どうすれば武田家は天下をとれたか。

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1無名武将@お腹せっぷく
君が戦国大名になって武田家に天下をとらせよう。
2無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 02:03:17
長篠の戦いを回避
3無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 02:07:23
上杉と組んで織田をぶっつぶす
4無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 03:04:31
天上天下を読む
5無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 03:07:32
         ∧_∧   ┌────────────
       ◯( ´∀` )◯ < 僕は、孫策伯符ちゃん!
        \    /  └────────────
       _/ __ \_
      (_/   \_)
           lll
6無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 03:13:31
長生きしたら
7無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 03:18:38
真剣に騎馬隊の育成を考える
8無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 04:17:33
しんげんがもうすこ長生きすればし
9無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 13:21:49
取れないうちが華
10無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 14:03:34
エイズ予防
11無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 14:09:58
三沢さんに頭を下げて「天下取らせて下さい(>_<)」と言っていれば。
12無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 14:11:48
信玄に北条幻庵級の寿命があればな
13無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 14:22:53
まずは謙信君に加勢して小田原を粉砕(君は関東管領ねって関東はあげちゃう)、
勢いに乗って駿府を粉砕、直後織田君を粉砕
14無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 14:54:39
上杉が関東治めたら今度は信濃狙ってくると思いますが
15無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 15:02:23
東北でもねらってもらいましょうよ
16無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 18:48:32
信玄に今日の健康をみせる
17無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 00:30:09
信濃制圧に時間かかりすぎ
18無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 00:31:24
謙信に養女なり嫁なり送って同盟
19無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 00:50:29
武将は武田が一番いい武将が多い
20無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 03:37:17
馬を売って鉄砲を買う
21無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 08:33:53
外交に尽きるのでは?
あとは甲斐国からの出発ということか。

武将も優秀なのが多いので、舵取りがうまければ順調よく
進むだろう。
信長は方面軍で拡大を進められたが、信玄の方面軍を考えるとすれば
どのようになっていくか?

単純に天下取りに成功しつつあった信長の政策を、信玄に当てはめてみたら
どうだろう?
22無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 09:51:34
これは何故武田家が滅んだかを考えてみると答がでると思う。

信玄の頃まではうまくいってた訳だが勝頼の代になり老将達がついて来なくなり裏切りをを招いて滅んだ訳だ。まあ勝頼は結果を出す為に無謀な長篠の戦い等もした訳だがやっぱり一番かけていたのは家信達の結束力だろう。
山本かんすけみたいな軍師がいなかった事も大きい。高坂昌信は海津城の守りで動けなかったしここは真田昌幸を軍師にするべきだった。
穴山バイセツとか小山田みたいな老将は隠居させて若い武将に期待する。
23無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 10:09:30
山本勘助が軍師ワロスwww
24無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 10:12:09
川中島の戦いで戦死したのが痛かったね。
25無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 10:27:22
孔明が最初軍師になった時も張飛は最初いうことを聞かなかった訳だが玄徳の剣を出して、命令をないなら切るっていってたわけだが。
同じように昌幸を軍師にしていう事聞かせていればよかったと思う。昌幸を軍師にすれば凄い策略で織田も徳川を倒してたと思う。
26無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 10:33:46
なにこの釣堀スレッド
27無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 10:38:07
そうだな。キーマンは真田たな。
28無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 10:40:31
そうだな。世代交代に失敗したのがいたかったよな。勝頼も武将としては凄い人物だったんだけどな・・・
29無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 10:43:16
優秀な家来もおおかったしね。それを統率する軍師がいなかった訳だ。真田が軍師になってれば・・・
30無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 10:45:30
勝ちに奢り進取の情を失ったからさ。歴史的にはよくある話
31無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 10:45:45
まあ信玄があまりにも偉大過ぎだったよね。もっと長生きして欲しかった
32無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 10:48:35
そうだね。あと一年長生きしてれば充分天下もとれただろうに。
3321:2005/11/16(水) 10:50:58
信長の場合は伊勢や近江など人口も農地、商人の多い領地を手に入れられた。
信玄の場合だと駿河、遠江になるか。手に入れるのが遅かったが。

信長における家康のような大名規模の従属同盟は
北条氏しかいないが、規模が拮抗している。

姉川の戦いの時は 信長の軍だけでは無理だったので家康を持ってきた。
信玄も外交で北条氏を従属できれば 謙信に対しての姉川の戦いを起こして
謙信に壊滅的打撃を与える。

信玄も家康のような援軍を強要できる同盟者がいたらなぁ。

34無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 10:53:14
やっぱり優秀な家来を統率する軍師が必要だった訳だ
35無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 10:55:47
謙信と信玄が組めば最強じゃねー??
36無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 10:58:49
そうだな謙信は塩も送ってくれたし義に熱い男だしな
37無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 11:19:12
なんか軍師という言葉を勘違いしている奴が沸いてるんだが気のせいか?
38無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 11:20:55
勘違い??
39無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 11:24:21
長生き
40無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 11:46:41
150歳まで生きれば
41無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 21:38:15
外交とそれにともなう戦略の力が信玄にあれば取れたんじゃないかな
42無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 23:26:34
ネタスレですか?
43無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 23:28:49
信玄がもう少し長生きしてれば普通に天下とってたでしょ
44無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 23:40:25
りょうすれだな
45無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 00:06:39
夢の世界は楽しそうだね
46無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 00:31:17
謙信と仲良くするなら北信濃の領地の多くを村上たち信濃衆に返してやらにゃ謙信も乗らないだろう。
だがそうすると北信濃の一部、南信濃、上野一部、甲斐となるから国力がグッと下がるんだよな、

まあでも謙信の事だから駿河とりに震源が動けば義に厚い謙信だからそれなりの援兵は期待できそうだし震源にとっても良い方向に働きそうだよね
47無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 00:36:26
騎馬隊ではなく鉄砲で長篠の戦いを打ち合いしたらどっちが勝ったのダロ?
48無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 00:57:36
長篠で雨が降ってれば織田も鉄砲が使えず武田が勝ってたお
49無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 01:00:03
核とアパッチとマシンガンと手榴弾があればマジで武田家は天下取れた
50無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 02:31:20
織田はうんがよかったな
51無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 02:50:05
信玄って何で美濃を集中的に攻めなかったの?
52無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 02:58:58
攻める前に病死したから
53無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 03:30:29
まあ信長も凄い武将だったけど信玄に比べたら足元にも及ばないな
54無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 04:17:21
はいはい信長の野望厨乙
55無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 04:27:46
信長の野望は名作じゃん
56無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 11:01:46
名作だからってステータスの表記までが正しいとは限らん
上杉謙信撃退した千葉なんて統率40ちょいだぜ?
57無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 11:34:37
誰千葉って?ww
58無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 12:01:42
>>57
半年といわず半世紀ROMってろボケ
59無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 12:15:46
別に統率40ぐらいでも謙信撃退できるがな
60無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 02:36:56
信玄があのまま上洛し信長を叩いた後
信玄死亡
その後、勝頼が本願寺を見事な外交手腕で降伏させる
その結果から家康は一変武田と強い同盟関係を築く
一方、中国方面軍を任された真田家は毛利を撃破


・・・もう想像できない
61ヒトラー:2005/11/19(土) 02:47:45
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 ,^ヽ.|  ,;;_llliiillli_iJ   ,;;iiillIIii_   |/=          \     /       \   ,`
 |i^.| |  ,彳てフ'   气.てフ'   | i | \       /      \       \/
 ヽ | |  ヽ  ̄'/   【   ̄ ,   |_//  \   /    /\   \
  | ||     ̄    ┃  ̄     |_l\   \/    /    \   \
  `-|      /  ┃       |   \       /       \   \
    |      | _,__i )     .|     \   /        /   /
     l      i| ||;|||||||i     |.      \/        /   /
    ヽ、   |||||:|||||||||ll  (  /                /   /
     |\   ̄ ̄二 ̄ ̄ |//^\             /   /
_ ,――|  \       / /   \          \  /

   やっぱり資源が乏しいのはつらいですね・・・
62無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 07:15:46
武田から織田に改姓すればいいと思うよ
63無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 08:17:42
信玄って天下取ってなかったの?
64無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 21:38:41
村上と上手く同盟を結んで信濃北東部を緩衝地帯とし、東美濃に勢力圏を確立する。
そうすると上手い具合に義元が桶狭間で死んでくれるので、全力で東海道に進出できる。
そのころ上杉と北条は関東の覇権を争って戦ってるはずだ。
そのまま、まだ小大名に過ぎない織田・斉藤を撃破すれば1570年頃には京が射程距離内に入る。
あとは北条を食って強大化しているであろう上杉を倒せばもう邪魔できる奴は居ない。
65無名武将@お腹せっぷく:2005/11/19(土) 21:51:38
なんか、ここすげぇ!!
66無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 00:31:37
織田と同盟組んだのが、滅亡へのカウントダウンの始まり
1564年 甲尾同盟締結
(これをキッカケにして信玄シンパ派と親今川派の対立が深まる)
1565年 信玄と義信が対立
(織田との関係を重視する信玄派と今川との関係を重視する義信
派との抗争に発展)
1567年 武田義信死去
(親今川派の中心だった義信が死ぬ。これにより今川家との関係
悪化が進行)
※武田家はそれまで北進政策を取っていた。複数のルートで軍道
を作ったり、海津城建設や狼煙通信システムなど、莫大な時間と
労力、金を投入していた。しかし…
1567年 武田・今川同盟破棄
「同盟破棄」の動きは今川家からの通告である。つまり武田家は
戦略的に後手に回ったことを意味する。
1567年 武田家、駿河侵攻
ここで武田家は北条、徳川との緊張状態に入る。駿河を占拠する
以上は避けられない流れだった、と思う。加えて本拠・甲斐との
軍道の整備(父信虎の代から今川家とは友好であったため、作る
必然性がなかった)や常駐軍の必要性(北条海軍との対応など。兵
農分離が未熟な武田家にとって相当な負担になった)に迫られてい
た。しかも嫡子が死んだことで「新たな後継者の育成」も一から
やり直さなくてはならない。
【「新たな後継者の育成」に必要なこと
@十分なPR…スムーズな家督継承のための行動ルーチンとして
「勝頼の後見役=信玄」という政治活動が不可欠
A領国の安定
しかし1567〜8年時点で武田家は、北条・徳川・今川・上杉と緊
張状態にある。@を行うための余裕すらなかった。
1569年 武田家、小田原へ攻め入る
追い詰められた(と私は見る)信玄は、2年で6回もの軍事行動を起こ
す。これが領国の疲弊化を招く。
67無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 08:56:29
DEATH NOTE
68無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 14:14:29
>>66
(これをキッカケにして・・・
まで読んだ
69無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 14:26:10
織田と敵対せずに松姫をさっさと送って男の子が出来てそれが後を継げば
武田の血筋は天下を取った事になる
70無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 17:42:41
松姫幼稚園知ってる??
71無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 20:16:55
無理
72無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 23:18:19
信玄そのまま上洛し信長を討ち取る
2年後信玄死亡
2年後勝頼、長篠の戦で信忠、家康連合軍を破る

つづく
73無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 23:27:43
そのままって、どのままよ。
2年後信玄死亡ってことは1571年から仮想スタートってこと?
74無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 23:48:36
ごめん、ごめん。
1573年から仮想は始まってる

1573年も信玄は健康そのものだった
この年信長軍相手に武田軍は快進撃を続ける
一方、これに勇気つけららた浅井も信長軍を攻撃
逃げる信長・・・
しかし、そこには待ち構えていたかのように
武田軍が逃げ道を塞いでいたのだ
万事休す
人生50年マイナス10年・・・

その2年後信玄死亡って事!
75無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 01:18:03
妄想にしても、もう少し説得力つけろよ・・
76無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 21:37:38
武田家天下統一物語
つづき

信玄が信長を討ち取った手土産は
尾張、三河、遠江と言う広大なものであった
しかし、信玄は死んでしまう・・・
健康そのものに見えた信玄であったが
確実に病魔が体を蝕んでいたのだ

これを機にこれまで武田家に従属していた家康が謀反を起こす
織田家と組んで武田領に進入しだした
家康、秀吉、光秀の活躍は凄まじく
織田、徳川連合軍は一気に長篠まで占領してしまったのだ
どうでる?勝頼?
偉大な父を越えることはできないのか?
77無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 22:31:12
イマイチだな。
その展開で再び武田対織田・徳川になるのは不自然。
78無名武将@お腹せっぷく:2005/11/23(水) 08:17:12
つーか、不自然なことの方が多すぎて突っ込む気にもならん
79無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 00:10:13
誰か教えてくれ
武田家はどうすれば天下をとれたか?
80無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 02:49:26
信長がおけはざまで負ける。
81無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 03:45:14
信長の父ちゃんが避妊すればよかったんじゃねーの?
82無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 18:38:55
豊臣政権下の徳川みたいな存在でいればよかったんじゃない?

織田との友好関係継続し、織田が大きくなれば自然と
織田傘下ナンバー2の大藩。
松姫も婚約通り嫁がせてたら天下人の外戚として発言力大。
何らかの機会が舞い込んでくれば天下取りも可。

それを信玄が目先の三河や遠江もしくは
性急な天下取りに拘ったために...。
83無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 19:59:43
風が吹く

埃が舞う

足利義昭が失明して坊主に逆戻り

上洛の期を逸した信長、漠然と長島攻め

海軍が必要

大量の木材が必要

信玄が織田に良質の木材を輸出

信玄、ボロ儲け

風が吹けば信玄が儲かるんだよ、
ただ、風が吹くだけで良かったんだ!
84無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 22:47:49
風が吹いて埃が舞うとなんで義昭が失明するの?
85無名武将@お腹せっぷく:2005/11/25(金) 22:56:11
>>82
すると勝頼は最初から織田に対抗する事をあきらめるって事?
プライドの高い武田家がそんな政策をとるなんて
どう考えても可能性低いわな
武田が天下を取るとしたら織田を破る方向性しか思い浮かばない
どうすれば信長を潰せたか?

・・・武田が天下を取るのは無理があるな・・・
86無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 01:03:45
信玄が信虎をサポートして甲斐の諸将をしっかり統制して、
速やかに信濃攻略を完了すればだいぶ違ったかも。
87無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 04:47:36
信虎は暴君だから・・。
家康から薬を貰って長生きを。
88無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 09:41:39
軍事力は経済基盤の下支えがなけりゃ。
甲府の金山だけじゃむりぽ。
濃尾平野と安曇郷の穀倉地帯を押さえたものには敵わないよ。
信長はおまけにすばっしこく堺を抑えたからね。
89無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 09:46:48
信長の傍若無人ぶりは酷いからな
90無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 09:54:26
信玄が信義を重んじる人間ならよかったんだが
実際は同盟盟約破りしっぱなし
91無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 09:56:18
川中島で謙信撃破!!
92無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 09:56:51
破ったって今川ぐらいだろ?しかも今川ってかってに滅びたようなもんだし仕方ないじゃん
93無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 10:46:05
謙信と組むしか道はない
とすれば謙信の弱点は・・・将軍家とか関東管領だよね
謙信と協力して、関東平野から北条を排除・・・上州、武州は関東管領に返しちゃお
相州は小田原滅ぼして武田がもらおう、佐竹や里見、宇都宮も助勢してくれるお

つぎなる敵は今川→ゆくゆくは足利将軍奉れば謙信も納得
94無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 10:53:07
>>92
和睦した直後に謀殺なんて、何度あったことか・・・・
95無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 11:01:49
戦国時代だからしかたないだら
96鉄砲奉行:2005/11/26(土) 11:34:40
そもそも上総武田氏が滅んだ時点でよろしくない
97無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 11:38:10
勝頼の育成が上手い事行かなかったな、信玄公。
長篠の戦い以降、勝頼も商人召抱えて鉄砲を購入したりしてるのだが。
信長がその話を聞いて勝頼に和睦持ちかけたけど、勝頼は蹴ってる。
で、その後は容赦しないとばかり攻められて、追い詰められて切腹。
勇猛だったけど、勇猛すぎたのが仇となった感じだね。
引き際を見極めたり外交戦略とかがもう少しあればw
98無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 13:06:23
>>89
>信長の傍若無人ぶりは酷いからな

洞察力と行動性があったということだろ。
マ、戦国時代というのは1950年代の日本のやくざ社会みたいなもんだろう。
浪花節と吉本を引き継ぎながら、美空ひばりを育てたのが、
裏社会の天下を取っているようなもんだろ。
99無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 18:40:46
小勢力と結んで反信長同盟組んだところで
各自が別々に信長に当たる反同盟側よりも
1つで大勢力の織田の方が強いに決まってる。
20万石そこらの三成が徒党を集めても
250万石の家康に敵わないのと同じ。

1560年代、美濃に進出せず駿河に侵攻した時点で
武田が天下を取る機会は逸した。
また、1572の徳川領侵攻も信玄存命でも
徳川領ゲットだけに甘んじた場合、武田の天下無し。
反同盟勢力が存在してるうちに織田に致命的打撃与えなきゃ。
徳川領だけ取って軍を返したら即、反同盟勢力が一掃される。
100無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 18:47:21
>>83
風が吹けば桶屋が儲かるを調べればわかる。
101無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 21:01:05
織田と同盟して勢力を維持しておけばいくらでもチャンスはあったけどな。
本能寺とか。
そこで駄目でも豊臣政権下で勢力を維持して後の政変へ。
102無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 21:09:26
今川義元と北条氏康がいて、三すくみにならなければ。
ひいては太原雪斎いなければ。
103つるじょあ ◆MANKO/NnuA :2005/11/26(土) 21:14:08
       ___
     /∵  ∵ \
    /∴       ヽ      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   , |∴   /  \ |、   /
  |`──-( / )-( \)l |  <   鉄也がに期待しようやないか(笑点)。
  | [     ,   っ  l |    \
  `-,     'ヽ、_ソ  }'     \____________
   ノ ヽ、    `'   ノ、
 /     ゝ ── '   ヽ
104無名武将@お腹せっぷく:2005/11/26(土) 21:27:47
これから取る可能性もあるかもしれないじゃないか。
細川家だって、12年前に天下を取ったばかりだぞ?
105つるじょあ ◆MANKO/NnuA :2005/11/26(土) 21:31:07
       ___
     /∵  ∵ \
    /∴       ヽ      / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
   , |∴   /  \ |、   /
  |`──-( / )-( \)l |  <   >>104 首相=天下人?それはないやろ。
  | [     ,   っ  l |    \
  `-,     'ヽ、_ソ  }'     \____________
   ノ ヽ、    `'   ノ、
 /     ゝ ── '   ヽ
106無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 04:45:28
武田のキーマンとしては、まず信繁だろうね、その次は、真田かも・・
 信繁が生きてれば天下を狙うことがまずできたろうね。
107無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 04:50:55
 信玄は、北条や上杉などと無駄な戦をしてたのがいけなかった・・
 和睦をして周りを固めてからにすればよかった・・
そもそも、北条は関東制圧にしか興味がなかったし
上杉は将軍家の命令なら聞くので、義昭を上手く使えば上杉を抑えられたはず。
 まぁ駿河を取ったのは、海がほしかったからでしょうな。越後を取る予定だったのでは?それが無理になったので、駿河にしたのかも・・
天下って=全国平定ってこと?
108無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 05:14:09
信玄の代では北条とは基本的に争ってないと思うが。
駿河攻略に入ったときに根回しが不十分だったのか反発招いて敵対関係に陥ったけど。
10966:2005/11/27(日) 05:56:42
僕の(勝手な)自説だけど…武田の駿河侵攻は半分ヤケクソ 詳しくは>>66 でも見てぽ

>>108 確か今川家から同盟破棄宣告されたのが8〜9月。んで駿河侵攻が同年12月。
9月10月は収穫期だから(早急な動きが取れなかったことを考えると)外交してる余裕
なかったのでは?そもそも…

父信虎の代から【今川家=広い勢力圏(軍事力)を持つ大大名】とは武田家の持つ共通
認識だった。だからこそ(婚姻関係を結ぶなど)緊密な関係を保つべく腐心している。
※あまり扱われる機会のない出来事であるけど、2回目の川中島の戦いにおいて武田家
は今川家に和睦の仲介を求めている(普通こーいうのは将軍家とか朝廷とかに頼んだり
するものだ)
>>107 信玄が家督を継いだ時点で、武田家の勢力圏はせいぜい甲斐。南には今川、東
には北条(伊勢新九郎の時から何かと今川と縁のある)。北へ勢力圏を広げるというのは
自然な流れだったように思える。
北へ北へと攻め入るうちに、長尾家と境界を接するようになり、膠着する。信玄はここ
で謙信を牽制すべく飛騨ルートからの侵攻を考えるようになる。ここで美濃攻略を画策
する織田家と勢力圏が触れ合うことになる。
11066:2005/11/27(日) 06:24:19
僕の勝手な自説…Part2(^^;)

1564年時点での織田家は斉藤家で手いっぱい。信長の戦略上の特徴も
踏まえて考えて、武田家に対して攻撃することは考えにくい。だから…

同盟しなけりゃ良かったのに…(´・ω・`)ちなみに義元死後も今川家は
一定の勢力圏を保持している(家康が遠江侵攻するのは、信玄の駿河侵攻以
後)もしも今川と武田が親密であったならば、家康は全く手出しできなかっ
たのでは?と思う。
11166:2005/11/27(日) 06:26:11
>>110 で同盟しなけりゃ良かったのに…てのは甲尾同盟に関して。連続でスマソ…orz
112無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 09:34:00
>>111
64年の時点では信玄はまだ北の謙信と上野などで戦っている最中なので、側面の安全は
どちらにせよ必要。
113無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 11:57:22
氏真に武田領に侵攻する力があったとも思えないし、
どう考えても「ヤケクソ」なのは今川の方だろ。
前提が間違ってる時点で読むに値しない。
114無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 17:16:15
前提が違うと言うと、
武田には天下をとると言う意識はなかったと思われるから、
このスレ自体が存在に値しないことになるんだが。
115無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 17:27:12
その前提を言うなら、どうすれば武田は大名として存続できたか、のが妥当になるね
それでもいいけどね
116無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 18:33:52
仮に初期構想にはなくても、織田の成功を見て展望に加えたと思うぞ。
直近の目標であったかどうかは議論が分かれるが。
117無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 18:41:56
それじゃ遅かれし由良の助だろ。
語るに落ちるとはこのこと。
118無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 20:40:13
歴史を回転できるだけの知恵のない武田は、
徳川のやり方に習って生き残れたかを考えればいいんじゃね。
119無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 22:52:00
>>117
何を勝手に納得してるのか意味不明。

「どうすれば武田家は天下をとれたか」がスレのテーマだろ?
だったら、「もっと早くから天下取りを意識してれば」というのも当然検討されるべき主張の一つじゃないか。
その命題を肯定するにせよ否定するにせよ、いずれかの結論を得ようとするなら
このスレの存在意義はあることになる。
120無名武将@お腹せっぷく:2005/11/27(日) 23:56:24
それを勝手に納得していると、
捕らえるのも日本語をわかってないと言うしかないけれども。
「もっと早くから天下取りを意識してれば」
そんな意識で書きこんでる奴もいないだろ。
121無名武将@お腹せっぷく:2005/11/28(月) 00:20:27
確か、今川と共同で徳川攻める提案蹴られたのって、義信死んだ後だよな?
ということは、義信存命ならその作戦が成立して、
三河を早い時点で取れた可能性は高い(織田の上洛前くらいに)。
信濃−三河の連絡線は細いが、氏真をうまく操縦できれば、
背後を脅かされるというよりも、むしろ従属的同盟国として利用できるかもしれない。
そうなれば戦略状況はかなり異なってくると思うが如何?
122無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 21:44:33
色々と小難しい屁理屈ばっか並べやがって。オレが一言で説明してやる。いいか?よく聞けよ?










信玄が天下統一だァ?ムリだっつーの!
123無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 23:07:51
別に面白くないし、ageたり空白作ったりする程の内容じゃないよ。
124無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 23:14:17
>>121
今川を傀儡かしようとすれば北条との綱引きになることは必定。
下手すりゃ相越同盟成立・今川は分裂で大ピンチ。
125無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 23:43:29
そこはあんまり無理する必要はない。
普通の同盟でもOK。
126無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 23:47:31
どの道今川が弱体化すれば北条と取り合いになったのは目に見えてる。
駿河は早めに切り取るのが上策だったと思う。
127無名武将@お腹せっぷく:2005/12/03(土) 03:40:56
だから、武田がしっかり後ろ盾になれば弱体化しないわけだ。
形の上でも同盟が守られていれば、北条は無茶はしない。

駿河を切り取るのに要した時間とその過程で徳川を太らせたことを考えれば、
史実の経緯での駿河攻略を上策というのはいささか疑問符がつく。
128無名武将@お腹せっぷく:2005/12/03(土) 18:31:36
氏真が降伏命令を出すまで、武田は大宮城の富士氏とかを攻略できてないからな
内通者がいたってのに時間かけすぎ
唯一の利点は伊丹氏らをはじめとした優秀な水軍を得られたことか?
しかし武田の戦線を南北に広げすぎてしまったのは失敗だった気がするが…
12966:2005/12/03(土) 19:51:39
>>128 確かに。
以前、自分のカキコミで「駿河侵攻=ヤケクソ」って書いたこと
ある。アレは確かに言い過ぎだけど、少なくとも「行き当たりば
ったり」の要素があるのではないだろうか?ていうか武田家の戦
略って1560年代以降、実にちぐはぐ。ゲームではあまり評価のさ
れない今川氏真のほうが、まだ筋が通っているように感じる。
13066:2005/12/03(土) 20:04:53
でもやっぱ「駿河侵攻」ってある意味「甲尾同盟」から紡ぎ出される
自然な歴史の流れ〜な気がする。そういうわけで僕の結論としては、

【1564年が武田家最大のターニングポイント!】良かったら>>66 見てね(^^)
131無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 00:49:02
>>130
甲尾同盟はもともと北進のための政策。つまり三国同盟と政治的意味は変わらない。
信玄が北進から南進に政策変更したときに、その意味合いが変わった。
13266:2005/12/04(日) 03:26:59
>>131 僕の解釈は少し違う。

>甲尾同盟はもともと北進のための政策。
確かに。でも結果としてこの戦略が「今川家との不仲」に直接結びついた。これを
危惧した武田義信の謀反につながり、その後義信死去(嫁は今川家)→今川氏真から
の「同盟破棄通告」と進展していく。

今川氏真にとって「織田家=親父を殺した仇敵」であるから、武田家の政策を断固
許せなかったのだろう。
一方、同盟を破棄された時点で武田家は、上杉・今川・北条(基本的に今川寄り)を
敵に回す事態へと追いやられた。(当然のことながら、武田家は兵農分離政策が未発
達)国人離反の動きも当然あったのではないだろうか。腰を据えて構えていられる状
況ではなかった、と思われる。
133無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 03:41:59
>>131
1564年頃って、直接信濃でやりあうのはやめにして上野に進出してた時期じゃない?
北進のための政策、かなあ?

というか織田との同盟って、武田に利益があったのかどうか実に疑問。
美濃を共同で攻撃して分け合う、という感じでもなかったし。
13466:2005/12/04(日) 04:10:12
>>131 のまとめ
織田と同盟組まなければ、今川との関係も保持できる。敵を上杉ひとつに
絞られるので戦略的に有益。北進から南進にムリヤリ転換する必要もなか
った。と思われる。

織田信長の戦略を見ると、常に多正面作戦を強いられている。が、必ず攻勢
正面を1つに限定して残りは邀撃・防御(付け城も含む)に徹している。だか
ら少なくとも1564年時点で織田家が武田へ侵攻することは考えられない。

>>133 「信長のヤボー」に出てくる武将で【遠山なんとか】ってザコがいる。
ご存知だろうか?この遠山なんとかって国人は美濃の東端を勢力圏として
いた。ここに武田家が入り込んできていた(単なる通過。侵略ではない。ち
なみに目的は飛騨ルートからの上杉領侵攻、謙信のけん制)んで、メチャびび
っていた (@Д@;))))ガタガタブルブル
これを信長は見逃さなかった。すかさず武田家との同盟工作に入る。そして同盟
締結を条件に、遠山なんとかを自分側に取り込んでしまう。これが美濃攻略の大
きな足がかりになったのだ!

つまり「甲尾同盟」は織田家からの提案。武田家のメリットって…実はよくわかんない(^^;)スマソ
135無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 04:33:01
>>134
遠山景任な
後あまり雑魚って使わないほうが良いとは思うが…

当時上杉と北条-今川が同盟結ぼうとしていたからな
それに対抗するには、東進を一時堪えてでも織田と組む以外には道がなかったんだろ
実際その辺の目論見が破綻して、信玄は1569年の危機を迎えるわけだし
136無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 04:34:07
>>135
訂正
東進じゃなくて西進だな
寝ぼけ眼で書くもんじゃないようだ
13766:2005/12/04(日) 04:43:43
>>135 アレレ?上杉と今川・北条同盟の動きって、甲尾同盟の後だった
気がするけど…。織田と組んだ武田を信用できなくなった氏真が主導で
動いたって話なんだけど。

ちょっと確証得ないので、調べなおしてきまー(^^)
138無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 09:12:26
>>91 なんとなくスルーしてたけど、確かにソレが出来ていたらアレコレと
苦労しなくて済んだに違いない。
139無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 12:28:12
信繁が川中島で死ななければ問題なし
140無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 12:58:05
>>134
しかし、もし武田が織田と友好関係を結んでおかなければ、上杉と結びつく可能性
だってある。武田−今川のラインを考えれば、今川の敵である織田はそのまま放置
すれば武田の敵(とまではいかなくても)とみなされ、そうなると同じ敵である上杉
との同盟だって考えられる。基本的に西を向いていた信長の戦略は、後世だから判る
ことで、当時の信玄からすれば美濃に進出した織田が上杉と結ばれるのは悪夢。なら
その前にこちらから…と考えるのは別におかしいことじゃない。史実では織田から
もちかけた同盟だが、(当時の)信玄にとっても十分利益のある選択ではあった。
ただ、あくまで不可侵条約くらいにとどめておいて、婚約など結ばなければ氏真の
反感も買わずにすんだのでは?と思わなくもないが。
141無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 13:46:09
>>91
第4次で実質撃破したことになるかと。

謙信自体を討って越後統治にかける時間と
謙信を北信から追い払ってその方面の守りを堅くしておけばいいのとでは
とりあえず後者の方が身動きとりやすくウマー。
14266:2005/12/04(日) 15:43:34
>>140 確かにな。織田が上杉と結ぶかどうかは置いといて、確かに「敵を増やすのは
得策でない」こう考えるのは、自然な流れなのかもしれない。

んで、織田と親交を深めるにつれて当然今川家からも「遺憾」の意を携えた使者が
来たハズだ。信玄にしてみれば両天秤状態。後に今川から「同盟破棄」された時…
「【まさか、こんな大事になるとは…(@@;)】なんて思っていたのかも?

ちなみに…
織徳同盟後、織田から見て今川はもはや「眼中にナシ」といったところだろう。直
接に勢力圏が触れ合うわけではないので、取りあえずは放っておいて構わないわけ
だ。それと上杉との同盟ってのも考えにくい。斉藤家攻略に専念したい織田家にと
って、ここで「武田=敵」と旗幟を鮮明にするに等しい政略は採らないだろう。
143無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 16:10:38
おいおいスレタイから外れるとなんかさみしいぞい。スレ的に望ましい進路はどっちなの?
上野と信濃からの同時侵攻で越後獲りが出来れば良かったんだけど。
14466:2005/12/04(日) 16:27:51
ここでは予備知識として、織田家と中央の関係についてまとめてみた。
1533年
・山科言継という公家が、織田信秀より招かれて尾張へと
赴く。朝廷との関係を築く
(翌年に生まれる信長が父の影響を受けたことは、想像に難くない)
1558年
・信長、京にのぼり将軍義輝と謁見
1568年
・信長、義昭を奉じ上洛。京周辺を支配。
1569年
・信長、二条城の造営に着手
・山科言継という公家が、仏事の費用捻出を徳川家に依頼
すべく、酷暑のなか三河へと向かう。途中岐阜にて信長の
慰留を受けて一ヶ月ほど滞在し、さらに信長の仲介にて銭
2万疋分(20万枚)の為替を受けて帰京。
・10月、将軍義昭と意見が合わず衝突する。
1570年
・将軍に「5か条の条書」を送る
14566:2005/12/04(日) 16:33:23
>>143 連レスすまそ
スレ的には>>91 の言うとおり、川中島で謙信をあぼーんしちゃえば
良かったのだが…
下手に膠着したので、話がややこしくなる。やれ上野だ、やれ飛騨だ、
やれ織田だ…と。回りくどい戦略を採らざるを得なかった信玄。いや
「それだけ謙信が強かったのだ!」と言えばスレ終わっちゃうので以
後(my設定)禁止縛りでいくぽ(^^;)
146無名武将@お腹せっぷく:2005/12/04(日) 20:40:45
>>140
そのときの織田は別に上杉と結びついたからといってどうということはないぞ。
まず直接武田領と接してないし、斉藤と戦うので手一杯だったはず。
東美濃は影響下にあったとしても、東美濃を通って信濃に脅威を与えるとなれば大遠征だ。
当時の織田の身の丈を大きく越えている。
14766:2005/12/04(日) 20:59:39
>>146 禿同。ちなみに東美濃が織田の勢力圏となったのは
甲尾同盟前後(一種の保証占領のような形。義元在世時の今
川〜徳川家の関係など、戦国期では一般的なものである)
148無名武将@お腹せっぷく:2005/12/05(月) 02:09:01
信長は永禄7年から8年(1564〜65)の東美濃出兵で、鵜沼城と猿啄城を開城させ、
さらに進んで加治田を調略で寝返らせ、斉藤方が築いた付け城の堂洞城を攻撃
して落す。
この間に遠山氏の帰属をめぐって武田から秋山が派兵されたらしい。この時は両者
戦闘を望まず兵を退く。その後交渉で遠山氏自体は両属扱いということで決着。
言い換えればこれは織田・武田間の国境が確定されたということ。

ちなみに信長の東方への外交をみると、永禄7年9月には謙信へ書状を送っている。
推測になるが、この時信長は武田が遠山氏問題で強硬になったときに備えてのもの
だったと思われる。また、うがった見方をすれば武田への交渉材料(そっちが強く出る
のならこちらも引かない。上杉と結んで対抗するぞ)にするつもりもあったのかも。
この後、永禄8年11月に養女を勝頼に嫁がせている。
14966:2005/12/07(水) 15:48:59
う…(´・ω・`)マジレスすればするほど信玄って……orz

今回、架空年表作成!
1555年 第二次川中島の戦いにおいて、長尾景虎軍8000を
散々に蹴散らす。信濃北部を完全支配
1556年 越後春日山城の南5kmの地点で、長尾軍と対陣
1558年 第二次春日山決戦において、長尾軍は多数の内通
者を出し、長尾景虎は春日山城を放棄、栃尾城へ居城を移す
1559年 長尾景虎をけん制する目的で上野へ出兵。長野業
正率いる3000人は城を拠点として抵抗を続ける
1560年 1年に及ぶ包囲戦の末、箕輪城攻略。長野業正は自
害。
1560年 駿河の今川軍、尾張へ侵攻。武田軍、これに呼応
して出兵。足助城、犬山城を支配下におく。織田信長、津
島へ後退。
1561年 武田信玄、美濃の斉藤家と同盟を結ぶ。 
15066:2005/12/07(水) 16:07:44
1561〜2年 上野出兵により、少しムリをしたので内政に専念。その間に
斉藤家・長尾家に内部工作を続けるw
1563年 栃尾城を拠点とする上杉輝虎(長尾景虎)、旧長尾領である春日山
へ攻撃。狼煙システムにより武田信玄はこれを察知、兵18000を率いて越後
へと向かう(第三次春日山決戦)2ヶ月に及ぶ戦いの末、長尾軍敗走。上杉
輝虎、武田五郎(盛信)を養子として迎える。
15166:2005/12/07(水) 16:32:49
1564年 武田信玄、津島の織田信長と密外交により同盟を組む。
織田信長は旧領の清洲を奪回に成功。
(もちろん、この動きは今川義元に知られていないw)
1565年 斉藤家の遠山氏、明智氏などが武田に帰属。斉藤家と
の関係悪化が表面化する。
1565年 北陸の神保家が武田家に対して銀や漆、煙草などを送
り、敵対する意思のないことを強調する。
1567年 美濃三人衆が武田へ帰属。

だれか、年表の続きを書いてくださいぽ(^^)よろしく〜
152無名武将@お腹せっぷく:2005/12/07(水) 20:10:13
1568年 武田信玄、過労により労咳が悪化し、急死。
翌月、後を追うように信繁も病死。武田義信が家督。
1569年 諏訪勝頼が旧諏訪家臣団の一斉蜂起で惨殺。
南信濃の相次ぐ一揆により支配力低下。
1570年 五郎盛信、養子先の上杉家で船遊び中に溺死。
盛信の扶持として任せていた北信濃が上杉領に組み込まれる。
1571年 武田家の衰退を見て駿相越同盟が成立。織田家は今川家臣
松平元康の手により滅ぼされ、信長は伊勢方面に逃走。
武田家は
153無名武将@お腹せっぷく:2005/12/07(水) 20:17:32
武田家は駿相越同盟に気付かず、斎藤家に圧力をかけようとするが
斎藤家は尾張を南北に分割して今川家と和睦。飛騨の姉小路と結んだ
斎藤家が木曽路から進入し、今川家も伊那路から進入。
上野差配の内藤/真田はそれぞれ北条家と上杉家に寝返り、甲斐を残すのみとなる。
1575年 小山田信茂、北条に内通。今川義元、武田信虎を擁して甲斐回復の号令をかける。
西からは寝返った飯富兄弟に案内された上杉軍が、南からは今川軍本隊が進入。
武田義信は古府中を破棄して逃走を計るが、補足され天目山で自害。武田氏は滅亡した。
15466:2005/12/07(水) 22:58:45
えええ〜(@@;)今日は久々の平日オフだったんで飯食ってサウナ
行って、んで戻ってPC見たら武田滅亡してる……。
155無名武将@お腹せっぷく:2005/12/10(土) 16:54:20
>>153
武田家が天下をとる筋書きを書かなきゃ駄目よ?
156無名武将@お腹せっぷく:2005/12/13(火) 12:54:04
1568年 今川義元・氏真親子、鯛のてんぷらの食べ過ぎで頓死。諏訪勝頼を今川家に送り、
今川勝頼となり、今川家を相続。同時期上杉輝虎を雪隠で暗殺し、盛信が上杉盛信となって家督。
1569年 斎藤/織田家とは外交でバランスをとりつつ、遠山氏は完全に隷属化。武田家の強大化を危惧した
北条家との関係悪化。佐竹氏や太田氏と結んで武蔵・上野から進入。相模・伊豆以外の北条家勢力を駆逐。
武蔵に関東管領上杉盛信を派遣し、北条家と睨み合わせる。
1570年信玄は甲信越駿遠三から精鋭10万騎を率いて東美濃から進入し、一気に南近江まで進出。六角・斎藤家滅亡。
此れを見て浅井・朝倉氏も恭順を誓った。
1571年新年の参賀に来た織田信長を誅殺。尾張に信繁を置く。瀬田に旗を立てて京を開放。太郎義信に将軍宣下を
受けさせ、武田幕府を開設。
157無名武将@お腹せっぷく:2005/12/18(日) 17:15:14
なんとなくage
158無名武将@お腹せっぷく:2005/12/29(木) 22:48:38
kono sure ha syuuryou simasuta
159無名武将@お腹せっぷく:2005/12/31(土) 20:31:02
続きはまだか
16066:2006/01/01(日) 22:51:07
なんか人任せにしたのが失敗だったよぅな…。オレ実は武田家嫌いじゃないから
とりあえず夢のあるストーリー展開にしたいな(^^)

1568年 稲葉山城を攻略する。
1569年 また、この年家督を義信に継承(軍事権は依然、信玄が掌握)
それに伴い本拠・躑躅が咲館を義信に譲り、信玄は稲葉山城に移る。
1570年 義信、検地を実施する。義信に待望の嫡子が誕生する。
1571年 織田家に対して従属を迫るが、信長はこれを拒否。浅井家と
不可侵条約を結ぶ。
1572年 尾張へ侵攻。信長は伊勢に遁走。佐久間信盛・木下秀吉が武
田家に帰属。柴田勝家は殿軍として活躍するも戦死。
16166:2006/01/01(日) 22:52:06
>>160 は>>151 の続きダヨ(^^)
16266:2006/01/01(日) 23:06:16
1572年 信玄、病をおして近江へ侵攻。磯野丹波守の獅子奮迅の活躍により
苦戦。ひとまず兵を引き揚げる。
1573年 近江で一向一揆が活発化する。延暦寺に対して寄進する。
1574年 義信上洛し、将軍義昭に謁見する。
1574年(11月)信玄死去
1575年 以前から義信の政策に不満を抱いていた小山田氏が反旗を翻す。そ
れに伴い、織田家・浅井家の蠢動が活発になる。
163隠れ武田ファン(66):2006/01/03(火) 03:25:39
1576年 織田家、北畠家との抗争が激化して窮地に追いやられる。8月使者を
派遣。武田家の傘下となる(事実上、織田家滅亡)
1577年 伊賀の忍者衆を説得。大和の松永家が武田家に帰属する。小山田信茂、
戦況の不利を悟り投降。義信これを許す。
1578年 「小山田の乱」の後ろ盾になっていた、との名目で武田家関東に出兵。
またこの年義信は朝廷により正四位上に叙せられる。
164隠れ武田ファン:2006/01/03(火) 04:08:55
1578年(続き)この年、本願寺光佐を介して朝倉家と結ぶ。浅井長政、剃髪して
武田家に降る。
1579年 祖父信虎と和解するも、この年信虎死去。関東では松山城、川越城を
武田領とする。北条氏政、今川家に和睦の仲介を依頼。北条氏直を武田家養子とす
る条件で、義信これを承諾。
1580年 伊達家から使者が訪れる。結城家は武田家に帰属する。里見家と同盟
締結。中央では足利家との関係が悪化する(朝廷が影で支援)本願寺と縁戚関係を
結ぶ。光尋(教如)の正室となる。
1581年 義信、精兵2万を率いて京都にて「馬揃え」を行う。朝廷、義信を正
三位に叙任。三好家から同盟の使者が訪れる。
165無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 17:59:06
妄想もここまでくると、呆れると言うか可哀想になってくる
166無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 18:07:54
ありえない虚構の上に次々と同じ程度の虚構を重ねるよりも、もう少し上の高みを目指していただければ、
まだもう少しは面白く読めるのだが。

IF物を面白くしようとするなら、
原因と結果についての、ある程度には精緻な考察があって
「ああ、それならありえるかもね」と第三者が納得しうるだけの説得力がほしい。
ただ夢を語られても、同じ武田びいきとしてもさっぱり共感できないというか、むしろひくよ。
167無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 18:50:38
>>166
同じく、とでも言おうか・・・
このスレでは義信が武田家の当主になってるの?
勝頼は諏訪家を継いでいるのだろうか・・・
168 :2006/01/03(火) 19:04:24
甲斐はともかく信濃が山岳地帯だらけだった ってのがきつかったと思う。
領土を増やしていくのに濃尾平野や畿内に比べて苦労するよね。
道も整備されてなかっただろうし動員力が劣っていても平地よりかは守りやすい。
逆に遠征しようにも兵を召集するのに時間がかかる。当然金もかかる。
169無名武将@お腹せっぷく:2006/01/03(火) 19:21:22
戦国史のリプレイかなんかか?
でも、夢があっていいぜ
俺も武田は好きだ、天下は無理だと思うけど
170無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 00:37:52
山岳地帯の平定は各個撃破しやすいという利点もあるな。
城に拠って立つ大名・土豪には長期の不正規戦は不可能だし。
17166:2006/01/04(水) 14:34:42
>>166 マジレス読みたけりゃ>>66 からどーぞ
172無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 14:44:59
>>171
そのお子様が一生懸命考えたような稚拙な分析・意見がなにか?
173隠れ武田ファン(66):2006/01/04(水) 14:46:49
>>164 この時点で武田家は
●所領:甲斐、信濃、上野、武蔵の半分、常陸の一部、越後、美濃、尾張、
伊勢の半分、伊賀、大和の半分、近江。
●同盟:今川、北条、里見、朝倉、本願寺(本願寺は家ではないが便宜的に)
●敵対:表立ってないが足利
●煙草:かつて神保家から贈られた家宝のひとつ。現時点で義信が所有
174無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 14:58:38
恥知らずのガキが、去ね。
175無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 16:54:09
他人も読むということを考えると、一個の妄想の賞味期限はそんなに長くない。
架空の上に架空を積み上げるのはほどほどに。
176無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 17:11:50
話は変わるが長篠で全軍突撃していれば勝頼は勝てた
177無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 18:16:36
仮に長篠で勝っても武田の天下はないね。遅すぎる。
めぐりめぐって北条や島津にチャンスが訪れる可能性はあるかも。
17866:2006/01/04(水) 18:41:37
まぁ…根っこの部分で話するなら、2回目の川中島(この戦は旭山城
破却を条件に和睦している)以降で流れが変わったということだ。
179無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 23:08:59
>>176
全軍突撃だけでは勝てないと思うぞ
雨が降って、信長自慢の鉄砲隊が使えなくならんと意味がない
それと、勝頼と山県昌景や馬場信房などを中心とする信玄以来の武将たちとの間に
信頼関係がないと戦争には勝てなかったはず
長篠ではこれらの武将との連携が取れなかったために、
勝頼は負けてしまったのだろう
180無名武将@お腹せっぷく:2006/01/04(水) 23:23:13
って言うか長篠の敗因はズバリ戦力の差だろう。
ひどい負け方をした原因となるとまた話も違ってくるが。
劣勢なんだから敵主力が出てきたらとっとと撤退して
相手の弱いところをつくような戦いをすべきだった。
181無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 00:10:21
商人が来た時に茶器、鎧、刀等の家宝を売り馬を買う。
内政で金と兵をアップさせ敵が攻めてきたら篭城。
182無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 02:48:47
誰だよゲームの話してるバカ。
183無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 03:15:34
天下をとるというのは、政権を樹立する、という意味でよろしいか?

ならば、武田政権はどのような形で成立しえたろうか?
当時考えうる政権の形として、以下の例のような幾つかのパターンが想定されるだろう。
一、足利幕府を補佐し、幕府の要職につく。その上で幕府の実権を握る。・・・細川・三好・大内パターン
二、足利幕府に幕を引き、武田幕府を興す。・・・征夷大将軍パターン
三、関白・太政大臣といった、朝廷の官職を得る。・・・清盛・義満・秀吉パターン
四、朝廷や幕府といった既存の権威を用いず、独自の政権を志向する。・・・信長パターン
五、既存の朝廷を廃し、自分で新たに朝廷を建てる。・・・将門?パターン
(他にもパターンがあったら補完よろしく)

信玄(あるいはその後の武田家が)どういう形での天下を目指したかで、
そのためにできること・できないこと・すべきこと・してはいけないことも違ってくるし、
その実現率も違ってくると思うんだよね。

たとえば信長はパターン4(将来的にはあるいは5?)だったから、
義昭を将軍にした恩賞として与えられかけた管領などの地位は受け取らなかったし、
朝廷からの官職も(政権取得の手段としては)受け取らなかった。
(力が伴わなかったころは幕府や朝廷の権威も利用しているが、
自身の権威が幕府の権威を凌駕すると幕府を廃し、
さらには自ら神となろうとしていたふしもある)
秀吉の場合はパターン3であったがゆえに、朝廷や公家との関係には相当気を配った。

では、信玄はどうだったか?
信玄のそれまでの行動パターンやメンタリティ的には
パターン1ないしは2(妻経由の姻戚関係から3も不可能とはいいきれないだろう)ではないかと思う。
すると、既存の権威を利用できる反面、既存の権威と対立しにくくなる。

といったアプローチから今後武田の天下取りの可能性を考えてみようかと。
184無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 03:47:16
信玄がそういうことを考える段階まで伸びるということは、
当然その過程で織田がへこまされるということを意味する。
多分、窮地に立てば信長は朝廷を利用しまくると思うので、
その行きがかり上、朝廷(の一部)と激しく対立する形になることもありうるのでは?
18566:2006/01/05(木) 13:40:51
>>183 水を差すようで悪いが、マジレスすると「武田*天下取り」の可能性
は極めて少ない。少なくとも1570年までの武田に、天下取りに直結する
行動はほぼ見られない。どのみち妄想話になると思われる。
186無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 13:44:55

風のように掴み所が無く
 林のようにジメジメと陰湿
  火のように癇癪を起こし
   山のように腰が重い

    風林火山の極意なり
187無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 14:13:39
>>183
パターン2は無いだろう。

しかし織田や上杉、北条らと違って行き当たりばったりな感が拭えないからな、信玄は。
自分が生き残るためなら全パターンありえるかもしれん。
188無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 14:20:00
>185お前のゲーム話よりは万倍マシだ。

パターン2は家格としてはありえるよな。何せ源氏の直系。
189無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 16:58:09
パターン1だと仮に信玄が織田家没落&上洛成功してたとしても苦しいだろうな
大内や細川みたいに畿内に気を取られて自国領ボロボロで衰退パターンだろう。
で、戦国時代が100年延びる。それだけ
190無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 17:42:49
武田が上杉と同盟して北条→今川→織田→上洛すれば天下統一してたと思う

カンスケが生きてたら違う結果だったと思う
191無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 19:15:22
はあ?
足軽大将の一人生きていても何も変わらないよ。
192無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 19:28:31
1.上洛作戦はまず冬が明ける前に織田軍に決定的な打撃を与えること
193無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 19:36:11
同盟したら戦が出来なくなるんだよ 知らなかったの?w
194無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 19:39:37
きつつき作戦が武田家の軍事的行動の限界
195無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 19:57:55
駿河を取ることに固執せず三国同盟を維持したまま
長尾が北信濃に進出できない雪が積もる冬を頃合に
美濃に攻め入り斎藤を滅ぼす。
これで西国での東の要所を押さえることもできるし
世継ぎの義信も飯富虎昌も健在のまま。
あとは一応親戚の本願寺と同盟でも組んで
畿内を刈り取ればいい。
もしくは三河に今川と連携し兵をいれ
徳川を潰す。

196無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 20:04:22
良い戦略ですね 朝廷に金500送れば官位がもらえるよ
あと、忠誠度はちゃんと上げておきましょう。
197無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 20:20:28
>195
信濃〜美濃間の交通は不便だよ。
一時的に攻略できても、維持は難しいだろ。
198無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 20:22:34
DBを七つ集めて信玄を不老不死にする
199無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 20:48:13
信玄が長生きして秀吉か家康の養子に行く。
これしかないよ!
200無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 21:33:29
記念すべき200(*^ヮ^*)キャハ
201無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 22:39:58
132 :66:2005/12/04(日) 03:26:59
>>131 僕の解釈は少し違う。

>>甲尾同盟はもともと北進のための政策。
>確かに。でも結果としてこの戦略が「今川家との不仲」に直接結びついた。これを
危惧した武田義信の謀反につながり、その後義信死去(嫁は今川家)→今川氏真から
の「同盟破棄通告」と進展していく。

>今川氏真にとって「織田家=親父を殺した仇敵」であるから、武田家の政策を断固
許せなかったのだろう。
一方、同盟を破棄された時点で武田家は、上杉・今川・北条(基本的に今川寄り)を
敵に回す事態へと追いやられた。(当然のことながら、武田家は兵農分離政策が未発
達)国人離反の動きも当然あったのではないだろうか。腰を据えて構えていられる状
況ではなかった、と思われる。


信玄の判断ミスなのかどうかはわからない
ただ徳川を易々と独立させる氏真を見て将来見捨てることを前提とした判断を下したのだろうな
放っておいたら徳川に駿河まで取られるのでは……と
そこで織田(=同盟の徳川)と組んで将来今川領は武田と徳川で二分する
当時徳川と上杉に軍事同盟があったのでは?その牽制の意味もあったんじゃないか
北条とは外交で講話できると目論んだ
1567年の武田・今川同盟破棄は信玄にとっては待ってましたの出来事、むしろ遅いくらいに感じてたかも

やはり信玄は着実に領土を拡張していくタイプであり
信長よりも直線的ではない気がする
202無名武将@お腹せっぷく:2006/01/05(木) 22:48:27
>>202
その解釈におおむね同意よん
拙者も、石橋を叩いて渡る、くらい慎重な信玄が
信長のような直線的な戦略に出るとは考えられない
むしろ、倅の勝頼の方が強気な戦略で他国を席巻したので
信玄ほどの慎重さはなかったように思われる
ただ、勝頼の場合は老臣(馬場、山県など)たちから信頼されていないという
焦りを感じたからこそ、あえて積極的に出たのだが
203無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 14:25:21
人気実力ともに武田信玄こそがナンバーワン!!
204無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 14:49:16
>>194
啄木鳥戦法

啄木鳥が木の反対側を叩き、驚いた虫が中から出てくる。
それを見計らって正面から啄木鳥が虫を食べる。

この習性を模様して、啄木鳥戦法が発案されたというのが定説。
だけど実際の啄木鳥は木など叩かず、真っ向から虫の巣を襲うのです。
205無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 19:11:58
つまり
まんまんみてちんちんおっきおっき
か。。。
206無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 19:20:22
景虎に味方して上杉北条と同盟してれば滅亡は免れた公算が大きい。
その後本能寺の変が起きれば、三河美濃尾張を席巻して上洛も可能。
207無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 19:43:04
武田家が存続してるのに本能寺だけ史実通りって
208無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 20:07:39
武田家が存続したとしても本能寺の変が起きた可能性は高いと思われ。
209無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 20:13:36
明智光秀は信長が僅かな手勢で本能寺にいる事を見破り討ち取ったからたいしたもんだ。
210無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 20:35:33
本能寺の時は織田の兵力は各地に兵力が分散しており、
信長を討ってもすぐにはまとまった兵力が戻ってくる前に
畿内を抑えられるという考えの元に明智は挙兵した。

武田が存続している場合は、
美濃に対武田の兵力があるはずだから、
信長を討ってもすぐにまとまった兵が戻ってくる可能性がある。

だから、本能寺が起こる可能性はまったくないとは言えないがかなり低い。
211無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 20:51:30
すぐにまとまった兵力が戻ってこられないという明智の計算は、
距離の問題よりも、各地で大大名と交戦中だからという点が大きい。
実際、柴田は釘づけ滝川は北条に大敗、
羽柴も、毛利家中に小早川隆景という常人とは違う思考回路を持った人物がいなければ、
追い討ちくらって明智と戦うどころではなかったと思われる。

先程の例に挙がった対武田の美濃の兵も、すぐには戻れないという点では同様。
212無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 21:04:03
で、信長は本能寺には行くんだね。
213無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 21:06:24
対武田といっても武田が出張ってきて居たりしない限り動けなくもない。
なおかつ本能寺の様に信長が少数の兵士か率いていなく、
明智その周辺で大軍を動かしても怪しまれないと言う状況も必要。

起こる可能性はかなり低い。
214無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 21:13:58
滝川の所在地が変わるだけ。
本能寺の変と同様の状況になっても不思議はない。
本能寺の変が起きてた可能性は高い。
215無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 21:18:51
すっげえ粘着w
216無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 21:22:00
ここでは反論を粘着と呼ぶのか
217無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 21:26:26
信長が家臣に殺される可能性が高かった なら同意も出来るが
本能寺で信長が明智に殺される可能性が高かった なら話にならん
武田家が残ってたらすべての状況が変わる。
218無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 21:30:44
武田と共謀するんじゃね
219無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 21:31:08
はっきり言う!

歴史ってのは長い目で見ればそのあたりの石ころこ位置が少しズレていただけで様変わりするもんだ。

おまえらだって親のセクスで隣のおたまじゃくしがビンゴなら別の何かがうまれている。

つまり本能寺の変どころかもっと変な変が起きてるかもしれないって事だ。
220無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 21:33:24
羽柴秀吉の恋・・・じゃなく変
221無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 21:33:53
人間の運命なんて変わらないんだよ。
状況が変わっても信長は本能寺へ行って光秀に討たれていた。
運命からは逃れようがないんだよ。
222無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 21:44:11
>>217
そこまで「本能寺で」って部分にこだわる必要は無いよ。
俺も反論してた人も、光秀が信長を討つことを表す言葉として、本能寺の変って言ってただけだから。
223無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 21:46:06
>>221
つまり武田が滅ぶのは防ぎようがないと言う事だね。
224無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 21:50:06
スレの存在否定フォーヾ(`・Д・´)ノ
225無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 21:56:46
>>221
スレの存在を否定するなよ。
226無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 22:00:18
勝頼時代だと額を地面にこすりつけてでも一度は織田家に屈しない限り天下は見えない思う。
信玄時代はよく分からんが、上杉とワーワーした時間を何とか減らさないと無理だと思う。
あとは信長が今川義元に討たれてたら位しか思いつかん。
227無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 22:14:06
>>226
信玄が天下をとりたいと考えていれば、上杉との戦いはタイムロスだったかもしれん
228無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 22:16:37
しかし、北信濃・西上野を取っていないと、
天下を望むには国力不足じゃないか?
229無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 22:18:36
ということは、やはり上杉謙信の存在は信玄にとっては、良くなかったてことか
230無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 22:19:25
人材確保の為にも信濃は必須。
真田も信濃を武田が取ってなきゃ家来ですらないし。
231無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 22:19:35
そこで早期の美濃攻略ですよ。
232無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 22:21:42
そうですね なので分からんとの言い訳を入れときましたw
233無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 22:25:40
圧倒的勢力だった信長ですら木曾を味方に引き入れてから信濃攻めしてるのに
234無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 22:34:33
やはり調略は不可欠
美濃の土豪たちを味方につけて、味方を有利に導く
これが信玄流とはいえないでしょうか?
235無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 22:38:02
東美濃の調略はあまりにも縁が遠くて足掛かりがなかったんでしょ
236無名武将@お腹せっぷく:2006/01/06(金) 22:57:57
軍事力の影響がおよんでこそ調略的な事も出来るんであって
いつ兵を入れてくれるのか、入れられるのかも疑問な所へ行っても門前払い
自力で維持しなきゃいけないなら美濃側に付く方が確実だし
やばくなってから武田側についても皆殺しされる訳じゃない家は守れる。
237無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 16:40:49
風林火山明日やるな。
238無名武将@お腹せっぷく:2006/01/07(土) 21:16:21
ほう 
239無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 01:13:56
>>236
その点で、東美濃は調略の有効範囲内だな。
240無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 15:19:57
「心頭滅却すれば火おのずから涼し」快川紹喜を軍師にする
241無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 19:39:18
今日の風林火山を見れ
242無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 19:46:07
どうせ合戦シーンで武田本陣に謙信が一人でやって来るんでしょ?
243無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 19:47:31
名シーンじゃないか!!
244無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 19:53:02
でも謙信に打ち込まれているのに床机に座ったままで受ける信玄ってリアルじゃないよな?
245無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 19:53:48
謙信が徒歩、足軽風体で本陣にやって来たら見てやっても良い
246無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 19:55:34
ムカデ衆に変装するべき
247無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 20:06:28
どんなダメ大将でも死ぬ気でついていくそれが戦国武将だろ
武田の家臣は糞家臣ばかりで勝頼がアワレだ
24866:2006/01/08(日) 22:45:59
>>201 
甲尾同盟を信玄の判断ミスだった…というのは少し短絡的かも。ギリギリの
判断を迫られていたと思われる。あと「徳川家が独立した」という解釈も、や
や肥ゲーム的だと思われる。

義元の死→領内の動揺を契機に徳川家は…
「今川の傘下を離れて、織田の傘下に入る」状況になったわけだ。
(一国の権力者が突然死という状況ではある意味避けられない、と思われる。
例えば「織田信秀の死直後の尾張の状況」などを考えれば、割とポピュラー
なパターンだと思われる)
これを独立と考えるのは、徳川家に対する過大評価だと思う。当時徳川の勢
力圏は三河の8〜9割(しかも一向宗など不透明な部分も大きい)。今川に対
する侵攻能力など無いに等しい。事実、武田家が駿河に侵攻するまでに家康
が動いた事例は見られない。
24966:2006/01/08(日) 22:51:19
あと(武田が)上杉との戦いについて、「時間の無駄」という解釈にも異を唱える。
武田の(あるいは上杉の)勢力圏を保持する上で避けられない流れだったと思う。

5回にわたる川中島の戦いは、つまり「当時の武田に上洛する意思など無かっ
た」ことを示していると思う。
250無名武将@お腹せっぷく:2006/01/08(日) 23:59:42
「ギリギリ」って何と何とがギリギリなのか良くわからん。
脳内の雰囲気を擬態語だけで伝えられてもな。

信長ははっきりと「臣下ではなく同盟者である」という態度をとっていた。
誰の目から見ても信長配下に見えたのならそんなことをする必要はない。
徳川家は独立した一個の大名家、というのが当時の一般的な認識と考えるべきだろう。

つーかそもそも「判断ミスかどうか」にその辺のことは関係ないと思われるが。
251無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 00:04:57
さっさと今川潰すべきだった
252無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 00:07:04
TV朝日作の大河ドラマ「風林火山2」が作られれば
様々な捏造を加えまくり武田の天下がやってくる。
勿論、大奥をパクッた展開もてんこもりで。
253無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 00:11:14
>>249
まあ一度は衝突するとしてもだ。
もうちょっと早く切り上げられなかったかと思うよ。
少なくとも結果から言えば時間を浪費しているのは間違いない。
25466:2006/01/09(月) 01:30:17
>>250 何と何とがギリギリなのか…

1564年に武田は甲尾同盟を結ぶのであるが、ここで信玄は
【今川を取るか、それとも織田を取るか】の選択を強いられて
いた。もちろん当時の織田に武田領への侵攻能力はないけれど、
それでも脅威には違いない。(盟友今川義元を倒しているのだか
ら。あと上杉で手いっぱいだから)

ここで重要なのが「家内が甲尾同盟の是非に関して2つに分かれ
ている」ということだ。徳川の存在は>>248 で指摘したとおり、
あまり関係がない。


あと「傘下」の解釈なんだけど…独立した、しないとは別の話。
国力(軍事力)の低い家が高い家に庇護される。戦国期では当た
り前のこと



>>253 もし武田が天下を目指してたのならば「時間を浪費した」
という表現が適切と思われ
255無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 02:37:34
天下目指してなくても浪費にゃ違いない。
256無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 02:46:38
別にどっちかと同盟しないと即滅ぶわけじゃない。
そういうのは「ギリギリ」とは言わないよ。
25766:2006/01/09(月) 02:54:27
結局、勢力圏守れたんだから目的は果たした。と思われ

そもそも(一説には)信玄にとって軍事行動そのものが目的だったと
いう。すなわち軍事統帥権を行使することでしか、領主としての威
厳を保てない(内政関与できないため)信玄の政治的アクションのひ
とつだったというお話。
25866:2006/01/09(月) 03:12:01
>>256 要は家内の話なんだよね。つまり織田勢力圏近くの国人と
今川(北条)勢力圏近くの国人。どちらの国人もそれぞれの勢力圏
の安泰を目的に武田家の傘下にいるわけだ。
259無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 03:55:20
もっとさかのぼって考えようぜ。

とりあえず桶狭間直後に、織田信長を暗殺。これでおk
260無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 09:32:51
>>250
信長の態度は「対等の同盟者ではなく、上下関係の同盟者。その中で大事にしている」
という程度のもの。家康には軍の派遣をほぼ強制で命じておいて、自分が援軍を求め
られても簡単には応じない。家康が自家の都合よりも信長の要請を優先させているの
と大きな違い。
それから当時の見方としては、どっかの寺の住職の記録(名前忘れた)に「岡崎殿、清洲
にご出仕」と清洲同盟のことを記しているとか。
後の江戸時代の徳川御用学者が「対等の同盟」と言いつくろったが、実質は変らない。
261無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 10:40:36
美濃をとる前の織田家にそこまでの実力があったとも思えんが。
262無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 11:36:18
>>261
少なくても義元を討ち取った信長と
義元居なくなってから独立した家康とじゃ評価全く違うんでない。
てか豊かな尾張と田舎の三河じゃそもそも石高がぜんぜん違うでしょう。

263無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 17:03:43
織田信長が早世していたら、誰が天下を取ったんだ?
とりあえず今川義元が上洛して、そのあと武田が天下を取っていたのかも。
264無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 17:33:42
今話してるのは武田織田同盟の是非。
201の意見は、徳川の東進を止めるため、今川に力を貸すよりもむしろ駿河を自分で押さえてしまえ、
というのが信玄の考えではなかったか、というもので、
それに対し徳川にそれほどの力があるとは見られてなかったはず、という反論があった。

徳川と織田の関係をどう定義づけようと勝手だが、
現実問題として徳川家は美濃攻略に参加してるわけでもなく、東正面担当であるのは明らかだ。
どういう立場であれ、戦備が整えばいずれ東へ向かう可能性は高く、
徳川と織田家の関係はこの際本題に関係ないと思う。

三河の国力が低いから、という理由で徳川の脅威を低く評価していたというならわかる。
その場合信玄が信長と結んだ理由が別に必要になるが。
265無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 18:47:21
つーか今川と最初から同盟しないで武田が滅ぼした方が良かったと思う
266無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 18:51:27
確かに武田なら北条、松平、織田と同盟を結ぶなりすれば
今川なんぞ滅ぼせるに決まってるよな。
267無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 18:54:07
三国同盟は同格の同盟だが、当時敢えて順位を付けるなら今川が一番上。
268無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 18:55:40
今川って東海一って言われてたけど信長にあっさりやられ、その後もあっさり滅んだし実は兵力こそ多いけど弱かったと予想してみる。
武田も最初から同盟しないで今川滅ぼした方が良かった
269無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 20:21:38
無茶言うな。
270無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 21:29:10
信玄って信濃征圧で時間をかけ過ぎた。北信濃は諦めてさっさと駿河征圧しとけば良かった
271無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 21:35:01
今川と同盟した事が間違いだったな
272無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 21:48:37
いや、同名結んだ時点では大いに意味あったと思うぞ。
桶狭間なんてまぐれだし。
273無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 22:00:06
まぐれじゃ無くてある程度は戦略だよ。普通ならあの兵力差なら篭城するだろ?油断した義元はアホだけどな
274無名武将@お腹せっぷく:2006/01/09(月) 22:28:13
>>273
じゃあ本能寺で油断した信長もまた、アホってことですな
まぐれじゃなくて戦略だってのは、後の歴史を知る漏れたちだから言えることでしょ?
奇襲そのものは戦略だけど、義元を討ち取れたのはまぐれ
それぐらいの覚悟がなければ、篭城してるだろうな
275無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 00:53:48
むしろ今川義元が死んで、すぐに今川と手を切ったのは、機を見るに敏だったともいえる。
276無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 08:07:01
>>274
>奇襲そのものは戦略だけど、義元を討ち取れたのはまぐれ
だから>>273では「ある程度」って言ってるんじゃないか?
277無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 12:02:59
桶狭間の戦略的な目的は
「義元の首」をとること。
それができなければ失敗、
今川軍を敗走させたとしても勝利ではない。
278無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 12:31:43
そもそも本当に上洛軍だったのかも怪しい
279無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 13:08:46
つーかあれだけの兵力があって負けるのはアホだよ。
280無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 13:29:25
2万5千とかは捏造
281無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 13:40:16
甲陽軍艦にも信長公記にも二万余という記述が有るのに
282無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 14:30:01
信玄公は子どもの頃からとても頭がよく、 ある時、貝殻がたくさんあったので貝殻の数を数えました。
3700ありました。 その後、家臣達にこの貝殻がいくつあるかあてさせたところ、
どの家臣も10000とか全然違う多めの数を言ったので 「こんな風に実際より多く見るヤシばかりなので戦でも人数を間違えさせれば簡単に勝てる」 といいました。 家臣達はみな恐れ入ったということです。
283無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 14:52:11
駿河遠江三河の国高で二万五千も兵を集めるの無理ぽでしょ。信玄でさえ二万五千だろ??
284無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 19:46:22
なんか短足で馬にのれなかったのを未だに信じてる人いれば
桶狭間で敗れたから雑魚扱いを未だにしてる人がいて義元が哀れ。
足利将軍家から特別に認められた栄誉(今川氏は足利氏の一門)として
輿に乗れたのであって、寸胴で足が短く馬に乗ることができなかったためではない。
ってのすらしらなそう。

だいたい今川家は義元だけじゃなく
大原雪斎という優れた人物が居た。
この雪斎が死んでなけりゃ
義元も桶狭間で死ぬハメにならなかったと思う。
285無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 23:01:09
多くの資料が有る以上、資料優先になるんじゃ
当時の義元は尾張の一部も支配していたし、無理して集めればそのくらいになるんじゃないか
戦乱で荒廃した太閤検地当時より、石高があったのかも知れない
286無名武将@お腹せっぷく:2006/01/10(火) 23:45:28
信玄の二万五千は北の備えをある程度残してたからでしょ。

当時の今川は、尾張の一部まで入れれば80万石くらいか?
頑張れば出せない兵力じゃない。
サバを読んで二万くらいなら適正規模だな。
28766:2006/01/11(水) 04:13:28
そもそも今川と武田が同盟組んだのは、信玄の父・信虎のときだった。当時にして
既に「兵農分離」政策に着手していた今川と、度重なる略奪と国人の反乱→信虎に
よる粛清の続いていた武田の力の差は歴然だった。
288無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 04:58:36
その時代なら単純に石高を比較すれば済む話では。
289無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 15:32:16
石高=兵力とはいえじゃないじゃんw
290無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 20:50:41
>>282
単に武田の家臣はみんな子供より頭が悪いと言うことじゃないか?
291無名武将@お腹せっぷく:2006/01/11(水) 21:47:56
25000ね、
万石250人なら足りないかもしれないが、
万石300人なら捻出できるさ。
大体、250人役だってただの指標なんだから。

後顧の憂いもないし、補給線も安定している、問題なく動員できるだろうよ。
292無名武将@お腹せっぷく:2006/01/12(木) 01:59:56
>>289
288は、287を受けて、信虎が今川と有効策を取り始めた頃の情勢で、
両者の「力の差」を判断するのに、国人がどうだこうだと立ち入って考えるまでもない、
って話なんだが。
別に「石高=兵力」なんて言ってないぞ。少なくとも288では。
…実際問題、微妙な差異はあれどおおむね「石高=兵力」だとは思うが。
(つかよく見たら289って日本語になってないな)
293無名武将@お腹せっぷく:2006/01/12(木) 07:36:15
武田は豊富な金山もあったし馬の産直で国高よりも多くの兵がいた。それに織田見たいな数だけ多い烏合の衆とは違い勇猛果敢な兵士が多かった
294無名武将@お腹せっぷく:2006/01/12(木) 08:15:34
信玄が村上・上杉など自勢力より規模の小さい勢力に惨敗したり、
勝てなかったりするのは、村上・上杉が強すぎたためであり武田が弱かったためではない。

信長が自勢力とほぼ同等の規模の斉藤を最終的に滅ぼしたとはいえ、
なかなか倒せなかったのは、斉藤が強かったのではなく織田が弱かったためである。
295無名武将@お腹せっぷく:2006/01/14(土) 10:54:41
上杉は規模小さくないし。別に「惨敗」はしてないし。
村上には油断によって二回も負けたのに僅か5年で事実上滅亡させてるし。

織田が斉藤を倒すのに10年近くかかったのは、まあ普通だな。
296無名武将@お腹せっぷく:2006/01/14(土) 11:45:36
上杉って実際の石高は30万石ちょいじゃないの?
それに「村上・上杉」と並べて「惨敗したり、勝てなかったりするのは」
と並べているのは「村上に惨敗して・上杉に勝てなかった」って言うことだろう。

負けた理由が「油断」って言うのも全然言い訳にならんしね。

>>294ふうに書けば、
武田が上田で村上に惨敗したのは油断のためであって武田が弱いわけではない。
織田が姉川で浅井に勝ったとはいえ苦戦したのは油断したためではなく織田が弱かったためである。

って言うところか?
297無名武将@お腹せっぷく:2006/01/14(土) 18:02:46
第一回川中島の頃の武田も30万ちょいか、せいぜい40万ってとこじゃないかな。

それと、「油断」は削除しても主旨変わらんと思う。
要は戦場で二回も負けたのにちゃんと滅ぼしてるんだからたいしたもんだと。
298無名武将@お腹せっぷく:2006/01/14(土) 19:03:56
謙信の領国越後は、古くから米どころとして知られていた。また、越後・佐渡の金山も上杉氏の富の源泉とされ、
謙信の重要な財源になったといわれている。たしかに謙信が多額の金銀を蓄積していたことは、その遺産についての報告でうかがい知ることができる。
天正6年(1578)謙信がその49歳の生涯を終えた直後、春日山城の金蔵に蓄えられた謙信の遺産の調査が行われた。
その際作成された「春日山城内惣在金目録」によれば、謙信が蓄積した金の総額はおよそ2万7000両と報告されている。
うち約は「御利平の金」「所々より参金」「かい金」および「土蔵在金」に分類されるが「御利平の金」は貸し付け金、「所々より参金」は運上や贈答によるもの、
「買い金」とは買い入れた金と解釈することができる。関東、信濃、越中、能登などへの大軍事遠征、さらに朝廷への献金、
また2度にわたる上洛もこれらの豊富な金に支えられていたのである。

しかし、この謙信による金銀の蓄財と、越後国内での金銀の産出とを直接的に結びつけることはできない。
秀吉政権期の慶長3年(1598)に作成された「伏見蔵納目録」には「越後黄金山」「佐渡黄金山」と称して、
全国の金の総産出量の約6割が越後および佐渡の金山からのものであると記録されている。


上杉は他国にはできない大遠征が出来る。
村上氏は上杉から金をもらってたから粘れた。
ただそれだけ。

299無名武将@お腹せっぷく:2006/01/15(日) 07:30:19
>>294
弱い強いって、どうやって判断するんかいな。

てっきり、
「勝ったほうが強」くて、
「滅ぼされた側には相応の理由(弱さ)があった」んだと思っていたが。

物事って、普通は、「成果」で判断しないか?
30066:2006/01/16(月) 16:30:45
>>299 そーだな。一歩間違えると「成果」→「結果論」になるから
気を付けないと…

たとえば桶狭間で、義元は討たれたけど。じゃ実際義元は弱かった
のか?となると別の切り口も必要になってくるじゃない?
30166:2006/01/16(月) 16:55:20
それと、石高論争はどうも苦手…(´・ω・`)
@現代みたく、平地の全てが稲作可能ってわけじゃない。当時、河川の氾濫が
頻繁で遊んでる土地のほうも多かった。さらに農業技術も未熟だから、現代の
尺度で推論してもしょうがない。
※越後が「米どころ」になるのは米の品種改良の成果なんだよな。戦国期にどれ
だけ米が取れたかは知らない
A仮に正確に石高を割り出せるとしても、「検地」が必要不可欠。後の太閤検
地から(ある程度)推測はできる。

だから、論争してないで適当な資料見たほうが早いじゃん?

だけど…
A仮に石高を割り出したとして(武田家の統治形態を考えると)それに比例した
兵数を割り出すのはナンセンス。豊臣時代みたく「一石につき何人」とか強制
があるわけでない。どの程度の数だけ兵を出すかは国人が主導権を握っていた
※甲尾同盟のメリットて、案外この辺かも?
302299:2006/01/17(火) 02:21:17
>>300
そうそう。だから、結果にくわえて、そのプロセスの分析も大事だよね。
単純に「結果」だけを羅列して、事実のトレースをするんだったら、
資料を読むだけでいいじゃん、ということになっちゃう。
同じ結果を違う切り口で見る想像力がないと、資料のコピペに堕するし、
逆に事実からあまりにも乖離してしまうなら、フィクションでしかなくなってしまう。
歴史を語る時は、どの程度バランスをとるか、わりと注意が要るよね。
(場の空気しだいで多少比重は変わるけど)
303299:2006/01/17(火) 02:23:53
>>「石高」
たしかに戦国時代って、実地調査による検地は行われていないんだよね。
比較的領国経営の進んでいた北条氏の検地だって、
「指出検地」(自己申告)だから正確な石高は誰も把握していなかったし、
それは信長や信玄も同様だった。
何より、収穫量の石高ではなく、
田圃なら何文、畑なら何文、 といった「貫高」(金銭価値)での評価だから、
江戸時代ほどの絶対的な指標ではない。
(そもそも基準となった通貨体系にしたって、江戸時代とくらべても不安定だった)
もちろん、「貫高」に応じて軍役を貸したのは事実だから、 まったく参考にならないというわけでもないけれど、
それならば、「戦国時代の間には、農業生産力にそれほど大きな変動がなかった」という前提で、
戦国時代が終わった直後の太閤検地を参考にしたほうが、
「より正確に土地生産力は求めることができる」。

で、動員期間、時期(農閑期か否か)、頻度、兵力の構成(客将の比率など)という要素を加味した上で、
石高と合戦記録の両方を照合することによって、
ようやくある程度に信頼できる可能動員兵力をつかめてくるのではないかと。

その点、信玄はどうだったんだろう。
たとえば、第二次川中島の例だけをみれば動員期間はなかなかなんだけど、
その前後の軍事行動がおとなしくなっていたとしたら、
やはり無理してたんじゃないのって話になる。
そこのところはどうだったのかな?

(個人的には、謙信配下の武将で叛くものが多かったのは、
謙信の合戦の頻度と動員兵力が負担になりすぎたからでは、
という気が大いにします。(仮に国力のポテンシャルが高くても、負担が大きいのは嫌でしょう)
ゆえに、信玄にはある程度の天下取りの可能性があっても、
謙信には可能性がなかったのではないか、と。)
304無名武将@お腹せっぷく:2006/01/20(金) 02:03:55
おまいらボンボンは知らんかもしれんが、つい一昔前まで五穀全てが当然の主食として食われていたんだぜ。貧しい昔はうまいもん作るより食い繋げるものを作っていた。
米を好んで栽培する理由はうまいから高価で取引できる為。
農民は米を口に出来た時は泣いて喜んだという。

文献で穀倉地帯といったら全て米だと勘違いしないようにな。あと、食物に困らない現代に感謝を忘れるな。
305無名武将@お腹せっぷく:2006/01/20(金) 03:23:19
>>文献で穀倉地帯といったら全て米だと勘違いしないようにな

日本の場合殆どが米といっていいよ

>米を好んで栽培する理由はうまいから高価で取引できる為
作付けがいいからだが?麦の倍以上とれるし
306無名武将@お腹せっぷく:2006/01/20(金) 06:43:51
じゃあ麦、それにひえとかあわを作ってた理由ってなんなんだろうな?
米は高く売れるたくさん作れるって理由があったとして
他の穀物の理由ってなんだったんだろ???
307無名武将@お腹せっぷく:2006/01/20(金) 07:14:38
>>306
品種改良される前の米なんて、弱すぎて全滅も珍しくなかったからじゃない?
308上杉:2006/01/20(金) 07:50:29
無理。
309無名武将@お腹せっぷく:2006/01/20(金) 10:55:21
>>306
あのさ、お前相当頭悪いの?
米が育たない地形・場所にはひえやあわや麦を作る
分かる?
310無名武将@お腹せっぷく:2006/01/20(金) 17:54:59
麦や芋も米より飢饉に強くて安いんだがな。健康の為に麦飯やゆで芋ばっかり食ってたわけじゃないぜ。

とりあえず米が庶民にとって高級品だったことがわかればいいよ。
311無名武将@お腹せっぷく:2006/01/20(金) 19:17:57
五穀という言葉のとおり、米ばかりが穀物じゃなかったんだよね。

米は連続耕作が効くし、
生育時期から裏作が可能だし、
旨いということで商品作物として流通しやすかった。

ただし水がないとどうにもならないので、
江戸時代の大名たちは水利事業を競って実施した。
その成果が上がる前は、米以外も有力な作物だったんだよ。
312無名武将@お腹せっぷく:2006/01/20(金) 22:04:35
>>295
規模が小さくないとは言えせいぜい一郡二郡ほどの村上を滅ぼすのに五年かけた
武田は強くて、
美濃一国、石高で言えば信濃全土よりも豊かな国を支配していた斉藤氏を約七年
かけて滅ぼした(そちらの10年ってのは間違い)のは普通と。
ちなみにそれぞれに国力比較をすれば
武田>村上 であり、 織田≒斉藤
313無名武将@お腹せっぷく:2006/01/21(土) 00:42:27
>>312
いや、そういう結果だけの単純な比較はあまり論理的ではないよ。

たとえば調略活動ひとつとっても、家臣団や黒人衆の立場やメンタリティがぜんぜん違う。
村上氏と斉藤氏のどちらも、黒人集と家臣団の切り崩しが大きな敗因なわけで、その点、無視できない共通点もけど。
単純な国力や戦力では斉藤氏は織田に遅れを取ってはいなかったが、
当主の代替わりでごたごたを抱えていたのも事実。
(実際の夫婦関係がよかったという話は聞かないし、巷説の国譲りも創作だろうが)
道三の女婿であったことが信長にとっては美濃攻略(というか調略)には有利な材料であったろう。
(国主とは気が合わないから、隣国の旧主の血縁が好く見える、ということはありえないわけでもないかと)

逆に、諏訪氏、小笠原氏や、佐久地方の無残を見せ付けられた信州の豪族は、
それゆえに最終的には武田に降ったとはいえ、
同時に、降らない限りは必死に抗戦したであろう。
もっとも、そもそも小笠原氏から信濃の国主の地位を奪わんとしていた村上義清の信望だって決して高くはなかった。
結局、権威の失墜しかかっていた小笠原氏から国主の地位を奪えなかったのは、黒人の支持を得れなかったことも大きいし、
武田を2度も合戦で打撃を加えながら、調略の前にあっけなく家臣を失っているのだから。
(予断による余談だが、
信玄の調略上手は、村上氏攻略から始まっていると思われる。
それまでの武田晴信の謀略は、事前工作やゆさぶりよりは、騙し討ちのようなものが多い気がする(諏訪氏、高遠氏が一例)
また、強引な力攻めに頼るようなところも目立つ(信州佐久郡のの笠原氏滅亡がマイナーだがいい例)
老獪な調略に目覚めたのは、村上氏に力攻めでは敗れたことで学習したといえるのではないか)

地理的な距離の差も大きい。
拠点をすぐに前線に移動させるという伝統が織田家にはあり、美濃自体が最初から割と近かったのに対し、
対する武田のケースでは、甲州と北信濃では単純な距離もけっこうある上、その行程の多くが山岳地帯。

だから、単純に結果だけで比較するのではなく、
その結果にいたるための行動をこそ、比較すべき。
314無名武将@お腹せっぷく:2006/01/21(土) 01:19:15
>>313
>逆に、諏訪氏、小笠原氏や、佐久地方の無残を見せ付けられた信州の豪族は、
>それゆえに最終的には武田に降ったとはいえ、
>同時に、降らない限りは必死に抗戦したであろう。
こんなの信玄の自業自得だろう。

>拠点をすぐに前線に移動させるという伝統が織田家にはあり、美濃自体が最初から割と近かったのに対し、
>対する武田のケースでは、甲州と北信濃では単純な距離もけっこうある上、その行程の多くが山岳地帯。
こんなの信玄の自業自得だろう。
315313:2006/01/21(土) 01:23:08
で、今ちょっと気になったんだが、
信玄は、なぜ、信長のように本拠を前線に移さなかったのか。

攻略目標に対して本拠を近づける、というのは、確かにあまり例はない。
信長・秀吉・家康の三天下人を除けば、三好長慶(失敗の典型例だが)
と伊達政宗(こいつの黒川への拠点移動は期間が短すぎて評価しづらいけど)、
有名どころではこれくらいではないか?
だが、結果の是非はともかくとして、
旧拠点との連絡を断たれなければ、本営を前線に近づけるのは、
古今東西、有力な戦略の一つだ。

信玄は兵法に通じていたというから、決してそのメリットを知らなかったわけでもないだろう。
(現に、本拠の移動こそなかったが、侵略地には、数多く築城している)
にもかかわらず、三国同盟の安定期でさえ、
信玄は本拠をすっかり前線に移す、ということはしなかった。
この辺、突っ込んで考えてみると結構面白そうだと思うんだが。
316無名武将@お腹せっぷく:2006/01/21(土) 01:27:13
>>315
甲斐の豪族連合だった武田家は甲斐から本拠を動かせなかったというだけ。
317無名武将@お腹せっぷく:2006/01/21(土) 03:31:25
>>313
美濃は竜興があまりに無能で放蕩だったからだろ
義竜が早世しなければ信長の美濃攻略は不可能だったろうよ
318無名武将@お腹せっぷく:2006/01/21(土) 03:46:39
>>315
なかなかが難しい問題ですね。武田の場合>>316がいう通りの理由が第一だと思うが。
ただどの大名も、歴史上の英雄達もそれぞれ似たような理由を抱えて本拠移動を行なえたか否かは、俺の考えるには天下(広域地域)統一に対する執念と統一に対する盲目性だと思う。

まず建前でもある家臣領民の為の国である事。戦争だって国の為。
みだりに本拠を移すとこれが大義ではなくなる。

あと、頓座した時のリスク。
ほかには兵の駐屯や経済性かな。

前線基地として駐屯する場所としてならともかく、本拠地移動は現実的に決断するのに本人の資質や環境が揃うのは難しい事だと思う。
319無名武将@お腹せっぷく:2006/01/21(土) 16:20:16
>>316

初期はともかく、晩年は違う
320無名武将@お腹せっぷく:2006/01/21(土) 16:49:40
なぜ本拠地を移さなかったか?
ずっと本拠地を移動させないのが当時の常識だったんじゃないのかな?
居城を移転はそれなりに金がかかるし、
315の言うように在地豪族の問題もあるので
やろうとしても様々な弊害をクリアしてかなきゃできない。
移転のメリットが解らなければやろうとも思わないだろう。
当時、メリット、デメリットはどの大名も理解してたのかな?
321無名武将@お腹せっぷく:2006/01/21(土) 18:25:19
>>320
信虎は本拠移してるからどうでしょう。
信玄はあくまで甲斐中心の領国経営だったから移す気なかっただろうね。
信濃は甲斐よりも税や軍役が重かった点からして半分植民地扱いだったのでは。
在地豪族や国人領主は関係ないでしょう。
32266:2006/01/21(土) 19:18:52
兵農分離ができてなかったから、本拠地を移すに移せない。移す気があったか
どうかも不明(晩年は多忙すぎて、本拠地移すどころではなかっただろう)
323無名武将@お腹せっぷく:2006/01/21(土) 19:39:08
甲斐の中で本拠地移すのと、外の国に出るのはまた違うと思うよ
324無名武将@お腹せっぷく:2006/01/21(土) 20:14:34
>>322

兵農分離が出来ていないと本拠移転が出来ないのはなぜですか?
325無名武将@お腹せっぷく:2006/01/21(土) 23:17:12
>>315
信長の場合の本拠地の移転のメリットは理解できるけど
家康が行った駿府城への移転は何の為だったんだろう?
浜松城でもセンターの機能は果たせそうなもののように感じるが。
あと、秀吉は本拠地は移転してる?
32666:2006/01/21(土) 23:20:51
兵隊連れてこないと話にならないじゃない。
327無名武将@お腹せっぷく:2006/01/21(土) 23:31:43
>>326
確認するが、本拠地が甲斐にある武田の軍団は兵士が全員甲斐に住んでると思ってる?
32866:2006/01/22(日) 02:14:57
>>327 質問の意味不明

ちなみに今回、本拠地を移すことの意義は問わないこと
にする。そのうえで…
ポイント@
俗に「兵隊」とは言うけれど武田の場合、兵農分離がで
きていない。よって「農民」を流用している。
ポイントA
「農民」を管理しているのは諸々の国人衆である。

よって国人衆を(ある程度)土地から切り離す政策(※)←これを兵農分離と言うのだが(^^;)
が不可欠。しかし信玄の政策は基本的に内政不関与だ
った。
※たとえば信長のように家臣団を城下町に強制的に
住まわせる、とか。
32966:2006/01/22(日) 02:22:30
兵農分離の考え方として、もう一つある。商業の発展した城下町を
持つと潤沢な軍資金が入る。これで直属の兵卒を養うやりかたであ
る。(太田道灌や今川義元、織田信長など)

流民の少ない山国だし、武田には無理だな…(^^;)
33066:2006/01/22(日) 02:43:33
※補足 >>328 のポイント@で示した「兵農分離」は>>329 で
説明したもの。「国人衆を土地から切り離す政策」の示す兵農
分離とは異なる(厳密に言うと「検地」→「一定の割合で農民
を抽出」。つまり「国人と農民」を切り離す政策のこと)
331無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 07:45:30
>>325
家康の駿府移転は晩年のことじゃあるまいか。
本拠を移したと言えば岡崎から浜松への移転のことだろう。

駿府同盟により後背が安定したことを受けて、遠州の前線近くに移転したということで、
織田の小牧移転と対応する行動だと思う。

しかし、基本的に国主の仕事は治安維持や司法調停や徴税など、
官僚的な武士を使って行う仕事もあって、そちらの掌握が疎かになる危険もある。
最悪反乱に発展して国を追われる可能性もあり、実際、岡崎奉行大賀弥四郎に叛かれてる。

家康の遠州制覇に賭ける熱意がリスクを省みず浜松移転を行わせた原動力であって、
当時の松平家が兵農分離を達成していたから可能だった、
ということとはちょっと違うと思う。
332無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 11:29:40
>>328
君の>>326では、本拠地を移転する時は移転元の兵隊を連れて行く
と言う内容にしか読めないが?
333無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 11:32:13
>>331
1569年 岡崎城→浜松城
1586年 浜松城→駿府城
1590年 駿府城→江戸城
1606年 江戸城→駿府城

1569年の移転はその通りだと思う
1586年の移転は甲斐、信濃制覇のメリットを考えての事だろう
特に前年上田合戦で真田昌幸に敗れている
334無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 12:31:34
>>328

美濃攻めのころの織田が城下町に全ての兵を住まわせるような兵農分離が出来てたなんて初耳ですね。
兵農分離は時代の流れに従って定着したのであって、信長が革命的に行ったわけではない。
そんな革命的なことしたのなら信長公記に書かれるだろ。
それに武田だって在地性の強い国人領主の弱体化に力入れてるよ。
335無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 12:33:03
>>331
× 駿府同盟
○ 清洲同盟

大賀弥四郎は民衆の困窮を理由に反乱を起こしたわけで、
当時の徳川家にとっては、遠方に兵を送ることの経済的負担が
かなりあったことを伺わせるのではないか。

そのうち息子にも反乱を起こされそうになったらしいので、
領国経営の不安定は相当ひどいものだ。
拠点の移転は織田が異常に上手くいったのであって、
徳川では無理が大きかったのかもしれない。
336無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 16:30:54
兵農分離って、運用次第だよ。常に前線投入が可能な分頻繁に帰還する必要がない、逆に少々本拠から遠くても大きな支障がなくなるわけで。

大事なのは地元の諸侯や土豪との関係、それによる統治体制の状態で、兵農分離はあくまでその枝葉じゃないかな。

信長みたいなシステムに依る政治なら成功しやすいし、武田みたいな人に依る政治だと自由な裁量の限界はあるよね。
337無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 16:50:05
>>334
兵農分離って信長が意図的に行ったんじゃないの?
信長が行った、居城の移転、城割、常備軍の形成などは
ある程度の兵農分離ががなされていないとできない事ばかり
これらの偉業を成し遂げる為に辛抱強く、地道に
兵農分離を進めてきたと思ってた。
338無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 17:05:54
清洲から岐阜に移した時は尾張の武将は現在で言う単身赴任な感じだし
常備軍なんかどの史料に書いてあんのよ?
339無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 18:32:18
>>338
清洲から岐阜に移した時は尾張の武将は単身赴任な感じっていうのは
どの史料に載ってんの?
340無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 18:40:58
>>1
もし武田家が天下を獲っていたら、お前の先祖は子孫残す前に死んでたかもな
341無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 20:27:41
流れをぶった切って。
スレのタイトルを考えて、現実に武田家がどういう思考・行動をとってきたかを考えるのでなく、武田家の初期状態(たとえば信玄の家督相続時とか)からどう動くかを考えてみたい。
因みに史実の武田家にそれが出来たかどうかは、此処では問わない。
例えば、信玄が家督相続した時から考えてみる。
まず、当時の武田家の国力からして相模・武蔵・駿河へは実質侵攻不可能だから、信濃へ進むのは仕方ない。
が、天下獲りを考えるなら川中島で上杉家と10年以上構想を繰り広げたのは無駄。その間、武田家の勢力は殆ど大きくなってない。
だから北信濃はある程度で侵攻を止め、上杉家と結ぶ必要がある。
で、上杉と結んだら次の侵攻先をどうするか。今川義元が健在な内は、駿河方面には出られない。となると、残るは飛騨・美濃しかない。
ここでネックになるのは、本国甲斐からの距離。尾張統一した信長ですら、美濃侵攻にあたって拠点を清洲から小牧へ移している。
甲斐から美濃では、いかにも遠い。となると、本拠地を信濃のどこかに移転するしかない。
そしてそれを為すには、信濃侵攻開始の時点から、可能な限り信濃の直轄地化を進めていくしかない。自ら(武田宗家)の持つ直轄軍を増やす意味でも、これは避けて通れない。
では、今川家の上洛(とされる行動)にはどう対応するか。普通に美濃を調略していく過程で、どうしても今川家の侵攻ルートとはぶつかる。
そこで、今川家の進軍に協力するふりをしつつ、信長の「桶狭間」に協力する必要がある。
つまり、いずれ敵対する今川義元に、早めにご退場願うのだ。
その為には、当時の信長や義元らの置かれた状況、夫々の(土豪等を含めた)勢力や大名・家としての性格、思考法など、あらゆる情報を絶えず確保しておかねばならない。
その上で、信長に「桶狭間の奇襲」を行わせるよう、こちらから仕向けていく必要がある。
……どう考えても無茶な話なのは承知の上だ。が、桶狭間ほどの事が起こらない限り、武田家の行き先が開けないのもまた確か。
ここはどうせなら自らイニシアチブを取るべきだろう。
342341:2006/01/22(日) 20:52:35
無事、義元がこの世から退場したらば、そこで一旦飛騨・美濃への調略を主眼から外す。次は氏真の継いだ今川領の始末だ。
北条とは敵対したくないので、ここはじっくり北条と腹を割って話し合う必要がある。幸い、北条は上洛の意思は低いと見て良い。
なので、正直に此方の上洛の意思を明確化し、今川家への侵攻を黙認させる必要がある。
当然ただではすまないだろうから、こちらも関東に一切手を出さない事を約束した上で、場合によっては駿河の東半分を渡す位は必要かもしれない。
北条との約束が出来たら、駿河(場合によって西半分)・遠江・三河へ侵攻。当然、時間はかかるだろう。
が、信長も史実では尾張統一に8年、美濃併合に7年をかけた。その代わり、その後の10何年かであの(本能寺直前の)勢力にまでこぎつけたのだ。
ここは武田家にとっての「美濃併合(天下獲りへの足がかり確保)」と思って、確実に仕上げる必要がある。
此処までで書いてはいないが、当然飛騨・美濃も、駿河・遠江・三河も、可能な限り直轄地化は進めるべき。
この間、上杉との破約・(上杉の)関東や信濃への侵攻も考えられる。北条と固く結んで、退けよう。勿論同盟が続けられるのならそれに越したことは無い。
信長や家康は、史実では成し遂げた事の大きさからつい過大評価しがちだが、尾張や三河を一国抑えただけの状態の彼らであれば、武田家としては充分対応できる。
攻め滅ぼすか、家臣に組み込むか。勿論これにも時間はかかる。
が、甲斐・信濃(半国)・飛騨・美濃・駿河(半国)・遠江・三河・尾張……ここまで抑えれば、着実に進む家風の武田家でも、天下は見えてくるだろう。
後は近江・伊勢と、畿内への対処である。
あるいは信玄一代では、ここまでたどり着けないかもしれない。が、大筋さえ誤らなければ、この後義信なり勝頼なりに引き継がれても、瀬田に武田菱の旗を立てるのは充分可能と思うのだが。
どんなものだろうか。
343無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 21:12:40
>>339
尾張の武将の本貫は信長が岐阜に移ってからも変わらず尾張だよ
勢力拡大に従って新たな土地を加増されたりはしたけど元々の領地を
取り上げられた話は聞かないが?
344無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 21:21:53
>>341
だいぶヨレますね
当時美濃を侵攻しようなどと思うのは美濃の情勢をしっかり把握している織田家だけ
他国は天下に聞こえた斎藤道三と実力で親を越えた息子って事でまず最初に恐れる国だ
調略も難しい地勢、塩も取れない

越後、駿河、美濃、関東の4択なら当時の各大名の威勢から言っても越後を選択するのは自然だが・・・
>>341では既にそれはナシの方向か

三国同盟は1560年はまだ締結初期。それを特段相手に手落ちもなく一方的に破棄して今川領侵攻となれば、仮にその瞬間うまく行って北条を丸め込めても後の信頼がなくなる
まず北条を中心とする包囲網が濃厚だけど、これを乗り越えて京に上れても信頼がない大名では今川と関係が深い将軍や朝廷が逃げるよw

あとせっかく海に出る方向に一度舵を切ったなら恐れるべき斎藤より東海道を進むべき
美濃に侵攻するとしたら美濃の弱体化を掴んでから
345無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 21:23:15
どうやって謙信と結ぶんだ?
北信を破棄するの?
346無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 21:31:17
>>345
毘沙門天を信仰する事を条件にしたら確実



・・・ってありえねぇ
347341:2006/01/22(日) 22:18:41
>>344
単純に領土拡大を考えるなら越後の方が簡単。ただ此方としては「武田家に天下を獲らせる」為にも無駄な行動は取らせられない。
越後だと逆に京から遠ざかる上、戦線が多方面化する。
調略は確かに川並衆とかのツテがあった信長より苦戦すると思われる。塩は……もともと取れてませんが何か。
というか、史実でも主に今川家から輸入してたのでは。
此方の路線では、今川家→北条・上杉両家に塩を頼る比重を変えていくしかないかと。
これ言ったら終わりだけど、元々武田家が天下獲りを目指す事自体結構無理があるので、信長に比べてもやり方が強引になるのはご勘弁。
後、武田家(というか信玄)はもともと信濃侵攻に際しても、同盟破棄による信用低下より侵攻の効率をとっている。
信長自身、朝廷から信頼されたのはその武威(実力)であって大名自身の人柄じゃないし。
信用が必要なら、まず武威でもって頼られた後、改めて信義を示す手もある。
まあ、美濃侵攻を美濃の弱体化以降にすべしってのは割と同意できる。というか、調略し難い相手だからそうせざるを得ないかと。

>>345
ぶつかる前に結ぶ。具体的には、北信四郡には本格的に侵攻しない。先に使者を派遣する。
謙信が義に厚い大名だとしても、それだけで信玄と争った訳は無いし。(ソースは忘れたけど)あれは謙信から仕掛けたという説も読んだ事がある。
なら仕掛けさせないよう、先に外交で手をうってしまう。
それだと飛騨・美濃へ行くには地力が足らんと言われそうだけど、それは北信を巡って謙信と争う場合も同じ事。
だったら真っ直ぐ「天下獲り」目指して行動し続けるほうがまだ良い、と思うのだがどんなものか。
348341:2006/01/22(日) 22:31:07
……今思い出したが、武田家(信玄)が信濃侵攻に際してとった手は、諏訪家の内紛に乗じる事で同盟破棄の汚さを感じさせなくするものだった。
だから、今川領への侵攻に際しても、手を回して「同盟破棄」が目立たなくなるような手を打つべきかも。
史実でもあからさまに駿河侵攻して、逆に四苦八苦したわけだし。
349無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 23:03:01
誰か長文読んだ奴がいたら、適当に要約しといてくれ。
350無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 23:30:39
>>349
【要約】
無理を承知で書いているから突っ込まないでね。

まぁ無理を承知でって言ってるんだから突っ込んでもしょうがない。
放置が一番だろう。
351341:2006/01/22(日) 23:35:47
>>350
突っ込まないでね、なんて書いてないぞー。
てかどんどん突っ込んで。お願いだから。

……個人的には、「無理せず武田家が天下を獲れる方法」ってのが(ネタでなしに)あるのなら是非訊きたい。
352無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 23:52:33
>>351
しかし、
>突っ込まないでね、なんて書いてないぞー。
といっても、
>因みに史実の武田家にそれが出来たかどうかは、此処では問わない。
というなら、つっこむのも馬鹿馬鹿しい。
353341:2006/01/23(月) 00:03:13
>>352
あー、それは私の書き方が悪かった。申し訳ない。
「此処では」は、書いてる私は言及しないよ、という程度の意味。全員問わないでくれ、ってつもりではないので。
……とはいえ、自分で書いてみて思ったが、史実の武田家にこの(此方が書いた)方法とらせるのはかなり厳しい気がするな。
100%不可能、とまでは思わんけど。
354無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 01:09:45
甲斐から美濃なんて遠くないよ。
武田家は東美濃にしっかり手を伸ばしてるし、侵攻を考えてなかったわけじゃない。

それと、本拠の移転なんて西方に相当の足場を築いてから考えればいいだろ。
信玄の作戦は基本的に甲斐が中心で、四方ににらみを利かせる必要上
無闇に動ける状況ではなかった。

俺の持論では、村上戦でロスした一、二年が実に痛かった。
政景の反乱が終息するのが1551年の夏だが、その頃までに北信濃を掌握していれば、
謙信としても介入するとっかかりがなく、越後・信濃国境をそのまま境界とすることでまとまったと思う。
野尻峠あたりは春日山に近く不安定要因だとは言うが、
北信濃を抑えられた時点で敵対を開始するのは単に危機を自ら呼び込むだけの下作であって、
いくら村上が頼ってきてもさすがにそれはしないと思う。
35566:2006/01/23(月) 03:37:41
>>332 当然。すぐ手の届くトコに兵隊おかないと危なくてしょうがない。
戦国期のいわゆる「家臣」って国人でしょ?それぞれの「家臣」がそれぞ
れの兵隊(農民)を直卒しているわけで。(ある意味独立を保ってる…とも
言える)

・現に信長は「本能寺の変」の際、身近にほとんど兵隊がいなかった故に斃れた。
・(例えば)伊達政宗は本拠を米沢→岩出山→青葉山と移す際に、町ぐるみで移動
している。
・信長も安土城に本拠を構える際、家臣団を城下町に強制的に住まわせている。
>>334 ・信長が美濃を攻略し、稲葉山城に本拠を移す際に小牧山城を廃城とし、
城下町ごと移動させている。(それでもある程度多くの町場が残った)
35666:2006/01/23(月) 03:47:25
>>338 
「常備軍」を形成するには農民から抽出するよりも>>329 のような
やり方のほうが適していると思う。

指摘のとおり、家臣団は単身赴任状態(ただし全てではない。例えば
美濃三人衆などは所領をそのまま安堵している)なんだけれども、
これは家臣の土地に対する影響力を削ぐ政策。おそらく「検地(差出
帳)」があったと思われる。
357無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 03:55:04
兵士が農民だったのは単にそれが手っ取り早かったからと言うだけの話であって、
土地から引き離されれば現地の農民なり傭兵なりを使うだろ。
指揮官クラスはともかく、兵士なんてものは頭数がそろえば誰でもいいんだ。
だから別に農民を移住させる必要は無い。
35866:2006/01/23(月) 03:56:29
【信長の野望】って馬廻りも国人も「家臣」でひと括りにしてるし、歴史の
解釈を誤解しやすいんだよね〜特に武田なんか「家臣」じゃなくて「従属大
名」扱いしてもいいヤツいっぱい居るし…。
359無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 04:00:38
織田だって畿内進出後は「従属大名」扱いしてもいいヤツはいっぱい居るだろう。
36066:2006/01/23(月) 04:06:17
>>357 さんが指揮官だったら…

(そのうち)現地の農民とやらに寝首かかれて死んじゃうね?せいぜい
「川尻秀隆クラス」の人材と思われ
36166:2006/01/23(月) 04:07:02
>>359 ゴロゴロいるね
362無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 07:51:23
>>358

棟別銭も司法権も奪われているような国人領主は従属大名と呼びません。

363無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 10:41:11
>>354
逆だ。北信濃まで取られたら、それこそ越後(春日山)防衛のために戦わなくては
ならない。
364無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 18:10:22
>>357
> 指揮官クラスはともかく、兵士なんてものは頭数がそろえば誰でもいいんだ。
山内一豊がそう考えてくれたら、長宗我部の遺臣の運命もずいぶん変わったと思うよ。
もっとも、土佐藩が明治まで存続できたかは保証できないが。
365無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 20:37:54
>>363
それに対する反論は既に書いてある。
守れないほど肉薄しているわけではなく、
そこで戦端を開くのはむしろ自分で危機を呼び込むだけ。
武田から仕掛ければやらざるを得ないが、長尾の側から進んでその選択はしない。
366無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 20:39:49
>>360
あんたはそういう感情的な言説をやめればもっと説得力が増すんだが。
367341:2006/01/23(月) 21:39:17
>>365
どうかなあ。
春日山から見て、北信濃は庭みたいなものだし。
目の前まで踏み込まれて、かつ踏み込んだ相手が領土拡張に狂奔してるとしたら、>>365氏のように冷静にはなれないと思う。
それに長尾氏(というか謙信)は、如何に春日山城が名城といえど、城に頼って防衛する戦い方はしていない。
守るにしても、「敵地へ踏み込んで戦う」事で背後の自領を守ろうとする、と思うな。
……という訳で、やっぱり武田は北信濃には触らない方が良かったと思うのだが。
368無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 21:50:15
謙信が越後を掌握した直後の状態では、別に武田家と長尾家はまだ敵対関係にはない。
敵同士だと確かに不安のある距離だが、共存がありえないわけじゃないと思う。
369341:2006/01/23(月) 22:05:36
>>368
……武田家、それも「信玄」相手に共存なんてモノが成り立つと思う?確たる同盟もなしに、だよ。
謙信とて馬鹿じゃないから、信玄の領土拡張のやり口くらい情報収集してる筈。
史実を見ても、信玄一代で領土を接した大名の内、「共存」出来た大名がどれだけあったか。
370無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 22:10:24
だから同盟するって事さ。
別に敵対するのは運命じゃない。

それと、「やりくち」って言ったって、格別特殊なことはしてないと思うが。
当時の戦国大名としては。
371無名武将@お腹せっぷく:2006/01/23(月) 22:15:38
史実の展開では信玄には謙信と戦う以外の選択の余地がなかった。
でも北信濃をいち早く押さえていれば、信玄が外交上の選択肢を得ていたはず。
そうして得られた戦略的主導権を、越後に欲を出して浪費する可能性もゼロではないが…
でも越後に行くくらいならやはり美濃だろう。
372341:2006/01/23(月) 22:21:44
>>370
あ、それなら分かる。>同盟
謙信は自分から理由無く同盟破ったりはしないだろうし。
ただその場合は、謙信が越後抑えるより前に北信濃抑えきる必要があるね。
でないと、謙信が同盟蹴る可能性も出てくるから。

やりくち……確かに、格別な事はしてないけど、やった業績(って使い方違うかも…)はかなり「優秀」。
だからこそあんな悪条件(立地的にね)の武田家があそこまで伸びた訳で。
優秀な敵(それが表立ってなくても)はやっぱり警戒するものですよ。
自分(謙信)も優秀だから尚更、ね。
373無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 00:36:43
当然の一般論を口走るが、優秀かどうかなんて結果を後の人が評価するのと実際に同じ時代を生きている人が一緒のものを与えていたかなんてわからない。
信玄と謙信を互いに認め合ったのは実際に戦ったからだ。
信玄と謙信が現代の人物評やゲームでの自身や家臣やライバルの数値見たらどう思うかなw

また全国を見渡してこの時代の傑出した人物であるという現代の評価は信長クラスの勢力を持ちえた人間ならともかく所詮伝聞の当時の巷の認識が一致するわけもない。

まず自分自身の大名としての才覚がどの程度かなんて正確に理解してる事自体がまずありえない。比較対象をあまり生身で感じられる機会がないから噂と実績で推測するくらい。
もちろんみんな自負は異様に高いと思うがw
実際殊勝な心掛けで大名やってられるような時代じゃない。

少なくとも誰に限らず先端を開く側は、自分の方が優れていると信じている。いつの時代も一緒。
374無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 00:46:48
上田原で敗北せずそのまま順調に村上氏を打倒して信濃制圧を進めたとして
まあ普通に考えれば
そのまま北進の戦略を進める→若造が国主についたばかり。直前まで内乱に明け暮れていた。
直江津などの経済の発展した地域である越後に侵攻
それまでの戦略を大転換して、たしかまだ服従させていなかった木曾氏を降し、その後で長年
国を支配かつ豪族レベルから一国を乗っ取った梟雄道三が君臨する美濃。
どちらが攻めやすいか、と考えたらねえ。
375無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 01:07:40
道三は君臨と言うには地盤が弱すぎる。
謙信は当主になる前から武名は響いていたし、
遅くとも信玄が越後侵攻に入れる頃には越後の反乱は鎮圧されてまとまっている。
越後の方が攻めにくいな。
376無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 01:22:24
>>375
一度まじまじと地図とにらめっこする事をお薦めするよ。
それで美濃を攻める気になれたら仕方ない。
377341:2006/01/24(火) 01:37:54
>>373
文章がちょっと分かり難いけれど……思ったことを幾つか。
自分自身の(大名としての)才覚の程度は、正確に理解した人間が「生き残ってる」。
自分の程度すら把握できてなかった大名は、まず滅んでるよ。
それに、比較対象なら自分の領国の隣に幾らでもいたしね。
隣国と比較して、自分の国がこれまでどうだったか、そして現状はどうか。
常に把握していかないと、自分の領国を立ち行かせることなんて出来なかったのが戦国、だと思うのだけど。

>>374 >>375
どちらが攻めやすいか、ってのも勿論重要だけど、スレのタイトルを考えると
「どちらを奪った方が天下獲りにより有効か」
ってのも考えたい。因みに自分の説は、以前の通り「美濃」。
美濃にしろ越後にしろ、それ一国を抑える事の重要性は、江戸幕府での藩の配置を見ても分かる。両国とも、大大名は置かれてなかった筈。
それだけ国としての魅力は両国とも高い。とすれば、残る判断材料は「京への近さ」と「交通事情」。
この二つは、やはり美濃に軍配が上がる。言い換えれば、その二つの分、天下獲りにおける重要度が高いって事。
378無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 01:42:16
ちょっとズレるんだけど
信玄は財政にかなりの部分金山に頼っており
諸国の情勢に詳しい山本勘助から
越後の金山の情報を得て越後侵略を決めたって説を
なんかの本で読んだんだけど
これって信憑性あんのかな?
379無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 02:01:59
>>377
どちらを獲れば天下が獲れるか、という前提であれば、私も越後より美濃を
からそのまま近江へゆく方が可能性が高いと思います。
しかしその判断をするためには、後に尾張の織田氏が短期間で美濃を制覇し
自分を上回る大国となりさらに上洛して政権を樹立するという以後の歴史の
展開を知らなければ出来ません。

>>378
山本勘助やら金山やらは知りませんが、現在では信玄はあくまで海を求めて
信濃から越後を狙ったという説があります。しかし越後に謙信という障害が
立ちはだかり膠着状態になったときに南の今川氏が弱体化したので戦略方針
を転回したと。
380341:2006/01/24(火) 02:02:47
>>378
その説は今初めて聞いたので、自分には信憑性の判断がつかない。ゴメン。
ただ、財政の大半を金山に頼ってた……って部分はともかく、越後の金山欲しさに越後を攻めようとした、ってのはどうなんだろう。
上杉の金山の内、最大のものって佐渡にあったんだっけ。
もしそうなら、信玄は佐渡という島国の攻略しにくさとか、維持のしにくさとか考えたのかどうか。
信玄は山国の人だし、意外と想像の外だったとか……等と色々妄想してみる。

今晩はそろそろ寝ます、おやすみなさい。
381無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 02:14:06
>>376
そっちこそ地図を良く見た方がいい。
そして色々な戦国大名の侵攻ルートをたどってみた方が。
382341:2006/01/24(火) 02:16:01
寝る前に一言追加。
>>379
じゃあ信長は誰の「歴史の展開」を元にして、美濃→近江→上洛→政権樹立、という道筋を進んだのだろう?

信長か短期で上洛→強大な政権樹立、と成し遂げたのは、本人の能力やスタート地点(尾張)の条件のよさ、等々ある。
でも一番肝心なのは、信長が「寄り道せず真っ直ぐに」美濃攻略→近江→上洛、とやったこと。
三河とか信濃に色気を出してたら、あんなに早く強大な政権は作れなかったと思う。
武田家が天下獲りの為に「美濃」を選ぶ、その判断に必要なのは歴史の知識じゃなく、
「天下獲りしたいなら無駄な時間は過ごせない」
これに気づくかどうかに尽きると思う。
気づいて真っ直ぐ美濃を目指せば、信長が成し遂げたほどではないにしても「結果」は後からついてくるのではないかと。
383無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 02:34:23
>>382
ええそのとおりです。
ですから、史実の信玄は天下なんて考えていなかったとされるのです。
彼が信濃に侵攻し越後を狙ったり駿河に攻め込んだりしたのはただ土地が欲しかった
からだけです。後になって信長が天下布武を掲げ「京を押えることが天下を獲ること」と
実例を示し、かつ「天下を獲ることは可能事なんだ」と証明した結果、信玄も自分が天下を
とるために京を目指すことになったと。
それまでの全国の大名武将は、京の支配者を天下人だと思ってもいなかったし、日本全土
を武力で制圧なんて可能とも思っていなかった。足利将軍や、それまでに京を押えた細川
大内三好といった連中を見てきたからね。
信長以前にそんな発想はないのですよ。私が「後の歴史を知らなければ出来ない」と言った
のはそういうことです。
384無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 03:00:31
>>377
どれだけ、って事は相対性も含んでね。
まぁ俺は自分自身の評価を凡人なのは間違いないとは思うが才覚は今イチわからんけどなw

評価は伝わる実績で与えられるが才覚は実績じゃないからな。何かを成す才覚がないと実績は挙げられないが才覚があっても機会がなかったり実績を挙げそこなう事もある。
測る尺度が様々に溢れている現代でさえ才覚というと自分という人間がどれほどのものなかなかかわからん。
現代は数字で評価される部分もあるが、やはり通常は噂やコミュニケーションでは抽象的な表現で価値を与えるからだ。

当時は戸籍も危うく検地は後の事業。数字はどんぶり勘定の時代。人の評価はもっとどんぶり勘定だ。だから実際正確にはどうかと思うなぁ。
信玄は自分自身を当然一番優れていると思っていただろうが数字で教えてくれる事はない。果たして晩年、後世謙信と並べて近い評価されると考えていただろうか。

現代では信玄は“結果的に”優れた実績を残したから才覚があった事が判る。
385無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 03:38:40
>>381
勝ち負けは兵家の常です。勝てるかもしれませんが


木曾から美濃を攻略する障害を
@遠い、行軍が厳しい
基本的に一本道。もし事前に侵攻情報が漏れたら奇襲ポイントも多く道中を荒らせば馬の通行が妨げられる。もちろん冬の行軍は大変だ。負けた時の事を想定したら尚更だ

A維持の難しさ
まず補給が大変。
中途半端に占領しても主力が撤退したら結局取り戻される。だから1度目の侵攻で相当の戦果と維持の為の滞在の兵力を残して撤退しなければならない。
武田家の軍制を考えても織田家のように何年も掛けて攻略という発想は無理。
主力撤退後維持に失敗したら残兵は街道次第で撤退も大変な事になる。
武田家の軍制を考えても織田家のように何年も掛けて攻略という発想は無理。

B調略の難しさ
上記の理由もあって東美濃はなかなか調略に応じてくれないだろう。
万一武田に撤退されたら遥か遠くの武田領との連絡が断たれて孤立するからだ。


チャンスがあったとすれば織田家が切崩し始めた頃だろうけど、それでも大変だよ
386無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 05:16:34
>>378
佐渡金山が開発されるのは江戸時代以降の話。
上杉氏の財力は直江津の直轄地からの収益によるものとされていて、鉱山の収入はそれはど大きいとは考えられていない。

そもそも、信玄は相手が弱体だと見て攻めるし、弱体でなければ弱体化するように謀略の限りを尽くす奴だ。
その情勢判断の正しさで後世に名将として名を残した。
信玄は父が、無益な出兵を繰り返して国人衆の信望を失ったのを目前で見ている。
そんな彼が、自らの野心のために難関の東美濃出兵を行うとは考えられない。

東美濃は土地そのものの価値が低い。
後世勝頼が東美濃平定に出兵した時には、「領土が増えるわけでもないので馬を帰せ」と、重臣たちがこぞって反対したとある。
その程度の価値しかない土地だ。ここに出兵して犠牲を出すようでは信玄の威信に傷が付く。

従って、北信州から越後への侵攻を選ぶのは当然の判断であって、周りを見回してそれ以外選択の余地がないからそうしただけのこと。
金山は関係ないだろう。
387無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 07:04:40
>>386
ごもっとも。
ただ鉱山や鉱脈があるかないかって必ずしも正確な情報が世に流れるもんじゃない。どこかの工作だったりで間違った情報を掴む事もあるかもね。
もしそれを目的て攻めるなら経費を使って密偵を出して真偽を確かめるだろうけど。

甲斐はどちらかといえば閉鎖された町で、全国の噂の類は駿府を経由して入ってくる事が多かったんじゃないかな。そうなると山本勘助から入る情報も多くなるかもね。
388無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 09:23:01
>>387
>甲斐はどちらかといえば閉鎖された町で、全国の噂の類は駿府を経由して入ってくる事が多かったんじゃないかな。そうなると山本勘助から入る情報も多くなるかもね。
ソースは新田の小説の「武田信玄」じゃなかろうな?
389341:2006/01/24(火) 17:15:41
>>383
史実では確かに、信長以外の誰一人「天下獲り」を「具体的構想として」考えた人はいなかっただろうね。
晩年の信玄・謙信ですら、天下を獲るというより「信長との対決」という姿勢だった。
勝ったらついでに天下も転がり込むかも、という程度。
でも、誰かが(この場合信長か)天下獲りをやり始めたからって、「じゃあ俺も」と行動を起こし始めても、もう遅いんだよね。
こっちが天下獲りに動く間、向こう(信長)はもっと早く動く。追いつく事は決してない。
だから、武田家が天下を獲るためには何より「誰よりも早く天下獲りの行動を起こし、上洛→政権樹立」しないと無理。
>>382氏の言う、「そんな発想」を武田家(信玄)にいち早く持たせるところから、武田家の天下獲りが始まる。

・・…もしかして、表現違うけど>>382氏と言ってる事同じなのかな?自分の意見。
何にしても、どこかで武田家なり信玄なりに「if」を持たせない限り、天下は獲れそうにないね。

>>384
うーん、どうも自分の「才覚」という言葉の使い方がまずかったみたいだ。ゴメン。
才覚って、測るものじゃないよね。むしろ>>377での自分の言葉は「自分自身の「評価」の程度」とした方が良かった。
結局自分一人だと、自分の評価ってのは下せない。ただある意味「才覚」は「自負」でもあるから、自分に評価が下せなくても「才覚がある」と思う事はできる。
当時生き残れた大名達は、皆自他に対する「評価」がきちんと下せた、って事だね。
>>384氏の訂正(もしくは説明)に感謝。そして紛らわしい書き方してすまんかった。
390341:2006/01/24(火) 17:27:12
連続レスすまんです。
>>385
そこで本拠地移転と直轄軍増強ですよ。
領土拡張による「武田家の武威」を恐れて地元の国人・地侍をなびかせるなら、史実の武田家でも出来た(つーかやった)。
でも天下獲りを見据えて武田家の「自領」として東美濃を組み込むのは、史実の武田家にはまず無理。理由は>>385氏の書く通りな訳で。
だからこそ、「if」として武田家に信濃を直轄化・本拠地化させたい。
甲斐にいるよりはよほど美濃の維持がし易い筈。調略時に相手に与える心理的圧迫も違うだろうし。
391無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 18:19:41
信玄の代で駿河に本拠を移転してれば、勝頼も楽だったのにな。
遠州が戦場だと徳川には近所だが、武田にとっては遠征だからな。
また本拠を移すことで、その国の統治も安定するだろうし。
392無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 18:43:37
>>390
「武田家の武威」と言うのは長年掛けて培ってきたもので、
北信濃を残した時点の武田家にそれだけの物があるかな?

後、根本的な問題で北信濃を取ってない時点の国力は良くて
美濃一国と同等か下手すれば劣るよね?

史実で自分と同等以上の敵を滅ぼせた事がない信玄に美濃が取れるのか?

信玄が史実よりも有能だったらというifなら話は別だけど、
そうするともはや別人だからなー。
393341:2006/01/24(火) 19:04:06
>>392
そりゃないだろうね。北信濃とってない武田家には。>それだけの武威
だから自分が言ってるのは、武威でなびかせるのではなく、実際に直轄軍で制圧する、って事。

まあ、単純に石高から考えたら、甲斐+信濃(北は無し)は美濃一国に劣るね。
だから、一国同士の戦争にはならないようにするしかない。
というか(信玄でなくとも)自分と同等以上の敵を(そのままの力関係で)滅ぼせた戦国大名なんていたっけ?
その時点で敵が自分より強大なら、じっくり相手を弱らせてから獲る。
信長は常にそうやって敵を滅ぼしてきたし、中国の雄・毛利元就にしてもそう。
ここは信玄にも同じようにやってもらうしかないでしょう。
幸い、敵を謀略で弱らせるやり方自体は、信玄の得意分野でもある訳だしね。
美濃に君臨する斎藤家に内紛なり混乱なり起こさせて、その間に東濃の土豪達からじわじわ此方へ靡かせる。
史実なら信濃で使った手を、此処では美濃でも使ってもらおうじゃないですか。

……え、土豪を靡かせるやり方じゃ直轄軍での制圧にはならないって?
何も最初から最後まで同じやり方する必要はないかと。
ある程度力関係が此方に傾いたら、他の選択肢も出てくるでしょ。
394無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 22:36:27
>>393
美濃の調略は無理
395無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 22:42:08
美濃は脆いと思うがな。
396無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 22:49:43
>>393
>というか(信玄でなくとも)自分と同等以上の敵を(そのままの力関係で)滅ぼせた戦国大名なんていたっけ?
なんか子供のような屁理屈だな。

>その時点で敵が自分より強大なら、じっくり相手を弱らせてから獲る。
>信長は常にそうやって敵を滅ぼしてきたし、中国の雄・毛利元就にしてもそう。
これを信玄が出来た実績がないから出来ないって言うことだろ。

信玄の威圧の仕方は相手より巨大な戦力を背景にすることなのに、
相手の方が勢力が上だったらどうしようもないだろう。


>>395
北信濃以外の信濃を攻略した時はまだ道三が生きている頃じゃないか?
道三が死んでもその子の義龍も手ごわいし無理だろ。

義龍も死ぬまで十数年待っとくか?
397無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 22:50:59
鎌倉幕府や室町幕府の成立過程を見るに、
東国で力をつけて一気呵成に西上すると言うシナリオはそんなに無茶な話じゃあない。
武士の土地支配の様相も変化しているとは言え、あまり過大に考えるべき要素でもないだろう。

偶々京に近かった信長はああした戦略をとったが、
それが唯一の正解であるとは考えない方がいい。
398無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 22:53:47
道三は美濃を完全に掌握できていたとはとても言えない。
義龍の反乱は単なる個人的な諍いではなく、
美濃が一枚岩にまとまってなかったという背景があったと考えるべきだ。
399無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 22:57:52
信長の美濃攻略の過程を見ても、斎藤家の弱体振りが良くわかる。
義龍の個人的な才覚で凌いではいたが、
国力を比較すれば、本来なら織田家のほうが攻め込まれて苦しむ立場だったはず。
400無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 23:04:33
美濃攻略が良策と考えるならどう計画するのか>>385を解決する策をよろしく。

それと必ず過去レスも読んでいただきたい。
401無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 23:19:01
ちょいと戻るけどさ、越後の鳴海金山は有名
かなりの産出量を誇ったらしいよ。
佐渡金山は江戸時代に入って開発された相川金山じゃなくて
当時は砂金山、それでも結構な量だったっぽい

甲斐には金を取る最新技術があったみたいだし
諸国の情報に人一倍気を配っていた信玄だから
378の説はあながちデマとも言いきれない気がする。

ただ、鳴海金山が甲斐の黒川金山と比べてどれだけ取れたかとか
解らないんだよね。当時の金銀産出量とかって石高みたいに
アバウトでも比較できるもんなのか?
402341:2006/01/24(火) 23:19:42
>>396
>出来た実績が無いから無理
それを言ったらこのスレ終わると思う。
ここは元々史実通りじゃ天下なんて獲れそうに無い武田家を、どうしたら天下獲れるか想像するスレだと思ってたんだが。
まあ>>396氏が「どういう仮定を施しても、武田家は天下獲れない」と主張したいのなら分かる。
だが、それならこのスレ自体見ないか書き込まない方が良くないか?
それともこのスレはタイトルと違って、「武田家は天下獲れない事を確認するスレ」だったのか?
もしそうなら(ifばかり書いてる)自分が此処去った方が早いのかもな。

>信玄の威圧の仕方は〜
これも結局は「史実の信玄は天下獲れない」事の確認だよな?
前にも言ったけど、史実通りの武田家(信玄)じゃ天下獲れないだろうって事ぐらいはこっちも承知の上。
史実の信玄が自分より弱い相手を主として攻めてきたのも承知の上。
その上で、今までのレスを「じゃあどう武田家が変われば天下獲りに近づけるか」と書いてきてるつもり。

>まだ道三が生きてる頃じゃ〜
その方がつけこむ隙があっていいじゃないか。親子の相克を煽るべし。
ただ息子の代になってたら、>>396氏の言う通り苦戦必死だな。

>397
武士の土地支配の様相の変化こそ、東国から一気に西上…というシナリオが使えなくなった最大要因だと思うのだが。
土地が直接支配されるようになったことを、過小に考えるのもどうかと思う。

信長のやり方が唯一とは勿論思わない。
地方割拠から最大勢力→武威で他の勢力を靡かせる、ってのもアリだろう。
他にも方法はあるかもしれない。
ただ、それらが成功する条件は、
「武田家より先に、史実の信長のような存在が中央に出ない事」だろう。
何だかんだ言っても、史実の信長(のような存在)に先を越されたら、天下獲りはそこで不可能だと思うのだが。

という訳で今日は寝る。
403無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 23:36:43
>>402
やっぱり、相手にしても無駄って言うことだね。

結局君が言っているのは、信玄が出来もしない事が出来るとしてって言うことだろ?
それだったら、富樫にだって天下を取らせられるよ。
40466:2006/01/24(火) 23:39:04
>>396 それは信長だ、と言ってみる。
(内容が革命的なので)自分で説明するよりソース提供したほうがいいかな?
http://www.sengokushi.com/godume/a00100.html
↑桶狭間の戦い
40566:2006/01/24(火) 23:43:29
>>404 で
矛先間違えた(*^^*) >>393 だ。
406無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 00:34:01
西に拘るのは、東で幾ら武田が勢力広げても、
その間に信長が上洛して、それ以上の勢力を持つと言うことだからじゃないの
武田の勢力伸長云々より、どこで信長を叩き潰すかなんだろ?
407無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 00:50:40
上杉が将軍フェチなくせに武田にばっかりいちゃもんつけないでマジめに西進してたら。
408無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 00:59:45
>>385
1. 信濃を完全に掌握し、今川との同盟を堅持すれば後方の不安はない。
 そもそも山中の一本道と言うものは戦略規模では迂回が困難だ。
 自分の最前線が蓋をしているため迂回路がなく、後方撹乱は難しい。
 ただし、三河が敵対地域となるとこのルートは危険となる。
 1550年代のうちに勝負を決めることが肝要だ。

2. 東国の大動脈東山道を使うので全く問題はない。
 まあ多少整備の必要はあるがそのくらいはいともたやすいことだ。

3. 織田の進出前には足場を築きかけていた経緯もある。
 本腰を入れれば美濃半国くらいはすぐに手中に落ちるだろう。
40966:2006/01/25(水) 01:33:52
なんか美濃攻略うんぬんの話になってるけど・・・。

そもそも武田と長尾が関係悪化したのは、武田VS村上の頃だ。村上に対して
長尾が援助をしていた(長尾としては、直轄の勢力圏が直接武田と接するよ
りも村上を間に挟んだ=傘下に収めるほうが得策だという判断なのだろう)。
よって、村上を駆逐した武田が長尾と争うのは自然な成り行きだろうと思う。
この時点で(仮に※)美濃に手を出すとなると両面作戦を強いられることにな
るし、難しいと思われる。(※ 政治的にも安定している美濃にわざわざ兵を
出すなど考えにくいので、「仮に」という設定で話をさせていただいた)
410無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 02:13:31
それなら、ポペスク残しておこうよ。
411無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 02:14:44
誤爆orz
412無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 03:44:19
諏訪氏や小笠原氏を滅ぼしたばかりの信濃に拠点を移すとか、
財源を明示せずに直轄の常備軍を創設するとか、
それが可能かどうかという問題とは別にして、

そもそも斉藤氏の美濃支配は東美濃の明智氏との繋がりで成立している。
義龍が西美濃三人衆を率いて道三を攻めたときにも、明智氏は道三の側についたはずだ。
その明智氏と道三の間を裂く方法があるとも思えない。

斉藤氏の美濃支配を崩すには、不安定な西美濃への調略が良策で、織田がこれで成功した。
だが、東から攻め込む武田には難しい。
朝倉と呼応して挟み撃ちにする手もあるが、この場合はおそらく、中濃から西濃は朝倉のものになってしまう。
41366:2006/01/25(水) 04:44:23
>>412 朝倉って一体どこから…(´・ω・`)?そもそも政略に勝る戦略はナシ、だ。

【ここからはifの話】
仮に信玄に上洛の意思があるなら、今川・斉藤と呼応して直接織田攻めたほうが早い。今川
と織田なら織田信秀の頃から争ってるし、そこに付けこむ作戦。今川・斉藤の援軍だから兵
数は少なめで良い。んで足助城あたりに拠点作れれば、言うことナシ?遠山氏も自然と武田
に靡くんじゃない?
海津城
9000人(守備部隊)
伊奈口から
3000人
東山道から
1500人
甲斐本国
2000人 
414無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 05:19:03
美濃守護の土岐政頼は美濃を追われたあと、朝倉を頼ってるが。
朝倉は土岐政頼を立て、江北の浅井と呼応して稲葉山まで一度攻め込んでる。

>>413
いつ頃を想定してるか知らないが、斉藤が織田に攻め込む?
最後まで道三は西美濃の平定に苦労している。結果として出来なかったから死んだといっていいくらいだ。
尾張侵攻してる間に、土岐氏系の鷲頭や揖斐や、西美濃三人衆に叛かれたら国を追われてしまう。

そもそも尾張に武田が侵攻するにあたり、斉藤を信用できると考えていいだろうか。
朝倉を攻めていたときの織田のように、後方を塞がれる可能性はないのか。
信玄が美濃の蝮を信用する理由がない。
415無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 05:23:09
じゃあちょっと燃料投下するよ

美濃攻略を前提とすると第二次川中島での講和をもって北信濃から手を引く
となると甲越の境は犀川になるので史実に比べると領土は減るが北信濃をまるまる
放棄するわけではない。
次に時系列だけども第二次が1555年。これ以後美濃攻略を目標にした場合
ちょうど同じ55年に義龍が稲葉山に篭り弟2人を討ち取って内紛が始まり
翌56年の4月20日まで続くことになる。

この条件でIFしてみたら?
416無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 05:24:14
あんたのIFで議論する義理などナイ
417無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 05:36:30
希菴は大円寺にあつて甲州の同門
の僧侶達と交友し、かねて武田氏と遠山氏の間を取做したようである。

希菴が弘治二年に遠叔に送つた書翰がある。これによつて希菴が信玄を名声を聞いて深くこれを敬慕して居つ
たようである。而して信玄は学僧であつた遠叔老禅を深く信頼し、これを寵遇し、遠山氏の援助を諾し、予め禁
制札を大円寺に出したことが知られる。(明叔語録)
 こうして遠山氏と武田氏とは密接な関係にあつたのであるが、弘治二年七月遠山景前卒し、希菴は飛騨禅昌寺
に去り、更に京都に行き妙心寺に入つた

希菴=大円寺住職 弘治二年=1556年 遠山景前=岩村城主、東美濃の有力豪族
418無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 05:37:43
一応、>415>417の二点を投下しておく
419無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 07:51:13
>>415
その時点だと武田に怨みの有る村上を放置できなので
村上を放置して美濃進行は無理です。

>>415>>417の話は終了しました。
420無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 08:30:52
上杉か北条を敵に回した時点で、天下は無理かと。(上洛する際、後ろに強敵を作ることになる)
信玄が家督を相続(?)した際に、北信濃を放棄、村上等諸豪族と和睦。
河越の戦いの後、今川を除いて、北条と上杉の講和を進め、
金銭的な問題を解決するため、北条と同盟して今川を責め、
問題は義元に勝てるかどうかだが、北条と二方面攻撃を演じれば何とかなる
と、思う(?)。駿河を手中にしたら、そこから沿岸沿いに切り取って行けば。。
謙信にはマタタビでも送っていれば安心かと思うのだが?
421無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 08:59:10
上杉を敵にしない場合は、少し遡って苦心は承知で三国同盟を今川か北条の片方だけにしておいて、今川か北条を標的にすべきだったかな。

俺は必ずしも京都を抑えるのは重要視しない。信長はそれゆえ包囲網を敷かれている。他の選択肢だったほうがスムーズに天下布武将が可能だったかもしれないからだ。

それと武蔵侵攻を全く考慮に入れず安易に駿河侵攻を支持する奴がいるみたいだが、力関係から言っても先に挙げられる方は武蔵のほうだ。
大体婚姻関係の強さは今川と北条では比較にもならない。
422無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 09:09:01
上杉と手を組んでいたとしたら、里見・上杉連合に加わって、何とかイケたかもな。
423無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 14:22:08
>>419
村上はすでに越後逃亡してるぞ。謙信を義将というつもりはないが講和の誓紙を反故にして
武田に攻め込むとはこれいかに。
残念だけどもはや村上の一存で武田攻めを決められないのよこの時点では。
424無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 17:32:43
京へ上洛するには 
 ・駿河から上洛
 今川義元存命時は不可能。その後は上杉が進行してくるので不可能。
 ・越後を制して北陸道から
 上杉すら倒せなかった武田にはどう考えても不可能。
 ・やはり美濃から
 >>419の考えに同意。自分は不可能かと。
 →→上洛は無理
 そこで、関東管領上杉(扇)の権威と知能の乏しさを生かし、先ず、上杉の
傘下に下り、その参謀として、関東管領として、関東の秩序の回復をするべしと称して、
敵対する勢力を次々と鎮撫。東国・東北に大上杉勢力を作り上げる。
後、天下大乱の否は足利にありと説いて、幕府と対峙させ、幕府を攻め滅ぼす。
上杉時代が始まるわけだが、司馬炎の真似事をして、御国乗っ取り。
という途方もない計画を考えたが、やはり無理かな?
425無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 17:42:40
上洛というのは、義昭が訪れて始めて計画が発動するんじゃない?
やっぱ、周辺国を制圧していくのが普通だな
426341:2006/01/25(水) 19:55:32
昨日はテンションが上がっていた。
ついカッとなってやった。
今は反省していない(・∀・)。

……という訳で、昨日の自分のレスで不快感を感じた人にはお詫びを。すまん。
自分はこのレスでこのスレ去るけど、最後に言いたい事を言い逃げ(・∀・)。
まず、>>403の人へ。
何度も言ったけど、史実の武田家(信玄)の能力・思考法・行動では、どう動いてみても天下は獲れない…と自分は思ってる。
おそらくその点に関しては、貴方と考えは同じか、方向が似ている。
貴方はその前提を動かす事無く、武田家(信玄)の天下獲りに否定の意見を出しつづけた。
自分はあえて前提を変え、武田家(信玄)の能力や思考を変えないと天下獲りは無理、という意見を出し続けた。
だが、このスレではどうやら人間の能力に対するifは持ち込まない人が多いようだ。
だから今回は自分が場に合わない発言をしてたって事で、このスレを去るよ。
今までわざわざ付き合ってくれて感謝してる。いやホントに。

後、このスレの他の人達へ。
人間にifを持ち込まず、って事なら、そもそも武田家に史実以外の行動をとらせる事は出来ないよ。
その都度その都度信玄達が最良、と思って選んだ道筋が、今残る史実だから。
そして史実じゃ武田家は天下を獲れなかったのだから。
何処にifを置く?
このスレは「武田家に天下を獲らせる」スレ。
頑張って議論してね。
じゃ。
427無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 20:34:42
>>426
お前は自分で書いた>>351>>353を100回読み返せ。

>てかどんどん突っ込んで。お願いだから。
>全員問わないでくれ、ってつもりではないので。
428無名武将@お腹せっぷく:2006/01/25(水) 21:12:06
>>425
信長は、義昭の存在有無に関わらず上洛の準備をしている。そのために、義昭よりも
先に朝廷を接触を持っているほど。
義昭を引き取ったのは、信長にとっては自分が京に軍をすすめる大義名分を得るため。
429無名武将@お腹せっぷく:2006/01/26(木) 08:06:20
>>423
「村上が実際攻め込む」かが問題ではなく
「村上が攻め込んでくる可能性がある」なら放置できない。

ましてや信玄自身講和を反故するのをどうとも思っていない。

自身が講和を反故するのをためらわない人間が
「他の人間が講和を絶対反故しない」とはあまり思わない。
430無名武将@お腹せっぷく:2006/01/26(木) 15:19:04
>>429
当然備えをおいた上で美濃目指すわけだろ。
講和したとはいえ放置して備えをおかないなんてどんなリスク管理だよw
431無名武将@お腹せっぷく:2006/01/26(木) 19:52:22
>>430
武田には有り余る程に兵がいるようで羨ましいです
432429:2006/01/26(木) 20:21:42
>>430
放置って言うのは言葉がおかしかったね。

村上を北信濃に残しままっていうところか。

北信濃に村上を残したまま美濃に攻めるとなると
仮に東美濃を攻略できても東西に長い領地になるし、
その横長の領地で村上に備えるとなると
結構な兵力が必要になると思われる。

美濃を攻略して戦力を蓄えてから村上を攻めると言う事も考えられるけど、
上杉の介入を考えると難しいか?
433無名武将@お腹せっぷく:2006/01/27(金) 02:10:01
村上義清は、信濃の国主たらんと画策していたっぽい。
信玄が本格的に信州に侵攻するまでは、守護の小笠原氏と長年抗争を続けていたという。

であるから、武田氏が信州にあるかぎりは、村上義清との衝突は避けられない。
これは、晴信が北信濃に積極的に侵略を仕掛けようと仕掛けまいと、信州に領土を持つ限りは、どうころんでも確実に、衝突あるのみ。
まさに不倶戴天といえよう。
ならば、信州そのものを放棄しない限りは、村上対策は2つしかない。
防戦に徹するか、いっそ滅ぼして禍根を断つか。
要する労力を比べて考えると、一方の選択肢は明らかに下策であり、史実での晴信の選択は正しい。

そして、村上地盤を掃討していくならば、どうしても北信濃に勢力が「拡がってしまう」。
隣国の謙信は、晴信の腹がどうであれ、黙っていられるわけは、ない。
そして、衝突して、負けてしまえば、信州の黒人層になめられるのは必至。
ゆえに、川中島は必然であったのではないか?
434無名武将@お腹せっぷく:2006/01/27(金) 02:31:31
タイミングの問題。
謙信が越後を掌握して外征可能になったのは結構遅い年代であって、
もしもそれより前に北信濃をあらかた押さえられてしまえば干渉する足がかりを失う。
史実では手を出しやすいタイミングだった。
435無名武将@お腹せっぷく:2006/01/27(金) 02:35:49
せめて小笠原と村上を越後に逃がさず仕留めてればな
436無名武将@お腹せっぷく:2006/01/27(金) 02:44:41
>>434
まあ確かに、その状態で「信玄が絶対に越後には手を出さない」という事を謙信に
信じさせることができていたら両者の同盟(そこまでいかなくても相互不可侵条約)
くらいは結べたかもしれない。
もともと謙信の家は父親の代から越中方面の進出を狙っていたのだから。
あとの問題は関東方面と北条氏だな。
やっぱり北条氏に越後に手を出さないことを条件として、かつ謙信が関東管領職を
受け継がなければ利害の一致をみることができる、が。
43766:2006/01/27(金) 13:54:18
ループですまぬが、やはり>>91 が金言な気がする。
村上も長尾も必然的な歴史の流れだょ…やっぱ。
438無名武将@お腹せっぷく:2006/01/27(金) 20:32:25
もちろんその時点で最も妥当と思われる選択の中から行動を選んでるとは思うが…
史実の展開がその状況でありえた唯一の展開ってことはないんじゃないか。
439無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 00:29:35
それゆえにIFという言葉があるのは確かにそうなんだけど、
IFという以上、その結果の想定はきっちりしてみたいなあ。
不利な点、あるいは優位な点ばかりを、
-つまりは論者にとって都合のいい点しかIFから抽出しない-
のはもうおなかいっぱい。
(それで話が面白くなれば気にならないけど)

謙信としては、
晴信が北信濃まで進軍したものの、越後までは侵入しないという、
安全保障が、見出せないのではないか?
確かな安全保障があれば、あるいは、御館の乱に匹敵するようなのっぴきならない状況に陥れば、
同盟が成立する見込みも出てくると思うけど。

謙信のほうには北信濃には領土を確保する気はなかったと見てよい。
それでも川中島に出陣したのは、「そうせざるを得なかった」からで、
それは単に信州の旧勢力である村上・高梨・小笠原の要請によるものだけではなく、
戦術の、「晴信来襲のリスク」を無視できなかったからではないか、と。
謙信の目から見れば、
遠い甲斐の大名があれよあれよという間に信越国境近くにまで版図を拡大してきたのは、
脅威でこそあれ、まかり間違っても祝福できるような事態ではなかっただろう。

ゆえに、晴信が北信を侵略する限り、甲越同盟は成立しないだろう。
謙信と川中島の泥仕合を続けるか、
あるいは、いっそ、
家中の反発と信州中の黒人層になめられるのを覚悟で、
北信撤退を決断すれば、謙信との同盟は、現実味を帯びてくるのではないか?
もちろん、リスクはでかい。
家中の重臣の中には、それまでの苦労はなんだったんだという不信感を抱くものも現れる危険はあるし、
信州の反武田勢力が、息を吹き返しかねない。
この課題をクリアすれば、甲越同盟の成立は日本史を変えるかもしれない。
ただ、史実以上に危険なイバラ道だけど。
440無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 01:39:28
武田は地理の優位性ってものがまったくない
信濃はそこそこだとしても甲斐は国土豊かとは言えない
加えて今川、北条という強敵と隣接、
さらに越後に上杉がいたんだから
領国経営自体並大抵の苦労じゃなかったと思うよ
441無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 01:47:17
信長のように最短ルートで美濃に行くのが得策なのかな?
みんな忘れてると思うんだけど、水軍なしで天下は取れない
この事を考えれば史実のようにまず駿河進行して最強水軍を
作り上げる準備をするべきじゃないかと思うんだが・・・
44266:2006/01/29(日) 03:19:33
>>439 それなら今川の傘下に入った方がよほど面白いし、現実的。
>>441 当時の水軍=海賊だという認識を持つべき。
443無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 03:41:39
北信攻める前から謙信との同盟を探るのはどうなん?
北条がなんか言ってくるだろうけど
あと、上州方面へは進出できなくなる
444無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 04:09:08
>>439
北信濃押さえられてると、上野に行くのも美濃に行くのも三河に行くのも危険なんだよ。
信越国境まで前線を進める必要はないが最低限犀川の線くらいは安定確保してないと。
445無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 04:48:58
ドライに考えれば大名毎の境が国境である必要は全くない。
でも曲がりなりにも室町政権下であって、名目上の守護が必ず居る。んで各地の大名豪族は守護になりたかったり守護たる立場に立ちたいが為に国境を意識して争う面もあるんじゃないかな。国人には一番支持されやすい。
諸勢力入り乱れて争った機内などは随分国に拘る意識が薄れているような感じだけど、地方はそうでもないよね。

特に信濃の豪族国人は武田の下に信濃統一という目的意識が強くあって武田家を支えていた感じがする。
だから北信濃をそこそこに美濃やら武蔵やら上野やら駿河やらに遠征を言いだしたところでどれだけ従ってくれるかは怪しいところ。
446無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 05:03:39
                               .┏━━┓
 __∧                           ┃掠疾┃
(_  ・ ミ∧(oノヘ<武田騎馬軍団が颯爽と保守┃如如┃
  \ ミ/(゚武゚ )\                   .┃火風┃
   (  (    つ     巛∧  ∧o∧    .┃不徐┃
  /   / /      / ・  ミ<▲´>\ .....┃動如┃
  \(/(__) Y彡    (_/\  ⊂  |      ┃如林┃
    .| | \  ヽ         (  巛∧  ∧o∧┃山侵┃
       ( (  )          ./ ・ ミ..(・ェ・ )\.━━┛
       / / /          (_/\  ⊂  |┃
       /_/_/              (   | / ⌒ Y
                      /  |  ∪_ 丿
                     \(/ /  // /
                       / /   //_/
447無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 09:53:25
武田以外の権力者がみんな天変地異でしんだら天下取れた
448無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 21:56:50
が信玄没後、家中が大分裂を起こして滅亡。
449無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 22:00:46
謙信が最強過ぎて無理だよ
450無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 01:25:05
日本史で一番可哀相なのは今川義元だろうな
あのまま尾張を併呑していれば武田は従属的になるだろうし
一旦兵は返すだろうが美濃攻略は時間の問題だ
今川なら朝倉も友好的な関係を結ぼうとするかもしれない

一時的に今川が天下の時代になりはするが旧体制側の今川の天下では結果的に戦国時代が長引くことになるだろう
その頃には松平も有力な今川家臣に取り込まれていて独立はしにくいかもしれない
その後は島津、伊達などにも史実以上に天下のチャンスはやって来ることになるな
451無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 01:41:43
武田にしろ、今川にしろ、上洛するには兵が足らなくないか?
数は諸説があるので、詳細は分からないが、いずれにしろ3万はないわけだし。
今川の場合は、少なくとも、織田・斉藤・三好・(六角?)らとの交戦は避けられないわけで、
武田は、徳川・巨大な織田を相手にするわけで、京を制圧し天下を牛耳るには、
かなり、兵が不足している感がある。
とりあえず京まで行って、威光を示しといて、またすぐ領国へ帰る気だったのか、
若しくは、別な目的(織田への牽制・上洛の大儀に基づく侵略)がしたかっただけだった。
のような気がするのは自分だけだろうか。。。
452無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 09:17:05
斎藤と今川は同盟結んでる
453無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 09:24:13
あんだけの兵で行くにはつらいし、
行くにしてもすげーゆっくり行くことになるだろう。それこそ何年もかけて。
信長のあのすばやい上洛は、その速さ、そしてそれを実現させたやり方にこそ価値がある。
454無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 12:22:16
別に途上にある全ての勢力を武力で打ち負かす必要はないだろ。
455無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 13:11:36
応仁の乱のとき京で戦った諸国の大名は、本拠と京の間の地域を征服しながら行ったわけじゃないしな。
456無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 13:24:18
勝頼があと少し生きて入られれば本能寺の変でどうにかなってたかな?
生き残ったとしても安藤守就みたいに蜂起してあぼーんか?
457無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 17:51:03
滝川逃げて、遺臣が残ってたメイン武将をぶち殺してるから、甲斐くらいは奪還できたかもな。
真田が生き残れてるくらいだし。
458無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 18:12:11
本来室町幕府の重臣である今川や大内と成り上がりの織田では上洛の目的や条件が違う。
武田は織田寄りだからちょっくら京に行くだけじゃ意味ないし道中も簡単ではない。
459無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 18:20:09
大内って重臣だっけ?
元はといえば南朝方じゃん。
あれはまさに「強くて味方なら誰でもいい」という発想に思えるが。
460無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 20:16:48
>>459
応仁の乱以降に南朝も北朝もないだろ。南北朝の終結は和睦だから日野富子や足利義政あたりを経てどうでもよくなってる。
建前としては成り上がりとはだいぶ差があるよ。
足利義昭が成り上がりの織田を頼ったのは、この事実だけでも幕府や時代の流れを大きく変えるものだった。
簡単にまとめちゃうと幕府の権威の低下を自ら認めた事と、戦国時代へ移り変わった事を認めたようなものだった。結果は歴史の通り。
もしこの時期に朝倉が義昭を手放さなかったとしたら、後に信長が義昭を強奪できたとしても室町幕府の権威はもう少し保たれていたのだが・・・
461無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 20:44:43
成り上がりには違いなかろ。
家格という点で、織田よりは上かも知れんが武田とは変わらんと思う。
462無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 14:09:54
「どうすれば・・・」じゃなくて「どうなれば・・・」だけど、

浅井が裏切った時に、京に逃げる途中で松永弾上あたりに寝首をかかれて
信長アボーンした場合、武田に天下を伺う目はあったかね。

これだけではダメなら、オプションで
・金ヶ崎の退却戦で秀吉・光秀・家康のうち1名〜全員死亡
・信玄があと10年長生き
もつけても良い。
463無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 15:47:47
>>462
信長死亡って、それは天変地異でみんな死んだらレベルの話となんら変わらん
464無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 19:47:49
>>456
馬鹿か?むしろ武田が滅びたから本能寺があるんだろ
465無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 21:42:03
>>464
その通りですね。
本能寺の変などは条件が揃っていても起こりえるかどうかわからない歴史的偶然。突発的事件とはそういうもの。
少しの事で歴史は変わってしまうよ。
もちろん武田の歴史だって同様。信虎→信玄の政権移譲が同じ時期でも違った形なら全ての様相が変わる。

信虎病死ですみやかな引継ぎならもっと早く信濃攻略できたような気はするね。
ただ信玄は父追放によって修羅の道に目覚めた事が大きいと解釈を採るなら逆に凡将で終わってるかもしれないけど。たぶん三国同盟も成立しないし。
466無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 01:19:02
信長が桶狭間で戦死してれば一時的にでも天下取れたんじゃない?
467無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 02:19:34
>>466
そのときは今川が強大化して、武田がますますアタマが上がらなくなるだけ。
468無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 02:32:31
今川が京で不毛な戦いを続けて停滞する可能性もあるぞ。
469無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 03:14:00
桶狭間は武田にとって都合良すぎたね。三国同盟だって完全に自分の都合で振り回せたし。
470無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 07:25:20
>>468
義元が上洛を目指していたって言うのは完全につくり話だろう。
471無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 13:36:22
誰も京にのぼらず、ずっとうだうだ戦国が続いていたろうな
472無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 15:52:24
>>470
だよな。そんな資料残ってないって話のような
473無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 18:41:00
約束どうり、遠江を家康にやって、家康を先鋒として京に行けば良かった。
始めはそういう約束だったってな。
それを信玄が三河も遠江も自領にしようとしたからややこしくなったんじゃないか?

三方が原のころ馬場信房も、家康は思った以上にできる男だった、
家康を先方にしていたら、今ごろは京どころか天下を取れてたと言ってたとか。
474無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 18:49:09
>>473
家康を持ち上げるための江戸時代の捏造にしか見えませんが、一応確認。
ソースは?
475無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 19:10:11
越後方面にこだわる必要あったのかな
476無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 20:03:26
>>473の話は初耳だなぁ。
つーか、三方原の頃の家康を見てそんなこと言うと思えないが。
三方原なんて最悪最低の指揮官ぶりじゃん。
477無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 20:04:53
どうやったら、徳川が武田に従属するんだ?
478無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 20:24:38
全国に散らばる武田家が
479無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 20:43:12
所々、無知なやつのレスが混じる辺りが面白いな
480無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 20:47:09
要するに知ったかが多いということかね?それはちょっと・・・・・
481無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 20:54:53
>>480
何人かの話だぜ
482無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 21:27:35
お勉強じゃないんだからさ、知ったかは論外だが、テストよろしく模範解答が得意な奴も用がないんだよね。
知ってりゃいいってもんでもない。
483無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 00:29:47
信玄は名将だが歴史を変える天才ではない。考え方も古いので天下統一してもすぐまた乱世になる。
484無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 00:33:35
そうはならんせ
485無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 01:02:47
信繁がいなくなってから武田家の崩壊は徐々に始まった・・・っていうのは
言いすぎかな
486無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 01:03:41
>>485
信玄より後まで生きていればとは一番思う武将
487無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 01:14:52
ひできちの養子になって秀頼か産む前の淀の暗殺
488無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 19:50:22
桶狭間で今川義元と氏真が死んで、武田義信が継げれば天下取りに十分な領地が確保出来ると思われ。

家康も離反しないかもしれない。
489無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 21:42:43
>>488
もしもそうなったら今川家ですよ
信玄は息子の家臣
490無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 21:46:57
信玄がもうちょっと生きていれば・・・・
491無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 21:50:29
結論

山本勘助が補助になり信玄が三点倒立をすれば、武田二十四将の呆れ顔が見れた

ということで、このスレはお開き

バイバイ
492無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 21:52:25
足利・浅井・朝倉が健在で無ければ話にならない。
これらの第二戦線がなくて武田家が勝つことはありえない
493無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 21:53:16
信長がもっと早く死んでれば・・・
494無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 22:05:36
>>1
君が戦国大名になって武田家に天下をとらせよう。
 
訳解らん、何で戦国大名となって真田家に天下を取らせるのか。
495無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 01:19:33
でも、信玄が長生きして長篠で勝って秀吉並みのスピードで平定したとしても
九州征伐・小田原攻城・奥州征伐は年齢的にきつそう
496無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 06:16:31
>>495
家康の大坂の陣を思えば余裕ですよ
大体陣頭に立つ必要もない
497無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 11:12:45
>>488
戦場に出ない氏真をどうやって戦死させるかが問題だなっ!
生き残りと蹴鞠だけは当代随一だった氏真をなめたらいかんよ。
498無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 11:30:20
信虎を追放した史実ルートがベスト。
信虎が死ぬのを待っていたら、いつ家督を継げるかわかったものじゃないし、
(史実の流れでは、信玄病死後に、父の信虎は八十余歳で大往生している)
だいたいそれ以前に晴信の命が危なかったかも(武田親子の折り合いの悪さは折り紙つき)。
だいたい、信濃攻略の成功の要因は、信虎追放と、諏訪氏・高遠氏を騙して領土を奪ったことにある。
信虎時代では、あの諏訪頼重騙し討ちっては考えられなかったんじゃないか?
(信虎が力攻め一本だったか、それともこうした謀略も用いていたのかは、知らないけど)
むしろあるいは、
「力攻めで甲斐の黒人を攻め立てて領国統一を成し遂げた」信虎を追放してみせる、
というデモンストレーションが、甲斐の結束を高めたのではないだろうか?
499無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 14:30:02
武田家みたいな旧家では家督争いなんて珍しくも何ともない訳だが
その後武田家が歴史的資料に残る程の大国になったので美談的に残ってるだけで父親追放などは普通にある話
武田を見事に戦国大名に移行させた信虎だって大した人物だよ
信長から秀吉、家康に移行したみたいに時代に適合した人物が残った ってだけで別に優劣じゃない気もするけどね。
500無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 15:12:10
武田家みたいに田舎でそこそこ勢力を広げて羽振りがよくなったが
結局はあっけなく滅亡した大名など戦国時代じゃ珍しくもなんともない
普通にある話
それが過大評価されすぎなんであって天下をどうこうできる存在じゃない
501無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 21:22:29
金山から金の採掘量が減ったのも武田家衰退の一因だそうが・・・
502無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 21:30:04
上杉に北信濃上げるかわりに不可侵条約結んで
早期に徳川を潰して海を手に入れるべきだったんだよ
503無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 22:17:16
>>498
>甲斐の黒人
どこの地域の原住民だ?
504無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 22:26:15
>>501
今川攻めの最大の目的は金山でしょ
武田の強さは莫大な金の恩賞での士気
伊達、上杉の強さも金によるもの
505無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 22:37:48
>>503
武田の不利の元凶は甲斐国内の不安定
506無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 22:44:07
>>500
武田信玄が遠江三河に進攻した時に、京では上洛してくるとの噂で持ちきりだった。
将軍も頼りにしていた。
一向宗の顕如とは縁戚。
天下をどうこうする存在ではあったよ。
507無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 22:50:14
なんだ‥この自演‥
508無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 22:51:56
自演であっても説得力が全然ないわけだが
509無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 23:45:20
いや、やっぱり






信玄へ
つ抗ガン剤
510無名武将@お腹せっぷく:2006/02/04(土) 23:46:24
そ れ だ !
511無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 00:19:34
>>499
武田は昔から守護大名だが
512無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 01:25:24
513無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 01:45:02
甲斐に黒人がいたらそれは








事件です(゚Д゚)
514無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 01:51:38
>>511
馬鹿だな
守護大名から戦国大名への転進を成功させるのは難しいのを知らんな
ほとんどの守護大名は戦国時代初期で形骸化しているだろう
その中で武田家は守護大名から戦国大名に見事に成功した珍しい例だということだ
信虎を評価してもいいだろう
515無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 01:55:04
織田さん処の芝さんとか、斎藤さん処の土岐さんとか
516無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 02:04:29
>>514
三戦板としたらそんな高校の教科書みたいな見解はふさわしくないな。わざわざ守護大名から戦国大名への移行がなぜ武田家は成功して他が失敗したのか明快にすべき。実際に守護大名と戦国大名の区分けは概念的で明快なラインはないんだが。
517無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 04:10:54
基本的に、何カ国も領有してて全体的に手薄になった連中が足許をすくわれただけのような気がする。
実際のところ、「戦国大名になりきれなかった」せいで衰退したと見られる家なんて少数だ。
518無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 13:04:11
一番多いのは家督争いなどで弱体化したり領地を留守しまくりで守護代に乗っ取られるが多いな
甲斐も一度守護代のものとなったし
519無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 13:04:25
ふむ。確かに。
「戦国大名」が「守護大名」と比べて、
実際にどれくらい領国を実効支配していたか、という点について、
達成度についていってしまえば、あまり変わらない。
守護大名だって、決して領国支配を軽視していたわけではない。
広がりすぎていた領国を留守にしてしまえば、支配が及ばなくなって当然。
三管領家の畠山・斯波氏と、細川氏を比べれば、そう見える。
領国は多いが京より遠く、各地に分散してしまっていた畠山・斯波両氏と比較して、
細川氏の領国は、比較的京の近辺で、ある程度まとまっていた。
ゆえに、畠山・斯波氏と比べてそれほど凋落することもなかったのではないか。

その点、領国を留守にすることなく、それも一箇所にまとまった、手ごろなサイズの領国を支配していた、
武田や今川や島津や大友や佐竹氏は「戦国大名」と呼ばれるようになったのだろう。
(この観点で行くと、大内氏は「守護大名の例外的成功例」といえましょう。)
520無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 15:55:21
>>514
難しさを知らないから具体的な例をあげて下さい
521無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 15:56:20
>>518
跡部一族に国を乗っとられたからな
522無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 20:14:08
結果論だけど、織田家と早々に同盟してしまい、
織田の東国への憂いをきれいに無くしてしまったのが失策だったといえないだろうか。

当時の情勢から織田の美濃侵攻に武田家が積極的に介入するのは問題外としても、
その可能性だけは残しておいたほうが織田の急成長が多少は抑えられたのではないかと。
確かに織田・武田同盟で武田としても信濃・美濃国境を気にせず、
信濃・上野等に専念できるようになったわけだけど、
その代わり今川との関係がギクシャクするわ、義信の謀反事件は起こるわで、
必ずしもメリットばかりではなかった。

結果論から言えば、織田・武田同盟は織田の益になる場面の方が多く、
武田家が織田家の引き離される一因になったと思う。

もちろん、今川へ侵攻するつもりなら、織田のと同盟は極めて重要だが、
それはそういう方針が武田家の中で固まってからの同盟に持っていけば良かったと思う。
523無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 20:17:47
>>522
それだと織田の急成長は押さえられるが武田の成長も悪くなる
結果的に西上野を取った段階、もしくは駿河を取った段階で寿命
信玄は100万石に届かない大名で終わることになると思う

その後継者がどうなっていくかは分からないが
524無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 20:21:05
いや、織田と同盟を結んだ段階で、信玄としては対今川の侵攻作戦を考えていたのだと思う。
ところが家中をすぐにまとめられなくて、実際に駿河を攻めたのは3年後になったと。
525無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 20:50:55
どっちにしろ、駿河侵攻に対する家中のゴタゴタと、
北条との対立による時間の消費が痛いね。
その両方、少なくとも片方がなければもっと有利な時期に
西上軍を起こせただろうに。
526無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 21:20:00
それは必然で読み切れなかったわけではあるまい。
それが信玄が旗揚げ時に父親を追い出して盟主になったツケ。
なまじ目先の利に囚われ信を失う選択をするよりは三国同盟堅持のまま織田の美濃侵攻と同時期に西美濃侵攻、せめて岩村城まで押さえられれば天下の風向きは変わっていただろうな。
ちなみに美濃をうかがうにはこの時期しかなかった。これを逃すと史実の通り越後上杉か三河徳川+織田という事になるね。
527無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 21:38:37
>>526
よくいわれることだがその場合上杉はどうする?
また史実ではこの時期岩村は武田の物となっていた可能性が高い
あとこの時期の武田は織田や斉藤と変わらない国力、それで勝てるのかという問題もある
528無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 21:48:32
結局謙信がいなければ、って結論?
まあ、その場合北条氏との泥沼が続いていた可能性もあるが。
529無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 21:58:24
>>527
まぁ俺も美濃侵攻派を叩きまくっていた人だから確勝の戦略とは思っていないんだけどな。
上杉警戒のままの二股で。
西美濃に侵攻のタイミング次第では相手は織田でも斎藤でもない地元の国人の集合体になっているかもしれなくて、この場合はほぼ勝利。
岩村城の遠山なんちゃらとは交流があったらしいから、少しでも美濃の情勢を流してもらえば(軽い内通)なお良い。侵攻のタイミングも計りやすくなるし実際に寝返りも期待できるかもしれない。

狙いはハイエナってやつだ。斎藤の主力は常に信長と衝突してもらう。信長は稲葉山落城までは西美濃に主力出兵は危険だからやらな。

この作戦の絶対条件は織田が優勢であり続ける事。たまたま史実ではそうなったが、果たして実際武田が自信持って織田に乗れるかは疑問だし、史実に近い結果になるかどうかもわからん。
530無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 22:20:32
>>529
西美濃じゃなく東美濃だろ

織田武田同盟時東美濃は西から
斎藤家織田家武田家となっているため
ハイエナは難しい、織田家を越えないと武田家はそれ以上美濃に勢力を広げられない
北美濃あたりを奪って中央部を狙うという方法もあるかもしれないけど
531無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 22:24:10
>>530
ブァッハッハッハ!



大変申し訳ありません。西と東が逆でした。
訂正してお詫びして鼻血を出してみます。
532無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 22:30:01
やはり北にとんでもない奴がいたのが痛い。
訳分からない正義感あるわ、戦が馬鹿に強いわ、しつこいわ。
毘沙門天様に、好敵手と目された時点で天下は無理。
533無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 22:35:50
>>528
謙信が出てくる前から北条家とは関係改善を図っているからそれはない。
534無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 22:38:08
越後が分裂状態のままだったならともかく越後を治める統一勢力があれば
謙信いなくても同じような結果になったと思う
535無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 22:40:45
>>530
仮想条件は武田織田同盟締結せず三国同盟堅持だよ。都合次第で織田にちょっかい出しても構わないよ。
536無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 22:45:01
>>535
織田と戦ったら時間を浪費するだけで結局>>523の言うようになるだけじゃないか?
537無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 22:57:29
>>534
そいつが信濃の国人をかくまったり、
関東管領の威光を取り戻そうとしたりしなかったら、ああはならなかったと思うけど。

それから、同盟して攻撃してくる武田・北条を防ぎきり、
逆に攻め込むなんて並みの武将では無理。
かなりの戦上手が統一政権を率いていないと同じような結果にはならないと思う。
538無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 23:02:07
>>537
謙信並みの戦上手が統一政権築いてたら信玄は負けてたろ
539無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 23:09:09
>>536
仮に東美濃を取れたとしてもなまじ敵が増えるから多分その通り。
だから多少の環境の変化期待しないとね。

候補
1.北条の北上から上杉への侵攻を実現させ、必要なら相当の支援をする。
2.上杉との同盟。たとえ北信濃か上野の一部を譲渡(形式は撤退)しようとも。でも北信濃の譲渡は難しいかな。
3.今川家の半従属化。繋がりから北条よりも頼られる。劣勢が続いている今川からどんな形で救援を引き受けるか。政治感覚が問われる。


実現性が高いものを挙げてみた。可能性は十分あると思う。
1つでも実現すれば体力で対応が利くようになるんじゃないかな。実現したなら東美濃は足掛かりが危ういから織田に隙を与えず美濃全域支配を狙うべき。


話を進めすぎてほころびだらけだな・・・
540無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 23:11:12
>>538
>>534の言い方だと統一政権ってのは、
謙信と同じくらいの状況で越後をまとめている者がいればという意味ではないの?
当主は謙信でなくとも、実際の謙信の統治よりも強固な政権があればということ?

それなら、確かに越後に攻め込むのは大変だろうけど、
信濃関東で争うことになるかどうかはそれを率いる当主しだいでしょうね。
541無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 23:25:07
>>540
下越を支配するものがいれば関東はともかく北信濃で争うのは必然だろ
542無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 23:34:29
>>539
1は不可能、史実でも武田北条は上杉と戦いつづけたが
信玄死亡時でも結局上野の一部は上杉領となった、相当の支援どころではない

2は北条との関係悪化に繋がる、武田が領土を譲っても上杉に関東を諦めさせる必要がある

3は可能かも
543無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 23:37:01
>>540
最初の川中島の頃は謙信は越後を碌に支配できてないよ
信玄は越後での内乱につけこむ形で徐々に北信濃に勢力を広げていった
544無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 02:04:47
数年前まで内乱していたが、その頃にはほぼ治まっていたようだ。

それと、「付け込む」って言っても第一回川中島の時
信玄ははほとんど無警戒だったように思える。
545無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 22:29:16
付けこんだのは2回目3回目ぐらいか?
4回目も関東で戦ってる隙にだから付け込むになるかもしれないが
546無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 00:41:48
信玄は良く頑張った。
これ以上ないって位に頑張ったよ。
勝頼の代からこーすれば良かったと言う奴はおらんのかのう?
勝頼の代からでは遅いか。
547無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 00:54:26
>>546
信玄がろくでもない負の遺産を残したから無理やろ
548無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 01:44:42
義信が継げるような流れなら拡張の道はあったと思う。

個人の技量も大事だけど、考察もせずに単に抽象的に片付ける意図で技量という単語を持ち出すのはよくない
549無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 18:24:03
勝頼は信繁的ポジションのが良かったのかなぁ
550無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 18:33:49
>>549
勝頼は義信と同腹じゃないから、信繁的ポジションは無理かと。
551無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 18:38:36
駿河侵攻を拒否する義信ならいらんね。
織田家との国力の差はひらく一方だ
552無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 18:49:47
駿河侵攻以外のビジョンが義信にあったのだろうか?
三河攻め取っても、今川と揉めそうだし。
553無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 20:09:03
おいらんぶちの話しってる?
554無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 20:50:03
>>541
争ったとしても、
謙信ほど手ごわいとは限らないでしょうって話。
555無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 20:54:57
春日山の位置が事態を難しくしている。
556無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 21:24:22
謙信は本当に手強かったのか?
単に信玄が弱いだけなんじゃ・・・
557無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 21:54:00
>>556
信玄だけならそう言えるかもしれないが、
謙信は武田と北条をほとんど同時に相手にして一歩も引かないどころか、
小田原まで攻め寄せているんですよ?
規格外の強さといって差し支えない。
558無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 22:21:41
>>557
対北条戦でどれだけ関東諸勢力が味方に付いたと思っているんだ
しかも小田原まで行ったのは一度だけで
あとは徐々に北条に押されていったじゃん
あんだけ味方がいたと言うのに
559無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 22:25:20
>>558
逆に何でそれだけの味方がついたと思うのよ?
本家本元の名門上杉家は全然ダメだったのに。
560無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 22:32:17
匹夫の勇を同じ軸だけで比べちゃいけないよ
561無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 22:35:16
>>559
味方についたのは1560年で
信濃の戦いには参加してないから
北条の強さの証明にはなっても武田の強さの証明にはならない

また本家本元の名門上杉家がまるで駄目なのは自身の軍事力が無いから
しかし謙信には越後という基盤があった
562無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 22:42:12
上杉厨が必死なスレだな。
謙信の活躍が捏造だらけで、実は大した事が無い武将だというのは証明されてるというのに。
一歩も引かないって・・・・結局信濃と関東のほとんどを取られてるんですけど。
563無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 22:43:03
戦が強かったとしても、大名としては三流だよな
564無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 22:43:44
その戦に強いというのが問題なのでしょう。
565無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 22:45:35
信玄にはその規格外の部分がないんだな。
だからこのスレは盛り上がりに欠ける。

信玄には謙信の神がかり的な合戦の強さもないし、
信長のような型破りの構想力もないし、
秀吉のような才知もない。
非常に手堅いというだけの武将だ。

そういう武将が、冒険的な行動をして、
天下を望むというスレが盛り上がるわけがない。
本人の性格が、そういうこと考えない人だし。
566無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 22:48:13
徳川殿もそんな感じだな
567無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 22:49:32
上杉の戦歴
・信玄に大勝しながらも北信濃を取られるという神業
・10万の兵でも小田原城を落とせず、憂さ晴らしに強姦略奪
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を追撃し、戦果を喧伝
・御館の乱で衰退、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
568無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 22:51:36
アンチ上杉が来ちゃったか・・・
569無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 22:53:07
>>567
そんな上杉に信玄は勝てなかったもんなー
北条は上杉他多数を相手に回して上杉に取られた関東の領土の大半を
奪い返しているが
570無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 22:56:05
川中島の戦いはどう考えても上杉の負けじゃん。
無理矢理勝ちにしようとする上杉厨必死杉。
571無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 22:57:31
>>565
しかし、信長が上洛した後は、遅ればせながらも天下を意識したのではないかね?

むしろ後半生の戦いではその為の焦りを感じているような気がする。
今川攻めのときに徳川にも手を出したり、北条とも敵対してしまったり。
572無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 22:59:46
>>567
信玄に大勝って、いつしたんだ
573無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 23:03:30
訂正してやる

上杉の戦歴
・信玄に敗北し北信濃を取られる
・10万の兵でも小田原城を落とせず、憂さ晴らしに強姦略奪
・佐野昌綱の城を10度攻めたが、一度も落とせず
・結局北条に関東のほとんどを奪われる
・神保、椎名ら越中の雑魚豪族に苦戦
・渡河退却中の織田を追撃し、戦果を喧伝(織田は元々戦う気が無かった)
・御館の乱で衰退、領地の多くを失う
・家臣に反乱起こされまくり
・最上に庄内取られる
・伊達と最上にすら勝てず(後世、寡兵で勝ったと捏造)
・関ケ原の戦いを引き起こし、おまけに負け組へ
・幕末、薩摩の芋っぽに虐殺される
574無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 23:08:38
上杉:信濃取り返すぞ(゚∀゚)アヒャ
武田:うざwww(・∀・)カエレ
武田:南に行きたいんで構いたくないんです
上杉:うるせーwww
武田:粘着uzeeeeee
575無名武将@お腹せっぷく:2006/02/07(火) 23:54:57
わかった、こうしよう。
諏訪大明神を焼き払って諏訪家一門をぬっ頃して、毘沙門に帰依して謙信の弟弟子になり、且つ義兄弟になる。なまじ婚姻よりも固いぞ。


内戦で滅亡しなきゃラッキー☆
576無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 02:47:01
北条が関東の支配権を概ね確立したのは、謙信没後じゃないか?

軍事的優勢だけでなく、権力の正当化ができないと支配権は安定
しない。上杉の宣伝力は、なかなかだと思うね。
関東管領だの義戦だのと。

景勝の代になって、関ヶ原の戦いを誘発した件でも、三成との
共闘に関する根拠は、実は存在しないらしいね。
実態は、旧領越後への領土欲丸出しで軍備を拡張に勤しんだから
家康の来寇を招いた。
それを、「義戦」だの「太閤殿下への恩顧」だのと上手いもんだ。
577無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 02:57:44
京への上洛による覇権の確立も、軍事的優勢だけでなく、朝廷、将軍家、
旧奉公衆との外交関係樹立を伴わないと長期統治は無理。

その点、信長の上洛は周到きわまりない。浅井との通婚以外にも、大和
の松永弾正と上洛の2年も前に接触している。上洛当初は本願寺との
関係も比較的良好。和戦併用で細川以下、旧奉公衆との関係も確立した。

そういう手腕が、信玄に望めるかと言うと無理だろ。
同盟に関する過去の実績は、ほとんど武田の破約で終わってる。
仮に、織田を破って上洛してきても、武田を信用する勢力なんて
どこにもない。
578無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 20:12:09
>>561
山内上杉家にも上野を中心に基盤がありましたが。
579無名武将@お腹せっぷく:2006/02/08(水) 20:14:50
というか、最終的に北信濃のほとんどが武田の領有になったとはいっても、
問題はそれに要した期間。
特に武田家が天下をどうしたという話をするなら、
その期間の空費こそが大きな問題だった。
だから、謙信がいなければ・・・という話になる。

まあ、その場合上野をめぐって北条と怪しくなりそうな気もするが。
580無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 00:04:51
>>579
北信濃を巡って謙信と角逐を演じなかったら、
謙信がその間に越中越前を攻略してしまうことも考慮しなければならない。

信玄が美濃を突破するより優しいだろう。
木曽路を行く武田と違って
舟運が使える謙信の方は兵站の心配が無い。
なにより、謙信は肝心の合戦がやたらに強い。
581無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 02:18:45
いや、謙信はまず関東だろ。
582無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 03:07:23
謙信は1564年に朝倉と同盟して加賀一向一揆を滅ぼそうとしている
で現に朝倉は加賀へ上杉は越中へ攻めこんだが
本願寺顕如が一向宗を支援し、武田に上杉攻めを要請したため
上杉は加賀に攻めこむことが出来なくなり、朝倉は加賀の半分ほどを
占領していたが徐々に後退し、信長が上洛する頃には逆に越前にまで
攻めこまれている
北陸を攻める意思はあったはず
583無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 03:09:46
そりゃ関東で一しきりやらかした後の話じゃないか。
信濃・関東で手詰まりになった結果としての戦略転換だ。
584無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 04:32:59
常に受け身的な動機で軍事行動を起こしていた上杉に固定化した方針なんかなかっただろうに。
臨機応変且つ行き当たりばったりだ。
ってかスレ違い。

でもこのスレ、バファリンの半分はやさしさで出来ているくらい上杉厨だらけだなw
585無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 06:00:19
絶対封建君主、信虎追放がなければ…
586無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 09:04:59
>>585
ただでさえクーデターで算奪してるのにそのクーデターの随臣山県の兄(飯富なんとか忘れた)に義信粛正の時に一緒に背かれちゃってるのはいかんせんイメージ悪いよな。
前レスで誰かが同盟は最終的に全て瓦解していると言っていたが、他大名にとって武田家はとても信頼できる相手とは思えなかっただろうな。
587無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 09:34:34
有力家臣が軒並み国人領主で独立性が高いから
当主の権威は織田、徳川、北条あたりと比べると弱い罠。
勝頼がいったん落ち目になると寝返りが続出したのも無理はない。
588無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 09:39:51
国人領主は自分の領地を安堵してくれれば
主君は誰でもいいからな。別に武田家じゃなくても。
589無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 16:17:22
お神輿わっしょい〜♪
590無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 16:52:19
国人領主じゃなくても強者につくのが当然な時代だろ
本能寺以後の織田なんてひどいもんだよ
591無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 17:07:23
急に領国を広げるってのはそういうもんだよな
本当の定着には一概には言えないけど20年とか30年かかるからな
592無名武将@お腹せっぷく:2006/02/09(木) 20:20:37
>>583
それよりずっと前から、
一向宗は長尾家不倶戴天の敵、謙信の祖父は越中で一向宗相手に討ち死にしている。

まあ、確かに謙信自身は関東や信濃のほうをより重視していたとは思うけど、
しかし、そちらの情勢が史実と変われば早期の越中侵攻もありえないことではない。
593無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 01:35:49
むしろ厄介なのは、上杉が関東の大半を掌握してしまって、
止めようのない大勢力になってしまう可能性だと思う。
200万石クラスの大大名になったら、謙信の野戦能力もあいまって、
立ちはだかる勢力を軒並み薙ぎ倒して上洛できる。
そうなったら多少の距離の遠さは問題にならない。
594無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 01:38:30
謙信過大評価しすぎ。
595無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 01:49:36
いや実際200万石でフル動員かけたら破竹の快進撃は十分可能だと思うよ。
謙信でなくても。
越後、上野、武蔵、下総で200万弱あるから、これを糾合したら洒落にならん。
596無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 02:00:51
越後だけであれだけ内乱起きてるのに、さらに領土増やして新しく併合しまくったら目も当てられないだろ
597無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 02:09:00
そりゃまあありうる話なんでなんとも言えんが…
でも反乱が収まったときの瞬間風速は凄いはず。
598無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 02:10:04
内政統治がヘタとしか思えん
599無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 05:46:57
>>595
スレ違いだ

武田のifなのにまた随分と飛躍を・・・
100%包囲網ができるよ
30歩譲って戦の天才謙信がどんな1人で頑張っても仕組みで支えられている勢力ではないから限界は狭い
唯一大勢力を維持伸張する方法は信長と同盟して信長の基本戦略を東征にさせる事だ
600無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 09:34:27
>>597
逆に言えば、結局景勝の代になるまで越後国内の有力国人を
抑えられなかったから関東を手中に出来なかったんだろ。
当主が絶対的な権力を打ち立ててた北条との決定的な差はそこだ。
601 ̄ ̄ ̄)/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄:2006/02/10(金) 13:53:35
     ∧_∧
    ( ´・ω・`)     ∧_∧
    /     \   (    )何言ってんだこいつ
.__| |    .| |_ /      ヽ
||\  ̄ ̄ ̄ ̄   / .|   | |
||\..∧_∧    (⌒\|__./ ./
||.  (    )     ~\_____ノ|   ∧_∧
  /   ヽ 氏ねよ      \|   (    )
  |     ヽ           \/     ヽ. オマエ馬鹿だろ
  |    |ヽ、二⌒)        / .|   | |
602無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 15:12:50
>>600
加えて関東諸将から遅かれ早かれ見放されているのも痛い。
先駆けは成田だが、関宿城の後詰めで佐竹から「あんた信用できないから一緒に戦いたくね」と言われたことも痛い。
603無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 15:50:35
謙信がどうやって関東制覇すんだよwwwwwwwwwwwww
北条なめすぎだろ
604無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 16:16:52
北条も武田も上杉に屈服される事は無いだろうけど、とにかく周りでチョロチョロしやがってウザイ奴だ
程度だった気がするよ
605無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 18:18:26
>>603
荒川から北を領するのは十分可能性があった。
越後の太守であって関東管領でもある人物にとっては、「合戦の強さ」という個人的才能の要素を除いても、十分達成可能な目標だった。

現在論じられてるifは、武田が上杉と北信濃で争わないメリットを語るのが多いが、デメリットについては全然言及しないのはおかしい。
武田が西に勢力を張る以上の速度で上杉の力が伸びるのは戦略的敗北だ。

豊臣秀吉は善光寺平を見て「埒の明かぬ戦をしたものじゃ」と言ったそうだ。
しかし、武田の長期戦略からみて、争わない訳に行かない相手だったと考えるしかない。
最終的に信玄の判断は正しかった。
606無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 18:28:25
チョロウザだったら武田も北条もさっさと殺して上洛したはず
チョロウザでないから北信濃奪われ、内乱頻発させられ、小田原を落とせないんだよ
てかなんで謙信の話になってんだ…
戻して、信玄が上洛するためには早い段階で信長を闇討ちして
混乱に上して美濃をうばえばよかったんだよ
簡単にいってるけど、信長のいない織田家は骸と化してるから
簡単にできるはずなんだよ
607無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 18:40:32
>>606
紛らわしかったか?
チョロウザは上杉の事ね。
608無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 19:05:29
>>600
関東の大半を手に入れた謙信が、豪族連合体のトップでしかないと考えるのは甘い。

織田で言えば、信長の親父は、津島湊の収益を基盤にしていた尾張1国の豪族連合体のトップだった。
しかし、息子の代になって伊勢湾と、木曽川長良川の舟運から上がる商業収益によって絶対的君主になった。
豪族たちは土地を手に入れた。しかし農業収益は足し算だったが商業は規模の大きさによって掛け算で伸びるからだ。

謙信も、直江津の収益を基盤にしていた越後1国の豪族連合体のトップだったかも知れない。
しかし、東京湾と荒川利根川の舟運から上がる商業収益によって大きな力を得ないと言えるか。
謙信の権力基盤から見て、そこに着目すると考えるべきだ。
609無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 19:20:54
そう思うと謙信のが長生きしてたら
信玄よりも天下人の目はあったのかもな。
これもifなんだけど、信繁が生きていたら義信はどうなっていただろうか?
家臣団が割れる事も避けられたように思う。
61066:2006/02/10(金) 19:54:34
>>414 
激しく亀でスマソ 時期的には1560年代を想定している。
IF話なので絡みはほどほどで(*^^*)

>>608 
抽象的な言い方をすれば「内政介入できたかどーか?」じゃな
いかなぁ…。たとえば検地とか
61166:2006/02/10(金) 20:18:09
>>609 
信玄と義信の、内乱の元凶は(現出で申し訳ない)甲尾同盟の是非が
ポイントではないかと僕は思う。ここで信繁が生きていてもあまり
大勢に関係ないのではないか?

>>610 )
>>413 で語ってみたIF話だけど、年表形式にするとこんな感じ(’’*)
156X年
徳川に今川と武田から使者が来る。三国同盟成立
(もともと今川とは縁戚関係)
その翌年
今川・武田・徳川連合軍が尾張に侵攻を目論む。信長は美濃から一時撤退
(東海道筋で攻めてこられると、直接熱田を脅かされるため)
その翌年
東山道筋から武田が、織田領に侵攻。斉藤もこれに呼応する。
612無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 20:46:31
>>1信玄が死んだ後は信玄以上の名将が後をついでも無理だと思う
あこでしなれたらもうだめだな
613無名武将@お腹せっぷく:2006/02/10(金) 21:23:46
おとなしく徳川家の傘下に入ってれば
家名残ったのに。

614無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 10:17:45
>>608

>しかし農業収益は足し算だったが商業は規模の大きさによって掛け算で伸びるからだ。

所得課税も、銀行もろくにない時代に何馬鹿なこと言ってるんだが。経済知らないでしょ。
615無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 10:22:14
>>587

武田が他家に比べて国人領主の力が強かったなんていえる根拠はない。
山県・高坂・馬場・内藤は国人領主と違うでしょ。
616無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 12:16:37
>>614
掛け算かどうかはともかくとしても、
武田は、駿河を手に入れたのに、港の直轄支配化などをしたとは聞かない。
信長や秀吉なら真っ先に考えることだ。

武田の体質は古いのかな?
617無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 12:25:58
>>616

駿河にこだわって江尻城築いてるだろ。
61872:2006/02/11(土) 13:30:25
どういう戦略を取れば、上杉・北条・織田・徳川と敵に回す事が出来たのでしょうかね〜?
同盟国に攻め込んだり、密約を交わしたにも関わらず直ぐに反古。信玄の行なったこの戦略こそが、武田家を潰した最大の要因だと思います。⇒隣国に武田に組する大名は居なかった筈。
塩もろくに取れない土地柄。裏切りを繰り返して迄、戦を仕掛け続け、領土を広げるしか無かったのでしょう。
結局、武田はどんな手を使っても、天下は取れなかったと思います。滅ぶべくして、滅んだのでしょうね。
武田の家名を残す道は、織田家傘下に入るしかなかった。
619無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 13:50:31
>>605
いや、争わなかったらというよりも、謙信がいなかったと言う話。
北信濃で10年も信玄を手こずらせたのも、
一時的にとはいえ関東の諸豪族を糾合して小田原へ迫ったのも、
謙信の個人的な能力に負うところが大きい。
その謙信がいなければ、武田家の戦略的敗北となるほどの急成長を上杉がするとは思えない。
620無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 22:10:09
上杉が北陸道を、武田が東山道を、今川(または北条)が東海道を、
くつわを並べて進撃したら畿内進出後の織田家でも余裕で粉砕できそうなんだが、
どの年代を取ってもこの仮想を成り立たせる設定が思いつかない。
621無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 22:54:48
信玄にしろ謙信にしろ織田にとって絶妙のタイミングで死にすぎだよ
寿命が延びたとして武田、上杉が織田に取って代われるかはわからんが
少なくとも織田は史実のような快進撃はできなかったろうな
622無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 23:34:30
>>613
家名は信玄の息子が1人、嫁いだ姉を頼って上杉に逃れて武田性を名乗ったはずだぞ。
623無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 23:41:47
島津vs上杉vs毛利vs伊達vs立花vs北条vs武田 4回戦
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1139661557/
624無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 23:57:56
本能寺の変まで、武田家が持ちこたえたら。どうでしょうか?
かなり贔屓目にみて、光秀と同盟組んで濃尾併合・・・というのはやっぱ無理かな。
625無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:13:28
本能寺は武田滅亡の気の緩みによるものだから無理
626無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:13:52
>>624
いや、普通に領土拡大してたと思うよ
北条も上杉も毛利もそうだったし
627無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:15:12
>>625
新解釈だな
628無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 00:23:35
光秀の叛意の一員として、対長宗我部戦略の転換がある、という説がある。
いきなり強硬策に変わったがために、長宗我部の取次ぎをやってた明智の立場がなくなった、というもの。
だとすれば、武田への警戒が必要な間はほかで無茶をしたりしないだろう、
と言う推測は可能だ。
629無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 01:35:53
居城を変えていかなかったからでは?
630無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 02:26:09
>>627
新解釈もなにも、本能寺自体が歴史的偶然。
この手の突発的な乱はちょっとした事で起こらないし、起こっても結果が同じとも限らない。

石ころ1個位置がズレるだけで歴史が全然変わる。
この原理を否定できるのは宗教的アプローチによる見解だけ。
631無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 03:10:47
>>620
それ帰るとこなくなんね?
632無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 03:31:35
>>631
というか「応仁の乱」において、「帰る所無くなった」大名が多発。
これがそもそもの戦国時代の始まり。

だから>>620の仮定は成り立たない。
そもそも戦国時代の始まりを否定するようなもんだから。
633無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 04:26:01
武田家滅亡・・・・・・
634無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 05:16:34
答えは簡単だ!!
シンゲンが不死身で死ななければよかった。





以上。
635無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 05:29:17
どっかで、武田信玄だったか上杉謙信が、
商人か職人だかが開発した新兵器があまりに物凄い威力で、
それを使えば数人で歩兵数千人相手にできるだろうってくらいの凄まじさだったのに、
武士の戦の風情が失われるとかなんとかわけわからんことを言って、闇に葬ったという話を聞いた。
おそらく火縄銃を改良したガトリングガンみたいなものだったのではないかと妄想するが、
それを使ってたらあるいは天下を取れたかも。相手も使い出すだろうから無理か。
636無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 06:04:08
騎馬鉄砲だったら
637無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 09:23:47
あんなところで死ななきゃいけたんじゃね?
638無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 10:30:31
死ぬのが早すぎる
あと5年生きてたらどうだったんだろ
639無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 17:05:55
少なくとも長篠はなかったな
640無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 20:07:14
>>639
どうだろうね?
三河への出撃は奥平の裏切りを叩く必要があるから信玄もやるだろう。
信玄なら設楽原での決戦を挑まないと言えるかどうかだが、
軍議に参加した主要メンバーは信玄以外変更がない。
良く言われる武田の豪族連合体体質を考えると、勝頼と信玄は同じ判断をするのでは?

軍鑑では、重臣たちがこぞって反対したとあるが、長坂が支持側についたという記事がある時点で信頼性ゼロだ。
641無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 20:24:50
つーか信玄が途中で撤退しなきゃ遠江・三河の征服完了してるって。
642無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 20:34:48
答えは簡単

タイムマシーンでもあるわけないし、無理だった。


机上の空論だよ



以上
643無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 20:36:44
お前それは「どうすれば俺たちが武田家に天下を取らせられるか」への答えだろ。
スレのテーマとは微妙に違う。
644無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 21:09:59
おぬし痛い所をつくのぅ


その通りだわぃ


スレ名変更と言う事で
645無名武将@お腹せっぷく:2006/02/12(日) 23:19:42
>>640

それは違うね。
合戦直前の家臣からの書状でも勝頼主導で決戦に挑んでいるのは否定できない。
長坂がいるくらいで黒が白になるわけでない。
646無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 00:16:46
ただし、重臣連中が反対したという根拠もないが
647無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 01:31:52
日本史の結果を知らない人が論じるべき議題ですな
後から〜すべきだったってのは結果や結末がまず在る、無意識の根拠や動機になるからね
君達の主観や考えなんか無意味だから、当時の人の価値観だけで論じるべし
648無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 02:20:51
二者択一で、どちらの選択もありうるがあえて一方を選んだ状況は何度となくあったはずだ。
当時の認識でも選びうる、史実とは異なる戦略を考えるのはそんなにおかしなことじゃない。
649無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 03:03:36
武田の体質から言って、本当に重臣クラスの過半が設楽原進出に
反対していたとは考えがたい。

信玄にしても、家督相続時は、板垣・甘利の傀儡だったとする説もある。
家中に頼れる基盤の無い勝頼が、独裁的に軍の進退を決められたとは
考えにくいね。特に山県が反対したってのは、戦いぶりからしても
整合性が無い。
650無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 03:15:35
武田が、本当に天下を狙うなら、徳川調略に総力を上げただろうね。

これが成功すれば、織田家の東部戦線は完全に崩壊して、地方大名に
成り下がる。徳川も内部を見れば、色々軋轢があり、家康が調略に
応ずる可能性もあったと思うね。

事前の小競り合いで、山猿の本性剥き出しにしすぎたよな。
もう少し、紳士的に遠駿の境界を確定していれば、徳川との関係は
かなり違ったはず。動物なみの物欲への抑制の無さが命取り。
651無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 03:21:15
あそこで徳川の機嫌とってもしょーがねえだろ。
むしろ押しが足りなかった。
652無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 03:55:22
徳川には信用ならない武田に寝返るメリットが少ないなぁ
なまじ武田優勢だと位置取りから独立勢力を保てなくなってしまう可能性もある
653無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 04:11:40
信用に足る大名だったら良かったんだろうけどな。
一時の勢いを見て靡く者はあっても、前科者に心底靡く者は居ない、って事だわ。
武田に天下を取らせる為には、信虎追放直後辺りまで遡って、
上洛計画を入念に組み上げないとむりぽな感じがする。
取り合えず、契約反故体質を何とかしないと。
あっちで行き詰ったから、こっち。こっちも行き詰ったから、そっち、では…。
654無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 05:41:06
長篠の合戦は織田・徳川と武田の戦略状況を一変させた。多数の武将を失った
武田家はそれまでの積極的攻勢から守勢への転換を余儀なくされたのである。危
機的状況の中、勝頼は武田の勢力と己の威信を回復させるために心血を注いでい
く。それは一時的に達成されたかに思われたが、他ならぬ勝頼自身の失策によっ
てそれすらも失敗に終わってしまう。そして、一向一揆を屈服させ余裕ができた
信長の総攻撃の時を迎えるのだった
655無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 05:43:36
勝頼は信玄の後を襲って武田家の当主となった。しかし、勝頼が継承しようとしたのは信玄
のやり方ではなく信長のやり方だった。
勝頼は天正9年2月に自分の居城である新府城の築城を開始した。その前年の12月に信長
が武田攻略の準備を始めさせているので、それに対応してのことだろう。
御周知のように信玄は居城というものを持たなかった。「人は石垣、人は城・・・」とうた
われるように信玄は家臣団の結束で国を守ろうとした。それが勝頼の代になって城に頼まなけ
ればならなくなったことで、ことさら勝頼に対する評価が厳しくなってしまった。確かに、人
を頼りにできなくしてしまったのは勝頼の責任だが、だといって先君のやり方をそのまま続け
ていくのは愚策以外の何者ではなかった。勝頼は現状を認識してそれに適応した対策を立てて
いたのである。それに城は大名の居城とか軍事上の拠点だけを意味するものでない。
城は権力の象徴である。豊臣秀吉が「普請狂い」といわれるほどに城を築城していったこと
も、徳川幕府が諸大名に命じた「天下普請」も配下の諸大名に自らの権力を誇示するためであ
る。信長の安土城や秀吉の大坂城、家康の江戸城はただ無駄に規模の大きくしているのではな
い。他の者には到底真似のできない城を築くことによって心理的圧迫を加えることで、抵抗し
ようとする意志を挫くためである。徳川幕府の天下普請によって加藤清正や福島正則ら豊臣恩
顧の大名は幕府に刃向かう力も意力も奪われていったのである。
656無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 05:45:38
その点から見ると信玄の権力ははなはだ小さく感じられてしまう。実際、甲斐国で信玄の権
力が及ぶのは甲府盆地のみであった。穴山や小山田といった連中には信玄の支配はほとんど及
ばなかった。武田家が一枚岩の結束を保っているように見えるのは信玄の個人的カリスマによ
るものである。下手すれば下剋上を招きかねない状況で領土を飛躍的に拡大させた信玄は確か
に天下の名将である。だが、その体制は旧来のものから脱却したものではなかった。
勝頼とその側近達は織田家との差を軍団構成によるものだと見ていた。信長は一族・家臣を
強力に統制することで京に上洛し、足利幕府に代わる天下人として君臨した。勝頼もそれを真
似て強力な指導体制を築こうとしたのである。新府城築城に城下町の建設が含まれているのは
家臣達を城下に住まわせるためである。そうすることによって勝頼は家臣の反逆を事前に防止
し、彼等を自分の統制下に置こうとしたのである。
    だが、信長が長い年月をかけて抵抗勢力を力で屈服させていったのに対し、勝頼にはそれが
   なかった。信長の家臣が信長に服従するのは信長への恐怖からだ。勝頼の家臣には勝頼を恐れ
   る気などまったくなかった。そんな状況で勝頼が家臣への統制を強めても彼等との軋轢が増す
   ばかりである。そしてついに勝頼は彼等から見放されることになるのである。
657無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 05:50:21
ついに武田と織田・徳川の最終抗争が始まるのだが、その前に武田氏の防衛構想を見てみよ
う。武田領国の防衛上の弱点といえば縦深が短いということだろう。毛利氏や上杉氏は信長と
戦端を開いた時点の前線と本城の距離は長かったが、武田家のそれは短かった。織田勢が美濃
から攻めてくる信濃にしても、徳川勢が遠江から攻めてくる駿河にしても、甲斐国までの距離
はさほどない。それでも敵に出血を強要することは可能で、その消耗した敵を新府城で撃滅す
るのが勝頼の狙いである。
その新府城での決戦だが、単純な籠城戦は論外である。籠城戦での勝機は強力な後詰が来る
か、敵の攻勢限界まで持ちこたえるかであるが、前者は武田に強力な援軍を送ってくれる味方
が存在しないので無理、後者も織田に対してはあまり効果はない。美濃斉藤氏にしても江北浅
井氏にしても伊勢長島願証寺にしても石山本願寺にしても籠城で信長に対抗しきれた勢力は存
在しない。
そんなわけで勝頼が構想した作戦とはまず西から信濃に侵攻するであろう織田勢を伊那〜諏
訪のルートで迎撃し出血を強いる。勝頼にとって幸いなことにその地方は自分が武田家に呼び
戻される以前に拠点としていた地域で最も忠誠を期待できる地域でもあった。そこに複数の防
御ラインを形成することで織田勢を消耗させ自軍と戦力差がなくなったところを見計らって野
外決戦に挑むというものであった。つまり勝頼は新府城を決戦戦力を収容する器と見なしてい
たのである。
さて、新府城は韮崎に築かれたのだが、この地は甲府盆地の西の入口にあった。なぜ中枢で
ある甲府に築城しなかったといえば、甲府盆地に敵の侵入を許せばその時点で勝頼の政権が崩
壊してしまうからである。そのくらい勝頼(というより武田家)の権力基盤は脆いものだった。
織田勢の進軍をできるだけ長引かせ甲府盆地の外側に位置する地理条件を有する場所それは
韮崎以外に有り得なかった。勝頼は韮崎に自分と武田家の命運を託したのである。
だが、新府城が完成することはなかった。それ以前に信長の攻勢が発動されたからである。
658無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 06:05:23
天正10年2月1日、信州木曽谷の木曽義昌が美濃遠山氏を通じて信長に内通した。義昌は
勝頼の妹婿で上杉景勝と同じ立場の武将である。武田氏の一門である義昌だが、同時に織田領
と国境を接する境目の領主でもあった。常に織田の圧迫を受け続ける位置であり、義昌の心労
は積もるばかりであったろう。主君の勝頼といえば関東侵攻に執着したあげくに遠江を失う失
態を犯している。義昌は武田一門である以上に木曽の領主でもあった。自分の領土を守ること
が至上命題なのである。
義弟の裏切りに激怒した勝頼は義昌の人質を処刑して15,000の兵を率いて2月2日に
上諏訪まで出陣した。一方、義昌の帰順を知った信長は3日、武田への最終攻勢を飛騨口の金
森長近、駿河口の徳川家康、関東口の北条氏政、そして伊那口の嫡男・三位中将信忠に発令し
た。信忠の軍勢は5万で勝頼は木曽攻めを中止して引き返した。練りに練り上げた決戦構想を
実現するときが来たのである。
    
659無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 06:09:51
ちなみに勝頼を裏切った小山田信茂はその後、信長の命令で24日に処刑された。これは木
曽義昌や穴山梅雪が事前に寝返ったのに対し、信茂は土壇場での裏切りだったからだろう。後
年の関ヶ原合戦でも事前に裏切りを約束していた小早川秀秋と脇坂安治は恩賞を受けたが、秀
秋の裏切りに慌てて西軍を裏切った朽木・赤座・小川は処分されている(このうち朽木元綱は
小早川勢の寝返り前に内通してきたので減封ですまされているが後の二人は改易された)。


勝頼滅亡後の武田家は穴山梅雪が継承する予定であったが、梅雪は本能寺の変のとばっちり
で非業の死を遂げたため、彼の遺児が跡を継ぐことになった。その子も幼くして死亡したので
家康は五男の信吉に武田の名跡を継がせた。信吉の母は信玄の姉の曾孫でその縁でのことだろ
う。だが、信吉も若死にしてしまったため家康は武田家の再興を諦め、信吉に付けられた武田
遺臣は水戸徳川家の家臣となった。

660無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 06:14:47
長篠の戦い、それは武田ファンそして武田家にとっても悪夢のような戦いであった。
かつては武田信玄のもとで「戦国最強軍団」と謳われた武田家もこの戦いを境に、じわじわと織田・徳川家
に押され始め、ついに天正9年(1581年)に、遠江の天然の要害・高天神城(かつて信玄が2万の兵でも
落とせなかった城だが勝頼が破竹の勢いで落とし、その武勇を内外に知らしめた)を徳川家に奪われてしまった。
その後天正10年、織田軍が織田信忠を総大将に美濃から押し寄せると、木曽の木曽義昌の織田家へ
の寝返りを皮切りに、家臣の離反が相次ぎ、さらに筆頭御親族衆の穴山信君までもが離反した。
そして3月11日、ついに武田勝頼は天目山で自害し、武田家は滅亡するのである。嘆かれるのはその7年前
の長篠の戦いで優れた武将を多く失った事である。勝頼とて優れた大将である。彼等が一致団結出来ていれば、
まだまだ武田家は天下を狙えたと私は考える。かえすがえす無念で涙が出てくる。
しかし彼等は、己の信念・武田家の行く末を考えて押し出し、長篠に散ったのである。
一番無念だったのは華々しく散った彼等であろう。
 信玄没後430年を記念して、武田ファンの一人としてここにその勇将達を記すことで追悼の念を表したい。
661無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 06:18:44
その他にも武田家のために多くの武将・兵達が死んでいったことを忘れてはならない。
それにしても本当にすばらしい武将達が戦死してしまったものだ。彼等が存命なら武田家は天下を取れたに違いない。
100歩譲っても、信長の天下統一は難しかっただろう。
しかし彼等が長篠に散ったからこそ、戦国という時代が早く終わったのかもしれない。実に感慨深いと思いませんか
662無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 08:12:29
>>655-661
ごめん。
せめてもうちょっとまとめてから書いてくれ。
PCでも読む気にならん。
663無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 10:57:13
>>661
武田家臣団が長篠で散ったことそれ自体が、彼らの能力では織田の打倒は出来なかった
という証拠でしょうに。
664無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 11:28:46
そうだね。本能寺で散った信長も到底天下統一する器ではない証拠になるね
家康がNO1だね
665無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 11:47:49
長篠以降の議論を誰が望んでいるっちゅうねん。
無駄なものを張り付けおってアホか
666無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 15:09:23
>>664
だな。結局、信長なんて猿の掌で踊らされてただけ。
猿は天下を統一する器はあったけど、
天下を維持する生殖機能がなかった。
狸は抜け目なく上手く渡り歩いたな。
667無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 20:48:56
ずいぶん長いコピペだが、
要するに勝頼とその側近は、信長に打ち勝つために
近世大名への脱皮を目指しており、そのために新府城を築いたが、
その段階では有力家臣団は長篠に散ってしまっており、
歴史の流れも脱皮の時間を与えなかった、ということか?

一つ指摘して置きたいが、
新府城築城を意見具申したのは穴山じゃなかったか?
じゃあ穴山は武田を近世大名にしたかったのか?

つまり、江尻城を大改築して城下町も建設したという穴山は、
武田本家より先に近世大名への道を歩んでいたということなのか?
そして、自ら武田本家の脱皮を促したということか?
668無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 21:40:31
長篠の役で古くからの有力者が多数戦没したんで、近世大名への脱皮を図ろうとする動きに出る事が出来た、と言う部分もあるんでないかな。
669無名武将@お腹せっぷく:2006/02/13(月) 21:44:32
>>654

・穴山と小山田に武田の支配がほとんど及ばなかったというのは間違い。
動員があれば断れず、棟別銭も司法権も奪われ、一族を謀反という名目で殺されているのに
同盟国扱いするのは間違い。
  
・勝頼が織田のような指導体制を築こうとしていたという話は無理ある。
長篠後も抜本的な人事改革が行われた跡は見当たらない。 

・新府城に防衛以外の効果はほとんど期待できない。理由は簡単、甲府に既に家臣団の屋敷も、
発展した城下町もあったから。
670無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 03:22:25
おまけ。

穴山は親族衆。

小山田信茂は甲陽軍艦によれば若年のため一度領地の返上を願い出て、
信玄からそれを拝領した記憶が。

長篠の後、大部分の侍大将の名跡はその子供達(養子含む)や弟が継いでいる。
山県昌景→山県昌満
内藤昌豊→内藤昌月
真田信綱→真田昌幸

ただし山県与力から足軽大将への抜擢はあった。
671無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 03:30:07
信有は優秀だった印象だが、信茂は暗愚の
672無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 07:38:09
武田家の武将は猛々しいよな
673無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 22:33:38
>>672
タケダケだけにタケダケしい…
ごめwww
我慢できなかったwww
674無名武将@お腹せっぷく:2006/02/15(水) 22:35:36
>>673
オサーン発見!
67566:2006/02/22(水) 03:28:59
>>669 とりあえず>654〜の長文を読みきったことに敬意を…orz マジ スゲー

その上で
・「棟別銭」と「司法権」にこだわっているみたいだけど
(例えば:小山田氏の領地の随所に「関所」が設けてあっ
て信玄といえども小山田氏の諒解がなければ通れなかった)
棟別銭を徴収していたのは間違いないが、検地はおろか内
政干渉すらままならなかった(放棄していた)状態であるか
ら、主導権はむしろ小山田氏が持っていた、とも言える。
(疑問:「甲州法度」にどれだけの影響力があったのか?)
そもそも「甲州法度」の制定の段階で、小山田氏などの有
力な家臣に配慮をしていた。という話もある(ソース忘れた
…orz)

小山田氏を例に挙げたけれども、少なくとも(信玄と)対等
ではないが多くの特権を有し、独立性が高いのも事実であ
る。
67666:2006/02/22(水) 03:43:28
>>669
・勝頼が織田のような…ナンタラカンタラ(省略)はオレも
どっかで見たと思う。これまたソース忘れた (焼き
そば食えねえじゃん…orz)

あう〜〜〜説得力ないな(;△;)

こっちは説得力自信あるぽ(^^)↓↓
・新府城は有名だけど、要害山城って知ってる?
http://www.sengokushi.com/daimyo/e00400.html
67766:2006/02/22(水) 03:47:39
おまけ >>671 にプレゼント
http://akazonae.seesaa.net/article/10332918.html
67866:2006/02/22(水) 03:54:35
>>650-652 今川を仲介にすれば可能性あるよ。
679名武将@お腹せっぷく:2006/02/23(木) 22:43:04
滅亡後も領民から慕われる武田家
よほど内政がよかったのかね
680無名武将@お腹せっぷく:2006/02/25(土) 21:39:13
>>675

多くの特権というけれど、司法権と収税権、軍役が一番大事だからね。
内政干渉を放棄というのも適切ではない。
小山田の場合、石高も多くないし、先陣ばかりだし、当主に早世が多かったから
あまり発言力が強かったとは思えない。
681無名武将@お腹せっぷく:2006/02/26(日) 14:03:33
>>680
先陣は名誉だぞ
それで当主が戦死しようもんなら最大限の敬意を以て遇される
それで加増がないなら特権で遇するのは当然で、それをしない大名に誰が付いていくのか
近臣でさえ疑うようになるぞ

まぁ最終的に厚遇とは言えない扱いだから叛するわけだけど、戦で当主が討ち死にする事は名誉である事は忘れちゃいけないよ
682無名武将@お腹せっぷく:2006/02/26(日) 17:10:24
でもやっぱ、重宝されてるのが先陣ばかりってのはないなあんま
68366:2006/02/26(日) 17:32:50
>>681 応援?アリガト(^^)だけど「先陣は名誉」ってのはケースバイ
ケースなんだよな…。たしかに>>680 の内容は説得力がある。ただ問題は…

・司法権すなわち「甲州法度」のスタンス及び浸透度、影響力。
・収税に関して…検地を行っていない武田にどれほどの実行力
があるのか

軍役は武田の傘下に入っている上は避けられない。ただし自領
の保全や国力秘匿などの目的から、全軍を連れてくることはあ
りえない。

そして本題
>>680 さんは「司法権」「収税(権)」などのソースから何が言いた
いのか、僕にはよく分からない。主題を求む。
684無名武将@お腹せっぷく:2006/02/27(月) 23:46:13
小山田は北条の家臣でもあったらしいが
軍役は負担してたんだろうか
685無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 09:17:04
武田が天下を盗るには上杉、北条との三国同盟が必須条件。
武田は東海ルートを攻め上り上杉は北陸ルートを攻め上る。
北条は、北を押さえる。織田 徳川を駆逐したら鎌倉あたりに
三国の合同幕府を開く。
686無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 17:15:38
俺が北条だったら留守の甲州と越後に進軍するけどな
687無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 17:23:23
結局上杉武田北条で喧嘩することになるわけだ
688無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 17:32:02
1581年、勝頼は上杉景勝と断絶、北条氏政と結ぶ。
年末、領内に上洛の大動員令を発し、二万五千の兵を美濃・遠江・三河に
同時進行させる。岩村・二俣を奪還し、見方が原で徳川軍を撃破する。
689無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 17:53:35
>>688
2万5千ぽっちで美濃・遠江・三河に分散侵攻させても各個撃破の餌になるだけ。
おまけにまた北信に対上杉の兵を常駐させなきゃならなくなるからそんなに動員できない。
690無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 18:02:48
謙信と信玄が幼少時に出会って意気投合していれば、
甲越同盟がありえたかもしれない。

かなりの偶然が重ならなきゃ無理ぽ…………
691無名武将@お腹せっぷく:2006/03/02(木) 18:52:32
>>1-690
妄想乙(全てお前らの脳内イメージだろ。ぶっちゃけ、しっかりとした話は無理。当時の映像とか残ってないし。書物くらいしか)
692高坂弾正:2006/03/02(木) 21:58:19
上杉厨が暴れていてウザイ。援軍求む
ttp://hobby8.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1139824768/
693無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 01:17:09
武田軍も騎馬鉄砲隊のような部隊を作ればよかったのに
でも鉄砲を相当調達しないといけないし実戦投入するのも時間かかるし
無理か・・・
694無名武将@お腹せっぷく:2006/03/03(金) 01:44:38
皇太子様、彼氏にしたいランキング現在10位!
投票しよう!

ttp://www.e777.co.jp/tel/i/cgi-bin/game/2004man/ivote.cgi
695無名武将@お腹せっぷく:2006/03/05(日) 20:17:04
本人に天下を取る気がなかったからなぁ…

とりあえず武田24将(だっけ?)が象徴的だが身内でトップを固めちゃいかん
やはり新参者を抜擢しなきゃ駄目
696無名武将@お腹せっぷく:2006/03/06(月) 16:14:31
>>695
それはいかがなものかと思う
697無名武将@お腹せっぷく:2006/03/10(金) 16:58:44
信玄公の戦史に燦然たる軌跡。

○信玄 × ●謙信
永禄4年(1561年)、第四次川中島の合戦。
驟雨一電、乾坤の勝負を賭ける一箇の漢、毘沙門天の化身、軍神謙信。
双眸を光らせ、大鳳が起つが如き身の動きで、神の一撃を受ける信玄。
伝説に語られる対峙であった。
戦死者、越軍が3千強、甲軍が4千強という、戦国史にも稀な激闘の末、上杉軍は退却、武田軍が勝鬨を上げる。
以降、北信濃は武田家の有に帰す。

○信玄 × ●氏康
古今比類無き名将、早雲を超える器量を持つとまで云われた氏康。
しかし相模の獅子とまで謳われた彼も、甲斐の虎を相手に苦闘を強いられる。
1569年、武田軍は小田原城を包囲(第2次小田原攻城戦)。
後北条家存亡の危機であったが、相越同盟を結んでいた上杉軍の義援により、かろうじて難を逃れる。
1571年、氏康没。
遺言で氏政に信玄との和睦を命じた。

○信玄 × ●信長・家康連合軍
三方ヶ原の合戦で鎧袖一触。巨鯨が小魚を一撃するが如き勢いで破った。
神君家康の生涯唯一の負け戦であった。
しかし、嗚呼、無常にも、信玄は1573年(元亀4年)、陣中に没する。
神々の黄昏。荘重で深淵に悲哀を秘めた信玄の死であった。
698無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 02:49:16
>>697
北条は上杉から援助なんてあったっけ?
あと武田に小田原を本気で攻める意図が無い以上、存亡の危機は過言では?
699無名武将@お腹せっぷく:2006/03/12(日) 03:48:08
>>698 しかも小田原からの帰り道にイタイ目に遭ってるしな
700信玄:2006/03/17(金) 00:23:16
むっほう。韓国、強いのう。怒涛の如き破竹の勢い、六連勝じゃあ!
鬼神も避ける強さじゃあ!
人類有史以来、朝鮮は常に本番に強い民族であった。
大舞台になればなるほど益々力を発揮する朝鮮義民。
倭乱(朝鮮侵略)、第二次世界大戦、いずれも朝鮮の輝かしい勝利じゃあ!
W杯4位! トリノで金メダル6個!! そしてWBC六連勝!!!
最早韓国の敵はなく、己自身との戦いになるであろうて。
実力は他を懸絶する、孤高の義国、朝鮮。神の半島、その姿は清冽であり、余りにも美しい。
701無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 00:26:09
三方ヶ原に北条が数千の援軍を送ってる事を忘れないでください
702暗黒兵長 ◆TclDh3O3UM :2006/03/17(金) 08:53:25
>>1
ヒント1
三方ヶ原の戦い
ヒント2
服部半蔵

703無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 11:00:11
【戦神】武田家の輝かしい戦歴【不敗】

1541年5月 信玄、武田信虎、村上義清に従い海野棟綱を攻める
   6月 オヤジ狩り開始。武田信虎追放。
   7月 諏訪頼重との同盟を一方的に破棄、名門諏訪家を攻め滅ぼす。
      12歳の幼女である姪の諏訪御料人を愛人に迎える。

1548年2月 上田原の大敗 村上5000を上回る7000もの大軍で戦に挑むも先陣を包囲され殲滅。
      重臣板垣、速攻で討ち死に。さらに中央突破を受け歴戦の重臣甘利、才間、
      初鹿野を討ち取られ、さらに信玄自身も足軽に切り付けられ2箇所に重傷を負う。
      将兵700も討ち取られる大敗。村上の被害は300程度。
      この戦によって反武田勢力が力を盛り返し窮地の陥る。
      平定に二年も費やし逆らう者を皆殺しにし、無駄に時間と軍費を費やす。
      後の長篠大敗の後の信濃大離反の火種を作成する。

1550年10月 戸石崩れの大敗 原虎胤のみならず信玄自身も偵察に赴き、万全の体勢を築き上げ、
      かつ、村上義清が高梨と交戦中の絶好の留守の機会に奇襲をするも、つい先程まで高梨軍と
      死闘を繰り広げ疲弊していた村上軍が急遽来襲。圧倒的に有利でありながらまたも大敗。
      将兵1000を失い、追撃を受け、信玄がその才能に期待していた未来の有望株であった
      横田高松が討ち死に。信玄は後年まで酒を飲むとこの者を失った悲しみを周りの者に語った。

1551年10月 小岩岳城に奇襲をかけるも失敗。後年、その恨みか落城の際には降伏さえ許さず城兵500を
      皆殺しにし、かつ、老人、女、子供に至るまでを奴隷として売りさばく(妙法寺記より抜粋)
      そのため現在でも落城の8月12日では慰霊祭が行われている。1000人を皆殺しにし、奴隷として
      売りさばき、黒川金山に連行した志賀城と双璧を成す大虐殺である。
704無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 11:02:08
1553年4月 布施の対陣 更級郡八幡で戦うも長尾軍の猛攻により一時撤退。高坂、村上義清にボロボロにやられる。
      後に甲陽軍艦において見事なまでの捏造で挽回をする。
   8月 軍を建て直し川中島で戦うも越軍の連夜の夜襲に悩まされる。
   9月 謙信に敗れ、筑摩、埴科郡に侵入され、荒砥城を落とされる。
      信玄塩田城に怯えて篭る。謙信暴れるだけ暴れて帰還。そのまま即座に上洛。
      信玄イジメの味を覚える

1554年7月 伊奈郡神之峰城主 知久頼元、座光寺氏が謀反。国内が乱れる。

1555年7月 大塚の対陣 再び越軍の夜襲に毎夜被害を出す。信玄対抗して1000の別働隊を善光寺方面より
      向かわせ夜襲をかける。が、見破られ手痛い被害を出す。ウサ晴らしに善光寺より本尊を強奪。
      兵糧が底を尽き始める。今川に頼み旭山城を撤去する譲歩でなんとか和睦。

1557年1月 村上義清の守る飯山城を攻略。失敗
      謙信まで出陣してくる事となり上田西方坂城、岩鼻付近の武田軍を撃破される。
      信玄出陣するも決着付かず。

1558年4月 信玄自ら武田軍二万を率い上州に侵攻。業政が吾妻に出陣している留守を狙うも、
      業政は間道を使って直ちに帰還。業政に蹴散らされ、翌日には食糧を焼かれ弾薬を爆発され
      軍を維持できなくなり即座に撤退。
      
1559年9月 飯富虎昌に安中城を攻撃させ、信玄は和田城の攻略に当たる。業政は援軍として駆けつけ
      奇襲を行い信玄の陣を混乱に陥れる。反撃とばかりに雉郷城を取り囲むも空城。
      長野業政は鷹留城の部下に策を与えて箕輪城に帰還。信玄は追撃しようと鷹留城を攻めるも
      反撃を受け撤退。撤退中に伏兵を受け惨敗。兵五百を失う甚大な被害を出し撤退

1560年1月 再度箕輪城を取り囲んだが、飢えと寒さに苦しむ中、さらに安中忠政に
      糧道を断たれ、長野業政の総攻撃を受け、たまらず撤退。
   11月 勝沼信元謀反の疑いで処刑。
705無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 11:03:17
1561年9月 川中島の戦い。上杉12000、武田二万弱、上杉は数ヶ月前まで関東に遠征をし、
      疲弊をしている圧倒的優位な戦。
      啄木鳥戦法にて奇襲を行うも簡単に奇襲を読まれ、信繁、諸角、室住昌清、勘助討ち死に。
      信玄自身も本陣にまで切り込んできた荒川に切りつけられる。
      死者では上杉の1,5倍、負傷者では二倍近い損害を出す。

1565年9月 義信、飯富虎昌、謀反を起こそうとしたため処刑。国を傾けた大いなる要因となる。

1568年7月 謙信と同盟を結んでいた本庄と共謀し、大軍を率いて越後を攻める。
      が、しかし越後以前の北信濃、村上義清の守る少数の小城である飯山城でさえ落とせず。
      仕方なく撤退。駿河に侵攻。

1569年4月 合戦に敗れたため、駿河を放棄して帰還

1571年1月  駿河興国寺に奇襲をかけるが見破られ敗退。深沢城攻略も失敗。全軍撤退

1573年4月 信玄没。死後娘婿の二人に裏切られる。奥平信昌、長篠城ごと徳川に寝返る
   8月 武田信廉、山県昌景、穴山信君、北遠江へ侵攻。徳川の伏兵にあい敗北

1575年5月 長篠の戦い
      死者7000、山県昌景、内藤昌秀、馬場信春、甘利信康、五味高重、安中景繁
      真田信綱、昌輝、原昌胤、望月義勝、香坂昌澄、土屋昌続、川窪信実、和田業繁、
      三枝守友、名和宗安、横田綱松、祢津是広、討ち死に
   11月 秋山信友、大嶋長利、座光寺貞房、討ち死に
706無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 11:05:07
1582年1月 木曽義昌、武田に謀反、織田に寝返る。 
   2月 武田勝頼二万の兵を率いて出陣。木曽義昌に鳥居峠で大敗。17日、平谷陥落。
      18日、保科、飯田城を捨て逃走、信廉、大島城を捨て逃走。20日、田中城落城
   3月 仁科盛信、小山田昌行、今福昌和、原貞胤、武田竜宝、武田信綱、武田信堯、
      一条信就、山県昌満、朝比奈信直、諏方頼豊、一条信竜、討ち死に。
      勝頼、盛信、信勝、跡部勝資、土屋昌恒、安部宗貞、小宮山友晴、滝川一益に討ち取られる。
      武田信豊、小山田信茂、長坂光堅、処刑
   4月 織田軍による武田残党狩り開始。恵林寺ごと焼き殺される
707無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 16:14:45
また飢えすぎヲタが荒らしているのか
708無名武将@お腹せっぷく:2006/03/17(金) 18:23:14
と、反論できない武田厨が上杉厨のせいにしております。事実じゃ反論できないか。ププ
709無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 10:32:43
事実で反論って、
上杉との係争地だった北信濃も西上野も結局そのほとんどは武田領なわけだけど。
局地戦の勝敗にこだわっても戦争に勝ったのは明らかに武田ですよ?
710無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 12:07:52
703-706は武田の上手くいかなかった部分だけを抜き出したもので、
「武田完全無敗」への反論にはなるが、
そもそもそんなことは誰も主張してない。
711無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 14:48:59
完全無敗なんて厨っぽい日本語初めてみた
一番最強とかそういうレベルだなw
712無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 14:51:57
助詞が抜けただけじゃん。
そんなに喜ばなくても。
713無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 15:18:32
無敗に完全も不完全もないから、完全は不必要だって意味なんだが
助詞とかいうレベルじゃないw
714無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 15:31:15
川中島のように「戦略的にみれば武田の勝ちでは」みたいなアヤのつけ方もあるし、
不完全な無敗ってもあるんじゃないの。

どっちにしろ、そんな言葉尻捉まえて何が楽しいんだか。
715無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 15:31:17
わかったわかった
716無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 19:05:22
>>714
そりゃあ事実では反論できないから、
そういうところに噛み付くしかないのだろう。
717無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 19:06:20
逆に言うとだよ、生きているうちは守りきった長野は別にしても、
戦で勝ったのに結局滅ぼされている村上や領土を取られた上杉は、
政治や謀略の面でどれだけヘタレだったかという話でもある。

特に村上なんか戦に勝っているのに国力さは逆に広がっているくらいだからなあ。
718無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 20:34:32
>>717
国力の差が大きいだろ、局地戦で善戦しても国力差で負けていれば次第にジリ貧になる
719無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 20:43:38
信玄が上洛しても、足利義昭を利用するのには違いなく、
やがて信玄と義昭の中は険悪に。義昭は諸国に武田包囲網を
呼びかけ、北条・上杉・毛利が呼応。北条が上洛し、北条の天下となる。
720無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 20:58:14
>>717
元々二倍の国力差があれば当たり前。
それに信玄は信濃で派手に奴隷狩りをしていたのだから益々国力差がついて当然。
それに村上は滅んでいないけど?
後、領土を取られたって飯山城何度も攻めて失敗してるんだけどさ。
逆だよ逆。冷静になれよ
721無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 21:32:09
国力差国力差というが、
村上家は埴科郡・水内郡・更級郡を中心に高井郡・小県郡にも勢力を広げ、
信玄が武田家を継承した時点では佐久郡の一部も領有していた。
信濃は石高約40万石で10の郡に分かれているから、仮に一郡の石高を平均4万石とすれば、
信玄が継承した甲斐一国22万石と匹敵するとは言わないまでも、
そこまで絶望的な国力差があったとはとうてい言えない。
少なくとも二倍もの国力差はありませんでした。

ところが、信玄が家督を継いだ後数年で諏訪郡・上伊那・佐久の一部を制圧して、
石高を1・5倍ほどには増やしたのに対して、村上家は高梨氏すら倒せず、
ほとんど領土を増やしていない。
このせいで村上家と武田家の間に差がついてしまったのですが。

要するに、戦術ではともかく、
領土を拡大する能力では、明らかに信玄の方が優れていたということ。
722無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 21:47:59
確かに信玄のほうが優れているよな。
志賀城や小岩岳城、あれだけの事をすれば支配は簡単だよな
723無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 21:52:47
高梨氏は北信濃じゃ村上氏に次ぐ勢力じゃないか?
その上長尾氏と姻戚関係にある、簡単に滅ぼせる相手じゃないと思うが?
724無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 21:55:22
村上と争っていたからな。
しかし武田は高梨や小笠原と戦い疲弊している村上相手に大敗したんだよな。
義清の強さは異常だな
725無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 22:05:06
>>723
高梨家の勢力は高井郡の一部のみ、
どう考えても村上家のほうが2倍をはるかに超える国力差です。
また、仮に背後に長尾がいて簡単に滅ぼさないなら、
信玄が北条家に対してそうしたようにこちらから手を出すのやめるべきだった。
それから佐久への進出でも村上家は信玄に遅れを取っている。
結局どうしたって領土を拡大する能力では信玄の方が優れていたという結論になりますよ。
726無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 22:19:09
>>724
義清って小笠原家と争っていたっけ?
727無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 22:43:38
武田厨発狂キーワード:飯山城
728無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 22:49:38
別に飯山城なんて大した問題ではないと思うが。
それよりも長野業正でしょう。
結局彼が生きているうちには勝てなかったから、
局地戦での敗北はあっても最終的に係争地は奪って、
戦争には勝利したといえる村上・上杉よりも武田贔屓にとってはたちが悪い。
729無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 23:04:27
その領土を拡大する能力とやらでは、
確かに信玄は謙信や義清よりも優れていたかもしれないが、
結局信長には及ばないってことになるわな。
730無名武将@お腹せっぷく:2006/03/18(土) 23:42:45
>>725
影響力を持っている地域での比較なら3倍以上あると思う。
ただ須田島津など力の強い豪族抱える連合政権であるため、
外敵には強くても攻める時は弱いかも、それに守護と言う訳でもないし。

>>728
時間の問題だったと思うが・・・
関東での北条の巻き返しと信玄の北信濃の安定と北信濃から上野へを目標とする戦略転換
60年代後半となれば上杉の関東における影響力の低下は明らかで、60年ごろと比べると
状況は悪化している、長野業正が生きていてもいずれは武田に滅ぼされる。
731無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 00:00:56
>>729
そりゃあ、別に信長よりも優れていたとは言いませんよ。
まあ信長は運も良かったと思うけど、運だけで出来ることじゃあないし。
732無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 00:18:53
運とかいう都合のいい言葉使うな
733無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 00:26:32
運の良し悪しは実際あることだから。
734無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 00:32:38
運の作用だけを厳密に差っ引くことはできないから、
「運の要素を除いた実力」などという概念をもてあそぶのは無益。
735無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 00:38:55
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        {;;;;リ:レ彡"三三ミヽ,,リ{{,,ノ;;;;ィ≦==ミ'" |;;〉l.|
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         l'、〈;', :::    :::::::t、,j iノ:::、::..    ..::::lー'/
   ,、,,,/|  ヽヽ,,', ::.、    :::::(゙゙(  ),、)、ヽ::.  イ ::::l_ノ
)ヽ"´   ''''"レl_ヽ,,,', ヾ'ー、:::;r'"`' ゙'';;""  ゙l|  ::j ::: |: l,,,,
         ゙''(,l ', l| リ {"ィr''''' ーー''ijツヽ  l| :" l  |',`ヽ,
   き 利    (l :'、 `',. 'l| |;;゙゙゙゙"""´ー、;;| ノ:  / /リヽ \
.    く  い    Z::::ヽ '、 ゙'t;ヽ ` ´ ノ;;リ   ,r' //  |
   な. た     >; :::ヽ  ::ヽミニニニ彡'"  , '::::://  |
   ┃ ふ     フヽ ::\ : ミー―― "ノ , ':::: //:   |
   ┃ う      }ヽヽ :::::\::( ̄ ̄ ̄ /:::://:    |
   ┃ な     }| ヽヽ :::::`'-、竺;;ニィ'::://    |    l
   // 口    (: |  ヽ ヽ :::: ::::::...  :://     |    |
)  ・・.  を    (  |  ヽ ヽ::  ::::::... //      リ.    |
つ、       r、{  |   ヽ ヽ   //      /     |
  ヽ      '´    |   ヽ  ヽ //      /     |
736無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 00:39:19
全くだ。
737無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 05:01:05
木曽路は険路らしいけど、度々数千単位の兵士で美濃に乱入してるよね?
三国同盟行きてる間に上杉に北信濃くれてやって全力で美濃を落とす、或いは岩村城を落として足掛かりを得てれば何とかなったんじゃね?
738無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 05:17:36
信玄の頃のメインルートは伊奈街道から神坂峠を越えて美濃に入る経路のはず。
739無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 05:36:44
>>737
北信濃を許したら、中信濃を狙われるに決まってる。
740無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 05:39:05
村上戦を上手くこなして、北信濃に足がかりを与えない。
二年も早ければ十分だ。
これがベストだと思う。
741無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 09:23:26
>>739
謙信は越後を守るために仕方なしに北信濃で戦っただけで(義清の何通もの愚痴メール存在)
形式上だけ北信濃を豪族達に返せば問題なかったんだよ。後は調略で味方につければいい。
北条はそうやって関東を手中に収めた。信玄も頑固に越後の港を狙わずに少しは北条見習えばよかったんだよ

742無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 09:34:09
確かに武田の戦略は確かに凄いが、北条に比べたら稚拙だよな。
もっとも戦力比で
今川>北条>>>武田
だったのだから仕方ないのかもな。限られた戦力ではな
743無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 11:09:33
>>737
美濃が落せない
北信濃無しじゃ国力は武田より斉藤のほうが上

>>740
2年早ければ越後はまだ内乱中、場合によっては越後も取れる
長尾が介入する最初の川中島の直前時には村上を追い出し、
越後国境付近まで武田の影響下になっていたから、
長尾の介入が無ければ北信濃は武田のものだった
744無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 11:22:24
結局村上に喫した二回の敗戦とそれによる時間のロスが痛い、
特に上田原で勝っていれば大分違っていただろうにね。
745無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 11:29:56
>>741
>謙信は越後を守るために仕方なしに北信濃で戦っただけで
同感
1回目は武田の先鋒が越後国境まで迫っていたため
2回目は武田が旭山城?を調略で奪ったため
3回目は謙信が出奔している間に武田が北信濃を取りこんでいったため
4回目は海津城砦群ができたため
5回目は武田が飛騨越中での戦いを有利にするため川中島へ出兵したため
>>744
あそこで勝っていたらかなり違うだろうな。
746無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 11:30:30
>>743
謙信相手じゃそう簡単にいかないだろ。時間がかかる。春日山もやっかいだからな。
阿賀北衆と為景の弾圧で激化していた越後一向衆と連携すれば時間はかかるが落とせるだろう。
謙信を取り込むって手もある。信玄の器量なら可能であり、それが一番良さそう。
が、他の情勢がどうなるかな?長尾は葦名や伊達とも連携取るからな
747無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 11:46:12
>>746
対武田戦では葦名や伊達との連携は無理だろ
逆に火事場泥棒するんじゃないか?
>阿賀北衆と為景の弾圧で激化していた越後一向衆と連携すれば時間はかかるが落とせるだろう。
それまでの越後の状況やその後の越後での反乱考えれば、
他に上田長尾家や守護家の奉行衆各地の国人衆も武田に付くかもしれない。
748真田昌幸 島津義弘:2006/03/19(日) 11:47:48
謙信と争わず美濃と三河を攻め家臣にしていれば問題なし。特に三河武士は強いから
749無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 13:53:25
秀吉が足利義秋へ養子にしてくれと頼んだ時、武田の生き残りの誰かが
秀吉を養子にすれば良かった。武田秀吉となり征夷大将軍に就任し
武田幕府誕生!信玄の娘・お松姫を側室に出し見事懐妊したら2代目
将軍になれるかも・・・名家好きの女好き秀吉だから喜んで飛びつく。
750無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 17:01:20
誇り高い武田が賎民なんぞに嫁を出すか
751無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 17:29:29
武田信玄のあの性格では天下は取れんよ。
戦略があまりに慎重すぎて、機を逃してしまうだろうよ。
三方が原で勝利しておきながら、浜松城から撤退して
しまったのが良い例。信長だったら間髪入れずに浜松城
を攻め取ったはず。

若き頃の信長は「信玄も謙信も所詮は侍大将程度の器」
と言って林佐渡を怒らせたという。
752武田信玄:2006/03/19(日) 17:31:49
わしは信玄入道じゃ!
753無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 18:11:39
>>751
信長がそんな無謀なまねするわけないだろう。
754無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 18:32:12
>>751
信長は姉川の合戦で勝利を収めても、勢いに乗って追撃の兵を出すことはしなかった。
大手門を破るチャンスだったにも関わらず。
長篠の合戦でも深くは追っていないなぁ。
場合によっては勝頼を捕捉できたかも知れないのに。

それに対して三方ヶ原の合戦の後の信玄は、残敵掃討戦で大きな犠牲を出してる。
755無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 18:59:03
朝倉滅ぼす時や秀吉が勝家滅ぼす時とかは徹底した追撃をしているけど
他にこれはという例ある?
756無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 20:28:08
>それに対して三方ヶ原の合戦の後の信玄は、残敵掃討戦で大きな犠牲を出してる。
夜襲受けて崖下に数十人か数百人が落とされた件?
757無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 20:32:24
やはり、義信事件が大きかった。この事件は謎が多い
義信には嫡子はいなかったのか??
758無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 21:11:17
作戦の成り行きなんてものは彼我の戦力や進行中の作戦の目的、周囲の情勢などによって変わるものであって、
「信長なら」みたいに武将の個性として論じるなどナンセンスの極みだ。
759無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 21:11:28
>>756
あれはネタだろう
夜中に追撃したのと地理に暗いため、軍が四散し再編に時間かかったというのは聞いたことあるが
760無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 21:55:30
ネタだろうね。
一矢報いたみたいな演出しとかないとw
761無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 22:29:02
>>758
>作戦の成り行きなんてものは彼我の戦力や進行中の作戦の目的、周囲の情勢などによって変わるものであって、
それは全くその通りだがそれらを踏まえた上で最終的にどんな判断を下すかは個々人の人格によると思うぞ、
数学のように答えが決まっているわけじゃないんだし。
経営学?風に言うならリスク回避型とリスク愛好型(だっけ?)リスク中立型があるように。
762無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 22:57:30
状況>趣向
763無名武将@お腹せっぷく:2006/03/19(日) 23:56:47
>>759
様々な本に書かれているのにか?慰霊碑も建ってるらしいのに?
まあ三河物語とか読んでると徳川はイマイチ信用できないが、全否定はどうかな。
武田必死だなwwwwwwwwww言われかねない
764無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 00:13:30
状況からして、「大損害」を与えられるような情況では全くないと思う。
僅かの損害を大きく言い立てただけでは。
765無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 16:40:29
人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり
766無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 20:18:52
地理不案内な場所で薄暮に兵を動かし、四散した敵を追うこと自体が危険だ。
四散した敵は追わずに、兵をまとめて一気に大手門に迫るべきだった。
そうする気がないなら時間を切って掃討終了指示をだすべき。
767無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 21:17:25
>>758
> 「信長なら」みたいに武将の個性として論じるなどナンセンスの極みだ。
部下や領国の状態、領主としての戦略目標などはそんなに変わるものではない。
近代軍ではないんだし、そういう要素が戦術レベルに反映するのはあたりまえではないのかと。
768無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 21:52:23
どっちかというと配下の一族国人衆などに対してどれだけ大名の権限が強いかで
よりリスクのある作戦が取れると思う
769無名武将@お腹せっぷく:2006/03/20(月) 22:18:36
何故武田ファンの方はどのスレでも武田は天下を取れた!!!と必死なんですか?
770無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 00:16:58
武田ファンだから
771無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 12:27:34
772無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 12:46:42
>>769
島津厨や伊達厨よりはマシ
773無名武将@お腹せっぷく:2006/03/21(火) 17:51:19
義秋「信玄近う寄れ!」
信玄「はは〜あ!」
義秋「良くぞ信長を破り上洛いたした。大儀であるぞ!今後とも良しなに
   頼むぞよ!」
信玄「勿体無きお言葉、この信玄恭悦至極にございます。」
義秋「信玄!余は その方を管領か副将軍に任命したいがどうじゃ?」
信玄「上様!そのようなお役目・・・この信玄ありがたく拝命いたしまする。」

仮に上洛してもこんな感じで終わるよ。将軍義秋のパシリだよ。
本願寺や義秋に気使って天下どころじゃないよ。本願寺を石山から退去
させたり義秋を追放するような芸当は信玄坊主には絶対無理!
774無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 00:03:52
信玄死んだら粗暴な勝頼が後継ぐんだろ?
京を荒らして即謀反発動だろうな
775無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 00:14:48
>>758
信玄の思考は「戦に負けないこと>>天下平定」なんだよ。
逆に信長の思考は「戦に負けないこと<<天下平定」なんだよ。

この意識の差はでかいよ。
776無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 06:04:09
猪武者のイメージがあるけれど
実際の勝頼は物静かで思慮深そうな人なんじゃなかったか。
777無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 08:29:59
じゃあ、間をとって物静かで思慮深そうな猪武者ということで。
778無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 13:54:33
それ結局、猪武者じゃね?
779無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 17:25:19
しんげんの最後の言葉って

 「是非も無し」

   だったよな。
780無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 17:49:56
>>779
それはしんちょう
781無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 20:20:22
>>775
その割りにやたら負けてるがな
782無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 21:22:01
あくまで「意識」のレベルですからね。
実力で「確実」にそれを遂行する力量があれば、どちらの思考でも天下は取れますが、
そんな神レベルの人間は居ませんから、そういう「意識」なら信長や氏康の方が上だったんだろうなと。

後、人は〜とか言って城を移さない信玄には急速な領土の拡大はかなり厳しいので、
連戦連勝しても、500万石までいく前に寿命が来てしまう。天下を獲るにはまず意識改革からですね。
783無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 21:30:26
>後、人は〜とか言って城を移さない信玄には急速な領土の拡大はかなり厳しいので
そのための、一級建築士山本勘助なんだが数が足りなかったな。
後人の育成もしてねーし。
784無名武将@お腹せっぷく:2006/03/22(水) 23:29:08
>>776
武田家滅亡の原因は勝頼ではなく、山県を始めとする武田家臣の老害
のため、という説もあるしな。
785無名武将@お腹せっぷく:2006/03/23(木) 02:20:29
>>783
姉歯を登用する先見性があれば天下取れてた
ってことか?
786無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 03:14:03
>>776
一因としてそれはあるだろうね。
特に成功した老人は、自分の体験から頑固になるらしい。
こう言うときはこうすれば成功する、今までそうやって俺達は成功してきたから間違いない、と。

割と時代を問わずに起こる現象だね。
787無名武将@お腹せっぷく:2006/03/24(金) 03:15:03
アンカーミス、すまん。
一応、776じゃなくて784で。

詰め腹切ってくる ノシ
788無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 16:17:28
>>786
真田昌幸も山県達からは「なにを若造が」と疎んじられていたようだからな。
信玄病没後に山県達が潔く隠居し、勝頼と昌幸が武田家を引っ張っていたと
したら、ひょっとしたら歴史が変わったかもしれないな。
789無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 16:53:33
武田家は信玄の代で取るには無理だった。
家督相続を外交力のある人材に継がせていればあるいわ。
むしろ勝頼をタイミング良く討つ位の機会を見る目の持ち主が
息子にいれば良かった。
790無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 17:07:44
ゲーム上は道が繋がってるけど
美濃〜信濃間で軍隊の移動など不可能。
791無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 17:51:43
信忠も秀忠も大軍率いて行軍しただろ。
792無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 18:09:55
山本勘助とシンゲン自身が五年長く生きたら天下統一
793無名武将@お腹せっぷく:2006/03/25(土) 23:53:17
築城奉行が五年長生きしても意味はない
794無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 07:04:16
>>791
木曽路を行けるかどうかは天候による
秀忠は雨に祟られて遅刻したし
武田逍遥軒は雪に祟られて進退窮まってるうちに
小勢の木曽勢にやられてしまった
795無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 07:27:45
あの時代は本当に雪がでかいよ。
今と違って、マジで隔離状態だからなぁ・・・・
年の1/2近くも外部から閉ざされるってハンデはでかい。
行軍的にも国力的にも。
796無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 07:30:24
義信が生きてれば、信玄亡き後に
義信&飯富・重臣vs勝頼&真田その他の「館の乱」が起きてたかもな。
797無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 09:03:15
義信が後を継いでも織田か上杉と戦わないといけないから
結局時間オーバーで信長拡大で終わりだったろ
798無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 09:08:47
>>794
秀忠の遅参は天候のためというよりも、単純に連絡が遅れたから。
それ以降は普通に行軍しています。

結局木曽路は当時の標準からすれば、
特に際立って行軍に支障をきたす悪路というわけではありません。
799無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 09:53:13
http://www.geocities.jp/senryusai/senryusai.hidetada.html
急いで中山道を西上する秀忠だが、使者の遅参があまりにも大きく、難所の行軍も天候不良が加わって手間取り、結局決戦に遅参してしまう。

http://homepage1.nifty.com/SEISYO/hidetada.htm
秀忠のもとに着いたのは、9月9日である。秀忠は大慌てで、真田に対する押えの手配をし、翌日、小諸を発った。
その後も雨は秀忠軍を悩まし、木曽川も渡れず、進軍は遅々として進まなかった。

http://frontierside.cool.ne.jp/jwa/selection/sekigahara/sanada.shtml
秀忠が関ヶ原の合戦の勝利を知ったのは合戦の翌十六日であったが、その時点で彼が率いる大軍はまだ木曽福島に辿り着いたに過ぎなかった。
800無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 10:06:39
>>791
信忠の進軍経路は、大島を落とし、高遠を落として進んでるから、
秋葉街道経由だな
801無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 10:14:33
松姫と信忠が結婚していれば…
802無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 10:46:53
秀忠が小諸を発ったのが9月10日。
美濃赤坂についたのが9月19日。
3万8千の大軍を率い、悪天候であったにもかかわらず、
信濃の上野との国境に近い小諸から、美濃の西部近江近くの赤坂まで、
木曽路を通って10日間で移動している。
東海道あたりとは比べるべくもないが、それほど際立って遅いというほどのものではない。

つまり、木曽路は仮に悪天候であってすら、大軍で行軍可能であるということ。
803無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 10:51:31
信玄LOVEええええええええええええええ
804無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 11:17:53
19日に赤坂へ秀忠到着を信じるなら、
秀忠が妻籠宿に着いたのが9月17日で、ここから美濃赤坂までの約100kmを2日で進んでることになる。
1説には妻籠宿で関が原勝利の報を聞いたともいう。
http://www.makino-mingei.jp/text_2.html

それに対して木曽福島までの行軍だが、
小諸を10日に立ち、木曽福島に達するまでの約80kmを6日で進んでる。
和田峠を避けて大門峠を経由してるが、それでも+20kmくらいだろう。
行軍はこの間、かなり難渋したと考えるべきだ。
805無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 11:38:04
ちなみに家康は9月1日に江戸を立ち、14日に岐阜赤坂本陣に着いてる。
秀忠が天候不順で苦しんでいた同じ時期の行軍ということになるが。
しかも指揮官は、高齢の家康である。
806無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:01:32
>>804
信濃は山がちな地形が多いからそんなものだろう。
信濃−美濃間に限った話じゃあない。
東海道と比べて行軍が遅くなるなんて当たり前。
いずれにしても、
>>790の言うように不可能だなどということはありえない、
現に3万8千の軍が行軍しているわけだからね。
807無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:02:43
北信濃は村上にさっさと返却しとけば謙信と戦う必要も無かった。
その状態でさっさと駿河に侵攻し、三河→尾張→・・・と進めば
武田の天下になったのでは?信玄ってどこか小さいよな。

若き頃の信長は「信玄も謙信も所詮は侍大将程度の器」と言った
そうだが、正にその通りだと思う。
808無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:05:06
>>807
北信濃も西上野もなしの国力では今川にも勝てませんよ。
809無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:16:30
>>808
謙信との戦いで疲弊した国力よりはましだろう。
それに決定的に国力の劣る信長が今川に勝ったわけだし。
810無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:24:33
>>807
謙信との件はそうかもしれんが今川はなかなか難しいだろ。
史実でも内輪のゴタゴタや北条の介入で随分苦戦したし。
811無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:26:43
>>809
疲弊っていうが、石高は確実に増やしていますよ。
甲斐だけからみれば4倍、信濃の半分を領有した状況からでも約2倍にしている。

そもそも、信玄が国力で勝る相手に勝てるほど戦上手なら、
謙信相手にそこまで苦戦しません。
812無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:34:19
結局信玄も謙信もどっちもどっちだよ。両者とも負け知らずで神格化されてるけど…実際は負け戦は結構してるんだよな。
813無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:38:56
甲斐が約22万石で信濃が40万石、仮に信濃の半分を押えたとして石高の合計は約42万石。
対して今川は駿河・遠江・三河合わせて約69万石。
基本的に自分よりも弱い国力の弱い勢力を攻めて、
それでも対村上戦のように不覚を取ることのある信玄に、
この国力差を跳ね返せというのは酷というもの。
義元は桶狭間で敗死したとはいえ決して愚将とはいえないし。
そもそも村上だって南信濃を狙っているのだから北信濃に村上がいる以上、
背後も心配しなければならない。
以上の情勢から南信濃制圧後今川とことを構えるのは全く無謀で話しならない。
814無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:51:52
>>809
北、せめて中信濃までは取らないと今川に勝てるわけがない。
甲斐なんて駿河、遠江と比べたら本当に枯れた土地なんだから。
ましてや村上を残したら、常に北に危険が残ることになる。
村上残したまま、上杉と組まれたらもっとやばくなること請け合い。
村上と小笠原を攻めなかったら、上杉と敵対せずに済んだなんてありえねー。
815無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 12:57:38
信玄は完全に甲斐と信濃を支配したわけではないのは確かだよ。
まだ村上や長野といった勢力がいたわけだし…そういう憂いがありながら川中島で謙信と4度も戦ったし…信玄も無茶なことしたよな。
816無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 13:03:50
謙信は雪の日本海側を延々と進むより、南下したかったんだよ。関東取ろうとした理由もそれ。
武田が北上してなくても、戦場が川中島になってなかっただけで、どこかでぶつかることになった。
817無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 13:05:10
むしろ謙信と信濃で争うことになったのは、信玄の信濃攻略が遅かったからともいえる。
このスレで大分前にも言われたが、せめてあと2年できれば3年早く信濃を制圧すれば、
当時越後は内紛状態だったので長尾景虎に信濃に介入する余力はなかった。
ところが、村上に二回にわたって破れ時間を空費しているうちに越後がまとまってしまった。

つまり元はといえば、村上に一気に勝つだけの力量がなかったからそういうことになったのに、
村上よりもはるかに国力は大きな今川には勝てると思うのは、あまりにも都合が良すぎる妄想だ。
818無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 13:11:00
>>815
何言ってるの?
村上なんて謙信の下に亡命しているし、
関東管領家の旧臣である長野氏も謙信と連携している。
つまり、長野氏との戦いも川中島の戦いも、
同様に北信濃および上野の領有を巡る上杉との対立の一部であり、
他の憂いがあるのに川中島で戦ったというわけじゃあない。
819無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 13:12:19
って言うことは

織田信長>今川義元>武田信玄≒上杉謙信

なのか?
820無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 13:22:22
織田信長が今川義元に勝てたのは、信長が演じたうつけぶりに
義元が引っかかってしまったから。

既に有力大名としての風格を持ってしまった信玄や謙信には
到底まねのできないことである。
821無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 13:22:42
>>818
すまん…まだ戦国時代にかじりついただけの知識しかないからそこらへんは把握できなかった。
信玄は村上以外に長野の領土に何度か侵攻したとは聞いたよ。
822無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 13:22:44
>>819
桶狭間に関しては信長は運が良かっただけ、
仮に一戦して勝っていても義元を討ち取っていなければ結局ジリ貧になっただろう。

時期にもよるし、
特に上杉は関東の諸将を糾合して一時的にとんでもない大勢力になったこともあるので、
何とも言えないが、桶狭間の戦いの頃における大名の国力は、
だいたい今川>武田≒上杉>織田くらい。
823無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 13:25:54
>>820
義元って有能だったの?
信長の策にはまって…あっけなく死んだから有能の将には見えないんだよな。
824無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 13:27:42
アンカーミスした…orz
>>823のは>>819に対して言いました。
825無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 13:31:50
>>823
内乱に勝利して家督を継ぎ、
三河をほぼ制圧、織田信秀との争いも概ね有利に進め、
尾張の一部にも勢力を伸ばしている。
普通に有能な戦国大名です。
826無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 13:35:48
まあ、義元は信長の力量を見抜いた斉藤道三よりは劣るかもな。

ただ、道三も信長と直に会見したから見抜けたことかもしれないが。
827無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 13:39:17
直に会わずに見抜いた朝倉宗滴が人を見る目は最高ってことで。
828無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 13:50:12
死期まで見抜いた安国寺の方が・
829無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 15:41:58
安国寺は家康と三成の力量を全然読み違えていたからダメ。
830無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 15:59:03
>>828
あいつ、死期なんて読んでないぞ。
天正元年の時点で「三年から五年後に頂点になってたかころびに〜」
本能寺は天正十年。

時期の特定に失敗している予言は、外れた予言です。
「三年から五年後に自衛隊がクーデターを起こす」と予言して、10年後に起こった
のなら、この予言は当たったのか外れたのか?
831無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 16:47:28
信長方についていた者がいずれ転ぶと思っていたというなら、
洞察力が鋭いとも言えるが、元々敵対勢力の者だからなあ、
やっかみ半分で「もうじき失敗するよ」くらいのことは言って当たり前かもしれない。

まあ、外交僧として活躍して、
毛利家や秀吉からも重く用いられたそうだから有能な人物ではあったのだろうけど、
秀吉死後の動向から見てもさほど時節が読める人物とも思えないわなあ。
832無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 18:31:16
>>806
1日20kmに満たない行軍は軍の行動としては致命的に近い。
もし1日60kmの強行軍が可能だったら秀忠は関が原に間に合ってる。

軍隊は屈強な男子の集団だから、必要があれば進軍はできる。謙信も冬の三国峠を何度も越えてる。
しかし、雨や雪の中であれば、進軍とともに体力も消耗してくる。
戦場に着いた頃には兵が疲弊している可能性もある。
そんなのは軍道として役に立たない。

>>798の言を借りれば、悪天候に見舞われれば、「特に際立って行軍に支障をきたす悪路」ということでいいと思うが。
833無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 20:30:52
無理無理。
生まれた場所が悪すぎる
834無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 20:32:17
>820
有力大名としての風格を持ってしまった信玄や謙信

歴史を学べ
漫画の歴史じゃなくてなw
835無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 21:20:17
>>834
>有力大名としての風格を持ってしまった信玄や謙信

これは案外馬鹿にできないぞ。
謙信が鶴ヶ岡八幡宮での関東管領就任式で無礼があったとして成田長泰の頭を扇ではたいているぐらいだぜ。
やっぱ、御屋形様は殿さまに比べて気位たかいよ。関東管領なんてそれこそ…。
836無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 22:24:48
>>820
>信長が演じたうつけっぷりに
'`,、('∀`) '`,、
837無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 22:44:53
>>835
そんなヨタ話し信じているのか?
838無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 22:47:53
>>823
国をまとめ上げ北条を駆逐し、三国同盟を結び大勢力を築き上げた武将。
無能ではないんだがな。それに桶狭間はファンタジー溢れる奇襲戦じゃないぞ?
839無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 23:06:05
信長うつけ演じてとか、桶狭間は超小勢VS大軍の雨天奇襲戦とか・・・・・
いまだに「演出」ネタを史実だと思ってるヤツっているんだな。これだけネットが普及してる時代に。
840無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 23:12:16
桶狭間は義元が駄目だったと言うより中世的な豪族連合体の鈍重さが災いした、って説だっけ?今は
841無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 23:25:07
だったら、武田騎馬軍でも勝てそうな気がするのだが・・・
何故、織田軍なら勝てて、武田軍では勝てないの?
842無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 23:43:47
騎馬隊が存在しないから
843無名武将@お腹せっぷく:2006/03/26(日) 23:54:29
>>837
与太なのか?
まあ俺の知っている話と>>835は大分違うけど
844無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 00:04:24
>>841
史実の織田は普通に戦に強い&桶狭間は運
史実の武田は戦に弱い、自分より弱い相手としか戦っていない&それでも負けたりする
845無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 00:59:22
武田って、良い武将ばっかいるよね
馬場とか、源とか、
武田は知恵があるやん
846無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 01:14:59
山本もいいね
847無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 02:26:01
武田家は勘助のおかげ。武田の頭脳は勘助。
848無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 02:32:56
>>838に禿同
849無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 06:47:56
義元は最後に自分の首をあげられるって大失態のお陰で評価下りまくり。
ちなみに氏真だって楽市楽座を始めたり、義元の死後かなりしっかり領内を治めている。
雪斎みたいな存在がいれば、また違う形になっていたと思われる。
850無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 07:47:28
>>847
勘助の子の関山僧がそう捏造したから。
実際は今川に仕えていた名建築奉行。身分は足軽
851無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 09:03:15
天下取れるかは知らんけど、信玄死なずに徳川やられて尾張に雪崩れ込んでこられたら
さすがに危機回避名人の信長くんもやばかったような気がする。
852無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 10:26:24
徳川がやったように、織田の同盟者として付き従って
当主が幼年ないし隙の多い人間になったら取って代る
そういう手段が一番じゃね?
正面から打倒なんて危険すぎるべさ
853無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 10:29:28
信長のうつけっぷりは事実
でも自身が後に「自分が武士としてやっていけるのは、命を賭けて平手が諌めてくれたお陰」と述懐してるから大名として独り立ちしたあたりではもうやめてたんじゃ?
評判はついて回ったかもしれんが

桶狭間は信長公記を信じると、雨が都合よく降ったのを利用しての正面突撃(敵陣営のど真ん中突破してることになる)。まだ謎が多いね
854無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 10:46:21
平手が切腹したのは、信長を諌めたわけではないって説もある。
むしろそっちの方が有力。
855無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 11:04:04
>>854
この場合は信長自身がその行為をどうとったか、じゃないの?
856無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 11:09:18
信長がそもそもうつけのフリなんてしてなかったって話。
857無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 11:10:45
ふりではなくてマジだったんだろう
若い頃やんちゃした大名なんて珍しくも無いし
平手の死因については信長公記はかなり後ろ向きに「守り立ててもどうしようもないから」切腹したとある
さらに、平手の子供と信長が馬の争いで不和になった、とも
史実は美談とは程遠いのは確かかもな
858無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 11:14:26
元親みたいに大人しければそれはそれで評判が悪い
お坊ちゃまも大変だな。この二人は実力を後に示したけど
信玄も少年期は大人しすぎて信虎に疎まれたんだっけか?
859無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 11:43:04
勘助って周倉みたいな軍艦だけの架空人物じゃん
860無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 12:12:18
koeiに毒されてるスレだな ゲームと混合しすぎ
861無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 12:31:42
コーエイ嘘ばっかストーリーでるんだもんw
戦国無双だって、お市けんだまもってるし。
862無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 20:57:18
山本菅助=山本勘助らしいから、軍鑑の勘助は実在の人物と見ていいんじゃないか。
863無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 21:05:01
平手が死んだ理由はよくわからんが、
信長は平手のために政秀寺を建ててやったんだから、
奴なりに思うところあったんじゃねぇの?

平手の館は信秀よりも大きく豪華だったという話もあるくらいだから、
織田家の重臣中の重臣だったんだろう。
しかし、傀儡にしたかった信長を上手くコントロールできなかったんだろうな。
板垣と信玄との関係との相似を感じるが、
信長の方が器が大きかったと。
864無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 21:07:58
寺まで建てたんならある程度従来の逸話通りの面はあったんじゃないの。
865無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 21:19:59
>>862
実在はするが甲陽軍艦に書かれているような勘助は存在しない。
史実の孔明と演技の孔明みたいなもんかな。
史実の世界でも活躍してた孔明とは全然違うけどさ。
866無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 22:00:00
>>865
つ 高遠城、海津城、小諸城の築城

特に高遠城には彼の名前がついた曲輪があるくらいだよ。
867無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 22:06:04
実在が証明されたのは、「使番」の山本であって侍大将や軍師ではないでしょ
イコールでは結べないと思う
868無名武将@お腹せっぷく:2006/03/27(月) 23:58:04
当時史料についていえば、川中島で戦死した武将クラスの中には武田上杉双方ともに山本勘助の名を示す史料は無い
使番から侍大将に、という経歴が事実なら不自然すぎるからな
実在の山本をベースに虚構を載せたって説があったっけか
869無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 00:00:41
>>867
甲陽軍鑑には軍師っていう表現はどこにも使われていないらしいよ。
だから軍鑑の勘助はやっぱり山本菅助であると言っていいと思う。
870無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 00:22:18
>>832
あの、1日20kmって木曽路の行軍速度ではなく、
信濃を横断する間の速度ですけど。
要する木曽路に限らず信濃一般でそのくらいのものということ。
どちらにしろ、木曽路だけ特別に考えて信濃―美濃間は行軍不可能なんて話にはならない。
871無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 00:30:19
>>832
ちなみに人間が歩いた場合の速度は普通時速4kmくらい。
山がちな地形で、今よりもはるかに状態の悪い街道、
槍のようなかさばる荷物を持ち、兵糧等を輸送する荷駄隊もいて、
その上悪天候という条件で、1日に20km進めればかなりいいほうだと思うが、
何を根拠に致命的に近いなどと?
872無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 00:52:38
>>869
本気で言ってる?
873無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 01:11:57
そもそも片足で人相悪くて、一度今川に仕えたけど冷遇された兵法剣術の達人なんて
講談の人物像ですがな
874無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 01:56:34
甲陽軍鑑の勘助が実在の山本をベースにしているとしたら、その限りにおいてまったくの虚偽というわけでもないかもな。
甲陽軍鑑の勘助は脚色された実在の山本菅助という>>868の紹介の説でいいんじゃないか。嘘ではないが本当のことでもないということで。
875無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 08:34:19
そのベースまでも脚色する馬鹿がいるけどな
876無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 12:40:00
>>801
それなら、そもそも信長の養女が死ななきゃいいのさ
877無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 15:32:26
そもそも軍師なんて平気で使ってる奴を相手にする必要ない
878無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 15:44:37
山本を軍師って言う馬鹿は漫画の美杉
879無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 16:00:49
>>706
長坂は天目山で死んだんだぞ
880無名武将@お腹せっぷく:2006/03/28(火) 18:57:04
コーエー
881無名武将@お腹せっぷく:2006/03/30(木) 00:19:25
信玄が駿河とれたのも信長が桶間で今川倒したからだろ。自力で天下は無理だったよ。
882無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 18:30:12
まあ、正直実力不足の感は否めないわな。
結果的に重大な影響をもたらしてしまった明白な戦略ミスとかがあるなら、
逆にそのミスさえなければ或いは・・・という話にもなるのだろうけど、
大まかに言えば妥当な戦略を行い、順当な結果を得ているから一発逆転の要素がない。
失敗することも当然あるが、それも兵力は優勢だったのに戦術的に敗北したとか、
実力不足によるものなわけだし、
端的に言えば軍事的な能力が足りなかったから天下は取れなかったと言わざるを得ない。
883無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 22:11:31
信玄は武田家をあそこまで大きくできたのが凄い
884無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 22:25:40
すべて、運っていってもいいし
信玄の武将が(・∀・)イイ!!ばっかだった
勝頼の行動はすべて地獄へむかっているようなものだと思う。
第一、長篠の戦で信玄は信長と戦って勝ってるっていうことがあるし
あの長篠の戦は信玄いれば勝てた
885無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 22:27:54
信玄いても普通に負けただろ
886無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 22:34:15
致命的な大敗は喫しないだろうけど、勝てなかっただろうね。んで、鉄砲の脅威を知って 騎馬と絡めて、最強の騎馬鉄砲隊 完成だぁー!!っていうのは、どう??
887無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 22:38:19
>>886
鉄砲の威力なんて知っています。
大量に用意するのが地理的経済的に無理だっただけです。
888無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 22:42:21
絶対そうくると思った。やっぱ堺をおさえた信長は、すごいね。先見の明ってヤツかっ。
889無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 22:47:42
まあ、畿内制圧すれば誰でも考えることだがね。
890無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 22:53:57
信長の鉄砲供給源は国友鍛冶
育成して奨励したんだよ
元々信長は家督を継がない時代から500丁鉄砲を揃えるほど重要視してたからね
891無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:01:23
信玄が鉄砲を買っても肝心の硝石がない。
鉄パイプで特攻が関の山
892無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:07:24
硝石の国産化が進んだのっていつだっけ?
当初は貿易だよりだったんだよね
奴隷に日本人を売ってまで西国大名なんかは入手競争してたし
893無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:11:50
>>892
越中五箇山だよ、天正以前(越中一向宗)。

信玄も天文年間に300挺(第二次川中島合戦で旭城砦に搬入「妙法寺記」)揃えてるんだが?
894無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:26:22
長篠合戦の3000挺は甫庵の捏造
鉄砲記もガセ。火薬は紀元前2世紀に中国で開発され
少なくとも元寇の段階で日本に伝わってる。武田の狼煙台伝令
は狼の糞から採取した硝石(硝酸カリウム=糞尿から培養・結晶化)で、
日本でも室町中期から鉄砲(中国製)に汎用されていた。
文字史料が伝承されていないのは、相伝(口伝え)だったから。
戦国時代の史料としては、大友宗麟から足利義輝→上杉謙信に伝わった
火薬並鉄砲の次第(上杉文書・永禄2年)だけが残ってる。
織田信長が若い頃から鉄砲に着眼したというのは、江戸時代の創作だ。
長篠の合戦のあとに本願寺に鉄砲戦で大敗してることからも、甫庵のウソはバレバレ
895無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:27:32
勝頼の代まで輪番制の鉄砲奉行さえいなかった武田だぜ?
一応軍役には鉄砲も指定されていたけど、上位に上がったのは長篠後
三方ヶ原でも遠距離戦に使ったのは石投げ隊だしな
896無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:29:28
>>895
鉄砲奉行?
初耳だが、出典は??
897無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:32:03
三方が原時点ではどこも大して鉄砲なかったろ
徳川織田連合軍だってろくに持ってなかった
898無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:32:33
ちなみに、
「妙法寺記」一次史料(原本)
「甲陽軍鑑」軍記物語
「信長公記」編纂(二次)史料の写本
899無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:33:51
>>896
天正8年軍役定書
正確には「鉄砲玉薬奉行」
900無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:36:44
>勝頼の代まで輪番制の鉄砲奉行さえいなかった武田だぜ?
>一応軍役には鉄砲も指定されていたけど、上位に上がったのは長篠後

訊いてるのは↑だ!
武田の軍役帳とか織田の軍役帳とか、現物があるのか??
確実な軍役関連の原史料は上杉の永禄年間のものと天正三年だけ。
901無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:38:04
>>900
おいおい、そりゃ軍役衆全般を網羅した資料は、だろ
例えば武田家朱印状鉄砲奉行宛なんかは現存しとるよ
902無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:38:16
>>899
どの史料に収録されてるヤツか?
史料名まで明らかに汁
903無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:43:08
>>902
どの史料って
天正8閏3・14 武田家朱印状 宛名欠 鉄砲薬奉行・輪番
だよ。もしかして書籍とかに転載されてる奴じゃないと認めないとか?w
904無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:46:50
よくわからんけど戦国遺文あたりなら大抵の史料は載ってないかね?
905無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:47:18
>>903
たとえば「山梨県史」とか「甲府市史」とか、専門の学者や学芸員が検証してるか?
という意味だ。洩れは上杉が専門だが、宇佐美系の文書とか偽書状
を五万と見てる。武田系は江戸時代の甲州流軍学の捏造が多いと言いたいのだ。
根掘り葉掘り、スマソ・・・
906無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:49:58
>>905
遺文にのってるやつだと思うよ
ググったら出た

ttp://www2u.biglobe.ne.jp/~shiba/n31.htm
907無名武将@お腹せっぷく:2006/03/32(土) 23:57:46
>>906
サンクス!
908無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 00:00:53
わぁぁぁっー。
なんかみんなすごい物知りだね。ゲーム知識のオレはついていけません…。
ちなみに、武田の騎馬鉄砲の言いだしっぺは、オレです。
ずびばぜぇん…。
909無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 00:09:06
長篠の織田の鉄砲3千丁が疑われるのは、例の加筆された部分があるからでしょ?
でも信長馬廻りの鉄砲組から500酒井隊に付けて、主力も銃撃戦やってる
当時の軍役から考えるとだいたい鉄砲装備率は十パーセント
通説どおり織田徳川軍の総兵力が3万なら、総数3千丁でも不思議はないと思うけどな
910無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 00:21:39
>>909
少し違う。天正四年の本願寺との戦い(大坂)で、大坂方の「数千の鉄砲」
で織田軍が大敗を喫し、信長みずから出馬して何とか形勢を保った「公記」
の記述が根拠(傍証)。この時の信長は勝頼と同じような?戦い方をして
軍の崩壊を救っている(「公記」の記述によると)。けっして、大量の
鉄砲を動員した安全策を採っていないのは明白。その意味で、長篠合戦で
大量の鉄砲(3000挺)を動員して勝ったという「軍事革命」説は危うくなる。

911無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 00:29:18
ン?信長公記説をとるのなら、軍事革命なんぞ関係ないでしょ(それは信長記のほう)
公記には三段撃ちの記述もこれが新奇だというものもない
敵の退路を断った上で挑発し、陣城に拠って鉄砲で撃ち足軽を繰り出すオーソドックスな戦法
普通に壊滅させただけでしょ
912無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 00:32:34
細川藤孝宛書状などにより、軍役から外した地域からでも鉄砲衆を従軍させたことはわかっている
五人の臨時鉄砲奉行を置いて統制を試みたことも
あとは、鉄砲を主として攻め寄せてくる武田軍を迎撃したこと
ざっと拾うとこれぐらい
統制射撃らしきものを試みた風には読めるが、三段撃ちとかは書いてないね
913無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 00:36:39
「信長公記」(太田牛一)町田本=1000挺+別働隊数百挺(500?)
「信長記」(小瀬甫庵)=三段撃ち・3000挺

これでよろしこ?
914無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 00:40:09
徳川軍の鉄砲や織田軍の通常の軍役による鉄砲は?
915無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 04:22:30
長篠の1000挺は確定じゃないって話はきいたことあるな。
少なくとも1000挺以上っぽくね?てかんじだったかと。
916無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 10:29:13
なんか鉄砲の威力に負けたんじゃなくて、ガチ合いで負けたとなると
弱兵と言われている尾張兵より武田が弱いようなイメージになるな。
917無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 10:36:00
兵の強弱以前に3倍近い兵力差ではどうにもならないよ。
鉄砲に威力なんて少なくとも長篠の戦に関して言えば大した問題ではない。
918無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 11:14:06
確か孫氏の兵法書だと戦に重要なのは、1に士気、2に武器の威力、3に兵の練度、兵力差はどうでもいい
じゃなかった?
919無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 11:23:52
三倍の兵力を擁する敵相手に士気が上がるか?
920無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 11:25:58
>>918
それが事実なら孫子はただのアホ。
921無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 11:26:49
「孫氏」の兵法書だからでしょう。
922無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 12:07:01
>>917
でもそうなると武田家が鉄砲重視にシフトした理由がわからなくなる
923無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 12:10:06
>>922
だから、信玄のことから重視してる。
924無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 12:15:04
信玄の頃から、ね。
925無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 12:26:40
んなことはない
武田家にも鉄砲の軍役はありましたって程度>信玄時代
長篠後、勝頼の軍役定書によれば上にある鉄砲薬奉行の件が置かれ、さらに鉄砲の訓練を怠ったら罰則対象にするとまでいっている
さらにそれまで鉄砲軍役を負わされなかった50貫程度の知行持ちにも鉄砲が義務付けられている
武田水軍が鉄砲を大量に買い付けた話もある
いずれも信玄存命中には見られなかった動き
だいたい重視していた、という割には武田軍が鉄砲を集中配備して使ったのって妙法寺記の一件だけじゃん
926無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 12:35:32
他の大名家はどうなんだ?鉄砲奉行とか
927無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 12:40:53
鉄砲重視という点では島津家が一番だろうな
士分には鉄砲一丁が義務づけられている
織田軍が信長直轄軍以外はごくごく一般的な軍役による鉄砲動員で装備率は他の大名と同じ十パーセント前後と軍役状などより推測される
信長公記を見ても、500丁以上の鉄砲を集中配備したのは例えば姉川戦前の小谷からの撤退の殿軍ぐらい
928無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 12:50:17
>>918
これ誰の主張だと思いますか?

彼我の兵力の差をあらかじめ多く計算した方が勝つ。戦ってみなければ勝敗はわからないなどと言ってる香具師はぬるぽ
929無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 13:36:18
>>928
兵力が敵より少なければ撤退しろ、有利なら包囲しろとか孫子も書いてるしな
■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノ
930無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 13:56:30
正確には「十倍なら包囲し、五倍なら攻撃し、二倍なら分散し、同数なら戦闘し、少数なら逃走し、微弱なら回避する」な
931無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 14:19:59
さらには「500対1なら誰が指揮しても余裕じゃん、それが理想だよなー」とも言っている
932無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 14:23:22
>武田軍が鉄砲を集中配備して使ったのって妙法寺記の一件だけじゃん

長篠(設楽原)合戦の20年も前なんだが?
「妙法寺記」(一次史料)
933無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 15:23:32
>>932
それって配備しただけじゃないの?
実戦で使用した経緯は?
934無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 15:28:53
コレクションだったりしてw
鉄砲の産地を抑えているわけでもなければ、貿易ルートも限られている以上継続的な弾薬の補充も一苦労でしょ
三方ヶ原なんかじゃ牽制に鉄砲使うの惜しんで石投げしたしw(と、学研M文庫ではいっております)
935無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 15:41:46
>と、学研M文庫ではいっております
ちょ、M文庫w
投石は普通に強力だからな、金もかからないし。
ただ鉄砲の比ではないほどの熟練技術が必要になるのがデメリットなだけで。
936無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 15:52:36
たしかに拳大の石だったら充分な殺傷能力だな 大の大人が本気で投げるわけだし
鉄砲より怖くね?
937無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 16:03:03
同じ数なら鉄砲のが恐い
投石はコストかからないのが強みだな
938無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 16:17:48
その石にうんこでもなすくりつけてれば阿鼻叫喚の図だな
939無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 16:21:57
>>938
糞尿は相手に病気を与えることができるため実際に結構有効な武器なんだよな
940無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 16:32:39
長篠では甘利昌忠隊は鉄砲で織田軍を攻撃したけど
途中で弾が切れたんで抜刀突撃して昌忠討死というどこぞの帝国軍ばりの結末に…
941無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 16:34:50
戦国時代の抜刀突撃はカッコイイと思う
942無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 16:35:32
ハッキリ言って信玄が生きてたらおk
943:2006/04/02(日) 16:44:14
1 まずは兵農分離をすること
2本拠地を甲斐から信濃の平野部に移す
3北信濃の一部を上杉家に与え不可侵条約を締結
4今川、北条との3カ国同盟も締結
5信長が尾張統一中に信濃から美濃に全軍で流れ込む
5美濃を制圧後、六角と結び京都に上洛
6将軍義輝を擁立し三好家を征討
944:2006/04/02(日) 16:49:45
弱兵でも農作業から切り離され1年中戦争を出来た織田家
どんなに強くても農繁期には帰農しなければならなかった武田兵
やはり武田信玄があと10年生きたとしてもこれでは天下など獲れないだろうな、やはり
945無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 17:16:56
そんな餌で釣られない(・(ェ)・)
946無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 17:26:51
ゲーム感覚で論じるならいくらでも手段はあるよ
土地の豪族の集合体の長といった旧体制から抜け出せなかった信玄には不可能
947無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 17:36:38
何のゲームやってるのかな?(;^ω^)
948無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 17:41:58
豪族連合体体質を変えるためには
検地を実行して地侍への支配権を確立しなければならない
武田はこれを最後まで実施できなかったんじゃなかったっけ?
特に小山田、穴山の有力家臣団の領地に対して
949無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 18:12:37
>小山田、穴山の有力家臣団

一門衆なんですけど・・・
950無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 18:13:01
>>948
元亀3、4年の段階では織田も検地なんてろくに出来ていないだろ。
確か、松永討伐(天正5年)後の大和統治(天正8年)で明智光秀と滝川一益が担当して指出検地をやったのが大々的なのの初出(そん時、一国一城令こと城割りも行われた)じゃなかったかな。
951無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 18:20:13
織田の常備軍って、傭兵(牢人)のことでしょ?
軍資金はヤクザ並みのみかじめ料(寺社・自治都市への矢銭要求)
952無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 18:20:36
まぁ誰が最初かなんて問題じゃないだろ 信玄が出来なかったって事実があるだけ
豪族連中の反感や反発があっても押さえ込むだけの力を保有しえなかっただけ
953無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 18:25:10
>>950
永禄11(1568)年に近江で差出検地をしたのが最初
以後
永禄12(1569)年 伊勢
元亀2(1571)年 二度目の伊勢
元亀3(1572)年 山城
天正3(1575)年 二度目の山城
天正4(1576)年 三度目 山城
天正5(1577)年 越前
天正8(1580)年 播磨・摂津・ 大和・近江
天正9(1581)年 丹後・和泉
天正10(1582)年 能登

差出か、配下を使っての検地かはちょっとわからんけど。ざっとこれだけの検地してるよ
954無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 18:34:50
>>953
サンクス。
信玄上洛時に考慮するのは元亀3年以前の4つだね。
問題は彼の本拠地(尾張、美濃)で行われていないことか…。
955無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 18:46:58
美濃でしてないのは不思議。
956無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 18:49:16
武田領では上田小県地方で
天正六年または七年の記録が残っている。

しかしこれは真田昌幸が自ら実施したもので、
武田本家に改出高を差し出した形跡はない。

この期に及んでも諸豪族が半分独立しているところが武田クオリティ。
957無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 18:57:17
没落した足利将軍家を助けて何とかして娘を嫁に送るか息子を養子にする。
あとは息子なら当主になれるように邪魔者を排除し嫁なら子を生ませる。
そうすれば武田家出身の将軍が出る。
その将軍に武田と上杉の間を取り持ってもらい北条氏に関東を任せて形だけの公方を鎌倉にでも送る。
あとは武田・上杉・北条らの軍事力を背景に各地の戦争を停止させ守護を再配置して本州を徐々に固める。
ある程度平和になったら各地の守護を動員して反抗し続ける諸大名を討って新たにその地に守護を置き将軍権力を高める・
958無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 19:06:05
尾張・美濃といった本貫地で検地がないのは確かに妙だよな
実力で奪った土地だから、直轄性が強くて検地の必要がなかったんだろうか?
959無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 19:46:31
土地の有力な武将を軍内に吸収できたからそれほど必要性がなかったとか
それだけに反感も買いたくなかっただろうし
他の土地は軍事力で奪ったから一貫して圧力かけやすかったんじゃないかな
960無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 22:43:34
勝頼の頃には織田家と武田家の経済格差は相当ついていたんじゃないかと
金山からも金が採れなくなってきたようだったし
961無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 22:50:42
勝頼も経済政策には必死になっていたらしいよ
館に商人入れて活動活発にさせてるもん
でもそれは軍鑑やらなにやらでは例によって批判対象にしかならんが
962無名武将@お腹せっぷく:2006/04/02(日) 23:09:26
所詮敗軍の将とはいえ勝頼は結果がもう少し違ってたらまったく違う評価だったかもね
織田家と徳川家との確執が深すぎた
963無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 01:31:50
勝頼はよく落ち武者狩りや野伏にやられて命を落とさなかったな
964無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 03:28:56
全軍崩壊したわけではなかったということだろう。
965無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 08:18:02
部下達は討ち取られたがな
966無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 09:12:56
土屋昌恒ら少ない近臣が奮戦したからな
もっとも最後は疲労と上であっけなかったという説もあるが
ちなみに土屋の息子は親父の忠節を気に入られて徳川の家臣に
二万石を与えられ、後に七万石。老中まで出す名家になった
967無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 11:39:44
武田軍が正規兵を鍛えれば良かったんじゃないの?
信長が年中あちこちで戦争出来たのは職業軍人を大量に養成したからでしょ。
お百姓さん使ったら戦争出来るシーズン限られちゃう。
968無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 11:49:08
>職業軍人を大量に養成

誰が吹いてんだ、こんなウソ?
堺と本願寺から掠めた矢銭(用心棒代)で食い詰めた百姓や牢人を
雇っただけだぞ、織田は。一銭斬りの軍規も、合戦になると傭兵が
逃げ出してたから。当時の武士は半農、兵農分離は秀吉の刀狩以降!
江戸時代の歴史観で戦国時代を語るな
969無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 13:37:57
信長の兵農分離って家臣団の妻子共々自分の権力に従って移動させて
地縁を薄くして統制力を高めたことじゃないかね?
織田軍の数的主力は一般的な軍役を与えた国衆の兵士には違いなかったはず
970無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 14:47:40
>>967
武田領国で、村が村人ではなく金で雇った流れ者を兵役にだした事が問題になってるんだが。
こうした雇われ者は軍令より略奪などに走ってしまうので、大名側からは嫌われていたようだよ。
971無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 16:10:59
だから農兵のほうが役に立ったわけか?
972無名武将@お腹せっぷく:2006/04/03(月) 17:00:51
身一つのあぶれものは何よりも己の身が大事なわけで、形勢不利と見るや逃げ出すのは当然。
また、いつそういう状況になるかもわからんから乱暴狼藉で私腹を肥やすのも当然。

それよりは土地や家族、村といったしがらみのある農兵の方が、信用できる。
乱取りはもちろん熱心に行うが、立場が変わればそれを行われる側の人間でもあるわけで、
大名勢力が自分たちを守ってくれるならば、大名権力を支えもする。

とはいっても、雑賀や甲賀ほどではなくとも、集団で傭兵家業を生業にする輩はいたようだし、
完全に信頼が置けない訳でもなさそう。

まあ、要するにどちらもメリット・デメリットがあるわけで、
それを上手く使い分けることが重要ではないだろうか。
973無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 00:44:55
そもそも兵農分離しないと農繁期に戦争が出来ないってのが大嘘だからね。
実際武田軍の出陣が一番多いのは稲刈の前後だし。
974無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 01:59:52
天目山に向かう武田勝頼一行を見て領民は何を思ったのやら
見ても見過ごしたのかな
975無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 02:26:43
逃走中の勝頼一行を襲撃しようとした。
976無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 08:17:23
したが土屋に切り殺されたんだよ。
977無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 13:00:22
片手千人斬りというやつか
でも日本刀で人を斬るには、両手持ちにして持ち手の間隔を空けてテコの原理を利用した斬り方じゃないと難しいはず
本当に片手で斬ったとするのなら恐ろしい達人だったっつーことになるなw
978無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 13:16:10
本当に片手で斬ったわけじゃないよw
979無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 13:24:37
勝頼らの自害の時間を稼ぐため、隘路に片手で蔓掴んで立ち片手で太刀振り回したって奴だろ
土屋に斬られた武士の血が流れて三日間赤かったという三日血川がああるとか
でもあきらかに誇大な話だろうな
980無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 13:26:37
勝頼だか信勝だかの首が堀に投げ込まれていて
その前を百姓が手を合わせて通り過ぎてたって話しだから
まだ多少は慕われてたんじゃないか?
981無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 13:35:03
>>979
実際は皆空腹と疲労で動けなかったのが現実。勝頼も自害ではなく箱の上に
座っていて疲労で動けない所を槍で刺されて死んだそうだよ。
982無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 13:44:00
逃げ遅れた者は次々討たれて
最後には疲労で力尽きて動けなくなった所を殺された
あまりに悲惨だから農家に火を放って自決したと創作したのだろう
983無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 13:49:57
三河風土記の記述だな
他の記録にあるような華々しい最後ではなかった、とわざわざ言及している
984無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 13:52:31
衰退して皆殺しにされ滅亡していく武田家を、圧政を強いられてた信濃の農民達は
どう受け止めたんだろうな。
特に志賀城や小岩岳城の奴隷や娼婦にされた人々は
985無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 13:58:13
信長公記によると女子供を刺し殺した後、武士はばらばらに打って出て皆討ち死にしたとあるな
土屋の奮戦はここでも書いてあるが
勝頼についての記述はないな。討死、とだけある
986無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 14:02:11
例の勝頼一行の最後の美談は甲陽軍鑑にしか書いてない
987無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 14:20:46
>>984
根本的に解釈が間違ってるよ
988無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 14:51:55
そろそろ1000いきましょうか
989無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 15:51:01
>>973
そうなの?
どうやって農業と戦争両立させてたのそれじゃ
990無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 16:30:22
>>984
北信濃の者達は織田の領国に素直に組み込まれた
これが答えだろう
991無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 16:31:49
>>989
軍役衆といって、農民だが村を代表して軍役をこなしていたのだ。
だから、別に農繁期とかは関係ない。「信濃市史」には、有徳の者を
出せと信玄が命じてる。ぎゃくに言えば、傭兵(牢人)とか病弱な者、臆病な
香具師らを「軍役衆」として代りに出す傾向があった反証。
これは北条軍や織田軍、上杉軍も同様。
992無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 16:33:33
>>990
天正10年には森は遁走し、川尻はスッ殺されたわけだが・・・
993無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 16:43:47
>>992
それは本能寺のためでは?
少なくとも棟別銭が北条の5倍以上という武田体制(信玄時代から。甲陽軍鑑が正しければ、勝頼時代はさらに重税に)よりは織田のほうがマシでしょ
994無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 16:45:23
北信濃衆は上杉や北条攻めに従ってるからな
信長が死んで家康が扇動するまで武田本貫地の甲斐でも騒乱起きてないし
995無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 16:50:05
>>990-994

戦に勝ったほうに付くという単純かつ当然の行動
信長死後は上杉配下の旧村上・須田満親に従ってるし
996無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 16:51:25
>>993
武田の棟別銭は50〜200文、北条は50文
なにをどう計算すると北条の5倍以上になるのかね?
>>994
家康が扇動しただけで騒乱起きまくりなワケだが
997無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 16:53:19
織田が武田より慕われてたら何か都合悪いのかw
川尻の件なんて家康の侵略正当化の口実だってとっくにバレてるだろ
998無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 16:54:33
一、関銭、駒口を取るべからざること。

一、百姓前には本年貢の外に不当な課役をすべからざること。

一、忠節人を立て置くほか、理屈を並べて懈怠する侍は殺害もしくは追放すべきこと。

一、公事はよくよく念を入れて詮議し、落着させるべきこと。

一、国侍は丁重に扱いつつ、さりとて油断なきよう気遣いすべきこと。

一、元来、欲のままに治めれば諸人は不満を覚えるものである。所領の引き継ぎに当たっては多くの者に知行を与えて支配せしめ、広く人数を抱えさせるべきこと。

一、本国より奉公を望む者があった場合は、よく履歴を改め、前の主人へ届けた上で扶持すべきこと。

一、諸城は堅固に普請すべきこと。

一、鉄砲・玉薬・兵粮を蓄積すべきこと。

一、各々支配する郡内ごとに分担して道を作るべきこと。

一、境界が入り組むゆえ、多少の所領争いが起きようとも私怨を持つべからざること。

以上の他、悪しき事態が出来した折には、罷り上って直に訴訟すべきことである。

(信長 甲州・信州国掟)
999無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 16:55:05
1000なら姉小路の天下
1000無名武将@お腹せっぷく:2006/04/04(火) 16:55:42
土屋片手1000人斬り
10011001
  立  新   /   ,、r'";;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;`';,、    ,r';;r"           _ノ  と   何
  て  し    L_ /;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;;\ ,';;/             )   申   と
  ね  い   //;;/´         `' 、;;;;;;;;,,l;;'            /ヽ  す  1000
  ば  ス   /.,';/              ヽ;;;;,l;L_      .,,、,--ュ、 ';;;;;;;;;i  か   を
  い  レ   l |;|┌--‐フ  ┌----、、   |;ヾr''‐ヽ,  ,、ィ'r-‐''''''‐ヽ ';;;;;;く  !!    超
  か  ッ   i  |l ~~__´ 、   ``'__''''┘  |;;;;;l rO:、;  ´ ィ○ヽ    'i;;;;;厶,     え
  ん  ド   l _|. <,,O,> 〉   <,,O,,>    |;;;;;| `'''"/   `'''''"´     !;;;;;;;;ヽ   た
  の  を  ._ゝ'|.    /   、       |; ,'  /   、        |;;;;;;;;;;;;;レ、⌒Y⌒ヽ
  う     「 | |    (    )       .ソ l  ,:'   _ ヽ       .|;;;;;;;//-'ノ
        ヽヽ |    _,ニ ニ,,,,,_        ', ゞ,' '"'` '"       i;;;;;i, `' /
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人_,、ノL_,iノ!  . ',   :i゙''''''''''`l'  ` _人__人ノ_ヽ ヾ゙゙゙゙ニニ'\       ,'  ト、,
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