関東をとれば「武士の政権」にはなるが、それだけでは「日本全国の政権」にはなれないってことかね。
そのためには、本来の「日本全国の政権」である朝廷をどうにかする必要がある。
鎌倉幕府は承久の乱以後朝廷を抑えにかかった。江戸幕府は豊臣氏を滅ぼしてから。
>>892 京都で朝廷を内包するのって、足利政権の二の舞では?
公家化して、朝廷と結びついた幕閣の陰謀に翻弄される。
でもって、せいぜい義満ていどのことしかできん。
信長謀殺に朝廷・幕閣黒幕説もないではないし。一度でいいから
室町時代の武将が教養書として読んでいた太平記や平家、読んでみ
当時の武将の価値観がわかると思うが。。。
>>880 別に管轄に居る事が問題なんじゃない、
管轄内のど真ん中の管轄同士で内輪もめしてるから大問題。
武家の棟梁様が開く関東政権なら、武家はこぞって源氏の長者になびくわな
平氏(織田)や藤原(豊臣)じゃ、公家と同じで、あっそ・・・てな感じか
>>897 足利政権がもろかったのと朝廷はさほど関係無いと思うが。
>>895 まあ島津には劣るけど信玄よりは上といったところだろう
902 :
828:2005/09/04(日) 03:34:42
究極的な話をするならば、
「田舎」だの「名門」だのは、本質的には、あまり意味がない。
三好などの畿内の勢力は、
自分たちの牛耳る足利幕府とそこに付随する自分たちの権益を犯そうとした信長と戦ったのだ。
だから六角と細川は、お互いのことを田舎大名とも言わなかったし、家柄が低いとも言わなかったが、やはり争ったわけだ。
そこへ、よその地域から割り込んできたら、信長であろうがなかろうが、「田舎大名」なわけである。
信玄は、信長を追っ払ってくれると、畿内の諸勢力は期待したが、
もし仮に、信玄が天下を望んだとしたら、やはり信長と戦ったように、信玄と戦っただろう。
逆に、信玄が天下を望んでいなかれ場、適当な官位でも与えてさっさと甲斐にお引取り願っただろう。
ごく当然のことだが、畿内の諸勢力も、己の意思を持ち、己の利害を持っている。
それゆえに対信長連合は成立した(それゆえに結束・連携はいまいちだった)。
だから、
信玄が信長を討った後、天下を取ろうとすれば、
信長と同様にか、それとも違う形でか、とにかく、何らかの形で
三好・浅井・朝倉あたりとは衝突するだろう。
仮に畿内の勢力と手を結ぶことに成功しても、
上杉・北条とどう決着をつけるのか?
毛利との関係は?
九州はどうするつもりか?
多少寿命を延ばしても、信玄の天下はまだまだ遠そうです。
>>895 >>901 実際の戦闘の経過なんてまともな史料じゃ分からないのに、
よくそこまでいえるものだ
戦力比と戦争の結果などで判断するならまだしも。
>>901 島津は逆に戦略面が今ひとつな気がする。
勝ったからいいようなものの・・といういくさが多すぎる。
>勝ったからいいようなもの
沖田畷の戦いだって、
龍造寺隆信を討ったこと自体はあくまで偶然の結果に過ぎないわけだし。
・・・龍造寺隆信の命を奪うことが第一の目的ではなかった、という意味ね。
まぁ、何だな。信玄は生きてれば天下を取れてた(別に畿内の天下に限らんが)かもしれんが、
信長は生きてても無理だったということを、歴史が証明していることは間違いない。
何びとたりとも、信長が家来に殺されたバカ殿であることは否定できまい。
それこそ、歴史の偽造となる。
>>904 まずは相手に優越する戦力を確保することが重要なはずなのに、
その点信玄は常に相手を上回る兵力で戦に挑んでるから偉い。
例外は駿河からの撤退時に北条と睨み合ったときぐらいか?
このときも信玄は戦いを避けて甲斐へと戻っている。信玄だったら
長篠でも、信長が援軍を連れてきた時点で即座に退いていたはず。
>>906 それじゃあ、その馬鹿殿に勝てなかった連中や滅ぼされた連中は何?
むしろ光秀を評価すべきかと思うが。
>906を読んでいると天下の意味がわからなくなってきた。
>>884 バカ…。武家の天下は関東なんだよ。
それでは、なぜ秀吉は家康に関東を譲ったのかね?
家臣に裏切られたに執着してるけど、他には叩きどころ見つけられないの?
公家の天下は京と関白でOKだったんでないの?
>>909 マジレスするが、「天下」という概念は難しい。
信長の「天下布武」は上洛志向の強かった彼ならではの思想で
北条氏も鎌倉府の模して「公儀」(自分たちは守護大名ではないから、
天下=天子様の下=京都のことは預かり知らぬ)という形で
室町府と同じ形の評定衆と政所を作っている。ゆえに、北条氏の
「天下」は京都ではないということになる。信長後に、「天下…」が
様々に流布された「天下一の…」ために、京都に限定されていた概念である
「天下」が武家の公儀にも拡大され、「全国統一」「全国制覇」まるで
甲子園大会だが、通説として広まったものと思われる。ちなみに、軍記物語では
謙信あたりも「天下のことはたやすく」なんて、描かれてる。あれほど天下(上洛)
を小旅行みたいに遊んで、その後は上洛に目もくれなかった武将も、江戸期の軍記物では
「天下、天下」と、元の意味は「天子様のおわす下」=「京都」が「天下」という意味で
今日使われているような統一政権ではないのに。これが最近の「天下」研究ですが、
みなさん、わかりますぅ?
>911
いや、死に方があまりに惨めで・・・・
朝廷や公家も大喜びというか、織田は嫡流も途絶えて末期が哀し過ぎ・・・
あのさ、「武家の天下は関東」と主張している人は、全ての武士が幕府の統制化にあった、と
勘違いしていないか?
日本においてそうなったのは江戸時代以降。さらに言えば、どうしてそうなったかと言うと
その前の信長から秀吉に続く流れで日本の全ての武士が一つの政権の下に入ったから。
徳川幕府はその成果を悪く言えば奪った、よく言えば継承した。
非幕府系の武士、関東の幕府を自分たちの主としない武士は鎌倉時代から特に西国中心に
ながく存在した。
武家の天下が関東、というのは、
そういう意識を持つ武士が多ければ、十分な力を持ったハッタリ、ブラフ、権威となりうる。
逆に、そうと認めなければ、それほどの力を有さない。
結果として、(途中から有名無実になったとはいえ)足利幕府は200年以上、徳川幕府は250年以上、存続した。
政権が成立したときの条件がどれだけ恵まれていたかを考慮したうえで、
この50年の差を長いと見るか短いと見るか、だな。
ただ、結果論でしか物事を見ないなら、こういう馬鹿げたことも言ってしまえるのではないだろうか。
「武家政権は常にちょうど15代になるものなんだよ」と。
もうひとつ言い忘れた。
関東にできた初の武家政権である、鎌倉幕府のころの日本は、幕府と朝廷の二重政権である。
諸国はそれぞれ朝廷側と武家側とに所領の支配権が分けられており、朝廷にもまだ、地方への直接支配権が残されていた。
それゆえ、後醍醐天皇は決起することができたわけである。
関東を基盤とした鎌倉幕府が、ある一面では、畿内を基盤とした足利幕府より脆かった、ともいえるのではないか。
武家の政権は関東でこそ磐石である、とは一面ではそういえなくもないが、
無批判にそうだと言い切れるわけでもない、ということ。
>>915 わし鎌倉史が専門なんで、具体的に挙げてみろやぁ!!
承久の変以後、鎌倉御家人はともかく、守護・地頭および追捕使に
鎌倉殿(および執権・得宗家)から推認されなかった非幕府系
の武士ってだーれだ??? はっきりと名前をあげてチョー!?!?
>>914 信長と信忠を同時に殺しているからな。
家督騒動を防ぐため信長は他の息子の所領かなり低くしてるし。
そもそも武士が忠誠をつくすなんていうのは江戸時代からだ。
>>915 >非幕府系の武士
それは武士にならないのでは?私兵とか豪族というか・・・
まあ幕府に認められているかそうでないかで実質は一緒だから言葉遊びだけどね
こいつも
>>915と同じ認識か
>関東にできた初の武家政権である、鎌倉幕府のころの日本は、
>幕府と朝廷の二重政権である。
荘官と地頭の区別、わかってるか?
地頭が荘官に代って徴税することによって、荘園制度が崩壊する成り行き
を当時の史料を持ってたら想像してみ。寺社の受領や雑掌が何度も朝廷に
訴えても、地頭の狼藉(つまり鎌倉殿の裁可)は覆らんわな。推認のない
野武士(地頭配下の農民=悪党)が押しとって、朝廷が権威を失ったわけだろ?
これを二重政権といえるなら、建武親政の意味がワカラソ。回答、キボンヌ!
>>921 後醍醐天皇が何ゆえ決起できたのか、こいつ知らないでやんの。
鎌倉史を本当に勉強しているのか、こいつ?
「下地中分」さえも知らないんじゃないか?
>>923 ほうほう「下地中分」をしなければならんかった事情を説明せんかい
鎌倉殿任免の地頭の暴力に耐えかねて、寺社(荘園領主)が調停
させたんとは違うんかいのぉ? 答えてみいや!!
>>923 後醍醐が決起(?)したのは別のファクターだぞ、そもそも。
当初は朝廷の揉め事だが、得宗専制体制に対する鎌倉武士団の叛乱
が動力になって鎌倉府が崩壊したわけだぜ。関東源氏の内部分裂が真相
でなければ、新田と足利の対立を説明できんだろうが!
>>921 でも荘園って秀吉のころまであったんじゃないの?
そもそも戦国時代も鎌倉時代も、本領安堵(御恩)と忠勤(契約奉公)
の関係はまったく変わっていない。その意味で、武家の常識を知らなかった
信長が家来に裏切られたのは必然の成り行きで、信玄−家康タイプの武将しか
武家政権は維持できなかったはずだ。おまいらも現代的なアイデアだけで歴史を語る
作家や歴史家の呪縛から離れて、本来の歴史観に目覚めろよ。なあっ!
>927
はぁ? 公家の本所や寺社領という意味ではあったが・・・。
荘園=税制の掛けられない領地という意味なら戦国大名や国人領主
の本領もそうなるわな。まぁ、税収が検地によって一元化されたのが
慶長検地なら、御説もごもっとも。
>>928 まるで信長が家臣に所領を与えていないみたいな発言だな
というかそれじゃどうやって信長は家臣を従えていたんだよ
信長の家臣一同、いつ勘気を蒙って放逐されるかと、いつもビクビクしてました
ガイ吉においては、恩は必ずしも報いられず。これでよろしこ?
愛で従えてた
しらざあいってきかせやしょう。
そもそも、地頭だって常に優位だったわけではない。
荘官が地頭の専横を幕府に訴えると、裁判上はたいていの場合、地頭が負けていた。
もちろん中には幕府の判決に従わず実力行使に及ぶ地頭もいたわけだが、
それでも荘官側は地頭に対して地頭受けなどの年貢を課し、約定をまもらせている。
荘園を折半(時に分割比率が荘官に有利だったり地頭が有利だったり、それは地方の情勢によるが)下地中分は、
必ずしも常に幕府の仲介を必要とせず、
荘官と地頭の合意に基づく場合も少なくなかった。
確かに荘園が地頭によって蚕食されつつはあったが、
下地中分や地頭請といった契約は守られ、まだ朝廷や貴族の荘園支配権が完全に失われたわけではなかった。
建武の「新政」で後醍醐天皇が多くの武士を味方につけたのも、
こうして確保されてきた天皇の荘園を、報奨として与えたからである。
鎌倉期において、幕府が調停に対して優位に立ったのは事実だが、
同時に、朝廷がまったく無力でもなく、ある程度は領地の支配権を確保し続け、
いくばくかの威令もまだ有していたのも事実である。
だからこそ、幕府への不満があるとはいえ、多くの武士が後醍醐天皇に、そして南朝についたのである。
朝廷が幕府と対等の支配権を有していたとまでは言わないが、
対等でなくても、これは立派な二重政権ではないか?
なんか煽りが増えてきたな
ここらで擦れの流れを変えてほしいが
>>933 裁判を取り仕切ってたのは、誰なんだ??
裁判(権断)の仕切りが政権じゃねぇのか??
問題は、地頭の任免権なんだよ。それまで権門寺社に媚びて荘官に
なっていた地侍が、鎌倉府に地頭として任命されたから
幕府の権威が成り立ったわけで、鎌倉殿の権威はそれ以上でも以下でもない。
じじつ、新領給与ができなかった元寇以降、武士団の不満を抑えることが
できなくなって、幕府の権威が揺らいだわけだ。朝廷と寺社の荘園支配が
続いたことをもって、二重政権という御説は仰せのとおりだが、武士団の統制
は鎌倉府の任免権以外になかったのも事実。
>>915-916 >>923 は、このへんを
曖昧にすることで、武家政治の根幹を見誤り、よってもって戦国時代の実態を
見間違えているのだ。遅くまで、スマソ。
読んでてわからなくなってきたんだが
>これを二重政権といえるなら、建武親政の意味がワカラソ。回答、キボンヌ!
>朝廷と寺社の荘園支配が
>続いたことをもって、二重政権という御説は仰せのとおりだが
つまり二重政権なのかそうでないのか。
あと、
それがスレタイにどう関係あるのか。
んなもん観点の違い。終了〜
信長が京都に執着したかのように言ってるけど安土城には御所作られてたんだよね
>>931 信長は単に恩賞もでかければ罰もでかかった、ただそれだけのこと
反乱起さないようにする為に家臣の権力を出来る限り削っていたってのもあるが
削りきれなかったのは中央から遠ざけてた
>>940 行幸の模擬紫宸殿だろ? 戦国大名に限らず、
近世大名も行幸の御座所は必ず作ってたよ。
ちなみに、東京(皇居)も単なる行幸先に過ぎん。
遷都の詔勅が出ないかぎり、御所は京都。
>>942 必ず造ってたって、聞いたことがない。
米沢や春日山や小田原や駿府や甲府や岐阜や清洲や小谷や観音寺一乗谷や多聞山や姫路や
岡山や富田や郡山や山口やらに必ずあったっけ?
!と?と2ch語を乱発するのが知性であり、
本筋(信玄の天下取りの可能性)の支流(武家政権のベストポジションの話)のそのまた傍証(鎌倉幕府のありよう)に
いちいち噛み付いておきながら自己矛盾は観点の違いで片付けるのが教養で、
学会誌や専門書の資料をあげずに名乗れるのが専門家で、
読み手の知的好奇心を喚起させることなく、感情的な煽りを、それもまとめて論理だてるのではなく数行おきにバラけさせして書きなぐって貴重なレス数を消費するのがマナーで、
学会の中でもさまざまな見解があり、世間で流布しているのが一昔前の通説であることが多いのが歴史というテーマであることを理解しているはずでありながら
学術で飯を食ってる本職よりも素人・アマチュアのほうが圧倒的に多いであろう2chであえて具体的な流れの説明もないまま、
他説に対して批判というにはあまりにも稚拙な断定を、論拠も挙げずに、文章でなくほぼ単語レベルで口走るのが専門家で、
一方的に煽っておきながら一方的に終了宣言してしまえるのがちっとも情けなくない
と
>>917=
>>921=>>924-
>>926=
>>928=
>>934=
>>937 の頭の中ではそうなっているらしいことは、よく理解できた。
で、武田家はどうなのさ?
合戦で強くて長生きできれば天下取れそうなの?