a
3 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 01:17:44
【将軍家】
足利尊氏┬義詮─義満┬義持─義量
. ..│ ...├義嗣
. ..│ ...└義教┬義勝
. ..│ . .├義政─義尚
. ..│ .. ├義視─義稙
. ..│ .. │ ┌茶々丸【堀越公方】
. ..│ .. └政知┴義澄┬義晴┬義輝
. ..│ .... ..│ └義昭
. ..│ .... ..└義維┬義栄
. ..│ .... . .. └義助【阿波公方】
. ..│【鎌倉公方】
. ..└基氏─氏満┬満兼─持氏┬義久 ┌藤氏
. .. .├満直 .└成氏─政氏┬高基┬晴氏┴義氏=頼氏【喜連川家】
. .. .├満隆 【古河公方】..│ └晴直─義勝─義久【宮原家】
. .. .└満貞 └義明┬義純
【小弓公方】.└頼純┬国朝
...└頼氏─義親―尊信
4 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 01:21:48
基氏─氏満┬満兼――┬持氏┬女(太平寺住持)
【鎌倉公方】│ ...└持仲├義久
... .. .├満直(稲村御所)├春王丸 ┌藤氏 頼氏
... .. .├満隆 .├安王丸 ├藤政 ...┠義親―尊信【喜連川家】
... .. .└満貞(篠川御所)│ .├家国 ..┌女(鴻巣御所)
... .. . ..└成氏―┬政氏┬高基┬晴氏┴義氏─┴梅千代王丸
... .. . 【古河公方】│ │ ├雲岳(甘棠院二世)
... .. . .│ │ ├晴直(宮原御所)―┬義勝─義久【宮原家】
... .. . .│ │ └女(東慶寺十八世)└東獄(甘棠院三世)
... .. . .│ │【小弓公方】
... .. . .│ ├義明┬義純
... .. . .│ │... ├頼純┬国朝
... .. . .│ │... │ ├頼氏(義氏継嗣)
... .. . .│ │... │ ├女(東慶寺十九世)
... .. . .│ │... │ └女(豊臣秀吉側室/古河姫君)
... .. . .│ │... ├女(青岳尼/里見義弘室)
... .. . .│ ├基頼└女(東慶寺十七世)
... .. . .│ ├貞巌(甘棠院開山)
... .. . .│ └女(東慶寺十六世)
... .. . .├女(大平寺住持)
... .. . .└顕実(上杉顕定養子)
5 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 01:23:37
【喜連川家】
..紀氏(細川斉護子)※離縁
頼氏─義親―尊信┬女(東慶寺21世) .┃
..├昭氏―女 .┌女 (徳川斉昭子)
..└氏信 .┠茂氏―氏連=恵氏―彭氏―熈氏┴=宜氏=縄氏┬=聡氏=於菟丸―惇氏
....氏春 .(加藤泰衛子) (細川定良子) .│ (宮原方斎子)
..(宮原義辰子) ...└於菟丸
6 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 01:25:22
【宮原家】
晴直―義勝┬義照
. .. .└義久―晴克┬義辰=氏義―義汨┬義眞=義利―義直(方斎)┬聡氏(喜連川縄氏養子)
. .. . ..| ...└義利 ├=義近
. .. . ..├氏春(喜連川昭氏女婿) ..├=義以
. .. . ..└女 ..└=義路(岡部備後守子)
. .. . ... .┠氏義(義辰養子)
. .. . 杉浦政令
のぶやぼって足利藤氏、藤政が登場しないよね。
8 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 01:37:03
9 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 01:39:02
10 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 01:53:29
タイトルにある「擾乱」って騒乱とか内乱の意味?
>>1 遅ればせながら乙です。
>>3-6 ∩
( ⌒) ∩_ _グッジョブ !!
/,. ノ i .,,E)
./ /" / /"
_n グッジョブ!! ./ /_、_ / ノ'
( l _、 _ / / ,_ノ` )/ /_、 _ グッジョブ!!
\ \ ( <_,` )( /( ,_ノ` ) n
ヽ___ ̄ ̄ ノ ヽ |  ̄ \ ( E)
/ / \ ヽフ / ヽ ヽ_//
12 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 02:04:56
>>10 本来は気象学の用語らしいね。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%93%BE%E4%B9%B1 >擾乱とは
>大気は常に流動しているが、この流体という大きな時間的・空間的にも大きなスケールの中で、
>ある程度の乱れを起こしている。例えば、偏西風、偏西風波動のなかでは高気圧や低気圧、台
>風などといった大きなスケールの流体の中で相対的に小さなスケールの運動が見られる。
>しかし、偏西風や偏西風波動などが年中起こっているのに対して、高気圧や低気圧などは発生
>したいり消滅したりを年中繰り返している。つまり、低気圧や高気圧などに比べて偏西風は相対
>的にスケールの大きな現象と考えることができる。
>これは、川の流れを観察しているとき、川の流れという大きなスケールの現象のなかで、大きな
>渦や小さな渦が発生したり消滅したり、地形などの影響で部分的には 流れの形を変えている
>ようなことと同じである。
>このことから、大気の流体という大きなスケールの現象に対して、通常の場合それよりも小さな
>スケールの運動が常に起きており、その運動は時間とともに刻々と変化している。このような大
>気の乱れた現象を気象学では擾乱(disturbance)と呼んでいる。
>また、この擾乱の内、波動性の擾乱(これを波動擾乱という)をもつものを大気擾乱(atmospheric
> disturbance)という。
(続き)
>気象学的な見方では
>擾乱は厳密には「大気の定常状態からの乱れ」というふうに定義されている。定常状態とは今述
>べた例のように、着目している現象(例えば川の場合だと流れの中で起きる小さな渦など)よりも
>時間的にも空間的にもスケールが大きな現象のことをいう(この場合は川の流れ)。
>ただし、気象学ではかなり広義に用いられる用語であり、低気圧や低気圧の発生が見込まれる
>領域のことを擾乱といったりもする。
14 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 02:29:09
なるほど。
関東上空の大気が乱れてたってことね?
>>7 継承順が狂ってくるからね。
COMに任せておくと藤氏が家督を継いでしまうし。
16 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 02:46:47
「擾乱」でググッてみたら、こんな本がヒットした。
>『鎌倉擾乱』 文春文庫
>出版社/著者からの内容紹介
>臆病な本性を隠し、権謀術数の末、内管領にまでのぼりつめた平頼綱の数奇な運命……。
>「異形の寵児」など三篇。第五回中山義秀賞受賞
関東公方ネタじゃなかったのね・・・OTZ
観応の擾乱
18 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 03:57:27
20 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 04:43:57
>>18 しかし、秀吉も酷なことをするよなぁ・・・
鴻巣御所の所領を僅か332石まで削ったんだろ?
家臣を抱えてどうしろって言うんだよ。
>>20 鴻巣御所の家臣団というのはどのような構成だったのかな?
22 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 10:14:15
>>7 おかげで、EZ信長で登録できちゃったよ。
関東のCだと、雰囲気出るんだが、今まで一度もやれたことない。
23 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 14:00:42
>>21 御連判衆という執務機関を持っていたよね。
その御連判衆が北条氏他との折衝・調整にあたっていたと。
但し、御連判衆のひとり、梁田助実が小田原合戦に参陣するなど、軍事的には北条家の直臣
のような扱いを受けていたのかも知れない。
24 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 14:37:43
氏姫タン・・・(;´Д`)ハァハァ
>>23 吉良(蒔田)家などもそうだな。
当主の氏朝自身は合戦に参陣しなくても、家臣団は北条の指揮下に入っていた。
26 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 22:11:00
御連判衆は義氏の頃まで古河御所様各御奉行、古河御奉公人などとも呼ばれており、
それらが御連判衆として確立されたのは氏姫の時代になってから。
御連判衆には一色氏、町野氏、高氏、小笠原氏など鎌倉府以来の近習が名を連ねていた。
それ以外にも既出の簗田氏、芳春院の周興、松嶺といった禅僧が近侍していたという。
27 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 22:14:09
天文年間の古河公方(足利晴氏当時)の支配家は
長尾当長(足利)、小田氏治(小田)、壬生綱房(鹿沼)、真壁氏幹(真壁)
小山政昭(祇園)、結城政勝(結城)、水谷幡龍斎(久下田)、山川勝範(山川)
多賀谷政経(下妻)、簗田政信(関宿)、水谷正持(下館)、相馬治胤(守谷)
千葉介利胤(千葉)、一色義直(幸手)
といった陣容。
また、公方の直属として高修理頭、一色右衛門佐 三浦左京大夫、二階堂主殿頭(以上家老職)
鳥見主計、小池肥前守、中根帯刀、佐藤新兵衛尉、布施左衛門尉、梶原平太夫(以上侍大将)
がいたという。
>>27 支配家と言っても、ここに北条その他の勢力が絡んでくるわけで
その中で敵味方に分かれて戦っているケースがあるな。
29 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 22:27:22
その頃、宮原御所では・・・
| 古河公方・足利晴氏が
| 北条軍に捕らわれ、幽閉された模様です。
\___________ ____
∨
↓足利晴直 ∫ _____
∧_∧ riii= |┌──┐| ̄|-、
( ´_ゝ 「 ノ || || | ]
/ ⌒\/ /───┐ |└──┘| 」 /
/ ∧ \ / ̄ ̄ ̄ ̄`・、[ ̄ ̄ ̄ ̄] ̄ ̄|
( 二\ `'| X| | OO
〜〜ー⌒ ̄~〜〜--〜〜-〜"~~ ̄ ̄ ̄  ̄ ̄
∧
/ ̄  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| ふ〜ん・・・公方さんも大変だな。
小弓公方は喜連川として残ったけど、宮原はどうなっただっけ?
32 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 22:48:23
>>31 徳川家康が関東に入府する際、晴直の子・義勝が召し出されて幕府旗本となり、
後年、表高家となって明治維新まで存続した。
33 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 22:49:21
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/yanada_k.html より引用。
簗田氏
--------------------------------------------------------------------------------
水葵三本立ち(桓武平氏維茂流)
簗田氏は桓武平氏の後裔と伝えられている。『系図纂要』によれば、平維茂の子に良衡を掲げ、
「余吾軍団大毅、近江久田郷に住む」とみえる。久田郷というのは、どこに比定されるのかは分か
らない。高島郡安曇川の上流に久多庄と呼ばれたところがあるが、ここではないらしく、余呉湖に
近い伊香郡の内ではなかったかと推定される。つまり、余呉湖近くに住んで、余呉将軍の子孫と
いうようになったと想像される。
良衡の孫・助衡は久田を称し、後三年の役には、源義家に従って活躍している。子、家助は足利
氏の祖源義国に属した。孫の義助が下野簗田郷に遷住し、曾孫の氏助が簗田勘解由左衛門を称
して、簗田氏の祖となった。鎌倉期の事蹟は明らかではなく、室町期に至って鎌倉公方足利氏の
家臣として急速に台頭してくる。そして、苗字の地から鎌倉公方の料所下河辺庄に移るのが室町
初期で、やがて関宿を拠点に勢力を拡大していくのである。
34 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 22:50:17
(
>>33の続き)
●鎌倉公方家の重臣-簗田氏
簗田家中興の祖とされる満助は公方満兼の偏諱を受け、その娘(一説に満助の妹とも)は公方持
氏に嫁して成氏を生んだ。以後、梁田氏は晴助に至るまでいずれも公方の一字を与えられて名乗
りとしている。満助は上総国周西郡に所領を有し、持氏の奉行人として重用され、「永亨の乱」には、
直助・満助父子は持氏とともに自害した。
満助の子・持助は里見・結城・小山氏と公方成氏の出頭人となり、また外戚として奏者をつとめや
がてその地位は強化され、公方のほかの重臣らを圧倒していくようになる。
しかし、天文八年(1539)北条氏綱の娘が公方晴氏に嫁し、その間に生まれた義氏が天文二十一
年家督を継承した。これにも象徴される小田原北条氏の勢力浸透は、簗田氏の政治的地位を決定
的にゆるがすものであった。やがて、晴助は公方奏者としての地位を失うことになる。
永禄元年(1558)、公方義氏の鶴岡八幡宮社参に、晴助は太刀役を勤めた。その後、北条氏康は
義氏を関宿に移し、晴助を古河城に入れた。同三年越後上杉氏の関東出兵に際し、晴助は一族を
率いて参陣している。「関東幕注文」に、古河衆として簗田氏は把握されていることが知られる。古
河衆は晴助をはじめとした簗田一族と一宮・二階堂・相馬の諸氏、梁田氏の被官家風氏に横田・石
川・箕匂らの諸氏であった。永禄九年関東に進出した上杉輝虎は、その軍役として簗田百騎として
いる。
北条氏政と公方義氏は上杉方に通じた晴助・持助父子をその後赦し、相馬氏の旧領と十ケ郷の知
行を許した。しかし、関宿・水海は返還しなかった。永禄九年、上杉氏と北条氏は和解し、晴助は関
宿に入った。この頃、武蔵国に進出しようとした武田信玄と意を通じ、里見義弘のもとにあった足利
藤政(晴氏子)を擁して北条氏に対抗しようと企てた。しかし、天正二年(1574)北条氏の攻撃を受け
て関宿城が落城、持助は水海城に退いた。
これによって、簗田氏は完全に北条氏に屈服することとなり、その居城水海城は北条領国の一支城
に位置づけられた。北条氏滅亡後、義氏の娘氏姫によって興された喜連川藩には属さず、徳川氏家
臣となった。
織田家家中にも簗田っていたよな?
同族か?
36 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 23:00:06
第三次関宿合戦で敗れ、水海城に退去した簗田氏嫡流に対して、代わりに台頭してきたのが
傍流の水海系簗田氏。水海系簗田氏は主に北条氏の配下で活躍しているが、小田原の役で
北条と運命を供にすることになる。
>>30に登場してくる助実(右馬助)は、おそらくこの水海系簗田氏の流れを汲んでいた可能性
が高い。
>>32 宮原姓を名乗ったのは義勝の子・義照(早世)の頃からだよね。
>>36 簗田晴助父子はその後、下総・幸島を経由して佐竹義重の許に身を寄せたな。
39 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 23:15:50
>>37 義勝の頃までは足利姓。
宮原に改姓したのは上野・駒場の知行地(1,140石)に移ってから。
なお、宮原家は諸役・参勤を免除されているので、足利家庶流に対して家康はなかなかに
配慮を利かせていたようだ。
里見義康もまた足利義勝に対して諸役を免除する旨の書状を出している。
そこは庶流とはいえ足利家、ということだろう。
>>35 簗田広正のことか?
ちなみに広正はまたの名を「戸次右近大夫」と称したらしいな。
42 :
無名武将@お腹せっぷく:05/02/28 23:26:52
>39
宮原家には確か武田勝頼の娘が嫁いだろ?
>>42 義照が早世したために家督を継いだ弟・義久の正室が勝頼女。
これも家康の意図が作用していたらしい。
ちなみに勝頼女が産んだ嫡子は「晴克」と名乗ったが、一説には武田晴信の「晴」とも
言われている。
44 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 02:23:07
野村克則(楽天)の「克」は野村克也の「克」とも言われている。
45 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 03:31:35
>>43 穴山梅雪の跡目を継ぐ形となった武田信吉よりも、血筋としては宮原晴克の方が正統だからね。
武田晴信┬―義信
... .. ├―信親(龍芳)―信道―信正―信興(高家武田家500俵)
... .. ├―信之
... .. ├―勝頼―┬―信勝
... .. ├―盛信 ..└―貞姫 ..┌―義辰=氏義…
... .. ├―信貞 ..┠―晴克―┼―氏春(喜連川昭氏女婿)…
... .. ├―信清. 宮原義久 ... └―女(杉浦政令室)―氏義
... .. │
... .. ├―黄梅院(北条氏政室※離縁)―氏直
... .. ├―見性院
... .. │ ...┠―勝千代(夭逝)=武田信吉(徳川家康五男/生母:秋山虎康女)
... .. │ 穴山信君
... .. ├―真竜院(木曽義昌室)
... .. ├―女子(夭逝)
... .. ├―信松院
... .. └―菊姫(上杉景勝室)
>>45 武田の血統ということでは仁科盛信の子・仁科秀基?の系統、安田信清の系統などが残っている。
これ以上はスレ違いになるけど。
47 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 04:15:25
>>45 しかし、関東足利家と武田家なら前者の方が格が上だろ?
48 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 05:01:13
足利家の支流(古河公方家)のそのまた支流だし。
たしか海野信親の系譜が復権したのは江戸時代も中期になってからだろ?
それまでは大久保長安事件に連坐して、70年余も島流しに遭っていたわけで。
武田家嫡流の血筋を残そうという配慮は、さすがは源氏の棟梁w
しかも傍流ながら、足利家のそれと交配させようだなんて。
50 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 05:37:41
>>49 喜連川に入れないあたりは足利嫡流に対する配慮か?
>50
喜連川家って足利嫡流なんか?
53 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 07:56:38
>>52 義昭の血統が途絶えている状態(俗説程度の子孫はいるが)だからなぁ・・・
阿波から引っ張るにしても義栄の弟の血統だし、蜂須賀の客分みたいな香具師で無位無官。
ならば、喜連川足利家が当時の認識ではそれに次ぐ者だったんじゃないか?
貞姫って誰の子?
いや勝頼じゃなくて母親ね
北条の血も引いてるのかな
55 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 16:16:21
>>54 少なくとも信勝の異母妹であることは確かだけどな。
>>54 宮原家の菩提寺である足利市駒場の東陽院に墓があるのだが、彼女の出生についてはよく分からない。
武田家が滅亡した時点で貞姫は3〜4歳。
消去法的に北条院殿(氏政妹)とされてはいるのだが。
57 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 17:01:09
貞姫は督姫(仁科盛信女)、香具姫(小山田信茂女)と共に松姫(信松院)に連れられて
八王子に逃れ、そこで養育されたと言われているよね。
しかし、『寛永諸系譜図伝』には宮原晴克の記載箇所に「母武田勝頼女 天正十年六歳
自甲州赴駿州田中依 大権現之仰被預於高力権左衛門賜二十人扶持」とある。
58 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 17:01:51
高力権左衛門とは高力清長の子・高力正長のこと。
高力清長は武田家滅亡後、駿河国・田中城を与えられている。とすると、貞姫が向かった
のは八王子ではなく駿河ということになる?
59 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 18:01:57
>>52 秀吉の時代になっても御所様と呼ばれる存在だったしね。
60 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 18:04:06
>>53 確かに阿波から京都に戻ってからは浪人同然だったね、足利義根。
平島公方の子孫はどうしているんだろう?
62 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 18:13:01
>>61 確か現当主は九州で大学の教授をされているはずです。
社会福祉が専門だとか。
64 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 18:18:11
>57
家康は武田の血縁を随分大事にしてるな。
とはいえ、他国に逃れた勝三が取り立てられたという話は聞かないが。
65 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 18:23:51
66 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 18:26:34
67 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 19:26:28
>>62 そのスレも下の方でひっそり続いてるな・・・
68 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 20:07:48
秀吉は小田原が陥落した時に、古河の氏姫を側室にしようとしてたんでしょ?
ところが氏姫がそれを拒絶したために古河城を召し上げ、除封(鴻巣館と300貫のみ)したと。
それと時を同じくして、喜連川城主・塩谷義孝室だった島姫(足利頼純の女)が、軍役を担わず、
秀吉の叱責を恐れて逃亡した夫の代わりに秀吉の陣中に挨拶に訪れ・・・という話だよね。
なあ、なんでどこの板・足利関係スレでも古河や宮原にしか
話題が出ないんだ?
義澄とか義稙についても語ろうぜ
まあこのスレが関東のみというのは分かっているが
70 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 22:24:22
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| 何のために用途分けしてるのやら・・・
| 義澄や義稙の話はこちらでどうぞ。
|
| 足利一門総合スレ・復刻版
|
http://hobby5.2ch.net/test/read.cgi/warhis/1108731111/ .∧_∧ .<_____________________
( ´∀`/ ̄ ̄ ̄ ̄/
____(つ ./ FMV /___
/ \ \/____/ .\
.<\※ \____________\
ヽ\ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ヽ
\`ー──-─────────ヽ
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
関東擾乱と言えば、長尾景春の乱でしょ、やっぱ。
72 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 22:45:07
分かってんならゴチャゴチャ抜かすな!!!!
── =≡/⌒ヽ =
── =≡/ =゚ω゚)≡ ドカッ! -= ∧ ∧
─ =≡○_ ⊂)_=_ \ 从/-=≡ ( )
── =≡ > __ ノ ))< > -= .
>>69. つ
─ =≡ ( / ≡ /VV\-=≡⊂ 、 ノ
── .=≡( ノ =≡ ,, -= し'
73 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 22:54:21
>>71 となると太田道灌を登場させないわけにはいかないな。
75 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 23:40:26
景春が叛旗を翻すのも無理はあるまい。
そもそも山内上杉家の家宰職、武蔵守護職は足利、惣社、白井の長尾家が交代で就任
してきたが、享徳の大乱により白井長尾家が二代続けて継承していた。
しかし、文明5年(1473年)、家宰職にあった白井長尾家の景信(景春の父)が死去した
ことを受け、三家の力関係を配慮した上杉顕家は、武蔵守護職にあった惣社長尾家の忠
信に家宰職を兼職させてしまう。
そればかりか白井長尾家を景信の弟・忠景に継がせてしまう。
この人事について疑問を呈したのが太田道灌だったわけだが、道灌は「忠信に家宰職を、
景春に武蔵守護職を継承させなければ、景春が不満を抱いて大事に至る」と指摘した。
道灌は年少ながら知略、武威に優れた景春を評価していたところもあったようだ。
76 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/01 23:42:04
(
>>75の続き)
ところが、道灌の評価が高まるのを嫌った顕家はこの申し出を却下してしまう。
扇谷上杉の定正としても、知略、武威に優れた景春が山内上杉家の重要ポストを占める
ことを望まなかったのか、この件を黙殺している。
その後も道灌は山内上杉家と長尾景春との亀裂を最小限に止めようと努力するが、文明
8年(1476年)、道灌が足利政知の命により、駿河今川家の御家騒動の調停に赴いてい
る間についに景春が挙兵し、鉢形城に籠城。
さらに古河公方と対峙していた上杉顕定、上杉定正の五十子の陣を攻撃し、顕定、定正
と長尾忠景の軍勢を撃破して上野に退かせている。
>>75-76 道灌不在という状況はあったにせよ、一時は反上杉の豪族たちが景春に
呼応したしな。
武蔵では豊島、金子、越後あたりの豪族が、北からは成氏が牽制していた
からこの時点で両上杉家は景春一党に包囲されてしまっていたと。
78 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 00:13:44
>>76 >文明8年(1476年)、道灌が足利政知の命により、駿河今川家の御家騒動の調停
>に赴いている
この時に道灌と伊勢宗瑞が対面したって話があるけどホントなのかね?
79 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 00:17:07
この頃の上杉家に道灌を受け入れようという素地がまるで無いのが悲すぃ……
>>78 太田道灌が暗殺されて最も得をした人物と対面していたわけだ。
皮肉と言えば皮肉な話だが。
81 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 00:25:50
成氏が関東管領殺したのはなんでだっけ?
単に幕府への宣戦布告?
82 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 00:32:28
>道灌が足利政知の命により
そういや当時の関東では成氏と政和のどっちが人気あったんだろう?
政和って誰だよ……orz
マサにガスだね
>>78 どうも対面していないらすぃ
というか、その時に伊勢宗瑞はまだ今川家にいないらすぃ
85 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 06:31:51
>>81 結城家の処遇を巡っての対立関係が引き金らしいけどね。
下地には幕府&関東管領による支配に反感を募らせた関東勢の思惑もあったようだけど。
〜'゙⌒'"` `丶、
,:='゙ `ヽ、_
,:'゙ ヽ,
ノ `:、
;′ ヽ.
} _.,... -ー- .._ `:、
ノ r''''"´ `ヽ, }
} { i. /^′
,} ,:彡 | /
{ ,.イ´ j: i_,,. -ーt′
} /~"ニフ {. /二ニニィ {フ=ニ、ト、
j | {// ,i' ,ヘツ_>'/ : ド=’イ | ヽ
'; |`<''/ { 丶 ̄ ./ |、 |
〉 \イ,.,.、冫 l.、 | まさにカズだね
l、 \,,ハ. /` 丶 :},)|
ヽ、 ,ハ ヽ / ` ‐⌒ー ' , |‐- .._
>'i \ ヽ. , ‐--ー一 ''゙!丿 \
,/l ヽ \ 丶、 `"二´ ,' | ト、
ノ | ヽ. 丶、 `ヽ、 ___ノ |. | |
/ /ヽ \ ` ̄ `了~ヽ| |
./ / | \ | | /
/ / | ヽ /、__,.ィ|  ̄
/ | ヽ / | ||
87 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 14:12:54
>幕府&関東管領による支配に反感を募らせた関東勢
ということは、永享の乱から成氏下向までの間の数十年の関東は
各諸侯の独立状態だったってこと?
88 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 14:45:49
>>87 >永享の乱から成氏下向までの間の数十年
永享の乱………永享11年(1439年)
鎌倉府再興……文安4年(1447年)
この間、鎌倉公方は空位だけれども、関東管領以下の機構はそのまま残っていた
わけで、無秩序な各諸侯の独立状態ということではないでしょ。
但し、結城合戦などがあって混乱状態にあったのは事実だけど。
>>51 一応、スレタイに「鎌倉公方」ってあるからね。
政知は享徳の大乱に際して、義政から鎌倉に入るように命ぜられて関東に下向したわけで
別にいいんじゃないの?幕府側から見れば鎌倉公方候補の正統とも受け取れるし。
それに、成氏と長年にわたり抗争を繰り広げた相手でもあるし、登場させないわけにはいか
ないんじゃないの?
ちなみに、このスレの存在自体が、享徳の大乱における幕府(=足利一門スレ)と古河公方
の関係のようなものでは?と思えてくる。
91 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 15:24:00
>>79 「まったく厄介者ですな・・・」という心境だったのね、、、定正。
足利スレの二極化……
93 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 16:53:24
>>90 ということは、ここは古河公方同様、クーデター政権ということですかい?
94 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 16:54:35
>>93 クーデター政権でも和睦してしまえば合法。
>>39 関東には関東の政治秩序が確かに存在したからね。
形骸化したとはいえ、それがあくまで北条氏の傀儡政権とはいえ、関東における為政者は
古河公方家だった。
となると、家康による関東支配の第一歩は、古河公方&北条氏による政治秩序を、いかに
波風を立てずに徳川氏による政治秩序に移行させていくか、ということに他ならなかった。
すなわち、在地勢力の既得権益をどこまで保証するのか、前為政者をどれだけ手厚く扱う
か、ということが重要だった。
97 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 17:36:40
上杉家って数こそ多いが勝ち戦より負け戦の方が多いような印象受ける・・・
98 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 17:50:04
>>94 阿波公方だって、堀越公方の子孫なわけで。
>>85 関東管領の任命権は鎌倉府ではなく将軍にあったしね。
まあ、鎌倉府の執事というのは分かるけど、関東の国衆にしてみると鎌倉府の支配下にあるのに
実質的には将軍−関東管領の支配下にあるという、やや歪んだ構造を持っていたと。
100 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 18:15:29
関東管領の成立とは・・・
そもそも観応の擾乱に際して、尊氏が義詮を鎌倉から京に召喚し、義詮の代わりに
亀若丸(後の基氏)を派遣。この基氏を補佐するために執事職を置いたのが事の始
まりだったが、この執事職には当初、斯波家長が任命され、次いで上杉憲顕、高師
冬、畠山国清などが任命された。
上杉憲顕は観応の擾乱で直義方に与したために越後に蟄居したが、1362年に基氏
の懇請により復帰し、以後、関東管領と呼ばれるようになる。
応永の乱(足利義満に挑発された大内義弘による謀叛)以後は上杉家、特に山内・
犬懸の両上杉家が関東管領職を独占したが、犬懸上杉家の氏憲(禅秀)が討たれ
ると山内上杉家が世襲していった。
101 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 19:49:28
【歴代関東管領 其の一】
斯波家長 (1336〜1337年)
上杉憲顕 (1338年)……………山内上杉家
高師冬 (1339年〜1344年)
上杉憲顕 (1340年〜1351年)
高重茂 (1344年〜1349年)
高師冬 (1350年〜1351年)
畠山国清 (1353年〜1361年)
高師有 (1362年〜1363年)
上杉憲顕 (1366年〜1368年)
上杉朝房 (1368年〜1370年)…犬懸上杉家
上杉能憲 (1368年〜1378年)…詫間上杉家
上杉憲春 (1377年〜1379年)…山内上杉家
上杉憲方 (1379年〜1392年)…山内上杉家
上杉憲孝 (1392年〜1394年)…詫間上杉家
上杉朝宗 (1395年〜1405年)…犬懸上杉家
上杉憲定 (1405年〜1411年)…山内上杉家
102 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 19:50:09
【歴代関東管領 其の二】
上杉氏憲 (1411年〜1415年)…犬懸上杉家
上杉憲基 (1415年〜1418年)…山内上杉家
上杉憲実 (1419年〜1439年)…山内上杉家
上杉憲忠 (1447年〜1454年)…山内上杉家
上杉房顕 (1455年〜1466年)…山内上杉家
上杉顕定 (1466年〜1510年)…山内上杉家
上杉顕実 (1510年〜1515年)…山内上杉家
上杉憲房 (1515年〜1525年)…山内上杉家
上杉憲寛 (1525年〜1531年)…山内上杉家
上杉憲政 (1531年〜1561年)…山内上杉家
上杉輝虎 (1561年〜1578年)
103 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/02 21:05:24
>>102 顕実は足利政氏の、憲寛は足利高基の庶子だわな。
藤原冬嗣─(略)─重房(上杉家)─頼重┐
.┌────────────────┘
.└頼重┬重顕(扇谷)┬重藤 . .. ...┌持定=持朝┬顕房─政真=定正=朝良=朝興─朝定
. .│ .. ...└朝定─顕定─氏定┴持朝 ..... ├高救―義同―義意(三浦氏)
. .│ .├朝昌┬朝寧―朝興
. .├頼成―藤成―頼顕―定重―定頼―藤朝 . .└定正└朝良
. .├憲房┬憲藤(犬懸)┬朝房┌氏憲(禅秀)―持房 (足利高基子)
. .| .. .│ . └朝宗┴氏朝=持房―憲房 .┌=憲寛―義勝
. .| .. .├憲顕(山内)┬能憲(宅間上杉重能養子) ┌=憲房┴憲政=輝虎
. .| .. .│ .├憲方┬憲孝 ..┌憲忠=房顕=顕定┴=顕実(足利政氏子)
. .| .. .│ .├憲春├房方 ..├房顕
. .| .. .│ .│ ...└憲定┬憲基=憲実┴周清―憲房(顕定継嗣)
. .| .. .│ .│ ... . └義憲(佐竹氏)
. .| .. .│ .├憲英(庁鼻上杉)―憲光┬憲長―憲武―憲勝
. .| .. .│ .| ..└憲信―房憲―憲賢―憲盛(深谷上杉)
. .| .. .│ .└憲栄(越後上杉)┬=房方―朝方=房定┬定昌
. .| .. .│ ├頼方 . . ... ├顕定(房顕継嗣)
. .| .. .│ ├憲実(憲基継嗣).. ..└房能=定実
. .| .. .│ └清方┬房定(朝方継嗣)
. .| .. .│ .├定顕┌頼房
. .| .. .│ .└房実┴定実(房能継嗣)
. .| .. .├=重能(詫間)=能憲=重兼┬能俊―憲重―憲俊―憲能―憲清―定重―定朝―顕重┐
. .| .. .├重兼(能憲継嗣) ..└憲清―憲直┬持成. ┌─────────────┘
. .| .. .│ .....| .....└乗国―乗方―房成―冨朝―規冨
. .| .. .│ .....├憲重┌憲宗 (幕臣)
. .| .. .└重行―能憲(重能継嗣). . .└憲家┴憲房―顕房
. .└加賀局(観修寺別当宮津入道道兎室)―重能(憲房養子)
107 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 00:34:37
108 :
107:05/03/03 00:37:42
ちなみに関東管領・山内上杉家は謙信の死を以て消滅という解釈でいいのかな?
上杉家そのものは存続するわけだけれど。
109 :
107:05/03/03 00:46:07
深谷上杉家は
憲顕(山内)―憲英(庁鼻上杉)―憲光―憲信―房憲―憲賢―憲盛―氏憲(小久保)―憲成
という血統。
山内上杉氏、次いで上杉謙信の属将だったけれど、天正元年(1573)に北条氏に屈服して
氏邦の傘下に組み入れられてしまう。
そして、秀吉による小田原征伐の際に居城・深谷城を明け渡し、小久保に改姓して男衾郡
篠葉荘に住したというね。
111 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 01:18:52
>>68 氏姫と国朝の婚姻は秀吉の差配と言われているが、実際には喜連川家サイド
の意向もあったというな。
>>111 通説では秀吉が「名族の没落を惜しんで」婚姻させたことになっているけど、ならば北条氏滅亡
後に庇護して然るべき。
ところが秀吉は氏姫を古河城から退去させ、実勢12万石ほどの所領を召し上げ、僅か332石を
与えたのみ。没落させたのは秀吉その人に他ならない。
しかも、この所領は化粧料ではなく家臣の食禄を含めたもの。
113 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 01:27:59
>>112 その件では秀吉と古河足利家の間でもめたよね。
結局、その僅かな禄で家臣を養わなきゃいけなくなった。
秀吉に拝謁して側室となった島姫の化粧料は3800石。
これは塩谷氏の喜連川領をほぼ安堵した形。
この喜連川領を弟・国朝が襲封することで喜連川足利家が再興したわけだが、それでも家柄
としては庶流。
古河足利家が滅んだとしても、小弓足利家が嫡流に転ずるわけではなく、庶流が血脈を繋い
だに過ぎない。
嫡流に転ずるには古河足利家を事実上吸収する以外には方法がなかった。
そもそも小弓足利家の成り立ちは、政氏、高基、義明の三者による家督争いに発端がある。
最終的に政氏は高基との抗争の結果、義明に家督を譲る腹だったようだが、高基が政氏を
追放することでそれを阻止することになる。
その義明も国府台の合戦で討ち死にすることになり、小弓足利家は没落。里見義弘、義頼、
義康らの庇護を受けることになる。
その過程を踏まえると、島姫に小弓足利家の再興、そして嫡流の奪取という野心があった
ことは想像に難くない。「名族の没落を惜しん」だのは秀吉のシナリオではなく、むしろ喜連
川サイドによるシナリオである可能性が高い。
秀吉にしたら、そんなもんどうでもいいよって気持ちだろうし、
逆に喜連川は必死だろうしな。
鎌倉公方の名称は元は関東管領だったって聞いたが、マジ?
118 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 02:47:08
>>117 制度的には、建武政権での鎌倉将軍府にその原型を見ることができますね。
鎌倉将軍府は将軍:成良親王、執権:足利直義という機構でしたが、北条時行一党
による中先代の乱によって崩壊することになります。
足利尊氏が政権を奪取すると、1336年に足利義詮が関東を統治する管領、斯波家
長を執事とした機構が再生されます。
この当時はまだ関東管領と関東執事という機構でしたが、関東足利氏が鎌倉公方、
関東を名乗るようになると、関東執事が関東管領を名乗るようになったようです。
119 :
118:05/03/03 02:49:25
>この当時はまだ関東管領と関東執事という機構でしたが、関東足利氏が鎌倉公方、
>関東を名乗るようになると、関東執事が関東管領を名乗るようになったようです。
この当時はまだ関東管領と関東執事という機構でしたが、関東足利氏が鎌倉公方、
関東公方を名乗るようになると、関東執事が関東管領を名乗るようになったようです。
に訂正します。
「公方」を標榜するようになったのは、足利一門でありながら将軍候補
にもならない腹いせのようなところがあったらしいな。
持氏は義持の死後、籤引きで将軍が決まったこともさることながら、
自分の名が候補者の中に無かったことを相当不満に思っていたようだ。
121 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 03:23:52
>>120 永享の乱の以前から京と鎌倉は常に一触即発の状況にあったからね。
二代・氏満は康暦元年(1379)に細川・斯波の抗争(康暦の政変)に乗じて将軍家に対して挙兵を
企てたが、管領の上杉憲春が諫死して事なきを得た。
また三代・満兼も、大内義弘による応永の乱に乗じて挙兵を企てたが、この時も同じように管領の
上杉憲定が諫死して事なきを得た。
122 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 04:09:33
でも、氏満は反目する関東の諸勢力を制して、関東府の支配力を強化したよな。
宇都宮、小山、新田などによる反乱をしずめたことで陸奥、出羽までその支配力を
拡大したわけだろ?
>>121 いつ暴発してもおかしくなかったということか。
鴻巣って埼玉かと思ったけど古河の鴻巣なんだね。
古河駅西口から北川辺方面に行ったところでSHIDAXのあるとこらへんだ。
ちなみに漏れは政氏の墓のある寺の近所の住人です。
以上チラシの裏。
126 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 07:40:56
>>124-125 >>4を参考にすると甘棠院は政氏の子・貞巌が開山となってるね。
初代・貞巌、二代・雲岳、三代・東獄といずれも古河足利家所縁の人物が住持職を務めていたと。
127 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 08:32:48
何か御本家?の足利一門スレに比べて勢いあるなぁ。
あっちはもう枯れ始めてるし・・・・
なんでこんなに関東が人気なんだ?
それはよしとして、成氏がなぜ鎌倉公方に就任できたかこの経緯を考えよう。
関東鎮撫には、関東公方として君臨してきた関東足利氏の血筋が必要だったのか?
129 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 10:58:06
>>128 みんな権威に弱いんですよ、今も昔も(w
>>128 絶妙なタイミングで起こった嘉吉の乱を外すことはできないんじゃない?
義教が殺されてなかったら、成氏も兄たちと同じ運命を辿っただろうし。
成氏は、当時三歳だったから哀れに思った
どこかの守護大名が義教に命乞いをして許されたんじゃなかったけ?
>>85 憲忠の父親の憲実は持氏を裏切って幕府側につき、結果的に
持氏の敗因を作ってしまった人物なのだから、そこから生じた確執が
一番強かったと考えるのが妥当かと。
133 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 11:26:14
上杉憲実って一筋縄でいかない面白い人だよね。
>>133 怒り狂う持氏を数十年間諌めたのに、あっさり幕府に寝返ったり
その後放浪の旅に出て全国を漫遊したり、結局大内領を終の住みかにしちゃうんだもんね。
憲実は子を全員僧にするつもりだったけど、憲忠が家督を継いだから憲実は憲忠を勘当
したんだよね。
136 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 11:50:43
137 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 12:22:59
>>130-131 結城城で捕らえられたという説と、信濃の大井持光に匿われていたところを捕らえたれた
という説とがあるね。
どっちなんだろ?
成氏の関東復帰を斡旋したのが越後守護・上杉房定。
主に北関東の豪族たちの支持が強かったようだね。
それがそのまま享徳の大乱での支持基盤になるわけだけど。
139 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 12:43:13
>>134 信濃に出兵しようとする持氏を諌め、義久の元服にあたって将軍偏諱を受けようとしない
持氏を諌め・・・執事も大変だな。
140 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 12:45:59
>享徳3年(1454年)足利成氏は結城・里見・武田などの子飼いの軍勢を
>連れて鎌倉の憲忠邸に押し入り、憲忠を討ち取る。
>この時討ち取られた関東管領、上杉憲忠は13歳だった
結城成朝、武田信長、里見義実、印東式部など数百騎に自邸を襲撃されたとされている。
一方、「多賀谷家譜」によると成氏の命令により、結城成朝とその家臣・多賀谷氏家などによって
鎌倉西御門で不意打ちに遭ったともされている。
143 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/03 18:58:38
>>142 まあ、自分らに都合よく書くからねぇ・・・
145 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 05:43:40
>>122 応永6年に奥州の篠川、稲村に満貞、満直が派遣されているしね。
とはいえ氏満の死後で満兼の時代だけど。
で、その両御所設置に猛反発したのが陸奥の国人伊達政宗。
147 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 06:56:49
>>146 そりゃ反発するでしょ。奥州探題に喧嘩売るようなモンだし。
148 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 08:49:36
>148
稲村御所は持氏派だけど、笹川御所は反持氏派。
稲村御所足利満貞は鎌倉公方持氏と運命を共にする。
笹川御所足利満直は上杉禅秀の乱・永享の乱共に反持氏方についたが、持氏の遺児を擁した
結城氏朝や南奥州の豪族達に攻められて自害した。
150 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 16:02:24
>>149 満直と満貞を逆に扱っている資料もあるね。
152 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 16:27:27
義満が奥羽を鎌倉府の管轄にするように命じたのは明徳2年(1391年)だね。
満直、満貞の派遣まで8年ほど空白があった。
153 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/04 16:37:18
>>150 そもそもの顛末をまとめてみると・・・
陸奥探題・斯波家兼は石塔、吉良、畠山を圧倒し、子の直持に陸奥を、兼頼に出羽を支配させた。
直持の系統が大崎氏、兼頼の系統が最上氏になるが、篠川・稲村両御所はこの陸奥・出羽の両
探題に代わって奥羽の武士団を支配しようというもの。
当然、奥羽の支配は進むわけがなく、大崎氏などは幕府と直接交渉して奥州探題の地位を確保
するような状態だった。
その最中の1402年、南朝方だった国人・伊達政宗(9代)が稲村御所に、1414年には伊達持宗
(11代)が鎌倉府に反乱を起こす。
これに便乗して東北南部の豪族たちが一揆を起こし、幕府もこの動きを支援することで鎌倉府に
揺さぶりをかけている。
154 :
153:05/03/04 16:38:53
1416年には関東執事の上杉禅秀が持氏に反旗を翻し、これに芦名、白河、南部、葛西等が加勢
したが、戦いは鎌倉府の勝利に終わった。
勢いに乗る持氏が東北諸将に幕府寄りの篠川御所を攻撃するよう命じたため、義教は持氏討伐
を決意し、1438年に永享の乱が起こることになる。
永享の乱で持氏は敗れ、持氏と鎌倉府方だった稲村御所の満直が自害。翌年には篠川御所の
満貞も石川博光に殺害され、鎌倉府による奥羽支配は頓挫する。
この結果、大崎氏が勢力を拡大すると共に葛西、伊達、南部が勢力を伸ばすことになる。
155 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 02:50:59
びみょ〜な存在のまま消えて行ったわけね・・・
>>153 ということは斯波、大崎、最上、石塔、吉良、畠山まで語らなくちゃいけないわけねw
守備範囲広いな、このスレwww
待てよ・・・・葛西、伊達、南部もだなw
氏満あたり遡ると宇都宮、小山、新田まで出てくるw
158 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 03:38:58
>>153 義持が死去した際、持氏の6代将軍就任は阻止されることになったけど、
その主導的な役割を担ったのが畠山満隆だよね。
その果、持氏は義教を「還俗将軍」と蔑視したり、元号を用いなかったり、
将軍が任命するはずの鎌倉五山の住持職を勝手に任命したり、徹底した
反抗姿勢を示すようになるわけだけど。
この状況の中で、上杉憲実は持氏を諌めながら、幕府と鎌倉府の融和に
奔走していたし、幕府側でも満隆が同じように融和に向けて動いていた。
義教が鎌倉討伐に踏み切ったのも、融和派の満隆が死んだからだしね。
160 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 04:50:15
>>159 その通り。
ちなみに畠山満家と組んで義教を擁立しようと企てたのが僧・満済。
満済は今小路家の出身。
三宝院門跡、醍醐寺座主に就いた人物で、足利義満の猶子にもなっている。
義教は彼を幕政のブレーンとして起用し、満済もまた義教のブレーキ役を担っていた。
161 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 06:29:47
>>158 確か義量が死んだ時に、持氏が後継に名乗りを上げたけど
義持は鎌倉からの使者に会おうともしなかったよね。
162 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 07:17:23
>>160 例の籤引きも仕組まれた出来レースだったわけだろ?
163 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 11:00:17
>>163 禅秀の女婿だからね。
禅秀方について敗れ、竜ノ口で首を斬られたと。
165 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 13:26:00
応永7年に伊達政宗が鎌倉公方に対して反乱を起こした時に、満純は討伐軍として派遣されたけど
呆気なく撃破されてるよね。
166 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 20:05:05
>>165-166 確か伊達氏に政宗が二人もいると聞いた。
ということは室町期の政宗は優れていたのか?
だから、戦国期に子孫の梵天丸に名誉ある先祖の名がつけられたのか?
よくわかった。そういうわけだったのか。
168 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/05 23:32:53
>>167 歴史が長い家だと名前が同じになることは珍しいことじゃないよ。
たとえば佐竹の戦国期の当主の義篤・義重・義宣はみんな2代目。
170 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 00:15:13
江戸時代になると通字も使ってないような変な名前の人も多くて悲しいけどね
養子とか一字拝領とかしがらみがあるんだろうけど
172 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 01:55:24
>>166 政宗室が義満の叔母だったけかな?
確かそれくれいの間柄だったはず。
>>164 その結果、岩松家は礼部家、京兆家に分かれたね。
174 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 03:02:22
>>173 後に古河方、堀越方に分かれて戦うことになる。
175 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 03:46:47
新田義重┬義兼┬義房―政義―政氏―基氏―朝氏┬義貞―――義宗
. ..│ . ..│ .└義助(脇屋)..┠―満純
. ..│ . ..│ ┌女 ..┌―家純(礼部家)
. ..│ . ..└女.┌時兼(岩松)―経兼―政経―経家―直国┼満国=満純┴=持国(京兆家)
. ..│ . .┠┴時朝(田中) . └満親―満春―持国―成兼
. ..│ . 足利義純
. ..│ . .┠─泰国(畠山)
. ..│ . 北条時政女
. ..├義季(得川)┬頼有┬女(岩松経兼室)
. ..├経義(額戸)│ └=政経※一時、新田を称する
. ..├義範(山名)└頼氏(世良田)
. ..└義俊(里見)
礼部家岩松家純の父・満純は上杉禅秀の乱で討たれており、家純は土岐氏の許に
身を寄せた後、義教に召し出され、永亨の乱の際に関東に下向している。
これに対して、京兆家岩松持国は満純の死後、鎌倉府の意向により岩松家を相続
しており、成氏による上杉憲忠謀殺の一党にも加わっており、享徳の大乱に際して
家純が上杉に、持国が成氏に属したのは当然の成り行きだった。
177 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 16:21:20
室町将軍というと、貴族的なイメージがあるが
関東公方というと、義明や持氏のイメージが強いためか荒武者を想像する。
178 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 17:13:48
>>147 そりゃ領地を割譲しろとか言われちゃ反発するわな。
179 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 17:24:21
>>177 成氏って武将としての能力はどうなのかな?
>>180 他の人はどうか知らんが
麻呂麻呂言いながら刀振り回してるイメージがあるよ。
義輝が義教の遺伝子を濃く受け継いでいるような気がするが。
義輝って結果を見れば世間知らずだからなあ…
武芸にハマっている公家みたいなイメージ。
それに比べて
密かに諸侯に根回ししたり、関東管領を殺したり、応仁の乱中のドサクサを
上手く活かして勢力圏を作った成氏は戦国武者。
184 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/06 22:46:46
>>183 下手すると一時の古河公方って幕府より力持ってたんじゃない?
185 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 00:13:39
>>181 池上遼一の「信長」で義昭が公家化粧で刀ふりまわしてたw
>>185 あの作者は義輝と義昭を間違えたんですかね?
同母兄弟のニュアンスを感じないか
188 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 02:10:56
>>185 義昭もかなりの剣豪ぶりを発揮してましたな、汗だくになって。
しかし、彼の生い立ちや経歴を考えると殿様剣術以下の腕前しか想像できないのだが。
>>184 幕府VS古河公方というよりも、むしろ上杉家VS古河公方という図式だったからね。
幕府にはもはや直接介入する力はなかったわけだし。
190 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 02:58:43
>>178 蒼天禄ではなかなかの高評価を得ているようです。
足利成氏
出自:高家
兵科:足軽
能力:政治78 統率64 知略87 野心100
特技:威圧
策戦:離反 誘導 挑発
義明の猪突っぷりも萌えなわけだが。
192 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 09:31:38
蒼天に成氏出るのか…
いっそのこと、持氏の頃まで遡って欲しいな
それにしても、皆さんすごいっすね〜
永享の乱時の関東方に味方した諸侯の様子とかって、どういう本から
勉強するんですか?教科書程度じゃ話になりませんね
194 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 18:21:53
>>191 家臣も困ったろうな、開戦早々に大将が討死・・・・
195 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 18:31:32
196 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 20:23:38
太田道灌が生きていたら・・・
>>196 伊勢宗瑞の関東進出が果たしてあり得たかどうか、と教科書通りに答えてみる。
198 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/07 21:26:37
源頼光―頼国―頼綱―仲政―頼政┬仲綱=広綱―隆綱―国綱┐
.. └広綱 .│┌資時
┌──────────────────────────┘├資貞=資行.. (水戸徳川家臣)
└―資国(太田)―資治―資兼―資房―資清┬資長(道灌)┬資康┴資高―康資┬資行┌正重
.... .....│ .│ . . .├重正┴資宗―資次
.... .....│ .│ . .. │ (掛川5万石)
.... .....│ .│ . . .└英勝院(徳川家康側室)
.... .....│ .│ . ┌資時┌氏資
.... .....│ ..┌資忠 .└=資忠=資家―資頼┴資正┼政景(梶原)
.... .....└某┴資家 . ..├資武┬資信
.... . ....│ ... │(越前)
.... . ....└景資└正長
. ..(草津)
あり得たと思う、もちろん違う形で。
山内顕定は言うに及ばず、扇谷定正にしてみても邪魔だろ。
結局どんな形であれ(扇谷vs山内、扇谷vs太田)介入される危険性が高いと思う。
道灌暗殺の実行犯は扇谷上杉定正だけど、仕掛けたのは山内上杉顕定でしょ。
しかし足利成氏、足利政知も含めると4人の思惑がピタリと一致しているところが面白い。
201 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 00:16:12
足利政知にしてみれば、成氏と幕府の和睦によって鎌倉公方としての地位は失われ、伊豆一国を
料地として与えられるに止まったし、上杉定正にしても人事の主導権を山内上杉家に握られたまま
の情勢は受け容れ難いものがあった。
そこで政知と扇谷上杉家は、反・成氏の勢力を結集して巻き返しを図ろうと画策する。
この動きは成氏の知るところとなり、和睦の調停役であった道灌、さらには政知・定正に対する不
信感や猜疑心を増幅させることになる。
また、道灌の活躍による扇谷上杉家の躍進を快く思わない山内上杉顕定にとっても、道灌は邪魔
な存在であった。
となると、道灌暗殺はもはや起こるべくして起こったことだった、ということになる。
202 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 01:24:09
>>201 実力は誰しもが認めるのに四面楚歌・・・・
>>201 上杉景春の乱にしても道灌抜きでは危うかったしな。
道灌の死によって軍事的・政治的均衡が完全に崩れちゃった。
204 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 05:36:17
>>202 結果、最も得をしたのが早雲ということ。
道灌が存命なら関東にはそう簡単に手出しできなかったはず。
>>203 便利に使っておいてポイッと斬り捨てる。
「当方滅亡!」と叫びたくなるのも分かる気がするな。
206 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 12:46:13
>>190 この御仁がいればこその関東公方スレですから(w
ところで、太閤Vの足利義氏は三戦の足利将軍家スレを見た
社員が人気のあることに気づいて、急遽編入させたという噂は本当だろうか…?
209 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 13:14:56
>>207 結局、政知の表向きの支配圏は扇谷上杉領と今川領のみ。
それすら実効支配には程遠い状態だったわけだが。
>>210 つまり、三戦の足利将軍家スレを見たから
太閤Vに足利義氏は登場したんじゃないかといいたかった。
前まで見向きもされなかったし…
212 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 14:22:59
>>211 義氏人気というよりは氏姫人気だったように思うけどね。
成氏はなんで鎌倉公方に復位できたんだっけ?
義教が死んだ混乱に紛れて管領に賄賂を贈ったんだっけ?
214 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 16:58:47
216 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/08 22:01:52
荊州分譲記念age
217 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/10 14:59:08
>>209 今川家に内紛が起こった際に一応、介入してはいるけどね。
政知ってかわいそうなやつだな
と思っていたけど、息子は将軍になれたんだからいいか
219 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 01:45:32
>>218 一応、存在自体が報われた、というだけじゃないか?
220 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 20:24:59
一瞬「存在自体が疑われた」に見えた
221 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 23:39:50
>>220 政知の妻子っていうのは「?」がついてることがあるよね?
茶々丸に殺された異母弟とかさ。
222 :
奇嬌屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :05/03/11 23:42:55
潤童子でいいのか。
>>222の香具師が出てくる系図と出てこない系図が存在するわけだ。
グーグル?
おいおい、よく考えてみたら茶々丸は義澄の弟じゃないか。
伊勢の爺さんも大胆なことしでかしたもんだな
226 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/11 23:55:25
>>221-223 義澄(清晃)の母は権大納言藤原隆光の女。
となると・・・だが、
茶々丸と義澄は異母兄弟?
茶々丸と潤童子は異母兄弟?
潤童子と義澄は異母兄弟?
茶々丸が殺害したとされる潤童子の母は一体何者?
などの疑問が湧いてくる。
茶々丸と潤童子は異母兄弟
これはうちの息子が読んでる学研漫画の日本の歴史(ムロタニツネゾウ画)にもかいてあるな。
小田政治的にはどーなんすかね?
229 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 00:04:01
>>225-226 漏れが見た資料では、茶々丸が長男、潤童子が次男、義澄が末っ子の三男となっていた。
そして、潤童子と義澄が同母兄弟って
このスレにも基地外固定共が!
もうこのスレはジ・エンドだ!
231 :
奇嬌屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :05/03/12 00:08:16
ふっふっふ。
義澄は担ぎ出された人だしねえ。
232 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 00:23:23
茶々丸と潤童子は異母兄弟なのはあってるでしょ
義澄が次男で潤童子が3男じゃないの?
「童子」のさらに弟が寺に出されるってのもなんか
233 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 00:23:55
>>228 この人物については政知の子?という但書き付ですね。
234 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 00:26:31
>>232 「童子」というのは殺害された後に付けられた幼児向けの戒名でしょうね。
名前が分からないということでは?
235 :
奇嬌屋onぷらっと ◆QqQquqqauQ :05/03/12 00:27:57
うちの息子の持ってる本では次男だよ。
義澄は末っ子扱い。
236 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 00:36:36
>>228 小田政治の生没年って1492年〜1548年だよな。
政知が病没したのが1491年だから・・・ちょっと噛み合わないよな。
とすると土岐頼芸、斎藤道三・義龍みたいな関係を想像してしまうのだが。
237 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/12 01:34:51
>>233 Koeiさんは「政知の子」説でいってるような…
>>232 言われてみると確かにその通り。
茶々丸が嫡男扱いを受けていたとすれば、次男の清晃が長享元年(1487)に義政の勧め
で天竜寺香厳院に入室したことの辻褄は合う。
おそらく三男の潤童子も出家する可能性があったが、その前に政争の道具として利用され、
結果、殺害されたと見ることができる。
そもそも清晃の出家は先妻、後妻の子による家督争いを避けるために政知の判断で行わ
れ、伯父である将軍義政が入寺先を斡旋したとも考えることができる。
しかし、清晃の出家後、茶々丸と円満院の関係が極度に悪化し、多くの家臣が円満院を
支持する動きに出たため、出家前だった潤童子が嫡男候補になったのではないか。
その最中に政知が死去し、茶々丸による円満院、潤童子殺害が起こったと。
事件当時、清晃は12歳。その清晃の兄に「童子」という戒名を付けるのは年齢的にも適
当とは思えない。
240 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 09:34:09
次男坊と三男坊を続けて出家させようと思ったら、嫡男がうつけだったので
三男坊を擁立したってことか?
241 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 12:15:43
>>239 それを言うと、茶々丸が元服してないことが一番適当とは思えないんだが・・・・
242 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 12:17:14
茶々丸が元服していないのではなく、ちゃんとした名前を持っていたが
北条氏によって消されてしまったのは周知の事実だ
243 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/13 23:48:21
>>242 で、その「ちゃんとした名前」とは?烏帽子親は?
244 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 01:27:00
>>239 茶々丸と早雲の抗争って巷間言われているよりも長期戦だったらしいね。
245 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 01:38:40
>>244 茶々丸って正しくはいつ、どこで死んだの?
>>244 堀越御所の陥落から、宗瑞の伊豆国実効支配までにはタイムラグがあるし、その間、
茶々丸派掃討のために甲斐などに出兵していることから判断してるんでしょ?
尚知くらいで手ェ打とうぜ
249 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 02:43:47
>>247 義「尚」+政「知」=「尚知」かいな(w
義尚が死去したのが延徳元年(1489年)で、政知が死去したのが延徳3年(1491年)だけに
ちょっと微妙な感じもするけど。
なお、義尚は当時、六角氏の掃討作戦で近江に出陣中でもあり、鈎の陣で六角軍・甲賀衆
に苦杯を喫した時期でもあるので・・・さらに微妙。
251 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 02:55:46
>>250 これが関東公方ならば「尚氏」でも通りそうだけどね。
しかし、時期的には幕府と古河公方の和睦が成立し、成氏の関東政権は合法化
していたので、この時期、伊豆一国を料地とする堀越公方にどれだけの存在価値
があったことやら。
茶々丸の墓所のある願成就院。
http://www.nirayama.kyogikai.mishima.shizuoka.jp/f/f05.htm >願成就院は鎌倉時代の初頭、文治5年(1189)、頼朝の奥州攻めの成功を祈って北条時政が
>建立し、その後義時・泰時によってさらに堂宇が整備されて壮大な寺となり、北条氏の氏寺とし
>て繁栄しましたが、室町時代の延徳3年(1491)、伊勢新九郎長氏(北条早雲)の堀越御所攻撃
>によって寺のほとんどが焼失しており、今日昔のおもかげはありませんが、当時の大御堂・南塔・
>南新御堂などの遺構があり、付近一帯は国指定史跡となっています。
>現在、堂内に祀られている運慶作の阿弥陀如来像・不動三尊像・毘沙門天像など5体の仏像と、
>運慶と北条時政の名前が記された仏像胎内納入塔婆形銘札4枚の9点が国の重要文化財に指
>定されています。
>また、本堂の阿弥陀如来像と宝物館の地蔵菩薩像(政子地蔵)は、県の文化財に指定されてい
>ます。境内には北条時政と堀越御所2代公方足利茶々丸の墓所があります。
とのこと。
茶々丸は早雲によって御所を焼かれ、願成就院で自刃して果てたことになっている。
253 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 04:12:06
最近の調査では、早雲の伊豆侵攻を延徳3年(1491)ではなく、明応2年(1493)とする説の方が
有力らしい。明応2年であれば、扇谷上杉定正と山内上杉顕定が上野で交戦中であり、伊豆の
武士団の多くが顕定に従っているため、寡兵を以て御所を急襲するリスクは低くなる。
254 :
253:05/03/14 04:13:09
伊豆を追われた茶々丸は山内上杉顕定や武田信縄の援助を受け、伊豆奪還の機を狙っていた
とされている。
この間、明応6年頃まで伊豆国内は騒乱状態にあったようで、早雲による伊豆侵攻は決して従
来言われてきたような電撃作戦ではなく、茶々丸派との抗争が数年間続いた長期戦だったこと
が窺い知れる。
とすると、茶々丸は一定の求心力を保ちながら存命していた可能性が高い。
顕定を頼ったとすれば武蔵、武田信縄を頼ったとすれば甲斐に潜伏していたと思われる。
255 :
253:05/03/14 04:13:53
そしてこの間、早雲は扇谷上杉家、武田信昌・信恵を支援する形で武蔵、甲斐に出兵しており、
甲斐内乱を鎮めたのが明応7年。この時にようやく茶々丸を討滅し、これによって伊豆国内の
戦闘も収束したと考えられている。
明応7年説を採ると、茶々丸だっていい加減に元服してるだろうに。
延徳3年に15〜16歳だったと仮定しても、明応7年には22〜23歳だもの。
257 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 05:25:54
>>256 寵童を元服させたくない殿様じゃないんだからさぁwww
いつまでも前髪付きってわけにもいかんだろ。
258 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 06:29:20
ゲェェェ
∧_∧
(ill´Д`) 元服させろっての・・・・
ノ つ!;:i;l 。゚・
と__)i:;l|;:;::;:::⊃
⊂;::;.,.';;;;'::.:.;::.⊃
>>225 しかし、義澄にしても生母と同母弟を殺されてるわけで、仇としてはいい勝負。
政知についても病死ではなく、茶々丸によって殺されたという説もあるほど。
>>225 付け加えると、早雲は細川政元と通じてたって説もある。
早雲による堀越御所攻撃と政元による義澄擁立は時期的にほぼシンクロしてるわけで。
261 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 12:44:33
かつては早雲の素性は「伊勢の浪人」なんて言ってたものだけど、最近はほとんど
「伊勢氏庶流・盛時の後身」で固まってるし、そうでなければ姉が今川義忠の側室
になるなんてことも考えにくい。
よく使われる「長氏」なんて名前も所詮、江戸期の軍記物の産物だし、信憑性のあ
る資料には登場して来ない。
生没年にしても享年88歳説は崩れつつあるし。
>>253 明応6年まで伊豆が騒乱状態にあったというのは、小和田哲男先生の研究の所産ですな。
ここにもオワ信者が
264 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 13:36:25
何か堀越公方って火中に投下された燃料って感じしか受けないんだよね。。。
【将軍家】
足利尊氏┬義詮─義満┬義持─義量
. ..│ ...├義嗣
. ..│ ...└義教┬義勝
. ..│ . .├義政─義尚
. ..│ .. ├義視─義稙
. ..│ .. │ ┌茶々丸
. ..│ .. └政知┴義澄┬義晴┬義輝
. ..│ ....【堀越公方】....│ └義昭
. ..│ .... ..└義維┬義栄
. ..│ .... . .. └義助【阿波公方】
【鎌倉(古河)公方】
関東における堀越公方の存在は微弱でも、系図的にみると茶々丸も
将軍候補になり得る資格があったことになるな・・・
・・・と思ったところで茶々丸のクーデターが起こっている。
となると、茶々丸を消しておきたい早雲と、義稙に代わり義澄を擁立
したい政元の思惑は一応の一致をみることになるな。
266 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 14:34:16
茶々丸はいつでも将軍に就任できるように元服しなかったって説がある。
268 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/14 16:52:06
>>267 まんざらそうでもない。
義尚亡き後の幾内政権なんてどうなるか分からなかった。
昨日擁立された義稙が明日にはどこかの島に流されてるってこともあるし
269 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 00:28:02
>>268 茶々丸の行動を見ると、彼の脳裏にあったのは家督相続と伊豆支配なんだけどね。
270 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 00:46:41
>>268 物理的な問題を言えば・・・だが、茶々丸を将軍候補に擁立しようという
香具師がいたのか?
茶々丸自身の野望以前に、そっちの方が問題だと思うが。
いや、だからあくまでも準備。
鎌倉公方系は論外として、正当な世継候補は伊豆・堺・山城の三カ国に
しかいなかったわけで。
272 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 01:15:35
準備として元服しない?
初めて聞いたよ、そんな話www
>>271 鎌倉公方系を「論外」として扱ったところに、中央と関東の二元構造の歪みが生じたんだけどね。
それは二代・氏満以来、永享の乱で全面戦争に突入するまで燻り続けていたわけで。
成氏の蜂起もその延長線にある出来事であるし、中央&上杉家VS関東足利家&関東武士団という
確執もそこに根っこがある。
274 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 01:23:35
関東というのは、常に中央と何らかの軋轢を生じやすい土地柄なんだね。
それは将門の乱にしてもそうだし、鎌倉・室町期、さらには江戸幕府崩壊に至るまで
脈々と続いてきたように思えるな。
275 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 02:14:04
>>274 土地柄というよりは機構上の問題のようだが。。。
276 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 03:27:45
>>273 義高(清晃)の擁立自体、政元が放ったマジック・ショットみたいなもの。
そうなると義高の異母兄である茶々丸の存在というのは当然、邪魔ですわな。
茶々丸が「俺にだって権利あるだろーーーっ!!!!」と名乗り始めたら厄介なことになる。
豆州騒動の真っ只中で火に油を注ぐだけ。
277 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 04:20:43
で・・・・
>>242氏、茶々丸の元服後の名はどうしたんだ?
278 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 09:37:53
>>276 義教―政知―義澄の系譜って3代にわたって還俗してるんだな。
関東公方は南朝側の奥州北畠氏に対して設立されたんだっけ?
>>278 政元のクーデターの際に擁立されたとはいえ、義澄は諸侯から支持された存在ではなかったよな。
義稙が大内軍に擁されて京に迫ると、サッサと近江に逃げ出してそのままあぼ〜んしたし。
281 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 13:07:42
>>279 そうね。
鎌倉府の設置は、義良親王を奉じる北畠親房・顕家父子らが奥州に勢力基盤を
築こうとしたのに対抗してのこと。
このため尊氏・直義は成良親王を奉じて鎌倉に下向し、奥州を牽制しようとしたと。
282 :
281:05/03/15 13:09:42
但し、鎌倉府の体制は将軍・成良親王、執権・足利直義。
実権は勿論、執権である直義が掌握していた。
283 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 21:15:20
>>279 関東「公方」と称したのは後年の話でしょ。
そもそもは関東管領だったわけで。
284 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/15 22:25:19
古河公方の研究といえば、佐藤博信
>>281 公家の荘園制、武家の守護・地頭など支配構造が二元的になっていた時期でもあるよね。
286 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 02:27:43
>>285 急いては事を仕損じる、という印象を受けるね、建武政権って。
北条家の専横を排除したと思ったら、自分たちの所領に「おじゃる」連中が
入り込んで来ちゃったわけで。
>>278 分知するような所領もなかったから、嫡子以外は出家が基本だったわけでしょ?
288 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 04:28:04
>>287 将軍家や関東公方家の所領ってその時期、その時期でどの程度のものだったんだろうか?
289 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 11:16:20
成氏の母親は義円と共に籤の対象に入っていたうちの一人
290 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 11:27:03
の娘
291 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 15:05:18
>>289-290 青蓮院義円(足利義教)以外だど大覚寺義昭、相国寺永隆、梶井義承の3人だが?
持氏室は簗田満助の女だよね、確か。
でも、義久(1428年)、安王(1429年)、春王(1431年)の誕生年と比べると、成氏のそれは
1438年なのでタイムラグがあるので、兄3人とは異母兄弟である可能性が高い。
それに結城合戦敗戦後、幼少とはいえ助命されたのもおかしいと言えばおかしい。
安王、春王との違いと言えば、想像できるのはその点では出自くらいのもの・・・
294 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/16 22:20:19
その4人以外にも成潤、周ム、尊敒、定尊、弘尊といった出家した子供たちがいるよね、持氏には。
あと、後に家康の側室・於万を排出する蔭山氏の祖・広氏なんてものいる。
295 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 01:32:17
>>294 蔭山広氏は・・・さすがに眉唾モノだろ。
296 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 01:48:00
>>223 「尊卑分脈」「系図纂要」「続群書類従」のいずれにも出てこないね。
>>295 混乱していた時期を狙って無理やりこじつけたんじゃねの?
ちなみに小田原征伐の時の河津城主が蔭山長門守。
家康の側室として頼宣、頼房を産んだお万の養父とされているな。
お万自身は正木頼忠と北条氏隆女の間に生まれ、異母兄?に三浦(正木)為春がいる。
頼忠に離縁された氏隆女が蔭山長門守に再嫁し、蔭山家の養女になったとされているが
諸説あるという。
北条氏滅亡により没落した蔭山家は離散し、お万はさる宿場で奉公女をしていたところを
家康に見初められたとか。
299 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 06:12:40
>>292 おいおい、1人だけ「梶井」って・・・何者だ???
300 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/17 06:15:14
>>293-294 一体、何人出てくるんだよ、持氏の子は。
永享の乱のドサクサに紛れ込んだ香具師がいるんじゃねえか?
従来、正木氏は
扇谷上杉持朝―高救―義同(三浦時高養嗣子)―義意―時綱(正木)
という系譜だとされてきたよね。
新井城が北条早雲に攻め落とされた際、時綱がひとり対岸の上総に渡ったと。
しかし、これだと年代的に合わなかったりするので、時綱を時高の子とし、義同が時高を
討った際に上総に逃れたとする見方もあるそうな。
で、お万の兄である正木為春が家康から「先祖の三浦氏を名乗るように」と言われて
復姓?したわけだけど、このあたりは頼宣、頼房の「箔付け」ということはないのかな?
とも思えてくる。
303 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 00:02:00
ここはチンカス松茸が名無しで湧いてくるスレなのでしょうか
>>298 韮山の江川家に奉公してたんじゃなかったかな?
305 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 02:34:46
306 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 04:34:05
江川氏って面白いね。
http://www2.harimaya.com/sengoku/html/egawa.html 江戸時代韮山代官を世襲した江川氏がある。
清和源氏宇野氏流で宇野親治の子俊治を遠祖とするが、江川氏そのものの成立に
関しては、『寛永譜』『寛政重修諸家譜』などの系図以外には、江戸時代に「鎌倉時
代以来の名家」と自他ともに認めていた家柄であることと、それにまつわる伝承しか
ない。また、幕末の韮山代官江川英龍が著わした家歴「江川坦庵宛佐久間象山書
状」などもある。『二宮尊徳全集』には「江川家由来記」があるが、天保期以降のもの
で成立は新しい。
伊豆の旧家に「江川氏秘記」なる系図が多く伝存し、「他見不許」と記しながらも、逆
に流布を図った意図を感じ取れる。いずれの家に伝わったものも同内容で、『寛政重
修諸家譜』に源頼親から仲治までを加えたものである。
いずれにしても、江川氏系図は近世に入って作られたもので、伝承の流布・確立は
寛政期のころと考えられる。となると中世の江川氏の事歴を立証することは困難であ
るとしかいいようがない。しかし、長い家歴であり、伝承は時代とともに信仰と化した。
先の英龍をはじめ江川氏累世これを信奉していまに至っている以上、史料もなく真偽
を論ずることも空しい作業とはいえないか。
(続き)
文献上に出てくる江川氏をみてみると、江川酒についての史料が多いことが目につく。
酒に関して「江川氏系譜」の英治の項の註として「酒を造って、最明寺時頼に進、時
頼之を飲て美味なることを感、是より酒の名世に流布仕候」とあるのが家伝の初見で
ある。
戦国期、又太郎正英は北条早雲の幕下にいたが、「酒を造って早雲へ進む。早雲美
味なることを感じ、江川酒と名を賜い、酒部屋を造らしむ、是より江川酒の名世上に流
布仕候」と、江川酒は早雲の命名と伝えている。
以後、江川酒は北条氏の贈答品として、上杉謙信、長尾憲景、安中五郎兵衛、北条
氏邦らに北条氏政が贈っていることがみえる。また、天正十年には武田討伐の戦勝
祝賀として、氏政は滝川一益を介して織田信長に馬・「江川の御酒」・白鳥を献上して
いる。『松平家忠日記』にも、天正十年三月、同十五年三月の条に「家康様より江川
酒給候」とある。このように江川氏によって韮山で造られた江川酒は、北条氏政のころ
には銘酒と評価され、戦国大名の贈答品となりえていたことが確認できる。
江川氏は、酒を造るだけでなく、武将として合戦に参加していたこともあったようだ。
北条氏綱が戦った国府台合戦に英元が活躍している。また年号は不明だが、伊豆に
武田軍が侵攻したとき、北条氏の幕下として仕えた江川氏も防戦に奮戦、家臣の宇
野某が清水玉川で敵を討ち取り、北条氏より感状を拝領している。
江川氏の場合、本家は酒造りに従事していたようだが、分家が北条氏に仕えたよう
である。
系譜では、北条氏に仕えた江川氏として、英盛の弟正英、英景の弟久治、英元の弟
親久・親種らの名を記している。
中世豪族のひとつの生き方として、江川氏の存在は注目されるところが多いのではな
いか。
. 曰. | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| | ∧_∧ | うぃ〜ひっく・・・
. ノ__丶(〃´Д`)_ < 朝っぱらから酒飲んで暮らすぞ!
. ||江||/ .| ¢、 .| 向かい酒だ!ゴルァ!
. ||川||| | .  ̄丶.) .|__________
_ ||酒||L二⊃____
/ \ `~~´ .(<二:彡) \. ___
.<\※ \____________.|i\___ヽ.
ヽ\ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※|i i|.====B|i.ヽ
\`ー──-───────.|\.|___|__◎_|_i‐>..
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄| .| ̄ ̄ ̄ ̄|
\.| ... |〜
310 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 08:01:52
そういえばこのスレには可児や本間が涌かないのはなぜだ?
311 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 09:16:03
江川って鎌倉時代の伊豆の領主で
幕末に外国奉行だかなんだかやってた人だよね?
>>311 反射炉でお馴染みの韮山代官・江川太郎左衛門さんね。
314 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 13:53:04
のぶやぼで登録したくなってきたな、江川。
家宝は勿論、「江川酒」だろ。
315 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 14:01:37
流石にネタギレ?
なら鎌倉時代の足利氏と関東諸侯について語ってみよう。
富士川の戦いで頼朝軍に加わった足利は藤氏足利家であり、義家流の足利氏ではない
316 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 14:24:16
>>314 江川英元
永正10年(1513)〜永禄4年(1561)
北条家家臣。彦左衛門英景の子。早雲・氏綱に仕え酒を造った。
早雲はこの酒を好み江川と名づけた。伊豆衆の1人として伊豆立野で30貫文を領していた。
なお、英元の孫・英長が家康に仕えて本領を安堵され、蔭山氏広の養女・お万の入輿にあたっては
仮親を務めたほか、後年、父・英吉と共に大坂の陣にも参戦している。
317 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 14:29:22
>>315 単に蔭山広氏から子孫の氏広、養女お万、そして江川氏とつながってきただけ。
江川氏は北条氏に仕えているので、いつでも関東ネタには戻れるように思うが?
318 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/18 17:45:07
河津城って早雲の軍勢に包囲された時に火攻めに遭って、水が無いから兵糧米で
消そうとしたけどダメで(当たり前か・・・)落城したって話があるよね。
まあ、米で火が消えたらホント苦労しないのだが。
soreha souunnohanasijanakute uziyasuno hanasidesyo
mirikennosatenkarakinenkakiko
320 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/19 01:12:46
>>272 個人的には既に元服していたと思うが、ありえない話じゃない。
関東の公方が元服するさいには将軍から偏諱されるのが慣わしだが
主従の関係ができたら将軍候補にはなりにくい。
史実を鑑みてみれば、既に臣籍に下っていた光孝天皇の諸皇子の中で
官職についていなかった無印の源定省が立太子・践祚した例もある。
>>319 伊豆平定戦の時代に「uziyasu」がこの世にいるかっての。
322 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/19 04:21:03
323 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 02:37:45
>>285 鎌倉以前から培ってきた武家社会の風土というものが関東にはあったわけでしょ。
>>323 氏綱が「北条」姓を名乗ったことも、氏康が関東公方を傀儡化して
執権の座に固執したことも、それは関東独自の秩序の中での支配権
の掌握だからね。
325 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/20 13:24:08
>>324 「長尾!」「うるせぇ!伊勢!」の罵り合いですな(w
関東の騒乱というのは、中央に任命権のある関東管領・上杉家と、関東武士団の頂点にある
関東公方に従う武士団との抗争が基本的な構図であるわけですよね。
そして後に上杉家同士が抗争を始めたことで北条による蚕食を許したと。
あれ、関東管領も関東公方が任命したんじゃなかったっけ?
どっちだかはよく知らないが、
関東管領は鎌倉公方を補佐するという名目で実質監視・対立する中央側の役職。
329 :
無名武将@お腹せっぷく:05/03/21 02:43:29
>>327 幕府に任命権を持たせることでバランスを保とうとしたのだろうけど、
けっこう裏目ばかりが出ている印象。
330 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/21(月) 04:34:44
>>329 終いには幕府はほとんど介入できない状態に陥ったしな。
331 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/21(月) 21:38:48
>>325 頼山陽の「日本外史」だと取り上げた一族の視点で書かれるから、上杉家の項では北条氏は「伊勢氏」として記載されて、逆に北条・武田両家の項では上杉氏は「長尾氏」として記載されてそれが貫徹されていたな。
332 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 06:24:54
>>331 まあ、本来は伊勢氏、長尾氏だからねぇ・・・
333 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/22(火) 18:03:09
景虎以前の上杉家って戦に勝ってるイメージが無いんだよな・・・偏見か?
334 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 01:41:30
結城合戦とかぐらいじゃない?
>>333 確かに「上杉軍による鮮やかな勝利!」って事例は少ないかも。
大軍を擁しながら大将を討ち取られちゃったりね。
336 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/23(水) 20:50:01
337 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 00:13:49
>>335 河越城で夜襲を食らって壊乱させられたのも大減点じゃないか?
ま、元々武士に憧れて足利の家臣になったおじゃるが家祖だから
戦に弱いのは仕方がないのではw
339 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 06:08:47
>>338 もともと「政治向けの家系」と言ってみる・・
340 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/24(木) 14:25:35
>>337 乱戦になってあぼ〜んですね。
中には落馬した時の傷が原因であぼ〜んという方もいらしたような・・・・
万余の大軍を率いる関東管領が雑兵に首を取られるなんてね(w
そう言えば、憲政も御館の乱で殺されてるよね。
342 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 00:43:26
上杉ってもともと勧修寺家だけど、
ここって母方が田舎役人の血が入ってんだよな
343 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/25(金) 07:16:17
>>341 当時はもはや亡命中の客人でしょ?憲政。
謙信亡き後のことではあるし、特に存在価値があったわけでもない。
>>343 巻き添え食って斬られちゃいました・・・というびみょ〜な終わり方だったりしてな。
しかし、「謙信に管領職を譲った」という以外に彼の歴史的評価は存在するのか?
官職というより称号程度の支配力…
憲政は関東諸侯に激を発し、十万もの大軍を集めた統率力に優れた武人です
たった2000に負けたことは秘密だ
河越野戦の事を言っているなら
後北条側が2000ではなく7000(+城兵3000)なのは内緒だ。
349 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 15:17:28
>>347 戦力比10:1なのに負けちゃったのね・・・
でも、本当に10万も集まったのか?
多すぎだろ。
>>350 その時の軍忠状とか残ってないかな。合算したらわかる
>>350 まんざら虚構でもないだろ
年代は下るが、永禄4年に上杉謙信が小田原を
攻めたときに11万も集めてるんだから。
こっちは関東幕注文に200以上の武将が載ってるから
史実だろうし。
一応言っておくと、
河越野戦の存在自体が怪しいらしい。
感状が山内憲政が出した一枚だけ、
後代の軍記にしか記述が無く、その日時もバラバラ。
河越城を巡って両上杉+足利軍と後北条が
数回にわたって繰り広げた戦役が一括して纏められたのでは?ということらしい。
354 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 22:04:14
>>353 そのうちの1回で上杉朝定が首を取られたわけね?
>>1 足利一門総合スレがdat落ちした模様・・・・これで二度目か(w
357 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 22:23:16
>>355-356 ホントだw
ここや阿波公方スレが生き残っているのに、御本家のスレは「2」「復刻版」と相次いで
落ちるってのもね。
史実に限りなく近いって言うか……w
まあ、そのうち「復刻版2」とか立てる香具師がいるでしょ。
358 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 23:13:30
359 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 23:31:40
野戦じゃなくて、昼間の戦いだったと言う説もあるね
360 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/26(土) 23:38:59
またオワ信者か
362 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 00:30:27
>>359 確かに野戦じゃないわな・・・夜戦だし。
>>361 ならば、小和田説と逆の説を示したらいいんじゃないですか?
364 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 07:37:43
365 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 09:30:40
>>364 北条に関しては、武器・防具の質の差が大きいんじゃないか?
初代が畿内に関わり深かっただけあって、商人や職人が小田原の町によく来ていたため、
質の高い武具・防具を使って戦闘できたという面があるそうだ。
また、内乱がほとんどなかったために、そのコストを兵士の育成に回せたことも大きかったと思われる。
後は、上杉は国人出身でないだけに、直轄地がほとんどなく、
有力豪族の寄せ集めの軍がメインだったために、作戦行動がばらばらになりがちだったという面も大きいかと。
北条は、三浦など国人衆をそのまま残したほうが利益になる地域は、そのままにしたものの、
軍制を一括化したために、統一的な作戦行動が取れたので強かったのだろう。
366 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 10:33:00
そういえば、織田信長が撰銭禁止令を出したために畿内では使用不可になった貨幣が関東の北条領に流れてきたと言う話もあるな。
367 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 14:00:23
噂の東京マガジンで小田原・八幡山のマンション建設に住民が反対してるってネタを
やってたな。
八幡山って言えば伊勢宗瑞所縁の地だろ。なのに観光資源潰してマンションかいな。
何かこの国ってホント歴史を大事にしなくなったよな。
>>365 確かに足利・上杉連合軍の命令指揮系統って見えてこないものね。
369 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 15:07:05
>>365 北条のような軍役も課せないでしょ、それじゃ。
371 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 16:40:05
小田原ごときで景観といわれてもな。
景観を気にするなら、鉄筋コンクリートの天守閣の時点で、
景観なんてぶち壊されているし。
観光といっても、斜陽の温泉街箱根の玄関口的な状態だから期待できないし、
ある土地を活用して、近代化するしかないというのは、もう避けられない状況だと思うぞ?
小田原駅前の商店街や大型スーパー見れば、街の寂れぶりが良くわかるし。
>>371 近代化されたら小田原住みますか?住まないでしょ。
373 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 17:07:58
>>365 大陸と貿易してたって話もあるよね。
それはさておき、小田原の役での軍役を見ると鉄砲の数(比率)が少ないよね。
やはり畿内から遠いとそういうことになるのかな?
374 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 17:51:35
>>372 かといって、近代化しなくてもジリ貧。
大合併がさまざまに起きている中で、声さえかからないような終わってしまった街だけに、
なりふり構っていられないのも確か。
旧来の住民にマンション建設を反対する権利なんてないほど、自助努力じゃどうにもならない状態。
>>373 それもあるだろうけど、関東では鉄砲に対する認識が低かったというのもあるんじゃないか?
基本的に関東の戦いでは、鉄砲のうちあいってほとんどなかったので、
鉄砲を用意しなくても、勝ってこれたと言う感じで。
375 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 19:39:10
>>374 確かに組織的に鉄砲を運用するということは無かったんだろうね。
そういう話も聞いたことがない。
海路で入手する術は無かったのかな?
北条の場合は江戸の湊を支配していたわけでしょ。
大陸貿易のルートを持っていた北条氏がそのあたりを軽視するとは思えないのだが・・・
とはいえ、出所を押さえられていたら、いかに流通経路があっても取引量には限界がある
わけだけれども。
377 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 22:26:30
>>376 重きを置いていなければ、数を調達することもあるまい。
378 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/27(日) 23:32:03
>>376 北条時代の江戸湊というのは、小田原に中心が移ったことで寒村化した
というのが一般的な認識だろうけど、実際はどうなっていたのかな?
氏直が家督を継いで隠居した氏政が江戸に詰めて、
江戸及び近隣の経済振興している。
大体、江戸は陸路・河川・海運の結束点、
南関東における最大の交通の要衝だから、致命的に土地勘が無い限り重要だってのは気付くでしょ
380 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 07:40:50
>>378 最近じゃ、それは徳川政権の偉大さを示すためのプロパガンダ説があるよ>江戸寒村ネタ
北条時代の江戸は政治的重要性はともかく、門前町・浅草と港町・品川の間にあって交通の要所として栄えていたらしい。
(勿論、江戸期と比べるわけにはいかないが…)
381 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 08:23:04
>>380 その原型は江戸氏の支配時代に作られたとする考え方もありますね。
382 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 09:07:06
『万里集』によると
「江戸前島周辺には多数の商船や魚船が出入りし、江戸湊は「日々市をなす」という盛況ぶり
だったようだ。
湊に集散する物資としては「房州の米、常磐の茶、信州の銅、越後の竹箭、相州の旗旌騎卒、
泉州の珠犀異香より塩魚、漆し、杷茜、筋膠、薬餌」などがあり、「他にないものはない」と形容
されるほどの物資が集散していたとか。
383 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 09:15:37
>>379 その通り。
関東の水利ということを考えると、江戸湊を寒村化させてまでその機能を小田原に持っていく
必要はない。
北条氏が整備した支城群を見ても、江戸城が中継拠点として果たしていた役割は重要であり、
関東の水利からして、江戸湊が商業・軍事輸送において重要な機能を持っていたと考えるの
は至極当然のこと。
むしろこれを見落とすような将であれば関東など治められない。
384 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 13:33:10
川越や古河もそうだな>水利
河越や古河、関宿なども陸運・河運ともに要衝。
だけど、上方との海運・陸運と関東各地への陸運・水運の集中点である
江戸が寒村だというのは、さすがに考えられないよな。
386 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 17:38:22
387 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 18:35:18
>>385 江戸幕府によるプロパガンダと考えるのが妥当かも知れませんね。
388 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 19:57:54
>>387 家康の関東入府にあたって秀吉が「江戸を本拠地とされては?」と勧めたとされているようですが、
これはどの程度信用できる話なんでしょうね?
389 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/28(月) 23:22:13
>>388 徳川方では小田原の役の恩賞は伊豆一国程度と踏んでいたわけだよね。
関東移封自体、想定外の出来事だったわけだ。
となると、関東移封を命じられてから関東の経営ということを考え始めたのだろうから・・・
390 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 10:14:37
>>389 小田原征伐の段階で地理的なことは頭に入っていただろうけど、転封が決まった段階で当然、
調査要員を派遣してるだろうな。
しかし、鎌倉、小田原あたりに暫定的に行政府を置こうということはなかったのかな。
391 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 15:57:44
>>381 江戸太郎かな?
とすると典拠は『義経記』ということになるね。
『義経記』には、下総から鎌倉に進軍する源頼朝軍による隅田川(墨田河)渡河の様子が
描かれていてる。
「ここに板東に名を得たる大川、一つあり。この川の水上は、上野の国利根の庄・藤原と
言ふ処より落ちて、水上遠し。末に下りては、在五中将が隅田川とぞ名付けたる。海より
は潮さし上げて、水上にはかつ降りして、洪水端をきしりて流れたり。偏へに海を見るが
如し」とある。
そこで頼朝は江戸太郎に
「江戸太郎は八ヶ国の大福長者と聞くに、頼朝が大勢、この四五日、水に堰かれて渡し
かねたる水の渡りに浮橋を組んで、頼朝が十九万騎の勢を武蔵国王子の上、小板橋に
着けよ」と命じている。
392 :
391:2005/03/29(火) 16:00:08
しかし、頼朝の命令を江戸太郎が「困難である」と渋ったため、千葉介と葛西兵衛が加勢
を申し出て、千葉、葛西の知行所である熊井、栗川、亀無、牛島から釣舟数万艘、西国
船数千艘を動員して江戸太郎の知行所である石浜まで浮橋を掛けるという話になってい
る。
なお、『義経記』における江戸太郎は、西国船が数千艘も停泊する石浜という湊を支配す
る「大福長者」として登場してくるわけだが、『義経記』より成立年代の古い『平家物語』に
は江戸太郎も石浜の地名も登場しておらず、頼朝軍は隅田河に浮橋を渡して滝野川、板
橋へ進軍したことになっている。
393 :
391:2005/03/29(火) 16:11:54
研究者によっては「そもそもは石浜周辺を江戸と呼んでいた」とする説もある。
いずれにしても江戸氏はそもそも秩父平氏の有力な血統であり、その江戸氏が根拠地
とした以上、鎌倉開府前から利根川・隅田川の河口地域が水運上、重要な役割を果た
していたことは事実だろう。
また、鎌倉開府にあたって八幡宮造営のために浅草周辺の職工が動員されたという記
録もあり、商工業の拠点として浅草がすでにかなり繁栄した場所であったことが伺い知
れる。なお、この時代の船舶の停泊地は今津(=今戸)とされており、石浜が湊であっ
たという記録は見つかっていない。
江戸に関しても同様で、今日言われている江戸湊の港湾施設としての記録は、太田道
灌の支配時代以降の史料しか存在していない。
>>392 軍記物って得てして話が大袈裟になるからね。
>>393 つまり時代的、地理的に混同した形で「江戸湊」としてイメージ付けされてるということ?
396 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 19:15:21
浅草寺は奈良時代の成立じゃなかったかな?
瓦葺の伽藍を有する寺院になったのは平安後期あたりと見られているけどね。
となると、それらの造営にあたった大工たちが多数いたわけで、周辺はある程度の
都市的な機能を持っていたとも推測できるね。
だから、幕府の諸施設の造営も可能だったと。
397 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/29(火) 19:41:23
品川に正徳寺という偉く古い寺があるが、これは誰が立てたんだっけ?
確か上杉とか関東足利氏だよね?
398 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 01:03:52
399 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 08:25:15
>>396 浅草寺の歴史を見てみると、建久3年(1192)に後白河法皇の四十九日法要が鎌倉で営まれた
際、幕命により僧を出仕させており、比企郡・慈光寺、多摩郡・真慈悲寺、国分寺と並び浅草寺
の名前があることから、当時の浅草寺の格式の高さが分かる。
また、浅草寺は鎌倉後期には学問寺院として知られていたようで、50人ほどの学僧がいたという
から、この時期の地方寺院としては相当な規模だったと思われる。
400 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 08:26:33
浅草寺と関東公方との繋がりとなると、応永20年(1413)に足利持氏の命によって輪蔵堂が造
営され、ここに実に7000冊に及ぶ大蔵経を収められたという。
文明9年(1477)には上杉顕定により稲毛庄山王社の賽銭が輪蔵堂にあてて寄進され、諸役
免除となっている。
401 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 08:27:51
この浅草寺の経済基盤を支えていたのが衆徒の存在。
彼らは千束郷を中心として寺領を有し、中には地の利を生かして商業・交易により富を蓄える
衆徒もいたという。
この衆徒たちの経済基盤が学問寺としての浅草寺を支えていたとされている。
402 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/30(水) 16:18:13
>>398 そうそう、それそれ。
よく検索したね〜
404 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 09:11:37
寺ネタで思い出したけど・・・
扇ガ谷の道灌の居館跡に建っているのが、家康の側室・お勝(英勝院)の英勝寺。
明治に入るまで尼寺で、代々、水戸徳川家の女性が住職を務めたとか。
405 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 12:14:51
>>404 創建は家光時代だっけ?
お勝は太田康資の娘(養女?)だよね。
406 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 16:28:25
>>404 英勝寺は檀家のいない寺で、金貸しをしながら運営資金を調達していたらしい。
足利家所縁の東慶寺などはどうだったのかな?
407 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/03/31(木) 20:44:31
>>406 縁切り寺?
イメージ的に足利家とは結びつかないな。
408 :
無名武将@お腹せっぷく:皇紀2665/04/01(金) 00:21:06
>>407 足利家の女性たちが住職を務めていたんだけどね。
姪から姪に受け継いでいくのか?
>>408 >皇紀2665/04/01(金) 00:21:06
な、何これ????
運営やハン板覗いてみ。
412 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 12:46:17
414 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 13:35:25
>>413 姫を政略の道具に使わなかったのかね?
簗田氏、北条氏からの輿入れはあるけど、逆はあまりないしね。
415 :
無名武将@お腹せっぷく:黄帝生年紀年4716/04/01(金) 15:36:16
>>406 東慶寺には檀家もいる。
もう尼寺じゃない点では一緒だけど。
417 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 10:28:01
尼姫さまと言えば青岳尼だろうな
418 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 18:00:26
青岳尼キタ━━━(゚∀゚)━( ゚∀)━( ゚)━( )━(゚ )━(∀゚ )━(゚∀゚)━━━!!!!
420 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/03(日) 23:24:04
>>417 里見義弘と青岳尼の話を聞くと、ええ話や・・・と思うのは俺だけか?
海路鎌倉を襲撃し、20年の時を越えてかつての許婚を奪っていくわけで。
>>420 そして話題は対岸の上総・安房に移っていくわけか……それも悪くはないがw
422 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 16:40:02
>>421 里見を抜きにして関東擾乱は語れませんので。
423 :
無名武将@お腹せっぷく:黄天当立184年,2005/04/04(月) 20:24:56
>>420 倉本由布が里見義弘と青岳尼のエッセイを書いた事がある位で小説を書いた人はいないな。
424 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 13:59:32
>>419 しかし、青岳尼も義弘軍の襲撃の際に「同意」して海を渡ったわけでしょ?
氏康が太平寺を廃寺にしたのは里見義弘への嫉妬?
氏康は当初、青岳尼の鎌倉復帰を求めているし、それが叶わないと分かると「せめて観音像だけでも」と
要求してる。
426 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/05(火) 19:50:31
>>425 住持職にある者がホイホイと寺を捨てるかね?
本尊や堂宇を守ることを考えそうなものだが、観音像を持って里見義弘の
下に行ってしまったと。
その行動は「信仰は捨てません」という明確な意思表示を伴っていたとも
言えるし、事実、青岳尼は2ヶ寺の開基になってるしな。
427 :
426:2005/04/05(火) 19:53:16
>>425 氏康、義弘、青岳尼の三角関係を指摘する話があるな。
氏康は愛妻家であるし、足利家の姫君を側室にするわけにもいかない。
とは言いながら、他人様のものにもされたくない。
そこで、出家させて太平寺の住持に据えたと。
428 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 01:22:01
>>427 まあ、住職が捕らわれた程度で廃寺にする必要はないしね。
429 :
423:2005/04/06(水) 12:46:26
430 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 16:15:24
>>426 青岳尼を開基としているのは富浦町原岡の興禅寺と、館山市上真倉の泉慶院。
いずれにも青岳尼の供養塔があるのだが、興禅寺のそれは延宝3年(1675)の青岳尼の
百回忌の際に再建されたもので、泉慶院のそれは文政2年(1819)に建立されたもの。
両寺院ともに青岳尼の没年を天正4年(1576)と伝承しているので、ほぼ事実とみて良い
のではないかと思われる。したがって、義弘に先立つこと2年前に没したことになる。
431 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/06(水) 16:15:55
なお、里見家の支配の下では興禅寺が56石、泉慶院が160石の寺領を与えられていたが、
江戸期に入ると興禅寺が58石に加増されたのに対して、泉慶院7石に減ぜられている。
また、興禅寺門前には、青岳尼に従って鎌倉から移り住んだ家臣の末裔とされる家もある
とか。
432 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/07(木) 03:23:48
>>431 ということは、鎌倉太平寺の頃からお付きの武士がいたってことかな?
433 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 13:41:37
>>432 そりゃ、極めて小規模であっても家臣はいるでしょう。
http://www.awa.or.jp/home/tkk/walkingmap/spot1.html ■泉慶院(上真倉)
正式には海造山泉慶院という。曹洞宗のお寺。里見義弘がつくった寺だと伝えられており、
里見氏からは、真倉村と南条村で合わせて160石もの寺領を与えられていた。しかし江戸
時代にはわずか7石になってしまった。
境内の歴代住職の墓の中に開基智光院殿という墓と、開山淳泰和尚という墓がある。
智光院殿は里見義弘の妻になった青岳尼という女性のことで、淳泰和尚は義弘の子梅王
丸のこと。義弘とはゆかりが深いようである。
青岳尼の父は里見家の主筋にあたる小弓公方足利義明。国府台合戦で戦死したため、
子供たちは里見氏に引き取られた。その後青岳尼は鎌倉の太平寺の住職になったが、里
見義弘が鎌倉へ陣したときに、寺をすてて安房へ帰り義弘の妻になった。
梅王丸の母は青岳尼ではなく、小弓公方とは対立した古河公方足利晴氏の娘。梅王丸は
兄里見義頼と対立して出家させられた。
なお隣接する池は、館山城の堀跡で、鹿島堀の一部が残されたもの。
435 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/08(金) 18:31:42
436 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 01:45:47
438 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 12:52:27
>>437 千本城主の東平安芸守ね。
一方では佐貫城主・加藤伊賀守の女とも言われてるでしょ。
439 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 16:13:51
>>438 晴氏の娘を生母、安芸守の妹を梅王丸の乳母とする説もあるね。
ちなみに加藤伊賀守は梅王丸の後見役ではあったけど、最終的に義頼に内通した人物だからなぁ・・・
ちょっと考えにくい。
440 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 17:38:06
>>439 加藤伊賀守は梅王丸の助命を引き換えにしていたとも考えられないか?
>>439 当時は義氏が傀儡として古河公方の座にあるような状態だったけど、
外交的には問題なかったのかねぇ?
442 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 18:47:09
義氏は北条氏が勝手に立てた公方として上杉を始めとする反北条勢力は承認していない。
反北条勢力は晴氏の嫡男・藤氏を正統な古河公方としていたが、後に北条側に捕えられて相模に幽閉されてしまい1566年に死亡。
義氏が古河公方として反北条勢力から認められたのは、越相和議後。
>>442 越相同盟の成立は永禄12年(1569)だよね。
義頼と梅王丸の抗争は、天正6年(1578)〜同8年(1580)の時期に行われているので、
そこで政治的に問題が生じなかったのか?ということになるわけ。
ちなみに房相一和(北条氏政との和睦)は天正5年(1577)のこと。
>>440 助命かぁ・・・・とはいえ梅王丸と生母(晴氏女?)、そして妹の3人は結果的に琵琶首館に
幽閉され、岡本城に移された梅王丸は出家させられるわけだよね。
伊賀守が助命嘆願のために佐貫城を開城したというのはどれくらい信憑性があるのだろう。
447 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 22:31:19
相手が晴氏の女とすると、北条の傀儡ではあるが義氏と梅王丸は伯父(叔父?)と
甥の間柄になる。
これに叛旗を翻すとなると、一時、義頼の外交上の立場はかなり悪くなるよな。
448 :
442:2005/04/09(土) 22:31:55
>>445 晴氏の娘と義弘の婚姻の件かと思った。
ちなみに義頼の挙兵には小弓頼純も絡んでいるといわれていますが、その一方でその後の義頼と北条家の婚姻の事実からして北条と密約があったのでは?
449 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 22:35:44
>>448 頼純が絡むと、古河を取り込んでる北条とはバッティングするでしょ。
せっかく和睦状態にあるのに。
>>449 義頼を支えたのは安房家臣団。
そして安房家臣団が支持していたのは古河公方ではなく小弓公方。
実際、足利義明の子・頼純はこの時点、義頼の庇護を受けているし、小田原の役での義康の行動
にもそれは如実に現れている。
頼純の存在が義頼に梅王丸排除を決断させる要因になっていたのでは?
451 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 22:42:16
>>450 北条側も既に古河公方の利用価値をそれほど高く見てなかったんじゃないかな?
形骸的に公方―執事の関係を結んでいたとして、義氏の死後、これを再興させよう
という動きはなかったし、遺児・氏姫と御連判衆に限定的に職務を与えていただけ。
452 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/09(土) 22:50:31
上総から梅王丸派(古河勢力)を駆逐しながらも、古河公方を抱え込む北条とは和睦中・・・
微妙なところだね、これは。
453 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 00:13:37
>>448 北条としては義頼と手を組むとしても、できるだけ内戦が長期化してくれた方が良かったはずだよね。
双方の勢力が食い合いをしてくれた方が良いと。
>>453 この時代の和睦なんて「一時的に戦わないお約束」程度のもの。
455 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 15:58:31
>>453 逆に義頼側としては電撃戦で事にあたらないといけなかったわけだ。
456 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 17:00:33
>>452 まあ、義頼が勝ったところで小弓公方が古河公方に取って代わる可能性などないに等しいし…。
457 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/10(日) 22:23:23
>>456 そうね。
既に古河公方が事実上合法化していたわけで、今さら・・・・という状況だったと
・・・って、それでも頼純を担いじゃった義康ってどうなっちゃうわけ?
459 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/11(月) 05:00:48
小田原の役の段階での関東の政治秩序というものがあるのでは?
ちなみに、天正16年(1588年)に足利義昭は鞆幕府を閉鎖し、入京して将軍職を
返上しているよね。
つまり、この時点で幕府の職制というのは一応、無効になっている「はず」だけど、
それでも古河の地にあって氏姫と御連判衆が極めて限定的ながら公方としての
職務権限を持っていたと。
これは執事である北条氏の存在と、関東の地理的問題もあったのだろう。
あるいは幕府の一職位でありながら、それに当てはまらない権威を持っていたと
いうことかも知れない。
「落第県令ホウ統です」は演義だけかな
461 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/12(火) 00:03:35
誤爆に反応してやるな
463 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/12(火) 04:58:31
>>459 秀吉政権下において「義昭が将軍職を返上した」という情報は、いくら何でも関東に到達
していたはず。
ここまでくると、もはや職制の域を超えた土着的権威として関東公方(鴻巣御所)が存在
していたのでは?
そもそも五代・義氏の病没により実質的には古河公方は滅亡したも同然だったし、北条
氏が関東の覇者であったことはもはや揺るぎない事実だったわけで、義昭の将軍職返上
はそれほど関東の秩序に影響を与えることはなかったと。
464 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 00:11:57
>>463 無理に男性の公方を立てることもしなかったしね。
>>464 あっても無くてもいいけど「潰しちゃいましょう」とは言えないでしょ。
散々その恩恵に預かってきたんだから。
自然消滅してくれるのが一番いいと。
466 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/13(水) 02:21:33
467 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/14(木) 06:56:26
>>466 何の判断?
北条の力で政氏&上杉に対抗しようとしたことか?
468 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/16(土) 02:37:19
>>467 しかし、政氏と高基、これに義明が加わって三つ巴の争いをやったことが、結果的に古河公方の
命取りになったわけでしょ?
469 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/16(土) 14:53:12
政氏って高基と抗争を繰り返す過程で、最終的には義明に家督を
譲る気になってたよな。
まあ、それも阻止されるわけだが。
470 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/17(日) 15:08:19
472 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/18(月) 04:00:07
473 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/18(月) 11:58:34
いきなり喜連川ってのは飛びすぎかもな
475 :
472:2005/04/19(火) 00:18:28
>>406 東慶寺については『日本仏教の心 12 覚山尼と東慶寺』(ぎょうせい)に
詳細が載ってますね。
かなり遅レスですけど。
477 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/19(火) 17:37:23
>>469 政氏って追放されて小山氏を頼ったよね。
479 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 15:39:29
政氏は一貫して保守的というか、上杉家との関係を重要視してるな。
当初は扇谷上杉定正を支持。明応3年(1488)に定正が急逝すると山内上杉顕定に乗り換えこそ
したものの、以後は一貫して顕定支持だった。
480 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 17:32:38
扇谷家の朝良が河越城で顕定に屈したことで両上杉家は和睦したけど、この時に
顕定が政氏の弟・顕実を養子に迎えたことが、政氏・高基父子が対立する切っ掛け
になったわけだよね。
結果、高基は関東に進出してきた北条家の力を借りることで政氏&上杉家に対抗
することになったと。
481 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 18:20:21
その時点では北条はまだ相模平定の只中だよね?
>>480 高基は政氏と対立した結果、永正3年に宇都宮成綱を頼って宇都宮に移ってる。
この事態に上杉顕定は出家して政氏、高基の調停に奔り、高基も顕実を通じて政氏に詫びを入れ
ることで事態は一時的に収束した。
しかし、越後で長尾為景が守護・上杉房能を討つと事態は再び動き出し、永正7年、為景討伐軍の
総大将であった顕定が討たれると、山内上杉家の家督争い(顕実VS憲房)が勃発する。
これにより政氏は顕実を、高基は憲房を支持して再び対立し、永正9年に憲房が鉢形城から顕実
を追って勝利すると、政氏は小山氏長を頼って小山の祗園城に落ち延びることになった。
483 :
482:2005/04/20(水) 18:55:05
永正13年に高基は古河城を占拠して公方の座につくと、小山氏長の子、政長が高基支持に回った
ため、政氏は太田氏を頼って岩槻に移ろ。しかし、政氏の支持者であった扇谷上杉朝良の死により、
ついに隠居することを決意し、高基と和睦することになる。
政氏は久喜の隠居地に移り、甘棠院を開山。開基には貞巌和尚(政氏三男)が迎えられている。
政氏は享禄4年(1531)、甘棠院で死去する。
484 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/20(水) 21:56:59
485 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/21(木) 03:15:00
>>483 しかし、高基が招き入れた北条家によって最後は公方家そのものが蚕食されてしまうとは・・・
486 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/22(金) 14:13:16
朝良以降、負けっ放しだな・・・扇谷
487 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/22(金) 20:03:55
>>486 朝興の時代に岩槻を奪還した事実はあるけどな。
まあ、あれも、北条の方が、攻勢限界に達していただけだけど。
488 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/23(土) 02:55:43
>>487 北条に14連敗という香具師も輩出してますな、上杉家。
489 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/23(土) 18:39:17
>>483 小山政長の後に乗っ取ったのが高朝だっけ?
>>488 上杉ハンターって感じだね、格闘家の異名で言えば(w
491 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/24(日) 03:56:02
>>489 高朝って結城政朝の次男だっけ?
確か那須政資・高資父子が対立した時に、結城・白河氏と共に高資方についたよな。
小山家は高朝の時が最も安定的だったんじゃないか?
>>488 それが朝興ね。
しかし、北条に14度挑んで1度もまともに勝ってないってのも凄いね。
朝興の時代には太田氏に謀叛されたり散々。
おまけに朝興の子・朝定に到っては氏綱に敗れて松山城に逃れ、河越夜戦では氏康に敗れて
首を取られ、呆気なくあぼーん・・・
493 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/24(日) 15:53:52
>>491 最近は名前忘れたけど、結城家を先に継いだ長兄がいたとされているから、結城政勝が次男で高朝は三男。
494 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/24(日) 15:59:46
495 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/25(月) 01:34:52
>>492 乱戦の中で護衛する兵すらなく討ち取られたと聞いたが?
>>495 酒宴後、寝込みを襲われて壊乱・・・何かのん気だよなぁ・・・
497 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/26(火) 12:47:21
第二次国府台合戦の里見氏もそれで負けたはず…。
498 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/26(火) 22:18:36
499 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/27(水) 13:26:43
>>496 油断をさせた方が偉いのか、油断をした方が愚かなのか・・・
両方。
しかし、よく首を取られるねーw
上杉の殿様も。
502 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/29(金) 03:58:21
503 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/04/29(金) 11:39:09
養子に来た当主の実父もな。
504 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/01(日) 11:12:02
505 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/01(日) 20:37:04
扇谷の定正の場合って戦死扱いなの?それとも陣没?
506 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/02(月) 22:07:57
>>504 上杉朝寧(朝興の実父)が、海に射落とされたようだね。
507 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/03(火) 13:54:04
>>504 長尾為景(異説あり)
吉良義央(上野介)
509 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/03(火) 16:00:47
510 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/03(火) 19:52:28
>>508 吉良の息子が上杉に養子に行って当主になっただろう。
吉良だって言うなれば、大石一派に首を取られたわけで…。
>>510 首取られたのは吉良様ご自身じゃないのさ(w
512 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/04(水) 02:25:37
>>511 吉良上野介は、巷間言われているように隠れていたのを引き出されたのではなく、
赤穂の浪士たちに敢然と立ち向かい、斬死したらしいね。
検死の結果、全身に大小多数の切創を受けていたとか。
さすがは源氏の名門。
513 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/04(水) 09:12:39
>>512 でも、吉良の家名は、庶流の蒔田に奪われちゃったわけで・・・・
514 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/04(水) 23:27:15
”世田谷御所”は庶流ですか・・・なんかかなすぃ・・・
515 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/04(水) 23:59:03
里見八犬伝で描かれる関東公方成氏はどこらへんまで史実に沿っているのでしょうか。
>>513 赤穂の食い詰め浪人たちに因縁つけられた挙句に討ち入りされ、
勇戦するも殺害されて、御家はお取り潰し・・・
まさに踏んだり蹴ったりの吉良様・・・人身御供にされたようなもの。
そもそも松の廊下で切りつけられたのも
たまたまキチガイの近くを歩いていたから切りつけられたと言う運の悪さだしな。
518 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/05(木) 04:47:51
足利に嫡子なき場合は吉良から
・・・ってなぐらいの家なので、徳川的にはラッキー。
>>517 ×キチガイ
○自分の存在意義を理解していない、ノーフューチャーなキレやすい若者
519 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/05(木) 19:02:44
>>518 分裂症気味だったとか、極度のストレスでノイローゼ気味だったとか言われてるね。
まあ、吉良さんにとっちゃ災難であったことには変わりないだけど。
521 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/07(土) 15:50:22
>>520 てんかん説を紹介したNHK番組が
その病気の団体からクレームを受けた事があります。
523 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/07(土) 19:57:01
>>521 戦国時代で言うと、世田谷吉良家ともいうべきかな?
現在、蒔田御所があった場所は、女子高になっている。
524 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/09(月) 18:55:19
>>523 蒔田家(吉良家)も北条氏に乗っ取られたね。
525 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/10(火) 04:31:06
>>524 しかも吉良の殿様は戦地に赴かず、家臣たちが北条の指揮下に入れられる形だったよな。
もはや形骸化もいいところだったと。
526 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/12(木) 15:33:58
>>525 まあ、直接率いても大したことないでしょ。
527 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/16(月) 07:20:42
>>526 上杉さんじゃないけど即効あぼ〜んしそう。。。
528 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/17(火) 23:40:59
>>528 後妻の連れ子が相続したとかそんなんだっけ?
530 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/21(土) 00:24:41
>>529 吉良頼康の後室となった北条氏綱の女が、前夫である今川貞基との間に
もうけた子・氏朝に家督を相続させたんだろ?
後妻の連れ子に乗っ取られたわけだ。
この氏朝にも氏康の女(鶴松院)を娶わせて血を濃くしようとしたわけだ。
531 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/21(土) 06:23:30
>>530 今川は、吉良の分家だから、分家筋から家督継承者を呼んだと見ることもできるが、
確かに、北条がのっとったと見るほうが自然だな。
今川貞基って前から謎だったが遠州系のやつなのか
本家ならともかく堀越じゃ微妙…
533 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/23(月) 16:02:44
>>531 家臣団の中にも反発はあったでしょ。
頼康には前室との間に子もいたようだし。
534 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/24(火) 18:03:32
535 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/24(火) 22:24:44
『小田原衆所領役帳』にも課役の記載が無いしね。
唯一、交戦したと言えば、小田原の役での下田籠城くらいじゃないの?
536 :
宣伝アゲ:2005/05/25(水) 00:15:02
( ト / / \ ヽ / /
\ \ | ; | / / ゲッチュ!!
__ /\_ `‐- \__;;/_/ /ヽ / ̄\
./ ○ ヽ、/ `-___________________,,,_/ / ○ \
/ \,,,--―――''''''''''''''''''''――-/ ヽ
..⌒‐-,/ ̄\/ヽー―――-、,,__,,,,-―――:|| _,,;-‐''"⌒~~~
r┤ ト:::::::::: (●) (<) ||/:::::::ヽ ライバル・持氏タンも大活躍!!
/ \_/ ヽ::::::::::::: \___/ ||:::::::::::::::: ヽ
| _( ̄ l::::::::::::::::::. \/ ノ__/
| _)_ノヽ 「足利義教と共に苦難を乗り越えるスレ」
ヽ____)ノ >>
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/history/1108995407/ ・・・・シナリオ職人さん、誰か助けて〜!!(宣伝スマソ)
三戦のネタ職人が流出してしまったようで寂しいな。
538 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/25(水) 17:56:09
539 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/25(水) 19:37:04
540 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/26(木) 02:38:21
>>535 直接戦闘指揮をしたとか、陣頭に立ったということではないわな。
所詮、お飾りの守将。
541 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/27(金) 11:58:46
542 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/28(土) 00:05:51
543 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/28(土) 07:49:47
>>533 成人しなかったようだけどね。
>>531 遠縁と言えば遠縁かも知れんが、分家のさらに分家・・・
もっと相応しい人物が近親者にいなかったのかねぇ?と思ってしまうのは当然のこと。
家臣にしても「はぁ?」だったはず。
545 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/29(日) 01:41:34
>>543 家康に取り立てられたのは嫡子の頼久だっけ?
547 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/29(日) 11:26:47
>>546 英和か。
ただ、あの街は、新興宗教のほうがよほど強い街(なんたって、その宗教、影では蒔田教と呼ばれているぐらい)だから、
存在感は薄いけどな。
特にその宗教と吉良に関係があるという話は聞いた事ないが。
548 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/29(日) 20:38:05
蒔田教って何だ????
550 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/30(月) 04:22:55
義氏┬泰氏【足利家】
. ..│
. ..├義継―経氏―経家―貞家―治氏―治家―頼治―頼氏―頼高―政忠―成高―頼康=氏朝┬氏広
. ..│【東条/武蔵吉良家】.. .└頼久
. ..│ ┌満氏【西条吉良家】 【堀越家】 (仕徳川家)
. ..└長氏┴国氏―基氏―範国┬―貞世―貞臣―貞相―範将―貞延─貞基┌氏延(子孫仕徳川家)
. │【遠江今川家】 ┠┴氏朝
. │ ... ┌女(吉良頼康後室)
. │ .┌宗瑞―氏綱┴氏康―氏政―氏直
. │ . 【伊勢氏庶流?】┴北河殿
. │ ┠氏親┬氏輝=義元―氏真―範以
.└範氏―泰範―範政―範忠―義忠 └義元
. 【駿河今川家】
551 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/30(月) 14:30:14
553 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/31(火) 01:36:50
>>552 YES。
貞家の後は治家が継承したようですね。
治家は治氏の子とも弟とも言われています。
554 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/31(火) 07:00:50
義氏
├泰氏【足利家】
├義継―経氏―経家―貞家―治氏―治家―頼治―頼氏―頼高―政忠┐
│【奥州/武蔵吉良家】 . ┌────────────────┘
│ .. └───成高―頼康=氏朝┬氏広
│ └頼久(蒔田)―義祇―義成―義俊(吉良)
│
│ ┌満氏―貞義―満義┬満貞―俊氏―義尚―義元―義尭┬義郷
│ │【西条吉良家】 │ . ├義安
└長氏┴国氏 ... │【東条吉良家】. . └義昭 . ┌義広(荒川)
【今川家】.. └尊義―朝氏―持長―持助―義藤―義春―持清┴持広┐
. ┌─――――────────――────┘ .┌吉憲
. └──=義安―義定―義弥―義冬―義央┬綱憲(上杉)┴義周
. └=義周
556 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/31(火) 15:54:37
>>554 赤穂事件で東条吉良家が改易になり、蒔田家が吉良に復姓したわけだけど、
系図的に見るともはやアカの他人もいいところだね。
557 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/05/31(火) 23:25:16
558 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/01(水) 01:31:55
京都の武衛陣跡も女子高になってるな
559 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/02(木) 18:04:44
改易されてたっけ?
上野介の弟の孫だかが継いだんじゃなかったの?
561 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/02(木) 23:36:33
>>560 改易でしょ。
で、遠縁の蒔田さんが久しぶりに吉良姓に戻すことができたと。
ちなみに浅野家の方は弟の大学が後年、微禄ながら旗本として再興を許されてるね。
562 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/02(木) 23:36:56
_,l :.. ::.::::. :::::::::.. ::.. :::::爿 = =
弋li ::ト〃1::::..:::::::::ト、:::::::.:::::::i ニ= 蕎 そ -=
|i :::|__ l::ト:::::::|i:l_,.ゝ:::::::::::l ニ= 協 れ =ニ
jl .::::l __`i} V::j斗ぅテiトi::::::| _ =- な. で -=
、、 l | /, , ll ::::Tてテ| |/ ヾ'シl ト:l} | ヽ ニ .ら. も ニ
.ヽ ´´, |l ::::ム `=' .ノ ヽヽ } ´r : ヽ`
.ヽ し き 蕎 ニ |l :::::`ヽ、 -‐ ノ| |.|:::::| | | ´/小ヽ`
= て っ 協 =ニ |ト ::::/:::::丶、.__,. ィ :| |.|:::::| | /
ニ く. と な -= Nlw::::: ヽ、._、 _,ノ/.:::::| | /|
= れ.何 ら -= ヽl ヽ、:::::::::\、__/::漢:::.:| |' :|
ニ る と =ニ | |:::::::::::::::::::::::::::::::::::.王.::::Y′ト、
/, : か ヽ、 | |::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::| '゙, .\
退屈ならどーぞ
輔漢の政府
http://jbbs.livedoor.jp/study/6134/ 今、一番熱い場所
563 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/02(木) 23:47:52
564 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/02(木) 23:55:06
ο丁児の名前の由来・・・丁はチンコが勃起している状態で、左に付いている
οは、玉袋がぶら下がっている状態を意味している。
すなわちο丁児はチンコ・金玉(アホさ)を露出している稚児の意味で、
可児才蔵とは全く関わりが無いので、聞き分ける為にアホ坊(通称)と呼ぶ。
566 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/03(金) 01:30:32
567 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/03(金) 23:16:12
室町以降にも鎌倉が戦場になった事があるんだな。
戊辰戦争のときはどうだったんだっけ?
>>560 改易された後、再興が許された。
もちろん、禄は雀の涙だが。
源氏棟梁の建前で、戦国時代には既に死人同然の吉良家をわざわざ高家に取り立てて
大切にしているのかと思ったが、元禄赤穂事件以降の吉良家への扱いを見ると
そうでもなさそうだな。
570 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/06(月) 12:00:23
>>569 お家柄だけは大事にしたでしょ?
だから、別系統だけど「吉良氏」という家名だけは残した。
今川氏は明治に絶えたけど、吉良氏はどうなったの?
>>571 土佐吉良家当主は、大正時代に郵便局長や村会議員を歴任した模様。
世田谷吉良家は、明治になってから、所領であった寺崎(現千葉県長生郡睦沢町)に移り住んだとされるが
詳細不明。
道の駅つどいの郷むつざわの店員に吉良という苗字のおばさんがいるようだが、
子孫とかかわりがあるかは不明
573 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/07(火) 12:40:40
574 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/07(火) 21:48:35
>>569 元禄事件はあれは明らかに吉良は被害者だからな
575 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 00:37:19
>>574 幕府もあの一件を「喧嘩」とは思ってなかったわけでしょ?
だから吉良様にはお咎めなしだった。
あれが「喧嘩」だと判断されていたら、吉良家だろうが何だろうが両成敗だったろうし。
そのうえでの逆恨みならば、吉良様もホントお気の毒・・・
>>575 吉良さんって逃げも隠れもせずに(多少どこかに潜んでいたかも知れないが)浪士たちに挑んで行って
メッタ斬りされたらしいじゃん。検死の記録も残ってるようだしね。
577 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/08(水) 15:21:49
大聖寺新田藩主、前田利昌が側近に相談して曰く
「以前、松の廊下で浅野匠が吉良上野に斬りかかった事件があったな。そなたは
これをどう解釈する?」
側近答えて曰く
「浅野は短慮すぎました。大紋着用の儀において、怒りに任せて短刀を振りおろす
など持ってのほか。あの状況ならば、斬るのではなく刺すのがもっとも妥当であったと思われます」
しばらくして、勅使接待役の前田利昌は同役である織田秀親を江戸城内で
刺殺して本懐を遂げたのであった。
なお、利昌は即日切腹。家名は断絶した。
579 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 08:58:46
そうでもないと思うよ
580 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 09:02:35
>>577 ×即日切腹
○淀藩にお預け→2日後、切腹
581 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 09:05:09
あと、家名断絶だけど、そもそも
・利昌が初代
(兄である大聖寺藩から新田一万石(つーことは格だけ?)分地)
・大聖寺藩にお咎めなし
(本家加賀藩にも)
なので、「家名」というほどのもんもなし。
「織田の子孫が子飼いの前田の子孫に刺されてやんの」
582 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 09:11:43
勅使接待役ってそんなにストレスたまるのか?
583 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 14:36:54
>>582 それ以前から溜まってるものが、勅使接待の重圧で暴発するとか・・・
584 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/10(金) 19:22:00
>>575 そもそも喧嘩両成敗は法秩序が弛緩していた戦国時代の法であって太平の江戸時代に通用する法じゃないと元禄期には儒学者から批判されていた。
そこで明律研究が始まるわけなのだが…。
585 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 01:09:48
>>583 しかし、接待役がヘマをすれば面目を失うのは指導役の方なのだが・・・
586 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/11(土) 22:20:50
>>585 言えてるな。
指導してる側からすれば
「お願いだから失敗しないでね……お願いだからさぁ」
という心境のはず。
587 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2005/06/12(日) 00:32:42
失敗は朝廷に礼を欠くなら、費用負担だけ持ち回りにして専任の大名を誰か置けばいいんじゃない?
何のために高家を設定してると思ってるんだ。
589 :
勇魚 ◆Cl39TXJnDE :2005/06/12(日) 00:55:45
指導役じゃなくて、分かっている吉良が全てを行い浅野が金銭を負担する形が妥当という事だよ。
吉良も浅野も何事もなく存続出来る。
存続も何も、その浅野はおもっくそ陪臣様の大名庶家なんだけど。
本家からいつ養子を送りつけられるかわからない分家の。
そうだっけ?赤穂転封前の笠間の時点で独立大名と思ってたわ。
忠臣蔵から関東に話題を戻してみた。
592 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 02:02:02
自作自演形式のスレはここですか?
>>591 浅野大学、浅野 本 家お預かり、
という事は散々劇中で言われる事だろ。
594 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/12(日) 18:52:19
>>589 高家ってただ単に諸大名に対する儀典指導だけじゃないんだけど・・・
基本的に幕府の儀式・典礼の類一切を仕切るのが高家の役回り。
朝廷への使者や勅使・院使の接待、さらには東照宮、伊勢神宮への代拝などを務め、これに
加えて勅使・院使饗応役の儀典指導にあたったと。
なるほど。公家みたいに他家の追随を許さない伝承を各家がしてた訳じゃないのね。
勘違いしてたよ。教えてくれてありがとう。
596 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/13(月) 00:14:06
>>595 儀典指導を知り尽くした便利屋(使いっ走り?)
細川越中守が旗本の板倉某に刺し殺された事件や、水野某が初対面の毛利に
斬りかかったこともあったな。
江戸城ってストレスの溜まり場なんだね。
598 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/13(月) 15:21:40
余談だけど、斬りつけられた上野介を担いで運んだのが
同じく高家の品川氏という今川家の末裔だったりする
599 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 15:43:56
600 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 16:02:41
>>559 確か品川って300石程度の小身だったよな。
ちなみに事件後、上杉家の屋敷に遣わされたのは畠山。
601 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 22:11:44
関東とは関係ないけど、大友も高家だよね?
602 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/14(火) 22:20:18
吉良って実は高家筆頭ではなくて、肝煎という役職らしいね。
高家の役職と本当の筆頭を知りたいね
604 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/15(水) 01:56:45
>>602 最初に高家に列せられたのが26家。
高家の中でも古参者を肝煎(常時3名)と呼び、高家衆を支配・世話する役回りにあった。
ちなみに無位無官の者を表高家と呼んでいる。
赤穂浪士が討ち入った日に行われていた吉良家の茶会には
次客として高家の大友近江守、詰に品川豊前守が招かれていたようだね。
ちなみに浅野の斬られた際、吉良様を蘇鉄の間に運び、介抱したのがこの品川豊前守。
正客は小笠原佐渡守(三河吉田4万石)だったとか。
みんな仲良しだったのね。
ちなみに吉良様を蘇鉄の間に運んだのは品川豊前守と畠山民部大輔(基玄)。
浪士の討ち入りを知り、上杉綱憲は武装した家臣を救援に向かわせようとしたが、
これを阻止すべく上杉家の屋敷に派遣されたのが高家・畠山下総守(義寧)と
若年寄・本多紀伊守(正永)だったと。
まさに高家大活躍(w
607 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/15(水) 03:02:00
608 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/15(水) 03:26:29
>>602 詰所は寺社奉行、奏者番の隣で、町奉行の上。
席は譜代大名と同じ雁の間だったという。
官位の方も四位、五位の侍従、少将から中将まで出世することもあった。
これに対する役料800俵、役高1500石。
格式高い分、けっこうお金も掛かったようだね。
高家に限らず、武士の一番の出費は交際費だったらしいからな。
交際特化の高家ならこの部門もやたらかかったと思うし、金のやりくりは大変だろうな。
610 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/15(水) 05:53:53
>>609 喜連川家もその格式ゆえに台所は火の車だったわけだし。
近江の六角は高家になれなかったの?
>>611 六角義治の系譜は加賀前田家臣。
義治の弟・高定の系譜が大原姓で直参旗本として1,000石を与えられている。
613 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/15(水) 08:46:13
高家ってのもなんつーか、微妙なんだよ。
難しい。
大友なんかどうでもいいから、大内とか斯波とか龍造寺を取り立ててやれよ…
はあ…。
最上も高家じゃなくて旗本だし。
高家になれる基準がわからん
>>614 竜造寺は微妙だろ。
するなら少弐だ。
大内は百済王の子孫と名乗っていたから、源氏的には名門とはいえないし。
斯波は旗本だっけ?
大友は藤原氏じゃなかった?
最上は五千石の大身旗本だったよな確か。
高家肝煎と五千石、どっちがお徳なんだろう?
ちなみに斯波は旗本にすらなれなかった。
617 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 01:04:42
>>616 大身?
一体どれだけ減封されたと思ってるのよ(w
>>612 確か「どっちが本家か?」争議があったよな、六角家は。
といっても高定は大原姓を名乗っていたわけだが。
619 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 02:48:59
>>618 義治の女婿に高定の子・定治が入ったことから起こってるわけでしょ。
ちなみに前田家臣時代には佐々木姓だよね。
621 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 05:42:18
名門スレッドに来いっつーの。
622 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 10:01:27
>>616 吉良様は3,000石で高家肝煎。
高家は儀式典礼の指導で謝礼を貰うことが公に許されていたし、役料、役高もつく。
位としても侍従or少将、中将くらいまで出世できるので、譜代大名あたりならタメ口をきいても
何ら差支えない。
待遇面でも5,000石の交替寄合と比べるのはどうかと思うな。
623 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 13:27:18
624 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 13:28:17
>>622 時代劇では「まろ」っぽい扱いをされてるけど、足利一門を代表するお家柄だし、
逃げ隠れしていたところを討たれたのではなく、斬り込んでいって討ち取られたわけで、
直参旗本+足利一門の名族+儀典の第一人者という要素を併せ持つ人物だったと思われ。
その意味では、俺も肝煎に一票。
626 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 18:24:25
>>625 旗本で善良な香具師って見たことないな、時代劇で。
>>626 大岡越前も金さんも、鬼平も旗本だっての・・・
628 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 19:02:35
629 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/16(木) 20:29:09
吉良氏の直系って今も生きてるの?
それと元禄赤穂事件の後、高家肝煎の役職は吉良氏から取り上げられたの?
>>629 ・・・・・・・・・・・・ログを読みなさいっての。
631 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 02:51:34
632 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/17(金) 16:35:14
家系は残ったわけでしょ?
633 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/18(土) 23:36:31
634 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/19(日) 00:52:55
義周は、赤穂のイモ侍の襲撃を受けた際、養父・義央を助けなかったことを
咎められて領地没収、諏訪家にお預けとなって客死した。
義周の死を以て吉良家は断絶となったため、遺骸の引き取り手がなく、
諏訪領内の法華寺(臨済宗)に埋葬されたという。享年21歳。
638 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/19(日) 09:19:59
そういやなんで最上は高家になれなかったんだろうな。
庶流とはいっても、清和源氏の正統な血筋だろ?
>>657 三河吉良家には二つの系統があり、戦国中期まではお互いに争っていたが、
今川の脅威の前に団結したものの、時すでに遅く没落したという経緯がある。
このサイトにもあるとおり、義周の死により断絶した西条吉良家のかわりに、
東条吉良家の系統が三河吉良家の本家となったということだな。
で、東条吉良氏はどうなったのかな?
話変わるけど義周の若死にって毒殺されたか乱心自害だよね…多分
>義周の若死
(ソース:諏訪地方の人に聞いた話)
湖畔の湿気った櫓に押し込められ、皮膚の病を患ったそうです。
642 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/20(月) 05:12:31
>>639 東条家の吉良復姓は、蒔田家の吉良復姓に比べて多少タイムラグがあるわけだが・・・
643 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/20(月) 13:29:05
系図的にはこんな感じ?
上杉定勝―三姫
┠上杉綱憲―義周
┠女(上杉綱憲養女)
┠女(上杉綱憲養女)
┠女(上杉綱憲養女)
吉良義冬┬義央=義周
... │
... ├義孝(東条)=冬重※断絶
... ├冬重
... ├義叔(東条)=冬貞=義武(柘植兄正子)=義孚(柘植影正子)―義勝┬義渡=義質
... └冬貞 ※吉良復姓 └義質
644 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 02:26:11
>>643 血統的には別物に摩り替えられたわけね。
まあ、江戸初期からアカの他人が入らなかった家の方が少なかったんだろうけど。
645 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/21(火) 02:48:29
>>643 義周の弟?が米沢藩から1万石を分知されて新田藩を起こしたよね。
兄弟でここまで差がつくか?と思ってしまうが。
646 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/22(水) 13:02:11
>>645 紆余曲折あったがようやく関東管領の末裔に辿り着いたかwww
647 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 01:56:20
>>634 彼自身は奮戦したが、頭部を負傷して混濁してしまったとされているが?
>>646 吉良が上杉の台所を圧迫するような豪奢な暮らし向きをしたというけど本当かねえ?
養子縁組で15万石に減封され、そのうえ120万石時代から家臣数が変わらないとしたら、
吉良云々以前に財政は破綻してるだろうに。
649 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 17:38:09
米沢藩、米沢新田藩、秋月藩、高鍋藩の相関図。
吉良義央=義周
┠─綱憲C┬吉憲D┬宗憲E┌=治憲H
上杉景勝@―定勝A┬富子 │ .├宗房F├勝煕―┬斉定J┬斉憲K―茂憲L
【米沢藩】 .└綱勝B . ├義周 ..└重定G┼治広I└勝義 ..└勝道
. │ . └勝定
. ├勝周(1)―勝承(2)=勝定(3)=勝義(4)=勝道(5)
. │【米沢新田藩】
. └―豊姫
【秋月藩】 ┠─―┬長邦[5]┬長恵[6]=長堅[7]=長舒[8]―長韶[9]
黒田長政┬長興[1]―長重[2]―長軌[3]=長貞[4].└春姫 ..└女子
... └女子 ┃ .. ┠―長堅
┠─長貞 .. ┃ 山崎義俊(幕臣)
野村祐春(宗家福岡藩家臣) .. .┠┬種茂F┬種徳G―種任H―種殷I
.┃│ .. └長舒(黒田長堅の養嗣子)
.┃└治憲(鷹山/上杉重定養嗣子)
種春A(長野種真子) . ┃
【高鍋藩】 ┠―種信B―種政C―種弘D――種美E
秋月種長@―女子 種春A(長野種真子)
>648
綱憲が藩主になったころはまだ景勝時代の蓄えが結構残ってる。
綱憲の年間衣食費2000両。
能好きの綱憲、特に「嵐山」一番には1000両かける。
実家からの薦めで米沢城、壮大華美に生まれかわる。(出費大)
吉良家の借金を年1000両援助。
吉良邸が火事で焼失、新たに豪華な新築を!
→何故か大部分の費用は上杉家が負担。(2万5000両)
吉良家に恒常的な援助(6千石)
ちょっと調べただけでこんな感じだった。
651 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 22:01:34
652 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/23(木) 22:13:52
秋月かぁ…何故か好きなんだよなぁ…
654 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/25(土) 15:22:43
>>649 米沢新田藩って知行地を持たない蔵米取りだったらしいね。
655 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/25(土) 15:52:40
野村祐春(宗家福岡藩家臣)
某チャイドルに見えた…
656 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/25(土) 20:41:41
657 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/25(土) 21:46:54
wikiに甲陽軍鑑の項目を作ってくれ!
659 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/26(日) 16:42:59
>>653 確かにびみょ〜な存在感を醸し出してますねw
660 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/26(日) 16:54:01
>>650 これ、上杉家臣だったらたまらんよなぁ・・・
それでなくても財政の先行きは暗いのに、養子が実家筋のためにやたら金を使いまくるわけでしょ?
しかも、赤穂の侍が殴りこみを掛けてきたのにマジ反応して、武装した家臣を率いて救援に向かおうと
してしまうと。
ちなみに綱憲を諌めたのは誰?色部?
幕府側からは高家の畠山さんと若年寄?が説得に向かったわけだけど。
千坂兵部って、戦国時代にも謙信騎下として登場した千坂氏の末裔か?
663 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 19:10:41
664 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/29(水) 23:13:16
両方
三船大石では千坂、里見大石では色部
665 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/30(木) 03:32:54
666 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/06/30(木) 03:41:46
完全にスレ違いじゃねえのか?
と思ったら、関東管領の後裔だもんな。余裕でセーフじゃんwww
その頃、古河公方家は・・・
670 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/01(金) 23:03:18
挑発なんだろ
672 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/02(土) 01:41:55
>>666 下手をすると上杉鷹山ネタまでセーフか?(w
>>672 まあ、その場合はsageでやりましょ。
674 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/02(土) 07:02:57
>>672 それを言い出すと、精義隊なんかも可能に?
戊辰戦争での足利家の動向なんて、ほとんど無視はされていたとは思うが。
>>674 喜連川藩の動きは?
何もしてなさそうだが。
676 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/02(土) 23:42:04
鎌倉公方・持氏が憲実討伐を成功できたら、打倒義教と上洛戦って無理かな?
畿内でも有力な守護達で、義教による家督干渉で廃嫡された・されそうな者(畠山持国、赤松満祐、一色義貫、土岐持頼)
達が呼応・・・弟・義昭(すでに九州に落ち延びた?)も再蜂起。
上手くこれらが迎合すれば、幕府も危うかったかな?
677 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/05(火) 22:33:54
678 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/05(火) 23:48:35
>>676 廃嫡された連中が果たしてどれだけの軍事力を持っていたのかな?
>>678 義教によって廃嫡された畠山持国は、嘉吉の乱後すぐさま兵を起こして
異母弟・持永(総州家当主)を討ち取り、義政政権では管領を務めるなどの活躍でしたが、
義教政権下での畠山当主・持永の力はどのくらいあったのかが、いまいちわからん・・・
将軍に同行する事も多いようだし、言いなりの持永って所か・・・(持国の気性ならどうなる事か)
一方、一色義貫(丹後若狭三河守護)は将軍家と言えども発言を控えない気骨者?だったそうで
伊勢守護・土岐持頼と共に、大和の乱在陣中に暗殺された・・・(持頼はどうして嫌われたのか分からん・・・)
そして赤松満祐・・・
赤松宗家当主ながら先代・義持、義教共に子飼いの庶家の持貞、貞村を家督相続させようと狙われた御仁。
持貞の時は、京の館を焼いて自領で篭城が功を奏して持貞は切腹させられたが、貞村の時は弟・義雅の所領を
召し上げられ、貞村に宛がうなど実力行使をされる羽目に・・・
しかし、上記の者(持国を除く)達に対して持氏在命中に粛清できなかったであろうし、
義教に対して憎悪の念があっても、反乱に呼応できるかとなると・・・
680 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/08(金) 03:03:45
681 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/11(月) 19:37:52
682 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/11(月) 19:43:55
>>680 いつものほほ〜んとしてそうなイメージ。
683 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/11(月) 23:53:07
>>667 ご養子さんが入ったりしていますが、家名は存続してます。
話の流れの年代ならば。
685 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/12(火) 23:37:33
何か共倒れしそうな状況ですよね、お互い。
686 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/13(水) 01:14:22
>>676 関東を制圧する戦いで終わりそうな悪寒・・
687 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/13(水) 02:33:09
>>660 ある意味、上杉にしてみれば赤穂のイモ侍が因縁つけてきた、というくらいにしか思ってないからな。
そもそも両成敗であるべきものを、一方的に沙汰するというのは、それ自体がケンカと認められるべきものでは
なかったということ。
688 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/13(水) 18:01:10
689 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/13(水) 23:46:48
>>688 ホモで分裂症・・・手に負えんわ、そりゃ。
>>684 東北の伊達氏ですね。幕府支持の下、鎌倉府に反抗的行動を繰り返す・・・
しかし、足利満貞・満直(篠川、稲村御所)達が国人の協力を受けて、伊達氏を牽制できるかですね。
関東には幕府の扶持衆(那須、宇都宮など)もいたしね。
常陸の佐竹は鎌倉派・幕府派で分裂してたし。
関東を平定できたとしても中部・東海勢の幕府方が多くいるし、彼らを鎌倉方に寝返らせれるか・・・
唯一、赤松満祐の嫡子・教康の舅がいた北畠氏が蜂起できるか・・・
先代・義持の時には反乱を起こしたけど・・・
>>690 >東北の伊達氏ですね。
+葦名・大崎ですな。
問題の満直に至っては幕府と伊達氏等との仲介役になってますしねえ。
692 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/14(木) 18:41:24
>>690 篠川、稲村御所かあ・・・またびみょ〜な香具師が出てきましたね。
693 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/14(木) 20:29:17
694 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 03:49:56
>>693 独力じゃ何もできないのよね、○○御所って。
695 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 04:00:53
そんなことも知らんとは、
697 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 08:40:21
>>690 >足利満貞・満直(篠川、稲村御所)達が国人の協力を受けて、伊達氏を牽制できるかですね。
現実にはほとんど用を足さなかったわけだが。
698 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 21:26:03
>>697 公方様だって直轄軍ってのはそんなにいなかったわけでしょ?
699 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/17(日) 21:49:58
>>697-698 と言う事は、持氏は井の中の蛙ですね。
義教に喧嘩を売っても負けるのは見え見えだった訳ですか・・・
義教に討たれて、義教はますます威信を高める事に・・・
700 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/18(月) 12:01:44
>>698 それを言い出すと、義教直轄軍も大していなかった。
なんといっても、幕府の所領は、山城だけだからな。
701 :
親漢文王 蕎序 ◆g/NeWOnF.. :2005/07/18(月) 12:24:28
(*・ω・)
702 :
親漢文王 蕎序 ◆g/NeWOnF.. :2005/07/18(月) 12:25:13
703 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/18(月) 17:32:49
>>700 古河公方の直轄領というのはどの程度あったのかな?
704 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/18(月) 17:44:05
>>703 秀吉に召し上げられた当時で30万石。
もっとも、大半の家臣は北条家臣扱いだったが。
705 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/18(月) 18:21:23
706 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/18(月) 22:55:16
>>704 古河自体、そこまで肥沃じゃないでしょう。
確か10万石とか12万石とかそのくらいじゃなかったでしたっけ?
>>704 御連判衆としての立場と、北条家から軍役を課される立場とがあったからね。
708 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/19(火) 03:51:16
>>707 その点では吉良家(世田谷御所)も同様。
709 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/19(火) 07:04:34
>>705 北条氏政が行っていた検地帳をもとに秀吉が計算した。
710 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/19(火) 15:39:24
30万石もあると、かなりの規模で傀儡とか御輿とかいうレベルじゃないよね。
ある程度淘汰が進む亜デ全国的にもそんなあった大名ってないんじゃない。
北條でさえ、相模伊豆だけだったらそんなもんだろ。
北条氏所領役帳?
>>709 御連判衆の合計でも30万石どころか10万石にも届かないと思うのだけど
義氏の直轄領も、正確なものはわかってませんが?
712 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/20(水) 04:02:15
713 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/20(水) 04:22:53
>>711 公方様のご城代というのも聞かないしな。
そもそも末期には古河城を守る前衛拠点である栗橋城や、簗田氏の関宿城が陥落し、
北条氏照の支配下に置かれていたわけだし。
表高に決まってんだろ。
公方様所領と称しても、実際には食い扶持分だけ与えてたんだろ。
715 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/21(木) 00:00:51
716 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/21(木) 03:31:05
>>714 そういうのって表高って言うのか?
御料所のような意味合いで言ってるのか?
足利将軍家の場合、最大38ヶ国、200ヶ所ほどの御料所を有していたという。
関東公方家も同様に御料所を有していたようだが、それらの多くは簗田氏の領する下河辺荘に
集中していたようだ。
718 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/21(木) 06:54:55
>>711 義氏の時代にはミニマムなところまで落ち込んだのでは?
北条に蚕食され、公方の直臣の所領にしても失陥、移封が
相次いだわけで。
>>718 義氏の頃には「特殊な権威を持った一領主」程度のものでしょ。
>>718 それでは今までのレスと辻褄が合わなくなるのよね
秀吉に召し上げられたのが30万石
ソースは氏政の時代の検地帳
するとソースというのは北条氏所領役帳しかなくなる
でも義氏の時代に落ち込んだというならば、北条氏所領役帳ではわからない
氏康の時代作成された小田原衆所領役帳でも30万石規模と確認できない
晴氏が当初それほどの勢力を保っていたというならば納得は出来るが、小弓御所の分裂
義氏の時には、上杉氏や梁田氏による藤氏や藤政の擁立、それに伴う御連判衆の分裂・弱体化
氏政の代の時には、古河公方は有名無実化していたと考えられる
それで義氏死去後の氏姫の代に公方家が30万石前後の御料所を有していたとは考え難い
721 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/21(木) 18:39:02
実勢は古河領+御料所ということでいいのかな?
722 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/22(金) 01:13:39
>>721 支城に直臣を入れて公方家の御料所にしたケースってどれくらいの数あったの?
723 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/22(金) 13:22:32
>>717 関宿を失った時点で命運が尽きたというか・・・
>>722 御料所というのは、公方家が管理していたのでなく
在地の領主が、自身の所領の一部をご両所とし年貢等を献上していたケースが殆どかと
725 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/22(金) 22:30:24
>>724 鎌倉府時代には家臣を入植させてたケースもあるんだけどね。
726 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/22(金) 23:03:29
727 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/22(金) 23:57:36
>>720 氏姫時代には300石余。
日本最大の減封率じゃないのか?
除封となると話は別だが。
728 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/23(土) 01:53:15
>>727 終生、鴻巣御所を居所としたのがせめてもの名門の意地でしょうな。
729 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/23(土) 13:31:24
・゚・(つД`)・゚・
730 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/23(土) 17:18:26
ま た 猿 か ! !
>>730 秀吉に酷い目に遭わされた姫君の筆頭じゃないか?
ったく下賎な香具師のやることは・・・
732 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/24(日) 20:50:39
>>732 かつて姫スレでこれほど嫌われた人物がいたであろうか、というほどの
嫌われっぷりだったからな。
734 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 12:27:11
だから・・・関東管領だっての。
735 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 13:33:49
古河公方の話題はどうなってるんだ
736 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 15:33:30
737 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 19:52:15
>>735 成氏―政氏―高基―晴氏―義氏―氏姫
血統的にもまさに古河公方ネタなのだが・・・ダメか?
素人ですみません。
義氏は古河公方に数えていいものなんですか?
739 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 23:24:18
740 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/26(火) 23:45:57
>>738 しかし、藤氏もカウントされてないだろ?
741 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 00:01:36
藤氏の場合は足利義藤から偏諱を賜っているが、義氏の場合はどうなんだ?
>>741 義氏からの偏諱でも、「氏○」ならそのまま北条からの偏諱みたいなものだろ。
こりゃ有難みないわw
743 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 02:21:19
742の意味がわからない
745 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/27(水) 23:18:28
746 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/28(木) 17:48:52
>>741 つーか義氏の頃って偏諱なんてもらえる状態じゃなかったでしょ?
747 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 00:10:58
>>741 これは幕府と北条氏の関係も左右しているんじゃないのか?
藤氏を擁するのは曲がりなりにも関東管領なのだし。
北条氏康・氏政にしても左京大夫、相模守止まりだからね。
前北条氏に倣ったものだろうけど。
749 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 00:49:27
>>741 義栄からの偏諱
堺公方を室町幕府の将軍と認めるかどうかも絡んでくる問題ではあるが。
>>749 じゃあ、慣例に倣えば「栄」氏じゃないのか?
751 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 00:59:19
752 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 02:49:47
>>751 慣例以前に時系列は無視か?
義氏の元服は天文24年(弘治元年/1555年)のこと。
足利義輝より偏諱を拝領しているのだが。
なお、この時点で既に古河城は北条氏の勢力下にあり、義氏は小田原で元服の日を迎えている。
753 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 18:55:56
>>749 おいおい・・・
堺の義維、もしくは義栄と言いたいのか?
そっちの系統じたいが「慣例」から外れてるわけだが。
756 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/29(金) 23:13:29
義栄の在位期間って半年かそこらだろ?
誰かに偏諱を与えたことあるのか?と思うほどの短命さ。
757 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 00:08:29
>>752 小田原、鎌倉と居所を転々としていたからな。
抵抗勢力を排除するまでは正式に関東公方と言い切れない存在だったと。
758 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 00:13:19
>>756 一応、三好家の一門で、偏諱を受けた奴が何人かいたはず。
>>758 スレ違いだが、「義」のバラ撒きは意味がない
義栄って将軍職を叙任されたか、実は定かじゃないんでしょ?
>>761 しかし、足利嫡流の証である「左馬頭」には確かに叙任されているな。
>>761 ん?
では、摂津の普門寺(別名・普門寺城)で行われた将軍宣下式はどうなるんだ?
等持院霊光殿の足利歴代将軍木像では
1.尊氏 2.義詮 3.義満 4.義持 5.空席 6.義教 7.義勝 8.義政 9.義尚 10.空席
11.義稙 12.義澄 13.義晴 14.義輝 15.義昭
となっている。
第5代の義量像が欠けている理由については不明だが、等持院の歴代将軍の数え方では
確かに第5代は義量となっている。
ところが義栄の存在は完全に無視されてしまっている。
765 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 02:50:06
>>764 信長、義昭組に故意に消されたってことはないの?
>>764-765 義栄が将軍宣下を受けていたとすれば、義昭+信長陣営は「将軍位を奪う簒奪者」という立場に
なってしまう。となると、上洛後、速やかに義栄の存在を「消した」可能性はある。
767 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/07/30(土) 09:19:12
義継って、誰からの偏諱?
義のばら撒きのうちの一人だが。
769 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 17:58:59
>>766 政治的圧力ね。
でも、一度も入京できなかった公方を、都の人間が公方として認めるものなのかな?
正式に公方であったと仮定してもね。
770 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 18:53:43
>>770 >>769の「都の人間」とは常識的に解釈すれば「都の公家・幕府関係者」と読めるが
中世史上、民の支持で権力者になった人間がいるか?
君、相当恥ずかしいレスだぞそれ
773 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 19:50:52
774 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 20:37:36
古河公方の名を騙る足利将軍家スレ・・・
鞆幕府と古河公方家ってのはどの程度接点があったんだろうね?
776 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 22:30:27
>>775 実質的にはそれは足利義昭と北条氏、さらに突き詰めれば毛利氏と北条氏の外交的関係に
よるんじゃないか?
ないってことか。
義昭から北条へは、信長包囲網形成にあたって何らかのアクションがあったかも知れないが、
既に古河公方を傀儡化し、関東の執政としての立場を固めていた北条氏にとって、
鞆幕府にどの程度の利用価値があったかは疑問。
779 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 23:09:19
>>778 義昭が鞆の地にあったのは1576年から12年間。
この年の8月には、再上洛と信長打倒を企図する義昭が甲相越の和睦を
斡旋しようとするが失敗に終わっている。
この際、北条方で交渉を担ったのが氏政の四弟・氏規。
780 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 23:24:24
もし本能寺が起きずに毛利が信長に降伏していたら義昭の処遇は
どうなっていただろう。
782 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/01(月) 23:59:30
>>779 もはや関東公方の出る幕無しって感じですね。
>>780 信長が義昭を引き取って、嫡子の義尋に家督と将軍職を強引に譲らせるぐらい
784 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 04:17:27
>>782 もはや北条氏照の監視下に置かれた「特殊な権威」付きの一城主に過ぎなかったからね。
抵抗しようにも、北条氏を打破できるような存在は関東にはいなかったし。
上杉にしてもこの時期、関東への関心はそれほど強くなかったんじゃないかな?
>>779 鞆幕府の経済的基盤ってどんなものだったの?
786 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 17:29:33
>>785 モノの本では3万石程度と読んだことあるけど・・・けっこうな待遇だね。
787 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 18:12:59
>>784 北条氏の目指した関東政権の中身にもよるでしょう。
788 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 19:02:53
>>787 源氏が滅んだら・・・都から公家将軍でも迎えますか(w
でも義昭が存命だからね。
>>788 小田原征伐で事実上、北条家が滅んでもなお生きてたからな。
なかなかにしぶといw
790 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 22:31:23
>>785 1.毛利領内に置かれた直轄領、御料所からの収入(実高1300〜1400石程度と言われる)
2.京都五山、鎌倉五山など有力寺院の住持任命権から生ずる収入(公文取得の際の認可料)
3.対外貿易に伴う収入(義昭が依然、日本国王であるという認識に基づく)
4.諸大名から献上される金品
5.毛利家臣の幕臣(御供衆)登用、家名相続などの際に献上される金品
などにより比較的安定した収入があったと言われる。
>>790 意地でも将軍の座を守り通すといいこともあるんだね。
関東公方にはこんな特殊権益はないし。
792 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/02(火) 23:56:18
一応、毛利領における鞆政権では、輝元が副将軍格となり、外交については毛利家が取次を
務めたわけだしね。
機構上、御供衆、奉行衆、番衆、侍医、同朋衆なども役職もあったと。
793 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 04:01:46
>>792 小早川隆景なんて最初のうちはけっこう喜んでたらしいな。
794 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 04:16:49
>>790 >(実高1300〜1400石程度と言われる)
所領だけで言えば、同時期の阿波公方より下だったのね・・
関東公方だって名目上だけで言えばもう少し上だったんじゃない?
795 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 18:28:26
796 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/03(水) 22:33:53
>>795 蜂須賀家の阿波入国後、僅か100石に。
798 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/04(木) 03:24:32
799 :
金正日 ◆VykG4Xiupo :2005/08/04(木) 04:35:32
呼んだか?
800 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/04(木) 19:03:00
>>796 ということは5千石(実高1万石?)の喜連川足利家が勝ち組になるわな。
時代的にはだいぶ後の話になるわけだが。
802 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/04(木) 20:53:38
>>790 ということは鞆幕府が貿易船に朱印状を与えたりしていたってこと?
803 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/04(木) 23:50:04
>>793 その通り。
今まで書状なんて遣してきたことのない大名家が、毛利家に取次を頼みに
来るわけだからね。
松平広忠を刺し殺した岩松八弥という人物はやはり
あの岩松の一族なのだろうか…
いつごろかとかは知らんが、一応松平氏は得川の子孫を自称しているし…
>>803 例えばどこが?記録とか残っているのですよね
806 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 00:45:17
808 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 04:45:00
公方っていつからパン屋になったの?
810 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 05:07:06
>>806>>808 それは、信長と敵対している勢力だから、畿内の織田政権を認めずにいたってことじゃないのかな。
それと、1570年代に朱印船貿易なんてやってたか?勘合貿易は寧波の乱その他で終わってるし。
812 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 11:38:21
>>811 取引上「国王」の称号が必要になるってことはないのかね?
813 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 12:23:38
>>811 認めてないから自分たちを正当化できる権威というものが必要だったのでは?
中世の権威主義に浸かっているならまだしも、北条氏についてはあまりそれは当たっていない
ようにも思える。
814 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 19:56:44
>>813 古河公方も一応担いだけど、義氏の死後にそれを名目だけでも再興しようとは
しなかったしね。
>>811 まあたしかに、東北や九州の信長と直接な利害関係が生じていない勢力は基本的には
信長に使者を送っているわな。
そういった勢力で、織田政権を認めずに毛利の義昭のところに使者を送った勢力って
どれほどいるのかね。
ところで家康の小姓を務めた古河氏成って、古河公方の末裔なのかね?
三河の土人が名族の人間を小姓にしているとは思えんが、鎌倉公方を連想してしまう・・
817 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 22:05:49
>>815 一応、将軍は将軍。
信長にも使者は送っていただろうが、だからといって義昭に使者を送らないとも
言い切れない。
どちらを取るのか、という切迫した状況にはないのだから。
地方においては依然として将軍の権威というものは存在していたわけで、信長
を支持するか、義昭を支持するかという構造にはなっていなかったはず。
819 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 22:50:43
小弓公方の俺が来ましたよ
821 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/05(金) 23:41:15
>>819 義明様の顔グラ・・・あの天然パーマっぽいのが好き。
822 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/06(土) 00:32:13
823 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/06(土) 03:32:20
宮原ですが・・・・何か?
勘合貿易に必要な日本国王印って大内義興が分捕って大内氏にいった後はどうなったんでしょか?
毛利氏?大友氏?何れにせよ国王印があれば足利将軍なんて無視できるんで無かった?
825 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/06(土) 17:13:45
>>824 細川と中国本土でトラブルやって、その国王印自身が明により無効化されてしまったわけだが。
少なくとも、鞆幕府当時は、日本から明に正式ルートで朝貢することはできなくなっていた。
琉球経由で朝貢しようとしていた島津みたいな大名はいたようだが。
>>825 ニンポーの乱後も大内は明に遣使してなかったっけか?
>>826 1523年(大永3)の寧波の乱の結果大内氏が権益を握り、1536年に大内義隆は遣明船派遣を再開する。
で1540年と1549年に大内氏が遣明船を派遣。
1551年(天文20)に義隆が家臣の陶晴賢による謀反で大内氏が滅亡すると、東アジアでは倭寇(後期倭寇)による密貿易が中心となる。
無効にはなってないようなんだが・・・
それでも、将軍権威だの日本国王号だのは必要とされていないな。
829 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/07(日) 02:40:24
で、何のスレですかここは?
>>827 しかし、将軍家が介在する必然性はどこにもないね。
海上交通における何らかの権益に関わっているとも思えない。
831 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/07(日) 03:39:59
古河・関宿城は関東における水上交通の要衝。
簗田氏がその利権を握っていたにしても、古河足利家がその権益に不介入だったとは思えない。
関宿は一国に相当する、と氏康も評価していたほどだし。
そのあたり詳しい人はいないかな?
佐藤博信氏の『古河公方足利氏の研究』で梁田氏の関宿の話アリ
不介入と見て良いと思われ
だから氏康が義氏を鎌倉から関宿に入れ、梁田氏を関宿から古河に移して
関宿の利権を北条が奪ったとさ
833 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/07(日) 07:28:15
古河が梅で有名になったのも江戸時代以降だしな。
古河が陸の商業拠点として、関東では比較的栄えていた城ではあるらしい。
もっとも、当時の関東での話なので、たかが知れているが。
834 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/07(日) 08:32:51
鎌倉公方時代の収入ってどれぐらいだったんだ?
資料とか見ても、個人所有としての荘園はあっても直轄地とされたような地域もないようだし。
835 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/07(日) 09:34:58
>>832 なるほど。
関宿に傀儡を押し込んで利権を確保したわけね。
836 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/07(日) 19:54:26
>>835 上杉謙信が関東への関心を失った時点で簗田氏の命運も尽きたわけだが、
第三次関宿合戦にて関宿城が落城、簗田氏(持助)が水海城に退いたことで、簗田氏は古河公方に
対する影響力を失い、北条氏に取り込まれてしまったと。
簗田氏は幕府の御番帳に登場していないし、勢力としては関東公方府に限られてるんでしょ?
838 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/07(日) 22:09:36
>>837 成氏の生母が簗田氏の出身。
満助が公方の外祖父となってからでしょう。影響力を持つようになったのは。
その意味では鎌倉府以来の奉公衆ともちょっと毛並みが違う。
840 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/08(月) 01:07:39
上杉禅秀の乱で良助が活躍し、良助の子・満助が下総国下河辺庄に所領を得たことが大きい。
同地は鎌倉府の御料所があった地であるし、その中心地である古河を公方が根拠地とした。
これに血縁が加われば、影響力を持たないわけがない。
841 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/09(火) 21:45:38
842 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/10(水) 13:07:19
>>840 江ノ島などもかつては鎌倉府の御料所だったんだけどね。
843 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/11(木) 14:38:37
>>840 まさに古河公方の栄枯盛衰と共にあったのが簗田氏だったのね。。
844 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/11(木) 14:43:54
>>837 のぶやぼでは国人衆として登場してますなw
845 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/12(金) 06:41:37
>>843 古河公方が簗田にのっかっていただけ、と見ることもできるかもな。
関東は家臣のほうが力を持っても担がれ続ける例がそれなりにあるし。
千葉とか扇谷上杉とか。
846 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/13(土) 07:57:31
847 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/17(水) 09:04:50
のぶやぼに出てくる簗田晴助ってけっこう使えるね☆
848 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/18(木) 09:17:41
>>847 実際、関宿で北条の北進を阻止し続け、古河公方内における影響力を保持し続けた。
その点では評価が高いのは当然のこと。
849 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/18(木) 16:43:21
幕末に斉昭の子供が養子に入った時点で、関東公方の血筋も完全に断絶?
過去に喜連川から他家に養子に行った例ってないの?
851 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/19(金) 06:53:59
>>850 喜連川・・・半端だな。足利を名乗らんかい!と思うのは俺だけ???
852 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/19(金) 11:08:16
>>851 徳川政権下でっせ。
そりゃ憚ってのことでしょ。
明治維新後、足利に復姓してるし。
宮原あたりは存続してるから、ここらへんが血筋としては古河宗家に近いんだよね
854 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/19(金) 12:24:52
>>853 宮原さんは今、神主さんをやってるそうです。
855 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/19(金) 12:52:42
宮原氏の祖・足利晴直ってどこでなにやってたの?
856 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/19(金) 13:43:16
857 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/19(金) 17:29:06
>>850 女系から何度か再生させてはいるけどな。
宮原家からも2回ほど養子が入っているが、最終的には水戸徳川家の血筋。
859 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/20(土) 10:37:15
>>845 最後は没落しながらも幕臣ですからね<簗田氏
860 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/21(日) 04:41:09
>>859 持助の子、孫?は大坂の陣で討ち死にしてますな。
で、一人残った娘が家光に御家再興を願い出て受理されたとか。
861 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/21(日) 17:08:30
862 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/21(日) 18:22:56
簗田氏系図には
「水海主 貞助 初助利ト云、平七郎、奉仕東照宮、元和元卯五月七日、於大阪父子討死ス」
とあるね。
親子揃って討死したために男子がなく廃絶となるところだったが、貞助の娘の子・助政の時に
再興が許されている。
なお、助政は旗本(留守居役与力)として明治維新まで続き、維新後は帰農した。
863 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/22(月) 06:13:26
864 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/22(月) 14:30:58
>>862 大阪の陣の前で既に家禄1,000石だったよな?
最終的にどこまでリカバリーできたのやら。
865 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/22(月) 15:05:55
>>857 今川家なども明治期に血筋が絶えてしまったな。
あちらも確か養子が何度か入っていたように思う。
>>865 庶流の品川家は続いていたように思うが。
867 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/22(月) 20:17:31
>>866 よく読め。
明治になってから断絶した。
華族の品川家は、薩摩藩士出身で、今川とは関係ない。
868 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 07:17:58
>>867 はあ?
華族かどうかなんて問題にしてないが。
薩摩藩士のそれは品川弥二郎のことだろ?
ここで言う品川家というのは高家・品川家のこと。
今川氏真の次男・高久を祖とする石高300石の高家。
知らないのか?
869 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 07:20:11
>>868 明治時代に直系が絶えたのは確かだぞ。
もちろん傍系はいるにしても、戦国今川家は完全に滅亡した。
その点、織田家は次期当主がフィギュアスケートで活躍中だが。
870 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 07:26:02
>>869 今川家直系は確かに明治時代に無嗣断絶している。
>>866が述べた品川家の存在というのは、喜連川足利家に対する宮原家のようなもの。
そちらは血統が続いているのではないか?というのが
>>866のレス。
ちなみにスレ違いになるが、スケートの織田クンはどの系譜に属するのかな?
872 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 11:39:38
873 :
無名武将@お腹せっぷく :2005/08/23(火) 13:11:22
次回はもしも武田信玄があと一年長生きしたら。
875 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 14:36:19
>>870 【品川家歴代当主】
品川高久(1576〜1640)
品川高如(1611〜1671)
品川伊氏(1668〜1712) ※松平重治(高如長男)の次男
品川範増(1711〜1713)
品川信方(1683〜1749) ※松平重治(高如長男)の四男
品川氏如(1731〜1780)
品川氏長(1763〜1788) ※前田長敦の三男
品川氏維(???? 〜 ????) ※竹中定弘の次男
品川高美(1767〜 ????) ※松平近朝の次男
品川言氏(???? 〜 ????)
品川高尚(???? 〜 ????)
品川氏繁(???? 〜 ????)
品川氏恒(???? 〜 ????)
品川信 (1924〜1942)
品川氏清(1891〜1947)
品川氏茂(1918〜1994)
品川修
なお、品川家の現当主・修さんは都内で自転車屋を経営しているのだとか。
877 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 16:28:16
>>876 そんなのザラですがな。
俺の先祖も小身の旗本だったが、維新後、屋敷ほかを処分して帰農。
その点では簗田家と似てる。
幸いに農地改革にも引っ掛からず事なきを得たものの、そんな程度だっての。
878 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 17:43:15
【氏真以降の今川家当主@】
今川氏真(1539〜1614)
※正室:北条氏康女
※実子:範以、品川高久、西尾安信、澄存、吉良義定室
今川範以(1570〜1607)
※正室:吉良義安
※女、直房、西尾以庸、大友義親室、吉良義弥室
今川直房(1594〜1661)
※正室:立花宗茂養女
※実子:範明、範興、大久保忠高室、松平勝広室
※養子:氏堯(吉良義弥の子・岡山弥清の長子)
今川氏堯(1642〜1673)
※正室:土井利重女
※養子:氏睦(品川高寛の長子)
今川氏睦(1668〜1699)
※正室:北条氏平女
※養子:範高(品川伊氏の長子)
今川範高(1694〜1712年)
※正室:畠山義寧女
※実子:山岡景之室
※養子:範主(品川伊氏の次子)
879 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 17:44:14
【氏真以降の今川家当主A】
今川範主(1698〜1754)
※正室:なし(側室2人あり)
※実子:紅影童女(早世)、峻嶺院、範彦、松平勝文、 赤井林幸室
西尾義泰、稲垣正庸室
今川範彦(1716〜1749)
※正室:秋月種輔の次女
※養子:義泰(今川範主の三子)
今川義泰(1729〜1784)
※正室:喜連川茂氏女(後に離縁)、盛寿院(後妻)
※実子:義彰
今川義彰(1756〜1818)
※実母:盛寿院
※正室:小笠原政方女
※実子:義用、男、女、女、女
※養子:瀬名貞如女
今川義用(1786〜1839)
※実子:義順、西尾治左衛門
今川義順(1809〜1840)
※実子:竜王丸、彦丸、範叙
今川範叙(1828〜1887)
※正室:肥前平戸藩松浦家女
※実子:今川淑人、せん、女
今川淑人(1854-1872)
880 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/23(火) 17:45:48
乙。
西尾治左衛門の子孫が男系では今川宗家にもっとも近い血縁ということになりますね。
本題からずれるが、現代において過去に嗣子なく絶家した家を興すことは可能なのかな?
例えばさっきの西尾の子孫が、「今日から今川を名乗ります。淑人の名跡を継ぎますから!」
といって戸籍を変えられるのかな?戸籍だと家裁か、どーなんだろ。
882 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 08:39:18
>>881 考えたことないが、養子縁組ができないと厳しいんじゃないか?
故人の養子になるというのは聞いたことがない。
>>878 大友義親も無嗣断絶になっている。
大友家は義親の叔父・松野正照の子、義孝(近江守)によって再興されている。
よって大友家に今川家の血筋が入ったという事実はない。
884 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 10:49:51
【持氏以降の関東足利家当主@】
足利持氏(1398〜1439)
※正室:簗田満助女
※実子:安漬和尚、義久、春王丸、安王丸、成氏、成潤、周ム、尊敒、定尊、弘尊、蔭山広氏
足利成氏(1438〜1497)
※正室:不明
※実子:政氏、義天和尚、上杉顕実
足利政氏(1465〜1531)
※正室:不明
※実子:高基、 義明、基頼、貞厳、松岡殿
足利高基(1483〜1535)
※正室:宇都宮成綱女
※実子:晴氏、雲岳、上杉憲寛(晴直)
足利晴氏(1508〜1560)
※正室:簗田高助女
※正室:北条氏綱女
※実子:藤氏、藤政、輝氏、家国、義氏
足利義氏(1541〜1583)
※正室:北条氏康女
※実子:氏姫、梅千代王丸、女
885 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 10:50:47
【持氏以降の関東足利家当主A】
喜連川国朝(1572〜1593)
※実父:足利頼純
※生母:佐野晴綱女
※正室:足利義氏女(氏姫)
喜連川頼氏(1580〜1630)
※実父:足利頼純
※生母:佐野晴綱女
※正室:足利義氏女(氏姫)
※側室:某氏
※実子:義親、女、嶋田利木室、女、頼厳
喜連川義親(1596〜1627)
※正室:榊原康政女
※実子:尊信
喜連川尊信(1619〜1653)
※正室:那須資景
※側室:某氏
※実子:福原資敏室、永山和尚、天野雄重室、昭氏、氏信
喜連川昭氏(1642〜1713)
※正室:松平忠倶女
※実子:菊千代、喜連川氏春室
※養子:氏信、氏春
喜連川氏信(1650〜1670)
※正室:無し
886 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 10:52:23
【持氏以降の関東足利家当主B】
喜連川氏春(1620〜1721)
※実父:宮原義辰
※正室:喜連川昭氏女
※側室:某氏
※実子:茂氏、前田長泰室
喜連川茂氏(1700〜1767)
※正室:松平忠喬女、加藤泰恒女
※側室:某氏
※実子:山名豊暄室、今川義泰及び井上正延室、梅千代、氏連
喜連川氏連(1739〜1761)
※養子:恵氏
887 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/24(水) 10:53:38
【持氏以降の関東足利家当主C】
喜連川恵氏(1752〜1829)
※実父:加藤泰衛
※正室:前田利道女
※側室:某氏
※実子:彭氏、生駒親章室、大沢基隆室、毛利高聴室、氏久、
織田信順室、鈴木平之丞室、氏敏
喜連川彭氏(1771〜1833)
※正室:榊原政永女
※実子:暉氏、松平豊五郎室、綏氏、熙氏、土岐頼之室
喜連川熙氏(1812〜1861)
※正室:不明
※実子:喜連川紀氏室
※養子:紀氏、宜氏
喜連川紀氏(????〜????)
※実父:細川斉護 後に離縁
喜連川宜氏(1831〜1862)
※実父:細川孝応
※養子:縄氏
喜連川縄氏(1844〜1874)
※実父:徳川斉昭
※正室:松前崇広女
※養子:聡氏
喜連川聡氏(1857〜1876)
※実父:宮原方斎
※養子:於莵丸
喜連川於莵丸
※実父:喜連川縄氏
※実子:惇氏、尚麿
横レス失礼
>>882 旧華族には死後の養子がに認められているし
現在一般人でも裁判で改姓して家を継ぐのは珍しくないですよ
西尾治左衛門ってだれ?
890 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/25(木) 13:27:15
徐々に生殖能力が弱まってるなぁ。
891 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/25(木) 13:50:20
>>887にある喜連川紀氏が窮状に耐えかねて逃亡した公方様ね?
喜連川聰氏の実子はいなかったのかな。宮原からの入嗣で足利系でせっかく維新を迎えたのに
水戸から於菟丸が入るとはな・・・
893 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/26(金) 10:15:36
>>892 水戸徳川家との絡みがあるから、嗣子がなければ水戸徳川家から迎えるのが
妥当な判断だろう。
894 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/28(日) 14:40:27
>>893 足利家を悪者に仕立てないと徳川家が立たなかったわけだしな。
895 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/28(日) 14:47:09
896 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/28(日) 16:44:35
>>893 縄氏は慶応4年に一度、同盟軍との内通を家臣から疑われたことがあったな。
897 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/28(日) 23:29:00
薩長と???
898 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/28(日) 23:36:02
>>894 それがなければ、世を憚って喜連川と名乗らなくても良かったのでは?とも思うが、
喜連川改姓ってのは徳川政権下でのことなの?
豊臣政権の時に既に喜連川に所領もらってるわけでしょ?
>>898 喜連川領は秀吉時代に拝領となっているよな。
徳川家(新田流)を憚ったにしては若干、タイムラグがあるような・・・
900 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 00:31:10
>>891 藩主としてはカウントされていない模様。
901 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 09:35:38
>>900 極貧に嫌気が差して逃げちゃったからねぇ・・・
>>901 いかにも細川家っぽい幕引きですね(w
末裔にもそんな方がいたように思います。
あれは一体何だったのでしょうか。
903 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 10:46:52
喜連川宜氏の実父・細川孝応は、肥後宇土藩主・細川興文の庶子。
実兄・斉茲が肥後熊本藩主(第8代)となっており、この斉茲の孫で10代藩主と
なったのが紀氏(離縁後、長岡護美)の実父・斉護。
後の内閣総理大臣・細川護熙は、
斉護−韶邦−護久(韶邦弟)−護成−護立(護成弟)−護貞−護熙
と繋がってくる。
公方様ってどんな格好してたのかな?
時代劇に出てくる高家の人みたいな髪型、衣体だったのかな?
905 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 18:22:00
906 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 20:08:25
http://www4.plala.or.jp/kaseiken/tearoom/tea.htm 殿様逃亡す(2002.09.23)
栃木県に喜連川(きつれがわ)という小さな町がある。
鮎釣りが名物の長閑な町だが、この町には独特な歴史がある。ここに江戸時代「もう一つの幕府」が
存在していたのである。
室町幕府の滅亡後、足利将軍家の名跡を継いだのは、関東に派遣されていた一族だった。この一門
は古河を本拠とし古河公方と呼ばれたが、戦国時代の争乱で北条氏に破れ没落した。
豊臣秀吉は全国を平定すると、古河公方の末裔である足利国朝に下野喜連川を領地として与え、国
朝は家名を喜連川氏に改めた。喜連川家は徳川幕府の下でも由緒ある名族として高家に任じられ、
参勤交代も免除されるという異例の厚遇を受けた。喜連川藩の中では藩主を「御所と呼んだというか
ら、喜連川藩は小さな幕府だったのだ。少なくとも、彼ら自身の意識では。
(中略)
せこい稼ぎにも限界がある。幕末になると喜連川藩はいよいよ財政がにっちもさっちもいかなくなり、
婿養子作戦で切り抜けることにした。豊かな藩から養子を入れて持参金をせしめようというのだ。
こうして足利氏の家来筋にあたる肥後細川家から迎えたのが十一代目の喜連川宜氏。まだ十代の
若殿だったが、この貧乏藩にはたちまち根をあげた。しかも江戸幕府すら屋台骨が揺らいでいる風
雲の時代だというのに、この藩では未だに公方様とか言って室町幕府ごっこをしているのだ。こんな
とこにいても時代に置いてかれる一方じゃないか。自分の可能性は他にあるんじゃないか?
悩める青春してしまった若き殿様は「山間の小天地に骨をうずめられようか」と書置きを残すと出奔
した。藩主の家出なんて古今東西、前代未聞の椿事だ。慌てた家臣たちは藩主の逃亡を阻止せん
と追跡し、殿様を見つけて藩に連れ戻した。飲食宿泊の支払を全部小判で払おうとしたので足がつ
いたというから、やはり殿様育ちであった。ともあれ、こういう具合じゃ藩主はやはり勤まらないと、
宜氏は細川家に還された。
まるで漫画みたいなドタバタ劇だが『喜連川町史』に記される史実である。
908 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/29(月) 23:40:32
>>906 >「山間の小天地に骨をうずめられようか」
確かに山間だけどさぁ……
909 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 00:20:16
>>906 「室町幕府の滅亡後、足利将軍家の名跡を継いだのは、関東に派遣されていた一族だった」
とあるが、将軍家と関東足利家はもはや別物だろう。
国朝は義昭の名跡まで継いだのではないし、あくまで関東足利家の名跡しか継いでいない。
厳密に言えば、小弓流がその座についたのは氏姫、頼氏の没後のこと。
頼氏の孫・尊信が鴻巣館を引き払い、喜連川陣屋に移った寛永7年(1630年)以後と考える
べき。
それまでは喜連川領には小弓系の家臣団が、鴻巣領には古河系の家臣団がおり、これら
の統合を以て漸く小弓系が関東足利家を継いだと見るのが妥当ではないか。
911 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 02:28:06
表高5,000石(実高10,000石という説もある)で士族171戸というのは少々バランス悪いよね。
しかも10万石の格式となると出費もかさむ。
こりゃ、確かに頭を抱えたくもなるわ。
912 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 12:08:10
>>909 生涯、別居生活というのも凄いね。
まあ、昔は物珍しくも無かったのだろうけど。
>>911 そこで観光業で食いつないでいたわけでしょ?
涙ぐましいけど微笑ましい。
914 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 13:30:10
>>906 懐かしの「プチばく〜ふ!」ネタかいなww
915 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 15:11:56
>>910 確かに
>>906は宜氏ではなく、紀氏(=長岡護美)であると思われる。
紀氏は喜連川藩10代藩主・熙氏の女婿として喜連川家に入ったが、
「良之助様(=長岡護美の幼名)御事喜連川様江御聟養子并御出府御引越」が弘化3年(1846年)
のこと。
そして「良之助様御養子御破断若殿様御一同御国許ニ御下」と婚姻が破談になったのが安政5年
(1858年)のことなので、時期的には熙氏の存命中の出来事。
対して、
>>906に登場する宜氏の生没年は天保2年(1831年)〜文久2年(1862年)。
宜氏の藩主としての在任期間は、熙氏が死去した文久元年(1861年)から同2年の僅か1年余に
過ぎず、宜氏の死去を受けて水戸徳川家から縄氏が後嗣に入っている。
したがって、話の流れとしては、弘化3年(1846年)に熙氏が女婿に肥後熊本藩主の細川斉護の
子・紀氏(護美)を迎えたものの、
>>906のような理由から藩主を継職するに相応しくないと判断さ
れて安政5年(1858年)に離縁となり、その後に肥後宇土藩所縁の宜氏が迎えられたと。
なお、長岡護美(1842年〜1906年)は後年、長岡家(細川家分家)当主として子爵になっている。
916 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 15:30:10
917 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 15:41:49
山キ 茶角ghtggたさdfgfひじょくゆ゙
918 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/30(火) 22:16:15
919 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 03:09:27
>>915 その後の護美の動きを見ると、離縁となり、細川家分家というポジションに身を置けたことは
幸いだったんじゃないかな。
足利家の御末裔じゃねぇ・・・
921 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/08/31(水) 13:39:43
家康側室の於六の方が、家康没後、喜連川家に入ったというのは本当?
それとも俗説?
922 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 12:19:59
権現様が死んだら側室なら尼になると思うが・・・
924 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 12:42:25
>>923 権現様が没した時にはまだ二十歳そこそこでしょう。
他の側室たちは落飾したけれど、お六と阿茶だけはNG出されたらしい。
>>924 いやいや、家康の没後、一度は髪を下ろして養儼院と号しているんだけどね。
田安の比丘尼屋敷に住まいしていたけれども、あまりに若かったので還俗して喜連川義親に嫁している。
日光東照宮を参詣していた際、割れて飛んだ香炉が当たって頓死・・・・哀れ・・・・
927 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 16:07:19
墓所は栃木県日光市にある養源院。東京の伝通院にも墓碑がある。
但し、養源院は明治の廃仏毀釈運動の際に廃寺になっており、養源院の墓だけが跡地に残されている。
何故か喜連川家代々の菩提寺にはその痕跡がないというのも不思議だが。
928 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 17:06:19
>>925 お六の還俗、喜連川家輿入れは秀忠の意向とも言われているな。
榊原康政の養女として輿入れしたとの説も。
929 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 19:16:53
>>928 それは違う。
榊原康政の養女として喜連川義親に嫁いだのは花房(榊原)職直の姪。
ちなみに康政の子・康勝の生母も花房氏の出身。
花房氏は職之の時、御家騒動で宇喜多氏を退去して佐竹氏の食客となっており、関が原の役では
家康の従った。役後、旗本として備中国にて8,220石を与えられている。
職直は職之の二男にあたり、榊原康政の取り次ぎで家康に拝謁し、榊原姓を与えられている。
職直は上総国山辺郡2,500石を領して長崎奉行を務め、家光から出島の築造を命じられてもいる。
島原の乱の際の軍律違反を咎められて失脚したが、後に赦免され、近江水口城番となった。
930 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 19:17:31
きょじょ叩きがあってますが彼が何をしたのですか?
何もしてないのに疑われる。こんなことがあっていいのでしょうか?
今後三戦板の再興にはきょじょさんの力が必要です。
みなさん彼を信じてあげてください。お願いします。
931 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/01(木) 22:26:33
>>929 けっこう地味に歴史的な場面に登場してるのね・・・出島なんて。
933 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 11:31:03
>>927 おそらくそこが婚姻そのものに「?」を付けられるポイントなのでは?
934 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 13:07:50
そもそも権現様の側室を後添えにもらったのであれば、記録くらい残りそうなものだけどね。
少なくとも喜連川足利家の記録には残るでしょう。
日光でお六が急死したのは事実だろうけど、香炉が当たって頓死というのは「あまりにも若く、
突然過ぎる死」と「権現様の側室から喜連川侯の後室に」というややタブーな展開が作り出し
た俗説なんじゃないかと。
935 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/02(金) 21:09:19
>>929 義親室・松月院(榊原康政養女)の没年は1612年。
ということは家康存命中。
完全にお六と別人と見て間違いない。
ネタ的には北条氏隆&蔭山氏広と繋がるお万、太田道灌と繋がるお梶もOK?
937 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/03(土) 22:17:37
>>936 蔭山氏広ってアンタ・・・・俗説でしょ、ぞ・く・せ・つ。
938 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 00:49:12
>>937 持氏の子孫と自称してるけどね。
しかし、生没年も生母も定かじゃない。言ってみるもんだ、というレベルか?
939 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 09:49:47
ちょっと早くないか?
941 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 15:31:31
>>939 テンプレ修正しろよ。
日本語としておかしいだろ。
過去ログも鯖変わってるしな。
住人にお伺いを立ててからやれよ。
942 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 15:46:50
943 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 17:22:18
944 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 21:46:20
>>942 この間合いといい、テンプレといい、慌てて立てる必要あったのかねぇ?
945 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/04(日) 23:56:34
946 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 01:12:21
細分化の傾向か?
まあ、板内で古河公方スレに対抗して小弓公方スレを立てるというのも歴史をなぞっていて
面白いかもね。
まあ、他の賛同を得られるかどうかは別だけど。
948 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 16:32:29
>>947 そのあたりは右に左に話題を振りながら・・・
949 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 19:15:03
950 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/05(月) 22:31:51
>>928 そもそも康政死んでると思うんだけど養女にできるの?
952 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/07(水) 14:50:05
>>951 早とちりの人はいつの世でもいるものです。
953 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/08(木) 01:40:00
954 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 14:57:19
>>953 それを言ったら古河公方も厳しかったけどな。
955 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/09(金) 14:58:42
ぶえーーーーー
956 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/10(土) 04:07:33
>>949 以前なら誘導攻撃で潰されただろうけど、今はそんなことはないでしょう。
そのくらい板の秩序が乱れているということでもあるのですが。
957 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/10(土) 15:24:32
>>956 ものは試しということもある。
結果は分からんが。
958 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/10(土) 20:48:11
959 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 00:33:38
じゃあ、テンプレ案をお願いしますね。
960 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:2005/09/11(日) 16:57:46
961 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/12(月) 03:04:10
962 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/13(火) 15:49:10
963 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/14(水) 00:45:08
964 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 02:34:59
義輝のスレがあるようだし、足利系乱立の謗りを受けそう。。。
965 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/15(木) 14:01:25
阿波公方スレもよろしく☆
966 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/17(土) 03:06:51
Λ_Λ \\
( ・∀・) | | ガッ
と ) | |
Y /ノ 人
/ ) < >_Λ∩
_/し' //. V`Д´)/
(_フ彡 / ←
>>965
967 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/18(日) 17:41:08
>>965 sageスレの典型みたいなことになってるようですが。
今なら言える。
お六の方を主人公にした小説を諸田玲子が書いている。
諸田本人も俗説から想を得た創作として書いてますので、
何も考えずに楽しく読みましょう。
英勝院マンセーな部分が美しい。
969 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/20(火) 14:30:41
970 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/21(水) 04:15:30
英勝院って太田道灌の血筋なの?
太田康資の養女という説が専らのようだけど。
>>970 そのへんの係累の詳細は明確に判断できてないんじゃないかな。
太田の血筋を背負って家康の侍妾にあがったことが肝心なのでは。
972 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/21(水) 20:04:53
>>970 重正とお梶の年齢差もあるしな。
後に大名になった太田資宗は道灌と繋がっているだろうけど。
973 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/22(木) 00:07:21
>>971 家康が関東入府に際して在地の諸将を召し出した時に、当主の重正が京に居たので
代わりに目通りしたのが英勝院・・・という筋書きじゃなかったっけ?
その頃には康資も亡くなっていたし。
974 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/22(木) 17:09:53
975 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/22(木) 22:52:53
>>973 太田道灌の子孫という設定に秀吉は欲情しなかったのかね?
ああ、甲斐姫のこともあるから?
でも、関東の名族は他にもいるけど、
いちいちその姫たちに召集をかけたわけでもなく
何か接点がないと目にも触れないじゃん。
英勝院は天正6年生まれ、秀吉に幼女趣味は無い様だしね。
977 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 16:57:33
978 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 20:53:39
979 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:16:44
981 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/23(金) 21:48:56
>>976 秀吉のお目当ては氏姫様。
ところが氏姫様は「んな下賎な香具師、相手にしたくないわい!」と毛嫌いしたので、
旦那の代わりに目通りした島姫(古河姫君)に乗り換えた、と。
982 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 00:15:28
>>981 旦那は秀吉に恐れをなし、側室を連れて逃亡・・・・
983 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 15:53:12
>>982 結果的にそれが関東足利家再興の切っ掛けになるんだから……結果オーライでしょ。
984 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/24(土) 23:59:37
985 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/25(日) 18:37:09
何か古河公方スレ劣勢ですな
987 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 17:13:05
・足利スレ→3スレで滅亡
・平島公方スレ→保守のみで存続
・古河公方スレ→小弓御所スレが独立w
足利家の歴史を地で行くスレの流れですねwww
989 :
無名武将@お腹せっぷく:2005/09/26(月) 18:39:06
>>988 できれば足利スレにはPrat15まで行って欲しかったが・・・
>・平島公方スレ→保守のみで存続
>・古河公方スレ→小弓御所スレが独立w
ワラタ!!!!!
990 :
無名武将@お腹せっぷく: