【武田】2万5千で上洛【信玄】その38
http://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1136471056/ 情勢は信長包囲網側圧倒的に優位、という状況にて
信玄が死去しなかったらどうなっていたかを推測するスレ
以下、1572年(元亀三年)末日の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…99%(10000)*飯山以北は残す。
・上野…45〜50%(5500〜6250)
*利根川以西に北部と南部の東岸を加える
・駿河…100%(3750)
・飛騨…50%(500)
*江間150騎が先方衆となっている。元亀3年9月に木曾方面からの侵攻もあり
・越中…15%(1500)
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っている。71年には謙信に落とされているというのは
誤りで、近年は上洛開始時健在でほぼ確定。
・遠江…40%(2500)
*元々境の地域は両属の領主が多いうえ、徳川側記録に拠ると
侵攻により地侍が靡く様に寝返ったとある。東海道沿いに逼塞、ぺちゃんこ
・三河…20%(1500)
*山家三方衆を誘降、足助城を落とし、賀茂郡、設楽郡ほぼ全域・八名郡一部を支配。
・美濃…5%(675)
*秋山信友が岩村を制圧。
計32000〜33000 + 北条からの援軍2000
領国の疲弊はすでに始まっていたとする珍説があったが完全に否定された。
以下、不満を捌けるため織田寄りのテンプレ↓
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 19:03:40
このスレは使われない予感
まぁいいんじゃないか。
ちゃんとしたテンプレ貼っとけば。
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 19:09:41
だったら最初から貼ればいいだろうに・・
姑息なニンゲンはイヤづら
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
18(21?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。
総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上。領国の疲弊はすでに始まっていた
とする説あり、ただしソースは少ない。継戦能力にも疑問。
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。
総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山池田荒木和田など、淡路の安宅
などが味方勢力として存在。
●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。
総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
その他の勢力 東国
●長尾上杉
・越後…100%(9775)
*ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10%(1240)
*沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
・越中…20〜25%(1900〜2375)
*神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5%?(510)
*飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。
総計13425〜13900
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。
●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 19:14:10
越中…15%(1500)
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っている。71年には謙信に落とされているというのは
誤りで、近年は上洛開始時健在でほぼ確定。
このソースが知りたい
素直に
その他の勢力 畿内
●朝倉
・越前…100%(12500)
*寺社領については、明確な根拠を示さない限り否定されます。
・若狭…?
*守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)
総計12500+?
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。
●浅井
・近江…9.5〜14.5%(1850〜2825)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。これも考慮に入れた。
総計1850〜2825
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。
●六角
・近江…?
*愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?
●松永・筒井(反松永)
・大和(11225、ただし双方合わせて)
*寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×(両派とも)
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
●長島一向宗+国人
計20000?
遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。
●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接
軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。
※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ
の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。
●北畠
・伊勢…30%(4253)
*大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
するものが出る。
計?
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。
●伊賀
六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
12 :
山内一豊:2006/02/20(月) 19:18:35
その他の勢力 三好
三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)
畿内
・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。
・摂津(8900)
・河内(6050)
・和泉(3550)
*ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、
その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。
総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。
四国
・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には信長につく。
・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
*安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる
おまけ
●足利将軍家
・山城…?
*北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。
総計不明
・遠征能力×(史実でも城に篭った)
■三方ヶ原の戦い後の情勢。
1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
15 :
少し改変:2006/02/20(月) 19:24:04
■この情勢をもとにした推測。
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千〜三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
信玄率いる遠征軍は石高的には84万石〜90万石で21000〜22500ほど+北条の援軍2000〜3000
+美濃へ入ってくる秋山隊が3000ほど
以上。
過去ログはにくちゃんねるで漁ってくだされ。
そして武田騎馬軍団は最強です。
乙
乙かれー
38スレ まとめ
1-21テンプレ
32-39官位の自称
60-83本願寺一向宗 三好三人衆の動向と石成について 義昭蜂起に協力した者
78-100経済力
90-143織田武田領国の寺社領と大名の寺社勢力への対応
120-222武田の軍役衆の増加とそれに伴う収入減支出増・財政悪化?があるかについて
120両棟別共御赦免の書状 182棟別改
218-249武田織田の指揮官クラスの死亡について 武田の戦場での強弱
248-281原田直政について
268-297 368-369信長の人事・処罰・追放改易など
296-357家臣の領地替え
250-259戦国時代の農村状況・耕地不足か人手不足か
370-389分国法
390米以外の大名の収入源
401信長の畿内への矢銭要求のソース?「細川両家記」「多門院日記」「多田院文書」等
417-418謙信の商業政策
428-429織田信秀4000貫のソース
434-469茶器宝物の値段
470-479甲斐の棟別銭収入の推定
480-561特産物収入と検地の石高の範囲
562-571銭について
572-714信長の上洛への戦略的一貫性?武田の戦略 三河美濃攻め・駿河取得後上杉と決戦の可否
623義昭による織田斉藤の和議と破談ソース
648年表
715-766NHKの信用性 信玄は甲斐の石高を3倍にしたか
753甲斐郡別石高 758信玄堤
767-983甲尾同盟前の三河美濃攻めの可否
888-988本拠移転
>←これ外したら貼れた
いつからレス参照に制限が付いたんだ?
新スレになったとたんに消えた本拠移転主張者
…
>>1にわざわざぶち込みたいがためにやってたのか?
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/20(月) 23:07:42
落着いたね
まあ言いたいことを言い尽くせば自然と収まるもんじゃないか?
同じことを繰り返して二度三度と書いてもしょうがないし。
落差があまりにも大きすぎないか?
でも今川と結んで徳川と美濃つっつくってのが一番可能性ありそうじゃない?
謙信と戦えば負けるだろうし、北条相手にするには西から遠ざかるし、何より北条のほうがでかいし、今側攻めた史実だと息子失って北条と戦うことになるし。
年代とか西に攻める前提を詰めていけば面白いんじゃないか。
現状上洛無理ぽってなってるし。
テンプレが違くね?
本スレは別にたった?
>>26 具体的に。
前スレのそのままコピペして、改変したところは名前ランに改変したって書いといた。
>>1のは無視しとけば。
>>27 無意味
●織田
・尾張…100%(13000)寛永検地では52万石
・美濃…90%(12150)恵那、土岐を失陥 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…50%(9500)
*浅井・六角は追い詰め中。湖南のいつ蜂起するか判らない一向一揆。
・伊勢55%(8000)
*桑名・三重郡の一揆衆。南部5郡の北畠氏を除く。
・三河…0%(0)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族は家康の寄子。
総計43100
●徳川
・三河…75%(5500)
・遠江…60%(3750)
侵略しぬかれぺっちゃんこ
計9250 ただし味方が原の大敗でもっと減っている可能性大
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…99%(10000)*飯山以北は残す。
・上野…45〜50%(5500〜6250)
*利根川以西に北部と南部の東岸を加える
・駿河…100%(3750)
・飛騨…50%(500)
*江間150騎が先方衆となっている。元亀3年9月に木曾方面からの侵攻もあり
・越中…15%(1500)
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っている。71年には謙信に落とされているというのは
誤りで、近年は上洛開始時健在でほぼ確定。
・遠江…40%(2500)
*元々境の地域は両属の領主が多いうえ、徳川側記録に拠ると
侵攻により地侍が靡く様に寝返ったとある。東海道沿いに逼塞、ぺちゃんこ
・三河…20%(1500)
*山家三方衆を誘降、足助城を落とし、賀茂郡、設楽郡ほぼ全域・八名郡一部を支配。
・美濃…5%(675)
*秋山信友が岩村を制圧。
計32000〜33000 + 北条からの援軍2000
●朝倉
・越前…100%(12500)
・若狭…?
*若狭侵攻で一部を除く中、東部を支配、逸見氏・粟屋氏は織田についたため逼塞
朝倉軍の一部が粟屋氏の居城を包囲中。(武藤氏が反織田に回った)
・加賀…20%(1800)
計17000
('A`)
●浅井
・近江…18%(3500)
*伊香郡、高島郡の朽木、志賀境を除く、浅井郡7割、朝倉との関係上城は元々破却済み。
計約3500
●北畠
・伊勢…40%(5600)
*南伊勢五郡を領有、誰かが織田へ離脱したと主張し始めた国衆はもともと南勢ではない。
織田軍へ加勢するのは長島を根切りにした時の戦から。
計5600−α 織田は北畠一族や国衆を動かせないが
北畠も表立った行動は難しいかもしれない
●六角
・近江…30%(3000)
*人が居ない雑魚、甲賀郡他丘陵部を占拠、一揆みたいなもん
>>22 いるぞ。
でも今ちょっと忙しいからまた後で。
●本願寺
まあ、ぱっとみ3万人
●長島一向一揆
追い詰められた末根切りに遭ったのが2万人、おそらく3万前後かw
*信長の弟が拠る城を短期間に陥落させたこともある
●将軍
なんだかんだで、逃亡中の義美が2万人動員してたりする
ぱっとみはチョトワラタ
しかし‥いつも800辺りを過ぎると猛烈にスパート掛ける織田厨がいるけど
なにがしたいんだろうか?
すくなくとも今回は武田厨だな。
テンプレの主導権争いじゃないか?
子供だな・・・・
どんどん雑になっていくなー
テンプレに異議があるなら論拠なり史料なりを出せばいいのに・・
これだから織田厨・・・織田儲・・ではなく織田好きは困るなー
釣り針は隠さないと。
でも事実だよな?
そんなに釣りたいならvipあたりでもいくヨロシ
などと困ったちゃん信長厨が、他の織田派を煽ろうと画策中
と、武田厨が自演しております
はあ?なんかむかつくな
釣りとか言ってごまかすなや
テンプレに異議なり文句があるなら論拠や史料を出してみろ
それだけだろ?
テンプレに異議があるのなら、史料や論拠をあげよう。
「気にいらない」「ジエン乙」は論拠や史料になりません。
言い方が煽り臭かったのは認めるが、これならいいだろうよ。
しつこい釣り人は同業者から嫌われるぞ。
一応オレは理論武装しているので、下手な論拠や下手な史料は逆効果とは言っておく
>>53 ワロス。だから釣りじゃねえって。
なんて言うかなー
テンプレに文句あるヤツまとめてかかってこいや
きっと科学的なんだろうなー
画像張るくらいしか手段が無いたぁ、よほどきついのか・・・
騎馬軍団スレに帰れよ
以前はもっと強気だったのに・・・
>>60 同感
更に言うなら、以前のほうが数値はともかく説明はもう少しまともだった
…ひょっとして本当に釣りじゃないのか?
>>61 そうなの?
延々同じテンプレを貼り付けてるだけかと思ってたけど、そうでもないんだ‥
中の人が変わったんだろ。
あまり追い詰めると戦国最強武将スレみたいにAA連張り荒らしに豹変するからほどほどにw
武田厨用の上洛スレがスレストくらってるな
武田の本拠地がどうこう言ってたのはどうしたんだ?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っている。71年には謙信に落とされているというのは
誤りで、近年は上洛開始時健在でほぼ確定。
これは結局どっちが正しい?武田論?織田論?
986 :無名武将@お腹せっぷく :2006/02/20(月) 18:50:22
>>975 信康は岡崎衆を束ねる軍事司令官であって、何度も遠州に出馬しているよ。
そもそも若い信康に内政全般を委ねるわけがない。
甲斐衆を率いるのが義信でも構わないんだが、拡大を続ける武田家の内政全般を委ねるのは無理だ。
武田家の急膨張に伴い、煩雑で難しくなった内政の処理は、信玄個人の有能で賄われていた形跡がある。
なぜなら、勝頼の代になって武田家は次第に混乱し、求心力を失って弱体化していったように見えるからだ。
仮にそうだとすれば、義信に任せるなど無理で、信玄が甲斐を離れることも無理だ。
従って松本移転も非現実的ということになる。
前スレ
>>986 甲斐の内政を任せるなら穴山信君で十分だよ。
実際彼は攻め取った駿河を統治するくらいの内政手腕を持っているし。
甲斐の国人衆を統治できるくらいの家格でもある。
てか勝頼の代の求心力の低下は無理な軍役のせいでしょ。
>>68 椎名氏が71年に謙信に松倉城落とされて、逃亡
72年73年には椎名康胤は一向宗と合流して富山城にいるから健在ではある
>>65-67 話題逸らしの役目、大儀
>>68 長い空白の期間があるから落城してたんじゃねーか?ってことだったらしいが
書状だかなんだかが見つかって健在なのが判ったんだとさ。
>>69 奉行衆(名称違うかも‥)目付衆がいるじゃん
>>72 >長い空白の期間があるから落城してたんじゃねーか?ってことだったらしいが
>書状だかなんだかが見つかって健在なのが判ったんだとさ。
聞いたこと無いがソースは?
>>71のは通説みたいだけど・・・
>>72 >
>>69 >奉行衆(名称違うかも‥)目付衆がいるじゃん
ごめん。
良く意味がわからない。
てか、それは俺の
>>70に対するレス?
それとも前スレ
>>986に対するレス?
>>74 んー、2段落目は69が書いたと思ったんだけど
よく文面見れば違うね‥というわけなので
>>986へのレスってことでw
>>73 北陸の中世城郭第15号に書いてあるそうだから俺の代わりに読んでくれ
見つけたこれだね。
松倉城
別名:金山城
椎名氏の本城。越中三大山城の一つ。壮大な規模をもつ山城である。
豊富な金を産出する松倉金山を抱えていたため金山城とも言われた。
永禄11年(1568)、椎名康胤が上杉家を離反すると、しばしば上杉謙信の攻撃を受けた。
従来、松倉城落城時については諸説があり、永禄12年に落城したとする説が有力だったが、
その後の研究によって※、元亀4年(1573)1月に康胤が降伏するまで
一貫して椎名氏が固守していたとみられることがわかってきた。
椎名康胤の反乱は、永禄13年=元亀元年(1570)、飛騨三木良頼の仲介によって和睦が調った。
しかし康胤は元亀3年の加賀一向一揆の越中乱入に呼応して再び上杉氏に反旗を翻し、
再び上杉軍の攻撃に晒されるようになった。
そして元亀4年=天正元年(1573)1月に康胤は降伏し、
この時はじめて城を上杉方に明け渡したとみられる。
※「上杉氏文書集に見る松倉城の歴史について」佐伯哲也『北陸の中世城郭第15号』
ってこれじゃ上洛時はテンプレの
その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
を補強するような内容じゃないか?
武田側の史料は?
越中は色々入り乱れて争ってるから兵を出すのは厳しいんじゃないか。
仮に武田があったとしてもな。
織田で言う筒井あたりみたいな感じで。
73年1月に降伏してるんだったら1572年12月の時点では
出兵どころじゃないだろ。
武田派ではあっても、戦力には数えられないってところだな。
畿内の信長派大名たちと同じ扱い?
82 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/22(水) 20:45:45
>>70 > 甲斐の内政を任せるなら穴山信君で十分だよ。
> 実際彼は攻め取った駿河を統治するくらいの内政手腕を持っているし。
> 甲斐の国人衆を統治できるくらいの家格でもある。
そういう理由なら絶対ありえないと思う件について
乗っ取られてしまうじゃんw
別に誰が納めるかなんて重臣ならよほどのことが無い限り問題ないだろ。
大名の死とかそういう突発的ことでもない限りは。
義信も今川と結んでる仮定なら生きてるだろうし、なんなら信玄の弟にでも任せておけばいい。
>>82 てか実際不穏な動きなしに駿河治めたじゃん。
85 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/22(水) 21:29:22
戦国大名にとって親族や親兄弟ほど怖いものはない。
領国を留守にした親父を追放した信玄は、そのことが分かってるはずだ。
>>85 戦国大名にとって親族ほど大切な駒はない。
メリットに比べたらリスクなど極小。
大体、信玄の息子や穴山信君程度が反旗を翻したところで、それに靡く奴なんていないし。
そもそも当時の武田家では親族間のいざこざは無かったし、裏切りなどはありえない。
親族間でのいざこざはなかったかもしれないが
信玄自身が猜疑心強く信用しきれてなかった可能性はあるよな
ならラブレター送ってる高坂でも成り上がりを重用した馬場でもいいじゃないか。
そもそも蹴鞠名人を留守居にした義元はどうするんだ。
普通に穴山が駿河任されていただろう
難しい問題ではない
外地を任せるのと本国の留守を任せるのは全く別なんだが
信玄が遠征している間は本国の留守は誰が守っていた?
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/22(水) 23:15:43
徳川の場合、岡崎三人衆は身分の低いのが取り立てられたらしい。
軍事指揮権は息子に与えていた。
大久保、本多ら本国を任せられる重臣が連なるなかで、
こういう統治体制を取ったというのは、謀反を警戒していたからではないか。
そういう点でみると、留守居役は有力家臣なら誰でもいいという意見は首を傾げる。
多くの守護大名が守護代に領国を追われていた時代に、あまりにも警戒心がないのではないか。
三方ケ原時の甲斐の留守居は?
結局のところ、信用できるか否かと任せるに足る能力・格があるかどうかだろうな。
例えば信長は村木攻めの時は道三から借りた安藤守就の兵に居城の留守を任せている。
筆頭家老である林貞秀の反対意見を退けて。
また庶兄信広が謀反を企てた時、主君の兄が開門・入場を求めたことに対して留守居
役は拒否、周囲もそれにしたがっている。
てか信玄の家臣に甲斐を任せられるような信用できる人材がいないわけがない。
信玄ほど家臣の裏切りが少なかった大名もいないし。
岡崎三人衆のような身分が低い者が適当なら、そういうものを選べば良い。
三河の内政官僚に選ばれたからこそ岡崎三人衆の名は後世に残ったが、もともとは単なる無名の士。
その程度の人材が武田にいないわけがない。
家臣の裏切りの極めて少なかった信玄が、他の大名が行なったような本拠移転ができないわけがない。
大体、出陣中に家臣に本国のっとられた戦国大名なんているか?
そもそも不可能なんだよ。
出陣中ということは最大の兵力を手元にキープしていると言うことだからな。
留守役適任者がいるかどうかって、本拠移転とまったく関係ないよ。
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 01:31:25
>96
信玄は甲斐から一定の距離を離れると甲斐パワーが届かなくなって
死んでしまうのだ。上洛戦の時はうっかり甲斐から離れ過ぎた。
>>96 だから身近に本拠移転の前例が無くて、思いつかなかったんだろ。
信虎の本拠移転は水害を避けるためにちょこっと移動しただけだし。
それと、史実通り今川を攻めるのなら甲斐に本拠を置くのが適当だったし。
信玄は甲斐を愛してたんだよ・・・
天下を愛せよ・・・
北条家とか、結構身近な例だと思うんだが。
>>103 小田原移転は1518年か・・。
まあ信玄のとった戦略が最善とは限らないんだし、仮に史実で本拠移転可能な状況下にありながら移転しなかったとしても、移転が必ずしも愚策とは限らないんじゃないか?
駿河ではなく美濃を攻めることが大前提だが。
てか兵站の問題だけを考えると、美濃と北信濃のほぼ中間に位置する松本盆地に本拠を置く以外考えられないと思うんだけどな。
おまけに飛騨にも近いし、西上野への距離も甲斐からと変わらないから、機会があればいつでも狙うことができるし。
>>78-80 謙信の押さえ。
>>96 する必要が無かったから。信長は高い所に住みたかっただけだろ
>>105 兵站の問題だけ松本盆地で処理すればいい話だし
実際、史実の進攻路もそこ使ってるじゃん。
>>105 まぁ・・そうだな。
関東以外どこを狙うにしても甲斐よりはいいかも知れない
>>106 >>78は資料の提示を要求しているにもかかわらず「謙信の押さえ」とはこれいかに
>>108 は?否定したいならソース持ってこい
軍鑑には越中先方衆として書かれてるのだから。
>>109 どっちつかず(ともいいきれないか)で、武田の上洛に軍隊を派遣できる状態じゃない勢力まで加えるなら織田も色々と増加するぞっと。
>>110 とりあえず織田方もいろいろ増加させてみ。
話題そらし乙
もともとは武田厨の
・越中…15%(1500)
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っている。71年には謙信に落とされているというのは
誤りで、近年は上洛開始時健在でほぼ確定
に疑問が呈されて
>>77がでて、じゃぁ、武田の根拠は?ときかれてるのに、
その答えが
>>106の「上杉のおさえ」
では答えになってないどころか会話として成り立ってないぞ、と指摘したわけで。
そして何処の馬の骨とも知らない人間の軍艦の解釈と、
>>77、比べてどちらが信用できるかとなれば
>>77だからな。
>>106 進軍するたびに軍を甲斐に戻さなければならなかったのが、信玄が信長と比べて拡大速度が遅かった原因って言ってる学者もいるけど。
>>114 信長が1年中合戦を伴った軍事活動しているならその通りだろうな
そうでないならアホ学者か脳内学者。
>>113 言いたい事の意味がやっと分かったw 色々勘違いしてるから>google
>>110 秀吉と光秀の手勢も武田の上洛軍方面には派遣できる状態じゃないけど?
それと同じく、先方衆なんだから対謙信の留守役とでも考えればいいよ
>>115 実際、信長は美濃侵攻から武田滅亡まで休まることなく合戦してるじゃん。
とりあえず‥・伊勢55%(8000)*桑名郡の一揆。南部5郡の北畠氏を除く。
は確定として、近江も確定させないか?
さもないと、奴がまた過去の遺物を(2-13)ベタベタ貼り付けるし
確定として??????
確定されても困るが、ただ、毎回信玄系の織田系の勢力表を貼り付けされても
困るし、いい加減確定させたいのは同意
確定したところで厨は貼りつづけるから無意味に1000甲州金
そもそも確定しないに1000佐渡金
>>78 そもそも流れを見ると
>>77が武田側の史料なんじゃ
今まではもっと前に上杉のものとなっていたが
>>77によって
信玄上洛時まで粘っていたという可能性がでてきたのだから。
>>122 何とか粘ってるからこそ、信玄は謙信の心配をせずに(まったくってことは無いが)上洛しようとしたってことじゃないのか?
そんで、謙信を拘束することはできても上洛軍に兵を送ることまでは不可能だろ。
にもかかわらず武田系テンプレには「越中も武田領土で兵をだせますよ」となってるから指摘されてるわけで。
ところで、椎名氏って実際に信玄の軍役に応じて参軍したことがあるの?
>>117 んなわきゃないw
>>123 >越中も武田領土で兵をだせますよ
近江の半国は織田領だけど、一部しか兵を出せる状況ではないじゃん
>>124 武田側又は武田とは無関係に上杉側の勢力や上杉と戦ったことはあるが・・・
>>125 具体的には誰が織田にとって脅威になりそうだと?
ところで、遠山氏って実際に信長の軍役に応じて参軍したことがあるの?
ともいえる
>>128 上洛戦と元亀初期の戦いに参加してるが
信玄の駿河攻めや飛騨攻めにも参加してる
らしい
>>129 >上洛戦と元亀初期の戦いに参加してる
ソース出せソース、信長の軍役に応じて参軍したソース
そもそも、秋山は織田側の城として篭城している岩村城を攻撃しているのだが。
後に勝頼が攻め落とした東美濃の十八城も遠山一族の城。
132 :
129:2006/02/23(木) 13:38:52
>>130 らしいと書いたことでわかるようにソースとは微妙
歴史群像wと岩村町史w
武田は歴史群像がソースで織田は歴史群像と岩村町史がソース
133 :
129:2006/02/23(木) 13:39:48
誤 ソースとは
正 ソースは
>>131 なぜかそれすら知らない信玄厨が多い。
遠山氏が秋山の攻撃で重傷を負ったことも知らない信玄厨が多い
>>131 謙信も武田側の勢力である松倉城を攻撃しているけどなw
>>132 岩村町史にどんな記述があるか教えてくれ、無いだろうけど
>>134 誰でも知ってることを、勘違いして書き込まなくていいよ
>>134 >遠山氏が秋山の攻撃で重傷を負ったこと
それは諸説あって何とも言えない
>>135 遠山某と遠山某が元亀の畿内での戦いで死亡したという話
何故か遠山氏が武田に参軍していたことには突っ込まない信玄厨
>>137 諸説というか、元亀3年の11月だか12月でしょ。
それはそうと >遠山某と遠山某が元亀の畿内での戦いで死亡したという話
合戦場所くらい載ってるよね?
前スレのNHK問い合わせ人です。
「ご指摘の件ですが、歴史考証の先生から以下のような方法で導き出していただきました。
1567年より30年後に太閤検地が行われました。
尾張57万石 美濃54万石でした。
30年間の農業進歩や尾張統一の戦乱荒廃を考えて、
1567年ころはそれぞれ20万石くらい少ないと思われる。
それであくまでも目安だが70万石くらいと言ってもよいと思われる。」
との返事でした。
>>139 いや重傷時期は70年もあるし、
死亡時期も72年以外に73年もある。
>それはそうと >遠山某と遠山某が元亀の畿内での戦いで死亡したという話
>合戦場所くらい載ってるよね?
載ってたが忘れた、
どこかの城の包囲戦に参加してるという話しも載っていたがその時だったかも。
>>140 お疲れー
>1567年ころはそれぞれ20万石くらい少ないと思われる。
>それであくまでも目安だが70万石くらいと言ってもよいと思われる。
正直なんだかなーという感想。
>>141 まあ流石に全文は普通覚えてないよな・・・
自分だって公記や軍鑑のどこそこの記事言えとか言われても
おおまかな内容は答えられても正確には答えられないし。
>>141 当時の遠山家の立場から考えてありえないし
岩村町史にも載ってないっぽいけど。
>>138 武田に参加は
歴史群像で読んだことある
>>140 >30年間の農業進歩や尾張統一の戦乱荒廃を考えて
これじゃ他の国も一律60%ぐらいか?
テンプレにはあまり影響しないな
>>140 GJ。
たしかに戦乱による荒廃が入ってないのが太閤検地の欠点だよな。
なんせテンプレ時期より30年も後で戦乱終結後の検地なわけだし。
パーセンテージにするとおよそ36%の下降補正がかかるわけか。
これをテンプレに当てはめたらより正確な数字に近づくな。
だからって-36%が正確だという根拠もないわけだが。
ごめん岩村町史じゃない
今、岩村町史見て明らかに違うと感じた。
自分の発言見て岩村町史調べた人達迷惑かけて済まん。
>>147 織田だと尾張の戦乱はおおむね64年、美濃は67年、北伊勢は69年、近江は73年まで
続いてるのにたいして武田は甲斐41年、信濃56年(水内郡除く)
は早期に戦乱が終わってるからこれも考慮にいれるべきかな?
>>151 戦乱だけが原因ではない。
この時代は天災がすさまじいことになっている。
藤木久志氏の『飢餓と戦乱の戦国史』に中世天災年表があるが、毎年必ずどこかで
天災が起こり飢饉が起きている。甲斐や信濃の災害はその中でも多いよ。
尾張、武蔵に比べればモノの数じゃないだろ
タイトル間違えてた、正確には『飢餓と戦争の戦国を行く』ね。
そこからスパンをとって1560〜1575年の甲斐信濃尾張美濃伊勢近江東海畿内と
両家に関係していそうな地域の災害を抜粋してみた。なお「諸国」とだけある
記述は除いた。
1560年:長雨、疫病流行、多死(甲斐・上野)
1561年:天下大疫病、多死(甲斐)
1562年:日照皆損(甲斐)
1563年:麦大風損(甲斐)
1564年:大風雨・大洪水(山城)
1565年:諸国不熟・万民餓死(美濃)
1566年:大飢饉(京都・諸国)
1567年:大旱魃(大和)
1568年:大飢渇(大和)、大洪水(京都)
1569年:
1570年:大風、作毛皆損(東海・甲斐)
1571年:大疫(近畿)
1572年:地震(京都)
1573年:大風雨(京都・東国)
1574年:五穀不熟(上野)、風雨(伊勢)
1575年:大風洪水(関東)、虫損(大和)、夏霜降(伊勢)
本当はもっと古く、信秀や信虎の時代から抜粋した方がいいんだろうけど、今は
これで勘弁。余裕ができたらまた。
乙
甲斐大変だな
でも藤木久志だしな
>>155 コレ、ただ単に資料が偏ってるだけじゃん
記録だけ見れば京都は、大風、洪水、疫病、飢饉で悲惨なことになってるが
日記やら何やらが残っているから分かるんで
めぼしい資料の無い織田領が少ないのはある意味当然。
まるで見てきたかのようにおっしゃいますな。
甲斐の洪水は有名だな
>>158 史料の多寡が地域であるのは当然ですが、尾張ないし織田領を「めほしい資料がない」と
する根拠は?
織田史観が許せないから
>>161 支配形態や軍制?なんかが他家と比較してよく分かってないじゃん
明智光秀とか途中で退場した家臣の生涯も不明だらけだし。
>>161 例えば武田だと妙法寺記、甲陽日記、甲陽軍鑑、勝山記などあるけど。
市井というか天災などの記録が妙法寺記、甲陽日記、勝山記には載ってたりするけど
尾張の記録では何があるの?
記録が少ないとして、なんなんだ?
尾張にも甲斐と同じぐらい災害が起こったはずとでも?
記録が無い以上災害が無かったと判断するしかあるまいに。
話の流れをぶった切ってわるいが
>>165 >記録が無い以上災害が無かったと判断するしかあるまいに。
暴言。そこは「記録が無いので災害があったかどうかはわからない」だろ
2chで暴言ってw
そんな事いったら甲斐だって残ってないだけでもっと災害あったかもしれんだろう。
>>167 極論と書こうとしたが論ではなかったので暴言にした
>>165 尾張、越後、武蔵辺りは氾濫の頻発地帯だから。
もしかしたら、洪水発生が当たり前すぎて書かれなかったのかもねw
(そんなわけないが)
>>168 数ある記録に残らない災害ってなんだろう‥
今年の冬寒過ぎ!とか今年の夏暑過ぎ!とか?
年表をみていると尾張という文字はなかったが、台風洪水で伊勢が上げられているのが
それなりにみられる。地理的にまったく無関係とは思えないので、たぶんこの伊勢の
記録は尾張も含めていいのだろう。
173 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 21:53:51
伊勢って結構広いよ。尾鷲も伊勢だし。長島も伊勢。
長島から尾張は近いよな。
というか橋一個こえたら尾張
再び『飢餓と戦争の戦国を行く』より、今度は1500〜1559年の尾張と甲斐限定で
抜粋してみた。「諸国」「東国」という記述は除いたので、実際にはこれよりも
多くあっただろう。
甲斐
1508(長雨凶作洪水)
1511(口痺流行、人民多死)
1512(咳病流行)
1516(大地震)
1517(大雪、大洪水、五穀不熟)
1523(都留郡大飢饉、小児疱瘡死去)
1528(大洪水・旱魃・餓死)
1530(天下疫病、人畜多死)
続き
1531(小児疱瘡無限)
1533(天下日照、小児疱瘡)
1534(餓死疫病)
1535(咳気流行、多死)
1536(夏長雨、餓死、疫病)
1537(疫病流行)
1538(春飢饉、餓死)
1542(秋大風、餓死無限)
1544(夏餓死無限)
1545(大旱、飢饉、餓死)
1546(大風大雨水損、餓死)
1549(大地震)
1550(大雨大風、世間餓死無限)
1551(春中餓死無限、夏大旱魃枯死)
1552(凶作、飢饉)
1553(旱魃)
1554(大旱魃多死、大風)
尾張
1522(大風大洪水)
…なんというかね、信玄ってすごく頑張ったんだなあって認識を改めた。
山国は厳しいよな。
63年以降の災害が少ないのは信玄の功績なのかな。
信玄が信虎を追放して家督継承したのが1541年。20年かけてようやく政策が
実を結んだ…のなら美談ですが。
ただ、洪水とかならともかく旱魃だ疫病だのはどうにか出来るものでなし。
疫病は灌漑がうまくできるようになって
食料が安定供給されればそれなりになんとかなりそうだが。
>>178 >>179 >>180 そうだと思うが
諸国の災害に甲斐が入ってる可能性もあるので結論を出すにはまだ早いと思う。
また甲斐の災害に詳しい妙法寺記は1561年まで
甲陽日記も1550年代前半まで(53だったかな?)なので単に記録が残ってない可能性もある。
だろうね、尾張はロクに記録が残っていないってこと
ならオワリハ考慮しなくていいんじゃないか
だな、御囲堤とやらができるまでは災害が常時多発していて
記録する必要すらなかったんだろう
武田厨の妄想はすさまじいものがあるなw
実は武田厨と見せかけた織田厨
前スレの終わり位から変なのがまぎれこんでるな。
流れがおかしくなってるぞ。
進行も変にはやいし。
むしろ前スレの進行が珍しく普通の速度だった
大体一日に一桁が精一杯なスレなんだけどな。
あれじゃね?高校が本格的に休みに入ったから。
学校の休みなんて関係あるのか?
高校3年はともかく高1高2や中学生は休みじゃないと思うんだが?
信長公記に織田領内の災害が記載されてるよ。
数は片手で足りる程だが、信長がその災害に施したなど記述がある。
甲斐や信濃と比較して災害はかなり少なかったと考えてもおかしくはない。
濃尾平野は西から揖斐川、長良川、木曽川のいわゆる木曽三川が流れて
下流部で三川が接近し、かつ川筋が網目状につながる複雑な地形のため
常に洪水被害がもたらされていた。
>>194 ところが高さでいうと、三川と接して尾張の方が高く伊勢側が低くなっている。
洪水が起こるとまず水は伊勢のほうに流れ込んだのではないかね。長島も伊勢領
になっているし。
戦国期の木曽三川は洪水のたびに流れをかえていたそうだよ
それに尾張側が高いのは徳川時代に御囲堤を作ったからでしょ。
>>197 出ると思ったけど、違います。御囲堤を作る前から尾張側が高い。
堤をつくってからは完全になったが。
>>198 じゃあなんで御囲堤を作ったんだ?
ひとたび洪水になれば尾張にも被害がでるからだろ
>>199 主に美濃だけど輪中文化などもあるからこの地方は洪水の被害がひどかったのだと思うよ。
海西郡は被害を受けていそう。
美濃も大垣周辺は洪水被害を受けまくり。
俺は愛知県の海部郡に住んだ事があるが
たしかに三重のほうが台風の被害はでやすかったな。
三重のが先にくるからな
>>199 伊勢のが被害はでかかったが尾張でもある程度の被害はでたからでは。
あのあたりは海抜0メートル地帯だからな。
まあでも木曽川から被害がでる面積なんて伊勢や美濃との境のあたりだけだが。
>>195 それは江戸時代の地殻変動以後のことで
それ以前は越後と同じくほとんど氾濫原みたいなものだったろうな
>>205 美濃が21郡になったり18郡になったり・・・
わざわざ輪中造るくらいだしな、尾張。しかも人口密集地帯
208 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/25(土) 08:18:54
>>205 現在の流路になったのは1620年の大洪水以降。
戦国時代は主要なものだけで5本の派川が尾張平野を流れていた。
災害は多かっただろう。ただ飢餓に繋がったかどうかは難しい。
西尾張はレンコンの主要産地で、こいつは洪水に強い備荒作物としての要素もある。
米と違って、洪水で全滅というのは、あまりない。
209 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/25(土) 08:30:43
>>195 > 洪水が起こるとまず水は伊勢のほうに流れ込んだのではないかね。長島も伊勢領
そうでもない。
木曽川の水の勢いは揖斐長良川とは比べ物にならないくらい大きい。
農業用水に問題が起きることを百も承知でお囲い堤を作って、派川を閉め切ってしまったのはそういうことが理由。
それ以降は木曽川の水が揖斐長柄川を伝わって美濃方向へ、猛烈な勢いで逆流するようになったので、
薩摩藩に頼んで3戦分離を実施した。
これらの工事が終わった現代の目から、当時の状況を考えてもあまり意味がないと思う。
>>208 商品作物作ってる場合じゃないだろ
>>209 自藩を守るために被害を他へ押し付けるなんてなぁ・・・
尾張藩の陰謀かも?
陰謀もなにも、自分の領地を守るためにしたこと。
伊勢側は尾張藩の管轄にはないので手をつけようにもできない(する気もなかった
だろうけど)。
伊勢側には自力で治水工事できるほどの大藩はなかったしね。だからの後に幕府
が直接乗り出した(ついでに薩摩にやっかい事をおしつけた)。
山国のほうが飢餓は多かったろう。
213 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/25(土) 17:39:33
書き込みのはやきこと風の如く
他人と会話せざること林の如く
ネットで煽ること火の如く
部屋から動かざる事山の如し
,ィ __
,. / |´ ̄`ヽー- 、 ト、 , -‐、/./.- 、
/ | | ヽ l l ( 火◇風 ノ
/o ̄`ハ._.ゝ===┴=く.ノ- 、 ノ ◇ ◇ (
/o O / l´ ノ ヽ lo ',ヽ ( 山◇ 林 }
\___/. ト、 ● ● ハ ∧ `⌒/7へ‐´
/ ,イ レ_ ( _●_) ミl~T--‐彡 /./
/ ̄ ̄l. 彡、 |∪| ノ'l l::::::::::彡ー7⌒つ、
彡:::::::::::l ト、___ヽノ /| l::::::::::::ミ {,_.イニノ
彡ソ/ノハ ト、 \ / ,イ 川ハ ヾー‐'^┴
災害論争は飽きた。
続けるなら、言いだしっぺは日本中世の民衆の戦争と平和を閲覧して報告よろ
俺は県立図書館と数百m手前の市立図書館を間違えて半日棒に振ったからパスw
江戸時代に御囲堤ができるまでは尾張も三川の水害が激しかった、というのが正しいとすれば。
秀吉の太閤検地の時代にも当然水害は続いていて、それでも57万石をはじき出したということに
なるよな。
果たして太閤検地はあてになるのか?
寛永基準にしたほうが、よろしいのかと
寺社領とかいろいろ問題はあるし。
と、苦しくなるとループを狙う武田厨であった。
いまのいままで太閤で話してきて、しかもまだ正確なものも出せてないにもかかわらず、寛永の話なんか出来ないだろ。
寺社領ってなに?
>>216 もともと太閤検地もあてにならない
ただもっとも近しい年代だから便宜上使ってるだけで
>>216 元亀年間の状況を再現するのに太閤検地では正確にはできない、と言われればその通りだが。
だからといって太閤検地より寛永検地の方が再現性が高いなんて言われてもとても了承できん。
>>216 まだこんな事言ってるやつがいたんだ。
同一人物か?
>>216 なぜか織田有利の太閤検地がソースなんですよねえ
>>222 では、武田側に有利でなおかつ太閤検地より再現性が高いと判断できる検地史料を
出したら?喜んで改めますよ。
もちろん、寛永検地などは >220 の理由で却下ですが。
とりあえず寛永検地の史料でも上洛できるかやってみませんか?
「でも」じゃなくて現状では「では」だな。
上洛できるかどうかは石高の問題じゃないだろ
石高が最大の要因だけどな。
まさか少数の兵でも信玄公は勝てる!なんていわないよな?
石高が最大の要因?バカ言うなよ
周辺の状況を考慮すれば上洛できる訳無いのは明らかだろ
また織田厨
と、反論できない武田厨が現実逃避しておりますが、暖かく見も守ってあげてください
わかりました。見も守っておきますw
くだらないミスをあげつらうことしか出来なくなったか・・・
哀れだな
と、織田厨が顔を真っ赤にしてます
相変わらず喧嘩してますね、このスレッド
上洛できるかできんかはしらんがする気はないだろうね
織田方:織田家、徳川家、災害の記録w
包囲網勢:武田家、将軍家、本願寺勢、朝倉家、浅井家、六角、三好系
241 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/27(月) 16:19:52
242 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/27(月) 16:25:42
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
このレスをみたあなたは・・・3日から7日に
ラッキーなことが起きるでしょう。片思いの人と両思いになったり
成績や上洛がかなったりetc...でもこのレスをコピペして別々のスレに
5個貼り付けてください。貼り付けなかったら今あなたが1番起きて
ほしくないことが起きてしまうでしょう。
コピペするかしないかはあなた次第...
○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○。・。○
実は信玄は病死ではない
織田の忍者が暗殺したんだよ
妖刀伝ってアニメでやってた
>>243 読みました、ありがとうございます。
確かにこれでは織田家は滅びる運命ですね。
センゴクって漫画知ってる?
作者は信長ビイキだが、信玄の描き方が凄い
明らかに信玄>信長と言う描き方だ
真の織田好きは信玄の偉大さを理解している
馬場がいい味だしていましたね。
どんどんレベルが低くなっている・・・・
長期休暇に本格的に入ったんじゃないか?
今日も買い物に行ってたら昼間に小学生ぐらいのガキがスーパーにきてたし
センゴクは神漫画だな。蒼天ゴンタと比肩する
織田厨側からしたら面白くないかもなー
あんたは昼間にスーパーに買い物にいくのか
だってニートだもん
信玄が凄くないなんて、ほとんどの人は言っていないと思うが。
それでも信玄は上洛できないと言っているだけで。
>>253 ま た 織 田 厨
数々の論証結果上洛はできる可能性は高いと言う結果がでましたが?
確かに可能性が高いだけでできるできないは問われていませんが、念のために。
可能性が高いけど、出来る出来ないは問わないってどんな日本語だ?
>>254 何スレ目のどのあたりで出た結論か言ってくれ
上洛する可能性が高い→失敗する可能性もある
上洛する可能性が低い→成功する可能性もある
上洛できる→100%可能
上洛できない→100%不可能
どんどん頭悪くなってるなこのスレ
春にはまだはやいというのに
>>254ではないが、実際みなさんはどうなんでしょう?
今まで武田家が上洛する可能性は高いと思って発言し続けていましたが。
単純に
>>238の状況を見れば分かりますが、あの状況で信玄が侵攻を続けていれば
火を見るより明らかだと思うのですが。
>>258 君は凄い頭の良さそうなレスをしていますね。
春にはまだはやいというのにね。
>>259 その包囲勢の実態がどの程度のものだったのか、過去スレを読んでからもう一度こい。
>>259 可能性としてはないとはいえないな。
例えば甲陽軍鑑にのってる上洛方法だけど伊勢湾を渡り伊勢に上陸。
伊勢には北畠・長島があり伊勢から伊賀、南近江を通ればほとんど織田の所領を
通らずに上洛は可能。
>>259 三方が原直後の情勢から、一気の上洛は無いと考えている。
信玄が徳川を屈服させた後、織田の後詰の軍勢を破るとする。
(この両者の順序は前後するかもしれない)
濃尾両国の深くまで領国化出来たとして、そこで小休止せねばらなない。
ひとつには武田軍の継戦能力の問題。
ふたつには、織田の根拠地である、濃尾を安定化させる必要性の問題。
休止後、再編後の上洛ならありうるだろう。
結論:できる
〜終了〜
そもそも、あの状況で武田軍が侵攻を続けることができたのかどうかすら疑問視されているのに、
それを無視して武田有利な仮定・前提で語ればどんなことでも出来るわな。
266 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/28(火) 01:42:35
>>263 ほぼ同意だが、
織田との後詰め決戦に勝ったとしても濃尾侵攻は無いと思う。
同様の理由で、まず旧徳川領の安定化が必須。
その後濃尾平定で、それからなら上洛可。
>>266 なるほど。
まぁ、細部は違えど、段階を踏まねば
上洛に至らないと思っているのかな?お互い
「継戦能力」を、史実の展開から推し量ってるなら、
信玄の健康問題のせいで進展が遅かったことに留意すべきだ。
三方ヶ原の勝利で徳川は城にこもったまま出てこれなくなった。
信玄が健康なら一気に戦果を拡大したところだ。
史実では死ぬ寸前だったので機動力がほとんど発揮できなかったが、
純軍事的な観点で言えばあれは織田徳川の破局を意味していた。
つか病気の身で出張る時点でアレだろ。大人しくしてろっつーの
別に攻められたわけでもないのに
老いの妄執か
純軍事的観点wからいえば単独で圧倒的な兵力を擁する勢力を道すがら撃破して上洛しようというのは無謀だな。
まあな、純軍事的観点wからいえばなw
実際は、信長はあちらこちらで火の手が上がっているし
徳川は三遠に武田勢力が浸透しているから、時間の問題だけどね。
火の手といっても焚き火ぐらいだけどなw
>徳川は三遠に武田勢力が浸透しているから、時間の問題だけどね。
そのために信長は美濃に帰ってきたんだけどな。
>>266 旧徳川領といっても幾つかに分けられるんじゃないか?
遠江は収めてから日が浅いうえ、武田勢の侵攻で在地領主がごそっと寝返り打ってるから
時間を必要としない、東三河も譜代の土地じゃないので手を焼くことは無い
残る西三河だけなら、あまり時間を掛けずに処理できると思う。
信玄の死後も勝頼は同じように、いやもっと激しく徳川領を侵攻したが、三河も
遠江も中枢部を守りきって持ちこたえた。
実際に信玄の侵攻も、落とした城は最重要拠点というほどではない。
遠江でも三河でも、在地領主は別にごっそりと寝返ったりしていないが?
>>274 歴史の勉強しなおしてからこい
当時の代替わりは一大事、大して実権の無い将軍が代わっても一揆多発した
落とした城は重要拠点、囲む間際だった城は最重要拠点
>遠江でも三河でも、在地領主は別にごっそりと寝返ったりしていないが?
まあその辺は判断する人間次第だと思う。
三河物語や家忠日記に書かれてることと274の発言、どちらが信用できるかという
前々スレくらいで出てきたなんとか記にも豪族連中が武田に降った記述あったしな
論点は「徳川が早期に落とされるかどうか」だろ?
信長が援軍に来なければ、あるいは信玄が早期に徳川をつぶしてるかもしれんが、
美濃に帰ってきて三河救援に赴ける状態にしてる。
三河に深入りすれば当然、織田も救援に来ると予測したであろう信玄がふかいりするのかどうか。
深入りしなければ徳川に余裕が生まれるから早期崩壊はありえない。
深入りすれば、信玄は自分より多数の敵と戦わなければならなくなる。
いや、吉田城が落ちると分断されてかなりやばいだろ
どうせ不利になったら朝廷外交発動で、朝倉浅井の二の舞で終りだと思う
280 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/28(火) 12:41:20
近江で包囲される二万五千とか見たくないよー
>>279 それは足利将軍が手元にいたのと一応京を支配してたから出来たのだろう
信長は和睦を破って佐和山城攻めたし、将軍家と敵対した状況で
更に一度破ったものをまた結べるわけないだろう
>>283 将軍家と敵対することが何で朝廷外交に関係するんだ?
信長めっちゃ腰がひけてるじゃん。
どこが「三河救援に赴ける状態」なんだよ。
いや、見た目上はそうかも知れんが全然行く気ないからな。
そんな心証は聞いてない。
実際出した援軍の貧弱さを見ろと。
あの時点でも既に美濃には入ってたはずだよな?
貧弱なのは徳川軍であって佐久間隊ではない。
そもそも信長は「浜松篭城」には十分な援軍を送っている。家康への指示も篭城策。
それを蹴って想定外の野外決戦に出たのは家康の責任。
三方ヶ原の敗戦をもってどうこう言うのなら対象は家康と徳川家であるべきで、信長
や織田家、佐久間信盛に言及するのは拡げ過ぎ。
あの時期の信長は各線戦を最小限の人数で維持しつつ、
隙を見て主力で叩く、各個撃破の基本をなぞっているだけ。
それを考慮に入れて徳川の援軍の質量を考えれば、織田側に非はない。
確かによほどの事態が起こらない限り、
あのメンツの中では段違いに与しにくい武田は後回しになるだろうが、
いざとなれば躊躇いはしないだろう。
>>285は織田信長と霊界通信で心境を聞いたようです
>>290 いや、あの時期の信長は各線戦で圧力を受けながらじりじりと出血を強いられ
打開策も見出せないという、立ち枯れの基本をなぞっているだけ
信玄が死去する前は美濃に釘付けになり
近江、畿内の敵を叩けず、さりとて徳川救援にも行けずじまい
いざとなれば躊躇いはしないだろうが
余程の事態(信玄死去)が起こらない限り成算のある行動にはならないだろう。
朝倉は信玄に「信長ひきつけろよ!」と怒られて、浅井は秀吉に押し込められて、
六角も包囲されて、三好は内乱、本願寺も攻めてこない。
圧力…ねぇ?
>近江、畿内の敵を叩けず、
城攻めは時間かかるからな。包囲で抑えてるんだろ。
>信玄が死去する前は美濃に釘付けになり
>さりとて徳川救援にも行けずじまい
徳川救援にいこうとしたら準備中に大将死んじゃったもんなw
そりゃ釘付けされてるように「表面上」はみえるわ。
>いざとなれば躊躇いはしないだろうが
その「いざ」という事態が徳川ピンチという状況なんだけどな。
敵よりも大軍連れて行ける、しかも敵にとっての敵地での合戦になる、さらには同盟勢力(実質従属させてるんだろうが)のピンチ。
行動起こす動機はそろってるな。
293 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/01(水) 12:30:19
信玄って朝倉に「何で引き返したんじゃ」書状送っておきながら
自分が引き返してるからなあ
294 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/01(水) 12:52:19
総大将が死んでるのに進軍すんの??
てか誰が指揮すんのよ。
しかも2万あたりで織田に攻め込んでどうしろと
浅井朝倉や本願寺と挟撃し織田を潰すのが予定だったからこの人数なのに。
だいたい単独で進軍しても
時間かかったら
雪がとけて
上杉に信濃を突かれてアボーンするやん
飛騨にちょっかいだしてた上杉軍が勝利して拘束から解き放たれたのって信玄没年の夏前だっけ?
それまでがリミットか…
>>295 が、織田と同盟してるからな。
丁度信玄と信長と謙信の関係が、のぶなが包囲網の信長と朝倉浅井と信玄みたいな関係になる。
ところが史実でも織田、徳川の武田攻めの要請を上杉はことごとく無視
信玄が死んだ絶好機にも無し。上杉が攻める可能性はまずない
朝倉も信玄に撤退して怒られてるぐらいだし、織田を攻める可能性はまず無いなw
信玄死後はまだ謙信は越中でがんばってるときだが、それを以って「死後も攻めてない」かw
都合がいいなw
>>292 三好は内乱とは?
つうか
>>13の安宅信康が1572年に織田についたというソースは?
ざっと確認したけど織田についたのは75年頃だというのがほとんどだけど・・・
このテンプレはあてにならんなあ
>>299 >朝倉も信玄に撤退して怒られてるぐらいだし、織田を攻める可能性はまず無いなw
信玄・顕如の催促で3月頃に出陣してる。(朝倉始末記)
>信玄死後はまだ謙信は越中でがんばってるときだが、それを以って「死後も攻めてない」かw
都合がいいなw
よくわかってるじゃない(笑)そう謙信は北陸に専念していて武田どころではない
でも信玄生存中は、西進の年も謙信は関東で信玄と対峙してるよな
信玄長生き設定なら却って謙信が武田攻める確率高まっちゃうんじゃね?w
>>301 つ口約束
撤退後は一向に動かず、浅井が滅ぼされかけて、ようやく動いた程度じゃん実際は
そもそも虎御前山で対峙した時点で奉行クラスはじめぽこぽこ寝返り続出で
親族衆にすら軍役拒否が連発される朝倉を頼みにする時点でアレという気も…
まだ本願寺せっついたほうが確率高い気がする
>>303 >信玄・顕如の催促で3月頃に出陣してる。(朝倉始末記)
ここをもう一回読み直すか、それでもわからないなら小学校から出直すかしたら?
>>304 単独では敵わなくとも信長が三河くんだりまで出たら背後を脅かすだろうな
ちょうど前例もあることだし。
何もせず帰っても出陣に含めるのか?w
>>301 そういうこと。
だから越中平定する翌年には信玄の背後も忙しくなるってこった。
>>307 史実ではこの時期の京には織田軍主力が集まってるからな
そんなところに攻撃するバカはいないだろう
よし、俺も玄関から顔を出して脱・ひきこもりだ!
信玄が生きてると逆に謙信が寄って来るか
ありそうだwwww
>>309 その時の出陣は浅井を盾にして対峙して、織田本軍が動く前にとっとと逃げて見張りの木下隊とすら交戦してねーじゃん(信長公記には記載すら無し)
顔出す程度でいいのなら、まだ3千でも送って実際に戦った織田のほうがマシだな
もっとも当時の内情ボロボロの朝倉軍じゃ兵を揃えただけでも奇跡か
おまえら急にスレの速度上げてどうしたんだ。
つうか朝倉も後背常ならぬ若狭抱えてること忘れてますよ
>>308 翌年は関東勢の要請で謙信は関東遠征に忙しいけどいつ信玄の背後が忙しくなるんだ?
>>315 信玄にも関東関わりあるじゃねーか
西進前にも利根川挟んで対峙してるし
石倉城等の取り合いは日常茶飯事
>>315 それは史実だろ?
信玄上洛ifなら武田本体は織田と遊んで甲信は他を攻めるよりたやすい。
前も言ったような気が駿河、状況が異なった場合の史実を持ち出す意味がわからない。
信玄がデカくなりすぎる気配があると、北条も危機感持つかもな
元々敵対して都合で同盟結んだ同士。また手切れになっても別に驚く事じゃない
>>316 このときは北条の動きが活発でそれに対する遠征だよ
>>317 >状況が異なった場合の史実を持ち出す意味がわからない。
IFすれなんだからこれは当然だけど、73年に関東諸将から援軍要請を受け取って(上杉文書)
それで翌年の関東遠征だからこの場合はその例には当てはまらない。
ついでにいうなら甲信に攻めれば即座に信玄が取って返すのは明らか。
そんなババを謙信が信長のためにひくのかね?
>>312 浅井の後詰ではなくて越前近江の国境あたりにいて5月頃退陣
織田3千は戦場にはいたもののなにもしてないどころかいの一番に退却
朝倉は末期でも2万の兵を揃えてますが。
>>314 若狭は親織田もいるけど親朝倉もいる
朝倉って二万も動員できる石高あんの?
>>319 史実関東遠征は甲斐に、大将がいなくなったとはいえ武田の主力がいる状態。
一方のIFの武田上洛続行であれば、武田本体と織田本体が対峙してる状態が濃厚で、信玄が取って返すとなれば敵前撤退せねばならない。
状況が違うな。
そして、裏切ってはせめて服従させて、越後に帰ったら又裏切られてという弱小勢力の援軍要請は受け入れて、
敵の敵である大勢力の織田、徳川の援軍要請は受け入れないというのはこれまた都合がいいですね。
そして関東武田領なら北条に対して牽制にもなるし、織田徳川の要請もこなす一石二鳥の作戦じゃないか。
そして、織田の相手を嫌がるのは包囲網の面々も同じ。
朝倉は若狭を安定させに行けばいい。六角・浅井はにっちもさっちも行かない状況。
朝倉が織田を攻めれば信長が取って返す。
武田の追撃が無理若しくは困難なのは徳川の存在があるからな。
>>322 >史実関東遠征は甲斐に、大将がいなくなったとはいえ武田の主力がいる状態。〜
>そして裏切ってはせめて服従させて越後に帰ったら又裏切られてという弱小勢力の援軍要請は受け入れて
>敵の敵である大勢力の織田、徳川の援軍要請は受け入れないというのはこれまた都合がいいですね
そう状況は違うが例えば勝頼の東美濃攻め・高天神城攻めなどこれはいずれも主力をつれて
遠征してるが上杉は全く武田に攻め込む様子がない。
では聞くがただの一度たりとも上杉が織田・徳川の要請を受けて
武田攻めをしたことがあるのかな?俺の知る限りではないな。
>朝倉は若狭を安定させに行けばいい。六角・浅井はにっちもさっちも行かない状況。
>朝倉が織田を攻めれば信長が取って返す
これも敵前撤退だろ。織田が徳川任せで撤退したら徳川はわりに合わんな。
また三方ヶ原でもやるつもり?
要するに謙信は信玄しか眼中になかったんだろ
小童なんか相手にできるか、それぐらいなら父祖の代からの悲願目指そうって
信玄生きてたらまた戦っただろう
何しろあの二人だから…
>>320 ソースは?織田方記録じゃ相手にもされてねーぞw
>そう状況は違うが例えば勝頼の東美濃攻め・高天神城攻めなどこれはいずれも主力をつれて
>遠征してるが上杉は全く武田に攻め込む様子がない。
一気に京都まで行きますよといって軍を起こして発進したのと、城攻め・地方攻めが同じレベルですか?
>では聞くがただの一度たりとも上杉が織田・徳川の要請を受けて
>武田攻めをしたことがあるのかな?俺の知る限りではないな。
ないね。そして上洛を宣言して武田と織田が対峙して、甲信が手薄になってる状況もこれまた無い。それが
>>322の状況。
甲信が手薄になったというだけなら何回かあるだろうけども。
そして甲信でなくても関東でがんばってもいい。
>これも敵前撤退だろ。織田が徳川任せで撤退したら徳川はわりに合わんな。
>また三方ヶ原でもやるつもり?
朝倉も謙信も同じ状況にあるのに、朝倉は積極的に織田を攻めて、謙信は信玄を攻めないのはおかしいね。
両者他に攻めるべき土地があるのに。謙信は関東武田領があるけどな。
それと、朝倉は撤退して信玄から怒られて、織田へ逃げるものもいて、そんな状況で織田を攻めると?
>>323 , '´  ̄ ̄ ` 、
i r-ー-┬-‐、i
| |,,_ _,{|
N| "゚'` {"゚`lリ ・・・・・・・・。
ト.i ,__''_ !
/i/ l\ ー .イ|、
,.、-  ̄/ | l  ̄ / | |` ┬-、
/ ヽ. / ト-` 、ノ- | l l ヽ.
/ ∨ l |! | `> | i
/ |`二^> l. | | <__,| |
_| |.|-< \ i / ,イ____!/ \
.| {.| ` - 、 ,.---ァ^! | | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l
__{ ___|└―ー/  ̄´ |ヽ |___ノ____________|
}/ -= ヽ__ - 'ヽ -‐ ,r'゙ l |
__f゙// ̄ ̄ _ -' |_____ ,. -  ̄ \____|
| | -  ̄ / | _ | ̄ ̄ ̄ ̄ / \  ̄|
___`\ __ / _l - ̄ l___ / , / ヽi___.|
 ̄ ̄ ̄ | _ 二 =〒  ̄ } ̄ / l | ! ̄ ̄|
_______l -ヾ ̄ l/ l| |___|
ぬほっ
誤爆した
三月に朝倉が出陣して織田が交戦せず退却したにもかかわらず
それ以上前進し圧力をかけもしないで兵を引いたのが事実だとしたら
包囲網が無意味だと立証しただけではないだろうか
>>314 背きっぱなしで山奥に逼塞してるだけの雑魚になんか用か?
331 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/01(水) 19:02:04
>>326 しかし、それでは武田の上洛戦には長期戦略がないことにならないか?
上杉ほどの強敵に背後を脅かされながら上洛を目指すのは信玄らしくない。
信玄は死の直前に、息子に上杉と関係改善するよう言って死んだという。
信玄自身上杉との関係改善は急務であることを認識してたのだろうと思う。
織田と対決するためには上杉と和解しなければならないのだから、
関東の所領の一部や、善光寺本尊を譲っても関係改善を果たすのではないか。
そう考えると、東海に長期出兵しながら、武田から上杉に対して何の音沙汰もないとは考えられない。
武田tが春までに謙信に使者を送ることは考慮してますか?
そして謙信がそれを受け入れて、中越進撃を選ばない理由も。
>>326 朝倉と織田は相容れない
謙信は北陸攻略中で次の目標は関東、川中島で懲りて以来
武田とは正面きっての戦はしていない。
それを同じ状況なんてのは出来の悪い詭弁、バカすぎ
>>329 退却したってことは何かしらの軍事活動をしていたってことだな。
それを撃退するだけの力が朝倉にはあったということか、なるほど
>>326 対峙という点なら武田の関東遠征や薩垂峠があるな。
しかしこれも度重なる北条の援軍要請に謙信は応えてない
と言うとまた上洛ではないと言い出すのかな
朝倉の敵は織田のみ。上杉は北陸・関東にも敵を抱えている。
>>331 史実で本願寺に「謙信拘束してくれ」っていってるじゃないか。それで十分だと判断して徳川と遊びに行った。
つまりはそんなに長期的に出兵する意思は無く、徳川つぶせればいいや的な出兵だったんだろ。
それをなにがなんでも「上洛作戦だ!」というからズレが生じる。
>>332 だから関東の武田領でもいいって言ってるだろうに。
真っ向勝負はしてないが関東の武田領にはちょっかい出してるし。
それに、武田を織田が拘束してりゃ正面きって戦うわけじゃないだろうが。
武田が帰ってくれば逃げりゃいいだけだ。関東でのそれみたいに。
そして
>謙信は北陸攻略中で次の目標は関東
またまた霊界通信ですか?
>>332 >
>>329 > 退却したってことは何かしらの軍事活動をしていたってことだな。
> それを撃退するだけの力が朝倉にはあったということか、なるほど
少し前のほうに朝倉が三月に出陣したって話があったから
事実なら包囲網に意味がないと言っただけで事実かは知らないよ
三月に朝倉が出陣したなんて話このスレでしか見たことないし
>>335 >少し前のほうに朝倉が三月に出陣したって話があったから
つ朝倉始末記
おまえら今日は偉い元気がいいな
朝倉始末記はどの程度信用できる文献なんですか?
甲陽軍艦や明智軍記よりは信頼できる
微妙だな
341 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/01(水) 20:43:43
>>334 > つまりはそんなに長期的に出兵する意思は無く、徳川つぶせればいいや的な出兵だったんだろ。
今までの東海出兵と異なり、徳川の他に、織田を主敵に選んだんじゃねぇの!?
織田に対して、徳川へ援軍を送ったことを激怒する書状を送りつけてるはずだが。
事実上の絶縁状を叩き付けたわけで、織田との宥和策の最終的な終了を示している。
だから今までの対徳川出兵と違う。
織田との関係悪化を前提にしない徳川撃滅作戦というのは場当たり的過ぎる。
織田との決定的な関係悪化があったからこそ武田が滅んだといってもいいくらいだ。
そういう戦略欠如の場当たり的領土拡張作戦のために、盟約を平気で破って、
あっちで火をつけこっちでも暴れる、なんてやり方を続ければ、
いずれ周囲全部が敵に回り、行き詰ってしまいますよ。
信玄がそんなことをするはずがない、、、と思う。
>>338 3月出陣の記述は朝倉始末記の越州軍記にある
1577年成立で著者は夢宅、軍記物であるため、信頼性は公式文書や日記と比べると落ちるが
軍記物としては信頼性は高い。
朝倉義景が3月に敦賀に出陣、織田方の湖西の守りが固いので攻撃は断念し、
小谷城への支援を行う、義景は織田の越前侵攻を警戒して敦賀に布陣していたが
信長が岐阜へと戻ったので、朝倉も敦賀から一乗谷へと戻った。
みたいなことが記述されている。
>>334 北条を叩いて関東勢助けるための関東遠征で信長のために意味ない西上野を攻めるのかw
事実、謙信は北陸と関東を行ったり来たりなんだがな
勝頼も上野で謙信と対峙していたりするから、
信玄が長生きしていればいずれは上野でまた対陣と言う事にはなるだろ。
>>341 畿内の実情を知らなかったのでは?
信玄の脳内では朝倉と本願寺が激しく織田と戦ってくれると思っていたんじゃ
>>342 織田は何も出してないどころかいの一番で退却した記述はないのですか?
その記述だと何も出来なかったのは朝倉側のようでけど
347 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/01(水) 21:03:40
>>345 俺の脳内設定では、信玄の考えはこう↓
自分が兵を動かしたことで畿内情勢に変化があれば、
一気に伊勢湾を渡って畿内に入ってやろう。
しかし、何も起きなければ、徳川から少し領土を切り取ったのを
戦果として甲斐に引き上げよう。
情報は入っていたと思いますよ。
畿内情勢についてはどう転んでもいいように、柔軟に構えていたと思う。
>>346 その間、織田は南近江や京とで将軍与党を潰したり、町焼いたり和睦したりで
織田と朝倉が戦ったような記述は特に無い。
それに何もしていないわけではない小谷城普請をしている。
>>346 >いの一番で退却
それって味方が原のことを指していたんじゃないか?
>>348 つまり織田は全く相手にしてないってことじゃん
それがどうしたら「いの一番で退却」になるのですか?
>>341 とすると、長期的に軍を出すつもりなのに謙信への対策は本願寺に任せるだけだったその無策さが問題になるな。
一世一代の上落戦で、しかも交渉持つにはそれなりに時間あったのにな。
それとも謙信に「仲良くしようぜ」的な書状でも送ったのか?
>>343 関東にご執心の謙信なら関東の武田領を攻めればいいと言ってるだけで、関東勢の援軍要請に応えててとは一言も言ってないんだが。
遠因的に北条の牽制になるといったまで。
そもそも裏切り続出と軍役拒否連発で、野戦軍が実質壊滅寸前の朝倉に往時の力がある、と見るのは苦しい
対織田の最終戦に出した2万だって逃げ腰であっさりとやられちゃったし
(でも信長以外の武将は「朝倉軍が簡単に逃げるはずない」って追撃に消極的だったそうだから。それを織田方が認識してたかは別問題か)
>>351 だから具体的にその時でてって何やったんだよ
織田軍側に記録に残す価値もない程度だったんでしょ
無力さは当時の朝倉の内情と一致するし
>>355 さっきから見てて思ったが・・・
お前少し痛いぞ、冷静になって今までのレスをよく読みなおせ
>>355 だから何もしなかったんだろ、朝倉は。出兵はしても。
>>355 別に351ではないが
>>301の信玄・顕如の催促で3月頃に出陣してる。(朝倉始末記)
という記述の後に、
>>342のいうように、織田の守りが固いから何も出来ずに
小谷の支援してさっさと帰りましたと書いてある。
>>305の突っ込みは最後まで(朝倉始末記)の文読め、
それさえできないなら小学校から国語やり直せという皮肉じゃないか?
>>348の普請をしているも皮肉だと思う。
>>356 あなたは少し口が悪いと思う、煽ってるようにしか見えない、
2chらしくてそれもいいがw
朝倉に退陣するとは何事か、なんて書状を出すあたり
信玄も畿内戦域の情報まともにわかんなかったんじゃない?
本願寺なんかは呑気にも越中のほう助けてくれなんていってるし
>>359 >>301 >>303 >>305 の文からそれは無いんじゃないか?
301.305は朝倉を評価する文章だし・・・
ハッ!
まさか359の文章も305に対する皮肉なのか?
取りあえず織田厨?or中道武田厨?知識と客観性はあるみたいだが性格悪いぞ
住人を試すようなレスばかりするなよ、ためにはなるけどさぁ
>>360 手紙だけだからねー
ただ信玄も、畿内や北陸などの手紙には調子のいいこと書きまくっていたみたいだから
お互い様だけど。
中世の第4章第5節あたりね
この時期、信長と直接対峙していたのって一応朝倉と浅井を除くとたいしていないんだよね。
六角は引きこもり。三好も松永も自分の敵対勢力と対峙中、本願寺は武田や朝倉に出陣要請は
しているが自ら軍勢を出してはいない。
本願寺も朝倉も武田も狙いは一緒
火事場泥棒
そりゃ火事場泥棒したほうが得だからなぁw
>>362 さっそく読みました
武田が撤退する以前に出兵しておきながら
織田の守りが堅いからと敦賀に留まらざるえないほど朝倉が無力だとは
この調子で浅井に対しどれ程の支援ができたんだろう・・・
だから本願寺だよ本願寺!
この坊主ども、この時期に動かなくてどうするよ
贈り物外交って信長油断させるためのものじゃなくて、ガチで和平だったのか?
でもその割には反織田側と手紙遣り取りしてるし…
>>367 あそこは他に若狭の情勢にも詳しい
永碌の朝倉による若狭攻めや
元亀年間、織田朝倉に分かれて争っていたことも書かれている。
他、近世の方では検地について詳しく載っていたり、
寺社勢力が、朝倉柴田豊臣徳川とでどのように弱体化したかも載っている。
>>367 いや、このときすでに武田の動きが止まって織田軍の主力が京にいる状態だから
何もできなくて当然。むしろ何かできたら義景は謙信並の野戦能力があることに
>>370 江北方面へに出兵して牽制ぐらいすればいいのに
>>370 敦賀に到着したのが3月11日だから信長は京にはいません
それでも湖西の守りが固くて滋賀郡方面への出兵ができなかった
長年の戦役による疲弊のせいだろ
領土拡大とかの、目に見えるメリットがあれば家中の士気も違ったろうが
義景の個人的振る舞い(愛妾に溺れた)とかも一因かな
実際には信長は3月25日に岐阜を出て
4月12日に岐阜へ帰る
朝倉は
3月11日に敦賀へ
5月に一乗谷へ
常に織田の主力がいたわけではないが、
近江にいた柴田佐久間丹羽明智木下らを早期に抜くことは出来ないと判断したのだろう。
長期化すれば織田の後詰が来ることは確実だし。
出兵しても無駄情勢は不利と判断するのも無理は無い。
武田が東方で織田の本隊を引き付け、ある程度近江の兵も拘束してくれれば、
この時攻撃にでた可能性もあるとは思う、けど日和見の可能性も高い。
375 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/01(水) 23:38:56
>>352 > それとも謙信に「仲良くしようぜ」的な書状でも送ったのか?
書状でよければいくらでも送るだろう。
基本的に武田家の置かれている状態は上杉北条織田の3強国に囲まれていて
一度に2強国を敵に回すのは避けなければならない。
織田と対決する以上、上杉とは領地などで妥協も止む無いが、その替地は徳川から切り取った
土地以外ないから、順序として東海出兵の後に上杉と和平しなければならない。
そもそも上杉にとって織田徳川と組む利益は武田と対決しているからであって、
それ以外の理由は大してない。
上に指摘されてる上杉の消極的な出兵姿勢にそれが表れてる。
多大な出血だけがあって利益を弾き出さない武田との対決を小休止するのに
謙信がためらう理由はありませんよ。
史実上も攻勢正面の転換という形でその方向へ行ってるはず。
つ74年の武田との対陣
つ75年の織田への武田攻めの手紙
上野衆らも西進につれてきている以上
上杉がまた上野辺りを狙ってきたら対処せざるをえんよな
西進の年に石倉城とられたばっかでもあるし
きたらな。まあ来る可能性は低いが
一番可能性が高いのは北信濃進攻だろ
信玄もそう見たから海津あたりの防備は動かさなかったようだし
380 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 01:39:20
オナニーの疾きこと風の如く
人前で静かなること林の如く
母親にだけ怒ること火の如く
部屋から出ざること山の如し
,ィ __
,. / |´ ̄`ヽー- 、 ト、 , -‐、/./.- 、
/ | | ヽ l l ( 火◇風 ノ
/o ̄`ハ._.ゝ===┴=く.ノ- 、 ノ ◇ ◇ (
/o O / l´ ノ ヽ lo ',ヽ ( 山◇ 林 }
\___/. ト、 ● ● ハ ∧ `⌒/7へ‐´
/ ,イ レ_ ( _●_) ミl~T--‐彡 /./
/ ̄ ̄l. 彡、 |∪| ノ'l l::::::::::彡ー7⌒つ、
彡:::::::::::l ト、___ヽノ /| l::::::::::::ミ {,_.イニノ
彡ソ/ノハ ト、 \ / ,イ 川ハ ヾー‐'^┴'
朝倉は無理に攻勢に出なくても、「存在するだけ」で価値があった。
織田に複数の地域への備えを強要すれば、実際に戦うのは武田だけでも十分行ける。
しかし越前まで帰ってしまってはさすがに戦略が立たない。
朝倉が帰った時点で、武田の作戦は徳川を潰すだけの局地戦に成り下がったのだと思う。
せっかく準備したんだから出陣はするけど…って。
しかしそれは逆にいえば、信玄の上洛計画が朝倉の継戦能力を越えた机上の空論で
あったことを意味する。
そもそも朝倉は元亀三年の夏から半年近くも対峙した後に撤兵したのだから、義景
からすればそう責められる筋合いではないと思うだろう。
朝倉に言わせれば、江北で織田軍主力と対峙(拘束)していた時に武田軍は徳川領で
自分の領土を拡げていた。いろいろといいたいこともあるだろうよ。
もともと朝倉には武田の指示に従わなければならない義務はないのだから。
結局そこが全てだろうな。
利害の不一致が甚だしい、だから足並みが揃わない。
結局反織田側は何がしたかったのかな。
信玄の野心のために自家を懸ける気はないのは確かだろうけど。
>>382 いや、なんで「机上の空論」になるの?
朝倉がどう頑張っても帯陣できないようなのっぴきならない状況にあったと言う話は聞かないが。
まあ楽ではなかったとしても居ることは可能であったとすれば、
それは空論でもなんでもない。少なくともあり得た可能性の一つではある。
そういうのは空論とは言わない…「画餅」ならわかるが。
「統制の取れた外線作戦など画餅に過ぎなかった」なら成り立つ。
しかし、
>>383よ、朝倉が残るのが「信玄の野心のため」ってのは偏りすぎてないか?
まずなにより足利家の要請であり、自家の生存権を勝ち取るギリギリの戦いでもある。
自分の命運がかかっているのに大事なところで退いたりするから駄目なヤツと言われてるんだ。
別に武田の役に立たなかったから後世の評価が低いわけじゃないぞ。
反織田包囲網には核がない
名目上トップのはずの足利義昭は兵力では一番貧弱
浅井朝倉三好六角は疲弊消耗
もっとも野戦軍として強い武田軍は、ようやく自分達の背後の情勢を落ち着かせて対織田全面攻撃の前提である徳川屈服をだいたい過半にかかった程度
当時の通信能力から考えても統制なんて…
そもそも、足利も朝倉も浅井も三好も六角も本願寺も信長の打倒は求めたが、
だからといって代わりに信玄が天下人になることを望んだわけではない。
>>385 畿内なんかは弱者連合的だけど、それはそれで勝算に寄与できる。
>>386 まあそれは上洛後の話だろ。
織田に食われそうな瞬間にそんな先のことを考えてる余裕はない。
このスレは上洛までだから。
その後畿内が混沌の坩堝と化そうと知ったことでは。
信玄上洛したら、今度は信長を中心とした反武田包囲網が→以下エンドレス
とかなりそうだ…w
そもそも、武田に加わっている北条の援軍3千は、
ずっと借りっぱなしに出来るものなのか?
北条に返さないといけないし、
返すためにも一旦撤退しなければならないだろう。
とても上洛を目指していたとは思えないけどな。
表向きはともかく本当の目的は、精々徳川領のみだろうね。
>>375 君の妄想聞いてるんじゃないんだ。
事実として、信玄が、謙信に、和平の手紙を、送ったのかと、聞いている。
>一度に2強国を敵に回すのは避けなければならない。
>織田と対決する以上、上杉とは領地などで妥協も止む無いが、その替地は徳川から切り取った
>土地以外ないから、順序として東海出兵の後に上杉と和平しなければならない。
駿河攻めたときに北条も敵に回したけど、駿東ゆずってまで和平の道を探ろうとした?
下手すれば北条と全面的に敵対することになる可能性もあったのに。
>そもそも上杉にとって織田徳川と組む利益は武田と対決しているからであって、
>それ以外の理由は大してない。
そりゃ信長包囲網の面々も一緒。
>多大な出血だけがあって利益を弾き出さない武田との対決を小休止するのに
>謙信がためらう理由はありませんよ。
邪魔な武田主力が上洛で長期拘束される状況下、出血を強いられる要素はかなり少なくなる。
しかも敵対勢力が仮に上洛に成功して多大な権力を持てば、標的が自分に来る可能性もある。
>史実上も攻勢正面の転換という形でその方向へ行ってるはず。
主力が上洛でいないんだから、武田の正面は織田に向いてる。
実際関東の武田領にはちょっかいだしてるじゃないか。
>>389 上洛中は貸しておいてくれるんじゃないか?
>>385 統制は必要無い、包囲している側は中心に向かって
各々ばらばらに個々の判断でちまちま戦うのが1番いい
それでこそ織田に疲弊と出血を強いられるし、対ナポレオン戦役もそうだった。
>>390 >下手すれば北条と全面的に敵対することになる可能性もあったのに。
無い。頭の足りない人間がそう危惧したとしても、当事者は
上手くいってない相越同盟を頼りに余り利害のぶつからない強国と全面対決したりしない。
だいたい、武田と全面的に敵対するなんて、信長様の御為を思いすぎw
>邪魔な武田主力が上洛で長期拘束される状況下、出血を強いられる要素はかなり少なくなる。
北陸及び関東の攻略という実を捨てて、武田相手に出血を強いられると‥
謙信は、どんだけ信長様の為を思って行動するんだよw
>敵対勢力が仮に上洛に成功して多大な権力を持てば、標的が自分に来る可能性もある。
で?
>実際関東の武田領にはちょっかいだしてるじゃないか。
この頃出してたっけ?
いちいち煽らなきゃ気がすまないのか
390は、wを付けない珍しいタイプの煽り
>>391 その個々の判断が信玄以外は「信長と戦いたくねぇ」なんだろ。
信玄も「戦いたくねぇ」だろうが。
>>391 対仏大同盟と反信長包囲網を同レベルで語って欲しくはない
対仏大同盟と反信長包囲網は個人的な思い入れは違うのかもしれんが同じようなものだろ
それを言ったら反董卓連合軍やABCD包囲網ですら一緒になってしまう。
ちゃんと違い分かってるのか?
ここからむこう200レスに及ぶ脱線になるとは当人たちは思いもしなかった…
>>397 >反董卓連合軍やABCD包囲網
包囲してないしw 退避、移動、自由自在、しかも圧迫されてない
ありえねーw>対仏包囲網
王政国家が革命の波及恐れて直接危害無いのに手を組んだのと
織田の膨張に対する反作用として自然形成された包囲網じゃ全然違うだろ
んー‥対仏包囲網もなかなか強固な包囲網だったと思うけどな
信長包囲網はまともな連絡すらねーじゃんか
例えば三好と武田が連絡とったり、どこそこの地点に集まって決戦するぞ、とか計画性を持って動いたことあったか?
せいぜい地理的に近い浅井朝倉などが固まって対処してた程度じゃん
>>402 >包囲している側は中心に向かって
>各々ばらばらに個々の判断でちまちま戦うのが1番いい
>>403 包囲側が年中中規模攻勢をガンガンかけられる情勢ならな。
信長を包囲してた側みたいにたまにしか攻められないんなら、
連携してた方がいい。
別個に所領や城砦を持ってるのだから、戦場で連携する必要は全く無し
信長としてはどの方面を放棄することもできないからね。
でも個々の戦力が元々弱体or疲弊だから各個撃破されたんじゃん
それに同一戦場で別方面から攻めたワーテルローみたいなケースのほうが効率いい
ナポレオンほどの天才すら対処しきれず敗北している
朝倉は信玄に信長の相手してほしかった。
信玄は朝倉に信長の相手してほしかった。
そんな齟齬があるから朝倉撤退とそれに対する信玄のお叱り。
目の前に信長がいなければ朝倉は国に帰るだろ。
浅井六角は押し込まれてるし。
三月に朝倉が出陣したのも結局何もせずに、信長が帰ったら帰ってるんだろ?
それにあんまり時間かけすぎたらまた信玄が死ぬぞ。
>>406 はぁ?既に負けが決まってて駄目押し喰らっただけじゃん
>>407 2月の途中から武田軍に動きが無かったから。
それにどの道朝倉は織田と戦わざるを得ない
>>408 「連絡とらずに(とれずに)それぞれの判断で攻撃する」というなら信玄が動こうが動くまいが関係ないだろ。
で、そのそれぞれの判断が、朝倉は撤退だったわけだ。
>それにどの道朝倉は織田と戦わざるを得ない
だから?
この機を生かして朝倉は織田に攻撃する!とでも?
>>409 言っとくけど、信玄は顕如にも長政にも義景にも連絡の書状を送ってるから
信長が武田と交戦状態に入れば、織田を攻撃する
まあ信長本隊と留守番の兵力の兼ね合いだろうけど。
何にしても信長としては八方塞がりで動き方が難しいね。
朝倉は、信長本軍がいない状態で「湖西は守備が堅いからパス」と引き上げ、
虎御前山の木下単独の部隊にすら攻撃をしかけず対峙していただけ。
六角は前年から自分からは何もしていない、ただ城に篭っているだけ。
松永は信長派の筒井に負けて身動きとれず。
三好はそれぞれの在地土豪たちが反三好で対峙中。
包囲網の連中は八方塞で動き方が難しいね。
>>411 湖西は光秀が居るからw
秀吉と合わせて過剰に少なく見積もっても1万は下らない
六角は街道筋の城を占拠してる。すぐ鎮圧されたけど
>三好はそれぞれの在地土豪たちが反三好で対峙中。
超絶意味不明w
>>412 逆に見れば一万あれば浅井と朝倉は気にしなくていいってことだな。
六角は義治君が包囲されてるじゃないか。
三好は決して一枚岩じゃないからな。
織田、武田
両者の背後が現状維持の場合
尾張三河の国境辺りで決戦だろ
敵国遠征中の武田の方が苦しいと思うが
徳川も一応まだ残ってるし
しかし武田厨はそれでも武田最強軍団が勝つとのたまいます
武田厨に質問だが信玄が長命だとして
いきなり上洛出来ると本当に思ってるの?
むしろ長命だったら徳川を完全に下して遠江、駿河、三河を安定させ
じわじわ織田を侵食していくだろ
それともこの時期に上洛できるか?
ってifスレなら不可能あるいはかなり苦しいが答えじゃないか?
>>413 >逆に見れば一万あれば浅井と朝倉は気にしなくていいってことだな。
残念。信長が岐阜から駆けつけられる状況でも1万4千前後は配置されてる
>>414 信玄存命の場合2月下旬から吉田城攻囲だろうな
もって数ヶ月、落ちたら徳川領は真っ二つのシウマイ。
>>417 各勢力の軍勢の数も分ってないのによくいいきれるなw
>>418 数ヶ月も徳川にかかりっきりならその間に浅井六角は滅んでるな。
朝倉もやばいんじゃないか?
>>420 史実より早く滅亡するのかよw
浅井六角を責めつければ徳川はヤル気なくすだろうな
信長が軍率いて岐阜まで戻ってきた時点で信玄からすれば、畿内戦線って信長拘束の役目果たしてないんじゃないか?と疑った可能性が高い
朝倉退陣に神経質になるのはその傍証
信長からの援軍がどれぐらいの規模になるか読めなくなった以上、徳川攻略にも目算が悪くなる
>>421 少数の増援おくっといて六角浅井を速やかに掃討。
実際は信長も徳川への援兵3000は篭城を見越しての派遣だったからな。
その間に何か手を打とうとしたんだろ。
でなきゃ「篭城で時間稼ぎ」しても意味無いからな。
>浅井六角を責めつければ徳川はヤル気なくすだろうな
自分が存亡の危機にあるのにやる気なくすのかw
長期的にみれば
朝倉退陣を怒るより、今度はオレらが織田軍を徳川領で拘束しておくからその間に体勢立て直せ、ぐらいいったほうが良かった
東西から長期戦の構えで誘引を交互にしつづければ、信長だって音を上げるしかない
でもそれができないのが烏合の衆
いきなり上洛目指すんじゃないなら
徳川がキーだな織田のためにどれだけ頑張るか
あっさり武田に降伏するか
徳川勢力を半年〜1年で無力化できれば
圧倒的に武田有利上洛できそう
どうしても武田有利に見えん
信玄長生きしても一旦甲斐に戻れば
信長は近畿の各勢力を各個撃破するだろ
包囲網側は自身の権益守れればいいや、
程度に考えているのが多いからどうにもならないような・・・
義景が信長倒そうと考えても、家中の者が自身の利益と保身だけ考えていれば
織田とまともに戦うことはできないだろうし
義景が女に溺れて家中の信を失ったって話はマジですか?
>>428 微妙・・・
ただ間接的に越前を守るためとはいえ3年間も利益をもたらせない戦いをしていたのでは
家中の信を失うこともあるとは思う。
現に72年には一部の者が織田に投降し、73年には軍役拒否となっている。
それに『信長公記』の記述を信じるなら、
72年の朝倉の江北出兵は浅井の手紙に騙されたということにもなる。
431 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 19:44:53
>>418 > もって数ヶ月、落ちたら徳川領は真っ二つのシウマイ。
簡単に落ちないと思う。
包囲と言っても、西側の海の側が開いてる半包囲でしかない。
南側の包囲部隊は渥美1郡からの後詰を警戒しなければならない。
北側の包囲部隊は岡崎方面から織田の後詰を警戒する必要がある。
包囲は兵の分散を招き危険だ。
城の全体的レイアウトは信州上田城に良く似ている。
十分な鉄砲が防衛側にあれば、力攻めは無理だと思う。
弾薬と食料を織田が補給しつづければかなり頑張れるだろう。
むしろ信玄の発想なら、現在の豊川稲荷付近に海津城のような城を築いて、
三ケ日街道と東海道を押さえ込むことを考えるのでは?
そこから蒲郡から吉良へ侵攻して、伊勢湾への出口を確保して、
補給路の妨害を考えるのではないか。
432 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 19:53:26
ここまで書いて、織田は岡崎からしか現れない訳ではないlことに気がついた。
船に乗って、渥美から吉田城の南側を攻撃することもありうる。
伊勢湾の制海権が武田にない以上、寡兵でも相当に暴れることが出来るかもしれない。
433 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 20:52:14
信玄が長生きだったらってIFは本当に見てみたい
面白そう
435 :
山県:2006/03/02(木) 22:08:26
>>434 弾正殿、こちらも織田方に押されぎみ
とても援軍は出せませぬ
信長は信玄を恐れていた。それで大体分かると思うが
そりゃようやく火消しが落ち着きかけたところで、それまで仲良しだった相手に火事場泥棒されたらたまらんもん
正常なら恐れもするさ
信長は、信玄に邪魔されることを恐れたのであって、
その存在を恐れたわけではないのだが。
信玄と謙信を信長が評した話がなかったっけ?
「あいつら大した事ね―よ」みたいな
時期によって単なる強がりにもなるがw
実際に信玄を恐れてただろうけどな。
西に東に敵を抱えるのは愚策。
だからこそ、信玄に対して友好的に交渉して同盟して、なんとか東に敵を作ろうとしなかった。
信玄が西にいるならば信玄と戦ってるだろうけども。
恐れる恐れないって主観でしょ所詮
脅威を認識してそれに相応しいアクションをとるかどうかが問題で
じゃあ相手を恐れさせたら偉いのかって話になる
ま、信長を恐れさせたっていうのは逆説的に信長が偉大でその信長w(ty
っていう神君神話の類似系なんだが
家康の抱える問題は、補給ではなく威信の低下。
信玄に遠江・三河で好きなように暴れられたら、早晩屈服せざるを得なくなる。
三方ヶ原後の徳川にはそれを止める力はない。
頼みの織田は待ちの態勢だし。
浅井は既にレイムダックだろ
朝倉のテコ入れが無い時はロクに動いてない(てこ入れきてもアレだけど…)
浅井は北近江の戦国大名としては既に死に体かもしれないが、
小谷城主としてはまだ機能してる。
…って、いいのか?それで。
それで、というかそうなっちゃったんだから…
一緒に今川せめようぜ!っていっといていざとなると自分まで攻めてきた、ちゃっかりものの信玄・裏切り者の信玄相手に屈服?
>>431 武田にも水軍あるからなw 貧弱だが織田水軍はより貧弱。
>城の全体的レイアウトは信州上田城に良く似ている。
似てねーし、上田城と違い
吉田城は記録にあるだけで30数年で7回以上も落ちてる。
>>432 伊勢湾の連中が傘下にはいったのは北畠家の乗っ取り以後だけどな
>>450 志摩水軍は九鬼嘉隆らを筆頭に永禄年間で既に整備済みで、駿河取ってから編制された武田水軍とは比べ物にならんのだが
城攻め支援や賊討伐で、毛利水軍と激突するまではほぼ無敵よ?
>>451 伊勢の海賊衆が味方に付いてないのに、志摩水軍が無敵ってのは凄いな
>>451 ヒント:武田厨お得意の武田最強騎馬軍団
>>452 味方に既についてる連中いるんだよその時点で
九鬼一人とかなら元亀元年の海賊討伐とかどうやってやったんだよw
永禄12年の時点で志摩水軍は信長配下だよ
九鬼は志摩一国の差配を与えられ、鳥羽城とか築いたりしてる
信玄の水軍は間宮武兵衛十艘持ちが最大な程度
九鬼一人で海賊衆500討ち取りって、どこの戦国無双?www
>>456 志摩水軍が信長配下なのは知ってる、伊勢の海賊衆はいまだ違う
>>456 小浜、伊丹?の伊勢海賊や今川の遺臣もいる
>>458 北畠見限る者達が続出しとりますが…
熊野水軍は天正年間には九鬼の指揮下で一揆衆を封じ込めるなど、完全に織田家臣化してるよ
源平年間でさえ千艘の威勢を誇っていた伊勢志摩・熊野水軍と武田水軍を比べるほうがどうかしてる
>>459 それらは皆せいぜい5艘持ち程度…(甲陽軍鑑の数字が実際なら、だけど)
軍艦で「船で上洛する」っていうぐらいだからそれなりにあるだろ、武田にも。
>>460 織田方として活動してる記録があるのが天正初期からなんだけど
それと吉田城は水軍で援助可能な位置にないね。
>>462 それ過去スレで火葬戦記と一蹴された話だろw
>>461 10何艘持ちも居た(多分間違いない)、減らすのはいつもの常套手段とはいえ‥
>>465 甲陽軍鑑からの拾い物
「一、間宮武兵衛 船十艘
一、間宮造酒丞 船五艘
一、小浜 [あたけ一艘 小舟十五艘]
一、向井伊兵衛 船五艘
一、伊丹大隅守 船五艘
一、岡部忠兵衛 [船十二艘 同心五十騎]
([ ]は割注)
二人だけじゃん
ああ、小舟=他の者の艘なら三人か
弘治年間に船で水野救援行っているから
尾張にも水軍ぐらいはあると思うが
>>466 船ってどの程度の規模の船なんだろ・・・
>>466 武田は50艘か。志摩の水軍さんは何艘?
武田水軍と北条水軍は戦っていたと思うがどっちが勝ったっけ?
信長公記には、「尾張衆の船団百艘」が九鬼水軍とは別に長嶋一揆攻撃に参陣したとあるけど
率いてる武将が織田信包・林秀貞・島田秀満だからな、臨時の船団だろ
そもそも尾張水軍と呼べるものほどがあれば、落ち目の九鬼氏をわざわざ厚遇する必要性は薄かっただろうし
>>473 こんなんしかみつけられなかった、ソースとしては地方の観光系HPなため信頼性はかなり低いかと
戦国時代、武田信玄は全国統一の第一段階として府中を攻略、久能山に本陣を置くも、
今川・北条氏の水陸連合の大軍には勝てず甲斐に敗走した。
このとき、信玄は敗戦の原因は水軍が無いことと悟り
背後に山を控えた入り江の自然の要塞に守られた焼津の花沢城を拠点として、
必ず北条水軍との戦いがあると予見し
、戦闘能力の優秀な軍船建造に焼津の船匠や漁師に協力を求め、
動揺の少ない速力の早い機転が利く小早型軍船を建造することができ、
駿河一円の海賊衆から遠く伊勢湾の海賊衆まで集め、
安宅1隻、船37隻、小舟15隻の全国でも誇りうる武田水軍が組織された。
武田信玄は勇猛で知られた騎馬軍団と強力な水軍を持ち、京都を目指し再び西進を開始、
浜松在の三方原で徳川軍を撃破するも、天正元年(1573)信玄は
病に倒れ、甲斐に帰る途中死去する。
信玄の嫡子勝頼は長篠の戦いで徳川・織田の連合軍に敗れたが、
健在だった花沢城の武田水軍は天正八年(1580)数倍もの北条水軍と浮島が原(田子の
浦)沖の海戦で撃破し、父信玄の宿願を成就した。
>>475 サンクス
>>476 >そもそも尾張水軍と呼べるものほどがあれば、落ち目の九鬼氏をわざわざ厚遇する必要性は薄かっただろうし
それはおかしくないか?甲斐の兵がいれば先方衆なんて…に近い暴言じゃないか
つか寄せ集めだと仮定しても尾張だけで百艘かよ
流石に集中すれば大小8百は動かせる毛利水軍には及ばないとはいえ、立派に脅威な海上戦力だと思うが
>>479 年代と織田信包ってとこからして伊勢の海賊衆が母体だろうね
尾張水軍でググったら雄略天皇東征とかの古事記な世界の話しかひっかからんw
志摩水軍は永禄の時点で九鬼指揮下で信長方だろ(志摩水軍内の勢力争いに敗れた小浜景隆は信玄配下になってるな)
伊勢の動静はどうなのか調べてもよくわかんね
>>482 天正元年の後半からやっと織田に組み込まれた感じっぽいね
北畠と似たようなもんか?
熊野水軍のうち、梶原水軍なんかは地元はなれて北条氏に仕えてるな
後年、場所を駿河に移して元地元同士が激突してた可能性は高いな
なんとも……
水軍とか使わないでも織田が一気に援軍出して、徳川に数千の援軍と物資送っとけばなかなか落ちないだろ。
こんどは積極的に野戦を仕掛けるなよ、とでも言い含めておいて。
追撃怖ければ一万ぐらい兵をのこしとけば十分渡り合えるだろ。
で、全力で近江制圧して帰ってくると。
>>485 包囲されて餓死続出だな。それとも足軽が10人力で物資も送るとか?
>追撃怖ければ一万ぐらい兵をのこしとけば十分渡り合えるだろ。
>で、全力で近江制圧して帰ってくると。
残りの手勢じゃ浅井朝倉勢と戦力に差がないような・・・
吉田城って海から距離あるよな?
ん?元々は海路で上洛が可能かどうか、じゃなかったのか?
吉田城攻撃なら、水軍云々より後年実際に勝頼が攻め寄せた時のほうが参考になるだろ
そなの?
てっきり、吉田城は攻囲できない説を話してると思ってたーよ
いや、吉田城は海沿いじゃないし(浜松城ならともかく)
敵の背後に回る目的でどっかに逆上陸、なんていう作戦は流石に高度すぎて当時の軍隊じゃ無理だろうし
491 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 19:35:54
現代では吉田城は海まで5kmほどあるが、昔は東海道線豊橋駅〜船町駅の辺りが浜だった。
城本丸から500〜1000mくらいのところになる。
そこから先は遠浅の海になる。後世の干拓で陸地になった。
現在でも吉田城の前の豊川は感潮域で、潮干狩りしている人がいる。
>>477 あれ、武田水軍って北条水軍に敗れていなかったっけ?
>>493 駿河争奪戦の時だな
まあ武田水軍もできたばかりなので仕方あるまい。
495 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 21:39:48
>>488 > 吉田城攻撃なら、水軍云々より後年実際に勝頼が攻め寄せた時のほうが参考になるだろ
勝頼は城下を荒らしまわり再三挑発したが、城将酒井氏は絶対に挑発に乗らなかった。
城外に引きずり出して決戦を強要するのが武田側の戦略であって、
吉田城が容易に落ちないという判断に立っていたのだろうと考えられる。
信玄の将才と勝頼の将才は比較にならんよ。
一方天才。もう一方は普通。
織田厨はそんな事も分からない。
497 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 22:29:40
>>496 戦術の才だけならほとんど変わらんだろ。
>>495 最後の一文はいらないな。
勝頼が吉田まで来たのは挑発して決戦に持ち込もうとしたのであって
長篠城が落ちていない状況で吉田城攻めはありえない。
容易に落ちないという判断で吉田から退いたのではなく挑発に乗ってこないから
長篠城攻めに切り替えたというのが正しいな。
戦術上の才能なら、何度も大負けしてる信玄より、長篠までは殆ど土知らずの勝頼のほうが上でしょ
勝頼は長篠でズタズタにされた後でも、領土広げてる。
503 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 11:46:41
>>499 長篠城主の奥平が武田を裏切って徳川についたのは長篠合戦の直前。
勝頼が東三河深く進攻したのはその前の話だから、
吉田が落ちないから長篠という話はおかしい。
吉田城が簡単に落ちる城かどうかは、
近世の3の丸までの範囲が戦国期だと考えれば、
平城の割りに城郭全体が小さく、大部隊の常駐や物資の蓄積には向かないこと
(150m×300mくらい・近世縄張図に野球場が投影されてるので、そこから推定)
3の丸南側長辺が防御上の弱点になりそうだが、堀が狭く、
大手門を配置していながら馬出しや横矢など、防備の工夫が見られないことから、
決して堅城ではないと思われ。どっちかと言えば簡単に落ちそうだ。
もっとも、大手門は戦国期には東にあったとも言われている。
想像だが、いくら何でもこんなにヤワな城では困るので、
家康の頃には3の丸の外側にも輪郭があったのではないだろうか。
504 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 14:30:16
結局、信玄の30年間の苦労って何だったわけ?
毛利みたいに領地の3分の1が残っていればともかく
>>491 それは嘘だろ、例の古地図にも牟呂村ってのが載ってるし。
>>503 そうだっけ?たしか長篠城を囲む前に吉田城近くまでいって挑発したけど
徳川が出てこなかったので長篠城攻めを開始したと軍鑑に書いてたような気がしたが
>>504 名将として歴史に名を残せたんだからいいんじゃない?
経済力に乏しい甲斐に生まれたことが身の不幸だったってことかな。
経済力とか意味不明
>>504 毛利も最終的には領地がなくなったしというか、毛利だけじゃなくて
他諸大名も。
早いか遅いかだけだ。歴史なんてもんはそんなもん
結局、○○の30年間の苦労って何だったわけ?
毛利みたいに領地の3分の1が残っていればともかく
○○の部分に好きに武将名を入れて下さい。
例:信玄、信長
織田家は結局小大名として存続するのが精一杯だったっけ?
武田家は旗本だったかな
武田の末裔っているの?
信玄の末裔と信長の末裔が数百年ぶりに和解、とかいうニュースが何年か前にあったよw
天童藩や柏原藩(それぞれ二万石程度)は信雄の系統
そこから高家や津田姓の分家がいくつかでて明治まで存続してる
あと信長の七男(フィギュアの織田信成選手はこの血筋)や九男も旗本・高家になってる
信長の弟有楽斎の系統も小大名二つ
信玄の次男の流れが、江戸時代に柳澤吉保に取り入ることで旗本高家として家を再興している
確か明治時代に爵位貰ったのもこの系統だったはず
脱糞の末裔はいるんだろうか
結局は早期には落ちないってことだな
長期間粘るのも無理だろうけども
「結局」厨がいる。
自己紹介乙
信玄だったら何らかの形で吉田城は落としていたと思う
計略か力攻めか調略か。
なので、吉田城を落とした事を前提に話を進めてみよう。
無論、落ちなかったという意見もあるのは分かるが、それでは信玄の上洛が止まってしまうではないか
>計略か力攻めか調略か。
ここの具体論を妄想するから楽しいんじゃないか
そんな調子で単に上洛成功したワーイヽ(゚∀゚)メ(゚∀゚)メ(゚∀゚)ノワーイじゃあいくらなんでもつまらん
>信玄だったら何らかの形で吉田城は落としていたと思う
>計略か力攻めか調略か。
そりゃ織田徳川にとっても同じで重要拠点をそう簡単におとさせるわけ無いだろ
>なので、吉田城を落とした事を前提に話を進めてみよう。
>無論、落ちなかったという意見もあるのは分かるが、それでは信玄の上洛が止まってしまうではないか
つまり寿命だけが上洛への障害じゃなかったってことだろ?
素直に上洛は無理だったが結論でいいじゃないか
信玄だったら何らかの形で上洛はしていたと思う
計略か力攻めか調略か。
なので、上洛をした事を前提に話を進めてみよう。
無論、出来なかったという意見もあるのは分かるが、それでは信玄厨の妄想が止まってしまうではないか
信玄だったら何らかの形で開幕はしていたと思う
計略か力攻めか調略か。
なので、(略
信玄なら・・・
それでも信玄ならなんとかしてくれる!
>結局は早期には落ちないってことだな、長期間粘るのも無理だろうけども
信長ヲタが必死ですねw
半包囲しかできないって主張も、堅固な城だという念願も否定されたのに
そりゃ長期間持ちこたえられないってのを否定してるまで
格別脆い城とも主張されてないし、早々に落ちると考えるほうが無茶だな
信玄だったら・・・吉田城を落とそうとはしない。
野田城という豊川下流域への出口を押さえただけで十分。
吉田城は仮に取っても、敵中に突出した孤塁になってしまい、
情勢が変化すれば、維持するのに出血を強いられるだけになる。
内線戦略の観点から見れば、
信州飯田から円弧を描くように拠点を確保して、
円弧の先が相互に援護し合えるように領土を取っていくほうがいい。
二俣〜野田〜作手〜足助というラインを押さえて、
東海道をどこからでも圧迫できるようにする。
放っておいても、円弧の外側は分断にさらされて、
自分から服属を申し入れてくる。
吉田城主酒井忠次でも、いずれは音を上げる。
戦わずして勝つのが信玄らしいと思うが。
まあ1ヶ月以内じゃ落ちないだろうな、5ヶ月は持たないだろうけど
完全に主観だが‥
>>529 近い時期に情勢が変化する見込みはまずねーし(信玄死去以外)
野田城−吉田城の線を分断する利益はかなり大きいから
わざわざ吉田城を放置する理由がほとんど無い。
>>532 吉田城が簡単に落城するならね。
以下ループ
信玄だったら何らかの形で吉田城は落としていたと思う
計略か力攻めか調略か。
なので、(ry
>>533 状況にも因るが、家康の後詰へ押さえを置いても1万5千からの手勢はいるわけで
>>503にある通り二俣、野田と比べて堅固ではない吉田城なら
二俣、野田(家康から遠かったが)と近い時間で落ちると考えるのは普通。
536 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/05(日) 18:14:40
>>535 > 状況にも因るが、家康の後詰へ押さえを置いても1万5千からの手勢はいるわけ
吉田城を力攻めするということは、吉田城の南に武田主力が回り込むということなわけで。
それでいながら岡崎方面を押さえる兵力も要る。
まず、野田城とその周辺の奥三河に2000、
吉田城兵が2000いるとして、攻め手に3倍の6000、吉田城南側約1.5kmの向山に布陣する。
渥美郡に徳川勢500いるとして、倍の1000、吉田城南側4kmの高師高地に布陣する。
岡崎方面に徳川勢2000いるとして、倍の4000、吉田城北西3km牛久保城に。
船による援護を警戒して豊川河口部に2000、対織田の戦略予備を兼ねる。
以上で考えると、15000の手勢では、いっぱいいっぱいです。
高師高地を手抜き出来る、というかも知れませんが、
ここに織田を引き込まれては厄介なことになるような気がする。
蒲郡から20km、船で渡るのは難しくないかと。
戦わずして勝つのが信玄らしいと思うが。
戦わずして勝つのが信玄らしいと思うが。
戦わずして勝つのが信玄らしいと思うが。
戦わずして勝つのが信玄らしいと思うが。
信玄は戦って城攻めで落としてるじゃんかw
むしろ小笠原を破格の所領ちらつかせて裏切らせて高天神落としたりした勝頼のほうがまだ…
は?w
戦って勝つのが謙信
戦わずして勝つのが元就
戦っても負けるのが信玄
戦って脱糞するのが家康
二股城とか野田城とか力攻めだったしなぁ…
↑アホ?
544 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/05(日) 20:29:49
信玄も勝頼のような勇戦敢闘の猛将だったら、生きてるうちに天下が取れたかも知れない。
しかし基本的にリスクを嫌う男だ。しかも、それでも失敗する。
部下をまとめるのが信玄
部下に叛かれるのが謙信
部下に殺されるのが信長
石橋を叩いて渡るのが信玄
石橋を無視して泳いで渡るのが謙信
石橋の向こうから一斉射撃するのが信長
三方ヶ原後の家康ってどこにいたんだっけ?
質問の意味がよくわからんが、浜松と答えておこう
三方ヶ原の敗戦の心理的衝撃から徳川方が立ち直る前に電撃的に進撃していれば、
野田城や吉田城など簡単に開城する。
岡崎の押さえは少数で大丈夫。
家康がのこのこ出てきたら軍を返して改めて叩きのめせばいい。
家康の野戦兵力はほとんど岡崎にいるので、少なくとも遠江国内では警戒に大きな兵力は取られない。
やべ浜松だった。
つまり
>>552は岡崎が浜松に変わって遠江が三河になるわけか?
>>549 二俣城・野田城は水の手を取って開城させたんだが。
何かの妄想と勘違いしてるなw
そしてまた二〜三ヶ月を遠江で遊んで過ごすわけですか。
いつになったら尾張に着くんだろうな。
ちょっと鬱になったが説明するよ。
野田城に関しては、信玄の病状も重く、無理をせず着実に攻めたので時間がかかったが、
勢いに乗って動揺から回復する暇を与えず火のように攻め立てれば、開城した可能性が高いんじゃないかと。
>>558 >野田城に関しては、信玄の病状も重く、無理をせず着実に攻めたので時間がかかったが、
これが確証のないただの妄想でしかないと理解はしてるんだよね?
真田幸隆がいればね
戸石城を信玄が必死で攻めても駄目だったのを謀略で奪ったあの手際が再現できればかなり楽になるが
>>559 信玄が重い病気だったのは明らかだし、
大将が弱ってたらどうしたって弱くなるのは常識だと思うが。
あの頃の信玄は、しばしば動きを止めたりして、平静の時の行動とは明らかに違ってる。
野田城に行くのに半月もかける必要はないだろ、普通なら。
じゃあ主将が病気なのに出てくるのがアホってことじゃん…
いや、出陣のときはそこまで重篤じゃなかったし。
或いは三方ヶ原の結果を城主達が知って武田方に鞍替えするのを待っていたのかもな。
病気にしても何にしても、想像の域は出ない。
朝倉退陣を知って病状悪化ってマジなの?
だいたい年明けの73年頃には発病していたとする説が有力らしいな
>>560 そうだよ、城攻めに実力行使はしたが力攻めはしてない。
二股城は、二ヶ月ほど力攻めしても落とせなかったんで水の手切ったんだろ
で、開城条件に城兵全員助命
失敗した力攻めは無かったことになるのかw
もっとも家康が敗退したとはいえ後詰にきたりと、城攻めだけに専念できた状態ではなかったゆえの結果だろうが
>>570 力攻めとは軍勢でもって城を強襲することを言うんだよ
野田・二俣は渇攻めあるいは土竜攻めで攻略したのであって
兵を押し立てて強襲した力攻めで落としたのではない。
>>572 詭弁乙
なんでそんな無茶苦茶な分類ができるのやら…
>>573 いや、詭弁はお前。
少しは自分も調べてみな
「力攻め」って別に軍事用語として定義があるわけじゃないし。
そういう意味で使いたい人がいるならそれはそれで。
誤解されやすいとは思うが。
つか二ヶ月小城を2万5千で囲んどいて落とせなかった時点で…
兵糧攻めならテンキュウ衆とかの損害はなんなのかと
最初から水の手切っとけボケは禁句?w
578 :
577:2006/03/06(月) 01:42:19
×二ヶ月小城を2万5千で囲んどいて落とせなかった
○2万5千で小城を囲んでおいて二ヶ月もかかった
第二次上田の真田って戦略的にはともかく
戦術的にはしょぼいのん?
徳川がのちに奪還するとき7ヶ月かかってるそうだから結構な堅城だったんじゃないか
で、結局城攻めに2万以上の軍勢でかかって攻略が遅かったのは
信玄の病気のせい?
それとも戦術のため?
病気のせいならその状態で出陣して戦続けたのはいただけないし
戦術のためなら時間浪費が病状悪化を呼んだことを考えるとやっぱり結果としては駄目だろ
二俣城は損害を抑えるために水の手を切ってじっくり降伏を待ったという話だが。
これは力攻めとは言うまい。
二俣城は徳川方の健闘もあったし、信長の動きを警戒して慎重になったと言うのもあるだろう。
野田城は病気のせいだと思う。
>>581 力攻めしない、そしてしても被害がでかくなりそうな城である以上信玄の病気は関係無い。
ただその後の行軍などには影響あると思うが。
>>577 結果がわかってるからこそ言える典型的な神の視点発言だな。
>>585 小城で、決して堅固とはいえない。守備兵も少なく、士気が上がる要素もない。
普通なら一瞬で落ちる城。
>>585 背後が川で城の南北が崖という
地形的にはかなり堅固な城
俺が昔読んだ本では徳川に出してた山家三方衆の人質と
交換のために野田城主を生け捕りにする必要があって
しかも信玄の病状悪化が重なってそのために長引いたと書いてあったような・・・
水の手切ったんじゃなくて水櫓攻撃で壊したんだろ?>二股
>>590 地形的には非常に堅固
城の構造物はそれほど複雑ではない
小城で兵数も少ない
で実際にどれだけの防御力があるかは自分には分からない
小城で兵数も少ないってのは二俣長篠にも言えることだし
信玄は攻囲半月あたりで「二股城は簡単に落ちるぜ」って朝倉氏宛書状で書いてるけど
実際には一ヵ月半もさらにかかったわけだが
崖っつーほどの崖じゃないようだが。
595 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/06(月) 04:05:11
ボルビックとかなかったの?
596 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/06(月) 07:36:31
>>587 信玄が病気でも、武田兵は元気だろう。
>普通なら一瞬で落ちる城。
なら、元気な兵が普通に攻めて一瞬で落ちているはず。
二万五千の兵士が信玄が弱ってくると、なぜか「兵士たちも病弱になって弱くなったんだよ
大将が死そうだったら浮き足立つだろ
そういうのは隠すもんだ
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/06(月) 10:25:06
不都合なく隠し通せるんなら、信玄いらねーじゃん
指揮は信玄取るだろ
>>552 だいたい同意
岡崎方面には野戦戦力としての徳川勢は居ないし
全軍のほとんどは当然家康が率いてるから、家康だけ警戒すればいいしな。
渡海による援護は危険すぎてありえないし
>>592 地形的にも崖が急峻とはいえず、川からやや離れてるから微妙
交通の便は良さそうだけど。
>>603 >岡崎の押さえは少数で大丈夫。
と
>家康の野戦兵力はほとんど岡崎にいるので、少なくとも遠江国内では警戒に大きな兵力は取られない。
が矛盾すると思うんだ
>>603 戦力を集中されると武田もそれに備えにゃならん
当然他を攻める兵力が少なくなって進撃が遅れる
それこそ信長が望んだことじゃないか?
徳川援兵の三千も篭城を主張したみたいだし
>>606 そなえても吉田攻めへ1万6千からの手勢を注ぎ込めるよ?
それに吉田は要衝だと思うけど。
徳川主力に対して
五〜六千しか備えないのか
徳川主力は8千から大敗で目減り
それに対して8千も備えを置くのだから十分だろ
二万四千は美濃の分隊三千加えてだろ?
徳川も約一万からみかたが原の二十パーセント落ちで八千
計算も出来ないこんな世の中じゃ
>二万四千は美濃の分隊三千加えてだろ?
>二万四千は美濃の分隊三千加えてだろ?
加えないしw
>徳川も約一万から
>徳川も約一万から
織田の援軍三千加えてだろw
ああなんだ、てんぷら捏造犯か・・・
攻略した地域や開城した城にはどれぐらい兵力を置いたわけ?
三河は寝返りの人、遠江は合計千〜1500人
武田厨が必死にごまかしております
620 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/06(月) 20:20:07
>>603 > 渡海による援護は危険すぎてありえないし
伊勢湾における武田水軍はの影響力は皆無である。
伊勢水軍は東三河の100km西に居る。
武田に協力して三河湾の海上封鎖をしてくれる理由も無い。
そもそも当時の水軍の能力からして、水軍拠点を押さえないで洋上に常駐するなど不可能だ。
どんな危険があると考えますか?
>>618 その程度?
徳川軍が武田軍退陣後即座に反撃して一定の地域あっさり取り返せるわけだ
622 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/06(月) 20:46:19
浜松主力は8000から目減りしたといっても、兵を立て直せば6000くらいにはなるのではないか。
これに備える1500というのは、二俣城近辺だけを守る拠点防御の態勢ということでしかない。
武田が吉田城攻略に取り掛かった場合、二俣方面への押さえに浜松に2000置いても4000が取って返せる。
三河には新手の3000〜3500が控えており、織田の援軍と合わせて
城攻中の相互連携が難しい状況を急襲すれば勝ち目がないでもない。
問題は、徳川に野戦を挑む勇気が残っているかどうか。
もう一つの問題は、勇気が残ってるという可能性を武田がどう判断するか。
最後の問題は、織田がどのくらい本気で援軍を出すのか、出さないのか。
徳川軍は武田軍退陣後の5月には久能・駿府・長篠方面へ反撃の兵を出してるからな
と、いっても放火したりする程度だが…
戦意はともかく、実際に城を奪回したりとかやるのは7月半ば程度(長篠奪還へ出兵)
織田援兵なしで一年ぐらい徳川ががんばればもう上洛はムリポなんだけどな。
というかなんで史実で織田は一気に浅井を潰さなかったんだろうな。
625 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/06(月) 23:08:21
r、ノVV^ー八
、^':::::::::::::::::::::::^vィ 、ヽ l / ,
l..:.::::::::::::::::::::::::::::イ = =
|.:::::::::::::::::::::::::::::: | ニ= 信 そ -=
|:r¬‐--─勹:::::| ニ= 玄 れ =ニ
|:} __ 、._ `}f'〉n_ =- な. で -=
、、 l | /, , ,ヘ}´`'`` `´` |ノ:::|.| ヽ ニ .ら. も ニ
.ヽ ´´, ,ゝ|、 、, l|ヽ:ヽヽ } ´r : ヽ`
.ヽ し き 信 ニ. /|{/ :ヽ -=- ./| |.|:::::| | | ´/小ヽ`
= て っ 玄 =ニ /:.:.::ヽ、 \二/ :| |.|:::::| | /
ニ く. と な -= ヽ、:.:::::::ヽ、._、 _,ノ/.:::::| | /|
= れ.何 ら -= ヽ、:::::::::\、__/::.z先.:| |' :|
ニ る と =ニ | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::.|'夂.:Y′ト、
/, : か ヽ、 | |::::::::::::::::::::::::::::::::::::_土_::| '゙, .\
/ ヽ、 | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::.|:半:|.ト、 \
/ / 小 \ r¬|ノ::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| \
626 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 00:10:47
織田と徳川両方押さえ込みながら、吉田城を攻めるのは無理だな。
城を攻めながら、岡崎、渥美、浜松の3方向からの攻撃を警戒する必要がある。
>>596 見た目あんまり落差なさそうだけどな。
普通レベルの防御力はあるだろうけど、大軍で攻められたら長くは持ちそうにない。
敗北後の徳川も確かに兵力を残していたが、
今度捕捉されたら本当に最後だと思ったら、
なけなしの兵力、そう簡単には動かせない。
>>628 やっぱり、家康は1年ぐらい籠城して信長が浅井・朝倉を平らげるのを待つべきだよね。
>>593 おかしいな、朝倉氏宛書状から1月以内に落ちてるのに
>>622 >1500というのは、二俣城近辺だけを守る拠点防御の態勢ということでしかない。
どう考えても、城の在番の話だろw わざとっぽいけど
>二俣方面への押さえに浜松に2000置いても4000が取って返せる。
家康の押さえは8000 わざと勘違いしたっぽいけど
>三河には新手の3000〜3500が控えており
いるわけないw
8000を信玄が充てたとして、のこりは一万三千か。
美濃のは除いてるぞ。
この一万三千をどう運用するかだな。
家康を攻めるかか、家康の本拠三河を落とすか。
631さんは改竄に精を出しております。
と、武田厨がふぁびょっております
三方ヶ原後、素直に浜松城囲んでおけばよかったんじゃん
家康の戦力は分散した状態
ここで城攻めして降伏ないし落城させておけば後は勝手に自落していく
二股落とすのに二ヶ月かかった武田軍だから浜松落とすのにさらにかかるかもしれんけど、それでも確実に徳川の息の根止められるメリットは計り知れないでしょ
結局、家康は吉田の後詰へのこのこ出てきたんだし大差ないだろ
ニ俣、野田も1月で陥して吉田落ちれば分断できる状態は
より優位だと思う。
>>635 大差あるじゃん
結局徳川軍自体は壊滅せず、勝頼の代まで手間取って織田が出てきてアボンになるわけなんだし
とうとう信玄は史実通り死ぬ仮定にするらしい
いや、普通に大名自身を狙って倒せる戦いにしたほうがいいだろうって意見だと思うんだが
信玄の寿命が延びてようが、敵全域を屈服させるまで抵抗されたら普通に厄介じゃん
手間取れば信長が後詰に来る確率は増大するわけ
寿命が延びても健康が回復しなけりゃ一緒のような
所詮負け組でしょ?信玄って
天下取れなかった織田も負け組。
と、釣られてみる。
天下はとったろ全国統一はできなかったけど
なにをもって天下を取ったと?
644 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 18:49:49
>>635 > ニ俣、野田も1月で陥して吉田落ちれば分断できる状態は
一万三千で吉田が落ちればね。
以下ループ。
645 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 19:16:57
落ちる、と言い出すのが必ずいるだろうと思った。
徳川領が狙いにせよ、家康の屈服・服属が目的にせよ浜松の家康を放置ってのは
ありえないよなあ。
死去しなくても兵農分離出来てないわけだから
京には長期間滞在できない
幕府は信玄に開けなかったと思う
信長は地方ですら統一してないだろ
651 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 21:10:52
信長は美濃の将来性のなさを見抜いたのは
現代人からすると天才的だと思う
欲を言えば近江の将来性のなさも
見抜いて北条潰しに全力を挙げてほしかった
652 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/07(火) 21:30:43
長野県。。。
>>649 濃尾は中部あるいは東海
近畿は雑賀を下してないし
>>653 >濃尾は中部あるいは東海
???
>近畿は雑賀を下してないし
下してるじゃん
アレだけの広大な領土保持してりゃ十分天下は・・・とってないか。
天下に手をかけたって表現が正しいか。
地方統一とかんなもん区分の問題でしかない。
ゲームじゃないんだから何処の地方統一しようが関係ない。
群雄割拠になって石高がそれまでの勢力にない規模になったってことに意味があるだろ。
>>653 そういう基準で言うのなら、
北条は関東を制覇していない
毛利は中国を制覇していない
島津は九州を制覇していない
長宗我部は四国を制覇していない
武田は…まあ中部も甲信越も制覇していないな。
で、それがなにか?
>>646 先に外堀を埋めるって手はあるぞ。
我慢できなくなって降伏する可能性は低くない。
信玄は家康を部下にしたがったから回りくどく攻めた?w
659 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/08(水) 07:18:41
徳川の「外堀を埋める」方法が、
猛将勝頼でさえやらなかった吉田城強襲だとしたら
発想の根本がおかしい
それなら浜松を強襲するのが普通だ
自分を裏切って敵対した勢力を信じるかどうかはまた別問題だな
>>661 で、それが何?
結局殲滅しきれず史実では即反撃食らって武田滅亡の遠因になったことに変わりはないじゃん
長生き仮定でも一定数の野戦軍が生きてれば信長軍が後詰に来たら挟み撃ちにあって普通にやばいだろ
その前に吉田城が落ちる。落ちたら大ピ〜ンチ
それに信長軍が後詰に来たら、近江畿内方面と武田の挟み撃ちにあって普通にやばいだろ
いったい何処が「挟撃」などできるというのか
実力的には、朝倉。
ただ実力とは無縁の要素でしないだろうけどな。
天下を取ると全国統一って別物だろ?
信長は動く時期がむずいよ
669 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/08(水) 18:19:06
>>663 > それに信長軍が後詰に来たら、近江畿内方面と武田の挟み撃ちにあって普通にやばいだろ
挟み撃ちには結果的にならないはず。
織田は三河に長期滞陣できないことを徳川は知ってるのだから、
後詰を得たら、徳川は浜松と吉田から出撃して決戦を挑むことになる。
横山城を囲まれた浅井が、朝倉の後詰を得た時の戦略と何も変わらない。
そして、姉川合戦の結末を知ってる織田が、「手緩い」策を講じるとも思えない。
信玄が一時兵を引かなければ、東三河を舞台に、戦国史に残るような大決戦となるだろう。
これは個人的な予測だが、信玄はそれを望まないので、吉田の囲みを解いて一時撤退するだろう。
信玄の資質は勝頼とは全く違うと思う。
でもそれは信玄も決戦を望んだ場合におこることだよね。
信玄なら吉田城が落ちてない状況で織田が後詰にきたら一宮方面に撤退して
戦線を縮小した上で決戦を挑まず朝倉・浅井・長島らの蜂起を促すと思うね
単に撤退では能がないし旨味もない、織田・徳川が無理に攻めてくれば
それだけ地の利を得ることも出来るし。
>>670 なんで一宮方面なら武田が地の利を得るの?敵地であることに代わりはないんだけど。
三方ヶ原は大敗と言われてるけど
実際の徳川方の損害は一割以下
むしろ夜間戦闘で退却時に統制が取れなかったのが問題
掛川や岡崎に帰還せざるを得ない部隊まで出た
しかし、武田軍も城を夜襲するという危険な行為に出ることができなかった
そして一旦浜松城に篭られたら、守備兵力数はまだまだ二股や野田の比じゃない
一発勝負をかけるならともかく、野田を目指した選択は決して悪いものじゃないよ
>>670 撤退のそぶりを見せたらますます朝倉浅井なんて蜂起しなくなるぞ
そもそも浅井なんて青息吐息だし。
朝倉なんてそれでもでてきなさそうだ
>>671 一宮方面といったから悪かったかな。
野田や長篠あたりまで退けば武田の勢力圏でしょ。
675 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/08(水) 21:13:46
>>673 三河で織田軍を拘束するんだから出てくるだろ
>>675 朝倉軍は、出てきても「織田の守備が堅い」と引っ込んでしまったのだが。
信長の主力軍が留守中にね。
浅井が滅びかけなのにそれを放置した朝倉だもんな。
たしか明智が坂本にいて柴田たちも近江にいた気がするがそれでも主力不在?
>>678 信長が岐阜に引き返した時には柴田・丹羽らや家老衆クラスとその手勢は一緒に戻っていたはずだが
後に足利義昭蜂起の時に岐阜から出陣している手勢とかは間違いなく不在でしょ
義昭蜂起を潰したのが2月の末日まででその時坂本に明知、近江に柴田たちがいたと思った
朝倉が出てきたのは3月だから主力がいないという状況ではないと思うけど
まあ木下と明智は残っていた可能性は高い。
が、この二人は当時の織田軍ではまだ主力部隊といえるほどの規模はない。
信長が岐阜にいるのと三河にいるのとでは全く違うしな。
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/08(水) 23:01:56
ここんとこ吉田城が焦点になってるみたいだけど、
当時吉田城にいた兵力ってどのくらい?
信長直率の軍隊>足利義昭鎮圧部隊
ってことは考えられないんじゃ?
本能寺の時のような、信長の周りに兵が殆どいない状態とは考えられんでしょ戦況からいって
>>680 三月のいつごろですかね。ちなみに信長が岐阜を発ったのが3月25日。
朝倉の3月出陣は信長公記だとマジで相手にされてねーんだな
交戦もしなかったから当然か…
軍事的脅威を与えていないんだよな朝倉の出兵は。
信長は四月上旬には京から引き上げて、帰国途中に行きがけの駄賃とばかりに
鯰江の六角を攻撃しているけど、江北にはまるでなんの対応もしていない。
>>669-670 信長が家康の手勢と合わせて武田勢と対等に戦える程度の兵を率いて来れば
吉田の攻囲を解いて長篠や賤ヶ岳の様な陣地戦になると思うな。
大勢を繰り出したまま三河で張り付けになると、近江一円が危うくなるから
長引けば有利なのにわざわざ決戦はしないかと。
>>688 >信長が家康の手勢と合わせて武田勢と対等に戦える程度の兵
それだと織田の援軍は1万5千から2万程度
その程度の兵力の引き抜きなら近江一円が危うくなることはないんじゃないか
信玄公の戦史に燦然たる軌跡。
○信玄 × ●謙信
永禄4年(1561年)、第四次川中島の合戦。
驟雨一電、乾坤の勝負を賭ける一箇の漢、毘沙門天の化身、軍神謙信。
双眸を光らせ、大鳳が起つが如き身の動きで、神の一撃を受ける信玄。
伝説に語られる対峙であった。
戦死者、越軍が3千強、甲軍が4千強という、戦国史にも稀な激闘の末、上杉軍は退却、武田軍が勝鬨を上げる。
以降、北信濃は武田家の有に帰す。
○信玄 × ●氏康
古今比類無き名将、早雲を超える器量を持つとまで云われた氏康。
しかし相模の獅子とまで謳われた彼も、甲斐の虎を相手に苦闘を強いられる。
1569年、武田軍は小田原城を包囲(第2次小田原攻城戦)。
後北条家存亡の危機であったが、相越同盟を結んでいた上杉軍の義援により、かろうじて難を逃れる。
1571年、氏康没。
遺言で氏政に信玄との和睦を命じた。
○信玄 × ●信長・家康連合軍
三方ヶ原の合戦で鎧袖一触。巨鯨が小魚を一撃するが如き勢いで破った。
神君家康の生涯唯一の負け戦であった。
しかし、嗚呼、無常にも、信玄は1573年(元亀4年)、陣中に没する。
神々の黄昏。荘重で深淵に悲哀を秘めた信玄の死であった。
>>689 2万を率いて後詰すると、近江のあけっちーと秀吉は
合わせて1万6千前後の軍勢で、浅井朝倉と将軍ハゲを相手せにゃならん
短期に片が付けばいいが長引いたら苦しいぞ。
693 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 18:24:31
いや足りないだろw
将軍、浅井、朝倉、本願寺は厳しい
朝倉が真剣に戦うなら足りんかもしれないが……
1万6千なら十分だろ
史実の3月に朝倉が織田との戦いを諦めた時も近江にいた織田の兵力はそれぐらいだろ
というかそれ以前に何で2万率いたら近江の残りが1万6千何だ?
つか本願寺への抑えって付け城の在番じゃないか?
>>698 長島や浅井はそんなもんだろうな
でもこの時期大坂本願寺は特に行動起こしていないし付け城もまだ築いていないと思うんだが
実際のところはどうなんだろう
当時の本願寺は何もしていないぞ。
各地の一揆を扇動するだけで。
はっきりいって、元亀年間においては本願寺の戦力は考えなくていいんじゃないかと。
>>699 一応、本願寺の蜂起を受けて後退したときに周囲を固めてるよ(高槻・若江・伊丹等々)
信長が十分警戒してたから動きが鈍かったんだろ?
それをもって、放っておいても大丈夫、とする根拠にするのはおかしいよ。
天正三年に信長が三好党を攻撃して撃破したときも本願寺勢は動かず
天正四年の天王寺合戦まで大きな闘いは無しだったはず
本願寺の動きは鈍いよ
在番の将兵がいくらいたかはわからんけど
当時の信長のちからは河内和泉摂津には直接には及んでいない。テンプレでも
その三国は織田領国からは除かれている。
もし本願寺への付け城なりなんなりがあって警戒・対処がなされていたのだと
したらそれは在地の親織田勢力による。
本願寺の動きは鈍くないぞ、大阪での軍事活動は鈍く見えるかもしれんが
近江各地で一揆起こして城占拠いるからそりなりのもんだろ。
>>705 最大の主力で本拠地が目の前で味方が駆逐されても亀で手紙だけ出して他を扇動するだけって碌なもんじゃないじゃん
一向宗門徒に主力も本拠地もないだろ、ダメなら逃げ帰ればいいだけで
>>704 その論理で行くと、織田の付け城が一個でもあったら
そこは織田の領国としてカウントされちゃうのか。
>>709 意味不明。>704のどこに「付け城があったら織田の領国」なんて書いてあるんだ?
「論理」って言ったろ。直接は書いてない。
命題1.河内和泉摂津は織田領国ではない
命題2.河内和泉摂津の付け城は、あったとしても織田家のものではありえない。
704の書き方だと、普通は命題1が真ならば命題2も真、と言う意味になる。
ということは、対偶を取ると、
「河内和泉摂津に織田家の付け城があるならば、河内和泉摂津は織田領国である」
となる。
証明終わり。
>>711 全然違うだろ
史実の大坂本願寺の牽制が河内和泉摂津の親織田勢力によるものなら
大坂本願寺の抑えはテンプレの織田の兵力を充てる必要が無い存在
>>689からの1万6千前後の軍勢で将軍、浅井、朝倉、本願寺を抑えることが可能
を補強する説明だろ。
数学の授業で命題とか真であるとか覚えて使いたかったんだろ
>>701 ざっと調べたのだがそれらの城は義昭と信長が敵対した頃はみんな義昭側に
付いて信長と戦ってるじゃないか。
>>711 ハゲワロスw
次は三段論法とかでるのかな?wwwwwww
こいつキモイ
>>714 ソースは?
高屋城あたりは三好党との間で頻繁に争奪戦があったから
それと勘違いしてないかい?
ソースとか言われてもこまるがグーグルで調べたら若江城の三好義継、高槻城の和田惟長、
伊丹城の伊丹親興は義昭と信長の対立が鮮明になった頃義昭に付いたと書いてあった。
ググるのはいいけど
そのページの出典ぐらいは普通にどっかにあるだろう?
それは?
「高屋城の畠山殿・若江城の三好義継・交野の安見右近および伊丹・塩河・茨木・高槻」「和田の畿内衆」は、志賀の陣のとき京へでようとした三好勢を織田方に立って防いでるな(信長公記)
将軍謀反に呼応した時にどれくらい将軍方についたかは書いてないな…
>>720 701で出てきた城を調べただけだから。
>>721 ない。そこまでソースにこだわる理由は?
ネットだから間違いはあるかもしれないけど、いちいち全てにソースを要求されるのか?
だったら701の話もソースを聞かせて欲しいな。
一度整理してみるか摂津河内和泉の諸勢力を
>>723 おいおい、いくら三戦だからって史実の話してるときにソース無しです、じゃあ相手にされないよ
将軍謀反ってよく考えるとおかしいよな
立場的には一応将軍のほうが立場上だろ?
前にも言ったけどテンプレの安宅信康の記述は間違ってる
だいたい75年頃信長に降伏したのであって72年ではない(釈文書)
>>724 摂津は
荒木村重 織田 73年春に織田に通じる
池田知正 義昭 73年荒木により逃亡
池田勝正 義昭 池田城を追われ義昭に従っている
和田惟長 義昭 73年春高山により滅亡
伊丹親興 義昭 74年荒木により滅亡
高山重友 織田
河内は
三好義継 反織田
畠山昭高 織田 信長の妹婿 73年遊佐により暗殺
安見直政 織田
遊佐信教 反織田反三好
とこーんな感じか?73年正月は
摂津は大坂除くと最大勢力の荒木が織田についているが
河内は実権があまりない畠山が織田についているぐらいだから反織田の方が勢力強いかな?
和泉はよくわからん
三人衆と康長忘れたやorz
>>727 〔「古簡雑纂」十一〕
『増訂織田信長文書の研究』文書346
だと1572年11月に織田に通じたといってもいいと思うが
まあどちらかといえば三好を離反したと言うべきか・・・
>>731 グーグルで調べてもさっぱり分からないんだが
どんな文書なの、信頼性はどの程度
河内では、北半国守護の三好義継が義昭についたが、重臣の野間長前、池田教正、
多羅尾常陸介が裏切って信長について義継滅亡後の北河内統治を任される。
南河内では畠山高政が重臣遊佐信教、安見直政と対立。高政は弟秋高に家督を譲って
出奔。秋高は義昭方につくが遊佐信教に殺される(元亀四年六月)。遊佐信教はその
まま高屋城主代行として信長と戦い、天正元年に滅ぼされる。後、降服してきた三好
笑岩を南半国守護を任せる。
摂津では守護池田家が内訌。当主勝正の出奔後荒木村重が実権を握る。高槻の和田
惟長は元亀四年三月に高山右近に城を奪われる。荒木はそのまま信長に服属。
伊丹忠親は義昭につき荒木と抗争。天正二年には伊丹城を落とされる。
和泉では松浦氏、沼野氏、真鍋氏などの水軍衆が割拠。時期は不明だが元亀年間には
信長に服属したもよう。元亀四年四月、松浦肥前守が十河存保に信長への降服を仲介
している。
まとめると…摂津・織田派有利。河内・義昭派。和泉・中立?(じょじょに織田派へ)
こんなところかね。
つうかこれだけ反織田の小勢力が頑張ってるのに
なんで本願寺は支援しなかったの?
一揆衆を扇動してすませて、例によって本隊は本願寺にお篭り?
そもそも本願寺はそれほどやる気ないし。
信長公記では信長に茶道具贈ったり媚びてる話も見られる
本願寺本隊は、本願寺の御山と顕如宗主を守るのが役目
信長軍が迫ってくれば出るだろうけど、基本的にはお篭りでしょ
一向一揆なんて加賀以外はお篭りでしょ
長島も付け城への攻撃に留まっているか
それでも目の前で友好勢力がボコにされてるのに手を出さない本願寺はちと篭りすぎだと思う
一度は三好党と連携して打って出たのに…
>>740 打って出たといっても本願寺目の前に織田がいたからじゃ・・・
742 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/11(土) 19:58:38
要するに、
畿内の状況は織田の動きを完全に封じるほど悪くなかったということか?
それなら、三河にいる信玄主力は織田の行動に注意を払う必要がある。
吉田城包囲強攻が成立する可能性は低い。
畿内の状況は織田の勢力拡大は防げたが、織田の勢力減少には及ばない。
といったところ
結局配慮しないとダメなのは将軍六角浅井朝倉ぐらいってことだろ
六角は配慮した形跡がないのだが。
ついでに六角が攻勢にでた形跡もないのだが(元亀二年以降)。
浅井も元亀二年以降は自分から攻勢はない。
朝倉は浅井が攻撃を受けると援軍を出すが、自分から攻勢にはでていない。
浅井は73年には秀吉の留守中にも何もできない状態に…
すると全軍武田に投入するとでも?
普通なら弱敵に戦力を集中させるだろ
749 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/11(土) 21:37:14
普通じゃないのが織田信長
信長自身が主力とともに岐阜まで戻ってきてるんだもん
それに徳川が武田に降伏する事態になれば、かろうじて優勢に持ち込んだ戦略が一気に破綻する
決戦志向が無くてもやるしかないさ
いくら本願寺の動きが低調でも、
さすがに空っぽにしたら京を占領されると思うが。
現実に信長の主力軍が畿内になくても本願寺は何もしていないが。
特に元亀四年に義昭が蜂起したとき。畿内の主だった連中は京に進軍していない。
もちろん本願寺も。それどころか講和を持ち出している。
織田方の国人クラスも固かったのか
それとも本願寺は結局日和見だっただけか
どうも後者臭いな。信長が破綻すれば良し、しなくても勢力温存とか考えてたんだろ
>>752 主力がいなくても空っぽにしたわけじゃないでしょ。
信長に極端な戦力集中をさせないだけの存在感はあった。
しかし信長の全軍を張り付けて身動きできなくするほどではなかった。
万以上の兵を動員できる相手に弱体してるから何千で大丈夫とか
動きが鈍いから備えは置かなくていいとか結果がわかってる
後世からの視点ばかりですね
756 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 00:33:50
それが後世の強みだろ?
何がいいたい?
それをいったら信玄寿命延長なんてイフこそが後世n(ry
>>755 いや後世の視点じゃなくて
当時の人達が何もしていないんだけど
一応、ひととおりスレ読んでみた。
…流れを断ち切って悪いが、ソースあげてみる(‘o‘)_■ ドーゾ
http://www5a.biglobe.ne.jp/~hampton/history020.htm 皆さんご存知のとおり、武田は兵農分離政策をしていない。つまり
勢力がそれほど大きくなかったことの裏返しでもある(周辺に相対的
な大大名がいた)
さて、このような状態の武田家が三河を席巻して、その後信玄が死
ななかったとしても三河を安定支配できたかどうかは疑問である。
信玄には「後継者の後見→領国の安定」という大仕事もまだ残って
いる(死期が近いことは承知していたろう。だからこそ病をおして
駿河地方の早期安定化→三河侵攻 に踏み切ったと思われる)
そーゆーのはソースって言わん。
>>759 の補足
春になれば、三河から武田兵は大方いなくなる。だって 兵=農民 だもん(^^)
信玄にしてみれば、それでも駿河の安定が図れるわけだし。あそこで兵の
引き時って考えるんじゃないのかな?僕の妄想には違いないけど現実的だ
と思うよ
(´(ェ)`)
信玄が、勝負どころなのに春が来たから帰った、なんて例はないと思うんだが。
765 :
759:2006/03/12(日) 03:22:02
・農業で一番忙しいのは2月と3月と8月なのだ。
(この時期に戦を企てたのは一度もない)
・本国を長く留守にしていられない
・家康は城に逼塞して、一応の白黒はついている。
(仮に三河から兵を退いたとして、家康に何がで
きる?家康が駿河を併呑したのは1582年だ)
・信玄は病の身。いくさ中に信玄が斃れでもした
ら、万が一のことが起こり得る。前述したが、後
継の勝頼の立場は微妙だし、信玄には対三河に専
念する余裕はないはずだ。
勝ちを勝ち切るのは難しい…とはよく言われるが、歴史上の
三河侵攻の状況はまさに退きどきではないのか?拙者はそう
思う。
766 :
759:2006/03/12(日) 03:26:37
ちなみに第二次川中島の合戦のときは、対陣が長引き8月になっても
兵を退くことができなかった。このとき陣中および領内で小規模では
あるが反乱が起こっている。信玄が長尾との(一応の)和議を考えたの
はこれが一因とされている。
個人的な意見を書いたHPを載せてソースと言い張るバカが居るぞ。
1547年8月志賀城攻め
1548年2月上田原
1548年7月〜10月塩尻峠村井城
1550年砥石崩れ
1551年8月刈谷原城攻め
1552年8月小岩岳城攻め
1553年8月第一回川中島
1553年8月和田塩田高鳥城攻め
1554年8月下伊那攻め
1555年春〜秋第二回川中島
1555年8月木曽攻め
1556年8月雨飾城攻め
1557年8月第三回川中島
1563年2月松山城攻め
1563年8月岩櫃城攻め
1564年3月野尻城攻め
1564年8月第五回川中島
1568年3月長沼城出陣
1569年1月〜4月北条と対陣
1570年8月韮山興国寺攻め
1571年3月高天神攻め
1572年8月飛騨攻め
1572年10月〜4月三河遠江攻め
かなりあるけどね
>>765 >仮に三河から兵を退いたとして、家康に何ができる?
史実では
1573年信玄が死んだ年に東三河の足助・野田・長篠・一宮などを奪還し駿河にも攻めこんでる
1574年には北遠江の諸城を攻めている
また1571年武田が兵を退いた後も野田城を取りかえしている
770 :
768:2006/03/12(日) 07:28:07
1550年砥石崩れは春から10月まで出陣している
春は築摩郡を、そして8月からは砥石城を攻めている
771 :
759:2006/03/12(日) 08:06:09
>>768 それは旧暦ジャマイカ
別に新暦か旧暦かの論争するつもりはない。単に農繁期に兵を出すのは
困難だ。と言いたいだけだ
>>769 「信玄が生きていたら」の前提で話をした。わざわざ有難う
772 :
768:2006/03/12(日) 08:17:30
>>771 一応言っておくが3月4月9月の出兵はもっと多いぞ
773 :
759:2006/03/12(日) 08:25:03
ついでに
>>771 「信玄が生きていたら」の前提if話について
・史実では(信玄は)陣中にて危篤状態に陥り、駒場で没したのだが、
仮にもう少し長生きしたとして、果たして三河占拠→それに続く軍
事行動を続けたのか?あるいは一時引き上げを図ったのか?その辺の
論議がしたいのだが…拙者は前述のとおり、引き上げを図ったもの
と思う。
774 :
759:2006/03/12(日) 08:28:42
>>772 後ろに月をずらして、何の論議がしたいのかワカラン。戦国期は
基本的に早米だ。
>>755 浅井朝倉は攻める側なのに対して織田は城にこもって守る側
兵力が織田のほうが少なくてもいいのは分るな?
>>771 単に農繁期に兵を出すのは
困難だ。と言いたいだけだ
そりゃ小説の中での話しだ、史実は異なる
あと過去ログでも読んできたら
過去ログに武田の月別出兵率まとめたのあったな
それによれば季節毎でいえばむしろ農繁期が多かった希ガス
ということで
>>759もそういうのまとめてみたら?
武田の場合は冬の出兵が少ないぐらいか?
農繁期にこそ兵を出すという感じだが、やはり刈田が狙いだろうか・・・
>>759 「どうすれば武田家は天下をとれたか。」に帰ってろ。
782 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 11:30:51
なんか意味わかんないんだけど
「そるぼんぬ ぺぺっそ」ってゆう言葉が好き。意味はたぶん無い。
けどよく頭の中でなんども響く。そのたびに好きになる。
で、人に伝えたくて友達や彼氏に何度もおしえてあげた。
機嫌のいい日には8回くらい教えてあげたりする。
で昨日、精神科のお医者さんにもおしえてやった。そしたら薬ふやされた。
783 :
信玄:2006/03/12(日) 13:59:43
こんな所にもワシのスレッドが!
常駐するのでよろしくたのむぞ。ふぇふぇ
きえろ
【神】武田家の輝かしい戦歴【不敗】
1548年2月 上田原の大敗 村上5000を上回る7000もの大軍で戦に挑むも先陣を包囲され殲滅。
重臣板垣、速攻で討ち死に。さらに中央突破を受け歴戦の重臣甘利、才間、
初鹿野を討ち取られ、さらに信玄自身も足軽に切り付けられ2箇所に重傷を負う。
将兵700も討ち取られる大敗。村上の被害は300程度。
この戦によって反武田勢力が力を盛り返し窮地の陥る。
平定に二年も費やし逆らう者を皆殺しにし、無駄に時間と軍費を費やす。
後の長篠大敗の後の信濃大離反の火種を作成する。
1550年10月 戸石崩れの大敗 原虎胤のみならず信玄自身も偵察に赴き、万全の体勢を築き上げ、
かつ、村上義清が高梨と交戦中の絶好の留守の機会に奇襲をするも、つい先程まで高梨軍と
死闘を繰り広げ疲弊していた村上軍が急遽来襲。圧倒的に有利でありながらまたも大敗。
将兵1000を失い、追撃を受け、信玄がその才能に期待していた未来の有望株であった
横田高松が討ち死に。信玄は後年まで酒を飲むとこの者を失った悲しみを周りの者に語った。
1551年10月 小岩岳城に奇襲をかけるも失敗。後年、その恨みか落城の際には降伏さえ許さず城兵500を
皆殺しにし、かつ、老人、女、子供に至るまでを奴隷として売りさばく(妙法寺記より抜粋)
そのため現在でも落城の8月12日では慰霊祭が行われている。1000人を皆殺しにし、奴隷として
売りさばき、黒川金山に連行した志賀城と双璧を成す大虐殺である。
1553年4月 布施の対陣 更級郡八幡で戦うも長尾軍の猛攻により一時撤退。高坂、村上義清にボロボロにやられる。
後に甲陽軍艦において見事なまでの捏造で挽回をする。
8月 軍を建て直し川中島で戦うも越軍の連夜の夜襲に悩まされる。
9月 謙信に敗れ、筑摩、埴科郡に侵入され、荒砥城を落とされる。
信玄塩田城に怯えて篭る。謙信暴れるだけ暴れて帰還。そのまま即座に上洛。
信玄イジメの味を覚える
1554年7月 伊奈郡神之峰城主 知久頼元、座光寺氏が謀反。国内が乱れる。
1555年7月 大塚の対陣 再び越軍の夜襲に毎夜被害を出す。信玄対抗して1000の別働隊を善光寺方面より
向かわせ夜襲をかける。が、見破られ手痛い被害を出す。ウサ晴らしに善光寺より本尊を強奪。
兵糧が底を尽き始める。今川に頼み旭山城を撤去する譲歩でなんとか和睦。
1557年1月 村上義清の守る飯山城を攻略。失敗
謙信まで出陣してくる事となり上田西方坂城、岩鼻付近の武田軍を撃破される。
信玄出陣するも決着付かず。
1558年4月 信玄自ら武田軍二万を率い上州に侵攻。業政が吾妻に出陣している留守を狙うも、
業政は間道を使って直ちに帰還。業政に蹴散らされ、翌日には食糧を焼かれ弾薬を爆発され
軍を維持できなくなり即座に撤退。
1559年9月 飯富虎昌に安中城を攻撃させ、信玄は和田城の攻略に当たる。業政は援軍として駆けつけ
奇襲を行い信玄の陣を混乱に陥れる。反撃とばかりに雉郷城を取り囲むも空城。
長野業政は鷹留城の部下に策を与えて箕輪城に帰還。信玄は追撃しようと鷹留城を攻めるも
反撃を受け撤退。撤退中に伏兵を受け惨敗。兵五百を失う甚大な被害を出し撤退
1560年1月 再度箕輪城を取り囲んだが、飢えと寒さに苦しむ中、さらに安中忠政に
糧道を断たれ、長野業政の総攻撃を受け、たまらず撤退。
11月 勝沼信元謀反の疑いで処刑。
1561年9月 川中島の戦い。上杉12000、武田二万弱、上杉は数ヶ月前まで関東に遠征をし、
疲弊をしている圧倒的優位な戦。
啄木鳥戦法にて奇襲を行うも簡単に奇襲を読まれ、信繁、諸角、室住昌清、勘助討ち死に。
信玄自身も本陣にまで切り込んできた荒川に切りつけられる。
死者では上杉の1,5倍、負傷者では二倍近い損害を出す。
1565年9月 義信、飯富虎昌、謀反を起こそうとしたため処刑。国を傾けた大いなる要因となる。
1568年7月 謙信と同盟を結んでいた本庄と共謀し、大軍を率いて越後を攻める。
が、しかし越後以前の北信濃、村上義清の守る少数の小城である飯山城でさえ落とせず。
仕方なく撤退。駿河に侵攻。
1569年4月 合戦に敗れたため、駿河を放棄して帰還
1571年1月 駿河興国寺に奇襲をかけるが見破られ敗退。深沢城攻略も失敗。全軍撤退
1573年4月 信玄没
8月 武田信廉、山県昌景、穴山信君、北遠江へ侵攻。徳川の伏兵にあい敗北
1575年5月 長篠の戦い
死傷者1万、山県昌景、原昌胤、内藤昌秀、馬場信春、土屋昌続、甘利信康、
真田信綱、昌輝、望月義勝、川窪信実、和田業繁、安中景繁、五味高重、高坂弾正
三枝守友、名和宗安、横田綱松、祢津是広、討ち死に
11月 秋山信友、大嶋長利、座光寺貞房、討ち死に
1582年2月 武田勝頼二万の兵を率いて出陣。
3月 仁科盛信、小山田昌行、今福昌和、原貞胤、武田竜宝、武田信綱、武田信堯、
一条信就、山県昌満、朝比奈信直、諏方頼豊、一条信竜、討ち死に。
勝頼、盛信、信勝、跡部勝資、土屋昌恒、安部宗貞、小宮山友晴、滝川一益に討ち取られる。
武田家唯一の生き残り武田信清、武田家滅亡時にその縁故を頼り、上杉氏に仕える。
江戸時代まで代々、上杉家の下層家臣として飼われる。
武田は負けまくっている割には領土広げてるけどなw
その割りに石高がエラク低いんだよなw
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 19:03:39
信玄の最大の過ちは義信を殺して、家臣に諏訪四郎と見下され
キャラ的にも人望がない勝頼を当主にしてしまったことだな
でも信玄死亡時には約100万石の大名だろ
北条毛利大友と同じぐらいで
当時これを確実に上回る大名なんて織田ぐらいだろ
全国でも2番手ぐらいじゃないか?
>>791 従属している勢力大名加えれば大友北条は武田より上だと思う。
毛利はこの時期備中美作出雲で揉めたりしているから武田より下かもしれないけど。
>>790 北進派の義信を生かしておいたら下手すりゃ内戦じゃん
義信事件もよくわからんよな。
単に意見の違いってだけなら跡継ぎを廃嫡・幽閉までするとは思えないから謀反
(に類するような実力行使)が行われたんだと思うけど、それにしては事件後の処理
が手ぬるいともいえるんだよな。本当に謀反をおこしたのならはっきりと決着を
つけるべきなのに幽閉を続けて、結果病死なのか自決なのか処刑なのかも判らなく
なった。
795 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/13(月) 19:54:35
コピペにレスすんなよ。かまってもらいたくて貼ってるんだから
何か今回のスレは無駄話しや雑談が多いな
まともな話しが少ない気がする、春だからか
そうか、もう春なのか、社会人は忙しい時期だと思うが、期末や受験が終わった中高生は暇なんだろうな…
↓やおいgetおめ
>>776 武田家の出兵が最も多いのは8月、次に多いのは9月と10月。
旧暦だろうと新暦だろうとどう考えても収穫期にぶつかります。
農繁期を避けたというよりも、むしろ逆に収穫の時期の前後を狙って出陣している、
普通に考えれば収穫物を狙ってのことでしょうね。
>>794 飯富に腹切らせてるから、謀反レベルまであったのは確かだろう
「農繁期だから兵農未分離の武田家には出兵は困難」なんてのは過去ログでも散々夢物語と言われてるだろ
それより類似スレの時速110`の名馬とか、その鋼の肉体はそちょっとの槍を跳ね返す馬について
か た ら な い か
「農作業ができなければ略奪すればいいじゃない」ってノリかwww
実際そのノリでしょう。「足りない分は他所から奪ってくる」
ただし、この政策は常に拡大・攻勢を続けなければならない自転車操業。
しかし周囲に略奪できるほど弱小な勢力がなくなると…長篠で野戦軍が
打撃を受けたことが致命傷だったかな。
越後の龍と同じく「食わせるための出兵」だったわけか
向こうは最初だけで金融政策に乗り出して大金稼ぐようになってから余裕ぶっこいてたがな。
武田は運悪く金山が枯れ、長篠で出稼ぎできなくなったのが決定的だったよな。
農繁期の出兵といっても農民を根こそぎ動員するわけではなく、大体人口の2・3%くらい。
もちろん機械もない時代に働き盛りばかりが2・3%もいなくなれば、
残った者たちは物凄くきつい労働をしなければならないだろうが、
それは農民の側に立った意見であって為政者からみればきつい労働をさせればいいだけの話。
むしろ2・3%を略奪にも使った方が総量としての収穫は上がる。
そういう点で秋口の出兵が多いのは別におかしな話じゃあない。
いずれにしろ、農繁期には戦をしない、或いは出来ないという説は事実とは異なる。
>>809 もともと軍役勤める人間は農業に携わってないか
軍役負担に耐えるだけの人数が居て、利益の方を優先したのだから
そもそも農繁期の出兵云々言ってる時点でアホな人達だろ
>>752 >それどころか講和を持ち出している。
懲りもせず、また捏造信長厨登場w
んな事実無い、しかも信長が岐阜から戻る前は摂津の織田方を攻略してるし
>>734 摂津は三守護のうち2つが幕府側のうえ
本願寺を筆頭に各寺院が反織田だから、圧倒的に反織田優位
信玄が死んで信長が上洛すれば別にして。
>>813 守護は既に死に体だろ、織田が直接関与せずとも荒木が摂津統一してるし
それで反織田優位と言われても・・・
>>812 中島城
>>815 高山重友が寝返りうったからいいものの
この時点だと両守護は健在、つ−か死に体の奴を任命するワケないしw
>>813 上平寺、東寺、東福寺、真如寺、安楽寺、海会寺、景徳寺、三聖寺
建仁寺、臨川寺、建長寺、南宗寺とか色々
>>817 中島城って70年の話し?三好が落した
それとも72年?の三好政勝が細川昭元を裏切った時のこと?
それにこの時点でどの時点指しているかわからないが
73年には和田が滅んで
74年には荒木が統一しちゃうんじゃ
やっぱテンプレの時期には
>>815の言うように死に体なんじゃないか
あとそれらの寺院はどの程度の規模で具体的にどのような行動したの?
819 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/14(火) 20:13:17
ん〜。東方戦線で武田有利を言い立てる武田厨はまだわかる
でも畿内方面について定期的に嘘こいてまで織田不利にしようとするのは何厨?
本願寺厨とか三好厨ってあんまり聞かないんだけどw
畿内不安定→織田が兵力を割く→武田に回す兵が少なくなる→武田厨ウマー
821 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/14(火) 22:04:49
夜道で前を歩いてるOLがこっちを1分毎ぐらいにチラチラ振り返って見ながら歩いてた。
痴漢じゃねえっつーの。
頭に来たからその女がこっちを振り返って、前を見た瞬間に全速力で女の方向にダッシュ。
40m、30m、20mと近ずいて行く。あと15mぐらいの所でまた振り返ったので、雄たけびを上げる。
「 う ひ へ へ へ へ へ へ へ へ へ え え え え っ?」
驚愕し、女も走りながら叫ぶ
「 い や あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ あ っ つ !」
が、所詮ハイヒールを履いた女の脚力、すぐに追いつき、
「 い ち ば あ あ あ あ あ あ ん っ つ !!」
って叫びながら追い抜いてやった。もう、女半泣きw
いやあ、いい運動になったわ。(つ∀`)www
>>818 どちらも違うw 少しは自分で調べろ
74年迄に荒木が攻略したのは北東の丘陵部だけ
それに和田滅びていないし。
寺院にもよるけど、経済、技術なんかは近辺の城下町より繁栄してるってさ
本願寺への兵糧、武器、弾薬の全面支援。
>>819 信長厨が客観的事実厨へ被害妄想を抱くという構図w
>>822 ん?1574年には荒木は暗殺者返り討ち・池田城、伊丹城(後の有岡城)奪取してるじゃん
それで丘陵部だけってどんな地図ですか?w
1573年の件だって
和田惟長を高山親子が討って(追放説もあり)、息子の右近が高槻城を取ってる
少なくとも一勢力としての和田氏は滅びてるじゃん
826 :
825:2006/03/15(水) 13:41:35
×和田惟長を高山親子が討って(追放説もあり)
○和田惟長を高山親子が追放して
だった。ソースは『兼見卿記』
兼見卿記には高山重友が寝返り、荒木村重とともに高槻城を攻め
和田惟長は城を退き伏見へ。とあるね
もともと西近江の人だし、少なくとも一勢力としての和田氏は滅びてないな
>>824 摂津の位置と範囲くらい知ってから話しろよw
それに信玄延命なら無理だな。
その時点で高槻城以外の城持ちでなかった人がその根拠地から追い出されて、勢力消滅してるのに滅びてないって詭弁じゃん
じゃあ誰か一人でも生き残っていれば滅亡した、とされている大名やら国人やらも滅亡じゃなかったことになるのか?w
>>827 有岡城は西国街道と伊丹街道を抑える摂津の要地なんだけど…
それになぜ畿内の話なのに信玄存命なら無理になるのさ?w
ん?摂津と河内を分けるのは淀川だろ
なんで有岡が北東になるんじゃ
831 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 14:43:15
有岡城は武庫川と猪名川の間にあったんだぞ
立派な中央(大阪湾寄りだが)だろ
池田だって猪名川沿いだし
北東部って高槻城か茨城城あたりと勘違いしてないかい?
>>829 東摂津平定の4年後には謀反起こしてるからなぁ
信玄存命ならもっと早い時期に謀反するかもね、信長って人望ないから。
>>828 >その時点で高槻城以外の城持ちでなかった人
何か勘違いしてるぞw
>>832 言う事が無茶苦茶になってきたな
じゃあ実際に信玄存命中にはその村重はじめ後年謀反する将が服属しつづけたのはなんでだよ
痛いところ突かれまくりの人は必死( ´,_ゝ`)
>>829 アラッキーは信長方に見られてるワケで
信長の伸張衰退の影響を被るのは当然でしょ。
>>834 だからなんで畿内方面では順調に敵対勢力を弱らせてるじゃんか>信長
信玄存命っつたって三河抜けるかどうか、程度で畿内にまで影響与えるか?
過大評価じゃないの。
>>833 理解できないor知らない事柄は無茶苦茶の一言で片付けるとは都合がいいなw
そもそも信玄存命中はその村重は3守護の一角に過ぎないし
信玄死去直後の信長上洛が東摂津攻略に与えた影響は計り知れない
わかる?
和田氏は甲賀郡和田村の有力者とはいえ豪族程度に過ぎない
義昭救援の功等で信長に高槻の城などの所領を与えられてはじめて一城主になったんじゃん
摂津勢力としては壊滅でしょ
>>835 確かに、武田へ備える必要が無くなるのは大きいよ
なにせ岐阜に2万だしな
839 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/15(水) 15:51:20
で、北東部だけとかほざいてた地図知らずはどうした?
逃げたのか、ほっかむりしてカキコ続けてるのかどっち?
ん。その理屈でいったら信長が引き上げてる間、織田方武将の勢力伸張が停止or寝返り続出という証拠がないとおかしいじゃんか
荒木は池田への対抗上織田に付いたのであって
池田が織田につかない限り織田からの離反は無いだろ
松永に対抗するため筒井が織田に付いたのと同じようなものだろ
>>840 信長が武田へ備えるための最低限の手勢で引き上げてる間に
中島城が落ちてるな。
足利将軍蜂起時を参考にするなら
信長本軍は、3月25日に岐阜を発ち4月3日には畿内で軍事行動を開始している
柴田ら四将の軍なら2月20日出発で4日後には砦攻撃
数日で遠方から万単位の軍が動かせるのは確かに影響力大きいだろうな
信長が岐阜に引き上げている間の、畿内方面の担当武将は誰?
この時期、畿内方面には間接的な影響力しかないけど
一応、光秀と藤孝じゃないの?
中島城開城は足利義昭挙兵の時期じゃんか
武田軍が引き返していった後…
そもそも畿内まで本当に達してくるかもわからん武田軍の影響力を期待するほうがアレだと思う
直接連絡があった本願寺や朝倉すら呼応が鈍いというのに
849 :
:2006/03/15(水) 16:32:44
>>848 実際、信長は迂闊に動けなかったけどな。
本願寺は中島城落としてるし、史実のように信長が上洛しない場合
三好の連中と一向一揆がもっと威勢を振るったのは確実かと。
>>849 どこがw
本願寺・三好党は信長が志賀の陣を脱してから岐阜にいても北近江にいても逼塞一方じゃん
一城取替えした程度でそこまで言い切れるほど楽観な情勢なら史実でもう少し健闘してるはずでしょ
>>850 いや三好はそこまで弱くは無いぞ
最後の段階でへたれだったが
河内や山城の城を攻めたりしている
本願寺は知らんが
中島城って摂津の?
じゃあ京方面じゃなくて、織田反織田が入り乱れてる諸勢力の争いのほうじゃないの?
実際、信玄在命中…という理屈も成り立つ訳で。
まぁ、武田には武田の、朝倉には朝倉の、畿内の潜在的な反信長勢力には彼ら鳴りの、
それぞれ独自の思惑があり、自らが正面きって矢面に立つのを避けてた訳で、
中小勢力はよほど織田が不利で反旗翻しても勝算あると見なければ、
自ら動く事はないね。
信玄在命と仮定すれば、信長はなかなか畿内へ手を掛けられないわけで
当然本願寺の封殺もしない、となれば義昭と結んだ三好、一向一揆が
畿内で巻き返す可能性は高い。腐っても将軍だからな
本願寺は和睦と敵対繰り返してるが?
三好だって三派に分かれて争ってるが?
将軍に手を出せないといっても槙島で挙兵した直後どうなった?
一向一揆が畿内で巻き返すって意味わからん
武田厨乙です
ただ、有岡池田の位置とか基礎知識がないのに喚くのはやめてくれ
オレも無知だから実際にググって確認するまで混乱したままだった・・・
>>855 >三好が三派に分かれて争ってる
具体的に。
・三好三人衆(三好長逸、三好政康、岩成友通)
・松永久秀、久通
・三好康長、安宅信康
これ、三好三派。
中島城は池田勝正追放した家臣が六月に三人衆を迎え入れただけ。
>>859 はあ?72・73年の時期には誰一人争ってないし。
内部抗争してるというソースはなんなの?
争ってるじゃん
三人衆と康長派の三好長治や十河存保が阿波・讃岐で。
松永と康長派は、信長に従った為、表面上争ってないだけ。
ソース聞く前に調べもしてないんじゃね?
松永のおっちゃんは織田に敵対する存在なのか?
そもそも三人衆ですら一枚岩ではない
阿波は阿波で篠原と長治で内輪もめしてるけどね
>>861 いつの話してるんだ?
康永・松永は信玄遠征時すでに信長と敵対してるし
確認できるのはわずかに長治が篠原討ったことぐらいだが。
で、ソースはなに?
>>862 織田に臣従と敵対を何度か繰り返した
史料によって時期の誤差があるが
(信長公記では、三方ヶ原の翌年にはもう謀反の許しを得たことをお礼に名刀を献上したことになってる)
>>866 その記述は正確には翌年(74年)にあったもので73年に書かれてるのは誤記だから
>>867 誤記なのか?
先年の11月には筒井衆単独の反撃さえ支えかねてるから、このタイミングでの降伏も不思議じゃないと思ったが
>>868 たしか傍証として多門院日記や信玄との書状があったはず
これは明確に間違い
信長公記は結構年数の間違いは多いよな
特に首巻
72年10月の段階じゃ岩成が織田に付いていて
それ以外の三好&松永は反織田じゃないか?
内藤はよくわからないけど
釈文書による1575年織田に安宅信康が降伏が見つからないんだが…
本当なのか?
>>871 岩成は立場上幕臣であって信長の部下ではないよ
松永だって幕臣だよ
建前を言えば全ての大名が将軍の統制化にないとだめなんじゃないのか
それがくずれたから戦国状態になったわけで
いや実際に将軍と信長が敵対したとき岩成は将軍についてるし
信長も守護代だから幕臣だな
信長が義昭と断交するまでは岩成や他の幕臣も信長に協力して
三好や松永と戦っている
畿内の中小勢力の動向はややこしいな…
>>727と
>>817の言ってることって本当なの?
調べても全然見つからないんだが・・・
捏造として無視するべきなのか?
>>878 で断交した後は細川明智は織田に付いたが岩成は義昭についたと、
3月ぐらいに信長が細川に岩成が自分に味方するかどうかについて聞いてる書状があったような。
39スレまとめ
>5-20テンプレ
>68-126松倉城主椎名氏の70年代の動向 >77『北陸の中世城郭第15号』
>69-117本拠移転
>128-150遠山氏
>140-149NHK問い合わせ >140NHK返答
>151-215戦乱と災害の影響について >155>175>176災害年表
>259-300上洛の可能性
>301-387 1573年の朝倉上杉の動向
>342朝倉始末記 >362福井県史リンク >374 1573年年表
>385-448包囲網 上洛の可能性 吉田周辺の状況
>450-494水軍について
>466武田水軍の規模 >475水軍説明のHPリンク >477武田水軍コピペ
>485-607吉田城攻囲の可能性二俣野田攻めについて
>497吉田城 >596野田城説明
>623 1573年の徳川の反撃
>669-712 1573年の朝倉本願寺の動向 抑えの兵力
>719-734畿内諸勢力
>728>734摂津河内和泉諸勢力の説明 >727>732安宅信康の織田に付いたソース
>735-758畿内の状況
>759-810農繁期の出兵
>768>770農繁期の出兵年表
>811-畿内諸勢力
>817摂津寺院 >826和田惟長を高山親子が追放のソース
>866-870信長公記の誤記 >869ソース
残りは990ぐらいに貼れたらいいな
>>880 どうのような内容の記述かも示さないんだから無視でいいんじゃない
ついに内容まで求めるようになったか…
ソースは提示されてるのだから詳しく知りたいならネットだけでなく
図書館いくなり色々調べられる方法はあるだろ。
俺は72年で問題ないと思ってるから
どうしても75年説を主張したいなら説明するべきだと思うけどな
信長が三好康長に安宅信康を調略するように下命したことが載ってる
それ76年だろ
少なくとも有岡の位置すら把握してないようなやつのいうことは…
>>887 信長の添状付きで、三好康長が安宅信康に
大阪の海上封鎖するように指示してる書状なら知ってるが、
安宅信康の調略指示とは初耳
史料によってまちまちだからなぁ…
畿内は小勢力乱立で、ついたり離れたりしとるからややこしい
すぐに大勢に影響を与える勢力でもないから、研究も下火だし
>>893 そこだけだろって言うけど72年説はウィキくらいしか見当たらないのだが
それじゃあ75年説は捏造ということで終了
元亀3年11月 安宅信康、降を足利義昭に請ふ
~~~~~~~~~
天正3年 信長公、近国を切り取りて畿内へ出陣あり
草が靡くようにして従い〜安宅甚五郎等降る
とあるから、敵対していたかどうかは別として織田方では到底無いな。
>>897 今度はどっから持ってきたんだよ・・・
というか史料やソース、引用元があるなら最初から出して欲しい。
>>898 おまえこそソースはなんなんだよ
武田厨にはソースソースソース言いながら、自分はインターネッツ資料ばかりじゃん
上は、古簡雑纂にあるんだってさw
下は、三好別記か阿州将裔記か三好家成立之事かどれかからの抜き出し
>>899 そりゃお前の被害妄想
織田厨だって普通にソースは求められるぞ
仕方ないじゃない
武田厨だもの
武田厨何度も捏造乙
>>899 >下は、三好別記か阿州将裔記か三好家成立之事かどれかからの抜き出し
どれかっていい加減だな。
最初からちゃんとソース提示できる程度の人物なら苦労しないさ
それをしないのは釣りか、煽りかどっちかだろ
大丈夫。武田厨は捏造でも信玄様を讃える話しなら信用するよ。
907 :
信玄:2006/03/17(金) 00:18:11
むっほう。韓国、強いのう。怒涛の如き破竹の勢い、六連勝じゃあ!
鬼神も避ける強さじゃあ!
人類有史以来、朝鮮は常に本番に強い民族であった。
大舞台になればなるほど益々力を発揮する朝鮮義民。
倭乱(朝鮮侵略)、第二次世界大戦、いずれも朝鮮の輝かしい勝利じゃあ!
W杯4位! トリノで金メダル6個!! そしてWBC六連勝!!!
最早韓国の敵はなく、己自身との戦いになるであろうて。
実力は他を懸絶する、孤高の義国、朝鮮。神の半島、その姿は清冽であり、余りにも美しい。
>>1 武田信玄が上洛失敗したのは、服部半蔵が原因
つまんね
結局のところ信玄が死んでくれないと、畿内はやばやばだな
912 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 18:20:03
そうでもない
いくら動きが遅いとはいえ三河に武田軍がいても信長は岐阜を動いていない。
そして近江には兵を出している。
柴田や蜂屋も動かしている。
一揆相手だしな、それに勝家はもともと岐阜に行ってないべ
丹羽もだな
柴田・蜂屋・丹羽はこの戦い後、岐阜に帰っているからもともと岐阜にいたかもよ
状況を考えれば、柴田か佐久間のどちらかは岐阜につれていくだろ
919 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 07:46:33
>>906 古簡雑纂では72年に義昭に降伏して信長がそれを承認したという内容だから
72年に織田方に付いたというのは間違い。
たしかに細川や明智みたいな例はあるけど安宅の場合はこれといって織田方として
働いた形跡はないから時期ははっきりしないけれど76年くらいに織田方に付いたとみるべき
>>919 敵対した記録も無いけどな
信長が降伏を承認したというのであれば織田方に付いたというのは間違いとは言いきれないんじゃ
それに76年に改めて織田に付いたという記録も無い、76年には既に信長からの要請を受ける立場
>>919 >>920 それも少し違く無いか
信長は安宅領地はそのまま認めるが、それ以外のいくつかの条件は難しい
と書いていたような
珍しく書きこみが止まったな
普段なら800ぐらいから急に加速するのに
んだな、平和を愛する信玄公のスレらしくていい
>>921 76年のはあくまで要請だから、なんとなく織田方みたいな感じじゃないか?
厳島合戦時の来島の様に。
それに、軍記物では75年に降ったとあるから
敵対していたかどうかは別にして、織田方に付いていたというのは間違い。
>>923 >それに、軍記物では75年に降ったとあるから
詳しく
927 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 18:52:50
>んだな、平和を愛する信玄公のスレらしくていい
武田厨はこんなのばかりですか?
75年ってのもまた微妙な時期だな
三好康長が降伏した時期だ
>>923 72年の筒井粟屋なんかと同様だろ
何でそれで織田方に付いていたというのは間違いとなるんだ?
織田の支配化になっているのは間違いなら分かるが
いや無論72年の段階で織田に付いてるのが正しいという主張でもないが
確実に言えそうなのは72年の段階で阿波三好から離反した程度じゃないか
932 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 00:10:41
>>930 筒井や粟屋は反織田勢力と戦ってるけど、安宅はそうではないしな。
逆に丹後の赤井や波多野と近い立場だと思うが。
933 :
930:2006/03/21(火) 00:16:05
>>932 確かにそっちのほうが近いな
もっとも波多野・安宅が72年から75年にかけて本当に何もしていないかは分からないが
赤井は別じゃないか一時的にでも従っていた時期あったっけ?あと丹波
>>927 冗談だってば‥
>>926 どうも色々な話を混ぜこぜで覚えていたみたいで‥
阿州将裔記によると、信康は冬康の長男で野田福島の直後に病死
冬康養子の貴康か継ぐ〜記録無し〜天正の中頃池田勝九郎に由良を攻められ
城を明け渡して降伏、本領安堵された。とあり
天正3年の康長が降参した件の次の、阿波讃岐淡路3国を子息によってまとめた
義賢領国と説明して、長春乱交と人心離反が書かれてる、その間に
草が靡くように従わぬ者無しという微妙な表現があるけど
他の内容からして信憑性は無さそう‥
935 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 04:54:15
◯
/ ̄ ̄ ̄ ̄\
/______ヽ
/ |
(∂| (●) (●) |
ヽ| "" "" |
| ● ___ ●| / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
\ /__/ / < 天さんさようなら
/ヽ /\ \_____
936 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 09:31:26
1614年
名声トップ5
千葉家(旧北条家)
宇喜多家
真田家
織田家(信雄方)
島津家
つか、1614年だがまだ19大名家がひしめいてます。
名声6位には織田家(信孝方)、7位に上杉家。8位には佐久間家w
12位には可児家(旧明智家)が。こいつが御所を抑えてる。16位に甘んじてるのが豊臣家。秀吉は既になく、秀頼が当主。
勢力拡大もせず、かつどこにも落ちずに家を残し続けている最下位19位鈴木家。雑賀城を三代に渡って守り続けている
>>934 >阿州将裔記によると、信康は冬康の長男で野田福島の直後に病死
そんな記録もあるのか・・・
>どうも色々な話を混ぜこぜで覚えていたみたいで‥
よくあることだな、調べたら違っていたとか勘違いしていたとか
938 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 17:55:11
飽きもせず懲りんモノノフが多いな、上洛は出来ない。
何だかんだ言って信玄が好きな奴らだ。
織田厨乙!
と言った回数は覚えていない
上洛したとしても
あ、甲斐の田舎侍きたよ( ´,_ゝ`)プッ
程度にしかならんだろ。京見物の後帰宅。天下は変わらない
尾張の野蛮人でも統治できたのに、武田が不可能なわけないって
942 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 10:50:18
無理無理、山猿だぜ!
信玄て朝廷と付き合いあったのか?
織田は親父の代から熱心に色々やってたったんだっけ?
>>945 親父の代には何やら献上してたな
息子は何もしてないが。
>>947 そうでもない
というか実際にはいろいろやってる
そう、一切記録には残ってないが色々していたはずだと感じる
記録に残っているだろ禁裏修理とか上洛時の献金、禁裏御料所の回復、京への貸米制度等。
信長公記とか言継卿記とか『信長権力と朝廷』とかにある。
ただ最終的には皇室も公家も織田家から知行を与えられる立場となって織田家の保護下
に入る状態となったが。
禁裏御料所の回復(要求を受けて)以外は、全部上洛後に実施した三好長慶の引継ぎじゃん
>>951 引継ぎにしろ何にしてもいろいろやっているということじゃないか
禁裏御料所の回復は断ってる例も多いけど
禁裏御料所の回復が三職推任の直接的動機になってたようだね。
お湯殿日記にもこの時期の信長の行為を絶賛する内容だったし
京での馬揃えも含めて正親町帝の期待はかなり大きかったようです。
帝が宸意を発するなんて当時としては異例中の異例。
>>952 上洛後だろ、それなら何所の誰でもできる
>>954 上洛してもやらなかったヤツらもいるが?
64年の御料所の回復は実行されたのだろうか?
織田は朝廷に対していろいろやってる→親父だけ息子はしてない
いろいろやってる→一切記録には残ってない
記録の提示→三好長慶の引継ぎ上洛後なら誰でもできる
これだから厨は・・・
958 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 20:18:52
信玄様は朝廷に対して他の大名と比べ物にならないぐらいに、色々とやっていたんだよ!
だから朝廷に何もしていない織田に対して朝敵滅ぶべしとの大義名分を命じられた
武田の元に包囲網がしかれたんだよ!そんな事も知らねーのか?バーカバーカ
甲陽軍艦ぐらい読め!ボケ!
氏ね!織田厨!!!
959 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 20:35:40
「朝廷に何もしていない織田」w
信長公記嫁
さてもうすぐNHKのその時歴史は動いたが始まるわけだが…
三好長慶は 六万疋 弘治三年(1557) 大葬費
これ以外何かあるの?
信長が朝廷にどのような貢献したのか
言経卿記、兼見卿記、晴豊公記、蓮成院記録、言継卿記、
孝親公記、尋憲記、継芥記、二条宴乗日記、中臣祐金記
いっぱいあるね
>>961 長慶は1555年(天文24年)4月勅命を受けて、御料所山国荘の年貢収納にあたり、また同年10月には、やはり勅命によって洛中から棟別銭を徴収し、禁裏築地の修理を行った。
信玄は知らない、1570年に将軍家に1万疋にあたる御料所とかあったと思うが。
信玄の水軍とか織田軍八万とか物凄いな
NHK
使いまわしが凄かった、鎌倉風の鎧とか出てたがこの前の義経の映像か?
>>957 >>943、信長が上洛前に朝廷に対していろいろやってるとは一切記録には残ってない
解る?
決勝綸旨は?
1566年永禄九年四月十一日お湯殿の上の日記には、「尾張から御うま、御たち、三千疋」とある。
1567年永禄十年十一月九日正親町天皇信長決勝綸旨発給
>>969 信長の最初の決勝綸旨
立花氏の唱えてる説?
あと1564年・1567年にも御料所返還の綸旨
武田家だってやっている
大永元年10月4日に禁裏北門の修理費5千疋献上している
若狭だけどな
信玄と名乗り荒らしてるやつがこのスレにいる
信玄厨がみんな朝鮮人に思えてきた。(ちがうんだろうけど)
武田は新羅系らしいから、(義光は、ただ元服した堂の名前をとって、新羅三郎と名乗っただけなのに)
数ある神社の中で新羅神社でなぜ元服の儀式を行ったか、そこを考えれば分かるだろう・・
普通・・
嫌韓多そうだし、俺もチョン呼ばわりだろうな。
糞朝鮮人もそうだが、事実を事実を認めない嫌韓もどうかと思う。
イチローも在日にしようとして失敗したな
荒川静香も在日なんだっけ?
そういえばベッカムも在日なんだよな?
>>976 バカはほっといてそろそろ次スレだな
>>977 だからさ、なぜ極論を出すかね?
オレもチョンは嫌いだしさ、在日認定はムカツク。
だからと言って古代の朝鮮から影響を真っ向から否定するのは
やってることはチョンと同じってことだ。
新羅三郎は明らかに半島人だよ。
>数ある神社の中で新羅神社でなぜ元服の儀式を行ったか、そこを考えれば分かるだろう・・
これだけをもって明らかだと仰ってる訳ではないですよね?
信頼に足る根拠をお聞かせ願えますか?
>>979 細かいことになるが、新羅三郎には兄が2人いる。
その2人とも朝鮮系大陸系(八幡・賀茂)で元服の儀式を行っている事実もある。
信玄は在日だよ
エラはってるしw
信玄厨は在日でも拝んでろ
>>980 ということは三人のうち二人は朝鮮系で一人は大陸系ってことか
>>982 そうとも限らない
賀茂神社は明らかに大陸系(山城風土記に秦氏とある)だが
八幡は諸説ありはっきりしない。
日本土着系+大陸系か朝鮮系。あるいは双方かってところだ。
それと神社にも格式があって、賀茂(大陸系)>新羅(朝鮮系)があって
兄が格式の高い外神系で元服の儀を行ったので弟達はそれに倣ったと考えるべきか
源氏は新羅系 平氏は百済系とも言う説もあるが・・
>>983 平氏も源氏も元は天皇家。
そもそも天皇家が半島系だ云々の議論ならまだしも意味があるかもしれないが、
平氏・源氏ののいうことなら出自ははっきりしています。
トンデモ説にすっかり毒されていますね。
【 武田ヲタが精神崩壊に至る過程 】
1.信長の野望にはまる
2.肥の糞査定だとも知らず武田信玄は万能の神だと信じ込む。
3.事実を知らずに武田信玄は無敗の最強武将だと崇拝し始める
4.その他の武将、特に島津、上杉、伊達を勝手に雑魚扱い
5.上田原の大敗、戸石崩れ、箕輪城の四度に渡る大敗を知り「上杉の捏造だよねwww」
「天下人徳川をも破った武田」とわけわからん悦に入る
6.松川、手取川の戦いは捏造であると思い込む
7.信玄様の天下統一を邪魔したゴミ謙信を恨み憎みひたすらコピペ
8.三戦板をところかまわず荒らしまくる
9.上杉の評価と連動して武田の評価も下がる
10.上杉厨の陰謀だ!!!!島津厨キモwwwwwwと意味不明にファビョる。
11.巣を見つける
ttp://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1139824768/l50#tag182 12.現実世界と同じ様に武田厨は嫌われる
13.まともな武田ファンに多大な迷惑をかける
>>983 朝鮮系の神社で元服を行ったから半島人だっていう理屈だろ?
なら長男は大陸系で行ったんだから長男は大陸系の人間ということになるんじゃないか?
39スレまとめ
>5-20テンプレ
>68-126松倉城主椎名氏の70年代の動向 >77『北陸の中世城郭第15号』
>69-117本拠移転
>128-150遠山氏
>140-149NHK問い合わせ >140NHK返答
>151-215戦乱と災害の影響について >155>175>176災害年表
>259-300上洛の可能性
>301-387 1573年の朝倉上杉の動向
>342朝倉始末記 >362福井県史リンク >374 1573年年表
>385-448包囲網 上洛の可能性 吉田周辺の状況
>450-494水軍について
>466武田水軍の規模 >475水軍説明のHPリンク >477武田水軍コピペ
>485-607吉田城攻囲の可能性二俣野田攻めについて
>497吉田城 >596野田城説明
>623 1573年の徳川の反撃
>669-712 1573年の朝倉本願寺の動向 抑えの兵力
>719-734畿内諸勢力
>728>734摂津河内和泉諸勢力の説明 >732安宅信康の織田に付いたソース
>735-758畿内の状況
>759-810農繁期の出兵
>768>770農繁期の出兵年表
>811-937畿内諸勢力
>817摂津寺院 >826和田惟長を高山親子が追放のソース >891三好康長について
>897>937安宅信康の織田に付いたソース
>866-870信長公記の誤記 >869ソース
>943-973朝廷への貢献
>950信長の朝廷への貢献>962>971ソース >961>963三好長慶の朝廷への貢献 >973若狭の朝廷への貢献
どうせ次のテンプレはなぜか信玄厨が捏造しまくる。
信玄厨は捏造好きだしな。
捏造と言えばどこかの民族を思いうかべるw
>>971 天文十五年(一五四六)
五月、三条西実澄と四辻季遠が甲斐国に下向しており(『言継卿記』・『為和集』)、両名
は六月十一日に甲府に着府し、後奈良天皇綸旨を伝達している。その綸旨の内容は伝わっていないが
その結果として、 八月十九日に晴信は実澄に使者を送り、来年より信濃で万疋の御料所を進上する
と伝えている『高白斎記』
だってさ
結局朝廷と付き合いの無い大名のほうが少ないのかもしれんな
蠣崎とかは?朝廷と付き合いなし
993 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 18:44:55
そろそろ次スレ
「捏 造 抜 き で」
分かったか信玄厨!
994 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 19:49:58
995 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 19:50:37
そういえば春休みだったなw
学生諸君はw
■この情勢をもとにした推測。
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、石高的には10万石3000ほど
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、石高的には6万石1500ほど
北条の援軍が二千〜三千で、
遠征軍合計実数二万五千ほど
信玄率いる遠征軍は石高的には84万石〜90万石で21000〜22500ほど+北条の援軍2000〜3000
+美濃へ入ってくる秋山隊が3000ほど
テンプレ使い物にならないね
999 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 21:25:27
1000なら上洛
1000
1001 :
1001:
立 新 / ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、 ,r';;r" _ノ と 何
て し L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/ ) 申 と
ね い //;;/´ `' 、;;;;;;;;,,l;;' /ヽ す 1000
ば ス /.,';/ ヽ;;;;,l;L_ .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i か を
い レ l |;|┌--‐フ ┌----、、 |;ヾr''‐ヽ, ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く !! 超
か ッ i |l ~~__´ 、 ``'__''''┘ |;;;;;l rO:、; ´ ィ○ヽ 'i;;;;;厶, え
ん ド l _|. <,,O,> 〉 <,,O,,> |;;;;;| `'''"/ `'''''"´ !;;;;;;;;ヽ た
の を ._ゝ'|. / 、 |; ,' / 、 |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
う 「 | | ( ) .ソ l ,:' _ ヽ .|;;;;;;;//-'ノ
ヽヽ | _,ニ ニ,,,,,_ ', ゞ,' '"'` '" i;;;;;i, `' /
⌒レ'⌒ヽ厂 ̄ `| ,、ィ-‐''__'''‐-`,、 '' .', i、-----.、 `''"i`'''l
人_,、ノL_,iノ! . ', :i゙''''''''''`l' ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\ ,' ト、,
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