【武田】2万5千で上洛【信玄】その40
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1143284595/ ↑前スレ
情勢:信長包囲網側圧倒的に優位という状況にて
信玄が死去しなかったらどうなっていたかを推測するスレ
以下、1572年(元亀三年)末日の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…99%(10000)*飯山以北は残す。
・上野…45〜50%(5500〜6250)
*利根川以西に北部と南部の東岸を加える
・駿河…99%(3750)
・飛騨…50%(500)
*江間150騎が先方衆となっている。元亀3年9月に木曾方面からの侵攻もあり
・越中…15%(1500)
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っている。71年には謙信に落とされているというのは
誤りで、近年は上洛開始時健在でほぼ確定。
・遠江…40%(2500)
*元々境の地域は両属の領主が多いうえ、徳川側記録に拠ると
侵攻により地侍が靡く様に寝返ったとある。東海道沿いに逼塞、ぺちゃんこ
・三河…20%(1500)
*山家三方衆を誘降、足助城を落とし、賀茂郡、設楽郡ほぼ全域・八名郡一部を支配。
・美濃…5%(675)
*秋山信友が岩村を制圧。
計32000〜33000 + 北条からの援軍2000
↓以下は、やや粉飾気味の織田家現況報告
2 :
公孫参:2006/04/17(月) 14:09:38
公孫参が弐げつと
>>1乙
だけどまた余計な文言がw
代わりの検地史料だせない負け惜しみみっともない(^∀^)
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/17(月) 15:41:47
このスレが2chの運命を変えることになろうとは
誰が予想出来たであろう・・・
公孫参なのに2ゲットするとはこれいかに?
まだやんのw
公孫参で1000まで行くスレはここですか?
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 09:17:56
1の時点で捏造してるのがイタイなw
それでも織田に遥かに及ばない。哀れwwww
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 13:58:05
論破されたらスルーが武田の基本です
(上洛)できぬなら
妄想するよ
武田厨
以前なら改竄表をべたべた貼り付けていた信長厨が何もしない、ってことは
ってことでよろしいか? もしそうならこのスレ終了だね。
12 :
前スレ結論:2006/04/18(火) 16:52:37
494 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/04/09(日) 18:13:14
くだらん、信玄厨は本当に当時の状況で上洛出来ると思っているのか?
信玄が長命だったらじっくり徳川滅ぼすだろ
だいたい「一気に上洛だ」と考えていたのなら信玄は馬鹿だ
対徳川戦を織田に邪魔されないよう浅井、朝倉、近畿勢力に信長を足止め
してほしいだけだ、そのための戦役だ
スレタイの2万5千で上洛は不可能
495 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/04/09(日) 18:14:11
と織田厨が必死に何か申しておりますが?
496 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/04/09(日) 18:14:22
>>494 其れが一番手堅いし確実なんだよな
497 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/04/09(日) 18:16:26
>>494 バカだなー
だったら岩村侵攻なんてしないよ
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 16:53:14
498 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/04/09(日) 18:17:42
>>495 捨て置け、彼らとて面子があるのじゃ
499 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/04/09(日) 18:18:42
440 :無名武将@お腹せっぷく :2006/04/09(日) 16:51:52
信虎の業績を信虎追放でフイにし、諏訪、小笠原、村上等の暗愚な当主や
今川義元死後の混乱でタガの緩みまくった大名を相手にできる類稀な幸運に恵まれて
勢力を拡大したものの、最期は勝つ見込みの無い上洛行動を起こし尻拭いを勝頼に
やらせた信玄は他の著名な大名より優れていたとは言えんでしょ、劣っていたとは言えるけど。
500 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/04/09(日) 18:20:09
極右じゃない信玄厨だが
一気は無理でも
じっくりいけばかなり可能性があると思う
501 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/04/09(日) 18:23:41
畿内の包囲網がどれだけ織田を足止めできるか
によると思う
決戦になればどちらが勝つかは分からないなー
兵力的には覆せる兵力ではあるし
502 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/04/09(日) 18:28:51
結局、尾張三河国境あたりで決戦
そのときに徳川が粘っていたら織田有利
徳川が滅ぶもしくは武田方だったら武田有利
503 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:2006/04/09(日) 18:33:01
その結果織田撃破できれば信玄は上洛可能
よってこのスレッドは本日にて終了いたしました。
そろそろネタ切れかね。しかし武田厨は人がいないと元気だな(w
ROMしてると煽りだすのは大抵織田厨だな
で双方の煽りだしが始まる
俺は客観的みたいな書き込みをするキモイ武田厨。
公孫参上!
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 19:08:10
ところで前スレの落とした50の城の詳細提示はまだなの?
318 ひろゆき@管?理人 ◆3SHRUNYAXA New!2006/03/22(水) 00:32:13 ID:bCbtdat00・
天下統一機能をつけてみました。。。
名前欄に【Tenka+&rf&rus&rian&ras&ra&rn&r+toitu】と書き込めば
【武田信玄】とか【織田信長】とか戦国武将が出ます。
数値は書いた日付とか時分秒とかレス番号で反映され100人くらいまでありますよ。。。
どの武将で遊ぼうかなあと思ったときに使ったり、自分の好きな武将と比べたりして遊んでください。
過疎化の元になるんだからやめろよボケ
テンプレは出さないの?
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/18(火) 23:45:53
前スレは姉川合戦の虚構流布が証明されたところで終わったんだっけ?
で、織田が弱敵ばっかり相手にしてたっていうのは所詮嘘だったと
次は武田がまた新しいネタを持ってくる番かね?
>>1が手抜きしたんだろ>テンプレ
武田厨は責任感も無い
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 00:25:31
姉川に限らず、ここはあらゆる史実を否定するだけのスレ
弱敵論は嘘ではないな
暗愚な龍興にすら大敗する織田軍w
犬程遠志?参上
か?
各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)
ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。
関東
上野:49万6千石/12400
甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375
東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450
北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
18(21?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。
総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。
総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山荒木などが味方勢力として存在。
池田和田淡路の安宅などはテンプレ時は旗幟をはっきりさせていない。
●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。
総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
その他の勢力 東国
●長尾上杉
・越後…100%(9775)
*ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10%(1240)
*沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
・越中…20〜25%(1900〜2375)
*神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5%?(510)
*飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。
総計13425〜13900
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。
●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。
その他の勢力 畿内
●朝倉
・越前…100%(12500)
*寺社領については、明確な根拠を示さない限り否定されます。
・若狭…?
*守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)
総計12500+?
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。
●浅井
・近江…9.5〜14.5%(1850〜2825)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。これも考慮に入れた。
総計1850〜2825
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。
●六角
・近江…?
*愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?
●松永・筒井(反松永)
・大和(11225、ただし双方合わせて)
*寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×(両派とも)
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
●長島一向宗+国人
計20000?
遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。
●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接
軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。
※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ
の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。
●北畠
・伊勢…30%(4253)
*大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
するものが出る。
計?
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。
●伊賀
六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
その他の勢力 三好
三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)
畿内
・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。
・摂津(8900)
・河内(6050)
・和泉(3550)
*ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、など
その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。他に足利家につくものも多数いた。
総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 09:24:52
公孫参上!
四国
・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には義昭信長につく。
・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
*安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
離反は確実であるが織田に付いたとも言い切れない。
総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる
おまけ
●足利将軍家
・山城…?
*北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。和田池田伊丹などは義昭勢力。
総計不明
・遠征能力×(史実でも城に篭った)
■三方ヶ原の戦い後の情勢。
1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
■この情勢をもとにした推測。
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千〜三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
信玄率いる遠征軍は石高的には84万石〜90万石で21000〜22500ほど+北条の援軍2000〜3000
+美濃へ入ってくる秋山隊が3000ほど
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
松倉(富山)城主椎名氏を降すのは『北陸の中世城郭第15号』より1573年1月の可能性が高い
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
摂津河内和泉諸勢力の状況
河内では、北半国守護の三好義継が義昭についたが、重臣の野間長前、池田教正、
多羅尾常陸介が裏切って信長について義継滅亡後の北河内統治を任される。
南河内では畠山高政が重臣遊佐信教、安見直政と対立。高政は弟秋高に家督を譲って
出奔。秋高は義昭方につくが遊佐信教に殺される(元亀四年六月)。遊佐信教はその
まま高屋城主代行として信長と戦い、天正元年に滅ぼされる。後、降服してきた三好
笑岩を南半国守護を任せる。
摂津では守護池田家が内訌。当主勝正の出奔後荒木村重が実権を握る。高槻の和田
惟長は元亀四年三月に高山右近に城を奪われる。荒木はそのまま信長に服属。
伊丹忠親は義昭につき荒木と抗争。天正二年には伊丹城を落とされる。
和泉では松浦氏、沼野氏、真鍋氏などの水軍衆が割拠。時期は不明だが元亀年間には
信長に服属したもよう。元亀四年四月、松浦肥前守が十河存保に信長への降服を仲介
している。
40スレまとめ
>1-16テンプレ
>27-46寝返りそうな武将
>48-174武田織田の大名権力 穴山・小山田
>59北条分限帳>75荒木への述懐天正4年公記
>83-174穴山氏について
>119穴山氏による金山支配 >157ソース >170デジタル身延町史リンク >172穴山氏の金山経営コピペ
>175-195春日馬場の軍役
>259-279信虎の戦略・村上・勝頼時代の北信濃政策
>276-317大名の個人的武勇
>311-339甲陽軍監の信憑性
>388-435信虎の戦略政策と信虎時代の関東東海の状況・信玄との比較
>420-421信虎相続時の甲斐の状況
>438-510信玄の戦下手について
>511-605 >690信虎の戦略政策と信虎時代の関東東海の状況・信玄との比較
>530>546>549武田今川の対等では関係 >572-573上杉北条の力関係
>584関東年表
>606-621謙信の上洛
>700-714指揮官の戦死
>796-800勝沼信元 >799ソース
>865勝頼が陣代ではないソース
>881>889信玄の負債による勝頼の軍役猶予の書状
>801-家臣の統制上洛できるか
●織田
・尾張…100%(13000)寛永検地では52万石
・美濃…90%(12150)恵那、土岐を失陥 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…50%(9500)
*浅井・六角は追い詰め中。湖南のいつ蜂起するか判らない一向一揆。
・伊勢55%(8000)
*桑名・三重郡の一揆衆。南部5郡の北畠氏を除く。
・三河…0%(0)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族は家康の寄子。
総計43100
●徳川
・三河…75%(5500)
・遠江…60%(3750)
侵略しぬかれぺっちゃんこ
計9250 ただし味方が原の大敗でもっと減じている可能性大
●朝倉
・越前…100%(14000)
・若狭…?
*若狭侵攻で一部を除く中、東部を支配、逸見氏・粟屋氏は織田についたため雪隠詰め
朝倉軍の一部が粟屋氏の居城を包囲中。(武藤氏が反織田に回った)
・加賀…20%(1800)
計17000
●浅井
・近江…18%(3500)
*伊香郡、高島郡の朽木、志賀境を除く、浅井郡7割、朝倉との関係上城は元々破却済み。
計約3500
●本願寺
まあ、ぱっとみ3万人
●長島一向一揆
追い詰められた末根切りに遭ったのが2万人、おそらく3万前後かw
*信長の弟が拠る城を短期間に陥落させたこともある
●将軍
なんだかんだで、逃亡中の義美が2万人動員してたりする
●北畠
・伊勢…40%(5600)
*南伊勢五郡を領有、誰かが織田へ離脱したと主張し始めた国衆はもともと南勢ではない。
織田軍へ加勢するのは長島を根切りにした時の戦から。
計5600−α 織田は北畠一族や国衆を動かせないが
北畠も表立った行動は難しいかもしれない
●六角
・近江…30%(3000)
*人が居ない雑魚、甲賀郡他丘陵部を占拠、一揆みたいなもん
●三好
主体は阿波、讃岐、淡路の義賢一門、ただし長春は最悪
・淡路(1550)
・阿波(4600)
・讃岐(3200)
計9350 反織田、とはいえ交戦する情勢でもない
三好康長と
三好義継、松永久秀、俗に言う三好三人衆、三好政勝
・河内(6050)
・和泉(3550)
長慶の残りカス、この頃の実力は不明
一部とはいえ重なってごっちゃになっちゃって……。
せめて、一方が全部終えるまで待つこともできないのだろうか武田厨は。
知ってる。
>>40 松浦、沼野って聞いたことないな、どうにも小者っぽいけど誰?
真鍋は能島系村上の傘下にあった同じ姓の一族と同じ人達?
>>46 >鈴木眞哉さんはあきれ顔だ
>鈴木眞哉さんはあきれ顔だ
事実と推測が織り交ぜられた事柄を史実であったかの如く断言する
研究者と小説家のハーフの言う事を鵜呑みにすんなよw
関係ないけど、上杉謙信が小田原城を囲んだとき10万人とか、
河越合戦で八万の大軍を北条が破ったとかあるけど、
そんなに動員できるもんなのか?
お祭り騒ぎで一揆込み々々ならできんじゃね?知らんけど
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 14:37:33
純粋な戦闘員はせいぜい四割、という説があるな
残りは人夫とかの非戦闘員の動員
行軍や野営・戦陣の世話の労働力が必要だし
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 14:46:13
>>25 大敗っていつの事を指してるの?
織田軍は森部合戦で1500対6000の劣勢を勝利している
美濃では織田軍負け続け、というイメージはあるが実際には山城を攻めあぐねて、という程度
そして城攻め不完遂は謙信や信玄にもある
だいたいその暗愚の根拠がねぇ…
人夫や非戦闘員は人数に入れないし書かれないでしょ
村上義清の評価が高いのは、武田を大敗させたことがあるから
もし斎藤が織田を大敗させた、という主張なら当然斎藤も強い、としなければおかしい
武田とにかくツヨス、というノブヤボあたりの印象に囚われてるからおかしな理屈になるんだよ
斎藤と村上が直接対決したわけでもないんだから、わかるはずもなし
当時の軍役は明智軍法などを参考にすると百石あたりで六人役
1万石あって6百人
10万石でやっと6千人
6万動員だけで100万石は必要になるぞ、ごく単純に計算すればだけど
>>56 その同時代の人の根拠って前スレで否定されたじゃんかw
甲陽軍鑑や公記に書いてあるぞ、と武田厨が行っていたが実際の史料から抜き出されて轟沈
弱い武田に勝ったら強い
強い織田に勝ったら弱い
これはおかしいね
斎藤が弱かったかどうかはともかく
村上が戦で強かったのは事実でしょ
上田ヶ原では1万対5千以下ともいわれる劣勢の中であえて兵を二つに分けて、川を利用し武田軍を分断した上で撃破している
信玄に手傷を負わせ、両職はじめとする有力武将を討ち取ったんだから
これだけの戦果は中々無いよ
単に武田が弱かっただけ、という話になるかは不明だけど
武田が弱かったってだけじゃん(・ω・`)
つうか装備も文化も同じような軍でそんな強弱の差が出るわけ?
彼我の国力とかが結局物をいうんでしょ
劣勢の相手にボコられたのなら言い訳しようもないが
裕福な国なら一回の敗戦程度じゃ致命打にはならんし。大名が討たれでもしない限り
対小笠原戦では、作戦の不一致から舅の仁科道外すら戦わなかった勝弦峠の戦いでも、武田軍は六度攻撃かけてその都度小笠原旗本勢単独の反撃で撃退されてるな
七度目の迂回した信繁軍との挟撃でようやく勝利
崩壊状態の敵軍に対してこの苦戦
信長の美濃攻略戦は5年にわたり、苦戦したっていうけど
具体的にどんな武将が斎藤方に討ち取られたの?
>>58 否定しようとしたのが否定された、の間違いなw
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 15:47:36
織田が相手にしたのは、ほぼ一カ国を支配するそれなりの勢力ばかり
三好一党に到っては数ヶ国に跨る分国を持っていた
信濃の数郡程度が基盤でしかなかった村上や小笠原と比べるべくも無い
上杉と対戦してはじめて一カ国程度の領国持ちと直接対決したんでしょ、信玄は
>>66 445 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/04/09(日) 17:24:18
>>443 義清や業正は当事者以外の評で戦上手といわれているし
小笠原勢も軍鑑で戦上手とされてる。
それに対して義景、義治は朝倉、六角系の軍記物でもボロクソだし
竜興や三好の連中は信長公記で無能、雑魚扱い。
どっちが本当の意味で手強かったかは明白
↓以下が、信長ヲタが主張する実際の史料から抜き出されとされるモノ
448 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/04/09(日) 17:29:18
>>445 所詮、そういう評判すら結果論の極致だろ
周りが雑魚なら中ぐらいでも強豪扱い、そんなもんだ
よくくだらない断定できるって感心するより呆れるよ
459 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/04/09(日) 17:42:44
>>458 全部事実かどうか聞いているのだが?(ニヤニヤ)
466 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/04/09(日) 17:46:41
一人の評価が絶対の評価
すげー痛いw
467 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/04/09(日) 17:46:48
勝頼は名将だ
468 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/04/09(日) 17:47:52
>>463 ハゲワロスwwwwwwwwwwwwwwwww
476 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/04/09(日) 17:54:48
だから実際に互角の条件下で力量比べもしてない武将の差異がなぜわかると
我田引水丸わかりだから痛すぎる
479 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/04/09(日) 17:57:01
自分の論法を逆用されると黙るか煽り一辺倒しかなくなる信玄厨乙です!
迂闊な馬鹿言うから( ´,_ゝ`)
69 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 16:07:00
公記などの史料によるレスの箇所じゃなくて、軍記物の部分かよwww
アホくさ
武田厨の拠り所は妄想か創作ってことでつね
ノブヤボ脳患者だろうなぁ…。そんなものを根拠に強弱断言できるなんて
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 16:13:28
武田の騎馬隊は最強です
>>69 >公記などの史料によるレスの箇所
あるなら、抜き出して指摘すればいいのにw
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 16:15:39
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 16:17:23
>>60 武田が弱いだけじゃん
それか信玄が無能なだけ
ん?なんで軍記物のレスだけは抜き出すのに
朝倉武将・印牧の奮戦と見事な最後について公記から抜き出した過去レスは張らないんだ?
武田厨印象操作乙w
軍神・謙信公なら挟み撃ちぐらい即座に見切ってるな
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 16:24:22
そういえばその村上は謙信頼ったんだっけ
第四次川中島では先手をつとめ、武田信繁を討ち取った(異説あり)
その後景勝が北信濃四郡を支配した際、子の国清(山浦姓を継ぎ、一門衆扱いを受けた)は旧城に復した
上杉家の義理は2代に渡って果たされたわけだ
軍記物根拠でいいのなら、朝倉の老将・真柄直隆なんかの剛勇と最期も評価に加えないと不公平じゃね?
>>76 愚痴ってないでその過去レスを張ればいいじゃん、それに
朝倉武将だしなw
~~~~
武田弱いじゃん…
何が戦国最強だよ。地元の小豪族にすら負けてる(プ
75 名前:無名武将@お腹せっぷく[] 投稿日:2006/04/19(水) 16:17:23
>武田が弱いだけじゃん
>それか信玄が無能なだけ
81 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2006/04/19(水) 16:34:32
>武田弱いじゃん…
>何が戦国最強だよ。地元の小豪族にすら負けてる(プ
織田厨認定してOKですか?
婿筋の諏訪を騙まし討ちにした挙句、殺した武田に対して
上杉のなんと清々しいことか…
小笠原長時も何度か保護したんだよな
84 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 16:45:51
武田が弱かったとは思わない。しかし、武田は三好・六角・朝倉や斎藤と戦っていない。どっちが強いかなんて言う事はわからないはずだ
ノブヤボや軍記物といった創作の中での強さなんて言うものは、あくまで恐らくこうだろうという推測に過ぎない
また何回か大勝しても最終的に破れる、というケースはどう判断すればいいのか?結局好みや価値観次第だろ
だから一概に信長の相手が弱い、とか言う奴は馬鹿
全国の大名に御内書だして関係取り結ぼうとした義輝でさえ、その非道に追討の許可を信濃国人衆に出した信玄坊主の極悪ぶりは当時から有名
その勇は些かあっても匹夫・野盗の勇である
世代が代わっても義を貫いた不識庵謙信公・景勝公の神武に及ぶはずも無い
>>84 三好・六角・朝倉や斎藤の愚挙はよく知られてるよね。
その結果人心が揺らいだのはほぼ必然、それを踏まえてなお
結局好みや価値観次第だろ、と言えるのは
信長が好きすぎて周りが見えなくなってるか、もしくはただの電波w
愚挙=また軍記物等の創作の受け売り
に1000騎馬軍団W
第一次川中島なんて、武田ヲタの間じゃなぜか引き分け扱い
実際には葛尾城は奪回され、於曽源八郎らが討ち取られてるから完全に負けでしょ
三好・六角の御家騒動を知らないそうで‥
朝倉や斎藤当主のダメっぷりは、信長公記や同じく信憑性の高い越州軍記にあるし‥
87は少しくらい本読めよw
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 17:10:26
>>89 具体的にどこに?
また前スレ最期のほうみたいな捏造かもしれんから一応
観音寺騒動も、三好の内輪騒動も信長と戦う前のことじゃん
それをいったら村上なんて後に仲良く一緒に謙信頼る高梨氏と国人間で争ってる
公平を期すなら村上も暗愚扱いじゃないと…
弱体化して尚一国を領しつづけていた、というのは逆に地力の強さを示すものだと思う
本当に弱ければ織田と戦う以前に在地勢力間の争いで没落してるはず
第二次川中島だって。地元領主に復帰した村上を奇襲して追ったわいいが
越軍が南下すると逆に荒砥城などを奪われている
これも上杉方に完全に村上を組み込んだ目で見ないと引き分けとはいえないよな
実質上杉対武田なら上杉の勝ち
所謂第一次川中島は、
>>88>>93双方を含めて、では?
第二次は今川の斡旋で終わった文字通りの引き分け(講和)
ところが信玄はその講和を一方的に破り、攻撃(第三次)
謙信も出陣し上野原で決戦が行われたとされるがこれは詳細不明
結局善光寺一帯は小山田備中の手勢に抑えられたから、これは武田の勝ちで構わないだろうが
第二次川中島は信玄のほうから今川に頼み込んでの和睦調停だし、
その条件は旭山城の破却と信濃国人衆の帰参復領(一部を除いて実行はされていないが)。
どうみても信玄の負けだな。100日対陣で信玄が先に音を上げたのが定説で、謙信の陣営も
けっこうヤバくなってて、在陣衆に起請文を書かせてるが。
なんだ、かなり戦術的に武田押されてるじゃん
苦戦しつつも謀略や調略で土地を確保って信長の美濃攻めと似てるね
もっとも信長には劣勢の中の森部の大勝とかあるけど
>結局善光寺一帯は小山田備中の手勢に抑えられたから、これは武田の勝ちで構わないだろうが
ところが、第四次の攻防戦で、信玄は海津城に兵站拠点を後退させてるな。
善光寺を押さえたのなら、横山城や旭山城などに拠点を構えてもよさそうなものだが、
合戦にかんする通説では、決戦場も上野原から川中島に後退してる。
謙信の上洛祝いと関東遠征(管領就任)を怖れた川中島衆が一族を分けて
双方に兵を出した説もあるが、第三次を信玄の勝ちとするのは無理がありそうだ。
信玄は侵略のために北信濃を目指した
謙信は助けを求める小領主=被害者を救うために出陣した
嗚呼、涼やかなる哉謙信公!
第二次川中島は荒砥城(川中島のはるか南)どころか、深志城(松本)まで
攻め込まれてるよ。第三次は謙信が「敵を捕捉できずに残念だ(信玄は逃げ回ってる)」
という書状を残してるから、兵力的に優位だった信玄が和戦両様で駆け引きに
終始したと読み取れなくもない。信玄は出馬していたのかな?
>>91-92 バカ?お家騒動起こして思い切り統制が緩んでるのだけど。
三好なんて内戦状態だし。
>高梨氏と国人間で争ってる=お家騒動?
バカは休み休み言ってくれ。
村上義清は北信濃の有力国人で、川中島一帯の国人衆は彼の旧家臣。
高梨頼政は長尾(上杉)の親族で、謙信の義伯父にあたる人物だ。
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 17:58:29
ついに言うに事欠いて馬鹿としかいえなくなったかw
それじゃあそもそも大名体制どころか、国人同士が相食むグレーゾーンだった信濃攻略すら手間取った信玄はますます弱い、ってことになるじゃんか
どうしようもねーな
>>103が村上家の支配地域を分かっていないに
3000甲州金
小笠原長時はともかく、村上義清は武勇の人だったらしいよ。
謙信も彼を客将の中で別格扱いしてたわけだし。
具体的に村上義清の領土ってどれくらいだったわけ?
葛尾城が本拠地でその一帯?北信濃四郡って確定で?
どのあたりまでの国人を被官化してたの?
村上氏は小笠原総領家の支配に抗する国人達のボスみたいなものだから、領国化はしてないんじゃない?
大将個人への評価にも依るだろうから
領土といっても、国衆次第のもわもわっとした感じじゃないの
>>106 ええと、武田厨が頼りないんで、上杉厨の漏れが調べるよ。
【村上旧家臣】
善光寺栗田氏・高井郡須田氏・高井郡井上氏・更級郡屋代氏
高井郡市川氏・高井郡河田氏・埴科郡清野氏・水内郡島津氏
高井郡保科氏・埴科郡西条氏・埴科郡東条氏・小県郡室賀氏
更級郡網島氏・水内郡大日方氏ほか
善光寺以南、小県郡あたりまでか?
村上義清は河内源氏・源顕清の流れだね
>>109つづき
香坂(高坂)氏、雨宮氏あたりもそうだね。
信玄に組み込まれてるけど。
慶長検地だと、甲斐一国が22万石強
信濃が全体で40万石強
で、既に諏訪郡は武田傘下(板垣信方が率いたのは諏訪衆)
山内上杉氏の影響を排除して、佐久郡を抑えたあたりでの小県北部の戸石城攻撃で武田・村上本格開戦かな?
信濃高井郡・水内郡は高梨氏か
斉藤が図抜けて弱かったとして、兵力的に劣勢の織田が梃子摺るのは当然
朝倉が図抜けて弱いとするなら、包囲網の一員としての価値が徹底的に下落する
三好が図抜けて弱いとするなら、(ry
そしてそういう弱い相手に相手に確実に勝っていくのが本当に優秀な人物
高梨氏は越後とのほうが関係が深いかもね
越後椎谷にも所領があるし、為景の越後支配完成にも協力している
信玄の場合は、村上との合戦を通じて兵法を会得していった感じだな。
横田と板垣をうしなった敗戦も、家康における三方原か。
自称上杉厨さん乙です
それにしても武田厨情けないね
えらそうにいった自分が村上氏所領を知らなかったに100天久
118 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 19:56:14
上田ヶ原で板垣・甘利を失い
戸石崩れで横田を失い
川中島で信繁・諸角を失い…
敗戦から学ばなかったら彼らが浮かばれんでしょ、実際
十の勝ちはよくないっていう考えは、完勝を求めて深入りして痛い目にあったことからかもね
119 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 20:14:12
勘助は失ってもいいと言うのかー
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 20:25:14
信玄の大敗は綺麗な大敗
家康の大敗は惨めな大敗
信玄公は家康よりも上です。
信玄公が死ななければ徳川は確実に滅んでいました!
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 20:31:52
反論できんorz
結局、寿命がくるまえに倒せなかったんだろ?
三方ヶ原で徳川方の有名武将の討死って誰があった?
織田の援軍からは平手が戦死してるけど
124 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/19(水) 20:48:15
やっぱり戦は兵力だよ
第四次川中島だって武田軍ボコにされたのに別働隊が戻って兵力優位回復したら逆転でしょ
数が多いほうが有利なのは真理
だからこそ劣勢を跳ね返した武将は凄いといえるんだけどね
そういう意味じゃ謙信は確かに馬鹿強い。劣る兵力・後背常ならない上謀略で引っ掻き回されてる領国抱えながら信玄・氏康相手にほぼ互角にやりあってるんだから
>>123 逆に考えると生き残った武将がその後有名になったんじゃね?
>戦は兵力だよ
一説には、第四次川中島で謙信は蘆名氏盛・出羽大宝寺(武藤)・関東からの
援兵(約二万)を春日山に置いたまま、なおかつ斎藤朝信・山本寺定長らを越中に派遣し(一向宗への押さえ)
わざと寡兵で出陣したらしい。それまで信玄が逃げてばかりの戦をしていたので、
何とか決戦に持ち込んだ、と。せめて同数の兵で戦わせてみたかったものだが・・・。
信玄の目標は信濃制圧。だから合戦によらず調略謀略で為せればそれに越したことはない
一方謙信の目標は信玄の侵略阻止と、後の景勝の処置から推測するに以前の国人領主層の回復
信玄かその首脳部を打ち砕かないとどうにもならないから、決戦で勝ちたい
戦略思想の違いからするとあったかもね>わざと少ない
>>126 同数だと信玄が逃げ戦するからむりd…
ということは上洛時点でも同数の兵力を持って来れば十分ということか
兵力で勝ってて相手に決戦に付き合わせるとなると
最近の説で言われる姉川合戦の信長か、三方ヶ原の信玄のようにわざと後背晒すなりして挑発とかしないと
謙信が妻女山まで進出したのも一種の挑発かな
>>125 少なくとも東西三河旗頭の石川数正・酒井忠次はやられてない
先手衆の大久保兄弟や渡辺守綱、旗本の本多忠勝や榊原康政なんかも無事
…討ち取られ千ぐらいだっつーけど幸運なのか主力首脳部はさほど痛手を受けてなかったようだ
>>126 川中島は色々わからないことが多いが上杉年譜では上杉勢1万8千。
>>129 妻女山に謙信が布陣したというのも後年景勝が妻女山に布陣したのとごっちゃになってて
第四次の詳細はわかってないらしい
>>131 川中島に関する「上杉年譜」の記述は元禄九年成立で、「軍鑑」を否定するために
書かれた「宇佐美文書」をもとにしたものだよ。もとは紀州徳川家の上杉流兵学。
荒川伊豆守(上杉文書の同時代史料には実在の確証がない)の一騎討ちも、
「川中島五箇度合戦」「北越軍記(上杉家書)」に、「軍鑑」の記述を焼きなおした
(謙信と信玄の一騎討ちは六年前で、御弊川だった説)もの。
>妻女山に謙信が布陣したというのも後年景勝が妻女山に布陣したのとごっちゃになってて
>第四次の詳細はわかってないらしい
三池純正氏の説だね。三池説だと、西条(妻女)山が若槻西条(善光寺の後方)なのだが、
もともと西条は西条氏の居城があった山で、倉骨山城の支城と比定できるうえに、
若槻では海津城との距離がありすぎる。かりに善光寺周辺での対陣なら、緒戦における
上杉勢の攻勢(典厩・両角らの死・信玄の手負い)が説明できない。
たしかに詳細はわかっていないが、「軍鑑」は最近になって春日源助虎綱(高坂弾正)
の伝聞だったこと(甲陽軍鑑大成)で判明しているので、それなりに信用できる箇所も
多い(とくに用語の西日辞書との比較や甲州訛り)。海津城の本格的な普請が
謙信越山時(永禄三〜四年)、信玄の飯山野尻攻撃と同時期だから、
武田軍が海津城を兵站拠点にしたのは確実。だとしたら、善光寺周辺で激戦があった
とするのは無理があるんじゃないだろうか。川中島(八幡原)激戦の伝承は
永禄四年九月以外には史料に認められないから。長文、スマソ。
欠城城主・本多忠真(忠勝の叔父)
御旗奉行・成瀬正義
三河遠江郡代・夏目吉信
これらの武士が討死してるな>三方ヶ原
夜間だったこともあり追撃が不徹底で終わったから軍首脳部はある程度逃げられたんだろう
特に酒井・石川が手勢とともに撤退に成功したのは大きかったかな。なんとか野戦能力を失わずに済んだわけで
ノブヤボで武田の能力値が高いのはバランスをとるため。
あまりに弱いと簡単に滅ぼされてしまうから。
逆に織田とか東北寄りの武将は功績に比してかなり低い扱い>ノブヤボ
エディッタ必須だなw
織田はいつも俸禄が足りなくなって他国が何もしてないのに勝手に滅びます
>>132 >とくに用語の西日辞書との比較や甲州訛り
こんなものが信用できるからって、どうだと言うんだ?
>>126 同数だと逃げる敵か・・・・長期戦で決着付けようとしていた清と短期決戦で
決着を付けようとしていた日本みたいなもんだな。
しかし長期だと石高で国を維持していた武田はキツイよな。上杉も金融に力を入れ初めて
いたがまだ確立できてなかったから丁度良かったのかな
140 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 10:55:19
>石高で国を維持していた武田はキツイよな。
>上杉も金融に力を入れ初めていたがまだ確立できてなかった
>石高で国を維持していた武田はキツイよな。
>上杉も金融に力を入れ初めていたがまだ確立できてなかった
>石高で国を維持していた武田はキツイよな。
>上杉も金融に力を入れ初めていたがまだ確立できてなかった
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 10:57:19
前原誠司 (まえはら せいじ) 1952〜不明
−列伝−
山城国の生れ。幼い頃父を亡くし、苦学しながら名門京都学問所に入学する。
30歳のとき当時の有力新興勢力・日本新藩に仕官するも、藩主細川護煕が討ち死に、
野に下る。その後、さきがけ藩を経て民主藩に移る。2005年9月、いわゆる郵政大戦の
際に壊滅的打撃を受けた民主藩再興のため、藩主の座に着く。過去の民主藩伝統の
左翼突出陣形に拘ることなく、生扉・狂牛・談合疑惑・耐震偽装の4戦術を駆使し、序
盤、自民藩との戦いを有利に進めた。しかし、小泉家本陣を落とすべく家臣・永田寿康
に使用させた爆弾は、民主家本陣で炸裂。有利に進めていた戦いは、本陣の自滅により
大敗に終わった。なおも藩主の座に固執するが、大老・渡部恒三に起上らぬ”起上り小坊
子”を送られ、失意のうちに隠居した。
統率:35
武力:41
智謀:63
政治:28
魅力:54
>>132 三池説は「甲陽軍鑑」の地名に依拠している以上、雨宮に相当する
地名を若槻西条周辺に特定できなければ仮説そのものが成り立たない。
かりに雨宮と思われる箇所があっても、雨宮→海津城をどう説明するか?
軍鑑をまったく否定してしまうと、こんどは地名の若槻西条説が成り立たない。
仮説の出発点からジレンマを抱えてるんじゃね?
| ________ |
| | | ..」 ⌒' '⌒ | | ___
| |,r-/ <・> < ・> | | , ─── 、 /___ \,,
| |l ノ( 、_, )ヽ | | /・ ) 、 \ |-、ヽ |. ヽ
| |ー' ノ、__!!_,.、.| | d-´ \ ヽ |・|─| |
| |∧ ヽニニソ l| | 亅三 ヽ | |-′||) /
| | ヽ / | | (___ | / \ __ ヽへ/
|  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | \ | / /二二l
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上杉家は江戸時代まで存続してるのに
川中島の戦いって、なんで記録が残ってないのさ?
スレ違いだけど。。。
言われるほどの激闘が実際には無かったからじゃない?
何回も対峙して、痛み分けつづけて最期は武力より調略次第っつー戦国時代の本当のスタンダードな戦争に過ぎなかったとか
もしそうだったらつまらんなあ‥
いや普通に血染めの感状とか粉飾気味だが謙信の書状とかあるから
>>146 心配するな。
信玄も「3000討ち取った」(京都の寺社宛書状)を残してるし
前久書状は「8000討ち取り」(謙信への返書)だから、相当の激戦だったはず。
恵林寺の快川和尚も、妙法寺記も、大規模な合戦があったことは伝えてる。
なにより、典厩が死んじゃってるし。
>川中島の戦いって、なんで記録が残ってないのさ?
寺や公家の日記のほかに、戦国時代は戦争の記録をつける習慣がなかったらしい。
口や書状で宣伝することは多かったようだが。
江戸時代になってからは、諸大名と幕府は歴史編纂に熱中するんだが。
兵学者の作り話が大半だね。
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 22:25:32
それだけ被害が出れば軍勢と領国再建大変じゃないかね?
部下に恩賞出さなきゃならんが、土地だってそう切り取れたわけでもないし
>>149 上杉の場合は、越後の経済構造と永禄年間の慢性的な飢饉をみるとそうでもない。
のちの関東出兵は農村の口減らしの遠征(略奪のため)だったし、経済的には
青芋(麻布)の独占的流通販売で問題はなかっただろうね。
武田の場合も、農村が比較的豊かだったから兵力の損耗はともかく
牢人衆を被官させる余裕はあっただろうね、金山も健在だったし。第四次合戦が終わった冬には
両軍とも関東に出兵してるくらいだから。
この関東出兵の史実をもって、両軍の損害は軽微だったのじゃないかと
する学者もいるわけだが、江戸時代の石高史観に縛られてるとしか評価できないね。
金の産出とか漆とか材木の切り出し量を増やせばいいじゃない?
まあなんにせよ武田は資産豊富だったんだろう。 と言ってみる
上杉も武田も人間なんて使い捨て、か…
戦国時代って…
>>152 それは違う。
恩恵を受けて、その分軍役を負担しているわけで
重税と戦争。間違っても民衆に優しい時代ではないな
>>153 それも違う。
永禄年間は天変地異と慢性的な飢饉で、戦で食うしかなかったらしい。
死線をさまよう戦だが、兵糧だけは確実にあった。どうせ飢え死にするなら、
たらふく食って手柄でも立てれば・・・じゃねぇの?
そのいっぽうで、主君が滅ぼされて牢人していた武士がごまんといたわけで
「軍鑑」にも牢人衆の活躍が記載されている。ちなみに、われわれが映画やテレビで
見てるほど当時の合戦場は殺伐としたものでもなく、商人や遊女が集まっていたらしい。
大坂之陣合戦図屏風なんかをみると、お祭り騒ぎだよ。合戦は「ハレ」のイベントでもあったわけだ。
現 代 最 高
157 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 23:03:04
上杉なんか、
関東から人さらってきて、開墾やらせてたんだぜ。
>関東から人さらってきて、開墾やらせてたんだぜ。
その基礎があるからこそ、こんにちの魚沼産コシヒカリも越後銘酒もあるわけで、
歴史とはそんなものさ。
159 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/20(木) 23:08:53
>>155 近くの百姓は、山の上から見物していたらしいな<戦(いくさ)
「あーあ、うちの田んぼ、めちゃくちゃだよ。
この埋め合わせは、落ち武者狩りで一儲けだ」
>>155 大坂の陣はもう脱糞が勝つのが半ば確定したような戦いじゃないの
それを引き合いに戦はお祭り騒ぎってのはどうなんだ?
>>160 参陣した武士を物売り商人が取り囲む・兵たちが女たちの身ぐるみをはぐ
陣中賭博や遊んでるヤツばかりで、真面目に戦ってるのは描かれてないよ。
かなり信憑性のある図屏風(同時代史料)なんだが。
>>158 コシヒカリは福井が本家本元なんだがな。それとがんばったのは江戸期の無謀な埋め立てを
改善しようとがんばった明治、大正、昭和の人々だよ。
おおこうず分水(漢字忘れた)調べてみるとすげー思う。
先人達に感謝だよ。
>>161 大坂の陣は特別だろといってるんだが
その屏風を史料として持ってくる行為やら、その屏風の信憑性についてどうこう言ってるわけじゃない
特別な大阪の陣をもって、「他の戦もその特別な戦と同様に観戦されてるのが常態だった」
というのがオカシイといってるだけ
>>164 じゃあ、どんな合戦場のイメージを持ってるの?
戦場では乱捕り人捕り(略奪)が横行し、陣中賭博で喧嘩が起こっていたから
謙信も信玄も参陣した武将たちに誓詞を書かせたわけでしょ?
信玄が足弱(婦女子)を略奪した史料は「軍鑑」や「高伯済記」にあるし、
謙信も関東で人買いの市場を許可してるよ。これらは人買い商人が戦場に集まった証明で、
足軽相手に、高値で物品販売する商人の記録もあるし、戦女郎の記録も。
わたしが言いたいのは、飢饉と天災に悩んでいた永禄年間の人々にとって、
合戦は食い扶持になる「ハレ」のイベントだったということ。農村で食えない人々や
牢人衆にとっては、絶望的な日常「ケ」を打ち破る契機だったと。
大坂の陣が特別とも思えないですね、牢人衆にとっては起死回生の戦だったという
意味では、川中島やその他の合戦も同様でしょう。
言い足りなかったら、スマソ。
>>165 その話でどうして
商人や遊んでばかりの奴って言う大阪の陣と
川中島が同様になるんだ?
商人って言っても、大阪の陣で人買いがいたのか?
商人はすべて同じか?
一部同じ部分もあるって言う程度だろう?
167 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/21(金) 00:25:03
>>164-166 言いたい事がわからんぞ、ボケ!
いいかげん自分のイメージを出せ、見当違いなクレクレ君よ
相手は合戦のイメージとして武士だけじゃなく、乱取りの物品人身めあての商人や
陣中賭博が横行してたと論述してんだろ?! 川中島の合戦にも浪人は参加してるぞ
それよりも、大阪の陣とその他の戦役の違いは、おまえが言い出したことじゃねぇのか?
川中島合戦で謙信が喧嘩ばかりしてる家臣に誓紙を書かせたのも史実だしな
断言するが、166は大坂陣合戦図屏風を見たことがない・・・・ww
なんかジャンヌ・ダルクが軍隊から物売りや遊女追い出したら兵が強くなったエピソード思い出した
>170
それを言うなら、謙信女性説だな。
女謙信が陣中から遊女を追い出す→ガッカリする家臣たち→そのうち
謙信への忠誠を誓う→上杉軍が精強になる→謙信が信玄に肉迫する
→大局はともかく上杉軍が戦術的な勝利をおさめる→感状(ご褒美)を当てに
戦後の仕置きが何となくなおざりになる→上杉軍が戦略的に敗北する結果が生まれる。
大坂の陣はほぼ大勢が決まってる戦争だからな
でも人が動けば商売になるのは古今東西同じだから
滅茶苦茶シビアな合戦以外はそんなものだったのかも
>>165 >謙信も関東で人買いの市場を許可してるよ
これがなんで「戦場に商人がいた」証明になるんだ
わざわざ危険な戦場に出向いてまで物品の仕入れを商人がする必要ないじゃないの
自分の店で、足軽たちが取ってきた物品売りに来るのをまってればいい
そして牢人は戦するほうで観戦云々とは関係ない
言いたいのは、戦を観戦してるのが常態ではないのではないか?ってこと
そのほかのことは一言も言ってないし、否定する気もない
>>167 バカ!バカ!マンコ!
川中島の戦いは1553年〜1564年の「戦国時代」の話で、
大阪の陣は1614年〜1615年の「江戸時代」の話
大阪の陣の合戦図屏風をみて、
当時(川中島の時期)の戦はこうだったとは言えない。
大坂の陣といえば、やっぱりそれまでと違ったんじゃ?
家康が実用性ゼロの派手な鎧着る若手見て呆れた、という話がある
戦国の世で自己顕示は当然だが、戦えないまでにそれやってどうすると
ここで地味な鎧を着た老武者達が落ち着いていたのも同時に見たので、そちらを賞賛したと
でもここで賞賛された武士って例によって諸説ありだから造り話かも
>>155>>161>>165>>167 牢人衆の構成要員そのものは多くて数十から百程度、ごまんには程遠いでしょう。って違うかw
>死線をさまよう戦だが、兵糧だけは確実にあった。どうせ飢え死にするなら、
>たらふく食って手柄でも立てれば・・・じゃねぇの?
武田、上杉両軍がこの戦で一揆を動員した証拠は無い
なんつーか藤木史観に偏りすぎ。
>大坂之陣合戦図屏風
家康が「こんなの合戦じゃないよね〜」と言い放ったと、三河物語にあったはず。
>戦場では乱捕り人捕り(略奪)が横行し
相手への牽制としてね、両軍対峙の場ではやりようがない
>家康が「こんなの合戦じゃないよね〜」と言い放ったと、三河物語にあったはず。
真田信繁に本陣を襲われ、一時は切腹しようとしたのに?
いでよ織田厨
>>178 それは事前にいったことでは?
戦略的に考えれば全国対大坂城一帯で勝負は決まってるし
外堀を文字通り埋めたことに対する自信でしょ
窮鼠猫を噛む式の奮戦を喰らった後の述懐もなかったっけか?
ソース忘れたんだけど
甲陽軍鑑を書いた小幡なんとかが、大坂の陣で家康から軍配をつくれと言われたので
「甲州流軍学」にのっとって、信玄公が使っていたものと同じというやたらきやびらかな
軍配を作って献上したら、家康は「こんなモン持って戦の指揮が出来るか!」と叩きつけて
叱ったとか。
つーか戦場に商人だの遊女がいたら情報筒抜けになるだろ。
情報を売るって手もあるからな。大阪の陣はその辺も威武のためにしたんじゃね?
神君直々に軍配制作の命を授かるなんて、流石甲州流軍学者は違うな
>>181 小幡景憲に関するエピソードとして次のようなものが知られている。
ある時家康が「信玄が使っていた軍配とはどのようなものであったか見てみたい」といった。
景憲は甲州流軍学に基づき、きらびやかで立派な軍配を作成して、家康に献上した。
しかし、家康はその軍配をとるやいなや、投げ出してしまった。
曰く、「このような重くて持ちにくいものを信玄が、現実の戦闘指揮で使うはずがない」
家康も我侭だなぁ
やはり、上洛説は本当だったのか
すぐの上洛は無理だろうけど、1,2年のうちには信長追っ払って上洛したと思うよー
なんか煽りっぽいな‥
188 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 13:28:29
長篠の合戦で、織田の鉄砲三段打ちは架空のお話、史実ではない。
武田の騎馬隊も存在しない、空想の産物。
鈴木眞哉『鉄砲隊と騎馬軍団-新説・長篠合戦-』(洋泉社、2003年)
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/22(土) 21:32:07
上洛説自体が空想の産物
武田信玄事態が架空人物
191 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/23(日) 08:43:32
人物、団体、事件は架空の物語で実在いたしませんフィクションです
192 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/23(日) 11:32:17
武田信玄
戦国最凶の性犯罪者。
戦、政治、経済は全て家臣任せでヤルことしか頭にない無能。
たまに気が向いた時だけ出席する軍議、会議等でも発言はせず最後に一言、「うむ。一同、大儀であった」のみ。
戦場に行かされるのは常に影武者。
武田軍が各地で死闘を繰り広げている間、
自国の変態、ホモ、レイパー、ロリコンである信玄本人は警護で残した百足衆数名を引きつれ見張り役にして
領内の若い娘やイケ面男子をレイプ、夜這い、猥褻行為のオンパレード。
戦から帰還した家臣達に対する最初の一言は決まって「ごくろうさん。で、女とイケ面の捕虜はどこ?」
信玄の死因は病死となっているが、もちろん梅毒による心不全であった。
信長厨は低脳が多いな
在日とか多そうだしなw
ほりえもん=信長
小泉=信長
wwwwwwwwww
流れを急に無視した煽りについ笑ってしまった…
最近の信長厨はまるで狂犬病に罹った狂犬のようだ
ま、軍鑑見たいに架空が何割かを占める江戸期創作物が戦国時代の主なイメージの元だからな
家光のころにはもうさっぱりわからなくなっていたというからねえ
>>192 信玄公を愚弄するな!!!
梅毒なんかで死んではいない!!エイズだボケ!!!!
>>198 つまり武田が滅びて万々歳という事だな?未だにエイズに有効な治療法無かった
と思ったし。
>>199 武田は長篠で負け天目山で大敗をして滅んだのではない。
信玄公の海よりも深き愛によってもたらされた悲運の難病エイズ。
しかし日本全土にその難病を広まらせまいと思う心優しき武田家臣達は
自ら信玄公と供に殉死する事を望んだ。
しかし、信玄公は遺言においてこう述べていた
戦場で死してこそ真の武士であるぞ
そして武田家の人々は後の世を作る希望のある者にその偉大な功績を
託すために戦場で散っていった・・・・・・・・
つまり…家臣全員信玄公のおてつきだったわけだな
無駄な話しばかりだ
さすがに語りつくしたか?
あるいは史料不足で結論を出しにくいのか。
織田厨が荒らしてるから
ここまでネタが続けば上等でしょ
その史実を覆して、暫く健康体でいたなら‥多分信長ぶちのめして上洛
その内容を妄想するのがスレの趣旨じゃんけん
では、武田側から「この条件なら上洛できる」って出してもらいたいなー
寿命が延びたら、だけじゃ無駄だとようやく気付いたかw
包囲網側がちゃんと団結して一糸乱れぬ行動をすれば
一気に織田を滅ぼすことはできなくても数年で織田は滅びるだろうけどね
211 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/27(木) 12:01:16
簡単に言うけどそれが一番難しいんだろう…
それぞれの都合でそれまで無視ないし敵対していた将軍御内書に飛びついただけの連中だもん
結論は包囲網側が団結していたら織田は滅びたってことで
終了で。
織田を倒したら今度は武田が包囲される番だと思われる
上杉・北条・徳川が一糸乱れず団結していたら武田は包囲網以前に滅びてただろう、というのと同じだからなw
団結できても領国の疲弊や、お互いが抱える矛盾や背後の潜在敵は排除できん
結局各個撃破されて終りでしょ
歴史に「もしも」はない。だが、「もしも」がなければ
2chは成り立たない。
包囲網側が圧倒的有利だからな
少しくらい齟齬がないと面白くない、どんな齟齬かはしらないが
連携がとれた包囲網なら有利だろうな
で、その連携の部分に疑問がつけられてる
もし朝倉が連携に固執して在陣しつづけたら、既にはじまってた内部崩壊に拍車がかかるだろ
史実より早く朝倉軍が死に体になれば、単独では織田軍を防御することすら困難な近江諸勢力も無力化
監視から解放された織田軍の機動戦力は増大
逆に信玄苦しくなるんじゃね?
包囲網は各自が最大限の力を利用可能の状態で包囲しているから有利なのに
なぜか、連携連携と連呼する困ったちゃん
地理的に包囲の状態でも攻めてくる様子がなければ脅威たりえない
朝倉の退陣は包囲網にとっても正しかったのか・・・
付け城や城塞と一手の監視兵力で防げる程度にまで実戦力が低下している朝倉が無理したら逆に包囲網が連鎖崩壊する、か
確かに、朝倉の押さえは8千いれば何とかしのげるだろうな
徳川が三方戦の後早期降伏していたら上洛は余裕b
盟約裏切った相手にそうそう下るわけないだろ。
降伏すればな
231 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/27(木) 17:54:41
さぁ
盛り上がってまいりました。
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/27(木) 18:20:07
包囲網の件は、武田中心に考えすぎなんだよ。信玄出馬の時は既に信長の危機は去っていたわけだ。
ではどの時期の信長が一番やばかったかを考えれば答えは見える
1570年(元亀元年)
朝倉勢が佐和山を落とし信治を殺害、美濃を撹乱させ転じて京都制圧
次いで比叡山に籠もり織田主力が釘づけ
野田で不穏な動きそして連携するように尾張に一向勢が侵入信興殺害
この時以外に信長を倒す機会はない
>>232 このスレはどうやったら、信長を倒せるかじゃなくて、
2万5千で上洛できるかどうかなんだよ。
そもそも二万五千が無理なのでは?
三万五千ならば・・?
そんなに変わらんと思うが
どう考えても、武田勢が徳川領を蹂躙していた時期が一番の危機じゃんw
信興を殺害した長島の一揆は元亀元年から変わらず健在
石山の本願寺他畿内の寺院多数と幕府も対織田へ三戦
浅井朝倉も多少力を減じているだろうが健在
圧力が緩和されてるのは、内ゲバ起こしてぐだぐだになってる三好くらい
叡山は元々どうってもんでもないし、明らかに信長大ピ〜ンチだよ。
>内ゲバ起こしてぐだぐだになってる三好
起こしてないからw
志賀の陣の時は信長は主力と自身をまともに機動させることもできなかった
武田西進時は岐阜まで帰ってこれたし、その後の将軍蜂起に際しては素早く柴田らを中心とした部隊を京筋へ展開させている
これらの戦略予備を拘束できないとね
信玄が期待をかけたのは朝倉だが、それが退陣すると困る程度の武田勢だし
逆の発想はできなかったのかね
織田軍拘束という一点なら、朝倉より新手の武田のほうが可能性高い
三河付近に常駐して織田軍をそのあたりに誘引・足止めして畿内諸勢力に織田領を切り取らせる
こっちのほうが遥かに良いと思うけど
計算高い信玄が損な役回り引き受けるわけない
朝倉だってそんな役目御免、とこれ幸いに国許に戻ったわけで
これが寄せ集めの実態でしょ、長期的にみれば織田打倒を容易くするプランでも自身が損を被るのは避ける
>>238 将軍蜂起のときはすでに武田は長篠城まで後退して攻勢を取ってない時期。
逆に武田が攻勢を仕掛けてるときは岐阜までは戻れても徳川への援軍は3千のみ、
篭城には十分というかもしれんが三方ヶ原で意図が破綻した後も援軍送れてないし、
(武田が長篠城まで後退するまで約2ヶ月)
叔母を嫁がせ当主が死ぬと自分の子まで送り込んで維持を図った岩村にはろくな援軍を
送れてないから。
>>238 野田から撤退を開始するまでは
余力を全てかき集めた2万を率いて岐阜へ滞留していたワケで、予備兵力は無いよ
>>242 ソースはなに?
何でその時期の信長が岐阜に2万率いているとわかるの
>>241 別に援軍出す義務は無いと思うが
それに(武田が長篠城まで後退するまで約2ヶ月)というのもおかしいだろ
三方が原後刑部から野田行くまで暫く停止しているし
何で野田城攻めてる時期に援軍を送らなかったなら分かるが
それに岩村奪われた時は近江で対陣中じゃないか?
>>241 でも実際に岐阜から軍を動かしてるじゃん
振って湧いたわけでもない限り、自身とともに戻った手勢と考えるしかないでしょ
破綻しそうな戦域に投入することを企図した部隊じゃないと説明がつかん
援軍も篭城戦を前提とするなら強いて少ない数でもないし
じゃ、この時期柴田らは何をやっていたことになるの?
2万っていうのが本当なら
あちこちに兵を分けて尚武田と当初送り込んだ援軍と徳川の残存兵力合わせれば武田に対して互角ないし若干の数的優位か
領国の差がここまでついてるとなぁ…
>>244 援軍出さなくてよいなら同盟自体成り立たない。
2ヶ月徳川領にいるのに信長は援軍出してない。
岩村落城は11月下旬頃。
>>246 岐阜から大規模に動かしたのは武田が後退したあと。
信玄健在のIFなら三河で武田は攻勢中。
篭城戦を前提←この前提が破綻したのに援軍がない。
柴田たち織田主力は岐阜を動けなかったのだろ。
東へ行くと西が危うく、西へ行けば東が危うい。
>>246 それこそ、この時期の柴田らは積極的に行動するほど
手勢がいなかったということでしょ
>>247 岐阜の2万がそのまま長い時間動かなければ
他の戦線が押し戻される(息吹き返す)から、ぎりぎりの情勢だね。
最後の戦略予備だからギリギリまで動かせなかったんだろう
この間の織田軍の活動が詳らかでないが、二月中には柴田らが京方面へ出立し信長自身の後詰も待たず諸城を短時間で攻略しているから小勢とは考えにくい
出そうと思えば出せたことは史実が証明している
思うに武田軍との決戦の場所の選定などにかかってたんじゃないだろうか
地理を知り尽くした近江近辺ならいざ知らず、未体験の三河となると同盟者の領国とはいえ大兵力を機動させるには下準備がいる
>>248 >援軍出さなくてよいなら同盟自体成り立たない。
そんな馬鹿な・・・
そもそも1年中戦っていなければならないわけじゃないんだし
柴田達だって休養とってもいいだろ別に
史実の武田はやたら動きがとろいんだし
>>250 石山、今堅田の陥落が2/26で武田勢撤退のあと
しかも攻略したのは一向一揆が占拠した城だし。
信長軍は北近江に大規模な出兵をした後
動員の端境期で休養や交代の対象になる兵が多かったのかも
その後の織田軍の迅速な作戦行動を見ると余裕が無かったとは考えづらい
武田軍撤退っていつの事を指すの?
二月下旬に長篠へ退いた時点で?
>>248 織田が引いたら朝倉さんも引いてくれてます
それに篭城しろと送った兵を使って野戦仕掛けて大敗して平手討ち取られて
こんな人間にすぐまた援兵送るのはためらわれるし、兵を貸すぐらいなら織田自ら武田と戦う
そのために信長は岐阜に帰ってきたんじゃないか?
>援軍出さなくてよいなら同盟自体成り立たない。
互いに戦わないと約束するだけでも十分せんりゃくてきかちはあるとおもいます!
>>248 >篭城戦を前提←この前提が破綻したのに援軍がない。
三方ヶ原の敗北で籠城が不可能なほどの打撃をうけたならともかく、
籠城できるだけの兵は十分残っているんだから、
破綻とは言えないだろう。
>>248 >援軍出さなくてよいなら同盟自体成り立たない。
援軍を出したけど、勝手に野戦して負けただけ。
三河で万単位の軍勢が決戦できるに不自由ない地形ってどこがある?
>>255 この時期・元亀年間の信長の軍事行動を見ると冬の軍事行動はほとんど無いからその可能性はある
69年に凍死者を出したからか?
そもそも家康は三方が原後の数ヶ月の間に援軍求めているの?
ん?
武田軍が退いたら出せた軍勢って
当然対武田に出せる軍って理屈になるじゃん
どっちだよw
>>262 冬の軍事活動が少ないのは元亀に限ったことじゃない。
>>264が何を言っているのか分からない件について
>>255 四方へ敵を抱え、辛いことの証明?
武田撤退から近江の一揆鎮圧まで二週間あるから
軍の移動、準備を含めても十分な時間。
2/15前後に野田城陥落
しかしその5日後には兵を近江方面に信長は出している
この間で既に武田軍の内情を察知してたのかね?
柴田らを分派して尚武田軍のさらなる西進を阻止する自信があった、とは考えにくい
>>267も何を言っているのか分からない件について
というか加速しているせいかみな説明不足なレスして意味を理解するのに時間かかるんだが
残存兵力を再編して吉田城に移動してた徳川軍からの情報じゃないかね?
篭城戦を今度こそ覚悟してたらなんか武田軍の動きが鈍いです、と伝えたとか
>>268 テンプレから考えられる兵力なら充分守れると思うが。
近江で蜂起したのは将軍の内命を受けた山岡氏・渡辺党が主力
一揆勢に将軍が直接命令したとは考えにくいでしょ
>>258 徳川は散々織田に援軍を出し徳川が困ったときに3千だけでは相越同盟のように成り立たなくなる。
>>269 せめて、どの発言に対しての返答かぐらいは示して欲しいよね。
多少分かりにくくても、どの発言に対してかなら内容を推測できもするが、
分かりにくい上に、どの発言に対しての返答かも分からんとなると・・・
>>273 史実で成り立ってるんだから仕方がないだろう。
上洛の洛ってのは実は洛陽を指すのれす
3千だけといっても、当時の徳川軍の野戦兵力の三割強ですよ
見方が変われば評価も変わるでしょ
2/14〜17、野田城陥落
2/26頃、石山と今堅田が陥落 これは日付確定でいいの?
>>272 一向一揆も各所で蜂起しているような
>>273 前にあったが3000もなのかもしれない
他の事例から考えて援軍求められていきなり何万も出すのは時間かかるのではないか
急場では数千が普通なのではないかと
記録に残ってないだけで後詰だしたが武田軍の動きが鈍いんで退いた、とか
徳川軍は武田軍が甲斐に撤退後即座に行動を起しているから、迅速に情報を探知してると見て間違いないと思う
織田にも援軍に来た連中通じてなりで伝わってないと考えるほうが不自然じゃ?
282 :
稟:2006/04/27(木) 22:03:47
村上義清さんがすごいってことがわかった。
>>279 勢力関係は史実のままで、信玄が死ななかったらというスレなのじゃないか?
>>279 史実では織田が援軍を出さなくても織田徳川の同盟は成り立っているといっているんだろ。
武田も上杉に北条が攻められた時、援軍を出したこともあるが出してないことも多い。
武田と佐竹や豊臣と佐竹も同盟結んだこともあるが佐竹は援軍要請を無視されている。
更に言うならこの上洛時武田は本願寺に援軍を頼まれたが無視しているし
飛騨や越中からも援軍を求められていて兵を出すと約束しているが反故。
>>283 全体魔法を使えるわけでもないし、手間と多少の出血はあるかと。
なんですかこの急加速は
>>286 何が言いたいのかよく分からん。
史実ではまとめて撃破されてるから、分けて考えるのは無理じゃないか
対等な同盟、なら援軍要請に応えないことは破棄の理由になるが、上下関係の
ある同盟では下位から上位への要請に必ずしも応えなければならなくはない。
山岡・渡辺党と一揆勢は城に篭った
だけど石山は普請の途中だったんで開城降伏
今堅田は力攻めで落とされた
明智を監視に残して残り三将は岐阜帰還
>>288 大して意味無いから、忘れて
>>285 史実では武田の攻勢が止んだけど、信玄延命の場合
徳川の負担はさらに増えるから、史実と違い寝返る可能性もでてくると思う
>>291 三方が原後の徳川と姉川後の浅井朝倉が似たような状況
徳川も3年ぐらいは粘れるだろ
浜松など、自軍の後背を扼す可能性のある拠点を残して西進するような、博打色の強い作戦をそもそも健康に自信があれば取らないでしょ
>>291 これまでの信玄の所業を考えれば、そう簡単には寝返えられんだろう。
もし寝返って武田が織田を倒したとして織田領を武田が占領すれば、
徳川領は駿河・信濃・尾張と武田に囲まれることになる。
徳川の先はなくなるよ。
よっぽど追い詰められれば別だが、よっぽど追い詰めるには結局時間が掛かる。
>>293 野田長篠足助など三河から信濃美濃への交通路にあたる城を全て抑えた上
徳川の機動兵力に損害を与えた情況なら
東美濃からの西進は、東海道よりも可能性あるかもしれん
>>291 だからさ、降った木曽を暗殺したり、
今川一緒に攻めようねって約束したのに平気で自分を攻めてくるような相手に簡単に降伏するわけないだろ?
>>292 姉川は双方痛み分け、見方ヶ原は徳川の惨敗であとの状況が違うし
徳川は浅井朝倉より小さな勢力だから無理かと。
>>293 家康が吉田城へ詰めたのは、ある程度必然でしょ
情勢から武田方の予定通りに動かざるを得なかった。
>>298 痛み分けのわりには浅井朝倉はいろんな武士が討ち取られているが
そして徳川も惨敗したわりに戦力を保持しているが
>>299 >それ徳川と浅井の比較じゃなかった?
そうだったかも。
>>299 地理条件がまったく違う
奥行きがある浅井と東西に長く縦の圧迫に弱い徳川
惨敗といっても機動戦力は失ってないから降伏までいくかね?
5月には既に徳川軍は駿府等への放火、7月には奥三河奪還の作戦行動を起している
夜間のために武田軍の追撃が不徹底だったのかね
>>299 姉川当時の織田−浅井朝倉と武田−徳川の対比でいけば
織田より武田の方が大分大きい。
この時期でも、織田方より反織田方が圧倒的に優勢だし
>>304 それだけ信玄の存在は大きかった(偉大)ということじゃないか?
などと、言ってみる
>>305 なにそのおかしな対比
徳川と武田比べりゃそりゃあw
武田が居ても徳川が抑えておけると判断できれば、
織田が浅井・朝倉を平らげるのなんて1年もあれば十分じゃないか?
>>305 その他の敵対勢力無視して単純に両者の国力比を比較すれば同じぐらいじゃないか?
一体どんな計算したの
>>309 1年ぐらいなら徳川単独でも耐えれそうだな
遠江は失っているかもしれないがw
>>303 横山城まで落とされて奥行きとかあるのか
浅井は姉川後に領土を南北に分断されている
それに対し徳川は一番重要な東海道は保持している
徳川の方が余裕ありそうだが
それなら吉田城が落ちてからようやく姉川後の浅井と同レベルと考えるほうが自然だな。
>>315 かもね、ただ徳川に朝倉はいないけども‥
>>317 浅井には朝倉がいるが徳川には織田がいる
朝倉の方が援軍来てくれそうだが、
織田:浅井の国力比と武田:徳川の国力比は前者の方が大きい
319 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/27(木) 23:27:23
>>312 武田でさえ落日の時は一月で信濃中の全ての城を織田に落とされた。
崖っぷちの徳川如きが一年持つわけがない。
>>319 何年も敵対し度重なる出陣の結果領内が疲弊した結果だろ?
武田の崩壊は朝倉に似ている。
徳川とは状況が違う。
>>319 それは寝返りと謀反が続発したからでしょ
徳川本軍からそういう気配がない以上、持久の可能性は否定できんべ
>>320 徳川の岡崎奉行大須賀の謀叛の一因には領国の疲弊があったとされてるが
>>322 それって武田と敵対し始めてから何年経過した時の話?
>>322 されている理由は?
例えば武田や朝倉の末期にあった大規模な寝返りや軍役拒否などがあったの?
>>322 それは講談じゃないか
そもそも岡崎奉行はあまり疲弊と関係無い地位じゃない?
これが遠江の国人なら理解できるが
>>323 本格的な敵対が71年とするなら4年後
1575年の話しだったと思う
>>324 そんなものはないな
>>326 岡崎奉行は政務財務をつかさどるところなんだけど
328 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/28(金) 05:36:10
疲弊してたら一人の反乱じゃ済まんがな
朝倉や武田の末路を見てみ
信康母子なんかの潜在的反織田派の足掻き…って武田も今川を裏切って滅ぼしたうちの大名なんだよな
直接義元殺した織田がとことん憎かったのか?
それとも濡れ衣か…
どっちにしても同調者無かったし
329 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/28(金) 08:29:19
>>324 確か奥平信昌が長篠城ごと裏切ってる。信玄死んだらまた戻ってきたが
>>327 岡崎奉行が財務というか軍役を負担するわけじゃないから、
疲弊とは無関係ってことだろ。
税金が上がっても疲弊するのは国民であって税務署の職員が疲弊するわけじゃないんだから。
>>329 それは疲弊と関係無いと思うが。
話をぶった切ってすまんが(って言うかもう話終わってるよね?)
信玄が上洛開始した時に朝倉が越前に戻ったって言うのは、そんなにまずいのか?
信玄側から見れば当然、まずいんだろうけど、
朝倉側って言うか、客観的に見てそんなにおかしくないかと。
まず、信玄が病死するなどと言うのは朝倉にとっても想定外。
今まで浅井・朝倉が織田とずっと戦ってきたんだから、
武田も信長包囲網に参加するなら苦労をすべき。
美味しい所取りは駄目だろう。
また、織田勢力に大打撃を与えるには京の制圧が重要だが、
たとえ朝倉が織田本隊を引き付けていても遠江・三河・尾張・美濃と進む信玄より、
信玄が織田本隊を引き付けるなら越前から南下する朝倉の方が楽のはず。
ならば、信玄が出陣した状況を利用して瓦解寸前の自軍を立て直し、
信長が美濃から三河に援軍に行けば、その隙を突いて京に攻めることも出来るだろう。
(立て直した軍勢なら木下の防衛軍を破れると言うのが前提だが)
信長が美濃から動かなければ信玄がそのまま徳川を侵略すれば良いし、
浅井・朝倉はさらに軍勢を休ませられる。
信長が美濃から近江に動けば、近江に出陣して対陣すればいい。
>>318 この時期、織田は四方へ敵抱えて、ロクに援軍送ってないし
送りたくても送れない情勢。
>>331 全く同意。
そりゃ包囲網が一枚岩ならという仮定があっての話
朝倉撤退もそれに対して武田が怒ったのも自国に倍する兵士を擁する勢力と戦いたくないから
それに朝倉が上洛しちゃ意味ないじゃん
>>332 >この時期、織田は四方へ敵抱えて、ロクに援軍送ってないし
>送りたくても送れない情勢。
送る必要が無い情勢にも見えるが、
それに全領土を荒らされても降伏しない浅井の粘りを考えれば
徳川の状況なんて滅亡にはほど遠いが。
>>333 織田勢が実際比50%増なのはいつも通りだから放置するとして
包囲網は一枚岩だよ、ドコモ織田とは和睦していない事からも分かる通り。
一枚岩という言葉の意味をもっと調べたほうが良いな。
まぁただの煽りだろうけどW
>>331 畿内からできるだけ遠い位置で織田本隊を拘束して
織田領国のうち統制の弱い畿内近江で攻勢をかけるほうが
現地守備兵の寝返り離反をより誘えて可能性は高いな
逆だと畿内近江の中立的諸勢力も織田本隊が近くにいるんじゃ
余計な行動ができない織田に味方するとかになりそう
尾張美濃と徳川の三河は譜代が多い本拠地などから粘り強く抵抗しそう
>>334 72年に越前との境まで焼き討ちされているのに対し
徳川は東海道以南は無傷、荒されたのは山間部と東三河の一部と東遠江の一部が中心かな
前にもあったが武田は織田が援軍を出すのをためらうような距離の城を攻めて
徐々に勢力を拡大させるのが安全だが、
全体を考えれば織田本隊をできるだけ本国から引き離して拘束する方が良さそうだな。
>>335 どっちにしても自国よりかなり優位な相手に真っ向から勝負するのは避けるだろ
それに一枚岩ならなんで包囲網全体のこと考えずに武田は怒ったんだ?
結局織田を相手にしたくないからだろ
包囲網全体のこと考えればそれこそ
>>331みたいにするだろ
>>337 近江国の範囲が間違ってる。
遠江は過半を占拠されてるから、被害を受けた地域は過半どころの話じゃないな。
野田を落として吉田を攻囲する勢いだから、三河も東半分はほぼ攻略ないし従属
どー見積っても荒された範囲の方が少ない。
>>340 >近江国の範囲が間違ってる。
詳しく
三河遠江に関してはまた面積ですか?
どーせまた煽りだろ
過半とかよく言うが詳しく城とか地域を説明するよう頼むと
いつも答えが帰ってこない、または間違っているとかだし
武田派の理論ってどうしても東京都より岩手の方が大きいからみたいな理論なんだよな
72年に越前との境まで焼き討ちされているはずなのに
地名は伝えられてないんだね、不思議。
五分しか待てないのかよw
しかも
>>341には返答ないしwwwwwwww
援軍3千ってそんなに少ないかね?
武田軍の一割以上で、徳川軍の三割強
大名自身が全力で後詰するのでもない限りそんなもんじゃないの、どこの国でも
確かに家老衆や地元有力者が率いたにしては兵数が少ない気もするが…
徳川軍は2万以上という洒落にならない武田軍が撤退した後は即座に軍事行動を再開してるわけでしょ
残存を再編して吉田篭城で今度こそ粘る気なら別に不足はない
>>343 越前との境は境だろ公記には具体的に地名は載ってないが
どこかの峠じゃないか?
まさか三国ヶ岳あたりに兵を出したりするとは思えないしw
ただ文章の前後と位置関係から柳ヶ瀬方面まで行ったということだろうと思う
というか国境すべてを攻撃していないと駄目とでも言う気か?
何も無い山を焼くだけになりそうだが・・・
ぶっちゃっけ余呉や塩津から北は山ばかりだろ多少村はあるかもしれないが
武田は段戸山や京丸山あたりは攻撃してないからその辺は支配して無いだろと言われかねんぞ
「堂塔伽藍名所旧跡一宇」なら与語・木本地蔵坊中あたりだろ
翌日には近江国草野谷で放火し大吉寺の一揆勢を撃破してるから、浅井朝倉を支援してる一揆衆攻撃じゃね?
>>348 それ余呉付近でしょ、琵琶湖と越前間が一番狭くなっている地帯だし。
結局、北国街道は何も被害受けてないし、大して侵攻したわけでもないじゃん
>>350 それらのまとめに(打下の次に)浅井領の田畑を刈り取ったってなっているから
浅井と一揆の両方じゃないか?
この地域の浅井と一揆を分けてもあまり意味無いと思うが。
>>351 北国街道は何も被害受けてないって何で?
ついでにこれが大した侵攻で無いなら武田の徳川攻めなんてもっとたいしたこと無いと思うが。
1572年の時点で前波親子(親父は奉行衆)・富田弥六・戸田与次・毛屋猪介なんかぽこぽこ寝返ってる朝倉氏に対して
徳川の譜代衆からは裏切りでてないんだよな、本貫地が危機なのに
三河武士を犬と揶揄することがあったというけど、団結と忠誠心は抜きん出てるのかね?
目立った寝返りは全期通しても石川数正と宗教問題の時ぐらいでしょ
>>347 戦国史だと他国他家への万単位の援軍を出すにはほとんどの援軍が大量に時間かかっているから
無理かもしれないという話しもあったが。
>>353 単純に危機じゃなかったからじゃないか?
清康死亡時は一族間とは言えあっさり乗りかえられていたと思う。
>>352 湖岸周辺をちょろっと焼討しただけだからw
>>353 そりゃ譜代だし。
ただ、遠江、東三河の国衆、地侍はぽつぽつ寝返りうってるけど
国境をちょろっと焼き討ちされただけで譜代の奉行まで裏切る朝倉軍って何かおかしくね?
本領を捨てさせるほどな印象を相手に与える軍事行動があったとしか
譜代は万全で国衆もぼつぼつ程度か
ならまだ粘れるかな
ちょろっとの割にはそのあたりの一揆勢は再起不能なまでに叩きのめされてるが
朝倉浅井はこの時点で調略され、勢力圏を放火されても動けず友好勢力の後詰にも動けない
ようやく朝倉が大軍催したと思ったら積極的行動はできず裏切り続出する始末
信長が帰ったところでようやく動いたはいいが木下勢のみで撃退されて終り
ピークは志賀の陣で終わってるね
○○○は、また虚報流してるね。朝倉は滅亡寸前まで後詰しているから
そもそも、徳川は放火どころか攻略されまくりだし
362 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/28(金) 13:32:38
>>361 え?朝倉が一揆衆を後詰したってソースは?
>>358 三河はそうでも、遠江はごっそりだから粘れないよ
攻略されまくりでも団結が崩れない徳川軍団
国境付近まで好き勝手されても対応できず、本国乱入されたわけでもないのに崩壊する朝倉軍団
こういうことかね?
地侍はこぞって武田に靡いてたからね
これで吉田城を落とされたら徳川家中にも激震がはしるだろうな
吉田落とせるかね?
実際に攻撃しなかったからなんともいえんが
後年勝頼が攻めたときは落とせなかったし
裏切り続出で、秀吉一隊に蹴散らされる程度にはだから著しい弱体化程度が正確
もう頭数を形だけそろえるのがせいぜいでしょ
もう少ししたら同名衆の軍役拒否まで始まるし
まぁ、粘って三ヶ月ってところだろう。
長くてな
↑ウソだらけですねw
>>367 後年攻めたって長篠直前に家康を引っ張り出そうと出向いたときだろそれ。
>>368 つーか朝倉・浅井全軍対羽柴一隊と誤認させるようなレスだな
どの程度の規模だったかわからないのに
朝倉氏は2年以上織田軍と恒常的に対決してたわけでしょ
近江は近いとはいえ、領外の遠征を何度も行ってるわけで
>>371 誘い出しってソースは?
三方ヶ原も誘い出し説が有力とされてるけど、そもれ実はソースないんだよな
信玄贔屓の軍鑑すらんなこと書いてないし
>>372 そんなもんじゃないの?
信長の留守狙った両勢あわせての攻撃がまったく頓挫してるんだもの
勿論要塞化され、防塁を備えた軍用道路すら作られた虎御前山に拠っての話だけど
守勢に徹する限りはほとんど攻城戦だったんだろう
>>374 三河物語だったか家康が固く門を閉じて出てこないため包囲を解いて長篠城へ
向かったと書いてあるよ
>>377 ソースは?
信長公記ではないよね?
確かに信長の勘気喰らった滝川とかが参加してたようだが隊としては木下勢でしょ
志賀の陣の前のような、電撃的に南下して森可成・織田信治らを討ち取った機動性と戦闘力の欠片もないね
>>375 そんなもんって良くわかるね。ソースは?
>>380 信長公記
朝倉始末記でも織田軍を突破できずに大嶽に城築いて後退、だし
>>381 信長公記には規模の話はないけど。
ただ人数を出したと書いてあるだけ
>>382 信長公記には織田父子は横山城に引き上げた、とあるけど…
その後朝倉軍は積極的攻勢に出た記録がないからな
最後の浅井救援軍では同名衆や魚住氏らの軍役拒否があって動きが鈍く、早々に撤退しようとしたところを追撃されて一気に滅亡に雪崩れ込む
>>381 朝倉始末記だと木下・磯野隊5000と睨み合っただけ
信長軍江北へ出兵
↓
小谷城付近へ放火、周辺一揆衆掃討
↓
朝倉軍、浅井からの織田軍劣勢の報告を受けて出兵。実態と違ったため大嶽を本陣として待機
↓
信長、堀久太郎を使者として決戦を求めるも朝倉無視。織田軍は虎御前山に要塞を普請。前波はじめ朝倉軍より寝返り武将出る
↓
秀吉を残して織田軍後退、浅井朝倉勢攻撃を開始するも撃退される
流れとしてはこんなもんかね>信長公記
>>386 何故より信頼性の低いものをソースに
それにそれを信じるなら木下・磯野隊5000あれば浅井朝倉の抑えは十分ということ?
>>356 余呉や木之本も湖岸周辺なのか
>>361 攻略されまくりって具体的には?
面積ならかなりのものかもしれんが
>>363 >>365 ぼつぼつじゃなかったの?
で具体的には誰が寝返っているの?
信長は十一月には美濃へ帰還している
一方朝倉は十二月まで北近江に在陣しながら目立った軍事行動とってない
十一月三日に行われたとされる攻撃を撃退されて終り
この間何してたのかね?
>>388 信長公記も織田方の記録として考えないとな
朝倉軍は大名自身が1万5千率いてるのに5千で抑えられる程度?
思ってたより早く弱まってるな…
信長公記は織田軍の負け戦や失敗も記録してるし
相反する史料が出てこない限り、別に疑う理由もないと思うが
>>389 奥山、天野、久野、菅沼、奥山、菅沼等、よく覚えてないけど
>>390 徳川への援軍を足止めしてたんだろ。
数で一方的優位にある朝倉軍が睨み合いに終始してたんでしょ?
なら十分じゃん
実際に退陣まで浅井朝倉軍何かした?
信長公記を信じるなら撃退すらされてるのに…
朝倉軍の消極性と裏切り続出は領国疲弊が原因かね?
援軍を出してばかりで恩賞が出せなくて、とか?
>>397 睨み合い=十分とは言えない。
朝倉にしてみれば浅井の後詰なんだから信長が撤退したらそれで十分なんだろ
>>391 単純に始末記より公記の方が信頼性高いだけだろ
>>399 それじゃ朝倉は信長が他戦線で戦っていても近江に出てこないとならないか
>>399 それならなぜ信長が帰還してからも対陣を続けたのか?
そして朝倉本隊と浅井軍という数的優位を抱えながら木下勢に対して何もできなかった(あるいは一度仕掛けて撃退されて終り)のか?
成立年代と軍記物という性格上朝倉始末記より信長公記がソースとして用いられるのは当然なんじゃないか
>>401 信長が他戦線にいる場合はまた別だろ。
信長がフリーハンドでいる場合と他戦線で拘束されてる場合とでは
朝倉にかかる負担や圧迫は段違いに違うし。
姉川戦後、信長の虚を突いて南下して森以下を討ち取り、退路を断とうとした坂井政尚を堅田で討った機動性と精強さはどこへ行ったのか…
軍記ってw
朝倉軍はただ存在するだけで織田軍を拘束しようとしてた?
んな軍事思想が当時あったんかね?
フリート・イン・ビーイングじゃあるまいし
>>404 朝倉にしてみれば浅井の後詰なんだから信長が撤退して別戦線いけばそれで十分なんだろ
重臣まで寝返ってるんだから、朝倉軍の軍機は信長に筒抜けでしょ
指揮系統を再編するまで戦闘することも退却も単にできなかっただけじゃないの?
虎御前山城塞を破壊しない限り、織田軍の締め付けは小谷に対して続けられることになるもん、信長が帰陣したタイミングで何も仕掛けないという説を取ると?だ
>>407 信長が岐阜にいるのと信玄との約定もあったからね。
織田への重圧かけとしても、信玄が史実でブチ切れたように12月退陣というのは不徹底
決戦としても後詰としても拘束としても不完全
内部事情によるもの、としか
馬鹿だな、秀吉らを拘束しただけで十分だろ
後の天下人だぞ。この時点で既に重要戦域を任された織田軍屈指の武将だ
秀吉隊5千は朝倉軍+浅井軍に匹敵するってことだよ
武田軍としても早々にこの精鋭が転進してきたら困るだろ
約束っつっても書状のやりとりで大まかな共闘が成立しただけでしょ
まだ三河攻略にかかっていた信玄が来るまで万を越える軍勢を領外に貼り付けろってほうが無茶じゃね?
既に織田軍と交戦して2年以上の消耗戦やってるわけで
浅井を見殺しにして来るべき決戦の日までひたすら守りを固めていた方がマシかも、
将軍も玉虫色状態のままで戦力と影響力を保持してさ。
朝倉も国外に出ず守りを固めていれば信長も攻めれないだろうし、
将軍及びその与党も表立って反抗しなければ信長も攻撃できない。
>>418 表立って反抗しても攻撃する余力皆無だったじゃん>信長
将軍一党の蜂起は速攻で潰されてるが…?
二月中の織田軍の機動を見る限り、余裕が無かったとは考えにくい
将軍が挙兵の手筈を整えてるのを察知してたんだろうかね?
朝倉軍主力を放置しての帰還といい、何らかの手段で情報をかなり取ってたかもしれん
このあたりは記録から推測しかできんが。兵力投入の効率から見るとそうとしか思えん
>>419 越州軍記義景記朝倉記あたりと朝倉始末記を別にするのがよく分からん
>>422 思うのは各人の好き好き。 空想に説得力はないがね
>>426 著者は不明で、成立が天正年間か1587年かその近辺(多分)
>>419 ぐぐっても全然見つからないんだが・・・
って
>>428で出てたか
著者が不明が微妙だな、直接関与した人間なら信頼性は高まるが伝聞とかだと・・・
それをいったら信玄生存の前提が空想どころか火葬並の妄想だろw
頭数だけは多いはずの朝倉の抑えを最小限の兵力で抑え
信玄の対処は徳川と若干の援軍だけで済ませた
包囲網の中心人物である足利将軍が本性を見せたら即座に兵力を集中して鎮圧
全てが信長の計算通り、という結果だからな史実は
新たな珍説の登場です。
皆さん温かい拍手で迎えてあげましょう
>>422 細川藤孝あたりが情報を流していたんじゃないかね?
藤孝が明確に義昭から離れて信長についたのは四月だが、その時に荒木村重の
仲介を務めていることを考えると、もっと早い時期から信長についてたとみて
いいだろう。
昨日の「歴史は動いた」効果かね
2月か3月辺りの書状もあるしな。
数年かけて信長を苦しめてきた包囲網も一旦崩れると連鎖崩壊だからな
信長の動きを見ると、確かに事前にかなり情報を察知してたっぽいな
将軍の二度目の蜂起に備えて大船を琵琶湖に用意させたりとか、やっぱり包囲網側に内通者がいたのかね?
浅井朝倉からはぼこぼこ寝返りが出てるからその筋か?
誰かが各陣営の情勢を把握し、主導権を握って計画的に信長を潰さない限り無理っぽそうだけど
足利将軍は名目上の中心とはいえ実力が無い
本願寺は坊主で大名が同盟まではしても指導を仰ぐとは考えづらい
一番野戦兵力が大きそうなのは武田だが、これはつい先年まで織田の同盟相手
誰もリーダーシップとれなさそうだね…
リーダーシップはともかく中核は武田軍だったから武田がいなくなったら瓦解するのは仕方ないな
中核っつーか美味しいところとりにしゃしゃり出てきて即退場って感じだけどなw
志賀の陣あたりが包囲網の真骨頂でしょ。信長自身が動けず、四方で勢力が侵蝕されてったんだから
では情報を得たわけではなく、信長はその才幹だけで華麗な各個撃破を完成させたというのが武田厨の意見なんでつね
武田厨のほうが信長を評価してるわけかね
軍機漏れといえば石川数正が寝返ったせいでそれまでの軍法を三河流から甲斐流に徳川が改めた話が有名だけど
前波とかって奉行クラスだけどどこまで詳しく軍事や外交の機密を知ってたんだろう
そんな「機密」を長期間保持できるほど情報管理の技術があったとは思えんが。
技術って言っても機械的なものじゃなくて組織論とかの方ね。
444 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/29(土) 16:46:08
書状か口頭暗記がせいぜいかね?
明智軍法なんかは堂々と発布されてるから機密というよりは規律だが
改変を余儀なく三河軍法は当然何かバレたくない要素があったのでないと辻褄があわんが
石川数正クラスになれば、機密を総括する立場だから改変は必要だろうけど。
信玄は浅井、朝倉、本願寺、将軍らとの連携による外線戦略、
信長は孤立無援の立場に立つ内線戦略。
もし信玄の寿命がいま少し長いものであったとしたならば、
時間をかけてジワジワと包囲網を狭め、信長軍を東奔西走させ奔命の内に疲れさし、信長を滅亡さすことも容易であっただろう。
ただ、外線戦略は諸勢力の連携、意志の統一が問題だな。朝倉の例を見ても…。
このスレでさんざん話題に上ってる配下の向背だけど、
これについては両勢力とも状況次第なんじゃないか?
所詮、武士は自家保存を最優先させる存在にしか過ぎんのだから、頭から、こいつは絶対に裏切る、裏切らない、などと決めてかかるのは危険なことだろう。
もし信玄の寿命がいま少し長いものであったとしたならば、
時間をかけてジワジワと包囲網を狭め、信長軍を東奔西走させ奔命の内に疲れさし、信長を滅亡さすことも容易であっただろう。
いやいや、時間をかけてたら信長のことだし、あっというまに括弧撃破されるだろ
そりゃ無理だ。信玄死ななきゃ東の重しが取れないからな
封じ込めるまではできても、撃破はそう簡単じゃない。
弱小で距離的にも近い浅井ですらあれだけ持ったんだし。
それと、少し時間があれば毛利くらいは引き込める。
信玄が死んだ時点で言えば、まだ織田にとって事態はそんなに容易じゃなかった。
>もし信玄の寿命がいま少し長いものであったとしたならば
この状態では、信長は東部方面に戦力(信長自身も)を割かなければならないわけだから、
そう大胆な行動には出れないのではないか?
史実においても、信長が積極的に行動を開始したのは信玄死後からなのだから。
単に冬だから、という可能性もあるがね。史実でも、冬にはあまり積極攻勢には出ていない。
そもそも史実では、信玄存命中にすでに西の重しが外れかけている。
ないない。冬だから作戦を見合わせるなんて余裕ぶっこいてる時期じゃないよ。
織田が各個撃破行動開始した2月はまだ武田軍が三河にいた時期じゃないの?
野田城落とした時期と大して変わらん
>>456 石山、今堅田に対する攻撃が浅井、朝倉滅亡に至るまでの本格的な攻勢の開始とはとても思えない。
この時期の信長の動きは、東を見つつ行動している、といったところだろう。義昭とも和睦を結んで時間稼ぎをしようとしていたのだし。
やはり、信玄の死が浅井、朝倉の殲滅(本格的な攻勢)を可能にした、と思うのだがどうだろう?
>>457 むしろ信玄が動いていたら将来の禍根を断つために義昭と和睦なんて手段をとらず
何らかの処置を施したと思うが。
将軍殺しは流石にまずいだろ
信長は既に義昭奉じて上洛した時に天皇から「天下御静謐」の綸旨を貰ってるから名分には困らないとはいえ、そこまでしたら旧幕臣系が動揺するだろうし
>>458 義昭とは和睦できれば一番いいでしょ
有形の力はかなり衰えても、無形の影響力はまだあるのだし
>>457 >やはり、信玄の死が浅井、朝倉の殲滅(本格的な攻勢)を可能にした、と思うのだがどうだろう?
あまり関係無いと思う。70年からの攻勢を受けて徐々に勢力を削られ限界に来ただけだと思う。
無論生きていればもう少し粘れただろうが。
直接的には阿閉だが。
462 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/29(土) 23:34:10
あるいは将軍を廃して別の誰かを立てるとか?
でも適当な後継ぎで、かつ信長の手元にある足利将軍家係累っていた?
>>459 殺すとは言ってない無力化と言う意味。
取り込みができればベストだろうが、
史実で信長はどうせまた反抗すると思って大船作らせるぐらいだから、
それは無理として。
監禁追放隠居城の破却幕臣の解体人質を取るなどの対処、
本当に困っているようなら将軍を4月の段階で7月の段階にまで追いこんでいるだろう。
和睦許すほどの余裕がまだあったんじゃないか?
>>463 信玄の死、武田の撤退と阿閉の寝返りは一連の流れと思うが
>>465 武田の撤退から結構時間経っているからあんま関係無いと思うが
阿閉が武田がこないから寝返った、というのは流石にな
それなら朝倉家中が信玄と義景が通じた時期に寝返り続出したのと合わんし
ちと武田を過大評価のきらいがあるような
まだ武田軍の出現が現実的な美濃や尾張ならわかるが近江でそ
>>461 465も言うように、武田勢の掣肘から解放されたことと
希望が無くなったことによる浅井、朝倉の士気低下は超絶大きい。
生きていれば、武田と和睦でもしない限り両家を滅ぼすのは不可能かと
>>467 朝倉家中のゴタゴタは義景の資質。
武田の影響力をあまりにも過小評価し過ぎ
>>468 >465も言うように、武田勢の掣肘から解放されたことと
>希望が無くなったことによる浅井、朝倉の士気低下は超絶大きい。
だったら阿閉はもっと早く寝返るだろ
信玄が生きていたとしても永遠に遠征していられるわけ無く
一度本国へ戻った隙に、史実に近い展開になるだろ
結局信玄が攻勢に出てる間信長の攻勢が止まる程度だろうな
浅井朝倉にしても少々寿命が延びる程度じゃないか?
2年以上織田と消耗戦やった上での家中寝返りでしょ
しかも信玄が包囲網に加わった時期だし。前波とかの集団寝返りは
>>470 遠征が終わる頃には織田家滅亡 というのは冗談だけど
一度本国へ戻った隙に攻めつけても
粘られたら武田勢がまた出て来るわけで、徒労に終わる可能性が高いね。
>>472 越州軍記だと個人的な遺恨らしいけど。
手勢も率いてないし
先年まで織田の同盟者だった奴が今更、って感覚じゃなかったのかね
浅井朝倉のように直接利害がぶつかる位置でもなく、東美濃でしょせいぜい接点は
突き詰めればなんだって個人的な遺恨だろ
>>473 将軍や岩成あたりは武田が一休みしてる間に瞬殺されると思うが・・・
六角や西近江も似たようなものだし
徒労にはならんだろ
岩成は信長出陣・7月26日岐阜帰還8月4日の間で攻め潰されてます
結局72年の時点で浅井も朝倉も六角もあと一歩ってとこまで追い詰められていたけれど、
信玄が参戦して少し寿命が延びた程度なんじゃないか。
>>480 武田軍が侵攻しているのに、んなアホなことできるのは
480ならではだと思うよ。
ぜんぜん延びてないだろ
しかも攻めたのは織田軍の一部でしかない。
>>482 武田が一旦甲斐へ戻った隙にという話しじゃないのか?
>>482 (´・ω・`)知らんがな。史実を出しただけよ
そこまで武田軍が凄い影響力もってると思うならソースだせよ…
武田は凄いぞ!を連呼だけで納得できるか( ´,_ゝ`)
つうか将軍第一次蜂起はまだ野田落城前後だからわかる
二度目はやけっぱちとしか思えん。武田軍後退の報は届かなかったのかね?
なんというかもう少し調べてから発言して欲しいな。
年表とか見れば、どれぐらいの短期間で決着ついているか分かるだろうに…
>>485 甲斐へ戻る理由が無いだろ
大内や毛利も数年に渡って遠征しているし。
それが武田厨クオリティ
>>489 なんというかもう少し調べてから発言して欲しいな。
年表とか見れば、信玄がいつ死去したか分かるだろうに…
>>493 それみりゃ信玄の死から数ヶ月たっているって分かると思うが・・・
>>494 毛利は全軍じゃない
大内は大大名かつ山城守護管領代
>>495 更にいうなら豊かな畿内だからある程度の現地調達可といったところか?
武田は占領したのは山ばかりだからなー
武田厨でつねどうみても
それもひどいという形容詞がつくような
野田近辺に武田軍がいる中、柴田らは平気で近江近辺に出兵させて敵対勢力平らげてるわけだからな
織田軍主力を拘束しうるほどの圧力は無かったとしか
この場合問題は派遣兵力の規模と信長が手元に残した数だが、適当な史料がない…
>>495 毛利勢は2万超とされてるけど?
>大内は大大名かつ山城守護管領代
って意味わかんないし‥ 武田も大大名
岩成は細川らに滅ぼされていて
六角は付け城作って包囲されていて
秀吉は浅井を抑えこんでるはずが将軍攻めに参加する余裕がある
>>495 しかも畿内には武田の友好勢力がいるし・・・
>>498 言葉は使いようだな。野田近辺とはいえ長篠城まで後退したあとの話だから
武田上洛を本気で信じてた形跡があるのかね?
本願寺に到っては信濃に兵を戻して一揆衆助けてなんて呑気なこといってるし
>>505 何が。年表を確認してみろや
野田落ちてから武田が長篠まで後退したのが何日で、柴田ら四将が出張ったのは何日だ?
>>503 おおよ
わざわざ敵の城を一つ一つ落として行く必要はないしな
長篠ならまだ三河じゃん
つまり武田軍の圧力ってその程度だったんだね
三河内での後退即総退却、とはっきり信長が事前に察知していたならともかく
>>500 >毛利勢は2万超とされてるけど?
常に全軍で包囲していたのか?
さすがに武田と大内じゃ武田が見劣りすると思うんだけど
>>508 ちょっとまて。武田軍は羽でも生えてると思ってるのかよ…
城は何も趣味で落としてるわけじゃないぞ。後方を脅かされたらどうすんだ
>>494 拠点を築いたうえで後詰の可能性の無い城の包囲戦を継続しているだけだろ
>>500 役職から畿内の徴税権や国衆を動員する権利があるから、
遠征の負担が少ないってことだろ。
>>501 余裕があるといっても、槇島攻めは信玄死後だから。
>>507 野田表撤退の報告が17日?
光秀、勝家とあと誰?の攻略が26日、でしたっけ?
>>507 2月15日野田落城、体調の回復のため長篠へ。
2月20日柴田等、出陣だが。
なにか?
>>513 何の話?
遠征時の太宰少弐は少弐だろ、出雲守護でもないし。
秀吉がいなくても攻撃に出れないぐらい浅井は衰退していたということか
>>515 差がほとんどない…やっぱり武田軍の圧力はその程度?
>>513 >>516 お前ら話がずれてる
少弐遠征ってそんな長かったっけ?
まあそれ以前に時代が違ってあまり武田の継戦能力の証明になるとはおもえんが
>>511 旧来からの勢力圏維持だけなら長篠城と二俣城さえ維持できてればOK!
もしくは北条に抑えを頼んでもOKさ!!
後は、軍鑑にあるように水軍使って伊勢に行くか・・・
まあ、伊勢にさえいければ京まではほとんど障害ないし
>>519 より時代が下っているから、武田の継戦能力はより高いだろうね。
他の例から考えても、最低であと10ヶ月は遠征可能と思う
具体的にどうやって二万五千を十ヶ月も食わせるわけ?
しかも策源地の甲斐から遠い敵地で
>>522 涙目乙w
たった数日じゃんか
軍勢を出立させるには事前準備がいるからそれ考えたら…
>>523 そんなことは知らん、ただし現実に実行した前例がある。
現地調達、あとは最強武田騎馬()軍団で輸送するとか
>>524 あの状況で信長が軍勢を解散させてるアホなら君の推論は成り立つよ
信長は武田軍の内情を詳しく察知してたとしか思えんね
まだ三河国中に武田軍がいる間の行動なのに素早い
野田城は捨てたんだっけ信玄は?
>>525 前例が武田軍に当てはまるという根拠は?
内情を詳しく知ってたとは思えんが武田の動向は多数の間者を放って
逐一調べてただろうな
長篠と野田って10キロかそれ以下の距離でしょ
その程度移動しただけで、武田の圧力が減ったと思って
兵を出すなんてことあるのかぁ?
柴田なんかの攻めるとこがすぐ近くならその理屈も成り立つと思うんだけど
信長がアホだったら信玄らが連合しなければ対抗できない勢力を築けるわけない
となると武田軍の圧力がさほどでもなく、朝倉軍が結局織田本軍を拘束できなかったのと似たようなもんか
>>529 信玄は行き当たりばったりのアホではないし無能でも無いから。
>>533 いきたりばったりで駿河取りの最中に三方を敵に回してますが
しかも一方は自分の迂闊な約束破りの攻撃で
>>535 当然そうだけど。
それとも、特別不可能な事情を何かしってるの?
ちなみに信玄は足長殿との異名があり、これは補給の輸送が
とても上手いことから付けられたそうだ。
可能と考えるほうがおかしいだろ
どこから食い物持ってきてどこを策源地に設定するんだよ
敵地でそんな真似したらそれこそ馬鹿だろ。そもそも浜松や高天神などの徳川方拠点は後方に残ってるんだし
>>531 京方面の重要性もあるだろうがやはり距離の問題というより
後退したということで圧力軽減があったんじゃないか?
>>538 別に浜松や高天神を通過するわけでないし信濃、奥三河のルートで十分輸送路は確保できる
>>540 武田の実績から考えて、敵地への遠征なら
駿河侵攻を数回に分けたことから数ヶ月が普通で半年ぐらいが限界なんじゃないか
延々長蛇の荷駄列で補給?
無茶苦茶だな、横っ腹突かれたら終りじゃん
流れを切ってすまんが信玄が健康なら本来の遠征時期は2ヶ月早い
8月頃から行われる予定だったんだよね。
やっぱそこまで込み込みにすると更にごっちゃになるよね?
武田軍のメインは略奪だろ
小田原攻めとかでもやってるし
孫子も「智将は敵に食む」とかいってるが、長期戦なら略奪で腹が持つとわ…
>>543 そっちのIFなら
1572年7月29日朝倉小谷着
8月8日朝倉からの寝返り
8月陣地群完成
ごろに武田がくると言う事に
ついでに9月織田軍岩村攻略?
も変化しそう
>>538>>541-542 限界は実績からいって1年半〜3年くらいじゃないか?
なんにしても、同規模の他大名に出来て武田勢では不可能と言い張るのなら
無理だという特別な要因、前例との差異を挙げてくれ。
547 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/30(日) 02:59:29
他の大名と武田じゃ同じじゃないからだろ
武田「が」長期戦できる根拠がないとお話にならん
例えば最盛期で同規模の百万石強でも上杉と武田じゃ内実全然違うだろ
そういうこと
>>547 おかしな論理だ。
まあ作戦可能日数が一日単位で一致するとまでは言わんが、
大体は似るだろ。
大体似るという根拠が一切示されてない
領国体制から補給システム、内外の諸条件が違う大名が石高が大まかに合うだけで似たような長期戦能力になるってどういう理屈だ
理屈以前の問題か
550 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/30(日) 03:30:06
>武田勢では不可能な理由
相手が織田信長だから(w
武田軍の最長遠征記録っていつの戦?
第二次川中島では、200余日の対陣で信玄は今川に仲介を求めてる
策源地の甲斐から近い状態でこれだから、三河以西まで押し出すのは現実的じゃないでしょ
もっと西に拠点を移せば別だろうが
策源地云々言う奴は古今東西空想的机上の空論好きという罠
今川に仲介を求めたのは実利を確保している信玄にとって無益な対陣だからでしょ。
>>549 領国体制から補給システム、内外の諸条件が違うといっても多少の差
実際、武田、今川、北条は非常に良く似ているとされてるし。
で、継戦能力に差が出ると詭弁を言い張りたいのなら、歴然とした差異を証明しないとね
武田軍の主食が芋やパンだというなら話は別だがw
554 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/30(日) 06:58:08
信濃にいて200日が最長…じゃ、駄目だ
むしろ士気の問題かな、睨み合ってるだけで軍内の士気が乱れて誓紙集めしなきゃならないていたらくだったし
空論なら武田軍の出陣が甲斐に軍勢を参集させてから行われていた理由を説明せよ
地方在番をそのまま送り出すのならいざ知らず、万単位を動かす際はそうしている
北条や上杉と同じなら、なお長期遠征不可能じゃね
その両勢ともあんまり長い期間領外に出て戦ったことないぞ
謙信の晩年の七尾攻めなら天正4年から5年の足掛けだが、その時も一旦帰国をして中断が入ってるし
武田軍は長期遠征できそうもないね
と、いうかそもそも大規模な遠征初体験かね?
>>556 謙信が小田原城を攻めたときは、連続して11ヶ月間関東で戦っていますよ?
>>558 それは、関東の諸大名が協力したからでしょう。
武田軍って、長期出陣は何度もあるけど、長期遠征はほとんどない。
560 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/30(日) 13:26:58
>>558 9月に沼田攻略・厩橋城へ入る。そのまま正月を厩橋城で上杉憲政とともに越す
2月に諸勢の糾合を待って軍事行動開始
3月初旬に小田原攻撃。1ヵ月攻囲しても落ちず後退
関東管領就任を挟んで6月には春日山城に帰還
2ヶ月の間を経て信濃へ出兵・第四次川中島へでしょ
11カ月連続っていっても実質戦えたのはその半分ぐらいじゃね
それも厩橋という基地があっての話で自己勢力圏を遠く離れた遠征といえるのか?
>>560 永禄2年の上洛(5000の兵)では、4月下旬坂本→5月上洛
→7月〜9月大坂・堺・高野山→再び上洛→年末帰国
これも六角の協力が得られたからだが。
562 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/30(日) 13:46:20
>>560 距離的には大遠征だろ?越後から小田原、古河、筑波、臼井あたりまでも逝ってる。
しかも13回も越年。謙信の場合が「関東の諸大名が協力」なら、畿内にも協力する諸大名を
作れば、信玄にも可能じゃね?
つまり当時の補給で長期遠征を行うには
・大規模な拠点が敵との前線に存在する
・有力在地勢力の協力を得られる
がいるというわけかな?
これに自前の補給・輸送力の問題がさらに絡んでくるだろうけど
謙信と信玄を同じにして比較するのはどうかと。
最大の在地勢力・徳川氏は徹底抗戦の姿勢のままですよ
じゃあ無理だね
そもそもそれは上杉軍の実績であり、武田軍の実績じゃない
信玄の小田原攻めは甲斐から碓氷峠を経由して攻撃したけど2ヶ月程度で帰陣してるし
作戦目的があっただろうから一概に比較できないが、武田ができるという積極的材料は今のところ出てないね
>>560 三河の長篠、作手、足助、田峰は遠征前から武田の勢力圏だが?
>>565 逆に言えば否定派は武田に実績がないから出来ないと言うばかりで
これもまた出来ないという積極材料にはならないけどね。
長期遠征できる派は過去の事例と同時代の大名と比較して武田も出来ると、
出来ない派は武田に関しては何年もの遠征実績はないから無理という主張だな。
こんなの答えなんてでるわけないんじゃないか?
>>568 ここの人たちは議論して自説を通すことに喜びをもってるのだから、そんな事を言ってはダメだよ
一箇所からの略奪や現地調達じゃその地域の限界もあるわけですぐ尽きるが
いろんなとこを回っていればいろいろ略奪できて長期も可能かも
というのはどうだろう?
>>567 それは悪魔の証明になるから仕方ない
>>568 大内は2回、毛利、尼子は1回、短期間で済むならばその方が良いのだから
大大名ともなれば、長期遠征が止むを得ない場合は可能という事だな。
前例大名との大きな差異が無い限り、長期遠征可能と考えるのが自然
信長厨が不可能と思い込みたいのは分かるけどね。
>>570 なるほど名案だ、一日にひとつ村を潰しながら移動。
米を隠す村があっても、信玄餅で食いつなぐ。
そういえば信玄餅って、1日に3個で米5合に匹敵しねぇか?
>>570 それが謙信の長期遠征の理由の一つか
関東各地からちょっとずつ略奪なり提供なりされているとか
>>571 だったら史実でも駿河遠征や徳川攻めで長期遠征しろよ
>>571 >大内は2回、毛利、尼子は1回
これって具体的にはどんなだったの?
>>566 >長篠、作手、足助、田峰
これが武田の大軍を支える前線基地となれるの、厩橋と比べると貧弱過ぎる気が
謙信の軍勢なんてまさにイナゴだよな
578 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/30(日) 16:55:22
他の大名ならできるから武田もできるって暴論だろ
一部の大大名がどうして長期遠征が可能であったのか?を抜き出してそれが武田に当てはまるか、をやって証明しなきゃお話にならん
史実の武田の実績で否定食らってる以上、こういう風にしないと駄目だよ
>>572 おーそういえばそうだ
つーわけで‥ 信玄餅を荷駄で運べば、食料問題解決だ。
>>578 他大名ができているのに、同じような武田だけはできないという方が謎発言だろw
必要なときが来たから長期遠征をする、それだけのこと
ざっとレス見てるが、長期遠征を否定する論拠や史実ばかりだな
武田厨の根拠ある再反論に期待
だから他大名(例に上げられてる大内他)と武田じゃ諸条件が全然違うだろ
同一視できる根拠が「できるからできるんだ」じゃただの池沼w
根拠を示せよ。具体的に
>>582 >諸条件が全然違うだろ
なら遠征できない諸条件を挙げなよ
もしくは武田が他大名と比較して特異な機構を敷いたという証明をね。
当時の動員体制は軍役衆の食料自弁
長期戦になれば大名が支給するという体制がせいぜい
だから略奪が横行する(禁制出してそれを防止する代わりに財物差し出させる「礼儀正しい略奪」も常態化する)
小田原へ大遠征を成功させた秀吉は、長束正家らに莫大な金銭を使わせて補給体制を整えているが、そこまで徹底した例は当然それ以前には無い
なんか子供の喧嘩だな
できない理由を出せって悪魔の証明要求の亜種だろ
武田は史実で長期に渡る遠征を行えていない、で終りでしょ
そもそも長期遠征を行えた大名自体が稀少
大内氏の例は恐らく1507年の京都上洛のことだと思うが。これは将軍を奉じたケースで管領代・山城守護として名実ともに現地で根拠地を成立させたケースだし
しかもその間は本国は尼子氏の伸張の圧迫を受け始めている
>>586 大内、尼子、毛利といった同規模の大名は実行しているのだから
武田ができないという特別な理由を出して証明するのは当然。
やろうと思えばできるだろうけど、
財政上の負担や士気の低下が大きすぎてあまり効果がないんじゃないかと思う。
68年から75年の武田より厳しい状況の信長でさえ、何度も岐阜に帰還しているんだから。
>>587 大内氏の例は少弐攻めと富田城を攻囲した尼子攻めもある
このケースは太宰少弐も出雲守護も持っていない敵地。
591 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/30(日) 17:27:40
>>588 だから具体的にどんな遠征だったのか挙げろよ
せめて合戦名ぐらい出せや
それとも適当に名前だせば誤魔化せると思ってるアホか?W
>>591 富田攻城戦、吉田攻城戦、少弐を筑前から駆逐し当主を自害させた時の遠征
少弐攻めは知らんが尼子攻めは毛利らと協力して、しかも長期どころか数ヶ月(正月に本国出発、5月末帰還)で撤退してるじゃんか
せめて年月と兵数ぐらい挙げようとは思わないのか・・・
尼子氏の吉田攻め(期間が長い第二次のほうだよね?)も、八月出発十二月撤退帰陣…
だいたい大内も尼子も領国化して久しいところから、さほど離れてない距離への出陣じゃん
京都上洛だけでしょ、年単位の長期は。それも特別の事情があってだし
全然傍証にならん、むしろそれぐらいでも数ヶ月がせいぜいねってオチじゃね
少弐攻めが、天文元年11月〜3年10月まで
尼子攻めは、天文11年正月〜12年5月
>>596 山口から博多間がさほど離れてない距離なのかぁ?
筑前、出雲とも領国化して久しいとは言えないし
同じ場所を攻めた合戦がごっちゃになってそうでわかんね
600 :
信玄:2006/04/30(日) 17:45:27
李舜臣「亜細亜の盟主、ここに在り!
栄えある600は神の半島にこそ相応しいのだ!」
朝鮮義民「ああっ、提督よ、何と美しき魂よ!
おおっ、世界三大提督の筆頭よ!」
>>593>>596 というワケで大内、毛利は1年以上遠征している
武田が疲弊しているw ならともかく、出来ないとする理由は何?
602 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/30(日) 17:54:54
どっちの言ってる事が本当なんだよ
もう信用できないから史料挙げろよ
で、長期戦できた理由は?海運か?兵站はどうしたんだ?
>>575 長篠には信玄の容態の回復のために2ヶ月くらい駐留してたから
前線基地、中継基地くらいにはなってたのじゃないか
>>602 つーかこのスレの(出るのか出ないのかわからんが)答えが本当だという根拠は皆無だよ
これだけスレを消費してお互いの意見を言ってるけど様々な史料をあたって研究してる
人なんていないからw
みんな素人考えで言ってるだけ
>>602 大内義隆記に載ってる、佐田文書とやらにも載ってるらしい。
領国規模が大きくなり余力が出来たからだろ
武田では長期戦不可能な理由が特別無いのだから
長期遠征可能と考えていいと思うが。
>>605 はいはい
「毛利元就郡山篭城日記」だと一五四〇(天文九)年九月四日から翌年一月十三日までが期間
>>598 守護権力考えると筑前はそれなりに領国化してると思うが。
武田が長期戦できるのならなぜそれまでやらなかったのか?
200日の対陣で音を上げ、2ヶ月程度で小田原から蜻蛉返り
優勢に進んでるはずの三河侵略戦ですら永禄13年、元亀2年〜3年と出陣帰還を繰り返している
この程度が限界じゃないのかね、史実から考えると
武田軍の根拠地は山がちな地形で運輸の労も大変だろうし
>>608 いきなり管領代持ち出すし、意味わからん‥
義隆は直前に太宰少弐への任官を望んで断られているし
>>609 思い込むのは自由、説得力は無いけどね。
義隆は大宰大弐(太宰少弐の上)に任官されてるだろ(『後奈良天皇宸記』)
他の大名ができるから(しかも出した例が非常に怪しい)武田もできるってのが一番の思い込みだろ( ^∀^)
島津が釣り伏せできるから同程度の大名もできます、とか
武田と同じ領国規模だから金山もきっともってます、というのと同じ発想
武田「が」遠征できる根拠じゃねーと意味無し
なんか武田自体の遠征能力の是非から必死に話し逸らししているようにしか思えん
似たような地理の大名ならいざ知らず、遥か西に飛ばしてどうするんだ
>200日の対陣で音を上げ、2ヶ月程度で小田原から蜻蛉返り
第二次川中島なら、謙信も誓詞を書かせるほど軍の引き締めに苦労してるよ。
同じような状態だった両軍が、片や13度の関東遠征や上洛(ただし平和外交的)を
こなすようになったのは、経験による慣れもあるが、本国の護りじゃないかね?
謙信の関東出先からの書状なんか読むと、春日山の備えや普請の詳細な命令が多いよ。
信玄もいったん難攻不落の巨大山城で留守を固めたうえでなら、長期遠征に踏み切れた
んじゃないかな。遠征時の補給問題は、信玄餅とかイナゴ作戦でどうにでもなりそう。
正確には
1542年の大内義隆の遠征は1月12日で翌年5月7日までだろうけど
少弐は詳しく知らん
ただ日明貿易を独占している大内氏はかなり特殊な例じゃないか?
617 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/30(日) 18:31:24
マジレスしていい?
信玄餅の発明は昭和40年代
しかも名前に信玄を用いたたけで、元ネタは安倍川餅だよ
>>610 筑前守護にはとうになってると思うが…
この時代はそれなりに意味あると思うぞ国への影響力は。
>>617 サンクス。でも、みんな知ってるよw
信玄なら何となく、ほうとうとか山国ならではの兵糧を考えそうじゃん。
>>615 豊かな関東平野をイナゴするのと
三河遠江の山地をイナゴするのはかなり差があると思う・・・
更に言うなら謙信の方は越後からの兵は万に満たない少数で残りは関東のもの
現地への負担に差がありすぎてすぐ行き詰まりそう。
>>619 >信玄なら何となく、ほうとうとか山国ならではの兵糧を考えそうじゃん。
一体何を根拠に…
若い頃街中ぶらついてた信長や農民だった秀吉とかならともかく
大名とした生まれ育った信玄にそういう発想あるかなー?
「雑兵物語」だと
水一升・米六合・塩一勺・味噌二勺が一人当たりの一日の支給分だったらしい
勿論、他に現地の食料食ってただろうけど
運搬方法は荷駄で運ぶか、腰兵糧で携帯していくか
624 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/01(月) 00:26:49
食い物の逸話だと、高橋紹雲が戦場で飯食らう話とか
井伊直政ら徳川家臣団の芋汁の話とか
木村重成の討ち取られる覚悟での節制とか
そんなものがあるね
対北条戦はそもそも深入りしちゃダメな戦じゃん。
早く切り上げたところに意義がある。
信長だって一つの戦場にずるずると居続けるようなことはしてないと思うが。
北条戦だけど、あれは本当に政治的な譲歩を引き出すための出兵だったのかね?
三方ヶ原のおびき出し説と同様に後世が結果から理由つけたんじゃないの?
当時史料どころか軍鑑にも載ってない後者に対して前者はどうなの?
態勢を整えるために作戦に中断が入るのは別に大したマイナスじゃない。
勿論退いてはいけない重要な時点というのはあるにせよ、区切りのつくところはある。
信長方にしても反信長方にしても、息継ぎなしで一気にカタをつける局面じゃないだろう。
何で長期遠征なんて話になったんだ?
>>626 じゃあ何が狙いだったというのかな。軍事的に見て。
どう見ても領土を削り取るような機動じゃないし。
一気に上洛が可能かどうか、の話からもつれまくって、だな
武田軍の行動パターンから考えれば一区切りついたら一旦甲斐に帰りそうなものだとは想うが
上洛まで行っちゃえば、同盟国から養ってもらえるんじゃないの。
下手すると数ヶ月で関係がこじれる可能性もあるけど少なくとも当面は。
鉢形城・滝山城を攻めて、失敗したんで南下。小田原を攻撃したけど到底落とせそうもないんで近辺に放火して挑発おびき出すも失敗
退却を開始したところ、落とし損ねた二城と小田原から追撃軍が出て三増峠の戦いへ
北条綱成に浅利信種を討ち取られるなど苦戦するも、氏康が遅れたことにより指揮の徹底を欠いた北条軍を押し返し山県隊が側面をついてこれを撃退
その後も駿河を巡っては吉原・沼津で交戦するなど戦闘状態は止まず
甲相同盟が復活するのは二年後の氏康死去以降
2万5千の飯食わせっていったら敵に回っちゃわないか?w
冗談抜きで補給の手当てがつかないならどっかで持久戦になった時どうすんの?
無理に一気に上洛なんて考えてなかったほうが可能性高そうだが
633 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/01(月) 01:35:56
武田信玄ってあれだよね
内陸国なのに超重要物資の塩を裏切りだがなんだか知らんが
あっさり止められた間抜け大名だよね
織田信長ってあれだよね
強盛を誇ってたのに超重要な自分の命を裏切りだかなんだか知らんが
あっさり取られた間抜け大名だよね
武田軍の補給は自弁一本槍?
>>628 実際に政治的譲歩なんてひきだせていない。
氏康は、自分が病気で死ぬまで武田との対決を改めなかったし、駿河から
軍勢を引き上げたということもない。
政治的譲歩が目的の出兵なら、失敗してますな。
そもそも信玄がそれなりのトシなのに悠長にじっくりと攻めるだけの余裕ないだろ
実際におっちんじまってるわけだし
それとも信玄の寿命を百歳ぐらいにのばすのか?
>>636 たしかに軍鑑にも高坂談として関東遠征は無益だったとの記述もあるが
10月に帰国して一ヶ月後の11月に駿河攻めをして駿河半国を切り取ってるから
全く関係ないとは言い切れないと思うが
>>639 敵地で略奪補給は孫氏の兵法の基本中の基本だからな。
ナポレオンが冬将軍に負けたのもそのため。
基本的には失敗だろうな
636へのレスね
>>636 でも死ぬときに遺言で方針転換を支持したんじゃなかったっけ?
即効ではなくても効いていてたんじゃないか?
それに、その後の信玄の駿河制圧を止められなかったところを見ると
北条にダメージを与え牽制して駿河制圧という目的を達成させしめたとは言えるだろう。
まあ政治的譲歩っていうより軍事的譲歩かもな。
信長岐阜に引きこもったらスルーして朝倉と合流
京都おさえられて反信長かき集められて不利になりそう
信長は野戦せざるおうえないかもね
長期戦にはならんよ
>>644 でもそれだと最初から駿河侵攻に専念してたほうが良かったかもよ
647 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/01(月) 13:07:27
さらしあげ
>>644 結果的には駿河制圧したが、最良ではないだろうって、話
小田原侵攻に因り綱成が撤退したのだから、意図通り上手く運んだとみていいよ
>>649 深沢城の綱成に苦戦して落したのは71年じゃ
役に立ってないじゃん
>>650 小田原侵攻直後に府中と蒲原を抜いてる。
守備兵力が引かれていたとかの事実があるならいいんだが、
それとか北条の後詰が通常より遅れたとかの事実とか・・・
>>650 深沢城も小田原侵攻直後の70年に一度落としてる
まあ、その後一度取り返されて71年に再び奪取したんだが。
一度目の深沢奪取は70年じゃなくて69年だった。
>>654 それだと結局駿河で消耗戦になったってことじゃないの?
ますます関東遠征の効果に疑問なんだが・・・
>>656 小田原侵攻直後の駿河攻撃で少なくとも駿河の支配権は北条から武田に移ってるから
>>657 それ反論になっているのか?
ただ関東遠征の効果の有無を直接立証するのは難しいだろうな、どっちも。
660 :
659:2006/05/01(月) 14:43:20
本人だけ呼び戻して、軍勢残した城まで攻略されたとしたらタダのアホじゃん
綱成はガチで手強いからな
北条最強の武将でしょ、当時
武田家とは親父が合戦で負けた宿縁があるんだっけ
664 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/01(月) 17:43:09
じゃあ政治的譲歩を引き出すためじゃなく、純粋な軍事行動じゃん
小田原の重要支城二つ狙って失敗している点からみるに、陽動成功も結果論かも
このスレ読んでると信玄がどんどんしょーもない親父に思えてくるから不思議だw
滝山や鉢形はもともと落とすつもりがなかった示威行為だろ
滝山は三の曲輪まで落としてるのに囲みを解いてるし、鉢形にいたってはわずか一日の攻囲だし。
示威行動は結果からの逆算でしょ
単に攻めあぐねて早めに切り上げただけじゃないの?
撤退戦で勝てたからいいものの、その残した城にいた兵に追いかけられてしまったミスもあるわけで
信玄がしょーもないんじゃなくてこのスレの武田厨がしょーもないんだよなぁ・・・
信長厨もしょうもないけどな
閑散としてくると決まってどうしようもない煽りをいれるのは信長厨だし
>>667 攻めあぐねて早めに切り上げたのに、更に北条領深く進軍したのでは
論理破綻がありませんか?
>>667 滝山城で3の曲輪を落としてるのに攻めあぐねてたというのもおかしな話だ
673 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/01(月) 21:12:19
本廓だけで耐えたんじゃないの
だいたい示威なら落とすほうが効果的じゃん
城に寄せて攻めたけど落としきれない
ま、これだけ痛めつければ、と小田原にかかったけど北条軍は亀。挑発も効果ないうちに時間切れ
帰る時にあれだけ叩いた(主観)はずの城兵が追って来る!
こんなとこが真相でしょ
だいたい相手の本領に兵を入れた時点で示威もへったくれもない、挑発だよ完全な
>>674 ほうほう、相手の領内に兵をいれない効果的な示威行為とは具体的になんだね?
周辺への放火とか?
戦国時代の気風として、放火した相手よりそれを許した領主に怨嗟を向ける性質があったそうだから
家康が奥平氏を寝返らせる前にやった各所への放火みたいなのじゃね?
本拠地まで攻撃するのは逆効果でしょ
信濃攻略戦の時、長時の館に火をかけて激怒させた例を知ってる信玄が同じ轍を踏むとも
普通に攻撃して落とせなかったんじゃないのかね
信玄が常に深慮遠謀で動いてる、というのはイメージでしかないよ
過去レスで既出のように失敗もすれば蹉跌も犯してる
信長や謙信もそうだけど、彼らも生きていた人間でつよ
放火なら信玄も北条領で燃やしまくってるぞ
>>667 「攻めあぐねて」って意味わからん。
じゃあ信玄はどうしようとしてたってのさ。真の狙いは?
まさか小田原城を落として北条を滅ぼそうとしてたと?
馬鹿も休み休み言え。
>>677 御岳城や鉢形城は普通に攻撃どころか1日で包囲を解いてる
滅ぼせるなら滅ぼしたほうが楽ではあるよな
北条領を併呑できればそれこそ大飛躍
一日で攻める手やめてるのか?
2ヶ月で戻ったことといい、随分堪え性が無いんだな
勝手に馬場が参戦してそれを処罰できなかったのもこのときでしょ
統制の乱れがあったのかね
もし半端に城攻めして、退却中に落としそこねた城勢から追撃受けるのが計算通りだとしたら、そのほうが不思議だよな
名将どころか愚将。結果オーライに助けられた博打屋でしかない
>>676 その小笠原長時領への焼きうちこそ、正に示威行為って奴でしょう。
それも実際その後小笠原家は武田との和睦に応じたらしいから、その成功例と言える。
まあ、その段階でそこまでの効果を意図的に狙っていたかどうかはわからないけど、
小田原攻めの時にはその成功の経験が念頭にあった可能性はあると思う。
>>683 そのくらいのリスクは想定内だろう。
北条はよく頑張ったがあれが限界。
信玄だって北条がフル戦力で追ってくるまで待っちゃいないよ。
北条に駿河から手を引かせるための示威行為だったけれど
期待したほどの効果は無かった
程度だったんじゃんないか
なんで効果がなかったことにしたいかな。
まず信玄の期待値がどの程度だったか分からないからあまり意味無いな
>>684 へ?天文14年の筑摩郡焼き討ちの話だぞ
示威行動だと示すのは結果から逆算した話
しかも北条軍との交戦は続いてるわけで
氏康の死後の方向転換はむしろ中小領主には優しいが大名相手の約束は平気で破る謙信の援軍無視のせいだし
691 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/02(火) 00:49:43
まぁ何事も結果オーライ
神算鬼謀も現実にその通りにならなきゃ意味無しだし
一応、北条家最強武将とその手勢を駿河から転進させるって成果は上げたわけでしょ
逆に言えば武田軍の攻撃はそれぐらいの成果を出せる程度のものだったってことだよ、故意か計画かは知らんが
「勝った!」と連呼しながら真っ先に敵陣に突っ込んでくという地黄八幡か
自己暗示かそれこそ示威行動かw
>>690 結果論だけではなく、作戦の進め方そのものが示威にしか見えない。
見えない人間には可能性ってものが一切排除されるんだな
じゃあ示威とする史料はあるの?
北条記だと「駿河に加勢を出して小田原は手薄だろうからその隙をついた」というような話になっている
「かやうに駿河へ加勢有て小田原の人衆少なければ、信玄其隙を伺、小田原衆の思よらざる方より碓氷峠を越て、武蔵国江戸、葛西にかかり、人数を二手に分て、小田原へ寄す。一手は八王子口より町田にかかり、つく井、滝山を責る躰にて道筋を追捕す」
城を一日かそこらで放置したのも小田原を一気に電撃的に突くためだったのかね
これだと一気に本拠地を陥れる狙いだから、攻囲の期間や遠征自体が短かった説明もつく。最初から急戦狙い
>>694 作戦の性格というものは読み取るものだと思うが。
「示威とする史料はあるの?」とはなんて間抜けな発言。
読み取るって
要するに 主 観 ってオチか(爆笑
主観とレッテルを貼れば論破した気か。
お前ホントに何にもわかってないな。
牽制でないとすると、一旦手をかけた駿河を放り出して北条本国に本気で攻め込んだということになるんだが、
いくらなんでもありえなくない?
ありえない
というのも北条本拠の小田原城はじめその他の城に本気で攻めかかった様子はないし
方々焼き討ちして甲斐に撤退。
一ヶ月たたないうちに駿河攻めを開始して大半を切り取ってるから
まあ、示威或いは駿河の守りを薄くするための布石的な意味だと思う
一向宗に謙信を拘束させ北条が援軍を頼んでも動けないようにして
武田が関東に攻めこみ北条に上杉との同盟の無意味さを悟らせる
そのための出兵と言うのはどうだろう?
駿河は今川軍蹴散らしたはいいが、北条軍が出張ってきて苦戦中
なら手薄の本陣一挙にと考えても別に不思議はない
だいたい示威説は一切史料が提示されてない
急戦説はあるみたいだ。この差はでかい
所詮主観<根拠ある意見、だから
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/02(火) 03:01:20
そもそも駿河攻略が完遂してない最中に欲張って徳川と決めた境を越えて攻撃させるなんて行き当たりばったりの極致だからな
信玄って実はギャンブラーなんじゃね?w
孫子に傾倒していた信玄だから、「兵は拙速を聞く…」の一説を実行してみたんじゃね?
>>702 信玄が用意した戦力が何よりの史料的根拠だと思うが。
北条を一気に潰せる戦力じゃない。
>>702 ろくに城攻めをしてないのに急戦説とは笑わせますね
おまえらどんどん焦点がずれていってますよ
武田が上洛しようと思えば長期戦は必死
そして長期戦が出来るかどうかが問題だろ
イナゴで行くかあらかじめ兵糧を相当量準備しておくか
前者なら長期遠征になればなるほど武田に不利
後者ならそれだけの兵糧が準備できるのかどうか
長期戦すると思ってる人はほとんどいないと思う
その前後の武田軍の行動のように数ヶ月単位で行動するほうが自然に思える
甲斐に帰ればその間に西がまとめられて上洛は不可だろ
信玄は短期決戦で領土を劇的に大きく増やした事ってあるの?
上洛の妄想だけはなんで特別なの?ねえ?
>>710 今川攻め小笠原攻め諏訪攻めは短期で終わらせている
今川小笠原攻めは最後で詰めを誤ったが
諏訪はともかく、今川や小笠原は最後の段階は短期間ですんだが、攻略を開始して
から終結までを考えると年単位になるわな。
武田厨は
短期間(一年以内)で三河、尾張、美濃、近江を突破して
上洛出来ると思ってるのか?
714 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/02(火) 18:18:46
俺が甲府から上洛した時は短期間だったけどな
たった三泊四日だったから、信玄も余裕で出来るだろ
715 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/02(火) 18:31:44
俺が京から甲府へ下向した時は短期間だったけどな
たった二泊三日だったから、信長も余裕で出来るだろ
三河遠江だけでも、城を落として戦後処理してと、どれだけ時間かかるか・・・
一〜二週間ってとこじゃね?
信玄が上洛を狙うなら、必ずどこかの時点で大きな会戦が起きる。
状況として、決戦を回避して城を取ったり取られたりを繰り返す時期ではなくなっている。
そこで織田軍の中枢をたたくことができれば攻略は一気に進展する。
クラウゼヴィッツが説くように、戦力を潰せば土地は後からついてくるからだ。
だから結局、合戦でどっちが勝ちそうかという大雑把な話に収斂してしまう。
どういう展開で合戦に至るかなんてとても予測できないのに無茶な話だが…
全体的な状況としては信長の方に分がある。
でも信玄の勝算も二割や三割はあるんでないのと超大雑把に夢想する信玄厨の俺。
堂でもいい話だが 軍板のクラウゼビッツスレて長続きしねえよな
>>718 信玄は大決戦で領土を広げていないのだが・・・・・
五分の勝ちを良しとして心を攻めて勢力をじわじわ増やしていったのだが・・・・・
だから、状況が変わっていると書いたじゃん。
自分のスケール、敵のスケール、同盟全体の大きさ、などなど。
状況が変われば必然的に戦い方も変わる。
状況が変わったから戦い方も変わるというのであれば
逆にますます慎重になる可能性もあるのだが
亀レスだが、毛利・大内が長期戦を出来たのは、
自身がその地方の最大勢力で、現在攻撃中の敵以外は、
自身に敵対できる勢力が無かったからだろう。
武田の敵としては上杉が居る。
上洛中は越中を攻めていたとしても、あまり本隊を長い間
他国に遠征したままには出来ないだろう。
つまり上杉が武田領を狙って出てくるまでは遠征可能ということか
>>724 出てきてからじゃ遅くね?
急に撤退するとなると難しいだろうから、
余裕のある状態で退却しないとね。
北信が無防備ならそうかもね
727 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/03(水) 02:33:22
>>726 北信の守備隊ってのは、(誰か知らんけど)
謙信が全力で侵攻してきても、撃退できるほどの人材なのか?
その時、信玄は尾張で信長と交戦中だったら、撤退したくてもできないぞ。
撤退する敵を追撃する時の尾張兵は戦国最強だから(w
728 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/03(水) 04:18:46
高坂君のこともたまには思い出してあげて下さい
撃退は無理かもしれないが北信の城砦群はそうそう抜けないでしょ
相手は戦キチガイだからな
織田の浅井朝倉とは比較にならないほど厄介
ある程度の期間持久できればいいんでしょ。
それに、謙信がそれなりの陣容を整えるならそれなりの気配は漏れるから、
実際の出陣より少し前から対応を取れるだろうし。
北信は高坂(春日源助)に任せても相当やられると思うが、
甲斐に攻め込まれなければよしとするべき。
史実では、謙信の関東遠征時(永禄3〜4年)に武田は割ケ嶽城を
攻略してるが、飯山方面は落とせてない。また、永禄10年には蘆名に北から攻めさせ、
武田軍は野尻城を攻略するまで越後に攻め込んでる。
ということは、留守にするのは越中の一向宗を煽っても、半年〜1年が限度か?
最近じゃ高坂は架空説が強いから無理じゃね?謙信相手だと信玄じゃなきゃ守りきれないだろ。
家臣がいつも簡単に蹴散らされるから戦上手の信玄でさえ、互角での正面衝突はひたすら避けたしさ。
北信濃を少し(村上・高梨らに)返して、謙信と和睦する。これで決定じゃね?
735 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/03(水) 17:02:44
むしろ謙信が上野に出てきたほうがやばい
内藤・小幡らは手勢と一緒に留守だから、北条の動きが鈍ければ上杉の南下を止めるのは難しい
まあ、謙信が武田に攻め込む可能性自体低いわけだが
>>735 74年に謙信が攻めてきたため勝頼が上野に赴いているから
1年後にはその可能性は高い
となると1年でどれだけ武田が動けるかだが・・・
1年間、甲斐に帰らず遠征して岐阜を落とすぐらい進攻しないと
上洛は無理やっぱ長生きしてもキツイのかなぁ…
739 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/03(水) 18:37:37
三河の10%を削り取るのに、すでに半年を費やしたわけだが・・・
>>737 74年に上杉は北条領土の上野・武蔵に攻め込んだのだが勝頼が上野に出陣した時期と
ソースは何?
>>737 あれって結局出陣しなかったんじゃないの?兵は引いたけど・・・
それで代わりかは知らないが高天神攻めを
兵を引いたなら一緒のことだな。
謙信と信玄は、関東上野で城を争奪しあってたからその延長かね?
上洛(?)出発年にも北条とともに謙信と対峙してるし
>>723 いまさらなに言ってんの?って感じだが‥
開戦時点の尼子はバリバリの大国だし九州では大友としばしば交戦中
それに対して上杉とは交戦していないから、まったく的外れな僻論。
あほすぎ
なんかずれてるな。
>>744 現在上杉と交戦してるかどうかじゃなくて、
長期遠征中に上杉に攻め込まれる可能性があるかどうかだろう。
上杉の南下を牽制するために越中や飛騨の一揆や豪族を信玄はたきつけたわけでしょ
それが収まれば再開される懸念は十分あるな
逆にいえばそれまでは大丈夫っぽそうだが…
本願寺が信玄に信濃に兵を出して一揆衆を助けてくれ、といっている点から見ると包囲網側の戦略は寄り合い所帯らしく混乱しとるね
>>744 開戦時点で尼子が大国でも、対戦相手の尼子を除けば毛利が最強で
他に毛利を攻める勢力がないってことじゃないか?
九州で大友と争ったのって、毛利の方からちょっかいかけたんだろう。
単に毛利にはそれだけの余裕が出たってことだね。
>>744 >>748 1563年に大友と和睦していて
尼子を追い詰めた時は大友とは敵対していない
尼子が一度滅んだ後に再度大友と敵対
750 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/03(水) 22:52:52
>>747 実際は信玄は関係してないんだがな。北陸の一向宗は本願寺とさえ抗争してたから。
カトリックとプロテスタントみたいなもんかな?
信玄の裁量ひとつで対抗はしきれないだろ。和睦すれば道も開けるだろうが・・・・・性格的にな
本願寺と加賀一揆が主導権争いして決着がついたのは大分前では?
例えば石山退去後でも北陸一揆勢は上杉より本願寺の指示を仰いでるよ
この講和は結局破れて一揆は倒されたけど
もしもさ、
信長が一切手を出さず、無抵抗で武田軍の通過を許し、
武田軍が上洛したとして、
その時点で、信長が手の裏を返して、武田軍を京都に封じ込めの作戦に出たら、どうなる?
しかも、その時、北信からは上杉軍が武田領に侵攻を始める。
>>752 謙信上洛時に六角朝倉が裏切るような状況か
>>752 ついさっきまで殴り合ってた人間が手のひら返してこっちに擦り寄ってきて、おまえはそれを信用できるのか?
勝頼と信長の養女(苗木氏娘)との婚儀の時期か、
奇妙丸と松姫の婚約時に上洛だな、信長が素通りを許すとしたら。
封じ込め策にも出ないだろ、信長も。
謀略で殺すのは戦国時代では当たり前だけど
それだけに用心はするだろうしな
謙信だって全く信用したわけじゃなくて2千ぐらい手勢連れて上洛だったでしょ
…って信長が義輝に会いにいった時の供回りってどれぐらいだっけか?
>>751 だいぶ前っていつ?この頃はガツガツにやってたんだけど。
何故本願寺よりも信玄の命令を重視して動くと判断するのか俺には理解できないな。
北陸方面は謙信の抑えとしては機能しないだろ。
759 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/04(木) 01:54:52
>>757 信長の最初の上洛(永禄2年)は供廻り80だな、美濃斎藤の手勢と揉めてる(公記)。
謙信の天文22年が2000、永禄2年が5000(年譜)。上杉本洛中洛外図屏風に、六角の陣幕
があるから、当時は義輝を供奉していた六角が警護の兵を出した可能性もある。
信長は無防備過ぎるから・・・
じゃあ、朝倉か本願寺の警護があれば、手勢は五千程度でいいのか。
永禄2年とは情勢がちがうとしても、あと一万ぐらい比叡山に隠しておくとか。
信玄は天台座主になってるんだろ?
うん、いいことを思いついたぞ。信玄は多宗派信者だから、法華宗・本願寺(顕如の義弟だね)・
天台宗(叡山)を頼みに、諸大名はあてにせず上洛する。謙信の脅威は北条任せ。これってok?
765 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/04(木) 09:16:57
上洛の時、斎藤氏に雇われた刺客団の前にわざわざ姿見せて
「オレを殺す?できるもんならやってみな( ´,_ゝ`)」ってかましたんだっけな、信長
相手は気を呑まれて何もできなかったとか
どこの時代劇の主役だよw
766 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/04(木) 09:50:20
>>764 高坂弾正昌信(軍鑑の伝承者で、軍鑑にしか名前がない)=春日弾正忠虎綱(春日源助で、実在)
両者をつなぐものとしては、永禄4年に香坂氏が武田に滅ぼされ、源助が香坂の家督を継いだ可能性がある。
したがって、人物像も山本勘助と同じく軍鑑のフィクションかも。
それは香坂=高坂でいいじゃん
それは佐久間の件も同一人物でいいじゃん!と言うようなもの
実在の人物に、伝記的なキャラクターを仮託する手法かね?
「山本菅介」って人物は実在したんだっけね。
書状が見つかって、確認されたんだとか。
香坂→高坂も同じ方法によるものか。
別人だという証拠もないけどな
悪魔の証明
可能性じゃなくて、香坂家を乗っとる為の養子が春日虎綱だろ
諏訪には四郎
仁科には五郎
葛山なら十郎
>高坂弾正昌信
こいつが武田史料に実在しないのは確か
春日虎綱は出て来るがな
春日虎綱(源助)は信玄の愛人だしな。
愛人を出世させた晴信様
ウホッ!いい信玄
晴信様カッコイイ!!
おっと、おまいら少しでいいから信長公と利家のことも思い出してあげろよ
織田厨はお引き取り願いますw
この程度で厨w
用語を調べなおして来いGW坊や
この程度ってどの程度?
直ぐにGW厨にするのはやめなさい
それこそが厨の定義であるのだよ
2万3千も動員してたら海津付近に残す兵ってそう多くないでしょ
信玄自身が総動員かけた川中島でも戦闘じゃ苦戦したのに、春日一手じゃ無理じゃないかね?
上野ならともかく信濃じゃ北条増援も期待薄だし
海津衆の一部は西進に参加してるからな
手薄なのは否めない
だからといって簡単に突破されるほど脆くは無いと思う
海津の城砦群は。
無論攻められたら信玄の本隊も転進しなければならないだろうけど、
時間稼ぎぐらいは海津衆だけで十分だと思う。
城砦群っつっても守備兵力あっての話でしょ
仮に残存の手勢が2千かそこらとしたら、3倍程度でこられたら短時間で突破されかねない
そもそも僅かな数で防げる程度なら何度も信玄自身が主力とともに対峙した過去の必要性を否定することになる
そりゃ城に拠ってる訳だからな
北信の防備は評価して秀吉のこもる砦の評価はしない不思議
そもそも謙信が城をスルーしたらどうするんだ?w
だから残存兵だけで防げるなんて誰も言ってなかろうに
川中島は海津を中心に特に山岳に城砦群を配置してるからそうそう簡単には抜かれないと
時間稼ぎは出来ると思うけどな。
まあ、また防げる防げないの水掛け論になりそうだが・・・
その前に謙信が信濃にくることの可能性は低いがな
791 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/04(木) 22:47:43
城砦群って具体的にどこのどんな城や砦を指すのよ?
防げるかどうかはそれ次第だろ
謙信主力相手に時間稼ぎできる?
無理でしょ、戻ってくる前にアボンされるよ
謙信は気まぐれだから。略奪ツアー信濃行きを思い立つかも
そうなったら春日以下全滅・慌てて戻ってきた武田は徳川と戦略レベルで挟み撃ちにされて
武田滅亡が早まるな
昨日から、謙信が来る可能性が低いという奴が居るが、
なぜ低いかの説明がないな。
希望的観測か?
>川中島は海津を中心に特に山岳に城砦群を配置してるから
>そうそう簡単には抜かれないと
西条山系(鞍骨城)とか東条山系なら、まるで役に立たんぞ
単なる街道監視の城砦(数十名程度収容)だから。
第一次川中島で川中島諸城はおろか、南端の荒砥城まで取られてるんだし。
>>794 史実からだろ
川中島の戦い以降謙信は主に北陸関東への出陣のみで武田とはまともに
戦ってないから
>>790 ならなんで徳川をもっと早期に潰しに行かなかったんだ?
上洛できるほどの長期遠征能力がありながら、なぜに甲斐といったりきたりしたんだ?
関東で武田と戦って石倉城を争奪したり利根川でにらみ合ったりしてるじゃんか
そんな無茶な論法なら浅井救援以外動かなくなった朝倉が武田に呼応して押し出すはずがない、とか暴論がいくらでも通っちゃうぞ
せっかく駿河取ったのに甲斐本拠地に固執するのは、やっぱり上杉や北条に気を許せなかったからかね?
まぁ新府に移転するだけで勝頼が総スカン喰らうような武田氏の体質のせいかもしれんけど
>>797 長期遠征はそれだけ負担もあるからそう何度も出来るわけでもないだろ
>>796 信玄が病死せずに上洛作戦を続行したという史実はない。
信玄が史実に無い行動をするなら、
謙信も史実に無い行動をしても不思議じゃないだろう。
信玄が病死しなくて上洛作戦を続行しても史実どおりに謙信が
攻めてこない理由を説明してみな。
小分けで遠征するよりは、一気にやってしまったほうが消耗は少なくてすむかね
孫子なんてまさしくそれを説いてるだろ
>>795 >西条山系(鞍骨城)とか東条山系なら、まるで役に立たんぞ
>単なる街道監視の城砦(数十名程度収容)だから。
このソースは?
第一次川中島って海津城の普請などはもっと後だろうが
史実では永禄10年あたりまで、謙信と信玄が出馬してないだけで
武田配下の信濃勢と上杉配下の信濃勢は信越国境で戦ってるけどな。
海津城一城でそんなに持つの?
それこそ過大評価では?
>>803 現地に逝って見ればわかるよ、小屋も建てられないほど狭い立地だぞ。
>>801 意味わからんね。何その論法?
途上で病死したために信玄の西上は頓挫したが
少なくとも信玄は上洛軍を発して三河まで進軍してるだろう
謙信は信玄の留守を狙って(今回の上洛時以外でも)主力を向けてきたことが
一度でもあったかよ?
808 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/04(木) 23:17:42
>西条山系(鞍骨城)とか東条山系
苦労して登ったが最後、降りてこられないよ。じっさい下りのが大変な山城。
だから攻めても意味ないし。
>>806 ソースになってないな
もっと納得できるもので言ってくれ
裏切りと軍役拒否で出てきたくても出てこれない朝倉と違って
上杉は単に攻める方向変えてるだけだからな
当然信濃に戻すことも簡単だ
>>808 鞍骨城で調べたら信長死後の82年に上杉と北条で川中島を争ったときに
景勝が清野鞍掛山(鞍骨城)に登ったそうだ
どこが数十人程度の収容なんだよw
812 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/04(木) 23:27:19
三河じゃなくて、直ぐに帰ってこれない場所(畿内とか)まで侵攻した時、謙信がどうするかを妄想するIFだろ
寿命を延ばすよりは現実的
>>807 上洛中に攻めなかったのは、上洛作戦中には越中の問題が片付かなかったからだろう。
史実と違って上洛作戦が長引いて、
越中の問題がひと段落した時にまだ信玄が上洛作戦中なら攻めないとはいえない。
だいたい、信玄自身が上杉に留守を狙われない為に、
越中で一揆を要請している。
信玄自身が謙信を警戒しているのに何を言ってるんだ?
謙信は永禄10年に野尻城奪還のために出兵。武田が越後に攻め込んだから。
永禄11年にも長沼(川中島も北)出兵。ただし、本庄の裏切りで動けず。
問題の元亀3年も、信玄の指示で蜂起した一向宗の越中に釘付け状態。
ここから謙信の信長との同盟関係が始まるから、信玄にとってはかなり厳しい。
>>813 絶対攻めないなんて誰も言ってない
ただその可能性は低いであろうということだ
本願寺や義昭は謙信を包囲網に誘わなかったのかね?
足利将軍家との関わりでいえば二度上洛した謙信のほうが信玄より近しい感じがするが
>景勝が清野鞍掛山(鞍骨城)に登ったそうだ
鞍骨(掛)山城は妻女山・西条山・雨宮城・竹山城などの本城(ただし小さい)だ。
謙信の妻女山布陣にみられるように、籠もることは出来ても、仕掛ける城ではないね。
>>815 で、その低い可能性の説明は「史実だから」か?
>本願寺や義昭は謙信を包囲網に誘わなかったのかね?
信長包囲網という意味かな?
義昭が謙信を信長包囲網に誘ったのは、信玄死後。
本願寺が謙信を誘ったのは、長篠以後だな。
そうだ
>>818 少し前のどこまで遠征出来るかでは信玄は「史実」でそんな長期遠征はしていないから無理と
いいつつ今回はその史実を否定する
開いた口が塞がらないほどのダブルスタンダードですねw
>>821 全部同じ奴がレスしていると思っているのか?w
ん?謙信は何度も信濃に出兵してる実績があるじゃん
少なくとも能力に関しての不足はない、というのは当然の前提だと思うけど
武田家の遠征能力の話と違ってね
このスレ、いま何人いるんだろうな??
誰が誰と論争しているのやら・・・orz
ID出したら全てオレの自演だと判明するから
俺と
お前と
大五郎
>>821 能力に関しては史実通りじゃないと話しに成らないだろう。
行動に関しては史実と違っても不思議じゃないだろう。
駿河衆がほとんど西進に関わってないのは北条を警戒してのことかね?
どっちにしろ背後に大勢力を抱えてるっていうのは面白くないよな
というか前提が変われば結論が変わるのは当たり前じゃないか
長期遠征が可能かどうか語るのと
長期遠征が可能な場合のリスクを語るのは別だろ
>>824 川中島の領有権が完全に確定するまではな
それ以後は一度もないけど
>>832 いいや、あるよ。謙信は永禄10年に信越国境に兵を出してる(野尻城奪還)し、
永禄11年にも長沼まで兵を出してる。信長との同盟後は、信濃出兵を申し合わせた
書状の交換もあるし。
>>833 野尻城奪還は永禄7年の第五次の時だよ
それに野尻は信越の国境にある城だし
申し合わせなんか一度も実行されてない
>>833 信長がドタキャンばかりで激怒日記書いてるけどな
>>834 違います。永禄10年5月に武田信玄が蘆名盛氏を誘って、北(越後菅名荘)と
南(野尻城)に乱入。謙信がこれを撃退(謙信公御書集・越佐史料などに原本所収)。
永禄7年7月の信濃出兵(第五次川中島)は、武田勢の塩崎出兵に反応した(荻野文書・新潟県史2116)もので、
約二ヶ月対陣。野尻云々は、野尻池事件(政景事故死)の間違いじゃないか?
>申し合わせなんか一度も実行されてない
史実は仰せのとおりだが、書状(村山文書・越佐史料5-231、歴代古案・越佐史料5-234)は現存してます。
信玄から持ちかけて謙信と講和は不可能だったのかね?
父祖の代からの仇敵の一揆やその元締めの本願寺tとも後年講和した謙信でしょ
やり方はあるように思えるけど
>>837 義輝も義昭も、何度か甲越和睦を御内書で勧めてるけどね。
なにしろ、なぜか互いに憎みあった仇敵だからなぁ・・・。
だからこんな遺言を??
「信玄亡き後は、謙信を頼れ。謙信はたけき武将なれば、若い勝頼をこめみする間敷候」(甲陽軍鑑)
それ作り話だから。
>>794 交戦していないからだよ、ぼうや。
謙信は信長様の御タメだけに存在したわけじゃない
>>814 北条と同盟関係だった間、一度も武田領へ出兵していないがな
>>824 上洛の近年は1度も信濃に出兵していない実績があるから安心、ともいえるw
北条との同盟不履行は領土返還問題のこじれだっけか?
武田との戦闘も信濃より上野にシフトしてたから、そっちにかまけてたのかね
上野を捨てる覚悟があれば大丈夫
だから内藤以下を遠征につれてきてんじゃね?
>北条との同盟不履行は領土返還問題のこじれだっけか?
そう、旧上杉領の返還だ。それと、佐竹・太田・里見あたりが相越一和に反対で、
あまり積極的に北条との同盟を履行してない。
>武田との戦闘も信濃より上野にシフトしてたから、そっちにかまけてたのかね
むしろ、越中だろうな。信玄が一揆を煽ってたから。
一向一揆だと越後の本貫地に波及する恐れが大きいからなぁ…
ある意味大名相手より厄介
>>836 詳しいね。優しい口調でなんかいい感じの人だね。
あれ?春日(高坂)って三方ヶ原戦後浜松攻めの愚を説いた逸話なかったっけ
留守番ならオレの記憶違いか…
851 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/05(金) 02:17:18
謙信がどんなに慎重な人物か知らないが、
武田軍が濃尾に深く侵攻して激戦しているのを知れば、
「これはいいチャンスだ。今のうちに信玄坊主の本拠・甲府を奪ってやろう」と思うだろう。(w
一揆勢など相手にしていたらきりがないし。
>>850 元亀3年なら、高坂弾正昌信(春日虎綱?)は三方原に参加して、浜松城から刑部への殿役を務めてますね。
ただし「軍鑑」(品第三十九)の記述。ご存知のとおり、同じく「軍鑑」によれば長篠で北信濃在陣(留守番役)。
通説では海津城主として川中島の事は高坂に、上野のことは内藤修理(もしくは小幡)という方面軍だった説も有力。
>謙信がどんなに慎重な人物か知らないが、
>>851 たしかに謙信は気まぐれですね、女性説があるほどで。ただ、天正2年以降なら
義昭の御内書(甲越相和議)を本気にして、信玄(もう死んでるけど)と同盟をした
可能性も否定できない。天正4年能登出兵時に「上杉御年譜」では、勝頼と同盟したことになってるし。
ちなみに一向宗と謙信の関係では、最近の説として謙信の義伯父である
高梨政頼が本願寺(信濃本誓寺)の大旦那なので、早い段階で越後でも一向宗の布教を赦したという
説もあって、越中方面は神保氏と椎名氏の争闘が大きなファクターだった可能性も。
椎名小四郎という人質が長尾藤景(謙信の従兄)の養子になってる関係で、当初は神保氏と
戦い、のちに椎名氏が武田方に寝返って、敵対する相手が入れ替わるなど、
越中情勢は変転しています。顕如の義弟でもある信玄にとっては、本願寺勢が健在のうち
は、謙信を牽制するのも楽だったと考えられます。そういう意味で、このスレ的には、
謙信の動向はあまり関係なく「上洛軍」を西上できたはずですが。
>>852 本願寺勢越中情勢がある程度落ちつくのが73年末
74年には関東出兵だから
上杉が行動の自由を得るまでは1年程度ってことじゃ
>>853 まだ起きてましたか・・・。
73年(元亀4年=天正元年)1月に、謙信と本願寺の第一次和睦(けっこう行き違いがあるけど)
同じ時期には義昭が信長と義絶(人質返還)で、畿内情勢が緊迫。信長が必死に謙信を味方に
つけようとした書状(謙信公御書集に写し)が残ってます。4月には信玄が病没し、8月に朝倉・浅井
が滅亡。越中在陣の謙信は信長との義理を果たして、仰せのとおり74年(翌天正2年)は関東出兵。
でも、これが関東を荒らしまわっただけで、陣地戦の戦果もなく越後へ寂しく帰還。信長から洛中洛外図屏風
を贈られますが、もう同盟関係は破綻していたらしい。天正3年の長篠設楽原合戦で信長が優位に立つと、
謙信もそれまでの政策(関東管領の立場での調停役)から領土併呑政策に変更し、
北陸平定へ。で、天正4年の能登出兵・天正5年の加賀(伝説の手取川合戦)。翌年、死亡。
この流れの中で、かりに信玄が生きていたとして(微笑)、上洛の機会をどのへんにするのか
興味深いものです。
>>854 >同盟関係は破綻していたらしい。
なんで同盟関係は破綻したと思う?
>>854 長篠後、謙信から信長に武田攻めの誘いがあったと思うが。
>>855 天正3年には、信長との書状の往還が途絶えています。
同じ時期、信長は村上国清(村上義清の息子で、謙信の客将)に信濃出兵を
誘い(諸州古文書)、関東衆にも謙信を介さないで直接書状(小林文書)を出しています。
同じく天正3年8月以降、織田勢は加賀国境を越える(高橋文書・富山県史1845)
など、一向宗を圧迫。翌天正4年に、謙信と本願寺の第二次和睦。で、能登出兵。
これらを総括すると、義昭からの要請というよりも長篠の結果が大きかったのでは?
その後、信長は伊達輝宗に「謙信の悪行を討つために、越後の本庄繁長を誘って背後を攻めてくれ」
(伊達文書)を出してますから、同盟の破綻は天正3年〜4年初頭が確実かもしれない。
長文、スマソ。寝ます。
武田厨(極右の考え)
・信玄が健康で長命
・1年以上、甲斐に帰らず遠征可能
・謙信が上洛するまで信濃、上野に進攻しない
・徳川なんか1ヶ月で楽勝
・当然、織田との正面決戦では武田騎馬軍団で楽勝
うん、これなら上洛できるねw
まだ起きてたの?
>>856 >長篠後、謙信から信長に武田攻めの誘いがあったと思うが。
ちがいます。確証のある史料があれば、教えてください。
「古今書状」「信長文書の研究518」によれば、
「長篠合戦で勝頼に大勝したので、美濃岩村城を落としたら信濃へ出陣する
信濃・甲斐を挟撃する絶好の機会だ。すでに家康は駿河に進出し、伊豆境まで放火した」(意訳)
という信長の書状があります。謙信と信長の書状往復がなくなるのは、これ以降。
ぎゃくに、信長から村上国清への書状が認められ、これに謙信が憤慨したのだとする説が有力。
860 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/05(金) 05:01:24
>>858 (⌒''ゝ,,,_ (⌒''ゝ,,,_ (⌒''ゝ,,,_
_i=◆=ニ> _i=◆=ニ> _i=◆=ニ>
(ヽ(´∀` ,,) .(ヽ(´∀` ,,). (ヽ(´∀` ,,)
ゝ、''<V>''ヽ ゝ、''<V>''ヽ ゝ、''<V>''ヽ
l=l:==:=U l=l:==:=U . l=l:==:=U
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| ハ イ ル ・ 信 玄 ー !
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>>821 信玄が負担の大きい上洛軍起こして甲斐から離れてるという史実はございますか?
その間に謙信が攻めてこなかったという史実はございますか?
前提が異なる結果持ってきて「謙信が信濃を攻める可能性は低い」ではな
862 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/05(金) 08:10:31
そもそも上洛自体の必要性が信玄にあったの?
信玄がどんな目的で戦争していたのか
別に天下統一なんて考えてた形跡はないでしょ
織田とぶつかるのはリスクが高いし
>>861 類似の事例では69年の駿河侵攻では約5ヶ月、三増峠のときは約2ヶ月の遠征でしたが
どちらも後背を脅かすというようなことを謙信はしていません
さすがにIFの世界になると大小の差はあれ全てのことが可能になるのであとは各人の想像次第です
ちなみに私は可能性の問題でいったら低かろうとは思います。
つまり五ヶ月以内に京都に到達しないとだめなわけですね
>>864 今言われているのは、年単位(少なくとも1年以上)上洛作戦を続行したらだろ?
5ヶ月や2ヶ月じゃ類似にならんと思うが。
まぁ君が勝手に思っている分には好きにしたらいいけど、
ここに書き込むような内容じゃないね。
>>866 比較対象がそれしかないからね
というか
>ここに書き込むような内容じゃないね
これって何様?
>>867 比較にならない事象しかないなら、
比較では証明できないって言うことだろう。
>>866 ここに書き込めるような高説を是非聞きたいな。
>>857 ということは信玄が生きていれば織田上杉同盟は継続
同盟が切れるのは織田の優位が確立した時と言うことか。
>>869 すくなくとも比較にならない事象で、
比較しようとする個人的な妄想以外。
>>871 5ヶ月というのは比較的長期の遠征で上洛戦をくらべては短いが全く対象にならないとはいえないな
それだけの期間謙信は武田攻めをしてないからな
直接的な証明ではないが十分傍証の一つにはなるな
>>872 5ヶ月間攻めてこなかったと言う事象は、
5ヶ月は大丈夫と言う事の証明にしかならない。
直接的な証明にはならないと言うなら、他にも説明が必要なはず。
お前は2ヶ月・5ヶ月攻められなかったから大丈夫としか言っていない。
>>873 一つの傍証だといったろ
お前はどうやら謙信が信長のためにわざわざ小康の信濃に攻めてくれるという立場らしいが
その証明はどうやってする?
それと俺は864ではない
マジレスするなら
69年の駿河侵攻では約5ヶ月、三増峠のときは約2ヶ月の遠征って
前者は本庄繁長謀反中だし、後者は越中攻めの最中
73年以降の諸問題が片付いた謙信が武田を攻めないという根拠にはならない
上洛軍起こしてお留守の武田さん家と
北条さん家が虎視眈々と狙ってる関東
前者だろ
何回も戦って因縁もあるし
>>874 なぜ信長の為なんだ?
今まで取れなかった北信のが手薄で取れる可能性があるんだぞ?
謙信が自分の為に攻めて不思議じゃないだろ。
>それと俺は864ではない
しかし、864の2ヶ月・5ヶ月攻められなかったから大丈夫という事に対しての
援護なんだろ?
お前自身は2ヶ月・5ヶ月攻められなかったから大丈夫と言う説明で十分と
思っているのか・思っていないのか?
>>875 マジレスするなら69年の駿河侵攻時には本庄の謀叛は終わってるから
>>877 つまり攻めても不思議ではない状況が証明なわけだ
それって証明になってるの?想像の域を出てないじゃん
>>878 言葉が悪かったか?
謙信は何度も北信を攻めた実績がある。
小康状態と言ってもお互い今後攻めないと誓約書を交わしたわけじゃない。
だから北信が手薄な状態なら、その実績に基づいて攻める可能性は高い。
これで良いか?
で、2ヶ月・5ヶ月攻められなかったから大丈夫と言う説明で十分と
思っているのか・思っていないのか?
>>878 色部勝長の戦死は69年だったような
駿河侵攻って68年12月からだろ
>>878 >マジレスするなら69年の駿河侵攻時には本庄の謀叛は終わってるから
え?そうだっけ。
駿河侵攻は68年(一説には69年1月)
本庄の謀叛は69年の春過ぎまでは持っている。
>>879 それだけの期間国元を空けて攻めなかったというのは一つの傍証と何度も言ってるだろ
実績にもとずいて北信でまた泥沼の戦いをするわけか
謙信はすでに越中や関東にしか出陣はないのにな
>>880 すまん、違った。赦免を願い出たのは68年だったけど許されたのは69年だった
>>883 だから「2ヶ月・5ヶ月攻められなかったから大丈夫」と言うのは
あんたも十分な説明と思っていないって言うことだろ?
だったら、一々弁護するなよ。
弁護するなら説明を付け加えてみろ。
今まで泥沼になったのは、北信を攻めたときにすぐ信玄が後詰に来たからだろ。
信玄の本隊が東海に長期間遠征しているなどと言った、
今までに無い状況なら泥沼にならず一気に攻め取れる可能性も十分ある。
だいたい関東だって泥沼だしな。
史実と違う状況が発生するなら史実と違う結果が起こって当然だろ?
>>884 傍証の意味を辞書で調べてみろよ
とってもとらなくても泥沼だよ。だいたい北信取られて信玄が黙ってるとでも思うのか
黙ってるなら甲斐まで侵攻されてあぼ〜ん
黙らずに北信にかえれば折角の上洛軍があぼ〜ん
>>885 >だいたい北信取られて信玄が黙ってるとでも思うのか
黙っていないに決まっているだろ?
北信を攻めたら信玄が反撃するから謙信は攻めないと言っているのか?
なにが言いたいのか?
信玄は攻めても反撃してこない時しか、攻めないのか?
どんな時だ?
ぼうしょう ばう― 0 【傍証】
(名)スル
ある事実を間接的に証明する証拠。間接の証拠。
「―を固める」
直接的な説明が無い事についての、傍証って意味があるのか?
ttp://s-mizoe.hp.infoseek.co.jp/mm61.html よりコピペ
永禄11年
1568
越中の椎名康胤、一向一揆と結び越後を脅かし始める。 輝虎、兵を率いて椎名の松倉城を攻め、さらに神通川を渡って放生津(富山県新湊市)に陣をはる。
3月16日、守山城(富山県高岡市東海老坂)攻撃を始めるが、鳥坂城主中条藤資から「本庄繁長謀反」の 報せをうけ、攻撃を中止し、
25日、春日山城に帰還する。
10月20日、輝虎、春日山城を発し、
11月7日より本庄城攻めを開始.しかし、雪とゲリラ戦に悩まされる。
12月28日、会津の葦名盛氏と米沢の伊達輝宗、輝虎に本庄繁長赦免を願い出るが、輝虎、これを拒否する。
永禄12年
1569
1月9日、本庄繁長、少数の兵で輝虎の陣営に 夜襲をかける.この戦いで色部勝長が戦死する.
3月、本庄繁長、葦名盛氏・伊達輝宗を通じ輝虎に助命を 願い出る。輝虎、これを容れ、繁長の子、顕長を人質とする事を条件とし、本領を安堵し、春日山城に凱旋する。
8月20日、椎名康胤を討伐するために越中に出陣する。堺川(境川)を越え、
22日、松倉城攻撃開始。 攻略後、河田長親を魚津城将とし、越中の守将たちを統括させる。
12月20日、関東に出陣、沼田城に入り、関東諸将の参陣を促す。
26日、北条氏政は沼田城の輝虎に 歳暮を送る。関東で年越する。
結局、駿河侵攻時には本庄謀叛が終わっているって言うのはガセね。
この頃からお歳暮ってあったんだな。
68年以降は越後で反乱、越中からの攻撃
関東にて武田北条の攻勢で、北信に出兵する暇が無かったとも言えそう
それまでは信濃で戦ったりもしていたが
75年以降は主敵が武田から織田へと変化しているから信濃に攻め入る必要はないし
『信玄が信長と戦っていて、すぐに撤退できない状況なら、俺らは一気に甲府を突きまつよ』(w
――謙信
つまりは信濃の優先順は他戦線より低いと
>>889 に追加すると、
永禄11年
8月中旬に武田勢が長沼(川中島の北)に進出。
謙信は関山(信越国境)に上杉景信と山本寺定長を、飯山に新発田・五十公・吉江を派遣。
信玄の駿河侵攻が12月13日だから、本庄繁長の謀反・越中の一向一揆は武田の陽動作戦だね。
つまり、信玄上洛(遠征)の条件として一定の陽動作戦、できれば越後衆の謀反があれば
一年半〜二年は謙信も動けないことになる。
>>894 他戦線というかまずは自分の領土の安全が先だろ
>>896 越中や関東への出陣は必ずしも自分の領土とは関係ないけど
他は攻撃してきているが信濃では攻撃されてないから当然信濃はあとまわしになったというだけじゃねーか
信濃で戦争したのは信玄の越後進出を阻むためジャマイカ
信濃が手薄だからってあんな山ばっかりな土地はいらねーよ
安曇野に住んだ経験あり
善光寺平(北信濃)は広いでしょ?
最近、観光で上田から川中島、飯山方面まで歩いてみた
海野から婆さんが「白布を、牛に引かれて善光寺」って、50キロもあるじゃんか。
何日がかりで牛に引かれていたのかと・・・・。
謙信が信濃に出たのは武田の北上に危機感持ったのと、縁ある高梨氏や村上氏の支援要請があったからだろう
信玄は普通に取り易い領地を侵略
善光寺から北国へ抜ける当時の通商ルートに沿っていけば北信濃を勢力圏に治めたいだろうし
>>898 北信濃侵攻は、信長の為以外の強い動機が無いでしょ
903 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/05(金) 17:22:15
>>854 一次和睦は上洛時の1553年に行っているよ。交渉は難航、決裂したけどね。
二度目は1559年、一向宗の布教を許す形で親の代から続いていた(為景が徹底的に弾圧してた)
越後一向宗とは完全に和睦しているよ。それをきっかけに入信した者も多い(うちもそう)
ただ本願寺と北陸の一向宗は別のものであり、あくまで徹底抗戦を唱えている。
信長が拡大した1573年に利害の一致で和睦したようだけど。
謙信は一向宗と阿賀北衆を上手く使えば一年ぐらいは抑えられると思う。
それ以上となると無理だけど。
41スレまとめ
>27-41テンプレ
>49-57軍記物での動員兵力
>52-100大名の評価・軍の強弱
>88-148武田軍の戦闘力と川中島の勝敗
>109>111村上旧家臣 >132上杉年譜や軍鑑の説明 >148第4次川中島に関する書状
>149-185武田上杉の財政と領国 牢人や当時の戦場の状況について
>162コシヒカリ
>210-240包囲網の齟齬について朝倉退陣の是非
>241-261 73年正月の織田軍の機動兵力 援軍無くても同盟は成り立つことについて
>262-291織田軍の冬の軍事行動の少なさと家康が援軍を求めたか
織田軍は包囲網の実情武田軍の実情を知っていたのか
>292-330徳川がどれだけ粘れるか・浅井との比較 大須賀の謀叛の理由について
>331-394朝倉退陣の是非・包囲網全体を考えての行動 浅井徳川の状況
>372-429羽柴対浅井朝倉と朝倉始末記
>386始末記の記述>428始末記成立年
>431-445信長は包囲網の内情を入手していたか・情報機密について
>446-539包囲網崩壊の原因について 畿内諸勢力がどれだけ粘れるか 武田軍の圧力の効果
>480岩成の滅亡年表 >514>515野田表撤退柴田等出陣年表
>490-645大名の長期遠征・略奪
>560>561上杉の長期遠征 >597>616大内の遠征
>625-706武田の関東遠征の目的と効果 654深沢城攻め
>707-767短期決戦と長期遠征における背後の安全・北信濃防衛 上杉の足止め
>757-766信長最初の上洛 >760信長謙信の上洛
>784-903長期遠征における背後の安全・北信濃防衛 上杉の足止め
>814>833>836川中島後の信濃での戦い
>859「古今書状」「信長文書の研究518」>889>895謙信68〜69年年表
取りあえずここまで
>>903 情報ありがとう。上洛時の本願寺との交渉は知ってましたが、1559年一向宗解禁とは越後の浄土真宗寺院に伝承があるんですね。
>>903 天正元年は松倉城が落ちていたり謙信順調だよね
揚北衆もいい加減落ち着いてるとだろうし
ただ、武田領の北信濃への侵攻は無いと思うけども。
>>907 阿賀北はやっかいな同盟者の本庄を追い落として、謙信信者の色部がNo1に
新発田も謙信相手には臣従してるから安定期に入ってるね。
北信濃は謙信にとって得る物がないからしないと思う。
上洛の陸路確保のための越中領土化から、上洛優先で武田とは
ガチでやらないような気がするな。信長の援軍あるとかならまだしも。
信長動かないでいらついてたみたいだしね。
上洛優先て謙信がですか?
得るものは少ないのかもしれんがリスクも少ないな
武田が折角一世一代の上洛軍起こしてるのにそう簡単に帰らないと判断すれば侵攻の可能性は十分にある
この時期の謙信は武田と敵対、織田と同盟。
>>907 ちょっと前提がズレてるかも。
史実で信濃侵攻の気配はないけれども、「年譜」の「越甲相和睦」(天正四年)、
「軍鑑」の信長が上杉討伐を名目に勝頼と和解交渉(天正五年末)した伝承を
考えると、いずれも長篠後の織田の優位、加賀での上杉織田の衝突が原因として
考えられます(どっちも確証のある史料ではないけど)。つまり、信玄の死後、
長篠で不利な立場になった武田と上杉に密約の可能性があること。
信玄が生きていて、織田と国力が拮抗していることを前提に上洛の可能性を
分析するのなら、上記の甲越同盟は不可能。謙信が属将化した北信濃衆をいつ
派遣しても不思議ではありません。まして、上杉織田の同盟関係が保持されてる
なら、大義名分の好きな謙信は確実に武田の後背を襲いますね。
それと、謙信天正六年上洛説は史料的(謙信関東出兵令を示す小島書状「歴代古案」・謙信書状「仁科文書」収録)
に成立しませんね。
しかし上杉軍は強くても略奪メインの補給体制と、被官化しきれない国人衆が主力だけあって攻勢に粘りがないからな
ソースが歴史群像で恐縮だが、上杉軍は軍一人当たりの人夫が少なくて機動力がある反面支援に問題があったそうだし
そこで現地調達
そもそもの目的が口減らしなんだろ、謙信の旅は
それに大将がいない領地なんざ短期間で十分だ
やはり、春日源助(海津城)で川中島を護りきれるかどうかだな。
信玄が氏ねと命じれば、命を張って護りきるかもしらんが。
死んだら駄目だよ
持久しないと
いま、室町後期の酒の史料を読んでるんだが、これによると
酒豪謙信の信濃出兵は可能性が低いな。
当時の主要な酒生産地・銘柄は、
京都の柳酒・山城の南蛮酒・越前の大野酒・加賀の宮越酒・相模の江川酒・河内の
天野酒・以下西国は略す。
つまり、越後・信濃・甲斐には有力な酒の醸造地がなかったらしい。
酒豪謙信は、若い頃に柳酒のある京都へ・壮年期に江川酒産地の北条と同盟・
晩年は加賀の宮越酒と越前の大野酒を求めて、北陸を平定。信濃と甲斐は眼中にないんじゃねぇの?
まあ、無いでしょ。
信玄死去の前後に信長、家康から都合4度?の信濃出兵要請が来たけど
全部完全無視したワケで、一応は返答していた相越同盟より紙っぺらい
というか意欲が全く感じられない罠
>信玄死去の前後に信長、家康から都合4度?の信濃出兵要請
仰ってる謙信の態度に異論はないんですけど、この典拠史料をご存知でしたら
教えてください。謙信の信濃出兵要請に信長が応えず、違約を問い詰めた謙信に
信長が申し訳ないと返答した書状(天正二年、村上文書・越佐史料5-231)は知ってるのですが。
宿敵・信玄坊主の息の根を止めるチャンスを、
甲斐にいい酒がないからといって座視しているわけがないだろうさ。
>甲斐にいい酒がないからといって
マジレスすんなw
>>917は釣りネタだろうよ。勉強にはなったが・・・。
>>919 んー2度でしたね‥
天正元年2月 家康からの書状(収録は古今消息集だそうで)と
天正元年4月 信長が要請したという情報(兼見卿記)と。
>>922 お手数かけて、すみませんでした。ありがとうございます。
甲駿相同盟や相越一和以上に、微妙な三国同盟ですね。
>酒豪謙信の信濃出兵は可能性が低いな
>信濃・甲斐には有力な酒の醸造地がなかったらしい
>甲斐にいい酒がないからといって座視しているわけがないだろうさ。
笑えるネタだな・・・ククッと。
ネタではなく、意外なる真実だったのさ
しかし謙信相手に書状や証拠言われても意味がないような気がする。
極度の気まぐれやだもんなw
信濃には酒がないから侵攻を避けたわけだ
おそらく銘酒のある越前狙いじゃないかな
じゃあやばいのは中国とかフランスとかの酒作り大国かw
930 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/06(土) 20:27:03
丁度直江津もあるしな
>>931 まあ、あれじゃ話にならんから、別に本気にならんでも
>>931 ふつーだろ?
むしろ、ここの織田厨(織田好きではなく)はソース要求しすぎだと思うが・・
史学板じゃアルマーニ
ソースがなくても、あぁ史料読んでないな、とか、あぁあの解説書の
請け売りで書いてるなとかは分かるから、スルーだけどな。
それを信じ込んで強弁する人には、こっちから史料提示して反論を待つ。
コーエーの解説書の範囲で論じ合うのなら、それもまた一興かと。
アルマーニ
ソースあるならソースの提示を求められても別段問題なかろう?
. ,、r‐''''''''''''''''ー 、
,r' `' 、
/ ヽ
. / , ヽ
,,' ; ,、、,_ ニニ ,、」、
l. :;;;i ´ .._`ー ‐''"....| 実は真田幸隆
l:,;'"`'、, . ,;ィェ、.. ,rェ;〈
. ';i l :::i;;,, ::' "......::'''ン .., .:::'''"゙,
l;゙、',.::l;;;i r ヽ. l,
l;;;;`‐;;;;;ヽ . './'ー'''ー‐' ', l;;;,,
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938 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/06(土) 22:17:39
>>934 その割りに強気だから笑えるスレだ。昔は書き込みしていたがソース提示もしないで
漫画の話しを信じ込んで話す馬鹿が多いから俺はもう書き込みするの辞めたな。
>>931 別にあの自称工房君って妥当な事いってるんだがなあ。
むしろ今の馬鹿な子供たちより頭いいよ
>>940 いやいや、本人ではないけれども
少しおかしかったかな
942 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/06(土) 23:10:04
どうおしいんだよwwwwwwww
武士 として 名前も名乗れない ような やつは 絶対に 殺します
毘沙門天の名にかけて
>>933 ソース求められるのは単純に今までの信頼度の差だと思う
>>939 妥当か?
確かに普通のスレなら妥当なんだと思うが
945 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/07(日) 11:00:10
>>943 通報してみたw
書類送検されたとき、リアルで君がなんと言うか楽しみにしてるよ
>>946 友枝嘉信ってさ何者なの?w
人生相談板でも発見したよ
715 :友枝嘉信:2006/05/06(土) 23:06:51 ID:3vNpWKkN
ここも 書き込み する やつ いたら 絶対に殺します
948 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/07(日) 19:31:24
あーあ
コピペしちゃった
>>947 ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、
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ヽ | _,ニ ニ,,,,,_ ソ./
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ヽ. -、、、、 ' /|
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ノ. | ヽ / |`ー-、
950 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/05/07(日) 19:51:03
951 :
無名武将@お腹せっぷく:
寿命無理に伸ばさなくても影武者立てて作戦続けたらってことにすればいいじゃん