1 :
傷天 ◆vBYldu97fY :
立てました。
2 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 20:21:57
氏ね
3 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 20:28:00
4 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 20:49:52
乙とかいう奴は氏ね
5 :
Z:2005/06/21(火) 20:57:04
乙
己
7 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 21:01:33
マジンガーZ
必要なかったかな?
フェアレディーZ。
マジンガー乙
呉と魏ってどっちが不人気なの?
Zガンダム
12 :
10です:2005/06/21(火) 21:50:04
>>11さんありがと
そっちも参考にします
ゼットン
呉の名将たち
周瑜、呂蒙、徐盛、丁奉、程普、韓当、黄蓋、朱桓、朱異
沈瑩、賀斉、陸遜、陸抗、唐咨、甘寧、太史慈、朱然、蒋欽、潘璋、凌操、凌統
董襲、陳武、全j、全端、全懌、鍾離牧、呂範、呂拠、呂岱、周泰、吾彦、厳圭
朱治、歩隲、朱拠、朱績、諸葛恪、留略、于詮、孫権、孫策 魯粛
14 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 21:53:15
呉の武将って字面が格好悪いんだよな。
吾彦とかありえないだろ。
孫策かっこいいべ。
日本人ぽい名前だよね。
てゆーか
>>1が、他板で泥酔しながら絡んでた。
陸抗の後の呉の総司令官にあたる人物って誰?
うーん、張悌?
19 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 22:47:14
>>13 その面子なら、劉纂とか麋芳も加えてやってよ
20 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 23:46:27
陸遜好き 陸抗の後って、もうボロボロじゃないの??
陸抗の時からすでにボロボロですが何か?
陸抗が異常なだけ
陸抗はマジでミラクルだからなあ
こいつ主人公にして小説書いたらすげえのができる希ガス
23 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 00:08:10
陸抗のマンガでもおもしろそう。
24 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 00:09:39
周泰って幼がつくから末っ子。
なんかイメージ違った。
陸抗の事よく知らないんだよな〜なんか漫画でも出てくれたらいいのに
26 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 00:16:28
>>27 とりあえずここ嫁
tp://hb5.seikyou.ne.jp/home/misemise/7f/san.shickai.rickkow.htm
29 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 00:24:04
>>26 あぁじゃあ末じゃねんだ。
五男以下が「幼」だっけ。
伯 仲 叔 ? 幼
の長男からこの並びじゃね?
31 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 00:49:52
>>26 周平は演義のオリジナル
実在の人物ではない可能性が高い
32 :
26:2005/06/22(水) 01:52:59
演義厨でスマソ。
それにしても、兄弟沢山だったんだね。今じゃ一人っ子政策の時代なのに・・
陸抗オモロイ☆
陸抗は羊祜との話もあるし
小説とか漫画にしたら面白そうなんだが・・・
おのれ三国志マガジン
三国志はキャプ翼ブームの前から腐女子の好餌でしたから・・・
小説だの漫画だのって……ふつうに史料を読めよ
何で三国志って腐女子向けの物とか多いんだろう。
イメージ壊される。
40 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 12:30:32
その程度で壊されるイメージは貧弱なものだろ
びくともしないほど強い、それでいて柔軟性のあるイメージを構築しろよ
髭の無いカンヌとか勘弁
史料やら正史準拠の書籍やらなら
読んでも別段イメージ壊されることないべよ
大体創作モノは作者のイメージで描かれるものなんだから、
自分の脳内イメージと違うってんなら読まなきゃいいだけ
44 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 13:33:50
周泰は演技しかいねぇのか…
かるく衝撃が…
47 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 14:36:47
じゃあ居るのか!?
あれか名前が間違ってるってか!?
呉が一番おもしろいことやってくれるよね
孫権からしてウケる。
周泰伝って、短いよね
あれからどうしてあんな演義ワッショイになったのか
演義ワッショイってそんなワッショイしてるか
孫権守って沙摩柯斬った以外はたいした活躍しとらんがな
演義では沙摩柯が甘寧を斬ったことを考えるとかなりオイシイ役だとは思うが
沙摩柯の扱いは侯成とかと同レベルかと思う
>>55 細かいツッコミだが沙摩柯に矢を射られたのであって斬られてない
しかも病気をおしての出陣
なのに光栄では長い間、沙摩柯>甘寧の扱いを受けるはめになった
似たような例で丁奉と張遼があるのにそっちは補正がかからなかった
馬忠もだなインチキ補正がない
少なくても周倉より強いだろ
三國志マガジン昨日立ち読みしたけど・・・島崎おまいは何やってんだ
テンプレの「正史基準で」というのが外れたただけで
ここまで変わるのか。
腐女子の血生臭い生理臭にあふれてるなー
どの辺が腐女子臭いんだ?
君は腐女子探知機かね
三国志マガジンの事じゃね?
「赤壁の宴」藤 水名子
脳内イメージとは著しく違ったなぁ
頑張って最後まで読んだけどキツかった
当時、一般の歴史小説みたいに売り出されてたから見事にやられたよ
周瑜主人公だとか正史のイメージも取り入れただとか
もう完全に騙された。読んだら質の低い同人だったというw
あの頃は漏れも若かった・・・
>>62 せめて「どの辺が」とか教えろよな。
さて、三国志の話に戻そう。
三国志マガジンって何?
劇画風なおっさん絵が表紙の三国志本のこと?
光栄ゲームパラダイスみたいな厨雑誌?
まーどうでもいいや
3号になってようやく面白くなってきたな>三国志マガジン
一番正史に近い三国志のマンガって何?
そんな正史に馬鹿に忠実なのを読みたいか?
>>74 史書とマンガの読み比べしたいんじゃない?俺も演義のときそうしたけど。
呉あげ
ネットでも、史書などを読みやすくしたやつもあるみたいだけどね
今の住人のレベルで呉を語るのって
離乳食しか食べられない幼児がフランス料理を語るのに近いな
話題が無いだけじゃないか
二宮はちと食傷気味だし
>>72 最近のありふれたマンガとか読むより呉書見聞でも読めば?一応呉スレってことだし
呉書見聞も厨の溜まり場になっているようだし、呉関係はダメダメだな
他を貶す前に白熱するような議題を提供してくれ
議題というか質問
張温が呉の四姓だというのはどこに載ってるんですか?
孟宗竹で妄想竹(;´Д`)ハァハァ
>>83 漏れなんか呉の四姓自体が何に載ってるのか知らない
正史に載ってる?
呉郡の出身=張家=呉の四姓ってか
親父もそこそこの名声があったし
張温も名士出身ぽくないか
豪族出身で評判がいいから孫権も警戒したんでは
張昭、張絋はよそ者?
いぇす
>>86が既に説明してるけど、呉の四姓じゃなくて呉郡の四姓
徐原って図々しいよな
文選あたりに
張勃の呉録曰く
八族、陳 、桓、呂、 竇、公孫、司馬、徐、傅、也
四姓、朱、張、顧、陸、也
って、あったと思う
世説新語の賞譽編にも四姓についてあったような
張とあっても張温とは限らないんじゃ?
張なんてよくある姓だし・・
>>92 いや、私は四姓についての記述を書いただけだから
ただ張姓でも豪族は少数と思われるし、
張温の家と陸績の家は婚姻関係にあるなことなど、
四姓の張氏は張温系と考えるのが妥当と、私自身は考えてます。
94 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/06/24(金) 22:45:15
朱治も朱然も朱桓も四姓?
95 :
霊帝 ◆OU/VvbI9MY :2005/06/24(金) 22:48:22
96 :
霊帝 ◆OU/VvbI9MY :2005/06/24(金) 22:48:34
97 :
霊帝 ◆OU/VvbI9MY :2005/06/24(金) 22:50:24
98 :
霊帝 ◆OU/VvbI9MY :2005/06/24(金) 22:51:02
朱治の出身は呉郡じゃない
近いけど
100 :
霊帝 ◆OU/VvbI9MY :2005/06/24(金) 22:59:44
101 :
霊帝 ◆OU/VvbI9MY :2005/06/24(金) 23:00:58
>>94 朱治と朱然は同族で出身は呉じゃない。
朱桓は朱拠と同族で呉出身なので四姓の一と思われる。
103 :
霊帝 ◆OU/VvbI9MY :2005/06/24(金) 23:31:30
104 :
霊帝 ◆OU/VvbI9MY :2005/06/24(金) 23:31:46
105 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/25(土) 02:41:47
【議題】
・後漢書の注釈「謝氏選」の作者について語れ
荒らしに話しかけちゃいけません
108 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/25(土) 14:36:40
七家後漢書の一つ。
謝承後漢書のことか?
違う
110 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/25(土) 15:55:49
ところで謝承てどんな人?
__
|・∀・|ノ よい
./|__┐
/ 111
""""""""""""""
.__
((ヽ|・∀・|ノ しょっと
|__| ))
| |
111
"""""""""""""""""
>>110 謝夫人の弟…だっけ?
謝家は江南の豪族系だったような。
謝旌は謝承の子?説をどっかで見たような・・・
114 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/26(日) 12:54:34
射精
115 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/26(日) 16:01:22
ここの住人は比較的メジャーな2級の変だとはっちゃきになってカキコするが
少しレベルの高い&マイナーな話題になると沈黙するようだ
もう少し勉強しる
116 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/26(日) 16:12:08
興味無いだけじゃないか
二宮の頃の陸遜って荊州を統括して軍事と政治のトップで
豪族でももっとも影響力ある人物でしょ?
孫権が豪族に遠慮するような立場なら陸遜を叱責して
憤死に追い込むようなことは難しいのでは?
120 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/26(日) 18:19:59
あれには、
「陸遜には皇帝の密談を漏洩するという大逆罪の容疑がある」
という大義名分があったから。
むしろ、限りなくクロに近い(てかやっていた)のに死後陸抗に厚くするなど、厳しい態度を貫くことができないあたりに遠慮が見える。
二宮は陸遜という呉の大重鎮が死んだことにより
孫覇側の動きが活性化した面がある
やはり二宮は孫和派が先に仕掛けたと見るべきか
孫覇を排除したい中央の孫和派が陸遜の力添えで
なんとかしようとしたけど、逆にスパイをいれてたことがバレて
孫権の逆鱗に触れて、孫和側で呉の主流の陸・顧・張家が立場が悪くなった
歩、全、呂家などの遅れをとってた豪族らが孫覇を利用して立場の逆転をはかった
孫権のボケから招いた混乱ではなく
家臣たちの越権行為から始まった混乱劇
害虫の全奇らの処刑、主導権争いを再燃させようとした朱拠らを追放
ここら辺もまともな判断
今後安泰な孫和派が先に仕掛ける必要はない
孫覇が王に封じられた時点で全公主が動いていたと見るべき
そもそも孫権が陸抗に謝罪してるのを無視してないか
126 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/27(月) 00:14:55
>>124 安泰じゃないという情報を現にスパイから入手してるんですが
皇太子廃嫡なんて漢の高祖以降珍しくもないから、単に安泰だと思っていたとしたら暗愚。
もっとも、だからといって皇帝をスパイってのは臣下として子として言語道断。
スパイ・機密漏洩が事実なら、廃嫡や陸遜らの処分も自業自得。
陸遜・陸抗うんぬんは
>>120を見よ。徹底できなかったのは孫権の権力の限界だろ。
楊竺が自分で罪を認めたから
それ以上、罪を追及できないでしょ
>>125 謝安や謝玄は梁国陽夏の人だから違うでしょう。まぁ謝安は会稽ともかかわりは深いけど
>>112であるように謝氏は会稽の豪族で、虞氏(虞翻とか)、魏氏・孔氏で会稽の四姓らしい。
魏氏・孔氏については俺はようわからん、東晋成立に呉会の豪族が関わったというけど、
晋書になら名前ぐらいでてるんだろうか?(顧栄とか陸喜なら伝がたってるん探しやすいんだが)
>>128 会稽魏氏と言えば、呉の翻陽太守魏滕。
孫策、孫権の二代にわたって仕えた人物。
なお、孫策、孫権ともに魏膝にキレて殺そうとしたという華麗な経歴の持ち主。
彼の祖父は後漢清流派の大物魏朗なので、
たぶん魏膝の家が会稽四姓の魏氏と思われる。
130 :
128:2005/06/27(月) 02:05:50
>>129 ありー
さがしたら正史のなかで『会稽典録』に書かれてるね
これは会稽に関わりの深い人物とかが書かれてるみたいだから
魏朗・魏滕が会稽の魏氏かな。
>>126 皇太子廃嫡の流れを考えてみれば?
スパイがいたから廃嫡されたわけじゃないよ
『晋書』に会稽の孔氏いた
孔 愉 字 敬 康 , 會 稽 山 陰 人 也 . 其 先 世 居 梁 國 . 曾 祖 潛 , 太 子 少 傅 , 漢 末 避 地 會 稽 ,
因 家 焉 . 祖 竺 , 呉豫 章 太 守 .父 恬 , 湘 東 太 守 . 從 兄 侃 , 大 司 農
同族の孔沈の伝で(東晋の時代だけど)魏氏・虞氏・謝氏の名前もすこし出てた(魏 、虞球 、虞存 、謝奉 )。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/28(火) 00:27:32
本籍って何世代前からその土地に住んでたら決まるのかね?
昔からずっと同じ土地に住み続けるのも容易じゃないはず。
何世代かに一度は引越ししてる豪族もいるんじゃないかな?
134 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/28(火) 01:05:15
土地と地縁が大事な財産なんだから、戦乱でもなけりゃ引っ越しはしないよ。
丁奉についてたくさん語って下さい
僕も丁奉好きだ
>>133 (゚Д゚)ハァ?
豪族ですら何世代も同じ土地にい続けるのが難しいの?
じゃ、小作農とかは毎月引越しだなw
丁奉は呂蒙に似た経歴だよな
そうか?
そうでもない
141 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/28(火) 18:42:28
>>137 全部の豪族の話ではないんだけと。
三国志の中の話でも、李典とか麋竺とかの豪族は私的事情で一族引越ししてるからな。
だから、同じ土地に居続ける豪族もいれば、一族あげて移り住んだ豪族もいるんじゃないかという事。
呉の四姓、会稽の四姓ですらも春秋時代からずっと同じ土地に住んでた訳でもないだろうに。
正史見てたら、本籍の話ってよく出てくるが人によって違うな。
何代も前に移住してても元の出身が本籍になってる奴もいれば移住してすぐに籍が変わってる奴もいる。
143 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/28(火) 20:49:32
144 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 19:37:35
丁奉って何歳まで生きたんだろ?
90歳まで生きた士燮とどちらが長生きだったんだろうか?
『三国志』から正確な歿年齢を所見できるなかで、長寿なのは
来敏の97歳と呂岱の96歳?
呂岱の生没年は(160〜256)っぽいから
この人は張昭あたりと同世代か・・・90歳すぎても現役バリバリじゃん
丁奉って正史だといつ頃から兵を率いていたのかよくわからないよな。
甘寧、陸遜、潘璋の指揮下で功績を立てたってだけで。
もしかしたら丁奉は赤壁には参戦してなかったのかもね。
210〜220年あたりに20代ぐらいで新人だったとするなら
271年に死んだ時点で80歳くらい。それでも十分長寿か。
もちろん赤壁〜江陵戦の時から甘寧の部隊にいた可能性も
あるわけで、そうすると90歳くらいまで生きたことになるけど。
もしかして陸抗より長生き?
諸葛恪って政治的敗者になったせいで必要以上に悪く言われてる気がするけどどうだろう?
知るか
>>151 諸葛恪は人々に恨まれて殺されたからな
呉帝孫亮も諸葛恪謀殺を指示してたぐらいだから
むしろあの程度の悪評で済んでるとも言える
154 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/01(金) 23:28:20
>>150 陸抗の生没年は(226〜274)だから、
丁奉の方が先に死んでるな。
でも陸抗は享年48歳で死んでるから、
明らかに陸抗より丁奉の方が長生き。
>>153 遠征に大失敗するまでの民衆からの支持は絶大だったんだけどな。
もし魏を追い払った(ほとんど丁奉の功績だけど)ところで止めておけば
優秀な功臣として名を残すことになっただろう。
同じく民衆から恨まれてたはずの姜維との違いは、やっぱ蜀と呉の違い?
陸抗は49で死んでませんか
159 :
154:2005/07/02(土) 00:31:27
姜維の場合は自分の身が危なくなったら政務放棄して逃げたからな。
諸葛恪も無茶やったがさすがに政務放棄して軍隊抱えて地方に逃げるような事まではしてない。
161 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/02(土) 01:42:13
むしろそんな謀叛同然の行為をむざむざやらせてしまう蜀と、皇帝による統制がギリギリとれた呉の違い
>>156 姜維が民衆から恨まれてたにしては、彼が鐘会に降伏した後の一世一代の大博奕を計画した話は
百年後の蜀の民衆にも語り継がれていたのをみると、蜀の民衆は姜維を嫌いだったようには感じないが。
まあ姜維はともかく、蜀の民は蜀の民であることを誇り持ってたんだね
呉はどうだろう
>>153 孫亮は諸葛恪謀殺にはほとんど関与してないように思うのだが。
あの頃の孫亮は年齢的にも何もできなかったのでは。
334 名前:<丶`∀´>(´・ω・`)(`ハ´ )さん[] 投稿日:2005/07/02(土) 02:57:11 ID:DBqsg1eQ
>>333 自分はシャーマニズムの研究で南京大学に留学していました
暇な時に大史慈の墓(三国志に出てきた武将)を見に行った
公衆便所の隣りで、近所の住民には洗濯物を干す場所として重宝されてる始末
結構有名な武将なんだけど…観光名所ではなかった
忘れられない思い出
>>164 251年、孫亮即位。
253年、諸葛恪、誅される。
257年、孫亮、親政始める。
258年、孫亮、退位させられる。齢16。
当時は11歳の小僧だから主体的にどうこうということはなかったと思う。
>>162 むしろ、時代が下って蜀の神聖化が行われたおかげで姜維のこともよく言われるようになったんじゃないかね
姜維を民衆が恨んだって記述もあるし、蜀滅亡前後あたりは評価グダグダだったかもしれない
妄想だけど
グダグダだろ陳寿の評も厳しい
費禕の死後はロクなことしてねーもんな
同時代の評価が正しくて
後世の評価が主観で歪められてるって見方もおかしいけどな
正しいとか歪められてるとかそういう話は誰もしてないと思うぞ
それぞれの時代の評価の違いについての話だろ
歪められたというと作為的だけど時代が降って、
後世で政治的情勢から神格化というか美化されたのは事実じゃろ。蜀自体も。
呉ではリアルタイムであったことだな。
>政治的情勢から神格化というか美化された
>>168 陳寿ちゃんも時々好き嫌いが激しくなるよ
孫権って呼び捨てにしたりー
175 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/05(火) 21:09:13
誰か呉の南征について語れ
興味ない
前スレのネタじゃん。懐かしいなw
180 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/06(水) 17:44:14
士一族は公孫淵ぐらいの勢力はあったのか?
『大越史記全書』嫁
けっこうな名君扱いだぞ
孫権には一般的に言われてるとおり、軍才がなかったかについて語ろう。
183 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/13(水) 08:54:19
前線の指揮官としては大したことはないな。
孫権の戦略は長期戦をほとんど想定してない
一気に抜けないなら、無理強いはせず撤退
186 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/13(水) 18:52:35
呉は守ることに関しては三国一だね。
そりゃ自分のとこだし
188 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/13(水) 20:48:24
189 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/13(水) 20:55:55
孫権は、中原への意欲こそ少ないが、
自分らのテリトリーを犯す身の程知らずは
徹底的に潰してくれる、っていう感じだよね。
イリョウとかセキヘキとか。
魏と蜀が血眼になって天下鳥をしてるところを横目に、
「あっしらは自分のペースでがんばってきましょうやぁ〜」みたいな。
でも、自分らのペースを乱そうとするヤツらは徹底的に潰す、みたいな。
呉は再三再四、魏領に侵攻してるのだがね。
でも、なんとしてでも勝ち取ろうとはしてないよね。
今回無理っぽい?じゃぁ今度にしようか。みたいなノリで。
それは孔明の北伐だってそうだろう。無理そうなら撤退って当たり前だと思うが。
横山三国志しか読んだことないからわからんのだけど
孫権って前線で直接指揮を執って戦ったことってあったのか?
劉備は黄巾の乱やイリョウの戦いなどで指揮を執ってるのを見たことあるけど
孫権は周瑜や陸遜など軍師に任せっぱなイメージがあるんだが
↑の方で、呉の(特に鼎立以降の)軍事に積極的な長躯侵攻がさほど
みられない、という事に関してだけど、これは呉が、魏や蜀に比べて各豪族の
独立性が強い事、呉軍を構成するうえで世兵制による各氏族の抱える私兵の
占める割合が大きい事、の二つが影響してる。
そのため集権国家に比べて、作戦や指揮系統、各氏族の見解等で統一を
はかり難く、長期の長躯遠征に耐える継戦能力に欠ける、という要素が生じる。
これは春秋時代の戦争形態にもいえることだけど、孫権が王から皇帝へと
昇り集権化が徐々に進み、奉邑制が廃されていった事で、幾分かは解消
されていったのではないかと。
孫権は良くも悪くも戦国時代の君主像と重なる。
軍事では臣下に多くを委ねるけど、『孫子』などでいうところの余計な容喙は
控える姿勢などはまさにそう。
>>195 > 呉の(特に鼎立以降の)軍事に積極的な長躯侵攻がさほどみられない
単に抜けなかっただけ。
それは魏側も同じだけどな。
蜀の北伐も長躯侵攻などない。
移動距離は長いものもあるけど魏領に深く侵攻したというより国境線に沿って動いていたようなもの。
>国境線に沿って動いていたようなもの。
すごい意見だ。
すごい新説だ。
199 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/14(木) 09:18:13
孫策ならどうだったのだろう?
死んだ子の年を数えてもしょうがないね
孫策ならば、いつかは夷陵の劉備の失敗をしそう
>>201 孫策ならワーワーと攻めて来て長引きそうならちゃっちゃと引き返しちゃうイメージだ。
むしろ漢中の夏候淵の失敗の方がイメージあるな。
漢中の夏候淵はまんまと敵の作戦にはめられて討ち取られたじゃん
孫策は親父のように勝ち戦の中、流れ矢で死ぬタイプだろ
勝ち戦の中、流れ矢で死ぬタイプ:李舜臣、ネルソン、etc...
勝ち戦の中、流れ矢で死ぬタイプは、海軍の名将に多いと思われ
205 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 11:14:32
ブルボン元帥
カール5世の命で2万の暴徒を率いてローマを攻める
圧倒的有利にも関わらず
包囲戦最初の攻撃であっさり砲弾に当たって死亡
でも結局ローマは落城。
きっとノコノコ敵前に出て行ったのだろう
>>203 サク融の戦いで死んでたら目も当てられないところだったな。
ちょっと質問。飛頭蛮の出展は捜神記ですか?
落頭民のことかな
捜神記では我らが朱桓様の屋敷で
雇われている女召使として出てくる
それそれ。ありがd
>>211 秦時、南方有「落頭民」、其頭能飛。其種人部有祭祀、號曰「蟲落」、
故因取名焉。呉時、將軍朱桓、得一婢、毎夜臥後、頭輒飛去。
或從狗竇、或從天窗中出入、以耳為翼、將曉,復還。數數如此、傍人怪之、
夜中照視、唯有身無頭、其體微冷、氣息裁屬。乃蒙之以被。至曉,頭還、
礙被不得安、兩三度、墮地。噫〓甚愁、體氣甚急、状若將死。乃去被、頭復起傳頸。
有頃,和平。桓以為大怪、畏不敢畜、乃放遣之。既而詳之、乃知天性也。
時南征大將、亦往往得之。又嘗有覆以銅盤者、頭不得進、遂死。
捜神記の原文だよ。翻訳ガンバw
>>212 いちおう、訳してみた。
秦の時代、南方に落頭民なる人種あり、その頭が飛んだ。
その人種は祭祀を行い、蟲落と呼称するために名をつけた。
呉の時代、朱桓という将軍が一人の婢女を得たが、毎夜、寝ると、頭が
飛び去った。
或いは狗のくぐりあな、或いは天窓より出入りし、耳を翼にして飛び、
明け方に戻った。
しばしば起こったため傍らにあった者は怪しみ、夜中に照らして見た
ところ、その身に頭は無かった。
その體は微かに冷たく、気息はわずかであった。覆いを被せた。
明け方に頭はかえったが、覆いに妨げられて戻れず、二三度おこなった
後、地に堕ちた。
大いに愁いて嘆息し、気息が早くなり、死にそうであった。
覆いを取り除くと、頭はふたたび起きあがり、頸に戻った。
(「有頃,和平」の部分がわからない。たぶん、やがて安らかに…とか、
そんな感じだとは思う)
朱桓は大いに怪しみおそれ、婢女を家から解き放った。
詳しく調べたところ、それは天性である事がわかった。
この当時、南征に臨んだ将軍たちも往々にしてこの人種を得た。
また、そのからだを銅盤で覆った者もあったが、頭は戻る事ができずに
遂には死んだ。
おおよそはわかったけど、ところどころで躓いて調べるのに時間がかかった……。
あまりできのいい訳文じゃないけど、博識な方、訂正あるようなら、よろしく。
>その頭が飛んだ。
能願動詞「能」は超基本&頻出なのでこの機会に必ず覚えましょう。
>寝ると、頭が飛び去った。
「輒」は入ってますか?
>朱桓は大いに怪しみおそれ
ここは全く違いますね。「以為」は「〜だと考える」なので、「大怪」を名詞で解釈して見ましょう。
畜は動詞、「不敢」も重要な言葉ですよ。
>頭は戻る事ができずに
「進」はちゃんと調べましょう。中国語と日本語で全く意味の違う動詞です。
全体的にもう少し丁寧に調べたほうがいいですよ。
分かる単語だけから何となく大意だけつかむ癖がついちゃうと後が大変なので
>>214 おお、ありがとう。
概要はつかめても、やっぱり基礎や専門的な部分はさっぱりだったんで
恥を晒してるみたい。
なんか自信のなかったところが見事に間違ってるね。
仰るとおり、「輒」とか等閑にした部分でつっこまれてしまった……
でも、せめて「有頃,和平」のところを教えてもらいたかったんだが。
頭が飛んだ。
214の意訳も書いてほしい
>>217 バカが好い気になって適当な訳かましてんじゃねーよボケ
頭が飛んだ。
220 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/20(水) 23:53:42
当時は頭が夜勝手に飛ぶ人種が居たのか
その伝聞の証拠を発見できれば馬王堆級の大発見だな
____ 、ミ川川川彡
/:::::::::::::::::::::::::""'''-ミ 彡
//, -‐―、:::::::::::::::::::::三 ギ そ 三
___ 巛/ \::::::::::::::::三. ャ れ 三
_-=三三三ミミ、.//! l、:::::::::::::三 グ は 三
==三= ̄ 《|ll|ニヽ l∠三,,`\\::三 で 三
/ |||"''》 ''"└┴‐` `ヽ三 言 ひ 三
! | / 三 っ ょ 三
|‐-、:::、∠三"` | ヽ= U 三. て っ 三
|"''》 ''"└┴` | ゝ―- 三 る と 三
| / ヽ "" ,. 三 の し 三
| ヽ= 、 U lヽ、___,,,...-‐''" 三 か て 三
. | ゝ―-'′ | |::::::::::::_,,,...-‐'"三 !? 三
ヽ "" ,. | | ̄ ̄ ̄ 彡 ミ
ヽ、___,,,...-‐''" ,,..-'''~ 彡川川川ミ
厂| 厂‐'''~ 〇
| ̄\| /
ギャグにマジレスイクナイ
落頭民=平将門
首塚
>>212じゃあ漏れも頑張って磔されよう
秦の時、南方に「落頭民」有り、其の頭は能く飛べり。其の種人の部は祭祀を有した、號して曰く「蟲落」である、
故に因って名を焉<これ>に取ったのである。呉の時、將軍の朱桓が、一婢を得た、夜毎横臥してから後に、頭は輒ち飛びて去れり。
或るいは狗竇より<從>、或るいは天窗の中より<從>出入りし、耳を以ってして翼となした、將に曉せんとするや(夜が明けようとすると),復た還ってきた。數を數えること此の如くであったため、傍人が之を怪しみ、
夜中に照らし視たところ、唯だ身が有るだけで頭が無く、其の體は微かに冷え、氣息は裁屬していた。そこで乃ち之を蒙<おおいかく>すに被を以ってした。曉(夜明け)に至って,頭は還ってきたが、
被に礙<さまた>げられて安んずること得ず、兩三度して、地に墮つ。噫〓甚愁(#文字化けでようわかりません)、體氣は甚だ急となって、状は將に死さんとする若くとなった。そこで乃ち被を(とり)去ったところ、頭は復た起きて頸に傳わった。
有頃,和平(頃あい有って、容態が安定した?)。朱桓は以為<おもへらく>大怪であるとすると、畏れて敢えて畜せず、乃ち之を放ち遣わしてしまった。既にして而して之を詳らかとしたところ、乃ち天性であることを(それが自然なことであることを)知れり也。
時に南征した大將は、亦た往往にして之を得たり。又嘗て銅盤を以ってして覆った者が有ったが、頭は進むこと得ず(そこから先へ進捗出来ず、つまり頸に戻ろうとしたが果たせず)、遂に死せり。
げ。名前入ってたしorzzzzzzzzzzzzz
おぉ、なんか凄いな!おつです。
228 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 23:41:37
揚げ
「數を數えること此の如く」
( ゚д゚)
(つд⊂)ゴシゴシ
(;゚д゚)
(つд⊂)ゴシゴシ
_, ._
(;゚ Д゚)
此れの如きことが数々あったため、か。 大概俺も死んでんな
陸遜が神君だって呉書にあるらしいけど
どこに載っているのか教えてけろ
けろ?
233 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 05:58:20
UP
234 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 16:57:24
呉って何気に戦勝ちまくってない?
235 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 17:28:34
防衛戦は無敵。それが孫呉クオリティ
孫呉とか言ってる奴はたいていコーエー厨。
呉は呉でいいよ。
まあ春秋戦国の呉と混同しないようにとか…
東呉かなぁ?
でも南北朝の宋だって劉宋っていうし、魏も北魏があるから便宜上曹魏のほうが通りいいよね
つーか、孫呉って呼称自体は無双以前から普通にあるし・・・
確かに俺も普段は使わんけど、過剰反応するようなモンでもないんじゃなかろうか
調べもせずに「孫呉」が勝手に無双オリジナルの用語だと決め付けるお馬鹿がいるスレはここですか?
無双に出てくるからって過剰反応してすぐに無双厨叩きするのはどうかと。
肥厨か?蒼天とかもそうだが読み物だと孫呉って表記多くないか?
肥しか知らない奴が
肥が孫呉使ってる→自分を棚にあげて「肥厨」
と言ってしまったのだろう
221年に呉王として冊封されるまでは正式には孫権の政権は国号をもたない。
だから便宜上も形式上も孫呉でおかしいわけじゃない。
たしかに、江東一帯を呉、江南一帯を楚や荊と呼称することもあることから、
それ以前から江東一帯に割拠した孫氏政権を呉と呼称してもおかしいこともない。
ただそれを考証や背景も無視して肥厨や無双厨などと定義づけする姿勢の方が
よほど問題なだけ。
え?お前もしかして
さっきから話題になってる「孫呉」って
孫権が「呉」を建国するまでの通称のことだと思ってる?
…思わぬところから真性厨房が出たなwww
なんつうかこのスレって、煽ってるやつは論拠も示さないで無駄にスレを
消費させてる奴ばっかりだな
そりゃあ貶すだけならそれこそ厨でもできるもの
どんなに正しくても「真性厨房」とか「www」とか使ってると
とたんにお馬鹿にしか見えないからあら不思議
周瑜→魯粛→呂蒙→陸遜→朱然→諸葛格→丁奉→陸抗。
呉の荊洲方面担当者はこんな流れで合ってる?
>>250 おまいは正しいよ。
ただし、荊洲方面というよりは、呉軍の総司令官といったほうが無難かな。
孫峻、孫綝、呂岱、張悌こいつらは?
呂岱は荊洲方面担当(対魏蜀前線)というより南方担当のような気もする。
>>253 途中から荊州方面の副司令官格に転じている。
ていうか、呉は宰相クラスの重臣を何人も荊州に置いてる。
くそ暑い。葛仙公みたいに水中で寝てえ〜。
諸葛謹は?
ロバ
周瑜の時代は部下も魯粛・程普・黄蓋・韓当・呂範・呂蒙・周泰・甘寧・凌統と充実してたよな。
陸抗の時代になると朱積や鍾離牧がギリギリ生きてるかどうかってところだもんなぁ…
徐盛を入れずに周泰を入れるとは…
徐盛は赤壁に参加したと書いてなかったからということで。それに彼は当時まだ周泰指揮下じゃなかったけ?
時期的には他にも蒋欽、陳武、董襲、賀斉、等々もいて早くも隆盛を極めていた感があるな。
孫策時代の遺産+若手台頭の兆しとあの頃の呉の未来は明るかった。
ラクトウって、何した人?
>>261 陸遜の配下として宜都の戦役や濡須の曹仁戦で敵を打ち破ったりと地味に活躍
統治で治績を挙げたり、孫権にいろいろ上訴したり。早死、いい人
サンクス。それにしても呉はほんて早死におおいな。40前で死んだ功臣どれくらいいるんだろ。
じゃあ一人ずつ挙げて行くか。
周瑜
孫翊
陸績
凌統
松田優作
陳武
丁奉
孫瑜
孫権、呂岱、士燮
孫咬
孫文
孫正義
孫堅・・・と言って見る
>40前で死んだ功臣どれくらいいるんだろ。
~~~~
278 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/18(木) 21:16:46
ここにおるぞ
スレ違いだが馬岱を思い出した
280 :
276:2005/08/18(木) 23:01:15
そうか、波線の部分を見落としていた。ごめんよ。
しかし、君主も40前で死んだヤツが二人・・・
よく生き残るどころか一大勢力にまでなったな、と思う。
呉は偉台だ。
有能な宗室がバタバタ死んでるからなぁ。孫瑜・孫咬・孫桓・孫河あたりは惜しい。
死因も急死が多いよな。
孫翊でのうて?
スマソ。孫翊でつ。
「でつ」言うな。腐女子臭いぞ。
三男坊の場合、長生きしたとしても孫瑜兄弟や桓・韶らのような役割を与えられたとは思えんからなあ
孫権の晩年の暴走を止められる、数少ない人物になったかもしれんな>>孫翊
孫翊は粗暴だったらしいしなあ
粗暴な孫翊が耄碌した孫権の晩年の暴走を止める という香ばしい図式
>孫翊
あの若さで丹陽太守を任されてたぐらいだから、
長生きしたらかなりの地位まで昇ったんじゃないかなあ。
名前がいかにも臣下くさいのが。
孫権以上に長生きしたら孫峻・孫綝みたいになりそう…
>>291 あの時代は孫策のもとには孫策と同格クラスの人物が多く、孫策自身も最期まで
会稽太守であって刺史や牧にな(れ)らなかった。
丹陽太守であった呉景、廬江太守の李術、呉郡太守の朱治など、漢の官制のうえ
では同格になる人物が多く、そのため孫翊や孫賁、孫輔などの同族を太守に据え
たんじゃないのかなと思えてくる。
わざわざ郡を分割してる(これは孫権も大いにやってはいるけど)ところからして、
どうもそれっぽい感じがするし。
死んでからも親父と違い皇帝扱いされない可哀想な兄貴
長沙桓王?
あれは皇帝の系列を孫堅〜孫権に一元化させるための手段だから。
韋昭の呉書ではどういう扱いになってたんだろう
・武烈帝紀
・長沙桓王紀
・大帝紀
になってたのかね
それとも大帝紀の中に長沙桓王紀に相当する部分も一緒に含めたのかな
298 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 09:37:19
司馬師と違って孫策は直系の子孫がいるからな。
孫権とその子孫としては策を皇帝扱いには出来ないよ。策の子孫が皇帝を継ぐべきだ、ってことになっちゃうから。
だから独立した帝紀にもしなかっただろう。
299 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 11:45:49
儒の概念だと、兄の息子が継ぐのが順当で、弟が継ぐと不味いんだっけ?
300get
301 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 18:48:32
兄の孫休をさしおいて弟の孫亮が皇帝になる呉クオリティ
302 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 19:50:16
呉としては関羽倒して、劉備倒すまでは良かったけど
その後張遼にぼろ負けしたのは何故?
張遼がそんだけ戦上手だったの?
303 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 20:16:27
>>302 兵力差がそう大きくない場合は攻めるより守る方が有利だから。
305 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 21:21:44
関羽倒して、劉備倒した後に張遼にぼろ負けしたのか???
>>302 その後って、年代は?
222年の洞口の戦いではなく?
307 :
萌やし素麺:2005/08/31(水) 03:06:13
呉のせいで蜀が滅んだんだ!約立たずめ(´_ゝ`)
同盟軍が滅んだから自力で益州を手に入れた魏と戦わないといけないようになり滅亡
跡取り問題も滅亡の原因
>>307 蜀が滅んだのは宦官が権力握って
内部腐敗してったからだろ。
蜀滅亡の際に呉が何かしたのか?
お祈り
310 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 08:13:21
呉にとって蜀滅亡は益州領有の最大最後のチャンス
もちろん出兵して占領を狙ったけど、うまくいかなかった。
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 09:44:25
魏が滅亡するまで共闘はできなかったのかなあ?
過去に何度も言われているが共闘して曲がり間違って魏に勝ってしまった場合
漢室の継承という大義名分を持っている蜀に並べるはずもなく孫権が皇帝にはなれなかった
結局三国鼎立って状況自体に問題があったってことなんだろうな
314 :
萌やし素麺:2005/08/31(水) 10:19:05
呉が蜀に与えた影響→間羽や張飛等の武将に荊州南部と益州一部の上庸を失う(呉が荊州を取っても意味なし)(上庸は魏だが!呉のせいである)
315 :
萌やし素麺:2005/08/31(水) 10:25:40
呉は蜀が魏を討てそうな時要らんことをした!三国1悪者は呉だ!総ては呉が悪い
関羽や荊州が有れば蜀は天下統一可能だ(呉は揚州と荊州南部と交州が有るにも関わらず約に立たん)(同盟もな)
>>313 呉(江南)は三国鼎立の恩恵を一番受けているよ。
三国鼎立により、統一政権の中央の意向に振り回されることなく、江南の利害だけ考えて開拓や山越平定を進めることができた。
統一政権のもとで江南が一地方として冷遇されたままだったら、南朝の基礎となるほどの発展はなかった。
でも孫家ではなくそのずっと後に効用が現れても
結局蜀と足並みそろえられなくて魏に踏み潰されてるしな
319 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 11:38:26
三国鼎立したままでは嫌なの?広いのに
320 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 11:52:51
攻めるかせめこまれるかの時代だったし、
三国鼎立して、中原の治安がしっかりしてくると、以前中原から逃げていった人々が、魏にかえっていった。
その影響をマトモにうけた呉は人口がどんどん減っていったから、やっぱり三国鼎立は消滅するしかなかったんじゃないの?
元々ひとつの国だったのが群雄割拠の状態になって三つにまでまとまったんだから
当時の人間の感覚としてはまたひとつに統一されるってのが常識的な先行きだったんでないかな
322 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 12:30:43
江南の豪族たちにとっては、独立によって中央に中間搾取されることなく開発等をすることができたはずだから、数十年しか続かなかったとはいえ十分に恩恵を受けたと言えるよ。
鼎立がいよいよヤバくなったら本領安堵されるタイミングで降伏すれば良い話。
孫氏は雇われ社長みたいなもので、用がなくなればポイ。
なにこの見苦しい自演
どう見てもからかってるだけだろ。
同意してるように見えるのか?
326 :
萌やし素麺:2005/08/31(水) 15:16:06
323御前フザケテルだろ(´_ゝ`)呉が要らんことしなければ蜀はアレほど中が腐ることは無かった
そうだね。
久しぶりに涌いてきたね
無知な糞コテのでしゃばり
>>326 そーだ。そーだ。その通りだ。
郵便ポストが赤いのも皆呉のせいだ。
>>郵便ポストが赤いのも皆呉のせいだ
呉スゲェエエ!!!
なんつうか呉の建国は無意味だったとでも言いたげな
ネガティブな流れに驚いた
>>322 そこまでドライなもんでもないかと
陸機の弁亡論とか張悛の「歴代皇帝だけじゃなく孫堅孫策の塚も祭らせろ」表とかあるし
>>332 糞コテのたわ言を勝手に「流れ」にしないでくれ。
>>302 洞口の戦いは魏書だけみたら曹休、張遼の圧勝だけで終わってるけど
実際は暴風雨で呉軍の大半が転覆したところを攻撃されて呉軍は大被害を受けたが
それから全j・徐盛が少数の兵で奮闘して賀斉の援軍がきてから情勢は逆転している
それに関羽倒して、劉備倒してから曹丕の三方面侵攻戦まで
呉は苦しみながらもどれも勝利で終わってる、蜀魏に連続で攻撃されながらでも
最高の結果で終えてる
合肥を異様なまでに執拗に狙い続けてたのはなんでなの?
合肥⇔濡須
襄陽⇔江陵
>>335 合肥、ついでに濡須もだけど、淮水と長江を挟んだこの両所は南北の通行門のような物。
であるため地勢的に点での防衛が出来る土地。
だから呉が合肥を取れば防衛線を前進させ、
尚かつ魏の東方方面の防衛を面による防衛にすることが出来る。
逆に魏が濡須を抑えれば江南は丸裸になる。
>>335 それは呉にとって、長江を越えて魏に対して強固な橋頭堡を築く場合、
合肥以外にありえないから。
建安の半ば、曹操が周辺住民の強制移住を試み、その余波で周囲の
人口が激減している。
合肥新城はともかく、合肥は呉にとっても兵を進めるに水運の利便がよく、
落とせていれば大きな足がかりになったと思われる。
合肥を陥落させればそこを兵溜まりとして、いつでも中原に呉は出陣できる
だから魏も力を入れて整備と戦備をおこなうし
魏から見ても、ここは呉の喉元に匕首を突きつけたも
同然の場所
数度にわたる激戦もこれで理解できる
>>339のレスが二時間以上も経って今更な件について
二時間程度で今さらってことはないだろ
みんながみんな常時ネットできるわけではなし
っていうか、過疎ってるよな三戦板
こんなもんでいい。
これ以上厨が増えても仕方ないし。
でも厨の誰でも調べればわかるような質問で
スレが多少活性化してる面もある
345 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 10:28:01
挙げ
347 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 13:11:44
なんだかんだで呉が三国統一していたらその後はどうなっていたと思いますか?
対外貿易とかは発展してたかもしれんね。
孫権は海の外とかにも興味たくさん持ってたから。
孫権の代で統一していれば中華圏が広がり今以上にウザイ国家になったかもしれん。
孫亮以降ならあまり変化はなさそう。
>>347 孫権の後継者問題でたちまち国内大分裂に決まってるじゃないかw
>>350 ということは、結局八王の乱勃発で南北朝時代到来か
むしろ孫和と孫覇で天下二分の計
保守
孫策ってエロイな
ああ。エロいな。
エロイな
小覇王って凄いのか凄くないのか微妙ですね
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/20(火) 06:04:28
「小」ってのが、な。
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/20(火) 20:09:11
>>357 スゴいさ
覇王なんだから、あの若さで言われるのはスゴいさ
でも小だぞ
小は辺境での出来事だったからかな?
後、孫策は若い故に小覇王っていったんじゃないか?
小覇王が凄くなければ
小喬の立場は・・・
そもそも小覇王が美称なのか蔑称なのかも分からないからな〜
作者が同じ水滸伝では周通が小覇王という称号をもってるけどあんまり活躍しなかった気がする。
他にも小李広とか小温侯とかいるが小は似ているという程度の意味じゃないかな。
ど〜も勘違い男です
覇王項羽の弟、ぐらいの意味合いで
使われてたんじゃないのかな。
どこでそう見聞きしたのかは失念したけれど。
小覇王=今孔明=現代版項羽
「小」=小便の略
369 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 12:28:00
ヽ(`Д´)ノうお〜
淡路島(´_ゝ`)
370 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/01(土) 12:51:37
ほしゅ
そこで中覇王
じゃあ俺は中華王
あたいは中喬
>>350 孫登が生きてればすべて解決。
丞相諸葛恪、司徒顧譚、司空張休、太尉陳表。
理想国家成立。
諸葛恪は軍事係じゃないのか
>>374 丞相を設置しておいて三公制はありえないのでは?
377 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/08(土) 21:12:21
じゃあ丞相の代わりに相国かのう
一緒だろ
379 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/11(火) 21:49:01
丞相の代わりに徐庶
じゃあ太師で
381 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 03:57:38
呉って三国で一番恵まれた土地だよね
例えばどんな風に?
広さのわりに人口が少ないとか、異民族問題とか、
問題ばかりなイメージしかないけど…
防御力が高い。
つっても、蜀が滅びてからはダメだが。
天険の利は呉も蜀も同じだと思うぜよ
荊州を領有できたのがやっぱりでかいんじゃない?
土壌も肥沃で銅資源も豊富、荊州が必争の地と言われたことにも納得がいく
何かで魏が貨幣問題で頭を悩ませ続ける羽目になったのは
赤壁で敗北して荊州領有に失敗したからだという話を読んだことがある
そういえば、蜀や呉の貨幣問題の話ってあんまり聞かないな
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 14:06:11
大澤かい?
まあ確かに購読はしてるけど、
俺が読んだのはもう学生の頃で10年近く前だから、多分今月号の元ネタになった本だと思うんだ
おっと、忘れてた
>>386 dクス
非常に興味深いサイトだ
390 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 14:13:23
銅貨不足は漢の支配が荊州を含む全土に及んでいた頃からの漢王朝の懸案事項なので、赤壁うんぬんは妄想もいいとこ
391 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/14(金) 21:00:36
呉はマジで魅力的じゃん。
上海とか香港とか広州とかあるし。
392 :
388:2005/10/15(土) 01:58:11
>>391 三国時代に上海とか香港とか広州があれば魅力的なのだが
当時はそこまで発展した都市ではなかったしな。
貿易は盛んではあったけれど。
395 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/15(土) 12:26:46
曹操に象輸出
山越って実際なんなんですか?
398 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/18(火) 20:07:29
呉は三国一番の勝ち組だよ。
香港、深せん、マカオ、珠海、厦門、汕頭
上海、寧波、南通、温州、福州、広州、湛江、北海
これみんな経済特区。呉の領土だよ。
呉はめちゃくちゃ先進国だよ
ハイハイワロスワロス
>>398 当時の各都市の繁栄具合からは、
実際に呉自体が先進国だったことはありえないけど、
呉の国があったお陰で東晋ができ宋ができ、
中国南方が飛躍的に発展するキッカケになったことは確か。
なんだ、まともなスレじゃないか
402 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 20:12:11
呉越同舟の時代は中国南方が飛躍的に発展するキッカケにはならんかったな
孫武、伍子胥、范蠡、西施などが居たのにな
403 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 20:14:19
西施・・・・・・・・・
405 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 21:33:27
呉に限っての話ではないな
てか滅ぼされたのに勝ち組だとよ(´_ゝ`)
繁栄したら勝ち組だとよ(´_ゝ`)
なら今の首都を持つ魏は更に勝ち組だな( ゚Дメ )
406 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/19(水) 21:34:22
今中国が三国に分裂したら
呉が一番の勝ち組だって言ってんだよ
さては貴様、ウイグルの過激派だな?
孫策って曹真以下なん?
409 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 00:13:50
孫策は曹真以下の体重どす
410 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 00:19:17
誰も今とは言っておらん(´_ゝ`)
当時の事を言ってんだよ(´_ゝ`)
大体今また三分にしても勝てる訳が無いだろ?首都は魏だし、人口もやっぱ魏が多いしな(´_ゝ`)
ソレに今は水軍は意味をなくした
孫策は夏侯楙以下
412 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 00:38:14
孫策は夏侯楙以下の魏将どす
413 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 00:41:35
淡路島
>>410 今、中国で一番人口が多い都市は上海。
今、中国で一番栄えてる都市は上海。
原子力空母ミニッツ級は世界最強の機動部隊。
もういいって
意味ないし(´_ゝ`) ←こいつもキモイし
416 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 23:34:24
晩年の孫権と陸遜の確執が、よくわかりません。
讒言を信じたそうですけど、陸遜との信頼関係は、それしきの事だったのでしょうか?
晩年の孫権が立派な君主だったとは思えない。
417 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/20(木) 23:38:53
無理無理('A`)
大体呉の部分しか無いし
人口が多いって言っても総合的な人口は勝てん
更に今の呉は少し他の国に取られてるし
>>416 情報漏洩事件の時はかなりきわどい状況だったので、陸遜が疑われるのは仕方ない。
問題はそれ以前、孫権が孫覇を太子に立てようとしたことで、これは言い訳できそうもない。
でもまあ、孫和と孫覇を同じ待遇にしたのはカン沢なんじゃないかとか、
張温がアボーンしたのも太子付きの役職んときだったとか、いろいろ大変。
陸遜が疑われる所にいたのが悪い
皇太子と魯王のあれは、豪族の寄り合い所帯だった国を、
孫一族の国にする狙いがあったと言う人もいるみたいだな。
力を持ちすぎた豪族をあぼーんさせるために
互いに争うもとを作り、最後はどっちも成敗ってな。
陸遜って最後がイマイチ
丞相の資格なし。
422 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 01:28:52
陸遜は駄目だな
周瑜の字は公瑾。諸葛瑾の字は子瑜。
で、ここに、周瑜や諸葛瑾と仲が良く、
ふだんは周瑜を「公瑾」、諸葛瑾を「子瑜」と
呼んでる人――まぁ分かんないけど魯粛は二人と
仲よさそうだから魯粛ってことにしとこう――がいたとする。
で、ここに魯粛・周瑜・諸葛瑾の三人が
宴席を開いて酒でも飲み交わそうと言って集まった。
ここで魯粛がこの場で周瑜を「公瑾」と呼ぼうとすると
諸葛瑾の名「瑾」が出てくるから名を犯すことになる
一方諸葛瑾を「子瑜」と呼ぼうとすると周瑜の名を犯すことになる
「三国志 きらめく群像」という本には「ある人が桓玄という人の
家に呼ばれにいって冷酒を出されたが温かいのがほしかったので
『温酒』を下さいなと言ったら桓玄がおいおいと泣き出した。
というのも桓玄のお父さんの名前が桓温だから」
というエピソードが載っているが、どうも名を犯すのは非常に
よくないこと(父の名を犯すのはより一層よくないこと)らしい
そうすると魯粛は周瑜を「周さん」、諸葛瑾を「諸葛さん」とか
呼ぶことになるがふだんは字で呼び合う仲なのに急に
そんな他人行儀な呼び方になるのもちょっと変だ
さてそこで問題です。
魯粛はふたりをどう呼べばいいでしょうか?
オレ的適当回答
・別名を持ってる人は時々いるから周瑜と諸葛瑾もこういう時のために
別名を持ってたかもしれない(史書には書いてないから分からないが)
もし持ってるならそれで呼べばいいはずだ。たぶん
誰かもっといい回答考えて
つーか長文ウザくてゴメン
>>423 普通に官職で呼べばいいだけ。
ちなみにこの手の話は「司馬朗伝」でも見ることができる。
しかし、官職で呼ぶのも他人行儀なキモスw
名字+官職名が一般的な呼び方だったじゃまいか。
人前や公の場所では改まった呼び方をしても不思議じゃないと思うお。
「おい子敬」
「なんだい周都督」
と片方だけが官職で呼ぶとちょっと変だよな
魯粛が格下ならともかく
名を犯すというのはどういうことですか?
名前を読んではならないということですか?
>>428 親族の目上の者や、上司やなんかでもない限り、名前を直接呼ぶのは失礼な行為なんだよ。
だからその人を呼ぶために字名があるわけ。
劉備で説明すると、劉備や備と呼んでいいのは、親と限られた人間のみ。
だからフルネームで呼ぶときも、その一部の人以外は劉玄徳と呼ぶし、
普通は役職名だけで呼んだり、名字+役職名で呼ぶ程度。
劉備の場合は劉予州とかって呼び方が、小説とかでも良く出てきたろ。
あれは予州の州牧だったから、名字+役職名で劉予州なんだよ。
上で出てる周瑜の字名は公瑾で、瑾が諸葛瑾の名前と一緒だから、
諸葛瑾のいる時には、字名で呼んでも良くないって話。
>>429 結構厳しいルールがあるんですね。勉強になりました。
そういえば周瑜も瑜とか呼ばれてるのを聞いたことなかったです。
そっか孫堅は策、権と呼んでましたね。
ありがとうございました!
ルールというか、当時はそれが常識だったわけさ。
日本でも気心知れた仲でなければ直接呼び捨てにはしないし、
仲良くても通常は目上の人を呼び捨てにはしないだろ、それと一緒。
官職名というか、役職名で呼ぶ習慣は日本にもあるしな。
定員数一名の官職であれば姓も呼ばない可能性もある。
だから笑いのネタにしている奴もいるが、「鎮軍大将軍・陳羣」などといった
呼び方は上奏文など公文書のうえでしかまずない。
>親族の目上の者や、上司やなんかでもない限り、名前を直接呼ぶのは失礼な行為なんだよ。
>だからその人を呼ぶために字名があるわけ。
それっていつ頃までの風習なんだろう?
唐代の詩人の孟浩然は、名も字も浩然だったような・・・
>>423以下は全員ネタってことでいいんだよな…?
まさか日常単語や第3者の名前を呼ぶときまで、
相手の名の字は一切使っちゃいけないとか本気で思ってるわけじゃないよな?
おいおい。昔の中国人、他人と会話なんてできないじゃんw
一般名詞ならまだしも「韓当」みたいに基本文法語を名前にしてる奴なんかどうなるんだよw
高島俊男が出してる桓玄のエピソードはさ、桓玄の親孝行っぷりを語った話であって
普通は日常会話の端に父の名の字が出たくらいでそこまでデリケートにならないのに
「孝心ゆえに人一倍こだわった」という珍しいエピソードだから世に残ったって話だろ。
逆に言えば、それが当たり前ならそんな話が残るはずない。
436 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/22(土) 16:12:52
父や皇帝の名(諱)の場合は日常的な言葉の中でも避けていたはず。
漢語は同じ意味に言い換えたりして意外となんとかなるはず。
偉そうで賢そうなのはわかったがwは見苦しいな
>>435 悪いが、日本でもあったぞその習慣。
諱ではなく、仮名や官職名、法名などで呼ぶのが普通。
諱は読めばわかるが忌み名だからな、目下や同僚がその名を口にするのは大変な失礼。
石田治部、吉良上野介、浅野内匠頭、水戸黄門、加賀大納言、内府殿、本多平八etcetc
現代の感覚で当時の風習は語らない方が吉。
唐の頃は李世民の「世」も「民」も避けなきゃいけなかったから大変だったんだよな
>>438 こっちの文章を全く読まずにレスしていただいてることだけは分かった。
太宗は避諱を免ずる詔を下してるから何の問題もないな。
>>441 いや、問題あったぞ。
「世→代」、「民→人」と言い換えるようになった。
議論するのはいいんだけど、どうしてわざわざ煽るかね。
淡々とやってくれよ。
そこまで見苦しい煽りでもないし多少熱くなるのはいいんじゃないか。諱とかイマイチ詳しくないから楽しませてもらってるよ。
wとかは控えてほしいけどな。
446 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 17:54:08
どうでもいいかもしれないけど
>>434が気になる。
エロイ人答えて。
447 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/23(日) 17:59:24
投資顧問会社を経営している元彼Y(元暴力団員)との体験記です。
覚醒剤の売人・拳銃所持・警察捜査情報横流し・未公開株詐欺の手口・二八商法に騙された人達・・・すべて実話です。
http://plaza.rakuten.co.jp/noapan001/ 人気WEBランキング日記部門ダントツ1位
<一部>Yは、『俺は、綾瀬警察と、中央警察にスパイを置いているからな。情報
は、すぐに入ってくるんだよ。』
と、いっていました。
この後、Yは移動した覚醒剤を、他の暴力団員に売らせています。
その暴力団員も、また、会社の社員です。
私は、この時の出来事を、綾瀬署の捜査の方、捜査課長と高橋さんに
確認しました。
捜査課長は、Yに連絡した刑事がいるという事を知らなかったようでしたが、
高橋さんは、確かに、誰か、Yに連絡した事実はあると、言っていました。
警察は、家宅捜査する前に、前もってYに情報を流していたのです。
<詳細・・覚醒剤を売る人達>
↑なにこれ
科挙だと皇帝の名の避諱をしなきゃいかんとうるさかったそうだから
科挙に落ちてイヤになった孟浩然が名も字も一緒にしちゃったんじゃないか
名を避ける習慣は清代の頃まであったっぽいけど
450 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/30(日) 23:49:39
みなさんこんばんは。
三国志は最近興味を持ちました。友人から特に赤壁の戦いが大事な部分だと言われ、それについて学ぼうと思って
「赤壁の宴」という文庫本がブックオフに買ってあったので読んでみました
でも、主人公の周喩という将軍が、いつも孫策という友人の脇の匂いにクラクラしてばりだったんですけど・・・orz
三国志ってあんなに変な同人誌みたいな世界なんですか?皆さんもああいうのにハァハァしてるんですか?
だとしたらちょっとひいちゃいます
>>450 | 釣れますか? ,
\ ,/ヽ
 ̄∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ,/ ヽ
∧_∧ ∧∧ ,/ ヽ
( ´∀`) (゚Д゚,,),/ ヽ
( ) (| つ@ ヽ
| | | ___ 〜| | ヽ
(__)_) |――|. ∪∪ ヽ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| ヽ
/⌒\/⌒\/⌒\/⌒\|彡~゚ ゜~ ~。゜ ~ ~ ~ ~~ ~ ~~ ~ ~~ ~~ ~~
⌒\/⌒\/⌒\/⌒\/⌒\彡 〜 〜〜 〜〜 〜〜 〜 〜
そういや、ジョン・ウー製作の赤壁の映画ってどうなってんだろうな
453 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/31(月) 05:44:31
赤壁に鳩が舞うのだろうか・・・
454 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/31(月) 08:33:46
>>449 唐の郭子儀も、名も字も子儀で同じだったよ。
何故?
455 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/10/31(月) 11:56:34
字制度マンドクセ(´д`)って奴が出始めた時代ってことかな。
字を改めた奴は結構いるが、名を改めた奴っているっけ?
>>456 陸議→陸遜、李厳→李平、廖淳→廖化、狐篤→馬忠……
蜀ヲタゆえ蜀の人間が多いが許してつかあさい。
程c、張遼も
丁密→丁固、滕密→滕牧、孟宗→孟仁
韓約→韓遂
って考えていいの?
朱全忠や文天祥の様に皇帝から名前や字を貰った奴は三国にはいなかったな
孟達は劉備の叔父に遠慮して字を子敬から子度に改めてはいる
何平→王平だっけ?
愈桓→孫桓
秦真→曹真
朱績→施績
>>463,465,466
それは姓が変わった例で名が変わった例じゃないでしょ。
468 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/04(金) 22:37:35
最早、呉のスレではない
>友人から特に赤壁の戦いが大事な部分だと言われ
赤壁の戦いは呉的にはどのぐらい大事な部分なのだろか?
一番大事
471 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 15:18:48
負けたら、呉と蜀は無かった
472 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/06(日) 17:13:11
473 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/07(月) 20:49:56
赤壁の戦いは魏的にはどのぐらい大事な部分なのだろか?
精一杯記述をぼかしたいくらい大事。
劉備に負けたんだと思い込みたいぐらい大事
周瑜に負けたのなら恥とは思わないくらい大事。
絶壁に「赤壁」と書いてしまうくらい大事
魏が中華統一を果たせなくなった歴史の転換点
他に歴史の転換点となった戦いは
官渡
漢中(とそれに引き続く荊州争奪戦から夷陵までの流れ)
鍾会の征蜀
征呉
こんなところか
後頭部が絶壁じゃなくて赤壁だったらやだな
>>478 征呉は西晋の歴史だから魏の転換点ではないのでは
あと司馬懿のクーデターや曹髦の逆クーデターも入れとけ
他国との戦いではないけど、小規模ながら戦でもあったぞ。
>>480 "他に歴史の転換点となった戦いは"って書いてあるよ
てか、征呉を入れていいなら八王の乱のほうが重要な気が
征呉で三国志終わりだろ
西晋は板違い、だけど
八王の乱は魏晋南北朝って大きな括りの中で一番の転換点だよな
八王の乱自体は王族と貴族と寒門の争いだからなぁ……
途中、異民族を巻き込んだのは転換期だが、匈奴の台頭は時勢だった気がする
北魏の台頭と漢民族化が一番の転換期な希ガス
北魏の台頭と漢民族化の原因は八王の乱でしょ
あとこれ転換点になった「戦い」の話でないの?
>北魏の台頭と漢民族化の原因は八王の乱でしょ
すげえ結び付けだな…
全く因果関係がないとは言わないがあまりに遠すぎるぞ
「大阪夏の陣の原因は応仁の乱でしょ?」と言い張るのに近い。
流石にな……
漢民族以外の民族が中原に流れ込んでくる“きっかけ”が八王の乱
“原因”は又、別の所にある
北魏の台頭は単純に拓伐氏が十六国が争う中原に巻き込まれなかったことや、拓伐珪の才覚に負う所が大きい
むしろ、一人の英雄によって多いに興隆するのは異民族ならでは
漢民族化は、皇帝や漢人宰相・官僚が推進した他に、符堅が育てた民族融和政策の芽だろうな
大体八王の乱を「戦い」という区分に入れていいのかという疑問も
まぁ赤壁の戦いも烏林で小競り合いがあったあと
曹操軍の兵士が病気で戦える状態じゃなくなったから
船を焼いてさっさと逃げたという説もあるから
多少戦ってるなら「戦い」でいいんじゃないか
呉書の記述丸々無視かよ
だからその呉書の呉主伝にある話だろ、逃げたという説は
小競り合いだけだったわけじゃないだろってこと
>大体八王の乱を「戦い」という区分に入れていいのかという疑問も
俺もそう思う。
戦争っていうより政治史的な側面が強くないかなって思うよ。
戦いはやっぱヒ水とか侯景の乱とかだろうね
三国時代に大司空という役職はあったのですか?
魏にひとりだけいる
499 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/11/14(月) 19:39:31
三国時代に大司徒という役職はあったのですか?
あった
三国時代に大悪司という役職はあったのですか?
502 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/15(火) 01:09:43
三国時代に悪代官はいたのですか?
三国時代に越後屋はいたのですか?
>498
どうも
太史慈は太史慈伝を読んでもそんなに凄い人なのかな?って
思うんだけど、知勇を兼ね備えてるから凄いのかな?
何か太史慈のエピソードがあったら教えてください。
太史慈は弓の名手で、孫策と一騎打ちする武のイメージと、
兵を集めて戻ってくる約束をして、とんずらすると思われていたが、
帰ってきた事で賞賛された忠のイメージで凄いんだろ。
確か赤壁前に死んでるから、あんまり活躍してないんだよな。
母親が世話になった孔融を助けたり、
敗残兵をまとめて戻ってくるから解放してくれと言って出て行き
約束を違わずに戻って来たり、
曹操からのヘッドハンティングを断ったり、
忠義にまつわるエピソードが多い。
劉ヨウの残党をまとめあげて孫策軍に投降させたのは
かなり大きなことだったんじゃないかな。
ゲームのイメージとかで劉ヨウの勢力はショボい印象強いけど。
太史慈は伝を読むと独立不羈の人であることが解る。一種の群雄。
孔融とのエピソードも忠義とは違う。彼は孔融の部下ではなかった。
高く評価されていたことに対して恩返しをしただけで、あくまで個人的な行動。
劉繇の時も同じで、太史慈は劉繇の部下というわけではない。
会ったばかりの客分に大将を任せろという声が上がるくらいだからその名声の高さが伺えるし、
また偵察を任されただけなのにたった一騎しか従えていない状況で孫策を討ち取ろうというのも、
やはり孔融救出の場合と同じく個人的な行動であったと言うことができる。
その後に孫策の配下に加わるわけだが、劉繇の敗残兵を吸収させた際の
「子義捨我,當復與誰」という孫策の言葉も、配下に対するものとしては妥当じゃない。
この言には、客分に対するようなニュアンスが含まれているように思える。
南方を任されたというのも、当時の孫呉の規模を考えれば凄まじく大きな扱い。
最重要といっても良いほどの任務で、孫呉政権に占める存在感は圧倒的だったと考えられる。
こういう人物を他に探すなら、たとえば曹操における張邈や;
陶謙や曹操、劉表に身を寄せていた頃の劉備、あるいは田疇などが挙げられる。
ただ、悲しいことに死んだのが二〇六年。
孫策の死後、孫呉勢力は不安定な状態が続き、二〇三年の黄祖討伐では後方で山越の叛乱が、
その翌年には孫翊が暗殺されるという非常事態が起こるなど、内政に力を入れねばならない時期だった。
攻勢に転じたのは二〇七年、太史慈の死から一年後で、そこからの怒涛の躍進には一切関わっていない。
生きていれば、周瑜、程普、呂範に並ぶ重鎮として活躍していたことだろうに。
でも許子将にはあまり評価されてなかったんだっけか。
許子将の人物鑑定がそもそもあまり確かではない
許子将には不評だが、
陳寿には好評価をもらってるね。
513 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/11/16(水) 21:23:54
許子将の太史慈評はどんなんだったんだろ?
忠孝の精神が高いからな。
呉書には「許子将が太史慈を低く評価した」とは書かれていない。
劉繇が勝手にそう思ったというだけのことらしい。(よくワカランが)
劉繇が許子将の評価を気にしたのは、おそらく太史慈が儒教的には
如何なものかと思われるような事件で世に知られるようになった人だからだろう。
これは太史慈にとっては致命的な経歴で、ほとぼりが冷めるまで遼東に身を隠さねばならず、
そのせいで彼は乱世に出遅れたのだと言ってもいい。(活躍するのは遼東より戻ってからのこと)
もっとも、そんな経歴でありながら孔融のような大儒者に高く評価されていたりもするのだが、
しかし彼の方からその孔融を見捨てた上で、劉繇のもとを訪れている。
陳寿が匂わせるところでは、太史慈は劉繇のもとも去るつもりだったらしい。
たまたま孫策が攻め寄せたために留まっただけのこと。(義心からか功名心からかは謎)
五常のうち義しか持ち合わせていないような行動パターンなので、儒教的には微妙な人材。
また、太史慈は自分の兵力をまったく持っていなかったということもある。
つまり彼を重用するということは、完全に太史慈その人を重用するということに他ならない。
そのへんも、人物評に気兼ねせざるを得なかった所以ではないかと思われる。
孔融は儒者としてはちょっと破天荒な言動が多かったし、
太史慈みたいなのはむしろ馬が合ったのかもな。
劉ヨウと太史慈は同郷な訳だし、劉ヨウは当時それなりに大勢力だったし、
太史慈から積極的に会いに行ったんじゃね?
太史慈は孫策に敗戦後山越部族を率いたりと、
結構型破りな人物だったような印象を受けるなぁ。
>>515 DQN集団である孫家とは合いそうな感じだな。
孔融は建安文学の先駆者でもあったりとただの儒者じゃないな
ベクトルとしては曹操に意外な程に近い
欠点は実務能力がその文才や性格について行かなかったってだけで
太史慈って三国志に詳しくないと評価するのムズイんだね
半分しかわからん
大史慈だけでなく、曹操の時代の人間は記述が少なくて分かりにくい傾向にあるな。
魏略が完璧な形で今日まで残ってたら、また違ったのかもしれないけど。
魏書を書いた奴は三国志読んで自分で破り捨てちゃうしな
史官が居ただけ、呉と魏は、蜀よりも大分マシといえるかもしれないが、
魏は記載漏れやら司馬氏への配慮が多いし、呉も孫ショウが抜けてたりするしなぁ。
スレ違いだけど、蜀は流浪時代の記述がほとんどないよな。
呉も孫堅、孫策時代はあっさりし過ぎだな。
文台パパの野望と陰謀にまみれた大陸縦断暗殺行とかすげぇネタになるのになぁ。
長沙から北上する孫堅は、
まさに無法者そのものだったな。
でも超カッコイイぜ。
>>524 蜀も全く史官がいなかったわけじゃないけどね。
孫堅は野望というよりかえって勤皇思想は濃いと思うんだが。
だからこそ当時でいえば勤皇と思われていた袁術に従ったと思うし、董卓との
戦いでも最も気を吐いて懐柔策にも見向きせず皇帝陵墓を修繕したりもした
と思うんだけど…
荊州刺史と南陽太守を殺したのはまずいけど。
息子も娘も親父にそっくりの性格だね
劉備や曹操、袁紹、太史慈なんかもそうだが、ほとんどみんな勤皇なんて考えはびた一文持って無かったように思えるよ、三国志とかの記述を信じると。
「自分が」天下を取る気まんまん。
もはや漢の命数は尽きつつあるのが共通認識で、皆次の天子になる野望を秘めていたんだろうか。
堅だけ勤皇とは思えねえ…
長沙で軍閥化していたパパが勤皇思想なんか持ってる訳ないじゃん
単純に兵站線の問題で洛陽以西には踏み込めなかっただけのことよ
>>531 勤皇はとりあえずの大義名分だろ。
どう見ても名を上げるために、
勤皇・賊徒討伐を掲げて好き放題してるし。
マジ勤皇はないというのが前提で、後は気分勤皇があるかどうかだな。
堅パパの場合、気分勤皇はあった。曹操にも一応あった。劉備もたぶんあった。
董卓はゼンゼンなかった。袁紹もなかった。劉焉あたりも無し。
この気分勤皇って、結構明暗のわかれるところかもしんない。
董卓的には劉協を主君に据える事で勤皇としてたんじゃない?
袁紹も劉虞を大義名分にしようとしていたし、全然なかったとは言い切れないな。
劉備、劉焉は自分が劉姓だから、特に必要は無かっただろ。
ただ劉備は出所の怪しい「劉姓」だったから勤皇の態度は必要だったかもしれない。
孫堅が皇帝陵墓を修繕したのは、そういった所の「政治宣伝」だろ。
袁紹は勤皇の意思はあったが劉協への忠誠は皆無だった
「皇室への忠誠」はあったが今上帝は軽んじていたと言うべきか
董卓は袁紹に「劉氏の血は後世に残さない」と漏らしたからどっちへも0だろうな
確かにそうだけど、董卓の「勤皇政治宣伝」として劉協をつかったのは事実だし。
他の人物(孫堅含めて)も本心から「勤皇」を考えていたかは別だろ。
必要性の問題だけじゃなくて、感性の問題もあるんじゃないかね。
やっぱり漢という国号、劉という氏姓の持つ意味はきわめて大きかったわけで、
それは漢室再興や劉氏擁立のお題目を利用しようという政治的意味だけでなく、
究極的には簒奪するつもりであっても気分的には「漢の忠臣」に憬れるというような、
微妙なメンタリティのなかに息づく感性として残っているように思える。
建安十五年(二一〇)の曹操の布告なんか、まさにそんな感じ。
たまに「当時すでに後漢はボロボロで、真面目に漢室再興なんえ考えるヤツはいなかった」
みたいなことを書いている本があるけど、そんな単純なもんじゃなかろうと思う。
劉邦の建国から王莽の簒奪を乗り越えて復活した漢に対する畏敬の念みたいなものは確実にあっただろうね
500年も続いてたんだし、
民の中には、日本国民の皇家に対する認識と同等か、
もしくはそれ以上のものがあるんじゃないかね。
象徴でしかないけど、アンタッチャブルで不変の物って感じの。
魏建国直前は漢王朝への忠誠を掲げた反乱も相次いだし。
>>540 乱世に突入する前から中央に関わってた中堅どころは確かにそんな感じ。
でも元々高位にあった連中や、ずっと地方にいた奴らはそうでもない。
孫堅はどうだったのかな。
禅譲の時曹操の娘で劉協に嫁いでいた曹節は曹丕をなじった
魏臣の中にも禅譲時にもの凄く嫌な顔をした奴が何人も出たし漢への想いってのは俺らが想像する以上に強かったんだろうな
ちなみに曹丕は嫌な顔をした臣下を忠義者として誉めている
曹丕の考えることはワケワカランから放置の方向で。
>>545の考えることはワケワカランから放置の方向で。
まあこのスレで語ることじゃないのは確かだが
548 :
545:2005/11/18(金) 22:38:27
なんかスマン。
曹丕は直言極諫の臣を忠義者として讃えることもあればそういうのを疎んじることもあるし、
あんま参考にならない処置だよなーと思ったのだ。
>>548 禅譲に関する廷臣の進退は特別なものがある。
王朝の代替わりであっさりと鞍替えする者よりも節義を通す人物が称揚される
のはどの時代もあまり差はない。
漢が明日の魏の姿と思えば、あっさりと魏の禅譲を寿ぐ者は次代の王朝にも
あっさり乗り換えるってあたりの意味を含んでると曹丕は感得したんだろう。
ついでにこういった場合、罰するよりも褒めた方が政治的効果が高いに
きまってるし、パフォーマンスの意味もある。
>>549 でも、蘇則伝みたいな例もある。
だからよくワカランと言ったのよ。
やっぱり蘇則が…
ただ彼に関していえば孫盛の評価が頷けてしまう。
汲黯を敬慕していながら汲黯の志操を踏襲しきれてないよね。
最後にはどうしても保身がちらついてしまっている感じがする。
蘇則の生涯はかなり汲黯ぽいでしょ。
ただ、禅譲の話についてはタイミングが悪すぎた。
曹丕は禅譲云々のことではなく曹植について嫌味を言おうとしただけで、
あの場面で蘇則が忠臣発言していたら話がこんがらがってしまったはず。
止めた傅巽はグッジョブ。
まあ、蘇則に対する孫盛の評は正しいと思う。
孫盛らしからぬ内容なのでなんか腹が立つけど。
孫盛が孫資の子孫だと知ったときは驚いたな
孫資ってなんだっけ、
明帝臨終の時に暗躍したやつだっけか。
孫資と劉放は皇帝権力強化のために活躍した人。
蜀の陳祗みたいな感じ。
エグイ官位で力を振るうので、嫌われる。
孫資はそれなりに人望があったよ
劉放は嫌われたが
変わらんよ二人とも
才能は劉放の方が上だが、人柄で孫資が勝るなんて評されてた筈
ドングリ同士を背比べさせても時間のムダ
ひどい評価だな
まあ彼等は魏の滅亡に深く関わった人物だが
そんな酷いことはやっとらんよ
曹操の時には只の雑用が
曹丕の時には書記係になって
曹叡の頃にゃ、秘書官として権勢を得たんだから
どうでもいい存在じゃねーよ
>>557=
>>559
だから皇帝親政のためには孫資・劉放みたいな人間が必要なんだって。
ただ、そういう人間は皇帝ないしは自分自身の死によってシステムに禍根を残すことになる。
陳祗は黄皓を使って辣腕をふるったが、自身の死後に黄皓がのさばってしまった。
孫資・劉放は曹叡の死と共に、自分らの保身に走らざるを得なくなってしまった。
前後漢ではそれは宦官の役割だったんだけどね、主に。
あの当時は宦官が粛清されたあとだったから士人だった。
不当に悪く言われがちな存在ではあるよな。
呉で言えば孫弘だな
このふたりのおかげで宗族で力のある家は曹爽の家だけになったようなもん。
んなもんだから司馬懿の政変以降は曹氏の出る幕なし。
孫弘と孫資は親戚?
>>524 蜀書の本文中には史官がでてくる。史官はいたが完全ではなかったということか。
(呉は韋昭の『呉書』がほぼ完成していたので利用できた)
>>531 殺した荊州刺史の一族が、東晋で羽振りを利かせたのは歴史の皮肉か。
>>568 史官は居たが、姜維が焼いちゃったほうの損失が痛かった訳か。
焼いたのは魏軍だろ
蜀にもともと史官がいなかったというのは後主伝の陳寿評から。
ただ、蜀書の別部分に「史官」が出てくる部分が数箇所あって、矛盾している。
じゃあ実際はいたのかいないのかというのは、
今も議論が分かれるところ。
劉知幾の「まともな史官はいなかった」という説が一番穏当な気がするけどね。
「史官を置かず」云々は「諸葛亮は政治に熟達していたけれどなお周到でないところがあった」という文に繋がってくるから諸葛亮時代に史官はいなかったというだけじゃないのかな?
その後、景耀元年(258)までには制度としては整っていたと思うけど……どうなんだろう?
鍾会の乱で散逸した史料も結構あったと、推測ではあるけど、思う。
すーぱーさっく
呉スレなのに呉以外の話題大杉
しかし面白い
くれスレあげ
576 :
朱然:2005/12/30(金) 20:57:10
こんばんは
こんばんは
かなり面白いのでホシュ。
579 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/02(月) 22:51:10
面白いけど、たまには呉の話題をキボンヌ
闔閭でも夫差でも孫武でも伍子胥でもいいからさ
580 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/02(月) 22:55:14
高祖が「数十年後に叛乱する奴がいるけどお前じゃないよな?」なんて言うから呉王が叛乱したんだと思う。
>>580 GJ!
リュウビ最高!
でも劉シ鼻だが。
582 :
無名武将@お腹せっぷく:2006/01/02(月) 23:55:25
呉王の太子を殴り殺した景帝最高
リュウビの息子は劉賢
儒者に馬鹿にされた張士誠カワイソス
呉の実権を握った徐温・徐知誥について語ろうか
>>585 いいねえ。
ついでに張、厳可求、李建勲あたりの話もキボンヌ。
魯粛は人と接する事が上手いから、あやかったみたいな事を聞いた