2
3 :
公孫3:2005/11/15(火) 09:27:47
余裕で3げっと
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/17(木) 15:00:07
前スレが1000いかないうちに落ちたな。
武田家ももうこれまでのようだ。
5 :
初代1:2005/11/17(木) 15:32:54
僕が立てたスレがこんなに大きくなった。
6 :
初代1:2005/11/17(木) 15:34:12
俺の読みでは武田信玄が生きてても信長には勝てんよ。
戦う前に死ねたのはある意味幸運かも
信長の拡大スピードは遅くなったかもね
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/18(金) 04:52:28
流石の信長も信玄がいたら滅んでたでしょ
初戦で信玄が勝てば、不満分子が一斉蜂起で織田家の地盤が崩壊したと思うけどな
信長は完全に討ち取っただろ!!
天下統一は無理だね
11 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2005/11/20(日) 00:46:07
戦は水物だし、断言したら終了でしょ。つまんないよ。
徳川にも今川系の家臣は結構いるし、信玄公健在なら一枚岩ではないと思う。
信長は一向宗に大敗した。
家康は信玄に大敗した。
勝頼は信長に大敗した。
しかし、だからと言って即勢力が崩壊するようなことはない。
武田厨と言うより信玄厨の痛いところは、
一戦して勝てばそれで織田勢力を打倒できると考えている所。
とにかく一勝しないことには話が始まらないだろ。
近江の戦況を考えるに、あと半年早く作戦を発動したかった。
信玄が100%健康ならできたんじゃないかと。
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 12:50:40
信玄っていくさで村上義清以外に負けてないんじゃない?
>>14 信玄は若い頃から病弱で成人してからも何度も病臥している。
100%健康ってどのレベルよ?
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 13:18:51
結局最後に天下をとったのって徳川じゃん!その徳川に唯一勝ったのって武田信玄くらいだから武田信玄最強じゃねえ?
>>18 その信玄がはばかった今川義元最強!その義元を破った織田信長超最強!……おや?
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 13:39:16
その信長も明智光秀に敗れてるもんな。やっぱり信玄最強じゃね?
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 13:41:02
実際に信長の野望でも信玄の能力の方が高いし優勝な家来も多いしな!!
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 13:41:51
信玄こそ戦国最強!!
でも天下統一どころか北条や上杉といった大勢力を滅ぼすこともできず今川も
弱体化してからようやく。
生涯に得た領土は二国とわずか。
不思議だねーどうしてだろうねー?
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 14:19:24
北条とは同盟!!上杉は強すぎ!!もう少し長生きしてたら信長も倒して天下とってたお
>>23 信濃、西上野、飛騨の一部、越中の一部、駿河、遠江の大半、西三河、東美濃
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 14:28:09
周りが強敵に囲まれてるにも関わらずあそこまで勢力を拡大した信玄はやっぱり戦国最強だよ!!
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 14:49:37
上杉北条今川斉藤徳川織田
信長も、家康も、今川も、北条も、上杉も、
みんなそれらの大名に囲まれてるように見えますよ^^;
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 15:08:42
でも隣接国に弱小大名もいたしうんがヨカッタヨ
>>29 囲まれててる?
日本地図見直した方がいいのでは?
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 15:19:02
信長も信玄が生きてた頃は震えあがってたしな
>>30 なるほど。
つまり上記大名のうち、信玄のみが、ただの一度も弱小大名に
隣接することの無かった不運な武将だったということでしょうか?
34 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 15:27:20
>>33信長はうんが良かったって事だよm9(^Д^ )プギャー
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 15:31:53
逆に信玄が尾張で生まれて信長が甲斐で生まれてたら信玄が天下とってたお
>>34 あなたはなぜ信長は運が良かったと思われるのですか?
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 15:34:09
能力は信玄の方が優れてたからね
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 15:38:00
隣接国に強敵がいなかったから簡単に勢力拡大できた。斉藤は勝手に滅ぶし徳川とは同盟出来たし。
>>38 隣接国の強敵であった斉藤家は自滅し、一方の徳川家とは同盟したので、強敵が周囲から消えた。
だから信長は運が良かったということでしょうか?
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 15:50:11
そうだお
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 15:52:23
信玄の場合は例えば今川を攻めると上杉に狙われ徳川を攻めると北条に狙われ上杉を攻めると今川に狙われるからな。周りに強敵が多すぎたんだよ
>>40 分かりました。
確かに運が良いような感じもしますね。
ただ斉藤のことにしろ徳川のことにしろ、
私は全てが運によるものとは思ってないです^^;
43 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 16:04:08
>>41 武田家は甲斐1国時代から今川や北条、両上杉家など、
周囲に大国が多かったようですね。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 16:14:29
信長は比較的京に近いってのもあって上洛しやすかったな。例えば信玄の場合上洛しようとしても必ず周りに狙われちゃうからな
46 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 16:19:13
武
田
信
玄
∧_∧ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
( ´∀`)< 上杉方雑魚
( ) \_____
| | |
(__)_)
信長が運が良かったと言えるのは、
桶狭間で義元を討ち取れたことと美濃の周りに強力な大名が育っていなかったことだよ。
桶狭間の勝利そのものはある程度の作戦に基づいたもので、
運だけではなかったかもしれないが、それで総大将まで討ち取れたのは、
運としか言いようがない。
厳島の戦いのように退路まで断っていたわけではないのだから、
一撃で討ち死にする可能性のほうが少なかった。
そして、義元が生きていればその後も今川との抗争に明け暮れて、
簡単には勢力拡大はできなかった。
次にどの戦国大名もある程度勢力を拡大すれば、
同様に勢力を拡大してきた他の大名とぶつかり拡大は頭打ちになることが多い。
武田・北条にとって上杉、毛利にとって大友など。
ところが信長の場合は美濃を取ってかなりの大勢力になったとき、
かつて強勢を誇った六角は内輪もめで大幅に弱体化し、
三好家もお家騒動の真っ最中で、ちょうど西側にぽっかりと大勢力がなくなってしまっていた。
これは運以外の何物でもない。
もちろん美濃斉藤家で立て続けに代替わりが起こったことも幸運だった。
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 17:50:51
まあ才能もあった事も認めるがうつけものだからな。比叡山焼き打ちとか父親の葬式で灰かけたりとか家来にも冷たかったんだろ。だから明智に謀叛おこされて結局織田家も滅びたし。家康が勝ち組みだな。
49 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 17:53:16
まあでも才能的に1番優れた大名は信玄でしょ。戦術の面も政治の面でも総合的に見て1番優れた大名だったね。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 17:56:20
人は城人は石垣人は堀情けは見方あだは敵なり
51 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 18:08:23
ばかだなぁ・・・最強は乃木大将だろ?
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 18:10:49
まあでも徳川が味方についてくれたねもかなり運がいいよな。武田の攻撃全部防いでくれてその間に領地拡大できたしな
でも、好機を生かしきれた信長はやっぱり天才だろ。
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 18:19:48
天才ではあるけど人間的には信玄の方が器が大きい
運だのなんだのと言い始めたら思考停止の証拠。
京に近かったから?強敵が死んだから?あほかって。
信長と信玄(というか他の大名との決定的な差)は、たった2国をとった時点で1大名が天下を叫ぶという、
即ち天下への意思、そしてそれに伴って生まれるそのための戦略。
それがなかったから、信玄含めほとんどの大名は、ちょっと大きめってだけの一勢力に終わった。
でもその「意思」こそが、天下取りに最も必要な才能。
信長は義元を討ち取ったが、相手が勝手に死んだのならともかく、
戦をして相手を討ち取ったのを「運が良い」と言うのは馬鹿げている。
信長は義元に攻められている時点でむちゃくちゃ不利。
信玄が尾張に生まれていて義元に攻められていたら確実に討ち死にしている。
ましてや徳川と同盟できたのが運がいいとか言い出したら、
信玄が三国同盟できたのも運が良かったのかという話になる。
イチャモン以外の何者でもない。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/20(日) 21:44:45
運はともかく、個人的資質を語るなら初期条件を考慮するのは当然だろう。
諸条件すべてひっくるめて「戦国大名武田信玄」という一つの実体として捉えた場合には
「戦国大名織田信長」に負けていたとは言える。
しかしそれを「意思」だけの問題にすりかえるのはあまりに浅薄。
>>57 義元を討ち取ったのはどう考えてもラッキーだろ。
戦ほど運不運が絡むものはない。
一方の功績を運のおかげとすりかえるのはあまりのも基地。
>>59 まぁラッキーを言えばラッキーもあるだろうが、
並みの武将なら討ち取る以前に勝つことが出来ないからね。
「運が良かった」で終わらせるのもどうかと思うね。
勝った事自体運が良かったからだとか言い出すんだったら、
もう話しようがないけどね。
>>59 ラッキーが起こり得る状況を作るのも才能じゃないのか
目の前の一戦に勝利したからこそ結果的に義元を討ち取れたのであって
何の当ても無く攻めたわけではないのだから
>>61 だから、勝ったのは実力もあったからだけど、
その一戦で義元まで討ち取れたのは運以外の何物でもないよ。
運と実力をごっちゃにしてはいけない。
単純な分析として運の要素があった、というだけ。
たとえば朝倉と戦ったときに義景を討ち取ったりはしてないが、
別にそのとき織田軍の調子が悪かったわけではなく今川戦のときの方ができすぎだったと。
どんなに意思や実力があっても運がなきゃあ天下なんか取れないよ。
>>64 そういう考えならいいんだけどね。
君の書いたレスじゃないんだろうけど、
徳川と同盟したことすら運が良かったと言う奴までいるので、
運だけで片付けるなよといいたかっただけ。
煎じ詰めると「歴史にifはない」という話になってしまうので、
楽しい雑談のためには適当なところで矛を収めておくのが吉。
>>66 徳川との同盟はもっとも信長の実力というか、明白な目的意識が現れたことの一つだからね。
桶狭間で運良く義元を討ち取れたおかげで今川家は大いに弱体化した、
普通ならこれをきっかけに今川の領土をむしりとろうとしてもおかしくはないのに、
東に心を動かされず、家康と同盟して安定化を図り、
美濃への進出を第一にしたのは全く正しい判断だった。
ただし、いくら信長に明白な目的意識があって相当以上の実力があっても、
61年に斉藤義龍死亡、63年に六角家で観音寺騒動、
61年から64年にかけて三好家で当主長慶はじめその弟たち及び後継者義興らが相次いで死亡、
ということが起きなければ68年の段階ですんなり上洛できたとは到底思えない。
この点に大きな運という要素があったことは認めないわけにはいかない。
もちろん、明白な意思がなければその運を活かす前提が存在しないのも確かなことだが。
>>68 まるで信長が全く迷わず徳川と同盟したかのような言いようだが、
実際清洲同盟が結ばれたのは1562年で桶狭間の2年後。
もし最初から西にしか目がいっていなかったなら即座に同盟を結んでもおかしくはない。
その間に義龍死亡という事態の変化があったので、
斉藤家攻略のめどが立ったから徳川と同盟したのではないか?
という推測もなりたつ。
もし義龍健在なら三河を攻めていたかもしれない。
>>70 いや、講和はすでに前年にすましてあるよ。
正確には、桶狭間のあとも三河で織田と今川(松平)の小競り合いは続いていたが、
61年には停戦で合意。同盟がその翌年。
つまり信長は、義龍健在の頃から三河からは手を引いている。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 01:41:41
信玄が死んだのもうんだよね。もう少し長生きしてたら織田も崩壊してたのに
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 01:43:07
信長って実際小心物だったらしいよ。信玄とでは器がちがうよ
74 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 01:46:02
うつけ者の運大名織田信長!!
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 01:47:13
小心者故に自分を大きく見せ相手を威嚇したりな。
信長=893
76 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 01:55:55
まあでも結局運だけでは天下はとれんものよ。今までのおこないが災いして家信に裏切られあぼーんよ。そのてん信玄は家信を大切にしてたからな。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 02:38:34
>>16 >
>>15 > つ【長野業正】
攻め切れなかったのと負けたのとはちょっと意味合いが違ってくるぞ。
対村上戦ではボロ負けしたわけだし。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 02:40:45
何だ?村上戦って砥石崩れのことか?
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 02:52:13
村上には上田原と戸石で二回負けている。
全軍崩壊するような大敗北ではないが負けは明らか。
80 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 02:56:06
まあでも村上位にしか負けてないしな。
負けても崩れないのはさすがだな。
対長野戦は六回ほど攻めて全て失敗。
何度かは文字通りぼろ負けに敗退しているのだが。
戦国時代通して、全軍総崩れ、なんてのはあんまりないんだけどね。
総大将が討ち取られた、でも無い限りそうそう無いよな>全軍総崩れ
起こったのは桶狭間、今山、耳川、沖田畷、厳島、川越…くらいか?
講談や信憑性の怪しい合戦もあるが、全部少数が多数を撃破した合戦だな。
つーか砥石崩れはその名の通り、全軍総崩れの見事な大敗北じゃないか
いや、殿がやられただけだよ。
運・不運の話なら武田だって、
信濃を取れたのは北条が上杉を打倒したおかげだし、
西上野を取れたのは業正が死んでくれたおかげだし、
駿河を取れたのは信長が義元を討ち取ってくれたおかげだし、
上洛の為に軍を動かせたのは氏康が死んでくれたおかげ
ということになる。
信長だけ一方的に運が良いおかげとするのは一方的過ぎる。
>>87 一方的にって、誰もそんな事言っていないが?
信長の運が良かった事についての話ばかりなのは、一方的とは言わないのだろうか?
90 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 11:10:25
じゃあ聞くが信長がもし甲斐で武田信虎の息子として生まれてとしたら天下はとれたのか??
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/21(月) 11:11:07
おそらく武田家はあっという間に滅ぼされてたよ
運という要素も大事だけど、
信長個人・信玄個人で考えた時
より権力を握っていたのは信長だろうね。
信玄がせいぜい盟主的な立場だったのに対し、
信長は君主として君臨していた。
思考という点から考えれば、
信長が既存の権力を認めず、
自分の手に権力を集中させるために
一向一揆を敵に回したのに対し、
信玄は既存の権力を利用するような政策だった。
例えばそれぞれが天下を取った時、
信長が絶対の権力を握るのに対し、
信玄は一向一揆の勢力や同盟国等既存の権力者達に対し
強く出られないと思われる。
なんかよくわかんなくなってきたけど、
個人的には信玄の方が好きだ。
それだけ。
>>90 信玄が当主を継いだ時期の甲斐に、
今川の上洛のような家が滅びかねない事象ってあったけ?
信長が継いだら武田がすぐに滅ぶという要素が思いつかない。
信濃侵略のスピードが遅れるとかならともかく。
>>87 信濃を取るのに上杉が滅んでいる必要はなく、北条が関東に引き付けていてくれれば十分で、
そのくらいの効果は三国同盟で十分予想できること。
駿河を取れた遠因には確かに義元死亡があるが、
それは外交方針の大転換という紆余曲折を経てのことであり、
少なくとも現時点での敵国の領主が死んだというような、一方的な幸運とは言いがたい。
それに北条との再同盟を運と言うのは清洲同盟を運と言うのと同様に不当な評価だ。
なにより、長野業正は享年71歳。
強敵が長生きしたという点でむしろ不運なことというべきで。
敵対中の、或いは京に向かえば敵対することが予想された相手が、
斉藤義龍35歳、三好長慶42歳、同義興22歳、十河一在30歳前後と、
桶狭間の戦い後の1560年から1565年という時期に、
続けざまに若くして或いは少なくとも老年とは言えない年で死んだ幸運とは比べ物にならない。
で、「信長は運がよかった」と主張したところで何が変わるのかね?
とどのつまり、「信玄は上洛できない」ことの再確認にしかならないぞ。
>>95 いや、最初から史実なんて変えようがありませんが?
単純に信長は運が良かったという事実を言っているだけ。
もちろん念の為言っておくが、運だけだとか言うつもりはない。
信長の成功は相応の実力と、何より明白な目的意識と、
断固たる意思の賜物である点は否定しようがない。
しかし、運が良かったからこそでもあるというのもまた事実だということ。
例えば、まず、桶狭間で勝ったこと自体は実力といっていいだろう、
多少の運の要素もあるだろうがそれはどの戦でも言えること、
もしこの時信長に相応の実力がなければ敗北してそのままだっただろう。
しかし、その戦で義元の首まで打てたのは幸運。
で、ここで平凡な武将なら弱体化した今川を攻めてもおかしくないが、
そうせずに美濃に向かったのは信長の明白な意思。
しかし、ちょうどその時期に正にその美濃の領主が若くして病死したのはやはり運だ。
さらに、美濃制圧後義昭を擁して上洛したのは信長の意思と、
その長期戦略によるところだが、ちょうどその時期に六角家・三好家が弱体化していたのは運、
しかし、弱体化していたとはいえ一気に京まで制圧したのは信長の実力だ。
そして何より、大内家等の上洛等と異なり、
独自の政権を樹立しようとして結果的にそれに成功したこと、
また、いち早く堺を押えようとしてそれにも成功したことは、
正に信長の意思と長期戦略そして軍事的な実力あってのもの。
要するに信長は強固な意志と相応の実力、そして運もあったので、
少なくともあの時期に天下に覇をとなえることが出来たと、
もし、運がなければそれがもっと遅くなっていたのはほぼ間違いないし、
その結果歴史がどう動くかもわからない。
まあ、ある意味当たり前のことではあるけどね。
一番運が良かったのは家康だろう
信長も過大評価されやすい人物だが
家康ほど過大評価されている人物も珍しい
その過大評価分も差っぴいても
信長>信玄だろう
結果論ゆえに運、と言ってるだけだな、上でさんざんいわれてる「運」は。
なにが「幸運だったから」だよ。運を語るんなら、
幸運と言われてる義龍病死にしろ、そもそも信長にとっては義龍が謀反を起こし、頼れる義父の道三を失った事は不運だし、
義元が三国同盟を結んで織田方に攻め寄せてきたのも不運だろうが。
父親がうまく一族に信長を認めさせられないまま早死にし、当初少ない国力しかもてなかったことも不運だし、
それのせいで長い一族との争いが起きたことも不運だ。
足利義昭が言われてるような凡愚ではなく、多くの大名に積極的に呼びかけるようなタイプだったことも不運だし、
浅井がいざという場面で裏切ったことも大きな不運だ。
これらを「しかし信長のやったこともその不運を引き起こした理由に影響している」というのなら、
数々の幸運をつかんだのも、信長の意思や行動が本当に影響してないのかって話だよ。
運の話をもちだしたら、まともな議論としては「終わり」。
「信長は運が良かった」みたいな全体評価には意味はないな。
「義元をあそこで討ち取れたのは運が良かった」など個別の出来事の評価には使えるとしても。
>>99 その中で結果論でも運と言えるのは、義龍の病死だけだが。
人間の意志と判断の結果起こったことを運と言うのはおかしいが、
人の寿命はどうしようもないからね。
義龍が死んで、信玄がしんで運がいいというのなら、信玄だって長野が死んで、
氏康が死んで運がいいといえるわな。おかげで西上野進出、甲相同盟締結が成った。
>>101 義龍が生きてたところであんまり変わらないと思うが・・・
義龍生前中どれほどのことができた?この時期の信長なんてたいした勢力じゃなかったのに
龍興時代には信長が尾張を制して背後を固めた段階で信清寝返らせて、織田ともしばらく互角に
戦っているし
>>102 だから、長野業正はかなりの長生きで、
信玄からみればむしろ運が悪い例なんですけど。
氏康だって死んだのは55すぎだし。
要するに信玄は業正、氏康以下のヘタレって事だな
>>103 そりゃあ道三殺してから5年しか生きてないから。
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 15:09:47
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 15:24:12
・
信長は実際運はいいよ。
それを運だけだと言うようなら暴論以外の何物でもなく、
それに反論するのももっともだが、
実力もあったが運も良かったと言うなら、
それに対して目くじら立てる必要はない。
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 19:58:21
確かに実力があったのは認めるけど才能は明らかに信玄の方が優れてた。
111 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 20:45:07
才能ある奴が上杉と川中島で戦うか?
所詮信玄は目先の領土拡張だけだろ。
信長は天下の事を考えていた。
>>111 それはさすがに、攻めてくれば戦わざるを得ないだろうよ。
まあ、私は才能の優劣につい打てどうこう言うつもりはないけどね。
攻めてきても戦を回避するのが外交の手腕と言うものじゃないか?
まぁ無理なのは無理と言うこともあるが。
114 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/22(火) 22:05:52
>>113 戦う前は上杉謙信があれほどつよい武将ってわからなかったんだろ!
どっちにしろ信濃を侵略した時点で謙信との戦いは避けられなかったと思う
神ならぬ身で、そんなに先のことを見通すことはできないよ。
信長だってあんなに本願寺にてこずるとは思ってなかったろ。
>>101 人の生き死にに人間の行動が関わってないって?んなことねーよ。義龍があんな風な謀反を急いで起こした理由の一つとして、
病気のことは時々言われてるし、周りから受けるストレスやらなんやらだって病気の進行に影響を与えてるだろ。
なんせ憤死ということばかあるぐらいだからな。いくら病死と言っても、暗殺やらなんやらの可能性もあるしね。
>>110 確かに平野戦では信長よりも信玄の方が圧倒的才能があった
しかし、外交力、城郭概念では信長の足元にも及ばない
天下取りと言うトータルの才能を比較した場合
信長の方が上だったと思う
平野戦での才能は数ある才能のうちの一つにすぎない
昔の兵法書をよく読んで参考にしていた信玄と、
役に立たんといって、自分で色んな戦い方を試した信長。
もし信長が信玄のようにやっていたら、
82%の勝率がもっと上がっていたかもしれないが、
その前に桶狭間で敗れていただろう
「城郭概念」ってなんだ?
天守閣とかは松永のパクリだろ?
義龍病死をラッキーと言うが、そもそも義龍が生きていたところでそこまで変わったとは思えん。
病気のまま生きていたとしても、そんな状態じゃ大した采配は取れないし、そもそも義龍が生きていたから手を出さなかった、
というわけじゃなかったろ。
桶狭間後の処理、小牧山城周辺に力を蓄える期間が必要だったから沈黙してただけ。
東にも憂いはない。攻めることだけを考えることの出来た信長なら、いずれ義龍を倒していたろ。尾張は肥沃な土地だしな。
義龍の方は常に病気を考えなくてはならないし、他所の援軍も期待できなかったしな。
桶狭間の戦い・・・
この戦いで義元の首をとれたのは運以外の何者でもないだろう
通説では、今川本陣の場所を優れた情報網で探し出し
ここしかないという場所まで一目散に出向いて
討ち取ったようになっているが
こんな神業が本当にできたか疑問だ
あ、それ作り話だから
>>120 居城の移転、城割、天守閣、石垣とかいろいろだよ
>>118 信長の外交ってそんなに優れてたか??ワラワラ
>>125 信玄をおだてて時間稼ぎが出来るくらいには。
>>122 ろくに知りもせずに元本もよまずに、よくそんだけ人から聞いたイメージだけで語れるもんだ。
陽動作戦、兵を少なく見せる工夫など、かなり徹底している。
義元を討ち取ったのは想像以上の成果だっただけで、
本陣を崩すことはどの道出来たんだよ。
もちろん、その後はゲリラ的な戦いが長く続いたかもしれないがね。
外交でもろ失敗してるお。本願寺とか将軍敵にまわして。信長包囲もう作らせちゃったしな。外交なら信玄の方が優れてるだお
>>125 大勢力の朝倉より小勢力の浅井と結んだり(朝倉とは過去の縁もあったのに)、
要所要所の大名をおだてたりと、かなりうまいよ。
三好家は結構居城移転してると思うが。
信長って、城に関しては家臣に任せてる部分が大きかったと思う。
何しろ連戦で忙しかったし。
朝倉には振られただけだろ。
>>128 謙信や北条との間で、たいして拡張できなかった信玄のどこが外交上手だよ
まあ下手とは言わんけどな。戦国期で言えば成功したほうだが、信長に比べたらはるかに下
本願寺にしろ将軍にしろ、どの道たたかわずにいられん相手だし、実際なんとか勝てる程度の勢力だったしな。
>>130 実務をやっている奴が凄いと言うことなら、
工事現場のおっちゃんが凄いという事になってしまう。
上に立つ者の凄さと言うのは方針を立てる構想力だよ。
信長の外交が上手いとは思わんが、信玄もあまり上手くないな。
朝倉と結ばなかったのは、単純に朝倉領がほしかったからでしょ。これから倒す相手と同盟する馬鹿はいないしな。
外交という意味で言えば、将軍の呼びかけに従わなかったから討伐なんて、因縁ふっかけてるとしかいえん。
断行を外交の失敗と呼ぶとはな
将軍を敵にまわさない=自分の権力低下、だろ
むしろ義昭が頑張ったというべきだ
元本って何?
信長記?信長公記?
本当に本陣を崩す事は出来たの?
>>133 ゼロか1かで話すなよ。
俺は信長はそんなに城にこだわってなかった気がする。
間違いなくこだわってるだろ。
>>137 信長公記。
崩すことは史実では実際出来たし、そこに義元の首というおまけがついただけ。
桶狭間での信長は、義元側にはなるべく兵を少なく見せたり、旗を巻いたり、それでいて義元前線には陽動隊をぶつけたりと、
色々工夫している。
「首は取らず打ち捨てにしろ」(当時としては異例な事)という言葉から、とりあえず崩すことを目標としていたと伺える。
また、そのときの義元本陣と前線とはちょっと距離があり、崩されたなら義元がとりあえずでも撤退することは十分考えられた。
>>140 しかし、信長公記には
信長が意図的に義元本陣まで辿り着いたとは書かれていない。
つまり信長公記をもとにすれば
信長には決戦当初から義元の首を取ると言う戦術があった訳ではない
とも解釈できる。偶然、義元本陣の近くまで遭遇したので
信長なりの工夫をして攻撃したとも考えられる。
>>141 全体の絡みから見れば、義元軍の後ろのほうの陣に近づいてかき回す、という明確な目的があった。
そしてそれは定石から言って、そして随時入ってくる情報からも、おそらく義元の陣だとも予想できたこと。
それがどれほど義元本人に近い陣なのかは別として。
それと首を取るための戦術なんて140ではいってないよ。
崩す事が第一。おそらく信長は、この戦で終わるとはあまり思ってなかったろう。
とりあえずの撃退戦を考えていたわけで、もし撤退してくれれば、
それはそれで良かったんだろう。だから首をとれたのは、思ったより義元本人に近かったとか、
混乱効果が大きかったと言う程度なだけ。
とりあえずでも撤退してくれれば、次にやる戦は、少なくとも「勝ち馬」ゆえに乗ってきたような軍は動かなかったわけだから、
多少は楽になっただろうしね。
まあ信長がそんな楽観的推測をしていたかどうかはともかく、桶狭間においては明確な戦略と戦術があったことは確かだよ。
>>142 >全体の絡みから見れば、義元軍の後ろのほうの陣に近づいてかき回す、という明確な目的があった。
一体何の本を読んだんだ?
>>143〜144
無知なのか?受け売り妄信者なのか?考える事を知らないのか?
まるで自分の知らない三国知識を「きっと無双あたりで言ってるに違いない」と誤解する馬鹿みたい。
三戦板のレベルは下がる一方だな。表面だけ読んで知った気になってんなよ
自分も
>>142の他の部分はともかく最初の一行だけはちょっとって感じなんだが・・・
ありていに言えば、
>>142の一行目は私はそう思うって程度の書き込みに過ぎないわけだからな。
148 :
142:2005/11/23(水) 14:37:19
これだから無双厨は困るよ
義元の陣ってそんな後ろのほうか?
まあ人によって解釈は違うだろうけどさ
桶狭間山に布陣していたとすれば割と前線に近い位置に布陣していると思うが
最前線では無いにしても
150 :
142:2005/11/23(水) 15:43:05
後ろの方だよ
前線からみりゃそりゃあ後ろのほうだろ
無知を指摘されたからって142を騙んなよ
ネタにもならねえよ
全体としてみるならまあ割と前のほうか義元?
最前線は鷲津なんかの砦占拠してる朝比奈鵜殿隊と鳴海城の岡部、
そして信長が公記であの敵は疲れた部隊といってる中嶋砦から見える範囲にいて
中島砦と桶狭間山の間にいた今川の部隊
後ろのほうというと沓掛やそれより後ろになrないか
後ろの方って、前線の後ろって意味なんじゃね?
信長と信玄、二人の能力比較になってしまう流れは・・まあ仕方ないか
>>154 義元は前線の後ろってわけでもないだろ、
朝比奈鵜殿を最前線とするならその側面ということになる
ひょっとしたら義元が正面で朝比奈鵜殿の守備隊が側面から織田を牽制だったのかもしれんが
雨降って上手く機能しなかったのかも
なんか156の言ってることがおかしいように思うんだが、俺だけか?
>>157 単に中島砦の南、海岸沿いに朝比奈、鵜殿がいて
中島砦の東南、街道を見下ろす桶狭間山に義元がいて中島砦を包囲していたというだけじゃ
距離的には鷲津が1キロ丸根が1.5キロ桶狭間山が2キロぐらいだと思うが
結局、桶狭間の戦いの結論はどうなったんだ?
127はまるで学者のように偉そうに反論してたが
桶狭間の世間的なイメージって122に近いと思うよ
まあ、全て信長記をもとに作ってるんだろうけど
小さい頃読んだ信長の伝記や大河ドラマとか見てると
最初から勝つべくして勝ったみたいになってるもんな
このイメージから比較すれば実際は運に左右された面が
多かったって事でいいんじゃね?
今までのレス読んでても奇襲戦と言えるかも疑問だし・・・
俺有名な学者だけど織田信長が天下取れたのってはっきり言って全部うんだよ。まあ運も実力のうちって言えばそれまでなんだけどね
そりゃ甫庵信長記読めば奇襲戦だよなw
>>127の偉そうな態度もどうかと思うが、
>>159は低レベル過ぎるぞ
謙信公南下しすぎ。
どうにかしてください。
163 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/12/02(金) 01:33:16
てめぇらこんな所でほざいてねぇで一度でいいから
武田神社に参拝しに行け!!そして信玄公火葬塚に行ってお参りして来い!!
ぬるぽ
>>99 なるほど、と思った。
不運(運という言葉が適切は置いといて)を幸運に変えているのが信長かもしれない。
名レス。
99が名レスだとしても、お前さんのそれは迷解釈だな。
「不運」とか「幸運」とかで語るな、というのが主旨なのに。
⊃運という言葉が適切かは置いといて
ID無い板でもすぐに分かるのが笑えるな
「運」の文字見りゃ火病起こして噛み付いてくるんだからw
幸運のお守りに最適だよね。信長って
170 :
無名武将@お腹せっぷく:
武田じゃ無理だよ、せいぜい今川ぐらいじゃないのか