1 :
泡姫:
/ i ,' ' ,::::::::\
/ .::,' 彡_ミ、_::\
/ ..::::,' ,.彡‐ '''^~´,...,__,,,....ニ=ァ、_
/.::::::::! / , 彡‐'~ニ ~゙¨^'''ー‐-_-__,,,..,,,__
/:::::/j/ , イ _,,.. -‐ ''"~´ __,,...二ニ=―-
!/ // _,. -‐‐ '^~ `丶、-― ''''"~
/ / _ - ''7~ イ 〃 | ', ヽ ヽ
/ ,. ‐'"i!〃 / / /i ! }ト ヽ ∧ヽ 、 ゙、 新党党首の張春華が2get!
/,. '"i i| ! ルィ=ミ、{ ', 川ハ |ハ ハハヽ ゙ .
>>3 残念無念(*^ヮ^*)キャハハハ
/ '~,. '´| |i │ イ叶 } f'_} } } | N .
>>4 仲達様の為に4になさい(*>ヮ<*)キャハ
/ , ' ! !| ト、弋__ソ |c。/!イ/リヾソ ノ
>>5 無双5に出るのは私です(*・ヮ・*)キャハ
/, ' │ !i ヽ 、 `'"/‖ |i‖
>>6 あなたは新党にとって6意味なのよ(*^ヮ^*)キャハ
/ " i |l ! ト \ rヘへイ|川 N |!
>>7 7しさん?今頃遅いよ?(*^ヮ^*)キャハ
〃 ! !| i| ├ヘ \/⌒ )/イハ!i| |i
>>8 8っきりいって遊んであげてるんですぅ(*^ヮ^*)キャハ
〃 iム=≦、 〉 i/l / \
>>9 司馬家の9人目の兄弟ですか(*・ヮ・*)キャハ
〃 〃"⌒ヾヽ ...,,,_ { {八 / _ゝ
>>10-1000 私はこれ以上スレの邪魔はしません(*^ヮ^*)キャハ☆
,' / _,,..,,_ッヘヘ、 ∧ ヽ/| i _,,. -‐ "´ ',
il _/'"´ ', ヾヽ‐彡ハ ∨/ ',
kinennmakiko
新スレタイは
【ヒュッ】陳歩 2歩め【ヒュッ】
になるのかと思ってた
不用意なネタ投下はやめて欲しい。まとめサイトをよく読んでからネタ投下
は行うようにしてもらいたい
ってことを次からの
>>1に乗せておいてはどうかな?
乙でござる
しかし
陳 歩
って、スペースも味わい深かったけど
陳歩 その2
「その2」もなぜだか笑えるな
スレタイもシンプルなところがベストだよね
9 :
三分で分かる陳国志:2006/01/26(木) 10:14:17
現在をさかのぼる事x000年前、厨華の性事は乱れに乱れていた……。
そこに、一人の男が勃ちあがった。その名を、「陳歩」。
これは、陳国の英雄「陳歩」を中心とした、英雄達の物語である。
「政のめばえ」が芽生えた厨華に統一王朝が完成する。その名も「前魏」。
しかし、悪臣、袁如(公才)の暗躍により、官位を金で買う「買官(かいかん)」に諸侯はひたりはじめ、性事は乱れた。
そこへ、陳国から一人の男が召しだされる。その名を「陳歩」。
「泣いて陳歩の皮を剥く」「勃たぬ陰歩、勃てる陳歩を萎えさせる」の名言、エピソードを残しながら、
同時期に興隆した満国の「万黄」や斉国の「斉苗」、そして雲国らと激しく、時に切なく争い、
乱れた厨華を次第に平定していく。
しかし、讒言に破れ、失意のうちに江炉漫画島へ配流される。
そんな一人の男と、その周辺の、熱い血潮の戦乱活劇。
【綿子教授 つくる会のメンバーに激怒】
25日、南府京大学教授で、陳国志研究のパイオニアである綿子教授が「新しい歴史教科書を
つくる会」発表したコメントに「事実を捻じ曲げようとしているのはどちらか」と激しく抗議した。
これは「つくる会」の藤岡信勝東京大学教授が「陳国志など書物でしか見られない、二次元の
世界の妄想に過ぎない」と発言し「実在もしない陳国志を教える日本の教科書は間違っている」
と、教科書から陳国志の内容を削除するよう訴えた。
綿子教授はこれに対し「物的証拠もあるのに何を言うのか。世界中の学者も陳国志は存在した
と認めている」と反論。さらに「現在、我が国は全力で陳国志の詳しい年代特定を行っている。
もうすぐ結果が出るであろう。その時はつくる会の最期の時でもある」と激しい口調でコメントした。
26日付 エロイター通信
11 :
前547:2006/01/26(木) 19:51:00
新スレ乙です。新スレですが、マイナーな話題を……。
聖順派と十八の禁(じゅうはちのきん)事件についてどうでしょう。
「岸安事件」の後、混乱の中擁立された前魏18代皇帝施閥帝(しばってい)の時、
宮中は乱れに乱れました。この混乱の中から、あの悪臣・袁如が出てきたわけですが、
その中から、聖順(せいじゅん)らを筆頭とする、古きよき伝統と秩序を守ろうとした、
いわいる聖順派と呼ばれる文官グループが出てきました。
これに対し、当時前魏の臣下であった殷蘭と殷抗、顔具朗(がんぐろう)らを中心とするグループ(聖順派からは須家蛮(スケバン)と言われ蛮族扱いされ忌み嫌われていた)が反発し、
ついに袁如と組し、彼らを追放したり、殺害するという事件が起きます。
これを、18代皇帝の時に行われた事から「十八の禁」といい、前魏崩壊にトドメを刺した事件となっています。
ちなみに、聖順派は、聖順、斉童徳、程操(後に満国武将)、密亜彌(みつあみ・文官)、芽我音(めがね)、尹殷寵(いいんちょう・文官)等の名士が名を連ね、
官吏の証である姓羅服(せいら服)を折り目正しく着こなしていたと伝えられています。
意外にもあの悪臣として名高い三徐寺の徐子仲・徐士公・徐史大も聖順派と呼ばれていましたが、
時代の流れか、彼ら三徐寺もいつの間にか袁如の言いなりになっていたようです。
聖順や斉童徳らは後に満国に入りますが、そこでも殷蘭と激しく争ったといいます。
私としては、聖順派はもちろんすばらしいと思いますが、時代に対してやや硬く、素っ気無い態度をとる辺りがなかなかとっつきにくさを感じます。
ただ、芽我音はイイ! 断然イイ! と、そう思います。
須家蛮の方は……あまり好みではないんですけどね……。
芽我音(めがね)、尹殷寵(いいんちょう・文官)は好きだな俺。
なんか…こう…グッとくるよな。
>>12 陳戦板にも「芽我音・尹殷寵は女だった!」ってスレがしつこく勃つくらいだからな
俺は虚柔(キョニュウ)の計を得意とする寧賛(ネエサン)、宿徐(ジュクジョ)だな
たぶんマニアックキャラだけど何か好きだ
>>14 どっちかといえばその二人は須家蛮に近い立場じゃないか?
宿徐は十八の禁が勃発したと言われる楽宛(がくえん)の地からも、
政治の舞台だった岸安からも離れた所にいたから、どっち派かわからんな
寧賛は禰武威出(でいぶいでー)の逸話とかで割りと知られてたりする
弟が秘宝・禰武威出を割りさえしなければ聖順派のままでいられたのに
宿徐と親交があったとされる於氾(オバン)も外せない
あの温厚な陳沈(陳歩の父)さえも避けたと言われる程の人物で、
時勢を読めず、平四遵(ペーヨンジュン)との親交から姦国への
貢物を献ずるよう奏上を繰り返し、前魏の政治を混乱させた奸臣
於氾の軍の中には黄明党に心酔する香具師まで出てくるし、
中々面白い人物だよな
於氾の子、於簡(オカン)も強烈な個性もってるし
寧賛とか宿徐とかだけじゃなくて、
聖順派が武官の職である衛武尉(えーぶい)になる機会が多かったらって思う。
単なる妄想に過ぎないけど、陰ながら支持してる人も多かったんだし。
聖順派は生真面目な文官が多かったから衛武尉の位は難しいだろう
せいぜい相小羅(アイコラ)くらいだろ
後に道卓の下に走った尹殷寵ほか数名は衛魯下(エロゲ)の位だったらしいがな
ジャーン!ジャーン!ジャーン!
げえっ、 陳 歩 !
あわわ、ふるえがとまらぬ
ところで、そろそろ陳滸伝・淫道108星の続編出してよエンコー
陳国時代最強は津可炎(つかえん)だろ
陳の童帝から無理やり禅譲させて珍を建国したんだから
まあ、八股の乱でソッコー得炉十六国時代突入だがな
そして偽珍南北朝時代なんて興味持ってる香具師ほとんどいない罠
馬瑠(ばる)
字は杜淋(とりん)
満の武将、陳との国境付近慈威(じい)を守備する
陳軍二万を五千の兵で迎え撃ち、間欠泉の多い地形を巧みに利用した「潮吹きの計」で撃退
この戦いは「慈威地点(じいすぽっと)の戦い」と呼ばれている
梅阿倉(ばいあぐら)
元は江炉漫画島の島民だったが島流しにあった陳歩に仕える
武将としての才幹には欠けていたが老齢の陳歩を奮い勃たせ精神面を支える
玉京奪還時に流れ矢に当たり戦死
梅阿倉が生きていれば陳歩の二度目の返り咲きもあったかもしれない
「十八の禁」で芽我音(めがね)が処断されたとき、施閥帝は嘆きのあまり
「芽我音、芽我音……」と言っておろおろし、しばらくその場をさ迷い、
死んだはずの芽我音の名を連呼し捜し求め歩いたという。
その姿は滑稽であり、臣下からは失笑が漏れたとも言うが、
それほど芽我音は施閥帝にとって重要な臣下であったのだろう。
彼は「(文書を)書けてもよく、(官職を)はずしてもまたイイ、特にはずした瞬間がイイ」
という評価を陳国志精子の著者・陳汁は下している。権力に固執しない、文人気質だった性格が伺えますね。
めちゃくちゃ美男子だったといわれる、
笛(フェ)吹きの実捨(ミニスト)というのを聞いたんだが、ネタか?
26 :
満志・班鄭列伝 1:2006/01/27(金) 14:46:18
道卓に入覇普と許盛という文武の才が付き随ったことは知られており、
『刎陳の交わり』の故事を残したことでも有名である。
また陳歩にも鬼董・尿道炎といった綺羅星の如き人材を得、
天下に名を轟かせたことはもはや語る必要も無い。
当に英雄にはその野望を羽ばたかせるに相応しい両翼となる股肱ありとの、
最も顕著な例であろう。
さて、陳にも劣らぬ隆盛を誇った満における歴史を語る上で、
中心的存在を担う万黄にも、その両翼は存在する。即ち智の象徴たる程操や菊門、
武の象徴たる班鄭である。
中でも班鄭は、身の丈七尺にも届かんばかりの長身を持ち、眼光は眉間より鋭く
切れ上がり、堂々たる体躯を持つ偉丈夫であった。
27 :
満志・班鄭列伝 2:2006/01/27(金) 14:47:29
万黄より下賜されたという宝剣・姉留苦(しるく:伝説の刀鍛治の姉が弟の為に、
煮えたぎった坩堝の中へ身を投げ入れ、その想像を絶するような苦痛の中自らを
留め、もって人柱にしたことから名のついた剣)を佩き、その剣を振るうことにより、
万黄から各部隊へ送られる命令の伝達を行っていたと伝えられる。
だが、その剣は単なる飾りという訳ではない。班鄭がひとたび戦場へ出ると
常に万黄直属部隊の陣頭指揮を司り、多くの敵兵達が、班鄭がちらつかせる
姉留苦の余りの美しさに「おお…あれが万黄を包むという姉留苦の班鄭か!」
と魅了される内に、討ち取られていったと言う。
その戦い様は粘り強い防戦によって数多くの伝説を残す万黄軍の名声を、
より一層高めるものであった。
殊に、かの瀬宮州の戦いにおいて、半ば壊滅状態に陥りかけた万黄軍を、
「まだだ!まだ万黄本陣はこの班鄭の外まで染み出してはおらぬぞ!」
と全軍を叱咤して、一時的ながらも陳軍への逆撃体制を整えた勇猛ぶりは、
今でも戦地の近郊において民間伝承となって伝えられているほどである。
28 :
満志・班鄭列伝 3:2006/01/27(金) 14:48:02
また、万黄軍の布陣の際にも、班鄭の将才は如何なく発揮された。
将兵数万とも数十万とも伝えられる万黄軍全軍に滞りなく伝令を
徹底させる為、班鄭専用の巨大な法螺貝を使い、本来であれば何十人もの
伝令を飛ばし、前線の将軍に命令を届ける手間が掛かるところを、
馬を駆りながら、並みの兵士の数倍は長く、大きく法螺貝を鳴らす班鄭が
ただの一人で行ってしまっていたと言う。
これが世に伝えられる「班馳螺」(ぱんちら)である。
班馳螺は同時に全軍の士気を大いに高め、必ずや陳軍を揉みしだき、
イかせてしまわんとする決意を将兵に持たせるものであった。
破瓜の戦いでの万黄の大敗北は、万黄が班鄭を別働隊として編成したために、
彼が班馳螺を行うことが出来なかったことに一因があるのではないかとされる。
万黄の編み出した用兵術も、その実行において将兵の士気が低いのでは
その成果は望めようも無い。班鄭がいかに万黄軍での実戦指揮において
重要な役割を担っていたか、想像に難くない。
29 :
満志・班鄭列伝 4:2006/01/27(金) 14:48:34
更に、班鄭にはこのような逸話も残されている。
瀬宮州の戦いに先んじて、彼は陳との最終決戦が近いことを感じていたのだろうか、
刺青師に命じて全身に縞の模様を入れさせた。その模様がどのような色彩で
あったかは詳らかでないが、当時において「生」と「死」を意味する色だったようだ。
(訳者注:日本でも黒と白の縞は葬儀を示す不吉な色とされる)
万黄は上半身を露にし、悲壮な姿で班馳螺を行い決戦に臨まんとする
班鄭の覚悟を見て、「何と勇壮かつ美麗な縞班(しまぱん)よ、例えお前が
いきり立った陳歩にズラされ、この身が再び貫かれようとも、俺はお前と離れまいぞ」
と、班鄭を讃えたという。
瀬宮州の戦いに勝利した陳軍が満光の都に迫ると、時の皇帝満益は万黄を捕らえ、
斬り捨ててしまうが、班鄭自身の記録もここで途絶えていることから、
万黄に連座させられたか、或いは身を捧げて仕えた主君に殉じ、彼自身、万黄の
姉留苦たることを選んだかであろう。
-----------------------------------------------------------------
まとめさんがGJなので初投稿で恐縮ですが、サイトで見ながら書かせてもらいました。
各所人名などにリンクも張られてて使いやすかったです。
折角の資源だし、職人さんに活用してもらえるといいですね。
粗朕戦争に勝ち天下を取った乳邦であったが、朕の初代皇帝(大粗)となってからの彼は猜疑心の塊と言える。
即位してまずやったことは功臣の大粛清であった。韓自他(かんじた)ら武官を中心に有能な臣下を次々に粛清していった。
これには妻の殷氏(後の殷蘭らの一族に連なる)の影響も大きかったとされ、韓自他の次に騎上位大将軍についたのが
殷氏の兄殷康(いんこう)であることから殷氏が策をめぐらせていたと言われる。
ちなみに陳平は粛清の手が回る前に出身地に逃げ帰っていたので無事であったという(朕書陳平伝)。
行政面では後に多くの王朝が首都を構え、朕の首都でもあった明日部巣都を開発するなど功績もあったが、
総じて見れば負の面が大きかったといえよう。
二代皇帝壕得帝(ほりえてい、乳豊)の時代は、前代の大粛清のツケを払わされた時代といえよう。
彼の即位とほぼ同時に当時北方で一大遊牧帝国を築いていた荷洋族長於志四(おしよん)が10万の兵を率いて一気に南下を開始。
辺境軍を蹴散らし、ついに北の大都市淮府まで迫られたのだ。ここに至って壕得帝はついに騎上位大将軍殷康率いる
虎の子の主力軍40万を出陣させたが惨敗。殷康はつかまった挙句斬られ、淮府は犯しつくされた。
その後も負け続け明日部巣都まで迫るのも時間の問題となった。が突如北へ転進し、その後散発的に北の集落を襲うことはなくなった。
理由は未だに分からず、厨華最大の謎となっている。
その壕得帝の治世だが安定した政治は行われず殷氏の大粛清が起こり三族誅殺、宦官と外戚(妃の曹氏一族)の争いなど政争が絶えなかった。
壕得帝自身も大粗ほどの大器ではなく、結局朕が滅ぶのはこの二代目の時代に決まったといっても過言ではない。
へー
三代皇帝無羅帝(むらてい、乳唐)の治世は特筆すべき事項はないと言っても過言ではない。
なぜなら何もしていないからだ。彼のしたことといえば宦官の大粛清と、曹氏一族を高位につけたこと。
この二点しか出来ぬまま、18歳で死亡したからだ。曹氏による暗殺説も絶えない悲劇の帝である。
朕の最後の皇帝丹少帝(たんしょうてい、乳燐)は即位した時わずか4歳であった。
そのため蔚分(うっふんと発音、中国史における相国)の位にあった曹柔 仲折(そうにゅう なかおり、字はなかおれとも)が実質的に政治を取り仕切った。
彼は皇帝の位を望み、何も分からぬ幼児に等しい丹少帝を騙し禅譲させた。ここに朕は滅び、新たな帝国狆(ちん)が勃ったのだった。
※やさしい厨華の歴史 朕 その一、壕得帝の部分の記述にミスがありましたので訂正いたします。
×その後散発的に北の集落を襲うことはなくなった
○その後散発的に北の集落を襲うことはあっても大規模な軍を起こし侵略してくることはなくなった
朕からの禅譲により狆の初代皇帝となった曹柔。彼の治世は治世と呼べるような代物では到底なかった。
異常なまでの重税、曹一族であればどんな無能な人間でも高位につける、異常なまでの贅沢…などにより
政治は乱れきった。が、こんなことをやっていていつまでも反乱が起きないはずがなかった。
まず北部の慰安府(いあんふ)で農民反乱が起きた。これはすぐに鎮圧されたが処襄、岸安、玉京、辺都、淮府など
全国の都市に波及してしまい狆軍はその鎮圧に大わらわとなった。
その全国的な反乱の中でのし上がってきたのが士多滑、字を刷(したなめ ずり)という地方豪族であった。
彼の母は大粗の後宮に仕えていた。大粗死後故郷に帰ってすぐに士多滑を生んだことから彼は大粗の子と噂された。
実際岸安近郊の小豪族であった士多氏はこの後一気に取り立てられ、岸安太守にまで上り詰めた。
そんな彼は盟友陳長(ちんちょう、陳歩の祖先)、斉濃(せいのう、斉苗の祖先)らと共に岸安で挙兵し、
士多滑の血から来たと思われるカリスマ的な統率力、陳長の神算鬼謀、斉濃の天下無双の武をもって連戦連勝し、
彼らの軍勢は各地の反乱軍の中でも中心的地位を占めていった。そして狆は慰安府一揆から二年であっけなく崩壊。
士多滑は多くの民から請われ皇帝(高粗)となった。これが前魏の起こりである。
陳沈(陳歩の父)の幼少の頃、
乙姫(おっき)っていう女性とのエピソードがあったという話は?
だんだん神がかっている・・・最初の頃はネタを出してたけど
もう俺にはついていけんわ
おまいらの健闘を祈りつつROMらせて頂く!!
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/27(金) 19:50:12
陳歩て戦国時代の長井陳歩介(ながいちんぽのすけ)1545~1609と父、長井入道珍固1529~1594(ながいにゅうどうちんこ)のことか?
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/27(金) 20:04:17
長井陳歩介は1545年、長井入道珍固の嫡子として尾南荷山城(オナニやまじょう)で産声をあげる。
若きころより馬と女に乗ることにかけては天下一と諸国に知られる。のち天下を目指す織田軍に攻められるも石垣を登る相手兵たちの精子をかけまくったりと奇策を用いた戦いで織田は苦戦し和平を申込むほどだった
無論この長井陳歩介の奇策は陳子の兵法書にある『陳曰くシュッシュシュッシュで気持ち良し、以て白濁の雨とならん』からうまれたアイデアだった。
ただ兵600全員の精子を絞りだすために大量のオカズが必要であったのが難点であった。さらに和平後城内を訪れた信長は城内のあまりのイカ臭さに絶句したらしい
お、このスレは安成保茂山(あなるほもやま)時代の話題もOKなのか
長井陳歩介と草井金太(くさいきんた)の武者ぶりには惚れ惚れするよな
ところで、月刊マガチンで連載中の宋狼伝ってやつさ、
てっきり宋狼が主人公の漫画だと思ってたのに、タイムスリップものでガッカリ。
それでも始めの方は艶義をなぞってて楽しめたけど、途中から作者のオナニ漫画に・・・
恥漏(ちろう)強すぎ('A`)
同じとんでも歴史バトルものでも「魔羅の刻」は面白いのに。
>>37 ここはあくまで陳国志。なんでもアリだと収集つかなくなっちゃうよ。
陳国末期、国内は李靖(りせい)派と翻能(ほんのう)派の二つの思想に分かれた。
翻能派の主な人物は、夜襲や奇襲に長じ、崇覇振威(すうぱふりい)という精鋭部隊を持つ
猛将・霊覇(レイパ、レイパーとも)や、拘束の計や脅迫の計などの姦計を得意とする
屋追族出身の吉狗(キチク)、元云虎旗本七騎の一人の辺泰(へんたい)と、辺泰の子
辺疾娑(へんしつしゃ)、正翼の子で「異常」のあだ名をもつ正僻(せいへき)などの将軍たち。
そして翻能派が李靖派の意見を押し切り、令布の戦い以上と悪名高い「周靼令布の戦い」
(しゅうだんれいぷのたたかい)を引き起こす。
周靼令布の戦い
雲国の第四皇帝・雲運(うんうん)時代、雲国の守将・庶徐の子、庶兎徐(しょうじょ)が守る
陳・雲間の要所である散華城を、陳の大軍が急襲したことに端を発する。
寡兵ながら防衛陣形「刃陣(ばーじん)」を敷き、庶兎徐は必死の防衛を試みたが、
崇覇振威率いる霊覇の「空桶奸金(からおけかんきん)の計」にかかり、刃陣を破られた。
そこへ陳軍の大部隊が輪姦の計で激しく攻め立て、奮闘虚しく散華城は陥落する。
散華城を落とし勢いに乗った陳軍は、郷関(ごうかん)、把関(わかん)、紫関(しかん)、
禁親相関(きんしんそうかん)の関所を次々と落とし、幼関(ようかん)を抜けば勃沌である。
幼関の地で雲軍と激突。満出身の客将・沙夏曼(さげまん)の秘策「退歩(たいほ)の陣」に破れ
陳の大軍は壊滅する。この戦いにより陳と雲の国力は大いに疲弊した。
>>22 潮吹きの計補足
潮吹きの計とは慈威地点の戦いで馬瑠の用いた計略
敵軍を自陣奥深くまで誘い入れ、間欠泉を浴びせひるんだ隙に攻撃を加える策である
馬瑠は日頃の観測によりほぼ正確に間欠泉の噴き出すタイミングを把握していたようである
綿子教授の最新の調査により慈威の間欠泉は103℃の熱湯を15m以上の高さにまで吹き上げる
ものであることが解っている
尚、満軍は慈威地点の戦いに「かずのこ天井」と呼ばれる無数に刃のついた板状の兵器を
陳軍の頭上に落とし、多数の兵を昇天させた
【蚯蚓千匹】みみずせんびき
鞭、万黄の使用した武器、先が無数に分かれていたため「蚯蚓千匹」と呼ばれる
万黄愛用の武器といえば「鰻棒」が有名だが、武芸十八般を修めた万黄は鞭もまた得意であった、
あまりの衝撃のため打たれた者の中には快感を覚える者さえいたという
蚯蚓千匹に絡め取られた者は無理に動くと窒息のため一瞬で昇天し、また動かなくとも数秒で
果てたが、蚯蚓千匹によって死を迎えたものは一様に安らぎと快楽に満ちた表情をしていたと言われている
余談だが万黄の凄まじい戦いぶりに味方にも気を失う者がいたという、そんな時万黄は気付け薬代わりに
蝋燭を垂らして蘇生させた
緒那屁斗(おなぺっと)
緒那似の弟、緒那似とともに満に降伏、その後雲に亡命
常に緒那似の傍らにいて訓練を手伝った
容貌が非常に優れていたため兵の士気は大いに盛り上がったという
しかしそれも訓練に限ったことで実戦では役に立たなかった
緒那似・緒那屁斗兄弟の訓練を受けすぎた兵は実戦では我慢できずに
先走る者が多かった
緒那苞流(おなほうる)
緒那似の子、雲国で生まれる
緒那似は彼を溺愛し、彼が生まれるとよりいっそう訓練に励むようになった
毎日同じ訓練を繰り返す緒那似に辟易していた兵たちの中にはその様子を
「猿のようだ」と不満を漏らす者もいた
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/28(土) 08:37:08
HHK歴史講座−前魏帝国の崩壊
魏国、中興の祖と称えられた槍帝が崩御した。享年63歳。
莫大な財宝を棺に奉納した豪華な葬儀が行われた。
その後に、槍帝の長男、居怜帝が即位。
即位した居怜帝がやらなければならかったことは槍帝が残した莫大な赤字を解消であった。
そのためにどうすればいいのか、毎晩のように会議が開かれた。
そして考え出された政策は官位を売ることである。官位を売ることにより財政を確保。
その後に宮廷を縮小して支出を抑え、財政を持ちなおす。
居怜帝の最初で最後の政策であった。
これは成功し。赤字がなんとか解消。前魏は持ち直したかのように見えた。
アナウンサー「ゲストの厨国国立大学玉京大学教授稚官師杉(ちかんしすぎ)さんです。」
陳万雲「こんばんわーはじめまして」
アナウンサー「さて早速質問します。この時点での、居怜帝はそんなに悪くなかったと思うんですが」
陳万雲「そうですね。官位を売ることは、現代だから悪いとの評判を受けていますが、財政が火の車だったので仕方なかったんでしょう。同情の余地はあります
しかし大作や斉苗が官位を買い台頭してきたわけですから売る相手を選ばなかったのが問題です。」
陳滸伝は陳国志とどういう関係??
>>43 「元云虎旗本七騎の一人の辺泰」とあるけど、
旗本七騎って博諾亦サイドの旗本七騎?やさしく教えて
51 :
吉川英恥・陳国志・安囲なき戦い:2006/01/28(土) 11:25:10
急報が入るたびに、幕舎の陳歩の顔は曇った。
「万黄、荒縄(あらなわ)を撃破、金之貌(きんばく)を支配下に!」
「満国、領内の風族を一斉に検挙、後、その一切に官位を認定!」
「万黄、息子の万拡に領土拡大を指令! 魯林(ろりん)から馬場(ババ)までを領地としました!」
陳歩は、拡大しつつある万黄に、歯がゆい思いをした。
陳歩もまた、乱性の将。戦いに明け暮れ、時に買官を得、自らの制欲(せいよく)のままに振舞う事には、ためらうつもりはない。
しかし、それもこれも安全な範囲、「安囲(あい)」のためではなかったのか。戦とは、政交(せいこう)とは、安囲(あい)のために行うものではなかったのか。
今の陳歩には、万黄の行為が、ただいたずらに買官を得るための不純な行為にしか見えず、嫌悪感すら感じていた。
報告を聞き尿道炎は冷静に分析する。
「万黄は昨年、曹乳ひきいる性州黄明党を併呑しました。このたびの度重なる領土拡張は、この曹乳(そうにゅう)が無理にねじ込んだという見方も出来ます。
あの九李(きゅうり)と那須(なす)すら、今万黄の下に出入りを繰り返しているとききます。」
諸除易は吐き捨てるようにつぶやく。
「魯林(ろりん)はまだ分かるとして、馬場(ババ)までか。いくらなんでも守備範囲が広すぎだ。これではとても正規の軍では守れまい。万黄はもはや変隊(へんたい)ですな」
「誰が軍師のように語れと言ったっ!」
陳歩は机を叩き割った。
52 :
吉川英恥・陳国志・安囲なき戦い2:2006/01/28(土) 11:38:57
「戦場で見る軍師の目とはその程度のものかっ」
陳歩は、いらだっていた。裏切りにも似た気持ちだった。
万黄の気持ちは、分かる。時に政交を、自らの制欲のままにふるってみたいという気持ちはある。
しかし、それに耐えに耐えて、安囲をはぐくみ、お互いをさらに絶頂まで高めていくことこそ「政(せい)」ではなかったのか。
何ゆえに人は二手に分かれた「政」を持つのか。何ゆえ人は政交をするのか。
ただ買官を求めるのならば、それは袁如と同じではないか。
「……殿、殺しますか」
諸除易はニタリと笑う。
「殿は昨年、騎上位大将軍の位を授けられた。もはやこれ以上の官位は望めませぬ。もはや安囲を確かめ、買官を得ることは無用。それに」
諸除易の目の光が、暗黒に濁っていく。
「万黄を変えたのは、貴方だ。陳歩殿。貴方に出会わなければ、貴方に、ヤラれなければ、万黄とてここまで変わりはしなかった。貴方が、万黄の形を変えたのです」
陳歩の気炎は、激しく燃え盛った。
そうだ、俺の性なのだ。俺が万黄を、ベロベロに変えてしまったのだ。
万黄を、屠らねば成らぬ。それは自分の責任でもある。陳歩は初めて、政交に私情を乗せてみたくなった。
万黄を貫き、屠り、抉り、乗り、ただただ、責める。
それが、陳の、御主の、本質的にもっている本能と言ってもよかった。
「……令布へ」
陳軍は出立した。
これより先は、安囲(あい)なき戦い。
暗雲はとぐろを巻き、はるか遠くで、雷鳴が聞こえた。
この時代の奴らロクに体洗ってないっぽくね?Sexの時気分悪くなんねーか?どう思う?童貞君たち。
この時代の奴らロクに体洗ってないっぽくね?Sexの時気分悪くなんねーか?どう思う?童貞君たち。
>>51-52 吉川英恥先生乙です
まとめサイトの人も乙です
まとめサイトの人仕事早杉、もう吉川陳国志・安囲なき戦いが入ってる
瓊武異(えいぶい)
軍学者とされていたが現代で言うところの小説家だったようである
著作は前魏の将軍 張兄貴(ちょうけいき)の苦悩を主題にした「選択、矢剣張」(せんたくやけんちゃん)、
回(ほい)将軍の江州での戦いを描いた「江州、笑む回の隙」(えすえむほいのすき)を筆頭に
膨大な量に及ぶ
彼の作風は戦いのセオリーよりダイナミズムに重きを置いたフィクション性の強いものだったが
彼の著作が普及するにつれ、実戦経験の少ない若い兵士や将軍の中に敵の顔の寸前から
矢を射る「顔射」(がんしゃ)や、敵城の後背を急襲する「後門攻め」(こうもんぜめ)などの行為を
まねる者が多数あらわれ、戦場は大いに乱れたという
その前魏であるが、三代目都威帝(ついてい、士多那 痲【したなめ】)の治世までは各地の軍閥の反乱に悩まされたが、
四代目跋故帝(ばっこてい、ばっこんていと読むことも。士多訓 丹【したくん に】)の治世で主だった軍閥は壊滅。
以降は腰を落ち着けて政治に取り組めるようになった。
その成果が大きく花開いたのが十代威零帝(いれいてい、士多津 可威【したづ かい】)の治世である。
周辺民族を悉く征服し、版図を広げ当時やはり版図を広げていたエローッパと接するほど肥大化。
莫大な戦費がかかったが征服地から入ってくる税収や文物などで戦争で失った国力は賄えたという。
人材の多さもこの時代の特徴で、名将斉生(せいせい)、名宰相万兆(まんちょう、万黄の祖先)らが活躍した。
文化も発達し、貞族の春画など周辺民族の文化の影響を受けた御汰(おた)文化が花開いた。
威零帝の治世は一言で言うなら「絢爛豪華」。厨国史上この言葉がこれほど似合う時代はないと言っても過言ではない。
だが、絶頂を迎えればまた萎えていくのは世の定め。この後前魏は転げ落ちるように衰退していくのだった。
その兆しは十二代那明帝(なめいてい、本名不詳)の治世に現れ始めた。政治に対する興味が薄く、やる気の無い彼は
ある一人の宦官に全てを任せるようになっていった。その宦官の名は荘如(しょうじょ)字を媒俊(ばいしゅん)といった。
彼は厨華一の能吏と謳われた俊才で那明帝の御守役を務めていたこともあり、それゆえに那明帝の信を得ていたのだが、
のちに前魏最悪の悪臣、悪宦官と言われるようになる。
(後に袁如の才を認め養子とした。袁如の政治手法はこの養父から学んだとされる【前魏志袁如伝】。)
まず彼らがやったことは、エローッパ侵攻である。が名将ワイセッツ・ブツ・チーンレーツ(ワイセッツ・オットーコの父)の大胆な戦術の前に
遠征軍総大将斉路岸(せいろがん、斉苗の祖父)は手も出せず、ただ逃げ惑うのみで大敗、北部と西部の異民族は皆
エローッパについたり、独立してしまった。これにより財政状況は一気に悪化。悪いことは重なるもので
未曾有の大飢饉が発生し、更に状況は悪化した。が、この民の状況を那明帝が知ることは無かった。
なぜなら荘如は嘘の報告をしていたからである。が、那明帝自身も後宮に入り浸るばかりで現実を知ろうとしなかったのもまた事実である。
その後も彼らの打ち出した(正確にはほぼ荘如一人)は悉く裏目に出たり当を得ないろくでもないものばかりであった。
が荘如の威光の前に誰も反対が出来なかったし、那明帝が真実を知ることも知ろうとすることもなかった。
十九歳で即位した那明帝は三十二歳の時に突如病死した。その直前に硬骨漢として知られた名臣雲硬(うんこう、雲項らの祖父の叔父)
も謎の死を遂げており、雲硬から真実を聞き操り人形であることを良しとしなくなった那明帝と真実を知らせた雲硬をまとめて始末したのではないかと
岸安市内ではまことしやかに噂された(この説を取る学者は多く月慶教授もこの説を採っている)。
ともかくここから大勢力を誇った前魏の凋落は加速度を増してイクのであった。
英恥先生、蒼天行為のファンですか
ワイセッツ・ブツ・チーンレーツにワラタ
ネタ投下しようにも、歴史の流れが複雑で混乱してるわけだが
前魏の崩壊から満の滅亡を経て陳歩死去後の流れをだれか教えて!
ざっとまとめ見た感じ、斉建国から陳末期まで50年くらいしか経ってなさそうだが
十三代異通帝(イッていと発音、士多音 故【したね こ】)もまた荘如の操り人形であり、
兄那明帝の時代と変わることはなかった。だが彼は最後まで真実を知ることは無かった。
周りに諫言してくれる名臣がいなかったことの証左であろう。
十五歳で即位した彼は四年後岸安で流行した天然痘で崩御。あまりに短い人生であった。
十四代槍帝(やりてい 士多兎 智【したう ち】)は地方官をしていた十代威零帝の末子である。
だが彼はこの時代の皇族に珍しく野心に燃える男であり、即位してすぐに自分にとって邪魔な荘如シンパの大粛清をしたのだ。
槍帝の本心を見抜けなかったことが荘如にとっては命取りとなってしまい、彼の派閥に属した宦官・官吏は悉く殺された。
(だが荘如の養子、袁如は機を読んでいたのか素早く槍帝に付き、彼のブレーンとして順調に出世して行った。荘如をもってしてもこれは読みきれなかったようで「わが子袁如よ、わしの読みを越えるとはな。たいした男よ」と今わの際に言い残している。【前魏志荘如伝】)
その後も次々に国家安定のための施策を打ち出し、少しずつではあるが大帝国前魏の威光は復活していった。
槍帝は中興の祖というのに相応しい人物であった。が即位十二年目に六十三歳で崩御した。
あと十年長く生きていれば乱世になることはなかったといわれる名君であった。
中興の祖と謳われた槍帝であったが子に恵まれず、長子士多麻 紀(したま き)が生まれたのは
五十歳の時であった。このことと悪臣袁如の存在が前魏にとっては致命傷となった。
六十三歳で崩御した父のあとを十三歳にして継いだ居怜帝(いれてい、士多麻 紀)は当然あまり物を知らず
それゆえに父が最も信頼した宰相袁如に頼らざるを得なかった。それをいいことに様々な己に都合のいい施策を行ってゆく。
その典型例としてよく言われるのが売官である。だがこれが行われたために荘如に排斥されたかつての名族(陳家は典型例)が中央政界に復帰したことや、
一時的に財政状況の好転をもたらしたことを考えればあながち無駄と言い切れる政策ではない。
が結局曹賈や斉苗、三徐寺といった者まで高位に就けるようになったことはやはり問題だろう。
そして売官が元でついに反乱が起きてしまう。曹賈の乱である。曹賈・曹乳兄弟率いる黄明党(こうめいとう)
が『総廃冠座貴』【王冠将冠いずくんぞ貴あらんや(金で買われた王様や将軍のどこが貴さがあるんだ)という意味】
をスローガンに掲げて、政治に不満を覚えていた民を糾合し勃ったのだ。このとき居怜帝は憔悴しきった表情で
「朕はもはや民からも捨てられたか…無念」と言うと倒れ、そのまま帰らぬ人となった。二十五歳であった。
正上位大将軍鍾 秀玄を羅武甫の戦いで破るなどまさに破瓜の勢いであったが、相次ぐ内紛と精神・理論的支柱であった
導師大作の死、各地の義勇軍の奮闘(道卓、陳沈ら)などにより結局三年で鎮圧された。
だが前魏の綻びはもう取り繕いようの無いところまでイッてしまったのだった。
十六代後威零帝(ごいれいてい、士多具 瑠芽【したぐ るめ】)の治世は血なまぐさいものであった。
曹賈の乱、残党による御羽射党の乱など戦争続きであったからである。だがこの武芸百般と兵法に長けた
後威零帝にとってはちょうど良かったとも言える。これらすべての乱に対し親征を行い、陣頭指揮を執った。
だが御羽射党の乱鎮圧の際斉苗と対立。さらに政治面でも袁如と対立。その果てに起こったのが岸安事件である。
袁如に唆された斉苗以下の親衛隊4500がほとんど裏切ったためわずかに残った親衛隊100で戦上手の斉苗と戦うことになった。
が、4.4倍の兵力差を覆し意外なほど善戦した。このとき後威零帝は百人以上の兵を斬り倒し、屈強な親衛隊も畏れおののいたと言われる。
だが結局は斉苗と数百合打ち合った末に討ち取られた。後威零帝が即位してちょうど十年目のことであった。
十七代廃帝に関する資料は驚くほど少なく、おくり名さえ残されていない(廃帝の呼び名は便宜上のもので正式なものではない)。
斉苗が無理矢理立てたが袁如と対立し廃されたというのが主流である。
この後斉苗は逃亡し、斉を建国する。これが実質上前魏に止めを刺したともいえる。
十八代施閥帝(しばってい、士多是 痲【したぜ め】)は擁立された当初からラストエンペラーの宿命を背負わされた悲しき皇帝である。
各地の諸侯が続々と独立(陳、満、雲その他小国あり)し、勝手に戦争を始めた。これらは陳国志演義などに生き生きと描写されている。
岸安の朝廷でも尹殷寵ら聖順派と袁如を後ろ盾にした義哉流派(ぎゃるはと発音、演義では須家蛮と書かれることが多い)の対立の果てに
十八の禁が起こり、有能な官吏はすべて陳・満などに去り、朝廷は機能不全に陥った。さらに正しい前魏を継ぐものと名乗る精魏が勃ち、満が皇帝を自称するに至り、
もはや前魏の存在意義は無きに等しいものとなった。ついに耐え切れなくなった施閥帝は岸安郊外の猥河に玉璽を抱えて身を投げた。享年三十二歳。
身を投げる前に「朕は何故このような天命を背負わされたのか。天よ!何故ですか!!私は天子ではないのですか!!!」
と絶叫したと演義にあるが、実際は不明である。だがこの科白は最もよく施閥帝の心情を表していると思われる。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 01:55:30
乙女淫道(おとめ・いんどう)
元前魏の高官であった田代(でんだい)が宮中追放の後創設した宗教団体。
その教義はかつてないほど斬新なもので、田代自身の経験から生み出された
ものである。
すなわち、人間の欲望は限りないものであるから、それを少しずつ出して
いくことによって、幸せが得られるというものであり、現代でいうところの
軽犯罪を奨励したことが特色である。
実際、乙女淫道の儀式の中には、信者に沐浴をさせ、それを覗き見るとか
あえて高い祭壇を設け、短い衣装を身にまとった信者が階段を登っていくのを
下から覗き見たり写生したりという奇妙なものがあり、田代自身もそういう
儀式に積極的に参加していたらしい。
乙女淫道は陳・満・雲の三国からは異端・邪教視され排除されたが、
民衆の熱狂的な支持をうけ、信者は爆発的に増え、独立国家の体を成すに
至った。中でも体制からはじかれた実力者が田代のもとに集ったため
全盛期には三国も手を出せない状態だったという。
有名な人物としては、当代随一の学者でありながら、手にした鏡を用いた
妖術で人心を惑わしたとして追放された木直草、「失恋飯店」で文化史にも
その名を残す大物侠客、志未見(しみけん)、奇書「世紀末指導者伝 武」
を著した島袋などそうそうたる顔ぶれである。
一説にはあの梁山泊のモデルともいわれている。
梅読(ばいどく)
斉苗配下の将
第二次鎮江攻防戦で兵糧庫を守るが油断して酒宴をしていたところを
満軍に急襲され兵糧庫を奪われ敗戦の原因をつくる
満軍の捕虜となり鼻を削がれた後斉苗のもとに送り返されるが
敗戦の責を問われ処刑される
石鹸王国(せっけんおうこく)
元の国名はクサマントルコ
スレイプマン1世の指導の下急速に勢力を伸ばす
しばしばエローッパ帝国の領土を脅かした
スレイプマン1世(すれいぷまんいっせい)
石鹸王国の初代スルタン(王)
クサマントルコ帝国3代目君主に即位した後、国名を石鹸王国と改めスルタンの座につく
マラ=ハレルを宰相に登用しイェニチェリーボーイ創設などの軍事改革や宰相制度の
機能整備を行い大国化への基盤を築いた
イェニチェリーボーイ(いぇにちぇりーぼーい)
石鹸王国の常備歩兵軍団のこと。常備軍団ガクブルの中核をなし、火器で武装した最精鋭であった。
トルコ語でイェニは「新しい」、チェリは「兵隊」を、エローッパ語でボーイは「少年」を意味する。
孟育(もういく)
満国の都、賜宮近辺を荒らした盗賊の頭。
略奪行為に及ぶ前に、
「もうイク!もうイク!もうイク!」
と、手下に己の名前を連呼させ、士気を鼓舞した。
手下の中には、興奮状態が絶頂に達してしまい、
「イクイクイクー!」
と、彼の名だけを連呼し、失神してしまう者も多数いた。
これらの者は皆、恍惚とした表情で倒れていたという。
また、彼の手下は男だけではなく、女もたくさんいた。
行為の後には、男は激しい脱力感に襲われ、
女は身体を痙攣させながら気絶していたという話も聞く。
陳歩の北伐と呼応し、賜宮を突く手筈であったが、
直前に事が露見し、満軍に征討された。
史書によっては、陳歩軍と合流し賜宮を突く作戦であったが、
陳歩軍の勢いが弱く、また兵站が短いため、賜宮まで到達できなかった、
と記述しているものもある。
彼の名前には、不思議な響きがあり、後世の将軍は、
「もうイク!イク!」
と、兵士に叫ばせ士気を鼓舞したという。
>>67 陳国武将の智江李望維(ちえりぼうい)はおそらく
クサマントルコのイェニチェリーボーイ出自だったに違いないな。
想像力が豊かであったとか、同じ様な男で群ながら賄談を重ねたりとか、
イェニチェリーボーイ特有の兆候を持ってたと精子に記述がある。
結局戦自体には参加しないままで終わったけれど、
他の武将からは可愛がられてた(からかわれてた?)フシがある。
また彼自身一皮剥けた陳歩に異様に敬意を払っていたよなあ。
殷陶(いんとう)
満国の奸臣、殷蘭・殷抗の甥。
満滅亡後は満満と共に斉国に渡り後満の建国に尽力した。
元々斉国は疫病により人材不足に陥っていた為、政治に明るい殷陶は重用される。
満満の病死後、偽の遺書を使って満満の二男・満飛(まんぴー)を擁立し傀儡政権を執った。
晩年は政治を顧みず、連日酒池肉林の宴を催すなど放蕩に明け暮れた為、
于甫甫・于甫通(うほつ)親子と、斉の公子・斉天桓(せいてんかん)に誅殺された。
享年90歳。
エンコー陳国志でもそうだが、斉苗死後の斉・後満の人材不足は泣ける。
殷陶なんかでも計略・内政に欠かせん存在だもんなあ。
斉天桓(せいてんかん)
斉の公子。
一族の病死により王位継承権を得たが、于甫甫の説得により満満に降る。
主に北方守備を担当し、靺腸族や荷洋族に睨みを利かせていた。
殷陶による恐怖政治が起こると、国難に憂いた于甫甫は斉天桓の下に走り助力を求めた。
斉天桓は一計を案じ、自ら女装して殷陶の宴の席に潜入し、彼を討つことに成功する。
その後、満満の長子・満耳流(まんじる)を立て、後満の前座位将軍に任命された。
女性説や宦官説、国のために泣いて一物を切った義侠説など、その素性は謎が多い。
人材不足の斉末期・後満時代において、于甫甫と並ぶ大黒柱。
フェチフ カメフト2世(ふぇちふ かめふとにせい)
石鹸王国の3代目スルタン
ビザンチンチン帝国の首都ポコチンチータノープルを陥落させ、インランブールマ
という名のもと石鹸王国の首都として定め、石鹸王国の領土拡大の基盤を作った人物。
また彼は制服が好きで全ての職業に制服を定めました。
カメフト2世は、彼の業績から一般に制服王カメフトの名で知られています。
<前魏末期>
斉苗、後威零帝を殺害し北方の病巣へ逃亡し「斉」を建国。(岸安事件)
殷蘭ら須家蛮派、聖順派を追放・殺害する。(十八の禁事件)
袁如、三徐寺らと謀り「買官制度」を施行。袁如、権力を握る。
曹賈、買官制度に反発し「曹賈の乱」を起こす。
曹賈、羅武甫の地で鍾秀玄率いる前魏の大軍を撃破。(羅武甫の戦い)
曹買の反乱軍「黄明党」が暴徒化し、陳沈・道卓らによって鎮圧される。
黄明党の残党軍が兵を挙げる。(御羽射党の乱)
前魏崩壊。
<陳国時代>
斉、満の領地になった鎮江を攻め、勝利。(第一次鎮江攻防戦)
厨国北方の液京で魔羅が精魏相国・大便帥を自称し、「精魏」を建国。
陳歩、陳国君主自らの数度に渡る登用に応じる。(珍顧の礼)
陳歩、桃尻の地で陳国の人々と酒を酌み交わす。(桃尻の宴)
陳軍、没記村で満軍と激突。陳歩、初陣を飾る。陳軍惨敗し、道卓戦死。(盛漢討伐戦)
陳軍、宮美麗の地で満軍を破る。(宮美麗の戦い)
陳歩、尿水川で雲の大軍に寡兵で大勝する。陳国、北方一体の支配権を確立。陳歩、後背位大将軍に任命される。(尿水川の決戦)
陳歩軍、満の万黄軍と激突。陳軍大将。満将・程操を討ち取る。
陳歩軍、斉の斉苗軍と戦うが引き分けに終わる。陳と斉、一時停戦。
陳歩軍、満の根同霧城を攻めるが苦戦。
斉苗、王南一味の討伐に失敗。
陳歩軍、陳鎮の策を用いて根同霧城を陥落させる。
陳歩、満火素率いる満の根同霧城奪還部隊をカントンの地にて殲滅。(カントンの戦い)
陳歩、雲軍と共同で満の根同霧城奪還のための大軍を打ち破る。(膣壁の戦い)
陳国、斉国との関係悪化。陳軍と斉軍が会戦。兪備曼の二穴攻めの計により陳軍苦戦。戦況は一進一退。(郁々の戦い)
斉苗一族が次々に病死した為、両軍、兵を引く。
陳軍の満谷関攻め。満の陰歩軍と戦う。陳軍苦戦するが、出伊の裏切りにより戦局が一変し、勝利。(満攻めの戦い)
陳軍、陰歩への援軍である嶺頭軍と羊水川の地で戦い、背貢須を失うが勝利する。
陳軍、田代の宗教国家「乙女淫道」の領地へ侵攻。
満国、田代の援軍として万黄を派遣。満将・菊門の策により陳軍敗北。邦刑戦死。(みこすり半の戦い)
陳軍、瀬宮州で陣容を立て直し、万黄の追撃軍と戦う。陳歩と驛卞が一騎打ち。薫仁の活躍により陳軍大勝。(瀬宮州の戦い)
陳歩、騎上位大将軍に。
以上、陳歩前半の見せ場である瀬宮州の戦いまで。
間違い、抜けあったら保管お願いします。
さて陳国志演義に書かれた事跡を述べるのだがそれには前魏の滅亡よりすこし時間を巻きもどさねばならない。
十七代廃帝の擁立に失敗し、袁如に殺されそうになった斉苗が病巣に斉を勃てた。これが施閥帝自害の十三年前のことである。
この斉が勃ったことにより、各地で諸侯がその地方の官吏をしていた皇族を勃てて次々と独立していく。
陳・雲・満の三国はほぼ同時期に勃ち、それぞれに個性豊かな人材を集め国家を形成し、後の世まで語られる戦いを繰り広げてゆく。
まずは「呪われた王国」斉について叙述する。君主斉苗が十六代後威零帝を殺したことが響き、人材がなかなか集まらなかった。
だがそんな中でも天下の奇才兪備曼、宰相于甫、于甫甫親子や父に劣らぬ才覚を持つ次男斉奕、三男斉昂、猛将梅読、斉苗の叔父の子で忠義の士斉天桓など
粒ぞろいの人材と、精兵を武器に存在感を発揮した。
三度にわたる大国満との決戦・鎮江攻防戦、独立して間もない斉の国運を賭けた精魏との一年半にわたる激闘、
北方から侵入してくる靺腸族・荷洋族との戦い、陳国時代一のトリックスター王南一味討伐、
そして陳国時代史上最高と謳われた名将陳歩との戦いと交流…
と前半期では最も活発に動き回り、主役といえるほどの活躍を見せた。
ところが膣壁の戦い後勢いに乗る陳と険悪となり、陳と戦うことになった。
これが世に名高い郁々の戦いである。当初は軍師兪備曼の二穴攻めの計、次男斉奕、三男斉昂の奮闘により
国力に勝る陳に対し優勢に進めた。が突如として発病した性病がもとで斉苗が陣没。その後一週間と経たない間に
嫡男斉司、次男斉奕、三男斉昂が相次いで同じく性病で陣没し、指揮系統が壊滅した斉はすぐに撤退した。
陳は追撃しなかった。総大将陳歩が好機と見て後ろから襲うべきとの諸将を制したからであった。
陳歩はこの撤退を計略だと思っていたようだったがそれは間違いであった。が陳軍に余力があまりなかったことも確かである。
後に真実を知らされた陳歩はあまりのことに「後威零帝の呪いなのだろうか…彼もまた袁如の姦計に踊らされ、挙句無残に死んだのか。惜しい男だった。」
と嘆息している。その後兪備曼、于甫、于甫甫親子、斉天桓らが必死で支えたが満に併呑され、歴史の表舞台から消えたのだった。
精魏は前魏の忠臣魔羅が液京太守士多羅 芭(したら ば)を前魏十八代皇帝として擁立し独立した国家である。
現在我々はこの国のことを精魏と呼んでいるが、魔羅や十八代(精魏初代)皇帝阿異帝(あいたいと発音)は前魏のつもりであった。
魔羅は前魏相国・大便帥を名乗り、逆臣袁如・斉苗を討つことを宣言し、斉に対し攻撃を仕掛けた。
が、民の支持は得られなかった。前魏は形骸化しつつあったとは言え岸安に存在していたことにより、彼らのやっていることもまた
袁如や斉苗と何ら変わらないことと取られたためである。さらに魔羅は軍事に関しては明るいとされていたが、机上の天才だったため
実戦に出ると惨敗続きだった。愚将・斉司でさえ損耗率一割未満に抑えられたというから魔羅の軍才と運のなさが分かる。
結局一年半で壊滅。魔羅は斬首、阿異帝は岸安に送致されたが結局殺された。
この間に精魏を見習ったかのように満豪孟が幼い同帝(士多那 螺、したな ら)を十八代皇帝として勃て、満公を自称し
その半年後には同帝から禅譲を受け満皇帝(耶履帝、やりてい)となり、前魏の権威は地に堕ちた。
彼らのやったことは結局守ろうとした前魏の首を絞めてしまう結果になったのだ。皮肉なものである。
燭姦は陳国の要衝万年緒城を占拠した陳国の将梅武が勃てた国である。
陳を裏切ったあとは満に対して恭順の意思を見せ、独立当初より「満国燭姦王」を自称しており後に印綬を授けられた。
彼は兵法に長け、また股肱の臣に名軍師田治がいたため、討伐軍大将に任命された陳歩もてこずったが
結局独立から五年後、田治を失い判断の鈍ったのか「美人局の計」にかかって羅武浦に誘い出されたところに
陳軍の総攻撃を受け全滅。彼も珍歩に討たれ戦死し、燭姦は滅びた。乱世の仇花と呼ぶに相応しい儚い運命をたどった国であった。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 21:33:04
輪鋲 (りんびょう)
斉苗配下の将。
同僚梅読とともに斉苗に従い各地を転戦した。
武勇に優れ、陳軍の誇る猛将達を手玉にとる活躍ぶりで
あの陳歩をして「斉苗ばかりか輪鋲までも相手にしなければ
ならないとは・・・」と嘆かせたほどの猛者であった。
医学の心得もあり、性病に苦しむ主君、斉苗の治療にあたった
のは彼である。
主君の死後は野に下り、斉苗から与えられた邸宅を斉苗家(せいびょうか)
と名付け、そこで性病に苦しむ人々の治療にあたった。
陳虎
陳歩の三男。次兄陳宝はもちろん長兄陳邦敬をも越える才智の持ち主で、天才の誉れ高い神童であった。
そんな彼は長じてからは尿道炎、諸除易らと共に陳軍の作戦立案の中心を占めた。
が令布の戦いの作戦を巡り急進派の尿道炎、諸除易と対立。その後幕僚内での彼の立場は日に日に小さくなり
国境守備隊長の弟陳陳のもとへ送られ、陳歩失脚後押し寄せてきた雲・満残党・北方民族連合軍の猛攻を受けた際
弟陳陳を本国に逃がすための囮になり、敗れて連合軍の捕虜となった。その後雲からの数度にわたる仕官要請を断り続け斬首された。
時の宰相諸除易は玉京陥落後に、
「彼が生きていればこのような屈辱を味わう事はなかった。些細な行き違いで彼を邪険にした私が浅はかだった」と後悔の言葉を吐いたいう。
それほどの才智の持ち主だったのだろう。
まとめサイトの人乙です
その他扱いだった斉国が独立してますな
俺も関係資料を読み漁り、忘れられた斉国武将の発掘に挑戦してみます
斉は元々疫病多発地帯で早死する香具師多かった上に、
後満建国時に反対派を一斉粛清したのがまずかったな。
>>78 陳虎の最終官職は摘出令(つんでれい)だったそうだ。
この官職に就くものは皆些細な行き違いで不幸な人生を歩む事が多い。
たとえば前魏の尹殷寵も十八の禁のおり摘出令に就いていたが、
帝に対する不敬罪を押し付けられて処断されている。
彼もまた、職務に忠実であろうとするあまり、皇帝に対してツンツンした態度で接しており、平素より誤解される事が多かった。
彼の処断後、自宅から皇帝に対する思いをつづった告発文が大量に見つかった。
それは、告発しようにも出来なかった彼のいじらしさがにじむ名文で、施閥帝は
「もっと素直になればよかったのに」
と嘆息したそうだ。
ちょwww
まとめサイトに
前スレ
>>973の Marazon.co のバナー広告が!!
みんな気づいてた?
まとめ人さんセンス最高w
雲古舟(うんこしゅう)
雲の名臣。雲治の従弟。
精子では剛毅でならす骨太の官吏だったが、
艶義では美出と諸除易の間でおろおろするお人よしになっている。
都尉令の会堂では開戦派の急先鋒をつとめ、
主君の雲香に
「彼らが降伏論を唱えるのは、自らの保身と過剰な清潔感です。
もし満に降伏しても、私は名族の出という事をニオわせれば、群太守くらいにはなれます。
しかし、あなたはズバリそのものではありませんか」
と言い切り、開戦に踏み切らせている。
陳歩の根同霧城侵攻後、中道派の美出を大将にしたて戦をお膳立てしたのもこの人。
高い政治力で、時に私財の倉を提供して膣壁の兵站や外交全てを取り仕切った。
泄州攻略戦以後、陳歩と和し、泄州返還を粘り強くこびりつくように交渉したのもこの人だが、
吉礼地の覇武李衆(はぶりーず)らにシュシュッとやられてしまい、
政争のさなか非業の死を遂げる。
雲のこの一連の争いは「都尉令政争(といれせいそう)」と呼ばれ、雲の政治は安定しなかった。
彼は生涯宰相になることはなく、常にナンバー2として影役に徹する。
その影響力はつよく、その強力な存在感をニオわせていたという。
月慶教授の人柄を知りたい。
綿子教授との馴れ初めとか、ちょっといい話とか。
お願い、マイスター!
風族の李女鞍(いめくら)配下には武力60〜70台がごろごろしてるから
満国プレイでは風族の戦力が整う前に攻め滅ぼして登用攻めにするのが定石だよな
南阿洲(なあす)
風族の李女鞍配下。李女鞍四天王の一人。静伏(せいふく)の計を使い陳軍を悩ましたが、
満国には効かなかった。満国の歌舞伎町浄化作戦時には、強国満相手に李女鞍と共に奮闘した。
徐喬斯(じょきょうし)
風族の李女鞍配下。李女鞍四天王の一人。班洲斗(ぱんすと)という武器の使い手。
武力だけでなく知略にも長けていた為、師と仰ぐ者も多い。歌舞伎町浄化作戦時で活躍。
普珪(ふけい)
風族の李女鞍配下。李女鞍四天王の一人。馬車の扱いや飛び道具に精通していた。
退歩(たいほ)の陣を使う。厨国での人気は高く、彼を題材にした「退歩死地要蘇」
(たいほしちやうぞ)という漫画が刊行される程である。
冥度(めいど)
風族の李女鞍配下。李女鞍四天王筆頭。屋追族の不如子も認める歴戦の猛者。
後手陣(ごしゅじん)という陣形で陳を苦しめた。後年、彼を慕う者達により冥度吃砂
(めいどきつさ)という墓所が建てられる。
陳陳(ちんちん)
陳歩の五男。性格は温厚で人に好かれた。また美男子として知られる。
父陳歩曰く「あ奴は虎や尿道炎のように派手さが無いから凡庸に見えるが、あ奴の用兵には無駄が無い。それに兵が絶対の忠誠を誓っておる。将器は私とて及ぶものではないだろう。」と言わしめた名将。
実際陳歩の失脚以前は大国雲との国境を卒なく守り抜いていたところをみると父に劣らぬ名将といえる。
欠点は性格が優しすぎるが故に非情の決断ができないところにあり、
実際幼馴染であった配下の愚将法計を部隊長から外せなかった。それが後に陳の最大の危機を招く。
陳歩失脚後、好機と見て勃った雲・満残党・北方民族連合軍の猛攻を受けた際、
後満君主満満の計略にかかり国境沿いの拠点処襄(しょじょう)を落とされた上に、
敬愛していた兄陳虎が彼を守るため囮となり捕虜になってしまった。
この敗北の原因は愚将法計とその部隊が足を引っ張ったためであり、
彼の美点であり欠点でもあった優しさが招いた大敗であった。
後に陳虎刑死の報を聞いた彼は「私が不甲斐無かったがために…おのれ満満貴様だけは!!」
と言ったのち卒倒したという。
その後騎上位大将軍に復帰した父や玉京の宰相諸除易と合流し、対連合軍戦の最前線で戦い続けた。
この戦いにおける彼は以前とは人が変わったようで、怒りっぽくなり、
意にそぐわぬ部下はその場で斬り捨て、好んで残虐な戦いをするようになった。
特に満満率いる後満軍にはまったく情け容赦せず殲滅戦を挑んだ。
更に彼は満満の姿を見るとただでさえ怒っているのにさらに激昂し、その怒りのオーラが高く立ち上り、後満軍に恐怖を与えた。
満満は「アレが『満見見珍勃勃』(まんまんみてちんちんおっき)の故事にあった現象なのか…?私は恐ろしい奴を怒らせてしまった…」
と恐れおののき、戦うのを避けたという。
陳がもとの広大な領土を回復した後官位を投げうって
再び江炉漫画島に流された父に付き従い、そこで兄達や配流されてすぐ死んでしまった父の供養をしながら暮らし、
五十四歳で亡くなった。江炉漫画島での彼はかつての温厚で優しい性格になっていたという。
彼もまた乱世に翻弄された悲劇の人物といえよう。
陳矛(ちんぼう)
陳歩の四男。学問好きの秀才で将来の宰相候補と言われたが、
玉京で猛威を振るった天然痘に罹り十七歳で夭折した。
謝盛(しゃせい)
陳国の将。通封仕益田の大戦(つうほうしますたのたいせん)にて
ペド・ロリーの計にかかり孤立したところをフェラー隊の一斉射撃を受け討ち取られた。
これは通封仕益田の大戦におけるエローッパ唯一の勝利であった。
ちなみに彼の部隊はたった一人の騎兵を残し全滅。これには見せしめの意味があったといわれる。
於湿胡(おしっこ)
蛮族荷洋の王。騎馬戦術に長け、古の大首長於志四の再来と謳われた。
斉や王南一味らとの戦いは有名である。
後に雲の柱石云虎に討伐され、帰順を誓う。
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 00:33:14
陳間等(ちんまら)
陳国の武将。陳陳の息子。陳歩の孫。
江炉漫画島で生まれた。
幼少のころからの父さながらの甘い性格で、
もっぱら武将向きではないとの周囲の評判であったが父の死後遺言により陳国に仕官する。
仕官した当初は。甘い性格なためか陳国に交わることが出来ずに過酷な戦場に苦労して功を立てることができなかった。
陳国は陳歩の孫に期待を抱いていたため、陳間等の将来を不安に感じる。
「泣いて陳歩の皮を剥く」程度の自主鍛錬では陳間等には足りないと教育係の朱自慰(しゅじい)は考えた。
結果陳間羅には、荒療治が必要と判断し、過酷な修行の一種である強引に術を短期間の猛練習で習得させる習術(しゅじゅつ)を陳間等に受けさせた。
習術中の陳間等は体中がぼろぼろになり、血塗れになってしまう程辛い鍛錬の毎日を過ごす。
陳間等は父とは違い真性の甘ったれでは鳴く父の姿を見て育っただけの仮性の甘ったれであったため
すぐに陳間等は皮のように覆いかぶさっていた自らの甘さを叩き切り、一皮向けた立派な男になった。
各地の戦場で功を立て続け陳歩の再来と呼ばれた。習術が成功したおかげであろう。
結局、生涯一度も生まれ故郷の江炉漫画島に戻ることなく死んだ。昔の甘ったれていた自分を思い出すのが辛かったからであろうか…・・・
楊如(ようじょ)
甫幾(ほいく)省の人。はじめ満国に仕えたが、
若輩者と軽んじられ要職に就くことが出来なかった。
故郷の歩戊(ほぼ)という学者の下で勉学に励み、陳に仕える。
内政に秀で、砂漠地帯の沙芭(すなば)に山を作り川を引く
大工事を行い成功させる。この一大事業の功により陳の宰相となった。
清廉潔白な人物で陳歩を陥れようとする珍歩の謀略を見抜き、
逆に糾弾して珍歩を平民に落とした。
しかし増田・別所政策で失敗し、発言力を失う。
後威零帝即位に際し隠居。後任に陳邦敬を推薦した。
朗らかで人間味に溢れた人情家で、辺泰・辺疾娑
(へんたい・へんしつしゃ)親子など、崇拝者は多い。
余談だが、楊如の子孫である炉国の楊徐(ようじょ)と、
辺泰の子孫である姦国の魯理昆(ろ りこん)
が壮絶な争いを繰り広げる仇敵同士になるのは実に興味深い。
>>85 おまい上級者だな、李女鞍は制服王カメフト統治の石鹸王国と
交流があったから、軍事的にも経済的にも潤っててなかなか強敵だぞ
それから制服王カメフトは制服王フェチフ カメフト2世を略して
「制服フェチ」の呼び名もあったね
成羅(せいら)
風族の李女鞍配下、李女鞍裏四天王の一人
水戦を得意とした、彼の軍団は動きやすさを追及するあまり、脚部の防具
をどんどん短くしたが、その分下からの攻撃に無防備になるという弱点を作ってしまう
しかし店板(みせぱん)と呼ばれる下腹部の防具を開発すると裏四天王随一の働きをするようになる
諏狗水(すくすい)
風族の李女鞍配下、李女鞍裏四天王の一人
成羅と同じく水戦を得意としたが、成羅が船上での戦いを得意としたのに対して
諏狗水は水中での戦いを得意とした
武婁真(ぶるま)
風族の李女鞍配下、李女鞍裏四天王の一人
火計を得意とした、秋葉原(しゅうようげん)で蛮族 騎喪悪多(きもおた)と戦い
騎喪悪多軍を火計で萌やし尽くす、炎に包まれた騎喪悪多軍は「もえぇぇぇぇええぇえぇ」と
断末魔の叫びをあげたといわれている
早世が惜しまれる
馬爾(ばに)
風族の李女鞍配下、李女鞍裏四天王筆頭
騎兵を率いる、彼の軍団は阿弥泰通(あみたいつ)と呼ばれる鎖帷子状の防具で足を守り
背秘意流(はいひいる)と呼ばれる踵に刃の付いた靴を履き馬上から攻撃を加えた
また彼の軍団は戦場の情報収集も担っており、彼の軍団の長い耳の付いた兜には
大きな耳で情報を収集するという念が込められていた
単般(たんぱん)
火計を得意とし、武婁真の死後裏四天王入りするが武婁真ほどの才は無く
彼の火計で萌える者はほとんどいなかった
>>90 武婁真の早世は非常に残念だ
奴の刃美煩(はみぱん)戦法には陳軍も恐怖のあまり硬直してしまう程なのに
秋葉原(しゅうようげん)の戦いは武婁真、冥度、未虎(みこ)など多くの豪傑たちが
一堂に会する激戦だから燃える。聖地の取り合いは昔から過激だな
秋葉族(しゅうようぞく)
秋葉原(しゅうようげん)一帯に住む異民族
感極まると「もえ〜〜〜〜」という奇声を発する
多数の小部族に分かれ、絵を崇拝する阿仁族(あにぞく)、少女をかたどった土偶を崇拝する
琲牛亜族(ふぃぎゅあぞく)など同じ部族内でも全く異なった文化を持つ
小部族の族長は秋葉族の言葉で「道を極めた者」を意味する「悪多(おた)」の称号が与えられ
部族を代表するという意味でそれぞれ「阿仁悪多(あにおた)」、「琲牛亜悪多(ふぃぎゅあおた)」を名乗った
彼らは信仰心厚く「隆供(りゅっく)」と呼ばれる袋に秋葉族の聖典「導仁師(どうじんし)」を詰め込み
戦に赴くときも常に肌身離さず持ち歩いた
彼らは隆供に入りきらない聖典は袋に入れて両手に持ち、武器も木の繊維を薄く延ばしたもの(紙?)を丸めた
舗守他(ぽすた)と呼ばれる棒だけだったので、戦闘力は著しく低かった
陳歩の活躍した時代、秋葉族で最も力を持ったのは騎喪族(きもぞく)の騎喪悪多(きもおた)であった
彼は出侮族(でぶぞく)の出侮悪多(でぶおた)、弧巣父麗族(こすぷれぞく)の弧巣父麗悪多(こすぷれおた)
など複数の小部族を従えて風族の李女鞍に戦いを挑んだが、知将・武婁真の火計により敗北する
--------------------------------------------------------------------------------------------
誰か聖地・秋葉原(しゅうようげん)について書いてくり
俺の手元の資料では秋葉原についての正確な記述はムリ
955 :無名武将@お腹せっぷく :2006/01/21(土) 12:00:01
新設定もいいが、
まとめサイト見て、記述の少ない項目を膨らませる方向も頼むぜ
って、前スレに書いてあった。
陳国から埋めていきたいけど俺には
>>93のような才がない
この時代に生まれたならば是非とも未虎と戦いたかったよ
魯燐(ろりん)
陳歩が道卓の従者だったころからの親友。子供のような顔をした美男子であったという。
彼が陳国に仕官した後彼も後を追うように陳国入りし、活躍が望まれたが、
盛漢討伐戦にて陳鎮と共に殿を務めその際に戦死。
まだまだこれからという時期であったため、軍中でその死を惜しまぬものはいなかった。
満飛(まんぴー)
満満の次男。
愚鈍を絵に描いたような男で、殷陶(いんとう)に利用されるばかりであった。
後ろ盾の殷陶が辞縁惰唖の乱(ジェンダーのらん)にて于甫甫・于甫通(うほつ)親子と、斉の公子・斉天桓(せいてんかん)
に誅殺されると幽閉され、殺された。
満耳流(まんじる)
満満の長子。弟が二代皇帝として即位すると後満の前座位将軍に任命された。
辞縁惰唖の乱で満飛が廃されたのちには後満三代(満国五代)皇帝に擁立された。
彼は弟満飛とは違い、兵法に通じ政治にも明るく、
于甫甫・于甫通親子や斉天桓らと共に富国強兵政策を実施。
一時的にかつての大帝国満の威光を取り戻したかに見えた。
が、新進気鋭の将陳間等(ちんまら)率いる陳軍に知弓(ちきゅう)高原の戦いで惨敗し、
その際捕らえられ斬られた。そののち十年の間に後満は雲・北方民族・陳の狭間で苦しみ続け滅びた。
陳宝(ちんぽう)
陳歩の次男。堂々たる偉丈夫であり、兄弟の中で随一の武を誇った豪傑。
三丈(7.23m)もある巨大な槍を振り回し戦場で暴れる姿はさながら
悪鬼羅刹のように見えたであろう。
『精子』には、浅黒い顔と精悍な体を持っていたとあり、
恐らくは異国人との混血だったと思われる。
性格は豪放だが高慢なところがあったらしく文官や知将を軟弱者と軽視する傾向にあり、
武勇に欠ける弟陳虎を小ばかにしていたという。
戦場では武を頼りにした無謀極まる突撃をすることが多く、瀬宮州の戦いでは
邦刑敗死、部隊はほぼ全滅という大損害を出した。
それに怒った父陳歩により蟄居とされ、悶々としたまま三年後に病死した。
「艶義」によれば孤高の暗殺者胤金に殺されたとあるが、
彼が死んだ時期は依頼したとされる斉司は死んでおり、恐らく創作であろう。
ワイセッツ・オットーコ
エローッパ帝国将軍。サドマゾ都督ワイセッツ・ブツ・チーンレーツの末子。
その勇名は全エローッパに轟き、時のエローッパ皇帝エロス十世が最も信頼し、
石鹸王国の制服王フェチフ・カメフト二世が最も恐れた男。
その戦歴は華やかなもので、初陣から黒海沿岸の要衝オ・ゾーン城を囲んだ石鹸王国軍二十万を
わずか三万の軍勢で追い払うというド派手な戦果を上げた。
その後も厨華からなだれ込んで来たゲイ族(厨華では婆羅族)討伐、
石鹸王国に攻め込みパックンチョの戦いで圧勝し首都を脅かすなどエローッパ帝国最大の版図を実現した。
だが東方の陳に同盟を断られ、その陳に対し大軍を興し攻め入ってから彼の運命は一変する。
緒戦のアボーン渓谷の戦いで謝盛を討ち取るなど圧勝したが、
サクジョイライの戦いで大敗し、陳軍から逃げ切れずに捕虜として収監された。
(厨国史では上記アボーン渓谷の戦いと一くくりにし、「通封仕益田の大戦」と呼ぶ)
その後何とか本国に帰れたがサクジョイライの戦いで戦術の要であった「射撃戦術の神」フェラー将軍、
股肱の臣でエローッパ最高の策士ペド・ロリーを失い、彼の、いやエローッパの軍は弱体化した。
他の将軍で敗戦続きだったため再び起用された石鹸王国との戦いにおいても以前のような
戦術の冴えを見せぬまま大敗し、初陣の地オ・ゾーン城に追い詰められ自害した。
ペド・ロリー
エローッパ帝国将軍。策士として有名。
初陣からワイセッツ・オットーコに付き従い、数多の戦いを勝ち抜いた。
サクジョイライの戦いで捕まり、本国に帰る前に獄死した。
フェラー・バ・キューム
エローッパ帝国将軍。弓兵、弓騎兵の用兵に長けており周辺諸国では「射撃戦術の神」と恐れられた。
サクジョイライの戦いで陳虎の策にかかり陳歩率いる主力軍に包囲され敗死した。
フェラーの死を聞いた石鹸王フェチフ・カメフト二世は「厨華の将軍は化け物なのか?」と呻いたという。
それほどまでに武名の轟いた将軍であった。逆に彼を討ち取った陳歩とその一族は恐れられ、
東方に野心を抱いた石鹸王国が風族の王李女鞍に様々な形で援助し始めたのは
このことがきっかけで、目的は厨華のかく乱にあったとされる。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 14:10:15
マラ・ドナ
蹴球と呼ばれる特殊な武器を使いこなした、ナンベイ地方の将軍
エーロッパに雇われ瞬く間に功をあげた。
神の手と呼ばれる必殺技で次々と敵を撃破するも通封仕益田の大戦での陳歩にずるを指摘される。
怒ったマラ・ドナは陳歩を軽く蹴散らし、芸術的な蹴球裁きで単独での中央突破をして本陣に迫るが飽きたためかナンベイに帰ってしまう
なお、敵の飲み物に毒を入れたりしていたという黒いうわさある。
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 15:10:58
鍾 秀玄(しょう しゅうげん)
前魏の正上位大将軍。
岸安事件の後、軍閥政権として自立する。周辺勢力と覇権を争ったが、満豪孟
に根拠地を制圧され滅亡した。
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 15:21:32
満豪孟の死因
満豪孟の死因は公式には病死ということになっている。
しかし息子の満益に暗殺されたのではないかという噂が今日まで絶えない。
>>89 楊如は増田・別所政策で失敗したけど、策謀家ペド・ロリーも認める名宰相なんだよな
一説には嘘か真か退歩の陣まで会得してたとか言われてるし
外李(げり)
雲国後期の武将。雲香、劉傑、雲運の三代に仕え雲の滅亡まで戦い続けた歴戦の老将軍。
沼地での戦いでは彼に敵う者はいなかったという。飛地駆走(びちぐそ)という名馬を持つ。
都尉令の会堂では開戦派に属したが、劉傑からは深い信任を得た。
周靼令布の戦いで流水を用いた計を使い陳軍を攻撃、雲国勝利の一因を作る。
正僻配下の巣禍図呂(すかとろ)とは敵味方を越えた友情で結ばれていた。
>>93 簡単にだが書いてみたぞ。
秋葉原(しゅうようげん)
北方民族貞族、風族の居住地に挟まれた平原。
ここには傳機街という都市と羅無太良(らむたら)神殿、阿仁明徒(あにめいと)神殿、代度場志(よどばし)神殿など
秋葉族(貞族の支族との説が有力)の信奉する神々の神殿があった。
聖地と言われるだけあってこの場の空気は独特で、秋葉族と貞族の一部の者以外は立ち入ることを躊躇ったという。
風族は秋葉族と争った際ここに攻め込んだが風族楠葉王(ナンバーワンと読む、風族のリーダーの称号)の李女鞍が
「気重異(重くて異質な気が漂っているとの意。キモイと読む)」と言い、足を踏み入れようとせず
軍中にも近寄りがたいと言う者が多く戦える状況ではなくなったため撤退したと言う。
ちなみに前魏最盛期の御汰文化の発祥地でもあるらしい。
ついでに屋追族の聖地について。
御登米路羽弩(おとめろーど)
屋追族の聖地。ここには「堂神詞」(どうじんし、奇しくも秋葉族の聖典と読み方が同じ)という聖典を携えた屋追族の民が
黄螺(きら)神、明日乱(あすらん)神、凌魔(リョーマ)神などそれぞれ信奉する神の神殿に群がる様が記録に残っている。(南方戦記、陳歩著)
ここもまた異質な空気が漂っており、屋追族・婆羅族の一部を除き卒倒してしまうらしく、陳軍もここだけは占拠できなかった。
雲運(うんうん)
雲香の嫡子。正確には雲国第五皇帝だが、第四皇帝を自称する。雲国最後の皇帝。
暗愚であったとされ、雲国滅亡の起因となる。人望も才知も先代の劉傑に劣っており、
雲香が劉家に婿入りした劉傑を後継に指名した為、叔父劉傑を深く恨むようになる。
劉傑の病死後、帝位に就き暴君と化す。一説には劉傑暗殺という黒い噂もある。
周靼令布の戦いで散華城に援軍を送らず見殺しにした為、家臣離れを引き起こした。
五度牡牝行と乙女淫道の起源について
五度牡牝行の起源は、絶募宇(ぜつぼう)が前魏十一代皇帝鑓捲栗(やりまくり)帝のころに始めたとされる。
時期を下るにつれ信者は増えて行き、三代教主絶燐のころに起こった曹賈の乱に乗じて処襄、
杜山覆城址を占拠し独立。七本棒という屈指の名将を揃え、前魏の討伐軍、満公国(当時)軍を退け、
満公国に対しては物資を略奪するため侵入し圧倒するほどであった。だが陳の攻撃を受けた際に
阿鼻叫漢を討ち取られ、それを機に絶燐と七本棒は陳に帰順した。
が、当時導師を務めていた田代ら過激派が帰順せずに杜山覆城址に拠り抵抗。
陳軍は彼らを討伐する気であったが満の侵攻(これを迎え撃ったのが陳歩の初陣となった)の報を聞き転進。
これが田代にプラスに働き、その隙に乙女淫道に組織を再編し自らは初代教主となった。
その後駝鳥三兄弟らの活躍により陳と満の間で独立を保ったが、満の衰退後パワーバランスが狂い
陳陳に処襄を落とされ、杜山覆城址も陳虎の計略により占拠され国家としての乙女淫道は滅んだ。
宗教としては陳国志時代以降も続いた。
辺泰(へんたい)
南蛮の虎将・博諾亦(はくだくえき)の臣。主を転々と変えた流浪の将。
博諾亦旗本七騎の一人とも、云虎旗本七騎の一人とも記述があり詳細は不明である。
とにかく武勇に優れていたということであろう。
博諾亦の下から雲国王云虎に走り、云虎の死後は陳国に寝返る。
陳の宰相・楊如を崇拝していた。翻能派に属し、周靼令布の戦いに参加。
子の辺疾娑、子孫の姦国の魯理昆(ろりこん)など猛将の家系のようだ。
>>107 「雲国王云虎」ではなく「雲国宰相・云虎」の間違いです
陳沈(ちんちん)
陳歩の父。前魏十五代居怜帝(いれてい)の時代に尚徐令府の位を買い中央政界に復帰した。
これは名族陳氏にとって久しぶりの中央復帰となった。
が、袁如と対立し三年で岸安を追われ、玉京近郊の県尉に落とされてしまった。
地方豪族であった道卓と出会ったのもこのころである。
その後起こった曹賈の乱において道卓と義勇軍を旗揚げし、黄明党に立ち向かった。
その様子を見た後威零帝に認められ道卓とともに前座尉に任じられた。
だが七年後起こった岸安事件後のごたごたの中に巻き込まれ死亡した。
岸安事件直前に盟友道卓が袁如の策略に嵌り殺されそうになったため故郷に逃げようとした際
彼に「息子の陳歩と弟の陳鎮を頼む」と言い残している。
死期を悟っていたのだろうか…。
前スレにあった厨国史の流れ(現在判明してる国も追加)
前魏
↓
雲国 陳国 満国 斉国 精魏
↓
燭姦 雲国 陳国 満国 斉国
↓
後満国 陳国 雲国
↓
色国
↓
色国 姦国 炉国 後陳
↓
後陳
前スレ
>>296より、国の四公の名称
昆・御汰・大尉・厨
前スレ
>>290から、戦国の四昆子
炉国の武羅昆(ブラコン)、色国の馬座昆(マザコン) 、姦国の魯理昆(ロリコン)、後陳の士子昆(シスコン)
炉国には不座昆(ふぁざこん)もいるらしい
111 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 17:56:38
728 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/10/15(土) 13:01:25
淫王朝
↓
祖朕戦争
↓
朕王朝
↓
前魏
↓
雲国 陳国 満国
↓
陳王朝
↓
万湖四国時代
↓
炉国
↓
色国
↓
色国 姦国 後陳
↓
後陳王朝
これ以上陳歩の設定ばかりが増え続けると収拾がつかなくなる恐れあり、自重してくれ。
あとな、すまんが、マジでこれだけは言わせてくれ…
後からの時代や性格の大幅改変は頼むから止めてくれ、収拾がつかん。あと、アンカーレス引
くくらいなら、せめて話に組み込む武将の名前で検索くらいかけてくれ…。
斉司(せいし)
斉苗の嫡子。
人海戦術が得意としたが、烏合の衆を金で操ったようなもので、
戦争が終わると軍が全滅状態になってしまっていたという。
実は兄弟一の愚将かもしれない。
彼も郁々の戦いにおいて斉家の祟りか性病で死んでいる。
斉奕(せいえき)
斉苗の次男。文武両道の将で斉苗に劣らぬ将器の持ち主で
対満、陳戦などにおいて兪備曼らと共に作戦立案にあたり、的確な策で
斉の勝利に貢献した。
彼も父と同じく郁々の戦いにおいて性病で死ぬ。
斉昂(せいこう)
斉苗の三男。斉苗に劣らぬ武勇を誇る猛将で、
対満、陳戦など全ての戦いで先鋒を務め、数多の首を取った。
彼もやはり郁々の戦いにおいて性病で死ぬ。
于甫通(うほつ)
于甫甫の子。辞縁惰唖の乱後急逝した父の遺志を継ぎ後満の発展に力を尽くした。
満耳流が知弓(ちきゅう)高原で陳間等に斬られたと聞くと後事を斉嵯(せいさ、斉天桓の子)
に託し殉死した。
斉嵯(せいさ)
斉天桓の子とされているが実際は養子という説もある。
後満最後の宰相として奮闘したが、後満四代(満の六代)皇帝満志尾(まんしお)が暴君だったせいもあって
思うに任せず、結局祖国を陳の魔の手から救えなかった。
陳による病巣占領後自刎して果てた。
満志尾(まんしお)
満満の末子で後満四代目皇帝にして最後の皇帝。太子時代は品行方正で折り目正しい人物と評判だったが、
皇帝となってからは贅沢を好み、新宮殿造営のために税金を上げたりなど国力を浪費しまくった。
国力の落ち始めた後満にとっては致命傷となり、斉嵯らの努力もむなしく陳に滅ぼされてしまった。
病巣占領後殺された。民は晒された彼の生首を蹴り飛ばして遊んだという。それほど彼の暴政が酷かったということだろう。
横穴陳国志の途中しか知らない俺に誰か教えてエロイ人
陳の皇帝って誰だっけ?
あと色国は誰が建国したの?
あ、色国の前に炉国があったんだっけ
>>96 「彼が陳国に仕官した後彼も後を追うように陳国入りし、」
どっちの彼が魯燐・陳歩なのかわかりません
いかん、文章よく読めばわかる事だった。
「陳歩が陳国に仕官した後彼も後を追うように陳国入りし、」
でいいんだよな。
>>96よ、ごめんなさい
騎喪悪多(きもおた)
秋葉族の大部族長、秋葉族内の小部族・騎喪族の出身
元の名は栄望夷(えいぼうい)という、騎喪族の族長の座に就き騎喪悪多を名乗る
その後秋葉族内の勢力争いに勝利し大部族長となる
秋葉原で風族の李女鞍と戦うが、武婁真の火計により敗北する
出侮悪多(でぶおた)
秋葉族内の小部族・出侮族の族長、元の名は比座(ぴざ)
李女鞍との戦いに参加するが、彼は肥満のため馬に乗れず兵士の担ぐ輿に乗って戦った
武婁真の火計により炎に巻かれたところを兵士は出侮悪多の乗った輿を捨てて逃走、
出侮悪多は萌え死んでしまう、肥満した彼の体は火が付くと油が一面に流れ出て幾日も萌え続けたという
弧巣父麗悪多(こすぷれおた)
秋葉族内の小部族・弧巣父麗族の族長、元の名は紗清胡像(しゃしんこぞう)
李女鞍との戦いに参加、彼の部隊は偵察の任を受け、李女鞍の軍を見つけると地面に這いつくばる
ように低い姿勢をとり下から穴が開くほど凝視したといわれている
李女鞍との戦いには生き残ったがその後の記述は『精子』には無い
阿仁悪多(あにおた)
秋葉族内の小部族・阿仁族の族長、元の名は錯裸丹覇覇(さくらたんはあはあ)
お札から精霊を呼び出す幼女の絵を崇拝する
李女鞍との戦いには参加しなかった
-----------------------------------------------------------------------------
>>104 サンクス、地方に住んでいて十分な資料がそろわないので助かりますた
>>114陳の皇帝って誰だっけ?
陳国の場合、君主は名前を呼ばれず、
ただ「御主(オス・われらのリーダーの意)」と呼ばれていた。
したがって現在までもその名は伝わっていない。
って陳国志メモに書いてあった
御主(オス)
陳国皇帝の呼び名。素性は分からないが統一までに四人はいたとされる(綿子教授・月慶教授ら主流派の意見)。
ここでは主流となっている綿子教授・月慶教授の説を記述する。
初代は陳歩・道卓らに会い、仕官を乞うたとされる人物なのは間違いない。
陳歩を後背位大将軍に任じたころに死亡したらしい。
正体に関しては綿子教授らは玉京や旧都斉濃がある
段昆(だんこん)省禁魂(きんたま)州刺史士多観(したみ、字は羅居(らい))の説を採っているが
月慶教授は前魏十七代皇帝廃帝を迎え入れたという説を採っている。
二代目は初代の子であるかすら不明であり、素性に関してはまったくつかめていない。
「郁々の戦い」の前後の時期、三代目に位を譲ったようだ。
三代目の治世はまったく順風満帆であった。
陳歩の名声が頂点に達したのもこの時期で「乞遁の戦い」「令布の戦い」「啓桔の戦い」で怨敵満を滅ぼし、
「南蛮夷平定戦」「通封仕益田の大戦」で異民族を打ち払い、陳歩自身ひいては陳国の名声は世界に広まった。
が、晩年は雲・後満の猛攻を受けこの代に遷都した北寄りの首都玉京を落とされるなど苦難が続いた。
連合軍の猛攻を受け後退した旧都斉濃で病没したらしい。
四代目が即位してすぐに陳歩、陳陳らの活躍で連合軍を破り先代の全盛期並みの領土を取り戻し、
その十五年ののちには名将陳間等の活躍で厨華の統一に成功し、統一王朝陳の初代皇帝となった。
ちなみにこの陳帝国、八代目のころには分裂してしまうのだが、
最後まで君主は御主としか呼ばれず、また史書にさえ本名が記載されることはなかった。
厨国史最大の謎の一つである。
曹賈(そうか)
字は学会(がっかい)。御羽射党の乱を招くきっかけとなる曹賈の乱を起こした男である。
元は大豪商の長男で、商才に長けており先代より更に財産を増やした。
売官制度がスタートすると相国の位を買おうとしたが袁如に阻止された。
仕方なく位空で妥協したが、これが後に曹賈の乱を起こす伏線となる。
きっかけは曹賈の弟曹乳が騎上位大将軍を欲したことであった。
これもまた袁如らに阻止された。その上讒言されて逆臣の汚名を着せられ、
宮中を追われたのだった。
失意の曹賈は故郷梅春(ばいしゅん)に戻り自暴自棄な生活を続けていた。そんな時大作に出会い神託を受ける。
すると自暴自棄になっていた曹賈の顔にみるみる生気が戻ったといわれる。
全財産を擲ち私兵を養成(この中に若いころの王南一味もいたらしい)し、大作の教えを周辺の民に伝え蜂起させると
自らも梅春で勃ち、導師大作を破瓜大元帥、弟曹乳を恥公将軍と名乗らせ、己も朕公将軍と名乗った。
また『総廃冠座貴(そうはいかんざき)』とスローガンを掲げ、私兵たちのことを聖教軍とし、
袁如の跋扈する前魏に対し反乱を起こす。
緒戦の「羅武甫の戦い」で寡兵ながらも前魏討伐軍(総大将鍾 秀玄)を破り勢いに乗ったが、
その後、後威零帝が親征してきたことや相次ぐ内紛、聖教軍の乱暴狼藉、大作の胡散臭さなどが祟り
勢いが落ちた。
その後本拠地梅春を落とされ、その撤退中に大作が死に、ついに聖教軍は崩壊。
王南一味により曹賈・曹乳兄弟は殺され、首は彼らの手で後威零帝率いる前魏軍本陣に届けられた。
欲に溺れた男の末路は儚いものであった。
陳甫嵩(ちんぽ すう)
前魏の名将で対異民族戦のエキスパート。
『艶義』では雑魚扱いだが、『精子』ではほとんど無敗と記されているのはそれ故である。
性格は義に厚いが頑固で原則に拘るところがあった。彼の死に様がそれを証明している。
満豪孟に襲われた親友鍾 秀玄の援軍に向かったが時既に遅く鍾 秀玄は殺されていた。
怒った陳甫嵩は満豪孟に襲い掛かったが「剛毛の陣」を崩せず大敗。逃げ切れず捕らえられた。
満豪孟は彼の才を惜しみ、自分に付くよう説いたが彼は大音声で満豪孟を罵倒した。
それでも尚満豪孟は好条件を出しつつ説き伏せようとしたが、彼が自分を罵倒するのをやめなかったので
ついに怒り彼を自らの剣で斬り捨てた。頑固すぎたが故の最期だった。
阿異弩瑠悪多(あいどるおた)
秋葉族内の小部族阿異弩瑠族の族長。本名は簿鵜袁蓮頭(ぼうえんれんず)。
騎喪悪多(きもおた)と覇を争ったが敗れ彼の軍門に下った。
風族との戦いでは諏狗水(すくすい)の軍に敗れ早々に戦線を離脱した。
彼らは羅無太良(らむたら)神殿の神微黄弐(びきに)、倉微亞(ぐらびあ)などの神を信仰していた。
ちなみ羅無太良神殿に仕えていた巫女は久万陀(くまだ)や雄故燐(ゆうこりん)など
厨華にもその評判が知れ渡った美女が多かった。が、精景の術(せいけいのじゅつ)
を使って美人に化けていた不細工な女がいたともされる。また弥璃万(やりまん)と蔑まれるほど男と交わった
巫女もいたらしく、それ故厨華の民は美人と分かっていても自分から近づくことはなかった。
だが阿異弩瑠族は精景の術を使った者も弥璃万もいない、彼女達は清純だと言い張っていた。
阿仁悪多(あにおた)
秋葉族内の小部族・阿仁族の族長、元の名は錯裸丹覇覇(さくらたんはあはあ)。
お札から精霊を呼び出す幼女の絵を崇拝する。
李女鞍との戦いには参加しなかった。
阿仁明徒(あにめいと)神殿が彼らの聖地で、上記の門脚負多(カードキャプター)神の絵や、
楼前明伝(ローゼンメイデン)神の絵などが信仰の対象だったらしい。
ちなみに願駄務(がんだむ)族とは信仰する対象は似通っているが、
一緒にすると願駄務族は烈火のごとく怒り狂うので、注意すべしと『精子』に記載がある。
願駄務悪多(がんだむおた)
秋葉族内の小部族・願駄務族の族長。
秋葉族の内乱、風族との戦いのどちらにも不参加とあまり協調性が無い。
彼らの信仰対象は参雷図(さんらいず)神殿の大神官徒観埜(とみの)で、
阿仁族の画像と似たようなものを信仰するが、同一視すると怒り狂うので注意が必要であることは上記したが、
怒り狂った挙句三日以上ぶっ通しで徒観埜の素晴らしさについて語られることもあるらしい。
だが徒観埜自身はあまりそのような状況を快く思っていなかったようだ。
ちなみに屋追族で黄螺(きら)神、明日乱(あすらん)神を祀っていた大神官布区拿(ふくだ)
は参雷図神殿の神官だったが屋追族出身の妻喪魯澤(もろさわ)と徒観埜の名声を盾に好き放題に暴れ、
ついには支持していた集団田音中(たねちゅう)を率いて反乱しようとしたが
寸前で発覚、願駄務悪多の怒りを買い、田音中もろとも追い出されたという経歴の持ち主である。
その後妻の縁を頼り屋追族の元へ向かい、そこで志異土(しいど)神殿を建てた。
当初屋追族は布区拿の持ち込んだ外様の神に少し戸惑ったが、
美しい神の画像に屋追族はいちころになり、志異土神殿の信者が急増したという。
この躍進には喪魯澤の入れ知恵があったようだ。
追記:願駄務悪多の本名磁区辞温(ジーク・ジオン)
以前
>>23の梅阿倉(ばいあぐら)を書いたのですが
まとめサイトの陰歩(いんぽ)の欄に倍亜具等の計が書いてあった orz
人名と計略名なのでギリギリセーフですか?
そういうのよくあるよ
当て字が違ってればOKっぽい
だけど、既出ネタが続くと萎えるから用心な!
柔琳(にゅうりん)
字は出恢(でかい)。後満後期に活躍した智謀の士。
江布の牌釣(ぱいづり)戦法や寧賛の虚柔(きょにゅう)の計を会得していた。
陳歩失脚後の陳に攻め入って快進撃を続け、満満にその知勇を絶賛された。
知弓高原の戦いで陳間等に敗北したものの、馳武狭(ちぶさ)城塞に陣取り、
陳間等の後満進攻を数年に渡り防いだ。しかし、陳間等の九里繰(くりくり)
の計に敗走。病巣に篭ったが献策が用いられず、後満と運命を共にした。
助平(じょへい)
はじめ満益に仕えたが勘気を被り逃亡、次いで陳に属す。
陳歩失脚後の斉濃篭城戦では、助平の離婚の計により
連合軍の進攻を鈍らすことに成功。陳歩の復帰にも尽力した。
李靖派に付き、翻能派から睦吊(むっつり)助平と侮られる。
陳王朝成立後に権力を握った風呂氏に対し、反風呂勢力を
まとめ上げ、風呂氏を一掃することに成功した。
徒観埜(とみの)
参雷図(さんらいず)神殿の大神官、秋葉族内の小部族・阿仁族の出身。
剃髪し、頭部には髪の毛が一本も無かったので人々は彼を「お禿様」と呼び敬った。
参雷図神殿にて神の啓示を受け神話・「願駄務(がんだむ)」を書き記す。
「願駄務」は多くの信者を獲得し、その信者が新興の小部族・願駄務族を名乗るようになる
布区拿(ふくだ)
参雷図(さんらいず)神殿の神官、秋葉族内の小部族・阿仁族の出身。
布区拿は徒観埜の弟子であったが宗教を商売と考える彼は、妻・喪魯澤(もろさわ)の
出身地である屋追族にも「願駄務」を広めようと画策する。
神話・「願駄務」の内容を僅かに改編し、屋追族に受け入れられるよう神話に登場する神々の
ほとんどを美少年に変え、美しい挿絵を加えた神話・新約願駄務「志異土(しいど)」を完成させる。
布区拿の目論見は見事に的中し、「志異土」は屋追族の間に広まり始めるが願駄務族から「志異土」は
異端と見なされ屋追族との対立をまねく。
驕り高ぶる布区拿は大神官・徒観埜を蔑ろにし、田音中(たねちゅう)と呼ばれる「志異土」信者を
率いて願駄務族を乗っ取ろうと画策するが、徒観埜の熱烈な信者である小部族長・願駄務悪多は
これをいち早く察知、布区拿は田音中もろとも追放される。
願駄務悪多は布区拿追放のさい「敢えて言おう、カスであると!」と痛烈に布区拿を罵った。
その後妻の縁を頼り屋追族の元へ向かい、そこで「志異土」を布教する。
当初屋追族は布区拿の持ち込んだ外様の神に少し戸惑ったが、美少年の姿をした
黄螺(きら)神、明日乱(あすらん)神をはじめとする「志異土」の神々は屋追族の
熱烈な支持を受け、ついには志異土神殿が建てられ、布区拿は大神官となる。
秋葉族の追記
風族との戦いに敗れた秋葉族であったが彼らには思想が同じならば出身・人種にかかわらず全て
秋葉族として受け入れるという習慣があったので風族との戦いに敗れた後も彼らの勢力が衰えることはなかった。
131 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 08:19:06
陶與弧陰 (とうよこいん)
各地に店舗を持つ宿屋の主。
一説には倭国人ともいわれる。
陳国内の宿屋を改造する際、役所への届出を怠った
(陳国では改装には許可が要る。)ため、とらえられた。
開き直った態度をとったため、たまたま居合わせた正翼の
逆鱗にふれ真っ二つに斬られた。
132 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 08:29:29
新たにこのスレッドを開かせてもらうが、
ここに出てくる三国志のキャラクター、特に
「八頭身の武将はキモイ」のキャラは思いっきり
おもしろおかしく色々なことをやってるな。
特に、曹仁。あいつ同僚に蹴られることが非常に多いぞ。
その分、時々出てきては投票のことを報告したりだの
区切りのいい番号に出てきては存在感をアピールしたりだので
結構みんなを楽しませているから俺は好きだがね。
あと俺が小さい頃ファミコンソフトでナムコの「三国志」の
説明書にかかれている各武将の紹介で袁紹がかなり
ダンディーに描かれていたんだ。あれから俺は今に至るまで袁紹の
ファンだ。実際は名門主義だの御曹司的な性格が災いして
曹操に完敗したといわれているが袁紹ももう少しこの表舞台に
立たしてくれないかな?駄目なら仕方ないけど。頼むよ。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 09:42:13
陳国史の矛盾を発見しました!!
陳国は尿水川の決戦の戦いで北方一帯の支配権を確立したとされているが、
雲国は地理的に陳の東側の国である。そもそも陳が北方一帯の支配権を得
たら満国、斉国は滅んでしまうのではないだろうか。
尿水川の戦いは、三国志でいえば荊州あたりで戦われたと思われる。
おそらく陳歩はこれらの戦いで、呂蒙並みの活躍をして雲国から荊州?を
奪ったのだろう。
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 09:51:29
>>111 後から追加された国はどれも陳、満、雲に併合されていく群雄である
三国志での袁紹、劉表みたいなものだ。
後満は陳歩失脚後、満国の逆襲というシナリオがあるため生まれた国。
雲国との共同作戦とはいえ、満国の首都に数年足らずで迫るには
満国が完全に滅びてしまっては無理があるためだ。
>>133 精子飲めw
尿水川の戦いは艶戯の創作だぞ
136 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 09:55:31
北方は陳国北部万国南部
137 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 10:03:19
>>111 陳歩の設定を読むと、最大のライバルは斉苗であるとされている。
万黄は単なるライバルの一人なのである。
さらに陳が斉を併合したとはどこにも書かれていない。
この時点で陳、満、雲の鼎立という世界観は崩れている。
現在のところ陳国志は矛盾が多い、陳歩の初陣の相手すらはっきりしない。
誰か、矛盾点の修正してね。
138 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 10:05:10
>>135 では陳と雲の戦いはなかったということか?
139 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 10:09:59
各国の国力比はどんなものかね?満と斉の国力比が3:1だったこと
以外はよくわからん。
陳歩初陣
根同霧城の興亡
瀬宮州の戦い前
瀬宮州の戦い後
142 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 10:23:17
>>133
全然矛盾ではないと思うんだが。
北方一体といったところでそんなにでかい領土ではなく、一郡程度じゃないのか?
陳から見た北方一帯なわけであって。
戦のあとに支配権を確立したというのはよくある事だ。それがでかい領土かどうかはともかくの話。
土豪層や民衆が自分たちに付く場合が多い。
そして雲軍から侵攻してきたとされている戦いなので、陳歩が呂蒙並みの活躍をして領土を奪ったとするのは難しいんではないのか?
そもそも北方一体の支配権を確立したからといった北にある周辺諸国が滅んでしまうならば、
三国志で言えば曹操が北上をして、北方の支配権を確立したんだけど北方にあった鮮卑や匈奴が滅んでしまうことになってしまうではないか?
>>142 そうだね。
宮美麗の戦い、膣内平定戦で満から版図のほんの一部をうばったのであって
尿水川の決戦は単なる防衛戦だったと考えるようにします。
「膣壁の戦い」と「カントンの戦い」はどっちが先なのだろうか?
根同霧城の攻防では満の威信は失墜したとされている。
膣壁の戦いでは雲国は満に降伏するなどと言い出すものまでいたという。
威信の失墜した国に降伏するとは思えない、膣壁の戦いのほうが先だと思う。
140はミスった。スマン。
>>138 【〔尿水川の戦い〕は、雲国が北方支配を完全にするために、
雲項が良辱を大将に十万を遣わした】
艶義には、そう記載されている。
が、そもそも当時の御主(たぶん4〜5代目?)は、
雲項と【酢化斗炉の契り】を交わした程の親密っぷり。
満国に対抗するためとはいえ、雲項が御主に宣戦布告なしで兵を挙げるはありえなさ杉。
それに良辱に10万て……w
あの当時に、それだけの兵力を集める程の国力はないだろ。
小競り合いが少々あったくらいのを、和姦中が大袈裟に書いただけ。
>>144 そうか非常によく分かりました。ありがとうございます。
今後さらに陳国志道に精進していきます。
>>137 陳歩の初陣は盛漢討伐戦でいいんじゃ?道卓死んで名言生まれてるし。
しかしあまりにも細かいツッコミは逆に萎えねぇか?
メインで書いてる職人さんやまとめ人の手を煩わせるだけなような希ガス。
でも137の言う三国鼎立は確かになってないな
知弓(ちきゅう)高原の戦い
陳VS後満。
陳は名将陳間等の活躍で後満第二の都市賜宮(しきゅう)まで迫っていた。
後満はここを抜かれれば首都病巣(びょうす)が丸裸になるためここで食い止めねば存亡に関わる事態になる。
そこで策士柔琳(にゅうりん)、雲国を散々に破った上位都尉陰淋(いんりん)、そして皇帝満耳流(まんじる)
北方の秋葉族から願駄務族、阿異弩瑠族ら動員できる兵力の大部分、十五万をつぎ込み賜宮郊外の知弓高原で陳軍七万を迎え撃った。
当初満は兵力差を生かし優位に進めていた。陰淋の得意とする絵夢時美多安(えむじびたーん)の陣を
陳軍は初対戦ゆえ読めず苦戦した。そんな中従軍していた助平(じょへい)が「真ん中をいやらしく攻めてはいかがかな?」と献策。
陳間等もこれを容れ、自ら騎兵隊一万を率いてで中央に突撃。進撃と撤退を巧く使い分けると、
助平の読みどおり後満軍は恐慌を起こし絵夢時美多安の陣は崩壊。
さらに歩兵隊隊長霊座(れいざ、字を螺紋(らもん))が秘策逆絵夢時美多安(ぎゃくえむじびたーん)の計で陰淋を討ち取ると
恐慌状態はピークに達し、その混乱の中皇帝満耳流が捕らえられ、陳軍はそのまま賜宮に入城。
そこで皇帝満耳流を斬って戦いは終わった。これが知弓高原の戦いである。
その後陳軍は首都病巣郊外の最終防衛拠点馳武狭(ちぶさ)城塞に迫ったが
柔琳率いる防衛軍の前に疲弊しきった軍では相手になりえなかったので、
馳武狭近郊の師田父(したちち)に砦を作りそこに二万五千の兵を置くと
一時的に撤退した。その後九年もの間馳武狭は難攻不落の城塞として陳に立ちふさがるのだった。
【水仙の戦い】
陳歩と斉苗が郁々で死闘を繰り広げていた頃である。
雲香は満国が衰えた今こそが好機であると考え、楊敷、輪式に水仙城の攻略
を命じた。
これを迎え撃ったのは、満国都督の馬休である。
馬休は楊、輪の水洗用兵術の速度についてゆけず、多数の被害を出したため、
水仙城へと撤退し籠城した。
満国は馬休救援軍を編成、大将を歴戦の勇士内普、参謀を菊門とした。
菊門は「雲軍は遠征の身、補給路を断ちじっくりと攻めましょう」と進言した
が、内普は菊門を臆病者と罵り、精鋭を率いて雲軍に突入した。
しかし甘超と一騎打ちをしてあっけなく切り殺されてしまった。
満国は第二次救援軍の派遣を決定したが、大将の人選で大いにもめた。
殷蘭は江布を強く推した。これに対し斉童徳は万黄を推したのである。
殷蘭は「陳歩に程操を奪われた無能の万黄に何が出来るものか!」と批判
したが斉童徳は「万黄こそわが国の生んだ最高の知将である」と主張。
このとき満益は先代、満豪孟は万黄を非常に高く評価したことを思い出し、
「朕は万黄にすべてを委ねる、この決定にそむくものはこうなる!!」
と手にした剣で机の脚を斬ってしまった。満益にしては珍しい英断である。
【水仙の戦いA】
満益に呼び出された、万黄は救援軍大将の役目を引き受けた。
万黄は「私は陳歩に程操を奪われた者でございます、将達が侮って私の命に背
くかもしれません」というと満益は剣を万黄に手渡し、「そのような者は
この剣で斬ればよい」と言った。
水仙救援に向かった万黄は菊門と合流した。
菊門は「司令官殿はどのように雲軍と戦われるおつもりか?」と尋ねた。
万黄は「馬休殿はよく将兵の心を掴んでいるし、水仙城は堅城だ1年は持
ちこたえるであろう、こちらは焦らずにじっくりと雲軍を攻めればよいだ
ろう」と答えた。この答えに菊門は万黄こそが満国の救世主になると確信
したという。
甘超は一挙に決着をつけようと、楊敷が止めるのも聞かずに万黄の本陣に
突入した、しかし鉄壁の刃陣を破ることが出来ず、返り討ちにあって命か
らがら雲の本陣に逃げ帰った。
雲軍には万黄の実力を侮っているものがもう一人いた楊敷である。
だが彼は茂模を万黄だと勘違いして追い掛け回し、深追いしたところを
菊門の伏兵により討ち取られてしまった。
【水仙の戦いB】
楊敷が討たれた!騒然とする雲軍の陣にさらなる悲報がとどいた。
兵糧運搬中の丹応が満国の猛将班鄭に強襲され討たれたのである。
やがて食料も尽き雲軍の士気は下がる一方である。
「今こそ勝機!!」ついに万黄は総攻撃を命じた、これに呼応して馬休軍も
水仙城から全軍で一挙に打って出る。輪式はこれを迎え撃つが
楊敷がいなければ水洗用兵術も使えない、万黄にたちまち討ち取られた。
さらに狗彩は敗走中に菊門に退路をたたれ、奮戦するもやはり討ち取られた。
甘超は自ら殿軍(しんがり)を引き受け、雲軍を追撃する班鄭と激しく
打ち合った、200合も打ち合うも決着はつかず、その間に雲軍はなんとか
退路を切り開き撤退に成功した。
甘超は寒いギャクを飛ばす余裕までみせて、単騎で満軍の追撃を振り切り
雲国へ無事帰還した。
なお雲香が早死にしたのはこの合戦で大敗したショックによるものではないか
とも言われる。
>>149 満の本陣に突入しようとした、甘超を止めたのは勇猛の楊敷ではなく
冷静沈着な輪式でした。
水仙の戦いの後、馬休は殷蘭、江布らの讒言より、江炉漫画島へ追放されて
しまう。
また万黄の師匠斉喬郁は万黄の活躍をまるで我がことのように喜んだという。
霊座(れいざ)
字は螺紋(らもん)。陳の将。
当初は陳歩の刺客と疑われた波奴藝と仕草や口癖がそっくりだったため
あまり重い役には就けなかったが、知弓高原の戦いで上位都尉陰淋を討ち取り
陳間等の信を受けるとその後はとんとん拍子に出世し騎乗尉にまで上り詰めた。
のちに御主の信任を盾に暴政を振るった風呂氏排斥の際に反風呂氏武官の中心人物となった。
>>152 陳歩に対する刺客の間違いだった。おわびして(ry
のちに満を滅ぼした満益は悪い噂が絶えない。
父、満豪孟を殺した。
満豪孟の遺書を改竄した。
そもそも満豪孟の子ではないというドンデモナイ説まである。
ただし、殷蘭の入知恵で遺書を改竄したという説は結構信憑性が高いらしい。
斉王別姫
斉苗と腐美人の悲劇的な別れを題材にした狂劇の演目
かなり脚色されており史実とはかけ離れている。
悲劇のヒロインとされる腐美人役は劇団一の美女が演じることに
なっている。
>>154 確かにな。満胡襲っていうそれなりに有能な息子がいたのに何故に満益が後継なのか?
って言う謎はそういうことなら説明できると思う。
満胡襲
満豪孟の長子で満国の後背位大将軍。大変な愛妻家として知られた。
精鋭部隊、狼佗亜(ろうたあ)の指揮官としても有名。
満豪孟の死後万黄や斉喬郁らに皇帝に推されるも満益、殷蘭らが遺書を持ち出しそこに自分が跡継ぎであると
書かれていると主張。結局満益が二代皇帝に納まり彼は後背位大将軍となった。
その後は疑心暗鬼に駆られた満益は彼に辛く当たり、北方民族との戦いの最前線に送り込んだ。
が、満胡襲は持ち前の将才で勝ち続け、率いていた素人丸出しの兵も精鋭部隊狼佗亜
と呼ばれ、周辺諸国の脅威となるまでに成長。満益の思惑からは外れたが
満にとっては彼の疑心暗鬼に駆られた行動がプラスとなったのである。世の中は分からないものだ。
大群で攻め寄せる陳に対し、令布の険阻な山路に堅固な砦を造って対抗するが、
尿道炎の姦計により妻を暗殺される。
ひどく動揺した彼は、配下に辛くあたって裏切られ、兵糧も燃やされて退路も立たれ、
やむなく活路を開かんが為、陳の大軍に決死の突撃を仕掛けたが、
衆寡敵せず、陳の大軍に飲み込まれて戦死した。
最近は満益の評価が下がる一方だね。
以前は聖天子もあったくらいなのだが・・・。
万黄を殺した時点で、いずれ嫌われキャラになる運命だったんだろうな。
158 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 13:30:15
>>157 聖天子説ね、前スレにはそういうのもあった。
159 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 13:39:48
陳国志・地図
至 .〔 `゙''-,,,,__、 @貞族 、@靺腸族/ ̄`"
エローッパ帝国 `~\ @荷洋族 ! !、
/ !____.._....、 ,i'''^´\ /
/ _\ ,,ー''''‐--ヾ液京!.,, _/、 !、
.! ..,,,、 @婆羅族 @荒縄 i'" / ゙"〜、,./ ,,./.l |
 ̄ \ _-ー''''^゙´"ー''-、 / ,ノ ヽ、病巣;i” ゙l. │
|'''t ,,,,___ / \ / ! xカントン / .! /
! ゙‐'゛ ⌒'''''''''―-、/ 〈 !___、 ._,! 岸安| `'゛
.!、 `''、_, 明日部巣都 @淮府 \
\ l゙ .` ̄`'、 満 ,, -'ヽ
`-,, @禰武一族│ ヽ. .,___,! 冫
\ l .,,,厂`"`'''''゙ 岸安`゙l
゙'-、 , / @玉京 .! x膣壁 /
`! __,--、 / i'''′ @勃沌 /
関遁(かんとん)
字は蓬瓊(ほうけい)。
邦刑夏成の親戚で陳国北東部雄南(おなん)の太守。
満との最終決戦、満光(まんこう)城塞攻防戦では本国に召還された陳歩の代わりに
総大将を務めるなど、軍才は上々で、人望もあったようだ。
その後、連合軍による大反攻作戦の際に雄南城と運命を共にした。
蓬轡(ほうひ)
字は審貰(しんせい)。
邦刑の子。文官としての能力は卓越しており、常人が三日かけてやっと終わらせられる仕事を
たった半日で処理できたという。だがそれを鼻にかけ周りを見下していたため人望は無かった。
李昆の陳歩排斥の策謀を察知し、李昆が陳歩を謀反人であると御主に上訴した際、
「彼はそのような人物ではありません。私の父は彼に嫌われていましたがそれでも彼についていきました。
それは彼が誰よりも偉大で、忠義に厚い素晴らしい男だからです。
それに彼は誰よりもこの国を憂い、この国のために尽くしてきました。その稀代の名臣を奸臣李昆の一言で
追放なさるのですか?」
と大演説をぶった。だが李昆を信じる方向に傾いていた御主は陳歩を前線の満光から召還し、
本人の言い分を聞いて多数決で決めると発言。陳歩派と反陳歩派は大体拮抗し合っており、帰趨は分からなかった。
そんな中陳歩派の大物官吏が続々と急死し、彼もまた突然死を遂げた。李昆が毒殺したとされる。
結局陳歩追放は賛成多数で決定し、陳は一時的に弱体化するのだった。
161 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 13:42:36
液京=三国志で言うと易京
病巣=三国志で言うと南皮
明日部巣都=三国志で言うと長安
>>147 助平の「真ん中をいやらしく攻めてはいかがかな?」は最高の助言だな!!!
>>157-158 満益は部下の言によく耳を傾け、積極的に策を起用した器量人だからな
朕王乳邦と通じるところがあると思うよ、俺は
ただ、その助言をくれる相手が殷蘭と殷抗だったわけで・・・
広夢(ひろむ)
美少年で満益の寵愛を受けていた。あるとき、満益から高位を授けられた
が、「才能のないものが高位につけば、国の乱れる元になります」と言って断った。
当時、彼は須家蛮派から妬まれ、聖順派からもあまり好意的には思われていなか
ったため、これ以上敵を作らないための保身の行動だったようだ。
のち満益が発金妃(ぱつきんひ)に夢中になると、広夢は地位になど執着せずさっさ
と故郷に帰ってしまった。なかなか良い引き際である。
発金妃(ぱつきんひ)
満益が夢中になった美女。金髪でエーロッパ帝国出身ともいわれる。
贅沢三昧で赤字婦人などと呼ばれた。
殷蘭と殷抗とは相性が良かったようだ。
>>160 李昆の直訴状「李昆届」(りこんとどけ)があまりにも完璧な文だった為、
陳歩寄りの文官武官も咄嗟に反論できなかったらしいな
李昆といえば奸臣としてのイメージしかないけど、案外凄腕の行政官だったのかもな
子瀬希(こせき)族
陳の西方に住む異民族。
風説の流布、偽計、暗殺など特殊工作を生業とし、
金次第で何でもやる忠義も何もない醜い部族であると『精子』に記載されている。
たびたび厨華の歴史に介入し、その闇の中で活躍した。
それゆえ記録も少ないが李昆に雇われ陳歩を追放したり、
後に風呂氏の専制を助け、陳の群臣に誅殺された三駆駄利汗が有名。
三駆駄利汗(みくだり かん)
西方の異民族子瀬希(こせき)族の汗。汗とは部隊長の意であるらしい。
李昆に雇われ、陳歩を根も葉もない噂で貶めたり、御主の信頼を李昆一人に向けさせる工作を行い、
これはまだ推測の域を出ないが陳歩派の大物官吏が次々と急死した事件に関わったとされるなど
陳歩失脚の暗部に深く食い込んでいた人物。
陳歩が流刑になった後一旦陳国内から姿を消したが、統一王朝陳が確立された後に風呂氏に雇われ、
同じような工作をして風呂氏が専制を築く手助けをした。
が、年老いて耄碌したのか尻尾をつかまれ、霊座らの手で風呂氏ともども誅殺された。
>>165 そんな中堂々と反論した蓬轡は偉いよな。
親父を極度に嫌い、バカにした男を擁護できるのも凄みみたいなものを感じる。
でもあの自分の才能を鼻にかけた態度はいただけないよな。
満豪孟が死ぬと、斉国へ雲国からの使者が来て「豪孟が死んだ今こそ好機!
南北から満を挟み撃ちにしましょう」と共同出兵を持ちかけてきたが、
斉苗は「他国の弱みに付け入るのは下衆のすること!」と激怒し、雲の使者を
大釜まで煮殺してしまった。
斉喬郁は素人にヤリかたを教えるのはたいへん上手であったが、実戦では
いまいちだったらしい。
170 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 14:50:42
金之貌(きんばく)
荒縄太守。岸安事件の後、地方軍閥として自立する。
満豪孟が自ら大軍を率いて攻め込んでくると、荒縄は柴馬裡で迎え撃った。
しかし亀甲縛りの陣を満国の将内普に破られ討死。
その後、荒縄は満国に併合された。
>>150 やっぱり輪式、楊敷の無敗伝説は創作か
(戦闘の内容がよくできてるから訂正するのも難しいし仕方ないと思うけど
一応無敗コンビって事で名が売れてるからこういうあからさまな矛盾は
きをつけような。花の無い中途半端な雲国ファンの俺は少しアレな気分だ)
斉喬郁(せいきょういく)
満国の武将。斉童徳の弟。
「斉喬郁兵法」を書き記し、満国では軍学の第一人者とされた。
初陣にて陳歩に程操を奪われた万黄は彼の元を訪れ兵法を学んだ。
「斉喬郁兵法」は戦の普遍的な原則が大部分で戦の具体的な技術(テクニック)については
ほとんど触れられていないが、その教えは現代でも通用するほど極めて高度なものであった。
非常に高度な理論を持っていた斉喬郁であったが、彼自身は実戦経験が乏しく
指揮官としてはあまり優秀ではなかった。
「斉喬郁兵法」の基本的思想の一部
性は国の大事にして、死生の地、存亡の道なり。
(富国強兵を唱えたもの。)
性久しうして国に利ある者、未だ之有らざるなり。
(富国強兵のために性交の時間を短くすることを薦めたもの。当時の情勢、
男尊女卑の思想と相俟っての原則であるがこの部分は現代では通用しないとされている。)
彼を知り己を知れば、百性して殆うからず。
(斉喬郁兵法は富国強兵のための性交の奨励を繰り返しとなえているが、
「彼を知り己を知れば」とは互いの性癖、性感帯を把握していれば百度性交を繰り返しても
飽きることはないという意味。)
*「斉喬郁兵法」は現代でも通用するほど高度な内容であったが、当時は戦の具体的な技術(テクニック)
に関する記述の多い、瓊武異(えいぶい)の兵法書のほうが人気があったようだ。
(瓊武異は当時軍学者とされていたが現代で言うところの小説家のような存在であったということが最新の研究で解っている)
寿政(じゅせい)
妊晋(にんしん)国の建国者。(後の炉国)
厨国を統一した陳王朝だったが、御主八代目になると腐敗し、帝権は次第に弱くなっていった。
遂には外戚の寿政によって帝位を簒奪され、厨国は再び分裂状態になる。(万湖四国時代)
寿政によってまさに新しい時代が誕生したと言えよう。
否任虞(ひにんぐ)
陳王朝の丞相。満国毘瑠族・否任の末裔とされる。
厳しい締出し政策を行い、諸国から不満を呼ぶ。
品行公正を常とし、彼の任官中は寿政も行動を起こすことが出来なった。
御主七代目の死亡後に失脚。御主八代目の治世で寿政に陳が滅ぼされ、憤死した。
南馬(なま)
字は奔蛮(ほんばん)前陳最後の丞相。
否任虞と反対に豪放な開放政策を行い「やっぱり南馬でするのが一番」
と言われるほど評判を得たが、次第に賄賂が横行するようになり政治の腐敗を招いた。
結果的に寿政による新国家誕生のきっかけを作ることになる。
175 :
1/2:2006/02/02(木) 23:17:42
満光篭城戦(まんこうろうじょうせん)
陳軍vs満軍の最終決戦。
万黄亡き後、陳の対満強硬派筆頭諸除易の無謀かつ傲慢極まる要求を呑み続けた満国。
令布の戦いで犯しつくされた首都賜宮からの遷都も陳の要求どおり平原地帯の満光にしたり、
特産品を毎年大量に送ったりと、まるで属国となったかのような有様であった。
満益はこの状況を良く思っていなかったが、万黄も兄満胡襲など名将は既にこの世にはなく、どうしようもなかった。
そんな彼だったが突如陳の要求を全て断り軍を興し、総数七万で陳軍の駐屯する賜宮を襲撃。
万黄の子万拡の活躍もあり、賜宮の陳軍を撃破。再び賜宮の王宮に戻ることが出来た。
何故突如として反逆し軍を興したかは不明だがやはり奸臣殷蘭・殷抗の入れ知恵があったものと思われる。
おそらくこのまま満が諸除易の好きなようにされると自分達の吸える汁が少なくなると思い、自尊心の強い満益をけしかけたのだろう。
それに満国民は令布の戦い後陳人を毛嫌いしているから占領地の民も連動して反乱を起こすと見られていたし、
満をなめていた陳が本気でかかってくるとは思っていなかったようだ。
176 :
2/2:2006/02/02(木) 23:19:07
だがこれこそ諸除易の思う壺であった。ここにおいて穏健派筆頭で軍権の最高責任者陳歩も
諸除易の理屈を排せなくなり、渋々ながら総勢二十万の軍を発し、賜宮に迫った。
満益はその知らせを聞くと賜宮を放棄し満光に篭った。陳歩は満光十万の軍で囲み、
残りの十万には賜宮の復興、及び緒藻裸資の一揆の鎮圧をさせることにした。
この策はピタリとあたり、満の民のために尽くす陳軍の姿を見て、満人の陳に対する評価は一気に上がった。
そんな陳軍に緒藻裸資は早々に帰順し義勇軍として満光に現れ、殷蘭・殷抗の戦略は崩れ去った。
だが万拡の必死の粘りにより落としやすいと見られていた満光は難攻不落の要塞に変わったかのようであった。
そのため予想以上に長引いたこの戦いだが陳は民の支持を受けることに成功し、長期戦も苦にならなくなっていた。
だが満軍の篭城開始から二年後陳歩が突然の帰還命令を受け玉京に帰った。これを好機と見た万拡は
一万の兵を率いて突撃するが総大将に就任した関遁が慌てることなく捌き、これを撃退。
逆に関遁は防備の弱くなった満光に兵を突入させ満益を捕らえた。それを知った万拡は部隊を投降させると単騎で決死の突撃をかけるが及ばず戦死。
その一週間後玉京にて満益が処刑され、ついに満は滅んだのだった。
陳邦敬(ちんほうけい)
陳歩の長男。
宰相楊如と共に陳の最盛期を築いた。
阜依羅智王の乱のとき和平策を進言し、武将宋狼らの主戦派と対立し宮廷内で勢力を失うも、
楊如の後を引き継ぎ宰相となった。
彼の内政手腕は卓越しており、父陳歩も「あやつが居てくれるから私は安心して外征が出来るのだ」
と最大限の評価をしており、文官を軽視する弟陳宝も彼だけは尊敬していたという。
父陳歩失脚時のごたごたに巻き込まれ55歳で急死。次の宰相には諸除易が就いた。
候内舎生(こうない しゃせい、舎生は字と思われる)
陳歩の友人。竹眉の七賢の筆頭に数えられる詩人であり思想家であり歴史家でもあるという多才な人物。
各国からの仕官要請は絶えなかったがそれを全て「大義を忘れ争うのみの貴方達に仕える気はない」と言い断っている。
ただ陳歩に対してはあくまで友人としての立場ではあるがアドバイスをしていたようだ。
甘超(かんちょう)
猥陰(わいいん・現在の湖珍省腸江下流域)の出身。雲国随一の猛将にして痴将と名高い。
しかし、彼の評判は最初からのものではなかった。
甘超は幼い頃から文武を磨いていたが、親と死別しており貧困にあえいでいたという。先の細そうな外見が貧相であったこともあって、周囲からの評判は低かった。
ある日、甘超がさかり場を歩いていると、身なりのいい男が手下連中を剛毛のようにはべらせて闊歩してきた。
男は酔っていたらしく、甘超に向かって「お前の腰に下げた一物は飾り物か。悔しかったら俺を突いてみろ。できないなら俺の股にもぐれ」とふっかけてきた。
甘超はその腰のものには自信があったものの、このようなところで無駄に竿を汚してはいけないと思い、あえてその男の股下にもぐったのであった。これが後の世で言う「甘超の股もぐり」である。
人々は彼を軟膏者だと罵った。しかし、本人は己の在り方に疑念は抱かなかった。自身が正しいと信じていたからである。
甘超が仕官にてこずったのは、この風評が災いしたとされる。どこの門も甘超と聞くと、固くこわばって通そうとしなかった。
このため、彼は腸江(ちょうこう)の河賊に身をやつすこととなってしまった。
河賊としての5年間は、彼に勇猛さと水上戦の心得を学ばせたという。
特に、敵船の背後にもぐり一突きをくらわせ沈没させる戦法を得意とした。
近隣では「その姿を見たら3年は勃たなくなる」とまで恐れられ、「三年殺」の通り名が付いた。
(※艶戯では、「三年殺」が甘超の必殺技として描かれている。また、この「○年殺」の部分は時代を重ねるにつれて誇張されることが多い。)
雲項・雲治と相次ぐ君主の喪失から、当時の雲国は人材の流出を止めるのに必死であった。
しかし、それが治まった後は登用を拒否される「弁否(べんぴ)」が相次ぎ、三代目君主・雲香は世に出る機会をただ待つしかできない状態が続いていた。
雲香の親族であった劉傑は、ここで甘超に目をつけた。河賊で軟膏者と評判の悪い甘超を呼び込むことに、劉傑も最初は尻をすぼめたが、司書の牡技能(おぎの・字は子器(しき))が強く勧めたこともあって説得を試みた。
甘超はこれに応じて雲国の将となるのであった。
(※艶戯では、劉傑が甘超を説得しに赴いたときのこと。出仕に渋る甘超に対して「いいこと思いついた。お前、俺の決の中で将弁(しょうべん)しろ。(=私の指令の元に、将として語る立場に就け)」と言い放ったとなっている。)
甘超ははじめに、雲国を流れる河川の治安を任された。これは牡技能の考案した「河賊計画(かぞくけいかく)」の一環で、河賊に河賊を寝返らせるというものであった。治安の回復(善)と兵力の確保(備)を同時にはかる案なので、「案善備(あんぜんび)」とも呼ばれた。
ときに河賊を引き込み、ときに敵対する河賊と戦う甘超の姿を、かつてのように軟膏者と罵るいなくなった。
この頃の甘超に関する逸話は殊に多く、特に穴勉(けつべん)・穴如于(けつにょう)の穴兄弟をまとめて貫いた武勇伝は有名である。
甘超の括約によって、腸江や肛河(こうが)の治安は雲項の時代以上に回復し、雲国の国力はモリモリに膨れ上がった。
当時の雲国民は甘超の武を「甘超のおかげで(腸江の)お通じがイイ!」と讃えた。
蘭人妻(らんじんさい)
満国の将、汝陰(じょいん)太守。
瀬宮州を落とした陳歩は監禁城に向かうべく軍を進めた。
いくつかのルートのうち陳歩が選んだのは最も険しいとされる汝陰を通るルートであった。
汝陰は深い密林と険しい谷に囲まれた要害の地、陳歩が汝陰を通ると夢にも思っていなかった
満軍は完全に意表を突かれ、汝陰に十分な兵を配置していなかった。
「陳軍、汝陰に進入」の報を受けると太守、蘭人妻は援軍を呼ぶと同時に空気を入れて膨らませる
人形を五万体配置する「偽兵の計」で時間を稼ごうとする、
突然の大軍の出現に驚いた陳軍であったが、瀬宮州を落とした勢いに乗り、戦いに飢える
陳兵はかまわず突撃を開始、偽兵を見破られた蘭人妻は剣を取り果敢に戦うが衆寡敵せず
あえなく討ち死に、汝陰は陳に蹂躙され、辺り一面は血の海になったという。
_
/,.ァ、\
( ノo o )) 阿
)ヽ ◎/(. 蘭
(/(・)(・)\ 陀
(/| x |\) 人
//\\ 妻
(/ .\)
阿蘭陀人妻(あらんだじんさい)
蘭人妻が偽兵の計に用いた空気を入れて膨らませる人形。
蘭人妻の名を取り阿蘭陀人妻と呼ばれた。
材質は動物の腸か?文献には製造法に関する記載が無いため謎である。
書籍化して
架空武将スレではなく、
あくまでも陳歩スレである、という点を忘れてはいけないな。
秋葉原や甘超書いた職人はそういう意味で上手い。
前スレで誰か書いていたが、
三国ネタ、下ネタ、陳国志の流れ、
これら三つを有機的に融合させたネタ作りは、なかなかに難しい。
折れも見習おうぞ。
ここのスレはとりあえずいままで通りアイデアを出しまくるスレにして
他に方向性やまとめサイトに載せるかなどを話し合えるスレがあれば良いのじゃが
まとめサイトにBBSつけられないじゃろうか
荒らしがくる可能性もあるからつけないほうが良いかもしれんが
なんかお前やる気マンマンだな。
でもそれってまとめ人に一番高負担では?
いやスマソ、いくつかアイデアはあるのじゃが文章力に問題があるのでその方が良いかと思って
あとPCの知識がないので。BBSをつけるのは負担になるのか
すまんかった、忘れてくれ
マジレスのせいでネタ投下しにくくなったのは孔明の策ですか?
陳歩の策です
斉苗の策に決まってるだろ
>>188 キニセズトウカスルヨロシ。
倉観路吾(くらみじあ)
斉・後満の将。北方の荷洋族の戦士だったが斉苗の人柄に惚れ親友経瑠辺洲(へるぺす)とともに帰順。
輪鋲・梅読・経瑠辺洲らと「斉苗四天王」と呼ばれ恐れられた。
斉苗の死後は公子斉天桓の腹心となり後満の将として活躍した。
満満の死の前年に荷洋族に討たれ戦死した。
経瑠辺洲(へるぺす)
斉の将。北方の荷洋族の戦士だったが斉苗の人柄に惚れ親友倉観路吾とともに帰順。
輪鋲・梅読・倉観路吾らと「斉苗四天王」と呼ばれ恐れられた。
「郁々の戦い」で戦死した。
げえっ斉苗の策じゃ
股間のぶつぶつが治らん
聖剣「根同霧」
前魏皇帝の証でもある、護国の剣と呼ばれた雌雄一対の聖剣。
幅広で軽く取り回しやすい雌の剣で防御し、
重いが威力のある雄の剣で必殺の一撃を決めるという使い方をするようだ。
そのため使いこなすには相当な技量が必要とされ、実際に使った皇帝は後威零帝のみであった。
その後威零帝は岸安事件においてこの剣を自由自在に使いこなし、
斉苗率いる親衛隊を次々に倒したという。岸安事件後斉苗の元に渡り斉苗の愛剣となったが、
「郁々の戦い」で陳宝との一騎打ちの際雌の剣をへし折られてしまった。
その翌日、死に至る性病を発症し、帰らぬ人となった。
それを見た軍師兪備曼は「根同霧が破れたからこうなったのかも知れぬ。これがこの剣に宿る魔力なのか…」
と言ったと『艶義』にあるが定かではない。
ちなみに「根同霧」の名はこの剣が発見された地「根同霧城」から来ている。
魯出(ろしゅつ)
前魏・陳の騎上位大将軍。前魏の中でも名の知れた名族魯家の嫡男。
陳建国時に御主の下に馳せ参じ、陳の初代騎上位大将軍となった。
だが若輩者で身分の低いポッと出と蔑んでいた陳歩に位を奪われ恨む。
その後珍歩による陳歩讒言事件に連座し流罪となった。
>>194 魯出は名門出身でプライドが高かったんだよね
勇猛さを誇示するために鎧をつけずに裸で戦ったり
酒宴で裸になって場を盛り上げるエピソードなんかは好感が持てるけど
魯出(ろしゅつ)
前魏・陳の騎上位大将軍。前魏の中でも名の知れた名族魯家の嫡男。
その血統ゆえ出世は早く大した経験もないまま前魏最後の騎上位大将軍となった。
その後は陳建国時に御主の下に馳せ参じ、陳の初代騎上位大将軍に任じられる。
彼自身は斉喬郁と並ぶほどの兵法の大家で、あらゆる兵法を究めていたが何分実戦経験に乏しいため
机上の空論になりがちで、戦術を巡って陳歩ら叩き上げの将と対立することが多かった。
若輩者で身分の低いポッと出と蔑んでいた陳歩に位を奪われ恨む。
そのことがあったからか珍歩による陳歩讒言事件に関与したとされ、珍歩と連座で流罪となった。
陳子(ちんこ)
陳歩の一人娘。双刀の使い手。
愛用の双刀「不蛇那利(ふたなり)」を振るい、男顔負けの武勇のを誇った。
「両刀姫(りょうとうき)」と呼ばれる。
不蛇那利(ふたなり)
陳子愛用の双刀。
陰陽の思想に基づき、陽を現す「日の剣」と陰を現す「月の剣」は対になっている。
並みの男性ではもてあますほどの長く太かったといわれる。
===============
まとめサイト人さんいつも乙です、お手数をおかけしますが、斉喬郁(せいきょういく)の欄
「斉喬郁兵法」の基本的思想の一部
性は国の大事にして、死生の地、存亡の道なり。
(富国強兵を唱えたもの。)
↑これを
(富国強兵のための性交・多産を奨励したもの。)
に修正していただけないでしょうか。
おながいします。
198 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 09:19:59
下夷(げい)
陳国北東に存在したという異民族。陳国を苦しめた北方異民族の中核を占めた。
阿氏と耶氏の二大巨根体制と言われる政治を行っていたらしい。
阿氏としては阿部(アブ)、字は高和(コウカ)、阿通(アツウ)、字は異寓(イグウ)
耶氏としては耶羅(ヤラ)、字は内嘉(ナイカ)、耶摩(ヤマ)、字は循羽(ジュンウ)
などの名が見られる。耶摩は屋追族の出自らしく、好んで美少年を描いたという。
性格が非常に激しく、戦闘に参加した兵士は次々に肛門に裂傷を生じ、馬に乗れなくなってしまったと言う。
また、風習からくる慢性的な人口不足のため、連行された兵士も少なくなかった。
陳虎が後雲に連行され、後雲を指揮した名将・直寵(チョクチョウ)に仕官を持ちかけられた際、
「私は戦闘で敵兵を防ぎきれず、体に傷を負い、もう馬にも乗れなくなってしまった。」
と言っている事から、下夷に捕縛された可能性が高い。
下夷は特異な風習から、慢性的に人口が少なく、断続的に陳国に対し人狩りを行った。
陳陳の異民族平定に付き従った尹能(インノウ)の表した『陳志下夷伝』によれば、
「下夷は厳しく扱っても喜び、優しく扱っても喜ぶ。夜には無計画に夜襲をかけてくる上、
夜襲後に『我開眼。』との言葉を残し陣営を去る兵士が少なくなく、結局統治を断念した。」とある。
なお、「宝(ほーう)!!」はこの民族の挨拶であり、波奴藝の出自は下夷であると考えられる。
田治(でんち)
陳・燭姦の謀臣。尿道炎にも劣らぬ才を持ち、防衛戦・篭城戦ならば尿道炎以上とされた。
梅武とは「刎陳の交わりに近い」と言われるほどの親密さで、
彼が陳を裏切り万年緒城を占拠し燭姦王となったときも迷わず従った。
彼の智と梅武の武、どちらが欠けても5年の間陳から独立は出来なかったと言われている。
篭城五年目に病死。その後梅武が「美人局の計」にかかり戦死したところを見ても
田治の偉大さが分かる。
@【範斉】はんざい
範帝国の最初で最後の皇帝
もともと範一族は厨国南部の塩賊(塩を密売商)であったが、前魏が腐敗する
とエーロッパ帝国との海上貿易にも乗り出し莫大な利益を上げていた。
厨原で曹賈の乱が勃発すると野心家の範斉はこれに呼応して、手下や、農民、
などを率いて、厨国南部の郡役所を襲い放棄した。
反乱は政府軍の攻撃により一時衰退し、範斉らは異民族の多い山岳地帯へと
逃げ込んだ。しかし山岳民族などを吸収しその戦力はさらに増していった。
御羽射党の乱がおこると再び攻勢に出る、岸安事件がおこり、諸侯の注目
が北部に集中している間に、中国南部の大都市「常用」を制圧した。
範斉は常用を都とし大範帝国皇帝を名乗った。
これに対し、厨国南部の豪族の大半が反範斉連合を結成し、範国を攻撃した。
当時、範国は兵力、人材ともに充実しており優勢に戦いを進め、最盛期に
は厨国南部の40%を直接、または間接的に支配した。
乱世初期の段階では最強の群雄となった範斉は上洛の野望を抱き北部へたび
たび出兵し満豪孟、斉苗、鍾秀玄らを攻撃した。しかし全て失敗している。
201 :
197:2006/02/04(土) 11:17:18
>>まとめサイト人さん
早速修正されている
どうもです!
202 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 11:23:42
A【範斉】はんざい
その後北部進出の拠点、水仙城を満豪孟に奪われたため上洛計画は頓挫する。
そのころ反範斉連合に初代御主、雲項、蔡晩ら優れた指導者が登場した。
彼らの登場とともに厨国南部の勢力図は大きく塗り変わっていった。
度重なる敗戦と諸将の裏切りにより範帝国が瓦解、首都常用を落とされ
範氏は滅亡した。
【反範斉連合】
南部の豪族の大半が参加した偽帝範斉打倒のための同盟軍。
北部の群雄は抗争に忙しかったため参加しなかった。
はじめは劣勢であったが、初代御主、雲項、蔡晩らの優れた指導者が登場すると
形勢は逆転し、範帝国の首都常用を攻略して範氏を滅ぼした。
その後連合は分裂し、南部は陳、雲、蔡の三国の元となった。
【蔡国】さいこく
首都は常用。建国者は蔡晩
陳国や雲国に東西から攻められわずか2年ほどで滅亡した。
攻めの憲撮(けんさつ)守りの便碁(べんご)という優れた将がいたことでも
知られる。
•陳帝国
荊州を根拠地に最盛期には南部の40%を支配した大国。首都は常用(常用)
主君範斉は成り上がりの典型で、粗暴でサディストでもあったら、建国当初
から周囲は敵だらけであった。
政治や法制度はいい加減で、まさに軍事力だけで維持されている国家であった。
来世初期の段階では最強であったが、北部進出に失敗し、のち反範斉連合軍
に滅ぼされた。
↑間違い
範国(はんこく)
荊州を根拠地に最盛期には南部の40%を支配した大国。首都は常用(常用)
主君範斉は成り上がりの典型で、粗暴でサディストでもあったら、建国当初
から周囲は敵だらけであった。
政治や法制度はいい加減で、まさに軍事力だけで維持されている国家であった。
来世初期の段階では最強であったが、北部進出に失敗し、のち反範斉連合軍
に滅ぼされた。
↑間違えだらけ
常用(常用)⇒常用(じょうよう)
来世⇒乱世
あったら⇒あったから
御羽射党の乱
前魏vs黄明党残党。
曹賈の乱後、各地に散りなりを潜めていた黄明党だったが、
半年の後に再び大規模な組織御羽射党となり
前魏に対し再び反乱を起こした。これが御羽射党の乱である。
曹賈の乱の際には買官制度の弊害で役にも立たない人材が討伐軍にいた(後に更迭)が
今回は後威零帝、騎上位大将軍魯出、正上位大将軍鍾 秀玄、騎乗尉斉苗、前座尉陳沈・道卓
など前魏末期の名将が勢ぞろいしたため素人兵法丸出しの御羽射党では太刀打ちできず惨敗を続け
あっという間に衰退。だが御羽射党が最後に拠った根同霧城を包囲した際
持久戦で投降させるべきとを主張した後威零帝、魯出、陳沈らと速戦即決で皆殺しすべきと主張した斉苗、道卓、鍾 秀玄らが対立し
一時的に指揮系統が麻痺。その隙を突くようなタイミングで御羽射党が決死の突撃
をかけてきた。一時的に大混乱となり大きな損害を出したが何とか御羽射党の殲滅に成功し、戦いは終わった。
だが後威零帝と斉苗との間には大きな遺恨が残った。これがのちに前代未聞の帝弑逆事件「岸安事件」の伏線となった。
>>209 気にしないで
屁炉院(へろいん)
範斉の寵姫で一度ヤッたら止められなくなるほど魅力的だったらしい。
満国の初代皇帝である満豪孟は破天荒な行動を嫌う常識人であった。
また部下に甘く、叱責することはめったになかったという。
ただし敵や裏切り者には一切容赦がなかったため、恐れられていた。
満豪孟の「剛毛の陣」は異様な陣形であり、敵は見るだけで、突撃する気を
無くしてしまったという。
寛裕(かんゆう)字:強制(きょうせい)
曹賈の乱の指導者の一人。黄明党への強引な勧誘をすることで有名だった。
御羽射党の乱にも参加しその後、範国の客将の一人になった。
彼は大作を神格化して完全に宗教化し、範斉を説得して範国の国教とするに
成功した。
李昆(りこん)
陳国の宦官。楊如や陳歩を貶めた奸臣として有名。
3代目御主の時代に権勢を振るい、宦官でありながら政治にまで関与する様になる。
異民族の三駆駄利汗の援助をうけて陳歩を失脚させ、蓬轡ら反対派を暗殺したとされる。
陳歩の罪状を連ねた御主への直訴状「李昆届」は、あまりに完璧な文であった為、
反対派も咄嗟に反論できなかったという。(もっとも、罪状自体は本当かどうか疑わしいが)
陳歩復帰後は報復を恐れ身を隠すが、陳歩死後に復帰。だが諸除易に一族共々暗殺された。
エンコー陳国志]での能力値
統率:8 武力:5 知力:81 政治:63 魅力:4
甘超 統率:84 武力:97 知力:73 政治:90 魅力:92
鍾秀玄 統率:81 武力:75 知力:71 政治:47 魅力:76
満豪孟 統率:99 武力:73 知力:95 政治:90 魅力:95
>>206 範国には一時期、霊覇(れいぱー)や辺泰(へんたい)など
陳国後期の猛将が揃ってたのに全然活躍しなかったな
まさに宝の持ち腐れ
唐札(とうさつ)
範国諜報部隊の指揮官。範国滅亡後、乙女淫道の幹部となった。
>>215 甘超の政治力高すぎね?
楊如ランクじゃん
219 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 12:36:56
220 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 12:39:04
>>216 それどころか、陳や雲の武将にも元範国出身者が大勢いる。
満豪孟は自分が範の主君だったら10年で覇業を達成していると言ったそうな。
エンコー陳国志]では甘超の政治は38だったよ
仕官できず河賊に身を落としたのと、貧乏のせいなのかな
エンコーの能力は極端だからな
222 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 12:41:00
俺のイメージでは・・・
(董卓+袁紹)÷2=範斉
223 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 12:45:01
陳歩⇒楽毅
満豪孟⇒(光武帝+曹操)÷2
斉苗⇒喘羽の生まれ変わり
万黄⇒?
尿道炎⇒(諸葛亮+李儒)÷2
224 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 13:01:42
童貞無職(32)です。
夢想の大便、小便があまりに可愛いのでつい買ってしまいました。
あのロリ姉妹可愛すぎ!太ももにざるそばのせて食べたい!!
腐美人はいまいち、巨乳ロリは苦手だ。
発金妃?ああいう年増色気女は嫌いだ!
あと広夢は反則だ!どう見たって100%女の子だろ!
広夢を女にしろと肥に抗議の電話かけまくったぜ。
俺のイメージでは袁紹は斉苗、陳歩は曹操
劉傑(りゅうけつ)
雲項の三男。元の名は雲傑(うんけつ)。劉家に婿入りし、劉氏を名乗る。
雲香から後継者に指名されて帰国。娼婦帝を自称し、雲帝国を建国する。
甘超、弁揮ら優秀な新鋭武将を重役に付け、外李等の都尉令会堂時の反対派も重用した。
人望や才知に溢れた英雄だったが、若くして死去。一説には甥の雲運に毒殺されたとある。
>>224 辺疾娑キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!
範国討伐戦
範VS反範斉連合。
前魏の混乱に乗じて頭角を現した南部の梟雄範斉。後威零帝は彼を逆賊と断じ討伐軍を出すつもりだったが
直前で斉苗に殺され、前魏は大混乱となり十七代廃帝が勃ったが一ヵ月で廃され、
厨華北部で女州刺吏満豪孟が満公国を自称し半年後には皇帝となり、斉苗が病巣で独立。
さらに正統な前魏を名乗る精魏が勃つに至り、もはや前魏はあって無きがごときものとなり、
動きの少なかった南部でも豪族が皇族を勃てて独立したりと乱世が本格的に到来した。
そんな中南部で一時的に最も強大となった範は厨華北部に野心を抱き北部の大国満、斉などを攻めたが悉く惨敗。
それ故か税金は北部より過酷になり、暴虐な範に隷属している豪族も、そうでない豪族も苛立ちを募らせていった。
そんな中満豪孟が皇帝に即位するとその即位から一ヵ月と経たない内に範斉が皇帝に即位。
南部の豪族たちは前魏王朝の守護を大義に掲げた反範斉連合を結成し偽帝範斉討伐軍を興した。
当初はリーダーになりたがる者が多く烏合の衆とはまさにこの様ではないかと思わせるほどであったが、
陳の初代御主、雲の初代皇帝雲項、蔡晩ら真のリーダーたる器を持つものが実権を握り、一気に大勢力となった。
範国内でも一揆が頻発する中わずか三ヶ月で範は自壊、範斉は西域に逃亡したきり行方知れずとなった。
だが御主、雲項、蔡晩の間で戦後処理を巡って対立しそれぞれ陳、雲、蔡を自称し独立。
北部でも精魏を滅ぼし地盤を固めた斉、厨華統一に動きはじめた満ら群雄が本格的に活動を開始し、
前魏の勢力はわずかに岸安一帯にかろうじて及ぶのみとなった。かくして乱世は深まり、混迷の度を増していった。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 13:08:45
江素笑夢(えすえむ)
金之貌の部下。荒縄軍最強の猛将で鞭の使い手
大いに満豪孟を苦しめた。
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 13:21:30
>>227 範国って即死させるには惜しい気がする1年くらいは存続したことにしないか?
陰淋(いんりん)
上位都尉。
比較的女性上位の後満国でも珍しい女将軍。満耳流が妃に勃てようとしたという逸話もある美人。
両翼を広げ、あえて本陣を晒す絵夢時美多安(えむじびたーん)の陣と
そこから繰り出す得無陣会脚(えむじかいきゃく)の計で雲国の主将発擦(はっする)を打ち破った事で有名。
しかし、このとき既に後満国の衰亡は避けられないものとなっており、
しょせん徒花の勝利でしかなかった。
彼女があと20年早く生まれていれば三国の勢力図は大きく
異なっていただろうと言われている。
知弓高原の戦いでは皇帝満耳流の副将として参戦。陳間等を得無陣会脚の計で大いに苦しめたが
助平に絵夢時美多安の陣の弱点を看破され、陳間等の騎馬隊により陣をズタズタに切り裂かれ、
その混乱のさなか霊座の後に掟破りといわれた奇計逆絵夢時美多安の計にかかり討ち取られた。
享年29歳。あまりに若い死であった。
>>230 満と斉と戦争して二、三年は経ってるから別によくね?
つかこんな明らかな暴虐国家長いこともたんわ。外征で惨敗してるし。
知弓高原の戦いでは皇帝満耳流の副将として参戦。陳間等を得無陣会脚の計で大いに苦しめたが
助平に絵夢時美多安の陣の弱点を看破され、陳間等の騎馬隊により陣をズタズタに切り裂かれた。
無敗を誇った絵夢時美多安の陣は完全に崩壊し、その混乱のさなか
霊座の後に掟破りといわれた奇計逆絵夢時美多安の計にかかり討ち取られた。
享年29歳。あまりに若い死であった。
234 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 13:32:40
碁双写(ごそうしゃ)
範国の勃沌(ぼっとん)の太守、雲項に殺された。
235 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 13:34:08
>>232 そういうことか。建国から3ヶ月で潰れたのかと思った。勘違いしてスマン
弐徒(ニト)の乱
別名無職(ブシキ)の乱とも。
雲帝国末期、雲運の統治下では、政治が腐敗し、努力しても認められないようになって来ていた。
さらには平和ボケや慢性的な不況が重なり、民はやる気をなくしていた。
その中で、陳国との国境に近い弐都で弐斗と呼ばれる23才の青年が「労即敗」をスローガンにする
「厭労教」を興し、瞬く間に国内外の無職が集まった。
彼らは「弐徒」と呼ばれ、労働をまったくやる気が無かった。
「厭労気」と呼ばれる不思議な術を使って各国で信徒を増やし、一時は信徒が100万を数えた。
中心の雲国では半数の人間が働かなくなって政治機能が麻痺し、雲運も事態の重さに気づいた。
27歳の無職が「費倶亜(ヒグア)」を親に買ってもらえず放火するなどの治安の悪化も発生し、
外李の息子である外露(ゲロ)を大将軍に任命して弐都を攻撃させた。
厭労気の妖術によって戦意を著しく損ないながらも、外露は弐斗の所まで単身乗り込み、弐斗を斬った。
事態は収拾するかに思われたが、人々のやる気の回復はなかなか起こらず、満国に付け入られる
原因となってしまった。
雲の末期には満も後満もないから付け入るのは陳じゃないか?
於簡(おかん)
前魏の武将。於氾(おばん)の子。前魏崩壊後は満に仕える。
国庫の管理や兵糧調達を担当し、外征では兵糧部隊を指揮した。
巨漢の勇士として知られ、於簡の一喝で陳の兵は萎え竦んだと言われる。
於簡の子・馬満(ままん)の末裔は、戦国四昆子の一人、色国の馬座昆(まざこん)。
>>216 まあでも霊覇(れいぱー)や辺泰(へんたい)はまだ元服して間もなかったからな。
あと十年持っていたら陳歩の活躍も違った形になったかも。
>>237 雲の滅亡に繋がるし、多分陳の間違いだろうな
>>239 辺泰は元服してたよ
裏切りまくりだけどな
あ、範国滅亡してから博諾亦に仕えたのか
勘違いしてた
>>241 元服して間もないって書いたじゃないか…
あくまで推測だが、範国にいた隗俊(かいしゅん)って
前魏崩壊後に逃亡した袁如なんじゃね?
>>244 まだ前魏は衰えたりといえど岸安に健在だったし、
このころは十八の禁も起こってないからそれは無いな。
満黒(まんこく)
満豪孟の弟。たいへん経験豊かな名将で素人はその姿を見ただけでおびえたという。
範国より水仙を奪取、さらに鍾秀玄討伐や荒縄平定でも活躍した。
しかし満益が皇帝に即位した直後、反逆罪の容疑で江炉漫画島に追放された。
殷蘭と殷抗の陰謀であったといわれる。
満紅(まんこう)
満豪孟の末の息子。紅顔の美少年であった。
その素直で清純そうなところが女性から人気であった。
満益の即位直後、反逆罪により処刑される。
これもやはり殷蘭と殷抗の陰謀であろう
247 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 14:15:49
虞炉満(グロマン)
陰歩の詩に出てきた女性。
顔はかわいいが性格は最悪でとても軽々しい。
満一族の娘であることで威張り散らし、
気に入らない人間を処刑したり気に入った人間には作戦を教えたりしていた。
性格が悪いため満益に万谷関に飛ばされるが、
そこでは流石の彼女も大人しくしていたため陰歩との接触はなかった。
満国に直ぐに戻った彼女だが、性格の悪さは直るわけもなく満国の情報を全て筒ぬけにしてしまったり
宝を独り占めにしたり、大運河を作ろうとするなど国庫や民を苦しめたりした。
後満でも、威張り散らしていたが、怒った満満により処刑された。
なお、満に入れなかった陰歩は悪女であるこの女性の素性を知るよしがなかった。
それは幸せなことだったのだろうか。
248 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 14:17:10
↓間違え
国庫や民を苦しめた・・・・
↓正
国や民を苦しめていった・・・
佐倉広夢(さくらひろむ)
美少年で満益の寵愛を受けていた。
あるとき、満益から高位を授けられたが、
「才能のないものが高位につけば、国の乱れる元になります」と言って断った。
当時、彼は須家蛮派から妬まれ、聖順派からもあまり好意的には思われていなかったため、
これ以上敵を作らないための保身の行動だったようだ。
のち満益が発金妃(ぱつきんひ)に夢中になると、
彼は地位になど執着せずさっさと故郷に帰ってしまった。なかなか良い引き際である。
倭人説あり。その後屋追族に連れ去られたともいわれる。
於簡(おかん) の弟、於華賛(おかあさん)の最後はあまりにも悲しすぎる。
>>250 於華賛(おかあさん)
字は嘉張(カーチャン)
於氾(おばん)の子、於簡の弟。
浪人者を束ね、厳しさと優しさを上手く使い分けた名将。
士気にムラのあった浪人者に食事と衣服を与え、温かく迎えたという。
この使い方の難しい軍隊を、「毒男軍」と称する。
毒男軍は陳歩に並々ならぬ敵意を表し、先鋒にたってよく戦った。
が、配下の浪人者達は、そんな於華賛を軽んじる事もしばしばあった。
失意の内に死んだ於華賛の遺品の中からは、
毒男軍への細かい指示が書かれた書簡があったという。
それを見た浪人者たちは胸をたたいて慟哭し、その後は獅子奮迅の働きをしたということだ。
諺「死せる於華賛、生ける毒男を走らす」は、この故事がもとになっている。
>>215 甘超の政治ですが、治水には定評があったものの、あまり大きな功績はありません。能力値はおそらく70前半でしょう。
これは当時の「地(じ)」の争いを嫌っていて、たびたび「地が大きく在るうちは、座することも安からず」と訴えていた。
それらから煙たがられて政治の場に出られなかったからと言われています。
甘超のような薬座(やくざ)もの出身には、同意見を唱える者が結構いたようです。
世が世なら、もっと高い功績を残せたかもしれませんね。
陳国討伐戦
陳VS雲・後満・異民族連合軍。
満光を苦難の末に落とした陳軍は、北の旧斉国で満光包囲戦時満から独立したを斉天桓らを討伐する予定であった。
が、陳歩が流刑となってしまったため、恐れるに足らずと雲軍が動き始めたため、最小限の兵を賜宮に残し撤退する。
その後雲の動きは一時的に止んだが、その隙に満の皇族満満が再独立した斉を乗っ取る形で後満を興し、雲と同盟を結んだ。
さらに于甫甫が下夷(婆羅族の一派?)とも同盟を結び、一斉に三方から陳を攻め立てた。
これには流石の陳軍も耐え切れず、下夷に西の要所都欄樟(とらんくす)、
後満に旧満領のほとんど、三勢力の共同作戦により根同霧城のあった雄南、交通の要所処襄などを落とされ、一気に玉京に迫った。
ここまでで陳軍は雄南太守関遁、摘出令陳虎、諸除易の子で都欄樟太守諸除波華(しょじょはか)、
賜宮にいた肉弾三勇士ら名将、有能な行政官が次々に戦死し、壊滅的な打撃を負った。
時の宰相諸除易は玉京に迫った連合軍に立ち向かうには陳歩の復帰しかないと悟り、陳歩の元へ使者を出した。
そして玉京を放棄し陳歩が戻るまで天下の要害斉濃で耐える道を選んだ。結果的にはこれが陳にとっては吉となった。
対陣が長引き始めたころ連合軍の中で内紛が始まり、下夷が軍を引き上げた。雲も二十万のうち半数を帰国させてしまった。
陳にとっては僥倖とも言える出来事だった。丁度良く陳歩も帰還し、一気に大反攻を開始し、玉京を奪還。
その後陳歩・陳陳親子のの獅子奮迅の活躍で処襄、雄南など占領された諸都市を取り戻し、
勢力は満を滅ぼす以前の陳の水準まで回復。ここで雲が和睦を申し入れてきたのでこれを受け、一応は戦闘終結となった。
この戦いが無ければ陳の統一はもっと早まったという。
諸除波華(しょじょはか)
諸除易の子。父に似ず温厚で優しい性格であった。
官吏として順調に出世し、弱冠二十九歳にして都欄樟太守を拝命。
そこでもきめ細かい誠実な統治で民の評判は高かった。
都欄樟が下夷の攻撃を受けた際、避難中の民をかばい矢に当たって死亡。
お人よしと父に馬鹿にされた彼らしい最期であった。
一気に玉京に迫った。 ×
一気に玉京に迫られた。○
一気に大反攻を開始し、玉京を奪還。×
一気に息を吹き返した陳軍は大反攻を開始。連合軍25万の拠る首都玉京を三日で落とし奪還。○
推敲がなっとらんな…orz
満を滅ぼす以前の陳の水準×
満を滅ぼす以前の水準○
>>253 連合軍が内紛を起こしたのは助平の離婚の計にかかったからだな
離婚の計といえば宦官の李昆。奴の得意技だ
陳歩失脚の謀略の陰には、確かに三駆駄利汗の助力が大きいが
他者を疑心暗鬼にさせる離婚の計や、上奏文の李昆届など
李昆自身の深謀術数の妙が冴え渡ってたと思うよ
陳国討伐戦
陳VS雲・後満・異民族連合軍。
満光を苦難の末に落とした陳軍は、北の旧斉国で満光包囲戦時満から独立したを斉天桓らを討伐する予定であった。
が、陳歩が流刑となってしまったため、恐れるに足らずと雲軍が動き始めたため、最小限の兵を賜宮に残し撤退する。
その後雲の動きは一時的に止んだが、その隙に満の皇族満満が再独立した斉を乗っ取る形で後満を興し、雲と同盟を結んだ。
さらに于甫甫が下夷(婆羅族の一派?)とも同盟を結び、一斉に三方から陳を攻め立てた。
これには流石の陳軍も耐え切れず、下夷に西の要所都欄樟(とらんくす)、
後満に旧満領のほとんど、三勢力の共同作戦により根同霧城のあった雄南、交通の要所処襄などを落とされ、一気に首都玉京に迫られた。
ここまでで陳軍は雄南太守関遁、摘出令陳虎、諸除易の子で都欄樟太守諸除波華(しょじょはか)、
賜宮にいた肉弾三勇士ら名将、有能な行政官が次々に戦死し、壊滅的な打撃を負った。
時の宰相諸除易は玉京に迫った連合軍に立ち向かうには陳歩の復帰しかないと悟り、陳歩の元へ使者を出した。
そして玉京を放棄し陳歩が戻るまで天下の要害斉濃で耐える道を選んだ。結果的にはこれが陳にとっては吉となった。
対陣が長引き始めた頃、助平が秘策「離婚の計」を発案。これを実行した。
案の定遠征軍の上烏合の衆に近かった連合軍の中で内紛が始まり、下夷が軍を引き上げた。雲も二十万のうち半数を帰国させてしまった。
助平の乾坤一擲の秘策は大成功を収め、連合軍は質・量共に弱体化した。後は陳歩の帰還を待つのみとなった。
陳歩が帰還すると陳軍は満を持しての大反攻を開始。連合軍25万の拠る首都玉京を三日で落とし奪還。
その後陳歩・陳陳親子のの獅子奮迅の活躍で処襄、雄南など占領された諸都市を取り戻し、
勢力は満を滅ぼす以前の水準まで回復。ここで雲が和睦を申し入れてきたのでこれを受け、一応は戦闘終結となった。
この戦いが無ければ陳の統一はもっと早まったという。
>>257 李昆の離婚の計にしろ他の計略にしろ凄いのは、
まったく誰が仕掛けたか気づかれないところにあると思う。
綿子教授が李昆の日記を見つけるまで李昆が悪宦官だったことは仮説に過ぎなかったんだから。
前魏崩壊後、施閥帝の持ってた玉痔(ぎょくじ)は誰が手に入れたの?
雲項だっけ?
周審景(しゅうしんけい)
範国の猛将。反藩斉連合を苦しめたが、美出の策により破滅した。
【豪関(ごうかん)の戦い】
反範斉連合軍と範帝国軍が死闘を繰り広げた
やたら凄い奴ばかり設定しちゃ駄目だ。
陳の軍師は尿道炎あたりがトップクラスでいいと思うのだが、
宝計とか田治とか、どんどん「天才」みたいなのが出てきちゃう。
(もちろん両名ともネタとしての完成度は高いのだが)
緒那似みたいな、エピソードで味わい深い設定を頼む。
やたら凄いやつばかり設定するのはやめような。
例えば陳の軍師だったら尿道炎あたりがトップクラスでいいと思うんだが、
宝計とか、なんか「天才」みたいなのがどんどん出ちゃうのはどうかと・・・
緒那似みたいな、能力が凄いわけじゃないけど
エピソードが味わい深い感じがイイと思う。
あれ、ゴメン。
推敲前の文章も送っちゃってた・・・
逝ってくる・・・
266 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 12:01:17
>まとめサイトの人
過去ログも載せてくださいお願いします
まとめサイトの人です。
>>226 左側フレームの一番下に過去ログへのリンクあります
にくちゃんねるとかの方が便利かも知れんが。
datファイルはレス番982で切れてます・・・
まとめ人様、ありがとうございます!
おかげさまで楽しんでます。
ところで、
斉王別姫=せいおうべっき
の読みでよろしいかと。
覇王別姫(はおうべっき)に掛けたネタだと思いますので。
他、読み仮名不明の部分、皆さんもフォロー願います。
周審景(しゅうしんけい)
範国の猛将。元は前魏の南方方面軍の将軍で、反乱を起こした者達を
大軍を用いて包囲して皆殺しにして回ったことで有名。
南部では「奴の包囲にかかったものは数百年かかっても出られない。出る方法は死ぬか奴らの手にかかるしかない。」と言われ恐れられた。
個人的な武勇にも優れた将でもあり、彼が自ら殺した兵は軽く1000を越えたらしい。
残虐な男ではあったが反乱を完全に鎮圧すると言う結果を出したため後威零帝の信任は厚かった
だが金に汚い男で、範斉が大金をチラつかせ仕官を要請するとあっさり裏切ってしまった。
信を置いていた男の離反に後威零帝は激怒し親征軍50万を興そうとしたが岸安事件で暗殺され叶わなかった。
その隙に範斉は彼の武名と金で養成した大軍で南部をほぼ制圧した。
だが北伐ではまったく歯が立たず惨敗続きであった。やはり将器が小さい男だったのだろう。
反範斉連合軍との戦いでは大いに連合軍を苦しめた。何故凡将であることが白日の下に晒されたのに
連合軍が苦戦したのか?答えは簡単、肝心の兵が彼の名を聞いた途端竦みあがってしまい戦いにならなかったのだ。
彼がどれだけ苛烈で残虐かが分かる。
だが連合軍軍師の美出の策「買収撹乱の計」にかかり、離反し連合軍に向かおうとしたが
範斉に察知(連合軍の間諜が知らせたと言う説もある)され、将軍位を剥奪され平民に落とされた上で車裂きの刑に処された。
彼に相応しい無様な最期であった。
彼の武名×
周審景の武名○
李昆部録(りこんぶろぐ)
李昆の部下が書き残した日記。李昆の日記とも。研究資料として貴重なもので、
これに書かれた出来事から陳国志時代の風俗を推測している部分が大きい。
意味の通らない成文で書かれた頁が数十あり、
ここの解釈は長らく研究家たちの中で論争になってきたが、綿子教授により解読され
李昆の悪事について書かれていたことが分かった。
これにより言い伝えでしかなかった『艶義』に描かれた悪事はほとんど真実であったことが証明された。
なぜこのように暗号化をする必要があったのかは不明であるが、
李昆部録によると李昆は「部下宛の郵便物、日記などの検閲を行うことがあった(完訳李昆部録、馬波学術文庫より引用)」ようなので、
それをを避ける意図があったと思われる。
陳国志艶義 巻之七 「袁如誘苗乱 皇帝虐逆賊」
御羽射党の乱を平定した後威零帝が、都岸安に帰還してからおよそ半年。岸安には早くも
不穏な空気が漂い始めておりました。御羽射党の決死の突撃により、官軍が大被害を蒙った
一夜、その時の帝と斉苗との対立が、今だ後を引いていた為で御座います。
そんな雰囲気に、魏の行く末を案じながら、宮殿の中を歩いて行く男がおりました。姓を陳、
名を沈、字は乙規。生殖省辺児子県の、地方豪族陳氏の当主にして、英雄陳歩の生みの親、
永い時の流れに埋もれて、落ちぶれはてて、地方の豪族に成り果てた、名族陳家を、買官制
度と創価の乱によって、再び中央に立たせた、英傑でありました。
「袁如め…あれが臣下たる者の振る舞いか?あんな者、即刻排すべきだッ!」
憤怒の表情明らかに、袁如を罵り倒す好漢陳沈。後ろに立っていた大男もそれに同意して口
を開きます。
「これは俺の落ち度でもあるさ。…袁如の事は以前から知っていたのに、奴を侮り、奴に注意を
払わなかった、私の、な。」
この男、道卓。玉京近郊の地方豪族で、県尉として赴任してきた陳沈に心酔し、家臣となった
豪傑です。身の丈九尺、戦に出ては一騎当千の剛の者。
「むむむ。私も奴にもっと注意を払っていれば、こんな事にはならなかったのにな…。」
陳沈の前に立つ、譜代の臣背貢須も、口を開きました。身の丈八尺、策を練ってもよし獲物を
振るって打ち合ってもよしの、文武両道の英雄であります。
さて、この三英雄に散々に罵られている袁如、字を公才と申す者、。宮廷において賄賂を得て
私腹を肥やし、腐敗を招いた奸臣で、国家の大権を握り、政治を操る邪悪の化身でありました。
道卓は、私服を肥やすだけの彼に業を煮やし、陳沈、背貢須と共に、後威零帝に袁如を除く様に
上奏したのでありますが、その上奏文は袁如によって握り潰されて、あべこべに御羽射党の乱の、
敗北の責任を着せられてしまったのでありまする。
その夜、後威零帝、魯出らと持久策を主張した陳沈、背貢須は、なんとか濡れ衣を免れる事が
出来ましたが、即決策を唱えていた道卓は、帝の誤解を解く事が出来ずに、故郷に難を避ける為、
今晩荷物をまとめて逃げ帰る事になっておったので御座います。
「しかし…この様な世が何時までも続くわけは無い…。」
陳沈はぼそっと呟きました。
「民に怨嗟が募り、朝廷が乱れれば、何時か必ず大乱が起こるだろう…。その時は…」
陳沈はゆっくりと、道卓の方に向きかえり、言ったのであります。…玉京近郊に残してきた、家族
の顔を思い浮かべながら…。
「息子の陳歩と弟の陳鎮を頼む。彼らの貢献となり、支えてやってくれ。」
「はっはっは、陳兄らしくもねぇ。」
道卓は、一笑に付しまた。背貢須もまた、本気にしては御座いません。
「そうです、我等三人が居れば、いかな大乱とても、乗り越えられるでしょうぞ―――。」
陳沈も、「そうだな…」と呟き、また歩き出しまた。世は前魏末期、後世に語り継がれる大乱の、ほ
んの始まりの時でありました…。
「これは…これは真かッ!」
都の一角、立派な屋敷の中から、響く大音声。館の主、斉苗(せいびょう)字を菅栴(かんせん)の天
をも揺るがす大怒声であります。
「皇帝陛下…いや、具めッ…!」
彼の前に広げられている小さな竹巻。それには、国家の運命を変えた恐るべき事が書いてありました。
―貴公の妻、腐氏を攫い、辱めたのは皇帝陛下であった。―
数日前の事でありまする。斉苗の妻、腐氏が何者かに攫われ、辱められました。斉苗は、怒髪天を突
き、下手人探しを袁如に頼み込んだのであります。
そして、この手紙を受け取ったのでありますが、実は、腐氏を辱めたのは袁如の手の者であり、この手
紙は、聡明すぎる今の帝を邪魔とした袁如の、姦計の詰めで御座いました。
しかし、斉苗にはそれが分かりません。元より武勇一辺の将であり、非常に短気であり権謀術策の類に
はすこぶる疎い彼である。その手紙を信じ込み、袁如の策に嵌ってしまったのです…。その怒りは凄まじく、
素手を振るって岩を割り、狩場に出でて、虎を見ては頭蓋を砕き、何をしても往々として楽しまず、いつもな
ら彼の短気を諌める于甫ですら、「もう駄目法」(もう法すらも目には駄に写っているであろうよ)と言ったきり、
自室に篭ってしまったのでありました。
数日後、宮廷に、急使が驚くべき報を持って駆け込んできました。倒れざまに叫んで曰く、「袁如が年来の
野望を表し、今の好戦的な帝を除くと言いつつ、20万の大兵を擁し都に押し寄せてくる」、との事。
文武百官の驚き様と言ったらばありませぬ。あるものは叫び、あるものはおろおろし、あるものは「むーん」
と言ったきり、倒れて動かなくなってしまう有様。
そんな、混乱の極みにある朝議の場に、太く、威厳のある声が轟いたので御座います。
「何を今更驚くのだ。直ちに迎撃の軍を集めよッ!」
早くも、声の主である後威零帝はお立ちになって居られました。程なくして、場は秩序を取り戻し、武官は
戦の準備に、文官は戦費を集めに、各々朝議の場を出て行って、数刻の後には、帝の主軍1万を岸安に
残し、官軍8万、威風堂々と旗幟をはためかせ、岸安の門を後にしたので御座います。
「おのれ袁如め、やはりこの時を狙っていたか…。」
官軍右翼の、4万の兵を率いる大将が呟きます。姓を諸除、名を徹、字を明伝。後威零帝に仕える忠
臣で、名族諸除氏の当主でありまする。人と人との仲を取り持つ事を得意とし、たとえ避け難き豪族同士
の戦が起こっても、両軍に誠実に安囲を守らせ、決して無辜の民に被害が及ばぬように取り計らって過失
無く、その功績が時の帝に深く認められ、「安囲安明伝(あいあんめいでん、「安囲を安んぜしめる明伝」の
意)」との称号を頂く程の、信頼厚き部下であります。
「むしろこれは幸い、ここで一気に袁如を打ち破り、獅子身中の虫を除くのですぞ、父上!」
諸除徹の後ろで息巻く将、息子の諸除索、字を侯戒。この戦が初陣である、若い将で御座いました。
「これこれ、もう少し慎重になるがいい。この様な所で討たれ、可愛い嫁と息子の幕、易を路頭に迷わせ
るような事になってはいかんぞ。」
「いえ、船でも処女航海においてその性能を測るもの、私は初陣で大きな手柄を立て、天下に名を轟か
せたいので御座います!」
「作家の名声は処女作のみで決まるのではない、将の評価も、初陣だけでは決まるまいぞ…。」
このような事を話しながら、右翼の軍は進んでいきます。と、そこへ、岸安からの急使が届きました。その
急使は、袁如の乱を知らせた急使よりも、凄まじく狼狽し、ようやく一言叫んで曰く…。
「なな、何ィ!?近衛兵長の斉苗が謀反、兵4500が同調、5400は逃げ去り、…帝を守るはたったの100
余り…!?」
左翼にも、急使は届いておりました。その報を受け取った左翼の将、良孔、字を世明(りょうこう せめい)
は、余りの事に、しばし放心し…ややあって、全軍に即時反転を下命したので御座います。
「父上ッ!帝は…帝は無事でありましょうかッ!」
良孔の脇に駒を寄せ、叫ぶ息子の良継、字は命続(りょうけい めいぞく)。
「名族たる我等良家の面目にかけても、無事に救いださせばならん…いや、必ずやッ!」
全速で馬を駆りながら、叫び返す良孔将軍。しかし、暫く間をおいて、言ったのであります。
「…継!お前は帰れッ!」
「父上?一体何故!?」
不満げな顔で怒る血気盛んな息子に、やさしく諭す良孔将軍。
「お前には娶ったばかりの妻と、息子の辱がいるでは無いか!…この戦…厳しい戦いになる。お前に何か
あっては、私はお前の嫁に…」
そこで、良孔は、言葉を止めました。前から、真紅の馬に跨った将の姿が見えたからであります。…金縁に、
漆黒の荒粒立ての漆の兜、鎧はこれまた金縁に黒漆、そこに乱れ桃花の戦包、孔雀の羽飾りを兜に刺し、
特注の長矢を竹作りの巨大な矢立に収め、黒地に金糸で天に昇る龍が刺繍された直垂を身に着け、身の
丈九尺、熊の胸に虎の腕、兎の足を持ち、自慢の一丈二尺、九十五斤の九環刀を引っさげて、単騎で突っ
込んでくる、その姿、乱世の悪鬼、斉菅栴その人でありました。
「主君を守れ」と、良孔の郎党が斉苗に十人、二十人と挑みかかるが全く相手にならない。歴戦の勇士と
言えども、斉苗の前に出るのは、あたら命を無駄にする行為でしかありません。地は赤く染まり、天には官軍の
叫びだけが空しく響く。大事な部下らを討たれた事に怒った良孔は、特別に鍛冶師に作らせた四十斤の大矛
を振るい、斉苗に打ちかかったが、三合と戦わぬ間に雷光一閃、人馬諸共唐竹割りとなり、続いて打ちかった
良継の、六十五斤の大鉞も、十合の内に跳ね飛ばされて、慌てて逃げる良継に、斉苗は難なく追いつき、一太
刀の元に良継の首を切って捨てたのでありました。
「父上!左翼の軍が乱れたって御座います!」
こちらは右翼、何が起こったのかも分からずに、ただただ乱れ、散ってゆく左翼の大兵を見守るだけで御座い
ました。左翼軍は、雲の子を散らすように分かれ、駆けては、逃げ散ってゆきます。その有様を、まるで夢の様
に見つめる右翼軍、っと、その目に、一瞬光が瞬きました。次の瞬間には、主将諸除徹の眉間に斉苗が長矢が
突き立って、どうっと地面に倒れこみ、命果ててしまったので御座います。
「ち、父う…!」
父の、突然の死を前に、胸が支えて絶句する若き諸除索将軍。その時、彼の脳内には、何が駆け巡っていた
でありましょうか。一体何を考えていたでありましょうか…。
彼も、次の瞬間には、父と共に西方浄土への、永い永い旅に立っていたので御座います…。
「援軍はッ!援軍はぁぁー――――ッ!」
修羅の巷を歩きつつ、大音声で呼ばわるは、雌雄の宝剣を抜き払い、黄の装束を、血で染めた、後威零皇帝
その人で御座います。100対4500の、絶望的な兵力差にも諦めず、迫る敵を次から次へと切って捨て、手ずから
屍の山を積み歩く、その鬼神の如き御姿に、敵は恐れをなして縮こまり、味方は振るって敵を討つ。「今に帝も首
となる」と、さざ反旗を翻すその時は、疑わなかった反乱者、親衛隊の輩も、行く手を逃れ、姿を恐れ、てんでバラ
バラになりつつありました。
「ええぃ貴様等、なんとする!それでも親衛隊の精兵かッ!」と、于甫が呼ばわり剣を抜き、大上段に打ちかかり、
切り結ぶこと、三四合、あっという間に剣を払われ逃げ出す始末。都の混乱は言うに及ばず、反乱軍までも浮き
足立ち、これ幸いと皇帝の、門に向かって走り出す、ああ何と間の悪いのかその時に…
赤痢馬に跨った身の丈九尺、金と黒の鎧に身を包む、暴虐将軍斉苗その人が、門を入って来たのです。目と
目が合うや両雄は、駒を走らせ一騎打ち、九環刀と雌雄の剣が火花を散らし、巻き立つ闘気は天を裂く、皇帝軍
と賊軍の、総大将が二人して、掛値無しに歴史を変える、竜虎の闘いを演じ始めました。
斉苗突いては帝雌の剣でそれを受け、帝雄の剣で切りかかっては斉苗ひらりと身を避わし、互いの武芸と武芸、
胆力と胆力、秘技と奥義を尽くしあい、死闘を繰り広げる事百余合、流石の後威零皇帝の刃にも、疲労の色が写り
出し、それとは当に、反対に、斉苗の刃は戦えば戦うほど、打ち合えば打ち合うほどに覇気を増し、ここで好敵手と
晴れの一騎討ちをするが幸せと、唸りを上げて襲い掛かります。
嗚呼もし斉苗なかりせば、いやただ帰りが遅ければ、後の歴史は変わったろうに。前魏の第16代皇帝、後威零帝。
都岸安の雪の上、逆賊斉苗の刃の元に、奮戦する事三百六十余合、無念の血花を咲かせました。
この後満豪孟は斉苗の留守を突いて岸安に駆け込み、斉苗旗下の四天王と壮絶なる一騎討ちの末後威零帝の
甥、同帝を救い出し、帝位に就け。陳沈はあくまで凶賊斉苗と戦って、刀は折れて矢は尽きて、伝家の宝剣八退剣を
背貢須に託し、道卓の許に走らせて、斉苗の刃の下で朱に伏し。万迎は程操、班鄭と共に、満豪孟の侵攻に乗じ、
都岸安を三騎で脱出するその際に、背に三本の矢傷を受け、遂に帰らぬ人となり。雲項、雲智の兄弟は、前魏の
文官の内、目端の利いたる者数名を連れ立って、これまた満豪孟の侵攻に乗じ、都岸安を抜け出す事になるので
ありますが、それはまあ次の話。次回、「雄競興義兵 苗都下病巣」を請うご期待。
…本当は
左 魏 皇 袁
右 国 帝 如
弗 且 弑 誘
貪 崩 逆 苗
生 当 賊 乱
袁如が苗の乱を誘い、
皇帝は逆賊に弑された。
魏国、且に崩壊せんとする時に、
側近に生を貪る者など居らぬ。
…こんな事言って陳沈、万迎、満豪孟と斉苗が戦って、袁如の軍もそれに加わり斉苗が都落ちするまでを書こうかと
思ったが、体力が切れた…。
登 場 人 物
反乱軍
斉苗:乱の首謀者、親衛隊長にして最強の武人。 統:93 武:100+5 知:57 政:34 魅:94
赤痢馬:退却確実、「強行」付加 九環刀:武力+5
腐美人:斉苗の妻で、悲劇の引き金となってしまう。
于甫:斉苗の側近。斉苗の最大の理解者。 統:72 武75 知:67 政:74 魅:78
皇軍
士多具:後威零帝。聖剣「根同霧」を片手に自ら戦う勇者。 統:95 武:95+7 知:78 政:81 魅:97
雌雄一対の聖剣:武力+7、一騎討ちの際ダメージ減少
諸除徹:後陳の忠臣、温厚な性格のお人好し。 統:42 武:40 知:74 政:78 魅:96
諸除索:後陳の忠臣、諸除徹の息子。 統:68 武:53 知:73 政:72 魅:87
良孔:後陳の忠臣、後威零帝の懐刀。 統:78 武:79 知:64 政:63 魅:74
良継:後陳の忠臣、良孔の息子。 統:82 武:83 知:69 政:41 魅:72
憂国の士
陳沈:後陳の忠臣、勇敢なる陳歩の父。 統:77 武:76+5 知:76 政:78 魅:79
八退の剣:武力+5
道卓:陳沈の盟友にして、最も信頼した部下。 統:87 武:96 知:67 政:65 魅:76
背貢須:陳沈に仕える兵法の師。陳家譜代の臣。 統:89 武:92 知:65 政:74 魅:74
万迎:後陳の忠臣、知友兼備の万黄の父。 統:74 武:79+5 知:64 政:62 魅:76
姉留苦の剣:武力+5
程操:万迎の部下、智謀に優れる。 統:78 武:55 知:54 政:62 魅:77
班鄭:万迎の部下、武勇に優れる。 統:78 武:55 知:54 政:62 魅:77
雲項:負けず嫌いで我侭な戦馬鹿。 統:78 武:55 知:54 政:62 魅:77
雲智:政務、外交を得意とする雲項の弟。 統:86 武:51 知:78 政:89 魅:75
その他の登場人物
袁如:最凶最悪の悪臣にして、諸悪の根源。 統:78 武:35 知:87 政:92 魅:32
殷蘭:利に溺れ、保身に走る悪徳宦官。 統:4 武:1 知:9 政:84 魅:3
殷抗:利に溺れ、保身に走る悪徳宦官。 統:7 武:3 知:87 政:1 魅:2
魯出:兵法の大家、前魏の騎上位大将軍。 統:68 武:83 知:78 政:75 魅:61
訂正
×さざ反旗を翻すその時は、
○いざ反旗を翻すその時は、
×大上段に打ちかかり、 切り結ぶこと、三四合、
○大上段に打ちかかり、 切り結ぶこと、三、四合、
282 :
1/3:2006/02/05(日) 22:31:23
岸安事件
親衛隊隊長の斉苗が後威零帝を殺害した事件。前魏崩壊の引き金となった。
御羽射党の乱は鎮圧したもののその時に後威零帝と親衛隊長斉苗の間に回復しがたい溝が出来た。
さらに悪いことに御羽射党の乱と曹賈の乱の混乱の中から大きくなった範斉率いる範が独立。
前魏の南方方面軍を吸収、巨大化し南部制圧に乗り出した。
もはや厨華の秩序は音を立てて崩れ去ろうとしていた。それでも後威零帝は前魏を守るべく
総勢50万の討伐軍を編成。先鋒に騎上位大将軍魯出率いる前軍17万、正上位大将軍鍾 秀玄率いる中軍20万、
そして後威零帝自ら率いる9万で範を討つこととなり11月末に前軍、12月初めに中軍が出立した。
後威零帝自ら率いる9万の出立の前日、中軍20万が袁如に乗せられ離反し岸安に向かっているとの報が入った。
後威零帝は即座に逆賊を討つことを決断し後軍9万の内8万を諸除徹、良孔に任せ、自らは親衛隊5400と4600の精兵を率い岸安に布陣した。
さらに前軍の魯出にも急使を送った。だがこれが最前線で範と戦い始めた彼に届くことは無かった。
中軍20万は輜重隊が中心で実戦部隊はほぼ同数だったことや、
鍾 秀玄が袁如に説得されたとは言え前魏に反旗を帰すつもりは
さらさらなかった(後に鍾 秀玄は「帝を殺す計画だとは思っていなかった。退位させ、正しい道を行く帝を就けると思っていた」と述懐している。)
事もあり、戦意に乏しく、簡単に鎮圧出来るものだと思われていた。
が、その読みは外れてしまう。突如として斉苗が反旗を翻し、8万の軍に後ろから襲い掛かったのだ。
数日前に斉苗の妻腐氏が誘拐し犯されると言う事件があったが、その犯人が後威零帝だと袁如に吹き込まれたが故と言われる。
冷静に考えれば美人を好む後威零帝が絶世の不美人腐氏を襲うはずは無く、袁如の計略と分かるのだが猪武者の気がある斉苗にはそれがわからなかった。
わずか4500であったが諸除徹、良孔率いる8万を容易く撃破。転進し岸安の帝の軍に迫った。
283 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 22:33:03
●肥の「陳国史\」シナリオ別の選択できる勢力
【シナリオ1(曹賈の乱)】
前魏 曹賈
【シナリオ2(大乱世の到来)】
満豪孟 斉苗 雲項 御主 田代 蔡晩 範斉 鍾秀玄 金之貌 鎮侯 魔羅
【シナリオ3(陳歩初陣)】
満豪孟 斉苗 雲項 御主 田代 蔡晩 金之貌
【シナリオ4(梅武の野望)】
満帝国 斉帝国 雲帝国 陳帝国 田代 燭姦
【シナリオ5(万黄処刑)】
満帝国 雲帝国 陳帝国 斉天桓 于甫甫
【シナリオ6(陳歩追放)】
陳帝国 雲帝国 後満帝国
>>282 わり込んでしまった。スマン!悪気はなかった。
今更だが水滸伝モチーフにした方がよかったかもな
286 :
2/3:2006/02/05(日) 22:53:18
後威零帝は散り散りになり100しかいない手勢で襲い掛かってきた斉苗率いる4500に対しよく耐え抜いた。
帝が討ち取った兵の数は100を軽く越え、手勢の100も奮戦した。
斉苗の腹心于甫も前線に出て帝と打ち合ったが3、4合で打ち払われた。
が、現れた鬼神斉苗の前に前魏屈指の剣豪として知られた帝も360合余り打ち合った末敗れ、
皇帝に即位した年以来10年ぶりに降った雪の上に血の華を咲かせた。
その後の混乱の中、後に独立し厨華狭しと暴れまわる群雄の動きを簡単にまとめる。
満:初代満皇帝となる満豪孟が幼い帝の子、後の同帝を連れ北に逃げた。万黄の父万迎死亡。
雲:たまたま岸安に居合わせた南部の豪族雲家の項、智が有能な文官を保護し本拠に戻った。
陳:陳歩の父陳沈が斉苗と20合打ち合って死亡。
斉:斉苗が後威零帝の甥を皇帝に勃てたが袁如らにより廃される。危険を感じた斉苗病巣に逃亡。
前魏:斉苗により廃帝が勃てられたが一ヵ月で廃され、代わって施閥帝が勃つ。
その他:魔羅が液京に逃亡。
範斉、常用一帯を完全制圧。
魯出軍一時的に知漢(ちかん)に拠り独立。
このほかにも北方で異民族による侵入が激しくなるなど、本格的に乱世が到来した。
287 :
3/3:2006/02/05(日) 23:04:37
この事件が起こした波紋は厨華のみにとどまらず周辺にも波及した。
南方進出を志した風族が目の上のタンコブ秋葉族と対立を始めたのもこのころであるし、
倭国人にも厨華進出を志す王が現れたりした。
エローッパでは東部の財政を支えていた前魏との貿易が止まり、東部の財政状況が悪化。
新しい貿易ルートを巡り石鹸王国との対立が激しくなり始めたのもこのころである。
とにかく、斉苗の私怨が引き起こした岸安事件は弱っていた前魏にとどめの一発
を打ち込んだことは間違いない。たった一人の私怨が歴史を大きく動かす事もあるのだから不思議なものである。
賈于覇(かうぱ)
陳国の将。南蛮夷平定戦に先陣として参加。
南蛮夷平定戦では、不江羅血王、伊魔羅血王の「吸引の計」による猛攻を受け壊滅寸前の軍を
よく支え、陳歩の「沙亜面埋伏の計」による反撃の好機を演出する。
途中彼は南蛮の猛攻の前に何度も逝かされそうになるが、その度剣に付いた玉飾りを
引っ張り気合を入れ奮戦した。
戦いの後賈于覇はおびただしい量の汗を掻いており、その姿を見た陳歩は、
「よく南蛮の猛攻を耐え抜いた、賈于覇の汗こそ我慢の証、まさに我慢汁よ!」と褒め称えたといわれる。
>>280 班鄭などの能力が明らかにおかしいのだが
班鄭といえば猛将 華由威(かゆい) を討ち取ったシーンが最高にかっこいいよね。
「あのような小物相手に防具など不要」って言って、裸で、しかも一撃で華由威倒しちゃうんだもんな〜w
華由威の首を携え陣に戻ったとき、脱いだ下着にまだぬくもりがあった、っていうんだから恐れ入る。
みんなGJ。だんだん陳国時代の幕開けが明らかになってきましたね。
このスレに出会えてよかったよ。
どうみてもコピペです。本当にありがとうございました。
程操:万迎の部下、智謀に優れる。 統:76 武:78 知:81 政:78 魅:72
班鄭:万迎の部下、武勇に優れる。 統:92 武:88 知:62 政:43 魅:83
ちなみに、修正前の能力は雲項の能力値(汗
諸除徹(しょじょてつ)
字は明伝(めいでん)。前魏の正上尉で後威零帝の腹心。諸除易の祖父にあたる。
孫の諸除易とは違い、ひ孫の諸除波華のように温厚で慎み深い性格であった。
人と人との間を取り持つことが得意で、彼が仲裁に入ればどんな争いも瞬く間に終結したと言う。
その功を称えた後威零帝が「安囲安明伝(あいあんめいでん、「安囲を安んぜしめる明伝」の 意)」
の称号を贈ったほどであった。
斉苗と帝を仲直りさせようとしていたが、袁如の妨害に遭いそれが叶うことはなかった。
岸安事件では官軍8万を良孔と共に率いたが斉苗の強弓から放たれた矢を受け絶命。
諸除索(しょじょさく)
字は侯戒(こうかい)。諸除易の父で前魏の前座尉。
血気盛んな性格で、冷静沈着で冷たすぎるところがある息子とは対照的である。
初陣となった岸安事件において斉苗の放った矢を受け絶命。
良孔(りょうこう)
字は世明(せめい)。前魏の後背位大将軍で良辱の祖父。
買官制度を使いこの地位に就いたが、地位に見合う人物になるための努力を欠かさなかった。
曹賈の乱、御羽射党の乱においては北方において乱に乗じて闖入してきた異民族を撃退。
後威零帝も当初は軽んじていたが、自己研鑽を続け成長し、功績を挙げた彼を高く評価して、
「全ての将、いや全て官吏は彼のようにあるべし。」と群臣の前で称えたという。
岸安事件において鬼神斉苗に挑みかかったが敗れて死亡。
良継(りょうけい)
字は命続(めいぞく)。前魏の風紀将軍(雑号将軍の一つ)で良辱の父。
初陣は御羽射党の乱で、北方警備に当たった父に従い転戦。
その功績を帝に認められ六十五斤の大鉞を下賜された。
岸安事件において鬼神斉苗に挑みかかったが敗れ、逃げようとしたが斉苗に追いつかれ死亡。
華由威(かゆい)
前魏の将。斉苗の部将で、岸安事件のころに梅読、輪鋲、衛厨(えいず)、韓燕(かんえん)らともに
「斉苗五本槍」*と謳われた猛将の一人。得物は七十斤近くある大剣。
岸安で班鄭に討ち取られた。
*「斉苗五本槍」とは、斉苗が親衛隊時代に小隊長を任せていた猛将五人のこと。
その後華由威が岸安で戦死し梅読・輪鋲・衛厨・韓燕が「斉苗四天王」を名乗ったが
衛厨・韓燕が荷洋族の経瑠辺洲・倉観路吾に討たれ一時的にこの呼称は消滅。
その後経瑠辺洲・倉観路吾が帰順。彼らは斉のために奮戦し多大な功績を挙げたため
新たに梅読・輪鋲・経瑠辺洲・倉観路吾を称して「斉苗四天王」と呼ぶようになった。
衛厨(えいず)
斉の将。「斉苗五本槍(後に四天王)」の一人。八十斤の大斧を小枝のように振り回す猛将。
荷洋族の戦士倉観路吾に討たれた。
韓燕(かんえん)
斉の将。「斉苗五本槍(後に四天王)」の一人で、二槍の使い手。
荷洋族の戦士経瑠辺洲に討たれた。
梅読(ばいどく)
斉苗配下の将。
「斉苗五本槍(後に四天王)」のひとり。得物は片方で五十斤ある双戟。
第二次鎮江攻防戦で兵糧庫を守るが油断して酒宴をしていたところを
満軍に急襲され兵糧庫を奪われ敗戦の原因をつくる。
満軍の捕虜となり鼻を削がれた後斉苗のもとに送り返されるが、
敗戦の責を問われ処刑される。
輪鋲(りんびょう)
斉苗配下の将。「斉苗五本槍(後に四天王)」の一人。
双剣から繰り出される華麗な剣技を武器にする。
同僚梅読とともに斉苗に従い各地を転戦した。
武勇に優れ、陳軍の誇る猛将達を手玉にとる活躍ぶりで
あの陳歩をして
「斉苗ばかりか輪鋲までも相手にしなければならないとは…」
と嘆かせたほどの猛者であった。
医学の心得もあり、性病に苦しむ主君、斉苗の治療にあたったのは彼である。
主君の死後は野に下り、斉苗から与えられた邸宅を斉苗家(せいびょうか)と名付け、
そこで性病に苦しむ人々の治療にあたった。
倉観路吾(くらみじあ)
斉・後満の将。得物は十一尺以上ある長槍。
北方の荷洋族の戦士だったが斉苗の人柄に惚れ親友経瑠辺洲(へるぺす)とともに帰順。
輪鋲・梅読・経瑠辺洲らと「斉苗四天王」と呼ばれ恐れられた。
斉苗の死後は公子斉天桓の腹心となり後満の将として活躍した。
満満の死の前年に荷洋族に討たれ戦死した。
経瑠辺洲(へるぺす)
斉の将。得物は五十斤以上はある方天画戟。
北方の荷洋族の戦士だったが斉苗の人柄に惚れ親友倉観路吾(くらみじあ)とともに帰順。
輪鋲・梅読・倉観路吾らと「斉苗四天王」と呼ばれ恐れられた。
郁々の戦いで戦死した。
陳国志艶義 巻之八 「雄競興義兵 苗都下病巣」
皇帝陛下が弑された―――。この、驚くべき報は、瞬く間に中華全土に広がりました。
至尊の皇帝が、腹心であるべき近衛隊長に弑虐された…。
この知らせを聞いた時、各地の英雄豪傑の内、あるものは喜び、あるものは怒り、あ
るものは哀しみ、ある者は楽しんだと申します。が、反応こそ違えれども、それらの英雄
が、それぞれ予感していた物―――それこそ、大乱世の到来でありました。
「へ…陛下が…嘘だ!嘘だといってくれぃ!嫌じゃ、私は…私は信じたくないッ!おおお…」
ここにも、帝の死を、哀しみを持って受け取る英雄が一人。陳歩の父、陳沈その人で御座
いました。故郷へと帰る道卓を、岸安城外よりおよそ三十里、名も知れぬ小さな村落まで送
って行った直後の出来事でした。
「我が君!泣いている場合ではありませんぞ!」
「しかし、背貢須よ!我々が帝に受けた恩は山よりも重く、海よりも深い!これが…これが
悲しまずにおれるものかっ!」
そういって、なおも嘆き続ける陳沈。そんな陳沈に、背貢須が大喝一斉叫んで曰く、
「そんなに恩のあるお方の、敵討ちもなさらずに、何時までも女々しく泣いているおつもりで
すかッ!?」
その言葉に、英雄陳沈すっくと立って、
「その言、正に!ええぃ、姦賊め!討ち果たしてくれるわッ!」
と叫び、手勢を集め始めたのです。
「そうか…これで、新しい世が来るな…我が新しい世が!」
そして、ここには喜びを持って報を受け取る英雄が。後の満皇帝、北の豪族、満豪孟で
ありました。彼は、徐々に乱れる魏国の未来を読み取り、曹賈の乱の後にさっさと領国に
舞い戻り、兵を養い賢人を集め、天下の乱ぞ今や遅しと待ち構えていたのでありました。
「直ぐに手勢を集めぃ!斉苗を討ち果たし、天下に我等の大義を知らしめるぞッ!」
次々に集まる雑兵、郎党、譜代の臣。あっという間に二万の大軍を集めると、威風堂々
淮府の屋敷を後にしたのであります。
…そして、岸安にも、偶然英雄達が集っておりました。斉苗が、帝を弑して都に戒厳令を
布き、主たる豪族、文官を宮廷大広間に集め、帝の非と自らの正義を主張し、新たな帝を
立てようとしている、そのざわめきの中に、厨華の未来を左右する賢人勇者が浜の真砂の
様にたんまりと。
「…おい、知、見てみろよ…弁家の揮、挫に云家の虎、治…董棟に菊門、馬魏那…すげぇ
優秀な文官武官が蟻の様!まさに宝の山だなぁ…」
「正に…。しかし、彼らも斉苗に仕えねば、殺されてしまうかもしれませぬ…。」
斉苗が、広間から出て行った後のさわめき。その中で、自らの野望を温める一人の男が
おりました。姓を雲、名を項、字を勉費。誰もが、明日への不安と自らの一身の安否を思っ
ている時に、何を考えたのかこの男、天下取りの話を始めました。
「奴等をこの都から引っ張り出せば、…俺のような身分の軽い一兵士だって…天下は取れ
るかもなァ…!」
「し、しかし兄上!斉苗の見張りを抜ける事など可能ですか?また、彼らとて、我等に仕えて
くれるとは思えませぬが…」
そういって、いきなりの話に戸惑う雲知。しかし、雲項は静かに、そして、自信たっぷりに
言ったのです。
「まァ見てな…各地の英雄豪傑が、このまま黙ってはおるまい…時期に、ここの宝を奪いに
来るさ。俺たちぁそれに乗じて、この国一番の宝どもを横取り、という訳…。」
かくして、その日の夜から、岸安の中には密使が飛び交い始めました。その密使は、雲
項が同僚の兵士達を扇動し、脱出の手順と同調者を確保しに、夜な夜な走らせているもの
であったので御座います。
その、手紙を受け取った中にもう一人、身分決して重からぬ物ではありますが、その戦い
ぶりに惚れられて、帝が重用していた将が下りました。姓を万、名を迎、字は従隗。その手
紙を受け取るや、共に戦ってきた部下の程操、班鄭を呼び出して、荷造りに励みだしたの
で御座います。
「な、なんだと…袁如めが、『帝を弑した逆賊を討つ』と、岸安に攻め寄せてくるだと…」
そして、こちらは斉苗の屋敷。乱を唆した袁如が、攻めてくるというのですから、その怒り
と驚きは言うまでもありますまい。あわてて袁如からの竹巻を持って来いと叫びますが、肝
心の竹巻は既に灰となっておりました。袁如が、密書は読み終わった後即刻焼き捨てるべ
しと、書いて置いたからで御座います。
「謀ったな、袁如!」と、天に向かって咆えてみても時既に遅し。袁如は陳沈二千、満豪孟
二万の軍、その他雑多な諸侯の軍をも味方の軍に引き入れて、斉苗討伐軍を組織して、
その総大将に収まっていたのであります。対する斉苗の手勢は、歴戦の部下およそ四千を
除いては、ついこの間寝返ったばかりの信頼置けぬ雑兵が三万余りいるのみで、到底敵う
とは思われませんでした。
「よく来てくれた、魏の忠臣よ。」
岸安から隔たる事僅か十余里、討伐軍の帷幕の中で、袁如が諸将に語って曰く、
「先の帝は戦ばかり好まれ、民を苦しませ、私も彼を廃そうと思って兵を返した。しかし、い
かに暴虐であろうと、帝は帝。それを弑した逆賊斉苗は討たねばならぬッ!」
袁如得意の弁舌が冴え渡ります。それを聞く、諸侯の顔は、ある者は笑み、ある者は怒り
に歪み、ある者はただただ状況に飲まれるばかりで何も出来ず。その日は作戦会議も碌に
なされず、酒を酌み交わしただけで自らの陣に帰って行きました。
「あの聡明なる陛下を暴虐とは…袁如こそ、暴虐の主であろうに…。」
岸安を取り囲むように布陣する、斉苗討伐軍三十万の大軍の、後備えに陳沈の姿が
御座いました。
「おそらく、此度の事にも袁如めが関わっておるのでしょう。…しかし、袁如が斉苗討伐を
天下に唱えて挙兵した以上、我等が袁如を攻撃する事は出来ませぬ…。」
陳沈の隣に控える背貢須も、口惜しそうに漏らします。
「むむむ…。」
天下の勇士、陳沈と言えど、大義なき戦は出来ません。口惜しそうに岸安の城壁を見つめ
るのみ。
「来い…烏合の衆め…目に物見せてやるッ!」
一方此方、城内の斉苗は、配下を配置につかせ、自らも戦装束に身を包み、一丈二尺、
九十五斤の九環刀をひっ掴み、腰には先帝がら奪い取った伝国の雌雄一対の聖剣を二本
刺し、赤痢馬に跨って、旗下の五本槍を呼び出して、後の守りを命じると、大喝一斉「開門」
と、雷声で呼ばわって、門が開くや開かぬうち、配下の精兵三千の、騎馬集団の先頭に、威
風堂々立ち駆けて、まるで疾風(はやて)か烈風か、瞬く内に、討伐軍の前線に押し寄せて
いたのであります。
袁如の策に乗せられた事も、袁如が妻を策の出汁にした事も、今は全て知った斉菅栴、
竜虎も鬼神も忽ちに、震え上がる大声を、わっと上げた、その時は、既に討伐軍の雑兵数名
に、冥土行きの片道切符を配り終えたところでありました。
「すわ!敵の総大将斉苗自身が襲い掛かってきたぞ!」と、味方に叫んで知らせた主は、今
は動かぬ冷たい骸。三千と三十万の兵力差、百倍となるその差にも、斉苗旗下の精兵は、
怯えもせずに、突入し、かたや多勢を頼んだ討伐軍、鬼神と敢えて戦うと、進み出る者殆ど
おらず、進み出でたその者も、あっと言う間に首となり、十合以上戦える者に至っては、一人
も居りませんでした。斉菅栴の突撃を、まともに受けた討伐軍、大将袁如の求心力の無さま
で災いし、遂には蜘蛛の子を散らすように、命あっての物種と、名々逃げ出すありさまに。
向かうところに敵は無し、三十万の大軍も、まるで荒野の枯れススキ、九環刀と雌の剣を、
両手に持って振り回し斉苗は、見る見るうちに討伐軍の、中備えへと、掛かり行く。っとその
時に、「ええぃ者ども情けなや、斉苗一人に功名成させて恥ずかしくはないのか!」と、大喝
一斉走り出る、その旗印こそ、かつて前魏の都であった明日部巣都の現太守、三万の精兵
を連れ駆けつけた、姓名襄横、字を弊寡とその勇臣、栄素、栄務の二兄弟。
「斉苗推参!出てまいれ!」と呼ばわる声も勇ましく、栄素、栄務は斉苗に、太守襄横は
斉苗の側近于甫にそれぞれ挑みかかるが、流石の斉苗、敵の猛将二人を相手に回して落
ち着き払ったもの、二十余合で栄務を追い払い、三十余合で栄素を馬上から叩き落して生
け捕らせ、さっと手綱を返して自慢の強弓に長矢をつがえ、逃げる栄務の馬を射殺して、こ
れも忽ちのうちに生け捕らせると、于甫と戦いを繰り広げる襄横の許に駆け寄って、いやっ
と一声、之を九環刀の峰打ちで殴り殺してしまいました。
襄横軍は逃げ散って、袁如の狼狽は猶も酷く成り果てます。袁如は慌てて副将の単蒋、
曹朗、志郎途三将を、斉苗に向かわせますが全く歯が立たない。単蒋は即座に唐竹割り、
曹朗はすれ違いざま顔面を、左拳で殴りつけられ落馬して、志郎途に至っては斉苗の恐ろ
しさに震えきり、大喝一声貰っただけで手綱を返し、逃げ出してしまいました。斉苗はその
まま中備えを蹂躪し尽くし、袁如の本陣に走りかかります。そこへ腕に覚えの背貢須が走り
より、三十余合打ち合いますが、手にした槍を叩き折られ、あえなく後備えに逃げ帰ります。
「敗れました!流石は斉苗、恐るべき敵で御座います…。」
全身汗にまみれ、息も切れ切れに、戻った背貢須が陳沈に言います。袁如の本陣は最早
総崩れ、袁如も身一つで早や逃げ出し始めているところで御座います。
「最早この戦、我が軍の敗北は明白で御座います!我が君も、早やお逃げ伸びを!」
そう言って、陳沈を逃がそうとする背貢須ですが、陳沈は首を縦には振りません。しばし沈
黙した後に、腰の名剣八退の剣を背貢須に渡しながら曰く、
左 魏 皇 袁
右 国 帝 如
弗 且 弑 誘
貪 崩 逆 苗
生 当 賊 乱
(袁如が苗の乱を誘い、皇帝は逆賊に弑された。魏国、且に崩壊せんとする時に、側近に
生を貪る者など居らぬ。)
泣いて止め、陳沈が死ぬなら私もと、手綱に縋る背貢須を、息子を頼むと説得し、背貢須
の剣を貰い抜き、決死の覚悟で斉苗に打ちかかる陳乙規。前魏の混乱の中、命をかけて
先帝に尽くした英雄の、最後の姿で御座いました。「魏事録」の記す所によりますれば、最初
貧相な陳沈を舐めて掛かった斉苗も、一回りも二回りも巨大に見える気迫に驚いて、「決死
の敵に全力を出さぬのは失礼に当たる」と言った後、雷光一閃、二十余合の打ち合いの末、
陳沈を切り捨てたそうで御座います。
三段備えの陣は崩れ去り、数多の英雄豪傑が討ち取られ、袁如の命も風前の灯火となっ
たその時に、急に岸安にて喊声が沸き立ちました。討伐軍の左翼を構成していた満豪孟の
二万の兵が、斉苗の目に留まらぬように戦場を迂回して、岸安の城門を打ち崩し切り込ん
だのでありました。その声に驚き、戸惑う斉菅栴、さっと軍を返して岸安に駆け戻って行きま
した。虫の息の討伐軍も、これを見てわっと岸安に押し寄せたから堪まりません、都岸安は
瞬く内に混乱の巷と化してしまいました。
一方此方は満豪孟。戦鼓を打ち鳴らし、岸安に押し入って、瞬く間に宮廷を征圧してしま
いました。斉苗五本槍も必死に防戦しましたが、以前から付き従う精兵は殆どが斉苗と共
に最前線に出てしまい、岸安に残されていたのは五百余り。先頃降ったばかりの雑兵三万
は足手まといにはなれども戦力とはならずといった感じで、ずるずると岸安中央から、押し
出されてしまっていたのです。こうして、先帝の幼い皇太子を保護し、岸安も半ば征圧した
満豪孟でしたが、その頃彼は、戦勝を楽しむ所か大いに狼狽し、慌てふためいていたの
です。
「よっしゃ!泰周!狗彩!丹応!伊修!放屁!今の内に文官先生達を逃がすんだッ!」
ここに、満豪孟をして狼狽させた男がいる。岸安土着のならず者にして、野心溢れる無法
者。戦が起こるや同郷親族の脳筋不良達を纏め上げ、帝の軍に仕官した雲項である。
「先陣はもう出立した。我等も早く追わねばな。」とは泰周。
「さっさと行くぜぇ、遮る者は皆殺しにすりゃあいいんだ!」とは狗彩。
「慎重には慎重を期した方がいい。放っておいた斥候を待とう。」とは丹応。
「本当に逃げられるのか…?まぁ、俺は人生お前に預けたが…。」とは伊修。
「派手にブッ放せ!」とは放屁。
一族の荒くれや斉苗に愛想を尽かした兵士の前で、雲項ひらりと馬に乗り、剣を抜いて
天に掲げ、大音声で演説を語り始めて曰く、
「聞け!私は一族や村の荒くれ二百を兵として集め、帝の軍に仕官した!しかし、私は未だ
に一兵卒である!我等は帝に従い多くの手柄を立てた!平原で!街道で!山岳で!草
原で!凍土で!砂漠で!海上で!洛中で!泥中で!湿原で!この地上で行われたあり
とあらゆる作戦行動において先陣を切ってきた!しかし、私は未だに一兵卒である!我
々は、職分を守り、目上の者を尊敬し、帝に敬意を払い、魏の為に粉骨砕身働いてきた!
やましい物など何も無い。しかして、邪悪の権化袁如は高位に上り、金のあるものは功無
くとも官位を買い!そして、私は未だに一兵卒である!諸君!もはや魏の天運は尽きた!
例えこの混乱が落ち着こうとも、袁如居る限り天下は収まらず、功あるものは泣き寝入り
をさせられる!聡明なる先帝が、我等の功を知りながら之を握り潰したのだと思うか?否、
我等が袁如に賄賂を遅れるだけの財力が無かったから、袁如が功を帝に知らせなかった
のである!この先、いかに聡明な帝が勃とうとも、袁如居る限り結果は同じであるッ!
…我等は、この腐敗の都、岸安を去り、新天地を見つけ、開拓し、新たな天下を作り上げ
るのだ!このままでは我等は追い詰められる!我等の運命は、利用されてドン詰まりに
落ちるだけのものではあってはならない!不運と袁如に追いかけられ、不運詰まりになる
前に、自らの官朝を手に入れるのだッ!」
大歓声。これぞ正に大歓声。実に僅かな手勢だが、岸安を走り回る他のいかなる勢力の
喊声よりも、大きな歓声であった。次の瞬間には、雲項は馬を駆り、馬車の先頭に立って斉
苗、満豪孟等の封鎖線を破りにかかっていた。狗彩が駆け、放屁が飛び、丹応は状況を見
極め、伊修は敵を見事に食い止め、泰周は馬車に一兵の敵兵も近づけぬ。雲知は一団の
断を下し、雲項は馬車隊の先頭で、早くも次の時代の夢を描いていた…。
「あっ!」
突如、隊の最後列の馬車が倒れこみました。車軸が折れたようで御座います。之を捕らえ
よと次々群がる敵兵を、泰周がちぎっては投げ、ちぎっては投げますが、如何せん、馬車本
隊と落伍馬車の間はどんどん広がり、泰周も落伍馬車一つに係きりにはなっていられなくな
りました。
「ええぃ、どうするか…。」と泰周が、頭を抱えたその時に、「ここは我等に任せられい」と、駆
けつけた騎馬武者三人、万迎、程操、班鄭の三人で御座います。彼らも岸安から雲項達と
共に、逃げ出すところで御座いました。
「すまぬ。」の一言言い残し、泰周早くも走り去り、前の馬車隊の許に駆けつけていきます。
万迎、程操、班鄭の三雄は、倒れた馬車を放棄して、中に乗った菊門、馬魏那、そして先の
乱において一家の主と大黒柱を一度に失った諸除の一家を、徒歩で逃がし始めたので御
座います。
しかし、文官達の煌びやかな朝服は雑兵達の目を引いて、わんさわんさと敵を呼び寄せ
てしまいます。武官ならともかく、文官の彼らには、雑兵といえども手強い相手、これは逃げ
られぬと諦めかけてしまいます。そこへ程操、班鄭が現れて、おもむろに服を脱ぎだして、
「さぁ、この身分軽き武官の鎧衣服なら、敵も余り構わぬでしょう。」と、脱いだ服を差し出し
ます。菊門、馬魏那も、急いで服を脱ぎますが…
「まてそこの敵ども!」と、斉苗配下の猛将華由威が追いついてきたではありませんか。
「これで命運尽きたり!」と、菊門、馬魏那は驚き、嘆きますが、班鄭はいと落ち着き払った
もの、「なに、ご安心めされよ、私が討ち取ってまいります。」と、一糸纏わぬ姿のまま、馬に
ひらりと飛び乗って、「そんな姿で、危ないぞ!」と止める程操に「あのような小物相手に防具
など不要!」と言い放ち、華由威に向かって馬を走らせました。
笑ったのは華由威。「なんだ、裸の木っ端武者が猪突してくるわ。」と、完全に班鄭を舐め
きって、自慢の七十斤の大剣を、悠長に大上段まで振り上げます。一方の班鄭は一刻も早
く華由威を片付け先に進みたい所。えぃゃっと掛け声一声、華由威に突きかかります。その
槍のこなしを見た華由威、しまった、之は只者ではないと後悔しても後の祭り、班鄭の槍先
にかけられて、一撃の下に絶命してしまいました。
華由威の首を携えて、主前に戻った班鄭に、万迎は「いや天晴れ、真お主は全身しなや
かじゃ!」と声をかけ、班鄭も「相手が小物だったので早片が付きました。」と謙遜し、先程
菊門が脱いだ朝服を身に着ければ、珍しく岸安に雪の降る日だったにも関わらず、まだ下
着にぬくもりが残っていた、それだけの早技だったので御座いました。
しかし、之に怒ったのが華由威の手勢、「主君の敵討ち」とばかりにしつこく迫り、矢を乱
れ撃ちに撃ちかけます。三雄も必死に之を防ぎますが、多勢に無勢、遂には万迎が矢を
浴びて、馬上から射落とされてしまいます。
「あっ!御主君の仇!」とばかりに程操、班鄭は雑兵どもに切り込みますが、之が付いては
離れ、離れては付き、いつまでも離れません。流石の程操、班鄭も、もはやここまでかと諦
めかけたその時に、今までどんなに追っても追っても付いて来た、華由威の手勢がさっと蜘
蛛の子を散らすように逃げ出したではありませんか。見ると、「満」の旗を掲げた一軍がやっ
て参ります。満豪孟の軍勢で御座いました。
岸安を落として皇太子を連れ出した満豪孟、しかし、肝心の人材には逃げられて怒り心頭
に発しておりましたが、将来のことを考えるならば少しでも人は多い方が良いと、逃げた万
迎、程操、班鄭や、菊門、馬魏那、諸除の一家を馬から下りて慇懃に迎え、馬車に乗せると
「袁如に腐らせられたこの都は捨て、皇太子陛下は私が保護する。」と言い残し、そのまま
岸安の遥か北、淮府の本拠に戻ってしまいました。
淮府へ戻る、道すがら、まだ幼い諸除兄弟を乗せた馬車の中。兄の幕は寝ておりました
が、弟の易は星を見ながら、諸除の家に代々仕える召使に問いかけます。
「父上は仁義溢れる大徳の御仁と呼ばれて、人に害を加えたことはないのに、何故殺され
たのか?」と。それに召使は答えて曰く、「乱世だからで御座います。この先、安囲なき乱世
になるでしょう。その時は、もはや仁や徳、安囲などは意味を持たない末世となります。徳を
持った者は殺されて、仁を持った者は、万迎殿の様に、人を守るために命を落とす事になる
でしょう。あのお方も大徳を持ちながら、いや、持っていたが為に、矢を三本もお浴びになっ
て、早晩命は絶えるでしょう。」と。その言葉が幼い易の心にどう響いたかは今となっては知
りようが御座いません。後に、自らの才を鼻に掛け、仕官もせずに全国を放蕩し、竹林山野
の賢人を次々と罵倒している時も、尿道炎に見出されて陳に仕官して、宮廷陣中何処に居
る時も、その名声は天に轟き、その悪評も地を駆け抜けた、稀代の謀士、諸除伯濁、齢四
の星空でありました。
「袁如が宮殿を占拠いたしました!」
「袁如が斉苗様を捕らえよとの命を出した由に御座います!」
「袁如が新帝を即刻廃し、追放した模様です!」
「逃げた者を追った華由威将軍が、謎の敵の猛者に討ち取られました!」
今や、斉苗の許には敗報悲報しか届かない。事此処に至ってはと、斉苗も都を捨てる決
意をし、生き残った全軍を集めると、身の危険を逃れるために、故郷、鋲荘へと落ち延びて
いきました。この鋲荘、土地は豊かでしたが、不思議と疫病が多く、後に大流行病に斉一族
までもが次々かかり、死に果てるに至って誰とも無く「病巣、病巣。」と呼ばれ始め、しまいに
は斉の公式文書でも「病巣」と書かれる様になったという、曰く付きの土地でありました。
かくして、世の戦乱は一層深まり、「群雄当割拠 雲項入勃沌」となるのでございまするが、
これはまた次の話、待て、次回!
…と、いう訳で誰か続きを書いてくれ!
雲項(うんこう)
雲国君主。かつて名族と言われたが南部の小豪族に落ちた雲家の庶流の出自である。
彼の一族は祖父の代から岸安郊外に居ついていた。人望はなかなか厚かったようで、
泰周、狗彩、丹応、伊修、放屁と言った雲を支える人材が彼の周りに集まっていた。
曹賈の乱、御羽射党の乱に義勇兵として参戦したが目立つところは無く一兵卒で終わるかに見えた。
が、岸安事件・範の台頭が彼の運命を変えた。岸安事件で朝廷が混乱している隙に
云家の虎・治兄弟など前魏でも屈指の人材をかき集め、勃沌太守をしていた雲家の嫡流を継ぐ雲快の元へと逃げのびた。
さらにその雲快が子を残さぬまま範との戦いに敗れ戦死すると、その敗残兵をまとめ範軍を撃退。
その功績のおかげで新たな勃沌太守に推され、その位を得た。その後反範斉連合軍の中核を務めるなど
帝国となる雲の基礎を弟雲智らと築き上げた。
負けず嫌いで我侭な戦馬鹿だったようで、名宰相弁揮が大賢人、務世を推挙した際に、
「君は天下の猛将なり」という所を、
「君は天下の盲腸なり」と言ってしまい、怒った務世に問い詰められ、
「何を言うとるか、盲腸はあれで一応役には立っている。無いよりゃましだろう?」
と開き直り、逃げられたという間抜けな逸話が残っている。
雲項の政治は情報公開が基本だったようだ。
腹に秘めることがなかったからこそ、
大朝のような不毛な地でも一国を維持できたという。
雲国の君主の運命か早死にする。
襄横(じょうおう)
字を弊寡(へいぼ?)。前魏の明日部巣都太守。
岸安での異変を聞きつけ急遽3万の大軍で岸安に駆けつけた忠臣。
斉苗に討ち取られた。
栄素(えす)
明日部巣都太守襄横の部将。得物の鉄鞭を振りかざし戦場で暴れまわった。
性格は残虐で拷問を好み、悲鳴を聞くのが何よりの楽しみだったという。
斉苗に敗れ生け捕りにされたが、斉苗に絞め殺された。
「殺すつもりはなかったがちと絞めすぎたか」と述懐している。
栄務(えむ)
明日部巣都太守襄横の部将。得物は大盾と小剣で、栄素との連携はなかなか強力であった。
性格は温和だが罵られたり打ち据えられたりするのを好み、わざと罪を犯しては
棒叩きの刑に遭いたがるなど奇行が目立ち、襄横も困っていたようだ。
斉苗に馬を射られ落馬し生け捕りにされたが栄素と同じように絞め殺された。
後に遺体を調べられたが、なんと死に際に射精していたのだ。
その死に顔はとても気持ちよさそうであったという。
「前魏志」にも于甫が「このような変態は見たことがない」と言い、呆れ果てたという記録が残っている。
単蒋(たんしょう)
前魏の将。奸臣袁如に小姓のごとく付き従っていた小物。
斉苗に乗馬ごと真っ二つに叩き割られた。
曹朗(そうろう)
前魏の将。曹賈の甥にあたる。買官制度を使って叔父ともども朝廷入り。
叔父が朝廷内で失脚した際、すかさず袁如に擦り寄り地位を確保したという。
斉苗の正拳で殴り飛ばされ落馬。打ち所が悪かったのか死亡した。
志郎途(しろうと)
前魏の将。親戚筋にあたる袁如の庇護を受け出世した。
斉苗の迫力に負け逃亡。その後王南一味と行動を共にしたが
結局王南一味を討伐しに来た斉苗に斬り殺された。
募(ぼ)じゃなくて寡(か)だよ。
王南一味(おうなんいちみ)
•王南 慰射(おうなん いいは字)
日本名は男何(おなに)。病巣郊外の寒村如涿(にょたく)の生まれ。
莚売りをしていたが、曹賈の乱に乗じて一旗揚げようと意気投合した麻須太・慈伊
と義兄弟の契りを交わした(有名な『桃尻の誓い』)後近所のならず者を纏め上げ曹賈の聖教軍に参加。
曹賈側の旗色が悪くなると曹賈・曹乳を斬り後威零帝の元に馳せ参じた。
帝は大いに喜んだが彼らに胡散臭さを感じ、官位はなかなか与えようとしなかった。
その後袁如に取り入って何とか県尉になるも、督郵に仕事をろくにせず配下のならず者
の乱暴狼藉を止めなかった事などをとがめられると督郵をつるし上げ滅多打ちにして惨殺。
その後流浪の傭兵団となり厨華を放浪。あらゆる国に迷惑をかけまくった。
兄弟の中では一番長生きし、令布の戦いの前年に満軍に捕まり車裂きの刑に処された。
•麻須太 勉諸(ますた べんしょは字)
日本名は桝多 勉諸(ますた べんしょ)。
王南の義兄弟。武勇に優れた豪傑。得物は八十斤ある性龍偃月刀。
厨華でも屈指の武勇と粗野な彼らの中にあって優れた知性を持ち、各国から引く手数多だった名将。
だが何故か王南の元を離れることは無かった。
性格は高慢で自己中とあまりよろしくない性格だがそれを知性で巧みに覆い隠していた。
雲軍の計略にかかり、弁城で戦死。
•慈伊 朱允(じい しゅいんは字)
日本名は治居(じい)。王南の義兄弟。力自慢の猛者。得物は挿膣蛇矛。
武勇のみを見れば斉苗にも劣らぬものがあるが、酒癖が悪く単細胞なため
言われるほど強くない。だが満軍10万を一人で押し返したという逸話を持つほど
当時彼の武勇は恐れられていた。酒の飲みすぎが祟り肝硬変で死亡。
王南、麻須太、慈伊らと『桃尻の誓い』で、
「我等おかずは違えどもイク時は同じ日、同じ時を願わん!」と誓いを立て、
義兄弟になり、盗賊団を結成して後は陳・雲・満など各国を酷く困らせた。
>>310 むむむ、寡と募を取り違えるとは…
襄横(じょうおう)
字を弊寡(へいか)。前魏の明日部巣都太守。
岸安での異変を聞きつけ急遽3万の大軍で岸安に駆けつけた忠臣。
斉苗に討ち取られた。
老子温(ろうしぉん)
『艶義』では予言や妖術で燭姦を助けたとあるが、
『精子』には・医者・錬金術師として陳・満国境付近に庵を置き、
付近の民のために尽くしたと記述がある。詳しいことは不明。
『艶義』の記述は創作であることはほぼ間違いない。
ちなみに老子は尊称で、本名は温宣、字を昆翼(おんせん こんよく)という。
満火素(まんかす)
満国の大将。満豪孟の兄だが有能な弟に頭が上がらない。
だが彼は暢気なところがあったため特に気にしていなかったようだ。
戦場でもヘマをやることが結構あったが、いつもどこかで帳尻が合うので誰も気にしていなかった。
陳軍に陥落された根同霧城を奪還せんとカントンに向かうも、尿道炎の伏兵に討ち取られた。
このときは帳尻が合わなかったようだ。
腐美人(ふびじん)
斉苗の正室。
屋追族の人、厨国三大醜女の一人。
たいへん醜い容姿だったが、ブス専であった斉苗に気に入られ正室となった。
虚言癖があり、「後威零帝に犯された」と出鱈目を斉苗に吹き込み岸安事件を引き起こさせた。
(この虚言癖についてだが何故か史書・小説によって記述が異なり、『下通鑑』、『艶義』などでは袁如一人が原因とされているが
ここでは虚言癖説を採る『精子』に準拠した記述なのでご了承いただきたい。)
岸安事件後、斉苗とともに病巣に移ったが、一ヵ月後に急死。
死後、不美人草になったという伝説がある。
狂劇や『艶義』では悲劇のヒロインとして美化されている。
袁如(えんじょ、養子時代は荘汝(しょうじょ))
字は公才(こうさい)。
岸安の没落貴族袁家の生まれ。幼いころから天才の誉れ高い神童であった。
十七歳と前魏の最年少記録で進士となり、十八歳の時に中出省に入官するも、
名族とは程遠い袁家の出自のため最初の五年は才能がありながら不遇であった。
十二代那明帝の治世となった二十三歳の時に溢れんばかりの才気を時の権力者荘如に見込まれ彼の養子となった。
(ちなみにその際、名前が同じになってしまうため汝と改名した。)
荘如の養子となってからはとんとん拍子に出世し、十三代異通帝(イッテイ)の時代に亜判(「アッハーン」)となった。
十四代槍帝(やりてい)は義父荘如とそれに連なる者を粛清・排除したが袁如は巧く立ち回り彼の腹心として活躍。
ついに文官の最高位宰相にまで上り詰めた。彼の本質が露になるのは十五代居怜帝(いれてい)の治世からである。
その後の動きは周知の通りだろう。
宮廷において賄賂を得て私腹を肥やし、腐敗を招く。
さらには袁如を真似る者も数多く、腐敗はますます酷くなる。
あまりに露骨で後先考えないそのやり口は多くの者から反感を買い、
結果袁如に関わった者の多くは、罷免される事となる。
(なお、袁如の進退は不明。一説には追求の手を逃れ、
余生を不自由なく楽しんで過ごしたともある)
しかし、悪政が正されるには遅すぎた為、各地に腐敗政治が蔓延する事になった。
平四遵(ペ よんじゅん)
前魏の属国、姦国(かんこく)の臣。
姦国(かんこく)を属国から抜け出させようと費一円(ぴいちえん)、蛆姫(うじひめ)、魚雲敏(ウォンビン)
らと画策し、前魏に工作員として侵入。
前魏の重臣於氾(おばん)を巧みな話術と類稀な容姿(精景の術使用済み)で虜にしたが、
袁如に計画を看破され費一円らともども釜茹での刑に処された。
彼らの煮汁は丁度前魏に来ていた姦国王に出された。
姦国王は恐怖のあまりその場で倒れ死んだという。
十六代後威零帝の気性の激しさを物語るエピソードである。
費一円(ぴいちえん)
姦国の工作員。失敗し煮殺された。
蛆姫(うじひめ)
姦国の工作員。不細工だったがゆえに工作対象の斉苗に惚れられた。
が、腐美人の不興を買い惨殺された。
魚雲敏(ウォンビン)
姦国の工作員。やっぱり煮殺された。
金日精(きんにっせい)
前魏・満の北朝太守。名城監禁城、要塞拉致関・手歩呑関・野呑関を築き上げ、
北方の首領様と呼ばれた男。性格は相当偏屈だが大らかというよく分からない性格で、
内政はからっきしだったが外政・軍事の才は確かなものであった。
後継者を定めぬまま死に、愚鈍に見えた長男金玉日(きんたまにち)を推す派閥と
聡明な次男金平玉(きんぴょんたま)を推す派閥が出来、一時的に内紛状態に陥れた張本人でもある。
結局満皇帝満豪孟の調停により長男金玉日が跡継ぎとなった。
金玉日(きんたまにち)
満の北朝太守。金日精(きんにっせい)の長男。将軍様と呼ばれた。
父によく似た偏屈な男であったが、大らかさが無く猜疑心の塊で、
聡明な弟金平玉を邪険に扱い、ついには憤死させている。
そのほかにも自害に追い込まれたり憤死した家臣は数知れない。
この男も後継者を決めずに死に、息子の金玉鉄・金玉男の間で跡目争いが勃発した。
金平玉(きんぴょんたま)
前魏・満の北朝太守金日精の次男。
邪険に扱い続けた兄への恨みを抱きながら憤死。
金玉男(きんたまお)
満の北朝太守。金玉日の長男。遊びほうけてばかりの放蕩息子。
陳の新出麗羅 城見物に赴き陳軍に捕まるなど奇行・問題行動をたびたび起こした。
秋葉族と親交が深く、弟金玉鉄から家督を奪う際に秋葉族の大軍を監禁城に招きいれ、
満皇帝満益を激怒させた。その一ヵ月後失湖率いる黄尿隊・赤尿隊・糖尿隊に
難攻不落の要害だった三関・監禁城をあっさりと抜かれ降伏。斬られた。
金玉鉄(きんたまてつ)
満の北朝太守。金玉日の次男。聡明で礼儀正しく、群臣に推されて太守となった。
攻め寄せてきた陳の猛攻をよく防いだが、家督を狙った兄が率いる秋葉族軍に殺された。
その後大混乱となった北朝は名将失湖に一ヵ月で占拠され、満帝国はまた要所を失ったのだった。
魏爾(ぎじ)
陳の文官。エーロッパの名門校、ペパーダイン大学で性治を学んだ天才として重用される。
彼は巧みなテクニックで一度も戦役に出ることなく、出世街道を歩んだ。
しかし、エロ−ッパ軍襲来時に捕虜の証言などから、ペパーダイン大学など存在しない事が露見すると
偽計の罪で斬首に処せられた。
まさに彼の成功は全部偽りのものだった、と言えよう。
何!?この超神スレ!!!!!!!!!!!!!!
姓を万(まん)、名を迎(げい)、字は従隗(じゅうかい、樹海)
いかけられ、不運詰まり(ふうんづまり、糞詰まり)になる前に、
和姦中著
『陳国志艶義』を読んで。
あと、陳国志大戦で斉苗の超絶号令「桃花散華す郁々の原」使われると100%負けます。
武力10に超絶強化は酷すぎ。斉苗死ねば強化された奴全撤退するし、効果時間が切れても
全撤退するけど、ダメ計の範囲内に入ってきてくれないし、二色デッキで知力強化かかって
るとホントにもう、何にも出来ません。助けて!
「性治」はそのまま政治のほうが良くないか?
それと、『陳国志艶義』の翻訳は誰
>>322 馬波の『艶義』は小川玉筋、金田玉一郎訳。
>>318 ペパーダイン大学・・・エローッパ?この設定アリなのかな
都市の位置関係はこんなもんか?
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※★公丸※※※※※※
※秋葉原※※※※※※※※奉桂丹※※生殖※※※※※※江備┃※※慰安府※※※
※※※○┓※※※二曾┏━━■━━━━■━━━┳━━━━■━━━▼┓※※
※※※※┃※※※※※■━┓※※鎮江┏━━━┳■渤海┏━┛※※※※┃※※
※※※※┃※※※※※┗┓┗━━━━■━┓※┗━━━■液京※※※ ┃※
※子瀬○┫※明日部巣都┃※※瀬宮州┃※┃┏━━━■┻━┓※ ┃
狂★━━┫※┏━━━━■━━┳━━■※┗■淮府※桃尻※┃※※ ┃
※荒縄┏○※┃※※処襄┃※┏■賜宮┗━━┫※※※┏━■┻━━━━┫
※※※┃┗━■━━━━■━┛┗━┳━━━■水仙※┃※雄南※※※ ┃
※※※┃※┏┛辺都※※┣━━━━■監禁※┃┏━━┛※※※ ┃
※※※┃※┃※※※満光■※※※※┗┓※※┗■病巣※※ ┏┛
※士瑁○━■覆城址※※┃常用※※※┃※※┏┛※※※※ ┏┛
※※※┏━┻┳━━━━■━┓※※※┃※※┃※※※※ ┏┛
※※※┃※※┗┓玉京┏┛┏▲泄州※■大朝┃※※※※ ┏┛
※桑埠●━━┓●━┳●━┫┗━┓┏┻━━▲┓岸安※ ┏┛
※※※┃童亭●┛※┃陰稽┃散華┗▲郁々※┃┃※※※ ┏┛
※斉濃●━━┛下夷●┓※▲━━┳┫※┏━┛┗▲━━━┛
※※※┣●屋追※※┃┗▲┛※※┃▲━┛※※┏┛呉※
※女岱○┃※※知漢●※┃雄南※┃勃沌※※※┃※※
※※※┃┣┓※※※┗▲┛※※※┃※※※梅春▲━━┓ (C)陳國志VIII
※本蛮★┛┃※※※包慶※※※※┃※※※※※┃※ ┃
※※※※※┗━━▲━━┳━━━┛※※ 越地★ ┃ 作成:入田木馬軍団
※※※※※万年緒城 ※┃ ┃
※※※※※※※ ┗━━━━━━━━━━━━┛
かなり無理のある配置だが。
賈于覇(かうぱ)
陳国の将。南蛮夷平定戦に先陣として参加。
始め斉苗の嫡子、斉司に仕え常に先鋒を務める。
斉司の死後野に下っていたがその忠義を惜しんだ陳歩は自ら賈于覇の元を訪れ仕官を勧めた。
斉司への忠誠心から仕官を固辞していた賈于覇だったが、
陳歩の(器の)大きさに感じ入り、以後陳歩の幕下に加わり数多くの戦で先陣を務める。
南蛮夷平定戦では、不江羅血王、伊魔羅血王の「吸引の計」による猛攻を受け壊滅寸前の軍を
よく支え、陳歩の「沙亜面埋伏の計」による反撃の好機を演出する。
途中彼は南蛮の猛攻の前に何度も逝かされそうになるが、
その度剣に付いた玉飾りを引っ張り気合を入れ奮戦した。
戦いの後、賈于覇はおびただしい量の汗を掻いており、その姿を見た陳歩は、
「よく南蛮の猛攻を耐え抜いた、賈于覇の汗こそ我慢の証、まさに我慢汁よ!」と褒め称えたといわれる。
>>324 過去ログやまとめサイトに記載されてる
しきり厨は逝けよw
>>327 言うとおりだが、穏やかにいこうぜw
検証する流れも大事だと思う。
つじつまが合わないところを上手いことこじつけたり、
どうにもならない矛盾はまとめサイトを訂正していただいたりして、
みんなの陳国志を創り上げていこう!
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 12:43:01
紀当(きとう)字は珍古(ちんこ)。
槍術の天才として知られている以外、文献には一切記されていない
人物。実在したかどうかも不明。
もうすこしひねろうぜ
鬼董(きとう)は既にいるし
万迎(まんげい)
前魏の忠臣。階級は膣金吾。知勇兼備の万黄の父。
岸安事件後の混乱のさなか矢を受け、その傷が元で死亡した。
腸雲(ちょううん)
王南一味のならず者。五外道大将*の一人で槍の使い手。
いつもは優男で一味の中でもまともな人間だが、
金・自分の命・女がかかると突如として悪逆非道のクソ外道になる。
康修(こうしゅう)
王南一味のならず者。五外道大将の一人で、
厨華屈指の腕を持つ弓と麻須太に劣らぬ剣技を誇る老人。
性格は意地汚く好色で、特に幼女を好み、見つけたそばから襲いかかる変態。
ちなみに下のほうは死ぬまで現役だったという絶倫爺さんだったため、
厨国ではいつまでも現役で変態の年寄りを「康修」と呼ぶ。
馬埜璃(うまのり)
王南一味のならず者。下夷の父と厨華の母の間に生まれた。
五外道大将の一人で馬上での武術に長ける。
性格は普通に見えるが、いい男を見ると戦場でも襲いかかる癖があった。
だが王南一味は誰一人として襲われていないらしい。相当な面食いだったようだ。
*五外道大将:王何配下のならず者の中でも選りすぐりの外道五人を指す。
筆頭は麻須太(インテリヤクザ)で、続いて慈伊(飲んだくれの博打好きで部下殺し)、
腸雲(とんでもない自己中)、康修(幼女専門強姦魔)、馬埜璃(男専門強姦魔)。
麻須太(ますた)
字は勉諸(べんしょ)。日本名は桝多 勉諸(ますた べんしょ)。
王南の義兄弟。武勇に優れた豪傑で五外道大将の筆頭。得物は八十斤ある性龍偃月刀。
厨華でも屈指の武勇と粗野な彼らの中にあって優れた知性を持ち、各国から引く手数多だった名将。
だが何故か王南の元を離れることは無かった。
性格は高慢で自己中とあまりよろしくない性格だがそれを知性で巧みに覆い隠していた。
得意技は理路整然とした嫌味で、これを聞かされるとどんなに前向きな人間でも後ろ向きになり、死にたくなるらしい。
雲軍の計略にかかり、弁城で戦死。
慈伊(じい)
字は朱允(しゅいん)。日本名は治居(じい)。
王南の義兄弟。力自慢の猛者で五外道大将の一人。得物は挿膣蛇矛。
武勇のみを見れば斉苗にも劣らぬものがあるが、常に酔っ払っている上単細胞なため言われるほど強くない。
さらに些細なことで部下を馬鹿力で叩き殺したり、部下の給料を強奪し博打に使うなど、
部下からの信頼は非常に薄かった。まさに外道である。
だが満軍10万を一人で押し返したという逸話を持つほど当時彼の武勇は恐れられ、
「百万の兵でさえ奴の前では女体を覆う薄布に過ぎない。但し酩酊していなければの話だが。」と言われた。
酒の飲みすぎが祟り肝硬変で死亡。
>>330-331 ・・・同意だな。
しきり厨とか言われてしまうかもしれんが、
新設定のレスは、まとめサイトを読み込んでからにして欲しいな・・・
まとめ人さんも悩んじゃうだろこれは・・・
魔羅(まら)
字は奴那(どな)。
前魏の忠臣。官職は立後背位将軍(三大将軍の一つ下)。
兵法に長けており、紙上の対戦では魯出・斉喬郁を何度と無く打ち負かした天才。
そのことから彼は「神手(しんしゅ、神のごとき一手を打つ男の意味)」と呼ばれた。
空義従(くうきじゅう)とよばれる精鋭騎馬隊を率いて曹賈の乱平定で活躍した将軍の一人である。
その際、鱒古見(ますこみ)という黄明武将を討ち取っている。
ただ実戦にすくみ上ったのか采配は滅茶苦茶で、
当時空義従隊長だった名将班鄭が上手くまとめ上げたというのが実情のようだ。
岸安事件後、厨国北方の液京(えきけい)を根拠地に軍閥化する。
液京太守を務めていた前魏の皇族を前魏十八代皇帝に擁立し国号「精魏」(せいぎ)とし、
自らは前魏相国・大便帥(だいべんすい)と名乗り、
逆臣斉苗討伐の精戦をおこしたが、愚将斉司にさえ惨敗する無様な有様であった。
1年半の戦いの後、斉苗に根拠地の液京を攻略され滅亡。
その後の魔羅はどこかに逃げ延び行方不明とも、斬首されたとも言われる。
資料が少ないためなんとも言いがたいが『精子』では一応行方不明となっている。
郭子呉(かくしご)という隠し子がいたらしい。
郭子呉(かくしご)
魔羅の子とも言われるが出生に関する資料が無く詳しいことは不明。
竹眉の七賢の一人で、哲学者として有名。詩も何篇か残している。
それはあったことのない父を探し慕う詩であった。父が恋しかったのだろうか…
それゆえか戦災孤児を積極に引き取り、彼らを一流の教養人に育て上げた。
女でありながら才気に溢れ、陳歩に愛された泡姫もその一人である。
積極に×
積極的に○
泡姫(あわひめ)
陳歩の不倫相手。当時厨華一とまで言われた美貌の持ち主。
一族郎党は黄明党に殺され、当時赤子だった彼女を拾った養父郭子呉のもとで
美しく成長し数々の典籍を修め、礼法にも通じ、稀代の才女と呼ばれた。
才人を好む陳歩が全てを放り出して愛したというのも頷ける。
陳歩との間に陳夏諏という子を授かる。彼もまた一流の教養人であった。
雲快(うんかい)
前魏の勃沌太守。かつての名家雲家の嫡流の生まれ。
雲項とは雲項の祖父と彼の曽祖父が兄弟と言う関係にある。
範公を名乗り独立した範斉に敢然と立ち向かったが周審景に討ち取られた。
彼には兄弟・子がなかったため、岸安から勃沌に避難してきていた庶流の雲項が彼の家を継いだ。
これが雲帝国の起こりである。
裴玩(はいがん)
荷洋族の戦士で芝居の親友。芝居と共に云虎に反抗し続けた。
芝居が四畳半の戦いにて討死すると、諦めたのか帰順した。
陳華洲(ちんかす)
陳国の名将。陳鎮の子で階級は正上位大将軍。
騎上位大将軍陳間等と共に陳の厨華統一に貢献した。
北方からの侵略者、華璃句美国の普吐魔羅将軍と幾度もの激戦を繰り広げる。
しかし、普吐魔羅配下の騎馬部隊の機動力にはずいぶん手を焼いたようで、
騎馬部隊が出ると陣に引きこもり防戦一方になった。
それでも北方民族から領土を守り抜き、時の御主から
「お主は北の守護神だな!」と激賞された。
陳が厨華を統一し陳帝国となった後も華璃句美国など北の異民族と対峙し続けた。
包皮(ほうひ)
字は咬理(かむり)。陳国の武将。
騎上位大将軍陳間等に従い、数々の戦いで武功を挙げた。
陳間等も「彼がいなければ私の功績も半減したことだろう」と最大限の賛辞を送った。
雲国に放屁という同音異名の武将がいる。
芝居(しばい)
云虎のライバル。
荷洋族の軍師格であったが厨原で生まれた厨華人である。
厨華人ということでなかなか信用されなかったが、
自ら先陣に立ち奮戦し信頼を得て、軍師格にまで上り詰めた豪胆な策士。
荷洋族討伐戦で雲軍に負け、蛮族荷洋の王・於湿胡は帰順するが、
芝居はあくまで抵抗したという。
四畳半の戦いにて奮戦するも討死した。
姉歯異(しばい)
字は厨達(ちゅうたつ)。
満国の技術士官。「不経済設計」で数多くの堅牢な城塞を築いた。
彼の建築物は某建築士と異なり耐震性に優れていたという。
だが骨組み、外壁でほとんどの予算を使ってしまうため、
内装は質素極まるものとなることがしばしばあった。
彼の設計により建てられた賜宮の宮殿も内装は最前線の城の様な内装だったと言う。
満豪孟は特に気にも留めなかったが、満益はそのことが不満で、彼を閑職に追いやった。
姉歯異はそれに憤慨し自害したと言う。享年五十四。
鍾 秀玄(しょう しゅうげん)
前魏の正上位大将軍。
性格は温和で人望も厚かったが優柔不断で馬鹿正直なところがあった。
そこを奸臣袁如に付けこまれ、範斉討伐軍で率いていた中軍20万の指揮権を
丸ごと奪われるという失態を犯す。このことが前魏崩壊一因であることは間違いない。
岸安事件の後、乱世を生き残るために軍閥政権として自立する。
周辺勢力と覇権を争ったが、満豪孟に根拠地を制圧され、その際に自害して果てた。
このことが前魏崩壊一因であることは間違いない。 ×
このことが前魏崩壊の一因となったことは間違いない。○
蔡晩(さいばん)
字は公正(こうせい)。前魏南方方面軍将軍周審景の部将だったが
温和な彼は残虐な周審景とはそりが合わず、周審景が前魏から離反すると
知り合いであった魯出の元へ向かい、彼の部将となった。
その後前軍総大将となった魯出に従い範斉討伐軍に参加。しかし岸安事件後の混乱の中
配下2000と共に孤立してしまった。だが南方では人徳者として名の通っていた彼は、
住民の支持を受け独立勢力の長として生き残った。反範斉連合軍では初代御主、雲項らとともに
連合軍の中核を務めた。範が倒れた後戦後処理を巡って初代御主、雲項と対立。
蔡を建国した。憲撮(けんさつ)便碁(べんご)らの活躍もあって、一時は雲・陳と互角に渡り合ったが
便碁が陳軍に討ち取られ結局2年で蔡は滅亡。彼は雲・陳軍の兵にもみくちゃにされ殺された。
遺体は骨さえも残っていなかったと言う。
憲撮(けんさつ)
字は迅紋(じんもん)。蔡国が誇る智勇兼備の将。特に攻勢においてその力を発揮した。
蔡滅亡後は下野し、山奥の庵で悠々自適の暮らしをしていたという。
便碁(べんご)
字は刻宣(こくせん)。蔡国が誇る智勇兼備の将。守勢において強い将であった。
攻め寄せてきた陳軍を押しとどめようと奮戦するが、若き天才・尿道炎の策にかかり
孤立し討ち取られた。彼が討ち取られたことにより、蔡の滅亡は確定的となった。
>>321 つ「輪姦の計」
つ「雲散夢精の計」
つ「珍妙なる反計」
つ「麻仁亜の大号令」
つ「勃起の大号令」
つ「卑屈な挿入」
つ「巨乳艶殺の計」
対抗手段はいっぱいあるよ。
ただ、最後は自身のコンセプトにあわせて組んだほうがいいんだけどね。
思い入れを込めて本番に挑んだほうが、手駒をしっかりイカせられるよ。
>>342 蔡晩は本来は軍人ではなかったのに、品行方正なところを買われて将軍職に就いていた人だからねぇ。
戦略よりも軍規を重んずるというのは、やはり君主の器ではなかったと思われます。
彼の功績は君主になったことよりも、後の残る訓辞「蔡晩書」を遺したことではないでしょうかね。
「感位(かんい)」「下剃(かてい)」「光頭(こうとう)」「妻口(さいこう)」の4編は、その後の軍事倫理に大きく影響しましたし、
性事の過ちを諌めるたびに引用されることも多かったようです。
目録の上では上記の4編のほかにも「男害(だんがい)」などの書もあったようですが、現在では散逸しております。
その後も、「幻の蔡晩書」と名乗る偽作が歴史上に数多く現れては消えました。
中には、偽書にも関わらず人気を博したものなどもある始末です。(「虐天(ぎゃくてん)」などは続編まで出版されている)
前年、厨国・狭翼大学の旭審文(きょくしんぶん)助教授によって発見された、蔡晩書の目録に無いはずの「拒口筒(きょくとう)」という書もあります。
先日になって、これに関して偽作の疑いが強い(本来の蔡晩の思想から大きくかけ離れた内容が多い)ことがわかり、今後の陳国志研究にブレーキがかかるおそれが指摘されています。
碁双写(ごそうしゃ)
範の将。範が雲快軍を打ち破った後に勃沌(ぼっとん)の太守に任じられた。
だが赴任して一ヵ月もしない内に雲快軍の残党を纏め上げ、
勃沌奪回に乗り出した雲項の軍に敗れ殺された。
簡蝶(かんちょう)
字は遍緋(べんぴ)。王南の旗揚げ当時からの部下。
胆力に優れどんな修羅場でも焦る事はなかった、根性の塊。
スカトロプレイを好んだという。
糜伊筑(びいちく)
王南のパトロンの豪商。本人は嫌々だったようだが、
王南に弱みでも握られていたのか逆らえなかった。
王南一味に影響されたのか、堅実だった彼も徐々に変貌し
密貿易や塩・酒の密売に手を出していった。だが根は善人だったため
隠し切れず尻尾をつかまれ逮捕。財産全没収の憂き目に遭った。
おまけに王南にも捨てられ、絶望の淵に立った彼は自害して果てた。
糜望(びぼう)
王南の部下で糜伊筑の弟。真面目な兄とは正反対の性格をしており、
王南とは気があったようだ。だがある時麻須太と激しく口論になりメッタメタに言い負かされてしまう。
これを恨みに思った彼は麻須太と雲に出掛けた際、雲の官吏に麻須太にを売った。
このせいで麻須太は弁城に追い詰められ殺された。彼は何食わぬ顔で王南のもとに帰ってきたが
既に麻須太を売った事は露見しており義兄弟を殺され怒り狂う王南・慈伊に八つ裂きにされた。
しかしならず者の集まりをあれだけ
長いこと統率してきた王南はやっぱすごいよ
>>343 さっそくゲーセンに向かって、三人目くらいで出てきた桃花散華デッキと対戦。中盤くらいで、敵が号令をかけ、こちらも雲散夢精の計を発動しましたら…
ニョウドウ様が見てました…バッチリと…(つД`)
別の対戦ではあろうことか于甫の看破にハマったしorz正に「な、なんだってー!」状態w
焦って周りを見ずに計略を発動する癖を直さないと勝てないようです。本当にありがとうございました。
ps.SR道卓欲しいです。SR道卓。あと腐美人ワラワラ散華使いはさっさと五根官以上に行って下さい。斉苗五本槍&斉司は倒しても倒してもぶり返してきてウザ杉。初心者じゃあ勝てねぇ。
房江(ぼうこう)
尿残泊(にょうざんぱく)の山賊の総帥。自称108性の魔王の生まれ変わり。
あだ名は呼放置(こほうち)
元は役人だったが妾を放置プレイの最中に死なせてしまい罪人となる。
その後紆余曲折を経て尿残泊の総帥となる。
「替天弄乳(天に替わって乳を弄る)」をスローガンに掲げ、
山賊集団・尿残泊を率い各地で痴漢を繰り返した。
喪用(もよう)
尿残泊の軍師。あだ名は痴多星(ちたせい)
天下一の智謀の持ち主と噂されていたが、
実態は学者肌で実践がともなっておらず凡ミスが多くつめが甘かった。
頻尿に悩まされており常に尿意を催していた。
淋汁(りんじゅう)
尿残泊騎兵部隊の頭領。棒術の使い手。
髪の毛が無く首が細長かったので精子頭(せいしとう)のあだ名で呼ばれた。
元前魏十八禁軍棒術師範の経歴の持ち主。棒をとっては双ぶ者無しと謳われた。
その見事な棒に惚れ込んだ袁如は自分の直属にせんと欲し淋汁を誘うが、
袁如の悪辣なやり口を嫌っていたためこれを断る。
実力者袁如の誘いを断った淋汁は尻に危険を感じ(常に誰かに尾行されてると感じるの意)
官軍を抜け出し尿残泊入りする。
裴藍備(はいらんび)
満の将。第一次鎮江攻防戦に副将・呉矛(ごむ)・是梨(ぜり)を伴い参加。
副将・呉矛に斉苗の嫡子・斉司を包囲させ、後一歩のところまで追い詰めるが、
斉司の懐刀・賈于覇に針の穴ほどの隙を突破され本陣への突撃を許してしまう、
続いてなだれ込んできた斉司の大軍により討ち取られる。
----------
呉矛(ごむ)
満の将。裴藍備の副将として第一次鎮江攻防戦に参加。
鎮江県の守りを固め、衛厨・韓燕・輪鋲・梅読ら斉苗旗下の錚々たる猛将たちの攻撃を完全に防ぎ、
斉司を包囲し後一歩のところまで追い詰める八面六臂の働きをしたが、
賈于覇に包囲陣の隙を見破られ敗北する。
彼の包囲陣は完璧を目指すあまり全体的に兵が分散し、極限まで薄くなっていたのが敗因といえよう。
呉矛に大軍の指揮権を与え、二重三重の包囲陣を敷いていれば歴史は変わっていたかもしれない。
-----------
是梨(ぜり)
満の将。裴藍備の副将として第一次鎮江攻防戦に参加。呉矛の相棒。
呉矛の陰に隠れあまり目立たないが、呉矛が包囲し是梨が殲滅するという役割を担っていた。
Q1 陳国志ってなに?
A1 厨国の濡教史観によって抹殺され続けた「淫」の歴史。年号は満性。
古代厨国は夏王朝が最古とされていたが、著者チン・ブラウンによる
『ダヴィチン・コード』によって、その存在が明らかになった。
陳帝国、雲帝国、満帝国による三国志として知られている。
Q2 陳歩と珍歩。紀当と鬼董。その他、登場人物に誤字が多いけど、全員別人なの?
A2 分かりませんw
と、いうのも、陳国志自体が厨国の正式な歴史として認められてから、
まだ日が浅いため、目下研究中です。
ただ、「陳沈」と「陳陳」、「陳虎」「陳子」、この四人は別人の確認はとれています。
(詳しくは、まとめサイトの陳氏の家系図をみてください)
Q3 陳国志についてもっと知りたい!!
A3 横穴光輝先生の漫画「陳国志」(全60巻)が初心者の方にはお薦めです。
まとめサイトや、このスレもお薦めです。
Q4 濡教思想はなんで陳国志を抹殺してきたの?
A4 それは・・・・・・・・・・・ハナセキサマラナニオs
ちょいマジレス
前漢の騎都尉・李陵に陳歩楽っていう部下がいたよね
陳歩の子孫か
>>349 やっと陳滸伝の出番か
俺は魯理深(ろりしん)が好きだな
巨漢の豪傑なのに好物の幼女で度々失敗するところとか愛嬌がある
佐々木 紺次郎武(ささき こんじろうむ)
倭国出身の剣豪。斉苗に仕える。
剣の道を志し、己を鍛えんがため戦乱の続く厨国へと渡り
斉苗の武勇に惚れ込み配下となる。
三尺余りの長刀「モノ欲しい竿(ものほしいざお)」を自由自在に操り、
落ちてくる栗を相手に編み出した秘剣「万栗返し(まんぐりがえし)」を繰り出す。
スマソ、設定に無理がありすぎるか…
357 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 13:02:40
大便さんに明日告白します
1 :雲国ロリ姉妹ヲタ :2006/02/04(土) 09:16:02
ちびうさとはわかれるよ
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 14:02:42
ワシントンは異国の人である。挙兵すること陳勝や呉広よりも勇敢で、群雄割拠
するさまは、曹操や劉備よりも猛々しい。三尺の剣を携え、万里を切り開いたが、
帝号を称さず、子孫には譲位しなかった。
天下に平等を示し、夏殷周のような理想の政治を推し進めたのである。
その治世は譲善を尊び、戦を好まず、他の国々とはまったくことなっている。
私は、以前ワシントンの肖像画を見たことがあるが、その風貌は勇ましく、
毅然としており他に類を見ない。彼こそが真の傑物である。
【19世紀初頭の清国洋学者・徐継余著(贏寛志略)より抜粋】
破水(はすい)の陣と後満の滅亡
知弓高原の戦いの敗北後、名君満耳流(まんじる)を失い、同盟した北方民族の裏切り、
四代皇帝満志尾(まんしお)の悪政により、後満の滅亡は刻一刻と近づいていた。
知将柔琳(にゅうりん)が馳武狭(ちぶさ)城で奮闘し、宰相斉嵯(せいさ)が国政を支えていたが、
陳間等(ちんまら)の秘策「九里繰(くりくり)の計」で柔琳を破り、要害・馳武狭城の陥落に成功。
しかし周靼令布の戦いが起こり、陳軍が敗北。報を聞き陳間等は手勢の過半数を陳の防衛に回し
自身は僅か数万の兵で後満遠征を続行する。
一方、後満では柔琳と斉嵯が全軍を持って隘路で陳軍を奇襲する作戦を促すが、満志尾は
採りあわず柔琳を解任する。代わりに右武華(うぶげ)を大将に、陳軍に備えて睾河(こうが)
の北岸、性痙(せいけい)の地に布陣した。この動きを察知した陳間等は密かに渡河し、
河を背に陣を敷き後満に対峙。死地に陣を構えた陳軍を侮った右武華は全軍突撃を命じ、
性痙で激突。ところが逃げ場のない陳兵は必死の働きを見せ、水が流出するが如く勢いで
後満軍を圧倒。右武華を討ち取り、一気に病巣まで迫った。(性痙の戦い)
驚いた満志尾は斉嵯の言を聞かず降伏。しかし病巣占領後殺されに晒し首となった。
一時は陳を滅ぼす勢いを見せた後満であったが、ここに滅んだ。
腸閉(ちょうへい)の戦いと雲国の滅亡
周靼令布(しゅうだんれいぷ)の戦いと弐徒(にいと)の大乱で雲の国力は疲弊していた。
雲運(うんうん)は壮麗な宮殿を建て後宮に篭りっきりになり、諫言する家臣を拷問に処した。
そのため人材は去り、政治の乱れは正されようもなく、国家は腐敗していく。
機を得たりと、雲国民を救うという大義を掲げ、陳間等率いる30万が雲国へ進攻。
老将・外李(げり)は腸閉(ちょうへい)城に篭城するが、陳軍の巣禍図呂(すかとろ)
との親交を疑われて雲運により左遷される。後任に名将甘超(かんちょう)の息子で、
古今の兵法を極めたとされる甘通才(かんつうざい)が指名されたが、
彼の会得した兵法は机上の論でしかなく、初戦の相手が陳間等であった不幸も重なり、
自身も討たれるという大敗北に終わる。(外李の左遷、甘通才の起用は陳間等・助平の策謀とも)
世に名高い、腸閉(ちょうへい)の戦いである。
外露(げろ)等の数少ない名臣が最後の抵抗を続けたが、雲運が外露を解任。
雲の兵士達は雲運を見限り、戦わずして陳へ降る者が続出する。
遂には首都勃沌を包囲され雲運は降伏。雲国が滅亡し、ここに陳の厨華統一が成った。
右武華(うぶげ)
後満の将。
満志尾の寵臣で、柔琳の後任を務めたが、
性痙の戦いで陳間等の破水の陣に敗れる。
甘通才(かんつうざい)
雲の名将・甘超の子。
父譲りの才を持ち、自他ともに認める兵法家となる。
父以上と謳われたが、実戦経験もない机上の兵法では
歴戦の勇・陳間等には敵わず、腸閉の戦いで討ち取られる。
外露(げろ)
字は掃華(はきけ)。雲将外李の子。
周靼令布の戦いで父と共に奮戦し、沙夏曼の策に従い陳軍を撃退する。
弐徒の乱では大将軍を務め、自ら首謀者の弐斗を斬る功を立てた。
斜陽の雲国の下で最後まで戦い続けたが、雲運により解任させられる。
外李の「流水の計」を応用した「逆流の計」は敵兵も飛び退く恐ろしい計略である。
↑最後の一行は自分でもわかりにくいのでシンプルに、
外露の「逆流の計」は敵兵も飛び退く恐ろしい計略である。
に変更。
「流水の計」は外李の策ね
エンコー陳国志でシナリオ4の燭姦とかシナリオ5の斉天桓みたいな逆境からの巻き返しが楽しい
特にクリア後に出てくるシナリオ7「厨華統一」での後満なんかマゾプレイそのもの
人材いない上に柔琳・斉嵯・胸維(きょうい)くらいしか使えねーwwwwwww
前魏・陳国志時代の将軍位一覧(上に行けばいくほど格が高い)
騎上位大将軍(大将軍に相当)
正上位大将軍(車騎将軍に相当) →通称三茎大将軍
後背位大将軍(驃騎将軍に相当)
前面立位将軍(通称駅弁将軍)
立後背位将軍
対面座位将軍
背面座位将軍 →通称六茎将軍
対面側位将軍
背面側位将軍
以下雑号将軍(風紀将軍など)がある。
胸維(きょうい)
後満の前面立位将軍。少年時代は侠に憧れていたためか
王南一味にいたがあまりの外道さに辟易し出奔。
その後陳で進士し、諸除易の秘書官になったが彼ともそりが合わず、
厨華を放浪していた時に斉天桓と出会い、彼に惚れこみ後満に仕える事となった。
軍才はなかなかのもので、陳歩失脚後とは言え国力で劣る後満が
大国陳に勝ち続けたことは彼の活躍無しにはありえなかっただろう。
諸除易が彼に言及し「あ奴を生かして辞めさせたのは失敗だったやも知れぬ。口惜しや…。」
と言ったと記述されたいる資料もあるほどである(下通鑑など)。
その後知弓高原で敗れ滅亡の色の濃くなった後満を必死で守り立てたが、
柔琳と共に拠っていた馳武狭城から敗走。その途上柔琳や馳武狭守備隊1万とはぐれ、
わずか200の手勢で敵地に孤立。たった200では胸維といえどどうしようもなく、霊座に討ち取られた。
その二ヵ月後性痙の戦いに敗れた後満は病巣を開城し降伏、最後の皇帝満志尾が玉京にて処刑され滅びた。
陳国志]での能力値 統率:89 武力:81 知力:70 政治:51 魅力:80
後満・満満の前座位将軍や陰淋の上位都尉(じょいとい)、陳・霊座の騎乗尉(きじょうい)
武官の職である衛武尉(えいぶい)・相小羅(あいこら)
道卓の下に走った尹殷寵ほか数名が賜った衛魯下(えろげ)の位は?
記述されたいる×
記述されている○
>>366 陳国志末期の英傑、胸維伯濁(はくだく)キタワァ!!!
はじめ陳に仕えて聖水(せいすい)太守・馬墳(ばふん)の補佐役として
陳歩無き陳を後満が攻めた時に敗北必至の陳にあって唯一善戦したんだよな
麒麟児(きれじ)と誉れ高い胸維を気に入り、柔琳が策を使い胸維を手篭めにし、
以後は後満の数少ない名将として活躍・・・するはずだったんだけど満志尾が君主では・・・
>>365補足
四大太尉は大体六茎将軍と三茎大将軍の間に入る(場合によっては三茎大将軍と同等のこともある)。
但し上位都尉のみは騎上位大将軍以上の権限を持ち、三茎大将軍も逆らえなかった。
衛武尉・相小羅・衛魯下は六茎将軍と同等程度。
>>369 (コラコラいきなり改変しようとしない…)
胸維(きょうい)
後満の前面立位将軍。少年時代は侠に憧れていたためか
王南一味にいたがあまりの外道さに辟易し出奔。
その後陳で進士し、諸除易の秘書官になったが彼ともそりが合わず、
陳満北部国境の聖水の太守馬墳の元に送られたが、麒麟児(きれじ)とも呼ばれた彼の聡明さを嫌った馬墳に
不当に貶められ悶々としていた。そんな時柔琳率いる後満の軍が聖水に来襲。
胸維は馬墳に後満の兵站線を断ちながらの篭城を献策するが、馬墳は聞き入れずに出陣し敗死。
その後も胸維は聖水に篭ったが、柔琳の策にかかり敗北。陳に義理立てし後満に降伏しようとしなかったが、
柔琳に触れ、彼の見識と将器に惚れこみ後満に降伏。柔琳の部将となった。
軍才はなかなかのもので、陳歩失脚後とは言え国力で劣る後満が
大国陳に勝ち続けたことは彼の活躍無しにはありえなかっただろう。
諸除易が彼に言及し「あ奴を生かして辞めさせたのは失敗だったやも知れぬ。口惜しや…。」
と言ったと記述されている資料もあるほどである(下通鑑など)。
その後知弓高原で敗れ滅亡の色の濃くなった後満を必死で守り立てたが、
柔琳と共に拠っていた馳武狭城から敗走。その途上柔琳や馳武狭守備隊1万とはぐれ、
わずか200の手勢で敵地に孤立。たった200では胸維といえどどうしようもなく、霊座に討ち取られた。
その二ヵ月後性痙の戦いに敗れた後満は病巣を開城し降伏、最後の皇帝満志尾が玉京にて処刑され滅びた。
陳国志]での能力値 統率:89 武力:81 知力:70 政治:51 魅力:80
>>74の続き
陳歩、満の属国である姦の監禁城を攻めるが敗北。多くの兵を監禁される。
姦の金一族、後継者問題で内紛を起こす。
陳歩、失湖に命じ姦の監禁城を再び攻め大勝する。
乞遁の地で陳と満が激突。陳軍勝利。(乞遁の戦い)
令布の地で陳と満が激突。尿道炎の悪名高い策で陳軍大勝。満胡襲討死。(令布の戦い)
満の満益、首都を令布の戦いで犯しつくされた賜宮から満光へ遷都。
啓桔の地で陳と満が激突。陳の大勝。諸除幕討死。(啓桔の戦い)
陳軍、満の首都・満光を包囲。恐慌をきたした満益により万黄斬首。
万黄の子・万拡必死の防衛に陳軍攻めあぐねる。(満光篭城戦)
緒藻裸資、陳に対して一揆を起こす。陳歩、善政をもって緒藻裸資を恭順させる。
斉、満から独立する。
2年後、陳歩の帰還に合わせ万拡反撃に転ず。関遁が見事撃退し満光をも落とす(満滅亡)
不江羅血王など南蛮族が蜂起。陳歩、沙亜面埋伏の計を用いてこれを討伐。(南蛮夷平定戦)
満の皇族・満満、斉に迎えられ後満を興す。
エローッパ帝国のワイセッツ・オットーコ将軍、陳歩と密約を交わそうとするが、陳歩に拒否される。
エローッパと陳の間で戦争が勃発。(通封仕益田の大戦)
アボーン渓谷の戦いで謝盛が討ち取られる。エローッパ帝国善戦。
サクジョイライの戦いでエローッパ惨敗。フェラー、ペド・ロリーを失い弱体化する。
陳、婆羅族と共に屋追族を駆逐。
李昆、三駆駄利汗と謀り陳歩を江炉漫画島に流す。陳邦敬・蓬轡らが急死する。
雲・後満・異民族が共謀し、反陳連合を組織。一斉に攻勢へ転ずる。(陳国討伐戦)
陳、各地で戦乱が勃発。宰相諸除易が対抗するも関遁、陳虎、諸除波華など多くの将を失う。
陳、玉京を放棄し要害の斉濃で篭城する。助平、離婚の計で連合軍の撹乱に成功。
陳歩、陳に復帰し反攻に出る。連合軍25万を相手に3日で首都・玉京を奪還する。
陳歩死去。陳、雲、後満、共に疲弊し戦況はこう着状態に。
(しばらくの間は各国で小競り合いが続いていたと憶測)
陳歩の孫・陳間等、助平の献策を用い後満に勝利する。(知弓高原の戦い)
後満の柔琳、馳武狭に拠点を築き9年に渡り陳の進攻を食い止める。
陳国、温情主義の李靖派と交戦主義の翻能派との間で論争が巻き起こる。
陳の霊覇率いる翻能派が雲の散華城を急襲。雲運、援軍を出さず散華城陥落。(周靼令布の戦い)
霊覇、雲の関を次々と抜き、雲首都・勃沌に迫る。
陳間等、九里繰の計で柔琳を破り馳武狭城を陥落することに成功。
幼関で陳と雲が激突。陳軍、沙夏曼の退歩の陣に敗れる。
陳間等、破水の陣で後満を破る。(性痙の戦い)
満志尾、陳に降伏し後満滅ぶ。(後満滅亡)
雲国内で弐徒の乱が勃発。外露が討伐するも雲の帝権は大いに失墜する。
陳間等、雲討伐を宣言。腸閉で陳と雲が激突。陳軍大勝。(腸閉の戦い)
雲国、抵抗を続けるも離反者続出。陳間等、雲首都勃沌を包囲し雲運降伏。(雲滅亡)
四代目御主、陳の厨華統一を宣言。(陳王朝成立)
陳国ベースの視点での大まかな歴史。水仙の戦いや荷洋族討伐戦は入れてません
誰か保管お願い
知の柔琳、政の斉嵯、武の胸維
意外に後満って使えるんじゃね?
満志尾と右武華はイラネ
374 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 21:47:45
良辱もさ、あそこで陳歩に負けなければ統率85智謀80くらいもらえただろうに
ありえないまさかの敗北を喫したから、統率値が低いんだろう・・・。
やっぱ世の中勝った方が強いんだな。
最近、万黄の影うすいな
376 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 22:13:00
エンコーの「陳国志」なら田代を使うね。
初期は魅力の高さを利用して武将・軍師を引き抜きまくり。
配下は駆和慢だけだけど、元々使えないし、途中で士武堅のところに
帰っちゃうしね。領地も攻められ難いし、民忠も高い。
中盤以降は軍師に木直草も登場するのでいろいろ戦略に幅が出るよ。
西方民族鎮撫戦
陳VS屋追族・下夷族連合軍。陳勝利。
蔡晩・雲項と袂を分かち陳を建国した初代御主であったが、彼が拠った斉濃、玉京付近は
西方の屋追族・下夷族が活発に厨華に対し戦闘を仕掛けてきており極めて不安定な地域であった。
まずは地盤を固めることが先決とばかりに初代御主は異民族鎮撫軍を興し、
この時御主の元へはせ参じてきた前魏最後の騎上位大将軍魯出を総大将に任じ、玉京を進発し、屋追族・下夷族の居住地域に攻め入った。
魯出指揮の元、陳軍は連戦連勝。さすが大兵法家魯出の軍だと思わせる動きを見せた。
これにあわてたのは屋追族・下夷族である。平素は仲が悪く交わることの無い二つの部族が
この事態に合一、連合軍を組織し向かってきたのだった。
その連合軍は結成緒戦の「参曾(さんぴぃ)の戦い」で勝手知ったる土地を十二分に活かした戦術で
陳軍を撤退に追い込んだ。建国直後で忠誠に欠けた陳軍はここで崩壊するかに見えた。それを救ったのは副将道卓である。
彼はあたふたするばかりの総大将魯出を叱咤激励し、兵をまとめなんとか陳軍を立て直した。
これで息を吹き返した陳軍は再び一気に進撃し参曾の奥にある二曾(にぴぃ)で連合軍に壊滅的ダメージを与えた(二曾の戦い)。
このとき道卓配下の許盛・入覇普が活躍した。特に許盛は相手の「八穴同攻の陣」の弱点を看破するなど八面六臂の大活躍であった。
この大敗北を見た屋追族・下夷族はあわてて陳に和睦の使者を送り、互いの領域を侵さないことに同意。
かくして和約は成り、戦闘は終わった。ここに後の大帝国陳の土台が造られたのである、
>>376 辺泰や蘇鎮なんかは簡単に引き抜けてオススメ
珍歩や殷蘭・殷抗も引き抜きやすいよ
>>378 陳珍システムで、珍歩で陳歩を引き抜くのは定石ですか?
陳間等ってさ、確かに武略に優れた名将だとは俺も思うよ
でも非情というか、勝利の為には結構キツイことも厭わずやるよな
>>360では省かれてるけど、腸閉の戦いと言えば雲の投降兵40万の生き埋めは外せない
遠征の途中で兵糧に余裕ないし、40万も逃がしたら今回の勝利が無駄になるってのもわかるが、
結果、腸閉の生き埋めに激怒した雲人は外露を筆頭に熾烈な抵抗を続けるようになったし
陳間等唯一の汚点って言っても過言じゃないな
もっとも、生き埋め実行犯は陳間等軍の白痴(はくち)将軍だったっていう説もあるが
>>380 教育係の朱自慰や諸除易の影響が大きいと思う。
特に朱自慰が施した習術の厳しさは影響大きかったと思う。
朱自慰(しゅじい)
陳の臣。温和な性格で人に好かれ陳虎や陳陳と親しかった。
後にその親友陳陳の子陳間等の教育係となる。
甘さゆえに失態を犯し、失意の内に死んだ陳陳を見ていた朱自慰は
父に似て甘い陳間等にその轍を踏ませてはいけないと心を鬼にし、
厳しく教育を行った。あまりの厳しさに諸将は「やりすぎではないか」と彼を咎める者もいた。
だがその結果、父似の甘い性格はすっかりなりを潜め冷徹なる知将へと成長。
勝利のためにはどんな手でも使い、腸閉における敵兵40万生き埋め、性痙で相手の補給線を断つために
後満に協力する周辺の村落を焼き払うなど、彼の手法は時に残虐過ぎるほどであった。
これには朱自慰もさすがに唖然とし、教育法を間違えたのかと悩み苦しみ自害した。
陳による統一のわずか一ヵ月前のことであった。陳間等は恩人の死にも涙を見せなかったという。
白痴(はくち)
陳後期の猛将。大柄で茫洋としていて一見するとただの木偶の坊に見えたが
ひとたび戦場に出たなら得物の性龍鉤鎌刀を振り回し大暴れする猛将に変わる。
その武勇は他国に並ぶものはおらず、「斉菅栴の再来」と呼ばれた。
兵法もある程度習得しており、穴の少ない男であった。
欠点といえば、他人の言葉を素直に聞きすぎるところがあった。
それ故か陳間等の非道な計略を何の疑問も挟まず実行している。
腸閉における敵兵40万生き埋め、性痙での周辺の村落を焼き打ちなどを実行したのは
彼の部隊であった。其れゆえか人望には厚い方ではなかったようだ。
陳国志]での能力値 統率:61 武力:97+4 知力:59 政治:31 魅力:53
所持アイテム:性龍鉤鎌刀 武力+4
陳間等が有名すぎて、北方の勇・陳華洲の活躍があまり目立ってないのが残念
華璃句美国の普吐魔羅相手に鉄壁の守りで陳国侵入を防いだのにな
陳間等勇躍の陰には陳華洲の努力を忘れてはいけないと思うのだよ俺は
なのにエンコー三国志ではこの能力('A`)
統率:83 武力:78 知力:65 政治:50 魅力:81
エンコー陳国志でした
三国志って何だ?
馬羅(まら)
字は馬並(うまなみ)。
陳の対面側位将軍で陳歩の弟陳康の子。ちなみに馬姓を名乗っているのは養子に出されたからである。
膂力は無いが知略に優れ、文官としての能力も高かった。
正上位大将軍陳華洲の右腕として北部戦線を支えた。性痙の戦いにも援軍を率いて参戦し、勝利に貢献した。
陳が統一王朝となった翌年、華璃句美軍に追い詰められた陳華洲を救うべく敵陣に突撃。
陳華洲を救い出したが自身は無数の矢を受け死亡した。
統率:79 武力:48 知力:89 政治:91 魅力:75
陳康(ちんこう)
陳の臣で陳歩の弟。階級は汁骨勲。
兄とは違い凡庸な男ではあったが、堅実な仕事ぶりには定評があった。
兄陳歩失脚事件前後に病を患い隠居。その一年後に死亡した。
ちなみに馬羅は彼の三男である。
統率:31 武力:12 知力:65 政治:72 魅力:65
このスレまだ続いていたのか!!!
辞典が凄い!!
388 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 19:53:36
まだまだ終わらんよ
感度(かんと)の戦いや遅漏関(ちろうかん)の戦い、
夷尿(いにょう)の戦いもまだ話題に出てないしな
>>384 陳、雲、満で三国志ですが何か?
無粗相厨は横穴くらいは読んでこいや
実質、厨華で三国になるのは陳、雲、後満
満の時には燭姦や属国の斉が残ってた
あと国じゃないが乙女淫道も健在
で、横穴光輝が著したのは陳国志であって三国志とかいうやつではない
391 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 23:08:18
蒼天航為 第一話 万黄とは
陰毛沢東の失策。子供が多すぎて、国が成り立たない。
仕方なく弾圧することで、人減らしにかかる。
「陰毛沢東」
自由に性行為が出来る国だったはずじゃないのか、それが共産主義(女を共有する主義)だったはずだ
と悲観にくれる。陰毛沢東に解禁された陳国史。
一つの町がうつる。
万黄の町で反乱が起こる、魏帝国末期の騒乱の時代らしい。
万黄がその騒乱を見に行く。
薔薇族が野次馬に容赦無く攻撃が加える。逃げる群衆の中、万黄だけは一人で戦う。
万黄が族を一人で倒し、更に言いくるめる。万黄が更に奥深く切り込んでいく。
その万黄に勇気付けられたのか、他の人たちも続々と後付で戦いだす。
薔薇族はそれを不思議に感じ、万黄の天才性を長々と2ページにもかけて説明する。
しかし野次馬は野次馬なのであっさりとやられる。
だがそこに万黄はいなかった。が薔薇族がまたも万黄の天才性を説明
万黄「これが厨華の武
追いかけ捕まえ我が締まる身でむしゃぼり尽くしたい」
万黄は血まみれになりながら誰もいない砂漠で立っていた。
第一話完
392 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 23:34:52
陳歩子
初代統一王朝陳 厨所令
祖先と違って武功での活躍はあまり見られない。
外交や内政で活躍した。
しかし北方民族相手への懐柔政策であった穴兄弟の契りは大失敗※
後の万湖四国時代への原因の一つを作り出した。
陳歩子は、責任を問われることを恐れ逃亡。統一王朝の陳国に暗雲が立ち込めることとなる。
393 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/14(火) 23:39:49
※何故失敗したか。
これは、秋葉族と貞族は性に対するコンプレックスが強くあまりにも理想を求めすぎた
逆に百谷族や薔薇族の性に対する考え方があまりにも特殊であったために、穴兄弟とするための契りは決裂
お互いを穴兄弟どころでは無くなってしまった。
この異民族同士の対立、陳国への不信感、後の陳国内紛であった白恥王の乱が万湖四国時代を呼び寄せることとなる。
394 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 12:09:19
>>390 また満国厨か!!アンチ斉苗キチガイ!氏ねや!
郁々の戦い(いくいくのたたかい)
陳軍vs斉軍。斉苗病死により斉軍撤退、経瑠辺洲戦死。
膣壁で完膚なきまでに満を叩き伏せた陳。勢いに乗って怨敵満を滅ぼすかと思われたが、
その前に"鬼神"斉苗率いる斉が立ち塞がった。決戦は避けられぬ情勢となり、満が雲と対峙している間に
片付けようと陳歩は20万を率いて斉領に侵攻。対する斉苗も先手を打つべく斉軍10万を率いて郁々に布陣。
これが世に名高い「郁々の戦い」である。
当初は寡兵の斉がやや押され気味で、猛将経瑠辺洲が陳宝との一騎打ちに敗れ討ち取られるなど散々であった。
が、天下の奇才兪備曼・斉苗の次男斉奕が北方より援軍3万を率いて参戦すると形勢は一変、
兪備曼考案の「二穴攻めの計」の計で陳宝率いる先鋒3万を撃破。続いて斉家三兄弟の軍が本陣の陳歩に迫る勢いを見せるなど
斉の勢いは圧倒的であった。これにはさすがに陳歩も参ったようで、
「立っていられたのが不思議なぐらいだ…私は彼(斉苗と思われる)にまだ敵わぬということか。」(完訳『陳国志(精子)』馬波学術文庫刊より、カッコ内は筆者注釈)
と言い、嘆息したという(これが有名な郁々の嘆である)。
>>389 エンコーのゲームは「陳國志」であってるぞ
夢想厨うざい厨は逝けよw
>>395 厨にむきになるなよ。
>>390は大便小便しか知らないんだからw
>>390 陳汁の精子を全否定するつもりか?
その後まだ立て直しきれていなかった陳軍に斉軍は斉苗自ら先陣を切って突撃をかける。
陳の被害は甚大で、阿王漢・屍漢・敏漢が斉苗とわずか十合と打ち合うことなく討ち取られ、
斉昂も絶麟と打ち合い、逃がしこそしたものの猛将絶麟を打ち負かすことに成功。
兪備曼・斉奕も「三点攻めの計」で陳歩率いる本陣に攻撃を仕掛け、これを散々に破った。
それでも何とか軍を立て直した陳歩は勢いに乗る斉軍に反撃。大したダメージは与えられなかったが
一時的にだが勢いを殺すことに成功。この際斉苗と一騎打ちを行った陳宝が斉苗の愛刀「根同霧」の雌剣をへし折り、
引き分けに持ち込んだ。このことにより陳宝の武名は厨華に轟くものとなった。
だがこの戦闘後すぐに斉軍は撤退を開始。陳軍内では追撃すべきとの意見が多数を占めたが、
陳歩と軍師として参戦していた陳虎が兪備曼の策と見做し、追撃論者を抑えたため捨て置くこととなった。
陳歩が敗戦続きの自軍にもはや追撃する気力もないと判断した事もあったようだ。
実際、兵の疲労は極限に達していたので、陳軍のことを考えれば正しい判断であっただろう。
だが斉軍が撤退したのは総大将斉苗とその息子達が皆性病に罹り次々に陣没したという理由だったからである。
陳歩は後にそのことを聞き、斉苗を想い嘆息し泣きじゃくったという。
この後斉天桓を君主に勃て斉は存続したが、斉苗抜きでは如何ともしがたく、
満の属国となった。陳は再び勢いを増した満と対峙する事となり、この戦いの後騎上位大将軍となった陳歩は
瀬宮州の戦いまでの一連の苛烈極まる戦いに身を投じることとなる。
>>397 理由だったからである。×
理由だった。○
>>395 完訳『陳国志(精子)』×
完訳『三国志(精子)』○
斉軍
経瑠辺洲 統率:41 武力:85 知力:45 政治:22 魅力:75
兪備曼 統率:88 武力:75 知力:96 政治:82 魅力:91
斉奕 統率:87 武力:62 知力:91 政治:74 魅力:79
斉司 統率:51 武力:60 知力:35 政治:21 魅力:54
斉昂 統率:49 武力:92 知力:31 政治:19 魅力:85
斉天桓 統率:81 武力:55 知力:85 政治:95 魅力:93
陳軍
陳宝 統率:39 武力:99 知力:11 政治:19 魅力:87
阿王漢 統率:71 武力:85 知力:63 政治:39 魅力:74
屍漢 統率:47 武力:82 知力:61 政治:43 魅力:83
敏漢 統率:39 武力:88 知力:44 政治:10 魅力:74
陳虎 統率:79 武力:32 知力:96 政治:89 魅力:85
400 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 13:13:48
蒼天航為、第一話で万黄が族を言いくるめた場面
万黄「性とはなにかを減らし、なにかを満たすこと。
見境も無く、同じものを貪っている、蛮族どもには萎える」と堂々と告げる。
蛮族の反論「餓鬼が性を語るとは昔そんな、机上でしかなにもできない軍師がいたなぁ。
おまえの顔はそれだよ。血まみれになって後悔」といきなり切りかかる。
万黄「血まみれだけですむのか。短小な男だ。こんな小姓一人どうにもできないおまえらから」
と敵を一刀両断にし、反応した敵に対して突っ込んでいった。
>>399 絶麟 統率:85 武力:91 知力:72 政治:69 魅力:90
追加ね。
おーい、ちょっと質問いいですか
>>280の登場人物って
>>283のエンコー「陳国史\」のやつ?
教えて君でスマン
403 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 19:19:05
陳歩があれほど簡単に江炉漫画島に流されたってのは、
晩年の陳歩はめちゃくちゃ名声もあり、朝廷で力を付けすぎてなにかと皆に疎まれていたからでしょう。
変な取り巻きみたいなのがよってきてて、君主ですら危機感を抱いていたらしい。
陳歩自身が年取って若いころいきりたっていた猛将もなんとやら、晩年になって腰が重く粘着質な人間になってたことも大きいでしょう。
陳歩の名声が高まるにつれ陳歩だけが功を立てたわけではないのに、
おいしいところを持っていってると判断してもおかしくないですよ。結構負け戦あるわけだし。
一緒に戦った陳歩の戦友の諸所易や尿道炎も、
陳歩の風下に立つのが嫌で、李昆の計画にあえて口を挟まなかった人も多くむしろ協力していた説がある人も居ます。
あれほどの武功を誇った陳歩がいとも簡単に、助けようとする上層部の人間がほとんどいないうちに
失脚したのもそのためらしいですね。
陳歩を呼び戻すことだって「やむをえず」だったし、本人にその気は無くともかなり危険な存在には違いなかったので
結局また、予定調和のように江炉漫画島に流されてしまったのは、李昆が凄かったのもあるけど
李昆が悪宦官だからという主因ではなく、そういう微妙な上層部の意を汲んだのでは?と思います。
404 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 19:26:02
○戦友の諸所易や尿道炎も
×諸序易や尿道炎を代表とする戦友たちも
>>396 精子の歴史の流れを簡潔に書いて
正直、まとめサイトはごった煮でよくわからん
406 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 19:52:42
【元末明初・群雄】
大元帝国
朱元璋=江南
張士誠=江南
陳友諒=江南
明玉珍=四川
蒙古梁王=雲南
段氏=雲南
劉益=遼東
方国珍=浙東
407 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 19:54:49
>>405 まとめサイトにもあるが、これが意外と分かりやすい。
陳國志IX シナリオ別の選択できる勢力
【シナリオ1(曹賈の乱)】
前魏 曹賈
【シナリオ2(大乱世の到来)】
満豪孟 斉苗 雲項 御主 田代 蔡晩 範斉 鍾秀玄 金之貌 鎮侯 魔羅
【シナリオ3(陳歩初陣)】
満豪孟 斉苗 雲項 御主 田代 蔡晩 金之貌
【シナリオ4(梅武の野望)】
満帝国 斉帝国 雲帝国 陳帝国 田代 燭姦
【シナリオ5(万黄処刑)】
満帝国 雲帝国 陳帝国 斉天桓 于甫甫
【シナリオ6(陳歩追放)】
陳帝国 雲帝国 後満帝国
409 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 20:18:25
410 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 20:21:45
今戦国史で作成中
411 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 22:50:12
みこすり半の戦い(みこすりはんのたたかい)
陳軍vs満軍。満軍大勝、邦刑討死。
郁々の戦いに勝利した後、ついに騎上位大将軍まで上り詰めた陳歩。
だが同じく騎上位大将軍であった魯出は彼に対し良い思いを抱いていなかった。
そんな魯出は満攻めの先鋒を願い出、陳歩と共に満領に16万の兵を率いて進軍。
対する満は国境の瀬宮州太守万黄に20万の兵を預け、これを迎え撃った。
これが瀬宮州の戦いの前哨戦となったみこすり半の戦いである。
万黄は10万を瀬宮州城に残し、自身は軍師菊門とともに3万の軍を率いて
みこすり山に布陣。残りの7万を麓の阿奈留に預けた。
これを見た陳宝は邦刑と共に山の戦に不慣れな阿奈留を討てばあの陣は崩壊すると見て
これに対する突撃作戦を陳歩、魯出に進言。陳歩は万黄が下手な布陣を敷くとは思っておらず
無謀と断じたが、魯出はこれに賛同し陳宝・邦刑に8万の兵を預けた。
趨勢は陳歩の読みどおりとなった。山上にいたはずの万黄が麓に下りてきており
逆に彼らに突撃をかけたのだ。この乱戦の中陳宝は何とか1万の兵と共に帰還したが
邦刑は戦死し、8万の兵は一気に1/8になってしまった。
この戦いの後敗戦の責任を取らされた魯出は将軍職を解任され、流刑となった。
陳宝は蟄居を命じられ失意の内に亡くなった。
この敗北で意気消沈したかに見えた陳軍であったが
この後別働隊の尿道炎・宝計・初陣を飾った陳陳・陳鎮らが合流。
態勢を立て直し、次の戦いへと臨むのであった。
脇名峡の戦い(わぎなきょうのたたかい)
陳軍vs満軍。陳軍圧勝。
みこすり半の戦いの戦いの丁度二週間前、南側から陳鎮率いる別働隊8万が
満の南の要所脇名峡にある窒(ちつ)城に迫っていた。
これを見た脇名太守内普はほぼ全軍である6万を率いて窒城外に布陣しこれを迎え撃った。
世に言う脇名峡の戦いである。
内普は陳歩を恐れていたが、総大将が陳鎮であったため甘く見ていたようで
宝計の計略にあっさり引っ掛かり打ち破られた。
初陣となった陳陳や鬼董の獅子奮迅の活躍もあった。が、非常に簡単な戦いになったのは確かで、
尿道炎は宝計に「要害脇名峡、名城窒城攻略に我々の知略が活きると思うとりましたが…あそこまで愚かな将が相手では我々の出番はもうありませんな。」
と予想外の楽勝を前に呆れ気味にぼやいたと言う。
その後1万の兵が守る窒城に鬼董・陳陳が突入。
難攻不落の名城と呼ばれた窒城は呆気なく陥落。戦いは終わった。
この後彼らはみこすり半で惨敗した本隊と合流し、瀬宮州の戦いに臨むこととなる。
この戦いでは陳の猛将鬼董と守将欄志との友情物語が特に有名であろう。
窒城の最深部に突入した鬼董が愛槍「聖死」で守将欄志と激しく打ち合い、
欄志の下腹部を貫き、欄志もここまでかと思われたが、鬼董は止めを刺さず
それどころか欄志を十月十日に渡り手厚く看護し助けた。
このことを聞いた陳歩は甚く感激し鬼董に要害根同霧城を与えた。
鬼董はその後根同霧城主として雄南太守関遁をよく助けたが、反陳連合軍に敗れ
敗走して行く途上で部将の欄志らと共に突然行方不明となってしまった。
迎白虎(ゲイはくこ)
蕪岐朝(かぶきちょう)地方に勢力を築き、東京(とうけい)の迎王を自称した。
雲項の快進撃に恐れを抱き、弟の迎輿(ゲイこう)を和平の使者に送った。
雲項は使者の迎輿の首を刎ね、迎白虎を攻め滅ぼす。
精子でも艶義でもエンコーでも雲の引き立て役という可哀想な人。
落とし穴などの穴攻めに定評がある。
エンコー陳国志]での能力
統率:71 武力:76 知力:51 政治:47 魅力:56
醜態(しゅうたい)
雲国の勇将。
はじめ江賊に身を落としていたが、雲項の義挙に賛同し配下に収まる。
雲運の代まで生き、文字通り身を挺して幾度と無く君主の危機を救った。
酒宴の席で劉傑に衣服を脱ぐように言われうほっ、体中の傷を絶賛された。
エンコー陳国志]での能力
統率:78 武力:84 知力:60 政治:54 魅力:67
しまった、歌舞伎町は風族の領地だった。
迎白虎の領地のある地方は深熟(しんじゅく)ですた。勘違い。
汗玄(かんげん)・瘤度(りゅうど)・腸範(ちょうはん)・菌染(きんせん)
範国滅亡と共に独立した君主達。弱小四君主として有名。
無能ばかりなので、陳や雲の食い物にされた。
名将・腸糞(ちょうふん)と義兄弟になろうとした腸範や、
弓の達人で老いて益々マス盛んな老将・睾虫(こうちゅう)を
信用することができなかった肝玄など、中々に個性的な連中。
エンコー陳国志マニアにはたまらない君主である。
エンコー陳国志での能力はお察し下さい。
↑
一部、汗玄の汗が肝になってますが、これもお察し下さい。
418 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/16(木) 23:04:32
於笛羅(おふぇら)
胸奴(きょうど)出身だが、満に使える。
南蛮の不江羅血王(ふえらちおう)から前魏の陳甫嵩(ちんぽすう)、
果てはエローッパ帝国のフェラー・バ・キュームとも親交を結んだ。
於笛羅の孫は、妊晋国を滅ぼした劉産(りゅうざん)である。
419 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/17(金) 00:25:35
おもしろい
四面曹家(しめんそか)
黄明党討伐に参戦した陳沈や道卓らの活躍により、曹賈の軍は追い詰められた。
道卓は一計を案じ、兵士に「曹家瓦解(そうか〜がっか〜い♪)」と謡わせた。
それを聞いた聖教軍は著しく戦意が低下し、逃亡する者や前魏に投降する者が続出。
遂には進退窮まった王南一味により曹賈は殺され、乱は終わるのであった。
現代では周りを学会員に囲まれたウザイ状態を四面曹家という。
国士夢精(こくしむせい)
陳歩を讒言する李昆に対し、蓬轡が陳歩の偉業を称えた時に用いた言葉。
現代では夢に出てくる程すばらしい人物のことを指す。
または夢精の達人を称える呼称。
422 :
吉川英恥・陳国志・秋風秋葉原1:2006/02/18(土) 10:40:36
風族浄化作戦は、完遂しようとしていた。風は、緩やかに吹く。万黄は追撃の手を緩めなかった。
季節は、秋――。寒さと、飢えに、風族の将・李女鞍の肌は、かじかむ。
秋葉原。かつて李女鞍自身が秋葉族と小競り合いを繰り返していた場所まで押し込まれた。
怨嗟の声が渦巻いているのは分かる。遠くで、秋葉族特有の掛け声が、うねりのように聞こえる。
「ご主人様、幕舎に入りなされませ。体に障ります」
冥度が、給仕姿で李女鞍を促す。李女鞍は彼の「ご主人様」という言い方を何度も注意したが、冥度は改めようとはしない。
この秋葉原に逃れられたのも、この冥度の手引きによるものだ。秋葉族をよく手なづけている。
「ご主人様、それともう一つ。……万黄から、お手紙です」
「勧告か」
「……」
風族実力者の品詐炉は既に切られ、族長の緒牌波歩は満に降伏した。しかし李女鞍は断固、戦いを挑んだ。今は、戦いの中の死を望んでいる。
「ご主人様。万黄はある条件を飲むなら和睦をするといってきております」
「天下の名器、九十九アワビと引き換え、か」
李女鞍は名器を持っている事で有名であった。風族ではその名器のおかげで風族でも絶大な人気を博していたといってもいい。
「万黄が欲しがるわけだな」
李女鞍は笑った。九十九アワビは天下の花ツボ。どのような花でも、入れられるとシャキッといきり立つように見える。
だが、名器とはただ持っていればいいと言うものではない。その人に備わるものだ、と李女鞍は思う。万黄の名器収集癖は知っている。万黄は人を喜ばせたいがために、四海の名器を集めるのに奔走している。
「が、真の名器というのは……」
育てるものだ、といいかける口が、曲がった。前方30里。砂塵。
「あれは」
「もえーっ」
うねりの様な声が木霊する。
「秋葉族です! 秋葉族が万黄の先導に乗り、進軍してきます!」
423 :
吉川英恥・陳国志・秋風秋葉原2:2006/02/18(土) 11:03:42
成羅、諏狗水は既に下り、未虎、南阿洲の陣は既に半壊している。
支軍の単般ではとても持ちそうにない。電光石火。まさか万黄が秋葉族を使ってくるとは思わなかった。秋葉族は、今までの鬱憤を晴らすかのように、未虎や南阿洲の軍を陵辱する。
ながきに渡り、秋葉族にとって未虎や南阿洲は何度も彼らを悩ませてきたのだろう。今まさに、様々なヤリ方で、その陣を崩し、正規の軍ではなく変隊となって未虎や南阿洲と闘っている。
もはや、これまでか。李女鞍は覚悟を決めた。そして九十九アワビを、体に結びつける。
こうなる事は、分かっていたのだ。風族には、先が無い事を。李女鞍の周りは、みな若い。若さで、無理に世間に相対していたところもある。
石鹸王国とのつながりで、資金もたしかに豊富に入った。一時期は、これで一生を過ごそうと決意した事もあった。
しかし、同時に無力感や無常な気持ちになっていたのも、確かだったのだ。風族は風習として、夜調練をし、朝帰る。
その朝焼けは、どこか、風族達を無常の気持ちにさせるのであった。
今日、秋葉原に吹く秋風は、少しそれに似ていた。
「李女鞍よ」
赤いアワビのような鎧に身を包んだ、小柄な男が近づいてきた。万黄だ。
「金利に走り、ただいたずらにその政を金銭に変え、泡の如く散り行くものよ。満に下れ。」
この前よりも万黄にシワが増えたな、と李女鞍は思う。
「ただし、天下の名器、九十九アワビを供出するなら、この秋葉原を任せてもいい。どうだ」
「ハッ」
李女鞍は笑った。そして高楼に駆け上る。体に結びつけた九十九アワビの中には、火薬が仕込んである。
「万黄!」
李女鞍は外套を翻した。胸には九十九アワビ。鎖でがんじがらめだ。
「貴様は満の力を過信しすぎだ! そのようなもの、時代の流れ、時とともにその勢いは衰えるわっ。」
李女鞍は導火線に火をつけた。高楼の下で、冥度が悲鳴を上げる。
「いかに名器を保持しようとも、朝が来ない窓辺を欲しようとも、時の移ろいには無力だ! 万黄! お前は既に、シワシワのベロベロではないかあっ!」
バーン、と乾いた爆発音が、秋葉原に響き渡った。千年の名器は、李女鞍の高笑いと供に、この世から姿を消した。その音は、秋風に乗って、どこまでも反響していた。
424 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 11:32:12
風族の研究成果って、最近は結構目覚しいみたいなんだけど...
ちなみに最近の研究によると、風族は諸国間の外交使節としても活躍してたらしい。
陳歩と斉苗や、満国と斉苗の間の使者として、何度も往復してたんだね。
*翻蕃(ほんばん)風族最強の武将と伝えられているが、複数人いたと思われる。風族伝説の英雄。
*提督羅部(でーとくらぶ:ていとくらぶ)風族水軍の大将。臨機応変に兵を出し、諸国の名将たちを圧倒した。於婆範(字はこれでで正しかったっけ?)が一時使えたこともあるという。
*廷吏兵郎(でりへる:ていりへいろう)風族騎兵を率い、各国を襲う。朝鮮族をも使役した。特定個人を指すのではなく、単なる官職名との説もある。
*丙流子(へるす:へいるす)兵法六十九計を修め、各国からの賓客を接待した。弁舌にも優れていたが、武技も得意であったという。
*品左路(ぴんさろ:ひんさろ)下々に施しをなし、民衆から慕われた。弁舌に優れ、諸国に和平を説いて回ったという。
字が間違ってるかも知れないから、詳しい人直しといて。
425 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 11:48:26
満がコネ
陳が突きいし天下モチ
雲はウンウン唸りてばかり
人徳は蔡晩が一番高いじゃないか?
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 13:44:25
428 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/18(土) 14:10:20
輪鋲や梅読たちの活躍はマダー?
獄門禁錮の陣(ごくもんきんこのじん)
別名「退歩(たいほ)の陣」とも呼ばれる、古今より伝わる強力無比な陣形。
この陣に掛かれば、あの獰猛な陳兵でさえ萎え竦み許しを乞うたと言われる。
有名なところでは、雲の客将沙夏曼(さげまん)が周靼令布(しゅうだんれいぷ)
の戦いで使用し、破瓜の勢いの陳軍を破り猛将霊覇(れいぱ)を捕らえた。
その他、風族の普珪(ふけい)や範の周審景(しゅうしんけい)も使ったとされる。
陳の宰相楊如(ようじょ)もこの陣を会得していたと言われるが、明らかではない。
陳国志2の腸範は弱すぎる。
最初の月で・・・
「腸範は諸除易に謀殺されました」
「腸範の一族は滅亡した」
ゲームオーバーだからな。弱すぎるわい。
それに半年以内に蔡国に攻められるし、1年生き残るだけでもキツイ。
>>430 あるあるwwwwwwwww
弱小4君主プレイはたまらんよな
つか、俺には無理でした。難易度高すぎ
マラ長の野望の弱小大名ならいけるんだが
陳国の夜襲作戦が冴え渡る「予稗(よばい)の戦い」の相手って満だっけ?それとも後満?
腸糞(ちょうふん)
雲の将。槍術の達人で兵法にも通じた名将。
腸範(ちょうはん)に「姓も同じことだし義兄弟にな ら な い か ?」
と誘われたが、「だ が 断 る 」ときっぱり言い放つなど無能な者に手厳しい
所があったようだ。膣壁の前年に病死したので活躍期間が短く、『艶義』はおろか
『精子』にさえ記述が少ない謎の多い部将である。最近の研究では南蛮討伐で活躍した
武将の一人と言う説が有力である。
能力 統率:71 武力:89 知力:73 政治:42 魅力:91
睾虫(こうちゅう)
黄虫とも。陳の将。元は汗玄の元に仕えていたが彼に信頼されず、疎んじられていた時に
汗玄が陳に滅ぼされたため陳に帰順。その弓の腕を活かし、対異民族戦で手腕を発揮。
カントンの戦いの前年に病死した。王南一味の黄修とは親類とも言われるが定かではない。
だが彼らが似ているのは事実で、老いて尚盛んな老人のことを厨華では「睾虫」と
呼ぶ(ちなみに似た言葉に「黄修」があるが、変態というニュアンスが強いので間違えると大変なことになるので気をつけよう)。
能力 統率:86 武力:85 知力:65 政治:55 魅力:79
睾虫(こうちゅう)
字は漢性(かんしょう)
はじめ範斉、範滅亡後は腸範に仕え、陳歩に降り配下となった。
若き陳歩の出世道となった閨州(けいしゅう)四郡攻略戦で、陳歩軍が誇る勇将関遁と
五十合あまり打ち合ったが勝敗が決しなかった。
その後は陳国に属し、瀬宮州の戦いでは敵将房侯淵(ぼうこうえん)を討つ大功を立て、
陳歩配下の中でも特に武功が極まった者から成る「五鎮虎大将」の一人に選ばれた。
また弓の名手でも知られ、百発百中の腕前を誇った。
老齢を迎えてなお隆々たる精力で活躍し、「老いて益々マス盛ん」の語源となる。
>>433 スマソ、ゆっくり構成練ってたらダブった。
しかも腸範配下って何言ってるんだ俺は・・・だめぽ
汗玄(かんげん)
前魏・範の腸沙太守。猜疑心の塊で、忠臣睾虫でさえ疎んじた。
その上無能で極度の女好きであった。そのためか範滅亡後すぐに陳の謀臣尿道炎の
「美人局の計」にかかり謀殺された。
能力 統率:9 武力:21 知力:2 政治:29 魅力:1
瘤度(りゅうど)
前魏・範の芸陵太守。武勇に優れており、それを鼻にかけていたが
班鄭とたった一合打ち合っただけでだけで敗れ、落馬し死亡した。
上には上がいたということなのであろう。
能力 統率:5 武力:49 知力:1 政治:3 魅力:9
腸範(ちょうはん)
前魏・範の軽陵太守。腸糞と義兄弟になろうとしたが断られたことで有名。
雲に帰順したが、太守の位を奪われた。
能力 統率:7 武力:2 知力:11 政治:16 魅力:6
菌染(きんせん)
前魏・範の梅陵太守。攻め寄せてきた陳に対し徹底交戦するつもりであったが
部下の魏焔(ぎえん)・徐教志(じょきょうし)に裏切られ孤立。陳に降伏した。
能力 統率:12 武力:10 知力:3 政治:2 魅力:2
睾虫(こうちゅう)
黄虫とも。字は漢性(かんしょう)。陳の将。元は汗玄に仕えていたが彼に信頼されず、疎んじられていた時に
汗玄が陳に滅ぼされたため陳に帰順。斉苗に勝るほどの弓の腕を活かし、対異民族戦で手腕を発揮。
有名な瀬宮州の戦いにも参戦し、敵将房侯淵(ぼうこうえん)を討った。が、その後の満攻めの戦い
にて背貢須をかばい死亡した。王南一味の黄修とは親類とも言われるが定かではない。
だが彼らが似ているのは事実で、老いて益マス盛んな老人のことを厨華では「睾虫」と
呼ぶ(ちなみに似た言葉に「黄修」があるが、変態というニュアンスが強いので間違えると大変なことになるので気をつけよう)。
能力 統率:86 武力:85 知力:65 政治:55 魅力:79
魏焔(ぎえん)
字は文鳥。陳の対面側位将軍。将器ならばかなりのモノがあったが尿道炎や諸除易
らの信頼は薄く、ことあるごとに「奴は左曲がりの相を持っております。今斬り捨てねば国家存亡の危機になりかねませぬぞ」
と言っていたが軍権の最高責任者である陳歩は取り合わなかった。また御主や他の武官からの信頼も厚い将だった。
が、陳歩更迭後攻め寄せてきた連合軍と陳陳・陳虎らと共に戦うが惨敗し
陳虎と防衛の要所である処襄を失う。その敗戦の責任を一人で背負わされ殺された。
陳陳は必死に彼の助命を乞うたが聞き入れられなかった。こうして忠臣が一人無駄に死んだのであった。
能力 統率:86 武力:83 知力:62 政治:56 魅力:61
房侯淵(ぼうこうえん)
満の正上位大将軍。尿道家や満家と関係が深い房侯家の出身。
満豪孟の腹心中の腹心ともいえる将で、旗揚げ当時から付き従い、数々の功績を挙げた。
速攻を得意とし、その機動力は荷洋族長於湿胡をして「あ奴は敵に回したくない」
と言わしめたほどの名将。だが反面血気に逸りやすい面があり、
瀬宮州の戦いにて睾虫の挑発にかかり突出したところを包囲され戦死した。
能力 統率:90 武力:86 知力:57 政治:49 魅力:87
未虎(みこ)
風族李女鞍配下の将。
義兄弟の南阿洲と共に「魅誇未虎南阿洲(みこみこなあす)」と呼ばれ畏れられた。
秋葉原の戦いで秋葉族を散々に打ち破り勇名を馳せ、その後も幾度となく撃退した。
風族浄化作戦では満に付いた秋葉族の激しい責苦に良く耐えたが、大将李女鞍が爆死。
降伏を装い万黄を狙うが、事前に察知され斬られた。
静伏の計(せいふくのけい)
風族李女鞍軍の代表的な戦術で、特に南阿洲(なあす)と成羅(せいら)が得意とした。
伏兵戦術の発展系で、その場に適した服装で環境に溶け込み敵の不意を突く。
秋葉族だけでなく対陳戦でも大いに効果を発揮した。
風族以外にも前魏の徐子仲・徐士公・徐史大や、尹殷寵、その他多くの将が用いた他、
石鹸王国の制服王フェチフ・カメフト2世もこの計を知り、対エローッパ戦で愛用した。
倭服の計(わふくのけい)
風族李女鞍配下の未虎(みこ)が用いた偽計。
服従を装い相手の隙を突く非道の策。
徐教志(じょきょうし)
陳の臣。元は菌染の家臣だったが能無しの彼に愛想を尽かし
魏焔と共に彼を斬り陳に下った。その後能吏として名を馳せた。
能力 統率:34 武力:21 知力:69 政治:89 魅力:64
翻蕃(ほんばん)
風族最強の武将とされているが、複数人存在するなど謎が多い。
おそらくは武勇に長けた者に対する尊称と思われる。
が、資料によっては風族の中でも悪人とされる人物につけられた*名ともされるなど、
意味に統一した見解が無く、未だに実体は不明である。
*「風族においては翻蕃という称号は不名誉なことらしい。
彼ら曰く、『翻蕃?恐ろしくて言うことさえままならない…禁忌の言葉だ。
翻蕃をやってみろ…大量の金を取られるぞ』
と言っている。だが別の風族に聞くと『万夫不当の武勇を誇る者に対しての尊称』
と言うなど、部族によって意味がまったく違うようだ…まったく、これだから野蛮人は困る。」
(以上完訳李昆部録(馬波学術文庫刊)より抜粋)
提督羅部(でーとくらぶ:ていとくらぶ)
風族水軍を率いた将と言われるが、風族の居住地域には水軍を展開できるほどの大河は無く、
実体はよく分からない。だが「前魏書」の14世皇帝槍帝の伝記に「水軍の将となった風族の手蓮本句螺武(てれほんくらぶ)」
なる人物の記述があるので、彼と何らかの事情で混ざり合って伝えられた可能性がある。
ただ水軍の将ではないことは確かであろう。ちなみに石鹸王国の歴史書には「風族の使者」(石鹸王国記より抜粋)として記述がある。
廷吏兵郎(でりへる:ていりへいろう)
最新の研究では「風族の騎上位大将軍に相当する武官職の名前」という説が有力である。
丙流子(へるす:へいるす)
李女鞍の覇道を助けた名軍師。
歌舞伎町浄化作戦の前年に急死。彼の急死が無ければ
満がああも容易く風族を破ることは出来なかったといわれる。
能力 統率:71 武力:78 知力:89 政治:75 魅力:77
品左路(ぴんさろ:ひんさろ)
李女鞍の覇道を外交面・内政面から助けた名文官。
歌舞伎町浄化作戦をいち早く察知し、石鹸王国に向かい、
その巧みな弁舌で見事援軍6万の派遣を取り付けた。
が、その援軍を率いての帰国途上に病死。石鹸王国軍は先発隊の報告により風族の敗退を聞き撤退した。
もしこの援軍が厨華に到達していたら、歴史は大きく変わったに違いない。
能力 統率:61 武力:36 知力:79 政治:91 魅力:96
442 :
修正:2006/02/19(日) 18:05:00
菌染(きんせん)
前魏・範の梅陵太守。攻め寄せてきた陳に対し徹底交戦するつもりであったが
部下の徐教志(じょきょうし)に斬られた。
能力 統率:12 武力:10 知力:3 政治:2 魅力:2
443 :
修正2:2006/02/19(日) 18:13:13
魏焔(ぎえん)
字は文鳥。陳の対面側位将軍。睾虫とは汗玄時代の同僚。
元から能無しの汗玄に愛想を尽かしていたが、女に現を抜かし、政治を省みぬ汗玄に
ついに怒り斬殺してしまった(これが「美人局の計」)。その後睾虫と共に陳に下った。
将器ならばかなりのものがあったが、主君を裏切り陳に下ったことから尿道炎や諸除易ら文官の信頼は薄く、
ことあるごとに「奴は左曲がりの相を持っております。今斬り捨てねば国家存亡の危機になりかねませぬぞ」
と言われていたが軍権の最高責任者である陳歩は取り合わなかった。また御主や他の武官からの信頼も厚い将だった。
彼もまたその信頼に応え派手さは無いものの確実に戦果を挙げた。
が、陳歩更迭後攻め寄せてきた連合軍と陳陳・陳虎らと共に戦うが惨敗し
陳虎と防衛の要所である処襄を失う。その敗戦の責任を一人で背負わされ殺された。
陳陳ら武官は必死に彼の助命を乞うたが、彼の"天敵"宰相諸除易や敗戦続きで気が動転しきっていた御主には
聞き入れられなかった。こうして忠臣が一人無駄に死んだのであった。
能力 統率:86 武力:83 知力:62 政治:56 魅力:61
満に敗れたとはいえ、風族は絶対過小評価されてるよ
特にエンコーなんか武力60〜70台っていうひどい能力値つけるしさ
中でも俺は冥度(めいど)はすごいと思うぞ
後手陣(ごしゅじん)っていう陣形戦術の妙は言わずもがな
当時の法律をまとめた歴史的価値の高い五法史(ごほうし)も著したり
段無馬(だんなさま)を駆け、外敵を軽く料理して掃除しまくったし
その上奢ることもなく主人の李女鞍に絶対服従の忠臣ぶり
なのにエンコーではこの能力(´Д⊂
統率:60 武力:61 知力:58 政治:42 魅力:63
所詮異民族ですかそうですか
445 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 19:45:43
風族は万湖四国時代ですぐに滅んだから評価が低いんでしょう。
汗尻馬(かんけつば)
性域地方産の馬で、痔を垂れ流してでも走り続けるとされる名馬の種。
通説では赤痢馬も汗尻馬の一種と目されている。
胸奴(きょうど)
北方の異民族。朕時代以前は北方に大勢力を誇ったが、荷洋族に於志四が現れると
著しく弱体化し、前魏時代には小勢力に過ぎなかった。
が、秋葉族・風族・荷洋族が厨華の動乱に巻き込まれ弱体化していく中
着実に力をつけ、万湖四国時代には一大勢力に成長。
厨華北部に大国後魏を創りあげた。が、厨華に同化していくうちに弱体化し、
台頭してきた疥癬卑(かいせんぴ、三つ目の統一王朝髄(ずい)を建国した民族)
により後魏を割られ、その動乱の中厨華に溶け込みその姿を消した。
荷洋族討伐戦(にようぞくとうばつせん)
雲軍vs荷洋族。雲軍勝利、於湿胡帰順。芝居あくまで抵抗。
膣壁で陳と共同で満を破った雲であるが、未だ北方からの圧力が厳しいことには変わりなかった。
そこで云虎は水軍を率いて東北部の荷洋族を攻めこれを帰順させ、満を襲わせるという奇策を
提案した。雲治は許可を出した。が云虎自ら率いる第一陣が出陣した直後に水仙の戦いを始めてしまった
ため、云虎はたった1万5000の兵で圧倒的アウェーの戦いを強いられた。
それでも云虎は十倍以上の荷洋族を圧倒した。その豪胆な将器を見た於湿胡曰く
「あの斉苗軍でさえここまでの強さは無かった…奴は修羅の化身か?」と言い怯えたと言う。
総大将からして弱気では話にならず、包天で惨敗し於湿胡は雲に帰順した。
だが芝居と裴玩はそれを潔しとせず、さらに北方の乳張(ちちはる)を拠点に抵抗を続けた。
激戦の中風土病にかかり瀕死の状態だった云虎は、そんな状態でも彼らの討伐に乗り出した。
全ては雲国の未来のため…彼を動かしていたのは「執念」。それのみであった。
449 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/19(日) 21:38:43
諸除易が陳歩を評した言葉らしい
全身之胆なり、頭錐のように切れ
一心に忠義詰まり、覇を志すこと百度
百戦錬磨なり、威光遥か千里西方まで届く
星が消ゆる程、時間過ぎ
自慰を好み、独断専行極まれり
時は無常なり
ついに遠方の島に送られる、これは当然の報いなり
陳歩は全身が肝っ玉のような勇気のある男で 頭は錐のように切れるほど頭はよかった。
忠義の臣であり 覇を唱えるために戦うこと100度
ついに百戦錬磨となった。 その威光は遥か遠くエーロッパ西方まで届いた
そんな陳歩も星が消えるほどの時間がたったら 自慰のような自分勝手な独断専行ばかりしていた。
時間というのは無常なものだ、島流しになっても 仕方ないのではないだろうか。
>>448 於湿胡曰く×
於湿胡は○
怯えたと言う×
怯えたという○
四畳半の戦い(よじょうはんのたたかい)
雲軍vs芝居軍。雲軍勝利、芝居討死、裴玩雲国に帰順。
雲国一の名臣云虎の最後の戦い。
包天会戦で雲に惨敗した於湿胡は雲に帰順したが芝居と裴玩はそれを潔しとせず
北方の乳張を拠点とし抵抗を続けた。激しい戦いの中で矢傷を受け、さらには風土病にかかり
もはや立つのが精一杯だった云虎だったが、速戦即決で反乱軍を討つべく荷洋族の軍を加え
乳張に進軍。圧倒的軍勢に怯えたのか反乱軍から造反者が続出し、あっけなく乳張は陥落。
反乱軍はなおも抵抗を続け、北の果てであるアムール(当て字不明)で決戦を挑んできた。
ここで芝居は敢えて狭い場所に、「天空一字九間長(いちじくかんちょう)の陣」を敷き、
高楼から連合軍を射竦める作戦に出た。厨華生まれの芝居ならではの奇策はピタリとハマった。
この陣を前に荷洋族軍は怯え戦いにならず、雲軍もこのような高楼を見たことが無かったため、
「相手方には妖術使いがいるぞ」などと囁き合い、戦意を喪失していった。
もはや余命幾ばくも無い云虎は焦った。そんな彼が最後に出した策は、芝居を自ら矢で射抜くことであった。
芝居を討ちさえすれば相手も抵抗をやめるはずとの読みがあったのだが、もはや立つ事もままならない彼に
そんな芸当はできないはずであった。だが彼はその一か八かの賭けに勝ち、見事芝居を射抜いた。
だが云虎はついに力尽きその場に倒れ、二度と目を開けることはなかった。雲はまた名臣を一人失った。
その後、裴玩が兵をまとめて降伏。戦いは終わった。
満は四方八方から攻め入ってくる勢力への対応に忙殺され、国力が衰えて行く。
この戦いの名の由来は、芝居の陣が四畳半しか無かったことからである。
陳歩と駝鳥三兄弟の一騎討ちって艶義の創作?
上島の必殺技、来流輪羽(クルリンパ)が超好きなんだが
452 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 16:11:59
蒼天行為の万黄が死んだ瞬間に、満国が滅んでるのはやりすぎじゃないかな。
まずは、万黄を切れと、陳国から通達が来てめちゃくちゃもめた後、(万黄がなぜか登場しない)
万黄が登場して、知らないはずなのに全てお見通しで、「閉じるとするか。そろそろ飽きたからな。」とか言った後
長々と死についての見解を述べて敵が見てる中で堂々と遺書を書いた後に、それを破ってばら撒いて、陳軍に一人で突撃。
陳歩の軍2万を、陳歩を一瞬で切って(なぜかここで陳歩と諸除易が戦死したことになっている)
敵の大軍と満益と陳軍が見ているところに、と
自分で自分の首を刎ねて、満益や満軍や満家臣団がそれを見て号泣した瞬間に、
尿道炎率いる、陳軍が大軍で乗り込んできて死ぬんだけど万黄の天才さを強調しすぎなんじゃないかな?
(歴史を捻じ曲げすぎている)
もっと悲哀に溢れて殺されるところを見たかったよ。
満国の衰退で悲哀はやりつくしてるから天才を出しとかなきゃまずいってことなのか?
その後の蒼天行為は、馬鹿としか思えない陳陳と性格異常者の陳間等が虐殺やったりとか相変わらず木像の御主が統一後に燃やされるといった陳国の貶めに終始して
後満再興で万黄が盛大に祭られてたりとかで、話が現代に戻ってきて陳国史のエピローグが被ってるだけだし。
453 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/21(火) 16:24:13
乗り込んできて死ぬんだけど×
乗り込んできて満益とか死ぬんだけど○
沙夏曼(さげまん)
満国出身の兵法家。
辞縁惰唖の乱の折に出奔して諸国を放浪。晩年は雲の客将に落ち着いた。
周靼令布の戦いで絶体絶命の危機にいた雲国をその智謀をもって救う。
彼の秘策「退歩の陣」により陳の大軍を撃砕し雲軍に勝利をもたらした。
その後、雲運の暴政に嫌気がさしたか再び放浪の旅に出る。
余談だが、沙夏曼に関わった国は皆滅びたという。(満、後満、雲)
455 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/22(水) 01:17:50
>>457 ていうか、蒼天行為は登場人物全員が過剰すぎて変態だからな。
まあ、それが魅力だったんだけど。
まあ、あのオチでよかったんじゃない? 良くも悪くも蒼天だよ。
そういえば「木像の御主」というのは吉川英恥陳国志でもあったなあ。
あの、御主は実は偶像で、陳歩らが実権を握るために仕込んだモノだったと。
>>452 >>455の言ってたことで大体の説明は付くけど…あの終盤の壊れっぷりは
編集部に勝手に「十年連載を十冊に」って謳ったクロニクルエディション出したからかもな。
実際は完結までに十一年半ぐらいかかったけど、クロニクル〜が出てからのやる気の無さといったら無かった。
ところでクロニクルの最終巻ってもう出た?
そういや「木像の御主」って日本での初出は南方珍三の陳国志じゃなかった?
あの人の面白いんだけど…やたらエロ出したがるしなんといっても句点多すぎで
読みにくいことこの上ないんだよなあ。編集も校正ちゃんとしろよ…
とまあそれはいいとしてやっぱり御主はいたと思うよ。
風呂氏の独裁が木偶を盾にしたモノだなんて間抜けすぎるじゃんwww
あいつらも結構抜けてるところあったけどさ、いくらなんでも…ねぇwww
風呂半(ふろはん)
字は信翼。陳の臣。陳の建国当時からの臣で、初代宰相。
だが病で職を辞さざるを得なくなり、楊如に位を譲った。
その後病から復帰し、大傳の位に就いている。
能力 統率:61 武力:9 知力:78 政治:91 魅力:81
風呂全(ふろぜん)
字は真峪(しんよく)。風呂半の息子で陳の性域都護。『艶義』では出番が少ない、
対異民族戦で活躍した将軍である。『精子』には、
「彼の仕事ぶりは完璧と言えたが、功績を挙げるために西域の異民族の叛乱を唆していたという噂も立っていた。
彼の息子のやったことを考えればこの噂は真実だったのだろう。」
とある。おそらく息子同様野心に満ちた男だったと思われる。
能力 統率:75 武力:72 知力:88 政治:73 魅力:59
風呂窯(ふろかま)
風呂全の子で陳の位空。時の御主の大傳から位空に就いた。
幼いころから御主の信任は厚く、それを盾にまるで宰相のように振舞った。
軍にも口を挟み、陳間等も「素人にあれこれ言われてはやりにくい。あ奴はいずれ排除せねばならぬ。」と
ことあるごとに言っていた。陳統一後は正式に宰相となった。が、すぐに息子の風呂衷に位を譲り自らは隠居した。
これには、風呂氏による権力継承を続けて行くという意思の表れとされている。
だが栄華は続かず、助平・霊座らによる風呂氏弾劾事件により捕縛され処刑された。
能力 統率:32 武力:8 知力:87 政治:71 魅力:39
幼いころから御主の信任は厚く×
それ故幼いころから御主の側にいたため信任は厚く○
これには×
これは○
風呂衷(ふろちゅう)
風呂窯の子で陳の宰相。宰相という重責に耐えうる能力を持っていないのに
父の都合で宰相にされた哀れな男。そのため隠居した父に操られるがままであった。
自尊心が強いところもあったので父に操られるばかりの日々に耐えられず、
だんだん精神に変調をきたし、狂っていった。それ故かとんでもない重税を課し、
その金で無駄に宮殿を造ろうとして助平に諌められたり、西方のエローッパ征服を志し
大軍を興そうとするなどもはや陳の政治は政治の体を為さなくなっていった。
それに怒った助平・霊座らによる風呂氏弾劾事件により捕縛されたが、その際にはもはや常人の精神では
なくなっていた。そのため助平らは処刑はせず、官位を奪って平民に落とし南方の潮南島(しおなんとう)に流した。
そこで断崖から身を投げ自ら命を絶った。権力の魔性に踊らされた哀れな一生であった。
能力 統率:10 武力:21 知力:41 政治:11 魅力:23
459 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/22(水) 13:04:44
蒼天行為は万黄完璧説を採ったが故に終盤の万国滅亡まで苦しかったみたい。
判官贔屓で売ってるキャラクターを、完璧超人にしてしまったのはある種の演出なんだろうけど、演技の孔明みたいなキャラクターになってたからね。
あれはもう人間じゃないよ。人間性を前面に出す作品を書くと1巻で書いてあったはずなのに。
司馬の小説だと「私の首で満の万の民が救われるのならば、喜んで首を差し出しましょう。ただ、次はあなた方の番ですぞ」と殺された後に、
めちゃくちゃな要求が来て攻め滅ぼされるんだけどこの時、「万黄の言うとおりになったか。なんであの時、殺してしまったのか。」と後悔するんだ。
「万黄に合わせるいちもつは無い」と股間に布をかけるエピソードは好きだ。
まあ後満が復活したところで終わりなんだけど満満や布脳の苦労で見せてる感じ。万黄の子供説というのはおいしい設定だよな。
460 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/22(水) 15:22:04
柔望(にゅうぼう)
満国の能吏。後満の柔琳の父。
江布とは飲頚の仲であり、彼の参謀役も務めた。
江布暗殺に際し、災いを避けるため役を辞し、隠棲して晴耕雨読の日々を送った。
後に竹眉の七賢の一人になる。
色白で恰幅がよく、物腰の柔らかい人物で、慕柔(ぼにゅう)と呼ばれ国内外の人物から慕われた。
殊に風族の緒牌波歩は、柔望の養子になることを願う程に彼を崇拝したという。
交備(こうび)
字は玄涜(げんとく)。艶義にのみ登場。
宅県の人で、中出性王・交性の末裔を自称したが当然誰も相手にしなかった。
曹賈の乱が勃発すると、若き日の関遁・宝斐と共に義勇軍を結成。
二人と穴兄弟の契りを結ぼうとしたが、もちろん断られた。その後、二人に見限られる。
道卓の危機を救う活躍をしたが、耳や手足が長い異様な風貌だったため相手にされなかった。
逃げ上手で人を騙すことに長け、女州(ジョシュウ)の陶酔や閨州(ケイシュウ)の蔡晩らをたぶらかし、
まんまと居座ることに成功したが、陳や雲と戦う度に負け、背走と放浪を繰り返した。
閨州でぬるま湯生活に慣れすぎ、気づいた時には肥満だったことを嘆き「贅肉之嘆」を残す。
王南と生い立ちが酷似しているが、おそらく彼を扱った創作の人物と思われる。
463 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 12:59:47
時代が違って申し訳ないけど万湖時代の冉敏は斉苗に関係あるの?
冉敏(びんびん)
万湖四国時代の君主。武勇に優れ、斉を建国。
姦民族至上主義をとり、汚田苦狩り、浄化作戦と称して秋葉族や暴走族などの異民族を弾圧した。
姦民族を集めて国家を建設。いついていた異民族に対し「厨華の地は姦のものなり、異民族はカエレ」と追い出そうとしたが聞き入れられなかった。
怒った、冉敏はわずか1000の兵で3万の風族に強引に攻撃した。
わずか一騎で2000騎を撃破し、戦は大勝したが、他の異民族ほとんどを敵に回すこととなる。
朱朱(しゅっしゅっ)を愛馬とし、倍部と蚯蚓千匹を同時に使いこなし先頭に立って戦い続けた。
強力な部族であった秋葉族や兄汚田を滅ぼし、勢力を拡大。
連合を組んでくる異民族に何回も進入を受けるが、そのたびに撃破し続けた。
しかし南に逃れていた後陳は危機感を覚える。
軍師であった繁己(しげき)の計にかかって病死した。43歳であった。
乙女淫道討伐戦(おとめいんどうとうばつせん)
瀬宮州の戦いに大勝し、北方での影響力を強めた陳。逆に満は支配力を失い、弱小国に成り下がりつつあった。
これに危機感を抱いたのは田代率いる乙女淫道である。陳と満の微妙な力関係の狭間でしたたかに生き延びてきた彼らにとって
満の弱体化は死活問題であった。かといって陳に付こうにもみこすり半の戦いを起こしたのは自分達であったため
それも出来なかった。朝議は紛糾し、決着は付きそうにもなかった。そんな中、陳歩とその息子陳虎と陳陳がそれぞれ3万の兵を引き連れ
乙女淫道の本拠処襄・覆城址に進軍してきたのだ。ここまで追い詰められればもはや話し合うことなどなく、陳に立ち向かうことを決定。
田代は6万の兵を率いて処襄に拠り、駝鳥三兄弟は処襄・覆城址間にある辺都郊外に5万の兵を率いて布陣。覆城址には具羅賛字を允裄(ぐらさん まさゆき)に4万を預け守らせた。
こうして陳対乙女淫道の最終決戦が始まった。
当初は数で勝る乙女淫道が押していたが、次第に兵の質で勝る陳が盛り返し始めた。
そして辺都の戦いで陳歩が駝鳥三兄弟を破ると総崩れとなり、
覆城址守将具羅賛が陳虎の計略にかかりあっけなく降伏し、要塞都市処襄も陳陳の巧みな攻城戦術の前についに落城。
ここに国家としての乙女淫道は終焉を迎えたのである。だが田代は行方知れずとなった。
石鹸王国の歴史書には「怪しげなる厨華人らしき者が邪教を流布した罪で処刑された」
とある。これは前後の邪教の教義などの記述などから田代その人だと推測できるが、
肝心の処刑された人物に関する記述が散逸してしまっているので事実かどうかは不明である。
だが間に合わなかったとは言え満も援軍を出していた。その援軍の将陰歩に、陳軍は痛烈な大敗を喫することになる。
具羅賛(ぐらさん)
字は允裄(まさゆき)。羅津庵 怒須太の中核を担っていた豪族。
守勢に長けた将であったが、乙女淫道討伐戦の際陳虎の巧みな調略にかかり覆城址を明け渡してしまった。
その後陳の将として慈威地点の戦いに従軍したが、その際に戦死した。
能力 統率:61 武力:69 知力:61 政治:59 魅力:78
慈威地点の戦い(じいすぽっとのたたかい)
陳軍vs満軍。満軍勝利。
乙女淫道への援軍として出撃した陰歩・嶺頭率いる3万だったが、乙女淫道が思ったより早く
陳に敗れたため、撤退すべきかそのまま進軍すべきか迷っていた。陳からの降将陰歩は強硬に進軍を主張し、
満の生え抜きである嶺頭は撤退するべきと主張し譲らなかった。結局陰歩は己だけでも進軍すると言い放つと
手勢の5千を引き連れ処襄付近に進軍。それを察知した陳陳は2万5千を引き連れ処襄を出立。
陰歩は慈威地点に陣を敷きこれを迎え撃った。世に言う慈威地点の戦いである。
5倍の兵力差があるなら簡単に破れると思っていた陳陳だったが、陰歩の地形を生かした巧みな用兵
の前に手も足も出ず惨敗し具羅賛を失った。処襄は何とか守りきり領土の減少は最低限に抑え切れたが、
この地域での力関係が再び拮抗し始めたことは間違いない。
満攻めの戦い(まんぜめのたたかい)
陳軍vs陰歩軍。陳軍勝利、陰歩援軍嶺頭により背貢須負傷。のち入水自殺。
陳陳の無残な敗戦を知った陳歩は怒り、すかさずその将を攻め滅ぼすべく7万の軍を率いて
処襄から満領内へ侵攻。それを陰歩が1万の兵で迎え撃った。これが満攻めの戦いである。
息巻いて満に乗り込んだ陳歩であったが、相手が陰歩だと知ると、途端に萎えてしまい全く締りが無くなり、敗戦を続けた。
その上援軍2万5千を率いてきた嶺頭に側面を突かれて惨敗、股肱の将背貢須を失い、失意のどん底に叩き落された。
さすがに背貢須を失った直後は怒りに震えて勃ち上がり、猛烈な勢いで満軍を攻めたが、
陰歩の奇計にかかり一時撤退を余儀なくされ、また萎えてしまった。だが陰歩の腹臣出伊が陳に降ると
一気に戦況は陳に傾き、出伊考案の「倍亜具等の計」にかかった陰歩軍は包囲殲滅され、一兵残らず殺された。
陳軍の被害も多く、出伊・慈聞ら将軍格を含め1万人が討ち死にした。
だが陰歩の強烈で狂気染みた迫力に、さしもの陳歩も怯えてイザというときに萎えることが多くなったという。
このことから『勃たぬ陰歩、勃てる陳歩を萎えさせる』という股事性語が出来た。
だが陰歩の強烈で狂気染みた迫力に、さしもの陳歩も怯えて〜×
この時、陰歩の強烈で狂気染みた死に様が目に焼きついたのか、その後陳歩は〜○
ケッツ・サワール
エローッパ帝国では珍しくゲリラ作戦を得意とする将軍。
大部隊を率いてのHaA(Hit and Away)作戦は陳国の後方をたびたび脅かした。
パン・ツィラー
将軍。詳細は・・・めんどくせぇ
>>463 冉敏と斉苗の共通点といえば、「虹」を崇拝することを忌避したことですかね。
斉の建国当時は異民族文化が流入しており、彼らの通俗・風習、そして嗜好が広く伝わった時代です。
中でも「虹」に恋焦がれる(虹燃・にじもえ)風潮は若い世代を中心に爆発的に広まったそうです。
しかし斉苗は「虹は虚(うつろ)なり。其れは見目麗しくも、腰を預けること叶わず」と、その信仰を否定していました。
虚像ではなく実物に目を向けさせようと考えた斉苗は、彼らの信仰を虹から徐々に実のあるものにすりかえようと考えたのです。
そこで甫立言(ぽりごん)という人物が、小さな面を連ねて立体的な像を描く技法を考案します。
この新しい技は注目を集め、広まるとともに研鑽され、次第に実物に近付いていくことになるのです。
虹崇拝の本拠・秋葉原にも広まり、阿仁族も最初は戸惑ったものの、次第に認知されてきた。
しかし、この技法が一般的なものとなった頃には「これは実像にあらず」と疑問が抱かれるようになります。
そして単に「虹とは異なるもの」という位置付けに追いやられることになってしまいます。
冉敏の時代には虹崇拝の原点回帰が行われていましたが、彼もまた、人々が虹に呼気を荒げること良しとしませんでした。
信仰の対象を曲げようと画策しましたが、斉苗の轍を踏まぬよう、虚像であるものを最初から実物にすりかえる方策を打ち出しました。
そこで、彼らの寓話を役者に演じさせるという方策を生み出し、芸能として定着させたのです。
これを「日写版(じっしゃばん)」といい、後に狂劇(きょうげき)の源流のひとつになっています。
有名な話があれば、どれでも日写版にしてまわったとのこと。
瞬く間に老若男女に認知され、「八倒萬(ばっとまん)」「吊破瓜二子(つりばかにっし)」などの作品が好評を得ていました。
ただ、糞味噌にけなされる結果に終わる作品も少なくありませんでした。
これは元となった寓話に対する理解が低かったからとも、元々の寓話が現実離れしすぎていたとも、諸説あるようです。
>>470 少なくないどころか、六割がた批判されてたよ…
特に「弟日瑠漫(でびるまん)」「脚斗女(きゃっとうーまん)」は酷い出来だったらしいな…。
秋葉族の特殺族(とくさつぞく)の特殺悪多は
「あんな酷い出来じゃ満足できない!!」って怒り狂ったらしいし、
阿仁族も「虹のほうが出来がいい」
って言って見向きもしなかったからねぇ…
やはり「日写版」作者のスキル・寓話への理解度が低かったことは明白だろうな。
特殺悪多(とくさつおた)
特殺族の族長。本名は瑛寺(えいじ)。
特殺族の親交対象のひとつ粒羅屋神殿の神官も務めていた。
好戦的で強力な戦士の多かった特殺族において、知謀の士として通っていた奇特な人物。
妖術も得意であったという。ただ武芸はからっきしだったようだ。
『精子』によると陳統一前から華璃句美国と同盟を組み、陳華洲と戦っていたとの記述がある。
その後万湖四国時代中期まで生きて120歳で没したという。驚異的な長命であった。
四面満歌ってのも有名な話しだよな?
後満滅亡直前、後満の名将、満非胃が陳軍に囲まれたときに
周りから聞こえてきたのは、満国の歌人「砂山全星」の名歌
「満非胃の自慰スポット」であった。
満非胃は自らの自慰スポットが敵の手に落ちたのを知り、
怒りのあまり敵軍に単騎突入し、果てたそうな。
満非胃(まんぴい)
後満の対面座位将軍(*)。満火素の末子。
『艶義』によると後満末期の名将として名高く、文人としても一流だったといわれる。
後満のきっての大衆歌人集団「砂山全星」との交流は良く知られている。
が、『精子』によると一流の文人であったことは間違いないが、将としての才覚は
あまり芳しくなかったようである。だが知弓高原からの撤退戦で殿を引き受け
見事な采配を振るい、柔琳らを無事に逃がしたとの記述もある。
肯定的な記述はこの一件のみで実際のところは良く分からない。ただ後満がもう少し強大であったなら
彼の真価が発揮された可能性は否めない。
馳武狭城の支城であった馳九尾砦(ちくびとりで)の守将として陳と対峙したが、
本城の馳武狭城陥落後、逃げ遅れた馳九尾守備隊5000は陳軍に完全に包囲された。
彼は本国からの援軍を待っていたが、それを読んでいた陳間等は自軍の兵に彼と交流のあった
「砂山全星」の名歌「満非胃の自慰スポット」を歌わせた。
すると、本国を落とされたと勘違いした満非胃は単騎突撃をかけ散った。
慎重なはずの彼だったが、最後はあまりに軽率だった。
*この位は満国では前座位将軍と呼ばれることが慣例だったという。
能力 統率:51 武力:41 知力:78 政治:69 魅力:86
精氏(せいし)
陳の正上尉・謝盛の娘。陳歩の第一夫人。
透ける様な白い肌の美人。陳歩との間に陳邦敬を儲ける。
多くの妾をもった陳歩だったが、精氏との仲は円満であった。
佳人薄命、早世する。まるで陳歩によって生を得たような一生であった。
性溜蜜月刀(せいりゅうみつげつとう)
関遁が愛用した重さ十八斤の大刀。
二十斤、二十一斤ともいわれる。
見た目の巨大さに比べ、意外と軽い。
475 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/26(日) 11:33:43
【ネタにできそうな単語】
稚児 男妾 男娼 下着 娼婦 巨乳 貧乳 膀胱炎
セクシャルハラスメント
アウストラロピテクス⇒アウグストゥスみたいな響きでカッコイイ!!
被らないためのテクニック
Ctrl+Fなどで検索するときに、漢字とひらがなの両方で調べてみると吉
現行スレもいいけど、まとめサイトもしらべてみよう!
宮本 無精(みやもとむせい、ぶしょうとも)
倭国の剣豪で後威零帝に剣術を教えたとされる宮本 今羅稚緒(みやもといまらちお)の子。双成流の使い手。
彼自身は厨華生まれで、幼いころから5つ上の後威零帝の稽古相手として育った。
剣術はかなりの腕前を誇り、後威零帝でさえ容易く敗れたこともあったようだ。
前魏滅亡後は諸国を流浪し、傭兵として様々な勢力の兵卒として戦いに参戦した。
斉滅亡後に浪人となった佐々木 紺次郎武との壮絶な一騎討ちである
「願謝島の決闘」はあまりにも有名である。この闘いの後流浪を止めて陳に剣術師範として仕官した。
陳歩の一人娘陳子に剣術を教えたのは彼だと言う。さらに剣の技術・剣士としての心構えなどについて
詳細に記した五巻からなる「五絶倫書」を書き残したらしい。が、現存していないため真実かどうかは分からない。
宮本 今羅稚緒(みやもといまらちお)
宮本 無精(みやもとむせい・ぶしょう)の父。双成(そうせい、あるいはふたなり)流の創始者。
倭国随一の剣士という自負を強く持っていた彼は、
まだ乳飲み子であった息子無精を連れて厨華に渡った。そこで修行と闘いの日々を送った。
ある時、時の皇帝14代槍帝が開いた武術大会に出場。
彼のキレのある剣技は帝の目に留まり、宮廷の剣術師範に取り立てられた。
そこで16代後威零帝などの皇族や貴族の子女、親衛隊員らに剣を教えたという。
岸安事件の際にかつての教え子輪鋲と闘い、敗死した。
双成(そうせい、あるいはふたなり)流
宮本 今羅稚緒が創始した、二つの剣を巧みに使う剣術。
主な使い手には輪鋲、陳子、後威零帝、宮本 無精らがいる。
願謝島の決闘(がんしゃとうのけっとう)
宮本 無精と佐々木 紺次郎武による壮絶な決闘。
わざと約束の刻限に遅れて紺次郎武の苛立ちを誘おうとした無精だったが
紺次郎武は全く意に介せず、この作戦は失敗した。
そのため無精の予測のようにすぐに終わらず、
何百合と剣と剣がぶつかりあう死闘となった。700合を過ぎたころ、
無精の双刀を紺次郎武の大太刀「モノ欲しい竿」の一撃がへし折った。
もはや無精もこれまでかと思われたが、すぐ側にあった櫂で紺次郎武の「モノ欲しい竿」
をハネ飛ばすとその櫂で紺次郎武の頭を叩き割り勝負有り。
だが無精はこの後死合をすることも戦に出ることもなく、剣術師範として後半生を送った。
死合の無常さを悟ったのだろうか。
479 :
追加:2006/02/26(日) 20:11:50
>をハネ飛ばすとその櫂で紺次郎武の頭を叩き割り勝負有り。
この戦いの後、無精の剣士としての名声は不動のものとなった。←この一文追加。
>だが無精はこの後死合をすることも戦に出ることもなく、剣術師範として後半生を送った。
480 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/02/26(日) 20:36:00
宮本無精と陳宝って戦ってなかった?
ちょwwなんで江呂(えろ)時代の剣豪が陳国時代に出て来るんだよwwwwww
角川映画であったよ、そんなの
陳国時代の武将が江呂時代にタイムスリップした!って設定なの。
小学生の時見て本気にした。
ああいう映画といえば「陳国自衛隊」も面白かったな
最近リメイクされたアレはダメだ。
ヘタに人気俳優使っちゃうと、露出できないからな。
483 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/01(水) 01:09:21
硬冠(こうかん)
雲国末期の将軍。
周靼令布の戦いでは前線である黄門を守るが陳華洲に軽く蹴散らされた。
提総(ていそう)が施されているために黄門は不落であったが陳の名将陳華洲は乗り込めないなら壊してしまえばいいと
やたらとでかい丸太を使って一斉に攻撃をした。
あっというまに黄門は叩き壊され、陳の大軍は黄門に乗り込んだ。
誰にも落とされたことが無い黄門を落とされたため涙ながらに敗走するが、追撃を受けそのまま討ち取られる。4つん這いでの最後であった。
一歩も入らせたことが無い黄門についに入られたのかと雲の将兵は悲観した。
統率48 武勇 49 智謀42 政治 38 魅力 44
>>474 関遁の性溜蜜月刀の刃の部分には頑丈なカバーがついてて上野(じょうや)という鍛冶職人が
はずすまで誰にもはずせなかったらしいな
関遁が一皮剥けたのは性溜蜜月刀のカバーが取れた後だな
まとめサイト人さんいつも乙です
申し訳ないのですが、裴藍備の列伝で斉司を包囲したのが呉矛ではなく是梨になっています
----------------------
裴藍備(はいらんび)
満の将。第一次鎮江攻防戦に副将呉矛(ごむ)・是梨(ぜり)を伴い参加。
副将是梨に斉苗の嫡子斉司を包囲させ、後一歩のところまで追い詰めるが、
↑
ここの部分
-----------------------
膨大な資料をまとめるのは大変な作業で申し訳ないのですが
包囲が得意なのは呉矛だというこだわりがあるのでよろしくオナがいします
上野(じょうや)
厨国全土にその名を轟かせた天才刀鍛冶
自ら新しい武器を作ることはなかったが、折れた剣の修復、武器を長く太くする技術は並ぶものはいなかった。
彼の手がけた武器を手にしたものは必ず武運に恵まれ、「ひとつ上の男」になったといわれる。
また彼は利用者のことを第一に考え、24時間無料相談、障害無料保障、などサービスが非常に充実していた。
×障害無料保障などサービスが非常に充実していた。
○生涯無料保障などのサービスを充実させていた。
かな?
漢字と文章力が弱くてスマン
スマンもう一度
上野(じょうや)
厨国全土にその名を轟かせた天才刀鍛冶
自ら新しい武器を作ることはなかったが、折れた剣の修復、武器を長く太く改造する技術は並ぶものはいなかった。
彼の手がけた武器を手にしたものは必ず武運に恵まれ、「ひとつ上の男」になったといわれる。
また彼は利用者のことを第一に考え、24時間無料相談、生涯無料保障などのサービスを充実させていた。
李昆と陳歩の、軋轢のもとになった「禰武威(でいぶい)」について、語ってはくれまいか。
490 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 03:06:20
黄門
雲国の玄関とも言われる難攻不落の要塞。
堤と総構えの複合型つまり提総を施してあるために非常に頑強で、雲国の国境を安定させていたのは、この黄門であった。
あの陳歩でさえも黄門を落とすことは適わなかった。
築城した当時はとても素晴らしい最新技術を使って立てられていた。
陳歩全盛の時代は良かったが、陳国時代後期になると流石に老朽化し技術も古くなっていった。
黄門は難攻不落であったことには変わりは無く、一度も落とされることはついになかったという。
しかし、黄門は徹底的に研究され、
最後は陳華州により無残に叩き壊れてしまった。いかなる、難攻不落の要塞でも絶対というのは無いのかもしれない。
廷吏兵郎(でりへる:ていりへいろう)
風族の騎上位大将軍に相当する武官職の名前という説が有力であったが、
風族の傭兵軍団の軍団長を廷吏兵郎と呼んだという説が近年浮上している。
依頼さえあればどの戦場にでも現れ、誰の命令にでも従ったといわれる。
数多くの文献に幾人もの廷吏兵郎が登場するのはそのためだと考えられる。
風族傭兵軍団は風族のみで構成されていたわけではなく、登録さえすれば
朝鮮族や厨国人も加わることができた。
また当時はお金のために戦うことは卑しいことだとする風潮もあった為、
家族には土木作業など別の仕事に従事していると伝えるなどアリバイ工作も万全であった。
兵の質は押し並べて低く、それが雇い主の悩みの種であったようだ、
鄭辞(ちぇんじ)というシステムがあり、送られてきた軍団が気に入らなければ
別の軍団と交代してもらうこともできたが、代わりに送られてきた兵の質も低いことが多く
めったに当たりを引くことはなかったといわれる。
余談ではあるが、陳歩も若かりしころ兵が集まらずどうしようもないときに
2・3度お世話になったという説もある。
全律閃(ぜんりつせん)
陳の武将
没記(ぼつき)村での旗揚げ以来陳歩に仕え参謀役を勤めた人物とされるが
決して表に出ることはなかったため実在さえも疑われている人物である。
その経歴の多くは謎だが彼が病床に伏した後、陳歩は満攻めの戦いなどで
しばしば精彩を欠き、いざという時萎えに苦しんだため艶義では陳歩を陰で
支えた名軍師として描かれている。
493 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/04(土) 21:43:59
王膣(おう・ちつ)
字は幡古(まんこ)。
満国の軍師。水攻めに優れる。
有名なのは「割目関の戦い(かつもくかんのたたかい)」。
難攻不落の要害の地「割目関」で、周期的に発生する洪水を利用し、
北方の異民族の軍を壊滅させた。
すっかり廃れたし、安成保茂山(あなるほもやま)時代や江炉(えろ)時代の話題もOKにしないか
個人的にはネタ切れしてきたけど以前はこれぐらいのペースじゃなかった
新スレになってからの速さが異常だと思うが
496 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/06(月) 23:22:37
韓自他、背後位の陣
後に国士夢精と呼ばれるようになる、名将軍韓自他は「陳個」討伐に向かわなければならなかった。
戦況は乳邦が圧倒的に不利であったために、状況を打開すべく派遣された韓自他の別働隊の働きに全てがかかっていた。
だが別働隊を編成しようにも兵がいなかったため、韓自他は兵を集めようとしたが、金もあまり無く、既存の兵力は乳邦からもってはこれなかたので
まずは兵を集めなければならない。それが韓自他に与えられた当面の目標であった。
韓自他「われは、祖の騎上位将軍也。われに付いてくれば女、
金思うがまま、今歴史を変えるのだ」と必死に宣伝をしたが、結局集まったのは万にも満たない小勢だけ。
こんなことではとてもじゃないが陳個討伐など、絶対不可能だと韓自他は悩んでいて、皆で会議を開こうかと頭の中でぼんやりと想像をしていた頃、、乳邦から催促の使者が来た。
韓自他は、目の上のたんこぶが来たもんだ。殴っても腫れる、ほうっておいたらもっと膨れる、痛さを我慢して抜き取る、逃げても仕方が無い。
きちんと無理なことは無理だと伝えるべきだと考えた。
ここ数日何回も来ていたのだ。韓自他はそのたびに有耶無耶にしてきたが、どんどん強い口調で出陣を要求してくるだけであった。
497 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/06(月) 23:26:17
「そろそろ攻めないと戦力が広がってしまいます。我が軍にだって限界はあるのですぞ。早くしてくだされ。その足へ東へ。」
せかしたように使者は言い放った後、一礼をして目をやり場に困ったかのようにきょろきょろし、もぞもぞさせていた手を合わせ後に下を向いた。
韓自他は今日こそきちんと、いかにして乳邦の不興を被らずに断ることが韓自他にとってとても大事なことになっていたのでしばらく
考えた結果、兵がいないのでお金を運んでもらうことを理由に時間を稼ごうとした。
自分たちは死にに行くつもりも、寝返りに行くつもりも無い。勝つために、このままでは確実に来るであろう喘羽の覇権を阻止するために。
崇高な理想はあれど兵も無い、金も無い、士気も無い、理想を実現するためにこそ断るべきだ。
と、言い訳で韓自他は自分の中にあった罪悪感を誤魔化し、断る覚悟を決めた。
「残念です―」と韓自他は声を発し「が」の言葉が喉まで出そうになった瞬間、使者の顔と乳邦の顔が被った。苦しそうな顔だった。
韓自他は忘れようとしたが、それは無理だと瞬時に判断し、韓自他は苦戦しているであろう乳邦を想像し胸を詰まらせた。
「いいでしょう。果報をお待ち」。しかし韓自他が目の前を見たとき、使者はいなかった。
ところで皺降(すーふり)ってどんなヤツらだったの??
>>495 前スレでも、突然にレスの勢いが萎えたことは何度もあったよ。
でも、一度勢い勃てば破瓜の勢い。これが陳歩クオリティ。
500 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 21:45:49
age
501 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 11:19:09
>>498 車掛かりの陣で戦ったんだよ。最後は全滅した。
陳歩の成分解析結果 :
陳歩の55%はやましさで出来ています。
陳歩の17%は魔法で出来ています。
陳歩の12%はかわいさで出来ています。
陳歩の9%は覚悟で出来ています。
陳歩の2%は鉛で出来ています。
陳歩の2%はやらしさで出来ています。
陳歩の2%は電波で出来ています。
陳歩の1%は波動で出来ています。
55%wwwwwwwwwwww
雲国主将・発擦
戦歴も所属派閥もパッとしない彼だが、
どうやら外交面ではそれなりの人物だったようだ。
雲国からエローッパ帝国に贈られた書簡が残っており、
そこにキャプテン・ハッスルとの署名があった。
文面は交易の申し入れだったようで、
その後の書簡では陳・満の挟撃を示唆していた形跡がある。
当時のエローッパにそこまでの力があったかは別にして、
雲を持ちなおすには上策とは言えないまでも下策でもなかったと言えよう。
なお、他にオレーダ・ケノ・ハッスルやボクーダ・ケノ・ハッスルという人物が
エローッパの資料に記されているが、発擦と同一人物かは定かではない。
505 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 14:09:24
腐袈昌(ふけしょう)
506 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 16:37:26
符漢昌(ふ・かんしょう)
507 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 18:36:17
馬琉 字 都臨
なんか、正翼が武力だけの馬鹿といった評価だけど、それは間違いだといえる。
確かに陳歩は彼を時に押さえつけ、時に持て余してはいたけれど、日頃より
「正翼こそ戦う原動力。正翼が健在なら、何度でも陳歩軍は立ちあがり、大きくなる」
と言って頼りにしていたし、羅武浦(らぶほ)での戦いにおいては、正翼自らが囮となって
万黄軍を河の下流に引き付けた後、堤防を決壊させ、水攻めにすることに成功した。
正翼に溺れさせられ、ビショ濡れの万黄は、彼の勢いに任せた攻撃を防げず、大打撃を負った。
特にこの時正翼が使った、選りすぐりの猛者達に一撃離脱の突撃を繰り返し行わせ、
相手に反撃の隙を与えない『飛数遁(ぴすとん)の計』はこの後も応用や改良を加えられて、
『上下飛数遁』や『真破飛数遁(まっはぴすとん)』として陳歩軍に度々使われることになる。
羅武甫の戦いの時点では、陳歩はまだ初陣も済ましてないんだがな・・・
まとめサイトよく嫁
邇胡(じーこ)
何塀(なんべい)太守。
玉を蹴る事を得意とし、鉄の玉を使って敵をなぎ倒したという豪傑。
その功で大陸中だけでなく、世界に名をとどろかせる。
後に陳国の官徳(かんとく)となるが、思った功績はたてられなかった。
舞蹴(まいける)
字は寂尊(じゃくそん)
異民族の血を引いていたため肌の色は黒かったといわれている。
幼いころより兄たちとともに宮中に仕え、歌舞音曲に秀でていたため居怜帝に気に入られ側近となる。
民衆にも非常に人気があり多くの民に支持された反面、「ポゥ〜」「アォッ」などと奇声を発する、
前に歩けずに後ろに進んでしまう、赤子を窓から投げ捨てようとするなどの奇行も目立った。
彼は表向きは子供好きのヒューマニストで通っていたが、部下の子息を自らの寝所に連れ込み
みだらな行為を繰り返していたことが発覚する。
舞蹴は少年の性器を触ったり、無理やり酒を飲ませたりするなどしたとして10の罪を問われることになるが、
宮廷に彼の支持者が殺到して無実を訴え、また宮中にも彼の味方が大勢いたため無罪となった。
しかし懲りない彼はほとぼりも冷めないうちに少年にわいせつな行為を行う。
今度はさすがにまずいと思ったのか舞蹴は整形で顔を変え逃亡する。
途中何度も顔を変え肌の色まで変えて是屡州(ぜるしゅう)の魯山(ろさん)にたどり着いた舞蹴は
この地に山塞を築き山賊となり少年をさらってきては山塞に監禁していた。
彼ははるかエローッパ帝国まで少年をさらいに行き、エローッパ帝国では彼の山塞を一度閉じ込められると
決して出ることはできないという意味を込め「ネバーランド」(ネバーはエローッパ語で決してを意味する)と呼んだ。
512 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/04/23(日) 18:22:15
羅武浦遭遇戦(らぶほそうぐうせん)
陳対満。陳軍大勝も得るものは少なかった。
膣壁の半年前に羅武浦にて偶然遭遇した正翼率いる2万と万黄率いる3万が戦った。
猪武者正翼では万黄に分が悪く満軍が有利と思われたが、
正翼の『飛数遁(ぴすとん)の計』が上手くはまり満軍を打ち破った。
が、正翼では万黄に止めを刺すことは能わず、結局得るものは少なかった。
あの司馬尿太郎も尊敬している厨国の大歴史家「司馬覧」(しまらん)の書いた
「色」(しき)の夢想家列伝にも載ってる
夢想家の「卵子」(らんし)の原本が見つかったって本当?
今エロイター通信のニュースで見た!
516 :
515:2006/05/06(土) 02:01:28
ちなみに久々に南府京大学の綿糸教授の活躍があったらしく、
発掘は綿糸教授によって行われたとか。
三国志時代の夢想史が久々に書き換えられるかも・・・。
ちなみに原本は禰妃亜(ネピア)製の丁手(ティッシュ)に書かれていて
パリパリに乾いた状態で発掘されたとのこと。
また一説では栗禰句巣(クリネックス)製の丁手との見方もあるらしいです。
橋元(きょうげん)
雲国末期の名将。発擦とは刎陳の友であった。
腸閉では総大将として陳間等率いる陳軍を良く防いで見せた。
が、何者かの讒言によりその地位を追われ、罪人とされた。
それにショックを受けたのか、病に倒れ亡くなった。
その後腸閉で無惨な大敗を喫し、雲は滅びた。
彼が生きていれば、総大将として指揮し続けていれば
歴史は変わっていたかもしれない。
能力
統率91
武力87
知力79
政治57
魅力94
典雅(てんが)
雲国の将、緒那似の配下にして緒那似の息子緒那苞流の友人
吾怒素(あぬす)県で子供たちに読み書きを教えて暮らしていたが、
「吾怒素の切れ児(切れ者)」と呼ばれ、近隣では知らぬものがいないほどの秀才であった。
噂を聞きつけた緒那似に登用され雲国の将となる。
雲国に亡命して以来閑職にまわされていた緒那似だったが、典雅を得たことによって
緒那似の同僚たちは、「緒那似の未来が、やってきた。」と羨んだ。
緒那似は典雅に期待をかけ毎日狂ったように訓練しまくった。
しかしある日典雅は山岳地での訓練の最中道に迷ってしまうのである、
三日三晩山の中をさまよい激しい空腹と疲労の中、山を抜けるが運悪く陳歩の軍に出くわしてしまった。
典雅はもはや抵抗する気力もなく陳軍の捕虜となるが「吾怒素の切れ児」の評判を聞いていた
陳歩に取り立てられ陳国の将となる。
陳歩も典雅に大いに期待をかけ毎日しごきまくったが、陳歩は李昆の讒言により失脚してしまう。
一度主を変えた典雅ではあったが二度目は潔しとせず野に下り、一度も実戦を経験
することなく生涯を終えた。
元ネタ
ttp://www.tenga.co.jp/concept/index.html