各国の石高及び動員兵力(石高は太閤検地のもの)
ちなみに、万石あたり250人は比較的低い動員率、
無理すればもっと動員できるだろうがそういう兵力は基本的な守りに残すと解釈。
関東
上野:49万6千石/12400
甲信・中部
甲斐:22万8千石/5700
信濃:40万8千石/10200
飛騨:3万8千石/950
美濃:54万石/13500
近江:77万5千石/19375
東海
駿河:15万石/3750
遠江:25万5千石/6375
三河:29万石/7275
尾張:57万2千石/14300
伊勢:56万7千石/14175
志摩:1万8千石/450
北陸
越後:39万1千石/9775
越中:38万3千石/9500
越前:49万9千石/12500(慶長検地では68万石)
若狭:8万5千石/2125
畿内
山城:22万5千石/5625
大和:44万9千石/11225
摂津:35万6千石/8900
河内:24万2千石/6050
和泉:14万1千石/3550
伊賀:10万石/2500
四国
讃岐:12万6千石/3150
阿波:18万4千石/4570
淡路:6万2千石/1550
1572年(元亀三年)十月三日(信玄、古府中を出立)の各勢力の状況
●武田
・甲斐…100%(5700)
・信濃…95%(9690)
*飯山周辺は残す。
・上野…36〜43%(4450〜5375)
*倉賀野、松井田、箕輪など領地は広げているが、ほとんど北西山間部なのがネック。
面積で言えば4割だが、石高では三分の一程度とする意見あり(上野の平野部は南東)。
14郡中武田は吾妻郡 碓氷郡 甘楽郡 群馬郡の半分 故に石高的に3分の一 の説。
利根川以西を領土とすると、これに録野、片岡、多胡郡が加わる。(約四割)
・駿河…100%(3750)
・飛騨…10%(95)
*72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。これ以前の直接の軍事行動はなし。
もともと飛騨の豪族は越中の対一向一揆で上杉と仲がいい。諏訪城主江間氏も逃亡
して上杉氏を頼る。
・越中…?
*68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っているが、71年には謙信に落とされている。謙信は73年
には加賀まで攻め寄せているから、その頃までに越中の武田勢はなくなっていたとみるべきか?
・遠江…7.8%(500)
*遠征前に陥したのは71年に国境の榛原郡小山城(この時高天神や掛川も攻めるが落せず)と犬居の天野氏のみ 天方等はこの時点では未攻略 。
武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半(正式な復活は71年12月)。
遠征後は20%ほどに増大
・三河…12%(850)
*足助城を落とし、賀茂郡一部・設楽郡ほぼすべて・八名郡一部を支配。ただし全て山地なのがネック。
・美濃…ほぼ0〜5%(0〜675)
*秋山信友が岩村城を落すのが72年11月。 それ以前に落していた恵那郡の小城を、どの程度に見積もるか?
18(22?)郡中これだけでは最大5%もないとする意見。
総計25035〜26635
後北条と同盟。義昭や顕如ら畿内の反織田勢力と連絡を取り合う。背後に上杉と上野方面を巡って火種。
ただし、もともと高税率のうえ、69年以降は戦もそれまでの二倍以上となり、さらにこの作戦にあたっては
さらなる臨時税から借入まで。領国の疲弊はすでに始まっていたと思われる。継戦能力にも疑問。
>>1 ∩___∩
|ノ⌒ ⌒ ヽ
/ ●) ●) |
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⊂´_/ ) ヽ__`⊃
/ 人 (
(_ノ (_)
●織田
・尾張…100%(14300)
・美濃…90%(12150)
*21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺のみ 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…70%(13563)
*浅井・六角は追い詰め中。他には甲賀郡の土豪と野洲郡のいつ蜂起するか判らない一揆衆。
・伊勢70%(9923)
*桑名・三重郡の一揆衆。配下からも寝返られ、本城も明け渡され乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
・三河…10%(728)
*水野氏など、桶狭間以前から織田についていた豪族。
総計51114
この他、畿内各地に協力勢力と敵対勢力あり。義昭とは抜き差しなら無いところまで。堺などの都市も抑える。
若狭の豪族たち(逸見・粟屋・内藤)、大和の筒井他、摂津河内和泉の細川畠山池田荒木和田など、淡路の安宅
などが味方勢力として存在。
●徳川
・三河…78%(5675)
・遠江…92.2%(5875)
*両国とも、武田にどの程度侵略されているか。また調略如何によっては動員はさらに下がるかも。
総計11550
三方ヶ原の戦力を考えれば妥当か。ただし武田軍撤退後、特に遠江では支配率は グンと下がっているだろう。上杉と同盟。
その他の勢力 東国
●長尾上杉
・越後…100%(9775)
*ただし、揚北衆特に本庄氏の扱いは微妙。
・上野…10%(1240)
*沼田・厩橋近辺と考えるとこれぐらいか? 武田・北条におされ気味。
・越中…20〜25%(1900〜2375)
*神通川以東(新川郡)松倉・富山は1573年正月まで攻撃中。72年〜73年にかけての遠征によって、越中の大部分を支配下に収める。
この時は越中から加賀にまで攻め込み、顕如から信玄へ援軍要請が行われた。
・飛騨…三木氏や江間氏とは友好的。1572年の富山攻めでは江間氏が援軍派遣してる
・信濃…5%?(510)
*飯山城とその周辺は保っていた模様。最大見積もってもこの程度。
総計13425〜13900
・遠征能力○
遠征能力は高いが、北陸へ出陣中。仮に北信・上野に出陣するとしてもメリットは薄い? ただし史実
ではこれ以前も以後も関東への出兵を繰り返している。武田・北条・加賀を敵に回して織田・徳川と同盟。
関東の諸将(佐竹ら)とは疎遠になった。
●後北条
・遠征能力○
武田・上杉と並ぶ大国だが、武田とは同盟中。今回の武田西上でも援軍(二千~三千?)も出している。
数年前まで戦っていたとはいえ、手切れをしてまで武田を攻める事は無いだろう。北関東には他に敵
もいる。
その他の勢力 畿内
●朝倉
・越前…100%(12500)
*寺社領は議論中。慶長検地から、+18万石くらい?
・若狭…?
*守護武田氏は抑えているが意味なし。有力国人である逸見氏・粟屋氏などはこぞって織田について抗争中。
朝倉軍の一部は粟屋氏の居城を攻撃していた模様。(武藤氏が反織田に回ったが、この時期の動向は不明)
総計12500+?
・遠征能力○
遠征は10000程度は可能か? 現在、越前にフラフラ様子み。70年の講和以降、浅井への援軍以外に
出兵なし。経済疲弊。一部軍役拒否の状態。若狭の支配圏は低下中、むしろ抑えるための兵力派遣
が必要。
●浅井
・近江…9.5〜13%(1850〜2550)
*伊香郡、高島郡の半分、浅井郡の小谷、山本山城しか残っていない。
高島郡はもう少し高いとみる説あり。
総計1850〜2550
・遠征能力△(朝倉が来れば助力可)
単独での侵攻は辛い。木下隊に苦戦。小谷城の眼前に虎御前山砦を築かれて押し込められる。
●六角
・近江…?
*愛智郡鯰江城で逼塞状態。甲賀の土豪がどれほと力になるか?
●松永・筒井(反松永)
・大和(11225、ただし双方合わせて)
*寺社勢力は心情的にも筒井派。土豪も多くが筒井につく。
・遠征能力×(両派とも)
大和で両派が泥沼の抗争中。お互い支援を求めて織田や三好と手を組むことに。
元亀三年の時点では織田の支援を受けた筒井側に有利。松永は押されっぱなし。
●長島一向宗+国人
計20000?
遠征しないが尾張は目と鼻の先。ただし動きは鈍い。守備力は高い。
●石山本願寺+雑賀衆?
計23000?
遠征準備は謎だが、近江まで歩いて1日。 ただし動きは鈍い。守備力は鬼。本願寺自身は織田と直接
軍事衝突は行っていない(するのは後年)。信長との外交ルートあり。
※もともと本願寺と一揆は別ものであり、絶対的な命令権があるわけではない。各地の一揆はそれぞれ
の権益を守るために支配者に抵抗した。また、兵力には老幼婦女が多数含まれていると考えられる。
●北畠
・伊勢…30%(4253)
*大湊など、伊勢湾の海上交易に大きな影響力をもつ。かつては南伊勢五郡を有したが、織田へ離脱
するものが出る。
計?
・遠征能力×
織田による内部からの乗っ取り進行中。そのため勢力としては身動きとれない。隠居させられた北畠
具教は面従腹背。武田と接触をとっているが(根拠は不明)、実質どれほど動かせるかは不明(後年、
具教が討たれたときに北畠残党が挙兵するが、一族などの一部に留まる)。
ほとんど織田の一部とみなしてもいいとする意見あり(ただし、信雄が正式に跡目を継いで北畠軍が
織田の一環として行動するのは74年以降)。
●伊賀
六角に協力したり北畠についたり。基本的には中立。
その他の勢力 三好
三好一族の主だった頭(各国の支配率は不明、動員数は100%の場合)
畿内
・本家:三好義継 三人衆との関係から信長に従っていたが、義昭と共に敵対する
・三人衆:三好長逸、三好政康、石成友通 これも一枚岩ではない。義継や久秀と
抗争の為に行動をともにしていただけ。特に石成は一人信長についた時期もある。
・三好笑岩 基本的に、四国三好家にちかい。信長以前は本家と戦い続ける。
・三好政勝 管領細川家の家臣。長慶を親の仇と長年争い続ける。
・摂津(8900)
・河内(6050)
・和泉(3550)
*ただし、この全てを三好一族が抑えていたわけではなく、細川、畠山、池田、和田、荒木、伊丹、
その他在地勢力が根を張り、反三好から織田につくものも多数いた。
総計18500-敵対勢力
・遠征能力×
反織田という形で立場は同じになったが、指揮が統一されたわけでもなく分裂状態のまま。
統一行動は難しいか。
四国
・阿波三好家:三好長治-篠原長房 基本的に、主筋になる細川家と争ったり講和したり。 畿内には
あまり関わらず。播磨方面で抗争があった模様?
・讃岐十河家:十河在保 阿波三好家と行動を共にす。
・淡路安宅家:安宅信康 四国三好家についていたが、1572年には信長につく。
・阿波(4570)
・讃岐(3150)
・淡路(1550)
*安宅信康が織田についてしまったので、これは三好には加えられない。
総計9270-安宅氏の勢力
・遠征能力×
お互いに争ったり結んだり。このころには篠原長房との確執が表面化しだす。73年4〜5月に長房が
討たれた後は抑えられていた豪族たちが反旗を翻すことになる。
四国の三好家関連は、後にほとんど信長に属することになる
おまけ
●足利将軍家
・山城…?
*北山城の国人が義昭に呼応し、明智の配下から離脱者が出たとの記録あり。また細川藤孝や石成友通
などの勢力もあり。細川・明智は織田勢力とみなしてもいい。
総計不明
・遠征能力×(史実でも城に篭った)
■この情勢をもとにした推測。
織田は
近江に浅井・朝倉への抑えとして木下、磯野で合計七千ほど、
江南の抑えと京へのにらみに八千ほど、
北伊勢への抑えと尾張の守備に五千ほど、
美濃では岩村への抑えに三千ほど抑えに置くとすれば、
(基本的な任務は守備、現状維持)
計算上は2万8千ほどを対武田に向けられるのでは?
武田は
北信および上野へ対上杉に五千ほど、
美濃岩村の秋山隊が三千ほど、
北条の援軍が二千〜三千で、
合計ニ万〜二万五千ほど?
■三方ヶ原の戦い後の情勢。
1572年
十二月 二十二日 三方ヶ原の戦い
1573年
一月 三日 武田軍野田城を囲む
北山城や摂津河内の国衆から義昭に付く者が続出する。信長は村井、島田、朝山日乗を講和の使者に出すが義昭は一蹴。
近江志賀郡の石山、今堅田に兵を入れる。
二月 十五日 武田軍野田城を落とす。
二十四日 柴田、丹羽、明智、蜂屋の軍が近江を攻撃。石山、今堅田も数日で開城。
三月 二十五日 信長、岐阜を出陣。
二十九日 細川藤孝、荒木村重が逢坂に信長を出迎えて忠誠を誓う。
四月 三日〜四日 上京焼き討ち。二条御所を包囲。
七日 調停の仲介により信長と義昭との和睦なる。
八日 信長、京より岐阜へたつ。
十二日 武田信玄死去
柴田、佐久間らは六角氏が立て篭もっていた近江愛知郡の鯰江城を攻略。さらに百済寺も焼き討ち。
七月 足利義昭京より逃れる。
八月 朝倉・浅井両家滅亡。
【反信長包囲網について】
包囲網なんて聞くとWWUの連合軍のようなものを連想してしまうが、そんな事実はない。
いい例が朝倉が退却したときの武田信玄の反応。彼は義景を激烈に批判したが、その後に
やったことは「出兵要請」。これは信玄や、当然顕如にも義昭にも命令権がなかったという
こと。
信長を中心に据えて見ると周囲を敵対勢力に囲まれているが、敵対しているほうは別に同盟
やら仲間意識があったわけではない。彼らにはそれぞれに信長と戦う理由があって、そこに
義昭からの手紙が来たので大義名分の口実にしただけ。信長の主力が浅井に向かえば三好は
蜂起するがそれは計画でも作戦でも後方霍乱でもなく鬼のいぬまにというだけ。
証左としては他に志賀の陣のとき。信長と朝倉やら六角やらはそれぞれ単独講和を結んだ。
もうひとつ、73年に義昭が蜂起したときも誰も共同歩調をとらなかった。
信玄の遠征も当然己の領土欲のために畿内の勢力を利用したもので、出兵目的は彼らを助ける
ためではない。だから朝倉が撤兵したときに怒ったのだ。
「お前が兵を退いたら織田の主力がこちらに向かってしまうだろ!冬で雪だとか兵糧がないとか
そちらの事情なんかしったこっちゃないから、武田の利益のためだけに犠牲になれよ!」と。
最後は個人的に他所よりひっぱってきました。
よいぞ( ^∀^)ゲラゲラ
18 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/09(土) 00:10:34
前スレ必死で埋めてた基地外乙 ( ´,_ゝ`)
最後のはテンプレとして用をなさない駄文だな
22 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/09(土) 19:03:19
テンプレとしてまともなのは
>>1-3だけだな
あとは下らん意図がみえみえすぎてクソ
>>23 それではまともなつづきをどうぞ。ソースつきでね
>>23 まともな続きを書く場合は、
二度手間にならぬよう過去スレを読んでからよろしく。
あと貴方の言う下らない意図を糾弾するのなら、反証は必須です。
キャンキャン噛みつくだけならチラシの裏で。
27 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/12(火) 01:09:29
長篠の戦い。
s
信長です、天下布武間近に家臣に殺されてしまったとです・・・
30 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/14(木) 21:42:24
正味、絶頂期に家臣に殺されたバカ殿は信長だけだよな。
戦場でまさに戦闘の真っ最中に討ち取られた総大将は義元ぐらいだよな。
つ竜造寺隆信
つ足利義明
つまり栄えあるバカ殿は信長公に決定か
まあバカから始まったんだしいいんじゃないの
その間の輝きがすさまじすぎるけどな
晩年は基地外入ってたけどな
信玄の晩年はボケがはいっていたような。
38 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 19:04:42
ボケずに一番長生きした徳川家康の勝ち!!
>>38 秀康じゃなくて秀忠を立てたのはボケじゃないのかねぇ。
・・・と思うよ。
後継者人事はすべて結果論
先代の負の点が一気に噴出して、超有能でも結果が悪かったら無能
先代が布石をちゃんとうって、ぼんくらでも結果がよかったら有能
暗殺剣の使い手柳生一族を手駒にしていた秀忠を後継者にしたのは大成功だろ。
加藤清正など豊臣方につくこと確実な武将を暗殺し、将来の禍根を断つことに成功した。
>>41 どちらにしろ普通に成功したもので、
少なくとも批判を受けたり、
まして他の方がよかったなどといわれる筋合いは全くないことだわな。
なんでテンプレが途中までなの?
織田厨が継戦意欲を失ったから
>>45 そりゃ、とっくに勝利が確定していれば、継戦意欲もなくすわな。
47 :
燃料投下:2005/07/19(火) 17:34:55
●武田
甲斐…100%(5700)
・異論はないでしょう。
信濃…100%(12000)
・寺社領で苦情殺到か。
西上野…45%(5500)
・利根川西岸。
駿河…100%(3750)
飛騨…60%(1000)
・64年5〜6月に三木、江馬氏を降す、72年7〜8月に飛騨諏訪城を落としている。
越中…?%(1000)
・68年に松倉(富山)城主椎名氏が武田に降っている、越中衆はこの程度か?
遠江…20%(1500)
・こんなものか?武田が本格的に東に出てくるのは、氏康が死んで同盟復活する71年後半以降(正式な復活は71年12月)。
三河…10%(750)
・やはりこんなものか。足助城などを落としているが、北部の山間部だからなあ。
美濃…5%?(750)
・秋山信友が岩村城を落すのが72年11月、可児、土岐、岩村は73年3月時では武田方。
鉱山収入w
総計32700
48 :
燃料投下:2005/07/19(火) 17:37:07
●織田
・尾張…100%(14250)
・美濃…95%(12000)
*美濃 21(18郡?)郡中武田は恵那郡岩村周辺 郡上郡遠藤氏は武田織田を秤にかけて日和見
津保、加治田、鉈尾は怪しい動き。
・志摩…100%(450)
*ただし、戦力としては水軍衆がほとんどと思われる。
・近江…40%(8000)
*浅井・六角は追い詰め中。他には鯰江、甲賀、蒲生郡の土豪と野洲郡等一揆衆。いまだ不安定
・伊勢65%(9500)
*桑名・三重郡の一揆衆。乗っ取り進行中の北畠氏を除く。
総計44200
朝倉
越前68万石 17000
浅井
伊香郡:3.3万
高島郡:5.8万(離反者を除く)
浅井郡:3.9万(虎御前山の位置からして、こんなものか)
江北にはそもそも小谷、山本山城くらいしか城は無い
13万石 3250、思ったより少ないか
徳川
・三河…80〜90%(6000〜6600)
・遠江…70〜80%(4500〜5000)
*両国とも、武田に侵略されまくり。領地は戦前のもの
計約11000
なんかその捏造テンプレ、前より武田の数値が減ってないか?
前はもっと笑えるぐらい水増しされていたのに・・・
そんな中途半端に理性的な厨御用達(?)のテンプレはなんか嫌だ
武田厨の俺からすると割と妥当な感じだな
近江は船作ったりしてるから、4、5割が妥当だと思ったり。
越前の石高68万石はまず気になる・・・
a
54 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/20(水) 21:28:51
その時歴史が動くらしいです
55 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/21(木) 05:56:29
56 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/21(木) 12:08:46
>>14 野田城の攻略は一月十一日からはじまったんじゃないのか?
57 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/21(木) 12:15:50
>>56 信玄は流れ弾に中って死んだ、と書かれている本では
一応、3日から攻らた事になっとるよ。信用できんけどw
59 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/21(木) 13:19:38
昨日の「その時」でやってたが、信長語録に「大将たる者の心得とは、
敵に警戒される場所には姿を現さず、敵が予測し得ない場所に姿を
現すことである」
見事、この言葉を実践したな
光秀が
つか、従属的な徳川を除く全ての盟国とは長続きせず
あれだけ家臣にも叛かれまくった信長が油断してちゃダメだろ
言うなれば自業自得だな
長政、荒木、三度目だからな‥
案外お人好しなのかも?
長政も荒木も、そして光秀もみんな信長がかって厚遇したんだよな。それがまあ…。
お人よしというのはあたっている。一族にたいしても含めて、「普通はその時点で
殺しているよ」ということが結構ある。
>>62 確かに弟も兄も許しているし、兄のほうは重用してる。
お人好しっていうか天然
あの性格だからこそ、能力重視で新参を重用出来たんだろ
とはいえ樋口も出奔、磯野も逐電、荒木松永別所謀反の上に光秀か…
なんかこうして並べると秀吉光秀の関係者が多い気がする。
67 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/23(土) 17:26:40
良くいくお奨め信玄サイトどこ?
松永久秀なんか二回も謀反してるしな。
>>57 過去スレにあるから見てもらうしかないな、
全部は載せられないし。
>>70 過去スレのテンプレにあったとでも言うなら全部載せろよ、
まあどうせソースがだせない言い訳だろうけどなw
a
>>24 信濃の寺社領が全く勘案されてないですね
>5の臨時税は内容を詳しく!
借入れは上洛戦の為の物資で、逆にいえば長期遠征を意図していたことの
裏づけになりますが
戦が2倍になったから領国疲労、継戦能力にも疑問。
これは史料など裏づけはないのでしょうか?それともただの推測ですか?
ちなみに上杉家は幾度の遠征と、費用のかかる上洛を2度してますが
継戦能力がそがれているということはありませんが
近江の70%はちょっと疑問です
なぜなら六角方は鯰江城はもとより石部城や三雲城などが健在です
その他に志賀郡では義昭の命を受けた在地の山岡景友らが蜂起してます
さらに有力寺院である百済寺が六角を支援していましたし
その他一揆衆を合わせると50%多くても60%程度ではないでしょうか?
後、三好の遠征能力が×になってるけど「耶蘇通信」によれば
三好勢は義昭の援軍として京に接近してたとのことですよ
信長と義昭の和睦により撤退したようですが
>信濃の寺社領が全く勘案されてないですね
寺社領等は不明瞭な部分があるので、武田領にかぎらず考慮しない事になった(過去スレ参照)
想像を出来るだけ排した結果。
>>75 >三好の遠征能力が〜
義昭が挙兵してから信長が京へ進撃するまでどれほどの期間があったかご存知ですか?
まあ
>>14にもありますが、義昭が明確に信長と手切れをしてから信長と和睦するまで
約三ヶ月。その間に、今の大阪あたりから京都へ進軍していた三好軍はどこで何を
していたのでしょうか?
岩成友通なんて、山城の青龍寺城にいたはずなのに、四月の上京焼き討ちにも七月の
槙島城攻めの時にもなにもしていない。
>>76 太閤検地準拠なら蔵入地と非蔵入地で変わってきますね
直轄地である蔵入地は寺社領含め厳しい検地をしてますが
非蔵入地は必ずしも厳しいものとは限りません。
つまり蔵入地の多い織田領だけ寺社領含めて換算して武田領は換算していないという
不公平が生じてはいませんか?
>>77 岩成友通は信長が73年2月23日に細川に対して「表裏無き人物」と聞いていているが
現状はどうかと聞いていること、3月7日には連絡がないとのことなので
この前後に敵対したのでしょう。
4月に京へ接近したが和睦により撤退し、7月には義昭に応じて淀城に篭城してますよ
>>78 なるほど、3月7日には離反したとして、それから約一月何をしていたんですかね?
同じ山城国にいて。
もうひとつ、他の三次勢はどこで何をしていたのでしょう?
結局京に入らずに地元で篭城している以上、遠征能力に疑問が付けられるのは仕方ないかと。
>>78 >寺社領
仮にそうだとしても客観性のあるデータが無ければ、妄想に終わるだけ
何度も話し合われた結果、取りあえず考慮しないが妥当ではないかと
言うことで落ち着いたが、まだ争いが有る
>岩成友通
自分でわかっているジャン、碌な遠征能力が無いということに
>>75 臨時税は過去スレでいろいろ話された、そこ見ればわかるはず、最近はスレの
まとめを貼ってくれる人がいるから探すのは割と楽なはず
>戦が2倍になったから領国疲労、継戦能力にも疑問。
これは確か史料からの推測、ただし争いがある
>近江の70%
石部城や三雲城その他一揆衆を考慮してその程度
これは郡別石高(信頼性は疑問だが)に基づいているから多少客観性はあるが、
互いの勢力範囲で一部争いがある
ただ百済寺は勢力範囲動員力が不明瞭なため考慮外扱いだったかもしれん
>>78 誰も口を差し挟む余地のない史料があるのならともかく、
石高の方に想像を入れてしまうと収拾がつかなくなる、と言っているのだがなあ。
支配率などはその都度改正の余地はあるだろう、
そう言う意味で近江の指摘はまあ、ありだとは思う。
>>75 >借入れは上洛戦の為の物資で、逆にいえば長期遠征を意図していたことの裏づけになりますが
素直に見れば、通常の税収だけでなく借金しなくては遠征の費用が賄えなかった、ことの裏づけ
になるが。
それから、謙信の上洛は信玄のとは意味が違う。さらに言えば、謙信はこの上洛に総勢力を傾けた
わけでもない。
>近江の70%はちょっと疑問です
その六角氏の残存勢力は基本的に甲賀郡。それだけで近江全体の1割か2割もあると思いますか?
もう一つ、志賀郡その他で蜂起した存在は、テンプレの72年10月の段階では未発or鎮圧済み。
さらに言えば、義昭に同調した山岡景友は本来三井寺の光浄院の僧侶で信長上洛時より義昭に
使えている。それに対して他の山岡一族は宗家の景隆はじめほぼ全て信長についている。
つまり、在地豪族としての山岡氏は最初から最後まで織田派。
83 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 00:15:01
これ、何人でやってるの?
書き込んでいるのは75人。合っているのは・・・・・・・
詳細はわかりませんが義昭と三好三人衆は
京都所司代の村井貞勝の屋敷を攻撃してますね
寺社領に関しては太閤検地から引用している以上、蔵入地と非蔵入地で
当然違いますよ。それを考慮しなければ当然、非蔵入地の多い(信濃等)
武田側に不公平に働きますよ。
「耶蘇通信」からですから。単体としては脅威は低くても一応は包囲網の
一翼ではあったわけですし。
臨時税は過去スレといわれても32もありますのでどの辺りかわかりますか?
領国疲労の史料名を教えてください。
借金しなくては遠征ができない程なら信玄死後に勝頼が
軍事行動を続けたことの説明が出来なくなりますが?
謙信は上洛に際して臨時税を設けていますし、長期かつ連続的に
軍事行動をしてますが継戦能力が削がれていることはありません
信長公記では山岡光浄院景友・磯貝新右衛門・渡辺党に命じ
伊賀・甲賀衆も糾合して蜂起してますね。
72年10月には未発でも近々に蜂起している所から動員を
出来たとは思えませんよ。
後段に「志賀郡過半を相静め」とありますからこれら義昭方が志賀郡の
ほぼ全域で蜂起していたことが伺えるますし。
>臨時税は過去スレといわれても32もありますのでどの辺りかわかりますか?
25〜31のどれかだと思う、32スレは桶狭間だったから違うと思うし。
まあ探せば5分ぐらいで見つかるだろうから少し探してみれば、ログがあるなら。
>領国疲労の史料名を教えてください。
これも過去スレにある、一時はテンプレに入りかけたが
テンプレが増えすぎたため除外された。
>「志賀郡過半を相静め」とありますからこれら義昭方が志賀郡の
>ほぼ全域で蜂起していたことが伺えるますし。
その訳はおかしくないか
87 :
86:2005/07/26(火) 01:41:38
訂正
領国疲労の史料じゃなくて借入の史料だ。
領国疲労の直接的な史料は無いな。
>>85 信玄最後の遠征と、その後の勝頼の軍事行動では規模が違うのだが。
逆に言えば、どうして勝頼の時代は信玄の頃より領土が広がったのに
軍勢の規模は増えていないのだ?
>>87 領国疲労の直接的な史料って何だよ?
動員力や財政状態から推測ならわかるが、領国が疲弊していますとかいう
報告書でもあるというのか?
すいません過去スレみれませんでした
訳がおかしいなら具体的に指摘して下さい
動員を落としているのは対徳川においてのみです
その他、東美濃遠征や御館の乱での援軍など相応の数を動員してます
>>90 訳というか解釈じゃね「志賀郡過半を相静め」これに対し「ほぼ全域で蜂起していた」
とはならないだろう。
あと書状文書などの過半などの表現は風聞宣伝などの可能性があるから、そのまま
受け取るのもどうかと思う。
東美濃遠征はそれほど多くないだろ。
「過半」というのは大半という意味ですので
解釈的には間違っていないと思います。引用は信長公記です
東美濃、御館の乱にはおよそ2万ですね。対徳川は1万5千。
上洛戦で約2万5千なので戦の規模等考えれば妥当だと思います。
>>91 大抵の書籍やテレビ番組じゃ、湖南地域は湖畔、街道沿いだけを支配地扱いしてるけど。
湖西地域も朽木の所領しか無いから、軍役を負担させられる領地が5割に届くかどうかも微妙。
>>91 信長公記のその部分はそのまま信じて言いと思う。
信玄の畿内勢力へ東美濃勢力への書状は信用できないけど
>>92 >上洛戦で約2万5千
別働隊が抜けてる
「過半」の意味は大半であってるし訳はだいたい「志賀郡の大部分を平定した」みたいになるだろうけど、
これから志賀郡の全域で蜂起していたとするには無理があるのでは…
まだ敵対する勢力が少し残っているという解釈ならまだしも。
石山・今堅田以外にどれだけの勢力が蜂起したのか、状況から考えて、全域で蜂起していたとする解釈
は無理があるのでは。
>>93 >大抵の書籍やテレビ番組じゃ
大衆向けのものだから基本的に気にする必要は無いと思う。
>>94 織田が攻め落としたor味方に付いた城に関して
記録を指折り挙げていっても、近江の半分には届かないよw
数日の攻撃で平定されんだから、全域で放棄したは普通にありえんだろ
>>90 28スレの概要
序盤姉川の合戦
250ぐらいまで武田の税 財政状態疲弊度
29スレ概要
130ぐらいから武田の財政状態税制状態
あと27スレの後半にもあるみたいだけど、27以前はまとめが無いから面倒だからパス
あとは自分で何とかしてくれ
>>95 どの記録をみたんですか?
はっきりいって、当時信長の支配が及んでいなかったのは甲賀郡と伊香郡くらい
なのだが。
>はっきりいって、当時信長の支配が及んでいなかったのは甲賀郡と伊香郡くらいなのだが。
こんな解釈が出来るなんて、
>>95はどんな記録をみたのやら。
>>94 >別働隊が抜けてる
北条の援軍が抜けてる
というか信玄の上洛時の兵数は分かってないだろ
書物によっては3万とかもあるが
ただ勝頼は信玄ほど戦争してないから(規模と期間回数において)
領国疲労は進んでいたのでは無いかと思うが。
>>101 死後数年間も出兵回数、規模共にあまり変わりないが?
長篠以降はまた別として。
つくづく思うんだが、なんで武田の軍勢の数は記録の数字がそのまままかり通るのに、
織田の軍勢の記録の数には待ったがかけられるのだろう。
まかり通ってはいません。
少なくともそのスレでは、
冒頭のテンプレ参照。
テンプレ自体がまかり通ってません
>>102 いや69年から73年までのペースと73年から75年のペースだと、
平均して前者のほうが多い。
>>90 800 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/12 16:13:09
元亀二年三月二六日付信玄書状によれば
今までは軍役衆と区別してきた百姓にも動員かけている
両棟別役・隠田・普請役を免除してやるから参陣しろって
それまで軍役衆以外の動員を好まなかった信玄の態度と変わってきている
このあたりから武田軍の台所は大分厳しくなったんじゃないだろうか?
織田(徳川)・北条・上杉何れも動員に手を抜ける相手じゃないし
976 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/13 11:41:19
長期遠征だから各自手弁当ってことはないよな
そうなると、武田家から食料が支給されたはず
「雑兵物語」準拠だと一人一日分につき
水一升
米六合
塩一勺
味噌二勺
が必要
ただし、現地で参陣した三河国人部隊は手弁当である確率が高い
982 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/13 12:13:42
徳役銭…金持ちへの税金
過料銭…寺社・地下衆など本来課税対象でない層にかける税
妻帯役…妻を持った僧侶にかける税
信玄は年貢収入以外に、これらの臨時税を徴収することで軍事金を賄っていたようだが…かなり重税だな
街が荒廃するまで税金ふんだくった謙信よりはマシだが…
984 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/13 12:20:31
棟別銭でみると
武田…一軒につき二〇〇文
北条…一軒につき五〇文
北条氏は比較的税率が低い大名だから比べる対象としては不適格かもしれんが
他に見つからなかった
996 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/13 13:56:14
「勝山記」によると「信玄公は一年に二回も戦する。これでは信虎の代と変わらない」という領国の不満が見てとれる
やっぱり苦しかったんじゃないかな?
>>982はあくまで臨時税で、年貢はさらに取り立てられていたわけだし
19 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/13 15:00:45
「依急借ニ後納之定」(元亀三年十月に甲州四郡惣代百姓宛に出された高坂弾正・土屋直広・穴山梅雪連名の書状)によると
御用金九万両及び御用米十五万六千俵を『恩借』したい、とある
つまり臨時徴税ですらなく、借用じゃないかこれは?
かなり莫大な金穀をこんな手でも集めているのは台所が苦しかったか、それとも長期戦を予想していたかどちらかだろう
法度を破ることになるからわざわざ書状でそれを許す代わりに軍役課してるってことだろ
「信濃史料」日付まではっきりしてるのに
「新編甲州古文書」でも同種のものが確認できるぞ 日付も一緒ね
うろ覚えだけど、武田は税は重いけど隠田に対しては実際はさほど厳しい取立てを
しなかったらしい。(もちろん禁止はしてたが)
その逆が北条で税は比較的軽いけど隠田は徹底的に禁止して厳しい取立てを
してたとの事。
これぐらいかな〜
>>90
963 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/13 10:45:49
>>961 継戦能力はあっただろう
確かに信玄晩年のそれまでにない大兵力の出兵の連続で領国も疲弊してたし
惣百姓にまで動員かけるほど苦しんでいたのは既出だが
なんだかんだで勝頼の代まで軍事行動を連続させている
まぁ金山が枯渇したことも重なって大変な重税かける事になったが…
966 名前:無名武将@お腹せっぷく 投稿日:05/03/13 10:54:57
なにせ、「軍役に応じるなら諸役は免除する」なんていってかき集めたわけだからな
武田軍は。
長引けば長引くほど、生産は落ち込むし、税収も落ちる。勝頼が苦労するはずだよ。
>>110はこの流れからのソースみたい
伊勢に関して前スレでの修正が入っていないな
>>107 財政が苦しいなら税を免除した上、軍役負担させて戦を繰り返さないだろ
元亀2年は戦の数も多いし臨時動員だな
徳役銭、過料銭は有資産者への課税なので領国疲労の
根拠とするには疑問
棟別銭は武田に限らず全国で徴収
「勝山記」は永禄2年(1559)までの記録ですが
「依急借ニ後納之定」は時期を考えれば上洛のための恩借りですな
ちなみに毛利氏は恒常的に借米、借銭をしてましたが財政破綻などはありませんね
>>114 >ちなみに毛利氏は恒常的に借米、借銭をしてましたが財政破綻などはありませんね
そりゃ恒常的だからだろ、武田の例とは異なるかもしれんぞ
>>115 収入支出に変化無く借入額が一定なら、
恒常的に借入したところで財政破綻など起きるはずが無い。
武田の場合は新規だから問題になるってことだな。
>>107-111 >>107は110で否定されてるし、
>>108の徳役銭、過料銭、妻帯税は114の通り
棟別銭は五〇文〜二〇〇文まで段階があるのに恣意的に抜き出してる。
111の>武田は税は重いけど隠田に対しては実際はさほど厳しい取立てをしなかったらしい。
は、このスレの誰かが言い始めただけで、実際は没収が基本。
>>115-116 そもそも本物かどうか怪しい罠w
それに、9万両6万石じゃちょっとした国債程度、領国疲弊と考えるのは到底無理だな。
>>114 >財政が苦しいなら税を免除した上、軍役負担させて戦を繰り返さないだろ
>元亀2年は戦の数も多いし臨時動員だな
軍事的に余裕がある状況ならその理屈も通るかもしれないが、
この時は臨時動員しなきゃ厳しい状況だろ、だから財政が苦しくても
兵を集めた、それだけのことじゃないか。
>>117 >それに、9万両6万石じゃちょっとした国債程度
これをちょっとしたと言っていいのか?
120 :
107:2005/07/28(木) 12:46:35
>>114 >>117 いやもともと108は臨時税に対する返答のつもりだから
>棟別銭は五〇文〜二〇〇文まで段階があるのに恣意的に抜き出してる。
それは知らん、俺はコピペしただけだから、文句は27スレの984に言ってくれ。
>111の>武田は税は重いけど隠田に対しては実際はさほど厳しい取立てをしなかったらしい。
これは武田が厳しい検地ができないという意味らしい。
>
>>107は110で否定されてるし
そこだけ見るとそう見えるかもしれんが実際にはそう単純ではないみたい、その部分は長いみたいなので
読むつもりは無いが。
>>114 >徳役銭、過料銭は有資産者への課税なので領国疲労の
>根拠とするには疑問
重税の根拠にはなりそうだが、
でもこれって領国疲労のソースじゃなく、
過去スレのテンプレの一部じゃないか?
>棟別銭は武田に限らず全国で徴収
それは信用できねー
122 :
121:2005/07/28(木) 12:51:16
>>120 >その部分は長いみたいなので読むつもりは無いが。
ほんの1,2行の文だけど‥
>これは武田が厳しい検地ができないという意味らしい。
そんなことは無いよ。
>>121 棟別銭は大名の支配力が小さければ無理だろうけど、戦国も終わりに近づいた
この時期ならほぼ全国で行われていると思うぞ。
125 :
107:2005/07/28(木) 13:06:48
>>123 いや28スレの序盤から200近くその話題が続いているみたい、その中からすごく適当に流し読みして、
史料に関する話の部分を抜いて合わせたもの。
>そんなことは無いよ。
これだけじゃ話にならん、妄想とか言われたくなければ、もう少し具体的な例を挙げるなりして反論してみたら。
それとも俺が過去スレ読み間違えてた?
>>124 そういえば武田家が棟別銭取りたてようとして反乱起こされて、国が分裂したな、
隣の大名が救援に来てくれたお陰で、一応なんとかなったけどw
まあ武田家の実力では一代一度の徴収が限界だったのだろう。
>>126 そんな(ry
まあ言ってることは正しいが…
あれって棟別銭取りたてが原因だったのかw
>>121 棟別銭は多くの大名が取り立ててる。
>>128 別に棟別銭だけが原因じゃないだろ、あの内乱は。
>>128 しかし全国とは言いきれない。
まあ史料の問題もあるし、同じ大名家でも時代によって全然徴収できない時期もあるし。
逆に恒常的に毎年どころか月に何度もという例もあるらしい。
元は臨時税なのにw
>>125 >111は何を根拠にいってるか分からんが
「甲州法度之次第」では特に税制に関しては厳しく規定されているし
検地にしても恵林寺領の検地帳や検地に関する発給文書の存在などから
広く行われているのだが。
具体的な数字が出せないのだが、金山収入が枯渇したのなら、それに変わる
財源を確保しなければこれまでのような軍事行動はできないだろう?
何かあったか?
具体的な数字が出せないと話にならんな
もしかしたら金山収入は貯金w されてたのかもしれないでしょ?
>>132 まあそれでも北条にはかなわないけどな、
ただ比較対象が北条で無いなら、まともな税制だと思うが。
>>117 >それに、9万両6万石じゃちょっとした国債程度、領国疲弊と考えるのは到底無理だな。
甲斐の石高が約二十万石なんだが。
109読むと甲斐から9万両6万石を借りている様子。
武田家全体の甲斐からの収入が15万石としてもかなりの借入になる。
またこれが武田宗家による借入で蔵入から返済するとなると他の分国からの収入合わせても
破綻しかねないか?
家臣に金貸して財政が豊だった上杉とは大違いだな
武田家全体で少なく見積もっても100万石の収入があるのに
6パーセントの借入れで破綻しかねないとは・・・
>>139 税率100%かよw
ところで137も言ってるが江戸時代じゃないのだから中間搾取層や家臣の領地はどう扱うの?
一体どこから借りてどこから返済するんだ、この時期は?
>>140 借りるのは家臣領も含めて甲斐全体だろ、甲斐の武田本家の領地からはこんなに借りれるわけ無い。
返済は家臣にも負担させるか、大名自身だけで返済するなら、直轄地からの収入、各種運上金、棟別銭
などの特別税を財源とするだろうけど。
実際には通常時の武田本家の収支が分からないからなんともいえんな、現在みたいにP/Lが存在してる
わけ無いし。
当時の主従関係というのは個人的な契約関係に近い。山県や馬場のような出頭人はなおさら、
穴山のような親族譜代でも、あくまで信玄との主従ということ。穴山家で例をだせば、家の
代表である信君が御恩と奉公の契約を結んだのは信玄に対してのみ。信玄が死んだらその後継者
と新たに契約を結びなおさなければならない。逆に信君が死ねば、武田の代表者は新たな穴山家
の代表者(普通は息子か)と再契約を交さなければならない(契約の更新、といってもいいか)。
このため勝頼は信玄死後しばらく動けなくて、それは領国の疲弊が原因で動けなかったわけではない
という意見があったが実際どうなのこれ?
信長や元親は家督継いで2〜3ヶ月で行動してるし、氏康だってそう。まあ氏康は生前に家督を
譲られているからあまり良い例とは言えないが。
9万両というのがどれぐらいの金額か良く分からないので他と比較すると
過去スレより
>穴山が徳川に降伏した時の手土産は2万両 金二千枚=約300キロ=2万両
>謙信の遺産が2万5千とも7千両ともいわれる
しかし
>『甲陽軍鑑』によれば、この上洛戦のために信玄が集めた金は7千両ほどだったそうだ
過去スレ見てきたら訳分からなくなってきたorz
>>142 他と比較しても軍事行動が鈍すぎるから、財政難で動けなかったでいいんじゃね
だいたい上の当時の主従関係というのは〜、信玄死亡後そのまま遠征しろというレスへの
反論じゃなかったか?
>>143 甲陽軍監って、そもそも先方衆である小幡氏の誰かが書いたものだろ?
そんな、武田家の内実をこと細かく知ることができた立場にいたとは
思えないのだが。
>>145 高坂弾正の口述を小幡が書き記したと称したもの。
109を信じるなら高坂弾正が知っていてもおかしくは無いが。
>>140 連名に穴山梅雪の名もあるしな
>>142 小身の頃の信長や元親を例に出しても比較対象としては不適切だな
×140
○141
だな
>>137 この書状が本物かどうか判ってないけどな
それに、6万石/最低限110万石だろ?財政難で動けないってのは在り得ない。
>>149 だから税率…
信長の野望じゃないんだから
>>149 140氏も言ってるけど、税収100%って考えている時点で間違ってるの。
六公四民として、歳入(実際は他にも税収はあるけど)66万石。
一回で九万両六万石、計15万石は歳入の1/4相当。
現在の日本で考えるなら22兆円もの国債を臨時に発行した事になるわけだ。
しかも、110万石全てが武田家の収入になるわけではなし。
穴山や小山田をはじめ、家臣団の知行地の分も考えると・・・。
蔵入の1/2、もしかしたら蔵入に匹敵する額かもな。
必要経費をさっ引いた上で、これらの借金を返すのは不可能では無いにしても、大変。
それ以前の武田家の経済状況にもよるけれど、ここらへんは知らないから何とも言えない。
>>151 それは間違い。六万石と九万両は、どちらも石高、金山w収入の一割以下
現在の日本で考えるなら5兆円未満の国債を臨時に発行した事になるわけだ。
4倍に増やすとは、いつもながらですね。
>>152 お前さんは武田家の米による収入と金山による収入がいくらか知っているのかw
>>153 いや、知らないw
まあでも5万両前後はいってるんじゃねーかな、と推測w
5万両だと銭換算で幾らくらい?
武田の場合は、根拠のない推測がまかりとおるのか
このスレは話が進まないと言うか
建設的じゃない言い争いがかなりの割合を占めるからね・・・
武田厨は拠るべき根拠すくないから憶測で語るのが多い
つーか叩かれてる武田厨が目を通してるのは甲陽軍鑑ぐらいだから
妙法寺記や勝山記、高白斎記なんぞは多分知らない
知ってる武田厨は、こんなアホなレスしない
低レベルな信長厨が、信長公記しか読んでないのと同義
>>156 勝手に所領を水増ししたり、いきなり信長を上洛させるのは織田厨の得意技ですよ
つーか1両は今の5万〜10万じゃなかったか?
換算すれば9万両で90億円、これじゃあ疲弊しようがない。
>>90 そのたとえでいくと、山梨県で90億円を出すことになるのだが。
通常の税とはまた別に。
>換算すれば9万両で90億円、これじゃあ疲弊しようがない。
ええええええええええええ
武田家の領土が甲斐1国だけとは、驚きの新見解だなw
地方債を発行していない自治体は少ない。
なぜ地方債の話題が?
「依急借ニ後納之定」で
ここに署名してある高坂弾正、土屋直広、穴山梅雪の3名だけど
まず高坂弾正は現代では高坂姓で有名だけど当時は高坂姓でなく
春日姓を名乗っていて高坂姓を名乗っていたのは武田と対立して倒された
高坂氏の妹を娶った一時期であってほどなく春日姓に戻してる。
さらに決定的なのは穴山信君が出家して梅雪を名乗るのは
天正8年(1580)で元亀3年(1572)に梅雪の署名はありえない。
まあ、この書状は捏造史料だな。
>>162 話題に上がっている書状は「甲斐の住民に対して」のものであって武田領国全体
へのものではない、って最初から言ってあるのだが。
あなた、他のレスは何も読んでいないね。
穴山家は金山も武田とべつに独自に抱えていたようだしなあ。
>>164 少し話題から横にそれるが、春日虎綱が高坂姓を名乗ったという信頼出来る史料はないのよね
高坂氏を継いだ話は甲陽軍鑑で、後は高野山の武田家過去帳にある「香坂弾正」ぐらいじゃないかな
恵林寺にある墓は、死んだ日付があまりにも違うしなぁ
そもそも高坂じゃなくて香坂なんじゃないの?
なんつーか、御用金九万両及び御用米十五万六千俵を『恩借』できるのなら
領国疲弊には無縁だと思うんだが如何に?
その前にその史料自体否定されたのだが?
>>171 109の資料がどこまでが意訳なのか原文なのか分からんからまだ断定はできんな。
ただ、『書状によると』と書いてあるのに、史料名が記されてないので、原文を調べようにも
裏がとれん、これが何の文書によるもので原文がどうなっているか知ってる人はいないかな〜
>>172 天正年間でも信君の花押を使ってるけど。
つまり捏造
176 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 15:31:14
>>108 徳役はもともと富裕層狙いだし、
僧侶はもともと全くの非課税だった事を考えれば、
僧侶に理由を付けて課税できるのは武士権力の進展と捉えると
面白いな。
信長も上洛後には堺や本願寺に難癖つけて金取ってるし、
金持ち狙いとかならどこもやってるんじゃねえか?
>>111 その通り。武田は検地をやって隠田が見つかった場合、当分は
その分の年貢は一部免除。
北条は容赦なく一定率で取り立て。
北条家では検地によって、北条家が把握する石高は実に二倍になったとすら
言われていて、それが新たな軍事動員の源泉になっているわけ。
単純に北条は税率が低いとか言ってるのは完全な勘違い。
>>126 だいぶ曲解が入ってるなw
もともと独立性の高かった小山田氏領内で、武田家に収める棟別銭を
取ろうとして確かにいざこざは起きたが結局小山田氏が折れて徴収が
始まっている。
信玄が跡を継いで以降、棟別帳の作成が始まって取り立てがきっちり
制度化されるようになった様子が「高白斎記」などから確認できる。
>>132 しかし一方で、武田家では軍役衆の本領は検地不可だから。
まあもともと軍役衆は非課税だけど、動員数の策定にはやはりやった方が良いもの。
勝頼は代替わりを理由にした検地などを駆使して石高把握に努めていたよね。
178 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 15:35:01
>>168 その場合、大田牛一が信長公記で例えば長篠で討ち取った首に連ねた
高坂昌澄は誰なんだ?って事になるし
武田家滅亡後上杉家にしばらく使えていた高坂信達という人物は誰なんだ
という事になりそうだが。
だが
>>109で出てる史料、ぐぐったら
ttp://lib.i-apple.jp/note/nagano/takedauesugi/ こんなん見つけたけど、
一般に高坂弾正は「高坂家(香坂家)を継いですぐ家督を息子に譲って
自分は春日に戻した」なんて言われてるし、
ましてや穴山信君が「梅雪」を名乗ったのは一般に天正8年と
言われていると思うんだが・・・・この史料が本物だと歴史が変わるw
ましてや元亀3年の10月初頭には既に信玄自身も出陣しているのだから、
その10月にこんな巨額の借金が必要だとしたら、計画性が無さ過ぎるw
ところで妙法寺記には1550年代までは信玄に対してもいろいろ不満が
書いてあるが、その後なくなっているから、領国の拡大と経営が軌道にのって
領民の負担が以前よりは減っていたのではないかと考えているのだが。
>>176 >その通り。武田は検地をやって隠田が見つかった場合、当分は
>その分の年貢は一部免除。
法の意義も処罰の意味も理解しない、意味不明なひどい嘘ですねw
空虚だな。
だね。
甲陽軍鑑に記されている隠田の扱いでは、何年経過してても没収とあるのに
>当分はその分の年貢は一部免除。
とは、あきれる。 バレないとでも思ったのだろうかw
>>177 126w
軍役衆も当然検地を受けるし
非課税なのは新田等で所領は減免はされても課税対象ですよ。
>>178 妙法寺記で、その後なくなってる?
地下人の逃亡話や重税の話は続いてあるじゃん
>一般に高坂弾正は「高坂家(香坂家)を継いですぐ家督を息子に譲って
>自分は春日に戻した」なんて言われてるし、
これの根拠知ってる?実はないんだよ
春日虎綱が高坂昌信と名乗ったと甲陽軍鑑にはあり、しかし虎綱が高坂と名乗ったという書状は見つからず
他の物証が見当たらないから、こういう事ではないか?と言われてる程度の憶測なのよね
高坂昌澄も高坂信達も高坂姓の人間であって、甲斐武田に高坂姓の一族が実在していたのは確かで
しかし、それが春日虎綱が高坂氏を継いだとは関係がないかと
例えば、大友が戸次道雪に立花継がせたときに、立花氏は根こそぎになったのかといえば、そうではないしね
さすがに、この書状は信憑性が低いとしかいえないなあ。
上に出ている様々な問題もそうだが、そもそも甲斐国内の政務に高坂の名前が
出てくること自体が不思議。
百歩譲って高坂を認めても梅雪が元亀三年にいたらマズイからなw
甲斐四郡から15万俵借りるとかからして信玄のほかの発給文書に比べて
対象が曖昧にして広範囲すぎると思うし内容も極端に過大過ぎる・・・・
確か甲陽軍鑑は僧侶の妻帯税まで取って7000両を集めたと書いていたけど、
一両を3000文ぐらいと考えると(時期や地域でも違うけど)だいたい2万1000貫。
4000文なら2万8000貫という事になるよね。
信長が上洛後に堺からとった矢銭が2万貫。本願寺から5000貫。
数万の軍勢で上洛軍起こすとこのぐらいが相場なのかもね。
件の書状はちょっと金集めすぎだと思うな。
>>186 同意、だいたい6万石も集めるなんてどういうことだ?
お前は何年間戦いつづける気かと?武田家の兵力じゃ2年以上戦えることになるぞ。
>>177 126は若狭武田家だよ、ちゃんと書いてあるジャン
>>187 戦場においては米の消費が多いため、一人半年で一石消費するというから、
2年は無理だろう、それでも一年以上戦える量だが。
確か関ヶ原のときに、家康が秀頼から6万石ぐらい貰ってたな
しかし、遠征のための兵糧を遠征軍が出発してから集めるというのはどういうことかと。
まあ梅雪な時点で捏造だからもうほっとけと思うわけだが。
侵攻の準備は、万端整った。
では、あの史料は信憑性なしということで。
かな、あの書状らしき物も信憑性無いね。
>>194 どれを指して、何を根拠に信憑性が無いと?
109は後世の創作で確実だと思うが。
109の文書のことでいいと思うが?
>>195 109の書状こと。
107から112まで嘘だらけの流れ、という意味で。
>>197 109はともかく残りすべてを嘘だらけとするには、まだ証拠が不十分だと思うが・・・
117がすべて否定しているが、ソースも無く適当に否定してるだけだし、正直
9万両6万石じゃちょっとした国債程度と言ってるぐらいだから、文章に信頼性が無い。
何でここって過去スレが見れないの?
>>199 探せばほぼ全部見つかる、だからちゃんと探せ。
21スレはちょっと見た限りじゃ見つけられなかったが・・・
過去スレみれないという人は読むのが面倒とか、適当に煽るのが目的で
恐らく過去スレを読む気が最初から無いんだろう。
>>198 108と111は甲州法度から嘘と判るし、107と112は甲州古文書から嘘と判る
109も含め、
>>107-112の話を否定する証拠は十分過ぎるほど十分かと。
ふむう
>>201 その書き方はおかしくないか?誤解を招くぞ。
まあ112はなんともいえんが。
>>200 とりあえず教えるなら素直に(ry
法律の条文とその実施状況はまた別問題だろ、条文と現状が違うからそれだけで嘘って、
正気ですかお前ら?
もっとも
>>111にソースが無いから話にならんが。
まあ、法律で税金を取ると決めたって、取り立てるためのシステムを築かなければならんわけだからな。
>>205 >>207 確かに甲州法度で隠田や税に対して厳しく規定されているから嘘というのはアホだな、
もしそんな論理が通るなら、世の中に脱税脱法などと言う言葉が存在するはずねー、
法と現状がかけ離れるなんてよくある話だ。
でもこの場合は脱税脱法してるという証拠となるソースをあげなきゃな、でないと悪魔
の証明になってしまう。
もし確かなソースからそのような例が確認できるのであれば甲州法度の条文など確
かに何の反論にもならんことは認める。
でもそれはソース付きで確認できた場合だ。
>>209 >>110は脱税脱法ではなくて税免除のかわりに軍役を課すための
書状だからちょっと違うな
勝頼の代の検地、差出(自己申告)が多い。
丈量検地がほとんどの北条に比べたら隠田の摘発なんぞ文面上の奇麗事レベルじゃねえか?
まあそれでも信長が大和で差出命じたら反乱になるぐらいで、
「自分の所領を(例え自己申告でも)把握される」ってのは自治権に対する重大な挑戦だったようだが。
>>210 >>110は隠田が発覚した事件に対する処分だから
順序が逆、ちょっと違うどころかまったく違うw
>>211 >>110のような書状があるということは
隠田発覚時は少なくとも何らかの処分があったってこと。
まあ、ふつうに考えれば甲州法度のとおり処罰だろう。
mv,mn
>>110は「これから見つかった場合」ではないの?
>>213 でも、それは発覚した場合の処置で
脱税脱法し放題隠田の摘発なんぞ文面上の奇麗事
隠田に対して厳しく摘発の反論になるとは言い切れないな。
>>216 >脱税脱法し放題隠田の摘発なんぞ文面上の奇麗事
これのソースを出してくれ、甲州法度では取り締まると決めているのだから。
まあ北条家ぐらい軍役帳やらにビッシリ書いてあったら
そうとう検地やったんやろなー思うやろけどな。
脱税脱法してる者、摘発されてない隠田の存在などは公的文書に残ってるはずが無いから
他の時代や他の地域と比較して、武田家の支配力や土地の把握能力などを推定するしか
ないんじゃないか?
脱税脱法隠田の存在が文書に残ってるなら、普通に法度に従って処理されるはずだし。
もっとも110はそれの例外規定みたいだから法の施行状況にも疑問が残るが。
>>218 北条はむしろ例外だろ、
北条と比較するなら織田でさえたいしたことない
>>217 ソースがあるのかどうかも知らないが、一部の人が
「北条は法を厳しく適用した、武田は法は厳しかったが適用は緩やかにした」
という趣旨の主張をしていたな。
>>220 北条は時代に比べると異常といえるほど突出した存在だよなあ土地支配に関しては。
土地支配を強く進めることが出来たというのはそれだけ大名権力が強かったからなの
でしょう。実際、かなり安定した支配を行っていたようだし。
ただ、一般的なイメージだと統制があまり強くない印象があるんだよな。多分小田原
の陣の影響だと思うが。
「北条は法を厳しく適用した、武田は法は厳しかったが適用は緩やかにした」
これに関する直接的なソースは存在するわけないんだから、信玄時代の土地の把握力
勝頼時代の把握力、そして太閤検地で比較して、どれだ差があるかと比較するしかないだろうね。
でもこれ証明しても武田の領国疲弊には直接は繋がらないけど。
>>221 検地帳やら分限帳やらは残ってるのだし
脱税脱法し放題は論外として、適用は緩やかにしたというのも
思いつき発言の域を出ないんじゃないか。
>>223 誰かの論文でないの、それに関する。
はっきりいってここの住人が一個人で検地帳調べて他と比較など無理だろう。
なんか変な日本語だな、
誰かの論文でそのような内容のものは存在しないのか?と言う意味ね。
その誰かしらの論文、とやらを持ってこない限りは
甲州法度の規定を重視するしかないと思うけどねぇ。
税は綿密かつ厳しく取り立てるのに、検地は甘々ってのもおかしな話だし。
>北条は法を厳しく適用した
納税に関して、物納も認めてたのが確認できる史料は知ってる
ので北条は法はあっても厳しく適用してたとは思えない
武田は知らねぇ
>>228 結局、税は取り立てているんじゃないのかそれは?
>>224 検地にしても今川などに比べるとやはりあまり徹底していた感じはないよな。
今川は寺社領でも踏み込めと命ずるが
武田は一円で一気にやったというわけでもないし
いろいろと制約もあったし。
>>228 むしろ永禄年間まで金銭納をやっていたのが異色。
他所はとっくに物納に移ってるよ。
つか、どちらにしろ税は納めてるんだが。
ま、農民にとっては金銭納の方が厳しい。
収穫の時期にみんなで米を売る結果米価が下落して
納税のためにより多くの米を売らねばならん。
この時代(永禄・元亀・天正)の石高ってのは、あんまし関係ないぞな。
武田はともかく織田の収入の大半は商業だったわけだし、上杉謙信なんかも永禄三年には
飢饉で五年間も年貢を免除してるわな。その代わり、特産品の税は厳しく
取り立ててる。軍役も厳しいが、略奪は黙認ってな感じ。それにそもそも
たいがいの検地史料は慶長三年の太閤検地なわけで、実高がかけ離れてるわな。
何となく、江戸時代の経済価値観で戦国時代を眺めてませんか? と。
太閤検地が実高とかけ離れてると主張するヤシは多く見かけたが
その実高とどうかけ離れてたのか、史料を基に主張したヤシは皆無
検地が甘かったやら言ってたけどなw
室町時代は金銭納が主体のはず。
室町幕府自体が土地もってなくて、ゆえに様々な税が作られたはず。
ただ、戦国期に入るとどうなんだろうか。
>>232 そうだったっけ?
寛永検地と太閤検地で大きな差異のある国は、実高とかけ離れていたんじゃないか?
という発言に対して、太閤検地の方が時代が近いから太閤検地しか認めない
という流れだったはずだが
>>231 >武田はともかく織田の収入の大半は商業だったわけだし、
いや大半は明らかに農業収入だろ。
>上杉謙信なんかも永禄三年には
>飢饉で五年間も年貢を免除してるわな。
永禄三年に府内の町の直轄化を宣言し、町人に対して五年間、
諸役地子の免除をした事があるが、それと勘違いしてるか?
商業云々はネタでしょ
収入の大半が商業収入となると、武田の財政は織田と比べてますます悲惨なことに。
>>232 慶長時代の実高の史料なんて存在してないんだから、
史料を基に主張は無理だ、せいぜい寛永と比較して想像するするしかない。
>>234 >寛永検地と太閤検地で大きな差異のある国は、実高とかけ離れていたんじゃないか?
その可能性もあるが、江戸初期の開発でやたら増えた可能性や、薩摩や水戸のように
数値だけ弄くって増えた例、他太閤時代では検地できなかった寺社領の可能性、戦乱
の影響など、いくつもの不確定要素があるから寛永よりは太閤検地のほうがまだましだ
ろうという流れが本来。
まあそれでも、四国や出羽の石高の低さなんかを見ると実高とも言いにくいけど
>>235 >永禄三年に府内の町の直轄化を宣言し、町人に対して五年間、
>諸役地子の免除をした事があるが、それと勘違いしてるか?
史料は何をもとに???
慶長検地とか寛永検地ってのが、どうして戦国時代(少なくとも永禄・元亀・天正年間)
と触れ合うの??? あまりにも時代が離れすぎ(笑
>>239 他にいい指標が無いから仕方なく使っているんだろ、太閤検地の結果を。
>>234 寛永検地が実高に基づいてるとも限らないし、だったらまだ時代が近い
太閤検地のほうがマシだろう。
>>240 寛永検地は厳格だけど
太閤検地は差出しの国もあるし寺社領を含まない国も多いから
どちらがマシとは言い切れないな。 というか寛永検地のほうがマシだと思うが。
瀬田に・・・旗を・・・
太閤検地が信憑性を欠くのはもっともとしても、
天下平定から寛永まで何年あるんだと。
その間に
>>237のいうように
江戸初期の開発やらなんやらが起こり、
戦国の状態からは実高そのものがかけ離れるという罠
越後の低湿地帯の開拓、
仙台藩の耕地開発。
似たようなことは日本中で起きただろう。
その分、開発に後手を踏んだ地域と
先進的な地域の差は縮小しているだろうしな。
確かに近江・大和などを初めとする畿内はほとんど石高に増減はないが、
武蔵などは太閤検地と寛永検地では三割増になっている。
これを無視するのは如何な物かと。
確かに太閤検地が正確ではないだろうけれど、
時代を経て、開発などによる増減が著しい寛永検地を戦国期に適用する事に比べれば
まだましではなかろうか。
>>241 寛永検地は確かに太閤検地よりは厳格だろうけど、それでも実高とは違うだろ、
寛永検地も太閤検地と比べて石高が減ってる国や、後の実高と比較して多い国
などがあって信頼性に乏しいのは一緒だし。
だったら時代が近いほうがまだまし。
今までにも実高寛永太閤の平均取る案とか、太閤検地合計を実高合計で割って、
その数値に各国の実高を掛けて、太閤時代の石高を求める案とか出たが、結局
恣意性の排除などから太閤検地のデータを使うことで落ち着いたし。
>>245 >寛永検地は確かに太閤検地よりは厳格だろうけど、それでも実高とは違うだろ
おいおいw
寛永検地が実高でないなら、この世に実高なんてねーよw
ケースバイケースで考えればいいものを
差出しの国や寺社領を含まない欠陥を無視して、時代が近い時代が近い時代が近い
の一点張り、何かやましいことでもアルのか?w
それだと史料の一貫性が保てないだろ。
恣意的なケースバイケースになる可能性がある。
ケースバイケースで適用するなら、それでもいいが、
その前に具体的な方法案をよろしく。
それが為されないのならば、欠陥があろうとも原液に近い物を採用せざるを得ない。
>>246 >ケースバイケースで考えればいいものを
>差出しの国や寺社領を含まない欠陥を無視して
それらを考慮した結果、結局太閤検地をそのまま使うのが
いくらかましという結論になったのだが・・・
過去スレ見てくれば
>>248 そうだっけ?
考慮するのは面倒だからとりあえず太閤検地ということではなかったか?
まぁ、欠陥の是正をすると織田領が増えることはまずないが
武田領は10万石前後増えることになるから織田派にとっては
太閤検地で落ち着きたいわなw
>>249 では、欠陥を是正してください。
この場合の是正方法は太閤検地よりも前の時代に行われた検地記録によりますが。
もっとも、これは全国政権よりも地方政権のほうが強力に在地支配を行ったとする
前提がなければ成立しませんが。
少なくとも、戦国期を推測するのに安土桃山よりも江戸期の調査のほうが信用度が
高いというのならまずその根拠をどうぞ。
>>249 正確には、
差出しの国 : 実際にはどの国のどの土地が差し出し検地なのか?
寺社領 : 寺社領の石高は?・それぞれの寺社が元亀時に織田反織田中立か?
蔵入地 : どの国のどの土地が蔵入か? ・また蔵入地とそれ以外の土地の石高は?
新田開発 : 実際にはどの国でどれだけ新田が作られたか?
これら(他にもいろいろあったと思うが)に関する客観的な史料が出ないことから考慮するのは意味無いし
面倒だ、だったら時代が近い方で恣意性を排除するために取り合えず太閤検地のデータを使おうというこ
とになった。
まあ半年以上前の話だと思うが。
>>249 あと、欠陥の是正をすると織田領や反織田勢力の石高が
増えることはまずないが 武田は減る可能性も示唆されて
いたぞ。
>>246 検地というものについてもっと調べてみたら、
実際の取れ高でないのは当然として
寛永検地だって実高か怪しいものだぞ。
だいたいもっと後の時代と比較して寛永の方が
石高高い国とかどういうことだよ。
まあそれでも全体としてみれば実高に近いものだろうし
他に史料が無いから、どうしようも無いけど。
>>252 一部の武田厨?が主張していた信玄が甲斐の石高を
3倍にしたという話?
>>249 つまり、太閤検地よりも寛永検地の方が武田派には都合がいいから無茶苦茶な
イチャモンつけてるってだけだろ。
>>254 3倍説はNHKの「その時〜」で堺屋太一が言ってたことらしい。
>>254 あれはソースがNHKで信頼性無しで終わったはずじゃ
>>252 確か畿内は太閤寛永実高でほとんど変化無いから、開発の余地がほとんど無かったため、
信玄上洛時も太閤検地の石高とほとんど変化ないだろう、
それに対し越前や信濃は時代ごとに大きく変化しているため、開発の余地があり、
信玄上洛時から太閤検地が行われるまでにも開発で石高が増えた可能性がある、
だから信玄上洛時はもっと石高が少なかったに違いない。
織田と武田は実際には太閤検地よる石高以上に差が開いていたにも関わらず、
織田をあれだけ苦しめたのだから信玄は偉大だ。信長とは土地の差が大きすぎる。
と主張していた人のことか。
>>255 2スレに1回は出てくるよなこういう人、237の一文もテンプレに入れるか?
土地の差が大きすぎるって、そもそもどうしてそんなに差が生じたかというと。
そもそも、信長が元亀年間に苦闘したのは信玄とはまったく無関係だろう。
浅井の離反や本願寺の決起が信玄の謀略の成果だとか言うのならともかく。
まあ、武田200万石織田150万石、武田のほうがつえーよ!
とか言ってる末期的な武田厨よりはマシだな。
武田の石高を高く設定すればするほど、武田は国力あんのに、
史実じゃ弱いなとか、何で天下取れないんだよってことになってしまうからな。
257の言う武田厨のほうが遥かに信玄を評価してる。
>史実じゃ弱いなとか
その弱い武田にびびってた奴もいるくらいだしなw
>>261 何度も言われてることだが、信玄相手に無駄な時間を使うことを恐れたんだろ。
1573年正月岐阜動かなかったことも、例年通り、冬を岐阜で過ごしてるだけで
別に武田を恐れて動けなかったわけではないと強弁することも可能ではあるが
なんかどうしても太閤検地の使用を主張してる人達を悪意ある人間に仕立てたい
人がいるみたいだなw
援軍3千で篭城指令を出して時間稼ぎを狙ってるし、
状況を考えれば包囲網の核は武田だし脅威ではあったろうな。
>>265 こいつらのことか
>>234>>246>>249 文句言うのではなく、より実態に近い石高をソース付きでだせばいいものを、
そうすればほとんどの住人がそれを採用するだろうに。
あくまで太閤検地は仕方なく使ってるんだから。
>>266 >篭城指令を出して
『信長公記』にはそんな命令は載ってないけどな。
>>239 >>永禄三年に府内の町の直轄化を宣言し、町人に対して五年間、
>>諸役地子の免除をした事があるが、それと勘違いしてるか?
>
>史料は何をもとに???
新潟県史の資料編にも収録されとりま。
二俣を囲まれたため援軍を出したが、浜松に着いた時には既に城は落ちていて、
武田軍は堀江城に攻めかかろうとしていた、そして武田軍が浜松に迫ったため、
徳川軍は城を出て戦った。
もともとは二俣を解囲するための後詰軍?
石高に関する話題のときは
口調が画一的な織田厨+煽り屋織田厨しか居ないw
>>249>>257 太閤の領地は故織田の旧領だしな‥
太閤検地を採用すれば、実質差出の外様と違って石高が高めに見積もられるから
当然、織田家が過大に評価される事になるね。
>>274 で、具体的に数値で表すとどうなるの?
結局251の言うように
>差出しの国 : 実際にはどの国のどの土地が差し出し検地なのか?
>寺社領 : 寺社領の石高は?・それぞれの寺社が元亀時に織田反織田中立か?
>蔵入地 : どの国のどの土地が蔵入か? ・また蔵入地とそれ以外の土地の石高は?
>新田開発 : 実際にはどの国でどれだけ新田が作られたか?
これらを解決できないことには話が進まない。
寛永史料を準拠にすればいいよ。
あちらのほうが正確だし。
まぁ、織田厨は嫌がるだろうけどなw
だね、安定統治に入った寛永史料の方が正確でしょ。
嫌なら、どこそこの国はこんなに新田開発しているから
実状と合わない、という史料を出して問題解決しないとね。
太閤検地の欠点
>寺社領を含まない国が多々ある。
>差出:明らかにおかしい国は無いが、立場によって差異が認められる。
だったら明治の実高使ったほうが正確だぞ
正確性では太閤<寛永<明治だろうけど
明治は論外として寛永だと半世紀もずれることになる
実情にそぐわないと思うぞ
それだったらまだ太閤をベースに寺社領や差出を修正したほうがマシだと思うぞ
>>277 毛利などは狭くなった領地を立派に見せようと
恐ろしいまでの水増しをしてるようですが・・・・
山代だっけ?
>>285 毛利領は
太閤検地の石高では実高と比べて低い石高と推定されている、直接的な根拠は無いが。
江戸時代における幕府による公認石高は検地高と比べて大分低い石高。これは直接的な
史料がある。
寛永検地をはじめとする江戸時代の検地では、財政難・税率の低減などの目的からから
実高より検地での石高のほうが高い石高となっていると推定されている。
検地による石高の増加高は史料としてあるが、実際の収穫高は不明なのでこれも推測だろうが。
また普通は田畑などが検地の対象となるのだが、毛利は庭の柿の木にまで税を掛けるなど、
他藩と比べて特殊な検地税制となっている、と言われている。
>>286 毛利領は、太閤検地と寛永検地の間でほとんど差が無いぞ?
どちらとも、実高よりかなり低い。
寛永検地を支持してる人の理由が実高に近いから
そら実高に近いだろうが、1640年代後半の実情に近いのであって
1570年に近い数字じゃないというのが理解できてないらすぃ
戦国時代まっただなかと、鎖国の完成後じゃあな。
現在と五十年を比べれば、国情が全く異なるし、
五十年前と百年前、百年前と百五十年前もまたしかり。
近代よりも中世の方が変化のペースは緩やかだろうが、
半世紀以上の間は大きいと思う。
>>286 寛永検地じゃなくて、毛利が独自にやった国内の検地じゃね?
山代みたいに数年ごとの検地で元の石高から2倍にそして5倍にみたいに石高が増えてるのは。
むしろ寺社領を含んでいるから寛永検地はまずいと思うのだが・・・
すべての寺社がその国の支配者に従って軍役に応じるというならともかく
>>291 それもそうだな。
だったら畿内の諸勢力から寺社領分引くか?地方はそのままの石高使って。
ああ、それいいね。
寺社領分引いて、その分の石高はできれば明記。
で、各々の自社どう動くかわからないから考慮はしないこととする、みたいな注釈書いておけばいいかと。
一つ一つの寺の動向が全てわかるならともかく、
すべてが一元的に動くわけでもなく、そこまで考えるのはなあ
>>292 その手段はいいんだが、なんで畿内だけ?
武田派の主張によれば「信濃は寺社領が多いから太閤検地はアテに出来ない」
のではなかったか?
>>292 太閤検地の石高から寺社領分を引くと言う意味か。寺社領が入ってない地方の国などはそのままの石高で。
時代が近い分その方が正確かな。
>>294 畿内の寺社領は太閤検地でもある程度検地できてるからじゃね
この寺社領に関する流れ、昔見たような気がする
>>292 >>293 織田に敵対している寺社はあるていど分かるだろうが、というかそもそも敵対してる寺社はテンプレに
入っているから既に引かれてるかw
また織田に完全に味方してる寺社は畿内や近江の寺社領が太閤検地に含まれているなら太閤検地
の結果をそのまま使ってを問題無いだろう。まあそれ以前にそんな寺社があるか分からんが。大和は
別として。
で中立の寺社分は太閤検地の石高から引かないといけないんだけどそれをどうやって求めよう?
>>298 >で中立の寺社分は太閤検地の石高から引かないといけないんだけどそれをどうやって求めよう?
そんなの無理。
だから太閤検地の石高をそのまま使うになったんだろう。
多聞院日記やなんかの寺社関係の史料見ればわかるが
寺社が織田に協力したのか、檀那や寄子が加担したのか非常に曖昧
それは武田にも言える
つか大きな寺社の所領は全国に散らばってるのだが
甲斐・信濃にだって延暦寺や高野山の所領あったのだし
それを引くというが、到底出来るものではない
それこそ全国歩き回って、調べまわるしかない
そもそも、太閤検地ってのは徴税と徴兵の動向を調べるためのものだろう?
つまり、当時の武家政権が掌握している領域なわけで。
それを考えると、武田であれどこであれ、太閤検地より低くなることはあっても
高くなることは無いと思うんだが。
そりゃまあ、一応統一政権である秀吉に検地できないような土地を
一地方政権が軍役とかを課せれるとは思えんな。
>>301-302 前に全く同じ弁明を見たなw
秀吉の政策で寺社領を対象に含んでいないだけであって
武田であれどこであれ、実際は寺社も検地してるっての。
>>303 寺社領含んでないならますます正確な値に近づくジャン
取り合えず越前と信濃の寺社領からどれだけ動員できたか
近江伊勢美濃尾張で動員できなかった寺社はどれだけかについて話し合ってみたら。
朝倉も寺社から徴税してるね。
信濃は寺社領検地してるから、残念。。
>>309 太閤検地を基準にして修正するという意味だろうけど、
それだと、太閤検地が近江伊勢美濃尾張の寺社はすべて把握していて、越前と信濃の寺社領は
すべて把握してないを前提としていることになる
でもまあ基本的にそんなやり方がベターかなとは思う
>>309 そうだな、近江伊勢美濃尾張の寺社領は大抵太閤検地に含まれているから
動員できなかった寺社を太閤検地から引き
甲斐、信濃、上野、駿河で徴税もしくは動員できた寺社領を
太閤検地に加えればやっと公平になるね。
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/10(水) 12:03:34
>>311 >寺社領検地してるから
だったらそこから早く検地高もってこいよ、こんな無意味な争い延々と続ける必要がなくなるから
315 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/10(水) 12:07:04
>>313 寺社にたいして年貢はともかく、徴税の権利は公職についてるなら持っているのでは?
軍役は別だろうけど。
守護とかなら領国一帯に対する徴税権があったかな〜
でもそれってかなり不安定なものだろ、力が無ければ取立てなんてできないし、下手したら一揆だ。
>>314 >恵林寺検地帳
残念ながら検地しているのは事実、否定材料持って来いよ
こんな無意味な争い延々と続ける必要がなくなるから
越前の平泉寺とかかなりの勢力だけど、最終的に軍役に応じてないしな〜
>>317 だから検地してるのは分かってるから、早くそこから太閤検地の基準に合わせて所領がどれくらいになるか調べてきなよ。
そうしないと武田の石高が増やせないだろ。
321 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/10(水) 12:19:00
>>317 脳内の敵を求めて一人で無意味な争いを延々と続けてください
あげるな下げろ、ついでに煽るな、
この手の連中はすぐに荒らしに走るから。
>>320 寛永検地から太閤検地を差し引いて、信濃の寺社領は10万石くらい。
武田派対武田派の珍しい戦いが起こってるみたいですね
>>323 おいおい、釣りか?
今までの議論をすべて無視した発言だな。
>>317 頑張って調べてくれ、検地帳の存在は知っていても詳しい内容は
どうせ図書館とか行かないと分からないだろうから、何日かかかるだろう。
暇人か社会人かは分からないが、今月中にまで調べてくれれば自分は
それでいいから。
できればこのスレに書きこんで欲しいけど無理は言わん、一度でもそのような
ことを調べたことがある人間なら、面倒くさいというのは分かってるから。
ましてや忙しい人間ならな。
大人な意見だ、社会人なら今は昼休みか・・・
>>325 釣りと言うなら、理由を書いてくれよw
太閤検地で寺社領の多くが検地対象外なのは否定しないだろ?
ならば、武田の領国で検地を免除された寺社を挙げてくれればいい
そうすれば、大よその目安が出る。
325では無いが
>>327 >寛永検地から太閤検地を差し引いて、信濃の寺社領は10万石くらい。
これじゃ何とも胃炎、これが釣りで無いなら、まず何故その計算式で
信濃の寺社領は10万石くらいとなるのか説明求む。
327では無いかもしれないが
>>328 寛永検地から太閤検地の差し引きが14万石
太閤検地で寺社領の多くが検地対象外という事実と
開発等での増分を脳内判断で案配して10万石。
的確ではないかもしれんが、大きな間違いは無いだろ?
あと、返事は早めでお願い
珍しく外に出なきゃいけない仕事を言い付けられたからw
>>329 >開発等での増分を脳内判断
これだと根拠が乏しい恣意性が混入する
332 :
331:2005/08/10(水) 12:57:29
とりあえず329見て即座にレスした時間無いというから簡潔に。
まあこのレスを彼が見るのは夜中かもしれんがw
>>331 >根拠が乏しい恣意性が混入。
じゃあ、開発等での増分を出してくれ。引くから
それは無理として、大規模開発の無い信濃が他国と比較して
高い増え方をしているのだから、当然特殊事情でしょ。
恣意性では5万も6万もずれない、否定したいだけに思える。
ところで恵林寺って信濃にも所領持ってるの?それとも甲斐だけ?
ついでに太閤検地で恵林寺は検地してないの?そして寛永検地では検地してるの?
>>333 いや明らかに323だけじゃ釣りか何かと思うだろ。
>寛永検地から太閤検地を差し引いて、信濃の寺社領は10万石くらい。
これは釣りと思われても仕方が無いだろ、今まで200ぐらいから正確な数値を史料付きで
そしてできるだけ、恣意性を排除し脳内ソースを除外していこうという流れで、
311が信濃は寺社領検地してるから、それをソースに信濃の寺社領を決定しようと言うときに
一行レスで理由は全く無し。これでは釣りかアホと思われるのは当然。
最初に323が329のような根拠を示していればもう少し違った反応があったかもしれないが。
>>329 脳内判断を認めてる時点で駄目駄目な気がする
>>335 確かに323だけじゃ何これ?と思うわな、文面通り捉えると、54-40で数値合わないし・・・
って思うし。
それに寛永と太閤とじゃ反が異なってるし、検地の対象となる物も増えてるから単純に
マイナスするとかじゃおかしくなるはずなんだよな。
338 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/10(水) 13:47:48
てゆーかいちいち反応するなよお前らそれくらいスルーしろ!
で何の話だっけ?
各国の寺社領の正確な値と敵味方中立のどれかって話し
>>339 でもそれ無理だろ、だったら多少想像を入れて信濃の寺社領を10万石くらいとしても
俺は問題無いと思うな。
>>337 確かに単純な差し引きだけだと、多少誤差がでるかぁ‥
まあでも、太閤検地みたく所領主の立場によって基準が違っているよりは
全体と比較する分に正確だと思うけど。
>検地の対象となる物も増えてるから
太閤検地の時点で、田畑以外にも検地対象が増えてるから
太閤−寛永間で増えているとしても些細でしょ。
>>341 寛永だって尾張や飛騨は怪しいものだが・・・
>>303 >秀吉の政策で寺社領を対象に含んでいないだけであって
>武田であれどこであれ、実際は寺社も検地してるっての。
これは嘘だろう、1行目も2行目も
越前の検地も怪しいな、
例の石高のページで見たところ、
寛永と実高がほぼ同じで太閤はその2者を大きく下回るというパターンは
越前と安房だけじゃないか?
あと新田開発ってそんな影響あったのか?
越後の石高は太閤390,770 と寛永406,000でほとんど差が無い、もっとも実高は1,150,507だが。
また陸奥も太閤1,672,358 寛永1,729,000、5〜6万石しか差が無い、
これだけじゃ江戸初期の仙台藩の新田開発だけで上回りかねない、ちなみに実高は2,933,974だが。
つまり江戸初期の新田開発ブームとやらは捏造か寛永検地は信用できないかのどっちかではないか?
恵林寺領検地帳って信玄が寺領安堵の前提として1560年ぐらいに検地したやつだよ、
それじゃ信玄の統制が恵林寺領には完全には及ばないという傍証になるだけじゃないの。
話戻して悪いけど
>太閤検地で寺社領の多くが検地対象外という事実
すまんけど、畿内の寺社(延暦寺も含めて)の所領も、甲信の寺社も(家康の関東転封後)全て検地されてます
なんでそんなバレる嘘書くのか?
むしろ家康のほうが寺社を安堵していると思うが
秀吉は寺社領没収しまくりだし
>>346 畿内の寺社は含まれている、と書いてるよ
>甲信の寺社も(家康の関東転封後)全て検地されてます
太閤検地の検地高に甲信の寺社が全て載ってるってこと?
もしそうなら、それはありえない。
>>348 信濃は知らんが三河や甲斐は載っていたと思うが。
ちなみに越前は最終段階の検地では確実に載っているだろうが、それまでは知らん。
まあ中には除地も多少あることは確実だが、それは寛永も一緒。
350 :
349:2005/08/10(水) 20:26:46
全てではなく大部分と言う意味ね、何事にも例外はあるからw
>>349 でもそれだと越前は68万石だよ、98年の検地という意味なら
ただこれは過剰計上の可能性が高いらしいが。
信長だって差出だけど寺社領に対して検地を求めているのに、何で秀吉は寺社領は免除なんてしたというんだ?
結局IDが無いせいか話がエンドレスループにはまりこむな。
で、太閤検地に文句を付ける論拠は、毎度「寺社領が含まれてない」
寺社領とやらをいじくって何万石増やす気か知らないが、
その寺社領が動員に応じない(=検地に応じない)のであれば
兵力に反映しない事に変わりないんじゃないのかねえ。
信長に敵対してる寺社は既に計上してるんだからもうそれで十分じゃないの
>>353 それを言ってしまえば寺社領が含まてる織田領は大幅減が必要だな
それでなくても寺社勢力とは犬猿で元亀年間には焼き討ちしまくりだし。
>>354 計上してないだろ、計上してたら近江70%とかありえん
>>356 当然計上してる罠、近江は北部南部とも敵対勢力が割拠してるのだから
50%前後なのは妥当。
あ‥してないのかw 間違えた‥
>>357 50%前後であるのは同意だけどテンプレでは70%になってるぞ
過去の遺物というか、お呪いの魔除けみたいなもんじゃないか?
>>355 焼き討ちしまくりの結果寺社領奪ってるんだが
それにこの時期近江で敵対してるのは百済寺ぐらいなんだが
ただ中立というか積極的には敵対しない寺社と寺社領はいくつもあっただろうけど。
それ以前に当時の織田領にそれなりの勢力の寺社領があったか?
とりあえず寛永の史料でも検討してみたら?
信玄厨はそれで納得するんじゃない?
>>362 旧織田領には太閤検地で寺社が含まれてる国が多い
越前や旧武田領は含まれてない国が多い。
だから、信長が全ての寺社に軍役、賦役を課して、信玄がその真逆でもない限り
織田領の石高が過大評価される、ってことなんだが。
>>364 基本的なことを聞くけど、越前や旧武田領は寺社領が含まれていない、とする根拠というかソースは?
>>364 それは362へのレスになっていないだろ
旧織田領にどれだけ寺社領があったと言う答えになってない。
それに越前は太閤検地で寺社を含んでいるし、まあ勝家の段階で検地してるが。
それに信濃は知らんが上野と甲斐、それに駿河は寺社領含んでいるだろ。
諏訪神軍
>>368 諏訪や筒井は寺社勢力になるのだろうか?
>>369 確かに寺社と関わり深いけど武士化してるだろ
土着の有力者が武士と地元寺社の要職を兼ねてる例は多いね。
そもそも寺社も武装してたし、どっから武士って線引きはまだないだろう
織田も元々は神社系みたいだし
まあ、どんな神社仏閣でも、
禁制をもらわないと、雑兵の乱暴狼藉に遭ったり
するわけだし弾圧を避けて保護してもらう代わりに
何処でも税とか役を払ってるんじゃないの?
本願寺も信長が上洛する前から、権力者に
付いて戦ってなかった?
熱田神宮の宮司は織田家に従軍してたよな
本願寺は細川についたり三好についたりして、戦っていた。
>>374 >どんな神社仏閣でも
十分な力持った寺社はそんな必要ないだろ。
>>376 それは比叡山や石山など極少数の一部の大寺院のみだ。
高野山や興福寺もそうだろう
対する大名が弱ければもっと小さな寺社でも独立保てるし。
逆に信長クラスが相手だとどの寺社も最終的に屈服させられたが。
>>374 寺社は大名から所領を安堵してもらう代わりに、祭祀を、つまり神事・祈祷という諸役を担うようになる
これは北条家所領役帳でも見られるね
神社と違い寺院は宗派が数多く存在し、このスレで言えば武田なんかはそうだが
新しく占領した地域の寺院の宗派を、自勢力の推してる宗派に改宗させ、寺領もまた新たに定めていた
これは自勢力圏内における宗教統制であり、これは多くの戦国大名が行っていた
例として挙げるなら、信濃の雲龍寺
信玄が信濃に侵攻し、雲龍寺もその勢力下に置かれると曹洞宗天真派から曹洞宗太源派に改められる
その後、永禄十年には箕輪の長純寺を雲龍寺の統制下に置き、勝頼の代には慈寿寺・長純寺の寺領を
雲龍寺の寺領としている
しかし、武田滅亡と共に、雲龍寺の僧籍としての立場・権威は崩壊し、最初に佐久に入った滝川一益に所領安堵を求め
168貫の所領を安堵している
しかし、滝川一益が関東を追われると、北条氏政に対して安堵を求め、武田時代の所領を安堵しようという約束を
取り付けている(結局、空手形に終わった)
このように、当時の寺社は、在地の勢力の庇護を求め、所領を安堵して貰ってる
占領地なら尚更ね
これは畿内の信長にも言える
特に畿内は押領された寺社領が多く存在し、その多くを寺社は諦めていたが
強力な支配者の登場によって、その失われた所領の返還を求めてる
この為、信長は寺社の所領を一旦は全て召し上げ、朱印状によって再封するという形式を取り
織田家の権力強化に繋げてる
これを専門用語で朱印地制度といいまふ
戦国期に在地勢力と武力闘争したなんてのは、本願寺ぐらいなもんだ
比叡山でさえ武力抵抗はしなかった、いや出来なかったと言うべきかな
>>379 >戦国期に在地勢力と武力闘争したなんてのは、本願寺ぐらいなもんだ
大和は?
>>362 西明寺・金剛輪寺・百済寺・敏満寺などなど・・・
>>366 太閤検地の検地高に、越前、上野、甲斐、駿河の寺社領も含めている?
本当にそうなら、寺社領を載せられている大名、挙げてみてくれ。
>まあ勝家の段階で検地してるが。
それはそうだろw それと、太閤検地で含まないのを一緒にされてもね。
そもそもどっからどこまでを寺社に含める?
例えば、安国寺エケイとかはどうよ?
百済寺は1573年に焼かれるがテンプレに入ってるんじゃ
西明寺は1571年に丹羽川尻の焼討に遭ったが本堂などは無事
金剛輪寺も同じく1571年織田の焼討に遭ったが本堂などは無事
(僧侶が一部の堂舎に火を放ち山が燃えたように見せかけただけかは不明だが)
敏満寺は浅井長政に焼かれた上、1571年または72年に信長に寺領を奪われた上焼かれたはずでは
>>383 それはただの僧侶だろ、彼の知行地が別に寺社領だったわけじゃないだろ
詳しくは知らないけどさ
>>382 寺社領を載せられている大名ってどういう意味?
寺社領は寺社のものじゃないの?
>>384 ほとんど73年正月には消滅してるじゃんか
比叡山を焼き討ち(様々な異説もあるが)したときに、近江の山門領は没収したそうだし。
自演勢力は猛々しいようですね
みんな一緒だったのか・・
多分俺を含めて9割は適当に本とか読んで知った気になってる香具師だろう
>>382 >>386 太閤検地の時の寺社領って免祖地のこと、それとも検地を受けて武士の知行地となった部分?
今月中に20スレぐらいから27スレの概要を作ろう
397 :
374:2005/08/12(金) 12:59:56
>>379 勉強になりますた。
ところでみなさん、信長はどの程度まで
信玄の死期が近いことを知ってたと思います?
信長が東濃で仕掛けるギリギリまでは信玄と
交渉したりしたと思いますが、そのとき直接
外交僧や家臣が信玄と会ったりしたと思われ。
その後の行動からかなり的確に解ってたと思えるけれど。
死期が近い事なんか分からなかっただろう。
ただ、畿内で手いっぱいで手が回らなかっただけ。
だからこそ、もし信玄があの時期に死なず遠征が続いていたらという
興味はつきないわけで…
400 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 19:25:02
加納瑞天がいるから勿論知っていたよ。正確に。
板部岡ちゃんが信廉に騙されたぐらいだから、
本人は使者ごときに遭わないのでは。
伊勢は伊勢神宮は検地できてないだろ、もっとも信長も軍役を課すことはできないので、数値に
影響は無いだろうが。
ここまで読んだ。
寛永と太閤検地での差が寺社領分だなんて何の根拠も無いのに、
よくもまあ、それを事実かの様に話せるもんだな。
>>398 テンプレ読んだ?当時の畿内の状況の説明。
テンプレは継続審議w
>>403 なるほど、じゃあ何故信濃の石高は20年で14万石も増えたのか?
太閤検地じゃ寺社領除外の指示を見かけるが‥
>>405 >太閤検地じゃ寺社領除外の指示を見かけるが‥
とりあえずこの部分のソースを
>>405 質問
>何故信濃の石高は20年で14万石も増えたのか?
太閤検地から寛永検地まで40年近くあるけど、この20年って何?
>>405 信濃は詳しく知らんが、越前は数値だけ増やした可能性が高いよ、
年貢はさほど増えてないことから
>>405 何故越前と信濃の石高が急に増えたかは明確な答えはこのスレ含めてまだ出てないよ。
誰かが急激な増加分は寺社領に違いないと言い出して、きっと太閤検地では寺社領は検地できなかったに
違いないと言い出し、畿内及び旧織田領は寺社領も検地したに違いないと言い出し、武田や朝倉は寺社に
税を掛けてるから実質石高に加えてもいいに違いないと言い出し、そのすべてが憶測でソースが無いから保
留とされた。
が、そんなのおかしいと非難殺到、スレが荒れるのでテンプレに議論中と入るようになる。
がこの時点で何故か増加分はいつのまにか寺社領と既成事実化され、寺社領を兵力に加えるかに議論が
すり変わる。
というわけで本来は増加分が寺社領だというならまずはそれを証明しなけりゃいけないのだが。
まあ嘘だと思うなら22スレぐらいから読み返してくれ基本的にこんな流れだったはずだから。
>>408 そりゃ越前は200年たっても慶長検地と石高変わらないからな。
朝倉時代から太閤検地までで、ほとんどの寺社が滅亡したり所領を没収されているんだから、
朝倉時代の寺社領は秀吉時代には寺社領じゃ無くなっているんだから、当然検地してるはず。
という考え方もできると思うが。
検地するしないじゃなくて、それを検地高に入れるかどうかってことじゃないのか?
実際に動員をかけられる範囲がどの程度かって事でしょ
侍衆御太刀之次第って軍役の記載あったっけ?
>>415 その名の通りの、上洛から帰って来た謙信に太刀送った武将の名簿だろ?
さりげなく真田幸綱なども名を連ねていてなw
疑問に思うんだが兵数は人口に影響されることはないのか?
大抵石高で人口も推測できるのよ。
>>419 そうか?
米沢と山城の石高を比較したら
米沢の方が圧倒的に上だが山城より人口が多いとも思えない
山城は国名だけど米沢は地名だから、どうにも比べようがないと思うが。
武蔵の国なら江戸時代には石高から推測される人口に
江戸の人口100万が追加されるなw
石高でその国の人口が分る、という主張は交易とかの概念が抜けてるからな、
だから大概無理のある主張、これが適応されるのは日本とか単位であって、
一国・一地方単位では当て嵌まらない。
堺や京であっても当時は人口10万に満たないはずじゃ
余程例外の都市で無い限り石高でおおよそ人口は分かるはずじゃないか?
江戸時代の記録見てわかるように推測可能だろう。
そもそも屋敷だって検地の対象で石高になるんだし。
427 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/13(土) 16:21:45
まあ江戸時代には各地方で人口を調べてるから、比較してみると面白いよ。
乳幼児は計算に入れてないけどね。
農民の屋敷は検地で石高に入るけど
町人はどうだったっけ?地子は払うけど
石高には入らないんじゃね?
>>426 京都や大阪の人口は30万以上居たはずだけど。
>>428 たしか織田政権下では町民は税制でも優遇されていて、
信長は積極的に都市人口を増やす政策を取ってた。
けどそのせいで農村部の人口が都市部に流入しすぎて、
秀吉が、もう都市にはいってくんじゃんねえ、とか言ったりしてる。
>>431 農民を農地へ帰るように勧めることは信長も岐阜でやっていたと思うが。
結局、都市人口だって、周囲からの農業生産がなければ養えないわけで。
>>433 都市部の生活必需品は外部から購入するとかあるだろ、
周囲からの農業生産だけで養うなんて事は無い、
巨大な消費があるから都市は発展するんだから。
というか都市人口考慮したら、武田がますます弱体化しないか?
商業や人口なんざ入れたら、武田と織田の差は倍以上もある。
しかし商業や人口を考慮しないと実際の状況は見えてこない気ガス。
そしてソースもなしに信長厨が勝手に脳内妄想するのですねw
客観的なデータがないから難しいよな。
でも交易やら人口やらを考慮したら
織田と武田に差がでるのはまちがいなさそうだ。
織田の敵は武田だけではなかろうに・・・
武田の敵も織田だけではなかろうに・・・
敵の数は織田の方が多かろうに・・・
このスレを見ると、国力厨が多いことが分かる。
確かに国力は重要な要素だが、絶対ではなかろう。
国力が明らかに劣る国が国力が勝る国に勝つこともある。
信玄と信長が対峙して決戦となったとき、その勝者を考えれば
信玄が上洛できたかなんてのはすぐ分かるであろう。
国力マンセー!
織田の国力は世界一ぃぃーーー!!!
>>425 戦国時代にそんな遠くまで交易できんだろう。
織田の敵は武田の敵
武田の敵は織田の敵
>>434 町民の税負担は農民に比べてずっと少ない。
逆に言えば農民がいなきゃ大名は飯が食えない。
自領内で農民が農村を逃げ出せばそりゃ困るわけだ。
>>445 交易は既に全国ネットだよ。
しかしまあ、武士の稼ぎになる範囲は限られてくる。
都市を直接支配する大名やトップクラスの武将ならともかく、
その他大勢の武士は農村が所領そのものであって、
農民の人口移動は動員力の低下にも直結するしね。
都市は銭の収奪には役立っても、兵糧、兵士の補給には、ほぼ何の役もしないだろ。
有力な商人がいる都市なら、大規模な取引が必要な時は役に立つよ。
だからどこの大名も豪商に保護を与えたじゃない。
>>447 >町民の税負担は農民に比べてずっと少ない。
>逆に言えば農民がいなきゃ大名は飯が食えない。
>自領内で農民が農村を逃げ出せばそりゃ困るわけだ。
これが
>>433にどう掛かるんだ?
農民が逃げ出して大名が困る事と、都市人口を養う生活必需品の調達方法を
交易や売買に頼る事とは関係ないが?
452 :
451:2005/08/14(日) 16:22:32
>>453 あのな。って431書いたの俺だし。
あれは都市部に人口が流入し過ぎれば、農村部の過疎という大名のデメリットが発生するって話だ、
別に都市部の人口が周囲の農業生産だけに依存するって話じゃない。
交易に関しては武田でも、塩を今川に止められて困った、
上杉領の商人が武田に塩を売った、とかいう話もある位だし、
周囲(この定義も曖昧だけど)からの供給だけでは無いのは事実じゃないかな。
434 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2005/08/13(土) 19:47:44
>>433 都市部の生活必需品は外部から購入するとかあるだろ、
周囲からの農業生産だけで養うなんて事は無い、
巨大な消費があるから都市は発展するんだから。
447 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 2005/08/14(日) 14:28:31
>>434 町民の税負担は農民に比べてずっと少ない。
逆に言えば農民がいなきゃ大名は飯が食えない。
自領内で農民が農村を逃げ出せばそりゃ困るわけだ。
普通の話だろ。
>>443 確かに国力は重要な要素だが、絶対ではなかろう。
国力が明らかに劣る国が国力が勝る国に勝つこともある。
少数の軍隊が大軍を破る例だって多々ある、しかし(ry
つか国力は経済力だけでなくて軍事力も含めた総合的なものだろ
武将の能力だって重要だろ。
軍事力を支えるのは経済力だから結局国力とは経済力の話だろ。
実際に戦場で戦うとき兵力が同じだったら、または織田のほうが兵が多かったら、
実績から考えて信玄に勝ち目はないだろ
信玄だったら、織田が十分な数の援軍をだすことをためらうような地域で軍事行動を起こすぐらいじゃないか
信長だったら、織田が十分な数の援軍をだすことが不可能な時間内で軍事行動を
起こされるぐらいか
>>460 経済力がない国でも強い軍隊を持ってる国だってあるぞ。
>>464 経済力に見合わない軍を持っているという意味か?
>>464 それは「政治能力がない」ってことですか?
単純に比較はできないが現代においても軍事費1位アメリカ2位ロシア3位中国(アメリカ発表)
だけどアメリカ以外は経済力がともなわなくても高い軍事費をだしてる
ロシアは石油事業や軍需産業で高い経済力持ってますが?
中国も軍事費は正確なのはわからず、経済力も高いですが何か?
そもそも通貨価値の差を考慮しない軍事費で言われてもな
軍事費ランキングでは
1位アメリカ 2位中国 3位日本 4位フランス 5位イギリス
軍事費だけ比べてもしょうがないだろ。
日本は国産兵器に量産効果が働かないからとにかく高い。
アメリカは値段に見合った高性能の兵器を揃えてる。
中国も兵器を揃えつつあるが、やはり人数が多いのが一番の理由では?
「ミリタリーバランス」で03年の各国軍事費支出は
米404920百万ドル、露65200百万ドル、中55948百万ドル、日42835百万ドル
>ロシアは石油事業や軍需産業で高い経済力持ってますが?
ロシアは98年金融危機でも国別軍事費2位。近年は原油高騰で好調だが
高い経済力は持ってない。
>中国も軍事費は正確なのはわからず
ちなみに米国防総省の発表では約10兆円程度の軍事費だそうだ。
人件費・維持費がべらぼうにかかりそうだものな >中国
ただやはり、経済力・技術力など社会の裏打ちがないと強い軍隊は維持できない。
ただし強い軍隊だからと言っていつも勝てるとは限らない、
しかし確固たる国力を持つなら、挽回の可能性はあるが、
国力に対して無理をしていると一回敗れればあとはない。
そう言う意味で国力を語るのは無駄ではない
>>472 ローマ、秦
古代の超大国は、どちらも超重農軽商主義ですが?
技術力は高いに越した事はないが、経済力は強い軍隊と一切何の関係も無いな。
>国力に対して無理をしていると一回敗れればあとはない。
意味不明、軍隊と食料、兵器があれば戦えるし‥
衰退期のローマ、宋がどうなったか見れば、経済力なんぞ語っても無駄。
474 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/15(月) 15:04:36
ローマが商業軽視?んなアホな・・・・
ついでに農業だろうが商業だろうがそれは産業であり「経済力」でっせ。
>意味不明、軍隊と食料、兵器があれば戦えるし‥
>衰退期のローマ、宋がどうなったか見れば、経済力なんぞ語っても無駄。
一般的な感覚では経済力がなければ十分な食料も兵器も揃わないのでは。
>ついでに農業だろうが商業だろうがそれは産業であり「経済力」でっせ。
>一般的な感覚では経済力がなければ十分な食料も兵器も揃わないのでは。
戦国時代もローマも現代の存在じゃないしw
食料も兵器も自国内で生産するしかない罠。
それとも、商業収益で得た金で明やオリエントから食料、兵器を購入するのかな?
兵庫北関入船納帳など見ると、米って非常に大量に流通してるんだよね。
そりゃ畿内にゃ都市も多く消費が多いからなんだけど。
ぶっちゃけた話、石高だけでいったら雑賀衆なんて全然大した事無いけど
本願寺とつるんで信長をあれだけ苦しめたのは、貿易をやっていて金があったから。
金があれば食料は買える時代だね。
478 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/15(月) 15:24:05
だから農業は産業であり経済力だろw
農業はどちらかといえば生産力だろw
>>480 一度、辞書で「経済」を調べてみたほうが良い。
鉄砲や火薬なんてポルトガルから輸入してたし、
兵器・食料が国内でしか作られないというは無理がある。
>>482 輸入するためには金が必要なんだが。その金を得る手段は?
戦力の維持にとって経済力が極めて重要になるのは、
兵器の制度が極めて高度にそして高価になって、
金がなければ買えない、そしてなければ戦争にならないという状況になってから。
それ以前は重要ではあってもそれほど際立った絶対的なものではない。
例えばローマは経済力で遥かに自身を超えていたカルタゴに勝利し占領したし、
逆にとてつもない経済力を誇っていた時代に、
ゲルマン人の大移動の前になすすべもなく滅びた。
中国は常に経済力では比べるべくもない騎馬民族に圧迫され、時には征服された。
これは戦国時代以後の清の勃興時代でも同じことが言える。
日本においても京を押えていた平氏と東国が基盤だった源氏、
どちらの経済力が優れていたかは自明のことだ。
結局経済力は戦の優劣を語る上で重要な一つの要素であっても、
それだけが突出して重要で他に大した意味がないとまで言えるものではない。
少なくとも前近代に置ける戦争については。
もっとも、他に明確な差異がないなら、経済だけで優劣を論じても問題ないだろうし、
当時の織田家と武田家の間にそれほどの差異があったとは思えないが。
なんとなく織田は武田の2倍以上ってことにしとけばいいじゃん マンドクセェ
実際に戦場で戦うとき兵力が同じだったら、または織田のほうが兵が多かったら、
実績から考えて信長に勝ち目はないだろ
>>484 >>当時の織田家と武田家の間にそれほどの差異があったとは思えないが。
農業生産力では、差は小さいかもしれんが、
商業、工業の生産力での差は大きかった。
>>487 経済力以外のことでそれほどの差があったとは思えないってこと。
両者の間にいろいろな違いがあるなら、経済力の差はその中の一つの要素に過ぎないが、
他に大した差がないなら、経済力の差を基に優劣を判断しても特に問題はないだろうから。
経済でも小田の方が勝ってる。
それだけだ。
信玄厨にすきを作らない
明智や浅井にはこれ以上ないスキ作ってんのになw
>>491 洒落?
いや、実際高い経済力も持ちながら、
兵士の頭数そろえずに滅びた連中は結構いる。
或いは金で集めた兵に逃げられたりして、
だから、経済力だけでは軍事的な優劣は語れないってこと。
じゃあ経済の要素を無視して考えてみようか?
実績からいったら、信玄が生涯かけて得た領国規模と、信長が半生で得た領国規模。
この時点で軍事的才能の差がはっきり出ているのだが。
武田の周りを考えろよ。北条や小笠原、上杉と言った強国ばかりなんだぞ。
クマ信玄が生クマ涯クマ信長クマが半クマ生クマ
>>494 斉藤や今川が弱国とでも?
じゃあなんで武田は今川と同盟したんだ?
あぁ今川の存在忘れてた。
義龍のいる斉藤、義元のいる今川は弱国ではないな
義龍は早世だし桶狭間も信長の戦術というよりは運だしな
六角も観音寺騒動でガタガタだったし状況は恵まれてたな信長は
>>484 統治システム軍制などが全く異なる国を、そのことを考慮せず経済だけで比較してどうするんだ?
それにゲルマン人も騎馬民族もローマ中国の一部ずつを相手にしてるわけだし、日本とは事情が
異なるだろう。それにほとんど内乱に付け込む形で勝ったようなものだし。
502 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/16(火) 00:43:38
なんか武田厨、織田厨いがみ合ってばかりだな
武田・織田周辺のif妄想(スレタイとのズレは見て見ぬフリ)語るにしても、
たまには両厨仲良く語れるような展開きぼんぬ
>>500 諏訪や小笠原は有能な当主が死んで無能な当主の代になっていたから状況に
恵まれていたな信玄は。今川義元が死んでくれて今川も弱体化したし、川中島も
信玄の戦術というよりは運だしな。
これくらいのイチャモンつけならどうにでもできるのだが?
>>500 それ以前に清州岩倉倒してる。
信玄だって越後手に入れていれば、回りは雑魚だらけで一気に勢力を広げられたはず。
結局信玄が信長と比較して勢力拡大が遅いからそんな結果になっただけ。
もっとも勢力拡大の速度は他の大名と比べるなら十分早いけど。
>>503 >川中島も 信玄の戦術というよりは運だしな。
ここは違うぞ、戦術では負けだろ、戦略で最終的にある程度勝ったが。
ひょっとして謙信に殺されずにすんだことが運?
川中島とか桶狭間はなかなか語りづらい面も多いけどなぁ
507 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/16(火) 00:49:02
信長も尾張の統一と美濃を取るのには時間がかかってるわな。
しかしまあ、尾張+美濃となった時点で周囲に敵がいない状況になる。
信玄の場合、信濃の4分の3まではそれこそ10年。一気に2倍以上に膨れ上がった。
ところが上杉謙信が出てきてからが長いんだよな。
それに信濃を併呑したとしても、北条なんかと比べるとまだまだ弱い状況。
結局のところ、信長には信玄にとっての謙信みたいな存在が不在だったというのが
一番大きいのでは。
斎藤義龍が長生きしたらもうちょっとかかったかもね。
508 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/16(火) 00:50:50
>>504 清洲妥当のために織田信光を味方に引き入れて、
領地の半分を任せる約束をしていたのに
信光が急死したおかげで約束を無かった事にして
尾張の過半を丸々自分のものに出来たしな。
結構、運という要素はあると思うよ。
信光を暗殺していたとかなら別だが。
>>507 >結局のところ、信長には信玄にとっての謙信みたいな存在が不在だったというのが
>一番大きいのでは。
いたとしてもあっさり倒してしまったため歴史に残らなかっただけでは
>>500 義龍死後の斉藤家も織田とくらべて兵力は劣るものでもないし
義龍のころの家臣もまんま残ってるから弱国とはいえんのでは?
龍興はたしかにアレだが。
>>504 越後での当主交替が景虎→晴景ならそれも可能だったかもな・・
>>509 あっさり倒される奴だったらライバルになれないから違うだろw
>>511 清洲織田家の管轄は尾張の下四郡。
織田信秀はそのうちの二郡で勢力を伸ばし、それが信長の地盤でもある。
『信長公記』にはその四郡のうち二郡を任せる約束だったとある。
ところが「信長公のためとはいえ、もとの味方を裏切ったバチが当たって」
死んでしまった(なんだかなあ)
>>510 龍興がアレだから、家臣に寝返られてあぼーんだしな・・・・
美濃三人衆その他が忠誠を尽くしたくなるような武将だったら
全然違う展開だったりしてw
ライバルが居る事を誇ってどうすんだよ、
ライバルなんて存在を作ってる時点で駄目だろ、
勢力拡大には害でしかない。
>>507 だから井沢元彦先生が仰られているではないか。
北信濃の如き田舎は謙信にくれてやって美濃を目指せとな。
謙信とぶつからない→1550年代に美濃進出
→この時期の斎藤家はまだ手強いのでは?
とか
美濃進出→信長と美濃を巡って泥沼抗争→結局同じ
とか
そういう可能性に触れるのは厳禁だ。
>>510 龍興のあれは馬鹿殿ではなく、
(年齢的に)成長して、政治を家臣に任せきりだったのを止め家中を統制しようとか
織田家との戦いに備えるために家中を統制しようと、
そのため力ある家臣の権限を削り、自分の近臣を取りたてと、大名権力の強化に
努めた結果、家臣との軋轢が生じたという説もある。
>>483 交易、徴税、つーか別に大名本人が輸入しなくても良い、
何の為に商に携る人間が居ると思ってるんだ。
>>517 織田家との戦いのために有力家臣の権限を削って
その結果寝返られてんだから
やり方をもちっと考えないといかんねえ・・・・
>>513 >『信長公記』にはその四郡のうち二郡を任せる約束だったとある
はっきりいってうそ臭いなその約束(別にその記録は疑っていないが)、
いくらなんでも半分は危険だろう叔父とはいえ。信長は約束破る気満々だったんじゃね
>>519 勝頼に似てるな、改革しなきゃジリ貧だし、改革すれば家臣の心は離れていく・・・
国力的に乏しい上杉謙信が
あれほど大規模な遠征を連年できたのは、日本海交易によってだしなぁ
出雲や博多まで交易してたしね
>>520 まあ約束を破る気まんまんではあっただろうが、
抗争は長引いただろうな。
岩倉織田家+織田信光 vs 織田信長
とかなれば厄介なわけだし。
それを一気に短縮できたのはめっけもんだ。
>国力的に乏しい上杉謙信が
>あれほど大規模な遠征を連年できたのは、日本海交易によってだしなぁ
つまり豊かな国だったんじゃないの?
単に信玄が弱いから謙信がライバルになっただけじゃないの。
というのは禁句?
>>516 謙信とぶつからない→北条と史実以上にぶつかる
これ必定
有力家臣がクーデター起こしてる(安藤の稲葉山占拠)から
有力家臣の弱体化を諮るのは当然だな
>>524 豊だったのは上杉(長尾)家で、越後自体は貧しかった
>>520 >>523 それだと暗殺説の可能性が高いということになるが・・・
すると弟も暗殺してるし暗殺しまくりだな信長。
>>520 まあ信光殺害が信長の指示があったってのも
頷ける話だな。
533 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/16(火) 01:14:36
信玄もショーケンに暗殺されたしなwww
>>531 史実。
講談は竹中重治が16人でとなっとる。
>>523 >まあ約束を破る気まんまんではあっただろうが、
>抗争は長引いただろうな。
>岩倉織田家+織田信光 vs 織田信長
>とかなれば厄介なわけだし。
岩倉織田家(上四郡)+織田信光(二郡) vs 信長(二郡)
なんて勝負を信長がするわけないだろ。
まずは信光を懐柔しておいて先に岩倉織田家を潰してから
ゆっくり信光を潰すのが戦略として妥当では?
>商業の発展、特に貿易を中心に力を入れ、それまで整備されていなかった北国船による京や越前、能登、山陰地方との
>米や青楚、上布の貿易、陸路による塩の売買、産業振興のための五ヵ年の諸役地子の免除、銭の貸付、街道の整備、
>分水路の建設、堤防の建設、難民移民の大規模な受け入れ(失敗との説もあり)貪欲なまでに力を入れています。
>謙信が亡くなった際、春日山には二万八千両もの金が蓄えられていました。
>これは銭に換算すれば八万千貫、米八万〜十四万もの規模になります。
>参考までに一五九八年に秀吉が全国の大名に運上させた金が三万四千両です。
>高根金山の採掘は景勝の代になってからで、上田銀山の産出は微々たるものです。
>佐渡は領有化もされていません。
>越後は良質な砂鉄が採掘されないので山陰地方との砂鉄の貿易によって鉄を賄ってもいます。
>現在残されている刀剣、鎧等の成分に山陰地方の砂鉄が使われていた事は科学的に実証されています。
>また、当時の越後は35万石しかなく、米の収穫量も少ないものでした。米どころになったのは
>昭和30年代後半になってからです。
>国土の大半は砂地と沼であり広い国土から見ればいかに貧相な土地だったかがよく分かります。
他のスレよりの抜粋。
>>524 豊かな国じゃなくて、交易で豊かにしたみたいだね。
>>537 謙信の代になって急に交易が活発になるなんてこたないと思うが。
中世日本の海運はバリバリ全国規模だし。
織田も信秀の代から培った海運の経済的バクボーンがでかかったって小説で読んだ
>>538 思う、と言われてもね…。
貿易機構の整備をしたのは事実みたいだし。
>>538 長尾家が越後における日本海航路の交易権を独占したと思われる
というか守護代の頃から、直江津などに影響力を持ってて
謙信の時に、特売化する為、積極的に座の整備をしたのではないかと思われ
>>527 逆じゃない?
有力家臣の弱体化を謀ったからクーデターが起きたのでは、
講談だと警告するためとか言ってたりするし、史実でも城を返還して、表面上はそのままなんだから。
一種の一揆では?
五年間の諸役地子の免除というのは、
それまでの簒奪が激しすぎて住民が逃げたからじゃねえか?
信長も上京焼き討ち後に地子免除するから帰っておいで〜とやってるし、
謙信のも苦しんでるのを見かねてと書いてあったような。
いずれにしろ信長と戦いながら有力家臣と喧嘩するのは無理だったな。
外に敵がいなければ例え上手くいかなくても六角家ぐらいで済むんだろうが。
>>539 信秀が津島の経済力を背景に
のし上がったってのはよく聞く話だな。
越後はそれまで内乱がひどかったから謙信の代になってからというのもありえない話しではない
そもそも上杉の遠征って人数的にそれほど大規模だったの?
上杉家は家臣に金貸しやってたしな。
毛利家は家臣から借りてたけど。
>>542 クーデターというか稲葉山占拠の詳細は、資料の乏しさから不明だけど
時期としては永禄七年に起こしてるし、どうも稲葉や氏家の美濃南西部の
斎藤家を支える豪族が静観してるっぽいから、義龍死後3年の間に何らかの対立があったと思われる
んで結局、半年近く占拠して、仲介を得て和睦したっぽい
その間、織田と何らかのアクション(あっただろうけど)を起こした形跡ないので
一揆と言えば一揆だろうね
どっちが先かは全く不明
>>544 むしろ今川斎藤という大敵がいるのに兄弟家臣と争った信長が異常。
もっとも家康も今川と戦っているのに一向宗一族重臣と争ったし。
信虎も今川伊勢(北条)と争いながら、一族有力な国人を滅ぼしていったが。
竜造寺隆信も大友と戦いながら?国衆殺して回ったし。
伊達輝宗も相馬と戦いながらもその合間に有力家臣を滅ぼしたりしてるから
例が無いわけじゃない。
>>547 上杉家軍役帳で言うなら、戦闘員だけで8000人は連れて出征してます。
非戦闘員含めると17000〜18000人近くになるかと。
>>509 そりゃそうだ、可能性としては信長が甲斐に生まれてたらあっさり謙信を倒していた可能性もあるし、
信玄が尾張に生まれていたら、清州や岩倉斎藤六角などが終生のライバルとなっていたかも試練。
信長なら謙信ごときあっというまに滅ぼすね。
>>551 それって50万石くらいあれば可能なラインじゃない?
>>552 兄弟喧嘩の頃は道三は死んでいる。むしろ道三が死んだから、兄弟家臣が謀反を起こしたと言うべき。
無意味な仮定やめれw
信長が甲斐に生まれると親父は誰だ?w
人格形成に影響を及ぼす全ての要素が全く同じか?w
甲斐の山の中に津島の湊でも持ってきて経済力付けるか?w
>>555 何年の軍役帖かまず聞かないと、某スレによると複数あるみたいだから
>>555 越後から上野越えて関東周辺に長期間にわたって集団略奪戦を繰り広げるのは不可能です
国を空にしてる訳でもないし
>>550 有力家臣を滅ぼしたりして立場をはっきりせんと
戦国大名としやっていけんのだろう。
龍興はやり方がまずかったかもしれんがまだ若すぎたしな。
>>556 信勝は道三存命中から謀反してるが。
561 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/16(火) 01:45:20
wとか付ける奴は馬鹿っぽいよねw
>>553 後者の場合はみんなまとめて今川に降服だろ。
兵数書いてあるのは天正三年ものしかないはずだけど。
>>560 >信勝は道三存命中から謀反してるが。
えーっといつ?
>>564 だったら50万石は越えてるな
>>559 半端ない略奪で強引に黒にもっていったとか、カラは言い過ぎでも他所より
手薄だったから離反者も多かったとか仮定してみる
つーか、上野越える時って基本的に逆方面は冬将軍が受け持ってたのでは?
スマン、知識薄弱な人間の絵空事だとは思うんだけどね
>>565 俺は1557年に兵をあげたのが初だと思っていたが。
>>565 でも越後しか載ってないよ。>上杉家軍役帳
その他の地域はありません。
そして上杉の関東遠征は、越後衆のみでやってる。
その他の越中や上野の豪族は参加させてない。
動きやすかったというか、経済的にも遠征できるギリギリの数字だったからかと。
>>568 道三が死ぬよりは後だが、1556年8月には始まってるな。
>>566 外敵の侵入を拒むには雪は良いけど、揚北衆など独立精神旺盛な越後国衆なので。
あと、上野越えて越冬するにしても、略奪だけでは到底長期滞在は無理ですよ。
それ含めて、数多くの遠征の割りに実利が非常に乏しかったのを考えると
物凄い赤字かと思う。
大名が遠征するとき兵士は三日分の食料は持参するけど、それ以降の分は大名が
支給することになっていると聞いた。
農民が本当に貧しければ戦争に出ることはむしろ口減らしになってお得なことなのでは。
だったら戦争ばっかりでも領民が直接的に疲弊することは無いのでは。疲弊するのは
大名の懐であって。だから金が続く限り武田も遠征しつづけることができるのはず。
もっとも大名の財政難は領民への収奪という形で現れるだろうから、結局は領国が疲弊
することになるけど。
>>572 各武将・武士の負担分もあるよ。
事前に決めた日数分はそれぞれが自弁。
それを超えると大名負担。
謙信公は困窮する部下にはお金を貸しましたから!
574 :
568:2005/08/16(火) 02:02:40
>>572 だから、農業収入以外に収入があって経済力がある大名は戦争が他の大名よりもできるということだ。
謙信のように。
>>571 略奪だけとは流石に思わないけどねw
でも、上にあるレスのように1.7万だか1.8万の遠征人数が40万石未満の
越後衆のみなら確かに特筆すべき規模だね
上杉の日本海交易による経済力ってのはそこまでの力があったのか、、、
にわかには信じがたい いや、まあ正直決定的に反論できる知識はないんだけどw
ちなみにそれに比べ織田の農業生産力以外の経済的アドバンテージってのは
どの程度のものだったのだろう
これまで織田の遠征規模とかは割と石高準拠で辻褄合ってた気もするが、、
当時の越後が35万ってレスがあったがどういうこと?
35万石程度で信玄と戦ったり、万近くの兵を動員して関東へ向かえた
っていうのか?
それを言ったら1.8万石wの飛騨の武将が数千率いてる事に・・・
越後の実高は当時から120万石とも言われたので
景勝や移封にあたり120万石もらった。
>>576 >1.7万だか1.8万
8000人と書いてあるぞ?非戦闘員云々は、意味がよく解らんから排除・・・
謀反人連中の名前が無いから、実際はもっと多いだろうけど。
>>576 >ちなみにそれに比べ織田の農業生産力以外の経済的アドバンテージってのは
>どの程度のものだったのだろう
当代の名器を買い漁れるくらい。
>>581 津島時代で朝廷に4000貫
津島熱田時代に伊勢神宮の移転費用負担
それ以降は具体的な例がないからいまいちよく分からん。
2万貫を収めるほどの経済力を有する堺を支配といったところか。
石高なんか目安に過ぎないって。
越中半国で一万五千率いて前田利家と戦った佐々成政とかいるし。
>>583 あの時半国だったか?あの時点では大半を制していたと思うが。
まあそれ以前にその兵数にどれだけ信頼性があるのかという問題がある。
>>580 軍役帳では槍持ちや騎上で、8000人
非戦闘員とは陣夫などの事
通常、足軽や騎馬などの戦闘員は全軍の4〜5割程度とされてる
兵站考えれば当たり前と言えば当たり前
>>584 魚津城など西は上杉が制していた。
一度は織田が越中を制したが、本能寺後に上杉が乗り込んだ。
信頼性は?と言われると分からない。
>>585 信長公記でも甲陽軍鑑でも、陣夫は軍勢の数に入れてないが?
つーか、そもそも諸役だし軍役とは別でしょ。
>>585 天正3年の軍役帳には、5500人分しか書いてないと思うが。
8000人は学者が勝手に補完した数字。正確である保証など無いぞ。
>>587 陣夫が含まれているかどうかは、その時その時だと思うのだが。
「○○が二万の軍勢を率いて〜」とかだったらまず間違いなく含んでる。
>>586 魚津城など東はというが、その時点で大半が佐々ということになるが。
まあ戦後秀吉が三郡を取り上げ、新川郡のみ許していることから、
越中すべてを支配していたと考えるほうが自然だが。
それと織田時代に越中を制したことは無かったはずだが。
魚津城って越中東部、越後との国境に近くなかったか?
>>590 確かに東部だが国境近くではない。
富山の地図みてみな。
3つに分ければ東部といって良い。国境近くというのは正しくないだろう、岩村とかはほんとに
国境近くと言っていいが。
ただ越中は西部のほうが平野が広がってい、郡の数もだいたい左半分に3つ、右半分に1つとなっているが。
ぎりぎり越中を統一しなかったかっけか?
本能寺の変の前2日前あたりに。
で、その佐々が治めていた3郡は合わせて何万石なんですか?
一万五千は出せそう?
>>593 前だっけ?本能寺の当日か翌日くらいに魚津城を落して越中制覇完了>報が入って慌てて撤退だったと思うが。
>>588 >陣夫が含まれているかどうかは、その時その時だと思うのだが。
>「○○が二万の軍勢を率いて〜」とかだったらまず間違いなく含んでる。
陣歩を含むわけはないが・・・
>>594 >>589をよく読め、末森合戦後、秀吉は成政から越中3郡を散り上げてそれを利長に、
成政には東部の新川郡のみ安堵しているだろ、だから成政は越中ほぼすべてを統治
考えて良いと思う。また富山城のあたりも新川郡だし、魚津城より西だけでも、新川郡
の半分程度にはなる。
越中全土だと一万五千は十分出せる。
3郡と半分でも約35万石と考えればなんとかだせるぐらいだろう。
>>595 魚津城は落としているし、上杉は松倉からも撤兵しているが、そこから更に東の城は
本能寺の翌日頃では落としていない。天神山城から景勝が越後へ戻ってはいるが。
1万5千って太閤記の末森合戦のだろ
額面通りに受け取ってどうする
額面通り受け取っても、無理すれば出せる。
つまり、多少の水増しがある可能性を考慮すれば、
普通に出せる規模だったと推測して大きな間違いはないだろうということ。
600 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/17(水) 19:22:42
無理すればとは、具体的にどうぞ
どういう無理を当時の佐々成政をしたのかな
松倉は金も出るしな。
空手形でもいいから恩賞給与を奮発して徴兵率を高める。
財政的に無理をすればだせるだけじゃ
604 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/18(木) 00:03:46
>>596 朝鮮出兵の島津軍の軍役
大坂の陣の伊達軍の軍役
共に指示された動員数に対して半分近くが陣夫だが・・・・
信玄も越中支配してなかった?
606 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/18(木) 01:51:30
はい?
まあ確かに神保だかが越中先方衆として書いてあるけどな。
ヒダヒダ
>>608 織田に仕えたり上杉につかえたり大変だな。
飛騨も似たようなもんだろ。
弱小勢力はしかたないよ。
毛利も昔は尼子方だったり大内方だったり・・
>>604 >朝鮮出兵の島津軍の軍役 渡航する為の水夫が大半。
>大坂の陣の伊達軍の軍役 参陣した軍勢自体かなり少ないが‥
>>611 飛騨は違うんじゃねぇの?信濃から行けるし。
越中の場合は、謙信に対抗するための外交手段という意味合いが強いからねえ
>>大坂の陣の伊達軍の軍役 参陣した軍勢自体かなり少ないが‥
18000は小勢か・・・・?
ある程度の石高があったら
あとは武器や防具、城の整備くらいだから
兵数にあんまり関係しないかと
2万人が1日で100石くらいで1ヶ月で3000石くらい
結局大名の収入は武器は防具や給料の
ほかにぜいたく品で兵卒に食わせる米は微々たる
ものじゃないかな
>>615 長束が秀吉と対決したときに提出したという帳簿があれば、大名の収入と支出が分かりそうだ。
>>615 しかし1日100石って数字で書けば簡単だけど、
重さでいえば1日15トン、一ヶ月で450トンだから凄まじいな。
米で一ヶ月450トンか‥
欧州みたく小麦だったら、荷駄隊は死ねるなw
619 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/19(金) 17:27:33
日本は馬車が使えないから馬一頭で米一石しか積めない。
俵を左右に括り付けてね。
そういう意味じゃ欧州の方が効率は良いかもしれんよ。
重さか体積か忘れたけど、輸送するのに
小麦は米の3倍?10倍?掛かるという話を何かで読んだ
621 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/19(金) 17:54:48
そこで木牛ですよ
つ大八車
シナのように大運河を利用できたら話は別だが。
河川流通はどこも結構発展してますよ?
何故大津が、大坂が、関宿が戦略上に重要拠点だったと思う。
ただ単に堅固なだけではないよ
へー
でも、河川流通じゃ敵国へ運搬できないよ‥
網野善彦氏の著作などを読むと、日本は古代から陸上よりも川と海の交通が発展していたとか。
627 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/19(金) 20:45:37
勝頼の頃は金山収入がガタ落ち。
増税で離反者が一気に出たね。
>>627 金山収入目録と増税支持書類と離反者名簿を持って来いw
信長公記によれば、信忠に禁制の発給を求め服従を申し出てきた者達は
勝頼の重税に耐えかねた末に自分の家に火を放ってから
やって来たという。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
織田軍の略奪や放火に遭って従うから禁制を出してくれという話に見えるがw
日本の河川は急流で且つ幅もあまり広くないので流通運搬には向いてない
って聞いたが。
江戸期に河川より海運が開けたのもそのおかげとか。
>>631 大陸やヨーロッパに比べれば、ってだけの話。
簡単な話、米を運ぶのだって陸上をかついでいくにせよ馬にのせていくにせよ、
船に乗せて運ぶよりもはるかに労力はかかる。
633 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/20(土) 12:12:42
>>627 だけど、信玄の時代に金を大量に使って信玄末期には
厳しい状態だったよ。だから駿河の金山はどうしても欲しかった。
江戸時代は佐渡金山が有名だけど、甲斐の黒川金山はすでに掘り尽くされているね。
増税で苦しくなって、木曾氏が離反したのは事実。
>>633 ちなみに
>>信玄末期には厳しい状態
>>増税で苦しくなって、木曾氏が離反
これのソースは?
木曾が離反したのは事実だが、増税なのか?
>>631 小型の船を一人で操船するとして、
それでも米十俵は運べるんだから圧倒的に楽だよ。
それに関東などは顕著だが、
河川や湖沼が入り組んでいて、渡河をせねばならないポイントが多く陸上運送の方が大変。
橋があれば良いけど、戦災で落とされたり、天災で流されたりするし。
だから海運と河川運送(+陸運)の結束点が自然と栄えるわけで、大坂・江戸などがそう。
637 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/20(土) 18:53:34
>>634 ソースは新田次郎の武田信玄だ。ww
新城建設に、木曽氏は木材担当して、その他いろいろで
財政負担の限界で信長に通じただろ。
大阪江戸の水運は江戸時代だけど
戦国期でも川筋衆といった運送業もいたわけだしね
ただ自領から米を延々と運ぶより自領で売り払って
現金にしてから、お金だけもって移動して目的地で
米を買ったほうがはるかに賢いと思う
まぁ行軍中や多少の米は随行しないといけないと思うが
本当に増税がいやで離反したのか
将来を見限り、増税を口実として裏切ったか
>>637 そりゃ『続武田信玄』な。今は『武田勝頼』に名前変わってるけど。
それと、海運も江戸期以前、平安鎌倉のころから開けていたそうですよ。
瀬戸内海や日本海だけでなく、太平洋側も。
>>636 江戸も、家康が入府するまでは草原だったのを大都市にした、みたいに家康顕彰に使われているけど、
実際には関東の内陸水運と江戸湾から太平洋海路へとつなぐ陸と海の結節点で、以前から商都として
栄えていたそうですね。
644 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/20(土) 22:22:15
>>643 江戸村という小さな村があったと、何かで読んだが、人口はどれくらいだったの?
>>641 それも小説版ではなく横山の漫画がソースだろうな
>>635 美濃に隣接してるんだから、武田が落ち目と感じれば離反するだろうね。
>>637 確かに新府城築城にあたってヒノキの供出などが求められたが、
城一つ築いて離反されてたら北条なんて大変な事になるぞw
>>644 北条氏の支配においては「江戸衆」が組織され、武蔵東部の中核だよ。
それに品川湊は江戸湾でも有数の港だしな。
でもさ、馬借とか有名だしどっちかって言うと陸送メインじゃないか?
現代でも庶民に密着したのは
宅配だけど、大量輸送には
貨物船ってことじゃなかろうか
貨物船っても河つかってるか?
>>647 もちろん場所によるよ。
水運の出来ないところは、陸運が発達せざるを得ない。
あと水運は大雑把なところまでしかいけないから、
そこから荷揚げして目的地へ運ぶときも陸運が必須。
>>638 江戸は既出だが、
大坂も石山本願寺の門前町として、あるいは陸運・水運の要衝として普通に栄えていたよ。
まあ戦国期には堺と尼崎の方が要衝だけど。
秀吉が堺の商人を大坂に移動させたからな。
>>650 平安のころから、京の大貴族、寺社は淀川から大阪湾への水路に倉をおいて経営していたそうな。
石山本願寺があったから栄えた、というよりも栄えていた土地に本願寺が移ってきたと見るべき。
信濃川をせきとめて水攻め
信濃川は無茶だろw
網野善彦といえば、最近復刊したらしい「日本の歴史をよみなおす(全)」という本を読んだんだが、
これ結構武田派にはいいんでは(私は織田派だが)。
特に後編。簡単にまとめると
・「百姓=農民」という図式は正しくない
・「米が獲れないから貧しい」「土地がないから貧しい」という思い込みは間違っている
土地をもたなければ土地に依拠しない生業で養っている、つまり農業以外の工・商が日本
ではずっと古くから行われており、それは日本全域で普遍に行われていることだ、そうな。
林業とか鉱業とか書くと、太閤検地限定論者が全否定して
無限ループになる悪寒
太閤検地限定論者って言葉に信玄厨さが見え隠れ。
>>657 それ以前に655から何で656のような意見が出るかが不思議
ようやく21スレから27スレまでのまとめができたや、途中フリーズして、まとめた分が
消えたときには諦めかけたが。
このスレの終わりか次スレの最初のほうに貼ろうっと。
661 :
659:2005/08/21(日) 22:44:24
寺社領に関してはそこまでひどくは無いがだいたい
>>409の言う通りだったよ、残念なことに。
仮に越前や信濃の増加分がすべて寺社領だとしたら、この二国は太閤検地から寛永検地までの間に
まったく開墾その他が行われず一石も増産がなかったということになるんだからなあ。
それにしても織田領はそのままで武田領は増やせだなんてあからさまだな。
そりゃあ織田有利の史料で話を進めてるわけだし当然でしょ。
>>663 またイチャモンつけるだけか、そうでないならまともな史料に基づいて話し進めろ
>>662 越前信濃の寛永検地の石高は慶長検地をそのまま使ってるだけじゃないの?
666 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/21(日) 23:58:34
>>652 うんにゃ。それはちょと違う。
飛鳥時代や奈良時代には首都が奈良盆地にあったわけで、
西国から都へと運ばれる大量の物資は大坂で川船に積み替えて
大和川を遡って来てた。
しかし平安時代には都が移り、さらに淀川と三国川を結ぶ運河が出来た事で、
尼崎で積み替えれば海路の日程を一日短縮できるようになった。
また大坂は淀川や大和川の運ぶ土砂で海が埋まって、
港湾としての機能がしだいに無くなっていった。
それ以降の大坂はかなり寂れている。
だからこそ石山本願寺のような大集団がやって来る余地があった。
>>661 そうすると、寺社領に関することは
・太閤検地では、越前や武田領では寺社領は検地されなかった。
・太閤検地では、畿内や織田領では寺社領も検地された。
・越前や信濃では、太閤検地から寛永検地まで間にまったく増産はなかった。
この点を証明するソースの提示がなされない限りまったく無視ということかな。
>>667 越前は慶長三年の検地の際、多くの寺社領が免除地でなくなったらしいよ?
そういう話も、ソース付きでやってほしい。
言った者勝ち的発想な人間がいますので。
ソース付きは前々から言われていたのだがな
前々から言われていたのだが
前々から言っていた本人はソース無しなのが問題ですよね。
ソースのつかないお好み焼きなんて…
結局、ソースなしか?
出てくる分けないよ、今更。
出せるならとっくに勝ち誇って出してるはずだし。
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/22(月) 20:31:06
ソースソースうるせいな〜。所詮2chだろがぁぁぁ〜
ソースソースと言ったら、信玄厨がハッスルしないだろ
武田は甲斐国内は知らないけど、信濃や上野、駿河では指出検地してるのよね。
すると、太閤検地でされなかったと主張してる人は、信濃(真田、石川、仙石)や甲斐(浅野)、駿河(中村)は、
豊臣直臣から抜擢されて大名になったが多いのに、検地が非常に甘かったとなるのよね。
豊臣家の代官地も多いのに、検地されなかったという根拠知りたい。
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 01:01:29
どうでもいいが、甲斐の焼畑地域は穀高0(年貢なし)だったはずだが?
計画的な植林をする焼畑だったっていうのが何とか日記(大正時代)に残ってたみたいだし…
>>681 何とか日記(大正時代)
何とかじゃ困る。
>>680 信濃、甲斐、駿河が厳しく検地されたという根拠とソースを出してくれない限り
検地が非常に甘かったと考えざるをえんw
悪魔の法則なスレッドですね。
( ´,_ゝ`)プッ
悪魔の証明と言いたいのかな?
>>683 甘い厳しいの基準がわかりません。
他の地域と比べ、どう甘かったの?
検地は普通に行われてるのに、甘かったとする根拠plz。
>>683 奥州平定後におこなった検地で、秀吉が浅野長政に言った言葉は
「検地に反対するものは、農民でも国人でも皆殺し」
信濃、駿河、甲斐だけを甘くしたというのならその根拠は?
>>680 武田の検地は直轄領とかが中心で、先方衆とか外様みたいな諸勢力はあまり検地してないのでは。
ちなみに甲斐も差出検地やってる
>>669 それは推測だろ。朝倉時代から少しずつ寺社の特権を制限しようとして、
越前一向一揆や勝家、そして秀吉と、これらによって多くの寺社が特権
を失っていったんじゃないか。
というか越前とかの増加は単に斗代増やしたのと荒地とか検地の対象増やした結果じゃねーか
またソース無しか・・・
どっちもソースないから妄想で争ってるだけだよな。
そこで悪魔の法則なスレッドですよw
江戸時代でも越前は不相応な石高と言われていたらしいが・・・
残念ながら言われてません。
>>694 聞いたことあるなそれ、何に書かれてるやつだっけ?
見たのって小説?それとも何かの本?
「武田領の寺社領は検地されてないんだ!」はソース付で否定されたわけだが、何か反論はあるかな?
>>701 家康の内検地と太閤検地の結果が一致するワケないだろ
この時の信濃の検地結果≒江戸初期の検地結果ということだなw
そうだねw
要するに、太閤検地時に全て竿入して寺社も検地行ったという証拠が挙がってこないと
信濃は江戸初期の検地結果が正しいということかな。
家康の内検地?そりゃ五ヶ国検地の事かね?
それとは別に天正17年のを挙げてるのだけれども
相変わらず武田厨は、意味不可解なレスしか出来ないね
ソースはなしで
仕方ねーだろ。
ソースも何もないのに史実認定。
信長公記は信用できない。
石高は絶対に寛永年間の。
揚げ足取るだけ、史料は読まずに上洛決定。
それが、信玄厨クオリティ。
>>704 >家康の内検地?そりゃ五ヶ国検地の事かね?
>それとは別に天正17年のを挙げてるのだけれども
ふ〜んw
>>698を見る限り、五ヶ国検地しか在り得ないけど。
あほくさ‥
>天正17年に家康が、竿入やってる
>小栗吉忠や伊奈忠次が検地奉行
>詳しくは↓の資料を読むべし
五国総検地って、天正15年のヤシで
天正17年のは、信濃や甲斐の多くが指出だったのを竿入で再検地したから
総検地とは別では?
710 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 14:07:18
五国総検地って、天正15年のヤシで
天正17年のは、信濃や甲斐の多くが指出だったのを竿入で再検地したから
総検地とは別では?
↑なぜ人のレスをコピペしてageるのか不思議。
馬鹿な事言ってるから晒しあげられたんだろ
のんきに不思議がってんじゃねーよ( ´,_ゝ`)プッ
>>699 『地方凡例録』
の越前の
「格別余国に勝れたるやうに見えず、全く国高を多くする為に、古来不相応の石盛を附たることと聞ゆ」
の部分だね。
↓足手まとい
結局、何をいっても聞かないんだよね武田厨は
聞かないやつは一部だろ、武田が好きな人間のすべてが厨なわけではない、
織田にだって厨がいるように。
ただ絶対数というか書きこみ量だと武田の厨のほうが多いかなという気もするけど・・・
そりゃ武田スレだしw
つか、寺社領がどうしたこうしたとか、もはや武田も織田もないような・・・・
武田が好きな人間のすべてが厨なわけではない、
そ。そうかなあ・・・?
まともな意見だせよ
で、寺社領について、武田厨と織田厨の見解はどう違うわけ?w
武田厨の見解
甲斐・信濃・上野・駿河は太閤検地で寺社領を検地していない筈だ(ソース無し)
だから太閤検地の石高に寺社領を含め、武田領の石高を増やせ!
逆に畿内の国は太閤検地で寺社領を検地済みの筈だ(ソース無し)
だから織田領の石高を減らせ!
で、織田派から武田領の寺社領も検地済みと史料を提出され、
逆に越前(朝倉)なんかは石高が高く見積もられてると言われファビョる。
>>721 いや‥
畿内は寺社領含めて厳しく検地済みなのは事実
旧織田領なので、厳しい対応も可能だからね。
>武田領の寺社領も検地済みと史料を提出され
これ、家康の検地だろ? 太閤検地と何の関係も無いよw
>>722 畿内は寺社領含めて厳しく検地済みなのは事実
いや、だから・・このソースを出せと。
724 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/25(木) 12:47:22
725 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/25(木) 12:52:26
>>718 まともな意見だって出してるし、ソース付きで意見をいう人だっているし、役立つ情報を
提供してくれる人だっている。
ただそれらが織田派の人間と判断されがちなだけだ。
というか武田好きな人間がまともな意見言うと、武田厨に噛み付かれたりするだけか。
『地方凡例録』 なんかをソース扱いしてる程度の奴が
「ソース出せよ」ってな笑かしてくれるなw
地方凡例録は関が原から200年後に書かれたというのも事実なわけだしな
>>727 それは武田厨への挑戦か?
聖牛は武田信玄の創案ではないというのか!
>>726 727と729がまた武田厨同士で争っています
>>730 よくあることだ気にするな。
信濃は右近検地が凄かったから打出しがでただけじゃ
寛永検地だって、信玄死後から何年たってんだよ。
『地方凡例録』 の例は200年たってるというのに実高が石高に追いついてないという例で、
むしろそれだけ慶長の検地が水増しだった証拠になるだけじゃないか?
>>731 打出しがでたんなら太閤検地は甘かったことになるけど
>>734 そりゃ森の検地に比べれば甘かったかもしれんが、太閤検地のほうが実情に近いかもしれんし。
重要なのは打出しの中身。
>>722 家康の頃から、寺社に関して検地やってると書いただけで
勿論、太閤検地も寺社に対して実施されてます
・旧武田領の検地が「甘かった」
・畿内は寺社領含めて「厳しく」検地済みなのは事実
これの根拠聞きたいのだが、甘かったや厳しかったと言うからには
他との比較でしか言い表せない
だから、どう「厳しく」「甘かった」のか聞きたいのだけど
>>736 >勿論、太閤検地も寺社に対して実施されてます
私も、これの根拠聞きたいのだが
家康の検地と太閤検地じゃ性格が違うから。
畿内は織田家の旧領だからね、寺社の検地指示も出してるし
秀吉が受け継いでると考えるのが自然
>>737 >畿内は織田家の旧領だからね、寺社の検地指示も出してるし
>秀吉が受け継いでると考えるのが自然
ん?この考え方だと、家康支配下でさえ寺社に対して検地されたのに
国替えで入ってきた大名(仙石や浅野)が、寺社に対して検地しなかったと考えるのは難しいんでは??
長野や山梨の太閤検地関連の研究で、寺社関連の文書から検地が実施されてるのは確認されてる
だから、
>>698で検地関連の、しかも武田から徳川、そして豊臣という流れでの検地を比較してる論文が
記載されてる『信濃』を紹介したのだけど
自然とか、個人的主観で話されても意味がないよ
>>738 意味わからん
国替えで入ってきた大名(仙石や浅野)が、寺社に対して検地したとして
それが太閤検地の結果や表高と一致すると思うの?
>長野や山梨の太閤検地関連の研究で、寺社関連の文書から検地が実施されてるのは確認されてる
文書名を挙げてくれれば見てみるよ。そうでなければ、信用のしようが無い
本当に読んだかどうかも分からないしね。
越前で信長が検地をやった時は、寺社にまず差出を出させて、
それから国中の丈量検地を行い、それから寺社に領地を再配分している。
年貢徴収件が複雑に設定されていた状況を整理するためのもの。
文書名を挙げてくれれば見てみるよ。そうでなければ、信用のしようが無い
本当に読んだかどうかも分からないしね
信玄厨からこの言葉がでるとはw
>>739 >国替えで入ってきた大名(仙石や浅野)が、寺社に対して検地したとして
>それが太閤検地の結果や表高と一致すると思うの?
これこそ意味わからん
秀吉が信長のを根拠も無く(自然だという個人的主観で)踏襲したといい、豊臣政権に組み込まれた徳川が
竿入し、その後に国替えで入った(下伊那は毛利秀頼が入ったとあった)大名が踏襲せず、
奥羽で検地の総奉行まで勤めてた検地しなかった浅野が、自領内の寺社に対して検地しなかった(甘かった)と
こういう考え方が、全くわからない
信用しないのはそちらの勝手、文書の中に寺社関連があり、寺社に対して検地してたのは確認されてた
つか、手持ちにある訳じゃないから、すぐに書けない
というか、人に対しては質問ばかりで、自分に対してのは一切答えないなんて都合いいことだ
>>739 >だから、
>>698で検地関連の、しかも武田から徳川、そして豊臣という流れでの検地を比較してる論文が
>記載されてる『信濃』を紹介したのだけど
その続きがこれなんだから、まず『信濃』を読めって事だろ。
「信濃における秀吉の検地とその影響(1)」
「信濃における秀吉の検地とその影響(2)」平沢 清人
これを読めばこの不毛な議論も終わるだろう。
武田織田派で一人ずつ読んでくれ(捏造や都合のよい抜粋を避けるため)
ちなみに俺は武田派だが研究者でもないのにこんなん読む気にならんです。
>>742 太閤検地の実施は家康が内検地する前だぞ?
なんか、基本的な知識が無さすぎる‥
別に信濃に限らず太閤検地に関する本・記述には寺社領は原則としとして検地した
と書かれているのに、何で寺社領が検地されてないなんて言い出す人がでるんだ?
今までの歴史研究を覆す発言だぞ。
>>740 大和も同じだな。明智滝川が差出を提出させたとき、興福寺は段銭棟別込みで1万8千石の収入だったかな。
領地の再配分は信長死後の秀長によってだが。ちなみにこの時興福寺は1万5千石と申告して、何で前と違
うのか詰問されてる。
>>739 若狭や甲斐などは浅野の検地結果がそのまま太閤検地になるんだが。
あと慶長検地では信濃の北信濃4郡は秀吉死後1602年に行われてる。
>>739 文書名も何も太閤検地に関する文書論文読めばたいてい寺社領を検地してることが載っていると思うが・・・
>>746 援護ありがと
>>745 >太閤検地の実施は家康が内検地する前だぞ?
こんな返し来るとは思わなかったよ…orz
煽ってもしょうがないけど、天正17年と書いてるでしょ?
天正五年から家康が五ヶ国総検地始めて、天正17年に竿入開始
その年に小田原征伐が起きて、家康の関東入府
そして浅野や仙石が転封してきて、検地を始めたんですよ
確かに太閤検地を(全国的に)開始したのは、刀狩と同時期(それ以前の扱いは諸説あるらしい)、
1587〜89年と考えられてます
けど旧武田領、いわゆる徳川領に関しては家康入府後なので、家康の検地以後という扱いです
言ってることが矛盾しまくってるなあ
>>746 テンプレの太閤検地は1591年のモノだけどね
>>749 テンプレの話してるんでしょ?慶長検地が載るならそれでいいけど
1591年は天正19年
家康より後
意味不明
>>754 あぁ、勘違い。‥
>>746の書き込みを見て、適当に早い方を書いただけ
家康の検地は太閤検地を目安にしてたから天正15年以前に実施してる方を
テンプレに書いてるだろ?という意味でとって下さいw
天正伊賀の乱
>>755 >家康の検地は太閤検地を目安にしてたから天正15年以前に実施してる方を
>テンプレに書いてるだろ?という意味でとって下さいw
天正15年以前の検地の数字なの?>テンプレ
天正15年以前の検地で具で体的な数字出ていたの?石高表示で
石高表示で具体的な数字出たのは天正17年の太閤検地以降では?
>>757 >石高表示で具体的な数字出たのは天正17年の太閤検地以降では?
当然そうだろ。無論それ以前の検地結果を利用してる地域もあるだろうが。
>>755 意味わからん、ひょっとして家康の検地って備前検地や石見検地のこと言ってる?
>>758 >家康の検地は太閤検地を目安にしてたから天正15年以前に実施してる方を
>テンプレに書いてるだろ?という意味でとって下さいw
だったら、これの意味がわからない
たのむから笑かすなってw
なんかもう、口を開けばドツボにはまっていくなー
763 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 22:21:35
期待の新人age
彼の活躍によってスレ住人は大混乱
764 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 22:48:49
このスレは織田と武田が会戦を行った場合、
それぞれがどれくらいの兵力を動員できたか
ということを徹底的に検証するスレですか?
どれだけ兵員を増強出来るかはかなり戦況に関わる部分だからな、
特に武田が史実より侵攻した場合、高い確率で織田と武田は会戦に及ぶ事になるだろうし。
まあ元々武田派が武田を優位に導きたくて寺社領を持ち出したが、
現在は史料を提出されると、自分は史料も出さずに反論という流れがだが、
766 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/27(土) 02:00:55
信玄が三河にいる間、信長自身は岐阜から一歩も動けなかった。それが事実。
計算上の兵力なんてかなりどーでもいいと思うぞ。
家康を助けに来てもせいぜい互角、家康を降せば逆転だ。
武田厨というのは極論信玄坊主の短命を惜しむところに落ち着きたいんだよな?
しかしどうかな?右肩上がりでおっ死んだからこそ、
その先の空白に惰性の右肩上がりを予想するのかもしれんが、
仮に長命を得たところで、果たして…。
かえっていい時期に死んだというべきかもしれねーな。
信長にもいえるな、織田厨くん
ソースも出せない武田厨がファビョってるなw
>>767 諸葛亮と同じく悲劇の英雄として扱いたいのでござりますな。
ファビョるって、なに?
>信玄が三河にいる間、信長自身は岐阜から一歩も動けなかった。それが事実。
真実は↓
信玄が三河にいる間、信長自身は岐阜から動いていない。
・動けたけど、動かなかった
・動こうにも、動けなった
・動けたけど、あえて動かなかった
・動く気すらなかった
解釈は人によって違えど
この中で、「動こうにも、動けなかった」と何の説明もなしに断定するのが武田厨
〜厨って言ってるヤツ、全員うざい つーか、邪魔
太閤検地から寛永の検地の間に、畿内は何所も表高下がってるね。
近江以外の織田の故地も微増か微減。
>>768 おれは別に織田厨ではないし武田厨を叩きたいわけじゃねーんだけどよ、
信長の場合は、仮に本能寺逃れてたとして落ち目になるとは思えないぞ?
「信長にもいえるな」とはどーゆーこと?
>>774 江戸が発達した影響と豊臣が滅んだ影響じゃね
>近江以外の織田の故地も微増か微減。
これは関東とか中部にも言える事だから何とも言えない。
太閤か寛永のどちらかあるいは両方に信頼性が無いのかもしれない。
>>775 内部から反発くらう
それで本能寺みたいに野垂れ死ぬとまではいかないまでも、
晩節汚す事になったろうってこと
まあ、ある意味49歳の時に本能寺が起こった時点で汚してるけどな
778 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/27(土) 03:28:26
結局若い頃にふんどし汚すだけで済んだ家康の1人勝ちですね。
>>778 臭い授業料を払ったものでございますねw
で、天下餅をいただいたわけですな?
何で太閤検地と寛永期の検地でもめてるの、
寛永期の検地ってそんな信頼性高いか?
というか実際寛永期の検地ってどのようなものなの?
でも後世ではやはりウンコ漏らして天下とった人より
天下とれなかった信長の方が人気あるわけだが
>>772 ・動けたけど、動かなかった
・動けたけど、あえて動かなかった
これの違いが分からん。まぁどちらでもいいが。
で、まぁ適当に見積もっても石高なら武田の倍はありそうな織田軍が
半分も兵力を動員してくれなかった。
つまり、動こうにも動けなかった以外の理由の場合、
信長は家康が死のうがなんだろうが一向に構わないと思ってたって事になるね。
>>782 >信長は家康が死のうがなんだろうが一向に構わないと思ってたって事になるね。
ならないだろ。単純に攻勢限界点に達するのを待っていたとか、武田と徳川の戦力差から
余裕があると考えていたとか、両者が疲弊したところで行動しようとかいろいろあるだろ。
まあ単に冬だから例年通り兵を動かしていなかっただけかもしれんが。
攻勢限界点や両者が疲弊云々ならばやはり家康は見捨てたも同然でしょうに、
動けなかったんならしょうがないけどね、
余裕云々は事実三方ヶ原で完膚なきまでに打ち破られたんだから、
それじゃ信長は時勢の見えないマヌケって事になっちまうぞ。
しつこいようだが動けなかったんなら仕方ないがね。
>>776 関東や中部は一部の国だけだが‥
畿内は最後まで抵抗した紀伊以外、全て純減。
>>784 >余裕があると考えていたとか、両者が疲弊したところで行動しようとかいろいろあるだろ。
野田城が落ちて吉田城まで遮るものがない状況なのだからそれは無いな、詭弁。
それと、どう考えても倍は無いな。精々1.5倍だろ
>>786 二倍、というのは一応テンプレで挙げられている。
「精々1.5倍」というのならその根拠をどうぞ。
>>785 紀伊は畿内じゃないぞ。
>>774 >近江以外の織田の故地も微増か微減。
といっても美濃尾張伊勢志摩だけじゃ、統計的に厳しいな。
( ^∀^)見捨てたとか見捨てられたとかいってる奴ばかじゃねーの
>>787 テンプレでは1.5倍と挙げられている。
2倍というのならその根拠をどうぞ。
>>787 テンプレで計算してみると、
武田>1001400〜1065400
織田>2044560
となったんですけど。
まあたしかに2倍にはなってませんね。武田の最大値でもみても、精々1.92倍くらいで。
あ、最小値で比べれば2.04倍か。
794 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/28(日) 13:26:22
武田は兵農分離があんまり進んでないから、
上洛しても形だけになると思われる。
せいぜい織田家を畿内から追い出すだけでしょ。
尾張や美濃に信長が引き篭もり長期戦になったら、国力の高い織田の方が有利。
武田1,200,000〜1,300,000、織田1,700,000〜1,900,000
最小値同士で比較すると1.5倍すらないか。
べつに信玄相手に白兵戦やっても圧勝できるだろうけど
いたずらに消耗させると周辺に対応できなくなるから
衝突避けてただけだけどな、吉報死の場合は。
ド田舎のおのぼり出家老人とちがっていろいろ忙しいんだよ。
>>796 十分な守備兵力残していったら圧勝できるとは思えないな。
信玄の性格からして織田が負けることはまず無いと思うが。
>>796 十分な守備兵力残していったら圧勝できるとは思えないな。
信玄の性格からして武田が負けることはまず無いと思うが。
800get
>>799 そうだろうな、信玄は勝頼や信長北条毛利島津なんかとは違うから、相手が弱敵で無い限り戦おうとは
しないだろう。