島津が全国制覇に乗り出してたら徳川時代なかった

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889無名武将@お腹せっぷく:2006/01/20(金) 23:28:38
麒麟も老いればなんとやらだね・・・・・
関ヶ原での孤立・敗走を見ると、この人やっぱ兄貴が後ろでいろいろ
やってくれてこその活躍だったんだなぁ・・・って思うね
890うん。兄貴器デケェよな〜:2006/01/21(土) 18:43:56
>>889 初代薩摩藩主っていえば家久じゃん?で、家久は義弘の息子なんだよね。
んで、豊臣の策略の影響もあって義久とはあまり仲良くなかった(´・ω・`)

だから家督継いだ後も義久が実権握ってて、家臣団も殆ど義久シンパだった。

泣く泣く家久は家康にすがり付いて、一時期は養子をもらうほどに追い詰め
られていた。
891無名武将@お腹せっぷく:2006/01/22(日) 22:30:18
甲州兵、越後兵、三河兵が強いと言われるが、もし薩摩が中央に来たら
最終的にはみんなレイプされるよ。
892無名武将@お腹せっぷく:2006/01/24(火) 00:01:58
みんな「に」レイプされるなんて、なんてかわいそうな
でもよかったね。
それほど魅力があるわけじゃなくて。
893無名武将@お腹せっぷく:2006/01/28(土) 22:40:11
894無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 02:41:22
>>1
同意
島津が最強なのは確定事項だし、今更反論もないと思うけど、本当本州にいなかったのが惜しまれる
895無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 04:36:54
本州に居たらあっさり潰れてた可能性は高い。
確かに精強なところもあったかもしれないがそれだけじゃ戦には勝てない。
島津が勢力を伸ばせたのは大友が自滅したせいだし、かなり時間もかかってる。
激戦区に居たら多分戦備が整うまで待ってもらえないと思われ。
896無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 05:32:00
>>894 寝言いう暇あったら戦国島津氏の年表でも見るんだな。

島津忠良時代…主に薩摩全土を舞台に、主家分家入り交じって戦争状態
島津貴久時代…ようやく戦争状態が落ち着く。忠良時代の影響もあって
国人の力は強い(武田家と似たような状況)
島津義久時代…日向の伊東氏が暴君でなかったら、領土拡大は史実どお
りにいかなかったろう(木崎原の戦いなど、伊東方の戦意は低かった)
http://www.hyuganokami.com/kassen/takajo/takajomenu.htm
897無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 05:37:03
898無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 18:42:02
島津がそれなりに勝てたのは、伊達が領地伸ばせたのと同じ理由
そしてやたら強いと後世に持ち出されがちなのも同じ理由
つまり、僻地だからどんな嘘も吐ける

しかし現実は、天下人の領へ乗り込んだり噛み付いたりさえせずに、降伏。
899無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 22:23:06
日本の端っこだからな、本州の武将のように
常に両面作戦で背後を突かれる事を恐れ、ビクビクする必要が無い分
九州を北上していけば良から戦略面では単純で済む
900無名武将@お腹せっぷく:2006/01/29(日) 23:38:02
功績のある伊集院一族を嫉妬と疑心で誅殺するのがたまらなく嫌い。
大勢力になったらどんな陰惨な政治を繰り広げるんだろうな…
901無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 00:00:47
本気になったらなったで薩摩芋の補給切れて島津の方がアボンだろ
902無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 00:10:46
毛利でつまるか
いや四国路もあるか
九州統一しても出ていくのは大変そうだ
903無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 04:29:01
島津はロジスティックが弱かったと聞いたことあるけど、
いつも兵糧等送れずに対戦相手より寡兵になったのを
なんとか戦術で補ったとの事。
九州から出られる程の器じゃない。

案外、石田光成に兵站を教わったんで、関が原でも西軍に付いたとき
強く意見できなかったんでは。
904無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 18:21:53
>>903
そのへんは近畿や東海地方と比べて商業が未発達だった南九州を本拠地にしてた
弱みだな。
905無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 23:38:23
手取川の戦い(てとりがわのたたかい)は、天正5年9月23日(1577年11月3日)に上杉謙信軍が織田信長軍に大勝した戦い。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%8B%E5%8F%96%E5%B7%9D%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84

1576年、越後国の上杉謙信は能登国を支配下に置くべく、二万余の大軍を率いて侵攻した。
これに対して当時の能登の領主・能登畠山氏(この頃、能登畠山氏の当主は幼年だったため、実権は家臣の長続連が掌握していた)は七尾城に籠もって抗戦する。
七尾城は北陸においても屈指の堅城であったため、さすがの謙信も攻めあぐみ、上杉軍と畠山軍の戦いは翌年までもつれこんだ。

ところが、七尾城内でとんでもない事態が発生する。指導者の長続連は上杉の大軍に対抗するため、百姓や町人までもを七尾城内に入れていたのだが、
それだけ多くの人が集まれば、トイレなどの問題が起こった。これだけの人数の糞尿を処理できるだけのトイレが城内にあるはずが無く、
城内のあちこちで糞尿の垂れ流し状態となり、城内は極めて不衛生な状態となった。これが原因で七尾城内で疫病が発生し、
そしてこともあろうに畠山氏の当主・畠山春王丸までも病死してしまったのである。これにより、畠山軍は危機的状況に陥った。

そこで、続連はかねてから誼を通じていた織田信長に救援を求めるべく、息子の長連龍を使者として安土城に派遣した。信長としても謙信の勢力拡大は望むところではなかったため、
即座に援軍の派遣を決定し、柴田勝家を総大将とした一万八千人の軍勢を先発隊に、そして信長自らも三万の軍勢を率いて、後発隊として出陣した。

ところが、信長の援軍が到着する前の9月15日、かねてから続連が実権を握っていることに不満を抱いていた遊佐続光、温井景隆ら親上杉派の一派が謙信に内通して城内で反乱を起こした。
このため、続連をはじめとする長一族は皆殺しとされ、七尾城は落城してしまったのである。
906無名武将@お腹せっぷく:2006/01/30(月) 23:39:39
織田軍の先発隊を率いる総大将・柴田勝家は七尾城の落城を知らないまま、進軍を続けた。
しかし、この進軍の途中で、かねてから勝家と犬猿の仲にあった羽柴秀吉が、勝家と意見が合わなかったことから対立し、
勝手に軍列を離れてしまうなど、織田軍はすでに内部が崩壊していた。

一方、柴田勝家率いる織田の援軍が来ていることを知った謙信は、直ちに七尾城から出撃し、手取川付近にあった松任城に入った。
これに対して勝家が七尾城の落城を知ったのは、七尾城を救援すべく手取川を全軍が渡河し終えたときであり、しかも謙信率いる敵軍が松任城に入っていることも知った。
七尾城が落城し、しかも謙信自らが軍を率いて近づいていることを知った勝家は慌てて撤退命令を出したが、
その撤退途上に織田軍は謙信自らが率いる上杉軍の追撃を受けることとなった。
手取川の渡河に手間取っていたこともあって、このときの織田軍は成す術も無く、上杉軍の餌食になったと言われている。戦いは、織田軍が二千人近くの死傷者を出す大敗であった。
信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。

この戦いで織田軍が大敗したが、幸いにして柴田勝家をはじめとする有力武将は全員無事であった。
しかし、この大敗により、信長は謙信の存在を恐れたという。

謙信はこの大勝により、能登から加賀国の大半を支配下に置くこととなった。
そして、この戦いで対織田戦に優位に立った謙信は、いよいよ翌年3月をもって上洛作戦を開始(これは一説に、関東の北条氏政を征伐するためのものだったとも言われている)しようとした。
しかし、謙信がその直前に病死したため、それは実現せずして終わったのである


織田を破った軍神謙信
907無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 05:11:22
島津も畠山の援軍に来てたらしいよ
908無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 09:28:54
>>905,906
信長が出ていない戦いで、どうやって信長が命からがら逃げ出すんだか
捏造資料乙。
909無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 13:38:52
>>908
越後側の伝承では信長本人が来てたってことになってて信長の逃げざまを
揶揄した歌まで歌われてたらしいね。
910無名武将@お腹せっぷく:2006/01/31(火) 17:24:48
北条征伐 ○上杉軍 8万人 対 ●北条軍 9万
関東管領として、北条を征伐した戦。
関東豪族のほとんどが上杉謙信の側についた。
北条軍は撃破されまくり小田原城に追い詰められる。
北条軍は小田原城落城寸前まで追いやられるものの信玄が助けに入ったため助かる。
関東管領としてはじめての戦であった。

川中島の戦い ○上杉軍1万3千 対 ●武田軍2万
歴戦の武田軍も毘沙門天の化身上杉謙信には勝てるわけがなかった
啄木鳥戦法も軍事の天才謙信には見破られ、武田軍は山本晴幸や弟ら重臣を失う。
車がかりの陣で武田軍は追い詰められ、死者四千六百三十人、負傷者七千五百人を出す大被害を追った。
謙信は単騎特攻して信玄と一騎打ちするなど大活躍を見せた。

唐沢山城救援戦 ○上杉軍13 対 ●北条軍3万 
上杉側の関東の豪族、佐野昌綱を救援するため、北条の大軍の中を数騎で特攻。
謙信の威勢に恐れをなした北条軍は怯えて近づく事が出来なかった。

手取川の戦い  ○上杉軍2万 対 ●織田軍4万8千
最大勢力の織田も軍神上杉謙信の前では赤子同然だった。
能登畠山を軽々と滅ぼし、謙信に怯え逃げる織田軍を追撃。
織田軍は二千人近くの死傷者を出して、大敗する。
信長自身、近習ら数十騎とともに命からがら美濃へ逃げ帰ったという。
もし謙信が寿命で死んでいなかったら信長は滅んでいただろう。
911無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 15:59:36
>>910
うぜー大嘘並べんな
912無名武将@お腹せっぷく:2006/02/01(水) 16:01:20
>>909
信長はどんな酷い負けかたした時も、いつもその記録は残してるよ。細かいとこはともかく。
上杉の時だけいきなり省くなんてことあるかい。
上杉が自分とこで広めただけ。
913無名武将@お腹せっぷく:2006/02/02(木) 14:21:55
>>912
なんでそんな当たり前のことを……
914無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 01:14:00
島津斉彬のせいで徳川斉昭公が「なりあきら」ではなく「なりあき」と読まれるから島津嫌い
同じ読みを避けるなら島津の方が格下なんだから島津なりあきにしとけボケ
915無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 06:44:09
>>841
遅レスだが昭和天皇の第五皇女・貴子様が嫁いだのは分家の佐土原島津藩の久永氏。
佐土原は義久の四弟家久、その子豊久が領有していたが関が原で戦死したので
大隅を領有していた貴久の次弟忠将の子、以久が佐土原に移り初代藩主となる。
916無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 07:00:13
はてなダイアリーにあった
ttp://d.hatena.ne.jp/keyword/%c5%e7%c4%c5%b5%d7%b1%ca
親父の久範氏は薩摩藩最後の藩主島津忠義の七男か。
んで宮内省出身でバリバリの旧藩屏だな。
917無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 17:59:07
>>851>>856
コラコラ、加世田が朝鮮人部落なわけねーだろ。デマ流すなよw
伊作から移った日新公のお膝元で小さいながらも城下町だったんだぞ。麓って地名あるわい。
長年住んでるが朝鮮人はおろかガイジン自体を殆どみたことねーよw
そもそも在日朝鮮人は鹿児島全体の統計で現在は300〜400人程度で日本一少ない筈だろ。

薩摩焼のための陶工集落は加世田には無い。東市来や加治木に点在している程度。
それから小泉純一郎の親父・鮫島純也は市東に位置する万世(ばんせい)の小松原出身。
鮫島の名字はこの地域に多い。小松原は江戸後期に万ノ瀬川が氾濫して
河口が数キロほど移動するまでは坊津などと同じく貿易中継の玄関口として栄えた元は商業地だった。
地元では小泉の名は有名は有名だが影響力皆無。

島津に暗君なしとは良く言うが、出自や養子に出された経歴を差引いても
十四代目当主の島津勝久は明らかに当て嵌まらない黒歴史。
918無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 18:30:46
鹿児島はホール経営者ですらほとんど日本人という極めて珍しい県
なんだよね。大手のM永とGハンも創業者は離島出身の日本人だしね。
唯一そっち系の地区って城南あたりのあやしげなとこくらいじゃね?
919無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 18:46:56
排他的な風土だからな。
920無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 18:51:53
近畿のように穢れるくらいならいっそ閉鎖的な方が良い
921無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 19:29:32
 _-"ミ;ノリ人ノノヘ/リ; `゛゛ ミ    /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
 >ミ/         'γ、` ミ    |:::::::::::::;;;;;;|_|_|_|_|
 了| "~`、  "~"`   {,',; ;} 。  |;;;;;;;;;;ノ∪  \,) ,,/ ヽ
 "7 `⌒`   ⌒   }ミ:. {   |::( 6∪ ー─◎─◎ )
  '|   /       レリ*    |ノ  (∵∴ ( o o)∴)
+  i  (       }ィ'     |∪< ∵∵   3 ∵ノ
   `  ー---    /|` +     \       ⌒ ノ
    ヽ  ̄    / |__        \_____/
     上杉ファン           島津厨
922無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 19:30:32
 _-"ミ;ノリ人ノノヘ/リ; `゛゛ ミ    /::::::::::::::::::::::::::::::::::::::\
 >ミ/         'γ、` ミ    |:::::::::::::;;;;;;|_|_|_|_|
 了| "~`、  "~"`   {,',; ;} 。  |;;;;;;;;;;ノ∪  \,) ,,/ ヽ
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    ヽ  ̄    / |__        \_____/
     上杉ファン           島津厨
923無名武将@お腹せっぷく:2006/02/03(金) 20:03:03
転勤で5年鹿児島住んだが、
よく鹿児島は閉鎖的だと聞くけどおいらはそんな気はしなかったな。
むしろ熊本や福岡よりいい人多かったよ。
島津家ゆかりの地や西郷さんゆかりの地も見れて
とてもよいとこだとおもたな。
歴史ヲタにはたまらん県だたよ
924無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 02:11:16
島津>別所
925無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 02:38:46
【初めて】ほしのあきヌード写真集【脱いだ】(画像有り)
http://food6.2ch.net/test/read.cgi/konamono/1139071210/
926無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 02:43:16
まあ確かに近畿地方みたいに朝鮮人に汚染されるよりはマシだな
新潟も朝鮮からの上陸地点だろ
927無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 04:38:07
ほしのあきって誰?
928無名武将@お腹せっぷく:2006/02/05(日) 06:49:06
島津マンセー
929無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 01:06:04
三戦中で島津の強さが語られてるけどそんなに島津って強いんか?
930無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 01:10:35
>>929
本州勢にぼろ負けの芋ですよw
お得意の少数で多数を破る戦も、羽柴秀長には通用しませんでしたwww
931無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 01:13:53
>>929
最強
932無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 04:15:39
島津厨最狂
933無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 04:54:11
鬼島津といわれるんだから強いよ。
934無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 08:43:53
島津は大宝寺と互角位の強さかな
935無名武将@お腹せっぷく:2006/02/06(月) 09:37:24
>>932
それは大いに同意
936無名武将@お腹せっぷく:2006/02/11(土) 23:52:08
島津vs上杉vs毛利vs伊達vs立花vs北条vs武田 4回戦
http://academy4.2ch.net/test/read.cgi/history/1139661557/
937無名武将@お腹せっぷく:2006/02/26(日) 15:43:13
どうせ鹿児島県民だろ
明治維新でも自分達鹿児島県民の優位しか考えないから
反乱起こすにもいろんな失策して最後は同胞の大久保利通にやられましたと
938無名武将@お腹せっぷく
http://plaza.rakuten.co.jp/aiaifudousann/diary/200602100000/

 慶応3年11月15日、33歳の誕生日の日、龍馬は刺客に襲われ、凶刃に斃れた。

 百数十年を経た今日、未だにその真相は分からない。

 暗殺の真相が不明なため、その下手人や黒幕については様々な説がある。


 下手人については、新撰組や京都見廻組が有力視されてきたが確証はない。


 黒幕については、公儀つまり幕府説、薩摩藩や長州藩の武力倒幕派説、

 伊呂波丸事件の紀州藩説、身内の土佐藩説などイロイロだが、どれも定かではない。


 本書では、長崎・出島を本拠地とした武器商人グラバーを黒幕としている。

 薩長同盟を後押しし、倒幕戦争を煽り、莫大な商機を目前にしたグラバーにとって、

 無血革命を唱導し始めた龍馬は抹殺すべき存在だったという。

 
 そしてそのグラバーの背後には、ユダヤ資本のロスチャイルドが・・・。


 中国のアヘン戦争でしこたま儲けた次は、日本の内乱戦争だったというのだが・・。


         『龍馬暗殺―捜査報告書』  小林久三、光風社文庫。