1 :
無名武将@お腹せっぷく:
2
1位 劉備
2位 諸葛亮
3位 関羽
4位 魏延
5位 姜維
6位 張飛
7位 王平
8位 黄忠
9位 張ギョク
10位 趙雲
順位は気にせず蜀の人物について語りましょう
語り尽くした感もありますが
スレの存在に意義があるという方向で
5 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 14:17:10
夷陵の戦いで多くの者が名の出る前に戦死した。
それに加えて劉備の死でダブル蜀(ショック)。
>>4=
>>1 いい加減にその無意味な順位はるのやめろ。
過去スレで自分の意見を押し通したい奴が、ジサクジエンも含めて大量に書き込みして
作った順位で、過去スレの総意じゃない。
お前の好きなように順位つけていいから死ね
8 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 16:13:49
我らが王平について語ろうぜ!
性格と実績みると全く相反するんだが、どうなのよ
アクが強くないとやっていけないのが乱世
>>9 意味がわからん。
なんでその2つをセットにしようとする?
魏延も楊儀も李厳も、性格はサイアクだが「ハズレ」になる直前までは王平以上に
功績をあげている。
>>6 一応言っとくが、俺が書いたのは1と3だけ。
4は別の誰か
果たして彼等はホントに性格が最悪だったのかね?
前スレで向寵が衛将軍になっている件について。
張飛が1位でいいジャン?
めでたい
>>11 違う、違う
なんかに軽挙妄動とかそんなこと書かれてなかったっけ?
その割に街亭とかは落ち着いて、軍を撤収してるし、どうなんかなーと
然性狭侵疑、為人自軽
疑り深いのと軽率なのはなんか矛盾してる気もするな
法を遵守するのと考え合わせると
部下に対して必要以上に疑って罰を科し
実は無実って事がたびたびあった(軽率)
とか妄想してみるテスツ
これ言い出したらキリないけどさぁ…。
田豫が劉備のとこ残ってたらどのくらいまでいったと思う?
>>20 二つのケースが考えられる。
1.劉禅の代に四征・四鎮将軍、あるいおは四方将軍レベルまで昇進。
田豫は致命的に政治力が無いので、古参でありながら政治色が無かったために、
後進に追い抜かれた趙雲と同様の経歴になるかもしれない。
2.劉備の代に弩級の勲功(漢中攻防戦の黄忠・法正クラス)を立てて、
関羽・張飛・黄忠・馬超に匹敵するか、それに次ぐ地位(魏延・黄権級)を獲得。
劉禅の代には驃騎将軍・車騎将軍・衛将軍・○○大将軍レベルの地位まで昇進。
劉備は曹操以上に信賞必罰にうるさいので、劉備生存中に弩級の勲功を立てておけば、
蜀漢建国の頃には、相当な地位に昇れるものと考えられる。
諸葛亮は極端な抜擢人事を行わないので、弩級の勲功を立てても、数段飛びの特進は難しいだろう。
また、厳格な諸葛亮の下で、保身に無頓着過ぎる田豫が生きて行くのは難しそうなので、
劉備時代から最高レベルの地位にいなければ、
劉禅時代に最高レベルの地位を獲得し、保持するのは困難であろう。
漢中の太守に適任
張飛は蜀の萌えキャラNo.1
向寵、馬忠、張ギョクは知名度的には地味だけど
実は蜀の名将だね
リョウ化も、あんだけ長生きして戦死しなかったんだし
武将としてはなかなかだったと思う
廖化は名将というよりも良将って感じ。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 23:34:05
やっとたったか
>>1さん
o(*^▽^*)o〜♪ワーイ!!ありがと
向寵は軍事明るく、夷陵の敗北の際も向寵の軍営だけは無傷で、
出師の表で持ち上げられてるけど、
それ以前・以降何してたのかさっぱり分からんからなぁ、
なんでここまで記録が無いんだ、つーくらい。
しかも最後は蛮族との戦いで戦死してるし。
有能なのは確かだったみたいだけど名将とまでいえるかは評価に悩む。
前スレからのコピペ。経歴だけ見ると、かなりの名将だろ?
益州攻めからの古参だし、最後は衛将軍までなってる。
988 名前: 無名武将@お腹せっぷく [sage] 投稿日: 05/03/11 04:48:09
>>985 向朗の族弟。劉備が荊州を治めると私兵を率いて帰服し、中郎将となる。
益州入りに従って功有り、偏将軍に任命される。
張飛に従って宕渠で戦い、劉備か漢中王となると征虜将軍・漢嘉太守に昇進した。
東征に従い、諸軍が壊滅する中で唯一軍を全うする。
劉備が永安に帰ると護軍に抜擢され、永安を守備した。
諸葛亮が北伐すると、仮節・中領軍となって、成都防衛の任にあたった。
諸葛亮が没すると、衛将軍に昇進。引き続き近衛の諸軍を統率した。
越雋郡回復の命を受け、進軍途中に漢嘉で蛮族の軍と遭遇。
流れ矢に当たり、戦死した。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 00:32:27
>27
向寵の経歴は当事の蜀漢の他の人物と比較して推測するしかないね。
劉備の時代に牙門将に登用されてるが、夷陵の時もそうだったかは不明。
出師の表で「先帝が試みに登用されて(中略)有能云々」とあるが、牙門将軍は将官の駆け出しなので、牙門将軍として採用し、有能だったので夷陵にも参加させた、とも読める。
223年に後主が即位すると都亭侯に封じられてるが、同時に都亭侯に封爵を受けてるのは魏延・費観なので夷陵の時には既に、ある程度高位の将官だった可能性も高い。
で、226年の北伐人事で中部督。これは職務であって階級ではないが、同時に魏延が督前部に任命されているので、魏延と同格だった可能性がある。
妄想に近い推測だが、226年時の四鎮将軍は鎮東:趙雲、鎮北:魏延、鎮西・鎮南が不明。
鎮西に関しては趙雲とほぼ同格だった陳到が就任していた可能性もあり、向寵は鎮南将軍・中部督だったかもしれない。
向朗・向寵の関係も223年に向寵が封爵を受けているのに、記録上、向朗が封爵されるのは諸葛亮の死後。
諸葛亮の生前も第一次北伐まで向朗もバリバリの現役なので、甥に封爵が遅れてる点を考えると向家の嫡流は向寵だったのかもしれない。
実際、向寵は向朗の兄の子なので。
30 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 00:35:18
>28
>>張飛に従って宕渠で戦い、劉備か漢中王となると征虜将軍・漢嘉太守に昇進した。
東征に従い、諸軍が壊滅する中で唯一軍を全うする。
劉備が永安に帰ると護軍に抜擢され、永安を守備した。
諸葛亮が北伐すると、仮節・中領軍となって、成都防衛の任にあたった。
諸葛亮が没すると、衛将軍に昇進。引き続き近衛の諸軍を統率した。
越雋郡回復の命を受け、進軍途中に漢嘉で蛮族の軍と遭遇。
正史には偏将軍、征虜将軍、仮節、衛将軍になったって記録は記載されてないね。
華陽国志にも確か無かったと思う。
蜀書、向寵伝では↓の5つくらいしかないね。
・劉備の時代に牙門将になる
・シ帰の敗北の際に軍を全うする
・223年に都亭候に封じられ、のちに中部督となり近衛隊を指揮
・出師の表で軍事において有能と持ち上げられ、中領軍に昇進
・240年に漢嘉郡の蛮族を討伐に向かい、戦死
・張飛に従って宕渠で戦い、劉備か漢中王となると征虜将軍・漢嘉太守に昇進した
・劉備が永安に帰ると護軍に抜擢され、永安を守備した
・諸葛亮が北伐すると、仮節になる
・諸葛亮が没すると、衛将軍に昇進
・越雋郡回復の命を受ける
↑の5つは他の人の伝に書かれてるの?
それとも華陽国志とかの他の文献?
書いた人か、他に詳しい人が居たら是非教えてくだい。
あ、これも無いね。
・劉備が荊州を治めると私兵を率いて帰服し、中郎将となる。
・益州入りに従って功有り、偏将軍に任命される。
>>29 なるほど、ある程度は高官であったかもしれない訳か。
ただ魏延は漢中太守になった際に劉備から既に漢中督に任じられており、
督前部ってのは、諸葛亮が漢中に赴任したからなので、
これもって一概に同格とは言えないと思う。
向朗は蜀平定後は太守に任じられてるし(たらいまわしされてるが)
歩兵校尉になり、丞相長史として丞相府を取り仕切り、
免官されても数年後には光禄勲になったり、
正史でも向朗メインで、その子である向条の事も書いてるから、
嫡流は向朗の方だと思うなぁ、もしかしたら兄は若くして死んとか、
庶子の子だった、とかだったんじゃないかな。
封爵は官位に比例して皆封じられてる訳でもないしね。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 02:16:09
蜀で一番イケメンなのは趙雲子竜
>>34 趙雲バッシングで盛り上がりたい正史厨の釣りですか・・・
36 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 04:38:43
そんなヒネくれた見方せんでもなぁw
趙雲が眉目秀麗だという記述は正史発じゃないの?
皆さんはじめまして。私、三国志マニアのまおと申します。
ここはなかなか興味深いトビですね(^^)
私の個人的な意見では、蜀は張飛が死んだ(おそらく暗殺)のが痛かったです。
それが無ければ、劉備の7万の精鋭は呉を撃破して
荊州奪回は成功していたと推測されます。
趙雲や関羽など、トップクラスの武将ならば三国最強の蜀だけに
様々な不幸な要因が痛かったですね。
(ただ、黄忠はちょっとレベルが下というのが結論です)
それではまた。
孟建サンバ
お、さっそく反応がありましたね(^^)
って、これが2ちゃんねる名物の荒らしかな(笑)
荒らしには負けないぞ!(^^)!
41 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 08:56:45
わるいけど張飛が生きてても勝てないよ。
って思うね
>>41 万単位で量産して突っ込まされば勝てるかもしれない。
勝つか負けるかで言うなら、関羽が孫権を犬呼ばわりして
攻められ、荊州を奪われた時点でもうだめぽ
関羽は曲りなりにも華北の人間だしなぁ
田舎者って孫権を呼ぶのもわからないではない
特に春秋左氏伝暗誦してるくらいだから春秋の建前にはうるさそうだし
>>43,
>>44 それは演義の話。
正史関羽伝では使者をどなっただけで、「犬」とも「田舎者」とも呼んでいない。
正史註に引用されている「典略」では「狢」と呼んだことになっているが、裴松之は
「典略」のエピソードの信頼性に疑問を呈している(どなったことではなく、その後の話について)。
だから、なんと言って使者をどなったのかは判らない。
じゃあ、荊州を取られた事に関して
関羽には全く落ち度がない可能性もあるって事か
張飛ってイケメンって本当?
娘が美女ってのが根拠なだけ?
あと張飛が大金持ちでパトロンだったとか
ろう西ではすこぶる善政を行ったとか
どこに書いてあるんだよ!!
張飛はイケメンかどうかは判らんな
ごっついヒゲづらなのは確かなんだが
張飛が肉屋だってのは、
張飛の生まれ故郷に、張飛が肉屋をやってたという話が
残ってたからだとか
張飛が、肉を保存するために使ったと言われてる井戸が
今も残ってる
関羽・張飛は未来から送り込まれたサイボーグ
耐用年数が切れるとまず性格から破綻していく
52 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 13:20:04
>>48 ろう西でなくてろう中のことでしょ。
ろう中には張飛廟があるがその張飛廟には張飛の善政を示唆するような史料伝承が
いろいろあるらしい。孔明よりも賢かっただとか地元贔屓が多分にあるが実際の張飛が
一般的な張飛像からはかけ離れてる可能性もないことはない。
ちなみに肉屋は初耳。
犬肉屋だよ
犬肉屋かよw
愛犬のことを想うと犬肉さばいてた張飛は受け入れられない。
張飛好きだったが嫌いになった。
張飛善政説も不採用に決定です。
じゃあ人肉屋
蜀将に食傷気味
>>46 「罵り侮辱した」でしょ
>>47 婚姻の件に関しては落ち度というほどのものではないと思う
もちろんもっといい対応は出来ただろうけど
ここでどう対応しようが隙を見せれば攻め込まれるような状況だったから
荊州を巡る対立を激化させたのは劉備
>>50 当時はヒゲがイケメン(ヒゲがあっただけでヒゲ面かどうかは確かじゃないぞ)。
ヒゲのない奴は宦官みたいな「漢」じゃない奴等。
>>53 当時の肉屋に専門店はないし、狗(犬)は肉屋であんまり売らないしね。
料理屋が犬を飼っていて直接サバくか、農民や犬飼ってる人などが店に直接持ち込む。
牛や羊はでかいのでサバきにくく、だから「肉屋」を必要とする。
いまの時代のように大量生産・大量消費で流通が確立された時代じゃないので
ちょっとしたものなら生産者→消費者(or 飲食店)直結か、自ら生産・消費する。
まあインチキ肉屋で羊肉・牛肉といいながら犬肉売る奴もけっこういたらしいが。
>>57 関羽の嫁話は付け足しや口実に過ぎず、すでに曹操の漢中侵攻時にも荊州巡って
交戦してるしね。
>>46 狢ってのは中原の人間が華南の人間に田舎者って言う時の慣用表現みたいなもんだ
簡擁が吹き矢を常時携帯する殺し屋だったってホント?
63 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 20:18:16
まじ?
嘘。簡擁は撃剣の使い手。
おいおい、簡擁は酔拳の達人だろ?
劉璋を説得に行くまではわかるが一緒の御輿にのって登場するなよと
お前何一緒に乗ってんだよと小一時間
67 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 21:54:02
それが簡雍クオリティ。その力は孔明の智謀をも凌いだ。
簡雍は房中術の達人。その妙技で劉璋を骨抜きにしてしまったのです。
なんで劉璋は簡雍のこと気に入ったんだろ?
エロい洒落の分かる人だからな
簡雍は、生意気だけど憎めない人だったらしいよ
劉備が皇帝になってもタメ口聞いてたし
義兄弟や諸葛亮とはまた違った、本当の腐れ縁友達だったのかも
簡雍って正史以外になんか記録ないもんかなあ
簡雍って大尉だよね、アッセンブルEX-10の。
74 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 00:03:37
孫乾も語ろう
>>50 桃園の誓いを行った桃園もあるんだよね(笑
そのうち、周倉の骨も見つかるさ。
>>58 ハンカイも狗さばいてなかったっけ?
76 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 15:30:25
簡雍=鳥居元忠
77 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 17:48:29
ではここいらで大将軍が左右に分かれたかどうかについて議論するか
>>72 同じ簡氏なら神聖九面王国の簡世流満・殿下のほうがいいなあ。
婆乱神倶の使い手だし、関羽や呂布以上だと思う。
>>77 分かれてないに一票。
対魏戦線最高司令官として、蜀漢最大の兵力を有し、
録尚書事を帯びる軍部の最高実力者姜維の大将軍の称号を、
左右に分けて、片方を閻宇に与えるとすれば、
明らかに姜維の位を落とすことになる。
ただでさえコントロールしにくい姜維に、
さらに不満を抱かせてるような人事を、朝廷がわざわざ行うとも思えない。
閻宇は左右に分かれた大将軍の右では無くて、
右将軍の大将軍だと思う。(輔国大将軍のような)
そう考えれば、同じ古参将官とほぼ官位が一致する。
この時期の古参将官は、ほぼ○○大将軍級の称号を有している。
80 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 21:50:52
分かれてないにもう一票
姜維は「左大将軍」とは呼ばれていない。
分かれてるに一票
俺の尻も左右に割れている
分かれないに7票
うちの家族の総意です
83 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 23:07:13
歴代右将軍
219年〜221年:張飛
228年〜229年:諸葛亮
230年頃〜234年:高翔
234年頃(諸葛亮死去後)〜241年頃:輔匡(楊戯の季漢輔臣賛は242年成立でそれ以前に死去した人物がほとんどのため241年頃とした)
249年〜253年頃:夏侯覇の可能性あり(魏で右将軍だったため臨機の措置として)
256年頃〜263年:閻宇(当初から「大」だったかは不明)
84 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 23:14:49
歴代左将軍
〜219年:劉備
219年〜221年:馬超
230年〜234年:呉懿
238年頃〜247年:向朗
247年以降(不明)〜不明:句扶
247年頃〜253年:郭循(句扶が王平と同時期に活躍した人物であることから、句扶の後任と推定)
85 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 23:18:35
歴代前将軍
219年:関羽
226年〜230年:李厳(平)
230年〜234年:袁琳
234年〜243年:ケ芝
243年以降(不明)〜247頃年or253年頃:胡済
晋書の羅憲伝だと閻宇は大将軍になってるが、三国志呉書の朱績伝では右将軍だな。
蜀書だと右大将軍の表記。
俺も分けたわけじゃないと思う。
三国志には大将軍閻宇という表記はないし、姜維は一貫して大将軍と表記されてる。
左右に分けたなら、その旨が何処かに記述されるか、左大将軍姜維という表記が
何処かにあって然るべきだと思うからね。
87 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 23:23:31
歴代後将軍
219年〜220年:黄忠
226年〜230年:劉淡
230年〜234年:呉班
234年頃(不明)〜241年頃:劉ヨウ(輔匡と同様)
240年代後半〜250年頃:張表
250年以降〜253年頃:宗預
88 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 23:31:33
歴代驃騎将軍
221年〜222:馬超
230年〜231年:李平(厳)
234年?〜不明:呉班(就任時期については呉懿が234年に車騎将軍になっており、呉班が形式的に車騎より上位の位に同時に就任するとは思われないため?とした)
259年頃〜261年頃?:(右)胡済(261年頃までの生存は確認出来るが蜀漢滅亡時まで存命していたかは不明。存命であれば滅亡時の攻防に登場してもおかしく無いのだが)
89 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 23:36:38
歴代車騎将軍
221年:張飛
230年〜234年:劉淡
234年〜237年:呉懿
243年〜251年:ケ芝
251年以降〜259年頃:夏侯覇
259年〜263年:(左)張翼、(右)廖化
90 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 23:53:08
歴代尚書令
219年〜220年:法正
220年〜222年:劉巴
229年頃〜234年:陳震(僕射・李福)
234年:蔣琬(同上)
235年〜243年:費禕(ヨウチュウ→董蕨)
243年〜246年:董允(董蕨)
246年〜251年:呂ガイ(董蕨)
251年〜258年:陳祇(董蕨)
258年〜261年:董蕨(諸葛贍)
261年〜263年:ハン建(張紹)
>90
追加訂正。
尚書令 222年〜226年:李厳(平)
董蕨の尚書僕射在任が長いので、ヨウチュウと董蕨の間に数人入る可能性がある。
黄皓が戦争を繰り返す姜維を廃するために一度大将軍に任命したが
姜維を廃することに失敗し右将軍に格下げになったと推測
もしくは形式上、右大将軍という事になったが実質の大将軍は姜維のままだった
のではあるまいか
>>92 尚書を統轄し、強大な軍権を保持している諸葛贍・董蕨ですら、
大将軍から降ろすことが出来なかったほど、姜維の権力は強かった。
下手をすると、皇帝を凌ぐほどの権力があった。
そんな相手に対して、大して権力の強くない主君の寵愛だけしか頼りにできず、
しかも、どれだけ権力を振るったかも定かではない黄皓ごときに何が出来たのかと。
94 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 00:32:39
権力つうか、下手したら反乱独立しかねないからな
>>93 だが姜維は劉禅の黄皓に対する寵愛ぶり恐れを感じて任地に逃げたまんまになってしまったがな。
>>95 いや、諸葛贍や董蕨の方がずっと怖かったと思うぞ。
こいつらの反姜維の動きを陳寿は記してなくて、
蜀末期の混迷を黄皓になすりつけたがってるっぽいが。
録尚書事・衛将軍と、録尚書事・輔国大将軍が敵に回ってたら、
そりゃ姜維じゃなくても成都から逃げたくなるわ。
しかし普通にエンウ、巴蜀担当の大将軍、姜維、漢中担当の大将軍
と別れた可能性もあるなこの時から
だけど、督中外軍事を解かれた形跡は無いね。
本当に大将軍が巴蜀担当と漢中担当に分かれてたら、
閻宇は巴東なんかにいないで、督益州軍事を帯びて、巴蜀の中心たる成都近辺に駐留してるだろうし、
姜維は督中外軍事から督漢中軍事に落とされたって記事があってもいいはずだ。
結局、閻宇は右将軍・巴東都督に過ぎず、
右大将軍も右将軍に大を加えただけに過ぎないと思う。
所詮余所者の姜維が、反乱独立なんて出来るかは極めて厳しい、
しかしながら軍事力はあり、劉禅に変なそぶりを見せない限りは処分は出来ない存在ではある。
それに諸葛贍・董蕨は皇帝親政の時代では大した権力は期待できない、
尚書とかは皇帝の身の回りをがっちり固めてこそのものだし、あくまで二人で平尚書事だからね。
それよりは中常侍・奉車都尉として皇帝の側に居る黄皓の方が実権は大きい。
>>98 まあそうはいっても巴蜀の軍事的な重要地といえば呉との国境近辺なわけだから
巴蜀担当大将軍エンウのいる場所としては適当といえば適当
督中外軍事を経て大将軍になった記述があるので督の変化の記述がなくても別に不自然でもない
記述では晋書と蜀書で大将軍、右大将軍となっており
2対1で大将軍の記述の方が多いわけだし
呉書の記述は他国だけに曖昧になったとも言えるし
どちらにせよ断定は難しい
右将軍が正式な官で、右大将軍は閻宇を称える(ヨイショする)通称みたいなもんでしょ。
102 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 07:11:02
>100
巴蜀の軍事的要地は涪です。蔣琬以来、そういった地点とされ、蜀漢滅亡時も国内軍総司令官代行格の諸葛贍が駐留しています。
閻宇の永安赴任は、魏が呉の江陵侵攻の動きを見せたため、呉側の要請で増強したものです。
103 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 09:42:58
対呉の大将エンウが最上位に格上げされたのなら、呉は不信感を抱くだろうな
また、いくら蜀書とはいえ、最高司令官が政争のため分割されるという異常事態をまともに記さないのは不自然
そもそもキョウイの軍権を奪いエンウに与える計画は実行されていないから、エンウが最高司令官としての大将軍になるのはまだ早い
>>102 フは漢中と東の国境地帯に通じているから大将軍が一人ならここに置くのが適当だな
しかし姜維が漢中にでずっぱになると巴蜀の地にも大将軍が欲しいってなってもおかしくない
両大将軍を両前線に置くとするとエンウの駐留場所もおかしくないな
大将軍:右将軍=2:1なのはなんと説明する?
105 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 10:13:55
>>104 間違ってるぞ
大将軍:右大将軍:右将軍=1:1:1
だろ
しかも「大将軍」は遥か後に編纂された晋書だ
右(大)将軍と大将軍が2:1なのはどう説明する?
>>105 右でも大将軍でしょうが
そんな屁理屈をw
蜀書で大将軍、呉書で右将軍
はなんと説明する?
つーかでかけるんでサイナラー
まちがい晋書で大将軍な
蜀書でわざわざ右をつけて大将軍
どちらも記述自体が少ないから有意とはなりえないような……
109 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 11:24:42
確かに断定は出来ないけどな
しかしエンウは最高司令官(の片割れ)としての大将軍ではなく、右将軍+大だという可能性があるのは忘れちゃならん
蜀末期の権力構造を考える上で重要なことだろ
>>109 蜀末期はよくわからんね。
車騎将軍は左右に分かれた。
それはわかる。
驃騎将軍は右驃騎将軍胡斉はわかるけど左驃騎将軍もしくは驃騎将軍がいたかどうかわからない。
諸葛瞻が衛将軍、董厥が輔国大将軍に就いたのは左驃騎将軍もしくは驃騎将軍が埋まっていたからなのか?
教えてエロい人。
呉書も晋書も、他国の話とはいえ国の史官が残した宮史に基づいた記述。
史官がいなくて雑多な史料を集めて編まれたショク書が一番信用ならん気がする。
特にこういう官名の一文字が問題になる場合は。
>>111 蜀に史官はいたよ。
諸葛亮在世中はともかく蜀滅亡までいなかったということはない。
史官を置かなかった、姜維と鐘会の反乱のドサクサで失われた
この二つを聞くけどどっちが正しいのの?
>>113 どちらも半分づつくらい本当だと思うよ。
蜀に史官が置かれたのは後期の事であろうし、姜維と鐘会の反乱のドサクサで失われた史料もあっただろうし。
「どっちが正しいの?」か…。
根本的な議論の前提が分かってなかったようだな。
後主伝の陳寿の評を読んでみてくれ。話はそこからだ。
116 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 18:13:20
呉書はともかく、晋書はいつ編纂されたと思ってんだ?
史官がいたかどうかの問題じゃないだろ
時間たちすぎで、それこそ官名一文字を論ずるには向かない
>>115 あんたが何を言ってるのか?の方がよくわからん。
113は蜀に関しての資料が少ない原因を問うてるんじゃないのか?
118 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 19:30:05
>110
俺も以前に気になって、調べてみたんだけど、蜀漢後期の驃騎将軍は分からなかったよ。
張翼・廖化が車騎で、胡済が右驃騎だから、←の連中と同世代or同格の人物が最有力だと思ったんだけど、そんな人物が見当たらないんだよね。
119 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 19:45:26
>104
姜維が北辺に駐留したのと、閻宇が永安に赴任したのは意味合いが違います。
姜維が北辺に駐留したのは、自身の希望(遠征を続けたいと言う)であって、本来なら成都なり涪なりに駐留していても良いわけです。
しかし、閻宇の場合、呉の要請に基づいて、蜀漢中央が派遣してる訳です。
両方の前線に大将軍を置くための措置と言う理由で閻宇を派遣する、と言う事ではないと思います。
大将軍:右大将軍:右将軍については、あまりにも資料が少なくて断定出来ません。
個人的には右将軍の格上称号だと思います(○○大将軍のような)。
姜維が左大将軍とかじゃなくて「大将軍」という記述しかないので、
俺も閻宇の右大将軍は、右将軍の格上称号と思う。
どうだろなー
思うんだが、閻宇が大将軍(仮)になったのが呉の要請の前か後かっていうことも微妙に影響してくるような
一応、ちくまにのってる三国志官職表によれば右大将軍分置は景耀の初め。
景耀初年は姜維が大将軍事から大将軍に復帰した年。
また呉の要請に応じ閻宇が永安に赴いたのも同じ年。(朱然伝「右将軍」表記)
車騎将軍が左右に分かれたのは翌年。
さてどうか?
個人的には姜維の対抗馬として、しかし引き摺り下ろすことには失敗したので大将軍とほぼ同格だが微妙に格下ということで右の大将軍という位に任命したのではないかと思う。
この場合は朱然伝は誤記ということになる。
まあいずれにしろ断定出来るものではないと思うが。
あ、姜維を引き摺り下ろさんと画策した年は景耀5年だった。
123の下4行は取り消し。スマン。
>>124 下4行の仮説は黄皓が権力握り始めた年も関係してくるよな
まあ4年も前に布石を打っといたってのはどうなんだか
どうしてお前らは右左と二元論で語るんだyo!!
もしかしたら、
真ん中大将軍
左大将軍 右大将軍
だったかも知れないじゃないかも
>>126 誰も二元論なんかで語ってないと思うが?
ネイ隨について語りなさい
諸葛緒がお馬鹿さんでよかったね
蜀・魏・晋の名将・句安はどうよ?
>>119 俺が言いたかったのは姜維の希望はどうあれ現実として漢中に集中してるんであれば
巴蜀に大将軍が必要論が必要と考えられても不思議ではないということ
呉の要請を契機に検討されるのも不思議じゃないし任地が前線なのも不思議じゃない
物事の理由ってのは一つじゃないから黄皓が違う動機でそれに絡むってのはどうだろう微妙だが
>>123 車騎将軍が左右に別れた年と姜維が大将軍に復帰した年と同じか
これは大将軍分かれた説を少し裏付けるな
でも呉の要請とも同じ年ってのはただの右将軍説を少し裏付けるかもね
訂正
>大将軍が必要論が必要と考えられても
>大将軍が必要と考えられても
>>131 車騎将軍が左右に分かれたのは姜維が大将軍に復活した「翌年」
>>133 なら大将軍にならって翌年車騎将軍も二つに分かれたって考えられるな
135 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 11:17:58
大将軍を分けるというのは国の一大事のはず
姜維の事実上の降格を意味するのだから
なのに蜀書では分置があったとわかるソースはない
これはそもそも分置なんてなかったということだ
蜀末期の官職の変遷
(同年の事柄の前後関係は不明)
247 陳祗、董允にかわり侍中となり黄皓と結ぶ。
251 陳祗、呂乂の後に侍中・守尚書令に。
255 張翼、鎮南大将軍に昇進。
256 姜維、大将軍に昇進するも上ケイで大敗。後将軍・行大将軍事に位を下げる。
督漢中・鎮西将軍胡斉(姜維伝には「鎮西大将軍」)、漢中より漢寿に下げられる。
258 姜維、大将軍に復帰。
陳祗死去。董厥、尚書令に。黄皓が実権を握る。
督永安・征西大将軍宗預、病気の為成都に召還され、鎮軍大将軍に。
右将軍閻宇、呉の要請を受けて永安の守備兵を増やす。(朱然伝)→巴東都督に?
259 張翼と廖化がそれぞれ左右の車騎将軍に。(車騎将軍夏侯覇がこの年死去?)
胡斉、右驃騎将軍に?
261 諸葛瞻、行都護・衛将軍に。輔国大将軍・平台事董厥とともに平尚書事に。
樊建、董厥に代わって尚書令に。
262 姜維、後主に黄皓に関して上表したが聞き入れられず、難を恐れ前線から戻ることをしなかった。(華陽国志)
黄皓、諸葛瞻・董厥らとともに姜維を左遷し右大将軍閻宇を立てようと画策するも未遂。姜維の上表との前後関係わからず。
263 鐘会の侵攻。ケ艾に成都を陥とされ蜀滅亡。
>>135 そんくらい大事なことが書かれてないのが蜀書
ライ降都督の変遷と将軍号
ケ方(-221) 安遠将軍
李恢(221-231) 安漢将軍
張翼(231-233) 綏南中郎将
馬忠(233-249?) 奮威将軍→安南将軍→鎮南将軍
張表 不明
閻宇(-258?) 不明
霍弋(258?-263) 護軍→(南方平定)監軍・翊軍将軍→安南将軍
(はじめは副弐都督だったが南方を平定後には都督となったっぽい)
この変遷を見てると閻宇がライ降都督から転任後すぐに右(の)大将軍になったというのはちょっと考えづらい。
また江州の都督だったケ芝は車騎将軍、督永安の宗預は征西大将軍だったけどそれと比べても右(の)大将軍は高過ぎのような気もするがどうだろう?
ただ黄皓らと関係を深くしていたようなのでそれもありかもしれないという気もするし。
246年に董允が死ぬと陳祗が侍中になって黄皓がついに出現してるね(もともと侍中だろうか)
この陳祗の政治的な実権が劉禅に取り入ってかなり大きくなっていってたのは想像に難くない
北伐の反対論者ショウ周との談もある
黄皓が黄門令、中常侍、奉車都尉に昇進したのはそれぞれいつのことだろうか・・
262年に姜維を罷免し右大将軍閻宇に全権を持たせようとした
ところが姜維は漢中に逃れこの罷免を実質的に免れた
結果姜維も大将軍であったが閻宇も大将軍ということで
大将軍を二つに分けるつもりはなかったがここで分かれた
つまり政争によって大将軍は二つに分かれた
これどーよ!!!!!
141 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 14:05:19
苦しすぎない?
こじつけすぎだろ
とわけもわからずいってみた
>>139 黄皓は董允在世中は黄門丞。(董允は246年逝去)
そして陳祗の死後、黄門令から中常侍・奉車都尉に昇進。(陳祗は258年逝去)
黄門令にはおそらく董允逝去後程無くの事ではないかな。
断定は出来ないけど。
145 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 19:23:39
>131
巴蜀に大将軍が必要、と言う意味がよく分からない。
姜維は遠征も多いが、漢中にいるコトも多い。つまり、巴蜀。
閻宇の巴東も同様。
>131が言う巴蜀の意味を蜀漢中枢と考えると、姜維が成都を空けるコトが多いから、閻宇を(蜀漢中枢駐屯の)大将軍にって感じか?
だとすると閻宇を巴東のような前線に派遣すると意味が無い。閻宇を成都に置いて、他の人物を派遣すれば良い訳だし。
>138が指摘しているが、257年の段階でライ降伏都督から大将軍の右職への昇進は位階が高すぎ、不可解な人事の多い蜀漢でも異例過ぎる。
馬忠に次ぐ南方駐屯歴の実績から、巴東赴任と同時に格上右将軍としての右大将軍って感じかな。馬忠も最終的に鎮南大将軍だし。
黄皓が権力を握ったのは尚書令・陳祇の死後なんで、この段階での黄皓の暗躍は無いと考える。
実際、陳祇の存命時、黄皓は丞から令への昇進しか果たしていないし。
>>145 一応、陳祗の死が景耀元年。
閻宇の巴東都督への転任もおそらく同じ年。
黄皓の意向の可能性もぎりぎりあると思う。>閻宇の(右)大将軍への昇進。
この辺は微妙すぎて肯定も否定も仕切れない感じ。
しかし262年の閻宇の大将軍擁立を考えた場合、もしたんなる右将軍だったら以下の人材を飛び越えての抜擢になる。
右驃騎将軍胡斉、右車騎将軍廖化、左車騎将軍張翼、衛将軍諸葛瞻、輔国大将軍董厥。
この連中と並ぶくらいの官職であったとしても不思議ではないとも考えられるんだよね。
147 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 19:52:14
>>146 >右驃騎将軍胡斉、右車騎将軍廖化、左車騎将軍張翼、衛将軍諸葛瞻、輔国大将軍董厥。
>この連中と並ぶくらいの官職
それがまさに格上右将軍としての右大将軍では?
なにもわからない私に教えてください。
262年の閻宇の大将軍擁立というのはどこにかいてあるのでしょうか?
149 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 19:57:29
>146
右将軍の格上大将軍だとしたら、胡済等とほぼ同等と考えて良いのでは?
しかも胡済等が右驃騎になったのは恐らく259年。それまでは右大将軍より格下だった訳だろうから(右大将軍>鎮・征大将軍だろうから)、2閻宇が258年に右大将軍になってれば262年の段階で逆転は有りえるのでは?
この段階なら黄皓の力も大きいだろうし。
さらに言うと、張翼・廖化は259年に段階で第一線を退いて、上がりポストとして左右の車騎将軍(つまりこれ以上の昇進は無い)になったんじゃないかな。なんせ70歳越してるだろうから。
胡済に関して言うと、261年頃に督漢中の駐屯地を漢寿に移した時以来
、記載が全く無いから、完全引退か死去してた可能性もある。なんせ、張翼等が引っ張り出された滅亡時にも全然名前が出てこないし。
それに対して閻宇は滅亡時まで実権の伴う職務についている訳で現役でしょう。
右将軍の格上大将軍でも異例の抜擢では無いと思うよ。
ちょっと調べなおしたが張表はライ降都督の時、後将軍でした。
やっぱ閻宇は右(大)将軍なのかなあ?
>>149 個人的には胡斉は対鐘会戦、閻宇は対ケ艾戦で戦死したんじゃないかなと思う。
>>148 諸葛亮伝の末尾、諸葛瞻や董厥らの伝の注。あと姜維伝。
152 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 20:13:15
>151
胡済が滅亡時まで生きてれば、何かしらの記述が残ると思うけど。特に戦死するくらいなら。
閻宇の場合、滅亡時に成都に召還されてるんだけど、もし、ケ艾に間に合うようなら、諸葛贍を主将にしないと思うけど。
実際、別スレの議論では、相当早い時期に召還されなければ時間的、距離的に間に合わない、って結論だったよ。
262年に閻宇が大将軍が擁立されてるんなら姜維の大将軍を廃する事は出来なかったけど
右大将軍としての官職はそのまま残ってたんじゃないのですか?そして活躍する場もなく蜀滅亡。
黄皓に関してはどの段階で権力を独占し始めたかはハッキリ言ってわからないけど
しかし陳祇は董允の死後から力を付け始めた。
反姜維の動きはなにも黄皓だけでなく和平論者や既得権益を守りたい者達を巻き込んでのもの。
黄皓の権力掌握以前からあった動きと見るべきだよ。
>>145 そう姜維が成都方面を留守にすることが多いからって意味さ
そして大将軍の前線への赴任は呉の要請を契機とすれば
あっても不思議じゃないということが言いたいわけで
大将軍だったら前線に赴任しないというのは否定の根拠としては成り立たないよ
156 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 23:26:53
>155
いや、だからさ、姜維が中枢を留守にする事が多いから、中枢にもう一人大将軍を、って事でしょ?
なら、わざわざ中枢の重しの為に任命した大将軍を前線に派遣するのは矛盾するでしょ。
閻宇が、もう1人の大将軍なら、呉の要請があっても別人を送るだろう、って事。
実際は閻宇を派遣した訳だから、中枢に大将軍を置く必要を感じなかった、って事で、姜維に並ぶ大将軍と言う意味での大将軍位は有り得ない、って事。
>>156 でも大将軍エンウがいってもおかしくないでしょ
大将軍は前線にいかないもんだってことはない
呉の要請があった
それを契機にもう一人の大将軍職を設置しよう
呉の要請もあることだしそのまま大将軍を巴東に派遣しよう
別におかしいことは何もないよ
こういう流れだったとは断定はしないが否定の根拠にはなり得ない
>>157 横スレだけど。
“中央に大将軍を”という発想で大将軍に任命したとしたら、
それを“中央である成都”ではなく“巴東”に赴任させる、
というのは矛盾してるって事でしょ。
>>158 でも成都を中心とする防衛体制の前線としての巴東は重要だから
呉の要請という契機があれば矛盾ではないでしょ
そりゃなにもないのに巴東に大将軍がずっといるのはおかしいが
(なにもないならフや成都にいるべき)
有事を想定してに前線にいくのはおかしくない
あくまで中央に大将軍をって発想だが呉の要請を契機としてるってこと
ただしエンウの大将軍任命には反姜維もからんでるだろうから
中央に大将軍をという理由だけではもちろんないと思うけどね
蜀書だけでも諸葛亮伝の末尾と霍峻伝の末尾に右大将軍の記載がある。
どちらにせよ右大将軍というのが単なる右将軍に敬意を評しているというだけではないのは明らかだな。
あとは右大将軍が
格上としての右将軍なのか、
大将軍としての格下なのか、
あるいは大将軍とほぼ同格なのか、
そしてその任命時期はいつなのか、
黄皓や姜維に反対する勢力との関わりはあるのか、
こんな感じ?
161 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/19 02:37:11
歴代の巴東(永安)の守将
永安都督
護軍陳到(後に征西将軍)
督永安
後将軍宗預(後に征西大将軍に昇進)
巴東都督
右大将軍閻宇
どうも、永安の守将は、ライ降都督より格上、漢中都督より下位とみなされてたらしい。
閻宇に先立って永安を守った将軍は、四征・四方級だった。
蜀も末期になると、官位のインフレがひどくなり、
驃騎将軍・車騎将軍を左右に分割してみたり 「○○大将軍」を乱発したりして、高位の将軍を量産した。
つまり、閻宇は本来は右将軍として巴東都督を務めるはずが、
蜀末期の官職インフレのおかげで、右将軍に大を加えられたのではないかと推測する。
>>159 いやだからね、その発想と契機が全然逆方向で矛盾してるだろ。
→漢中に大将軍がずっと駐屯してる、これは困った、
大将軍をもう一人任命して中央に駐屯させよう(目的)
→呉から白帝城の兵員の増強を要請された(契機)
→よし、閻宇を右大将軍に任命して、巴東(永安らへん)に駐屯させよう(結果)
→アレ?
という話になる訳だ。
呉の要請もあくまで兵員増強に留まるもので、
わざわざ大将軍が中央を離れる必要のあるものでもないし、
本来の目的と違うなら別に将軍を赴任させても何も問題ない訳だし。
つまり大将軍が中央に必要論はちょっと違うと思う。
別に中央に大将軍が必要か、といえば別にそうでもないんだし。
>>162 丞相が漢中に住み着いてた前例があるものな。
後任の大司馬や大将軍で録尚書事持ってる人も、ずっと成都から離れてて、
成都は尚書令や侍中に任せ切り状態が三十年以上も続いてた。
成都の諸葛瞻と董厥が、平尚書事を加えられて、
やっと宰相クラスの人物が成都に常時存在する体制が出来た。
よく考えると、蜀って異常な体制だ。
>>162 →呉から白帝城の兵員の増強を要請された(契機)
→漢中に大将軍がずっと駐屯してる、よしいい機会だ
大将軍をもう一人任命して中央に駐屯させるのを建前に
姜維の軍権を剥ぐ下準備をしておこう(目的)
→よし、閻宇を右大将軍に任命して、建前通りに呉の要望を汲んで
成都の前線である巴東に駐屯させよう(結果)
矛盾はないでしょ
>>163 その異常な体制を修正するのを目的の一つとした右大将軍の任命は姜維の軍権を弱める
目的と併せれば充分考えられるんじゃないのかな?
166 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/19 03:24:45
大将軍二人ってのはもっと異常なんですが
そんなに姜維の軍権弱めたかったら、閻宇を大司馬に任命すればいいのに。
なんで大将軍を二人にするなんて、混迷を内外に知らしめるようなことをするんだか。
当然異常事態ではあるとおもうよ
蜀末期のすべてがね
異常時だったんだろ
なら、何があってもおかしくないじゃなーい
>>167 でも大将軍の兵権が漢中と成都に分割されるということを明確にするには大将軍を二人にした方が
明確にされやすいよ。
>>164 >大将軍をもう一人任命して中央に駐屯させるのを建前、
と
>建前通りに呉の要望を汲んで 成都の前線である巴東に駐屯させよう(結果)
が矛盾してるけど、巴東と漢中なんてどっちも成都から遠距離、
巴東に赴任するのは軍権を成都に集中させるどころか、
さらに分散させるも同じ事。
それに閻宇が呼び戻されるのは魏の侵攻時、
中央に置く、という目的から大分外れてる。
閻宇なんかが中央にいようがクソの役にも立たないし、どうでもいいよ
>>171 別に言葉遊びをしてるわけじゃない
本質を見ると巴東というのは成都の防衛ラインなわけで
中央を守るという目的からは反していない
エンウが呼び戻されたのは北つまり漢中方面からの侵攻に対するため
一つ疑問なのはわざわざ右将軍に大をつける理由
大将軍に右をつける理由は姜維の軍権を弱めるetcが考えられるわけだが右将軍に大をつける理由は?
それと黄皓が強力な権力を持つ姜維を廃するための同士としてはただの右将軍に大をつけただけでは役不足では?
>>173 言葉遊びねぇ、中央に駐屯するのと、巴東に派遣する、意味が全然違うけど。
漢中も成都の防衛ラインであり、距離は巴東もそう変わらない位同じく遠い。
中央に大将軍が必要という発想なのに、それを前線に飛ばしてどうするんだよと、
兵力増強ならば別に他の将軍でもいい訳だし。
それに目的は中央に大将軍を駐屯させて、漢中と成都の軍権を分割、
それにより姜維の軍権を弱める事だろ、中央を守るのが目的じゃないだろう、
わざわざ呼び戻さなきゃ来られない所にいる人物が、果たせる役割じゃないな。
>>175 大きく見れば漢中も防衛ラインだが
漢中には独自の防衛システムがあって
そして本人の意向はともかく姜維がいる
巴東も遠いが成都の防衛ラインであり漢中ほどの防衛システムはない
呉の要請に応じて大将軍が赴任することは矛盾がないでしょ
そして呉の要請は建前になるでしょ
>>175 漢中に集中してる姜維の軍権を弱めるには
大将軍の権力が漢中と二分されるということで充分
それにより姜維は漢中の兵力しか動かせなくなるわけで
ま正直どっちでもいいんだけどな
>>177 仮に閻宇が大将軍だとしても、漢中・巴東で分割されただけで、
成都が大将軍不在に変わりは無く、
姜維が巴東の兵を動かせなくなるだけで(元々動かしてなかったみたいだけど)
漢中以外の兵を動かせなくなる訳では無い。
実際には閻宇が巴東に赴任した257年も、姜維は数万規模の大軍で北伐を行っている、
この時期に姜維の軍権が弱まった様子は無いな。
つーか258年には成都に帰還してるので、ますます閻宇を巴東に赴任しても意味無い状況だし。
180 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/19 23:34:15
>173
ずっと、巴東を重要視してるようだけど、同盟国との国境と言う意味での重要性しかなく(十分重要だが)、
呉の要請があったとしても、蜀漢としての重要度はさほど高くない。直接、魏に攻め込まれる可能性も非常に少ないしね。
そう言う点で、わざわざ任命した大将軍を置くほどの場所じゃないよ。
しかし閻宇は蜀滅亡の戦いと蜀滅亡後は一体何処で何をしていたんだ?
182 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/19 23:50:13
>181
蜀滅亡後は不明。
滅亡の際には、巴東都督。
魏の侵攻が始まった段階で、成都に召還されているけど、綿竹の会戦には間に合わなかったようだね。
もし、対ケ艾戦に間に合ってれば、閻宇が諸葛贍の代わりに迎撃してただろうから。
おそらく、漢中が陥落してから召還されたと思われる。永安都督は対呉外交の実務面を請け負っていたから、魏の侵攻当初に召還するのは難しかっただろう。
漢中が陥落して、こりゃ本格的にマズイな、って段階で召還されたんじゃないかな?だとすると距離的・時間的に成都にも戻れてないかもしれないし。
ふむ。閻宇は綿竹会戦には間に合わず、羅憲はお留守番だったってことか。
羅憲と閻宇の関係を掘り下げる事が出来れば閻宇の能力を測る事も出来るんだけどなぁ。
184 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 00:11:06
>183
南方では馬忠伝に、長く業績をあげ、とか記載されてるし、巴東都督としては対呉交渉の責任者を任されているので、交渉・調停面で優れていたのかな、と感じるけど。
対呉交渉の実務に関しては、呉に派遣された事のある羅憲が実務を取り仕切ってたんだと思うけど。まぁ、南方でも霍弋が実務面を取り仕切ってたのかもしれないけど、
そんでも、長期間大過なく責任者を務めきった、ってのは大したものだけどね。特に難しい統治をしなきゃならん、南方では。
羅憲に嚢中の策を授けた。
とかそういう逸話が有れば閻宇もネ申認定なんだけどなぁw
>>183 召還された時に閻宇は二千人だけ永安に残して、西に向かったらしい。
全軍で侵入してきた魏軍を迎え撃つ気だったんだろう。
あと、呉が背後から攻めてくることは、想定してなかったと思われる。
(あるいは想定しても、どうにもならないと考えたか)
羅憲との関係は、歴史書からは浮かび上がってこない。
特に親任していた様子も、冷遇していた様子も無い。
永安の守将として残していることから、
ちゃんと副将として扱ってたことだけは確かだ。
季漢輔臣賛に記述はないの?>閻宇
188 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 00:21:15
>186
>>特に親任していた様子も、冷遇していた様子も無い。
永安の守将として残していることから、
ちゃんと副将として扱ってたことだけは確かだ。
と言う事は、自身は黄皓とつながったけど、黄皓に左遷された(と言われる。私見としては左遷と思わないが)羅憲を公平に扱ったと言う事になるのかな。
だとすると、結構公平な人物像が浮かび上がるな。
姜維といいカクヨクといい羅憲に閻宇も、地方に赴任している軍人はまともな能力の持ち主なのに。
彼等による後任含めた人事もまともだよねぇ。
それでも敗北すると言うのは中央の腐敗ぶりが何処まで進んでいたのかがうかがい知れる。
中央で高い将軍職にある連中ってまともに功績を挙げてない連中が殆どのような気がするし。
特に故済は姜維その他の足を引っ張ってばかりだぜ…。
<<189は、あくまでここまでの皆の資料に基づいた推測が事実なら、だけど。
でも、まぁ、そんな感じだったんじゃないかなぁ。とは思う…。
>>187 オマエはバカですか?
季漢輔臣賛が作成されたのがいつだと思ってるんだ?
>>189 胡済は諸葛亮が高く評価していた人物。
>>179>>180 なんども説明するが漢中の防衛システムはある程度独立している
そして蜀漢の防衛を考えるとおおまかにだが漢中と巴東を前線とした成都に二分出来る
なので成都の直接の防衛圏内である巴東への大将軍の駐屯は
呉の要請を契機とすれば不自然な点はない
戻れるとか戻れないはこの時点では関係ないよ
そして物事の理由は一つでなくエンウと後の黄皓や反姜維維の関係を考えると
姜維が大将軍に復帰した年つまり大将軍職に再考が加えられた年で
陳祗が死んだ年であり董厥が尚書令になった年などの反姜維要素を考えると
エンウがこの時大将軍になったとしても不自然さがない
べつに巴東に大将軍がいるべきといってるわけでなく
いても不自然さはないということをいってるだけ
呉の要請を契機とすればね
巴東についてのみの反論だがエンウと反姜維の関係を関係付けている(むしろこっちがメイン)
ということをお忘れなく
それともし右将軍に大をつけただけならその理由はなんだろう?
262年の姜維の排斥に関わる人物としては格が低くないかね?
姜維の代わりになり得るのかな?
193 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 00:38:50
>189
地方人事は結構きちんとしてるね。まぁ、南方や、永安都督に近い涪陵などは異民族も多いから気を使った面もあるだろう。
蜀漢滅亡に関しては姜維の遠征過多に原因の大部分があると思うから、腐敗というより、事なかれ主義的な部分が大きいかと。
黄皓自身も、言われるほど悪事を働いてるわけでもないし(と言うよりほとんど無い)。
中央の高級将官については、諸葛贍は個人的にはそこそこ優秀だったようだし、董蕨も諸葛亮に見出された人物。
胡済も諸葛亮に賞賛されてるし、長らく漢中都督を勤めてる。上ケイの敗北については、詳細が不明だが、姜維の基本計画自体が破綻してた感じもある。
194 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 00:39:55
>189
地方人事は結構きちんとしてるね。まぁ、南方や、永安都督に近い涪陵などは異民族も多いから気を使った面もあるだろう。
蜀漢滅亡に関しては姜維の遠征過多に原因の大部分があると思うから、腐敗というより、事なかれ主義的な部分が大きいかと。
黄皓自身も、言われるほど悪事を働いてるわけでもないし(と言うよりほとんど無い)。
中央の高級将官については、諸葛贍は個人的にはそこそこ優秀だったようだし、董蕨も諸葛亮に見出された人物。
胡済も諸葛亮に賞賛されてるし、長らく漢中都督を勤めてる。上ケイの敗北については、詳細が不明だが、姜維の基本計画自体が破綻してた感じもある。
また諸葛亮か…あの人、自分は凄いのに何で、あそこまで人を見る目が無いんだ。
自分の子に戒子なんてグレートな文を書いてても子供がアレに育ってる事を考えても、
完膚なきまでに人事面では見る眼が無いのか裏切られてばかりなのか。orz,,,,,,
196 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 00:40:10
関係ないが、閻宇は益州牧になっていた記録あり
(ソースは宋書)
>>189 この頃中央にいたと思われる高位の将軍は、
右驃騎将軍胡済(既に死亡していたかもしれないが)、
右車騎将軍廖化、左車騎将軍張翼、衛将軍諸葛瞻、輔国大将軍董厥、鎮軍大将軍宗預。
この中で軍功があったのは廖化、張翼ぐらい。
あとは将軍号を加えられた官僚みたいな連中だな。
官僚としては優秀なんだろうが、軍人としては未知数な奴らばかりだ。
諸葛贍は陳寿のこれでもかってほどにオブラートに包まれた記述からでさえ
名声と実質とのギャップが伝わってくるあたりもうダウトって感じ…
なんかもう滅びるべくして滅びたって感じだな。
シビリアンコントロールという考え方では1000年先を行った制度なのかもしれないが、
実が伴ってない。ああ、どこかの国の現実とダブって見える。
>>196 建興八年(230年)なら、領益州牧の諸葛亮がまだ生きとる。
諸葛亮が死ぬと、蔣琬がすぐに益州刺史になってる。
益州牧(刺史)が空席になるのは、費禕の死亡後。
益州一州しか持っていない蜀の益州牧(刺史)は、格別に重い宰相級のポストなので、
閻宇が益州牧になるとしたら、延煕十四年(253年)以降で無いと、計算が合わない。
201 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 00:52:44
>192
右大将軍の格としては右将軍より上と言うランク。
だとすると、鎮・征・輔等の大将軍より上。
それより上と言うことは、驃騎・車騎・衛将軍と並ぶランクと考えられる。
驃騎・車騎・衛と同格なら大将軍に昇進するのになんら問題は無いと思うけど。
右大将軍に就けた理由としては、長らく南方を統治してた事を評価され、通常の右将軍よか上にしたんじゃないのかな?
本来は鎮・征・輔等の大将軍なんだろうけど、空位が無かったか、姜維に対抗するため、より上位の右将軍に大を付加したのかもね。
202 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 00:52:55
魏も官僚系が上に立ってたのは一緒
203 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 00:55:46
>195
そんでも、蔣琬・費禕等を見出してるし。
胡済等も将領としては不明だが、軍官僚としては優秀だった模様。
そもそも、姜維も諸葛亮が引き立ててる部分もあるわけで、全く人を見る目が無い、と断定するのはどうかと。
>>203 あいやすまん。一人に責任を押し付けるのは問題ありだね
205 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 01:04:09
>192
>>巴東についてのみの反論だがエンウと反姜維の関係を関係付けている(むしろこっちがメイン)
ということをお忘れなく
だとすれば、より一層、閻宇が巴東じゃまずいでしょ。
姜維を掣肘する為の成都側の重しだとすれば、成都なり涪におって、始めて重しとしての意味を持つはず。
滅亡時に成都に戻れたかどうか微妙な場所では意味が無いと思うけど。
つまり、閻宇は大将軍になった可能性はあるが、その場合は成都駐留でなければ政治的に意味がない、と言う事。
>>201 右将軍に大をつけても
驃騎、車騎、衛将軍まではいかないなあ
右将軍は右将軍にすぎないよ
なので大将軍に右をつけた可能性の方が高い
>>205 官職での牽制には充分成りうる
実際に姜維を廃する動きは292年頃なわけで
208 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 01:08:51
>206
右将軍の上は本来臨時のハズだが乱発された○○大将軍以外になく、通常であれば前後左右将軍の上は驃騎・車騎・衛将軍。
諸葛亮の死去後、呉懿は左将軍から車騎将軍へ、後にケ芝は前将軍から車騎将軍へ。
それ以前も李厳が前将軍から驃騎、劉淡が後将軍から車騎。
その辺りを考えれば、右将軍の格上右大将軍は驃騎等と同格と考えてもおかしくは無い。
右将軍に大をつけて右大将軍。
大将軍に右をつけて右大将軍。
それぞれ格上格下になり驃騎、車騎、衛将軍と同格になるんなら
意味合い自体あまり意味はないな。
210 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 01:19:40
>209
表面上の職席階級ではね。
ただ、大将軍は特別職のような階級なので、大将軍の右職はと、右将軍の大では全く違う。
211 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 01:22:30
>207
官職上、牽制できても(出きるように見えても)、実態が伴わなければ意味が無いのでは?
>>208 まあその昇進と大の意味するところは結びつけられるかどうかは微妙だけどね
一応四鎮将軍は空きがありそうだし常設に近い
格は驃騎、車騎、衛将軍まではいかないよ官職の意味合いからしても
例のない官位的に説得力もないわけで
>>211 この時に実体を伴う必要はないということ
牽制のみで可
反姜維の上表の時にそれは具体的になったのでありそこで意味を持てばよい
214 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 01:35:16
>212
同格、としたのは誤解を招きやすかったかな。
驃騎等より若干格は落ちると思うけど、鎮・征等の大将軍よりは上でしょう。
通常の方将軍(前後左右)は鎮・征将軍より上なのだから。
方将軍から驃騎等への昇進の例が比較的多めにあるのだから、方より上なら驃騎等とほぼ同格じゃないか、と。
そう言う意味で、右大将軍が右将軍の大付きなら、大将軍昇進があってもおかしくないよ、と言う事です。
他に例が無い官職で断定は出来ないけど、他の例から推測したまでです。
215 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 01:38:04
>211
閻宇の巴東赴任が258年で、反姜維の動きが262年。水面下で反姜維の動きがあったとしても、256年の段階で大将軍2人制にする理由付けが難しいと思うけど。
216 :
211:05/03/20 01:38:38
>213へです。失礼。
217 :
216:05/03/20 01:45:08
>216は>213へ、です。重ねて失礼をお詫びします。
>>214 一応九品に置きかえれば四鎮の方が格は上だけどね
まあ蜀でこれが当てはまるかは微妙だが
驃騎等まではいかないとすれば納得
ただこれで姜維の代わりに推せるかは微妙
ただこちらがいいたいのは右(大)将軍の可能性も(右)大将軍の可能性も
どちらも否定できないということ
>>215 それはつまりこれだよ
>エンウと後の黄皓や反姜維維の関係を考えると
>姜維が大将軍に復帰した年つまり大将軍職に再考が加えられた年で
>陳祗が死んだ年であり董厥が尚書令になった年などの反姜維要素を考えると
>エンウがこの時大将軍になったとしても不自然さがない
反姜維が布石を打つ好機であるということ
つか閻宇が益州牧って気になるな・・・
221 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 02:00:10
>218
九品は魏晋だからねぇ。
蜀漢の場合、鎮・征から方将軍になってる人物もいるので、断定は出来ませんが方>鎮・征っぽいのかな。
大>驃騎・車騎・衛>○○大将軍>方将軍>鎮・征将軍、って感じます。格ランクの中でも上下はあったでしょうが。
姜維の代わりとなり得る人物は、張翼・廖化・宗預・は老齢&上がりポスト、董蕨は軍務がほとんど無い、諸葛贍は、いずれはトップになるにしろ若すぎる、と言う事で閻宇しかいなかったのかもしれません。
右(大)将軍にしろ(右)大将軍にしろ、私もどちらか断定も否定も当然ですが出来ません。
比較的信頼できる資料を基に私なりに推定したまでです。
>>221 まあこちらも断定するつもりはないということで
だが輔國大將軍を推すでしょうという気もしないでもない
若いっつてもね
血筋的にも
>>192 だからね、その分け方が既に無理なんだよ。
漢中に独自の防衛システムがあるのと、成都と巴東の距離は関係ない。
地図見れば分るが、巴東は成都の直接の防衛圏内と言えるほど近くない。
何故呉が巴東の兵員増強を要請したのか、
閻宇が魏の侵攻の際、呼び戻されたけど何故間に合わなかったのか、
早い話が遠いんだよ、巴東は、成都の前線なんて言えない位に。
巴東が前線と言えるなら漢中も十分成都の前線だよ。
そして中央に置きたい大将軍をわざわざ赴任させる程の場所ではない。
羅憲が左遷扱いなのを見れば、それはわかるだろう。
そして反姜維派の行動とするならあまりにお粗末だね、
257年は閻宇が右大将軍として巴東に赴任した年だが、
この年の姜維は対陣中(恐らく255年辺りから成都を離れてる)
成都に帰還したのは258年でそのまま大将軍に復帰、牽制になってないし、
姜維が成都を空けてる最中に対抗馬を巴東に持っていってどうすんだよと。
224 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 02:16:56
>222
輔国大将軍の董蕨は若くは無いと思うけど。
昇進速度を考えると、諸葛贍の補佐役ってとこがが上がりポストかと。
諸葛贍の場合、いずれはトップに立つのは明らかなんで、わざわざ政争に巻き込んでトップにする事は無いって判断したんじゃないかな?
>>224 すまんもの凄い省略した
輔国大将軍の董蕨や諸葛贍を推さないでエンウを推した理由ということ
226 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 02:24:58
>219
概ね
>>223が代弁してくれた。
ついでに言うと、258年に姜維が成都に帰還したのは陳祇の後任人事を定めるためだったと考えられる。
でなきゃ、わざわざ帰還する必要は無いからね。
政府中央の人事なんぞにあまり関心の無い姜維は、陳祇の後任に次官の董蕨を指名して、さっさと前線に戻った、って感じじゃないかな。
この段階で姜維を排すなら、大将軍に復帰させなきゃ良いしね。
帰還→大将軍復帰&後任人事、て流れだと、閻宇を格上げして自身の首を絞めるような事はせんと思うけど。
>>223 262年の反姜維の具体化の時点で意味を持てばいいと事をいってるわけだが
通じてない?その布石ってこと
大将軍に復帰というのは大将軍職が再考されたことでもある
この時に格下の右を併設し牽制を計ったとすると問題がない
距離は問題ではないよ
巴東は漢中が独立した防衛体制をとってるのと同じではなく
あくまで成都の直接の防衛ラインであるので巴東に駐留しても
問題がないといっているわけで
あくまで官職での牽制
>>226 大将軍復帰が帰還の理由で一番大きいでしょ
姜維の力も非常に大きいから大将軍復帰は止められなかったが
和平派としては右を併設するのには成功したというところじゃないかな
229 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 03:01:50
>227,228
>257年にはすでに右大将軍(右将軍)に就任しているわけで、陳祇の死去をリンクさせるには前提が崩れないか?
それと、大将軍の右を併設したのであれば、それほどの重大人事なのだから後主伝に記載されて当然だと思うけど。
>>229 時期が近いというだけで充分関連づけられるでしょ
もちろん月単位の細かい関連づけは難しいとしても
重要なことでも結構抜けてるわけでエンウ自体の記述がない後主伝に
記載がないことはそれほど根拠にならないと思う
それよりはエンウがなぜに董蕨や諸葛贍を差し置いて姜維のかわりに
大将軍に推されたかの方が疑問じゃないかな
231 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 04:13:17
キョウイの軍権を与えられる≠大将軍になる
とも考えられないか?
>>223 >成都に帰還したのは258年でそのまま大将軍に復帰、牽制になってないし、
>姜維が成都を空けてる最中に対抗馬を巴東に持っていってどうすんだよと。
中央政権で丞相に準じた活躍をしているならともかく、そうでない場合は
閻宇が姜維の対抗馬になるほど昇進させるのにそれなりの理由が必要。
巴東は成都・漢中とならぶ蜀の3大拠点のひとつであり、漢中の補給基地にして
呉や魏領荊州(上庸など)に対する防衛線の中核、そこに赴任ししばらく
そこの軍を指揮するだけで「鎮東将軍」の肩書きを与える口実になる。
>>229 >それと、大将軍の右を併設したのであれば、それほどの重大人事なのだから後主伝に
>記載されて当然だと思うけど。
同意。
正史を含めて様々な史料が示すとおり、閻宇、そして姜維の官職異動についての
記述がないことからも、閻宇は大将軍ではなく右将軍。
233 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 07:48:11
>>232 そうでしょうね。
右大将軍は右将軍であって大将軍ではありません。
車騎や驃騎ぐらいなら、上位の官位の詰まり具合とその人の功績によって左右に分かれることは
ありますが、大将軍は左右に分ける官位ではなく、中央政府側で姜維に対抗させたいのであれば
蔣琬が就任した大司馬という官位もあります。
また閻宇が、大将軍や大司馬まで昇進するには、軍役で大功を挙げるか中央政府で丞相・三司クラスの
活躍をする必要があり、閻宇はそのどちらでもありません。
「右大将軍」の呼び方は日本の「吾妻鏡」などにも登場し、右将軍を敬い尊ぶ時の尊称・敬称
として使われます。
そういう呼び方をすることで、閻宇を実像以上に大きく見せる意図があったのかもしれません。
また、四方や四鎮・四征などに「大」がつくのは、開府する権限を明確に与えられたことを示す
場合もあります。
この場合、かつて劉備が左将軍府を開いてそこに幕僚を抱えていたように、閻宇は右将軍府を
開いていたのかもしれません。
>>229 > 257年にはすでに右大将軍(右将軍)に就任しているわけで、
これのソースは?
呉の要請に応じた年は258年。(朱然伝)
もちろんそれ以前から就いていた可能性も十分にあるけど、記述的にさかのぼれるのはここまで。
三国志以外の記述は知らん。
>>230 諸葛瞻や董厥は黄皓とともに閻宇を推した側だから。
諸葛瞻や董厥は将軍号より平尚書事などの中央の官職の方を重視するべきで将軍位は飾り。
>>233 > 大将軍は左右に分ける官位ではなく
まあ呉では丞相すら左右に分けてたりしたがな。
個人的には状況証拠から閻宇の右大将軍は大将軍の劣化版ではなく右将軍のアップグレードである可能性は高いと思う。
ただ、いずれどちらにしても断定は出来ない。
「右大将軍」は、陳寿の誤記だといってみる。
閻宇は、右将軍になった・・・えっ大将軍だったっけ?
あーわからんくなってきた。
ええい、「右大将軍」と書いておこう・・・とか。
閻宇は諸葛瞻・董厥・黄皓らに姜維の対抗馬じゃなくて、罷免後の後任として期待されてたんじゃないのかな
だから大将軍罷免が不発に終わったから出番が無く。仕方なく右将軍の上の格にして東方の軍事外交の前線責任者にした
>>236 なんか時系列がおかしくないか?
ライ降都督→巴東都督→大将軍擁立未遂だよ。
閻宇は少なくとも258年に巴東に赴任しており、黄皓らによる大将軍擁立未遂は262年。
>>237 あ、すまん。「仕方なく〜」以降は削除でorz
240 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 15:35:00
>230
蜀漢は確かに重要事項が抜け落ちてる事も多いが、さすがに大将軍となると、ちゃんと記載がある。
閻宇が大将軍の右職ならば、異例中の異例であるから、後主伝に記載されていて然るべき。
なぜ、他者でなく閻宇なのか、と言う点は
>>221 >>224を読んで下さい。
>>239 閻宇は巴東に赴任した際には右大将軍のまま赴任したが、
赴任する際に何かしらの将軍位から、右大将軍に昇進した様子が無い事から、
赴任する以前に右大将軍であったと思われる。
そして呉で反乱が起きたのが256年、朱績が車騎将軍になったのが257年、
さらに蜀への要請と閻宇の駐屯が書かれて、258年に遷上大将軍になったという順序。
元々反乱に乗じての魏の侵攻を恐れて要請であり、
記述の順序に従えば257年に閻宇が巴東が駐屯した事になり、
少なくとも257年には既に右大将軍になっている。
>>241 ちょっと弱い。
> 閻宇は巴東に赴任した際には右大将軍のまま赴任したが、
> 赴任する際に何かしらの将軍位から、右大将軍に昇進した様子が無い事から、
> 赴任する以前に右大将軍であったと思われる。
朱然伝ではあくまで右将軍と記述。誤記とは断定できない。
赴任時に右将軍、その後に任地において右大将軍に昇進というケースはケ芝や宗預の例から考えても十分にありうる。
更に言えば蜀書はもともと記述量が少ないからね。記述なし=事実無しとも言い切れない。
あと閻宇が巴東に赴任した年に関しては258年の可能性もあり、257年以前の可能性もある。
257年とは断定できない。
閻宇の赴任記事は「孫リンが政治を牛耳るようになると」のセンテンスがいつを表してるかによって変わってくる。
直前の記事は257年の朱績の車騎将軍昇進の記事だが、
時系列に沿っての記述なら孫リンが云々は258年の孫リンが丞相になったことととるべきだし、
一般的に孫リンが台頭してきたことを指してるのなら時系列から離れたセンテンスであるととらえるべき。
>>242 右大将軍のまま巴東に赴任したのは霍峻伝に記載されている、
少なくとも赴任した後で、右大将軍に任じらてるという事は無い。
呉が右将軍と記述したのは、まさに大将軍の右職で無かったという事だろう、
いくらなんでも大将軍が右将軍となるのは有り得ない。
太平二年の車騎将軍昇進と、永安初年の遷上大将軍になった記述の、
直前と直後で挟まれた話であり、時系列から離れた話である可能性は薄い。
また既に書いたように、反乱に乗じて魏が攻めてくるのを恐れたのであり、
孫リンが権力を握った際に起きた反乱は256年。
そして孫リンは256年以前には既に政治の実権を握っている。
以上の事から、閻宇が巴東に赴任したのは257年だと思われる。
>>243 霍峻伝の注な。
ただあれは羅憲の左遷記事であって閻宇の赴任記事ではない。
既に巴東都督として赴任していた右大将軍閻宇の下に付けられたという記事。
また羅憲の左遷は「黄皓が実権を握った」という記述から見て258年以降の可能性が高い。
(258年に陳祗が死んでるので)
よって閻宇の巴東都督赴任が257年だったという根拠としては弱い。
> そして孫リンは256年以前には既に政治の実権を握っている。
そうすると「孫リンが政治を握るようになると」という一文が浮いてしまう。
時系列から一旦離れるか、孫リンが257年以降新たに実権を握るような特筆すべきことがあった時点ととった方が自然。
あと注意すべき点として閻宇の巴東都督赴任と右大将軍就任が同時であるとは限らないということ。
記述をおってわかることは右将軍→右大将軍という変化。内実はともかくね。
>>244 >既に巴東都督として赴任していた右大将軍閻宇の下に付けられたという記事。
それは違うな、そのころ右大将軍の閻宇が巴東に都督として赴任し、領軍に任じられた。
とある、これは明らかに赴任する際には右大将軍だったという証拠。
>閻宇の巴東都督赴任と右大将軍就任が同時であるとは限らないということ。
だからこれは違うな。
羅憲の左遷自体は確かに258年以降の可能性はあるが、
元々陳祗と結託していたので、258年以前も権力を持っていても不思議は無い。
何度も書くが、内乱が起きたから兵員増強を要請したんだよ、
孫リンが実権を握った際の反乱と言えば呂拠等の反乱であり、
これは256年10月あたりに鎮圧されたので、
要請してから閻宇の赴任が257年になったと考える自然だろう。
それに孫リンは258年に丞相なったが、直ぐに孫休に殺害されてる。
246 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 20:20:48
他に例の無い将軍号なので、断定は難しいけど、
今までのレスを読んだ限り、閻宇の右大将軍は右将軍の格上タイプ、と言う感じかな。
大将軍の右職論者は当初、姜維に対抗するため、呉の要請を契機に閻宇を大将軍の右職に任命した、って意見だけど、
この解釈だと、巴東に閻宇が派遣された段階で右大将軍になっていた可能性が高く、(
>>244の様に右→右大の可能性は無くはないが、さらに異例)前提が崩れる。
262年に表面化する反姜維派の布石と言うのは結果論的な部分が強すぎる。
それと、258年前後に閻宇が(姜維と同格の)大将軍格になるのは官位的に難しいだろう。
前職のライ降都督は以前の馬忠等や後の霍弋が位階から概ね、安南将軍クラスが就任する職務の模様。
平尚書事を加えられ、成都で国務を総理する事もあった馬忠は鎮南大将軍まで昇ってるけど、これは別格でしょう。
とすると、右大将軍以前の閻宇は安南将軍クラスであり「長年忠実に業績上げたから」と言う理由で、本来なら右将軍昇進が順当(前任者の張表がその例)だけど、大を加えるよ、って感じじゃないですかね。
長文、失礼しました。
>>245 > そのころ右大将軍の閻宇が巴東に都督として赴任し、領軍に任じられた。
ああ、その一文を誤読してた。
羅憲が閻宇の領軍に任じられたのではなく、閻宇が蜀の領軍に任じられたととるべきだね。
李厳伝の「護軍の陳到を留め置き」というのが頭にあったので前者と思ってた。
ただ右大将軍就任と巴東都督は同時ではなく、右大将軍に昇進、その後巴東都督の可能性もあるな。
厳密に言えば。
まあ屁理屈の部類だがw
>>246 257年だったとしてもさらにいえば257年以前だったとしても
前提は何も崩れない。なぜなら例えば姜維の成都帰還と大将軍復帰が258年でも
少なくともその検討は直前ではなく258年より前に始められているはずで
その他様々な人事もそれに同じ。例えば陳祗の死もそれ以前に病状その他で
陳祗の後継者について検討された事も考えられる(突然死でなければね)
重要なのは258年の陳祗の死以前から和平派や反姜維の気風は
高まっているということで黄皓もすでに劉禅の側について何年かたっている
エンウ(右)大将軍の画策は充分あり得るということ
契機というのを取り違えていると思う。大将軍が巴東に赴任することの契機であって
エンウが右大将軍に就任することの契機ではないよ
249 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 21:53:40
>248
閻宇を大将軍にしたい。→呉の要請があって、巴東に兵力増強するのを利用しよう。って事でしょ?
そもそも、閻宇が大将軍(の右職)になるには
>>246に書いた通り、官位的に難しいでしょう。
反姜維機運が表面化する262年の段階なら、すでに右大将軍(右将軍の格上)の閻宇を姜維と取り替えよう、って言うのは無理では無いけど。
>>249 もちろん通常の人事でエンウが大将軍になるのは格や実績的に難しい
しかし反姜維の陰謀を考えれば充分にありうる(通常の人事ではない)
しかし262年に大将軍である姜維を廃し右(大)将軍を姜維の代わりに同時に
大将軍にするのは二重の難しさがある
やはり257-258年の時点で(右)大将軍に就任させ布石を打っていた可能性は否定は出来ない
251 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 22:16:42
>250
通常の人事でなければ、蜀漢の記録不備が著しくても後主伝に記載されるでしょう。
例えば「閻宇を大将軍の右職として姜維の次とした」とか。黄皓が権力を握ったのを記載してる以上、それに連なった事は隠蔽するとは思えない。
いくら反姜維の動きがあっても、この段階では未だ水面下であって、事実上の大将軍2人制ってのは繕えるものではないし。
258年の時、姜維は大将軍ではないけども、行大将軍事って事で、事実上大将軍。
復帰も諸葛亮の時同様、規定路線でしょう。
それだったら、262年の段階、姜維の底が見え、反姜維機運が高まった頃の方が替えやすいのでは?
262年に右(大)将軍なら名目的(官位)にも、世論的にもね。
可能性は否定しないけど、右将軍の格上論に対して推測の部分が多すぎる、って事です。
>>251 逆に言えば通常の人事ではないからこそ記載されなかった
ともみることができるし、単に重要でも記載されてないことは
蜀書ならあり得る(その他史書も)
262年に姜維を廃して右将軍を大将軍にすることは
姜維を廃する事の難しさと右将軍を大将軍にする難しさがあるということだよ
つまり陰謀としての下準備があまりにも足らない
たしかに推測の部分は大きいが右将軍の格上という理由のない異例の官職を
説明するのもそれはそれで難しいと言うこと
253 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 22:50:08
>252
通常人事なら記載されず、異例だから記載される、と言うのが一般的では?
蜀書云々言っても、陳寿は蜀漢後期の事については実際に経験している訳で、異例で重要であれば何かしらの記録が残るはず。
それが大将軍級の人事であればなおさらでは?
例えば、蔣琬に関して言うと、諸葛亮死後の処遇は異例の抜擢だけど、ちゃんと行都護・尚書令・益州刺史になったことが明記されている。
誤解がある様だけど、閻宇の右大将軍は右将軍の格上大将軍ではないか、と言う事で、
それなら262年の段階で姜維と取り替える事は無理は無いでしょう。
逆に258年頃の段階で安南将軍くらいの人物を姜維と並ぶ大将軍にする方がよっぽど難しいのでは?
閻宇が姜維と同格の右大将軍とする推測と、右将軍の格上大将軍とする推測。
どっちも説明するのは難しいけど、史料的には右将軍の格上大将軍の方がより説得力を持つんじゃないか、という事です。
将軍に敬意を表して大将軍と普遍的な表現をすることがあるのはわかる。しかし閻宇の場合、
諸葛亮伝と霍峻伝の末尾に右大将軍とあり晋書にも大将軍とある。3つともこういう表現とは考えにくい。
そして官職の名前に大をつけて大将軍とする場合はかなり限定されると考える。官職の名前に大将軍という
言葉が含まれるわけだから。
まずは驃騎や車騎、衛などの最高級クラスの将軍位 大をつけて大将軍という言葉が含まれても差し支えない。
さらに非常設の大将軍位 輔国大将軍など まあこれらは最初から大がついてるわけだが。
そして方面司令官としての四鎮四征将軍 これは各方面限定で大将軍のように軍権を統括する意味合い。
四征は蜀にはないが。
だが右将軍はどうなんだろう。もともとの意味は中央の防衛軍であり官職の名前に大将軍が含まれるのは
その位と意味、権力の範囲からしても不適当。そして前例もない。
通常、右将軍に大をつけるのは官名に大将軍が含まれるので空きポストがないからというだけでは考えにくい。
空きポストがなかったという裏付けもない。閻宇がただの方面司令官として巴東に赴いただけなら鎮東将軍クラスでよい。
反姜維の画策がこれに影響したと仮定してもその格は姜維と比べると大幅に低いので効果が薄い。
つまり通常の昇進で右将軍に大をつけるのは考えにくいし反姜維の画策としてもその効果を考えると意味を
成さないに等しい。
大将軍に右をつけるのも通常なら極めて考えにくい。しかし姜維の対抗馬にするための画策とすればあり得る。
そしてその効果は262年の上表を前提とすれば極めて高い。
>>252 >251の場合、
右将軍から右大将軍じゃなくて、
右(大)将軍から、大将軍になるんじゃないの?
その場合、右(大)将軍から大将軍はさして難しい問題じゃない。
もっと言えば姜維の後任が大将軍である必要は別に無いんだけどね、
漢中を取り仕切らせるだけなら鎮〜将軍クラスで十分だし。
実際、安南将軍クラスがいきなり(右)大将軍になる方が無理がある。
それに>通常の人事ではないからこそ記載されなかった
というのは無理有り過ぎ、どんな理由だそりゃ。
>>253 この姜維の陰謀については上表という形での記載がありそれで
十分としたとも考えられる
あるいは何か意図的に書かない理由があるのかもしれない
書かれていない理由については何も断定できるものはないが
やはり記載されてないことを根拠とするには無理がある
それとこちらは姜維と同格の大将軍だとはいってない
格下の大将軍という主張
右将軍は格上でも大将軍には成り得ないし大将軍にすぐに代われる
官職とはやはり言えない
>>254 巴東と密接に外交を持つ必要がある呉では、
閻宇は右将軍になってたりするけど。
それから蜀に四征はある、魏延が征西大将軍になってるし、
(他にも黄忠・馬超・陳到・張翼・宗預・趙雲・劉巴等が居る)
その中でも魏延は軍権を統括して無いが、大将軍としての呼称を与えられてる。
つまり蜀では軍権とは別に、大将軍の呼称を与える事があったという事だ。
そもそも右将軍に格上で大をつけること自体ありえなくないだろうか?
征東大将軍や鎮軍大将軍と同じようには成り得ないと思うんだが。
理由が無く前例もないよ。
大将軍の分割もありえないからなぁ…。
実際蜀の後期は〜大将軍が乱発されてるので、
前例も理由もあんまり考えてないと思われる。
>>259 大将軍の分割は姜維という理由があるのでは?
261 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 23:28:42
>254
格上右大将軍の理由付けが難しい点があるにしても、大将軍の右職と見るのはより一層難しいでしょう。
特に258年頃の閻宇の官位ではね。安南将軍格から、いきなり姜維と並ぶ大将軍格では。
将軍号の権力と意味に関して、おっしゃってる意味は後漢や魏晋等の一般的な意味であって、異例の称号が多い蜀漢には当てはまらないのでは?
右(大)将軍にしろ大(右)将軍にしろ異例なんだから。どっちも前例も後も無いわけで巴東だから鎮東ってのは無い。(鎮東同等官と言う意味だろうけど)。
ついでに言うと蜀漢の鎮東将軍は趙雲以外に見当たらない。おそらく、蜀漢中期以降は廃官かと。
蜀の東は同盟国の呉なので。歴代の永安都督も征西将軍、征西大将軍・後将軍が就任してる。
以前にも書いたけど、ライ降都督を勤め上げた際、本来、右将軍昇進が順当なんだけど、長らく忠実に業績を揚げたので右大将軍、って格上げしてやった、って感じでないかな。
前任の張表も安南将軍から後将軍に遷ってるので(張表の場合、在任期間が短かったため、通常の昇進で終わったと思われる)。
ただ、なんで右の大なのかはどうにも不明。大将軍の右職にしても、前もって姜維の代わりとするためなら、驃騎でも何でもあったハズなんで。
聞きたいのだが右(大)将軍とする方は大をつけた理由が
通常の昇進と考えてるのだろうか?
それとも反姜維のなんらかの思惑がそこにあって
大がついたと考えてるのだろうか?
>>260 理由はあっても、まあ本来有り得ない話。
それにわざわざ大将軍を分割しなくても、大司馬に任命すればいいだけの話だし、
実のところその理由もあんまり説得力ないんだよね。
>>261 驃騎や衛にすればそれはかなり効果があるとは思うけど
大将軍を分けてしまった方がより効果があると思うよ
エンウが格下大将軍になるのは陰謀が絡んでれば充分可能
すくなくとも同時に姜維を廃して格上右将軍を大将軍につけるよりはね
265 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 23:39:43
>256
何度も書いてるんだけど、大>驃騎等>諸大>前後左右>鎮・征
って流れはハッキリしてる訳だから、右の大であれば諸大の部類に入るでしょ?
で、諸大の中でも、前後左右>鎮・征って事で右大>鎮・征大って事になる。
つまり諸大将軍の中でも格式が高い訳で、驃騎等に準ずると考える。
だとすると、右大から大将軍になるのも官爵上は難しく無いでしょ。
大将軍の政治的意味を考えれば、高官なら誰でもなれるとは思ってないけど。
>>263 通常ありえないが理由があるということ
右将軍に大をつけるのは通常あり得なく理由もない
267 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 23:43:23
>264
だから、258年頃の段階で閻宇を姜維と並ぶ大将軍格にするのは無理だって事。
262年頃なら、すでに右(大)将軍であったわけだから、姜維と交代するのに問題ない位階だったろうけどね。
(右(大)の格が驃騎等に準ずる格ならば、だけど)。
単に交代を狙うだけなら、閻宇よりも位が上の将軍がいたんじゃないか?
見ていると、四方将軍に大をつけた閻宇をわざわざ引き上げようとする理由がどうもわからない
左右車騎あるいは驃騎将軍は当時北伐派?
右(大)将軍の格は驃騎等には大幅に劣るでしょう。
大将軍への昇進に驃騎や車騎、衛を飛び越すので難しさが大きいと考えます。
>>266 その理由も疑問だと書いてるんだけど。
当時の蜀の〜大将軍乱発や、閻宇の官位を引き上げる事を狙ったとするなら、
右(大)将軍の理由も一応つくが。
ただどっちもあんまり変わらんが。
>>270 そうそのどっちもかわらんというのが重要
そもそもの主張はどちらの可能性も否定できないとというのが
こちらの意見なわけで
張翼を姜維の代わりにすればよかったんじゃないかと素人考えでは思う
左車騎将軍なら大将軍に累進してもおかしくないと思うし
北伐反対派だった(サポタージュなどはしなかったが)
張翼と黄皓の相性がどうかというところかな
274 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/21 00:40:33
>269
姜維が鎮西(大)から衛に昇進してるでしょ。
右(大)将軍なら鎮西(大)よか格上だろうから大幅に劣るってほどじゃない。
政治任命色の強い大将軍は本来、別格かもしれんが、李厳・劉淡・呉懿等が前後左右から諸大将軍を飛び越えて驃騎等になってる。
この辺りを考慮すれば官職上は右(大)将軍から大将軍は安南から姜維と同格の大将軍よりは難しくはない。
275 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/21 00:42:27
>270
どっちか不明ってのは右(大)将軍論の人も同様なんだけど、大(右)将軍論の中に断定口調の人がおってねぇ・・・。
276 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/21 00:44:51
>272
張翼の場合、年齢&閲歴から左車騎将軍が引退前の花道ポストだったようだよ。
事実上第一線を退いてて、相談役みたいな感じだったんじゃないかな。
sageることすらできなくなるほど
議論に熱中してるの?君ら
で閻宇が益州牧っていうのはガセなのでしょうか?
蜀滅亡後後晋で益州牧にでもなってたのかな・・
閻宇は「右大将軍のまま巴東都督・領軍となった」んでしょ。
領軍も巴東都督も大将軍級が兼務する肩書きじゃない。
つまり閻宇は右将軍。
たしかに言われてみれば大将軍が領軍とかおかしいな。
いろいろ兼務なんて蜀はしょっちゅうやってるでしょ
羅憲がきたら領軍は引き継がせてるし
督と領軍兼務してもなにもおかしくないし大将軍が
督を兼務してもおかしくはない
国家の軍権の最高権力者である大将軍が、
一定の範囲である地方の軍権しか持たない都督・領軍となるのはおかしい、
という事だろう、確か大将軍で都督を兼任した人物は居ないと思う。
>>283 格下大将軍ならあるでしょ
大将軍がすでにいる以上ある程度の有事って事で巴東の督を兼任させた
としても不思議はない
前例がない右大将軍職だけに兼務させて明確にしただけでしょ
>>279とそれについたレスはある程度それまでの事実をもとに推定しているのに対し、
284は格下大将軍という推測の上に推測を重ねている。小論文なら0点だな。
>>286 そんなこといっても右大将軍は前例がないからねぇ
>>284 格下大将軍というと鎮〜大将軍とか、征〜大将軍・輔国大将軍なんかかな?
それらは根本的に大将軍とは別物だからね、だから都督としての軍権が必要なわけ。
大将軍の右職とは、全く意味合いが違う。
それに大将軍の右職なら、姜維が当然左職にならなきゃいかん訳だけど、
そのような記述は無いし、しかも丞相の右職・左職の例に乗っ取るなら
右職が格上になるんじゃないのかな。
羅憲て領軍になってたよね?
前例がないので
実質としての意味はあまりなさない大将軍の右格であり
姜維は大将軍のままなわけで格下であるということがいえる
いろいろつけたのは前例がないからとりあえず明確にするためということ
>>72 遅レスだが激しくワロス!
「あんたは、人間のクズだ!」
( .゚∀゚)俺を殺せる香具師などいない!
( 魏延)
| | |
(__)_)
∧楊∧
(-@∀@) .| | ガッ
と ) | |
Y /ノ 人
/ ) < >_∧∩
_/し' //. V`Д´)/
(_フ彡 /
>>290 これまでの議論の流れからしても「右の大将軍」論はムリありすぎだよ。
「右将軍の大」のほうが妥当じゃないかな〜。
釣り乙
>>294 釣りじゃなくてマトメでしょ? 議論出つくして推論・妄想ループに入ってるようだし
俺も
>>293に同意かな
右将軍説有利な気ガス
俺は右将軍に大がつくことがありえないとおもうので大将軍かな
今までの議論的にも
なぜ右将軍が対抗馬に?
という位負けの疑問があるが
微妙ですね。
もはや主観だけの判断だと思います。
あれじゃないの?右将軍に大とか大将軍に右とかじゃなくて「右大将軍」なんじゃないの?
「右大」という雑号将軍とか?
ややこしい…
いろいろ乱発された大将軍職の一つで完全新型官職
>297
三国時代は将軍号が戦乱期のため、乱発されました。
それ故、鎮・征等の大将軍も本来は雑号将軍ながら定着し、前後左右将軍より権限や実権が高くなり、実態が職制に反映していった感じです。
ですが、あくまでも本来は雑号将軍。
本来(通常)の官制では、大>驃騎等>前後左右であって、戦乱期の臨機の措置として階級的に前後左右は下でも、格式は劣らないものだったち思います。
戦乱期がいつまで続くか判らないと言う点で鎮・征等の大将軍は永続的な官職ですが、本来は臨時の官号のだったのではないでしょうか。
一応四鎮とか四征は魏では二品の官職で前後左右は三品だけどね。
そのまま蜀にはあてはまらんがそんなにも違わない。
304 :
77:2005/03/22(火) 00:56:11
右将軍は衛将軍に続く格ですよ、元々
それに大が付いてより上位になってますので、右大将軍なら大将軍姜維の対抗馬としても相応しいでしょう
>303
だから、戦乱期で乱発→その状況で各国の体制が固まっていく。って中で諸大も二品になった訳でしょ?
官職の序列では諸大の方が確かに上だけど、伝統的な格式でほ、前後左右も劣らないくらいの格式ではないか?と言う意見です。
蜀漢では鎮・征等大将軍の方が前後左右よか上だけど、大が付かない場合は若干下でしょ。
それと、単純に官職上の上下で定まっていれば、諸葛亮や姜維が一時的に降格した際、右や、後将軍を選ばなかった様な気がする。
丞相や大将軍職を代行するのには右将軍や後将軍の方が、しっくり行ったんでないかな。
306 :
77:2005/03/22(火) 08:56:24
さて、結論出たと言って良さそうですね。
エンウは右将軍
307 :
王平:2005/03/22(火) 10:37:29
どうせ俺は脇役だ。
308 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 10:46:50
王平どの
そなたは脇役ではござらん
309 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 11:05:17
>>307 諸葛亮が見込んだバカ弟子が、山頂へ行く際にそなたは別行動でしたであろう
ないす判断。
そこで馬鹿を引き留められたら、最高だったのにな
311 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 11:27:17
まぁ引き留めてたら今ほど評価されてない罠
むしろ引き留めたバカとして名が残るおそれさえある
312 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 11:27:50
>>310 副将だからね
しかじ王平殿は関中で魏の大軍を退けた事ある
凄腕の人だよ
うん。引きとめ成功したら街亭の敗戦が王平の杞憂になりかねないものね。
314 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 11:54:23
>>313 別に敗戦になるとは思わないよ
王平も言われた通り守ってたからね
>>306 おお勝手に結論出しるぞ
エンウが右将軍か大将軍かはわからないというのが結論だよ
>>315 状況証拠的に言えば四方将軍の格上としての右大将軍である可能性が高いと思えるけどね。
ただ肯定も否定も仕切れないというのが今のところの正解だと思う。
317 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 12:46:27
どちらにせよ、一切記録に出てない以上、「姜維が左大将軍になった」とはいえんな
319 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 12:53:50
む○んがいっとった
右大将軍という言葉は例え右将軍に大をつけたところで(右)大将軍の意味を持ち得てしまいます。
なぜなら右大将軍という官位はいままでなかったからです。征東や鎮東などは誤解のされようもなく
征東大将軍で大将軍とは区別が出来ます。しかし右大将軍は言葉として区別が出来ないのです。
321 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 12:56:26
>>320 左大将軍がないから無問題じゃん
現実には誤解しようがない。もう一つの候補は当時においては存在しなかったんだから
>>320 それを見越して呉書の方では右将軍と記述したのでは?
>>305 まあそれ以前に諸葛亮が大将軍からの降格でなく
右将軍から大将軍になったわけでもなく
姜維も行大将軍事を兼ねての降格であるということ
を考えると右(大)将軍が大将軍姜維を廃し大将軍職に就くことの難しさを
説明できてないけどね
>>321 左があろうとなかろうと誤解はありえます。右が大将軍を修飾するのが普通だからです。
蜀は車騎将軍クラスも左右に分けた実績(?)があるから
誤解があっても、蜀内部で右(大)将軍だぞ、と布告してれば問題無い話だ。
というか誤解したからどうなんだ?という問題ではあるが。
それに職制から考えても、大将軍が居るのに大将軍の右職が存在するのは有り得ない。
諸葛亮は右将軍から丞相への復帰、これを大将軍からの降格でないから、
というのは唯の詭弁だな。
>>326 諸葛亮の場合は自身の失敗を認めての覚悟の三階級もの降格です。自らの降格であり、
復帰も彼の意のままです。これをもって右(大)将軍から大将軍になれるとするのは無理があると思います。
328 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 14:11:16
>>320 逆だな
蜀には「何とか大将軍」が沢山任命した実績もあるわけで
大将軍がただ一人という認識の元では右大将軍は誤解の余地がない(右将軍+大で)
しかし大将軍を左右に割ってしまうと、右の大将軍も右将軍+大も「右大将軍」となってしまいわからなくなる
大将軍の右と誤解を生むような官職名を設置すること自体
あり得なくないかね?
つまり(右)大将軍といえないかな
>>328 いえ言葉として右は大将軍を修飾しますのでそうはなりません。
>>327 自分の意思であろうとなかろうと、復帰が自由であろうと無かろうと、
右将軍から丞相に復帰した事実は変わらず、
右将軍のまあ丞相の職を行った事実も変わらない。
つまり格として右将軍は低くなく、右(大)将軍なら言うまでも無い。
>>331 実権を持つ者が自ら課した降格をもってその格の判断は出来ないと思います。
>>329 誤解は説明すればそれで済むし、蜀内部でどういう職かを布告するなりすれば問題ない話。
しかし大将軍と、大将軍の右職が居るのは制度としておかしい、
大将軍を左右に割るなら当然姜維が左大将軍になる筈だし、
しかもこの場合右大将軍が格上になる。
>>333 いやわざわざ説明しなきゃならないような官職を
設置することがあり得ないでしょということ
それと大将軍を左右に分けるということは言ってない
姜維は依然として大将軍なわけだから格下としての大将軍の右
大将軍
右大将軍
といってるわけで
ただしこれが実際に機能したかと言えばそんなことはなく
あくまで官職名としてのみということ
で俺はこれを断定するものではなく否定しきれないという意見
>>334 だからね、右職ってのは、大将軍の権力を2つに分割するから右職・左職になるわけだよ、
つまり大将軍の権力の半分を持っているのが右大将軍であり、
大将軍を分割しないとそもそも存在し得ない職なの。
大将軍の格下に右職・左職等を置くってのは有り得ないの、分るか?
右(大)将軍が言葉として難しいと思うので、左右に分かれたという説もあながちという気はします。
>>335 分割には成功できないが格下の設置には成功したとすればそれはあり得るよ
大将軍に準じる右職の設置って例はないけど
右大将軍の設置が例がない事と考え合わせれば
充分あり得る
左右には実質的な面で分かれることが難しいと思うので
左右に分かれたとしても形だけだと思うが
てか左右に関してはむじんに聞いてみれば?
>>337 だからさぁ、よく読めよ。
分割しないと設置できない職なの、つまり分割という絶対条件が必要であって、
格下という形で設置する事が出来ないの、設置する事自体に分割が必要だから。
>>340 こちらも良く読んでよ
通常なら分割しないと設置できないし分割自体も難しい
姜維に官職で対抗するために分割しようとしたが
そこまでは出来なかったとすると左右に分けるつもりでも必然的に
格下になってしまったとすればおかしくないでしょ
まだ続くのか
大将軍スレでも立てるか?
>>342 どちらかが断定しなければ続かないだろう
つーかだれかむじんさんに聞いてみてよ
どうして姜維を左大将軍と意訳したのか
いろいろ訳してるんだから何か考えがあんでしょう
アレっていうのも多いけど
絶影馬超が最強だろ
348 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 16:36:05
>>316で終了だと思うがな
むじんは今回の件についてはあてにはならんだろ
裏付けのない左大将軍を作っちゃってる時点で
>>348 >>316の下一行でね
裏付けの有無は見てみないとわからんよ
なんかあるかもしれないしないかもしれない
というかむじんがあてになったことなんてあったのか…。
あれだけの情報を載せてくれるのは素直に役立つと思う。
>>350 そらわからんよ
参考にはなるんじゃないの一つの意見として
少なくとも訳せる人(達?)なわけで
しかし、あそこは一部の将に対して悪意があるとしか思えん編纂ぶりを発揮しておるからなぁ。
つらつらと書き連ねてあるだけに、きちんと正史を読んでないと何処が違うのか分からんのが難点だ。
>>351 気をつければ役に立つよね
鵜呑みはあれだけど
むじんさんの掲示板ざっと見てきたよ
左大将軍の根拠は?と聞かれて「書いた時のこと覚えてない」ってさ
今同じ事書くのは躊躇う、みたいなことはいってたけど
う〜ん
むじんなのに有人なんだな・・・
おおお同じ事議論してるじゃないの!!!
>>355 つか全然そんなこと言ってないじゃないの・・・
そのむじんでは高翔が大将軍かどうかの話題も出てるが、
これもどうなんだろうね、この235年に蒋エンが大将軍になってるのに、
もう一人大将軍が?という疑問が残る。
ここは大将軍が分割してるかでさえ揉めてるのに、
大将軍が2人居るとかありうるんだろうか?
>332
確かに実権を持つ者が自らに課した処分である、と言う部分は確かにあるが、それであるからこそ、その後の為に形式を整えなければならない場合もある。
予定事項である、丞相や大将軍復帰の際に、復帰しやすい階級でないとね。
つまり、大将軍級の職務に復帰するに際して右将軍なら階級的には異論の出ない階級だった、と。
であれば、(右将軍の格上の)右大将軍なら、大将軍に就任するのにはより問題が少ない、と言う事にもなるんじゃないかな?
>>360 意外と大将軍て格は二つとかあり得たのかもよ
とするとエンウ姜維の大将軍並立もおかしくなくなるじゃん
実権はともかくね
でも逆に言うと右将軍である高翔が大将軍になったのなら右将軍から
大将軍もあり得るのかもね
高翔に関しては前スレで少し語られてるね。
> 最終的には(不明)大将軍か。
というレスがあったが、これは華陽国志かなんか?
訂正。前スレじゃなく前々スレだった。
>>363 そんときはこのスレ見てないからわからん・・
ただ驃騎,輔匡、鎮南、征西と正確に併記されてるんなら
大将軍も正確と見るのが妥当という意見はかなり固いよな
前々スレから引用。
> 260 無名武将@お腹せっぷく sage
>
> 高翔
> 魏書に出てくる高詳とおそらく同一人物。ちなみに蜀書には記述がなく注にしか名前が出てこない。
> 219年、劉備の関中侵攻の際、本隊が定軍山に向かった後陽平を守備していたが曹真に撃破される。(曹真伝、高詳)
> 228年、第1次北伐時、街亭の戦いにおいて列柳城を守っていたが郭淮に撃破される。(郭淮伝、高詳)
> 231年、第4次北伐において魏延・呉班らとともに司馬懿を打ち破る。
> 督前部・右将軍・玄郷侯。郷侯である分、亭侯の呉班よりやや上?
> (同じ時期の四方将軍としては呉懿>高翔>呉班>袁リン?)
>
> 撃破されまくってる割には重用されている?
> 記録には残ってないがそれなりの活躍があったのか?
> それとも有力な基盤を持つ豪族だったのか?
> 魏書にその名前が出てくることを考えると蜀内でも有力な人物と見られていたのかもしれない。
> なにしろ夏侯淵を斬った黄忠ですら出てこないのだ。
> でも同じく撃ち破られた呉蘭は出てくるけどw
> ところで呉蘭って呉懿や呉班の同族の可能性あるの?
>
> ∴ Date:05/01/05 00:18:12
> 261 無名武将@お腹せっぷく
>
>
>>260 > 同族じゃない可能性のほうが低いぐらいだ。
> ちなみに呉蘭とくれば雷銅は、雷薄の同族で劉備が荊州南部奪取後に帰順した雷緒の一族ではないか
> といわれている。
> また、高翔は益州牧劉璋配下の名将として知られている高沛の一族といわれている。
>
> ∴ Date:05/01/05 03:40:22
>
> 262 無名武将@お腹せっぷく
>
> >261
> 袁リンは李厳の件の上表だと、劉淡・魏延の次なんで、上表上の序列では呉懿の上になるんだよね。
> 華陽国志だと高翔とセットで扱われてるから高翔と同格かも。
> 出身は豫州・頴川だから、汝陰出身の袁一族とも繋がりがあったかも。
>
> >261
> 高翔と高沛はともに南陽だからね。
> 高翔は督前部・右将軍だから、蜀漢では軍事に通じてる人物だったのかもね。
> 最終的には(不明)大将軍か。
>
> ∴ Date:05/01/05 21:11:47
大将軍のソースは不明。
華陽もってないからなあ
誰か調べようよ
華陽国志によるとやはり驃騎 鎮南 征西と各人の官位が示されて
その中に高翔が大将軍と記されている
そしてこれらの表現は〜至なので最終官位を表現している
つまり時期は定かではないが高翔が大将軍に至ったといえる
実権はともかく
大将軍の右職の問題点
1. 258年頃以前の閻宇の階級は安南将軍級であって、いきなり姜維とほぼ同格の大将軍に昇進するのは(例え水面下の反姜維的動きがあったとしても)官職・人事秩序上難しい。
2. 巴東に赴任した際、都督(+領軍)を兼領させているのは、姜維とほぼ同格の大将軍の職権を考えれば有り得ないのではないか。(ほぼ同格の大将軍であれば必要無いのではない)
3. 異例の大将軍2人制であるのに、正史にまったく記載が無い。
4. 姜維が左大将軍とされていない。
反論
1.反姜維の力が強く、無理な人事でも通った。
2.大将軍でも巴東管轄と言う事で必要だった。
3.蜀漢は史料が少ないのでの残らなかった。
4.若干でも姜維が上だったので閻宇のみ右とした。
って感じか?
何とか説明がつきそうなのは2番くらいかな。
史料的な状況証拠でも少ない感じだね。
まあ全部説明ついてるけどな
1234の反論は簡素すぎだね
否定の根拠はすでに述べられてるし充分
右(大)将軍の根拠は実はほとんどが曖昧
むじんに議論仕掛けた奴も、漢文を訳せるぽい。
華陽や晋書もソースに出してる。
あっちは右将軍の大将軍派だが、その意見のほうが論理的に見える。
大将軍が上級の将軍一般の呼称であること、
姜維の対抗馬が閻宇でなければならない理由などを、
丹念に資料を調べて推測している。
むじんが大将軍閻宇説の根拠として出した荊州経営への布石説は、
根拠が無い妄想としか思えん。
>>370 晋書では、巴東の領軍は羅憲だったくさい。
高翔は華陽国志の中でいい加減な訳だけど「袁リンは征西大将軍に、高翔は大将軍に至った」ってある。
袁リンと高翔は、正史だと劉ヨウ・輔匡、趙雲・陳到、呉懿・呉班のような、セット扱いを華陽国志ではされているので、蔣琬・費禕・姜維のような大将軍でなく、
袁リンや魏延のような○○大将軍の可能性がかなり高いと思います。
ただ、239年〜243年の間は大将軍位に就任した人の記録が無いので、高翔がこの頃まで生存していたら実権の無い名誉職的(実権は上の大司馬・蔣琬、下の尚書令・費禕)に就任した可能性は若干あります。
あるいは、○○大将軍・行大将軍事とか。(←これはほとんど可能性は無いと思いますが、向朗が左将軍・行丞相事だったので、全く無いとは言い切れない。)
>>372 それはそちらの主観でしかない
つか実際漢文はある程度みな訳せるでしょ
>371
姜維のような大将軍では根拠が曖昧ってこと?
>>374 大将軍を追贈されたとかってのはないかな?
>>376 むむ意味がわからない
姜維の存在に曖昧さはないと思うが
>377
高翔に追贈するくらいなら、他の人物も追贈されてても良さそうなんだよね。
というか「至る」とかの場合、生前の最終官職だと思うけど。
高翔って印象薄いから…
話題的にまあこのスレの人がむじんさんに論を投げているのだろう
あまりしつこくならない事を祈る
383 :
376:2005/03/22(火) 20:27:08
>378
失礼。
>>371 は閻宇が姜維と同格の大将軍と言うのは曖昧?って意味。
最初の三行を見る限り、右(大)将軍(右将軍の格上タイプ)論者のような書き方で、逆に最後の一行は、右(大)将軍(右将軍の格上タイプ)論が
曖昧と言ってるようなので。
>>379 魏で司空への昇進を断って死んだ徐バクが、
「元司空の徐バク」と書かれていた例がある。
385 :
371:2005/03/22(火) 20:30:23
>>383 いや(右)大将軍論者としてという意味だね
(右)大将軍の論を簡素にそちらの言葉でまとめすぎているということ
もうすでにこちらは述べているからね
>384
魏の例は良く知らんけど、魏の場合、官位の追贈が多いから追贈した官位を死後の呼び名にしたのかな?
蜀漢の場合、官位の追贈がホウ統くらいだから、なんとも・・・・。
まあやっぱどちらも断定できんというのが結論だろうな
それぞれの主観が混じると
「右(大)将軍の方が可能性は高いが」
とか言う人も現れるだろうがこれは野暮
>386
ではお聞きしたいのだけど、閻宇が安南将軍級から大将軍になれた理由とかは?
反姜維ってだけじゃ、憶測の部類だと思うけど。
それに記録が全くないトコとか。
その辺りを、ある程度の史料を基に説明しないと、右(大)将軍論より説得力に欠けると思うよ。
右(大)将軍論もはっきりしない事は確かだけど、正史等から官位の変遷とかの例を基に状況証拠はで出てるからさ。
反姜維ばっかじゃ説得力は無いよ。
>>388 姜維が大将軍に復帰した年つまり大将軍職に再考が加えられた年
陳祗が死んだ年
董厥が尚書令になった年
これらの一年前か同じ年という根拠はすでに述べているよ
黄コウが劉禅のそばについてすでに何年かたち
陳祗の死後黄門令になるという実権を持つに至る過程も考慮できるしね
一年前としてもその検討は恐らく動いているわけだし
まあ完璧とは言わないが充分だと思う反姜維の動き
>>389 ただ劉禅は姜維左遷に関しては拒否してるんだよね。
黄皓を処断しなかったあたりは非難されるべきだがこれは評価してもいい点だよね。
>>390 どうだろう
姜維が処断を免れた理由はいち早く危険を察知して漢中に
逃げたのが理由とも考えられる
そう書いてあるし
劉禅って根はいいヤツなんだよな・・・
諸葛亮批判したやつにも怒ったし。
自分や国のために頑張ってくれている人に対して甘くなっちゃうんだろうな・・・。
劉禅にしてみればみんなが正しく思えたんだろう
>389
黄皓が権力を持ち出したの258年以降。
それまで陳祇は黄皓を利用はしても権限は押さえているくらい。(陳祇自身がが利用するために丞から令への昇進はさせたが)
黄皓が政府・軍部に影響力を行使し始めたのが陳祇の死去後であって、それから4,5年の間に水面下で燻っていた反戦の機運が反姜維に替わり、262年に表面化したと見るべき。
つまり、256年の段谷の敗戦で反戦の機運が高まって行った。この段階では姜維個人への排斥と言うより、戦争政策への反対。
姜維が戦争政策を変更する方向であれば別に姜維個人を廃するつもりもない。(ショウシュウの仇国論も反戦であって、反姜維ではないし、陰謀的でなく、陳祇と堂々と論戦してる)
だが、262年までその政策は大幅な変更は行われず、258年以降、徐々に反戦争が反姜維に変わっていった、と。
258年の段階で既に反姜維の動きが高官人事にまで影響していた、と言うのは無理があるかと。
ついでに言うと、董蕨は次官だったのですんなり尚書令に就任した、と言うのが実情でしょう。
尚書系の職務が長いし、荊州人士でもあるからね。
>>394 そういえば
陳祗とショウシュウの和平派談話もあるなそういえば
当然陳祗生前なわけだから最低でも258年以前からその
動きは大きくなってることが裏付けられる
ショウシュウは蜀降伏の立役者?なわけだしね
これらすべてを詭弁で否定することは出来るがそれは無理があるでしょ
>395
ショウシュウと陳祇の議論は戦争政策の議論であって、反姜維では無い、と言う部分読んだ?
どうにも政策を変更しなけりゃ、その中心人物そのものを変えなきゃならん、と言う話にはなるが、単純に政策に反対だから即、排斥って方が無理がある。
256年の大敗以降、戦争政策を変えよう、と言う動きがあったのは確か。
でも、あくまで政策であって姜維では無い。最終的に(262年以降)姜維に反発が集まったとしても。
ついでに、ショウシュウが最終的に降伏を進め、一貫して反戦争であったとしても、258年頃に姜維を廃そうとしたとは言い切れないでしょ。
反戦争の動きがあったのと、反姜維の動きが高まるのは連続性は認めても、個々の事象・時間的には別。
全部が全部否定する訳では無いですよ。ただ、流れの一部分を取り出して、強調して流れ全部を一色にするのはどうか、と言う事です。
つか段谷の敗戦なんぞは和平派の気運の高まり=姜維不要論の
一番のきっかけになると思われ・・
>397
きっかけになったのは同意。
それが姜維交代論に転じるまでには時間がかかったのではないか?と言う事です。
時間といっても一年以上あるわけだよ
充分でしょ
姜維が戦争してたわけだからその敗戦で姜維を廃する論が生まれるのに
十分な時間だよ
>399
1年が長いか短いか・・。その辺りは主観の違いなので、なんとも・・。
ただ、呉の諸葛格などは敗戦後そんなに間を置かず処分されていますから、反戦争が反姜維に急激に高まっていったとしたら、閻宇を姜維と対抗させる、と言う迂遠な手段を取らず、
258年に成都帰還した際に処分(ないし、降格、庶民に落とす等)してしまったんじゃないか、と。
そういった状況でなく、逆に大将軍に復帰させてしまったと言うのは、逆に反戦が反姜維に転じて(あるいは転じきってなかった)なかった証拠ともなりうるのです。
>>400 たしかに262年ほどの高まりはなかったかもしれないが
まあ気をつけて欲しいのはこの時に姜維と交代させる
という動きではないということ
姜維の権力も依然として強く
廃するにはまだ至らなかった
もしくは布石だけで良しとした
つまり結果的にこの時打たれた手は布石だけ
>401
姜維を交代させるような動きでも無いのに(そんなに反姜維でも無いのに)、安南将軍級の人物を姜維と並ぶ大将軍クラスに昇進させるのは難しいのではないか、と言う事です。
しかも、姜維の権力を認めるとするなら、姜維自身の首を絞めるような異例な人事(大将軍2人制&(右)大将軍と言う官位)を姜維が認めるのも不自然だし。
自分は右(大)将軍論だけど、もし閻宇が(右)大将軍だとするなら、ライ降都督の後半、すでに○○大将軍であって、荊州情勢が悪化する可能性があり巴東都督とし、かつ呉の援軍として荊州出兵&一時的駐留
する事も極小ながらありうるから、姜維の次(遠征軍の指揮官)として大将軍に叙した、って感じだと思うけど。ただ、難点は巴東都督の段階ですでに右大将軍だと言う事、後主伝等に全く記載が無い点。
姜維伝
262年、黄皓と閻宇が結託した。
しかも黄皓はひそかに(←ここ注目)姜維を廃して閻宇を立てんと願った。
姜維もそれを疑っていたので、危惧の念を抱き、二度と成都に帰還せず。
蜀書自体に見られる姜維を廃そうとした動きはこれ位。
異同記の話である諸葛贍・董蕨の動きは、
姜維を大将軍から罷免する方向ではなく、召還して益州刺史として、
軍事権を奪おうとした、とあり、漢中から引き離そうとした方向。
しかもこの話は蜀の長老に依るという何とも言えん話。
残ってる記録を見ると、それほどまでに反姜維の動きがあったとは思えない。
それにショウシュウの仇国論はそもそも反戦ではない、
時期を見て動け、むやみやたらと軍を動かすな、
と言ってるのであって、別に和平派ではない。
>>402 難しいが実質の権限をそれほど伴わない格下大将軍なら正規の昇進でなく陰謀
によってあり得る話
一方で右(大)将軍だったとすると262年のこの上表ももちろん陰謀であり
陰謀によってならあり得る
しかし右(大)将軍から実質的な大将軍に取って代わる難しさと
同時に姜維を廃する難しさの二つの難しさは
この難しさを上回ると思う
>>403 だから
>>401で
廃するにはまだ至らなかった
もしくは布石だけで良しとした
といってるわけで
>404
反戦争の動きが258年の段階で反姜維に転じ、高まっていなければ、陰謀とは言え(陰謀であればなおさら)異例中の異例人事は難しいでしょう。
それに、実質的な権限も伴わなければ、異例の官職を増設する理由も無いでしょうし。(新たな官職を増設するには、こう言う事態なので、こう言う権限の官職が必要、と言うような)
262年の段階で閻宇はすでに右(大)将軍(巴東都督)になって5年程度経っており、259年に左右車騎に昇進した張翼(前職は右大より下の鎮南大)・廖化、261年昇進組の諸葛贍(前職は侍中・尚書僕射・軍師将軍)・董蕨(前職は侍中・尚書令)よりは閲歴において上と言える。
しかも、張翼・廖化は老齢&花道ポスト入り、諸葛贍は将来のホープ&若すぎ、董蕨は行政職はともかく軍務経験が浅い(ほとんど無い)状況。
姜維を廃そうという動きがあれば、閻宇以上の適任者はおらず、姜維への反発も高まっていれば、258年の段階での昇進よりは可能性が高い。
敗戦ー和平又は現状への疑問ー担当者への疑問ー担当者の交代又は代えの担当者の準備
無理ないでしょ
>405
布石を打つにも、反姜維論が高まらずじゃ、人事が通らない、って事ですよ。
姜維の権力をある程度認める、って事は姜維側の人間が居ると言う事で、異例官職(将来、姜維の権勢を脅かす可能性がある)を増設するような陰謀では姜維側が気づかぬハズもなく、認めるとも思えない、と言う事。
しかも、反姜維論が高まらなければ、ショウシュウ等の比較的穏健で良識のある人々も、そんな異例人事を認める事は出来ないでしょう。
諸葛贍・董蕨等も近い将来、姜維vs閻宇の権力争いで混乱をもたらす可能性のある人事は認めがたいでしょうし。なんせ彼らは大過なく日々が過ぎて行けば良いのだから。
激しくループになるが漢中にばかり姜維がいればもうひとり必要って
あくまで口実としては不自然ではないということ
まあどっちが難しいかに関してはもはやお互いの意見を譲らぬ根拠としての主観
としかいえないね
事前に(右)大将軍についてれば少なくとも262年は右(大)将軍よりは容易
これは最低限言えると思う
>407
次期政権担当者と認められてて、現執政の片腕のような人物(蔣琬の時の費禕のような)であれば問題ないでしょう。
現執政と反対側の人物をほぼNo.1と同格に置いたりしたら、内乱の種を蒔くようなもんでしょ。
通常でも、No.1が進めようとする政策を準No.1が妨害したり、準No.1が企画した案をNo.1が却下するとかの繰り返しでも起きれば国政が停滞しちゃう。
一度、人事を定めると簡単には修正が効かないからね。
>>408 というか
>>398>>400である程度認めてるんじゃないのかな?
時間的に一年で十分か否かについてが問題と自分でも言ってるような・・
自分で呉の例まで出してるような
>409
ループになるが・・・w。
258年頃に陰謀だけで(右)大将軍に就くのは右(大)将軍になるより、はるかに難しい。
>>410 それも狙いとしてあったってことじゃないの?
>411
1年で十分であった可能性は否定しません、と言う事です。
諸葛格の例は、敗戦後に反発が高まり、間を置かず処分しているのだから、姜維も反発(排斥等)が高まっていれば処分されていてしかるべきじゃないか、と言う違いを書いたんですが。
それ故、姜維に対する反発はそんなに高くなかったんじゃないか、と言う説明です。
>413
国政の停滞や内乱を狙ったと?
もう結論出ないって亊で、王平の話題に戻ろうぜ。
まあ別に姜維に完全にたてつく方向でなければそこまでならんだろう
大将軍は大将軍のままだったとおもうし実権は姜維の方が強い
しかし和平派 現状疑問派がいればそれだけでも国は乱れているし
蜀末期は実際乱れていた
陰謀とは得てして必ずそういう危険ははらむから
その危険を顧みずに行われるのが陰謀というもんだろう
>>412 すでに振り出しに戻ってる
俺からいえば逆もしかりだよ もはや主観
もうここは手打ちじゃないかね
つまりお互い否定はしきれない
どっちが可能性が高いかを言うのは野暮
まあ個人感想としてならありだけどね
>417
258年頃の段階で姜維を替えようと言う程の機運も動きもなければ、将来の布石を打つ、と言う発想自体が生じないと思うけど。
考えた人はいるかも知れない、でもそれが陰謀と言う大きなモノに発展するかは別問題。
>>420 敗戦を契機として気運はあった。しかし十分ではなかった。
親姜維もそれなりにいた。なので布石のみにとどまった。
双方意地張りすぎですよ。
お前ら、タイムマシン作って確認してこい。
延々とやらかしたんだ、結果は報告しろよ。
3日見ない間にレスが200進んでた
初めから読む価値があるとは思えないので
誰か2行くらいで要約頼む
王平:子均(?〜248)
巴西郡安漢県の人
215年、曹操の漢中平定に伴い、巴西の異民族の族長、扶コ等と伴に洛陽に行き、校尉に任ぜられる。
219年頃、曹操に従い漢中に入るも、劉備の漢中平定後、劉備に降伏し、牙門将・ヒ将軍に任ぜられる。
219年〜228年の間、不明。おそらく一部隊長として漢中もしくは巴西方面に赴任していたと思われる。
228年、諸葛亮の北伐に際し、馬ショクの先鋒部隊に属し、街亭の敗戦に遭う。
この時、独り部隊を維持し、諸軍の撤退を援護し賞賛を得る。戦後、参軍・討寇将軍・無当監に任ぜられ、併せて漢中の屯営事務を司る。
230年、祁山の役において、南方の陣を固守し、張コウを退ける。
234年、諸葛亮の死後、魏延と楊儀が争った際、一戦で魏延軍を打ち破る。
同年、帰還すると後典軍・安漢将軍・漢中太守となり、督漢中の車騎将軍・呉懿の副将となる。
237年、安漢侯に叙せられ、呉懿に替わって漢中の総指揮官となる。
238年、蔣琬が漢中に駐留すると前護軍となり、大司馬府の事務を取り仕切る(署大司馬府事か?)
243年、蔣琬が涪に駐留する際、前監軍・鎮北大将軍・督漢中となる。
244年、魏の大将軍・曹爽が十余万を率い駱谷に侵攻すると、3万弱の兵力ながら要害に拠り漢中盆地に進出させず費禕の援軍を待ち、撤退に追い込む。
248年、死去。
結論
(右大将)軍でした。
>>424 判定で右(大)ショーグンって感じかなー?
水掛け論はやめい
また趙雲出して静めるしかなくなるのか?
>>425 王平は署大将軍府事とあるな
大将軍の事務官かな
署大司馬府事ってのは・・・
431 :
425:2005/03/23(水) 00:31:03
追加。
陣中で育ったため、知っている文字は十文字足らずであったが、口述で文書を作成したが、すべて筋が通っていた。
史記・漢書の本紀・列伝等を読ませて聞いたが、全体的な話の筋は知っており、時々二書について論評したが本質から外れていなかった。
法律・規則は遵守し、冗談の類はいっさい口にせず、朝から晩まで1日中きちんと座り、まるで武将の感じはしなかったが、性質は偏狭で疑り深く、軽はずみな性格でそれが欠点になっていた。
私見だが、軽はずみな人物が、あんな堅実な戦績を残せるとは思えないのだが。
出自を気にして必要以上に堅苦しくて、人に打ち解けず(特に高官になってからは出自が違う人ばかりだし)、そのへんが誤解を受けやすかったのかな、と思う。
後、知ってる文字、十文字足らずって言うと、自分の氏名・字と親の名・字程度くらいしか知らなかった事になるな。
432 :
425:2005/03/23(水) 00:33:55
>430
蔣琬が239年に大司馬になってるので、それと混ぜてしまいました。
239年以降は大司馬府事だと思うんで。
武将っぽくなくて字が読めないってのは変わったキャラだよな。
軽はずみなのはやや軍令違反などに厳しすぎて無実も罰する傾向にあったんじゃないかと。
軍の規律はそれでかえって守られたが兵士からはあまり人気がなかったタイプと推測。
署大将軍府事→署大司馬府事
239
ってことだななるほど
読み書きできなくてよく務まったな
>>433 いや、残せるよ。
こういうタイプって、お気に入りばかりでガッチリ身の回りを固めるからなw
遠ざけられた連中にとっては理不尽極まりないが
軍の指揮官クラスの結束が固くなれば、当然戦争には強いはず
タイプとしては于禁タイプと見た
437 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 01:10:56
では今度は高詳が大将軍になった時期について
ショウエンが大司馬に祭り上げられた時か?
>>437 少なくとも呉懿が在世中にその上を行くのは難しかったと思う。
車騎将軍呉懿が死んだのが237年、ショウエンが大司馬になったのは239年。
だからもし高翔が大将軍になったとしたらその頃じゃないかな?
例の李厳罷免の上表文の時に呉懿・呉班・高翔はともに四方将軍で、
呉班もこのころには驃騎将軍になってるみたいだし。
またそっちの話題かよ
無当、虎歩、赤甲
最強はどれだー
姜維 大将軍
陳祗 左の大将軍
閻宇 右の大将軍
なんだよね?
>>441 陳祗は最終的に侍中・守尚書令・鎮軍将軍。
443 :
437:2005/03/23(水) 07:47:40
右大将軍も高翔も解決したし、次はアレだ
諸葛亮の三等降格
何と何と何で三等?
大将軍
驃騎・車騎・衛
右将軍
で三等かな?
衛は一個下がるんじゃないのかとかいってみるテスツ
447 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 12:35:15
候補
0丞相
1大将軍
2驃騎・車騎・衛
3右将軍(四方将軍)
0丞相=大将軍
1驃騎・車騎
2衛
3右将軍(四方将軍)
さてどっち?それとも別候補ある?
三等は三個落としたのか三等階級に落としたのかという問題がある。
蜀で九品てのもあれだが四方将軍はそれでいうと丁度三品に該当したりもする。
449 :
447:2005/03/23(水) 12:45:20
そういや大司馬なんてのもあったな
大将軍とほぼ同格、ちょい上か?
450 :
447:2005/03/23(水) 12:48:09
確かに三等=魏でいうところの三品ってのもありうるか
でも四方将軍と他の将軍の順位が魏と蜀では明らかに違うからねぇ
そう言えば、李厳の件の上奏文の中に王平の名前が見えない。
228年に参軍にはなっているので、当然、名前が出ても良さそうなんだけど。
後年の階級から推測すると、姜維や、劉敏辺りと並ぶか上くらいで出てきても良いと思うんだが。
まさか、字が書けない、ってんで外されたんじゃないよな。
そんなんだったら、王平でなくても偏狭になるわな・・・・。
452 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 18:55:52
むしろ、「士人ではない」を理由に外されたんじゃない?
でなきゃ李厳に連座してたか
あと、もしかして王平って異民族の出かな?
>452
士人でない、と言う理由だと魏延も外れちゃうよ。
李厳の件で連座してれば、正史のどっかに記載されてても良いと思うしけど。
数年後の諸葛亮没後には漢中都督の副将に抜擢されてるしねぇ。
ただ、漢中の屯営事務も司ってたから、王平は李厳の行動には全く関知してなかったけど、同じ兵站の関係者だった、って事で外された可能性は結構あるね。
異民族の出なら、ちゃんと正史に伝が立てられてるんで、正史で言及されてるハズ。
仮に異民族だったとしても、例の上奏文の下の方で異民族出の幕僚も名を連ねてるから、異民族出って理由は無いと思う。
454 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 19:12:26
魏延は別っしょ。あそこまで出世してるんだから。
でも王平はまだ平民ノンキャリ扱いだった、とかね。
単に仲良しだったんじゃないの
蒋琬が入ってないのは成都詰めだったから?
>>451 当時王平は参軍・討寇将軍・どっかの亭侯。
例の上表文には王平と同格くらいと思われる行参軍・裨将軍or偏将軍or雑号将軍級の署名も何人かあるのにね。
しかし姜維の重用ぶりはすごいな。蜀に降って3年ほどなのにこの上表文に名を連ねてるものな。
>454
魏延は、蜀漢の野戦指揮官の中で実質No.1だから同意だけど、王平も正史に出てこない無数の人も含めると数百の将領の中で、
丞相参軍(総司令部の幕僚)、漢中の屯営事務職の上、数少ない亭侯に封じられてるくらい。
王平の上席の人物だって、叙封されてる人は多くないから、全体的にみれば、かなりの上級指揮官ですよ。
上奏文の中では中〜下くらいの格かもしれないけど。
平民ノンキャリからは街亭の功績で脱出した感じ。
>456
成都居残り組は上奏文に名を連ねて無いみたいだね。
北伐で迷惑こうむった連中が名を連ねたっぽい。
460 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 19:55:50
となると、李厳の事件に関与(罪にはなっていないかもしれないが)していたので、話し合いするには不適として外されたかな
いくら字が読めなくても、関係する職務の責任者として、そこにいないとかの特別な理由でもなければ議論の場から外さないんじゃないか
>460
漢中の屯営担当者として、同じく兵站責任者が起こした事件だから、上奏文と言う報告書に名前を連ねる事は出来なかったんじゃにかな。
李厳の罪に全く関与してなかった、としても関係者だから。
同じ様に、馬忠も李厳に指示を仰ぐ身だったが、李厳の共犯では無いと言う立場。
諸葛亮の漢中駐在の幕僚として、上奏に名を連ねておかしくないけど、やっぱ名前は無いね。
李厳の件の真異を協議する場では事実関係の究明のため、当然加わっていたと思うけど。
単に軍務にしか使えない軍人バカなので、そういった問題にはお呼びでないだけでしょ。
>462
李厳の件は政争と言う見方もあるが、直接的には北伐の後方支援を怠ると言う軍務の範囲での事件。
軍務に精通している人物が関与しないでどうすんの。
それに軍務つったって幅広い職務なんだよ。
464 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 20:41:25
軍事バカだろうが、手続き上は参加していてしかるべきだったと思うぞ
現実には会議をぼけーと見て最後に署名するだけにしろ
それなのに参加してない、と考えるべきだべ
一応、降将だし
>465
降将だからって差別するのは逆にまずいかと。
姜維も署名してるから、降将だからというのは無いと思う。
李厳と仲良かったんだって多分
>468
李厳な、性格きつくて、年齢や閲歴が自分の次くらの人間でも近づけないような人柄だったんだって。
王平みたいな叩き上げの成り上がりじゃ、相手にしないだろな。
470 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 22:04:51
軍事的能力だけだったら孔明よりホウ統のほうが上だったらしい。ほうとうがいれば・・・・・
>>上だったらしい
誰がそんなこと言ったよ?
>>470 諸葛亮の軍事的な能力は
三国志の中でも屈指なわけだけれど、
それに勝るホウ統の実績を示していただきたい。
473 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 22:25:51
出へへへ経はへぇ
今日サッカーのスパイクを買いに行きました。明日から卓球をがんばります。
>>472 最初から敵の油断に付け込んで、道案内付きで奥深くに入り込んできて、
迎撃してくる敵の将軍はあっさり降伏してくれるなど、
侵攻軍としてはとんでもなく有利な状態だったのに、
雒攻略に一年も掛かったあげく、自分が戦死したんじゃ、話にならない。
>>472 諸葛亮の軍事面にもにみられる統率力は三国時代屈指だろうね
ただやっぱり彼の政治力(内務・政争)あっての軍事のうまさであって
軍事的な能力が屈指というのはどうかと思う
実際に戦術的な局面に於いても
一流だとは思うけどね、破った相手を見る限り。
まあ立場や事情や勢力差など色々絡んでくるから、
この辺は色々意見が出る所だろうけど。
孔明の局地戦の強さは神掛かり的。
魏と同数程度の兵力での北伐が見てみたかった。
撤退の上手さは凄いな、第一次北伐でも失敗した後速やかに退いてるし。
攻める時も曹真を陽動に引っ掛けたり、南安・天水・安定や、
孟達を寝返らせたり、特に計略に疎いという事も無いと思う。
他にも漢・楽城を築いて漢中の防衛システムを固めたりしてるね。
演義の印象があり過ぎて、過小評価されてると思う。
三国時代は三つ巴というのもあってか神懸かり的な戦いも少なくないからなぁ
西陵の陸抗とか見てると諸葛亮の善戦も平均点にしか見えない
逃げの諸葛亮
戦死のホウ統
483 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 01:10:52
諸葛亮と劉備を過小評価するのは、三国志かじったばかりの時によくやるハシカみたいなものだよ
まあ孔明の場合軍政でしょコレに尽きる
>>481 あれはまさに神が降りた物だから、
あれと比べちゃいけないと思うw
「西陵の陸抗」と並べるべき戦なんて古今東西を見渡しても数例しか見当たらん。
あれはまさに
>>486氏の仰るとおり神降臨であって…それを=実力と結びつけるのはどうかとw
陸抗は永安攻めではたかだか2000しか守兵のない城を30000の兵を率いてても落とせなかったし。
永安攻めの主将は歩協。
>>489 歩協は第一次。
歩協がダメなのでその後陸抗が送られた。
別に歩協が主将だったわけじゃないよ。
西陵は元々陸抗が城の防備を固めた場所だし、
そういう意味では陸抗有利の要素はあった(それでも十分神業的勝利だけど)
永安攻めに失敗したのは、外征の難しさを物語ってると思う。
実際三国鼎立が見え初めて以降、軍事力のみに依る外征って殆ど失敗してるし。
まあ城攻めはむずかしいからねー
俺も何度かやったことあるけど
>>491 だね。
そう考えるとケ艾の成都攻略は官渡や赤壁級の重要な事件だな。
まあ当たり前といやあ当たり前だが。
守る事に長けた将より
切り取る事のできる将のが上とされるのは、
そのためだな。
>>491 でもちょっとまて
西陵は寝返られて敵になってしまったんだぞ
城の防備を固めたのがそっくりそのまま敵のアレになったわけで
>>496 西陵戦は城攻め前に大勢は決してただろ。
楊肇が西陵近くに城を築いて布陣してる陸抗を攻めた時に、
兪贊が攻め寄せてきた楊肇に投降。
陸抗は、兪贊が自軍の弱点を知ってることから、
楊肇が兪贊からの情報を元に攻め寄せてくることを予期し、
逆にそのことを手玉に取って撃退したんジャマイカ。
んで楊肇が総崩れになった勢いで城を奪還。
それを羊枯の援軍を阻みながらやっちまうんだからなあ。
498 :
王平:2005/03/24(木) 08:37:28
やっぱり脇役じゃん。街亭ではせっかく馬しょくを魏延と助けたのに。
西陵の陸抗と諸葛亮を比較して考慮すべきは
その勝ち負けの派手さではなく
古参が戦時に寝返る程、国(政治)ボロボロで軍事力のみで戦わなければならなかったか
それとも自身の功績とはいえ国が安定してゆっくり戦争に(しかも仕掛ける方として)望めたかではないかな
賛否両論あるだろうけど「臨機応変に弱い」とされているように
自分のプランを着実に進めることができるから、ある程度の成果を収めることができているが
相手が仕掛けてくる守勢に回ったらどうか?これを考えるとき諸葛亮の総合軍事力に疑問符が付くと思う
500 :
王平:2005/03/24(木) 10:06:19
500打ちとったり!!!
漢中に依って立つ孔明を崩すのか?
退路絶たれて全滅しそうだな
>>499 > 相手が仕掛けてくる守勢に回ったらどうか?
状況にもよるが諸葛亮は相当強いと思う。
乱暴な言い方になるが攻めるより守る方が立場としては楽なケースが多い。
それに撤退戦で何度も魏軍に痛い目を見せてるところを考えて相手を撃退する時の強さは半端じゃない。
満寵は合肥新城、呂蒙は濡須など防衛ラインを構築した人物は、
戦略、戦術上の防衛を理解している人物が多く、その大半の人物が防衛戦も得意としている。
諸葛亮も漢中の防衛ライン構築に関わった人物であり、
また北伐での戦術手腕を考えると、防衛戦も無難にこなせる思う。
まして確固たる防衛システム(漢中のこと)の元、
防衛するのなら、問題ないと思う。
まあ俺も臨機応変さに欠ける点は言葉通りだと思うが
防衛に関しては手堅いと思う孔明
やはりそこは軍政というものの方が臨機応変さより反映するはず
要は勝てば良い
506 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 17:15:58
名族であり劉備の外戚でもあり夷陵では李異らを破り司馬イをキ山で破った呉班。伝が立ってないのが惜しいな
それなりに出世もしたのにねぇ
名前が悪い。ご飯みたい。
孔明は「待ちプレーヤー」としては優秀という結論?
「誘い受け」としては優秀という結論。つまり天華GJ!
>>509、
>>510 諸葛亮は「待ちプレイヤー」なんかじゃない。
魏は常に蜀を上回る兵力を持ち、率いるのは名将・司馬懿。
にもかかわらずほとんど篭りっきりで、諸葛亮との戦いを可能な限り避けている。
相手が凡将なら諸葛亮の戦歴を「待ち」と評価してもいいかもしれんが、
状況を考えれば諸葛亮は間違いなく「攻め」の人だ。
てぇか孔明が、自ら放棄したのではなく、魏に攻め込まれて負けた事なんて一度でもあったか?
そもそも、魏の侵攻って、曹真の1回きりじゃないか?
攻め込ませたことの無い孔明と、わざわざ孔明のいるところを狙って攻めなかった魏の名称に乾杯。
その侵攻を見越して、孔明は漢・楽の二城を作ったんだよな
思えば本格的な侵攻って、滅亡のときの一回きりだったんだなぁ
>>516 曹真・司馬懿の時も、曹爽・夏侯玄の時も結構本格的だったと思うけどなあ?
曹爽は見事に撃退されたけどな
曹真の南征について語ろうぜー
曹真が斜谷道、張コウ辺りに子午道、荊州から司馬懿
うえw最強の布陣www
520 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 12:19:01
曹真のも曹爽のも、撃退されたってだけで当時の魏としては十分本気だったと思う
521 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 12:35:10
王平大活躍したのかな?
魏の遠征に
>>520 曹真は撃退されたわけじゃないだろ
本気だったというのは同意
本気じゃない戦争なんてすんの?
数万規模の軍勢が出兵すれば莫大な経費がかかるのに、適当でいいと言うのはあり得ない
てきとーな気持ちでイラクを攻めた
今は反省している
そんなことより今はイランなわけだが。
あと三十分で日本対イラク戦キックオフ!
日本マジ頑張れ!
528 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 00:02:48
やなぎさわーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
529 :
526:2005/03/26(土) 00:40:06
対戦相手もキックオフの時間も間違えた
大黒も全然活躍しなかったしいいとこねぇや
曹真>ジーコ
531 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 11:04:07
>>506 親父も有名人なのに…何進が殺された時、弟の何苗が殺したと勘違いして何苗を殺してしまったウッカリさんとして…。
別にどーでもいい
後漢に直接関わる人物なわけだな
漢の再興の大儀を掲げる蜀としては重く用いないはずもないかも
534 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 19:43:06
中田は日本代表の魏延です!
ネコちん♪571 :これが現実 :05/02/05 19:59:20 ID:y0R6oS6b
ジーコジャパン(小笠原は論外)
勝率 敗率 平均得点 平均失点 平均得失点差
中村 60.9% 中田 28.6%← 小野 2.17 中田 0.93← 小野 1.50
小野 58.3% 通算 21.6% 中村 1.87 中村 0.87 中村 1.00
通算 56.8% 中村 13.0% 通算 1.68 通算 0.84 通算 0.84
中田 35.7%← 小野 0.0% 中田 1.14← 小野 0.67 中田 0.21←
総得点:中村>小野>中田ヒダ
総アシスト:中村>小野>中田ヒダ
総ミス回数:中田ヒダ>>小野、中村
588 :名無しさん@恐縮です :2005/03/26(土) 16:41:27 ID:5tr367l3
中田ヒダが出場した試合の勝率 15戦05勝5敗5分 33.3%
中田ヒダが不出場の試合の勝率 29戦21勝5敗3分 72.4%
魏延が可哀想だ。゜(゚´Д`゚)゜。
魏延は戦闘だけは素晴らしいのに何言ってるんだ このアホは
モナリザが2枚あったら劉備が二人いたっていうぐらいビビるな。
蜀には髭有り関羽と
髭無し関羽(魏延)がいたはずだが
どうやら簡擁と劉璋が輿の中で入れ代わったのは本当のようだ。
マグダラの簡擁
キリストは張松
イスカリオテの孟達
543 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 16:26:58
陳式
544 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 23:43:31
545 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 19:39:38
ほしゅ
546 :
王平:2005/03/30(水) 09:22:27
俺は?
やっぱ攻めの軍師は ホートー で
守りはコーメー じゃん?
で法正と馬良がウロウロ
孔明むちゃくちゃ攻め込んでんだろ
549 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 10:02:53
おい。張翼という蜀随一の武将を忘れるな。
コーメーは北伐失敗。
しかし、敵が攻め込んできたときの負けはない!
553 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 13:43:58
無双厨の横行でこの板も
低 レ ベ ル 化 し た な
554 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 14:45:22
こ・・これはまさか・・ヤツがやったのか?そんなはずはない。あの時あいつはあそこに、柔道だああぁぁ^^^−
555 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 14:50:13
要するに司馬胃がすごすぎたから滅びたんだよ蜀は
それ以前の問題だ
高原ってどうよどうなんだよ
ぬるぽ
うはwwwwwwwwバーレンオウンゴールwwwwww
ださwwwww
残りは、趙統・趙広で埋めよう。
561 :
王平:2005/03/31(木) 08:47:52
馬鹿殿劉禅がいる限り蜀は終わってる。
562 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 08:51:24
>>553 むしろ正史のコピペしか認めない正史厨がレベルを落としているような・・・
563 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 08:58:36
正史だって名ばかりのフィクションみたいなもんなのにな。
563 名前: 無名武将@お腹せっぷく 投稿日: 2005/03/31(木) 08:58:36
正史だって名ばかりのフィクションみたいなもんなのにな。
時々こうやって晒してるつもりで
実は自分が一番恥ずかしいことをしてるのに気付いてないやつがいるよな。
そうだね。
567 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 12:36:52
568 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 17:04:46
マターリとしようぜ、という事で話題を変えて南蛮の名将であり、たまに中央にいって政治もする馬忠を語ろう!
569 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 17:27:08
ここって三国志知らない奴が見たら、漢字読めないだろうな。
馬忠は文武に優れたいい将軍だね
北から南へと走り回り、漢人だけでなく蛮族にも慕われ、
中央に戻っては尚書令の大役までもこなす
もし中原に生まれていれば満田牽郭の器と思う
ok
俺から素晴らしい言葉を570に贈ろう
蜀だからさ
戦闘より鎮撫に長じた将軍と言った感じかな。
満田牽郭より、胡質・劉靖・梁習・張既に近いと思う。
叛乱鎮圧はほとんど配下の張疑が行ってたみたいだけどね。
そんでも、長い間南方を安定して統治し続けたのは大したもんだよ。
張疑の功績も馬忠のバックアップがあればこそ、感じかもね。
574 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 20:47:24
そこで張翼ですよ。張翼って後蜀でも有数の名将だよな。ファンでした。
張翼・・・将帥の能力は寥化の同輩、文官としての能力は李恢に劣るという所か。
張翼も具体的な戦績が皆無だからなあ。評価しづらい
張翼の長所と短所。
法律を厳格に適用した。(反面、画一的に適用し、叛乱を起こされてる)
軍事的見識が高かった。(が、実戦での指揮能力は不明)
自国の状況を冷静に判断する見識があった。
大局的な視野も持つことが出来た、普通に有能な軍官僚って感じかな。
でもそれ以上でもそれ以下でも無い感じ。
平時なら能吏って感じか。
廖化の場合。
長い戦歴から、経験が豊富。(でも将領としては水準Lv?)
果断な性格(良い面も悪い面もあるだろう)
張翼以上に不明だ・・・。
ただ経験だけは豊富で、軍事においてもある程度安心して軍を任せられた人物と言う感じかな。
でも、名将と言うタイプでは無さそう。
張翼と廖化については演義だけで十分な気がする
579 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 21:39:54
ただ最後の最後まで北伐(姜維)に従ってたのは好感だが
あの時代頼れた武将はこいつだけだった気がする。
>579
逆に言えば、70歳を越えた人物に頼らざる得なかったってのが・・・。
581 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 21:54:39
黄皓は最後はどうなったんですか
やはり劉禅に最後まで可愛がられたのですか
582 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 22:09:21
廖化は二三八年に、魏の王贇・游奕らの軍を撃破しとるやん
王贇はその戦いで戦死してるし
二四八年には攻め寄せて郭淮の猛攻を姜維の救援でしのいでる
(あ、でもこれは撤退したと言ったほうが正確か?)
ことばに左伝や詩経を引用してるあたり、教養もまぁまぁ
>>582 ケ艾の側近に賄賂を贈って切り抜けたんじゃなかったっけ?
>>581 不明。まあ、安楽公なら一介の諸侯に過ぎないから、宦官など雇う余裕もあるまい。
あと、蜀滅亡後は黄晧と付き合いが無い郤正が劉禅の脇に付いてるので、
蜀滅亡で劉禅と黄晧は縁が切れたんだろう。
廖化は関羽の主簿だった・・・
主簿って会計とかのこと?
>586
字の通り、文書係って感じかな。
まぁ、事務屋だね。
広義に取れば秘書かな。
関羽とは仲が良さそうだな
>588
演義の影響からか、関羽の忠臣って感じだけど、正史だと夷陵の時に劉備に会いたくて老母を背負って帰った、ってあるね。
演義ではそもそも人間じゃないけどな
>590
演義だと死んだ歳で100歳近くになるんだっけ?
廖化は以前のスレでも語られてたが楚の廖氏出身でそれなりの家門の出らしい。
官僚としてもその能力を買われてるし、前線指揮官としても多くの功績を挙げ、蜀への帰参の成り行きもドラマチック。
個人的にはもっと記録が残ってて欲しかった人物の一人。
廖化・張翼は、蜀漢内の限っては名将と言う事かな。
それだけ蜀漢の人材層が薄いということだな
横山三国志では最後まで髭が黒々としてたな>廖化
廖立と同族だべさ。
まあ良将ってことで
コーコーは鍾会、生姜繊維の乱の時に一緒に死亡
>>598 >>584も書いてるが死亡してないって。
>生姜繊維
時に↑これって時々みかけるけど同一人物が書いてるのか?
虚しくならない?
600 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 08:45:27
てかヘタレファンな俺から見るとお前たちは何でも知ってるように見えるんだが
そこまでの知識をどこで付けたんだ?
吉川三国志なんかじゃ絶対付かない知識だな。
同一人物じゃないな
俺は俺以外の奴が書いたの見て使ってるし
北方を見ると呂布・馬超の認識を誤るような気がする…
北方は読まなくていい
いや男ならよめ
史実に興味あるなら北方なんかは不要。
あれは登場人物は記号に過ぎないハードボイルド小説。
608 :
600:黄天当立184/04/02(土) 09:59:07
一応漏れの読んだ三国志は「横山」と「吉川」と「反三国志」
反はどうでも良かったが。
てか、最初に北方とか言った俺自身読んだことない
マジレスされると思ってなかったw
610 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 12:43:30
>>585 宦官一人を雇う金がないほどの待遇の悪さはしないだろう。
魏・晋サイドとしても、億が一にも劉禅らに呉へトンズラされて国家再興を企てられても困るわけだから…。
612 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184/04/02(土) 14:15:10
>>610 バカですか?
宦官は皇帝にのみ仕え、宮中にしか存在しない。
よって「皇帝ではない劉禅」に宦官が仕えるようなことは魏は許さない。
オマエは「使用人・奴婢=全て宦官」などと思っているのか?
宦官の成り立ちから教えてやれば?
614 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184,2005/04/02(土) 14:41:17
>>612 マジレスすると、皇帝以外の諸侯でも宦官は使います。
明の鄭和なんかはもともと一諸候である燕王付きの宦官であり、
燕王が帝位につくのに尽力した功で出世しましたし。
諸侯じゃなくて王族じゃないか?その場合
戦国時代の諸侯も使ってたよ。斉の桓公に仕えたジュチョウ(漢字が難しい)とか
明代と戦国時代を出されても・・・
西南シルクロードの切盛りは誰がやっていたんだろ?
何を大真面目に議論してるのか分からん。
劉禅は県公だよ。形式的に一県を封土に持つだけの人間を
「諸侯」と呼んで宦官のいるいないを真剣に論議してどーする
>>620 宦官は皇帝の占有物みたいな勘違いを正しただけで、それをもって安楽公劉禅に宦官がついていた
証拠としようとしているわけではないぞ。流れをよく読め。
622 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 10:18:38
な ぜ テ ィ ン コ を 斬 る ん だ ?
神気挿入できないようにさせるため
624 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 19:08:04
>>618 とはいえ、諸侯王クラスで一夫一妻というのは考えられない筈だから、
その奥を仕切る人間が必要になる筈だが…。
西南シルクロードに関しては知らないか・・・
627 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 23:16:37
>>624 バカな香具師がいるな
だから、なんで普通の使用人じゃダメなんだ?
一夫多妻なんて、当時じゃ経済力ある奴は上は皇帝から下は商人・富農まで
いくらでもいるのに、その全部に宦官が仕えていたとでも言うのか?
>>627 バカはおまえだ。誰も上層階級がみな宦官を使っていたなんて言っていない。
「宦官は皇帝だけが使用を許されたものではない。諸侯レベルで使っていた記録は
以前にも以後にもある」
といっているだけだろう。
>>628 熱くなるな。
一般論なら一般論と先に言えばいいだけの話だ。
宦官が必要か、それとも単なる奴婢でいいのかの違いは、
ぶっちゃけて言えば巨大なハーレムを持ってるかどうかだよ。
封国が半ば独立してた戦国期とかならともかく
魏朝の諸侯がそんな贅沢なモノを持てたとは思えないな。
郡国をもらってた連中は国替え国替えで半分囚人みたいなものだったらしいし
それ以下の県・郷公は都に住んで食い扶持をもらうだけだしな。
>>629 俺は別人だが、最初からそう言ってんじゃねぇの?
会話の流れをみてもそう。
宦官は後宮の管理だけが仕事ではないからね。一番有名な仕事だけど。
別に皇帝以外の諸侯が宦官雇っていても全く問題ない。
明代あたりでは洪武帝が禁令出してるけどすぐに有名無実化してる。
なんかぐぐったら民間でも明代まで使役されてたってのが出てきたんだが…
>>632 それも洪武帝が禁令出してる。
どうも税や賦役から逃れるために自ら落としてしまうらしい。
634 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 12:31:27
よくわからんが、
諸葛亮=名将
閻宇=右将軍
高翔=大将軍
王平=地味
宦官=臭い
が結論でいいだろ
劉禅やその他蜀軍は魏に降伏した後はどうなったの?
魏に編入
やっぱり魏に降伏してもそれなりの地位がもらえるんだね
奴隷とかにされたら結構同情してしまいそうだけど
蜀帝はいいだろうけど
一般人や兵士は悲惨だったろうな
奴婢に落とされた者も多かったんじゃないか?
ローマの奴隷に比べれば中国の奴隷はまだ扱いがマシだったそうだが悲惨なことには変わりないし
劉禅とその近侍のものは洛陽に護送されたが成都に残ったものは鍾会の乱でほぼ全滅
悲惨な結末ですね
姜維や鐘会の辺りはよく知らないので携帯で読める三国志でも探してみます
蜀は善と言うイメージが強いですが悪の魏に滅ぼされてしまうところに現実的な魅力を感じます
善悪で判断しようとすると三国志は何も面白くない
陳満で判断しろ
蜀=善のイメージがついてしまうとどうしても蜀贔屓で考えてしまいます
確かに合肥での張遼の話やカヒの陳宮の話も面白いのですが
個人的に1番印象に残ってるのはあっけなく終わったイリョウの戦いです
そうですか
なにか面白い人がいますね
それはそれでいいじゃないか
ずる賢く生きてきたんだ
ずるくなきゃ呆気無くシボンヌする運命
多少無知だって
馴れ合いっぽくなったって
いいじゃないか
にんげんだもの
季節は春って感じですね
>>637 奴隷は課税対象にならんから体制側としてはあまり作りたくないだろうね。
それに魏は降伏してきたものは厚遇する傾向が特に強いんじゃなかったけか。
>>651 指摘ありがとう
後から調べてみたら劉禅は降伏の後も変わらず、洛陽で気ままに暮らしていたそうな
気ままに見せていたという面もあるだろうね。
蜀を懐かしみ降伏後の処遇に不満を漏らしでもしたら、即不穏分子として粛清されたんじゃないかな。
654 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 18:48:58
>>654 演義では莫迦の代名詞みたいに描かれてるけど
演技だって見たほうが自然な気がする。
正史では莫迦だって記述はなかったらしい。
(ちゃんと調べてないけど)
陳寿は劉禅を白糸のような人と評していたな
>>653 劉禅自信は無力だし、鍾会の乱の後に劉禅担ぎ出すバカはいないだろう
劉玄か
孫盛が成都であったのち彼はどうなったのだろう?
>>658 勝手に話をふくらませてないか?
李雄は、劉禅の子孫に爵位をやって厚遇してやったってだけだろ?
自分自身が実力で帝位についてるのに、亡国の子孫をかつぎあげる必要も何もない
>>655 評では宦官に惑わされてからは暗愚だったと書いてある。
ところで、実際に黄コウに惑わされた結果、何やらかしたの?
>>662 役立たずの諸葛贍・董蕨を録尚書事に、樊建を尚書令に起用。
政治の要である尚書を保身至上主義者どもに牛耳らせる。
他に人材もいなかったからなあ・・・
黄皓に惑わされたのってもう50歳くらいになってからだろ?
20なる前からずっと気張ってたんだし疲れちゃったんじゃない?
>>663 や、もうちょっと具体的に、こんな暴政ふるって国が傾いたとか、そういう実例があればと思ったんですが・・・
諸葛亮の死後、敗戦を繰り返し続ける姜維を掣肘することもできず、
どんどん国力が衰えていく国の王として20年以上在位してたわけだからな。
そりゃあ気力も枯渇する罠。
姜維は間違いなく有能な人間だったとは思うが、ちょっと好戦的すぎた。
強いて言うなら、姜維を制御できなかったのが劉禅最大の失政
>>664 羅憲・郤正あたりを尚書にしてたら、もう少しマシになったんじゃね?
”ちょっと”じゃねぇw
それに
>諸葛贍・董蕨を録尚書事に、樊建を尚書令に起用。
これって姜維が決めたことじゃなかったか?
劉禅の駄目だった所は優しすぎた事だと思うな。悪く言えば煮え切らない
それが姜維を野放しにしてしまった感がある。平時の皇帝なら及第点だったんだろうけどね
>>666 俺の知る限りでは、劉禅や黄皓の悪政によって
民が苦しめられたとか国力が衰えたとかいう具体的な記述はない。
黄皓は悪者にされてはいるものの、当時の宦官に対する差別意識も考慮に入れて
ある程度はさっぴいて考えるべきだと思う。
ただ、ことなかれ主義者だった可能性は高いね。
>>665 気張ってる奴が、董允に酒を控えろだとか注意されるかよ
孫権が気を張っていなかったとでも?
>>671 そうなんだ。ありがd。
最近、色んなところで「劉禅は暗君じゃないかも」という意見を見るようになったので気になってたんです。
俺も頑張って正史ぐらいは読むようにしよう・・・
>>670 諸葛贍・董蕨は反姜維派。劉禅か黄皓の意思、
あるいは単なる順送り人事で録尚書事になったと思われる。
だから、当時大将軍として最高位にあった、別に政治の事がどーでもいい姜維が、
順送り的に諸葛贍・董蕨を録尚書事にしたんじゃなかったっけ?って話。諸葛贍なんかは周りに人気あるし
仮に反姜維派として劉禅の(っていうか当時の蜀政権の意思)で抜擢したとしても、
結局姜維を最後の最後まで降格に出来ない押しの弱さ、人の良さが、劉禅に見られると思う
>>676 諸葛瞻や董厥は平尚書時な。
録尚書事なのは姜維。
678 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 07:46:46
軍権奪われそうになると警戒して成都に帰らなかったという奴だ、実際に降格の辞令出したら反乱したかもしれん。
かといって軍と切り離そうにも成都に戻らないし
劉禅の性格は問題ではないよ。
その辺は微妙だよな。
姜維自身が本当に蜀の存亡のために
自分の軍権が奪われたらもう終わりだって思ってたからなのか、
西涼にいた頃の董卓のように、皇帝に召喚されても応じず、
野心を持っていて軍権を手放したくなかっただけなのかってさ。
680 :
678:2005/04/06(水) 11:03:06
確かに微妙だけど、
どっちにしろあの頃の姜維への処遇をもって劉禅の性格や能力は計れないってこと
あと、どんな理由であれ、皇帝の意向に背いて軍権を持ち続けたのだとすれば不忠だよな
逆にそれでも忠義と言えるなら、更迭される時に国のためと称して反乱するのも忠義だな
ゲキ正の論文や、鍾会に出頭した時の態度を考えると、姜維が反乱を起こすような人物には見えないがな。
それに、姜維更迭が劉禅の意向であったかは史書からは読み取れないと思うが。
682 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 12:17:34
本人がどんな人物かではなく、周りからどう思われるか、が問題だよ
あと、姜維更迭ほどの大事が皇帝の意向と無関係だとすると、劉禅は名前だけのお飾り皇帝ってことだな
むしろそうじゃないから抵抗してたってのが
一般的な受け取り方だよなあ。
劉禅は最初から最後までお飾り皇帝じゃん。
他スレでも傀儡政権だって言ってる人多いと思うが。
でも姜維の野心って、別に蜀に対して安禄山の様に反乱起こす訳でも
まして取って代わる訳でもなく、国の最高責任者として栄達し後生に名を残したいって類のものだと思う
向上思考が強いって言うか、強力なエゴイストの様なもんじゃないかな?秦檜に近いじゃない?ある側面から見れば忠だし、不忠でもある
姜維の欲したのは名誉であって、富貴や権勢では無いだろうな
688 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 12:32:51
君らはバカボンに出てくるおまわりさんを正義感溢れる好人物と評価できるのか?
極論に走る必要はないと思う。
自分のためにも軍権を奪われたくないという思いもあったろうし、それが蜀のためにもなるという思いもあったろう。
程度の差はあれ、自分の身を立てつつ国にも貢献しようというのは、そう特異な考えではないと思う。
690 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 12:43:29
>>676 諸葛贍を登用して悪い事はないからな、蜀限定で。
多分散々ガイシュツだろうとは思うが、
姜維の北伐は、廖化、張翼、胡済なんかからも疑問視されていたという話を何かで読んだ。
とすれば、軍権を取り上げられて更迭されるのは、劉禅の命令であろうとそうでなかろうと
妥当な措置であるという気はするけれども。むしろそれを肯んじなかった姜維の方が問題なのでは。
ワカラン
諸葛亮の時代から軍事力という点では首都を漢中が上回っていた
これは政権としては危険視して当然だろう
ましてキョウイは出兵しても勝利することより大敗することのほうが多かった
軍を中央統制に戻そうという動きがあったのは自然だと思う
>>693 大敗は段谷だけだろう。最終的に撤退していたものの、
局地的なものも含めれば勝利だって多い。
どっちにしろ国内最高の権力者の元に兵が集中してるだけだしなあ。
それに蜀の国力じゃそうでもしないと北伐もままならないし。
これに関してはワンマン諸葛亮の遺影が残ってるんじゃないの
いかに姜維が野心的だろうとなんだろうと断固として処罰できない形が蜀内にすでにできていたから
そうなっただけで姜維一人の力で可能になるものじゃない
やっぱり蜀って荊州の時からずっと最前線の人材配置がおかしい
ようするに人材不足だったんだろう
>>694 出兵して、局地的な勝利は収めても結局なすところなく撤兵している時点で、
司令官としては勝ち戦とは言えない。当然、国家としても領土を得たわけでも
ないのなら多大な資金・人命をつぎ込んで失敗に終わったということ。
戦術家・姜維としての評価にはなっても司令官あるいは国家の廷臣としての姜維
に対してはマイナスにしかならない。
まあ、姜維の戦略は大勝か大敗しかないんだからしょうがない
国威高揚を目的とした一種のデモンストレーションとしてみれば
大挙軍を挙げて進攻する事自体にも政治的な価値があるだろう。
その結果どの程度被害を出したかとの収支を計る事になるが。
漢中守備軍まで手が回らなくなるほどじゃ駄目だろう
>>699 諸葛亮は、それに成功していたよね。
悪い影響になってしまうが、第一次の北伐以降、魏は蜀の動向から目が離せなくなった。
(おかげで軍事的には奇襲できなくなるのだが)
でも、ああも度々繰り返す必要はあったのかな、とは思うけど。
諸葛亮も姜維も、年を重ねるごとに理想で自縄自縛になって視野狭窄に陥っていた印象を受ける。
特に姜維は、なまじ戦術家として優秀だった分、引き際を誤ったというかなんというか。
姜維にとって軍を率いれなくなったら身の破滅、自分の存在価値抹消の危機じゃん
本人的に
姜維は荊州閥とも益州閥とも違うし、
それでいて昇進し過ぎてるからな。
士大夫勢力に対する軍人魏延のように
目の上のコブだと思われてただろうな。
まぁ派閥に属してないから安心と見られた面もあるにはあったんじゃないか?
どの派閥からも危険視されて孤立してただけだろ
707 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 12:57:08
政治力があれば、派閥を超越できるが、そうでなければ全体を敵にしかねない。
派閥がなかったから中央では政治勢力にはなれなかったが、外にでて漢中で軍閥化した
ってことじゃないかね姜維は。
でも姜維には派閥を作れる下地がありながら、それを作ろうとした形跡がないっぽい
ま、無関心だったんだろうけど
無関心と言うよりはそっちの方の概念がなかったんじゃない?
それって無関心ってこったろ?
荊州閥にも益州閥にも所属してないからこその昇進ってのは
あるんじゃないか?
劉備の漢中王即位の上奏文で、馬超が筆頭にあげられたのと同じ原理で
人事に困った時に、間をとるような事はありそう。
必要な軍事力は漢中にあったし、派閥の必要性を感じなかったんじゃないの?
漢中軍閥だろう、姜維のは
>>711 無関心と概念がなかったのを混同するなんて乱暴過ぎる
どこが?
無関心は概念は知っているがそれに注意を払わない
概念がないと言うことはそもそも知らない
派閥を作ろうという考えすら無いのが概念が無い
派閥なんてどーでもいいやが無関心
あんま変わらないが、これだと一応違いはある
しかし主部を「派閥を作ること」にした場合の話であり
「派閥」を主語とした場合、概念の方は派閥という単語自体を知らないことになるので不適応になる
つーかそんな細かいことにこだわったって、
結局何もそういうことは書いてないんだからさあ…
派閥というものに関わっていないのに派閥というものを知っていると言うのも妙な話だな。
派閥って言うと、特殊なものを想定するけど
ようするに国内部で誰かと政治的なよしみを結ばず
居場所作りに失敗したっていう事だろ。
馬超だっていろいろとやっているのにねえ
体育祭とかで1人燃えてるクラス委員長
あぁ、そんな感じだ
空気読めよ姜維、ってことか
馬超は何気に荊州閥ってことでいいのかな?
彭ヨウの件とか、謀叛の告発っていうより
諸葛亮の政敵排除に協力してるようにしか見えない
彭ヨウが馬超に言った発言って、本当にどうとでも取れるし
案外獄中の彭ヨウの発言は、真意なんじゃないかって気がする。
馬超は涼州閥なんじゃないのか?
涼州閥だとしても実権持たせたら即座に反乱するだろ
馬超ってのはそう言う男だ
だから蜀ではもう前線からも自分の根回しがある涼州からも離れた場所に置かれた
可哀相な馬超
仮節与えられて、涼州牧になった奴に
どういう推論してるんだよ。
叛乱命みたいなイメージは蒼天行路とかの影響か?
でも馬超はどっちかっていうと群雄だし、
100%信頼するのは難しいと思うよ。
袁術配下の孫堅とかそんな感じ?
>>730 実際の任地がな…
それからイメージしてみた
内に馬超を抱えるのも呂布を抱えるのも大して変わらんからなぁ…。
前線から外されたっていっても、漢中攻めの時は軍率いてるし、
彭ヨウの件があるように、はっきりと安全ポーズとってるわけで
「実権持たせたら即座に反乱するだろ、馬超ってのはそう言う男だ 」
なんて断定は乱暴過ぎだろ。
元群雄って立場から100%信頼するのは難しいってのは、当然あるだろうけど
実際仮節を与えられて実権持ってるってあたりを度外視するのはいかがなものかと
呂布と比べる意味に至ってはわけわからん。
誰かの元から独立しようと動いたら、誰でも呂布ってか?
親捨てたから呂布ってか?
人間一皮むけばみんな呂布
じゃあ呂布じゃないなら劉備か。
そもそも、馬超が曹操に対して挙兵したのは
曹操が「漢中攻めるんで、そっちに派兵しますよ」ときた上に
鍾ヨウが馬超に対して「韓遂の首とって来て」って打診した事が切っ掛けだべ。
周瑜の発言やなんかも考慮すると、
いつから反曹というスタンスになったのかは不明だけど、
闇雲に叛乱したわけでは無いぞー。
蜀将スレだから仕方ないとはいえ、安易に叛乱野郎として括る前に、
涼州の歴史の流れとかにも触れてから語ってくれ。ヨロシコ
まぁ、立場上100%信頼するのは難しいだろうってのには同意。
益州の儒家にも嫌われちゃってるしね
なんか、「馬超の妻子が死んだのは馬超の自業自得」みたいなこと言われてたもんな。
思慮が足りず暴走しがちな部分があったことは否めない。
>>721は犯罪という概念を知らないか、犯罪者かどちらかだな。
知っているか? 人間が人間を殺す殺人という犯罪があるんだぞ。
742 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 12:52:35
>>736 呂布だって董卓の死後、李カクやら袁紹やら曹操に追われて徐州の劉備を頼っただろう。
743 :
721:2005/04/08(金) 13:55:05
>>741 そう。
故に俺は殺人を知らない。
犯罪も知らない。
経験主義者だからね。
無知の知、みたいなもんか
知らない事を知っているか否か
>>740 自業自得っつーか、戦の際に妻子が巻き込まれる事なんて良く有る事だろ。
結果一つを抜き出して、思慮が足りないとか言うなよ。
冀城の件は、家族ぐるみで馬超を騙した楊阜達も見事だからなぁ
特に奥さん達が強烈だしw
家族ぐるみのおつき合い+人質で、信頼しちゃったんだろうね
>>742 いや、だからといって何で
馬超と呂布を不信度の面で同列に扱うのか不思議っつーか。
呂布の場合は、丁原を殺し、董卓を殺し、
袁術の元で略奪を働いて疎まれて出奔
袁紹の元でも将の乱暴狼藉を許して疎まれて出奔と
世話になった所から離反する前科が多いけど、
馬超の場合は曹操の征西に反したってのと、張魯の元から劉備に降った程度じゃん
気が緩んでたのかもな
周辺一帯を制圧したうえ、目の上のコブであった夏侯淵を撃退した後だったし
馬超って季漢輔臣賛やなんかでボロクソに言われてるから
そのイメージのまま、思慮が足りないとか暴走しがちとか言う人多いんだよな…
儒教の面から見ての暴挙を、個人の在り方としての暴挙にすり替えられてる。
いつだか、馬超は蜀将スレで語られたく無いって言ってた奴の気持ちが、
今なんとなくわかった。
上の方で涼州閥って言葉が出てるけど、
実際の出身とか本籍とは関係無しに
劉璋配下だった人間=益州閥
劉備に付き従って入った人間=荊州閥じゃないのか?
>>745 良くある事だからって思慮があるかどうかって話にはならないと思うが
単に時代のせいでそういう面での思慮が及ばない人間が多かったってだけの話だろう
馬超の場合、末期に残した劉備への上奏が未練たらしくて反感買ってるってのが大きいんだろうけど
「いや、それお前のせいだろ!」みたいな
あれがなければいちいちこんな攻撃されることもなかっただろうとは思う
「大事の前には家族など」という乱世らしい価値観もあったかと。
そこまで居直ってたかどうかはわからんが、
一族が馬岱以外皆殺しにされたのは自分が原因だという認識があったからこそ、
劉備に対してあんな遺言残したんじゃないかな。
勝つことを信じて戦っている時はある意味家族の命など割り切っていたかも知れない。
でも敗北して身内が失われ、孤独になっていくとやはり自分を責める気持ちが
嫌が応にも生まれてくるだろう。
>>754 そうだな。十代の頃から血みどろの戦いに明け暮れて、
父や弟を見殺しにして曹操に戦いを挑み、
涼州に逃げて再起を図ったら、その結果が一族皆殺し。
領地も全て失い、漢中へ亡命したが、疎まれて益州へ逃亡。
血塗られた人生を賭けて得られたのは、地方軍閥の幹部の地位だけ。
ここまで実りの無い人生を生きて、
自己嫌悪の一つも感じなかったら、そっちの方が不思議だな。
>>750 まあ、真剣に考えるな
皆、出身地とか見てテキトーに派閥をこしらえてるだけだ
実際に派閥の構成要素が「出身地だけ」だったかどうかなんて怪しいしな
>>752 乱世だからこそ、一族は大事にされた。
中国における血統の意味を知らないのか?
それも一つの一面。しかし家族の命より優先する場面が乱世にはあるだろうことも
一つの一面としてあるんじゃないかと。
>>755 蜀に来たときはもう廃人だったんじゃないかとすら思うよね。
>>755 すげー悪し様に言うのなw
それ言ったらキリがないぞ、実りの無い人生の人物なんていくらでもいるだろ
>>759 飛躍した妄想もけっこうだけど、
その場合、廃人に節を与えた劉備はどんな愚鈍だよ。
派閥として大きく分類されてるようなのって、益州閥と荊州閥だろ。
なんで出身地でテキトーに派閥こしらえてるだけってなんだそりゃ?
>>751 上奏は別に「曹操のせいで殺された」とか恨み言ってるわけでも無く
自身ではっきりと「誅された」と称してるわけで、
「いや、それお前のせいだろ!」とかツッコミ入れる奴は演義と混同してキレてるか、
儒家の馬超批判を間に受けて、時代背景も知らないまま
馬超の挙兵の根本から否定してるだけだろ
でも元劉璋の配下って益州出身者も多いけど荊州やその他出身者も多いんだよな。
馬超が史家に叩かれるのは、儒教で最も大切な忠と孝がないからなんだよな。
後漢に対して反抗した勢力、特に関中なんて中原に対して
常に反発心のある土地だから、そこで何か起こせばもう終わりですよ。
しかも親兄弟犠牲にして反発したんだし。
あの時代は今よりも血族、特に親は大きくて絶対な存在だったわけだし。
馬超を呂布のように言う人も、その辺のイメージが根底にあるからじゃないかね。
その後も親族を殺し殺されの血なまぐさいドロドロの戦をしてたわけだし。
>>758 家督を大切にすべきという根底はあれど、
乱世の家族に対する価値観はケースバイケース。
基本的に、妻子への情に流されるのは主君としてはアウト。
子供は木の枝のようなもんだから、いざって時は切り捨ててもOK。
逆に木の枝(子供)が、木(親)をたち枯らすような事はまかりならない。
これが儒教の教えだもんで、
当時の士大夫なんかは、これに添う事を良しとする。
だけど儒教ってのは、見ようによっては理不尽な面が多い。
綺麗事みたいなのも多いしね。
特に、中央至上主義の地方民軽視、異民族搾取の思想でもあるから
涼州あたりの人間が儒教思想に従わないのは、当然っちゃー当然。
まぁ、ようするに
当時の人間の思想なんて、一括りに考えられるもんでもないって事だわな
>>764 益州閥筆頭の法正なんかも、扶風出身だしな。
涼州から流れて来た人材は多いと思うけど、
劉備政権の元ではとりあえず益州閥ってこったろ。
つーか、この派閥の名義自体、現代での定義じゃないのか?
史料にのってたりする?
>>755 お前は頑張って、実りのある人生を送れよ
馬超は異民族の血が入ってるし、
元々漢朝に反抗してた勢力の人だから、
儒教的な考えの下地は薄そうだけどな。
まあだから漢民族には快く思われなかったり、
警戒されたりしてるんだろうが。
呂布や董卓なんかもその辺は同じなのかもな
だからこそ燦然たる個性を放っているんだろうが
>>770 呂布はともかく、
董卓、韓遂、馬騰、馬超の4人は、
四者四様に当時の涼州の有力者の、
時代に応じた変化として、わかりやすい例かも。
群雄から臣下なら、大史茲も思い出してやって。
あと、一番謀反してるのは蜀では劉備じゃない?
太史慈の不遜の度合いは凄いよな。
そんなド直球で言わなくてもと思ってしまう。
だがそこがいい。
呂布=劉備=馬超
同族嫌悪
太史慈のあの弓の巧さや英雄っぷりはなんなんだ?
陳寿が史官の家系に気を使ったとも言えるほどのもちあげっぷり。
>>766 妻子は捨てても親兄弟は大切に、というのが中国の儒教。
そして、その点を批評する儒家は乱世だからどうこうなんて考慮しないよ。
むしろ、乱れた世の中だからこそ一定以上の地位に人間にはより強く孝徳を要求する。
そもそも儒教においては親を敬うというのは礼節ではなく宗教の教義に近く、ヨーロッパ
で例えると神を崇拝することと同義(祖先崇拝)。乱世だから親を捨ててもいい(神を
侮辱してもいい)なんて教え、価値観はない。
「乱世の場合はケースバイケース」なんて現代日本人だから言えることば。
>>776 だから、儒教そのものを遵守するかどうかも
土地柄や人種によりけりだろ。
劉邦なんかは逃げるために子供を馬車から蹴り落としても…
馬超は思考に儒の影響が少ないであろうだけに
法家主義な曹操とは、上手くいきそうな気もするのにな
>>779 実際上手くいってたっつーか、
曹操側からは27才で徐州刺史に任命されたり、えらい厚遇されてたんだよな。
年代不明だけど、諫議大夫になった後に一度官を辞めてるらしい所と、
その後は曹操の招聘を拒否してる所を見ると
この役職の時期に、何か心境変化するような出来事でもあったのかもな。
>>777 馬超がどれほど儒教の影響を受けているかはそのとおりだが、
その馬超を評価する側は儒教によっておこなう。
あなたの言っていることは評価するがわとされるがわを混同してますよ。
さらに言えば、馬超を受け入れる劉備とその政権を構成する士大夫達は大なり
小なり儒教の理念で生きている。彼らが、あまりに儒教理念からかけ離れた行動を
とる馬超という人物にたいしてどういった評価・感情をもつかは想像つくでしょう。
もちろん"される側"としての在り方を語ってたつもりなんだけどな。
752あたりからの流れで、「馬超の持つ価値観」を云々してるようだったから、
「そりゃ、地域や人種によって違うよ」と言ったまで。
儒教理念を遵守する層から、反発があったり、
不信を感じられるってのは当然の事だろ。
782追記
あと、「蜀内部からの評価・感情」という括りで見るならば、
劉備も根本的な部分では儒者では無いし
孔明あたりは実質的には法家の思想で動いてるので、
トップの位地である彼等にとっての評価・感情の想像は、簡単には出来ないかと。
益州の士大夫層にどう思われてたかは、781氏の言うように想像に難くないけどな。
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 12:28:36
儒教的価値観の薄い人たちに対する儒教的価値観の強い人からの嫌悪感の例として…。
儒教の国教化が定着する前に書かれた司馬遷(道家に好意的だった)の「史記」を儒教に則っていない歪曲された(?)歴史書だと筋違いな糾弾をした尹黙が『正史』を書こうとしているな。
なんか一部の住人が念仏のように儒教儒教と言ってるのがすっげーキモい
当時の人々の価値観とか道徳観を全て「儒教」で片付けて
まるで何かの宗教であるかのように
劉備や諸葛亮が「儒家」の信者かどうかだけを真剣に論じている
めちゃめちゃキモい
「理想としての倫理的規範」と現実社会の区別をしようや
例えば現代アメリカで「麻薬が悪」ってのは疑うべからざる絶対的倫理。
一方でブッシュが大統領候補になった時に、麻薬をやった前歴をリークされたけど
アメリカ人のほとんどは「それは大した問題ではない」と考えたそうな
>劉備や諸葛亮が「儒家」の信者かどうかだけを真剣に論じている
そんな流れがどこにあるんだ?
前スレとかでそうだったんならゴメポ
>当時の人々の価値観とか道徳観を全て「儒教」で片付ける
でも、これに関する不毛さには同意。
後漢末期は思想の過渡期でもあるから、
軽はずみに思想を論じられるもんでも無いだろうな。
そして、蜀将討議と随分話題がズレてるような…
788 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 16:32:14
>>785 建前と本音の問題だな。
だが、建前を無視して本音が前面に出る事もないだろう。
前漢の宣帝が言っているように王道と覇道(儒家と法家)を交えて使うのがいいんだよな
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 18:39:21
むしろ、武帝の後で真剣に儒教至上主義だったのは王莽と光武帝・劉秀。
>>780 涼州と曹操の関係がおかしくなったのは馬騰が召し寄せられた辺りからだな。
しかし、これは当然だろう。
馬騰は涼州から私兵を伴って都に赴く訳にも行く事も出来ず、初めはごねて行こうとしなかった。
で、結局は赴いたわけだが、与えられた職は宮中の警護。
自分が人質になる事で馬騰は曹操との関係が上手く行くと思ってたんだろうが、
曹操が今度は馬騰に後事を託された馬超を召し寄せようとした。
これにのったら軍権を奪われた挙句、体よく閑職に追い込まれる(馬騰が宮中警護なら馬超は関内候か?)
訳で、ここで叛乱を起こさない方がどうかしてる。
>>790 劉秀の儒学と後漢の儒学を一緒にしないでくれ
劉秀の儒学、儒者っていうのは武人儒家。彼の雲台二十八将だって儒者と言える人物がおおいんだし
後漢の机上の儒学じゃないんだよ。子路のような果敢な儒学だったんだ
>>791 曹操からの招聘は馬超が先じゃないか?
建安13年6月に丞相就任した曹操が馬超を招聘、(で馬超は拒否)
馬騰が徴し出されて衛尉となったのは15年。
曹操の関西への出兵や、鍾ヨウの「韓遂の首とってこい」発言からすると
決起するのは当然だとは思うけど、
それ以前から、馬超は曹操側に拠る気持ちは無いように見えるな〜と。
つーか、馬超伝は時系列破綻してる部分があるから、混乱するな…
794 :
790:2005/04/09(土) 21:51:51
>>792 儒教を国政の中心に据えた事という事実関係のみを限定して言っているわけだが…。
795 :
775:2005/04/09(土) 22:15:14
たいしじはスルーですかそうですか
儒家どうのって意味なし。
基本は中国人の道徳感だから儒家でなくても馬超の評価はきつくなる。
かわりにここで再評価したれ。
>>795 西南シルクロードもスルーだったし
「蜀将」じゃなきゃ駄目らしいよ。
太史慈か...
劉備とは何となくウマが合いそうなんだけどな
太史慈なら呉将のスレ行ってきたほうが良いと思うけど
馬超が挙兵した時
馬超が「馬騰を親と思わず、韓遂を親として」云々
って言ってたような気がするんだけど、正史にこんな下りあったっけ?
800 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 23:44:29
魏略だよ
なんの宙よ
802 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 23:47:06
張既伝注
つうか馬超の子供馬承についての情報募集中ですよ。
継いだ
以上
>>793 馬騰ってそのまえから延々と呼び出されてなかったっけ…ああ、わかんなくなってきた。
武帝紀読み返すか(;´д`)
それしか言えんだろ
腹減ったんだよとにかくよ
ここらで糜竺について語ろうぜ
憤死した
以上
811 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 19:10:29
心優しきスネオです
新しいスネオは女性問題が…
スネツグもお怒りだ
814 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/12(火) 19:31:40
ほしゅ
李厳について語ろうyo
李平にします
817 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 18:32:37
劉備に後を託されたが諸葛亮に嵌められる
以上
なんでサボったの?
820 :
李平:2005/04/14(木) 20:14:18
>>820 じゃ食料は用意しようと思えば可能だったの?
822 :
李平:2005/04/14(木) 20:53:09
>>821 糧食はたんとあったよ。でも送れねーの。道細すぎ、険しすぎ。
そんなこと最初からわかってて、そんで群臣こぞって議論してたわけよ。
でも丞相ってばデカイおもちゃ背負ってきて、「木牛作ったから」とかいって。
「三日完徹した」とかいって、目がヤバイわけ。もう誰もつっこまないの。
それで俺が輸送担当ですよ?便所行ってるあいだに決まってたわけ。
もう最悪。普通に送るだけでもツライのに、木牛使ったフリしなきゃいけないし。
ほんとね。もう阿斗かと。阿蒙かと。
あ、愚痴聞いてくれてありがと。
>>821 きっと、孔明にはできたんでしょう。
稀代の兵站巧者ですから。
ただ、他の自分に劣るけど有能な人物でもできると思ったのが失敗だったとか。
>>822 だからって嘘の上奏はまずいだろう(演義だけだっけかこれって?)
李厳の場合、正直に天候不順で補給が出来ない、って言えば問題なかったと思うんだけど。
それを劉禅に「敵を誘い込んで叩く作戦です」って言ったり、諸葛亮に「食料は十分に送ったのに、なぜ撤退するんだ?」と言う辺り、悪意を感じる。
天候も大きかったかもしいれんが、その後の作戦行動が不可能になるほど補給が続かなくなるような天候不順だったかどうかだろうけど。
何故サボったかと言うと、劉備からの遺詔は諸葛亮と李厳の二人で受けた、って李厳は思ってたんじゃないかな。
それなのに、諸葛亮は開府で、事実上独裁政権を主催してるのに、自分はその他大勢の中の一人。
その辺りの待遇面での不満があったのではないかな。
諸葛亮が失敗すれば、自分の立場が強化されるとでも思ったんじゃないかな。
すべて孔明の策略よ
逆に諸葛亮にそれを利用されて追い落とされてる罠
孔明が提出した李厳直筆の手紙が実は孔明による捏造
李平は、馬忠、成藩を派遣して長雨の為、補給が続かないことを説明し、
孔明はこれを了承し、帰還準備を始める
しかし、何故かここで李平の虚報が劉禅にされる
お互いが納得して始めた事なのに、何故嘘をつく必要があるのか
キ山での勝利に水を差す形になるから?
孔明の補給担当ってすっげーストレスたまるだろな
めちゃめちゃ細かく書類見られるだろし
ささいなことでいちいち叱責されるだろし
苟安
833 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/16(土) 14:02:27
ほしゅ
/\
\蜀
∩∩ 日 本 人 を 殺 そ う ! V∩
(7ヌ) (/ /
/ / ∧_∧ ||
/ / ∧_∧ ∧_∧ _(´∀` ) ∧_∧ ||
\ \( ´∀`)―--( ´∀` ) ̄ ⌒ヽ(´∀` ) //
\ /⌒ ⌒ ̄ヽ、劉備 /~⌒ ⌒ /
|張飛 |ー、 関羽 / ̄| //`i 諸葛亮/
| | | / (ミ ミ) | |
| | | | / \ | |
| | ) / /ω \| ヽ
/ ノ | / ヽ ヽ、_/) (\ ) ゝ |
| | | / /| / レ \`ー ' | | /
りょーかです。。。
ヘイ州ししになったとです。
でもいったことなかとです。
836 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 20:36:27
ほしゅ
837 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 20:59:55
822最高!!
なんかまだいるんだな。廖化が黄巾に加わってたと思ってる人って
廖化は黄巾の乱が興った頃に生まれてる。
廖化は264年に75歳くらいで死んでるから生まれたのは黄巾の乱後かもしれん。
訂正しとく。
廖化の年齢は宗預伝から判断するしかないな
黄巾賊だった可能性はほぼ皆無
>>842 黄巾の残党に10歳くらいで参加。
このくらいなら「絶対にないとは言い切れない」くらいの主張は出来そう。
出身地や地元に母親がいたという事情を鑑みればそれでも厳しいとは思うけどね。
844 :
21:2005/04/18(月) 23:46:00
廖化が黄巾に加わってた
初代は参加していたかも知れんぞ。
846 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 12:41:27
>地元に母親がいた
普通に家族を連れて移住していた可能性もある
廖化が黄巾党にいたって話さ、何か根拠はあるの?正史にそんな記述あったか?
完全に演義での話だと思うんだが。
848 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 16:44:56
史書には根拠は何も無いよ
「無いとは言い切れない」とか言い出したらなんでもありだろ。誰も実際に見て来たわけじゃないんだから
リョウカは荊州の名士。ヨウギなんかと身分的には近いんじゃないかな
瞻に尻尾振ろうとしたの?
850 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 22:48:57
蜀末期は、リョウカやチョウヨクは、キョウイにもショカツセンにも不服だったらしい
どうやら、荊州閥と漢中と成都と、国内は三分されていたように見える。
その微妙なバランスが、キョウイの更迭を遅らせるとともに援軍も遅らせたんだろうなあ。
天下三分を唱えて建国された国が内部で三分されてたんだから笑い話にもならん罠
しかも肝心要の丞相がその派閥の一方に与して権力闘争してたフシがあるからなあ
張昭や周瑜のような人材がいれば蜀の運命もまだ違うものになっていたのだろうか
その二人がいたところで変わらんよ
張昭はともかくとして周瑜にそんな高度な政治的駆け引きができるとは思えんが
でも諸葛丞相がいてこその蜀だったと思うがね
諸葛亮が生きてる間は権力闘争ないよ。
諸葛亮が死んだから権力闘争が起きる。
しかも各派閥をバランスよく弱めておいたから、
その微妙なバランスで権力闘争が続いてしまう。
まあ、張昭みたいな長老がいれば若手の派閥争いはなかっただろうし、
周瑜みたいな地位の高い軍人がいれば蒋エンや姜維のように苦労することもなかった。
なにもかも諸葛亮ひとりでやってた時点で、蜀はどうしようもない。
諸葛亮が生きている間にも権力闘争はあるよ
李厳の失脚とかはまんま権力闘争
闘争じゃないじゃん。
争うまでもないくらい磐石な丞相制。
強いていえば闘争の芽を摘んだとかその程度。
根回しして署名集めて李厳の失脚
これ完全に権力闘争
ただ一撃で勝敗がついているので目立たないだけ
廖立を失脚させたりとかも
権力闘争にはならないのかな。
860 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 07:56:47
廖立は「自称」ナンバー2であって実際は…。
ともあれ、諸葛亮がいてこその蜀だったことには同意
蜀の一時的な隆盛も急激な衰退もそもそもは諸葛亮が原因なわけだから
諸葛亮がいたからこそ蜀は良くも悪くも小国のくせに後世まで名を残す国になりえた
個人的には諸葛亮って蜀の中で姜維の次に嫌いな人物だけど
姜維は何番目にキライなのかね
君は
そりゃあ一番嫌いですよ、と思ったけど楊儀のほうが嫌いだわ
ぶっちぎりで嫌いすぎて存在忘れてたw
好きなのは順に劉備、費禕、張飛、魏延、廖化……とチラシの裏
べつに諸葛亮が歿してから急激に衰退なんてしていないのだが
確かにそうだね、ごめん
上司には馬忠みたいなのがいいな。
上司にしたい人々
趙雲(諡号の由来からして法律には厳しそうだが、まじめに仕事してれば居心地良さそう)
馬忠(気軽に話しかけてくれそう。誰とでも仲良くなれそうな人)
龐宏(龐統の子。あけっぴろげな性格の人。憎めなさそう。でも運が無い)
上司にしたい人々
呂蒙(ゼッタイいいやつ)
甘寧(殺されないように注意しとけばいいやつ)
陸抗(下で働いてれば奇跡が拝める)
呉の人間なんかどうでも良いよ
他のスレでやってくれ
つまり諸葛亮はヤクルトにとっての古田ですな。
嗚呼、我がヤクルトよ・・・
ホウ統は部下を褒めてのせてから仕事させたらしいから上司には良いかもね。
話も面白いらしいし。
上司にしたい人々
関羽(一兵卒にも声をかけてくれる素敵なお方。でも、中間管理職の胃壁は限界。出世したくないな。)
魏延(出世街道をひた走るこの人についていけば、きっと夢を見ていられる気がするんだ。)
費イ(とりあえず名門の生まれなら、派手な行動をしていれば目をかけてくれるかも。)
劉備(おかしいよね。いま、お腹に槍が刺さってるのに。この人のためだと思うと不思議と悪い気がしないんだ。)
妄想乙
上司にしたくない人
諸葛亮(まあ本人は優秀なんだろうけど自分で仕事抱えすぎで処理しきれてない。
あと部下に仕事任せる時は人選が最悪。だから他人に任せられなくなって・・・の悪循環。
あくまで最初の計画通りに進めようとして状況の変化に対応できない。)
最終的に部下が四散してった将は、上司にしたくないな
そういう意味では関羽とか魏延とか
>>874 実際、多くの部下は諸葛亮に心酔してるが
上司にしたくない人
俺は学者じゃないから張飛。
諸葛亮は自分で仕事抱えすぎだけど処理はしてる
結果自分の後の事全く考えてなくて困るけど
で、困るのは残った人達
>>875 心酔してる奴らは使えん奴ばっかりじゃ・・・
蒋エン、費イらは素晴らしい人材だよ。
郭循が費禕を暗殺したのは姜維の差し金と夢見ていたいお年頃
881 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/23(土) 13:10:16
簡雍は?
882 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/23(土) 19:44:05
(^−^;)
飲み友達でしょ
しかも付き合ってるとなんかいい事ありそう
東のケ芝、南の馬忠、北の王平
海のリハク
ケ芝は最高
友達が姜維しかいない
888 :
ケ芝:2005/04/24(日) 02:08:09
孫権もダチだもんね。
889 :
無名武将@お腹せっぷく:
費観は八方美人。