしょ?
↑
50城厨は逃げ道作ってるだけwwwwwww
こいつはネタ本そのまんま書いてるだけなんだろwwwww
ネタ本バレたらマズいので逃げてるとwwwwww
>>622 >2次資料のナンタラという本に奥山文書からの引用で
>>602があった
分かってるのに、それ以上何が言いたいの?w
ナンタラという本がわかりませんwwwwwwwwwwwwww
お得意のお前が調べれろでつかwwwwwwwwwwwwww
確認する人が要るからには記載してある二次資料を明言するべきだ。
それでなくとも嘘が多いのだから。
例によって、恥ずかしながら大日本史料です。無念w
>>625等ともっともらしく言いながら、592、594では二次資料を明言せず
他人に対しては「嘘が多いのだから」と希望的観測でレッテル貼り。
信長厨は焦っているね
史料書いてる人は別人だ。
それに遠江国風土記に天野文書があると彼は書いてないか?
思い込み激しすぎるぞ。
>>169だな
19だの20だのは言ってない
言ってるのは
>>181で出てきたもの
Mr.50のミスを論う時に19云々が出てきてる
10編の10〜12は朝廷関連みたいだが
揚げ足取るなら巻じゃなくて編だったみたいだけど
その後10冊と訂正してるがそれもちんぷんかんぷんな訂正
そして
ころころ主張が変わる、指摘された嘘はスルーする。
これらの事実からしてじぇ〜んじぇん納得できない。
それと?
巻だと言ってるのは50城厨じゃんwwwwwwwww
頭悪すぎwwwwwwwww
50城厨は反論出来ないと2、3日平気であけて論点かえてくるが
相手が即レスしないと勝利宣言するんでつよw
それが50城厨クオリティwwwwwwwww
ぼくは憲法五十条を死守します。
50城厨がみずからをMr.50と言ってるのは仕様ですか?
>>636 それが極右武田厨の基本行動だからwwww
どのスレでもそうさ
そろそろコテハンつけてほしいなあ。
まあその必要もなくすぐにわかるんだが。
642 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/14(水) 19:47:20
でも、単なる田舎大名のスレによく、これだけ集まるよね。
スレの歴史長いからなじゃね?
定
一 遠州御薗郷 七百貫
一 同友長郷 ニ百貫
一 同緑郷 参百貫
一 同新地 五百貫
一 同小野宮口併あかさ 三百貫
自?前被申候之旨聊不相違 今度無双之忠節感入候 仍如此出置候
猶依戦功可宛行重恩者也 仍如件
元亀三年壬申
十二月三日 信玄(花押)
奥山大膳亮殿
定
上長尾 如近年令知行 其外爲御重恩平尾鶴松之内百貫文 兄弟ニ出置候
猶依戦功所所望之地可相渡者也 仍如件
元亀三年
十二月十四日 信玄(花押)
奥山右馬助殿
同左近将監殿
大日本史料にあった奥山氏宛の書状ね
>>609-610 飯田はこちらの勘違いだね、2箇所あって、鶴見などから言う様に見付より南にある方が正しいでしょう
でも永田や敷地は明らかに違うのだけど、例の国立公文書館にあるインターネッツ資料でどんな確認したのかな?
>>609-610 もっともらしい調子で書いてると言う事は、もっともらしく聞こえて明確に反論できないでよろしいか?
ついでに
>>594の
>雖非忠節 近年在分国被達本意候之條 如此相渡候 猶依戦功可宛行重恩者也 仍如件
これ、君はどういう風に読んだのかな?自分には充行でなく、手柄あげれば加増するよと言う風に読めるのだけど
見付の地名の件もよくわからない読み方してるし・・・
自分が挙げた
>>592と
>>594は遠江国風土記傅にある天野文書の引用だよ、以前にそう書いたはずだけど・・・
例の土屋右衛門尉の書状も、大日本史料は遠江国風土記傅からの引用と書かれてるしね
そして元亀三年以前から天野氏は武田方として活動していたのに、
「天野菅左衛門ノ投降ヲ賞シ、遠江見付ノ地ヲ宛行フ」と解釈してる
そして遠江国風土記傅には注釈として原書不明とある、史料検証もしていないのはお分かりだろうか?
>>602の書状はまた確認するんで、それ次第だね
この問題は、残念だが
日本がブラジルに勝つ確率と変らんよな。
つまりほとんど無理ってこった。
647 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/14(水) 22:15:21
史実通りの戦力、能力で戦った場合
ヘボ日本が武田 最強ブラジルが織田
ぐらいの戦力差がある 勿論ガチで戦った時と同じくらいの勝率
奇跡は信長の専売特許だし
もし武田信玄が小説や漫画くらいに強くて
武田騎馬隊が存在してしかも小説や漫画くらいに強くて
家臣達も単なる老害じゃなくて小説や漫画ぐらいに強かったら話は別だが
>>644 >でも永田や敷地は明らかに違うのだけど
敷地は多分こちらの勘違い、かな?
>>600のサイトに >蒲の鶴見・長田二カ村 とあるから
蒲潟の鶴見近くにある永田村で違いないでしょ。
>>645 >これ、君はどういう風に読んだのかな?自分には充行でなく
抜き出した部分から上が、宛行
>手柄あげれば加増するよと言う風に読めるのだけど
抜き出した部分はそうだね。
>例の土屋右衛門尉の書状も、大日本史料は遠江国風土記傅からの引用と書かれてる
>>602の土屋右衛門尉書状は奥山文書から引用と書かれている
>>648 >抜き出した部分から上が、宛行
ヲイヲイヲイヲイちょっっっっと待て!!!如此相渡候だぞ?
どうやったらそんなトンデモ曲解になるんだ?
読み下し文書いてみろ。
いくらなんでもひどすぎるぞ。
651 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/15(木) 10:26:49
武田勝頼が死なせた武将達
秋山信友、秋山光継、朝比奈信直、安倍勝宝、安部宗貞、跡部勝資、安中景繁、甘利信康、
雨宮家次、飯尾助友、依田信守、依田春賢、一条信竜、一条信就、今福昌和、今福丹後守、海野信親、
大熊友秀、大嶋長利、小原忠継、小原 広勝、小原下総守、小幡昌盛、小幡憲重、小山田昌行、小山田信茂、
小山田大学、鎌原之綱、金丸定光、川窪信実、葛山信貞、笠井満秀、小宮山友晴、高坂昌澄、高坂昌元、
五味高重、座光寺貞房、三枝守友、真田信綱、真田昌輝、諏方頼豊、常田春清、武田信堯、
武田信友、武田信綱、武田信勝、武田信実、武田信貞、武田竜宝、武田信豊、長坂光堅、土屋昌恒、土屋昌続、
内藤昌豊、内藤昌秀、名和宗安、馬場信春、馬場少輔、原昌胤、日向是吉、室賀信俊、望月義勝、望月重氏、望月信永、望月信雅、
横田綱松、横田康景、米倉重継、湯本善太夫、湯本九右衛門、祢津是広、名和宗安、仁科盛信、
山県昌景、山県昌満、和田業繁、
どんなに信玄が頑張っても後を継ぐのがこれじゃな。集団レイプされるだけだろ
・長篠の戦い
武田軍戦死武将
甘利信康 安中景繁小幡憲重 川窪詮秋 川窪信実 鎌原之綱 五味高重 高坂昌澄 三枝守友
土屋昌次 土屋直規 武田信実 真田信綱 真田昌輝 禰津是広 常田春清 室賀信俊 原昌胤
馬場信春 望月信雅 望月義勝 望月重氏 望月信永 名和宗安 内藤昌豊 内藤昌秀 山県昌景
横田康景 横田綱松 米倉重継 和田業繁
織田、徳川軍戦死武将
鳥居強右衛門 松平 伊忠
(´,_ゝ`)プ
いってみれば役所の公文書みたいなものだから、宛行の文章なんてたいていは
定型だよな。
そんな言葉の宛行なんてはじめてきいた。
654 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/15(木) 10:53:56
上洛はともかくとして
武田勝頼が上杉景虎を支持する姿勢を鮮明にし
北条・武田・上杉の同盟を強固なものとして
佐竹氏、伊達氏、蘆名氏などの勢力を糾合して
東日本VS西日本の戦いに持ち込めれば
あんなに簡単に武田家が滅びる事は無かったんでしょう?
つ:器量
>>650>>653 定
敷地 150貫
野郡神蔵 250貫
御厨屋五ヶ村 . 603貫
蒲公文前、同飯田・長田村共に.520貫
久津郡 300貫
上平河之内 60貫
気賀之内 100貫
合 2000貫文
此内 200貫 同心給
↑
抜き出した部分から上が、宛行
>これ、君はどういう風に読んだのかな?自分には充行でなく
>手柄あげれば加増するよと言う風に読めるのだけど
抜き出した部分はそうだね。
↓
雖非忠節、近年在分国被達本意候之條
如此相渡候、猶依戦功可宛行重恩者也、仍如件
657 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/15(木) 12:31:09
武田信玄の最盛期の領土でさえも120万石だったんだよね?
もしかしたら北条家より下ではないのか?
もしかしなくても下だよ。
数字を追っていくと、どんどん切なくなっていくのが武田。
数字を追っていくと、小生二分で昇天なのが織田&毛利。
>>656 抜き出したとか意味不明。
前の宛行にかかる文章たぞ。
読み下してみろ。
>>660 別々の紙に書いてあるとか。
・・・うーん、それじゃあ意味がわからなくなる文だな。
>>660 〜合2000貫文、此内200貫同心給
>雖非忠節、近年在分国被達本意候之條、如此相渡候
>猶依戦功可宛行重恩者也、仍如件
これか前の宛行にかかる文章たと? 無理々々
日本語もまともに読めないのか。
そんなヤツが史料を読んだとか言ってるのか。
どう無理なんだろう・・・。
戦功あれば恩重く宛行い、此れ相い渡しそうろう。 としか読めないが、「此れ」とは何なのだろう・・・。
>>662 読み下し文書いて、どう無理か説明しろよ。
へんじがない…
ただのしかばねのようだ
>>664-666 完全にあってる自信は無いけど
〜この如く相渡し候。
なお、戦功に依りて重恩の者へ宛行う(べしや?)。仍如件
どう見ても前の宛行には掛からない、追加の条件
>>667 「この如く」は何にかかるの?
「出置候」と「相渡候」の違いは?
>なお戦功に依りて重恩の者へ宛行うべしや
戦功あれば宛てがうで、かかってるのでは?
>>668 〜合2000貫文、此内200貫同心給、この如く相渡し候。
な お 、戦功に依りて 重 恩 の 者 へ 宛行う(べしや?)。仍如件
仍如件
はただの決まり文句、証文での書留文言。
あえて意味をつけるとすれば、「このような事になりましたのでご承知下さい」かな。
「恐惶(恐々)謹言」、現代で言えば「かしこ」とほぼ同様の使われ方をする、
まあ恐惶謹言に比べると形式張ったニュアンスになるけど。
本意を達すれば渡すとある約束手形みたいなもんか。
ねぇねぇ50城厨はどうしていつも言う事が2転3転するの?wwwwwwwww
>>651 内藤昌豊と内藤昌秀って同一人物じゃなかった?
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/15(木) 17:48:03
50城厨は思い付きの感想とインターンッツ資料ばかりのお手軽手抜き工事
それ以外は何も提示しないのが50城厨コリティだからなw
インターンッツ資料?
コリティ?
武田厨逃亡wwwwwwwwwwwwwww
おれもインターンッツ資料欲しいな
古文・漢文板で聞いてくるっちゃ
>>673-675 バカ乙
>>682の報告で恥晒せ。
土屋右衛門は発給しているっぽいし、信玄はまず間違いなく土地を宛がってる
よって、40城くらいは徳川⇒武田で間違いないハズw
ってことで、いいとも〜?
>>683 ごめん聞いてない
てかどのスレでききゃいいのかわからん
>>683 「っぽいし」「まず間違いなく」
……何?その胡乱さは?
50から40に減少しております
ダッチロールが激しくなってきてるな。
トンデモ曲解した読み下ししてる厨の話は誰も納得してないwwwwwww
どっちがバカなのかはっきりしてるのに本人だけわかってないのが面白い。
マックパワー
なんだか見ていて可哀想に思えてきた。痛すぎるよこの子
とりあえず、浜松付近までは武田が制圧したってことでいいから
次の話題いこうよ
50厨は逃げ出した
しかしまわりこまれた
取りあえず
ちゃんと引用元書いてくれないと確認も出来ないし信頼も出来ない
別にソースがNHKでも歴史群像でもいいから書く時はちゃんと明言して欲しい。
ここまでグダグダなのも珍しい……ほどでもないのか?
696 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/16(金) 22:27:30
織田厨ばーか
武田スレの伝統だよ。ここまで伝説となるヤシは初だがな
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/16(金) 22:47:36
武田信玄を悪く言う奴がいる。しかしこれはどうであろうか?かの織田信長は
田楽桶狭間において4万もの今川軍をわずか2000で破っている。しかしこれはどうであろうか?
軍を率いるとなれば運を天に任せた奇襲戦など愚の骨頂であろう。確かに武田軍
は最終的には滅びた。しかしその生き様は後世の人々にまで勇気や希望を与えてくれ、そして末
長く誰からも愛されている。武田と聞いてその存在を知らない人はいないであろう。巨人の
篠塚コーチも武田ファンだと噂されている。いや、日本人の大半が武田のファンであろう。
でも誰もその事を口にしない。何故か?それが当たり前の事だからである。武田を悪く言う奴がいる。しかしそれは
無駄な事であり意味をなさない事である。
残念な事にキチガイ織田厨はその辺を理解してくれない。悲しい事だ。
にほんじんに愛されている偉大なる武田家。偉大なる武田信玄。武田は日本のみならず世界までもその
大業を讃えている。その名は遠くドイツにまで鳴り響いている。武田は無敗であり最悪引き分けしかない。いや、
敗北もあったかもしれない。そうしておくのが大人と言うものであろう。
たまには横読み乙と言えるような文に巡りあいたい。
700 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/17(土) 00:09:24
>>698 武田軍は長篠で無残に大敗。乙
ついでに700!
701 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/17(土) 00:23:25
織田厨ばーか
>>685-701 無残ですねw
もう、40城程度(謙虚な俺)がほぼ確定なのは分かってるんだろう?
ほぼ確定wwwwwwwww
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/17(土) 02:52:30
無残ですねw
(謙虚な俺)
705 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/17(土) 03:49:21
>>702 その40城から、兵や年貢を徴収した証拠を見せてくれ
今度は「兵や年貢を徴収した証拠を見せろ」
に、論点のすり替えを謀るようだ。
論破された武田厨が勝利宣言し始めてるw
>>707 精神が大破した信長ヲタ乙w
>>705 三河物語に遠江の地侍連中が寝返った、みたいなこと書いてあるよ
あと、移ったばかりの土地で年2度目の年貢徴収はありえないでしょw
そもそも、兵や年貢を徴収した証拠なんて、この時期の物はそうそう残ってないし。
709 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/17(土) 05:27:15
勝利宣言し始めたら深夜でも即レスするんだな。w
今まで逃げ回ってたのが嘘のようだ。wwwww
>>656のみたいなデタラメ言うから説得力なし。wwwww
証拠は自分で想像する!
すばらしいぢゃないかあ!!
途中で別人と入れ替わってるだろ。
50城を主張しておいて、40城は落としているから自分が正しいなんて、
同一人物だったら正気じゃないんだし。
別人の釣りだろう。
逃げ場がなくなると釣り宣言
文章の癖からいって、同じにしかみえん。
違うなら、それはそれでたいした物か同じ傾向のイタイ気質。
いや、別人の釣りのように思える。50厨なら少なくとも証拠を出して捏造をする。
そして博識な人に論破されるのがパターンだしさ
気のせいか、着々と別人認定への布石をされてるやうな気がする。
別人だろうと本人だろうと、
そのレスを書いた人間がアレだということに変わりはないのだから、
些細な問題に過ぎないよ。
どうであれ、阿呆は阿呆だしねえ
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/17(土) 14:32:04
>>708 野田城の菅沼定盈は、降伏、城明け渡したあと、別の城に移っている。
武田の支配下に入ったのなら、武田軍に従軍しないとおかしいだろ。
このあとも家康に従ってるし。
まして攻められもしてないほかの40城のことは言うまでもない。
50が40、40が30、30が20に・・・・・
むしろ城なんて一個もなかったんだよ!
今度は「兵や年貢を徴収した証拠を見せろ」
という呪文で誤魔化し通す気なのかな?
>>709-717 断言しておきながら、
>>404の1.と2.の主張は完全に破綻した
松井某への宛がいについても間違った断定を連発、捏造はどっちだってのw
しかも、書き出した書状を正確に読めてないし。
>>718 野田城までも一気呵成に武田勢が席巻した、とは流石に言ってないけど?
浜松近くの土地でさえ安堵出しているのに
丘陵地帯が手付かずとは、不思議なこと言う御仁だ。
正確に読めてないのは五十城じゃないの
結局五十城の手による書き下し分はどれなのさ
723 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/17(土) 19:28:09
>>721 読めてないのはどっちだよ。
>>656 定
敷地 150貫
野郡神蔵 250貫
御厨屋五ヶ村 . 603貫
蒲公文前、同飯田・長田村共に.520貫
久津郡 300貫
上平河之内 60貫
気賀之内 100貫
合 2000貫文
此内 200貫 同心給
↑
抜き出した部分から上が、宛行
>これ、君はどういう風に読んだのかな?自分には充行でなく
>手柄あげれば加増するよと言う風に読めるのだけど
抜き出した部分はそうだね。
↓
雖非忠節、近年在分国被達本意候之條 如此相渡候、猶依戦功可宛行重恩者也、仍如件
↓
>>659 読めてなさ杉、何が追加の条件だよ。約束手形じゃねーかよ。
>>723 結局五十城の手による書き下し分はどれなのさ
完全にあってる自信ないのに人の解釈を
>松井某への宛がいについても間違った断定を連発、捏造はどっちだってのw
>しかも、書き出した書状を正確に読めてないし。
とまで言い切れる自信はどこからきてるのですか?
ついでに言うと自信ないのに
>どうみても
えらい自信満々ですよ?
>猶、戦功に依りて重恩の者に宛行うべしや
ついでにいうと、戦功から(判断して)、(武田家に)重恩を示したものに宛行うものですよ(宛行うべきものですよ)。
と訳したけどこれだと合戦で活躍すれば上記の知行あげるから頑張ってねって意味だろ。
>405-406 >419 >426-427 >436
>443 >492-498 >502-510
>556-559 >574-576 >592-603
>644-648 >656
>721
>404から関係あるの引っ張ってきた
結局お前が詭弁だ詭弁だと喚き立ててるだけで、詭弁とする根拠はと
>>443で聞かれて以降、これに関するレスは一切ない
あるならレス番号明記してくれ
完全に破綻してるのはお前の証明能力のほう
730 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/18(日) 00:07:07
信玄厨ばーか
雖非忠節、近年在分国被達本意候之條 如此相渡候、猶依戦功可宛行重恩者也、仍如件
忠節非ずと雖ども 近年分国に在り本意を達せ被る條 此如し相渡し候 猶ほ戦功に依りて重恩は宛行なるがごとし
>>721の言うように読めない。
本当に謎だ。
732 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/18(日) 04:04:25
空手形を乱発していたってことでしょう。
支配下に組み入れたというよりも、
所領安堵するから、こっちに付いてくださいと、お願いしている状態(www
とりあえず信玄と信長の能力の差ってどれくらい?
兵力は信長が若干有利、金はかなり信長有利だが・・
能力で圧倒的な差がついた場合、北条が全軍を挙げて助けにくる あるいは謙信がいきなり味方になってくれる(=つまりありえないこと)
が起きないと武田勝利は無理だぞ
織田の敵は縦横無尽、武田の敵は逼塞状態。
こんな前提の論はさすがに飽きたわなあ
書き下しまで間違えてんのかよ
勝利宣言し始めたら勝ち誇ってレスしまくりだったのに
反論やデタラメ晒されると逃げ出す50城厨wwwwww
737 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/18(日) 17:16:01
横山光輝の武田信玄を7巻まで読み進んだが
年をとるに連れて、軍略が円熟して優秀な大名になっていったんだな。
若気のいたりで首切った志賀城三千人首晒が
後々まで重荷となって足を引っ張った観がある。
あれが無きゃ、佐久を始めとする信濃衆の裏切りや反乱は大分、未然に防げたし
調略や敵の降伏も、より容易に進んだろうし、敵が武田と戦う時だけ凄まじい戦意を見せる事も無かった。
奥信濃攻略にも拘り過ぎだろう。北信濃・奥信濃の領地と引き換えに上杉謙信と提携して
謙信には加賀・越中攻略を進め、自分自身は尾張・京を目指して西進すべきだっただろう。
話をそらせようと画策中
話が終わっても、「馬鹿な武田厨が居た」って結論で終わって、
武田厨が勝ったなんて誰も思わないから良いだろう。
続けたって、武田厨が敗北宣言するわけじゃないし。
そもそも、明らかに「かまって君」なんだから、
話が続くのは嬉しがらせるだけ。
話を続けようとレスするのが武田厨の自演でも不思議じゃないくらい。
50城の結論は「武田厨の負け」で終わって、後は放置で良いだろう。
武田厨が何を言おうが本気にする奴はもはや居ない。
合2000貫文、此内200貫同心給
雖非忠節、近年在分国被達本意候之條、如此相渡候
猶依戦功可宛行重恩者也、仍如件
>>723>>728>>731-732>>735 恥の上塗りは程ほどに
>忠節非ずと雖ども 近年分国に在り本意を達せ被る條 此如し相渡し候
>猶ほ戦功に依りて重恩は宛行なるがごとし
いくらなんでも、これは酷いよw
>>740 >〜この如く相渡し候。
>なお、戦功に依りて重恩の者へ宛行う(べしや?)。仍如件
・「者」は「は」
・「如此」は「かくのごとし」
・「猶」は「なお・・・ごとし」
基本中の基本。
ベシヤ?重恩の者へ?この如く?恥の上塗りは程ほどに、いくらなんでも、これは酷いよw
まだ恥さらしてるの?
みたいね。
流石に741は無いと、普通気付くものだけど・・・
そろそろ釣りでしたの最後っ屁の予感
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/19(月) 18:07:08
スレチですみませんが武田家臣に詳しい方がたくさんいるようですので
教えてください。かごめかごめ〜という童謡の意味解釈で
こういう話もあるらしいのですが、この将って誰のことだと思いますか?
武田が伊豆を攻めた頃のことらしくて敵味方にわかれた悲恋話が
絡んでいるらしいということまではわかったのですが。
過去女 過去女 過去(の女性)中野とり(女性名)は 伊豆、伊豆で会う
夜明けの(湖)畔に都留(甲斐の男)と過(去)女がづべった(性行為をした)
(その男は)打(つ)城(攻撃する城)の将面《しょうめん・居並ぶ武将》
(の中の)だあれ?
伊豆だと対北條戦となるが信玄と勝頼のどちらの時かわかる?
>>745 イ、イサキは?イサキは、と、取れたの??
748 :
745:2006/06/19(月) 18:42:43
お返事ありがとうございます。
>>746さん
戦国時代の時の話ということしかわからないです。ごめんなさい。
>>747 イサキってあのお魚のイサキのことですか?
かごめ歌と何か関係あるのでしょうか?
749 :
745:2006/06/19(月) 18:43:50
>>747さん、敬称を付け忘れていまいました。ごめんなさい。
敵方の女とまぐわったり敵方の嫡男と恋仲になったり
武田は家臣や姫にいったいどういう教育をしてたんじゃい
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/19(月) 19:21:32
中野とりは北條が仕掛けた女忍びだ。間違いない。
752 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/19(月) 23:04:40
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/19(月) 23:13:21
城主の娘レベルでさえ、女の名前なんて伝わってねえよ、夏。
>>746 そこの湖畔というのは都留だから五湖なのだろうが、伊豆で出合って
五湖周辺でデートができたということは勝頼の頃じゃね?
伊豆にも湖ぐらいあるずら。【一碧湖】という立派な天然湖がそうずら。
756 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/20(火) 01:50:52
よしわかった!
その将って実は信玄のことで武田埋蔵金は天城山中にあるってことだよ。
武田滅亡後に北條に仕官した遺臣達が埋めたとでもw
758 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/20(火) 02:28:54
>>745-
>>757 それがいわゆる、話題そらし作戦でつか?(笑
もう煽りしか出来ないようだ(笑
>>758 そりゃ書き下し文もマトモにかけないのが暴露されちゃったから
761 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/20(火) 09:17:28
2000人だろ
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/20(火) 10:40:35
今ならCGだな。
中国なら・・・中国なら、や(ry
50城厨は無知晒してるのに気付かないところが凄い。
よくもまぁここまで言い切れるな。
766 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/20(火) 21:33:58
2000人以上いるだろ。
いくらかかったんだろうw
>>766 いや公式パンフに2000人と書いてある。50億近くかかったそうだね。
5秒だけ写る春日山に3億もかけてるし中々愉快な作品だ
五十城はあきらめたのか
可哀そうな768・・・
50城厨は無知晒されたんで煽り専門になってる
>>768
>>741って、自分が無知晒したことに本気で気付いてないの?
と、肝心な漢文訓読の説明も出来ず、読み下し文も書けず、ひたすら煽って逃げるだけの
>>771であった
>>772 >達せ被る條 此如し相渡し候 猶ほ戦功に依りて重恩は宛行なるがごとし
あちこち日本語としてチグハグ(おかしい)書き下し文とか意味とか以前の問題
こんなところかな?
反論できないため771のふりして煽る
>>773であったw
777 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2006/06/21(水) 18:52:08
777は南部厨の私が頂きます
778 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/21(水) 18:57:35
武田厨の指摘は
>いくらなんでも、これは酷いよw
>あちこち日本語としてチグハグ(おかしい)書き下し文とか意味とか以前の問題
と、まぁ知識がなくてもいえることばかりだな
> 猶依戦功可宛行重恩者也、仍如件
なほ戦功に依りて重恩を宛行うべきものなり、すなわちかくの如し。
でいいのかな?
この場合の「者」は助詞の「は」と読まないんじゃない?
781 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/21(水) 19:49:04
>〜この如く相渡し候。
>なお、戦功に依りて重恩の者へ宛行う(べしや?)。仍如件
あちこち日本語としてチグハグ(おかしい)
書き下し文とか意味とか以前の問題
こんなところかな?
(・∀・)ボクデモデキタヨ!
782 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/21(水) 19:52:47
雖非忠節、近年在分国被達本意候之條 如此相渡候、猶依戦功可宛行重恩者也、仍如件
783 :
781:2006/06/21(水) 19:57:32
あ、最後は「すなわち件の如し」の方が正しいのかな?
仍如件は読まないから。
なホ戦功ニ依リテ重恩ニは宛行ウごとし
786 :
781:2006/06/21(水) 20:22:08
>>784 読まないっていうか、「以上をもって〜状とする」という決まり文句みたいだね。
形式的な書類であることを表す文言なのかな?
787 :
781:2006/06/21(水) 20:27:08
読み下すとこうなのかな?
「忠節にあらざるといえども、近年分国に在りて本意の達せられし候の條、かくのごとくあい渡し候、
なほ戦功に依りて重恩を宛行うべきものなり、すなわち件の如し」
候文なんてあまり触れたことないから自信ないけど。
要約するとこう?
「忠節があったとは言えないが、近年分国となって従うようになったので、上に上げた土地を与えよう、
なお、戦功によってはもっと与えるよ、以上」
>>787 上長尾 如近年令知行 其外爲御重恩平尾鶴松之内百貫文 兄弟ニ出置候 猶依戦功所所望之地可相渡者也 仍如件
訳してみ。
「仍如件」は書留の文言。
789 :
781:2006/06/21(水) 20:36:51
>>788 あまり素人をいじめないでおくれ。
オレは五十城じゃないんだからw
ま、ちょっとやってみるけど間違っててもあんまりバカにしないでくれよ。
過猶不及
有名な諺、「猶」をどう読むか理解できるよ。
791 :
781:2006/06/21(水) 20:47:41
>>788 やってみた。
「上長尾 近年知行令せしめるが如し その外 平尾・鶴之内百貫文を御重恩と為す 兄弟に出し置き候 猶戦功に依りて所望之地とする所、相渡すべくなり、すなわち件の如し」
要約。
「上長尾を近頃知行として治めさせ(与え?)、その外に平尾・鶴之内百貫文を重ねて与える?[兄弟に出し置き候←うまく訳せん] なお戦功によって所望するところを与えよう、以上」
これでいいのかな?添削してみてくれ。
後段の所望する地というのが前段の上長尾と平尾・鶴之内百貫文なの?
792 :
781:2006/06/21(水) 20:51:56
あ、781じゃなくてオレは780だったわ。
781さん、ゴメン。
「兄弟ニ出置候」とは下置候と同意で、平尾鶴之内を兄弟に与えるという意味。
「猶依戦功所所望之地可相渡者也」は戦功があれば望む土地を進呈しよう(語弊あるかな?)という意味。
「如此相渡候」の相渡を与えると要約しては微妙に間違いなんだよね。
これは「近年在分国被達本意候之條 如此相渡候」に言えるのだが、
近年分国ニ在リテ本意達セらル候の條 かくノごとシ相渡候
で、分国(ここでは遠江の事)で本意(家康の排除?)が成し遂げられれば、このように進呈しようという意味になる。
794 :
780:2006/06/21(水) 21:03:35
>>790 A猶Bの形でAの土地を与える条件としてBがあるよって理解でいいのかな?
795 :
780:2006/06/21(水) 21:13:35
>>793 「遠江を斬り取れれば、以上の土地をやるよ。ただしお前らが戦功を上げればね」という二つの条件をクリアした上でようやく果たされる約束手形という理解でOK?
>>794 そうでなくて、猶は「なオ・・・ゴトシ」で、Aに引き続いてBもあるよという意味合い
797 :
780:2006/06/21(水) 21:18:16
>>796 物分りが悪くてスマンね。
795でいいのかな?
>>795 「遠江を斬り取れれば、以上の土地をやるよ。お前らが戦功を上げればそれ以外にも上げるよ」
と言う意味。
たんなる約束手形です、はい。
799 :
780:2006/06/21(水) 21:23:39
>>798 なるほど。理解できました。
さて五十城の人は今後どうでるのかなあ?
うーんためになる
50城厨は、おかしい、酷い、恥晒しとしか言わない悪寒
802 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/22(木) 00:02:27
やっと、横山武田信玄読み終わったよ。
しかし、ここは50城厨と叩き以外の人は立ち入り禁止みたいだから
発言を我慢するか
本当に馬鹿みたいな板だね。
50城厨も50城厨叩きも双方とも基地害だね。
その手で来たかw
何か信玄の上洛関連で言いたいことがあるなら、まずそれを言えばいいのにw
第三者を装って共倒れ的発言するのは厨の常套手段です。
805 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/22(木) 00:49:34
呆れた。ネラーの知的レベルは本当に低い。
君等と実りのある歴史談義が出来るとは思わないから二度と来ないよ。
野球板にでも行きます。
さようなら。哀れな厨房ども
横山武田信玄を読んだのを嬉々として報告してくる
>>805の知的レベルにとても合わせられません
1000近いスレで第三者を装い煽って有耶無耶にしてしまうのは厨の常套手段です。
放置推奨。
>>805 おいおい、
野球板も2chで、そこの住人もねらーだよw
まああっちの住民に迷惑はかけるなよ。
じゃ、永久にさよなら。
809 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/22(木) 02:14:41
とりあえず仕切り直しでわざわざこのスレを選んでくれた
>>745の話題についてもまじめに考証してあげないか?
ここは武田スレじゃないんで
信玄のみのスレってことか…
>>811 ちがうよ。
上洛に関する考察をするスレだ。
810の言うとおり。
813 :
501:2006/06/22(木) 12:10:31
かまって君というわけではないのだが、誰も私の
質問に答えてくれる気配がない件について。
>>793 へ〜
ってことは
>>644に在る、御薗郷、友長郷、緑郷、新地、小野宮口、あかさ
と、 定
一 遠州下堀・天王 200貫
一 同州市野・小池 300貫
一 同白洲 260貫
一 同橋爪 110貫
雖非忠節、従法性院殿被相渡候任判形之旨、為本領之替、右如此出置候
猶依戦功可宛行重恩者也、仍如件
天正2年戌甲 9月10日 勝頼
松井山城守殿
にある各所は武田領と見ていいのかな。
つーワケだ>アンチ50城
構わないよ、50城厨君。
てかアンチ?ひとり破綻した言動を続けてるのにアンチもなかろうに(笑)
それより訓読は理解出来たかな?
ひとりで無知晒した読み下ししてたけど。
>忠節非ずと雖ども 近年分国に在り本意を達せ被る條 此如し相渡し候
>猶ほ戦功に依りて重恩は宛行なるがごとし
確かにこれは酷かったな。
1人vs不特定多数でアンチとは・・・これまた痛い発言してるな
よし、
>>816よ
>>741のどのあたりが無知か皆に教えてやれ
そんで改めて書き下し文と意味書いて741の恥を皆に教えてあげるんだ
皆は友達!と、思ってるワケね。
煽り専門信長厨兼ソースソース織田厨は、幸せな人だw
>>818 >達せ被る條 此如し相渡し候 猶ほ戦功に依りて重恩は宛行なるがごとし
あちこち日本語としておかしい、つーかバラバラ事件w
書き下し文とか意味とか以前の問題、こんなところかな?
>>815 そうなの?
それらの土地は現在自分の所領じゃないからこその約束手形なんじゃないの?
法性院殿(信玄)より相渡されし判形の旨に任せて、本領の替わりとなし、右のごとく出し置き候
→信玄の書状の通りの本領の代わりにこれらの地を与えよう
?(従)前より申されし候の旨いささかも相違わず、この度の無双の忠節感じ入り候、すなわち如くの此く出し置き候
→前からの約束をたがえず、今度の無双の忠節の働きに感動した!からこれらの土地を与えよう
これらの場合だと新たに得た土地を宛行ったってことになるのかな?
50城厨自身が書き下し出来ないwwwww
デジャブ
741自体はおかしくない。
おかしいのは741の凡例を使って
> 達せ被る條 此如し相渡し候 猶ほ戦功に依りて重恩は宛行なるがごとし
という風に読み下しちゃう人。
>>824 被「る」、此如「し」、重恩「は」、宛行「なるがごとし」
これだと意味が取れない。
だからそれがどうおかしいの?
>>827 >被「る」、此如「し」、重恩「は」、宛行「なるがごとし」
被(ら)る、此如(ことごと)し、重恩(者=は、宛行(也=なる)猶(なほ・・・がごとし)
826 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2006/06/22(木) 14:43:02
741自体はおかしくない。
おかしいのは741の凡例を使って
> 達せ被る條 此如し相渡し候 猶ほ戦功に依りて重恩は宛行なるがごとし
という風に読み下しちゃう人。
漢文訓読の再読文字や決まりを知らずに読んで、凡例?
はんれい 0 【凡例】
書物の初めに、その編集目的・方針・使い方などを箇条書きに記した部分。例言。
書き下し文とか意味とか以前の日本語の問題。
>>831 他にはないの?どうおかしいか説明してよ〜
>>832 ×此如(ことごと)し :このごとく
×重恩は宛行なるがごとし :重恩宛行うべきものなり 仍如件
>>832 > ・「者」は「は」
これ自体は間違いではないが、この場合主格を表す助詞とはなってない。
この点に突っ込んでるつもり?
>〜この如く相渡し候。
>なお、戦功に依りて重恩の者へ宛行う(べしや?)。仍如件
↓
>>833 >×此如(ことごと)し :このごとく
>×重恩は宛行なるがごとし :重恩宛行うべきものなり 仍如件
如是・如此・如斯・如之・若是・若此・如是
かくノごとシ、決まった読みをする規則文字
「猶」は再読文字で「なホ・・・ゴトシ」
「べき」?「猶」はどこへ?「此如」?「このごとく」?
どこの漢和辞典ですか?
「なお戦功に依りて重恩を宛行うがごとくべきものなり」?
50城厨はまーた逃げたよ、嫌になるな。
827 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2006/06/22(木) 14:49:42
>>824 被「る」、此如「し」、重恩「は」、宛行「なるがごとし」
これだと意味が取れない。
833 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2006/06/22(木) 15:55:48
>>832 ×此如(ことごと)し :このごとく
×重恩は宛行なるがごとし :重恩宛行うべきものなり 仍如件
837 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2006/06/22(木) 16:12:38
>>835 可(べ)キ者也 仍如件
↑
どこの漢文・漢和辞典使用してるか、非常に気になる。
>>843 猶、戦功に依りて重恩を宛行う可キ者也 仍如件
上の読み方で合ってますかぁ? と国語の先生に聞いてから出直して来い
>>844 はぁ?間違い散々指摘してるのはこっちなんだが。
50城厨は読む読むと言う癖に何にも漢文訓読説明さないな。
猶の「なお〜ごとし」の「ごとし」は仍如件の如だろ?
>>846 違うんじゃないかな?
「未」で「いまだ〜ず」みたいに「猶」だけで「なお〜のごとし」になるんじゃないのかなあ?
よくわからんけど。
猶は再読文字、漢文読み下す時の常識。
>>846 過猶不及
超有名な格言だから読み下してみたら?
今だにメール欄に書いて釣ろうとするニワカいるんだな。
>猶、戦功に依りて重恩を宛行う可キ者也
で、あってるだろう
武田最強w
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/22(木) 19:36:51
間違い指摘されまくってるのにあってるの一点張り
武田最強w
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 00:55:33
>>猶依戦功可宛行重恩者也
「なお〜のごとし」の一つ覚えでがんがってる人がいるけど、
「猶」の字義はほかにもあるのだから、全体の文脈から判断しないと駄目だ。
「まるで〜のようだ」では意味が通じないだろう。
前の文章に付け加えて、「戦功によっては・・・」と言ってるから、
明らかに、「さらに」「また」「なお」という意味の接続詞。
なお、戦功によっては重恩を宛て行うことを約束する(意訳)
>>856 >「まるで〜のようだ」では意味が通じないだろう。
>前の文章に付け加えて、「戦功によっては・・・」と言ってるから、
>明らかに、「さらに」「また」「なお」という意味の接続詞。
アホか?「なお・・・ごとし」で副詞的且つ動詞、助動詞意味だっての。
が通じないのはお前の解釈だっての、恥を知れ。
「ちょうど〜と同じ」と言う意味もあるんだよ。基本中の基本だ。
この「猶」は明らかに「雖非忠節、近年在分国被達本意候之條 如此相渡候」に掛かっているんだがな。
「雖非忠節、近年在分国被達本意候之條 如此相渡候」と同じように戦功に依りて・・・と言う事だ。
漢文による接続詞とは「而」の順接・逆接、それ以外には「即」「則」「乃」「迺」「就」「便」「輒」「載」だ。
「猶」に接続詞としての定義があるなら、ドウゾ実例示して訓読して文法的に説明せよ。
なんですぐわかる知ったかするのか不思議でやれない。
>>857 過猶不及、は漢語だけど
猶依戦功可宛行重恩者也 仍如件、は一応日本語
( ゚д゚)ポカーン
「ちょうど〜と同じ」では、文章が意味わかめだにゃあ
漢文体を日本語wwwwwwwww
>>861 まあ候文だし、完全に漢文ってわけでもないはずだけどね。
864 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 14:55:11
なになに、候文で日本語(笑)だから「猶」は接続詞だと?
>>864 候文だと文法が変わるようらしい。
聞いた事も見た事も無いが、解説してくれるのだろう。
候文でも猶が接続詞と扱うのは見ないがね〜。
>>864-65 煽り信長厨兼勘違い断言織田厨乙
また、インターネッツからの抜き出し解説かな?意味も分からずに
結局、いつも通り参考部分が正解でも適用する場を間違えたアホ解釈ってわけだ
>>867 出版元書いた漢和辞典で猶を接続詞とする解説だせばいいんじゃね?
煽りしか出来ない50城厨君wwwwwwwwwwwwwwwwww
>>868 最近、キチガイ役ばかりで史料催促厨役として出て来ないね
まあ素が出てるだけかもし連歌。
>候文で日本語(笑)だから「猶」は接続詞だと?
>候文でも猶が接続詞と扱うのは見ないがね〜。
ヒドイねw
今、新明解の古語辞典引っ張り出してみた。
なほ【猶・尚】(副詞)
1.依然として
2.やはり、なんといっても
3.それでも〜しろ
4.もっと、さらに
5.また、ふたたび
6.それでも、まだ
7.(「ごとし」と呼応して)ちょうど〜のようだ
例の文の場合、当てはまるの7だけなの?
漢文と候文をごっちゃにしてるのがアレでしょ
接続詞はどこですか?
明らかに、「さらに」「また」「なお」という意味の接続詞。
明らかに、「さらに」「また」「なお」という意味の接続詞。
明らかに、「さらに」「また」「なお」という意味の接続詞。
明らかに、「さらに」「また」「なお」という意味の接続詞。
明らかに、「さらに」「また」「なお」という意味の接続詞。
明らかに、「さらに」「また」「なお」という意味の接続詞。
明らかに、「さらに」「また」「なお」という意味の接続詞。
明らかに、「さらに」「また」「なお」という意味の接続詞。
明らかに、「さらに」「また」「なお」という意味の接続詞。
明らかに、「さらに」「また」「なお」という意味の接続詞。
明らかに、「さらに」「また」「なお」という意味の接続詞。
脂肪 m9(^Д^)プギャー!!
漢文は変体漢文ですが何か?
>>874 ×漢文は変体漢文ですが何か?
○候文は変体漢文ですが何か?
>>869 接続詞マダー?(・∀・ )っ/凵⌒☆チンチン
>>875 読み下した漢文とナンチャッテ漢文は別モノ
・雖非忠節、近年在分国被達本意候之條、如此相渡候=A
・猶依戦功可宛行重恩者也=B
AはちょうどBのようである。
=
(本意を達すれば、このように土地を渡す)のは、ちょうど、(戦功によって重恩を宛行う)ようなものだ。
ってなっちゃうけどこれでいいの?
878のように訳すと書状の性格と合わなくなるように思えるけど、どうなの?
>>678 読み下しから要訳の意味わかってんのかいな?
「なお・・・ごとし」と読み下す、意訳は〜と同じように、ちょうど〜のような。
読み下しと違い要訳なんで、絶対同じ言葉使う必要ないのだよ。
その場合
(本意を達すれば、このように土地を渡す)のと同じように(戦功によって重恩を宛行う)となる。
文意に合わせて読み方替えるなんて当然で、読み下しと混同するなんて愚の骨頂。
候文は変体漢文ですが何か?
↓
読み下した漢文とナンチャッテ漢文は別モノ
?
884 :
晒しage:2006/06/23(金) 16:51:46
50城厨マダー?(・∀・ )っ/凵⌒☆チンチン
>>856 >前の文章に付け加えて、「戦功によっては・・・」と言ってるから、
>明らかに、「さらに」「また」「なお」という意味の接続詞。
明らかに、「さらに」「また」「なお」という意味の接続詞。
舞ってません
>>880 そうなのか?よくわからんな。
一応、三省堂新漢和中辞典だと
「猶」
1.なお〜のごとし、さながら、ちょうど同じである
2.やはり、まだ、それでもなお
3.その上に、さらに
4.すら、さえ、だに
5.似る
とある。
意味的には3だと思うんだが、「猶」の位置的に1と取るしかないの?
「猶」の位置的に「なお〜のごとし」と読み下すしかないの?
>> 886
読み下しするのと、それを元に現代口語訳するのは違うって事
>>887 「猶」の位置的に必ずなお〜ごとしと読み下さなければならないの?
例外はないの?
というか件の書状は定型文で一定の決まりの元に書かれてるわけだから、
所領安堵状(宛行状?正確な名称はわからんけど)はすべて後段は「なお〜ごとし」と読み下すという決まりになってるでFAなの?
>>887 ウソを100回断言してもウソはウソだからw
読み下ししたら、ふつー意味とれる
890 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/23(金) 17:16:26
そうなっとるからしょうがない。
接続詞と嘘をついてもない。
ちょっと話を遮る。
次スレは三戦で立てる?それとも戦国で立てる?
なんかごちゃごちゃしてきたな。
正確な読み下しはともかく、文意としては798の言うとおり、
「遠江を斬り取れれば、これらの土地を宛行うよ。その上、お前らの戦功によってはそれ以外の土地も宛行うよ(一部改変させてもらった)」
でいいのかな?
戦国板でいいだろ、単発IDや厨はアボンしやすいから。
【自作自演を告白する武田厨】
566 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2006/06/11(日) 23:35:34
戦国板なんて嫌だよ
ID出るから自演できない
武田厨を抑制するためにも戦国板で。
で593の書状の文意として892に異論はあるの?ないの?
どっち?
異論あるとすれば50城厨だろ。
落とした根拠にしてるのだから。
>>900 644の両例はどう?
こちらは593のような未来の約束手形っぽくはないみたいだけど?
>>900 「自?前被申候之旨聊不相違」の?が気になるが、以前に言ってた通り与えると読めるね。
この時、確か奥山氏は信玄に寝返ってるから、
>>644の前のは安堵状で、後は宛行状に読める。
>(本意を達すれば、このように土地を渡す)のと同じように(戦功によって重恩を宛行う)となる
「なお・・・のごとし」の構文だとすると、
(本意を達すれば、このように土地を渡す)のは、ちょうど、(戦功によって重恩を宛行う)ようなものだ。
と、なってしまって、
何を言いたい文章かわからなくなる
上杉謙信最強
もう50城厨は相手にならんな、ステロタイプになってるからな。
ステロタイプ(笑)
なんか今回は、漢文の講義で終りそうだw
43スレまとめ
>1-25テンプレ
>39安堵状と宛がい状>50の城
>54-71上洛できるか 武田の老臣は老害であったか
>80-114天野氏「遠江国風土記」
>97-138織田武田家臣能力比較
>148-210天野氏 >50の城 大日本史料等についての説明 遠江北中部の推測 捏造か否か
>151活字化 >154見付端城
>215-217発言まとめ安価
>233-247天野氏宛の充行状 >233まとめ
>248-279武田の重税織田北条との比較
>255>258武田の税 >266-273北条の税 >279北国国掟
>274-310信玄の金山支配
>304-352堺の支配 義昭追放時護衛したか否か >327義昭追放時の処置ソース
>355-358鉄砲硝石の入手
>359-377遠江国風土記傅天野文書の写し >359>372遠江国風土記伝
>381-403数年速ければ三河攻めの可否
>400-443遠江国風土記伝安堵状と宛がい状続き >400遠江国風土記伝内容 >404疑問点
>420-454武田直轄地
>462-477駿河侵攻と外交
>494-510土屋昌次の奏者としての働き矛盾点充行状の内容の不自然さ
>507不自然な点まとめ >510平尾・鶴松之内百貫文説明
>525-554武田上杉の対朝廷幕府外交・関東管領・信長の地方大名との外交
>555-632土屋昌次天野氏敷地・長田・飯田村の位置
>561天野氏系図リンク >592-595書き出し >600松井氏リンク
>602書き出し土屋右衛門尉書状は奥山文書から引用 >607天保国絵図リンク
>644-676意味解釈 >644大日本史料にあった奥山氏宛の書状 >656書き出し >669-671現代訳
>705-743書き下し意味解釈 漢文古文
>729発言まとめ安価
>745-755かごめかごめ〜という童謡の意味解釈
>774-903書き下し意味解釈 漢文古文
>795本文要約 >870なほ【猶・尚】(副詞)
こんな感じでいいのかな
なんか今回は凄いまとめにくかった
他どこか安価残して欲しいレスとかありますか?
武田厨敗走ですっかり静かになったな。
911 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 20:13:05
反論できん
913 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 20:17:29
武田の最盛期
上杉の最盛期
どっちが上?
914 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 20:22:35
上杉
915 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 20:32:39
50城言い出した人のレスの内容が余りにも胡乱だったからね。
上杉謙信最強
上杉謙信最強
上杉謙信最強
上杉謙信最強
上杉謙信最強
上杉謙信最強
923 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 20:58:48
上杉謙信最強
上杉謙信最強
925 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 20:59:33
上杉謙信最強
上杉謙信最強
上杉謙信最強
928 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 21:00:54
上杉謙信最強
上杉謙信最強
上杉謙信最強
931 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 21:02:30
上杉謙信最強
上杉謙信最強
上杉謙信最強
上杉謙信最強
935 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 21:03:46
上杉謙信最強
上杉謙信最強
上杉謙信最強
938 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/06/24(土) 21:04:53
上杉謙信最強
上杉スレが戦国板に移動したせいで、行き場をなくした馬鹿が暴れてるな。
そうなのかな?
愉快犯やアンチ上杉の可能性もありそうだが。
一部の武田厨の仕業だろ
まぁ上洛スレも戦国板に移動すれば良いだろう。
上杉ファンの仕業だろ。
本当に上杉派は酷い・・・。
最近は無関係な戦国スレまで荒らし始めた・・・。
さすがにあのような連投を上杉ファンと思うアホはいないと思うが
正気か?
ところで次スレはどうするの?
また上杉ファンが荒らしていたのか
正直な話、戦国板に移動するのが得策と思える。荒らしや電波も減るだろうしさ
戦国板に移動した途端、上杉スレの荒らしがいなくなったのは笑えた。
なるほど50城厨が荒らしだったのか
>>948 まあ、今度は他のスレを荒らし始めたわけだが。
日本史の上杉女性説スレが酷い事になってる。
負けを認めない上杉厨の発狂現象だろ。
ここまで上杉厨の自演
戦国板に移動させたい奴が上杉厨を装ってるか
そうだろうな。
だから移動しなくていいよ。
>>953 正確には上杉厨そのものだよ。
装いでもなんでもない。
上杉厨が戦国板に移動させようと必死になっているのか(笑)
いい加減死ねよ、上杉厨。
各地の戦国スレを無差別に荒らしているのも上杉厨だろうな。
何でそんな必死なの?
別にいいじゃん戦国板で
ID表示されるなら荒らしも無視しやすいし
>>959 そう思う。
戦国板に移動して何か困るのかいな?困るのは荒らしや自演してるヤシだけじゃね?
漏れ的には50城みたいなのがアボンしやすくて助かる。
ここまでのぷちまとめ
○三戦板に残るべきだよ派
上杉厨が戦国板への移転を望んでいるから
○戦国板に移るべきだよ派
IDであぼんしやすい
自演が難しくなる
戦国板でいいだろ
ID板に行ったら50厨の正体が暴かれそうな悪寒w