1 :
無名武将@お腹せっぷく:
司馬遼太郎の小説見てると信長に勝ち目なしみたいな感じだが
KOEIのゲームだと信長圧倒的有利みたいだが
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 22:09:39
アヒャ
3 :
竹田:2005/07/25(月) 22:09:49
ワシはまだいきとるぞ!
上杉が黙っちゃいないぜ。
5 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 22:10:11
2
6 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 22:10:42
どうですか?
ちなみに昔の大河ドラマ信長だと
信玄が攻めてきたと聞いただけで信長がもはやコレまでじゃ
降伏するぞって言ってた
緒方直人のやつ
8 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 22:14:07
前スレ読めませんが
9 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 22:14:39
信長の力じゃ2万5000に勝てないんだろ?
10 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 22:15:42
信長の能力は信玄には遠く及ばない
11 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 22:17:22
信長は偶然天下取っただけ
才能ない
騎馬対無敵
鉄砲隊雑魚
コレ真実
活よりはミスしただけ
12 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 22:18:30
家康やられて
ビビッてただけの信長
安土城でしょんべんちびってた
13 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 22:31:46
武田勝頼が天下統一して武田幕府創立
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 22:32:21
上杉謙信は雑魚ですが何か
15 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 22:33:02
信長はラッキー万だよ
運良すぎだよ
自演が多いな。
ばれてないと思ってるのだろうか・・
17 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 22:42:58
武田は有名武将が信玄、幸村、くのいちの三人しかいない
一方の織田は、信長、濃姫、お市、慶二、秀吉、お蘭と6人
しかも同盟している徳川には忠勝、稲姫、半蔵と三人。しかも家康も顔持ちだから圧倒的に織田有利
自分の国の事も知らんのか?少しは日本史勉強しろよwww
18 :
↑:2005/07/25(月) 22:47:53
戦国無双で勉強したものが何をいっとるんじゃ!
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/25(月) 22:47:57
17があぼーんされてて見れないんだけどなんかヤバいこと書いてあったのかな・・・
20 :
竹田:2005/07/25(月) 23:27:33
たわけが!!わしには馬場内藤高坂山中がおるぞい!幸村とはだれぞ?昌幸のことではないかたわけめっ!!
21 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 06:22:40
ここはネタスレか?
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 08:50:44
| 夏の無双厨の
>>17を
, - 、_.'⌒ヽ. | r‐┐r‐、ァァ r‐┐r‐┐ ┌‐u‐┐ー‐、 /1
., - ノ | | | | ヽ. . | || |_ [ _ ] `ー'.ノ |
( 、ー--j‐i' | |_.ノ|..ノ |_ノ |_.ノ└‐リ__ノ | ̄ .ノ @
( / Q Ql | ._ _____ _n_  ̄ n  ̄ ̄
.__ゝて __> | |.| └―, , ┘ニコ lニニ, lニニ .ニニl
( ( \ノノ / .|.| n // ^コ lニ^ (0 |
`て ヽ. i'._  ̄| 、ー'ノ ゙、`‐┐(o_,ヘ.〉 、ソ ◎
.'⌒i.、! ノ7lヽ |  ̄  ̄
l l|ヽ'ヽ'|| l r'て_
| |  ̄ ̄〉! /`r-='
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 09:14:23
信長の力では何もできない
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 09:32:12
まあ、信長は周りのやつらがいないとな・・・特に秀猿や光秀卿のお陰だし。無双厨にはわからんと思うが
25 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 11:56:10
信長は、大局の戦略家としては飛び抜けているが、戦術家としては信玄・謙信の足元にも及ばない。信玄に確実に討ち取られるでFA。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 12:02:05
28 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 12:44:04
勝頼は家臣とともに自害したが、信長は2ヶ月後?に明智光秀によつて討たれている。
勝頼は劉邦や劉備のように家臣や家族を見捨て、自分一人で武田領に逃げ切り
武田の体制を立て直して信長滅が反撃すれば武田天下統一の可能性があったのでは?
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 12:47:22
訂正
信長滅が→信長滅後に
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 13:06:38
>>28 あの時点でもう逃げ場なんてないでしょ。
それに武田は家臣団に離反者が出始めてる
(穴山梅雪・小山田信茂とか)からもう滅ぶしかない。
もし天下統一できたとしたら信玄存命中。
でもその頃の武田家の周辺の様子を見ると無理だろ。
とマジレスしてみたが、釣られてしまった希ガス。
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 13:12:56
信玄は信長と戦わなかったため、晩節を汚さなくて済んだのかもしれない。
32 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 15:53:03
勝頼が信玄の遺言通り上杉家を頼って落ち延びてたら、村上氏との関係はどうなってただろう
33 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 15:57:00
まあ確実にいえることは信長の親父はロリコンだったということだ。
35 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 20:07:32
>>28 高知県には、勝頼が落ち延びて天寿を全うしたっていう伝説があるよ。
勝頼の墓と言われるものが二つもある。
天下は狙わず、高知の山奥でのんびり暮らしてたそうな
>>30 武田氏に「家臣団」という時点でまず減点
小山田を叛臣としているのでもうダメ
大局が見えて足下が見えないタイプです
37 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 21:06:05
>>35 それって義経がジンギスカンになった、とか言うヨタ話の類だろ?
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 22:47:57
武田は文明の利器に負けた敵に解釈されがちだが
実は火縄銃を結構持っていたという・・・・
騎馬と鉄砲をうまく利用できれば天下統一が可能だったはず・・・
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 03:18:19
>>36 >武田氏に「家臣団」という時点でまず減点
>小山田を叛臣としているのでもうダメ
これらの根拠を述べよ
41 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 03:23:11
お前ら天下天下って、戦国時代の武将がだれしも天下取ろうとしてたと思うなよ
42 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 03:51:16
信玄が上洛してた時、信長は一向衆やら浅井・朝倉やら周りじゅう敵だらけだった
わけで、そう考えると信玄がもうちょい生きてたらイケてたと思うが。
歴史は皆、宇宙人がカツテ存在した「地球という星」を
題材にしたシュミレーションゲームだ。
そう、今この時代もシュミレーションゲームの世界なのだよ。
宇宙人にとって、気に入る展開になるまでリセットを何度も繰り返されるのだ。
日本の歴史編では、源平合戦以前、源平合戦、南北朝、戦国時代、関ヶ原、から
太平洋戦争、現在。
・・・今われわれが知っているのは、ここまで。
ここから先のシナリオは、今現在のゲームを楽しんでいる
宇宙人しか知らないのだよ。
武田に天下とるのは無理。
後5年生きてても結局領土は大差ない。
経済力がなく兵力が不足している。
家督相続をごたごたさせたり上杉と無用に戦を長引かせたり
政治的にも減点材料結構ある。
そもそも武田信玄は天下とろうなんて考えてなかったと思われ。
>>40 小山田は武田家臣じゃなく同盟相手。
>>45 信玄時代の小山田が同盟相手だとすると
織田家には同盟相手が沢山いることになるね。
ま、経済力がなく兵力が不足しているとか言うアホだから
出来の悪い本から受け売りしただけだろうがw
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 16:30:10
48 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 18:49:44
49 :
44:2005/07/28(木) 03:13:35
宇宙人が自国の大名に選んだのは、徳川家だ。
史実は、信玄に打たれているのだ。
「三方が原の戦い」で何度戦っても勝てず、その後自国が
滅亡するので、ゲームの機能をいじくり
信玄が攻めてこないようにし、ついでに死んでもらったのだ。
上杉謙信が早死にしたのも同じだ。
なぜなら、信長が討ち死にしたあと自国も滅亡する事を何度やっても
避けられなかったからだ。
関ヶ原の合戦も同じだ。
関ヶ原の合戦前、三年以内をゲームの機能をいじくり
歴戦の大名を早死にさせたのだ。
大坂の陣も同じだ。
今は宇宙人は「米国の野望 全・国・版・」を楽しんでいる
そんなに操作したらゲームじゃないよ宇宙人
改造コードで俺TUEEEプレイしてるようなもんだよ宇宙人
52 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/28(木) 23:00:20
otu
53 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/28(木) 23:57:25
信玄と信長と戦えばどちらが勝つか、という議論では決着はつかない。
だが、信玄が仮に信長を討ちとったとしても、
信長さえ討てば天下がとれたかというと、大いに疑問。
まず信玄が、日本全国を統合する政権を確立する意欲があったかどうかが問題。
信玄のイメージする「上洛」が、ライバルの謙信の上洛と同じような意味であったかもしれない。
まあ、謙信よりはリアリストというか戦国大名の資質としての利己心が強かった信玄だから、
謙信のような儀礼的な上洛である可能性はそう高くはないが。
それでも、いや、それだけに、上洛しただけで天下が取れるとも思っていないはずなわけで、
ここでさらに仮定として、
信玄に、日本全国を統治する政権を樹立する、という意味での、「天下取り」の意思があったとしよう。
この場合、最大の障壁の信長を破った後、共闘者がどう動くかが問題だ。
将軍家、三好一党、本願寺、浅井・朝倉との共闘は、「信長を討つため」、のものでしかない。
信玄が、信長ほど過激でないにしろ、自分たちの上に政権を築こうとするようなら、
これまでの共闘者は一斉に敵に回るのではないか?
そうなると、信玄の本拠地は信長以上に遠い。
信長包囲網ならぬ、信玄包囲網が、下手すると上杉・北条を巻き込んで成立しかねない。
信長包囲網のメンバーだって、多くは、
信長が天下取りの野心さえ示さなければ、信長の義昭を奉じた上洛が六角や謙信のようなものであったなら、
無関心か、ろくに抵抗せずに和議を結ぶか、歓迎さえしたことを考慮すると、信玄包囲網の成立を回避するのは信長を討つ以上に難しい。
もちろん、信玄包囲網には、織田の残党との抗争も加わるだろう。
信長よりも明らかに苦しい状況だ。
信玄の天下取りは、仮に信玄にあと十年の寿命があっても、無理だったのではないか。
55 :
44:2005/07/29(金) 00:31:16
>>50 いい読みだ!
>>51 そんなことを言ってもどうすることも出来ない。
なぜなら、われわれが早死にするも長生きするも
出世するも落ちぶれるも
ガギを握っているのは、ゲームを楽しんでいる宇宙人なのだから。
もう、地球はないのだよ。
>>53>>37 おそらく、宇宙人が使っているゲーム機に何らかの異常があり
リセットしたにもかかわらず、メモリが残っていたのだろう。
または、シナリオを面白くするためのイベントなのかもしれないな。
信玄健在時から、国力的にどうひいき目に見たって織田>武田だったろ。
信玄の国力は信長の2分の1程度だろう。
ほぼ同じくらいですよ
59 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 17:28:50
なぜ地侍や国人をすっ飛ばして、いきなり石高に辿り着くのかが
わかんね。
まあまあ。
石高も国力のバロメータだろ?
まあ検地もろくにやってない当時は石高なんてあいまいだけど。
てか、むしろ、地侍や国人は国力の話で真っ先に来るか?
国人政策が国内統治の安定度のバロメータにはなるけど、国力そのものじゃないだろ
国内の国人をしっかり統率したところで、支配地の生産力自体が低ければ国力は低いだろ。
普通国力の話をするときは、生産力に焦点を当てるし、生産力を知るには石高などが比較されるべき。
信長も信玄も国人の調略はかなりマメだった。
信玄は小山田氏と同盟関係を結び、信州攻略に当たっても真田氏などをうまく使った。
信長もまた、蜂須賀等などの土豪を支配し、美濃攻めにあたっても国人を調略して稲葉山を孤立せしめた。
甲信は濃尾や畿内にくらべかなり人口少なそうだが当時はどうだったんだ?
人口少ないと国力も低くなりそうだが。
信長に対して経済基盤で劣る信玄の重要資源は金山か。
それでも補えるかどうか・・・・・・・・
なんか後期の信玄上洛できっかよスレと話題がループしてるな
そもそも信玄が信州に進出した理由が、
北条や今川と戦うだけの国力が無い上、
信州は甲斐よりも国力はあるが小国分立で各個撃破すれば制圧がたやすいからだろ?
それでも、小笠原氏や村上氏との抗争の際には窮地に陥ってるし、
その打開策として国人衆を懐柔したわけだ。
この戦略眼こそが、謙信に対する優位であり、信玄の戦上手という評価を高めたことは忘れてはならない。
だがその優れた戦略眼で得た信州の統治は相当に強引なものであり、
「男は鉱夫、女は遊女」は決して大げさな話ではないし、税も非常に重かった。
このことが、勝頼の代の武田家支配の瓦解の遠因ではある。
それでも曲りなりに甲信・駿河・西上野その他周囲の国の数郡を支配してはいたが、
その時点での信長の国力に追いついていたかどうか。
68 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 21:46:55
だからこそとにかく実戦で破って天下に武田強し
と喧伝する必要があった。
そして蜂起や内応を誘発させると。
よく考えてみさせては駄目だったんだよ、周りに。
信長を討ち果たしたとしたら、いずれはよく考えるんじゃね?
70 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 23:16:48
てか眠れるスナフキン島津さんをお忘れではないか?
71 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 23:21:33
72 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 23:28:16
>>67 土橋治重の『武田信玄』と同じ内容なんだが?wwwwwwwwwwwww
73 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 23:40:49
>>68 でも、三方ヶ原の勝利を喧伝しても、それで蜂起したのは後がない将軍とその権威を
いまだに信奉している群小の豪族たちだけでした、と。
朝倉とか三好とか六角とか、以前から織田と戦っていた連中は疲弊して傍観。
元亀年間の織田を見ていると、あれだけ周囲を敵にかこまれて激戦を繰り返して、
尾張、美濃、近江から離反者を出さなかったことに凄みを感じる。
尾張はまだしも、美濃は何年もかけて調略したとはいえ数年前に支配完了したばかり。
近江の旧六角家臣たちなんて、ほんの少し前に侵略支配されたばかりなのに、旧主
六角がすぐそばで抵抗活動をしているのに。
そういや伊勢でも、北で長島に呼応した小豪族たちがあったがそれ以外は服したままだな。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 00:12:52
信玄の晩年は黒川金山枯れてて、駿河の安部金山だよりだったんだろ。
経済的に織田優勢でしょ。
ハングリー精神では武田優位でしょうが・・・
誘導してひきつけてひきつけて叩く、という織田の作戦がはまりそうな感じだね
対する信玄は、
三方ヶ原の勝利の後、三河野田城ひとつを落とすまでに2ヶ月も要している。
駿河攻略もそうだが、軍事的に勝利してもその戦勝地を維持しきるのは並大抵の苦労ではない。
信長はこの問題をクリアしたうえで、土豪や一揆を解体しようとして争って苦労を背負い込み、結果、それに勝利してより確固たる支配を築いた。
信玄の国人支配は、これはこれで上手だったが、果たして信長のそれと比較して、どちらが強固な支配体制の礎となったかは、
信玄死後の武田領と、信長死後の織田領とを、比較すれば答えはおのずと出てくる。
また、信長にして見れば、信玄はさほど脅威ではなかったのではないか?
信玄来たるの報に、いくら畿内がごたついているからといって、援軍3000というのは、やる気のなさを示しているだろう。
本当に信玄の25000が脅威だと判断すれば、畿内の勢力とさっさと和議を結んで本拠地の尾張美濃で迎え撃つくらいのことはするだろう。
(現に、浅井・朝倉とは一度、本願寺の挙兵後、和している)
そうしなかったのは、信玄の上洛軍が、信長の認識ではその程度だったと言うことではないか?
信玄上洛(?)の際、謙信に当てて信長が出した手紙には、ずいぶんと強がり我かいてあるようだが、あながち本音だったかもしれない。
77 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 00:20:56
史実では騎馬隊などというものは存在しなかったそうな。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 00:24:50
>>77 それはもういい&どうでもいい。
武田軍がどんな編成であるかは瑣末な問題だ。
肝心なのは、信州攻略ではおおむね成功し、
駿河攻略はいったん挫折したものの最終的には駿河を押さえ、
三方ヶ原では三河衆をコテンパンにした、っていうことだ。
79 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 00:48:04
ちなみに俺の先祖はたぶん小山田の石投げ部隊。
もうちょっと信玄公が生きていてくれたら、信長の頭にパカンとぶつけたんだろうけどね。
80 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 01:24:21
俺の先祖は、川中島で○崎に首を取られましたが何か?
>>74 武田も北条、上杉、今川、徳川と敵対国として囲まれた時期でも離反者いなかったかと
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 03:39:44
武田信繁がいないのが残念だな
どっちにしても織田と武田は国力に差がありすぎ。
ちなみにウチの先祖は川中島で○崎の配下だったらしく四首挙げたときいてる
86 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 08:08:20
今日は近所のパチやで鬼武者設定6祭りだ。
信玄のかわりにオレが信長ぬっ殺してやる!
87 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 09:02:19
>>78 戦国BASARAでは、三河の兵は一番強いと家康が言ってるんだがな?勉強しろよ夏厨wwwwwwwwwwwwwwww
88 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 10:06:33
信長公記にも三河の兵は強いと書いてあるしな
89 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 10:21:09
尾張と三河そんなに違うか?同じ愛知県だろ
↑根拠のない発言するレベルの君はまず史書を読み漁りなさい、話はそれからだ
91 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 10:29:07
>>89 尾張と三河の違いがわからないのにレスするなよ
92 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 10:41:28
夏休みだから仕方ないって
93 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 11:01:03
三河武士についての史料を片っ端から読まなきゃwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
94 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 11:08:07
三河武士は忠義心が強かったからではないの?
95 :
壱語みるく:2005/07/30(土) 11:08:28
どなたか、無双のAAお持ちじゃないですか?
96 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 11:12:43
97 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 11:34:49
98 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 11:42:33
>>91 三河と尾張どう違うの?
是非おしえてくれ。
99 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 12:01:31
>>98 何も調べないで「教えてくれ」と言うのは夏厨の特徴。自分で調べることも出来ないやつが討論出来るわけねーだろwwwwwww
100 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 12:02:05
100
101 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 12:05:03
>>99 お前の文章力も夏厨程度だが( ´_ゝ`)
102 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 12:09:15
103 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 12:10:13
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 12:15:36
106 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 12:27:40
>>74 >近江の旧六角家臣たちなんて、ほんの少し前に侵略支配されたばかりなのに
ヒント:観音寺騒動
107 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 12:55:22
>>94 清康の頃、本願寺の門徒を家臣団に組み込み信仰心が厚く団結力がある。
それが尾張との違いの一つでもある。
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 13:00:21
109 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 13:00:51
信玄は、信濃の強引な侵略で相手は死んでいい覚悟で反抗したし、
駿河でも、一時退却するなどマイナスがある。
信長と言う大敵がいるのに、最後まで上杉と対立したまま。
結局上洛するのが限界であり、信長みたいに上洛した後
各地に武将を派遣して各個撃破するような体制まで作れるとは思えない。
実際に強弱の差が在ったかどうかは別として、
三河の兵は強兵で尾張の兵は弱兵だと言うのは、当時、流布していた話だ。
反面、土地の生産力は、尾張一国で三河の数倍。人口も多かった(らしい)。
地理的な面積以上に、高い経済力を有していた。
(参考までに、信長の父信秀は尾張半国ほどの所領だったか、斉藤道三に大敗した直後に、朝廷に4000貫の献金を行った。
これを、信長が義昭を奉じたときに本願寺に要求した矢銭が5000貫だったことと比較すれば、4000貫と言う金額の価値と、
大敗した後にもかかわらずそれだけの献金を可能とした尾張半国の経済力が想像できるだろう)
>>106 信長に対する反抗の性質を考えろ。
>>107 その孫家康は三河一向一揆にほとほと手を焼いたが、
徹底抗戦の末、領内の一向宗の寺院を破却した。
この抗争の際の、一向宗門との家康家臣の進退は面白い。
>>110 大寺とはいえ、寺周辺しか影響力のない本願寺
尾張半国ほどの所領とはいえ、尾張半国は支配している信秀
よって‥
>大敗した後にもかかわらずそれだけの献金を可能とした尾張半国の経済力が想像できるだろう
↑できません。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/31(日) 02:38:35
ゲームの機能を使えば
国力、落城しそうな城(敵、味方)の城内兵数、食料
を簡単に増減できるので楽勝さ
と、ゲームを楽しんでいる宇宙人が申しております。
三河一向一揆の景気は、一説によると軍資金に困った家康が
一向宗の寺院に矢銭を課したかららしい。
寺社の経済力は侮れないよ。
実際、機内の諸大名が信長に敗れたか降参した後でも、
最後まで組織的抵抗を続けたのは一向宗で、相応のバックボーンが無いと無理。
そりゃ信者である農民地侍国人が沢山居たからねぇ
これは相当堅固なバックボーン。
それと、封鎖されてる状況で経済活動できる筈もなし。
十年に及ぶ攻防の後に、石山本願寺が信長に降伏した際、顕如の子、教如は徹底抗戦を主張したが、
まもなく本願寺から退去した。
このとき、失火、ないしは放火で石山本願寺は焼失したのだが、
この火は三日間燃え続けたという。
これだけ大規模な構えの本願寺に経済力が無いはずがない。
なお、信長の矢銭の要求には応じている。
十年に及ぶ攻防、の最中は封鎖されてるので経済活動はしてないのに
>最後まで組織的抵抗を続けたのは一向宗で、経済力のバックボーンが無いと無理。
というのはどうだろう。
>>117 それだけ戦えるほど金銀や武器弾薬を備蓄していたのさ。
貯め込んでただろうし、特に自分で経済活動しなくても
みんなこっそりお金とか持ってきてくれたんじゃないの
人はタダで働いてくれるし。
ほんと宗教勢力はすごいな
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/31(日) 09:52:37
>>105 それをスルー出来ないお前がな。
ちなみに俺は社会人、定職持ちです。
121 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/31(日) 10:06:54
まず、信玄に上洛の意思があったかどうかを考えた方がいいのでは?
信玄の出兵は、三河・遠江を制圧することだけを目的としていた説が有力だと思うよ。
信長包囲網によって信長の協力を得られなくなった家康をつぶすのが出兵の本当の目的。
実際に信長は3000しか援軍を送れなかったわけだし。
信玄の兵法の基本は「ほぼ100%勝てる状況を作ってから闘う」だから、信長との戦いが物理的に無理と言うなら、信玄もそんなのは当然知っていたはずだから、信玄は信長と戦うこと(=上洛)自体考えてなかったかもしれないよ。
あわよくば、信長包囲網によって手薄になった尾張くらいは何とかなるかな、くらいに考えていたんじゃないかな。
122 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/31(日) 22:58:55
>>119 今でいえば、層化学会みたいだね。
現代には、信長はいないのかぁぁ〜
123 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/31(日) 23:38:33
じゃあ聞くが!!
おめーらは、曙がマットに沈んでも良いと言うのか!!!!!!
125 :
208:2005/08/01(月) 01:01:26
ダメバイトは局やめて他のところに勤めても同じ事いうはずだ。
127 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 01:20:02
む り。
128 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 03:44:57
129 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 08:58:49
>>28 誰もマジレスつけてないが、
武田が滅んで二ヶ月後に信長が本能寺の変で討たれたなんてのはとうに論破されたカビくさい理屈。
そんなのタイムスケジュールが大きく狂って本能寺が起きない可能性が高いだろう。
ましてや武田勝頼が信濃で粘っているさなかというのに
信長が京都に戻ってきて小人数の小姓と悠長に茶会なんて事態は存在せんだろう。
さらに言うと少なくとも織田信忠も現地指令官として前線に残ってただろうし。
それと、この理屈とよくセットで出てくる「もしも小山田ではなく真田を頼ってたら」も空論。
真田が小山田と同じことをしないという根拠はどこにもない。
真田が忠義の者なんてのは大阪の陣の信繁の行動からきたもので実際は時勢に応じて主を変える典型的勢力だった。
というか、織田軍ってそもそもまず信濃に攻め込んでそこから甲斐に侵入したんだろ。
あの状況でどうやって真田領までたどり着けるんだか。
大菩薩峠越えルート、山の民系道使用ルート
>>129 秀吉も、昌幸を「表裏比興」って評していたしな。
所領安堵のためにころころ主家を変えるようなところだから。
天正4 安土城築城,本願寺謙信と盟す。鉄砲千挺で信長逃散(大谷本願寺由緒通鑑第3巻p.36
って、長篠の翌年なわけだが、このスレ的にはどうよ?
たった1000挺で逃散したと。
千挺って、すさまじい物量だと思うけど・・・
少なくとも、本願寺とか西国系の戦国大名(島津・長宗我部など)
くらいしか動員できないんじゃ?
信長は、これ以外にも鉄砲で何度も苦汁を嘗めている気がする。
「鉄砲伝来が信長の天下統一を促した」
って、教科書とかにあるけど、 あれって妄説も甚だしいような
>134>135
つまり、長篠設楽原の「3000挺」は嘘だったと・・・
あたりまえだけど
>>136 俺は難しい話はわからんけど、藤本正行先生とか、鈴木眞哉先生とかの
著書を読んでると、限りなく嘘くさい。 ちなみに鉄甲船も。
原因は明治時代の戦史編纂にあるとか
>137
鉄甲船は史実だと思うが、問題は最近の評論家や作家(秋山駿・津本陽)あたりが
持ち上げすぎるからだと思う。高度成長の時代は秀吉(立身出世)と家康(経営手腕)
が脚光を浴びたが、不況の時代は「構造改革」「規制緩和」の信長が受けると。
>>138 いや、どうも鉄甲船は『多門院日記』の伝聞記述しかないとか。
もし、他にあったら是非知りたい。
いや、煽りとかじゃなくて純粋に知識欲から。
「天才・信長」ってイメージが今でもあるし、そのイメージの根拠がほしい
140 :
139:2005/08/02(火) 01:32:26
すまん、多聞院だった・・・ 吊ってくる
>>142 うぉ〜、ちゃんとあるんだ!
いいサイト紹介してくれて感謝感激だ
・・・けど、明日7時出社だからそろそろ落ちる。
本当に申し訳なかった
145 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 22:15:27
原田隆種。筑前高祖城主。政治29 統率77 知略42
俺の先祖はここの家老。
146 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 23:30:34
信玄が上洛戦にでてるさなか。
ここで謙信の利に対する覚醒が起きれば!一向宗と即和解、冬の信越国境を強行突破で無防備な北信濃を一気に占領…なんて無理か、謙信にはそんな卑怯はできないな
147 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 00:04:17
バックボーン、バックボーンって・・・馬鹿の一つ覚えみたいだなwww
148 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 00:11:27
>>118 都合良杉wwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
149 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 00:15:28
>>119 司令官なるものは存在しないわけですが?
150 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 00:17:38
>>133 秀吉が言ったんではなく、江戸期に造られたんだがな
151 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 00:22:58
>>137 国営放送であるNHKが取り上げた鉄甲船を否定するやつは日本人じゃない
152 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 00:29:00
>>145 先祖に恵まれていないなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
>>146 >冬の信越国境を強行突破
除雪車があるわけじゃあるまいし、強行突破なんて不可能だろ。
信越の積雪量はハンパじゃないぞ。
155 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 02:36:09
>>151 亀甲船ってなかった?
昔、教科書にかいてあったとおもうが。
156 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 02:38:40
いろいろ書いてあるが・・・
結局、すべてに当てはまるのは
これだ↓
>>44>>49
157 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 10:08:25
信長公記の鉄甲船の記述は大船を作った程度だからね。
確かに後世で言われるようなバキバキの鉄張り戦艦をつくったわけではないだろう。
しかし何らかの強力無比の軍艦を作ったのたしからしい。
>>151 それは朝鮮水軍の名将、李スンシンが
日本水軍を撃破するために考案・使用したとされる船。
日本水軍、お得意の切り込み攻撃を防ぐために、船の上側を屋根でおおい、
大砲などで武装された強力な軍艦とされる。
しかし現物が現存してなく、その存在は疑問視されている。
>>157 鉄装の大船ってとこをどうみるかだな。
まあ重要な部分だけ鉄で覆った船ってことか?
重量と浮力を考察して大きさとか出してたっしょ?<その時
まぁあれは船体の下部が木製だったから眉唾くせーけど。
なんで下部は木製と断定or推定したんだろうな。
160 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 18:51:47
だんだん信玄の影うすくなってきたな
そういえば武田家にも水軍あったよな
>>157 鉄甲船の鉄張りの装甲については
堺で実物みたルイス・フロイスが記してるんで間違いないと思う。
>>160 駿河水軍だろ。今川から接収して、のちに徳川水軍の基盤となる。
>>161 目撃したのはフロイスでなくてオルガンティーノだったはず。
それから、武田水軍って北条水軍にも負けている(北条水軍自体は、里見水軍に劣勢)。
163 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 20:23:56
164 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 20:26:30
>>162 武田水軍が爆薬を積んだ船を敵船に突っ込ませたっての知ってる?成功してたら武田水軍は強いと言われたんだろうね
165 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 20:43:05
武田水軍は弱かったろうね。
実力うんぬんではなく士気が低かった。
元々、今川家の水軍を接収しただけだし、
まあ水軍に限らず武田家の旧今川領支配自体うまくいっていないのだが。
>>164 作戦遂行能力がないから、弱いって言われるんだろ
>>162 嘘つくなよ
武田と北条の水軍は小競り合い程度で引き分けの
場合が多くどっちが勝ったとかはないぞ
>まあ水軍に限らず武田家の旧今川領支配自体うまくいっていないのだが。
そうだね、家康の抵抗と本人の寿命が尽きたことがあり
遠江と三河は一部しか支配していないね。
>>169 駿河併呑にもかなり時間を浪費している。
171 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 02:51:24
武田軍に頭のキレるやつはいなかったのか
172 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 02:57:28
>171
武藤
174 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 03:38:34
昌幸だけ?
175 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 04:08:18
高坂・山縣・信繁・山本勘介(諸説あるが)
176 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 04:08:55
あと、馬場・内豊か
177 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 04:15:08
ネタじゃなくて?マジで言ってんの?
やっぱ信繁が死んだのが痛かったな。
生きてりゃ、義信関係も変化があったかもしれん。
179 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 10:24:16
なんか段々、信繁って過大評価されてるんじゃないかなと思うようになってきた。
よく言う「この人物が生きてればこうはならなかった」がどの程度、本当なのかどうか疑問なんだよね。
そもそも信繁は豊臣秀長みたいに実績がそれほどあったとも思えない。
180 :
熊本みーや ◆YW3KWP0fW2 :2005/08/05(金) 10:43:11
影武者を任されたぐらいだから相当立派な御方でしょう。
181 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 11:26:45
>>180 意味のわからん理屈だ。
つーか影武者をまかされたのは信廉の筈だが。
影武者は信綱のはずです。
信綱は逍遙軒信廉の別称。
信繁の嗣子の典厩信豊は曹爽と同レヴェルと思われ。
>>183 逍遙軒信廉じゃないよ。
武田信廉が出家して、法名逍遙軒信綱(しょうようけんしんこう)と号す。
徳栄軒晴信とは言わんわな。
信玄が死ぬのって義信謀反事件の8年後でございましょう?
謀反の密告が来た時点でさっさと義信に譲位すればよかったと思うのですが。
ハゲ頭の中身は
駿河>嫡男
なのでしょうか?
186 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 23:28:46
タラレバでいったら、確かに信繁がどうのより、勝頼じゃなくて義信
に譲位なら、のほうが興味あるな。
結局領土切り取ってかないとジリ貧なんだろうけど
しかも謙信5年後死亡w
さすがにここまで予測するのは酷だけど
どちらにしろ義信が継いだら92%勝頼は謀反を起こすと思う
信長・家康連合軍vs義信・氏真連合軍(代理で氏照も参軍)
夢のタッグマッチ・・・ハアハア
188 :
マイケルとまほぉく ◆MWa0MvlLso :2005/08/05(金) 23:57:27
>>184 初めて聞いた。今まで信綱(のぶつな)かと思った。
そうか、信玄と同じく法名か…。
でも、信廉(しんれん)なんかもあり得るかもな。
190 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/06(土) 00:55:24
勝頼が黙って義信に従うとはとても思えないのだが・・・。IFで
ございますよw
史実に話を戻すが、勝頼もかなりの屈辱だと思う。存命中なのにも限らず
息子が正統な後継者であり自分自身はその代理(摂政みたいなもんか?)
なのだからこれはひどすぎる・・・。これじゃ自分自身が欠陥であることを
内外に吹聴してるようなもの。
いっそうのこと龍宝(海野信親)の子供を嫡男に指名したほうが良かった
かもな龍宝の母は三条の方だし。
>>187>>191 第一に嫡男をさしおいて妾腹の四男、第二にすでに諏訪氏の跡取りとして武田の外に
出されている。
この状況で「オレが武田の跡取りだあ!」とかほざいても誰も従わなかっただろうな。
193 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/06(土) 12:44:31
>>191 息子が正統な後継者であり自分自身はその代理
お前は馬鹿か?義信が死んだ後に勝頼に出番が回ってきたんだろうが。
もともとよそ者扱いだろ?
伊那四郎勝頼ww
「甲陽軍鑑」以外で、勝頼が正式な跡取りじゃなかった、って記述あるの?
「頼」は諏訪氏で「信」は武田氏なのだから武田に復姓した時点で
名前も変えたら良かったのにね
四郎君に諏訪家棟梁の意地でもあったんでねえの?
五郎丸君は?
信玄って過剰評価されすぎだと思うよ。
能力的には信玄=勝頼だと思います。
信玄の時代は信濃や周辺の弱小領主を相手にしていたけど
淘汰がすすんで勝頼の時代にはもうまわりは強敵だらけになっていたわけ
だしね。不運とはいえ不運。
そりゃ、信玄はほめたたたえるしかないだろう。
信玄をけなすと、東証大権現さまに勝った人物をけなすことになり結果的に権現さまをけなすことになる。
また武田家臣は多くが徳川譜代として幕府につかえているので、へたに武田家臣をけなすと幕府をけなす
ことになる。
結果として、マイナス要素は全て勝頼に押し付けられる。
この家康マンセー史観がいくところ、「金ヶ崎は家康がいなければ秀吉は戦死、信長も危うかった」とか
「姉川の勝利は徳川のおかげ」とか「小牧の役は家康の勝利、家康は天下のために秀吉に降ってやった」
とかになる。三方ヶ原を織田・徳川連合軍とかいって敗戦責任を織田に分担させたりするのもオケ。
201 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 17:49:58
>>200 >東証大権現さま
なんだか株の神様みたいだね
早速茅場町に社殿を造営してお祀りしよう!
東証大権現様、高値お願い!
203 :
中常侍 うんこ ◆knhfo7S6wc :2005/08/09(火) 21:35:50
信廉って絵描きさんだったんですね
あまりお上手ではありませんがw
204 :
信廉:2005/08/09(火) 22:41:41
だって漫画家志望だったんだもん。
信繁が死ななきゃとっくに夢叶えてたに…
漫画武田タイム 契約してたのに…
無念
205 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 22:57:32
信廉代表作
青狸怒羅右衛門正信(あおたぬき どらえもん まさのぶ)
物語は武田の旗本、野比家の家来の怒羅右衛門がダメ跡取りと評判ののび太を数々の発明品で教育する話し。
つか、信玄より勝頼の方が天下に近かった
高天神城とか言うんじゃないでしょうね?
信玄:気が付けば、周りじゅう敵だらけよ!な状況を自ら作ってしまった甲斐の生臭坊主。
最後っ屁が異常に高く評価されるも、
うつけ信長の美濃侵攻中、自称毘沙門天の化身な狂人・謙信の北信濃乱入を防ぐのに手一杯で、
混乱する美濃に十分な手を打つことが出来ず、その上、信長の懐柔策にまんまとハマり、
中央進出の機会を失う。金採掘と堤作りが好き。実は賊子。
勝頼:信玄嫡子義信の謀反あぼーんにより、庶子ながら父の死後、武田家の統帥権を得る。
父の無茶苦茶外交を整理し、当面の敵を織田家配下のウンコ垂れ徳川家一本に絞り、
領土拡大を図る。
対徳川一本に絞ったことで、兵力が集中出来、緒戦で大いに戦果を得るも、
織田本隊の出陣により大敗を余儀なくされる。
大敗時に老臣の多くが討ち死にしてくれたおかげで、
武田家中の組織改革にようやく着手可能となり、改革自体は順調に進んだが、
その間、一方の織田も畿内の反織田勢力を完全に駆逐。
そして、その織田家に、次なる敵は武田家、と定められ、命脈尽きる。
210 :
中常侍 うんこ ◆knhfo7S6wc :2005/08/11(木) 21:25:47
晴信=砥石崩れ(29歳)
勝頼=長篠(29歳)
家康=三方ヶ原(29歳)
人は失敗してこそ成長するもの。その後、運良くチャンスがあれば生かせる
がチャンスが無かったらそこで終了。
晴信がもっと生きていたら家康は死んでいたか、もしくは不利な状況に
置かれるわけで秀忠スレじゃないけど家康は名将でなく凡将と後世の
評価を受けたでしょう。晴信が死んでくれたから後々に繋がるわけで
3人とも29歳の時に「大」失敗してるとは偶然っておもろいね。
つかゴタゴタ捏造祭りしてっけど、
>>17を越える理論的ソースってないわけ?
よくわからんが説得力あるかも。
214 :
信廉:2005/08/12(金) 00:17:38
>>206銅鑼右衛門で正解
ですちなみに陸奥守乃毘太は長篠合戦で二段目の策まで斬り込みをいれますが。死にます。
他に親友の骨川十兵衛臑雄は恵林寺で焼死、
剛田郷左右衛門孟士は戦後浪人し甲斐国人一揆に加わり川尻秀隆を討つが妹の嫁ぎ先で妹を慕っていた同僚の出来杉某と喧嘩になり酔ってる所を斬られるんだよ
銅鑼右衛門は信長を恨み、密かに明智に近づき発明品による洗脳に成功した。そして本能寺の変で信長をたおす、信長の首は銅鑼右衛門が密かに持ち運び野比家の墓に供えた
復讐の役割を終えた銅鑼右衛門はどこかへ消えその後の消息を知るものは居ないが
噂では未来へ行くことの出来る乗り物を発明し、未来へ旅立ったのだとも言われた…て話しだったのになあ
>>212も正解。当時を生きたワシがいうのだから間違いないよ。
215 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 00:26:33
【男達の大和】
2005年12月
上演!
216 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 02:18:13
信長は天下統一手前までいったから有名な奴多いのあたりまえだろ!知らないだけで信玄の方がいい武将多いし。信長の野望みてみろばか!だいたい幸村とかいってる時点で頭わるいのがわかる
217 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 02:49:55
そもそも武田信玄に信長みたいな天下統一後のビジョンがあったのでしょうか?信玄が信長を倒していたら日本史どうなっていたのだろう?
218 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 02:59:52
信玄=勝頼などと不思議な事を言ってるが
長篠の戦のように部下の諫めを聞き入れず
柵と鉄砲に突撃を繰り返すような真似を信玄が取るとは思えない。
騎馬隊は鉄砲と柵と長槍で散々狩られてしまったし
この戦いで突撃を強要された優秀な旧来の家臣が一網打尽にされてしまった。
信玄の戦経験や武将の質は信長にとって恐怖なのは確実。
武田の遺臣は信長ばかりか、秀吉や家康に組み込まれて
天下制覇の礎となっている。
特に家康は武田家の戦法を見て大いに驚き余すことなく取り入れた。
武田家は兵が足りないだの経済力だの言うなら、
そもそも兵の差や装備の質だけで勝敗が決まるなら
桶狭間で織田家は潰えていたはず。
219 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 03:22:58
↑正解 信玄は負ける戦はしないからね。西上前の北条との同盟とか信長包囲網とかみればわかるし。慎重すぎたから天下統一に間に合わなかった事は認めるけどね。地理的にも。あと5年あれば確実に天下とってたね。
>>219 まあ5年あったら織田は大勢力になってるので
勝ち目ないがな。
信玄が死んだときもすでに国力に差がありすぎだし。
天正元年の段階ではすでに浅井も滅亡寸前で
そろそろ包囲網も破れそうな状況だったから
信玄が生きてたところで大勢に影響はないと思われ。
221 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 04:35:27
武田は今川侵攻で安倍川金山手に入れたし、駿河は尾張程ではないが豊かだし
海に面してるから貿易も出来ただろうし、北条とは氏康がしんだら同盟復活してるし
織田と比べて国力が圧倒的に劣るとまではいかないんじゃないかと思うんだけど
武田の駿河の経営はどうだったん?
ひょっとしたら上手くいってなかったの
>>200 そりゃ当時の家康はまだ発展途上のペーペーの若輩者じゃん。
その上、3倍近い武田軍に敗れたとしてもまだ角が立つよ。
糞をもらしたとはいえ中々の度胸だぞ。
駿河を手に入れるのが遅すぎたね
225 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 04:57:30
信玄:気が付けば、周りじゅう敵だらけよ!な状況を自ら作ってしまった甲斐の生臭坊主。
最後っ屁が異常に高く評価されるも、
うつけ信長の美濃侵攻中、自称毘沙門天の化身な狂人・謙信の北信濃乱入を防ぐのに手一杯で、
混乱する美濃に十分な手を打つことが出来ず、その上、信長の懐柔策にまんまとハマり、
中央進出の機会を失う。金採掘と堤作りが好き。実は賊子。
勝頼:信玄嫡子義信の謀反あぼーんにより、庶子ながら父の死後、武田家の統帥権を得る。
父の無茶苦茶外交を整理し、当面の敵を織田家配下のウンコ垂れ徳川家一本に絞り、
領土拡大を図る。
対徳川一本に絞ったことで、兵力が集中出来、緒戦で大いに戦果を得るも、
織田本隊の出陣により大敗を余儀なくされる。
大敗時に老臣の多くが討ち死にしてくれたおかげで、
武田家中の組織改革にようやく着手可能となり、改革自体は順調に進んだが、
その間、一方の織田も畿内の反織田勢力を完全に駆逐。
そして、その織田家に、次なる敵は武田家、と定められ、命脈尽きる。
>>221 石高が織田の半分以下だし
中央に比べ人口が少ない。
織田は堺などの大都市を押さえているし、
多くの港をもっている上石見銀山を押さえている。
基本的に兵力でかなり劣っているし。
しかし織田は中央で忙しいから
武田に回せる兵力はどっこいどっこい。
信玄に勝機はなくはないだろうが三河、遠江を
完全掌握するには時間がかかるしな。
駿河がうまくいってたからこそ遠江に進出したのでは?
経営がうまくいってない状態で遠江侵攻を開始するとは思えんが。
>>218 騎馬隊は疑問視されてますよ。
部下の諫めを聞き入れず突撃を繰り返して優秀な旧来の家臣を大量に失った
のは晴信だって信濃で実証済みですよ。もっとも鉄砲なんてありませんが。
そんなに晴信の才能+武田家家臣の才能を評価するなら、同盟なんぞせず
にさっさと今川義元を攻め滅ぼせばよろしかろう。今川は無能ばかりなので
ございましょう?
>>226 堺は経済的利点も、もちろんあるけど火薬の原料である硝石の輸入港と
しての価値の方が上。
そのとおり、駿河経営はうまくいっていたし北条が援軍を出したのは
これを支持することを意味する。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 07:08:44
魔玉しねよ!
229 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 07:42:00
結局、すべてに当てはまるのは
↓だけだな。
>>44>>49 ちなみに他の宇宙人がやっている
シュミレーションゲームでは
神保家が天下統一を成し遂げいるのだ。
もちろん、ゲームの機能をいじくりまくって。
230 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 11:42:01
信玄はただの田舎侍だよ
>>226 正確な石高を比べることは出来ないが半分以下はありえない
石見銀山はどこにあるのかしってるのか?
織田の国力は当時随一だがその分敵も多い(浅井・朝倉・六角・将軍家・三好・武田
・本願寺・その他一揆衆)など
信玄があのタイミングで病死して撤退しなければ情勢は信長不利だしな
史実では織田は武田が撤退したために余裕ができたわけだし
232 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 14:22:33
220 5年あればは、そのまま西上できてればって意味ね。包囲網がくずれたのは確かだけど 信玄なら鉄砲隊に突っ込むような馬鹿なまねはしてないだろうし。もしかしたらね。 それと国力に差があったからの包囲網ですけど。
>>231 慶長の検地高によれば武田は80万石程度。
織田は200万石を超えていたようだが。
もちろんこれは20年後のデータだから
当時の正確な石高はだせないわけだが。
>>234 武田の支配域を本当に把握してる?
上洛戦直前の武田の版図は甲斐・信濃・駿河・西上野・飛騨遠江三河の一部と
慶長の検地高でみても100万石は超えているのだが。
武田の支配域どころか織田の支配域も把握してないな。
支配下といえるのは、尾張.美濃.伊勢.近江だが
伊勢は桑名、長島や南勢、近江は北部、南部を完全には支配してないから
慶長の検地をあてはめても200万石には届かない。
237 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 21:18:35
>>235 そうだな80万石は低すぎだろう、甲斐信濃で60万石近くに駿河の15万石、それに上野20万石だけでも
約100万、飛騨遠江三河の一部は石高的にはたいした額にならないが・・・
ただ浅井・朝倉・六角・将軍家・三好・武田・本願寺・その他一揆衆の大半は役に立たないだろう。
>>236 志摩が抜けてるぞ!!!
2万石に満たないがw
いや織田は200万石ぐらいだろう、畿内を抜いたとしても
また織田厨の捏造か ('A`)
若狭も大半抑えてるよ。
それに浅井は天正元年時点では
小谷周辺を押さえているだけだったから200万石に届くのでは?
ここはネタスレなんだから真面目な話しするなら2万5千スレいけよ
>>242 若狭は織田、朝倉派に分かれて抗争中
浅井は浅井郡、伊香郡、高島郡と北部を抑えてるし
野洲郡、志賀郡では反織田が蜂起して甲賀郡は六角が抑えてる
愛知郡にある小比叡こと百済寺は六角を支援してることから
200万石には届かないと思うぞ
>>244 浅井は浅井郡抑えてるといえるか?浅井郡の半分ぐらいだろ
野洲郡で蜂起は過去の話しだし、志賀郡も大半は織田側じゃないか、もっとも天正元年の時点じゃ
蜂起してないが。
また甲賀郡も一枚岩じゃないし。
>>244 甲賀郡は石高的にはどうなんだろう?
8万石位かな?でもあのあたりって山がちじゃない?
石高は低そうだが・・・
>>246 某スレの推定だと7.1万石
近江の中じゃ高い方。
>>245 浅井郡は虎御前砦こそあるものの小谷、山本山その他属城は健在。
野洲郡は元来一向宗が根強く石山合戦のときも蜂起してるから
織田側として換算はできない。
志賀郡も義昭の命令で在地勢力が蜂起してるので全てが織田勢力ではない。
甲賀郡は六角の勢力下だよ、ついでに言うと伊賀も反織田。
>>247 それはどうやって算出したの?
引用できる適当な史料があるとは思えないけど。
>>248 志賀郡は天正元年2月に明智光秀が鎮圧して
坂本城に入ってるから志賀郡は織田勢力下でいいんじゃないか?
>>250 天正元年2月には武田は長篠城まで撤退してるし
武田の上洛戦時で考えれば織田勢力ではないよ
>>251 武田は天正元年3月で石高出してるんじゃないの?
>>248 >野洲郡は元来一向宗が根強く石山合戦のときも蜂起してるから
そんなのあるの?正確には何年?
>小谷、山本山その他属城
ほとんど伊香郡との境じゃないか?
志賀郡については245と同じじゃないか
甲賀郡のすべてが六角だったわけじゃないだろ
小谷城は浅井軍のほぼ最北端にある。その目の前に敵の砦を築かれて閉じ込められる。
ほぼ全てをうしなっていたとみていいでしょうね。
志賀郡の反乱はとっくに鎮圧、高島郡は半分以上を奪われている。
南では、六角の勢力はせいぜい甲賀郡のみだな。そして、甲賀の豪族が全て六角に味方
していたわけでもない。
織田は近江の85%位は手に入れていたと考えてよい?
>>255 253だけどそれは言いすぎ。六角は愛知郡だか蒲生郡のどっかの城にこもってるし、
かなり大きな寺院である百済寺が裏で六角と手を結んでいる。
浅井領も伊香郡と越前の国境まで焼き討ち食らったりしてはいるが、支配を失ってるわけで無いし
浅井郡も月ヶ瀬城はまだ浅井のものだから、郡境まで完全に押し込まれてるわけではない。
>>254 高島郡で織田側なのは朽木だけでない?
朽木は関が原後の微加増があっても1万石にとどいてないので、
高島郡の半分以上を奪っているとは思えない。
>甲賀の豪族が全て六角に味方していたわけでもない
具体的に甲賀郡の誰が味方でない?
丸岡城は信長に降っていたようだ。
254ではないからそれ以上はわからん。
いいえ、朽木氏のほかに、多胡氏、新庄氏、島氏など多くの豪族が降っていますよ高島郡は
260 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/14(日) 05:44:27
信長包囲網で朝倉が深く攻め込んで
織田やれたらなぁ・・・。
武田は絶対良い位置に来ると思うんだが。
>>260 そうすると天下に一番近いのは朝倉では?
さすがに武田を差し置いて天下とる度胸はあるまい
武田は寿命だったろ?
信玄が京に入っても一時的なもの、後は朝倉が牛耳る。
>>259 多くの有力豪族が浅井滅亡の後に滅ぼされていますよ
>>262 度胸の問題ではないだろ。
武田が上洛するまでに朝倉が機内牛耳ってるだろ。
駿河から京までどれだけの国があると思ってんだ。
甲賀は滝川一益が元亀元年から攻め始めているので
それに降った豪族はそれなりに居たみたい。
>>259 >>264 言ってることは両方正しいが、その中で石高が推定できそうなのは朽木氏ぐらいで、
多胡氏、新庄氏、島氏などもそれなりの勢力であることも推定できるが(単に生き残ったからかもしれんが)
井滅亡の後に滅ぼされた豪族は一部除いて、どれほどの勢力だったか分からんやつばかり、土豪クラスな
のかもしれんし、史料に名前と滅ぼされたことしか載ってないやつも多い。
だからお互い半分とかどうとかは言えないと思う。朽木だけと言うのは論外としても。
ある日のこと。
豊臣秀吉は近臣たちにこんな問題を出した。
「織田信長公が5千の軍勢、蒲生氏郷が1万の軍勢を率いて戦ったとしたら、おぬしらはどちらに味方するか」
近臣たちが「信長公だ」「いや氏郷殿だ」と言い合っていると、秀吉はこう言ったという。
「わしなら、迷わず信長公に味方する。
氏郷の軍勢から名のある武将の首を5つ取ったら、その中に必ずや氏郷の首が混じっているだろう。
氏郷はそういう戦い方をする男だ。
しかし、信長公は違う。信長公の軍勢を4千9百まで討ち取っても、その中に信長公の首はないだろう。
合戦というものは、大将が討たれたら負けなのだ。それゆえ、この合戦は、絶対に信長公の勝ちになる。
だから、わしは信長公に味方するのだ」
氏郷は常に、自らが部隊の先鋒となって戦っていた。
そのため、「軽き大将なり。運ありて即ち敵に勝つ」と評されたという。
信長を討ち取るのは難しいだろうなー
荒木、池田、細川あたりをまとめるとどの位の石高になるんだろ。
>>260 朝倉も、最初は京に攻め込もうとしているよ。しかしその前に信長が戻ってきたので
比叡山に篭った、これが志賀の陣。
それ以降では湖東では秀吉を抜くことができず、湖西でも抜けずに終了。
浅井、朝倉では国力不足であれが限界だったんだろうね。
273 :
20面相:2005/08/15(月) 22:05:29
武田信玄は天下統一のビジョンは無かったと思う。
自分の領地を切り盛りしているだけで良かったと思う。
274 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/15(月) 22:39:56
俺は武田より島津のほうが好きだ。
俺は島津より毛利だ。
結局、一進一退の戦いで和睦しそうな気がしまする。
国力的にどうやったって、信長が東に全力投球できるようになった時点でダメだったような。
それまでに武田が如何に勢力のばせる可だが・・
信玄の上洛思考があるかぎり、東に勢力を伸ばすイメージが湧かない。
まあ織田が浅井、朝倉を倒すまでに三河、遠江を押さえられるかが
問題だな。
信玄が死んだころには畿内も織田に降り始めてたからなあ。
謙信さまが生きてるうちは、上洛はムリじゃろうて
281 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/21(日) 01:01:13
武田は???
282 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/21(日) 01:08:47
海外からの脅威が無い限り
天下統一してもメリット無いわな
隣接の国同士で小競り合いしてる方のが
逆に平和で地域が発展するわな
284 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/22(月) 05:55:16
>>1
武田信玄が何歳まで生きて居たらの
話なんだ?
285 :
1:2005/08/22(月) 09:42:15
あと半年だけ
無理です。
287 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 22:43:03
もし義信が生きてたらどうだろう。
信玄が史実通りに死んでたとしても、武田は生き残っていただろうか。
288 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 22:59:26
信玄が病気で倒れて引き返さんかったら、信長結構やばかったかもしれんな。家康はウンコ垂れよったしな。あと三年信玄が健康体やったらやばかったかもな
289 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 23:20:13
信玄以外の人の健康状態はどうなんの?
家康の胃腸が丈夫で垂れなかったらとか?
>>287 無理じゃないかなあ・・・
義信が生きてる=今川攻めないってことだから
ジリ貧状態から抜け出せないってことだろ。
だったらもっと早い段階であぼーんしてたかも。
>>288 織田は信長が死なない限り滅びんよ
これまでどれだけ負け続けても信長生きてるせいで結局滅びなかった
基本的に信長は退却が上手で、相当不意を打ってしかも厳重に包囲しないと逃げ出す確率のほうが高い
結局寿命待ちながらゲリラ戦でもやってジリ貧にさせといて後に取り戻して終わりでねーかな
武田は信玄が死なない限り滅びんよ
これまでどれだけ負け続けても信玄生きてるせいで結局滅びなかった
基本的に信玄は退却が上手で、相当不意を打ってしかも厳重に包囲しないと逃げ出す確率のほうが高い
信玄上洛関係のスレみてるとどれも武田の旗色悪いな。
信玄が駿河制圧するのが遅すぎたな。
いや、信玄が遅いんじゃない。
信長が早すぎた
>>293 死んでも滅びなかったぞ
負けつづけてもって負けたのなんて数回だぞ
>>287 義信がそれこそ、信玄を追い出すくらいの気概があったら変わってたかもな。
気概というより能力と人望だな
・・言われてみればそうだな、川中島で勝手に突っ込んだり、気概だけはあったか。
アレは気概というか、焦りだろーな
302 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 20:48:32
>>291 義信がもっと冷酷(?)に今川攻めに同意してたら大分状況は違ってくるんじゃないか?
少なくとも義信だったら、家臣団の結束も違っただろうし、勝頼は当主としてはともかく、武将としての資質はあっただろうし。
でも、長篠みたいな無謀な戦いで家臣を多く失いそうだが。
勝頼がおとなしく義信に従ってるだろうか?
とはいえ勝頼についてくるのは跡部勝資とかそんなんばっかりだろうか。
飯富兄弟とかは確実に義信に付くだろうし、意味無いか。
>>304 従うに決まってるだろ、勝頼は側室の子だし、義信とも歳は離れてる、その上養子にまで出てる、
はっきりいって問題外だな。家督争いできるような立場にいない。
性格がドキュンならまだ離反とか謀反とか考えるかもしれんが、勝頼は一般に思慮深く怒ること
無い性格だったといわれてるし。
勝頼が家督ついだのは偶然だしな。
家督つぐのは想像もしてなかっただろ。
信玄が攻めてきた時点で
明智寝返り→織田家内部崩壊って事は無いんだろうか
>>307 十分にありえます。
織田家は武田家に比べて一枚岩ではありません。
なので、信玄が死亡せずにもう少しでも進軍していれば、
・徳川家康は信玄に降伏。
・尾張・三河国境の大名水野家は寝返り。
・将軍家にゆかりのある明智・細川も寝返り。
・長島一向一揆など一向宗が決起
・浅井朝倉三好六角らが南北近江、越前、四国より進軍。
どう考えても織田家が勝てる見込みは0に近い。
>>308-309 って事は足利将軍の下に
甲信駿三(美尾)の武田
越越の上杉
越前の朝倉
近江の浅井
丹波の明智
さらに加賀、大坂の本願寺が集まってひとまず戦国終了?
でも地方の人達は「ケンカ止め!」って言っても止めそうに無いね
明智ってあの頃不満なんて無かったような気はするんだが・・・
織田家が武田家に比べて一枚岩でないって所のソースもplz
一部謀反しただけで一枚岩じゃないってのは無しな、きちんと不満や叛意があったってソースを希望
これ無いと単なる妄想で乙だ
>>309 織田家にとってもっとも厳しかった元亀年間に、裏切った尾張・美濃・伊勢・近江(旧六角家臣限定)は
一人もいませんよ。
一枚岩でない?裏切り?何を根拠に?
さらに言えば、明智と細川は元亀のあの状況で「義昭を裏切って信長についた」のですが。
そんな厳しい状況でも信長に付く魅力ってなんだったんだろう?
明智は出世を望むなら織田が一番ってのは分るけど
他はそれでも織田が勝つって読んでいたんだろうか
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/27(土) 22:20:40
家康は裏切らないだろうな。晩年の彼ならともかく。。
それにあの敗戦直後の状況での降伏は無理かと、家康の首もって行って
徳川と武田の同盟なら分からなくも無いが。
細川はどう転ぶか分からんが、大局的に見れば、あまり関係ない(所詮丹波の一豪族
光秀は裏切る可能性は薄い、意外と秀吉あたりが寝返るかもしれないが;
上杉も動かないのでは、、上杉に背後を突かれる様な危険がある中での上洛を
考えるほど信玄も無知ではないかと、とりあえず抑えはおいていましたが。
自分の予想だが、信玄がもう少し生きていたら、義昭の織田包囲網側が勝利し
武田が畿内に入るまでは良いが、足利と武田の確執が始まって、結局織田の二の舞、
足利を倒しても、その内信玄が死んで、1582年のような内部崩壊が始まり、滅んでいくような
天下統一のためには才能だけではなく、寿命と天運が必要。信玄は後者が足らない。
勝頼は出生のせいで、武田内部の派閥争いが起こるのは必至ですので、悲しいかな
武田の天下の見込みはかなり低いかと。
>>309 織田家の団結は固いと思いまする。今川が攻めてきたときだって山口
ぐらいしか寝返ったのいないのでは?それで私はあえて「暗殺」と限定
して書いたのです。
>徳川家康は信玄に降伏
籠城して徹底抗戦か織田領内に撤退も考えられるし武田に臣従しても、
また織田に寝返る可能性もあり、弱小大名だから大変なのでしょうw
>尾張・三河国境の大名水野家は寝返り
可能性はあるでしょう
>将軍家にゆかりのある明智・細川も寝返り
織田家が崩壊すれば可能性はあるけど単なる敗戦だけでは微妙で
ございますね
>長島一向一揆など一向宗が決起
そのために根絶やしにしたのでございましょう?
・浅井朝倉三好六角らが南北近江、越前、四国より進軍。
たしかに乗じる可能性はありますね
>>313 今で言う「カリスマ」なのでございましょう。
>>314 >天下統一のためには才能だけではなく、寿命と天運が必要。信玄
>は後者が足らない。
では、畿内の大名として生まれ70才まで生きてたら天下を取れたと?
>浅井朝倉三好六角らが南北近江、越前、四国より進軍
ところが史実では、信玄が遠征を開始してから半年以上たっても、こいつらは誰一人として
進軍したものはいませんでしたとさ。
浅井は逆に攻められていて、小谷城に逼塞中。朝倉は湖西方面から京に出ようとしたとする
説もあるが、その方面の防備にびびってあきらめたというオチ。
六角はまったく活動なし、鯰江城に引きこもって、攻撃されることはあっても攻撃に転じた
ことはない。三好は義昭が蜂起したときに「二万の軍で京に進軍する」と言ってはいるが、
それから三ヶ月たっても京には一兵も姿を見せませんでしたとさ。(というか、この時期三好は
分裂していて一つにまとまっていたわけでもない。ちなみに淡路の安宅氏は72年に信長に
寝返ったそうだ。)
こう見てみると裏切り説はかなり厳しそうだな
この時の秀吉は今からが上り調子(出世ね)って感じで裏切りそうに無い気はすんねぇ
暗殺ったってこの時の信長ってかなり暗殺の対策に重点置いてたはず(杉谷善住坊の狙撃の話から暗殺に対しては特に気を使ってたと桃割れ)
あそこで成功してればまだどうか解らないけど、あの後の暗殺はかなり絶望的だと思って間違いないかと
史実として、信長から裏切ったものより、信長と敵対している中から信長に寝返った者の方が多いからな。
ちなみに、大和では松永が信長を裏切った結果、筒井らが信長について、結果信長側の勢力が強まるという
楽しい逆転現象がおこっています。
つまり、松永が裏切らなかったら、大和では反信長の勢力が強くて信長にとっては危険なことになったで
しょうな。………そうか、だから信長は松永を許したのか?
>>317 暗殺というのは私の説明不足でしたな。光秀自身か光秀手勢による
信長殺害と思ってくだされ。
>>319 >>315から明智の裏切りはかなり確率低そうって予想できそうなんだが・・・
信長は生きてる限り織田家はまず崩壊しないだろうし、敗戦だけでは細川や明智が裏切らないって事は
まず裏切らなかったって見ても間違い無いんでは・・・
信玄の生存の有無よりも杉谷の狙撃の成功か否かが信長の討ち取りを左右したような気がするなぁ
信玄が三方原で家康を仕留めてればだいぶ違ったかもしれんね。
もしくは追撃して仕留めて、遠江、三河を武田の手中にしていれば・・・
>>321 遠江は一時的に得られるかもしれないが、
三河は、あの当時の織田、徳川の主従関係を鑑みれば、
徳川遺臣こぞって濃尾に一時退却→
主君のあだ討ち名目、且つ今度は織田正規軍として三河奪還戦を敢行、
な流れになり、三河は即座に奪還、遠江も危ういだろうな。
東海道の戦は兵を動かしやすい事もあって、歴史的にもオセロのような展開になりやすいし。
ここら辺の思惑もあって対武田戦における佐久間の怠慢があったのだとしたら、
まさに信長オソロシスだけれども。
野戦で総大将が討ち取られる事なんて殆ど無いけどね
>>322 奪還戦に割ける兵なんていないから困ってたんじゃないの?
むしろそこまできたら上杉なんかとは和議を結んで
尾張、美濃に攻め込んできそうなんだが
上杉と和議結べるなら、とっくに結んでる罠
>>325 北信濃と北関東を譲ってもダメかね
尾張、美濃が取れればお釣が来るが
北信濃と北関東譲ると、今度は甲斐の、武田の本拠地の防衛問題に発展しますが?
北条に対しての背信行為にもなるぞ
>326
北信濃の確保で武田がどれだけ苦労したかを考えれば、無理じゃないかな。
しかも、北信濃を譲って和睦したとしても絶対に上杉方が南侵してこないとは言えないし。
そうなりゃ、信濃中部も危機にさらされる。
>>327-328 じゃあ本拠地を東海道に移して
甲斐を北条に譲り信濃は上杉に譲ろう、そして同盟
さすがにゲームじゃないと無理か
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/28(日) 13:15:37
武田は兵農分離があんまり進んでないから、
上洛しても形だけになると思われる。
せいぜい織田家を畿内から追い出すだけでしょ。
尾張や美濃に信長が引き篭もり長期戦になったら、国力の高い織田の方が有利。
夏休みが終わりに近付いてるのか、日曜で暇なのか知らんけど
無理に盛り上げようと、ネタ投下せずとも...
尾張や美濃に信長が引き篭もっこ時点で織田の方が圧倒的に国力低いしなw
さらに、内応ぼろぼろ出てシウマイ
北信濃譲るといっても家臣が納得しないだろ。
334 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/28(日) 16:58:37
〜が生きていれば系は色々その他の人の生死が関わってややこしいので
信玄が長篠で信長、家康に対峙したらどうなっていたかを語ってみては?
>>334 長篠の戦い当日、砦が落ちた後では信玄じゃ駄不可能、むしろ勝頼よりひどい状況になるかもしれん。
そんな状況でもし勝てるとしたら、島津か幸村(←信繁ではない)、あとは謙信か信長くらいのもんだろ、
それでもほぼ100%勝てないだろうけど。
>>335 そうだなあの状況で勝てるとしたら幸村(←信繁ではない)ぐらいだろうなw
>あとは謙信か信長くらいのもんだろ
↑に笑ったw
339 :
修正:2005/08/28(日) 19:51:28
>あとは謙信か信長くらいのもんだろ
↑に笑ったw
>>335 いきなり戦い当日によこされたら誰だって無理だろ。
だが長篠の戦いに及ぶまでの戦略面から信玄がいたという前提に立てるなら、
そもそもああいう構図にはならなかったとしか思えない。信玄が優れてるのは
まさにその戦略の構築、負けるいくさはしない、石橋を叩いて進むやりかた。
そういうことだな。
信玄が生きてたら、長篠でどうこうじゃなくて、ああいう構図になってないはず。
342 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 01:29:29
武田にとっての一番の不幸は信玄が死んだタイミングじゃない。
北に戦闘バカがいたこと。
さらに不幸なことはそいつに目を付けられてしまったことだ。
>>342 目を付けられたって、北に進んできたのは信玄なんだから。
戦闘バカからすれば、あれは防衛戦争。
344 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 01:39:52
ちとスレ違いかもしれんが、戦闘バカが生まれてこなければ信玄は信長を打てただろうか。
加賀・越中一向宗との関係がどうなるかわからんが北陸の覇者は
武田になってた可能性が高いな。
三国同盟の破綻もないし信長が敵対するなら討ち取ったと思うよ。
346 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 01:46:02
あと数年生き延びていられたら家康は仕留められたでしょ。
信玄が撤退したおかげで
他の包囲網平定に全力で兵を回せた信長としては信玄の侵略継続は痛すぎる。
やがてジワジワ信長領に切り込まれ、
信長が他へ兵を裂けない状態で膠着、やがて信玄の寿命。
このパターンでは。
下手したら信長の勢図が縮まっていたかも。
>>345 もしも謙信が存在せず、上杉の台頭が無かった場合、
北条家のほうが武田以上に影響が大きいかも、
そもそも
>>343の言うとおり、川中島の戦い自体はもとはと言えば信玄が原因。
だけど北条家は特に長尾には何したわけでもないのに、
関東管領だからという時代錯誤な理由で攻められ続けた被害者。
結果、関東西部は史実より速いスピードで北条に制圧されていくと考えられる。
勢力図的にも違いが出てきそう。
>>340 信濃平定戦等を見る限りでは負けまくってるから説得力ないない
負けないと思ったいくさしかしないが正解
逆に信長は自分が有利な状況での戦闘におびき寄せるのが非常に上手な感じ
戦略的には信長の方が上じゃないかね
>>347 謙信が存在したとしても、関東管領に任命されず、村上が逃げ込んでこず
もっと早く西へ戦力を集中しておけば上杉天下もあったかも。
朝倉に義昭がいた頃に越中ぐらい取っとけば義昭かついで
上洛ぐらい出来たでしょ。義昭もそっちの方が良かったみたいだし。
>>349 村上が来なくても奥信濃は春日山の安全保障上絶対確保する必要があるから、武田が
北進するならどちらにしろ戦うことに。
また越後の国主待遇だけで関東管領に任命されなければ越後の諸勢力が長尾に従うかは疑問。
>>348 上田原や砥石崩れはあるが負けまくっているという表現は適切でない
それと晴信が出家して信玄と名乗ってからはこのような負けは一つも無い
信長は死にまくってるから、死なないと思ったいくさしかしないが正解
信長は自分が有利な状況での戦闘をしようとして
大敗、壊走、絶体絶命になるのが得意。
戦略的には信長の方が上じゃない
>>351 砥石崩れは城を落としきれず撤退中に殿軍に被害があったというだけのこと、
本隊は無事帰還してるんだから負けというのはどうかと思う。戦術的には無事
撤退成功といっても良いはずだ。
当時の様子。
武田家:北条と同盟。領地東飛騨・西上野・信濃・甲斐・駿河
上杉家:一向宗と戦闘中、越後・東上野
徳川家:三河・遠江
織田家:尾張・美濃・伊勢・志摩・南近江・北近江・山城・河内・和泉・大和
朝倉家:越前・若狭
織田家:南近江に六角、北近江に浅井、山城に将軍家・延暦寺・大和松永など
不安要素は多くある。
>>355 >当時の様子
1571年8月といったところか
話をスレタイに戻すと、信玄にその気があるとして
あのときの戦力と勢いを見ると三河、遠江は取れそう(勝手な想像だが)
だが尾張となると信長もさすがに地元はほっとけないだろうから
どこかを捨ててでも(岐阜から京は捨てれないから大阪のほう?)
大軍を差し向けるだろう。となると美濃、尾張で対峙している武田を尻目に
京に上るのは西のほうの大名。毛利にその気があれば圧倒的なんだけどなぁ〜
>>357 摂津は捨てるもなにもかなりの豪族が降ってるしなー。
まわりに攻めてきそうな勢力ないし。
三河遠江をとったころには浅井朝倉は滅亡してるだろうしな。
毛利も上洛の途上に結構な数の敵がいるし。
>>357 この時期の毛利は周り中敵だらけ、それに期待するのは無理。第一織田と同盟してるし。
360 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 20:24:26
浅井・朝倉はともかく六角みたいな浮浪者を信長包囲網の一員とは
信玄も考えてなかっただろ
361 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 21:35:37
信玄は、引きこもり君だから、チョコチョコっと出てきて、
すぐに、甲斐に引きこっもたんじゃない?
>>358-359 その豪族も織田軍あってこそ下ったんジャマイカ?
荒木、別所みたいなツワモノの例もあるし
毛利にしても九州を捨てて大友と同盟を結べば地域ダントツ、
武田なんかに比べればかなりフリーに見えるんだが
あ・く・ま・で・その気があればの話だが
>>359 そんな事いったら浅井の裏切りは100%有り得なかった事になる
364 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 22:18:19
結局、信玄が信長を討ち取れる条件で一番大きいのは何?
やっぱ信玄の長生き?
信長の戦を見てると結構ヤバイ橋渡りまくって
運良く生き延びてきたのが多いと思う。ってか運。
桶狭間だってあんだけ好条件が揃った状況なんて
いくら根回ししても二度は完璧に再現出来ないと思われ。
10回桶狭間やって1,2回勝てれば良い方じゃないのか?
んで、信長は信玄の上洛路にある城を備えないといけない上に
信玄に期待して南下した朝倉家、反乱した本願寺、比叡山、三好の残党、
おまけに喉元の足利・松永・長島本願寺辺りがいつ呼応するか分からず
それこそ手も足も出ない状態になると思う。
信玄が退却したからこそ、順番に運良く潰せたわけで
信玄存命なら動けずに包囲網で侵食されて潰されていた可能性も高い。
>>364 朝廷と京を押さえた信長を存命中に討ち取るのは難しいと思う。
できるとしたら桶狭間のような一発勝負。
ありえなくはないと思う。他に龍造寺家の大将首の例もあるし。
信玄の家臣団と将兵達&戦法は
あの天下を取った強力な家臣団と、死を恐れない三河武士を率いた
家康がまるで歯が立たなかったのだからマジで驚異的だとは思う。
他は包囲網で焦った味方・配下の裏切りで自刃か
明智光秀みたいに大戦で敗退して
退却途中で落ち武者狩りに合うなどそんな感じでは。
信長はあちらこちらから恨まれてるしね。
>>365 もうちょっと史料嫁
基本的に危ない橋渡ろうとしなかったのが信長の戦い方だ
その例外で有名なのが桶狭間と金ヶ崎
やむを得ない状況でない限り自分の有利である状況を設定してから誘い出してるのが多い
>>366 徳川の強力な家臣団は基本的に三方ヶ原の敗戦で屈辱をバネに才能を伸ばしたのが多い
武田が弱いとは言わないが、あの頃の徳川が強いかどうかなんて実際には解らないのが現実
それに信長恨んでるのは力を奪われた保守派ぐらいかな
基本的に徹底抗戦したのは、自分の力を誇示して存命をはかる集団に多いんでないかな
>>362 信濃・上野を捨てれば上杉とも同盟結べたんじゃないか?
駿河を捨てれば北条とも三年も争うことなく同盟を結べたんじゃないか?
あくまでその気があればだが。
>>366 三方ヶ原の戦いは、兵力差二倍以上の戦い。
徳川がどれほど強かったかは関係のない話。
水野→寝返らない。寝返るならば今川上洛のさいに。
六角→いるだけ、何もできない。
三好→四国で手一杯
足利→二条城にこもって信玄の上洛待ち。何もできない。
浅井→小谷城にこもって朝倉の援軍待ち。何もできない。
朝倉→やる気なし、信玄が上洛しても動かなそう。姉川以降は兵力なしか?
松永→大和で筒井と争う。何もできない。
本願寺・比叡山→一揆というのはその土地から動かないもの。
>>369 まあそんなもんだよな。武田が上洛をはじめた時の畿内の反織田包囲網とやらは
疲弊の極、滅亡寸前だった。それが武田への対応のために信長が兵を引き上げた
から命拾いしたのであって、逆攻勢をかける余力なんて残ってもいなかった。
現実に史実でもなかったしな。
ただ、その中で唯一朝倉だけはまだ攻勢に出ることは出来たのではと思う。
しかし湖東にも湖西にも出て行かなかったことをみると、なかったのか、よほど
防備が調えられていたのか。
>>368 信長だってせっかく今川を破っておきながら、長年争ってきた三河方面を
徳川に譲り、後顧の憂いを絶って美濃に勢力を注いだからこそ獲れた。
毛利は周りに着々と勢力を伸ばしていただけで、九州がどうしても
欲しいというわけではなく、大友も争う相手は他にいる。
上洛という決定的な目標を持ち東に全勢力を差し向け、反信長勢力を
味方につけながら歩を進めれば、十分可能だと思うのだが。
>水野→寝返らない。寝返るならば今川上洛のさいに。
藤本のオサーンも指摘してるが、信長公記の桶狭間の時に
水野の所領近辺で行われてるのに、名前が出てこないのは
信長を裏切ってるからという見解見せてるが、どう思うよ?
>朝倉→やる気なし、信玄が上洛しても動かなそう。姉川以降は兵力なしか?
思いっきり出陣してますが、帰ったのは雪だから
ただ信長との正面きっての対決を避けていたのは確か
>>371 違うよ、毛利はどうしても北九州が欲しかった。正確には、博多が。
ここの商業利権を目指さずに、どこを目指すのよ。
それだけ大きなポイントだからこそ、小弐、大友、竜造寺なども含めて北九州は
戦乱が続いた。
毛利にとっては他の大名たちがひしめく東中国を突破してさらに混沌とした畿内の
掌握につとめるよりも、すぐ側にある北九州の方が大きかったんでしょう。
あるいは、大内義興(だっけ?)が畿内に遠征してなすところなく叩き返された前例
を見ての判断だったのかも。
毛利が北九州で争ったのは、馬関海峡の通行権の為
対尼子に瀬戸内水軍を使用する為
博多が欲しかったなんて、妄想もイイトコ
>>371 当時の毛利の敵は、大友だけではなかったんだが。
それら全てと妥協を重ねろと?毛利本家が考えても、下の豪族たちが納得(その方が利益がある)しなければ
できない。毛利も武田も、専制君主による独裁国家などではなかったのだから。
戦国大名のなかで家中に専制権を樹立できたのは信長くらいだ。
つまり結論を言えば、どの大名が望もうとも
天下を取れるのは信長だけだと
結論
織田厨は早く自分達のスレ作って、そこでオナってろ
武田厨はオナニーすら出来ないもんね
どこのスレでも恥晒してるから
379 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 01:13:37
>>376 将軍を追い出すまでは、三好長慶とやり方は似てると思う。
そして将軍が逃げたのも信長にとっては最初から狙ってたわけじゃない。
ぶっちゃけた話、天下取りのような大事業は一人の意志で
何もかも進むわけではないのかと。
380 :
365:2005/08/30(火) 01:14:20
>>367 >>368 例外を二つも良しとすれば
何でもいくらでも出せるじゃないかよ。
ちったあ考えろよ。
それと兵士数の差は関係無い。
徳川が武田領に攻め込んだわけじゃないし。
兵士数で決まるなら今川家か近畿の三好家が天下統一かぁ?
徳川独自に三方ヶ原の戦い後に強くなったような言い方だなw
武田の遺臣と戦法を取り込んだんだろ?
武田が弱かったらそんなに伸びるかよ。
武田の遺臣取り込んだけど、戦法を取り入れたとは何だ?
382 :
365:2005/08/30(火) 01:20:20
>>381 赤備え・騎兵・陸戦・陣形など
どーでもいいけど
なんかさぁ、このスレ読んでると
織田家完璧じゃん。負けた戦は例外。勝ちは計算済み。
武田に贈り物攻勢なんかしなくても良かったんじゃないの?
あ、それも計算済み?
明智光秀の謀反も計算済みなんだろうね。
俺の役目は済んだから秀吉に譲ろうってさ「是非もなし」
>>382 赤備えは格好だけ
>騎兵・陸戦・陣形など
何を根拠に言ってるのかわからない
どう取り入れたんですか?
普通に史料読めば、この時より元亀の浅井・朝倉の南下の方が厳しい状態で
信長が追い込まれていたのを知る
それに比べれば、侵攻して来るのは武田だけの状態なんてのは
状況として、十分打開できる
石川数正が豊臣に寝返った後で、三河時代からの軍法を
武田流に改めてはいるね。
信長は専制が行き過ぎて光秀に殺される間抜けだし
息子も雁首揃えてバカばっかだから天下統一は無理
>>385 ほぅほぅ、初耳ですな
どういう軍法なのかね?
「武徳編年集成」で小田原役の際の徳川家の陣容あるけど、譜代と一門で固められてるけどね
>>387 陣容が変わるわけないでしょw
軍法だよ軍法。
>>383 色だけ取り入れたんですね
・・・馬鹿じゃねーの?
話になんねーよ
>>388 どういう軍法から、どういう軍法に変ったのですか?
はいはい、織田信長は無敵
徳川家康は武田の遺臣を組み込んだが単なる兵士としてであって
赤備えの格好を真似て独自で強くなりました
そして武田信玄が5方向から攻めたとしても織田家は有利な状況で撃破します
FA?
>徳川家康は武田の遺臣を組み込んだが単なる兵士としてであって
>赤備えの格好を真似て独自で強くなりました
こりゃ事実だから、そうとしか言いようがない
文句あるなら、根拠もってどーぞ
>>393 は山県隊の旧臣達が井伊直政隊に組み込まれた事
とか知らないようだからどうでもいい。
馬鹿は事実を捻じ曲げて信じててください。
事実ね、面白い、証明してもらおうか
>山県隊の旧臣達が井伊直政隊に組み込まれた事
山県隊の旧臣と赤備えにした井伊直政隊の編成とは?
一の先備え七手の井伊の編成は何に書いてるのかね?
山県隊の編成もね
>>380 戦争において「兵数は関係ない」とはすばらしい軍法の持ち主ですね。
孫子にもクラウゼヴィッツにもないけど、どこのものですか?
質問してるだけなのになんでそんなにエラそうなんだろう
ってヤツがいるねぇ
自分の思い込みを何も根拠も無しに事実として書いてるアホには質問してるだけにしか見えんよ
>徳川独自に三方ヶ原の戦い後に強くなったような言い方だなw
>武田の遺臣と戦法を取り込んだんだろ?
>武田が弱かったらそんなに伸びるかよ。
>赤備え・騎兵・陸戦・陣形など
>石川数正が豊臣に寝返った後で、三河時代からの軍法を武田流に改めてはいるね。
>陣容が変わるわけないでしょw 軍法だよ軍法。
>山県隊の旧臣達が井伊直政隊に組み込まれた事とか知らないようだからどうでもいい。
>馬鹿は事実を捻じ曲げて信じててください。
さて、赤備え以外で証明出来るものはどれですか?
こいつってあれじゃね?
某スレでも寺社は検地してないと難癖つけてた武田厨じゃね?
数正の出奔によって徳川の戦術軍法が、
筒抜けに秀吉方に知られてしまうことを恐れた家康公は、
甲州郡代鳥居元忠・同奉行成瀬正一・日下部定好に命じて、
信玄の国法・軍術に関する書類を提出せしめ、
武田氏の遺臣折井次昌・同倉本忠継より軍令・政務掟書等を徴し、
諸将に研究討議せしめて新たに三河の軍法を定めしめたという。(駿河土産)
>>396 はい、今川家に織田家が勝つ方法は皆無でしたね
>>399 証明証明うざい野郎だな
ちったぁテメーで検索してみろや
>>401 証明できない罠、そんなの嘘だからw
そんなサイト直リンして、何のつもりかは知らんけど
相手に馬鹿馬鹿言う割りに、根拠ないしな
つか編成知ってるよ、「武徳編年集成」って書いてるじゃん
徳川家の軍制知りたきゃ、「幕藩体制の成立史の研究」
「江戸幕府の権力構造」「徳川家康公伝」という本あるからどーぞ
武田の軍制は…甲陽軍鑑しかないぞw
407 :
401:2005/08/30(火) 02:24:54
>>399 すいません、赤備えが組み込まれた証明にもなりませんでしたね
死闘を生き残った120名も組み込んだら
徳川の兵士に陣形の指導や
指揮官どころか徳川の戦法・陣形を一からお勉強でしたね。
赤備えは格好だけでしたね^^;
駿河土産!!!!!!!
安永元年の本持ち出してナンデスカ?
>>406 「江戸幕府の権力構造」「徳川家康公伝」なんか
鵜呑みにしちゃうんですね?
じゃあ話が通じないわけだ・・・w
文句いってるだけの奴オモシロス
>>407 >死闘を生き残った120名も組み込んだら
何これ?
1740年成立の武徳編年集成をそんなにありがたがられても、と思ったり。
>>409 ちゃんとした研究論文ですが何か?
「江戸幕府の権力構造」 中村孝也氏
「徳川家康公伝」 北島正元氏
「幕藩体制の成立史の研究」 煎本増夫氏
>>408 一応、ソース出してますよ
駿河土産が信頼できないなら、その説明とソース出してからにしてね
>>412 でも、軍制、編成は書いてあるけどな
駿河土産にはどんな編成書いてあるのですか?
>>413 んな博物館や教科書、ゴロゴロしてるが?
それとも博物館に書いてあるからって鵜呑み?
>>417 「江戸幕府の権力構造」 中村孝也氏
「徳川家康公伝」 北島正元氏
「幕藩体制の成立史の研究」 煎本増夫氏
↑本を鵜呑みと何か変わりはあるんですか?w
>>415 駿河土産には軍の編成、その他何も分からない
ソースにもならん
しかもこれ、見聞録だからw
>>418 全然違うが何か?
複数の研究本による比較による結論⇔博物館のHPに書いてあった
同じとはw
格好だけなら
赤備えなんて目立つ格好を真似る必要ないじゃん
何で真似たの?
朱塗りにしたら隠密行動しづらいし、戦場でやたら目立つだけ。
何で目立たせたのか、真似したのか考えられないのか?
その格好だけっていう発想からして貧弱すぎる。
>徳川独自に三方ヶ原の戦い後に強くなったような言い方だなw
>武田の遺臣と戦法を取り込んだんだろ?
>武田が弱かったらそんなに伸びるかよ。
>赤備え・騎兵・陸戦・陣形など
>石川数正が豊臣に寝返った後で、三河時代からの軍法を武田流に改めてはいるね。
>陣容が変わるわけないでしょw 軍法だよ軍法。
>山県隊の旧臣達が井伊直政隊に組み込まれた事とか知らないようだからどうでもいい。
>馬鹿は事実を捻じ曲げて信じててください。
さて、赤備え以外で証明出来るものはどれですか?
>>421
軍の編成がわかったから何になるの?
武徳編年集成には武田の軍制は参考にしてないとかの記述でもあるんですか?
駿河土産には武田の軍制を参考にしたと記述がありますよ
424 :
421:2005/08/30(火) 02:39:36
>>422 「江戸幕府の権力構造」 中村孝也氏
「徳川家康公伝」 北島正元氏
「幕藩体制の成立史の研究」 煎本増夫氏
以外に書いてありますが
それ以外はソースにならないそうなので
どうしようもありませんが何か?
>>422 ウザイ。 スレが読みづらくなるだけなんだが。
複数の研究本による比較による結論以外はソースにもならず
ゴロゴロしてるそうなので
そういった頭の固い方にはどうしようもありません。
お手上げです。
>>423 そうね、全然ソースにもならんけどね
>>424 以外とは?どんな研究本や論文なんでしょうか?
歴史群像や読本なんかと同じ程度の本出さないでね
>>423 >武徳編年集成には武田の軍制は参考にしてないとかの記述でもあるんですか?
編成書いてあるが、どこをどうやったら武田の軍制を参考にしたのかがわからないと書いてる
で、軍法取り入れたやら言い出してる阿呆は、武田の軍法を徳川がどう真似たのかさえ言わない
なんですかね、これは
駿河土産以外でどうぞ
>>426 他にも徳川の軍容を書いてる本はあるけど(武徳大成記)ね
長久手合戦史料集では一部しかわからない
http://www.tabiken.com/history/doc/N/N058R200.HTM 1585年真田昌幸を討ち,武田信玄の軍法遺制を聞き,
翌1586年秀吉の妹の朝日姫と結婚し,その母の大政所(おおまんどころ)
を人質として迎え,やがて京都に赴いて秀吉に謁見し,権中納言・正三位
にのぼった。
http://www.j-texts.com/rohan/shingen.html 武田家で教育された其の好果を利して、家康公は愈々其の英雄的本領を発揮
されたのである。三河武士と甲州武士とは互に励み合ひ競ひ合つて、徳川氏
の為に勲功を立てたのである。明治の前でも徳川氏の旗下と称したものの中
には、甲州武士の系は甚だ少くないのであつて、それは著明の事実である。
武田信玄はもとより天稟の武将の才で、信玄が出てから武田氏の弓矢は甚だ
強くなり、其の訓練や節制や精神教育は殆んど完全に近いものになつた。で
、これと争つた徳川氏でも、北条氏でも、味方が原、三まぜ峠等、いづれも
散々に塩を附けられてゐるのであるし、上杉氏のほかには当時に於て甲州勢
を正面の敵とするのを憚らないものは無かつたのである。此の甲州武士を家
康公が招致したのは至当の事であつて、此等の者が武辺沙汰に後れを取るま
いの意気から徳川氏の為に材を伸べ勇を奮つて力を致したのは決して少くな
い。剛強誠実の三河武士と練達勇猛の甲州武士があつたればこそ、後年家康
公が天下を掌中にするに至つたのである。徳川氏の軍法にも、随つて甲州流
の節度の幾分採用されたらうことは、如何に謙虚に観察しても、必ず存すべ
きことである。
直リンしながら、どんどん挙げてるが、マトモといえる程度のは国文学者の(小説家というべきかね)幸田露伴の述だけ
一生懸命ググっても、まともに証明するのは無いよ
俗説なんだからw
とりあえず直リンは止めろよ
>>428 >どこをどうやったら武田の軍制を参考にしたのかがわからないと書いてる
ダウト!書いてないよそんなこと。
>>433 何にも根拠無いから俗説なのだよ
甲斐・駿河・信濃に侵攻したのだから、武田遺臣が多いのは当たり前
それと甲陽軍鑑に代表されるような甲州流軍学の流行と共に
いつのまにやら取り入れたとなったのだよ
>>435 383 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2005/08/30(火) 01:30:55
>>382 赤備えは格好だけ
>騎兵・陸戦・陣形など
何を根拠に言ってるのかわからない
どう取り入れたんですか?
なんか可哀相になってきた、小説とか大河ドラマを真実と信じてる子供に史実を付きつけてるみたいで・・・
>>365 >信長の戦を見てると結構ヤバイ橋渡りまくって
そこだけは同意だな、尾張統一時代は相手より劣勢だったことが何度あったか、
美濃攻めでも劣勢だったことあるし、長篠後にも天王寺で危ない橋渡ってるし。
残りの文章はもうちょっと史料嫁 だが
>>438 幽遊白書の樹の
『純粋な少女に無修正ポルノを付き付ける』
とかいう台詞思い出したw
>>436 駿河土産には書いてるだろ。
ついでにいうと武徳編年集成には武田軍制への変換について記述ないのに
徳川の編成を書いてあるだけで否定してるね。明確な根拠ないのに
442 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 03:12:06
>>441 >ついでにいうと武徳編年集成には武田軍制への変換について記述ないのに
>徳川の編成を書いてあるだけで否定してるね。明確な根拠ないのに
徳川編成書いてあるよ
武田の軍制や編成を、どう真似てるのか聞いたが返答無し
井伊直政隊に山県隊のを取り入れたのも、根拠無し
明確な根拠もないのに、軍法などを取り入れたのを既成事実化して、人を馬鹿呼ばわりしてるのは誰でしょうかw
>>442 見聞だから完全否定ですか
武徳編年集成には否定できる根拠はありませんが
445 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 03:17:37
よくわからんけど、結局否定の学説やら論文やらはないの?
というか仮に武田の軍制取り入れていたとしてもさー
北条攻めでは特にそれほどの活躍してないし、関ヶ原じゃ実質役に立ってないし、
中仙道じゃ真田に負けてる、大坂攻めでは圧倒的優性にも関わらず苦戦したりと
弱くなってるだけじゃないか?
>>443 「江戸幕府の権力構造」 中村孝也氏
「徳川家康公伝」 北島正元氏
「幕藩体制の成立史の研究」 煎本増夫氏
↑
こんなのを明確な根拠って言ってる時点で馬鹿
何言っても無駄
見聞の時期が悪すぎ、しかも私書
成立年代を何時と思ってんの?
武徳編年集成は当時幕府に残されてる史料による幕府編纂
武徳大成記ですら幕府編纂
>>446 小牧長久手や武田の旧領争奪での北条戦などは武田の軍制取り入れる前だから確かに弱くなってるな
>>445 「江戸幕府の権力構造」 中村孝也氏
「徳川家康公伝」 北島正元氏
「幕藩体制の成立史の研究」 煎本増夫氏
否定の学説どころか、否定されてますが何か?
>>447みたいな盲信君には無駄だけど
武田の軍制取り入れたという一次史料が無いんだから否定されるのが当然だろ。
取り入れてないということを証明するのは悪魔みたいなものなんだから。
武田厨には何言っても無駄だけど
武田の軍法や何か取り入れたなんてのは、相手にされてないの
残されてる史料からも、武田遺臣は組頭にすらなってないから
旧武田領を吸収、西三河を管轄してた石川数正の出奔により
肥大化した組織の再編を迫られたのは確かだが
再編後に、武田厨が言うような武田の軍法や戦術取り入れたってのは
何一つ証明されてないから
肯定する為に
・武田の軍制・軍容・軍法の提示
・徳川の再編前の軍制・軍容・軍法の提示
・徳川の再編後の軍制・軍容・軍法の提示
・これらの比較検討による共通性の提示
これが出来て、初めて肯定されるのだが
誰がしてるのでしょう?
454 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 03:31:32
>>450 どのように否定されてるの?>451みたいに??
>>454 肯定できるものが無い=否定
というか、武田の軍制との比較なぞしておらず
単に俗説と切り捨ててます
>>455 肯定できるものが無い=否定
それが学問というものなんだが・・・
>>451 >>452 武田の何も取り入れてないって・・・馬鹿も休み休み言えよ・・・ったく
井伊直正の赤備えのパクリが第一級の証明だと思うんだが。
格好だけって。
それでも武田の格好のパクリだろ?
独自で編み出した訳じゃないよな?
それとも井伊直正の赤備え自体無かった事になるのか?
面白いよ、あんたら。
>>453 ・武田の軍制・軍容・軍法の提示
・徳川の再編前の軍制・軍容・軍法の提示
・徳川の再編後の軍制・軍容・軍法の提示
・これらの比較検討による共通性の提示
これが出来て、初めて肯定されるのだが
誰がしてるのでしょう?
↑
便所の落書きにそこまで求めますか?w
赤備えだけをもって、何から何まで肯定しようと必死でしょ?
武功にあやかれと真似ただけとも言えるけどなw
>>458 は?お前の世界は2ちゃんだけかも知れんが
普通に史学会も含めての話なんだがw
いやここはネタスレだし、学問したいなら日本史板池よ
436改変して逆に言ってみる
甲斐・駿河・信濃に侵攻したのだから、武田遺臣を抱えるのは当然。
大敗・苦戦した相手の戦術を学ぶのは当然。
そんで戦術など一切取り入れてないと言い切るなら
・武田の軍制・軍容・軍法の提示と
・徳川の再編前の軍制・軍容・軍法の提示
・徳川の再編後の軍制・軍容・軍法の提示
・これらの比較検討による一切の共通性を否定する提示
さあ、お願いしますよ。
394 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2005/08/30(火) 02:07:25
>>393 は山県隊の旧臣達が井伊直政隊に組み込まれた事
とか知らないようだからどうでもいい。
馬鹿は事実を捻じ曲げて信じててください。
と威勢よく暴れてた武田厨の末路は
>>463w
>>464 肯定するものがない=否定ですが何か?
否定してない=肯定、では有りませんがw
468 :
393:2005/08/30(火) 03:43:37
>>465 すいませんが463は別人です。
程度が知れますね。
ぶっちゃけソース持ってきても
何らかの文句や因縁つけて認めないだけじゃん。
>>465 そこで武田厨はボコボコだったから、このスレを逃亡先にしたのだよ
>>467 都合いいですね
まいりました
そういった方なんでしょうね
リアルで周りに嫌われてるのに早めに気付いて下さいね
993 名前:無名武将@お腹せっぷく[sage] 投稿日:2005/08/30(火) 03:31:21
武田厨は別スレ立ててそこで妄想するようになったか・・・
こんな糞レスしたのも
>>469か
>>463 ソースにならないと何度も(ry
おまい、あれか?
年代も成立時期も信憑性も考慮せず、出された物は全て事実として認めろと?
面白い夏厨だね
>>464 それらの史料
特に・武田の軍制・軍容・軍法
の史料が軍艦ぐらいだから証明は難しい、
故に学問の世界では証拠が無いため肯定されることはないんだろ
>>470 都合いい?
ふーん、世間一般では当たり前の事ですけど
織田厨はなんで織田スレ立てないの?
織田のネタってそんなにつまんないの??
痛い武田厨が駆逐されたら立てるだろ
>>468 別人だと言うなら証明してくれよ
別人という証拠が無いなら同一人物だ
というのが成り立つぞ
>>463にとっては、真田幸村は秀頼と共に薩摩へ逃げてるのだろう
>>472 日本の教科書ですら信長の三段討ちという大嘘を教えてるんだ、
そんな事言ったら何をソースにすりゃいいんだ?
知障か?
>>480 否定されたソースに固執するからソースにならんのだよ
教科書をソースにしてるのと同じだ
知障だなw
>>475 織田厨のほうが糞スレ立てない分まともということだろ
まあ信長が生まれなかったらというスレがあるかw
>>477 上手い事言うな
472みたいなのを相手にすると結論ってこうなる
「歴史にifは無い」
「全ての条件が整って歴史は作られた」
もしも武田が・・なんて語れるスレじゃ無くなってるし。
ソースのレベルが歴史の共同研究だけかよ。
>>481 は居る場所間違ってますよ。
大学院の研究所かT種公務員で図書館勤め辺りで
戦国時代の歴史研究でもして出版でもしたらいかがですか?
武田厨がファビョったな
>>483 歴史にIFないのは当たり前だ、ネタとして遊ぶにも整合性なきゃ遊べん
自分の思い通りの展開、オナニーしたきゃ他人が見ない自分だけのサイトでやれ
チラシの裏やってんじゃねーよ
>>485 オナニーとかチラシの裏とか知性にじみ出てますよ
>>484 事実じゃないのを事実と言う法螺いう癖を直しましょうね
また織田厨か
知性がにじみ出てるのはどっちかはわかるがw
>>483 このスレは信玄が長生きしたらというIFだろ、それに関係するIFならともかく、
それ以外の要素を持ち込まないのが当然じゃないのか
>>488 実際、家康に会えるわけないんだから
真実を聞けるわけねーだろ。
どんな伝聞にせよ、必ず人を介すんだ。
何でも俗説だの言ってる時点で負け組だろお前。
夏の時期はいつもこうだから安心汁
中途半端な知識披露して叩かれて、逆ギレして、話題逸らして、レッテル貼りして
ネタ逃げ、釣り、最後は煽り、罵倒
織田厨の季節だからな
>>491 信玄が長生きしたら
↓
信玄雑魚 織田最強
↓
信玄は強い 徳川が戦法などを取り入れた
↓
証明してみろ
誰が一番話を反らしたのか分かりきってますが
何か?w
>>492 じゃあ証明してみれば?
俗説と一刀両断されてるのになw
>>491 その通りだな、正論だと思うぞ。
ついでに話しを戻そう、そもそも武田の軍法なんて信長が討ち取れるかには
直接的には関係しないし。だいたい何でこんな話しになったんだ?
>>495 9 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 2005/07/25(月) 22:14:39
信長の力じゃ2万5000に勝てないんだろ?
10 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 2005/07/25(月) 22:15:42
信長の能力は信玄には遠く及ばない
11 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 2005/07/25(月) 22:17:22
信長は偶然天下取っただけ
才能ない
騎馬対無敵
鉄砲隊雑魚
コレ真実
活よりはミスしただけ
>>496 お前には何を言っても都合の悪い事は100%俗説だから無理。
馬の耳に念仏。
俗説俗説って論破したとでも思ってるのか?
痛すぎ
501 :
497:2005/08/30(火) 04:04:16
>>495 そういう流れで信玄死後の話しになったのか・・・
まあ話し戻して毛利の上洛の可能性は?
毛利が動いたら丹波や摂津の武将もみんな毛利につくんじゃないの
380 名前: 365 [sage] 投稿日: 2005/08/30(火) 01:14:20
>>367 >>368 例外を二つも良しとすれば
何でもいくらでも出せるじゃないかよ。
ちったあ考えろよ。
それと兵士数の差は関係無い。
徳川が武田領に攻め込んだわけじゃないし。
兵士数で決まるなら今川家か近畿の三好家が天下統一かぁ?
徳川独自に三方ヶ原の戦い後に強くなったような言い方だなw
武田の遺臣と戦法を取り込んだんだろ?
武田が弱かったらそんなに伸びるかよ。
武田のお陰で徳川が強くなったと力説してますがw
503 :
497:2005/08/30(火) 04:05:12
>>499-500 何も証明出来ず、根拠もないのを都合良く既成事実化してるのは誰でしょう?
>>505 わろた
まさかそんな壮大な釣りだったとは
>>500の勘違い論破って凄いな
論にもなってないのにw
>>502 言いたい事が意味(不
367 :無名武将@お腹せっぷく :2005/08/29(月) 23:20:39
>>366 徳川の強力な家臣団は基本的に三方ヶ原の敗戦で屈辱をバネに才能を伸ばしたのが多い
武田が弱いとは言わないが、あの頃の徳川が強いかどうかなんて実際には解らないのが現実
って返信でいいのか?
>>508 いや俗説俗説しか言わない痛い方がおられましてw
>>509 >徳川の強力な家臣団は基本的に三方ヶ原の敗戦で屈辱をバネに才能を伸ばしたのが多い
一体どんな史料からこんな結論を出したのだろう、ちょっと知りたいな
>>510 俗説が事実だからじゃん
何言ってんだ?
513 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 04:12:19
おまいら伸び過ぎです
別に三方ヶ原の敗戦は屈辱的でもないだろ、あの兵力差なら負けて当然。
城を出たことを反省するならともかく。
結局の所
武田>織田>徳川
織田>武田>徳川
っていう以前に、信玄は信長相手に1:1じゃ歯が立たないって事?
包囲網があってこそ信玄は生き延びれたって事になんの?
なんか言え
>>512 おいおい、騎馬軍団や織田の兵農分離傭兵3段撃ちを肯定するつもりか
>>515 出た時点で信玄の策略の勝ちだろ
何言ってんだ
そこまで認めたくないのか
>>516 包囲網があったから、信玄は三河くんだりまで遠征に出てこれたし
決戦にも出来ようという事だけ
生き延びたかどうかは別だな
1:1じゃ常識的に考えて、もう無理
国力に差がありすぎる
>>518 意味ワカラン
徳川が武田の軍法を取り入れたを俗説というのが
何故
>騎馬軍団や織田の兵農分離傭兵3段撃ちを肯定
になるんだ?
518は確かに意味不可解だな。
一次資料で肯定されていない→それ以外の資料で肯定されていても絶対否定
これは理解できないなぁ
単に一次資料で否定の記述があるとか、一次資料で肯定されている事より
信憑性に欠けるとかならわかるけど
結局資料を見聞する側は一次的な立場じゃないだろうに・・
>>512 織田家は神を恐れず宗教分離を行った方がすごいと思う。
皆殺しや焼き討ちで宗教が人を支配するのを解き放ったのだから。
兵農分離は長宗我部家の一領具足も強かったからなぁ。
うーん。
>>515 城を出なきゃ出ないで豪族に離反されるかもしれんから出ないわけにはいかないだろ
情報の取捨選択で一次資料しか相手にしないっていうなら
何でココにいるのか不思議。
>>527 だったらますます屈辱的に感じることは無いジャン
三河武士はやたらとプライド高かったのかひょっとしてw
>>525 つか、そんなに固執するなら、自分で比較検討でもすればいいじゃん
理解できないならね
江戸中期の私書を絶対視して肯定する方がどうかしてる
>>528 アホか
史料解釈によって人の考え方は違うだろうが
明らかな曲解や嘘は突っ込まれるんだよ
533 :
521:2005/08/30(火) 04:25:19
>>530 包囲網がなきゃそもそも織田と戦わないだろうから信玄は生き延びられる。
>>530 相反してるとは思わんが
生き残れるのと、信長と決戦できるのとでは、別だ
>>532 明らかな曲解や嘘どころか
一般的に周知事実としてあちらこちらで紹介されてますが。
俗説っていってるのはあなただけ。
武田と織田 1:1は国力差的に無理
しかし兵数差・国力差で考えたら
今川家に対する織田家の勝利も100%存在しなかった。
劣勢なら知恵をふりしぼって勝てる方法を深く考える。
経験を積んで実力も有り、配下も優秀なのが多い信玄はそれが可能。
つまり信玄が二十四将やら風林火山だか赤備えだかを爆発させて
桶狭間並みの大成功収めたら分からねーって事でFA?
しかしスレタイの天下統一は無理だな
>>536 織田の3段撃ちや楽市楽座兵農分離は教科書にも載っていますが
>>536 俗説とある研究本まで紹介したが?
一般に認知されてたら事実か?馬鹿だな
だったら武田騎馬軍団も存在して、信長は三千丁の鉄砲で三段打ちし
鎌倉幕府は1192年に開かれたって訳だ
>>537 そらアンタ、桶狭間並の大成功って大将首取っちゃうんだから
天下統一かは分からんけど
>>537 信玄って劣勢な兵力で戦って勝った事って無いんだけど・・・
>>531 自分で比較検討すればとか、そういう次元の話じゃないんだよ
たださっきは片側からしか書かなかったので、その辺は申し訳ない
絶対視するとしたら、肯定も否定もどちらも理解できない
結局歴史のディテイルなんて後世の人間にはふわふわした感触
しか掴めないものと思ってるから
>>543 それ以前に劣勢な兵力で戦ったことすら、駿河攻めで北条と敵対して
駿河から撤退中に北条の大軍と睨み合ったぐらい?
>>545 それぐらいだね、あとはすべて相手より多数だったと思う。
信玄スゴイな
>>544 肯定できない理由、所謂、否定されてる理由
・武田の軍制・軍容・軍法の提示 (甲陽軍鑑)
・徳川の再編前の軍制・軍容・軍法の提示 (武徳大成記で三方ヶ原の軍制の記述あり)
・徳川の再編後の軍制・軍容・軍法の提示 (武徳編年集成で小田原役の軍制あり)
・これらの比較検討による共通性の提示 (今現在、共通性なし)
徳川幕府体制の研究本では俗説と切り捨てられてる
しかし、武田厨に言わせると、武徳大成記や武徳編年集成は否定気味
研究本挙げても、否定
駿河土産の一文をもっての肯定
どっちが理解できないか?
小田原攻めの帰りに三増峠で死に兵残して撤退した時は、北条が多かったと思うが
>>549 絶対的にというニュアンスなら、肯定側も否定側も両方
>>550 三増峠後の、北条が合流した後?
でも信玄はさっさと撤退しちゃったから戦ってないだろ。
なんか日本語が不自由な人がいますね
>>552 撤退する時に殿残して、名前ド忘れしたが、殿部隊が全滅に近い損害出して将が戦死してる
でも何故か武田の勝ちになってる不思議
>>552 北条が峠についたときにはもう撤退しちゃてるな
>>555 え、そんなことあったの?マジでしらんかったわ。
>>555 浅利じゃなくて、他にも死んだ奴がいるということか。
でもその内容だとどう考えても武田の負けにしか聞こえないんだが・・・
三増峠は武田の負けか
織田厨クオリティテラタカスw
>>558 あぁ、そうそう浅利信種だ
軍記の誇張を全て除くと、概要としては
小田原から信玄撤退→北条追撃→三増峠付近で浅利信種隊捕捉される→浅利信種討死→武田勢撤退完了
武田の負けじゃなくて、勝敗つけるような内容ではないということさ
>>561 殿は役目をちゃんと果たして無事本隊を撤退させることに成功したということか
>>561 そんなトコ
こんなの勝敗つけるものじゃない
これを武田の勝ちだとすると、金ヶ崎は織田徳川の、川中島は上杉の勝ちになってしまう訳で
>>561 その内容で何で武田の勝ちになっているんだ、確かに不思議だ。
これも江戸時代の講談の影響か?
軍記だと浅利信種の討ち死は信玄の罠で、追撃してきた氏照などの北条勢は
その罠にかかって、信玄の伏兵の返り討ちにあい、3000近く討ち取られたとなってるんだよね
んなアホな
凄いな、三増峠での武田の勝利まで否定か。
なんかそっち方面でスレ立てても面白いんじゃない?
「一次資料に記載のない俗説を次々に否定するスレ」とかさ。
単純に、「一次資料絶対主義」とか。
>>564 >>565 権現様を完膚なきまでに叩きのめした武田が不甲斐ない負け方したと史実に書かれたら
権現様がそこまで強くないって一部の人は思っちまうだろうからな
(そんなのあったら反乱がたちまち起こる可能性も否定はできない)
反乱側はいつでも過大にはやし立てるもんだし、惜しくも負けたってのを最後に罠にかかって大敗したぐらいの
事は言い張っていかにも可能性があると思わせると思う
そういうのを無くす為の情報操作が無かったとは否定しきれないかもね
権現様を完膚なきまでに叩きのめした事自体を情報操作で
抹消すればよかったのにねぇ
不器用な人達だねぇ
と一次資料に書いてありましたであります!!
つか今見てきたら北条記とかでも武田の勝利って書いてあるでねーか
見事釣られた吊ってくる
570 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 07:30:30
天下早世の信長は雑魚だから、信玄の勝ち
なんだこのスレ伸び…三戦板じゃねぇ
一晩寝て起きたら凄いことになってる。Σ(´Д`; )変な捨て台詞はいてゴミソ(´・ω・`)
そして誰もいなくなってる _| ̄|○ みんな出勤しちゃったの?
>>1を見て、ここはノブヤボにはまって戦国好きになったような者達が
歴史の「if」を語って談笑するスレだと思ってたんで。
だれか詳しい歴史書なんて読んだことのない(読んでも頭に入ってない)
モレでも楽しく語らえるスレを紹介してください。。・゚・(ノД`)・゚・。
武田厨にはわからんだろうけどな
三増峠で何らかの武力衝突あったのは両者の書状で確認されてる(双方勝ちを主張してるが)
武田は2000人近く討ち取った主張し、北条は信玄取り逃がしたと書かれてる
しかし、2000も討ち取られれば、全軍崩壊に近い損害でありえない
北条では追撃し連勝し、敵が押し寄せて来たりもしたが、問題なく、信玄打ちもらして悔しいと主張してるが
武田は素早く撤退してるのに、追撃を何日も受けるような撤退するなら、氏康の軍勢も追いついてる
しかし、北条の本隊は追いつきもしてない、よって有り得ない
これはよくある宣伝の為の誇張で、浅利信種の討死はあるが、北条方の将の戦死などが残されてない事から
三増峠付近で戦闘はあった、しかし大規模な激突ではなく、浅利信種などの殿を追撃してきた
北条勢が殿の部隊を壊滅させたが、他の部隊(殿が少数の1部隊のみで行われるとは限らないから)の反撃や
武田本隊に追いつかないとの判断もあり、引いたと考えるべき
では、戦略的な意味で考えてみよう
三増峠で、信玄が死に兵を用いてまで北条勢を待ちうけ、伏兵で迎撃する意味があるのか?
小田原を包囲し、北条への軍事的目的(駿河からの撤退)を果し、撤退してる中で
あえて危険を晒して、味方の兵、将を殺してまで追撃してくる北条勢を迎撃する軍事的意味が無い
そんな愚考、リスクを信玄が犯してまで得ようとするものとは?
相手が北条本隊で、氏康が率いて、氏康の首狙うなら理解できるが、この撤退は北条本隊が来ないうちに
完了する事に意味があり、考えられない
伏兵などというのは、単に殿の部隊が反撃した事への脚色であると考えられる
甲陽軍鑑ではこの三増峠合戦(甲陽軍鑑では三増峠で伏兵したとある)を意味のない戦いと酷評
小田原記は江戸期成立と思われ、甲陽軍鑑の伏兵をそのまま継承してると思われる
だから軍記の誇張部分は除くと書いてるのだけどね
574 :
↑:2005/08/30(火) 09:28:30
なんだ、このウンコ
捏造武田厨を駆逐する為、日夜頑張ってるんです
>>574 一番凄いうんこは君だ。
うんこにコーンが入ってるんじゃないか?
テンプレ作ってみた
一、ここは信長の野望、から入った厨房の集まるスレです。
一、知識人は徹底無視の事。無視しないで反論する輩も知識人とみなす。
一、信長公記など小説以外の話をしたり、信長の野望に出てこない伽羅の話をするのも知識人。
一、放置された知識人は挑発してあなたのレスを誘います。挑発に乗り反撃したらその時点であなたは落城。
一、知識人へは日本史板重複スレへのリンクを示し徹底的に素通り。
一、2万5千スレで出来る話は2万5千スレで
一、基本的に「2chのお約束
http://info.2ch.net/guide/faq.html#B0」は必読する事。
一、みんな仲良く(・Д・ω・∀・)
信長公記は小説とは言わんよな。
すげー伸びだなw
>>573 話には関係無いけど、2000人じゃ全軍崩壊しないよ。大損害には違いないが
火器が発達して急速に打撃を与えられるようになっても
軍秩序が崩壊するのは、10〜15%が死傷した時点らしいから
北条の総勢を考えれば、2000人云々は説得力無い。 あと、文章長すぎw
軍秩序が崩壊するのは、10〜15%が死傷した時点なら
573には2000人討ち取りとあるので、2000人は死んでるよな。
すると負傷者は死者と同数以上と思われるので
死傷者合わせても4000人以上いると考えられるが、大損害どころじゃないね。
>三増峠付近で戦闘はあった〜
からは全て主観で何の史料的考察がないですね
つーか、北条記・五代記などの北条方の史料でも負けたとあるのに
>>573はいまさら珍説を強弁しても誰にも信じてもらえませんよ
まあ、駄文ではあるが長い文章乙でしたw
北条記や五代記は江戸時代の軍談ですが。
三増峠合戦辺りの書状はいっぱいあるじゃん。
氏照発給文書や信玄発給文書で。
それ読んだら、とてもじゃないけど軍記の話を鵜呑みにしないが。
>誰にも信じてもらえない
自分は多数派だと思い込む癖止メトケー。
発給文書だけではお互い勝ったというばかりで考察できません
北条記や五代記のような北条マンセーな史料のなかでも負けたと書いてます
もちろん甲陽軍鑑でも。
たしかに鵜呑みはまずいですが空想戦記を語るよりよほど信頼性はありますよ
>北条記や五代記のような北条マンセーな史料
北条マンセーになってないけどな。
内容知らないでしょ?
書状でお互い勝ったというのは、ありがち。
で書かれてる内容からの判断するのは当然だと思われ。
武田側:三増峠で2千人討ち取り勝った、しかし浅利信種死んでる
北条側:信玄打ち逃した、しかし武将の戦死者なし、撤退したのは武田
氏政の書状でも勝ったとは書かれていないし
北条視点の軍記物でも敗戦が描かれてるから、北条方の負けでしょう。
>>589 甲陽軍鑑だと3269人討ち取りになってるよ、甲陽軍鑑だと。
氏政の書状で勝ったと書いてないのは当然だろう。
不及一戦とあるのだから。
>>592 勝ったと書かれているのは、誰から誰宛ての書状?
>>593 できたらでいいので、信玄の書状の内容が知りたい。
588=590
で?結局読んだことないんだろ?
>>594 氏康から謙信宛には信玄逃がした。
氏照から上杉家家臣宛には連戦連勝、武田から反撃されたけど、何の問題なかった。
と宣伝。
597 :
590:2005/08/30(火) 13:12:06
>>595 とうとう自演扱いかよw
オマエと一緒にすんな、あほ
就干今度出陣 於干神前 比抽精誠 御玉会守符令頂戴畢 抑北条氏政居住之地撃砕 武相両国悉放火
剰至干相州見増坂遂一戦 北条新太郎(氏邦)助五郎(氏規)已下之兇徒二千余人討捕 如存分達本意条
併当社之神力故候 八州令静謐者 諏方一郡不貽卓錐之土 可寄附両社候 以此旨無由断精誠可為肝要候
恐々謹言
信玄の書状では、氏邦と氏規が戦死してるのね。
>>596 現実に撤退してるから、氏康の手紙は今までの解釈と何も矛盾しない。
氏照の文面は、碓氷峠の戦じゃない? それも他家宛てだし
>>598 漢文読めない?
>>599 碓氷峠ではない、日付確認汁。
>漢文読めない?
意味不明。
>>599 >現実に撤退してるから、氏康の手紙は今までの解釈と何も矛盾しない。
甲陽軍鑑に代表されるように、撤退したのは北条とされてますが。
602 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 13:41:42
信玄の関東遠征の結果として
北条は駿河に展開していた兵力を呼び戻した。
おかげで武田の駿河攻めが成功する事になる。
戦略目標を達成したのは信玄。
氏邦と氏規は戦死してないしw
連戦連勝というのも碓氷峠の戦っぽい。
>>603 信玄の書状では、氏邦と氏規が戦死してるのね。
^^^^^^^^^^^^^^
宣伝用の嘘と分かりやすくしてるのだけれど。
氏照の書状も、その後の内容は無視か。
>>604 信玄の書状って、598じゃないの?
連戦連勝とあるのは、どうせ碓氷峠の戦だけだろ。それを曲解したと
>>603 信玄の書状では、氏邦と氏規が戦死してるのね。
^^^^^^^^^^^^^^
北条新太郎(氏邦)助五郎(氏規)已下之兇徒二千余人討捕
まさか討捕を捕まえたと勘違いしてる漢文も読めない子なのかな?
>>605 連戦連勝なのに、どうせ碓氷峠の戦だけだろとは?
新説織田厨が漢文を読みこなせないのは分かった。
>>606 連戦連勝は碓氷峠の戦に掛かってるんじゃない?
前後の文面見れば分かると思うが。
武田厨が漢文すら読めないのが理解できた。
連戦連勝は碓氷峠の戦に掛かってるんじゃない?
碓氷峠にかかってるが、碓氷峠の戦だけではないのも確か
^^^^^^^^^^^^^^
>>608 「度々勝利を得る」は碓氷峠の戦を修飾してるんでないの?
此時三宅弥平次其外光秀家臣共首級多討捕之
及一戦追崩千計討捕候由候
臼井衆原弥太郎以下五十余人討捕候
>>608 その後なんと書いてますか?三増峠合戦の話などを含めても
勝利してるニュアンスで書いてませんか?
それを含めて連戦連勝と書いてるのですが、何を勘違いしてるやら。
612 :
611:2005/08/30(火) 14:13:01
武田厨的に
>>610をどう訳すのか楽しみね。
北条新太郎(氏邦)助五郎(氏規)已下之兇徒二千余人討捕
これで、氏邦と氏規は戦死してないと訳せるのだからw
>>611 連戦連勝と書かれてるのは、碓氷峠の戦だけど。
その後も勝手に連戦連勝させるの?
>勝利してるニュアンスで書いてませんか?
書かれていないですね
他家宛なら、押している程度でも勝ちと書くでしょう。
武田厨でも北条厨でも織田厨でもないけど、、
此時三宅弥平次其外光秀家臣共首級多討捕之
(この時、三宅弥平次その外光秀家臣どもが(敵の)首を多く討ちとる)
及一戦追崩千計討捕候由候(一戦におよび追い崩し、千ばかり討ちとりそうろうのよしそうろう)
臼井衆原弥太郎以下五十余人討捕候
(臼井衆の原弥太郎以下、50余りの人討ちとりそうろう)
漢文じゃなくて候文だぁね
>>615 だねw 新説織田厨が漢文も候文?も読みこなせないのが分かった
>>613 自分も武田厨でも北条厨でも織田厨でもないけど
普通に氏邦氏規配下の賊軍を2000人あまり討ち取ったとしか読めないのだが
ひょっとして釣りかメル欄でも確認してみるか・・・
しかし三増せでも浅利が死んでるし、武田って武将の討ち死に多すぎないか?
川中島とか上田原、戸石崩れなどのように
武田って戦下手なのか、それとも大将クラスまでが勇敢に戦うため、非常に強いが、
反面武将クラスの討ち死にが多すぎるとか。
>>616 臼井衆原弥太郎以下五十余人討捕候
(臼井衆の原弥太郎以下、50余りの人討ちとりそうろう)
で、これで原弥太郎は討ち取られてないとでも?
>書かれていないですね
>他家宛なら、押している程度でも勝ちと書くでしょう。
書かれてますが?
山吉って何処の誰の家臣でしょうか?
遂一戦 冷泉五郎殿 桂兵部大夫 赤川助右衛門以下討捕
どこをどうやったら
>氏邦氏規配下の賊軍を2000人あまり討ち取ったとしか読めない
となるのだろうね、笑わせすぎ。
>>620 話が通らなくなると、別の書状を出すのか‥
598や氏照の書状はどうするよ。
>>621 598の北条新太郎(氏邦)助五郎(氏規)已下之兇徒二千余人討捕
の説明になってますが?
他にも挙げてみると
城主松田兵衛大夫以下首弐千余討捕
有馬御陣御中小姓以下討死之面々名前仮名分
どこをどうやっても〜以下で含まない解釈は有り得ないのだけどね
氏照の書状も、信玄を逃した件を無念とはあるが、
足軽を押し崩した、多数討ち取ったと勝ち戦であることが強調されてるが?
勝ちと入れないと、勝ったと誇示してないとでも?
>>599 氏照の文面って滝山城の防衛戦のことじゃないの?連戦連勝してるのは
急度以飛脚申候 今度関東へ出張 経数ヶ所之敵城而 向干小田原及行 為始氏政館悉放火
其外彼一類城郭不貽撃砕 剰帰国砌氏政舎北条源三同新太郎助五郎引卒六七千人之人数慕候之間
遂一戦新太郎助五郎以下二千余人討取 如信玄存分得勝利候 可御心易候
委曲山県三郎兵衛尉万可被申候
恐々謹言
信玄の書状。
ここでも氏邦と氏規殺されてるw
氏照書状の内容読めば?
>>623 滝山城に押し寄せて来てから、甲斐に引き返すまでの事が書かれてるから
三増峠と思われる箇所でさえ、敵が押し寄せてきたぐらいしか描写ないから
はいはい読めない読めないw
A以下B人討捕とあれば、Aの人物も討ち取られたと読むのだけどね。
読めない読めない繰り返して騒ぐだけ。
某所より
山吉孫次郎宛北条氏照書状(山吉文書)
「信玄が急に武相に出張、臼井峠を越えて、時を移さず当城(滝山城)に攻め寄せてきました。
二日間終日戦いをしましたが、たびたび勝利を得て、敵を際限なく討ち取り、
手負いの敵はその数もわからないほどです。3日目の夜中に敵は当地を離れて、
武相の境の杉山峠という山に取り越しました。
その後相州にて動きを見せた後、さる5日、津久井筋に退散しました。
ここは切所で、小荷駄部隊をことごとく切り落とし、夜になって、敵の人数を除きました。
6日の早朝、氏政はまだ到着していなかったのですが、先衆は四手五手から切所に取り懸かり、
敵の足軽を押し崩し、宗の者も多数討ち取りました。
敵は引き上げる際に「むた」という山に取り付きました。
その時に敵の人数が、当方にも押しなだれてきましたが、こちらに落ち度はありません。
山家のことにて、思うように兵を遣うことができずに、信玄を打ちもらしてしまったことが無念千万です。
まずはご報告しますので、(上杉殿に)よろしくお取り成しください。
10月24日」
まあ訳があってるかはわからんがなw
高時並一門以下於東勝寺自害事
太平記の抜粋だが、これだと北条高時の一門が自害したんで
高時は自害してないとなるのか、面白いね。
>>628 碓氷峠以降は戦闘描写だけだね。どこが連戦連勝なの?w
戦闘描写で勝ってるじゃんw
>小荷駄部隊をことごとく切り落とし、夜になって、敵の人数を除きました。
>先衆は四手五手から切所に取り懸かり、敵の足軽を押し崩し、宗の者も多数討ち取りました。
これ勝ちと言わんのかw
だったら
>>598の北条新太郎(氏邦)助五郎(氏規)已下之兇徒二千余人討捕
も勝ちと言わないのか、そーかそーか
>>631 ところで
高時並一門以下於東勝寺自害事
これ、高時は自害してないとなるのか?
答えてくれよw
>>632 勝ちとは言わんがw
598とは全然違うし。
>>631 たびたび勝利を得て
の部分じゃないの?
>>633 高時ならびに一門以下なんだから自害してるだろ
598の文も
『及』とか『並』が入っていたら確実に戦死してることになるが
640 :
636:2005/08/30(火) 16:13:20
>>639 城主松田兵衛大夫以下首弐千余討捕
では、これでは松田兵衛大夫は死んでないと?
ようするに古文の以下は
現在の以下と同じ意味か、
それとも現在の以下未満両方の意味を併せ持つか、でモメてるんだな。
某已下之兇徒二千余人と、某以下首弐千余じゃ掛かる部分が違うかと。
いまいちわからんが
>>637 多数討ち取りとあるけど、人数が無いよね?
誇張表現か小競合いだと思うが。
下田帯刀已下宗徒之勇士三百余騎討死
下田帯刀死んでるけど、ここの連中に言わせると死んだ事にならないらしい。
>>643 書状で人数書かれてるかどうかで、勝ったか負けたかとするのか?
信玄の2千人討ち取りも誇張表現だが?
>>642 こんなので揉めるの初めて。
>『及』とか『並』が入っていたら確実に戦死してることになるが
こんな不可解な解釈もね。
>>642 古文の以下だと入らないんじゃないか
現在の未満の意味だけじゃないの?
>>645 多数討ち取りが20人とかだったら?w
人数無いから、表現に色つけただけかもしれん。
>>647の解釈では
高時並一門以下於東勝寺自害事
以下とは、「並」「及」がある場合のみ、含まれるようだ。
凄いですね、どこで覚えたのでしょう?
なら碓氷峠も三増峠も小競り合いだねw
2万5千スレの新スレたてらんねえよ。
だれかたてて。
勝手な仮定して結論付けてもなw
人数描写もされてない、小競り合いで浅利信種は戦死して
人数描写され2千人も死んでる北条では、氏邦と氏規とが討死にされてる
さてどっちが誇張して色つけてるでしょう?
>>647 漢文は知らないが古文だと入らないと思う。
でも以下ってそもそも略語なんだから、
>北条新太郎(氏邦)助五郎(氏規)已下之兇徒
これを
氏邦氏規と(氏邦氏規)以下の兇徒と訳すことも可能なはず。
思う、入らないと言いつつ実例0。
>>654 同じだろ、そもそも『以下』って名詞じゃなかったか。
いげ 【以下/▼已下】
それより下。いか。
「不参の人々…大納言隆季卿―十余人/平家 3」
>>658 答えが出たな、それより下なら、含まないが正しいということか。
>>657 へ?信玄と氏照の書状は三増峠の戦い含みますが?
663 :
662:2005/08/30(火) 16:43:18
>>653 以下は『御目見以下』の略だろ、だったら状況によって入る入らないとなるんじゃないか?
>>664 (2)代表者や中心となるものを挙げて、他を省略する時に使う語。
「社長―総出で出迎える」
いげ 【以下/已下】<
それより下。いか。
^^^^
「不参の人々…大納言隆季卿―十余人/平家 3」
>>598 就干今度出陣 於干神前 比抽精誠 御玉会守符令頂戴畢 抑北条氏政居住之地撃砕 武相両国悉放火
(就(なかんず)く今度の出陣は、神前に於いて精誠を抽き、御玉に会し守符を令し頂戴、
畢に北条氏政を抑え居住の地を撃砕し、武相両国悉く火を放つ)
剰至干相州見増坂遂一戦 北条新太郎(氏邦)助五郎(氏規)已下之兇徒二千余人討捕 如存分達本意条
(剰(あまつさ)へ相州見増坂に至り遂に一戦す、
北条新太郎、助五郎以下の兇徒2000余を討ちとり存分に本意を達すること条の如し)
併当社之神力故候 八州令静謐者 諏方一郡不貽卓錐之土 可寄附両社候 以此旨無由断精誠可為肝要候
(併当社の神力故にそうろう、(関東)八州に静謐を令す者、諏訪一郡、卓錐の土を貽せず
(上下諏訪?)両社に寄り附くべく、この旨を以て由断なく精誠し肝要なすべくそうろう)
恐々謹言
こんな感じかな?
『以下』と『以下』がごっちゃになってるな
『以下』・いげ それより下 以下の意味
『以下』・いか 『御目見得以下』の略
まあどっちにしても含む場合と含まない場合の両方があるということでFA
古文の話しは終わりにしよう。
>>666 >就干今度出陣
今度の出陣に就(つ)いて
のような気がしないでもないw
1日で300スレも進んどるw
馬鹿な
>>647に質問
「右兵衛佐者十騎ばかり打出」「応仁略記」
Q、右兵衛佐は十騎の中に含む?含まない?
>>672 647じゃないが、古文書の文中に未満が使われているのを見たことある?
素朴な疑問
ないね。少なくともおれの料簡では。
ただし「未満」に該当する表現なら吐いて捨てるほどある。
>>669 >6日の早朝、氏政はまだ到着していなかったのですが、先衆は四手五手から切所に取り懸かり、
>敵の足軽を押し崩し、宗の者も多数討ち取りました。
>敵は引き上げる際に「むた」という山に取り付きました。
>その時に敵の人数が、当方にも押しなだれてきましたが、こちらに落ち度はありません。
日付、状況からこの部分が三増峠合戦と見て間違いないですが。
含む含まない両方あるが、どう読んでも含まれてる使い方だけどな。
>>598も
>>624も信玄の書状
両方とも、氏規死んでる表現なんだがね。
>>675 日付からして、小田原から撤退した時の描写じゃないの?
三増峠合戦はこの後。
>>677 この後とは?
根拠明記の上、具体的な日付どうぞ。
上杉謙信宛北条氏政書状
「敵(信玄)が手前の城に攻め寄せてきたので、どうしようもなく報告が遅れました。
このたび敵は小田原を放火してきましたが、人数を諸城に分散していたので、
早々に一戦に及べなかったことが無念千万です。本日、敵が退散したので、
明日は出馬して、武相の間で、無二の一戦を遂げて決着をつけます。
10月4日」
某所コピペ
氏照が小田原城にいたとは知らなかった。滝山城には誰がいたのだろうか?
>>679 その某所に、氏繁宛書状があるみたいだけど。
>その某所に、氏繁宛書状があるみたいだけど。
ついに存在しないものまで…
反論の為の反論
結論ありきの反論
素人の付け焼刃
珍解説がでるわけだ。
さすがは織田厨
>>682 氏照兄弟、無様にボコられると書いてない?
こういうのには即座に反応
>>683-684 都合の悪い突っ込みはスルー
自分のアホなレスは他人設定orなかった事に
それが武田厨クオリティ
685には幻が見えてるのだろうか…
その某所に、氏繁宛書状があるみたいだけど。
氏照兄弟、無様にボコられると書いてない?
笠原康明かな?
内容挙げてくれないかな?
その某所に無いから
こんな長文無理w
都合の悪い書状はスルーとはねぇ
北条氏繁宛笠原康明は某所には存在しません
挙げろと言われたら
>>691 某所で「笠原」「氏繁」で検索(Ctrl+F)しても一切引っかかりません
武田厨は釣り逃げ準備始めた模様。
織田信長がいなかったら武田信玄は駿河を盗れ
なかったのでは?w
釣り・逆ギレ・話題逸らし・煽り、これを繰り返しスレを1000まで持っていこうとするパターンだな。
>>697 そこに氏照兄弟が無様にボコられると書いてある笠原康明の氏繁宛書状あるらしい
嘘 大袈裟 紛らわしい
武田厨の評語だな
>>701 689は一行レスの突っ込みだからひょっとしたら違うかもしれないが、残りは同一人物かもな。
スレ予測
深夜、誰もいなくなった後に暴れだしてるな。
そして勝利宣言。
それが武田厨クオリティ
良く分からんが結局織田厨の珍説がまかり通ったの?
都合の悪い突っ込みはスルー
自分のアホなレスは他人設定orなかった事に
それが武田厨クオリティ
再度馬鹿な
>>647に質問
「右兵衛佐者十騎ばかり打出」「応仁略記」
Q、右兵衛佐は十騎の中に含む?含まない?
武田厨は武田に不利なものをつきつける人や
自分の意見を否定したりする人を織田厨ときめつけるよな。
何故?
まあスレタイからして最大の敵は織田と思ってるからじゃないの?
今反論してんのはどっちかというと北条ファンの人なんじゃないの?
個人的にはそんな気がするが。
709 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 01:42:13
おまいら、宿題は終わってますか?
710 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 09:45:35
スレタイで社会の自由研究の仕上げをしてる奴1人くらいいて欲しい・
織田厨絶好調だな
相も変わらず、曲解しまくりの珍説を垂流しw
夏休みが終わるといきなり静かになるのも
武田ネタスレの特徴。
曲解織田厨は宿題で忙しいのかな
曲解武田厨が自分をさしおいて曲解織田厨と言い張ってる電波なスレはここでつか?
氏繁宛の手紙に
氏照、氏邦兄弟が三増峠において大方討たれ
前代未聞の見苦しき敗軍の体を為し兄弟は嘲りを受けた。というのがあるよん
武田厨が電波なのは、いつもの事だ
武田は負け組だし、良い材料少ないから仕方ないな
織田厨は都合が悪くなると、武田厨武田厨を連呼w
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 16:59:23
端から見てれば、どっちもどっちです >両厨
そりゃそうだ
つまり総合すると織田厨と武田厨で溢れ返ったこのスレは電波スレということでよろしいか
なにをいまさら・・・
2chそのものが電波だし
>>723 一部抜き出しで、出してるじゃん
全文は原稿用紙2枚分くらいあるから、かなり無理。
この手紙の方が、戦の張本人が援軍要請の為に送った手紙よりは
信用できるかな〜と、思う。
>一部抜き出しで、出してるじゃん
どこ?
>>724 という事は、日付やどこの文書に収められてるのか書いてよ
内容の一部抜粋もできるでしょ?活字で
全文は原稿用紙2枚分くらいある書状とは珍しいね。
親兄弟でのやり取りなら、あることはあるけどね。
728 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 19:56:34
まあ、関ヶ原と一緒やな。 裏切りや関係ない他大名の参戦(織田に味方)がない限り連合軍=武田の勝ちだわ。
730 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 21:28:37
騎馬軍団スレってなくなったの?
古簡雑纂って、文書名かな?
日付は、元亀2年1月3日だってさ
>>731 三増峠より2年後なんですけど。
内容見ないと、答えようがないなぁ。
古簡雑纂は文書名で間違いないけど、これは確認しようがないなぁ。
733 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 22:51:44
久々に来てみたらなんか荒れてるな。
まぁあれだ。信繁が討ち取られた時点で武田はこうなる運命だったんじゃないか?
いや金山が枯渇したのが一番では。
それよりも三増峠合戦は信玄公の勝ちではなかろうか。
736 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 12:16:23
添加取りのビジョンを持って早くから行動してた信長に、領土拡大しか考えずよりによって強敵上杉なんかと長年北信濃ごときの覇権を争ってたただの喧嘩自慢の信玄が勝てるわけがない。
斉藤義龍と争ったのが、添加取りのビジョンからとは思えん罠
添加取りとは言わないが、直後に天下布武を
争ったのは龍興じゃないか?
739 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 19:05:51
「天下布武」ねえ。
当時の感覚では京都=天下であり三好長慶や松永久秀も天下人と見られていた。
普通に上洛の意志を表明しただけだろう。
濃尾取ったら周りに敵いないしな。
当時の感覚で信長が見てたのかは謎
と言うより、信長が独自の政権に対してのビジョンを打ち出したのは
権大納言兼右近衛大将に任ぜられてからと思うけどね
それまでは朝廷・幕府の保護者という立場かと
>>735 それは、「金ヶ崎退陣は織田の勝利だ」と言うにひとしいぞ。
742 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 19:52:01
逃げるが勝ち
また織田厨がわいて出たか・・
>>741 どの軍記物やお手紙にも「金ヶ崎退陣は織田の勝利だ」とは書かれてないぞ。
>>744 いえ、>741の脳内にはしっかり書かれてます
>>744-745 なんかおかしくないかいってること。
>>741 は
>>735 が「三増峠の戦いは武田の勝利だ」といっているのに対して
「それは間違いだ、あの戦いを武田の勝利とするのは、例えれば〜」と言っている。
日本語も理解できないか?
>「それは間違いだ、あの戦いを武田の勝利とするのは、例えれば〜」と言っている。
どこがやねんw
三増峠は意図的に進軍の順番を変えて誘い込んで返り討ったんだろ?
武田側の討ち取った兵士数がどうにもピンと来ないし
(川中島ですら死者4000、あの状況で2〜3000も討ち取ったら逃げる必要ない。)
討ち取った武将も曖昧だし(氏邦と氏規の名は無論誇張もいいとこだろうが)
無論領土も取れてない。
これで勝ちといわれてもピンと来ない、正直、北条厨の俺は
相対的に言えば武田をホントは応援したいんで、こんなとこで意地張らないで欲しい。
三方ヶ原以降は信玄さえ生きてれば・・・というのは俺も思うんでそっちで話を拡げて欲しい。
武田の負けとか書いてた織田厨もいたが >三増峠
>>750 テンプレによるとそもそもここはこんなスレらしいから
一、ここは信長の野望、から入った厨房の集まるスレです。
一、知識人は徹底無視の事。無視しないで反論する輩も知識人とみなす。
一、信長公記など小説以外の話をしたり、信長の野望に出てこない伽羅の話をするのも知識人。
一、放置された知識人は挑発してあなたのレスを誘います。挑発に乗り反撃したらその時点であなたは落城。
一、知識人へは日本史板重複スレへのリンクを示し徹底的に素通り。
一、2万5千スレで出来る話は2万5千スレで
一、基本的に「2chのお約束
http://info.2ch.net/guide/faq.html#B0」は必読する事。
一、みんな仲良く(・Д・ω・∀・)
1だけ見るとそうかなと言う気もするが
>>749 「そもそも何のために関東に遠征したのか?」
と考えると、
「駿河に展開する北条軍を撤退させるため」
に北条の本国にちょっかいかけたんだよね。
実際問題として、信玄の一連の遠征の後で、
北条は駿河の部隊を呼び戻している。
おかげで信玄は駿河を取れた。
そういう意味では戦略目標を達成したのは信玄。
戦で討ち取った人数なんていつだって誇張されるもんです。
>>752 戦はあくまでも戦術レベルか。信玄らしいな
>>752 具体的に駿河の北条領のどの辺を奪えたの?
それ知らないから是非教えてほしい、韮山攻めて取れなかったのは知ってるけど。
駿府は既にこの時点で取ってるし。
小田原包囲の理由はその駿府攻めの後に氏真をかくまった事と、
その時不仲になっていった徳川家康と手を組んだのが原因だと思ってた。
それは知らなかった、参考になった。
>>752 いやその後も関東に出兵して北条と戦ったりしているから、それだけで駿河の部隊を
関東に誘引できたとは言えないのかもしれない。それに実際には三増後、2年ぐらい
駿河で城を奪ったり奪い返したりしてるし。
結局北条が駿河から手を引いたわけだが、それも関東諸勢力や上杉がいるからだろ。
三増の戦いの結果よりも上杉との同盟が機能せず佐竹里見や大田簗田などの反北条
勢力の行動の方が影響は大きいと思う。
そしてそのような状況になったのは信玄が関東の反北条勢力と手を組んだことだし、
上杉が北条の支援をあまり行えず同盟が機能しなかったのは越中の一向宗を信玄が
蜂起させたから。
だからこの外交手腕こそ称えるべきだと思う。
無論三増峠で勝ったのは良いことだし影響も少しはあるだろうが。
ただ信玄は駿河を取った後、手を結んだ関東諸勢力を見捨てて北条と手を結んでる。
これらと協力すれば北条を滅ぼせたかもしれないのに。
このあとの上洛戦も対徳川が済み、三河遠江を制圧したなら畿内諸勢力や浅井朝倉
を見捨てて、また織田と手を結ぶんじゃないか?
>>755 >このあとの上洛戦も対徳川が済み、三河遠江を制圧したなら畿内諸勢力や浅井朝倉
>を見捨てて、また織田と手を結ぶんじゃないか?
信玄ならやりそう。この北条戦のときもそうだし、上杉との時も、越後の諸勢力に助力を
約束して謀反させて、謙信が鎮圧してる間に自分はせっせと信濃での地盤を固めてたし。
まあ当然といえば当然のことだが。
だから上洛戦も徳川領を奪いつつ、信長があっさり負けるようなら西に進むだろうが、
そうでないならあっさりと信長とよりを戻すに違いない。
>>755 >>これらと協力すれば北条を滅ぼせたかもしれないのに。
信玄はこれを実行して失敗してるだけ、だから関東勢に見切りを付けたんだろう、
その後氏康が死んでるんだが、武田が三増峠でホントに勝ってて、
関東と協力すれば北条を潰せるなら、氏康が死んだ直後なんぞ最高のチャンスだろう。
だが死後1月半くらいで即同盟してる、
結局三増峠は小競り合いで氏照に追いつかれたが、殿軍を盾にうまく逃げおおせたという程度で、
勝ちというには程遠かったんじゃないかとしか思えん。
じゃなければその後の展開がどう見ても勝った方のそれじゃない。
結局は推測か
そりゃ三増峠の戦自体の経過を示したのが甲陽軍艦ぐらいしかないんじゃ仕方なかろう。
嘘はいけないな、北条記や五代記にもあるよん
>>757 三増峠は撤退戦だしそれだけ見れば武田に軍配が揚がる
「小田原攻めに失敗した」中での局地戦で勝っただけなんだけどね
>>757 小田原北条記でも三増峠は敗戦扱いだし‥
氏康親子の援軍が近づいていたから、兵を引くのも当然。
かみあっていないな。
戦役全体からみて武田の負け、少なくとも勝利とはいえないとするがわと、
三増峠という局地の一戦闘では勝利を挙げた、とするがわではそりゃ当然だが。
第四回川中島、三増峠、金ヶ崎、関ヶ原の島津敵陣突破
どれを見ても撤退と追撃があり大将を討ち洩らしてるが
これらの場合、戦での決着が付いていない以上どちらが勝ったとか負けたとか言い張ることに
あまり意味はないのではないかな?
勝ち負けなんかよりむしろその戦によりどうなったかのほうが重要
765 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 13:06:27
負けたから撤退しんだろうがw
アホだw
その撤退が上手だったか、下手だったかはまた別だろ。
>>764 金ヶ崎と第四回川中島を入れてるからダウトw
>>763 その通りだな、厨には難しい話しかもしれないが。
政略・戦略・戦術と分けて話せということだな。
769 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 13:18:51
武田厨うぜ。武田周り雑魚にしか勝ってないし。信玄なら元就の方が
数倍すぐれているだろうし。信長にも及ばない。氏康にも。
12月に蒲原城、府中城が攻略されたのは
この敗戦が影響したのかもな
>>770 三増峠の後、上野に出兵して北条と戦っているんだが…
三増峠がそれほど大きな影響を与えているなら、即駿河を攻めると思うが。
それに三増峠の前だって駿河の城は落としたりしてる。
即駿河攻めしてなかったっけ?
>>771 即、駿河攻めしてるよん。君も嘘を撒き散らしちゃいかんね
>>771 上野にはその年はもう出兵していない、
三増せ峠の後に出兵したのは武蔵の鉢形城付近。
北条五代記、北条記=小田原記は江戸時代の軍記です
甲陽軍鑑の影響をふんだんに受けております
小田原攻めを含む武田の出征の目的は北条の駿河からの撤退
小田原攻めによって、それが為されたのだから、これは武田としては成功、勝利と言える
しかし三増峠は撤退する際の戦闘に過ぎず、北条は将の戦死すらなく、武田は将が戦死してる
どちらも勝利を宣伝してるが、武田が犠牲を払いながらも撤退に成功したと言うべきで
勝敗をつけるようなものではない
北条五代記は影響受けてないと思う。
それに将がさっさと逃げ出せば、将は戦死しないが
>>776 同意、戦死者は曖昧の上、名のある武将が死んでない時点で
武田の勝ちとするには無理がある。三増峠は単純に撤退戦の一つなんだろう、
浅利信種の死を持って北条の勝ちとするというような単純な事を言うつもりもないが、
少なくとも武田の勝ちとするには根拠が無いにもほどがある。
tだ小田原戦自体も戦略的に見て、
>>小田原攻めを含む武田の出征の目的は北条の駿河からの撤退
これだけが目的だったとしたら上手くいったと言えるのだろうか?
その後に蒲原を侵略できたのはいいが、逆に深沢を取られたりしてる。
またその直後に里見に東から攻めさせつつ三郎兵衛等の主力を駿河に攻め込ませ、
磐石の態勢を敷けたところまではさすが信玄だが、磐石なのに氏規に粘られた挙句、韮山は落とせてない。
結局深沢はその後、信玄自らの出陣で取り返せたものの、小田原攻めが戦略的に効いていた様子は余り無く、
なんてことない取りつ取られつの力押しだ。もともと既にこの時点で駿府を取ってるのに、
北条は氏康が死ぬまでまるで矛を収めた様子は無い、これでは戦略的にも上手くいったと言えるのだろうか?
個人的には小田原攻めは上記の駿河攻めと合わせて、
上杉と手切れさせるためと見るなら、信玄の戦略が上手く行ったと言えると思うし、
信玄が本気で小田原を取りに行ったわけでもないという言葉に合点がいくのだが・・。
>>778 >名のある武将が死んでない時点で武田の勝ちとするには無理がある
この論理が通用するなら戦史が書き換わりますね(笑)
>根拠が無いにもほどがある
そりゃ北条記や五代記は軍記ものだから、
甲陽軍鑑は信用できないからの一点で史料の記述を頭から否定してれば
↑のようなことも言えますな
当然だが、軍記より一級史料
甲陽軍鑑に代表されるように、軍記に書かれてる合戦の内容は信憑性が低い
軍鑑に書かれてる合戦で、一級史料との整合性が取れてる記述はあるかい?
>この論理が通用するなら戦史が書き換わりますね(笑)
戦史は色々書き換わってるよねぇ
今山合戦で大友親貞の首をとって龍造寺が勝ったと、多くの軍記に書いてあるが
大友親貞は、その存在を裏付けるものがなく、大友と龍造寺の書状からは
龍造寺隆信は大友に降伏を申し入れして、宗麟も佐嘉城周辺の地域で大友方の将へ
恩賞出してるしね
今回のとは逆のケースといえるが
氏繁宛手紙の一部に
氏照、氏邦兄弟が三増峠において大方討たれ
前代未聞の見苦しき敗軍の体を為し兄弟は嘲りを受けた。
とか書かれるくらいだから、今回のケースは関係無いしね。
まだ嘘いい続けてるな
>>781 >古簡雑纂って、文書名かな?
>日付は、元亀2年1月3日だってさ
と書いた張本人だな
がんばれ捏造君
>全文は原稿用紙2枚分くらいあるから、かなり無理。
ちなみに、こんな書状はないけどなw
>>780 では三増峠において、あなたが主張する説を裏付ける一級史料とやらを
提示してくださいな。
まさか、従来の説を否定して新説唱えてるのに史料その他の裏づけが
ないなんて言わないでしょうね?
>>784 従来の説とは?
三増峠合戦などという北条と武田の駿河争奪戦における単なる局地戦なんて
誰も詳細な研究などしてないが
史料的裏付けなら、書状で確認できるが?
一方だけを鵜呑みにせずに両者のを比較検討して推論するのが史学だよ
それよりもさ
>古簡雑纂って、文書名かな?
>日付は、元亀2年1月3日だってさ
>全文は原稿用紙2枚分くらいあるから、かなり無理。
これの後始末はどうつけるんだ?
>>785 武田軍と北条軍の戦い。
甲陽軍艦では待ち受ける北条軍を撃破
北条の史料では撤退中の武田に攻撃したものの武田の別働隊により敗北
どちらにしても武田の勝ちというもの
つまりあなたの言う一級史料はないわけだ。
書状だけなら双方が勝ちを主張たりして客観視したものはないし
当然信頼性も落ちる。
そこで史料なども読み解いて総合して判断するものだと思うが
その史料を完全否定してるからねぇ
ちなみに史料を全く鑑みない根拠はなんですか?
>>786 君ね、一級史料ないのはどちらも
北条五代記や小田原記は「北条の史料」ではないからね
それをよく理解すべきだね
書状の信憑性とは行動の信憑性ではなく、合戦内容の過大宣伝文句であり
行軍過程などは軍鑑などより比べ物にならないくらい信憑性ありますが
史料などを読み解いてというが、軍鑑は武田側の見解のみで記されてる
参加さえしてない武将の参加すら描かれてる、トンデモ本
これを参考にしろというの方が間違い
北条記などは少なくとも江戸時代以降の作
軍鑑との差異はあるが、基本的に合戦経緯は軍鑑に代表される武田基準
書状を見ての根拠だから、何も問題はありませんけどね?
書状を史料に含まないなら別だが
で、捏造話はどーした?シカト?
五代記は北条の家臣であった三浦浄心が書いたものと理解してる
北条記も北条の立場で書いてる史料だよ
>軍鑑は武田側の見解のみで記されてる
参加さえしてない武将の参加すら描かれてる、トンデモ本
これは長篠のこと?確かに誤記等あるが武田を知るうえで欠かせない
史料の一つというのも事実。その全てを否定してトンデモ本とのレッテルを
貼られるものでもない。
>軍鑑との差異はあるが
差異どころか五代記は武田の小田原城攻めのことは書いてないし
>786でも書いたが甲陽軍鑑は北条が待ち受けていたと書いてるのに対して
五代記では北条が三増峠にいる武田にやられたと全く逆のことが書いてある
捏造話かどうかは知らんがそれは私でないです
北条五代記は寛永18年に奈河亀助らによって出された逸話集
北条記に至っては、江戸期以降の成立としかわからない
しかも北条の立場で書かれてる?具体的に?
>長篠のこと?
三増峠での記述、川中島の記述もそうだけど?
>甲陽軍鑑は北条が待ち受けていたと書いてるのに対して
甲陽軍鑑で、思いっきり武田が伏兵してるのだけど
>>783 >ちなみに、こんな書状はないけどなw
ふ〜ん、凄いね
ちなみに、送り主はおそらく姻戚関係にある人物の関係者だと思われる。
>北条五代記は寛永18年に奈河亀助らによって出された逸話集
それって「北条五代記会説」じゃあ・・・
>しかも北条の立場で書かれてる?具体的に?
例えば早雲時代の減税の話や小田原奪取、三増峠でも武田が北条に勝ったのはこのときだけと
書いてあったり、機会があれば読んでみたら?
>三増峠での記述、川中島の記述もそうだけど?
それは知らないな。出来れば具体的に
>甲陽軍鑑で、思いっきり武田が伏兵してるのだけど
別働隊は知ってるが伏兵の話は初見だな
よければこれも詳しく
織田厨壊走
なんでもかんでも織田厨か。
妄想大変だな
北条忠がわざわざこのスレまで来て、三増峠は北条の勝ちなんだよバ〜カ
なんてこと、書き込まんだろ。
とりあえず壊走したことは否定しないと
>>787 はい一部分↓
向小田原相搖 一向不出合之間 蓮池迄放火 引返馬之刻
月花源三、新太郎方被相送之條 乍傍若無人 戦場之慣候
依無柳於三増峠大略討留候 彼兄弟衆前代未聞見苦敷敗軍為躰
北条之瑕謹 諸軍之嘲而巳 北条左衛門大輔殿
>依無柳於三増峠大略討留候
ここってどういう意味?
なんか最近の研究だと信玄は上洛するつもりはなく、
勝頼の為に遠江を獲得して居たかっただけという説が有力らしいね
本気で信長討ち取りたかったら岩村の方面から攻めればいいわけだし・・・
でもその説だと三方ヶ原の後、天竜川以東の攻略でなく
三河に攻め込んだ矛盾が生じるな。
遠江を獲りたいならなおさらだし。
800 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 19:37:16
>>798 最近の研究って誰がどの本・論文で言っていたのだ?
話はまずそれからだ。
801 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 19:40:23
信長の後はどうするよ?
802 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 20:02:35
秀吉でいいんじゃない?
>>799 まともに浜松攻めても落とせないって判断なら、
周りから落として孤立化させるのが常套手段
信玄は海に面した土地と海路が欲しかっただけじゃ。
戦より国の内政を重視する信玄にとってそれが一番の理由ぽ
それに甲府?の鉱山で金がそんなに取れなくなった為
資金源の確保が優先事項になり
山奥に引き篭もってられなくなったのも理由の一つじゃ。
806 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 21:39:10
ソース厨うぜえ。
なんでもソースとか言うなや。
大体の書き込みがソースなしだろうが。
>>794 そうでもないぞ、北条厨としてはむしろ武田を応援したいんだが(相対的に評価が上がるため)
三増峠を出されるとついつい口が出てしまった。
北条の勝ちとは思わんが、単純に追撃戦でうまく逃げられたと言うだけの戦いで家臣を討ち取られておいて
武田の勝ちとするのも無理を感じると言うだけだ。
例えば逆に三方ヶ原の合戦で、徳川家康がそれほど負けではないと言うような
事をどこかのスレでみかけた事があったが、バカな事をと思ったもんだ。
家康付きの旗本、夏目吉信や織田援軍で言えば平手汎秀等数々の将を討ち取られ、総大将の家康本人も
命からがら逃げられたというのを色々な書物に書いてある点や、
祝田を降りると見せかけて誘き出すというのも状況的に腑に落ちるし、
その後の武田の猛追もいくさに勝った方が勢いに乗るという意味で理に叶ってるし、
完全な武田の圧勝だと思われる。
そんな三方ヶ原ですら徳川方の犠牲数は千余人(当代記だったと思う)と言われてるのよ、
その中で
>>598のような信玄の書状を見せられると、基本的にお互い得る物のなかった戦で、
せめて勝ちという結果を周囲に無理に吹聴してるようにしか見えない、
とりあえず誇大して2000人と書いてはみたものの、2千人も討ち取って将は誰も討ち取ってないのも
おかしいので、2000人も討ち取ったとあればそれ相応の将として氏邦や氏規の名まで
上げておいて、その後にこの二人を討ち取って辻褄合わせればいいやぐらいに思ったんではないか?
(実際、直後に氏邦の鉢形城、氏規の韮山城を攻めている)
逆にホントに2000人も討ち取ったんなら書状に他の軍記物にも書いてある通り、
この時の追撃軍の大将氏照の名も書けばよかったのに言及してないのも妙。
結局殿軍を氏照に潰された事については余り深く追求されたくなかったんじゃないか?
いずれにしても勝ちとか負けとか騒ぐような局地戦とも思えない。
しかしこのスレでも300番台ぐらいまでは武田寄りのレスをちょくちょく書いてたのに、
三増を出されると織田側の意見に回らざるを得ないのが口惜しい。
>>804 海が欲しかったから今川を攻めたって言う話はよく聞く話だけど、
それは駿河を取った事で解決してるんじゃないか?
徳川攻めは単なる領土拡張だろう。
勝敗がどちらともいえないからこそ、声高に勝利を喧伝するというのは川中島ほか、
いくらも例があるね。
とくにこの年の小田原遠征は、北条方の各地の城を攻めて最後は本拠小田原を攻撃
するという見た目は派手だが、実質は城を落して領土を広げたわけでもない、ある
意味規模が大きいわりに戦果のない軍役。だからこそ最後の戦いを派手にぶち上げて
勝利を飾る必要があったんだろう。
とても領土を広げようとして出兵したようには見えないが。。。
弱者から順当に潰していくのが信玄らしい戦略だし、この場合も今川潰しの布石でしょ
811 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 23:55:30
関係無いけど、北条の手切りに際して上杉と手を結ぶのはムリだったのかな?
812 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 00:03:39
信長と信玄って、アメリカとロシアみたいなモンでしょ。
領土はともにでかく、表面上対等に張り合ってるように見えるが、
経済力や技術力など総合力で比較したら、比べるべくもない。
元々肥沃な領土を持ち、さらに経済の自由化路線で巨大な経済力を
蓄えた信長と、信玄堤くらいしかみるべき実績のない信玄では、
器が違いすぎる。
6万とも10万とも言われる信長の職業軍人からなる精鋭部隊と、
信玄の、農民を駆り集めてつくった高々数万のにわか仕込み軍隊では、
勝負は最初からついている。
勝頼だから負けたのではなく、信玄が信長に戦いを挑んだって、
同じ結果が出ただろう。武田のシステムがすでに時代遅れだったという
ことだ。
>>811 恐らく上杉側が組まないかと
村上とか小笠原、長野が居ることを考えると・・・
>>813 でも北条と対立する連中も抱え込んでたんじゃない?
>>812 史料あんのかぁ?
>元々肥沃な領土を持ち、さらに経済の自由化路線で巨大な経済力
慶長の検地帳とか持ち出すなよ! 商業が農産物と金山を凌駕した史料
見せろよ、コラ!
>6万とも10万とも言われる信長の職業軍人からなる精鋭部隊
この裏付け史料は何じゃ! 信長の「常備軍」は傭兵(浪人)じゃねぇのか?
おまいは津本とか司馬のフィクションに踊らされすぎ。学界じゃ問題にもならんぞ!
今度書き込む時は、基礎史料を添付よろしこ!
818 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 00:19:38
信長が革命児とか「改革の天災」とかいうのは
流行のビジネス系作家の妄想でつからねぇ
819 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 00:21:14
>>812 今時こんなこと言ってるとは・・・
おまえの持ってる小説全部焼いとけ
>>811 武田が海津城を潰して、北信濃献上&北条と共闘して取った関東圏も全て献上&上野も献上
までやれば可能かと、どう考えても信玄に利があるとは思えんが。
何もそこまで・・と思うかもしれないが、上野&北信濃を諦めないと結局川中島は起こるだろうし、
上杉が北条を攻める理由の一つは関東管領として、関東に君臨する事という意味があるため、
そのために北条を駆逐するのに、結局武田に取られたでは本末転倒、
しかも北条家は善政を強いているため、関東の民も余計怒るだろうし、
民が怒るとその庶民の流れの一向一揆は更に激化を広める・・・しかしよくよくみればその一揆の裏には
信玄の影が見え隠れ・・・
どのみち溝が深まるのが目に見えてる、こんな他所に隙見せるだけの同盟、お互い組みたがらないと思われる。
>>812 何でもいいから、そうお前が思える原史料を書いてくれ
おれも、それを詠んで勉強してみるからよ
結果もUPするからよ、なッ
>>822 調整程度の譲歩はあっても、もちろんそんな大幅譲歩は無しの同盟で、ムリかな?
関東管領的には武田よりも対立の溝が深いはずの北条と同盟するくらいだから、
あのサイヤ人は案外何でもアリなノリだったんじゃないかと思うけど
北陸方面での一向一揆との関係には腐心することになりそうだが
こいつらはこいつらで利害優先で何でもアリっぽいからなぁ
>>822>>824 信玄が誓詞血判して謙信と人質交換とかしてれば、意外と同盟関係もあったかもね。
何でムキになって川中島を5回もやったのかは、確かに日本史の謎だな。
北陸の一向一揆も、結局は和睦してるわけだし。2人の当時の心境を聞いてみたいよ。
あと、甲陽軍鑑の信玄の「わしは分別がなく謙信と敵対したが…わしの
死後は謙信を頼れ。嫌とは言わないはずだ」は創作だと思うが、北陸侵攻の時に
謙信と勝頼に秘密同盟があったという説はどうなんだろう。義昭の内書による
甲相越はともかく、甲信越あたりは?
甲陽軍鑑ではちょうど手取川の戦いで織田が手痛い敗戦した頃
信長が上杉の領土全部やるから和睦しようと武田に言ってきて
それを勝頼は蹴ってるから秘密同盟はあったかもしれないね
>>826 確実な史料こそないけど、そう考えないと勝頼の態度も謙信の北陸出兵も説明がつかない。
そのあと、謙信の軍役帳まで作っての関東遠征計画が謎なのだが、織田をあと一撃の時期に何をしたかったんだろうな。
それよりも、
信玄が天下を取れなかったのは寿命だけが原因か?
と考えるべき。
甲斐一国の領主からスタートして周辺諸国を制圧したものの、50を過ぎるまで西方に進軍できなかった信玄に対し、
尾張半国の領主からスタートして信玄より若くして迎え撃つ立場にあった信長。
信玄は地の利に恵まれなかった。というなら、じゃあ近ければ誰でも(筒井氏でも波多野氏でも)天下を取りうるのか、という話になる。
信玄には周囲に敵が多かった。というならば、信長だって浅井朝倉・三次・一向宗や旧仏教・畿内国人衆とまで対立した。
畿内の諸勢力は、単体では北条や上杉ほどの脅威ではないが、信玄はわずかな期間を除いて北条と上杉を同時には敵に回さなかった。
信玄の資質自体を貶める気はないが、残した結果・事跡から判断して、果たして信長以上の器量があったと言い切れるだろうか?
>>825 別に不思議でもなんでもないが。
信玄にとって、(その頃は)北上は勢力拡大の唯一の方向。南の今川も北条も自分より大きければ、
多方面に打って出るしかない。そのためには婚姻もある同盟者(諏訪氏)もだまし討ち。
そして、川中島というのは信濃の政治・経済の中心の一つ(もうひとつは松本)。この地を取らなければ
信濃を制覇したとは言えない。さらに信玄は信濃から越後に出て海を得ようとしていたとする説もある。
そう考えれば、南に出れない以上ひたすら北に進むしかない信玄は、越後の国主となった謙信とはぶつ
かるしかない。信玄が方向を転換したのは、今川が桶狭間で衰退してから。
一方、謙信からすれば川中島は本拠春日山を含む越後防衛に必要な土地。信玄が川中島に手を出す限り、
座視は出来ない。
信玄が方向を転じた結果、両者の利害がぶつからなくなったので冷戦状態になった。
謙信が斎藤龍興のようなボンクラならまだしも、越後まで狙ってはいなかったと思う。
スレタイにもとるようで悪いが、天下史観そのものが見直されるべきではないかな?
永禄〜天正年間を天下取りゲームのようにわれわれが考えるのは、そもそも歴史の結果から
解釈しているに過ぎない。結果的に信長が全国統一を半分を成し遂げて、家臣に殺されて
秀吉が天下(本来は京都という意味)を統一しても、家康(信玄および後北条氏の後継者)
が関東に武家政権を打ち立てた歴史をどう考えるかだ。室町時代に武士たちが
読んでいた歴史書は太平記や源平合戦(平家物語)なわけで、今日のわれわれが
考えるほど、上洛ゲーム(競争)を考えていたわけではないんだな。武家の天下が
関東にあったのは、鎌倉幕府、室町時代の鎌倉府を通じて明らかなのだから。
よって、天下取りゲームのように戦国時代を考えるのはゲーム好きの人たちにとっては
単純でわかりやすいかもしれないが、日本史の実象からかけ離れた発想だな。
>>824 いや、むしろ謙信は関東管領としての威圧を北条以外の関東勢に
見せるために北条と敵対してた感も強いし、更にはその影には古河公方と北条の争いに
近衛前久をはじめ公家の影も見え隠れしてくると、武田が関東に絡むと余計にこじれてくるのが想像できるんで
そんな馬鹿な真似はしない、武田があくまで関東に来るならそれは絶対阻止は大前提だろう、
それなくして同盟など考えられるものじゃない。
また、謙信が氏秀を事の外可愛がったと言う話からも、個人的恨みのようなものは余り感じないだけに、
理性を失うような真似はしないだろう。
>>829 甚だしい誤読だぞ。
川中島はともかく信玄死後の天正5年前後に、上野界隈でお互いに兵を引いたのが謎だと思われ。
この時期の史料、何か読んでます??
信玄が謙信に頭下げてりゃ、関東甲信越は足利関東公方−上杉関東管領の線で、
武田と北条が中央政界に物を言える立場でまとまってたんだよ
835 :
828:2005/09/04(日) 01:41:39
では、信玄が寿命で倒れず、信長の軍勢と交戦したと仮定しよう。
戦力だけを取って、武田軍が優勢と果たして言い切れるだろうか?
家康だって完全に無力化されたわけではないから、東海道は補給線として決して安全とはいえないし、
信州・東美濃ルートは、美濃まで進軍しなければ有効な補給線とはいえまい。
長期戦で手間取ると、遠征軍は確実に疲弊する。補給線が確保できなければより確実に疲弊する。
となると、短期決戦にかけるしかないわけだが、
短期間で尾張・美濃に点在する諸城を攻略し主要拠点を確保できるだろうか?
信州や駿河を確保するのにも、信玄は相当てこずっているのだ。
仮に、信長の軍を破ったとしても、信長自身が健在であれば、織田軍は建て直しが早い。
金ヶ崎や長島などで大敗することも多かった織田軍だが、その大敗を致命的な敗北にはしなかった。
信玄が短期で信長を打倒するには、やはり信長自身を討ち取るしかないが、
どんな大勝利であっても、相手の総大将の首級を会戦のさなかで挙げるのは、相当な僥倖に恵まれなければありえないだろう。
>>827 謙信の北陸遠征は別に謎なんてない。もともと上杉家というか長尾氏は先代から
北陸方面に勢力を伸ばそうとしていた。
それが信濃から武田がきたり関東で北条が勢力を伸ばしたりで越後が危険だから
そちらに関わっていたのであって、開放されれば素直に領土拡張を目指す。
特に天正五年の北陸出兵は多くの人が誤解しているが、目的は織田と戦うことでも
上洛でもなんでもなく、能登を支配下におくため。そして攻撃された能登の中で親
織田というか反上杉な勢力が織田に救援を求めた、その結果起きた(とされる)のが
手取川だが、謙信にとってはこれは自分の能登支配を邪魔しにきた勢力を叩いたと
言う意味のもの。
>>835(
>>828)
三方原で元康を支援して信玄に翻弄された織田軍がか?
北陸で謙信に軽ぅーく負けた織田軍が、信玄に勝てるとは思えんけどなぁ。
家来に殺された隙ありバカ大将を討ち取るのって、けっこう簡単かもな。
歴史が教えているとおり、信長は「家・来・に・討・ち・取・ら・れ・た」
これだけは間違いない。
>>594 まずどのグルでやりこむかで変わってくる、また豪鬼は強さが不安定なんで、測りづらい。
以下超個人的感想。
C ケン>>リュウ≧豪鬼
A ケン>豪鬼>>リュウ
P ケン>>豪鬼>リュウ
S リュウ>豪鬼>ケン
N 豪鬼?>リュウ=ケン
K リュウ=豪鬼≧ケン
ただCAPのケンは明らかに二人より上だと思うが、
SNKのケンはさほど劣ってるわけでもない、つまり平均点が高いと思われる。
>>837 三方ヶ原で負けたのは徳川。これは徳川と武田の戦い。
手取川はそもそも「本当にあったのか?」と疑問視されている。
小説・講談の類だけでは説得力ないよ。
誤爆スマソ
>>836 御説の意味が、ワカラソ・・・。北陸出兵で信濃方面の守備をガラ空きにしてるのは
どうして??? 御説のとおり、越中は先々代からの野望だが、
>開放されれば素直に領土拡張を目指す
これって、何が論拠(史料)?
それがわからんから、越甲密約説があるわけでしょうがぁ!
ここで問題の謎ってのは、謙信と勝頼に同盟があったかどうか、
を、史料がないから「謎」と言っているのだ。わかったぁ??
そもそも、戦術面でいえば信玄は上手とは言えない。
信玄が勢力拡大したのは城を落すのに必要な謀略の才。信玄の戦歴を見ると、勝ち戦は全て
敵より多数の兵数で、負けたときも敵より多数。
一方、信長は何故か戦下手、物量で押しただけと酷評されるが、実際には敵より少数で勝利
した戦は桶狭間にとどまらず多数ある。
>>832 おれも謙信は一般的イメージよりかずっと現実主義で政治的な性質の人間だと思う
だからこそ武田と結んだ方が良かったのではと不思議に思う
川中島とかの頃じゃなくてね
北信も領土化や村上らの復権より春日山の緩衝地域として固執してたと思うので、
対立より同盟の方が得だろう
また武田を利用すれば一向一揆との対立緩和も狙えるかもしれない
関東管領としては確かに武田の介入によりマイナスもあるかもしれないが、北条と
同盟することによるマイナスの方がデカイんじゃないかなぁ
つーか、三戦住人的には
巨大化した織田を統べる信長vs長生きする信玄&謙信
に萌える
それ以前に信玄&謙信&反北条vs氏康健在の北条防御網(後詰なし)
これも面白いけど
>>835 >仮に、信長の軍を破ったとしても、信長自身が健在であれば、織田軍は建て直しが早い。
>金ヶ崎や長島などで大敗することも多かった織田軍だが、その大敗を致命的な敗北にはしなかった。
これは織田軍にとっては戦力的にはどうでもいい損害だろうから参考にならないだろ。
戸石崩れや三増峠の武田と同じようなもの、軍事的には大した被害じゃない、殿に大きな被害が
でたという程度のこと。
>>842 要は信玄に比べて信長は戦略下手ってことだね。
>>839 織田勢、三方原に参戦してますが??
手取川は謙信書状および勝家の信長宛書状、信長公記(勝敗の記述なし)が史料であって、
講談軍記ものや小説ではありません。スマソね
煽りなしで盛り上がるって、素敵やん
>>842 多数の兵力で攻めるからといって戦術が稚拙と言う考え方は賛同できないが、
信玄が戦略重視なのは同意だ。問題はその戦略面でいかに信長を圧倒できるかではないか?
川中島はすべて武田が北信濃に進出したから、上杉がそれに対抗するため兵を
出したというだけのこと、信玄が川中島以北を諦めるだけで取り合えずは落ち着くだろ。
とりあえずこのスレには織田側、武田側、双方に相当詳しい人がいる事が伺えるので、
見てる方としては、かなり楽しい。
だって、家来に殺された戦国大名って信長のほかにいるの?
そーんな隙だらけのバカ殿を討ち取るのって、川中島なんかより簡単ジャン?
どちら側も必要以上に煽るのはよそう
雰囲気が壊れる
853 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 02:05:19
>851
それを言われたら、もう信長派としては・・・・
854 :
828:2005/09/04(日) 02:06:38
信玄が寿命と幸運に恵まれ、信長を討つことに成功したとしよう。
だが、畿内を掌握できるだろうか?
尾張の信長でさえ、「田舎大名」よばわりされ、畿内の勢力は実力で負け続けたにもかかわらず、
田舎大名の風下に立つことを良しとせず、なかなか屈服しなかったのだ。
信玄が信長を討ったところで、
幕府にとって、信玄が第二の信長でしかないかもしれないのだ。
信長も、当初は義昭に頼られた、ということを忘れてはならない。
そして、上洛に成功して畿内に政権を樹立しても、それで「天下をとった」といえるだろうか?
地方大名で西国の雄、大内義興(義隆の父)は1508年に上洛し、11年間におよび細川高国と協力して安定した連立政権を樹立した。
だが、領国が尼子氏の侵攻を受けたために帰国して政権は消滅したのだが、この11年間を持って、大内氏が天下を取っていたというふうには、普通は言わない。
足利幕府と深い因縁がある大内氏ですらこうなのだ。
信玄が上洛に成功して、仮に政権樹立までこぎつけても、それでも天下が取れたといいがたいのではないか。
このことは、上杉氏・北条氏にもあてはまる。
大内義興のように足利幕府の枠組みの中で政権を樹立する限りは、天下を取ったなんてとてもいえないし、
足利幕府に取って代わるだけの意識を持てば、信長が受けたのと同等の抵抗を受けることになる。
これでは、いくら寿命が延びたという、反則的な仮定をしても、信玄に天下が取れたのか、どこまでも疑わしいではないか。
>>852 それはムリぽ…、両家の遺族は和解しても厨房はもう…
萌えるばかりで
>>854(
>>828)
だから言ってるだろ、畿内で武家政権は無理なんだよ。
よくて足利か豊臣の二の舞だろうな。信長はその前に
殺されたわけで。けっきょく、武家の天下は関東なんだよ。
その意味では、北条や上杉のほうがまっとうな感じがする。
ま、徳川が結論的に時代をつかむわけだが・・・。
>>851 単に家臣に殺された大名等なら一杯とはいかなくても結構いるが。
ただ信長みたいな例は…
シーザー?
>>846 では、三方ヶ原には北条からの援軍が参加していたようだから、北条は徳川と織田に勝った!といえるんですか?
もうひとつ、信長公記には手取川の記述はない。だから疑問視されている。
>854
上杉(長尾)は上洛してるが、京都からの天下平定なんて考えてなかったぞ
北条は上洛すら考えてない。ばかりか、家中を関東府に似せて、公儀と称してる。
つまり、上洛=天下ではないわけだ。そこんところ、天下史観を見直せ!
>>858 信長の命で大挙して参加し、戦術にまで口出ししてるよ、バカ!
北条・今川は川中島にも参加してるしねぇ
手取り川合戦の有無?
信長の家臣(太田牛一)の記述は信用できて、謙信書状は信用に足らんと?
勝家の信長宛書状の吟味や都の狂歌は実地検分してみたか?
伝承をもとに石碑が作られた年月日、調べたか??
>>849 だろうね、だけど話が北条を攻める前提での武田、上杉同盟と
話が発展してくると話が変わってくる、上杉としては武田が関東に来る事は
関東管領として信濃以上にどう考えても承諾できないだろう、が
武田にしても関東の領土が取れないなら、素直に北条と手を組んでた方が、
上杉に後ろ全部囲まれるより余程安心なんでまるで得する部分がない。
おとなしく北条と上杉でいざこざしててくれた方が安心なわけだ。
>>854 そう考えると、公家である三条氏の血を引く太郎義信を失ってることが真に悔やまれるね。
彼を上手く使えていれば、その前提でももうちょっと上手く立ち回れたんではないかと。
いずれにしても京を抑えた上で諏訪に何か造りたいんじゃないの?武田にしても。
北条も然り、明らかに関東に一大帝国を築く事に精を出してて、京に興味を示した様子がない。
>>860 史料が謙信書状しかない、という点が問題なんだが。織田と上杉だけでなく、他の
史料にもまったく出てこない。
京の狂歌とか”伝承”をもとにした石碑なんて全く証拠能力はない。
ただ、勝家の信長宛書状とやらは知らなかったので詳しく教えてくれ。資料番号だけ
でも出してくれれば当たることもできるけど。
>もうひとつ、信長公記には手取川の記述はない。だから疑問視されている。
謙信の書状が2通以上現存することについて、疑義が挟まれる合理的な理由は何?
謙信書状と勝家の書状とつき合わせても、若干の日時の違いこそあるが、
信長公記の記述も明らかに勝家以下、織田勢大軍の出馬を裏付けてると思うぞ。
この手の手取川論議は隠れ定番だな。
>尾張の信長でさえ、「田舎大名」よばわりされ、畿内の勢力は実力で
>負け続けたにもかかわらず
武田家は織田家と違い名門の家柄なのですが
>京の狂歌とか”伝承”をもとにした石碑なんて全く証拠能力はない。
それじゃ、中世史の考古学的分析とか伝承の分析とかは
無理と考えるわけなのか? 机上の文献主義で袋小路に入った史学に
出口なしだわな。史料新発見のために骨を折る伝承はともかく、
石碑なら考古学的な分析ができるはずだぜ。研究発表も上がってきてるし。
>837
信長は家来に討ち取られたかもしれんが、
信玄の子、勝頼は一族郎党、家来に裏切られ逃げられた。
肥前の熊、竜造寺隆信は敵中に置き去りにされた。
大内義隆を討ったのは陶晴賢だった、が、尼子氏に大敗したときは一応無事に逃げ延びている。
松永久秀は主君三好氏の「寿命を縮めた」。
足利義輝は剣豪将軍なのに三好三人衆と松永久秀に攻め殺された。
大友宗麟の父、義鑑は家臣に殺され、これが世に言う「二階崩れの変」である。
朝倉義景は(こいつの場合はあまりもの本人がダメすぎて参考にならないので略)。
さらに、家来に背かれることと、戦場で討ち死にすることは、
そもそも、決して同義ではない(当然だが)。
三好義賢は久米田で開戦早々に鉄砲の流れ弾で戦死。
戸次川の戦いで長宗我部親子は父が生還し、息子が死んだ。
こういうのは、もう運と言う以外のナニモノでもない。
さらにいえば、明智光秀が何を思って信長にそむいたかはもはや知る由もないが、
金ヶ崎・伊勢長島など、信長自身が生命の危機にさらされる視線をくぐりながら、生き延びてきたのも事実だ。
特に金ヶ崎の撤退の際は、わずかな供回りで撤退しているところに鉄砲で狙撃されまでしたが、
「あの」松永久秀が、その金ヶ崎に同行しながらも、そのときには信長を裏切らなかった。
決して信玄を貶める気はないが、
それでも、実績から判断して、
信玄が長生きさえすれば信長に勝てた、天下が取れた、
というのはあまりにも信玄を過大評価しすぎであろう。
世が世なら、新羅三郎いらいの甲斐源氏は頼朝に代わって鎌倉府の棟梁だったのにな
>>867 ついに、家臣に殺されたバカ殿くらべか・・・・。
いずれも、涙を誘うはなしばっかりだな・・・。(泣
>>861 そこまで武田の関東進出を憂うならば、史実でも北条以上に武田を叩きにいってると
思うのだが
今川の処遇をきっかけに武田と北条が対立する頃の上杉の矛先は明かにそれとは
違っていなかったか?
>武田家は織田家と違い名門の家柄
武田家って足利幕府とどういう関係だっけ?
確かに今川畠山細川以上に名門の甲斐源氏かもしれないが
幕府の中での地位は低いよな。
名門であろうと三好氏あたりと比較するとやはり田舎大名呼ばわりされるんじゃね?
>こういうのは、もう運と言う以外のナニモノでもない。
じゃ、天下取りとやらも、もう運と言う以外のナニモノでもないんだな。
じつにわかりやすい結論だった。
>>858 長篠には今川氏真が参加してるから(ryとも言えるな
>>866 手取川の石碑は謙信が建てたものではない。もっとずっと後になって赤の他人が建てたもの。
例えば湊川には水戸黄門の指示によって楠正成を称える碑が建てられているが、これを根拠
にして「江戸時代の楠正成象」を研究することはできても生身の正成や湊川の合戦の詳細に
ついてなんてとても証明立てられるものではない。
>じつにわかりやすい結論だった。
そうでなくて合戦の生き死にが運だって話だろ?
と、あえて釣られてみる
>871
応仁の乱、すこし勉強せれ
それと、源氏の系譜は幕府内の地位とは関係ないよ。
人間にとって最も重要なものは生まれ持った運だ
能力とはその運を発揮させるためのものでしかない
と、どこかで聞いたな
>>869 松平清康・家臣にいきなり切り殺される(広忠もか?)
斯波よしかね?・守護代の織田信友に暗殺される
あと美濃も道三に殺されたり追放されたりといろいろ
また細川の誰かも三好義賢に殺されたか まあ形式が追いついただけのことだが
>>874 だから、石碑が立った伝承を具体的に検証したのかと言っているのだ。
石碑も現存のものではなく、慶長期に比定できる報告が現にあるから
カキコしたまでだぞ。中世考古学の意味の意味、わかって言ってるのか??
文献史学に固執するなら、謙信書状(複数)と勝家書状(これも複数)を
自分の目で検証してからにせい! のぶなが公記も傍証だぜ。
881 :
828:2005/09/04(日) 02:56:57
>859
だから、
信玄が仮に上洛できても、それだけではとても天下とりとはいえない。
というそれだけの話をしているんだろうが。
信長だって美濃をとる前に上洛しているらしいがそれと天下取りは直接結びつくはずはないし、
奥州から九州まで地方大名の多くが本人でなくても名代を今日に向かわせているが、どれも天下取りとは無縁だ。
上洛しなきゃ天下が取れない、とは言ってはいない。いや、言わなかった。
だが、まあ、それはそれとして、
天下を取るための、通過儀礼というか、デモンストレーションとして、畿内の掌握は天下取りには必須だったとは思う。
(もちろん、上洛≠畿内の掌握≠天下取り、よ?)
実際、例で挙げた関東の雄、北条氏は、結局は天下をとったというようには、一般的には、いわれないでしょ?
>>880 それがけっこう鍵かもね。上杉が関東管領を正式に名乗り、
北条も関東管領を僭称してたわけだから、武田としては
上杉の配下になるわけにゃいかんと。信玄も関東府を伊豆に
つくる予定だったというが・・・
>信玄が川中島以北を諦めるだけで取り合えずは落ち着くだろ。
諦めて譲ったら、それはもう信玄じゃない!
>>881 バカ…。武家の天下は関東なんだよ。
太平記か平家物語、斜め読みしてみろ。
頼朝が六波羅探題を置いた意味、家康が二条城(京都所司代)
を置いた意味を考えてみれ。京都と距離を置くことで武家政権が
成就したんじゃないのか?? 最初から京都に政所を置いたか?
畿内に執着した織豊政権は、あまりにも教養なさすぎ。
無教養な作家の天下史観を鵜呑みにする現代人もなー。
>882
信玄は決して、「上杉政虎・輝虎・謙信」と呼ばなかった。
「長尾景虎」と呼び続けた。
という話を聞いたことがあるが・・・。
>885
そのとおり。北条も相越同盟のときに初めて「山内殿」と
文書に書いている。※山内殿=山内上杉(関東管領さん)
元カノのケコーンを認めない元カレ状態だな
>>879 信長公記には、柴田の軍が手取川を越えて在陣した、と秀吉が陣払いしてしまった、という
ところまでしか記述がないよ。
それから、個人的な手紙の内容はそれだけでは「事実あった」とするわけにはいかない。
勘違いやその他、さらに上の方で三増峠についてであったが喧伝目的の事実現実を無視した
手紙というのはある。
さらに言えば、謙信書状の内容が完全に正しかったとしても、手取川は両軍が正面きって
激突した合戦ではなくて、撤退中の軍においついた謙信が殿軍を討ったという内容。
ところで、柴田勝家の書状とやらはこちらも知らなかった。具体的なことを教えてもらえる
とありがたい。
>>882 信虎時代はそのせいで、上杉と今川の戦争に巻き込まれてろくに信濃に進出できなかった
からな〜
まあ信虎時代は甲斐は関東管領より今川の影響のほうがでかいみたいだが。
>>881>>884 こんな感じ?
畿内(京都)
平家−足利幕府−信長−豊臣政権・・・・いずれも×
関東
平将門(×)−源頼朝(鎌倉幕府○)−北条得宗(○・・・×)−北条・上杉(×)−徳川幕府・・・・○
>888
漏れは、ここでずっとやり取りしてた当事者ではないが、
手軽なとこでは学研の歴史群像の上杉謙信の号に特集がある
けっこう詳しいよ。立ち読みでもじゅうぶん読み取れるはず。
>>884 頼朝は、朝廷からはなれた武家のための政権をつくろうとした。だから朝廷から離れた
関東に朝廷とは独立した政府を造った。
信長や秀吉は朝廷も内包した統一政権を造ろうとした。だから古代から日本の中心であった
畿内を重視した。
「武家の政権は関東」というのも結果論からくる史観の鵜呑みじゃないかね。関東以外に成立
した武家政権がなかったわけでもなし。たしかに室町時代の関東は京の幕府を余り重んじて
いないが、しかし逆に言えば関東以外の武士は京の室町幕府を武家の棟梁と認めて二百年以上
続いている。
893 :
828:2005/09/04(日) 03:16:22
>884
いや、なにも関東の政権を否定はしない。
ただ、畿内も押さえなけばいけない、というだけのことだ。
関東「だけ」では天下をとったとはいえませんよ、と言うているに過ぎない。
13世紀の鎌倉幕府と15世紀の足利幕府と17世紀の徳川幕府をまさか同一直線上で語る人はいない、とは思うが、
鎌倉幕府だって、西国にまで力を持った全国政権となったのは、承久の変以降、六波羅探題で京を掌握して以降だし、
足利幕府が京で開府したのは、南北朝の騒乱で京を離れるわけにはいかなかった
(本当は鎌倉あたりで幕府を開きたかったらしい。だから「関東公方」を設置した。)からだ。
(それに、なんだかんだいって、足利幕府は脆弱ながらも、結構長期間存続した。
比較の対象が江戸幕府なら、そりゃたいていの政権は「短命」だろう)
関東が不要だというつもりもないが、京・畿内の掌握程度ができなければ、それは天下取りではない。
>>870 前提が間違ってる、憂うも何も史実では武田家は関東進出に
大した意欲は見せてないし。当然関東に居る北条の方に先に目が向く。
だけど話が北条を攻める前提での武田、上杉同盟と
話が発展してくると話が変わってくる、
と前レスでも書いた架空の前提に立っての予想。
だがそれでも北条を潰す気なら、北条が武田と不仲になり、今川が事実上潰れた
最大の好機に和睦するようなことしないでしょう。
>>842 戦術面ならとても信長も上手とはいえない
信長の代表的な寡兵で大勢を討った戦でも
稲生では信長の大喝で敵が逃げ出すというわけのわからん戦だし、
桶狭間も戦術じゃなくて運要素のほうが強い、
天王寺でも単に突撃を敢行しただけでとても高尚な戦術の存在は見られない
関東をとれば「武士の政権」にはなるが、それだけでは「日本全国の政権」にはなれないってことかね。
そのためには、本来の「日本全国の政権」である朝廷をどうにかする必要がある。
鎌倉幕府は承久の乱以後朝廷を抑えにかかった。江戸幕府は豊臣氏を滅ぼしてから。
>>892 京都で朝廷を内包するのって、足利政権の二の舞では?
公家化して、朝廷と結びついた幕閣の陰謀に翻弄される。
でもって、せいぜい義満ていどのことしかできん。
信長謀殺に朝廷・幕閣黒幕説もないではないし。一度でいいから
室町時代の武将が教養書として読んでいた太平記や平家、読んでみ
当時の武将の価値観がわかると思うが。。。
>>880 別に管轄に居る事が問題なんじゃない、
管轄内のど真ん中の管轄同士で内輪もめしてるから大問題。
武家の棟梁様が開く関東政権なら、武家はこぞって源氏の長者になびくわな
平氏(織田)や藤原(豊臣)じゃ、公家と同じで、あっそ・・・てな感じか
>>897 足利政権がもろかったのと朝廷はさほど関係無いと思うが。
>>895 まあ島津には劣るけど信玄よりは上といったところだろう
902 :
828:2005/09/04(日) 03:34:42
究極的な話をするならば、
「田舎」だの「名門」だのは、本質的には、あまり意味がない。
三好などの畿内の勢力は、
自分たちの牛耳る足利幕府とそこに付随する自分たちの権益を犯そうとした信長と戦ったのだ。
だから六角と細川は、お互いのことを田舎大名とも言わなかったし、家柄が低いとも言わなかったが、やはり争ったわけだ。
そこへ、よその地域から割り込んできたら、信長であろうがなかろうが、「田舎大名」なわけである。
信玄は、信長を追っ払ってくれると、畿内の諸勢力は期待したが、
もし仮に、信玄が天下を望んだとしたら、やはり信長と戦ったように、信玄と戦っただろう。
逆に、信玄が天下を望んでいなかれ場、適当な官位でも与えてさっさと甲斐にお引取り願っただろう。
ごく当然のことだが、畿内の諸勢力も、己の意思を持ち、己の利害を持っている。
それゆえに対信長連合は成立した(それゆえに結束・連携はいまいちだった)。
だから、
信玄が信長を討った後、天下を取ろうとすれば、
信長と同様にか、それとも違う形でか、とにかく、何らかの形で
三好・浅井・朝倉あたりとは衝突するだろう。
仮に畿内の勢力と手を結ぶことに成功しても、
上杉・北条とどう決着をつけるのか?
毛利との関係は?
九州はどうするつもりか?
多少寿命を延ばしても、信玄の天下はまだまだ遠そうです。
>>895 >>901 実際の戦闘の経過なんてまともな史料じゃ分からないのに、
よくそこまでいえるものだ
戦力比と戦争の結果などで判断するならまだしも。
>>901 島津は逆に戦略面が今ひとつな気がする。
勝ったからいいようなものの・・といういくさが多すぎる。
>勝ったからいいようなもの
沖田畷の戦いだって、
龍造寺隆信を討ったこと自体はあくまで偶然の結果に過ぎないわけだし。
・・・龍造寺隆信の命を奪うことが第一の目的ではなかった、という意味ね。
まぁ、何だな。信玄は生きてれば天下を取れてた(別に畿内の天下に限らんが)かもしれんが、
信長は生きてても無理だったということを、歴史が証明していることは間違いない。
何びとたりとも、信長が家来に殺されたバカ殿であることは否定できまい。
それこそ、歴史の偽造となる。
>>904 まずは相手に優越する戦力を確保することが重要なはずなのに、
その点信玄は常に相手を上回る兵力で戦に挑んでるから偉い。
例外は駿河からの撤退時に北条と睨み合ったときぐらいか?
このときも信玄は戦いを避けて甲斐へと戻っている。信玄だったら
長篠でも、信長が援軍を連れてきた時点で即座に退いていたはず。
>>906 それじゃあ、その馬鹿殿に勝てなかった連中や滅ぼされた連中は何?
むしろ光秀を評価すべきかと思うが。
>906を読んでいると天下の意味がわからなくなってきた。
>>884 バカ…。武家の天下は関東なんだよ。
それでは、なぜ秀吉は家康に関東を譲ったのかね?
家臣に裏切られたに執着してるけど、他には叩きどころ見つけられないの?
公家の天下は京と関白でOKだったんでないの?
>>909 マジレスするが、「天下」という概念は難しい。
信長の「天下布武」は上洛志向の強かった彼ならではの思想で
北条氏も鎌倉府の模して「公儀」(自分たちは守護大名ではないから、
天下=天子様の下=京都のことは預かり知らぬ)という形で
室町府と同じ形の評定衆と政所を作っている。ゆえに、北条氏の
「天下」は京都ではないということになる。信長後に、「天下…」が
様々に流布された「天下一の…」ために、京都に限定されていた概念である
「天下」が武家の公儀にも拡大され、「全国統一」「全国制覇」まるで
甲子園大会だが、通説として広まったものと思われる。ちなみに、軍記物語では
謙信あたりも「天下のことはたやすく」なんて、描かれてる。あれほど天下(上洛)
を小旅行みたいに遊んで、その後は上洛に目もくれなかった武将も、江戸期の軍記物では
「天下、天下」と、元の意味は「天子様のおわす下」=「京都」が「天下」という意味で
今日使われているような統一政権ではないのに。これが最近の「天下」研究ですが、
みなさん、わかりますぅ?
>911
いや、死に方があまりに惨めで・・・・
朝廷や公家も大喜びというか、織田は嫡流も途絶えて末期が哀し過ぎ・・・
あのさ、「武家の天下は関東」と主張している人は、全ての武士が幕府の統制化にあった、と
勘違いしていないか?
日本においてそうなったのは江戸時代以降。さらに言えば、どうしてそうなったかと言うと
その前の信長から秀吉に続く流れで日本の全ての武士が一つの政権の下に入ったから。
徳川幕府はその成果を悪く言えば奪った、よく言えば継承した。
非幕府系の武士、関東の幕府を自分たちの主としない武士は鎌倉時代から特に西国中心に
ながく存在した。
武家の天下が関東、というのは、
そういう意識を持つ武士が多ければ、十分な力を持ったハッタリ、ブラフ、権威となりうる。
逆に、そうと認めなければ、それほどの力を有さない。
結果として、(途中から有名無実になったとはいえ)足利幕府は200年以上、徳川幕府は250年以上、存続した。
政権が成立したときの条件がどれだけ恵まれていたかを考慮したうえで、
この50年の差を長いと見るか短いと見るか、だな。
ただ、結果論でしか物事を見ないなら、こういう馬鹿げたことも言ってしまえるのではないだろうか。
「武家政権は常にちょうど15代になるものなんだよ」と。
もうひとつ言い忘れた。
関東にできた初の武家政権である、鎌倉幕府のころの日本は、幕府と朝廷の二重政権である。
諸国はそれぞれ朝廷側と武家側とに所領の支配権が分けられており、朝廷にもまだ、地方への直接支配権が残されていた。
それゆえ、後醍醐天皇は決起することができたわけである。
関東を基盤とした鎌倉幕府が、ある一面では、畿内を基盤とした足利幕府より脆かった、ともいえるのではないか。
武家の政権は関東でこそ磐石である、とは一面ではそういえなくもないが、
無批判にそうだと言い切れるわけでもない、ということ。
>>915 わし鎌倉史が専門なんで、具体的に挙げてみろやぁ!!
承久の変以後、鎌倉御家人はともかく、守護・地頭および追捕使に
鎌倉殿(および執権・得宗家)から推認されなかった非幕府系
の武士ってだーれだ??? はっきりと名前をあげてチョー!?!?
>>914 信長と信忠を同時に殺しているからな。
家督騒動を防ぐため信長は他の息子の所領かなり低くしてるし。
そもそも武士が忠誠をつくすなんていうのは江戸時代からだ。
>>915 >非幕府系の武士
それは武士にならないのでは?私兵とか豪族というか・・・
まあ幕府に認められているかそうでないかで実質は一緒だから言葉遊びだけどね
こいつも
>>915と同じ認識か
>関東にできた初の武家政権である、鎌倉幕府のころの日本は、
>幕府と朝廷の二重政権である。
荘官と地頭の区別、わかってるか?
地頭が荘官に代って徴税することによって、荘園制度が崩壊する成り行き
を当時の史料を持ってたら想像してみ。寺社の受領や雑掌が何度も朝廷に
訴えても、地頭の狼藉(つまり鎌倉殿の裁可)は覆らんわな。推認のない
野武士(地頭配下の農民=悪党)が押しとって、朝廷が権威を失ったわけだろ?
これを二重政権といえるなら、建武親政の意味がワカラソ。回答、キボンヌ!
>>921 後醍醐天皇が何ゆえ決起できたのか、こいつ知らないでやんの。
鎌倉史を本当に勉強しているのか、こいつ?
「下地中分」さえも知らないんじゃないか?
>>923 ほうほう「下地中分」をしなければならんかった事情を説明せんかい
鎌倉殿任免の地頭の暴力に耐えかねて、寺社(荘園領主)が調停
させたんとは違うんかいのぉ? 答えてみいや!!
>>923 後醍醐が決起(?)したのは別のファクターだぞ、そもそも。
当初は朝廷の揉め事だが、得宗専制体制に対する鎌倉武士団の叛乱
が動力になって鎌倉府が崩壊したわけだぜ。関東源氏の内部分裂が真相
でなければ、新田と足利の対立を説明できんだろうが!
>>921 でも荘園って秀吉のころまであったんじゃないの?
そもそも戦国時代も鎌倉時代も、本領安堵(御恩)と忠勤(契約奉公)
の関係はまったく変わっていない。その意味で、武家の常識を知らなかった
信長が家来に裏切られたのは必然の成り行きで、信玄−家康タイプの武将しか
武家政権は維持できなかったはずだ。おまいらも現代的なアイデアだけで歴史を語る
作家や歴史家の呪縛から離れて、本来の歴史観に目覚めろよ。なあっ!
>927
はぁ? 公家の本所や寺社領という意味ではあったが・・・。
荘園=税制の掛けられない領地という意味なら戦国大名や国人領主
の本領もそうなるわな。まぁ、税収が検地によって一元化されたのが
慶長検地なら、御説もごもっとも。
>>928 まるで信長が家臣に所領を与えていないみたいな発言だな
というかそれじゃどうやって信長は家臣を従えていたんだよ
信長の家臣一同、いつ勘気を蒙って放逐されるかと、いつもビクビクしてました
ガイ吉においては、恩は必ずしも報いられず。これでよろしこ?
愛で従えてた
しらざあいってきかせやしょう。
そもそも、地頭だって常に優位だったわけではない。
荘官が地頭の専横を幕府に訴えると、裁判上はたいていの場合、地頭が負けていた。
もちろん中には幕府の判決に従わず実力行使に及ぶ地頭もいたわけだが、
それでも荘官側は地頭に対して地頭受けなどの年貢を課し、約定をまもらせている。
荘園を折半(時に分割比率が荘官に有利だったり地頭が有利だったり、それは地方の情勢によるが)下地中分は、
必ずしも常に幕府の仲介を必要とせず、
荘官と地頭の合意に基づく場合も少なくなかった。
確かに荘園が地頭によって蚕食されつつはあったが、
下地中分や地頭請といった契約は守られ、まだ朝廷や貴族の荘園支配権が完全に失われたわけではなかった。
建武の「新政」で後醍醐天皇が多くの武士を味方につけたのも、
こうして確保されてきた天皇の荘園を、報奨として与えたからである。
鎌倉期において、幕府が調停に対して優位に立ったのは事実だが、
同時に、朝廷がまったく無力でもなく、ある程度は領地の支配権を確保し続け、
いくばくかの威令もまだ有していたのも事実である。
だからこそ、幕府への不満があるとはいえ、多くの武士が後醍醐天皇に、そして南朝についたのである。
朝廷が幕府と対等の支配権を有していたとまでは言わないが、
対等でなくても、これは立派な二重政権ではないか?
なんか煽りが増えてきたな
ここらで擦れの流れを変えてほしいが
>>933 裁判を取り仕切ってたのは、誰なんだ??
裁判(権断)の仕切りが政権じゃねぇのか??
問題は、地頭の任免権なんだよ。それまで権門寺社に媚びて荘官に
なっていた地侍が、鎌倉府に地頭として任命されたから
幕府の権威が成り立ったわけで、鎌倉殿の権威はそれ以上でも以下でもない。
じじつ、新領給与ができなかった元寇以降、武士団の不満を抑えることが
できなくなって、幕府の権威が揺らいだわけだ。朝廷と寺社の荘園支配が
続いたことをもって、二重政権という御説は仰せのとおりだが、武士団の統制
は鎌倉府の任免権以外になかったのも事実。
>>915-916 >>923 は、このへんを
曖昧にすることで、武家政治の根幹を見誤り、よってもって戦国時代の実態を
見間違えているのだ。遅くまで、スマソ。
読んでてわからなくなってきたんだが
>これを二重政権といえるなら、建武親政の意味がワカラソ。回答、キボンヌ!
>朝廷と寺社の荘園支配が
>続いたことをもって、二重政権という御説は仰せのとおりだが
つまり二重政権なのかそうでないのか。
あと、
それがスレタイにどう関係あるのか。
んなもん観点の違い。終了〜
信長が京都に執着したかのように言ってるけど安土城には御所作られてたんだよね
>>931 信長は単に恩賞もでかければ罰もでかかった、ただそれだけのこと
反乱起さないようにする為に家臣の権力を出来る限り削っていたってのもあるが
削りきれなかったのは中央から遠ざけてた
>>940 行幸の模擬紫宸殿だろ? 戦国大名に限らず、
近世大名も行幸の御座所は必ず作ってたよ。
ちなみに、東京(皇居)も単なる行幸先に過ぎん。
遷都の詔勅が出ないかぎり、御所は京都。
>>942 必ず造ってたって、聞いたことがない。
米沢や春日山や小田原や駿府や甲府や岐阜や清洲や小谷や観音寺一乗谷や多聞山や姫路や
岡山や富田や郡山や山口やらに必ずあったっけ?
!と?と2ch語を乱発するのが知性であり、
本筋(信玄の天下取りの可能性)の支流(武家政権のベストポジションの話)のそのまた傍証(鎌倉幕府のありよう)に
いちいち噛み付いておきながら自己矛盾は観点の違いで片付けるのが教養で、
学会誌や専門書の資料をあげずに名乗れるのが専門家で、
読み手の知的好奇心を喚起させることなく、感情的な煽りを、それもまとめて論理だてるのではなく数行おきにバラけさせして書きなぐって貴重なレス数を消費するのがマナーで、
学会の中でもさまざまな見解があり、世間で流布しているのが一昔前の通説であることが多いのが歴史というテーマであることを理解しているはずでありながら
学術で飯を食ってる本職よりも素人・アマチュアのほうが圧倒的に多いであろう2chであえて具体的な流れの説明もないまま、
他説に対して批判というにはあまりにも稚拙な断定を、論拠も挙げずに、文章でなくほぼ単語レベルで口走るのが専門家で、
一方的に煽っておきながら一方的に終了宣言してしまえるのがちっとも情けなくない
と
>>917=
>>921=>>924-
>>926=
>>928=
>>934=
>>937 の頭の中ではそうなっているらしいことは、よく理解できた。
で、武田家はどうなのさ?
合戦で強くて長生きできれば天下取れそうなの?