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直江は自分が総大将の戦ではいつも負けてた
(最上攻め失敗、白石城落城、織田の柴田に一方的に攻められる、など)
(最上攻めでは前田、水原、上泉がいなかれば100%死んでいた)
でかいこと言うくせにピンチになるといきなり死ぬと言い出したり、降伏したり、かなりの屁タレ
晩年の景勝は清野長範を頼り、直江は見限られさびしい晩年ですた
直江死後には、その清野長範が米沢藩の中枢から直江派残党や与板衆を一掃しました
正直、直江は軍師という評判が一人歩きして過大評価されてます
三国志で言うと孔明並の過大評価です
ちなみに直江家は跡継ぎがおらず兼続で断絶してます
手取川の合戦だが・・・本当に手取川で合戦が起きたか疑わしかったりする。
なぜなら手取川合戦を記載した良質な史料が、「歴代古案」に収録されている
謙信の書状ただ1つだけなのだ。
完璧に正確な記事を記載している「信長公記」(秀吉の北陸戦線離脱と
信長の激怒に関しては記述有り)をはじめ、当時の北陸の書状や記事に
全くと言っていいほど手取川合戦の記述がないのである。
(後世(主に江戸時代)に書かれた講談的な戦記物には記載満載だがw)
と言うことは恐らく、手取川で謙信軍と柴田勝家軍との間に大規模な合戦など
無かったと思われる。
もし手取川で小規模ながら戦闘が有ったとしても・・・考えられるのは
勝家・謙信両軍共に物見部隊(偵察)などが手取川で小競り合いを
繰り返していたかもしれない…という推測が妥当と言えるだろう。
手取川合戦は我々が想像する程、大規模な合戦ではなく実情は
手取川合戦など無かったか・・・有ったとしても小部隊による局地的な
戦闘であると見たほうがいい。
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上杉謙信は臼井城の原胤貞を攻めた際、数千の死者を出して逃げ帰っている。
これを機に由良成繁が上杉謙信を見限って離反。
長野業盛が武田信玄に攻撃により滅亡。
上杉家重臣の北条高広も上杉家から離反。
謙信の関東経略は失敗し北条家と同盟という救いの手に助けられる。
謙信の死後、養子の景勝(謙信の姉の子)と景虎(北条氏康の子)が後継者の座を巡って内紛を起こし、越後を二分した争いは天正7年(1579年)の御館の乱で景虎が討死する事により景勝が勝利した。
しかしこの内乱によって、上杉家家臣の新発田重家は離反し、柴田勝家率いる織田勢は能登や加賀、越中に侵攻して同地を1581年までにほとんど奪ってしまった。
つまり、謙信が築き上げた勢力は、この内乱によって完全に失われるとともに、上杉氏は大きく衰退してしまったのである。
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信玄公の戦史に燦然たる軌跡。
○信玄 × ●謙信
永禄4年(1561年)、第四次川中島の合戦。
驟雨一電、乾坤の勝負を賭ける一箇の漢、毘沙門天の化身、軍神謙信。
双眸を光らせ、大鳳が起つが如き身の動きで、神の一撃を受ける信玄。
伝説に語られる対峙であった。
戦死者、越軍が3千強、甲軍が4千強という、戦国史にも稀な激闘の末、上杉軍は退却、武田軍が勝鬨を上げる。
以降、北信濃は武田家の有に帰す。
○信玄 × ●氏康
古今比類無き名将、早雲を超える器量を持つとまで云われた氏康。
しかし相模の獅子とまで謳われた彼も、甲斐の虎を相手に苦闘を強いられる。
1569年、武田軍は小田原城を包囲(第2次小田原攻城戦)。
後北条家存亡の危機であったが、相越同盟を結んでいた上杉軍の義援により、かろうじて難を逃れる。
1571年、氏康没。
遺言で氏政に信玄との和睦を命じた。
○信玄 × ●信長・家康連合軍
三方ヶ原の合戦で鎧袖一触。巨鯨が小魚を一撃するが如き勢いで破った。
神君家康の生涯唯一の負け戦であった。
しかし、嗚呼、無常にも、信玄は1573年(元亀4年)、陣中に没する。
飯田河原の戦い ○武田軍 対 ●今川軍
上条河原の戦い ○武田軍 対 ●今川軍
猿橋の戦い ○武田軍 対 ●北条軍
塩川河原の戦い ○武田軍 対 ●諏訪軍
瀬沢の戦い ○武田軍 対 ●信濃連合軍
桑原城の戦い ○武田軍 対 ●諏訪軍
勝弦峠の戦い ○武田軍 対 ●小笠原軍
戸石城の戦い ○武田軍 対 ●村上軍
川中島の戦い ○武田軍 対 ●上杉軍
箕輪城の戦い ○武田軍 対 ●長野軍
第1次薩唾峠の戦い ○武田軍 対 ●今川軍
第2次薩唾峠の戦い ○武田軍 対 ●北条軍
三増峠の戦い ○武田軍 対 ●北条軍
蒲原城の戦い ○武田軍 対 ●北条軍
花沢城の戦い ○武田軍 対 ●大原軍
深沢城の戦い ○武田軍 対 ●北条軍
石倉城の戦い ○武田軍 対 ●上杉軍
二俣城の戦い ○武田軍 対 ●徳川軍
岩村城の戦い ○武田軍 対 ●織田軍
三方ヶ原の戦い ○武田軍 対 ●織田徳川軍
野田城の戦い ○武田軍 対 ●徳川軍
高天神城の戦い ○武田軍 対 ●徳川軍
【戦神】武田家の輝かしい戦歴【不敗】
1507年 信虎が父信繩の家督を継ぎ、甲斐国主となる
1510年 信虎が小山田家と同盟、甲斐を統一
1517年 攻めてきた今川軍に武田・小山田連合軍反撃し、要所を奪還。今川軍は撤退
1521年 今川氏親が福島正成を総大将として一万五千の大軍を甲斐に派遣
信虎は二千の兵でこれを退ける。
武田信玄誕生。幼名は太郎。
信虎が先の戦いの後に甲斐に駐留していた今川軍を奇襲によって破り、
大将福島正成を討ち取る(上城河原の戦い)
1526年 信虎が北条氏綱と富士山麓の梨の木平で戦い、大勝する
1536年 信虎が信濃佐久郡に出陣。晴信は初陣で海ノ口城を攻略する。
1540年 佐久へ侵攻。信虎晴信父子で佐久の諸城を攻略。一日で三十六城を落とす。
1541年 信虎が村上義清、諏訪頼重と共に小県郡を攻め、海野一族に大勝。
信虎追放
1542年 晴信が高遠頼継と共に諏訪に侵攻。諏訪頼重は桑原城に逃亡するが、和議に応じて城を渡す。
諏訪分割案に不服の高遠が反旗を翻すが、すぐさま撃退。諏訪を平定。
1543年 晴信が大井貞隆の長窪城を攻めて、城を落とす。
1545年 信玄が高遠城を攻めて攻略する。高遠頼継は越後に逃亡。
晴信が藤沢頼親の福与城を攻め落とす
晴信が今川義元と北条氏康の仲介をして和睦を成立させる
1546年 大井貞清が反乱し、内山城に篭城するが、兵糧攻めでこれを落とす
1547年 晴信が分国法である「甲州法度之次第」を制定する
晴信が志賀城を攻め、援軍に来た関東管領軍を小井田原で撃破し、志賀城を落とす。
1548年 諏訪に攻め込んできた小笠原長時の軍を信玄が塩尻峠で撃破
小笠原軍は林城へ敗走する
信玄が小笠原長時の本拠地、林城の近くに村井城を築く
1550年 武田軍が小笠原長時の本拠地・林城へ侵攻。小笠原軍は先の敗戦で戦意を喪失していたため
林城とその周辺の深志城、岡田城、桐原城、山家城を捨てて逃亡する
1551年 真田幸隆の謀略で戸石城を落とす
信玄が小笠原長時の属将・平瀬八郎左衛門が守る平瀬城を攻め、これを落とす
小笠原長時は中塔城に篭城するが、翌年には城を放棄して逃走。越後の上杉謙信を頼る
1552年 武田軍が村上義清の属将小岩岳図書が守っていた小岩岳城を攻略する
1553年 武田軍が村上義清の本拠地葛尾城を攻略。村上義清は上杉謙信を頼る。
1554年 武田軍が下伊那に残っていた小笠原の残党を掃討。嫡男義信が輝かしい初陣を飾る。
1554年 上杉謙信の部将である北条高広を調略。高広は謙信に謀反
1556年 信玄が真田幸隆に命じ、川中島の南部にある雨飾城を落とす
1557年 信玄が善光寺の西北にある葛山城を落とす。
謙信が挙兵し、信濃に侵攻するが、
武田軍は正面から戦わず補給路を絶つ作戦で越後国境付近の小谷城を攻略
1560年 信玄が川中島に補給基地として海津城を築く
信玄堤が完成。この功績で今でも民に愛されている。
1561年 川中島の戦いで上杉謙信を撃退する
1563年 北条氏康と共に武蔵松山城を攻略する
1564年 水内郡の野尻城を攻略する
会津の蘆名盛氏と手を組み、北越に出陣させる
西上野に出陣し、倉賀野城を攻略する
1566年 武田軍が上野に出陣し纂輪城を落とす
1567年 真田幸隆が白井城を攻略。西上野を制圧。
1568年 武田軍が今川を攻め、駿府城を落とす。今川氏真は掛川城に逃れる。
1569年 武田軍が三増峠で北条軍と戦い圧勝
武田軍が駿河に出兵、蒲原城を落とす
1570年 武田軍が駿河志太郡の花沢城を攻略する
武田軍が駿河へ進軍、吉原、伊津で北条軍と戦い破る
1571年 武田軍が三河へ侵攻、三河足助城を攻略する。
1572年 馬場信春軍が、二俣城を攻撃、攻略する
秋山信友軍が、美濃岩村城を攻略する。
遠江三方ヶ原で天下人徳川家康と戦い圧勝する
1573年 信玄死去
1574年 勝頼が美濃に攻め込み、明知城を落とす。
勝頼が信玄の落とせなかった高天神城を攻略
三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)
1569年、武田信玄の軍勢が北条氏康の小田原城を囲んだ。
既に惣構えの着工が始まっている堅城での篭城策は手堅く、武田勢は撤退する。
後詰めとなった甲州街道守備軍の北条氏照、秩父方面守備軍の北条氏邦の軍勢は要所である
三増峠に着陣し有利に戦端を開いた。小田原から追撃してきた北条本隊(氏康は不在)は荻野(厚木市)
まで迫っていたが進軍を停止、挟撃は実現しなかった。この間に志田峠に迂回した武田別働隊が氏照・
氏邦の陣よりさらに高所から襲撃し戦局は一転した。津久井城の内藤隊などの予備戦力が救援に出な
かったこともあり北条勢は大きな被害を出している。高度が大きく作用した戦国最大規模の山岳戦として
知られている。
武田信玄が最強の武将
信玄>>>>>>>>>>>>>>>>>>信長>>>下痢>>>>>謙珍(笑)
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…99%(10000)*飯山以北は残す。
・上野…45〜50%(5500〜6250) *利根川以西に北部と南部の東岸を加える
・駿河…99%(3750)
・飛騨…50%(500) *江間150騎が先方衆となっている。元亀3年9月に木曾方面からの侵攻もあり
・越中…15%(1500) *68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っている。71年には謙信に落とされているというのは
誤りで、近年は上洛開始時健在でほぼ確定。
・遠江…40%(2500)
*元々境の地域は両属の領主が多いうえ、徳川側記録に拠ると
侵攻により地侍が靡く様に寝返ったとある。東海道沿いに逼塞、ぺちゃんこ
・三河…20%(1500) *山家三方衆を誘降、足助城を落とし、賀茂郡、設楽郡ほぼ全域・八名郡一部を支配。
・美濃…5%(675) *秋山信友が岩村を制圧。
計32000〜33000
●長尾上杉
・越後…100%(9775) *ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10%(1240) *沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
・越中…20〜25%(1900〜2375) *神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5%?(510) *飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。
総計13425〜13900(笑)
※このスレに記載されている話は全てフィクションです。
実在の人物・団体・事件とは、いっさい関係ありません。
ただ上杉謙信がショボイのは事実です。
かまって欲しくて必死な上杉オタの自作自演コピペは
完全放置でお願いします。
(三戦板住人一同)